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| |_∧
|_|ω・`)
|文|o ノ
| ̄|u'
スレ立てお疲れ様!
人々は、顔文字氏よりも、ネイチャー論文を信用するだろう。
この人、しばらく駄目でしょう。細かなアラを探して揚げ足取り
モードに入ったり、藁とか使うような人は無視が一番だろ?
他にもっと有意義な話をできる人もいるんだから、あれは放置する!
で、頭が冷えてきたら、過去は忘れて暖かく迎え入れる、と。
>>4 が、人々から信用されてないって事は、俺にさえ分かります。
にゃ、という語尾が読み難い。
権威主義キター(藁
マルシンドにせよ、164にせよ、黒猫にせよ、強烈なキャラには
>>4のように、有益なネタを提供できず、ただ叩くだけのハエが
たかるのが心理学板の悪い伝統です。お気を悪くなさらないように。
それはつまり心理学板コテハンとしてハクがついたということなわけだが。
過去には俺にもいたしな、そういう奴。
英語の受身文の発生順に関して、顔文字しゃんの説明が
あったので、それについて一言。
―――――――
もし言語構造の知識が成熟していない段階で表層の語順だけに基づいて
θ-roleを振り当てるような補助戦略がとられるとしたら
1) John was excited. では Experiencer > others
2) John was killed. では Agent > others
と取り敢えずθ階層の一番高いもの(たぶん状況認知上一番salientなもの)
をJohnにふっとけ、みたいなことが起きていて(1)だけ正しく
理解しているように見える(実は構造知識は伴っていないので正しく生成
してはいない)という可能性も考えられるにゃ。
―――――――――
これは、要するに、「受身文を習得していない子供が、文法以外の
要因で、偶然(1)と(2)を区別したように見えただけで、
実際は、両方とも文法により生成されてはいない。で、この後、
受身文の生成にかかわる原理を使えるようになったら、
両方同時にできるようになるはずだ」ということですね。
これは、当然可能性として存在します。これが正しいとしたら、
ここで使われている「補助戦略」に関する理論の位置付けが
問題となるでしょう。補助戦略はUGの一部なのか、そうでないなら
どこからきたのか、言語習得専用のモジュールがあって、その
一部に補助戦略が含まれているのか、UGと補助戦略はいつどちらが
働くようになっているのか、このような構文の出現順に関して、
いくつの補助戦略が存在するのか、補助戦略同士が競合することは
ないのか、などでしょう。現段階ではこれが正しいとか間違っているとか
はいえないと思われます。
190は逃亡したのかにゃ?(まさか4=190なんてことはないんだろうにゃ?)
そのNature論文には
The key question now becomes: what kind of mutation causes the initially ectopic
expression of cassettes of developmental genes to occur in a spatiotemporal pattern
that affords some possibility of functional improvement and thus of being favoured
by selection? Although we cannot yet answer this question, it is interesting to
consider a possible link with developmental bias.
と書いてあって、重要な問題は選択が介入する以前にある、と読めるにゃ。自然選択は進化という現象の最後の
ところにしか関わらない、(ほんの上っ面をかすっているだけ>前スレ674)俺が言い続けてきたこととどこか
矛盾するかにゃ?まあ、俺のいうことを信じる必要はないが、自然選択説を疑問視する「正当な生物学者」が
多数いることは事実なのにゃ。彼らの指摘には耳を貸さず、自然選択を直接批判してはいないというだけの
論文を見つけ出してはホッと胸をなでおろしている様子はにゃんとも滑稽ですにゃー。
で、ベーエはどこに引用されているのか、答えてもらおうかにゃ>190
>>10 UTAHの文法内での位置づけというBaker的問題に関わってくるにゃ。
syntax内部ではなく、syntaxと意味解釈部門とのインタフェイスにかかる写像原理のような
ものだとすれば、いわば統語構造が見えない状態でUTAHを手掛かりにして意味解釈を施して
いるような状態だと想像できるにゃ。能動文は正しく理解できても受動文はできないという
失文法症患者の例も移動の有無という切り方をするとVP-internal Subj分析と衝突するにゃが、
こっちの見方ならうまくいくにゃ。で、もし生成が仮定するようにすでに独立して存在していた
概念系(と音声系)をつなぐような形で統語計算系が後からヒトの脳内に発生したことが言語の
進化のありようだとすると、このような状態はいわゆるprotolanguageの姿を反映している
(階層構造がなく、線状性のみに依存していた)とも考えられないかにゃ。
それからDTについての「進化心理」スレでの発言にゃが
>ある音連鎖を「雑音」として区別するためには、その段階までに音連鎖に関するある種のパターンを
>習得していなければならない。そして、その段階までに出来上がったパターンから外れないような
>入力だけを受け入れることができるようになっているのではないか
では一番最初のまだ何も習得していない状態からはどうやって先に進むのか、あらかじめなにがしかの
生得的知識が与えられていなければ何事も起き得ないし、またそれが起きれば後は連鎖反応的に
習得は決まった経路を進行する、という点で、瞬時モデルとDTの間には本質的な食い違いはない、と
思うにゃが、いかがかにゃ。
ついでに関連事項を紹介しておくピョン。
まず、古いフィンランド語では、The work is done.に相当する文は
行為の結果状態しか表さなかったそうで、The work is in the state of
having done.という意味だったという。それが、後になって、受動態の意味、
つまり、プロセスの意味が加わり、The work has been done.という
意味にも取れるようになったという。英語史でも、同様の流れがあって、
まず、he waes besett (He was in the sate of being surrounded)という
Adjectival Passiveのみが存在し、その後、動作を表す受動文が発達した
といわれている。歴史変化と子供の習得順(実際、順番があったとして)
が同時に説明できる理論があれば、そのほうが良いと思われる。
では一番最初のまだ何も習得していない状態からはどうやって先に進むのか、あらかじめなにがしかの
生得的知識が与えられていなければ何事も起き得ないし、またそれが起きれば後は連鎖反応的に
習得は決まった経路を進行する、という点で、瞬時モデルとDTの間には本質的な食い違いはない、と
思うにゃが、いかがかにゃ。
--------------
オイラの知る限り、DTは、二つの部門をもっていて、通常強調される
動的な部分だけでなく、静的な部分も存在するわけですピョン。
DTはたぶん標準理論の補助仮説として出てきたはずなので、周辺部のみを
扱うという話から始まったのではないか。しかし、その後、周辺から核へという
研究戦略をとり、現在にいたっていると考えられるピョン。つまり、周辺で
観察される動的な仕組みを使ってどこまで核に迫れるか、という話をしつつある。
で、当然初期状態は、その話が進めば進むほど、少なくて済むようになる、
という見通しではないかと思いますピョン。ですから、当然、初期状態は
あるわけです。この点では、チョム理論と同じはず。
>瞬時モデルとDTの間には本質的な食い違いはない、と
>思うにゃが、いかがかにゃ。
本質的な違いはないだろうと思いますが、近似の精度が一段
あがっているのでしょうね、きっと。
>歴史変化と子供の習得順(実際、順番があったとして)が
>同時に説明できる理論があれば、そのほうが良いと思われる。
歴史変化と子供の習得順には、論理的な関連性はあまりなさそうなので
こちらは特にこだわらなくても良いように思います。
歴史変化について、一言述べておくピョン。歴史変化では、何が変化するのか?
歴史変化とは、実は、言語習得における子供の習得ミスが最も大きい
部分を占めていると思われます。
言語習得の途上で働く移行の法則が、「ある言語のある習得段階でGiが可能なら、
次の習得段階でGi+1が可能となる」、
というものであったとすると、この法則を適用すると、新たな構文が
生じるが、適用しなければ、元のまま、という話ができるわけです。で、
適用するかどうかは、他の条件で決まるとすると、古い時代には、形容詞的
受身を動詞的受身に発展させる動機付けが少なかったので、この移行の法則を
適用する子供がほとんどいなかったが、後に、別の要因が発生して、
この移行の法則を適用する子供が増えた(つまり、親の世代は、移行の法則を
形容詞的受身に適用しなかったが、子供の世代は、それを適用するように
なった、つまり、習得ミスが起こり、言語が変化した。)、
という話が可能だと思います。
受身の歴史を研究したわけではないので、詳しいことはいえませんが、
原則として、歴史変化が子供の習得ミスだという見解は、生成文法を仮定した
歴史言語学研究では受け入れられているのではないでしょうか。
はふぅ....
>と書いてあって、重要な問題は選択が介入する以前にある、と読めるにゃ。
「ある種の問いを扱う際には選択前の段階=発生を考えることがとても大切」
ということであって
>自然選択は進化という現象の最後のところにしか関わらない、(ほんの上っ面を
>かすっているだけ>前スレ674)俺が言い続けてきたこととどこか矛盾するかにゃ?
「選択は上っ面をかすってるだけ」なんて、書いてないでしょ?しかも、引用の中に
「thus of being favoured by selection?」と書かれてるでしょ?結局、淘汰過程で
生き残れなかったら、何が発生しても死に絶えることは、著者自身、否定してないん
ですよ。
>自然選択説を疑問視する「正当な生物学者」が
多数いることは事実なのにゃ。彼らの指摘には耳を貸さず、
「選択は上っ面だけ」といってる生物学者は、逆に、発生学者などから
「俺たちの論理をねじ曲げ、上澄みだけをかすめ取って、自分のイデオロギーを
正当化するのに使うな」と、評価されてもいるんですよ。
しかもこの論文にも書かれているように「発生学的研究=ある遺伝子からいかなる
表現型が発生しうるのか?」は、「遺伝子と表現型の関係」について、思われて
いるよりも複雑な関係が存在していることを示した。とはいえ、「表現型の
レベルで淘汰がわずかな力しか及ぼさない」ことを含意している訳ではないし、
「淘汰の効果が、“環境と相互作用して表現型を生み出す”遺伝子に影響しない」
ことも含意しない。
グールドや、その他「反選択論者」は、この「遺伝子と表現型の関係」を極端に
解釈して、「適応や選択には意味がない」というイデオロギーを擁護するのに
用いているのだ、と評価している人々もいますから。
補足しておくと、歴史変化は一世代でもおきるわけで、例えば、
英語のlaseという動詞は、laserという名詞から逆成(backformation)
で生まれたわけですが、この二つの発生の間隔は、たぶん非常に短かったはず
で、一人の人間の中で起こっているはずです。
もう、このトピックについては何も話す気も起きないですね。だって、私も
顔文字さんも同じことの繰り返しですもの。私は「このトピック」については書くのを
やめますから、勝利宣言でも何でもご自由になさってくださいよ。
>190は逃亡したのかにゃ?(まさか4=190なんてことはないんだろうにゃ?)
いやはや...道化でも何でも結構ですよ、あたしは。ご自由に妄想でも
何でもふくらませてください。。
>ベーエはどこに引用されているのか
ええ。ベーエのスペルを誤解してましたね。その一事をもって、私の論理は
全て破綻した、と受け止めてくださっても、私の科学者としての能力が地に
落ちたと考えられても、何でも結構です。
なるほど、そういう意味で関連があるのかもしれませんね。
若干の疑問があるとすれば
・子供のいい間違いが、どうやって社会に定着するのだろうか?
・子供のいい間違いが定着するのならば、大人のいい間違いも
定着するのではないだろうか?
(とすると、発達との関連は薄くなるのではないだろうか?)
といったところでしょうか。
ちなみに言葉の流り廃りというのは、全く次元の違う話でしょうか?
あらら。かつぶしさんの発言を挟んじゃいました。すみません。
ところで。
>>ある音連鎖を「雑音」として区別するためには、その段階までに音連鎖に関するある種のパターンを
>>習得していなければならない。そして、その段階までに出来上がったパターンから外れないような
>>入力だけを受け入れることができるようになっているのではないか
>では一番最初のまだ何も習得していない状態からはどうやって先に進むのか、
ちょうどこれ聞きたかったんですが、「言語(語彙)獲得の最初期」において、
子供は、どうやって「無造作な音の羅列」の中から単語を区切りだして、一語文を
学ぶことができるのでしょうか?
また仮に、単語を区切ることが可能でも、「ブーブー!」と大人が言っても、
それが「車」という「事物のカテゴリー」なのか「事物の固有名(ポチ)」なのか、
「状態(走っている/止まっている)」なのか、「色」なのか、あるいは、
「車を構成する部品のこと」なのか、「指示対象」を特定するのは困難ですよね?
この問題について、言語学者はどのような議論をされているのですか?
当然、言語獲得の発達研究について知っていますが、とりあえず、言語学と
認知発達研究の交流程度を知るために、これらの問いについてお聞きしたいです。
>ベーエのスペルを誤解してましたね
Beheを誰と誤解していたのか、が問題ですにゃ。190はvon Baerの名前も知らずに(しかもわざわざ発生学
の文脈でHaeckelと併記してあるのに)今まで生物学がどうたらこうたらと講釈たれていたのか、という
点がにゃ。
まあ、この度の局地戦は突き詰めて言えば同じことをどの角度から見ているのか、どこに焦点をあて何が一番
重要な問題かと考えているかの違いにゃから、別にどっちの勝ちとかいうこともないのにゃ。
>歴史変化と子供の習得順には、論理的な関連性はあまりなさそう
いや、あくまで比喩のレベルにゃが、ヘッケル的反復説が言語について成り立つという考え方があるのにゃ。
典型的には言語の系統発生も個体発生も、機能範疇の形成と強化または弱化が決定的な要因になっていると
いう考え方にゃ。
歴史的変化が子供の習得ミスをきっかけに起きる、というのもちょうど遺伝子のコピーミスがきっかけで
多様性がもたらされ進化が起きるというのと似ていて面白いにゃ。で、ゲーム理論との関係が示唆されるのは
この後の段階なのにゃ。
>ゲーム理論が生成と関わるとしたら、それはせいぜいパラメタセッティングの段階だろうにゃ(前スレ634)
この場合はリセッティングにゃが、あるパラメタ値を持つ個体の集団の中に、たまたま別のパラメタ値を
持つ個体が出てきたとする、最初は少数であったものが次第に勢力を増しやがて集団内に固定されるという
プロセスが歴史的変化にゃから、その新しいパラメタ値がESSだと見方もできるかもにゃ。ではその
パラメタ値はどういう意味で適応的だと言えるのか、どうやって集団内に伝播するのか、あたりについて
進化心理やミーム学的見地からも意見を伺いたいものですにゃ。
しまった、スルーされてるにゃ。(´;ω;`)ナミダメショボーン
指示物の客観的記述はそもそも困難にゃ。モデル意味論は「パトナムの逆理」にいきつくにゃ。
アイ画板に帰るかにゃ…
>>24 『言語能力』と『生得的』の、このスレでの定義を教えて。
スルーしたつもりはないにゃが、虚無しゃんの発言は自己完結的なのが
多くてレスつけにくいのにゃw
>指示物の客観的記述はそもそも困難にゃ
で、これが空範疇とどう関わるのにゃ?
むにゃむにゃ。わたしもスルーされても仕方ないと思うことが多々あるにゃ。
だがしかし、議論の出発点として、190の先生が何度か中立的な問い(おもに幼児の初期状態)を提案してるので
それには応えたほうがいいにゃ。
わたしの主張は、幼児は述語関数を拾い集めるように語彙を獲得しているのではない、
比ゆ的な多義性は、語彙習得の障害にはならない(根拠ナシ)、
「言語能力」とは、空を飛ぼうとしても飛べないという能力、
「生得的」とは、人に腕じゃなく翼が生えることはない、ということにゃ。
>>25 しばらく留守するにゃ。スルーされて、留守(一同ドテッ
( 土手 )
⊂⌒ヽ、 /⌒⊃
\∧ ∧ ∧ ∧/
. と(*゚ー゚)⊃ と(゚ー゚*)⊃
29 :
( ´,_ゝ`)プッ:03/03/02 23:00
>>29が
>>4同様、人々から信用されてないって事は、俺にさえ分かります。
いよいよ香ばしくなってまいりました。
気になるので回答をよろしく。
>666 :探検隊 :03/02/27 01:00
>>心の理論だにゃ。チョム傍系の語用論標準理論の関連性理論に由来するのが心の理論にゃ
>>言語学的見解があるのにゃっていうより、そも、言語学由来の見解にゃ。
>
>プレマック由来だとばかり思っていたんだが、違うの?
>
>それはともかく、
>>チョム傍系の語用論標準理論の関連性理論
>とは?
>ちと興味がある。
虚無しゃん同様、俺もしばらく旅に出なきゃいかんのにゃ
>>22=190
その辺りについては「岩波講座 言語の科学 10巻 言語の獲得と喪失」の第2章をまず見てみる
ことを奨めるにゃ。DTも分かりやすく解説されてるしにゃ。
ついでにかつぶししゃん、同章によると英語やドイツ語と違ってセソト語やイヌクティトット語では
verbal passiveの獲得が早期に起きる、とあるにゃ。考えられる理由についても述べられているにゃが、
能格性が関係するかも、というのは面白いと思うにゃ。というのは、先天的に聾の幼児が自発的に行う
sign languageはergative型であり、これは親が話す言語がaccusative型であろうが関係ない、従って
能格性は生得的である(UGレベルでのデフォルト値かにゃ)、というような議論があるようなのにゃ。
櫻井・酒井(例の脳科学のセンセにゃ)「言語獲得のモデル」別冊数理科学「脳情報数理科学の発展」
に引用されてる文献だけどにゃ。
http://icg.harvard.edu/~psy1606/handouts/Goldin_Meadow1998.pdf じゃにゃ〜
顔文字しゃん、面白い情報、どうも。deaf childrenのケースも
おもろいですな。すこし勉強してみます。といいつつ、忙しいので
いつになることか、、、、。
ところで、心理学の先生の一語文習得関連質問にも
答えたいのですが、言語習得研究に直接かかわっていないので、
即答できません。ごめんなさい。オイラ的には、トマセロの研究が
面白いと思います。たぶん、誰もそれをこれるようなことは
いままでやっていないと思われます。
いい間違いがなぜ定着したり、しなかったりするのか、という問は
面白いですが、日本語の「ら」抜き言葉などを観察すると、親の
世代から散々悪者扱いされてきたにもかかわらず、その勢力を
伸ばしつつある。一方、顔文字先生の「にゃ」言葉や、オイラの
「ピョン」言葉は、決して広がらず、廃れていく語尾だと思います。
この違いは、日本語の文法体系に内在するある種の問題点を「ら」抜き
言葉が補っているので、「ら」抜きを許す力が脳内の文法側に内在して
いると考えられます。一方、「にゃ」や「ピョン」には、そのような
力は無いので、広がらないわけですピョン。
>日本語の文法体系に内在するある種の問題点を「ら」抜き言葉が補っている
というのは、どんな問題点を補っているのか良く分かりませんが、
そうであるとすると、もっと早くに「ら抜き」に移行していたと
しても不思議はなかったように思われます。
「既出」を「がいしゅつ」と読んだりするのも、そんなふうな
説明が可能なのでしょうか?
ものの本で読んだんだが
食べられる は、可能、受身の両義をもつが
食べれる は、可能のみの意を示す
よって、ら抜き言葉は可能助動詞と受身助動詞の混同を防ぐ機能を持つ
問題点といっても、たまーに混乱を招くことがある、つーくらいで
早急に改良しなければならないものでもないと思われ
もっとも、最近の国語審議委員会で
「そんなこといってもやっぱりダメ」という判断が下されたので
ら抜き言葉が公用語として受け入れられるのはまだ先のことだ
しかし下手すると我々くらいの世代が最後の抵抗勢力になるのかもしれない罠
なぜもっと早く変わらないのか、という問ですが、厳密に考えると
難しいですね。どうやら、音節の少ないものから、「ら」抜きが
進行しているようなので、言語習得途上に働く力がかかわっているのだろうと
推定されます。同じ「ら」抜きでも、「見れる」「着れる」の方が、
「教えれる」「考えれる」より良いと判断されるようです。これは、推測
ですが、言語習得途上では、他の条件が同じならば、なるべく形と意味が
一対一対応を守るようにする力が働くのではないかといわれています。この
力ともともとの活用のパラダイムが拮抗しており、なんらかの意味で
弱い部分から侵食を受けている、という話にならないかなと想像してます。
言語能力の生得性という観点からいうと、この形と意味を一対一に保とうと
する力が生得的だといえるかもしれません。このような力は、言語以外でも
働いているはずですが、いかがでしょう?
>>33-34 な〜るほど。関連情報、どうも。
>>32 「心の理論」という用語はPremack由来なのは間違いないと思うのですが、
そもそも言語=シンボルの本質は社会的な参照にあるので、心の理論や共同
注視という概念が出てくる前から、言語学や記号論では当たり前の概念だった
のではないか、と。
ただ、心理学で操作化された「心の理論」と言語獲得の関係をダイレクトに
実証したのは、トマセロが最初じゃないかと思いますけどね。
>>38 「複数の力が拮抗する中から変化が生じる」というのは、何にでも言える話ですよね。
言語の場合は、言語変化を促す力を列挙すると、どんなものがあるんでしょう?
「発音上、コスト/エネルギーが低い方向へ変化/省略」とか、あるいは社会言語学っぽく
「所属集団を外集団から区別するために特定の言い回しが広まる」とか。
>「にゃ」言葉や、オイラの「ピョン」言葉は、決して広がらず、廃れていく語尾だと思います。
非常に攻撃的な人ばかりが集まる掲示板では広まるかも知れませんよ。
きつい言葉を和らげる効果があるから。現に、このスレでは消え去っていないと
思いますが。
にょ
>>38 「ら」を抜くと「一対一対応」がよくなる、というのがよく分かりません。
多分「形と意味が一対一対応を守るようにする力」という意味が分かって
ませんので、解説キボンヌです。
>>39, 41
自分で持ち出しておいてなんですが、「ら」抜きの話は
複雑で、オイラも完全に理解できてないので、宿題に
させてくらはい。(実は、今アメリカにいるので、
資料すら手元に無いですピョン)
で、資料無しでも、確実な話をさせてください。
まず、言語習得において働く力を問題にしているということを
ご理解ください。言語習得は、10歳ぐらいで、基本的な構文は
習得し終えていると仮定しています。(年齢は厳密なものではないですが)
それで、「意味と形を一対一に保ちたい」という力の話ですが、
その一例として、形と意味がずれてしまったとき、形を意味に合わせて
変化させて、一対一対応を守ろうとする場合があることがわかっています。
例えば、英語では、The city is [far[from[the airport]]].のような
構文がありますが、これは、意味の中心と形の中心が一致しています。
farという形容詞が形の上でも形容詞句の主要部で、意味的にも「遠い」
という意味で、述語の中心となっている。このようなこう文が習得された
後、The man is [far[from[(being) innocent]]].のような言い方が
可能となってくる。これは、「その男は、無実であることから遠い
――>その男は無実どころではない。」という意味ですが、この場合、
形の中心と意味の中心にずれが生じてしまっています。形の中心は
今までどおり、farの部分ですが、この例では、もはやそれは意味の中心
ではなく、意味の中心は、innocent(無実な)になってしまっている。
このような意味と形(統語構造)のずれが生じると、それを解消しよう
とする力が働く。つまり、「意味の中心と形の中心を一致させようとする
力」が働くわけです。その結果、再構造化が起こり、
The man is [[far from] (being) innocent].のような形が生じ、
続いて、余計なbeingが落ち、The man is [[far from] innocent].
のようになる。ここで、今まで、かたまりですらなかったfar fromが
かたまって、副詞の働きをするようになった。このような文法の拡張が
起こっているというのが、動的文法理論の主張です。
>「発音上、コスト/エネルギーが低い方向へ変化/省略」
これに類似の現象が英語で観察されています。例えば、a too small roomとは
言わずに、too small a roomという言い方をするのは、前者の言い方だと
強勢が3個連続してしまい、英語特有のリズムを壊すので、too smallの
部分を前置させることにより、弱強強強を強強弱強にして発音を
しやすくさせているという観察があります。(これは、もっと詳しく
なぜ前へ出すのかを言わなければならないはずですが、詳しいことは
忘れました。)
>>43 なるほど、この例は良く分かります。
意味と形がずれていると、意味が誤って伝わる可能性が増すという
のが、背景にある可能性が考えられますね。
とすると、意味と形の乖離をほったらかしにしている個体とそれを
修復しようとする個体の間で、後者の生存の可能性が高かった、
などということがあるのでしょうか?もっというと、このような
意味と形の乖離を修復する力は、そもそも最初に意味と形を一対一に対応
させるようにする能力から来ているといえるのではないか。そして
その能力自体が、、言語以外の認知領域でも観察される「範疇化」の能力に
由来すると考えられるかもしれません。例えば、世界中の言語を観察して
みると、名詞と動詞は必ずあるが、それ以外の品詞は、言語によって、
種類が異なるといわれています。名詞と動詞しかない言語もあり、そのような
言語では形容詞という文法範疇もないそうです。名詞と動詞は、それぞれ、
言語習得の最初期に「もの」と「変化」という意味範疇に対応するものと
して習得される。それ以降、名詞と動詞しかない言語では、ある意味範疇が、
「もの」よりなら、「もの」として範疇化し、「変化」よりなら「変化」
として範疇化をし続ける。その際、「もの」でも「変化」でもない第3の
範疇はたてない。それに対して、大部分の言語では、「状態」に遭遇すると
それを「もの」でも「変化」でもないものとして、新たな範疇「形容詞」
を建てる。このように考えると、言語間における品詞の違いが説明できる
かもしれません。ところで、チョム式理論では、すべての言語にすべての範疇が
原則として(他の条件が同じなら)出現するはずですね。
上の話は、かなり前に、梶田教授が東京言語研究所の講義で話しておられた
ものをかいつまんで述べたものです。
動詞と名詞しかない言語というのがあるのですか・・
梶田氏の研究とは、素人的にいえば(すいません)、文の中で妻(名詞)と帽子(名詞)を取り違えても文法上問題はないが、
妻(名詞)と走る(動詞)を取り違えては文法的に間違いとなります。
これについては、UGを出さなくても、物と変化をカテゴライズするような汎用的認知能力で説明できるかもしれないという事でしょうか・・?
スレ汚しすみません。
いやどうも。上のまとめにはオイラの想像も入っています。
すみません。わかりにくいですか。言語習得で働いている
力として、「似ている意味のものは同じ品詞に属させよう」
というのがあるのではないか、ということです。これは、別に
不思議でもなんでもないと思います。
まず、「隣のミケもうちのタマも、よく
似ているので、一つの範疇に属させよう、そして、その範疇を
猫と名づけよう。」というように始まったとして、
その後、「でも、向かいのジョンは似てはいるけど、ワンと
吠えるので、この際、別の範疇を新たに作って、そこに属させよう。そうだなあ、
「犬」と名づけてておこう。」となるか、「向かいのジョンは多少
違うようだけど、結構ミケたちとも似てなくも無いので、「猫」
としておこう」となる場合もあるとします。
後者の場合は、いつまでたっても、「猫」という範疇しか存在しない、
という可能性大ですが、前者の場合は、どんどん、新たな範疇を
作っていくかもしれません。このようなことが、言語の品詞にも
習得途上で起こっているかも、という話です。
別の言い方をすると、動的文法理論の見通しとしては、統語範疇(品詞)
さえも、初期状態に記述しておく必要は無い、というものです。
チョムスキー的には、世界中の言語でで必要な品詞のすべてが、何らかの形で、
(例えば、素性の束として、)遺伝しているということになるでしょう。
言語のもともとの機能については、諸説あるだろうと思いますが
誰かに対して、ああして欲しい、こうして欲しいと頼んだり
どこそこに餌があるとか、敵が来たとかとかいった情報を交換したり
する機能ははじめの方からあったろうと想像されます。
このときに、「○○が」「△△を」「××する」という要素は
合ったほうがよいだろうという想像もつきます。
一方、例えばニホンザルではうなり声をあげたり、叫んだり
することで「ここから去れ」とか「敵が来た」という情報を
伝達しています。そういう風に考えると、「名詞」や「動詞」
というカテゴリーが分化して、それらの要素の組み合わせで情報を
伝達するというのは、すでにかなり高度なシグナルの使用法なのでは
ないかという気もしますね。
>誰かに対して、ああして欲しい、こうして欲しいと頼んだり
マンド(mand)
>どこそこに餌があるとか、敵が来たとかとかいった情報を交換したり
タクト(tact)
イントラバーバル(intraverbal)
なるほど、そういうタームがあるのですね。
>49
どうもでつ。
面白いのに、自分の読解力に自信がなかったので聞いてしまいますた。
一対一の対応の法則とは、何かのモデルなのでしょうか?
>51
それは、他の行動を条件づけるという事になるのでしょうか・・?
漸化関数(言語能力の漸次的発達)に必要な刺激とはなんなのでせうかね・・。
雪が多い地域では、雪の少ない地域と比較して、雪にも色々な名前がありますが・・
と書いてみて文法や認知した事象のカテゴライズとは関係なさそうな罠(汗
>>51 えー、名詞や動詞がすべての言語にあるのはなぜか?という
話ですが、子供が最初に認知できる事象とは何かを調べると、
二つの事象に分類できるそうです。一つは、「物が目の前を移動する」
という事象、もう一つは、「行為者がある物を叩いたり、壊したり
する」という事象だそうです。この二つに出てくる要素として、
「移動」と「叩く・壊す」は動きを表すものとして、一つの範疇にまとめられ、
「移動している物」や「行為者」や「叩かれたり、壊された物」は
物を表すものとして、一つの範疇にまとめられる、という話があります。
この後の段階で、「美しい」というような意味が出てきて、それが
「今までと違う」となると、新たな範疇を建てるし、「今までと同じ」と
なると「名詞」か「動詞」に入れてしまう、わけですね。
↑ありゃりゃ、没個性化されている、、、by かつぶし
規制解除で忙中暇ありなのにゃ
上で引用した「言語の獲得と喪失」では、名詞と動詞の区別がない言語もあるという話しだけどにゃ。
生成文法では語彙範疇は原始概念ではなく、素性の束として理解されてるから、そういう言語があっても
全然困らないのにゃ。
>>50 >動的文法理論の見通しとしては、統語範疇(品詞)さえも、初期状態に記述しておく必要は無い、
>というものです。
DTでなくても同じにゃ。
>チョムスキー的には、世界中の言語でで必要な品詞のすべてが、何らかの形で、(例えば、素性の束と
>して、)遺伝しているということになるでしょう。
素性を組み合わせる能力が普遍であって、どんな素性を組み合わせてどんな語彙範疇を形成するのかは
すでに個別文法の領域だにゃ。
>>56 >子供が最初に認知できる事象とは何かを調べると、
言語による(いわば)再認知と認知一般とでは様式が異なる、ということであって、こういう単純な
認知主義ではうまくいかない、ということになると思うにゃ。
また出かけるにゃ。
>言語による(いわば)再認知と認知一般とでは様式が異なる、ということであって、こういう単純な
認知主義ではうまくいかない、ということになると思うにゃ。
???ちょっと良く分らないですが。
名詞と動詞の区別がない言語もあるという話しだけどにゃ。
生成文法では語彙範疇は原始概念ではなく、素性の束として理解されてるから、そういう言語があっても
全然困らないのにゃ。
----------
なるほど、では、修正。大部分の言語には、名詞と動詞の区別がある、ですね
それで、DTでは、名詞・動詞の区別が最も出て来やすいことを予測できそう、
ぐらいはいえるでしょう。
「全然困らない」かどうかは実は一番知りたいことですピョン。
素性を組み合わせる能力が普遍であって、どんな素性を組み合わせてどんな
語彙範疇を形成するのかはすでに個別文法の領域だにゃ。
―――――――
さて、これです。まず、語彙範疇に話を限っていますが、接続詞や前・後置詞
なども言語によって、大きくその性質を異にしていますが、それはどうやって
とらえるのでしょう?例えば、日本語の等位接続詞「と」は、名詞句同士は
結び付けられますが、動詞句・形容詞句・文は結び付けられませんね。
「*彼は毎朝走ったと泳いだ」「*彼女は美しいとおとなしい」
「*彼は毎朝走ったと彼女は毎朝泳いだ」
語彙範疇に限ってみても、例えば、形容詞の無い言語がありますね。
このような言語では、名詞と動詞は確実に存在すると思われます。
しかし、名詞と動詞の区別は無いが、形容詞は区別する言語は、
存在するでしょうか?たぶんありえないでしょう。副詞は存在するが
名詞は存在しない言語などもないでしょう。このような
implicational universalはどのようにとらえるのでしょうか?
>>56 それはスキーマの話と似ている気がしますた。
>「向かいのジョンは多少違うようだけど、結構ミケたちとも似てなくも無いので、
>「猫」としておこう」となる場合
は、同化(外界の新しい出来事を内部のスキーマに取り入れる働き)で
>「でも、向かいのジョンは似てはいるけど、ワンと吠えるので、
>この際、別の範疇を新たに作って、そこに属させよう。そうだなあ、
>「犬」と名づけてておこう。」となる
場合は、調節(新しい情報を上手く取り込めるようにスキーマを変更させる働き)。
「猫」と「犬」というのは両方とも名詞的なものをカテゴライズした例で、
このような語彙範疇のカテゴライズのプロセスと、
動詞と名詞等(統語範疇?)のカテゴライズのプロセスは、
同じアルゴリズムによるものであるようだ……
というのが動的文法理論の見通しなのでつね。
一方
>>58で顔文字先生の仰るのは、
語彙範疇と統語範疇は初期値として与えられている訳ではないのは
動的文法理論と同様であるが、
一度カテゴライズされた範疇を組み合わせる能力が普遍であり、
これは一般の認知能力とは異なる…というお話なのですね?
要するに、動的文法理論もチョム理論も、
統語範疇、語彙範疇は所与ではないという点では一致しているが、
カテゴライズのプロセスには、一般的認知能力のアルゴリズムとの関連性を
考慮するのが動的文法理論で、
チョム理論では、カテゴライズの「プロセス」には興味がないという話
なのでしょうか。。
>>59 統語構造的制約についてはこれまで何度も述べてきたようなことにゃ。意味的・認識論的にはどこも
問題ないのに、それをある言語表現に対応させることが構造制約的に許されないという点ですにゃ。
今は語彙の話しなので古典的な例を出すと、ある言語に色彩用語が「白」と「黒」しかないからと
いってその言語の話者は色盲なのかというと全然そんなことはないし、数詞に1と2の区別しかない
からといって3と4の違いが分からないなんてこともない、単純な言語相対論・言語決定論は成立しない、
ということがあるにゃ。同様にある言語に名詞・動詞の区別がないからといって、その言語の話者は
事態認知においてその事態の参与者(名詞相当)とそれらの間の関係(動詞相当)という分節をして
いないということにはならないのではないかにゃ。
>>61 >接続詞や前・後置詞なども言語によって、大きくその性質を異にして
そこにあがっている例だけだと単に個別的なselectionの問題か、あるいは形態解釈の次元の
問題(走ッタ+ト→走って)というようにも思えるにゃが、他にはどんなのがあるかにゃ。
日本語内でも「食べる前に飲んだ・*食べた前に飲んだ」「*食べる後に飲んだ・食べた後に飲んだ」
みたいな個別の差があるけどにゃ。英語だとどっちも PAST before/after PASTにゃが、こういうのにも
DTは関わってるにゃ?
>このようなimplicational universal
より派生的な構造に先行してより基底的構造ができていなければならない、ということだと
思うにゃが、何が問題でそれがDTだとどう都合がいいのか、ちょっと解説たのむにゃ。
わたしにとっては、若干トリビアルな展開にゃ…
(初歩的な言語相対論のハナシをしているとき、ほんとうに意識が消えそうになるにゃ。)
で、>事態の参与者(名詞相当)とそれらの間の関係(動詞相当)
ってのは、(ひとつのストーリーとして)UGによってこれまで言語学的には未分化だった認知内容に「構造」がもたらされ、
ヒト言語と、(感覚所与とアナロジカルな指示関係をもつシンボル操作しか持たない)「動物言語」との間に絶対的断絶が生じた、という立場、
要するに、
>概念構造を組み上げる能力と文や語を組み上げる
>能力は同じものであり(syntax)、人間言語はsyntaxの出現によって一気に成立した、
>というシナリオを描いてるんでにゃ
という立場からすれば、
【1】もし、名詞相当/動詞相当という区別が結局UGに起源するのであれば、
ぶっちゃけなんでシンタクスに反映されないの?次の言い方ならなんとなくわかるがにゃ。
「ある言語に、<伝統的文法の範疇として>名詞・動詞の区別がないからといって、その言語の話者は
<言語知識>において<ある可能な>事態の参与者(名詞相当の素性)とそれらの間の関係(動詞相当の素性)という分節をして
いないということにはならない」
【2】もしその区別が、じつはUGに起源していないならば、UGを仮定しなくとも基本的なシンタクスの起源は説明できる
のではないかにゃ。
ところで、引用の内容からすれば「シンタクス中心主義」は明らかにゃ。なんで否定したのにゃ。
わたしのレスのほうが、トリビアルというひと、わたしもそんな気がしてきた。5分で書いたやつだから、気にしんといてちょ、にゃ。
ブロードバンドルータをかませたら、2ちゃんにだけつながらなくなってしまいました。
なんで????・・・・・・・今、フレッツ接続ツールの接続に戻してみてます。
自分の右手は、自分の右上腕をつかむことはできません。(他人の右腕はもちろん可能)
左手で手の甲側から右手首をつかんだ状態で、右手は左手首をつかむことができません。
でも、手の平側からつかめば可能です。
こういうのは両腕の物理的形状からくる「制約」ですが、これって、「生得的制約」と呼んで
よいもののひとつなのだろうか???
UG実在の根拠として「××できそうであるにもかかわらず、実際はしない(できない)ことわかっている」
ってのがよく引き合いにだされますが、UGが抑制しているとされる不可能な論理構造が、
そもそもヒトの世界認識の限界性に由来している場合は、わざわざUGの生得的制約を
仮定する必要はないわけですよね。
>>64を読んでいてふと頭に浮かんだことです。(ただの古い話の蒸し返しかも。)
二つの根本的に異なる理論を対比させるのは難しいですね。まあ、
あせらず進むということで、考えてみましょう。例えば、英語の
as well asという接続詞・前置詞がありますが、手元に資料が無いので、
うろ覚えですが、これは、andなどよりは限定された機能を果たします。
例えば、as well asはandのようにいろいろな統語範疇を接続できますが
以下のようなテンスを含む句範疇は接続できない。
1) *John [published his books] as well as [printed them].
cf. John [printed his books] and [published them].
2)*[John published his books] as well as [his wife printed them].
cf. [John's wife printed his books] and [he published them].
3)*John [must join them] as well as [can leave now].
cf. John [can leave now] and [must join them].
しかし、テンスを含まなければ、OKです。
4)John will [publish his books] as well as [print them].
5)John [published his own books] as well as [printing them].
ところが、1)にRight Node Raisingをかけてやると良くなったりする。
6)John [published] as well as [printed] his own books.
さらに不思議なことに、5)にRight Node Raisingをかけると、非文になる。
7)*John [published] as well as [printing] his own books.
というのも、似た意味の前置詞in addition toではOKなので。
8)John [published] in addition to [printing] his own books.
さらに、5)は前置できるが、1)や4)は前置できない。
9)As well as [printing them], John [published his books].
10)*As well as [printed them], John [published his books].
11)*As well as [print them], John will [publish his books].
Vingが後に続くときは、前置詞だとすると、9)-11)は説明できそうだが、
なぜ7)が駄目かが謎となる。接続詞のときはテンス的なものは入らない
と何とか言おうとすると、なぜ6)なんかが良くなるのか不思議となる。
このような事実群は、DTでも完全には解明されてはいないわけですが、
言語習得の初期には、名詞動詞をつなぐことができて、それ以降、つなげる
範疇の種類を拡大していくのだが、名詞と対極の位置にある文をつなぐところ
までは拡張が進んでいない、とかいえるわけです。
あっ、まちがい。誤:「名詞動詞」===>正:「名詞同士」
それで、speculationの続きですが、範疇間には互いの類似度のような
尺度が合って、(例えば、RossのNouninessのようものでしょうか)
最も似てないのが、0-bar levelの名詞とテンスを含んだ動詞の最大投射
である文であるとしましょう。これは、名詞とテンス付き動詞が対極にあり、
また、X-bar的には語彙範疇と最大投射が対極にあるということから
出てくるとしておきます。一方、as well asは、以下のようなas wellを
含んだ文から、比較構文をモデルとして、習得されるとします。
1)A: I think you have a toy pistol.
B: Yes, I have a toy sword as well.
Bは「おもちゃのピストルに加えて」という意味をまだ顕在化させてはいないが
文脈上その意味を前提として発話しているわけですね。
そうすると、子供は、最初は、以下のような名詞同士をつなげる
as well asを習得することになります。
2)I have a toy sword as well as a toy pistol.
ここから、徐々にas well asが等位接続詞、前置詞としての性質を
獲得していくとします。ここが出発点だとすると、最も
遠いのが、「テンスを含んだ文」ということになります。したがって、
そこまで到達できないまま、大人になり、現在にいたる、という
説明が可能になるのではないか、という見通しがあるようです。
一方、名詞とテンスを含んだ文が最も遠いのは、たぶん、最初に
出てくるコントラストが名詞と動詞だから、ということで
説明できるのかもしれません。
あくまで、これは、見通しですから間違っているかもしれませんが。
さらに、speculationを加えるなら、世界中の言語で、「名詞」と
「文」は接続できるが、「前置詞句」は接続できないような
接続詞は無い、ということを、上のような説明がうまくいけば、できる
ことになるでしょう。対極同士は等位接続できるが、その中間はできない
ということはありえないからです。名詞も文も接続できるならそれ以外も
できるということですね。英語のandは確かにそうなっているようです。
>>64 そのあたりはタマゴが先かニワトリが先か、あるいはDNAが先かタンパク質が先か、みたいなことに
なるわけにゃが、俺の見通しとしては個別発生レベルではタマゴ(UG)→ニワトリ(個別言語)にゃが、
系統発生レベルではニワトリ→タマゴなのにゃ。つまりUGは一種の収斂進化であって、いきなりUGが
あちこちのヒトの脳内に生じた(チョムのいってることはこういうことだと受け取られるにゃがホントは
どうなのか、疑問にゃ)というより最初はバラバラに発生した原言語的なものが同じ物理的制約や社会
環境の中で次第に同型のものになったというのが真相ではないかにゃ。もちろんUG仮説は言語単一起源説を
積極的に支持するものでもないしにゃ。
>>65 >UGが抑制しているとされる不可能な論理構造が、そもそもヒトの世界認識の限界性に由来している場合
例えばどんなのか、と訊きたくなるわけですにゃ。
これまで何度も見てきたように、意味的にはどこもおかしくない(世界認識の限界とは思えない)のに
それをある言語構造に対応させることはできない(別の構造ならできる)、というようなケースが特に
興味深いわけにゃ。同じ例の繰り返しでは進展がないので、なにか新しい例を出してほしいですにゃ。
>>70 >そこまで到達できないまま、大人になり、現在にいたる、という説明が可能になるのではないか
ちょっとこんがらがってきたにゃが、個別文法において許されないことがあるとすると(それが中核
文法の範囲として)それはそこまでの拡張ができないからだ、ということでいいのかにゃ。すると
なぜその拡張ができないか、が答えるべき問題であり、自然な推論によってあってもよさそうなことが
言語では起こらない、という反学習理論の議論と同質の議論となってUGレベルでそういう制約が課せられて
いるから、ということになるかにゃ。
>名詞とテンスを含んだ文が最も遠い
in N / in CP 両方可能にゃが in APはダメ(たぶん)とかとは矛盾しないかにゃ?
>>73 大雑把な見通しを勝手に推測して述べましたが、まだまだ
わからないことがありますよね。ご指摘の通り、なぜ拡張が
そこでとまるのか?というのは、範疇に限らず、すべての
構文で疑問になることですね。これは、UGのせいにはしたくない
はずで、たぶん、他の構文との関係、例えば、blockingなど、
を考えたり、意味の面から制約するのかもしれません。
in N や in CPの扱いはCPがcomplementizerその他で、文を名詞化
していることを考慮に入れて、Nからの拡張と見る可能性があります。
オイラ的には、このような説明の可能性は十分あるとは思いますが、
とにかく、もう少し、事実と理論がはっきりしないと、あきまへんなあ。
>>72 >同じ物理的制約や社会環境
具体的にどのようなものが想定されているのでしょうか?
特にコレというものは想定せずに書いたのにゃが、大きく見れば例えば同じ地球上の重力場に置かれて
いたことも、ヒトの脳の進化・大型化に一様性・均一性をもたらしたと思われるにゃ。直立二足歩行の
せいで脳にかかる重力の方向が急激に変わったのもヒトの進化の一因では、とはニーチェも言ってた
らしいですにゃ(今西錦司の本にあったと思うにゃ)
(^^)
78 :
没個性化されたレス↓:03/03/19 21:47
保守
>PROXY規制中!!(80)
>80番ポートが空いてます。PROXYとみなされる場合があります。
というのを回避する方法を教えて欲しいにゃん!
わたしは、書き込み終了画面がでるにもかかわらず、書き込めてない状況にゃ。
cookie設定は、「すべて許可する」でいいんじゃないのかにゃ。問題あるかにゃ???
国語の先生おながいしますにゃ。
PC初心者板みたい。
ちなみに、この書き込みはうちのマシンではないにゃ。
なんか記念に書いておくかにゃ。
だれか、個別言語でヒブンを排除するメカと、
人類言語史上けっしてあらわれない<超ヒブン>を排除するメカが同じかどうか気になったひといないかにゃ。
使いにくーーーー。にゃ。にゃ。にゃ。
国語のせんせ、すまんにゃが、試してみたかどうかの前に、試し方が分からんにゃ(;つД`)
MACユーザだとたとえば何をどうすればいいのか、教えてちょ(ぺこり
少なくともブラウザ(IE5.1)の設定では串を使わないようにしてあるんだけどにゃ。
久々にのぞいてみたら
(春休みの方が忙しいってどういうこと??????)
あれ、このスレはもう放置状態なのかな?
>>82虚無好き先生
>人類言語史上けっしてあらわれない<超ヒブン>
用例を想像しようとして断念しました……個別言語で記述された意味構造と情報工学的な
レベルにおける意味構造との間に、中間言語的意味構造記述文法を仮定しないと
存在しないものと理解していいですか?<チョーヒブン
>(´∀`)先生
先生はマカーでしたか。じゃあfaq#5に例が載ってませんでしたね。
一番手っ取り早いのはファイヤーウォールソフトをインストールするか
ルーターを間にかませるかして、ポートスキャンを拒否、なんですが。
こんなスレ見つけました。
http://qb.2ch.net/test/read.cgi/accuse/1044562603/ けっこう困ってる人がいるみたいですね。
>あれ、このスレはもう放置状態なのかな?
いいえ、ロムっています。
難しいので書き込みできないだけで。
マターリ続けて頂ければ幸いです。
遅レスの上に、なにやら大変な時期のようで恐縮ですが。
>>72 収斂進化を扱うのはネオ・ダーウィニズムや学習理論で、
生成文法派の関心は物理的制約のほうにある、という認識でよろしいですか?
社会的制約に関しては、言語共同体内に設定された行動随伴性と捉えることで
学習理論からのアプローチも可能であると思われます。
ねたぎれでしゅ。なんかしこんだら、またかきこみましゅ。
よろしくです。
探検隊氏はいないのかな?
生成文法わかりにくいので出来れば、とっかかりを教えて欲すぃのですが・・・。
初心者でも分かりやすいテキストなど教えて頂ければ有難いです。
一向に改善されませんにゃ……串規制
マンションの管理側やNTTにも問い合わせてるんだけどにゃ
具体的にどの掲示板かと訊かれて慌てたにゃw
ルータかましても効果なしですた>国語のせんせ
>>86 >生成文法派の関心は物理的制約
今後の展開としては、という感じかにゃ
>行動随伴性
解説たのむにゃ
例えば生成スレで今出てるhead parameterとかも、見方によっては
その共同体の成員全員が「右へならえ」式で均一な行動をとっている
ことになるけどにゃ
>>88 とりあえず
福井直樹「自然科学としての言語学」(大修館書店)
萩原裕子「脳にいどむ言語学」(岩波科学ライブラリー)
あたりを薦めておくにゃ(推薦理由……タダでもらったw)
>>89 >head parameter
生成スレを検索してみましたが、門外漢にはわかりませんでした。
よろしければどなたか解説をお願いします。
行動随伴性というのは、例えば
「父親が機嫌よくしている→宿題を尋ねる→答えてくれる」
「父親が機嫌を損ねている→宿題を尋ねる→怒鳴られる」
(手掛かり→行動→何らかの結果)というように、
ある個体が一定の条件下で、ある行動をした場合に環境からもたらされる結果
(あるいは環境の変化)を記述したものです。
>>72でおっしゃる「社会的制約」
というのがこの定義に当てはまるのかどうかはわかりませんが。
なんで系統発生に関しては、学習理論の適用が示唆されるんにゃ。
最近(´∀`)のセンセのいってることは、完全なる電波としかいいようがないにゃ。
仮説であるUGの普遍性が、なぜもういちど説明されなきゃなんないのにゃ。
妄想に妄想を重ねるから、そういうことになるのにゃ。
重力文法じゃなくて、電磁波文法にでもしたらどうかにゃ。
わたしは、「説明力」に関して、学習能力のないバカといわれてるんで、このさい言わせてもらうが、
説明可能性だけが正当性の根拠であるような理論は、
アリストテレスをチョムにおきかえただけの、中世の暗愚な自然哲学と同じにゃ。
これ以上言語学を混乱させないでほしいにゃ。
よく分からんが大変だな。
>89
本のご紹介有難うございます。
探してみます!
>>82 諸先生方の争点がいまいちつかめていないのですが、
>だれか、個別言語でヒブンを排除するメカと、
>人類言語史上けっしてあらわれない<超ヒブン>を排除するメカが同じかどうか気になったひといないかにゃ。
というお話はなにやら面白そうなのです。。
どういう御話になるんでしょうか。
>>90 head parameterは、たとえば動詞Vとその補語(目的語)Oがくっついて動詞句VPを形成した場合、
ありえる語順はVOかOVの二つに一つしかなく、VPの主要部(head)であるVが先にでるVO語順を
head-firstとかhead-initialとか呼び、逆をhead-lastとかhead-finalとか呼んでいるわけにゃが、
これはVとかNとかいう特定の範疇について述べられるのではなく、各個別文法ではすべての範疇に
ついて同じ値が取られる(移動がからむ場合は別なので、原則「基本語順」についての話し)という
観察をUGのパラメタとして組み込んだものですにゃ。幼児が自分の母語の語順を「学ぶ」上では、
なにか一つだけhead parameterの値が分かるデータを与えられれば、それですべての語順が自動的に
決定される、というわけなのにゃ。例えば日本語と英語が鏡像関係にある、という観察はこの
head parameterが逆になってる、ということの反映ですにゃ。
で、なぜ各個別文法はそれぞれこの二つのうちいずれか一つでなければならないか、両方許したり、
範疇ごとに違う値をとったりすることがない(いちおーにゃ)のはなぜか、のほうがより面白い
問題かも知れんにゃ。対称性の破れ、キラリティ、パリティの非保存等とのアナロジーが示唆される
部分ですにゃー。(電磁波文法w)
>>91 意味不明ですにゃ。個別文法の普遍性と多様性、またその獲得の論理的問題を説明する上では
「はじめにUGありき」でよかったのにゃが、ではなぜどのようにしてUGはそういう設計になったのか、
というその先の問題にも興味があるからなのにゃ。毎度言ってるにゃが、ある段階で説明装置で
あったものは次の段階では被説明項に降格するのにゃ。
>>93 適応主義・行動主義・機能主義は仲良しこよしにゃから、93氏の見方はよく分かるのにゃが、
学習するといってもその前提となる能力はどこから来たのか、を生成は問題にしてるのにゃ。
最近某所で紹介した一文を引用するにゃ。
When we think we are learning something, we are only discovering what already has been built in to our brains. (Gazzaniga, M. S. 1992. Natureユs Mind.)
NTTからもつれない返事が来たにゃ。いよいよマカー用を購入しなければならないようにゃが、誰か、
マカー用を使えば串規制が解けたという実体験を持ってる人はいるのにゃ?
どうも不安が残るのにゃ……(´・ω・‘)
虚無好き氏の立場が良くわからないのだけど、何なの?認知言語学ってやつ?
虚無好き先生の立場は(少なくともこのスレあるいは言語板の生成スレにおいては)
「批評」の人だと思う。この場合、私がイメージしている批評家は、小林秀雄。
>>(´∀`)先生
マンションだと、NTTではなくマンションのネットワーク管理者の側の問題でしょうね。
マンション全体がでっかいルーターで、各家庭のPCはそれにぶらさがったクライアントの
ような仕組みになっているわけです。で、大もとのネット鯖がポートスキャンを許してしまって
いるというようなストーリーかな。
古いマンションだと管理が糞で、別の部屋(他家)のPCの中を覗けたり(つまり逆もアリ)
するシステムだったりした所もあったとか。串規制対策とは別の意味でも、
火壁またはルーターを挟んでおくと安心です。
それはともかく。
>When we think we are learning something, we are only discovering what already has been built in to our brains.
夏目漱石『夢十夜』の一話、運慶が仏像を木から彫るのを「木に埋まっているのを
掘り出すだけだ」と表現した話を思い出しました。
この一文って、ホントに逐語的に理解するべきなんですか……
>逐語的に理解するべきなんですか
なのにゃ。
ちょっと前を補うと……
It is not so clear that the delayed responses, such as learning a language, problem
solving, or creating mental images also arise from genetically constructed
prewired neural circuits that have been built in by natural selection over millions
of years. Yet, there is a growing body of evidence that these higher order
processes are also built in. They are referred to as domain specific Darwinian
algorithms -- which is a fancy way of saying evolutionary presssure has couched
up specialized circuits in the brain that carry out specific mental functions.
When ...
となってるのにゃ。
おおかたの生物学者がそうにゃが、領域固有の生得的言語能力という見方には
賛同しながらも、その進化について自然選択による説明を却下するチョムには
疑問を抱く、というスタンスかにゃ、この人も。
ところで昨日の産経新聞にゃが、京大霊長研の正高氏が耳の聞こえない赤ちゃんが誰に
教わることもなく自発的に行う手振りには、手話の体系と重複する特徴が見られ、
人間には手話を作る能力が本能的に備わっている、というようなことを書いているにゃ。
この人は以前は確か生得説に反対の立場だったように思うにゃが、あっさり宗旨変え
かにゃw
この際だから断言しておくにゃが「言語能力は生得的か」という問いかけに
対する答えは明々白々、YESにゃ。ただし、この場合の言語能力とは
何を指し、生得的とはどういう意味か、をそれぞれが勝手に解釈している
ので意味のない論争が続いているのにゃ。
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
趣味のサイト構築の途中で
文字化けの問題にあたり
文字コードについて勉強しているのですが
文字コードにまつわる心理学、言語学の面白い話ありませんか。
つまり僕は
googleで調べないと
意味がわからなかったという事でした。
スマソ。
Q2:SARUの言語能力は生得的か
Q3:ヒトの言語能力は生得的か
【レスのテンプレ】
Q:1
A:
-----------------------------------------------
Q:2
A:
-----------------------------------------------
Q:3
A:
つか俺の言語能力は生得的だったのだろうか?
111 :
没個性化されたレス↓:03/05/03 21:51
113 :
動画直リン:03/05/03 22:22
>>114 リンクどうもです。
言語学板でも、虚無好き先生最近いらっしゃらないんですか。
心理学板の人間から見ると、虚無好き先生って顔文字先生の
一番の理解者のような気すらしてしまうんですが。
だって、難しくって全然分からないのに、虚無好き先生理解されてる
みたいなんですものっ(笑)。
保守能力は生得的か。 ←コレハベツニドウデモイイデス
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
定期巡回にゃん
実際には、わたしの主張を理解している人物は皆無というのが現実にゃー。
まずは、生成文法の主張そのものにかみついているのではないということに注意されたしにゃ。
それから、「自然科学ではない」という主張は、「虚偽である」とか「疑似科学である」という主張と直接には関係せず、
自然科学が「説明」の一様式であるという見地からなされていることにも注意されたしにゃ。
(また「言語」が自然物であるかどうかという対象固有の性格から導き出せるものでもないにゃ。)
たとえば、幾何学が現実世界の構造記述に直接かかわるという見地から、18世紀には巨大な3角点において、
内角の和が実測されたこともあったが、これはじつに自然科学的な発想といえるにゃ。
わたしの考えでは、数学が自然科学ではないといったところで、その厳密性や一義性を攻撃するものではない、
とりあえずこの天にも注意にゃ。
さて、生成文法が数学に比較されるほど形式化・構造化され、すぐれたいみで人類の知的遺産となっているかというと、
わたしはちがうと思うにゃ。そゆことで。
トリアエズ、オカエリ
∧_∧
( ´∀`)<オチャドウゾ
( つ旦O
と_)_)
>生成文法の主張そのものにかみついているのではない
腰がひけとりゃせんかにゃw
「言語能力は生得的か」というのは、生成の主張を疑問視するもの以外の何物でもないにゃ
(それはそれでいいのにゃ)
>「自然科学ではない」という主張
自然科学の方法論を採用している、という点についてはどうにゃ。てか、自然科学とはどういうものだと
考えているのか、をまず知りたいんだけどにゃ。
>生成文法が ... 人類の知的遺産となっているかというと、わたしはちがうと思うにゃ
そのことが生成の意義を減じるわけでもないにゃ。知的遺産とゆーか、ぶっちゃけ実用的に役立つ知識と
して世間一般から求められてはいない、ということにゃが、そういったことで学問の価値を測ろうという
のでは、アフォな門下省とどっこいどっこいですにゃー。
基礎科学を軽視する風潮を批判してもしゃーないのにゃが、人間が言語を持つという自明すぎる事実を
説明しようというのにゃから、考えてみれば生成ほど根源的な基礎科学もないかもにゃ。
>>122 しょーがないにゃー。こういうふうにして、議論にひきもどされていくのかにゃ。
近頃いないから忘れられてもいかたがないけど、たぶんこのスレで、「生得説」よりの発言をなんどもしてるのにゃ。
かみついているのは、「法的手続き」
被疑者Aが有罪だと認定されるまでの手続きがおかしいっていってるわけで、
有罪であることはおおいにありうるというのがわたしの見解。
最近では、以前はおよそ認めていた言語の形式意味の層の存在も疑問視しているので、
腰砕けどころか、ますますアンチ色は強くなってるのにゃ。
>そういったことで学問の価値を測ろうというのでは、アフォな門下省とどっこいどっこいですにゃー。
なんで「すぐれたいみの知的遺産」が、実用的知識にすりかえられてんのにゃ。
だいたいここの文脈では、数学のよりいっそうの抽象化を評価しているところなので、
そういうふうに読んでほしいにゃ。
実測が必要だったころの幾何学より、現代数学のほうが洗練されているというのがわたしの見解だから、
(ってゆーか常識だから)頓珍漢なレスしないでほしいにゃ。
さて、近況はよく知らないけど、わたしは(´∀`)のセンセをヌケサクといってはばからないほとんど唯一のキャラ。
今回もヌケサクぶりがいかんなく発揮されており、この先思いやられますにゃあ。
>自然科学の方法論を採用している、という点についてはどうにゃ
まあ、2ちゃんは読み物だし、読んでおもしろいことを書け、ってどっかで見たにゃ。
答えはNO。チョムスキーはぶっちゃけ言語学は言語学的証拠の提出のみで十分とみているが、
苦しい弁明ですにゃ。(いっぽう数学は数学的証拠で十分。数学とのからみが言語学の存在意義の分岐点になるにゃー。)
>以前はおよそ認めていた言語の形式意味の層の存在も疑問視しているので
解説ギボンヌ
>チョムスキーはぶっちゃけ言語学は言語学的証拠の提出のみで十分とみているが
ほー、それも初耳ですにゃ。学問の自律性と閉鎖性を取り違えたトホホな生成批判はそれこそ
掃いて捨てるほどあるにゃが、チョムの関心は最初からunification problemだったはずにゃが?
>数学とのからみが言語学の存在意義の分岐点になるにゃー
まあ、生成内にも数学フェチな人もいるにゃが、モデル化の一つの形を提供する以上の意味が
あるとは思えないにゃ
意味論スレでこさかなしゃんが音楽理論を語ってるのにゃ。まともなレスできるのは虚無しゃん
ぐらいだろうから、ひとつ頼むにゃ。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/gengo/995816650/530-535
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
どっから手をつけたものかにゃー。
>チョムの関心は最初からunification problemだったはずにゃが?
プロブレマティークの領域の問題と、検証可能性の問題はちがうのにゃ。
わたしがひいたチョムスキーの論旨は、
言語学における「自然科学的」主張が、確実性において(さらに)物理的証拠を必要とするかに関しているのにゃ。
そもそも、自分たちが言語学者として何を行い、何を行っていないかをかんがえてみるのにゃ。
いちいち論文に、文の容認性を「証拠づける」fMRIの記録やら他の物理心理学的データを添付してんのかにゃ。
ちょっと大雑把だけど、このような現状が許容されているのは、ぶっちゃけ内観を含む言語学的証拠が「強い」ものだとチョムスキーがふんでいるからにゃ。
>モデル化の一つの形を提供する以上の意味があるとは思えないにゃ
まずはチョム理論は、
みずからをハードコアな自然科学である物理学や熱力学と同等の地位に位置づけるものであること、
さらに理論言語学の意味論の数理的性格を考えると、数学の役割をこれほど限定的に考えることは驚くべき誤りにゃ。
むしろそれぞれのモデルを可能にしているのが数学というべきではないのかにゃ。自然科学としては。
音楽理論は、法則なのか規範なのかについては言語学ほど慎重な議論はなされておらず、(その必要もないけど)
あるいみ言語学より洗練されてはいないのだが、内的な数理関係のみで記述されうるというのは重要なことであると思うにゃ。
ある音階の「意味」は、まさにその音階の(数理的)構成方法であるともいえるにゃ。
それは、その音階がもたらす「心的意味」(それは短調は悲しいといった印象にとどまらず、
楽音としての容認性判断にまでかかわると考えられるにゃ)とは独立して、純粋形式的に記述可能なのにゃ。
ここのあたりが自然言語の「形式意味の層」にかかわるんだけど、今日はここまで。
とりあえず、意味論スレの礼だけ先に言っとくにゃ(ぺこり
以前ここでちょっと話題になったRFTの書評でこんなのを見つけた。
合理主義の生成派も、少なくとも方法論としては経験主義的・行動主義的な
手法を取り入れる準備があるということなのだろうか。
It seems ironic that over 40 years after his disparaging review of
Verbal Behavior, Chomsky has finally come around to recognizing that
the understanding of human language can be enhanced by the study of
its rudiments in nonhumans (Hauser, Chomsky, & Fitch, 2002). It would
be a greater irony if behavior analysis, the science that pioneered this
type of bottom-up approach to language, left the field to the cognitivists.
It may require new research strategies on the part of animal researchers,
but it seems possible that nonhuman subjects may ultimately provide an
important testing ground to examine the development of relational frames.
皮肉どころか、生成文法と行動分析が手を取り合えると明らかになればそれは素晴らしいことだ。
>>126 ちょうど言語運用がlanguage facultyの使われ方であるのと同様、数学は数機構 number faculty の
一使用例ではないのかにゃ。モジュラリティが正しいとすると、一つの心的器官の特性を別の
心的器官の言葉で表現することがより深い説明になるとは言えないと思うにゃ。
自然科学は物理学を範とすべしと虚無しゃんは思ってるようにゃが、言語学が自然科学であるというのは
言語学を(既存の)物理学に還元することを意味してはいないのにゃ。
unificationであってreductionではない、と協調される所以にゃ。
>その音階がもたらす「心的意味」(それは短調は悲しいといった印象にとどまらず、
>楽音としての容認性判断にまでかかわると考えられるにゃ)
「意味」ということばを都合よく拡大解釈してはいけないのにゃ。「楽音としての容認性判断」は
構造の問題ですにゃ。こんなのは〜音楽ではない!という感覚と、こんなのは〜語ではない!という
直観には通底するものがあると思うにゃが、〜語文法が通時的変化を被ってきたように、〜音楽という
ジャンルも一定不変のものではなく、暫定的なクラス分けに過ぎないはずにゃ。
各個別音楽、個別音階を超えて普遍的音楽文法というべき生得的認知基盤があるのかどうか、といった
あたりの話しと比較されるべきだろうにゃ、生成は。
続きキボンヌ、にゃ。
performanceってのは、偶発的な<失敗>を含むような現実世界での能力の実現であるから、
数学の知識がここに属するというのは完全な混乱にゃ。
数学の歴史において、負数の解釈とか、現在からみると「誤り」とみえるものはたしかにあるけど、
それはたとえば「失敗した計算」のようなものとは異なるレベルにゃ。
もし徹底して、数学を<算術的行為>としてとらえれば、
それはそれで行動主義的見解になるとは思うけど、だったら言語も同様にみなすべきではないかにゃ。
この点において、ウィトゲンシュタインはcoherentであったと思う。(支持するということではないにゃ)
数的指標のない推論とはたとえばつぎのようなもの。
「星はわれわれの予想よりはるかに遠くにあるが、もし光が波動であったなら、
その波動はわれわれに到達するまでに弱くなりすぎて、目に見えることはありえない。
したがって光は、最小限の大きさをもったエネルギーのパック(量子)でなければならない」
この推論はごく部分的には「正しい」かもしれないが、自然科学はこのようなばくぜんとした推論ではなりたってないのにゃ。
「遠い」って、どの地点からそういうのか?「目に見える」限界的条件ってなに?
「波動」である可能性がなければ「量子」(みたいなもの)でなければならないの?そのへんがすべてナゾ。
いうまでもなく「刺激欠如のギロン」はこのたぐいであり、ある理論の端緒となることはあっても原理的根拠にはなりえない。
このことは、言語学の物理学へ「還元」せよという主張とは直接関係がないにゃ。
むしろ、こっちが腰を抜かすような「物理還元的言語観」を提示してたのは(´∀`)のセンセのほうなのにゃ。
忘れてんのかにゃ。とりあえずここまで。
ぶみゃぶみゃ
どうもうまく伝わってないにゃがlanguage faculty自体を対象とする研究と、そのLFを使って何かを為すこと
が別物であるのと同様、number faculty自体を対象とする研究とNFを使って何かを為すことも別物にゃ。
そして理論言語学が「LF自体を対象とする研究」であるのに対して、数学は「NF自体を対象とする研究」
ではない、ということなのにゃ。
還元についていえば、既知の物理法則にしろ言語法則にしろ常に反証可能であり正しいという証明は
不可能にゃから、前者に後者を単純に取り込むというわけにはいかないというのは自明にゃ。
もちろん帰無仮説的に、単純に還元できればそれに越したことはないということも言えるにゃが、
そうならなくても結構毛だらけなのにゃ。むしろ言語学が自然科学の進展になんらかの貢献をしようと
いうのであれば、単純な還元が成立せず、従来の自然科学に拡大や修正を促すようなきっかけを
言語現象の中から拾い出すことが重要ですにゃ。複雑系の一部が生成を悪い意味で還元論的だと取った
のは的ハズレなのにゃ。
>「刺激欠如のギロン」は...ある理論の端緒となることはあっても原理的根拠にはなりえない
UGの存在を疑うきっかけとして十分ということにゃら結構にゃ
133 :
没個性化されたレス↓:03/08/22 04:45
を。
このスレ,命脈を保っていたんだ。
コピペや広告や空あげでなく,
ホンの少しずつだが中身のあるレスで伸びているのが嬉しい。
もとはといえば、言語学の「数学化」が
>一つの心的器官の特性を別の心的器官の言葉で表現することがより深い説明になるとは言えない
(
>>130)
という議論をふりだした時点で、数学の<学>としての領域性と、
数学を基礎づける<数的能力>の領域性(主観の諸能力のひとつということ)がすでに混同されて、
(´∀`)のセンセの脳内でもわけわかんなくなってるのにゃ。
ちなみに…
わたしはあるいみで、数学を<領域科学>とみなしていないにゃ。
数学は、みずからの対象を構成するものであり、世界の「数的」な一部分(領域)を対象としているわけではないのにゃ。
いっぽうさまざまな領域科学では数学は認識ツールとして用いられているが、
たとえば物理学が数学化されるばあい、数学(的真理)が本質的に<現実世界>の記述ではなく、
もしくは<現実世界>の事実を一義的に指示するものではないことから、
(数学化した)物理学が、じつはみずからの対象をみずから構成しているのであり、
もはや世界の記述としては不適格ではないかというおそれは十分にあるのにゃ。
やや先を急ぐが、物理学における実証過程は、このおそれを完全ではないが払拭しているというのがだいたいの筋書き。
もちろん、歴史上どの時点でも、物理学が不完全であることはもちろんであるが、
方法論的に実証操作が欠如している言語学の不完全さとは、異なるレベルであると思うにゃ。
ここが、チョムスキーも見落としている重要な論点。
物理学への還元はいっさい関係ナシ。「物理学を範とする」は、方法論についていえば、チョムスキーの見解と矛盾しないにゃ。
いじょう、とり急ぎ。にゃ。
134も十分わかりにくいので補足にゃ。
視覚能力と言語能力との類似は、チョムスキー自身もその信者にとってもおなじみの話題であるが、
視覚認知システムの、実装可能性のあるアルゴリズム表現は、じゅうぶん数学的なのにゃ。、
それが
>一つの心的器官の特性を別の心的器官の言葉で表現
するという理由で、数学の導入を制限するいかなる正当性があるのかにゃ。
視覚システムが数学的に解明されたからといって、
そのシステムが数的能力そのもの、あるいはその運用のいちぶであると混同する人間などひとりもいないのにゃ。
さらにまた補足であるが、チョム理論では心的計算を想定した言語知識の「フローチャート」が提案されており(bare system)、
その(実際のコンピュータによる)アルゴリズム的実現も不可能ではないが、
そこに表現される心的計算は、現実的時間のなかでに事実上「脳」が実行する必要がないことに要注意。
それは、ある言語刺激をうけてそれを有限時間内で解釈する(パーシングのような)アルゴリズムとは、原理上異なるものであり、
UGに入力がないのと同様、「言語知識」のアルゴリズムも(感覚所与のごとき)入力を必要としない。
入力が必要ないといういみは、
(数的な構造をもった)動植物の器官のデザインを説明するのに、動植物に与える刺激(入力)が必要ないのとおなじにゃ。
アルゴリズムチャートに入力がないことは不可解だというのであれば、、
チョム理論は心的計算を行う<構造>の、設計思想の素描を行っているというところが無難かにゃ。
ここで、モジュラリティなどの基本概念を共有しながらも、チョム理論が認知心理とはかなり異なるアプローチを行っていることにも注意。
135も十分わかりにくいわけにゃが、言語(でも何でも)が手持ちの(既存の)数学のことばで表現されなけ
ればならない、またそうすればより深く説明されたことになる、と考える根拠は何か、と小一時間にゃ。
「数学の導入を制限する」のではなくて、導入すべき理由にゃ。モデル化の方法のひとつ(曰く認識ツール)
以上の意味があんのかにゃ。
「視覚能力と言語能力との類似」はその発現における臨界期の存在や、遺伝・環境相関などにまず求められた
のであって、脳内メカの類似性は(モジュラリティ論からして)必然ではないと思うけどにゃ。
>視覚システムが数学的に解明されたからといって、そのシステムが数的能力そのもの、あるいはその運用の
>いちぶであると混同する人間などひとりもいないのにゃ
俺の発言のどこをどういじればこういうレスになるのか不思議ですにゃー
>そこに表現される心的計算は、現実的時間のなかでに事実上「脳」が実行する必要がないことに要注意
それはこっちの科白、
>いちいち論文に、文の容認性を「証拠づける」fMRIの記録やら他の物理心理学的データを添付してんのかにゃ(
>>126)
という苦言は的外れなのにゃ。fMRIは脳内で何かが起きていることを示すだけであって、それが何なのか(
文法性の問題か容認性の問題か、派生か表示か、etc.)というレッテルはfMRIについているわけではないにゃ。
つーか、チョムが脳科学の現状にあまり好意的でない一方、生成研究者の中にも現在の派生モデルがそのまま
脳内イベントの記述であると勘違いしてる香具師がいるのは事実だけどにゃ。
で、論点整理にゃが、生得説は正しいかも知れんが、その論理構成に不備があり、数学にのせなければなら
ない、というのが虚無しゃんの主張だにゃ? それは具体的にはどのような作業を指しているのか、ご教示
願うにゃ。
意味論スレはありがたくROMさせてもらってるけどにゃ、サパーリヽ(´ー`)ノなのにゃw
続きを狂おしくキボンヌ。
おかすぃにゃ…ときどき書き込んだはずなのに消えてるにゃ。
誤爆してんのかにゃ。
さて、どうするか…
まず、極端な誤解だけを指摘すれば、わたしの考えでは、
もしもチョムスキーが、言語学的証拠が(物理的に)<弱い>ものと考えているとすれば、
チョム理論は物理心理的なものになってであろうし、脳磁気だかなんかのデータも必要になってかもしれない、(←たとえ話)
だが、事実上チョム学派はそのような作業を行っていない、
それはチョムスキーの、言語学的証拠が原理的には十分なphysical reality をもつという見解、
を裏書きするものであり、
ことさらそれに物理的証拠を<付加する>必要性がないとチョム信者いっぱんに認識されているからなのにゃ。
で、これは(´∀`)のセンセが、「言語学的証拠だけで十分」ってのは初耳だというレスへの反論だから、。
わたしじしんががfMRIデータだかなんだかを提出しろと考えているわけではない。
むしろこれは、(ご指摘どおり)まずいやり方だと思うにゃ。
>それはこっちの科白、
わたしのレスは、いちおういっぱんの読者も意識したものだから、
「注意」の喚起に関しては、(´∀`)のセンセばかりにreferされたものではないことに要注意。
>それは具体的にはどのような作業を指しているのか
前スレで、けっきょく幼児期の膨大なデータが必要ということでいちおうの決着をみてるのにゃ。
くわえて、わたしは、自然科学の操作では、(言語学が扱う)<記号意味>はせいぜい物理コードの変換としてしかとらえられないと思うにゃ。
べつの言い方をすれば、
「自然界に<記号意味>はそのものとしては実在しないゆえに、それを直接研究する操作もない」ということにゃ。そんなもんにゃ。なんじゃもんにゃ。
>ときどき書き込んだはずなのに消えてるにゃ
俺も大学の研究室から書き込むといつもこうなるけどにゃ
全部理論言語学者に求められても困る、と逃げさせてもらうにゃ
だからこそ生成は言語学と進化生物学や遺伝学、脳科学あたりとのコラボをずっと提唱してきたのにゃ。
理論言語学がモデル化している母語知識が、モノ(ハードウェア)としての脳におけるどのような
状態なり事象に対応しているのかまで言えるようになるべきではあるが、現在の脳科学にそれを期待
するのはムリポ、今後に期待、というのがチョムらの基本スタンスですにゃ。
「幼児期の膨大なデータ」というけれども、たとえ一人の幼児の言語獲得であっても、そこに経験由来
ではない知識の発生が見られるならば、生得説はplausibilityを与えられるのではないかにゃ。
ちょうどたった一カ国語のデータだけからも普遍文法に関する仮説を立てることが可能であるのと
同様ににゃ。量ではなく質にゃ。
<記号意味>云々は、ここでの流れと関係ないんとちゃうかにゃ? 意味抜きの構造構築能力syntaxの
普遍性と生得性がname of the gameなんだからにゃ、重いコンダラにゃ。
140 :
没個性化されたレス↓:03/10/20 10:56
17くんのためにあげておく。
141 :
没個性化されたレス↓:03/10/20 11:38
バウリンガル
ふにゃふにゃふにゃ。
べつにどこが中心ということもないけど、チョム理論てのは巨視的にも微視的にもヘンなところだらけで、
あたかも超ヘタレな論文のどこがダメなのかときかれて返答に窮するがごとく、何から話したものか迷うのにゃ。
あまりにもディープな科学哲学に入り込むような悪寒もするしにゃあ。
とりあえず。
わたしは、問題の核心は、(心理板では)文法における「禁止の内観」がいかに形成されるかだと思ってるにゃ。
とりわけなぜ「禁止」が問題かというと、言語単位のすべての組み合わせを経験することは有限時間内には不可能であるのに、
「珍しい組み合わせ」と、「禁止された組み合わせ」は、かなり明確な内観によって区別されるからにゃ。
(許される組み合わせに関しては、「類推」などによってかなり説明可能性を残しているというわけ。)
そして「禁止」の知識の源泉については、教育的刺激がほとんど関与していないと思われるため、そこが最大の難問となってるのにゃ。
さて本題にはいるまえに、(本題にはいるかどうかわかんないけど)
ここで、ある文法知識について、
チョム信者がしばしば行う定式化の手続きをふむかぎり、擬似的で空疎な問題が発生してしまうことに注意を促したいにゃ。
チョム信者がしばしば行う論議とは、ある文法現象が「予想される」「起こっても不思議ではない」のに、じっさいには制約されている、そしてその
知識は、
直接的ではないにせよ、生得的に得られた知識のなんらかの反映にちがいないというもの。
同じ言語範疇に属するa,bについて、aに期待される文法的ふるまいが、bには期待できない、ということがしばしばあるにゃ。
で、じつはこの論議は、そもそも「予想」が誤っているばあいにも無際限にあてはまってしまうのにゃ。
(ちょっと単純化して)整理してのべると、
(1)aとbが、おなじはんちゅうCに属するとする。
(2)aに期待でき、かつじっさいに起こるある現象が、bには起こらない。
(3)aのふるまいから、そのこと(bにはかかる現象が起こらないということ)は、予想も類推も不可能である。
(4)bのふるまいに、そのような制約があることは、生得的知識の反映と考えざるを得ない。
ところが、言語学的はんちゅうというものは、形態のみならずふるまいからも規定されるので、ただたんじゅんに(1)が誤りということもおおいにありう
るのにゃ。(チョム信者がしばしばこの推理の誤りを犯しているということをいいたいのではなくて、ちょっとこのへんを論理的にはっきりしたいだけに
ゃ。)
あまりに形式的だというひとのために、「形容詞」というはんちゅうに属する「強い」と「多い」について考えてみるにゃ。
形容詞は、いわゆる叙述的とよばれる用法と、制限的とよばれ名詞句を作る用法があるにゃ。
(1)ライオンが強い。<叙述>
(2)強いライオン<制限>
ここで、あたりまえのようであるが、「強い」の意味を変えないまま、(1)から(2)を作れることに注意するにゃ。
どうように、「ライオンが美しい」から「美しいライオン」といえるし、その逆もまたいえるにゃ。
ところで、「多い」については、
(3)ライオンが多い。
(4)多いライオン
となるが、(3)は、「ライオンがたくさんだ」といっているのに対し、(4)は「たくさんのライオン」といっているわけではないにゃ。
(5)多いライオンが、おりに入れられていた。cf たくさんのライオンが、おりに入れられていた。
ここでは「多い」の主語が空所化しており、つまり[何かが]多いライオンという解釈しか許されなくなってしまう。([毛が]多いライオン、とか)
さてここで、「多い」の制限用法が制約されており、さらにその知識の源泉が明らかでないため、これが生得的知識の反映かという議論かという
問題が生じる。
じじつ、ぎゃくに英語ではthe lions are many.がダメで、many lionsがオケなため、なんらかのパラメタセッティングなのか、といえないこともない
が、生得的知識にしてはあまりにもトリビアルにゃ。英語には、叙述、制限で制約をうける形容詞が無数にあるにゃ。
さてここで、そもそも形容詞という一般化に問題があるのではないかという視点も必要になってくるにゃ。
さらにくだらない例をあげてみよう。
単純に日本語の接続助詞「と」と英語の'and'を比較すると、両者は比較的相似したふるまいと論理的意味をもっているのに、
「と」は文の接続ができない。
類推によって「と」を接続詞に用いてもいいはずだが、この誤用が特徴的に観察されるのは日本語学習者だけ。
じゃあ、日本語の「と」の接続詞的用法を「禁止する」ような教育的刺激が明らかでないかぎり、この知識もまた生得的にちがいないかというと
、
やはりあまりにもトリビアにゃん。
そもそも
だから「起こっても不思議ではない」を基準とするていどの予想では、擬似的な問題が爆発的に発生してしまうおそれが多分にあるということにゃ。今日はここまで。レスになってなくてスマッソ。ふんにゃかにゃん。
むにゃむにゃ。「と」が接続助詞とか書いてるにゃ。。完全にハナシ破綻。
格助詞「と」が、分接続の制限をうけるのにゃ。
この例は、ややこしいから、無視してちょ。
147 :
没個性化されたレス↓:03/10/26 04:10
虚無好きセンセ、生成文法総合スレにもお越し下さい。ここのところ盛り上がっています。お待ち申しております。
148 :
Zeinic:03/10/26 19:44
「バック・プロパゲーション」ってなんでつか・・・?
ぶんにゃかぶんぶん♪
虚無しゃんの指摘はまったく健全なものにゃ、てか生得論者はみんなそんくらいは理解した上で議論している
と思われ、にゃん。経験的に導出できない知識はすべて生得的、という短絡的な発想はそれこそ自らの無知を
「遺伝への盲信」によって秘匿しようとするものなのにゃ。個々の知識が問題なのではにゃい、ましてや個々
の行動が問題なのでもにゃい(ゴルフをする能力は生得的か、と大ボケかましたコネクショニストのセンセも
いたにゃ)、それらを構成するより基本的な能力なり知識をどんどん絞りこんでいけば最後はゼロになるのか、
という疑問ですにゃ、生得説が問い正しているのは。
虚無しゃんのあげてる、個々の形容詞がどのような用法であるとか、選択や下位範疇化の問題とか、いわゆる
語彙的情報に関しては当然にゃがら経験基盤の部分も大きいにゃ。
しかし、なんで「多いライオン」から「たくさんのライオン」なのか、「多くのライオン」という最小対を
どうして無視するのか、と小一時間にゃ。「多いのライオン」とかは中国の人とかいいそうあるよ、にゃ。
では虚無しゃんや他の皆しゃんに尋ねるにゃ。
1) Many lions were not killed in that area.
これはmanyとnotのscopeについて曖昧性があるとされてるにゃ。
A) 殺されなかったライオンがたくさんいる(many>not)のか、
B) たくさんのライオンが殺されたわけではない(many<not)のか、
にゃ。殺されたライオンもたくさんいた場合、Aは依然真であり得るが、Bは偽になるにゃ。
そこで日本語にゃが、
2) a. 多くのライオンがあの地域で殺されなかった。
b. 多くのライオンはあの地域で殺されなかった。
それぞれA, Bどちらの解釈を持つか、判断してちょ、にゃ。
そしてある判断ができたとして、なんでそんな判断ができそういう判断になるのか、考えるのにゃ〜
にゃんにゃかにゃん♪
>「多くのライオン」という最小対をどうして無視するのか
「多くの」は、しばしば全称量化に近い機能をもつにゃ。
「多くのライオン」はアフリカに生息するが、絶滅寸前なほど少ないにゃん。(まあ、多い少ないは相対的な問題ではあるが)
で、さきの文脈からは、「多いライオン」がとりあえず「たくさんのライオン」の意味ではないといいたかったのみであり、
要するにミニマルペアを作る意図も必要もなかったにゃ。cf.と書いたのがよくなかったのかもしれないが。
さて、(いかに言語屋が瑣末な問題にきゅうきゅうとしているかさらすようで恐縮であるが、)
制限用法の制約は、「少ない」についても起こる。「少ないライオン」「*少なくのライオン」がともに「少数のライオン」を意味しないにゃ。
この制限規則は、たまたま「多い」「少ない」にべつべつに現れたものではなくて、
多い/少ないの共通の概念構造に由来する、ひとつの有機的な構造をもった文法知識として現れたものではないかにゃ。
で、「多くの」は、形態的には「多い」に由来するが、「少なくの」の形がないいじょう、
これは今言った概念構造の対から独立した、例外的な連体詞扱いにとどめるというみかたをわたしはとるにゃ。(ほんとうにトリビアルなんだが
…)
付言すれば、じつはわたしは「多い」の例もなんとなくすっきりしないものをかんじており、なぜなら「日本人に多いクセ」とかがいいから。
どうしていいのかはよくわからにゃい。
まあこれらの問題は特定の限定的な形容詞の問題ではなく、
an alive catとか The singer is major / minor .なんかも悪いわけだから、
なにがそういう「わるい」直観をもたらすのか、
「(みため)学習されない」文法的禁止の直観のなかで、生得的といいうるものがどれだけあるのかが問題なのにゃん。
>中国の人とかいいそうあるよ
おもしろくない軽口はやめるにゃん。
>では虚無しゃんや他の皆しゃんに尋ねるにゃ。
どういうハナシにもっていきたいのか不明だけど、
More than 5 lions were not killed in that area.のほうが考えやすいにゃ。
解釈は、More than 5 survived 、あるいは 5 may heve been killed.
6 were killed. のばあい、前者が真で、後者が偽。まあ形式意味やってるんだから関係ないんだろうけど、
many were killed and many were not.が真でも、そういう趣旨の発話はいっぱんには、理解しにくいにゃ。
ご出題の件については、常識的には「は」を使ったほうが「あいまい」ですにゃ。
ただし、スコプが「多くの>ない」のばあいであっても、前述のように「多くの」が全称に近い(こともある)ので、
多くのライオンが殺されなかった、かつ、殺されたライオンのほうもたくさんいた、は真でないばあい(ほぼ全否定のとき)もあるにゃ。
そういうわけで、にゃんにゃかにゃん。
シュキーン直前なので取り急ぎ、
>おもしろくない軽口
L2の問題に関わってくるので意外にネが深いのにゃん
どういうハナシかというと、そういう判断の背景に言語構造についての暗黙の知識があるが、それは
ゼロから学習されるものか、というハナシにゃ、それだけにゃ(ドテッ
例文としては虚無しゃんの more than〜のほうがよかったですにゃ(コーサン、コーサン
「全称」というのは意味が分からんにゃ、partitiveとゆーか、proportionalな読みだろうにゃ
(問題になっているライオンの集合の内の大部分)
まあこの話題は言語学者しか興味なさそうにゃし、仕切り直すにゃ(ドテドテッ
虚無好きセンセ、生成総合スレでAdamasしゃんという俺とよく似たこと言う人が頑張っているにゃ
よかったらこっち来て絡んでみてホスイにゃ〜(ぺこり
虚無好き先生、生成総合スレの507あたりからお読みになられることをお勧めします。一同虚無好き先生のお越しをお待ちしております(ぺこり
虚無しゃん、よいお年を、にゃ
ごていねいにどうも、なのにゃ。最近、プライベートではHP制作やってて、どうもごぶさたでしたにゃ。
えー、これからの展望としては、(これからがあるとして)
認知心理とチョム理論の双方に、計算的アプローチとアルゴリズム的アプローチがみられる、
それらがじっさいに折り合いがつくか、という問題についてふれてみたい。
そこで、わたしからみれば真正な科学である認知心理が、実在する計算構造を追究しているのに対し、
あくまで疑似科学にすぎないチョム理論は、まあ、実在するカミクズであると、
まあ倒れている老人をさらに足蹴にするかんもあるが、そのへん明らかにしてみたいにゃ。
まず、計算そのものと、計算処理の区別、このあたりからやってみるかにゃ…
> プライベートではHP制作やってて
URLうp汁!
> そこで、わたしからみれば真正な科学である認知心理が、実在する計算構造を追究しているのに対し、
> あくまで疑似科学にすぎないチョム理論は、まあ、実在するカミクズであると、
その辺は俺も興味あるにゃ。チョム理論でいう計算や派生はあくまで理想化されたものであり、実効的
計算量を伴わないものである、という見方に同意か否か、あたりから頼むにゃ(ぺこり
巡回はやっ!
>理想化されたものであり
ここでいう理想化は、当面本質的でないと考えられる物理量を無視するという、自然科学全般にみられる<理想化>とは異質のものですにゃ。
この「ノイズの意図的除去」といういみでの理想化は、チョムスキーがべつの言語学的文脈でも用いるので注意が必要、ということがひとつ。
さて、「計算量を伴わない計算」は、とくにうけいれがたい概念ではないにゃ。
ハミルトン力学系でも熱力学でも、最小解が最適解であることは珍しいことではないが、もちろんそこに計算機構は存在しないにゃ。
また、あるしゅの生物の構造が数理的に記述されることがあるが、ここでもまた構造に関与する細胞がなんらかの「計算」をしているわけではないのにゃ。
(すくなくとも、コンピュータアナロジーにかなうような計算は行っていない、ということ)
ここで示唆されていることは…
チョム理論が、その道具立てにもかかわらず、認知心理はもちろん、心理学全般とも無縁ということですにゃ。(みもふたもないにゃ…)
HP制作は、もっぱらjavascriptなどへの言語学的興味からやってみただけであり、urlはちょっと…。
ただしいつかやった「音階理論」の資料として、じっさいに純正律をmp3できいていただくていどのことはすぐできるんだけどにゃん。そいではにゃん。
虚無好きしゃん、お久しぶりです。(ワクワク
>>157で述べられてる話題は、
http://mentai.2ch.net/gengo/kako/988/988295604.htmlの スレを立てて、スレの立て逃げをした1本人である僕としても非常に興味があるところ
なのでし。
僕なんか言語学のイントロダクションをするときとか、例えばS --> NP + VPという句構造規則に
ついて、これは化学での化学反応式2H/2 + O/2 = 2H/2Oが実在する水の成分について、その
構成を表現したものであるのとちょうど同じように、文Sの構成を表現したものだ。 文の形成・解釈
そのもののアルゴリズムを表現した規則ではない。として突っぱねて説明していますが、こういう
説明ってのは他所から見るとやっぱり危ういのかな・・・?
> スレを立てて、スレの立て逃げをした1本人
/ヽ /ヽ
/ ヽ___/ ヽ
/ \
| ● ヽー/ ●∪ | そ、そうだったノカー!
\ ∨ /
読み返してみると冷や汗もんにゃ (;´Д`)ハァ〜
>ここでもまた構造に関与する細胞がなんらかの「計算」をしているわけではないのにゃ
同じようにして、たとえば言語構造がなんらかの最小値や最大値を得るような形で組み立てられていても、
その値を求めるような計算が実際に起きているわけではにゃい、ということだと思うにゃ。
こっちのほうが言語をbiological systemに見立てる精神に合致してるはずだしにゃ。
しゃて、そーすると、モデルとして大域経済性を捨て局所経済性を採った論拠というのが計算量の爆発で
あるとか、計算効率を下げるような効果を持つ文法原理があるとかいう話しは全部コケることになるのでは
ないか、とも思うにゃ。そこでモデルとしてはむしろ大域経済性のほうが面白いとゆーか、示唆的だという
のが俺の感覚なんだけども、その辺りどーにゃろか?>逃走派しゃんにも
えー、驚愕の真実はとりあえずおいといて、
「構成」は表現するものの、
>文の形成・解釈そのもののアルゴリズムを表現した規則ではない
というのがいまいちわかんにゃい。このアルゴリズムは、心理学の対象としての脳内イベントをさすのかにゃ。
たしかにmergeもLF出力も脳内イベントではないかもしれないが、
だがいっぽうで、文の(生成的な)構造を化学式になぞらえるとすれば、このアナロジーは全体として破綻するような気がするにゃ。
もっともアナロジーについて、全体として真も偽もないのであるが、
たとえば「2+3=5」について、これを(妥当ではあるが)けっきょく論理的なトートロジーであるとみるか、
それとも実在するレジスタにまず2、別のレジスタに3を格納し、そしてCPUが処理をして5を出力するみたいな、
つまり「2+3=5」が事実上の自然時間におけるイベントを表象しているとみるのか、には大きなちがいがあるにゃ。
わたしは文の構造は、化学式よりは人体の認知上の「構造」に類似していると考える。(言語学的単位が心的だから)
まえにもいったけど、[頭たす[胴体たす[手たす足]]]=人体なのにゃ。これはもちろん自然科学的考察ではない。
概念図式を示したにすぎないので、現実時間において実証される必要がないのにゃ。(水の化学式は実証されねばならない)
ついでに(
計算がイデアルなものであるという理由で)心理学的でもないとすれば、チョム理論はよくいって知的ゲーム、悪くてカミクズということになるのにゃ。
うざいんで、ちょっとたたいてみましたにゃ。(´∀`)のセンセにはまたあとで。
顔文字しゃんの立場は、言語がDo what you must, nothing more, nothing less.のルールを守ってる
ようになっているのは、そもそも何らかの「計算」をしてて、その計算がそういうことを
するようにできている、てのではまったくなくって、そもそも「計算」などやってなくって
そういう構造を作るようにできている(そういう構造をにならざるを得ないようにできている)と
する立場なのかにゃ。うまく言語化できないが。「計算」自体を消そうとしているとか。
計算自体が存在しないから、計算量の爆発など根拠として意味がないと。
漏れとしてはそこまでいけてないわけで、というか、どういう風に計算以外の帰結として
解釈してよいか具体的な姿が見えていないわけで、しかたなくmergeにせよdisplacementにせよ
計算を表現してるように考えているのであるが、そうするとその「計算」というもののstatusが何なのか、
計算と言ったかっこいい言葉を使わずとも、従来の様々な規則についてそれは何を表現したもの
なのかがよく分からないのにゃ。自分的にはふりだしだにゃ
>>162 化学反応式の解釈について誤ってるのかもしれないけれど、a)水の成分として酸素と水素が
ある、b)その分子量についてその式に指定した量があるといった関係を表わしてるのだろうと
思うのにゃ。実時間での反応の記述の側面もあるのかもしれないが、それ以前に水という物質の
構成を記述したものではないかと思うのにゃ。実時間でのイベントの記述とは独立した
構成要素の関係記述としてにゃ。いや、化学反応式はそういう認識をされていないよというなら
別にそれはそれでいいんだけど、そういう実時間とは離れた関係を表現した陳述というのはいろいろ
あるんじゃないかと思ってるのでした。で、生成でのルールをそれになぞらえて説明してるわけでしゅ。
だけど、そっから先がジレンマになってしまうのでした(笑)
実時間を離れた抽象関係のルール。だが、求められているのは音から意味への、意味から音への
具体的なプロセスの明示であって、ここがあまりにもはっきりしていないように思われるのでした。
要するに、抽象関係のルール=「計算」がプロセスに係わる、その係わり方が、はっきり言えないところ
のジレンマかと。そのルール=計算ってやつがカミクズなだけなのかもしれないですが(笑)
>そもそも何らかの「計算」をしてて、その計算がそういうことを
> するようにできている、てのではまったくなくって、そもそも「計算」などやってなくって
> そういう構造を作るようにできている(そういう構造をにならざるを得ないようにできている)と
まーそんなとこにゃ。も一つゆーと、言語を(あるいは自然を)そのようなものとして見ている
観測者としての俺らがいるわけにゃ。自然が簡潔なのではにゃく、自然を簡潔に見たがる色メガネ
自体はどっから出てくるのか、という無限遡及っぽいことになってしまうけどにゃ。うぇっぷ。
> 計算と言ったかっこいい言葉を使わずとも、従来の様々な規則についてそれは何を表現したもの
> なのか
単なるモデル化ではにゃく、実体論をしようというのもMINの基本精神だと思うにゃが、結局、
虚無しゃんの指摘を待つまでもにゃく、粗末な派生理論の現状ではそれに見合っていない、という
ことかもにゃ、たぶんにゃ。うぇっぷ。
むにゃむにゃ。あまり本格的な認識論に突入したくないので、ちょっとお茶をにごすと…
チョム関連理論は、そもそも説明ポテンシャルが大きすぎて、むしろ説明「できすぎ」、「色めがね」についていえば、
言語学者は言語学そのものを科学のプロトタイプとしているため、plaisabilityのみが最後の法廷であり、そんなぐあいに自然科学像のほうにもバイアスがかかっちゃうんじゃないかにゃ。
。
むかし「ボーデの法則」みたいなのがあったが、それをさらに発展させて太陽系のデザインの普遍的理論みたいなものを考えてみよう、
「逆行衛星」は例外なくもっとも外側の衛星の一群であるから、それを太陽系固有の普遍的制約のひとつとしてみよう、
いっそのことすべての惑星が衛星をもち、実測される衛星は質料的であるという属性をたまたまもっていることにしよう、
おそらく地球を徹底的に追究すれば、原理的に太陽系全体についても知られるであろう、
太陽系は自然物だから、この惑星理論は自然科学、新惑星が発見されれば反証も考えられるからまったく真正な科学であることはあきらか、
まあ、こんなところがチョム理論の実態であると考えられるにゃ。
もちろんこのような後付け理論は、なにものも説明せず、なにものも予測しない。
(太陽系データベースの設計の一助になるかもしれないけど)
ところで、どこかで書いたかもしれないけど、チョムスキーの提出したナゾそのものは、わたしは正当であると考えているので、
まあたとえば「太郎が花子を自分の家に帰した」「太郎が花子を自分の家に帰らせた」のそれぞれについて、
花子が誰の家に帰ったかの直観が普遍的に話者に成立するとするならば、これは心理学的な問いであり、
'facts of matter'としての正当な解答が期待できるものという感触は捨て去っていないにゃ。
計算の表象関係については、また次回。ぐうぇっぷ。
plausibilityですた。
全部説明できるのは何も説明できないのと同じ、とはよく言うにゃが、チョム理論は虚無しゃんが思っているほど
なんでも説明できたりはしないと思うけどにゃ。むしろ有効範囲を自ら厳しく絞ってきたからこそ、いちおー
うまくいってるように見えるのにゃ。
> 言語学者は言語学そのものを科学のプロトタイプとしているため
生成はあまりに愚直に物理学をお手本にし過ぎている、という指摘もあるにゃが。。。
まあ、また虚無しゃんのカキコが読めるというのは、新年早々喜ばしいことであるにゃが、無理しないで
マターリとお願いしますにゃ(ぺこり
言語構造を、物質構造の類比で表象することが妥当かいなかについて、
これはたいへんに難しい問題であるので、とりあえずここで若干の覚書をしておきたい。
【1】物質が、より単純な単位に還元されるのではないかという予想は、ギリシア古典時代よりあった。
アリストテレスの4大については、心的・感覚的要素が、現在のcriterionからすれば無反省に物質として実在した。
【2】いわゆる錬金術の時代に、物質への興味が再び勃興する。宇宙の歴史を物質の劣化ととらえる彼らは、
その歴史のプロセスを逆行することで、神の創造した<第一物質>にたどりつけると信じた。
<第一物質>は、神性や「光輝そのもの」の物質的具現であり、ここでも心的性質が物質的様相となって実在すると考えられている。
注意すべきことは、この時代においては、「物質は(心的)素性の束」であったということにゃ。
【3】デカルトが、物質界から心的性質を排除する。延長しか残らない。いちおうこれが近代科学のはじまりといわれる。
ついでに、まだしもヒトの自然な直観に訴えていた幾何学と、便利ではあるが基本的にはプラクティカルな技術と考えられていた代数が幸福な結婚、
自然科学のツールとして大活躍。「虚無好き」センセは、まだこの時代にすんでいると思われる。
【4】どうやらデカルト的二元論はダメらしいということになってくる。すると、客観から、心的要素をすべて排除したというのは大きな誤り。
ま、このへんでよしておこう…
さて、自分を窮地においこむようであるが、もう少しすすんでみるかにゃ。
アリストテレスの「科学」によれば、元素である「水」は、さらに
[冷たいもの]+[湿っているもの]→水
という化学式によって表現される思うにゃ。
そしてこれが問題である、「実時間とは関係なくなにものかを規定する陳述」のいちぶであり、
現代の化学式と原理的にちがうのか、やはり現代の化学式といえども心的性質を帯びており、概念構造を現すにすぎないのかといったことが問題となるにゃ。
さて、ここで考慮にいれなければならないのが、化学式が数理的関係をも表象している点にゃ。
で、よくよく考えてみると、わたしもCの4本の腕を4項動詞かなんかに喩えて、
句構造を化学式にたとえたことあったにゃん…。
でも基本的な線としては、概念構造は、反論は可能であるが、そもそも実証されないので反証もない。
その線でもう少しいくかにゃ…
>生成はあまりに愚直に物理学をお手本にし過ぎている
これはチョムスキーが好んで物理学者をquoteしてひきあいにだしてるってことじゃないのかにゃ。
にゃにゃ、昼間っから同時刻にカキコとは、よくやるにゃ、お互いににゃ (;´Д`)ハァ〜
駄レス許してちょ
>>166 > まあたとえば「太郎が花子を自分の家に帰した」「太郎が花子を自分の家に帰らせた」
他人の家に「帰る」とは言わにゃいので、「帰る」を使うとかにゃりpreferenceかかるかもにゃ。
それは同意にゃ。
で、いずれ計算量のハナシにもっていかなきゃなんないとは思うんだけど、
(´∀`)のセンセも、解剖学的な脳機能局在は否定しても、モジュラリティをいうからには、
実質的な情報のフローを考えてるんじゃないのかにゃ。そうであれば、まぎれもなく認知心理の領域なんだけど、
MPの究極的な要請の根拠はなんなわけ?自然科学では、しばしば宇宙の単純さへの期待があるレベルでは完全に裏切られることがあり、
これは、(いろいろな議論が頭をかすめていくのを感じつつあえていうのであるが、)自然科学が健全に機能しているからにゃ。
色覚のばあい、もしたんに色の同定の問題として考えて、計算量の極限的最小値をとろうとするならば、
3種の錐体細胞の発火量みたいなのから3つの座標をとって、v=(x,y,z,)、はいおしまい、ということになりかねない。
じっさいには同じソースの情報を各領域で煮たり焼いたりしてるのにもかかわらずにゃ。
このてんはウィトゲンシュタインも誤ったぶぶんで、視野上のある1点が2つの色の知覚をもつことはありうる。
(オレンジ灯のもとで、ヒトの皮膚が<灰色>に知覚されるようなばあい。)
ここでよく考えてもらいたいのだが、グローバルであれローカルであれ、
認知能力の計算量と、その生得性とはそもそもなんの関係もないと、そういうことではないのかにゃ。
ここでチョム理論が、広義の言語能力の非常に限定的なぶぶんしか扱わないとかいって、議論をそらさないでほしいのだが、
じっさいに言語の獲得可能性と計算量の小ささが、分離されていないのが実情であるからこうのべているのにゃ。
あともう一点だが、もし理念上の計算ではなく、実在する計算、そして実在する出力を考えないならば、
生成文法と、他の諸領域科学とのコラボなどありえないにゃ。チョム理論は自己完結で、衰退しておわり、
100年後には「天使の可算性」を論議した神学者のごとく、珍奇な教団として名を残すにとどまるだろうにゃ。
それは同意にゃ。
で、いずれ計算量のハナシにもっていかなきゃなんないとは思うんだけど、
(´∀`)のセンセも、解剖学的な脳機能局在は否定しても、モジュラリティをいうからには、
実質的な情報のフローを考えてるんじゃないのかにゃ。そうであれば、まぎれもなく認知心理の領域なんだけど、
MPの究極的な要請の根拠はなんなわけ?自然科学では、しばしば宇宙の単純さへの期待があるレベルでは完全に裏切られることがあり、
これは、(いろいろな議論が頭をかすめていくのを感じつつあえていうのであるが、)自然科学が健全に機能しているからにゃ。
色覚のばあい、もしたんに色の同定の問題として考えて、計算量の極限的最小値をとろうとするならば、
3種の錐体細胞の発火量みたいなのから3つの座標をとって、v=(x,y,z,)、はいおしまい、ということになりかねない。
じっさいには同じソースの情報を各領域で煮たり焼いたりしてるのにもかかわらずにゃ。
このてんはウィトゲンシュタインも誤ったぶぶんで、視野上のある1点が2つの色の知覚をもつことはありうる。
(オレンジ灯のもとで、ヒトの皮膚が<灰色>に知覚されるようなばあい。)
ここでよく考えてもらいたいのだが、グローバルであれローカルであれ、
認知能力の計算量と、その生得性とはそもそもなんの関係もないと、そういうことではないのかにゃ。
ここでチョム理論が、広義の言語能力の非常に限定的なぶぶんしか扱わないとかいって、議論をそらさないでほしいのだが、
じっさいに言語の獲得可能性と計算量の小ささが、分離されていないのが実情であるからこうのべているのにゃ。
あともう一点だが、もし理念上の計算ではなく、実在する計算、そして実在する出力を考えないならば、
生成文法と、他の諸領域科学とのコラボなどありえないにゃ。チョム理論は自己完結で、衰退しておわり、
100年後には「天使の可算性」を論議した神学者のごとく、珍奇な教団として名を残すにとどまるだろうにゃ。
おかしいにゃ…
文責のあるなしをきいてくるダイアログがでないばあいは、たいてい書き込みミスってるのににゃ。
二重カキコになってすまにゃーにゃ。
虚無しゃん、Adamasセンセと言ってること似てるにゃ。Adamasセンセは生成文法を錬金術だと言ってますたにゃ。化学(すなわち本当の理論言語学)が生まれるための科学<的>な学問だと言ってますたにゃ。科学ではなく科学<的>だとおしゃってますたにゃ。
補足説明しまつ。Adamasセンセとは、生成系の人でありながら生成(とくにミニマリストプログラム)をボロクソに言い、
生成はサイエンティフィックであってサイエンスでないと主張され、政治的発言もチョムセンセと真っ向から対立するちょっとエッチなオヤジセンセでつ。
>>174 >MPの究極的な要請の根拠はなんなわけ?
虚無せんせ、Adamasせんせが前に、MPを中国人の部屋にたとえて話されていました。
宇宙人をある部屋に隔離して、その宇宙人にチョムの本を与えたところで、
部屋の外にいる人間と会話が出来るかと、そんなことを言っておりました。
そんなことはできないと言っておられまして、
生成文法はチューリングテストをパスできないとかおっしゃっておりました。
詳しいことは忘れてしまいましたが、
Adamasセンセは、言語機能は科学の対象ではなく工学の対象であるともいっておられました。
人工知能の話の絡みでお話されていた記憶があります。
178です。虚無せんせなら解いて下さるのではないかと思い、
Adamasせんせのクイズを下にペーストします。
私も興味あるのですが生成スレではどなたもレスされなかったので
こちらに貼り付けます。
生成スレの75です。
(1)動物には個別ゲンゴがないようだ。そして、
(2)動物は普遍ブンポウでお話できるみたいだ。一方、
(3)ヒトにはレキゼンと個別ゲンゴがある。そして、
(4)ヒトは普遍文法をダイレクトに使ってお話することはできない。
コレはドウイウコトナノダ
adamas先生は、spell-outとsplicingのアナロジーには同意してたにゃ。
splicingは、実在する機構であり、チューリングマシンで実行できる、有限な操作であるので
生成批判とのからみにおいて、そこのところの真意には不明なところがあるにゃ。
ちょっと時間ないんだが、
>>176-179はいずれも核心的なものであり、
(心的計算の実在にかかわる問題がここではもっとも重要であるが)
いずれくわしく語ることができると思うにゃ。
178です。さっそくのレスをありがとうございます。
ただAdamasせんせはことの他アナロジーに警戒されていましたことを
ここにご報告させていただきます。
>>176から
>>179の虚無せんせのレスも楽しみにしております。
ほんとうは虚無せんせとAdamasせんせのバトルを人一倍期待していたのですが
とても残念です。
ピンカーの本は信頼できるのでしょうか?
虚無せんせ、178です。なんども顔を出してすみません。
Adamasせんせですが、書かれた御著書を読むと、
先生は、生成文法が完全な科学とは言えない理由として、
自然言語が人工物と自然物の中間的なものであることを述べられております。
また理論(仮説)の記述が定性的であり定量的でないことにもふれられております。
Adamasせんせがいなくなった今となっては詳しいことは分からないので、
ぜひ虚無せんせに解説をお願いしたく思います。厨房院生ですがどうぞよろしくお願いしたします。
178です。申し訳ございません!これを最後にします!
生成スレを読み返しているのですが、Adamasせんせは、
1)人間の心の進化は、言語のような高度なものから攻めていかなくてはいけないとか、
2)言語は特殊なものだから言語の進化には特殊な進化論が必要だとか、
3)そこから他の心の進化を解明すべきであるとか、
おっしゃっております(解釈間違っているかもしれません!)。
この辺りカオモジせんせと立場が違うようですが、虚無せんせはどうお考えでしょうか。
ほんとうに何度も申し訳ございません!
デイビッドソンの意味論プログラムはこのスレの人から見てどう?
ちょっと風邪ひいてきびしいんだけどにゃ…
わたしが生成文法を客観科学的でないと思う理由は、概念の操作的な構成についての慎重さがまるでないという点、
それがまず重要な論点になると思うけど、
この点についてあまりにもドラスティックに論究していくと、言語学のほとんどの領域が巻き添えとなってしまい、
言語学の定量的な質料である音声・書記記号と、その<外部>となる指示領域(あるいは定量的脳内イベント)との数理的関係の客観記述、
要するに「行動主義的」な操作(対象の予測と制御)が、言語学の主要な方法となってしまうにゃ。
それはそれでいいんだが…
たしか「総合スレ」のほうで、科学と直感との関係が問題になってるのをみかけた気がするが、
もしも芸術にも必要とされる「直感」が論議されているのなら、重要な問題ではないにゃ。
重要な問題とは、かつて直観intuitionにおいて明示的とされた時間・空間の形式が、
数学においては破棄されたということ、とはいえ数学はより操作的な対象を確立したということであり、
いっぽうで、直観に依拠せざるをえない文法性、および(わたしには十分に抽象的とはいえない)形式意味について、
純粋に純粋な、<超>純粋形式的な意味論およびシンタクスの記述が、生成文法を救うと考えているにゃ。
わけわかんないかもしれないが、現在ミクロ物理学では、その対象は数理的な「素性の束」となっており、
このてんを参考にしたうえで、もし言語学的単位が数理的に記述されるようになれば、語彙主義と反語彙主義はパラレルに語られるようなことはなくなるであろう、
<語>という単位は、最終的には、不可分割でたいした興味をひかない(無意味な)形式的単位に還元されるであろう、
まあ、そういういみで反語彙的アプローチが注目されるにゃ。ってゆーか、わたしは一般に言語学的単位は再構成されるべきだと思うのにゃ。寝るにゃー。
187 :
お邪魔無視:04/01/21 11:08
>純粋に純粋な、<超>純粋形式的な意味論およびシンタクスの記述が、生成文法を救うと考えているにゃ。
adamosさんも本のなかで、新しい表現形式(=数学)の導入が言語学に芯のブレイクスルウをもたらすと逝っていましたね。
>ってゆーか、わたしは一般に言語学的単位は再構成されるべきだと思うのにゃ。
再構成はすべきなのですが、生成すれで問題でなっていたのはどこで再構成するかという問題だったのです。
顔文字派はシンタックスで、adamos派はlexiconでということだったのです。
虚無しゃん、ついでに厨房の口撃にゃが、よろしくおながいしますのにゃ。
ミニマリストの要請の根拠としては、ちょうどヒルベルトのテーゼ下における
ゲーテルの不完全性定理の発見のようなものを期待しているようなのにゃ。
ちょうど
>>174で指摘しているような宇宙論のような、にゃ。
にゃからnarrow syntaxは理論定義上、完璧なものでなくてはならないのであり、
さらにそこで期待されるeconomyとしては計算量が最も少なくてすむモデルを展開
せねばならんのですにゃ。にゃからこそ、グローバルかローカルかの2者択一が許される
のであれば、計算量の爆発的増大を抑えられるローカルエコノミーの方が理論的モデルと
しては妥当にゃと思うわけですのにゃ。それににゃ、虚無しゃんが
>>174で指摘されている
通りにゃ、実在する計算量、出力はもちろん考慮すべきなのにゃ。計算量の暴発は、物理で
いう熱量の暴発にもつながっていくわけですにゃ。もちろん、言語を自然物として扱うという
前提でのみ有効な推測にゃけどにゃ。
私もバカにゃりに、純粋形式的なsyntaxの記述は生成に、ミニマリストに必要不可欠と考えてますのにゃ。
てか、それがなければMPもそれに(HPSGやLFGなど俗に亜種と呼ばれるのは除いて)生成もまるごと
アボーンするものと思ってるのにゃ。それも遠くない未来にゃと思うんですけどにゃ。
>>149のMany lions 〜って
>これはmanyとnotのscopeについて曖昧性があるとされてるにゃ。
じゃなくて
「manyが制限的であるか叙述的であるかについて曖昧性がある」
なんて言い方のほうが自分的に腑に落ちるんですが。
(門外漢なので用語の用法に問題がありそう)
つまり〜え〜〜何が言いたいんだ自分は。意味わからん。
These lions were not killed in that area.
A number of lions were not killed in that area.
って辞書を引いたら「a number of 〜は否定文では使えない」のか。
えーと、少しずつでも書いとくにゃ…
adamas先生のいう、科学と工学のコントラストは原文もわかんないし、わかりにくいんだけど、
言語は、偶発的・恣意的・人工的な記号操作を含む構造の総体であり、
自然科学を対象としたときのような、きれいな構造を期待するのはそもそも不可能、であるから、
ぎくしゃくしていようが記述的で、practicalなものにあまんじよ、ということで大きくはずしてはいないと思うんだけどにゃ。
言語学が科学ではないという陳述、それじたいが「科学的ではあるが科学ではない」メタ科学に属する発言であり、
あまりここでは深入りしないことにするにゃ…
で、「中国人」の部屋については、これは心脳問題ではおなじみの例であるが、
adamas先生、不用意に「心」に言及する発言してるにゃ…。この板ではメタクソたたかれるか、最近では放置なのかにゃ。
「動物が話す」とか「宇宙人と会話する」とかは、もしおしゃべりの次元じゃないんだったら、
いちいち操作的な考証をしていかないと、無意味な議論がえんえんとつづくだけにゃ。
ここでは、もし生成文法がコミュニケーション分析を放棄しているならば、
非常に形式的な記号変換モデルを構築することは不可能ではないが、それがなにに事実上referされているのかは、客観的にはしりえない、
わたしにはその例証として「中国人の部屋」をもってくるほうがすっきりするにゃ。
まあ、もう少しadamas先生のお考えを吟味してみようとは思うけど。つづきはまたにゃん。
とはいうものの「不完全性定理」はどちらかというと明証性の崩壊、よくいって予期せぬ真理の登場であるから、
19世紀的なわたしとしては、「真理の楽園」を夢見ていたいところにゃ…。(そんなものは…以下略)
今日も一日休養の悪寒…
では、ヂミ〜に計算の本質のおはなしにゃ。
ハナシは、逃走派先生が、数式と化学式を類比させたことにはじまるにゃ。
わたしの見解では、心的意味を排除された形式的な<計算>は、いわゆる<文脈原理>の世界であり、
計算可能性が、<項>の規定に論理的に先行している、したがって、
各項は、その計算にあずかる<素性>しかもちえないにゃ。各項は、計算可能性のもとで構成されているがゆえに、
たとえば、自然数がそれぞれにもつ「心的印象」はもちろん、「多い」とか「少ない」などの心的評価を含めた数の心的構成をいっさい必要としない、
直観すらも必要としない、純粋な形式的記号操作によって構成されると考えられるにゃ。
で、その数式の自然界への適用について語ろうとすると、あるしゅの「神秘」にぶつからざるをえないのだが、
(世界が数的性質を帯びるというよりは、(素朴ないみですら)「知る」という機能がそもそも数的性質をもつのであろう。けっこうきわどいテーゼ…)
まずひとつには、h2やO2が、計算可能性いがいの実体的な自然類としての<個別性>をもつ、ということが大きな違いとなるであろうにゃ。
いっぽう個別として考えられた、「2」とか「5」というのは、計算にとって無用の心的意味を付与されている可能性があるのにゃ。
ここで、純粋数理的なシンタクスからみれば、その各項の属性は計算可能性のほうからしかみえてこない、
ともいえるが、たぶんこのへんは、いわゆる語彙主義を支持するひとびとにも異論はないであろう…。また寝るにゃん。
オカスイにゃ、書き込めにゃい。。。
あにゃ??
よーするに統語論に意味的な要因を持ち込むのはいかがなものか、ってわけにゃ?
syntaxへの入力はsyntaxにrelevantなものに限定されるべきであって、音声や意味は関係ない、
ってことにゃら、俺がくどくど言ってきたそのままになるから、用心するにゃん。
腰痛イテテ…
>syntaxへの入力はsyntaxにrelevantなものに限定されるべきであって、音声や意味は関係ない
けっきょくこのへんへのコメント(の姿勢)が、言語学がエンジニアリングにすぎないという見解につながるのかにゃ。
MPの発想は、ひとつの可能性としては、計算実体のない計算量にかかわるものであり、
わたしはそんなものは認めないし、だいたい最小っていったって、移動距離が短いとか、規則が単純でいいとか、
じつに通俗的ないみで説明が少なくてすむといういみの最小であり、じつはどう定量化につながるのかわからないような問題であるし、
(このへんで、エンジニアリングの比喩がでたんだと思うにゃ。ここにはコンピュータ屋の発想に近いものがあるにゃ。
美しいプログラムとはメインルーチンから、ムダを究極的になくすように求心的にサブルーチンをよびだすもので、
行数も少なく、このばあい計算実体のある計算量・処理時間も、システムの総量も小さいというものにゃ。)
なにをかんちがいしてるかわからないけど、物理法則や数学の定理そのもののの「簡潔さ」とはなんの関係もないのにゃ。
すくなくとも、げんにヒト言語のプログラムを、実装可能性を度外視して(この時点で自然科学ではなくなる)
組み立てているというなら、極小主義はすくなくとも無意味ではないにゃ。それはあるしゅの職人芸ではあるが、ヒトの脳の実勢とはいっさい関係ない。
もしある人間が5000行で書いたプログラムを、その半分で同等の処理を可能にすれば、それは職人芸であろう、
だがこのことで「なんらかの真理」に近づくわけでもなく、また自然科学の「極小的な数理的モデル」ともいっさい関係ないのにゃ。
つぎはまた、地味に計算の本質について。ばいにゃん。
〃∩ ∧_∧
⊂⌒(´・ω・`)ふむふむ♪
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
>ふむふむ♪
チョム理論が大量の紙クズ、人的資源の浪費であることにご理解いただいて、では計算の本質について。
ここでは、日常生活においてなじみの深い「足し算」についてふれるが、なじみ深いだけあって
足し算はじつにおおくの「心的表象」をになってしまっているにゃ。
それは、あるときは実在的質料の付加、ときには認知内容・概念にすぎないもののの統合あるいは隣接、事象の連結による
結果などの<心的意味>であり、計算の形式的本質に付随しても誤りではないが、
じつは記号操作を本質とする演算にとっては、全く不必要なものなのにゃ。
加算は、本質的にはまったく形式的な操作であり、交換法則が適用されない行列乗算のように心的表象とは独立して規定さ
れるものにゃ。
ぞくに「1たす1が3にでも4にでもなる」みたいな「ポジティブ」な文系的言表は、
じつに「足し算」の形式的本質を心的表象にすりかえたことによる、わるくいえば欺瞞的な計算理解であるといえるにゃ。
さて、「2+2=4」を、自然言語で'two and two make four'と「読み下し」て、さらに形式意味におきかえると、
four(x)をみたすような、素朴集合論における存在の問題となってしまうにゃ。「4であるような集合」は、数学としては適
切なものではないし、
「4と等しいような数式の集合」は、一義的に定まるものの、「再帰的定義」になってるところが微妙なところにゃ。(4も
要素になるから。)
ちょっと論点がずれたかもしれないが、数学の自然言語的理解は原理的に不可能なのかもしれないにゃ。
で、問題は、mergeが形式的計算となりうるか、それとも「認識単位の接合」という、
ばくぜんと理解された「足し算」のいっしゅにすぎないのか、といったところかにゃ。つづくにゃ。
地道に続いていたのね。
保全さげ。
「脳の言語学」→「言語の脳科学」
>突っ込みどころ満載
例えば?
NC教の入信には手軽で賢明な選択肢かと思われるが、言語の生得性を真面目に考えるには
あまりに乱暴なため、本当に誠実に学問をやろうという入門者は読まないようにしましょう。
まあ言語学自体が(文系なだけに)突っ込みどころ満載ともいえるが、曲がりなりにも脳科学者を名乗っているのだから、
エビデンスとれてないことを滔滔と語りやがって、ただの布教としか思えないよ。ってこと。
ま、酒井しゃんは言語学者ではないからにゃ、俺らが普段やってるような例文あげて議論進めるといった
面は無くてもしゃーないにゃー。
誤解ないようはっきり言うにゃが、今の脳科学はとりあえず理論言語学の後塵を拝しておく以外ないのにゃ。
言語の脳科学が何を調べ確かめるべきかの指針を理論言語学に求めるしかない、という意味でにゃ。
それと俺らはソフトウェアとして見た言語のモジュール性を支持しているにゃが、それは必ずしも酒井しゃんらが
やってるようなハードウェアとしてみた脳のモジュール性・機能局在性を要請してはいない(サポートにはなる
にゃろが)点にも注意、だにゃ。
>言語学自体が(文系なだけに)突っ込みどころ満載
それはチミがどの程度言語学知ってるか次第にゃが、ちょうどチョム批判してカッコつけたがる香具師に限って
チョムなんぞ読んだこともない、ってのと同じでないことを祈るにゃw
>>200 酒井氏のどの議論・例証をさして乱暴だといっているのかを
示さない方が学者として不誠実じゃないか?
203 :
没個性化されたレス↓:04/06/03 18:23
たまには虫干しあげ。
204 :
没個性化されたレス↓:04/07/18 21:40
| |
| |_∧
|_|ω・`) アゲ
|文|o ノ
| ̄|u'
生成スレ172さんとこさかなさんはまだかなー
保守
誤爆したことに今頃気付きました
ごめんなさい
207 :
没個性化されたレス↓:04/08/08 10:37
age
208 :
没個性化されたレス↓:04/09/28 23:56:03
生得的は微妙アゲ
2ヶ月前までやってたのか、ここ。今上がるのも微妙だなー。
210 :
没個性化されたレス↓:04/12/06 08:07:31
たまにはお天道様の当たるところに出してやれ。
211 :
没個性化されたレス↓:05/02/13 13:41:36
今年初めての虫干し。
212 :
没個性化されたレス↓:皇紀2665/04/01(金) 17:25:56
新年度あげ。
213 :
没個性化されたレス↓:2005/04/06(水) 17:27:02
人間にとって本能でなかったら
起源もないだろねぇ
眠い。
214 :
没個性化されたレス↓:2005/05/09(月) 01:58:12
215 :
没個性化されたレス↓:2005/05/13(金) 16:45:54
リサイクル
216 :
没個性化されたレス↓:2005/05/13(金) 21:10:07
リサイクル
217 :
没個性化されたレス↓:2005/05/13(金) 21:23:50
リサイクル
218 :
没個性化されたレス↓:2005/05/13(金) 21:31:19
リサイクル
219 :
没個性化されたレス↓:2005/05/18(水) 13:49:10
♪いらないモノが多過ぎるゥ〜
∧_∧ ♪いらないモノが多過ぎるゥ〜
( ´∀`) ♪いらないモノが多過ぎるゥ〜
( つΘ∩ ♪いらないモノが多過ぎるゥ〜
〉 〉|\ \
(__)| (__)
┴
220 :
没個性化されたレス↓:2005/06/12(日) 13:27:53
穂syう
221 :
没個性化されたレス↓:2005/06/12(日) 15:14:17
言語能力が高いほど心理学には向いてない。
アフォほど心理向き
生得説と経験説は世界でどんな評価されてるんだろうね。。。
読んでる人がいるかどうかしらんけど。
Proceedings: Biological Sciences
ISSN: 0962-8452 (Paper) 1471-2954 (Online)
Issue: Volume 272, Number 1562 / March 2005
Pages: 561 - 565
DOI: 10.1098/rspb.2004.2957
URL: Linking Options
The consequences of Zipf's law for syntax and symbolic reference
Ramon Ferrer i Cancho, Oliver Riordan, Béla Bollobás
Abstract:
Although many species possess rudimentary communication systems,
humans seem to be unique with regard to making use of syntax and
symbolic reference. Recent approaches to the evolution of language
formalize why syntax is selectively advantageous compared with
isolated signal communication systems, but do not explain how signals
naturally combine. Even more recent work has shown that if a
communication system maximizes communicative efficiency while
minimizing the cost of communication, or if a communication system
constrains ambiguity in a non-trivial way while a certain entropy
is maximized, signal frequencies will be distributed according to
Zipf's law. Here we show that such communication principles give
rise not only to signals that have many traits in common with the
linking words in real human languages, but also to a rudimentary
sort of syntax and symbolic reference.
225 :
没個性化されたレス↓:2005/10/08(土) 23:36:30
心理板には言語能力に問題がある人が多いんですよね
・・・と,そのサンプルが言っても説得力がありませんけどね。
227 :
没個性化されたレス↓:2005/12/25(日) 06:29:03
〃∩ ∧_∧
⊂⌒(´・ω・`)ふむふむ♪
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
まだこんなクソスレあったのか
馬鹿スレさげ
230 :
没個性化されたレス↓:2006/03/11(土) 08:26:17
今年も虫干しあげ。
231 :
没個性化されたレス↓:2006/03/12(日) 15:40:01
書きことばと話しことばの2種類あると聞いたことがある。
利き手があるみたいにどちらかタイプに分かれるらしいよ
233 :
没個性化されたレス↓:2006/03/29(水) 08:28:39
234 :
没個性化されたレス↓:2006/09/16(土) 22:17:07
234
チンパンジーは手話覚えさせて会話できるんだよな。
チンパンニュースチャンネルは口パクパクしてるだけだけどさ。
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言葉を持ったサル カンジ(1993年: NHK出版)
古本屋で売っていたので買った。
一般向けとは言え、内容ほとんどゼロの本だった。
105円(税込み)だったからいいけど。
intrinsic...not inherent
239 :
没個性化されたレス↓:2007/07/18(水) 07:36:07
>>225 心狸板だから。みんな狸だということを認知できないほど空気よめない?
急激に、ぬーろん密度が低下し、しなぷー密度が上昇する頃に、
言語能力も働き出すの?
阿頼耶識は因縁力の故に自体生ずる時,内に種子と有根身とを変為し,
外に器を変為する。即ち,所変を以て自らの所縁と為し,行相は之に
杖て起こることを得るなり。」(『成唯識論』)
(一切は阿頼耶識が変化したものにすぎない(唯識所変)…)
阿頼耶識が因と縁との力によって生ずる時,内的には種子と有根身とを変化せしめ,
外には器世間を変化せしめる。そして阿頼耶識から変化したもの(所変)を阿頼耶識
は自らの認識対象(所縁)としている。
「素敵なゲストが来て頂きました」
テレビを見ていて耳障りな、よくある言い間違い。
「素敵なゲストに来て頂きました」
「素敵なゲストが来て下さいました」
とか言うべきなのでしょうが、アナウンサーでも言い間違える人がいますよね。
「素敵なゲストに来て下さいました」
と言い間違える人はいないような...
チンパンジーやボノボを人類の隣人とか兄弟とか言う人がいるけど、
だったら、「お前ら、何万年も何やってたんだ」と私は彼らを叱りたい。
>>245 さっそく近くの動物園に叱りに行け。何時間しかってもいいぞ。
誰も止めないぞ、しまいに警備か警察に止められるかもしれないけど。
ある本にありました。
「チンパンジーの子供は、その成体に較べて遥かにヒトに似ている」
彼らは、大人になるとサボってばかりです。
ヒトの世界では、働かざるもの食うべからず、です。
誰か、彼らを叱って下さい。
真矢みき(女優)のペット、文鳥のピーコはウィンクするのよ!
虎の二足歩行。
53 :なごみ ◆g0A3JSu6AE :2007/10/25(木) 13:00:28 ID:kxuq/YkDO
670:おさかなくわえた名無しさん :2007/10/24(水) 08:34:03 ID:ahEFYFMK [sage]
ある雪の降る日の午後、近所の懇意にしている野良猫が一匹の子猫を咥えてうちにやってきた。
子猫を置いて、どこかに消えた。子猫、瀕死。
母と俺とは大慌て。「とにかく、暖めてみよう」
子猫はなんとか生き延びた。が、鳴き声を発しない。
「仮死状態になった時、脳をやられたのかな…」と思いながら、育てた。
餌は食べた。天窓の小鳥を目で追いかけていたから、視覚も大丈夫そうだ。
雀が好きで、声を聞くと窓の側に行っていたから聴覚もOK。
外に出さなければ生き延びられるだろうと思って、家飼いをしていた。
しばらくして、その猫が時々口を開けるのに気づいた。
猫が甘鳴きする時のような開け方。
声がでるのか?DKWK。そして数日後、とうとう猫は声を発した。
「チュン!」
衝撃的だった。
252 :
没個性化されたレス↓:2007/11/21(水) 15:50:30
久しぶりに虫干しあげ。
米大学、生後6カ月で実験(asahi.com)
「顔に見せかけたおもちゃが山に登ろうとしているときに、それを助けて押し上げるキャラクターと、妨害する別のキャラクターがそれぞれ登場する場面を見せた。その後、二つのキャラクターを見せると、ほとんどの赤ちゃんが助けるキャラクターを選んだ」
正答率8割、サルにも出来る 足し算の暗算、米デューク大学の実験 (12/18)
The Limits of Counting: Numerical Cognition Between Evolution and Culture
Sieghard Beller and Andrea Bender (Science: 2008/01/11)
> Number words that, in principle, allow all kinds of objects to be counted ad
> infinitum are one basic requirement for complex numerical cognition.
> Accordingly, short or object-specific counting sequences in a language are
> often regarded as earlier steps in the evolution from premathematical
> conceptions to greater abstraction.
> We present some instances from Melanesia and Polynesia, whose short or
> object-specific sequences originated from the same extensive and
> abstract sequence.
> Furthermore, the object-specific sequences can be shown to be cognitively
> advantageous for calculations without notation because they use larger
> counting units, thereby abbreviating higher numbers, enhancing the counting
> process, and extending the limits of counting.
> These results expand our knowledge both regarding numerical cognition and
> regarding the evolution of numeration systems.
>>257 文化の発達に伴いより単純になった物の数え方
『文化のなかには、文化の発達に伴い計数システムがより単純なものへと変化しているものがある、とドイツの研究者らが報告している。
今回の発見は、計数システムは進化に伴いより複雑化するという一般的仮定と相反するものである。
Sieghard BellerおよびAndrea Benderは、共通の祖語から分岐したメラネシアおよびポリネシアの言語4種について、その言語学的情報、人類学的情報を分析した。祖語にはさまざまなものを数えるための抽象的な数の言葉が比較的多く含まれている。
しかし、新しい言語では、きわめて短い、あるいは「ものに限定した」数え方を用いている(「ものに限定した」数え方では、例えば、ココナッツ100個を表す言葉はカヌー100艇を表す言葉と異なっている)。
著者らは、この単純な数え方は文化間で異なる必要性に応じるように発達したのではないか、と説明している。例えば、文字による表記方法を持たない人々は、このような進化により遠距離での商取引の支払いや貢ぎ物の経過を追跡することができるようになったと思われる。
今回の発見は、言語(例えば言語による計数システムなど)が、暗算などを含む「認知」に影響を与えているという知見を裏付けるものであると著者らは述べている』
Mind & Language (February 2008 - Vol. 23 Issue 1)
Against Darwinism (JERRY FODOR)
Fun and Games in Fantasyland (DANIEL DENNETT)
Explanation in Evolutionary Biology: Comments on Fodor (PETER GODFREY-SMITH)
Fodor's Bubbe Meise Against Darwinism (ELLIOTT SOBER)
Replies (JERRY FODOR)
Meta-cognition in Animals: A Skeptical Look (PETER CARRUTHERS)
Intention, Temporal Order, and Moral Judgments
(WALTER SINNOTT-ARMSTRONG, RON MALLON, TOM McCOY AND JAY G. HULL)
Conversational Implicature, Thought, and Communication (JEFF SPEAKS)
Fodor's Challenge to the Classical Computational Theory of Mind (KIRK LUDWIG AND SUSAN SCHNEIDER)
サ・ヨ・ナ・ラ
言語って認知のフレーム構造にすぎない。
263 :
没個性化されたレス↓:2008/06/22(日) 21:06:52
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/ / (,,..,)二i_,∠ /
sage