浄土真宗なのに供養って必要あるの?

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794渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連にひとしくて 供養恭敬をすすめしむ(和讃)

 親鸞における供養論は複雑である。問題点を指摘しておく。愚禿抄では、五正行として礼・読・観・名・
讃嘆供養を列記している。
 化身土巻では、散善義を挙げ、五正行として礼・読・観・名・讃嘆供養を列記し、序文義・散善義を続け
て挙げ、浄土の要逢いがたし、と言う。
 化身土の自釈では、五正行として、礼・読・観・名・讃嘆を列記し、辺地・胎宮・懈慢界に至るという。

 浄土の要逢いがたしという行の中には供養が入っている。辺地・胎宮・懈慢界に至る行には、礼・読・観
・名・讃嘆が入っているが、供養が落ちている。非常に目立たない記載だが、親鸞は全神経を張り巡らして
書いている。供養は「浄土の要逢いがたし」行であり、自分は無戒名字の比丘に過ぎないが、「すすめしむ」
という。非常にはっきりした意思を示している。
 親鸞の真意を根本から見ていきたい。











>>782
> 長文は読む気がしないから三行でまとめて

1行目  親鸞は供養をすすめる。
2行目  供養では、浄土の中心との出会いはない。
3行目  供養に化土往生はない。

            三行にまとめました。