無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ(和讃)
親鸞における供養論は複雑である。問題点を指摘しておく。愚禿抄では、五正行として礼・読・観・名・
讃嘆供養を列記している。
化身土巻では、散善義を挙げ、五正行として礼・読・観・名・讃嘆供養を列記し、序文義・散善義を続け
て挙げ、浄土の要逢いがたし、と言う。
化身土の自釈では、五正行として、礼・読・観・名・讃嘆を列記し、辺地・胎宮・懈慢界に至るという。
浄土の要逢いがたしという行の中には供養が入っている。辺地・胎宮・懈慢界に至る行には、礼・読・観
・名・讃嘆が入っているが、供養が落ちている。非常に目立たない記載だが、親鸞は全神経を張り巡らして
書いている。供養は「浄土の要逢いがたし」行であり、自分は無戒名字の比丘に過ぎないが、「すすめしむ」
という。非常にはっきりした意思を示している。
親鸞の真意を根本から見ていきたい。
>>782 > 長文は読む気がしないから三行でまとめて
1行目 親鸞は供養をすすめる。
2行目 供養では、浄土の中心との出会いはない。
3行目 供養に化土往生はない。
三行にまとめました。