前スレ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その6)●○
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254879446/ が500kを超えて書き込み不能になったので、新スレを立てます。
親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからできるだけ分か
りやすく、試行的に答えてみたいと思います。
渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立場から答えさ
せていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、大谷派の坊さんも常駐しています。教派的
な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂けると思います。
なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、私宛の質問
は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関する質問に限
定したいと思います。
地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽浄土には、
どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというのは、本当か。死んだら
極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏になるのか。お釈迦様の悟りって
何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」
は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏しら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。
極楽って何?。地獄って何?。阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄
土に行きたいとも思わないんだが、それじゃいかんのかね?。
今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思います。本派、
大谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。
原始仏教と浄土真宗の関係について考えています。
これまでをまとめました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/image/sinran_2.jtd 一太郎ソフトで書いています。
一太郎ビューワで読むことができます。
http://www3.justsystem.co.jp/download/viewer/ichitaro/ 続き
お釈迦様はどのような方だったか。お釈迦様にはたくさんのお弟子さんがいた。お釈迦様は、
努力の途上でふさぎ込み、考え込んでしまっていた人には解決の知恵を与えた。これによってお
弟子さんは目の前が明るくなって道が開け、再び行動の命を回復して歩んでいくことができた。
お釈迦様は、限りない光を与えて下さる方と呼ばれた。継続のための限りない命を与えて下さる
方、そのように呼ばれた。お釈迦様は、光も命もご自身から発しられた。だから悟った方と言わ
れた。無碍光仏・無量寿仏というのは、もともとは釈尊に対する称号だったと僕は思う。
無明とは何か。知恵があれば前進できるんだが、知恵がなければ前途が見えなくて前進ができ
ない状態を言うんだろう。その中には、本人は前進しているつもりでも、空回りしているときも
あるだろう。とまらずに逃げ出すと言うこともある。
大無量寿経は言う。
世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって
自ら給済す(貪欲 むさぼり)。
世間の人民、父子・兄弟・夫婦・室家・中外の親属、当に相敬愛して相憎嫉することなかるべ
し。(瞋恚 いかり)
善を作して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。人、死して更りて生まれ、恵施して福
を得ることを信ぜず。(愚痴 おろかさ)
人は、貪りが無ければ迷うことも少ないだろう。怒りがなければ穏やかに進むことも多いだろ
う。愚かでなければ、必要なことが成就することも多いだろう。
先人はどうやらこんな問題を大きく包含して無明という言葉でくくったんだろう。
3 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/02/10(水) 15:06:26 ID:pDeQQl5X
こうした問題は、個人的なことか、普遍的な問題か。現代の我々における生老病死は、過去無 数の人々が繰り返し繰り返し経験してきた生老病死といささかも違わない。将来無数の人々が繰 り返し繰り返し経験していくであろう生老病死といささかも違わない。先人達はそのように考え たようだ。石田三成と闘った徳川家康の生老病死と、現代の私の生老病死とは同一であろうか。 徳川家康と闘った石田三成の生老病死と、現代の私の生老病死とは同一であろうか。具体的な問 題では全て異なる。しかし、抽象化の次元が高くなれば高くなるほど同一に近づくだろう。 あらゆる人々の生老病死は一体となる次元があったようだ。そのことに気がついた時、人々は、 釈迦の悟りの真の意味を見い出したんだろうと思う。中村元さんの記述の中から考えてみたい。
4 :
悪魔が滅んで正義が勝つ、日月神示 :2010/02/12(金) 22:08:35 ID:zKKdPZhH
世界は一つになったぞ。一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してある 事が出て来たぞ。臣民にはまだ分かるまいなれど今に分かりて来るぞ。くどう 気つけて置いた事が愈々来たぞ。覚悟はよいか。臣民一人一人の心も同じにな りておろうがな。学と神の力との大戦ぞ。神国の神の力表す時が近うなりたぞ。 今表すと、助かる臣民殆どないから、神は待てるだけ待ちているのぞ。臣民も 可愛いが元を潰す事ならんから、愈々となりたら、どんな事ありてもここまで 知らしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。愈々となれば、分っている 事なれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬ事 よく分っているのぞ。因縁の身魂にはよく分るぞ。この神示読めば身魂の因縁 よく分るのぞ。神の御用をする身魂は選りぬいて引っ張りておるぞ。北に気を つけよ、東も西も南もどうする積りか。神だけの力では臣民気の毒出来るぞ。 神と人との和の働きこそ神喜ぶのぞ。早う身魂磨けと申す事も分るであろう。 メイソンの世界統一。米国とロシアはグルで、日本はロシア等に侵略され、 米国は裏切って日本を攻撃する。その時になって日米同盟のイカサマが暴露さ れる。悪の仕組は日本魂を根こそぎ抜いて、日本を一呑みにする計画であるぞ 。日本の臣民悪の計画通りに尻の毛まで抜かれて、詐欺で身包み剥されている 事に気づかんか。 祓いせよと申してある事は何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはメグ リなくする事ぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは 誰によらず苦しむのぞ。人許りでないぞ。家許りでないぞ。国には国の借銭あ るのぞ。今度の世界中の戦いは世界の借銭なしぞ。世界の大祓いぞ。神主お祓 いの祝詞あげても何にもならんぞ。お祓い祝詞は宣るのぞ。今の神主宣ってな いぞ、口先許りぞ。祝詞は読む物でないぞ。宣るのざぞ、祈るのざぞ、融けき るのざぞ。祝詞も頻蒔きや国津罪皆抜けて読んでいるでないか。これでは世界 は清まらんぞ。悪や学に騙されて肝腎の祝詞まで骨抜きにしているでないか。 皆心得ておけよ。神の事は神主に、仏は坊主に、医療は医者に、学問は学者に と申している事、根本の大間違いぞ。
5 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/02/15(月) 14:41:22 ID:LEvyt7cP
7 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/02/20(土) 11:28:23 ID:sUQY7VW4
釈迦の悟りは、病(又は老病)の原因は無明である。無明が解決すれば病(又は老病)は無くなる。おそらく そのようなものだったと思うが、面白いことに、人々に一番最初に説いた内容はそれではなかったと経典は 言う。 釈迦は最初、旧友である五人の出家に向かって法を説く。そのときの内容を仏教最古の経典であるパーリ 語の中部経典から中村が紹介している。 『みずから老いるもの・病むもの・死ぬもの・憂きるもの・汚れたものであるのに、老いるもの・病むもの・死 ぬもの・憂うるもの・汚れたものに患いを見出して、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・安らぎを 求めて、不老・不病・不死・不変・不汚である無上の安穏・安らぎを得た。そうしてかれらにはこの知と見とが 生じた、―「われらの解脱は不動である。これは最後の生である。もはや再び生存することはない。」と。』 この経典は中道を説いている。この経典に漢訳経典がある。中村はそれを紹介している。 『まさに知るべし、二辺の行あり、諸の道をなす者の当に学ぶべからざるところなり。一にいはく、欲楽・下 賤の業・凡人の所行に著す。二にいはく、自ら煩ひ、賢聖が法を求むるに非ず。義と相応すること無し。五 (人)の比丘よ。この二辺を捨てて中道を取ることあらば、明を成じ、定を成じ、定を成就して自在を得。智に 趣き、覚に趣き、涅槃に赴くは、すなはち八正道なり。正見乃至正定なり。これすなはち八となす。』 経典には様々な伝搬ルートがあり、ルートが異なると内容が少しずつ異なる。漢訳経典の方が具体性を もって伝えている場合がある。漢訳経典では中道と八正道という言葉が出てくる。四諦という言葉が出てこ ないが、四諦を排除して考える必要はないだろう。つまり因縁の法則とは、それが単独で存在するのではな く、中道・八正道・四諦と一体となった思想だったと言うべきだ。つまり、因縁の法則・中道・八正道・四諦は、 一つの思想であり、釈迦の悟りのそれぞれの断面を提示していると言うべきだろう。 八正道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定と、八つの単語が並ぶ。当初からこのよ うに整理されていたかどうかは分からないが、その原形が意識されていたと思う。
8 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/02/20(土) 11:29:08 ID:sUQY7VW4
パーリ文の『中部』経典は言う。 『わたくしは五人の修行者の群れにくっきりと理解させることができた。二人の修行者を教化するとき、三人 の修行者は托鉢に行った。三人の修行者が托鉢に行って得た食をもって、われら六人の群れが生活した。 また三人の修行者を教化するとき、二人の修行者は鉢に行った。二人の修行者が托鉢に行って得た食をもっ て、われら六人が生活した。』 『さて五人の修行者の群れはわたくしにこのように教化せられ、このように教えられて、みずから生まれるも のであるのに生まれるものにおいて患いを見出して、不生なる無上の安穏・安らぎ(ニルヴアーナ)を求めて、 不生なる無上の安穏・安らぎを得た。』 釈迦の認識は、これまで同じような修行をしてきていた仲間にはすぐに受け入れられたようだ。直ちに彼 らの理解を得た。
浄土について ブログ親鸞仏教 書きました www.しんらん.jp
信心とは何か。議論を始めました。 ブログ親鸞仏教 www.しんらん.jp ↓ 「掲示板 百家争鳴」
11 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/04(木) 09:58:27 ID:8coxP/Dg
12 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/04(木) 10:51:57 ID:8coxP/Dg
13 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/07(日) 11:23:18 ID:yk+xwGAD
釈迦が三十五歳の時に悟った内容は、因縁の法則だけではない。中道・八正道・四諦を含む。むしろその総体で あり、人々に説明するために言葉になったとき、因縁の法則、中道、八正道、あるいは四諦という形になったのだろ う。 浄土真宗を考えた場合、間接的には関係があるが、因縁の法則、中道、八正道、四諦とは直接的なつながりは やや遠いように思う。浄土真宗の直接の根源、僕はそれは三学だろうと思う。浄土真宗は三学を原点とする。そう 考えている。 三学とは、戒律と禅定と智慧である。仏教はいつから三学を説き始めたか。中村博士の本を読む限り、どうもはっ きりしない。しかし、因縁の法則・中道・八正道・四諦から三学論が出てくるのは、ごく自然だろうと思う。恐らく、釈 迦在世中に三学という概念は確立していただろうと思う。三学は釈迦の悟りを実現する上で、必然的に出てくるも のであり、その意味では三学も釈迦の悟りの中に内在していた概念であると考える 中村博士は律蔵を紹介している。 『世尊が成道してより五年間、比丘の僧伽はことごとく清浄であったが、これよりのち漸々に非を為した。そこで世 尊は事に随って制戒をつくり、戒律の箇条を立てて説いた。』 戒律は非常に早い時期にできたが、釈迦が人々に仏道を説き始めた当初からあったものではない。三学はその 戒律が発生してから意識されてきたものだ。 『如来は最初に阿若?陳如等の五人を度した。彼らは善来出家であり、善く具足戒を受けていて、共に戒を一に し、竟を一にし、住を一にし、食を一にし、学を一にし、説を一にした』。
14 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/07(日) 11:24:08 ID:yk+xwGAD
釈迦が定めたルールを守ることを誓うと、お弟子さんたちは釈迦から一定のルールを渡される。こうして人々は正 真正銘の釈迦の弟子になる。戒律を守るということは、釈迦の弟子であることのアイデンティティーに関係する。慶 応大学の学生が慶応大学の校則を守らないということは、慶応大学を退学すると言うことだ。早稲田大学の学生 が早稲田大学の校則を守らないということは、早稲田大学を退学すると言うことだ。仏教者が戒律を守らないとい うことは、釈迦の弟子であることを放棄することを意味する。 釈迦は、自分に戒律を守ることを誓った者に真理を説いた。真理には有形の真理と無形の真理がある。有形の 真理は、文字(言葉)、図形、音楽、建築物、振る舞いなど、一定の形状をもって伝達できる。仏教ではこれを智慧 という。真理は有形のものばかりではない。無形の真理もある。無形の真理は、形状で示すことはできない。そこ で釈迦は無形の真理を人々が容易に手に入れることができるところに置いた。それが禅定である。禅定を行えば、 人々はその無形の真理も取得することができる。 釈迦は、御弟子さん達の学習について三つの柱を立てたのだ。それが戒・定・慧と言われる三学である。三学を 学ぶと言うことは、釈迦の悟りを学ぶことである。釈迦の悟りを学ぶと言うことは、三学を学ぶことである。因縁の 法則、中道、八正道、四諦を学ぶと言うことは、三学を学ぶことであり、釈迦は三学の中に因縁の法則、中道、八 正道、四諦の全てを包み込んでいる。これが仏教の基礎であり、原点である。
ブログ親鸞仏教 「神と阿弥陀仏の違い」を再開しました。 www.しんらん.jp
aA8ytIw0fTtvHFGMxg5fj9QS/cRnD5VJKiGMtWXp9vT7V46kMg TuhqXzA/Bv9qL8xcYqVLkZTeC+5e6B8QV6aiINtYWoYNCmUyuiQ y0SkDvcq4R/QUcgynG6W05D9Ho7aRLmtbGkpPZU4U11ljSdRCwxd 1wXX5x4GU15gUHXG0Sf/ht6CN6vGBaonvp1gI3x8ZldZpNk5RgZ0 HI73Gb3c+YrtCaqkTo2VaA3AbM0NjnTo3zQay01nzSjq4pUwmSS2 kwtvx7xNDdx/ubGeGz+7B+erwL6DC4dNS29MZXEtBBLcMxw6nRE n5tc/ehhkXFTkW8moHpYiOzeovGOm2CkpqujrUVjVzRYZcN99dsh znX75a/CNCzK+jB4/XTV4LnDuszBdTZolQEdrOJVQXqEZsmQ6g EnlwIeZwxy8IxmvIAo3ASFHhoSUdef8D0+f1Or7MX/1THjxlPw
17 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/19(金) 10:46:21 ID:7eXzZ1ml
三学は中道であり、中道は三学にある。三学の実践こそ、そのまま八正道の実践であり、八正道の ない三学は三学でない。三学にこそ四諦が備わり、四諦は三学に備わっている。三学の実践は、因 縁の法則に基づき、その無明を破り、輪廻を断つ唯一の手法である。輪廻を断つ手法こそ三学にあ る。その意味で、僕は、三学と中道と八正道と四諦と因縁の法則は一体であると考えている。 三学は、戒律と智慧と禅定を要素とする。戒律は善悪の価値観をその本質とする。安易に変更す れば際限が無くなる。しかし価値観は時代と社会で変動する。ヒマラヤ山脈の南側、雪はない比較 的高温の半乾燥地域で二千数百年前に妥当した善悪の価値観が、雪降る温帯の多湿地域で二千 数百年後にそのまま妥当するとは思えない。 釈迦の時代から二千数百年を経過した現代においては、釈迦の戒律の価値は、一般庶民の規範 としては後退していると考える(無価値というわけでは決してない)。国には憲法がある。法律がある。 企業には社則があり、学校には学則がある。市町村には条例があり、町内会には町内会規則があ る。商いには商いの慣習もある。人々は、身の回りのそのようなルールをしっかり守っていけばいい。 それらのルールを破れば、破ったルールの中で裁かれる。ルールを破ってそのルールで裁かれた 人を、仏教が重ねて仏教の名で弾劾する必要はないだろう。 何が正しいのか、何が間違っているのか、仏教に聞かなければ分からないという時代ではない。 善悪は坊さんに決めて貰いましょうなどという時代ではない。他の善も要にあらず。悪をもおそるべ からず(歎異抄)。人々は身の回りのルールをしっかり守っていけばいい。身の回りの当たり前の 倫理・道徳・規則を当たり前に守っていくことが、現代における持戒というべきではないだろうか。 価値観ほどではないが、智慧も変動する。コンピュータもインターネットも存在しなかった二千数 百年昔には世界の最先端とされていた文化の中に、現代のラーメン屋さん、クリーニング屋さん、 警備員さん、お巡りさんなどが真っ先に学ばなければならないものがあるとは思えない。
18 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/19(金) 10:47:05 ID:7eXzZ1ml
法華経・華厳経・維摩経など、仏教には著名な経典は数多い。しかし、ラーメン屋さんがそれを知 らないと困るというようなことはない。クリーニング屋さんが知らないと困るということもない。仏教の 経典には、複式簿記の話題も、マーケティングの話も載っていない。庶民には、仏教の智慧を学ぶ ことより先に学ぶこと、やるべきことがあるだろう。僕はそう思う。警備員さんは警備のことを学べば いい。ラーメン屋さんは、ラーメンの作り方、販売方法、顧客サービス方法など、仏教より先に学ぶ べきことが数多い。 三学の内で残るは禅定である。現代において、仏教が社会に提示するもの、それは禅定である。 親鸞は教行信証で、「念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり」という。覚如は教行信証のこの言 葉を指し、「流布の本に 『深妙』の下、『問答』の上に禅の一字あり」。という。親鸞は、真筆の五会 法事讃略抄で「念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり」と説く。 浄土真宗は現代に向かって禅定を提案する。釈迦は三学をもって迷い(輪廻)を断つ方法を説い ている。親鸞は、そこに時代というファクターを加えた。世のルールを守り、世の常識、専門知識を 学び、その上で禅定の実践を提案する。それが浄土真宗である。 禅定は手法である。技術である。手法は改良を重ねられて進歩する。浄土真宗は多念念仏と一 念念仏とを行う。親鸞は初心者(凡夫)に奢摩他・毘婆舎那という言葉を使わない。多念念仏・一念 念仏という言葉を使う。多念念仏は五会念仏を実践する。一念念仏は、南無阿弥陀仏と一度称え ると姿勢を正してその声を止め、座禅の形で瞑想に入る。奢摩他・毘婆舎那は上級者が行う。多念 念仏・一念念仏に慣れてくると、それらの行為は自ずから奢摩他・毘婆舎那につながってくる。親 鸞はそのことを知っている。 浄土真宗は、原始仏教の核心部分に時間(時代)というファクターを加えただけの教えであり、そ の行体は唐の時代、中国で完成した洗練された手法を採る。浄土真宗は、現代における釈迦の直 説教であると言うべきだろう。
19 :
神も仏も名無しさん :2010/03/25(木) 01:18:47 ID:dOKMXXeF
「三途の川」「賽の河原」というのはどういう世界ですか?
20 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/25(木) 11:50:07 ID:TPSoMg5a
「三途の川」は、『金光明経』あるいは『地蔵菩薩発心因縁十王経』などの記載があり、それ に通常社会の渡河方法が混濁した俗信だそうです(ウィキペディア)。僕は、民間新宗教を勉強 したことはなく、それ以上のことはわかりません。 「賽の河原」は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来するという説があ るそうですね(ウィキペディア)。これはおもしろいと思います。 地蔵菩薩和讃に、十歳足らずで死んだ子供が賽の河原で石を積み、父親・母親のために菩提を 回向して祈るという話が出てきます。 地蔵菩薩和讃は空也上人が作ったという説があります。空也上人説が正しいかどうか、僕には 判断する資料がありませんが、地蔵菩薩和讃は中世の日本人の精神が透けて見える貴重な資料だ と思っています。 空也上人の時代は、慢性的な飢饉と疫病の時代です。多くの庶民が行き倒れ、京都は町中で腐 乱した死臭が漂っていた。そんな中で、空也上人は死体を集めてきてそれをゴミとして焼却する ことを人々に教えた。日本火葬の始まりです。 鴨川と桂川の合流する佐比の河原などは、格好の場所だったのでしょう。空也上人は、腐乱し た死体を見るのも嫌がる人々を率先して死体を運んだ。そのとき、人々に教えたのが、称名念仏 だったろうと思います。『南無阿弥陀仏』だけを称え続け、何も考えず、手と足だけ動かして死 体を不動明王の御座所に運べ。不動明王の御座所とは河原の焚き火の場所だ。空也は阿弥陀像を 背負いながら、人々を作業に誘った。以前、公立の火葬場に行ったとき、マリヤ像や十字架像は なくても、不動明王の札が貼ってあったのに驚きました。 死体に近づくと祟りがある。病魔に冒される。不幸になる。当時、民衆にはそんな迷信があっ たはずです。たたりを恐れる民衆の心を安心させるため、空也上人は佐比の河原の焼き場に火炎 の不動明王の札を立てた。魔除けのパフォーマンスとして不動明王に護摩行を執行し、南無阿弥 陀仏を称えた。不動明王と阿弥陀仏の一体説の始まりでしょう。
21 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/25(木) 11:52:46 ID:TPSoMg5a
数時間焼いて黒こげになって小さくなった炭はそのまま河に流した(三途の川)。焼却作業が 終わると、人々は歓喜し、酒を飲んで人々は踊った。盆踊りの始まりです。魔除けと汚れ落とし のためという説明があったと思います。このとき空也は一緒になって鉦を叩いた。以後、彼は鉦 を叩いて町を練り歩き、死体焼却の人手を集めるようになる。 死体を焼いた佐比の河原にはその後、故人の関係者が時々集まってきて故人をしのび、石を積 み上げて墓標とした。空也を真似て手を合わせ、繰り返し繰り返し南無阿弥陀仏を称えた。石墓 の始まりです。歎異抄には、父母の孝養のために念仏申すという話が出てきます。親鸞の時代に は、父母の孝養のために念仏申すという民間信仰ができあがっていたようです。起源はおそらく 空也でしょう。死んだ両親を河原で焼いた子供達に、両親を偲びながら悲しみから立ち上がる方 法を空也は説いた。彼の優しい心が伝わってきます。 河原で石が積んであると邪魔になります。平安時代の検非違使(警察官)達は、積んである石 を蹴飛ばして河原を整理するのが仕事だった。空也はこれを、鬼と言う。 親が子を弔うとき、一歳で死んだ子に石を一つ積み、五歳で死んだ子は石を五個積む。あれか ら何年たったかなと、歳を数える「さいの河原」だったかも知れません。 佐比の河原に行けば、死に別れた人、生き別れた人と出会えることがある。祈っている人とと の出会いがある。法事の始まりです。賽の河原はそういう場所になっていたかも知れません。 西暦963年、空也は鴨川で大規模な供養会を開いたそうです。法然・親鸞の大衆浄土教の根 元は、空也上人と賽の河原で始まった。今から1047年前の話です。ぼくはそう思っています。
22 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/28(日) 15:45:32 ID:qgmzEu7p
自分から主体的に念仏を称えよう。そう決心したら(正定聚)、どの ように念仏を称えたらいいのか。 親鸞が比叡山で教わっていた念仏方法はどのようなものだったか。 ブログで議論を始めました。 ブログ親鸞仏教 しんらん.jp
23 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/29(月) 12:50:06 ID:H6t14LUO
親鸞が説いている浄土真宗には二つある。一つは、浄土の教えである。もう一つは、聖道の教 えである。ラーメン屋さんは法華経も涅槃経も勉強する必要はない。パン屋さんは、パン屋さん のルールを守ればいいんであって、仏教の戒律はいらない。そう教えているのは、親鸞の浄土の 教えである。しかし、親鸞の聖道の教えではそうはいかない。 浄土真宗から聖道の教えが消えて四百年。浄土真宗は長い長い眠りの中にある。浄土真宗の中 に聖道の教えが回復しなければ、仏教に明日はない。 宗祖親鸞聖人は大般涅槃経要文で言う。 もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すな わち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修せずば、すなわち解脱なし。一切の聖人が道を修 するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無きゆえなり。もし一切 の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。もし、聖道を修習する ことを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解脱を得、涅槃を得ずば、 またこの處(こと)はりあること無けん。善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世 の所作、純善の業は、まさにながくすでに常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、また ながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなから ん。乃至 正しいことを行わなければ、きっと悪い結果を生むだろう。しかし、正しいことをする以上は 必ず正しい結果を得なければならないと、そのように思うなら、聖道の教えなど学んではいけな い。しかしだからといって、仏道を正しく修行しなければ解脱を得ることはできない。これまで、 仏教は多くの哲人賢人を輩出してきた。そうした人々が仏道を修行した理由は何だったか。それ は、大きなまずいことを行っても、結果の報いが軽かったからである。まずいことを行っても、 その報いがなかったからである。正しいことをする以上、それに見合う結果は出さなければなら ない。そのように思うなら、聖道の教えを求めて修行してはならない。
24 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/29(月) 12:51:21 ID:H6t14LUO
しかし、聖道を離れ、それでも迷いから解放されるとすれば、見合う結果が出るという理屈は破綻 する。迷いを離れても、真理を多くの人と共感するという結果が得られなければ、見合う結果が出 るという理屈は、この場合も破綻する。求道者たちよ、正しいことをする以上は必ず正しい結果が 得られるとするなら、現下に純粋な善を行えば、常に永遠の幸せが得られるだろう。当然のことな がら、現下に重大な過ちを起こせば、永遠の苦しみを得るだろう。もしそうであれば、世の中には 修行を行って迷いから解放されるという人はいなくなる。 正しいことを行っても必ず正しい結果がでるとは限らない。正しい行為に見合う結果が出ると は限らない。しかし、どうかそのような結果を恐れず勇気を持って聖道の道を進んでほしい。 極楽浄土は大きく二つに分かれる。蓮華蔵世界と功徳大宝海である。功徳大宝海とは自主的、 自律的に念仏を称える人々の世界である。そこは化土界と異なる。化土界とは、誘われれば念仏 を称えるが、誘いがなければ念仏を称えない人々、自分からは進んで念仏を称えない人々の世界 である。功徳大宝海は正定聚、化土界は不定聚の世界である。蓮華蔵世界は功徳大宝海の先にあ る。蓮華蔵世界が極楽浄土の要である。蓮華蔵世界は熟練者、功徳大宝海は初心者の世界である。 念仏は自主的、自律的に称えるようになればそれで十分というものではない。正定聚になれば もういいということではない。親鸞が提唱する極楽浄土つまり親鸞が理想として提唱する念仏道 場では、多念念仏と一念念仏を実践する。多念念仏は五会念仏という称え方をする。これを通じ て、親鸞は奢摩他・毘婆舎那に誘導しようとしている。多念念仏と一念念仏とを実践すれば、た だちに奢摩他・毘婆舎那ができるようになるということではない。奢摩他・毘婆舎那は禅定がで きるようになることが必要である。禅定ができるようになると、そこで初めて自己の煩悩と対決 できるようになる。
25 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/29(月) 12:52:18 ID:H6t14LUO
大般涅槃経要文で親鸞はいう。 もし智慧よく煩悩を破すと言うは、到るためのゆえなり。破は、到らざるがゆえに破す。もし 破するに到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。 智慧は毘婆舎那によって開発されてくる。この智慧が煩悩を効果的に破壊する。智慧は煩悩に 到達するからである。智慧は、それまで何者も到達するものがなかったから、智慧が起きて初め て煩悩を破壊する。智慧があっても煩悩を破壊するに至ることができないとすれば、それは凡夫 つまり未熟だからである。通常の人であれば、つまり普通に訓練すれば破壊できるようになる。 正定聚になっても、つまり信心ができても、未熟な内は煩悩の解決がない。しかし、念仏に熟達 してくれば、衆生であればだれでも煩悩が破壊できるようになる。 蓮華蔵世界とは、多念念仏と一念念仏で奢摩他・毘婆舎那ができるようになった人々の世界で ある。在家の仏教はここで終わる。つまり、在家は多念念仏と一念念仏で奢摩他・毘婆舎那がで きるようになると卒業する。出家仏教はここから始まる。親鸞仏教では、化土界・功徳大宝海に 出家はいない。出家つまり僧とはこの蓮華蔵世界から始まる。 功徳大宝海から蓮華蔵世界に入ると親鸞仏教は一変する。親鸞は決して甘い言葉をかけない。 聖道の道を歩めと説く。蓮華蔵世界から本格的なプロの道が開始する。
26 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/03/30(火) 09:56:20 ID:1GOp9kwF
神は万物をどのようにして創造したか。 天地創造神話について、書きました。 ぶろぐ親鸞仏教 しんらん.jp
28 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/03(土) 12:09:14 ID:b1sRXtOP
親鸞という人は、まれに見る法華経の行者だった。親鸞は、日蓮のように法華経の題目を称えることは人 々に勧めなかった。法華経を読むことを勧めている文書もきわめて少ない。無いわけではない。しかし、そ の主張の全体を見ると、親鸞という人は、日蓮とは味わいを異にした法華経の実践者だった。 信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土の さとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろ う。(歎異抄) 信心のない人はまず、極楽浄土の辺地に招き、疑惑が晴れたら報土の悟りが開けるとそのように聞いて きています。信心の行者は数少ないからこそ、まず化土に入ることを勧めていらっしゃる。 光明寺の和尚の御釈(散善義)には、「念仏の人をば、上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人」と、ほめた まえり。(一念多念文意) 自主的に念仏を称える人はすばらしい人だ。善導大師はそのようなひとを上上人・好人・妙好人・希有人・ 最勝人と、ほめてくださる。 功徳大宝海に帰入すれば、 必ず大会衆の数に入ることを獲。 蓮華蔵世界に至ることを得れば、 す なわち真如法性の身を証せしむと。(行の巻) 功徳大宝海に入れば、極楽浄土の仲間になる。将来必ず仏になるというそういう立場になる。 しかし、功徳大宝海の先にある蓮華蔵世界に至れば、必ず真如法性の身を証る。 念仏を知らない者には、疑ったままでいいから化土にいらっしゃいという。 いつまでも化土ではいけない。念仏を称えだした人には、信心の心で報土に入りなさいと教える。 報土に入った人は功徳大宝海である。それよりも確実に蓮華蔵世界に入りなさいと教える。
29 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/03(土) 12:11:05 ID:b1sRXtOP
こうしたガイドのしかたは法華経の手法そのものではないか。 方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言わく、汝等怖るること なかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於て止って意の所作に随うべし。若し是の城に入 りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば亦去ることを得べし。 是の時に疲極の衆、心大に歓喜して未曾有なりと歎ず。 我等今者斯の悪道を免れて、快く安穏なることを得つ。是に衆人前んで化城に入って、已度の想を生じ安 穏の想を生ず。 爾の時に導師、此の人衆の既に止息することを得て復疲倦無きを知って、即ち化城を滅して、衆人に語っ て、汝等去来宝処は近きに在り。向の大城は我が化作する所なり、止息せんが為のみと言わんが如し。(法 華経 化城喩品) 導師は、長い険しい道の途中に一つの城を建て、人々に言う。もと来た道を戻るのはやめよう。せっかくこ こまできたのだから、ここで大いに休んでいこう。ここで宝物を得ていこう。このように言う。 疲れ切っていた人々はここで大いによろこぶ。自分たちは悪い道を避け、すばらしい世界に入った。人々は 進んで化城に入り、既に目的を達したと思う。 このとき、導師は人々が安らぎを得、疲れが取れたのを見極めると、化城を消す。人々に言う。宝物の場所 は近い。これまでの城は私が仮に作ったものだ。あれは一時の休憩所だったのである。 若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、 獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。(大涅槃経要文) もし毘婆舎那(一念念仏)が有効に煩悩を破壊するなら、どうして 奢摩他(多念念仏)も併用するのです か。一念念仏は煩悩を破壊するが、それは多念念仏と共同して煩悩を破壊するのである。 親鸞は、人々が煩悩を破壊できるよう、多念念仏と一念念仏とを勧める。煩悩の破壊には、禅定ができるよ うになることが必要である。煩悩が破壊できるようになまで人々を導くため、化土、報土、功徳大宝海・蓮華蔵 世界という化城を設定する。 在家の人は、禅定ができるようになることが目標となる。出家を目指す人は、そこを出家の出発点としてほ しい。
30 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/03(土) 12:11:46 ID:b1sRXtOP
禅定ができるようになると、出家は本格的に智慧の学習を勧める。やがて念仏道場を開き、人々に念仏を勧 める社会教育者になっていく。親鸞は、このようにして自らは天台僧として法華経を実践しているのである。
31 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/08(木) 11:08:19 ID:paQjR9KY
親鸞の魂はまさに法華経の魂そのものではないか。ぼくはそのように考えている。僧籍は奪われても、 親鸞は生涯天台僧としての自覚を、個人的には決して失うことはなかった。天台僧は、法華経を自らの 行動原理とし、法華経を実践するところにアイデンティティを実現する。 真実の信心を給わりて喜ぶ心の定まるとき、摂取してすてられまいらせざるゆえに、金剛心になると きを、正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれて候めり。弥勒と一つ位になるゆ えに、信心真なる人をば、仏と等しとも申す。また諸仏の、真実信心を得て喜ぶをば、真に喜びて、我と 等しきものなりと説かせ給いて候なり。 (末燈鈔) 「お!、念仏っていいじゃん。面白いじゃん。これからはこれに決めた。どんどんやっていこう。忘れ ずに必ずやろう」。こういう思いが出てきた人、つまり、真実の信心が得られ、念仏を喜ぶ心ができたなら、 日々、一人でも、二人でも、三人でも一緒に念仏を称えるようになるでしょう。そうすれば、思いがけず、不 可抗力、正当防衛、緊急避難、詐欺、錯誤、自暴自棄などに翻弄されるということが少なくなる。迷いから、 迷いに流れる輪廻の悪循環が切れる。なぜなら、念仏を通じ、先人の大きな智慧に包まれるからです。 念仏に腹が固まり、自主的、自律的、確定的に念仏を称えていく人、正しい智慧が確定的に得られるよう になった人、こういう人を正定聚という区分に入った人といいます。大無量寿経では、こういう人のことを、 釈迦の次に仏になる弥勒菩薩と同じ立場になったと、教えてくれています。弥勒菩薩と同じ立場に立ちま すから、真実の信心を得た人は、仏に等しいともいいます。真実の信心を得て喜んでいる人について、無 数の賢人・哲人たちは、自分たちと同等であると説いてくれています。 真実の信心を得た人は弥勒に等しい。仏になったも同然である。親鸞はそう言う。親鸞の周りには、真実 の信心を得た人はたくさんいただろうと思う。真実の信心を得たというのは、奢摩他・毘婆舎那が実践できる ようになったということではない。自主的、自律的に念仏を称えるようになった人である。称名念仏に腹が固 まった人である。こういう人について、その人の潜在的な可能性に着目して弥勒に等しいと賞賛している。
32 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/08(木) 11:09:01 ID:paQjR9KY
法華経には重要な記述が少なくないが、常不軽菩薩品はその中でも特に重要な一つだろうと思う。 爾の時に一(ひと)りの菩薩比丘あり、常不軽と名く。得大勢、何の因縁を以てか常不軽と名くる。是の比 丘凡そ見る所ある若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆悉く礼拝讃歎して、是の言を作さく、 『我深く汝等を敬う、敢て軽(かろし)め慢(あなどら)ず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作 仏することを得べければなり』。 而も是の比丘、専らに経典を読誦せずして、但礼拝を行ず。乃至遠く四衆を見ても、亦復故(ことさ)ら に往いて礼拝讃歎して、是の言を作さく、 『我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべきが故なり』。 四衆の中に瞋恚(いんに)を生じて心不浄なるあり、悪口罵詈して言く、 是の無知の比丘、何れの所より来って、自ら我汝を軽しめずと言って、我等が与に「当に作仏すること を得べし」と授記する。我等是の如き虚妄の授記を用いず』と。 此の如く多年を経歴して、常に罵詈せらるれども瞋恚を生ぜずして、常に是の言を作す、『汝当に作仏 すべし』と。 是の語を説く時、衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲(うちたた)けば、避け走り遠く住(とどま)りて、猶 (なお)高声に唱えて言わく、 『我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし』と。其の常に是の語を作すを以ての故に、増上慢の 比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、之を号して常不軽と為せるなり。 常不軽菩薩は、さまざまな人々に向かい、常に礼拝して言う。あなた方は、菩薩の行を実践なさってきっ と仏になる方ですよと。時には、人々から罵られたり、木や石でたたかれることがあったが、なお、そのよう に礼拝して回った。『あなたはきっと仏になるでしょう』。いつもその言葉を忘れなかった。人々は彼を常不 軽と呼んでいた。 『次如弥勒』。このキーワードを経典の中から見つけると、大きくクローズアップし、意味を拡大し、親鸞は 盛んに主張する。正定聚は弥勒に等しい。 親鸞は、法華経に書かれている常不軽菩薩行を自らの行動原理としている。かれの主張の背景で親鸞を 動かしているのは、法華経の思想である。僕はそう思っている。
33 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/08(木) 13:01:41 ID:paQjR9KY
>>31 × 翻弄されるということが少なくなる。迷いから、迷いに流れる輪廻の悪循環が切れる。なぜなら、念仏を通じ、先人の大きな
智慧に包まれるからです。
○ 翻弄されるということが少なくなる。親鸞聖人の勧める念仏、つまり多念念仏、一念念仏を実践すると、智慧が透明に見え
てくる。智とは、あれかこれかと考えること。慧は、あれかこれかが止まることです。念仏道場では、フリートーキングもあっ
て、透明化がさらに促進する。これを気づきという。道理が見えてくるから痴が消える。瞋(いかり)がうすまる。貪(むさぼり)が
和らぐ。興奮していた三毒が静まる。見えなかったものが見えてくる。迷いに流されなくなる。輪廻の悪循環が切れる。先人の
深い智慧につつまれる。
34 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/08(木) 13:19:14 ID:paQjR9KY
弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれて候めり。(末灯抄) 大無量寿経は言う「一一菩薩、已曾供養、無数諸仏。次如弥勒者也」。一人一人の菩薩は、 既にかつて無数の仏たちを支えてきた。弥勒のような存在に次ぐ人々である。 大無量寿経は、弥勒菩薩と同じ位になるとは説いていない。弥勒のような存在に次ぐと言っ ている。親鸞はこれを「仏を次ぐこと弥勒の如し」。つまり「仏」という意味を加えている。正確に は、「次仏如弥勒」と読み替えている。 これは親鸞のオリジナルの主張である。親鸞の考えの本籍地は法華経であるというべきだ ろうと僕は思う。
35 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/10(土) 14:15:21 ID:yKAtNXFm
36 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/16(金) 12:23:38 ID:3MqRWvwv
親鸞聖人を敬愛する者にとって、法華経は極めて重要な経典と言うべきだろう。 法華経こそ、正確に言うと、法華経と涅槃経こそが親鸞精神の本籍だと考える。法華経から現代の浄土真宗を概観する。 常不軽菩薩品はいう。 我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道(多念念仏・一念念仏)を行じて、当に作仏することを得 べしと。而も是の(親鸞)比丘、 〜 故らに往いて(南無阿弥陀仏と)礼拝讃歎して、是の言を作さく、 我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に(称名念仏すれば弥勒に等しく)作仏すべきが故にと。 四衆の中に瞋恚(驕り)を生じて心不浄なる(真宗門徒)あり、悪口罵詈して言く、 〜 我等是の如き虚妄の授記を用いず と。(我々は念仏を称えなくても阿弥陀仏の願力〔他力〕によって極楽浄土に往生して作仏することを得と主張する。我らの法話 を聞けば〔称名念仏が無くても他力によって〕仏になると主張する。ただ称えても助からず。ありがたい、ありがたいと思えば、信 心正因・聞即心・聴聞第一で仏になると主張する) (親鸞比丘は)此の如く多年を経歴して、(称名念仏を嫌う外道の真宗門徒に)常に罵詈せらるれども瞋恚を生ぜずして、常に是 の言を作す、汝当に(本願を信じ念仏すれば)作仏すべしと。 是の語を説く時、衆人(本願寺門徒・哲学者・真宗学者)或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声 に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に(本願を信じ念仏すれば)作仏すべしと。其の常に是の語を作すを以ての故 に、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、之を号して常不軽(親鸞聖人)と為く。 歎異抄は言う。 信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 ある著に曰く。 一度念仏すれば既にそれで往生することができるのである。さらに言えば念仏をしようとする心が起こったときに既に阿弥陀によ って極楽往生が保証されているのである。〜それを信ぜよ。それが最高の善である。 私(親鸞)は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉 を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
37 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/16(金) 12:25:13 ID:3MqRWvwv
「ばか正直に信じている。」これは誰の言葉か。 「おれは親鸞のような馬鹿ではないぞ」。このように親鸞聖人を馬鹿にし、念仏を馬鹿にし、蓮如賞選考委員という大変 ご立派な肩書きを持つ自称哲学者大先生、梅原猛大先生の御名著、ノータリンのための「歎異抄入門」の一節である。 梅原猛大先生は、歎異抄が心の恋人だそうである。 衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲す 得大勢、彼の時の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、瞋恚の意を以て我を軽賎せしが故に、二百億劫常に仏に値わず、法を 聞かず、僧を見て、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く。 常不軽菩薩を杖木・瓦石を以て之を打擲し、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受ける人々こそ、歎異抄を心の恋人とうそぶく蓮如賞選 考委員梅原猛大先生と、そのようなノータリンを選考委員に委嘱している蓮如賞主催者ではないか。親鸞聖人、蓮如上人の複雑そ うな悲しみの声が聞こえてくる感じがする。
38 :
紅音矢 ◆R/kUipgeiA :2010/04/20(火) 02:09:44 ID:2hp58LBq
そう言えばファイズはクリーニング屋だったな。
39 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 14:45:00 ID:UlyqIyAk
観音菩薩というのは、いろいろ変化する菩薩である。自分の身をいろいろに変えて苦しめる人 間を救う仏であるが、ここで性欲に苦しんでいる親鸞に観音菩薩は、自ら女体に身を変えておま えに犯されてやろう、と言ったのである。これはいったいどういうことなのであろう。 私は、これを救世観音が親鸞に生身の女体を持った女を娶る許可を与えたのであると思う。 これは誰の言葉か。大哲学者のお言葉であるとは到底思えない。蓮如賞審査員様であられるあ の梅原猛大先生のお言葉である。自称哲学者なら、何を言ってもいいと言うことではないだろう。 仏教音痴、真宗音痴も極まれりという感じがする。草葉の陰で親鸞は大泣きしているだろう。 覚如が書いた御伝抄には、親鸞が救世観音の夢告を受けたというエピソードが載っている。僕 は、初めてその御伝抄に触れたときから、一貫して、これは嘘だと思ってきた。覚如は信じるに 足りない人物であるということは、僕はこの救世観音の夢告の記事を根拠として主張してきた。 覚如はこんな記事を書くやつだから信じるに値しないと言ってきた。しかし、逆に、この馬鹿話 を鵜呑みにする学者がいるということに驚き、それが自称哲学者であるというから僕は驚天動地 する。なんという宗教音痴、真宗音痴かとあきれ返るのだ。 幸い、ごく最近、救世観音の夢告の馬鹿話が根も葉もない馬鹿話であることを立証可能な根拠 が見つかった。これによって、流罪前の親鸞結婚説は消滅したと思っている。 覚如による救世観音夢告伝説は種本がある。覚如自身も、これについて、「彼の記に曰く」と 言っている。種本は『親鸞夢記伝』と言う。親鸞の弟子である真仏が書いた文書である。専修寺 にあるその文書は、筆跡鑑定の結果、真仏が書いたものであることがわかる。覚如は、『親鸞夢 記伝』の一部をそのままコピーしている。 『親鸞夢記伝』には種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずどっかにある はずだと信じて疑わなかった。やはりあった。『覚禅鈔』という書物だった。ここに親鸞が救世 観音から受けたという夢告と瓜二つの記事がある。発見者は名畑崇氏(大谷大学名誉教授)であ る。『親鸞の六角夢想の偈について』という興味深い研究を発表されている。
40 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 14:49:27 ID:UlyqIyAk
覚禅鈔の一節を名畑崇氏の(真宗研究1963-10-15)論文から孫引きする。
本尊変玉女事
又云 発邪見心 淫欲熾盛 可堕落於世 如意輪 我成王玉女 為其人親妻妾 共生愛 一期
生間 荘厳以福貴 令造無辺善事 西方極楽浄土 令成仏道 莫生疑云
よこしまな心がおこって、色欲がさかんになり、道心を失ってしまうようなことになれば、如
意輪観音がみずから変じて王の玉女となり、その人の妻妾となって愛しあい、一生をけだかく幸
せにするであろう。そして数がぎりなく善事を造らしめ、命終の後に西方極楽浄土に仏道を成ぜ
しめるであろう。
救世観音とは如意輪観音のことである。名畑崇氏も言うように、御伝抄の記事とここまで酷似
していると両者の間に何らかのつながりがあったことは疑いがない。
覚禅鈔とはどういう書物か。真言宗では有名な書物らしい。kotobank.jp
(
http://kotobank.jp/word/%E8%A6%9A%E7%A6%85 )に面白い記事が載っている。
覚禅 かくぜん(1143−?)
平安後期〜鎌倉時代の僧。
康治(こうじ)二年生まれ。勧修(かじゅう)寺の興然、醍醐(だいご)寺の勝賢に師事。興然の影
響をうけ、図像資料を収集。建暦三年(1213)のころまで醍醐寺、勧修寺、高野山などの資料
を調査し、「覚禅鈔」をあらわした。字(あざな)は金胎房。通称は少納言阿闍梨。
「覚禅鈔」は、建暦三年(1213)ころにできあがったと言うことである。この年は、親鸞は
四一歳、流罪後のことである。京都に入ることは許されず、都払いの刑は続いていた。前年、法
然が死んでその葬儀にも参列できず、都入りを断念している。少なくとも、この時点で、親鸞と
夢告伝説とは、全く無関係であるということが言えそうである。
醍醐(だいご)寺の勝賢とはどういう人物か知りたくなる。
勝賢(1183〜1196年)は、平安時代中期の真言宗の僧。東大寺87世、醍醐寺18・
20・22世座主である。
41 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 14:52:13 ID:UlyqIyAk
当時の醍醐寺とはどういうところか。その環境を調べてみた。少しさかのぼると勝覚・仁寛という人がいた。 仁寛(生年不詳 〜1114年) 勝覚の弟子。密教立川流の始祖。 真言宗の僧の最高位である阿闍梨。輔仁親王(後三条天皇 の第三皇子)の護持僧。配流され、名を蓮念と改め、真言宗の教えの伝道に努めた。武蔵国立川出身 の陰陽師、見蓮らに醍醐寺三宝院流の奥義を伝授した。 勝覚(1058〜1129年) 仁寛の兄、真言宗系修験道 真言宗醍醐寺派、三宝院流の開基。一説には、こちらが真言密教立 川流の始祖と言われることもある。 真言密教立川流 男女交合の境地を即身成仏の境地と見なす。 平安後期、武蔵国立川の陰陽師見蓮が仁寛から教わった教えをもとに提唱し、文観が広めて大 流行した。 文観(1278〜1357年11月21日) 醍醐寺座主。 真言宗立川流の僧 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。 1213年頃、醍醐寺は真言宗立川流の中心地だった。覚禅は真言宗立川流醍醐寺の僧であり、 立川流の書物として覚禅鈔を著した。立川流は男女の交合を賞賛し、そのエロティシズムにより、 その後弾圧を受け、現在では消滅している。 親鸞の夢告伝説は、エロティシズム仏教最盛期、浄土真宗に移入された思想である。親鸞とは 全く関係がない。関係があるわけもない。 金沢の専光寺にある親鸞の真筆文書を紹介しよう。 我身救世観世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方教主弥陀尊 〜 漢文に返り点などを加点して訓読みする習慣は奈良時代に始まり、親鸞の時代にほぼ完成した。 親鸞は多くの文書に返り点、ふりがななどを振って読みやすくしてくれている。この文章にも返 り点とふりがながついている。
42 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 15:07:10 ID:UlyqIyAk
我が身は世を救(たす)くる観世音なり。定慧を契る女は大勢至なり。我が身を生育せる大悲 の母は、西方教主弥陀尊なり。 〜 救世観音は親鸞にとって、自分の妻ではない。まさに観音とは自分が実現する対象である。出 第五門の菩薩は示応化身、『法華経』の普門示現の類となれ(証の巻)。普門示現の類となると は、観音菩薩の行を実践するということだ。親鸞の思想の本籍地は法華経にある。親鸞は、生涯、 観音菩薩の行を実践していたのだ。女は大勢至である。浄土宗・浄土真宗は、男性優位の仏教界 で、唯一女性のための仏教を説いた。男性のための仏教は既にある。女性の中に定と慧とを結実 させる仏教を実現しよう。法然、親鸞はそのように考えていたようだ。定と慧とを結実させた女性、 それが大勢至菩薩である。 親鸞の思想の中に、観音菩薩と交合しようなどという思想など出てくるはずがない。男が男と交合 すれば、ニューハーフではないか。親鸞はニューハーフか?観音が自分で自分と交合すれば変態 ではないか。 念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち佛になる といはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)。 浄土真宗は、念仏と座禅・持戒を勧める。念仏だけで仏になるんだったら、座禅・持戒はいら ないんじゃないかという主張が出てくる。それは間違いである。座禅・持戒は念仏に実質的効果 を実現するために必要なのである。空腹の人が、風下に立ち、吹いてくる風を腹の中にため込も うとしても、腹の足しにはならない。座禅・持戒はいらないというのは、間違った考えである。 親鸞が、流罪前に結婚していたという主張の最大の根拠は、このように荒唐無稽の珍説であると いうべきである。 ちなみに、真仏は、親鸞が京都に戻った後、勧進僧として全国を歩き回っていた。当時、真言宗立 川流はおおいに盛んだった。隆盛を誇っていた京都の大寺院である醍醐寺に行き、そこで覚禅鈔を 見たのだろう。不思議な話ではない。 真仏は親鸞在世中に死んでいる。言い換えれば、親鸞が在世中に真仏は夢告伝説をでっちあげ たということだ。どのような理由があったか知らないが、もし親鸞がそれを知っていれば、大変 悲しんだことだろう。
43 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 16:05:08 ID:UlyqIyAk
>>39 『親鸞夢記伝』には種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずどっかにある
はずだと信じて疑わなかった。やはりあった。『覚禅鈔』という書物だった。
『親鸞夢記伝』にはさらなる別の種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずど
っかにあるはずだと思ってきた。僕はおおざっぱに、中国か朝鮮だろうと思っていた。やはりあった。
日本にあった。『覚禅鈔』という書物だった。
44 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 16:06:58 ID:UlyqIyAk
>>43 第一文が誤り、 第二文が正しいという意味です。
45 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 17:35:45 ID:UlyqIyAk
真言宗立川流について、我々はこれを、そのあまりのエロティシズムによって弾劾され、過 去の宗教、消滅させられた宗教であると信じてきた。そう教わってきた。しかし実態はそうでは ない。 現代日本の最大の既成宗教、浄土真宗こそ、真言宗立川流の思想の一部を継承している 後継宗派である言っていいだろう。 真言宗立川流浄土真宗派は、親鸞の知らないところで親鸞の弟子である真仏を起源とし、 さらに本願寺の覚如によって確立された。御伝抄は、浄土真宗では不磨の大典、極めて神 聖な書物である。 明治になり、日本の僧侶は浄土真宗に限らず、他の宗派でも妻帯が可能になった。倒幕 で果たした浄土真宗に対する論功行賞で、浄土真宗は多くの利益を得、さらに僧を明治政 府に送り込んだ。伊藤博文らが創建した明治憲法の創案者の中には、真宗僧侶が加わっ ていると聞いたことがある。 明治維新における宗教政策は、様々な点で浄土真宗の思想の影響が見られる。靖国神 社の創設などは、キリスト教と浄土真宗の合体のようなものだ。伝統的神道にはあり得な い。 僧の妻帯は、植民地になった朝鮮半島に渡る。現代では、韓国の仏教僧の半分は妻帯し ているそうだ。日本仏教の影響によるもので、端的に浄土真宗の影響だろう。真言宗立川流 が、浄土真宗という名で外国にまで影響を及ぼしている例である。 真言宗立川流は消滅していない。それは、浄土真宗という名前で現在に生きている。事の 是非ではない。浄土真宗の坊さんはその現実に気づくべきだろうと僕は思う。
46 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 19:08:49 ID:xnyXakB2
阿弥陀仏
47 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 21:01:18 ID:34pCP+7c
「女犯の夢告」の元となった文が1213年以前に流布していたのではないでしょうか。 覚禅抄の成立以前に「本尊変玉女事」が知られていても何の不思議もないと思うのですが・・・
48 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 21:37:39 ID:UlyqIyAk
>>47 1213年以前に流布していてそれを読んだというなら、「夢想の告げ」というのは、うそだという
ことになりますね。少なくともこの点は、真仏・覚如の作り話ということですね。
親鸞は、天台の僧として比叡山にいました。
僧にセックスを奨励し、観音菩薩を冒涜するような立川流の文書が、女人禁制の比叡山の親鸞
の周囲にあったとは思えない。そのような文書を親鸞が目にしていたとは考えられません。
親鸞の周囲にあったというなら、その資料的根拠を出してほしい。夢にまで見るような強烈な印
象が残っていたなら、その思想は親鸞思想の中に残っているはずです。
観音菩薩の慈悲を実践する(証の巻)。これが親鸞思想の本籍であると考えます。普門示現の
類となれ。こう主張する親鸞が、観音菩薩と交合するなどという話を弟子に持ち出すはずがない。
座禅と持戒を推奨する五会法事讃略抄を弟子に託すような親鸞思想と、エロティシズムを全面
に出す立川流の思想とを混同することは、決してあってはならない。
49 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/20(火) 21:38:57 ID:UlyqIyAk
>>47 1213年以前に流布していてそれを読んだというなら、「夢想の告げ」というのは、うそだという
ことになりますね。少なくともこの点は、真仏・覚如の作り話ということですね。
親鸞は、天台の僧として比叡山にいました。
僧にセックスを奨励し、観音菩薩を冒涜するような立川流の文書が、女人禁制の比叡山の親鸞
の周囲にあったとは思えない。そのような文書を親鸞が目にしていたとは考えられません。
親鸞の周囲にあったというなら、その資料的根拠を出してほしい。夢にまで見るような強烈な印
象が残っていたなら、その思想は親鸞思想の中に残っているはずです。
観音菩薩の慈悲を実践する(証の巻)。これが親鸞思想の本籍であると考えます。普門示現の
類となれ。こう主張する親鸞が、観音菩薩と交合するなどという話を弟子に持ち出すはずがない。
座禅と持戒を推奨する五会法事讃略抄を弟子に託すような親鸞思想と、エロティシズムを全面
に出す立川流の思想とを混同することは、決してあってはならない。
50 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 21:42:09 ID:34pCP+7c
如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。 だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。
51 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 21:47:45 ID:34pCP+7c
平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。 聖覚法印の実父も僧侶ですね。
52 :
神も仏も名無しさん :2010/04/20(火) 21:56:22 ID:34pCP+7c
あ、資料的根拠ですか。親鸞が元となった言い伝えを見聞きしていた、 という直接の資料があるわけではないです。 でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。 むしろ、真仏がつくり話を書かなくてはならないのか、そっちのほうが疑問です。 なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。
53 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/21(水) 11:12:00 ID:cDNt5svJ
>>50 >如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。
比叡山は、確か戦前まで女人禁制だった。非常に最近まで女性は入れなかった。そのような環
境の中で、平安時代、夢記のような文章が広まり、親鸞がその影響を受けていたとは、僕には思え
ない。
夢記の本文は漢文だから、一般庶民が読む内容ではない。漢文を読める貴族か僧侶しか触れる
ことはない。まして、夢記を読みましたということと、夢想しましたということはとんでもなく
違う。読んだと言うことを夢想しましたといえば、これは嘘を言ったことになる。親鸞は嘘つき
だったのか?
「親鸞は嘘つきだった。親鸞は言い伝えに触れていてそれを見ていた」。こういうなら、あな
たがその主張の根拠となるものを提示してください。あなたの悲壮な希望的想像で主張されても、
僕は対応できない。
>だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。
僕は自分で可能な範囲で根拠を示しているつもりです。後は、根拠の評価の問題だ。評価はそ
れぞれ人によって主観が相違する。
>>51 >平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。
真言宗立川流(醍醐寺派)は、当時、高野山派をしのぐ勢いだったようです。立川流が主流に
なった。
立川流は、南北朝の争いで事実上南朝が敗北し、南朝と運命を共にした。その間、立川流には
非常に多くの僧がいた。彼らは妻帯していたかもしれない。しかし、それ以外はほとんど妻帯し
ていなかったろう。
平安末期は僧侶の妻帯が普及していたというなら、幕末期、真宗以外で妻帯僧はどのくらいい
たのか。その数字くらいは提示して主張したらどうですか?
日本が朝鮮半島を植民地化する前、朝鮮の寺には妻帯僧はほとんどいなかった。まして、平安
末期、妻帯僧がたくさんいたというなら、その資料的根拠を出してほしい。
54 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/21(水) 11:14:18 ID:cDNt5svJ
>聖覚法印の実父も僧侶ですね。
これは遺伝学的に親子だったということでしょうか?。僧には淫戒というのがある(梵網経三
重戒等)。
僧が子供を持ってはいけないという戒律はない。僧の回りには子供がたくさんいる。子供には
四種類ある。弟子と養子と猶子と実子だ。淫戒を守れば、遺伝学上の実子は生まれない。しかし、
弟子・養子・猶子というのはいる。親の無い子、親が育てられない子を預かり、養育・教育する
ことは僧の重要な社会的使命だ。親鸞は、九歳の時、青蓮院という寺に、弟子として預けられた。
猶子は養子と実子の間で、実子との境目は、外部からはほとんどわからない。僧に子供がいた
と言えば、遺伝学上の実子であると考えるのではなく、猶子か養子と考えるのが常識だろう。
僧を見たら破戒僧だと思うというのは、浄土真宗の悪い癖だ。人を見たら泥棒だと思うといえ
ば常識がない。人がなにか物をもっていれば、盗品と考えろといえば、むちゃくちゃな話しだ。
人が何かを持っていれば、正当な所有権、支配権がその人にあるという推定のもとで社会は動く。
推定を覆して、盗品だと判断するには、それなりの証拠がなければならない。
僧を見たら、いきなり破戒僧であるという先入観で判断するのは常識に反する。 だから浄土
真宗は常識がない。平成時代には泥棒がたくさんいました。みんな泥棒をしていました。だから
ID:34pCP+7cも泥棒で、その持ち物はすべて盗品です。こういえば、ID:34pCP+7cさん、あなたは怒
るだろう。
ID:34pCP+7cさんが物を持ち歩いていれば、それは盗品ではないという推定をたてる。敢えて盗
品であるというなら、そのための証拠が必要になる。僧に子供がいましたといえば、遺伝学的な
実子ではないという推定を先に立て、弟子か養子か猶子と考えるのが常識だ。僧は破戒僧であり、
子は遺伝学的な実子だったというには、ID:34pCP+7cさんが泥棒で、持ち物は盗品であると主張で
きるくらいの、相当な根拠が必要だ。
>>52 >直接の資料があるわけではないです。
資料を見つけ、見つかってから言ってください。
あなたの個人的希望的妄想におつきあいするつもりはありません。
55 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/21(水) 11:15:49 ID:cDNt5svJ
>でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。 こんなところで同意を求められても迷惑です。 立川流の思想の一部を継承している後継宗教であるという主張を、僕はしています。そのため の証拠も出している。 僕が証拠を出しても、それは立川流との関係を根拠づけないというなら、それはあなたの証拠 評価です。あなたの証拠評価はあなたの自由です。僕とは主観が相違するということに過ぎない。 僕にはあなたの脳みそを改造できる技能も資格も意志もない。あなたから、主観の相違する相手 に同意は求めないでほしい。 >なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。 僕は以前、覚如の作り話だろうと思い、覚如が作り話をする必要性について、一、二度書いたこと がある。作り話をする必要性があるという主張を真仏にシフトする必要はあるが、それは無理な話で はない。 ただ、立川流との関係を示す証拠を出しても、それを無視して「立川流とは関係がない」というあな たには、作り話をする必要性についても説明をしても、あなたの耳には入らないでしょう。 五根者、心為其主(眼・耳・鼻・舌・身の五根は、心をその主体とする〔天台小止観〕)。「立川流とは 関係がないんだ」という心が主体になっていれば、つくり話を書かなくてはならない理由を耳や眼から 入れようとしても、あなたは拒絶するでしょう。聞く耳のない人に話をするつもりはありません。
56 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/21(水) 11:36:56 ID:cDNt5svJ
平安・鎌倉時代、破戒僧はたくさんいた。だから親鸞も破戒僧で妻帯していた。これは、 むちゃくちゃな議論だ。 平成時代、社会には泥棒がたくさんいた。だからID:cDNt5svJも泥棒で生活していた。 こういうなら、平成時代、社会にどのくらい泥棒がいたか、その数字くらいは最低限出す べきだろう。 念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわ ち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)。 親鸞は戒律を守れと説く。親鸞は流罪で無戒になった。しかし流罪前に破戒僧だった いうには、ID:cDNt5svJを泥棒であると立証できるくらいの証拠を示してほしい。
57 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/04/26(月) 10:17:55 ID:FPeI80hy
死んでいる浄土真宗学ではなく、親鸞聖人の生きている念仏を実践したいものだ。
こんにちわ渡海 難さん あなたが「死んだら鬼籍に入る」と言っているのは、 どこかの経典、聖教に典拠がありますか?
>>59 他の板での継続的議論です。飛び火にはノーコメントとします。
○ ● ○ ● ○ ● ○
>>45 一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
(大般涅槃経要文 親鸞真筆)
正しい修行を積めば、ことごとくその結果を出さなければならないなどと、そのように思って
はならない。結果が出ないこともある。結果が出ないこともあることは覚悟の上で、どうか聖道
を求めてほしい。親鸞は、大般涅槃経要文を介し、釈迦の言葉を引用して弟子達にそのように訴
える。
善男子、菩薩摩訶薩、大乗大涅槃經を修習し、佛性を見んとおもう。このゆえに少欲知足を修
習す。 〜 出家の人に四種の病あり。この故に、四沙門果を得ず。何等を四病とす。謂く、四
の惡欲なり。一には衣のための欲、二には食のための欲、三には臥具のための欲、四には有のた
めの欲なり。これを四惡欲と名づく。これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いは
く。糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなすを能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥
具惡欲をなすをよく破す。身心寂静なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除
く。これを聖の行と名づく。かくのごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。乃至
親鸞は無欲になれとは言わない。親鸞は僧に言う。少欲知足を学べと。
善男子よ。正しい修行者は大乗大涅槃経を修習する。佛性を得ようとして少欲知足を学ぶ。き
れいな服を着たい。うまいものを食いたい。快適な夜具で寝たい。いいものを欲しい。これを坊
さんの四つの病という。ぼろを着ろ。托鉢をせよ。樹下で寝ろ。心身寂静となれ。このようにす
れば、四病は直る。
もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とするなり。
これ眼見と名づく。もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とする
なり。これを聞見と名づく。 〜 もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利
養のためとやせん。若し、衆生の爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち
如來とするなり。これを眼見と名づく。
もし、如來を觀ずるに、他心智をもって衆生を觀ずる時、利養のために説き、衆生のために説か ん。もし衆生のためにして、利養の爲にせず。まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。 これを聞見となづく。 如来が行うようなことを行っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。如来が語 るようなことを語っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。自分のためではなく、 多くの人のために行動している人については、その人を如来と思いなさい。人の心を見抜く力の ある人が、その力を自分の利益のためではなく、他人の為に努めている人がいれば、それは如来 であると思いなさい。 親鸞は僧に言う。如来が行うようなことを行っている者がいれば、その人に学べ。如来が語る ようなことを語っている人がいれば、その人に学べ。自分の利益を忘れ、他人のために行動して いる者がいれば、その人に学べ。人の心を見抜く力のある人が、自分の利益を忘れ、他人のため にその力を発揮していれば、、その人に学べ。 若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 もし破する に到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく 破すとやせん。伴にことさらに破すとや。 一念念仏と多念念仏とをなぜ実践するのか。一念念仏は毘婆舎那となって効果的に人々の煩悩 を破壊するからである。もし、煩悩を破壊できなければ、それは、未熟だからである。普通の人 は、早晩、よく破壊できるようになる。一念念仏は煩悩を破壊するなら、何故多念念仏を実践す るのか。毘婆舎那は奢摩他となる多念念仏が付随することで煩悩を破壊するのである。 親鸞は、称名念仏が煩悩の破壊に効果があるからこそ人々に勧めている。未熟なうち、つまり 初心の内はなかなかうまくいかないが、慣れてくればそれが可能になる。だからこそ、念仏道場 を開き、初心者もベテランも一緒に念仏を称え、ベテランが初心者を指導できる環境を作ろうと した。 称名念仏ができるようになりなさい。煩悩をできるだけ破壊できるようになりなさい。奢摩他 ・毘婆舎那ができるようになりなさい。親鸞は人々にそう勧める。
禅定ができるようになり、奢摩他・毘婆舎那ができるようになって煩悩を破壊できるようになると、 在家の仏教は事実上卒業となる。僧はそこからスタートする。 私は凡夫です。煩悩の固まりです。念仏を称えられません。そのようなことを言っている人は、 浄土真宗には坊さんとしては一人もいないはずなのである。 僧は四病を直せ。きれいなものを着たいと思うな。うまいものを食べたいと思うな。安らかに 寝られる夜具を求めるな。無いものを欲しいと思うな。自らの利益を捨て、他人の為に尽くせ。 そのためには、自らの利益を捨て、他人の為に尽くしている人に学べ。これが浄土真宗の底流の 教えである。 世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、 申し合わせ給うべしとぞおぼえそうろう。(消息集) 世の中で困ったことが起これば、それを縁として、互いに打ち合わせあい、集まりあい、念仏 を深く信頼し、世の中がどうか幸せになりますようにと祈りあってみてください。念仏を称え合 ってください。親鸞は手紙でそのように訴える。 親鸞が提起した質問に、存覚上人は一つの回答を提示する。 されば念佛の行者、うちに信心を蓄えて心を淨土の如來に掛くといふとも、道場を構えて功を 安置の本尊に積むべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 穢土なれども淨刹に准じて 道場といふなり。されば自作・教他ともに最上の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、 同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝行なるがゆへに、諸佛も哀納し諸 天も歓喜したまふ。諸佛の照覧に叶ひ諸天の守護にあづからば、恩所の得脱も疑なく、自身の往 生も決定し、二世の所願一々におもひの如くして、自利々他の願行圓滿し、自他平等の利益を獲 得すべきなり。
63 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/06(木) 12:37:37 ID:dluL8Az3
念仏道場を作ろう。多くの人々と共に五会念仏を称え、互いに様々に語り合えるそのような場 を作ろう。存覚上人は、これこそが僧の最大の仕事であると考えた。存覚上人は全国に多くの念 仏道場を作る。浄土真宗は、多くの人々と一緒になって座禅して五会念仏を称え、互いに様々に 語り合うそんな場を作る念仏運動である。その中核になるのが僧である。これこそ、親鸞が六角 堂で後世を憂い、悩んだ問題に対する回答であり、観音菩薩の行、法華経の一つの実践の姿だろ うと考える。親鸞は日蓮聖人とほぼ同じ時代に出現し、日蓮聖人とは全く異なった法華経の実質 的な実践のありかたを提起する。
64 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/10(月) 18:55:59 ID:9uxfTMDB
インターネットアーカイブが公開している一切経(カナダトロント大学収蔵)の 索引を作りました。 しんらん.jp
65 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/13(木) 13:59:10 ID:oIKDDxxm
智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、 荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。(中村元 スッタニパータ) 戒律と禅定と智慧を学ぼう。三学を学ぼう。この主張は、紛れもなく釈迦その人の主張だろうと思う。十二因縁の学習は 四諦の学習であり、四諦の学習は八正道の学習であり、八正道の学習は中道の学習であり、中道の学習は三学の学習 である。これらは、釈迦の中では別々の思想ではなく一つの思想だったろうと僕は考える。浄土真宗は、三学の学習を思 想の基盤とする。 親鸞は持戒と座禅を勧める。教行信証の行巻で、法照の言葉を引用する。 「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。 正法よく世間を超出す。 持戒・座禅を正法と名づく。 念仏成仏はこれ真宗なり。 仏言を取らざるをば、外道と名づく。 因果を撥無する見を、空とす。 正法よく世間を超出す。 禅律いかんぞこれ正法ならん。 これ真宗なり。 性を見、心 を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。 親鸞は、五会法事讃略抄で法照禅師の教えを紹介し、念仏三昧の位置を提示する。 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。 念仏三昧は禅門である。念仏三昧というのは、親鸞が勧める念仏方法である。法然が勧めていた善導流の正定の業で は浄土の要に至らない。親鸞はそう考える(化身土)。親鸞は、道綽の安楽集を引用し、在家である厳父に対し釈迦が念仏 三昧を勧めている言葉を紹介する。親鸞は、不定聚に対し念仏三昧を勧めている。当今の凡夫は、〜「不定聚」と名づく (化身土)。親鸞の考えの重要な柱である。浄土真宗は、現代の凡夫に、念仏三昧という無上深妙の禅門を開いた。 正法と真宗、浄土真宗はこの二つの思想を根本思想とする。念仏をもって成仏を開く。それが真宗である。持戒・座禅が 正法である。なにゆえ正法を必要とするのか。親鸞は法照の教えを紹介する。 念仏は声声に仏種を下す。座禅持戒は真功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば、喩へば飢えた る人のひろく風を掩ふがごとし
66 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/13(木) 14:01:42 ID:oIKDDxxm
念仏は一声と一声に仏になる因をもたらしてくる。しかしそれだけでは中身がない。座禅持戒 なく仏になるといえば、空腹の人が風下に立ち、吹いてくる風を腹の中に押し込めようとするよ うなものだ。実に空虚である。座禅と持戒とは、実体的な効果をもたらすために必要なのだ。座 禅と持戒は、親鸞の教えの重要部分である。 親鸞は大涅槃経要門を引用して言う。 巻第三十一の師子吼菩薩品、第十一の五に言はく。「師子吼言ふさく。世尊よ、經の中に説く がごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 毘 婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。 親鸞は一念念仏と多念念仏とを勧める。一念念仏すなわち毘婆舎那で煩悩を破すなら、どうし て多念念仏すなわち奢摩他を修行する必要があるのだろうか。毘婆舎那は奢摩他を伴って煩悩を 破すのである。親鸞はそのようにいう。 親鸞は涅槃経によって釈迦の言葉を紹介する。禅定と智慧とは、それぞれ学ぶべき時があると いう。その上で親鸞は忘れることの大切さを説く。 善男子よ。もし菩薩摩訶薩ありて善く定時・慧時を知れり。これを菩薩摩訶薩の菩提道を行ず るとなずく。師子吼言ふさく。世尊よ、いかんが菩薩は時と非時とを知ると。善男子よ、菩薩摩 訶薩は樂を受くるによりて大僑慢を生ず。あるいは法を説くによりて驕慢を生ず。あるいは精進 するによりて驕慢を生ず。 〜 まさに知るべし。その時、よろしく智を修せずして、よろしく 定を修すべし。これを菩薩は時と非時とを知ると名づく。もし精進を勤修すれども、菩薩はいま だ涅槃の樂の利益を得ず。得ざるをもっての故に、悔心を生ず。 〜 自から戒律を疑い、羸損 あるが故なり。 〜 まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、智を修すべし。こ
67 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/13(木) 14:02:55 ID:oIKDDxxm
れを菩薩は時と非時とを知ると名づく。善男子よ、若し菩薩の定慧二法が平等ならざれば、まさ に知るべし。そのときよろしく捨を修すべからず。二法もし等しくば、すなわちよろしくこれを 修べし。これを菩薩は、時と非時とを知ると名づく。善男子よ。もし、菩薩ありて定慧を修習せ んに、煩悩をおこすことあらば、まさに知るべし。そのときはよろしく捨を修すべからず。まさ に十二部經を讀誦し、書寫し、解説し、念佛し、念法し、念?し、戒を念じ、天を念じ、捨を念 ずべし。これを捨を修すると名づく。乃至 驕慢が生じたときは智慧ではなく、禅定を学べ。禅定の努力をしても悟りという結果が生じな いときには智慧を学べ。悟りという結果が生じないことで戒律の重要性を疑いだしたら、大きな 間違いを冒すだろう。現代の浄土真宗の坊さんのように、戒律の重要性を忘れたなら、大きな間 違いを犯すだろう。 戒律の重要性を忘れないためにも、禅定と智慧とはバランスよく学べ。バランスが悪い場合に は、欠けている方に努力を傾けよ。学習を放棄してはならない。禅定と智慧とをバランスよく学 べたなら、それを忘れることを学べ。忘れることが大事である。しかし、煩悩が起きてきたなら、 禅定と智慧の学習を忘れてはならない。経典類を読み、それを書写し、意味を理解し、念仏し、 念法し、念僧し、戒を念じ、天を念じ、その上で全て忘れよ。全てを学んで全てを忘れよ。親鸞 はそのように言う。 浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違が ある。それを考えてみよう。
実に興味深いです。
69 :
神も仏も名無しさん :2010/05/15(土) 17:50:52 ID:dUeeBy4T
南無阿弥陀仏
70 :
転落院 :2010/05/16(日) 20:05:14 ID:YuuBBomp
さて質問です。 例えば…、 末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ 『高僧和讃』 末法五濁の有情の 行証かなわぬときなれば 釈迦の遺法ことごとく 龍宮にいりたまいにき 『正像末和讃』 よく似た和讃、とくに一句目が似ていますよね。とりわけ「衆生」と「有情」という違いが見てよくわかります。 色々な辞書で調べましたが、どれも「衆生」=「有情」という扱いのようです。 しかし、『三帖和讃』の中でも『正像末和讃』だけは、他と比べても「衆生」ではなく「有情」という語にこだわりがあるようです。 ここには当然、親鸞さんの何かしらの意図があるのでしょうが、今のところ皆目見当がつきません。 どうお考えになりますか?
71 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/18(火) 10:21:22 ID:ek+qpUeN
72 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/05/19(水) 11:21:25 ID:nX3nPuu/
お知らせ 期限未定で休筆します。 いずれ再開すると思いますが、1か月、半年、1年以上先か 全く分かりません。
73 :
あんぽんたんオオムラ :2010/05/29(土) 20:47:45 ID:salGUk8M
親鸞の著書『教行信証』とは、浄土三部経を自己流に翻訳したものだと聞いたことがありますが、 これで正解ですか? しかし、本願寺の現代語版には、『観経疏』とか『如来会』からの引用もあるのですが??? これらは、浄土三部経のなかの何処かの章のタイトルなのでしょうか?
74 :
神も仏も名無しさん :2010/06/22(火) 15:49:49 ID:s4dNlzjf
age
75 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/07/12(月) 11:54:39 ID:BZ7kAAeE
76 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/07/25(日) 13:09:52 ID:aevD/RuW
娘がちょっと難しい病気になり、その世話で物理的にも精神的にも2ちゃんねるに気を向ける余
裕がありません。それでも長い間ご無沙汰しているのも気になるので、少し書いてみます。
浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違があ
る。それを考えてみよう(
>>67 )
釈迦仏教では、入門するとまず戒律を授かる。戒律を守りながら、直ちに智慧と禅定とを学ぶ。
親鸞はこの教育プログラムに疑問を持った。三学を同時にスタートする必要があるのだろか。これ
は現代にそぐわない。
三学を学べ。親鸞がそう言っているのは、おそらく大般涅槃経要文だけだろうと思う。未発見あ
るいは歴史の中で消失した文書の中に書いてあった、あるいは書いてある可能性は否定できないけ
ど、現時点では大般涅槃経要文だけであるという仮説を前提にして考えたい。また、出家の守るべ
き道を記載してあるのも、この大般涅槃経要文だけだろうと思う。
大般涅槃経要文は、禅定ができるようになった人を読者にしている。つまり親鸞にとって、出家
とは禅定ができるようになってから始まる。三学の学習も、禅定ができるようになてから始まるの
だ。禅定ができるようになるまでは、出家を考えるな。智慧も戒律も入らない。親鸞仏教とは、出
家という学校に上がる前、いわばプレスクールの教育プログラムを社会教育として社会に提示して
いるのである。
歎異抄は言う。
「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつ
べし」。
この言葉に親鸞の教育プログラムの信念が含まれていると思う。経典を読んだり、論釈を読んだ
りしないならば、本当に仏教を学んでいることにならない。仏教を学ぶと言うことは、戒律と禅定
と智慧とを平行して学ぶ必要がある。そういう考えが伝統的価値観の中にある。親鸞はこの考えに
反対する。親鸞は禅定先行論を主張する。
77 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/07/25(日) 13:11:12 ID:aevD/RuW
戒律や智慧の学習も大事だけど、最初は禅定を先行させようではないか。戒律や智慧の学習は、 禅定の実践ができるようになってからで遅くはない。親鸞はそう考えている。 戒律や智慧の学習は後回しでいい。事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さんも、まず禅定 の学習だけやってみてください。その場合でも、いきなり奢摩他・毘婆舎那をしなさいとは言わな い。念仏道場などで一念念仏・多念念仏を実践してみて、そこで禅定ができるという経験を積んで 欲しい。事務員さんや警備員さんやラーメン屋さんに、親鸞が坊さんとして教えることのできるの はこの禅定だけです。親鸞はそういう。 ラーメン屋さんや警備員さんが、法華経を読んでも、唯摩経を読んでも、たいした参考にはなら んだろう。ラーメン屋さんはそれより、簿記の勉強や、仕入れ、販売の勉強をした方がいい。勉強 することもなく、経営も安定すれば、少年野球チームの監督でも引き受けたらどうですか。法華経 もいいけど、他にも読む本はたくさんあるだろう。警備員さんも事務員さんも同じだ。村上春樹の 『1Q84 BOOK』がいいか、法華経の方がいいか、好き好きもあるだろうが、『1Q84 BOOK』を読まず に法華経を読みなさいとは言えないだろう。そんな事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さん も、一念念仏・多念念仏を実践してみて禅定ができるようになってほしい。できるようになったら どうするか。そしたらそれで仏教の学習は卒業でいい。仏教の戒律を学ぶより、警備員さんには警 備員さんの世界のルールがある。国法を守り、地域の決まりを守り、業界のルールを守る。それが 大事だ。ラーメン屋さんも同じだ。 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、 内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪鈔)もし諸仏菩 薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信ある ことを知らんや。(教行信証) 仏教では五戒を守れと言うが、実際には仁・義・礼・智・信を守れ。世の通常の道徳、常識を守 れ。親鸞はそういっていた。諸仏菩薩は、人々に仁・義・礼・智・信、つまり世の通常の道徳、常 識を守れと教える。
78 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/07/25(日) 13:12:15 ID:aevD/RuW
親鸞は、仏教初心者には、智慧と戒律の教育を後退させた。しかし、自分は仏教の専門家になる。 人々がそういう志を抱くことは大変大事なことだ。親鸞は、禅定ができるようになった人には出家 を許した。出家になると、今までの態度は一変する。浄土の教えを終わらせ、聖の行を実践せよ、 聖道門を守れと説く(大般涅槃経要文)。 出家は戒律と禅定と智慧と捨を学ぶ。禅定と智慧と捨を学び、念仏道場を作って人々を教化する。 これが親鸞仏教の大乗プログラムである。 まさに親鸞仏教とは、現代の実情にかなった釈迦仏教、大乗仏教の中核に位置する。僕はそう思 う。
79 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/06(金) 14:12:01 ID:sdfz2SSw
念佛三昧は、これ眞の無上深妙の禪門なり(五会法事讃略抄)。王いま座禅してただ当に念仏 すべし(行の巻)。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひ とのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(歎異抄)。かの土に生じ已りて、奢摩 他・毘婆舎那・方便力成就することを得(証の巻) 念佛三昧は禅門である。座禅して多念念仏、一念念仏を練習し、奢摩他・毘婆舎那ができるよ うになりなさい。きっとすばらしい人生が開かれてくるだろう。戒律と智慧の学習を後退させ、 親鸞は禅定の学習を提唱した。三学を一律でなく、優劣をつけるという考え方は親鸞が最初では ない。古くは鑑真の時代からある。鑑真は、日本に来ると一般民衆にまで授戒を行った。鑑真は、 大衆には智慧と禅定を後退させて戒律を説いた。現代の学校教育はどうか。座禅を教えている学 校は極めて少ない。いわば智慧の学習がほとんである。学校で生徒に禅定を教えれば、学校教育 におそらく革命が起きるだろう。 智慧や戒律を後退させ、禅定を学ぼう。こういう提案は、通常の釈迦の教えからは出てこない。 その場合、曹洞宗や臨済宗であれば、教外別伝・不立文字という主張が可能になる。しかし天台 宗にはそのような考えはない。親鸞は、経典群の中から阿弥陀仏という名の架空の仏の教義とし てその主張を体系化した。 親鸞の考えは、たしかに釈迦には思いも寄らない考えだったかも知れない。しかし、釈迦の教 えに時間というファクターを加えれば、自然に出てくる考えだろうと思う。その意味で、親鸞仏 教は釈迦仏教の本懐を説いていると僕は思う。 以上を持って、昨年の八月から続けた釈迦仏教と浄土真宗との関係に関する議論を終わります。 以前に「大無量寿経がなぜ真実教か」という問いがありました。それと、ある人から八苦の内 の五蘊盛苦の意味を教えて欲しいという質問をインターネット外で受けたことがあります。その とき直ちに答えられなかった。 五蘊盛苦とは何かを先に考え、その後、「大無量寿経がなぜ真実教か」ということを考えてみ たい。
80 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/19(木) 13:20:04 ID:fImJh8FY
五蘊盛苦の問題に入る前に、触れておきたい問題を思い出した。「仏教では五戒を守れと言う が、実際には仁・義・礼・智・信(五常)を守れ」。親鸞はそう教えていた(改邪鈔)。この問 題の解説が舌足らずだ。これが意味するテーマは、日本仏教の中で割合と深い問題を孕んでいる ように思うので触れておきたい。 法照禅師は、坐禅の実践と戒律の維持の重要性を説いている。親鸞仏教では、禅定ができるよ うになるまでは出家になれない。親鸞聖人が教化の中心に置いた人々は、禅定が不十分な不定聚 と正定聚であって、全て在家である。仏教の原則では、在家が守る戒律は五戒という五項目であ る。つまり、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒である。つまり、親鸞は、仏 教の原則で言えば、人々に不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒を説く立場にあ った。 しかし親鸞は「五戒つまり五常を守れと説いていた。覚如上人はそう教えてくれている。もし そうであれば、親鸞の主張の伝統教学上の正当性と社会的客観的妥当性が問題になる。 伝統教学上で親鸞の主張は正当か。親鸞は曇鸞に基づいていたのだろうと思う。親鸞は教行信 証で、「もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁 ・義・礼・智・信あることを知らんや」。という浄土論註の言葉を引用している。諸仏菩薩が説 く世間・出世間の善道とは、仁・義・礼・智・信である。親鸞はこの言葉から、五戒に代えて仁 ・義・礼・智・信を説く正当性を導いていたに相違ない。 社会的客観的妥当性の問題は、評価する人の主観にもよるが、在家が守るべき基本的な道は五 戒に置くよりも仁・義・礼・智・信に置いた方が現実的であり、ベターであるという判断が働い ている。 明治以降、特に戦後になって法句経・阿含経、スッタニパータなどが広く一般の人々の手に届 くようになってきた。江戸時代までは、仏教の専門家である坊さん達以外、庶民にはほとんど知 られていなかった。法句経・阿含経、スッタニパータなどにはあまり触れない。これが伝統的日 本仏教の特徴である。社会規範としては法句経・阿含経、スッタニパータにまさるものがある。 それは儒教である。日本仏教の先人達はそう考えていた。
81 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/19(木) 13:21:07 ID:fImJh8FY
日本仏教の先人達は仏教に固執しなかった。儒教と天秤に掛け、より良いと思う方を庶民に提 示したらしい。仏教の戒律は解釈が難しい。出家と在家ではダブルスタンダードを適用しなけれ ば妥当性が導けない。それに比べ、儒教倫理の方が庶民、在家の倫理規範としては合理的でわか りやすい。日本仏教の先人達はそのように考え、親鸞は仁・義・礼・智・信を守れと説いていた。 そのように考えるべきだろう。
82 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/19(木) 14:07:50 ID:fImJh8FY
それでは、親鸞は仁義礼智信を説き、仏教の戒律の維持は説かなかったのか。そん なことはない。例えば、親鸞肉筆の文書の中に「浄肉不浄肉の文」というのがある。 ここで肉食の限界を教えている。 鎌倉時代、関東は土地がやせ、肉食は生きるための最低条件だったろうと思う。その ような中で、親鸞は肉食の限界を教えていると考えたい。「浄肉不浄肉の文」は、出家 者に向けての持戒の教えだ。 親鸞は、在家には五常を説くが、出家には持戒持律の生活を要求していたと考える。 浄土真宗の僧は仏教の戒律を守れ。 もし精進を勤修すれども、菩薩はいまだ涅槃の樂の利益を得ず。 〜 自から戒律 を疑い、羸損あるが故なり。まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、 智を修すべし。 戒律は重要である。努力を重ねているがなかなか悟りの利益が得られなければ、結 局は戒律を疑い、戒律を破って自らを損ねることもある。戒律に疑いを持つようにな れば三学の内の智慧を学び直して戒律の重要性を再認識せよ。(大般涅槃經要文) 親鸞聖人は、禅定ができるようになり、蓮華蔵世界で出家した僧に向かってはこの ように説いている。これが浄土真宗親鸞聖人の教えである。
83 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/30(月) 11:06:53 ID:o8y/sL3N
五蘊盛苦とは何か。最近、僕は、秋葉原歩行者天国での通り魔殺人事件が思い浮かぶ。犯人の 加藤智大さんは、自動車工場の派遣社員だったという。彼の世代の多くが、現代では非常に困窮 している。1980年代、日本中が土地バブルに踊った。その後、日本経済は長い不況トンネル の中に入った。 一方、中国はGNPで日本を追い抜き、中国経済は世界を動かそうとしている。G5(日、独、 英、米、仏)又はG7(日本、独、英、米、仏、伊、加)に代わってBRISC(ブラジル、露、 印、中)が勢いを増し、VISTA(ベトナム、インドネシア等)、NEXT11(イラン、イ ンドネシア等)がそれを追っている。そんな中、G5の先頭にいる米・日、特に日本は疲弊が激しい。 土地バブルの後遺症を脱していない。職のない若者達が塗炭の苦しみを受けている原点は、土 地バブルによるものだろう。 土地バブルの狂乱経済と秋葉原での殺人事件とは関係がないというかもしれない。しかし、当 時の人々が国の舵取りを間違えなければあのような狂乱時代はなかったろう。土地バブル狂乱経 済は人が起こしたが人災であり、あれがなければ、秋葉原の殺人事件もなかったろうと思う。 現代の我々が今経験している再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が経験してきた再起 ・挫折・再起・挫折と本質的にはいささかの相違もない。今後、無数の人々が経験していく再起 ・挫折・再起・挫折と本質的にいささかの相違もない。土地バブルを起こした愚かさと、無差別 殺人を起こす愚かさとは同一であると言えば言い過ぎか。本当のことが見えていない闇の中では、 全てが真っ黒に見る。愚かさは暗黒をその本質とする。 人が、再起・挫折・再起・挫折を繰り返すその根本には、実態が見えず、本当のことが分から ない無知(無明)が横たわっている。始め無き始めから終わり無き終わりに向かってそれは限り なく連続している。 土地バブル開始の頃、加藤智大さんなどは、まだ生まれていなかったに違いない。最近、秋葉 原殺人事件を模倣した同様の殺人事件が広島マツダ工場で起きた。愚かさは、常に人々の精神の 奥底でマグマのように沸騰しており、弱いところがあるとそこを突き破って地表に吹き出てくる。
84 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/30(月) 11:10:22 ID:o8y/sL3N
吹き出た爆発の様相は各所で表面的な相違があっても、地下では時代を超え、地域を越えてつな がっている。 人々に智慧がない。正しい智慧がなければ悲劇は二度、三度と繰り返す。無明を破る力は、倹 約ではない。我慢の精神力でもない。智慧以外のなにものでもない。我々一人一人に智慧がない こと、それがマグマの本質であり、無明の実体であると言うべきではないか。 智慧は深い思索すなわち禅定から気づけてくる。釈迦が二千年以上前に我々に提唱してくれた 仮説だ。深い思索を忘れた上辺だけでの認識、浅い思考、分別無き行動は全て迷いである。ネッ トで相手をされなくなれば殺人に走る。実に愚かで悲しいことではないか。 肉体は眼・耳・鼻・舌・身・意を持つ。眼はものを見、耳は音を聞く。深い心がなく、上辺で 物事ごとを見れば、本当のことは見えないだろう。本当の音は聞こえないだろう。眼は節穴であ り、耳は壁になる。鼻は塞がれ、舌は抜かれた状態になる。眼に眼はなく、耳に耳はなくなる。 鼻に鼻が無く、舌に舌がない。智慧を忘れた一切が空である。 むかついた。腹が立った。頭に来た。殺してやりたい。こうした感情も、深い思索があれば変 わることも多いはずだ。受けた感情、抱いた考えは、根も葉もない妄想だったということは少な くないだろう。 深い思索すなわち悟りのない色・受・想・行・識のどこに、確実なものがあると言えるだろう か。確実なものはどこにもない。 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。念仏三昧これ真宗なり。念仏成仏これ真宗なり。 王今坐禅してただ当に念仏すべし。(五会法事讃略抄) 五蘊盛苦とは、親鸞が提唱するこの仮説と表裏の概念だろうと僕は思う。
85 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/08/30(月) 17:02:21 ID:7NYIUEXX
口の利けない人、言葉の発せられない人は極楽浄土にいけないのか。百家争鳴で回答しました。 ブログ親鸞仏教 www.しんらん.jp 百家争鳴 掲示板
86 :
どんくさい学者の妄説信者へ :2010/09/11(土) 15:51:41 ID:KT6W8uo1
神学1 日本人の後ろ盾には、この宇宙を創造された神がおわします。悪神(メーソン) はこの神に成り代わろうとして、日本人を人質にとって言いなりにさせようと している。メーソンが日本に原爆を落としたのもこの理由からである。最近、 日本人が海外で死亡しているのはメーソンの陰謀である。日本人の血統は一番 神に近い。そのことは竹内文書にうたってある。日本人はキリストのように人 類の罪を贖わなければならない運命に置かれている。 西洋人の面貌は昔の人が言っているように、紅毛青眼の醜夷である。ほりが 深く、青眼なのは吸血鬼ドラキュラと一緒で、青眼だから太陽の光が眩しいの で彫りを深くして眩しさを防いでいる。つまり、悪魔の類である。韓国人の面 貌、特に目の形がつり目やたれ目でいびつなのは、これも同様に目蓋で眩しさ を防いでいるのであり、悪魔の類である。日本人の目は均整が取れて美しい。 昔の日本人の大和魂も美しい。 メーソンは日本人を卑しめる為に、洗脳して来たのである。日本には固有の 文字がなかったとか、中国文化を習ったとか、西洋文化で文明開化したとか、 太平洋戦争でアジアを侵略した(この戦争は自衛戦争、その前の中華事変で挑発 された。米英は中立を守らず、蒋介石に軍事援助した)とか。そのお陰で日本古 来の伝統の神道が絶たれた。神国日本に神風が吹かなかったのは、戦争と言う武 力で物事を解決しようとしたからである。その罰が原爆被害として表れた。 神が表に現れて善と悪を立て分ける。ヨハネの黙示録に言う悪魔の刻印を押 された者とは、肉食を行なう事によって内なる神の分け御霊を穢して、まるで、 太陽が黒雲で覆い隠された様なものである。この悪魔に取り憑かれた者は、慈 悲の心と羞恥心が欠如し、自己の欲望を満たす為に正義から外れた行動をとる。 五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、贅沢)の罪を犯す。この者は神を信じないか、 悪魔の宗教に魂を売っている。神を否定した科学を妄信して、科学によって生 ずる害毒が自然を破壊する事に手を貸している。この者達は神の最後の審判に よって草木等に替えられる。内なる神の御霊が発揮出来る様に直ちに菜食に移 行しなければならない。
87 :
どんくさい学者の妄説信者へ :2010/09/12(日) 13:03:37 ID:WZbQe3O9
587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見 赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。 日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即 位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大 兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極 天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横してい るのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが 専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなか った。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から 聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太 子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。つまり、犯人 は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興す る為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエ ル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角 獣)である事からも分かる。 この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となっ た。未だに日本は朝鮮人に支配されている。真理を悟る事が出来るのは聖者だ けである。本来世界は天皇が治めるべきものであり、その国の王が委託を受け ていた。メーソンが世界制覇の為に各国の王政を破り、天皇に成り替わらんと している。悪魔が統治しても悪の世は潰れる。神の信任を受けた聖者が統治し なければならない。民主主義などと言う衆愚の多数決ではものごとは解決しな い。悪魔は世を潰し、神の裁きを受けて退治される。
大無量寿経はなぜ真実経か。この問題について考えて行きたい。 この問題を考える場合、大事なことがある。予め一切のフィルターを外し、生の形の大無量寿経を認識 することだ。 親鸞が真実経であると言ったから真実経である。そういう考え方をやめよう。四十八の誓いの中で、十 八願を法然が王本願と言ったからそれが中心である。こういう考え方をやめようではないか。善導大師は 大無量寿経から念仏の教えを開いてきた。だから大無量寿経は念仏の経典である。そういう考え方を一切 やめようではないか。 大無量寿経には筆者がいる。筆者は誰か。筆者の主張は何か。筆者の主張に焦点を当てて、筆者の思い を考え、大無量寿経が語ろうとしてことを一つ一つ掘り起こして行きたい。そうすると、親鸞や法然の主 張とは全く違う大無量寿経が現れるだろう。そこから、大無量寿経が真実経であると言っている意味を掘 り起こして行きたい。 大無量寿経には筆者が二人いる。それは、梵文大無量寿経の筆者と、漢文大無量寿経の筆者である。梵 文と漢文とは内容が大きく違う。漢文大無量寿経は、独自の創作がされたと考えるべきだろう。両者のず れから、大無量寿経の本質、浄土教の本質を考えたい。
89 :
どんくさい学者の妄説信者へ :2010/09/17(金) 09:25:56 ID:PdPEATRW
神学3 暴走族は神風特攻隊の霊が憑依して、暴走を行わせているのである。日本の 為に、子孫の為に命を捧げたのに感謝される処か、侵略者の汚名を着せて狂信 者扱いで侮辱している。それに怒って、鬱憤を晴らそうと爆音を響かせて、我 々の安眠を妨げて嫌がらせをしているのである。それが証拠に、暴走族は特攻 服を着て、命知らずの爆走をしている。 秋葉原で起きた無差別殺傷事件等も神風特攻隊の霊障である。本人は死ぬ気 になって、たとえ死刑になってもいいから、人を道づれにして殺そうとする。 神風特攻隊の霊が発狂してしまうほど、日本人の精神が堕落して、性根の腐っ た人非人(ひとでなし)になっている。 金と学に支配されて、正義も人情も捨てて、我さえよけりゃ後は知ったことじ ゃない。 こうして私が神意を伝えようとしても、誰も真剣に耳を貸そうとはしない。 情けないことではあるが、人間としての価値を失い、その資格を失っているの である。 元神は三千世界(神、幽、現界)を大改革するべく、建て替えを断行する。こ の世の鬼(ひとでなし)を退治して草木に替える。もう今までの様に敗者復活は ないのである。1日でも早く、神の御旨に沿うよう(不殺生、不偸盗、不姦淫、 不妄語、不贅沢)改心して、神の大恩に報いる生活に改めなくては人間として生 きる価値がないのである。
90 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/09/25(土) 13:35:19 ID:nTGdQ0Zn
物語には主題と筋書きとがある。大無量寿経にも主題と筋書きとがある。大無量寿経の概要について、親 鸞は如来の本願を説くことをもって宗致つまり主題としている。仏の名号をもって経の体としているという。 つまり、著者がアピールしたい内容は如来の本願であるということである。筋書きは、南無阿弥陀仏・南無 阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているということを言っている。 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているとはどういう ことか。簡単に言えば、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向という順序になっている、つまり宝蔵菩薩が阿弥陀 仏になる道筋がそのストーリーであるというのだ。 親鸞の主張は横に置いておいて、あらすじを見てみる。漢文大無量寿経は、前半と後半に分かれている。 後半は、ほとんどが漢訳で加わっている部分である。梵文には無い部分がある。序説部分も漢訳で始めて加 わっている。 梵文で書かれていた部分は漢訳文ほど長くない。釈迦が登場し、阿弥陀仏の存在を教える。法蔵菩薩とい う修行者が登場し、世自在王如来を訪問する。さまざまな仏国土を教わり、やがて法蔵菩薩は数十箇条に及 ぶ誓いを世自在王如来に立てる。法蔵菩薩はその誓いを実現し、極楽浄土を完成する。大無量寿経はその極 楽浄土の内容を詳細に説明している。 大無量寿経とはどういう経典か。大無量寿経とは大乗仏教の経典である。梵文大無量寿経は言う。大無量 寿経の聴衆について、「いずれもみな博識なることによってよく知られ、長老であり仏の偉大な弟子であっ た」という。漢訳では「かくのごときらの上首たるものなりき」という。大乗仏教の同じような経典では、 漢訳法華経はいう「衆に知識せられたる大阿羅漢等なり」。梵文法華経は「これらの長老達と、その他の偉 大な弟子達もいた」という。 大乗仏教は、基本的には小乗仏教の学習を終了した大阿羅漢達に説かれる教えなのだ。
91 :
神も仏も名無しさん :2010/09/26(日) 14:09:58 ID:Uzvo1l6g
質問です。 阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?
92 :
神も仏も名無しさん :2010/09/26(日) 17:14:55 ID:j3Y3EkwN
いつのまにか難さん復活してるな。 親鸞聖人の竜樹理解(十住毘婆沙論)について何か意見があればお願いします。
93 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/09/29(水) 14:41:37 ID:K4emjaVx
>>91 >阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?
無関係です。
神ノアおよび彼と皆(とも)にある其の子等に告げて言たまひけるは(創世記9−8) 見よ我汝等と
汝等の後の子孫 および汝等とともなる諸の生物即ち汝等とともなる鳥家畜および地の諸の獣と契約を立
(たて)ん都(すべ)て方舟(はこぶね)より出たる者より地の諸の獣にまで至らん 我汝等と契約を立
てん総て肉なる者は再び洪水に絶ることあらじ又地を滅ぼす洪水再びあらざるべし
唯聴察を垂れたまえ。我が所願のごとく当に具にこれを説くべし。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(大無量寿経)
この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束ある(歎異抄)
キリスト教の主にも約束がある。阿弥陀仏にも約束がある。同じではないか。こういう人がいますが、
僕はそういう主張をする人の気が知れません。
キリスト教の神は、紀元前3761年10月7日(ユダヤ暦元年 史学的な根拠は薄弱)、チグリスユーフ
ラテス川を周辺で誕生した実在のアダムという子供の両親であると言うべきでしょう。
阿弥陀仏は、釈迦の人格の一つを独立させた架空の仏陀です。釈迦には、教師・医師・生産者・休息所
という四つの性格を持っていました。その内の教師像を独立させた概念です。
アダムは実在の人物でしょう。阿弥陀は架空です。全く無関係です。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat29/ >>92 面白いテーマで言いたいことはたくさんありそうだけど、自分の中でまとまっていません。いずれ考え
をまとめてみたいですね。
94 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/09(土) 12:06:01 ID:ububZTzd
世尊、我無上正覚の心を発せり。願わくは、仏、我がために広く経法を宣べたまえ。我当に修行して仏 国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。我世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死 ・勤苦の本を抜かしめん。」 世饒王仏つまり世自在王仏先生。私法蔵比丘は無上正覚の心つまり大乗仏教の悟りを得ようと心に決め ました。先生、どうか、私により深い、より広い教えを説いてください。私は、努力を重ねて仏国土を開 き、汚れのない素晴らしい世界を実現しようと思います。私は遅滞なく大乗の悟りを得、人々の様々な迷 い、苦しみを除去しようと思います。 時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまわく、修行せんところのごとく、荘厳の仏土、汝自ら当に知るべし。 このとき、世自在王仏先生は教えを求めに来た法蔵比丘に言う。「貴方は既に学ぶべきことは全て学ん でいらっしゃいます。素晴らしい仏土とはどういうところかは、人に聞かなくても、自分で考えたらいか がでしょうか。 この義弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷衍したま え。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。 素晴らしい仏土とはどういう世界か、これはあまりに難しく、私には分かりません。世自在王仏先生、 どうか様々な諸仏の様々な浄土をお教えください。私はそれを伺い、諸先輩の行っていらっしゃるように 努力を重ね、自らの決意を達成したいと思います。 世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説きて、その心願 に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。 世自在王仏は、二一〇億に及ぶ様々な諸仏の国々、そこに住む人々、国土のあり方を、法蔵比丘の願い に叶うように説いた。 小乗仏教の学習を終了した人々は何をすべきなのか。基礎的な学習を終了した人はそれだけで大阿羅漢 と呼ばれて尊敬される。そうした人々は、思い思いの場所に行って、思い思いの自由な生活をしていけば いいのだ。ある者は商人として商売を行い、ある者は製造者となって社会に役立つものを生産する人にな る。ある者は政治家になって人々を導くのもいいだろう。
95 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/09(土) 12:07:31 ID:ububZTzd
しかし、大乗仏教はそうした大阿羅漢達にある提案をする。もっと勉強して、自分でも仏国土つまり学 校を開いてみないか。小乗仏教の学習で自分が救われただけではなく、自分以外の人々に自分が知り得た 知識を伝え、人々の様々な迷い、苦しみを除去しようとしてみよう。大乗仏教はそのように大阿羅漢達に そのような提案をする。 無上正覚の心とは、自分が真実を認識しただけで満足することなく、自らの認識を多くの人々と共感的 に享受、利用できるように多くの人々との共有の財産化しようという心である。つまり、人々を育てる教 育者になろうという心である。 これから学校を作りたいと思うのだが、どのようにして作ったらいいだろうか。法蔵比丘は、世自在王 仏先生に相談に行く。学ぶべきことは全部学んでいるのだから、自分で考えて自由におやりなさいと、世 自在王仏先生は法蔵比丘に言う。それが分からないから相談に来たのですと法蔵比丘は世自在王仏先生に 打ち明ける。世自在王仏先生は法蔵比丘に世界中の様々な学校のあり方を教えた。 大無量寿経はそのように書いてある。この部分は梵文とほとんど共通である。
97 :
真言・念仏・禅は謗法邪宗 :2010/10/17(日) 13:28:26 ID:bhE5zqpR
真言・念仏・禅の邪宗が広まった理由 まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。 それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。 つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。 伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、 後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。 真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、 「真言宗は天台宗と法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」 との邪義を立てた。 その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。 伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、 天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。 さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。 高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。 法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。 (よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である) そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる 大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が 日蓮である。 謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
98 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:04:25 ID:cVQ9f2YS
河口慧海『在家仏教』(世界文庫刊行会, 1926, p.184) 然るに世には因果撥無の外道があって、罪悪のその身そのまゝ 御助け下さるなどと唱へ、恰も罪悪あることが仏に救はれる資格で あるかの如くに、悪人正機などど主張する真の邪法がある。これを 世に真宗と云ふ。真に邪宗の意義であらう。
99 :
神も仏も名無しさん :2010/10/18(月) 10:06:05 ID:cVQ9f2YS
河口慧海『在家仏教』(世界文庫刊行会, 1926, pp.207-208) 然るに真宗教徒は宗義として三宝に帰依せず、五戒を持たず、 帰依処は阿弥陀仏の一宝に於てするも、毫もその意義をなさず、 行法は仏陀真説の戒法によらずして、王法を本としてそれに よるのである。されは真実仏教徒たるウパーサカ等の資格はない のである。故に親鸞は自ら非僧と云ってゐる。勿論彼自らは 具足戒を持たなかったからさう言ふのである。鳥でもない、 鼠でもない、蝙蝠とも云ふべき一種不可解の団体である。天、龍、 夜叉、乾闥婆、阿修羅、伽楼羅、緊那羅、摩喉羅迦、人非人等の 八部衆でもない。全く仏陀不説の一集団である。この集団は比丘 僧衆の規定によつても律せられず、またウパーサカ衆の法則にも 縛られないものであるから、これ等の集団は仏語を使用する外には、 何ら仏教とは縁のないものである。
100 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/18(月) 18:23:20 ID:8HRmn+oJ
>>98 異論はない。教団真宗は邪宗だ。
>>99 一部に誤解もあるようだが、本質はその通りだ。
徳川時代初期に浄土真宗は壊滅した。
101 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/19(火) 13:29:01 ID:aKIdDx6L
>>95 基礎学習を修了し、多くの人々が持っていない正しい知識を知り得た方々よ、これからは思い思いの各地
の場所で学校を建設し、近在の人々を招き、自分たちが学んだ正しい知識を多くの人々に公開して欲しい。
あなた方の学習は基礎学習を修了し、多くの人々から先生と尊称されるようになって終わったのではない。
先生と尊称されるようになったこれから始まるのだ。知り得たことを、多くの人々と共感的に共有し、共通
の財産として多くの人とともに利用できるようになり、多くの人々が救われるようになったとき、あなた方
の学習も完成する。さあ、釈尊先生がそのような先生であったと同じように、あなた方もあの釈尊先生と同
じ道を歩んで欲しい。大無量寿経は、インドの人々が人類として教育の重要性に初めて気づいたとき、その
最初期の教育哲学を展開している。大無量寿経はその中で、特に学園論を主題としている。
学園とはどういう世界か。学園における教師の目的は何か。大無量寿経では法蔵菩薩という一人の修行僧
が、学校教育に当たる教師として四八箇条の誓いを立てている。四八箇条の近いのモデルは祇園精舎で実践
されていた教育理念だろうと考える。祇園精舎で実践されていた教育理念を理想化し、それを具体的に書い
てくれている。学園における教師は、このような信念をもって教育に当たるべきである。大無量寿経はその
目標とすべき理想像を書いている。
学園教師とは何か。その理念はどうあるべきか。大無量寿経はそれを四八箇条に列挙してある。箇条書き
列挙の場合、冒頭に全体を総括する基礎的事項を掲げるのが常識である。四八箇条に渡る理念の中で、最も
重要なのが第一条である。これが四八箇条にわたる箇条書きの目玉となる。学校とは何か。教育者とは何か。
その根源的な意味を大無量寿経の第一条に見てみたい。
たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
人類が教育の重要性に気がついたとき、最初に考えたことがこれだったようだ。この意味を深く考えてみ
たい。
102 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/26(火) 12:10:45 ID:qzsRj5y0
たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。 教育とは何か。教育者とは何をする者か。学園、教場という場を作って人々を教育する者はどのような理 念を持つべきか。人類が歴史上初めて教育というものの重要性に気がついたとき、人類は何を考えたのか。 釈迦が人類史上に残した最大の業績は祇園精舎の建設にあったと考える。祇園精舎は、学則と制服があり、 全寮制で授業料は無料という特異な組織だった。そこは、古代ギリシャでプラトンが建設したアカデミヤと 前後し、洋の東西で生まれた人類初の組織的な大規模な教育施設であり、多くの賢人・哲人を輩出した。祇 園精舎の分校は寺院という名称でその後世界各地に建設された。 阿弥陀仏の極楽浄土は釈迦が建設した祇園精舎をモデルにしている。大無量寿経で書かれている阿弥陀仏 の誓願とは、祇園精舎の教育ポリシーをそのモデルにしている。 祇園精舎で釈迦は入門者に基礎教育を実践した。戒律と禅定と共に、算術、文字、暦、薬学、土木、建築、 施政学等々、王侯貴族に伝わっていた当時の最高の知識を伝えている。祇園精舎で基礎教育を修了した者は、 故郷に帰ると先生と呼ばれ尊敬された。人々が知らない様々なことを知っており、阿羅漢、あるいは辟支仏、 単純に「仏」とも呼ばれた。 祇園精舎で卒業証書を貰いました。基礎学問をマスターし、先生になりました。阿羅漢になりました。辟 支仏になりました。これで満足してはいけない。これからが本当の戦いだ。教育の重要性に目覚めた古代の 人々はそのように考えた。「たとい我、仏を得んに」とは、基礎学問を卒業し、小乗仏教では先生と言われ るようになっても、それで満足するのはやめようという意味である。
103 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/10/26(火) 12:14:42 ID:qzsRj5y0
大乗仏教の先人達は、基礎教育をマスターした若者に新たに国を作ることを推奨した。国とは、一定の価 値観があり、共通の価値観を重んじる人々の集合体である。実業家には実業家の世界がある。彼らは一定の 共通の価値観を有する。政治家には政治家の世界がある。彼らは一定の共通の価値観を有する。価値観が異 なると世界が異なる。大人の世界に子供の世界の価値観が入り込むと大人の世界は秩序を失って動揺する。 大人の価値観で子供の世界を縛ると、子供の世界は動きがとれなくなることがある。 大乗仏教の先人達は、基礎教育をマスターした若者に国の建設を推奨した。その国とは学校である。ある いは教場である。自分が学んだ学習を多くの人々に組織的に伝達していく伝達の場を作りなさい。そのよう に言っているのだ。モデルとなったのが祇園精舎である。国には一定の価値観がある。 学校の中に、もし地獄・餓鬼・畜生という世界があれば、正覚を得たとは思わない。真理を認識したとは 思わないと言うことである。仏教は、正しい真理を認識することを目標とする。基礎教育を修了し、必要な 基礎的事項が理解できれば、それで人は正しい真理を認識したことになるのか。この考えを肯定する人はい るだろう。しかし、大乗仏教の先人はそれを否定した。その認識を多くの人と共通の財産として共感的に享 受利用できるようになったとき、初めて真理を認識したことになる。それまでは、悟ったというのはやめよ う。大乗仏教はそう提唱する。 建設した学校の中に、地獄・餓鬼・畜生がいたなら、多くの人とその認識を共通の財産として共感的に享 受利用できるようになったとは思うまい。仮に自分は基礎教育を修了して人々から先生と仰がれても、真の 悟りを得たとは思うまい。人類が歴史上初めて教育というものの重要性に気がついたとき、教育学に目覚め た人類はそう考えた。 それでは、地獄・餓鬼・畜生とは何か。それを考えてみよう。
長い割には意味が無い だから、若い頃 勉強しなさいと言われていたのではないか?
105 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/03(水) 12:07:51 ID:/QaDdzF/
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず 仏陀は願力に限界がない。だからどれほど深い罪を冒した人も仏陀にとっては重すぎると言うことがない。 仏陀の智慧には限界がない。どれほど物事が混乱していても、かならず納めてくださる。 ギリシャに始まる西洋文明になじんできた我々現代人には仏教がわかりにくい。基本的な発想がインドとギ リシャで異なるからだ。物事の本質を考える場合、ギリシャではしばしば抽象化という手法を取る。インドで は象徴化という手法をとる人格についてのとらえ方も大きく異なる。ギリシャでは肉体と精神の合体という捉 え方をする。インドでは、意思と行動の合体というとらえ方をする。インドではそれに智慧というファクター を加える。仏典を読むとき、この人格論をはき違えると混乱を起こす。 仏陀は願力に限界がない。願とは意思を表す。四八願とは、四十八箇条の基本意思つまりポリシーという意 味だ。力は行動である。仏陀は意思と行動と知恵において限界がない。言い換えれば、仏陀以外の人格は限 界があり、その度合いによって様々に変化する。 人は、肉体の誕生で始まり肉体の死で終わる。精神はその肉体に宿る。ギリシャに始まる西洋文明ではその ように教える。おそらくアリストテレスなどに始まる発想だろう。 人は意思と行動を持つ。意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変わるとき、古い自分は死に、新しい 自分が誕生する。人は、挫折という人格の死と、再起という人格の生を繰り返す。再起から挫折までの間に、 しばしば彷徨という病を経験し、あるいは疲弊という老を経験する。 人格の転変は知恵の量が作用することがある。豊かな知恵を持っている者は彷徨・疲弊・挫折が少ない。知 恵のない者は、しばしば彷徨・疲弊・挫折する。意思は知恵の容器というべきだ。知恵という容器は、普通、 欲と知恵が併存する。
106 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/03(水) 12:09:16 ID:/QaDdzF/
自らの意思を行動で思う存分実現できる者がいる。しばしばそれを天才という。並外れた才能があれば、そ れも可能になる。権力者は権力という道具で自らの意思を実現する行動力を有する。普通は大きな知恵があり、 欲もあり、並外れた行動力でその欲と知恵とを実現する。欲の量は様々である。 普通の人は行動力に限界がある。限界のある行動力の範囲内で自分の意思を実現する。意思の中には若干の 知恵があり、若干の欲もある。限界のある行動力の範囲内で、若干の知恵と若干の欲が結びついた意思を実現 する。 意思がなく、行動力だけの人格もある。意思は他人の意志に従属するのだ。典型的な例は軍人である。軍人 は他人の意思の実現に向けて行動する。他人とは、普通は天、つまり政治的権力者である。高級軍人は普通、 姿が見えない。海底に奥深くにいる。下級軍人は辺境の地で敵の侵入を防ぐ守りについている。 彼らはずば抜けた意思実現力をもっているが、天ではない。これを阿修羅という。阿修羅とは、インドの言 葉で非天という意味だそうだ。 天・人・阿修羅は、実現対象の意思の中に欲もあるが知恵もある。しかし、知恵がない欲だけの存在もある。 それを三悪という。地獄と餓鬼と畜生である。
107 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/21(日) 14:34:09 ID:coirfjTy
裁判所に被告が入廷する。傍聴席からいきなり野次が飛ぶ。「鬼畜生!」。被告に一人娘を殺された遺族、 母親の我を忘れた叫びだった。裁判のことを放送していたアナウンサーはひとごとのようにいう。「人間を 鬼畜生というのはおかしいですよね。被告も人間ですからね」。 仏教はアナウンサーのような考えはもたない。ヒトDNAを有する生物でも、畜生の意思で畜生の行為を する者は畜生と言うべきだろう。鬼の意思で鬼の行為をする者は鬼と言うべきだろう。知恵のない邪悪な欲 望に駆られ、邪悪な行動をすれば、ヒトの仮面を被っていても、本質は鬼畜生である。ヒトであっても、時 に鬼となり、畜生となり、あっという間に有頂天になったかと思ったら次の瞬間には地獄に堕ちる。 「悪かった悪かった。この自分が悪かった。」このように涙ながらに後悔して真人間に戻ったはずの人が、 翌日にはまた畜生となり、鬼の手先になって地獄に堕ちていくということもある。 知恵の無い邪悪な欲望に駆られ、欲望に駆られた行動をするものは大きく二つに分かれる。休みのあるも のと、休みのないものである。ライオンは満腹になると他を襲わないそうだ。畜生には休むことがある。こ れに対し、常に飢えており、一寸の休みのないものもいる。休み無く邪悪を繰り返す者、これを鬼という。 鬼と畜生とは休みの有無で相違がある。 邪悪な行動は長くは続かない。やがて、欲望は限りなく燃えさかりながら、一寸の行動も取れなくなるこ とがある。燃えさかる溶鉱炉が厚い南極の氷に閉ざされているような状態である。仏教はこれを地獄という。 人類が教育というものの重要性に気がついたとき、人々は、教育の本質を、まさに地獄と餓鬼と畜生とを なくすことであると考えたということである。この原則は現代でも教育の本質と考えられ、反対する者はい ないだろう。 地獄と餓鬼と畜生とはどのようにすればなくすことができるのか。地獄と餓鬼と畜生の共通項に着目すれ ばよい。知恵が無いということである。言い換えれば、人々に正しい知恵を与えれば、畜生も餓鬼も地獄も なくなるはずである。
108 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/21(日) 14:35:28 ID:coirfjTy
釈迦に真理を学んだある高弟達は、教育に独立的な価値観を置き、それをもって人類の最高の価値として 大乗仏教を完成させた。阿弥陀仏という架空の仏を創作し、その行動原理の第一条に、国に地獄・餓鬼・畜生 あらば、正覚を取らじと宣言させた。教育者は、教場を建設し、その教場の中から地獄・餓鬼・畜生を無くして いく。それが最大の仕事である。基礎学習を終了し、専門課程で未来の教育者を目指す若者に、教育原理の 第一条として、大乗仏教の先人達はそのように教えたのである。これが大無量寿経である。
109 :
間抜けな学者の妄説信者へ :2010/11/22(月) 14:16:08 ID:girDvisS
仏、キリスト教等既存宗教は全て教祖の教えを捻じ曲げたがらくた。本当の 宗教は日月神示に記された神の教えのみ。 君達はいつまで科学と言う愚説にしがみついているのか。これから私が科学 の常識を粉砕して見せてやる。神学が正しいか、科学が正しいかは神様が建替 えなされれば一目瞭然である。臍をかんで後悔しても後の祭りで、どうなって も知らんぞ。神様も目に物見せてやると仰せである。 太陽から1番近い水星が数百度の高温で、一番遠い冥王星がー273度にな るなら、平地よりもエベレストの山頂の方が地熱が高くなる筈だが、現実には その逆である。これは地球の火球(地中太陽)からの熱が山頂まで伝わり難いか らである。 水は百度以上にならない。それを超えると水蒸気になって気化熱を奪うから と言うが、真冬でも川に霧がたち込めて水蒸気が出る。これは空気中の湿気が 水蒸気になったのではない。それなら水面近くだけが凝結する。川以外の地面 からは霧は出ない。盆地などに霧が出るのは山から水蒸気が出るからである。 水溜りや人間の汗は百度にならなくても蒸発する。氷から水蒸気が出る。これ らの現象は龍神の働きである。 太陽の傾きで夏冬になるのなら、夏の夜間も冬となる筈である。地熱は水や 空気に伝わってすぐに上昇する。焚火の煙の様に。空気の熱は光の様に天へ帰 る。だから、上空の空気は冷たい。熱が何時までも地球に残るのなら地球は熱 の蓄積で焼尽する。すると、太陽が沈めば地熱は冷めて気温も下がる筈である が、地球の火球が太陽の活動の周期に合わせて活発になるから、夏の夜間でも 寒くならない。去年の夏は暑くなかったとか、今年は残暑も厳しいとか言うの は、地球の火球の活動が太陽に同調しないからである。太陽黒点の影響は小。 夏季の天気は低気圧が西から東へ移動して雨となる。西の空が夕焼けになる のは地球の火球が活発になる前兆で、活発と成れば雨雲を蹴散らせて晴れとな る。春一番は風の神の働きで春を知らせる。季節と言うものは地の神の働きで 天の神(太陽等の天体)はその手伝いである。だから、天神地祇と言う。恵み下 さるのは地の神である。今度は天神地祇が合体して、天地をすり鉢で捏ね回す のだから神よ、人民よ腰を抜かして目玉を飛び出ない様見ているがよい。
110 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/24(水) 10:49:56 ID:xeSPcx16
理容業・美容業で専門学校が生まれたのは戦後のことだ。戦前にはなかった。子供の頃、住んでいた田 舎に始めて理容専門学校ができた。そのとき、ぽつりと言った母親の言葉が僕には不思議に耳に残ってい る。話の前後の文脈は全く覚えてないが、「こんな学校要らないわよね。髪結いさんはみんな見よう見まね で覚えるものよ」、と。 理容業・美容業を母親は髪結いと言っていた。この種の独立の専門学校を母親がどうして嫌っていたか、 今は心情が全く分からないが、大正生まれで大正育ちの母は、徒弟制度こそが職業学習の王道であるとで も信じていたようだ。 教育は徒弟制度の中にもある。徒弟制度の中の教育は、特定の職業の中の従属的なもので、独立的価値 観をもっていない。特定の職業に対し、優越的価値観をもたない。教育観に根本的な違いがある。 徒弟制度から独立教育機関制度へ移行していくのは近代化の重要な流れだと思うが、教育の従属的な地 位を排し、教育に独立専門的な価値観を認め、教育こそあらゆる価値観の最高位にあると考える主張は、 古代において実に画期的な思想だったと思う。教育者に独立的な職業性を認め、教育に独立的な価値を認 めると、いままで見えなかったことが見えてくる。 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿(いのち)終わりての後、また三悪道に更らば、正覚を取ら じ。 教場で教師から新しい知識を学ぶ生徒にとって、教場が人生の最終到着点ではない。学校を卒業した後 に新しい人生が待っている。卒業生が戻った実社会で困難にぶつかったとき、学校で学んだことが生きな いでそれを克服できず、挫折していくようでは学校で学んだ意味がない。いのち終わりて、つまり学校で の学習期間満了後、社会に戻った卒業生が、再び地獄・餓鬼・畜生の世界に転落していくようなことがあ れば、教師は教師として完成したとはいえない。真実を人々と共感的に共有的に享受できるように至った 真の悟りを得た完成した教師とは言えない。古代の教育学は、未来の教育者を目指す若者に、教育の本質 をそのように教えている。
111 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/24(水) 10:50:51 ID:xeSPcx16
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ。 昔、ランドセル会社がコマーシャルで「ぴかぴかの一年生」というキャッチコピーを流行させた。南方 の坊さんは黄色い衣を着る。黄色は黄金色を象徴している色である。希望を持って新たな道を生き生きと 歩む者は、全身から光を放ってまぶしく見えるものだ。体中からまぶしいほどの光を放って生き生きと前 進していくそんな生き方を生徒一人一人に実現する。それが教育である。
112 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/11/26(金) 13:05:17 ID:Jc1/3MmK
法華経は指導論、大無量寿経の本質は学校論である。教育者は生徒をどのように指 導するのか。法華経は教育指導者の教育実践論が書かれている。それに対し、大無量 寿経は、箱物としての学校はどのような考えで運営していくか、その箱物論である。大 無量寿経を読むと、教育というものに始めて目覚めた我々の先輩が考えた学校という ものの概念が非常によく見えてくる。 無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に 布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝・衆宝の王 たるをもって、これを荘厳せり。 〜 この樹を見るもの、三法忍を得。一つには音響忍、 二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。 道場樹とは菩提樹のことである。ここではインド菩提樹を指している。極楽浄土の菩 提樹はその高さが四百万里という。古代の尺貫法で調べると月まで二往復半してまだ おつりが来る。周囲五十由旬は、関東平野の全面積17000平方メートルを円に換算 した周囲長の2倍に近い。枝の長さは20万里、太平洋横断ケーブルの長さの8倍に なる。これだけおおきな菩提樹が立っているという。これだけおおきな菩提樹であれば、 世界中でどこからでも見ることができるだろう。 スリランカ、タイ、ミャンマーなどの寺院に行くとほとんど必ず大きな菩提樹が植え てあるそうだ。菩提樹は仏教寺院にとってきわめて重要な樹木である。菩提樹が意味 する象徴性から、古代の先人達の学校観を考えてみたい。
114 :
間抜けな学者の妄説信者へ :2010/12/03(金) 14:14:05 ID:q4QrLs4U
癌細胞は遺伝子が突然変異して発生すると言うが、普段は核内の遺伝子は2 重らせんの鎖で護られているから、細胞分裂時に遺伝子が2つに分裂する時に しかその隙はない。卵胞ホルモンを多量に注射すると、その支配を受けている 臓器(乳腺、膣等)に癌が発生する。この現象は細胞分裂とは関係がない。日本 人は昔は胃癌が多かったが、今では西洋人の様に体全体に癌が発生している。 即ち、西洋人の様に肉や牛乳を摂取するから癌になるのである。牛や豚等の怨 念が穢れた血液(その元が肉や牛乳)に宿って癌細胞となり、人間を取り殺そう として活動する。癌細胞は新たに湧いた(発生した)赤子の様な細胞で、霊体の 抑制がないから、無制限に増殖する。悪質液は怨念が毒に変化したものである。 この怨霊は国の支配者等に憑依して戦争を引起し、殺戮し尽くす。この事は聖 徳太子の未来記に書かれている。北朝鮮が、中国が、ロシアが、世界中が動き 出す。メーソンの命令の下に。 肝臓を3分の1だけ残して切り取ると、肝臓は復元力によって細胞分裂して 元の大きさに戻る。これは霊体の肝臓が存在するから、その形に鋳込む様に復 元されるのである。体の何処かに異常があれば、それをミヤビ(体中を巡る神 霊)が心臓に知らせるから痛みで感知し、悪霊が侵入すれば、直ちに神軍が派 遣されて追い出したり、退治したりするのである。 静脈の血液やその他体液はどうやって心臓へ帰る事が出来るのか。それは気 が体中を巡ってそれらを運んでいるからである。天の気が雨を地上に降ろし、 地の気が水蒸気を天の方へ上げる。頭寒足熱でないと体液は循環し難い。寒い 時に小便が近くなるのは胃の気が水蒸気を頭まで運ぶ事が出来ず、途中で雨に なって膀胱に溜まるからである。かき氷を食べると頭のこめかみが痛むのは胃 の気が頭まで届かないからである。気が渋滞すると痛みが起きる。神経とはま ったく関係がない。 はり治療は気の流れを整えたりするから、体の具合が回復するのである。は り麻酔は気を遮断する事によって知覚をなくす。痺れると痛みは判らない。
115 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/06(月) 14:07:46 ID:CfcEKRpp
菩提樹つまり道場樹は羅針盤である。そのように考えるといいだろう。古代インドには地図がない。我が 国で科学的な地図ができたのは徳川時代後期のことである。その昔は行基地図と言って、非常に不正確な地 図を使っていた。戦国の武将達は、山の上からみた鳥瞰図を地図の変わりにしていた。 地図のない時代、旅人はどのようにして道を知ったか。彼らは大きな目標を道の先々で求め、その目標を 頼りに進んでいく。古代インドでは、菩提樹がその役割を担った。 インド菩提樹は高さが20メートル以上に及ぶという。一般に樹木の高さが低いインド大陸北部では、巨 大な菩提樹はひときわ目立つ。これが遠くから見える。菩提樹は旅をする者に地理上の方向を指し示す羅針 盤の役割を果たした。またそこは、日中、日差しの熱い一時期、人々に日差しを和らげる休息の場を提供し た。 極楽浄土の菩提樹も、このような思想を背景にしていると考える。真実を学ぼうとするなら、極楽浄土の 菩提樹を探せ、菩提樹が見つかれば、その方向に進め。かつて釈尊はその下で悟りを開いた。仏教の先人 達はそのような伝説を創設している。 樹下開悟伝説は、史実かどうかは問題ではない。そのような説が伝わってきたという事実の方が大事だ。菩 提樹の根元に求めるべき悟りがある。我々の先人達は、真理を学ぼうとする学生達に、そのように指導し、こ れを学校のシンボルにしていたようだ。 阿弥陀仏の第十八願は王本願と言われているが、どうして十八番目というような中途半端な位置にあるの かと聞かれた。これはとても大事な疑問だ。こういう疑問を持てる人がやがて自分の力で経典を読むことがで きてくる。 この疑問を解く鍵は何か。それは、第十八願は王本願であると言っている人の主張と、大無量寿経の著者 の主張とは全く違うんだという事実を素直に認識すれば分かってくる。 阿弥陀仏の十七,十八,十九,二十願を、法然・親鸞という中間の人々のフィルタを外し、大無量寿経の 著者の真意に直接飛び込んで読んでみたい。
116 :
トーヘンボク :2010/12/07(火) 05:17:25 ID:HRy+Bv+L
・・・ここは、勉強になりそうなスレですねえ。 これから、読ませてもらいますよ。
117 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/08(水) 10:15:39 ID:xNjCa5BB
>>116 > これから、読ませてもらいますよ。
ようこそ。ようこそ。
大無量寿経を著者の主張に沿ってその真意を知ろうとすれば、梵文大無量寿経から考えて行くのが順序だ
ろうと思う。梵文大無量寿経を邦訳本で紹介する。大乗仏典 第六巻 浄土三部経 中央公論社 昭和51
年刊である。漢文大無量寿経十七願、十八願、十九願、二十願は、梵文大無量寿経の17,18,19願に
対応する。
(17)世尊、もしも私が菩提に到達したとき、無量の仏国における無量・無数の諸仏・世尊が(私の)名をほめ
讃えず、讃嘆ぜず、称揚ぜず、宣揚しないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な正覚をさ
とることはないでありましょう。
(18)世尊、私が菩提に到達したとき、他のもろもろの世界にいる有情たちは、この上ない完全な正覚(を得
たいと)の心を起こし、私の名を聞いて、浄く澄んだ(信)心をもって私を思い起こすでありましょう。(その)
彼らに死の時刻が近づいたとき、それはすなわち(彼らの)心が散り乱れないためになのであるが、もしも私
が比丘の僧団にとりかこまれ、恭敬されて、(その)面前に立たないようであったら、そのあいだは、私はこ
の上ない完全な正覚をさとることはないでありましょう。
(19)世尊、私が菩提に到達したとき、無量・無数の仏国にいる有情たちは、私の名を聞いて、その仏国に生
まれようがために心をかけ、もろもろの善根をさし向けるでありましょう。もしも(そこに生まれたいと)十
度までも心を起こした(のに、それ)によって(彼らが)かの仏国に生まれることがないようであったら、その
あいだは、私はこの上ない完全な正覚をさとることはないでありましょう。(ただ、)直ちに(その報いをう
けねばならぬ)ほどの(極悪な)行為(無間業)をした(有情)や、正法を誹誇するという(煩悩の)覆いにおおわ
れている有情は除いて、であります。
これらの願を読むと、人類が始めて組織的な学校というものを持ったとき、それはどのように運営されて
いた、実によくわかる。そのあり方は、現代でも、例えば開発途上国などで始めて小学校を開いた場合のあ
り方と非常によく似ている。
118 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/08(水) 10:16:34 ID:xNjCa5BB
開発途上国などでは、ある村に始めて学校を開くと、三つのことが必要になる。自分の存在を知って貰う こと、子供達を勧誘すること、入学希望者の住んでいる環境に働きかけ、入学できるようような条件が整う ように応援すること、これらのことが重要になる。開発途上国で開拓的な教育者になろうとする者は、その ようなことも教育者の仕事の一つとなる。釈迦の高弟達が人類として始めて教育学に目覚めたとき、同じよ うな考えを抱いた。 仏教の先人達は、教育に最高の価値を見出し、将来の教育者を目指して教育学を学習した。教わるべき事 は全て教わって菩提に達し、卒業していよいよ社会の一線で教育者として人々を指導していこうとするとき、 教育者のたまご達すなわち大乗の菩薩は教育学を教えてくれた先生に誓いを立てる。自分は、今後、教育者 として人々から尊敬を受け、称讃を受け、著名な人物になっていこうと思います。それが達成できない内は、 正覚を得た真の教育者大乗の仏になったとは思いません。どこまでもどこまで努力を重ねていきたいと思い ます。このように誓うのである。
119 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/10(金) 10:48:27 ID:B2SGMm3t
梵文大無量寿経の十七願では、無量の仏国と言っている。国と書いているからわかりにくい。世界とい う言葉に変えればいい。仏・世尊と言っているからわかりにくい。指導者と言う言葉に変えればいい。 政界・歌謡界・農業界・産業界・言論界、社会には無数の世界がある。こういった無数の様々な世界の 指導者達から称讃つまり尊敬と支持を受けられるようになろう。十七願はそう言っている。なぜなら、そ ういう環境がないと、子供達が先生の下で教わろうという気持ちにならないからだ。未来のリーダを目指 す若者が教わろうと思う先生は、様々な世界の多くの指導者から尊敬を受けている人なのだ。多くの人に 尊敬されるような人になれ、将来の教育者を目指す若者に、大乗仏教の先人達はそのように説いている。 人々から尊敬を受けるような人は、どこかに一人で閉じこもっていれば自然に生徒が集まってくるのだ ろうか。そんなことはない。生徒募集というのも教育者の重要な仕事だ。それが梵文大無量寿経の十八願 である。 自分が教育学課程の学習を修了し、学校を開いたとき、きっと多くの若者が入学を希望してくれるよう になるだろう。十八願が言う「他のもろもろの世界の有情」とは、例えば佐藤さんの家には佐藤さんの家 の世界があり、そこには若者がいるということだ。山下さんの家には山下さんの世界があり、そこにも若 者がいる。大山さんの家には大山さんの世界があり、そこにも若者がいるだろう。彼らは、これまでも再 起・挫折・再起・挫折を繰り返してきた人々であり、今後も再起・挫折・再起・挫折を繰り返していくで あろう人々である。それぞれが自分の人生の中で輪廻輪廻を繰り返していく有情達である。 そんな人々が、そんな自分ではいけないと気づき、正覚を得、輪廻の迷いを断ちたいと真剣に思い、そ んな折りに教育者である私の名を聞きつけてくれるということもあるだろう。是非、あの先生の学校で学 びたいと純粋にそう思ってくれることもあるだろう。 学校に入学したいと思っても、いつでもすぐに入学できるということではない。遠方の人であれば、身 辺整理も必要だろう。アルバイトをしている人であれば、契約期間が切れれまで時間がかかるかも知れな い。学校は四月から始まる、八月に入学しようとしても難しい。
120 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/10(金) 10:49:39 ID:B2SGMm3t
彼らに死の時刻が近づいたときというのは、肉体の死を意味しない。入学を拒んでいた環境条件期間に 終期が到来し、新たにな生き方が可能になる入学可能な条件期に近づいた時という意味である。そのよう な時期には、教師は学校関係者を連れて自らその希望者の家に迎えに行こう。一度は学校に入りたいと思 っても、入学できる環境に変わった時期には、再び心変わりして入学の心が離れているかも知れない。教 師自らが迎えに行けば、その子も入学しようという思いにまた戻るかも知れないのだ。 学校周辺で、いつも潜在的な入学希望者を調査しておき、入学可能な時期には迎えに行くと言うことは、 非常に大事なことだ。開発途上国で始めて小学校ができた場合にはそういうことが行われている。古代イ ンドにおいても同じようなことが行われていたのである。 もしそれができないなら、仮に教師になっても、自分は完成した教育者になったとは思わないでおこう。 どこまでもどこまでも努力を重ねていこう。阿弥陀仏の18願はそう誓っている。
121 :
トーヘンボク :2010/12/11(土) 18:51:12 ID:Hb+skzTF
・・と、思ったが、やめた。長い文章は読めない質なので。
122 :
平田篤胤著仙界異聞が科学をぶった斬る :2010/12/12(日) 13:03:39 ID:YhE/QwPw
問 瘧神、疫病神、貧乏神、疱瘡神、首絞神、火事などと言う様なものが世の 人に災いをもたらしているが、これらはどのようにして出来たものか。 寅吉 それらは全て人の霊から出来たものです。そのような鬼物どもが世の人 々を一人でも多く同類を増やそうとうかがっているのです。人は僅かであって も曲がった気持ちを持つと妖魔に引き込まれます。よこしまな願いを叶えてく れる悪魔や妖怪に目をくらまされて、死んで極楽どころか魔道に入って、永久 に神罰にさいなまれる事になります。 そもそも天皇は天下万国の君であられ、天神地祇のお祭りを大切に行ってお られます。今の世は外国の道がとても流行っており、神の道が廃れ、諸神社も 衰えて、それを再興しようとする者もいません。けれども、神はなお世の人を お憐れみになり、日照りの時は雨を降らせ、長雨の時は風を起されて雲や霧を 吹き払いになられます。火にも水にも、野にも山にも幸ある様にして、万民を 撫育しておられます。これは神のお役目であり、そうなされなくては済まない からです。 風火金水土の5つはもとより、山海川野に生まれるものはすべて神が支配さ れておられ、神の御徳によってそれぞれのものの用をなしています。にも拘ら ず、人間は火も水も、また野や山も自然にある様に勘違いをして、神をおろそ かにして軽んじています。この様な事は大変恐れ多い事です。 取り敢えず許容しておられますが、最後には神罰を被るものである事には疑 いの余地がありません。その神罰は罪人だけが被るものでなくて、天下全体の 災いとなります。ですから、よく神々を崇敬し奉って、このような災いを逃れ るべきなのです。 だから、地震、台風等の天変地異、戦乱、疫病、火事、事故等は神罰でもあ り、警告でもあるのです。今は悪神の強い者勝ち、我よし、騙しが手柄の悪弊 がはびこって、政治も経済も学問等も腐れ果てて、誰も責任を取らずに逃げて、 そんな世の中が成り立つ筈がないのである。ここに正神が大建替えを断行すべ く、日月地の御民(身魂の磨かれた)を道具に使って、鬼退治をして、天地のあ らゆる穢れを大掃除して、弥勒の極楽浄土を築かれなされるのである。
123 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/14(火) 21:30:27 ID:/HtF+p5J
新年会の予定 日時 1月30日 午後5時から8時ころまで 場所 東京新宿 詳細はメールでお知らせします。 なお、自動スパム防止のため、 アドレスを全角にしてあります。 半角に直してお送りください。 アットマーク@@は二つ並んでいます。必ず一つにしてください big_sunsky−mutsuki@@yahoo.co.jp
124 :
神も仏も名無しさん :2010/12/14(火) 23:22:12 ID:x71nd75S
うちは浄土真宗なんですけど、浄土真宗は供養は必要ないはずなのに 葬儀後7日事にお坊さんが家にやってきます。もちろんお布施が必要です。 1年間は月参りも必要だといわれたのですが、何故法要や月参りが必要なのですか? どうもお布施のために教えを歪めているとしか思えないのですが。 とっても嘘っぽくて嫌です。
125 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/15(水) 10:22:25 ID:5jZwrG3l
126 :
神も仏も名無しさん :2010/12/15(水) 20:37:32 ID:qC7uocUY
127 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/15(水) 23:02:12 ID:W1E1vpXX
>>126 アドレスは間違っていません。
上段左側が掲示板です。
上段右側に書きましたが、公開ID:SINRAN、公開パスワード:0000を使ってください。
128 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/16(木) 13:37:06 ID:XZ/qF2fB
阿弥陀仏の19願を考えよう。 人は、学校に入学できなくなる阻害条件が無くなれば必ず入学できるのか。そうではない。一つの阻害 条件が解決しても、次から次に別の阻害条件が発生するという場合がある。そういう人はなかなか入学で きない。 自分が教育学課程の学習を修了し、学校を開き、先生と呼ばれるようになったとき、きっと多くの若者 が入学を希望してくれるようになると思う。多くの若者が私の名を聞きつけ、どうかあの先生のあの学校 に入学したいと、そう思ってくれるだろう。入学希望の若者も、入学のための様々な努力をしてくれると 思う。繰り返し繰り返しそのように思い続け、様々な努力をしたにも関わらず、それでもやはり入学でき ない、そういうこともあるかもしれない。もし、そういうことがあれば、それは大変残念なことだ。 学校を開いたとき、入学を希望をしてくれる若者がいれば、その若者の環境に働きかけ、入学できるよ うな環境に変えていくことも教師の仕事である。入学を希望しているにも関わらず入学できないという若 者が一人でもいたなら、自分は教育者として完成したとは思わないようにしよう。 自らが知り得た真理を、多くの人と共感的共有的に享受すると言うことは、入学希望の生徒は必ず入学 できるようにすると言うことであり、そのために努力することは、まさに教育者の社会的義務である。そ のように思うことにしよう。 ただ、その若者が過去非常に悪いことをしていたとか、あるいは学ぶべき真理を誹謗するような行為を するような若者まで、必ず入学できるということではない。けじめはつけよう。
129 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/16(木) 13:38:08 ID:XZ/qF2fB
人類が始めて教育というものに抜きんでた価値があると気付いたとき、教育者とはどういうポリシーを 持つべきか、教育学課程では未来の教育者にこのように教えていたのである。 非常に悪いことをしていた者は除くとはどういう意味か。入学してきても門を閉ざすぞという意味か、 それとも、入学できなくなる場合もあるぞという意味か、どちらかはわからない。学校も環境に働きかけ て努力するが、その効果なく入学阻害要件を完全には払拭できないという場合もあるということかもしれ ない。 梵文大無量寿経の考え方はおおよそこれで分かって貰えたと思う。この考えが漢文大無量寿経になると、 大きく変わってくる。漢文大無量寿経の場合、翻訳者の主張というものが全面に出てくる。それを次に見 てみよう。
あのさぁ、素人なんだけどちょっと質問! 最尊第一ってお釈迦様が言ってるから阿弥陀様サイコー!ってのが教えの根本にあるわけでしょ? でも大日如来は宇宙の中心、最強!ってのも大日経でお釈迦様が言ってるよねw また、大無量寿経が真実の経である、ってのもお釈迦様の発言を根拠にしてるわけでしょ? でも法華経だってこのお経がサイコー!って言ったのはお釈迦様でしょw その辺整合性をどう考えてるわけ?大日経や法華経はニセモノの経だとでもいうの? それから「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」なんでしょ? なのにどうして同じ文の最後で「また師の恩をもしるべきなり」なんて言ってるわけ? 矛盾してね? それに「惣じてもて存知せざるなり」な事を他人に勧めるのは無責任なんでね?
あとさ、一向専念無量寿仏かなんか知らんけど、阿弥陀様以外の神仏はゴミ! 信じちゃいけない、熊野詣につきあっても礼拝なんてスンナ!つーのは排他的過ぎでしょ? 他の神仏に敬意を払う事と阿弥陀仏を信じる事は両立するでしょ? 弥陀の本願を信じてるからといって、他の神仏を排斥しなきゃならん理由にならんでしょw 日蓮宗並みに排他的な教えで、阿弥陀様はユダヤの神並みに嫉妬深くケツの穴が小さいですと言ってるようなもの それはむしろ無限の慈悲をもつという阿弥陀様を侮辱してると思うんだけど、そのへんどーなの? それに親鸞の神格化の為に、恵信尼の夢で法然は勢至菩薩、親鸞は観音菩薩として出てきた、とか 女犯の夢告に救世観音が出てきた、なんて話あるでしょ? それらの仏の存在は教えに矛盾するでしょwおかしくね?
132 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/17(金) 11:00:35 ID:6VbMaTmm
>>130 >整合性をどう考えてるわけ?
主語は誰を指していますか? 渡海難はどう考えているのかという質問であると解していいですね。
>お釈迦様が言ってるから阿弥陀様サイコー!ってのが教えの根本にあるわけでしょ?
貴方の勘違いでしょう。
弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(自然法爾抄)。阿弥陀仏は、自然という概念を教えるための
(架空の)資料(手段・道具)である。
絵本で桃太郎が『日本一』という旗を持って教えてくれていても、それをもって架空の桃太郎を日本一
の侍であると考える根本にはなりません。
>大日如来は宇宙の中心、最強!ってのも大日経でお釈迦様が言ってるよねw
知りません
>法華経だってこのお経がサイコー!って言ったのはお釈迦様でしょw
僕は存じません。天台大師は法華経を最も重要視していたと理解しています。
>大無量寿経が真実の経である、ってのもお釈迦様の発言を根拠にしてるわけでしょ?
聞いたことがありません。僕は、親鸞聖人の発言を根拠にしています。
>「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」なんでしょ?
還俗していた親鸞は、社会的に弟子を持つことは出来なかったということでしょう
>「また師の恩をもしるべきなり」なんて言ってるわけ?矛盾してね?
弟子の方で、勝手に自分は親鸞聖人の弟子だとアイデンティティを持つことは自由でしょう。
>熊野詣につきあっても礼拝なんてスンナ!つーのは排他的過ぎでしょ?
人それぞれの好き好きがあるでしょう。
133 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/17(金) 11:04:00 ID:6VbMaTmm
>他の神仏に敬意を払う事と阿弥陀仏を信じる事は両立するでしょ?
人には基本的人権として信教の自由がある。内心の自由をもって自分で考え、自分で決めることでし
ょう。
>弥陀の本願を信じてるからといって、他の神仏を排斥しなきゃならん理由にならんでしょ
人には信教の自由がある
>それはむしろ無限の慈悲をもつ
おとぎ話の世界の話の次元だと思います。桃太郎は日本一かどうかという議論に似ています。
架空の話には作者の主張がある。その真意を考えることが重要だ。
作者の主張に賛同するか、しないかは、読者が決める。
>阿弥陀様を侮辱してると思うんだけど、そのへんどーなの?
信謗共にあるべしと考えればいいでしょう
>それに親鸞の神格化の為に、
恵信尼には親鸞を神格化しなければならん理由はありません。
生き仏のように感じていたということはあるでしょう。
>夢で法然は勢至菩薩、親鸞は観音菩薩として出てきた
人は、自分が見る夢を操作できません。見ようとしても見られないし、見たくないと思っても見るこ
とがある。潜在意識が作用しているようです
>女犯の夢告に救世観音が出てきた、なんて話あるでしょ?
親鸞の弟子の真仏のでっち上げです。
>それらの仏の存在は教えに矛盾するでしょ
無視しましょう。
この続きは百家争鳴に書いてください。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/hyakka/soomei.html
134 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/25(土) 11:16:50 ID:GaII7xCN
(新年会
>>123 )
漢訳大無量寿経を読んでみる。
十七願
たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取
らじ。
十八願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
十九願
たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が
国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取
らじ。
二十願
たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植え
て、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。
漢訳大無量寿経の十七願と梵文大無量寿経の十七願とは、ほとんど同じ内容と考えていいだろう。梵文
十八願が漢訳では十八願と十九願とに分かれている。梵文十九願と漢訳二十願とはほとんど同じだが、梵
文十九願の一部が漢訳では十八願に入っている。そのように読むことができる。
しかしどうもそうではないようだ。梵文十八願の核心は、死の時刻が近づいたとき、つまり入学を拒ん
でいた環境条件に終期が到来し、入学できる環境になったとき、教師の方から若者を誘いに行く努力をす
るという話だ。これは漢文十九願の思想と全く一致すると考えていい。それではなぜ漢訳十八願が存在す
るのか。善導大師、法然上人、親鸞聖人のフィルターを外して考える必要がある。漢訳十八願を裸のまま
読んでみよう。漢訳十八願の本当の意味は何なのか、それを考えてみよう。
135 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/25(土) 11:17:48 ID:GaII7xCN
漢訳大無量寿経十八願の思想とは、学校に入学したいと思っている若者がいれば、その若者は生徒でな くても生徒である。そのように考えようという意味だ。東京大学に入学したいと真剣に思っている高校生 がいれば、その高校生も東大の学生である。こう言えば、その考えに反対する人は多いだろう。高校生が 東大生であるわけがない。しかし、東大の先生の中には一人くらいへそ曲がりがいるかもしれない。東京 大学に入学し、自分の下で勉強したいと真剣に思ってくれている高校生は、在籍する東大生と自分の観念 の中で区別して扱う必要は無い。同等に扱おう。そう考える先生がいても不思議ではない。 例えば、現代では、千葉大学には高大連携企画というのがあって高校と大学の連携事業をしているそう だ。勉学に意欲があり、是非、あの学校に入学したいと思ってくれるそんな若者は、仮に形式的には大学 に籍はなくても、在籍登録のある学生と同等と考え、そのように扱おう。もしそれが出来ない内は自分は、 真の教育者になったとは思うまい。自分はどこまでもどこまでも、そういう理想の教育者を目指そう。そ う誓っているのだ。漢訳十九願は、入学を拒んでいた環境条件に終期が到来し、入学できるようになった とき、まさにそういう学生の下に、教師は迎えに行くぞという誓いである。 こう考えると、漢訳十七,十八,十九,二十願の流れが実にスムーズにみえてくる。漢訳二十願は梵文 二十願と同じである。しかし、悪さをするような人間は除くぞという唯除の一句が、漢文では十八願に入 った。漢文十八願に、未入学の学生を在籍登録のある学生と同等と扱うぞという議論を建てた以上、その 中で扱う問題であるというのは、自然なことだ。
136 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2010/12/25(土) 11:19:25 ID:GaII7xCN
ここには古代インドで行われていた激しい思想論争があるように考える。仏教では、常に非常に激しい 思想論論争が行われる。その中には論争に勝ってその後の思想をリードしていく人も現れるが、一方では 論争に負けて退場していく者もいる。漢訳大無量寿経は、インドでのそのような論争に敗れ、居場所を失 った改革僧が、新天地である中国に自らの居場所を求め、独自の改革思想で著した改革思想の書である。 僕はそのように思っている。 ここではこれ以上触れないが、梵文大無量寿経と比較すると、漢訳大無量寿経は多くの点で相違があり、 思想論争の激しさが感じられてくる。大無量寿経は、中国、さらに日本に渡ってくると、どんでん返しを 繰り返しながら予想外の方向に思想が大きく展開していく。残った本流の思想はインドでやがて思想界か ら退場していったというのも、感慨深いものがある。
137 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/06(木) 13:43:32 ID:8HtLgqde
漢訳大無量寿経十八願は、梵文大無量寿経になかった新たな思想を創設した。この思想が、その後、どの ように受け入れられていったか考えてみたい。 善導は、往生礼讃と観念法門と観経玄義分とで言う <往生礼讃> もしわれ成仏せんに十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ <観念法門> もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ <観経玄義分> もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、 もし生ぜずは、正覚を取らじ 善導の十八願理解はどのようなものか。観念法門に重要な記述がある。 『無量寿経』の四十八願のなかに説き給ふがごとし。「仏曰はく、もし我成仏せんに、十方の衆生、わが 国に生ぜんと願じて、我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚 を取らじ〉」と。これ則ちこれ往生を願ずる行人、命終らんと欲する時、願力摂して往生を得しむ。故に摂 生増上縁と名づく。 善導は、経典の「心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲する」という十八願の本来の表現を「わが願力 に乗じ」、あるいは「わが国に生ぜんと願ぜん」という表現に変えている。「乃至十念」が「下十声」に変 わっている。さらに、善導は十八願を観経の主張とパラレル化し、十八願も臨終往生の願であると理解して いるのだ。 十八願も臨終往生の願であるというのは、大無量寿経の翻訳者の思想から後退し、先祖返りしていると言 うべきだろう。「学校に入学したいと思っている若者がいれば、その若者は、実際には未入学でも入学済み の生徒と同等に扱おう」このような翻訳者の革命的主張は放棄しているようだ。
138 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/06(木) 13:46:02 ID:8HtLgqde
もし、翻訳者の思想も善導と同じであるとすれば、念仏はもろもろの功徳の一部とし、念仏はその中の特に 力説する対象とし、十八願の内容は十九願の後に来るべきである。十八願が十九願の前に来るという順番 で考えれば、善導の思想は翻訳者の思想外と言うべきである。 善導の往生観は二つの臨終往生を考えている。 (1) 菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し、願を発して我が国に生まれんと欲すれば、臨 終に臨んで入学できる(十九願)。 (2) 名号を称していれば、もろもろの功徳を修していなくても、臨終に臨んで極楽浄土に往生する(十 八願)。 善導の往生観は二つの論点を提供する。 (論点1) 大無量寿経は、本当に念仏を扱っている経典なのだろうか。 (論点2) 十九願による臨終の概念は何か。十八願も臨終往生の願と考えた場合、十八願の往生と同じな のか。 論点1について、善導は大無量寿経の十八願を引用しているが、いずれも大無量寿経を正面から論述して いる文書ではない。往生礼讃は念仏礼賛がテーマである。観念法門は、観仏と称名念仏の方法を説明してい る。観経玄義分は観経の解説を行っている。いずれも大無量寿経を説明する書ではない。 十八願の引用は、称名念仏で極楽往生できるということを根拠づけるために行っている。しかも、善導は、 称名念仏で極楽往生できるぞと、十八願を自分で書き換えて引用しているのだ。論証方法としては論外と言 うべきだろう。 大無量寿経を読むと分かるが、そこには南無阿弥陀仏の南の字も出てこない。南無阿弥陀仏という字が出 てくるのは、観無量寿経である。つまり、大無量寿経というのは、作者も翻訳者も、念仏については全く念 頭にないテーマであり、大無量寿経に称名念仏を持ち込んだのは善導大師からであると言うべきである。し かもその持ち込み方は、念仏の真実性を説明するための傍証的、我田引水的な扱いであると言わざるを 得ない。 大無量寿経によって念仏が真正面から説明されるようになるのは親鸞からであるという事実は認識してお く必要がある。 次に論点2について考えよう。
139 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/06(木) 16:30:06 ID:8HtLgqde
新年会の予定 日時 1月30日 午後5時から8時ころまで 場所 東京新宿 詳細はメールでお知らせします。 なお、自動スパム防止のため、 アドレスを全角にしてあります。 半角に直してお送りください。 アットマーク@@は二つ並んでいます。必ず一つにしてください big_sunsky−mutsuki@@yahoo.co.jp
140 :
ひみつの検疫さん :2024/11/08(金) 09:58:38 ID:MarkedRes
汚染を除去しました。
141 :
ロシアが日本を取りに来る 東北の大雪はその前兆 :2011/01/18(火) 08:55:41 ID:vz2fyJ11
ヨハネの黙示録 大いなる天の徴が天に現れた。一人の女が太陽を着て、子を産み落とそうと していた。大きな赤い竜がその生まれた男子(救世主)を食い殺そうと構えてい た。この子は御座の所へ上げられた。ミカエルとその御使達が竜と戦ったが、 竜は負けて地に投げ落とされた。竜は女の残りの子ら、即ち神の戒めを守って いる者達に対して、戦いを挑む為に出て行った。竜は一匹の獣に自分の力と権 威をを与えた。彼は聖徒に戦いを挑んで勝つ事を許され、すべての国を支配す る権威を与えられた。聖徒達は虜にされ、剣で殺される。 聖徒達に忍耐が課せられる。他の獣が先の獣の像を作らせて、それを拝まな い者を皆殺させた。すべての人々に、額と手に666の悪魔の刻印(メーソン の洗脳が完了している者の刻印)を押させ、この刻印のない者は皆、物を買う事 も売る事も出来ない様にした。この刻印を受ける者は火と硫黄で焼かれる。 主が七人の御使に神の激しい怒りの満ちた金の鉢を渡して、地に傾けよと言 われた。第1の鉢を地に傾けると、獣の刻印を持つ人々の身体に悪性のでき物 が出来た。第2を海に傾けると、海が死人の血の様になって生物が死んだ。第3 を水の源に傾けると、血になった。第4を太陽に傾けると、人々は激しい炎熱 で焼かれた。第5を獣の座に傾けると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛の為舌 を噛み、天の神を呪った。第6をユウフラテ川に傾けると、水が枯れて、三悪 霊がハルマゲドンと言う所に王達を招集した。第7を空中に傾けると、今まで になかった大地震が起り、町々は破壊された。 地に住む人々は大淫婦と姦淫を行い、彼女の姦淫のぶどう酒に酔いしれた。 彼女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石とで身を飾り、イエスや聖徒達の血に酔 いしれた(彼女の贅沢は人の生血に吸って得た物)。彼女は地の王達が支配する 大いなる都の事である。彼女の罪は積もり積もって天に達している。彼女は不 義の行いを働き、贅沢を享受したので、様々な災害が死と悲しみと飢饉とが一日 の内に彼女を襲い、そして火で焼かれてしまう。 獣と偽預言者は生きたまま、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。獣の 刻印を受けた者は、救世主の言の剣で切り殺され、その肉をすべての鳥が食べた。
142 :
日月地神学の伝道者 :2011/01/20(木) 16:03:04 ID:mFlT9ZHV
琉球に続く台湾澎湖島、御国に遠きその島に心を配れ、日本人。外国魂のこ こかしこ。国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋炊き。柱を崩すカミ斗り、 ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。 出口王仁三郎いろは歌 長い間この歌の解釈が不明だったが今漸く判明した。この澎湖島は尖閣諸島 である。外国魂とはメーソン魂で、国売る曲は菅直人ら民主党議員で、国民が 留守にしている内に、中国様用の料理を作って、独立国家の主権をないがしろ する神(人)ばかり、アメ公、支那公が反日で騒いでいるが、攻めて来るアメリ カ軍から防衛する術はない。その理由は次の通り。 2010年9月の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件は、工作船(漁民が大切な舟を ぶつける筈がない)が故意に日本の海保巡視船に体当たりした事件で、日本は 領海侵犯を犯し、障害を加えた船長を、中国の恫喝に怯えて釈放した。中国は 日本人を麻薬売買容疑で死刑にしたのに。11月、ロシアのメドベーシェフ大統 領が不法占拠している北方領土の国後島を訪問した。政府の要人で始めて。対 日戦勝記念日制定。11月、北朝鮮が韓国の島に砲撃。12月日米合同軍事演習中 にロシアの軍用機が日本の領空を侵犯。 尖閣諸島は沖縄と一緒にアメリカの占領下にあり、返還後、尖閣諸島も日本 の領土になり、台湾の漁民が漁に来る事が領海侵犯となる。後に日本の弱腰外 交が禍して、台湾が領土を主張。中国は日本が台湾を侵略したとして、中国も 領土を主張。明治初期、日本人が台湾の高砂族に虐殺される事件が起きた。中 国に照会した処、蛮族は中国の管轄外だと言う回答を得て、台湾征伐を行った。 台湾はどこの国にも属しておらず、日本の領土とする事も出来た。アメリカが 北米大陸を盗んだ様に。 アメリカが日米安協の僚友なら、一言言ってくれそうだが、アメリカがメー ソンで日本潰しの親玉である。基地移転のしわ寄せがこの様な状況を作り出し た。否、この様な状況にする為にこじらせた。北朝鮮も中国もロシアもアメリ カもすべてグルで、日本を挑発して嘲っているのだ。後は日本をなぶり殺しに するだけ。田母神は先の大戦を自衛戦と言い、勤務上は言えない。それなら前 に自衛隊を辞める筈だ。一色同様、メーソン臭い。
143 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/20(木) 18:12:38 ID:Rw+F9hdt
現行憲法を改正し、9条を変更して軍隊を交戦権を持てるようにします といえば、周辺国は、「軍国主義復活だ!!」と騒ぎ立てるだろう。 9条の改正は、国際情勢を考えれば難しい。 現行憲法改正経過が、米国の資料から最近明らかになってきたんだ。 今の憲法は無効だったということが分かりましたので、法治主義に基づき、 前の明治憲法の有効性を確認しますといえば、他国は文句を言えないだろう。 明治憲法の復活が、普通の国に戻るには一番現実的なんだよ。
144 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/20(木) 18:13:29 ID:Rw+F9hdt
誤爆です。
145 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/21(金) 12:57:57 ID:YRxoBEKr
善導には、大無量寿経そのものを直接解釈している文書は無いようだ。阿弥陀仏の十八願だけを問題にし ている。そうであれば、阿弥陀仏の十九願は伝統的解釈に従うと考えていいだろう。漢文大無量寿経の十九 願と梵文大無量寿経の十九願とは同趣旨であると考えるべきだから、漢文大無量寿経十九願の臨終とは、肉 体の死を意味するものではない。入学を拒んでいた環境条件に終期が到来し、入学できる環境になったとき、 教師の方から若者を誘いに行く努力をするという話だ。これは漢文十九願の思想と全く一致すると考えてい い。 そうすると、善導が観念法門の記述で漢文大無量寿経に加えた臨終という意味は何か。僕はこれは肉体の 死を意味すると思う。 善導は、隋が滅んで唐が大陸を支配した時代に生きていた。中国では隋朝廷が滅んだ後も戦乱は続いたよ うだ。親友を騙し打ちにし、子が親を殺すということはたくさんあったと思う。箸を使うことを教わる前に、 弓矢を取ることを教えられ、友を信じることを教わる前に親をだまし討ちにすることを教わった人も多かっ たと思う。文字も知らず、算術も知らず、ひたすら殺人兵器として利用された人々は、平和な時代になると 行き場を失う。善導は、そんな人に初等教育の重要性を説いた。 人を殺すことは悪いことである。仏教はそう教える。人殺しは、僧籍を失って教団を追われる(波羅夷罪)。 しかし、過去に人を殺したことがあることを理由に初等教育の場が奪われていいものだろか。善導は、中国 仏教界の最高権威者になると、初等教育の専門家として、仏教の戒律を守ることを仏教を学ぶ条件にするこ とをやめた。人を殺してしまった者に、重ねて仏教の名前で弾劾することを止めた。その代わり、善導は人 々に懺悔の実践をもとめたのだ。 礼拝をしよう。互いに挨拶をしよう。読誦しよう。文字を読もう。観察をしよう。イメージ訓練をしよう。 称名念仏をしよう。南無阿弥陀仏を称えよう。賛嘆供養をしよう。勉強会には喜んで謝礼を納めよう。善導 は中国全土に多くの学習会を作り、そこで互いに勉強し合うことを勧めた。礼拝・読誦・観察・称名・賛嘆 供養、こうした五つの実践を行うこと、それが仏道であると説いた。
146 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/21(金) 12:58:52 ID:YRxoBEKr
上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血を流し、眼の中より血出だすをば、上品の懺悔と名づく。中品の懺 悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出ず、眼の中より血の流るるは、中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍 身徹り熱く、眼の中より涙出ずるをば、下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといえども、これ久 しく解脱分の善根を種えたる人なり。 戒律は守れないでもいい。その代わり懺悔道を歩もう。確かに上品の懺悔どころか下品の懺悔すら人は難 しい。そうなら称名念仏をそれに代えようではないか。善導にとって、称名念仏とは、親を殺し、兄弟を殺 し、友人を殺してきた人々に、仏道への参加を許容するバイパスとして開いた実質的懺悔の道だったと考え る。 懺悔は、ここまで懺悔したからもう十分であるということはない。懺悔道は生涯続けて始めて完成する。 漢文大無量寿経十八願に読み込んだ臨終は、その意味で、懺悔の代わり、事実上の懺悔の道として人々に死 ぬまで実践を求める行為だったというべきだろう。
147 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/21(金) 12:59:43 ID:YRxoBEKr
新年会の予定 日時 1月30日 午後5時から8時ころまで 場所 東京新宿 詳細はメールでお知らせします。 なお、自動スパム防止のため、 アドレスを全角にしてあります。 半角に直してお送りください。 アットマーク@@は二つ並んでいます。必ず一つにしてください big_sunsky−mutsuki@@yahoo.co.jp
148 :
日月地神学の伝道者 :2011/01/22(土) 12:30:38 ID:5rrzk+96
あなた方はまだ判らないのか。日本は加工貿易で飯を食っている。原料を輸 入してそれを加工して、工業製品として輸出して、その差し引いた利潤で石油 を買って、今の生活が成り立っている。その花形の電機産業の東芝、松下電器 等が不良品で叩かれ、言われなき特許侵害で訴えられて、高額な賠償金を払わ させられている。自動車産業の三菱重工とトヨタが欠陥品の濡れ衣の汚名を着 せられて、企業収益が赤字に転落している。日本は何で飯を食えばよいのか。 日本の財政は莫大な借金を抱えて、国と地方を合わせて約1千兆円を計上し ている。これは表向きであって、隠したものを含めると最低でも3千兆円であ る。国民1人当たり3千万である。誰がこの借金を返済できるのか。馬鹿が日 本は債権国であるというが、いざとなれば、米国債等の外国債は踏み倒しにさ れる。土地等の評価格も大不況になれば買値がつかない。世界大恐慌ともなれ ば失業者が巷に溢れ出る。 日本はこの借金と言う悪のからくりの生命維持装置で長らえているだけであ る。この借金と言う吸血鬼が我々の生血を吸い続けている。 例え話で話すと、雀は種を蒔かなくても、刈り取りをしなくても、蔵に蓄え なくても食べていける。これは神の恵みを与えられているからである。この様 に人間も自給自足の生活をすれば、殆どの企業は潰れ、僧侶、学者、医者、役 人、企業家、商人、サラリーマン、職人、漁師等は死に絶えて、神を畏れる農 民だけが生き残る。農民以外はすべて吸血鬼で、書き記した上位の者ほど悪徳 なのである。これらは贅沢と言う名の寄生虫で、雀を捕る隼である。この贅沢 の中に肉食、伴侶以外の者との姦淫等が含まれる。人間は悪の社会制度の中で 生血を吸い合って、弱い者が奴隷にされている。動物達はそれ以上に生け贄に されている。これらの事に気がつけば、なぜ、神が人間を裁かれるのかが判る 筈です。神は弱い物の味方です。人間、動物、虫けら、草木まで救う為に、悪 の神とそれに付き従う人間共を退治するのです。 メーソンはそれらの人間を退治する悪の選民で、最後にはメーソンもあなた 達よりも早く改心します。改心出来なければ草木になるか、地獄の業火でのた うちまわって、魂まで焼き滅ぼされます。
149 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/31(月) 12:50:49 ID:VekLrTqd
親鸞は教行信証の最初に書いている。「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」と。 大無量寿経から念仏の教義全体を引き出すという荒技をして見せたのは、仏教史の中では親鸞が空前絶後 だろう。大無量寿経は、普通に読めばどこにも念仏の教えなどはない。大無量寿経から導いている親鸞の念 仏論は、親鸞の独創であり、それは曲解・歪曲と紙一重のところにあると僕は思っている。親鸞は、釈迦教 の解体と復活を行っていると思っている。 親鸞は大無量寿経について言う。「如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、 経の体とす」。宗致とは、趣旨あるいは主張という意味だ。体とは流れ・話題・ストーリーという意味であ る。書籍には必ず著者の主張とストーリーがある。桃太郎話は、勧善懲悪をもって物語の主張としている。 鬼退治をもって物語の流れをつくっている。鬼退治の流れによって勧善懲悪という主張が説かれている。大 無量寿経は、名号つまり南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とスト ーリーが流れ、その中で著者の主張である如来の本願が説かれているというのだ。 本願とは根本的な意思である。大無量寿経の主張は、阿弥陀如来の意思、価値観、信念、そのようなもの を提示することにある。親鸞は阿弥陀仏の四八箇条にわたる誓願の中から、数個を選び出し、経典中の重要 な主張として提示する。大無量寿経では法蔵菩薩という修行者が登場する。法蔵菩薩は極楽浄土という巨大 な学園を建設し、し阿弥陀仏という仏陀になっていくストーリーである。人が仏になるには、礼拝・讃嘆・ 作願・観察・回向という流れを踏む。礼拝・讃嘆・作願・観察・回向は全て南無阿弥陀仏に納まるというの が親鸞独自の主張である。したがって、大無量寿経は、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無 阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とストーリーが流れているという、我々から見ると実に破天荒の見解を建てている。 親鸞はこれによって、釈迦が建てた三学という仏教学習の基本的枠外に、独自の世界を建て、釈迦教を解 体し、釈迦教を復活させているのである。
150 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/01/31(月) 12:51:45 ID:VekLrTqd
151 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/02/01(火) 11:58:37 ID:eSCfTci5
親鸞思想の原点は二つとあると思う。一つは流罪の時である。僧籍を奪われて還俗したとき、親鸞は禿と 名乗るようになる。もう一つは、法然上人と出会ったときである。法然上人とはどのように出会ったのか、 恵信尼の手紙から考えてみる。 殿の御往生、中々、始めて申すに及ばず候う。 親鸞が人生を大きく転換したときの様子というのは、改めてどうこういうほどのことでもないのですが、 山を出でて、六角堂に百日籠もらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文 を結びて、示現に与(あずか)らせ給いて候いければ、 比叡山を出て、京都の六角堂に百日間籠もり、後世を祈ったことがありました。九十五日目の朝、聖徳太 子の言葉を書いた文書をくくりつけ、ある思いを戴いたことがありました。 やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁に遭い参らせんと、訪ね参らせて、法然上人 に会い参らせて、 その後、百日満願の朝、六角堂を出、後世の助かる縁を求め、法然上人の所を訪問になりました。 又、六角堂に百日籠もらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、 参りてありしに、 その後、六角堂に百日籠もったように、百日間、雨の日も晴れた日もどんなことがあっても法然上人の下 に通いました。 ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべき道をば、ただ一筋に仰せられ候い しをうけ給わり定めて候いしかば、 後世の事については、善人も悪人もない。迷いを脱する道は平等であり、ただ一筋にそれを求めなさい。 法然上人からそのとき、そのことをしっかり聞かされたのです。
152 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/02/01(火) 11:59:30 ID:eSCfTci5
上人の渡らせ給わん所には、人はいかにも申せ、たとい悪道に渡らせ給うべしと申すとも、世々生々にも 迷いければこそありけめ、とまで思い参らする身なれば 本来なら永遠に迷い続けなければならなかった問題で自分は解決を貰った。そうなった以上、仮に悪道で あっても、他人が何と言っても、法然上人が向かうところには、必ず自分もついていこうと決意したのです。 ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり。 色々な人が様々に言っていたとき、親鸞はそのように言っていました。 親鸞は、法然上人と出会い、「善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべき道」を教わったのだ。 それは、結婚とか、性の問題ではないだろう。親鸞が生涯をかけてやろうとしていたこと、それは何か。教 行信証の証の巻に出てくる。 「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入 して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。 「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林の中 に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」と のたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。 存覺は親鸞の精神を継承していう。 穢土をもて淨土に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座とするな り。 〜 人屋たりといへどもこの所にをひて念佛を勤行す。 親鸞は、全国に念仏道場を作ろうとした。それを完成させたのはその後の存覚であり、蓮如である。しか しそのきっかけを作ったのは親鸞である。もう少し具体的に説明しよう。
153 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/02/03(木) 20:04:19 ID:IZqT3Opq
>>794 平家にあらずば人に非ず。このように栄華を誇った平家もあっという間に滅ぼされた。昨日まで山奥で追
いはぎを生業としていたような山賊どもが、今日は支給された甲冑で身を固め、警察官面して昼間は刃物を
持って都大路を練り歩き、夜になると辻斬り盗賊に早変わりする。そんな激動の時代、今後の社会はどうな
ってしまうのか。真っ暗闇の向こうにさらに悪寒が走るような恐れを抱いた賢人達がいた。法然・栄西・道
元・日蓮などである。彼等は比叡山で仏道を学んでいたが、生死の先、後世の助かる道を求め、新しい時代
を切り開こうと山を下りた。
後世の助かる道は何か。一隅を照らす光となって千里を照らせ。伝教大師の鎮護国家の思想を骨の髄まで
たたき込まれた親鸞が、六角堂で悩み抜き、法然上人と出会って得られた答え、それは学校教育から社会教
育への発想の転換だったと僕は思う。
自分の名前も書けない山賊が、ある日突然大きな刃物を持って町を歩く警察官になったなら、今後は二度と
辻斬りや追いはぎなどをしないようにさせるため、必要最小限の正しい教育を受けて貰わなければならない。
必要最小限の文字と必要最小限の道徳と、精神統一方法(禅定)を大急ぎで教えなければならない。それを
教えるのが僧侶の社会的使命である。
西本願寺には覚如の写本として親鸞が書いた上宮太子御記という書き物が残っている。京都に対抗する勢
力になることを意気込んでいた関東武士に親鸞は太子堂の先生として招かれた。上宮太子御記は、漢字交じ
りのほとんどひらがなが多い文書である。文字を知らない多くの老若男女に、繰り返し繰り返し書写させた
のだろうと思う。さらに論語を読ませ、書かせ、仁義礼智信を教え(改邪鈔)、十七条の憲法などは恐らく
完全に丸暗記させたことと思う。今日でも浄土真宗の寺院では聖徳太子像を安置しているのはその名残であ
る。恵信尼などは、親鸞の生徒の第一号だったかもしれない。
154 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/02/03(木) 20:06:29 ID:IZqT3Opq
仏教は、寺という全寮制の学校制度の中で、釈迦が説いた戒律と智慧と禅定を平行して組織的に学習する のが原則である。しかし、かつての国分寺・国分尼寺政策は失敗した。親鸞には、寺院という閉鎖的な学校 教育ではなく、太子堂という形式にとらわれないきわめてオープンな形の社会教育実践の場が与えられた。 そこで親鸞は、従来の仏教の概念を合理的に大きく変更し、三学を基礎とする釈迦教を解体し、禅定一学の 阿弥陀教(浄土門)を開く。これは、釈迦教(聖道門)から見ればプレスクールである。プレスクールの卒 業生は、そこから本格的な釈迦教に進学するのもよし(大般涅槃経要門)、学習を終わらせるのもよしとい う、自由な選択が可能だった。実際、親鸞は関東でプレスクールの卒業生の一部に聖道門教育を行っている。 親鸞からそのように聖道門教育を受けた人々は、その後の親鸞教団の重鎮となっている。しかし、親鸞仏教 の核心は、釈迦教のプレスクールともいうべき禅定一学の大衆浄土門であることに間違いはない。 親鸞の浄土門の目標は、一人でも多くの人が奢摩他・毘婆舎那の実践力を身につけることである(証の巻)。
155 :
神も仏も名無しさん :2011/02/08(火) 01:50:36 ID:lCYrwrd0
展開しないもののうちに「一」を見るんだろ? 「二」の世界はみんなサタンじゃないの〜 動揺が止まらない故である。元の姿を知らぬ故。 勇猛心をもって観無常無冥理ですかね?
156 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/16(水) 22:18:01 ID:TBqDgVRx
(^-^) ただいま
157 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/16(水) 22:19:02 ID:TBqDgVRx
(^-^) ニューヨークタイムをエンジョイしてきたよ
158 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/02/16(水) 22:22:02 ID:AdOU7wtf
(^-^) ほかほか
家族が病気になり、なかなか書き込みができません。
160 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/18(金) 18:47:33 ID:nflfe5tS
(^-^) 乙 お大事に!
161 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/18(金) 18:48:31 ID:nflfe5tS
(^-^) ただいま
163 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/23(水) 19:46:02.92 ID:pCG3DwTz
(^-^) ただいま
164 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/23(水) 19:48:25.00 ID:pCG3DwTz
(^-^) 今日は暖かい1日だったね
165 :
◆K3PkkhVAkA :2011/02/27(日) 22:09:58.81 ID:cSIJb4Xj
(^-^) 海さんが1週間ほど不在だね
166 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/03/02(水) 12:24:03.58 ID:mXMUFxtj
>>154 親鸞は初心者を相手にする。親鸞の教えは初等教育学すなわち、昨日までの追いはぎ・山賊が、甲冑を着
て刃物を持ち、今日からは警官顔をしていきなり都大路を闊歩しだした文字も自分の名前も書けない人々に、
人間らしい教育を行うための初歩仏教、これが原点だ。
常識と禅定を教えよう。仏教では禅定を先行させよう。親鸞はそう考える。三学ではなく禅定一学を人々
を導くとすれば、伝統的釈迦仏教の主張とは対立関係に立つ。戒律と禅定と智慧という三学を立てる釈迦仏
教は盤石の論理体系を持っており、禅定一学をもってそれに対立する主張を立てるには、相当の根拠を明示
しなければならない。
三学の釈迦仏教の中で一学を立てた前例がないわけではない。古くは南宗禅がある。禅宗は南宗禅と北宗
禅に分かれる。達磨大師から五代目、弘忍の弟子に神秀と慧能という二人の高弟が出現する。慧能の流れを
南宗禅、神秀の流れを北宗禅という。北宗禅は、禅を三学の一つと考え、戒律も智慧も重視する。
南宗禅は、禅定を重視して大衆の中に飛び込み、不立文字、教外別伝、只管打坐を主張した。現代の日本
の曹洞宗・臨済宗は全てこの南宗禅に含まれる。北宗禅は唐朝廷に入り、最盛期の中国仏教を支え、唐の崩
壊と共に運命を共にし、事実上中国では消滅した。
日本から中国に派遣した遣唐使達は、唐朝廷公式の北宗禅を学んできた。日本天台も唐仏教の流れを受け、
当然北宗禅の流れを汲んでいる。日本天台を学んでいた親鸞には、不立文字、教外別伝を主張する余地は無
かった。親鸞が大無量寿経をもって真実の教と宣言した背景には、こうした事情があったと考えるべきであ
る。
南宗禅はこの時代、道元・栄西らによって中国がもたらされ、南宗禅に基づいて彼等は不立文字、教外別
伝、只管打坐を主張し、禅定一学を日本に立てた。南宗禅が不立文字、教外別伝、只管打坐を主張する代わ
り、親鸞は、先人から受け継いできた伝統と教えの中に立って事実上の不立文字、教外別伝、只管打坐を立
てる。大無量寿経は真実の教であると大無量寿経を前面に押し立て、他の教えを全て方便と言い切って禅定
一学を立てる。
167 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/03/02(水) 12:27:07.16 ID:mXMUFxtj
よく読んでほしい。大無量寿経の中のどこに念仏の教えがあるというのだ。大無量寿経には念仏の教えな ど存在しない。大無量寿経に念仏の思想が入ってきたのは、唐仏教の最高権威者である善導大師からである。 それは大無量寿経の著者の全くあずかり知らない話である。親鸞は、教行信証で善導独明仏正意と宣言し、 大無量寿経は念仏の教えが説かれていることにお墨付きがあるという。親鸞はその大無量寿経から技巧的な 論法を使って禅定一学の思想体系を構築している。 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(末灯抄)。 阿弥陀仏というのは、あるがまま、自然という概念を教えるための資料である。手段である。方法である。 念仏を称えて行きなさい。必ず目的は達成されます。病気を恐れることない。死も恐れることはない。必 ず達成される。だからそれを信じてやってみなさい。親鸞は仏教初心者にそのように自然という概念を教え、 禅定一学の仏教を勧める。不立文字、教外別伝に代えて阿弥陀仏という譬喩を使って相手を説得する。大無 量寿経はその主張を行うための梃子である。 親鸞が大無量寿経をもって真実の教えであると主張するその理由は、現代の論理学では到底受け入れられ ない。 釈迦の教えには嘘というものはない。これが仏教の大原則だ。釈迦の教えには真実の教えと方便の教えし かない。真理を直接説いている教えと、いずれ真理を明らかにするため、一見して遠回りのことを説いてい る教えとがある。直接説いているのが真実の教え、遠回りしているのが方便の教えである。 大無量寿経では、今日世尊住奇特法・今日世雄住仏所住・今日世眼住導師行・今日世英住最勝道・今日天 尊行如来徳・阿難当知如来正覚・慧見無碍・無能遏絶という言葉が並んでいる。これは真実の教えであると いうことを意味している。もし大無量寿経が、一見して遠回りのことを説いている方便の教えであれば、少 なくとも「今日世尊住奇特法 〜 無能遏絶」で嘘をついていることになる。釈迦の教えには嘘があると仮 定することはできない。だから、大無量寿経は真実の教えである。こういう論理になっている。 論理としては非常に乱暴である。要するに親鸞はこれによって、三学を一時的に解体し、初心者には禅定 一学を実践することを勧めている。
168 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/03/02(水) 12:33:14.16 ID:mXMUFxtj
よく読んでほしい。大無量寿経の中のどこに念仏の教えがあるというのだ。大無量寿経には念仏の教えな ど存在しない。大無量寿経に念仏の思想が入ってきたのは、唐仏教の最高権威者である善導大師からである。 それは大無量寿経の著者の全くあずかり知らない話である。親鸞は、教行信証で善導独明仏正意と宣言し、 大無量寿経は念仏の教えが説かれていることにお墨付きがあるという。親鸞はその大無量寿経から技巧的な 論法を使って禅定一学の思想体系を構築している。 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(末灯抄)。 阿弥陀仏というのは、あるがまま、自然という概念を教えるための資料である。手段である。方法である。 譬喩である。 念仏を称えて行きなさい。必ず目的は達成されます。病気を恐れることない。死も恐れることはない。必 ず達成される。だからそれを信じてやってみなさい。親鸞は仏教初心者にそのように自然という概念を教え、 禅定一学の仏教を勧める。不立文字、教外別伝に代えて阿弥陀仏という譬喩を使って相手を説得する。大無 量寿経はその主張を行うための梃子である。 親鸞が大無量寿経をもって真実の教えであると主張するその理由は、現代の論理学では到底受け入れられ ない。 釈迦の教えには嘘というものはない。これが仏教の大原則だ。釈迦の教えには真実の教えと方便の教えし かない。真理を直接説いている教えと、いずれ真理を明らかにするため、一見して遠回りのことを説いてい る教えとがある。直接説いているのが真実の教え、遠回りしているのが方便の教えである。 大無量寿経では、今日世尊住奇特法・今日世雄住仏所住・今日世眼住導師行・今日世英住最勝道・今日天 尊行如来徳・阿難当知如来正覚・慧見無碍・無能遏絶という言葉が並んでいる。これは真実の教えであると いうことを意味している。もし大無量寿経が、一見して遠回りのことを説いている方便の教えであれば、少 なくとも「今日世尊住奇特法 〜 無能遏絶」で嘘をついていることになる。釈迦の教えには嘘があると仮 定することはできない。だから、大無量寿経は真実の教えである。こういう論理になっている。
169 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/03/02(水) 12:40:00.57 ID:mXMUFxtj
(>> 168は無視してください) 大無量寿経についての議論はこれをもって終わりにします。 昨年の春、大学院に通っていた娘が精神に異常を起こし、入退院しました。先月、その原因が、体内で生 み出す抗体による脳神経症であり、最近徐々に分かりつつある非常にまれな深刻な病気らしいと分かってき ました。つい先日突発的に発作を起こし、そのとき医者からは死亡率三割と言われ、二日後には数日中の死 亡率八割と宣言され、家族は娘の死を覚悟しました。 その後、命の危機は奇跡的にしばらく峠を越えたようですが、今後は相当長期間の深刻な後遺症との戦い が宣言されました。 今後も2ちゃんねるはROMしていきますが、書き込みは減ります。 質問等の書き込みがあれば、できるだけ書いていきたいと思いますが、長い論証はできなくなると思いま す。 なお、親鸞の念仏は天台禅を源流とします。曹洞禅・臨済禅と、天台禅とを比較すると一長一短があり、 僕は天台禅優位を確信しています。蓮如の時代、浄土真宗が日本中に広まったこともその傍証の一部になる と思います。比較論についてはいつか議論したいものです。
170 :
◆K3PkkhVAkA :2011/03/04(金) 20:47:49.80 ID:xPdJ4E7O
(^-^) こんばんは
171 :
◆K3PkkhVAkA :2011/03/04(金) 20:49:42.75 ID:xPdJ4E7O
(^-^) 海さん、すごく大変そうですが、頑張って下さい。
172 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/03/05(土) 12:56:50.10 ID:dYWk7+g7
173 :
◆K3PkkhVAkA :2011/03/19(土) 10:51:24.83 ID:OAOqvgnd
(^-^) ご無沙汰デーだね
174 :
◆K3PkkhVAkA :2011/03/25(金) 21:07:24.78 ID:8SyS+Fip
(^-^) 地震から2週間だね
175 :
渡海 難 :2011/03/28(月) 21:08:57.38 ID:WC1IPoAq
176 :
神も仏も名無しさん :2011/04/01(金) 03:05:12.20 ID:gwZuTkj3
/:::::::/!:::,、::::::/ /:::::::ヾ\\::/ /::: /::::://::::::::::::/ j::::::::::::::::/::|、:::ヽ::::、:::::::::ヽ ヽ::\:::ヽ. ::::n//::/ !::::/ ,:: /⌒ヽ:::::::ソ:/::::::,,:::::://::::/::,::/ /:::/:::::::::/ l!i ヾ:|、:::l!::::::::::::l l:::/ヾ::::ヽ :::!lリi::/ ヾi _ l:: ! ヽ _jヾ./⌒ ! !::://'!::/:::// /:::/::/::: / j/ l;i! !::l!:::::::::::::! レ \| :/ ' / ヽ.j L/ ゝー' ::/V レ:::// j::/ レ:::// / _!' V!::::/::!:/ ゝ i ヽ \ /j.::ト !:/ ーV - 、/ j/ ,,´.= 、., |::/:/リ ここでは人間がインドのようお子様がいる所になっても - 、j `ー' i ヾ! V /::::`ヾ ヾ ィ:::::r !ヾ !/ / \ ノ _ イ ヘ:::√! トー,ゝ lノ インドのようにタイはなれない。 〉 ー' .,  ̄ ヽ/ ヽ. ゝ_ _ノ ゝ‐ , , ,!ヽ. ! / l ヽ i , , , 、 iヾ:::! お子様のいるいないにかかわらず l .. ノ = ′ 人ト\ おちゃ を挿れてーー j /::\ , 'ニ二二! /:::!::! ´ . ,〆! _ _. ィ:::::::::::::::\ / ::::::::::ヽ/ .ィ:!!::::/レ いない子はシナにいる。 // .| /::`::ー -ゞ-/ヾ-::イ\ ヽ / ィ´:/ゝレ'_.. -───- : / | /!::::::::::::::::::/ /::::/!l ` _ 二二../ヽー-r-i/::::::::::::::::::::::::::::/ お子様の称号 君の子は行いが悪いのでおちゃ。 :::ヽ o/ー─ ' イ:::::::::::::::::::/ /::::::::/! \ / |:: | |::::::::::::::::::::::::::: :::::::\ /:::::::::::::::::::/ /::::::::/│ \ / |:::: | |::::::::::::::::::::::::::::: お爺さんに貴族の称号をあげよう。君が居なくなってもおちゃはおちゃ。
177 :
◆K3PkkhVAkA :2011/04/02(土) 14:12:11.30 ID:fX3NNZzX
(^-^) 天気予報げt
178 :
◆K3PkkhVAkA :2011/04/03(日) 23:30:10.23 ID:+IpupuB1
(^-^) 猪苗代湖
179 :
◆K3PkkhVAkA :2011/04/05(火) 20:06:40.89 ID:qf6PIxaJ
(^-^) 居なく なった海氏
180 :
◆K3PkkhVAkA :2011/04/06(水) 20:43:06.35 ID:BGlrFgSe
(^-^) ただいま
181 :
◆K3PkkhVAkA :2011/04/23(土) 20:18:20.97 ID:v8KNv/fC
(^-^) おひさしぶり
182 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 14:51:57.26 ID:tz7yj9GQ
b *家族が病気のため、しばらくインターネット上での活動を停止します。 i * ブログ親鸞仏教も、まもなく閉鎖します。 g * 渡海難宛の連絡方法は電子メールとします。 _ * 迷惑メール防止のため、全角縦書きで表示します。 s * u * n * s * k * y * − * o * p * i * n * i * o * n * @ * y * a * h * o * o * . * c * o * . * j * p *
183 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 20:49:10.51 ID:tz7yj9GQ
当分の間、休みます。再開までの最後の書き込みをします。これだけは書いておきたいと思います。 なお、この書き込みにレスを付けてくださっても、渡海難からコメントはしないつもりです。 定期的に念仏会を開いている知り合いからこんなメールが入りました。大事な問題がふくまれていると 思いますので、本人の了解を得て公開し、僕からの返信も公開します。 来信(知人から渡海難へ) 念仏会のメンバーが、現状で信心が得らにくい理由を考えてみました。 第一に念仏を称えていないからでしょう。これがかなりのウェイトを占めている。というかこれが信心 が得られない全てのような感じです。・・・・。
184 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 20:51:10.66 ID:tz7yj9GQ
返信(渡海難から知人へ) 信心なんか得られないでもいいんだよと思うと言うことも、大事な考えではないでしょうか。 信心なんか得られも、得られなくてもどっちでもいい。それより念仏が好きになってみないかと提案し たい。念仏が好きになると言うことが一番大事なことだ。 野球とはどうだ、こうだということが分からなくても、野球が好きという人がいる。野球ともなると夢 中になる。松井選手がホームランを打つと、理屈抜きで歓声を上げる。松坂選手が敗退すると悔しさがこ み上げる。自分はへたくそなくせに、草野球が好きで、会社の野球大会となると決まってピッチャー役を 買って出る。ところがそいつは、今まで一度も勝ち投手になった経験がない。ホームランを打たれた回数 は数限りない。それでも野球の話になると止まらなくなる。
185 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 21:06:39.84 ID:tz7yj9GQ
野球が好きという人に聞いてみると言い。野球を見ていて感動がある。勇気がわく。自分もプレーをす ると発見がある。他人から見ると馬鹿みたいな話かも知れないが、そいつにはそれで喜びがある。喜びを 多くの人と共感している。だから野球が好きという。野球で自分が何かを得ようと思ったことはない。い つも、野球の方から感動を持ってきてくれる。他力の世界だ。 念仏で感動が得られれば念仏が好きになる。発見があれば好きになる。喜びは多くの人と共感したい。
186 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 21:07:45.32 ID:tz7yj9GQ
一念念仏、多念念仏を実践していると、夢想無我などにはとてもなれないはずだ。普段とは違ういろい ろな感情や思いが沸いてくる。沸いてこなければ夢想無我になっているはずだが、そんなはずはない。必 ずいろんな思いが沸いている。 その時、その中で沸いてきた感情、思い、気づき、そうしたものは、念仏が終わって覚めると普通は瞬 時に忘れてしまう。しかし、念仏の中で沸いてきていた感情、思いなどには、自分にとって意外と大事な ものが含まれている。日常の自分を無意識に統制しているもう一人の自分がそこにいる。
187 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 21:09:34.29 ID:tz7yj9GQ
何らかの感情や思いが沸いてきたら、念仏を称えているときその瞬間に、「よし、この思いを忘れない で持ちだそう」と一度自分に言い聞かせてみるといい。これはやってみると意外にできるものだ。そうす ると、念仏から覚めたとき、念仏の中で沸いていた思いの何割かが思い出されてくる。 念仏会のフリートーキングのときに、それをさらに口にしてみるといい。「いま自分は念仏しながら、 こんなことを感じた」。そのように言葉で言ってみるといい。そのときできるだけ解説を付けず、ストレ
188 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 21:13:48.95 ID:cUefQ6XE
ートに言葉で表明すると、自分の思いが言葉になって自分の耳に入ってくる。念仏の中で沸いてきていた 感情、思いがさらに自分にとって鮮明に印象付くだろう。自分の知らなかった自分が見えてくる。 それを聞いた周囲の人はさまざまな反応をするはずだ。黙っている人もいるかも知れないが、そういう 人のそういう態度も反応の一つだ。それが改めて耳に、目に飛び込んでくる。念仏の中での発見が外の人
189 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/04/29(金) 21:15:46.29 ID:tz7yj9GQ
と共有され、発見と感動がその中で共鳴し合うだろう。 困っているとき、悩んでいるとき、人は潜在意識の中で大きな動きを起こしている。それを、念仏の中 から掘り起こし、それに気づき、自分に自明にし、他人にも知って貰う。とても大事なことだ。そういう ことが自然にできるようになると、念仏が面白くなる。感動も出てくるだろう。僕はそう思う。やってみ てほしい。
(^-^) ついでに
191 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/04/30(土) 09:09:06.29 ID:wWiZjXMz
(^-^) おかえり
192 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/03(火) 22:00:02.65 ID:hIzmI2wH
(^-^) ここが次スレですか?
193 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/03(火) 22:33:31.65 ID:W7VFnEfC
(^-^) このスレを冷やかすと、主(ぬし)が怒って登場して来そうだね。
194 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/03(火) 23:22:33.01 ID:hIzmI2wH
(^-^) カレは今忙しいから大丈夫
195 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/04(水) 09:46:54.00 ID:fZLwDjCo
(^-^) お昼は何を食べようかな
196 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/04(水) 10:25:17.42 ID:CA6e4Aws
(^-^) イクラ丼はどう?
197 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/04(水) 20:25:57.52 ID:fZLwDjCo
(^-^) イラクから撤退だね
198 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/04(水) 20:26:25.00 ID:fZLwDjCo
(^-^) 明日はドコモの日だね
199 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/04(水) 22:17:00.54 ID:CA6e4Aws
(^-^) 明日は木刀で子供をどつきまわし
200 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/04(水) 22:17:52.95 ID:CA6e4Aws
(^_^;) あんまり書くと、犯罪予告扱いされるね
201 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/05(木) 00:07:24.40 ID:DoZZhrCw
(^-^) トーミさんは何処へ行ったの?
202 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/05(木) 18:48:51.81 ID:Sjfj19ND
(^-^) 何処だろう。冬眠ではないだろうね。
203 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/12(木) 21:18:53.34 ID:BKU1/jX3
(^-^) ただいま
204 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/13(金) 19:56:22.79 ID:A8dlioTF
(^-^) おかへり
205 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/14(土) 00:23:09.83 ID:GgCQMgPj
(^-^) 深夜だね
206 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/14(土) 00:33:15.73 ID:mFmOiQFD
(^-^) 深いね
(^-^) このスレは類似スレだね
208 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/17(火) 19:58:23.33 ID:5ECCXTL7
(^-^) スレ主が行方不明だね
209 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/17(火) 20:51:11.89 ID:u1a3bOHO
(^-^) お忙しい人ですね
210 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/18(水) 18:49:11.81 ID:kSHXf3H2
(^-^) ただいま
211 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/18(水) 19:12:26.48 ID:lCb6+J1k
(^-^) おかえり
212 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/19(木) 19:33:33.30 ID:W/XIKyOp
(^-^) ただいま
213 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/19(木) 20:18:07.76 ID:Vh/F1zuI
(^-^) おかえり
214 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/20(金) 20:55:03.13 ID:BM1Ua/zE
(^-^) ただいま
215 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/22(日) 21:23:24.19 ID:2QQru6UE
(^-^) おかえり
216 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/23(月) 21:08:32.68 ID:PAKJbxyw
(^-^) ただいま
217 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/23(月) 21:12:56.92 ID:v6653Q+a
(^-^) おかえり
218 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/24(火) 19:58:46.28 ID:rM1m62H8
(^-^) ただいま
219 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/24(火) 19:59:15.04 ID:x+zdh2qQ
(^-^) おかえり
220 :
神も仏も名無しさん :2011/05/25(水) 11:17:33.66 ID:EdWLqUAg
渡海さんはどこへいっちゃったの?
221 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/25(水) 20:01:11.01 ID:xEKEorF5
(^-^) 家族の看病で忙しいんだよ
222 :
神も仏も名無しさん :2011/05/25(水) 20:22:00.73 ID:4W5kQTwC
223 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/26(木) 00:16:33.47 ID:qN/V3hgM
(^-^) おかえり
224 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/26(木) 00:17:33.55 ID:qN/V3hgM
(^-^) 妙公認のスレは消滅したの?
225 :
◆UK9FbbNeBs :2011/05/26(木) 13:11:56.52 ID:L6VSxhis
226 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/26(木) 20:17:46.00 ID:KWKMRfz6
(^-^) ただいま
227 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/26(木) 21:04:38.34 ID:KWKMRfz6
(^-^) 木の実を食べる日だね
228 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/26(木) 21:06:09.30 ID:qN/V3hgM
(^-^) おかえり
229 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/27(金) 18:58:34.99 ID:xNhoGKwp
(^-^) にんにく
230 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/27(金) 22:20:12.74 ID:xNhoGKwp
(^-^) 兄さん
231 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/28(土) 14:06:07.11 ID:A7VLwLjR
(^-^) 不細工な。
232 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/28(土) 20:08:47.81 ID:A7VLwLjR
(^-^) 踏みにじられた
233 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/28(土) 22:25:21.05 ID:A7VLwLjR
(^-^) ↓ これが連番好きの人。
234 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/28(土) 23:40:37.47 ID:tl0Qq+L6
(^-^) 祝 連番 ♪
235 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/29(日) 19:35:22.68 ID:l+RYtOQf
(^-^) 2号が接近してるね
236 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/29(日) 19:36:30.87 ID:l+RYtOQf
(^_^;) ではなく、温帯低気圧だね
237 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/30(月) 21:00:45.21 ID:1F+srXd8
(^-^) ただいま
238 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/05/30(月) 21:32:34.48 ID:8C4sBA+9
(^-^) おかえり
239 :
◆K3PkkhVAkA :2011/05/31(火) 21:17:56.69 ID:8UP5hsZN
(^-^) ただいま
240 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/01(水) 20:09:07.03 ID:jvXL1mgd
(^-^) おかえり
241 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/06/01(水) 22:02:24.73 ID:6K8Zp6vB
(^-^) ただいま
242 :
神も仏も名無しさん :2011/06/01(水) 22:47:30.51 ID:aJc6SvYS
(^-^) おかえり
(^-^) まだ閉鎖は、
(^-^) していないんだね
(^-^) ブログ。
246 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/02(木) 22:04:34.97 ID:PmWaAQvK
(^-^) 期待して待っていて
247 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/02(木) 22:05:33.11 ID:PmWaAQvK
(^-^) ブログ。
248 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/06/02(木) 22:06:44.67 ID:qYYorY6Y
(^-^) フロク
249 :
神も仏も名無しさん :2011/06/02(木) 22:15:16.82 ID:Sht/WmQx
(^-^) フクロ
250 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/02(木) 22:19:29.27 ID:PmWaAQvK
(^-^.) ホクロ
251 :
神も仏も名無しさん :2011/06/02(木) 22:31:49.24 ID:Sht/WmQx
(^-^) かわいい
252 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/03(金) 18:59:40.31 ID:Vzh/oo7V
(^-^) ただいま
253 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/06(月) 19:24:10.11 ID:YVIZPkMY
(^-^) おかえり
254 :
神も仏も名無しさん :2011/06/06(月) 21:53:43.73 ID:npUsNwzm
(^-^) お疲れさま
255 :
神も仏も名無しさん :2011/06/07(火) 22:05:33.15 ID:C3vsm7cJ
(^-^) ただいま
256 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/08(水) 19:27:36.24 ID:7p3/4pxu
(^-^) もかえり
257 :
神も仏も名無しさん :2011/06/08(水) 21:26:11.52 ID:yw5jcmK4
(^-^) ただいま
258 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/06/08(水) 21:31:18.98 ID:faNJ39m4
(^-^) おかえり
259 :
神も仏も名無しさん :2011/06/08(水) 23:16:14.05 ID:yw5jcmK4
(^-^) そろそろ就寝時間だね
260 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/09(木) 18:56:22.97 ID:awE9Nlsd
(^-^) ただいま
261 :
(^-^) ◆HYUGA.B48k :2011/06/09(木) 20:02:36.75 ID:RoWcTzcp
(^-^) おかえり
262 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/09(木) 20:25:20.52 ID:awE9Nlsd
(^-^) 入ろうかな、風呂に
263 :
神も仏も名無しさん :2011/06/09(木) 20:39:37.86 ID:wYjP9Eyq
(^-^) ただいま
264 :
神も仏も名無しさん :2011/06/10(金) 15:11:06.27 ID:HxTUEC29
とーかいさーん とーかいさーん(´;д;)
265 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/10(金) 19:45:00.77 ID:FHen/jsf
(^-^) お留守ですよ♪
266 :
神も仏も名無しさん :2011/06/10(金) 20:37:19.71 ID://TM0QS3
とーかいさんのブログ404やん 。・゜・(/Д`)・゜・。うわあああぁぁぁぁん
267 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/11(土) 08:59:52.67 ID:ej3nI2mk
(^-^) ブログが倒壊?
268 :
神も仏も名無しさん :2011/06/11(土) 15:09:11.85 ID:hLpIGsuE
法蔵菩薩は悟りをひらいて 如来になられたわけですが、 彼はもともと人間だったのでしょうか それとも別次元の存在? 普通五劫もの長い時間、人間は生きていけません 彼が智慧としてこころが安寧となるべき命題を 残し、それを後の智者があーでもないこーでもない と考えられてその作業に膨大な時間がかかってしまった その精選されたものが今日経典として残っていると考えてはまずいのでしょうか
269 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/11(土) 18:47:43.44 ID:ej3nI2mk
(^ε^) 子供むけの月刊誌についてくるね、ふろく
271 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/12(日) 17:49:15.67 ID:96Vm6FcC
(^ε^) じゃあ探さなきゃね、担い手
◆エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ◆ (釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部) ◆大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子◆
273 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/13(月) 19:53:13.22 ID:pp0FUk4y
(>_<) 大変でしたね、津波
274 :
◆K3PkkhVAkA :2011/06/14(火) 21:06:40.25 ID:9e7XICMc
(^ε^) 煮梨 ※(コンポート)
275 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 11:22:42.89 ID:kVWbb5L4
>>268 簡単な問題なのでコメントしたいと思います。
>と考えてはまずいのでしょうか
まずいと思いますよ。考えが粗雑だと思います。丁寧に考えていけば、結論も変わってくるでしょう。
>彼が智慧としてこころが安寧となるべき命題を
こういう場合、具体名詞を使いましょう。彼とは誰ですか?。阿弥陀仏(本師)?、釈迦(教主)?、阿
難(伝説上の著者)?、梵文原典著者?、康僧鎧(漢文訳者)?、善導(異説主張者)?親鸞(急進的
修正主義者)?。
彼とは誰を指しているのでしょうか?貴方の中では自明なのでしょうが、意見を主張するとき、具体
名を明示することに憚りを感じるようであれば、議論のテーブルに載りません。
276 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 11:28:24.11 ID:xTNGpV1Q
>後の智者があーでもないこーでもないと考えられて 後の智者とは誰でしょうか?。誰が後の智者なんでしょうか。 「あーでもない」の「あー」はどういう考えを指していますか?代名詞ではなく、具体的に明示しましょう。 「でもない」という、「あー」の否定論は何を根拠にした主張でしょうか。 「こーでもない」の「こー」は、「非あー」のどのような理論を指していますか?代名詞ではなく、具体的 に明示しましょう。「でもない」という、「こー」の否定論は何を根拠にした主張でしょうか。
277 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 11:30:09.57 ID:kVWbb5L4
>その精選されたものが今日経典として残っていると 「その」とは何を指す代名詞ですか?。「精選されたもの」とは、誰がどのように精選したも のでしょうか? 「後の智者」「あー」「こー」「その」では、何を指しているのかさっぱり分かりません。中身 のない空理空論をもって、「・・と考えてはまずいのでしょうか」という質問はまずいと思いま す。 質問の趣旨が、「実体のない代名詞による形式的空理空論をしてはいけませんか」という質問 であれば、コメントに値しません。外の人に聞いてください。 具体名詞を使って考えて行けばすぐに気づくような論理上の破綻を起こしていても、代名詞を 使って考えると、気付きにくいものです。具体名詞を使うのは嫌だなと感じたなら、自分で自分 をごまかしている議論だと考えるといいと思います。
278 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 11:32:15.54 ID:kVWbb5L4
>彼はもともと人間だったのでしょうかそれとも別次元の存在? 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞)。 桃太郎というのは、よい子達に勧善懲悪を認識させるための教材である。資料である。手段で ある。方法論である。 寓話であり、よいことをしよう、悪いことを止めようと悟らせようとする、これが寓意である。 阿弥陀仏というのは、善因善果悪因悪果、自然の概念を認識させるための資料である。手段で ある。方法論である。道具である。 「不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥陀仏をほめたもう徳号である」。阿弥陀仏とは、 文字も知識もない凡夫初心者に、南無阿弥陀仏は尊いぞと称讃して見せてくれる桃太郎である。 それが寓意です。
十三世紀、唯円の名文書 『歎異抄』読めば!
280 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 15:15:46.26 ID:kVWbb5L4
>278 続き(連続書き込み禁止の原則によって書き込みが遅れました) 桃太郎は、もともと人間だったのでしょうか。それとも、桃から生まれた宇宙人だったのでし ょうか?。そのような、作者が考えてもいなかったことを想像することは愚かなことでしょう。 阿弥陀仏からは「念仏を称えよう」という寓意以外のことを詮索することは実に愚かなことです。 物事は「あー」「こー」「その」ではなく、実体をもって考えて行きたいものです。 >> 279は渡海難に当てた書き込みでしょうか? ノーコメントとします。
281 :
神も仏も名無しさん :2011/06/21(火) 15:58:22.76 ID:rQ2HFWoD
とーみさん おかえり
282 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 17:05:33.10 ID:kVWbb5L4
>>268 >普通五劫もの長い時間、人間は生きていけません
寓話だから生きていけるんですよ。
寓話なら、竹からも、桃からも人が生まれる。猿・犬・雉が甲冑に身を固め
て鬼ヶ島に乗り込むこともできる。猫が長靴を履くこともある。狐が鶴と会話
もします。何も不思議がありません。それが寓話です。
寓話の背後にある寓意は何か。作者の主張は何か、そこに耳を傾けたい
ものですね。五劫もの長い時間人間は生きていけませんということより、五劫
もの長い時間考えたという寓話の背後に寓意があります。その寓意を考えた
いものですね。そこに経典の本当の命、鼓動があります。
ナンさん、ブログが消滅していますが移転したのですか?
284 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/06/21(火) 22:17:09.96 ID:kVWbb5L4
>>283 家族が病気のため、仕事以外でインターネットに集注する精神的
ゆとりがありません。
目下、インターネット関係は休業中です。
今後も当分、ネット上での発言を休みます。
285 :
神も仏も名無しさん :2011/06/21(火) 23:34:10.01 ID:55Jq+0+2
待ってたよ(´;ω;)
286 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/01(金) 12:04:49.76 ID:ls4PwFNh
>>285 待っていてくださる方がいらっしゃるということは、嬉しい限りです。
最近は家族の病状も安定してきてお陰様で見通しが明るくなってきました。先日、外国の大学に送
って調べて貰った検体に陽性反応が確認されたという報告がありました。非常に珍しい病気でした
が、発病から一年ぶりに科学的、客観的に確定しました。病名は、臨床症状を下に数か月間予想し
ていた通りのものでしたが、これで治療方針も確定したそうです。
そろそろこちらの書き込みに戻ろうと思います。浄土真宗の僧のアイデンティティーは何か。葬儀
の主催を主軸とする教団宗教とは何か。神社仏閣板で半ば約束していた議論に取り組みたいと思
います。
最近2ちゃんねるは書き込み制限が厳しく自由な発言がしにくくなっていますが、その制限内で今
後できるだけ議論してみたいと思います。
287 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/01(金) 13:17:22.40 ID:ls4PwFNh
>>286 × 科学的、客観的に確定しました。
○ 科学的、客観的に病名が確定しました。
× 主催
○ 主祭
288 :
神も仏も名無しさん :2011/07/01(金) 15:48:07.78 ID:i0JCf1YI
そっかそっか よい方向に向かったみたいでよかった(^-^)
289 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/03(日) 12:44:15.95 ID:XbVKn530
浄土真宗の僧のアイデンティティーというものを考えるならば、まず親鸞とは何者だったのかというこ
とから考えて行く必要がある。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/ShinranShonin.png/250px-ShinranShonin.png この絵は、親鸞聖人八十三歳(1255年)の肖像と伝えられる。西本願寺に国宝として所蔵されてい
る。敷物は狸の皮、草履は猫の皮、杖は鹿の角に猫の皮を巻いてあるそうだ。これは、現代の我々が
見てもピントこないが、いわゆる鎌倉時代の勧進僧のみなりだそうだ。
長野の善光寺は勧進僧の寺である。ここは親鸞と関係が深い。かつて善光寺は多くの勧進僧を抱
えていた。古い記録の中に親鸞の名前が発見されているそうだ。
善光寺の如来の 我らを哀れみましまして 難波の浦に来たります
御名をも知らぬ守屋にて その時ほとおりけと申しける
疫癘あるいはこのゆえと 守屋が類は皆共に ほとおりけとぞ申しける
易く勧めんためにとて ほとけと守屋が申すゆえ ときの外道皆共に
如来をほとけと定めたり。
290 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/03(日) 12:47:41.23 ID:XbVKn530
善光寺とは、もともと552年に百済の聖明王から朝廷に献呈された仏像を、本多善光という人物が、6 02年に難波(現在の大阪市)の浜辺で発見し、それを自分の故郷に持って帰り、祀ったものらしい。「難 波の浦に来たります」とは、浜辺に流れついていた。捨ててあったということだろう。 かつて、日本人は仏像を「ほとおりけ」と称した。「ほとおりけ」とは呼称を知らなかった物部守屋が勝手 に付けた名前である。 世の中に疫病が流行る原因は、このような怪しげな仏像が外国から入ってきたことが原因である。仏 像を捨ててしまえ。物部守屋はそのように排仏を唱道した。ほとおりけとは、化け物、妖怪、疫病という意 味だ。 顔に熱が出ると「顔がほてる」という。「け」は気、ほとおりけとは熱の出る疫病をいう。あるいは、「ほと」 とは陰部を指し、ほとおりけとは陰部に住み着いて人を惑わす妖怪を指す。
291 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/03(日) 12:49:58.54 ID:XbVKn530
物部守屋が仏像を「ほとおりけ」と呼んだため、人々は「ほとけ」と言うようになった。排仏派の物部 氏が滅び、崇仏派の蘇我氏が勝利すると、やがて妖怪、疫病という意味も消え、如来の別称になっ た。親鸞はそういう。 善光寺は、日本最古の仏像がある日本仏教の原点である。親鸞はそのようなことが言いたいのだ ろう。自分は善光寺に属する勧進僧である。当時親鸞はそのように自己紹介をしていたのかも知れ ない。
>>289 × 如来をほとけと定めたり。
○ 如来をほとけと定めたり。 (親鸞作 和讃)
293 :
神も仏も名無しさん :2011/07/06(水) 15:17:19.84 ID:TCVBv6Y0
294 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/06(水) 15:29:58.69 ID:AzKBCBXM
>>138 >大無量寿経によって念仏が真正面から説明されるようになるのは親鸞からである。
時間が過ぎてしまいましたが、これに補足しておく必要性を感じました。
その上輩というは、〜 一向に専ら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと
願ぜん。(大無量寿経 末)
渡海難は、大無量寿経には念仏について議論されている箇所はないという。しかし、大無量寿経は
念仏を議論しているではないか。こういう反論が出る。
大無量寿経が言う無量寿仏を念じるとはどういう意味か。大無量寿経が書かれていた時代の言葉の
定義が問題になる。経典が言う念仏は、現代の我々のイメージする念仏ではない。
295 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/06(水) 15:32:35.01 ID:AzKBCBXM
観無量寿経はいう。
教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、
汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべしと。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、
十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。
下品下生の極悪人が、最後の土壇場で苦しむ。善友がその極悪人に念仏を勧める。しかし、極悪
人は苦しさの余り、念仏ができない。そこで善友は無量寿仏と称えよと教える。極悪人は南無阿弥陀
仏と十回称える。
観無量寿経で分かるように、経典編纂時代、念仏というのは南無阿弥陀仏と称(とな)えることでは
なかった。念仏とは、仏のイメージを心に描くこと。いわゆる観相の念仏を意味していた。称名念仏で
はなかった。現代で言う称名念仏はなんというか。阿弥陀経に書いてある。
阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、 〜、もしは七日、一心にして乱れざ
れば、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。
「名号を執持する」という言葉が出てくる。執持名号というのが現代の称名念仏である。
念仏という言葉が称名念仏を意味するようになったのは、法然上人以降である。大無量寿経では、
著者は、称名念仏について何ら議論をしていない。問題にしていないというのが実体である。
>>293 (親鸞作 和讃) という注釈を足しました。
仏教には啓示はない。解脱だけを目的としている。救済の思想はない。 仏教は本来不立文字が本質である。 大乗経典は、全て釈迦とは何の関係もない。 華厳も、最澄の法華経も、法然、親鸞が所依の経典である阿弥陀経も、 般若心経もみな、後人の作であって仏教ではない。 仏教には墓の概念さえない。もちろん超能力や、神通など論外である。
297 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/07(木) 11:32:04.07 ID:KoaS6WUs
>>296 >仏教には啓示はない。解脱だけを目的としている。救済の思想はない。
「啓示」「解脱」「救済の思想」
発言者が想定している言葉の定義、概念が不明でコメントのしようがない。戯論にはノーコメ
ントとします。
>仏教は本来不立文字が本質
戯論にはノーコメントを原則としますが、大事な問題が含まれているときはコメントします。
真理には、文字・言葉で表示できない真理もありますが、文字・言葉で表示できる真理もあり
ます。文字・言葉で表示できない真理だけが真理であると思うのは間違いでしょう。
先人は、文字・言葉で表示できない真理も、表示できる真理も、共に伝達しようとしてくれて
います。文字・言葉で表示できる真理まで不立文字と言って、表示を拒否すれば、それは仏教で
はない。むしろ、文字・言葉で表示できない真理と見えても、本当に表示できないのか、ぎりぎ
りまで挑戦し、できるだけ文字・言葉で表示する努力を怠らないのが本当の仏教です。文字・言
葉で表示できることを、文字・言葉で表示しなければ、仏教に値しない外道の世界だと思ってい
ます。
僕は、文字・言葉による表示に、ぎりぎりまで挑戦するつもりです。
>大乗経典は、全て釈迦とは何の関係もない。
近代物理学はイギリスのアイザックニュートンに始まります。原子物理学は、アイザックニュ
ートンとは何の関係もありません。それがどうした。
298 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/07(木) 11:34:13.16 ID:KoaS6WUs
>華厳も、最澄の法華経も、法然、親鸞が所依の経典である阿弥陀経も、般若心経もみな、後人 の作であって仏教ではない。 湯川秀樹博士の中間子理論も、朝永振一郎博士の量子電気力学も、江崎玲於奈博士の半導体に おけるトンネル効果論も、小柴昌俊博士の宇宙ニュートリノの検出も、小林誠博士・益川敏英博 士のCP対称性の破れ論も、みなアイザックニュートンの後人の作であって物理学でない。 ↑ こういうことを言う人は、頭がおかしいんでしょうね。 >仏教には墓の概念さえない。 墓は日本人の古代からの習慣に基づく。多分、縄文・彌生文化に由来するものだろう。 仏教は生身の人間を相手にする。仏教と墓の問題をいままさに議論するつもりです。 >もちろん超能力や、神通など論外である。 経済学を勉強すれば、将来の株価の予想が見えてくる。医学を勉強すれば、難しい病気も治 せるようになる。現代ではこれを「専門知識、専門能力」という。 念仏を称えれば、横隔膜が鍛えられ、体内の循環生理が活性化し、ストレス下でも健康な判断 ができるようになる。僕の経験的知見です。
299 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/07(木) 11:36:34.55 ID:KoaS6WUs
哲人が、病人にチーズを与えて病人が一時的にでも元気を回復したのを見て、人々はこれを哲 人の超能力と言った。哲人が、太陽や星の運行を見て季節を知り、小春日和の日に、今後、夏で はなく、寒い冬が来ることを預言したのを見て、人々はこれを哲人の神通力だと思った。 超能力とはなにか、神通力とは何か。我々と昔の人とは言葉の定義が違う。言葉の定義をシフ トすれば、先人の言葉は明瞭になる。 言葉の定義を明瞭化すれば、誤りなく本当のことが見えてくる。言葉の定義は諸刃の剣であり、 間違えれば、古代の思想は毒になる。 しばらくカキコを休みます。
300 :
神も仏も名無しさん :2011/07/07(木) 14:59:44.04 ID:LdoJY7Oh
お疲れ 待ってるからね
301 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/17(日) 12:16:05.96 ID:pxoIp/SO
親鸞は善光寺の勧進僧だった。この主張はかなり昔から言われている。1959年、松野純孝さん だそうだ。勧進僧だったとなると、その事実は、親鸞の思想を考える場合、重要な立ち位置となる。 親鸞は、天児屋根尊の子孫だったかどうか、藤原氏だったかどうか、日野氏だったかどうかなどと いうことは、親鸞の思想には全く関係ない。親鸞を取り巻いた人々が親鸞をどう見ていたかという点 では問題になるが、親鸞は何を語ったかということを考える場合には、無視していい問題である。 知らなくても全く困らない。 「私は善光寺の勧進僧です」。親鸞はそのように自己紹介をし、善光寺の勧進僧という立場で 法を語っていたと思われる。善光寺の勧進僧という立場は、親鸞が不本意でなった立場ではなく、 自らが望んで求め立場であると言うこと。したがって、善光寺の勧進僧としては突飛であって、 勧進僧とすれば非常識となる主張は、親鸞の思想の中には存在しない。証文は伝わってなくても、 勧進僧として不可欠と思われる主張は、発言していたと仮定することは大事だろう。これこそ、 親鸞思想を考える場合の大事な大枠となる。 親鸞は善光寺の勧進僧だった。このことは、非常に重要なので、それ以前から少し議論してみたい。 親鸞は三五歳で流罪となり、三九歳で赦免となる。流罪になったとき、僧籍は剥奪されて公的 には僧の資格を失っても、心は僧であり続けよう。心は僧を続けよう。親鸞はそのように決意し ていたようだ。その意思は、「しかれば既に僧に非ず俗に非ず。このゆえに禿の字をもって姓と す」という教行信証の言葉に十二分に表れている。 しかし、流刑中、その心も揺らいだときもあったようだ。親鸞は恵信尼という女性と恋仲にな る。息子の善鸞は、恵信尼の方が親鸞を誘ったという意味のことを言っている。善鸞は親鸞の養 子、又は猶子と思われる。血縁関係のある親戚の子で、京都から連れてきた子と思うが、実子で あったという証拠は一つもない。僧は戒律の下で生活している。子供がいればすぐそれを実子と 結びつけたがるのは、浄土真宗研究者の非常に質の悪い思い込みである。僧を見たら破戒僧と思 え、人をみたら泥棒と思え。こういう態度では正しい研究はできない。善鸞は流刑中での親鸞の 動きを少年の目で目撃していたかもしれない。
302 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/17(日) 12:18:17.09 ID:pxoIp/SO
恋仲と言っても、現代のような戸籍制度、婚姻制度があるわけではない。名主、地頭、国司と もなれば男女は同居婚をしていたと思うが、流刑囚であれば、恐らく一夜の通い婚だったろうと 想像する。僧籍を奪われ、不本意にも還俗させられた元僧侶が、女性と恋仲になってはいけない という規則はない。信蓮房というのは、親鸞赦免の翌年に生まれているから、種は流刑中にでき たものだろうと思う。 僧でありたい。僧に戻りたい。僧にもどる方法は無いのか。親鸞はそのように考えていたよう だ。このころの親鸞の動きについて、朝日新聞出版社刊、真宗教団連合編「親鸞」に面白い記事 があった。歴史家の古田武彦さんの投げている一石である。
303 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/21(木) 14:16:45.71 ID:3qtCrZjJ
朝日新聞出版刊行「親鸞」で、平松令三氏は言う。 親鸞については、古田武彦氏がその著『親鸞思想』において、『教行信証』のいわゆる「後序」 のうち、「ヒソカニオモンミレバ」から始まって「五年ノ居諸ヲヘタリ」までを越後流罪中に書 いて提出した赦免要求の上奏文だとする説を発表した。これはこの本文中に在位中の天皇を「今 上」と呼んでいるのをキーワードにしての実証的研究であり、説得力を持って、これが越後流罪 中に書かれたことと認められる。しかし、 〜 この「後序」には主上臣下法に背き義に違し」 などと念仏弾圧を強行した朝廷を手厳しく非難する語句が並んでおり、その点で朝廷への赦免請 求とは考えられない。 〜 鎌倉幕府への提出ではなかろうか。 この考えは面白い。教行信証の後序では、確かに為仁親王を今上と呼んでいる。為仁親王は土 御門天皇であって、その在位期間は1198年〜1210年である。親鸞の流罪は1207年〜 1211年であるから、後序は流罪中に書かれていると考えるのが常識的だ。 それでは目的は何のためかということになる。教行信証は1224年頃に書かれている。本文 中に当年を末法に入って683年と書いてあり、学者が計算している。つまり教行信証が書かれ る遙か前に後序が書かれている。 平松令三氏は、鎌倉幕府への提出だろうと言う。この考えは説得力がある。では何のための提 出だったのか。しかも仮に鎌倉幕府への提出とすれば、どうして親鸞は「今上」という言葉を、 10年以上過ぎてもなお使っているのだろう。1224年は後堀河天皇が在位している。 教行信証の後序、特に「ヒソカニオモンミレバ」から始まって「五年ノ居諸ヲヘタリ」は、親 鸞にとって一字の変更も許されない文書であったと考えられる。一字の変更も許されない文書と は何か。公式文書の副本である。公式文書の副本は、原本との変更は許されない。親鸞にとって の公式文書とはなにか。外には考えられない。自分を証明する身分証明書である。身分証明書は 原本と一字の変更も許されない。だからこそ天皇が変わっても、為仁親王を今上と呼んでいるの ではないか。
304 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/21(木) 14:22:00.74 ID:3qtCrZjJ
親鸞が身分証明書の原本となるようなものを提出するところはどこか。それは善光寺だろう。 「ヒソカニオモンミレバ」から始まって「五年ノ居諸ヲヘタリ」までは、鎌倉幕府ではない。こ れは流罪中の親鸞が善光寺に提出した履歴書の副本である。僕はそう想像する。そう考えると、 親鸞の思想の立ち位置が非常にはっきりする。親鸞は善光寺の勧進僧という立場でものを語る勧 進僧である。 朝日新聞出版刊行「親鸞」で、平松令三氏は言う。 長野の善光寺は、治承三年(1179年)、大火で全焼し、 〜 その復興資金募集活動の一 つとして、寺僧がグループを組んで各地に出かけ、いろんな企画による募財活動を行った。これ が善光寺聖で、それを積極的に支援したのが鎌倉幕府の将軍源頼朝である。彼はこの募財に協力 すべき事を支配下の武士全体に命じている。 親鸞はこの募財運動に応募し、善光寺の勧進僧の道を掴んだ一人である。応募の時に提出した 履歴書が「ヒソカニオモンミレバ」から始まって「五年ノ居諸ヲヘタリ」という文書ではなかっ たか。 幸いにもこのとき、親鸞は選考に合格した。従ってその履歴書は善光寺で事実上永久保管にな った。以後、親鸞は善光寺を身元とし、そこに保管されている履歴書を原本とし、同一の文書を 携行して自らを証明する一生の身分証明書とした。 親鸞が勧進僧に応募するとき大きな障害があった。それは流刑囚という身分である。流刑中の 犯罪人が簡単に勧進僧になれるほど世の中は甘くない。しかし、幸いなことに、長野の善光寺は、 朝廷の力が及ばず、事実上鎌倉政権の勢力下にあった。しかも、法然教団と鎌倉幕府とは信頼関 係で結ばれていた。北条政子は法然に教えを請うている。親鸞は、流刑が違法な処分であったこ と、親鸞は法然上人の流罪と一緒に流罪になったことを最大限にアピールし、法然上人との強い 絆をアピールすることで勧進僧への道を得ようとしている。履歴書はそのように読むべきだろう。 親鸞とはどういう人物だったか。それは、勧進僧とは何だったかということから考えて行きた い。
305 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/26(火) 11:38:07.69 ID:95GqZw+/
善光寺勧進僧とはどんな集団だったか。朝日新聞出版の『親鸞』は言う。 鎌倉時代の善光寺は、非業の死を遂げた亡者を追善供養するのを信仰の一つの拠り所ともして いた。たとえば有名なところでは、工藤祐経を仇討ちしたものの、将軍の命によって処刑された 曽我五郎・十郎兄弟の骨も善光寺に納められたし、『沙石集』巻七に載せる恋の病で死に、蛇と なって男へとりついた娘の骨も、巡回してきた善光寺勧進聖に託されたという。 親鸞は追善供養をしなかったというのは、一種の神話だろう。善光寺勧進僧ともなれば実際に は何度も行なっていたと思う。ただ、その追善供養は、現代の我々が想像する意味、スタイルと 同じであることは、多分意味しないだろう。 恵心尼は、浄土三部経を千回読むという計画が親鸞聖人にあったということを手紙に書いてい る。朝日新聞出版の『親鸞』は、二十人から三十人もの僧が合同して一斉に浄土三部経を読む豪 華な法会だったろうと言っている。僕もこの考えに賛成である。それは、善光寺への志納金の募 金のためであったかもしれない。あるいは、追善供養、災害復興、又は土木工事など行うための 準備事業だったかも知れない。大事なことは、親鸞聖人とはそのようなことも行う僧だったとい うことだ。親鸞聖人は、個性豊かな、しかし当時の一般的な勧進僧と、少なくとも外見的にはほ とんど相違がなかったろう。
306 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/07/26(火) 11:40:47.56 ID:95GqZw+/
勧進僧というのは、政府の管理から部分的にあるいは完全に離れ、直接大衆に働きかけを行い、 様々な事業を行う僧侶である。代表的な例としては行基菩薩がいる。しかし、行基菩薩以後、勧 進僧はしばらく歴史の舞台から消える。全国に国分寺国分尼寺ができ、僧は国家資格となって国 家の完全な管理下に置かれ、大衆に直接勝手に働きかけることが禁じられたからだ。 勧進僧の事実上の最初は空也上人だろう。その後、空也上人の偉業を継承する人々が出現する。 後に彼等は空也衆、高野聖などと言われる。親鸞もこの仲間に含まれる。 浄土真宗には宗祖が二人いる。一人は親鸞聖人である。もう一人は空也上人である。日蓮宗に は宗祖が二人いる。一人は日蓮聖人である。もう一人は空也上人である。曹洞宗には宗祖が二人い る。一人は道元禅師である。もう一人は空也上人である。このように、空也上人こそ、日本仏教、 特に日本の大衆仏教の事実上の祖である。 現代で官立寺院は事実上存在しない。無論、昔はたくさんあった。しかし、今はない。全て国 民、大衆の支援に支えられて存続している。その意味で、今では奈良仏教、天台宗、真言宗も含 め、全ての宗派が空也衆、空也宗であると言っていいだろう。浄土真宗は、空也衆の中で、親鸞 聖人に引かれる人が、空也衆に軸足を残しつつ、親鸞聖人に仏教の教えを学ぶ人々である。日蓮 宗は、空也衆の中で、日蓮聖人に引かれる人が、空也衆に軸足を残しつつ、日蓮聖人に仏教の教 えを学ぶ人々である。曹洞宗は、空也衆の中で、道元禅師に引かれる人が、空也衆に軸足を残し つつ、道元禅師に仏教の教えを学ぶ人々である。空也上人を考えずに浄土真宗を議論しても無意 味である。空也上人とはどういう人だったのか。浄土真宗の原点とアイデンティティを考えたい。
307 :
神も仏も名無しさん :2011/07/27(水) 02:41:09.26 ID:djPVSdDA
,,-―--、 |:::::::::::::;;;ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |::::::::::( 」 < 低能バカアンチって、みんな低能バカばっかりだよな ノノノ ヽ_l \______________ ,,-┴―┴- 、 ∩_ /,|┌-[]─┐| \ ( ノ / ヽ| | バ | '、/\ / / / `./| | カ | |\ / \ ヽ| lゝ | | \__/ \ |  ̄ ̄ ̄ | ⊂|______| |l_l i l_l | | ┬ |
308 :
神も仏も名無しさん :2011/08/02(火) 11:28:49.21 ID:fJCuwI6N
309 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/02(火) 14:00:48.73 ID:AU59vsRe
空也上人とはどのような人だったか。空也上人についてはいろいろ伝説が伝わっている。 日本における地蔵信仰の原点は地蔵和讃である。地蔵和讃は空也上人が作ったと言われている。 現在流布している地蔵和讃は多くの人の手が入っているだろうが、一番始めの原型は空也上人又 はそれに近い人が書いたものではないかと想像する。後の人が手を加えるとすれば、それは形容 詞的な誇張部分だろう。形容詞的な誇張部分を排除した地蔵和讃の核心部分は、空也上人の肉声 が残っていると考える。 地蔵和讃の核心は何か。僕は次の部分にあると思う。 能化の地蔵大菩薩 右に如意宝の玉を持ち 左に錫杖つきたまい ゆるぎ出てさせたまいつつ 幼き者のそばにより 遠くの人も気がつきそうな鳴り物棒を左手に持ち、子供達の目を惹くような珍しそうな光り物 を右手に持ち、名も知れない素晴らしい仏道修行僧が、突然大地からわき出でたかのようにどこ からともなく現れ、小さい子供の所にそっと寄ってくる。 何を嘆くかみどりごよ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し いつ まで親を慕うとぞ 娑婆の親には会えぬとぞ 「どうしたんだい」。仏道修行僧は子供に優しく話しかける。残念だけどね、昨日までと今日 からは状況が大きく変わっちゃったんだよ。もう、昨日までの生活に戻れないんだ。まだ小さい けど、新しい生活をしなければならなくなったんだよ。寂しいね。お父さん、お母さんに会いた いね。でもそれは無理なんだ。もう昨日までのお父さん、お母さんには会えなくなっちゃったん だよ。 今日より後は我をこそ 冥土の親と思うべし 幼き者を御衣の 袖やたもとに抱き入れて 哀 れみたまうぞ有難や もう、今日からはね、このおじちゃんをお父さん、お母さんと思いなさい。仏道修行僧は、小 さい子供を着ている衣の袖や袂に抱き入れ、優しく抱擁する。とても素晴らしい姿である。
310 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/02(火) 14:03:49.28 ID:AU59vsRe
いまだ歩まぬみどりごも 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌に 泣く幼子も抱き上げ なでさすりては地蔵尊 熱き恵みの御涙 袈裟や衣にしたりつつ 助けたまうぞ有難や まだ、十分には歩けない小さい子は、珍しそうな鳴り物の杖に寄りかからせる。泣いている子 供は、忍耐と優しさにあふれた僧の肌で抱き上げ、そっと体をさする。名も知らない突然沸いて きたような修行僧は、熱い恵みの涙を、着ている自分の衣にしたたらせながら、子供達を必死に 助けようとする。とても、とても素晴らしい姿である。 大慈大悲の深きとて 地蔵菩薩にしくはなく これを思えば皆人よ 子を先立てし人々は 悲 しく思えば西へ行き 残る我が身も今しばし 命の終るその時は 同じはちすのうてなにて 導 き給え地蔵尊 両手を合して願うなり。 どれほど深い優しさにあふれている人であると言っても、名も知らずどこからともなくやっ てくる地から沸いてくるような仏道修行者に及ぶものではありません。こうしたことを考えれば、 お子さんを失ったみなさん、どうか希望までは失うことなく力強く生きようとしてください。子 供が失われ、寂しくなったら、それでもいつかどこかで生きているかも知れない、死んでいたと すれば、きっと来世で会うことができる。そう希望を持とうではありませんか。 名も知らない、地から突然沸いてきたような修行僧の方が、どうか我が子を救ってくださって いますようにと、両手を合わせながらそう祈りつつ、新たな希望をもって生きていこうではあり ませんか。 空也上人は、子を失った親にこのように呼びかける。地蔵和讃には、「死んだら怖いぞ、怖い ぞ」と、意味も無く恫喝恐喝しているような書きぶりの文章もあるが、それは空也上人の精神を 知らない後代の人の加筆だろうと思う。空也上人の和讃は、直接的には子供が行方不明になった 親に、また拡大すれば病気で子供を失った親に、どうかくじけずしっかりと勇気をもって生きて いって欲しいというメッセージを送っているようだ。 空也上人は、将門の乱、純友の乱と同時代に生きている。当時、都では毎年のよう飢饉と疫病 で人々が苦しんだ時代である。地蔵菩薩和讃から、親鸞と姿がダブる空也上人という人の重要な 生き方が見えてくる。
仏教には啓示はない。解脱だけを目的としている。救済の思想はない。 仏教は本来不立文字が本質である。 大乗経典は、全て釈迦とは何の関係もない。 最澄の法華経も、法然、親鸞が所依の経典である阿弥陀経も、 般若心経も華厳経もみな、後人の作であって仏教ではない。 仏教には墓の概念さえない。もちろん超能力や、神通など論外である。
314 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/08(月) 15:42:48.67 ID:bKA6xTRr
>>311 すでにその時点で自己矛盾してるけど
じゃあそもそも釈迦の教説は多くの人間にとってどうでもいいもの
無意味で必要ないものだったというだけのことで
すでに結論が出ているけどね
317 :
神も仏も名無しさん :2011/08/10(水) 02:39:18.39 ID:J8mTGfyG
315 第三世界の御方ですかぁ〜〜〜。
318 :
神も仏も名無しさん :2011/08/10(水) 02:47:55.07 ID:J8mTGfyG
315 墓に「敏感」で〜〜〜媚びられる〜〜〜 無力な息子さんを「背負って」おられるのかしら〜〜〜 打座に行きなさい〜〜〜 今一度、御悪役になる「復活!」の 為 の シナリオの 昆虫採集を 作って貰わないと〜〜〜 コウミョウな 手口で、騙されてイマイチの 世界になるものです・・・・・ かなり、魅力的な あなたにとっての 借りた御金に なりますか? お許しになられるなら、ブスの子供に 成りきって ジシンの「悪役選手」の御顔のシミになられて 下さいませ・・・・・
319 :
神も仏も名無しさん :2011/08/10(水) 02:50:17.49 ID:J8mTGfyG
ジシンのある。。 訂正です〜〜〜↑
>>310 親鸞の周囲には子供達が多い。善鸞、覚信などの外、範意、恵信(小黒女房)、明信(信蓮)、有
房(道性)、高野禅などの名が記録に残っている。実際にはもっと多くの子供達がいただろう。
この内、誰が親鸞の実子であるか、推定は極めて困難である。信蓮は親鸞の名に音が近く、流
罪の赦免直後に生まれている。そう考えれば、信蓮は親鸞の実子と考えても不自然ではない(な
お、実子ではないと考えても不自然ではない)。しかし、その外の子は、猶子、又は養子と考え
るのが自然だろう。猶子、養子ではなく、親鸞にはそのほかにも弟子と呼ばれる人がたくさんい
る。
僧侶には戒律がある。僧は異性と情交を結んではならない(梵網経三重戒 等)。親鸞は、還
俗させられて流刑されていることから、流刑中であれば、妻がいて、その間に実子が生まれても
不自然ではない。しかし、流刑前、あるいは赦免後に実子ができたと考えるのは不自然である。
善鸞は、親鸞という名に近いので、京都時代に預かった親戚の子供ではないかと、僕は勝手に
想像している。その外の子供は、関東で預かった無名の庶民の子供達ではないだろうか。当時、
関東でも毎年のように飢饉や災害が発生し、親を失った多くの子供達がいたはずである。親鸞は
そのような子供達には見向きもしないで、自分だけせっせと子作りに励んでいましたと、根拠も
なく闇雲に考えるのは間違いである。
人を見たら泥棒と思え、僧を見たら破戒僧と思え。これは現代浄土真宗の間違った教えである。
民法は重婚を禁止している。小学校に行けば、校長先生の回りに何十人もの子供達がいる。子供
達の名は全て記録が残る。現代では、一夫一婦制を原則としても、現実には法を破った重婚者は
たくさんいる。現代人はみんな法を破っているのだ。だから、校長先生も法を破り、周囲の子供達
は全てその校長先生の直系の子供である。こう言えば、これは校長先生に対する冒涜である。
覚信尼は、本願寺の基礎を作った人物である。本願寺の門主は彼女の子孫である。覚信尼は、 親鸞が五十代のときに生まれている。だから本願寺の門主は親鸞の直系の子孫であると考えるの は、親鸞に対しても、覚信尼に対しても、本願寺の門主に対しても、大変な冒涜である。 親鸞は九歳で青蓮院という寺に預けられている。親鸞には五人の兄弟がいる。五人全員が、親 鸞と同時に出家している。あるとき父親の有範に重大事件が起こり、一家が崩壊したようだ。親 鸞は自分から望んで出家したような伝説が残っているが、後代の作り話に違いない。親鸞は口減 らしの為、泣く泣く青蓮院に預けられたというのが実体だろう。九歳の子供に自分から進んでそ のような決意ができるはずがあるわけない。僕はそう信じているのだ。当時、寺には児童福祉施 設としての役割があり、僧は子供を養えなくなった親からその子供を預かって育てるという重要 な仕事を担っていた。 親鸞は藤原氏一門の日野家という貴族の出身だったらしい。しかし、養えなくなった親から預 かって養育しなければならないのは、血統を重んじる貴族やその他の有力者の家族の子供だけで あってはならない。無名の庶民の子供でも、当然養育しなければならない。 児童福祉、社会福祉事業こそ、勧進僧の社会的責務の一つである。家柄や出自に関わらず、全 ての子供を養育しよう。空也上人の地蔵菩薩和讃は、日本における児童福祉、社会福祉の原点で ある。子供達を守ってほしい。社会を守ってほしい。日本の未来を守ってほしい。空也上人・親鸞 聖人の歩んだ足跡から、後代の勧進僧を目指す人々に呼びかけている先人達のメッセージが聞こ えてくるようである。
322 :
神も仏も名無しさん :2011/08/12(金) 13:23:59.35 ID:GO7BwF+9
あげ
323 :
渡海 難 :2011/08/14(日) 14:18:04.08 ID:Hq7jAGfo
324 :
神も仏も名無しさん :2011/08/14(日) 20:16:40.13 ID:ZNs74w8d
希望するにはどうすればいいの?
325 :
神も仏も名無しさん :2011/08/15(月) 11:29:57.42 ID:BHyMWHL+
>>324 ホームページの「意見・異見・反論・批判・質問」から
メールアドレス(ステアドでも可)を送ってください。
お知らせのあったアドレスにお知らせします。
326 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/19(金) 13:23:42.76 ID:toQUXZfY
空也上人と言えば、京都の六波羅蜜寺にある重要文化財、空也上人像が頭に浮かぶ。空也上人 像は、南無阿弥陀仏を表す六体の阿弥陀像が口から出ている。空也上人は、大衆に念仏を教えた 日本仏教史上の最初の人物と言っていいだろう。 空也上人から始まったと言われていて忘れてはならないものがある。火葬という風習だ。日本 で火葬を始めたのは空也上人が最初ではない。しかし大衆化させたのは空也上人である。空也上 人の時代、毎年のように疫病、飢饉が続き、各地で一家全滅、集落全滅ということも少なくなっ た。地域全体が全滅すれば、死体は放置され、野犬などの餌になる。新たな疫病の原因にもなっ た。こうしたものを、ボランティア活動でゴミとして焼却し、環境整備を行おうとした人物がい た。それが空也上人だ。 もともと日本は土葬国家だった。イザナミの腐敗した死骸をイザナギがのぞき見をし、イザナ ミの怒りを買い、追いかけてくるイザナギの道を石で塞いだという話が古事記にある。死体は火 葬することなくそのまま土に埋め、その上に石を置く。これが日本古来の習慣である。墓石を置 くというのは、日本の習慣だ。邪鬼が出現しないように魔除けの意味があるのだろう。土葬すれ ば、土中で蛆がわき、悪臭を放つ。古代の日本人はそれを邪鬼と考えたのだろう。 空也上人は、鉦や太鼓を鳴らし、時には道に留まり、そこで踊って見せたようだ。すると物珍 しそうに人々が集まってくる。 「お集まりの衆、一緒に環境整備をしようではないか。転がって腐敗している死体を集め、ゴ ミとして燃やそう。そうすれば街から悪臭がなくなるぞ」 「死体は臭くて臭くて堪らんぞ。三メートルも近づけんぞ。しかもその顔を見てみろ、すごい 形相じゃ。鬼のようで、わしゃ見るのも嫌じゃ」 「臭いし、形相は見るのも嫌じゃろう。だから早く燃やしてしまおうと言うんじゃ。作業中は、 南無阿弥陀仏と称え続けるといい。臭いも形相も忘れてしまうじゃろ」 「あんなもん、近づいたら祟りがあるぞ」 「祟りなんかあるもんか。南無弥陀物を称えていれば、悪霊の方向こそ、怖くて退散するぞ。 臭い物は早く燃やしてしまおう。さあ、手伝ってくれ!」
327 :
神も仏も名無しさん :2011/08/19(金) 13:25:43.41 ID:toQUXZfY
空也上人の提案に、背を向けて離れて行く者もいれば、提案に賛成し、焼却作業を手伝うとい う人も少なくなかったろう。空也上人は、「南無阿弥陀仏」と声を出して称え続けることを提案 した。この結果、日本では南無阿弥陀仏という名号に呪術的なニュアンスが加わることになる。 京都には鴨川と桂川の合流点に佐比という場所がある。地蔵菩薩和讃では「賽の河原に迷い来 て長き苦患を受くるとぞ」とある。佐比の河原は、清和天皇の時代、京都の葬送の地として定め られたそうだ。空也上人が火葬を行ったのも、その辺ではないかと想像する。 空也上人はたき火を行い、死体を焼却した。日本で火葬が大衆化していった最初だろう。焼却 中も空也上人にはやるべき事があった。護摩行だ。火葬場に行くと、公立の施設でも現代におい て不動明王が祀ってある。公立施設で宗教施設があるのは、刑務所と火葬場ぐらいだろう。焼却 中、日本の坊さんには焼却炉に向かって読経する習慣がある。これは空也上人以来の伝統ではな いか。死体を燃やすことで祟りを恐れる人々の心を安心させるため、空也上人は火の側に不動明 王を祀り、護摩行を行った。こうして火葬場は、その後、日本の大衆仏教の原点なった。夏祭 り、盆踊り、日本舞踊、民謡、能狂言、歌舞伎など、日本人は多彩な文化を生み出していく。
328 :
渡海 難 :2011/08/21(日) 14:21:38.54 ID:J9aryUsP
かなり上のほうで「プレスクール説」を展開されてますが この議論はその後、なにか発展しましたでしょうか
330 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/27(土) 17:02:20.39 ID:NDy9IEN+
>>329 発展とはどういう意味でしょうか。増筆したかということでしょうか。
プレスクール論をテーマに書いたことはありません。
プレスクール論で新たな発見・気づきなどがあったかということで
しょうか。特に新たな発見・気づきがあったという自覚もありません。
プレスクールというのは親鸞思想の外殻を形成するものですから、
これからはみ出る親鸞思想は非常に少ない。従って、親鸞聖人を尊敬す
る僕の思想も、ほとんどがプレスクール論です。その意味では、僕が
日々書いている議論もほとんどプレスクール論と言えると思います
331 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/29(月) 13:33:26.32 ID:DortK4vy
空也上人と言えば京都の六波羅蜜寺を思い出す。六波羅蜜寺は空也上人が開いた。インターネットで
の記事によると、西暦963年、諸方の名僧六百名を招き、金字大般若経を浄写、転読したという。夜
には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。
http://www.rokuhara.or.jp/history/ 六波羅蜜寺には、真夏に万灯会という祭りがある。皿に灯芯を大の字に組み、これを燃やす。全部で
百八個並べるそうだ。大の字は地水火風空を象徴するという説明があるそうだが、この説明は後代の後
付けだろう。死体を燃やしている火葬を再現している祭りに違いない。万灯会は、八月十六日の京都五
山祭りの原型である。五山祭りでは、京都大文字山で大の字に火を燃やす。
葬式仏教とは、現代仏教に対する悪口である。しかし、日本の大衆仏教は空也上人の葬儀仏教、火
葬仏教から始まり、これこそが、多くの日本文化の母体であり、日本のアイデンティティーであること
も忘れてはならない。
空也がたき火の前で護摩行を始めると、人々は酒を飲み出し、歌い、踊り出した。穢れ落としである。
死体の収集と運搬と焚きつけという一連の作業の疲労と、とりついた悪霊とを発散させるため、人々は
どんちゃん騒ぎを行った。盆踊りの起源である。日本の民謡、猿楽、田楽などの新曲は、こうしたどん
ちゃん騒ぎの中で披露され、大勢の前で歌手、舞踊家が新人デビューを果たした。少し時代は下るが、
観阿弥・世阿弥・出雲の阿国などは、穢れ落としのこうしたどんちゃん騒ぎの中で新人デビューを行い、
芸を磨き、自信を深めてプロの道に進んだ。
僧には托鉢という生き方がある。托鉢は釈尊以来の仏教の伝統だが、仏教の伝統のなかった古代の日
本で最初にこれができた人は、僕はすごいと思う。恐らく空也上人だろうと思う。空也上人は、火葬ボ
ランティアで人々の信頼を得、僧は、国家からの支援が無くても、自立的に生活ができる道を開いた。
これが、政府に頼らない大衆仏教のスタートである。
332 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/08/29(月) 13:35:30.16 ID:DortK4vy
日本全国には弘法池という名のため池が多い。戦国時代、高野山は激しい戦火に襲われ、多くの坊さ ん達が旅の僧となって全国に散った。彼等は高野聖、空也聖と呼ばれた。空也聖は合戦があったと聞く と、現場に行き、傷ついた兵隊を介抱し、死んだ兵隊は敵味方無く火葬を行なった。彼等は各地で人々 の信頼を得、地元に密着し、全国様々な場所で大衆を統合し、民間の力で土木事業を行ったのだ。 清掃環境事業、児童福祉事業、土木環境事業、空也上人とその意志を継ぐ人々は、僧を名乗って社会 に働きかけた。空也上人のすごさは、民間ボランティアでその実行が可能であることを立証し、実践し たことだ。空也上人の後、続々とその意志を継ぐ人が出現した。彼等は勧進僧とも言われた。朝廷も大 名も一目置く存在となった。 勧進僧の思想は何か。僕は法華経にあると思う。六波羅蜜寺は、現在では真言宗智山派の寺院である。 しかし、空也上人が亡くなった直後、弟子達は天台宗を名乗った。空也上人自身は社会活動家であり、 あまり理屈を言う人ではなかっただろうと思う。空也上人の後、六波羅蜜寺は、天台宗、その後は真言 宗と変わっていることをみれば、定まった教義はないとも言えるだろう。しかし、空也上人から六波羅 蜜寺を継承した高弟達が天台宗を名乗っていたと言う点で考えれば、法華経との思想的関連性を考えな ければならない。 法華経は、少なくとも空也上人の直弟子達にとって、不可欠の精神的支柱だったろう。親鸞の思想と 完璧に調和する思想、それは観世音菩薩普門品である。
333 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/05(月) 16:46:49.79 ID:W1b4TnwW
334 :
神も仏も名無しさん :2011/09/06(火) 19:55:15.32 ID:6rN24P3y
とーかいさんデモなんか参加するの?
335 :
神も仏も名無しさん :2011/09/06(火) 21:48:39.82 ID:rar2s1jS
高野聖は妻帯する者が多かったそうです。 親鸞聖人が尊敬していたという教信も奥さんと子供がいて 手伝い仕事で賃金を得て生活していたとか。
336 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/07(水) 11:32:33.02 ID:LGfM1v4d
>>334 >デモなんか参加するの?
その予定です
韓国・中国からの情報戦侵略が余りにも激しいんで心配しているんだ。
>>335 >高野聖は妻帯する者が多かったそうです。
そうかも知れませんね。高野聖と名乗り、実体は旅忍者、旅芸人、旅商人という人もたくさん
いた。一人で何役もこなしている人もいたでしょう。
室町時代は混沌の時代だった。婚姻届などがあるわけなく、忍者僧が、初対面の女といきなり
肉体関係を結び、次の瞬間にその女を殺すという凄惨な話だってあったと思います。婚姻届など
ない時代、何をしたのか。子作りか、謀略か、強姦か、浮気か、自由恋愛か、愛情表現か、遊技か、
冗談か、諜報活動か。
大東亜戦争中は、結婚式の翌日が特攻隊出撃の日で、一夜だけセックスし、写真を抱いて死ん
でいった兵隊もいただろう。セックスは生涯一度だけだったという夫婦もある。
セックスだけが夫婦関係ではない。現代では、別居婚、セックスレス夫婦というのもある。それで
は僧が、女性と一緒にお茶を飲んで会話し、分かれた場合、それはどうなのか。
妻帯とは何かなど、僕は意味のない議論だと思います。
坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば 喩へば飢えたる
人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄 親鸞真筆)
なぜ坐禅持戒を求めるのか。それは真の効果を必要とするからだ。坐禅持戒なく、念仏だけす
れば仏になると言われて、坐禅持戒を疎かにすれば、それは腹の空いた人が自分に向かって吹い
てくる風を、腹の中に押し込めようとするものだ。腹の足しにならん。腹をすかせた仏になって、
どれだけの意味があるというのか。坐禅を忘れるな。僧は戒律を守れ。
337 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/07(水) 11:34:40.01 ID:LGfM1v4d
「親鸞という人は口先だけの人だったんです。他人に言うことと、自分がやっていることは天 と地ほども違っていたんですよ」。 死人には口がない。自己弁護の道具として、死んだ人の悪口を言うのは勝手です。 悪口というのは、もともとその人の品性の現れです。僕は品性卑しくない。「親鸞という人は 言行一致の立派なひとだった。持戒持律の清僧だった」。反証がない限り、ぼくは親鸞という人 をそのように推定することに決めています。 >親鸞聖人が尊敬していたという教信も奥さんと子供がいて手伝い仕事で賃金を得て生活してい たとか。 教信は高野聖ではない。勧進僧でもない。還俗して運送業を営んでいたわけでしょう。佐川急 便、日本通運、ヤマト運輸の人で奥さんがいて子供がいて、しかも誰からも尊敬されて語り継が れる立派な人はいくらでもいる。運送業者の人が結婚してもびっくりするようなことではないと思 う。
338 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/08(木) 18:54:39.50 ID:9r7i020y
親鸞聖人は、僧籍にありながら結婚し、子供を産んだ。 親鸞聖人は、破戒僧だった。 これはマルクス主義に毒された侮蔑真宗学と言うべきだろうと思う。 一般によくいわれる自虐史観と、心情的根っこを同じにする。 渡海難の主張は、蓮如の時代の思想に戻す復古真宗学であるとと もに、自由主義史観という考えに対比させれば、自由主義真宗学と言う べきだろうと思う。
339 :
神も仏も名無しさん :2011/09/08(木) 21:18:32.09 ID:RYgRmnRl
戒律を守り座禅をするのが渡海流念仏なのですか。 よくわかりました。
ところで、法然上人は戒律を授けることをよく されたようですが、親鸞聖人も戒律を授けたのだろうか。 「もし末法の中に持戒の者有らば、既にこれ怪異なり。市に虎あらんがごとし」 法然上人も、同時代の念佛批判の急先鋒であった明恵上人も持戒の清僧だった という。末法燈明記はその時代、最澄の真作と信じられていたようだが 親鸞聖人はどのようなお気持ちで、化身土巻に引用されたのだろうか。 正直よくわからない。
341 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/09(金) 12:10:15.98 ID:6q9KE3b0
>>339 >よくわかりました。
心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。 〜 少しも、心得たる
と思うことは、あるまじきことなり」と、仰せられ候う(聞き書き)
慎重に考えたいものですね
>>340 >親鸞聖人も戒律を授けたのだろうか。
聖人を招請し、即ち剃髪して御弟子となりたまう。聖人かたく止め給えども、荐〈しき〉りに
申されしかば、ちからなく戒師となりて薙染(ちせん)せしむ。 〜 真仏房と法名を授けたま
いき。 〜 真仏はいまだ十七歳の御時なり。(親鸞聖人正統伝)
親鸞聖人を招き、剃髪して親鸞聖人の弟子となった。親鸞聖人は、それだけは止めておこうと
言われたが、真仏上人は強く要望された。親鸞聖人はやむなく戒師を引き受け、真仏は僧服に衣
を替えた。親鸞聖人は、真仏房という名を与えた。 〜 真仏は十七歳の時である。
正統伝は、高田専修寺での伝承を編纂したもので、親鸞聖人正統伝を歴史学上どのように評価
すべきかという問題が一つあります。親鸞聖人は授戒をしなかったという主張に疑義を挟む根拠
にはなるでしょう。
仮に親鸞聖人正統伝が正しいと仮定した場合、聖人はいったん固辞したとあります。これは、
誰に対しても固辞したのか、相手が一七歳の真仏だから固辞したのか、二通りの可能性がありま
す。
真仏が強く求めたとということは、親鸞聖人の日頃の言動で、戒律の重要性を強く主張する思
想があったということを伺わせるでしょう。
342 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/09(金) 12:12:17.22 ID:6q9KE3b0
尚、現代の本願寺も、末寺の坊さんは本願寺で得度するが、確か、門主は青蓮院で得度する。
形式的には受戒もするんでしょう。蓮如上人は東大寺で受戒していた。違っていたら訂正してく
ださい。
>親鸞聖人はどのようなお気持ちで、化身土巻に引用されたのだろうか。正直よくわからない。
非常にいい質問です。
さて、困った。この問題は、
>>329 にもあったプレスクール論と直結します。親鸞思想の本質
と関わります。しかし、この問題に触れていくと、
>>332 の流れが切れてしまう。
>>332 は大事
なところに入っています。戒律論は後で議論したいと思います。
親鸞聖人を侮蔑する従来のマルクス主義侮蔑真宗学では、親鸞聖人における戒律論を説明でき
ません。高田派の伝承教学の中では戒律を重んじる主張が継承されていたようです。大きな問題
ですので、自由主義真宗学の立場でいずれがっちり議論したいと思います。
343 :
神も仏も名無しさん :2011/09/12(月) 20:12:57.52 ID:cJ/SOcSe
僕もデモへ参加しようかな
344 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/13(火) 15:01:01.40 ID:ydQOj0I9
自由主義真宗学は、マルクス主義者がでっちあげた侮辱的真宗学が侮辱的に隠蔽と歪曲と破壊
をしている親鸞聖人の教えの陰の部分に平等に光を当て、陰日なたなく資料を整理し、現代に伝
えようとしている仏教の神髄を明らかにします。
>>332 病院には、人は何のために行くのでしょうか。病んだ体を治し、元気を取り戻し、再び社会に
出、世のため人のために働けるようになるというのが目的です。ですから、病院に入るというの
も、病院から退院するというのも、全て、社会のため、世のため人のためという目的があるので
す。
かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、
一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、
生死海を渡せんがためなり(証の巻き)。
念仏道場極楽浄土には何のために行くのでしょうか。奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、
世のため、人々のために尽くそう。人々を指導していく協調性と指導力を得、多くの人々が林の
ように肩を寄せ合い、再起(生)と挫折(死)とを繰り返している世界に戻ろう。人々に正しい
道を教え、正しい道に向かわせよう。そのようにすることが目的です。ですから、念仏道場に行
くというのも、念仏道場を卒業するというのも、全て世のため人のために尽くそう、再起(生)
と挫折(死)とを繰り返す世界を、一人でも多くの人々が安全に渡れるようにしよう。これが目
的です。
345 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/13(火) 15:05:24.61 ID:ydQOj0I9
小学校は一年生から六年生まであります。中学校は一年生から三年生までです。高校は三年生 が最高学年です。学部大学は四年生が最高学年です。 念仏道場にも段位があります。四段が最高学位です。五段になるときは卒業です。礼拝(第一 門〔初段〕)、讃嘆(第二門〔二段〕)、作願(第三門〔三段〕、観察(第四門〔四段〕)。初段で は、「こんにちは」という挨拶を教わります。挨拶は南無阿弥陀仏です。二段では、「おもしろ いな」「たのしいな」という思いを味わいます。味わいは南無阿弥陀仏です。三段では奢摩他を 実践します。南無阿弥陀仏を称えて練習します。四段では毘婆舎那を実践します。南無阿弥陀仏 を称えて練習します。 奢摩他・毘婆舎那の詳しい内容は、天台小止観などを読んでください。五会念仏をしながらこの 本を読むとよくわかります。 奢摩他・毘婆舎那が実践できるようになると自ずから方便力が成就します。四段を卒業すると五 段になります。このときは念仏道場を卒業します。念仏道場での成果を発揮する番です。これを回 向と言います。 出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩 の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出 第五門と名づくとのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。 五段になると念仏道場を出ます。阿弥陀仏の化身となり、仏の慈悲を実現します。再起・挫折 ・再起・挫折で苦しんでいる人の状況をしっかり観察し、仏の身代わりとなって、世のため人々 のために尽力します。奢摩他・毘婆舎那を背景とした協調性と指導力を発動し、人々のために尽 くすことが仏の救いの実現です。その具体的内容は『法華経』の観世音菩薩普門品に従います。 世界中で観世音菩薩普門品を実践する観音菩薩のような人材を配置しよう。親鸞の窮極の理想 はこの言葉の中に含まれていると思います。 空也上人の精神を継承した弟子達は、『法華経』の観世音菩薩普門品の実践が目標だったと言 うべきでしょう。観世音菩薩普門品には何が書いてあるのか。それを読んでみよう。
346 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/20(火) 13:54:54.89 ID:KKjRiubL
ホームページ 親鸞仏教 死について 加筆しました www.しんらん.jp
347 :
神も仏も名無しさん :2011/09/20(火) 14:01:20.77 ID:haGJi7Qu
デモお疲れ様
348 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/27(火) 11:22:49.66 ID:s63giIKL
>>345 仏身を以て得度すべき者には、観世音菩薩即ち仏身を現じて為に法を説き、辟支仏の身を以て
得度すべき者には、即ち辟支仏の身を現じて為に法を説き、・・(法華経普門品)
もし、教育者という姿で導くのがふさわしい相手であったときは、教育者という姿で出現し、
相手に真実を説く。専門家という姿で導くのがふさわしい相手であったときは、専門家という姿
で出現し、相手に真実を説く。
梵王の身を以て得度すべき者には、即ち梵王の身を現じて為に法を説き、・・・・帝釈・自在
天・・・優婆塞・優婆夷(同じ)・・・
大政治家という姿で導くのがふさわしい相手であったときは、大政治家という姿で出現し、相
手に真実を説く。・・・・政治家、有力者・・・一般男性、一般女性(同じ)・・・
ここで言う得度とは、生死の苦海を渡って涅槃の彼岸に至ることを言う
(
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E5%BE%97%E5%BA%A6/m0u/ )。再起・挫折・再起・挫
折の連続の苦しみを吹っ切れた世界に達することを言う。
種々の形を以て諸の国土に遊んで、衆生を度脱す。
観音は、様々な姿を取って様々な姿を取って人々を救う。度脱とは、生死の苦海を脱することだ。
善男子、若し無量百千万億の衆生あって諸の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞いて一心に
名を称せば、観世音菩薩即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん。
もし、害に遭おうとしている子供の泣き叫ぶ声を聴けば、観音菩薩は直ちに救いにくる。解脱
とは苦しみから解放することだ。
今日より後は我をこそ 冥土の親と思うべし 幼き者を御衣の 袖やたもとに抱き入れて 哀
れみたまうぞ有難や(地蔵和讃)
「今日からはね、このおじちゃんが、君たちのお父さん、お母さんだ」。僧は、小さい子供を
衣の袖や袂に抱き入れ、優しく抱擁する。親を亡くした子供に、空也は、今日から自分がお父さ
ん、お母さんだよと言って抱き入れた。
親を亡くし、食べるもの、寝る場所、着る物を失った子供には、空也上人は食事と、寝場所と、
衣類とを与えた。
349 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/27(火) 11:24:50.62 ID:s63giIKL
腐乱した死体が散乱し、悪臭を放って人々が困っていれば、空也は恐れることなくそれらを焼 却した。日照り、干ばつで水が枯れれば、空也聖達は、ため池を作り、あるいは新たな井戸を掘 った。 もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とするなり。 これ眼見と名づく。・・・口業・・・これを聞見と名づく。(大般涅槃經要文 親鸞真筆 専修 寺蔵)。 突如出現した方であっても、その身の振る舞いに、如来が行うような振る舞いを見たなら、そ の方を如来のように尊敬しよう。これを眼見という。・・・(「言葉」も右に同じ。「これを聞 見という。」)・・・ もし、色貌を見ること、一切衆生のともに等しきもの無くば、まさに知るべし。これすなわち 如來とすべし。これを眼見と名づく。・・・音聲微妙最勝・・・ 突如出現した方であっても、その姿が、普通のひとから抜きん出ていれば、その方を如来のよ うに尊敬しよう。これを眼見という。・・・(「声の響き、微妙な言葉のニュアンス」も右に同 じ)・・・ もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利養のためとやせん。若し、衆生の 爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。これを眼見と名 づく。・・・他心智・・・聞見となづく。 突如出現した方であっても、その専門的な実践行為が、自分の利益のためではなく、多くの人 々のため、公共のためにしていると分かれば、その方を如来のように尊敬しよう。これを眼見と いう。・・・(「他人の心を見極めるその精神」も右に同じ。これを聞見という。)・・・ 空也上人を尊敬し、その名を常に心に秘めていた人々は、苦しい大火に見舞われることがあっ ても、自信と勇気にあふれ、決して身を焦がすことはなかった。洪水に見舞われても、自信と勇 気にあふれ、身は浅瀬にあった。暴風雨に遭っても難を免れた。
350 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/09/27(火) 11:26:54.02 ID:s63giIKL
空也上人は経典を人々に解説するような人ではなかったろうと思う。人と議論をするような人 でもなかったろう。生きた法華経、行動する法華経そのものだったに違いない。人々は、空也上 人の中に仏性を見た。人々は、児童福祉を実践する空也上人に、突然に地中から出現した地蔵菩 薩を見た。腐乱死体を焼却し、環境整備を行う空也上人に不動明王を見た。念仏を勧める空也上 人に阿弥陀仏を見た。 日本において、社会児童福祉、環境清掃福祉、環境土木は、事実上空也上人から始まる。空也 上人の行動は多くの人々の賛同を得た。空也上人の生き方に賛同する人は勧進僧と呼ばれ、多く の人々がその生き方を真似た。親鸞聖人もそんな賛同者の一人だったのだ。 空也上人の生き方に賛同する人々の中には、親鸞聖人の主張に賛同し、親鸞聖人に教えを教わ ろうという人々が多数出現してきた。これが浄土真宗である。親鸞聖人の教えと空也上人の生き 方は、同じなのか。どこが違うのか。それを考えてみたい。
351 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/08(土) 13:59:50.55 ID:aT8dTVke
ホームページ 親鸞仏教 死について 加筆しました www.しんらん.jp
352 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 11:00:25.73 ID:rEtAmJD0
空也上人と親鸞聖人とは、考え方に共通点もあれば、相違点もある。二人とも社会活動家だっ た。空也上人という人は社会事業家だった。親鸞聖人は社会教育家だった。軸足の位置に違いが ある。しかし、社会教育家としての親鸞聖人は、社会事業家としての空也上人を背景にして誕生 している。親鸞聖人にとっての空也上人は、空気のような存在で表面には出てこない。しかし、 社会事業家としての空也上人の存在がなければ、親鸞聖人は決して誕生しなかったろう。 社会教育家としての親鸞聖人の主張を追ってみる。 世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、 申し合わせ給うべしとぞ覚え候。 〜 詮じ候うところは、御身に限らず、念仏申さん人々、わ が御身の料は、思し召さずとも、朝家の御ため国民の為に、念仏申し合わせ給い候わば、目出度 う候うべし。(消息集)
353 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 11:02:54.21 ID:rEtAmJD0
社会に不都合なことが起こったなら、それを契機にして念仏を信頼し、世間への祈りを大切に しながら、話し合いを持ってください。結論から言えば、自分のことだけでなく、念仏を称えよ うと思う人は、自分だけのことではなく、公共のため、多くの人のためを思い、相談し合い、合 同して念仏を称え合うようしていただければ、素晴らしいことだと思います。 彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、 一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり(証の巻き)。 念仏会の目的は何か。奢摩他と毘婆舎那ができるようになり、人々に対する説得力、指導力を 体得し、再起と挫折とを繰り返している現実の世界でその力を発揮し、多くの人々を真実の道に 導くことである
354 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 11:18:39.61 ID:rEtAmJD0
出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩 の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出 第五門と名づくとのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。 念仏道場は挨拶(礼拝)から始まる(入一門)。念仏が面白いと思える(讃嘆)ようになった ら仲間になれる(入二門)。念仏に意欲がわけば(作願)進歩が早い(入三門)。奢摩他の要領 が分かってくる。心を静めて物事を冷静に判断(観察)できるようになる(入四門)。毘婆舎那 ができてくる。念仏道場を卒業し、実践段階に向かう(出第五門)である。 再起挫折再起挫折を繰り返している人々の実体を見極め、専門家としての力量を発揮しよう。
355 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 12:33:07.81 ID:rEtAmJD0
望むことが多くの人に実現せず、多くの人が意に反したことを強いられ、再起挫折再起挫折を繰 り返し、そんな苦しみに満ちた世界に飛び込み、物の本質を自在に切り分け、人々を導いていく。 人々を正しい方向に導こうというその意思を実現する。出第五門である。専門家としての力量の 発揮とは、『法華経』の普門示現品の現実化である。 『法華経』の普門示現品の現実化とはどういうことか。親鸞が発した問いに解答した人物がい る。存覚上人である。存覚が書いた『至道抄』を紹介する。 道場をかまへて念佛を勤行すべきこと 念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかくといふとも、道場をかまへて功を 安置の本尊に積むべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 このゆへに穢土をもて淨土 に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛を勤むる會座とするなり。 〜
356 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 12:35:17.70 ID:rEtAmJD0
凡夫の眼見に穢土世間の舎宅なれども、佛陀の照覧には淨土出世の舎宅なるべし。 道場を構えて念仏を勤めよ。信心は心の中にあり、常に極楽浄土の阿弥陀如来に心を寄せてい ると言うなら、それだけに満足してはならない。念仏行者は、本尊を安置して積極的に念仏道場 を構え、その実績を安置した本尊の上に重ねて行くべきである。自ら実践して他の人を幸せにす るすばらしさは、そういうところに実現する。だからこそ、現実の世界にありながら、可能な範 囲で理想に近づける努力をすべきである。自分の家を、多くの人々が集まる道場になぞらえ、本 尊を安置する修行場に開放し、そこに念仏を称える会座を開くべきである。仏道初心者の目には、 不十分な所ばかりが目に付き、道場とはほど遠い一般の民家に過ぎないが、仏陀の目で見れば、 正真正銘、極楽浄土の施設として映るだろう。
357 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 12:37:27.88 ID:rEtAmJD0
念仏道場とはどんな場所か。本尊にメッセージが込められている。存覚が書いた『弁述名体抄 』を紹介する。 高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかる、本尊あまたあり、い はゆる六字の名号、不可思議光如来、無碍光仏等なり。 後世の門弟たちの理解のためを思って、親鸞聖人が存命の時代から安置されている本尊は各地 にある。六字の名号すなわち「南無阿弥陀仏」、「不可思議光如来」、「無碍光仏」など、「南無阿弥陀 仏」以外に、「不可思議光如来」、「無碍光仏」と書かれている文字本尊が伝わってい る。 〜 不可思議光如来をもて、中央にすへたてまつらるる 〜 真仏の体なるをもて中尊とせら るとなり。 〜 南無阿弥陀仏の 〜 名号はまさしき行体なるがゆへに右に据え奉られ、無碍 光(如来)は 〜 左に安ぜらる。
358 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 12:39:53.93 ID:rEtAmJD0
不可思議光如来という文字本尊は中央に配置する。真の仏の実体を表すからである。これを中 尊とする。南無阿弥陀仏の名号本尊は、念仏行の実体であるから、右側に設置する。無碍光如来 は左側に置く。「不可思議光如来」と「南無阿弥陀仏」「無碍光如来」とを、「川」の字に配置 するの浄土真宗の正しい配置である。 つぎに二尊の形像をもて前に安ぜられたり。まづ弥陀の形像は、『観経』の 〜 第八の観は 像観なり、これ形像なり。 〜 つぎに釈迦の形像を載せらる〜 文字本尊を「川」の字に配置すれば、その前方に阿弥陀仏と釈迦仏の二尊を形像で配置する。 観経の中に書かれている十三観の内、第八の観、これが標準的な像観である。阿弥陀仏は、立像 ではなく、座像であるこの第八の観をもって形像とするのが浄土真宗の正式な阿弥陀像である。 次に、釈迦の形像を設置する。
359 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 14:00:04.77 ID:rEtAmJD0
〜 三菩薩のなかに、 〜 中尊とす、龍樹天親は 〜 左右に居し給へり 〜 。 〜 勢 至は浄土の聖衆なれば、菩薩の形に図せらるることしかるべし。 〜 龍樹は初地の菩薩なり、 〜 天親もまた十回向の向満の菩薩なれば、すでに證位となれり。 〜 菩薩の形ならんこと 相違あるべからず 三菩薩を配置する。三菩薩とは、勢至・龍樹・天親である。勢至は、三菩薩の中では中央に置 く。勢至菩薩は極楽浄土の人であり、当然、菩薩像の形の絵像を置く。龍樹菩薩は初地の菩薩、 天親は十回向の向満の菩薩、いずれも悟りを得ている。当然、菩薩の地位にあることは勢至菩薩 と変わりがない。従ってこの三者はいずれも菩薩の形で三角に配置する。
360 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/16(日) 14:02:25.39 ID:rEtAmJD0
彌陀の慈悲をつかさどれるを観音となづけ、彌陀の智恵をつかさどれるを勢至と号す。 阿弥陀仏は慈悲と智慧とを備えている。阿弥陀仏の慈悲を実現するのは観音菩薩である。阿弥 陀仏の智慧を実現するのは勢至菩薩である。 存覚は『弁述名体抄』で以上のように言う。注目すべきことがある。浄土真宗の念仏道場には 観音菩薩の仏像を置かないのだ。これはどうしたことか。何故、観音菩薩を置かないのか。なぜ 勢至菩薩を置くのか。おかしいではないか。念仏者のアイデンティティー関わる問題がここにあ る。
大変興味深いですね
>>359 × 〜 三菩薩のなかに、 〜 中尊とす、
○ 〜 三菩薩のなかに、勢至は 〜 中尊とす、
363 :
渡海 難 ◆w8MiEQgzRq0d :2011/10/23(日) 17:17:01.83 ID:YFfFg0vx
トリップが変わってしまったので、もう一度。
365 :
基地外 :2011/10/29(土) 18:18:28.79 ID:QDhLaIe4
御尋ねします。悪人往生は文字通りの解釈で宜しいですか?(^人^)
366 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 00:16:27.46 ID:+w5WdQAS
>>365 悪人往生と言う概念は悪人正機説から出てくる考えと思います。
悪人正機説は絶対に間違いです。これははっきりと断言します。
詳しい論説は、親鸞仏教に書きました。
読んでみてください。繰り返します。悪人正機説は間違いです。
悪人正機説から導かれる悪人往生論も間違いです。
悪人正機説は、マルクス主義から導かれた浄土真宗の破壊的教
義であると考えます。
www.しんらん.jp
367 :
基地外 :2011/10/30(日) 02:02:57.62 ID:GXmqlnmt
重ねて御尋ねします。 元々仏教には善悪を分ける概念は 無かったのではないでしょうか? 南無(^人^)
368 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 10:20:26.20 ID:+w5WdQAS
>元々仏教には善悪を分ける概念は無かったのではないでしょうか? 修多羅及び諸の戒律を除きて、その餘の説あり。四句之偈なり。いわゆる諸惡を作すことなし。 諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと。 (大般涅槃經要文〈親鸞真筆 専修寺蔵〉) 経典と戒律の外、仏教にはもう一つ別のジャンルがある。それが四句之偈である。いわゆる諸 の悪をしてはいけない。諸の善を実行せよ。自からその心を清くせよ。これこそが諸の仏の教え である。 四句之偈は、親鸞は大般涅槃経から引用していますが、元来は法句経が原典です。大般涅槃経 は法句経から引用しています。法句経は仏教最古の経典であり、釈尊の生の声を収録してあると 言われています。四句之偈は、あらゆる仏教の根本で、正しい仏教の宗派では共通的に使用して います。重要な教えで、四句の偈を否定する仏教はありません。無論、浄土真宗にとっても土台 になる根本の教義と考えるべきです。 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・ 礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな 滅しなん。(信の巻) もし、過去の先駆者達、現在の指導者達、未来を目指す努力達が、仏教・非仏教に関わらず、 人々に善道を説かなかったら、あるいは人々を正しく指導しなかったら、一体誰が仁・義・礼・ 智・信のあることを知るだろうか。そうなれば、社会のあらゆる倫理道徳は崩壊し、仏教界にお ける聖者達も全て灰燼に帰するだろう。そのようなことがあってはならないのだ。 人々はしっかりと善悪を分別し、悪を排して善を行っていかなければならない。
369 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 10:27:47.68 ID:+w5WdQAS
370 :
神も仏も名無しさん :2011/10/30(日) 15:16:04.44 ID:MDW0453O
しかし今や親鸞と云えば歎異抄ということになってますからね たいへんなことです
371 :
基地外 :2011/10/30(日) 15:55:34.46 ID:MKJyfg0n
>>369 自ら手足を縛り可能性の芽を潰す
異端ではないですか?
南無(^人^)
372 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 16:22:57.95 ID:+w5WdQAS
>>371 異端ではありません。これが浄土真宗の正しい理解です。
ものごとに善悪のけじめをつけることは非常に大事なことです。
葉公、孔子に語りて曰わく、吾が党に直、窮なる者あり。その父、羊を盗みて、子これを証(あ
ら)わせり。孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり、父は子の為に隠し、子は父の為 に隠
す。直きことそのなかに在り。 (子路第一三,18)
論語の中の有名な文です。葉公が言った。「吾が村に正直者の窮という者がいる。彼の父が羊
を盗んだので息子の窮が証人となって訴え出た。」孔子は答えた。「私の村にも正直者がいます。
親父は息子の罪を内緒にし、息子は父親の罪を内緒にします。本当の優しさはそういう中にある
のです。」
日本の刑法も東洋の家族愛という考えを背景に規定してある。刑法105条は、親族による犯
罪に関する特例で、犯人または逃亡した者の親族がそれを匿ったり、証拠隠滅した場合、刑が問
われないとしている。僕もこの規定は正しいと思う。
ところが、この考えが支那・朝鮮に行くととんでもないことになっているようだ。文化の違いと言え
ばそれまでだが、背筋の寒くなる感じがする。彼等は、利益のためには嘘が許されるという思想に
なっているそうだ。
373 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 16:25:27.61 ID:+w5WdQAS
支那・朝鮮には「嘘つき」という言葉がない。それでは、みんな正直者かというとそうでもな い。要するに、嘘つきという言葉には、相手を弾劾し、道徳的に非難する攻撃的な意味がある。 嘘を禁止する意味もある。しかし、支那・朝鮮には嘘を言う者に対し、それを弾劾し、道徳的に 非難する言葉がない。つまり自分たちの利益のためであれば、嘘を言うことはなんら道徳的に責 められることではないという、日本人には信じられないような価値観がある。長い間、異民族に 支配されると、社会にはそういう文化ができてくる 支那・朝鮮・日本との間の諸問題はほとんどがここに行き着く。もともと根も葉もない問題で 大きな国際問題を引き起こされ、日本はたえず苦しんできた。嘘は言った者勝ちであり、相手は 反証責任で苦しめられる。これは、恥も外聞もない奴隷の抵抗術である。 論語が、嘘つきの正当化に利用されている。歎異抄も、浄土真宗では怠惰と破廉恥の正当化に 使用され、浄土真宗がマルクス主義者によって支那・朝鮮化しているという不幸がある。
374 :
基地外 :2011/10/30(日) 18:09:31.16 ID:MKJyfg0n
>>373 善悪とはそもそも時の支配者が、人民を容易に支配コントロールする為に、導入した概念ではありませんか?だから時代、地域で法律の内容が大きく違いますね。
貴方は何時の時代のどの地域の善悪をもって仏教を縛るつもりですか?
南無(^人^)
375 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 19:04:38.93 ID:+w5WdQAS
>>374 善悪とはそもそも時の支配者が、人民を容易に支配コントロールする為に、導入し
た概念ではありませんか?だから時代、地域で法律の内容が大きく違いますね。
親鸞さん、貴方は何時の時代のどの地域の善悪をもって仏教を縛るつもりですか?
南無(^人^)
善悪とはそもそも時の支配者が、人民を容易に支配コントロールする為に、導入し
た概念ではありませんか?だから時代、地域で法律の内容が大きく違いますね。
釈尊さん、貴方は何時の時代のどの地域の善悪をもって仏教を縛るつもりですか?
南無(^人^)
釈尊さんや親鸞さんは、1000年近く、あるいは2000年以上昔に亡くなった故人
ですので、ご相談したい相手としては大変困難だと思いますよ。
376 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/30(日) 19:40:14.85 ID:+w5WdQAS
>>374 もしや、
>>374 は渡海難への質問だったのでしょうか?
失礼ですが、もしや>> 374 さんは、渡海難を釈尊先生、あるいは親鸞先生の
生まれ変わりだとでも思い込んでいらっしゃるんじゃありませんか?
釈尊先生の生まれ変わりにお会いしたいというのであれば、幸福の科学の大川
髢@師がいいかもしれませんよ。まああの方は、本物の生まれ変わりか、偽物か、
僕は存じ上げませんが、本人はそう宣言しているそうですので、そうなのかも知れ
ませんよね。
ただ、僕は個人的にはそのような生まれ変わりなど信じない人間ですけ。
僕は、釈尊先生や親鸞先生に教わる身です。釈尊先生や親鸞先生の生まれ変
わりだなどと、思ったことは一度もありません。考えたこともありません。
釈尊先生、親鸞先生の生まれ変わりをお探しなら、余所を当たった方がいいで
しょう。
377 :
基地外 :2011/10/30(日) 19:50:54.06 ID:MKJyfg0n
縁無き衆生は救い難し┐('〜`;)┌ 南無(^人^)
378 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/10/31(月) 09:45:55.64 ID:EDIYNE8k
>>377 >縁無き衆生は救い難し┐('〜`;)┌ 南無(^人^)
なるほど。そういう意味だったんですか。貴方(>> 377 基地外 ID:MKJyfg0n)は、渡海難を救
おうと思っていらしたんですか。そう思っていらしたんですね。気付きませんでした。渡海難を
救えなくて、お気の毒様でしたよね。
善悪とはそもそも時の支配者が、人民を容易に支配コントロールする為に、導入した概念では
ありませんか?。(マルクス主義で言えば、善悪とはそもそも時の支配者が、人民を容易に支配
コントロールする為に導入した概念ですよ。)(
>>374 )
だから時代、地域で法律の内容が大きく違いますね。(
>>374 )
貴方は何時の時代のどの地域の善悪をもって仏教を縛るつもりですか?(貴方には何時の時代
のどの地域の善悪をもっても仏教を縛ることはできませんよ。)(
>>374 )
(人民を容易に支配コントロールする為に導入した反革命的な概念で仏教を縛ろうとする釈迦も、
親鸞もみんな間違えである。)
者共聞け!! 我(>> 377 基地外 ID:MKJyfg0n)こそは「人民を容易に支配コントロールする
為に導入した反革命的概念で仏教を縛ろうとする釈迦・親鸞」を粉砕し、善悪に縛られないマルク
ス革命的救い主です。縁無き衆生は救い難しだが、縁さえあれば、私がマルクス主義で人民を救
います。
↑
まあ、こんな風に思っている浄土真宗の坊さんって言うのが、世の中に多いんですよね。
悪人正機説とマルクス主義インチキ歎異抄で洗脳されたオバカサンと言えばそれまでだが、歎
異抄を公開した明治の真宗音痴、宗教音痴の坊さんの罪は取り返しが付かないんだが、本当に深
いと思う。
379 :
基地外 :2011/11/01(火) 07:19:50.07 ID:ekJEtr5m
無心 南無(^人^)
380 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 19:54:34.57 ID:98pxvdX/
現代の浄土真宗における悪人往生、悪人正機の思想は、社会の善良な道徳、倫理に反する。悪
人正機の思想は、社会に害悪をもたらすだけで、宗教の教義としてまさに害悪である。これは道徳の
名の下で社会から駆逐されなければいけない。しかし、浄土真宗は反道徳、反倫理でいいんだと現
代の宗門が言っている限り、良心の痛みを忘れた悪魔の宗教に付ける薬がないというのが現実である。
>>360 浄土真宗の念仏道場では本尊をどのように配置するのか。存覚上人の指南に基づいて画像化し
た。 www.しんらん.jp/page001.jpg
(page001の画像には著作権の所在が分からないのもあるので、正式な著作権者から苦情があれば
削除します)。
PCで描いた画像は平面配置だが、実際は立体的に配置する。PCで描くなら立体画像で書け
よと叱られるかも知れないが、僕にはそんな技術がないので勘弁して欲しい。文字本尊は後方、
木像は前方に置く。観音菩薩は置かないのが浄土真宗の特徴である。
親鸞は金沢の専光寺に真筆で次のような一文を遺している。「三骨一廟」の文という
我が身は世を救くる観世音なり。 定慧契る女は大勢至なり。
我が身を生育せる大悲の母は 西方教主弥陀尊なり。
末世の諸の衆生を度さんが為に 父母所生の血肉身を
勝地たるこの廟窟に遺し留めて 三骨一廟にするは三尊の位なり。
この一文には出典がある。大阪に叡福寺という寺がある。聖徳太子の御廟があり、近くの石に
次のような一文が刻まれているそうだ。親鸞はその一部を抜き出している。
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正
我身救世観世音 定恵契女大勢至 生育我身大慈母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦已悉 還帰西方我浄土
為度末世諸衆生 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪所 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法
大慈悲の思いを本誓願とし、私は人々を一人っ子のようにいつくしむ。そのために、自分は西
方極楽浄土から、世界の片隅のこの国に誕生し、正法を興した。
381 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 19:59:19.05 ID:98pxvdX/
我身救世観世音 定恵契女大勢至 生育我身大慈母 西方教主弥陀尊 我が身は世を救う観世音菩薩である。禅定と知恵とを結ぶ女は大勢至菩薩である。我が身を生 み、育てた慈悲の母は西方の教主である阿弥陀仏である。 真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦已悉 還帰西方我浄土 真如真実と言のは、本来は一つである。観世音と大勢至と弥陀尊とは、本来は一体のものを三 つに分けて現すが、本質は一つである。世界の片隅の地域に隅々まで救いを実現したので自分は 西方の極楽浄土に戻る。 為度末世諸衆生 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位 今後も将来の人々を救うため、父母が生んだ血肉の身は、勝地のこの墳墓に留め、聖徳太子の母 である穴穂部間人皇女、妃である膳部大郎女共に三人の骨で廟窟とし、三尊位を大阪の地に留める。 過去七仏法輪所 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界 この墳墓は、過去七仏の法輪所であり、大乗仏教にふさわしい功徳ある場所である。一度ここ に参詣すれば、人々は地獄・餓鬼・畜生道を離れる。必ずや極楽浄土に往生するだろう。 聖徳太子に浄土信仰があったという説は神話だろう。十七条の憲法にも、三経義疏にも浄 土信仰はない。中国でさえ浄土信仰が大きく弘まったのは善導大師からである。聖徳太子が亡く なったのは西暦622年、善導大師は9歳である。浄土思想を語る三骨一廟の文は聖徳太子の遺 書と言われているそうだが、信じるに値いしない。しかし、親鸞が抜き書きしてのこしている以上、 慎重に扱う必要がある。 親鸞の三骨一廟の文は、親鸞道場の卒業生が、金沢に専光寺という新たな念仏道場を開くとき、 開基の道場主に送った激励の一文だろう。最初はおよそ寺とは言えず、外見上は単なる 民家だったかも知れない。しかし「私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛を勤 むる會座と」なったとき、親鸞は外見にとらわれずに念仏道場の本質を語ってくれる。 我が身は世を救くる観世音なり。 自分は世の中を救う観世音菩薩である。親鸞にとって、観世音菩薩というのは礼拝の対象では ない。念仏道場の道場主自身がその主体となる対象である。だからこそ、念仏道場には観音菩薩 を置かないのである。
382 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 20:03:47.11 ID:98pxvdX/
定慧契る女は大勢至なり。 観世音菩薩が禅定・智慧の一体と化す相手、それが勢至菩薩である。禅定は禅定単独では働き がない。智慧も智慧単独では働きがない。禅定と智慧とは互いに結合して始めて真の働きをする。 観世音菩薩は勢至菩薩と一体となって真実の働きをする。 観世音菩薩は慈悲である。慈悲は禅定である。勢至菩薩は智慧である。智慧は念仏である。念 仏道場では座禅して念仏を称える(行の巻)。私が座禅するとき、智慧の念仏が備わる。観音が 勢至と契り合う。念仏道場主は念仏道場では念仏と一体となれ。奢摩他・毘婆舎那を実践せよ。 親鸞は専光寺の開基にそういうメッセージを送っているのだ。 我が身を生育せる大悲の母は 西方教主弥陀尊なり。 観世音菩薩を育てるのは極楽浄土の教主阿弥陀仏である。阿弥陀仏は智慧と慈悲とを一体に具 有する。禅定と智慧とが一体になって現れる。道場を開くまでに道場主の心を育て、道場を発展させ ようとする慈悲の心は、念仏道場で慈悲が智慧と一体となって始めて成長する。 末世の諸の衆生を度さんが為に 父母所生の血肉身を 末法の世の多くの人々を真実の世界をもって救うため、父母から貰ったその血肉身を 勝地たるこの廟窟に遺し留めて 三骨一廟にするは三尊の位なり。 栄光ある金沢のこの道場に身を置く。念仏道場では、一方で、自らが観音菩薩となり、慈悲の 主体となり、念仏道場を準備し、座禅をして受け皿を形成し、他方では、勢至菩薩に来場を乞い、 勢至菩薩を安置して花嫁を迎え、智慧を祀り、花嫁である智慧の念仏を称える。智慧と慈悲とが 一体となるところに、自分を育ててくれた親つまり阿弥陀仏の来場を乞い、釈迦の来場を乞い、 両者を安置する。 念仏道場では釈迦の臨席の場で、観音菩薩と勢至菩薩とが一時の契りを結んで一体になる。阿 弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩とが合同するところに念仏者が集まる。極楽浄土が顕現するのだ。 智慧は勢至菩薩つまり念仏だけではない。東北地方で地震があって多くの人が困っていれば、 急いで炊き出しに行く。がれきの処理に行く。炊き出しには炊き出しの智慧が必要で、がれき処 理にはがれき処理の智慧が必要である。炊き出しには炊き出しの名人がおり、がれき処理にはが
383 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 20:06:20.19 ID:98pxvdX/
れき処理の名人がいるだろう。観音菩薩は震災地ではそういう人から知恵を貰い、智慧ある人と 一時の契りを結んで一体になって行動をする。炊き出しの名人は必ずしも勢至菩薩とは限らない。 がれき処理の名人は勢至菩薩とは限らない。普通のサラリーマンだったり、パン屋さんだったり、 警備員さんだったりする。そう言う名人と観音菩薩がいっときの契りを結び、助け合って共同行 為を行うとき、正義(ただしさ)が実現する。 じぶんこそ炊き出しの名人である。そう思えば思わぬ失敗をする。他人の方が炊き出し方法は 良く知っているかもしれない。一生懸命やろう。頑張ろう。そういう慈悲の心はしっかり持ち、 観音は慈悲の主体となり、智慧は独占しないで融通し合い、人の話を聞きながら協力し、始めて 震災復興という正義が実現する。普門示現の類となる。 自分こそ念仏の名人である。そう思えば念仏道場は思わぬ失敗をするだろう。他人の方が念仏 は名人かも知れない。一生懸命やろう。頑張ろう。そういう慈悲の心はしっかり持ち、自分は慈 悲の主体となりながら、智慧は独占しないで融通し合い、人の話を聞きながら協力するところに、 阿弥陀仏の働きが実現し、極楽浄土が現れる。 念仏道場では、観音菩薩は、念仏の名人つまり勢至菩薩から、念仏せよと言う智慧を融通して 貰って救いを実現する。 無碍光仏の御言には 未来の有情利せんとて 大勢至菩薩に 智慧の念仏授けしむ 震災の場所で炊き出しの場所を作ろうというのは、震災復興を一日でも早くしたいと思う人の 慈悲心である。その慈悲心が、炊き出しの智慧を持ってきてくれた人から智慧を融通して貰って一 体になったとき、災害地は復興の場所への足がかりを得る。 濁世の有情を哀れみて 勢至念仏勧めしむ 信心の人を摂取して 浄土に帰入せしめけり 道場主は念仏道場を開く。それは、人々を救いたいという慈悲の現れである。念仏道場に智慧 を持ってくるのは大勢至菩薩である。念仏は、親鸞聖人、法然上人らに教わろう。だからこそ、 存覚の念仏道場には親鸞聖人・法然上人に来場を乞い、その絵像を飾る。 源空勢至と示現し あるいは弥陀と顕現す 上皇群臣尊敬し 京夷庶民欽仰す
384 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 20:08:38.39 ID:98pxvdX/
親鸞は法然上人を勢至菩薩であるという。親鸞聖人のこの詩は、勢至菩薩は女だから法然上人 は女役となって契り合い、ホモセックスごっこしましたという、そんな乱痴気パーティーを歌っ ている歌ではない。 観音菩薩が勢至菩薩と三骨一廟での契り合うということは、結婚することではない。セックス することではない。 ボランティアをやろうという気もち(慈悲心)はあっても、何をどうしていいか方法(智慧) がなければ物事は進まない。何をどうすればいいか知っていても(智慧)、人のために尽くそう という気もち(慈悲心)がなければことは進まない。 智慧は融通して貰える。智慧は貸して貰える。しかし、慈悲心はそうはいかない。俺の代わり に智慧を出してくれとは言えるが、俺の代わりに慈悲心を融通してくれとは言えない。慈悲の主 体には自らがなり、道場主は智慧を受け入れて活動する。我が身は世を救くる観世音なりとはそ う言う意味だ。観音は勢至から智慧を貰い、両者助け合って阿弥陀仏の救いを実現する。観音は、 勢至と共同して念仏道場を運用し、阿弥陀仏の救いを実現すると言うことである。 あの光ばかりにてわたらせ給うは、あれこそ法然上人にてわたらせ給え。勢至菩薩にてわたら せ給うぞかしと申せば、さて又、いま一体はと申せば、あれは観音にてわたらせ給うぞかし。あ れこそ善信の御房よ」と申すと覚えて、打ち驚きて候いし(恵信尼の手紙) 恵心尼が夢で法然上人・親鸞聖人を勢至菩薩、観音菩薩として見えたという話は、こうした思 想的背景と符合している。
385 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 20:16:07.16 ID:98pxvdX/
2003年9月28日 広瀬 惺師 岐阜県揖斐郡妙輪寺住職・同朋大学教授の話を引用しよう。
http://www.rensaiji.jp/old_site/Jiho/32Taikai/32Taikai_07.html それで、「行者宿報にてたとい女犯すとも、我玉女の身となりて犯せられん。一生の間能く荘
厳して臨終に引導して極楽に生ぜしむ」というお言葉。
「女犯偈」のこころを最後にお話をさせて頂いて終わろうと思うんですけど。そうしますとこ
の「女犯偈」と申しますのは、ちょっと面倒なことを2分ばかり申し上げさせて頂きますけど、
この「女犯偈」のこころを頂くのには、もう一つ「廟窟偈」という偈文があります。
親鸞にとって結婚・家庭をもって構成される在俗生活は単純に肯定されるものではない。どこ
までも末世の有情の現実であった。しかし、それがそのまま末世の有情の現実の只中にはたらい
ている阿弥陀の本願に生きることと同時的な事だったのである。ならば、親鸞にとって「家族の
ありかた」とは、ただ一つ、結婚・家族を生きる身がその現実を末世の現実として受けとめ、そ
のことをもって、その現実の只中に本願を感得していけるのか、その一点だけが課題であったと
いえるのである。
阿呆の馬鹿話にはコメントしたくないのだが、少し腹が立つので書いておきたい。
女犯偈というのは、『覚禅鈔』という書物に出典がある。発見者は名畑崇氏(大谷大学名誉教
授)である。『親鸞の六角夢想の偈について』という興味深い研究を発表されている。『覚禅
鈔』は、真言宗立川流の僧覚禅が完成させており、それは親鸞が関東在住時代の話だ。
法然に会う前の親鸞と六角夢想の偈とは接点がない。いくら広瀬さん自身が真言宗立川流の教
えに歓喜したと言っても、そんな浄土真宗立川流の教義で親鸞聖人の教えを結婚だ、セックスだ
というそんな下世話な邪教に歪めるのは止めて貰いたい。
教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信を
とるべし。(蓮如)
安心をとりて、ものをいわば、よし。用ないところをば、いうまじきなり。一心のところをば、よく、ひと
にもいえと、空善に御掟なり。(蓮如)
信心のない人が、教授という肩書きを付けてものをいうことほど醜悪なことはない。
386 :
神も仏も名無しさん :2011/11/05(土) 20:55:19.89 ID:iT/ZEPIm
覚禅鈔と親鸞聖人に接点がなかったとすれば、 覚禅鈔と夢告は最初から無関係だったのではないでしょうか。 覚禅鈔とは全く無関係に、親鸞聖人は夢告を受けた、ということです。
夢告にはオリジナルがあって、それが覚禅鈔である、というのは 両者の類似から推測されたひとつの仮説です。 この仮説は、親鸞聖人が覚禅鈔に接触する機会を 夢告以前に持った場合にのみ、成立します。 その機会がなかったとすれば、当然、話は違ってきます。 では、どういうことが考えられるでしょうか。 夢告の原型など存在しなかった。 実は、夢告がそもそもオリジナルなものだったのです。 両者が似ているのは、単なる偶然です。
388 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/05(土) 21:58:15.31 ID:98pxvdX/
夢告(御伝抄) 六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服 せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽 覚禅鈔の一節を名畑崇氏の(真宗研究1963-10-15)論文から孫引きする。 本尊変玉女事 又云 発邪見心 淫欲熾盛 可堕落於世 如意輪 我成王玉女 為其人 親妻妾 共生愛 一期生間 荘厳以福貴 令造無辺善事 西方極楽浄土 令成仏道 莫生疑云 よこしまな心がおこって、色欲がさかんになり、道心を失ってしまうような ことになれば、如意輪観音がみずから変じて王の玉女となり、その人の妻 妾となって愛しあい、一生をけだかく幸せにするであろう。そして数がぎり なく善事を造らしめ、命終の後に西方極楽浄土に仏道を成ぜしめるであろう。 両者がここまで似ていて、それが単なる偶然という強弁は片腹痛い。
389 :
基地外 :2011/11/05(土) 23:09:48.47 ID:nUZXfCHL
>>388 渡海さん、御自身の言葉で語られよ。
出来れば圧縮して下さいね。
此方で解凍致しますから。m(__)m
南無(^人^)
390 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/06(日) 01:03:15.03 ID:pTAYeTSz
>>389 > 渡海さん、御自身の言葉で語られよ。
ご自身の言葉
「片腹痛い。」
> 出来れば圧縮して下さいね。
圧縮した言葉
「片腹痛い。」
以上です。
391 :
基地外 :2011/11/06(日) 01:46:09.69 ID:QytQKPDq
>>390 一言既発 駟馬追難m(__)m
南無(^人^)
392 :
神も仏も名無しさん :2011/11/06(日) 11:32:07.70 ID:7lmWHTdB
東博の法然親鸞展、後半で真佛の親鸞夢記が展示されますね
393 :
基地外 :2011/11/08(火) 11:58:51.10 ID:Jx01TgeC
今日は!渡海さん、腹痛治りましたか?(笑) 南無(⌒人⌒)
394 :
渡海 難 ◆w8MiEQgzRq0d :2011/11/10(木) 20:20:38.73 ID:JauBHJj5
またトリップが変わってしまいました。
やりなおし
>>391-393 コメントはありません。
396 :
◆K3PkkhVAkA :2011/11/11(金) 19:20:59.86 ID:G+/wCDI5
(^ε^) ここも巡回スレ候補にあがったね
397 :
基地子♀ :2011/11/12(土) 02:12:17.26 ID:j6ADv1Ie
>>395 袖触れ合うも多少の縁。
何ちゃって!(^з^)-☆
398 :
◆K3PkkhVAkA :2011/11/12(土) 07:07:19.51 ID:slytWRWi
(^з^) あれっ…! この顔、右向きも出来るんだね。
399 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:01:55.97 ID:X4wWIED7
>>385 慈悲に聖道・浄土の変わり目あり。聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育む
なり。然れども、思うが如く助け遂ぐること、極めて有り難し。浄土の慈悲というは、念
仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心を以て、思うが如く衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかに、いとおし不便と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし。
然れば、念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べきと云々(歎異抄)
死体が腐乱して転がっていれば、「さあ、焼却して環境整備しよう。集まってくれ」。
空也上人は、直ちにそう呼びかける。子供が親を亡くして路頭に迷っていれば、呼んで衣
食住を与え、近所の家を托鉢し、布施という形で経済的援助を求める。空也上人の慈悲は
間髪を措くことはない。
ホームレスの人々が公園で空腹を抱えていれば、直ちに給食を計画して実行する。東北
で地震が発生すれば、直ちに救援に出かける。思うが如く衆生を利益できなければ、現場
で知恵を絞る。空也上人の行動は待ったなしであり、これが勧進僧であり、ボランティア
のプロフェッショナルである。空也上人は、ボランティアによって人々の支持と共感を得、
官に頼らない僧の自立の道を開いた。
400 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:04:00.88 ID:X4wWIED7
もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とす るなり。これ眼見と名づく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 ホームレスに給食を与え、地震地区にがれき処理に出かける。空也上人のそうした実行 力は、まるで観音菩薩のようであり、人々は、そこに観音菩薩の行為を見た。 もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。これ を聞見と名づく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 「ホームレスに給食を配ろう。年末年始の宿泊所を与えよう」。空也上人の言葉はまる で観音菩薩のようであり、人々は、そこに観音菩薩の言葉を聞いた。 もし、色貌を見ること、一切衆生のともに等しきもの無くば、まさに知るべし。これす なわち如來とすべし。これを眼見と名づく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 ホームレスに給食を与え、年末年始の宿泊所を与え、あるいは地震地区にがれき処理に 出かける空也上人の姿は神々しかった。人々は、そこに観音菩薩を見た。 もし、音聲微妙最勝なるを聞かむ。所有の音聲には同じからず。まさに知るべし。これ すなわち如來とする。これを聞見と名づく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 「ホームレスに給食を与えよう。年末年始の宿泊所を与えよう」。空也の言葉の並外れ た説得力に、人々は、観音菩薩の声を聞いた。
401 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:07:03.33 ID:X4wWIED7
もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利養のためとやせん。若し、 衆生の爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。こ れを眼見と名づく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 空也の実行力は卓越し、一つ一つが成果を上げていった。空也は自分の利益の為ではな く、徹底して社会のため、公共のために行っていた。人々は、空也上人の行為が社会のた め、公共のために行っていることに注目し、空也上人に観音菩薩を見た。 もし、如來を觀ずるに、他心智をもって衆生を觀ずる時、利養のために説き、衆生のた めに説かん。もし衆生のためにして、利養の爲にせず。まさに知るべし。これすなわち如 來とするなり。これを聞見となづく(大般涅槃經要文 親鸞真筆)。 空也は、巧みに相手の心を見抜いた。人々は、空也上人が、社会のため、公共のために 私心なく相手の心を見抜いていると知り、空也上人に観音菩薩の声を聞いた。 東北では多くの人々が今なお困窮している。公園では多くのホームレスが困窮している。 社会は仏陀を待っているのだ。人々は観音菩薩の出現を待っているのだ。親鸞は、急ぎ仏 を育て、大慈大悲心を以って、思うが如く衆生を利益するプログラムを提案する。
402 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:25:22.24 ID:X4wWIED7
親鸞は、釈迦が提案した三学のうち、戒律は仁義礼智信の実践に代えて簡素化し、念仏 道場では念仏という形で徹底して禅定を実践させ、加えてフリートーキングを行わせ、こ れによって慈悲心の育成を目指した。 観音菩薩は、常に必ずしも十分な智慧を持っているわけではない。念仏道場を設ける智 慧は、法然上人・親鸞聖人以来の伝承の中にある。それは、遠くは善導大師、あるいは釈 尊の祇園精舎にまで遡る智慧である。釈尊・善導大師・法然上人・親鸞聖人以来の勢至菩 薩の智慧が、念仏道場には凝縮している。道場主自身には智慧が無くても、慈悲の心が備 わり、念仏道場を経験し、その伝統を堅持すれば、運営していくことは不可能ではない。 勢至の智慧と観音の慈悲が備わる念仏道場は、阿弥陀如来の住む極楽浄土にもっとも近い。 しかし、念仏道場には、炊き出しの方法や瓦礫処理の方法などを教える智慧はない。念 仏道場を一歩出れば、観音菩薩に勘違いもあれば、失敗もあるだろう。しかし、人々の苦 しみを抜こう、楽を与えようというその思いだけは揺らいではならない。だからこそ、親 鸞聖人の念仏道場は、何を措いても徹底した禅定とフリートーキングを行う。瓦礫処理の 方法が必要ならば、それは東北の現場で学べばいい。炊き出しの方法は、公園で、場合に よればホームレスの人から融通してもらえばいいのだ。
403 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:27:35.35 ID:X4wWIED7
失敗をおそれず、揺るぎなく人々の苦しみを抜こう、楽を与えよう、この思いだけは人格にお いてしっかり備えた観音菩薩の類を全国で育成しよう。親鸞はそのように考えている。 三骨一廟の文は言う。「我が身を生育せる大悲の母は西方教主弥陀尊なり」。 次の時代の本物の観音菩薩は、観音菩薩と勢至菩薩が共に備わる場念仏道の場を外して 育つ場はない。親鸞はそう確信している。 親鸞の念仏道場は、決してプロフェッショナルのボランティアだけを育てることを目的 とするものではない。人々の苦しみを抜こう、楽を与えようというその信念を人格におい て備えた肉屋さんを育てよう。人々の苦しみを抜こう、楽を与えようというその信念を人 格において備えたパン屋さんが育って欲しい。人々の苦しみを抜こう、楽を与えようとい うその思いを人格において備えた警備員さんが育って欲しい。人々の苦しみを抜こう、楽 を与えようというその信念を人格において備えた家庭の主婦が育って欲しい。そういう願 いも込められている。
404 :
渡海 難 忍法帖【Lv=4,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 15:29:38.22 ID:X4wWIED7
しかしそのような中で、プロフェッショナルのボランティア、勧進僧を育てることも重 要部分として含まれていると考えるべきだろう。浄土真宗の僧は、勧進僧として自立し ていくことが期待されている。 親鸞は、一隅を照らす灯としての浄土真宗の僧に重要なメッセージを送っている。紹介 しよう。
405 :
基地子♀ :2011/11/16(水) 16:12:01.43 ID:mS1eVQvn
渡海さん、遊びましょう!\(⌒0⌒)/
406 :
渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/16(水) 20:27:52.08 ID:X4wWIED7
>>405 一緒に五会念仏を称えてみようか?
ヤフーメッセンジャーなどを使うと、インターネットを介してできそうなんだよね。
407 :
基地子♀ :2011/11/16(水) 22:13:23.20 ID:mS1eVQvn
>>406 五会念仏って何ですか?σ(^_^;)?
408 :
渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/17(木) 00:01:36.33 ID:gDM88uMu
>>407 >五会念仏って何ですか?
五会念仏は、親鸞聖人が教行信証で勧めている念仏三昧法です。
法照禅師が提唱しました。
『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、 〜 しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願
の名号をもって、ここに仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至 如来常に 〜 父の王に謂いて曰わく、「王いま座
禅してただ当に念仏すべし」と。(教行信証 行の巻)
次に『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。今の所引の文は、これ序の初なり。流布の本に「深妙」の下、
「問答」の上に禅の一字あり。また「焉」或いは「為」、彼此に差あり、異本あるか。義に於いて違せず。「度衆生」に至る
までこれ序文なり。「乃至」というは序の残る所にして、なお五十余行ある、これなり。次に「如来」等とは、これ五会念
仏を釈する文なり。 〜 (六要抄〈教行信証の最初の解説書〉 存覚上人著)
409 :
渡海 難 忍法帖【Lv=5,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/17(木) 00:03:51.48 ID:gDM88uMu
410 :
渡海 難 忍法帖【Lv=6,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/18(金) 10:35:49.70 ID:UWoWYMSE
五会念仏の実践はマルクス主義本願寺が最も目の敵にしている教えです。 親鸞聖人の教えこそ、マルクス主義本願寺が攻撃・解体の最大の標的にしています。 親鸞聖人の教え 父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を 求めんや。生を離れて無生を求めんや。(教行信証 行の巻) 『安楽集』に云わく、 〜 「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。 〜 父王を勧め て念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。(教行信証 行の巻) しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。 (五会法事讃略抄) 本願寺の教え 信心があやふやな時期に座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません」という お応えをすることになります。 そして真実信心の上からは、様々な宗旨宗教を学ぶことも念仏の道の助けとなりますが、その 時点になりますと既に自分が座禅をする必要は全く無いことがよく分っていますので、自ら好ん で座禅はしなくなります。いわば暗い夜道を歩くためには街路灯をつけたりライトが必要ですが、 朝日が昇れば照明器具は必要なくなるようなものです。 では、「他人から勧められて座禅をするのはどうか」ということになりますと、座禅は他人か ら勧められてするようなものではなく、自ら励み命がけでする修行ですから、結局は念仏の同行 は座禅はしないのです。 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟) 本願寺名古屋別院内 東海教区教務所
411 :
渡海 難 忍法帖【Lv=6,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/18(金) 10:37:50.81 ID:UWoWYMSE
親鸞聖人の教え
二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。(教行信証 行の巻)
声聞は実際をもって証とす。計るに更によく仏道の根芽を生ずべからず。(真仏土の巻)
本願寺の教え
光淳新門は「浄土真宗のみ教えを伝えていく。 〜 聞法道場として寺院機能の回復を強く訴
えた。 (小乗仏教の声聞道場として寺院機能の回復を強く訴えた。)
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html 親鸞聖人の教えの全て
世に曲事の起こり候らいしかば、それに付けても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、
申し合わせ給うべしとぞ覚え候。 〜 御身に限らず、念仏申さん人々、我が御身の料は、思し
召さずとも、朝家の御ため国民の為に、念仏申し合わせ給い候らわば、目出度う候べし。往生を
不定に思し召さん人は、まず我が身の往生を思し召して、御念仏候べし。わが身の往生、一定と
思し召さん人は、仏の御恩を思し召さんに、御報恩の為に、御念仏、心に入れて申して、世の中
安穏なれ、仏法弘まれと、思し召すべしとぞ覚え候。よくよく御案候べし。この外は、別の御計
らい、あるべしとは覚えず候。
412 :
渡海 難 忍法帖【Lv=6,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/18(金) 10:41:55.65 ID:UWoWYMSE
洗脳主義 本願寺 聞法・声聞道場 小乗仏教 大乗仏教 存覚上人 念仏道場 存覚上人の教え 道場を構へて念佛を勤行すべきこと されば念佛の行者、内に信心を蓄へて心を淨土の如來 に掛くと言ふとも、道場を構へて功を安置の本尊に積むべし。自行化他の利益これにあるべきな り。 〜 このゆへに穢土を以て淨土に准じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、 念佛を勤むる會座とするなり。 〜 この所にして念佛を称ふれば、光觸を蒙るものは心不退を えて往生の益を決定するが故に、これ往生淨土の所なり。 〜 念佛は无上の功徳超絶の勝行な るがゆへに、諸佛も哀納し諸天も歓喜し給ふ。諸佛の照覧に叶ひ諸天の守護に与からば、恩所の 得脱も疑なく、自身の往生も決定し、二世の所願一々に思ひの如くして、自利々他の願行圓滿し、 自他平等の利益を獲得すべきなり。 〜 『阿彌陀経』の心は念佛の一行を表はすにあり。(至 道抄) 『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。 〜 流布の本に「深妙」の下、「問答」 の上に禅の一字あり。 〜 次に「如来」等とは、これ五会念仏を釈する文なり。(六要抄)
本願寺がマルクス主義というのはどういうことでしょうか?
414 :
渡海 難 忍法帖【Lv=6,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/18(金) 21:32:02.44 ID:UWoWYMSE
>>413 >本願寺がマルクス主義というのはどういうことでしょうか?
なるほどそういうことだな。
「@ 悪人正機説の創設による倫理道徳の破壊、A 座禅封印による精神修養の封印」が、
「社会主義暴力革命を成功させる準備段階における社会の脆弱化、流動化工作」、という革
命プロセス(ブルジョア民主主義革命)と僕の直感の中でつながっているんです。
しかし、考えてみれば、一般質問者を納得させることができる十分説得可能な理論武装が固
まっていない。
自分自身の直感・信念を変えるつもりは無いが、うまく論証ができないとなると、説得的に理
論武装できるときまで、この発言は慎重にします。
415 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:29:45.57 ID:jjjg7yY8
本願寺はマルクス主義か否か。そんなレッテルはどっちでもいいことにしよう。しかし、浄土 真宗の中には、アナーキズム、つまり反親鸞、反蓮如、反伝統、反倫理、反道徳思想という、僕 に言わせれば破壊的な非常に邪悪な思想が根強く浸透しているという印象がある。浄土真宗の中 では相当古くから根を張っているようだ。 親鸞聖人の教えというのは、非常に常識的であり、伝統的であり、穏当であり、正義感にあふ れています。五会法事讃略抄(専修寺蔵 親鸞真筆)を紹介します。 正法能超出世間 持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。佛言を取らざるを外道と 名づく。因果なしとの見を発すれば空となす。 正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。持戒坐禅を正法と言う。念仏で成仏するのが真実 の教えである。仏の言葉を無視することを外道と言う。ものごとに因果がないと主張すれば、こ れは空見すなわち間違った考えである。 正法能超出世間 禪律如何これ正法なり。念佛三昧これ眞宗なり。了心を見性せばすなわち是 佛なり。いかんぞ道理相応せざらん。 正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。禅の教え、律の教えはどうだろうか。これは、正 法である。念仏三昧は真宗である。このことが明らかに分かれば仏となる。道理はどこにも矛盾がない。
416 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:32:00.33 ID:jjjg7yY8
正法能超出世間 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せずしてす なわち仏になるといはば 喩へば飢えたる人の空(ひろく)風を掩(おお)ふがごとし 禅律では仏になれない。仏になる因は一声一声の念仏である。それでは、なぜ坐禅持戒を求め るのか。それは真の効果を必要とするからだ。念仏だけすれば仏になると言って、坐禅持戒を疎 かにすれば、それは腹の空いた人が自分に向かって吹いてくる風を、腹の中に押し込めて隠そう とするものであり、腹の足しにならないからである。腹をすかせた仏になって、どれだけの意味 があるというのか。 親鸞聖人の主張は明白です。正法も真宗も共に必要であると仰っている。真宗だけで仏になっ ても、正法を欠けば中身のない仏になるだけであり、意味がないのだ。 だからこそ親鸞聖人は言う。 答えて曰わく、もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、 あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の 一切賢聖みな滅しなん。(教行信証 信の巻) 仁・義・礼・智・信という世間の善法を護るため、世間つまり一般社会の善法つまり仁・義・ 礼・智・信を説く諸仏菩薩が必要である。
417 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:34:07.50 ID:jjjg7yY8
覚如上人は言う 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信を守りて、 内心には他力の不思議を保つべきよし師資相承し奉るところなり。(改邪鈔) 仏道では五戒と言うが、世間の一般の善法つまり仁・義・礼・智・信つまり正法を守り、内心 には他力の教えつまり真宗を保持せよ。これが師から弟子に伝達されていかなければならない教 えである。 親鸞聖人が言う「持戒」を、覚如上人は、仏教の戒律ではなく、仁・義・礼・智・信に置換し ている。つまり浄土真宗は、仏教の戒律に代え、仁・義・礼・智・信を重んじてきた。この理由 説明は省く。 蓮如上人は言う 内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義をもって本とすべし。これすなわち当流 にさだむるところのおきてのおもむきなりとこころうべきものなり。 深い心の中には真宗を抑え、世間的には正法つまり仁義をもって根本とせよ。これが浄土真 宗の鉄則である。 次に、邪悪な真宗教学を示す。僕はこれが浄土真宗の全ての邪悪の原点だと思っている。
418 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:36:33.72 ID:jjjg7yY8
教行信証講義(山辺習学・赤沼智善 共著) 先ず戒律を保つことと、坐禅を修むることを一応正法と名ける。けれども仏教中の真宗とは云 われぬ。その真宗は念仏して仏になる所の他力の教がそれである。(中略)禅律の教は一応正法 と名けることが出来る。しかし先にも申した通り真の正法は世間のあらゆる教に超え勝れたもの である。この明徹〈すきとお〉った見解に坐る時は、坐禅も戒律も正法とは云われぬ。念仏三昧 の他力の教こそ、超世希有の正法である。仏教中の真実宗である。他力念仏の教によって、浄土 に往生する時、仏性を開発し、心性を証る、これを仏と名けるのである。念仏成仏が仏教中の真 宗であるということは、かように能く道理に相応しておるではないか。(中略)持戒坐禅是正怯 というは、一代教を悉く拉(さら)し来って、これは皆外道邪教に対すれば、誠に正法であると いうことである。然しこの正法は、所謂、浄土の要門で、いまだ至極の教ではない。一歩を進め て念仏成仏是真宗、如来回向の大行に依って往生する弘願法こそ真実の真教真宗であるというの である。 親鸞聖人の教え 持戒坐禪を正法と名づく 山辺習学・赤沼智善の教え 一応正法と名ける 親鸞聖人の教え 坐禅持戒がなければ、真の効果が無い。腹の足しにならない。腹をすかせた仏になって、どれ だけの意味があるというのか。坐禅持戒をしなさい。 山辺習学・赤沼智善の教え 持戒坐禅是正怯というは、 〜 外道邪教に対すれば、誠に正法であるということである。然 しこの正法は、所謂、浄土の要門で、いまだ至極の教ではない。坐禅持戒をやめなさい。
419 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:42:31.80 ID:jjjg7yY8
420 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:44:40.88 ID:jjjg7yY8
人々を強制的に抑制する法律と違い、文化による抑制は柔和的で最も効果的なものである。法 律は、罪を犯したら、どのような刑罰を与えるかということを重んじる。しかし、文化は道徳を 育成することにより、犯罪を予防するという役割を大いに果たしている。一つの社会の倫理価値 観は、その文化を通し、具体的に反映できたのである。 1949年、中国共産党が政権を奪い取った後、国家のすべてをかけて私たちの民族文化を破壊し 始めた。 〜 共産党の理論は民族の伝統文化とまったく正反対なものである。共産党の文化へ の破壊は実に、組織的に、計画的に、かつシステム化されたもので、国家暴力を基礎とするもの である。共産党が設立されてから今までは、中国共産党は中国文化に対する「革命」を停止した ことがない。共産党は確かに中国文化の「命」を徹底的に抹消(革)しようとしてきた。 さらに、中国共産党はこっそりすりかえるという方法を使い、古代から今日まで、人々が伝統 文化を投げ捨てた後に起こった権力をめぐる陰謀に満ちた激しい戦い、独裁専制などをさらに広 め、彼ら独自の善悪を量る標準や物事の考え方、言語方式を造り出し、人々に「党の文化」は伝 統文化の継承であると認めさせた。また、彼らは人々の「党の文化」への反感を利用し、さらに 中国真正の伝統文化を放棄させようとした。
421 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 12:49:12.92 ID:jjjg7yY8
伝統文化の天と地への敬畏は、中国共産党が天地と戦うための障碍である。伝統文化の中の「人 命は天に関係している」という考え方は命を大切にすることを訴えている。しかし、これは中国 共産党の「集団虐殺」による恐怖統治を阻む。伝統文化の「天道」は道徳善悪を量る最終基準で ある。しかし、共産党には道徳を解釈する言葉はない。そのため、中国共産党は伝統文化が彼ら の政権維持にとって最大の障碍であると見なした。 中国共産党が政権を確立した当初、すでに寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗さ せたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、中国の宗教施設はもうほ とんど残っていなかった。文化大革命の時、「破四旧」(思想、文化、風俗、習慣の破壊)は宗 教や文化への更なる災難であった。 レーニンは「最も簡単に要塞を攻め破るには内部から始めることである」と言った。中国共産 党はマルクスとレーニンの後継としてよくこの言葉を理解している。 表面文化を回復し、その本質を破壊する。これは正に、共産党が人々を騙す戦略である。佛教 や他の宗教や文化はすべて共産党によって滅亡させられた。
422 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/19(土) 17:26:47.88 ID:jjjg7yY8
表面文化を回復し、その本質を破壊する。これは正に、共産党が人々を騙す戦略である。佛教
や他の宗教や文化はすべて共産党によって滅亡させられた。
共産党・社民党と連帯する坊さん達の九条の会、不戦の誓い、靖国神社反対運動等々、こうい
うノータリンの主張は、みんなつながっている。
「マルクス主義本願寺」
>>410 というのは、全体を包括した論証抜きの一言だっと思って下さい。
僕の思想は、こうした洗脳思想の対極に立つつもりです。
423 :
渡海 難 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/23(水) 21:49:55.14 ID:ZwHchCAO
>>404 親鸞は、一隅を照らす灯としての浄土真宗の僧に重要なメッセージを送っている。全て親鸞肉
筆の大般涅槃經要文に書かれている。大般涅槃經要文は、その全てが、浄土真宗の僧に特別に書
き送っている宗祖の遺言である。浄土真宗の僧はどうあるべきか、浄土真宗の僧として親鸞聖人
に従うとはどういうことか、考えて欲しい。
大般涅槃經要文には、悪人正機の「あ」の字も出てこない。浄土真宗の坊さんが大好きな寝た
きりのおばあさんの登場もない。阿弥陀仏も出てこない。念仏は僅かに1カ所出てくるが、それ
は明らかに聖道門の念仏である。
師子吼菩薩言はく。世尊、少欲と知足に何の差別あるや。善男子、少欲者は求めず取らず、知
足者は少なきを得るとき、心に悔恨せず。少欲者は少しき欲するところあり。知足者はただ、法
のために仕へて心に愁悩せず。
師子吼菩薩が釈尊先生に尋ねた。「先生は少欲知足と仰いますが、少欲と知足とはどのように
異なるのでしょうか」。「少欲者は、求めようとしない。取ろうとしない。知足者は取り分が少
ない時にもそれで満足する。少欲者は、もう少し欲しいという思いを持つが、知足者は法のため
に努力し、心に憂いを持たない。
善男子、欲に三有り。一は惡欲、二は大欲、三は欲欲なり。
欲には三種類ある。惡欲と大欲と欲欲である。いずれも僧の欲である。
惡欲はもし、比丘ありて心に貪欲を生じ、一切大衆の上首となりて、一切の?を我が後ろに随
逐せしめん欲う。もろもろの四部ことごとく皆、我を供養し・恭敬し・讃嘆し・尊重せしめんと。
我を先として四部のために法を説かしめんと。皆一切我が語を信受せしめんと。また、國王・大
臣・長者、みな我を恭敬せしめん。我、大いに衣服・飲食・臥具・醫薬・上妙の屋宅を得しめん
と。生死のための欲、これを惡欲と名づく。
424 :
渡海 難 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/23(水) 21:52:07.86 ID:ZwHchCAO
惡欲とは何か。自分はあらゆる人々の上に立ち、全ての僧を自分の背後に立たせよう。男性僧、 女性僧、男性の在家、女性の在家、つまり無数のこうした四部の衆から一斉に尊敬が集まり、様 々な経済的な支援が寄せられ、称讃の声が寄せられるようにしよう。四部の衆に法が説かれると きには、真っ先に自分が法を説くようにしよう。こうして、全ての人に自分の言葉を信じさせよ う。政治家も企業家も全て自分を尊敬させよう。美しい衣服を着し、上等の飲食を行い、寝具を 有し、最高の医療に恵まれ、最高の家屋に住もう。結局は、再起から挫折までの欲を懐く。これ を悪欲と言う。 いかんが大欲。もし比丘ありて、欲心を生ず。いかん。まさに、四部之衆ことごとくみな、我、 初住地乃至十住を得、阿耨多羅三藐三菩提を得、阿羅漢果乃至須陀?果を得、我、四禅乃至四無 礙智を得たりと知らしめて利養をなす。これを大欲と名づく。 大欲とは何か。仏教の初住地まで達したぞ。十住まで達したぞ。あるいは、菩提心を得たぞ。 さらに、阿羅漢果あるいは須陀?果を得たぞ。四禅を得たぞ。四無礙智を得たぞ。こういう風に 男性僧、女性僧、男性の在家、女性の在家らに通知し、それによって利益を得ようと思う。これ を大欲という。 欲欲は、もし比丘ありて、梵天・魔天・自在天・轉輪聖王、若しは刹利、若しは婆羅門に生ま れて自在を得んと欲ふ。利養のためにするがゆえにこれを欲欲と名づく。 欲欲とは何か。もっと高い地位を得よう、もっと裕福な生活をしよう、そうして自由になろう。 全て自分の利益の為に計画する。これを欲欲という。 もし、是三種惡欲のために害せられざる者は少欲と名づく。欲者は名づけて二十五愛となす。 是の如きの二十五愛のあることなき、これを少欲となづく。未だ来たらざる所欲の事を求めざる、 これを少欲と名づく。 実際には三種惡欲を持っているが、それが害にならないのであれば、それ少欲者である。少欲 ではなく、害になる欲のある者は二十五個の愛着を有する。二十五個の愛着を断てば、少欲であ る。得られるか得られないか分からない目に見えない先の事を欲しないなら、これは少欲である。
425 :
渡海 難 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/23(水) 21:54:58.57 ID:ZwHchCAO
少欲知足にまた二種あり。一は善、二は不善なり。不善は、いわゆる凡夫なり。善は聖人・菩 薩なり。一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを 知足と名づく。 少欲知足と言っても一様ではない。凡夫の少欲知足と、聖人・菩薩の少欲知足とは同じではな い。聖人は、凡夫と異なり非常に深い認識をもっている。しかしそれを言いふらさない。言いふ らさないから後悔もない。認識がなくて言いふらさないのではなく、認識があって言いふらさな い。これが聖人の知足である。 善男子、出家の人に四種の病あり。この故に、四沙門果を得ず。何等を四病とす。謂く、四の 惡欲なり。一には衣のための欲、二には食のための欲、三には臥具のための欲、四には有のため の欲なり。これを四惡欲と名づく。これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いはく。 糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなすを能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥具惡 欲をなすをよく破す。身心寂静なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除く。 これを聖の行と名づく。かくのごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。 僧には四つの病気がある。それでは僧に求められる四つの覚りが得られない。良い服を着たい。 良い物を食べたい。良い所で寝たい。良い物を持ちたい。これが四つの悪欲である。これを治す には薬がある。ボロを着る。そうすれば良い服を着たいという病気は治る。乞食をする。そうす れば良い物を食べたいという病気は治る。野宿する。そうすれば良い所で寝たいという病気は治 る。身心を寂静にする。そうすれば良い物を持ちたいという病気は治る。
426 :
渡海 難 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/11/23(水) 21:57:38.41 ID:ZwHchCAO
親鸞は言う。ボロを着なさい。乞食をしなさい。野宿しなさい。身心を寂静にしなさい、と。 親鸞は誰に言っているのか。全て浄土真宗の坊さんに言っているのだ。少欲知足であれ。深い知 識・認識を持ってもそれを言いふらしてはいけない。有害な惡欲、大欲、欲欲を抑えよ。少欲知 足に徹せよ。親鸞は浄土真宗の坊さんにそのようにいう。欲を肯定する考えは親鸞にはないのだ。 このことはしっかり認識して欲しい 親鸞はその他にも、戒律を守れ、功徳を満たせ。定と智とを修行せよ。菩提心を築け。驕慢に なるな。努力を怠るな。煩悩を断て。捨を学べと説く。 大般涅槃經要文は、全てが浄土真宗の坊さんに対する親鸞聖人のメッセージである。浄土真宗 の坊さんは、この大般涅槃經要文を徹底して学ぶべきだろう。プロになるにはプロの厳しさがあ る。プロの責任がある。プロは甘えるな。プロの責任を果たせない者は僧になるな。僧になった 以上は、僧の責任を果たせ。凡夫でいいんだと思うな。親鸞聖人のプロに寄せる指針と期待と檄 が聞こえてくる。 浄土真宗の坊さんというのは、一体どこから始まるのか。本当はこの問題が背後に残っている。
427 :
神も仏も名無しさん :2011/11/23(水) 22:39:15.36 ID:IdjlWaBg
ご家族様の病状はいかがですか?
>>427 ご心配ありがとうございます。
お陰様で少しずつ快方に向かっています。最初は医者から死亡可能性8割と宣言され、家族は助か
らないと覚悟したものですが、その後、奇跡的に回復してきました。
この病気は、初期の急性期を乗り越えると、ほとんど後遺症の残らないほどに回復する不思議な病
気だそうです。ただ、回復は年単位が必要で、短期的にはそれこそ亀の歩みです。
最近、重度身体障害者という認定を受け、公の支援も受けられるようになりました。正月には自宅
に戻る外泊も可能と医者から言われています。徐々に明るさを取り戻しています。
429 :
◆K3PkkhVAkA :2011/12/05(月) 23:41:45.51 ID:ADx+kQVF
(^-^) もうすぐ火曜だね
430 :
正夫 :2011/12/06(火) 19:28:14.15 ID:YIWXn2xU
>>428 渡海難さん、真宗の海外布教状況、ちょっと覗いたいですが。
極楽の教えは、いかにもキリスト教の天国らしい話だから、
念仏して西方極楽に行きたいと立願する外国人が少ないと
偶に耳に入っていますが、本当の布教状況についてご意見伺いたいと思います。
431 :
渡海 難 忍法帖【Lv=19,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/07(水) 13:21:34.32 ID:W0RSSo7K
432 :
正夫 :2011/12/07(水) 17:23:29.91 ID:quTkLuBU
>>431 儀軌などにおきまして、本願寺派と大谷派の大別は何でしょうか。
協同に挙げるような法要とかないでしょうか。
433 :
渡海 難 忍法帖【Lv=19,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/07(水) 19:46:01.70 ID:W0RSSo7K
434 :
正夫 :2011/12/07(水) 20:33:09.63 ID:quTkLuBU
>>406 面白そうに聞こえますね。
五会念仏に参加したいんですけど、海外でもよろしゅうですか。
435 :
渡海 難 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/08(木) 14:16:04.33 ID:/kl5dI/n
>>434 > 五会念仏に参加したいんですけど、海外でもよろしゅうですか。
もちろんですよ。参加というより、実はインターネットを介して行うというのは
初めての経験です。ですから、実際には、貴方と僕の二人だけということにな
ります。
永続的にやるというより、試験的に一回だけやってみましょう。いきなり長時間は
無理だから、多念念仏を約5分、一念念仏を5分、合計で10分間でどうですか。
念仏のあと、勝手なおしゃべりを15分位、全体で30分足らず。長すぎますか?
多念念仏5分なら、五会念仏が七サイクル、つまり念仏を35回程度称えることになり
ます。
僕は自営業で、いつも家で仕事をしています。時間にはかなり自由度がありま
す。
交信ソフトは、ヤフーメッセンジャー、スカイプ、アクロバットミーティングがあり
ます。どれが使いやすいかはやってみないと分かりません。いずれもフリーソフト
です。僕の方はいずれも使えると思いますが、貴方の方は使えますか。
良かったらメールをください。詳しいこと、よく分からないことは、最初はメールで
相談しましょう。
メール(ステアド)は big_sunsky−buddhism@yahoo.co.jp (全角を半角にしてください)
又は
http://form1.fc2.com/form/?id=682471 宛で送ってください。
436 :
正夫 :2011/12/09(金) 10:31:57.65 ID:TfA5cCU1
437 :
基地子♀ :2011/12/10(土) 08:17:14.46 ID:RhNFI9CG
お早うございます! 渡海さん、お久し振りで〜す。 プロバイダーが規制されて 書き込みが不可能でした。 これからも宜しくお願いしま〜す。 \(^o^)/
438 :
渡海 難 忍法帖【Lv=22,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/11(日) 15:22:28.88 ID:5bEBfB3I
439 :
基地子♀ :2011/12/11(日) 22:05:19.99 ID:u6ozNE15
>>438 温い、温過ぎるわ!渡海さん!
ヽ(°∀°)/┌┛)`д°)¨;
五木寛之の「親鸞」読んだだけなんですが 念仏称えなくても悪人でも、いや悪人こそ最も可哀そうな存在だから 阿弥陀様は救ってくれて浄土に行ける?%F
441 :
基地子♀ :2011/12/12(月) 06:23:19.41 ID:4yv0c0aq
お早うございます!\(^o^)/ これからは底辺超人ナマポウーマン として、人様に迷惑掛けてゆく 所存で有ります。(-。-)y-~ 可愛がってね! d=(^o^)=b
442 :
渡海 難 忍法帖【Lv=22,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/12(月) 12:46:48.61 ID:dn1UUBVD
>>440 五木寛之の「親鸞」など、どうせ嘘っぱちとデタラメが書いてあるんだろうと、
そういう事前の判断をしているから、僕は興味もなく、読んだこともない。
五木寛之の「親鸞」には何が書いてあるか、当然、全く知りません。
五木さんが本当にそのように書いているのか、読者である貴方の勘違いかは
分かりませんが、
> 念仏称えなくても悪人でも、いや悪人こそ最も可哀そうな存在だから
> 阿弥陀様は救ってくれて浄土に行ける
↑
この主張は、絶対に間違いであると僕は確信をもって断言します。
443 :
基地子♀ :2011/12/13(火) 00:18:23.14 ID:PWEO4inP
渇〜ッ! ヽ(`▽´)/┌┛)`д°)¨;
444 :
基地子♀ :2011/12/13(火) 12:09:46.19 ID:8g2b+V5s
ヽ(`Δ´)┌┛)*β`).:*※(゚△゚;ノ)ノ
445 :
渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/13(火) 14:01:31.34 ID:Cq3Spav/
>>426 慈悲に聖道・浄土の変わり目あり。(歎異抄第四章)
苦を抜こう、楽を与えよう。この心に聖道というありかたと、浄土というあり方がある。
聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育むなり。
苦を抜こう、楽を与えよう、この心の聖道というあり方では、困っている人の状況を理解し、
困っている心に共鳴し、現実の苦しさを共に悲しみ、少しずつでもその改善に支援することをい
う。
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めて有り難し。
しかし、これはなかなか大変で、本当に困っている人の力になることは容易なことではない。
浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心を以て、思うが如く衆生を利益
するをいうべきなり。
浄土というあり方では、念仏し、できるだけ早く仏になり、大いなる慈と大いなる悲しみの心
をもって、自在に人々に利益をもたらすことである。
今生に、いかに、いとおし不便と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし。
今のままで、どれだけ歯がゆく、悔しく思っても、自在に助けることができなければ、苦を抜
こう、楽を与えようという思いは実を結ばない。
しかれば、念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べきと云々
そうであれば、まず念仏を称えると言う浄土門にこそ、苦を抜こう、楽を与えようという思いの
一貫性というのが存在する。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せを被り
て、信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二章)
親鸞の場合には、ただ念仏して阿弥陀仏に助けて貰えと言う、法然上人の仰せを信じる
外に、特に深い考えはありません。
446 :
渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/13(火) 14:04:40.30 ID:Cq3Spav/
もう一つ重要な文書を紹介する。 もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。(大般涅槃經要文 親鸞真筆) もし善業というものを積極的に実践しなければ、きっと不幸な結果になるだろう。善業という ものは、積極的に実践しなければならないものである。。 もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。 善業を行えば、必ず良い結果がうまれるか。そんなことはあり得ない。善業を行えば必ず良い 結果が得られなければならないとするなら、聖道門など求めてはならない。本当に聖道門を求め ないでよいのか。もし善業というものを積極的に実践しなければ、不幸な結果になることを忘れ るな。 もし道を修せずば、すなわち解脱なし。一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報 を得るがゆえなり。 よく考えよ。厳しい道を修行していかなければ、覚りなど得られない。世の中に多くの聖人が いる。彼等が厳しい道を修行する理由は、善因善果、悪因悪果という法則に反し、重大な悪を行 っても、その結果は軽い報いで済んでいるからである。 不定の業は果報が無きゆえなり。 善因は必ずしも善果とならない。悪因は必ずしも悪果にならない。善因善果、悪因悪果は定ま ったものではなく、必ずしも予測は当たらない。 もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。 もし、善業を行えば必ず良い結果が得られなければならないとするならば、聖道門など捨てて しまえ。 もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。 聖道の厳しい修行をしないで解脱が得られると思うか?。もし、聖道の厳しい修行をしないで 解脱が得られれば、「善因善果、悪因悪果は間違いではない」という定めが間違いとなる。そん なことはあり得ない。
447 :
渡海 難 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/13(火) 14:07:23.34 ID:Cq3Spav/
解脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。 人々を自在に救っていく自由を得ても、それが結果に結びつくことが無かったなら、「善因善 果、悪因悪果は間違いではない」という定めが間違いとなる。そんなことはあり得ない。 善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすで に常に安樂を受くべし。 みなさん。もし、因は必ず果をもたらし、善因は必ず善果をもたらし、悪因は必ず悪果をもた らすといのであれば、どうなると思いますか。純善の業を行えば、必ず幸せをもたらすでしょう。 そんなことが現実にありますか? 一世所作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。 重大な悪業を行った者は、必ず大変な苦しみを得るでしょう。そんなことが現実にありますか。 若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなからん。 もし、重大な悪業を行った者は、必ず大変な苦しみを得るというなら、世の中で修行して覚り を得られる人はいなくなるでしょう。そんなことはありえないのです。 善因を行っても必ずしも善果を得られないかも知れません。しかし、それに怯まず、恐れるこ となく善因を行っていって欲しい。聖道の道を、石にかじりついてでも苦しみ抜いて修行して行 きなさい。真の悟りを求めて聖道の道を歩みなさい。それ以外には覚りの道はない。 大般涅槃經要文は、本願寺が目の敵にしている宗祖真筆の重要な文書である。誰の目にも見え ないようにしている。しかし、そのような文書が一時、販売され、僕の手元にあるというのも面 白い。今は非売本である。 大般涅槃經要文と歎異抄の主張と、天と地の開きがあることは理解して貰えるだろうか。いっ たいどちらが親鸞の真意なのか。両方とも親鸞の真意であるというべきだろう。 大般涅槃經要文は、単なる聖道門の紹介書ではない。仏道修行者への指示書であり、檄文と見 るべきである。歎異抄とともに深く味わわなければ親鸞の真意は理解できない。 以下、もう少し詳しく説明しよう。
448 :
基地子♀ :2011/12/13(火) 21:07:18.25 ID:5xnftGNX
そもそも仏教に善悪の概念なんて あるんですか? (^。^)y-~
阿弥陀様は一人なので救うまでに多少の時間がかかる。その間は地獄で待ってないといけないのかなぁ? 仏にとっての「多少」ってすげえ長いんだろうなぁ。
>>442 >
440は文が切れておりまして「親鸞激流編」の終わりの方の話なんですが
「悪人でも念仏を称えなくても浄土に行ける。でもそれは死んだ後の事であり
生きてる時に念仏を称え阿弥陀様を信じればその瞬間から救われる」と
小説内の親鸞は言ってます。
その前の話に黒念仏と白念仏ってのが流行ってどちらも念仏を誤解してるって言われてます。
黒念仏はどんな悪い事しても浄土行けるのだから享楽の限り尽くそうぜ!
って集団。白念仏は善行を積んだ者だけが浄土に行けるって教え。
当時の「善行」ってのが散々庶民を苦しめてる武士や貴族がお金や荘園を寺に寄進する事なんですねぇ。
しかも荘園では奴隷として売り買いされる下人が働かされてるわけで。
そんなもん寄進するのが善行なのか?庶民は寄付する金もなく生きるためには泥棒売春殺人さえ行わなければならない。
では貧しい下層民は救われないのか?
と小説内の親鸞は疑問に思ったようですよ。
451 :
基地子♀ :2011/12/14(水) 05:47:05.02 ID:b3c0EY0f
本堂のお掃除終わりました!(^o^)/ 渡海さんご機嫌如何ですか?(*^^*)
452 :
渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/14(水) 14:11:54.82 ID:6Xue7feT
>>448 >そもそも仏教に善悪の概念なんてあるんですか? (^。^)y-~
何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共のなかに、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべく
も候わず。
どのようないきさつがあるあるにしても、浄土宗の教えの本質も分からず、道理を欠いた勝手
気ままな人の中で、どんな悪を冒してもいいと言う主張があるようです。とんでもない間違いで
す。そんなことがあるわけありません。
この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しきことをもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし。
悪いことは止め、悪いことはしないというのが、厭離穢土の意味です。念仏を称えると言って
も、念仏を称えるふりをしながら、故意に悪事を働き、あるいは悪いことを言うということでは、
厭離穢土の心など、微塵もありません。
されば、善導の御教えには、「悪を好まん人をば、敬いて、遠ざかれ」とこそ、至誠心の中に
は、教え置かせおわしまして候らえ。
だからこそ、善導大師の教えで、悪事をする人については、敬意を損なうことなく距離を保ち
なさいと、至誠心を説くなかで教えています。
いつかは、我が心の悪きに任せて振る舞えとは候。
ときには、心のままに悪いことをしてもいいということはある。
大方は、経釈の文をも知らず、如来の御事をも知らぬ身にて、努々その沙汰あるべくも候らわ
ず。
しかし、ほとんどは、経釈文の意味を理解せず、如来の本質も分かってないということでしょ
う。何か道理があるということなどあるはずがありません。
453 :
渡海 難 忍法帖【Lv=24,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/14(水) 14:12:52.63 ID:6Xue7feT
基地子♀は歎異抄の「他の善も要にあらず、・・・悪をもおそるべからず、」「善悪の二つ総じ てもって存知せざるなり。」という言葉に騙されているんだろう。 「外見あるべからず」「於無宿善機、無左右不可許之者」この言葉をしっかり読んでほしい。 歎異抄は基地子♀が読む本ではない。読んではいけない。歎異抄は忘れなさい。 貴方には仏教は向かない。仏教の勉強など止めちゃいなさい。善悪などはないなどという話は、 歎異抄以外からは教わってないはずだ。仏教を捨て、歎異抄を忘れ、歎異抄以外で教わった倫理、 道徳を思い出して欲しいものだ。
454 :
基地子♀ :2011/12/15(木) 22:04:45.66 ID:wmcqbwAA
455 :
基地子♀ :2011/12/16(金) 06:35:26.07 ID:yOA6Q7cb
お早うございます!\(^ρ^)/ / / / / l | | lヽヽ ┏┓ ┏━━┓ / / // ⌒ ⌒ヽ ┏┛┗┓┃ ━ ┃ | | |/ (●) (●) ┣ ━┫┃┏┓┃┏━(S|| | ⌒ ・ィ ヽ.━━┓┏┳┳┓ ┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ | || | ト-=-ァ ノ━━┛┗╋┛┃ ┗┛ ┗┛ .| || | |-r 、/ /|| ┗━┛ __ | || | \_`ニ'_/| ||_ `ー⊂`  ̄ ̄ノノノノ⌒ ⌒ノ从  ̄ つ  ̄`ー( (ヽ)) ノヽ))´ ̄ | ☆ ☆ ノ / 〈 ,;' l ', ゚ ノ \ Y | ノ ノ ノ 三 (_)ノ
456 :
基地子♀ :2011/12/18(日) 04:00:05.34 ID:mP9+Zn9P
http://dic.nicovideo.jp/a/2ch%E8%84%B3 2ちゃん脳
・あらゆる物事に対してまず否定から入る。
・肯定・賛美を認めない。
・否定に特化したダブルスタンダードな性格。
・不確実でも都合の良い周辺情報は信用する。
・10か0かの極端な思考。
・レッテル貼りの多用。
・非寛容で、許容の心がない。
・自分の行動に責任を持たず、他者に自己責任を押しつける。
・自分には自由と権利を、他人には義務と責任を求める。
・煽り荒らしの姿勢が常態化する。
457 :
基地子♀ :2011/12/18(日) 09:50:16.55 ID:VayxW1Uf
お早うございます!渡海さん♪ _, ,_ パーン (´・ω・`) ⊂彡☆))Д´;)・・・祖師再来意!?
458 :
基地子♀ :2011/12/22(木) 06:27:35.95 ID:ZXDkc/AU
お早うございます!\(^o^)/ 渡海さん、見てますか? ,.-‐- 、, ,..:::'"´i /::::::::::::::::`'::..、 /:::::::::::::| |::::::::::::::::::::::::::::\--/:::::::::::::::::::ヽ. |::::::::::::::> '"´ ̄ ̄`"''<:::::::::::::\ |::::::::/ __\::::::::::::::> /::::::/ / ̄` ´ `ヽ;::::/ /:::::::::7 / , , , ∨ なんなの? \:::::::| | /| / ! /|-‐ハ \ \::! ,' |/ー!-イ__,レ' レァ'ハ| ! r--` バカなの? /::7 / !r ‐ァ'7ハ' り ノ| /|/\ `ヽ/ ∠,_! 八 弋__,ノ ∨∧ ̄ 散るの? / ノイ ヽ.`' ー , -‐、 人' | ! ∧ ト 、.,_ ( _,ノイ ∧/__ |\| ∧ / \|_, イ\ ̄「\-|/ ´ |/ | | \ \|/ア´`ヽ\__>rイヽ. \/ ∨ヽ.__>、, / \::::/ム:::::', __,〉-‐ ァ \ / ヘ 、__ ノ::く__r-、〉:|´ \/ >---‐>、r'´ \:::::::::::>'´ ̄ ̄__ソ <.,____,,.イ 〉\ \/ 、,__ン´〉 / / /:::::::::\ ´ .∧ / ∠,_>'/::::::/:::::::::::::`:.、,__/:|::::\ソ
459 :
基地子♀ :2011/12/23(金) 07:28:13.67 ID:7phd+r77
渡海さん、お早うございます♪ | ┃ ________ | ┃ ヽヽ__ イ´ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ヽ | ┃ -┼┐ __ /ノ___ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ヽ | ┃ / | / /::/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ | ┃ ./ J / ツ ::/:::::::/ ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: \ | ┃ ―― /:::::::/ :::::::::::::::::::::::::::: \ | ┃ ―― /:::::::::/ ::::::::::::::::::::/\::::::::::::::: \ | ┃ ―― /:::::::/ ::::::::::::::::::::::(__人__):::::::::::::::::: \ | ┃ /_::ノ ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: \ | ┃ [___________________________] | ┃ ::|::::::::::::::::::::::::::: / / / / ∧ :', / / / | | ┃ |:::::::: / / / { / ヽ } / / / | | ┃ |:::::::: ヽ___/ __ \___ノ | | ┃ |::::::::::: ヽ ´ ` ' | | ┃ ―― \::::::::: / | ┃ ―― \::::::::::: "` /
460 :
渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/24(土) 12:01:31.45 ID:kG2PeCJS
仏教というのは、常に対機説法である。機は器を意味する。相手のうつわ(器量)を見て法を説く。 親鸞聖人・蓮如上人の仏法では、人を三種類に分ける。念仏を称えようという誘いに対し、誘 っても念仏を称えない人、これを邪定聚という。誘えば称えるけど、誘わないと称えない人、こ れを不定聚という。誘わなくても自分からどんどん称えて行く人、これを正定聚という。正定聚 の人はさらに二つに分ける。念仏の実力者と念仏の初心者である。大般涅槃經要文には、次の重 要な記述がある。 〜 世尊よ、經の中に説くがごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた 奢摩他を修するや。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破す とや。 師子吼菩薩が釈尊先生に聞く。「経典の中では奢摩他と毘婆舎那の両方を修行しなさいと仰っ ています。煩悩は毘婆舎那で破します。どうして奢摩他も修行しなさいと仰るのでしょうか」。 釈尊先生が答える。「毘婆舎那が煩悩を破すと言えば、それは毘婆舎那が単独で煩悩を破すと考 えるのでしょうか。それは間違いです。毘婆舎那は奢摩他と共に煩悩を破すのです。だから、奢 摩他も毘婆舎那と共に大事なのです。奢摩他と毘婆舎那の両方を修行しなさい」。 親鸞の書き物で、奢摩他・毘婆舎那に触れているものは何か。それは教行信証である。教行信 証を読んでみる。 彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、 一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。 極楽浄土に往生すれば、奢摩他・毘婆舎那ができるようになる。そうすれば、奢摩他・毘婆舎 那を教える指導力も付く。再起・挫折・再起・挫折を繰り返す民衆の中に入り、人々に奢摩他・ 毘婆舎那を指導して仏道に向かわせることもできるようになる。 菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり 極楽浄土の菩薩は、奢摩他・毘婆舎那を様々に修行する。だからこそ心が柔軟である。 入第三門とは、一心に専念し作願して、彼に生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆ
461 :
渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/24(土) 12:10:05.16 ID:kG2PeCJS
えに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく。寂静止を修せんためのゆえに、 一心にかの国に生まれんと願ずる、これ第三の功徳相なりと。 不定聚が念仏を誘われて念仏門に入る(第一門)、やがて面白くなってきて自分から進んで称 えるようになる(第二門)、初心者を卒業して実力者域(蓮華蔵世界)に入ろうする(第三門)。 実力者域に入るとはどういうことか。しっかりした念仏者になろうと決意し、極楽浄土に参加 してひたすら奢摩他を修行する。こうして実力者域に入る。心を静めて止つまり奢摩他を修行 し、蓮華蔵世界への転入を願う。これが第三段目にあたる念仏の効果である。 入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもってのゆえに、かの 所に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく」(論)とのたまえり。 蓮華蔵世界には、もう一つ奧に門がある。極楽浄土のあり方を観察し、毘婆舎那を修行してそ の奧に進む。様々な有益なものを得る。第四門である。 何を言っているのか。柔道で説明しよう。 師子吼菩薩が釈尊先生に聞く。「柔道のテキストは立ち技と寝技との両方を練習しなさいといい ます。立ち技で十分相手を倒せます。どうして寝技も練習しなさいと言うのでしょうか」。「立ち技で 十分に敵を倒せると言えば、それは立ち技単独で敵を破ると考えるのでしょうか。それは間違いで す。両方で相手を破るのです。だから、立ち技も寝技も大事なのです。立ち技と寝技の両方を修行 しなさい」。 柔道場に行けば、寝技・立ち技ができるようになる。寝技・立ち技を教える指導力も付く。柔道がで きない人に、寝技・立ち技を指導して柔道に向かわせることもできるようになる。 柔道家は、寝技・立ち技を様々に修行する。だからこそ身心が鍛えられている。 子供達が柔道に誘われて柔道場に入る(第一門)、やがて面白くなってきて自分から進んで通 うようになる(第二門)、初心者を卒業して実力者の域に入ろうする(第三門)。しっかりした柔道家 になろうと決意し、柔道場に参加し、ひたすら柔道を練習する。こうして実力者域に入る。心を静め てまず寝技を修行し、実力者への転入を願う。これが第三段目にあたる柔道の効果である。
462 :
渡海 難 忍法帖【Lv=32,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2011/12/24(土) 12:14:16.77 ID:kG2PeCJS
柔道界には、さらにもう一つ奧に門がある。敵の動きを観察し、立ち技を修行してその奧に進 む。様々な有益なものを得る。これが第四門である。 教行信証は、柔道場に通ってなく、寝技も立ち技も知らない人に説いている。念仏道場を知ら ず、奢摩他・毘婆舎那を修行したことのない人つまり、不定聚に向かって説かれている。 教行信証とは、不定聚に向かって説かれている文書である。この点をしっかり認識する必要が ある。 これに対し、大般涅槃經要文は、寝技も立ち技も両方を練習している人、奢摩他・毘婆舎那を 修行できる人、つまり、念仏の実力者に向かって説かれている。 親鸞聖人の教えは、奢摩他・毘婆舎那ができるようになって念仏者がベテラン域、つまり実力 者になると大きく転換する。普通の人は、そこで卒業する。仏道の専門家はそこから始まるのだ。 つまり浄土真宗とは、念仏を誘えば称えるようになる人(不定聚)を誘い、念仏を通じて奢摩 他・毘婆舎那ができるようにし、できるようになればいったん卒業する(出第五門)。卒業生の 内、プロを目指す人はそこから聖道門に入るのだ。 いきなり本格的な仏道つまり聖道門に入るのではなく、奢摩他・毘婆舎那だけ、先に集中して できるようになり、専門家を目指す人はその後に専門課程に進むというプログラムを持っている。 これが浄土真宗である。 空也上人も親鸞聖人も共に、観音菩薩の行を実践する。空也上人の仏教は、大衆がいきなり 観音菩薩の行を実践する。人々は、空也上人の行動を横目で見ながら、見よう見まねでそれを 学ぶ。親鸞聖人はそうではない。いったん立ち技・寝技を練習してそれができるようなって、その 後で思いっきり社会で活躍してほしい。まず奢摩他・毘婆舎那ができるようになろう。奢摩他・毘 婆舎那ができないなら僧ではない。奢摩他・毘婆舎那ができるるようになったら、心ある者はそれ から僧になって観音菩薩の行を思いっきり実践せよ。親鸞聖人と空也上人との考えの違いである。 それでは、奢摩他・毘婆舎那うまくができない内はどうするのか。親鸞聖人の考えを聞いてみ よう。
463 :
◆K3PkkhVAkA :2012/01/15(日) 22:12:00.29 ID:cWN/VEhn
(^ε^) こんばんは。 1号顔文字です。
464 :
◆K3PkkhVAkA :2012/01/15(日) 22:13:23.86 ID:cWN/VEhn
(^ε^;) 今年、初めての書き込みだね。
465 :
◆K3PkkhVAkA :2012/01/15(日) 22:14:35.23 ID:cWN/VEhn
(^ε^) 今年も頑張っていきましょう
466 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/01/16(月) 21:27:56.70 ID:IHBv/hmM
インターネット念仏会
ヤフーメッセンジャーを介して遠方の人をつなぎ、一緒に同時に念仏を称える
念仏共修会を開いています。
月・木の午後1時30分から2時
参加者の都合で、時間変更はかなり自由です。
念仏を10分間称え、その後、20分間チャットをします。チャットは20分で終わ
らない時、時間延長もあります。
参加可能人数には限界もありますが、しばらく参加者を募りたいと
思います。興味のある方はご連絡ください。
http://form1.fc2.com/form/?id=682471
467 :
◆K3PkkhVAkA :2012/01/19(木) 21:28:21.97 ID:Ynp2APh4
(^-^) ヨロナーをしようかな
渡海ちゃん、お久しぶりで〜す! ヒャッハー♪ (^д^)y-~
469 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/01/22(日) 00:48:13.68 ID:UqECSbqG
親鸞聖人の教えは、不定聚つまり念仏を誘えば称えるという人に念仏に誘い、念仏を練習させて奢 摩他・毘婆舎那が実践できるようにすることだ。 しかし、奢摩他・毘婆舎那だけを練習していればいいということではない。仏教は三学の学習を基 礎にする。親鸞聖人もその原則を守っている。 もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・ 智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。 (教行信証 信の巻) それ出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、 内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪鈔) 仏教は、世間・出世間の善道を説く。仁・義・礼・智・信を教える。これが重要なことだ。浄土真 宗というのは、基本的には仁・義・礼・智・信を教えることが非常に重要なことと考えている。仁・ 義・礼・智・信は、論語・孟子・大学・中庸の中心的重要な思想だ。親鸞は、少なくとも四書を非常 に重視したと考えるべきだろう。弟子達に、念仏と併せて、儒教の教えを叩き込んだと考える。 特に「出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもり て」と言っているから、五戒と五常の両方を守れと言うのではなく、出世の法(仏道)では五戒と言 っているが、これは 世法(社会道徳)の五常つまり仁・義・礼・智・信と読み替えて学習せよ、お そらくそういう意味だろうと考える。 仏教の戒律は極めて複雑である。僧の守るべき教えと、在家が守るべき教えが混同している。誰が どこまで、何を守るべきかがわかりにくい。その点、特に論語は非常にわかりやすく簡潔である。解 釈が分かれる文章もあるが、その場合には、普通いずれの説も一理ある。著名な解釈であれば、どれ を採用してもいいだろう。念仏に誘えば称えるような人々には、念仏とと共に、親鸞は儒教を教えて いた。
470 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/01/22(日) 00:48:56.50 ID:UqECSbqG
昨日まで木曽の山中で追いはぎ、山賊をしていたような連中が、今日はまぶしいばかりの都大路を、 甲冑に身を固め、刃物を持って警官面して練り歩く時代だ。親鸞は彼等に、念仏による禅定と、儒教 の基礎道徳を教えたいと思い、関東では、新興の武士達に、太子堂でそのような教育を行った。これ が浄土真宗である。 論語・孟子を読ませて文字を教え、念仏を称えさせて禅定を経験させ、奢摩他・毘婆舎那を体得さ せる。禅定の後はフリートーキングをさせ、他人の問題に関心を持たせ、自分の中の気づきに敏感な 人材を育てる。親鸞はそのようにして、将来に向かって生きた観音菩薩を育てることに全力を傾けた のだ。 親鸞にとって、出家は急ぐ問題ではなかった。奢摩他・毘婆舎那ができるようになってから、出家 を勧めた。しかし、親鸞の下には、既に出家した人も集まってきたようだ。国分寺・国分尼寺は既に 荒廃していたから、恐らく自分で勝手に髪を剃り、一人で勝手に出家宣言した人々だろう。空也上人 の流儀では、こういう人も出家として扱っていたに違いない。親鸞はそういう存在も否定していない。 これについて考えてみよう。
親鸞上人は基地子♀を否定 されるでしょうか?σ(^_^;)?
472 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/02/05(日) 13:38:29.38 ID:6PFGJfAS
473 :
◆K3PkkhVAkA :2012/02/19(日) 20:20:50.97 ID:Tphtr5tn
(^-^) シナミーをしようかな
474 :
◆K3PkkhVAkA :2012/02/23(木) 21:36:33.26 ID:2BgF/BNu
(^-^) 夜な夜な
475 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/02/25(土) 18:06:01.56 ID:QIveT9Qg
浄土真宗親鸞聖人の重要な教えを紹介します。とても大事な教えです。親鸞聖人の教えを20 年も30年も聞いてきたという人でも、親鸞聖人のこの教えを聞いたことがあるというひとはほ とんどいないでしょう。 これは、親鸞聖人肉筆の文書(大般涅槃經要文 真宗聖ヘ全書五)として高田専修寺に遺って います。この文書から、浄土真宗の僧を考えてみます。 「どうか勇気をもって、聖道門を歩んで欲しい」。親鸞はそう主張しています。 善男子よ。佛の十力の中で業力が最も深し。善男子よ、諸の衆生ありて、業縁の中において心 輕く信ぜざらん。彼を慶ばせんがための故にかくのごときの説をなすなり。 みなさん。仏は超人的な働きとして十の能力を持っている。その中で業力が最も重要である。 仏は悪業を行った者には悪果をもたらし、善業を行った者には善果をもたらす。なぜこのような ことを説いているのか。難しい理由はない。世の中には色々な人がいる。様々な行い、あるいは きっかけの中で、大事なことが決して安易に考えられないようにするためである。人々に喜んで 貰えるようにこのように説いているのである。 善男子よ、一切の作業に輕あり、重あり。輕重の二業にはまたそれぞれ二あり。一には決定、 二に不定なり。 みなさん。人々の様々な行為はそれぞれ結果を生じます。結果は、軽微な結果と重大な結果と があります。軽微な結果を生む行為と、重大な結果を生む行為、これらそれぞれにも二つの態様 があります。必ずそのような結果を生む場合もあります。一方、起きてみなければ予測がつかな いという場合もあります。 善男子よ、あるいは人ありて言はく。惡業は果なし。もし、惡業に定んで果ありと言わば、氣 嘘栴陀羅にして天に生ずること得はいかん。鴦崛摩羅は解脱の果を得。この義をもっての故にま さに知るべし。作業は、定に果を得、不定に果を得ることあり。
476 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/02/25(土) 18:07:18.30 ID:QIveT9Qg
みなさん。悪いことをしてしまえば、よい結果を生むことはないと言う人がいます。失敗をし てものちに良い結果を生むことはあります。例えば、氣嘘栴陀羅や鴦崛摩羅の例があります。不 幸だった氣嘘栴陀羅はやがて天に生まれ、悪いことをしていた鴦崛摩羅は覚りを開きました。こ うした例から分かるように、世の中には予測できる結果を生むということもあれば、予測できな い結果を生むこともあります。 我、かくの如きの邪見を除斷するがための故に、經の中にかくの如きの語を説けり。一切の作 業は果を得ざることなし。 人々の間違った考えを正すため、私は経典で次のように言っています。どのような行為でも、 必ず結果を生む。 善男子よ、あるいは重き業あり。輕くなすことを得べし。あるいは輕業あり。重くなすことを 得べし。一切の人にただ愚智があるに、この故にまさに知るべし。一切の業はことごとく定んで 果を得るに非ず。定んで得ずといえどもまた得ざるにあらず。 みなさん。重大な行為を行ったのに、軽微な結果だけが生じることがあります。簡単な行為だ ったのに、重大な結果を生じることもあります。どんな人にも間違いがあります。だからこそ、 あらゆる行為について、結果が決まっているということはありません。結果は決まってないとは 言っても、結果が生じないということではありません。 善男子よ。一切の衆生におよそ二種あり。一は智人、二は愚癡なり。有智の人は、智慧の力を もって、よく地獄の極重の業をして現世に輕く受けしむ。愚癡の人は、現世の輕業をして地獄に ありて重く受く。 みなさん。人は大きく二つに分かれます。思慮深い人と浅はかな人です。思慮深い人はよく考 えますから、非常に重大な行為をしても、その結果は継続・連続する生活の中で、自分に軽微な 結果を生みます。浅はかな人は、小さな行為であっても地獄のような重大な結果を生みます。 師子吼言わく。世尊よ、もしかくの如きならば、すなわち、清淨梵行及解脱の果はまさに求ま らずと。 獅子吼菩薩が釈尊先生に質問します。先生、もし先生の仰るようなことであれば、正しい仏教の 修行、あるいは覚りなどはほとんど得ることができないのではないでしょうか。
477 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/02/25(土) 18:09:40.93 ID:QIveT9Qg
佛言はく。善男子よ、一切の業が定んで果を得るならば、すなわち、梵行解脱はまさにもとま らずと。 釈尊先生が応えました。いい質問です。しかし、どんな行為でも予定された結果が必ず得られ るというなら、仏道を修行しても覚りを得られるということはないでしょう。仏道を修行して覚 りを得られるということは、結果が必ずしも決まってないということを意味します。 不定をもっての故に則ち梵行及び解脱の果を修せよ。善男子よ、もし能く一切の惡業を遠離せ ば、すなわち善果を得む。もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。 結果は決まっていない。だからこそ、仏道を修行して覚りを得てほしい。みなさん。もし、悪 いことは何もしなければ、かならずきっといい結果を生むでしょう。もし正しい行為をしなけれ ば、必ず悪い結果を生むでしょう。 もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修 せずば、すなわち解脱なし。 だからといって、もし、良いことをすれば必ず良い結果が得られるようにしようと思うなら、 聖道門を求めて修行する資格がありません。もし、仏道を修行しなければ、覚りを得ることはな いでしょう。 一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無 きゆえなり。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。 世の中には様々な聖者がいます。厳しい修行の道を歩んで覚りを得ています。彼等はなぜ厳し い修行の道を歩むのでしょうか。あらゆる聖者に当てはまります。確定的な結果を粉砕し、過去 にたとえ重大な悪いことをしていても、過去に行った重大な悪い行為の結果は、軽微な報いで済 ませられるからです。重大な結果を生むか、軽微な結果で済むか、結果が流動的な行為には重大 な悪い結果が生じないようにするためなのです。もし、良いことをすれば必ず良い結果が生じま すようにと期待するなら、聖道門を修行する資格はありません。 もし、聖道を修習することを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解 脱を得、涅槃を得ずば、またこの處(こと)はりあること無けん。
478 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/02/25(土) 18:30:41.72 ID:QIveT9Qg
聖道門を修行しないで偏りのない認識が得られれば、釈迦の教えは間違っていたことになりま す。偏りのない正しい認識を得たのに、人々とそれを正しく共有化できなかったら、その場合も 釈迦の教えは間違っていたことになる。 善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくすで に常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、またながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。 若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなからん。 みなさん。もし良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じ るというなら、どんな場合も、良いことをした人はまさにいつまでも常に幸せであるでしょう。 重大な悪いことをした人は、いつまでもいつまでも大きな苦しみを受けるでしょう。世の中に重 大な悪いことをした人はいませんから、修行して覚りを得られるという人は一人もいなくなるこ とになります。 現実には修行して覚りを得ているひとはいますから、結果が予測的に決まっているということ はありません。どうか勇気をもって、聖道門を歩んで欲しい。
479 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/03/29(木) 19:05:01.93 ID:dMsEE+z+
日本語が分かる外国在住の方を相手に、インターネットYHOOメッセンジャを
使用して教行信論を始めました。
六回目位になると思います。最初の方は録音していません。
録音内容をインターネットに貯蔵しています。ダウンロード可能です。編集はしていません。
約1時間、88.7MB mp3ファイルです。
http://xfs.jp/v3Adk ダウンロード可能期間は、今日から3日間です。無料会員ですので、その後は削除されます。
なお、レジメを希望する方はメールをください。レジメをお送りします。txt文書で簡単な内容です
が、録音だけでは分からず、漢字を見て始めて分かる言葉の理解には必須です。
480 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/11(水) 13:44:38.98 ID:UE4sVP0w
話がまとまらないおそれが出てきました。>> 475-478は無視し、別の問題として切り離します。
議論を
>>470 に戻して考えていきたい。
親鸞聖人にとって出家というのは、奢摩他・毘婆舎那ができるようになってからの問題だった
と思って間違いない。親鸞聖人の文書の中で、出家を扱っているのは、大般涅槃經要文だけであ
って、大般涅槃經要文は奢摩他・毘婆舎那ができるようになった人に向かって話をしている。大
般涅槃經要文があるということは、親鸞聖人の周囲には、奢摩他・毘婆舎那ができるようになっ
た人がたくさんいたということだろ。その一方、教行信証を含め、大般涅槃經要文以外で人々に
出家を勧めている文書はない。それにもかかわらず、現実には、親鸞聖人の周囲で、奢摩他・毘
婆舎那ができないと思われる人も僧として存在している。
何事よりは、聖教の教えをも知らず、また、浄土宗の真の底をも知らずして、不可思議の放逸
無慚の者共の中に、悪は思う様に振る舞うべしと、仰せられ候なるこそ、返す返す、あるべくも
そうらわず。北の郡にありし、善証坊といいし者に、ついに、合い睦るることなくて止みにしを
ば見ざりけるにや。(消息集)
どんな事情があるにしても、聖教の教えを知らず、浄土宗の真意も理解できない手が付けられ
ないような人々に対し、勝手気ままに悪事を働いてもいいんだと言うようなことは、けっしてあ
るはずもありません。北の郡に住んでいた善証坊という人物とは、ついに親しく語り合うことが
なかったということは、ご存じありませんでしたか。
「悪人正機は間違っているぞ」と親鸞聖人が言っている重要な文書の一節です。善証坊という
のは、ならず者のようです。念仏者を名乗り、鹿島・行方地方で悶着を起こし、それが鎌倉幕府
に伝わって一悶着があったようです。この部分を読むと、「凡夫ですから、悪いことをやっても
いいんです。罪悪深重の者が良いことをするのは自力です」などと、ノータリンを触れ回ってい
る坊さんの顔が僕には浮かんでくる。
481 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/11(水) 13:45:08.46 ID:UE4sVP0w
京都に戻った親鸞の下には、関東での様々な問題の報告が伝わり、親鸞はそれに返事を書いて いる。鹿島・行方地方で問題を起こした善証坊は、親鸞もよく知っていた人物だったようだ。し かし、親鸞は善証坊と口も利かなかった。親鸞が口も利かないという相手がいたようだ。善証坊 に親鸞は口も利かなかったが、他の同朋・同行達は特に警戒することもなく、とりわけ分け隔て することもなかった。 親鸞はその人物を善証坊と呼んでいる。つまり親鸞教団の中で僧として扱われていたようだ。 この人物はどのようにして坊さんになったのか。親鸞聖人の下で受戒したとは思えない。当時は 已に国分寺・国分尼寺制度は崩壊していたはずだから、恐らく自分一人で剃髪し、僧宣言をした 人物だろうと思う。 仏教には、もともと、師匠の立ち会い無く僧になる方法がある。その場合には、非常に厳しい 条件、作法が定まっている。彼等は私度僧と呼ぶ。しかし、関東の僧達は、おそらくそのような 作法とは関係なく、僧宣言をしていたと思う。空也上人でさえ、正式な受戒は僧宣言してから2 0年以上過ぎてからである。当時の親鸞教団には、自分で勝手に頭を剃り、僧宣言していた人物 もかなりいたのではないかとそのように思う。 奢摩他・毘婆舎那ができない坊さんというのは、現実には親鸞聖人の時代から親鸞聖人の回り にたくさんいたようだ。関東の親鸞教団では、そう言う人々も僧として処遇していたようだ。そ ういう僧達はどのような位置あったのか。基本的には空也衆、空也宗であると考えるべきだろう。 空也衆には出家に当たって特別な決まりはない。自分で僧を宣言し、周囲がそれを認めれば誰 でも直ちに僧になる。空也は、死体処理、井戸掘り、児童擁護活動をしながら、托鉢などで社会 的な支援を受けていた。勝手に僧宣言した善証坊等も、そうした社会活動をするのが本来の使命 だったろうと思う。果たして善証坊がそのようなことをしていたかどうかはわからない。善証坊 は、実際には泥棒や山賊を生業にしていたかもしれない。しかし、本来は社会活動こそ、そうし た僧の業務であり、関東時代の親鸞も、勧進僧として普段はそのような業務を行っていたことだ ろうと僕は想像する。
482 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/11(水) 13:45:55.56 ID:UE4sVP0w
親鸞聖人の教えは、パン屋さんが聞いてもいい。ラーメン屋さんが学んでもいいように、お坊 さんが教わっても全く構わない。それは、空也衆という社会活動を行うことを柱とする坊さんで あっても構わない。そういう坊さんは、パン屋さんやラーメン屋さんと分け隔て無く仏教を教わ り、念仏を称え、特別な待遇を得ることはなかったろう。 親鸞はそういう坊さんにも奢摩他・毘婆舎那を教えた。奢摩他・毘婆舎那ができるようになる と、彼らも浄土真宗を卒業する。浄土真宗の卒業生は、親鸞から厳しい聖道門の道を歩むことを 勧められる。しかし、それを選択するか否かは、一人一人の自由であったことも当然だろう。 僧とは何かという議論は、まとまりがありませんでしたが、ここで終わります。
483 :
神も仏も名無しさん :2012/04/23(月) 19:31:52.31 ID:X69qXC7w
仏教の「無」と「空」の概念を分かり易く説明願います。又、サルトルの「存在と無」のこの無の概念と仏教の「無」の関係 について説明願います。
484 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/24(火) 13:45:56.17 ID:JNGBQpTA
>>483 サルトルはパスさせてください。40年くらい前、本を買って読み始めたことはありましたが、
数ページ眺めて放り出した記憶があります。説明する能力も資格もありません。
空と無とはほとんど同じ意味で使われているように思います。空と無我とは違うようです。空
と無我について考えてみたいと思います。
一切空無我なりと通達すれども、専ら浄仏土を求めて、必ずかくのごときの刹を成ぜん。(大
経)
一切、諸の世間に生る者は皆、死に歸すなり。壽命は無量なりといえどもかならず盡きること
あるべし。それ盛りなるものは必ず衰うることあり。 〜 衆苦輪に際なし。諸の楽しみ有るこ
と無し。本性の相に近づくことあれば一切みな空无なり。(大般涅槃経要門)
たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非
無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすなわち非有とす。無慙愧の人はすな
わち非無とす(信の巻)。
「仏法には無我」と、仰せられ候う。「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。
485 :
神も仏も名無しさん :2012/04/25(水) 13:34:43.32 ID:bIWFBcDS
「空」と「無」とは、ほとんど同じ意味で使われていると言う見識は大変、為になりました。 実存的な主観的認識(他の誰でもなく、私はなぜ私なのか)と、「草木国土悉皆成仏」 との関わりについて分かり易く説明願います。
486 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/25(水) 15:49:22.83 ID:KgmGjhXd
>>485 暫く多忙です。少し待ってください。仏教というのは、思考の原理
が分かることが重要と思います。
原理から考えれば、なーんだ、そんなことだったのかということに
なります。釈迦の悟りに戻って考えてみましょう。
487 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/29(日) 12:40:29.93 ID:vGMOqRU2
仏教の問題で何か分からなくなったら、必ず釈尊に帰る。釈尊の悟りとは何だったかを考える ことが、一番重要であり、大原則だと思っています。 また、原始仏教というのは重要なかぎになってきます。特に浄土真宗の教えで分からなくなる と、例えば中村元博士の原始仏教の研究などは非常に参考になります。 次に無色界の第一処である空無辺処について見るに、無辺なる虚空を思い浮かべて念ずる精神 統一(空無辺処定)という語は、原始仏典の詩句の中に現れていない。しかし、そういう思想は 説かれている。 『つねによく気をつけ、自己に固執する見解をうち破って世界を空なりと観ぜよ。そうすれば、 死をわたることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死王は見ることがない。』 ありとあらゆるものを空とであると観ずるためには、それらは譬えば虚空のごとくであると観 ずべきである、ということを大乗仏典においては繰り返し教えている。 だから四無色定といわれる一つ一つの禅定の説明、およびそれを貶しおとしめる説明を並べて みると、われわれはそこに、最初期の仏教における思想的発達を見出すことができる。そしてそ の或る部分は外道の仙人の口にかこつけて説かれているのである。 (ゴーダマ・ブッダ 中村元選集 春秋社刊114〜115ページ) 釈尊は、成道前、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人に学び、 その教えに飽き足らなくて独立し、独自に悟りを開いた。これが仏所行讃などの仏伝が教えると ころです。 最初期の経典では、空無辺処定という、後世に作られたテクニカルタームの使用例はなくても、 事実上、空無辺処定に関する思想が説かれている。ところが、四無色定といわれる禅定の説明が、 仙人の口にかこつけて説かれ、貶しおとしめられているという。
488 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/04/29(日) 12:41:03.72 ID:vGMOqRU2
釈尊の教えは、釈尊一代で突然生まれたものではない。アーラーラ・カーラーマ、あるいはウ ッダカ・ラーマプッタなどの説を継承しつつ、それを批判する形で独自の思想を生み出してきた。 空の思想の原点はウッダカ・ラーマプッタの非想・非非想の思想でしょう。そうであれば、空の 内容を考えるなら、仏教教団、特に釈尊が継承し、批判したウッダカ・ラーマプッタの非想・非 非想の思想を一典型として掘り起こし、そこから思索を拡大していくのがいちばん分かりやすい と思います。 ウッダカ・ラーマプッタの非想・非非想の思想は何だったか。それは意外と簡単であり、我々 の身近にいくらでも見られるありふれた思想だった。思想中村元さんの引用文の中から見えてく る(続く)。
489 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/05(土) 23:16:09.06 ID:Fg/ErUkM
四無色定は、空無辺処定と識無辺処と非想非非想処と無所有処とを包含する。無所有処と無辺 処とは少し違いそうだが、空無辺処・識無辺処・非想非非想処は、互いに重箱の隅ほどの違いも ないだろう。こういう分類は、当然、釈迦の時代よりは相当後の時代の分類だ。重箱の隅の議論 より、空の実体を批判した釈迦の敏感な感覚を理解することが大事だろうと思う。 非想非非想処とはどんな思想か。中村元は『スッタニパータ』を引用している。『ありのまま に想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想い無き者でもなく、想いを消滅した者でもない』。 中村元は、この言葉に、「非想非非想ということがはっきりと示されている」と評価している。 しかし、否定形の言葉を綴られれば、僕には真意が伝わってこない。物事は肯定系で説明してほ しいものだ。 中村元はもう一つの言葉を紹介してくれている。この中身は詭弁であると言っているが、僕に はこちらの方が意味が伝わってくる。中村元は『中阿含経』第二十八巻「優陀羅経」を引用する。 『チュンダよ。実にウッダカ・ラーマ・プッタはこのようなことばを語った、―「見つつ、見 ず」と。何を見つつ、見ないのであるか?。よく磨かれた剃刀の面(平)を見るけれども、その 刃を見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言われるものである。ウッダカ・ラーマ・プッ タの語ったこのことは、劣って卑しく、凡夫のことであって、聖に非ず、意義のないことで、剃 刀のことのみを暗に含めて考えてそういうのである。しかし「見つつ、見ず」ということを正し く語る人が語るならば、「見つつ、見ず」ということを正しく語るべきである。では、何を見つ つ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一切の相を円満し、減なく増なく 善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にかくのごとく見るのである。「こ こでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきである。」と、かくのご とくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべきである。それはかくのごとく円満と なるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言わ れるのである。』
490 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/05(土) 23:16:55.22 ID:Fg/ErUkM
ウッダカ・ラーマ・プッタは、「見つつ、見ず」という言葉を振り廻して人々を驚かした。し かし、誰もその意味を了解することができなかった。その意味を尋ねると、「このことばの意味 は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らくして答えよう。」といって、四 ケ月間、人の尊敬供養を受けていたという。その後に「〈見つつ見ず〉というのは〈剃刀の平は 見るべからず〉という意味である」と説明した、ということになっている。 ウッダカ・ラーマ・プッタは、一方では非常に尊敬される一方、激しく非難する人もいたとい う。ウッダカ・ラーマ・プッタの考えは、どこにでも転がっている極めてありふれた思想だと言 うべきだろう。
491 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/08(火) 11:32:20.88 ID:77oxIMl4
ウッダカ・ラーマ・プッタ先生は、「見つつ、見ず」と言ったという。これは中村元先生の誤訳で はないかと思う。我々の分かりやすい言葉を使えば、「見てみないふりをする」ということだろう。 この言葉の方が適切だ。見てみない振りをすることが大事なんだといば、こういう思想は現代、どこ にでも転がっている。 「剃刀の平は見るべからず」。剃刀の平はうっかり触ると怪我をする。危ないことは見ないのがい ちばんいい。そうすれば苦しいことは何もなくなる。 人はなぜ苦しむのか。「危ないこと、苦しいこと、そういうことをしなければいけない、負担しな ければならない」、そう思うから苦しくなるのだ。そんなことを考えなければ(非想)苦しみから解 放されるではないか。確かに、何も知らなければ困ることもある。そこで、何も考え無いということ でもない(非非想)。苦しくない程度で物事を認識し(非非想)、苦しくなったり、負担に感じるよ うになる手前で考えたり見たりすることを停止すればいいのだ(非想)。 物事を考えて行って、もっと先がある、もっと本質的なものがある。そう思うと苦しくなる。考え るから苦しくなるのだ。「関係ない。どうでもいい。どうということもない。幻だ。放っておけば時 が解決する。そう思えば楽になる。苦しさも、楽しさも、全て自分の心の反映に過ぎない(識)」。 ウッダカ・ラーマ・プッタは、そのように言っているのだろう。 ウッダカ・ラーマ・プッタは、財産もあり、多くの人から尊敬され、何不自由ない生活をしていた という。そういう立場であれば、他人が困っていても、苦しんでいても、そんなことは本質的に関係 ない。どうでもいいことだ(空)。そう思っていても別に悪いことはないだろう。仏教はこういう立 場を、外道にとっての理想の境地、最高の境地、つまり有頂天という。
492 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/08(火) 11:34:24.64 ID:77oxIMl4
関係ない。つまり無である。心配ない。つまり無である。空である。ウッダカ・ラーマ・プッタ 先生が主張した空とは、まさにそういうことだろう。ウッダカ・ラーマ・プッタ先生がそうは言っ ても、やはり物事は不安になる。心配になる。そんな時は瞑想をすればいい。「実体はない」「関係 ない」「心配ない」のだから、自分の心だけ落ち着かせ「ああ、関係なかった」「心配なかった」と そう思って不安を沈めればいいのだ。そうすれば不安はなくなる。ウッダカ・ラーマ・プッタ先生は そう言って瞑想を勧めた。瞑想によって、「実体はない」「関係ない」「心配ない」という心の安定(無 識)を得る。空を悟る。 しかし、「関係ない」「心配ない」と、あからさまに言えば、怒り出す相手もある。だから、思想 の核心部分を語る時は慎重を要する。「このことばの意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと 答えられない。暫らくして答えよう」といって、四ケ月間程度様子を見ることも必要になる。必要の 無い限りは妄りに話さない。 「空である」「無である」と言わないで、現代であれば、別の表現で言う場合もあるだろう。「(阿 弥陀様が助けてくださるから)心配ない」「(そんなことをしたら自力になる。自力ではいけない。 自分は自力ではない。他力でいこう。だから、)放っておいていいんだ(時が解決してくれるだろう)」 「(余計なことをすれば偽善になる。偽善が一番いけない。偽善はやめよう)だから放っておけばい いんだ(それで自分は何も困らない)」「生かされているんだから、心配いりませんよ(だれも困ら ないでしょう)」。「悪人でいいんです。悪人正機ですからね」こういう概念は、ウッダカ・ラーマ・ プッタ先生の思想といささかの違いもない。
493 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/08(火) 11:35:39.92 ID:77oxIMl4
南京大虐殺事件は朝日新聞が作った。慰安婦問題は旧社会党と朝日新聞が作った。シルクロードの 旅行記を通じ、NHKはタクラマカン砂漠、ウィグル地区での中国による原爆実験の惨禍を隠蔽した。 未だ一人の犠牲者もけが人も出てない福島の発電所の事故は大騒ぎするが、数百万人もが既に死傷し、 現在進行形のウィグル地区での原爆実験に、NHKは完全に沈黙している。ウィグル地区はなんら問 題ないという、中国が国連に出した証拠フィルムは、外国報道機関という立場で、NHKが作ったと いう。 朝日新聞も、NHKも、自らは完全に安全な立場に立って、「関係ない。どうということもない。 心配ない」というスタンスを取る。有頂天にあったウッダカ・ラーマ・プッタ先生の空を実践してい るというべきだろう。外道の空は、今、現在、いたるところに転がっている。 釈尊は、こうした空はだめだと考えた。しかし、一部は承継している。釈尊の批判と継承を考えよ う。
494 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/11(金) 14:25:41.58 ID:xdnaxM/D
釈迦による批判に入る前に、ウッダカ・ラーマ・プッタによる外道の空についてもう少し説明 したい。外道の空とはどういうものか、中村元博士の「ゴータマ・ブッタ」の引用で読んでみる。 (ウッダカ・ラーマ・プッタは)なにを見つつ、見ないのであるか?「かくのごとく一切の相 が具わり、一切の相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた」 と、実にかくのごとく見るのである。 何を見て、何については見ない振りをするのか。「阿弥陀様の五劫思惟の願は一切の相が成就 し、一切の相を円満し、欠くこともなく余すこともなく説かれ、純粋円満なる清浄の行が他力に おいて明らかにされた。」と実にかくの如く見るのである。 「ここでこれが除かれるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきである。」とか くのごとくそれを見ない振りをするのである。 「悪行は除かれるべきである。人々は清浄となるべきである。善行を行うべきである。」とか くの如くはそれを見ない振りをするのである。 「諸惡を作すことなし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(大 般涅槃經要文 親鸞真筆 専修寺蔵)。」このような親鸞聖人の教えからは目を背け、考えない 振りをするのである。 「ここでこれが加えられるべきである。それはかくのごとく円満となるべきである。」とかく のごとくそれを見ないのである。 義を見て為さざるは、勇なき也(論語 為政編)。 諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・ 智・信あることを知らんや(信の巻)。 世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたも つべきよし師資相承したてまつるところなり(改邪抄)。 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき(お文)。 親鸞聖人のようには考え無いのである。なぜなら、次のように自説を立てるからである。
495 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/11(金) 14:27:32.96 ID:xdnaxM/D
聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐ ること、極めて有り難し。 本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべ からず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(歎異抄) 凡夫が下手に善いことをすれば自力になり、偽善になってしまうからである。 阿弥陀様の本願は完全に満足されているからである。地獄に堕ちるはずの我々凡夫はそのまま で救われていく身だからである。 だから我々は、仁義礼智信は排除するのである。親鸞のように、仁義礼智信を必要とは見ない 振りをするのである。 ラーマプッタは恐らくマガダ国の地方で尊崇を受けていたが、これはバラモン達の好まぬとこ ろであった。 他力本願の教えは、日本で尊崇を受けているが、他力本願の教えは多くの人が軽蔑するとこで あることは、言うまでもないだろう。
496 :
774 :2012/05/11(金) 14:38:18.56 ID:XFjp4O96
497 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/13(日) 15:18:56.56 ID:i7FjyOLC
仏教で問題が分からなくなったらどうするのか。大事な原則がある。それは、釈迦に戻ると言 うことだ。釈迦の悟りに戻って考える。間違っても、阿弥陀仏に戻ってはいけない。阿弥陀仏の 本願に戻ってはいけない。阿弥陀や阿弥陀仏の本願に戻って考えようとすると、物事が分からな くなる。阿弥陀や阿弥陀仏の本願は、先に釈迦に戻り、釈迦の悟りをしっかり押さえ、釈迦の悟 りから次に拡大していく思索の発展の過程で巡回していくというのが正しい姿勢だ。例えば、こ ういう場合、歎異抄に騙されてはいけない。歎異抄はどのように騙しているか。歎異抄は言う。 「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさ ば、善導の御釈、虚言したまうべからず」。議論を弥陀の本願から始める。こういう思考は間違 いである。阿弥陀や阿弥陀仏の本願など、全く考える必要が無い場合も非常に多い。釈迦から考 える。こうした思考回路こそ、仏教史的に見て最も素直な考えである。 釈迦は、三五歳の時、菩提樹の下で何を悟ったのか。多くの仏典が様々なことを言っている。 十二因縁、中道、因果の法則、四諦、八正道、三学などである。これらは、全て別々のことと考 える必要は無い。恐らく、釈迦の悟りは、原始的な十二因縁であり、それは原始的な中道であっ た。原始的中道は、原始的な因果の法則であり、原始的な四諦、原始的な八正道、原始的な三学 である認識を得たのだろうと考える。だからこそ、釈迦の後、仏弟子達は、精巧な十二因縁・中 道・因果の法則・四諦・八正道・三学を完成していった。 十二因縁を語る時、それが因果の法則、あるいは四諦などの議論と矛盾するような内容であれ ば、それは少なくともどちらか、通常はその全ての理解が間違っているんだろうと想像する。因 果の法則を語る時には、十二因縁、あるいは中道などと矛盾無く説明できて、始めて第一の関門 がパスすることになる。第二の関門は、その考えが釈迦の後の歴史的高僧達の説とも矛盾がない こと、第三の関門は、我々の日常の諸現象と矛盾がないことだろうと考える。 釈迦の悟りを因果の法則から考えてみよう。釈迦は善因善果、悪因悪果という原則を立ててい る。
498 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/13(日) 15:20:25.23 ID:i7FjyOLC
諸惡を作すことなし。諸善を奉行すべし。自からその意を淨くする。これ諸佛のヘなりと(四 句の偈) 無間獄は寿一中劫なり。五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく 信施を食らへるもの、このなかに堕つ。(往生要集 『観仏三昧経』) 因果の法則は、様々な経典に登場する。しかし、親鸞は注目すべき記述を教えてくれている。 (大般涅槃經要文) 善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世の所作、純善の業は、まさにながくす でに常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、また永く既に大苦悩の業果を受けるべし。 若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなからん。 みなさん。もし良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じ るというなら、どんな場合も、良いことをした人はまさにいつまでも常に幸せであるでしょう。 重大な悪いことをした人は、いつまでもいつまでも大きな苦しみを受けるでしょう。世の中に重 大な悪いことをしてない人はいませんから、修行して覚りを得られるという人は一人もいなくな ることになります。 良いことをすれば必ず良い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じる。そんなこと はない。善因は必ずしも善果をもたらさない。悪因は必ずしも悪果をもたらさない。親鸞はそう 言う。 これは、一面で常識的な、当然の主張と考えるが、こういう考えは仏教に存在しないと勝手に 思い込んでいると、我々は意外な印象を受ける。なぜなら親鸞は次のように言っているからであ る。 因果なく〜と言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。 因果つまり善因善果、悪因悪果というこんな原則はない。こう言って、因果を否定して外道の 富闌那等に騙されていく。これを信邪と名づく(信の巻)。 善因善果、悪因悪果を信じることこそ、仏教においてもっとも重要なことである。善因善果、 悪因悪果を信じないということはどういうことか。親鸞は言う。「因果を撥無する見を、空とす (行の巻)」。因果の法則を否定する見解は、空、つまり実体が無い、内容がないと言う。
499 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/05/13(日) 15:20:56.79 ID:i7FjyOLC
ここが釈迦の悟りの重要なところだ。よく考えて欲しい。善因は必ずしも善果をもたらさない。 (続く)
500 :
◆K3PkkhVAkA :2012/05/23(水) 22:14:25.68 ID:ydFiGbix
(^-^) 祝・500だね♪
501 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 15:14:25.41 ID:RQvFmNKv
5月14日からアク禁になっていました。モリポタで書き込みますが、忍法帳が邪魔して、 満足な書き込みができません。すこしずつ書きます。
502 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 15:44:50.17 ID:RQvFmNKv
現実には、善因は必ずしも善果をもたらさない。悪因は必ずしも悪果をもたらさない。善因が 悪果をもたらすことも多い。悪因を積めば善果が得られることも多い。現実には善因悪果、悪因 善果の場合の方が多いのではないか。こんな話は当たり前のことであり、これ以外の考えを持つ 人がいれば、その人は頭がおかしいと僕は思う。
503 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 16:10:29.41 ID:RQvFmNKv
しかし釈尊は言う。善因善果を信じ、善因を行っていけ。悪因悪果を信じ、悪因を離れよ。こ れが釈尊の悟りである。善因を実践しなさい。例え悪果に陥るとも、善因を積んだ結果であれば それを恐れてはいけない。悪果を実践してはいけない、悪因を実践すれば仮に善果に至ると分か っていても、そのような善果を決して求めてはいけない。これが釈尊の悟りの中身である。
504 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 16:22:54.01 ID:RQvFmNKv
ものごとの本質的解決(無明)を求めよ。本質的解決を求めるなら、善因を実践せよ。善因の 結果、仮に悪果に陥ろうとも、その場合、潜在的には本質的課題(無明)の解決に一歩近づいて いる。そのように思おうではないか。悪因をなして、それで仮に善果が得られても、それはなん ら本質的課題の解決には役に立たない。そのように思おうではないか。
505 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 16:50:42.95 ID:RQvFmNKv
物事の表面的な解決に満足してはいけない。本質的課題の解決をおざなりにして表面的な解決 に満足すれば、同じ過ちを今後も二度、三度と繰り返す(輪廻)だろう。再起(生)挫折(死)、 再起(生)挫折(死)の同じ轍を踏むことになる。
506 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 16:55:20.72 ID:RQvFmNKv
ものごとの本質的解決は、あくまで正攻法による。善因のみによる。善因が善果をもたらし、 悪因は悪果をもたらすと、そう信じ、善因を実践していくこと以外、正攻法以外に方法はない。 これが釈尊の悟りである。問題点(苦)を浮き彫りにし、そのための解決策(集)を探り、それ を実践(滅)し、その解決を実現する(道)。四諦以外に、本質的課題の解決策はない。当たり 前の話だ。
507 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 16:58:13.18 ID:RQvFmNKv
しかし、この方法を選んでも、必ずしも成功するとは限らない。失敗することは多い。当たり前 の話だ。しかし失敗に怯んではいけない。怖じ気づいてはいけない。「ここで怯んではいけない。 怖じ気づいてはいけない」というのが釈迦の悟りの主張だ。善因を積む以外に真の解決策はない。 そのように信じて進もうではないか。非道な方法を行えば都合のいい結果を生むことがあるかも しれない。しかし、そのような誘いに乗ってはいけない。
508 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 17:02:18.40 ID:RQvFmNKv
釈迦が掲げた善因善果、悪因悪果には実は大きな問題がある。外でもない。善因を積んでも必 ずしも善果に至らないという現実である。悪因を積めば悪果どころか、善果が得られる場合も多 いという問題である。仏教の先人達はこの現実に苦しんできた。悪果になったのは、前世に悪業 を積んでいたからに違いない。
509 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/01(金) 17:42:15.17 ID:RQvFmNKv
人を苦しめる悪魔的なとんでもない説を、今なお主張する者がいるということは、実に残念で ある。これは釈迦の敵である。仏教の破壊者である。 空というのは、まさにこうした問題を背景にし、ウッダカ・ラーマ・プッタの主張を釈迦の悟 りの中に大胆に取り入れた考えが生まれてきた。 (続く)
510 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/12(火) 14:05:12.83 ID:V2hOEcPY
ウッダカ・ラーマ・プッタの主張とは何か。 「そんなの関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」「そんなこと無視すりゃ いいんだ。」「無だ。」「空だ」。 ようするにそう言うことだ。善因を実践して善果が得られたなら、それはそれでい い。しかし、善因を実践したが、善果にならず、悪果になった。そうしたら、その悪 果になった問題だけは、「悪果などは関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」 「そんなこと無視すりゃいいんだ。」「そんなものに心が捕らわれる必要ない。」「無 だ。」「空だ」、このように思おうではないか。そして、転んでも、転んでも、今後も 可能な限り善を実践していこう。大乗の先人達はそのように考えているんだろうと僕 は思う。 善因を積んで善果が得られることは、現実には確かに非常に少ない。そうなら、我 々の環境は空が本質である。そうも言えるだろう。だから、ほとんどのことについて は、「そんなの関係ない。」「そんなこと気にする必要は無い。」「そんなこと無視す りゃいいんだ。」「無だ。」「空だ」と言っていい。しかしその中で、善因によって善 果が得られそうなことだけは、確実に善を選んでいこう。一切空無我なりと通達すれ ども、なおかつ身を引き締め、歯を食いしばってでも専ら浄仏土を求めて、必ずかく のごときの刹を成ぜん。優れた学校を建設していこう。大無量寿経は、大乗仏教の学 習者に学校の建設を呼びかけている。そのように理解します。 しかし、そうは言っても、現実に大変な努力をした結果、努力が水泡に帰するとい うことは決して少なくない。期待が外れて喜ぶ人はいない。「無だ」、「空だ」、など と、そんな話に納得できることは現実にはほとんどない。
511 :
渡海 難 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆Fe19/y1.mI :2012/06/12(火) 14:06:31.47 ID:V2hOEcPY
釈尊先生はそんな場合、人々に禅定を勧めた。「無だ」、「空だ」などと思えなくて いい。恐いことは、過去の失敗、あるいは不幸に引きずられて新たな一歩が歩み出せ なくなることだ。善因善果、悪因悪果の確信が揺らぎ、すすんで悪因に手を染めるよ うになることだ。悔いが残り、悲しさがこみ上げてくる現実を前にして、「無だ」、「空 だ」と仮に認識できなくても、少しでも気持ちに整理を付け、再び、善因善果、悪因 悪果の確信をしっかりもって進んで行ければそれでいい。大乗仏教の先人達はそのよ うに語ってくれている。 悔しい。悲しい。残念だ。そういう思いは、禅定をすれば少しはやわらぐ。自分の 至らなかったことも見えてくる。「無だ」、「空だ」などと、思えるか、思えないか、 そんなことは実はどうでもいいことだ。失敗の後の悔しさ、悲しさ、それが少しでも 和らげばいい。 一切は空である。それは善因を実践しても善果に成りにくい現実、悪因を実践する と善因になりやすい現実、こういう現実を前にして、転んでも転んでも善因善果を実 践していきなさいと、先人が、禅定と一緒に我々に提起してきた大事な一つの考え方 である。そのように考えていいと僕は思う。 とりあえず「空」はここまで。 「無我」について考えよう。
我今までよりなすところの 念仏誹謗の罪ここに懺悔す
513 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/07/03(火) 11:47:01.85 ID:ByDsRXtN
無我とは何か。この意味は、仏典の中に求めても、僕などは正直言ってよくわからない。この 意味は、僕は日本文化の中に求めれば意外と分かりやすいと思う。 日本の茶碗などの陶芸を見ると、いかにも泥臭く、いびつで、一見するとどうしてこれが美し いんだろうと思うような作品がたくさんある。しかし、その一つ一つをよく見ると、いくら見て いても飽きない不思議な味わい、おもしろさがある。素材を見事に生かしてあるのだ。 素材を生かすというと、日本料理にその真骨頂がある。支那、朝鮮の料理は、色々な具を一つ の鍋で煮込んでしまう。日本にもそういう料理が無いわけではない。すき焼き、雑炊などはさま ざまな具を鍋で一緒に煮込む。しかし、すき焼きなどは、狩人、あるいは被差別部落から発生し、 徳川時代末期から明治維新にかけ、西洋から肉類を食べる習慣が入ってきた時、日本の一部で食 されていた料理が全国に広まったものだ。日本には、もっと仏教の影響を受けている料理がたく さんある。それは、すき焼きなどの大衆料理ではなく、精進料理、高級料理の中にある。 精進料理は素材の味を徹底的に生かす。素材が違えば性質が違う。素材ごとにそれぞれ料理法 を異にし、容器も変える。料理人は、素材に潜む個性をできるだけ引き出し、その持ち味が死な ないように、料理人は料理の配置、つまり盛り合わせに自分の個性を発揮する。 無我とはそういうものだろうと思う。大乗仏教は教育学である。教師は、生徒一人一人の個性 を最大限に掘り起こす。自然のままに放置すれば、原石は埃まみれ、泥まみれである。埃や泥を 払ってやれば、素晴らし個性が潜んでいる。教師の最初の仕事はその個性を掘り起こすことだ。 生徒一人一人の個性は、集団の中で実現する。生徒には、それぞれそれぞれ、固有の個性ができ るだけ発揮する適所を与えて成長させる。これが教育の基本原則だろうと思う。 教師は、自分の主観に振り回されてはいけない。生徒を鋳型に嵌めてはいけない。大鍋で一緒 に煮込んではいけない。自分の思い込み、誤解を排し、できるだけ客観的な事実を下にして一人 一人の相手の本質を見極め、あるべき適所を考えて与えて行く。これが無我ということだろうと 僕は思う。
514 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/07/03(火) 11:47:59.95 ID:ByDsRXtN
粗末な物は無価値である。古い物は無価値である。日本人はそういう考えが間違いであること を教わってきた。非常に粗末なものであっても、その中にもひときわ光る優れた美がある。日本 人は、こうした美を「わび」と称し、大事にしてきた。古びて傷んできたものの中に、ひときわ 優れた美が潜むことがある。これを「さび」と称してきた。茶道・俳諧などはこうし美に着目す る。「わび」・「さび」などは、無我という仏教的概念が、日本人の価値観の中に同化し、美とい う価値観の中で体系化した美学だろう。無我という概念がわかりにくければ、「わび」・「さび」 という概念から遡って考えて行くと分かりやすいと思う。 無我は以上です。
515 :
渡海 難!ninja ◆Fe19/y1.mI :2012/07/03(火) 11:58:51.02 ID:ByDsRXtN
516 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/07/04(水) 12:44:41.12 ID:lLT/Q3tb
>>485 >他の誰でもなく、私はなぜ私なのか
これは、パスカルが出した命題ですか。僕にはデカルトのような感じがしないでもない。
いずれにしても、西洋哲学に発する命題のようです。
西洋哲学には、西洋哲学の発想法があります。僕は西洋哲学を学んだことがない。他人
が西洋哲学と東洋哲学の両方に跨って議論することに抵抗はありませんが、僕にはその資
格がありません。
>「草木国土悉皆成仏」との関わりについて分かり易く説明願います。
「草木国土悉皆成仏」の原典はどこですか。涅槃経は「一切衆生悉有仏性」という。原
典では、国土も衆生なのか。国土も衆生であるという認識を持っているのでしょうか?あ
るいは、非衆生にも仏性ありという主張なのか。理屈をこねればいくらでも説明だけはで
きそうですが、原典の真意を確認しないで議論するのは控えようと思います。
涅槃経は「一切衆生悉有仏性」といいます。ここについて、親鸞は非常に重要な議論を
している。この場合の衆生は、人々という意味です。草木、国土を議論の対象にしません。
「草木、国土が成仏するか。この場で答えよ」。もしそう言われれば、いまここでは「ナ
ンセンス。空!」と回答しておきます。
「人間以外の猫が仏になるか。犬が仏になるか」。そういう話なら、禅宗の坊さんと時
間のある限り話をしてくるといいでしょう。素晴らしい話が聞けるでしょう。帰りに猫の
死体を持たされるかも知れません。その時は断ればいいでしょう(笑)。僕は御免被りま
す。「猫に仏性があるか。犬に仏性があるか」。いまここで答えを出せと言われれば、僕
は、「まあ、どうぞ勝っ手にしなさいな」と回答しておきます。
「一切衆生悉有仏性」。それよりも次に、親鸞の主張を考えていきましょう。
地球は太陽の重力に作用して安定している。 太陽は銀河系の中心にあるブラックホールの重力に作用してそこにある。 しかし、銀河系の中心にあるブラックホールには何もない。 光もない、時間もない、自も他もない。あるのはあなたの頭の中にだけある。
518 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/07/06(金) 12:01:24.40 ID:xkjqIkCY
>>510 × 善因を実践して善果が得られたなら、それはそれでいい。
○ 善因を実践して善果が得られたなら、それは当たり前のことではなく、大変ありがたいことだ。
仏教で『ありがたい』という言葉は、こうした場合のために準備されている。
悪因を行って善果が得られたなら、それは有り難いということではない。これは恥ずかしい事だ。
善因によって悪果が生じたなら、これを空という。悪因によって悪果が生じたなら、これも有り難い
というべきだろう。
>>514 教行信証の中で無我という言葉が出てくる。
大王、今当に臣の所説を聴くに、実に殺害なかるべし、と。もし有我ならば実にまた害なし。もし
無我ならばまた害するところなけん。
この場合の無我とは空という意味だ。言葉の使い方、意味には揺れがあるようである。しかもこの
場合の空とは、善因悪果の空ではない。善因善果、悪因悪果が正しく理解されたなら、過ぎ去った悪
因悪果は空として処理するということだ。ここはもっと詳しく説明する必要があるが、今は省略する。
519 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/07/06(金) 12:04:51.52 ID:xkjqIkCY
>>517 地球は太陽の重力に作用して安定していても、地球の重力に作用して太陽が安定していても、安定
していなくても、そんなの、そんなのおれには全く関係ねぇ。
太陽は銀河系の中心にあるブラックホールの重力に作用してそこにあるっても、なくても、そんな
のそんなの、おれには全く関係ねぇ。
銀河系の中心にあるブラックホールには何もない。何があっても、そんなの、そんなのおれには全
く関係ねぇ。
光もない、時間もない、自も他もない。あってもなくても関係ねぇ。頭の中も頭の外もおれには全
く関係ねぇ。
「ああ、昨日、社長とケンカしちまった。今日はどの面下げて会社にいきゃいいんだろう。辞めち
まうか、謝るか?どうすりゃいいんだ。どうすりゃいいんだ。」
これが頭の中の問題だ。
親は寝たきりになった。公的介護も毎日ではない。自分はこれ以上会社を休めない。いっそ親を殺
して自分も死のうか。いやいや、自分まで死ぬ必要は無い。それでは親だけ殺すか。親を殺して生き
ていけるか。心臓に刃物を突き刺せば、血柱は天井まで届くだろう。体は動かなくても、全身は「生
きたい、生きたいと」願っている。
それでは、自分だけ死ぬか。いやいや、そうすれば、親は生きていけない。
こうした問題こそが、今の人類(私)の大問題である。ブラックホールも重力も全く関係ない。ブ
ラックホールも重力も全く関係ない人類の大問題の解決こそ、それが宗教の問題である。この問題に
宗教は答えを出せ。
泥臭く、みすぼらしく、他人から見れば実に他愛のない問題であっても、今の現実の問題、それこ
そが人類の大問題である。宗教は人類の大問題を解決せよ。それが解決できない宗教は、宗教ではな
い。
人が生きる上の道具として、使い勝手がいいか、わるいか、浄土真宗も、道具としての使い勝ってが、
篩の上で常に試されている。
520 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/01(水) 12:45:18.98 ID:zoBYy4y1
一切衆生悉有仏性は、信の巻がよくまとまっている。読んでみよう。 『涅槃経』、善男子、大慈大悲を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常 に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生畢に定んで当に大慈大悲を得べし。このゆえ に説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。 みなさん。大慈大悲というのがある。大慈大悲を仏性という。なぜなら、大慈大悲は、仏道を 修行する人にはいつも影のように付随しているからです。仏道を修行する人は、やがて必ず大慈 大悲を体得します。ですから、あらゆる人に悉く仏性があるというのです。 大慈大悲は体得する前と、体得した後という二つの時期があります。体得すれば顕在化します。 しかし、体得前は存在しないのではなく、潜在化していると、そのように評価すべきと考えます。 仏道の修行を続けていけば、それもいつかは必ず顕在化します。 大慈大悲は、顕在化して始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜在化しているのであり、 常に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かというのは、現象であって、本 質ではありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、大慈大悲はあらゆる人 に存在するといえます。つまり、仏性はあらゆる人に必然的可能性として潜在する。だから、一 切衆生悉有仏性というのです。 「仏性」は名づけて「如来」とす。大喜大捨を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに、菩 薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つること能わずは、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わ ず。もろもろの衆生畢に当に得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」 と言えるなり。
521 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/01(水) 12:46:40.63 ID:zoBYy4y1
みなさん。仏性とは何か。仏性こそ如来です。この仏性は、大喜大捨が支えています。仏道修 行者は、欲界・色界・無色界をなかなか捨てることができない。人々は、無明、つまり本質的原 因問題の解決を疎かにするため、再起・挫折・再起・挫折という生死・生死の連鎖が断ち切れな い。如来は、生死・生死の連鎖を断ち切ったところに存在します。本質的原因問題を克服したと ころに存在します。だからこそ、大喜大捨を名づけて「仏性」という。本質的原因問題を克服す ることは決して不可能ではない。仏道を修行していけばやがて、必ず克服できる。だからこそ、 あらゆる人々に仏性があるというのです。 大喜大捨はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「大信心」と名づく。 何をもってのゆえに、信心をもってのゆえに、菩薩摩訶薩はすなわちよく檀波羅蜜乃至般若波羅 蜜を具足せり、一切衆生は畢に定んで当に大信心を得べきをもってのゆえに。このゆえに説きて 「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。 みなさん。仏性とは何か。大喜大捨こそ仏性であり、その仏性が如来です。仏性は「大信心」 を本質とします。仏道を修行する人は、やがて必ず信心を得るようになる。信心を得るようにな れば、やがて、他の人々に、様々なもの、大事なものを与え、智慧も与えられるようになる。そ こからさらに多くの人々が目覚め出す。まだ仏道を修行していない人も、こうした現実によって 仏道と出会う。話を先回りして、潜在的にはあらゆる人々に仏性があるという。究極的にはあら ゆる人々が仏性を顕在化できる可能性を秘めている。だからこそ、一切衆生悉有仏性という。 大信心はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり。仏性は「一子地」と名づく。 何をもってのゆえに、一子地の因縁をもってのゆえに菩薩はすなわち一切衆生において平等心を 得たり。一切衆生は畢に定んで当に一子地を得べきがゆえに、このゆえに説きて、「一切衆生悉 有仏性」と言えるなり。一子地はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ如来なり、と。
522 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/01(水) 12:47:58.51 ID:zoBYy4y1
仏道を修行する者は、やがて信心を得る。信心は他の人々に影響を与えていく。多くの人に影 響を与えていく大信心、その本質は仏性にある。仏性こそ如来の本質です。仏性は、他人に対 し、あたかも大事な自分の一人っ子に接するかのように優しく接する。だからこそ、そこから平 等心というのが発動する。仏道修行する人は、やがてそのような一人っ子に接するかのように優 しく接する心を持つ。だからこそ、あらゆる人々に仏性があるというのです。 一切衆生悉有仏性とは、難しい議論ではなく、以上をもって話はほとんど尽きているように思うが、 これでは分からんという人もいると思うので、蛇足になっても、もう少し説明しよう。
523 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/08(水) 11:16:03.97 ID:s1U95hg7
世の中には素晴らしい人がたくさんいます。彼等は、しばしば哲人、賢人と言われ、大家と言われ、 ある人々は縁の下の力持ちとも言われます。彼等には共通の思いがあります。人々の苦しみを和らげ よう、できるかぎり喜んで貰おう、そういう思いがあり、そのための実践があります。そうした思い を、ここでは例えば哲人の心と総称してみます。哲人の心が、様々な人々の心に宿ると、現れる人の 人格に応じ、哲人・賢人・大家・縁の下の力持ちなどと様々に言われます。 哲人の心は、あらゆる努力家達にはいつも影のように付随しています。努力家達は、やがて必ず哲 人の心を体得します。ですから、あらゆる人に哲人の心はことごとく存在すると言うのです。 哲人の心は、得られる前と得られた後という二つの時期があります。得られれば顕在化します。し かし、得られる前は哲人の心が存在しないのではありません。努力を重ねている努力家達には、潜在 化していると、そのように評価すべきでしょう。一つのことに向かって努力を重ねていけば、努力家 達はいつか必ずその心が顕在化します。 哲人の心は、顕在化して始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜在化しているのであり、常 に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かというのは、現象であって、本質では ありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、哲人の心はあらゆる人に存在する といえます。つまり、哲人の心は努力するあらゆる人に必然的可能性として潜在する。だから、仏教 では一切衆生悉有仏性というのです。 哲人の心は、哲人そのものです。哲人の本質です。真の哲人は、自分を捨ててでも他人のこと、他 人の心を大事にします。他人に対する誠意、優しさを大事にします。それを哲人の心といいます。哲 人を目指し、あるいは賢人を目指して努力を重ねている段階では、まだまだ自分を捨て切れていない ことがたくさんあります。克服できていない思いがあります。しかし、努力を重ねていけば、やがて そこにも世界が開けてきます。将来は必ず開けてきます。だからこそ、努力する者にはかならず哲人 の心が存在する。そのように言います。
524 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/08(水) 11:17:10.25 ID:s1U95hg7
哲人の心こそ、哲人の本質です。この哲人の心は、他人のこと、他人の心を大事にするために、と きには自分を犠牲にします。努力家達はまだそれが不完全です。自分が可愛い。現実と乖離した自分 の主義主張が離れない。自分の主義主張が現実と乖離しているとなると、自暴自棄になる。人々は、 自分の本質的な問題の解決を疎かにするため、再起挫折再起挫折という負の連鎖が続いていく。真の 哲人は、そうした負の連鎖を断ち切ったところに存在します。そこに哲人の心が存在します。本質的 な問題を克服することは決して不可能ではない。一つのことに向かって努力を重ねていけば、必ず克 服できます。どんな人でも努力を重ねていけば必ず克服できるからこそ、哲人の心はあらゆる努力家 達に存在するというのです。 哲人の心とは何か。自分を捨ててでも他人のこと、他人の心を大事にする心であり、その哲人の心 こそ、哲人の本質です。哲人の心は、共感的であり、感動的であり、肯定的であり、先見的であり、 明瞭であり、自信があり、確信があります。努力する者は、やがて必ずそのような思いを得るように なる。共感的・感動的・肯定的・先見的・明瞭な自信・確信が得られるようになれば、やがて、他の 人々に、様々なもの、大事なものを与え、智慧も与えられるようになる。哲人と出会えた人は、その 出会いをきっかけに自らも努力に目覚め出す。 努力を知らない人も、哲人と出会えば努力に目覚める。出会いはどこにでもあり、努力を知らない 人も、出会えば努力に目覚める。だからこそ、話を先回りして、努力を知らない人も潜在的には哲人 の心があるという。出会いはどこにでもあり、どこでも可能だからこそ、話を先回りし、究極的には あらゆる人々が仏性を顕在化できる可能性を秘めているという。だからこそ、あらゆる人々に哲人の 心があるという。仏性はあらゆる人々に開かれている。存在する。 一切衆生悉有仏性とは、難しい議論ではないと思うが、これでは分からんという人もいると思うので、蛇 足になっても、もう少し説明しよう。 (続く)
525 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/22(水) 17:02:56.14 ID:dtZ6rMJI
かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、 一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。(信の巻) 一念をひがごととおもうまじき事。多念をひがごととおもうまじき事。(一念多念文意) 一念念仏と多念念仏とをしっかり練習してみなさい。やがて奢摩他・毘婆舎那ができるように なる。奢摩他・毘婆舎那ができるようになれば、一念念仏と多念念仏を通じて奢摩他・毘婆舎那 を他人にも指導できるようになる。 講道館に来て、立ち技、寝技、指導力が体得できれば、その後は、柔道を学びたいと思ってい る人々の中に飛び込んでいき、世界中の人々に武道を教えられるようになる。立ち技だけできれ ばいい。寝技はいらない。このように思ってはいけない。寝技だけできればいい。立ち技はいら ない。このように思ってもいけない。立ち技も寝技も両方とも大事である。 嘉納冶五郎先生は多くの柔道家を育成しました。多くの哲人、賢人がその周囲から育っていき ました。 哲人の心は、柔道の努力家達にはいつも影のように付随しています。柔道の努力家達は、やが て必ず指導的な哲人の心を体得します。ですから、柔道のあらゆる努力家には哲人の心がことご とく存在すると言うのです。 哲人の心は、柔道が上達して顕在化し、そこで始めて発生するものではなく、顕在化前は、潜 在化しているのであり、常に必然的可能性として存在しているのです。潜在的か顕在的かという のは、現象であって、本質ではありません。顕在・潜在の違いがあるとしても、本質を考えれば、 哲人の心はあらゆる人に存在するといえます。つまり、哲人の心は努力するあらゆる人に必然的 可能性として潜在する。だからこそ嘉納冶五郎先生はあらゆる人々に柔道を学んで欲しいと思っ ていました。
526 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/22(水) 17:03:45.30 ID:dtZ6rMJI
念仏道場に来て、多念念仏と一念念仏とを等しく練習し、奢摩他・毘婆舎那ができるようにな れば、その後は、奢摩他・毘婆舎那ができるようになりたいと思っている人々の中に飛び込んで いき、世界中の人々に奢摩他・毘婆舎那を教えられるようになる。親鸞聖人の思想の立地点は法 華経です。『法華経』の普門示現の類(証の巻)つまり、このようにすれば、世界中に観音菩薩 が涌出してくることでしょう(法華経従地涌出品)。 親鸞聖人は多くの念仏者を育成しました。その中から、多くの哲人、賢人が育っていきました。 哲人の心は、念仏の努力家達にいつも影のように付随しています。念仏の努力家達は、やがて 必ず指導的な哲人の心を体得します。ですから、念仏のあらゆる努力家に、哲人の心がことごと く存在すると言うのです。 一切衆生悉有仏性とはそう言う意味です。 続く
一切衆生悉有仏性についての議論は、以上をもって終わりとし、 これ以上の議論はしないことします。
河野洋平を称賛すれば称賛するほど、日本の外交力は強くなる。 日韓基本条約を骨抜きにしようとしている韓国の動きを鮮明にすれば鮮 明にするほど、日本の立場は強くなる。 河野談話は、韓国が日韓基本条約の原則を守って貰うための政治的文書 であり、政治的に一定の役割があった。 河野談話は、歴史的使命を終えた。このように言えば、世界は納得するだろう。
529 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 ◆Fe19/y1.mI :2012/08/29(水) 20:23:24.61 ID:YUPngzc9
530 :
神も仏も名無しさん :2012/09/03(月) 20:39:22.92 ID:pahsyxoK
高森氏監修の「なぜ生きる」を読んで、親鸞聖人や浄土真宗への理解が深まりました。 しかし、高森氏は仏教界では異端児のようですね。この方はそんなにヤバイのですか? 我が家は浄土真宗本願寺派なので、親鸞会に入ることはありません。もうこの方の著作は読まないほうがいいですか?
531 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/09/05(水) 11:04:28.16 ID:Aw6RUK4i
>>530 >高森氏は仏教界では異端児のようですね。この方はそんなにヤバイのですか?
異端児ならヤバイですか?。まあ、少なくとも、僕は推奨しません。異端児でヤバイからという意
味ではありません。自分の人生は自分で大事にしましょうと、貴方に呼びかける意味で、推奨はしま
せんという意味です。
>浄土真宗本願寺派なので、親鸞会に入ることはありません。
そうですか。まあ、僕に言わせれば、浄土真宗本願寺派も親鸞会に負けず劣らず十分過ぎるほどに
ヤバイ宗教だと思っています。「浄土真宗本願寺派なんか、一日も早く捨てちゃいなさいよ」。僕なんか
いつもこの言葉が喉まで出かかることが多いんですよ。
>この方の著作は読まないほうがいいですか?
まあ、少なくとも、僕の推奨本の中には絶対に入っておりません。
渡海難が主張する「読んではいけない著作の筆頭」は歎異抄である。そういう事も言っておきたい
と思います。歎異抄に影響され、歎異抄を前提にかかれた公開的思想書、論文、評論も読んではいけ
ない。当然のことでしょう。
〜善も要にあらず、〜悪をもおそるべからず(歎異抄1章)
〜悪人、もっとも往生の正因なり〜(歎異抄3章)
善は必要ない。悪も怖がってはいけない。悪人こそ、極楽往生の正しい根本である。
歎異先師口伝之真信
歎異抄は、異を悲しみ、先師が、公開を予定しないで秘密の信心である。
532 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/09/05(水) 11:05:23.44 ID:Aw6RUK4i
無宿善機、無左右不可許之者也(歎異抄後書き 蓮如) 歎異抄は、念仏を誘っても念仏を称えることがないような人に、無闇に見せてはいけない。 極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、元僻(ひ)ごうだる心も、思い直してこそあるべき に、その徴(しるし)もなからん人々に、悪苦(くる)しからずと言うこと、あるべからず候。(親 鸞消息集) 極楽を願うこともなく、念仏を称えることもなく、歪んでいたこれまでの心を反省する思いもなく、 徴候すらないような凡夫達に悪人正機の教えなど存在するわけがないのです。
533 :
神も仏も名無しさん :2012/09/05(水) 16:38:21.43 ID:7dd1yZhZ
歎異抄もダメですか・・・・・・ ほとんどの宗教書に当てはまるとは思いますが、読み手の解釈・心がまえ によって、「聖なる書物」は、毒にも薬にもなるのだと思います。 キリスト教徒がほとんどなのに、なんであんなに犯罪が多いのだ? という 国や、仏教国なのに、姦淫に満ちている国がありますよね。 すべて、教えを受け取る側の問題だと思います。
534 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/09/07(金) 15:47:16.72 ID:IUY8U20D
>>533 >歎異抄もダメですか・・・・・・
ロリコン少年少女ヌード写真もだめですか
>ほとんどの宗教書に当てはまるとは思いますが、読み手の解釈・心がまえによって、「聖なる書物」
は、毒にも薬にもなるのだと思います。
ほとんどの写真に当てはまると思いますが、観察者の解釈・心がまえによって、「美しい写真」は、
毒にも薬にもなるのだと思います。
>すべて、教えを受け取る側の問題だと思います。
全て、ヌード写真を受け取る側の問題だと思います。
533さん。貴方は歎異抄から、どのような有り難い教えを受け取りましたか?。自分が言っている
ことはおかしいと思いませんか?。
倒錯した倫理観、空中分解している支離滅裂な教学論、浄土真宗の諸悪の根源は、僕は歎異抄だろう
と思います
535 :
神も仏も名無しさん :2012/09/09(日) 06:41:07.32 ID:0Ox39lkw
>>534 ということは、貴方は浄土真宗における親鸞を全否定されているのですよね?
では何か浄土真宗に関して一冊読むとすれば何がオススメですか?ぜひお答えください。
536 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/09/10(月) 22:46:57.64 ID:1kWi+zNu
>>535 >ということは、貴方は浄土真宗における親鸞を全否定されているのですよね?
ということは、貴方(
>>535 )は歎異抄以外の浄土真宗を全否定されているの
ですよね。?
謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相
なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。(教行信証)
教行信証の骨格は教・行・信・証
歎異抄の骨格は教・信・行・証
往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつ
生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるる
本願を信じ、念仏をもうさば仏になる
歎異抄と教行信証とは思想の骨格が違うんですよ。分かりますか?
歎異抄を否定しても、僕の浄土真宗はびくともしませんが、貴方の浄土真宗は
すべて否定されるんですよね。
>何がオススメですか?ぜひお答えください。
あいにくあなたにオススメの書物など、僕には一冊も準備がありません。それよりも、
歎異抄で教わったインチキ浄土真宗を全て頭の中からデリートし、豆腐の角に頭ぶつ
けて数年頭を冷やすといいでしょう。そうすれば、自分には浄土真宗など全く必要が無
かったということに気付くでしょう。
貴方に浄土真宗など必要がありません。
537 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 04:52:12.06 ID:f0fDfSu2
親鸞会に行って、浄土真宗の教えを学びたいです
538 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 09:37:45.59 ID:0xxMxxO+
狂信者にありがちな「俺様だけがいつも正しい」教の人がひとりいますねwwwwww
539 :
渡海 難!ninja ◆Fe19/y1.mI :2012/09/11(火) 12:33:09.66 ID:hLbjvCbg
>>537 >親鸞会に行って、浄土真宗の教えを学びたいです
親鸞会に行くのに、渡海難の了解、了承などは必要ですよね。
貴方には、親鸞会に行って、浄土真宗の教えが学べない事情がおありなんでしょうか?それ
は何なんですか?
>>538 >狂信者にありがちな「俺様だけがいつも正しい」教の人がひとりいますねwwwwww
源空・親鸞出世し給わずは、我らいかでか浄土を願わん。
「親鸞様だけがいつも正しい」教のひとりです。
たといまた源空・親鸞世にいで給うとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心を
伝え難し。
仮に、法然・親鸞聖人が世にでても、その教えを正しく継承する善知識がいなければ、真
実の信心は得られませんね。
右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。釈蓮如
蓮如上人こそ、歎異抄の正しい理解者だと信じています。
本願寺教とは水と油の関係です。
540 :
渡海 難!ninja ◆Fe19/y1.mI :2012/09/11(火) 12:35:24.18 ID:hLbjvCbg
>>539 誤記
× 了承などは必要ですよね。
○ 了承などは必要ないですよね。
541 :
渡海 難!ninja ◆Fe19/y1.mI :2012/09/11(火) 17:04:37.44 ID:hLbjvCbg
>>538 生徒手帳
中間試験、期末試験は厳正、公平に行います。
カンニングは決して認めません。カンニングした者は退学処分とします。
教師用の手帳
学校は、カンニングした者も退学にはしない。
なぜなら、善悪も分からずにカンニングしてしまうような生徒こそ、正しく導くことが本学の
使命である(悪人正機)。
学校の方針
教師用の手帳は、妄りに公開してはいけない(蓮如上人奥書)。
本願寺の教え
教師用の手帳こそ、全ての者に読み聞かせ、学習させるべきである(清沢満之の教)。
「教師用の手帳は、妄りに公開してはいけない」などという主張は、狂信者にありがちな
「俺様だけがいつも正しい」教である。
(ノータリン
>>538 よ。お前は馬鹿だ。目をさませ)
542 :
神も仏も名無しさん :2012/09/11(火) 20:05:53.09 ID:0xxMxxO+
↑もうこの人は取り返しのつかない状態のようですね。 だめだ、こりゃwwwwwwwww
543 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/09/13(木) 12:14:29.59 ID:7GBRVjFw
本願寺の教えの本質を見極めよう。 本願寺の教え 続き 教師用の手帳こそ、教えの中核である。 全ての者に読み聞かせ、学習させよう。 仏法は聴聞に極まる。聞法会を活発化しよう 教師用の手帳の話をしっかり聴聞し、頷けば教師と同じ心を得ることができる。 ああ、自分はカンニングをしてしまうような悪人じゃったと思うと、信心決定する。 あ〜ら不思議不思議。阿弥陀様が救ってくださる。 本願寺浄土真宗は無茶苦茶だ。
544 :
神も仏も名無しさん :2012/09/15(土) 04:51:00.20 ID:IrUrpFfK
呆れられているのに↑は何をしたいのだろう・・・ おまえなんか誰も相手にしていないwwwww
創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね 創価タヒね
546 :
◆K3PkkhVAkA :2012/10/29(月) 21:56:20.68 ID:LCOLRk5b
(^-^) 渡海難さんはお元気ですか?
547 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) 【Doffmatrix1320583094578211】 ◆Fe19/y1.mI :2012/10/31(水) 13:25:43.34 ID:8nSX/Cni
>>546 ◆K3PkkhVAkAさん、おひさ〜♪。
古典と言われる中で、誤解を受けている書はおそらくたくさんあると
思うけど、歎異抄はその最右翼に近いだろうと思う。
歎異抄が批判の矛先が向かっている先こそ、実は親鸞聖人の
教えの一般原則なんだ。
親鸞聖人の教えの一般原則とその領域について、これから少しずつ
説明してみよう。
最近は非常に時間がない。年齢は気にしたくないんだが、生業のスピ
ードが落ちてきたのは否定できない。そのため、時間に余裕が無くなって
きた。可能な範囲内で宗教と関わっていきたいと思う。
548 :
◆K3PkkhVAkA :2012/10/31(水) 23:29:10.63 ID:nBGGKl37
(^-^) なるほど。さすが、深いですね!
549 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/01(木) 15:32:14.57 ID:ZnegXWRF
もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわ ち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修せずば、すなわち解脱なし。 もし善を実践しなければ、いつか不幸が起きるだろう。しかし、善を行ったならば必ずいいこと がある。必ず良い結果が起きるだろうなどと、そのような期待を持つなら、聖道門の修行などやめ てしまえ。しかし、止めて善業から遠ざかれば、悪果を生むだろう。結果を期待することなく、聖 道門を求めよ。苦労して仏道を修行しなければ、解脱を得ることは決してない。苦労してでも聖道 の修行を積み、解脱を求めよ。 一切の聖人が道を修するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。 善因善果、悪因悪果というが、仏道の世界で多くの聖人達が、苦労してでも仏道を修行しようと するのは何故か。善因善果を生むからか?。そうではない。悪因がそれ相応の悪果を生むことなく、 過去に重大な悪因を犯していても、仏道を修行すれば、重大な悪果ではなく、軽い悪果で済むこと があるからである。 不定の業は果報が無きゆえなり。 善因は必ずしも善果とはならず、悪因は必ずしも悪果にはならない。善因は善果を生むこともあ れば、悪果になることもある。悪因は悪果を生むこともあれば、善果を生むこともある。 もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。修道し解脱す る涅槃の人はなからん。 自分は聖道門の道を正しく歩んでいるのであるから、必ずそれ相応の悟りを得られるだろう。そ のような期待があるなら、聖道門を求める資格はない。聖道門を歩むのを止めてしまえ。しかし、 みんなが聖道門を歩むのを止めてしまえば、修行を積んで解脱を得、涅槃にいたる人はいなくなっ てしまうだろう。どうか、結果を考えず、ひたすら聖道門を歩んで欲しい。 (大般涅槃經要文 伊勢専修寺蔵宗祖真蹟本 高田学報所載)
550 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/01(木) 15:33:58.90 ID:ZnegXWRF
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛な り。 教行信証 後序 慈悲に聖道・浄土の変わり目あり。聖道の慈悲というは、ものを哀れみ、悲しみ、育むなり。し かれども、思うが如く助け遂ぐること、極めて有り難し。浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏 になりて、大慈大悲心を以て、思うがごとく衆生を利益するを言うべきなり。今生に、いかに、い とおし不便と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、 末通りたる大慈悲心にて候べきと云々 親鸞は、何か矛盾したことを言っているのだろうか。ごくごく当然の、当たり前のことを言って いるに過ぎない。言動に矛盾があると思うのは、思う人の方がおかしいのである。
551 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/10(土) 14:52:48.60 ID:0LIOYw7E
『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就する ことを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。(証 の巻) 浄土真宗というのは一生の間、死ぬまで学び続けていくというそういう対象ではない。無論、 一生の間学び続けていきたいというなら、それはそれでいいことだ。プロとして一生学んでいけ ば、尽きることのない深さがある。しかし、そんなことを誰にも彼にも勧めるものではない。要 するに、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、方便力が成就すればよい。極端を言えば、奢摩 他・毘婆舎那が身につけば、身についたものが奢摩他・毘婆舎那と呼称されているものであるか どうか、わからなくてもいい。ただ、奢摩他・毘婆舎那が身につけばそれなりの自覚が涌いてく るから、それが奢摩他・毘婆舎那と呼ぶものであるということは分かってくるだろう。 奢摩他は止、毘婆舎那は観と呼ばれる。止は多念念仏で得られる。観は一念念仏で得られる。 従って、多念念仏と一念念仏とをひがごとと思わないで、つまり粗末にしないで修行していけば、 やがて奢摩他・毘婆舎那に気づいてくる。柔道で寝技と立ち技の練習をしていけばその勘所分か ってきて、やがて他人にもそれが教えられるようになるだろう。奢摩他・毘婆舎那も勘所が分か ってくれば、方便力つまり他人を教える指導力まで身についてくる。そうすれば、ここで浄土真 宗は卒業である。親鸞はこれを出第五門という。
552 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/10(土) 14:53:38.41 ID:0LIOYw7E
他人に基本的なところが教えられるように寝技と立ち技ができるようになれば、柔道の専門家 を目指す者以外は、柔道は卒業していいだろう。柔道で学んできたものは、人生の様々なところ で役に立つだろう。浄土真宗を卒業し、出第五門を達成した者は何をするのか。奢摩他・毘婆舎 那の勘所が分かって他人を教える指導力まで身につくようになれば、仏教の専門家を目指す者以 外、仏教も卒業である。自分は柔道の専門家になろう。そう思うなら、ここからが本当の柔道の 道である。自分は仏教の専門家になろうと思うなら、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、方 便力が成就したここから本当の仏教が始まる。これまでは、仏教の予行演習である。親鸞はここ から、聖道門という本格的な仏教を実践せよと主張する。 プロではなく、アマチュアの道を求める者には、親鸞は、聖道門を実践せよとは言わない。し かし、普門示現の類となれ。普門示現とは、法華経の観世音菩薩普門品を意味する。そこでは観 音菩薩の行が示されてある。つまり、観音菩薩の行を実践せよというのだ。浄土真宗にとって、 観音菩薩は礼拝の対象ではなく、卒業生が、自ら能動的、主体的に実践する実践の中身なのであ る。親鸞は日本天台の教えの中心に立つ。 観音菩薩の行を実践すると言うのは、プロもアマチュアも共通である。しかし、その密度、程 度、厳密性はさまざまである。観音菩薩の行と言ってもプロとアマチュアでは差があってよい。 しかし、理念は共通する。パン屋さんには、パン屋さんの身の丈にあった手頃な観音菩薩でよい はずだ。ラーメン屋さんには、ラーメン屋さんの身の丈にあった観音菩薩であってよいだろう。 しかし、僧服をまとい、僧として仏道を実践する観音菩薩は、パン屋さんの身の丈ではなく、ラ ーメン屋さんの身の丈でもない。親鸞聖人は、僧として観音菩薩の行を実践する上で、聖道門を 求めよと教えている。 奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、方便力が成就して出第五門を果たした観音菩薩は、ど のような聖道門を歩むのか。それを考えてみよう。
553 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2012/11/26(月) 12:02:32.26 ID:ID+UjC7s
かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得(証の巻)。人は、意思と 行動が変わると人格が変わる。人格が変わると世界観が変わる。別の世界で新たな歩みが始まる。 一念念仏・多念念仏を練習していくとやがて奢摩他・毘婆舎那ができるようになる。奢摩他・毘 婆舎那ができるようになると、自ずから奢摩他・毘婆舎那の指導力ができるとともに世界が変わ る。新たな世界が開かれてくる。 出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩 の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出 第五門と名づく」(論)とのたまえり。示応化身とは、『法華経』の普門示現の類の如きなり(証 の巻)。 多くの人々が、詐欺・錯誤・誘導・不可抗力・正当防衛・過剰防衛などの煩い、悩ましさ(煩 悩)の束縛下、心ならずも自らの本当の意思あるいは願いに反する行為をすることが避けられな いでいる。人々は、根本原因(無明)の解決がないまま、再起・挫折・再起・挫折を繰り返して いる。菩薩は、極楽浄土の第五門を出、現実社会に戻っていく。極楽浄土から戻ってきた菩薩は、 阿弥陀仏を具現する応化身を発揮し、情熱と使命感をもって人々に奢摩他・毘婆舎那を教化する。 『法華経』の普門を示現する。観音経を実現する。 内に信心を蓄はへて心を淨土の如來に掛くと言ふとも、道場を構へて功を安置の本尊に積むべ し。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 穢土をもて淨土に准じ、私宅を以て道場に擬し て、本尊を安ずる淨場とし、念佛を勤むる會座とするなり(至道抄)。 一念念仏・多念念仏をもって奢摩他・毘婆舎那ができるようになれば、信心が具わり、心の思 いはいつも極楽浄土に向けていると言うだけでなく、それを行動に移せ。本尊を安置して念仏道 場を開け。熱い心、真剣な思いをその本尊に蓄積せよ。具体的にはその本尊を旗印にして念仏の 会座を開け。念仏会を開け。自らが念仏を実践し、その実践を通じて人々に幸せを振り分けてい くその具体的な行動を起こせ。理想には程遠くても、極楽浄土の道場をモデルとし、可能な範囲 で自分の家を念仏道場とせよ。本尊を安置し、そこで念仏を実践する会合を開け。
554 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/26(月) 12:03:59.28 ID:ID+UjC7s
長時の持佛堂、或は一時の會座佛法を勤行するところ、みな道場なり。この道理によるがゆへ に、道場を構へて本尊を安置し、同行を會合して念佛を勤行すべきなり(至道抄) 本尊を置いたからと言って、最初から何もかもうまくいくとは限らない。長期間、本尊を置い てあるだけという結果になることもある。非常に短い間だけ念仏の会座が開けたということもあ る。しかし、それでもそれだけで貴重なことであり、これも全て念仏道場である。道場を開き、 本尊を安置し、人々を集め、そこで一念念仏・多念念仏を合同で実践せよ。 その構へを言ふに、佛閣にあらずと言へどもこの所に於ひて佛像を安じ、その體を言ふに、人 屋たりといへどもこの所に於ひて念佛を勤行す。念佛の中には衆悪を遠離して衆善に親近し、世 間舎を出でて出世間舎に住する功力を備へたり。かるがゆへに念佛を行ずる所は道場なり、(至 道抄) 建物の形は寺ではないが、そこに仏像を安置してあれば、実体は普通の民家であっても、人々 が集まって念仏を称えれば、そこは道場である。念仏道場と言えば、様々な人が集まってくる。 新たな人間関係が生まれ、衝突も起きるかも知れない。しかしそのなかで念仏があれば、やがて 様々な悪・不幸が自ずから遠ざかり、様々な善に恵まれるてくる。煩いと悩みの世界を一歩脱し た世界の働きが具わるだろう。だからこそ、念仏を行ずる所は真の道場になる(至道抄)。 一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。名付 けて『歎異抄』と言ふべし。外見あるべからず。(歎異抄)。 一つの念仏道場に折角集合した人々が、心を一つにすることができなくなるということが無い ように、涙を振り絞りながら、真剣な思いでこの書を書きました。歎異抄と名付けます。学校の 教師用の手引きは無闇に生徒に見せるものではありません。生徒に講義するための教科書ではあ りません。歎異抄は、普通の人には無闇に見せることなく、奢摩他・毘婆舎那ができるようにな る、指導力が身について念仏道場を開こうと思う人に読んで貰いたい。そのように思います。
555 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/11/26(月) 12:07:23.34 ID:ID+UjC7s
奢摩他・毘婆舎那ができない人。方便力が成就していない人。教師になれない人。そんな人は 念仏道場を開く資格がない。歎異抄は、念仏道場を開く資格の無い人が、無闇に読む書ではない。 教師用の手帳は学生に見せてはいけない。ベテラン教師が、新米教師に、口伝するものである。 無宿善の機には、左右なく、つまり無闇に許すべからざるものなり。蓮如上人も、教師用の手帳の閲 覧を禁止し、そのように念を押している。
556 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/12/22(土) 13:38:45.95 ID:GeH2yFzI
浄土真宗における最も悪い教えは何か。浄土真宗の教義における害毒の根源は何か。それは歎異 抄だろうと確信している。歎異抄ほど悪い書物は世の中にない。あの本がまさに最低の最悪の書で ある。歎異抄の著者が言おうとしている主張にはいささかも間違いがない。最大の問題は、それを 本願寺が公開してしまったことだ。全ての人に公開してしまったということ、これが浄土真宗の唯 一最大の命取りである。反社会的行為である。清沢満之の万死に値する歴史的失態、親鸞に顔向け できない取り返しのつかない失態である。この失態の挽回は容易なことではない。親鸞も唯円も蓮 如も全く予想していなかった事態である。 人は、大きく二種類に分かれる。善いことを実践しようと思う人(A)と、悪いことを実践しよ うと思う人(B)である。浄土真宗というのは、悪いことを実践しようと思っている人(B)に何 かを語りかけている教えではない。しかし、善いことを実践しようと思う人(A)の全てに何かを 語りかけている教えでもない。 善いことを実践しようと思う人は、二種類に分かれる。何が善で何が悪かを知っている人(Aa) と、それがわからない人(Ab)である。何が善で何が悪を知っている人(Aa)つまり、自分は 何をすべきかを知っている人、そう言う人に何かを語りかけるという教えではない。なぜなら、釈 迦に説法は大きなお世話であり、意味のないことだからである。 何が善で何が悪かわからない人(Ab)、自分は何をしたらいいのかわからないという人、この 人たちの全てに向かって語りかけているのだろうか。そういうことでもない。何が善で何が悪かわ からない人(Ab)の全てに語りかけているというそんな宗教ではない。 何が善で何が悪かわからない人は二つに分かれる。自分は何が善で何が悪かわかってない人間な んだと思っている人(AbT)、自分は何が善で何が悪か分かっていると信じている人(AbU)、 この二つに分かれる。
557 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/12/22(土) 13:40:04.85 ID:GeH2yFzI
良いことをしたい。悪いことはしたくない。だけど、何が善で何が悪か分からない。そう思って いる人(AbT)、この人々に浄土真宗はアプローチする。それでは、その全ての人に語りかける のか。そうではない。念仏を練習すれば、奢摩他・毘婆舎那ができるようになるだろう、そう思え る人だけに語りかけているのだ。なんと言っているのか。念仏を練習してみないか、と言っている のだ。 自分は何が善で何が悪か分かっていると信じている人(AbU)、この人々にはどうするのか。 この人々は二つに分かれる。聞く耳のある人(AbU@)と、聞く耳の無い人(AbUA)である。 膝を交えて、ゆっくり話をすれば、聞く耳のある人(AbU@)、この人々には語りかける言葉が ある。しかし、聞く耳のない人(AbUA)には語りかける言葉など、浄土真宗には存在しない。 聞く耳のある人(AbU@)の全てに語りかけるのか。そうではない。念仏を練習すれば、奢摩 他・毘婆舎那ができるようになるだろう、そう思える人だけに語りかけているのだ。念仏を練習し てみないか、と。 浄土真宗は、善をしよう、悪はやめようと思いつつ、何が善であるか、何が悪であるか分からな い人、そして、自分は何が善であるか、何が悪であるか分からないという人(AbT)、この人々 (AbT)に向かって語りかける言葉がある。奢摩他・毘婆舎那ができないなら、奢摩他・毘婆舎 那の練習をしてみませんかと。 浄土真宗は、善をしよう、悪はやめようと思いつつ、何が善であるか、何が悪であるか分からな い人、そして、自分は何が善であるか、何が悪であるか分かっていると思い込み、それでも他人の 話を聞く耳のある人(AbU@)、この人々(AbU@)に向かって語りかける言葉がある。奢摩 他・毘婆舎那ができないなら、奢摩他・毘婆舎那の練習をしてみませんかと。 それ以外の人、自分は良いことはしたくない。悪いことをしたい。良いことをする人は偽善者だ。 エリートだ。自分たちは悪人です。凡夫です。念仏を称えられるエリートではありません。阿弥陀 様に救われます。こんな馬鹿を言っているノータリンに語りかける言葉など、浄土真宗には全く用 意がないのである。
558 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2012/12/22(土) 13:40:59.05 ID:GeH2yFzI
音楽は万人に愛される。ベートーベンは万人に喜んで貰おうと多くの交響曲を作った。自分はベ ートーベンも好き、義太夫も好きと言う人もいるだろう。だからといって、「わしゃ、義太夫が好 きなんじゃ。洋楽は嫌いじゃ。あんなのを聞くと吐き気がする。背筋に毛虫が走る」と、世の中は 広いから、仮にそういう人がいてもおかしくない。そんな人には嫌われても、ベートーベンの音楽 は揺らがない。太陽は万人に光を当てるとしても、阿弥陀様は万人を救おうとしているとしても、 親鸞仏教がノータリンの阿呆を相手にしないからと言って、そのすばらしさは微動もしない。 奢摩他・毘婆舎那の練習をしてみないか。これは、さまざまな言い方で提示している。仏教は対 機説法であり、(AbT)と(AbU@)の人だけを相手にして言っているのだが、(AbT)と (AbU@)以外の人に聞かれても、毒にはならない話はたくさんある。 しかし、仏教は、対機説法を原則とするから、相手の器量が違えば話す内容も異なる。特定の器 量の人にだけ言っている内容は、他の器量の人には聞かせてはならない内容もある。相手構わず公 表すればいいという問題ではない。歎異抄は、その典型であり、特定の器量の人にだけ聞かせる話 である。これについて対機説法という観点から説明しよう。教行信証に詳細に説明されている。
559 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/16(水) 17:22:24.33 ID:ye4f6Vkf
世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。 かくのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあ らず。 〜 この人必ず死せんこと疑わずと。 〜 それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せし むることあたわず、と。(信の巻) 世の中に、救いがたい人が三種類ある。大乗仏教を謗る人。五逆罪を冒す人。それと、一闡提 である。これらは、声聞・縁覚・菩薩であっても手に負えない。こういう人は、いつか必ず死ぬ。 死とは、肉体の死を意味するものではない。意思が挫折し、行動が挫折し、人格が破綻するとき がいつか来ることは疑いない。そう言っている。彼等には、真理を真剣に求める菩提心が起きる ときがない。 〜 王舎大城に阿闍世王あり。その性弊悪にしてよく殺戮を行ず。 〜 父の王辜なきに横に 逆害を加す。父を害するに因って、己が心に悔熱を生ず。 〜 かつて王舎大城に阿闍世王という者がいた。大変な悪人で、しばしば人を殺した。父親であっ た国王を、非道にも理由なく殺してその王位を奪った。父を殺した後、そのことを悔い、熱病に 罹った。 その時に大医、名づけて「耆婆」と曰う。王の所に往至して、白して言さく、「大王、安くん ぞ眠ることを得んや、不や」と。 〜 王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐け り。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには 慙、二つには愧なり。 王舎大城に耆婆という名医がいた。阿闍世王のところに来て言う。大王よ、どうして貴方に安 らかな眠りがあるでしょうか。そのようなものがある訳はないのです。大王、貴方は、父を殺す という大変な罪を犯した。しかし、心に大変な悔いを抱き、慙愧の心を持っている。大王よ、社 会の優れた指導者達は言います。世の中に清らかな大事な教えが二つある。これこそが人々を救 う。それは慙と愧である。
560 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/16(水) 17:25:37.75 ID:ye4f6Vkf
「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は 発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」 は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長 を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、 と。 〜 慙と愧とは何か。 @ 慙は、自分から悪いことをしない。愧は、他人の悪いことを阻止する。 A 慙は、自分の悪いことを反省する。愧は、自分の悪いことを隠さない。 B 慙は、人(約束)の道理に照らして身を正し、愧は天(自然)の道理に照らして身を正す。 慙愧の無い者を獣(けだもの)という。人とは慙愧のある者を言う。人が、父母・指導者を尊 敬する。それは慙愧があるからである。 阿弥陀仏は全ての人を救う。しかし、人を救うのであって、阿弥陀仏にも獣(けだもの)を救 う教えはない。人間にも獣にも、相手構わず開陳していいというそんな教えは、阿弥陀様に準備 はない。 仏教には、獣(けだもの)に向かって説く教えは準備がない。阿闍世王には慙愧があった。嬉 しいことには、大王はこのとき、けだものから人間に戻っていたのだ。だからこそ、釈迦は阿闍 世王に救いをかけた。 悪いことをするのはやめよう。自分の悪は反省しよう。他人との約束は守ろう。そういう意思 があった。幸いにも、阿闍世王は、浄土真宗の悪人正機説に毒されていなかった。これが非常に 幸いした。他人の悪いことは阻止しよう、自分の悪いことを隠すのはやめよう、自然の道理を守 ろう。阿闍世王にはこういう意思があった。慙愧があった。阿闍世王は人間だった。悪人正機説 に毒された獣ではなかったのだ。だからこそ、釈迦は阿闍世王を救うことにした。もし、悪人正機 説を知っていれば、釈迦であっても、阿闍世王を救うことはできなかっただろう。
561 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/17(木) 11:36:01.88 ID:Wcs5VkzH
阿闍世王の「為」に涅槃に入らず。 〜 「釈尊は阿闍世王の為に涅槃に入らず」と言う。この場合の涅槃とは、有余涅槃で はなく、無余涅槃をさす。釈尊は、阿闍世王の為に無余涅槃に入ることはない。 仏教は、涅槃を有余涅槃と無余涅槃とに分ける。涅槃とは、ろうそくの火を吹き消 した状態を言う。煩悩の炎の火を吹き消し、煩悩が消滅した状態を涅槃という。釈尊 先生は、三五歳の時、十二因縁、因果の理法などを開悟し、煩悩の炎の火を吹き消し た。 煩悩の炎の火を吹き消しても、依然として為(な)すべきことが残っている状態を 有余涅槃という。為すべきことを全てやり終えて、もう為すべきことが無くなった状 態を無余涅槃という。釈尊の本当の活動は、三五歳の開悟の後にあった。祇園精舎を 開き、多くの弟子達を指導した。教育活動こそが釈尊先生のライフワークであり、ラ イフワークに命を賭けた。祇園精舎の分校は世界中に設けられ、釈尊の教育活動は多 くの弟子達に承継され、世界展開しながら、現代に至っている。釈尊先生の魂つまり 意思と行動(人格)は、挫折(死)なく現代に及び、将来にも連続する。 釈尊先生の魂に死は無い。しかし、釈尊先生ご自身は、ご自身がやるべきことを全 てやり遂げ、クシナガラの地で八十年の人生を終える。やるべきことを全てやり遂げ、 やり尽くし、余すことが無くなった状態を無余涅槃という。釈尊先生は三五歳から八 十歳まで、教育活動に邁進し、やるべきことを全てやり遂げて八十年の生涯を終える。 入滅とは、やるべきことを完全にやり尽くしたと言う意味である。 阿闍世王の「為」に涅槃に入らずとは、当時のインドでは既に驚異的な高齢に達し た際の釈尊先生の言葉である。多くの弟子が育ち、自分にはほとんどやるべきことが 無くなったとき、それでも自分にはまだ一つ残っていると言った。阿闍世王のため、 自分は無余涅槃に入ることはできない。釈尊先生はそう言う。
562 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/17(木) 11:37:56.46 ID:Wcs5VkzH
@ 我、「為」と言うは一切凡夫、「阿闍世」は普くおよび一切、五逆を造る者なり。 阿闍世とは五逆罪を冒す一切の人々の代表である。既に多くの弟子を育て、多くの 賢人哲人を既に大勢育ててきたが、自分には、一切の凡夫と五逆罪を冒す者に対し、 まだやるべきことが残っている。そういう意味である。 「凡夫」と「衆生」とは意味が違う。衆生は、再起挫折再起挫折を繰り返す普通の 人々という意味だ。凡夫とはその中でも、仏教初心者という意味である。人々一般に 対してはもう言うことは無い。しかし、仏教初心者と、大変な罪を冒すような人々の ためには自分はまだやるべきことが残っている。高齢に達した釈尊はそう宣言した。 五逆罪を冒す者とは、「五逆罪を冒す畜生の為に」ということではない。ここは注 意を要する。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。「慙」は 自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。 悪いことをするのはやめよう。よいことをしよう。他人が悪いことをしようとすれ ば、やめるように勧めよう。よいことをすることを勧めよう。そう思う者が人間であ る。私たちは凡夫ですから、悪いことをしてもいいです。阿弥陀様が全て救ってくれ ますと、悪人正機説を勧める人は、人間の皮を被っていても、皮を剥がせばその本性 は畜生である。畜生の為に涅槃に入らずと言っているのではないことは注意したい。 釈尊は人間に向かって法を説くのみである。
563 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/18(金) 14:45:46.88 ID:EcVHNVgL
A また「為」は、すなわちこれ一切有為の衆生なり。我ついに無為の衆生のためにして世に住 せず。何をもってのゆえに。それ無為は衆生に非ざるなり。「阿闍世」は、すなわちこれ煩悩等 を具足せる者なり。 釈尊は高齢に達し、それまでの間、多くの弟子達を育成してきた。もう、ほとんどやるべきこ とがなくなった。しかし、自分にはまだ残っている。有為の衆生に対してやるべきことがある。 釈尊はそういう。 有為の衆生とは何か。有為とは、煩悩を断つための行為をするということである。煩悩を断つ ための行為をしなければならない人々がまだ残っている。その人々の為に、自分は煩悩を断つた めにやるべきことがある。 衆生とは生死生死を重ねる人々という意味である。再起挫折再起挫折の迷いが切れない人とい う意味だ。煩悩は断たなければ、物事の本質的解決はない。本質的解決がないから、再起挫折再 起挫折を繰り返す。そういう人々の為、高齢になっても釈尊先生はまだ、やるべきことがある。 そう言っている。 煩悩を断った人、そういう人は、煩悩を断つための行為はする必要が無い。これが無為という 意味だ。そう言う人は迷いがない。再起挫折再起挫折という迷いの連続が切れる。衆生という範 疇を脱し、声聞・縁覚・菩薩となって、輪廻の連続を終えている。 仏教が言う煩悩とは何か。 煩悩にくるわされて、思わざる外に、すまじき事をも振る舞い、言うまじき事をも言い、おも うまじきことをも、おもうにてこそあれ。 障わらぬことなればとて、ひとのためにも、はらぐろく、すまじきことをもし、いうまじきこ とをもいわば、煩悩にくるわされたる義にはあらで、 思わざる外にとは、意思に反する。つまり、錯誤、詐欺、不注意、無知によるという意味であ る。 すまじき事をも振る舞う。つまり、行動においてしてはならないことをするという意味である。 言うまじき事を言う。言語活動において、言ってはならないことを言うという意味である。。 思うまじき事を思う。計画活動において、考えるべきでないことを計画するという意味である。
564 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/18(金) 14:49:31.35 ID:EcVHNVgL
障わらぬことなればとてとは、故意に、意識的に、確信犯的にという意味である。 腹黒くとは、悪意を持ってという意味である。 すまじきことをする。つまり、行動においてしてはならないことをする。 言うまじきことをも言う。つまり、言語活動において、言ってはならないことを言う。 仏教は、天(自然)の道理と人(約束)の道理に反するようなことを、錯誤、詐欺、不注意、 又は無知によって冒してしまうということ、これを防止する方法を考えようというのが原点であ る。 仏教は、故意に、意識的に、確信犯的に、悪意を持って天(自然)の道理と人(約束)の道理 に反することをしようとする者に対し、何か一定の働きをするものではない。 凡夫であれば煩悩があっていい。凡夫であれば、錯誤、詐欺、不注意、あるいは無知によって、 道理に反することをしてしまうことがあっていい。問題はその次である。道理に反することをし てしまわないで済むような努力をするのか、しないのか。その努力を遮ってしまう主張は仏教で はない。 故意に、意識的に、確信犯的に、悪意を持って道理に反することをしようとする者に「貴方は 阿弥陀様に救われていますよ」などと、相手構わず妄りに外見する、つまり知らせる悪人正機は、 仏教ではなく、外道の悪道である。全ての人を地獄に引きずり込む悪魔の教えであると知るべき である。
565 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/18(金) 17:25:01.47 ID:EcVHNVgL
>>564 × 妄りに外見する
○ 妄りに外見(げけん 歎異抄十八)する
566 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/18(金) 17:58:10.81 ID:EcVHNVgL
このスレスを見て下さっている方にクイズを一つ。 思わざる外にすまじきことを言ったり、行動したりすること、これを煩悩という。 仏教はこれを退治しようとする。 障わらぬことなればとて、腹黒くすまじきことをすること、これは煩悩ではない。 退治の対象ではない。 問題は、他人の命令によって、やむを得ず、すまじきことを言ったり、行動したり する。これは煩悩か、煩悩ではないのか。 退治の対象か、退治の対象ではないのか。親鸞ならどのように考えるか。頭の体 操として考えてみてほしい。 大学の先生に聞いてみてもいいよ。真宗学の先生なら、びっくりするだろう。 答えられる先生は多分いないだろう。 回答は、そn主張の根拠も必ず書いて欲しい。
567 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/26(土) 17:53:24.75 ID:0DHI+Tvx
シナは、日本製の工場プラントを使っているんだ。 日本は、昭和時代、無数の公害を経験した。 そこで、日本の工場プラントは、当然の結果として、 公害対策を付加するという前提で全て設計してある。 そのような工場プラントを、シナはダンピングして、 公害設備を不用と言って拒否した。その分、日本からは 安い価格で購入した。 シナが公害でこういう結果になることは、ずっと昔から 分かっていた。その対策をしてこなかったのは、シナの 人災だ。支那の公害対策の鍵を持っているのは、日本 だけだ。 支那よ。東シナ海・南シナ海・南モンゴル・満州・ ウィグル・チベット・ネパール・ブータンに侵略しません と誓い、軍備を放棄し、習金平が安倍首相の前で、 地面に手をついて支援を求めてこい。 日本は、喜んで協力するだろう。
568 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/26(土) 17:54:01.77 ID:0DHI+Tvx
誤爆です
569 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/27(日) 14:16:07.03 ID:rzdchJmd
大王、たとえば涅槃は非有・非無にしてまたこれ有なるがごとし。 (信の巻) 阿闍世大王よ。涅槃というものは非有である。つまり存在しない。煩悩の火が吹きされた悟りの 状態というものは存在しない。しかし非無である。つまり存在する。その上で、これは貴方には有 つまり、存在する。 殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといえども、慙愧の人はすなわちすな わち非有とす。無慙愧の人はすなわち非無とす。 貴方は父を殺した。殺すというのもそのようなものである。殺人は非有である。つまり報いはな い。その上で非無である。非無つまり殺人を犯した者に報いはある。そのように言うべきである。 殺人を犯せば報いがあるというが、条件がある。慙愧の人には報いはないからだ。慙愧の人とは、 自ら罪を作らず、他を教えて作さしめず。内に自ら羞恥す、発露して人に向かう。人に羞ず、天に 羞ず。こういう慙愧の人には、報いはない。逆に、慙愧のない人には報いはある。 果報を受くる者、これを名づけて「有」とす。 ここで、有とか無とか言っているが、有の意味は、報いがあるということである。仏陀の弾劾を 受けるということである。報いとは、「死んだら地獄に堕ちるぞ」と、そのように激しく呵責され るということである。「地獄に堕ちて苦しみを受けるのに相応する道義的責任の重い存在である」 と、そのように仏陀から評価されるということである。真実に目覚めている人から激しい批判を受 けるという意味だ。無とは、反対に、報いがないということである。仏陀の弾劾を受けることがな い。真実に目覚めている人からの批判を受けないという意味だ。 @ 空見の人は、すなわち「非有」とす。 邪な見解を悟った人、まさに何も感じなくなった人、この人には報いがない。仏陀の弾劾は及ば ない。なぜなら、仏陀が何を言っても始まらないからだ。 @ 有見の人は、すなわち「非無」とす。 A 有有見の者は、また名づけて「有」とす。何をもってのゆえに、有有見の者は果報を得るがゆ えに、 B 無有見の者はすなわち果報なし。
570 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/27(日) 14:17:44.36 ID:rzdchJmd
@見とは邪(よこしま)な見解という意味だ。邪見のある人つまり自分を正当化して開き直る人、 こういう人は、殺人を犯せば非無つまり報いはある。仏陀による弾劾がある。仏陀は弾劾するぞと いう。A有有見の者つまり、邪な見解、殺人肯定論者には、仏陀は批判をするし、弾劾もする。つ まり報復・反駁をする。B無有見の者つまり邪見の無い人、殺人否定論者には、仏陀は批判をしな い。弾劾しない。報復はしない。反駁はしない。 @ 常見の人はすなわち「非有」とす。 A 無常見の者はすなわち「非無」とす。 B 常常見の者は「無」とすることを得ず。何をもってのゆえに、常常見の者は悪業果あるがゆえ に、このゆえに常常見の者は「無」とすることを得ず。 @常見の人つまり、大乗の悟りを得た人は、殺人を犯しても非有つまり仏陀は弾劾をしない。つま り報復・反駁をしない。報いはない。A無常見つまり、悟りのない人が殺人を犯せば、仏陀はその 人を批判をするし、弾劾もする。つまり報復・反駁をする。B常常見の人、悟りに固執する人、あ るいは、人は不死であり、永久に不滅であるという見解の人には、無とはできない。つまり、必要 があれば、仏陀はその人を批判をするし、弾劾もする。つまり報復・反駁をする。人は不死であり、 永久に不滅であるという見解(六師外道)は、因果の理法の否定である。そこには真の解決はない。 真の成功はない。仏陀はその人を批判をするし、弾劾もする。 渡海難の有有見・常常見などの意味解釈は少し違っているかも知れませんが、全体的な主張の雰 囲気は当たっていると思います。 この義をもってのゆえに、非有非無にしてまたこれ有なりといえども、大王、それ「衆生」は出 入の息に名づく、出入の息を断つがゆえに、名づけて「殺」とす。諸仏、俗に随いて、また説きて 「殺」とす。
571 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/01/27(日) 14:19:41.34 ID:rzdchJmd
こうした理由で、殺人すれば報いはあるとも、無いとも釈迦は言う。「報いはある。仏陀の弾劾 呵責はある」これが原則である。しかし、再起挫折を繰り返す人は、単に呼吸をしているだけとも 言える。呼吸の出入りを止めること、それが殺すということである。本質的なことは何もない。殺 人などはなかったんだ。釈迦が、貴方に殺人があったという文脈の話をすることがあるが、それは、 悟りのない人々の言葉と雰囲気に合わせているに過ぎない。貴方にはいま慙愧がある。それであれ ばそれでいい。殺したことは気にする必要は無い。まさに空だからだ。 道場主が念仏道場を開くといろいろな人が来る。いろいろな人が来れば、次々といろいろな事件 が起きる。事件を犯した人を批判すべきか、許すべきか、悩むことがある。 悪いことをしてはいけない。念仏道場はそう教える。しかし、現実に悪いことをしてしまった人 はどう裁けばいいか。慙愧のある人は赦せ。慙愧の無い人は厳しく叱責せよ。新たな念仏道場を開 くという人に、親鸞聖人が念仏道場運営のハウツーとして口伝した内容はそのようなものだった。 慙愧のある人を赦すとき、その時の説明はどうするのか。歎異抄の悪人正機はそのときの説明手 法を教えているのだ。悪人正機説は、慙愧の無い人に向かって「悪苦しからず」と説く教えではな い。歎異抄は、念仏道場のハウツー本であり、関係のない人には絶対に読ませてはいけない浄土真 宗門外不出の秘伝の書物なのである。
572 :
◆K3PkkhVAkA :2013/02/12(火) 20:02:59.43 ID:8Ftwvq5N
(^-^) コナニーをしようかな
573 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/04/20(土) 14:43:09.95 ID:iB/obwbX
>>535 >では何か浄土真宗に関して一冊読むとすれば何がオススメですか?ぜひお答えください。
随分、時間が開いてしまいました。
浄土真宗に関して一冊読むとすれば何がいいか、ずっと考えてきました。
これしかない、という本が一冊ある。そう固く思うようになりました。
論語です。是非論語を読んでください。
さらにもう一つ加えると、十七条の憲法だと思います。
親鸞聖人は言います。
もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・
礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな
滅しなん。 (信の巻)
諸仏菩薩の一番大事な教えは、仁・義・礼・智・信である。これは論語の教えです。
親鸞聖人は言います。
持戒坐禪を正法と名づく。念佛成佛これ眞宗なり。佛言を取らざるを外道と名づく。禪律如何
これ正法なり。念佛三昧これ眞宗なり。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわ
ち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし。 (五会法事讃 略抄)
坐禪持戒は、実体的効果を得るために必要である。もし、戒律を保たないで、念仏だけで自分
は仏になるのだというなら、それは腹を空かした人が風下に立ち、吹いてくる風を腹の中にため
込んで空腹を満たそうというのと同じで、全く意味のないことである。持戒は極めて重要である。
574 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/04/20(土) 14:45:18.21 ID:iB/obwbX
覚如上人は言います。 出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、 内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。 (改邪抄) 出世の法では、仏教初心者に「五戒」という名で教えているが、普通は五常と言われている仁 ・義・礼・智・信を守りつつ、内心では、他力の教えを保ちなさい。これが親鸞聖人から伝わっ てきた大事な教えです。 蓮如上人は言います。 ことにほかには王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁 義をもって本とすべし。 (お文 二帳目) 仁義礼智信を守りて王法をもって先とし、内心には深く本願他力の信心を本とすべき」よしを、 懇ろに仰せ定め置かれし (お文 三帳目) 内心にふかく一念発起の信心を蓄えて、しかも他力仏恩の称名を嗜み、その上にはなお王法を 先とし、仁義を本とすべし。 (お文 四帳目) 「王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」との仰せに候う。仁義と云う事も、端々ある べきことなるよしに候う。 (聞き書き) 親鸞の手紙 世にくせごと(曲事)の起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈り に心をいれて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。 (消息集) 生活の中で困ったことが起きたら、それを契機にして、念仏を深く信じ、ものごとがよくなり ますように、社会がよくなりますようという祈りを込め、できるだけ多くの人と一緒に念仏を称 えてみて下さい。
575 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/04/20(土) 14:46:26.41 ID:iB/obwbX
父の王に謂いて曰わく、「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。(信の巻) 念仏は座禅して行うといいですよ。 歎異抄などは読まなくていい。できるだけ論語を読み、書かれている仁義礼智信をできるだけ 実践しつつ、困ったこと、悲しいことが起きたなら、それをきっかけにし、世の中がよくなるよ うにと祈りながら、座禅して念仏を称えてみる。これが親鸞聖人の真のお弟子である。ぼくはそ う思う。
なんや、渡海灘しかおらんのかいな、つまらん
577 :
◆K3PkkhVAkA :2013/06/04(火) 22:50:37.92 ID:YqLJf2ML
(^-^)ノ 呼んだ?
578 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/06/07(金) 11:48:07.89 ID:uCBVh+SI
579 :
◆K3PkkhVAkA :2013/06/10(月) 22:45:13.45 ID:0sezQ4EQ
580 :
◆K3PkkhVAkA :2013/06/16(日) 19:59:59.21 ID:bA/3Ehd/
(^-^) 高野連 (高校野球連盟)
581 :
◆K3PkkhVAkA :2013/07/14(日) 06:49:36.22 ID:hsLi7USR
(>_<) こわい
582 :
渡海 難 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) ◆Fe19/y1.mI :2013/08/26(月) 19:13:35.79 ID:SA3R8M3Q
2ちゃんねる個人情報流出事件 2013年8月26日(月) 深夜0時頃に明るみに出た、 2ちゃんねる史上最大規模の個人情報漏洩事件である。 概要 2ちゃんねるへ年額をドルで支払う代わりに、dat落ちした過去ログの閲覧取得や、 書き込み規制の影響を緩和・優遇するサービス、2ちゃんねるビューア・通称「●」。 これを購入した約40,000人のメールアドレスと●の書き込み履歴情報の一部が漏 洩し、支払いにクレジットカードを使用した人はそれに加え住所・氏名・電話番号・ クレカ番号が漏洩。 また2ちゃんねるで使用された全コテハン・トリップ・運営キャップも同時に漏れた。
583 :
神も仏も名無しさん :2013/09/19(木) 22:14:02.94 ID:I/U7sxwJ
正信偈に難中之難無過斯とあるのが、阿弥陀から安心をいただくのが、極難信 で、難しくて難しくてしょうがない、という意味だと、自力聖道門と同じで、 救われる人が、ほとんど居ないとなってしまうのではないか?
584 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 15:43:57.53 ID:qGx6lrP/
>>583 >正信偈に難中之難無過斯とある〜救われる人が、ほとんど居ないとなってしまうのではないか?
以下の順に議論します。
A 問題点の所在 B 歎異抄を忘れよう C 教行信証の聞き手
D 仏教の対象
(a)阿闍世王の救い、(b)六道、(c)人非人、(d)仏教の対象者、(e)歎異抄に帰ると
き、(f)仁・義・礼・智・信を守ろう。 以上の順に議論します。
A 問題点の所在
面白い質問に感謝します。
正信偈で、親鸞は言う。「弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽を受持すること、はな
はだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし」と。
信楽つまり、真実の信心を持つことは非常に難しい。難しいと言っても特に最大限の難しさであ
る。このように言っている。つまり、救われる人は事実上存在しないと云っているのではないか。
救われる人は事実上存在しないとはどういうことだろうか。そういう質問なんでしょうね。
「はなはだもって難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし」。それは、邪見驕慢の悪衆生です。
邪見驕慢の悪衆生は信楽心を得られないというのは、当たり前のような気がしますが、これをおか
しいという質問者の思考は、恐らく歎異抄がベースになっているのでしょう。歎異抄を真正面に持
ってくると、教行信証は読めなくなります。
歎異抄は言います。煩悩具足の我らは、いずれの行にても、生死を離ることあるべからざるを哀
れみ給いて、願を起こし給う本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼みたてまつる悪人、もっとも
往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候らいき。
歎異抄で言えば、邪見驕慢の悪衆生こそ、阿弥陀仏の救いの目当てであり、極楽浄土往生の正因
である。難の中の難、これに過ぎたるはなしとはどういうことか。
現代の浄土真宗では、自分たちこそ、歎異抄が言うその悪人であると言われている。邪見驕慢の
悪衆生が救われないなら、世の中で救われる人はほとんどいなくなる。そういう疑問なんでしょう。
585 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 15:46:18.16 ID:qGx6lrP/
B 歎異抄を忘れよう
歎異抄を浄土真宗の学習の中心に持ってくるのは止めましょう。歎異抄に嘘が書いてあるという
わけではありません。歎異抄というのは、普通の人が妄りに読んでよい本ではありません。教師用
の生徒指導書いわゆる虎の巻に嘘が書いてあるわけではありませんが、教師用の虎の巻は、学習段
階の生徒が妄りに読んでよい本ではありません。
歎異抄は、一念念仏・多念念仏を通じて奢摩他・毘婆舎那が実践できるようになり、その方便力
(指導力)を体得(証の巻)した者が、園林遊戯地門を出、教化地に至ることが許されたとき、念
仏道場(至道抄)を開くに当たって渡される鎌倉・室町時代の免許皆伝の書というべき書物だと思
います。免許皆伝書というのは、妄りに一般の人が読むべき書ではありません。
もと、盗み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、
思い直してこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべ
からず候。(消息集)
浄土真宗の中に、悪人こそ救われるという主張がないわけではない。しかし、それは、一般の人、
その中でもとりわけ歪んだ心を反省しないような人にまで妄りに説いてよい教えではないわけで
す。
歎異先師口伝之真信(歎異抄冒頭) 【口伝】
2 師が、学問や技芸の奥義などを弟子に口で伝えて教え授けること。また、その教え。口授(くじ
ゅ)。口訣(くけつ)。
3 奥義を伝えた文書や書物。秘伝書。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E5%8F%A3%E4%BC%9D/m0u/ 先師口伝 先生から口伝えで教わった秘伝の教え 非公開の教え。
外見あるべからず(歎異抄末尾)、 外見
外から見えるようす。外観。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E5%A4%96%E8%A6%8B/m0u/ 外見あるべからず 妄りに人々に見せてはならない
586 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 15:48:38.41 ID:qGx6lrP/
無宿善機、無左右不可許之者也 教師用の生徒指導虎の巻は、生徒に妄りに公開してはならない。 蓮如 教行信証は、歎異抄を元にして教わったことはすべて忘れて頭の中を白紙にして読んでほしいと 思います。 C 教行信証の聞き手 教行信証の序文は次の言葉で始まります。「竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、 無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」。 難思の弘誓と言っております。難思議の弘誓とは言っていません。難思の弘誓とは、不定聚機の 救いを誓った誓願です。 念仏をやってみないか。人々にこのように誘うと、人は三種類に分かれます。 1. 「いやだ。絶対に嫌だ。念仏なんかとんでもない」という人々。これを邪定聚といいます。 邪という字を使っていますが、「念仏を嫌う」という意味以外に「悪い」という意味はありません。 2. 「どうしようかな。うーん。やってもいいかな、止めとこうかな」という人々。誘うと心が 揺れる人、これを不定聚といいます。「当今の凡夫は 〜 また不定聚と名づく」。現代人のほと んどがこの不定聚である。親鸞はそう言います。 3. 「うん。面白い。是非やろう。誘いが無くても、自分はやるぞ」という人々、これを正定聚 といいます。数はけっして多くはありません。 教行信証は、圧倒的大多数の不定聚の人々を話の聞き手に据えています。問題の正信偈は、「み なさんは決して邪見驕慢の悪衆生ではないでしょう。信楽を受持することは決して難しいことでは ありません」。という意味で読むべきでしょう。
587 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 16:17:17.66 ID:qGx6lrP/
D 仏教の対象 「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」阿弥陀仏四十八願の冒 頭の言葉です。極楽浄土は、地獄・餓鬼・畜生の存在を認めない。排除するということではないで しょう。排除するといえば、いったん排除するかしないかという選択判断の対象に含め、その上で 排除するということになります。最初から、選択判断の対象にもならないということだろうと思い ます。 a 阿闍世王の救い 世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。か くのごときの三病、世の中に極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。 (信の巻) 世の中には、手のつけられない存在がある。それは、大乗仏教を誹謗する人、五逆罪を犯す人、 それと一闡提です。 釈尊の時代、父王を殺し、母親である皇后を幽閉し、皇太子が父の王位を奪うというクーデター 事件が起きます。やがて新王は自分の行為を後悔し、病気になる。六人の賢者がそれぞれ新王を見 舞う。六番目の耆婆という医師が釈尊を紹介し、釈尊に救われる。こういう話が教行信証に出てき ます。耆婆が重要なことを言っています。 答えて言わく、善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。 〜 「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。 〜 善いかな大王、具に慙 愧あり、と。 〜 大王、速やかに仏の所に往ずべし。仏世尊を除きて余は、よく救くることなけ ん。我今汝を愍れむがゆえに、あい勧めて導くなり」と。 王よ。貴方は、父王を殺すという大きな罪を犯しました。しかし、貴方には慙愧がある。いま、 貴方は真人間に戻っている。罪を犯しても慙愧が無い者、これは畜生という。畜生は真人間ではな い。しかし、幸いにも貴方はいまは真人間である。是非釈尊にお会いください。
588 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 16:19:37.59 ID:qGx6lrP/
それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくと も畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の 苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩 提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。 念仏法語(横川法 語) 仏教が救う対象は人間であるということです。人間以外を救いの対象とするものではありませ ん。 b 六道 「人は、母胎から人間のDNAをもって誕生すれば、肉体が滅びるまで人間であり続ける。」仏 教は西洋哲学のような、こういう考えを取りません。 一人娘を殺された父親が愛娘の遺影を抱いて裁判所の傍聴に行く。被告が入廷してくる。父親は 思わず激情を爆発させる。静まりかえった法廷で「ケダモノ!!」という父親の絶叫が響き渡る。 横に新聞記者がいた。新聞記者が思わずつぶやく。「このお父さんは頭がおかしいんじゃないか。 被告がケダモノ?。被告が人間でないというなら、こんな裁判なんかしないよ。自分はどこにいる と思っているんだろう。裁判所だろう。犯人は人間だから裁判をするんだよ」と。 昨日までのケダモノが、前非を悔いて今日は真人間に戻る。今日は真人間でも、明日は再び餓鬼 の手下になり、有頂天になったかと思ったら地獄に真っ逆さまということもある。人は瞬間、瞬間 に意思と行動が変わる。意思と行動が変われば人格が変わる。再起挫折再起挫折を繰り返し、天か ら地獄の間を漂っている。これが我々の姿だろうと、僕は思う。
589 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 16:57:12.53 ID:qGx6lrP/
c 人非人 二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。 1 「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。 故意に悪いことをしようとしない。故意に悪いことをしてはならないと教える。 2 「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。 悪いことをしたと思えば心から反省する。他人に対しても、そのことを隠し立てしない。 3 「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。 人同士の新たな約束を破らないようにし、天の道理、倫理道徳も破らないようにする。 1〜3を「慙愧」と名づく。「無慙愧」の者は、人間の皮を被っていても、「人」とは言わない。 「無慙愧」の者は人間の皮を被っていても、「畜生」と言う。 邪見驕慢の悪衆生と慙愧の問題とは、必ずしも完全一致はしないと考えます。しかし大凡の思考 はこの文脈で考えてよいと思います。邪見驕慢の悪衆生には、仏教は話しかける言葉の準備がない と考えるべきでしょう。 d 仏教の対象者 世の中は、大きく二つに分かれます。(A)自分はよいことをしていこうと思う人。(B)自 分は悪いことをしていこうと思う人。仏教は、Bの人に語る言葉の準備がありません。 Aは、二つに分かれます。(Aa)何がよいことで、何がわるいことで、自分は何をすべきか知 っている人。(Ab)何がよいことで、何がわるいことかが分からず、自分は何をしたらいいかわ からない人。仏教は、Aaに語る言葉はありません。釈迦に説法しても無意味だからです。 Abはさらに二つに分かれます。(Ab1)何が善で何が悪か自分は分かっており、自分は何を すべきか分かっていると思っている人。(Ab2)何が善で何が悪か自分は分かってなく、自分で も何をすべきか分かってないと思っている人。
590 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 17:03:03.19 ID:qGx6lrP/
Ab1はさらに二つに分かれます。(Ab1@)他人の話を聞く耳のある人。(Ab1A)他人 の話を聞く耳のない人。仏教はAb1Aに語る言葉を持っていません。準備もありません。 Ab1@は、三種類に分かれます。(Ab1@@)念仏に誘えば、「わしゃ、念仏だけは絶対に 嫌じゃ。絶対に話に乗らんぞ。座禅して念仏など、とんでもないことだ」と拒否する人。(Ab1 @A)念仏に誘えば、「やってみようかな。止めとこうかな。どっちにしようかな」と心が揺れる 人。(Ab1@B)念仏を誘わなくても、「これ面白いじゃん。よし他人がなんと言ってもおれは やるぞ」と思う人。浄土真宗はAb1@@に誘いをかけることはありません。こういう人は、自分 の好きな道を歩めばいいだけですから。浄土真宗はAb1@Bに語りかける言葉もあまりありませ ん。こういう人は、自分の好きな道を歩めばいいだけですから。全く無いと言う意味ではありませ ん。少ないという意味でとってください。浄土真宗は、Ab1@Aを不定聚と呼び、積極的に語り かけます。「一緒に念仏称えてみませんか」と。 Ab2は、Ab1@と同じように、三種類に分かれます。Ab2@とAb2AとAb2Bです。 Ab2@に誘いをかけることはありません。Ab2Bに語りかける言葉もあまりありません。Ab 2Aを不定聚と呼び、この人々に積極的に語りかけます。 邪見驕慢の悪衆生は浄土真宗が関わっていく相手ではない。そのように考えるべきでしょう。 e 歎異抄に帰るとき なお、貴方が、もし念仏を実践し、奢摩他・毘婆舎那ができるようになり、指導力が身につき、 いよいよ念仏道場を開き、多くの人々に念仏を伝えようと思うようになり、浄土真宗の免許皆伝を 受けたとき、歎異抄を読み、そのときにこそ、邪見驕慢の悪衆生の救いを再び考えてください。
591 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 17:07:18.30 ID:qGx6lrP/
菩薩摩訶薩には地獄の業無けれども、衆生の爲の故に大誓願を發し、地獄の中に生ず。善男子よ、 かつて衆生の壽が百年の時、恒砂の衆生は地獄の報を受く。我、これを見おわるに、すなわち大願 を發し、地獄の身を受く。菩薩はその時、實にこの業なけれども、衆生の爲のゆえに地獄の果を受 く。我はその時、地獄の中にありて無量の歳を經、諸の罪人の爲に十二部經を廣開し、分別せり。 諸の人は、一闡提を除き、聞きおわるに、惡果報を壊し、地獄を空ならしむ。これを菩薩摩訶薩の、 現生にあらずして後にこの惡業を受くと名づく。 また次に善男子よ、この賢劫の中に、無量衆生が畜生に堕し、その中で惡業果を受く。我、これ を見おわるに、また誓願を發せり。法を説き、衆生を度せんとおもうがためのゆえなり。あるいは 鹿章(かもしし)・鹿・羆(ひぐま)・鴿(はと)・?猴(さる)・龍・金翅鳥・魚?(うみがめ)・ 兎・蛇・牛・馬の身となる。善男子よ、菩薩摩訶薩は、實にかくの如き畜生の惡業なけれども、大 願力をもって衆生の爲の故に現に是の身を受く。菩薩摩訶薩の、現生にあらずとも後にこの惡業を 受くと名づく。 (大般涅槃経要文 専修寺 蔵) f 仁・義・礼・智・信を守ろう もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼 ・智・信あることを知らんや。(信の巻) それ出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもり て、内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪抄) ことにほかには王法をもっておもてとし、内心には他力の信心をふかくたくわえて、世間の仁義 をもって本とすべし。これすなわち当流にさだむるところのおきてのおもむきなりとこころうべき ものなり。(お文 二帳目) またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本 とすべき。(お文 三帳目) 曽子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省りみる。人の為めに謀りて忠ならざる乎。朋友と交りて信 ならざる乎。習わざるを伝うる乎。 (論語 学而第一) 論語は座右に置きたい言葉だと思う。 おわり
592 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/22(日) 18:42:36.08 ID:qGx6lrP/
質問(
>>583 )に対する回答の核心が議論の中で埋没してしまいました。
「みなさんは決して邪見驕慢の悪衆生ではないでしょう。信楽を受
持することは決して難しいことではありません」。という意味で読むべ
きでしょう。(
>>586 )
これが問いに対する回答です。
593 :
神も仏も名無しさん :2013/09/23(月) 22:57:22.06 ID:W78dShWZ
華光会の説法の有様をどう思います。
594 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/24(火) 10:44:10.77 ID:1E2vE8xa
>華光会の説法の有様をどう思います。
名前以外はほとんど知りません。興味もありません。
ネットの情報を見る限り、僕は「真宗カルト」の一つだろうと思っています。
脅迫仏教・恫喝仏教を実践するインチキ宗教なんじゃないですか?。会のリーダは、ほとんど宗
教音痴なんじゃないですか。
一には厭離真実 聖道門 難行道 竪出 自力
竪出は難行道の教なり、厭離をもって本とす、自力の心なるがゆえなり。
二には欣求真実 浄土門 易行道 横出 他力
横出とは易行道の教なり。欣求をもって本とす、何をもってのゆえに、願力に由って生死を厭捨
せしむるがゆえなりと。 (愚禿抄)
そなたが座る足元に、八大地獄の業の火が、エンエンとして燃え上がる。驚きたたぬそなたより、
驚きたてるこの弥陀は、血潮にそまり紅の、紅の身の砕くるも、立ちづめ呼びづめ招きづめ、こい
よこいよ出てこいよ……
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/book/sikashu.htm 「恐ろしいぞ、恐ろしいぞ。さあこんなに恐ろしいぞ。お前は地獄に堕ちるぞ」。
華光会というのは、「厭離をもって本」とし、信者を脅迫しているんでしょ?。子供だましの幽
霊屋敷みたいな宗教と思って、僕は馬鹿馬鹿しくて相手にしないけど、騙されて付いていく人はい
るでしょう。華光会が親鸞聖人の名前を騙るのは不愉快ですよね。親鸞聖人を操り人形にして、地
獄に誘う宗派はたくさんある。華光会だけということではないと思います。
欣求をもって本とするとはどういうことか
世に曲事(くせごと)の起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに
心を入れて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。 (消息集)
社会的にあるいは個人的に困ったことが起きたら、それを機縁にして、念仏を信頼し、そうした
問題がどうか是正されますようにという、そんな祈りを込め、一人でも多くの人と一緒に合同して
念仏を称えてみてください。
595 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/24(火) 10:59:17.67 ID:1E2vE8xa
みんなで一緒に奢摩他・毘婆舎那に近い、あるいは近づくような禅定の念仏を合同で行う。脳が 活性化し、精神的に非常に冷静になった状態で問題解決の実践的なフリートーキングを合同で話し 合う。フリートーキングを通じ、具体的な問題の解決策が見つかり、次の行動を起こせるか、ある いは諦めがつくか、気持ちに整理がつくか、いろいろと探る。これが欣求をもって本とするという ことでしょう。浄土真宗というのは、本来、非常に泥臭く、具体的で実利的な宗教なんですよ。 特に困難を抱えているのでもない人に、相手構わず「恐いぞ、恐いぞ恐ろしいぞ。お前は地獄に 堕ちるぞ。このままでは死んだら地獄に堕ちるぞ」などと脅迫するのは、典型的ゴロツキ宗教です。 倫理的にも社会正義に反し、決して許されることではありません。華光会は、その名をネットで見 た瞬間、即座にこれはだめだ、インチキ宗教だと思いました。 ネットで確か、増井師?が教行信証の一部を説明していたことがありました。内容は覚えていま せんが、教行信証も全くちんぷんかんぷんの人だという印象を持ちました。 これ以上の感想はありません。僕は親鸞を操り人形にして社会を脅迫するカルト宗教には興味が ありません。
596 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/24(火) 16:59:16.54 ID:1E2vE8xa
597 :
C級 :2013/09/28(土) 16:52:43.28 ID:8cgTGpSb
奢摩他など万人に一人しか出来ない理想を求めるのはどうか、 思想というのは抽象論ではない。 現実に生きている人間が どのように一生を過ごしたかを書簡や周囲の人の言葉で語ろうよ、 あなたももっと衆生(極重悪人の凡夫)がどのように佛道を通して生きるかを語ってはどうか。
598 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/29(日) 11:40:16.82 ID:xU+R46s/
>>597 経に云く。ひとへに禅定を修し、智慧を學ばざれば、これを名づけて愚いい、ひとへに智慧を
學び、禅定福徳を修せざれば、これを名づけて狂といふ。 (天台小止観 天台智 著)
法華経に云う。ひたすら奢摩他福徳を修行して毘婆舎那を学習しない者は愚という。ひたすら
毘婆舎那を学び、奢摩他福徳を修行しない者は狂と言う。
もし智慧よく煩悩を破すと言うは、到るためのゆえなり。破は、到らざるがゆえに破す。もし
破するに到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。もし、到るがゆえに破せば初念に
破すべし。もし、初念に破せずば、後にもまた破せず。もし、初にいたらばたちまち破すべし。
(大般涅槃経要門 親鸞著)
智慧すなわち毘婆舎那は効果的に煩悩を破すと言うのは、毘婆舎那は、問題の本質に迫るから
である。毘婆舎那で破すというのは、こ以外には問題点の本質に迫るものが無いからである。毘
婆舎那でも煩悩を破することができない者がいれば、それは未熟者である。普通の人であれば、
(練習によって)効果的に破ることができる。問題点の本質に到達して煩悩が破れるとしたら、
毘婆舎那を開始したその瞬間に破れる。もし、開始の瞬間に敗れなければ、その後、しばらくは
破れないだろう。もし、最初に本質に迫れば、その瞬間に煩悩が破れる。
還相は、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に
回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往・もしは還、みな
衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。 (信の巻 親鸞集)
浄土真宗の還相の回向では、極楽浄土すなわち念仏道場に行き、そこで奢摩他・毘婆舎那とそ
の指導力を体得し、その後は、多くの人々が再起挫折再起挫折を繰り返している生死生死の林に
飛び込み、人々に奢摩他・毘婆舎那を教育指導し、人々と一緒になって仏道に誘うことにある。
往相の回向も還相の回向も、全て人々の苦しみを解消し、再起の嵐の海を安全に航海させること
が目的であると仰っている。
599 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/09/29(日) 11:43:37.06 ID:xU+R46s/
親鸞さん。あなた、奢摩他など万人に一人しか出来ない理想を求めるのはどうか、思想という
のは抽象論ではない。現実に生きている人間がどのように一生を過ごしたかを書簡や周囲の人の
言葉で語ろうよ、親鸞さん。あなたももっと衆生(極重悪人の凡夫)がどのように佛道を通して
生きるかを語ってはどうか。親鸞さん。奢摩他・毘婆舎那などに誘うのは止めなさい。
(by
>>597 )
極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直してこそあるべきに、
(
>>597 のように自ら極重悪人の凡夫などと称して)その徴もなからん(愚狂の)人々に、(悪
人正機)悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。(間違いの根源は、本願寺による
歎異抄の公開にあるというべきだろう)(親鸞 消息集)
浄土宗の義、皆変わりておわしまし合うて候人々も、ただ聖人の御弟子にて候えども、
>>597 のように歎異抄と本願寺に騙されて様様に、義をも言い換えなんどして、身も惑い、人をも惑わ
し合うて候めり。浅ましきことにて候なり。
>>598 × 再起の嵐の海
○ 再起挫折再起挫折の嵐の海
600 :
C級 :2013/09/29(日) 15:24:16.38 ID:QhWfAT7k
>>598 > 法華経に云う。ひたすら奢摩他福徳を修行して毘婆舎那を学習しない者は愚という。ひたすら
> 毘婆舎那を学び、奢摩他福徳を修行しない者は狂と言う。
愚者として生じ愚者のまま往生する、それが浄土宗ではなかったか?
生涯において法然さんを師と仰ぎ教えを守りとおしたのが親鸞さんでは?
親鸞さんは下の選択集を臨終のときまで何度も読み返したことでしょう
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、
本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめ
て往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。
もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。
しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。
しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、
破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、
破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、
往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、
あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり
601 :
C級 :2013/09/29(日) 15:29:39.69 ID:QhWfAT7k
>>598 > 浄土真宗の還相の回向では、極楽浄土すなわち念仏道場に行き、そこで奢摩他・毘婆舎那とそ
> の指導力を体得し、その後は、多くの人々が再起挫折再起挫折を繰り返している生死生死の林に
> 飛び込み、人々に奢摩他・毘婆舎那を教育指導し、人々と一緒になって仏道に誘うことにある。
> 往相の回向も還相の回向も、全て人々の苦しみを解消し、再起の嵐の海を安全に航海させること
> が目的であると仰っている。
極楽浄土が娑婆の念佛道場???
そういう意味ですかw
それでは往相回向と還相回向の違いがまるでないじゃないですか?
還相回向と言うのはあくまで臨終の後ですよと。
数日多忙
603 :
C級 :2013/09/30(月) 08:59:08.23 ID:4E9j6kGP
938 名前:渡海 難 ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2013/09/28(土) 17:55:57.22 浄土真宗は、数百年ぶりにやっと一人灯ったが、その最後のロウソクの灯も、はか なくもいま消えようとしている。渡海難が死ねば、今度は確実に浄土真宗は永久に消 滅する。やがてもう、誰一人、浄土真宗の教義について説明できる人は永久にいなくな る。 親鸞の浄土真宗とは、所詮それだけのものだったんでしょう。渡海難まで続いてきたという ことが、僕は奇跡に近いと思う。 ☆どこまでが本気でどこからが冗談なのでしょうか? それともものすごいナルシストか? 感想を言えば経典、諸論、解釈を自分のストーリに従ってつまみ食いしているだけのように 思えますよ。以上
604 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/03(木) 01:33:44.46 ID:M2bLaZIy
>>600 >親鸞さんは下の選択集を臨終のときまで何度も読み返したことでしょう
>愚者として生じ愚者のまま往生する、それが浄土宗ではなかったか?
『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語
りたまわく、今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて
識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部
あり。この法に随うべし、人に随うべからず。 (化身土巻)
故法然聖人は、浄土宗のひとは愚者になりて往生すと候いしことを、たしかにうけたまわり候いし(末灯抄)
僕も、たしかにうけたまわっております。これも、語に依らず、できるだけ義に依りたいもの
です。法然・親鸞という人に依るのではなく、法に依りたいものです。「愚者になりて往生する」
という智慧に依るのではなく、その心、思いに依りたいですね。
稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一 千利休
ここにも、法と識があるようですね。千利休と言う人は、親鸞級の大物だったんでしょうね
一切聖人、道果を得と雖も、自から稱説せず。稱説せざるゆえに、心悔恨せず。これを知足と
名づく。 (大般涅槃経要門 親鸞肉筆 専修寺 蔵)
菩薩はいかんに四事に親近す。いわく四無量心なり。何等をか四となす。一には大慈、二に大
悲、三に大喜、四に大捨なり。この四心によって能く無量無邊の衆生をして菩薩心をおこせしむ。
(大般涅槃経要門 親鸞肉筆 専修寺 蔵)
念仏を教えるとなれば、指導者は、率先して捨を実践しなければならない。
605 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/03(木) 01:36:03.77 ID:M2bLaZIy
まさに十二部經を讀誦し、書寫し、解説し、念佛し、念法し、念?し、戒を念じ、天を念じ、
捨を念ずべし。これを捨を修すると名づく。(大般涅槃経要門 親鸞肉筆 専修寺 蔵)
書寫し、解説し、念佛し、念法し、念?し、戒を念じ、天を念じ、最後に捨を念じる。学んだ
ことを全て捨てよう。
「十よりかえるもとのその一」。まさに愚に返ることですね。
一度は様々なことを学び、その上でその全てを捨てようではないか。難しくても、その道を進
みたいですね。
>>601 は後日。
606 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/03(木) 12:53:25.67 ID:M2bLaZIy
浄土に限らず「死後なんらかの形で存在する」「死後の世界はある」という事も"万人が認識で
きる"形では証明しようがないと思う。
私たちは何も分かりません。本当に愚ですね。これでいいんですよ。愚者として生じ愚者のま
ま往生する、それが浄土宗ですね。
感想を言えば
>>603 は、経典、諸論、解釈、歎異抄を自分のストーリに従ってつまみ食いし
ているだけのように思えますよ。以上
>>604 × ここにも、法と識があるようですね。
○ ここにも、法と智があるようですね。
607 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/03(木) 15:11:27.64 ID:M2bLaZIy
>>606 がちょっとわかりにくいレスになっていますので、書き直します。
>>603 さ
んも知っている他スレから少し引用します。
「・・・浄土に限らず「死後なんらかの形で存在する」「死後の世界はある」という
事も"万人が認識できる"形では証明しようがないと思う。・・・」
以上、引用しましたが、本当にこんなことでいいのでしょうか?
「私たちは何も分かりません。本当に愚ですね。これでいいんですよ。愚者とし
て生じ愚者のまま往生する、それが浄土宗ですね。」
本当にこんなことでいいのでしょうか。
ぼくはいけないと思います。「愚者になる」と「最初から愚のまま」というのとは、
天地の開きがあるでしょう。
感想を言えば
>>603 は、経典、諸論、解釈、歎異抄を自分のストーリに従って
つまみ食いしているだけのように渡海難には思えますよ。以上
608 :
C級 :2013/10/04(金) 08:38:25.86 ID:sjDW+uRp
>>607 いやいや意見のスレ違ですね、
たとえば支那文字を駆使した漢文体で書かれた教行信証などは
プロ中のプロの対する解説書で
アマチュアの凡夫が理解できるはずもなく豚に真珠とはこのことです。
だから親鸞さんを理解するのはあくまで書簡集と歎異抄それの解説書なんです。
そのことを逆に考えたらとんでもない間違いに陥ります。
教行信証の中の思想は仏教一般の教科書であり親鸞が到達した地点の説明です、
親鸞思想の到達点=教行信証
浄土教の教え=選択集、書簡集、歎異鈔
となるわけです。
私は渡海さんが間違ってるとか言ってるわけではない、本願寺のプロ
(つまり衆生に浄土教を教える立場としてもっと勉学に励めと言うのはよくわかる)
しかしサロンの住民はほとんどすべてがアマチュアのですのでプロの解説をする
渡海さんのとはボタンのかけ違えのようですね。
609 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/05(土) 11:10:05.54 ID:1AaBbAqe
>>608 >そのことを逆に考えたらとんでもない間違いに陥ります。
なるほど。そのように
>>608 さんは心得ましたよということでしょうね?。
>教行信証の中の思想は仏教一般の教科書であり親鸞が到達した地点の
説明です
なるほど。そのようにに
>>608 さんは心得ましたよということでしょうね?。
心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の
御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たる
と思うことは、あるまじきことなり(聞書き)
聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごと
なり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までと
おりそうらわば、往生すべきなり。(聞書き)
四月九日に、仰せられ候う。「安心をとりて、ものをいわば、よし。用ないと
ころをば、いうまじきなり。一心のところをば、よく、ひとにもいえ」と、空善に
御掟なり。(聞書き)
故法然聖人は、浄土宗のひとは愚者になりて往生すと候いしことを、たし
かにうけたまわり候いし(末灯抄)
いずれも、我が肝に銘じておきたい珠玉の言葉ですね。
610 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/05(土) 13:00:15.08 ID:1AaBbAqe
>>601 >極楽浄土が娑婆の念佛道場???そういう意味ですかw それでは往相回向と還相回向の違い
がまるでないじゃないですか? 還相回向と言うのはあくまで臨終の後ですよと。
妙法を行ずるみぎりをば法花三味の道場といふ。念佛三味の道場もその義おなじかるべし。
〜 このゆへに穢土をもて淨土に准(じゅん)じ、私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場
とし、念佛をつとむる會座とするなり。(至道抄 存覚)
医療を実践する砌(みぎり:場所)をば病院という。念佛三味の道場とその義おなじかるべし。
各地に現実に存在する病院の中に、理想的な病院など存在しない。どこでもかしこでも、僅か
ながらであっても、様々な克服すべき問題点をもっている。矛盾点を抱えている。それでも、ど
この病院でも、みな、理想の病院を目指し、理想的な病院になろうと奮闘している。理想の病院
を目指し、理想的な病院になろうと奮闘しているからこそ、必ずしもまだ理想的はないが、理想
の病院に准じて、現実の病院も「病院」とういう。理想を忘れ、理想を無視し、ハチャメチャな
ことをしているところがあれば、仮に「病院」と言っても、それは世を欺く仮の名であり、実体
はとても病院と言える所ではない。
理想の病院を目指し、所属する医師が理想的な病院にしようと奮闘しているなら、かりに粗末
な荒(あば)ら屋でも、理想的な病院に倣って、そこも立派に病院と言えるだろう。 椅子と机
を置き、粗末な医療機器があるだけでも、医療を実践する病院となる。
病気になった。あるいは怪我をした。そうした場合、我々は自分の自由意思で病院に行く。そ
のように思っている。しかし、重病であればあるほど、大けがであればあるほど、我々には選択
の余地がない。できるだけ近くの、できるだけ大きな病院に行かなければならないのだ。救急隊
を要請し、大きな力に引っぱられるように、見えない力(他力)に引きずられるように、転げ込
むようにして病院に行く。患者側に、行く行かないの自由選択の余地は無い。
611 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/05(土) 13:02:46.39 ID:1AaBbAqe
自由選択の余地の無い勅命(行の巻)のような力、我々を病院に引きずり込む力(他力)はな にか。我々はどうして病院に駆け込むのか。考えてみよう。病院には正しい医学(教)がある。 医学に基づいた医療(行)がある。正しい医療による回復がある(証)。この教行証を客体し、 これに対応する主体としての信頼(信)がある。教行証を敬信(教行信証 前序)するからこそ、 病院に転げ込んでいく。 最も正しい医学があり、最も正しい医療があり、最も正しい回復がある病院、それが理想の病 院である。現実の病院は理想の病院ではない、しかし、現実の病院には理想に准じた医療がある。 そう信じるからこそ、非理想の病院にでも転げ込むのだ(往相)。信じられない病院などには、 誰も行こうとはしないだろう。 当病院では、医療を行いません。なぜなら、ここには理想がないからです。患者を迎えた病院 がそんなことを言ったらどうなる? 治療と看護という医療行為は、臨終後に行います。臨終前に医療行為を行えば、往相と違いが まるでないではないですか? 治療と看護は臨終後に行います。それまでは、私どもが大事なお話をします。聞法をして「あ あ理想の病院に行けるんだ」と信じることができれば、臨終後に理想の病院に行けますので、臨 終後に理想の病院で治療と看護を受けて下さい。 現代の浄土真宗というのは、意味不明な、常識外れの宇宙人のような主張をする。現代の浄土 真宗よ。正気に返れ。目をさませ!!。
612 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/05(土) 13:05:06.12 ID:1AaBbAqe
還相とは何か。 かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死 の稠林に回入して、一切衆生を教化する(証の巻)。 病院は、転げ込んできた患者に、理想を目指したしかし非理想の現実的な治療と看護を施し、 患者に社会復帰できる元気を回復させて社会に戻す。 患者は元気を取り戻して社会に戻り、社会に貢献する。病院で回復した患者は、それでもなお 病院に残留するという自由はない。いったんは見えない力(他力)で病院に引き込まれた患者は、 再び強制的に退院を要求される。有形無形の力(他力)で病院から追い出される。回復した人は、 再び社会に戻って社会に貢献しなければならいのだ。 現代の浄土真宗というのは、常識外れの宇宙人のような主張をする。個人的には本願寺コミン テルンの策謀だろうと僕は考えている。宗教音痴の清沢満之による歎異抄の公開を奇貨とし、東 西本願寺にはコミンテルンが爆発的に増殖した。徳川時代以降青息吐息だった本来の浄土真宗 は、本願寺の中で最後の止めを刺されてしまった。 念仏道場で奢摩他・毘婆舎那の実践訓練をしないなら、治療と看護を放棄した病院と同じだ。 病院の名に値しない。浄土に准じた念仏道場の名に値しない。 病院が、治療と看護を放棄し、聞法会と称して馬鹿話ばかりしていたらどうなる。そんな病院 は潰れてしまえ。奢摩他・毘婆舎那の実践訓練をしない念仏道場は、存在すること自体が異常で ある。僕はそう思う。
613 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 13:08:39.80 ID:+D+T0Gf/
親鸞聖人はお山での修行時代に止観の修習をされたでしょうから 教えることは可能だったでしょうね
614 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/06(日) 11:58:27.68 ID:lkbegLHO
>>613 >親鸞聖人はお山での修行時代に止観の修習をされたでしょうから教えることは可能だったでし
ょうね
「教えることは可能だった」というだけでなく、天台止観を大衆に教えることこそが親鸞のライフ
ワークだったと思います。
親鸞の時代、天台止観は御皇室と貴族と僧侶の独占物だった。新興の勢力として台頭し、国家
の政権と地方政権を事実上掌握した武士などは、ほとんど読み書きもできず、止観などは話に聞
いたことも無いという人々ばかりだったと思います。彼等に文字書きそろばんを教え、しっかり
した止観を教えたい。平安末期以降、鎌倉・室町時代の天台系仏教の最大のテーマがそれだった
でしょう。栄西・道元が宋に留学したのも大衆に禅を教えるためであり、法然・親鸞・日蓮が比
叡山を下りたのもその為だったと思います。
三骨一廟 金沢専光寺伝
我が身は世を救くる観世音なり。 定慧契る女は大勢至なり。 我が身を生育せる大悲の母は
西方教主弥陀尊なり。 末世の諸の衆生を度さんが為に 父母所生の血肉身を
勝地たるこの廟窟に遺し留めて 三骨一廟にするは三尊の位なり。
大阪府南河内郡太子町に叡福寺北古墳とよばれる墳墓があります。聖徳太子と生母の穴穂部間
人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)皇太子妃の膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノ
イラツメ)が眠っています。墳墓近くに石碑があり、石碑には碑文が刻まれていました。現在で
も残っているのかどうかは分かりませんが、親鸞の時代にはあったそうです。親鸞が書いた「上
宮太子御記」の末尾には石碑全文が載っています。金沢専光寺伝の三骨一廟というのは、石碑の
一部を抜き書きしたものです。
615 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2013/10/06(日) 12:00:48.98 ID:lkbegLHO
「我が身」つまり「私である聖徳太子は救世観音である。自分と結婚してくれて定慧を契った カシワデノホキキミノイラツメは大勢至菩薩である。救世観音の自分を生育してくれたアナホベ ノハシヒトノヒメミは西方教主弥陀尊である。将来の多くの人々を苦しみから救うため、血肉を 分けた一族を、大阪府南河内郡太子町という優れた地に墳墓を造営して留める。三柱を一つの墓 に合葬するのは、阿弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩とを一体とする考え方による」 金沢専光寺伝は、「〜西方教主弥陀尊なり。」と「末世の諸の衆生を度さんが為に〜」との間 が落ちています。「真如真実本一体 一体現三同一身 片城化縁亦已尽 還帰西方我浄土」とい う意味深長な言葉が欠落しています。金沢専光寺伝の三骨一廟文は何を言っているのかを考える ことは、親鸞の時代の念仏道場の思想を考える上で重要でしょう。 親鸞は、この三骨一廟文をいつ、どうして書いたか。どうして金沢専光寺に伝わっているのか。 大胆な仮説を建ててみます。金沢の専光寺は親鸞の時代には存在しなかったそうです。恐らくこ の三骨一廟文は、親鸞の時代、専光寺の近在に念仏道場ができ、そのとき親鸞がそこに送った祝 電だろうと考えます。ここから推理をしてみます。 当時、念仏道場はどのような構造になっていたか。親鸞の時代から少し下がりますが、存覚が 重要な文書を残しています。それと合わせながら、親鸞の時代の念仏道場を考えてみたいと思い ます。
616 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 01:41:59.38 ID:Gv2yfY3Y
説法サンプル 「正信念仏偈」の題名は、(1)相違釈として「正信と念仏を明らかにする偈」 とも、(2)依主釈として「念仏を正信する偈」とも見ることができる。いずれ にせよ、正しい信について述べられた歌なのである。 逆に言うと、正しくない信があるのだ。まず「迷信」であるが、これは仏教 の因果の道理に背く信だ。それ以外にも、「傍信」(聖道門の信)、「邪信」 (十九願の信)、さらに「雑信」(二十願の信)などの自力の信心に対して、「 正信」とは、第十八願の他力信心のことである。
617 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 01:54:40.12 ID:Gv2yfY3Y
説法サンプル 「正信念仏偈」の題名は、(1)相違釈として「正信と念仏を明らかにする偈」 とも、(2)依主釈として「念仏を正信する偈」とも見ることができる。いずれ にせよ、正しい信について述べられた歌なのである。 逆に言うと、正しくない信があるのだ。まず「迷信」であるが、これは仏教 の因果の道理に背く信だ。それ以外にも、「傍信」(聖道門の信)、「邪信」 (十九願の信)、さらに「雑信」(二十願の信)などの自力の信心に対して、「 正信」とは、第十八願の他力信心のことである。
618 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 02:06:50.86 ID:Gv2yfY3Y
他力信心は、冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」である。これは親 鸞様の体験告白(自督)であると共に、一偈の要点で、正信偈全体が、この一 行に収まるといってもいい。
619 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 02:28:50.53 ID:Gv2yfY3Y
そこから、「法蔵菩薩因位時〜」という真実の示現があり、弥陀の救済 の因果が説かれていくのである。 それを教えてくださったのが、釈尊である。釈尊は、弥陀の救済の因果 、弥陀の本願の救いを説かんがために、ご出世になった(如来所以興出 世 唯説弥陀本願海)。われわれ五濁の衆生は、ただその釈尊の真実の お言葉=成就文を信じさせていただくのである(五濁悪時群生海 応信 如来如実言)。
620 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 02:44:11.04 ID:Gv2yfY3Y
釈尊は、他力の信心の五徳をお述べくださるが、しかし、それは自力で は絶対に信じがたい、難信(信楽受持甚以難 難中之難無過斯)なのであ る。そこで、釈尊の真意を体得されたインド、中国、日本の七高僧方の ご出現があって、釈尊の本意、弥陀の本願が誰のためなのかを明らかに してくださった(顕大聖興世正意 明如来本誓応機)。
621 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 03:22:15.89 ID:Gv2yfY3Y
釈尊から龍樹菩薩へ、七高僧に次々とバトンが受け継がれ、それぞれが 発揮をなし、弥陀の本願のお目当てを明らかにしてくださったのである 。つまり、無辺の極濁悪を救うために、釈尊(大経)を通して、弥陀の本 願を弘通してくださったのであるから(弘経大士宗師等 じょう済無辺 極濁悪)、いかなる人たちも、共に、どうかこの高僧の説を、唯、信じ させてもらいましょう(道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説)と、正信ゲは 結ばれている。
622 :
神も仏も名無しさん :2013/10/08(火) 03:48:48.31 ID:Gv2yfY3Y
正信ゲは、南無阿弥陀仏に始まり、南無阿弥陀仏に収まるのだが、その 南無阿弥陀仏は、「重誓名声聞十方」であって、釈尊の説法として、ま たその正意を受け継いだ七高僧の教えを通して、親鸞様に届き、ご本願 を喜ぶ身となられたのである。だから、私達は、親鸞様の正信ゲを通し て、そのことをお教えいただけるのである。
623 :
神も仏も名無しさん :
2013/10/08(火) 03:57:56.59 ID:Gv2yfY3Y さらに善智識の直々の声を通して、懇ろにお聞かせに預かっているのだ 。おかげで、片州の、末法の泥凡夫なれども、南無阿弥陀仏を聞信する ことができるのだ。弥陀の本願が、釈尊の真実の言葉となり、七高僧の 教説、親鸞様のみ教えとなって、善智識のご説法を通して、信じさせて いただく。それが正信するということである。