こうした全体論の発想は、ポスト近代をめざす世界観の
重要な特徴である。ウィルバーやグロフのモデルも、基本
的にはこうした枠組の中で展開されている。ウィルバーの
仕事は、ホログラム的な宇宙像を基本的には認めつつ、
その中において「現実=自己」のレベルの進化が存在する
ことを指摘したものと捉えることができるだろう。
また、このホログラフィック・モデルから、近代の学問秩序
では理解不能であったことが、さまざまに説明できることが
知られている。たとえば体外離脱体験・臨死体験・超感覚
の存在・生体エネルギー場の存在・前世退行体験などの
ような問題がある。さらに、シャーマニズムのような、非近代
的な文化における意識体験を説明することも可能である。
要するに、ホログラフィック・パラダイムは、近代が閉め出し
てしまった人間の広範な意識体験の世界を統一的に説明
する可能性を持つのである。
これはつまり、物質と意識との間に厳密な区別はなく、
それは根本的には同じであるということを意味する。した
がって身体と意識との関係も、近代的・デカルト的二元論
を超えている。身体と意識との関係について新しい見方を
要求するものとしては、プラシーボ、奇跡的治癒、聖痕、
不食生、物質化現象などといった例がある。
また、生体を微細なエネルギーの波動の場として見るとい
う見方も、ホログラフィック・モデルと基本的に一致する。
これは中国やインドなどの伝統的な見方であり、実際に、
人体のエネルギー場を見ることができるという能力を持つ
人も存在することが知られている。つまり、身体とはいわば
波動の干渉パターンのような場として成立している、という
ことがそこから考えられる。
臨死体験や体外離脱体験では、固定した現実を超えた、
いわばホログラフィックな世界に入り込んでいくような体験
が実際に現れる。そこでは、考えるだけで広大な距離を
移動できるなど、時間空間を枠を超えた存在状態が経験
されるといわれている。
さらに、UFO現象も、日常の現実を超えたホログラフィック
な領域の経験として理解できるといわれる。つまり、現実
と非現実を厳密に分けるような近代的な世界観では理解
不能な現象ということである。
ホログラフィーは、ホリスティックな宇宙観の一つのメタファ
ーであると理解することができる。ホリスティック(holistic)
というのは「全体的」ということであり、かつて支配的であっ
たデカルト=ニュートン的モデルが「世界を基本的な要素
に還元し、その組み合わせとして理解する」という態度で
あったのに対し、「世界は切れ目のない全体をなしている」
というリアリティ観を意味している。ただしこれは機械論的
な見方は全く無意味だということではなく、それはある限定
された条件の下では引き続き有効なのである。ただ、宇宙
のリアリティにはそうしたモデルを超えた側面が存在する
ことを強調するという意味である。
そのような関心から、先日(11月26日・27日)に「意識・
新医療・新エネルギー国際シンポジウム」が行われた。
その実行委員長であった猪股修二博士は、物理学の
パラダイムを拡張して、「意識・エネルギー・物質」の相互
作用としてリアリティを捉えることを提唱している。また
この他に、スタンフォード大学のウィリアム・ティラーの
モデルもある。
機械論的科学では説明のできない事象に対して、それを
「非科学的」として切り捨てるのではなく、リアリティという
概念を拡張する必要があるということである。そうした事象
の例として、覚醒夢、奇跡的治癒、聖痕、不食生、物質化
現象を含む超常能力などをあげた。さらに、臨死体験や
体外離脱体験もその例であろう。
臨死体験(near death experience: NDE)は、アメリカの
医師レイモンド・ムーディーが初めて発表したものであり、
その後、ケネス・リングなどによって統計的な研究が進ん
でいる。国際的な研究組織もあり、その解釈はともあれ、
経験の事象そのものについては否定できないところに
来ている。
臨死体験者は、(1)体外離脱、(2)非身体的知覚、(3)トン
ネル通過体験、(4)近親者などとの出会い、(5)高次元の
存在との出会い、(6)帰還、などを経験するというパターン
が知られている。つまり、体験者は異次元の世界を経験
し、そこでは物質次元よりもはるかに高度な知性が働く
ともいわれる。また、こうした体験のあと、精神的に大きな
人格的変容をするケースがひじょうに多い。また、臨死
体験とシャーマンの「魂の旅」の類似性も指摘されている。
また、ネガティブな臨死体験の例も少数ではあるが報告
されている。
臨死体験の解釈については、脳内現象説と現実体験説
がある。脳内現象説の問題は、超感覚的に知覚したこと
が現実と符合する現象や、脳波計が完全に平坦な状態
経験が起こっていることを説明できないことにある。現実
体験説も、「現実」ということの定義がやや曖昧である。
既にユング心理学の「心的現実」psychic realityの考えに
みられるように、リアリティは単一なものではなく、レベル
の異なるリアリティが重層しうると考えるというのがホリス
ティックな思考であり、臨死体験もそうした文脈で理解
すべきだと思われる。
また、体外離脱体験(out of body experience: OBE)は、
臨死などの特別な状況ではなく、意図的あるいは無意識
的に、意識と身体が分離し、意識が移動するという現象で
ある。アメリカの実業家であったロバート・モンローがこの
経験を何冊も本に書いている。モンローは、初めは睡眠中
に無意識的に意識が抜け、他の場所に行くという経験を
したが、訓練の末しだいにそれをコントロールできるように
なった。注目すべきなのは、こうした離脱中に他の場所に
おいて物質的痕跡を残すこともできたということで、これは
「物質的な時空を超えたリアリティの領域」という、量子
物理学的な概念を考えなければ説明することができない。
またモンローの体験は、全く物質世界や地球を離れた
次元のリアリティにまで及ぶ。体外離脱体験は、ヨーガなど
の霊的修行の過程でも起こることが知られている。また、
シャーマンのトランス経験も一種の体外離脱体験と見る
ことができる。実は、さまざまな文化において、そうした
「別次元のリアリティ」に意識がシフトする状態はかなり
知られており、それがもたらす利益やまた危険についても
情報が蓄積されていたと考えられる。
ここで改めて振り返ってみると、量子物理学では、いわゆる
ソリッドな物質というものは実在せず、いわば波動の干渉
パターンのような「プロセス」としてのみ物質が存在している
ことを明らかにした。またユング心理学からトランスパーソナル
心理学への流れでは、人間の「心的経験」の世界は物質的
な次元に拘束されているわけではなく、「個」の単位を超えて
いることを発見している。デカルト=ニュートン的な「均質な
延長としての時空間」という概念が絶対ではないという前提
に立てば、臨死体験や体外離脱体験が示しているリアリティ
体験も決して非現実的と言うことはできないのである。
次に、こうしたホリスティックなリアリティ観に基づいた、
医療およびエコロジー(環境保護運動)の新しい動きについて
述べることにしよう。
機械論的な科学に基づけば、我々の身体は物質である。
従来の正統派の西洋近代医学は、基本的に身体を機械
モデルによって捉える医療システムである。これは、まだ
医学界の主流を占めていると言ってよいが、心身医学や、
生活習慣の問題を重視するなど、こうした見方への反省も
始まっている。
ラリー・ドッシーは、『空間・時間・医療――プロセスとしての
身体』(めるくまーる社、1987年)で、量子論的なホリスティ
ックな発想を、身体や医療の問題についても適用すべきだ
と主張している。「現代の宇宙論において、空間と時間が
引き離せないならば、身体・健康・病気もまた、分離しては
考えられない。電子が事物でないのと同じ具合に、身体も
また事物ではない。電子が粒子性や波動性を『所有する』
わけではないのと同様に、われわれの身体も健康や病気を
『持つ』のではない。健康や病気は、そうした特質そのもの
であり、より適切に言えば、空間と時間の双方に非局所的
・非因果的に連結した、とぎれのないプロセスだ」(同書223
ページ)
すなわち、デカルト=ニュートン的な世界モデルの相対化
(唯一絶対性の否定)にともなって、私たちの「身体」の
捉え方は大幅な変更を余儀なくされている。それとともに、
健康、病気、そして治療に関する思想も見直しが要請され
ている。西洋近代医学は、機械論的な世界モデルと密接
に結びついていた。しかし、世界各地には伝統的な医療
システムがあり、それは異なる世界観に基づいたもので
ある。
多くの文化圏では、意識と物質の双方の要素を含むエネル
ギー的なものが宇宙を満たしていると考え、そうしたエネル
ギーのバランスの上に身体が成立していると捉える。その
代表的な例が、中国やインドの医学である。中国医学は
「気」の概念を中心とし、その陰陽、虚実などのバランスを
考える。また、インドの伝統医学として「アーユルヴェーダ」
というものがある。これは「ドーシャ」という概念に基づいて
いる。ここには、身体は一種の波動パターンであるという
捉え方があり、それを脈診で探ることが重要な意味を持っ
ている。また、伝統医学は、病気の症状そのものに対応する
だけでなく、生活全体を含めた統合的なアプローチをする。
そして、人間の「自己治癒力」を最も重視し、それを活性化
させることを医療の目標に置く。
現代の医療のあり方の反省として、病気のみを相手にする
のではなく、その患者の意識、生活、環境など全体を問題
にしていこうという動きが「ホリスティック医療」holistic med
icineと言われるものである。
中心にあるのは「病気はそれ自身独立した現象ではなく、
他のすべてにつながっている」という全体論の発想である。
ホリスティック医療は、西洋医学だけではなく、東洋医学
など他の医療システムと平衡させていくという発想も含んで
いる。こうした医療システムのことを「代替医療」alternative
medicineあるいは「相補医療」complementary medicineと
呼んでいる。
アメリカでは、西洋医学よりも代替医療の医療費の方が
多くなり、政府機関の中に代替医療の研究部門が設けら
れるなど、代替医療の再評価が急速に進んでいる。また、
イギリスやドイツなどでも、医療における多元主義がシス
テムがほぼ確立しているし、中国・韓国・インドなどでは
伝統医学が高い地位を与えられている。西洋医学のみを
公式には絶対のものとしている日本は特異な存在である。
さて、非西洋近代的な医療システムの中で注目されるのは、
(1)エネルギー医学という面、(2)意識あるいはイメージの
重要性、という要素である。その二つは密接に関係している。
というのは、ここでいうエネルギーというのは、意識という
側面を含むからである。
エネルギー医学というのは、身体を「エネルギー場」として
捉え、それを調整することによってバランスを回復するという
医療システムである。
これには、伝統医学の大部分が含まれるが、特に中国の
気功法をあげることができる。現在の気功という枠組は
比較的新しく、それまで中国に伝わっていた仏教・道教系
のさまざまな技法を医療目的に統合した概念である。日本
では気を放射する「外気功」の印象が強いが、実際は自分
の気のバランスを整える「内気功」が主流である。気功は
日本ではかなりポピュラーになっているが、欧米でも注目
されている。
また、日本から入った「レイキ」は、気功法にやや霊的な
要素がプラスされたものであるが、アメリカでは非常に人気
がある。また、クリーガーが開発したTherapeutic Touchの
技法は、多くの看護婦に広まり、多くの病院で正式に採用
されるまでになっている。
スピリチュアル・ヒーリングは、霊的な要素を含んだ、エネ
ルギーによる医療のことである。バーバラ・ブレナンは、
「ヒーラー養成学校」を開設し、ヒーリングの技法を具体的
に教えている。ブレナンのヒーリングは、いわゆるオーラの
場を透視することが中心になっている。
また、ホメオパシーも、エネルギー場という概念なくしては
理解できない療法であろう。
これは、生薬を徹底的に水で希釈し、それを飲むという
療法である。希釈率が高いほど効果があるとされ、物質
そのものよりも、それが持っている情報をふくんだエネル
ギー場が治癒力に関わっていると考えられる。
また、イメージや意識を用いた医療としては、サイモントン
による癌のイメージ療法が有名である。
一方、ドッシーは、祈りが治癒効果に影響を及ぼすことを
実験的に証明した。彼は、これは時空が本来非局所的
であり、イメージや意識もまた非局所性という性質を持って
いることを意味している、と述べている。
中国では、イメージによって気を動かすという技法が知ら
れており、気功法にも応用されている。伝統社会における
治癒のための儀礼も、イメージ療法という側面から解釈
することができる。
以上見てきたような、医療における新しい動きは、新しい
世界観の勃興という事態に対応したものであるともいえる。
古い宇宙モデルに基づいた医療システムに対して、新しい
宇宙モデルによる身体の捉え方があり、医療システムも
それに対応したものに変わりつつあるということになる。
これまで、「それぞれの要素が孤立して存在する」と見る
近代固有の世界観から、「すべてが網の目のようにつな
がった世界」へ転換しつつあることを見てきた。これを
「ホリスティックな世界観」と総称している。そして、近代的
な世界観に基づいた個としての自我を超えた意識の広がり
という問題もそこに現れている。それは科学というより、
もっと基本的な思想的な流れであり、その中で科学の位置
づけも見直されているということであろう。
このような思想的な流れの中で、環境保護運動environme
ntalismの思想的基礎づけとして、ディープ・エコロジーという
立場が提示されている。エコロジーが思想運動として登場
してきたのは、1962年の、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』
からだといわれる。ディープ・エコロジーとは、1980年代以降、
ホリスティックな世界観に基づいた価値転換をも視野に入れた
環境思想である。その創始者とされるのは、ノルウェーの
哲学者アルネ・ネスArne Naess(邦訳・『ディープ・エコロジー
とは何か』文化書房博文社)であり、またそれを受けてディ
ープ・エコロジーを展開しているのがアメリカのビル・ディー
ヴァルBill Devallとジョージ・セッションズGeorge Sessions
(Deep Ecology, 1985, 翻訳なし)である。ディープ・エコロジー
は「エコソフィー」と呼ばれることもある。
ディープ・エコロジーは、環境問題を技術的に解決しようと
するだけでなく、根底にある意識のあり方や価値観を大胆
に変革する必要性を主張する。その基本となるのは、
(1)自己実現 (self-realization) (2)生命中心的平等性
(biocentric equality)である。
自己実現というのは、近代の狭い「エゴ」を超えた自己の
あり方をめざすということであり、これは孤立した自我という
ものは幻想だとするホリスティックな世界観を根底としている。
またそれは、いわゆる「永遠の哲学」perennial philosophy
という世界の宗教的伝統の核にあるものを再評価するという
価値観ともつながっている。
また、すべての生命は一つにつながった全体の一部である
という見方から、すべての生命の平等性をとらえ、生命の
多様性と個性を破壊する行為を否定するという倫理が導き
出される。これは「人間中心主義」anthropocentrismに対置
されるものである。
ディープ・エコロジーのポイントは、文字通り、存在について
の「深い問い」を発することにある。深い次元の自己とは、
まさに一つにつながった全体そのものの魂ではないか、
という直観が根底にあるようだ。ディープ・エコロジーはそう
したいわば聖なる体験を重視し、それを基軸としたライフ
スタイルを選ぶことを志向している。
ディープ・エコロジーの思想的背景には、永遠の哲学の他、
アメリカの文学伝統、ネイティブ文化、量子物理学、フェミニ
ズム、東洋宗教、ジョン・ミュアーなどがある。
ジョアンナ・メイシーJoanna Macyは、仏教の影響を受け、
「生命圏biosphere全体を自己として意識する」ということを
課題としてディープ・エコロジー的思考を展開している。
またフォックスはトランスパーソナルに立った環境論を提示
している(『トランスパーソナル・エコロジー』)。
また、こうした一連の流れを受けつつ、特定の場所と人間
との深いつながりについて考察する「環境心理学」enviro
nmental psychologyを提唱しているのが、ジェームズ・スワン
James Swanである(『自然のおしえ自然の癒し』日本教文社、
『聖なる場所』春秋社)。
これは、心理学の中でもユングやトランスパーソナル心理学
から示唆を受けているものである。純粋な科学というより、
思想的な色彩の強いものと捉える方がよいだろう。
スワンの中心的な考えは、「人間は、聖なる場所と言われる
特定の場所において自然によって癒され、また大いなる
目覚めへと促される可能性を持つ」ということであろう。
つまり、近代以前の文化がみな持っていた「聖なる自然」
という感覚を現代人に取り戻させることをめざすものである。
そこでスワンが注目しているのが、原初的な「パワー」の
感覚であり、これは中国の「気」というものに類似している。
スワンによれば聖地といわれる場所には次のようなタイプが
ある。(1)墓所や霊園、先祖を埋葬する場所、(2)浄めの場、
(3)癒しの場、(4)聖なる植物や動物の場、(5)石切場、
(6)天文観測台、(7)聖堂、寺院、聖像、(8)史跡、(9)霊的に
生まれ変わる場所、(10)神話や伝説の場所、(11)ヴィジョン
を得、夢見を行う場所、(12)岩の芸術の場、(13)豊饒性
あふれる土地、(14)太陽が昇る儀礼を行う場所。原初的な
文化はいずれもこうした聖なる場所を持っており、そこに
おいて人間はより大きな、見えざる次元をも含んだ宇宙を
実感したのである。
またスワンは、聖なる場所におけるさまざまな特異な体験
についてもあげている。それは、(1)いろいろな忘我(エクス
タシー)、(2)神秘的な存在を目撃する、(3)自然と一つになる、
(4)鮮明な夢、(5)異なる生物どうしのコミュニケーション、
(6)怪物やUFOを目撃すること、(7)奇妙な匂い、音、空気、
(8)神の声、(9)死と再生、といったものである。これらは
トランスパーソナル心理学の登場以前は理解困難だった
ものである。
なぜ特定の場所がそうした体験を誘発するのかということ
は、場所が「見えざる次元」を持っており、そこにいわば
「場所の記憶」が蓄積されていると考えることもできる。
ここで、ルパート・シェルドレイクの「形態形成場」理論が
示唆的であろう。中国人は場所のもつ「気」について語るが、
これは場所の持つ見えざる次元のエネルギーについて
述べたものであろう。そうした見えないエネルギーの流れを
読み、建築・都市計画・景観計画に応用するのが「風水」
という技術である(『風水の本』学研 参照)。こうした土占い
geomancyは世界各地に存在しており、たとえばダウジング
もその一つである。人体が肉体とは別にエネルギー(気)の
次元の体を持つように、場所(自然)もまたエネルギー次元
を持っていると考えてよいのではないか。
また、こうした場所には地磁気の状態も関係していると
言われている。断層などの地磁気の異常な場所では
超常的なヴィジョンが起こりやすいという。また、地層の
関係で地磁気がゼロになっている場所は特に気の力が
強いという研究もある。聖地といわれるところは断層の
近くにある場合が多い。
ディープ・エコロジーと聖なる場所について見てきたが、
このような捉え方は、リアリティという概念を大幅に拡大
することを前提としている。また人間の心・意識の持ちうる
広がりという点でも近代の限界を突破している。人間と
自然とは、物質の次元では別のように見えるが、エネルギ
ーの次元では結びついているという世界観が登場しつつ
あるといえよう。
前回、エコソフィーないしディープ・エコロジーの思想につい
て述べた。現在、「環境」の問題が大きく取り上げられる
ことが多いが、これは単に自然を保護するという問題に
とどまるのではない。そこに、「見えない次元で結びついた
ネットワーク」という発想があることに注意しなければなら
ない。また、「ソフィア」という言葉からもわかるように、
分析的な理性を超えた知のありかたが必要であることも
含まれている。聖地というのは、そうした見えない次元への
感性を呼び覚ます場所と言うことができる。西洋近代以前
・以外の文明では、宇宙は統一された秩序を持っており、
見えない次元を含むものと考えられていた。これをギリシア
では「コスモス」と呼んでいた。
「場所の記憶」について前回触れたが、これは「世界の
多次元性」という世界観を前提としてはじめて理解できる
概念である。これは生物学者シェルドレイクの「形態形成場
理論」と類似する。形態形成場というのは、物理的な身体
の形成される前提として、一種のエネルギー場的なものが
存在し、それは物理的な時空の制約を超えている(非局所
的である)という考えである。これはまた中国伝統の「気の
身体」の発想にきわめて近いが、同種のものは他の文化
圏にも多く見出される。伝統医療は多くの場合、エネルギ
ー医学という側面を持っている。こうした発想を場所や環境
についても応用していこうという試みは多数見られた。その
代表例が中国の風水である。また西洋に伝わるダウジング
など、各地に同様な例を見出せる。
これらはいずれも、特定の場所に対する微細な感覚を根拠
としている。
文部省など政府機関が世界観の転換をはかるのは常に
大きなタイムラグがあるので、現在人々が求めるものを
提供できないのはやむを得ないかもしれない。
21世紀の宇宙観は、ポスト近代の宇宙観ということになる
が、それはまだ完全な形で姿を現してはいない。しかし
いずれにしても、古代的宇宙観と近代のポジティブな面を
統合していく必要があるだろう。
欠けている要素を強調するため、これまで、近代の否定的
な部分を紹介することが多かったが、近代の肯定的要素
についてまとめてみよう。
1.機械論的な科学体系も、ある局部的な現象を分析し、
予測するには大きな威力があることは事実である。
工学技術や西洋医学もその例であろう。
2.近代以前の世界観は権威をもって押しつけられており、
個人の自由な探求を圧迫する傾向もかなり見られた。
「個人」を単位とした権利という意識は近代まで存在しな
かった。「科学」も、先入観にとらわれず自由にものを
探求する精神としてとらえ、科学主義などの、特定の
世界観と結びついていないものと考えれば、積極的に
肯定できるものであろう。また宗教についても、近代
以前は集団的であり、個人をベースとしたものではない。
一方、古代的(非近代的)世界観から学ぶべき要素は、
次のようなものであろう。
1.感覚に見える次元のみでなく、見えない次元の存在を
認め、その価値を認識すること。また、通常見えない
次元が感覚される「超感覚」の存在を承認すること。
2.人間も、宇宙と同様、意識・身体の両面において多次元
的な存在であるという認識。それら見えない次元は、
エネルギーという性質を帯びる。この多次元的世界は
スペクトル状態となっており、段階の違いがある。
3.人間は、自己の状態を自ら変容させ、内にある多次元
性を覚醒させる可能性を持っているという考え。
4.人間は、目に見える自然・見えない自然と複雑なネット
ワークでつながっているという感覚。
21世紀の宇宙観は、古代・近代いずれも包含するもので
あり、「あれかこれか」の発想ではない。包括性というのが
重要な要素である。また、古代は一部を除いて集団性が
支配的であり、近代によって個人性が強調された。そうした
遺産を受け継ぎつつ、「超個人性」の要素を追求していく
のがこれからの問題となってくる。
こうした宇宙観を前提として、近代科学一辺倒であった
「知」の体制も変容していくことになるだろう。
1.見えない次元の現象、意識、超感覚の可能性に対して
開かれた態度で研究すること。つまり、本来の科学精神
を唯物論から切り離し、解放すること。
2.自らの経験として、多次元的な意識の可能性を追求し、
それを持ち寄って吟味すること。つまり、定量的・統計的
な方法だけでなく、経験をもとにした探求もまっとうな
知のありかたとして確立させること。
3.また、こうした実際の経験に基づいて、宗派を超えた
普遍的世界宗教を作っていくこと。
つまり、サイエンスとソフィアをバランスさせた統合的な
ヴィジョンを示していくことが、21世紀の知的課題となると
予想されるのである。
『忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434036742/ ヒューストン・スミス (2003年12月、待望の邦訳)
「価値、人生の意味、目的、質。これらは、海水が漁師の
網をすり抜けるように、科学をすり抜けていく。だが、
人間はこの海で泳いでいるのであり、それを視界から
とり除くことはできない。」
「私たちの過ちは、科学が世界観を与えてくれると期待
したことにあった。今となっては、それが世界の反面――
物質的で、計算可能で、検証可能で、明確にコントロール
可能な反面――しか見せてくれないことが明らかになった。
その反面でさえ、いまや明確に描いてみせることは
できない。視覚化することができないのである。」
ヒューストン・スミスは、アメリカの哲学者・宗教学者。
マサチューセッツ工科大学、カリフォルニア大学バークレー校
などで哲学・宗教学を教えた経歴があり、ほかの著作に
『ポストモダン精神を超えて』『世界の宗教』『なぜ宗教が
大切なのか』などがあります。現在のアメリカでは、「老賢者」
のイメージが投影される存在となっているようです。
この本は、1976年に出版され、英語圏ではすでにスタン
ダードとしての評価を受けている著作で、伝統社会の持っ
ていた「多元的世界観」を復権しようとする思想書です。
いわゆる「永遠の哲学」と呼ばれる思想的立場に立つ
思想書として代表的なものです。
科学に対する過大評価によって、唯物論に陥り、霊性への
道筋を失った現代社会に対して、真っ向から「霊性」の復権
をめざした思想的挑戦の書と言えます。「精神世界の思想
的な位置づけ」として必読文献の一つです。
翻訳は1992年の新版によります。この本が今まで翻訳され
ていなかったのは、日本の思想界における「何らかの欠落」
を物語っているように思われます。
「(言葉に)針の目を通すような絶対的な正確さを望むこと
はできない。だが、針の目を通らないその糸の端っこには、
数が及ぶことのできないきめの細かさが備わっているのだ。
(中略)論理学者が言葉という迷宮から逃走し、しっかり
固定された堅固な記号世界へ避難するのも、もっともな
ことである。論理学者の絶望は、人文学者の栄光である。
言葉の曖昧さという逆境においてこそ、チャンスは開ける
のだ。言葉の持つ多義性のおかげで、言葉は人間精神の
多次元性とぴったりと適合するのだ。言葉は、数が決して
及ばない高みを描き出すことができるのである。方程式は
優美なものかもしれないが、それは別の問題である。数に
よって詩を書くことはできない。」
「実際のところ、神は間違いなく「外側」にいるのだという
感覚というものはある。神の力、その畏敬に満ちた厳粛
さにおいて、神は「完全に他なるもの」であり、私たちの
ありようとは無限に遠いところにあり、したがって「天が
大地の上はるかにあるごとく、高いところにある」のだ。
もちろん、それと同時に、神は「動静脈よりも近く」、
「呼吸よりも近く、手や足よりも近い」。というのも「神に
おいて私たちは生き、動き、存在するからだ」。アウグス
ティヌスのわかりやすい言葉では、「魂が、すべてにおいて
存在する神と共にないというのは、途方もないナンセンス
である」。超越、そして内在。ここには絶対の緊張関係が
ある。もしそのどちらかでも見失うならば、霊的な生活
というものは成り立たなくなるだろう。」
「パラドックスとは、すべての神秘主義に共通した特徴の
ひとつである。……この、新しい種の意識について言い
表すことは完全にバラドックスになるのだ。このバラドッ
クスを明らかにする一つのやりかたは、意識の中身が
どこかへいってしまったとき、私たちに残されるものは
「対象のない意識のようなもの」だと指摘することである。
それは、何かに「ついての」意識ではない。だが、それ
でも意識にはちがいない。……バラドックスのまた一面
は、この純粋な意識はポジティブであると同時にネガ
ティプでもあり、何ものかであり、何ものでもなく、満ちて
いるものであり、空であるものである。それは純粋な
平和、祝福された状態、歓喜……だが、心の対象物や
内容をすべて空にしてしまったとき、そこには何ものも
残されてはいないということも、また正しいのだ。……
ポジティブな面についてのいちばんよくあるメタファーは
光であり、ネガティブな面については闇(玄)である。…
…そこにあるものは闇の「中の」光なのだ、と言っては
ならない。それならばバラドックスでも何でもない。
パラドックスとは、「光そのものが闇であり、闇そのもの
が光だ」ということなのだ。」
忘れられた真理
内容(「MARC」データベースより)
存在の神秘を、人間は知りうるのか。究極への問いを忘却
した現代に反逆し、叡智の伝統をよみがえらせる。「永遠の
哲学」ともいわれるスピリチュアル思想の最もスタンダード
な解説書。
目次:
第1章 ものごとのありよう
第2章 空間のシンボリズム―三次元の十字
第3章 リアリティの諸レベル
第4章 自己性の諸レベル
第5章 科学の位置
第6章 希望にイエス、進歩にノー
第7章 エピローグ
付論 サイケデリックスによる証言
キーワード: 科学主義批判、科学と霊性との関係、
心脳問題、進化論批判、行動主義批判、変性意識の
位置づけ
「永遠の哲学」
http://www.members.aol.com/Ajianwellness/eitinodentou.htm 「このように私たちは自分たちの立場の際立った特色に
ほとんど気づいておらず、さらには、普遍的なひとつの
哲学的同意が様々な形で存在してきたという明白な
事実をも、なかなか認めることができないでいる。それは、
現在であろうと6000年前であろうと、ニューメキシコで
あろうと日本であろうと、同じ洞察を報告する人々や同じ
本質的教義を説く人々によって維持されてきたものだ。」
アラン・ワッツ
「人の暮らしぶりには、食習慣、言語構造、婚姻慣行など
といった明らかな文化的相違に加え、十分に普遍的あるい
は集合的な現象が多く見られるのです。たとえば人体に
は208本の骨があり、心臓が一つ、腎臓が二つといった
具合に備わっていますが、これはマンハッタンだろうと
モザンビークだろうと同じだし、現代であれ1000年前
であろうと同様です。こうした普遍的な特徴を、私たちは
深層構造と呼んでいます。なぜなら、これらは本質的に
どこでも同じだからです。一方、このことは様々な文化が、
それぞれ全く異なった方法でこれらの深層構造を用いる
ことの障害にはなりません。たとえば、中国の纏足から
ザイールのウバンギ族の円盤を入れて伸ばした口、
ボディペイントや衣装のスタイル、労働の様式。そういった
各文化の特質と目されるこれらの変異を、私たちは表層
構造と呼びます。それが、局地的で非普遍的だからです。
人間の精神の領域についても同じであることがいえます。
文化相互の相違をなす表層構造に加えて、人間の精神
には、身体と同様に文化を超えて類似する深層構造が
あるのです。つまり、精神の現れ出るところならどこでも、
人はイメージやシンボル(言葉)、概念や規則を形成する
能力をもっています。個別のイメージやシンボルは、確か
に文化によって異なりますが、これら精神的かつ言語的
構造を形づくる能力それ自体、そしてその構造それ自体は、
どこで現れても本質的に類似しています。人の体に毛髪
が生えるのと同様に、人間の精神はシンボルを育てます。
精神的な表層構造はかなり異なっているけれど、精神的
な深層構造は極めて似ているのです。
そして、体に必ず毛髪が生え、人間の精神がどこでも
観念を育むのと同様に、人の魂は聖なるものにたいする
直観を必ず育みます。こうした直観や洞察が、世界の
偉大な霊的伝統、あるいは叡智の伝統の核心を形成
するのです。さらにまた、偉大な伝統の表層構造はまぎ
れもなくそれぞれ異なっていますが、深層構造は、極めて
よく似ていて、ときには完全に一致します。このように、
永遠の哲学が関心を持つのは、主に人と神との出会い
の深層構造なのです。なぜなら、ヒンドゥー、クリスチャン、
仏教徒、タオイスト、スーフィーのすべてに一致する部分
が見出されるなら、おそらく、とても重要なことを知ること
ができるからです。それは普遍的な真理と究極の意味を
告げる何か、人間存在の、まさに核心に触れる何かな
のです。」
ケン・ウィルバー
「従って、永遠の哲学の神秘家たちは、何事も素直に信じ
てはならないと教えます。むしろ、自分自身の覚醒と体験
をテストするために、実験道具を提供するのです。実験室
はあなた自身の精神であり、実験道具は瞑想です。自分
で試してみて、その結果を同様の実験をしたほかの人と
比べてみるのです。そうするつもりがあれば、誰もが有効
と認める経験的事実の数々によって、スピリットの確かな
法則、確実な深遠な真理にたどりつけます。その最初の
ものが、神は存在する、ということなのです。」
ケン・ウィルバー
「二つの道がある。一つは自我を無限に向けて拡張して
いく方法であり、もう一方は自我を無へと縮小していく
方法だ。前者は知識によるものであり、後者は献身に
よるものだ。ジュニャーニ(智慧の保持者)は言う。「私は
神ー普遍的真理だ。」献身の徒は言う。「私は何者でも
ありません。神よ、あなたがすべてです。」どちらの場合
も、自我の感覚は消えうせている。」
ラム・ダス
「キリスト教においては、アダムとイエスという人物の中に
その元型を見出すことができます。神秘家はアダムを
「古い人」とか「外の人」と呼び、彼が地獄の門を開いた
としています。一方、イエス・キリストは「新しい人」ないし
「内側の人」と呼ばれており、楽園の門を開くとされている
のです。特にイエス自身の死と再生は、神秘家によれば、
分離した自己の死と、意識の流れから新たにして永遠の
運命が復活することの元型なのです。すなわち聖なる
自己あるいはキリストとしての自己とその昇天です。
「人」から「神」への、あるいは外側の人から内側の人への、
小我から大我へのこの変化の過程は、キリスト教では
メタノイアとして知られていますが、これは「悔い改め」と
「変容」という二つの意味をもっています。自我(罪)を改め、
大我(キリスト)として変容するのです。
同様に、イスラム教神秘主義では、この死と再生を、
「悔い改め」を意味するタウバーと「変容」を意味する
ガルブとでとらえていますが、両方がスーフィーのビスタ
ーミーの簡潔なフレーズに要約できます。「自己の忘却
は神の想起だ」」
ケン・ウィルバー
(永遠の哲学・推薦図書)
表層構造ではなく、深層構造に着目し、全体的な要約を
知ることのできる本を紹介します。
○永遠の哲学全般
・「カミング・ホーム」レックス・ヒクソン
悟りを根源的な気づきと表現し、実践的な視点で書かれ
た傑作。トゥリーヤ(悟り)への実践方法は、霊的修行の
エッセンスを示している。クリシュナムルティ、ハイデガー、
スーフィー、ハシディズム、ラマナ・マハリシ、十牛図、易、
ラーマ・クリシュナ、プロティノス。
・「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー
特に第1巻は永遠の哲学に焦点を当てている。6章の
叡智の伝統では、仏教、ヴェーダーンタなどを取り上げて
いる。最終章の「つねにすでにあるもの」は永遠の真理
について語り尽くしている。
・「忘れられた真理」ヒューストン・スミス
永遠の哲学の理論編。ウィルバーの先輩格。世界の
偉大な宗教の権威的存在。
○永遠の哲学の修行
・「覚醒への旅」ラム・ダス
瞑想者のガイドブック。霊的修行とはどういうものかを
分かりやすく説明している。様々な伝統からバランスよく
取り上げられている。
・「無境界」ケン・ウィルバー
意識発達のセラピー論、究極の意識に向けた章では、
霊的修行はなぜ必要なのかが理解できる。無境界の
自覚をもたらす指し示しは傑作である。瞑想として使える。
○永遠の哲学の知的アプローチ
・「心理療法東と西」「タブーの書」アラン・ワッツ
西洋心理学と東洋の霊性が交流を始めた初期の頃の
傑作。ウィルバーの先輩格。いかに現在の私たちの
存在状態が不自然かを形而上学的に解き明かす。
「あなたはそれである」を明快に解説。
・「神秘哲学」井筒俊彦
日本における神秘思想の権威。イスラムの神秘思想を
日本に紹介した。本書は、ギリシャ哲学と自然神秘主義
の関連性について。「意識と本質」もお薦め。
・「ターシャム・オルガヌムー世界の謎への鍵」ウスペンスキー
神秘哲学の古典。鋭利な思考を使って、存在の謎に迫る。
現代の科学、哲学、常識的な物の見方を徹底的に疑う
ところから道は開ける。
またかよ
ヨーロッパ中世では、近代とは根本的に異なった世界観を
もっていた。それは、「存在の大いなる連鎖」Great Chain
of Beingという表現が可能なものである。
これはまず、世界を多元的と考え、それが連鎖状に連なっ
ていると見る。そしてその究極に神があるとするのである。
こうした世界観を代表するものが、ダンテの『神曲』である。
この世界観では、それぞれ閉じられた世界が多数あり、
五感によって理解できる世界はそのうち一つにすぎない
と考えられた。
また、こうした多元的な世界観は、中世ヨーロッパのみならず、
近代以前の多くの文明に共有されていた思想でもあった。
すなわち、「存在の大いなる連鎖」は、かなり普遍的に見ら
れるものと言うことができる。伝統的な文明では、世界の
「垂直的な次元」が考えられ、究極的な原理との結びつき
において人間世界をとらえていた。また、文明以前の社会
においては、シャーマニズムといわれる現象が見られ、
異次元世界が強く意識されてきた。
このように、近代以前の世界観では、現実世界は多くの
異界に取り囲まれて存在するものであったということが
できる。
このような「存在の大いなる連鎖」が破られたのは、ジョル
ダーノ・ブルーノの「無限宇宙説」であった。コペルニクスや
ケプラーによる地動説的な天文学は、それに比べると大きな
問題ではなかった。
近代世界を特徴づけるのは、何といっても近代科学の発展
であり、それによる中世キリスト教世界の崩壊である。
近代科学を基礎づける思想として登場してきたのが、
デカルトの思想である。
デカルトの思想の特徴は、物心二元論である。彼は「われ
思う、故にわれあり」という有名な言葉を残している。彼に
よれば、物質は延長であり、心(意識)とはすなわち思惟の
ことである。その二つは全く別の秩序に属するものと考えた。
これは、物質とその経験の世界の独立性を主張し、近代
科学の立場を確立しようとする意図に基づいていた。同時に、
内面性の次元を尊重しようという考えもある。それはデカルト
においては神と結びついたものであった。思想家デカルトの
内面性の問題は、それ以降の物心二元論の発展とは切り
離して考えるべきものである。
また、近代世界の常識の一部となっているものに、ニュー
トン力学の世界観があげられる。ニュートンの力学は、
なおも現代人の日常的世界観の基本となっている。その
特徴は、(1) 均質的な時間と空間の広がり、(2) 質点として
の物質、というものである。つまり、何もない空の時空間が
あり、そこに「物」としての物体が存在する、と考える。これは
私たちの日常的な「見え」の世界を作っていると考えてよい。
そこに「自然法則」という思想が確立していることに注目
できる。これは近代に特異な思想である。
こうした、デカルトによる「延長としての物質」の思想が
ニュートン物理学と結びつき、近代の機械論、唯物論の
思想が生まれた。
しかし、デカルト思想には本来神の要素があったし、また
ニュートンも錬金術や神秘思想の研究に熱中するという
側面もあった。つまり、のちに成立した機械論、唯物論は
デカルト・ニュートンの思想そのものではなく、その一部を
拡大して解釈したものなのである。
近代科学の典型として19世紀末まで隆盛を誇っていた
物理学は、その研究対象が極微の世界に突入するように
なると、にわかに様相が変わってきた。
つまり、古典的な物理学(デカルト−ニュートン的な枠組)
の前提とされていた、(1) 均質的時空間の中にある質点と
して物質、(2) 最小構成要素に還元する方法、の二つは
根本的に揺らぎ始めたのである。
これと同時に、近代的な世界観を作っていた機械論・決定
論も同時にその絶対性を失うことになった。
それはまず、マックスウェルとファラデーによる電磁気の
理論から始まった。ここで「場」の概念が導入され、機械論
とは全く異なる物理学理論が生まれた。「場」の思想は
その当時あまり注目されなかったが、のちにきわめて重要
な意味を持ってくる。
さらに、アインシュタインの相対性理論では、時間と空間が
均質的に「延長」として実在するという考えは完全に崩れ
去った。時間・空間は相対的であり、実際には「四次元
時空体」なのである。また四次元時空は重力の影響により
必然的に歪みをもつとされる。
相対性理論はまた質量とエネルギーが相互変換されること
を示した。これが有名な、E=mc2の公式である。「空っぽの
空間の中を運動する剛体」という力学的な概念は絶対では
なくなったのである。
さらに、極微の原子の世界を探求する量子論は、さらに
従来の物理学的概念を大きく変えることになった。
まず、観察者の行動が必ず観察対象に影響を与えてしまう
ことが確認され、物心二元論的な前提が成り立たないこと
が明らかになった。
近代科学は、それまで「物質の究極的な構成要素」を探求
し、そうした最小要素の組み合わせとして世界を理解しよう
という強い傾向をもっていた。これが要素還元主義といわれ
るものである。いわゆる「分析」の手法といえる。
しかし、いわば世界の基礎的なbuilding blockを求める研究
は、素粒子の世界に至って、ひじょうに曖昧な領域に突入
してしまった。
つまり、そこで「粒子」というものが、古典物理学が想定した
ような堅固な実質をもつものではないらしいことがわかって
きたのである。
粒子の存在は、はっきりと「ある」か「ない」かに分けられる
ものではなく、「存在する確率」としてしか示すことができない。
これは、粒子はまた「波」という性質をももつということを意味
すると考えられている。
ここで、素粒子の世界を記述するためには、その粒子的な
側面と、波動としての側面の療法を併せ持つものと考えねば
ならないことになった。これを「粒子と波動の相補性」と呼ん
でいる。
量子は、ボールのような堅固な実体ではなく、「場」の特異な
性質として考えられる。「量子的な場」のみが唯一のリアリティ
であり、粒子はその一つの様態にすぎない。
量子的世界では、粒子はものすごい速度で相互作用をくり
かえしている。しかしこれも、ビリヤードのボールがぶつか
って動くというようなイメージとはまったく異なるものである。
粒子はあくまで存在する傾向を示すだけであり、生成したり
消滅したりする。しかそれは、四次元時空において起こるの
であり、私たちの日常的な時空感覚ではまったく想像する
ことができないものである。これはただ数学的に記述できる
というにすぎない。
このように、量子的な世界では、私たちが常識的に考えて
いるような、「存在する」と「存在しない」の区別を明確に
つけることができない。無数の相互作用のネットワークが
量子的な場において起こっており、それによって粒子の
生成と消滅がつづいているような世界なのである。
また、ベルの定理というものでは、(1) 量子の世界では、
ひとたび接触をもった存在同士はその後どれだけ距離が
隔たっても互いに瞬時に反応しあう、(2) ただし、同定理
に基づく無媒介の情報伝達は、その内容を事前に知ること
ができない――とされている。
要約すれば、量子的な世界では、明確に分離した実体は
存在せず、全体が一つの量子的な場として存在している。
つまり粒子というものはつねに全体の中でのみリアリティを
獲得するものであって、それ自身で独立して存在するわけ
ではないのだ。いわば巨大なネットワークの一部なので
ある。そこでは、日常的な時空の概念は飛び越えられて
しまう。「ノンローカル」の世界なのである。
物理学者のフリッチョフ・カプラは、『タオ自然学』という本に
おいて、このような量子論の世界が東洋思想ときわめて
類似していることを指摘している。この本はいわゆる「ニュ
ーサイエンス」の代表作として思想界に大きな影響を与えた。
つまり、タオイズム、仏教、ヒンドゥー教などの思想は、
西洋思想のような要素還元主義に陥ることなく、常に
「ネットワーク的に結びついている全体の場」として世界を
把握しようとしていた。そこにおいて、物質とは実体では
なく、いわばcosmic webの中に織り込まれている。そこで
は、「関係」のみがリアリティであり、個別に独立した物質
という概念は幻想であると考えられていた。しかも、東洋で
は、これを単に知的な思想としてだけではなく、瞑想の実践
によって、こうした宇宙のリアリティを神秘的に直観できる
ものとして理解していた。
ただしこれは、量子論がそうした東洋の宗教思想を「証明
した」ということではない。カプラが提示したのは、あくまで
その二つの「平行関係」であると理解すべきである。カプラ
は、「科学に神秘思想はいらないし、神秘思想に科学は
いらない。だが、人間には両方とも必要なのだ」と述べて
いる。つまり、この二つは、それぞれ異なる「知のモード」
として「相補的」な関係にあるということである。
カプラの『タオ自然学』は科学の理論を述べたものではなく、
量子論の示すリアリティ・モデルの意味を考察しようとした
思想的な試みである。初版が出たのは1975年であったが、
この時期は、東洋思想への関心がひじょうに高まりつつ
あった時期でもある。欧米社会に対して、東洋の瞑想的
伝統(禅など)の影響が本格的に表れ始め、文化的影響を
与えるようになっていた。
ここで、物理学や心理学以外ではどのような動きがあった
かを簡単に述べておきたい。
哲学では、すでにカントにおいて、私たちが見ているのは
「実体の世界」ではなく、認識カテゴリーというフィルターを
通して世界を見ているに過ぎないことが示された。ここから、
「もの」の実在性を疑い、「心」のみが実在するというドイツ
観念論(フィヒテ・シェリング・ヘーゲルなど)の哲学が誕生
した。
またフッサール〔1859〜1938〕は、日常的な「世界の見え」
をすべて括弧に入れ、純粋意識にさかのぼって、そこに
「本質直感」の可能性を探ろうとした。
またハイデッガー〔1889〜1976〕は、「存在するもの」の
研究ではなく、「存在そのもの」の探求の必要性を主張した。
ベルグソン〔1859〜1941〕も、純粋意識とは「純粋持続」
であると論じた。
こうした哲学者は、要するに、「世界のもっとも根元にある
もの」を探求し、それを極限まで遡行したとき、それは物の
世界でも、またふつうにいう心の世界でもなく、「純粋意識」
ともいうべきものが見出される、という立場に到達したと
いうことができる。
そのように、もの・心というデカルト的二元論よりもっと根本
的な次元においては、そうした二元性を超えた領域が見出
される――そうした見方に立てば、サイキックな経験や
共時性のような、ものと心の双方の次元が連続しているか
のような経験も、理解する糸口が見出されるであろう。
一見、こうした哲学はきわめて抽象的なものに見えるが、
私たちの「世界」というものの常識的な考え方を徹底的に
変えてしまう部分を秘めている。
この問題は、こうした哲学者の経験に基づいていることが
考えられるが、哲学という学問では自己の経験について
語ることはタブーになっている。
ここで再び心理学の話に戻る。いわゆる「正常」以上の
心的発達を肯定するマスローの人間性心理学の立場に
ついてはすでに紹介した。これと同じ流れにあるものとして、
イタリアの精神医学・心理学者ロベルト・アサジョーリが
作り出したサイコシンセシスという新しい心理学について
紹介しておこう。
ユングでは、無意識はすべて一括して扱われていたが、
アサジョーリは、上位・中位・下位無意識を明確に区別する。
そして、上位無意識に「トランスパーソナル・セルフ」、
つまり私たちの中の「高次の自己」があると考えられる。
サイコシンセシスの究極目的は、このトランスパーソナル・
セルフとつながることである。そうすると、万物のつながり、
圧倒的な愛の存在などが感じられ、他者への深い共感も
生まれてくるという。そのためには、私たちはパーソナル・
セルフ(通常の自我)への同一化を一時停止する必要が
ある。アサジョーリは、こうした心的発達のために、イメージ
技法を中心としてさまざまな方法を考え出している。こうして
パーソナル・セルフとは別の、「純粋自己」とでもいうべき
自覚が生じる。これが心的発達のためのひじょうに重要な
ステップなのである。この純粋自己は、哲学者たちが見出
そうとした「純粋意識」を心的経験として捉え直したものと
しても注目できる。
アサジョーリが見出したトランスパーソナル・セルフの心的
経験は、古来から宗教体験・神秘体験として知られてきた
ものを脱宗教的な文脈で捉え直したものといえる。また、
ユングでは曖昧なままにとまっていた上位・下位の無意識
を明確に区別したことには特に注目される。無意識の中には、
心の成長につながるポジティブなものと、そうでないものとの
双方が含まれているという洞察がそこにある。
このような、マスロー、アサジョーリなど平均レベルを超える
心の発達を明確に認める立場を基礎として、1970年ころに
「トランスパーソナル心理学」という心理学の一派が生まれて
きた。trans-personalとは、文字通り「個を超える」ということ
である。
この心理学は、欧米においてはある程度の学問的な地歩を
占めており、大学院レベルの研究教育機関もいくつか存在
している。その特徴としては、次のようなものがある。
1.日常的・平均的な「個」の意識を超える心的経験の存在を
確認する。
2.デカルト=ニュートン的な世界観が絶対ではないことを
理解し、それを超える世界観を前提とする。つまり、
一次元的世界観の否定、多次元的世界観の立場が
ある。これは近代的世界観に対する「異議申立て」の
意味を持っている。
3.これらは、量子論や相対論に関連する「ホーリズム」と
関係が深いことが意識されている。
4.これまで宗教においてアプローチされてきた領域を、
心理学の手法によって探求する姿勢。つまり、特定宗教
の枠組みから自由な立場において考える。
思想史的に見るならば、トランスパーソナル思想は、東洋
思想への接近と考えることができる。特に、日常的体験を
超えた次元について、体験的にこれを探求するという姿勢は、
それまでの西洋思想に欠けていた視点である。
もうすぐ埋まりそう
さささ
ウィルバーは、現代を代表する思想家の一人となっている
が、いまだに一般に知られるところが少ない。簡単にいうと、
彼は「西洋と東洋の融合」を試み、一つの新しい宇宙観を
提示することを試みている。
ウィルバー思想の背景としては、まずこれまでこの講義で
見てきたような、デカルト=ニュートン的な世界観の絶対性
が崩壊したという事実がある。
第二は、心理学における展開から、「ノーマルを超える自己
成長」という視点が登場してきたという流れである。また
グロフなどによる、機械論的枠組みでは理解不能な心的
経験が発見され、心というものが通常考えられている以上の
広がりをもつという可能性が見出されたことがある。
そして第三には、さまざまな宗教における神秘体験の共通
性に注目し、「諸宗教の超越的一致」という立場に立つ宗教
思想の台頭という要素がある。
これは、オルダス・ハックスレーの『永遠の哲学』Perennial
Philosophyという書に代表され、ここからperennialismとも
呼ばれている。それは、西洋近代の唯物思想に反対して、
伝統的な宇宙観の価値を復興させようとするものである。
ただしそれを教義としてではなく、その中核には経験があり、
それに基礎をおいているものと見なすのである。
ウィルバーは、このような流れを受け、東洋(正確に言えば、
非近代西洋)の伝統における「叡知」の立場と、西洋心理学
を接合することによって、より包括的なパラダイムを提示した。