1 :
神も仏も名無しさん :
2009/07/26(日) 20:51:15 ID:e2gumxkp ---論題---
無霊魂論としての仏教
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar2.pdf 前シリーズ、【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】に続き、
今回は、無我の問題について議論します。
仏教は無我を説くことでバラモン教との違いを明確化したといわれています。
しかし、仏陀は本当に「アートマンは無い」と説いたのでしょうか?
「それら(五蘊)はアートマンではない」(非我)としか説いていない、とも云われており、
中には、「仏陀はアートマンを説いていた」という意見も・・。
再び、当スレではこの仏教の根底を覆しかねない大問題について討論します。
*仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの引用と解説は特に歓迎します。
(投稿「750-800」を目安に善意の方どなたか次スレを立てて下さいm(__)m)
3 :
神も仏も名無しさん :2009/07/26(日) 20:57:03 ID:hc0GTOyV
前スレ
>>874 >なぜなら、主体の無いもの同士、縁起のしようがないからである。
「因」も「果」も、縁起の産物でなければ、首尾一貫しない。
> 他者との共生などは言っていない
言っても言わなくても、相互依存性・関係性の自覚は、共生の不可欠な要件。
なお、「相互依存性・関係性」の概念は、不生不滅といえる。最初の生
命であるシアノバクテリアも群生であったし、肉体が滅びても、その原
子と万物との関係性は継続する。
4 :
神も仏も名無しさん :2009/07/26(日) 21:29:22 ID:Po8EylHm
アートマンがあるとか、無いとかって、そんなに大事なの? ある場合、無い場合でどう変わるのですか?
5 :
歌います :2009/07/26(日) 21:47:19 ID:c5NnsSv9
ベイベー、ベイベ、ベイベ〜(アイム・ゴナ・リーブ・ユー)しずか…俺は夏が終わったら〜お前から離れなきゃならね〜…俺の言う意味わかるな?一日十回風呂に入るキチガイ女、いつかこんな日が、そんな予感が〜、ドラえもんの苦労も水の泡〜お前いい女だった。あばよ
6 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 21:48:22 ID:GVc3r02x
>>4 アートマン(霊魂)があるならば神がいる。
なぜなら神がいないとアートマンの説明がつかないから。
>>6 ありがとうございます m(_ _)m
仏教では、輪廻や前世の記憶とかの内容は無いのですか?
8 :
神も仏も名無しさん :2009/07/26(日) 22:01:07 ID:1yP+cPzo
>>6 やっぱり、神が「居て欲しい」から、アートマンに執着しているのだなw。
アートマンがあっても、相互依存的、関係的、相対的存在だから「空」であり、
神も同様である。
9 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 22:01:51 ID:GVc3r02x
>>3 >「因」も「果」も、縁起の産物でなければ、首尾一貫しない。
★ 意味がわからない。
>言っても言わなくても、相互依存性・関係性の自覚は、共生の不可欠な要件。
★ 戦国時代は、相互依存・関係性があっても、弱肉強食の殺し合い。
>なお、「相互依存性・関係性」の概念は、不生不滅といえる。
★ その概念からは共生を導くことはできない。
それに共生の思想は現実的な力にならない。
10 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 22:10:08 ID:GVc3r02x
>>8 話が逆。アートマンがいるから神がいる。
それから、アートマンが有るなら相互依存にならない。空ではない。
神が相互依存していたら絶対ではなくなる。神も相互依存しない。
11 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 22:12:10 ID:GVc3r02x
>>7 その件は常連の宝珠氏が詳しいので待ちましょう。
余りに外道過ぎて話しがかみあわない ◆xQ2N4RcE0E 誰も指摘されないからって、いつまでアホさらすんだろうね激藁。
13 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 22:27:51 ID:GVc3r02x
<空という妄想の解毒剤> ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
アホが。 物質的になるほど悟りから遠ざかるというのに・・・ 次元が上がる程偉いってのはどこのバカボン教ですか?
15 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/26(日) 22:35:54 ID:iopT6Ryp
>>7 このスレで論じているのは、
仏陀はそんなことは説かなかった筈なのに、説いたことにしたら“デタラメ”でしょうよ!!
そして、仏陀が説いてないことを説いたことにするのは辞めようよ、という話です。
また、実際にあるのとないのとでは一体、何がどう違うのか?
についても、“自分自身で考えてみる”のも面白いと思います。
輪廻と前世の記憶などの話題は全シリーズの
【最終】仏陀はアートマンを説いた!?【決着】
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html でやっていますよ^^
前世の記憶は通常では引き出せない状態ですべて記録されており、
修行が進んで意識レベルが高くなると記憶の回想ができるようになります。
という話を、そんなことは在り得ないものとして批判する方もいます。
前世の記憶どころか前世自体がないだろう、という意見も・・
そういった混沌とした、実にいろいろんな意見が論じられています。
もし良かったら、
過去ログを時間のあるときにでもご覧下さい。
あなたが納得する意見があるかもしれないし、
またはないかもしれません^^
16 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 22:47:41 ID:GVc3r02x
竜樹の非有非無の中道 中論15章10詩 生命が有りというのは常住に執著する偏見であり、 生命が無しというのは断滅を執する偏見である。 故に賢者は、生命が有りということと 生命が無しということに執著してはならない。 生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・ これが非有非無の中道である。 空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
愚か者が。 竜樹の説くところは、まさに「非我」 きっちり「否定するという意志」がある。
18 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/26(日) 22:54:19 ID:iopT6Ryp
本日は、 大型都市?の市立図書館へと行ってきました。 20年ぶりでしたが、同じ場所で立て替えられていて綺麗なものでしたね^^ 収穫は、 まっ、あったかなぁ?と思います。 一応、数冊から最低の必要箇所だけコピーをとり、 帰りに某市内、随一の古書店へ10年ぶりくらいに入って、 『東洋思想』全10巻/東京大学出版刊(初版1967年)中の バラの2冊セット売りを購入してきました。 (すべて私の主張を補完してくれるものであり、ま〜こんなところだと思います) 余談、図書館を出る際に玄関に置いといた私の傘が盗まれていました。 かなりお気に入りだったのでショックです。 話を聞くと、学生の利用が多くて頻繁に盗難の件で警察が来ているとのこと。 きっと因果応報ですねぇ!エッ、いつの何の??(笑)
19 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/26(日) 22:56:34 ID:iopT6Ryp
>>15 訂正:
【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】
シリーズが正解です。失礼しました。
20 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/26(日) 23:13:57 ID:GVc3r02x
坊主には二種類のタイプがある。 1 小難しい顔をしている横柄そうな坊主 蛇に咬まれたようである。 2 困った顔をしている親切そうな坊主 空の悟り=脳死状態に納得できないのだろう。
外道には2種類いる。 現実を見れない臆病者と 現実を偽る卑劣漢
空論者が尊大で横柄で傲慢になる理由 ・・・チャンスがあれば、やりたい放題、言いたい放題 1 いっさいを空とし、自分が世界の支配者になったつもりになる。 2 いっさいを空にするから、その人を押さえつけるものがない。 3 そうでなくても、知らず知らずのうちに唯我独尊になる。
アートマン論者が尊大で横柄で傲慢になる理由 ・・・チャンスがあれば、やりたい放題、言いたい放題 1 いっさいを空とし、自分が世界の支配者になったつもりになる。という間違った空の概念をもっている。 2 押さえつけるものが無ければ、善を行えない横着者。 3 神の代弁者のつもりでいる精神障害者。知らず知らずのうちに唯我独尊になる。
24 :
神も仏も名無しさん :2009/07/26(日) 23:34:57 ID:Po8EylHm
>>11 >>15 ご丁寧に、ありがとうございました m(_ _)m
スピリチュアルや、精神世界の本でも、魂という言葉が
普通に出てくるから、好きな方を選択したらダメなのですか?
他者を納得させたり、同意を求めるような行為は、しなくて
済むと思うのですが。
25 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/27(月) 00:19:35 ID:Uze9tOo8
>>24 もちろんそれは、
あなた自身が最も納得できるものだけを受け入れるべきです。
尚、できることならば、心をオープンに開いて(崇拝意識は除いて)、
(最初は勝手にすぐ限定せず)幅広く見聞きすることを推奨します。
そして、最終的に決めるのは自分の判断なのです。
他人さまにいわれたからではない、ということ。
全く納得もせず、
或いは内容に無関係で誰かの主張を全面肯定したり、
主張内容に関係なく特定の個人の意志に従うことを追従といいます。
相手が追従するよう意図的に操作することを洗脳といいます。
すぐには決めないで、
ちょっと離れてところから広くものごとを見て参考にすることです。
このスレシリーズも自分の参考なれば、それでいいのです。
ゆっくり、楽しみながら前進して下さい。
26 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 01:09:56 ID:ZQ381aM6
>>9 >★ 意味がわからない。
「因」と「果」も「相互依存性・関係性」の産物でなければ、「空」にはならない。
>★ 戦国時代は、相互依存・関係性があっても、弱肉強食の殺し合い。
戦国時代は、佛教よりも、神道やキリシタンのほうが優勢だったのだろう。
キリシタン大名は、よく戦った。
>★ その概念からは共生を導くことはできない。
>それに共生の思想は現実的な力にならない。
相互依存・関係性の自覚なくして、共生はありえない。人間社会が維持されて
いるのは、この思想基盤の故である。
>>10 >神が相互依存していたら絶対ではなくなる。神も相互依存しない。
アートマンや神こそ、相互依存の典型。生命の発生以来のもろもろの関係を
想像してみよ。朝から晩まで、君のアートマンはどのようにして維持されている
かを、考えてみよ。神も、人間の空想がなければ、存在しえない。無神論者に
とっては、神は存在しない。
神を否定したのが、釈迦や佛教の比類のない偉大さである。そのお陰で、佛教は、
キリスト教とは全く異なり、2500年間、殆ど人を殺すことがなかった。
これ以上の佛教の功績はない。
27 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 01:23:04 ID:ZQ381aM6
>宝珠愚者氏へ 佛教を論じたいのなら、まず、君の神智学とキリスト教とを完全に捨てる こと。さもなければ、他教の宣伝に過ぎず、「佛教の議論」にはなり得ない。 佛教を「利用して」、超オカルト宗教の布教するのは、止められたし。
>>25 いつもご丁寧に、ありがとうございます m(_ _)m
スピリチュアルから、精神世界に興味を持ったので
魂はあると思ってます。 霊を見たことがありますし
ちょっとした奇跡体験もありますので。
霊的な事を信じられない人は、そういう経験が無いだけで。
逆に、その人に、信じる必要性が無いだけだと思います。
仏教は結構好きです。 仏教の人って人格が出来てる人が
多いので。 たまに悟りスレを読んだりしています。
29 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:30:34 ID:zaT3plQi
まとめ(その1) 仏陀のスタンスについて ブッダは経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関しては沈黙し、(無記) 経験・観察できる世界においては無我(アートマンの否定)を主張した。 すなわち、仏陀は「認識不能域」については無記とし、 認識可能域(現象界)においては、はっきりとアートマンを否定した。 マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。 わたしが説くことは説くと了解せよ。 (ブッダ、「毒矢のたとえ」)
30 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:31:31 ID:zaT3plQi
まとめ(その2) 仏陀の否定法について ブッダは形而上学的ことがらについては沈黙したといわれるのですから、 「アートマンは存在しない」となどと主張せず、知覚し経験できる、 人間存在を成立させている要素(色・受・想・行・識)のひとつひとつに対して、 これも非我なり、これも非我なり、と否定する方法を取ったわけです。 たとえば、ある図書館において、「その本はない」などと言わず、 その図書館の蔵書すべての本をひとつひとつしらべて、「これはそれではない」 「これもそれではない」とすべての本について否定する、という方法がとられているわけです。 その結果、「その本はない」といわなくても、その本が、知覚し経験できる範囲には、 存在しないことが示されるのです。 仏教はジャイナ教と同じく諸要素の集合論をとる。しかし、ジャイナ教が業物質の担い手 としての霊魂(ジ−ヴァ、生命体)を想定したのに対し、仏教は肉体を物質(色) の要素一本にまとめる代わりに、こころを感覚(受)・想念(想)・意志(行)・認識(識) の四種の作用に分解し、そのいずれもがアートマン(霊魂)ではない、という論理で、 間接的に霊魂の実体性を否定し、同時に業とはそれらの心身の営むはたらきとみることで徹底した。 (高崎直道、『インド思想論』、法蔵館、12頁) 仏典のいわゆる無我説法といわれる経典は、いずれも、まことにみごとなまでに、 そのことを徹底しています。つまり、「アートマンは存在しない」 となどという形而上学的主張に陥らず、知覚し経験できる事柄(諸法)に関して 「これも、これも、どれも、永遠不滅のアートマンではない、 なぜなら知覚し経験できる事柄(諸法)はすべて変滅するから・・・」と主張する方法 が取られているわけです。これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったわけです。
31 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:34:38 ID:zaT3plQi
まとめ(その3) 認識不能域について 仏陀は現象界を超越した認識不能域において「アートマンが存在する」と推論したり 主張することを『おろかな考え』 『独断』 と激しい言葉によって排斥している。 知覚し経験できない世界に関しては、ブッダは、つぎのような言葉を 「一切」という短いお経の中に残しています。 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。 これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、 彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3) だから、ブッダの言う「一切」とは別の「一切」を考えて、アートマン(永遠の魂)説 に立脚して、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、 「まったく愚かな教え」であると、これを否定しました。
32 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:37:20 ID:SRJrTYwM
・
33 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:38:09 ID:zaT3plQi
まとめ(その3) のつづき 「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではない のであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、 『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、 まったく『愚かな教え』であると言えないだろうか。」 「まったくその通りです、師よ。まったく『愚かな教え』であると言わねばなりませぬ。」 (マッジマニカーヤ 中部経典22) ヴァッチャというある修行者がブッダを訪ねて、「世界は常住であるかどうか」 「世界には辺限があるかどうか」「霊魂と身体は一つであるかどうか」 「人は死後にもなお存在するかどうか」などの質問をしますが、これらの問いに 関してはブッダは意見を持たないことをヴァッチャに告げます。そこで、 ヴァッチャは、「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、 かように一切の見解をしりぞけられるのであるか」と問います。そこで、ブッダは答えます。 ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、 『独断に陥っている』ものであり、 見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。 (マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)
34 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 02:39:38 ID:zaT3plQi
まとめ(その4) 最終結論 すなわち、知覚し経験できる事柄にはアートマン(永遠の魂)はない。 なぜなら、わたしたちの知覚し経験できる事柄はすべては変滅するからである。 知覚し経験できない事柄に関しては沈黙すべきである。なぜなら、そのような事柄は 人間の認識能力を越えており、真実として確立できるものではないからである。 仏教の無我の思想(アートマン説の否定)というのは、厳密にに言おうとすれば、 このように二つの側面に分けて理解すべきである。 仏教はさまざまな思想を含む複雑な思想ですが、アートマン説(すなわちアートマン が存在すると主張すること)だけは一貫して否定してきました。 この無我の思想だけは、始めから今日に至るまで、すべての教派を通じて、 一貫して伝えられてきた仏教の本質的伝統です。 「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、 無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、 つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、 永遠に生き続ける魂などはない、というものです。 これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。 (ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 以上、佐倉氏の説を基にまとめてみました。 連投すみませんでした。
35 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 08:31:05 ID:G49kcouq
>>16 >空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
いや、違いますね。
そもそも「生命が有る」とか「生命が無い」ってこと自体が論理矛盾がある。
ってことを龍樹は指摘したんじゃ〜ないでせうか?
(中論は無自性です)
生命も時間も同じです。
それ自体が単独で独立する訳はないんです。
五蘊で説明しますと、
飯を食ったときの“味”が・・・・
生命とか時間の概念と同義になる。
味(感受)が単独で独立独歩するわきゃ〜ないですね。
非常に論理的矛盾があるものが、生命の有無です。
味は関係性であって、関係が絶たれれば滅尽する。
これが空ですね。
36 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 08:58:52 ID:XNRNBl5j
論理を軽視する人の文章は読むに耐えないね。
>>36 究極まで論理を極めればそういう考えは消えるから大丈夫。
精進あれ。
>>18 ここはあなたの日記帳ではありません。
“くだらない”ことではなく、スレに沿った内容でお願いします。>ALL
39 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 11:48:44 ID:zaT3plQi
とりあえず、
>>29 −
>>34 にこれまでのまとめをしておきました。
長文により、恐縮ですがご批判があれば、承ります。
なんだか、話題が尽きてきたようなので思いつきで一つ提起させていただきたい 釈迦が一切について語ったというが、この語りはあくまで一切の分類法にすぎないと思う。 我々が一切を知るときの一切の世界は、一体どう区分されるか、という内容についてしか語っていない。 もし一切の内容を説き尽くそうとするなら、一生かかっても説き尽くせないだろう。 自分が言い知れない複雑な感情をもっているとき、それは言葉では語り尽くせない。 つまり、たとえ、受薀や識薀、あるいはその混合と一言で言っても、 それがどんな不可思議な感覚なのか薀の集積という言葉だけでは表現し切れていない。 智慧というものが例えばそうであろう。 愛もそうかもしれない。 これらは、人間に表現可能な代物ではない。 「可感(=可知)かつ不可知(=不可知了)、不可語」なものと言えるだろう。 仏教では、あえて、そういった常にゆらぐ人間の抽象観念について言及を避ける傾向がある。 愛や智や勇気や節制といったものに心うばわれ、それらを決して把握することができず それゆえ、それらが手に入らないと悩んでいるものたちに、無常をとく。 それらが手に入るとうそぶく者についてゆくなと忠告をする。 仏教は基本的に常住な本質というものを認めていない。 自分の経験の道筋を追うことによって、なぜそのように感じるか 観察していくように進め、現状の生存の原因を生活面や過去の出来事から問い直していく。 だが、そこまではいいとして、ところで仏教の説く涅槃もまた説き尽くせないものである。 どうしてこれは他と異なって手に入り、また本質をもたず、かつ常住なのだろう? 涅槃が諦めの後に浮き上がってくる境地であることと関係があるのだろうか?
41 :
遠山の金さん :2009/07/27(月) 12:08:30 ID:KyWLQpP8
ガタガタうるせえんだよ!ブッダが説こうが説くまいが「アートマン」は有る。はい、結論。クソスレ閉鎖
一つ言えるのは、覚者は「悟った!」とか「涅槃だ!」とか「彼岸に到着した!」 とかは絶対言わないことである。 これはどういうことかと言うと、 常住である涅槃に達した本人には、達したという自覚がされないからではないだろうか。 つまり、達したと思うならば、まだ「我」が残っていることになる。 だからさらに観察を進めて、 我すら残らないところまで行くとそこが彼岸であると思う。 「我、我を喪う」ということで 自覚すら出来ない境地なのだろう。
43 :
一在家 :2009/07/27(月) 13:36:39 ID:2fPB5vid
>>4 >>6 >アートマン(霊魂)があるならば神がいる。
>なぜなら神がいないとアートマンの説明がつかないから。
アートマンがあれば、常住の仏がいる可能性がある。
仏のみが常住で、あとは縁起という説もあるかも知れませんが。
世俗諦かも知れませんが、法華経では「仏は常住」で、
「人は仏になりえる」と明記されております。
「人は常住となりえる」のか「人の本質が常住」なのかは
見解の相違でしょう。
44 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 14:46:27 ID:7Whre/1g
>>43 法華経の「久遠実成の本仏」には、佛教とは異質な「オカルト性」があるから、
警戒しなければならない。法華系に一神教的要素と争いが多いのは、そのせい
かも知れない。
キリスト教(景教)の影響があった可能性も、皆無ではない。
あくまで、「人類の生命の象徴」と解釈することにより、その弊害を避ける
ことが出来るのではないか。キリスト教とは異なり、「人間」から隔絶する
ことはないのは、事実であろう。
なお、人類の生命の象徴であっても、相互依存性・関係性故に、「久遠実成
の本仏」も空である。
45 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 15:02:32 ID:KyWLQpP8
なにいってんのこの人…真実はひとつ。それは法華経の永遠不滅の釈尊。一言でも誹謗すれば地獄行き。否、場合によっては今すぐにでも災難(病気など)に襲われるかも知れない。あぶない!あぶない!
46 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 15:42:14 ID:zaT3plQi
>>45 >場合によっては今すぐにでも災難(病気など)に襲われるかも知れない。あぶない!あぶない!
お宅の信じる宗教では、一言でも釈迦を批判すれば、地獄行き、または
災難(病気など)に襲われると教えているわけか。
これは、仏罰とかいうやつかな?
どこの宗派?
47 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 16:15:01 ID:KyWLQpP8
では、きみは本気で「自由意思」なんてもんがあるとでも思っているのかね?ふむ。無理もない…自分が行為者だと思っているのだから…しかし、真実は…ブッダは当初から方便としての仮の教えを二乗に説いたにすぎない
48 :
一在家 :2009/07/27(月) 16:19:30 ID:2fPB5vid
>>44 >法華経の「久遠実成の本仏」には、佛教とは異質な「オカルト性」があるから、
>警戒しなければならない。法華系に一神教的要素と争いが多いのは、そのせい
>かも知れない。
残念でしょうが、法華経だけではございませんよ。
ディーガニカーヤの「大本経」でも、宇宙劫スケールで常住する
仏たちが登場します。
ディーガニカーヤは北伝の「長阿含」ですね。
次に貴兄は「法華経と原始仏典には一神教的要素と争い多い。」と
言うかも知れません。
49 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 16:23:33 ID:zaT3plQi
>>47 どこの宗派かは言いたくないみたいだね。
どこかのカルトなのかな?
言ってることは、それっぽいけど。
50 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 16:33:03 ID:KyWLQpP8
宗派だって?きみは19世紀的な人間だ。なるほど
51 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 16:34:29 ID:G49kcouq
>>43 >世俗諦かも知れませんが、法華経では「仏は常住」で、
>「人は仏になりえる」と明記されております。
この意味を拙者なりに解説してみます。
「人は仏になりえる」。ってことは・・・
人は仏でないことが前程でありまして、
もし人が仏に成り得たことになれば、
その時点でもはや“仏というものが対象化できない”
対象化できない。ってことは・・・
すでに仏といふ名称&その形態が滅尽してしまいます。
(この位相が仏教における勝義諦であります)
ようは、仏教は一如の法門でありますて、
仏になった時点で・・・
もはや仏を殺してしまう。
といふ奇々怪々な結論に至ってしまうのです。
52 :
一在家 :2009/07/27(月) 16:40:25 ID:2fPB5vid
自称仏教徒の大半は「釈尊は形而学上の質問には黙して答えなかった」 と信じて疑わないようですね。固執でなく確信でしょう。 二つの質問をしましょう? 「釈尊は形而学上の質問に無記だったという証拠の経典は?」 「その時、釈尊に形而学上の質問をした人は誰ですか?」 私は前スレで原始仏典における出典と質問者を紹介しましたよ。 対機説法の得意な釈尊への質問者が誰だったのかは非常に大切かと 存じます。
53 :
暁 :2009/07/27(月) 16:51:20 ID:X1uqnI1U
>>48 >残念でしょうが、法華経だけではございませんよ。
>ディーガニカーヤの「大本経」でも、宇宙劫スケールで常住する
>仏たちが登場します。
>>44 は法華経はと前置きして述べている。見解について
は賛否あるだろうけど、貴方のレスは論点をすり替えて
るだけだ。
その論法だと何でもありになる。
法華経だけではありません。細木さんも地獄に堕ちると
書いてます。とかでもよくなる。
だからレスするなら法華経について書くべきだろう。
オカルトという言葉に脊椎反射したのかは知らないが
、論点をずらすのは詰んだと思われちゃうよ。
54 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 16:51:33 ID:SRJrTYwM
>>52 釈迦がアートマンとはこのようなものだと
説いた経典でもあるのか?
55 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 16:54:45 ID:G49kcouq
>>52 >自称仏教徒の大半は「釈尊は形而学上の質問には黙して答えなかった」
>と信じて疑わないようですね。固執でなく確信でしょう。
形而上学の質問に答えられるようだと、まだ釈尊は悟ってないことになります。
何故なら、答えられるってことは観念論の域を脱していない証左になりますから。
何故釈尊は形而上学的なことに沈黙を守ったか?
この疑が解けてこそ、モノホンの仏教徒と言えるんじゃ〜ないでせうか?
易経の水準で言えば単なる障害でしかない (困卦)アートマン=サハスララ=ケテル。 これ以下の部分しかない(小乗)仏教は 本物の仏教ではなく、本物の仏教への 準備用メニューで、そこまでの教えの 十二支縁起は無明以下すべて嘘だ。 本題である釈尊の法に入ると、釈尊自身の 本地(最優位価値観であり最大生命機能) である【釈迦如来型】=仏界の諸機能の なかではリセット・コードが登場する― そして、基本型が22にまで拡大し、 相互関係とそのリセットが現れる。 釈迦如来の法とはダイナミック過程でしか ありえないため、今まで通常の十二支型 を個別に扱ってきたのが同時に使われ、 その間の構造としての十干型が登場、 更に通常循環順序以外の十二支の 循環順序文脈が登場(易経参照)。 【仏界】諸機能の易経における実現である 吉(秩序・空間:一意指定用)元亨利貞の うち他に由来する秩序である貞または 易経の基本文脈である亨=統計的 傾向・期待値評価における解釈の 震為雷が【釈迦如来型】由来だ。 釈迦如来型に対応する名も機能分類枠も、 まして実例(各種秩序の切り替え)さえも 登場しない小乗仏教よりは易経が一応 全て実用で揃っている点で優れている。
57 :
一在家 :2009/07/27(月) 17:19:17 ID:2fPB5vid
>>55 机氏
>形而上学の質問に答えられるようだと、まだ釈尊は悟ってないことになります。
>何故なら、答えられるってことは観念論の域を脱していない証左になりますから。
>何故釈尊は形而上学的なことに沈黙を守ったか?
>この疑が解けてこそ、モノホンの仏教徒と言えるんじゃ〜ないでせうか?
貴兄は親切な方ですね。
私みたいな外教者で仏教初心者に丁寧にレスを下さるからです。
長部経典の「ポッタパーダ経」では、異教の修行者のポッタパーダが
釈尊に形而上学の質問をしまして、釈尊は「私は黙して答えません。」と
おっしゃりました。
そして、続けました。
「ポッタパーダは、異教の見解・忍耐・目的・実践・師によっているから
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
文脈から見て、釈尊を師とすれば悟れるという意味でしょう。
釈尊は当然悟っているし、彼の高弟達も知っているということになります。
アートマンとは 自我のことではなく仏性のことではないのか? 煩悩に覆われた心(=まだ自我あり)を清めていくと 仏性(=自我消滅ごの真我)という精心が現れる。 というかもともとあったのが見えなかっただけ。
純素材の状態=単一性の自覚が無力感などの 不快感として感じられてこそ正常な生命であり、 それでも個々の型の指定の一意性としての 指定対象の純化は避けては通れない壁。 生命を実現する構造は型一意指定を 中心とした編集や構成で創るからだ。 十干十二支型=十惑星十二宮型で構成される 世界は、それ以外の全七つの起源的役割を (三身如来枠で)型と役割毎に決められた 型から選択して関係付けることによって 構造や機能の形式を設定され、また 配列文脈に依る型内特色も定まる。 各種機能実現水準やその為の資源配分など さまざまな量的・質的調整を定める各種の 評価尺度基準も全七種の起源の役割や その応用である五行のシステムであり、 七起源役割と十基幹構造と十二通常 素子の各配置が無量義を産む一義。 それに比べて… 十二通常素子さえ同時に運用できない、 配置は通常の色相順だけ、構造なし、 したがって組み直し用リセットである 【釈迦如来】の出番も無い、当然、 起源の南無妙法蓮華経どころか 妙法蓮華経の五行さえもない。 =小乗経のどこが釈迦如来型個体が 説いた動的運命の真理=仏法だ? 動的過程でもないのに真理=不変 ・普遍・唯一に何の価値がある?
般若心経ではっきりと初心者呼ばわりされた アートマンレベル程度では、運雷威音王の 生命世界モデル・十干十二支の世界樹 および限定運用法の易経どころか、 啓示宗教の創世記の時点でもう 全く水準に届いていないぞ? ただの通過点を目標にしてもその通過点にさえ 届かないのが現実だ、逃げてないで化城= アートマンより先を見てとっとと超えて来い、 そんな近所の足元を見ててスピードが 出せるわけないだろう、雑魚のまま のんびりしているんじゃない!! …まぁちょっと熱くなったが、そういうことだ。 というか、日本人なら下手すると自覚無く 先に超えてしまっているんじゃないか? 文脈切り替え≒集合化用演算系の 切り替えだが、日本諸語の場合、 日常的に全種使っているぞ? 実質、少数しか使ってないインドや、たった 一種類だけで構文をほぼ実現している 主格言語などはともかく、それらが 得意分野の中国では『色』などの 単語はそのまま使うことができ、 日本では子供でも使い分ける。 金行からの積み上げを前提とした土行こそ 仏界の正体であり、その四種の秩序実現 元亨利貞=各種イデア(三色旗参照)と 交換用リセットの一つが漢文の本地。
>>59 科学的思考や物理学にどっぷり浸かった経験がありませんか?
すっごい不満が、読んでるこっちにも伝わってくるけど。
『価値』を求めてると感じるけど、
ここらへんを曲解すると仏教は危ないよ。
62 :
一在家 :2009/07/27(月) 18:03:24 ID:2fPB5vid
>>51 机氏
>「人は仏になりえる」。ってことは・・・
>人は仏でないことが前程でありまして、
>もし人が仏に成り得たことになれば、
>その時点でもはや“仏というものが対象化できない”
>>58 >アートマンとは自我のことではなく仏性のことではないのか?
>煩悩に覆われた心(=まだ自我あり)を清めていくと
>仏性(=自我消滅ごの真我)という精心が現れる。
>というかもともとあったのが見えなかっただけ。
私も>58氏に近い見解です。
しかも仏は複数存在し、互いに相手を認識できるのではないでしょうか。
63 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/27(月) 18:03:38 ID:Uy6RSpnb
>>26 >「因」と「果」も「相互依存性・関係性」の産物でなければ、「空」にはならない。
因と果とがどう相互依存しているのかを説明されたし。
リンゴの種(因)を切ったら、そこに果実(果)があるのか。
種を切っても、リンゴがないのだから相互依存にならないと思うのだが?
64 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 18:06:44 ID:G49kcouq
>>57 >文脈から見て、釈尊を師とすれば悟れるという意味でしょう。
それはポッタパーダの見解であり、仏教ではそういうことはないですね。
依法不依人(法に依れ、人に依らざれ)→涅槃経ですから。
禅では
「直指人心」とか言ったりする。
(直ちに己の心を指し示せ、の意)
つまり仏教といふのは、己への深い洞察が基本的な悟入へのスタンスであります。
(自灯明、法灯明でありますね)
では、己の心の何が解るんであろうか?
それは、尽きることなく意味連関していく心の迷いであります。
仏教はこいうった意味連関の寸断した・・・その瞬間を垣間見る(これが頓悟)
ようするに、意味連関が寸断しちまったわけですから、
意味付与は迷いの象徴であることが明白に解ってくるのであります。
釈尊は、こういった理由によって、
形而上学的な諸問題は全く意味付与は必要がないと言ったんでありますね。
65 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/27(月) 18:17:37 ID:Uy6RSpnb
>>35 机龍之介氏
>五蘊で説明しますと、
>飯を食ったときの“味”が・・・・
>生命とか時間の概念と同義になる。
>味(感受)が単独で独立独歩するわきゃ〜ないですね。
>非常に論理的矛盾があるものが、生命の有無です。
>味は関係性であって、関係が絶たれれば滅尽する。
>これが空ですね。
生命を、五蘊の味にたとえたら、生命の矮小化ですね。
味は生命の働きのひとつでしょう。
生命を空にしたら、やはり脳死状態ではないかと思う(~~)
続き)金行=地大四機能、積み上げ:十界では 地獄界〜畜生界の基になる四つの本地から 四種の吉=土行実現の総称の仏界までの 人類最大最重要領域だから最初の領域。 その領域の一つ『近接・集約』型こそ 日本諸語文化本地【多宝如来】辰。 辰型=官能=感覚近似経験変換系、日本語の 「いろ」の意味が色式の間違った意味に相当。 正しい意味は(漢語の本地が属してるから) 漢語得意領域・土行=空大=形容詞類 (般若心経参照)の、色相型…つまり、 (易経の利=対他互恵・相互依存) ―仏教ではインドで失われたので日蓮版虚空会 において補完された【鬼子母神型】―でさえも、 中国では、そして…もちろんアマテラス型= アナトリア(トルコ)系神格・天津神主神、 イスタン(天の玉座:虚空会の本名) 日の女神として日本でも楽勝だが、 インドには『色に丁度対応する単語』さえなかった。 ―そう、日本語の「いろ」に対応する単語しか なかった。よく取り違えられるほど似ている としても、その片方だけと深く結び付いた 【八幡】中国(の漢語が母語の人々)、 当事者の一方である【多宝】日本は間違えない! 「インドが」大乗仏教まで到達できなくても、その 水準アートマン程度に止まる必要があるか? 【梵天】単一と、日常的な【持国天】唯一の 使い分け位は数学畑であれば常識だ! 雑魚は引っ込んでろ小乗!ここは大乗国・日本だ!
67 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 18:38:28 ID:G49kcouq
>>65 >味は生命の働きのひとつでしょう。
味ってのは縁起ですね。
縁起がなければ“生命そのものの働きがない”
(仏教では縁を第一義とし、生命(主体)を第二義にしてるのはその理由です)
飯を食い終わったら、尽きることなく煩悩が湧いてきたりして・・・
つまり心(生命)は、縁において生じてるんですね。
(心住することもなく、その心生ずべし)
これは非常に重要でして、
禅の六祖は、これで開眼の切っ掛けになったよぉですよぉ〜〜
(金剛般若経が機縁となる)
>>66 そんな縄張り意識があるんじゃ狂信家や超国粋主義者と同じ。
↑
(まあ、あなたならこの発言も外敵の妄言と片付けるでしょうけどね。)
こういのは、我(=自我)を完全に止滅できなかった人が陥る魔境かもしれん。
「クンダリニー症候群」という中途半端な悟りだ。
というか悟ったという快感は意識出来ずに、その後にエゴが出現して台無しにしてしまう。
油断大敵ですな。
ほとんどのカルトも中途半端すぎるから発生するのです。
69 :
暁 :2009/07/27(月) 18:48:04 ID:X1uqnI1U
一乗思想や久遠の本仏の観念も思想史的現実に、その教説は存在意義を有しているらしいが。 法華経はこの道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて表現している?というけど。 三乗(声聞、縁覚、菩薩)は皮相の見解であるとし、これら大乗の実践は一乗に帰すると 主張している。三乗とは方便であり、真実は一乗法あるのみである、みたいだね。 一偈を聞いて受持せる者は、何人であれ仏の慈悲に救われる。仏の慈悲とは絶対であると。 肉身の釈迦の所説ではない。その根源は時間や空間を超越し、そこに現れる絶対者、 諸法実相の理にほかならない。これが久遠の本仏であるらしい。 要するに生身のブッダは方便の姿であり、永遠の昔に悟りを開き衆生を教化してるので あるから、常住不滅であるとするものだね。 このような仏の本性に関する思索が契機となり、仏身論が急速に発展した。 そしてさらに発展して、仏教外の異端説にも、その存在意義を認めたという。 この宥和的態度が、外教徒にも受けがいいのだろうか。だからこのようなマジカルな ブッダ像が展開されるに至ったのだろうか。 アイドルはうんこもオナラしないという姿勢ではなく、冷静な法華経分析をする人の 見解を聞いてみたい。
70 :
一在家 :2009/07/27(月) 18:51:06 ID:ihGYLzpz
>>文脈から見て、釈尊を師とすれば悟れるという意味でしょう。 >それはポッタパーダの見解であり、仏教ではそういうことはないですね。 >依法不依人(法に依れ、人に依らざれ)→涅槃経ですから。 仏を師とすれば悟れると仏が説いた場合は如何ですか。 ポッタパーダ経では「彼の異教の師の元では悟れない」と釈尊が はっきりと説かれてます。 仏教徒でも独学で一から積み上げる人と、優れた師匠について 基本を学んだ後に自ら修行する人とでは差がないでしょうか。
達磨禅師の例外がある。 謎すぎる。
ダーマとグレッグ
73 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 19:17:35 ID:G49kcouq
>>70 依法不依人というのは、あくまでも基本的スタンスのことですね。
>仏教徒でも独学で一から積み上げる人と、優れた師匠について
>基本を学んだ後に自ら修行する人とでは差がないでしょうか。
仏縁というのは、あらゆるもんが仏縁ですよね。
あるときは竹林だったり・・・
裏山のセセラギの音だったり・・・
秋虫の声だったりする場合がある。
そういった森羅万象において、優れて師匠に巡り合えるということもあろうかと思いますね。
ひとつの仏縁としてです。
これが良くて、あれが悪いってのはないけど、
師の場合は相性ってのもありますね。
例えば、
白隠などの神経質な師の場合は、相性が悪いと禅病になったりする場合もある。
人間ですから、人間関係が上手くいくとは限らない。
【釈尊がっかり時代】 釈尊の本地=最優位価値観兼最優位生命機能型 【釈迦如来】は、主に。それが所属する秩序、こと 空間的一意指定用各種同等性=土行=空大 において、残りの三つの直接使う空間などを 切り換えるリセット(「時」)として使われる。 古代アナトリア文化&文明圏のうち、古代エジプト (北アフリカ)ではカー、古代ギリシャではイデア と呼ばれる三種の秩序(同等性実現=吉)、 それらを縦横無尽に切り替えで、初めて その推移の一瞬である【釈迦如来】は 直接認識対象となることができる。 十二支の御馴染みの循環順序は色相空間であり、 十二支縁起のような十二支さえ同時に使わない 最下位文脈は当然、同時に使う普通水準でも 他の秩序(循環順序)が登場しないのだから その切り換え用の秩序(起源の一意指定) 解除である【釈迦如来】の出番などない。 自らの最も優先する価値観で最も得意な分野、 それが全く出て来ない小乗経はどうみても 釈尊随自意の経ではない、なぜ説いた? インドでは大乗経に耐えられないから。 では、何で呼び出されたのだろう? インドに梵天は関係ないのに。 ニセ梵天・帝釈は相当語さえないインドの機根 では扱えない日本等アフラ側を代表する型 (本物の梵天・帝釈)の不在に依る偽物。、 そして、【梵天】はパクリが大嫌いな本地である。
75 :
旧7 :2009/07/27(月) 19:36:38 ID:lctrWp1f
新スレ建ったのか・・・w
もう不要かと思ってたが・・・。
しかし、魑魅魍魎の跋扈が凄まじいなw 阿呆陀羅の気持ちが少し解ったよwww
>>29-34 乙。
オーソドクスな、実に教科書的な、「基本的まとめ」として素晴らしい。
異見の有無に関わらず、《『伝統的に(2500年、このように)伝承されてきた』解釈》として、
必ず押さえるべき見解だと思う。
この解釈を押さえた上で、異議を唱える者は、反証を用意し「異議あり」宣言をすべきだろう。
76 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 19:41:38 ID:SRJrTYwM
>>74 どこのカルト宗教かは知らんが、布教は他スレでやっとくれ。
【梵天】単一性(ユニーク=他には無い)生命機能& 情報表現用構成素子分類型―の活躍の場とは 何よりもまず創造やオリジナリティの分野だ。 インドが従う善のイデア=自在天とは、(易経の元:) 相殺復元の天秤(による数量的評価尺度と調整) =(等価交換で)代わりが効くという等価性だ。 あからさまに対立する梵天とインドの二大宗教では、 後者が前者の不在につけこんでその名を騙り、 その為の評価や生命資源を奪うのも当然。 梵天にとっての奪命者=悪魔であるインド両主神、 天秤の計数サイド・無明ヴィシュヌと測量サイド ・天魔シヴァ(月天と増長天)のことである。 自らが奪われることはそう気にはならないとはいえ、 自らを求める者が自らの名を騙る雑魚の犠牲に なり、もし自分=本物に着けば恐慌畏怖状態 ―いわゆる精神分裂病および関連疾患・症候群― になって(創造と並んで重んじる)自由を失うのは どうにもガマンが出来ない、ということもあった。 イデア間の切り換えを天分とする生命領域(の実現) である【釈迦如来】(を本地とする釈尊)の問題は、 【梵天】審美的個人主義から貴方が解決しろ。 …というわけで、けっこうガッカリ&諦めムードだった 釈尊(として現れた【釈迦如来】共有生命リソース) は、【梵天】「の先」までの条件で案内することに。 でもそこ(梵天の先)まで来たら粗雑な近似としての イデアではなく、本来の全生命機能分類型実現用 七起源役割対象一意指定…のリセットという、 釈尊自身の本来の目標まで進めるのが当然だろう?
78 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 19:57:55 ID:SRJrTYwM
>>77 わかったから、もう止めようね?
それとも、新手の荒らし?
スレ潰しに来たの?
「新規の」【釈迦如来型】を創造・実現するには、 創造の本体である型一意指定のリセット専用、 という釈尊分類型の機能(役割)では無理。 せっかくあらゆる生命素子型のデフォルトとして それ以外の全ての生命素子型を創ったのに、 自らの型の新規素子は自身含め創れない。 型内特定指定無しでなら・また他素子と共通の 外枠としての制約=その中の全域指定ならば 【釈迦如来型】生命情報はあるがそれだけだ。 他の全ての型を一意指定できるまでになれば ―せめて、相互関係は無理でも個別の型の 最後に残った一つとしてならいけるかも? かくして、タロットにあるインド周辺版天の玉座、 つまり虚空会=古星座体系の覚書が生まれ、 ギリシャ系象徴体系=仏教が誕生した訳だ。 ギリシャ文字&星座象徴体系・虚空会における カウントダウン残りゼロ枚=【釈迦如来】こそ、 愚者の骨折り旅=総当たりのゴール地点。 だから、実質・夜空の下半分であり、上の全てを 乗っけた「一般のイデア」=「ぜんぶまとめて」 であるアルゴ船座と、その主星カノープス =【釈迦如来】が、後にローマを建国しギリシャ 文字からローマ字26文字を創ったロマの民、 ギリシャ系古星座(&文字)=対応数値の 象徴体系=虚空会が、日本などに残る トゥール(塔やTOWERの語源)固有文化だ。 (訛って言えばエトルリアということになる) 立正安国論の列挙にある実際の星座の 配置こそ「日蓮※の師」虚空蔵菩薩だ。 ※学習&教育者=賢人=声聞でなく 聖人=縁覚としては、師がいない。
80 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 20:23:02 ID:XNRNBl5j
>>78 >それとも、新手の荒らし?
そういう人には<清浄な罰(ブラフマ・ダンダ)>を加えるといいよ。
相手は、自分の欲するところを何でも言ってよい。しかし他の人たちは
訓戒してはならないし、教え諭してはならない。(ようするにシ・カ・ト)
81 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/27(月) 20:26:01 ID:G49kcouq
>>63 >因と果とがどう相互依存しているのかを説明されたし。
横槍ですが、因果と縁起は重要ですので少し書かせてください。
因果は相互依存はしないですね。
相互依存というのは縁起です。
縁起は相互依存はするけど、時系列的脈絡は全くないです。
関係性が絶たれれば、また違う関係性が生起する。ってことがありましても、
これは縁起が変化しているわけではない。
変化しているように、捉えることを因果といいますね。
ですから、縁起・空が勝義諦となりまして、
それを世俗的観点で捉えるのを因果(これが世俗諦)というんです。
(これが、色即是空・空即是色の意です)
では、おやすみ。
82 :
一在家 :2009/07/27(月) 20:36:41 ID:ihGYLzpz
>>81 >ですから、縁起・空が勝義諦となりまして、
>それを世俗的観点で捉えるのを因果(これが世俗諦)というんです。
横レスですが貴兄はどうして勝義諦と世俗諦とが分るのですか?
また勝義諦は龍樹の説ではないでしょうか。
逆に龍樹の説以外で勝義諦は何ですか。
もし勝義諦が分るならば、2chには生存しないと認識しております。
カバラにパクリが残っている。日蓮版安立行菩薩は、 タロットのメジャーアルカナのT〜Xの別名である コイン(星印)のスート、虚空蔵&四天王のこと。 タロットでは、インド周辺の四衆・僧尼男女の別名で 呼ばれる四天王は、梵天=ローマ字Lの起源の ギリシャ文字Λ=山の左右に並んでいる。 後に八葉蓮華と呼ばれる天の川(の観測基準)の 八つの台のうち、TOWERBRAKER=電光神 =帝釈天(だから「火星」アーレス)オリオン (別名、火曜神格・鍛冶電光神トールのハンマー) の反対側にあるアンチアーレスと両側の星、 天秤宮アンターレス「山」が基本になる。 底である帝釈から見て、和名「かごかつぎ」、こと 梵天アンターレスは山の頂上(自在天文脈の 梵天はコレ)で、その両側ふたつずつ =夜空を半周=山の中腹までが四天王になる。 同スートのエース&コート(宮廷)カードと五行 −エース(=土行)との対応が対応方位だ。 また、ワンドのスートのエースである十羅刹女、 十四誹謗対応だから両七姉妹、を伴う父親 (おうし座&雨降り&昴)が]ZSTARで、 それと四天王を結んだ図形がコインのスートだ。 八紘一宇=八葉蓮華の縮図がかんむり座、 和名「馬のわらじ」の「八つの星」である。 龍王ユッグの馬(午)ドラシル=water‐lily(lotus) =天球=如意宝珠(ry)は八頭または八本足の 馬ということで、乞食の皿などとも呼ばれる。 虚空会の(天の川または)天の北極が【日蓮】であり、 三身如来は(龍王・午・日蓮)と、自らを含むのに注意。
84 :
析空 :2009/07/27(月) 20:51:30 ID:yh4tGHl2
>>57 >>64 文脈からみて、「悟れる」ということではなくて、
単に心理作用とアートマンは異なるということが「分かる」だけですね。
85 :
神も仏も名無しさん :2009/07/27(月) 20:52:04 ID:YV0I1vie
>>80 この方には優しく接してあげましょう。
言葉の本質である戯論・妄想面が遺憾なく発揮されております。
釈尊は、これを断てと仰られたものに他なりません。
あらゆる邪悪は正義に反するが故の偽物(の一種)、 地獄界とは生命の最も最初に解決されるべき 問題=構成素子の型一意指定用の分類、 つまり【日蓮型】を示す―ようするに型情報そのもの。 それ自体を指す時は十二支に対応する十二宮の 黄道十二宮版は黄道、全てなら天の北極だ。 日蓮の遺文にある日本を滅亡の危機に追いやった (もう起きたので過去形)日蓮を悪しく敬った実例、 神道の主神は八紘一宇の一宇の中心つまり 虚空会の日蓮であり、その三つの別名というのは タロットに残る主師親分類循環順序において、 日蓮のみ三つの分類を兼ねる為=3×8。 十如是(で指摘されている)型の迷信や占星術等で 見られる型分類は、ギリシャ式文字数字対応で 三身如来を数値化して(遺文にも引用あり) 【各桁を一桁になるまで加算】(必要なだけ繰り返し) したタイプ分類が元になっている。 このとき、 いくつかの例外に注意する必要がある。 ぱくったカバラ等の数秘術ではサポートしていないが、 両端の]]T創世七起源と0固有型情報無しでは タイプ#と三身如来合計の九剰余が一致しない。 また、タイプ0(日蓮=)剰余・部分でも当然不一致だ。 十二支はタイプ昇順で3・6・9は二つずつ、十干は タイプ降順で9〜0、十如是は混同でずれてる。 ・ローマ字Bの起源、十干の丙(病人の寝台等の台) =十惑星の金星タイプ7=虚空蔵の三身如来は T明星:=Y愛染+]]日天+]W天台で、 7+300+60→3+6+7→1+6→7というわけ。
少なくとも二度、独立した起源を持つ生命世界の フルマップが示されたんだから、そのうちのごく 一部の型の一配列パターンしか扱えない、 小乗経にいまさら何の価値があるというのだろう? 極端に低水準のインドならともかく、重病者用 リハビリコースは日本人には不自然だろう。 カバラの生命の樹でもあからさまに怪しいあの配列で、 天の露(十天干の辛=起源の基としての巳=起)と 地の油(十二地支の卯=諸説話の「油」)位置の 「抜け」によって「不完全体系だよ」と明示されている、 小乗教が経典と狂信者達でいくらごまかしたって 世界は不完全さという真実をもう知っている。 天の露=辛=七起源(対他素子役割)のうちでも、 地の油=卯=特色は、「同じかた(ち)」分類型、 同じ単一の構成素子=「同じ数量」どうしの、 配列による振る舞いの違い=文法の働きを成す (日蓮版=ワンドのスートでなく)本来の意味の 女性名詞・上行菩薩を指す組み合わせだ。 デーヴァプトラと同様の誤訳で「光の子」とも訳す ことからも分かるように、その三身如来は 「光を子とする翼(wing=側)」だ。 当人でなく対象を子(descend)実現とするから 女性名詞の上行=母としての役割機能で、 虚空会では今で言うカシオペア座だ。 →方位・統計的傾向性・特性=かた(ち)に対して (いろ≠)色=特色・正義(語義・権限正当性)。 →漢語における語尾の子は「〜の実現」を意味し 抽象的機能を実体を指せる名詞に変換する。
易経にもある象徴において明=日月が真理、 光=特色・正義がその実現(十二支型)だ。 易経で「三」と呼ばれるように、「同時」に 『三項以上の全順序を持たない順序付体系』 だけが、言語や生命の有限の素材&法則 (関係)だけで無限の創造を可能にする。 十二支縁起で完全に避け、易経ではサポート していない明と光=真理と特色・正義こそ 仏教の本体で、その敵が自在天「善」。 この「善」は善のイデア=徳=VIRTUEで、 大自在天=水行=風大の忠・力・善・情、 その数量的価値上下関係だけを指す。 相殺復元の天秤=戊タイプ5に対応するのが 木星タイプ5・自在天で、もちろん木行には 対応していないから風星とも呼び替える。 これを基にした水行=風大以外の関係性を (=イデア・秩序を)座禅=風大特化などで 失ったのが病的恐怖(=精神分裂病等)。 恐怖の天秤の数量的価値評価交換代替性で 一応「代わりが効かない」のは「最上位」で、 これが自在天配下にとっての『梵天】だ。 まともな関係性の機能している世界においては これは【単一性】であり、頂上でなく日用品、 実際、日本語「は」格はこれで実現する。 誰にも叶えられない夢はある―手に入らない物が。 君、助詞「は」を「が」と切り換えて使ってるだろ? 小乗の範囲を超えて梵天を使いこなしてるぞ? もう通り過ぎてるのに目指せる訳がないww
89 :
今北産業 :2009/07/27(月) 21:38:41 ID:sBt/2uAJ
恍惚の人「小乗経には眼鏡の話があるらしいんぢゃ」 上行菩薩「お爺ちゃん、おでこの眼鏡じゃだめなの? それ、あっちのよりずっと上物なんだけど…。」 何という青い鳥かと小一時間。
90 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 03:45:18 ID:EM41Xr9i
なんか、アートマン肯定派からの論証もないし、このスレもカルト信者の 雑談スレになって終了かな?
91 :
析空 :2009/07/28(火) 08:16:25 ID:CzDKlcav
>>87 小乗経というものは、ありません。
「小乗」という言葉は、大乗を名乗る側から、説一切有部を蔑んで呼んだ、差別用語ですから、
節度ある大人は、使用しないものです。
初期仏教、原始仏教、上座仏教など、いいかえて使う人が多いようです。
これらの経典にどれ程の価値があるかは、価値の分かる人にしか分かりません。
92 :
析空 :2009/07/28(火) 08:24:30 ID:CzDKlcav
>>89 よく意味が解らないのですが。
おそらく、大乗の方が勝れているという話でしょうか?
それでしたら、スレ違いも甚だしい話ですね。
上行菩薩にアートマンのことが解るのであれば、話は別ですが。
93 :
析空 :2009/07/28(火) 08:36:12 ID:CzDKlcav
>>88 他の常連さんは、貴方の相手はしないでしょうね。
貴方が何を言っているのか、意味が分かりません。
一つ二つの意味が解らないのでは無く、質問する気力を失わせるほど多くの
意味不明な用語を使っているということを、指摘しておきます。
貴方の話は、誰にも理解できないと、認識してください
94 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 09:05:02 ID:Jq+T2ufF
>>93 優しくしてあげて、テーラヴァーダさん。一読すれば分かるでしょ。
95 :
一在家 :2009/07/28(火) 09:29:52 ID:OCyE79ZZ
現在の仏教学では、法華経の成立は紀元前150年〜50年とのこと。 一方、龍樹は50年〜150年頃の人(中村元著)。 ということは龍樹は法華経の「仏は常住」という説法を熟知していて、 「仏も縁起」と説いたことになりますね。 私は現代の大乗全体をよく知りませんが、「仏は常住」と「仏も縁起」は 何れがメジャーで、どこの宗派が支持しているかをご教示いただきたく。 一般論で結構です。>親切な仏教徒へ
法が仏すあり、仏が法である。 何が生まれ、何が滅するのか?
訂正 法が仏すあり>法が仏であり
98 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/28(火) 09:57:21 ID:7VNA+Okf
>>82 >もし勝義諦が分るならば、2chには生存しないと認識しております。
ものごとも事象なり心象なりを理解するのは「分かる」。
つまり「分けて」理解するわけですね。
これは一般的な意味の論理ですけど、
こういった社会通念上のコミニュケーションのありかたを基本にしたのが世俗諦です。
ですから「勝義諦が分る」とういう論理自体が無意味なわけです。
正しくは「勝義諦は分けられない」というのが勝義の真意でありまして、
例えばですが
「仏になりたい」とかの“ものの見方・考え方”というのは、
たえず相対としての「仏」を前程としておりますから、
この論理自体が世俗諦であることは明白であります。
>横レスですが貴兄はどうして勝義諦と世俗諦とが分るのですか?
ですから、どんなレスポンスであっても、
この基準をもって拙者は判断しちょるんです。
因果は一般的論理(社会通念上の)で説明可能でありますから、
こいうのは勝義諦とは言わんですね。
勝義諦ってのは説明不可ですから。
(世俗諦からの論理で説明することは可)
でも、どういうのが勝義になるのか?
ってのは解っております。
(分ってる、というのとは違いまふね)
これは仏教のもっとも機微なもんで、言語の使い方を駆使せねばならんですね。
禅では、こういうのを不立文字とか言ってますけど。
(では、少々席を外します)
99 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 10:21:18 ID:/VGUmGCf
test
100 :
暁 :2009/07/28(火) 11:50:51 ID:RDw1dPSG
「縁起を見るものは、すなわち法を見る」 「法を見るものは、すなわち縁起を見る」 法が法として成立しているのは相依によるもの。 縁起と法を切り離して考えるのは不可能。 有部が想定したような法の自性はありえない。 ブッダも独立な実在ではない。ブッダも縁起に ほかならない。 つまり「縁起を見る」ことが同時に「仏を見ること」 でもある。
101 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 12:06:10 ID:UnaozW23
縁起とは苦の起こるシステムであると仏法は説く→苦滅集道(四聖諦) >法が法として成立しているのは相依によるもの 法を法と認識すること縁起である。 縁起とは法の働く有様であり、それに拘泥することは執着にすぎない。 そもそも法は得ようと思って得れるものではない。
法を法と認識すること縁起である>法を法と認識することが縁起である
104 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 12:25:32 ID:jZGxVQGh
>>29 >まとめ(その1) 仏陀のスタンスについて
>ブッダは経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関しては沈黙し、(無記)
>経験・観察できる世界においては無我(アートマンの否定)を主張した。
★ 無我ではなく、非我ではないですか?
>すなわち、仏陀は「認識不能域」については無記とし、
>認識可能域(現象界)においては、はっきりとアートマンを否定した。
★ 「認識不能域」ではなく、未知の認識領域ではないですか?
>マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
>わたしが説くことは説くと了解せよ。
>(ブッダ、「毒矢のたとえ」)
105 :
暁 :2009/07/28(火) 12:41:09 ID:RDw1dPSG
若し人、一切法の衆縁より生ずるを見ば、是の人即ち 能く仏の法身を見る。智慧に増益して、能く四聖諦の 苦集滅道を見る。四聖諦を見ば、四果を得、諸苦悩を滅す。 是の故にまさに空の義を破するべからず。 (大正蔵、30巻、34ページ下)
106 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 12:48:12 ID:jZGxVQGh
>>30 >まとめ(その2) 仏陀の否定法について
> ・・・・省略・・・・
>仏教はジャイナ教と同じく諸要素の集合論をとる。しかし、ジャイナ教が業物質の担い手
>としての霊魂(ジ−ヴァ、生命体)を想定したのに対し、仏教は肉体を物質(色)
>の要素一本にまとめる代わりに、こころを感覚(受)・想念(想)・意志(行)・認識(識)
>の四種の作用に分解し、そのいずれもがアートマン(霊魂)ではない、という論理で、
>間接的に霊魂の実体性を否定し、同時に業とはそれらの心身の営むはたらきとみることで徹底した。
>(高崎直道、『インド思想論』、法蔵館、12頁)
★ 仏教の場合、未知の認識領域が検証されていないので、霊魂が完全に否定されたわけではない。
霊魂の実体性が否定されていないから、業を心身のはたらきとみなすことは単なる仮説にすぎない。
>仏典のいわゆる無我説法といわれる経典は、いずれも、まことにみごとなまでに、
>そのことを徹底しています。つまり、「アートマンは存在しない」
>となどという形而上学的主張に陥らず、知覚し経験できる事柄(諸法)に関して
>「これも、これも、どれも、永遠不滅のアートマンではない、
>なぜなら知覚し経験できる事柄(諸法)はすべて変滅するから・・・」と主張する方法
>が取られているわけです。これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったわけです。
★ ということは、世尊は非我を説いたのであり、無我ではないということですね。
変滅するから無我であるという結論は早計であり、無常と常住の二重性という可能性もある。
107 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 12:57:08 ID:jZGxVQGh
>>31 >まとめ(その3) 認識不能域について
>仏陀は現象界を超越した認識不能域において「アートマンが存在する」と推論したり
>主張することを『おろかな考え』 『独断』 と激しい言葉によって排斥している。
>・・・・省略・・・・
★ 引用した(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)を、世尊が真実に説いたのか、
まちがって伝えられたものなのか不明だが、アートマンの認識が不能なのではなく、
未知の認識領域の存在かもしれないので、いちがいに否定できない。
108 :
一在家 :2009/07/28(火) 13:13:50 ID:OCyE79ZZ
前スレでかきこみましたがレスが無かったものを再アップします。 釈尊は形而学上のことは無記だったと大半の仏教徒は確信しておりますが 例外は無いでしょうか。 形而学上の例:読心通及び六神通、または三明智 出典:スッタニパータ、ディーガニカーヤで度々記載。弟子達には衆知。 バラモンのバーバリーは弟子にわざわざ心の中で釈尊に質問せよと指示。 世俗諦:現代語では「テレパシー」、他人の心を読む能力、と言葉で説明が容易 五感+意識では読心通の説明はできないから、形而学上の一例としました。 中観派の人は、「それこそ関係性、相手が考えるから私にも分るし、 相手が考えなければ私にも分らない。」と答えるしょうか。
109 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 13:25:53 ID:6fvwgn1K
>>104 >★ 「認識不能域」ではなく、未知の認識領域ではないですか?
全知者であるブッダに未知の認識領域は無い。
およそ知られることはすべて知るのが全知であるということだから。
110 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 13:28:51 ID:jZGxVQGh
>>33 ★ 引用した経典について、それが真実なのか虚偽なのかの判別がつかない。
世尊は明確に無我を説かないはずなのに・・・奇妙な印象を受ける。
>>34 >まとめ(その4) 最終結論
>すなわち、知覚し経験できる事柄にはアートマン(永遠の魂)はない。
★ 無我ではなく、非我ということですね。
>なぜなら、わたしたちの知覚し経験できる事柄はすべては変滅するからである。
★ 認識の対象は非我である。しかし変滅は実体がないことを意味しない。
ものとは無常と常住の二重性から存在するかもしれないのです。
>知覚し経験できない事柄に関しては沈黙すべきである。
★ 無いというのも有るというのも推測でしかない。
論じてもかまわないけど、要はそう主張する論理の整合性ではないですか。
>なぜなら、そのような事柄は
>人間の認識能力を越えており、真実として確立できるものではないからである。
>仏教の無我の思想(アートマン説の否定)というのは、厳密にに言おうとすれば、
>このように二つの側面に分けて理解すべきである。
★ 以上から、仏教が無我の思想を説く、という主張は誤っている。
111 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 13:31:27 ID:6fvwgn1K
>>108 >形而学上の例:読心通及び六神通、または三明智
架空の存在と形而上学的存在は違うだろ。
架空の存在に論理は不要だ。形而上学は論理だけだ。
112 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 13:31:54 ID:jZGxVQGh
>>34 >まとめ(その4) 最終結論
>仏教はさまざまな思想を含む複雑な思想ですが、アートマン説(すなわちアートマン
>が存在すると主張すること)だけは一貫して否定してきました。
>この無我の思想だけは、始めから今日に至るまで、すべての教派を通じて、
>一貫して伝えられてきた仏教の本質的伝統です。
★ そんなことはありません。竜樹自身が、「アートマンが有る」という主張が存在する
ことを認めている。無我で一貫しているなら、竜樹が中論でアートマンを否定する理由が
ないではないですか。
>「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
>無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
>つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
>永遠に生き続ける魂などはない、というものです。
>これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。
>(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)
★ もしこれが仏教の真実を述べているなら、仏教は存在価値のない、
むしろ有害で危険な虚無主義を主張していることになる。
アートマンは説いてないよ。説けないから。
114 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 13:43:36 ID:jZGxVQGh
115 :
暁 :2009/07/28(火) 13:47:13 ID:RDw1dPSG
『中論』の主要論敵は説一切有部である。 有部は何を有るとしたか。それは「…であるありかた」である。 花や木などの自然的事物を有るとしたのでなく、それを ならしめる「ありかた」が有るとしたのが有部の主張だ。 個々の存在は生滅変化するが、それの「ありかた」は変化 しないというものである。 仏教における「…であるありかた」としての「法」を、有部は 「…であるありかたが有る」と書き換えたのである。 後期の註釈によれば、 「それ自身の本質(自相)を持つから法である」といわれた。 それに対し、大乗仏教は、 「それ自身の本質をたもつことを欠いているから法ではない」 と主張した。
116 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 13:47:31 ID:jZGxVQGh
>>109 人間であるブッダがどうして全知になる? 仏教はオカルト?
117 :
暁 :2009/07/28(火) 13:51:02 ID:RDw1dPSG
「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなしたわけです。 『中論』で「法」よりも「もの」のほうが多く用いられている が、この「もの」という語は「法」と意味は同じである。 何でも一緒くたにして理解しそこなってる人は、この点を 踏まえるといいよ。
118 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 13:52:25 ID:6fvwgn1K
アートマンは形而上学的概念だから説けないのではなく、 独断でどうとでも説ける。しかしそれが真実であるか証明 する方法が無い、ということだね。 どう説いたところでそれが現実の世界に影響することは無い。 だから無駄なことは説かないのが正解だろうね。 霊魂があると思ってる人のこの現実の世界と、霊魂がないと思ってる人の この現実の世界が変わるわけではない。ただ自分たちのこころの内の想像 の世界が違っているだけだ。
119 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 13:58:23 ID:jZGxVQGh
120 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 14:01:52 ID:6fvwgn1K
>>116 >人間であるブッダがどうして全知になる?
ゴータマ・ブッダがアージヴィカ教徒のウパカに言った
「わたしはすべてに打ち勝った者であり、すべてを知る
者である。自分に師はいないし、また、神々のなかにも
人間の中にも、自分に匹敵する人はいない。」という
言葉からだね。
これが「天上天下唯我独尊」の由来だね。
これを聞いたウパカは「自分でそういうなら、そうかも
知れない」と半信半疑であったという。
121 :
暁 :2009/07/28(火) 14:17:26 ID:RDw1dPSG
>>119 『中論』思想を理解するには、歴史的背景無しでは不可能だよ。
『中論』は終始、保守的仏教である説一切有部、経部、犢小部、
正量部などの諸学派との対立を示している。
122 :
暁 :2009/07/28(火) 14:51:43 ID:RDw1dPSG
123 :
一在家 :2009/07/28(火) 15:04:56 ID:gDjn3Dn8
>>118 >アートマンは形而上学的概念だから説けないのではなく、
>独断でどうとでも説ける。しかしそれが真実であるか証明
>する方法が無い、ということだね。
>どう説いたところでそれが現実の世界に影響することは無い。
>だから無駄なことは説かないのが正解だろうね。
貴兄の文章は参考になりましたので活用致します。
読心通はそれが真実であるか証明することは容易です。
質問者は声に出さず、ただ心の中で釈尊に質問するだけで十分。
バーバリーの弟子達は順番に心の中で質問をして釈尊が順番に
回答し、その場に居合わせた弟子達が目撃したことになります。
バーバリーの弟子達は予め師匠から質問内容をもらっておりました
ので検証もできました。
このエピソードは分り易く重要でしたので、スッタニパータにも
明記されたのでしょう。
ディガニカーヤの「沙門果経」にも読心通に関して詳細に説かれて
おります。
>一般に法華経の成立は西暦50年から150年あたり(岩波仏教辞典第二版)とされるが、 >そんな古い時代の写本はかけらも残っていない。 > 現存の梵文法華経の写本は、はるかに新しいものである。有名なネパール出土の諸写本は >11世紀以降の書写になるというし、カシュガル本は9世紀以降、キルギット写本でも7世紀以前 >に遡ることはないという。 日本仏教のほとんどが天台宗伝教大師最澄からはじまっているから法華経を否定はしないよ。 大乗は、西北インドのギリシア人の影響を受けていると思うね 彼らはギリシア人と言うほどギリシア人じゃないけど、要はペルシャ、ギリシャの思想影響をもつ人たちね 般若経が特異なのは、ギリシア系の思想である、法有思想を空思想で破ったところ
>>115 >有部は何を有るとしたか。それは「…であるありかた」である。
>花や木などの自然的事物を有るとしたのでなく、それを
>ならしめる「ありかた」が有るとしたのが有部の主張だ。
少し語弊を生む表現ではないでしょうか。
説一切有部の基本的立場は三世実有・法体恒有
>森羅万象を形成するための要素的存在として70ほどの法(ダルマ、dharma)を想定し、
>これらの法は過去・未来・現在の三世に常に実在するが、
>我々がそれらを経験・認識できるのは現在の一瞬間である、
>という。未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、
>すぐに過去に去っていくという。このように我々は映画のフィルムのコマを見るように、
>瞬間ごとに異なった法を経験しているのだと、諸行無常を説明する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8 むしろ、法を物質的なものとして、刹那に因果無くして現われ、消えるものと見てますね。
・・・である「ありかた」が無いというのは、「エネルギーの保存則」や「万有引力の法則」といった
物理的法則すら無いといった誤解をしそうですよ。
126 :
一在家 :2009/07/28(火) 15:21:48 ID:gDjn3Dn8
>>120 長部経典の「大本経」の中で、釈尊は自分以前の六人の仏について
解説します。 所謂、「過去六仏」です。
そして記憶が正しいか否かを神界に行って神々に確認して保証
されます。
宇宙劫スケールの常住の仏が登場しますし、それを保証する同じく
宇宙劫スケールの神が登場します。
法華経の作者は「大本経」をよくご存じで「常住の仏」について
記載したのかも知れませんね。
ただし「仏」は必ずしも「仏」に生まれ変わるという訳ではないようです。
前世は「転輪聖王」だったと同じく長部経典で説かれております。
127 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 15:42:11 ID:EM41Xr9i
まとめ(その1)〜(その4)をあげた者ですが まず、旧7氏に賛をいただき、感謝します。 しかし、アートマン肯定派からの反論、批判を期待していたのですが それが全く、皆無なのには少々、拍子抜けいたしております。 以後に期待します。
128 :
暁 :2009/07/28(火) 16:06:54 ID:RDw1dPSG
有部は縁起による法の体系を基礎づける立場を捨てた。 代わりに法を「有り」とみなし基礎づけた。 仏陀は諸行無常を説いたといわれる。一切の存在は 刹那に生滅変還するもので、常住は存在しないと。 この諸行無常を主張するためには、無常ならざる ものが必要だと。無常ならざるものがないなら無常 という主張は成立しない。 だが仏教である以上、常住の主張はできない。 無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理 があるはずという疑問が起こったんではないかという。 生滅変還を強調する哲学は、反面では不変化の原理を 想定するのが常だと。 このようなことが説一切有部が形而上学的立場をとった 理由ではないかと推察できるとの説に依ったのですが。 無常をならしめているありかたが有るとね。 科学的見地には言及してないつもりだったが語弊が 有るなら私の否だな。サーセンw
129 :
一在家 :2009/07/28(火) 16:07:50 ID:gDjn3Dn8
スッタニパータ、ディーガニカーヤを読んでいて共通の所感です。 釈尊は両経典の中で、度々梵天、神々、精霊、悪魔と対話され、その時の やりとりが記載されております。 それでも同じ両経典の中で、修行者が梵天、神々、アートマンに質問すると、 黙して答えません。 文献のまま読みますと、悟りを得た自身は神と対話するが、修行未完成者 は神にとらわれずに修行しなさいというスタンスの方だったことになりますか。 釈尊が形而学上の存在と対話することは度々あったようで、突然釈尊が 回答を始めることが多く、弟子達はまた師が見えない存在と対話しているんだな と思ったそうです(出典:スッタニパータ)。 多くの目撃者がいれば、後世の仏典結集でも釈尊が形而学上の存在と対話した 逸話は記載されても極自然です。釈尊の読心通も日常茶飯事だったようです。
130 :
暁 :2009/07/28(火) 16:08:43 ID:RDw1dPSG
131 :
暁 :2009/07/28(火) 16:29:48 ID:RDw1dPSG
釈迦が説かなかったとされる諸問題を、なんとしてでも マジカルな仏陀にしたてあげたいこの執着に恐れ入るわ
132 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 16:49:35 ID:UnaozW23
どうしても、超能力をもつ存在がいてくれなくては、困るのだろう。 そうでないと、手かざしなどが、いんちきになってしまうと考えてるのかな?
133 :
暁 :2009/07/28(火) 17:11:37 ID:RDw1dPSG
よくわからんが権威付けに利用したいのかなんてね まあ、それだとダライラマを権威付けに利用したオーム と変わらんけどね まあ本音と建前の使い分けは下手くそに見えるがw とにかくよくわかりません
134 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 17:23:00 ID:copgxGfm
<空という妄想の解毒剤> ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
135 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 17:45:55 ID:copgxGfm
竜樹の<空>は虚無である 1 この現実は時間と空間の中に存在する四次元である。 2 しかし竜樹は時間や運動を否定する → 空間だけの三次元になる 3 さらに空間の現象を概念や命題で把握する → 言葉だけの二次元になる 4 言葉の相互依存、縁起によって<空>を仮設する → <空>には内容がない 5 <空>において言語対象がなくなる → 言葉が消えたら虚無・ゼロ次元である
137 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 17:56:58 ID:copgxGfm
大乗の説く<空>は有害無益である 殺人者にとって、これほど都合のいい理屈はないだろう。 大乗によれば、人を殺しても空・幻なんだってさ。 慈悲や愛情や善意や努力などを、 この現実を空・幻とする大乗はどうやって説くのだろうか。 毎日のように自殺者が絶えないが、 大乗を信奉する輩はこれも空・幻だと思っているのだろう。
138 :
暁 :2009/07/28(火) 18:00:31 ID:RDw1dPSG
>>136 親切だなぁ
こういう強烈なバイアスが掛かってる人は理解
しようとしないよw
139 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 18:05:20 ID:copgxGfm
竜樹の非有非無の中道 中論15章10詩 生命が有りというのは常住に執著する偏見であり、 生命が無しというのは断滅を執する偏見である。 故に賢者は、生命が有りということと 生命が無しということに執著してはならない。 生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・ これが非有非無の中道である。 空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
140 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 18:11:41 ID:copgxGfm
空幻論者・暁君にも強烈なバイアスがかかっている。 君も人の言うことが理解できないようだ。 君は方便心論を引用し、虚空は無為法だと主張しているが?
141 :
観 :2009/07/28(火) 18:11:53 ID:ASQDFB1K
ただ、変な勘違いをしないために抑えておきたいことがある。 仏陀は一神教的考え方の時代に生きていなかったということだ。 ヒンドゥー教と仏教を、ユダヤ教とキリスト教の様に見るのは危険だ。 キリストはユダヤ教の祭司を徹底批判して、キリスト教のメシア神のことして生まれた。 そんでキリスト教が生まれた。ユダヤ教は律法に依っているからダメだって事で。 ユダヤ人迫害とかはその後のキリスト教徒によるところが大きい。 だが、仏教とヒンドゥー教(当時のバラモンら)はそういう和解不能の対立関係ではなかっただろう。 仏陀もバラモンの階級制度や女性蔑視などのは反対していたが、 バラモン教自体を完全否定したわけではない。 様々な異教の人にも説法してることからも仏陀の寛容さが伺える。 最後にアートマンに関してだが、これは初期の経典の「観察」「気づき」ということから容易にわかる。 「私」という自我は、もちろんなくならない。 こうやって誰もがレスしているが、それをしているのは誰ですか?と問うと「私」なのだとなる。 これはデカルトの「我思う、故に我あり」と同じで堂々巡りの自我確認なのである。 つまり「何をしようと、何をやろうと、やっているのは『私』だ」ということになる。 そこで、そのアートマン(私)を仏陀は解体した。(解体というのは適当かわからん) そのために仏陀はそれまでに無かった瞑想を発明したのである。 「毘鉢舎那瞑想」である。これは気づきによって常に自らに気づいていて観察する瞑想だ。 これを常時やっているとしたら「私(我)」も出てこなくなる。 つまり、自我(我)というのは、行為者自体の行為主体を自覚するときに現れるから、 これを現れないようにするには、常時気をつけている(=瞑想している=今を生きる)ことだと したのだろう。そうなると(=四六時中瞑想だと)、反省的に自我を想起することができない。 想起したとしても、それをも観察されるので、観察している者(=自我だな?)を捉えても それすら観察しているというわけで永遠に「我」を捉えられないのである。 そういう意味で仏陀の発明した「毘鉢舎那瞑想」は今でも受け継がれているのだろう。
142 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 18:20:47 ID:copgxGfm
>>141 我をとらえられない? そんなことはない。
アートマンとは生命のことである。日常的に感じている生命がアートマンである。
ただ、それが形のある霊魂であることを、知らないだけ。
それを知るために修行し、瞑想するのですね。
143 :
一在家 :2009/07/28(火) 18:23:15 ID:gDjn3Dn8
>>131 >釈迦が説かなかったとされる諸問題を、なんとしてでも
>マジカルな仏陀にしたてあげたいこの執着に恐れ入るわ
比較的古い仏典*に記載されている内容を理由も示さずに
後世の「釈尊の神格化」と決め付ける見解に固執している
方々が意外に多いからですね。
*比較的古い仏典:スッタニパータ、長部経典、法華経
伝統的解釈も龍樹または中観派の視点であれば、捕らわれる
必要もないでしょう。
釈尊が読心通を駆使しながら対機説法をされたという記載を
提示しました。
読心通の有無の検証は当時でもいと容易いことも示しました。
もし龍樹が説くように、親も子も妻も友も仮の存在であれば、
仮の存在の上司に怒られながら、仮の存在の会社で頑張る必要も
なく、仮の教団の仮の師について出家すれば宜しいでしょう。
144 :
暁 :2009/07/28(火) 18:34:43 ID:RDw1dPSG
>>143 おいおい、君の帰依するマジカルな教えの崇教で検索すれば、
どれだけの被害者の会やらがでてくるんだ?
こんなことはあんまり言いたくないがあまりにも酷いわ
別に超能力自体はどうでもいいんだよ 超能力が教祖の理由になったり、信仰の裏付け、強化に使われるのが危険 宗教とは教義のみで評価されるべきで、開祖が超能力者っていうことに意味はないでしょ
146 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 18:41:07 ID:copgxGfm
>>127 >まとめ(その1)〜(その4)をあげた者ですが
>まず、旧7氏に賛をいただき、感謝します。
>しかし、アートマン肯定派からの反論、批判を期待していたのですが
>それが全く、皆無なのには少々、拍子抜けいたしております。
>以後に期待します。
君のまとめをズタズタにしてやったのに無視しているフリ?
このレスには君の負け惜しみがにじみ出ている。
147 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 18:41:25 ID:j3iZG+p1
有とは常住把捉である。無とは断滅見である。 故に、聡明者は、有性と無性とに依拠してはならない。『中論』15.10 つまり、そもそも本偈に「生命」などという語は存在しない。
148 :
観 :2009/07/28(火) 18:41:59 ID:ASQDFB1K
>>142 私と◆xQ2N4RcE0Eさんが言っていることは全く逆のように見えて
実は同じことを言っているような感じがするのが不思議だ。
瞑想して形のある「霊魂」か?
形のない「空」か?
というはなしですな。
「霊魂」というのがあるかないかで対話してるけど、実際何か同じものを感じます。
つまりアメリカは、日本から見れば東の方にあり、アメリカから見れば西の方にある。
だがアメリカは、日本から見て西の方にあるとも言える。
アメリカから見ても、日本は東の方にあるとも言える。
言語ゲームになってしまって申し訳ないが、我々が捉えているのは同じなんだよ。(たぶん)
言葉にすると、どうも対立してしまうけどね。
宗教家にとって「言葉」とは憎い存在だなあ。
実際に完全対立してても、本当は同じだったりするわけだから。
でも「言葉」でわかり合える部分も多いわけで。(笑)
実際わかり合えてなくてもわかり合えてると思わせるのも言葉だしね。
「言葉」ってのは畜生みたいなものだと思うとストレス社会も相当和らぐと思うけどね。
チラ裏すまん。
149 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 18:42:22 ID:j3iZG+p1
>>144 >君の帰依するマジカルな教えの崇教
彼は、何処の「在家」なんですか?
150 :
暁 :2009/07/28(火) 18:48:17 ID:RDw1dPSG
>>149 まひかりさんでしょ
過去スレで旧7氏が指摘してなかったかね?
151 :
神も仏も名無しさん :2009/07/28(火) 18:52:21 ID:j3iZG+p1
>>150 なるほど。KK会員かと思ってた。
「在家」とはそういう意味だったのか。
152 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 18:52:35 ID:copgxGfm
>>148 霊魂があるかないかの違いを、次元の違いで表現した。
次元で表現すると、竜樹の空が虚無ではないかと推測されるのですね。
そういうものとして竜樹の<空>が見えてくる。
霊魂は四次元の先になる。
153 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/28(火) 18:53:24 ID:7VNA+Okf
>>141 >アートマンとは生命のことである。日常的に感じている生命がアートマンである。
こういうふうに世界を“観じる”のは、仏教徒なら殆どの人が通過して行きます。
いわゆる修行の初期の段階です。
白隠の見性体験など読んでみると、貴殿と同じようなことが書かれてますし、
拙者も、これと似たような観はありましたよ。
でもこういう世界観を越して(無門関)いかねば・・・釈尊の本懐には届くことはできない。
ここで留まっていては、それでもう終了ですよ。
釈尊は当時の世界観を破壊しているわけで、
仏教は常にこのベクトルがあります。
一休宗純は、後に“狂気の悟り”とか言われましたけど、
これは最高の敬意の表現ですよね。
では、おやすみ。
154 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 19:00:13 ID:copgxGfm
石頭の頓珍漢のエロQのかんぐり外道の旧7は、 やっぱしほじくり外道でもあるわけか。 坊主頭の冠がどんどん増えていくな。末恐ろしいものを感じる。
155 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 19:10:16 ID:copgxGfm
>>153 世界観を破壊するだけでは虚無主義ですね。
そういったベクトルしかないのでは、大乗は根っからの虚無主義。
正真正銘の虚無主義。
156 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/28(火) 20:30:10 ID:7VNA+Okf
>>155 今から寝ますけど、少々書込みします。
>正真正銘の虚無主義。
虚無主義ではない。
そもそも「アートマンがあるかどうか?」って、
スレの主旨にしてもオカシなもんですよね。
何が何に対してアートマンがあるか?どうか?決定つけられるんだろ?
そんなことも漠然として考えているんだろうね?
仏教とは二諦で調ふもので、
三次元視座と、仏の視座(仏智)がある。
アートマン有無の問いかけ自体は前者。
慧眼なくば答えは見出せない。
157 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/28(火) 20:48:43 ID:copgxGfm
>>156 >仏教とは二諦で調ふもので、・・・
これが机氏の固定観念、こだわり、執着、迷い、煩悩、無明、先入観・・・
何のための二諦なのかを忘れた顛倒妄想ですね
158 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/28(火) 22:50:12 ID:/DNCIgC0
>>スレ9/837
>「お釈迦さんはアートマンが有るとか無いとかそんな話はしていない」
はぃ、正解でしょうね!全く同意します。
旧三代スレ170さんもご無沙汰でした^^
机さんのいる処に“旧三代スレ170”さん在りなのですね(笑)
>>52 >自称仏教徒の大半は「釈尊は形而学上の質問には黙して答えなかった」
>と信じて疑わないようですね。固執でなく確信でしょう。
この一在家さんの問い掛けは重要だと思います。
死後意識の存続(ゴータマは会話している)を始め、
一般的には不可知な事柄について多くの明確に記述があります。
一在家さんのいう通りです。
ただし、アートマンそのものについては「ある」とはいわなかった。
尚、仏典に登場する死後存在との会話は、
厳密にはアートマン存在ではない。
>>109 >全知者であるブッダに未知の認識領域は無い。
>およそ知られることはすべて知るのが全知であるということだから。
確かに通常の人間を超越した方であると思います。
だから「仏陀」と呼ばれるのです。
ゴータマはハッキリと、現象界(知覚される)ではないものがあるといいました。
ただアートマンについては名言を辞めたということ。
“ない”からではなくて、それは誤解を避けるためであったと理解します。
159 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/28(火) 22:51:05 ID:/DNCIgC0
>>127 これは無我論者の主張のまとめになっているものと思いました。
そういう意味で“素晴らしい”です。しかし、私からも「意義あり」です。
投稿には時間を要するかもしれませんので〜ご了承下さい!
>>104 >>106-107 >>110 う〜む。
素晴らしいご意見(反論)にて大変、感心させられました。
>「認識不能域」ではなく、未知の認識領域ではないですか?
>仏教の場合、未知の認識領域が検証されていないので、霊魂が完全に否定されたわけではない。
>霊魂の実体性が否定されていないから、業を心身のはたらきとみなすことは単なる仮説にすぎない。
>ということは、世尊は非我を説いたのであり、無我ではないということですね。
>変滅するから無我であるという結論は早計であり、無常と常住の二重性という可能性もある。
>アートマンの認識が不能なのではなく、
>未知の認識領域の存在かもしれないので、いちがいに否定できない。
“未知の認識領域”という言葉に絶賛します!
ゴータマの説いた一切とは現象界の認識領域ですから。
>>112 >もしこれが仏教の真実を述べているなら、仏教は存在価値のない、
>むしろ有害で危険な虚無主義を主張していることになる。
全くその通りです。私は同意します。
160 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/28(火) 23:02:50 ID:/DNCIgC0
私は、 「無我」(アートマンはないと説いた)という解釈は間違いだとみています。 無我論者の主張は結局、結果的にはそれは無いことになるのだ! という論法です。従って、ゴータマは「無い」と見なして「無我」を説いたのだというわけです。 私は、 ゴータマの説法に関しては「非我」であったという見解ですが、 では実際にあるのか無いのかというと、「在る」ものと考えています。 ゴータマが説かないのに、何故に「在る」などというのか?という問いには、 自分で考えて自分で判断しましょう!といいたい。輪廻の主体も究極の真我もある。 ただし、“どれがどれ”だといった話は混乱を生じるからゴータマは説かなかったのです。 無我論者は“どれがどれ”という話自体を理解できない・・。 わたしが折角、分り易く説明をすると外道(神智学)だといって聞く耳を持たないし(笑) 従って(仕方ないので・・)、仏典の記述だけで論じようとするならば、 ゴータマの教えは「非我」(アートマンはないとはいってない)であるから、 「無我」(アートマンはない)などというのは辞めましょう!といった程度しかいえません。 *今回の入手資料は、 何故、「ある」とも「ない」ともいう筈がないのを明快に解説したものです。 これを提示したら、「無我」論(アートマンはないと説いた)は終わりとなるでしょう。
161 :
旧7 :2009/07/28(火) 23:36:43 ID:NRAB88Tp
>>160 だからwww
それでは「仏教という枠組み」を超えてしまうだろ?
(だから、何度も言ったじゃないですか。「貴方に仏教は不要でしょ?w」と・・・w
それでもまだ「仏教という看板」が欲しいんですか?w)
貴方方は、《仏教として考えるなら不要な部分(→「(永遠にw)未知の領域」)》に注視しているんですよ。判りませんか?
そこの詳細が欲しいなら、仏教を捨てねばならない筈ですが? なぜ、仏教に固執するのですw
神智学や他の宗教の方が、広く深く考察され、示されているなら、それだけでいいじゃないですか。
なぜ、《『不備の多い』仏教》にこだわるんですか?
納得いかない部分があるなら、仏教を捨てればいいだけです。
そんなにまでして「仏教という看板(≒利権w)」を手放したくはないですか?www
(この問いは、前シリーズに於いて貴方方が発していた問いですよ?
自分達の姿をどう見てるんですか? 理解に苦しみますね・・・。)
おそらく、神智学と仏教とでは、目指す所が違う筈だ。動機が違う筈だ。アプローチの仕方が違う筈だ。
(100万歩譲っても、「結果論として近似してくる」、ただそれだけの筈だ。)
まず、ここをしっかり理解しろ。
もし同じだと言うなら、併記して比べてみろ。
>これを提示したら
楽しみにしてるよw
それからな、
>>159 >素晴らしいご意見(反論)にて大変、感心させられました。
あの程度で感心しちゃうのか・・。 ホントにおめでたいオツムだな・・w
おやすみ ノシ
>>160 創価大学の資料って仏教学界でそれなりの信用のあるものとして扱われるんですか?
ピンキリ?
旧ななさん、どうなんでしょう?
163 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 00:52:52 ID:eFGM84wI
>>146 ◆xQ2N4RcE0E よ。
俺が
>>127 で >しかし、アートマン肯定派からの反論、批判を期待していたのですが
それが全く、皆無なのには少々、拍子抜けいたしております。
以後に期待します。
このように言った意味が全くわかってないみたいだね。
お宅は、俺にとってはスルー対象なの。 その理由は前にも書いたとおり
1> 他人には「発言に責任をもて」と言うわりに自己の発言には一切
責任をもたない。
2> 返答に詰まると人格攻撃をして逃げる。
3> 自己への罵倒は許さないが、自分は平気で他人を罵倒する。
4> 自己の発言への指摘に対して「ウソである。自分はそんなことは言って
ない。勝手に捻じ曲げるな。」と自分の記憶力の悪さを棚にあげて
人を非難する。
わかるかな? つまり、上記のことから明らかなように、お宅は「対話以前」
の対象なわけ。
お宅が俺の「まとめ」に対して付けた、「反論?」ともいえないような稚拙な
「いいがかりレベル」のレスも、良識ある者の書きこみならば、俺は真摯に
対応させてもらうが、お宅はNGだね。
164 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 01:10:24 ID:eFGM84wI
>>160 だからね、
>ゴータマが説かないのに、何故に「在る」などというのか?という問いには、
自分で考えて自分で判断しましょう!といいたい。
このようなことを釈迦は『おろかな考え』 『独断』 と言って
排斥したと「まとめ(その3)」 で論証したでしょ?
その認識不能域について「考えたり、持論を展開」するのは自由だけど
それは釈迦の思想とは、かけ離れたものであり、もう「仏教」とはいえない
ものなわけ。確かに「仏教」と言っても、各種、新興宗教その他、たくさん
あるわけだから、仏教もどきとは言えるかもしれないが、「少なくとも釈迦
の思想」とは全く関係のないもの。
もちろん、その認識不能域を神智学的に解釈するのも自由だが、それは
仏教とは無関係に神智学スレでやれば良いだけのこと。
そんなに「釈迦のお墨付き」が欲しいのかな?
165 :
暁 :2009/07/29(水) 01:41:39 ID:FwriPHpY
>>140 では君の嫌いな大乗からではなく、上座部の主張を紹介しよう
無為法
虚空無為(もの「法」の存在する場)
択滅無為(智慧による煩悩消滅)
非択滅無為(智慧によらない煩悩の消滅)
「五位七十五法」
「空は無礙なり」
(倶舎論、第一品、第五詩)
「虚空は但無礙をもって性となす」
(倶舎論、一巻、三枚裏)
注意しなきゃならんのは「虚空」とは自然界の構成
要素としての「虚空界」とは異なるということ。
すなわち、君が見ている大空は虚空界であり、不変
の三つの原理(三無為)のひとつとされる「虚空」ではない。
上座部の主張もこのようである。君は要するに大乗仏教
だけでなく、仏教の思想史的現実も排斥したいのだろう。
いや、ただの野次だな。仏教思想そのものが気に食わ
ないだけだろう。少なくとも皆(一部を除いて)、思想
史的現実に基づいて見解を述べているのに対し、君は
外野から汚い野次を飛ばすだけではないか。
君へのレスはこれで最後としよう。
166 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 01:50:03 ID:eFGM84wI
>>165 >君へのレスはこれで最後としよう。
はい。それが賢明であると思います。
167 :
暁 :2009/07/29(水) 02:02:11 ID:FwriPHpY
168 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 02:07:32 ID:eFGM84wI
それでは、「涅槃」についての見解を中村氏の説を中心としてあげて みます。 最古層に属する記録(スッタニパータ4章5章)によれば、 悟りの世界(涅槃)は神秘的な世界ではなく、この世において 得ることのできるものでした。 この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する 欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの『境地』である。 いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが洲(しま) に他ならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。 (1086,1094) そのため、中村氏は、元来「ニルヴァーナとは現実生活からはなれた、 超越的世界のことを言っているのではなく、日常生活の無欲の実践、 無執着の実践にニルヴァーナは実現する」 (中村元・田辺祥二、『ブッダの人と思想』、NHKブックス、172頁) 「後の時代になると、涅槃(ニルヴァーナ)とは、 凡人のよりつけない高度な心境のように受け取られますが、ブッダの時代には 、煩悩の止滅したところ、不死の境地、やすらぎ、寂滅を意味し、 『日常に生きた心境』を表していたと考えられます」(中村元、同上、174頁)。 これらの事実もやはり、ブッダは形而上学的問いに対しては沈黙を保った、 という仏典の記録するブッダの基本姿勢と一致しています。したがって、 無為の世界や悟りの世界などを超越的な世界として捉え、それについて あれこれ語りはじめた物語が、ブッダの預かり知らぬ後代の作り事 であることが分かります。
>>160 > ゴータマが説かないのに、何故に「在る」などというのか?という問いには、
> 自分で考えて自分で判断しましょう!といいたい。
自分で考えてくだらない判断をするより
「考えるべき対象ではない」という釈迦の言葉を尊重すべきだと思います。
この期に及んで「あるかどうかを自分で考えろ」とは、非常にしつこいと言わざるを得ません。
> 輪廻の主体も究極の真我もある。
> ただし、“どれがどれ”だといった話は混乱を生じるからゴータマは説かなかったのです。
これは神智学の内容を前提とした、神智学と仏説の辻褄合わせです。
また根拠もなく「断定」していますが、
個人的な信仰にすぎない事ならばそう分るように書いた方が親切ではないでしょうか。
> 無我論者は“どれがどれ”という話自体を理解できない・・。
この場合、自分の発言が人に相手にされない内容であるという前提がなく、
相手にされないのは相手の理解力のせいであるという前提を持っている発言をするのは、
自分が絶対に正しいという「前提」を持っていることを示唆します。
> わたしが折角、分り易く説明をすると外道(神智学)だといって聞く耳を持たないし(笑)
折角というのは、非常に押しつけがましい言い方で、「断っているのに」何度も呼び鈴を押してくる
なんとかの証人と変わりません。
自分が絶対に正しいという前提を持ち、自分に反論したり無視する者を蔑まずにはいられないのは、
新興宗教の勧誘員の特徴です。
170 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 08:14:34 ID:DpmJPXRV
>>126 >ただし「仏」は必ずしも「仏」に生まれ変わるという訳ではないようです。
輪廻から解脱した仏は再生しない。
釈迦は悟りを開いたとき「不死を得た」ともいっている。
不退転が涅槃の境地だろ。
171 :
一在家 :2009/07/29(水) 09:14:54 ID:jUakFHdO
本スレが縁となりまして、まさか私まで「龍樹」を調べることになり ましたが、面白いことに気付きました。 当時の与党(説一切有部)を批判する野党が龍樹(中観派)だったという ことです。 世俗諦で見れば、日本の自民・公明と共産党との論戦に似ております。 さて与党と野党の何れが正しいですか? 何れも偏頗ではないですか? 法華経を読みながら常に感じる違和感は、ある章で「諸行無常」と説きながら、 別の章で「常住の仏」も説かれていることです。 もし「一切自性」も「一切無自性」も偏頗であり、勝義諦で見れば、世の中が 「自性と無自性とのハイブリッド」ならば、法華経の違和感は消滅します。 換言しますと、仏(+ブラフマン、アートマン)は「自性」であり、 それ以外の存在は「無自性」であり、関係性により諸行無常だというのが 現時点での仮説です。 更に「龍樹」を学習して、この仮説がどう変化するのか楽しみにしております。
172 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 09:22:02 ID:DpmJPXRV
>>158 >確かに通常の人間を超越した方であると思います。
人間を超越したら何に成るのだ?
「仏は人の成りたる者」が古来からの仏教の言い伝えだろ。
空想の創造神と仏は違う存在だろ。
現人神と仏は同じ概念かもしれない。
173 :
一在家 :2009/07/29(水) 09:23:52 ID:jUakFHdO
>>170 >>ただし「仏」は必ずしも「仏」に生まれ変わるという訳ではないようです。
>輪廻から解脱した仏は再生しない。
>釈迦は悟りを開いたとき「不死を得た」ともいっている。
>不退転が涅槃の境地だろ。
コメントを有難うございます。
確かに長部経典の「大本経」でも、釈尊は過去の六仏を解説されましたが、
自身の前世だとは説かれておりませんね。
衆生済度を発願した菩薩達があえて仏にはならずに、再生を繰り返すことにも
何らかの事情があるようです。
阿弥陀如来は再生できませんでしょうし、弥勒菩薩は再生できますでしょう。
ただし、菩薩クラスでも出胎の時に記憶を無くさないようにしないと
衆生済度という再生の目的を忘れてしまいます。
174 :
一在家 :2009/07/29(水) 09:42:33 ID:jUakFHdO
>ただし、菩薩クラスでも出胎の時に記憶を無くさないようにしないと >衆生済度という再生の目的を忘れてしまいます。 出胎の時に記憶を失うのが「法」であれば、菩薩でも回避できないのかも。
175 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 10:12:05 ID:DpmJPXRV
>>173 >菩薩達があえて仏にはならずに、再生を繰り返すことにも
大乗の菩薩は声聞・縁覚より位が上だろ。
輪廻もしないし、当然再生はしない。
仏になる前の人が菩薩だから。
阿弥陀だの菩薩だのいった大乗の親分が竜樹だろが。 法華経なんかも大乗の代表。 カルトのヴォケは何もわかっとらんなW
177 :
一在家 :2009/07/29(水) 11:44:02 ID:jUakFHdO
>>175 >>菩薩達があえて仏にはならずに、再生を繰り返すことにも
>大乗の菩薩は声聞・縁覚より位が上だろ。
>輪廻もしないし、当然再生はしない。
長部経典には「四つの入出胎」が明記されており、阿羅漢クラス
でも出胎時に意識(記憶)を失い、菩薩だけが記憶を保つそうです。
舎利弗でも記憶を失ったとか。
出典は前スレで紹介紹介済みです。(今手許に経典がなくスミマセン)
178 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 11:44:14 ID:iVk5RF7o
>>169 毎回、思うがあなたの指摘は実に正確で的確ですね。
絶賛に値すると思います。
これからも頑張ってください
179 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 13:46:55 ID:tFowExCq
宗教は、科学の発達前の産物であり、常に争いの原因となっているから、一旦 解体して、新たな思考基盤を確立すべきではないか。その要件は、次のとおり であろう。 1.人間界は、すべて人間の「生存本能(生物的生命)」の営みであり、生命 は現実界に100%依存しなければ維持できないのだから、生命とそれを支える 現実界(自然)とに最大の価値を置く。現実に還元できない観念は、百人百様であり、 その正誤・正邪の判断の基準が皆無だから、常に争いの原因となるので、禁止 する。 2.生命は、独りでは決して維持できないのだから、「相互依存・関係性」を 必須の要件とする。一人ひとりの人間にとって、その生命のみが全世界を認識し、 成立させている。人間界は、無数の「私」によって成り立っている。従って、 私と他者との区別は存在しないのである。すべての人間が「私」である。 3.特定個人の開祖・教祖の盲信は、人間の思考停止を招き、その発達を阻害 するものであるから、これを禁止する。 4.上記の3条件に反する宗教(端的には一神教、特にイエスの思想)は一切 禁止する。 科学について無知蒙昧であった古代人の妄想の産物に過ぎない「神や霊」から、 すべての人間の生命とそれを支える自然(現実界)とに、パラダイムの大転換 を行うことが、現代の人類の喫緊の課題であろう。人生とは、所詮は、その生存 本能の応用問題なのである。宗教の発生は、生存のための「手段」であった。 古代人なりの、生存のための、精一杯の「現実性・合理性・科学性」の表れで あった。現代の科学の代替品であったことを忘れてはならない。古代人は、宗教 を、生存の「手段」ではなく、その「目的」とするような倒錯には、陥っていなかった のである。 「神概念」は、「人間」の空想の産物であり、常に「特定の人間が、他の人間を 支配する」ために利用されるものであることを、忘れてはならない。
180 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 13:49:48 ID:B0SM+ydr
>>159 宝珠氏
評価されて光栄です。長文レスは論点が複数あって反論しずらいですね。
もとのレスを引用するとズタズタになるし。
181 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 13:54:18 ID:tFowExCq
>>180 超カルト宗教の宝珠愚者に評価されて喜ぶ君が、同じ穴の狢のカルトで
あるとこを、自ら証明している。
182 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 14:04:42 ID:B0SM+ydr
>>161 旧7のオツム・・・
石頭の頓珍漢のエロQのかんぐりのほじくりの断滅外道
これらは旧7が相手に投げつけた言葉であり態度である。
こうやって並べれば旧7の人柄がにじみ出ている。
183 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 14:11:49 ID:B0SM+ydr
>>181 神がいないことを論証してください。神を否定するのはそれから。
184 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 14:24:48 ID:B0SM+ydr
>>163 粘着君
名無しではだれだかわからない。コテつけたらスルーしてやるよ。
それにしても病的にしつこいね。
それに君が問題にしていることは君の問題ではない。
君は当事者ではないではないか。
185 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 14:43:57 ID:B0SM+ydr
>>165 空幻論者・暁君
>上座部の主張もこのようである。
君はいつから上座部に宗旨替えをしたのか。
竜樹の方便心論に基づいて、君は虚空を無為法にしたのを覚えているか。
しかし竜樹は、中論で有為法も無為法もないと言っているのだけど?
>少なくとも皆(一部を除いて)、思想史的現実に基づいて見解を述べている
>のに対し、君は外野から汚い野次を飛ばすだけではないか。
何が思想史的現実かね。君の場合は混乱しているだけだろう。
それなのに汚い野次とは失敬なヤツだな。君のほうがよっぽど汚い。
186 :
一在家 :2009/07/29(水) 15:26:07 ID:jUakFHdO
>>179 >科学について無知蒙昧であった古代人の妄想の産物に過ぎない「神や霊」から、
>すべての人間の生命とそれを支える自然(現実界)とに、
貴兄の主旨は分りますが、一流の科学者ほど「宇宙意思を感じる」ようです。
科学の進歩によって宇宙の実相(ビッグバーン、天体の運行、他)、
生命の実相(ヒトゲノム、他)が次第に分ってきております。
ヒトゲノムを事例にしますと、人と猿やネズミとの塩基差も明確に分ります。
塩基がコピーされる時のエラーがガンとかの原因になりますが、
コピーミスが繰り返されて猿から人間に進化する確率を計算したら、
進化論がアホだとわかるでしょう。
神か仏か宇宙人かは不明ですが、何らかの「宇宙意思」による作為性、創造の
可能性(仮説)を立てたくなるでしょうね。
突然変異による「進化」と見えるものは実はあやかしで、誰か大科学者に
よる創作がなされたという見識になります。
187 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 15:36:56 ID:tFowExCq
>>183 >神がいないことを論証してください。神を否定するのはそれから。
「人間の空想の産物」である神が実在するなどと、一体、どこの宗教の「人間」
から「信じ込まされた」のかね。
人間にとって、「ものが存在する」とは、「(必要な場合には観測装置を使
って)五感で知覚できること」である。例外は「皆無」。空想の産物である
神にいくら祈っても、全世界の宗教者が同時に祈っても、路上の石ころを1ミリ
たりとも動かすことはできない。ご自分で実験されたし。
「ない」ものの証明はできない。「ない」を証明するためには、世界中のすべての
建物の天井裏、床の下、すべての人間の鼻の穴、パンツの中まで探さなければならない。
「ない」ことの証明は、「ある」ことの証明の不可能性によってのみ行う。
ある液体の中にある物質が「存在しない」ことを証明するためには、その物質
に反応する試薬を入れ、反応がない(即ち、存在が証明されない)ことによって
行う。
いい加減で、人間である宗教団体から植え付けられたに過ぎない、「神の実在」
という「妄想」から目覚めたまえ。
188 :
暁 :2009/07/29(水) 15:46:24 ID:FwriPHpY
>>143 在家さんよ
>もし龍樹が説くように、親も子も妻も友も仮の存在であれば、
>仮の存在の上司に怒られながら、仮の存在の会社で頑張る必要も
>なく、仮の教団の仮の師について出家すれば宜しいでしょう。
なにこれ?どんな読み方してるの?龍樹の思想は歴史的背景を
無視したら理解不可能だよ。どのような系統を受け、この思想の
形成がなされたかを全く無視したものだね。
これじゃ同一の開祖から系統を引くと称する新旧二派による分裂
を示している経緯もなにもあったもんじゃない。
『中論』においていえば、その思想は『般若経』に基づくとされる。
『無畏論』『青目釈』『プラサンナパダー』など、みな『般若経』
を引用していることでもわかる。『般若灯論釈』の最初では、
『中論』が『般若経』に依拠すると述べてある。
龍樹はこの般若思想に基づき、『中論』という論書において、
当時すでに成立していた諸思想体系を攻撃し、批判したんだよ。
仮の教団?仮の師?君は一体何を言っているのかね。
189 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 15:47:18 ID:tFowExCq
>>186 >貴兄の主旨は分りますが、一流の科学者ほど「宇宙意思を感じる」よ
>うです。
科学者が、目の前の現実から離れて、「宇宙意思」など信じたら、現実の
厳密な観察が不可能になり、そもそも科学が成立しない。
Something Greatなど口走る極々少数の科学者がいるが(名前も特定できる)、
それは、「現実界の冷静・厳密な観測」という科学の使命を忘れた非科学者、
宗教信者に過ぎない。
そもそも「宇宙の一部」に過ぎない人間が、その意思を推し量ることなど、
できる訳がないではないか。思い上がりも甚だしい。
「一流の科学者」などと、また一流に依存するが、それは科学の方法論
を忘却した宗教信者に過ぎない。
190 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 15:56:54 ID:eFGM84wI
>>186 >誰か大科学者に
よる創作がなされたという見識になります。
自分にとって都合の悪い見解は全て「権威ある〜の創作」
などのように断定する、いわゆる「陰謀論」的思考は
どうにかならないものか?
>>186 > 貴兄の主旨は分りますが、一流の科学者ほど「宇宙意思を感じる」ようです。
ここを見ると、
一流の科学者が言っていることなら正しいという前提に立っているようですが
> 突然変異による「進化」と見えるものは実はあやかしで、誰か大科学者に
> よる創作がなされたという見識になります。
ここを見ると「一流の科学者」は創作したウソを語ることがある、という風に見えます。
結局、一流の科学者の言うことはアテにならない、という結論でいいのでしょうか?
それとも一流の科学者の言うことなら無条件で正しいということなのでしょうか?
192 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/29(水) 17:19:29 ID:TP8TriNg
>>186 >神か仏か宇宙人かは不明ですが、何らかの「宇宙意思」による作為性、創造の
>可能性(仮説)を立てたくなるでしょうね。
気持ちは分りますが、
仏教の悟りというのは、そういった形而上学的なもんに束縛された状態とは違いますね。
もっと自由であって開放的なのが涅槃寂静ですね。
「宇宙意思」という流れはバラモン教にもありましたから、
今さらながらに古典に逆行することはないんじゃないか?
せっかく釈尊の仏縁に巡りあったんですから。
もし仮に「宇宙意思」なるもんがあったとしても、
その意思を送信する側と受信する側は、明確な境界線を引くのは無理。ってことですよね。
(これは中論にある)→主客は対立できない。
主客対立でなく、そこを縁起としたのが空思想です。
(縁起だから、そもそも一方がビーム発信することはなく万物平等)
193 :
一在家 :2009/07/29(水) 17:29:19 ID:xofxo3xj
>>188 暁氏
>なにこれ?どんな読み方してるの?龍樹の思想は歴史的背景を
>無視したら理解不可能だよ。どのような系統を受け、この思想の
>形成がなされたかを全く無視したものだね。
>>171 にて龍樹の背景への見解を提示しております。
与党(有部)への野党(中観)の批判みたいに見えますというのが
所感です。
194 :
一在家 :2009/07/29(水) 17:39:24 ID:xofxo3xj
>>192 机氏
>もし仮に「宇宙意思」なるもんがあったとしても、
>その意思を送信する側と受信する側は、明確な境界線を引くのは無理。ってことですよね。
>(これは中論にある)→主客は対立できない。
貴兄は久しぶりに本スレに再生されたようで、ご存じないかも知れません。
私は一貫して「宇宙意思と神の子との元一つ」を提示しております。
「すべての人は神の分魂(仏性)を宿し、やがて神・仏にもなりえる」と。
これは法華経の「すべての人は仏になりうる」と似た見解かも知れません。
旧約聖書の「人は神の似姿」とも近い見解で、「宇宙意思」との明確な
線引きをしていないことになります。 誤解なきよう。
195 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 17:45:10 ID:G8twKOjz
竜樹の<空>は虚無である 1 この現実は時間と空間の中に存在する四次元である。 2 しかし竜樹は時間や運動を否定する → 空間だけの三次元になる 3 さらに空間の現象を概念や命題で把握する → 言葉だけの二次元になる 4 言葉の相互依存、縁起によって<空>を仮設する → <空>には内容がない 5 <空>において言語対象がなくなる → 言葉が消えたら虚無・ゼロ次元である
196 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 17:52:06 ID:G8twKOjz
机氏においては、空を具体的に表示し、 空が無内容だとする疑いをきれいに払拭すべきかと思う。 そうでないと二諦も単なる無明に終わる。
197 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/29(水) 18:01:09 ID:TP8TriNg
>>194 >私は一貫して「宇宙意思と神の子との元一つ」を提示しております。
>「すべての人は神の分魂(仏性)を宿し、やがて神・仏にもなりえる」と。
仏教では、山川草木悉有仏性とか言いまして、
あらゆるものに仏性が宿る、とかの意味を有しますが、
これで何か気づいて欲しいですね。
あらゆるものに仏性が宿るのであれば、先ず仏性が宿ってないもんは“ない”ってことになる。
では「仏性とは何か?」という問い自体が意味をなさない。
(つまり比較できないもんを定義するのは無理。ってことです)
これが勝義諦の見解ですね。
>これは法華経の「すべての人は仏になりうる」と似た見解かも知れません。
あらゆるもんが仏性なら、今さら仏になることはない。
例を提示するなら、
男性が「男になりたい」って言ってるようなもんです。
こういった論理矛盾を世俗諦と言います。
で仏教は、「すべての人は仏になりうる」 というような脈絡は方便とか言います。
つまり論理矛盾をしながら真諦へと導くのであります。
@「即心即仏」が世俗諦であります。→心すなわち仏
A「非心非仏」が勝義諦であります。→心はなく仏もありゅらん
この@とAは同義です。
198 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 18:04:40 ID:G8twKOjz
>>187 >「ない」ことの証明は、「ある」ことの証明の不可能性によってのみ行う。
アートマンは心の奥底にいる。アートマンは神を見ている。
心の外をいくら探しても、アートマンも神も見つけることはできない。
>ある液体の中にある物質が「存在しない」ことを証明するためには、その物質
>に反応する試薬を入れ、反応がない(即ち、存在が証明されない)ことによって
>行う。
その試薬は、神を知らない者に作ることができない。
199 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 18:10:10 ID:G8twKOjz
二諦が同じ・・・世俗諦も勝義諦も同じ内容なら、 大乗はいったい何を説いているのか。 大乗などいらないではないか。
200 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 18:22:04 ID:G8twKOjz
病的にしつこい粘着君へ 君はスルー推奨などと言ってるが、君自身がスルーしてないな。 恥ずべきことだと思う。 というかコテつけろよ、スルーしてやるから。
201 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/29(水) 18:26:31 ID:TP8TriNg
>>196 釈尊の眉間にチャクラの象徴がありますけど、
やはり「第三の目」をもつべきですね。
二諦ってのは、三つの目で世間を見ることだよ。
釈尊が空を飛ぶ話があったけど、
第三の目は、時空を超越することができる。
もちろん不死を得ることもできる。
これが空思想というんだね。
それはあまりにも壮大であるがゆえに、
世間一般では虚無主義と誤解されやすい。
202 :
一在家 :2009/07/29(水) 18:26:59 ID:jUakFHdO
>>189-191 >科学者が、目の前の現実から離れて、「宇宙意思」など信じたら、現実の
>厳密な観察が不可能になり、そもそも科学が成立しない。
貴兄の主旨は分りますが、「この世界は神が造った規則正しいものであるから、科学者はこれを発見して実証すべきである」と。
コペルニクス、デカルト、ガリレオ、ニュートンらを、科学の方法論を忘却した宗教信者に過ぎない、と断定されない方が宜しいかと存じます。
(ご参考)
前中共総書記・江沢民は訪米した際、当時の米大統領クリントン氏に、
「米国では科学がこんなに発達しているのに、なぜまだこれほど多くの人が
宗教を信じているのか?」と質問した。これは、中共党首の愚昧無知の
典型的な例である。
(中略)
実は歴史をよく見れば、科学の発展に大きく貢献した偉大な科学者たちは、
コペルニクス、デカルト、ガリレオ、ニュートンらを含め、皆自分は造物主で
ある神を絶対的に信仰していると自認し、この世界は神が造った規則正しい
ものであるから、科学者はこれを発見して実証すべきであるとした。
http://jp.epochtimes.com/jp/2008/09/html/d37189.html
203 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 18:31:30 ID:rLEpF+/k
>>198 存在しない神は、見ることも、知ることも出来ない。存在しないものが
存在すると信じ込むことを、「妄想」と呼び、治療の対象となる。
神が人間を創造したのなら、あくまで「人間として」「自立的に」生存
できる人間を造ったはず。創造後も神を思考し、神に縋るような「不完
全な」「知恵遅れの」人間を造ったのではない。若しそうだとすれば、
神は全能ではなく、創造は不完全だったことになる。
204 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/29(水) 18:39:10 ID:TP8TriNg
>>199 >大乗はいったい何を説いているのか。
人の精神のメカニズムを深く探求してますし、
哲学的観点からしても最高レベルであるのは間違いない。
ドイツ観念論に毒されたら、
永久にこれは不可知の領域に入るであろう。
205 :
一在家 :2009/07/29(水) 18:57:19 ID:jUakFHdO
>>197 >あらゆるもんが仏性なら、今さら仏になることはない。
>例を提示するなら、
>男性が「男になりたい」って言ってるようなもんです。
>こういった論理矛盾を世俗諦と言います。
貴兄を鏡として譬え話をしますと、みにくいアヒルの子が
「白鳥になりたい」って言ってるようなものだと思います。
「仏になることはなく」、ただ「仏であることを悟る」という
ことですよ。
論理矛盾しておりますか。
>第三の目は、時空を超越することができる。
>これが空思想というんだね。
飛空、時空と夢があっていいですね。
「空」は「無」でなく、「無」と「有」の間だと学習しましたよ。
206 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 19:01:38 ID:rLEpF+/k
>>202 この世界が規則正しいのは、世界自体が規則正しいのであり、そこに「世界を
超えた神」など「余計な物」を持ち出す必要は一切ない。それは、ちっぽけな
「人間」の妄想に過ぎず、「世界そのものの規則正しさ」に対する畏敬の欠如
と冒涜である。
キリスト教国であるアメリカでさえも、神の実在を信じている科学者は4割程度
だそうだ。対象とする自然そのを超越する神の存在など考慮したら、自然の厳
密な観察に狂いが生じ、科学自体が成立しなくなる。科学の発達は、人間が神から
離れるための努力の結果といえる。
>>202 実証すべきなのは結構ですが、逆にいうと
実証されていない事に無駄にレスを消費するのはいかがなものかと。
実証されてもいないことをマコトシヤカに宣伝するのは
科学的態度とはいえないと思いますよ。
208 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/29(水) 19:36:59 ID:TP8TriNg
>>205 >「仏になることはなく」、ただ「仏であることを悟る」という ことですよ。
>論理矛盾しておりますか。
「仏であることを悟る」ってこと自体が論理矛盾ですね。
これが論理矛盾の「即心即仏」です。
ですから、この時点では悟っておらんうーたんです。
悟った位相といいますのは、「非心非仏」であります。
つまり論理矛盾に気づいていくんです。
なにが論理矛盾であって、なにが論理矛盾でないんか?これが明白になってまいります。
中観のいう「仮設」というのは、論理矛盾を前程として論を立てます。
ゆえに、当然ながら仮設である、その名称と形態はあまり意味をなさないのであります。
そこを鑑みながら龍樹論を読みますれば
中論の骨格部分が明解になって逝こうかと思いますね。
>>202 で、結局、一流の科学者の言うことはアテにならない、という結論でいいのでしょうか?
それとも一流の科学者の言うことなら無条件で正しいということなのでしょうか?
一般的にいえば、科学者の発言は科学におけることについては信憑性が高く、
科学以外のことに関しては、特に信憑性が高くない、と判断するのが妥当でしょう。
「宇宙意志を感じる」などというのは、一流の科学者の説であっても
実はアヤカシで創作にすぎない可能性があるということですし、
基本的に専門外の内容ですから、信憑性は非常に薄いですね。
突然変異による「進化」というのは、一流の科学者の言葉ですし、
専門の科学についての内容ですから、
まず正しいということもいえるんじゃないでしょうかね。
210 :
暁 :2009/07/29(水) 19:39:11 ID:FwriPHpY
>>193 在家氏
>与党(有部)への野党(中観)の批判みたいに見えますというのが
>所感です。
公明(有部)の政教分離を批判する反公明議員(中観)みたいなもんだと?
了解。
いや違うだろw
211 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 19:51:01 ID:DpmJPXRV
論理は四句分別で決定できる事柄だね。 それが決定できない物事は言葉だけの存在で 現実で認知できない物事だね。
212 :
一在家 :2009/07/29(水) 19:53:40 ID:xofxo3xj
>>210 >公明(有部)の政教分離を批判する反公明議員(中観)みたいなもんだと?
乙です。 座布団2枚です。
>>186 >コピーミスが繰り返されて猿から人間に進化する確率を計算したら、
>進化論がアホだとわかるでしょう。
まず、ホモ・サピエンス等の目的地点が最初からあって、
そこに向かって進化があったわけではない。
進化論の内容知ってればこんなアホな文は出てこない。
>>190 まったくだよね。進化論を証明している科学者には
クリスチャンの人も含まれているわけだけど
そこも都合よく処理するんだろうね。
彼の場合はアトランティスだのムーを認めない学者も
陰謀の仲間ということになるのかな。
214 :
一在家 :2009/07/29(水) 20:16:26 ID:xofxo3xj
>>209 >突然変異による「進化」というのは、一流の科学者の言葉ですし、
>専門の科学についての内容ですから、
>まず正しうこともいえるんじゃないでしょうかね。
貴兄の提示されました「一流の科学者」は聖職者になるべく神学校に
通った方ですね。
愛する娘の死で信仰から離れますが、そのような不幸がなければ
どうなっていたでしょうか。
>>214 科学というのは「発見者だけではなく、他の誰でもその理論を追試できる」というものです。
アインシュタインが相対性理論を発見しなくても、いずれは誰かが発見していただろうといわれているのは、
そうした科学の性質を踏まえているからです。
進化論も同様でそれが真実であるならば、その科学者が個人的理由で進化論を提示しなかったとしても
他の科学者が提示するだけのことです。
それにしても、これだけ懇切丁寧に
「逆のロジックも組めるんじゃないですか?」ということを示唆しているのに、
まったく読む気がありませんね。
自説を擁護する目的で恣意的にロジックを使うのは、
やめていただけたら幸いと存じます。
216 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 20:46:07 ID:iVk5RF7o
一在家君よ、お前さんの一連の発言の趣旨は 「一流の科学者の多くが神の存在を信じているから、神が存在している信憑性は高い。」 まぁ、簡単に言うとこのようなものだよな? すると、一流の科学者達の多くはアトランティスやムー大陸の実在など信じていない 訳だから、岡田光玉?とか言うおっさんが、言ってた「アトランティスだかムー大陸だかの住民の『霊障』が、なんたら」とか言う与太話は 全く信憑性がないことになってしまうな?
217 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 20:50:20 ID:iVk5RF7o
つまり、お前さんが熱心に信仰している「まひかり」 の教義というのも、非常に怪しいものとなってしまうことになるが?
218 :
一在家 :2009/07/29(水) 21:12:06 ID:xofxo3xj
また「私は黙して答えません。」との釈尊の言葉を思い出しましたよ。
その言葉は都合の悪い問いから逃れるためのものか? それは引用元の相手が釈迦でなくても失礼だろう。
220 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 21:16:36 ID:iVk5RF7o
なるほど、返答拒否ですか? それは、自己の論理矛盾の指摘に対して反論できないので、逃げるということですか?
221 :
神も仏も名無しさん :2009/07/29(水) 21:21:08 ID:iVk5RF7o
釈迦が黙して語らなかったのは、反論できずに逃げるためではないですよ。
222 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 21:42:52 ID:zMeZB4Oe
>>180 何でも長文の投稿だからいいとは限りませんし、
あれだけの簡潔明瞭な言葉がポンと発せられるということは、
普通、なかなかできないものです。
これは相当な学(知識と思索)がなければできないものです。
ところで余談です。
以外と旧7氏のほうが伝統解釈者たちよりも気付きが早いのではないか?
と私はみています。旧7氏は伝統信奉主義者ではなく、またどこかかなり醒めており、
ものごとを冷静に客観視しています。いわゆる達観へと向かう可能性があるかも・・w
223 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 21:44:20 ID:zMeZB4Oe
>>168 >「後の時代になると、涅槃(ニルヴァーナ)とは、
>凡人のよりつけない高度な心境のように受け取られますが、ブッダの時代には、
>煩悩の止滅したところ、不死の境地、やすらぎ、寂滅を意味し、
>『日常に生きた心境』を表していたと考えられます」(中村元、同上、174頁)。
何も中村氏を批判するわけではありませんが、
その“煩悩の止滅”という意識状態、
それ自体が俗人/凡人の推し量れる域を超えたものでしょう!
その完成とは何か?それ自体が想像を超えている。
「不死の境地」とは何か?学者らもまともに説明すらできない・・。
>これらの事実もやはり、ブッダは形而上学的問いに対しては沈黙を保った、
>という仏典の記録するブッダの基本姿勢と一致しています。したがって、
>無為の世界や悟りの世界などを超越的な世界として捉え、それについて
>あれこれ語りはじめた物語が、ブッダの預かり知らぬ後代の作り事
>であることが分かります。
実に抽象的ないいかたですが・・
あなたのいう“沈黙を守った”というのは一体、何々についてなのです?
まさか六神通、転生(来世)、地獄・・も説かなかったと?
それらもすべて後代の附加(神格化やその他・・)であると??
是非、あなたから見てどれどれのことなのかを述べて欲しい。
できれば、この経文の記述が附加に該当するというのを具体例で上げてもらいたいものです。
224 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 21:49:40 ID:zMeZB4Oe
>>161 >「貴方に仏教は不要でしょ?w」と・・・w
>納得いかない部分があるなら、仏教を捨てればいいだけです。
>そんなにまでして「仏教という看板(≒利権w)」を手放したくはないですか?www
心配は全くのご無用!とっくにこの私は仏道から外れています-私には別に不要なのです。
実際、一部の同胞からも「仏教(問題)のことは仏教徒に任せておけばいい」と叱られている
のですw
ただ私には、これでは新しく仏教に興味を持って接する人たちにも、非常に宜しくないだろ
うと思われたからです。基本部分だけでも歪めるのは如何なものかと・・。ま〜それだけです。
>おそらく、神智学と仏教とでは、目指す所が違う筈だ。動機が違う筈だ。
>アプローチの仕方が違う筈だ。
当時の原始仏教は実践哲学であり、ある意味においては説明(責任)を放棄しました。てい
うか、その必要がなかったのかもしれません。
ところで今日の仏教徒はというと、「涅槃とは状態である」といい、では「それは何の状態な
のか?」を問うと無記だといって黙るのです・・。
225 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 21:51:14 ID:zMeZB4Oe
対する神智学は真っ向からその正反対の姿勢です。それは曖昧さを無くす方向性であり、 可能な限りにおいて細部に渡って解明、説明を行った。アプローチ的にはその姿勢は科学 の摂った細分化により近いものです。 科学は、物質は原子から構成されており、原子は更に陽子と中性子が結合した原子核と周 囲を周回する電子から成り、これらの関係性と性質について解明しようとします。それに近い。 動機---目指す目的は一緒ですが、神智学は古代の宗教が説いたものは何だったのか? を解明(しようと)するものであり、その学んだ知識はそれぞれの生活や信仰や学習の場の中 に活用していくことができます。 >楽しみにしてるよw では、あくまでも“仏教枠の説明”で話を展開します! 「無我」(アートマンは無いと説いた、またはゴータマはアートマンなど無いという認識でこれ を説いた)という理解が間違いであること。そして涅槃とは“永遠の境地”であるということに ついて、現時点のできる範囲で論を述べます。
>>223 > >『日常に生きた心境』を表していたと考えられます」(中村元、同上、174頁)。
> 何も中村氏を批判するわけではありませんが、
> その“煩悩の止滅”という意識状態、
> それ自体が俗人/凡人の推し量れる域を超えたものでしょう!
超越的の意味を切り替えるのはやめて、「現象界以外の」といっていた頃の
自分を思い出してみては?
> あなたのいう“沈黙を守った”というのは一体、何々についてなのです?
アートマンについて、ということだけ分っていればこのスレでは十分です。
>>225 > 対する神智学は
それだけしつこいと「女の腐ったの」と言われるらしいですよ。
228 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 22:03:21 ID:zMeZB4Oe
>>226 >アートマンについて、ということだけ分っていればこのスレでは十分です。
ご本人に確認したい。
229 :
旧7 :2009/07/29(水) 22:06:04 ID:g/xw8B2z
>>224 (前の問いもそうだったように思うが・・・)、
>>161 >「仏教という枠組み」を超えてしまうだろ?
ここにこそ答えてほしいんだけどな・・・w
どう思ってるんだ?
貴方の主張は「仏教を超え、仏教ではないものとなっている」、と言っているのだが?
そして貴方は「これが本当の仏教です」と主張しているわけだ・・・。
《原典批判的考察により、「仏教という枠組みの再構築」を目指している》のだと、
好意的に解釈しておくか・・・?w
誰かが指摘していたな・・w 私と宝珠は同じだと・・・www
230 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 22:51:09 ID:zMeZB4Oe
>>229 >どう思ってるんだ?
>貴方の主張は「仏教を超え、仏教ではないものとなっている」、と言っているのだが?
>そして貴方は「これが本当の仏教です」と主張しているわけだ・・・。
ご指摘の通り、神智学は仏教枠を超えていて仏教ではないものになっています。これは
望む個人だけが自ら進んで求めるべきものであり、それを受け入れるよう説くことが私の
このスレでの目的ではありません。これホントです!!
しかし、仏教枠だけで論じても、無我についての伝統解釈には疑問符が多い(私はつい
つぃ行き過ぎたw)。という私の理解を補足説明する素晴らしい資料を入手できたと思うの
で、今回はそれを紹介したいと考えているのです。
これまで私が主張してきたことを専門家たちが上手に解説を提供しています(あとはこれ
をどう紹介するか・・悩み中)。
>《原典批判的考察により、「仏教という枠組みの再構築」を目指している》のだと、
>好意的に解釈しておくか・・・?w
うーむ、その想いは確かに強烈です。
つい、それが出でしまう・・スンマセンm(__)m
>誰かが指摘していたな・・w 私と宝珠は同じだと・・・www
たぶん、ある意味で共通項があると私も思うwww
231 :
析空 :2009/07/29(水) 23:06:24 ID:Bm3XX5Ad
>>194 法華経を引用しておきながら、法華経の趣旨を全く理解出来ていませんね。
私は何度も、仏性についてちゃんと調べなさいと指摘したはずです。
法華経には仏性思想はありません。
法華経に書かれている、誰でも仏に成れる、というのは、
法華経(一仏乗)を原因として仏に成れるのであって、仏性があるからではありません。
神の出る幕はありません。
232 :
旧7 :2009/07/29(水) 23:15:08 ID:g/xw8B2z
>>230 了解w
(これで、貴方のスタンスをぼかしていた霧は晴れたことになるだろう。
前シリーズ開始時との態度の違いはさておき、他の方々も、議論がし易くなっただろうw
ま、前シリーズ開始時に、私が感じた不安は、蓋を開けてみれば的中していたわけだが・・・(^^;))
貴方にだけ述べさせたままでは不公平なので、
(『この言い方での』)私のスタンスを定型化しておこう。
貴方は「仏教という枠を(真の(≒魂としての)自己実現の面で)【拡大】しようとしている」、
私は「仏教という枠を(三世に跨らせない範囲へと)【縮小】しようとしている」、ということだ。
(※そして私は、≪縮小することにより応用範囲は確実に広がる≫であろう、と考えているのさw
かなり粗雑な言い方だが、基本ラインはこんなもんだろうと思うし、
だから、「同じだ」と見る人が出てくるのだろう。
おやすみ ノシ
233 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/29(水) 23:39:15 ID:zMeZB4Oe
>>232 >貴方は「仏教という枠を(真の(≒魂としての)自己実現の面で)【拡大】しようとしている」
はい、そうです!
この私から見れば、仏教という枠もカテゴリーなどもどうでもいいのです。
唯物論が間違っており、社会的に超自然が現実として認められたときには、
「宗教」の話に過ぎない・・といったいい方は死語と化し、
事実認識として置き換えられることになる。
>私は「仏教という枠を(三世に跨らせない範囲へと)【縮小】しようとしている」、ということだ。
>(※そして私は、≪縮小することにより応用範囲は確実に広がる≫であろう、と考えているのさw
はい、理解しています。
確かに、仏教哲理の多くの部分を三世に跨らせない範囲において説き、
それを有用していくとすることは可能だろうと私も思います。
ただ私は、それは宗教を哲学道徳の範疇に納めたものと評しています。
これを言い換えるからば、旧7さんの立場からみれば、
より不確かなものから現実的に確実に使える部分に限定することなのでしょう!
確かに、我々のレベルでは未確認な事象は扱わないというアプローチになるでしょう。
>>232 素人さんは、ここにいたのか。
ここでは、何にでも口を出す私にも出る幕がなさそう。
あちらと違って、真面目な人たちが多いですね。w
235 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 00:10:10 ID:QDz0A6bi
>>230 勘違いして、又は意図的に、佛教を「忌むべき一神教」化しないように、
注意してくれ。その歴史から明らかなように、仏教と一神教とは、本質的
に異なるのだから。
236 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 00:32:55 ID:2xGdrtVS
>>235 はいはぃ!!
大丈夫ですよ。
これは信頼すべき学者による研究成果のことであり、明確な根拠付きの説明です。
仏教がまるで一神教の話になってるのようなことは皆無ですから。
あくまでも、ゴータマが述べた教えと原始経典及び原始仏教の理解についてのものです。
つまり、これが“本来の仏教”だという名解説ですね。
もちろん、神智学の話も出ないのでご安心をw
それは信仰上の伝統解釈うんぬくではなく・・
学術的な成果でほぼ中心視されているとみられる見解です。
ある程度、そのままに長く掲載したいと考えていますが時間を要します。
(恐らくネット初登場の文章となる可能性ありにて)。
これで「無我」論はおわりです。
>>224 > ただ私には、これでは新しく仏教に興味を持って接する人たちにも、非常に宜しくないだろ
> うと思われたからです。基本部分だけでも歪めるのは如何なものかと・・。ま〜それだけです。
無記という基本部分を歪めて「ここはアートマンについて説いていると読める」と言ったりしていたのは誰でしょうか。
そこを歪めて「アートマンがあるかどうか自分で考えろ」と言っていたのは誰でしょうか。
> ところで今日の仏教徒はというと、「涅槃とは状態である」といい、では「それは何の状態な
> のか?」を問うと無記だといって黙るのです・・。
スレ9の816の該当箇所に関しては、宝珠愚者はレスを返していませんね。
黙っているのは宝珠愚者のようです。
238 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 00:54:46 ID:2xGdrtVS
>>237 >無記という基本部分を歪めて
>「ここはアートマンについて説いていると読める」と言ったりしていたのは誰でしょうか。
>そこを歪めて「アートマンがあるかどうか自分で考えろ」と言っていたのは誰でしょうか。
ゴータマは“真実の自己を求めよ”と説いたのです。
この自己存在とは奥深いものを意味するのです。
いつもの普段通りの自分といった意味合いではない。
しかし、これも単語としては、やはりただ「アートマン」になってしまう・・。
ゴータマは、それがバラモンの説くアートマンであるとはいわなかったが、
真実の自己(真我)の実現を説いたのは間違いがないことです。
それを無我論者はパラモンのアートマンと同一視してはならないとして、
これを否定しようししていますが、
文意を素直を読むならば真我の実現を説いた(それが何かは明らかにしなかったが)。
>>スレ9/816
>質問の意図がわかりません。
>「何の」というのは煩悩が何かの所有物という前提があるのですか?
>その前提がおかしいかもしれませんよ。
煩悩が消滅したら何が残るのか?という意味です。
何も残らないというなら断滅論(間違い)です。
まっ、慌てず私から投稿を待つようにしてください。
休日に跨って時間をかけないと書けません。
>>238 > ゴータマは、それがバラモンの説くアートマンであるとはいわなかったが、
> 真実の自己(真我)の実現を説いたのは間違いがないことです。
それはあなたの信仰ですか?それとも仏典に根拠があるのですか?
神智学で間違いが無いかどうかなどは、まったく無価値なことなのですが。
> 文意を素直を読むならば真我の実現を説いた(それが何かは明らかにしなかったが)。
素直とか自然とかいう表現で正当化するのはやめるようにと
何度言ったら理解できるのでしょうか?素直な読み方などというのは「根拠」ではありません。
> >>スレ9/816
> 煩悩が消滅したら何が残るのか?という意味です。
> 何も残らないというなら断滅論(間違い)です。
煩悩が尽きたら涅槃でしょう。
もっとも「涅槃が残る」という言い方は余りしないと思いますが。
何が言いたいのでしょうか。質問の意図がわかりませんが。
> まっ、慌てず私から投稿を待つようにしてください。
> 休日に跨って時間をかけないと書けません。
「ところで今日の仏教徒はというと、「涅槃とは状態である」といい、では「それは何の状態な
のか?」を問うと無記だといって黙るのです・・。」
と書き、さもこちらが逃げて無責任であるかのように書いたのは宝珠愚者でしょう。
その上で、さもこちらが慌てているかのような書き方をするのは
卑怯だとは思わないのでしょうか。
>>238 > 文意を素直を読むならば真我の実現を説いた(それが何かは明らかにしなかったが)。
「-----世間一般ではあなたのようなシツコイのを、
“女の腐ったの”といいます。覚えておくのが賢明です。」
と、宝珠愚者という人が言ってましたよw
241 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 01:35:07 ID:NTOPaqdg
>>223 >>168 を書いたものだが、まず最初に断わっておくが
>これらの事実もやはり、ブッダは形而上学的問いに対しては沈黙を保った、
>という仏典の記録するブッダの基本姿勢と一致しています。したがって、
>無為の世界や悟りの世界などを超越的な世界として捉え、それについて
>あれこれ語りはじめた物語が、ブッダの預かり知らぬ後代の作り事
>であることが分かります。
この部分は佐倉氏の文章の引用である。しかし、引用したことからもわかるように
俺自身全く同意見である。
さて、
>あなたのいう“沈黙を守った”というのは一体、何々についてなのです?
とのことだが、「仏陀が沈黙を守ったこと」とは、「十難無記(あるいは十四)」
に、あげられてることですね。具体的には、まとめ(その3)参照のこと。
>まさか六神通、転生(来世)、地獄・・も説かなかったと?
それらもすべて後代の附加(神格化やその他・・)であると??
一言もそんなことは述べていませんね。
あくまでも「『無為の世界や悟りの世界などを超越的な世界として捉え、それについて
あれこれ語りはじめた物語』が、ブッダの預かり知らぬ後代の作り事
であることが分かります。 」と言っているだけです。
242 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 01:51:34 ID:NTOPaqdg
>>238 だからね、
> 真実の自己(真我)の実現を説いたのは間違いがないことです。
それが「何故間違いない」ことなのかが、問題なのであって
そこをちゃんと論証しなければ、ただ単に「僕はそう信じます」
という信仰告白にすぎないでしょ?
>文意を素直を読むならば真我の実現を説いた(それが何かは明らかにしなかったが)。
「文意を素直に読む」 これもその文を読んだほとんどの人が「そのような意味」
に理解するのでなければ、ただ単に主観に照らして読んでいるのにすぎない。
つまり「私流に読めば」と言ってることと変わりない。
>
243 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 02:06:24 ID:NTOPaqdg
>>236 これ何? 何言ってるの?
「無我論は終わり?」
2500年続いてきた仏教の根幹思想に終止符をうつわけ?
すごいな。まさに仏教の革命だな。
いったい、どんな「新」仏教ができるのか楽しみだ。
244 :
析空 :2009/07/30(木) 07:34:25 ID:WEdPWdVR
>>236 sn916 <われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて静止せよ。
⇒非我論の終り
245 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 08:11:23 ID:kCvCxnY+
>>223 >その“煩悩の止滅”という意識状態、
>それ自体が俗人/凡人の推し量れる域を超えたものでしょう!
どうして、物事をそんなに難しくしたいのかな?
煩悩なんてだいたい誰でも「わかっちゃいるけど、やめられない」事柄だろ。
理解するのが難しいんじゃなく、実践するのが難しいだけだね。
246 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 08:30:02 ID:kCvCxnY+
>>230 >神智学は仏教枠を超えていて仏教ではないものになっています。
神智学の枠を超えた人智学のほうが仏教に近いのかな?
248 :
一在家 :2009/07/30(木) 09:29:49 ID:C54vDJf2
>>231 祈空氏
>法華経(一仏乗)を原因として仏に成れるのであって、仏性があるからではありません。
法華経に「仏性」という記載がないことは確認しました。
以降は「すべての仏子は仏になりうる」と引用することに致します。
249 :
一在家 :2009/07/30(木) 09:31:43 ID:C54vDJf2
>>197 机氏
>A「非心非仏」が勝義諦であります。→心はなく仏もありゅらん
貴兄を縁にして私の龍樹教の学習も日に日に進んでおります。深謝。
龍樹は「仏の本体は無い。法身の仏は諸法である」と説かれましたね。
この解釈だと法華経の「常住の仏」とは諸法という意味になりますか。
これを説いた根拠は「縁起」(関係性)ですね。
「縁起」を説明する為に、「八不」等の否定の論理を龍樹は駆使。
「八不」の中の「不去」で運動も否定しています。
以上、私の現学習段階での整理です。次に検討に入ります。
「不去」、「去りつつあるものは去らず」は当時の有部の説く運動を
言葉の論理上で否定したものであり、現実世界の運動を否定したもの
ではないということです。
因って、それを積み上げた「縁起」の説明も現実世界で説明済みでは
なく、「仏の本体は無い」と主張できないことになります。
一証明として、言葉を一切用いずに足元のアリをじっと見ていれば、
現実世界において「去りつつあるものは去らず」ということが主張
できますでしょうか?
本来主張しないで相手を否定する中観派の方が「非心非仏」が勝義諦
だと主張したことが縁となりまして今朝のかきこが起きた次第です。
合掌
>>34 >知覚し経験できない事柄に関しては沈黙すべきである。なぜなら、そのような事柄は
>人間の認識能力を越えており、真実として確立できるものではないからである。
無我を論じる皆さんに質問です。
いつも不思議に思うのですが、人間の認識能力が及ばないというのはその時点の能力ではまだ発見出来てないだけで、将来的に能力が増大したり開発されたら発見される可能性もあるわけてすよ。
もしも真我があるとか、造物主が存在するということが発見や証明されたら、どうするんてすか?
無い物を無いと証明することは難しいから無記とした仏陀の姿勢は正しいと思いますが、非我ならともかく無我と言い切るのは危険じゃないかと思うのです。
251 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 09:38:37 ID:kCvCxnY+
>>247 >あちらでは真我について論じたいので、無我論者はこちらで引き取ってもらえませんか?
反対論者がいてこそ論議は深まるだろうに。
仲良しクラブでなければ耐えられないのかな?
252 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/30(木) 10:16:28 ID:hW31gRVb
>>249 >「不去」、「去りつつあるものは去らず」は当時の有部の説く運動を
>言葉の論理上で否定したものであり、現実世界の運動を否定したもの
>ではないということです。
これは有部の三世実有論を論破した重要な部分ですね。
有部は刹那滅論を展開しておりますが、
刹那の部分、つまり“今現在”を深く分析いたしましたのが龍樹であります。
今というのは“来つつあるものであり、また同時に去りつつあるものです”
(相反するものが同時にありまして、それが「今」であることの位置づけと仮設します)
“去りつつある”は、未だ“去ってない”を前程としますから、
“去ってない”もんが「今」に向かって去る、ってことになりますね。
とどのつまりは、分析すれば「論理矛盾」になるわけです。
時間は流れているのか?
そういう錯覚のもとでの日常は何ら差し障りはありませんけど、
>法身の仏は諸法である」と説かれましたね。
このように書いてありますとおり、勝義諦においては全く通用せんのです。
世俗諦においては、過去・現在・未来はありますけど、
勝義諦になりますと、過去・現在・未来はありません。
世俗諦は般若心経においての色即是空の「色」になります。
勝義諦は色即是空の「空」です。
仏教とは、この「色」と「空」の二諦あいまって不一不二で調ふのが
一番よろしいかと存じまふ。
253 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 10:30:18 ID:NTOPaqdg
>>250 >>34 のまとめを書いたものです。
>将来的に能力が増大したり開発されたら発見される可能性もあるわけてすよ。
誰も現代の知見で全てが明らかになっているなどとは言っていません。
これから先も、未知の分野において、いろいろなことが解明されていくことでしょう。
しかし、現時点において「実証されていないもの。あるいは、有意な仮説により
その存在が将来において実証される可能性の高いもの以外」は、「存在しないと認識」
するのが適切な判断なのです。そうでなければ、人間が頭の中で想像しうる全てのもの
が「実在」することになってしまうからです。
>もしも真我があるとか、造物主が存在するということが発見や証明されたら、どうするんてすか?
言うまでもありません。もし、そのようなものが「発見や証明」されたら、もちろん
その実在を認め肯定しますよ。
>無い物を無いと証明することは難しいから
「難しい」のではなく、限定条件を付けないかぎり不可能なんです。
>非我ならともかく無我と言い切るのは危険じゃないかと思うのです。
この「非我」「無我」という語の使用法が混乱していますが、
現象界には『我』といえるものはない。すなわち「非我」
認識不能域においては、言及不能。すなわち「無記」
以上、どちらにも「我といえるものが、存在するとは認められない」
これらをまとめて「無我」
私は以上のような意味合いで使用してます。
>>127 ★でレスを書き始める人にさんざん批判されてるでしょ
255 :
一在家 :2009/07/30(木) 10:34:53 ID:h1MfDgLk
>>250 >非我ならともかく無我と言い切るのは危険じゃないかと思うのです。
私も前スレで同じ質問をして、旧7氏から教示いただいたと記憶します。
「我にあらず」=「非我」と「無我」とは原典では同じ単語であり、
訳者の別訳だそうです。
以下は私の推論ですが、別訳「無我」が広まって、
「釈尊は我は無いと説かれた」つまり「釈尊はアートマンは無いと説かれた」
と誤解され、日本で仏教が広まる頃になると「釈尊は霊魂は無いと説かれた」
と誤解が拡大されていったと読みます。
つまり、これらは綺麗な「縁起」です。
別訳「無我」が「縁」になって誤解「釈尊は霊魂は無いと説かれた」が起きた
のでしょうから。
256 :
一在家 :2009/07/30(木) 10:45:43 ID:h1MfDgLk
>>252 >時間は流れているのか?
>そういう錯覚のもとでの日常は何ら差し障りはありませんけど、
燕返しのコメントを有難うございます。
龍樹は言葉の論理上で運動や時間を否定しただけですのに、日常生活も
支障ないとは、中観派各位の生活実感を識ることができて幸いです。
続きはまた龍樹の学習が進んだ時にさせていただきたく。
>>253 >しかし、現時点において「実証されていないもの。あるいは、有意な仮説により
>その存在が将来において実証される可能性の高いもの以外」は、「存在しないと認識」
>するのが適切な判断なのです。そうでなければ、人間が頭の中で想像しうる全てのもの
>が「実在」することになってしまうからです。
たとえば宇宙人の存在はいまだ発見されてないが、
確率可能性やその他の分析の結果、いないと考えるほうが間違いというのが
科学者の中ではもはや常識になってます。
まして真我は、我々には想像できない能力を持つ者が今も昔もどこかにいたかもしれない。
皆が盲目の社会で色を見ることの出来る人が色というものがあると
言ったら、そんなものはないよバカだなと言われるかもしれないが、
その場合色はちゃんと存在してますよね?
そういう能力のある人が今まで真我を説いてきた可能性もあるのではないですか?
>認識不能域においては、言及不能。すなわち「無記」
仏陀はよく全知者と言われますが、全知とは無い物は無いと断言出来る者のことでしょう。
認識不能域があるなら全知ではないですよ。
一切内無我 一切外無記
260 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:01:21 ID:NTOPaqdg
>>254 >>163 を読んでいませんね?
>>257 >たとえば宇宙人の存在はいまだ発見されてないが、
確率可能性やその他の分析の結果、いないと考えるほうが間違いというのが
科学者の中ではもはや常識になってます。
私は「有意な仮説により
その存在が将来において実証される可能性の高いもの以外」
と書きましたね?
地球外生命体については、全宇宙域に存在する恒星の総数から換算
して確率的に存在する可能性は高いでしょう。
>まして真我は、我々には想像できない能力を持つ者が今も昔もどこかにいたかもしれない
これは単にあなたの想像もしくは願望ですね。
>そういう能力のある人が今まで真我を説いてきた可能性もあるのではないですか?
「可能性」だけなら、全てのものに「可能性」があるのです。
存在可能性が完全にゼロであるものなどは、ありえません。しかし、
だからといってそこから、「なら、あるかもしれない」という思考に
帰結してしまうと、上記のように「想像可能な全てのもの」が実在する
ことになってしまう。存在可能性が限りなくゼロに近いものは「存在しない」
と認識する。これが適切な判断です。
>>257 > そういう能力のある人が今まで真我を説いてきた可能性もあるのではないですか?
あるかもしれないが、仏陀は説いていないだろうなと。
いずれにせよ、無記の記述がしっかりと存在していて、なおかつ、真我という概念が
重視されているとは到底思えない経典の状況からして、真我があるという概念は
「涅槃に至るために必要ないもの」「相手にすべきでないもの」という認識でいいんじゃないでしょうか。
262 :
一在家 :2009/07/30(木) 11:09:16 ID:C54vDJf2
>>252 机氏
>世俗諦においては、過去・現在・未来はありますけど、
>勝義諦になりますと、過去・現在・未来はありません。
龍樹の二諦の根拠になる「縁起」を説明する為の「不去」は
言語の論理上で証明されただけで、現実世界では証明されて
いないでしょう。
足元のアリさんをじーっと見ていれば確信できます。
263 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:15:09 ID:NTOPaqdg
>>258 そうですね。簡潔に表現すれば、そのようになりますね。
264 :
一在家 :2009/07/30(木) 11:15:34 ID:C54vDJf2
>>257 >我々には想像できない能力を持つ者が今も昔もどこかにいたかもしれない。
我々も想像できますがテレパシー(読心通)については、釈尊も
複数の経典で説かれております。
仏でなくても、修行完成者(阿羅漢以上、菩薩含む)ならば、普通に
テレパシー(読心通)が使えると記載あり。(出典「沙門果経」、他)
五蘊や十二処では説明できないですね。
265 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:25:22 ID:AzDb6fBs
>>252 >世俗諦は般若心経においての色即是空の「色」になります。
>勝義諦は色即是空の「空」です。
>仏教とは、この「色」と「空」の二諦あいまって不一不二で調ふのが
>一番よろしいかと存じまふ。
人間は、そもそも、色、即ち「現象界」において生存しており、現象界以外では
生存できないのだから、現象界を離れた「勝義諦」などはいわば妄想の世界で
あり、真理性の証明は出来ない。即ち、世俗諦を離れた勝義諦などは存在しない。
世俗諦と勝義諦とを区別すると、人間は分裂状態に陥ってしまう。存在するのは
世俗諦だけであり、勝義諦は、その思考論理実験的説明に止めるべきであろう。
本体は、あくまで世俗諦のみである。
「色」は、あくまで「現象界」のことであり、観念や論理は含まないと解する
べきであろう。従って、「空」とは「色(現象界)」の思考実験的説明に過ぎない。
厳然として実在するのは「色(現象界)」のみである。「色即是空・空即是色」は、
このあるがままの現象界の分析と説明に過ぎない。「空」は、存在を否定するどころ
か、むしろ、存在を大前提として、その「相互依存性・関係性」を解明したもの
である。「空」から、「非存在」などという意味は、どこからも出てこないので
ある。「空」は、実は、唯物論の基礎にもなりうるのである。佛教が、徹頭徹
尾「現実主義的な宗教」と評価される所以である。
266 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:36:07 ID:AzDb6fBs
>>262 >足元のアリさんをじーっと見ていれば確信できます。
勿論、アリの運動を否定するものなどではありません。「動いているアリ」
と言っておいて、さらに「動いている」などと言うと、「動く」という
動作が二つあることになり、論理的に矛盾してしてしまう、という単純
なことです。
佛教には、現象界(目に見える世界)を否定する要素は皆無です。現象界
が「相互依存・関係性」の世界であることを、「発見」しただけです。
しかし、この「発見」は、他の如何なる宗教もなし得なかったことなの
です。
> 「空」は、実は、唯物論の基礎にもなりうるのである 実は、という言い方は宝珠氏も使うが、 大体、この言葉が出てくると、仏教というものが換骨奪胎されて 新宗教になるな。 この場合は、仏教が唯物論になったし、宝珠氏の場合は神智学になった。
>>260 色盲の例えについてはどうですか?
仏陀も仏教徒もこの世の多くの人が色盲なだけではないですか?
色を認識出来たごく少数の人が必死にその存在を説いてきたが、
言葉が足りなくて理解されてないだけでは。
だからといって色が無いことにはならないですよね?
269 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:40:35 ID:AzDb6fBs
>>267 人間は、物(実在)に100%依存しない限り生存できないのですから、
当然のことでしょう。釈迦は、そのような自明なことも分らないような
愚か者でも妄想患者でもありません。
270 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/30(木) 11:42:53 ID:hW31gRVb
>>262 >現実世界では証明されていないでしょう。
いやいや現実世界で証明されておりますよぉ〜
時間というのは恒常普遍ではない。ってことが明らかになっております。
観測者とその対象は若干の時間差があります。
運動(つまり速度)において差異が生じる。ってのは
理論上の計算で明らかですよ。
(アインシュタイン・相対性理論)
釈尊は悟りの時点で、すでに三時(過去・現在・未来)は否定しておりました。
ですから未来もないのに真我とか黄泉の国とか、そういうのが有り得るわけはない。
ってことは既に解っておったのです。
十無記(十四無記)とかは、そういう流れにおいての結論であったのでふ。
こんなわけで釈尊は説法には随分苦労をなさったんですね。
こんなハイレベルなことを衆生に解せるわけはない。
と、開悟後は悩みました。
それでも釈尊は方便を用いて説法を続けました。
>>269 物だけあっても、精神攻撃を続ければ死ぬから、
物質のみに100%依存してるわけではないだろうな。
272 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:50:04 ID:AzDb6fBs
>>271 精神攻撃だけで死ぬことは絶対にないが、飯を食わなければ死にます。
社会に一歩出れば、精神攻撃ばかりですよw。
>>272 いや、監禁して精神攻撃をひたすら続けると
衰弱死したりするよ。
274 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 11:55:28 ID:AzDb6fBs
>>271 いくらいじめにあっても、「物理的な力」を使用しなければ、死ぬことは
できません。
「呪い」や「念力」で、他者や自分の心臓を止めることは、絶対に出来
ません。
275 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 12:00:12 ID:AzDb6fBs
>>273 「監禁」という「物理力」を使用している。美味いもの食わせて、自由に
行動させておいて、いくら精神攻撃しても、それだけでは、絶対に殺せま
せんよw。
>>272 > 社会に一歩出れば、精神攻撃ばかりですよw。
まぁその性格じゃ、そういう目にも遭うだろうな。乙。
>>274 > いくらいじめにあっても、「物理的な力」を使用しなければ、死ぬことは
> できません。
精神的ないじめくらいじゃ普通は死なないが、極度に弱っている状況とかだと死ぬこともある。
生死の境にいる人間が一時的に状態よくなったりするのは、案外精神力によるところが大きい。
精神力や精神状態によって、回復力に差があることはよく知られている。
> 「呪い」や「念力」で、他者や自分の心臓を止めることは、絶対に出来
> ません。
それはそれで確認とれてないでしょう?
信じてるだけって点では、宝珠とかと同じだよ。
>>261 涅槃に至るために必要ないから語らなかったという現実主義な
ところが後世の混乱を生むことが仏陀は分からなかったのでしょうか?
毒矢の喩えは分かっちゃいるけど探究を止められない人間の役にはたたないのですよ。
>>275 監禁は物理力じゃないだろw
拘束して運動させないならともかく、
監禁が相手の肉体に対して何か物理的影響があんのかとw
段々言い訳が苦しくなってきたなw
>>277 > 涅槃に至るために必要ないから語らなかったという現実主義な
> ところが後世の混乱を生むことが仏陀は分からなかったのでしょうか?
妄想につきあっててもキリがないとは思うけどね。
> 毒矢の喩えは分かっちゃいるけど探究を止められない人間の役にはたたないのですよ。
そういう何かの答えに依存する気持ちの強い人の役に立つのが神智学ですよ。
本体があるという考えは、答えに依存する人には結構、助け船になると思いますよ。麻薬的意味で。
何の答えもなく、何の本体もなく、という状況に耐えるっていうのが人間には難しいですからね。
「じゃあ何なの?」「じゃあ?」「じゃあ?」と答えを求めたくなる人も多いですからね。
>>279 あなたが色盲で色の存在を理解出来ないからといって色が見える人を否定することは出来ないのではないですか?
281 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 12:28:13 ID:AzDb6fBs
>>278 「監禁とは、一定の場所からの脱出を困難にして、移動の自由を奪うことを
意味する。」’(「刑法各論」(山口厚著、有斐閣発行))。「一定の場所」と
いう「物理的空間」が必要だね。言い訳が苦しくなってきたのは、君の方。
君は、人を「呪い殺せる」かね。「神様に祈って」殺せるのかねw。
282 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 12:35:14 ID:NTOPaqdg
>>268 あなたの言ってることは、全て仮定の可能性の話にすぎません。
「色」に限らず、未知の情報を知覚できる非常に特殊な能力の所有者が
いる「可能性」は完全に否定することはできません。
実際「自分は霊と会話もできるし、霊をよびよせることもできる」
このように主張する人はたくさんいます。しかし、現在それが「普遍的
現象」として認知されてないのは何故でしょうか?
あなたはそれを認めない人たちを「何もわかってないおろかもの」と思いますか?
あらゆる物事は完全に否定することは原理的に不可能。
だから「信じる」ことは自由です。どのようなものも可能性はゼロではないのですから。
しかし、それを普遍的事実であるかのように語るのは間違いです。
限りなく可能性がゼロにちかいものは「ない」と見做すのが適切な認識です。
283 :
旧7 :2009/07/30(木) 12:38:13 ID:lZDGrDpj
>>268 (
>>280 )
新たに色が見つかったとて、おそらく同じことでしょう。
「仏教という枠組み」(≒仏道を行ずるに於いて)の中では不要なものとされるのでしょう。
寧ろ、惑わされるくらいなら、「モノクロとして観なさい」「色に捉われてはなりません」とでもされるのでは?w
「色など無いものとして観なさい」、と。
だって、色盲という枠組みで、ブッダは解脱してしまったのだから・・・w
>>280 その通りです。
ただ、見えたからといって意味ないなーというのが仏教でしょうね。
285 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 12:43:22 ID:NTOPaqdg
>>280 >あなたが色盲で色の存在を理解出来ないからといって色が見える人を否定することは出来ないのではないですか
この論理は通用しません。
>あなたの知覚システムが異常をきたし、ないものが見えてしまってるだけでは
ないのですか?
このような反論がなりたちます。
286 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 12:43:43 ID:AzDb6fBs
>>276 病気や飢餓で衰弱している人は、いくら周囲が生きて欲しいと思って
も、いくら神に祈っても、必ず死ぬよ。本人がいくら生きたいと思っても
無駄。但し、飢餓や脱水状態の場合は、一碗の粥、コップ一杯の水が
あれば、死ななくて済む。究極の飢餓状態においては、一切れのパン
が「神」である。他の神は必要としない。これは、釈迦でもイエスでも
同じ。
>>281 >
>>278 > 「監禁とは、一定の場所からの脱出を困難にして、移動の自由を奪うことを
> 意味する。」’(「刑法各論」(山口厚著、有斐閣発行))。「一定の場所」と
> いう「物理的空間」が必要だね。言い訳が苦しくなってきたのは、君の方。
だから、運動の自由がある状態で外出の自由を奪うことが、
相手の肉体にどのような「物理的」影響を与えるのかと聞いているのですよ。
> 君は、人を「呪い殺せる」かね。「神様に祈って」殺せるのかねw。
そんなことはしらん。が、もしやってみる機会があるならキミを対象にしてもいいかい?
>>284 いやいや、この喩えはもともと真我についてなんだから、そこに戻れば大変なことになりますよ。
喩えを止めて真我があるかないかに立ち戻ると、真我があると分かった場合に意味ないなーと割り切るのは無理でしょう。
だって、真我があるとなれば、永遠に仏教の涅槃の境地には入れないわけです。出来るのは真我への合流になってしまうのですよ?
>>286 > 精神力や精神状態によって、回復力に差がある
これは事実ではないという認識ですね?
>>285 それは多数決の論理じゃないですか?
なぜ見えた人の知覚が異常を来してると言えるのか、説明してください。
歴史上多数の人が真我を知覚してきましたが、全員異常者なのですか?
>>290 > 歴史上多数の人が真我を知覚してきましたが、全員異常者なのですか?
その可能性は否定できないでしょうけどね。
異常者じゃないにしても、何か勘違いしてるとか錯覚してるとかいうことも
ありうるでしょうね。
サンタクロースや超常現象をそのまんま信じるのは小学生くらいまでですね。
>>282 仮定どころか、あまりにも多くの人々が真我を知覚してきた事実があります。
かつて地球が宇宙の中心で太陽がその周りを回ってると考えられていた。
当時の科学力では地球が太陽のまわりを回ってるという可能性を見出すことのほうがゼロに近かったわけです。
その場合、太陽が地球のまわりを回ってるとみなすのが適切な認識と言うのですか?
>>288 > だって、真我があるとなれば、永遠に仏教の涅槃の境地には入れないわけです。出来るのは真我への合流になってしまうのですよ?
釈迦は涅槃に至ってないと言うんですかね?
煩悩が尽きるってことはあると個人的には思いますけどね。
いずれにしても、自分が抱えている煩悩をひとつひとつ潰していく、ということは可能ですよ。
その意味で、真我があるかどうかなんて、どうでもいいことでしかない。くだらないね。
294 :
旧7 :2009/07/30(木) 13:09:42 ID:lZDGrDpj
>>290 或る対象物を凝視し、右目と左目交互に閉じて見てみるといい。
像の位置が左右にぶれないか?
さて、この時、どちらの位置が真の位置なのか判断できる?どうやって判断する?
独我論最強説はここから始まる(?)w
誰一人として、同じ知覚をし、同じ認識をしているわけではないからだ。
100人いれば、100通りの認識がそこにある。100人いれば「100通りの“世界”」がそこにある。
その内の、どの認識が正しい認識なのか、君は【君(の知覚認識)だけで】判断できるかい?
だから、多様な情報の集積を踏まえた上で、
多数決にならざるを得ないケースの方が圧倒的に多いわけだ。
「見た人」と「見てない人」、この間を分かつには、多くの情報の集積と分析が必要なんだよ。
それを、個人所有の感覚(≒主観)でなく、誰もが獲得(感受・認識)可能な普遍的事柄とするなら尚更ね・・・。
295 :
旧7 :2009/07/30(木) 13:23:18 ID:lZDGrDpj
>>294 に補足。
他者のことや、外界の事象だけでなく、
自身の「経験の蓄積による判断・分別の正確さ」「精度up」もまた、
自身の「経験・感受した事象の集積結果」の多数決によって担保されている
ということも憶えておいた方がいい。
>>294 同じことは無我でも言えますよ。
多くの情報の集積と分析と言うけど、無我の悟りだって結局は本人の自覚だけじゃないですか。
人はね、見たいものを見るのさw それでブッダの本懐(苦しみからの解脱)が達せられるなら、それでいいんだよ。
>>297 真我を見て苦しみから解放されるならそれで良いと!?
それじゃこのトピックの意味はどこへ?
299 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 13:46:21 ID:8b4aKY0n
旧7は知らないことを話そうとするから混乱してしまうのだ。 体験したことだけを話すなら混乱しないだろう(~~) 下の経をよく読むように。 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。 これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、 彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
300 :
旧7 :2009/07/30(木) 13:52:13 ID:lZDGrDpj
>>296 そうだよ。
>無我でも ってだけでなく、「縁起」だろうが「涅槃」だろうが「四諦」だろうが、
「仏教」という世界観の全てが、釈尊一人の妄想であり、
弟子達も、誘引されて「似た世界観」を有し、「それを」伝承してきた、と見ることは可能だ。
(哲学界では、共同幻想、共同主観、間主観、とでも言うのかな???)
映画マトリックスを荒唐無稽と笑えない理由はここにある。
凡そヒトたるものの思考・世界観は、その個人の中で閉じている。
だが、誰も、そのような極のスタンスはとらない。
他者の存在を認め、他者の認識を認め、自身の認識と照らし合わせる。
場合によっては自身の認識の修正も許容する。
なぜだろうね・・・。
狩ってきた鹿の肉を共同体全員が食らう。 誰も、その肉の存在を疑わない・・。
日照りが続く。誰も、雨が降っているとは思わない。降らない日が続いていると思っている。
だから、「共同体全体で」雨乞いをする。
独我論的(懐疑論的?)ベクトルは手強い。
だが、そこに綻びが無いかと言うと、そうではないように思われる。
301 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 13:56:24 ID:8b4aKY0n
182 : ◆xQ2N4RcE0E :2009/07/29(水) 14:04:42 ID:B0SM+ydr
>>161 旧7のオツム・・・どうもセンスが悪い
石頭の頓珍漢のエロQのかんぐりのほじくりの断滅外道の小姑根性
これらは旧7が相手に投げつけた言葉であり態度である。
こうやって並べれば旧7の人柄がにじみ出ている。
302 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 14:18:25 ID:8b4aKY0n
粘着君は、仏教は一貫して無我を説いてきた、などと言っていたが、 中村元著『中論』には、いわゆる小乗仏教の中に、 アートマンを認める部派(とく子部)があったという記述がある。 竜樹が中論でアートマンを論じ、 アートマンを認める人たちの存在を認める詩句を残しているのも、 こういった背景があったからなのだろう。
>>298 >それじゃこのトピックの意味はどこへ?
真我という妄想戯論で裸踊りしてもいいんだよ。
安心するがいい、「意味」など最初からない。
304 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 14:31:53 ID:8b4aKY0n
大乗の信奉する竜樹の<空>は、 その当時の仏教界からは虚無主義を説く異端として排斥されていた。 中観派(空論者)は、古代インドですでに、何となく気味の悪い 破壊的な議論をなす虚無論者であると言われていた。
305 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 14:38:06 ID:8b4aKY0n
竜樹の<空>は虚無である 1 この現実は時間と空間の中に存在する四次元である。 2 しかし竜樹は時間や運動を否定する → 空間だけの三次元になる 3 さらに空間の現象を概念や命題で把握する → 言葉だけの二次元になる 4 言葉の相互依存、縁起によって<空>を仮設する → <空>には内容がない 5 <空>において言語対象がなくなる → 言葉が消えたら虚無・ゼロ次元である
306 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 14:53:42 ID:8b4aKY0n
世界の人口を約65億人として、その半分約30億人が神を信じている。 神が存在し霊魂が存在することは、可能性がゼロに近いどころか、 50%ぐらいの確率で信じられているのである。 こういった現実を踏まえれば、無我の主張には不適切なものがある。
307 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 15:03:22 ID:8b4aKY0n
ついでに法華経と竜樹の関係について補足 竜樹の『大智度論』に、法華経がしばしば援用されているという。 つまり竜樹は、法華経を読んでいるということになる。 後の世親も『法華論』を著して注釈している。
308 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 15:20:38 ID:NTOPaqdg
>>290 >>292 だからね、少数派の言ってることが間違いで、多数派の主張が真実であると
言ってるわけではないの。もしかしたら、少数派の意見が真実である可能性もある。
>なぜ見えた人の知覚が異常を来してると言えるのか、説明してください。
現実に存在しないものが見えたら異常です。それを幻覚といいます。
>仮定どころか、あまりにも多くの人々が真我を知覚してきた事実があります。
これはあなたがそう思ってるだけです。
「真我を知覚してきた人」は「幽霊をみた人」の数に比較するとはるかに少ないですね?
「地動説」の話を持ち出すまでもなく、太古の人々は人間が月に行ったり、
地球が球形であることなど思いもよらなかったでしょう。
それは、その当時の(科学的)知見がそうであったから、当然そのようであって
あたりまえなのです。いいですか?私のいうところは
人間はその時点で解明されている知見に基づき判断、認識していくしかない
ということなんです。そうでなければ、想像可能な全てのことが「事実」と
なってしまうでしょ?
これから、先も、現在では思いもよらないことが「真実」として解明されて
行くことでしょう。それらの「真実」はそのときに真実と認識されるのです。
>>308 現実に存在するとはどういうことかでしょう。
科学的に測定出来るものがない状況で色盲の人に色を現実のものとしてどう証明しますか?
彼等にとって色は無いのが現実ですが、それと関係なく色はあるというのは事実でしょう。
あなたは色を認識出来ますね?色盲の人に囲まれ色なんかないと攻められても、あるものはあるんだ、僕には見えるんだと言うはずです。
真我も同じです。あなたがわからない、知覚出来ないからと言って、他人が見たそれを幻覚とか言えるものではないはずです。
310 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 15:54:18 ID:NTOPaqdg
>>309 >真我も同じです。あなたがわからない、知覚出来ないからと言って、他人が見たそれを幻覚とか言えるものではないはずです
論理の飛躍です。
真我を知覚できない人=色盲のひと
真我を知覚できる人=正常の視覚システムをもつひと
なぜこのように断言できるのか、論証が飛んでいます。
それでは多数の正常な視覚システムをもつ人々のなかに、一人だけ
幻覚が見えるひとがいたとしましょう。この幻覚が見えるひとは
やはり、「俺には見えるんだ」と主張することでしょう。
この場合、
真我が見える人=幻覚が見えるひと
真我がみえない人=正常な視覚システムのひと
このような図式も成り立ちますね?
>>310 そのただ一人が見ているのは本当に幻覚なんですか?
もしかしたらこの世には幻覚というものは存在せず、誰もがその視覚能力に応じたものを見ているだけかもしれません。
312 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 16:16:38 ID:NTOPaqdg
>>311 >もしかしたらこの世には幻覚というものは存在せず、誰もがその視覚能力に応じたものを見ているだけかもしれません
現在、統合失調症により幻覚に悩まされてる人が大勢います。
彼らの見ている幻覚が全て「本当は実在しているもの」
と言いたいわけですか?
>>312 聖者には精神病的気質を持つ者が大勢います。そのために常人には見えないものを見る能力が開眼したとしても不思議ではありません。
314 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 16:27:21 ID:NTOPaqdg
>>313 確かにそのような可能性もゼロではありませんが
「聖者」と「統合失調症患者」の違いは何でしょうか?
両方とも実在しないものを見てることにおいては等価です。
その点に差異はありません。ならば、そのひとが「聖者」であり
「常人には見えないものを見てる」ことは、他の視点に立って実証
されなければなりませんね。
>>314 他者も同様のプロセスを踏めば同様の経験をすることが出来るのが一番ですが、そうでなくともその体験を言葉に翻訳する能力が優れた人ならば他者を納得させやすいかもしれません。
それが出来れば聖者と認められやすいと思います。
ただしそういう能力がないからと言って、見たものが幻覚になるわけでもありません。 翻訳能力と見たものが実在しているかはまったく別の問題です。
あー。そういえば麻原も空中浮遊の実演とかやってたっけ。 あれ見て入信するやつもいるんだよな。 浮いたからどうだっていうんだというのが俺の意見なんだがなw
318 :
暁 :2009/07/30(木) 16:55:24 ID:BUEfdGtZ
人間は物理的にある世界とは別に、自分の 内部表現にも仮想世界をつくることができ る生き物ですよね。 精神攻撃で思い出したが、祈祷師なんかが 霊(幻覚)に負けて命を落とすこともあるな んて聞くが、これなんか内部表現が物理的現象 となって身体に現れた結果というのがよくわかる。
319 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 17:05:43 ID:hysEDjeL
>>313 人間界は、徹頭徹尾、共同体であり、その個々の成員の知覚は同一では
ないが(他人に成り変ってみなければ、他人の知覚は分らない)、その
不特定多数の成員の知覚の平均値はほぼ一定であることをすっかり忘れ
ているね。さもなければ、色盲検査表や視力検査表もありえないし、
そもそも、この世界や社会が成立しないではないか。
不特定多数人の知覚の平均値から有意に偏倚した知覚を「知覚異常」
「幻覚」「妄想」と呼び、「病気」として治療の対象となるだけ。
「病気」とは、共同体成員の平均値から「有意に」偏倚することをいう。
古代においては医学がなかったので、そのような病人が珍重されたので
ある。創唱宗教の開祖の誕生である。
「病気」とは、共同体成員の平均値からの有意の偏倚のことである。
物が「ある」「ない」とは、共同体(現代では、人類共同体に拡大された)
の不確定多数の成員の平均的知覚によって知覚される対象をいい、それ
以外を「幻覚」「妄想」という「病気」として、治療の対象とする。
320 :
暁 :2009/07/30(木) 17:13:42 ID:BUEfdGtZ
彼ら祈祷師などの理屈は、お祓いの対象となる 霊に悩む人、つまり内部表現で作り上げた自分 の臨場感世界が物理的現象となって現れた霊の 幻覚や体の不調を訴える人に対して、変性意識 を作り上げ、霊に憑かれたと思い込む人の臨場 感世界に入り込み、内部表現を書き換えて霊を 見ないように、いやその霊という概念を取り除 いてあげるという理屈だね。 その方が救いがあると彼等は考えるのだろう。 内部表現と恒常性を利用した治療法みたいなもんかね。
321 :
暁 :2009/07/30(木) 17:38:49 ID:BUEfdGtZ
日本の伝統仏教にも祈祷師軍団はいて、その修行 は大変厳しいものらしい。 百日間山に篭り、命懸けの修行をするという。 その目的はというと、圧倒的な法力を身につける ことだという。法力とは人の内部表現を書き換え る力。つまり幻覚を消したり、作り上げたりする 力という話だ。 その僧侶達の霊を見て感じる臨場感は凄まじく、 霊を見て怖がる人に頼まれて祈祷すれば、実際に 霊が消えるらしい。 そのためだけに百日間鍛えぬく訳だから、それは 相当なものだという。 世の中にこういう人達がいるということなら、霊 がいないという理屈は通用しなくなる。 それはこの人達がいたって本気の軍団であるからだ。 言っとくがこれは霊を信じる信じないという話で はなく、客観的に見たらそういう理屈になると言 っているだけだ。 霊という概念に洗脳された人には、有効な手段で、 実際に霊が見えたり、それにより体調を崩したりす る人には、同じ土俵に立ち、それを見えなくしたり 、治してあげるというのが、この祈祷師の論理にな るということを言いたいわけ。 もしその祈祷師よりも、お祓いを受ける側の臨場感 世界が凄まじいならば祈祷師は負けちゃうわけ。 なんだか精神プロレスみたいだなw だからあんまり坊さんと関わりたくないのよねw
322 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/30(木) 17:58:27 ID:Jmcv6qFi
>321 (^。^;)まぁ、死ぬ事なんて滅多に無いがな。(笑) 確かにあの消耗戦はプロレスだったな。(笑)
323 :
暁 :2009/07/30(木) 18:09:51 ID:BUEfdGtZ
>>322 承狂さんの法力で俺を呪うのは勘弁してください(笑)
324 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/30(木) 18:18:06 ID:Jmcv6qFi
>323 ここだけの話だが、俺の呪術なんかほとんど効かないぞ♪(笑) (^。^;)生臭のエセ仏教徒だからなぁ。(笑)
>>319 それでは、真我実現どころか今もって仏教の悟りや涅槃の境地は不確定多数の成員の平均的知覚によっているとは言えないので、
その境地に達したと言う人がいればこの社会においては病人なわけですね。
326 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 18:47:55 ID:s9M2aK0q
有部論者・暁君は根拠のない作り話をアップしないように。 100日程度の修行では何の足しにもならない。 煩悩のぬかるみにはまるばかり。
327 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 18:53:53 ID:s9M2aK0q
>>319 病気の定義が全くなってない。勉強のし直しが必要だろう。
328 :
旧7 :2009/07/30(木) 18:56:28 ID:lZDGrDpj
>>234 どっから来たんだ?w
てか、何しに来たんだ?www
329 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 19:08:08 ID:s9M2aK0q
>>315 あなたが言っていることはだいたい理解できました。
正論ではないでしょうか。
それに対して粘着君の話は屁理屈のように感じました(~~)
330 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 19:14:51 ID:s9M2aK0q
>>324 暗い僧坊を捨てたことは正解でしょう。
空など悟れないし、それに空は悟りではないし、
悟りが僧坊にないことは断言できる。
331 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 19:46:34 ID:s9M2aK0q
仏教の経典などほとんど読んでないけど、 世尊を世尊として評価するのは、スッタニパータ八章<慈しみ>だろうか。 この章は、空や無我からは導けないのであり、 世尊は神やアートマンを知っていたとしか言いようがない。 空や無我では愛を説けないのだ。
パニックは、煩悩の中のどれに分類されるんですか? 瞋恚ですかね?
333 :
一在家 :2009/07/30(木) 20:21:31 ID:h1MfDgLk
>>270 机氏
>>現実世界では証明されていないでしょう。
>いやいや現実世界で証明されておりますよぉ〜
>時間というのは恒常普遍ではない。ってことが明らかになっております。
>観測者とその対象は若干の時間差があります。
>運動(つまり速度)において差異が生じる。ってのは
>理論上の計算で明らかですよ。(アインシュタイン・相対性理論)
この1ヶ月以内のことでしょうか、私がアインシュタインの「宇宙に意思あり」
という説を紹介した際には、住人各位から一流科学者の言で正当化する気かと
批判を浴びました。 そう、机氏が本スレに再生される少し前です。
私の質問の主語は龍樹です。
つまり「龍樹は運動と時間を現実世界では証明されていないでしょう。」という
ことです。
(譬え話)
むかしむかし、インドという国に言語の論理世界では最強の哲学者がおりました。
彼の論敵は同じく言語の論理世界でのチャンピオンでした。
後者は言葉の論理世界で運動と時間を説明しましたが、前者により否定されて
敗北しました。
それから2000年近くの「時」が流れました。。。(続く)
このお話の結末は、私がもう少し学習を進めた後にさせていただきたく。
ヒントは、彼は「有」と「無」という言葉の間にいたので虚無主義者ではなかった
ということですが、貴兄には既に読めておられることと存じます。
334 :
一在家 :2009/07/30(木) 20:42:35 ID:h1MfDgLk
「空」が証明された世界は言語の論理世界だったというのが私の検証です。 それ以上でもそれ以下でもないでしょう。 元々言葉では表現できない「運動」や「時間」を「有る」と主張した人が 縁となって、龍樹による否定の論理が起こったようですね。
335 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 20:57:21 ID:kCvCxnY+
>>334 >「空」が証明された世界は言語の論理世界だったというのが私の検証です
そんなことは龍樹が中論の中できちんと述べていることでしょ。
中論第24章 四つのすぐれた真理の考察だね。
>>334 全く反対過ぎてワロタ。
やる気0としかいえん(笑)
竜樹が言うところは概念の否定及び言葉の限界だろ。
ここで気を付けねばならないのは、否定とは無いことを表すのではなく、
あらゆる概念、及び言葉は一義において
いったん否定を入れるということだ。
将に中論24章だな。
>一一 不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の呪術のごとくである。
338 :
暁 :2009/07/30(木) 21:08:47 ID:BUEfdGtZ
>>334 在家氏
「空」とは対立のうちに終始する凡夫の立場を脱しせしめるため
に仮に説かれた方便でしょ。
「空」を絶対視するならその、瞬間「空」も失われてしまう。
縁起を理解できてないと、ただの否定辞にしか見えず
、空見に陥るってことだね。
見事に陥った人がこのスレには一名いるけどw
いや、一度は否定をいれなきゃ、煩悩断てないからね(笑) 例え大乗でも煩悩絶たないのを涅槃といっちゃダメ(笑) 縁起の逆観で無明を絶つと、輪廻の究極が涅槃になるわけで・・・
340 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 21:14:50 ID:s9M2aK0q
有部論者・暁君 >(空見に)見事に陥った人がこのスレには一名いるけどw それは君のことだw(~~)
ウーブは悟空といっしょに修行してるけどな
342 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 21:22:36 ID:s9M2aK0q
暁君と粘着君にプレゼント 生命が有りというのは常住に執著する偏見であり、 生命が無しというのは断滅を執する偏見である。 故に賢者は、生命が有りということと 生命が無しということに執著してはならない。 生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・ これが非有非無の中道である。 空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
仙豆があれば脳死状態からでも回復できるけどな
346 :
暁 :2009/07/30(木) 21:52:34 ID:BUEfdGtZ
>>343 汚らしい野次には答える必要は無いよ
「一切の執見によってつくられた執著の脱すること、
すなわち、はたらかないことが空である。そして執見
によってつくられたものの止息のみは有ではない。
しかるにその空においてさえも有の執著をもって
いる人々に対して我々は答えない。
……もしも甲の人が『私はあなたに何も商品を与え
ないであろう』といった場合に、乙の人がもしもその
『何ら商品ならざること』ということを与えよ、とい
っとしたならば、その人(甲)はいかなる手段によって
『商品の無いこと』をとらえさせることができるであ
ろうか。
同様に、誰にでも空においてまた有の執著が存するな
らば、いまや何によってその人々の、空における有の
執著が破られるであろうか」(プラサンナパダー247〜248P)
このように思えばよいさw
347 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 21:53:04 ID:s9M2aK0q
>>343 >あらゆる概念、及び言葉は一義において
>いったん否定を入れるということだ。
否定を入れて世俗諦にもどる? まったく無意味ではないか。
君には君の無意味さをそっくりプレゼントしよう。
解っていないのは君の方だ。 第一義とは人の死も犬の死も同様だということだ。 わかるかい? 犬を殺して死刑になるのを良しとするのかい?
349 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/30(木) 22:20:45 ID:s9M2aK0q
>>348 犬のことよりも、愛や正義は空や二諦のどこから導出されるのか。
そのほうがずっと大事だろ?
350 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 22:24:44 ID:z++LkNie
>>347 「空」を「無」だなどと思い込むのは、君の佛教の完全な誤解を示すだけで、
見苦しいよ。
「縁起・空」は、やはり「相互依存性・関係性(interdependence and relativity
of everything)」と言い換えるべきだね。これなら、西洋人にも完全に理解できる。
竜樹の頭が良過ぎて、愚か者はこのように誤解する。
>>349 簡単な引き算だ。
自己愛ー自己=愛(他者への)
殺人、強盗、強姦、窃盗諸々の犯罪は全て自己を利する目的の為に発生する。
自己が無いと考えると自己を利する目的も無い。
神がいて、地獄を怖れる方が悪を抑えられるとするならどうぞご勝手に。
352 :
神も仏も名無しさん :2009/07/30(木) 22:31:04 ID:z++LkNie
すべての動物は、その生存に最も適した知覚が与えられている。例えば、人間 の臭覚や視覚は、犬やふくろうに及ばない。一般人に知覚出来ないものが知覚 できるというのは、その人間が「賢人」「超能力者」であるからではなく、 「獣に近い」ということだ。
353 :
析空 :2009/07/30(木) 22:31:39 ID:WEdPWdVR
>>292 真我を知覚した事実というのは、どのように確認したのでしょうか?
例えば、現代物理学では地球は太陽を中心にして回転していますが、同時に太陽は地球を中心にして回っているとしています。
将来、別な説が採用されるかもしれません。
354 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 23:39:00 ID:2xGdrtVS
>>244 何の反論にもなりません。
それは、非我を説く経文でしかない。
>>243 そう!これで終わりです。
確かに、ダライラマ法王までいってるのだから、
信仰上では〜間違いなくそれが継承されてきた教えであり、
伝統的な教義ということなのでしょうね。
しかし、真実としてはこれが2500年続いてきたものなのかどうかは疑問符です。
信仰上ではそうであっても、仏教学的には大いに疑問符付きであり、
学問的には間違い視するのが中心説でしょうね。
私からの同じような言葉ばかりではなく、
少し頑張ってタイプ打ち込みします。どうぞお楽しみに!
>いったい、どんな「新」仏教ができるのか楽しみだ。
図書館で見てきた無我についての説明では、
「アートマンはない」という意味だとする解釈は全体の1/4程度という少数でした
(数の論理を主張しませんが・・)。たしかに、「アートマンはない」という意味とする
見解よりは新解釈かもしれませんね。
355 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 23:40:16 ID:2xGdrtVS
>>245 “煩悩の止滅”という意識状態については、
我々は未体験なのであり、周囲にもどこにもそのような人間はいない。
それ故に、それがどんな意識状態において成されているのか?
を推し量ることはではない。
>>246 人智学は異端派です。ていうよりも、
シュタイナーは神智学徒ではなく、クリスチャン的神秘主義者です。
それを神秘キリスト教をベースに神智学の要語(概念)を取り入れたものが人智学。
その思想はアーリマン(幻想)でいっぱいです。
日本(の思想界やオカルトシーン)ではもてはやされていますが、
批判的視点の欠如です。
356 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 23:42:41 ID:2xGdrtVS
>>321 幻覚を創りあげたのではなく、
常人が見聞きできないものを意識的に見聞きする能力の鍛錬(体質というのもある)でしょう!
仏教の話でではありませんが、いわゆる本物の霊能者とはそういう意味です。
余談--平成12年、
岐阜県加茂郡富加町の町営住宅で怪奇音や皿が飛ぶなどの
ポルターガイスト現象に住民が悩まされて来たのを、
1度の加持祈祷によってピシャリ!と止めたのは霊能者/下ヨシ子でした。
因みに当時、ポルターガイスト現象の殆どは電磁波(もしくは低周波)を原因としているので
解明と解決が可能として意気込んだ大槻教授は原因未解明で撃沈しています。
(電磁波によるポルターガイスト現象理論はこの私もかなり詳しいがw)
伝統仏教者はこれらを幻覚幻聴と決め付けるか、
もしくは無記といって黙り込むだけ。
人の死後に残留残痕した想念形態の諸現象の一貫であるとして理解できない。
アートマンではありませんが、仏典には事実、そのようなものも登場する・・
(たぶん、一在家さんがその方面には詳しいかもw)。
357 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/30(木) 23:52:47 ID:2xGdrtVS
追記: 残念ながら、 住人を不気味な悩みから解放したのは霊能者の加持祈祷であり、 その前には、仏教者の説く「お釈迦様はそのようなものは無記としました」 などといった説法は無力。 ---これが現実。
358 :
1/2 旧7 :2009/07/31(金) 00:04:55 ID:CKTVUbBM
>>309 >>308 後半への補足として、ポッタパーダ経から一部、略式引用しときましょう。
(敵に塩を送るかのような、一在家のネタ提供スキルは素晴らしいなw)
32.このように話されると、調象師の子であるチッタは、つぎのように言った。
「尊師よ、粗い我の獲得がある時、彼にとって、意から成る我の獲得は虚妄となります。
色のない我の獲得は虚妄となります。【その時】、彼にとって、粗い我の獲得【のみが】、【真実となります】。
意から成る我の獲得がある時、彼にとって、粗い我の獲得は虚妄となります。
色のない我の獲得は虚妄となります。その時、彼にとって、意から成る我の獲得のみが、真実となります。
色のない我の獲得がある時、彼にとって、粗い我の獲得は虚妄となります。
意から成る我の獲得は虚妄となります。その時、彼にとって、色のない我の獲得のみが、真実となります」と。
「チッタよ、★粗い我の獲得があるとき、それは決して意から成る我の獲得と呼ばれることがないのです。
色のない我の獲得と呼ばれることがないのです。【そのときは】ただ、粗い我の獲得と【だけ】【呼ばれます】。チッタよ、
意から成る我の獲得があるとき、それは決して粗い我の獲得と呼ばれることがないのです。
色のない我の獲得と呼ばれることがないのです。そのときはただ、意から成る我の獲得とだけ呼ばれます。チッタよ、
色のない我の獲得があるとき、それは決して粗い我の獲得と呼ばれることがないのです。
意から成る我の獲得と呼ばれることがないのです。そのときはただ、色のない我の獲得とだけ呼ばれます。★
359 :
2/2 旧7 :2009/07/31(金) 00:17:58 ID:CKTVUbBM
・・・・・・中略・・・・・・、 尊師よ、このように問われて、私はつぎのように解答することができます。 『私に過去の我の獲得があった時、私にとって、その我の獲得のみが、【その時に】【真実でした】。 未来のものは虚妄でした。現在のものは虚妄でした。 私に未来の我の獲得があるであろう時、私にとって、その我の獲得のみが、【その時に】【真実となります】。 過去のものは虚妄となります。現在のものは虚妄となります。 私に【現在の】我の獲得がある時、私にとって、【その】我の獲得【のみが】【真実です】。 過去のものは虚妄です。未来のものは虚妄です』と。尊師よ、・・・・・・このように解答することができます」 34.「チッタよ、まさにそのように、(★―★リピート)。チッタよ、たとえばそれは、牛から牛乳が云々・・・・・」 (季刊原始仏教5巻P106〜110) ついでに、32節出だしの「―チッタは、次のように言った―」の所の註に何と書いてあるか、 目ん玉ひん剥いて読んで欲しい。 〈ここでまた、このチッタは、自ら一切知性がないまま、三種の我の獲得について語った。しかし、 この我の獲得というものがただ概念(paJJatti)にすぎないということを引き出せず、 我の獲得【であるとだけ】説明した〉。 更についでに、それを受けてチッタに語りかける際の註も記しておく。 〈そこで世尊は、かれに “色(rUpa)などがここ《世界》における法《自性法(sabhAva-dhamma)》である。 しかしこの我の獲得は《五蘊を取って》ただ名前(nAma)であるにすぎない。 それぞれ色などがあれば、このようなもろもろの慣用語(vohAra)が生じるのである” ということを示そうとされ、かれの話だけを捉えて、名前と概念により説明するために、以下のように言われた〉。
これ、真我の場所を説いてるわけじゃなく、表象のどこにフォーカスが当てられているかの問題じゃね? 本をよむことに集中しているとき、文字だけが真実の我であり、心の中の心配事や未来の予定は真実の我ではない。 こういうことだろ
>>357 > ---これが現実。
これも断定できる根拠なくて、やっぱり自分でそう思いこんでるだけでしょ?
なんか本で読んでその気にになってるだけとかさ。
信仰するのは自由だけど、それを事実として書かれるのは迷惑なんだよ。
何度言ったら理解できるのか。
超能力とか霊とか好きな、ムーとか読んでそうな人は、
オカルト板にでも行けばいいと思うよ。
スッタニパータによると、釈迦自身は占いとか呪術とか禁止してるわけですよ。
宝珠愚者は以前「原点回帰」とかいってたんだから、
原点から逸れるようなこと言うべきじゃないだろうね。
362 :
暁 :2009/07/31(金) 01:00:09 ID:X5HqjvOq
>>356 下て人は霊能力はあるが息子の不倫を見抜く能力は
なかったおばさんかね?
銭ゲバとプラズマおっさんの対決なんかしらんがな
363 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 01:09:12 ID:9G3N54Ac
>>356 その事件はテレビでも放映されたので知っているひとも多いと思うが
ポイントは次の3つ
1・ 奇怪な音がする
2・ コンセントが入ってないドライヤーが動いた
3・ 皿が飛んだ
1・>いわゆるウオーターハンマー現象、もしくは熱膨張によるパネルのずれ
により発生する可能性がたかいとのこと(ちなみにこの住宅はPCプレハブ
工法というそれらの現象が起きやすいものである)
2・>コンセントが繋がっていない状態でドライヤーが可動しているのを目撃して
いるのではない。すなわち、スイッチを切ったときにコンセントが外れた可能性
が高い。
3・>目撃者はオカルト好きの若い女性ただひとり。さらに、証言は皿が「フリスビー
のように飛んだ。1m飛んだ。2m飛んだ。」のように一定していない。
さらに食器棚の中には皿がつまっており、食器棚の構造はマグネット式
で内部から力が加わると開いてしまうようなものだった。
以上、霊を持ち出さなくても十分、合理的な説明がついてしまうものばかり。
さらに、この事件には全国から非常にたくさんの霊能者たちが駆けつけ
霊の正体を霊視したのだが、その言うところは全くバラバラだった。
何種類もの霊がいたのだろうか?
364 :
暁 :2009/07/31(金) 01:22:57 ID:X5HqjvOq
>>356 それと常人とはなんですか?
幻覚幻聴を感受できるものは異常人なわけですか。
変性意識を生成し、内部表現に介入しホメオスタシスフィードバックを利用し、
メディアでそれを喧伝して信者から金を巻き上げるのをコレ詐欺師と言うのではないか?
365 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 01:24:21 ID:9G3N54Ac
つまり俺が言いたいことは 交通事故にあった原因を、「朝、出かけるとき黒ネコが前を横切ったことが 原因である」などと結論付けることは愚かであるということ。
366 :
析空 :2009/07/31(金) 06:45:04 ID:/ICYWpkk
>>331 >空や無我では愛は説けない。
縁起を見れば、「慈しみ」の心が湧きます。
おまけ
仏教では、愛は執着であるから、愛を棄てよと説きます。
367 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 06:56:58 ID:uU1tI+uV
人は自分が見たいものを見る。 所詮それは迷いであり、 “ゴロゴロしている”迷いの世界でいくら迷っても、迷いでしかない。 Om gate gate paragate parasamgate bodhi svahah !
369 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 07:56:06 ID:B2mclWSm
>>333 >つまり「龍樹は運動と時間を現実世界では証明されていないでしょう。」ということです。
先ず、理論物理学と宗教の根本的違いを説明いたします。
物理学というのは、帰納法的に仮説を立てまして、
それを数式において合理性がある場合は立証したことになるんです。
例えばですが、電子などは数式において導きだされたものです。
これは殆ど確認は不可と思われますが、
電子顕微鏡のなかった時代においては「たぶん可視できたら霧のような状態であろう?」。
とかは想像されてました。
(実際、現代においても霧かどうか分りませんが可視はできるようになった)
龍樹とかの学僧というのは、演繹的に推論するのだはなく、
全く逆の演繹法論法です。
つまり哲学用語で言うなら「直覚」というもんですね。
理論・理屈ではなく「ひらめき」です。
この「ひらめいたもん」をどう言語で相手に伝えるか?
ってのが中論の一貫したベクトルであるわけです。
ですから証明するというのは不可能ですね。
相手にヒントを与えて・・・相手の「ひらめき」に期待する他ないんです。
これを仏教では「悟り」とか「見性」とか言っておるんです。
有部を「当て馬」としまして、それを批判するほか・・・
その手法はありゅらんのです。
(これが現在までの大乗の歴史でありますが、再び中興の祖が現れるやもしれませんね)
[つづく]
370 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 07:56:46 ID:B2mclWSm
[つづき] >「空」が証明された世界は言語の論理世界だったというのが私の検証です。 >それ以上でもそれ以下でもないでしょう。 こういったことでありますから、 「空を証明する」というのは不可です。 般若心経においては、ご自身が彼岸へ到達するよう勧めております。 大乗ですから、市井の人でも逝くことは可能です。 どうか開眼されることを祈念もうしあげます。 <机龍之介・花押>
371 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 07:59:22 ID:B2mclWSm
× 龍樹とかの学僧というのは、演繹的に推論するのだはなく、 ○ 龍樹とかの学僧というのは、帰納法的に推論するのではなく、
372 :
一在家 :2009/07/31(金) 08:50:06 ID:v4DfIQrj
>>335-336 中観各位
(中論24章10節)
「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。」
有部は世俗表現の一つの「言葉」を用いて、「運動」を表現して、否定(論破)
されただけです。現代ならば「マルチメディア」を用いて、「運動」を凡夫に
説明することができるでしょう。
(中論24章11節)
「不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。」
龍樹にしては珍しく、なんら根拠を示さずに断定しておりますね。脅迫です。
ふと「裸の王様」の大人の心境を思い出しましたね。
373 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 08:51:29 ID:v4DfIQrj
「八不」の中の「不一不異」を例に取りますと、言語の論理世界で「運動」を 説明しようとした有部説の矛盾を示したに過ぎません。 代わりに実在論にて「人は去る」を見ますと、人(主体)が去る(働き)だけで 両者の「一異」という問題は起こらないでしょう。 龍樹を学習すればするほど、「言語の論理世界での大哲学者」だという認識が 深まります。換言しますと彼が言語の論理世界で「空」理論を証明したのは 事実ですが、後の仏教徒が現実世界でも「空」が証明されたと誤解したまま 今日に至ったように思量します。 現代はマルチメディアの時代ですので、一度「去りつつあるものは去らず」と 連続奏上しながら、足元のアリさんをじーっと観察することをお奨めします。 現実世界において、「運動」と「時間」が存在するのか否かを認識できたら、 一言「アリがとう」と言えば(中論24章11節)の呪縛も消滅するでしょう。 以上、中論24章を読めが「縁」となって、今朝のかきこが「起」こった次第です。
374 :
一在家 :2009/07/31(金) 08:58:33 ID:v4DfIQrj
>>370 机氏
>「空を証明する」というのは不可です。
>般若心経においては、ご自身が彼岸へ到達するよう勧めております。
さすが机先生、お話が分り易いです。
言語の論理世界でない現実世界で「空を証明する」というのは不可ですね。
私が指摘しましたのは、釈尊が「空」を説き、龍樹が「空」を証明したと
勘違いしている仏教徒が案外多いということです。
私も高校生の頃は「般若心経」をよく唱えておりました。
「色即是空」とは「五感で存在を感知できる物質も、感知できない素粒子で構成」
と認識しておりまして、今日に至っております。
科学者、理系の視点では一つの仮説だと存じます。
375 :
析空 :2009/07/31(金) 09:43:55 ID:/ICYWpkk
>>354 アナートマンが無我とも非我とも訳せるので、無我ではなく非我と訳すべき
という問題が発生しますが、
>>244 の部分はアナートマンという用語は使われていません。
<我が有り>という思惟が不当だと明確にかかれていますが、
この文章が非我のことだという根拠は何ですか?
<素直に読め>ば、我が有りとする見解の否定になりますよね。
376 :
析空 :2009/07/31(金) 10:36:54 ID:/ICYWpkk
>>370 >>374 >空を証明するのは不可
それは、<空>というものを難しく考えているから、
もしくは誤解しているからです。
釈尊は<空を証明しました>が、それを理解出来る人と出来ない人がいるだけです。
377 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 11:41:29 ID:B2mclWSm
>>374 >>376 >>空を証明するのは不可
>それは、<空>というものを難しく考えているから、
空について簡単でありますがご説明いたします。
甘いとか辛いとかの食感。
頬にあたる風の感触。
ミスユニバース・日本代表の下半身露出の残像。
これら一連の作用は、露と消えあたかも幻の如く。
無我・真我に関わらずこれは一切、個人個人の心象であります。
これらを証明するというのは無理であります。
「ある」といっても「あるわけではない」。
「ない」といっても「ないわけではない」。
これが空であります。
五蘊の作用は色心不二でありまして、
身心はやがて老いてきます。
つまり朽ち果てて逝くわけです。
仏教は、今ある縁が全てであります。
これを即今即所とか言っておりますね。
378 :
析空 :2009/07/31(金) 12:15:18 ID:/ICYWpkk
>>377 やはり、難しく考えていますね。
釈尊が空を説明した小空経というのがあります。
その時、釈尊は講堂に居ましたが、講堂には牛は居ない。
これを「牛については空である」と説明し、しかし修行僧は居る。
であるから「修行僧については空ではない」と説明しています。
このように空というものは、単に「中身の無いこと」という意味であるとされています。
空の証明が難しいのではなく、
アートマンが空であることの証明が、アートマンに執着のある人に理解出来ないだけです。
379 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 12:35:39 ID:hPsGEaqR
>>374 >「色即是空」とは「五感で存在を感知できる物質も、感知できない素粒子で
>構成」と認識しておりまして、今日に至っております。
それは、般若心経のカルト的誤解乃至は歪曲。「目に見えない神や霊が存在す
る」と言うための布石ではないのかね。
素粒子も、観測装置を使えば五感で知覚できる、又は、五感で知覚できたもの
から推測できるからこそ、「実在する」のです。知覚できないものは、実在で
はなく、空想・妄想です。「空」とは、すべての実在は、原子の「相互依存的
・関係的集合によって成立している。従って、自性はない」ことを言っている
のです。
「万物の相互依存性・関係性」は、現実世界において、科学によって100%
証明することが出来、むしろ、現代における科学の中心概念です。
「現実世界において証明されないもの」は、真理性の検証はできず、従って真理
とは言えません。従って、神や霊は、人間の空想・妄想に過ぎず、実在物ではあり
ません。
380 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 12:45:58 ID:B2mclWSm
>>378 >このように空というものは、単に「中身の無いこと」という意味であるとされています。
それは世俗諦の話でして、
単に中味のないことなら、中論自体が無意味になってしまう。
それどころか、今の大乗もなかったことになる。
そんな簡単じゃ〜ないから、
仏教は今のよぉに発展を遂げた逝ったのですね。
2500年の仏教の歴史において、修行僧達が一番に難関だったのが
「記憶が残存する」ってことです。
この闘いだったのです。
人間の脳に、記憶が残らないシステムがあったなら、
仏教は必要なかったのかもしれませんね。
381 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 12:47:23 ID:hPsGEaqR
>>372 >「不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。」
この言葉は、「空」を「無」だなどと誤解するすべての「智慧の鈍い
者」に対して、見事に当てはまります。「空」とは、「無」どころか、
このあるがままの実在の世界そのもののことなのです。
382 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 12:51:47 ID:B2mclWSm
>>381 >>「不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。」
そうですね。
拙者もこの言葉には感銘しましたね。
383 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 12:59:40 ID:hPsGEaqR
>>382 その前に、「世俗的なものにもとづかなくては、第一義は説示され得ない」
という言葉があるのを、忘れてはなりません。世俗的なもの、即ち、現
象界によって証明できなければ、真理性の検証は不可能で、従って、真
理はない、のです。
384 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 13:10:51 ID:B2mclWSm
>>383 そうですね。
廓然無聖ですから真理はないですね。
真理というのは世俗諦ですね。
385 :
析空 :2009/07/31(金) 13:18:24 ID:/ICYWpkk
>>380 大乗が、仏教の発展したものかどうかは、少々疑わしいです。
大乗は「空」を、難しい概念にしてしまいましたが、空は「中身の無いこと」という
基本を外して<空>を捉えるのは、間違いのもとです 。
中身が無いというのは、外身は縁起しているということです。
386 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 13:25:57 ID:S8/bCosj
>>366 析空氏
>縁起を見れば、「慈しみ」の心が湧きます。
★ 空だけでは心の説明ができない、ということですね。
>おまけ
>仏教では、愛は執着であるから、愛を棄てよと説きます。
★ これでは空見へと逆戻り。空が偏見である証拠ではないですか。
387 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 13:45:34 ID:S8/bCosj
大乗の信奉する竜樹の<空>は、 その当時の仏教界からは虚無主義を説く異端として排斥されていた。 中観派(空論者)は、古代インドですでに、何となく気味の悪い 破壊的な議論をなす虚無論者であると言われていた。
388 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 13:45:34 ID:B2mclWSm
>>385 >中身が無いというのは、外身は縁起しているということです。
龍樹は、中身とか外身とか・・・
つまり主客ってのはそもそも境界線というのは立てられない。
ってことを書いてありますね。
(縁起だから論法的にはそうなる)
無自性だから、なにそれが縁起している訳ではない。
縁起は縁起でそれだけですね。
そこに注釈を入れるのが世俗諦ですから。
ミスユニバース・日本代表の下半身露出画像が、
直ぐに消える人もいれば、
いつまでも残存する人もいる。
ようは、記憶があるから人は過去に執着してしまう。
四諦とはこのことです。
その突き詰めたのが法。
法は「無苦集滅道」になる。
389 :
一在家 :2009/07/31(金) 13:46:16 ID:dvmRl0kQ
>>379 >「万物の相互依存性・関係性」は、現実世界において、科学によって100%
>証明することが出来、むしろ、現代における科学の中心概念です。
私は「中論」における「運動」と「時間」の否定は言語の論理世界では証明され
ましたが、現実世界では証明されておりませんよとコメントしたのですよ。
それでは貴兄(と私)の大好きな科学によって「運動」と「時間」の否定を
証明してみては如何でしょうか。
現実世界の事象を解明する為に発達してきた科学を引用することが「縁」と
なって、龍樹の論理の正体が鮮明になるということが「起」こりますのも
「縁起」ですね。
390 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 13:50:05 ID:S8/bCosj
>>388 机氏にプレゼント
生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・
これが非有非無の中道である。
空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
391 :
一在家 :2009/07/31(金) 13:56:12 ID:dvmRl0kQ
>>388 机氏
>ミスユニバース・日本代表の下半身露出画像が、
>直ぐに消える人もいれば、
>いつまでも残存する人もいる。
>ようは、記憶があるから人は過去に執着してしまう。
でも、記憶が無いと言葉で事象を伝えることもできませんね。
例えば「ミスユニバース」を知らない人や、忘れた人は、
「世界一ミスが多い人」だと勘違いしてしまうでしょう。
過去の恋人を思い出しても、苦しみでなく、感傷に浸る人も
多いかと存じます。
苦しみの原因は執着ですが、喜びの原因もまた執着でしょう。
科学者が発見や発明に執着して、達成できた時の喜びは甚大です。
アスリートが世界記録更新に執着するのも同様でしょう。
>>391 > 苦しみの原因は執着ですが、喜びの原因もまた執着でしょう。
33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について喜ぶ。
人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。
実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
393 :
暁 :2009/07/31(金) 15:47:43 ID:X5HqjvOq
我があるとする人が 「我があるからこそ、君は我を否定できる。もし無我なら君は 何を否定するのか。否定があるから否定されるものはある」 対して仏教者は 「君は否定されるものはあるのだから我はあると言う。それなら 無我の否定があるから無我を知るはず」となる。 相手が言う我があるから我を否定できるとは、あるものが存在 してはじめて、それの否定ができるというものだ。 初めから無我であるなら、一体何を否定した言葉なんだろうか というものだ。つまり我を否定するなら、否定されてる我を逆に 証明することになるといったものだ。 これは強力な論理であるが、これだと仏教が目指す戯論が断たれ るということはないだろう。
394 :
暁 :2009/07/31(金) 15:49:06 ID:X5HqjvOq
続き だが仏教には理がある。その理から言えば『無我』なのである。 無我とは縁起、諸法実相、空と同同義である。 だから否定される無我があるから、否定されてる我があるとす る人に対して、君は私の言う無我を否定しているじゃないか。 そうなら、無我の否定があるのだから君は否定されている無我 を知るはずだ。となる。 これは仏教的思惟を把握できないと理解できない論理だろう。 仏教では肯定、否定も同じ価値を持つ。つまり肯定⇒否定で なく、肯定⇔否定となる。 このような論法は、実は仏教の理、すなわち縁起の論理に基づ くものである。 仏陀の哲学体系を承認しない人ならば、到底理解できる論理で はなく、詭弁にひびくというのはある意味仕方ないことだろう。
395 :
析空 :2009/07/31(金) 15:56:39 ID:/ICYWpkk
>>386 そうですね。もともと<空>という用語は、形容詞ですから、<空>を中心にものごとを捉えるのは間違いです。
<空>はさとりでは無いということです。
さて、<愛>についてですが、残念ながら、釈尊の真意は、
<人々を導こうという思い無し>です。
大乗の菩薩は、ここが「不満だった」ということです。
つまり大乗は、釈尊の真意を理解出来ていないのでは無いかと思います。
396 :
1/2 旧7 :2009/07/31(金) 16:51:30 ID:CKTVUbBM
Sn.916 mUlaM papaJca-saNkhAya iti bhagavA MantA asmi iti sabbaM uparundhe ; YA kAci taNhA ajjhattaM, TAsaM vinayA sadA sato sikkhe. 世尊宣はく、 障礙なるものの根本と、 我慢とをすべて真慧もて絶滅せよ。 内にあるあらゆる諸愛、 其等の調伏のために常に念ありて学せよ。 (南伝大蔵経24巻p351/水野訳) asmi(「“ある”ということ」 → 註には、pavatta-mAnaM 「自分という思いが生起すること」。 これが水野訳では「我慢」とされ、中村訳で「〈われは考えて、ある〉という・・・」とされているのだろう。 (※確かに、1人称単数ではあるが、中村訳はデカルト臭がして少し嫌だw) (※原意的には『(単純に)“自分がいる、ある”という想い』か? アートマンと絡ませなくても偈は成立する・・・。) papaJca-saNkhAya → 「(悟りへの)障碍・煩悩 - の(総)称」 水野さんは「障礙(papaNca)とは、渇愛(taNhA)と悪見(diTThi)を指す」と註す。 ※各種註は、「渇愛と悪見と慢(≒我慢)」としている。 PTS辞書のpapaJca-saNkhAの項も、sign or characteristic of obsessionとし、 SnAの別の駐から「taNhA-saNkhA、diTThi-s、mAna-s」を引く。 また916偈註の中でも、tassa avijjAdayo kilesA mUlaM, taM papaJcasaNkhA mUlaMとし、 無明に親近する煩悩の根源・根っ子、妄執と見れるだろう。 中村訳は、こうした註や、総合的に描き出された俯瞰図「等」を踏まえ、大胆に意訳したものと思われる。 (※「(正)念」(或いは「念処」)という要素が抜けることにはなるが、『心して学べ』は、巧い訳だと思う・・・w)
397 :
2/2 旧7 :2009/07/31(金) 16:52:51 ID:CKTVUbBM
いずれにしろ、どちらの陣営にとっても決定打とはならない。(註にさえattanの語すら無いしw)。
強いて言えば、
《「asmi」が「mAnaがあること」であり》《「mAna」を「我という思い、我ありという思い、我のものという思い」と解し》、
《それが煩悩の一つであり障礙であり》、《それらをuparundhati(抑止・制止/破壊・滅)せよ》
と916偈は言うのだから、若干無我派に有利か?
MantA → mantAya、mantetiのger. 考慮して、熟考して。→「よく(≒智慧をもってして)思量して」。
或いは女性形単数主格で「智慧」(水野辞書)/mantar賢者・賢人から「智慧」。
が、おそらく後者のニュアンスを含みつつの前者?。
916偈註:
atha bhagavA yasmA yathA passanto kilese uparundhati, tathA pavattadassano hutvA parinibbAti,
tasmA tamatthaM Avikaronto nAnappakArena taM devaparisaM kilesappahAne niyojento.
・〔 mUlaM papaJcasaNkhAyA 〕ti ArabhitvA paJca gAthA abhAsi.
・tattha AdigAthAya tAva saNkhepattho - papaJcAti saNkhAtattA papaJcA eva papaJcasaNkhA.
・tassA avijjAdayo kilesA mUlaM, taM papaJcasaNkhA mUlaM
〔 asmi iti 〕pavatta-mAnaM ca 〔 sabbaM 〕 mantAya uparundhe.
〔 yA kAci 〕ajjhattaM taNhA upajjeyyuM,〔 tAsaM vinayA sadA sato sikkhe 〕upaTThitassati hutvA sikkheyyAti.
Sn.874
na saJJasaJJI na visaJJasaJJI, na api asaJJI na vibhUtasaJJI;
evaM sametassa vibhoti rUpaM, saJJAnidAnA hi papaJcasaNkhA.
874偈〔papaJcasaNkhA〕註:
evaM paTipannassa api yA sannA, taM nidAnA taNhA-diTThi-papancA appahInA eva honti iti dasseti.
ttp://www.tipitaka.org/romn/ suttanipAta-aTThakathA 4. aTThakavaggo
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
って、合ってるのか?これで?w かなり不安だ・・・。誰か添削宜しくw
398 :
一在家 :2009/07/31(金) 17:01:27 ID:gw4MW2Nf
>>392 >34 師は答えた、
>子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。
>実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
「家族のある者は家族について憂い」を信じた仏教徒が家出したら、
本人は憂いが無くなるだろうが、残された家族の心境や如何に?
衆生済度を発願する菩薩達の念じる力(執念?)は凄まじいと推測します。
衆生済度への執着を取ればみな楽に涅槃に入れるのに、浄土から娑婆に
再生してまで人々を教化して救おうとする執念には頭が下がります。
399 :
一在家 :2009/07/31(金) 17:06:45 ID:gw4MW2Nf
>衆生済度への執着を取ればみな楽に涅槃に入れるのに、浄土から娑婆に >再生してまで人々を教化して救おうとする執念には頭が下がります。 菩薩の場合は執着というより、慈悲でしょうね。
400 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 17:26:06 ID:B2mclWSm
>>391 >でも、記憶が無いと言葉で事象を伝えることもできませんね。
記憶があって良い場合と、記憶があって悪い場合と・・・
世俗ではこの相反する微妙なところで何時も心は揺れ動いております。
(これが一般人の平均的思考システムです)
アートマンがあるか?ないか?も、この思考システムにおける心の迷いです。
これとは全く次元を異にした「ものの見方・考え方」というのがありまして、
これが仏教における勝義諦といわれるものです。
前者と後者は、水と油のよぉなものでして決して思想上では交じり合わないものです。
しかし般若心経にありますように、色即是空でありますから、
人はこの前者と後者を同時に見通すことができます。
(これが釈尊入滅後における神通力伝説ですね)
横眼直鼻でありまして、
眼はふたつでありますが、達観しますと、もうひとつ眼が眉間に出来てまいります。
これを慧眼とか仏眼とかもうしまして、
仏の智慧と、世俗の智慧を同時に兼ね備えた般若波羅密ですね。
401 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 17:27:43 ID:jHEMfBnt
恐ろしいことを思いついた。 日本の戦国時代は、日本史において、戦争や殺戮が最も多かった時代だが、 この時代には、キリシタン大名や一般のキリシタンの数が激増している。 江戸時代になってキリシタンを禁止してからは、平和な時代になった。 明治維新は、日本史には珍しい流血革命だが、これも、平田篤胤あたりが キリスト教の影響を受けたことが原因である。 秀吉の朝鮮出兵で、最も戦い、朝鮮人を殺しまくり、その鼻をそいだのは、 小西行長を初めとするキリシタン大名たちである。 先の大戦が、キリスト教国による世界征服の一環であったことは、自明。 日本が中国に敗れたのは、クリスチャンの宋美齢が、米国の援助を得た からである。 イエスの思想は、こうして、日本の国土や日本人の生命まで蝕んだ。 このスレも、クリスチャンたちが佛教をキリスト教化しようとしている ものであることは自明。
402 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 18:08:51 ID:d968TYn3
>>400 >記憶があって良い場合と、記憶があって悪い場合と・・・
生物にとって記憶があっていい場合、悪い場合なんて考えらないだろ。
記憶が無いということは生物ではないということだから。
DNA遺伝子を持たないものは生物ではない。
403 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 18:15:02 ID:3NLZVL0Q
析空さんにひとつ御聞きしたいのですが あなたは「空」の認識を「何もないこと」「無」 「nothing」とこのように捉えておられるのでしょうか? そうであるならば、龍樹の言う「空」とは少し意味合いが 異なるように思えるのですが。
404 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 18:25:56 ID:nSv85Eqv
竜樹の空は、空見ではないかと思えてきた。 中論で縁起を見るとか、ニルヴァーナを体得するとか言っているが、 これは空見だよね。
>>402 DNAという手段を用いるのは地球上の生物にすぎない。
広く宇宙を見渡せば他の方法なんかいくらでもありそうだし、それも生物の一形態だろ。
406 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 18:37:06 ID:nSv85Eqv
>>400 >これとは全く次元を異にした「ものの見方・考え方」というのがありまして、
>これが仏教における勝義諦といわれるものです。
★ 勝義諦が世俗諦でしか語れないなら、二諦は等しいものではないですか。
もともと二諦に区別すること自体が無意味なのではないでしょうか。
>横眼直鼻でありまして、
★ 大乗を学んだ道元としてはストレートな反応でしょう。
しかしその内容は煩悩即菩提であり、きわめて退廃的なものだと推測しますが。
407 :
一在家 :2009/07/31(金) 18:37:39 ID:v4DfIQrj
>>400 >横眼直鼻でありまして、
>眼はふたつでありますが、達観しますと、もうひとつ眼が眉間に出来てまいります。
>これを慧眼とか仏眼とかもうしまして、
>仏の智慧と、世俗の智慧を同時に兼ね備えた般若波羅密ですね。
久々に中論を離れての対話になりますが、「第3の眼」の話は高校の頃に
誰かから聞いて、今でも信じております。
私どもの師からは「到彼岸」というよりも「到霊眼」と伺っております。
408 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 19:03:15 ID:jHEMfBnt
>>406 >しかしその内容は煩悩即菩提であり、きわめて退廃的なものだと推測しますが。
イエスを熱心に信じる者たちが、人を殺しまくるのは、「退廃的」ではない
のかねw。
教会の「退廃」を批判したルターの宗教「改革」が、どれほど無数の人間の
生命を奪うことになったか。
人間の「退廃」とは、より「人間的」で、より「創造」、即ち「神」に近いもの
であることを、クリスチャンは自覚すべきであった。イエスに、「あるがままの
人間に対する愛」「創造に対する畏敬」が、全く欠如していた結果である。
409 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 19:03:32 ID:nSv85Eqv
>>393-394 空幻論者かつ有部論者の暁君
ここにある文章はどこから引用したのかな。引用先を付記すべきだろう。
それから君は原始仏教経典を読んでいるか。
日常語で読みやすく、仏教が広がっていく因縁を見るような気がする。
これに対して竜樹の空は仏教の衰退を準備する因縁に思える。
民衆は難解で哲学的な教えから去って行く。
>>398 >衆生済度を発願する菩薩達
うそこけ!
インチキ観念踊りだけで、おなかイパーイでしゅよ。
現代の菩薩はだれでなにをしてるん?
ゆーてみ。
まさか池田大作とか大川隆法とか言うんじゃああるめーな?w
411 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 19:09:34 ID:nSv85Eqv
>>408 まずは神がいないことを証明しないと。
竜樹は果敢に挑戦して失敗した。ご隠居に期待する。
それから病気の定義を、善悪と同様、
共同体との関連でやってほしい。話はそれからだろう。
う〜む 池田大作は本仏で 大川隆法はゴータマブッダの輪廻転生か 格上なんやw で格上本仏たちは政治利権を漁りましゅw
413 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 19:38:06 ID:nSv85Eqv
>>395 析空氏
>そうですね。もともと<空>という用語は、形容詞ですから、
><空>を中心にものごとを捉えるのは間違いです。
><空>はさとりでは無いということです。
★ 空は形容詞、なるほど。勉強になりました。
>さて、<愛>についてですが、残念ながら、釈尊の真意は、
><人々を導こうという思い無し>です。
>大乗の菩薩は、ここが「不満だった」ということです。
>つまり大乗は、釈尊の真意を理解出来ていないのでは無いかと思います。
★ 日本の大乗は不幸だったのではないでしょうか。
読むことができたのは漢訳の偽経ばかり。漢訳の中論は理解できない代物だった
ろうと推測します。昔の僧侶の苦労がしのばれます。
門外漢であっても、いま中論を多少なりとも理解できるのは、
中村先生を始めとする研究によってだろうと先達に対し心から感謝しています。
414 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/07/31(金) 19:50:47 ID:B2mclWSm
>>406 >★勝義諦が世俗諦でしか語れないなら、二諦は等しいものではないですか。
>もともと二諦に区別すること自体が無意味なのではないでしょうか。
二諦が等しい、ということはないですね。
例えばですが、アートマンがあったとしても、なかったとしても・・・
どちらであっても「大間違い」という観点が勝義諦でありますから、
そもそも覚者は、こういう論題には全く関心がないのです。
関心がない、というよりは既にそのレベルから解脱しておりますね。
一切が戯言であると既に結論済みです。
これが色即是空 空即是色の意でありまして、
到彼岸より此岸に帰還しております。
ようするに不死を得、世俗において諸行諸遊楽の境地であります。
道元の
「春に花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷やしかりけり」。
は、この境地をじつによく顕しておりますね^m^
415 :
1/3 旧7 :2009/07/31(金) 19:53:34 ID:CKTVUbBM
中山書仏書林から『南方仏教基本聖典』という本が出ている。 著者は、ビルマのウ・ウェープッラ長老。 監修/水野弘元、実務補佐(?w)/片山一良&学部生2名。 初版1978年、第二版1980年発行(手許にあるのは'87年のニ版第3刷)。 この中から、無我相経の冒頭概説と、この本で付けられている註を二つ、紹介しておこう。 上に書いた通り、水野・片山両氏が是認している現代ビルマ仏教の解釈だ。 (※日本向けに説明の仕方がアレンジされてたり、模索して尚、適し切れてない用語や説明とか、 或いは、無難な、日本仏教に気を使った表現・言い回し等々も無いわけではないがw、 一応は正式なビルマ上座部の書と言える。あくまでも一般向けに著されている。 (。。。にしては内容の濃さが半端じゃないが・・・w)) ちなみに、第二版の追加付録には、ウダーナの第1〜第4涅槃関係経が訳されている。
416 :
2/3 旧7 :2009/07/31(金) 19:55:38 ID:CKTVUbBM
まず、各節の「○は無我である」の○(色乃至識)部分に付けられた註86。(p.165) 五蘊の中、色(rUpa)とは、暑さ、寒さなど反対の原因によって変化する地水火風などの物質、 受(vedanA)とは対象(所縁)の苦・楽を感受する【心所】、 想(saJJA)とは対象を想念する心所、 行(saNkhAra)とは対象へ働きかける思(cetanA)を中心とする心所、 識(viJJANa)とは対象を知る種々の心である。 続いて、「もし色が我であるならば、」の所に付けられた註87。(p.165-166) 我(atta)には最高我(parama-atta)と霊魂我(jIva-atta)との二種がある。 最高我とは世界や有情を創造する【主宰】神であり、霊魂我とは【個人的な】実体である霊魂を言う。 霊魂我を更に詳しく説明すると、 体の中に霊魂という我があって、あらゆる【行為の作者(kAraka)】である。つまり足を運ぶのも、 礼拝するのも、善・不善などを作るのもすべてこの我が身語を動かすのである。 またこの我は善・不善の異熟を【感受するから受者(vedaka)】である。 またこの我は五蘊の家が朽ちても新たな次の五蘊の家へ移って行くので居住者(nivAsA)である。 ある人はこの霊魂我を自在者(sayaM-vasisI)とも称する。五蘊を自己の思うがままに従わせるからである。 【このように我見者は】、体の中に霊魂が常住すると説くが、更にある人たちは、 五蘊の一々を我である主張するのである。
417 :
3/3 旧7 :2009/07/31(金) 20:00:10 ID:CKTVUbBM
無我相経(むがそうきょう) anattalakkhaNasutta. 本経は、『転法輪経』が釈尊最初の説法として説かれた五日後に五群比丘に対して示されたものである。 色(rUpa)、受(vedanA)、想(saJJA)、行(saNkhAra)、識(viJJANa)という 我々の肉体・精神を構成している五要素が「我」ではなく、 【非我(=無我)であることを】説いている。この教えによって比丘は次々と阿羅漢になったという。 ※【 】は引用者が挿入。長老は「非我」と解し、そのように記していたかもしれない。 水野・片山両氏が「イコール無我」を挿入したのかもしれない。 勿論、長老が許可したから、こうして出版されているのだと思われるが・・・w ※註87は、水野さんの「転法輪経について」という論文を受けているだろう。 特に「主宰者」や「自在者」、「五蘊を自在に〜」という部分等。 さすがに、あちらでの「パーリの解釈は通俗的なもの」というようなことは言ってないw ※仏典各所に或いは各種註に「jIva」とある以上、やはり「霊魂」と訳さざるを得ないのだろうか・・・。 ニュアンスとしてズレがあるような気がするのは気のせいだろうか・・・。 ちなみに、奈良さんも非我派だった。 だからといって、「どこかにアートマンはある」なんてことは言わなかったが・・・w 普通に「無我」「諸法無我」の言い方をしてたし、「非我」を口にするのは説明の時だけだったかな・・。 通常は「無我」を使用していた。
418 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 20:22:33 ID:nSv85Eqv
>>415-417 スルー旧7はほんとうにセンスが悪いな。
人間が求めているのは、なぜ生きているのか、どう生きたらいいのか、
という疑問ではないのか。竜樹の<空>はこれに答えていない。
生きていることが<空>なら生きている意味がない。
419 :
旧7 :2009/07/31(金) 20:32:41 ID:CKTVUbBM
いちいち五月蠅いなw
>>418 嫌いで無価値と思ってるなら俺にレスアンカー付けるなよw
スルーできてないじゃんか。 そんなに構ってほしいのか?
それにな、龍樹や空の話題を俺に振るな。興味無いから。
「空」なんざ、辞書的知識だけで十分w
あとは龍樹のアプローチ法(姿勢)だけを参考にすればいい。
俺は、中論にあんまり意味を見出してないから・・。
ってことで、もう話しかけて来んなよ?w
それから、
>生きていることが<空>なら生きている意味がない
お前も、前シリーズでの≪「紙の表裏の喩え」に於いて、片面しか見ないタイプ≫だな。
そんな奴には百億年かかっても仏教理解なんざ無理だ。やめとけw
じゃあな ノシ
420 :
一在家 :2009/07/31(金) 20:32:42 ID:dvmRl0kQ
>>415 旧7氏
>またこの我は五蘊の家が朽ちても新たな次の五蘊の家へ移って行くので
>居住者(nivAsA)である。
水野先生と片山先生の監修本の「涅槃関係経」一部紹介を有難うございます。
421 :
旧7 :2009/07/31(金) 20:41:14 ID:CKTVUbBM
>>420 あのな・・・w
その部分は、≪仏教では否定される見解≫だってこと判ってる?
お前の引用、読解の仕方は、いつもいつもそうだ。
まったく読めてない。
それに、あの3レスに於いては「涅槃関係経」のことなど書いてないぞ。
同じ本の中に収められているってだけだ。
どうしていつも、こうした異常な受け取り方をするんだ?
日本語や日本語の文章が不得手なら、そう言ってくれれば、もっと解り易くしないでもないが・・・w
422 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 20:47:14 ID:jHEMfBnt
>>411 >まずは神がいないことを証明しないと。
「ない」ことの証明ができないことは、既に述べたとおり。これは「悪魔の
証明」と呼ばれる、証拠法上の鉄則。「ないもの」を証明するということ自体が、
矛盾語法。「ない」ことの証明は「ある」ことの証明の不可能性によって行う。
人間にとって、「物が実在する」とは、(必要な場合には観測装置を使用して)
五感で知覚できること。例外は「皆無」である。君は、日常生活において、物の
「ある」「ない」を一体どうやって判断しているのかねw。君が一日中神に祈って、
世界中の宗教者が一日中神に祈って、路上の石ころを1ミリたりとも動かせるかね。
「人間」が指先でちょっと押すだけで簡単に動かせるのは何故かね。
>竜樹は果敢に挑戦して失敗した。ご隠居に期待する。
竜樹は、「相互依存性・関係性故の無自性」の原理の発見によって、神(アー
トマン)の不在を100%証明した。この原理は、現代科学によっても完全に
証明されている。だからこそ、君たち、宗教団体の人間によって神の存在を信じ
こまされた者たちが、狂気のように騒いでいるのだろ。
>それから病気の定義を、善悪と同様、
>共同体との関連でやってほしい。話はそれからだろう。
若し、共同体の不特定多数の成員が精神病なら、現在の精神病者が健常者である。
423 :
旧7 :2009/07/31(金) 21:04:53 ID:CKTVUbBM
たく・・・。 在家と謂いEOEと謂い、この辺が2chレベルの限界か・・・。 宝珠やカラスはお花畑の向こうで十字架担いでるし、 机は野狐禅バリバリだし、隠居は隠居で極論だし新しい宗教だし、 俺は俺で断滅分析外道だしwww オワットルなw ヽ(゚ ∀ 。 )ノ アヒャヒャヒャヒャ ・・・・・・って、或る意味「2chらしい」のかw ノシ
424 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 21:07:32 ID:jHEMfBnt
>>418 >人間が求めているのは、なぜ生きているのか、どう生きたらいいのか、
>という疑問ではないのか。
他者との係わり合い(関係性)の中でひたむきに生きている人間には、そんな
疑問は生じない。疑問が生じるのは、「生きていない」「死んでいる」人間だけ。
生を「考える」ことは、「生きる」ことではない。むしろ「死んでいる」こと
である。
>>424 お前自身、もう少し他者との関係性を大事にするようにしてから言えよ。
426 :
析空 :2009/07/31(金) 21:14:40 ID:/ICYWpkk
>>403 空は、何も無いことではなく、「中身の無いこと」です。
外身は縁起しています。
ただし、外身を細かく分解して一つ一つを見れば、
やはり「中身は無い」ということになります。
外身がAさんに見えても、Aさんという実体(自性)がある訳ではなく、
五蘊の仮和合であるということです。
空が形容詞ということは、空は概念であるということです。
あの人は「美しい」という場合の形容詞と同じで、美しいという
「もの」があるわけではありません。
427 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 21:16:19 ID:jHEMfBnt
>>407 >久々に中論を離れての対話になりますが、「第3の眼」の話は高校の頃に
>誰かから聞いて、今でも信じております。
眼横鼻直(悟り)とは、「現実界のあるがまま」を認め、受け入れて、精神の
安定と平安を得ること。「第3の眼」などあったら、それは「あるがまま」で
はなく「化け物」。「悟り」とは対極にある「狂気」である。
428 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/07/31(金) 21:16:54 ID:ASilMShm
(^。^)y-.。o○ >423 まだまだ修行が足らんな。(笑) バカにはバカになって遊んでやんなきゃどーするよ♪(笑)
429 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/07/31(金) 21:22:20 ID:nSv85Eqv
>>419 旧7君
>ってことで、もう話しかけて来んなよ?w
★ スルーで怒った? スルーなど気にするな。スルーしろ。
>そんな奴には百億年かかっても仏教理解なんざ無理だ。やめとけw
★ 百億年? そんなアホを言ってるから見捨てられるのだ(~~)
430 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 22:03:01 ID:3NLZVL0Q
>>426 なるほど。「中身がない」という表現が少しわかりずらかったもので
御聞きしました。「自性の欠落」という意味でしたら
よくわかります。
431 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:09:00 ID:k4MhiOGI
>>419 >「空」なんざ、辞書的知識だけで十分w
>俺は、中論にあんまり意味を見出してないから・・。
うーむ、ついに旧7氏と同意見かwww
>>423 達観だねω_(゚∀゚ )
>>375 ><素直に読め>ば、我が有りとする見解の否定になりますよね。
その「我が有りとする見解」とは、
五蘊を我と見なしたりする一般大衆のことでしょう。
だから、“それらは我ではない”と説くのです。
432 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:16:03 ID:k4MhiOGI
>>362 別に、私は彼女を絶賛するわけではないし、
自分に関してはダメなもの・・という話しは一般的なよく聞くものです。
医者も自己管理(自分の体について)はダメなパターンが多いようです。
>>364 ここいう「常人」とは、
ただ超常世界のことについては無知であり、殆ど正確なことを知らない。
またその能力がなく、これといった体験がない多くの一般人を指してです。
>変性意識を生成し、
生まれつきの霊媒体質という場合。
偶発的な遭遇体験の場合(潜在的な能力が少し目覚めたなど)。
鍛錬によってその能力を目覚めさせて開花していくという場合、などです。
もちろん、この種の能力開発を謳い文句に商品やセミナー受講で金品を集める人、
グループはあります。
433 :
析空 :2009/07/31(金) 22:19:42 ID:/ICYWpkk
>>388 竜樹の中論は、<法>が実在ではないということを論証したと認識しています。
「無苦集滅道」は、法について言っているのであり、人間にとっては、苦集滅道は真理です。
同じ意味で、<時間>は実在ではなく、<概念>にすぎません。
434 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:25:22 ID:k4MhiOGI
>>361 だから〜
無知の無知の無知だ・・・というのですよ。
全くつける薬がない!!!!!
この私が、「これが現実」だと痛烈に批難するのは、これらの現象に苦しむ人々には、
「仏典を開くと無記といって、そういうことには関心を持つな。捉われるな、と仏陀は説
かれていますよ」といった説法など、何の役にも立たないということ。きっと逆に相手を
激怒させてしまうでしょうね。「私たちだって、こんなことには関りあいたくないから早く解
消されたいのです。自分が捉われているのではなく、子供たちも心配だし、本当に不気
味で不安で寝られないのだ」と。
誰がどう・・とはあまりいいたくありませんが、霊障問題にあたっている僧侶というのは
結構いますね。ある一人はこんなことをいっていた。「お釈迦様の話しをいくらみてもハッ
キリしないのです(お釈迦様のお考えでは、たぶん霊魂はないらしい・・)。しかし、現実に
こうした現象があり、人々が苦しんでいるのをこの私は放置できないのです。実際に、こ
の祈祷によって現象が静まり、人々が苦しみから解放されるのであれば、この私は喜ん
でやらせて頂く」と。(どの僧侶がは知ってますが伏せます)
因みに、下ヨシ子女史も仏教者なのであり、
「修験真言宗大本山金剛寺」でちゃんと修行して得度しており、
現在は、自分で「真言六字密教総本山六水院」の管長とのこと。
http://www.kongouji.com/index.html >超能力とか霊とか好きな、ムーとか読んでそうな人は、
>オカルト板にでも行けばいいと思うよ。
心霊存在は仏典にも登場します。
ムーの専売特許ではない。
435 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:26:53 ID:k4MhiOGI
>スッタニパータによると、釈迦自身は占いとか呪術とか禁止してるわけですよ。 >宝珠愚者は以前「原点回帰」とかいってたんだから、 >原点から逸れるようなこと言うべきじゃないだろうね。 もちろん、原典回帰という方針は最も重要です。しかし、ゴータマがいう占いや呪術の禁 止というのは、本質を蔑ろにしながら祭儀中心主義に傾倒する当時のバラモンたちに対す る批判なのです。 重要であるところの本質部分を見失わない限りにおいては、方便的な道具として利用す ることは十分に可能です。たぶん、伝統信奉主義者の真言氏が摂った姿勢とはそういうこ となのでしょう。真言密教の道をそのようにして応用しているのです。当然、密教僧として加 持祈祷をも営むのです。 加持祈祷による現世利益というのは、これそのものが仏道の本質ではありませんが、仏 道(修行)どころか日常生活すらもままならないで苦しんでいる衆生に対して、霊的加護の力 を与えたり、邪魔となっている霊障害を取り除いたりといった手を差し伸べる意図の宗教力 (神秘力)は現実的な助けになるでしょう。 祭儀/祭式そのものが悪いのではない。彼らは本質を蔑ろにしつつ、中身の良くない祭 式を行っていたからです(生贄などなど)。あなたはただ禁止したものと思っている・・・一体、 スッタニパータのどこをどう読んでるのか??? 正しい宗教者が正しい想いで執り行う加持祈祷は、真実にして大きな力を発揮するとゴー タマはハッキリと述べているのです。 あなたは何故、ゴータマが禁止したといわれているのか、その真義(理由)を知らずにもの を述べています。まっ、これに限らず全部がそうです・・。
436 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:27:51 ID:k4MhiOGI
『この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろい ろと供物を献じたのですか?」 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受 けるならば、その人の(祭祀の行為は)成就する、とわたくしは説く。」』(Sn.458) 『尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祭祀を行え。祭祀実行者はあらゆる場合に心を清 らしめよ。祭祀実行者の専心することは祭祀である。かれはここに安立して邪悪を捨てる。』 (Sn.506) 『尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祭祀を実行するそのような人は、 施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祭 祀を行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く」と。』(Sn.509)
437 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 22:28:56 ID:k4MhiOGI
>>363 >>365 岐阜県富加町の“ポルターガイスト現象 ”
http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kakurega-3Poltergeists.htm これが当時の状況をかなり記録しているページですが、現象は1999年4月頃から始ま
り、ここに出てくる11月下旬の高僧による祈祷の話しは、恐らく混乱による間違いでしょう。
正解はこちらだと思う。これは、当時の私が、『週刊大衆』01年2/5号の特集記事を読んで
書き留めたものです。
『あの大槻教授やその他、幾人もの専門家達による調査と科学的検証がなされたのだっ
たが、どれもこじつけばかりで、一つ二つの現象を説明できるに過ぎないものばかり。結局
は決め手に欠け、何ら解決するものではなかった。そして結果的に異変を鎮めたのは霊能
者だったという。
「住宅の構造問題や土地の地盤など、いろんな人が科学的に解明しようとしてくれましたが、
結局のところ、すべての“怪奇現象”をピタリと収めたのは、あの霊能者の方による除霊だっ
たんです。だから私には、今回の一連の騒動はやっぱり霊の仕業だった、としか思えないん
ですよね」(自治会長:田中忠則氏)
昨年10月15日に行った木曽御獄本教の祈祷師によるお祓いで、それまでの一連現象が軽
減。その祈祷師の説明によれば、約30年前に首吊り自殺した女性の祟りとのこと。その後、
いかがわしい類の霊能者たちが次々と来たが効果なし(全部で30人ほど来た)。なんとあの織
田無道は、ただ霊を呼び出しておいてそのままだったという。最後にピタリと鎮めたのが11月
28日に現れた修験真言宗「六水院」の院主:下ヨシ子氏だった。説明では、刀の試し切りにさ
れた者、免罪で処刑された者、など400年前の四体の霊に拠るものだったという。
これらについては到底、確かめようなどはない。しかし霊が原因する場合であれば、それが
除霊されれば現象はピタリと止むもの。』
この件の話しはこれでおわりにします。
438 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 22:30:21 ID:hvnxUw++
主体(真我)において開かれた現象世界なのに、無意識(無明)に落ちて主体(真我)を忘却してしまい、 現象世界に投影された影にすぎないもの(自我)を主体(真我)と同一視するから、苦しみが生じる。 影に過ぎないもの(自我)との自己同一視を否定すること(非我)は、 無意識から覚めて意識の源泉である主体(真我)に触れることにつながる。
439 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 22:50:26 ID:jHEMfBnt
>>434 >心霊存在は仏典にも登場します。
>ムーの専売特許ではない。
現代では、宗教妄想、神懸り、憑依現象、神秘体験、幻覚、妄想、変性意識な
どは、精神病の症状として、精神科で治療します。抗精神病薬や鎮静剤などの
注射で、急性症状は治まります。君も早急に診断と治療を受けたほうがよい。
宗教自体がこれらの症状の原因であるので、宗教など利用するととんでもない
重大な結果を招きます。
440 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 23:00:21 ID:k4MhiOGI
>>438 その通り--異議なし
>>439 ご忠告に感謝!!
そんな話は小学の頃に読んでいた心霊科学で承知済みです。
産業革命、物質万能主義の頃の時代遅れの話しです。
まっ、最先端をいく科学者の多くも無視論者らしいけどw
441 :
旧7 :2009/07/31(金) 23:04:12 ID:CKTVUbBM
>>430 パーリの小空経は、
>>378 に言われるように、
(××に於いて)「○○が無いこと」 → 「○○にとらわれていないこと」
≒「○○が心を占めていないこと」、「○○が想起・志向されていないということ」、
を意味します。
つまり、「龍樹の空」は発展系であるということです。
カーレースで言えば、市販車をレース用に改造するようなものです。
そして、その改造のノウハウがリニューアルされる後継車に援用されてくるようなものです。
市販車で十分でしょ?冬になればスタッドレスで十分でしょ?雪国などならチェーンで十分でしょ?
チューンナップでパワーの上げ過ぎは燃費にも悪そうだし、普段使いには向かないでしょ?却って扱い辛いでしょ?
ということですw
そして、パーリ小空経が説く所は、「中身外身」という言い方を踏襲すれば、
縁起する外身(五蘊仮和合の自己存在)について、
煩悩等を滅し、「空じていきなさい」ということと思われる。(勿論、仮和合している五蘊に自性などあろう筈もない)。
パーリ小空経が説くのは「自性の欠落」ではない。「執着の対象が無い(執着の対象を無くせ)」ということだ。
(或いは、意識を向ける対象を選別する際に、「捨象する対象は空ぜられている」ということだ)。
ここが、「初期(或いはパーリ)の空」と「大乗(主に龍樹)の空」との決定的違いだ。
現存パーリはアビダルマ色の濃い系統だが、
小空経の存在は、初期には素朴な空であったことを示唆するものと言えるのではないか?
早く寝ようと思ってたんだけどな・・・。
2chをやめるのが第一歩かもしれんな・・・www
おやすみ、皆の衆。 ノシ
>>434 > この私が、「これが現実」だと痛烈に批難するのは、これらの現象に苦しむ人々には、
> 「仏典を開くと無記といって、そういうことには関心を持つな。捉われるな、と仏陀は説
> かれていますよ」といった説法など、何の役にも立たないということ。
じゃあ「本当に」役に立ってるのかよ。
断定できる根拠はやっぱりなくて、自分でそう思いこんでるだけでしょ?
テレビの演出に乗せられてその気になっちゃっただけだろ??
信仰するのは自由だけど、それを事実として書かれるのは迷惑なんだよ。
何度言ったら理解できるのか。
全くつける薬がない!!!!!とは宝珠愚者のことですよ。
> 因みに、下ヨシ子女史も仏教者なのであり、
> 「修験真言宗大本山金剛寺」でちゃんと修行して得度しており、
> 現在は、自分で「真言六字密教総本山六水院」の管長とのこと。
真言宗は密教だろ。
念仏系と同じくらいゴータマの教えとは別系統だよ。
宝珠愚者は大乗は認めないが、密教は認めるのか?
> 心霊存在は仏典にも登場します。
> ムーの専売特許ではない。
やっぱりムーとかそっち系読んでるのか。
仏教のスレに布教しに来るのはやめてもらいたい。
443 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:16:25 ID:jHEMfBnt
>>440 >そんな話は小学の頃に読んでいた心霊科学で承知済みです。
心霊科学は、科学などではなく、宗教だよ。まず、標準的な最新の精神医学の教
科書を2,3冊読み、自分で自分の「症状」を理解すること。
他の自然科学と同様、現代の精神医学も、殆ど6ヶ月単位で急速な発展をとげ、
新たな抗精神病薬が次々に開発、発売、使用されている。試しに、ある程度継続
的に服用してご覧。君の「神様」も「霊」も、間違いなくいなくなるからw。
精神病が、脳内神経伝達物質という「物資」の異常によって起こるという発見は、
人類史における最大の発見の一つだろう。この神経伝達物質を調整する薬剤が多数
開発され、使用されて、効果を挙げている。是非、早めに治療して欲しい。
どんなに偉い宗教者でも、その脳を、メスでちょっと傷つけてやると、彼の神も
霊も一瞬にして消滅する。
幽霊を信じるのは、幼い子供だけだよ。
444 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:30:27 ID:jHEMfBnt
>>441 旧7さんは、駒澤大学のご出身だそうだが、何故、原始仏教ばかりやって
いるのかね。水野さんは、駒澤大学の元総長さん。教祖の道元をやらなく
ても卒業できるのw。道元は、世界最大の思想家と評価されている。道元
をよく勉強すれば、カルト宗教など一発で吹っ飛ぶはずだが。
カルト宗教は、白隠は必ず引用するが、道元は絶対に引用しない。よほど
恐いのだろうw。
>>440 > そんな話は小学の頃に読んでいた心霊科学で承知済みです。
ソースはオカルトwwww
つか、まともに精神医学の本とか読んだことないのか?!
小学校から「ムー」漬けじゃあ、相当根深いね。
446 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 23:43:20 ID:k4MhiOGI
>>442 >じゃあ「本当に」役に立ってるのかよ。
>それを事実として書かれるのは迷惑なんだよ。
有能な霊能者、及び法力ある密教僧の加持祈祷ならば。
私は心霊存在による物品移動を目撃してるし、
虫の知らせ等々・・出来事にも遭遇してる。珍しくもなんともない。
仏教を唯物論化されては困る。
>真言宗は密教だろ。
>念仏系と同じくらいゴータマの教えとは別系統だよ。
>宝珠愚者は大乗は認めないが、密教は認めるのか?
伝統信奉者の真言氏も密教僧でしたね。
密教は大乗の切り札的なものとして、原典回帰を謀った派です。
戻り過ぎてバラモン教までも戻ったw
視点の転換〜後期大乗というだけあり、
大乗概念の殆ど総てを内に包含しているとも見れる。
という意味では使い道はある。
447 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:44:05 ID:jHEMfBnt
釈迦は、縁起・空を「唱えた」が、その内容は解明できてはいない。その内容 が「相互依存性・関係性」という、現代でも十二分に通用する普遍の原理であ ることを解明できたのは、竜樹の類い稀な頭脳であった。 その意味で、原始仏教は極めて不十分で、開祖と原始仏典のみに執着するカルト であると言っても、過言ではない。事実、原始仏典からオウムが発生した。
448 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:45:42 ID:9Wfx3Cnt
>>447 原始仏典のどこに大量殺人やダーキニーという名のハーレムを正当化する
教えがあるの?
449 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:47:38 ID:jHEMfBnt
>>446 >伝統信奉者の真言氏も密教僧でしたね。
違う。彼自身の書き込みでは、真言宗を離れて、「東南アジアの佛教」
に嵌ってしまった方だよ。
450 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/07/31(金) 23:53:51 ID:k4MhiOGI
>>445 私の小学時代には、ムーはおろか・・
その種の超常現象もの月刊雑誌は未だ何も創刊されてない。
私はユング派ね。フロイドではない。
>>447 縁起/空など謎でもなんでもない。
この謎の解明に挑む・・なんてやってる仏教学者はいません。
原始仏典を否定して道元(嫌いなわけではない)とは・・。
では、仏教ではなく道元教の信奉者でいいですね。
451 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:54:52 ID:9Wfx3Cnt
真言宗を代表して教えはこうだと説明しろといって拒否られたのをまた根に持っているのか……。 本人もそのようには話せない理由を書いたというのに、災難だね。
452 :
神も仏も名無しさん :2009/07/31(金) 23:55:36 ID:jHEMfBnt
>>448 大量殺人が説かれていなくても、神霊や、輪廻転生や超能力的なものへ
の言及があれば、あのような結果が生じるのだよ。
「愛」を説いたイエスを熱心に信じたクリスチャンが、史上そして
現在も、最も多くの人間を、最も残虐な方法で殺し、殺し続けている
ことに注目されたし。
麻原が、そのキリスト教に嵌ったことが、なお始末が悪かった。
453 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:01:10 ID:jHEMfBnt
キリスト教由来の超オカルト宗教である神智学の宝珠愚者が、原始仏教 に飛びつくこと自体が、原始仏教のカルト性を証明している。
454 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:02:10 ID:gmxtrvxh
>あのような結果が生じるのだよ ゲーム脳レベルの因果関係だよねそれ。 「空信者は〜(中略)そうでなくてもクソになる」という某氏の言と同じじゃないか。 >「愛」を説いたイエスを熱心に信じたクリスチャンが 佐倉さんのサイト見てきたんじゃないの? 「殺せ!と神が命じるとき」は隠居の好きそうなネタのはずだが。 で、原始仏典に「カナアンにのりこめー^^」とか「魔女を殺れ」に相当する言はあんの?
455 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/01(土) 00:03:17 ID:k4MhiOGI
>>449 何をいってんですか・・??
それは遍歴体験であり、真言氏が伝統信奉主義者となった経緯でしょ。
現在の肩書きは真言系密教僧です。
南伝の師に従事して学んだものが氏の理解する教えの本質部分なのであり、
密教生活は修行形態の様式として応用/利用しながら、
僧侶として在籍を果たしているということでしょう。
普通、どこかの宗派に在籍するでしょう、やはり。
氏は、何にでも利用可能な密教を選択したのです。
修行生活、僧侶在籍の場としてこの形態様式を用いた。
>>446 > 私は心霊存在による物品移動を目撃してるし、
> 虫の知らせ等々・・出来事にも遭遇してる。珍しくもなんともない。
それは個人的な体験でしょう。
なんども言われているじゃないですか。立証できるのかと。
記憶障害ですか?
> 仏教を唯物論化されては困る。
むしろ神智学化されては困るでしょう。
外教以外は暴論とかいいかねない人に、そんなこと言う資格があるとは到底思えませんよ。
笑っちゃいます。
> 密教は大乗の切り札的なものとして、原典回帰を謀った派です。
> 戻り過ぎてバラモン教までも戻ったw
バラモン教はゴータマが批判した対象であったわけです。
そういうのは原点回帰とは言わないんじゃないでしょうか。
言葉を適当に扱うにも程がありますね。ほんとにお話にならない。
こんな風にテキトーにしか概念を扱わないから、コミュニケーション能力欠如とか
言われたりするんじゃないですか?
>>453 仏教に限らず、一般に原理主義運動というのはカルト的で破壊的なものが多いね。
〜に帰れ! みたいなやつ。
458 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:11:40 ID:gZpTSWBo
中国の明の鄭和は、7回にわたる大航海をやったが、武力は行使しなかった。 一方、キリスト教国のスペイン・ポルトガルは、鄭和の航海よりも比較にならない ほど小規模であったのに、武力で諸国を侵略し、原住民にキリスト教への 改宗を迫り、従わない者は皆殺しにし、金銀財宝を奪った。すべてイエスの 「あるがままの人間そのものに対する愛の欠如」の「教え」が原因なので ある。 ちなみに、鄭和は、イスラム教徒であった。同じ一神教でも、イスラム 教とキリスト教との間には、これほど巨大な相違があるのは何故かを、 考えてみて欲しい。
459 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:12:50 ID:EU9/yUnZ
>>446 >伝統信奉者の真言氏も密教僧でしたね。
君のおかげで、去ってしまったね。
あの方が去られてから君のカルト加減には歯止めが無くなったよな。
もはや、君に対して正論しようという思いが無い。
>密教は大乗の切り札的なものとして、原典回帰を謀った派です。戻り過ぎてバラモン教までも戻ったw
…頭が痛い。
あの方御自身が説明されただろ。例えば、『秘蔵宝鑰』に拠って、
縁起への「観」の無い、君のみたいな外道がどうなるか、とかさ。
460 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:21:02 ID:gZpTSWBo
>>454 >佐倉さんのサイト見てきたんじゃないの?
佐倉さんのサイトなど見なくても、聖書を、初めから有難がらずに、
聊かでも知性と批判力を以って、眼光紙背に徹して読めば、自明のこと
である。
クリスチャンは、ヨハネの福音書、黙示録、パウロ書簡などで洗脳されて
しまうから、イエスの「きれいごこ」の言葉の裏に潜む、「あるがままの
人間に対するあくなき憎悪」と「狂気」が、見抜けなくなってしまっている
のである。
>>435 > もちろん、原典回帰という方針は最も重要です。しかし、ゴータマがいう占いや呪術の禁
> 止というのは、本質を蔑ろにしながら祭儀中心主義に傾倒する当時のバラモンたちに対す
> る批判なのです。
それはそれで間違っていないが、この手の内容が出てくる時は文脈的に判断する限り、
釈迦の言う本質というのは「行いを清らかにせよ」ということなワケですよ。
そこんとこを宝珠愚者は分ってないんじゃないかと。
> 加持祈祷による現世利益というのは、これそのものが仏道の本質ではありませんが、仏
> 道(修行)どころか日常生活すらもままならないで苦しんでいる衆生に対して、霊的加護の力
> を与えたり、邪魔となっている霊障害を取り除いたりといった手を差し伸べる意図の宗教力
> (神秘力)は現実的な助けになるでしょう。
日照りで苦しんでいる人に水道作ってやったら現実的な助けになるでしょうよ。
でもそれってゴータマの弟子の仕事なのかと。助けになるから、だからなんなんだと。
霊現象を認めるとしてもですよ?どうせ除霊してもまた霊がついたりするだけなんじゃないのかと。
そんなことをするのが本当に仏の弟子のすることなのかと。だったら何のために出家するんだよと。
> 正しい宗教者が正しい想いで執り行う加持祈祷は、真実にして大きな力を発揮するとゴー
> タマはハッキリと述べているのです。
それは皮相的な理解だけで、文脈理解してないと思うけどね。宝珠の引用箇所のとこでも、ちゃんとその前の部分読むと行いを清らかにせよ、
というメッセージがあるよ。肉を食べるのがなまぐさなのではなく、行いを清らかにすることが、
肉食をしないことなのだ、と別のところでは言っている。その文脈で、祭祀とかも肉食と同列に扱われていたりするわけ。
> あなたは何故、ゴータマが禁止したといわれているのか、その真義(理由)を知らずにもの
> を述べています。まっ、これに限らず全部がそうです・・。
だって宝珠の言う真義って神智学のことじゃんw
神智学知らないで読んじゃだめとか言われてもねぇ〜〜w
462 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:27:23 ID:gmxtrvxh
>>460 >「殺せ!と神が命じるとき」は
って文字列が見えなかったか?
>クリスチャンは、ヨハネの福音書、黙示録、パウロ書簡などで洗脳されて
>しまうから、
聖絶ゆんゆんの旧約聖書を抜き取るなんて恣意的だよねー。
で、原始仏典に「カナアンにのりこめー^^」とか「魔女を殺れ」に相当する言はあんの?
463 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/01(土) 00:27:52 ID:tlEjXSc/
>>456 >バラモン教はゴータマが批判した対象であったわけです。
>そういうのは原点回帰とは言わないんじゃないでしょうか。
バラモン教の何でもすべてなど否定してません。
------------------------------------------------
『それと同じく、ヴェーダ(真理の知識)に通じ、自己を修養し、多く学び、動揺しない
(師)は、実に(みずから)知っているので、傾聴し侍坐しようという気持をお越した他の
人々の心を動かす。』(Sn.322)
『真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行
いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが
功徳を求めて祀りを行うのであるならば。』(Sn.463)
『ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達
し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に
供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。』(Sn.503)
『三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることがない人は、諸々
の識者にとっては、梵天・帝釈天なのである。ヴァーセッタよ、このとおりであると知れ。』
(Sn.656)
『諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)
受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられる
ことがない。』(Sn.749 )
『みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智
慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なこと
をしようとしない。』(Sn.792)
>>436 ほんとにスッタニパータ、頭から最後までよく読み通してみるといいよ。
祭祀を行うかどうかに仏陀が意味を見出しているのか、それとも
祭祀を行う過程で「心を清らかにする」ことに意味を見出しているのか。
仏陀は祭祀による呪術的結果に意味を見出しているのか、それとも
祭祀をするために、心が清らかになったことに意味を見出しているのか。
一文だけ切り取って鬼の首を取ったように喜ぶ気持ちも分るけど、
文脈っていうのもあるからね。その引用部の前のとことか、
他にもいろいろあるから、良く読んでみるといいと思うよ。
まー、神智学的視点で超能力万歳〜としか思ってないなら
何読んでも無駄だろうけどな。
465 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:28:03 ID:c1Ksexon
466 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/01(土) 00:28:52 ID:tlEjXSc/
『かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかる ことがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。』 (Sn.947) 『メッタグーさんがたずねた、《先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説 いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の 中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。》』 (Sn.1049) 『何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなた が知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の 荒びなく、疑惑もない。』(Sn.1059) 『またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対す るこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り 越えた』とわたくしは説く。』(Sn.1060)
467 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/01(土) 00:32:57 ID:tlEjXSc/
>>461 全部、解かりきったことばかりです。
>神智学知らないで読んじゃだめとか言われてもねぇ〜〜w
そうはいってない。
>>463 屁理屈キタw
釈迦はバラモンが功徳を求めて祭祀〜とかに関してだって、
仏陀に帰依するように話を持っていってるよ。
真のバラモン、という言い方をはっきりする時もあって、
バラモンの文脈を使って、換骨奪胎していくのが仏陀の説法ですよ。
それをもって「否定していない」というのは、仏陀の説法の仕方を
「まったく理解できていない」ということになりますな。お粗末です。
ほんとに適当に引用してるけど、前後の文脈とか読んでないのかなーと思う。
ヴェーダってあるからって、別に書籍としてのヴェーダをそらんじてるとかいう意味じゃないでしょう。
智者という意味だったりするわけでね。
>>467 なるほど〜相手に論破された時には
「わかりきったことです」という言い方もあるのかw
さすが卑怯の極み、宝珠愚者ですね。
> >神智学知らないで読んじゃだめとか言われてもねぇ〜〜w
> そうはいってない。
否定するなら「だって宝珠の言う真義って神智学のことじゃんw」の部分を否定しないとw
具体的に言った言わないがどうあれ、結局、そーゆー人ってことじゃんw
470 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:43:41 ID:gZpTSWBo
>>462 >聖絶ゆんゆんの旧約聖書を抜き取るなんて恣意的だよねー。
分っていないね。旧約聖書を信じるユダヤ教徒は、自ら進んで異教徒を「迫害」
したり、強制改宗を迫ったりしたことがないのは、何故だと思うかね。
旧約聖書は、民族の生存のための「骨太の行為規範」であって、新約聖書の
ような「甘ったれた、浅薄な精神規範」ではないからである。旧約は、いくつ
かの「物凄い真理」を語っている。旧約に出てくる残酷な場面も、少なくとも
「反面教師」として役立つ。イエスの統合失調症の症状としてのその人格の崩
壊と、薄っぺらな「精神性」により、旧約を換骨奪胎してしまったのである。
どんな宗教でも、イエスのような狂信者は必ず発生する。これが宗教の恐ろしさ
と病理なのである。
471 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:47:32 ID:gmxtrvxh
>>470 >自ら進んで異教徒を「迫害」
パレスチナ人なんて存在しないらしいな。
>強制改宗を迫ったりしたことがないのは、何故だと思うかね。
少なくともやさしさのせいではないな。ユダヤ教そのものが
信者を改宗という手段で増やそうとしない宗教であるからにすぎない。
引用しておいて聖絶自体には触れようとしないのは潔いね。
472 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 00:48:17 ID:DrsnZKoH
>>437 あのね、何の反証にもなっていないんですがね。
1・>「怪現象」と言われるものが「霊のしわざ」という立証が全くできて
おらず、その他の合理的原因で十分説明がついてしまう。
2・>「怪現象」が止まったことと「お祓い」との因果関係が全く立証されていない。
すなわち、「怪現象」が止まった日に、たまたま、お祓いをした霊能者が
すごいということになってしまって、もし、織田無道がお祓いした日に
「怪現象」が止まっていたら織田無道がすごいということになる。
つまり、「怪現象の停止」と「お祓い」の間に因果関係がると思うのは
この怪現象が「霊のしわざ」であるとする思い込みからくる錯覚の可能性
が極めて強いわけですね。
すなわち
>そして結果的に異変を鎮めたのは霊能 者だったという。
これは単なる思い込みにすぎません。
>この件の話しはこれでおわりにします。
また。これですか?
反論できなくなると一方的に打ち切る。
反論されるのがいやなら、初めからこんな与太話をあげなければよろしい。
473 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 01:00:55 ID:DrsnZKoH
ブッダは人間の知識の届かない神秘的なことがらへの言及はさけました。 祈祷や呪文や神への捧げものや宗教儀式や運命判断など、まったく 無意味であることを説きました。 たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。 そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、 陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。 その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。…… たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。 そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、 「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、 湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、 沈むであろうか。…… (相応部経典42.6 増谷文雄訳) そのような、祈祷したり、神に捧げものをしたり、呪文を繰り返したり、胡麻を炊いたりして、 神秘的な力によって何事かなそうというような夢事から目覚めて、何が人間の非苦の要因であるか (縁起の理法)を究明し、その要因を取り除く道を見つける人のことを、 目覚めた人(ブッダ)と呼んだのです。 以上、佐倉氏のサイトより
474 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 01:06:13 ID:gmxtrvxh
>旧約に出てくる残酷な場面も、少なくとも「反面教師」として役立つ。
聖書内・宗教内でどうとられるか、という話だったよね。残念ながら
聖絶は人間がアホでやっちゃった「過失」じゃなくて神の命令という話なんだ。
反面教師というのも、物は言いようだな、元ネタの言うところと乖離してポイントに
していいならイエスの愚かさだのも「反面教師」ポイントにすればよろしい。
キリスト教叩きに旧約を一旦使っちゃったんで、後に引きずってるだけだろうけどね。
もしもの話になるが、この旧約にしてこの新約あり、と隠居が両方叩くことも有り得ただろう。
というわけで続きは↓だ。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1236678285/l50 で、原始仏典に「カナアンにのりこめー^^」とか「魔女を殺れ」に相当する言はあんの?
475 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 02:18:38 ID:gZpTSWBo
>>474 だから言っただろ。「愛」を唱えたイエスを信じる者たちが、最も多くの
人間を殺したのだよ。
476 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 02:23:52 ID:DrsnZKoH
>>446 >私は心霊存在による物品移動を目撃してるし、
一度だけなら、単なる一時的な、知覚システムの異常(単発的な誤認、幻覚)
だろうと思われるので、さほど、心配することもないだろうが
現在も頻繁に起こるようであるなら、専門医に相談した方がよろしい。
統合失調症の典型的な症状のひとつである。
477 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 02:43:38 ID:gZpTSWBo
>>474 人間と自然とから、かくも隔絶した砂漠の宗教であるユダヤ教を是認し
ているのでは決してない。キリスト教よりはマシと言っているだけ。特
に、キリスト教を生み出した罪は大きい。
なお、イスラエルの建国は誤りだった。シオニズムには、キリスト教の
影響が大きい。
いずれにせよ、「相互依存性・関係性」に思い至った大乗仏教とは、本質
的な相違がある。現代の世界の人々が佛教に期待するのは、その原理で
ある。
あと、共同体としての人間とその生命を支える自然とに最大の価値を
おく優れた自然宗教としては、日本古来の神道がある。さらに、人と人と
の間の関係を説く儒教も、優れた思想である。
結局は、東洋と西洋との相違ということになる。
それだけに、西洋思想によって、これらの段違いに優れた東洋思想を汚す
ことは、絶対に許しがたい。それが行われているのが、このスレである。
人間と自然とから超越した神や霊を信じ込ませる宗教が、人間の精神を
狂わせ、人間にとって最も有害であり、人間界から速やかに排除すべきもの。
478 :
旧7 :2009/08/01(土) 06:32:33 ID:lWSVNU+z
>>472 だから私は言うのです。
(ヒトという生物の性かもしれませんがw)、
≪因果の“拾い上げ”は恣意的である≫ と・・・。
479 :
暁 :2009/08/01(土) 08:56:29 ID:N2qZDOl1
480 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 09:13:56 ID:kkJgpeSV
>>478 >≪因果の“拾い上げ”は恣意的である≫ と・・・。
それが恣意的かどうか検証するため、釈迦は此縁性を説いた
のではないか?
「これがあるからあれがある。これが生じればあれが生じる。
これがなければあれがない。これが滅すればあれが滅する。」と。
481 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 10:38:41 ID:DrsnZKoH
>>480 確かにその通りだろうが、全く因果関係の認められない二つの
事象、「これ」と「あれ」を恣意的に結びつけて
「これがあるからあれがある」と主張し、あたかもそれが真実であるかの
ように語る者がいるから問題なのです。
482 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 11:27:56 ID:XWMhHOov
>>481 縁起・空(関係性)は、因果関係とは全く異なる。「万物一切」「法」のこと
である。「因」と「果」の実体性を認めれば、それは「空」ではなくなる。
釈迦のその表現における問題点は、既に指摘した。
483 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 11:28:15 ID:c1Ksexon
484 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 11:50:41 ID:kkJgpeSV
>>481 >「これがあるからあれがある」と主張し、あたかもそれが真実であるかの
>ように語る者がいるから問題なのです。
だから、その主張の「これ」や「あれ」が現実に五感により認知できる
物事なら自分でその主張の真偽を判定できるだろ。「これ」や「あれ」
が霊魂や神のように現実で五感で認知できない事柄ならそれは妄想だと
すればよいだけ。
たとえば「風が吹けば桶屋が儲かる」という命題は普通の人にとって
その真偽を判定できる。だから落語のネタにもなるのだ。
485 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 11:56:27 ID:kkJgpeSV
>>482 >「因」と「果」の実体性を認めれば、それは「空」ではなくなる。
そうですね。だから因も果も実体はない縁起とすればよい。
486 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:06:58 ID:XWMhHOov
>>451 >真言宗を代表して教えはこうだと説明しろといって拒否られたのをまた根に
>持っているのか……。
>本人もそのようには話せない理由を書いたというのに、災難だね。
真言氏が、空を「幻」「蜃気楼」などと解釈されたのは、驚き。仏教者なのに、
空を全く理解していない。般若心経の平川訳でも、「色即是空・空即是色」を
次のように解釈している。
「この世において、物質現象は実体のないもの(空)である。実体のないもの
こそが、物質現象として成立するのである。実体のないことは、物質現象を離れて
あるのではない。物質現象も実体のないことと別にあるのではない。およそ
物質現象であるものが、そのまま実体のないものなのである。実体のないこと
が、そのまま物質現象なのである。感覚・表象・意思作用・判断についても、
これと全く同じである。」
「色」とは、物質現象であり、五蘊も物質現象と同様に扱っているのである。
仏教者を自称する者は、「色即是空・空即是色」の意味くらいは、徹底的に
思索し、理解すべきではないのか。
ここでいう「実体のない物質現象(現実界)」とは、竜樹の言葉では、「無自性」
である。「物質現象がない」などとは、一言も言っていない。むしろ、物質現象
(現実界)を前提として、その本質を追求したのが、「空(相互依存性・関係
性)」なのである。
487 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:10:57 ID:XWMhHOov
>>485 >そうですね。だから因も果も実体はない縁起とすればよい。
釈迦の表現では、そこのところがはっきりとしていない。単なる「因果
関係」とも解釈され得る。だから、多くの誤解が生じているのである。
488 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:17:32 ID:kkJgpeSV
>>487 「実体」という概念は所詮、形而上学的概念であって名ばかりであり
現実にその対象が存在しない物事だろう。それに気づいたらそういう
物事にかかわらなければいい。
489 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:24:49 ID:XWMhHOov
>>488 竜樹のいう実体とは、形而上概念どころか、現実的・物理的概念である。
端的には、物質とその原子との関係である。
490 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:28:29 ID:kkJgpeSV
>>486 幻視や蜃気楼も視覚現象だけで感じられて実体が無いということでは
その他の事物(物理現象)と同じではないか?
現と夢と幻は「実体があるかないか?」では判別できない。
すべての事物に実体はないとするのが空観だから。
空観からすれば夢・現・幻は所詮、無分別だろ。
491 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/01(土) 12:36:08 ID:biqNXUVw
真言宗も、禅宗も般若心経を依典としますが、その解釈が多少違います。
色即是空 空即是色
これを禅宗では、世俗→勝義→世俗と・・・つまり空性より還滅して修了です。
(これがつまり般若波羅密です)
色即是空 空即是色
これを真言宗では、世俗→空性(この段階ではまだ世俗諦です)→これより如来像へと
ジャンプするわけですね。
ですから空即是色の「色」は「仏の当体」の意味です。
>>486 >真言氏が、空を「幻」「蜃気楼」などと解釈されたのは、驚き。
そうですね。
真言でも空性はあります。
それを踏み台にするわけですから。
そのための「色即是空」です。
真言宗では、先ず読経は般若心経からはじめ、それから肝心の理趣経へと逝く。
つまり「空即是色」です。
492 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:36:55 ID:XWMhHOov
>>490 「幻」や「蜃気楼」では、「実在しない」という意味に解されてしまう。
竜樹のいう「空」とは、厳然たる実在を前提とした上で、「相互依存性・
関係性」故に、「自性はない」と言っているのである。むしろ、現代科学
の基礎である。釈迦や竜樹は、「妄想患者」ではない。現実界が幻なら、
そもそも人間が生存できず、佛教もへちまもない。
493 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/01(土) 12:37:42 ID:biqNXUVw
× これより如来像 ○ これより如来蔵
494 :
暁 :2009/08/01(土) 12:40:39 ID:N2qZDOl1
自性とは法の「本質」「ありかた」を実体視したんだから、 法有、つまり法を独立に実在するとした立場の矛盾を 指摘したわけです。 自性とは他に依存しないものであるから縁起しない。 その自性を認めると現象界の変化が成立しないわけだから。
くだらない議論で時間を浪費して 幸福が幻になってゆくお前達の人生。
496 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:49:13 ID:XWMhHOov
>>491 その趣旨であれば、法華経の「久遠実成の本仏」も、「このあるがままの現実界
の象徴」となりますね。「幻」とは対極にあるもの。
しかし、理趣経へ行くとは、大変なジャンプですねw。それが「悟り」という
ものでしょう。
497 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 12:52:30 ID:XWMhHOov
>>495 佛教は、「幸福の科学」「幸福実現党」ではないよw。
498 :
暁 :2009/08/01(土) 12:53:47 ID:N2qZDOl1
499 :
一在家 :2009/08/01(土) 12:55:53 ID:EPi3yXRa
>>447 >釈迦は、縁起・空を「唱えた」が、その内容は解明できてはいない。その内容
>が「相互依存性・関係性」という、現代でも十二分に通用する普遍の原理であ
>ることを解明できたのは、竜樹の類い稀な頭脳であった。
この一週間で7時間ほど龍樹について学習しました。
(学習結果)
・釈尊が悟った縁起を世俗的表現で説明するのが不可なことを龍樹も承知。(中論 24-10)
・承知しながら同じ言語の論理世界で法有を主張した有部の矛盾点を批判した
・「不去」を言語の論理世界で証明したが、彼も現実世界では証明していない。
・「不去」と同じく作用の論理で「不来」、「不一不異」、「不生不滅」を証明した。
・小乗アビダルマの十二因縁には「生起」が必要であり「不生」にて否定。
・以上、龍樹は釈尊の悟った縁起を「言語の論理世界で証明した」に過ぎない。
・後世の彼の信者(中観派)や大乗仏教徒の多くは、彼が縁起を現実世界でも証明と錯覚。
・以上、現実世界で証明されていない論理の「縁」で仏教国では次々に衰退が「起」。
500 :
一在家 :2009/08/01(土) 12:56:34 ID:EPi3yXRa
(一在家の提示案) ・「去り行くものは去らず」と唱えながら足元のアリを観察し、 現実世界での「運動」と「時間」が無いのか否かを認識する。 認識できたら、一言「アリがとう。」 ・「不生不滅」と唱えながら、受精から出産に至るビデオを視聴して、 現実世界での「運動」と「時間」が無いのか否かを認識する。 認識できたら、一言「コンニチワ赤ちゃん。」 机先生のヒント「有部はあて馬」が優れておりましたので、学習が進みました。深謝。
501 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 13:03:35 ID:XWMhHOov
そもそも、「幸福」や「愛」という言葉ほど、胡散臭い言葉はない。 その「言葉」を口にする宗教団体は、カルト確定。 そんな抽象観念が、独立して「存在する」と思っているのが、完全な 誤解と倒錯。
502 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 13:04:14 ID:N2qZDOl1
7時間でわかる龍樹で本書いたら?
503 :
暁 :2009/08/01(土) 13:05:55 ID:N2qZDOl1
504 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/01(土) 13:08:36 ID:biqNXUVw
>>496 空即是色の「色」は、
禅宗と真言宗では大きな考え方の違いがあります。
真言は「禅宗は如来界に裸足で踏み込む」と考えてるらしい。
法華経を信望していた白隠は、晩年に再度、法華経の紐を解くことになるが、
これは裸足で踏み込んだ後ですね。
大悟5回でしたか?
こんなに何回も悟る御仁はいないですね。
白隠には、まだ迷いがあったような気がします。
505 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 13:19:01 ID:kkJgpeSV
>>500 >足元のアリを観察し、
「アリ」を観察するためには先ず「アリ」という名前で
指示される対象は何か?を知らねば観察できない。
まずは言語を知ることからしか始まらない。
ぼやっと見てても何も見えない。
506 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 13:20:17 ID:XWMhHOov
>一在家氏へ 中論の完全な誤解。君の頭脳では、竜樹の理解は無理。 「相互依存性・関係性」は、現実界の万物に共通し、むしろ自然科学の 基盤。 君は、「去ってゆくアリ」と言っておいて、さらにアリが去ってゆく というのかね。「去ってゆくアリ」には、去ってゆくという行為概念が 含まれているのだから、「去ってゆくアリが去ってゆく」などと言えば、 アリは、去るという行動を二度していることになる。 物質は、空間的相互依存関係により存在する。空間的相互依存関係には、 極小の時間の一点のみで、継続した時間の概念はない。時間を考慮する と、別の物質になってしまう。
507 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/01(土) 13:28:24 ID:biqNXUVw
>>499 簡単ながら、要点だけを纏められましたですね。
書込みを読みやすいですよ。
>・「不去」を言語の論理世界で証明したが、彼も現実世界では証明していない。
>・「不去」と同じく作用の論理で「不来」、「不一不異」、「不生不滅」を証明した。
なるほど、面白いですね。
これは何方もここで躓いてしまう、中論の一番難解なとこですよ。
では、提示したもんを拙者なりにレスポンさせて頂きます。
人間というのは三次元世界で生きてますから、
時間と空間というのは別々に考えてしまうんですね。
これは仕方ないことです。
空間が空性。ってのは、ある程度理解はできても、
時間の空性ってのは、人の脳は理解が困難なんです。
龍樹は、時空の空性を言っておるんですね。
諸行無常→これは時間です。
諸法無我→これは空間ですね。
世俗ではこのように、時間と空間は別々に考えてしまいますけど、
釈尊の悟りというのは、時空一如であります。
どうか、中論を再度吟味なすってくださいまし。
<机龍之介・花押>
508 :
旧7 :2009/08/01(土) 13:50:12 ID:lWSVNU+z
>>505 そんなことはない。
言葉によらずとも、
「それ」を「「それ」でない周囲」から切り出す形で認識し、
且つ追跡して認識し続けることができれば、「観察」は成立する。
(観察結果(≒記憶)がまとめられ整理されるため、その時初めて分節する為の言葉が必要になる。
観察結果の発表となれば、語用の仕方に、より正確さが要求されても来るだろうが・・。)
「アリ」や「行列」という言葉(指示語)を知らずとも、
子供は「それ(=蟻の行列)」に気付き、流れる汗も構わず凝視する。
そこに言葉は要らない・・・。
509 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 13:53:08 ID:nWR1meXl
>>502 非宗教者にとっては、竜樹が「おおよそ何を言いたいのか」は、「中論の頌」
を流し読みすれば、2時間で分る。分らない箇所は、竜樹の表現力不足として
読み飛ばせばよい。一度きりの人生の貴重な時間を、無駄にはできない。
細部に拘ると、思想の全体的な理解は不可能。
宗教者は、既に「宗教によって植えつけられた」こだわりがあるから、理解で
きない。一在家氏が、その好例。
510 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 14:08:00 ID:nWR1meXl
>>506 そこが大事だね。言葉とは、人類が発生し、共同体を形成した後、その
成員間で、生存に必要な具象物(物体)を指示し、他の物体から区別する
ために発明されたもの。まず、「生存に関係する物体ありき」である。
宗教者の言葉は、具象物(物体)との関連が欠けていることが多いから、
百人百様で、そもそも、コミューニケーションの「手段」としての言語
の機能を果たしえない。つまり、言語とはいえない。
511 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 14:17:53 ID:kkJgpeSV
>>508 >そこに言葉は要らない・・・。
そしてそこに「アリ」もなければ「行列」もなければ「運動」もない。
512 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 14:23:29 ID:nWR1meXl
>>511 人間にとっては、「五感で知覚できる対象」は、すべて「実在する」
という。「生存に直接関係がある」からだ。目に見える猛獣を「幻」
だとして避けなければ、食い殺されて、すべては終わりである。
513 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 14:26:30 ID:nWR1meXl
>>511 君は、迫ってくる電車が「眼に見える」のに、「ない」として、線路に
飛び込めるのかね。出来るのなら、やってご覧w。
514 :
暁 :2009/08/01(土) 14:38:43 ID:N2qZDOl1
>>509 非宗教者なら判るとも限らんでしょ。非宗教者に
何らかのバイアスが掛かることも想定できる。
宗教者なら心情とする宗教によって植え付けら
れたバイアスが掛かるのは判るけど。
一概に言い切れるもんでもないでしょ。非宗教
者が虚心で読めて著者の原意(正確には不可能だが)
を把握できるものでもないでしょう。
世の中様々な人がいるわけだし。
515 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 15:07:34 ID:kkJgpeSV
>>513 電車も見えるも線路も・・・すべて言葉だろ。
言葉で表さないでその状況を表現できるのか?
>>515 言葉を持たず表現出来ない犬が踏切にいたって、ちゃんと危険を避けるために外に出るだろ
517 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 15:36:05 ID:Q/6tbHBs
言葉には認識と同時に<反省>が含まれているような気がする。 目の前にリンゴがあったとき、目の前のリンゴを認識するだけではなく、 リンゴから連想される記憶が呼び戻される。 言葉はその記憶を<反省>している。
518 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 15:40:04 ID:Q/6tbHBs
人間の場合、言葉を持つがゆえに、線路から出ないことがある。 かれはその後の成り行きを知っていて出ない。 人間は言葉の力によって自殺する。
519 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 15:59:24 ID:Q/6tbHBs
>>515 言おうとしていることは理解できる。
確かに、現実を分別できなければ、現実に対応できないだろう。
>>516 人間のような言葉ではないかもしれないが、
生き物は何かしら、現実を認識する能力を持っていると思う。
それは言葉のようなもの、あるいは言葉の萌芽ではないだろうか。
カラスは朝早く、うるさく鳴き騒ぎ、仲間と呼び交わしている。
そして連れ立って、エサ探しに出かけていく。
言葉のような気もしないではない。
520 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 16:13:29 ID:Q/6tbHBs
中論の理解に関しては、在家氏に一日の長ありと感じています。
521 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 16:19:39 ID:Hqm3HqKT
>>519 人間が一番偉い、賢いと思っているのは、クリスチャン特有の思い上がり。
他の動物も、ちゃんとコミューニケーションして、共生し、種属を維持して
いる。宗教者のような、コミューニケーション不能な観念語・抽象語は一切
使っていないと推測される。生存に関係ない宗教などで、殺し合い、争い合う
ことはしない。その意味で、宗教者は、「犬畜生にも劣る」存在。
522 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 16:38:54 ID:Q/6tbHBs
>>422 >「ない」ことの証明ができないことは、既に述べたとおり。これは「悪魔の
>証明」と呼ばれる、証拠法上の鉄則。
神の不存在を証明することが「悪魔の証明」ならば、
神の存在を客観的に証明することも「神の証明」であり不可能。
どちらの証明も不可能なのだから、
神を否定することに、もっと慎重になり謙虚になってください。
>竜樹は、「相互依存性・関係性故の無自性」の原理の発見によって、神(アー
>トマン)の不在を100%証明した。
竜樹の根本的な誤りはすでに指摘している。
主体と作用は相互依存にならない。
>若し、共同体の不特定多数の成員が精神病なら、
>現在の精神病者が健常者である。
人間の入れ替えではなく、病気の定義を聞いているのですが?
定義ができないなら、精神病、統合失調などと軽々に言わないでほしい。
523 :
旧7 :2009/08/01(土) 16:43:14 ID:lWSVNU+z
>>511 そこまで突き抜けますかw
(ま、勝義とはそういうものかもしれんが・・・。)
>>515 何かが飛んできた。身をかがめて避ける。(今は、貴方に「伝える」便宜上“何か”としている)。
この時、飛んでくる(向かってくる)ものが、飛んできているという事象が、言葉で分別される必要はない。
ボールかもしれない。鳥かもしれない。跳躍力のある四足動物かもしれない。
工事現場からの破片かもしれない。風に飛ばされた看板かもしれない。
そのように分別する前に、まず避ける。「それ」が「何」であったかなどは後でいい。
それが何であるかを分別してるうちに、「それ」はその人にぶつかるだろう・・。
言葉で分別される必要はない。
「それ」が「それでない周囲」から切り取られ、「向かってきている、という事象・事態」が認識・把握されればそれでいい。
或る対象が切り取られる時、そこには言葉ではない別の切り取り方も為されるということだ。
そして、生物としてはその切り取り方の方が、より原初的で、より根源的な分別であるということだ。
だから、そうした原初的分別とは別に
(―というか、そうした原初的切り取りは「分別」とは言わないか・・w
「言葉による区分」こそが「分別」と呼ばれるのだろうし・・・―)、
知恵(知識)とセットになった分別があり(或いは、そのような分別は知恵(知識)そのものであり)、
(分別のなされ方にピントを合わせた時)「大人としての分別」などという言い方が生じたりもする。
524 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 16:55:27 ID:Q/6tbHBs
>>423 >宝珠やカラスはお花畑の向こうで十字架担いでるし、
>机は野狐禅バリバリだし、隠居は隠居で極論だし新しい宗教だし、
>俺は俺で断滅分析外道だしwww
>オワットルなw ヽ(゚ ∀ 。 )ノ アヒャヒャヒャヒャ
こういうことを言うから、旧7はいろいろ言われるのだな(~~)
石頭の頓珍漢のエロQのかんぐりのほじくりの小姑の断滅凡夫・・・
それからスルー旧7じゃなくて、ツルリ旧7に訂正しておく。
525 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 17:28:54 ID:EU9/yUnZ
526 :
一在家 :2009/08/01(土) 17:29:50 ID:sjpHmVJ/
>>507 机氏
私の提示案は、釈尊と龍樹が何を説いたのかではないですよ。
ただ、龍樹がどの方法で何を証明したかという点を整理しただけです。
>龍樹は、時空の空性を言っておるんですね。
でも、言語の論理世界以外では証明できていないのでしょうか。
旧7氏のご指摘の通り、現実世界では名称など考えずに生活している
場合も多く、とっさの時はなおさらですね。
有部は名称を付け、「法」まで「もののあり方」と言語で表現した為に
龍樹の否定の論理で攻撃された訳です。
言葉(音声)を除くマルチメディアで現実世界を表現できる訳ですから
言葉の論理世界での大哲学者への固執を弱めても宜しいかと存じます。
527 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/01(土) 18:03:07 ID:biqNXUVw
>>526 >ただ、龍樹がどの方法で何を証明したかという点を整理しただけです。
三世実有論の有部でさえ、諸行無常の解釈はいささか難儀しましてね、
そして刹那滅としたんですから、
当時の未達の法解釈(自性)でも「刹那に滅する」ことくらいは分ってましたよ。
ところがですが、貴殿は時間というのは“流れるもんだと”本気に信じこんでますか?
それは何処から何処へ流れてますか?
その論理的矛盾を解説したのが
>>506 氏ですね。
勝義諦といいますのは、論理構築以前の主客未分のことです。
528 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 18:12:46 ID:Hqm3HqKT
>>522 >どちらの証明も不可能なのだから、
>神を否定することに、もっと慎重になり謙虚になってください。
「ない」ことの証明は言語矛盾であることは、既に述べた。「神がいない」こ
との証明も、「悪魔の証明」と呼ぶのだよ。「ある」ことの証明は、神を一匹
だけ捕まえて檻に入れ、写真を撮れば、証明完了w。
>主体と作用は相互依存にならない。
主体は、特定の具体的状況に応じた作用を行う。従って、主体と作用とは、
「特定の具体的状況」を介して相互依存している。
>人間の入れ替えではなく、病気の定義を聞いているのですが?
>義ができないなら、精神病、統合失調などと軽々に言わないでほしい。
「病気とは、共同体(現在では人類共同体)の不特定多数の成員の平均値から
の有意な偏倚」であると、既に定義している。従って、この平均値が精神病者
に傾けば、精神病院の入院患者全員の入れ替えは、当然に必要になる。
529 :
析空 :2009/08/01(土) 18:17:08 ID:JW1txayZ
>>526 一在家さん
まさか「時間」という「もの」がこの宇宙に実在だなどと考えていますか?
「時間」というものは単に物体が変化したことによってそれと知られるもので、
時間という「なにものか」が存在しているわけではありません。
530 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 18:24:13 ID:Hqm3HqKT
>>526 君は、科学者を自称しながら、物質世界における相互依存性・関係性の
証明も出来ないのかね。まさに、自然科学の基礎ではないか。
すべての物質は、原子の相互依存的・関係的集合によって成り立つ。
そして、物質の性質は、その構成原子の性質とは同じではない。物質の
原子の結合状態が変われば、物質の性質も変わる。原子自体も、素粒子
の関係的集合によって構成される。
原子は、すべての物質(万物)を流転する。
竜樹は、少なくとも実在する。「架空の神」に対する固執を弱めること
こそ、先決であろう。
531 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 18:44:22 ID:EU9/yUnZ
>>499 >・釈尊が悟った縁起を世俗的表現で説明するのが不可なことを龍樹も承知。(中論 24-10)
縁起は言語慣習により説示された勝義です(『空性七十』68-69、『廻諍論』帰敬偈、『中論』24.18)。
ただ、縁起といっても「流転門」ではなく、「還滅門」が勝義ですが。
>・承知しながら同じ言語の論理世界で法有を主張した有部の矛盾点を批判した
別に、有部だけを批判してるわけではなく、縁起を理解しない貴方や宝珠氏のようなカルトも無論含まれています。
>・「不去」を言語の論理世界で証明したが、彼も現実世界では証明していない。
貴方こそ「論理世界」と「現実世界」とがそれぞれ何か詳細に説明していない。
>・「不去」と同じく作用の論理で「不来」、「不一不異」、「不生不滅」を証明した。
自性としての去来や生滅を批判しているのです(『六十頌如理論』19-20)。
>・小乗アビダルマの十二因縁には「生起」が必要であり「不生」にて否定。
例えば、『十地経』第六地等に依拠する『縁起心論』を読めば、
26章が「小乗だ」などというのは、誤謬であることが明白です。
>・以上、龍樹は釈尊の悟った縁起を「言語の論理世界で証明した」に過ぎない。
「過ぎない」も何も、元々、言語慣習により説示してるわけですから。
532 :
一在家 :2009/08/01(土) 19:28:40 ID:Stc4RL9W
>>528 >それは何処から何処へ流れてますか?
>その論理的矛盾を解説したのが
>>506 氏ですね。
実在論では、「人が去る」では人(主体)が去る(作用)となり
極当り前のことになります。
有部の論理矛盾を否定して証明した「不去」と同じ論理で証明した
「不生不滅」、「不一不異」も同じく言語世界の証明ですよ。
「去りつつあるものが去る」というのが矛盾しているのは、言語の論理世界
の中でのことでしょう。
以上、中村元先生の解説を一応参考にしております。
私は7時間で「龍樹」(中村著)を読んで、学習した内容を整理したのです。
533 :
一在家 :2009/08/01(土) 19:41:41 ID:Stc4RL9W
中村先生の解説本では、龍樹が論敵を批判しながら、言語の論理世界で 証明したと記載されております。現実世界での証明ではないとも。 私はこれから移動しますので、続きは月曜日に致したく。
534 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 19:47:31 ID:EU9/yUnZ
>>533 中村氏の『龍樹』を鵜呑みにしない方が良いですよ。
あれは、「V」部の著作概観で、多数の諸論を列挙しておきながら、
他方で、肝心の「U」部では、それらを殆ど無視・軽視して、
ひたすらに、縁起=相依ということを述べているだけですから。
概説書なら梶山先生の『空の論理』の方が良いです。
535 :
旧7 :2009/08/01(土) 19:50:46 ID:lWSVNU+z
>>525 違います。
生物の(機能としての)認識システムの話です。
536 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 20:54:26 ID:012iJ221
「目の前にちゃんとリンゴがあるじゃん。これの実体がないなんて言ってる奴 ってバカじゃねぇの?」 このような固定観念に捕らわれて、視点の転換が出来ないような貧弱な 思考能力しかない者には何を説明しても無駄。 よってこのスレで、行われている龍樹の解説は全く徒労のように思われる。
537 :
暁 :2009/08/01(土) 21:04:13 ID:N2qZDOl1
リンゴをリンゴであらしめる「ありかた」を否定してるの。 皆それを踏まえて話してるでしょ。
538 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 21:10:52 ID:012iJ221
>>537 「皆」?
それを踏まえていない者も見受けられるが。
539 :
暁 :2009/08/01(土) 21:13:28 ID:N2qZDOl1
>>538 脊椎反射乙。
という俺も脊椎反射だが(笑)
540 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 21:16:26 ID:012iJ221
俺が言ったのは、実体論から離れられないものには いくら龍樹を解説しても無駄であるということ。
>>537 いや、有部も中観派も「リンゴは空」、で一致してると思うよ。
542 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 21:25:37 ID:GeKfmy1Y
>>528 >「ある」ことの証明は、神を一匹
>だけ捕まえて檻に入れ、写真を撮れば、証明完了w。
★ だから、神が客観的に存在することの証明も、「神の証明」と言って不可能。
存在することも、存在しないことも証明不可能なのだから、おたがい五分と五分だろう。
神を頭から否定するのではなく、神がいるかもしれないという思いも必要である。
>主体は、特定の具体的状況に応じた作用を行う。従って、主体と作用とは、
>「特定の具体的状況」を介して相互依存している。
★ いかなる状況においても相互依存しない。作用は主体のはたらきである。
竜樹の立論の土台がここにあるから、竜樹は全面的に誤り。100%誤り。
>「病気とは、共同体(現在では人類共同体)の不特定多数の成員の平均値から
>の有意な偏倚」であると、既に定義している。
★ 平均値? だれがどうやって算出する? 精神病の平均値など聞いたことがない。
あなたの定義は、具体性がまったくないから、病気の定義になってない。
病気の定義ができないのだから、精神病などと軽々しく口にしないほうがいい。
543 :
暁 :2009/08/01(土) 21:26:56 ID:N2qZDOl1
>>541 勿論リンゴは空で一致してるが、有部はリンゴを
リンゴであらしめる法を実体視したわけよ
有部もリンゴという自然的事物を実体視したわけ
じゃないが、それを成立せしめる法を実体視した。
544 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 21:33:19 ID:GeKfmy1Y
空幻論者かつ有部論者の暁君は、 リンゴだけでなく君自身も、空・幻だと思って生きて行きなさい。 それが君にとっての真理なのだろう
545 :
析空 :2009/08/01(土) 21:36:38 ID:JW1txayZ
>>542 <神>という用語を、定義しないで使っているので、意思の疎通ができないのでは?
もし<神>が、宇宙を創造したというなら、じゃあ<神>は誰が創造したのか?
という問いに答えてほしいし、
<神>は全知全能だ、というなら、神は神が持ち上げられない大きな石を造れるか、
という問いにも答えてほしいですね。
つまり、<神>の定義は、<自己矛盾している>から、神は居ないと言えると思います。
546 :
暁 :2009/08/01(土) 21:49:13 ID:N2qZDOl1
>>541 すまん、訂正。
空で一致はありえない。有部の論理では「リンゴ」が
空であるとは言えないわ。
「リンゴ」を成立させている縁起の法を自性ありと
したわけだから。
547 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 22:02:06 ID:GeKfmy1Y
>>531 >縁起は言語慣習により説示された勝義です・・・・
>ただ、縁起といっても「流転門」ではなく、「還滅門」が勝義ですが。
★ 業界用語ではなく、だれにでもわかる日本語を使ってください。
あなたの文章には、自分は優れているのだという臭みがある。
>別に、有部だけを批判してるわけではなく、
>縁起を理解しない貴方や宝珠氏のようなカルトも無論含まれています。
★ まさか縁起が幻や蜃気楼だというのではないでしょうね。
>貴方こそ「論理世界」と「現実世界」とがそれぞれ何か詳細に説明していない。
★ 説明がなくてもだいたいわかりますが?
>自性としての去来や生滅を批判しているのです(『六十頌如理論』19-20)。
★ 竜樹の考えていた縁起思想からの批判ではないですか。
批判は必ずある立場からなされるのであり、批判者の立場が前提になる。
>例えば、『十地経』第六地等に依拠する『縁起心論』を読めば、
>26章が「小乗だ」などというのは、誤謬であることが明白です。
★ 竜樹の縁起は小乗の縁起とは異なるでしょう。26章は小乗です。
>「過ぎない」も何も、元々、言語慣習により説示してるわけですから。
★ あなたの「言語慣習」という用語のほうが意味不明である。
特殊な用語を使うあなたのほうが、その意味を詳細に説明すべきでしょう。
548 :
暁 :2009/08/01(土) 22:15:55 ID:N2qZDOl1
プラーサンギカ派では「最上甚深なる縁起」や 「相依性の縁起を特質とする第一義諦の真理」 という説明だが、中国の三論宗においては、 「因縁性は是れ世諦なり。寂滅は是れ真諦なり」となる。 中国とインドでは解釈が正反対だよね。 これは羅什が縁起を「因と縁とによって生ずる」 と解したからのようだが、この辺の解釈の違い も現代の理解に影響してるんだろうね。
>>546 有部が主張したのは「法に自性が有る」、という実有のことですよね。
リンゴなどの自然的存在は実有ではなくて、仮有として区別されていると思います。
この仮有というのは、空のことじゃないですかね?
550 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 22:28:34 ID:GeKfmy1Y
>>545 析空氏
>もし<神>が、宇宙を創造したというなら、じゃあ<神>は誰が創造したのか?
>という問いに答えてほしいし、
これは、神を想定しない場合、では宇宙をだれが創造したのかという問いと
同じでしょう。個人的には、神は神自身が創造したのではないかと思っている。
><神>は全知全能だ、というなら、神は神が持ち上げられない大きな石を造れるか、
>という問いにも答えてほしいですね。
神と被造物が同じ場所に同時に存在できるのか、という問題が壁になっている。
次元がちがうので、創造神が直接に被造物と関係することは不可能だと思う。
そんなことをすればたぶん、神も宇宙も消滅することだろう。
551 :
神も仏も名無しさん :2009/08/01(土) 22:36:01 ID:0gqob0bs
<神>をどこかに‘あるかもしれない’‘ないかもしれない’ような人知の及ぶ対象物と考えていることが、宗教的な神とずれている気がする。
552 :
暁 :2009/08/01(土) 22:39:41 ID:N2qZDOl1
>>549 うん。有部は「リンゴ」という自然存在である事物を
実体視したわけじゃないけど、それを成立せしめる
「ありかた」を実体視
してしまうと、その「リンゴ」は空とは言えない。
その「リンゴ」を「リンゴ」ならしめる縁起の法を有る、
(そのもの自体で成り立つ)としたら、空ではなく不空
になるんじゃないかな。
553 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 22:40:00 ID:GeKfmy1Y
>>545 ご隠居との話はかみ合っているのです。「悪魔の証明」ができないのなら、
ましてや「神の証明」はできないのではないか、ということです。
神が悪魔を作ったのであり、悪魔は被造物の世界に存在するからです。
554 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 22:47:31 ID:GeKfmy1Y
>>551 人知というか、むしろ体験なのではないかと思う。
新約聖書には、イエスは神を見た、という記述がある。
555 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/01(土) 22:51:40 ID:GeKfmy1Y
556 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 00:19:03 ID:Z1mWK9D4
「不笑」笑いつつある者は笑わず、龍樹? 「不怒」怒りつつある者は怒らず、龍樹? ただ動詞に「不」付けるのみ、龍樹? 釈迦の真理? 天才の言葉遊び?
557 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 00:41:58 ID:HkM9xXcG
>>554 >新約聖書には、イエスは神を見た、という記述がある。
イエスは、「神を見た者は誰もいない」と言っているはずだがw。
「人知の及ばないもの」を、人知で語ることの矛盾。
558 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 02:06:53 ID:Z1mWK9D4
時間は流れない。 過去、現在、未来は同時に存在。 神や霊魂は無だが、タイムマシンは作れる。龍樹? 何れが科学的可能性大と君は思う? 宇宙意思とタイムマシン?
559 :
析空 :2009/08/02(日) 04:30:26 ID:zq2eaqAu
>>550 つまり、仏教徒が神を否定するのは、正確には、
「神の定義が矛盾を含むから」です。
もし、「矛盾の無い神の定義」を提示していただけたら、総ての人が神を認めるでしょう。
宇宙の創造については、仏教では説明されていません。
「神による宇宙の創造」が無くても、宇宙が存在することを、縁起によって説明しています。
560 :
析空 :2009/08/02(日) 05:01:14 ID:zq2eaqAu
>>553 >神が悪魔を造った
イスラエル人は、神の一般名詞としてエルという用語を使用していました。
イスラエルは、「神(エル)の住むところ」という意味です。
悪魔(デビル)は、デビィ+エルで、デビィ神という意味です。
デビィは、「光り輝く」という意味で、インドの神です。デーバともいいます。
つまり神が悪魔を造ったのではなく、イスラエル人が、インド人の神を悪魔と呼んだだけです。
悪魔が人間のでっちあげなら、神も。。。
561 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/02(日) 08:16:12 ID:ejERBh4j
>>528 >「去りつつあるものが去る」というのが矛盾しているのは、言語の論理世界
>の中でのことでしょう。
龍樹よりもモット簡単に、平易に拙者が説明しとう存じます。
「去る」ってのは現在を起点にした論理でありまして、
この場合の現在ってのは固定(視点が)した観点であります。
つまり「現在が去っている」ってことになりますね。
しかも同時に「現在は来つつある」ってことにもなる。
「来つつあって」なお且つ「去りつつある」ってのが現在です。
そうしますと、そもそも固定(視点が)した観点というのは有り得ない。
(これが重要です)
xyzプラスyというのは三次元思考です。
仏教はxyztですね。→四次元です。
「来つつあって」なお且つ「去りつつある」ってのが現在になる。
(つまり現在の流動性になってしまう)
これが論法上の矛盾でして、三時否定の根拠です。
562 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 09:04:54 ID:Z1mWK9D4
来つつあるのは未来でありんす。 小学生にもそう教えてます。
563 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 09:06:09 ID:xcmsLLOk
564 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/02(日) 09:43:05 ID:ejERBh4j
>>562 >来つつあるのは未来でありんす。
そうですね。
これも間違いではありませんね。
「男はつらいよ」に出てくる“たこ”って中小企業の社長は、
手形の決済期日がせまってくると落ち着かなくなるのは、
やはり未来が来つつあることを前程としてますから。
仏教はこれが間違いとは言うておらんのです。
空即是色の「色」は生きるための智慧であります。
565 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 10:19:27 ID:lrKHFxqj
>>560 >イスラエルは、「神(エル)の住むところ」という意味です。
「神と格闘する」という意味です。
>悪魔(デビル)は、デビィ+エルで、デビィ神という意味です。
違います。
>デビィは、「光り輝く」という意味で、インドの神です。デーバともいいます。
>つまり神が悪魔を造ったのではなく、イスラエル人が、インド人の神を悪魔と呼んだだけです。
同じく誤りです。デーヴィ(女神)というのはデーヴァ(神)の女性形です。
デヴィル(悪魔)とインド・アーリア語族の「デヴァス」(神)
や英語「ディヴァイン」との間につながりはありません。
ギリシャ語の「ディアボロス」からきています。
566 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 10:25:17 ID:FbXMUX4T
>>557 >イエスは、「神を見た者は誰もいない」と言っているはずだがw。
>「人知の及ばないもの」を、人知で語ることの矛盾。
ヨハネ福音書1:18
いまだかって、神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、 ←(イエスのこと)
この方が神を示されたのである。
その他にもたとえば、5章19、37、6章46、8章38、55
567 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 10:57:18 ID:FbXMUX4T
>>559 析空氏
>つまり、仏教徒が神を否定するのは、正確には、
>「神の定義が矛盾を含むから」です。
>もし、「矛盾の無い神の定義」を提示していただけたら、総ての人が神を認めるでしょう。
氏の問いにはすでに答えたつもりなのですが、
まだ何かあればわかる範囲でできるだけ答えたいと思います。
ちなみにわたしの神の定義は「生命」です。
>宇宙の創造については、仏教では説明されていません。
>「神による宇宙の創造」が無くても、宇宙が存在することを、縁起によって説明しています。
縁起によって宇宙が存在する? 初耳です。
何と何とが縁起して宇宙が存在するのかを教えてください。
568 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 11:54:43 ID:l+CFC7jM
>>566 お前もキリスト教くずれか
何しに仏教スレに来てるんだ?
569 :
析空 :2009/08/02(日) 12:26:40 ID:zq2eaqAu
>>565 貴方のご指摘に反論出来るだけの知識がないので、申し訳ありません。
悪魔の語源が、デイヴァであるというのは、中村元氏の説です。
イスラエルについては、一般に、創世記においてヤコブが神と相撲を取ったことから
「神と争う」という意味とされていますが、イスラエル国の説明では、神と共に戦う
⇒「神の戦士」という意味だそうです。
570 :
析空 :2009/08/02(日) 12:40:01 ID:zq2eaqAu
>>567 一つ目の問いの回答は、「神は神が創造した」というものですね。
普通に考えても矛盾してますよ。
神に限らず「創造した」という考え方、つまり「始まりがある」という考え方が
問題なんですよ。
二つ目の回答は、「不可能」でしたね。
それなら、神は全知全能では無いことになります。
だれであれ「創造神」を説明しようとすると、かならず無理が生じるのです。
最後に宇宙は縁起しているというのは、あらゆるものは五蘊の仮和合であるということから
必然的に宇宙は五蘊の仮和合である、つまり縁起しているということになります。
571 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 15:01:46 ID:eSexMQw9
>>567 >「神は神が創造した」
その創造した神は誰が創造した、その誰は誰が創造した、という疑問が永久
に続き、結局、神の存在など証明できないことになる。
そもそも、この多様、複雑、巨大な自然を創造する神は、それ以上に多様、
複雑、巨大でなければならない。そんな神を創造する手間をかけるくらいなら、
この自然自体が、自然に発生したと考えるほうが手っ取り早い。自然が神なら、
何でもあり、である。
聖書によれば、神は人間のそっくりさんだそうだが、そんな大男が作業服を着て
この自然を作ったのなら、その神の化石が世界中で発見されるはずだが、唯の
一度も発見されたことはない。古生物学や天文学でも、「神」という言葉は、
唯の一度も出てこない。
ビッグバンは、「自然現象」であり、人間は、自然の一部である。
神概念や宗教が人間の生命の機能の産物であれば、神とは「人間の生命」及び
「その生命を維持する自然」と解するのが正しい。しかし、聖書には、そのよ
うな解釈は皆無であるし、それどころか、人間や自然に神性を認めることを極
端に嫌悪する。イエスの立場がなくなってしまうからである。
人間の脳みそを神が作ったのなら、その作られたちっぽけな脳みそで、作った
者のことが分る訳がないではないか。
要するに、人間の思考能力の範囲外の物は考える必要がなく、また、考えては
ならないのである。
神が人間を造ったのなら、それは人間が人間として、「自立的に」生きること
ができる人間であろう。人間が神を思考したり、縋ったりすることは、神が
与えた「人間の自立性」を放棄している、即ち創造に対する畏敬の欠如と冒涜
そのものになる。
572 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 15:05:38 ID:FbXMUX4T
>>570 1 神はだれが創造したのか
神は神自身が創造した、ということは十分に考えられる。
神のいない虚無と、神のいる永遠とは、位相が異なるのではないだろうか。
2 全能の神に持ち上げられない大きな石を造れるのか
創造神と被造物は別の次元になる。同じレベルで論じることはできない。
問題の設定に無理があるのだと思う。
3 宇宙の存在は縁起によって説明できるのか
五蘊が集まったものが宇宙である→これだけでは何も説明していない。
宇宙は縁起している→縁起しているなら空であり幻ということか。
573 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 15:18:13 ID:eSexMQw9
>>572 神の力で、路上の石ころを1ミリでも動かせてから言ってくれw。
その「神自身」を誰が創造したのか、その誰は誰が創造したのか。神が
自然に発生したというのなら、この自然も自然に発生したと言っても
すこしもおかしくない。これは、新井白石がキリシタン宣教師を論破
した時の論法だが、現在でも充分に通用する。
神を信じ、崇拝し、神に縋り、肝心の人間を軽視・否定する宗教者は、
神に最も遠い存在、神の冒涜者なのである。
「神という仮設に頼らずに、人間が人間として自立的に生きることを
可能にしてくれている存在。それが、人間が日々対面している神なので
ある。」(ボンヘッファー)
574 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 15:39:42 ID:FbXMUX4T
神を信じない自由もある。 しかし生きている意味は神を知ることにある。 暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。 暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。
つまらない、どうでもいい議論をしているね。 アクビがでるわ。 仏教ってつまらいこと、どうでもいいことをどうでもいいってわかることじゃないのか。 →十無記
576 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 15:57:15 ID:FbXMUX4T
ご隠居は、神がいないことを証明できないし、 そうかといって神のいる心の奥底を探そうともしない。 依存性・関係性にたどりつく前は、 確か<本能>を主張してたように思うのだけど(~~)
577 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 16:04:00 ID:YAoY3aIX
>>575 >つまらない、どうでもいい議論をしているね。アクビがでるわ。
その「つまらない、どうでもいい議論(空想上の神)」を、一神教徒は
数千年間、飽きもせず大真面目にやっているのであり、命さえ捨てるの
だよ。
「人間が考えても無意味なことは考えるな」と戒めた釈迦の、比類のない
偉大さと先見性が痛感される。そのお陰で、佛教は、一神教とは全く異
なり、2500年間、人を殺すことがなく、数億人、数十億人の人間の
命が救われたのである。一神教に比べて、佛教が如何に偉大な宗教である
かは、この一事を以って明らかである。
しょせん、神やアートマンの有無なんて相対二項対立の 世俗諦=迷いの世界の話なんだから、矛盾しており結論なんか出るわけがない(道元)。 どうでもいい(十無記)と言い切ったところが仏教=ブッダの教えの凄いところだ。 迷った連中の戯言(たわごと)(このスレは戯論というほど高級なものではない)にはアクビが出るわ。
579 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 16:16:54 ID:YAoY3aIX
>>576 物事は「ある」と主張する者に立証責任がある。「ない」ことの証明
は、論理矛盾だからだ。これは、証拠法上の鉄則。
神を語る前に、その存在を証明すること。
神概念やその教義は、百人百様に、宗教ごとにその教祖が口から出任せ
にでっち上げることができるから、専ら、特定の「人間」が、他の人間
を支配するために使用されてきたに過ぎない。狂気以外の何物でもない。
神が架空の、空想上の存在でなければ、何故、ゴマンとある宗教ごとに、
神の姿も、内容も、教えも異なるのかね。神が「人間の空想の産物」で
あることは、これからだけでも明白に証明されているではないか。
580 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 16:30:59 ID:FbXMUX4T
涅槃が聖書に書いてある。 父(=神)のふところが涅槃である。 ヨハネ福音書1:18 いまだかって、神を見た者はいない。 父のふところにいる独り子である神、 ←(イエスのこと) この方が神を示されたのである。
581 :
析空 :2009/08/02(日) 16:35:55 ID:zq2eaqAu
>>572 神は神自身が創造した。
そこで言われる、「創造した神」と「造られた神」は、別の神ですね?
位相が異なるとしても、全能の神には、何の障害にもなりません。
既に神が存在しているのに、なぜ、わざわざ神が神を創造するのですか?
意味がありません。
582 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 16:49:40 ID:FbXMUX4T
>>581 そうではなく、神のいない虚無の位相から、神(生命)が出現し、
世界が爆発的に創造されたということです。
神は現れた瞬間に、永遠の位相に存在し、
自らの出現という過去を持たない永遠の存在になります。
583 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 16:58:18 ID:l+CFC7jM
「虚無の位相」「永遠の位相」「自らの出現の過去をもたない永遠の存在」 論理的な回答ができなくなると「言葉遊び」で回答しているふりをして誤魔化す。 典型的なパターンだな。
584 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 17:06:17 ID:6e+G668h
>>582 妄想はいいから、早く精神科で治療を受けてくれ。
「過去を持たない永遠の存在」とは、言語矛盾。「永遠」は常に過去を
生じる。
585 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 17:09:13 ID:l+CFC7jM
神が無からいきなり出現したのならば、その出現をもたらしたものは何かについての説明がない 「永遠の位相」 これが、具体的にどのようなものか全く説明なし。 自己の出現の過去をもたない永遠の存在? これに至っては完全な論理の放棄。 全能なんだから、なんでもOKと言ってるだけ
586 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 17:10:39 ID:FbXMUX4T
>>578 世俗諦=迷いであるからどうでもいい、ということにはならない。
なぜなら、勝義諦にはまったく内容がなく、結局のところ、
世俗諦=迷いを生きる以外にないからである。
二諦とか世俗諦とか勝義諦とかは、
衆生をごまかし混乱させる無内容な空理空論でしかない。
587 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 17:21:19 ID:FbXMUX4T
神の出現は仮説だから参考程度でいい。 何も説明しないという仏教よりは有り難いだろう。 涅槃のヒントも書いておいた(~~)
588 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 17:53:45 ID:0ii1E8Uk
>>569 >悪魔の語源が、デイヴァであるというのは、中村元氏の説です。
こちらはJ・B・ラッセルの『悪魔の系譜』に書いてあったことです。
カリフォルニア大学で歴史学を研究している人で、悪魔観の概念史
についての本がいくつもあります。
>デビィ+エルで、デビィ神という意味です。
本当に中村元氏の説なんですか?
ルシフェルは「エル」の称号を失ってルシファーになった、
みたいな俗説臭がするんですが。
589 :
旧7 :2009/08/02(日) 18:55:12 ID:tUoOy21f
>>586 ほとんど、な〜にも判っとらんよーだねw
迷いの中で、必死で神やアートマンを論理構築しても迷いでしかない。
頭がパンクするまで迷ってくらはい。
パンクしたら、おめでとうと挨拶させてもらうよw
合掌
591 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 20:17:43 ID:Z1mWK9D4
「八不」に「不笑不怒」を加えて「十不」にできます。 笑いつつあるものは笑わず、怒りつつあるものは怒らず。 龍樹の論理による証明ですね。f^_^; もし原始仏教徒が笑ったり、中観派が怒ったら、 現実世界ではこの破邪の論理が通用しないことが 証明されます。
592 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 20:38:35 ID:9vSoW1nM
>>531 よく御存知で。
>縁起は言語慣習により説示された勝義です(『空性七十』68-69、『廻諍論』帰敬偈、『中論』24.18)。
>ただ、縁起といっても「流転門」ではなく、「還滅門」が勝義ですが。
『廻諍論』帰敬偈とは第一偈のことですか?
>>・「不去」を言語の論理世界で証明したが、彼も現実世界では証明していない。
「現実世界」はただの習慣に基づく妄想世界ですが。
>貴方こそ「論理世界」と「現実世界」とがそれぞれ何か詳細に説明していない。
ですよね?
>>・「不去」と同じく作用の論理で「不来」、「不一不異」、「不生不滅」を証明した。
>
>自性としての去来や生滅を批判しているのです(『六十頌如理論』19-20)。
そうそう。つまり、言語習慣としては「行く」とか言う。
593 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 20:42:44 ID:9vSoW1nM
>>531 >>・小乗アビダルマの十二因縁には「生起」が必要であり「不生」にて否定。
>
>例えば、『十地経』第六地等に依拠する『縁起心論』を読めば、
>26章が「小乗だ」などというのは、誤謬であることが明白です。
『縁起心論』が『十地経』第六地等に依拠するという根拠はなんでしょうか?
26章が「小乗だ」は、青目註などに根拠がありますが、それを否定する理由はなんでしょうか?
>>・以上、龍樹は釈尊の悟った縁起を「言語の論理世界で証明した」に過ぎない。
>
>「過ぎない」も何も、元々、言語慣習により説示してるわけですから。
ですね。
594 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 20:44:23 ID:9vSoW1nM
595 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 22:00:45 ID:eNU5KAlb
>>579 ご隠居はマンネリ。新しい話題を投下しないとテレビに負ける。
それから中論を誤って理解しているのが痛い。在家氏に学ぶように。
中論に関しては、わたしも含め、
スレ参加者のレベルが飛躍的にアップしたと思う。
これだけでも、このスレはけっこう有意義なのではないでしょうか。
596 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 22:19:37 ID:eNU5KAlb
>>589 >小学館プログレッシブ英和中:
>[古英語より.もとはギリシア語dia'bolos(悪口を言うもの).
> 原義は「投げつけるもの」→「悪口を言うもの」→「敵」→「悪魔」]
なーんだ、悪魔の子分は旧7のことだったか。
レスがつくと予感したろ(~~)
597 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 22:22:33 ID:Z1mWK9D4
縁起は言語慣習により説示された勝義でありんす。 現実世界での証明は現代物理学に請う期待でありんす。
598 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 22:29:37 ID:qK6OJyRE
>>595 神など信じる者が、中論を理解できる、また理解する積りになる訳が
ない。理解した途端に、信じる神やイエスが、跡形もなく吹っ飛ぶの
だから。
599 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 22:30:29 ID:eNU5KAlb
>>585 >自己の出現の過去をもたない永遠の存在?
>これに至っては完全な論理の放棄。
>全能なんだから、なんでもOKと言ってるだけ
他人に頼るのではなく、自分で考えることが大切である。
神は永遠の位相に存在し時間概念を超越している。
600 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 22:38:52 ID:eNU5KAlb
>>598 竜樹の言いたいことに耳を傾け、
中論を理解し、その上で中論を批判しているのですが(~~)
信じる神やイエスとは何のことですか? 意味不明。
601 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/02(日) 23:00:46 ID:eNU5KAlb
中論をきちんと読もうと思ったのは、 真言氏の仏教理解、空を体得したいという話を聞いてからである。 その意味で真言氏にも感謝している。 これも因縁ですね。
602 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 23:00:56 ID:l+CFC7jM
>>599 自分で考えてその結論か?
論理崩壊してることも理解できないわけか?
いつまでも、お花畑で言葉遊びしてな
603 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 23:45:58 ID:xcmsLLOk
>>592 >『廻諍論』帰敬偈とは第一偈のことですか?
末尾の礼拝偈です。御存知だと思いますが、本偈は『中論』24.18と同趣旨です。
>>自性としての去来や生滅を批判しているのです(『六十頌如理論』19-20)。
>そうそう。つまり、言語習慣としては「行く」とか言う。
仰る通りです。
>>593 >『縁起心論』が『十地経』第六地等に依拠するという根拠はなんでしょうか?
梶山先生の『空入門』p197以下を御覧下さい。
>26章が「小乗だ」は、青目註などに根拠がありますが、それを否定する理由はなんでしょうか?
第一に、上記の『縁起心論』、また、『宝行王正論』1.25以下、『勧戒王頌』109-112、
『六十頌如理論』10-11等です。
第二に、『中論』自身が「小乗だ」としているわけではありません。
第三に、『明句論』も26章の冒頭で、24.18の「縁起」を本章が広説する旨を述べていたと記憶しております。
604 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 23:46:47 ID:xcmsLLOk
>>594 >>中村氏の『龍樹』を鵜呑みにしない方が良いですよ。
>うーん、よく御存知。
ありがとうございます。
ただ、修正点があるとすれば、「T」部のナーガールジュナ伝承についての訳文は、
意味があると思います。また、「V」部も無意味ではないと思います。
「U」部に関しても、いわゆる「三態偈」解釈の不当性を原典に即して指摘している点は
重要だと思います。
605 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 23:50:03 ID:xcmsLLOk
606 :
神も仏も名無しさん :2009/08/02(日) 23:58:05 ID:x/2uc7GV
>>601 >その意味で真言氏にも感謝している。
やっぱり、真言氏は、あちらのほうに近いということだな。すでに見破った
とおりだ。
607 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 00:17:23 ID:ar19ILbt
>>599 >神は永遠の位相に存在し時間概念を超越している。
君の「妄想」はもう結構だから、少しは、現実に立脚したことを語ったらどう
かね。やはり「ムー」の影響か。
大人は、こんな馬鹿馬鹿しいことを信じるはずはないと思って「お遊び」の
積りで「ムー」を買い与えるのだが、批判力のない子供は、本当に信じてしまう
のだな。恐ろしいことだ。学研は、教育出版社のはずなのに、一体何を考えている
のか。社内に、カルト信者がいることは、確実だな。
608 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/03(月) 07:58:57 ID:GV9zGzBa
609 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 08:23:17 ID:xP6iPW/9
カルトではなく、ちゃんと「オ」をつけろと言うわけか。 オカルトを自称するなら、オカルト板行ったら?
610 :
一在家 :2009/08/03(月) 08:24:34 ID:aoF/10u5
>>591 >「八不」に「不笑不怒」を加えて「十不」にできます。
>笑いつつあるものは笑わず、怒りつつあるものは怒らず。
>>597 >縁起は言語慣習により説示された勝義でありんす。
>>604 >>中村氏の『龍樹』を鵜呑みにしない方が良いですよ。
龍樹得意の破邪の論理に従い、「不悲不喜」も加えて「十二不」に
拡大できます。
「悲しみつつあるものは悲しまず、喜びつつあるものは喜ばず。」
もし原始仏教徒が笑ったり悲しんだり、中観派が怒ったり喜んだら、
現実世界ではこの破邪の論理が通用しないことが証明されますが、
皆様の検証の方は如何でしょうか。
中村氏の『龍樹』解説が縁になって、今朝の「十二不」が起こり、
言語慣習により説示された勝義?だということになります。
八不とは中論の序章の事だろう? 何を足したり引いたりして経典に我見をいれてんだ、この外道。
スッタニパータ 1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。 妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」 1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」 1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、 このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」 1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。 妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」 1113 「物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人の智を、 わたしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」 1114 師(ブッダ)は答えた、 「ポーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、 かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。 1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、 それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。 安立したそのバラモンは、この<ありさまに知る智>が存する。」
613 :
一在家 :2009/08/03(月) 09:23:14 ID:vhLlDOFV
>>611 >八不とは中論の序章の事だろう?
>何を足したり引いたりして経典に我見をいれてんだ、この外道。
「八不」とは中論の序章のことです。
龍樹が釈尊の経典にプラスしたのが何かはよく把握しておりませんが、
プラスした際の否定(破邪)の論理の手順、プロセスは踏まえております。
>>613 >龍樹が釈尊の経典にプラスしたのが何かはよく把握しておりませんが、
>プラスした際の否定(破邪)の論理の手順、プロセスは踏まえております。
詳しく述べてもらおうか?
このスレにはそれに該当するものが見つからなかったのでな。
615 :
一在家 :2009/08/03(月) 10:16:56 ID:vhLlDOFV
>>614 >詳しく述べてもらおうか?
>このスレにはそれに該当するものが見つからなかったのでな。
論敵の有部が説く「去りつつあらものは去る」を龍樹は否定の論理
(破邪の論理)にて矛盾を批判し、「去りつつあらものは去らず」を
証明しました。
「不去」を証明したのと同じ否定の論理を用いて龍樹は、
「不来」、「不一不異」、「不生不滅」を証明していきました。
ここまでは中村元著「龍樹」でも解説済みです。
本スレか前スレでは、机氏より「有部はあて馬」との良いヒントがあり、
否定の論理の応用問題で「不笑不怒」や「不悲不喜」が生じると述べた
次第です。
>>608 ガンジーまで利用するのかよ。最低だな。
ガンジーは他の宗教やトルストイやいろんな人と親しかっただけだろ。
ガンジー自身はバクティズムであって神智学に心酔してたわけじゃない。
なにが心の支えだ。
シュタイナーのリンクをはってるけど、
ちょっと前にシュタイナーは神智学徒ではなく異端であり、
その思想はアーリマン(幻想)でいっぱいですと貶してたのに、
こういう時だけ利用するのかよ。
ほんとに二枚舌だな。最低だよ。
大体、異端とか言ってる時点でカルト的だということに気づけよ。
617 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 11:29:45 ID:Y3z/BBfV
>>608 > カルト、カルト、カルト・・。歴史上、神智学の系譜において社会犯罪が
>いつ起きたか?カルトの意味すらも知らずに・・たくっ。
生来の人格を変容・破壊し、現実や社会常識からの逸脱を生じさせ、その結果
として、家庭を崩壊させるという、「巨大な精神的犯罪」を犯しているではな
いか。どれほど多くの人々が苦しんでいるかを知らないのか。
618 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 11:46:37 ID:mMZKVS9h
619 :
一在家 :2009/08/03(月) 12:03:58 ID:vhLlDOFV
>生来の人格を変容・破壊し、現実や社会常識からの逸脱を生じさせ、 >その結果として、家庭を崩壊させるという、 ここまでは釈尊当時の出家者と似ておりますね。 人格は良い意味で変容・破壊するのが「悟り」だとしてですが。
620 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 13:10:49 ID:Y3z/BBfV
>>619 いい加減にしろ!!
現実と社会常識から逸脱し、家庭を破壊するのは「悟り」などではない。
釈迦がそんなことを教えたのなら、単なるカルト教祖だ。人間界から追放すべき
悪・無明の最たるものに過ぎない。
621 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 13:24:42 ID:Y3z/BBfV
私は、10年ほど前、原始仏教スレで、原始仏教は開祖と原始仏典盲信 のカルトだと喝破したが、どうやら当たっているようだな。 この意味で、原始仏教に嵌った中村元氏や、その他の「東南アジアの宗教」 の信者の責任は大きい。 人間は、オギャーと生まれただけでは人間にはなれない。人間が長い長い 年月をかけて築き上げた、共生の知恵としての社会常識を身につけて、 初めて人間となる。人間の一挙手一投足は、この社会常識によって支配 されている。その意味で、君たちカルト信者は、人間ではない。 宗教などやめて、幼稚園に再入園して、まず人間になることだ。
622 :
一在家 :2009/08/03(月) 13:38:49 ID:vhLlDOFV
親孝行息子や、家族思いの父親が、釈尊やイエスの教えを聞いて、 家出して彼らについていったのではないでしょうか。 「家族、友人の間に剣をさす」というのは聖書にあったような。 また良家の跡継ぎ達が家業を放って釈尊を追っていったような。 多分、釈尊やイエスの教えは当時の常識からは逸脱していたでしょうね。
623 :
析空 :2009/08/03(月) 13:49:14 ID:mjdyAxgV
>>621 カルトの特徴は、自分で考えることを否定し、教典に書かれていることを強制します。
一方、原始仏教は、自分で考えることを強調します。
原始仏教が、カルトではないことは明白です。
624 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 13:51:04 ID:mMZKVS9h
競争に負けてたらイエスは単なる偽メシア、釈迦はヴィシュヌの化身にも させてもらえずに雑魚キャラ扱いだっただろうな。 言い伝えが残りさえしなかったかも。 彼らとその教えは、他宗教との競争を生き抜き 「常識」のポジションを得ることができたわけだ。
625 :
一在家 :2009/08/03(月) 13:55:30 ID:vhLlDOFV
子供の頃「なぜ南無阿弥陀仏と唱えれば救われるのか?」と 親に質問したら、 「難しいことを考えんで、ただ唱えればええ。」と。 実家は大乗の浄土宗だったけど、信仰とはそういう側面も あるようです。 考え過ぎると哲学になりますね。
626 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 14:08:23 ID:mMZKVS9h
>>623 罵倒語としてのけっこう融通の利く用法だから反論も屁でもない。
竜樹含む大乗もバッチリ入っちゃうけど気にしなければ問題じゃない。
自分で考える、つってもその宗教的に進んでほしい方向に誘導している点では
変わりないわけだし。
本人が良いと言う上、家族に実害を与えるわけでないなら文句は言えんな。
627 :
析空 :2009/08/03(月) 14:18:13 ID:mjdyAxgV
>>625 信仰のそういう側面こそカルトの温床ですね。
難しく考える必要はありません。
八正道を歩めば良いのです。
ただし、原始仏教の出家をそのまま日本に持ち込んでもうまくはいきません。
628 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 14:38:22 ID:xP6iPW/9
こら、一在家。 まさにカルトの見本のような詐欺師集団、「まひかり」に入っている、お前が カルト擁護すること自体、笑い話だ。
(広義の)色−即是→空・・彼岸(比喩)への飛翔:無分別智 ↓<自意識の解体と還減的再生> 空ー即是→(広義の)色・・此岸への帰還(還減):無分別の分別智 広義の出家のままでのタコツボオナニーばっかりではあかんねん 娑婆の仁義、渡世の礼節(いわゆる世俗諦)もふまえんとあかん 坐水月道場 修空華万行
630 :
析空 :2009/08/03(月) 15:07:39 ID:mjdyAxgV
>>626 そういう意味でも原始仏教は、他者に強制することは何もありません。
基本は自分自身の心および識をよく調えるという教えです。
631 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 15:12:28 ID:4KJcVdzJ
>>530 それにしては、原始仏教には、キリスト教を初めとするカルトが群がって
くるね。どこかに親和性があるはずだ。それを突き止めることが必要。
日本は、大乗仏教の国。「東南アジアの佛教」は、異質で、必要ないばかり
か、有害。
「東南アジアの佛教」=アビダルマ部派仏教≠原始仏教
633 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 15:46:25 ID:fjkv7LRB
>>621 >私は、10年ほど前、原始仏教スレで、原始仏教は開祖と原始仏典盲信
>のカルトだと喝破したが、どうやら当たっているようだな。
わろた、認識も知識も低いのに自意識だけ高い。流石 2ch!
誤淫嘘ってんだっけ?
634 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 15:48:57 ID:4KJcVdzJ
「心(感情と理性)」は、自然に依存して生命(肉体)を維持するための「手 段」に過ぎない。生命(肉体)がなければ、人間の如何なる営みも在り得ない からだ。 宗教は、「手段」である「心」と、「目的」である生命(肉体)とを転倒して いる。「健全な身体に、完全な精神が宿る」という諺もある。「心」は「肉体」 から生じる。死者には、心はない。順序を間違えてはならない。 心を意識することは、心が既に病んでいる証拠。ひたむきに生きている人間は、 心など意識しない。ひたむきに生きることによって、「手段」としての心が、 既にフルに稼動して、充足しているからだ。 「心の専門家は要らない」という本も出ている。具象や肉体を忘れた「精神性」 は、人間の狂気を招くことを、忘れてはならない。
635 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 16:06:16 ID:4KJcVdzJ
>>633 >認識も知識も低いのに
宗教の認識も知識も、具象から離れた「観念の遊戯」「観念まみれ」。
内容は「空虚そのもの」。
人類は、宗教で生きてきたのではないことに気付け。人間の生きる努力は、
宗教の呪縛から離れて、本来の「生物としての人間」に立ち返ることで
あった。多くの文学作品が、その努力を描いている。
それに、そもそも、宗教の発生は、生存のための「手段」としてであった。
現代における科学の代替品であった。古代人は、生存の手段である宗教を、
生存の「目的」とするという倒錯には陥っていなかった。その倒錯は、
創唱宗教の開祖の精神障害の症状としての「観念過多」から生じたもの
であり、その「精神病理」故に、古代人の宗教の、生物的生存との関係
を断ち切ってしまったのである。
636 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 16:34:41 ID:fjkv7LRB
>>635 小中学生の教科書を信仰してるだよね。誤淫嘘
あと自慢は、英語のおれちゃん文法かw
637 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/03(月) 17:04:51 ID:yrzg6nDh
>>635 >そもそも、宗教の発生は、生存のための「手段」としてであった。
人間は、この世が全て不条理に満ちている。
と、先ず悟るのである。
そしてその答えを理性に求める。
“神”とは、その理性が導きだした究極の理想である。
それは、
>生物的生存
よりも優位にあり、
生命を賭してもでも信念を貫く。
という精神構造を作り上げ、
その駆け引き(神との)において、
また自らも救われる。
という暗黙の了承を得るのである。
638 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 17:21:23 ID:s+jD2Ct5
>>637 御釈迦さんは、そんなアホなことは言っていないと思うがw。
古代人は、その日の食物を手に入れるのに精一杯で、「この世の不条理」など
考えている考えている暇はなない。
どんなに偉い宗教者でも、「食って寝る」ことが先決ですw。
639 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/03(月) 17:51:46 ID:yrzg6nDh
>>638 >御釈迦さんは、そんなアホなことは言っていないと思うがw。
宗教という広義において一般論として書いたのです。
もちろん釈尊の言説には、あまり関係ありませんが、
仏教というのは、つまりは内心の精神分析ですね。
苦集滅道ってのは、原因を探るわけですから。
>どんなに偉い宗教者でも、「食って寝る」ことが先決ですw。
どんな偉い宗教者であっても、宗教に関心を持ったのは何らかしかの原因があるわけでしょ?
最初から「食って寝る」だけなら・・・
そもそも宗教者になってない。
ここでカキコしている御仁達も、なにかしら仏教に御縁があるわけですから、
旧7氏が駒澤出身でも、道元にあまり関心がないのは?
これは大学が中国禅をあまりやらないからですね。
(駒澤も、だんだん京都に傾倒してきたのか?それは分りませんが)
640 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 18:11:06 ID:s+jD2Ct5
>>639 聖書学者の田川建三さんは、「人間とは、食って寝る存在」と喝破
しましたw。こちらのほうが「悟っている」のでは。
駒澤大学は、曹洞宗の大学ですね。テラワダの水野さんが元総長とは
驚き。開祖に執着しないのは、さすが禅宗というべきか。
641 :
一在家 :2009/08/03(月) 18:16:56 ID:aoF/10u5
>>628 >こら、一在家。
>まさにカルトの見本のような詐欺師集団、「まひかり」に入っている、お前が
師の教え、「釈尊やイエスの本当の教えを知るのは原始仏教と原始キリスト教を
調べる必要がある。」と30年以上前に伺ったのが「縁」で数年前から原始仏教
を調べておりました。
その学習結果は現代の仏教徒の認識と異なる箇所も多く、次に誰が釈尊の教えを
替えてしまったのかを数ヶ月前から調べております。
最初は「龍樹」だと仮説を立てましたが、調べていくうちに「龍樹」は釈尊の
教えを言語の論理世界で証明したのであること、現実世界で証明した訳では
ないこと、彼の信者の多くが現実世界でも龍樹が証明したという見解に固執
していることを理解しつつあります。
言語の論理世界で証明した「不生不滅」を「無我」と理解し、更に釈尊は
アートマン、霊魂を否定したとまで誤解したまま信じている仏教徒が意外に多い
ということを認識している次第です。
本スレの住人の多くが「中論」で説かれた龍樹の破邪の論理に関する理解が
深まってきていることを幸いかと存じます。
釈尊の教えには「不笑不怒 不悲不喜」は無いですが、破邪の論理では正しい
ことが証明されるというのが私の見解の拠り所です。
642 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/03(月) 18:28:10 ID:yrzg6nDh
>>640 >聖書学者の田川建三さんは、「人間とは、食って寝る存在」と喝破
これは一休宗純をパクッタもんですね。
>開祖に執着しないのは、さすが禅宗というべきか。
開祖と道元は非常に対象的であります。
頭脳明晰ってのは、神秀・道元ですね。
慧能は無学。
道元は只管打坐であっても、どちらかというと神秀に近い。
つまり日本ナイズ禅であります。
最高学府の駒澤ですから、やはり無学はやりたがらんのだろうね?
(つうか、やると道元の立場がなくなる)
643 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 18:51:16 ID:xP6iPW/9
>>641 だからね
お前は仏教なんか調べるよりは
「ムー大陸」について調べてたほうがいいって。
アートマンあってもいいんだけど、それは勝義諦の話であって それを世俗諦で説明するからおかしなことになるんだよ
高みの目標へ上がる為の方便だろ
>>610 「 縁起に関して無限の規定が可能であるけれど、八つのみを採用する。
何となればこの八つのが主として論争の部分であるが故に 」
プラサンナパダー
「 問うて曰く。諸法は無量なり。(しかるに)何が故ぞただこの八事のみを(論)破するや。
答えて曰く。法は無量なりといえども、略して八事を説かば、則ち総じて一切の法を破すとなす。 」
大正蔵
647 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/03(月) 22:53:05 ID:FjAXr8FV
竜樹の非有非無の中道 生命が有りというのは常住に執著する偏見であり、 生命が無しというのは断滅を執する偏見である。 故に賢者は、生命が有りということと 生命が無しということに執著してはならない。 生命が有るのでもなく、生命が無いのでもない・・・ これが非有非無の中道である。 空の悟りは脳死状態に似ている(~~)
648 :
析空 :2009/08/03(月) 22:57:25 ID:mjdyAxgV
>>642 それ<無学>の使い方が、仏教的では無く、世俗的ですね。
649 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/03(月) 23:02:14 ID:FjAXr8FV
竜樹は縁起の破壊者である。 かれは世界が幻であることを説いている。縁起ではない。 「この生起なるものは妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。」 ・・・竜樹著『大乗についての二十詩句』
650 :
析空 :2009/08/03(月) 23:11:33 ID:mjdyAxgV
>>647 脳死とは何の共通点もありません。
命の存在が、空であることが理解できていないのでしょうか?
心が空であることは理解できていますか?
禅の公案にこんな話があります。
弟子「不安で不安でどうしようもないのです。」
師匠「不安な心が有ると申すのだな?
よろしい、不安を取り除いてやろう。」
弟子「どうすれば不安な心がなくなりますか?」
師匠「その不安な心を、ここに出してみよ。」
弟子「!?」
師匠「どうだ、不安な心は無くなっただろ。」
心は空であるということです。
心が空であると悟ったなら、命が空であることも、解りますよね。
651 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/03(月) 23:23:36 ID:FjAXr8FV
スッタニパータを読んでいると、 竜樹の空・幻では導けないし、実行できそうにない話が次々に出てくる。 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、 この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。(Sn.151) 竜樹はとんでもないカン違いをしている。 こんな竜樹を仰いでいる大乗はなんと不幸な宗教なのだろう。
652 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/03(月) 23:33:45 ID:FjAXr8FV
>>650 スッパニパータ第一章の八<慈しみ>は、<生命>への慈しみです。
生命は空ではないし、かりに生命が空ならこんな話は成立しないのです。
生命を空にしたら落第でしょう。
世尊の思想と、竜樹や大乗とは明らかにちがいますね。
653 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 23:34:47 ID:YY0oQPZl
>>608 「神智学が」ではなく「貴方個人が」です。
この件については、別に術語に拘泥してませんから、「セクト」にでもしますか?
>>610 >龍樹得意の破邪の論理に従い、「不悲不喜」も加えて「十二不」に拡大できます。
「悲しみつつあるものは悲しまず、喜びつつあるものは喜ばず。」
もし原始仏教徒が笑ったり悲しんだり、中観派が怒ったり喜んだら、
現実世界ではこの破邪の論理が通用しないことが証明されますが、皆様の検証の方は如何でしょうか。
一方で「現実世界」と「論理世界」の詳細な説明をスルーしておいて、
他方で「皆様の検証の方は」とやる。
厚顔無恥に自己矛盾するのはカルトの特徴なんでしょうね。独善性を証明するわけですから。
ちなみに、『六十頌如理論』19-20や『大智度論』「鏡の喩」により説明済みです。
「喜怒哀楽」も縁已生法ですから、自性としては生起していません。
これで分からないなら『廻諍論』22の釈を精読して下さい。
>>641 >釈尊はアートマン、霊魂を否定したとまで誤解したまま信じている仏教徒が意外に多い
ということを認識している次第です。
釈尊が、我を肯定したと信じている愚劣なカルトが意外に多いということを認識している次第です。
>本スレの住人の多くが「中論」で説かれた龍樹の破邪の論理に関する理解が
深まってきていることを幸いかと存じます。
…何で上から目線なのですか? 厚顔無恥って恐いですね。
閲覧者からどう見られるか、という反省が全く働いていません。
654 :
神も仏も名無しさん :2009/08/03(月) 23:35:32 ID:YY0oQPZl
655 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/03(月) 23:47:28 ID:FjAXr8FV
竜樹や大乗が生命を空にするなら、脳死状態よりもっと悪く、 もはや死んでいるのかもしれない。 そういった思想は、有り難くもないし、尊くもないし、 なんの役にも立たない(~~)
656 :
析空 :2009/08/04(火) 00:00:10 ID:mjdyAxgV
>>652 命が空である(縁起している)からこそ<慈しみ>が成立するのですよ。
もし、命が「他に依存しないで自立している」なら、<慈しみ>は不要です。
命には、空気や水やさまざまものから縁起しています。
それが命は空ということです。
657 :
析空 :2009/08/04(火) 00:13:03 ID:afafp17l
>>655 そのように感じるなら、明らかに<空>を誤解してますよ。
正しい<空>の認識からは、安らぎがもたらされます。
もし、安らぎがえられないのなら、それは<空>を誤解している証拠です。
命が<縁起している>ということは、了解されているのでしょうか?
658 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 00:39:02 ID:aZ7h7JBN
>>652 >生命を空にしたら落第でしょう。
竜樹のいう「空」とは、「相互依存性・関係性」のことです。「空:を
「無」などと解釈するあなたは落第。
659 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 03:52:38 ID:hyxBkbY1
>>603 >末尾の礼拝偈です。御存知だと思いますが、本偈は『中論』24.18と同趣旨です。
ありがとうございます。同趣旨ですね。縁起・空以外の現象はないですから、
なんでも別名といえば別名とも言えるかもしれません。
>梶山先生の『空入門』p197以下を御覧下さい。
すいません。持ってないのです。
近くの図書館にもないので、手短に教えてくださると助かります。
>>26 章が「小乗だ」は、青目註などに根拠がありますが、それを否定する理由はなんでしょうか?
>
>第一に、上記の『縁起心論』、また、『宝行王正論』1.25以下、『勧戒王頌』109-112、
>『六十頌如理論』10-11等です。
>第二に、『中論』自身が「小乗だ」としているわけではありません。
>第三に、『明句論』も26章の冒頭で、24.18の「縁起」を本章が広説する旨を述べていたと記憶しております。
三つの根拠は、第二以外小乗縁起を否定するものとは思えないのですが、
なぜでしょうか?
◆xQ2N4RcE0E って、ホントになにも判っていないようだね。
>空の悟りは脳死状態に似ている(
>>647 )
>生命は空ではないし(
>>652 ) etc
恥ずかしくもなく、よくこんなことを書くね。
まともに議論して欲しかったら、
もう一度学びなおし、坐り直して、顔洗って出直して恋!
661 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/04(火) 07:34:17 ID:ODViO7Rn
>>648 >それ<無学>の使い方が、仏教的では無く、世俗的ですね。
大学というのは、そもそも学問の府でありますから、
このベクトルで語ちるのであれば、どうしても漸修漸悟に傾倒しやすくなる。
(本来の無学の意と相反する)
正法眼蔵理解においても、それを基礎に学ばねば
開祖から離れていくは必定。
662 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/04(火) 08:37:54 ID:ix3gcR7e
>>616 確かに、ガンジーは神智学の信奉者ではありませんが、彼がまだ19歳だった頃、自国
の誇るべき宗教すら知らない無神論者だった彼にバガヴァッド・ギーターを奨めたのが当
時のイギリス留学中に出会った神智学徒でした。
ガンジーはギーターを読んで深く感銘し、それまでの自国の伝統も知らなかった自分を
強く恥じたのです。これがキッカケとなって神智学協会に足を運ぶようになり、それ以来、
ブラヴァツキー夫人に何度も謁見するようになったのです。
ガンジーにとっては、ブラヴァツキー夫人は尊敬の対象であり、夫人の言葉がガンジーを
励まし、彼の独立運動への強い心の支えとなったのです。ガンジーが座右の著としていた
のがアインシュタイン同様、ブラヴァツキーの大著『シークレット・ドクトリン』だったのです。
また、ガンジーにマハトマの称号を贈ったのは、二代会長のアニー・ベサントであったとい
われています。ベサントはインド国民会議(後に議長にも選任)に出席してインドの独立に
死力しました(ベサントがインド独立で表ざたされないのは彼女がイギリス人であったからと
いわれている)。
安心して下さい。教科書にも載らない歴史の事実です(ガンジー自伝には夫人との謁見
が少しだけ書かれている)。
シュタイナーは神智学からみれば異端派ですが、しかし、元々の彼はドイツ支部を任せら
れた逸材であり、神智学精神を受け継いだ霊的巨人であったことに間違いありません。
彼が最後までキリスト教的世界観から抜け出れなかったのは非常に残念なことですが、
だからといって、彼の思想や行動が間違いだらけということではありません。その業績は多
岐に渡り、天才の名を欲しいままにしたのです。
それは異端である大乗が、それでも仏教精神を受け継いでいるのと一緒です。
663 :
一在家 :2009/08/04(火) 08:39:28 ID:i3hjJMHM
>>610 >龍樹得意の破邪の論理に従い、「不悲不喜」も加えて「十二不」に拡大できます。
>「悲しみつつあるものは悲しまず、喜びつつあるものは喜ばず。」
>もし原始仏教徒が笑ったり悲しんだり、中観派が怒ったり喜んだら、
>現実世界ではこの破邪の論理が通用しないことが証明されますが、
>>653 >…何で上から目線なのですか? 厚顔無恥って恐いですね。
勝義諦ならば本来「不上から目線」、「不厚顔無恥」だから「不怒」になります。
でも現実世界では「上から目線」、「厚顔無恥」だから「怒り」になりますでしょう
から、誠に申し訳ございませんでした。>653氏及び中観派各位
664 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/04(火) 08:39:36 ID:ix3gcR7e
>>609 「オカルト板」はそのような正しい意味としてではなく、
「オカルト映画」のような、単純に怪奇と幽鬼の
スリラーな世界が話題の殆どであり、
非常に不適な場所です。
>>618 >
ttp://teruterulog.jugem.jp/?eid=473 このウェブは偏見的で間違いが多いので推奨できません。
>「人種差別」問題でも批判されてたね。
この前スレ・シリーズでもわかる通り、
仏教の根本思想であるところの業報輪廻が差別に利用されたり、
これが差別思想そのものであるとして批難されているのと同様、
これら、すべては無知からくる仕業です。
>心臓はポンプではないというトンデモ説も説いてるし。
違います。
シュタイナーは、心臓とは単なる血流ポンプに止まる器官ではない、
といいたいのであり、彼の視点からは心臓と松果腺との関係、
またエーテル心臓との関係といったオカルト生理学の理解からよるものなのです。
ttp://steiner.jpn.org/hihan/artindex.html このウェブもまた誤解で書かれています。
665 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/04(火) 08:43:44 ID:ix3gcR7e
>>653 >「神智学が」ではなく「貴方個人が」です。
>この件については、別に術語に拘泥してませんから、「セクト」にでもしますか?
なるほど・・まっ、わたしは何をいわれてもいい。
馬鹿でもアホでも、事実そうなのだからそれはいいです
(旧7氏に繰り返し指摘される通りですよw)。
しかし、「カルト」などという言い掛かりは簡単にするものじゃ〜ないでしょう。
現に、「原始仏教」とか「業報輪廻」というだけでカルトの罵声を浴びせる輩が
このスレには蔓延っているのです。カルトとは反社会性があって、事実上、
犯罪的な活動を伴う団体に限定されるものです。
で、この私の何がカルトだって??
ま〜あなたは誠実なようであるし、
投稿内容も大変真面目で、そして、
とてもよく勉強されているのが分りますから許します。
間もなく、私からの投稿によって
(アートマンはないという意味での)「無我論」も終焉を向かえます。
一神智学徒によってこの議論に決着をみるのです。
まっ、その内容は仏教学による解説ですから、どうか安心下さい。
(投稿は、お盆連休中の予定ですm(__)m)
666 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 08:48:08 ID:IbfJlN/S
>>662 ホントに何度言われてもわからないようですね
神智学の宣伝は他のスレでどうぞ
今まで何回、これを言われましたか?
あなたは記憶力がないのですか?
それとも、ひとが何を言おうとも自己の欲望さえ、満足させられれば良いという
ことなのですか?
667 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/04(火) 08:57:12 ID:ix3gcR7e
>>666 それは、ごめんなさいね!
しかし、安心してくださいな。
私は恐らくあなたの何倍もの仏教についての投稿をしてきました。
そして、お盆中に大量投稿も予定しています(純粋に仏教問題です)。
それと話しの流れというものもあるから・・ご理解下さい。
宣伝などする気は、更々ありません(それは他でやります)。
668 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 09:16:45 ID:IbfJlN/S
いったい、どういう理屈でそうなるのですか? 多くの仏教関連の投稿してるから、神智学の話をしても良いという結論にはならないでしょう? あなたは、いつも自己の論理でものごとを解釈しますね そのような論理が通るなら「良いことを沢山してる人は悪いことをしてもよい」 となってしまいます 「話の流れ」というが、そんなのは誘導して神智学スレでやれば良いこと 少なくとも、このスレは神智学の教義を書くべきスレではありません
>>667 私からもお願いです。もう二度と神智学の内容について書込みしないでください。
今までの書込みが宣伝であるという認識さえもてないのなら、
ここへの投稿もご遠慮ください。
670 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/04(火) 09:30:48 ID:ix3gcR7e
>>668-669 しかし、他の人々は、
聖書やら神からの話題をいきやり始めて、散々と投稿するというのに、
この私には、随分とまた手厳しいですね!
ヤレヤレ..分りました。
では以降〜は、皆さんからも一切、振らないで頂きたい。
もし、何か書かれても完全スルーします。
ご了承願います。
671 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 09:37:23 ID:IZPAjS+d
672 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 10:13:38 ID:IbfJlN/S
>>670 >もし、何か書かれても完全スルーします。
これは、「以後、一切、神智学関連の書き込みは行わない」
という宣言ですね。
了解しました。
自己の言葉に違わぬよう
お願いします。
>>670 聖書やら何やらの話題を投稿する人に、
スレ違いの烙印を押して他スレに誘導していたのは
あなたなのに、今はあなたが同じことをしているのです。
責任感が多少なりともある人であれば、
ヤレヤレなどと言える状況ではないと思います。
どんな投稿でもOKという立場に立って投稿している人と違い、
あなたの場合は「人がやるのはダメだが、自分だけは何してもいい」ということですから、
非常に悪質です。
674 :
暁 :2009/08/04(火) 11:22:49 ID:bfMgjw5p
>>663 在家氏
プラサンガ(相応)を=破邪(帰謬法)と解したら君のように得意満面で恥をさらすこととなる。
龍樹が説くプラサンガとは、同じもの異なるものによって反駁していく反論術を指す。
「言い争う論法」に向けた非難だ。帰謬法の要素はあるが、それだけだけはない。
つまり相手の論証を挫くためだけにあるのではない。勘違いし、やり返したと思い上がる君は
その典型的な例だ。
龍樹が説くプラサンガ論法とは、このような愚かな勘違いで解釈されると、仏教が説く
戯論が断たれることはありえない。仏陀の教えである「言い争わない」という立場にいない
新興崇教の立場ならではの見解だろう。
龍樹のプラサンガとは、論理そのものがもつ限界、論理の整合性を得る手段、哲学体系
が抱える論理的、哲学的問題点を非難をもって示したもの。その実質とは、論理とはいか
にあるべきか、哲学体系はいかに構築すべき、などを教えていると見たほうがよい。
君が勘違いしている「たんなる帰謬論法」とは違うよ。
675 :
一在家 :2009/08/04(火) 11:43:42 ID:m2OcRBDg
>>674 >君が勘違いしている「たんなる帰謬論法」とは違うよ。
『帰謬論法』は解説書に記載されており言葉としては知っておりました。
有部への攻撃が強いので私も帰謬論法かと思いましたが、夏休みにまた
ゆっくりと「中論」を学習致します。
676 :
一在家 :2009/08/04(火) 11:46:16 ID:m2OcRBDg
「去りつつあるものは去らず」は「帰謬論法」とはどこが違うのでしょうか? 「八不」の証明方法は「不去」の証明方法と同じようですが。
677 :
暁 :2009/08/04(火) 12:33:14 ID:bfMgjw5p
>「言い争う論法」に向けた非難だ。帰謬法の要素はあるが、それだけではない。 >つまり相手の論証を挫くためだけにあるのではない。 故に「たんなる帰謬論法」とは違うと述べている。 「たんなる帰謬論法とは違う」がどうやったら 「帰謬論法とは違う」になる? 俺の説明の問題かねコレ?
678 :
暁 :2009/08/04(火) 12:36:14 ID:bfMgjw5p
在家氏 夏休みは読書なんかやめて海行くといいわ (笑)
679 :
一在家 :2009/08/04(火) 13:22:46 ID:m2OcRBDg
>>678 暁氏
そうですね、海へ行く予定はないですが湖に参ります。
(不笑でなく、快笑)
680 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 13:33:47 ID:LJeAVe3A
大乗の信奉する竜樹の<空>は、 その当時の仏教界からは虚無主義を説く異端として排斥されていた。 中観派(空論者)は、古代インドですでに、何となく気味の悪い 破壊的な議論をなす虚無論者であると言われていた。
681 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 13:35:21 ID:LJeAVe3A
竜樹の<空>は虚無である 1 この現実は時間と空間の中に存在する四次元である。 2 しかし竜樹は時間や運動を否定する → 空間だけの三次元になる 3 さらに空間の現象を概念や命題で把握する → 言葉だけの二次元になる 4 言葉の相互依存、縁起によって<空>を仮設する → <空>には内容がない 5 <空>において言語対象がなくなる → 言葉が消えたら虚無・ゼロ次元である
682 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 13:37:40 ID:LJeAVe3A
<空という妄想の解毒剤> ゼロ次元(黒)→二次元・言葉(黒・白)→三次元・空間(天然色)→四次元・時間(透明) こうやって並べれば、言葉の役割や限界が見えてくるし、相関関係と因果関係の位置づけも できるかもしれない。意外にも、相関関係のほうが因果関係よりも格下になっている。
(x,yz,t)→(x,y,z,t)
685 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 14:08:10 ID:LJeAVe3A
>>656 析空氏
>命が空である(縁起している)からこそ<慈しみ>が成立するのですよ。
★ 「からこそ」とつないでも理由になっていない。意味不明。
>もし、命が「他に依存しないで自立している」なら、<慈しみ>は不要です。
★ 「なら、」も意味不明ですね。自立しているか自立してないかは、
空でないのか空であるのかの話であり、<慈しみ>とは無関係でしょう。
>命には、空気や水やさまざまものから縁起しています。
★ 生物は物質の集合だけで成立するわけではない。
>それが命は空ということです。
★ 命が空であることの説明がなされていない。
686 :
一在家 :2009/08/04(火) 14:13:12 ID:2Nk0eLrN
私は前スレで、3次元(x,y,z)に時間tと次元dを加えた5次元を 100階建てのビルで譬えました。 フロアーの違いを次元dの違いとしますと、 存在(x,y,z,t,D1)と存在(x,y,z,t,D2)とは同時空に存在します。 言語の論理世界や物理のモデルだは成立しますが、現実世界での 証明は現時点ではできないでしょう。 次元dを波長と仮定しますと、同じ時空に振動数の異なる「波」が 多重しますので少しは理解し易いかも。
687 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 14:21:12 ID:LJeAVe3A
>>657 析空氏
>命が<縁起している>ということは、了解されているのでしょうか?
生命はどのように縁起しているのでしょうか?
いろいろなものが集合しているから縁起している、では、
何の証明にもなってないことはわかりますよね。
生命が縁起であり、空であることを証明してほしい。
生命は何と相互依存しているのですか。
688 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 14:27:31 ID:LJeAVe3A
>>683 竜樹の空が<虚無>であることを示すためのイメージ。
あまり神経質にならなくていい。
生命が縁起してなければ、生命に関わるありとあらゆることが否定されるんだが・・ 生きる、死ぬ、食べるとか存在しない事になるよ?
690 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 14:42:53 ID:LJeAVe3A
>>686 4次元宇宙が重層的に存在する5次元宇宙の話ではなく、
わたしの流れ図は、現実認識に関係した、素朴な次元論ですかね。
691 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 16:24:44 ID:9RmwE7kp
>>687 >生命は何と相互依存しているのですか。
君が幼稚園児でなければ、自分で考えたらどうかね。
生命は、精子と卵子の相互依存から始まる。生命の維持は、自然界に全依存
する。そして、自然界を知覚・認識するのは、生命の機能である。更に、生命
の維持は、先人を含む無数の他者の生命の機能に依存する。他者の知恵と労苦
なしには、自己の生命は維持できない。他者が自己を認識しなければ、自己は
存在しない。「個は、他との関係においてのみ、存在する。」(縁起・空・関
係性)
692 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 16:55:34 ID:9RmwE7kp
>>687 生命は、酸素がなければ一瞬たりとも維持できない。その酸素は、自然が供給
する。酸素は、肉体の機能により吸入する。その肉体は、無数の原子の関係的
集合により構成されている。酸素自体も、素粒子の関係的集合である。
「相互依存・関係性」ならざるものは、「皆無」である。
693 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 17:21:31 ID:mfNEpWhL
>>659 >>梶山先生の『空入門』p197以下を御覧下さい。
>すいません。持ってないのです。近くの図書館にもないので、手短に教えてくださると助かります。
『十地経』第六地に『縁起心論』第一−六詩節に符合する文章があります(『空入門』p197)。
>三つの根拠は、第二以外小乗縁起を否定するものとは思えないのですが、なぜでしょうか?
それでは、十二支縁起即ち「小乗縁起」とする根拠は何なのでしょうか?
例えば、ナーガールジュナやチャンドラキールティが依拠した、
『十地経』第六地で詳細に十二支縁起を説いていますから、
十二支縁起即ち「小乗だ」というのは根拠がありません。
694 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 17:27:55 ID:mfNEpWhL
>>665 >で、この私の何がカルトだって??
例えば、
>間もなく、私からの投稿によって(アートマンはないという意味での)
>「無我論」も終焉を向かえます。一神智学徒によってこの議論に決着をみるのです。
>まっ、その内容は仏教学による解説ですから、どうか安心下さい。
>(投稿は、お盆連休中の予定ですm(__)m)」
とか言い出すからです。
ただし、繰り返しますが術語に拘ってません。
>>674 >帰謬論証
もっと手前のレヴェルに問題があると思うのですが。
695 :
一在家 :2009/08/04(火) 18:01:01 ID:2Nk0eLrN
現実世界では、「人は去る」。人(主体)+去る(作用)で問題なし。 多分、論敵の有部が「去りつつあるものは去る」と主張したのかも。 たんなる帰謬論法?で否定され、「去りつつあるものは去らず」と 証明されました。言語の論理世界での話しですが。 同様に現実世界では、「人は生まれる」。人(主体)+生まれる(作用) で問題なし。 「不去」、「不生」は言語の論理世界での話しでしょう。 たんなる帰謬論法と龍樹の論理の違いを夏休みの宿題とする予定です。 「不去」の証明⇔「八不」の証明⇔「縁起」の証明は、相互依存して おりますから、シンプルでかつ本質的な命題だと直感致します。 中観派以外の方々のご見解も宜しく。
696 :
一在家 :2009/08/04(火) 18:07:50 ID:2Nk0eLrN
大乗とは凡夫を救う目的で説かれたと理解しておりましたが、 「去りつつあるものは去らず」と理解できる女子高生が 100人の内に何人いるのか疑問です。 「中論」が上座部の第一義であれば、ある程度納得もできるの ですが。
697 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 18:07:51 ID:dRF6apFP
>>691-692 ご隠居は、縁起や空を忘れ、生命本能教にお戻りください。
そのほうが論旨が一貫し明快である。
698 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 18:08:19 ID:mfNEpWhL
>>695 だから、貴方の仰る「現実世界」「論理世界」とは何なのですか?
…と何度も聞いているのですが。
もちろん、ナーガールジュナが主題なのだから、きちんと、
ナーガールジュナの文脈で説明して下さい。
この状態では、貴方が恣意的に定義可能なのですから、
まともな話にならないのですよ。分かりませんか?
699 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 18:15:57 ID:dRF6apFP
700 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 18:23:46 ID:dRF6apFP
>>698 あまり拘らないほうがいい。拘らないのが悟りである。
この程度の意味なら、国語辞書を引けばいいだけの話だと思う(~~)
701 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 18:29:25 ID:dRF6apFP
空論者が尊大で横柄で傲慢になる理由 ・・・チャンスがあれば、やりたい放題、言いたい放題 1 いっさいを空とし、自分が世界の支配者になったつもりになる。 2 いっさいを空にするから、その人を押さえつけるものがない。 3 そうでなくても、知らず知らずのうちに唯我独尊になる。
702 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/04(火) 18:32:31 ID:ODViO7Rn
>>696 >「去りつつあるものは去らず」と理解できる女子高生が
>100人の内に何人いるのか疑問です。
拙者は女子高生ではありませんけど、
簡単に説明してみます。
つまり最初の「去りつつ」ってのがそもそも論理矛盾があるのです。
それを「去らず」で否定!!
極端な話、言語ってのはそのものが論理矛盾において成り立つ。
って理解してくれたらいい。
縁起ってのも論理矛盾がある。
だから仮和合であって仮設であるわけです。
縁起即非であります。
こういうのは駒澤より京都が得意とする分野でして、
それはそれ、やはり仏教はリベラルな学風が合っているんでしょう。
中国で仏教が育っていったのは、やはり民族性よりも風土・気候がその因でしょうね。
703 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 18:42:15 ID:dRF6apFP
スッタニパータ116 怒りやすくて恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、 誤った見解を奉じ、たくらみのある人、 かれを賎しい人であると知れ。 こういった話は、竜樹の空や幻からは出てこない。 世尊と竜樹が異なる証拠である。
704 :
一在家 :2009/08/04(火) 18:42:15 ID:i3hjJMHM
>>702 机氏
>極端な話、言語ってのはそのものが論理矛盾において成り立つ。
>って理解してくれたらいい。
>縁起ってのも論理矛盾がある。
>だから仮和合であって仮設であるわけです。
>縁起即非であります。
何かすごく高尚な話を聞いたと直感致します。
この話の「縁起即非」の意味が分るようにまた学習致します。
有難うございます。
705 :
析空 :2009/08/04(火) 18:44:31 ID:afafp17l
>>685 >>687 命は物質だけの集合ではありません。
ここは共通認識ですね。
では命は、さまざまな<もの>の集合体であるということは了解いただけていますか?
仏教では、色、受、想、行、識の五蘊であると説明しています。
706 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 19:01:34 ID:dRF6apFP
>>705 物質の集合体のことではなく、
生命が具体的に何と相互依存の関係にあるのかを聞いているのです。
なぜなら「あれがあるからこれがある」が縁起だからです。
具体的な関係で縁起が生じるからです。
仏陀だろうが、竜樹だろうが、 言いたい事は、「あれがあるときこれがない」で 「あれがあるときこれがある」では無い。 いつまで外に向いて求めるつもりか。
訂正:言いたい事は、「あれがあるときこれがない」で>言いたい事は、「あれがないときこれがない」で
709 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/04(火) 19:24:09 ID:dRF6apFP
縁起の定義 1句 これがあるとき、かれがあり 2句 これが生ずることから、かれが生じ 3句 これがないとき、かれなく 4句 これが滅することから、かれが滅する
710 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:27:34 ID:1HcpdhRY
>>697 反論せずに逃げてはいけない。
たとえ相手が隠居であっても。
711 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:34:50 ID:Tw7K/J9d
>>709 >1句 これがあるとき、かれがあり
>2句 これが生ずることから、かれが生じ
>3句 これがないとき、かれなく
>4句 これが滅することから、かれが滅する
すでに指摘したように、この命題は、単なる「因果関係」と「誤解」される
恐れがある。「因」と「果」に実体性があれば、空はもはや成立しない。
しかし、「これ」も「あれ」も代名詞であり、いかなる「名詞」も代入する
ことが出来、また、「これ」と「あれ」とは、相互に置換可能である。ここ
に初めて、「縁起・空(相互依存性・関係性)」が成立する。そのことを「解明」
したのが、竜樹である。
「縁起・空」と「因果関係」とを混同してはならない。
712 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:40:32 ID:1HcpdhRY
>>706 隠居が出した酸素の摂取は、精子と卵子の例はこの上なく具体的な関係だな。
これが「あれがあるからこれがある」に見えないなら、
受精なしで人間が生まれ、酸素をとらずに生きているとみなしてることになるが。
713 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:46:43 ID:Tw7K/J9d
>>795 >命は物質だけの集合ではありません。
生命そのものは、生命を以っては認識不能であり、その意味で形而上
的概念あり、肉体という具象物を通してしか認識できないものである
から、物質以外の「想念」を混入すると、話がややこしくなる。
「想念」は初めから空なのだから、空の定義に含ませることは無意味
だと思う。
714 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:50:55 ID:1HcpdhRY
物質の集合体といっても何の原因もなくポンとあるわけではなく、 生命の場合、外から養分とってそれが血肉になっていくという 「あれがあるからこれがある」がある。
仮に生命が縁起しないのであれば、生命は何から生まれたのであろうか?
716 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 19:57:51 ID:Tw7K/J9d
>>712 酸素の摂取や精子と卵子の例は、あくまで「相互依存性・関係性」の
一部。「これがあるからあれがある」から、「万物の相互依存性・関係
性」を導き出すだめには、竜樹による「飛躍」が必要であった。事実、
その命題を、単なる「因果関係」だと「誤解」している者も多いのである。
717 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:03:31 ID:1HcpdhRY
◆xQ2N4RcE0E が「相互」依存じゃない、と言うのは 仮に隠居が存在しなくても(受精とか)元になった精子と卵子が存在 しなくなることを意味しない、ということなのかもしれないな。
718 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:04:09 ID:Tw7K/J9d
>>715 生命を以って「生命そのもの」を知ることはできない。思考主題と思考
対象とが同一であるから、思考は初めから成立せず、ナンセンスだから
である。知りうるのは、生命の機能として外部に現われた「生命現象」
のみである。
719 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:06:36 ID:Tw7K/J9d
720 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:11:55 ID:Tw7K/J9d
イエスは、「敵を愛せよ」と「敵」という概念を作り上げたが、「相互 依存性・関係性」では、「敵」という概念が消滅する。「敵」も自己と 相互依存し、敵と自己とは一体だからである。 このことが、キリスト教とは異なり、佛教が人を殺さなかった原因である。
721 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:24:29 ID:Tw7K/J9d
イエスが、「敵」という「憎悪と敵意のの対象」をまず作り上げておい て、「愛せよ」などと命令されたら、「敵なのに愛さなければならない」 という葛藤と精神の分裂状態が生じ、却って、「敵」に対する激しい憎悪 と殺意さえ生じてしまう。 イエスは、「お互いに依存しあって生きている人間だから、本当の敵など いない」と教えるべきであった。
722 :
一在家 :2009/08/04(火) 20:25:15 ID:i3hjJMHM
女子高生に生命は「不生」、生命は「不滅」と言ったらどうだろうか? 妊婦さんに生命は「不生」なんて言ったら、大変なことになりそうです。 言語で記述された世界では証明された論理が、五感で感じる日常の世界では 違和感があるようです。
723 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:31:03 ID:Tw7K/J9d
>>722 「不生不滅」が、「相互依存性・関係性」であることを理解している者
は、そんなアホなことは言わない。
724 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:34:35 ID:hyxBkbY1
>>693 >『十地経』第六地に『縁起心論』第一−六詩節に符合する文章があります(『空入門』p197)。
ありがとうございます。確認してみます。
>それでは、十二支縁起即ち「小乗縁起」とする根拠は何なのでしょうか?
無畏註、青目註、仏護註です。
>例えば、ナーガールジュナやチャンドラキールティが依拠した、
>『十地経』第六地で詳細に十二支縁起を説いていますから、
>十二支縁起即ち「小乗だ」というのは根拠がありません。
私は十二支縁起だから声聞の縁起だとは思いませんですが、
26章は、それまでの不生の縁起とは違うと思います。
725 :
旧7 :2009/08/04(火) 20:35:57 ID:1y0n9SpN
だからな・・・w (^^; 世俗と勝義ってのは、 _, ,_ ( ゚∀゚) ( つ旦0 と__)__) コレを、湯呑を持って正座する人物像と見るか、記号・文字の集積と見るかの違いでしかない。 そして重要なのは、「どちらかしかない(どちらかでしかない)」、という偏った見方にならないことだ。 机も、隠居も、EOEも、どちらか一方しか見えていない。 とんだ視野狭窄ってこった。 さて・・・、龍樹はどうなんだろうな・・?w
726 :
一在家 :2009/08/04(火) 20:37:07 ID:i3hjJMHM
>>720 >このことが、キリスト教とは異なり、佛教が人を殺さなかった原因である。
キリスト教と仏教にも相互依存性があり、仏教徒はキリスト教徒と争わない
ということを釈尊は説かれたのでしょうか。
727 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:42:37 ID:i3hjJMHM
>>コレを、湯呑を持って正座する人物像と見るか、記号・文字の集積と見るかの違いでしかない。 湯呑を持って正座する人物像と見えます。 絵が上手ですね。いつも感心して拝見しております。
728 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:45:10 ID:Tw7K/J9d
>>726 「人間」としての「キリスト教徒」と「仏教徒」とが相互依存であり、
争うべきでないことは、当然であろう。問題は、イエス(パウロ)が
人為によって「人間を変容させた」ことである。
729 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 20:54:00 ID:gNljsFHW
730 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 21:00:33 ID:Tw7K/J9d
>>728 の「人為」とは、「神」という人為のことである。「神」は、人間
の百人百様の「観念」「空想」だから、「人為」の典型である。
731 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 21:12:21 ID:Tw7K/J9d
>>715 >世俗と勝義ってのは、
御釈迦さんは、本当に世俗と勝義とを区別したのですか。この世は
人間界だから、世俗によって証明できない勝義などは、単なる妄想
にしか過ぎないのだが。
竜樹は、「世俗的なことにもとづかなければ、第一義は説示され得ない」
とちゃんと言っていますね。
732 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 21:20:13 ID:Tw7K/J9d
>>731 は、
>>725 へのレスでした。
続いて竜樹は、「しかも第一義に到達せずしては、涅槃は証得されない」
と言っている。従って、世俗にもとづいて説示できない涅槃は、妄想に
過ぎないことになる。
733 :
旧7 :2009/08/04(火) 21:49:13 ID:1y0n9SpN
>>731 >世俗と勝義とを区別したのですか
ならば、仏典に頻出する「世間/出世間」という言い方でもいい。
ただ、そうすると「(生活様式まで含めた)“具体的在り様”」も含意してしまうので、
「ものの見方、視線」という意味を尖鋭化させようとすると、やはり「世俗(義)/勝義」という言い方になる。
そして、(現存上座部・現存パーリがアビダルマの系譜だとしても)、
この区別・分別なくしては、「行」もないだろうし「その果」もないだろうし、
ましてや解脱、涅槃なぞあり得ないだろう。(だから、現代日本仏教は問題となる・・。)
そして、この区別を排し「世俗と勝義を一体化・一元化する流れ」は大乗の中に確かにある。
(寧ろ現代日本仏教はその系譜であるとも言えるかもしれない・・・。)
成道時、「この法は見難い・・」、と言われた意味を、よく吟味してみることだ。
龍樹がどうなのかは私は知らない。
734 :
析空 :2009/08/04(火) 22:01:25 ID:afafp17l
>>706 生命は五蘊の化和合です。一切は五蘊の化和合です。宇宙は五蘊の化和合です。
生命、宇宙が五蘊の化和合であるということは了解いただけてますか?
735 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 22:51:02 ID:tves/ppC
>>734 そう言ったほうがよいですね。すべては、生命の機能としての化和合。そして、
生命も化和合。それが「空」ですね。
736 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 22:57:21 ID:tves/ppC
>>733 世俗を離れた勝義が、証明不可能な妄想であることには、変わりない。
737 :
旧7 :2009/08/04(火) 23:04:41 ID:1y0n9SpN
>>736 だからwww
乖離させてるのは、机・御隠居・EOEの御三方だっつーのw
738 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 23:09:32 ID:0RviACUY
リアリティは証明不可能なんだよ。 どうやって「この今」がまさに「この今」であることを証明できるんだ? どんな科学理論でも時間上の「この今」を特定できないだろ。 しかし、どんな理論にも何にも頼らずに「この今」を特定できてしまう。
739 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 23:12:44 ID:0RviACUY
龍樹はおそらく、リアリティは言葉で説明できない、ということを言葉で説明したんだろう。
740 :
神も仏も名無しさん :2009/08/04(火) 23:30:10 ID:tves/ppC
>>737 御釈迦さんも、大分、乖離されているようですな。それとも、原始仏教信者が、
御釈迦さんを妄想患者扱いしているのか。
>>739 竜樹は、リアリティそのものだと思うよ。
741 :
旧7 :2009/08/04(火) 23:53:43 ID:1y0n9SpN
>>740 まったく・・・w
それは貴方(だけ)の印象でしょう?w
もし、貴方方のような質問(や意見)を、授業中なり授業後なり登下校中なりにしたとして、
片山さんなら何と言うか・・・。
「経典を読んでください。 (´∀`) ニッコリ 」の一言かもしれんな・・・w
おやすみ ノシ
742 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 00:00:48 ID:RGZirPzz
>>741 片山先生は、経典に頼らないで、自分の言葉では答えられないのですかねw。
743 :
旧7 :2009/08/05(水) 01:01:44 ID:XbclRIb2
誰も関わりたくない流れのようだな。しかたない。
明日の晩にしようかと思ったが、書き込んどくか・・。
>>742 皮肉の通じん奴だなw
老婆親切でマジ補足しとくと、
片山さんは、「自説を喧伝する前に、経典(伝統解釈)の把握を確かなものにする」スタンスだったのだろうよ。
≪一通り伝統解釈を押さえた上で、「さて、(俺は)どうする?」≫
というね・・。
(また、個人の見解は、プライベートでしか述べないかもしれん。訳出が一区切りすれば、小論等で為されるかもしれないが、
彼の、“公の”、学問的仕事は(彼が自らに課している作業としては、現存上座部の伝統を日本語で明らかにすることであろうから・・・。)
仏典を読めていないのに自説をひけらかす不遜や愚を畏れたんじゃないか?w
(っていうか、学生の質問なら『読んでる量の少なさ(→一部を見て、短絡的に、或る結論・推測へと流れる姿勢)
を指摘し戒める意味でも、あの発言にならざるを得ないかもしれんが・・・。)
とりあえず、遺された言葉を押さえ、理解することを第一段階・入口としている、とは言えるだろう。
ま、いすれにしろ、仏典を普通に読んでいれば、釈尊のスタンスは、見えるし理解できる筈だがな・・・。
741は、その意味での「お前、仏典読んでないだろ?w」というレスだよw
744 :
旧7 :2009/08/05(水) 01:03:58 ID:XbclRIb2
)の場所がズレたが、まあいいかw ノシ
745 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/05(水) 07:20:55 ID:UuSiQorm
>>725 旧7氏どの、お久ぶりです。
暑中お見舞い申し上げます。
>コレを、湯呑を持って正座する人物像と見るか、記号・文字の集積と見るかの違いでしかない。
この書込みについて後説明させて頂きます。
「人物像」と見ても「記号・文字の集積」と見てもなんら「見る」ことに差異はない。
つまり双方とも対象化させた見方であって、これを世俗諦と言うんであります。
>そして重要なのは、「どちらかしかない(どちらかでしかない)」、という偏った見方にならないことだ。
どう偏ったとしても、どう偏らないにしても、それは世俗諦より脱却しているわけではない。
>机も、隠居も、EOEも、どちらか一方しか見えていない。
色即是空であります。
どうか、このように調ふてくださいまし。
>さて・・・、龍樹はどうなんだろうな・・?w
龍樹は、中論を拝する限りにおいては調ふておるよぉですよぉ〜〜〜(*^^)v
746 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 09:21:42 ID:16pC4GQ2
>>743 >仏典を読めていないのに自説をひけらかす不遜や愚を畏れたんじゃないか?w
根拠も定かでない大昔の仏典を、初めから有難がって無批判に読むのは、全く
無意味。学者の資格はなく、単なる開祖と仏典の「言葉」盲信の、原始仏教信
者に過ぎない。
日本は大乗仏教の国にあり、東南アジアではない。
原始仏教は、開祖と経典盲信のカルトに過ぎなくなってしまう。「佛教学部」
の名前が泣くよ。
747 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 10:34:48 ID:778CicyE
>>746 君のようなものは唯の思い込みによる妄言であって、
学問と名の付く方法で君のようなことをするものは、
ギリシャ、ローマ、アラビヤ、インド、中国、日本、
ヨーロッパ、アメリカにはどんな時代にも存在しないことは確信できる。
なんの根拠も示さない思い込みの声高な繰り返しに過ぎないからだ。
いつもながら、オモロイというか幼稚だな君は
748 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 11:39:10 ID:k/mxEQVH
東南アジアの人も、例えば日蓮宗のことを学ぼうとすれば日蓮の著書を読むだろうし、 浄土真宗のことを学ぼうとすれば親鸞の著書を読むだろう ○○国は上座部仏教の国にあり、日本ではない。 などと謎の言い訳はしないだろう。 人類みな兄弟だし外国人にも中には隠居みたいなのがいるだろうけど。
749 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 12:16:15 ID:778CicyE
何かについて言うためにはその対象・意味・内容を知らないと何も言えない。 それを知ることをなにもせずに何か言うのは、ただのドキュン、盲信者。 新聞とかニュースで、事件の噂だけで語ったならどうなるだろうか? 事件を知るためには先ず現場に行って見聞きする。 それが出来なければ信頼できる通信社などを根拠として伝聞を読む。 仏教も同じこと。 仏教を知るためには先ず現場に行って聞いて修行する。 それが出来なければ信頼できる経典などを根拠として伝聞と読む。
750 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 12:58:01 ID:ItuHfFVj
>>749 >仏教を知るためには先ず現場に行って聞いて修行する。
仏教の現場は「いま・ここ」すなわち「自己」にある。
どこへ行っても行かなくても自己はついてくる。
751 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 13:46:02 ID:778CicyE
>>751 それを探して仏性まで磨き上げて涅槃に至るってのが仏教だぜ。
753 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 14:41:18 ID:778CicyE
>>752 仏教は、まず覚った仏の教えですね。
その教えを伝える聖者から教えを聞かないと、
どう探すか分からない。
次に「自己」言い習わしとしての「自己」は用いるが、
「自己」がない無我が仏教。
いいかたとして「自己を明らむる」とか「自己を探求する」といってもいいが、
アートマンはないぜ! 仏性もアートマンではない。
754 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 15:54:57 ID:Z42xQmzs
自己がないのだから、「自己を磨く」という修行も無意味だし、勿論、涅槃 もない。
755 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 16:04:55 ID:Z42xQmzs
>>747 学問とは、対象に対する批判がなければならない。批判がなければ、
進歩もない。
対象の一字一句を有難がり、それに対する批判と自分の見解が出せない
のでは、そもそも学問とは言えない。
756 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 16:24:54 ID:Z42xQmzs
日本の歴史も文化も、大乗仏教と共に育った。特に、禅宗の影響が大きい。 大乗仏教と小乗仏教とは、明らかに異質。大乗を排除して、わざわざ 、異質な小乗を持ち込もうとする意図は、一体何か。それが、開祖と 原始仏典の盲信、偶像崇拝に基づくものなら、それは忌むべき開祖の 「神格化」と「原理主義」ではないのか。
test
ああああ
759 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 16:53:58 ID:778CicyE
>>754 「自己」と言い習わされ名指しされるものが無常であり、無我であり、空であることを
体得し馴らしていくのが修行で、完全に体得できた状態がネハンに他ならない。
この習慣に基づく名指し記号としての言葉「自己」して縁起するものが、
実在すると思う根本的習慣・認識機能が無明に他ならない。
それを知らずに実在論の立場に立って、自分の思い込みを正当化するための
ダシに仏教を使って他人から認められたいという君の欲望はミミッチイ、
ちっちぇなあ、オイ!
760 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 17:53:05 ID:chZ7SomU
>>725 茶坊主のたとえは、旧7が空見論者であったことを暴露している。
どちらも世俗諦という机氏の批判が正しいと思う。
761 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 17:56:40 ID:chZ7SomU
>>734 析空氏
>生命は五蘊の化和合です。一切は五蘊の化和合です。宇宙は五蘊の化和合です。
>生命、宇宙が五蘊の化和合であるということは了解いただけてますか?
まず仮和合とか化和合とかを説明してください。話はそれからかも。
762 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 17:58:02 ID:YixZqzWz
>>753-754 なんか一言で言って混乱させてしまってすまん。
無我を主張するのが仏教だぜ。
けど、誰でも自我があるから思ったり感じたりしてんのが「自己」だと思ってんだぜ。
で、そんなもんは五蘊がつくった幻想だぜ、ってわかったら無我がわかるんだぜ。
アートマンは別にあってもいいんだぜ。アートマンを見つけても、
それすら幻想なんだとわかればいいんだぜ。アートマンも仏性も知覚する必要すらない。
知覚すれば幻想になるからだぜ。
あと、「自己を磨く」という修行が無意味かどうか俺は知らないぜ。
もちろん涅槃もしらねえぜ。まだ見てないしな。
仏教って宝探しするトレジャーハントみたいじゃね?
何が見つかるかわからんし、宝が本当にあるのかもわからん。
でもワクワクして進む。チョー刺激的だぜ!
763 :
一在家 :2009/08/05(水) 18:09:40 ID:R9KQqj14
アートマンは五蘊の構成要素ではない。 「アートマンは五蘊にあらず」。 またアートマンは五蘊の相(さま、見え方)を得ず。 いつからあるか分らないから「不生不滅」。 「恒常」か「進化・成長」かも分らず。 中論に記載のアートマンは外教で説かれる「魂」と ほとんど決定的な差がないかと存じます。 そのアートマンがカルマを蓄積する存在という説も 仏教解説(水野氏、他)の中にあります。 深い瞑想にて、通常の五感・感受・意識・認識が消えて いった聖者だけにはアートマンが異常な感覚で感知 できるのではないかと推測します。 この異常な感覚が普段はファイブセンスの妨害でマスク されていたシックスセンスなのかも。
764 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 18:15:45 ID:KYhf0R2C
と、まひかりでは教えてるの?
765 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 18:20:25 ID:chZ7SomU
話が食い違うのは、縁起の理解が混乱しているからではないか。 縁起をもう少し明らかにしないと徒労に終わりそう。 たとえば、近くにトラがいた時、このトラは空だろうか。幻だろうか。 だれもそんなバカなことは思わない。戦うか逃げる。 これに対して、人生を幸せにするために、有名な学校に行き、有名な会社に入り、 会社での立身出世に努力する。これが生きている意味だと思いこむ。 この思いや努力は、空や幻に近いのではないか。
766 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 18:34:00 ID:U/LR7FdQ
日本で虎と戦うことが幻で 学業や仕事に励む方がリアルですが。 ニート?
767 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 18:37:15 ID:chZ7SomU
身近にいる犬や猫、リンゴやバナナを、空や幻と思っても無意味だろう。 そうではなく、たとえば、ほんのわずかなことで人殺しをしそうな 犯罪予備軍の思いを、空・幻と説いて吹き消してしまう。 これが縁起ではないだろうか。
768 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 18:41:44 ID:KYhf0R2C
縁起に価値判断など関係ない
769 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 18:53:49 ID:kdlsKuVa
>>767 縁起・空が「幻」だなどと、一体どこの誰から教わったのかね。竜樹の
いう「空」とは、厳然として実在するこの現実界の構成原理のことである。
彼は、現実に肉薄して、この原理を見出したのである。
770 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 18:56:37 ID:kdlsKuVa
>>763 >中論に記載のアートマンは外教で説かれる「魂」と
>ほとんど決定的な差がないかと存じます。
「魂(精神、感情と理性)」は、肉体と相互依存する。従って、いずれも
「空」である。
771 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 19:00:55 ID:chZ7SomU
意味もなく目的もなく、 この現実を空だとか幻だとか思うなら正真正銘のバカだろう(~~)
772 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:02:29 ID:kdlsKuVa
>>771 「空」を「幻」などと誤解しているお前が、一番のバカ。
773 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 19:07:31 ID:chZ7SomU
>>769 そうであるなら空を具体的に説明すべきだろう。
説明できないなら、空は幻術師の幻・蜃気楼に他ならない。
774 :
一在家 :2009/08/05(水) 19:10:01 ID:K38OnWOn
>>770 >「魂(精神、感情と理性)」は、肉体と相互依存する。
>従って、いずれも「空」である。
魂の成長には五蘊(肉体含む)からの経験も関係するという意味では
相互依存するというので宜しいかと存じます。
相互依存を貴兄らが「空」と定義するのであれば異論はないでしょう。
775 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:12:54 ID:kdlsKuVa
>>773 お前の頭で竜樹を理解できないのは、無理もないようだな。
物質とその分子、原子との関係は、高校時代に教わっただろ。
776 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 19:23:42 ID:chZ7SomU
単なる関係性を縁起とは言わない。 なぜなら、それだけでは空、幻にならないからである。
777 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:25:26 ID:kdlsKuVa
>>774 「大乗仏教の最初の偉大な哲学者はナーガルジュナ(竜樹。約150−
250年頃)であり、かれは多数の書を著したが、そのうちでも『中論』
は最も有名なものである。この書は、中道、縁起、空のことわりを明かす
ものであることを標榜している。この書で「縁起」または「空」という
のは、ありとあらゆるものが相互依存によって相互に限定されて成立して
いるのであり、それ自体の常住不変な本体なるものは存在しないという
意味である。したがっていかなるものも絶対に有であるともいえないし、
また絶対に無であるともいえないので、非有非無の中道の理が成立する
という。空とは非有非無のことであると解せられている。」(「大乗仏典」
筑摩書房発行の「中論の頌」についての、中村元氏による解説。)
778 :
析空 :2009/08/05(水) 19:30:13 ID:ZjeWSGsK
>>761 仮和合とは、五蘊が和合して、仮設されたという意味です。
和合とは、集まりという意味です。
仮設とは、出来上がっているという意味です。
779 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:36:05 ID:kdlsKuVa
>>776 原子の関係的集合で構成されている、君の目の前のPCは、君にとっては
「幻」なのかw。君は、「幻のPC」で書き込んでいるのかねw。はやく
「幻」から目覚めてくれ。
780 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 19:47:28 ID:chZ7SomU
>>778 ではその仮和合が生命とどう相互依存しているのですか。
781 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:50:54 ID:kdlsKuVa
>>780 横レスだが、代わって答えると、「五蘊は、生命の機能で、生命から
発生する。その生命は、五蘊がなければ、維持できない」。よって、
「相互依存」。
782 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:53:08 ID:KYhf0R2C
まぁ、無理だと思うぞ。 このEOEって奴は、神様がいて、この世界は神様によって作られたと固く信じこんでいる奴だぜ。 そんな奴にいくら「空」を説明しても理解できるわけなかろう。
783 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 19:56:50 ID:chZ7SomU
>>779 だから機械的な単なる関係性は空でもないし幻でもない。
近くにいるトラは空でもないし幻でもない。
784 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 19:57:36 ID:kdlsKuVa
>>782 彼が、どうしても神様がいて「欲しければ」、神様は、相互依存として
この世界を作った。その神様も、人間が空想しなければ、存在しないの
だから、神様も人間との相互依存。
785 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:03:25 ID:KYhf0R2C
>>784 残念ながら、EOEはその認識は絶対に受け入れないぜ。
こいつが、欲しいのは「全知全能の絶対的な神様」だ。
786 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 20:03:29 ID:chZ7SomU
>>781 そんな屁理屈なら、車とガソリンは相互依存していて空になる。
もっと深く、縁起や空について考えてほしいものである。
787 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:04:46 ID:kdlsKuVa
>>783 当たり前だ。トラは、恐ろしい実在だが、やはり原子の関係的集合。
君の彼女の豊満な肉体も、原子の関係的集合。したがって、いずれも
自性はなく、空である。
788 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 20:07:14 ID:chZ7SomU
粘着君の登場か
789 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:10:13 ID:kdlsKuVa
>>786 車は、ガソリンがなければ走らない。ガソリンは、車がなければ車を
走らせられない。従って相互依存。
深いも浅いもない。単純な、しかし最も普遍的な真理である。「真理は、
単純である」。
790 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 20:14:46 ID:chZ7SomU
>>789 だからー そういった関係性はまったく無意味なのですね(~~)
縁起・空はもともと煩悩の消滅が目的。
791 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:16:37 ID:kdlsKuVa
>>790 君の彼女の肉体が原子の関係的集合と悟れば、君の煩悩も消滅するw。
792 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:24:59 ID:ik+8Vjfp
「事物の相互依存=空」という説(事物の素朴実在論)は怪しい。 事物が相互依存しているというより、相互依存という枠組みでしか事物を事物として知的に理解できないという点が、より本質的だと思う。 つまり、知的理解の枠組み(限界)を示すことで、知的理解を超えた領域を示しているのではないか、「空」は。 この点を押さえないと、「事物の相互依存=空」の単なる知的理解が悟りだなどという誤解が生じる。
793 :
ナス好き :2009/08/05(水) 20:26:20 ID:J4lChizz
ナス神様を信じなさい。 そうすれば27年後みんな助けられるだろう。
794 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:32:25 ID:kdlsKuVa
>>792 竜樹は、そんなこ妄想は語っていない。彼は、あくまで、現象界(色)の本質
を追求した。
人間の認識能力の範囲を超える存在は、人間にとって初めから「無」であり、
人間には関係ないもの。
795 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 20:35:31 ID:chZ7SomU
だれでも煩悩が簡単に消滅するものでないことを知っている。 食欲と性欲という二大本能は簡単にコントロールできるものではない。 二十代や三十代なら、空や幻などで片付けられるものではない。 竜樹の説く空や幻ぐらいで、煩悩の激流を乗り越えられるわけがない。 かって生命本能教を説く方がこの板にいた。 今思えば、本能を見据えた、この方の主張はまったくの正論だった。
796 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:39:44 ID:kdlsKuVa
>>795 だから、「修行しよう」「修行しよう」なんだろw。
仏教では輪廻転生を認めるみたいだけど、これって認識範囲を超えてるんじゃないの?
798 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:44:48 ID:kdlsKuVa
>>797 だから、輪廻転生は、バラモン教からの過渡期的概念で、誤り。
今時、輪廻転生など大真面目に説くお坊さんはいないのではないか。檀家から
馬鹿にされるだけ。
799 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:47:20 ID:NAnEtzm3
日本の仏教界は唯物論者の最後の砦である。(もうすぐ終了予定)
800 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:48:32 ID:ik+8Vjfp
>>794 「悟り」や「涅槃」は、知的(言語的)な理解を超えた別種の理解(覚醒)を語っていると思うね。
801 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 20:49:33 ID:chZ7SomU
>>792 相互依存まで届かない関係性ですよん(~~)
802 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 20:59:56 ID:kdlsKuVa
>>800 「知的(言語的)な理解を超えた別種の理解とは、「覚醒」ではなく、「精神
の鈍磨」「狂気」のことである。「精神(理性と感情)を有し、言語を有する」
のが、「健常者」である。
803 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 21:02:26 ID:ik+8Vjfp
目の前に置いたリンゴは目でみて認識できるし、心の中に妄想した美女も妄想として認識できる。 では、現にリンゴを見ている、或いは現に妄想をしている、その私自身は認識できるか? 私自身は、見ることも、妄想することも決してできないから、その意味で認識できず、認識を超えている。 でも、なぜだか、私自身が直接的にわかる。知的(言語的)な理解を超えて。
804 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 21:09:41 ID:kdlsKuVa
>>803 他者が、君の身体を知覚・認識してくれなければ、君は存在するとはい
えない。君の妄想でないことを、他者にどうやって証明する?
805 :
析空 :2009/08/05(水) 21:09:53 ID:ZjeWSGsK
>>780 生命と相互依存?
誰がそんなことをいいましたか?
一切を観察すると、そこには五蘊が認められる。
従って、一切は五蘊からなる。
というのが、縁起の内容です。
806 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 21:15:45 ID:chZ7SomU
>>805 生命と何が相互依存しているのかという質問です。
竜樹の縁起は相互依存のことです。
807 :
析空 :2009/08/05(水) 21:22:52 ID:ZjeWSGsK
>>783 一般に「空とは、自性の無いこと」と説明されます。
自性の無いことという説明について、了解されていますか?
808 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 21:32:58 ID:chZ7SomU
>>807 自性とか無自性ではなく、
生命と相互依存しているのは何か、という質問です。
809 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 21:36:12 ID:ik+8Vjfp
>>804 >他者にどうやって証明する?
リンゴも美女も、そして他者も、それは私に対しての「現れ」に過ぎない。
「現れ」に対して(スクリーンの登場人物に対して)、何を証明できるのかな?
810 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/05(水) 21:45:03 ID:chZ7SomU
>>807 補足すれば、生命が相互依存していないなら、
生命は縁起ではなく、空でもなく、幻でもないということです。
811 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 22:52:21 ID:h7OohU2/
>>809 >「現れ」に対して(スクリーンの登場人物に対して)、何を証明できるのかな?
「現われ」に対しては「現われ」で証明しなければなりません。
この世界は、人間の目に映じる世界に過ぎないから、すべて「現われ」の
世界です。しかし、その目に映じる世界こそ、人間が現に生きており、生きる
べき「唯一の」世界なのです。これが、「色即是空・空即是色」の意味なのです。
812 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 22:54:59 ID:h7OohU2/
>>810 横レスだが、代わって答えると、「五蘊は、生命の機能で、生命から
発生する。その生命は、五蘊がなければ、維持できない」。よって、
「相互依存」。
813 :
旧7 :2009/08/05(水) 23:05:07 ID:XbclRIb2
814 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2009/08/05(水) 23:12:03 ID:8zW4jNg4
>>568 単なる唯物論者のおまえこそ、仏教スレに何の用なんだ?
おまえのような、唯物論者は外道だと、前シリーズから何度も指摘されてるだろ。
あとな、因と果の話だが、因と果はそれぞれお前の大好きな相互依存によって成り、
それぞれ、それ単独では成り得ない、無自性な空だ。
だからお前の主張する、因と果の縁起を認めると、
それぞれの、因と果という主体性を認めることになり、仏教思想とはいえないという理屈は通用しない。
これは前にも指摘しておいたことだが、この吉外は、日がたつと、例によって、
論破済みの、自説を壊れたスピーカーのように繰り返し能書きを垂れる。
それは間違いですよと、とっくに指摘されてる自説をだ。
こういう行動は、我の強い引きこもりの、かたわが多く生息する2chではよくみられる光景だ。
頭おかしいんだよ、こいつら。
因によって成った果は、新しい因と成って、新しい果を生み出す。こうして時間は流れる。
あのよ、元々仏教のいう縁起とは、あれあれば、これあり。
あれなければ、これも無しという因果の法を説いたものだ。因果の法、
縁起を逆順で考察すると、必ず根源にぶち当たる。
おまえ、それが気に食わないからと、ゴータマの説いた因果の法、縁起を違うものにすんじゃねぇよ。
おまえの因果による縁起の認識の誤りを指摘したのは、これで二回目だ。
二度と同じ、間違った能書き繰り返すんしゃねえぞ、吉外。
815 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 23:14:03 ID:8GB50gwC
816 :
カラスの唄 :2009/08/05(水) 23:33:02 ID:8zW4jNg4
>>81 また机の、本質的には全く意味の無い、
たたわの言葉遊びの能書き大会が始まってるよーだなー。
因と果は相互依存しないなんて、仏典のどこに書いてんだよ。あるなら示してみろよ。
むしろゴータマは因果の法を説き、十二支縁起を説いてんだよ。
そもそも因と果は相互依存しないと言ってる時点で、おまえの話は論理破綻している。
ちゅうか、ただの言葉遊びにすぎないお前の仏教に、なんか意味あんの?
817 :
神も仏も名無しさん :2009/08/05(水) 23:46:38 ID:rpjaco3n
中論竜樹ネタも誘導対象にしよう。
818 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 00:20:41 ID:KrL4zSBY
819 :
カラスの唄 :2009/08/06(木) 00:43:24 ID:3M076F0a
あとよ、そこの隠居とかいう屑。 おまえまた、因果の法で、根源にぶち当たっても、 じゃ、その根源は誰が作ったか?それがある前は何があったか? などという下らない愚問で、因果の縁起の法を必死で否定していたが、 答えは簡単だ。それは、始まりも無ければ、終わりも無く、元から有るものだ。 それを自性というんだよ。 始まりも無ければ終わりも無く、元から有る存在なんて、ゴータマが一切以外のものは、 我々の知識領域を超えていると言ったように、我々の知識領域を超えた存在だ。 我々は、自性の話をしている。つまらん愚問を臆面も出さすに繰り返すのをみても わかるように、ここの隠居とかいう人間の屑は、 自性というものがどういうものなのか、全く理解していない。 自性を理解できない奴が、得意気に無自性を語ってんじゃねぇぞ。 池沼を晒してるのも知らないで、恥ずかしい奴だ。
820 :
カラスの唄 :2009/08/06(木) 01:08:21 ID:3M076F0a
原始経典を素直に読めば、自分達が伝統仏教と信じる、 自分達の所属する、末法仏教の教える仏教は、ゴータマの仏教とは違うものだと、 普通に気が付くものだ。唯物断滅仏教と、竜樹や机のような、不可知論的、詭弁論者は、 はっきりとゴータマは外道たと言っているしな。 結局よ、この人達は、ゴータマの教えとはなんだったのか?真理とはなにかということより、 自分達の好き嫌いが最優先。自分達の好き嫌いでしか判断していないんだよ。 ここの隠居なんて、その際たる者だ。 己のエゴの奴隷である君らは、真理からもっとも遠い所にいる人達なんだよ。
>>735 私と貴方を分けるこの肉の自我は無自性な空だが、
全ての認識主体である生命そのものは、空じゃねぇんだよ。
>>720 あほかおまえ。なにが、「相互依存性・関係性」では、「敵」という概念が消滅する。だ。
おまえ、有事の際、敵がお前の命と財産を奪いに来ても、相手は、私と相互依存しているから
関係性において一体なのだと、敵の概念がなくなるのかよ(大爆笑)
こんなのは典型的な屁理屈だ。実際には糞の役にも立たないただの空論。
おまえよ、そんな屁理屈垂れんなら、キリスト教も相互依存性・関係性では、「敵」という概念が消滅する。
とかほざいて、キリスト教に対する悪意を垂れ流すのは止めたらどうだ?屁理屈垂れ。
我々の間に争いを無くそうと思えば、皆一元を理解することだ。それは、真理を理解することに繋がる。
一元を理解し、真理を理解し、それを受け入れるほど、我々の精神が成熟していれば
我々は、初めて互いに愛し合うだろうし、本来は、そういう存在だと知るだろう。それはイエス・キリストの
教えでもあり、慈しみの心を説いた、仏陀の教えでもある。だが今の時代の我々にはその教えを
受け入れ理解し、実行するには、まだまだ精神が未熟である。だから次の時代が用意されている。
しかしここは、見事に隠居と呼ばれる引き篭もりの屑の遊び場になってるな。
こいつは社会に出て、なんら社会に貢献することもなく、ここで一日中2chに張り付いて、
悪意のこもった、他人に不愉快な投稿を繰り返している。こんな奴相手にしなきゃいいんだよ。
どのみち凡夫の知恵でしかない程度の低い投稿と、キリスト教徒に対する悪意のこもった投稿しかできないん
だからよ。なにが我々は五感で感じられる世界無しではい切られないだ。そんなことは誰でも知ってるんだよ。
凡夫の知恵を得意げに語られても、なんとも思わないんだがな。社会になんら貢献もすることもなければ
なんの生産性も無いくせに、一日中PCに張り付いて、己の腐ったエゴをばら撒くしか能の無い人間は、
相手にする価値などないんだよ。ちゅうか隠居よ。おまえ、微妙に俺の話パクってるよな(苦笑)
823 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2009/08/06(木) 06:21:33 ID:apx9bvcp
竜樹の中論や、机の能書きに感慨を多少なりとも感じている人は、 自分は智慧遅れだと自覚しといたほうがいいと思うよ。 知恵遅れじゃなく、智慧遅れな。この二人の能書きは、本質的には全く意味の無い、 ただの言葉遊びでしかないから。日頃、勝義では言語は滅しているという 趣旨の話をしながら(事実勝義では言語は滅した境地のことなので間違いではないのだが) 自分達は見事に言語上の遊びにふけっているのだから、笑える。 机にしろ、竜樹にしろ、邪見をばら撒いている。邪見で皆を惑わす彼らの罪は、重いよ。
824 :
析空 :2009/08/06(木) 06:52:17 ID:4dP3oTwU
>>808 >>810 そうですか、私は縁起が相互依存であるなどと主張していません。しかし。
生命が相互依存していることが了解できれば縁起していることが
了解できるのであれば、その方向で説明しましょう。
生命の有無は、肉体の有無に依存しています。
少なくとも肉体がなければ生命は維持できない。
ここはよろしいですか?
825 :
析空 :2009/08/06(木) 08:00:32 ID:4dP3oTwU
>>808 >>807 は
>>783 についてのレスです。
>>783 は、生命の相互依存の話しでは無く、「トラは空ではない」という話しです。
「トラは空ではない」という発言に対して「自性のないことは空」という説明を
了解されていますか、という質問です。
質問の趣旨は伝わりましたか?
826 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/06(木) 08:03:56 ID:nX3KmRHr
827 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 08:13:24 ID:8Q/AUVAi
>>920 >原始経典を素直に読めば、自分達が伝統仏教と信じる、
>自分達の所属する、末法仏教の教える仏教は、ゴータマの仏教とは違うものだと
原始仏典に、キリスト教、神智学、オウムのようなカルトが群がってくるのは、
それが、開祖盲信、経典盲信の「原理主義カルト」であることを、如実に証明
している。
「唯物論」などというが、人間を初めとするすべての動物、生物は、「物質」
に100%依存しない限り一瞬も生命を維持することが出来ず、生命がなければ、
精神(魂、理性と感情)も、「愛」も、「神」も、宗教もへちまもないことを、
いい加減で悟られたし。「人は、パンがなければ生きられない」のである。
釈迦も、イエスも例外ではない。この意味で、生きとし生けるものは、すべて
「唯物論者」である。
君が信じる神が創造したのは「物質界」である。人間が神になった積りの「思い
上がった精神性」などではない。
828 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/06(木) 09:11:29 ID:nX3KmRHr
>>827 このスレでは誰も、
別に「物質を無始する」とか、
「肉体は無始する」などとはいってないでしょう!
そういうのは、
ニューソート/クリスチャン・サイエンス派というのですよ。
日本では、谷口雅春の「成長の家」が該当するでしょう。
この思想に嵌ると、病気になっても遂に医学を拒否するようになり、
医療を受けなくなる傾向が顕著になります。
肉体も整備しながら旨く大切に使われるべきであり、バランス感覚の問題です。
正しく仏教を理解する人は、肉体は無我で空だから〜病気になっても病院にも行かない
などいうことにはなりません。
829 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/06(木) 10:28:06 ID:sdXeVysF
>>773 >そうであるなら空を具体的に説明すべきだろう。
横ヤリですけど、拙者が平易に分りやすく説明いたします。
例えば時間が流れていると仮定する。→(これはあくまで仮定の話)
この場合は“自分もその時間に含まれる”
つまり、時間が流れていて、自分も含まれているなら・・・
時間は流れていないことになる。
(地球は自転しているが、空間はなんら流動性はないと認識してるのと同義)
”時間が流れている”というのは、時間が固定している”“ナニモノ”かがあって、
その客観的視座において、はじめて時間の流動性が明らかになる。
(つまり相対した関係です)
ここで注視すべきは、
もし時間が流れているのなら、そもそも“ナニモノ”かがあること自体が論理矛盾になる。
(空間も同じ、相対した関係は先ず不可能)
空思想とは、こうした論理矛盾を徹底して排除した最終結論の位相であって、
空が幻とか蜃気楼とかいう次元ではない。
人間の迷いを根源的に突き止めた、釈尊の本懐なのである。
空=自性がない でいいじゃん
831 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/06(木) 11:02:58 ID:sdXeVysF
>>830 耳かき小町に4800両払って、垢だけ取って貰えればそれでいいんですけど、
世の中には、それだけでは治まらん輩も多いわけです。
「もっと他のこともせい!!」とか、無理難題を吹っかけてきますね。
そのせいで江尻さんもとんだことになったのですが・・・
江尻さんは意識がないそうです。
この事件の原因は、勘違いですね。
832 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 12:50:38 ID:y9z3nmHx
>>824 析空氏
>生命の有無は、肉体の有無に依存しています。
>少なくとも肉体がなければ生命は維持できない。
生命と肉体が相互依存している?
前のほうで縁起の定義を書いたけどチェックしてくれた?
1句 「肉体があるとき生命があり」・・・切断された足に生命がある?
3句 「肉体がないとき生命がない」・・・これはどう証明する?
833 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 12:56:32 ID:y9z3nmHx
>>829 何を言いたいのか意味不明。
世尊がそんな話し方をしていたら仏教は誕生しなかったと思う。
834 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 13:06:31 ID:y9z3nmHx
つぎの詩句を読み、竜樹が縁起の破壊者であることを知るべし。 中論1章10詩「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には 有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、 <このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。」
835 :
一在家 :2009/08/06(木) 14:16:53 ID:eDvcNvRL
>>834 EOE氏
「Aは無い。 Bも無い。 AとBは縁起している。」
確かに言語の論理世界でも矛盾しているようですね。
836 :
一在家 :2009/08/06(木) 14:20:30 ID:eDvcNvRL
「Aは不生不滅。 Bも不生不滅。 AとBは縁起している。」 これもまた言語の論理世界でも矛盾しているようですね。 さて机先生の「横レスでありんす」を待ちましょう。
837 :
一在家 :2009/08/06(木) 14:32:48 ID:eDvcNvRL
「汝の論敵を愛せよ」を実践するクリスチャン、 「空・縁起」を信じて実践する仏教徒、 「全ての人は神の子」を信じる私。 皆、認識の類似点と相違点とを確認する為に対話 しているのであって、自己の感情をコントロール できない方々以外は、対立することもないでしょう。
838 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 14:59:40 ID:KrL4zSBY
>>834 >つぎの詩句を読み、竜樹が縁起の破壊者であることを知るべし。中論1章10詩
違います。
「この『此が有るときに此が有る』ということは、どうしても成立しない」理由は、
「無自性の諸存在には、有性が存在しないから」です。
そして、「無自性の諸存在」が如何にして可能になるのかといえば、
「およそ、縁って生じるものは何者も、自性としては寂滅している(『中論』7.16)」
からです。
839 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 15:01:45 ID:KrL4zSBY
>>838 補足
ただし、1.10を還滅門と読むことも可能でしょう。
840 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 15:48:06 ID:3M076F0a
>>829 言語上のものでしかない、妄想の世界は楽しいか?
841 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 15:49:05 ID:teUuxFXD
>>832 >「肉体があるとき生命があり」・・・切断された足に生命がある?
生命は、各器官の相互依存により有機的に機能している全体としての
肉体に宿る。その有機的全体から分離された肉体の一部は、もはや生命
が宿る肉体ではなく、単なる物質に過ぎない。端的には、そのまま放置
して腐敗または変質するか否かである。同様に、有機的機能を失った
肉体全体(死体)も、放置すれば腐敗する。生命と物質としての肉体が
相互依存している所以である。
切断された手足、ましては毛髪や爪を処分したら「殺人罪」になるのかね。
肉体、即ち生命の生死は、医学の専門分野である。宗教ではなく、まず
医学を学ばれたし。
842 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 16:06:29 ID:teUuxFXD
>>835 >「Aは無い。 Bも無い。 AとBは縁起している。」
そうではなく、AもBもそれ自体「相互依存」の関係にあるから「自性はない」
のである。「Aは無い。Bも無い」などと、竜樹はどこで言ってるのかね。
竜樹の理解が全く出来ていない。
>>837 >「汝の論敵を愛せよ」を実践するクリスチャン、
「汝の敵を愛せよ」を実践しているクリスチャンが、唯の一人でもいる
かね。イエス自身も、実践できなかった。いちじくの木に実がなっていない
のに怒って、木を呪い枯らしたw。イエスから植えつけられた「敵」を
最も憎むのが、クリスチャンである。その心理学的論拠は、前レスで述べた。
「俺が、俺が」のイエスには、「万物の相互依存性・関係性」など念頭
にも思い浮かばなかったから、彼には「愛」が存在し得ないのである。
843 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 16:06:58 ID:hWpWT8id
『生命』とは、「生物が自己の存続を維持するために行う活動そのもの」 を指していう場合と、「そのような活動を行っている有機個体そのもの」を さしていう場合とがある。 この有機個体とは別に、有機個体を維持、継続させる役割 を果たし、その生命活動を執り行っている『何かしらの基体』を仮設し それを『生命』と呼んだりするから混乱がおこる。
844 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 16:23:03 ID:teUuxFXD
>>843 仮設せざるを得ないが、その何かしらの基体そのものが何であるかは、
生命を以っては分らない。思考も認識も、生命の機能であるからである。
定規は、自分で自分の長さは測れない。
845 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 16:35:39 ID:teUuxFXD
>>837 >「全ての人は神の子」を信じる私。
「神の子」などというと、「神」を人間がその生命の機能によって「対象化」
していることになるね。「神」とは、人間が対象化できないもののはず。
人間が対象化できない唯一存在は、「自己の生命そのもの」である。
846 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/06(木) 16:38:57 ID:sdXeVysF
>>833 >何を言いたいのか意味不明。
そもそも龍樹を語ちるなら、宗教といふより「高度な哲学」と認識したらいい。
(インドは、宗教と哲学という分類はなく同じ概念)
>「Aは無い。 Bも無い。 AとBは縁起している。」
>>835 西洋哲学は、AとBを先ず想定して、そこからその関係を導きだす。
インド哲学は実在論という立場でないので、
先ずその関係性がなければ、そもそもAとBという分別自体が無理ってことです。
つまり、A(主体)と、B(時空)は分別できない。
何故なら、A(主体)というのは時空そのものであるからです。
時空Aと、時空Bは、そもそも境界線を引くのは無理。
(主客の分別は無理→中論より)
時空という枠組みから離れた“何か”があれば、その何かと相対することは可ですが、
それ自体を想定するには人間の思慮では無理です。
っていうか、そんなものあるわけない。
(たとえば、人間の思慮では宇宙が有限であっても無限であっても、双方論理破綻する)
このように仏教は、縁起というのがあるから主客という分別ができる。って論です。
森羅万象、それが時空なら、そもそもその時空という意もなくなる。
よって仏教は“無の哲学”とも言われる。
847 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 16:42:51 ID:KKBbYz0U
>>842 >「Aは無い。 Bも無い。 AとBは縁起している。」
「Aは不生不滅。 Bも不生不滅。 AとBは縁起している。」
の方は如何ですか?
龍樹も「○は不生不滅」と度々言っておりませんか。
848 :
暁 :2009/08/06(木) 16:51:41 ID:fsjXKRUm
「…があること」は二種。 1.時間的空間的規定を受けた「…がある」 2.時間的空間的規定を受けない、つまり普遍的概念 としての「…がある」 1.は哲学の対象外ですよね〜。2.が法有の立場であり、 この哲学的態度に反対したのが『中論』です。
849 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/06(木) 17:26:16 ID:sdXeVysF
>>848 そういうことですね。
しかし駒澤は、こういう哲学的アプローチをしているのか?
いささか疑問です。
(旧7氏の書込みを拝するに・・・)
正法眼蔵は、こういった哲学的アプローチを基本にしなければ理解は困難です。
日本禅は、世俗(檀家)と上手く馴れ合って逝くのが重要です。
よってこういった哲学的アプローチはやりたがらない。
正法眼蔵の二面性は、このベクトルで理解しないと
道元の真意というのは見えてこない。
850 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 17:53:33 ID:KrL4zSBY
851 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 18:11:01 ID:fUcfvLGR
ロゴス信仰の西洋哲学の思考を打ち破るのが 臨済宗の公案とかになるのだろう。 つまり仏教は完全に西洋思想的ロゴスに傾斜した後に その論理的思考回路自体を崩壊させなければ理解できない。 左脳偏重の論理バカはノイローゼになってしまって理詰めの議論を 永久に続ける。あらゆる宗教は左脳の限界性を認める事で成り立つ。
852 :
析空 :2009/08/06(木) 18:26:40 ID:4dP3oTwU
>>832 一句、切断された手や足に生命はあるか、という問いは無意味ではありませんか?
生命は縁起しているのであるから、どこそこにあるとはいえません。
三句、肉体が無ければ生命は無い。
これは、自明の理であって、証明の必要がありません。
肉体が滅んだとき、生命の死と呼びます。
もし、生命は死なないというのであれば、そう主張する人に証明責任があります。
853 :
一在家 :2009/08/06(木) 18:34:06 ID:oMhg35Pc
>>848 暁氏
>2.時間的空間的規定を受けない、つまり普遍的概念
>としての「…がある」
>
>1.は哲学の対象外ですよね〜。2.が法有の立場であり、
>この哲学的態度に反対したのが『中論』です。
その法有を「あて馬」にして否定の論理で批判したのが龍樹
でしょうか。
また、議論が輪廻していますね。
本かきこに対して、「龍樹は単なる帰謬法ではない」という
反論が生起し、(まあ空では反論も不生なんでしょうが)
「単なる帰謬法ではないという根拠は?」という質問が生起し、
輪廻が涅槃に入るまで続きます。
854 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 18:36:28 ID:oMhg35Pc
>>845 >人間が対象化できない唯一存在は、「自己の生命そのもの」である。
もし自己の魂(生命?)そのものが神の分身(分魂)だとしたら?
855 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 18:40:36 ID:7si5XUK/
>>847 >「Aは不生不滅。 Bも不生不滅。 AとBは縁起している。」
>の方は如何ですか?
相互依存性・関係性故に無自性であれば、不生不滅であるのは当然の
こと。竜樹の思想の基盤です。
例えば、人間が死に、精神(魂、感情・理性)の発生源である思考器官
や感覚器官を含めた肉体が腐敗して分解し、または火葬されて灰になっ
ても、肉体を構成する原子は消滅せず、万物を循環して、新たな依存関係・
関係性を作り上げます。その原子がどうやって生じたかは、やはり原子
の関係的集合である脳でいくら考えても、分るわけがありません。
これが、不生不滅です。
しかし、その「相互依存性・関係性故に空」の世界、即ち現象界が、人類が
生きてきた、そして将来も生きるべき、唯一の世界なのです。釈迦が「世界
を空と観ぜよ」と言ったとき、彼は、世界の厳然たる実在を前提として、
それを「空と看做せ」と言ったのです。釈迦は、妄想患者ではありません。
竜樹の「空の思想」は、現代科学の基盤であるばかりか、人類の共生の
ための、過去、現在、未来にそのまま適用可能な「永遠・不変の指導原理」
です。
856 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 18:56:50 ID:7si5XUK/
>>854 「神の分身」などと、「対象化」できる存在は、人間の生命の機能とし
ての空想・観念の産物に過ぎず、「神」ではあり得ません。
人間が神など思考することは、全く不必要かつ誤りであり、人間は、その
生存本能(生命)の指示のみに従って生きるべき存在なのです。人間は、
独りでは生存は絶対に不可能ですから、その生存本能から、共同体形成・
維持の本能、自然との共生(自然の尊重)、自他の死への恐れ(生命の
尊重)、他者への思いやり(愛)などの、自然の感情が派生します。
>>855 物質の集合である肉体は「空」だが物質自体は「空」じゃないと?
858 :
一在家 :2009/08/06(木) 19:00:14 ID:oMhg35Pc
>>855 >例えば、人間が死に、精神(魂、感情・理性)の発生源である思考器官
>や感覚器官を含めた肉体が腐敗して分解し、または火葬されて灰になっ
>ても、肉体を構成する原子は消滅せず、万物を循環して、新たな依存関係・
>関係性を作り上げます。その原子がどうやって生じたかは、やはり原子
>の関係的集合である脳でいくら考えても、分るわけがありません。
>これが、不生不滅です。
私も素粒子の視点で、「色即是空 空即是色」だという見解には賛成ですが、
本スレではその見解も否定する方々が多いようです。
現代物理学 VS 言語論理学 ←実相でしょうか?
859 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:07:32 ID:aaMCIjJE
>>858 >私も素粒子の視点で、「色即是空 空即是色」だという見解には賛成ですが、
現代物理学では素粒子も生滅法に従う無常なるものでしょう。
不生不滅の存在は素粒子ではないのはあきらかでしょう。
現代物理学で不生不滅の法はエネルギー保存の法則しかない。
そしてそのエネルギーの総量は多分、空=ゼロでしょう。
これが本当の空論である。
860 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:09:17 ID:jyh2DNa4
何かが生じたり滅したりするという場合、その「何か」にあたる言葉の意味(使われ方)に依るんじゃないか? 例えば、指の先っぽが切れて腐ってもその人が死んだ(滅した)とは言わないが、指の先っぽだけが保存されて他の部分が腐ったらその人は死んだと言う。 これは「人」という言葉の意味(使われ方)に依る。
861 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:10:12 ID:7si5XUK/
>>857 「空(無自性)」ではあるが、人間にとって「無」ではない。これが
佛教の極意だと思う。「色即是空」に「空即是色」を併置したことに、
万金の重みがある。
862 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:13:28 ID:aaMCIjJE
>>853 >輪廻が涅槃に入るまで続きます。
龍樹にとっては輪廻も涅槃もまったく異ならないのだけど
それすら中論から読み取れてないの?www
863 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:15:35 ID:jyh2DNa4
>>861 >「空(無自性)」ではあるが、人間にとって「無」ではない。
なぜ物質自体が「空(無自性)」だと言えるのかな?
それと、「人間」とか「生命」って一体どういう意味かな?物質の関係的集合じゃなければ一体何なの?
「人間=物質の関係的集合」にとって「無」ではない、←意味が通じない。
864 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:21:39 ID:aaMCIjJE
>>832 >1句 「肉体があるとき生命があり」・・・切断された足に生命がある?
生命の基本単位は細胞にある。切断された足でもしばらくは生きている。
生きているうちに元の身体に戻せばそのままもとの足に戻ることも多いい。
この生物の生命力にこそ驚嘆すべきだろ。
>3句 「肉体がないとき生命がない」・・・これはどう証明する?
生命という「もの」を示してみよ。できないだろ。生命は生物の機能に過ぎない。
生物あっての生命だから。生命は肉体の生きているという「状態」に過ぎない。
865 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 19:26:16 ID:Re4a7VUx
>>852 析空 氏
>一句、切断された手や足に生命はあるか、という問いは無意味ではありませんか?
>生命は縁起しているのであるから、どこそこにあるとはいえません。
肉体は確認できるのに、その肉体と相互依存している生命は行方不明ですか。
生命と肉体が相互依存している、という前提に無理があるのかも。
>三句、肉体が無ければ生命は無い。
>これは、自明の理であって、証明の必要がありません。
>肉体が滅んだとき、生命の死と呼びます。
>もし、生命は死なないというのであれば、そう主張する人に証明責任があります。
テーマは生命と肉体の相互依存がありえるのか。
生命と肉体とが相互依存すると前提し、肉体がなければ生命がないという、
まだ自明ではないことを主張をする、あなたに証明責任があると思う。
法身の事だろ?本体は現れている無常な現象じゃなくて法の方。 考え方は中論第一章 >現実は、法則そのもので、模造品ではない。 >絶対的な法則で、現実に従わないものはなく、 法則に従うものだけが、現実に現れるのである。 >この世界には、明らかな法則が現れている。 >あらゆる現象は、様々な法則そのものである。 >現れている現象は、現われている度合に応じて、 >現れていない現象は、現われてない度合に応じて
やっぱり一心三観が大切だと思うよ 空だけだと世の中虚しいし、仮だけだと煩悩全開 何事も中道ですな
868 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 19:50:00 ID:jyh2DNa4
石ころも生物も所詮は物質の集まりに過ぎない。 物質の集まりの一形態を「生命」と呼んでいるに過ぎない。 一切は物質の関係的集合に過ぎない。 意識は物質に随伴しているに過ぎない。 これが分かれば悟りOK?w
869 :
暁 :2009/08/06(木) 19:51:06 ID:fsjXKRUm
>>853 在家氏
>その法有を「あて馬」にして否定の論理で批判したのが龍樹
>でしょうか。
『中論』帰敬序において、龍樹は戯論の消滅というめでたい
縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のう
ちでの最も優れた人として敬礼する。としてるよね。
仏を当て馬にしてるのは君だろ。
仏陀は「論争をしてはならない」と教えた。龍樹の相応(プラサ
ンガ)が、後代に言われるようなたんなる帰謬論法(破邪)であれば、仏に敬礼してない。
龍樹は仏の教えを内外の異説から守るために、この論法を荊棘
としたのだろう。
君のとこの教義では、仏は主神の遣い走りとしてるね。あなた
がたにとれば龍樹は都合よくないのはわかるが。俺には君が
龍樹を「当て馬」にし、批判しようとしてるとしか見えんがな。
>>834 <このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。
この場合は因果関係の縁起を否定したのではないですかね?
言いかえれば、 <原因としてのこのことがあるとき、結果としてのこのことはない。> ということではないかと思います。
この句は、相依関係の縁起の否定ではないと思いますね。
>>870 訂正します。
「結果としてのこのことはない。」
↓
「結果としてのこのことがある。>ということは可能ではない。」
872 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 20:02:48 ID:Re4a7VUx
>>846 机龍之介氏
>そもそも龍樹を語ちるなら、宗教といふより「高度な哲学」・・・
★ 大乗は哲学であり宗教とは言えない、という主張ですかね 。
>西洋哲学は、AとBを先ず想定して、そこからその関係を導きだす。
>インド哲学は実在論という立場でないので、
>先ずその関係性がなければ、そもそもAとBという分別自体が無理ってことです。
★ インド哲学の中の唯名論、竜樹の哲学ですね。
AとBが分別できない → 分別できないのだから関係性も論じられない。
>・・・A(主体)と、B(時空)は分別できない。
>・・・(主客の分別は無理→中論より)
>・・・縁起というのがあるから主客という分別ができる。って論です。
>・・・よって仏教は“無の哲学”とも言われる。
★ 足跡が千鳥のようであり、意味不明。
873 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/06(木) 20:20:45 ID:Re4a7VUx
>>870 因果関係を否定しただけなら、残るのは相関関係になるが、
では具体的な相関関係とは何。長短・大小・・・?
中論1章10詩「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には
有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、
<このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。」
874 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 20:42:19 ID:7si5XUK/
>>864 >生命の基本単位は細胞にある。切断された足でもしばらくは生きている。
>生きているうちに元の身体に戻せばそのままもとの足に戻ることも多いい。
>この生物の生命力にこそ驚嘆すべきだろ。
そのまま放置すれば、必ず腐敗・分解する。生き返るのは、生体に移植する
から、その生命との相互依存による。死体に移植しても、生き返らない。
>生命という「もの」を示してみよ。できないだろ。生命は生物の機能
>に過ぎない。生物あっての生命だから。生命は肉体の生きているという
>「状態」に過ぎない。
生命そのものを、生命によって認識することはできない。認識主体と認識
対象とが同一であり、認識は初めから成立しないからである。「生命そ
のもの」は、生命を以って対象化することはできない。
生命によって認識できるのは、外部に現われる「生命現象」のみ。従って、
「肉体の生きている状態」が「生命」である、と言ってもよい。生命現象
が無くなれば、生命もない。従って、生命と肉体とは、相互依存である。
875 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 20:49:53 ID:7si5XUK/
>>869 >仏は主神の遣い走りとしてるね。
大本系カルトの「主神(すの神)」は、キリスト教の「主」から取った
ものだと思う。浅薄にもキリスト教に嵌った、西洋かぶれの出口王仁三郎
による、キリスト教の猿真似。彼の「霊界物語」は、聖書そのまま。
さまざまね登場人物の名前だけを、日本語式に変えているところが笑える。
876 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 20:55:23 ID:7si5XUK/
>>868 >一切は物質の関係的集合に過ぎない。
>意識は物質に随伴しているに過ぎない。
>これが分かれば悟りOK?w
そのとおり。意識を生み出す思考器官や感覚器官も、原子の関係的集合体。
死ねば、思考器官も感覚器官も腐敗するか、灰になるから、その機能は
停止し、意識も生ぜず、仮に来世があっても、その知覚・認識はできない
から、無いと同様である。
877 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 21:09:46 ID:3M076F0a
>>874 生命は生命を認識出来ないって、
あんたは、あんた自身認識出来ないで生きてるわけ?
あんた、頭大丈夫?
878 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 21:18:54 ID:7si5XUK/
>>877 自分の生命そのものは、認識できない。「生命現象」(意識、五感の知覚、
感情、等)を認識しているだけ。
「自分の生命」が認識できるという者こそ、頭狂っている証拠。
879 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 21:43:25 ID:3M076F0a
>>878 そんなこと聞いてないし。
屁理屈はいいから。で、あんたは、あんた自身を認識出来ないて生きてるわけ?
880 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 21:52:50 ID:jyh2DNa4
>>878 「自分の生命」って何?w「認識主体」のこと?
なら普通に「自分」とか「私」とか「主体」とか言えばいいのに。
881 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 22:00:35 ID:jyh2DNa4
物質と意識と生命をごちゃ混ぜにして、 それに関係性という網をかけて、 「仏教らしく」主体を消去しようという魂胆か。
882 :
旧7 :2009/08/06(木) 22:48:49 ID:ha5+YQu3
たとえば陸上競技とか、100m走でも50m走でもいいが、
そこに生じている(事象としての)「走り」という捉え方のできる奴はいないのか?
「命(いのち)」もまた同じである、と・・・。
《「具体的個物」や、「最小単位」、或いは、「物質領域を超えた存在」へと還元》するのでなく、
《「走り」という物質》や《「走り」を構成する最小単位の粒子》や
《「走り」という、「物質でない(オカルティックな)何かしらの存在・実在」へと還元》するのでなく、
『そのような在り様、そのような事象、そのようなはたらき』として見れば、それで済むはずなのに、
何故それをせず、「何かに還元」しようとするのか?
「“(六根を超えた)何かの存在・実在”が“それ”である」とするのか?
大海の漂流木であることが、そんなにも怖いのか?
(
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1242183617/301 )
革紐で結ばれた古い荷車となることが、そんなにも怖いのか?(大般涅槃経)
仏教とは、自身が大海の漂流木であることに気付き、自覚し、受け止め、
漂流木としての在り様を全うするところにこそあるのではないか?
成道後の45年間は、(仏伝が伝える釈尊の足跡は)、
まさしく、ゴータマ・シッダッタの漂流の軌跡ではないのか?
自身が、革紐で結ばれた車であり、紐が解ければ崩壊するものであり、
その紐の耐久年数に従って存在し続け、為すべきことを為してゆく、
そういう自覚と受け止めの上に据えられる在り方こそが、目指されるべきなんじゃないのか?
成道後の45年間は、(仏伝が伝える釈尊の足跡は)、
まさしく、ゴータマ・シッダッタの荷車としての仕事歴ではないのか?
酔ってるかな?w
おやすみ ノシ
883 :
神も仏も名無しさん :2009/08/06(木) 23:44:23 ID:3M076F0a
>>882 この世に生まれた生を精一杯生き、人生を全うしようというのが仏教なら、
コジキ生活をして、一日中死人のように瞑想に明け暮れていたサンガの生活は矛盾ですね。
それともゴータマさんは、働くのが嫌で、せっかく生まれてきた生。
楽してグータラに生きたいと思ったから、在家から食い扶持をたかる生き方を選択したんですかね〜。
いずれにせよあんたの話は、くだらない感情論ばかりで話にならないな。
884 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 00:26:10 ID:kxyWG+xz
>>883 カラスよ、お前は長文の書きこみするときはコテ付けて
人にいちゃモン付けるときは、名無しにすると決めてるわけか?
>>884 携帯からの書き込みのときは、いちいち毎回、
ハンドル、トリップ付けるの面倒くせぇんだよ。
ただそれだけの理由だ。深い意味はない。
886 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 05:23:50 ID:Dx8nCLuL
*
887 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 07:02:15 ID:74RmQy2G
>>872 E0E氏
>大乗は哲学であり宗教とは言えない、という主張ですかね 。
禅語で「無可無不可」という言葉があります。
つまり何事も決めつけられない。ってことです。
哲学・宗教というジャンルに囚われない、自由な発想が大事かと思ふ。
>AとBが分別できない → 分別できないのだから関係性も論じられない。
例示しますと、
たとえば「暑い」とか「寒い」とか感受して、
感受する主体と、その対象が明確になる。→(主客分別)
感受なくば・・・そもそも「自分という認識はない」。
つまり、自分という自己同一性は「関係性においてもたらされる」。
こういうことでありまふ。
(つづく)
888 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 07:03:12 ID:74RmQy2G
(つづき) >足跡が千鳥のようであり、意味不明。 「AとBが分別できない」というのは、 たとえて言うなら、 世の中は美女とイケメンに満ちている。と想定してみよう。 この場合は醜女(しこめ)とブ男はいないことになる。 ということは・・・・ 既にその時点で、 美女・イケメン・醜女・ブ男という概念自体が既に消失してしまうことになる。 ここで気づいて頂きたいのは、 言語とは相対でしかその意をもたらさない。ってことです。 空は、その相対以前の主客未分の相(無差別相)を言うておるのです。 つまり人の思慮以前です。 思慮は言語概念においてもたらされ、思慮の瞬間に既に分別をもたらす。
889 :
一在家 :2009/08/07(金) 08:10:03 ID:gXlgI2Q2
>>869 暁氏
>君のとこの教義では、仏は主神の遣い走りとしてるね。あなた
>がたにとれば龍樹は都合よくないのはわかるが。
>>875 >大本系カルトの「主神(すの神)」は、キリスト教の「主」から取った
>ものだと思う。
教義では、仏は主神の「遣い走り」ではなく、「現じた姿」として
説かれております。釈迦如来ではなく大日如来、弥勒の方ですが。
様々に変化(へんげ)した姿の一つだということです。
また教義には「龍樹」という名前は登場しません。
私個人が、原始仏教と現代の大乗仏教との差が生じた「縁」を研究して
おりました過程で、「龍樹」との出会いが「起」こった訳です。
一例としましては、原始仏教では幾度も「輪廻」が説かれておりますが、
現代の法華経信者の多くは「六道輪廻は現世に存する」と認識しており、
「非我」が「無我」と訳され、更に「無霊魂」に至ったと解釈します。
カルマを蓄積するアートマンを原始仏教では否定しておりませんでしょう。
890 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 08:13:58 ID:gXlgI2Q2
>>888 机氏
>言語とは相対でしかその意をもたらさない。ってことです。
>空は、その相対以前の主客未分の相(無差別相)を言うておるのです。
相対以前の主客未分の相を言語の論理世界で記載します「縁」から、
皆の混乱が「起」きるのでしょうか。
否定してないのではなく、相手にしていないだけ 否定してないから存在するっていうのはこじつけです
892 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 08:16:26 ID:6Nf8oTfj
>>882 >「“(六根を超えた)何かの存在・実在”が“それ”である」とするのか?
無常な輪廻において、常住な主体が無ければ倫理が破壊されると、
誤解しているからだと思います。
覚る主体が無ければならぬ、というのも、この問題の延長線上だと思います。
おそらく、この動機を何とかしない限りは、どれだけ、原典に即して正当に批判しても、
構わずに延々とテキストを恣意的に扱うと思います。これまでの経過を見れば明らかだと思います。
893 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 08:33:04 ID:G985Hk2H
「言語論」は、あまり意味がないと思う。いくら「言語」を論じ、批判 してみても、「言語論」自体が、言語で行わざるを得ないのだから。 言語とは、本来、古代人が、生存に必要な具象物を指示し、他と区別する ために発明されたもの。具象物に対応しない抽象語・観念語は、それに 対応する具象物が存在しないのだから、その意味は、使う者、受け取る者 によって百人百様であり、実はコミュー二ケーションの手段としての 機能も果たしていない、キリスト教徒とイスラム教徒にとって、「正義」 や「善悪」の意味は全く異なる。 宗教者、思想家、哲学者は、具象物に対応しない抽象語・観念語を、その 論調から一切排除すべきである。さもなければ、コミューニケーション における混乱と不可能性は、絶えることは無い。
894 :
一在家 :2009/08/07(金) 09:08:42 ID:itS2wLFN
>>893 >「言語論」は、あまり意味がないと思う。いくら「言語」を論じ、批判
>してみても、「言語論」自体が、言語で行わざるを得ないのだから。
(中論24章10節)
「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。」
しかし、世俗の表現(言語)で真理を説くことは困難だという前提で、
「言語論」を展開しているのが「中論」の実態だと私も認識しております。
必ず中観派の方々から「言語」で批判が来ますので、この辺で止めておきます。
895 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 09:15:26 ID:74RmQy2G
>>890 在家氏
>相対以前の主客未分の相を言語の論理世界で記載します「縁」から、
>皆の混乱が「起」きるのでしょうか。
仏教の歴史において、いちばん論書類が多いのは禅宗系です。
これは悟った覚者が、どうにかその本懐を伝えようと筆を走らせずにはいられんのでしょうね。
悟り(見性とか透過)とかは非常にシンプルであります。
シンプルであるが故に、それを言語慣習に沿って伝えるのは非常に多くの言語(文字)を
必要とします。→(不立文字という)
正法眼蔵でもありますよね、
眼横鼻直→これはシンプルであることを先ず示唆しとるんですよ。
>皆の混乱が「起」きるのでしょうか。
「混乱が起きる」ってのは、世俗諦でして、これが「迷い」ですよね。
なんで「迷い」が起きるのか?
この因を突き止めて逝くのが四諦(苦集滅道)であります。
これを透過して逝きませんと、法を聴いたとしても支離滅裂です。
そういうことでして・・・
釈尊は方便(即ち方法)として法を説いていったのであります。
仏典の多くは、こういった方便(方法)であります。
開眼のアカツキには、この全てが明白になってまいります。
もちろん、アートマンがどうした?こうした?ってのも全て開示されちまうのです。
(こういったことで迷うことなく・・・涅槃(有余)到達ですよね)
生きながらにおいて、既に不死であります。
摩訶不思議でありますね。
(世俗的には矛盾でありますが、法においては全く矛盾はないでありんす)
ありんすって、おかまかよ。
897 :
一在家 :2009/08/07(金) 10:13:13 ID:GbQGEuBg
>>895 机氏
>悟り(見性とか透過)とかは非常にシンプルであります。
シンプルであるが故に、それを言語慣習に沿って伝えるのは非常に多くの言語(文字)を
必要とします。→(不立文字という)
>開眼のアカツキには、この全てが明白になってまいります。
もちろん、アートマンがどうした?こうした?ってのも全て開示されちまうのです。
>(世俗的には矛盾でありますが、法においては全く矛盾はないでありんす)
私も同感です。
凡夫が五感で感じたことの無い悟りの境地を記述する「言語」は無いのでしょう。
修行完成者同士だと「あれ」で十分伝わるでしょうが。
正確には読心通にて「言語」も不要でしょう。
モーゼが「シバの炎の中で神を見た」と言い、映画「天地創造」でも
マルチメディアで表現しましたが、実際はどうだったのか不明です。
898 :
暁 :2009/08/07(金) 10:29:22 ID:5MzSZ2qx
>>889 在家氏
つまり輪廻思想を利用して大日如来や弥勒を権威付けに
利用するってことだね。
主神さんが仏陀ならKKのエルカンターレと被るからね。
仏陀が輪廻転生に言及したからといって、生まれ変わり
を騙ってよいなどの教えは無いよ。
仏法理解より先ず、あなたの教団の及ぼした様々な人に
対する被害に目を向けた方がいい。
899 :
一在家 :2009/08/07(金) 12:19:28 ID:itS2wLFN
>>898 暁氏
>つまり輪廻思想を利用して大日如来や弥勒を権威付けに
>利用するってことだね。
啓示による立教にて、神示集の中にそう記載があるので
皆信仰しているのです。
>仏法理解より先ず、あなたの教団の及ぼした様々な人に
>対する被害に目を向けた方がいい。
霊的な神秘体験や見える守護も多いので、ついつい勧誘が
熱心になり過ぎて家族や周囲との摩擦を起こす場合もあるか
と思います。
神秘体験が縁となり、摩擦が起こる、縁起でしょうか。
板違いなのでこの辺りで止めておきます。
900 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 14:09:45 ID:+6IlnWwe
>>887 感受なくば・・・・そもそも自分という認識は無くなるって、
五感からの感受を遮断する特殊なタンクがあるんだが、そこに入っても、
自分という認識は消えなかったぞ。おまえ嘘ばかり書くなよ。
てか、五感からの感受を遮断しても、自分の意識が消滅しない限り、自分という認識が消えるわけねぇだろ!
所詮言葉遊びにふけってる人の能書きなんてこんなもん。
言語上ではいくらそのように考察できても、本質とは違うただの空論。
ただ言語上ではそういう考察もできるというだけで、本質とは違う。
時間の流れなど無いなどという偽論など、その典型だろう。
こういう本質とは違う偽論を、たただの言葉遊びという。いくら言葉遊びで、
時間の流れなどないんだべ〜と、妄想の世界に浸っていても、実際には時間は流れている。
あんたも、生命は生命を認識できないとか言ってるトンデモさんも妄想患者だから、
一度病院に行ったほうがいいと思うよ。
五感からの感受を遮断する特殊なタンク なんすかwwwこれwwwwww
902 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 15:25:18 ID:74RmQy2G
>>900 アレフどの
>五感からの感受を遮断する特殊なタンクがあるんだが、そこに入っても、
>自分という認識は消えなかったぞ。おまえ嘘ばかり書くなよ。
アレフの信者は、一部学業に秀でている人もおりますが、
dでもに騙されやすい。
(この特殊タンクがよき例であります)
五蘊というのは感受作用だけでなく想蘊というのもある。
外界を遮断しても想うことは別にできる。
(過去の記憶の蓄積があるから)
仏教を逆手に取って、こうして松本は
「ほうらぁ〜、これが自性というもんだよ、これで証明できただろ?」。
って口実で先ず騙す。
これで騙されてしまいますと、後は松本の言いなりです。
特殊タンクに入らずとも、人は就寝時に夢を見たりする。
タンクは人を騙すツールに過ぎない。
ってことを、先ず気づくべきであろう(*^^)v
903 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 15:39:29 ID:slz+vkOd
>>900 >五感からの感受を遮断する特殊なタンク
全身麻酔以外にはない。全身麻酔下においては、知覚も意識もない。勿論、
時間感覚もない。
904 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 15:58:36 ID:slz+vkOd
>>899 >啓示による立教にて、神示集の中にそう記載があるので
>皆信仰しているのです。
すべて、教祖の「口から出任せの嘘」。科学者なら、何故確認しないのか。
その神示集の中に、具象物に対応しない観念語・抽象語はなかったか。
若しあれば、それらの言葉をすべて削除して、それでも意味が通じるかを
試してみる必要がある。
神秘体験とは、単なる精神障害による変性意識。抗精神病薬や鎮静剤の
注射一本で、神も霊もいなくなる。
その教祖は、一体誰かね。やはり大本系だろ。
他人の精神をそうやって狂わせることは、「精神の虐待(spiritual
abuse)」という犯罪行為であることを、自覚されたし。「宗教」を
利用した犯罪である。宗教で、相手の自由意志を奪っておいて、金銭
や財産を拠出させれば、詐欺罪、準強盗罪となる。
法の華の教祖は、法廷で「天の声」を証明できなくて、懲役13年
の実刑判決を受けた。君は、神や霊を、法廷で証明できるか。
905 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 16:53:33 ID:+6IlnWwe
なんた、ここの末法仏教徒達は。イリュージョンタンクのことも知らないのか。
そこに入ると瞑想修行が進むぞ。もっとも君らは、テクニック面で、
一番大事なものがすっぽり抜け落ちているから、いくら深い瞑想をしようとも、
真理に至ることはないだろうがな。
>>902 誰も五薀には、想薀は含まれないなんて、言っていない。
また五薀のひとつに過ぎない想薀が真我だとも言っていない。ただおまえが、
五感からの感受作用を無くせば、自分を認識する意識も消滅するなど、
頓珍漢なことを言っているから、嘘を付くなと、言ったんだよ。
しかし論破されそうな相手が現れると、いわれのない、アーレフだの、オウムだのと、
レッテル貼りするとこなんざ、根性の汚さは相変わらずだな。
今度は、相手の論説を、違うものにねじ曲げて、反論してくるよ。
だいたいこういう輩は行動パターンが決まってる。自分が敵わない論敵には、
いわれの無いカルト認定のレッテル貼り。相手の論説のねじ曲げ。
そして論破された自説にいつまでも執着し、いくら論破されても、日がたつと、
また壊れたスピーカーのように繰り返す。2chをやって、君らのような人種がいることを発見できたのは、
ある種の収穫だ。君らは、邪悪なんだよ。
いくら言葉遊びの妄想で、時間の流れなどないんだべ〜。これで不老不死だべ〜と 能書き垂れたところで、我々は歳を取り、そして死ぬ。 言葉遊びの妄想にふけっていても現実はそうだし、君らの屁理屈仏教で、この世の苦は無くならない。 君らの末法仏教は、現代の心理カウンセラーにも劣る、糞の役にも立たない、 ただの言葉遊びの妄想。そんなに言葉遊びでしかない、妄想の世界は楽しいかい?(苦笑)
907 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 17:18:33 ID:kxyWG+xz
ありゃ? カラスって、アレフだったの? 今までの言動からして、「統一」かと思ってた。 違ったか?
908 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 17:46:52 ID:Cn8cpMTU
他人の宗派など、どうでもいいだろう。 肝心なのは、あなた自身が悟れるかどうかだと思う。 空や幻を目指していたら悟れないだろうし、 かりに悟ったとしても、空や幻など有り難くも尊くもない(~~)
909 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 17:47:03 ID:74RmQy2G
>>905 人間は生得的に自己同一性があるわけではなく、
感受とか言語において自他分別して逝きます。
この過程がいわゆる「自我の芽生え」ですね。
(これが、人間の迷いの本質的なものです)
瞑想ってのは、そういった一連の日常性から隔離した、非日常への追体験なのであります。
これが簡単でないのは、瞑想中に雑念が浮かぶことでも貴殿は承知であろう。
>感受する主体と、その対象が明確になる。→(主客分別)
>感受なくば・・・そもそも「自分という認識はない」。
>>887 瞑想ってのは、本来がこういうこと↑なんです。
自己同一性は消失します。→これが理想なんです。
貴殿がタンクに入って想念が起きるのは、これは雑念というもんですね。
幼少からの五蘊の影響は、記憶として蓄積されてる証左であります。
これで勘違いなdでも論をインプットされますと、
人間というのは簡単に騙されてしまいますね。
>これで不老不死だべ〜と
「不老」ではない「不死」ですね。
仏教修行というのは、ある段階になりますと自我破壊があるのです。
それを起点として「自我消滅」→「不死」という流れになります。
正法眼蔵においても、この記述がありまして、
「身心脱落」とか道元が逝ってますね。
これが不死です。
910 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 17:59:01 ID:Cn8cpMTU
>>887 机龍之介 氏
>哲学・宗教というジャンルに囚われない、自由な発想が大事かと思ふ。
★ そうはいかない。大乗が哲学なら、宗教法人を辞退すべきだろう。
>感受なくば・・・そもそも「自分という認識はない」。
>つまり、自分という自己同一性は「関係性においてもたらされる」。
★ 話の流れを読まないから千鳥足になる。
もともと、Aは肉体が無い、Bは生命が無い、AとBは縁起しているのか?
という話である。それを主体客体に変え、最後は自己同一性?
911 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 18:00:50 ID:/hR0y99W
熟睡状態や死亡状態wとサマーディはどう違うん。 この区別を付けられないのが「言葉遊び」の限界な気がする。
912 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 18:06:13 ID:Cn8cpMTU
>>909 >「身心脱落」とか道元が逝ってますね。
道元が塵儘脱落をカン違いしたという話を聞いたことがある。
眼横鼻直が道元の悟りなら、そんな程度だろうと思う。
913 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 18:25:04 ID:74RmQy2G
>>910 >そうはいかない。大乗が哲学なら、宗教法人を辞退すべきだろう。
もともとインドというのは「哲学」とか「宗教」とかを分類する概念はない。
そういう懐の深い、風土とか慣習が偉大な宗教者&哲学者を輩出している。
釈尊、龍樹、達磨、クリシュナムルティー、これらはインド出身です。
仏教は哲学的アプローチが可な、稀にみる思想でもある。
しょせん、宗教・哲学・思想と分類することに意味はない。
(日本の風土においては宗教が正しい)
>もともと、Aは肉体が無い、Bは生命が無い、AとBは縁起しているのか?
「縁起してるか?」ったって?
それは自分しか分からんだろうよw
美女と醜女の10人に囲まれて、誰と縁起してるのか?
それは囲まれたご本人しか分らん。
貴殿が死ぬと、縁起することはない。
914 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 18:33:20 ID:Cn8cpMTU
>>852 析空 氏
>三句、肉体が無ければ生命は無い。
>これは、自明の理であって、証明の必要がありません。
>肉体が滅んだとき、生命の死と呼びます。
>もし、生命は死なないというのであれば、そう主張する人に証明責任があります。
あなたに証明責任があることが理解できないようですね。
生命が縁起していて空であることを主張したのは析空氏自身です。
では何と相互依存しているのか、という問いの答えが<肉体>でした。
しかし<肉体>では、縁起の定義から疑問が生じてしまう。
その疑問に答えるべきなのは、生命が肉体と相互依存して空になる
と主張している析空氏ではないですか。
肉体が滅びても、生命は滅びないかもしれない。
この疑問に答えられないなら、
生命と肉体は縁起しているから空、と断定できないことになる。
915 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 18:43:10 ID:Cn8cpMTU
竜樹は縁起の破壊者だろう(~~) 中論1章10詩「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には 有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、 <このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。」
916 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 19:00:18 ID:DcdXQJw+
>>915 「これがあるから、あれがある」では、「これ」と「あれ」自体の縁起性がは
っきりしない。単なる「因果関係」「業報関係」だと誤解する者が出てくる。
竜樹は、釈尊の命題のその曖昧さ、矛盾を解決したのだよ。まさに、釈尊が教
えた「自灯明」を、竜樹は身をもって示したのである。
917 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/07(金) 19:19:30 ID:74RmQy2G
>>915 中論は文章をよく読むスキルが重要ですよね。
<ある>とか<ない>ってのは、そもそもそれ自体が相対した関係を有してるわけでして、
その相対関係を論拠にしては、縁起ってのが説明がつかない。
ってことですよ。
つまり、縁起を第一義諦にすることにおいて、
その相対としての<ある>と<ない>が成立する。
(主客の説明がつく)
<ある>とか<ない>とかは、第二義諦でありまして、
これは二項対立の相であります分別智であります。
(色即是空の「色」ですね)
<このことがあるとき、このことがある>
というのは世俗諦としての説明。
だからこれを<可能ではない>と、否定している。
918 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/07(金) 19:28:51 ID:Cn8cpMTU
>>917 第一義諦とか世俗諦とか、そろそろ忘れたほうがいいと思う(~~)
919 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 19:37:04 ID:DcdXQJw+
>>910 >大乗が哲学なら、宗教法人を辞退すべきだろう。
大乗は、如何なる西洋哲学も及びもつかない大哲学だから、宗教でなくても
一向に構わない。
宗教法人法は、「宗教は公益的要素を有する」という理由で、宗教に特別の
利便を与えている。憲法の「信教の自由」を、わざわざ繰り返して述べている。
しかし、実際上は、宗教に公益性はない。あくまで自己満足の追求に過ぎない。
そして、常に、社会における争いの原因となる。神や霊など、製造原価ゼロの
商品を利用して多額の利益を上げることができる宗教は、まさに「最も美味しい
営利事業」である。それに無税!!すべての個人も企業も、税金を支払うために
汗水たらして働き、社会に貢献しているのである。
少なくとも、宗教に、公益性を理由として特典を与えることは、一切廃止すべきで
あるし、憲法の「信教の自由」も、再検討すべきであろう。憲法の、「信教の絶対的
自由」は、戦勝国米国が、キリスト教の布教のために加えた規定に過ぎないのである。
憲法は、あくまで社会や人間を守るための手段であり、「公共の福祉」の制限のない
「絶対的自由」など認めることは、憲法や法律の自己否定ではなかろうか。
公益性の要素など実際には皆無で、人間の生来の人格の破壊と社会常識からの逸脱を
生じる宗教は、今後、人間社会から一掃されるべき、人間の倒錯に過ぎない。
920 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 20:10:03 ID:1oydV9u3
>>915 >有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、
><このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。
これのどこが疑問なんだろ。
有性(このこと)が無いからこのことがあることは可能ではない、いってる
だけだろ。これは縁起ではない。
独自性が無ければ個物(実体)は存在しないというだけ。
921 :
旧7 :2009/08/07(金) 20:14:00 ID:92GDKXro
┼─┨ | カナカナカナ・・・ ┼─┨ Ω ┼─┨ | ┼─┨ [] チリーン ┼─┨ ┼─┨ ┷━┫ 酒⊂(д` ) だから次スレは要らないって言ったのに・・w ┃ ==============⊂ \ ━━┛ || || ノ,_) ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒⌒~⌒~⌒⌒~⌒~⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
922 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 20:51:25 ID:Dx8nCLuL
夏草や 魑魅魍魎たちの 墓場かな
924 :
旧7 :2009/08/07(金) 21:28:54 ID:92GDKXro
>>922 ワシが抜ければスレが終わるとでも?www
お前のオツムも、おめでたいようだなw
925 :
神も仏も名無しさん :2009/08/07(金) 22:05:59 ID:Dx8nCLuL
>>924 君にとってはそれで終わるだろ、他人のことはほっとけ
他人を思いのままにすることはできない、
強いれば互いの苦を生むのみ
以下を捧げよう
地を覆い尽くす皮がどこにあろう。
靴の皮だけで地は覆われる。『入菩提行論』5.13
926 :
析空 :2009/08/07(金) 22:16:19 ID:0QYiE+6C
>>865 一般に肉体の死後、存続するとされる魂を<生命>とは呼びません。
肉体の誕生が生命の始まり(生)であり
肉体の死(滅)が生命の終りであるという
「自明の理」(一般常識)ですら、合意が得られないのであれば、
これ以上、貴方と<生命>についての合意は不可能と判断します。
貴方のいう<生命>は、あまり一般的では無いようです。
927 :
析空 :2009/08/07(金) 22:21:18 ID:0QYiE+6C
どなたか、世俗諦と勝義諦について話をされてましたが、 世俗諦とは、一般常識。 勝義諦とは、真理。 と思います。 先ずは使用する用語で合意できなければ、そもそも議論は不可能です。
928 :
旧7 :2009/08/07(金) 22:23:37 ID:92GDKXro
>>925 ハァ? (゚∀゚)?
なんか勘違いしてないか?
テーマについては一区切りつき、
スレタイ(≒宝珠の意図)から外れまくって、
龍樹や中論及びキリスト教について議論が為されるなら、
然るべきスレへ移動するか、スレタイを変更するかした方がいいのでは?
と言ってるだけさ。
>君にとってはそれで終わるだろ
ワシ個人としては、ニヤニヤしながらチェックする楽しさもあるので、続いてくれても構わないわけだが・・・。
ただ、(一時のことならまあいいが)、
建前上、スレタイ(或いはテーマ)との乖離し過ぎは如何なものなのかな?
と思うので、小舅的台詞を入れたんだが、そういう程度のレスにマジレス返されても困るがなw
929 :
析空 :2009/08/07(金) 23:07:56 ID:0QYiE+6C
>>905 イリュージョンタンク?
そんな名前は知りませんが、五感をシャットアウトする部屋なら、工業高校にあります。
無音響室といい、外界の音や電波を遮断する部屋です。
工業製品の実験に使います。
音響メーカーにも当然あります。
それのモノマネでしょうね。
知っているから偉い訳ではありません。
930 :
いかりや長介 :2009/08/07(金) 23:09:20 ID:CnU2/kh7
>>927 >勝義諦とは、真理
こりゃだめだ。
「合意」?
この一言で議論に値しない落第生だとわかる。
おんどりゃー、シバキあげたろか!
真理なんてないんだよ。
「理」は言語論理で表現することを前提とする以上、
あくまでも仮設・矛盾表現としての世俗諦(指)でしかありえない。
勝義(月)はプレロジカルに直覚的に掴むしかないんだよ。
今までの大量のスレッド消費は全くの無駄だったようだね。
もう止めといたら?
このことがあるとき、このことがある →とき、このことがある →とき、このことがある →とき、このことがある、… つまり、ずーと、「このことがある。」
>>396 >>397 >MantA → mantAya、mantetiのger. 考慮して、熟考して。→「よく(≒智慧をもってして)思量して」。
> 或いは女性形単数主格で「智慧」(水野辞書)/mantar賢者・賢人から「智慧」。
mantA は manteti の gerund (=absolutive)、意味は「考量した後で、考量しつつ」、
または副詞と見ると「考量して」となるでしょうが、これを適用すると、
水野訳では mantA "asmI"ti (考量して「我あり」と)、
中村訳では "mantA asmI"ti (「考量しつつ我あり」と)と解釈したと思われます。
しかし、もしかすると水野訳「真慧もて」は、mantA (f. 慧)の instr/abl/dat/gen に、
mantA 形もあるとして訳されたものかも知れません。
また中村訳に関しては、ablative や 'tasmA' を用いれば、デカルトの donc/ergo (故に)と
同じ意味になるでしょうが、gerund では、その点が明確ではないと感じます。
なお、「『われは賢者(mantar)なり』と」と訳すのも可能ですが、文意上は疑問です。
いずれにせよ Sn. の古層には、sikkhe nibbAnam attano. (940)、岩波全書『サンスクリット
文法』(pp.45, 244)の訳語を参照すれば「自我の消滅を学びなさい。」となる、強烈な(?)一言
があります。もちろんこれは「自我(ありとの思い)の消滅」ということでしょうが。
933 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 01:26:21 ID:C2iSvEC1
>>930 「世俗的なことにもとづかなくては、第一義は説示されえない。しかも、第一義
に到達せずしては、涅槃は証得されない。」(中論の頌第24章10)
結局、「世俗的なことにもとづかなくては、涅槃は証得されない」ということに
なる。さすがに竜樹は、ポイントを突いている。
道元禅師も、同じような考えだと思う。
934 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 06:54:02 ID:SqAm4ewf
935 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2009/08/08(土) 07:30:13 ID:vcu/4bA6
>>918 E0E氏
>第一義諦とか世俗諦とか、そろそろ忘れたほうがいいと思う(~~)
第一義諦というのは重要なのです。
どうしてか?というと、拙者が
>>909 に書いたよぉに
>仏教修行というのは、ある段階になりますと自我破壊があるのです。
>それを起点として「自我消滅」→「不死」という流れになります。
幼少の頃に芽生えた「自我」は、第一義諦において破壊されてしまうのです。
これを釈尊は「無我」と言うておるのですが、
破壊された「我」は、既に「非我」も「アートマン」も・・・
跡形もなく消滅してしまうのです。
この相を道元は「円相の位相、即心即仏」などと言うておりますが、
これを説明しますと、
無我ですから→我がない→我がないから死ぬことはない(大死ともいう)
→不死→生死不二
という流れになるのです。
と、ここまで既に明白になっておるんですから、
>>1 にあります論題は、既に結論を見るんじゃ〜ないですか?
936 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/08(土) 08:10:31 ID:q2buW3gD
>>926 >肉体の誕生が生命の始まり(生)であり
>肉体の死(滅)が生命の終りであるという
これは、肉体を自分だと思うものであり、世尊が否定している。
死王は、肉体に執着した思いを利用し、人を死の世界に連れて行く。
しかし煩悩を消滅させたとき、
残されたものは<生命>そのものであり、
生命は永遠に滅びないという<不死>の世界を知ることになる。
>>902 おまえさ、十二支縁起くらい知ってんだろ?
無明から行(志向作用)が生起し、それらに縁して、識(識別作用)が起こり、それに縁して、各色(物質現象、肉体、精神)が起こる。
それから、それに縁起して六拠だ。あれありて、これあり。あれなければ、
これも無し。おまえの言う五感からの感受の六拠は、十二支縁起の各色の部分、
物質現象からの、この肉体。その肉体に付随する精神。これが先にあり、
これが止滅しない限り、六拠は無くならないし、たとえタンクのような道具を使い、
物理的に五感からの入力を無くしても、肉体に付随する精神は決して無くならないし、
今のこの肉体に付随する精神がある限り、私という認識は消えて無くならない。。
こんなのは小学生でもわかる理屈なんだがな。では私という認識を無くすにはどうするか?
それは十二支縁起を逆順に考察すればいい。各色(物質現象、肉体、それに付随する精神)は、
行(志向作用)によって起こるゆえ、行を滅すればいい。ではその行を滅するには?それは、
無明により生起するのだから、無明を無くせば、生起しない。
全ての元となる無明を滅すれば、行(志向作用)も起こらず、行が生起しなければ、識も起こらず、
識が起こらなければ、各色(物質現象、肉体、精神)も起こらない。ここに、私という認識、
精神の滅があり、私という精神がなければ、初めて、六拠の滅があり、
五感からの感受作用も無くなる。引いては、生老病死は無くなり、ここに苦の滅がある。
無明を無くすということは、この世に再び生まれてこないということだ。ここに苦の滅がある。
なにが、五感からの感受を無くせば、識別作用も無くなり、私という認識も無くなるだ。
五感からの感受作用を無くしても私という認識は消えて無くならないし、
縁起を理解していないあんたの話は、仏教思想とも違うし、あんたの話はでたらめなんだよ。
938 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/08(土) 08:23:11 ID:q2buW3gD
>>935 >無我ですから→我がない→我がないから死ぬことはない(大死ともいう)
>→不死→生死不二 という流れになるのです。
無我という最初の設定が誤っている。
そのために無我の流れは、無明そのものに成り下がっている。
我がない → 脳死状態 → 生死不明 → 虚無主義
939 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 08:29:07 ID:UrCEtU2F
>>936 >生命は永遠に滅びないという
これも釈迦によって常住論として否定されているから
外道の戯論だね。仏法ではない。
940 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 08:30:07 ID:qyfGCjby
>>902 机よ、五感からの感受を無くせば、
私という認識は無くなるというおまえの話は、順序が逆なんだよ。
仏教を語るなら、十二支縁起くらい理解して語ろうや。
941 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/08(土) 08:39:01 ID:q2buW3gD
>>939 肉体は滅びる → 常住ではない
生命は滅びない → 断滅ではない
942 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2009/08/08(土) 08:42:29 ID:kifMaSZB
これが定義に使えますかね! 『真理は、俗諦と真諦、この二つの諦がある。 世俗諦は、縁に合せた、相対的な真理であり、 勝義諦とは、縁を越えた、絶対的な真理である。』 (『入菩提行論』(ボーディチャルヤーヴァターラ)第9章) 〜なんだそうです。
943 :
神も仏も名無しさん :2009/08/08(土) 08:49:20 ID:JnL8YEpZ
>>942 >縁を越えた、絶対的な真理
とは何?真理の定義に真理を持ち出すのを循環論法と呼び、定義には
なっていない。
944 :
◆xQ2N4RcE0E :2009/08/08(土) 08:52:23 ID:q2buW3gD
942 二諦を説いた竜樹自身が因縁(縁起)を否定している。 ものは最初から空なので、世界は縁起というものを必要としていない。 中論1章10詩「それ自体(本体)の無いもろもろのもの(有)には 有性(有ること一般)が存在しないがゆえに、 <このことがあるとき、このことがある>ということは可能ではない。」
仏教は涅槃に至る道なんだから当たり前だろうが。 この世、あの世のいかなる執着をも絶つのが仏道だから。 頭悪すぎ。
946 :
いかりや長介 :2009/08/08(土) 09:05:51 ID:p2VzHLfA
>>942 >勝義諦とは、縁を越えた、絶対的な真理である。』
>(『入菩提行論』(ボーディチャルヤーヴァターラ)第9章)
誤り。
シュレッダーにかけた方がイイ。
それなら悟り及び如来は否定されるべきだな。 縁起するものは滅びるものだから。
948 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :
2009/08/08(土) 09:22:57 ID:kifMaSZB >>943 >定義にはなっていない。
そうですか?
>縁を越えた、絶対的な真理
>とは何?
「縁」とは現象界(の性質)のことでしょう!
そうすれば分る。
>>946 確かに、
言葉足らずの短文ではありますが・・でも、
何がそんなに間違いなのか??が、私には意味不明ですが・・。
「誤り」だけじゃなくて、
あなたはご自分でちゃんと解説ができます??