○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○

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1渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
前スレ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その4)●○
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/
 が512kを超えて書き込み不能になったので、新スレを立てます。

 親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
 親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからできるだけ分か
りやすく、試行的に答えてみたいと思います。
 渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立場から答えさ
せていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、大谷派の坊さんも常駐しています。教派的
な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂けると思います。
 なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、私宛の質問
は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
 宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関する質問に限
定したいと思います。

 地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽浄土には、
どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというのは、本当か。死んだら
極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏になるのか。お釈迦様の悟りって
何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」
は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏しら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。
極楽って何?。地獄って何?。阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄
土に行きたいとも思わないんだが、それじゃいかんのかね?。

 今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思います。本派、
谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。
2渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/26(金) 22:19:09 ID:Y9ZIqiYn
 目下、ブログ親鸞仏教で、浄土について議論を続けています。
 もしよかったらそちらものぞいてください。

  www.しんらん.jp
 
 こちらでは、2ちゃんねるらしい議論をしたいと考えます。

五会法事讃略抄(親鸞真筆 高田専修寺)は、一般ではほとんど入手できません。
以下で公開してあります。興味のある方、読んでみてください。

 http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/syuu/5kai-1.html
3 ◆K3PkkhVAkA :2009/06/27(土) 21:38:52 ID:rxb2tyKL
その4がふたつ(^-^)
4神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 01:12:25 ID:M7eqorN2
>その4がふたつ(^-^)

 そうなんだよ。もう直らないもんね。
 これで行くしかない。        (//▽//)
5 ◆K3PkkhVAkA :2009/06/28(日) 01:54:51 ID:JOSWRgsG
がんばって(^-^)
6神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 12:22:06 ID:9NgYT8EM
教学力のない渡海難へ

比叡山の修行をやめよとおっしゃった法然上人のお言葉も知らないとはね。

浄土門のイロハも、知らないなら、偉そうなこと言うんじゃないよ。

大谷派のノータリン坊主
7渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 14:51:08 ID:M7eqorN2
>>6
>比叡山の修行をやめよとおっしゃった法然上人のお言葉も知らないとはね。

 これは、本願寺派の伝統教義ですか?

http://www.jodo.or.jp/jodoshu/people/syoku.html
http://www.jodo.or.jp/

 善恵房証空
 法然に常随すること23年、浄土教の深義に達し、円頓菩薩戒を相伝した。このころより
師の推薦によって日野の願蓮について天台学、政春について台密の研鑽を始めた。
1212年(建暦2)法然の入寂に遭い、慈円の譲りをうけて、東山小坂の地より、西山善峰
寺北尾往生院(三鈷寺)に移り住んだ。法然滅後4年、1215年(建保3)より嘉祿の法難の
直前、26年(嘉祿3)にいたる12年の間、往生院を本拠地として京洛内外三十数か所を往
復して、ほとんど連日『観経疏』を始めとする善導の著述の講説にあけくれた。その講説
の記録は現在『観門要義鈔』41巻として現存する。
 27年(嘉祿3)の嘉祿の法難に際して信空とともに流罪を免がれている。29年(寛喜1)奈
良当麻寺に参詣して『観経曼荼羅』を拝見し、以後その流通に努めた。43年(寛元1)2月
1日西山において門弟とともに三部経などを書写供養し、来迎仏の胎内に納めた(山崎
大念寺来迎仏胎内文書)。また同年後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建し、たびた
び宮中に参内して西山義を講じ、菩薩戒を授けた。47年(宝治1)道覚法親王のために『鎮
勧用心』を、また皇太后のために仮名法語(『女院御書』)をあらわした。同年11月22日往
生の間近いことをさとり、門弟に対して菩薩戒および『観無量寿経』の要義を示し、24日
天台大師講を行ない、翌日泉涌寺明観のために『菩薩戒義疏』の要義を談じ、ついに26
日大衣を着し、『阿弥陀経』を読誦し、念仏合掌して白河遣迎院において入寂した。時
に、71歳。門弟、遺身を西山三鈷寺に葬り、塔をたてて華台廟と称した。
1796年(寛政8)には鑑智国師の諡号がおくられた。証空が建立した主な寺院には、西山
往生院を始め、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院などがある。
8渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 14:52:16 ID:M7eqorN2
 親鸞より若いけど、法然門下では親鸞の先輩になる。嘉祿の法難の後は
事実上法然教団の代表者になる。

 法然上人が、比叡山の修行をやめよとおっしゃっていれば、証空上人は教
団からも世間からも相手されなかったんじゃないの?

 比叡山の修行をやめよとおっしゃった法然上人の言葉を、浄土門のイロハ
で出してみなさいな。貴方が示せば、貴方の業績は歴史に残るだろう。天台
宗と浄土宗の両方を掲げている善光寺は、歴史的な分割を起こすかも知れ
ないよ
9渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 15:03:30 ID:M7eqorN2
>>6
> 大谷派のノータリン坊主

 誰を指しているかのか知らないけど、「宗派の我」をむき出しにした不愉快な
書き込みは止めた方がいいだろう。

>比叡山の修行をやめよとおっしゃった法然上人のお言葉も知らないとはね。

 自信があるなら、浄土宗西山派に教えに行くといいだろう。
 先方が知らなかったことを教えに行けば大歓迎されるよ。
10渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 17:18:16 ID:M7eqorN2
 渡海難への誹謗記事について。

 渡海 難への執拗な誹謗中傷が後を断ちません。創価学会と藤原弘達さんとの
間の言論出版妨害事件が思い起こされます。

 googleで 渡海 難 を検索します。
 http://www.google.co.jp/search?q=%93n%8AC%81@%93%EF&hl=ja&lr=lang_ja&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5&num=20

 渡海難を誹謗中傷する記事が一番に上がってきます。記事を毎日上げて
いる人がいます。

 2ちゃんねるでも非常に激しい誹謗中傷が続いています。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1205382068/448-450
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1205382068/481-490

 前スレでノートントラップという卑劣な仕掛けがかけられた直後のスレを
紹介します。

 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1236603306/195-198
195,197は、渡海難の書き込みです。193が張本人だろうと思いましたので、
引っかけてみました。>> 195です。
 予想を上回る反応がありました。間髪を入れずに感情的な書き込みが>> 196
に入り、その直後、慌ててそれを打ち消す>> 197が入りました。そうとう狼狽し
ています。自分が犯人であるという告白の書き込みでしょう。

 彼らは、非常に劣等感の固まりであることは困ったことです。
 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1211038645/531
11渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 17:54:41 ID:M7eqorN2
>>7
 心配になった。読み飛ばされたら残念だ。

 証空は、
 法然に常随すること23年、浄土教の深義に達し、
 法然から円頓菩薩戒を相伝した。

 法然が健在なこのころより、師の法然上人の推薦によって日野
の願蓮について天台学を学んだ。

 証空は、法然上人の推薦によって天台学を学んだ。という点を読
み飛ばさないで欲しい。

 比叡山の修行をやめよと法然上人が言ったというなら、いつ言った
か、明らかにしてほしい。
12神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 18:02:01 ID:fa+77Szg
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1171329640/877
詳しく書いてありますよ。

神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 12:50:27 ID:9NgYT8EM
教学力のない渡海難へ

>「比叡の修業は時機不相応だからやめよ。と教えられたのが法然上人」なんて、こんな
>馬鹿話につきあうのは今日までだ。

>比叡の修業は〜やめよと教えたという証拠はないと思います。あれば教えて貰いたい。

とまで言い切っていますが、

法然上人の

「初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために
説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはちこれ助正のために説く。
いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ
傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正
となし、諸行をもつて傍となす。」

にはっきりと、比叡山の修行はやめよ、と仰っています。
13神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 18:29:42 ID:fa+77Szg
「浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)」にもこのような表現がありました。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/03_01_20.html

源空上人は、<とにかく凡夫の往生できる道>を具体的に探り、できない道を捨てて念仏一筋に帰されました。
実用主義と申しますか実務家肌のところが特徴です。例えば、[念仏の止住] を見てもらうと、そうした面が如実に
表れていまして、「菩提心の行相を説いてはいない」ということで菩提心さえ捨て、「念仏を称える」ということに
徹していかれます。
 乱暴な表現になりますが、<とにかく念仏を称えることを中心に生活しなさい、それ以外の行、例えば智慧も
持戒も菩提心も慈悲も、あらゆるの補助の行も往生の妨げになる>というような過激な指導です。当時の仏教界の
反発は必至でしょうが、そう説かざるを得ない仏教界の有様や社会状況があったと考えられます。いわば宗教界
における革命であったわけです。
14渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/28(日) 18:46:29 ID:M7eqorN2
 選択集を見直してみました。「いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正
となすのみ」とありますね。まあ、確かに諸行は廃せんがために説く、念仏は
立せんがために説く。これが正であるということかも知れませんね。

 「比叡山の修行はやめよ、と仰っています。」
 まあ、返答は保留させてください。諸行は廃するというのは、比叡山の修行は
やめよということなのか。
 そうかも知れないし、そうではないのかもしれない。教義として廃するということ
と、修行はやめよ、ということがイコールになるのか、僕には判断できない。

 僕が間違っているのかも知れません。
15神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 18:51:05 ID:fa+77Szg
>>14
御返答ありがとうございます。

私はこれ以上言うつもりはありません。

私もよく間違いを犯します。切磋琢磨して、仏教と親鸞聖人の教えを学んでいきたいと
思っています。

今後も、いろいろと教えてください。
16神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 19:03:28 ID:bskFQ26t
う−ん少し違うんだな2人とも。凡夫の救われる道ではなくて自分のような愚かな凡夫なんだよ。
自分に引き寄せて法然も親鸞も言っているんだよ。
17神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 19:16:05 ID:bskFQ26t
また真宗はどうも理解出来ないところがおおいね。
その1−−18願は十方の衆生が至心信楽して阿弥陀の国に生まれたいとおもって
十念する。ただし5逆の者とそしる者は除くという願だろ。
でその前に17願があって諸仏が阿弥陀ぶつを褒め称え、それを聞いて衆生が至心信楽して
アミダの国に生まれたいと思い十念するわけだ。
ところが親鸞というのがこの至心信楽欲生のこころは凡夫には無いといっているだろ。
そうだったらこの願は成り立たないだろ。凡夫に出来ないものを誓っている願となるぜ。
そこはどうなんだ。
18神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 19:17:06 ID:pJeWk2ig
>>15
仏教と親鸞聖人の両方を学ぶ必要はない。仏教だけ学べば十分。親鸞の
教義は仏教ではない。
19神も仏も名無しさん:2009/06/28(日) 19:57:04 ID:pJeWk2ig
親鸞は原典を読んでいない。sukhaavatiiの原義から学ぶ必要がある。
渡海難に原文の質問をしないように。何も知らないから。
20渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/29(月) 10:59:48 ID:SYGgkvFB
>>17
 18願・17願というのは、もともと大無量寿経に書かれている。大無量寿
経の冒頭には、曹魏天竺三蔵康僧鎧という名がある。曹が支配している魏
の国の住人、天竺からやってきた三蔵法師、康で生まれた僧侶の鎧とい
う人が翻訳したと言っている。
 当然のことながら、大無量寿経には親鸞の親も鸞も書いてない。親鸞フィ
ルターを付けず、一切の解説書を忘れ、裸になって鎧さんの考えを教わりま
すという姿勢で大無量寿経を読むと、ものすごく参考になる。親鸞フィルタで
は消えていたもの、今まで見えなかったものが見えてくる。気づかなかった
ことが気づけてくる。そこから、もう一度、親鸞フィルタをかけてみるといいと
思う。
21渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/29(月) 11:09:12 ID:SYGgkvFB
>>18
>仏教と親鸞聖人の両方を学ぶ必要はない。仏教だけ学べば十分。親鸞の

 学ぶ目的があると思いますよ。仏教と親鸞聖人の教えとは違うというのは
一つの見識だと思います。僕の中では別々になってないけど、二つは違うと
いう考えは、当然あっていいと思う。

 仏教と親鸞聖人の教えとは違うというなら、それを学ぼうとする目的に違い
が出てくる。どういう目的のある人が仏教を学ぶのか、別のどういう目的の
人が親鸞聖人の教えを学ぶのか、目的によって違ってくると思う。

 目的のない学習は意味がないと思います。目的実現に最適なツールは何か
それを仏教と親鸞聖人の教えとの二者選択の中で天秤にかけるというのは、
非常にうまい方法だと思う。

 目的が違えば、キリスト教を学ぶ人もいれば、イスラム教を学ぶ人もいる。
さまざまな各種哲学を学ぶという選択も当然あるでしょうね。
22渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/29(月) 11:37:48 ID:SYGgkvFB
>>19
> 親鸞は原典を読んでいない。sukhaavatiiの原義から学ぶ必要がある。
> 渡海難に原文の質問をしないように。何も知らないから。

 あなたが sukhaavatiiの原義を学ぼうとする目的と、僕が親鸞の考えを
学ぼうとする目的が違うようですよ。
 目的が違う人間に対し、手段の違いを問題にしても、あまり意味はない
でしょう。

 親鸞の教義は仏教ではないというなら、その意見には、賛成はしません
が、反対もしません。
 あなたがいう仏教とは異なるところの親鸞の教えを学ぶ目的が僕の中に
あるといえば、何か分かってもらえますか?。
23渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/29(月) 13:33:54 ID:SYGgkvFB
 ぶろぐ親鸞仏教の掲示板「百家争鳴」で、親鸞会会員の質問に回答しています。

http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/hyakka/soomei.html

1)この思想で信心決定は20願⇒18願だと思いますが、その転入は一念ですか?
(それとも段々疑いは晴れるとお考えでしょうか?)

2)仮土と20願の処に書いてありますが、娑婆に仮(化)土があるというお考えですか?

3)S会はまず3願転入しなければアリ一匹助からないといってまず要門として諸善を勧めています、
念仏は要門を進んでいくと称えずにおれなくなるといいます。この思想についてどのようにお考えで
しょうか?
24神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 16:12:47 ID:jrVcXCmd
>>17
48願系は増広型。古形は24願系だったと記憶しているが。一応そっちも
調べてみてください。
25神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 19:07:45 ID:gfQd5/+b
17番ですが読んでおかしいと思うところを質問しているわけでして、答えを
求めているわけです。
要は阿弥陀仏は一切すべての生きとし生けるものを無条件で救うのか、それとも
条件があるのかを知りたいのです。 大経を読むとまず聞名をして至心信楽欲生のこころで
十念せよと条件がある。さらに除かれる者もいる。するとすべての者をアミダは救いたいという希望は
あるけど実際は聞いて清らかな心で十念したものは救われるとなるでしょ。
またどうして十念が称名なのですか。
おまけに親鸞という人は至心信楽欲生のこころは凡夫にはないといってる。それじゃ凡夫は18願では
救われないわけですよ。この辺はどうなんでしょうか
26渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/29(月) 19:55:15 ID:SYGgkvFB
>>25
 問題の趣旨は分かりました。渡海難に質問しているんだろうと思います。
本日は多忙です。渡海難は明日以降に回答します。ほかにどなたか、この問
題にレスしてくださるかたがいれば嬉しいです。
27神も仏も名無しさん:2009/06/29(月) 21:06:00 ID:WCTii/xO
読んでおかしいところを私も質問する。

まず仏教のお経は凡夫に説いているはず。それを「凡夫にはできない」などと
言う宗派は、仏教そのものを否定してるのではないか?これが私の一番の疑問
です。
28神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 09:30:09 ID:84hy+Tqo
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    | /  (・)  (・) |   | てめーなんだよこの糞スレは!!
  /⌒  (6     つ  |   | てめーは精神障害でもあんのか?
 (  |  / ___  |  < 何とか言えよゴルァァァァァァ!
  − \   \_/  /    \__________________
 //  ,,r'´⌒ヽ___/     ,ィ
   /    ヽ       ri/ 彡
  /   i    ト、   __,,,丿)/        ζ           
 |    !     )`Y'''" ヽ,,/      / ̄ ̄ ̄ ̄\        
  ! l   |   く,,   ,,,ィ'"      /.         \ 
  ヽヽ  ゝ    ! ̄!~〜、       /           |    
  ヽ  / ̄""'''⌒ ̄"^'''''ー--、 :::||||||||||||||||||||||||||||||||| 
  Y'´          /    """''''〜--、|||||||||||||||||) 
   (      丿  ,,;;''  ....::::::::::: ::::r''''"" ̄""ヽ   |
   ゝ   ー--、,,,,,___      ::: ::,,,,,ー`''''''⌒''ーイ  ./
     ヽ      \  ̄""'''"" ̄   \____/-、
     ヽ       ヽ  :::::::::::::::::::: /          `ヽ
      ヽ  丿   )       /    ノ   ゝ ヽ ,〉
       ゝ      !      /            ∀
        !     |      /   人     ヽ   ヽ
        |     ,;;}      !ー-、/  ヽ _,,,-ー'''''--ヘ
          |ノ    |      |  /    Y        ヽ
         {     |      |   j      )  渡海    ヽ
29渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 11:27:46 ID:BPofWlZ5
 康僧鎧の主張ではなく、親鸞フィルタを付けて考えてみます。
 
 大無量寿経の17願とは何か。その本質は諸仏称揚・諸仏称名・諸仏咨嗟の
願です。名は体を表します。諸仏から尊敬を受けるということがこの本願の基本
にあります。
 大乗仏教は教育学です。仏陀は教育者です。教育者が教育者としてその職責
を全うする基盤は尊敬です。尊敬のないところで教育は成立しません。教育者
は、社会の哲人・賢人達から、つまり人の本質を見る目のある人々から賞賛
(尊敬)を受けることで、はじめて将来の賢人を目指す若者が尊敬をもって物事
を教わりにきてくれます。

 こういう現象は教育界だけに止まりません。作家にとっては、雑誌社の新人賞
を得ることが重要は意味を持ちます。作家は、著名な作家に才能が認められて
はじめて、文人として活躍の舞台が得られます。最近、辻井伸行さんという方が
ピアニストとして著名な国際コンクールで大きな成果を上げ、話題になりました。
彼の場合、ピアニストとしての地位はこれで不動になったでしょう。医者も弁護士
も国家資格があります。あれも、実は諸仏称揚の願との関係であると言っていい
でしょう。国家による技術知識の確認というのがその原点にあると思います。

 「この行は、大悲の願より出でたり(行の巻)」この行とは、念仏を称えるという
行をいいます。念仏を称えるという行は、諸仏称揚・諸仏称名・諸仏咨嗟の願を
大悲の願とし、この大悲の願を原点として派生した行であるということです。

 私どもは音楽の素人です。私どもが辻井伸行さんのピアノにどれほど感動して
も、その感動の程度は、専門家が彼のピアノに感動した深さ比べればおそらく比
較にならないでしょう。
 専門家の方々は、その演奏を聴き、演奏に直に感動して「凄い」という。私ども
素人は「国際的なすばらしいコンクールで一位になったから凄い」と思う。国際的
なすばらしいコンクールで一位になるほどだから、きっとその演奏は凄いんだろ
うと考えます。「凄い」の中身は違います。演奏を聴くと、我々素人は、専門家の
感動の片鱗で「ああやっぱり凄い」と感じる。専門家の解説を聞くと「ああ、もっと
そんなに凄かったんだ」と、感動の差に驚く。そういうことは決して珍しくない。
30渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 11:29:14 ID:BPofWlZ5
 われわれ素人の感動は、専門家の方々の感動に比べればものの数に入らな
いのかも知れません。しかし、我々にとって、専門家の言葉に合わせて彼を凄い
と言わせてもらうことは、実は重要な意味がある。辻井伸行さんは、専門家を感
動させることで、今は音楽がよくわからない人でも、音楽の本当のすばらしい世
界に間違いなく通じていける道を、素人の我々に開いてくれているからです。

「国際的なすばらしいコンクールで一位になった凄い人だ」。我々がそう言うとこ
ろに、辻井伸行さんは、音楽の感動の世界に入る入り口を開いてきてくれた。辻
井伸行さんについていけば、必ずや音楽の感動の世界に至る。辻井伸行さんは、
国際的なすばらしいコンクールで一位になるという形をとって、我々の前に突如
現れ来て感動の世界への道を開いてくれた。そういっていいでしょう。このように
突如現れ来て導いてくださる者を如来という。

 辻井伸行さんのところには感動の世界がある。「辻井伸行さんは凄い人だ」と言
うところには、感動の世界への入り口がある。「辻井伸行さんは、(国際的なすば
らしいコンクールで一位になった)凄い人だ」というその発言に、「入り口」がある。
あらゆる人に音楽のすばらしさを伝えようという、辻井伸行さんの思いもそこにあ
ると言っていいでしょう。仏教ではこれを与楽、つまり大悲という。

 南無とは感動詞です。梵語ではナーマスと言うそうです。阿弥陀とは先生という
意味です。仏とは仏陀の省略で先生と言う意味です。南無阿弥陀仏は「ああ先生」
という意味です。
31渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 11:30:03 ID:BPofWlZ5
 哲人達・賢人達は、阿弥陀仏をすばらしい先生だと賞賛しています。哲人達・賢
人達がすばらしいと賞賛している阿弥陀仏を、同じようにすばらしいと賞賛すること
は大事なことです。親鸞はそういう。哲人達・賢人達はその実体を知っていてすば
らしいと言います。我々は、哲人達・賢人達がすばらしいと言っているからすばら
しいと賞賛します。哲人達・賢人達と我々との間には段階に違いがあります。しか
し、哲人達・賢人達がすばらしいと言う言葉に誘われ、口裏を合わせるかのごとく、
「すばらしい」と言わせてもらうその精神性にこそ、真実の世界を身近にさせて貰
い、真実の世界に至る真の入り口がある。阿弥陀仏への近づきがある。そう言う
べきでしょう。

 阿弥陀仏は、諸仏の賞賛という形を取って我々に仏道世界に入る入り口を開い
てくれた。その入り口は、我々も阿弥陀仏を「すばらしい存在だ」と賞賛させてもら
う精神性にある。これは阿弥陀仏の大悲の願、与楽の意思、真実のすばらしさを
伝えようという意思の表れである。親鸞はそう言っていると考える。
32渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 11:52:39 ID:BPofWlZ5
>要は阿弥陀仏は一切すべての生きとし生けるものを無条件で救うのか、それとも
条件があるのかを知りたいのです。

 この問題に答えておきます。
 たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪道に更らば、
正覚を取らじ。

 阿弥陀仏の救いというのは、地獄・餓鬼・畜生をなくすというのが原点です。なく
すというのは、救うという意味か、始末するということかという疑問はナンセンスです。
地獄・餓鬼・畜生というのは、寓話的象徴的表現だからです。
 「国会に行くと、そこは狐や狸、カッパや龍がうじゃうじゃいる」と言っても、そこに本
当にしっぽをはやした狐や狸がいるということではありません。国会議員個人の意
思と行動を推測すると、人の心、人の行動とは思えない化け物のような人格の人が
たくさんいるということでしょう。

 地獄・餓鬼・畜生をなくすというのは、知恵がなく愚かなことしかできない人、知恵
がなくて身動きできなくなるような人、そういう人を無くしていくという意味です。
                                                 (つづく)
33神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 13:08:34 ID:AsZnRf7G
え−と難さんでいいんでしょうか。いろいろすみません。
でも質問していることは簡単なんですよ。阿弥陀仏は一切すべての生きとし生けるものを無条件で救うのか、それとも
条件があるのかを知りたいのです。
救いに条件があるのかないのかをしりたいだけなんです。
無ければない、あればその条件は何なのかを書いていただくといいんですが。

それと17願ではなく18願の意味を知りたいのです。至心信楽欲生の心をもって十念せよとあるんだけど
親鸞という人がこの三心を説明して凡夫にはないと言ってるわけです。
それだと凡夫に出来ない願となるわけでしょ。この辺なんですよ分からないのが。
34渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 14:10:37 ID:BPofWlZ5
>>33
>阿弥陀仏は一切すべての生きとし生けるものを

 一切ではありません。人間に限ります。猿や豚、ゴキブリなどを救うと言うことはありませ
ん。
 人間の心を失った鬼・ケダモノを救うことはありません。しかし、幾ばくかでも人の心を残し
ている者は、救いの対象になるでしょう。

>無条件で救うのか、

 条件はあります。南無阿弥陀仏を称える者を救います。
 教師は、自分を「先生」と呼ぶ者に教えを伝えようとします。自分を「先公」とか「馬鹿」とか
言ってくる者を導く責任はありません。
 しかし、形だけでも先生と呼んでくれる者には、必死に教えようと努めるのが責任でしょう。
 口先だけでも南無阿弥陀仏と称える者は対象になりません。称えない者は対象になりません。

>凡夫に出来ない願となるわけでしょ。この辺なんですよ分からないのが。

 親鸞仏教の核心部分です。次に説明します。(明日以降)
35渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/06/30(火) 14:33:18 ID:BPofWlZ5
>>34
誤  口先だけでも南無阿弥陀仏と称える者は対象になりません。称えない者は対象になりません。

正 口先だけでも南無阿弥陀仏と称える者は努力の対象になるでしょう。称えない者は対象になりません。
36神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 16:33:18 ID:6/GE2YwL
>>29
「親鸞フィルタを付けて考えてみます」ということですが、お釈迦様フィルタも
付けてもらえませんか。お釈迦様フィルタをつけたら何か具合の悪いことでも
ありますか。もしあったら教えて下さい。
37神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 18:33:08 ID:AsZnRf7G
なるほど、なるほど。アミダ仏は人間しか救わないわけですね。猿豚こぎぶりなどの昆虫や動物はダメ。
人間でも人間のこころを持たない鬼や獣は救わない。
また条件は口に南無阿弥陀仏をとなえることが条件ということですね。
すると赤ちゃんは救われない。また外人なんかは英語ポルトガル語や世界にはいろいろな言葉がありますけど
彼らは何語でとなえるのでしょうか。インド人と中国人、朝鮮人も日本人も同じ発音の南無阿弥陀仏なのでしょうか。
要するにナムアミダブツでもナ−ムアミダ−でもナアミダでも上手く発音できなくても仏の名をとなえたことになるのでしょうか。
38神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 19:43:00 ID:Jx7/8+wT
>>37
親鸞の知的レベルは、自分1人が救われるための理屈だけで精一杯。
39渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/02(木) 10:53:23 ID:o6zfxKDz
>>25
>それじゃ凡夫は18願では救われないわけですよ。この辺はどうなんでしょうか

 継続して親鸞フィルターで考えます。これは康僧鎧の主張ではありません。

 十七願、十八願、十九願、二十願はセットで考えます。十七願は総論、十八願、十九願、
二十願は各論と考えるといいでしょう。
 「辻井伸行さんは凄い人だ」と言わせてもらえる精神性に、辻井伸行さんは音楽のすばら
しい世界に導く入り口を開いてくれました。しかし、それだけでは普通の人は音楽のすばらし
い世界に入って行けるわけではありません。つまり抽象的に口を開いても、人それぞれの
器(うつわ)に合うわかり易い具体的な方法を実現してもらえないと、入り口を開いたことにな
りません。
 辻井伸行さんは今後、盛んにリサイタルを開いてくれるそうです。やはりリサイタルを開いて
くれないと、その世界に入っていくことは難しい。「凄い人だ」と言っているだけで、その音楽に
実際に触れさせて貰えなければ入り口は観念論となるでしょう。
 辻井伸行さんと住まいが近い人は、リサイタルの機会も多いでしょうが、遠くの人はそうはい
かない。なかなかピアノは聞ける機会がない。その人々のためには、今後CDの販売を増やす
そうです。これなら、遠方の人も触れることができます。しかし、お金を出してまで聞こうとは思
わないという人もいるでしょう。そのような人々のためには、テレビやラジオでの放送の機会も
増やすそうです。
 辻井伸行さんは、このようにして、遠方の人にも、近所の人にも、立場立場で音楽に触れら
れる機会を作ってくれるそうです。非常にいいことでしょう。人々は、「辻井伸行さんは凄い人
だ」というその思い、心を、リサイタルで、CDで、あるいはテレビやラジオで音楽を聴くという手
段をもって様々に実現することができるそうです。
 阿弥陀仏は、その名を称えるという形で、真実の世界に導いてくれる入り口を開いてくれまし
た(十七願)。しかし、世の中には三種類の人がいることを忘れてはいけないでしょう。
人に誘われなくても、自主的、自律的に阿弥陀仏を賞賛してその名を称えられる人(正定聚)。
誘われれば称えるけど、誘われなければ称えない人(不定聚)。誘われても称えない人(邪定
聚)。この三種類の人がいます。
40渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/02(木) 10:55:34 ID:o6zfxKDz
 阿弥陀仏は正定聚と不定聚に対してそれぞれ、具体的な道を準備しました。正定聚に対して
は十八願、不定聚に対しては二十願です。十八願と二十願だけでは邪定聚の人は真実の世
界に入れません。そこで新たに邪定聚に対し、お釈迦様が十九願を加えました。これが親鸞
聖人の主張です。親鸞は、教行信証で「娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄
土の要門を開く」と言います。要門とは十九願の門です。これは、偉提希の求めで釈迦が開い
たというのが親鸞の仮説です。

 阿弥陀仏は、その名を称える者を真実の悟りの世界に導こうというのが大悲の願、十七願の
精神です。正定聚機の十方衆生は、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せ
ん。もし生まれずは、正覚を取らじ。つまり、その名を意識的自覚的(乃至十念)に称え、阿弥陀
仏の心に共感し、共鳴し、その思いを享受する心(至心・信楽・欲生)の者は、真実の世界の入
り口に立つというわけです。このような人は、阿弥陀仏と価値観を共有し、共通の精神世界に
立っているというべきでしょう。

 その名を意識的自覚的に称え、阿弥陀仏と価値観を共有し、共通の精神世界に立っている人
は、必ず真実の悟りの世界に導く。阿弥陀仏と価値観を共有しなくても、共通の精神世界にも
立っていなくても、誘われてその名を称える限り、阿弥陀仏の世界に引き入れるぞ。これが二十
願です。

 「阿弥陀仏と価値観を共有し、共通の精神世界に立って名を称える人」と、「価値観を異にし、
別次元の精神世界に立って名を称える人」とは、同じように称えても、効果に差が生じることは当
然です。共通の効果も出ますが、異なった効果も出ます。

 三悪道に戻らない(二願)。輝きをもつ(三願)。宿命を識る(五願)天眼を得る(六願)。天耳を得
る(七願)等々。これらは共通と考えるべきでしょう。本当はこれだけで万民に十分なはずです。阿
弥陀仏はこれをもって、救いを実現しています。
 それでは、その全てが大乗の仏になることはできるのか。悟りを得ることができるのかといいます
と、それは正定聚機に限るというのが十一願です。
41渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/02(木) 11:02:28 ID:o6zfxKDz
 「阿弥陀仏と価値観を共有し、共通の精神世界に立って名を称える人」でなければ、仮に宿命を
識り、天眼を得、天耳を得ても、仏になることはできない。

 「当今の凡夫は、(ほとんどが)不定聚〜外の凡夫(化身土)」である。これが親鸞の理解です。こ
れでは現代の人は、宿命を識り、天眼を得、天耳を得ることはできても、仏になることはできないとい
う結論になります。仏にならなくても、宿命を識り、天眼を得、天耳を得ることができればもうそれだけ
で十分ではないか。そういう考えもあるでしょう。しかし、親鸞は悟りにこだわります。
 誘われれば称える、誘われなければ称えない。そういう人が悟りを得られる方法は無いのか。親
鸞は考えます。不定聚は、阿弥陀仏と価値観を異にし、異質の精神世界にあるのだから、阿弥陀
の悟りまでは得られないのは当たり前である。そういう主張は正しいのです。そこが何とかならんの
かというのが親鸞です。

 親鸞は二十願を読みます。そこに「果遂せずんば」とあります。「果遂せずんば」とはどういうこと
か。阿弥陀仏とは価値観を異にし、異質の精神世界にある人も、称え続けていけば、「阿弥陀仏と価
値観を共有し、共通の精神世界に立って名を称える人」つまり、今は不定聚でも、正定聚になれると
いうことではないか。誘われなければ称えない人も、誘われて称え続けていけば、やがて正定聚にな
るときがくる。親鸞はそう読んだのです。教行信証冒頭の序文で親鸞は「難思の弘誓は難度海を度す
る大船」といいます。難思の弘誓とは難思往生をもたらす誓いつまり二十願です。この二十願は、ほと
んどが不定聚である当今の凡夫を正定聚機と同様に、滅度に導く大きな船だった。そういう風に言いま
す。

 それでは、邪定聚機には救いはないのでしょうか。我が名を称える者を救うというのですから。「名
を称えるのは嫌じゃ。わしゃ、念仏なんか嫌じゃ。誘われるのも嫌じゃ」と、邪に定まっている人々は
阿弥陀の救いには預かりません。ピアノコンクールで世界的な賞を得、「あの人は凄い人だ」というそ
の名声で人々に音楽への道を開いてくれたのが辻井伸行さんです。「わしゃ辻井伸行は大嫌いじゃ。
顔も見たくない。リサイタルなどには誘わんでくれ」という人が、実際にいるかどうか知りません。

 
42渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/02(木) 11:04:39 ID:o6zfxKDz
しかし、仮にいれば、辻井伸行さんはそういう人にまで音楽のすばらしさを伝える必要はないでしょう。

 阿弥陀仏は嫌じゃ。念仏は嫌いじゃ。念仏などは称えんぞ。そういう人まで阿弥陀は阿弥陀の世界
に誘わなければならないという道理はありません。
 そうなると、末法の時代、邪定聚機には仏になる道がありません。お釈迦様はそれを心配して新た
に邪定聚機に道を開きました。それが十九願です。阿弥陀仏は嫌じゃ。念仏は嫌いじゃ。念仏などは
称えんぞ。そういう人には、そのような人々が好きそうな様々な仏道修行方法を並べ、どれをとっても
いいよという風に提示しました。その中に念仏もしのばせました(下品下生)。念仏も選択できるように
加えたのです。これが観無量寿経です。
 本当は念仏を選んでほしいんだが、真正面からそういうと嫌われてしまうから、どれを選んでもいい。
そう言っているのが要門であり、間違って念仏を選んだ人は、やがて邪定聚から不定聚となり、正定
聚となるだろう。そう考えています。これが三願転入です。

 しかし、邪定聚機はもともと阿弥陀仏の救いの対象外です。ですから、「百は時に希に一二を得、千
は時に希に五三を得」。邪定聚機は、要門に入っても、悟りに至るのは、百人に1〜2人、千人に3〜
5人程度で、非常に少ないといいます。

 念仏は嫌、誘われても称えない。そんなものに誘わないでくれ。そういう人には、親鸞などに振り返
らず、阿弥陀仏などに期待しないで別の道を選んだらどうですか。僕はいつもそう言っています。これ
を、蓮如は無宿善の機といいます。無宿善とは、馬鹿者という意味ではありません。邪定聚も同じで
す。救いようのない奴という意味でもありません。

 「ピアノは嫌いじゃ。わしゃ義太夫が好きなんじゃ。」辻井伸行さんはそういう人をピアノに誘っている
わけではないでしょう。阿弥陀仏は嫌じゃという人まで、阿弥陀仏は誘っているわけではありません。
人の好みは自由です。
43渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/02(木) 11:56:28 ID:o6zfxKDz
阿弥陀仏というのは、諸仏の一つです。阿弥陀仏が唯一絶対であり、外に救いはなく、
阿弥陀仏ならなんでも救ってもらえるという考えは間違いです。

 自分は何を求めているのか。なぜ求めているのか。自分に適したものは何か。
それを広い選択肢の中で探すべきです。

 自分に念仏が適しているんだろうか。適していないんだろうか。そう考え、自分に
は念仏は適していないと考える人は、浄土真宗などに振り返ることなく、己が信じる
道を進むべきです。

 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はから
いなり。

 いつまでもいつまでも、自分の肌に合わない浄土真宗などに関わっているなら、そ
れは、将来に向けて大きな失敗になるでしょう。

                                               続く
44神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 13:19:03 ID:+SpH9XZv
え−と18願と20願はアミダぶつがつくって19願は釈迦がつくったのですか。
45神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 13:29:17 ID:+SpH9XZv
あと阿弥陀ぶつは人間しかすくわない。それも人間の心を持った者といわれますが
それだと地獄餓鬼畜生修羅の世界の者は救われないわけですね。人間に生まれてこないといけない。
ところが親鸞さんはタンニショウの中で地獄は一定すみかといったり地獄におちても後悔しないと
いってるけど、そうだとすると親鸞さんは19願でも20願でも18願でも救われなかったわけですね。
46神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 23:18:49 ID:+SpH9XZv
どうも難さんの言われることが理解できなくてすみません。
仏の御名をとなえることが救いの条件といわれます。これは34番です。
そして17願が総論と言われるから17願を見たら仏の御名を称えるのは諸仏と書いてあるのです。
そうすると御名をとなえている私は諸仏ということになります。親鸞も称えているのに自分のことを凡夫と言っています。
この辺はどうなんでしょうか。
47神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 23:26:11 ID:+SpH9XZv
質問その2−次に大経の他の異訳をみると例えば大阿弥陀経なんかには
−−−使い某(それがし)仏に作らん時、八方・上下諸もろの無央数の天・人民及び飛・
蠕動の類、−−−−−−と救いの対象に人間以外の昆虫やトンボやそんなのまで人間以外の生きとし生けるもの
まであるのですが、難さんは人間だけ、それも悪い心を持った者は救われないといわれる。このところはどう理解したらいいのでしょうか。
48神も仏も名無しさん:2009/07/02(木) 23:32:42 ID:+SpH9XZv
質問3−−次に人間の心を持っていない者は救われないと言われていますが
親鸞さんが書いた書物に自分のことを  悪性やめがたし、心は蛇蠍のごとくなり  と
言われています。そうなると親鸞さんは救われない人間だということになりなせんか。
49渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/03(金) 00:45:38 ID:JcwS+2TA
>>27
>などと言う宗派は、仏教そのものを否定してるのではないか?

 こちらはアマチュアです。宗派の教えは、宗派の方にお聞きするといいでしょう。少なくとも、
渡海難は回答をパスさせてください。宗派はどのように言っているか分かりません。

>>36
>お釈迦様フィルタも付けてもらえませんか。

 お釈迦様フィルタというのはナンセンスです。大無量寿経自体がフィルタです。大無量寿経
は康僧鎧フィルタです。お釈迦様はこのように仰っているぞと、大無量寿経は、康僧鎧先生
が自分のスクリーンで見せてくれているお釈迦様であって、そこには康僧鎧フィルタが不可
分の構成要素を形成しています。康僧鎧フィルタのかからないお釈迦様を見ようとして康僧
鎧フィルタを外せば、そこからはすべてが消えてしまいます。
 大無量寿経だけでは、少なくとも、実証学的お釈迦様の本当の姿は見えません。大無量寿
経の中にも実証学的お釈迦様の実像の一部は描かれているはずですが、実証学的お釈迦
様の実像と康僧鎧カラーとを分離することは不可能です。同じことは、法華経にも、華厳経に
も言えます。
 お釈迦様の実像を知りたいと思えば、多くの経典の中から、最古の経典を特定したり、共通
的な記載、特別な記載など、さまざまに断片を切ってつないでいくことになるでしょう。中村元
先生などは生涯それをなさったわけですが、それでもそこから導かれるのは、仮説的な主張
に止まることでしょう。
 仮説に止まっても、ある程度実像に近い姿は特定できるでしょう。その仮説的な実像を下に、
康僧鎧フィルタ(大無量寿経)を読み直すというのは、それまた意味のあることかも知れませ
ん。しかし、それは学者の仕事であり、我々が仏教に求める目的を満足させるものではない
でしょう。
50渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/03(金) 00:48:07 ID:JcwS+2TA
 日本は世界の原子物理学を牽引している原子物理学王国です。多くのノーベル賞受賞者を
輩出しています。原子物理学はフランスの歴史的原子物理学者がボーア創設しました。かつ
てのボーア研究所は非常に大きく、アメリカ人のロバート・オッペンハイマー、日本の仁科芳
雄、ドイツ不確定性原理のハイゼンベルグなど、多くの優れた研究者がボーア研究所から出
ました。ロバート・オッペンハイマーはアメリカで原子爆弾を開発し、仁科芳雄は日本陸軍の
命令で原爆の開発に従事し、ハイゼンベルグはドイツで原爆の開発に従事したそうです。ハ
イゼンベルグは意図的にドイツの原爆開発を遅延させたという話もあるようです。

 日本の原子物理学は、仁科芳雄を原点に、輝かしい人材を次々に輩出しています。湯川博
士・朝永博士は仁科芳雄の弟子です。朝永博士の下から小柴博士・南部博士が育ち、南部博
士に惹かれて益川博士などが育ったようだ。いずれもノーベル賞を受賞しています。
 益川博士の論文の中に、ボーア理論がどの程度生きているか、そのようなことを詮索するこ
とは、科学史の研究者ならいざ知らず、我々にとっては関係のない話だ。益川博士の論文に
は、ボーア博士の精神は百%生きていると思います。大無量寿経の中にはお釈迦様の精神
は100%生きていると思います。
                                しばらくカキコ不能
51 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/07/03(金) 09:12:03 ID:VWxcIio9
     / ̄ ̄ ̄ ̄\〜
    (____人 )〜 プーン
    (-◎-◎一 #ミ| 〜   <ああ先生ぇ〜
    ( (_ _)     9)〜  
    ( ε   (∴  | 〜プーン         
    ヽ______/ 〜プーン
   /`        ´\〜
  / ,         \ 〜プーン
  〈 〈     | ̄ ̄ | | ̄ ̄|〜
  \ \  (⌒,|.教行| |信証.|〜
    \ \||l ||__m__| 〜
     |ヽ(ヨl| | l|  |ヽ_ノ〜プーン
     |  |l| l|.| |l  | 〜プーン
   / ,(__人__)、 \ スココココココココココココソ
  /  /      ヽ  ヽ 〜
  〈  〈       〉  〉〜
  \  \    / / 〜プーン
   (__)  (__)〜
52神も仏も名無しさん:2009/07/03(金) 20:08:22 ID:m8rLkgWy
>>50
大経ばかりか、すべての大乗経典には釈尊の精神が敷衍されている。それを
曲解したのが曇鸞と道綽と善導。仏教とは似ても似つかぬ邪教を作っている。
53渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/05(日) 11:08:09 ID:F2xe4gAv
>>37
>アミダ仏は人間しか救わないわけですね。 〜 すると赤ちゃんは救われない。

 一応、そのように考えていいと思います
 人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼ま
ばかならず往生す。 〜 こころざしを深くして常に名号を唱うべし(源信)。

 名号を唱えることができない者は対象から外れる。赤ちゃんは、しばらくの間
は成長を待つということです。赤ちゃんの間、阿弥陀仏は必要がない。小さい子
は、回りの大人がしっかり守ってあげて欲しい。

>また外人なんかは英語ポルトガル語や世界にはいろいろな言葉がありますけ
ど彼らは何語でとなえるのでしょうか。

 それぞれ、自国語・母国語など、自分に適した言葉でとなえていいでしょう。南
無阿弥陀仏ではなく、漢文式に帰命尽十方無碍光如来と称えてもいい。日本語
なら「ああ先生」となるでしょう。
 英語なら'Hallo,teacher'か。現代中国語なら?好老師か。韓国語なら、???
??????<読めません>か。ポルトガル語であれば‘Oi Professor’か。

 原則としてはそういうことになると思う。しかし物事には作法がある。蓮如は言う。
神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞと、仰せられける。神に対してさ
え、馴れてくれば、本来は手で行うことも足でするようになる。如来・聖人・善知識
にも、なれ申すほど、御こころやすく思うなり。如来・聖人・善知識にも、馴れてく
れば、心やすくなる。馴れ申すほど、弥、渇仰の心をふかくはこぶべき事なる由、
仰せられ候う。馴れてくれば馴れてくるほど、ますます仰ぎ求める心を持ちたい
ものである。

 辻井伸行さんは「僕のピアノはただ聞いてくれればいいんだ」と言うでしょう。だ
からといって、ブリーフ一枚、裸同然で靴も履かないでピアノリサイタルの聴衆者
の最前列中央にどっかり座れば、演奏者は何事かとびっくりするだろう。ピアノリ
サイタル場は身体検査場ではないのだから、それなりの常識と作法がある。
54渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/05(日) 11:12:24 ID:F2xe4gAv
僕の絵はただ見てくれればいい。見てもらえれば嬉しい。画家のその言葉を信じて美術館に
行き、絵画の回りに付いている額縁を指さし、「自分は絵を見に来たんだ。額縁を見に来たの
ではないから額縁を外してくれ」と、警備員さんと口論を始めれば、それは非常識というものだ。

 念仏にも作法がある。作法は先人が知恵を絞って考えてきた。阿弥陀仏と共通の価値観、
共通の精神世界に立って念仏を称えるにはどうすればいいのか。江戸の歌舞伎役者は先人
の心を学ぶに当たり、型を徹底的にたたき込まれる。型(姿勢)が身につくことで先人の心が
見えてくる。「王いま座禅してただ当に念仏すべし」親鸞は、教行信証の行の巻きで、浄土五
会念仏略法事儀讃を引用し、念仏は座禅して称えるのが正式な作法であると教える。

 存覚は六要抄で教行信証の浄土五会念仏略法事儀讃引用部を説明する。「流布の本に深
妙の下、問答の上に禅の一字あり」。流布本では、深妙と、後に続く問答との間に「禅」という字
が入っているという。「試みに今これを推するに、上には念仏三昧是真無上深妙禅門といい・・」、
私見的に類推するなら。浄土五会念仏略法事儀讃の引用部は念仏三昧是真無上深妙禅門
と言う文で始まると解釈するのが正しい。
 「次に如来等とは、これ五会念仏を釈する文なり」。浄土五会念仏略法事儀讃の引用部に、
如来等という文字が出てくる。これは五会念仏を解釈している。つまり、王いま座禅してただ
当に念仏すべしとは、五会念仏を説明している。

 称名念仏は、念仏三昧をもって称えるのが原則である。念仏三昧は禅門であり、座禅して
つまり結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのが正式な作法である。腹式呼吸
でゆっくり呼吸を整えながら称えてほしい。

 五会念仏は五回の念仏を一サイクルとして繰り返す。
 最初の南無阿弥陀仏は抑揚を付けず、低音でゆっくりと念じる。
 二回目の南無阿弥陀仏は、半音程度上げ、抑揚を付けず、ゆっくりと念じる。
 三回目の南無阿弥陀仏は、通常の速度と音域で抑揚を付けずに念じる。
 四回目は、南無を普通の速度、阿弥陀仏は速度を上げるとともに、一息で念じる。
 五回目は、阿弥陀仏と称える。速度を上げる。
55渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/05(日) 11:16:24 ID:F2xe4gAv
 五会念仏は難しくない。1,2回練習すればコツが分かる。

 世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、
世のいのりにこころをいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう(消息集)。

 社会に困ったことが起きれば、それをきっかけとし、お互いに申し合わせ、世の中
が良くなりますようにという祈りの心を込め、念仏を深く信頼し、座禅して一緒にな
って五会念仏を称え合うそのような念仏会を開いてみてください。親鸞は手紙でそ
のように誘っている。


>>53
 ?????????  ← 韓国語は表示しないようです。
56渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/05(日) 11:30:27 ID:F2xe4gAv
>>44
>18願と20願はアミダぶつがつくって19願は釈迦がつくったのですか。

 これは、親鸞の言葉をどう読むかという、読み手の味わいの問題だ。もともと釈
迦にも康僧鎧にもない。善導の言葉を引用しているわけだが、文脈が違う。親鸞
のオリジナル思想だ。しかし、親鸞思想では重要部と言っていいだろう。

 19願は当初から阿弥陀仏が建てていたんだが、事実上空虚な願だった。その
後、釈迦が登場し、要門という形で実体化した。そのように考えてもいい。
 19願はもともとなかった。釈迦が要門を開くとと同時に19願を創設した。そのよ
うに考えてもいい。

 大事なことは、19願要門の教えは、阿弥陀仏の教えではなく、釈迦の教えであ
るという説明方法を親鸞は採用しているということです。
57神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 20:23:30 ID:h9gp0Pgq
いつも質問をしている者です。たびたび難さんにはお答えをしていただいてありがとうございます。
さて念仏をもうすことについて、難さんは親鸞さんのかかれた本典の行の巻きの法照さんの文を引用されて

称名念仏は、念仏三昧をもって称えるのが原則である。念仏三昧は禅門であり、座禅して
つまり結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのが正式な作法と54番て言われています。
その引文は 王いま座禅してただ当に念仏すべし 。

まずここから質問したいのですが、ここの引文から12師の釈が引かれるわけです。その最初がこの法照の文ですね。
質問1−−座禅とは座して禅定をすること。これは仏教語大辞典440ペ−ジにあります。
座とは座している姿で結跏趺坐、半跏趺坐、胡座、輪王座、互座、箕座、変座まだまだいろいろ
あります。なのにどうして結跏趺坐、半跏趺坐だけなのか。
58神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 20:45:22 ID:h9gp0Pgq
質問2−次に禅定の意味は 王いま座禅してただ当に念仏すべし の後の文によると
生を離れ無生をもとめ、相好をはなれ法身をもとめ文を離れ解脱をもとめることです。
すると座禅の意味はいろいろな座り方があるけれども、座って無生、法身、解脱を求める事です。
ここで注意することは座り方はいろいろあるということ。
意味においては、ここは釈迦が大王に、王よ今こそ座禅なさるのなら、他の行をやめて一心に念仏を修しなさい−−と
言っているわけです。なぜなら念仏は有念、有相、言説を離れず仏になれるからだと。文で言えば無念になる必要はなく
生を離れて無生無滅の理を悟る必要もなく形を離れて無色無形の法身を求めることもなく文字句もはなれる必要もないと説かれる
わけです。するとここは難さんのいうような結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのではなくただ念仏をとなえることをすすめられている
のであって、称え方だの座り方だのそんなことや心のもちかたなどは問題にされていないんじゃないでしょうか。
59神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 21:00:47 ID:h9gp0Pgq
質問3−−さらにその後に法照の文をひいて正法と真宗の説明をするわけです。
即ち持戒座禅は正法だけど念仏は真宗というわけです。要するに持戒や座禅は外道と比べたら
正法だけど実際はこれによって一切の十方の衆生は仏になれない。十方の衆生が成仏できる道理の
備わった真実の教えは念仏を称えることだというのです。持戒や座禅の法は外道に対しては正法だけど
仏教の中において考えれば釈迦の出世本慨ということで見れば念仏こそ真宗であり正法であって座禅や持戒の教えは正法ではない
と述べられています。
ここまでよむと、親鸞さんが言いたいのは難さんのように  称名念仏は、念仏三昧をもって称えるのが原則である。念仏三昧は禅門であり、座禅して
つまり結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのが正式な作法  というようなことでは違うような気がするのですが
どうでしょうか。
60渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/05(日) 21:15:58 ID:F2xe4gAv
>>57
>お答えをしていただいてありがとうございます。

答えてくれたことに礼をいうなら、もう一歩突っ込んで、
「○○が分からなかったが、○○が××であったとわかりました。分からなかった
原因は△△にあったようです。ありがとうございます」。といってくれると、こちらは
安心します。

 答えたということはわかりきったことなのです。回答して、それが貴方に何かプラ
スになることがあったかなかったか、こちらはそれが多少気になっています。

 貴方の質問は、私にとって、いずれも回答が難しいと言うことはないようです。いず
れも聖教のどこかに書いてあることばかりです。こちらが回答しても、貴方の中で何
一つ実になることなく、うわべだけで風船玉のように次々に疑問が広がるだけなら、答
えてもらえたこともう一度読み直し、今後は、聖教と突き合わせ、自問自答しながら問
題点を発酵させるといいかもしれません。
61神も仏も名無しさん:2009/07/05(日) 21:19:32 ID:h9gp0Pgq
結論としてここでいいたいのは、形や称え方は条件がない。また心がどういう考えかも問わない。
ただ念仏をとなえろということなのではないでしょうか。そしてそれは釈迦の出世本慨であり、まさしく一切の凡夫を
救うことができる。これこそ正法であり真宗であるといっているような気がしますが。
その後に法照の文をひいてさらに親鸞はただ御名を称するのみありてみな往くことを得。と引用してます。
で私が知りたいのはこの御名を称えないと仏になれないのか。救いの条件に御名をとなえることがあるのか。
だとすれば、御名を称えられない者や称えずに亡くなった者はどうなるのか。
また御名をとなえるのは人間にかぎられたことなのか。また外国の人は言語がちがうから
その辺はどうなのか。と言うところで悩んでいるんですよ。

62渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/06(月) 09:43:45 ID:4nhgeINt
>>61
>結論としてここでいいたいのは、・・・

 やはりという感じがします。
 貴方は、質問したいのではなく、結論として仰りたいことがあったようですね。その結論を渡海難に言わせたか
った。一生懸命あなたなりに結論に向けて誘導しようとしていたということでしょうかね。これでは僕に伝わりま
せん。こちらがお答えしてもお答えしても、貴方の中に何も入っていかないという不思議な感じを持っていました。

1)形や称え方は条件がない。
2)また心がどういう考えかも問わない。
3)念仏をとなえろということ
   これこそ正法であり真宗であるといっているような気がします

 貴方はこういうことが仰りたいのですね。わかりましたよ。

 私が知りたいのはこの御名を称えないと仏になれないのか。救いの条件に御名をとなえることがあるのか。

 つまり、「念仏をとなえろということ」だが、念仏を称えないでも仏になれますよと言って欲しい。最終の結論はそ
ういうことなんでしょうね。

 つまり、(1)形や称え方は条件がない。(2)心がどういう考えかも問わない。(3)念仏をとなえろというが、それでも 
「念・仏・を・称・え・な・い・で・も・仏・に・な・れ・ま・す」と、言って欲しいということのようですね。

 御名を称えられない者や称えずに亡くなった者が救われないというのはおかしいではないか。言語がちがう外国
の人が救われないというのはおかしいではないか。だから、念仏を称えないでも仏になれますと、言って欲しいとい
うことなんでしょう。

 念仏を称えないでも、なにもしなくても阿弥陀様は救ってくれます。貴方はそういうことを他人に言って欲しいという
ことのようですね。

 あなたのような考えを持っている人は浄土真宗にはたくさんいそうです。そのようなお仲間の中で互いに、「そうだ。
そうだ」と納得しあっていればよろしいのではないですか。僕は貴方のような考えを採りません。
63渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/07(火) 10:32:01 ID:inJLtdO0
>>45
>地獄は一定すみかといったり地獄におちても後悔しないといってるけど、そうだとすると親鸞さんは
19願でも20願でも18願でも救われなかったわけですね。

 結論として自分に言いたいことがあり、その内容を渡海難に言わせたいと思い、誘導的に様々な質
問を浴びせてきて、提示する質問もそろそろ品切れに近づき、やや破れかぶれ的な質問を向けてき
たようだ。
 折角質問してくれたのだから、回答しておこう。このスレを見てくれている外の人にとって参考にな
るかも知れない。

 無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ 

 燈は「ともしび・あかり」という意味だ。炬は「たいまつ」という意味だ。燈炬とは、要するにたいまつと
言う意味だろう。親鸞は念仏をたいまつに例えている。まあ、念仏とは懐中電灯のようなものだと思え
ばいい。
 ナイター球場に行くと、巨大な照明灯が野球場を照らし、昼間のような明るさになっている。野球場
の照明灯は恐らく数キロ先からでも見えるだろう。もっと大きな照明灯もある。海の灯台だ。何十キロ
先からも見えて海の航行の安全を図っている。
 これに比べれば、懐中電灯などはささやかなものである。街灯もない真っ暗闇の中で懐中電灯をと
もせば、光る範囲はせいぜい十メートル程度である。しかし、この十メートル程度先を照らしてくれるに
過ぎない懐中電灯は、実は野球場の照明灯より遙かに力になる。
 例えば、夜道を数キロ歩くという場合、野球場の照明灯では役に立たない。野球場から遠く離れれば、
闇の世界である。灯台も同じだ。灯台下暗しというが、灯台は遠くの一点を照らしてくれても、足下に石
が転がっていても照らしてくれない。しかし、懐中電灯は五キロ先でも十キロ先でも、手に持って歩け
ばいつも足下を照らしてくれる。
64渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/07(火) 10:34:24 ID:inJLtdO0
 僕は、念仏をめがねにたとえる。めがねは健康眼の人には必要がないが近視の人には不可欠であ
る。めがねがないと、近視の人は昼間でも外を歩けない。電柱にぶつかったり、石に転んだりする。
 親鸞聖人という人は、法然上人からめがね(念仏)を勧められた。だから、いつもめがねをかけてい
た。めがねをかけていても、電柱にぶつかったり石に転ぶと言うことは絶無であるとは言えないだろう。

 私は、近眼で法然上人からめがねを勧められ、めがねをかけています。そのめがねさえ役に立たず、
結局、電柱にぶつかったり石に転ぶと言うことはあるかも知れません。それでも私は後悔しません。も
ともと私は近眼です。電柱にぶつかったり石に転ぶと言うのは、宿命のようなものです。これはじたば
たしてもしょうがないんです。ただ、めがねをかけていて、それが多少でも減ることがあれば幸いだと思
っています。
 外を歩けばどんなアクシデントがあるか、それは予想もつかない。それでも念仏でそのようなアクシデ
ントが少しでも減れば、それは大いに幸いだと言っている。
65神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 10:41:57 ID:vio5qDEw
しかしですね難さん。一カ所だけの言葉をとって称名念仏は、念仏三昧をもって称えるのが原則である。念仏三昧は禅門であり、座禅して
つまり結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのが正式な作法である。などという論理を展開するのは危険ではないですか。

末法の時代の愚かな凡夫を救う教えのはずがいつのまにか座禅してそれも結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるとなっていっているでしょ。
本典の行の巻きで親鸞さんが言いたいのは、座禅して五会念仏を称える事ではないように思えるのですが。
この辺はどうお考えですか。あとアミダ如来とは具体的にどのようなものとお考えでしょうか。
66神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 10:55:56 ID:C/PRqaZl
このスレッドってつまらないですね。 どうしてなんでしょうか?
スレッド立てる前に考えました? レスが付くかな、とか、
おもしろいかな?とか。それなのに立てたとしたら、あなたセンス最悪です。
それとも、やはり何も考えることのできない人ですか?
文面から察するに、何も考えていないんですよね?
でも、少しは考えてくださいよ、あなたが立てたこのつまらないスレッドを
読まされた人達の迷惑を。 せっかく楽しく掲示板を読もうとしたのに、
こんなしらけたネタを読まされちゃって興ざめです。
もう、すっかりやる気なくなってしまったというか。
はっきり言って、あなたのネタってブラクラや死体画像以下です。
どうせ、私以外のレスって全部自作自演なんですよね?
そうまでして相手にして欲しいんですか? 友達いないんですか?
もちろん恋人なんていないですよね? ええ、たぶん、
あなたは一生一人きりで過ごすことになると思いますよ。
でもまあ、そんな事はどうでもいいんです、私が言いたいのは
とにかく、これ以上つまらないスレッドを立てないで
欲しいってことだけなんです。 掲示板があなたの立てたくだらない
スレッドで埋められていくのが我慢できません。あなたにも人の
迷惑が理解できるんであれば、二度とこんな事はしないでくださいね
67神も仏も名無しさん:2009/07/07(火) 17:56:42 ID:vio5qDEw
66番さんへ。まずですね、誰に対して言っているのかよくわかりません。
あとはつまらない、センスない、あなたのネタってブラクラや死体画像以下、など等は
あなたの主観にすぎませんね。
どうせ、私以外のレスって全部自作自演なんですよね−−この言葉はよく意味がわかりません。
あなたのレスは何番と何番なんですか。
相手にしてほしいとか友達居ないとか恋人いないとかあなたの推測にすぎませんね。
しかしここであったのも何かの縁ですね。阿弥陀如来とはどのように理解されていますか。
あと念仏をもうすとは具体的にどうお考えですか。大経はどうして真実の教と親鸞さんは断定されたのでしょうか

68神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 14:56:33 ID:WTi4aOQL
親鸞会の役割は、寺へ警鐘を鳴らすだけでよかった。それが、高森会長の個人的な欲望のために、
本願寺を敵対視し、自分の出身である華光会までも異安心扱いをした。
会長が目指したものは、創価学会。
しかし、創価学会の発展には、遠く及ばず、差が開くばかり。池田名誉会長がライバルであったが、
当然のごとく、池田名誉会長は高森会長のことを聞いたことがある、という程度にいか知らない。

寺の衰退よりも、会長の老化が早く進行するでしょう。そして会長の死去と共に、親鸞会は零細宗教団体へと
転落し、数々の会館は創価学会等の団体に二束三文で買い取られることが予想される。

高森会長が、一般人並みの性格であったなら、結果は大きく違っていたであろうに、コンプレックスの塊で、
醜い欲望を剥き出しにした人格が、多くの人を不幸に追いやった。

シンパは、冷静に会長を見るべきであろう。
69神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 15:31:48 ID:WTi4aOQL
「苦笑の独り言」に諸行往生(もちろん親鸞会のこと)についての解説があるから、
会員は読んで勉強するといいですよ。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

親鸞会が如何に、歴代の善知識方から外れたことを教えているのかよく分かりますよ。

釈尊は、十方衆生を19願に入れるために因果の道理を説かれた、と最もらしいことを
会長は教えていますが、その根拠はどこにあるのでしょうか?

シンパは、珍しき法を聞かされ続けていることを自覚すべきでしょう。しかも、珍しき
法によって、金を出せ、人を誘ってこい、と高森一族のために扱き使われて、
苦しんでいることもね。

アンチが邪説だというのなら、根拠を挙げて正々堂々と反論しなさい。陰でこそこそといってないで。
70神も仏も名無しさん:2009/07/08(水) 18:56:27 ID:WTi4aOQL
親鸞会の講師試験問題

1、人間に生れたことを喜ぶべきことと教えられた源信僧都のお言葉と、その根拠を示せ。
2、渡海難に荒らされたスレに、スルーを教示された釈尊のお言葉を示せ。
3、人間の苦悩の根源は疑情(無明の闇)一つだ、と断言されている親鸞聖人のお言葉を『正信偈』と『ご和讃』で示せ。
4、浄土真宗では、心の臨終と肉体の臨終の二度の臨終が教えられているが、心の臨終を教えられた親鸞聖人と覚如上人のお言葉と根拠を示せ。
5、阿弥陀如来は、この世も救い、死後も救う、二度救いたもう仏であることを「現当二益」と言うが、現当二益あると教えられた正信偈と御文章のお言葉を示せ。
6、「聴聞が最も大事である」と教えられた蓮如上人のお言葉と根拠を示せ。
7、本願成就文の「其の名号を聞いて」の其の名号とはどんな名号か、釈尊と蓮如上人のお言葉で示せ。
8、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。
9、親鸞聖人が、三仏・三願・三経・三機と言われるものを示せ。
10、三業安心とは、「身口意の三業で阿弥陀如来にお願いしなければ助からぬ」「こうなったのが獲信した証拠だ」と主張する異安心だが、
彼らはどのようなことを詮索するか。また、その誤りを端的に破邪せよ。

71渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/09(木) 10:43:55 ID:3ZgRNRGS
>>46
>仏の御名をとなえることが救いの条件といわれます。これは34番です。

 大前提 大無量寿経は真実である。
 小前提 大無量寿経で17願に・・・・と書かれている。
 結論  だから仏の御名をとなえることが救いとなる。
 この論理はおかしい。三段論法であれば、小前提は17願ではなく、34願を使うべきである。こ
のようにお考えなのでしょうか。

 真実の教えであるところの大無量寿経があり、親鸞はそこから演繹的につまり芋づる式に念
仏の信心を導いた。親鸞は、お釈迦様の真実の教えを発見した。大無量寿経こそが真実の教
えであると発見した(大前提)。その中に念仏の教えが説いてある(小前提)。だから念仏の教え
は正しい(結論)。親鸞の論理とは、このように、真実の念仏の教えを論理的に引き出してきたと
思っているのでしょうか。

 キリスト教などでは、神の啓示で著された聖書があり、聖書にこう書いてあるからこれが真実
であるという言い方をします。
 聖書では、神が森羅万象を七日で創造したと書いてある。だから、森羅万象は神が七日で創
造した物であり、神が万物の創造主である。クリスチャンは真顔でそういう主張をします。
 キリスト教神学は、しばしば幾何学と比較されます。幾何学では、証明無用の一定の公理が
あり、そこからいくつかの定理を導いておいて様々な問題解決の道具とします。三段論法という
考え方は、キリスト教神学の中枢にあるアリストテレスが提唱したようですね。

 親鸞は、キリスト教神学やアリストテレス哲学の影響を受けていません。親鸞の思想を三段
論法で考えると間違えます。形式論理ではなく、実利学的な発想が必要です。

 親鸞の主張の根底は何か。「めがね(念仏)は便利な道具だ。近眼者(無明の中の者)でも、
石に転ばないで道を歩ける。多くの人に紹介しよう」。これが原点であると考えます。 親鸞の教
えは仏教ではないという主張をする方がいました。仏教を選ぶか「めがね」を選ぶか、もし二者
択一だと言われたら、めがねがないと難儀をする親鸞はめがねを選ぶでしょう。僕も仏教を捨
ててめがねを選びます。仏教が無くても困らないが、めがねがないと不便ですからね。
 
72渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/09(木) 10:46:56 ID:3ZgRNRGS
 「めがねは便利だから使ってみるといいですよ」。こう言っても言葉だけでは真意が中々
伝わらない。どう説得していけばいいものか。阿弥陀仏という仏様が勧めてくださっている
と、そのように話を持って行ったらどうだろう。そうすれば、使ってみようという気を起こす人
(不定聚)も多いだろう。一度実際に使ってみれば、その次からは良さは分かってもらえる
(正定聚)。
 めがねは便利だから使おうじゃないか。これが仏教のあらゆる哲人達、賢人達の教えの
結論である。そのように言って紹介しよう。これが親鸞思想の原点です。

 説明の手法に阿弥陀仏を使う。阿弥陀仏が登場する大無量寿経を使う。大無量寿経こ
そ真実の教えであるという言い方で相手を説得する。そこで、一度めがねを使って貰う。
そう考えています。説明の中では手法として十七願を使うか、三十四願を使うか。それは
親鸞さんの勝手でしょう。

 辻井伸行さんはどう考えたか。自分のピアノ演奏が大衆に支持されるには、そのまえに
ピアノ演奏の専門家に技術を認めて貰えなければならないでしょう。大衆に支持されるの
が先か、ピアノ演奏の専門家に認められるのが先か。専門家が先でしょう。

 大衆に支持されても、専門家から認められなければ先に進めない。新人の登竜門は、専
門家に認めて貰うことだ。専門家に認められれば、大衆に支持が広がる。辻井伸行さんそ
う思って国際コンクールに挑戦したのだと思う。

 辻井伸行さんは凄い人だと、そのように辻井伸行さんの名に惹かれてくれる人は、きっと
すばらしい世界が開かれる(三十四願)。こう言えるようになるには、国際コンクールで専門
家の賞賛を受ける(十七願)という実績がなければならない。専門家の賞賛がなければ、大
衆は辻井伸行さんを凄い人だと思ってくれない。凄い人だと思ってくれなければ、大衆にす
ばらしい世界を開くことができない。当然でしょう。

 めがねは便利です。これは凄い道具だとそのように思ってくれる人には、石に転ばず、電
柱にぶつからないで歩けるというすばらしい歩行を実現しますよ(三十四願)。さあ使ってみ
てください。そう言えるのは、著名な広告塔になるような人から賞賛してもらう(十七願)とい
う実績を積んでおかなければならない。
73渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/09(木) 13:56:28 ID:3ZgRNRGS
>>69
>釈尊は、十方衆生を19願に入れるために因果の道理を説かれた、 〜、 その根
拠はどこにあるのでしょうか?  〜 アンチが邪説だというのなら、根拠を挙げて正
々堂々と反論しなさい。陰でこそこそといってないで。

 僕の主張は親鸞会の主張とは関係がない。十方衆生を19願に入れるために因
果の道理を説いているというのは、親鸞会の主張とは関係がない。しかし、根拠の
ない話というのはいただけない。「19願に入れるための因果の道理を説いていな
い」というのがアンチの主張であるなら、アンチは見解を変えるといいだろう。善導
独明仏正意が親鸞の重要な信念である。これは善導大師の重要な教えだ。善導
の教えは正しいのか、間違っているのか。慎重に考えないといけない。

>>70
 親鸞会の講師試験の受験講座、模範解答講座を開くつもりはない。パスします
74神も仏も名無しさん:2009/07/09(木) 15:13:38 ID:5nO1gs8s
あの−すみませんけど、大経の34願なんて一度もこの板で問題としてとりあげていません。
34番というのはこの板の投稿者の番号なんですけど。
たぶん勘違いされていると思うんですけど゜。
75神も仏も名無しさん:2009/07/10(金) 03:01:12 ID:54LOfbc0
児童ポルノ、日本も「所持」禁止を スウェーデン王妃
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20090610ok01.htm
74か国が児童ポルノ一斉摘発、国内の数人を強制捜査へ
http://www34.atwiki.jp/madmax_2007/archive/20080907/a9719b787f7f2029a3f7aee934b2c227
国連規約人権委 女性差別改善、日本に勧告
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20081108ok01.htm
児童ポルノ販売容疑の男、タイで逮捕
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4148540.html
外国人幼児虐待犯を捜査 日本人含む18人がブラックリストに
http://www.bangkokshuho.com/news.asp?articleid=1282
東南アジアなのにまるで日本! エッチなおじさんで大繁盛
http://news.livedoor.com/article/detail/4156818/
タイで日本人父親捜し急増、「ケイゴ君」報道きっかけに
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090608-OYT1T01000.htm
日本の人身売買対策は二流、外国人女性が犠牲
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090617-OYT1T00299.htm?from=navr

児童ポルノで国連職員逮捕=日本のサイトから取得−米
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090605-00000092-jij-int
日本のマンガを集めていた米国人、児童ポルノ禁止法違反で有罪に
http://wiredvision.jp/news/200905/2009052923.html

児童ポルノ提供容疑 ドイツから情報受け逮捕 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0213/TKY200902120326.html
インターネットのファイル交換ソフトで児童ポルノを
提供するなどしたとして、埼玉県警は渡辺拓也容疑者を逮捕した
ドイツの捜査機関から国際刑事警察機構を通じ、
警察庁に情報提供があり、県警が捜査していた。

76神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 02:17:15 ID:C8qwCo+S
教学講義の受講資格は、以前いろいろあり、その中ですべての財施に参加すること、
というのがありました。5月の教学講義の際には、壁画の財施に参加しない人は、
教学講義の受講資格を1年失う、とまで言われてスレでも話題になりました。

そのことを特専部員を通して局長に尋ねたところ、教学講義に受講資格を設けたことは
ない、そんなことを書いたものがあるなら見せてみなさい、と言われたそうです。

私はそれを聞きまして愕然としました。方針転換はいつものことですが、もとからそうで
あったとは、どんな心が言わせているのでしょうか。

非難されれば、非難されるようなことをした覚えはない、とかいえば誤魔化せると思って
いるのでしょうね。絶対服従ですから、会員はそれ以上は何もいえません。

これが親鸞会の実態です。
77渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/11(土) 09:49:15 ID:OUSyZ8EY
>>74
> たぶん勘違いされていると思うんですけど゜。
   34番というのは、>> 34だったんですね。

 考え方の基本は>>71-72で言い尽くしていますが、改めて書き直してみま
しょう。明日以降になります。
78神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 10:43:54 ID:axNUnQIG
浄土門の基本も知らないノータリン坊主が、親鸞会のスレを荒らすなよ。

法然上人が、比叡山の修行をやめよとおっしゃったのは、解ったのかよ。
79神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 10:48:55 ID:axNUnQIG
お前の異常な妄想に、付き合う本願寺の僧侶は、親鸞会のスレにはいないんだよ。

いい加減、解れや。

ノータリン坊主
80神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 12:29:25 ID:axNUnQIG
親鸞会スレを荒らすな、川崎のノータリン坊主。

けんかを売るな、この馬鹿。

仏教も知らない、基地外。
81神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 12:37:48 ID:axNUnQIG
14 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI [] 投稿日:2009/06/28(日) 18:46:29 ID:M7eqorN2
 選択集を見直してみました。「いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正
となすのみ」とありますね。まあ、確かに諸行は廃せんがために説く、念仏は
立せんがために説く。これが正であるということかも知れませんね。

 「比叡山の修行はやめよ、と仰っています。」
 まあ、返答は保留させてください。諸行は廃するというのは、比叡山の修行は
やめよということなのか。
 そうかも知れないし、そうではないのかもしれない。教義として廃するということ
と、修行はやめよ、ということがイコールになるのか、僕には判断できない。

 僕が間違っているのかも知れません。

  ↑

こんなことも知らないなら、偉そうなことをほざくな、ボケ。
82神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 14:54:36 ID:oKD2p15M
念佛成佛これ眞宗
萬行諸善これ假門
權實眞假をわかすして
自然の淨土をえそしらぬ
83神も仏も名無しさん:2009/07/11(土) 16:09:06 ID:oKD2p15M
真仮廃立とは
萬行諸善を廃し
念佛成佛を立てる
ということですね。

歴史に if はないけれど
もし比叡山のご修行をなされずに法然上人のもとで聴聞されたとしても
阿弥陀仏に摂取されたでしょうということですな。
84渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/12(日) 09:52:34 ID:ZSYoRU7x
>>46
17願が総論と言われる。ところが、17願は諸仏称揚の願である。諸仏に称名念仏を勧めて
いる。諸仏称揚の願を総論的根拠として念仏を称えるというのなら、自分も諸仏の一人である
という認識を持たないといけない。親鸞も念仏を称えているのに親鸞は自分のことを凡夫と言っ
ている。おかしいではないかということでしょうか。

 浄土真宗というのはどういう宗教か。真実の教えは大無量寿経であるという真理が発見され
(大前提)、その真実の教えの中に念仏の勧めが書いてあるので(小前提)、念仏の教えは真
実である(結論)。こういう三段論法なのでしょうか。そう考えたら大間違いです。

 先人から伝わってきた「めがね」という非常に便利な道具がある。近眼の人にはとても便利な
ものだ。これをどう言って人々にお勧めしようか。
 大無量寿経という手頃なお経がある。そこに阿弥陀物語が書いてある。阿弥陀仏というのが登
場する。阿弥陀先生から贈り物です。このように勧めれば、めがねも使ってもらえるのではない
だろうか。親鸞さんの発想はそこが原点です。だから、理由が後付けの大無量寿経をベースに
している親鸞の論理は、随所で無理があります。

 貴方が仰るように、17願は諸仏に念仏を勧めているんじゃないか。それを根拠に凡夫に念仏
を勧めるというのはおかしい。凡夫に念仏を勧めるというなら、34願の方がふさわしいではない
か。そういう主張も出るかも知れません。
 大事なことは、親鸞の論理は、大無量寿経から三段論法で導いた議論ではないということです。
だから、法然上人の門下生の文書類は読むことを勧めています。その他、自分自身で大量の文
書を書いています。しかし、親鸞の手紙類には大無量寿経を直接読みなさいと言っている言葉は
ありません。法華経を勧める日蓮聖人との根本的な違いです。
 無論、四六輩のような高弟には大無量寿経を読むように勧めていたと思います。唯円も大無量
寿経は読んでいたでしょう。しかし、一般の人には大無量寿経を読むことは勧めていません。親
鸞の論理とは無理があるからでしょう。
85渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/12(日) 09:54:14 ID:ZSYoRU7x
 17願は総論であるという親鸞の主張は、諸仏称揚の願を大悲の願と親鸞流
に翻訳し、大悲の願という概念を総論として考えます。
 諸仏称揚の願は大悲の願の一部であり、大悲の願に「凡夫も念仏を称えなさ
いよ」という勅命を読むというのが浄土真宗です。
 辻井伸行さんはどうしてコンクールの審査員(諸仏)から、表彰という栄誉(称
揚)を得よう(願)としたのか、その背景を考えてみましょう。「辻井伸行さんはす
ごい。あのコンクールで表彰を得た人だ」。音楽がよく分からない人にもそう言っ
てもらえて、自分の音楽を聴いてもらいたい。そうして多くの人と音楽の感動を
共有したい(大悲の願)。そう思ったからでしょう。

 諸仏称揚の願は、大悲の願を背景にします。「父の王を勧めて念仏三昧を行
ぜしめたまう」。釈迦は、最愛の父君に念仏を勧めたという話を、親鸞は行の巻
に引用しています。父君は凡夫でしょう。高僧ではありません。つまり、念仏の勧
めは、諸仏だけではない、コンクールの審査員だけではない。一般庶民に音楽
の心を伝えようという大悲の願を背景にして、釈迦は凡夫である父君に阿弥陀
仏の勅命を伝えた。そういう話を、道綽という高僧の口を借りて紹介しているの
です。

 諸仏称揚の願の本質は大悲の願である。コンクールの審査員だけではなく、一
般庶民に音楽の心を伝えよう、庶民に「あの人は凄い人だと賞賛してもらえるよう
な人になろう」とそう思って、大悲の願を背負ってピアノコンクールという非常に難
しい諸仏称揚の願に挑戦した。そのように考えると分かると思います。
86 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/07/13(月) 03:34:29 ID:lyjV6cG5
    _____
   /::::::::::::::::::::::::::\                  _
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  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       |
  |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ      |
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)          ノ_ ー  |     |
/|   <  ∵   3 ∵>          \. ̄`  |      /
::::::\  ヽ        ノ\           O===== |
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87神も仏も名無しさん:2009/07/13(月) 10:55:37 ID:JPrRakbs
 ブログ親鸞仏教
 行の巻の曇鸞論を問題にしています。

曇鸞の主張と、親鸞による議論のすり替えを問題にしています。

 www.しんらん.jp
88神も仏も名無しさん:2009/07/13(月) 12:07:21 ID:5P0Aw8OT
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>87宣伝荒らしはやめろ基地外ボケ老人
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
         .|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/             / ノ
         (___|)__|)  
89神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 02:00:14 ID:Nep7ourL
17願は総論であるという親鸞の主張と難さんは言われますがどこに書いてあるのでしょうか。
はたして親鸞さんはそのような事をどこでどの箇所でいわれていますか。
90神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 02:49:05 ID:StUPIpIJ
91神も仏も名無しさん:2009/07/14(火) 08:56:00 ID:uYZVZcMK
>>89

ここは幼稚な行動しかできないアラ還キモヲタの妄想オナニースレです。

まともな議論はここに書き込まないでください。
92渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/14(火) 10:14:50 ID:334tXIct
>>89
>17願は総論であるという親鸞の主張と難さんは言われますがどこに書いて
あるのでしょうか。はたして親鸞さんはそのような事をどこでどの箇所でいわ
れていますか。

 大悲はすなわちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆえ
なればなり。かるがゆえにこの大悲を謂いて浄土の根とす。ゆえに出世善根
生と曰う(真仏土巻)

 弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人は皆 寝ても覚めても隔てなく 南無阿弥
陀仏をとなうべし(和讃)


 このほか、たくさんありそうです。この程度のことであれば、質問ではなく、
貴方も探してみたらどうですか。
93 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/07/14(火) 10:20:35 ID:exspPvOF
   / ̄ ̄ ̄ ̄\ 
  ( _ 人_ _) 
   |:::| ´・  ・^ ||
  ( ∴  (_ _)∴ )                _
  |  ノ  3ヽ  ノ            /  ̄   ̄ \
   ゝー_ _ ノ             /、         ヽ
 /       /"lヽ  ヽ          |- |―-、      |
/   ,ィ -っ( ,人)   ヽ         q -´ 二 ヽ       |
|  / 、__ う|  | ・,.y  i  ペッ、、、 ノ_ ー  |      |  キモいんだよてめーは
|    /   |  ⊂llll   |         \. ̄`  |      /
 ̄T ̄    |  ⊂llll /            O===== |
  |      ノ  ノ 彡イ            /          |
94渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/14(火) 11:37:57 ID:334tXIct
>>47
>人間以外の昆虫やトンボやそんなのまで人間以外の生きとし生けるものまであるのですが、
難さんは人間だけ、

寓意
何かにかこつけて、それとなくある意をほのめかすこと。
寓話
教訓や処世訓・風刺などを、動物や他の事柄に託して語る物語。「イソップ物語」など。
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E5%AF%93%E8%A9%B1/m0u/

 仏教、特にインド浄土教の先人達はこの寓意・寓話の達人であり、非常に高度な話について、
様々な環境の人々にわかりやすい話をしました。イソップ物語は、非常に高度な哲学的・倫理
的・道徳的な事柄を、それこそ幼児から大人、老人に至るまで、非常に味わい深く伝えている世
界の古典的名著です。イソップ物語は、紀元前六世紀にある奴隷が書いたと言われています。
紀元前六世紀と言えば、釈迦や孔子より前になります。

 現代の我々は物事の本質をとらえようとする場合、抽象化して考えます。しかし、抽象化だけ
が本質をとらえる唯一の手法であると考えると、大事な何かを忘れがちです。古代の先人達は
寓意・寓話という手法を多用したようです。言語が未発達で、抽象的な表現方法がなかった場
合、ある本質の一部を別の具体的なものにかこつけて表現すると言うことは自然なことでしょう。

 こうした手法は現代でも使われています。『小説坊ちゃん』には、「赤シャツ」「山嵐」「野だいこ」
「うらなり」「マドンナ」「狸」が登場します。狸とは、哺乳綱・イヌ科・タヌキ属に分類される動物で
す。体長約50〜60cm、体重3〜10kg、ずんぐりとした体つきの動物だそうです。『小説坊ちゃ
ん』は無論、寓意・寓話小説ではありません。しかし、このような表現で、作者夏目漱石は他の表
現に代え難いある本質部分を伝えようとしていることは事実でしょう。

 「阿難、時にかの比丘、その仏の所、諸天・魔・龍神八部、大衆の中にして、この弘誓を発し」(大
無量寿経)
 「うらなり」「マドンナ」「狸」が全て真人間であるように、諸天・魔・龍神八部はすべて真人間である
ことは当然です。けん飛とはトンボ、蠕動の類はミミズだったかと思います。狸が人間であるよう
に、仏典に登場するトンボ・ミミズも全て真人間です。
95渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/14(火) 11:40:43 ID:334tXIct
 「(念仏は)無明長夜の燈炬なり」。トンボがたいまつなどを持てば、飛んで火に入る夏の虫となり、
焼かれて死んでしまうでしょう。「とんぼさん。たいまつをどうぞ」と言えば、「トンボ死ね」と言ってい
るのと同じでしょう。トンボにたいまつを上げましょうなどと言う話をする人はいません。トンボと言っ
ても人間です。


>それも悪い心を持った者は救われないといわれる。このところはどう理解したらいいのでしょうか。

 「狸」と言っても、しっぽをはやしていたわけでありません。人間の心で人間の行動を取る人間です。
「うらなり」とはひょうたんのことだそうです。ひょうたんと言っても、その場合は、人の心で人の行動を
取っていた人間です。主人公坊ちゃんには、相手の本質的な一部が狸という概念と重なって見え、あ
るいは本質的な一部がひょうたんと言う概念と重なった。

 人の心で人の行動を取る者を人といいます。鬼の心で鬼の行動を取る者を鬼と言います。悪魔の心
で悪魔の行動を取る者を悪魔と言います。

 我が子を殺された母親が、殺人事件の裁判を傍聴に行った。被告席の人物を一目見た時、我を忘れ
て思わず叫ぶ。「鬼チクショウ!!」。
 被告席には誰がいたのでしょうか。そこには、鬼の心で鬼の行動を取る者がいたのでしょう。「いやい
や、彼は人間ですよ」。そう言っても、それはその母親には空虚な話でしかない。まさにそこには人間で
はなく、人間の仮面を被った「鬼チクショウ」がいたのでしょう。

 悪い心を持った者であっても、それが人間であれば救われる可能性がある。しかし、人の心を失い、人
の行動を忘れた鬼チクショウは、仏も傍観するしかない。固有の業によって六道を経巡り、いつか真人間
になったとき、仏も救いの手を出すだろう。真人間に戻ることがなければ、鬼チクショウは救いようがない。

 鬼チクショウが真人間に戻れるかどうか、それは、回りからの働きかけと因と縁による。真人間になった
とき、そのときに仏に出会うことがなければ、人はさらなる輪廻を繰り返す。  
96神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 01:17:38 ID:c07tuE7R
謝れとは言いませんがこちらもちょっと大人げないのですが
ムカついたので友達のハッカーに頼んで あなたの個人情報を
探ってもらうことにしました。あ、もう遅いですよ。
もうすでに友達解析始めちゃってますから・・・(^^;
ちなみにこれは自慢じゃないんですがその友達は日本でも
5の指に入るくらい凄腕のハッカーです 。
この前彼の家に遊びに行ったらものの5分で他人の個人情報を
抜き取っていました。
彼にとってそれくらい赤子の指をひねるくらいの行いなんですよね(爆)
これであなたもいっかんの終わりってやつですね(^^;
まあせいぜい後悔してくださいね。
それからもう二度と荒らしはしないこと(その友達は荒らしが大嫌いらしいです。
荒らしを見つけたら即解析に入るみたいです(^^;)
それでは、う〜ん二日後くらいかな?また例の所に来てくださいね。
あなたの住所本名住所その他もろもろのせておきますんで(笑)
あ、警察とかに言ったって無駄ですよ。
あなたは荒らし(犯罪)なんだから通報したところで捕まるのは
アナタです。友達は掲示板のログを自在に操ることができるんです。
と、いうことでbye♪(^0^)/~~
97渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:41:12 ID:Qe65VzzX
 「阿弥陀仏が十九願を立てられた意義」セーフティーネットとして、十九願を立てた。という
ことがポイントになる。
 http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-376.html
 苦笑さんの考えは妥当か。

 親鸞会は三願転入もどきの理屈を会員に宣伝していることから、親鸞会系の掲示板でも
その本質についても議論が行われている。そんな中、僕は、僕のブログの百家争鳴で6月
18日から7月2日にかけて親鸞会会員の質問に回答し、さらに同じような質問にこの掲示
板で7月2日と5日とに三願転入について書きました。
 僕の書き込みに刺激されたのか、苦笑さんが「阿弥陀仏が十九願を立てられた意義」とい
う議論を7月4日に自分のブログに書いています。たぶんこの議論だろうと思うけど、何人か
の人が苦笑さんの議論には共鳴する意見が見られるようになっています。

 僕は、「阿弥陀仏が十九願を立てた」という主張はしていません。「セーフティーネット」であ
るとも言っていません。これは苦笑さん独自の主張でしょう。「セーフティーネット」という言い
方も、僕は寡聞にして聞いたことがない。苦笑さんのオリジナルの議論かと想像します。

 三願転入の問題を巡っては親鸞会が珍説を主張しているもようで、議論が混乱している。阿
弥陀仏の十九願の意義について親鸞の主張を考えてみたい。阿弥陀仏の十九願とは何か。

 たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発し
て我が国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現
ぜずんば、正覚を取らじ。(大無量寿経)

 阿弥陀仏の十九願には、「寿終わる時に臨んで、 〜 その人の前に現」ずると書いてあり、
臨終現前の願という名がついている。「心を至し願を発」っするとあることから至心発願の願と
も言う。
 十九願は言う。我が国に生まれんと欲し、つまり極楽浄土に行きたいと思う人には、死に臨
んで阿弥陀仏がその人の前に迎えにくると言う。この条件を満たすに当たり、十九願は、修
諸功徳の善と至心発願欲生の心を要求している。
98渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:43:39 ID:Qe65VzzX
 願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すな
わちこれ至心発願欲生の心なり。この願の行信に依って、浄土の要門、方便権仮を顕開す
(化身土巻)。

 十九願が言う修諸功徳の善とは何か。何が修諸功徳の善であるのか。親鸞はその具体的な
内容を、浄土の要門の中身として明らかにしている。

 十九願はセーフティーネットであるという主張はいかがなものか。
 セーフティーネット 【safety net】
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/221706/m0u/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88/
一部での故障や破綻がシステムや社会全体に波及するのを防ぐ安全装置。金融機関の破綻が
広がらないよう中央銀行が保証したり,預金に保険がかけられていることや雇用保険などがその例。 

 至心発願欲生の心をもってもろもろの善を修めれば極楽浄土に往生できる。
 要門に関する議論の親鸞の視点を考える。
至心発願の願 邪定聚機 双樹林下往生 (化身土巻)
 娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄土の要門を開く。
 百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。

 十九願というのは故障や破綻システムの救済を目的にしたものだろうか。
 念仏もうさんと思い立つ心の起こるとき、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。阿弥陀
仏は念仏を称える者を救うという大悲の願を立てている(十七願)。
 念仏を称える者を救うという誓いが立てられると、世界中の人々は三種類に分かれる。
 念仏で救われるんだと、率直にその言葉を信じ、自主的、自律的、自覚的に念仏を称え出す人
(正定聚機)。
 そんなことは信じられないと言いつつ、誘われれば念仏を称えることもある人。しかし、誘いがな
いと称えない。依存的、他律的、浮動的な態度を取る人(不定聚機)。
 誘われても称えない人。絶対嫌。何が何でも、念仏は嫌。絶対に断るという信念、確信的な人
(邪定聚機)。
99渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:52:54 ID:Qe65VzzX
 称名念仏という基軸を建てれば、人は三つの分類に別れるというのは当たり前のことだ。念仏を
称える者を救いますよと言われれば、「わしゃ、嫌じゃ。冗談じゃない。なんでそんなものに頼らなけ
ればならんのじゃ。馬鹿たれ!」と腹を立てる人がいても、不思議はない。その人々を仮に「邪定聚」と
呼ぶが、「邪」という字には深い意味はない。要するに、「念仏は嫌いじゃ」という人である。そういう人は、
別に故障者でもなければ破綻者でもない。普通の人である。信念のある人を、故障者・破綻者、扱いす
ることは賛成できない。

 阿弥陀様に救って貰わなければ大変なことになる。お前は死んだら地獄に堕ちるぞ。無間地獄
に堕ちて、永久に苦しみ続けるぞ。阿弥陀様を信じない奴は法謗罪だ、五逆罪だ、など、こんな馬鹿
なことをいう奴がいれば、そいつが法謗罪だろう。
 阿弥陀様を信じない奴はとんでもない奴だという人がいれば、そいつこそとんでもない奴だ。阿弥
陀様を信じない人でも救いはいくらでもある。無神論・無宗教でも立派な人はいくらでもいる。世の中、
阿弥陀だけが救いではない。

 念仏を称える者を救うぞという誓いは、念仏を称えない者は相手にしないということだ。クラシック音楽
を求める人に感動を与えようというクラッシック音楽の集まりは、「クラシックは嫌。わしゃ大嫌いじゃ」と
いう、自然な、穏やかな感情をもっている人を相手にしない。「クラシックは嫌じゃ。わしゃ大嫌いじゃ」と
いう人は、故障者でもなければ破綻者でもない。「歌謡曲以外は聞きたくない。義太夫だけが芸術である」
と思っている人も、尊敬に値する立派な人である。クラッシックファンが、他の人を、救わなければならな
い「故障者、破綻者」と呼ぶことは、いかにも考えが狭い。クラシックも嫌い、義太夫も興味がない。それ
で立派な人はいくらでもいる。

 阿弥陀仏は、念仏を称える者を救うぞという誓いを建て(十七願)、喜んで念仏を称える人の救いの
道(共鳴的・共感的に称える人)を十八願に設け、(念仏に関心は薄いが)誘われれば称える人(依存
的に称える人)の救いの道を二十願に設けた。
 念仏は嫌という人は、阿弥陀仏の関心外である。クラシック音楽コンサートを開く人は、義太夫で
なければだめという人を招こうとは思はない。
100渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:55:58 ID:Qe65VzzX
 阿弥陀仏には、邪定聚機を極楽浄土に招こうという考えはない。しかし、釈迦は阿弥陀の世界のすばらし
さをよく知っている。「念仏は嫌じゃ」という人はそこに向かおうとしないこともよく知っている。釈迦は、念仏を
称える人だけを救うという考えをもっていない。念仏を称えるという人を排除する考えも持っていない。釈迦
は、「念仏は嫌じゃ」という人でも参加して気に入ってくれる様々なメニューを用意した。それが要門である。
「娑婆の化主、その請に因るがゆえに、すなわち広く浄土の要門を開く」。要門は釈迦が開いたというのが親
鸞の理解である。
 十九願は阿弥陀仏が立てたのか。仮に阿弥陀仏が十九願を立てたとしても、親鸞の理解に沿えば、そ
れは釈迦の出現まで空虚な願だったということになるだろう。親鸞に言わせれば、釈迦がその内容を充足し
た。
 十九願は阿弥陀仏ではなく、釈迦が後書きで加えた願であるという主張もできるだろう。
 少なくとも、十九願の実質的建立者は、阿弥陀ではなく釈迦であるというのが親鸞のスタンスである。

 要門は、大きく定善と散善という区分に分けることができる。定善は精神集中であり、散善は廃悪修善であ
る。釈迦はそのような多数の中に念仏も用意した(観無量寿経 下品下生)。間違って念仏を選ぶ人がいない
とも限らないからだ。

 釈迦の修行法は聖道門で大きな成果を上げた。多くの哲人・賢人を歴史的に生んできた。しかし、釈迦の教
えには大きな問題があった。時代が進むと時代遅れになるという問題だ。

 我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。当今は末法なり。
この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。

 末法の時代になると、念仏以外で仏になるというひとはほとんどいなくなる。浄土門だけが仏になる道を開い
ている。百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。要門では、百人中希に一人か二人、千人中、希に
三人から五人程度である。
101渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:56:57 ID:Qe65VzzX
 百人中希に一人か二人、千人中、希に三人から五人程度である。これを多いと見るか少ないと見るか。親鸞
はこれを少なすぎるという意味で言っている。少なすぎる道をセーフティーネット、安全装置と言っていいもの
か。すくなくとも、これをセーフティーネットという表現には、親鸞は賛成しないだろう。

 セーフティーネットというなら、それは二十願だ。念仏を称える者を救うぞという誓いを聞いて、喜び勇み、共
感的・自律的に称えだす人がいる。しかし、こういう正定聚だけを救うというなら救いは不十分である。共感しな
いが、誘われれば称えるという人も救おう。そう考えているのが二十願である。「果遂せずば」というのがそう言
う意味である。セーフティーネットいうなら、二十願が該当するだろう。十九願はセーフティーネットではない。

 百人中希に一人か二人、千人中、希に三人から五人が阿弥陀仏によって救われていく。救われていくのは、
要門の中に、安楽の能人つまり阿弥陀仏は別意の弘願を顕彰す。つまり念仏の教えを加えてあるからだ。
 要門から入り、その中で偶々念仏に出会うことのできた者が、希に救われていく。これが三願転入である。
 念仏などはとんでもないといっていた人(邪定聚)が、要門に入り、そこで多数の中の一つとして偶然、念仏の
教えに出会う。そこで、心変わりし、誘われたら称える人(不定聚)になり、やがて誘われなくても自律的に称え
る人(正定聚)になっていくことがある。例えば、親鸞という人は、そのような数少ない人の中の一人だった。法
然上人も三願転入した人であると言っていいだろう。しかし、その他の多くの人は、要門ではなく、いきなり二十
願から入っている。

 当今の凡夫は、現に「信想軽毛」と名づく、また「仮名」と曰えり、また「不定聚」と名づく

 現代の人に説くべき教えは、正定聚のための十八願でもなければ、邪定聚のための十九でもない。二十願
の真門の教えである。
102渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 12:59:14 ID:Qe65VzzX
 ところで、「邪定聚でも、百人中希に一人か二人、千人中、希に三人から五人助かるから要門に進撃!」と教
える親鸞会は、日露戦争の二百三高知作戦で死体の山を築いた乃木将軍のようなものだ。たとえが古くさくて
申し訳ない。斬新なたとえが見つからない。

 児玉源太郎は、乃木が作った死体の山を尻目に、指揮権介入して敵陣を半日で攻略したという。乃木将軍は
神社もできているから愚将だったかどうか知らないが、児玉源太郎の来ない親鸞会は、ちぐはぐなことをして死
体の山を積み上げることしか知らないようだ。

 十九願はセーフティーネットと考えるのは間違いだろう。念仏は嫌。称えるのは嫌という人は、親鸞に引かれず、
浄土教からは離れていくべきだろう。
103神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 13:08:03 ID:amziXsKv
難さん、やはり17願が総願である。その根拠をあげられていますが、やはりそれが
どうして総願の根拠になるのかよく理解できません。
それと私は18−19−20願はやはり阿弥陀仏の願であると思ってますが、
親鸞さんは19願−20願−18願と経験されたわけです。そしてそれは19願20願は18願に
導く願として受け取られています。即ち言葉を換えていったら19願20願を示しその内容を示し
衆生にそれが出来ないことを教えるための願でもあるのです。
本当は18願でこの願だけで十分なのですが、中にはおのれの力を頼む衆生がいるわけです。ほとんどが
そうでしょうけど。そこでその衆生を哀れんでこの自力の願を説いているのです。
この2つの深い意味があるようです。
結論からいいますと18願に入っている人間にとっては導く願、自力無効を知らしめる願であり
18願に入れない人間にとっては自力で救われる願であるのです。他力も自力も救うためにこの3つの願
がいるわけです。難さんは今、どの願におられますか。
104神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 14:19:08 ID:ixQb/JsI
>>103

ここは親鸞会スレを潰して一人で喜んでいる基地外廃人の妄想オナニースレです。

まともな議論はここに書き込まないでください。
105渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 16:36:09 ID:Qe65VzzX
>>103
>やはりそれがどうして総願の根拠になるのかよく理解できません。
 なるほど

>それが出来ないことを教えるための願でもあるのです。
 なるほど

>中にはおのれの力を頼む衆生がいるわけです。
 なるほど

>18願に入れない人間にとっては自力で救われる願であるのです。
 なるほど

>難さんは今、どの願におられますか。
 ノーコメントです。貴方とは考え方が違うようです。
106 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/07/15(水) 16:50:32 ID:hc+fOnXl
     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ 
    (  人____)
    |ミ/# ー◎-◎-)
    (6     (_ _) )
    | ∴ ノ  3 ノ
     \_____ノ
     /       \
   _| |       | |_
   ||\          \
   ||\\          \
   ||  \\          \.    ∧_∧
.       \\          \   ( ;´Д`) (オイ、なんか変なのがいるぞ)
.        \\          \ /    ヽ
.          \\         / |   | .|
.           \∧_∧   (⌒\|___/ /
            ( ;´д`)目合わせるなって     ∧_∧
            _/   ヽ          \    (    ) うわー、こっち
            |     ヽ           \   /   ヽ、 見てるよ
107神も仏も名無しさん:2009/07/15(水) 19:23:07 ID:amziXsKv
あらら難さんを怒らしたようですね。しかし意見をかわすことは構わないと思いますけど。
別に自分と同じ意見じゃなくてもいいじゃないですか。
108渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/15(水) 20:19:13 ID:Qe65VzzX
>>107
> あらら難さんを怒らしたようですね。

 はて?。
 貴方の仰ることには「なるほど」と賛同し、「どの願におられますか」という問には、
「ノーコメントです」という回答をしたのですが、それが何か怒っているような印象を
受けたのでしょうか?
 意見をかわすことは構わないと思いますよ。自分と同じ意見でなくてもよろしいの
ではないですか?。

 次回は>> 48の質問3に移りたいと思います。
109神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 02:50:02 ID:+SuK/3FN
それはよかった。ではさっそくお聞きします。
92番の17願が総願といわれる箇所を示されていますがどこにも17願が総願と
言っていないのですが。おまけに示されている箇所が17願を説いている行巻ではなく
真仏土巻の言葉ですよね。それはどうしてですか。
次に94番の仏典に登場するトンボ・ミミズも全て真人間です−−−ここがよくわからないのですが。
110渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/16(木) 11:48:00 ID:c4Ui5Uip
>>109
>どこにも17願が総願と言っていないのですが。おまけに示されている箇所が17願を説いている行巻ではなく真
仏土巻の言葉ですよね。それはどうしてですか。

 >> 92で 「>17願は総論であるであるという親鸞の主張」という記載があるのは、>> 89を機械的にコピペ引用した
だけです。回答元の表示以上の意味はありません。

 (もし分からなければ)十七願は総論、十八願、十九願、二十願は各論と(自分の頭の体操で)考えると(理解が
早まって)いいでしょう(>>39)。

 総論(>>39)とは総願という意味である(>>103)。
 「(自分の頭の体操で)考えるといいでしょう(>>39)」ということは、「(十七願は総願であると親鸞が)言っていると
いうことである」(>>109)。

 貴方と僕とは、言語的共通的な基盤がほとんどないようです。僕から見ると、宇宙人と会話しているようです。申し
訳ありませんが、貴方に上手にご理解いただける言葉の持ち合わせが僕にはありません。

 >94番の仏典に登場するトンボ・ミミズも全て真人間です−−−ここがよくわからないのですが。

 千葉県の幕張という所に行くと、東京ディズニーランドという遊園地があります。そこにはミッキーマウスがいます。

 ミッキーマウスはネズミであるという人がいます。ネズミとは、脊椎動物亜門 哺乳綱目の一つ。齧歯目、齧歯類だ
そうです。
 いやいや違うんだ。ミッキーマウスはネズミではない。ミッキーマウスは人間なんだ。あれはぬいぐるみなんだ。一
皮剥ぐと人間が入っているんだ。人間の意思を持ち、人間の行動をとる真人間なんだよ。
 ミッキーマウスは真人間であるという、ここがよくわからないという人もいるでしょう。

 ミッキーマウスはネズミであるという貴方とは、言語だけでなく、環境的文化についても共通的な基盤がないようです。

 環境的文化が違い、言語的共通的基盤もなければ、僕は僕の考え方を貴方に理解して貰うことは不可能と思います。
 別に自分と同じ意見じゃなくてもいいじゃないですか。貴方は、あなたのお考えで進んでいかれればよろしいと思いま
す。
111渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/16(木) 12:52:48 ID:c4Ui5Uip
>>48
>心は蛇蠍のごとくなり

 蛇(へび)
 爬虫綱有鱗目ヘビ亜目(Serpentes)に分類される爬虫類の総称。大きさも最大10mとい
われるアミメニシキヘビやオオアナコンダから、10cm程のメクラヘビ類まで、様々な種類
がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%93

 蠍(さそり)
 節足動物門鋏角亜門クモ綱サソリ目 Scorpiones に属する動物の総称である。命にか
かわる毒を持つものはごく一部である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BD%E3%83%AA

 ごとし
(助動)((ごとく)・ごとく・ごとし・ごとき・○・○) 活用語の連体形や体言、また、それらに助
詞「が」「の」の付いたものに接続する。
(1)似ているものに比べたとえる意を表す。…のようだ。…のとおりだ。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/70078/m0u/%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%97/

 にる
(動ナ上一)[文]ナ上一
 (1)ある物が他の物と同じように見える。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/148875/m0u/%E4%BC%BC%E3%82%8B/
 
 「心は蛇蠍のごとく(似ている)なり」というのは、「心は蛇蠍である(同一)」と言っているの
でしょうか。「蛇蠍ではない(非同一)」と言っているのでしょうか。

 「蛇蠍ではないと言っていることは、心は蛇蠍であると言っていることである。」
 申し訳ありませんが、言語に意味共通の基盤の無い宇宙人の方には、僕は言葉で説明
することができません。
 言葉は、意味の背景的概念が一致してはじめて、伝達機能を発揮します。
112神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 14:13:16 ID:B10P8H0m
渡海難は、都合の悪い質問には、答えずに、誤魔化すんだね!

親鸞会の高森会長と同じ星の生物かよ!
113神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 14:19:29 ID:B10P8H0m
特許の仕事はないみたいで、いつも暇な自営業か?

いいご身分だな〜
114神も仏も名無しさん:2009/07/16(木) 14:23:11 ID:B10P8H0m
親鸞会の脱会者にも、見向きもされす。

荒らしが、唯一の生き甲斐かね。

悲しい老後だな〜
115神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 04:07:18 ID:jjVOWzxw
これって親鸞会の親友部のA田さんじゃん。東大出身の。
あれだけ頭のいい人が、なぜ今でも親鸞会に残っているんでしょうね。

かなりM晴には批判的な人だけどね。


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116渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 09:52:13 ID:F1sTP5u5
>>52
>大経ばかりか、すべての大乗経典には釈尊の精神が敷衍されている。

 同感である。しかし、大乗経典は西暦紀元前後に書かれている。釈迦が死んでから数百
年後である。釈迦の精神が流れているというのは、信仰を越える客観的な証拠を挙げるこ
とができないと言うことは大事なことだ。
 なお、経典時代以後の文献的な流れをみると、経典時代以前も同じような流れをしており、
釈迦の精神が脈々と流れていたと信じることは、十分に根拠があることだろう僕は思ってい
る。

>曲解したのが曇鸞と道綽と善導。仏教とは似ても似つかぬ邪教を作っている。

設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗
正法。   (大無量寿経)
若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者不取正覚  (往生礼讃偈)


『選択本願念仏集』源空集 に云わく、  〜 正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称する
なり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上   (行の巻)
 行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを「正定の業」と名づく、かの仏
願に順ずるがゆえに。 〜 散善は行を顕す縁なり、と。また云わく、浄土の要逢いがたし
  (化身土の巻)

 先人達が、自分以前の先人の主張を急進的に改革をしてきたと言うことは紛れもない事実
である。彼らは頑迷固陋な保守主義者ではない。

 近代物理学はニュートンの『一般原理』に始まる。アインシュタインはニュートンの古典物
理学を大きく修正し、『相対性原理』を主張する。
117渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 09:54:39 ID:F1sTP5u5
 原子物理学はボーアに始まる。ボーアは独自の原子モデルを提唱し、原子構造を明らか
にした。ボーアの下からは、オッペンハイマ、ハイゼンベルグ、仁科芳雄などが巣立つ。仁科
芳雄の下からは湯川・朝永などが巣立ち、湯川・朝永などの下から、小柴博士、南部博士な
どが育ち、南部博士に惹かれて益川博士などが育ったようだ。いずれも先人の理論を急進
的に改革している。急進的改革者を似ても似つかぬ邪教の教えという人はいない。理論は変
革しても、先人の魂は息づいているからだ。

 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしま
さば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごと
ならんや(歎異抄)。

 急進的改革者は先人と知恵を異にする。しかし、大悲を共通にする。急進的改革者は、「至
心信楽 欲生我国 乃至十念」を「称我名号 下至十声」と書き換える。「正定の業」は浄土の
要逢いがたしと、先人の主張を否定する。急進的改革者は、時代の変化を読み取って常に先
人の主張を否定する。先人の主張を否定する中で、急進的改革者は先人の大悲を一器水瀉
一器のごとく継承していることを見失ってはならないだろう。

 大乗経典も釈迦の主張を否定して新たな主張を創設しているはずである。そこには、釈迦入
滅後の数百年という時間の流れを読み取り、先人の知恵を否定しながら、釈迦の大悲を一器
水瀉一器のごとく継承していたものと僕は考えている。

 現代の我々にとって大事なことは、先人の言葉に頑迷固陋に洗脳されることではない。先人
の言葉をきっかけとして、その中の大悲を純粋に継承していきたい。
118神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 11:35:57 ID:G11phliM
難さんここの−−−大乗経典も釈迦の主張を否定して新たな主張を創設しているはずである−−−
      −−−−曇鸞と道綽と善導。仏教とは似ても似つかぬ邪教を作っている−−−

難さんの主張を否定するのではないのですが、むしろ全く逆で大乗教典作者もまた曇鸞と道綽と善導も
仏教徒ですので、釈迦や先人の主張を否定したのではなく釈迦の本当に言いたいことはこういう事だ、真意は
つまりこういう事というふうに考えていったんじゃないでしょうか。
否定したのではなく肯定です。私は釈迦の真意、本当に言いたかったことはこうだ、仏教とはこういった教え、救いを
目指しているんだと−−−これは肯定ですね。このへんはどうでしょうか。
119渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 13:23:35 ID:F1sTP5u5
>>118
>真意はつまりこういう事というふうに考えていったんじゃないでしょうか。

  突拍子もない考えに方に思えます。僕個人は貴方の考えには賛成できません。

  新たな主張は、先人の主張を改革的に否定し、あるいは正と反とを改革的に取捨選択し
て合わせる中で切り開かれてくるんだろうと思います。
120神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 14:05:35 ID:Ba+qAz/p
それを新興宗教というんだよ。
伝統を否定してどうするんだよ。
伝統を踏まえて、新たな解釈を"加える"のでしょうが。

仏教のイロハから勉強しろよ。

高森と同じ星の生物か!
コリン星人?
121渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 15:31:30 ID:F1sTP5u5
>>120
 世に曲事ごとの起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心をいれて、申
し合わせ給うべしとぞ覚え候。(消息集)

 世の中に不都合なことがあった時、念仏を信頼し、世の中の憂いが無くなりますようにとそんな祈りの
心で合同して念仏を称えてください。

 「祈りの心で合同して念仏を称えろ?。とんでもないことだ!!」(仏教のイロハも知らない仏教音痴
の)新門は 〜 教団の現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機
能の発揮を訴えた
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html

 安楽集に云わく、観仏三昧経に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう(行の巻)。
 安楽集は言う。観仏三昧経が次のように言う。釈迦は父王に念仏三昧の行を勧めた。

 「念仏三昧しろ?。とんでもないことだ!!」(仏教のイロハも知らない仏教音痴の)新門は 〜 教団
の現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機能の発揮を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html

 浄土五会念仏略法事儀讃に云わく、 〜 しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。 〜 
如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて、父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に
念仏すべしと(行の巻)。
 浄土五会念仏略法事儀讃は言う。念仏三昧は真の無上深妙の門である。 〜 如来はいつも精神集
中の中でしわくちゃの手を挙げ、父王に言っていた。王よ。いま座禅して念仏なさいませ。

 「座禅して念仏三昧しろ?。とんでもないことだ!!」(仏教のイロハも知らない仏教音痴の)新門は 
〜 教団の現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機能の発揮を
訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html
122渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 15:32:23 ID:F1sTP5u5
 五会讃法照禅師の述作する所、 〜 流布の本に深妙の下、問答の上に禅の一字あり。 〜 如来
等とは、これ五会念仏を釈する文なり。(存覚 著 六要抄)
 浄土五会念仏略法事儀讃は法照禅師が書いた。流布の本を見れば「深妙」の下、次に続く問答論の
上には「禅」という文字が書いてある。つまり、「念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門」という意味であ
る。「如来」以下は五会念仏を説明している。

 「禅門だって?。とんでもないことだ!!」(仏教のイロハも知らない仏教音痴の)新門は 〜 教団の
現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機能の発揮を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html
 
 しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。 〜 今日、道場の諸衆等 恒沙曠劫より惣じ
て経来たれりこの人身をはかるに値遇し難し 〜 四十八願かならず相たずさふ普く道場同行者を勧
む(五会法事讃略抄(親鸞真筆))
 もしそうであれば、念仏三昧がよい。〜念仏三昧こそ、真の無上、真の禅門である。今日、道場には
様々なところから集まってくださった。人の身というのは実に予測できない。 〜 四十八願は一体にな
って全ての道場同行者に五会念仏を勧めます。

 「禅門道場五会念仏だって?。とんでもないことだ!!」(仏教のイロハも知らない仏教音痴の)新門
は 〜 教団の現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機能の発揮
を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html
123渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 15:33:17 ID:F1sTP5u5
 おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、 〜 念佛三味の道場もその義おなじかるべし。され
ば念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかくといふとも、道場をかまへて功を安置の
本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 このゆへに穢土をもて淨土に准じ、私宅
をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座とするなり。 〜 誠心をぬきんでて
道場をかまへ、同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝行なるがゆへに、諸
佛も哀納し諸天も歓喜したまふ。(至道抄 存覚)

 およそ佛法修行場を道場という。念佛三味の道場も同じである。だからこそ、念佛の行者は心に信心
をたくはへて心を淨土の如來に寄せるといふとも、なお、道場を構えて、本尊を安置して成果をその本
尊に付属させなさい。僧侶が行う自行化他の利益とは、このことである。だからこそ、粗末な場所であ
ってもそこを淨土になぞらえ、私宅を道場と仮定して本尊を安置して淨場とし、(座禅して五会)念佛を
つとめる會座とする。真剣な思いで道場を構え、同行者を集めて(座禅して五会)念佛を行ずべきであ
る。念佛は無上の功徳超絶の勝行であるからこそ、諸佛も哀納し諸天も歓喜なされる。

 「念佛三味道場の會座だって?。とんでもないことだ!!」。(仏教のイロハも知らない仏教音痴の)
新門は 〜 教団の現状に強い危機感を示すとともに、(小乗仏教声聞)聞法道場としての寺院機能の
発揮を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html


 (仏教のイロハも知らない仏教音痴の)同新門は、話して聞かせ、言って聞かせ、耳から教義をすり
込み、俺たちの主張で洗脳させよう。小乗仏教声聞聞法道場としての寺院機能の発揮を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html


 新門!。よく聞け。それを新興宗教というんだよ。伝統を否定してどうするんだよ。伝統を踏まえて、
新たな解釈を"加える"のでしょうが。仏教のイロハから勉強しろよ。高森と同じ星の生物か!コリン星
人?
124渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/18(土) 15:46:49 ID:F1sTP5u5
>>123

× 伝統を否定してどうするんだよ。伝統を踏まえて、新たな解釈を"加える"のでしょうが。

○ (大乗仏教の)伝統を否定してどうするんだよ。(大乗仏教の)伝統を踏まえて、新たな
 解釈を"加える"のでしょうが。(小乗仏教に戻ってどうするんだ)
125神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 15:57:16 ID:Ba+qAz/p
高森と同じ詭弁でしょ〜。
都合が悪くなると、いつものパターン。

論点をずらして、相手が呆れると勝利宣言。

地球人では、付き合えない性格をしれよ。

だから嫌われているの!

分からないだろうね。
126神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 16:05:34 ID:G11phliM
難さん、私は教壇には属していませんがこの新門さんの言うことはスジが通っていますよ。
会見の中に自らは門法してこころの拠り所を確立するとともにそこに留まらないで、他の人にも伝えよって
要約すると言われているわけですよ。
−−−自信教人信の歩みを呼びかけた−−−−と記者の方も締めくくっているでしょ。
それに対して小乗仏教の声聞というのは、これは大乗仏教からの呼び名ですね。

声聞 (しょうもん、サンスクリット:श्रावक Zraavaka)は、仏教において「教えを聴聞する者」の意で、
初期経典では出家・在家ともに用いられる。後になると出家の修行僧だけを意味した。
声聞には、上から阿羅漢果(応供)・阿那含果(不還)・斯陀含果(一来)・須陀洹果(預流)の
4つの目標(「向」)と、それに応じた4つの結果(「果」)があるとされ、これを四向四果という。

大乗仏教の立場からは、声聞は、主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、
利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であるとして、小乗と貶称される。
これは何も自己のみの救いを否定しているわけじゃない。自信のそれをふまえ教人信への
歩みをいわれてるんですよね。これは釈尊以来の仏教との伝統なんではないですか。

127神も仏も名無しさん:2009/07/18(土) 16:12:06 ID:G11phliM
お釈迦様の救いは悟りを開かれた時点である意味完成をしているわけでしょう。
ところがそこに梵天が出てきて教えを開いてくれと頼むわけですね。
釈尊はお断りになるんだけど最後は受け入れられその道を一生歩まれるわけです。
そこから初転法輪が始まる。これはまさしく自信教人信そのもの。善導さんもいわれているし、
法然さんや親鸞さんもその道を歩まれた。やはり初転法輪として仏教はつながっている気がするのです。
128渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/19(日) 09:34:54 ID:GImeCNY0
>>125
 新門さん。あんたは高森と同じ詭弁でしょ〜。
 「祈りの心で合同して念仏を称えなさいよ。念仏三昧しなさいよ。座禅して念仏三昧しな
さいよ。禅門ですよ。禅門道場五会念仏ですよ」と、親鸞聖人は口酸っぱく言っている。存
覚上人は「五会念仏の念佛三味道場の會座を開きなさいよ」と言っているのにもかかわら
ず、「とんでもない!」という。「耳から教義をすり込む洗脳道場だ。小乗仏教声聞聞法道場
で危機を乗り越えろ」とカルト丸出しの主張をする。

 都合が悪くなると、いつものパターン。「洗脳だけが浄土真宗だ」と論点をずらして、相
手が呆れると勝利宣言。浄土真宗万歳という。地球人では、付き合えない性格をしれよ。
だから嫌われているの!


 同じ宗門の坊さんからこんな風に嫌われれば、新門は門主になれないかもね。
129ここはケンカスレです:2009/07/19(日) 09:53:30 ID:nwAxWHFy
ワンパターンなんだよ!!

特許の仕事がうまくいかないのも、親鸞会の脱会者が靡かないのも、地球人には理解できないお前の性格のせいだよ。
130渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/19(日) 09:53:51 ID:GImeCNY0
>>126
 親鸞さん、私は教壇には属していませんがこの新門さんの言うことはスジが通って
いますよ。会見の中に自らは門法してこころの拠り所を確立するとともにそこに留まら
ないで、他の人にも伝えよって要約すると言われているわけですよ。
−−−自信教人信の歩みを呼びかけた−−−−と記者の方も締めくくっているでしょ。

 それで、あなた方は祈りの心で合同して念仏を称えるんですか。称えないんですか?
座禅して念仏三昧するんですか?。しないんですか?。そこが問題なんですよ。
 あなた方は禅門ですか?。声聞ですか?。大乗の五会念仏を行う念佛三味道場の
會座は開くんですか?。開かないんですか?
 五会念仏はこころの拠り所として確立するんですか?。しないんですか?。五会念仏
を他の人にも伝えよって要約んですか?。しないんですか?。
 祈りの心で合同して五会念仏を称えることが大事なことだと、自ら信じ、人にも教えて
信を共有し合うんですか?。しないんですか?。


 何を言うんですか!!!!。親鸞さん。冗談じゃないですよ。何が糞五会念仏ですか。
そんなことするわけないでしょう!!!。止めてくださいよ。座禅は浄土真宗ではありま
せん。馬鹿なことを言うのはやめてください。

 聞法です。聞法道場です。聞くんですよ。真剣に聞くんですよ。ああ有り難い有り難い
と思って聞くんです。それが親鸞聖人の教えです。

 その親鸞が言っているんですけどね。洗脳してはいけません。五会念仏の道場を開き、
念佛三味を合同して行ってくださいよと。

 何を言うんですか!!。死んだ人間は出てくるな!!

     ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
131真剣勝負  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/19(日) 10:02:57 ID:GImeCNY0
>>129
 同新門は「今のままでは寺院、僧侶にとって厳しい将来が来るのではないか」とワンパターン教団の
現状に強い危機感を示した。声聞道場としての寺院機能の発揮を訴え、門侶らにワンパターンの自信
教人信の歩みを呼びかけた。

 宗門からは、親鸞会の脱会者が靡かないのも、地球人には理解できないお前の性格のせいだよと
厳しい批判が寄せられた。
132ここはケンカスレです:2009/07/19(日) 10:12:26 ID:nwAxWHFy
詭弁のレベルは、高森の方が格段に上だね。

今日も1日張り付きかね〜。

早くコリン星に帰った方がいいぞ。
133渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/19(日) 10:30:08 ID:GImeCNY0
>>127
 ニュートン先生が、万有引力を微積分で説明した瞬間に近代物理学はある意味完成
をしたわけでしょう。それまで、物理現象を全て数式で表現するなどということは誰も考
えなかった。ガリレオ先生でさえ、あまり数学を使ってない。バネの法則を発見したフッ
ク先生が少し使っている。
 ニュートン先生は、物理現象を全て数学で表せることを示して近代物理学を開いた。
まさにニュートン先生は数学物理学の父である。
 ところがそこに、世界中の専門家達が教えを開いてくれと頼むわけです。ニュートン先
生は喜んで学会で発表し、その後も物理学者としての道を一生歩まれるわけです。そこ
から近代物理学の初転法輪が始まる。これはまさしく自からも数学の客観性を信じ、人
にも教えて信を取らせるそのもの。アインシュタイン先生もいわれている。物理法則は数
学で表わす。ボーア先生も、湯川先生も、朝永先生もその数学物理の道を歩まれた。
 益川先生のノーベル賞受賞番組で、放送局が益川先生の受賞論文を取り寄せた。司
会者はびっくりしていた。論文の紙面が少ない。数枚しかない。ところがその数枚の論文
誌のなかは、びっしりと数式で埋まっている。数式以外はほんのわずかしかない。80〜
90%は数式の連続だった。
 物理法則は数学で表すというニュートン先生の初転法輪は、物理学ではつながってい
る気がするのです。

 そんなことは当たり前の話だろう?。だからそれがどうした?
134ここはケンカスレです:2009/07/19(日) 10:34:29 ID:nwAxWHFy
コリン星にも、物理学があるの〜。

コリン星人は、週休七日なの〜。

あるいは、開店休業か?
135渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/19(日) 10:48:51 ID:GImeCNY0
>>126
>それに対して小乗仏教の声聞というのは、これは大乗仏教からの呼び名ですね。

 まともに考えなさんな。所詮、大乗仏教を看板にしたカルトの宗教オンチが開いてい
る声聞道場です。どんな噴飯ものか。相手にするだけお馬鹿です。
136ここはケンカスレです:2009/07/19(日) 10:53:39 ID:nwAxWHFy
まともに考えないと、コリン星人と同じじゃない!

そんなことできないでしょ、地球人には。
137神も仏も名無しさん:2009/07/19(日) 23:58:16 ID:SDLq0DmW
そんなことよりオマエらに相談がある
さっきAVのフェラシーンを見てたらオレの暴れん坊な将軍様が悩ましい思いを訴える
不甲斐なさを詫びつつふたり見つめ合い、ふと思いつく
オレがくわえたらよくね?
早速仰向けに寝転ぶと身体をくの字へ折り曲げむき出しの下半身を顔の前へ持ってくる
だが体の固いオレにはあと少しのところで届かない
身体の前に来た下半身を恋人に見立てて力一杯抱きしめる
海岸で白馬にまたがり勢いよく迫り来るかのごときたくましい将軍様を口の中へと迎え入れたとき
ぎょくっっ!
背中の辺りを濁った響きとともに鈍痛が襲った
か、身体が動かない!?
あ、足も元に戻せない…
このままでは家族も救急車も呼ぶことが出来ない
いまや塩を振られたナメクジのようにしおれて弱気な将軍様を口にくわえたままだから
とりあえず逆柔軟体操の姿勢のままどうすればいいのか20分ぐらい悩みつつ
かろうじて動く手でこれを書いてる
誰か助けて…
実際に口にするとこんな感じ
ふぁへふぁはふふぇふぇ…
138神も仏も名無しさん:2009/07/20(月) 18:28:28 ID:j7dTrtHU
しかしですね難さん、現実原始教典においてお釈迦さんがお悟りをひらかれて
さらに、伝道に立ち上がられていくわけですね。これは初転法輪ですね。
その相手はかって共に難行をした人。この人たちは釈迦の説法を聞いて悟るわけです。
何も厳しい修行をしたのではなく聞くだけで悟っていくわけでしょ。
こういうのも考えてみると声聞はけっして悪くはないのではないですか。
問題は悟ったのを自分だけのものにせずに他の苦悩の人々にも伝え分けよというのが
大乗の立場じゃないんですか。
139神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 00:10:53 ID:2Rw301+W
真里亞!真里亞!真里亞!真里亞ぁぁあああわぁあああああああああああああああああああん!!!
あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁあああああ!!!真里亞真里亞真里亞ぁああぁあぁああああ!!!
あぁピーピー!規制音ピーピー!ピーピーピーピー!ピーピーピーピー!ピー音で何言ってるか分からないなぁ…くんくん
んはぁっ!右代宮 真里亞たんの口癖ピーピー!ピーピーピーピー!あぁあ!!
間違えた!うーうー!うーうー!うーうー!口癖うーうー!うーうーうーうー…きひひひひ!!
真里亞たんの八重歯かわいかったよぅ!!あぁぁああ…うー…あっあぁああああ!!うーうーうーうー!!
アニメ放送されて良かったね真里亞たん!あぁあああああ!かわいい!真里亞たん!かわいい!うーうー!
薔薇の世話をする真里亞たんを見れて嬉し…いやぁあああああ!!!うーうーうーうー!!うーうーうーうーうーうー!!
うーうーうーうーうーうーうー!!!薔薇が見つからない!!!!あ…よく考えたら…
うー うー 言 う の は う ざ い?あぁああああ!きめぇ!真里亞!ぶっ殺す!ぐおあっああぁああ!
そうだぁあああああ!!そのうーうー言うのをやめろおおおおおおおお!!うぁあああああ!!うーうー言うのをやめろって何度いったら分かるんだあああぁあああ!!
この!ちきしょー!やめろ!!うーうー言うのをやめろって言っ…て…え!?叩い…てる?楼座ちゃんが真里亞を叩いてる?
真里亞の母親の楼座ちゃんが真里亞を叱ってるぞ!うーうーうるせえ真里亞を叩いてるぞ!!
アニメの楼座ちゃんが真里亞に怒ってるぞ!!!よかった…うーうーうざいって思ってたのは僕だけじゃないんだねっ!
いやっほぉおおおおおお!!!僕には楼座ちゃんがいる!!やったよバトラ!!ひとりで薔薇を探せるもん!!!
真里亞たんを叱ったことを後悔する楼座ちゃんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁあああ!!ふぁぁあああんんっ!!
真里亞たんが無事見つかって良かったね楼座たん!あぁああああ!かわいい!真里亞たん!かわいい!あっああぁああ!
あっあんああっああんあ楼座様ぁあ!!シ、紗音ー!!朱志香ぁあああああ!!!夏妃ィぃいいいい!!
ううっうぅうう!!俺の想いよ真里亞へ届け!!六軒島の楼座へ届け!
140渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/21(火) 11:31:01 ID:Yo4tHd6i
>>57
>まずここから質問したいのですが、ここの引文から12師の釈が引かれるわけです。その最初
がこの法照の文ですね。

 「これから下に、支那浄土傍依の師、法照以下十師の釈文を引用してある(教行信証講義 山
辺習学・赤沼智善 共著)」
 貴方の主張は、現代の主流的な考えを踏襲していると判断します。僕の考えとは相容れません。


 反論的根拠
「・・・・浄土五会念仏略法事儀讃に云わく、・・・・(中略)・・・九品に敷いてもって人を収むること、
それ仏の名号なり、と。乃至

 ――以上、行巻 中核的主張部終わり。 以下、行巻 傍証的主張部開始――

『称讃浄土経』に依る。 釈法照 如来の尊号は、はなはだ分明なり。 十方世界にあまねく
流行せしむ。 ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。 観音勢至自ずから来り迎えたま
う。・・・・」

 浄土五会念仏略法事儀讃は、行巻の中核的主張部の最後の議論であると考えます。すなわち、
この議論は、龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導の議論と等価的な親鸞念仏論の中核的議論を構成し
ています。
 
 親鸞念仏論は大きく二つに分かれます。念仏意義論と念仏方法論です。

 龍樹・世親・曇鸞・善導の引用は、念仏の意義について議論をしています。南無釈はその意義論
の総括です。意義論が終わると、次に方法論を説明します。「浄土五会念仏略法事儀讃に云わく
・・」は、念仏の方法論を説明しています。
 意義論と方法論とが念仏行思想の中核となります。
141渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/21(火) 11:33:52 ID:Yo4tHd6i
龍樹     称名念仏で念仏者は小乗仏教を飛び越えて大乗仏教に至ると説明する。
世親・曇鸞 称名念仏で往生の因を満たすことを説明する。
道綽     念仏三昧が真の念仏行であることを説明する。
善導    称名念仏が仏道の入り口であることを説明する。
             〈以上が念仏意義論〉
南無釈 称名念仏が阿弥陀仏の勅命であると結論づける。
 

法照  念仏三昧の方法を説明して五会念仏に誘う。
    〈以上が念仏方法論〉

 −−ここまでが行の巻の<本>である。−−
 −−以下、行の巻きの<末>に入る。−−

 行の巻の末は、経典部と先人部とに分かれる。
 経典部は、総論部と各論部とからなる。

 『称讃浄土経に依る』。以下、『新無量寿観経』に依る。までは各論部である。
 大無量寿経以外の様々な経典を例示的に列挙し、大無量寿経と同じ精神で念仏を勧めているこ
とを説明する。

 『憬興師の云わく・・・』以下、『不退転を得るなり』までは変則的総論部である。
 大無量寿経以外の経典の全てを総合し、全ての経典が大無量寿経と同じように念仏を勧めてい
ることを説明する。

『楽邦文類』に云わく、・・・法相の祖師、法位の云わく、・・・
 先人部では、多くの先人・賢人を例示的に列挙し、同じように念仏を勧めていることを説明する。


 「念仏三昧は座禅して行うべき」。これは親鸞念仏の主柱、方法論の中核思想です。
142神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 15:35:36 ID:0rIZfXb9
いつも独りよがりの解釈ですね。
断章取義では、誰も信用しませんよ。

これは渡海難さんへの忠告です。他の方へ振らないように
143渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/21(火) 15:50:23 ID:Yo4tHd6i
 最近、2ちゃんねるの真宗板を見ていると、香樹院徳龍の株が上がっている。
いささか気になる。香樹院徳龍が著名な真宗の坊さんであることは事実だろう。
しかし、その主張の中身はどうか。

 華光会や親鸞会とは波長が合いそうだが、親鸞聖人の教えとはだいぶ距離が
ある。

 渡海難の考えとは水と油の関係になりそうだ。

 
144神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 16:26:12 ID:0rIZfXb9
渡海難さんの株は、荒らしで暴落後、紙くず同然になりましたので、そのように振る舞われた方がよいと思います。
145渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/21(火) 18:01:25 ID:Yo4tHd6i
>>144
>渡海難さんの株は、荒らしで暴落後、紙くず同然になりました

 僕は荒らしをした覚えはないが、僕の書き込みは全て荒らしに見える人がいること
は了解している。

 まあ、見てみようじゃないか。香樹院徳龍は親鸞聖人の教えと距離があると、僕は
このスレに書いた。これで今後も、香樹院徳龍への賛辞が続くか、なくなるか様子を
見てみよう。今回は、具体的な理由は書いてない。

 今後も香樹院徳龍への賛辞が続くなら、親鸞聖人の教えとその主張がどのように
反しているか、この次は具体例を挙げて説明し、その後に書き込まれる香樹院徳龍
への賛辞を見守りたいと思う。

 香樹院徳龍の賛辞には中身がない。渡海難の批判には中身がある。こう思う人は、
やがて親鸞聖人の本当の教えは何かに気づくだろう。
146神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 19:04:20 ID:0rIZfXb9
そんな感覚だから嫌われているのですよ。
147渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/21(火) 20:28:24 ID:Yo4tHd6i
>>146
>そんな感覚だから嫌われているのですよ。

 −笑−
 2ちゃんねるなんかで嫌われようが、さげすまれようがいいんだよ(笑)。

 こんなところで誉められようとは思ってない。渡海難は、所詮、中身空っぽの土管だ。土管には
泥が付いてることもある。ペンペン草が根を張っていることもある。古くなればひびも入っているだ
ろう。叩けば野暮ったい鈍感な音がする。清水が流れることもあるだろうが、泥水、糞尿が流れる
こともある。それでも中身は空っぽ。何もない。

 ところがその土管、親鸞聖人の方にしっかり向いている。僕を覗けば遠くに間違いなく親鸞聖人
が見えるだろう。

 野暮ったい土管だ。馬鹿にされ、嫌われ、煙たがられても、僕を覗けば親鸞聖人が見える。そん
な土管は世界中で僕だけだ。それが僕の誇りであり、ただの土管との大きな違いだ。
148神も仏も名無しさん:2009/07/21(火) 21:25:10 ID:0rIZfXb9
A原もT森もI田もO川も同じことを言ってます。

仕方ないのでしょうか。
149神も仏も名無しさん:2009/07/22(水) 02:23:32 ID:w+YeXq8e
年のせいか、丸くなったのか、ここ数年やっとでバレンタインデーに対しての怒りが収まってきて、
まあそれで誰かの恋が実るなら良いんじゃないですかぐらいにしか思わなくなってたところに逆チョコである。
その文字を初めて見た瞬間、マジでその場で手に持ってたリンゴを握り潰したわ。
どのツラ下げて「付き合ったキッカケは逆チョコです」って言うんだっつーの。
どの口がどのトーンでそれを発するんだっつーの。それ言われた方の気持ち考えたことあんのか。
人の痛みとかわかんねーのか。
逆チョコがキッカケで付き合って結婚して家建てて子供生んで、その都度なんて説明すんだよ。
不動産屋に、逆チョコがキッカケで家を建てることになりましたって言って審査通ると思ってんのか。
子供の瞳をまっすぐ見て「パパとママは逆チョコがキッカケで」って笑わずに言えるのかよ。
噴き出さずに言えるのかよ。ふざけるのもいい加減にしろっつーの。
こっちがヘコヘコしてりゃいい気になりやがって。
150渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/22(水) 14:06:42 ID:VGmcdqd9
>>142
>断章取義では、誰も信用しませんよ。

断章取義 http://www.sanabo.com/words/archives/2001/08/post_692.html
意 味: 原文の意味に関係なく、自分の言に適する部分だけを取って自由に解釈する。
解 説: 「断章」は、詩や文章の断片。

 断章取義という言葉は、「引用元原文の意味に関係があり、しかも、行の巻きを<本>
と<末>に分けるという渡海難の主張に矛盾し、渡海難が抜き書きしなかった文章」、そ
れを断片でも具体的に示し、それから言っても、罰はあたらんでしょう。>>142は負け犬の
遠吠えにしか聞こえない。負け犬の遠吠えなど、みっともないからやめたらどうよ?。

 証拠を出すなどは、およそ離れ業とも言うべき行為で、最初から考えたこともない。
原文の意味など、全くちんぷんかんぷん。教行信証などを自力で読むということなどおよ
そ考えられない。そんな「名無し」から断章取義だ、誰も信用しませんよと言われても、僕に
はまともに返す言葉がありません。

 顔を洗って出直してくるといいでしょう。
 覆面を被っていると、顔も洗えない?。独りよがりの解釈ですね。顔洗う時くらい、覆面
を外したらいいでしょう。   (笑)


>>148
>A原もT森もI田もO川も同じことを言ってます。(>>148
>この新門さんの言うことはスジが通っていますよ(>>126)。
>声聞はけっして悪くはない(>>138)。

 引用元原文の意味に大事な関係があり、しかも、渡海難が抜き書きしなかった重要な文
章、それを具体的に示すことなく、証拠もなく「断章取義」とレッテルを貼る。このひとは、味
噌もクソも同じなんでしょう(笑)。
151渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/22(水) 14:50:54 ID:VGmcdqd9
 断章取義というのはどういう場合か。
 原文の意味はAである。なぜなら、原文にはa1,a2,a3というこういう記述がある
でしょう。しかし、あなたは、原文の意味はBだという。a1という記述があることを根
拠とする。a2,a3をどうして引用しないのでしょうか。a2,a3を示せば、Bは否定さ
れ、Aが正しいことが分かる。
 貴方はa2,a3という章を断って、自分に都合のいいa1だけを取る。だから「断章
取義」ですよ。主張に合理性がない。
 こんな議論になるはずだ。

 そうでない場合はどうなるか。名無しが相手にひっける糞ション便である。
 「お前は断章取義だ!」
 「何を言うか。お前こそ断章取義だ!!」
 「とんでもない。お前こそ断章取義だ!!!」

 これがエンドレスに続く。目に浮かぶ感じがしますよ。

 渡海難が「断章取義」?。根拠を言ってみなさいな。無理でしょう。渡海難の土管は、
間違いなく親鸞聖人につながっている。
152神も仏も名無しさん:2009/07/22(水) 14:52:50 ID:pIlX5UG+
高森と同じですね。

少し位は、本願寺の教学を勉強したらどうかな。周りが全く見えていないんだよ。
自分の解釈が正しいと思い込んだら、間違いに気付くことはない。

馬の小便で顔を洗って出直してきなさい。

コテハンという覆面を被った週休7日の自営業者。
153神も仏も名無しさん:2009/07/22(水) 17:35:48 ID:xgmEyR9k
あの、横からすいません難さん。まあここのスレは難さんにいろいろ親鸞さんの教えを
質問したり聞いたりするスレですよね。だからもちろん私の意見と違う場合も当然ありますし
私も難さんの考えを参考にしたりいろいろするわけです。
べつに難さんの考えを正そうなんかこれっぽっちも思いませんし、また私自身の考えも、難さんの
考えと違うからといってそんなに変わるものでもありません。みなさんもその程度でいいんじゃないでしょうか。
154神も仏も名無しさん:2009/07/22(水) 18:50:19 ID:E41IhEkb
みんな、もっと渡海と遊んでやってくれ。
この隔離スレから出てこないように。
155神も仏も名無しさん:2009/07/23(木) 02:08:02 ID:f9/+E3gX
M野支部学徒 > 雄琴の「CLUB-V」で支部長を見たという噂が…支部長、いくら講師部は
金がないからってあんな大衆店に行くのは… (7/7-23:41) No.4941
M野 > たまには息抜きだよ。こんな所に飛ばされて、生き甲斐だったネット対策も
ままならず、これくらいいいだろうが。 (7/8-01:58) No.4942
掲示板を荒らしてたのは > M野さんが一人でやってたことなんですか!O琴ネタになったら
途端に荒らしがこれまでになく熱心になったことに違和感があるのですが! (7/12-06:19) No.4961
この掲示板を荒らしてたのは > やはりM野さんだったようです。。。。。 (7/12-20:40) No.4966
M野 > オレじゃねえよ。Tだよ。Tを煽ったことは認めるけど。 (7/13-06:55) No.4969
W部 > M野、だから程々にしとけって言っといたのに。どれだけアンチに付け入る材料を与えれば気が済むのか!
オレの裏情報を信用していないからだ、馬鹿だなあ貴様。もっとオレを見習って次回はバレずに巧妙にやることだな、
ハハハハ。 (7/13-19:34) No.4974
やはり > 親鸞会は組織的に掲示板を荒らしているのですね。くだらない組織だ! (7/14-17:27) No.4976
親鸞会は > 批判を封じ込め臭いものに蓋をしようと画策してネット対策していますが、かえって逆効果になってしまって
いるところに全く気づかないのが愚かな点です。 (7/15-05:28) No.4979
Y村 > 親鸞会が諸行往生という非難は、考えものだね。高森先生の勧めておられる善が諸行に入らないでしょう。
臨終来迎も待っていないし、死後に往生できるともおもっていないからね。 (7/18-11:38) No.4996
俺も原液幽霊部員 > Y村先生、教えてほしいのですが、講師部員が望んでいるといわれる、観音菩薩の説法を待って
いるというのは臨終来迎を待っているようなものではないのですか!? (7/20-15:13) No.5007
俺も原液幽霊部員 > あと、Y村 先生ご自身は「いつ」往生できると思っておられるのでしょうか?死後?臨終時?
(7/20-15:38) No.5008
Y村 > 臨終来迎は、19願の善を実践している者だから、S会には誰もいない。私は、会長先生との御縁が誰よりも深いから、
今生は会長先生にどこどこまでもついていくよ。でも次に人間に生れた時には、真の知識にお遇いして平生業成を遂げるつもりだ。
(7/22-07:03) No.5014
156渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 10:11:44 ID:D7wkQmZW
>>152
>本願寺の教学を勉強したらどうかな。

 本願寺の教学とは、どんな立派なみおしえなんでしょうねぇ(苦笑)。

○ 教行信証 行の巻 親鸞
 浄土五会念仏略法事儀讃に云わく、 〜 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。〜 
王いま座禅してただ当に念仏すべし

● 本願寺教学
 信心があやふやな時期に座禅をすることは、結果として有害無益でお勧めできません。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/01_06_20.html



○ 消息集
 世に曲事ごとの起こり候らいしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心
をいれて、申し合わせ給うべしとぞ覚え候。
○  和讃
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
○  行の巻
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。
○  六要抄 存覚
 流布の本に深妙の下、問答の上に禅の一字あり(流布の本は無上深妙の禅門と言う) 〜 
如来等とは、これ五会念仏を釈する文なり 
○  至道抄 存覚
 おほよそ佛法修行のところはみな道場といふ、 〜 念佛三味の道場もその義おなじかるべ
し。されば念佛の行者、うちに信心をたくはへて心を淨土の如來にかくといふとも、道場をかま
へて(念佛三味の)功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 
道場をかまへ、同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝行なるがゆへ
に、諸佛も哀納し諸天も歓喜したまふ。
157渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 10:12:48 ID:D7wkQmZW
○  聞き書き
 前々住上人、御法談已後、仰せられ候う。四五人の御兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、
寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」の由、
仰せられ候う。


●  本願寺教学
 「念佛三味道場の會座だって?。談合だって?とんでもないことだ!!」新門は 〜 教団
の現状に強い危機感を示すとともに、話して聞かせ、言って聞かせ、教義を刷り込んで相手
を洗脳する(小乗仏教声聞)聞法道場という寺院機能の発揮を訴えた。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0906/news090606/news090606_02.html


○ 行の巻
声聞は自利にして大慈悲を障う

● 本願寺教学
>A原もT森もI田もO川も同じことを言ってます。(>>148
>この新門さんの言うことはスジが通っていますよ(>>126)。
>声聞はけっして悪くはない(>>138)。

● 本願寺教学
 断章取義では、誰も信用しませんよ。これは渡海難さんへの忠告です(>>142
 根拠を言ってみなさいな。(>>151
馬の小便で顔を洗って出直してきなさい。コテハンという覆面を被った週休7日の自営業者(>>152)。

   ノータリン教団のノータリン狂学(苦笑)
158渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 10:16:42 ID:D7wkQmZW
>>152
    ―― 笑止 ――
159神も仏も名無しさん:2009/07/23(木) 10:33:54 ID:xhtVPkUf
                    , - , -─ - 、
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                l::l::;イ__, ヽ、ト、::::ヽ、\:',ヽ〃l::::::
                  ';l l::l      ` ‐-   l:::::l::::::  渡海さん、これ読んで下さいっ!
                 l::::l == 、    ,.ィ== l:::::l:::::::::
                 l:::::li //////////// l:::::l::::::::::    
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            /  , ノ `   l::::l   li /ニく /⌒ヽ  \.i
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  /   >>1 バカじゃね? w  /
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160渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 14:39:27 ID:D7wkQmZW
>>57
>どうして結跏趺坐、半跏趺坐だけなのか。

 座禅は、結跏趺坐又は半跏趺坐で行うというのは常識なのではないか?。日本人なら常識だろう。
 体の調子が悪ければ、あぐらでもいいだろう。
 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1242914137/64

第一、入禅調三事者、行人、欲入三昧、調身之宜。若在定外、行注進止、動静運為、悉須詳審。若
所作粗雑、則気息随粗、以気粗故、心則散乱雑録、兼復生時煩憤壊、心不活怡、是以、雖在定外、
亦須用心、逆作方便。然後、応入禅時、須善安身得所。

第一に、禅に入るときに三事を調えるとは、われわれが三昧に入ろうと思ったら、まず体をよく調えな
ければならない。坐禅をはじめるまえから、歩くにも立ち止まるにも進むにも止まるにも、動くときも静
かにしているときも、なにかをしているときも、一一がみな注意深く綿密であるがよい。もし動作が粗雑
であれば、息づかいもそれだげみだれる。息づかいがあらいと、心もみだれておさめにくくなる。坐禅
をしてみても、心がみだれがちで、落付いた気分にはなりにくい。だから坐禅を始めるまえから、あら
かじめ用心して注意していなければならない。そのように用心しておいて、いざ坐禅を始めようとする
ときには、なおよく身も心もおちつけるような所をえらぶようにしなげればならない。

初至縄牀、即須先安坐処、毎令安穏、久久無妨。次当正脚、若半跏坐者、以左脚、置右脚上、牽来
近身、令左脚指、与右髀斉、右脚指、与左脇髀斉。若欲全結跏者、即上下右脚、必置左脚上。次解
寛衣帯、周正、不得令坐時脱落。次当安手、以左手掌、置右手上、重類手、相対安之、頓置左脚上、
牽来近身、当心而安。
161渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 14:40:58 ID:D7wkQmZW
 初めて坐るべき場所についたら、その場所にしっかりとおちつくがよい。つねに安隠にしていられる
ようであれば、いつまでも妨げはない。つぎにはまさに脚から姿勢を正しくすべきである。もし半跏坐
といわれる坐り方ならば、左の脚を右の脚の上におき、それを引きつけて身に近づけ、左脚の指と右
のももとをそろえ、右脚の指と左のももとをそろえる。もし結跏趺坐といわれる坐り方をしようとするな
ら、さらに下にある右の脚ももち上げ、それを左の脚の上に置く。つぎに衣帯を解きゆるめる。しかし
周ねく正しくして、坐っているときに脱けて落ちたりすることがないようにする。つぎに手をおちつける。
左手の掌を右手の上に置き、両手をかさねて相対してこれをおちつけ、ともに左脚の上に置き、ひき
つけて身に近づけ、下腹に当てておちつける。
           (天台小止観 関口真大 訳 大東出版社)


 空中に側塞して、蓮華座に坐す。
 蓮華の中において結跏趺座し、蓮華の合する想いを作し、蓮華の開くる想いを作すべし。
(観無量寿経)

 蓮華座(結跏趺坐)が極楽浄土の正式な着座法のようだ。結跏趺坐ができなければ、半跏趺坐、
あぐら、正座、椅子座という方法もあるだろう。しかし、健康に問題がなければ、結跏趺座、又は半跏
趺座で座るというのが常識だろう。

 ちなみに、本願寺は正座を正式な着座法にしているようだ。浄土真宗の看板を下ろすことを勧めた
いね。
 先人の古い絵を見ると、みんな結跏趺座で座っている。鎌倉の大仏も、平等院の阿弥陀像も結跏
趺坐だ。
 本願寺が最近作ったアニメでは、親鸞は正座していたな。本願寺は宗祖の姿も知らんようだ(笑)。 
162渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 14:47:14 ID:D7wkQmZW
>>58
>意味においては、ここは釈迦が大王に、王よ今こそ座禅なさるのなら、他の行をやめて一心に念
仏を修しなさい−−と言っているわけです。

 教行信証の文理に反します。理由は言うまでもないでしょう。

>結跏趺坐又は半跏趺坐をもって五会念仏を称えるのではなくただ念仏をとなえることをすすめら
れている

 詭弁です。理由を言うまでもないでしょう。
163渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/23(木) 14:54:44 ID:D7wkQmZW
しばらく書き込みできません。
164神も仏も名無しさん:2009/07/23(木) 15:00:03 ID:4eEEhPoc
相変わらずのノータリン自営業者だね。

他の人と解釈が違うのなら、他の人の意見にも耳を傾けるべきでしょう。
宇宙人だの、ノータリン教団だのと言った時点で、思考停止になり、親鸞会と同じになる。

形式に拘るところも親鸞会と同じ。

お前の相手をしているのが、西派の坊主という妄想を抱き続けるのも、親鸞会と同じ。

親鸞聖人の一つのお言葉をもって、それが全てと主張するのも、親鸞会と同じ。
体系的に論じられないから、断章取義と言われるんだけど、分からないだろうね、コリン星人には。
165神も仏も名無しさん:2009/07/24(金) 02:34:37 ID:eGSp0p8l
【親鸞会マンがよく使用する言い回し対策】

・「信心決定しなければ無間地獄に堕ちると教えられた蓮如上人は間違い者でしょうか?」

このように言われたら、次のように聞き返してみたら良いです。

「弥陀以外の諸神に向くのは間違いですか?」

当然親鸞会マンは「当たり前だ」と言います。そしたらこう聞きましょう。

「では、御文章2帖目3通に"諸神諸仏諸菩薩を軽しむべからず"と教えた蓮如上人は間違い者ですか?」

そうすると、親鸞会マンは、「それは当時の時代背景を配慮した対機説法だ」と言います。

そしたらこう聞きましょう。

「じゃあ"信心決定しなければ無間地獄に堕ちる"も対機説法じゃないんですか?」

親鸞会マンは、「この場合は違う」と言うでしょう。そしたら、こう聞きましょう。

「では、御文章で対機説法と、そうでない部分を見極める判断基準はなんですか?」

そうすると、見せ掛け求道者の彼らは法施するのがめんどうになり、
「君には何を言っても無駄のようだ」と言い放って、捨て台詞を吐いて逃げていくことでしょう。
166神も仏も名無しさん:2009/07/24(金) 13:26:30 ID:1P8QODtm
なるほど。そうやって論争をしている人びとをみて自己をたて、自己に固執して我執に凝り固まり
論争をしては相手に勝った負けただの優越感や恨みをもち自ら慈悲心無く相手を思いやる気持ちもなく
自らの業で地獄を作っているのを知るわけですね。
そういえばスッタニにいつもいらいらして人のあらばかりをさがし−−どうのこうの。この人を賤民という
というのがありましたね。でこの人々は親鸞さんや仏教を知れば知るほど自己に固まり我執にとらわれ無慈悲になるのは
どうしてなのか。この人々は救われるのでしょうか。
167神も仏も名無しさん:2009/07/24(金) 14:13:36 ID:rMAPDhWh
 ぶろぐ親鸞仏教更新しました。

 「行者宿報設女犯」
 六角堂で親鸞が観音菩薩から結婚のお告げを受けたのは、
親鸞の弟子である真仏のでっち上げである。

このような主張をしてみました。

 www.しんらん.jp 
168渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 10:48:40 ID:C3alGOXx
>>59
 念仏こそ真宗であり正法であって座禅や持戒の教えは正法ではないと述べられています。 〜 念
仏こそ真宗であり正法であって座禅や持戒の教えは正法ではない 〜 五会念仏を称えるのが正式
な作法というようなことでは違う

 宗祖が関東の高弟達に残した文書を紹介します。消息集の言葉を借りれば、「力をつくして」書き残
したものです。『五会法事讃略抄』と言います。法照の『浄土五会念仏略法事儀讃』の重要部の抜き
書きだと思います。『愚禿親鸞見聞集』の一つです。歎異抄などと比べようとしても比較ができないほ
ど重要な文書だと僕は思っています。教行信証の舌足らずの部分の思想を見事に補完しています。

 『五会法事讃略抄』 愚禿親鸞見聞集 伊勢専修寺蔵宗祖真筆本
 五会念仏梁渓沙門法照 大暦元年夏四月中起自南岳弥陀台般舟 南岳沙門法照於上都章敬寺
浄土院述

 それ如来教を設けたもうに広略根にしたがう。 〜 (中略)
 釈迦は多くの教えを明らかにした。これは人々の様々な器量・個性に合わせているからである。

 しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。
 念仏三昧こそ、真の無上、真の禅門である。

 このゆえに五会の声、常に宮に流る。浄教普く妙界を霑す。(中略)
 このため極楽浄土では五会の声が常に流れている。浄土の教えは素晴らしい世界を潤している。

 今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。(中略)
 いま、大無量寿経によって五会念仏を実践する

 如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、「王今坐禅してただ当に念
仏すべし。(中略)
 釈迦如来は、常に精神統一をしながら、しわ深い手のひらを挙げて言う。父王(釈迦の実父、浄飯
王)よ、今座禅してただひたすら念仏なさいませ。
169渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 10:54:02 ID:C3alGOXx
正法能超出世間 正法楽 持戒坐禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり
 仏言を取らざるを外道と名づく 因果なしとの見を発すれば空となす

正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。  持戒坐禅を正法と言う。念仏で成仏する
のが真実の教えである。仏の言葉を無視することを外道と言う。ものごとに因果がないと
主張すれば、これは空見すなわち間違った考えである。

正法能超出世間 正法楽 禅律如何これ正法なり 念仏三昧これ真宗なり
了心を見性せばすなわち是仏なり いかんぞ道理相応せざらん

正法はよく迷いの世間を超えて真理に至る。禅の教え、律の教えはどうだろうか。これは、
正法である。念仏三昧は真宗である。このことが明らかに分かれば仏となる。道理はどこ
にも矛盾がない。

正法能超出世間 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 
汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩(おお)ふ
がごとし

禅律では仏になれない。仏になる因は一声一声の念仏である。それでは、なぜ坐禅持戒
を求めるのか。それは真の効果を必要とするからだ。念仏だけすれば仏になると言って、坐
禅持戒を疎かにすれば、それは腹の空いた人が自分に向かって吹いてくる風を、腹の中
に押し込めようとするものであり、腹の足しにならないからである。腹をすかせた仏になっ
て、どれだけの意味があるというのか。

「持戒坐禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり」
 持戒坐禅は正法である。念仏成仏は真宗である。正法も真宗も重要である。念仏成仏だ
けで実体のない腹をすかせた仏になって、どれだけの意味があるというのか。

 浄土真宗は正法不要論ですか?。真宗があれば正法は不用と教える宗教ですか?
170渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 10:57:37 ID:C3alGOXx
 摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ(教巻)。
 ただ五逆と誹謗正法とをば除く(行・信巻)
 ただ無間悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く、と。(信巻)
 正法はすなわちこれ仏法なり。(信巻)

 正法誹謗論は無間地獄に堕ちていく悪業である。慎みたいものです。

 正法不用論に対し、僕はこれまで過去、繰り返し繰り返し2ちゃんねるで反論してきた覚
えがあります。正法不用論は悪魔の宗教と化した浄土真宗の癌のような教義で、僕が2
ちゃんねるで絆創膏を持ち出すくらいではどうしようもありません。

 ID:h9gp0Pgqさんのような読み方を歪曲主義・断章取義と言います。ID:h9gp0Pgqさんが
断章取義であるとは言いません。ID:h9gp0Pgqさんが教行信証を自力で目を通し、「持戒座
禅は外道に対しては正法だけど 〜 念仏こそ真宗であり正法であって座禅や持戒の教え
は正法ではない」という「正法歪曲論。正法すり替え不用論」に自力で到達したとは思えま
せん。ID:h9gp0Pgqさんに、「正法は不用ですよ。持戒座禅は不用ですよ」と、無間地獄の悪
魔の解釈を囁いている先人がいるんでしょう。

 先人が、親鸞真筆の『五会法事讃略抄』を読んでいない。読んでも読めない。無間地獄の
悪魔には『五会法事讃略抄』が読めない。自分の解釈に都合の言い分だけを切り抜いてくる
つまり悪魔の断章取義なんでしょう。あるいは、その先人に教えたさらに先人がおり、その人
が悪魔の断章取義者なんでしょう。何百年前の人か知りませんが、恐ろしいことです。

 ID:h9gp0Pgqさんの先人は、恐らく教団人だと思います。浄土真宗は、先祖代々、数百年
間、教団全体が骨の髄まで無間地獄の悪魔の断章取義に汚染されています。『五会法事讃
略抄』はとても大事な文書です。

 自説に都合の悪い『五会法事讃略抄』を切り捨てて骨の髄まで断章取義に汚染されている
ひとが渡海難を見ると、渡海難はそれとは違う正しい解釈を示しますから、渡海難を断章取
義であると誤解するというのは、ある程度やむを得ないことかも知れません。

 渡海難は全体を見渡し、断章取義にならないように宗祖の本来の意味を明らかにします。
171神も仏も名無しさん:2009/07/25(土) 11:15:32 ID:P2QV8FSS
念仏は報恩感謝です。
ですから救われたと思ってもいない人が念仏しても意味がありません。
172渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 11:21:38 ID:C3alGOXx
>>164
>相変わらずのノータリン自営業者だね。

 妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせ
よ、猟、すなどりをもせよ(お文)
 念仏の教えを問題にするところで職業を話題にするのは、典型的仏教音痴だね(苦笑)。

>他の人と解釈が違うのなら、他の人の意見にも耳を傾けるべきでしょう。

 そっくりそのまま同じ言葉を返したいけど、貴方のような人には、解釈でどこが同じか違う
のか、自分では分からんのだろう。
 言葉を返したいところだけど、貴方の場合には返せる先もないから止めておこう(笑)。

>宇宙人だの、ノータリン教団だのと言った時点で、思考停止になり、親鸞会と同じになる。

 「言った時点」じゃないんだ。あんたらの議論を見ていると、見た瞬間にこちらが思考停止に
なり、「こっちは思考停止になったぞ」という意味で、「宇宙人」だの、「ノータリン教団」だのと
言っているだけなんだよ。
 本気で「宇宙人」「ノータリン教団」と言っているんじゃない。「思考停止」しちゃったよという、
SOSだと思ってくれると有り難いね。

>形式に拘るところも親鸞会と同じ。

 形式は入り口であり、とても大事なことだ。拘っているというのは、何を指しているんでしょうね。
173渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 11:22:22 ID:C3alGOXx
>お前の相手をしているのが、西派の坊主という妄想を抱き続けるのも、親鸞会と同じ。

 会ったこともない相手にいきなり「お前」呼ばわりする非常識人が、西派の坊主以外、世の中に
いますか?。貴方、西派の坊さんでしょう。自分の職業を忘れてどうするの。
 会ったこともない相手をいきなり「お前」呼ばわりし、自分の職業を忘れる。これこそ西派の坊主
の典型か?。 (苦笑)

>親鸞聖人の一つのお言葉をもって、それが全てと主張するのも、親鸞会と同じ。
体系的に論じられないから、断章取義と言われるんだけど、分からないだろうね、コリン星人
には。

 「親鸞会」「体系的に論じられない」「断章取義」「コリン星人」
 いずれも意味のない糞ション便のたぐい。糞ション便を相手に投げつける以外、自分には能
がありませんと、西派の坊主の悲しい告白と言うべきか。地に墜ちたなぁ。
174渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 11:27:36 ID:C3alGOXx
>>165-166,>>171
 ノーコメントです。
 煽りなのか、アラシなのか、質問なのか判然としません。
175渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/25(土) 11:33:49 ID:C3alGOXx
>>168

誤  念仏こそ真宗であり・・・

正  >念仏こそ真宗であり・・・
176渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/26(日) 10:21:51 ID:MWI7TvKj
 思い出した。!
 教行信証講義 法蔵館 山辺習学・赤沼智善共著 教行の巻

「先ず戒律を持つことと、坐禅を修むることを一応正法と名づける。けれども仏教中の真宗とは云われぬ。
その真宗は念仏して仏になるところの他力の教えがそれである。
 釈尊のお言葉を信用しない者を外道と名づける。外道にも沢山の種類はあるけれども手近い例を挙ぐれ
ば、先ず因果の道理を否定する見解のごときはそれであって、これ等は空一方に偏った邪見である。かよ
うな外道の教えと比ぶれば、禅律の教えは一応正法と名づけることができる。併し先にも申した通り真の正
法は世間のあらゆる教えに超え勝れたものである。この明徹した見解に坐る時は、坐禅も戒律も正法とは
云われぬ。念仏三昧の他力の教えこそ、超世希有の正法である。」

 親鸞聖人肉筆の五会法事讃略抄は言う。
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。〜 如来常に三昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、
父の王に曰く、「王今坐禅してただ当に念仏すべし」。 〜 また諸三昧の母と名づく、また、諸三昧王と名づ
く、また、諸仏、共に定を印可する所と名づく。また如来禅と名づく、二乗外道等の禅にあらず。まことに知る
べし。 〜 持戒坐禅を正法と名づく 念仏成仏これ真宗なり。仏言を取らざるを外道と名づく 因果なしとの
見を発すれば空となす。 禅律如何これ正法なり 念仏三昧これ真宗なり。了心を見性せばすなわち是仏な
り いかんぞ道理相応せざらん。 念仏は声声に仏種を下す 坐禅持戒は真功を用いてなり 汝若し修せず
してすなわち仏になるといはば 喩へば飢えたる人のひろく風を掩(おお)ふがごとし

 「教行信証講義」が間違った教えを説いていることは明らかだろう。この本は、現在でも真宗の主流的指導書
になっている。僕もこれは読んでいる。参考になるところは多く、他の参考書に代え難いという面がある。しかし、
思想の重要なところでは誤りを冒している。正法論などはその典型と言っていいだろう。この本の影響を考えれ
ば、こういう間違いは、宗教の根幹に致命的な損傷を与えている。

 この本は、江戸時代以来の真宗学の集大成である。浄土真宗は過去数百年にわたって、根本的に誤ってき
ているということを認識しなけれいけない。僕はそのように考える。 
177神も仏も名無しさん:2009/07/26(日) 13:58:41 ID:fgBU4obC
               _,. -‐1    ,. - ‐:‐:‐:‐:‐- 、
          _,. -‐:'´: : : : : |  , :'´::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.::.丶
     ,.イ ,.-:'´: : : : : : : : : : : ! /::.::.::.;.ィ::; ヘ::.::.::.::.::.::.::.::.::.:\
      /: ∨: : : : : : : : : : : : : : :l'/l:/::./ ,':/  i::.:ト、::.l、::.:!::.::.::.::.',
  ,. -:' : : : : : : : : : : : : : : : : : : : -┴-'.._l/    l:| i::| i::l::.::.::.::.::i
 ー‐ァ: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :`ーァ  l|  l|  l:|::.::.::.::.::|
   /: : : : : : : : : : >>1: : : : : : : : : : : : : : : :/  ー‐‐---、!ヘ::.::.::.::| 
  ,': : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :/    ┬--、  }::.:/::.!
  ! : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : ;.イj     {辷リ ′/::/!::/ >>1 ここはテメエの日記帳じゃねえんだよ。
 ノ: : : : : : : : : : : : : : : : : : :.:.:.:.:.. : :、/     ;         /〃ノ:/
´. .:.:.:.:.:.:.:.: : : .:.: : : .:.:.:.. : : :.:.:.:.:.:.:__:.:.ヽ   r―-,    /-:'´::;′   チラシの裏にでも書いてろや。
`ー---;.:.:.:..:.:.:.:.:..:.:.:.:.:.:.:.:...:.:.:.:.:.:.:.V ̄`ヽ、 `ー‐'   ィ;、:::∧:{
    /:.:.:.:._:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|'´ヽ  rく` ト、. -‐'´ | `:く `
   厶-‐'´ |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ト、:.:.:.|  _,.-‐! \  __,,. -‐''´ }‐:、
       _l;.ィ´ヽ:./ヽ:|'´ ,>‐'´: : く    ∨       > \
   _,r{`7  ̄{ ̄} ̄¨`‐く__ヽ_;,: -‐; :\       _,.-:'´: : : : : :>、
 ,.イ | 〉´ ̄ ̄ ̄:  ̄`ー‘v'´>‐_く : : : \___,,. -‐:'´: : :ト-、_;,.-'´  ヽ
r'l ! ,し′: : : : : : : : :}_ノ/ __,,.ヽ: : : : : : : : : : : : : : V       l
,Jー'´: : : : : : : : : : :`辷'_,,、 '; : : ∧: : : : : :_; -'´         |
  l´: : : : : : : : : : : : }´   l  l`ー':.:.:`ー:.'"´:〈         v'
178神も仏も名無しさん:2009/07/26(日) 14:33:03 ID:MWI7TvKj
>>177

 板違いだから移ってくれ。
 ↓
 http://love6.2ch.net/aasaloon/
179神も仏も名無しさん:2009/07/26(日) 23:13:34 ID:eZWB7cSJ
しばらくです難さん。さてと親鸞聖人の五会法事讃略抄の件なんですが、これは伊勢専修寺に
伝わる書で関東を去り京都に戻るにあたり多くの書物を書いて関東の門弟に与えた中の1つと言われていますね。
内容は簡単で法照の書いた浄土五会念仏略法事儀讃の重要な箇所を抜き出したものですね。この法照は、五会念仏という、
念仏の称え方を提唱したわけです。それに対して親鸞はどう、受け取って行ったか。

180神も仏も名無しさん:2009/07/26(日) 23:18:26 ID:eZWB7cSJ
ます゛五会念仏とはなにか、その根拠を示すわけです。それによると根拠は大無量寿経である。極楽浄土では、清らかな風が時々起きる。
そのとき、木々は擦れあって五種のドレミハを出す。中国の音階で言う宮・商などの五音階が、自然に互いにハーモニーを作り、
念仏・念法・念僧という音色を発する。念仏・念法・念僧という音を聞く者は、法を深く認識するに至り、やがて不退転に至って自らの仏道を完成する。
また、五会の念仏を解釈する。五とは集合体の数である。五種類の音声が集合している。低速から高速まで、仏と法と僧を、混じりけなく順に念じる。
と示すわけです。
これはとても簡単で根拠は大経で浄土で行われていると押さえています。
181神も仏も名無しさん:2009/07/26(日) 23:24:04 ID:eZWB7cSJ
で問題は浄土ではなく今、穢土にいる凡夫の私はどうすればいいかなのです。
それに対して親鸞さんは、まず座禅して五会念仏を称えることは、あらゆる定禅行の基本である。
また、あらゆる定禅行の中でもっとも優れたものである。諸仏共所印可定(意味不明)とも言う。
これは、達磨大師がインドからもたらした正当な禅すなわち如来禅である。声聞、縁覚が行う禅ではない。
よく理解してほしい。−−−−−
これも割と理解しやすい。ようするに座禅して五会念仏を称えることは如来禅であるというわけです。また
声聞、縁覚が行う禅ではないと。で凡夫はどうするかという問題です。
182渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/27(月) 14:20:43 ID:nl/G7beL
>>181
>で凡夫はどうするかという問題です。

 さあ?。難しい問題ですねぇ。渡海難には応えられませんねぇ。渡海難は答えるこ
とができませんよ。

 ID:eZWB7cSJさん。あなたは、渡海難に次々と質問し、相手が回答すれば引き分け。
回答できなくなれば、渡海難の負けと思っているのでしょう。

「質問したり聞いたりする(ことが目的の)スレですよね。 〜 また私自身の考えも、
難さんの考えと違うからといってそんなに変わるものでもありません(>>153)」。

 渡海難に教わって変わっていこうという気持ちはないんでしょう。質問したり聞いたり
することが目的なんでしょう。渡海難は、いつ回答できなくなるか、それが関心事のよ
うですね。回答できなくなれば、その時点で勝負ありということなんでしょう。自分が向
上するために教えを聞きたいということではないようですね。

 渡海難は貴方に負けましたよ。ごらんの通り、貴方には回答ができなくなりました。完
全に降参しました。ID:eZWB7cSJさん。貴方の勝ちですよ。貴方の質問も、このくらいで
もう十分でしょう。
183神も仏も名無しさん:2009/07/27(月) 15:53:55 ID:01umF756
親鸞聖人の教えと違うことを主張したことを、懺悔するのですか?

単に、この場だけ繕っておこうというのですか?
184神も仏も名無しさん:2009/07/27(月) 22:29:41 ID:nl/G7beL
>>183
> 親鸞聖人の教えと違うことを主張した

 はて?心当たりがない。
 どうせ、西派の坊主の妄想だろう。
                       (笑)
185神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 02:15:19 ID:0sbBS3oL
http://ipatukouta.altervista.org/php5/?image/200907261235.jpg

俺も貯めてた奴貼ってみるか

186神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 02:27:46 ID:JExSELsc
では難さん以外の他の人にお聞きいたしますが、どうして大無量寿経が真実の教なのですか。
経はいくつもあるのに親鸞さんはどうしてこの経が真実であるといえたのか。
そこをまず知りたいのですが。
187神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 02:30:34 ID:JExSELsc
以前広瀬先生に同じ質問をしたら親鸞さんの独断だといわれました。
それだったら人それぞれになってしまいます。今ひとつ納得できないので
他に何かないか質問しています。
188渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/28(火) 09:32:41 ID:aVwv6lxC
>>186
>どうして大無量寿経が真実の教なのですか。経はいくつもあるのに親鸞さん
はどうしてこの経が真実であるといえたのか。

 これは親鸞の教えを考える場合、非常に重要な問題なんだ。ただ、JExSELsc
さんが本当に聞きたい問題がこれかどうかわからない。JExSELscさんが、真剣
に仏教を求めようとする場合、障害になっている問題に答えてみたいと思う。

 「どうして大無量寿経が真実の教なのか」は、親鸞の腸(はらわた)をえぐりだす
論点であり、親鸞の腹座りをガラスばりにする問題だ。これが分からないから逆
に親鸞に騙されているようで、自分は真剣に仏教に気持ちが向かないという人も
いる。

 JExSELscさんが一番ききたいものは何か。JExSELscさんが、信心で飛躍でき
そうだという問題に答えてみたい。どうでもいいような既にわかりきった質問を相手
して回答するつもりはない。JExSELscさんが一番聞きたい質問は何か。それが問
題だ。

 JExSELscさんの質問について、もう少し様子を見ようと思う。「なぜ大無量寿経
が真実の教なのか」は、いつか書こうと思っていたテーマだ。僕としてはいつ書い
てもいい。

 広瀬先生というのは大谷大学の元学長か?。広瀬さんに聞いて納得できない問
題はたくさんあるだろう。僕ならある程度納得してもらえる回答が出せると思う。
 
 
189 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄:2009/07/28(火) 10:18:31 ID:ji8WO3yM
      / ̄ ̄ ̄ ̄\
     (  人____)
      |ミ/  ー◎-◎-)
     (6     (_ _) )
      |/ ∴ ノ  3 ノ
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   |
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |
       |   ┬    |
190神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 16:06:58 ID:aVwv6lxC
>>189

 仏法は、しりそうもなきものがしるぞと、仰せられ候う
191渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/28(火) 16:44:40 ID:aVwv6lxC
>>186
> そこをまず知りたいのですが。

 まず知りたいということは、知りたいことは外にもたくさんあるんだろうね。
 一つきけば、また「これはどうだ?」「これはどうだ?」と際限のない質問が
出てくるんだろう。
 回答しないで放っておくのが一番いいのかも知れない

 自分が根本的に一番知りたいことは何か。自分の中でその整理が必要だな。

 坐禅して念仏を称え(行の巻)、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就(証の巻)
すれば、おそらくたちどころに消える問題ばかりなんだが、奢摩他・毘婆舎那、
広略修行成就は嫌だというんだから、いつも同じ所を行ったり来たりするだけに
なる。

 親鸞の教えは嫌だと言うんだから、親鸞仏教の中では解決がない。
192神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 19:38:37 ID:0sbBS3oL
今日は会長の爆弾発言はなく、講義はいつもと同じで大変つまらなかったです。
しかし、午前の講義後、W部が『歎異鈔をひらく』の衝撃度について語っていたことに
衝撃を受けました。
8月1日号の顕正新聞の論説の内容と同じですので、紹介します。

 今、『歎異鈔』をめぐって不可解な現象が起きている。
 昨年三月に発行された『歎異鈔をひらく』(高森先生著)は十五万部のベストセラーに
なり、待望の書として、今も多くの読者から反響が寄せられている。
 不可解というのは、この書が世に出るまでは、毎年十冊前後出ていた『歎異鈔解説書』が、
『歎異鈔をひらく』発刊後一年五カ月経った今日もまだ、新刊が見られなくなったことである。
 見られないと言うとやや誤解があるかもしれないが、既刊本に加筆されたものや復刻は
幾つか出たし、真宗大谷派の親鸞仏教センターが五年かけたという解説書も、一応昨年出るには
出た。だが、事実上、『ひらく』の後の新作と呼べるものはないと言ってもよさそうである。
 日本の思想界で、これは異例のことではなかろうか。
(中略)
 真宗界においても、『歎異鈔解説本』を出すことが、学者の証のようにさえなっている。
しかも、二年後に迫った親鸞聖人七百五十回忌、競うように出版されても決して可笑しくない
はずなのに、なぜか一向に出ないのだ。まさに異例である。
 「『歎異鈔をひらく』が、それほど大きな衝撃を与えたのでしょう」


会長と上層部、そしてこの大本営発表を信じる会員を見て、親鸞会の終わりを
予感しました。
193神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 23:35:18 ID:0sbBS3oL
死後は六道輪廻だし、信心決定のために修善は要しない。
仏教を学んでいて、間違う人なんていないと思いますが…
投稿: | 2009年7月28日 (火) 16時17分

仰る通りですが、周りの現役会員は死後の無間地獄に怯え、会長の言う事を
忠実に守って、借家に住み、生活を切り詰め、食べるもの、着る物、余暇を
我慢して、富山詣でで、体力もすり減らすような暮らしを、喜んでしている
人が多いです。家族の反対もお構いなし、自分さえ話が聞けて、地獄を回避
できたらという我利我利亡者さながらの人もいます。
信心決定してもいないのに、六道輪廻など生温いとか、自己の姿が知らされ
ていないなどと自信一杯に変な事を言ってくれます。
そして、会長への賄賂である献金に精を出しています。本人たちは善である
尊い財施に励んでいるつもりでしょうが。阿弥陀仏に向かう事など眼中に無
く、一向専念会長の善知識だのみの異安心としか思えません。
投稿: | 2009年7月28日 (火) 17時38分

会長が親鸞会創設してから50年以上になるんだけれど、何名が信心決定した
のでしょう。
家に住み、生活を切り詰め、食べるもの、着る物、余暇を我慢して、富山詣
でで、体力もすり減らすような暮らしを続けて、数多くの高齢者が、臨終に
親鸞会で教えられた無間地獄の恐怖に怯えて亡くなっていきました。

私が会員在籍時にずっと違和感を感じ続けてきたのですが、その理由は親鸞
会の講師はふたことめには、「信心決定しなければ、無間地獄往きだぞ」と
言うのですが、代表者に救えずに地獄に落としてしまった数多くの会員(親
鸞会には若者も多いですが、高齢者も多いです)に対する懺悔の気持ちが、
感じられないことでした。・・・・・・

さよなら親鸞会より
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/07/post-f582.html?cid=38010795#comment-38010795

194神も仏も名無しさん:2009/07/29(水) 00:39:15 ID:ue9+ch+3
息子に「大知」と名ずけました。「タイチ」と読ませます。人は究極の安楽を
求め、「悟り」と言う境地を求め「只管打坐」とか、「念仏」や、色んな教え
に其れを求めます。ある教えには「無」即ち「空」の境地に至ればそれは叶え
られるとの事。(乱暴ですが)。「万理一空」とは言いえて妙ですね。
でも。現世に生きる人にとって、「空」即ち「無」とは「有」の尽きる所で
あって、全知を知り尽くさ無ければ、とても到達出きるものでは無いので
しょか?「有」の尽きる所にしか「無」はない。「現世に生きる我々にとって
、出来うる限り「知」を求める事が「大知」」。です、でも、到底足り無いのが
人生。その事を自覚する為、六字を念仏する、それを如来は見てて下さる、そう
いう考えは如何なものでしょうか?


195神も仏も名無しさん:2009/07/29(水) 10:18:14 ID:k7YjFdce
五井昌久氏の「阿難」という小説は非常にわかりやすく釈迦のいいたいことを伝えている。
空とはどういう状態か。想念とは?想念への対処の仕方なども小説形式で丁寧に書かれている。
女性に人気のあった阿難、釈迦の弟子たちの中で最後まで想いという名の業想念を捨てられなかったという阿難。
彼を軸に物語はすすんでいく。五井氏のファンや信者でなくても一読の価値はあると思う。

ちなみに阿難は五井氏の2つ前の前世だという。
196渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/29(水) 14:52:33 ID:cw5jx4qQ
>>195
>ちなみに阿難は五井氏の2つ前の前世だという。

 五井氏は、阿難は輪廻転生していると主張している阿難転生論者で
すね。
 阿難は、釈迦が入滅した後、摩訶迦葉の下で悟り(阿羅漢果)を得た
というのが『仏本行集経』が教えるところだ。
 阿羅漢を得ると、二度と迷いの世界(三界)に生れない。つまり欲界
に生まれることはない。これは仏教の基本原則だ。
 五井氏は、仏教の基本原則理解とは別異の説を主張しているという
ことでしょう。

 どういう人がその方の話を聞いているのか分からないけど、仏教のイ
ロハが分かっている人とはとても思えない。仏教音痴で、自分は釈迦の
生まれ変わりだ主張している大川髢@氏とあまり変わりがないようだ。
197神も仏も名無しさん:2009/07/29(水) 18:00:38 ID:pU8P5Nbh
>>196
その『仏本行集経』は史実を述べている本ですか?
198渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/29(水) 19:51:39 ID:cw5jx4qQ
>>197
>その『仏本行集経』は史実を述べている本ですか?

 史実かどうかと言えば、この時代のことはほとんど分からないのが実体でしょう。
 「阿難は、釈迦が入滅した後、摩訶迦葉の下で悟り(阿羅漢果)を得た」という問
題について、阿難尊者の開悟の時点はもっと早かっただろうと、僕個人としては、
真逆の仮説を立てています。

 真逆の仮説を立てると、「釈迦在世中は悟りを開いていなかったという主張は」、
言い出しっぺがどこかにいたと言うことになります。その言い出しっぺこそ、抜群に
思慮深かった阿難その人だろと僕は思っています。そのように仮説すると、言い始
めたその人の思索過程を僕なりに追尾し、そこには実に意味深長で奥深い思想の
存在を感じます。阿難伝説は仏教思想の基礎から外してはいけない。僕はそう思っ
ています。

 「阿羅漢を得ると、二度と迷いの世界(三界)に生れない。つまり欲界に生まれる
ことはない」。
 これは仏教の基本的な思想です。五井氏は仏教の基本思想を否定しており、お
よそ仏教を理解している人とは思えません。

五井氏はおそらく霊魂云々と言っているのでしょう。それなら、もともと話になり
ません。
199神も仏も名無しさん:2009/07/29(水) 20:04:14 ID:f9bnwOwb
諸機各別は観経の方便説。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、
ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。 (化土巻)

「極重悪人」とは逆悪。
顕説の定散諸機ならば、諸機各別でそれぞれの業で天上界に行く人もあるだろうが
事実は、隠説の逆悪が十方衆生の真実の姿。

『疏』に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。(愚禿鈔)

定散諸機とは一切衆生のこと。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(信巻)

一切衆生の真実は「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」

これを断善根という。またの名を闡提。
逆謗闡提ならば無間地獄しか行き場はない。
諸機各別は顕説の方便、隠義の真実は、一機一法。
200神も仏も名無しさん:2009/07/29(水) 20:06:09 ID:DFFrjMxt
>>186
>どうして大無量寿経が真実の教なのですか。

元は法然さんですね。その元は善導にある。
ただ、法然さんのは渡海なみの我田引水的な解釈によるわけで、
親鸞さんのは、偏に法然さんを信じた結果でしょ。
末法の世の真実教は浄土の法のみだというのは正しい。
それを保障するものが三部経であり、大教であるというのも正しい。
だから、正しくないとしたければ、末法思想を否定するだけで足りる。
渡海なんかも、末法思想は法然親鸞の方便だという解釈なんだろw
だから、他力が理解できない。
これも頭脳明晰な人間の陥りやすい罠なんだよね。
201渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/30(木) 01:00:11 ID:zb5jkUBD
>>200
 渡海難からは特にコメントありません。
 
202渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/30(木) 13:06:03 ID:zZ69V7Wl
 ほら吹き仏教
大川髢@ 私は釈迦の生まれ変わり。
五井昌久 2つ前の前世は阿難である。

 脅迫仏教
高森顕徹 一切衆生 必堕無間
稲城選恵 「ご信心を頂かないと地獄におちる」という言葉が幼少の時から滲透している

 人狩り仏教
大谷光淳   聞法道場としての寺院機能の発揮を訴える。
香樹院徳龍 ひとすじに聴聞申すべし。御慈悲にて候間まことの信は得らるるなり。

 ノータリン仏教のオンパレード
203神も仏も名無しさん:2009/07/30(木) 21:27:09 ID:JNlYwYdt
200番さんへ ではどうして末法の世の真実教が大経なのですか。
204神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 00:06:44 ID:xaciI2nj
>>203
原理からいえば、末法というのは自力の行証の否定なんで、
自力の仏道を説く、すべての経典自体が無意味無価値なはずなんです。
自動車も道もないのに、運転の教本だけあっても仕方ないでしょ。
それでも、経典が末法の世に伝わっている。
それは何故なのか?というところが、法然さんの出発点だった。
つまり、最初から自力以外の仏道を目指して、大蔵経をあさりまくった。
そうして善導に出会い、観経をはじめとする三部経を見出す。

ところで、経典というのは、私流の解釈では、手紙なんです。
仏をはじめとする先人たちの手紙、もっといえばラブレターです。
そこに、仏の愛とか慈悲を感じられたら、それが真実教なんですよ。
だから、人の頭数だけ真実があり、教がある。
この世には、色んな恋があるように、様々な真実教がある。
日蓮宗なら法華経が、華厳宗なら華厳経がといった具合にね。

で、末法の世の真実教はなぜ大教か?
それは、法然親鸞が、そこに仏の大慈悲心を見出したからということになります。
末法を否定すれば、それは外道です。
自力の行証を放棄した時にのみ、仏の大慈悲心による仏道が照らし出される。
それは、見えない人には見えない道です。
見ようとする人にも見えない道です。
ただ、末法と向き合って、自力を放下した時、自ずから現れ出る道です。
まあ、ここのスレ主にとっては、おとぎ話の虹の道ですけどね。
205神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 00:24:45 ID:L4MuMZNb
>>202
渡海さんもその「ノータリン仏教」の一つですね
206神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 01:21:43 ID:1lPOpDta
204番さんへ、ありがとうございます。
主張では日蓮宗なら法華経が、華厳宗なら華厳経、また大経は法然親鸞が、
そこに仏の大慈悲心を見出したから真実教だといわれますが、それだと個人個人に
よって真実経がまちまちとなる。それだと真実とは言えないのではないでしょうか。
大無量寿経が真実ならば法然さんも親鸞さんも日蓮もキリストもこの教えで救われないと
真実とは言えないような気がするんですが。
207渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 01:35:02 ID:Ecg7cQ92
>>205
> 渡海さんもその「ノータリン仏教」の一つですね

 他人をノータリンと言えば、ノータリンと返される。ブーメラン効果だな。相手を切れ
ば、切った刀が返ってくる。渡海難はノータリン仏教だと言われてもしょうがないか。
今後は、必要以上の馬鹿な言葉を慎もう(苦笑)。

 僕は、自分では土管だと思っているんですよ。渡海さんも「ノータリン仏教」の一つ
ですねと言うなら、きたねぇ土管もノータリン仏教の一つですねと言われているような
感じがする。泥だらけで叩けば鈍い音がするだけのがらんどうだから、「ノータリン仏
教」と言われれば、それだけでも「まあもったいない」と言うべきだろうね。ノータリンで
あるはずの中身もないというのが本当だ。

 僕は、中身が何にもないがらーんとした空洞。がらーんとした空洞だから、孔の一
方から向こう側がよく見える。見えた中身は、土管とは関係がない。

 親鸞聖人が、「座禅して念仏しなさいよ」と言うから、「座禅して念仏しよう」と土管の
中を親鸞聖人の教えが無傷でそのまま通過する。「念仏より外に存知せず」というから、
「念仏以外にない」と土管の中をそのまま親鸞聖人の教えが無傷で通過する。僕は、親
鸞聖人が通過して行く土管だ。お通りくださる回りは汚いところでスンマセン。

 本願寺だ、真門だなど盛んに飾りだてしている人が、親鸞聖人の道をふさぎ、口を
塞ぎ、親鸞聖人が通れないようにして、やれ「聴聞道場だ」とか、「聴聞申すべし。(俺
の話を聞けば)まことの信は得らるる」などと言う人を見ると、「あんた何が言いたい
の?」と土管の身としてはおかしくなってくる。
208神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 01:38:06 ID:CyAMbOkD
ニュー ヨーク・タイムズ紙(wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BA

(ニューヨークタイムズ紙は)日本においては朝日新聞社と提携しており、東京支局を朝日新聞社東京本社ビル内に設けている。
東京支局長はノリミツ・オオニシ(2007年3月現在)。また共同で英字紙ヘラルド朝日(International Herald
Tribune/The Asahi Shimbun)を発行している。
現在のニューヨーク・タイムズは、部数の面では、日本の読売新聞の1/10に過ぎず、
アメリカ合衆国においてもUSAトゥデイ(227.8万部)、ウォールストリート・ジャーナル(206.2万部 )の半分程度

伝統的に保守・リベラルを問わず日本や日本人を憎悪する傾向がある。 1991年の湾岸戦争の際、同紙
の女性コラムニストが「日本は国際的責任分担しておらず、無責任」とする著名入り社説を掲載。
2008年現在、この女性コラムニストが同紙編集長である。また一貫した強硬な反捕鯨論調でも知られる。
また1990年代には、東京支局長だったN・クリストフ、S・ウーダン夫妻記者によって日本を特殊視しようと
する記事が多く掲載された。一例としては、1995年の沖縄で起きた米兵3人による沖縄米兵少女暴行事件
の直後、「日本女性が読む野蛮なコミック」と題して、「日本女性はレディースコミックを読み漁り、
レイプされることを望んでいる」、「電車で痴漢に遭っても無抵抗」と書いたことが挙げられる。

209渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 01:40:14 ID:Ecg7cQ92
>> 207 は、>> 206に気づかずにつまらんカキコをしてしまいました。

200,204,206の話が進みそうですので、以後、207関連のカキコは、
レスが付いても応答しません。
210渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 10:27:29 ID:Ecg7cQ92
>>203
 非常に難解なので僕なりに書き直してみます。以下の内容で正しいか?

 大無量寿経がなぜ真実の教なのか。

>仏の愛とか慈悲を感じられたら、それが真実教なんですよ。
>経典というのは、私流の解釈では、手紙なんです。
>仏をはじめとする先人たちの手紙、もっといえばラブレターです。
〔ラブレターは、「愛していますよ(慈悲)」ということである。ラブレターなんだから、非常
に個人的である。「こうしなさい(行)。こうすればこうなります(証)よ」という普遍的なこと
ではない。当然、〕
>人の頭数だけ真実があり、教がある。この世には、色んな恋があるように、様々な真実
教がある。日蓮宗なら法華経が、華厳宗なら華厳経がといった具合にね。

>〔現代は末法です。〕原理からいえば、末法というのは自力の行証の否定なんで、自力
の仏道を説く、すべての経典自体が無意味無価値なはずなんです。
〔末法の世に、「こうしなさい(行)。こうすればこうなります(証)よ」という自力の仏道を説
く経典があれば、それはおかしい。行証の仏道を説く教えは真実ではない。行証がないと
いうのは、自動車も道もないということでしょう。〕
>自動車も道もないのに、運転の教本だけあっても仕方ないでしょ。それでも、〔自動車や
道があることを前提にした行証の仏道を説く〕経典が末法の世に伝わっている。それは何
故なのか?というところが、〔真実の教を考える〕法然さんの出発点だった。
>〔法然は〕最初から自力以外の仏道〔つまり、「愛していますよ(慈悲)」という仏道〕を目
指して、大蔵経をあさりまくった。
>そうして善導に出会い、観経をはじめとする三部経を見出す。
211渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 10:28:15 ID:Ecg7cQ92
>末法の世の真実教はなぜ大教か?
>末法を否定すれば、それは外道です。
〔「こうしなさい(行)。こうすればこうなります(証)よ」という道があると言えば、それは外道
です。それを外道と言っても、〕
>まあ、ここのスレ主にとっては、おとぎ話の虹の道ですけどね。〔ここのスレ主は末法を
否定していますから。〕

>法然親鸞が、〔大無量寿経を真実の教だと言っているのは〕そこに仏の大慈悲心を見出
したからということになります。
>自力の行証を放棄した時にのみ、仏の大慈悲心による仏道が照らし出される。
>末法と向き合って、〔行証はないと〕自力を放下した時、自ずから現れ出る道です。
>それは、見えない人には見えない道です。
>見ようとする人にも見えない道です。
〔大無量寿経が真実の教であるというのは、自力を放下した時、自ずから現れ出る道です。〕
212渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 10:36:00 ID:Ecg7cQ92
>>206
 理屈としては、説得力がありそうだ。

 「私は貴方を愛しています」というラブレターは、「私は貴方に出会えて幸せです」
といっていることであり、「私は貴方を救いますよ」という話ではない。

 「Aさん。私は貴方を愛しています」というラブレターは、「Bさん、Cさんを愛して
います」という話でもない。

 真実という概念ではないという主張は説得力がある。
213神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 10:47:12 ID:xaciI2nj
>>206
たとえば、事実教として科学というものがある。
これは、誰でも実験などで検証できるので、信じる信じないという問題にはなりません。
まあ、最先端の理論などでは、実験による検証ができない部分では、
信じるかどうかが問題になることもありますけどね。
人間理論とか超ひも理論とか多次元宇宙論なんかがそれです。
勿論、理論としての検証は賛否両方の立場からなされるけれども、
誰もが納得しうる事実として認められているわけではありません。

宗教は、事実ではなく真実を扱う理論であって、
様々な前提を元に構築された信の体系を持ちます。
たとえば交差点で事故を起こした両者が、
お互いに自分は青信号だったと主張する。
事実は、どちらかがウソをついているわけですが、
青信号だと信じ込んでいる両者にとっては、それぞれが真実です。
宗教者にとっても同じことが言えます。
法然が正しいかどうかは誰にもわからない。
ただ、親鸞は、たとえ法然に騙されて地獄に墜ちても構わないという。
信というのは、結局は人を信じるということに尽きる。
だから、信じられる人に出会えるかどうかは、その人の運だとも言えますね。
あるいは、オウムの麻原と出会っていたかもしれない。
そうしたら今頃は鉄格子に囲まれて死刑を待つ身だったのかもしれない。
いま念仏と出会えたのは偶然に過ぎないのか、それとも、仏の力なのか?
そんなことは誰にもわからない。だから、信じるよりない。
その信を前提として出発すれば、大教が真実教だということが納得される。
大教が真実教だから信じるのではなく、あくまで法然親鸞を信じた結果なんです。
だから、それで地獄に墜ちたとしても仕方がない。
地獄で親鸞さんに出会ったら、しかめっつらを見合わせて、
お互いに、長い溜息を吐くことでしょう。
214神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 11:31:30 ID:xaciI2nj
>>206
>大無量寿経が真実ならば法然さんも親鸞さんも日蓮もキリストもこの教えで救われないと
>真実とは言えないような気がするんですが。

この世には念仏する人もいればしない人もいる。
念仏する人は浄土往生するという。では、
しない人はどうなのか?という問題ですね。

私流ですが、二つの解釈があると思います。
ひとつは、来世で念仏と出会うのだという解釈です。
五劫もの思惟を重ねた法蔵菩薩からみれば、人間の一生など泡粒のようなものでしょう。
ですから、どの人間生で念仏と出会うのかは、仏次第ということになります。

もうひとつは、私の異安人たる所以の解釈です。
法然も親鸞も日蓮もキリストもマホメットも、みんな一様に救われているという解釈です。
渡海も親鸞会も麻原もミミズもオケラも私も同様です。

法然さんは一念義の弟子を破門されたという。
学識当代一と謳われた法然さんが、どうして一弟子の異議を論破できずに、
破門せざるを得なかったのか?
結論としていえば、一念義は正しかったからです。
仏の誓いの方向性を考えれば、一切衆生の救済に念仏は一度で十分なんです。
さらに言えば、念仏は浄土往生の十分条件ではあるけれども必要条件ではないのです。
つまり、浄土往生に念仏はいらないのです。

それゆえ、路傍の小石でさえ、念仏しなくとも往生する。
これが、私流の大教解釈です。
215渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/07/31(金) 11:39:43 ID:Ecg7cQ92
>>213
 非常に難解です。理解が違っていれば修正してください。
(1) ウソも真実となる。
(2) ウソを信じられるかどうかは運による。
(3) 大教が真実教だということは、妄信を前提としている。

    結論は↑ということでしょうか。


A 科学は、一般に信じる信じないという問題にならない
  例外
  実験による検証ができない最先端の理論
  誰もが納得しうる事実として認められているわけではありません。


B 宗教は、事実ではなく真実を扱う理論であって、様々な前提を元に構築された信の体系
を持つ(ウソも真実となる)
 b1 事実は、どちらかがウソをついているわけですが、信じ込んでいる両者にとっては、
(ウソでも)それぞれが真実です。宗教者にとっても同じことが言えます。
 b2 (ウソでも妄信で)信じられる人に出会えるかどうかは、その人の運だとも言えます


C 念仏は信じるよりない。その(妄)信を前提として出発すれば、大教が真実教だということが
納得される。
 c1 念仏は、大教が真実教だから信じるのではない
 c2 あくまで法然親鸞(という人)を(妄信で)信じた結果なんです。
 c3 (妄信だから)それで(騙されて)地獄に墜ちたとしても仕方がない。
 c4 地獄で親鸞さんに出会ったら、しかめっつらを見合わせて、お互いに、長い溜息を吐くこ
とでしょう。
 c5 いま念仏と出会えたのは偶然に過ぎないのか、それとも、仏の力なのか?そんなことは
誰にもわからない。
216神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 17:41:07 ID:1lPOpDta
なるほど。法然も親鸞も日蓮もキリストもマホメットも、みんな一様に救われている。−−−
大経は真実の教である。なぜならばみんな一様に救われる教えであるからだと言うことですね。
これだと納得できます。みんな救われるのであれば私も、漏れていませんから
、私も救われることにある。
でもそれはお経のどこに書いてあるのですか。214番さんへ。
217神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 17:51:22 ID:G9xKXS1J
 ______
 |  |.| ∧∧
=====(,,゚Д゚)∩=
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    /  0
    し´

 \ えっ…と、糞スレはここかな…、と /
    ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ∧∧ ∧∧ __._
    ∩゚Д゚,≡,゚Д゚)   |.|
     `ヽ    |)====
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       U U


        ∧∧  ミ _ ドスッ
        (   ,,)┌─┴┴─┐
       /   つ.  終  了 │
     〜′ /´ └─┬┬─┘
      ∪ ∪      ││ _ε3
               ゛゛'゛'゛
218神も仏も名無しさん:2009/07/31(金) 21:11:23 ID:xaciI2nj
>>216

我当哀愍 度脱一切
219渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/01(土) 01:42:40 ID:yEFcDQkC
>>218
> 我当哀愍 度脱一切

 ここの部分でしょうか。

  ↓

我仏に作らん、 国土をして第一ならしめん。

その衆、奇妙にして、 道場、超絶ならん。

国泥おんのごとくして、 等双なけん。

我当に哀愍して、一切を度脱せん。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
十方より来生せんもの、 心悦ばしめて清浄ならん。


 2ちゃんねるは色々な人が見てくれていますので、引用箇所を
できるだけわかりやすくしたいです。
220神も仏も名無しさん:2009/08/01(土) 02:50:35 ID:BUwVVTVk
HENTAI国家日本変態ジャパンキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

ピンクのパンツ・ガーター丸見えの風俗嬢ファッション。
日本女性変態説を裏付けるような服装でミス・ユニバースの世界大会に出場しようとしてます。
この格好が世界に流れた場合、日本女性が外国人から性的被害を受ける懸念があります。
http://s01.megalodon.jp/2009-0730-0004-33/img.47news.jp/PN/200907/PN2009072201000854.-.-.CI0003.jpg
http://www.jiji.com/news/handmade/topic/003event/uni001-090722-02.jpg
http://s03.megalodon.jp/2009-0730-0005-33/image.blog.livedoor.jp/yoshiyuki_tokyo/imgs/c/c/cc00f856.jpg

【文化】 「ミス・ユニバース日本代表、まるでポルノ女優」 日本・海外で非難殺到…イネス氏ら「流行遅れが批判」「パンツじゃない」★13
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1248875968/
【阻止】ミス・ユニバース日本代表下半身露出で出場5
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1248876772/
今年のミス・ユニバースって既女的にどう?
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1248442805/
【阻止】ミス・ユニバース日本代表下半身露出で出場4
http://s01.megalodon.jp/2009-0729-2332-49/hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1248771499/
221渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/01(土) 09:51:12 ID:yEFcDQkC
>>219
 2ちゃんねるの誰でも分かるように訳と伝統的な解釈を加えておきます。

 私法蔵菩薩が阿弥陀仏となったとき、その極楽浄土は他のあらゆる仏国土に優るすば
らしい世界にしよう。
 極楽国土に在住する人々はみなすばらしく、悟りを求める道場としては最高の場所としよう。
 国土そのものが無為涅槃界としてあたかも泥おんつまり悟りそのものを出現する比類のな
い世界にしよう。                   ̄ ̄ ̄
 私は、極楽浄土の人々に優しくし、極楽浄土の全ての人々に悟りを実現するほうにしよう。
 あらゆる世界から極楽浄土を訪問してきた人々は、心が洗われて感動するような世界にし
よう。       (大無量寿経)

 「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」「極楽無為涅槃
界」というは、「極楽」と申すは、かの安楽浄土なり。よろずの楽しみ常にして、苦しみ混わらざ
るなり。かの国をば安養といえり。曇鸞和尚は、賞め奉りて安養と申すとこそのたまえり。 〜
 「随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生の各々の縁に従いて、各々の心に任せて、諸
々の善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善
根なるゆえに、実報土には生まれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。
              (唯信鈔文意)

 泥おん
 原語nirvana の音写。涅槃と同じ。煩悩の吹き消された清涼の悟りの境地。「梵本」によれば、
浄土は涅槃界で、その楽しみは他に比べものがない意味としている。善導の「法事讃」下巻に
出る「極楽無為涅槃界 なり云々」の句を説明する親鸞の唯信鈔文意の説明は、浄土教の浄土
の理解にとって重要である。      (浄土三部経 岩波文庫 註)


 青信号だと信じ込んでいる両者にとっては、それぞれが真実です。宗教者にとっても同じことが
言えます。法然が正しいかどうかは誰にもわからない。 〜 信じられる人に出会えるかどうかは、
その人の運だ (>>213
222渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/01(土) 09:56:04 ID:yEFcDQkC
>>221
×  極楽浄土の人々に優しくし、極楽浄土の全ての人々に悟りを実現するほうにしよう。

○  極楽浄土の人々に優しくし、極楽浄土の全ての人々が悟りを実現するようにしよう。
223神も仏も名無しさん:2009/08/02(日) 00:10:14 ID:q7XIxDDg
我当哀愍 度脱一切 ---この言葉は弱いですね。なぜならその前に阿弥陀の国に
生まれなければならないという条件がある。



224神も仏も名無しさん:2009/08/02(日) 00:27:26 ID:q7XIxDDg
ここは讃仏ゲのところですね。世自在王仏の前で徳をたたえ発願を述べ
諸仏に知ってもらうところですね。訳すと私は哀れみの心をもって一切の
衆生をすくい十方世界から来生と願う者があれば平等に安楽をえさせてやりたい
と言う意味です。条件は願生する事。すなわち浄土往生を願うということです。
発菩提心といってもいい。しかしこれが条件になると凡夫はむずかしい。
無条件の救済にならないわけです。この辺はどうでしょうか。
225神も仏も名無しさん:2009/08/02(日) 09:16:26 ID:sPJQZvnh
>>224
>発菩提心といってもいい。しかしこれが条件になると凡夫はむずかしい。
そう、それが自力の発菩提心であるなら、ほとんどの凡夫は救われないでしょうね。
親鸞さんあたりまで来ると、そのあたりがはっきりしてくる。
凡夫を救済するための発願によって、何故凡夫は救われないのか?
親鸞さんは、発菩提心がないから凡夫なんだと結論する。
同時に信ということについて究極まで問い詰めた希有の人です。

たとえば私が仏を信じると言っても、かなりいいかげんなものです。
まあ、寝ているときは寝言で念仏を称えるわけでもない。
美味しいごちそうを前にすれば涎をこぼすし、
ベットでHしている時にはそれこそ仏どころではない。
そこには穢土を満喫している私が居るわけです。
菩提心などかけらも見られない。
それでも、私は浄土往生すると信じている。
その信はどこから来たのか?

親鸞さんは、そこで大信という解釈を披露する。
発菩提心もまた仏の誓願のうちにあるんだという解釈です。
凡夫の菩提心のごときあやふやなものではない。
一切衆生を度すために発した誓願こそが真実の発菩提心なんですよ、と。
これが、他力の仏教と呼ばれる所以です。

念仏も信心も仏に帰してしまった。
凡夫には、もうすることがない。
極めてお気楽な仏教だと言えると思います。
私のような不精でぐうたらな輩のために誂えたような宗教ですね。
226神も仏も名無しさん:2009/08/02(日) 10:12:17 ID:ZcZ9n/t9
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227渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/02(日) 15:37:55 ID:n57X8YLK
>>225
 ID:xaciI2nj(>>218)さんと同じ方ですか。
 コテハンを使ってくださると有り難い。連続的にカキコする場合、どの人か分からなくなります。

 「>>216の質問には答えられません」と、まず先に仰って>>216の質問にけりを付けるのが親切と
いうものでしょう。

 >> 218との関連がわかりにくい。

 聖教も親鸞も関係なく、先人の主張との照合無く、思いつくままの自分教の主張を気ままに出
しているようです。
 それならそれでも構いませんが、その場合には、自分は先人の主張との整合性は関係ありま
せんと、一言仰ると外の方が安心します。
228神も仏も名無しさん:2009/08/02(日) 23:15:00 ID:Y46o2pLp
親鸞さんは、発菩提心がないから凡夫なんだと>
親鸞さんは、そこで大信という解釈を披露する。
発菩提心もまた仏の誓願のうちにあるんだという解釈です----
で大経のどこに書いてあるのかという問題になるわけです。
念仏をすれば救われるのか。−−いいや念仏は条件ではない
発菩提心を起こせば、救われるのか。発菩提心とは何か。浄土に生まれたいという心だという。
なぜ浄土にうまれたいのか。菩提を求め衆生教化のため。−−−しかしこれも凡夫にないという。
凡夫には何も条件が無く無条件で救うとなるとそんな事は何処に書いてあるのかが問題になる。
その箇所が無ければ話にならない。
−−−我当哀愍 度脱一切−−を上げられたがこれは哀れみの心をもって一切の
衆生をすくい十方世界から来生と願う者があれば平等に安楽をえさせてやりたい
と言う意味で、しっかり浄土を願うという条件がある。無条件ではない。
こう思うのですが。
229神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 04:54:50 ID:GxLW4WYE
230神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 10:23:23 ID:WVw+8JyZ
>>228
我当哀愍 度脱一切
十方来生 心悦清浄
已到我国 快楽安隠

>哀れみの心をもって一切の衆生をすくい
>十方世界から来生と願う者があれば平等に安楽をえさせてやりたい
親鸞さんだとこうですね。
>我当に哀愍して、一切を度脱すべし。
>十方より来生せんもの、心悦清浄にして、
>すでにわが国に至らば快楽安穏ならん。

なぜ無条件か?と言えば、末法だからです。
末法だから法蔵は哀愍して一切衆生を度脱するための誓願を立てるわけです。
その誓願を成就して一切衆生を度脱したから、十方から仏国土に来生できるんです。
そうして来生してから初めて衆生は安楽を得る。

ところで、条件というのは面白いもので、人は条件付きだと安心するんですね。
仏の誓願なんかにも、五逆や正法誹謗を除くと書いてある。
これで、かえって普通の人は安心する。
ところが、善導さんは、そいつは抑止門で五逆も正法誹謗もしてない人に対する注意事項なんですよ、と。
それらの罪を犯してしまった人には、ちゃんと観経という摂取門が用意してあるんだよというわけです。

それでも、経典にあるのにけしからんと、いまでも抑止門説を認めない人も居る。
本来無条件なんだけど、条件を付けた方が凡夫には受けがいいということです。
凡夫というのは、ちょっとした条件の違いですぐに差別をするものです。
性別、職業、学歴、国籍、肌の色、貴賎、貧富、障がい、なんでもありです。
だから無条件の他力というものが理解されにくい。
親鸞さんも、これには随分手を焼いてたみたいで、難中の難だと嘆いている。
私は親鸞さんと違っていい加減なんで嘆かない。
頭が悪いんで、深く考えることが苦手なんです。
231馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/08/03(月) 11:47:07 ID:IYEqEMZz
 聖徳太子の未来記
 その時、魔王波旬は仏法によって釈迦の仏法を破り、日本を乗っ取って鬼の
国にしようと願う。故に3人の眷属を使う。邪法を授けて日本の衆生を惑わし、
三悪道に落さんと欲する。
 親鸞法師、阿弥陀仏の念仏を唱えさせ、戒律を守らず、女犯を許し、斎食を
行わずして肉味を喰らう。法を破って肉食する事が戦争が起きる因縁(怨霊が恨
みを晴らす)であり、亡国の基である。日本の末世には六天の魔王が猛威を振る
い。日本人の悲劇を見て外国人が喜ぶ。畜生顔の人が物を言う。夜半に太陽が
出る。地獄の苦しみに耐えて誠を尽さねば罪を償えない。早く改心する者程楽
になるぞよ。
 人の先祖は神であり、生物は神魂の宿った同類である。この様な教の神道が
あるのになぜ仏教が普及したのか。外国に侵略され、仏教の邪法と煩悩に迷わ
されのである。
 乙巳の変は三韓の献貢の日に、倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が
天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来
なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳
に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら
3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必
要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は
仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。
 年号は天皇名と一致する筈だが、変後に九州年号が使われたのは天皇暗殺の
証拠。
 2・26事件は百姓一揆である。景気悪化のしわ寄せを米価引き下げによる農民
苛めによって消費者を助けて凌ごうとしたのである。昭和天皇は弱者を見殺し
にする冷血漢である。
 天皇はアメリカとの密約で原爆投下まで降伏するなと命令されていた。朝鮮
人の天皇は日本人が幾ら死のうが平気なのである。本当なら自決する筈である。
232馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/08/03(月) 12:01:34 ID:IYEqEMZz
 メーソンの日本人皆殺しがいよいよ始まる。今年の様な冷夏が3年は続くか
ら、日本は米の備蓄が無くなって、悪魔の思惑通りの兵糧攻めとなって、餓死
者が激増する。後は世界が一つになって、日本を取りに来る。北朝鮮、中国、
ロシアが攻め込み、最後は総大将のアメリカの餌食となる。それまでに改心し
て置かないと、魂まで救い様がないぞよ。悪魔の宗教や偽科学の洗脳から抜け
出す事が大事であるぞよ。
 科学は実現象を説明出来ていない。
 地震の発生機構(火龍、マグマと顕現する)、自然治癒力(神霊力)、生命の発
生(天神と地祇の働きによって物に魂が宿り、人となる)、動物の帰巣本能、地
震予知(霊能力)、根源の素粒子(エーテル、素粒子論では素粒子同志を結合させ
ている物が素粒子と言うのでは限りが無くなって、すでに破綻している)、空か
ら降る魚(龍が竜巻を起こす時にくっ付いた物)、悪水からボウフラが、雑草か
らバッタが湧く(悪の言霊力)が説明不可能。
 UFOの反重力、反慣性力飛行の原理が説明出来ないから、UFOの存在を
否定するしかない。
 超能力(透視、テレパシー、念力、予知、化身等)の原理が分からないから、
これも否定。
 ミステリーサークルは小型UFOが作っているのに人が作っていると誤魔化
している。
 神の奇跡(聖母マリアの血涙、モーゼの海割り)、神隠し、神がかり、人魂、
幽霊、心霊現象、幽体離脱、虫の知らせ、こっくりさん、金縛り、狐憑き、狐
狸の化かし、妖怪、キルリアン写真、ポルダーガイスト、ドッペルゲンガー等
も説明出来ない。
233渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/03(月) 13:17:22 ID:JVTPnPpa
>>230
>頭が悪いんで、深く考えることが苦手

 見苦しい言い訳だな。
 自分のおかしいことはわかりました。でも、自分の性分として間違いを認めるのは嫌です。頭
が悪いんで、深く考えることが苦手だから詭弁を続けて強情を張ります。わがままを許してくだ
さい。そう言う意味なんだろう。甘ったれで見苦しいね。書き込みを読んでいい感じがしない。

   ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ● ○ ●

 大無量寿経はなぜ真実教か。この問題は、親鸞仏教では非常に大事な問題で、大きく重い問
題だ。親鸞の時代の社会環境(世間道)と仏教環境(出世間道)という二つの面から親鸞の考え
の道筋を追ってはじめて見えてくる。
 形式論理と実体的論理、説明的論理と真意、様々な点で光を当てる必要がある。

 問題提起者がどこまでこの問題に関心を持っているのか、いまいち分からない。僕が言えば、
その主張はあくまで僕の仮説であるという限界がある。多くの人に普遍的に賛成してもらえるとい
う保証はない。ただ、宗祖に対しては中身空っぽの土管に徹し、できるだけ客観的資料にそくし
て考えを進めたい。

 議論を始めれば、ノータリン坊主がこの掲示板をまたアラシ回るんだろう。僕のブログで書いて
もいいけど、ブログは別の問題を扱っていて手一杯だ。

 さて、どうしたものか。もう少し考えよう。
234神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 17:23:27 ID:FQ38SlMg
230番さんへ−−
親鸞さんだとこうですね。
>我当に哀愍して、一切を度脱すべし。
>十方より来生せんもの、心悦清浄にして、
>すでにわが国に至らば快楽安穏ならん−−−−うんうんこれだと確かに無条件になる。
そうすると願文の18願はどのように親鸞さんは読むんですか。
235神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 17:27:05 ID:FQ38SlMg
なぜ無条件か?と言えば、末法だからです。
末法だから法蔵は哀愍して一切衆生を度脱するための誓願を立てるわけです−−−−
うんうんこれも納得できた。私にとってはあと18願文と願成就文が無条件の救いの意味が
読み取れれば親鸞さんやアミダ仏に帰依て゛きる。
236渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/03(月) 20:09:46 ID:JVTPnPpa
 桃太郎さんだとこうですね。
>我当に哀愍して、一切を度脱すべし。
>十方に居住せんもの、心悦清浄にして、
>すでにわが国で生活に至らば快楽安穏ならん−−−−うんうんこれだと確かに
無条件になる。そうすると鬼退治の願文はどのように桃太郎さんは読むんですか。

 なぜ無条件か?と言えば、末法だからです。
末法だから桃太郎は哀愍して一切衆生を度脱するための鬼退治の誓願を立てる
わけです−−−−
うんうんこれも納得できた。私にとってはあと「日本一」の旗と吉備団子に無条件
の救いの意味が読み取れれば桃太郎さんに帰依できる。
237神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 21:36:08 ID:WVw+8JyZ
>>234,235
十八願ですか?
これはまあ、私などの手に余る大仕事ですね。
親鸞さんも、この十八願を解説するためにだけ教行信証を書いたと言ってもいい。

設我得佛十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、
乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)

まず親鸞は、「至心・信楽・欲生」の三心を、信心の一心にまとめます。
そして、その信心は、凡夫の信心ではなく仏の信心だと結論する。
なぜなら、凡夫親鸞にはそのような信心がないからです。

親鸞さんは、29歳まで叡山で荒修行を積みながら、
遂に仏とは出会えなかった、今でいう落ちこぼれの堂僧だった。
あるいは自殺を思いつめた日々を送った人だったのかもしれない。
親鸞さんの内省力は、それほどまでにすさまじい。

この仏の信心を仏性と言い換えることができる。
凡夫には仏性がない、それゆえに悟達もない。
しかし、仏の信心があれば浄土往生ができる。
ならば、仏の信心こそが仏性であると。

涅槃経に一切衆生悉有仏性とある。
大慈大悲を名づけて仏性とすとある。
仏の信心とは仏の大慈大悲であって、この誓願がすなわち仏性なんですね。
それゆえ凡夫であっても仏国土に生じることができる。
まあ、このあたりまでが私の独善的解釈ということで…。

…詳しくは、真宗の学僧にでも聞いてください。
私は頭が変なので、これ以上は熱暴走しそうなんで止めておきます。
238神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 23:25:33 ID:FQ38SlMg
問題は2つあると思うのです。一つは末法思想が根底にあって初めて凡夫無条件の救いが
なりたつのだが、末法思想が大無量寿経に説いてあるかどうか。これはあったのです。
私も一応 二、三日大経を読んでみました。すると5つの悪を説く後に確かに書いてある。
−−しかしながら私仏がこの世を去った後、仏の教えは次第に滅び人々は偽りやウソを言う者が
多くなりいろいろ悪を犯すであろう。こうして5つの悪や5つの罪を前の通り受けることになり
さらにずっと後の時代にはいっそう激しいものになる−−−−−これでこの教えがしっかり末法の
時代を仏が予告していることが分かった。
239神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 23:31:58 ID:FQ38SlMg
もう一つの問題は一切の衆生が無条件で救われるという根拠なのです。
どこに説いてあるのか。末法だからこそ戒もないならば出家も在家の区別もない。
それどころか男女の区別も老若の区別もない。条件が無ければ平等だ。となると
願文にあるように十方の衆生とか一切の衆生とかの呼びかけにならないとスジがとおらない。
仏の救いの相手があらゆる生けるものとなっているのも頷ける。
問題は無条件で救うということが具体的に何処に書いてあるのか。ここが問題。
一つは我当に哀愍して、一切を度脱すべし。と読む箇所としても願文にも根拠がいる。
240神も仏も名無しさん:2009/08/03(月) 23:37:18 ID:FQ38SlMg
−−−設我得佛十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、
乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く) −−−−−
 
この18願文の心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、
乃至十念せん。−−とあるがこれは衆生がするのか、仏がするのか。
確かに仏が心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。と考えれば衆生にとっては
無条件の救いになるのだが。親鸞は仏が行うというか仏のお心として受け取ったのですか。
この辺をもっと詳しくお聞きしたい。
241神も仏も名無しさん:2009/08/04(火) 01:32:46 ID:BUcnWwoC
一つには、釈尊は内外を問わず、自分は隠し事はいっさいしていないと
はっきり表明している。
だから、阿含経にある文言が釈尊が一生かけて説いたすべてです。
あそこにあるものが釈尊の教法であり、ないものは説いていない。
だから、呼吸法によるチャクラやクンダリニーの開発法など阿含経にはありません。
二つ目に、仮にその開発法だけは秘伝として伝えとします。
だが、これを開発しなさい、呼吸法をやってチャクラを動かせ、
クンダリニーを覚醒させろという言葉自体は経典に残っていていいはずです。
チャクラやクンダリニーという言葉を用いていなくても、
そうとしか受け取りのようのない文章が至る所に残っていていいはずです。
なぜなら、経典の多くは出家の比丘たちに説かれた。
チャクラやクンダリニーの覚醒で得られた神通力でカルマを切るのが
解脱なら、方法そのものは秘伝でも、比丘たちに教えとして、
「ヲレが教えた○○秘伝法を実習せよ。チャクラをクルクル回せ」と
釈尊が比丘たちに叱咤激励する言葉が溢れていていいはずです。
だが、そんな文言は皆無です。
神通力を体得せよ、などという言葉すらない。
信者さんたちはおかしいと思わないか。
本当に釈尊が、桐山説のように、チャクラやクンダリニーの覚醒で
得られた神通力でカルマを切るのが解脱だと説いたなら、
「教師の握り拳はない」と説いた釈尊が方法を隠すのもおかしいし、
仮に隠したとしても、チャクラやクンダリニーに相当する言葉や
神通力体得を奨励する言葉がたくさんあってもいいはずです。
だが、ありません。
242神も仏も名無しさん:2009/08/04(火) 20:54:39 ID:qg4n+AXX
>>240
>親鸞は仏が行うというか仏のお心として受け取ったのですか。
親鸞さんは、たとえば三つあるものを一つに帰すという帰納法的な手法と、
一つのものを二つに分けて真偽を問うて真を取るという演繹的手法の二つを駆使して、
この十八願は仏の大信大行であるという論証を行います。
特に信については、わざわざ信巻を別途に立てて精査していますね。
結局、十八願は、仏の大慈悲心の発露としての誓願であると結論します。

ただ、親鸞さんは、仏の大信か凡夫の信心かという明確な区別をつけなかった。
そのため、
>真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
というあいまいさが生まれてきます。

ここで、条件ということについて触れておきます。
もしも、条件付きの浄土往生であるなら、その条件に反すれば、
結果として仏の誓願を妨げることが出来てしまうわけです。
つまり、凡夫の煩悩が仏の大慈悲心を上回る力を有するということになります。
善導は、これを避けるために抑止門というテーゼを立てた。
親鸞は、大信という絶対的な力を想定した。
それゆえ、仏の誓願を妨げるいかなる悪も存在しない、と宣言することができたんです。

南無は帰命であると、親鸞さんは言う。
おバカな私は、ながい間これを、私の命を仏さんに帰すことだと思っていた。
ある人が、帰命の命はイノチではなく、命令の命だと教えてくれた。
念仏は、仏の命令だったんですね。
まあ、この辺、深追いすると決定論の迷路に迷い込むんで止めます。
なんにしろ、親鸞さんは謎だらけなんで、飽きることがないですね。
243神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 01:20:56 ID:PgIJVXRN
242番の回答は疑問点が多いですね。
まず整理してみましょう。親鸞さんは法然さんの教えを受けているわけです。
法然さんの教えは簡単で18願を心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、
乃至十念せん−−−を衆生の心と行為としてとるわけです。また乃至十念を念仏としたから訳すと
三心を具足して念仏するとなるわけでしょ。で乃至という文字があるから一声でも無限声でもいいと
言うわけですね。ところが念仏をとなえるのは形として見えるから分かるけど、心がどういうこころもちかが
外からでは見えないし分からない訳です。本当に三心を具しているかどうか。
親鸞さんにとって法然さんは正に三心を具して念仏している人とみているわけです。
じゃ三心のない人はどうするのかというと、法然さんはひたすら念仏をとなえろというわけです。
すると三心が具するようになるというのです。だから結局、あるのはただ念仏すべしというのみ。
で親鸞さんは三心を具したのか、具さなかったのか。この辺はどうでしょうか。
244渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 12:14:54 ID:4q4ure7u
>>242
親鸞さんは、たとえば三つあるものを一つに帰すという帰納法的な手法と、一つのものを二つに
分けて真偽を問うて真を取るという演繹的手法の二つを駆使して、「近眼で無明道を歩けないと
言って本当に困っている凡夫を平等に救いたいという」この十八願は、「めがね提供者の」大信
大行であるという論証を行います。
 特に「喜んで貰いたい。喜んで貰えればそれだけで自分達は嬉しいんだというめがね提供者
の」信については、わざわざ信巻を別途に立てて精査していますね。
 結局、「道を歩けないで困っているすべての近眼の人を救いたいという」十八願は、仏の大慈
悲心の発露としての誓願であると結論します。

 ただ、親鸞さんは、「道が歩けるようになって喜んで貰いたい。喜ばせようというめがね提供者
の」大信か、「道が歩けるようにしてくれて嬉しい、有り難いという」凡夫の信心かという明確な区
別をつけなかった。そのため、

>「めがねをありがとう。これで道を歩けるようになり幸せになりましたという」真実の信心はかな
らず「めがねをかけるという行動」を具す。「めがねをかけるという行為はあるとしても、そのひと
が」かならずしも「ありがとう。感謝しています」という「感謝の」心を具せざるなり。というあいまい
さが生まれてきます。

 ここで、条件ということについて触れておきます。
 もしも、無明の道を歩けず困っている全ての人に喜んで貰おうというめがね提供者の世界観、
社会観の中に自らの価値観が同化して行くということは、「無明道を歩けないで困っている近眼
者はめがねをかけなければならないという」条件付きの参加であるなら、「近眼であってもめが
ねを拒否する」というようにその条件に反すれば、結果としてめがね提供者の誓願を妨げること
が出来てしまうわけです。

つまり、「めがねはいやだ。かけたくないという、めがねのすばらしさを知らない」凡夫の煩悩が、
「全ての人が安心して道を歩けるようにしようというめがね提供者」の大慈悲心を上回る力を有
するということになります。
 善導は、これを避けるために抑止門というテーゼを立てた。 親鸞は、大信という絶対的な力
を想定した。
245渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 12:17:45 ID:4q4ure7u
 それゆえ、仏の誓願を妨げるいかなる悪も存在しない。「めがねをいやな人はめがねをかけな
くてもいい」、と宣言することができたんです。

 南無は帰命であると、親鸞さんは言う。
 おバカな私は、ながい間これを、私の命を仏さんに帰すことだと思っていた。ある人が、帰命の
命はイノチではなく、命令の命だと教えてくれた。
 「めがね」は、「近眼で道を歩けず困っている人はめがねをかけろというめがね提供者の」命令
だったんですね。
 まあ、この辺、深追いすると決定論の迷路に迷い込むんで止めます。
 なんにしろ、親鸞さんは謎だらけなんで、飽きることがないですね。

>>243
242番の回答は疑問点が多いですね。
まず整理してみましょう。親鸞さんは法然さんの教えを受けているわけです。法然さんの教えは簡
単で18願を心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん−−−を衆生の心と行為と
してとるわけです。また乃至十念を念仏としたから訳すと

「嬉しい。有り難い。感激だという」三心を具足して「めがねをかける」となるわけでしょ。で乃至という
文字があるから「嬉しい。有り難い。感激だという喜びの心は、一回かけただけ」でも無限回でもいい
と言うわけですね。ところが「めがねをかける」のは形として見えるから分かるけど、「ほんとうにそれ
で喜んでくれているか」どういうこころもちかが外からでは見えないし分からない訳です。本当に「嬉
しい。有り難い。感激だという」三心を具しているかどうか。親鸞さんにとって法然さんは正に三心を
具して念仏している人とみているわけです。

 「めがね提供者は、喜んで貰いたい。それだけでいいんだ。簡単なことだと思っている」。じゃ「めが
ねをかけていても、嬉しい。有り難い。感激だという」三心のない人はどうするのかというと、法然さん
はひたすら「めがねをかけろ」というわけです。すると「嬉しい。有り難い。感激だという」三心が具する
ようになるというのです。だから結局、あるのはただ「近眼で無明道を歩けないと言って困っている人
はめがねをかける」べしというのみ。で親鸞さんは「嬉しい。有り難い。感激だという」三心を具したの
か、具さなかったのか。この辺はどうでしょうか。
246渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 12:26:57 ID:4q4ure7u
>>240 
この18願文の心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。−−と
あるが、これは近眼の人がよろこんでめがねをかけるのか、めがね提供者が近眼
の人に喜んで貰おうと思ってめがねを作成するのか。

 親鸞は、めがね提供者がめがねを作成するというか、めがね提供者のお心とし
て受け取ったのですか。この辺をもっと詳しくお聞きしたい。
247渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 13:44:27 ID:4q4ure7u
>>242
>もしも、条件付きの浄土往生であるなら、その条件に反すれば、結果として仏の誓願を妨げる
ことが出来てしまうわけです。

 無明の道に困っている近眼者が、道を歩けるようになって互いに喜び合うというその世界に参
入するのは、「めがねを使ってみてはじめて可能になる」という条件付きであれば、「めがねを使
うという」条件に反すれば、結果としてめがね提供者の誓願は妨げられることが出来てしまう。


 何の偶然かたまたま寺に生まれ、何不自由なく成長し、周囲からちやほやされ、踊らされ、先
祖が敷いたレールで自分もいやいや坊主にさせられ、「おれはめがねなんかいやだ」と言って
いるのがいるからと言って、「そんな坊主も平等に救ってくれないと嫌だぁ」とごねるやつを、「『お
前なんか救わないよ』などと、冷たく切り捨てるな」、などと、そんなこと言うノータリンを構う必要
はない。

「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほか
に別の子細なきなり」。

 無明の道を歩けず困っている近眼の人は、「全ての人が安全に道を歩けるようにしよう」と願っ
ているめがね提供者に支えられ、ただめがねをかけなさいと仰ってくれた親切な方のお言葉を
信じるということ以外、特別なことはないんです。

 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやは
んべるらん。総じてもって存知せざるなり。
248渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 13:45:44 ID:4q4ure7u
 めがねは本当の幸せを運んでくるキューピットなのか、それとも地獄に堕ちる原因になるのか、
それは全く分かりません。

 たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず
そうろう。

 法然聖人に騙されてめがねをかけ、道を歩いていたら突然電信柱が現れて衝突し、それで死
んでしまっても、わたしは恨んだりしません。

そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちて
そうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身
なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 

 理由は簡単です。めがね以外にもっといい方法があり、その方法を選べばもっと幸せになるは
ずだったのに、めがねをかけたために不幸になれば、騙されたという後悔も出てくるでしょう。とこ
ろが、電信柱にぶつかって死んでしまうというのは、近眼であればある程度宿命のようなもので
す。覚悟しておかなければならないでしょう。その危険がめがねで少しでも予防できれば、幸せ
です。

 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらん
とも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

 結局、私がめがねで喜んでいる中身は以上の通りです。この上は、皆様お一人お一人が喜ん
でめがねを使うか、めがねを拒否するか、ご自由に判断してください。  
249神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 16:01:39 ID:g+TupLzI
渡海 難さんに質問です。2つあります。

1)渡海 難さんにとって、「他の宗派」はどうでもいいですか?
2)渡海 難さんは「原始仏教」を知らないんですか。(精通しているけど無視?)
250渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 16:15:14 ID:4q4ure7u
>>247
× そんなこと言うノータリンを構う必要 はない。

○ そんなこと言うノータリンを構う必要 はない。なぜなら、仏とはオールマーティーじゃない。
 因果の道理に逆らうことはできず。因果の道理を否定してお救いしますよなどと言っている
 わけではない。
  仏は、白雪姫に出てくる魔法使いのおばあさんように思っているのは、おとぎの国浄土真宗
 ディズニーランドの愉快なお坊さんだけだろう。
  
251渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/05(水) 16:18:05 ID:4q4ure7u
>>249
1)渡海 難さんにとって、「他の宗派」はどうでもいいですか?

 忙しいからどうでもいい。

2)渡海 難さんは「原始仏教」を知らないんですか。(精通しているけど無視?)

 最近はもうどうでもよくなった。親鸞さんだけで十分。
 忙しいからね。親鸞さんだけで手一杯。
252神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 16:20:07 ID:5lWjDwpm
>>251
忙しいって2chを荒らすのに忙しいんですね。
ろくに仕事もせず1日中PCの前に座って楽しいですか?
253神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 18:09:51 ID:4q4ure7u
>>250
× 白雪姫
○ シンデレラ
254神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 20:37:48 ID:yPkpUtnH
>>243
>で親鸞さんは三心を具したのか、具さなかったのか。この辺はどうでしょうか。
この辺が一番あやふやなところで、私などの手に余るテーマなんですが、
自力の信心、他力の信心という観点から能書きを垂れてみようと思います。

先ずは、「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」という問題から説明します。
たとえば、ニュースキャスターが原稿にある六字の名号を読んだとします。
そこには当然信心など無いわけで、親鸞さんの主張は正しいということになります。
一方で、名号不思議を信じるか誓願不思議を信じるかと、人々を言い驚かせる輩が現れて、歎異抄の作者を嘆かせる事態も発生します。
これは、親鸞さんが、仏の信心と凡夫の信心との違いを、明確に区別しなかったのが原因です。
そこで、もう一度ニュースキャスターに登場してもらって、原稿にある名号はホントに願力の信心を備えていないのかどうか考えてみたいと思います。
もしもあると仮定するなら、第一にキャスターと名号との出会いがあります。
ついで、TVを観ている視聴者と名号との出会いがあります。
それは何物も生まないかもしれないが、もしかしたらそれを契機として念仏者が生まれるのかもしれない。
そこには仏の力が作用している可能性があるのではないか、ということです。

さて、自力の念仏と他力の念仏を区別するものは、信心であると親鸞さんは説きます。
たとえば、渡海流の「座禅して念仏して脳を活性化する」という教義であれば、
座禅して念仏しなければ脳が活性化しないわけで、脳など活性化したくないよという人は座禅して念仏しなければいい。
つまり、自力作善の信心は、凡夫の側にも拒否権があるわけです。
ところが、他力の信心は仏の命令であって凡夫には拒むことができない。
これを、親鸞さんは不退転と呼んでいます。
不退転とは、凡夫が強い意志の力で仏を信じ抜くという意味ではなく、
信じるのを止めて退転しようとしてもできなくなった境地のことです。
ちょうど、どんなに飛び回っても、どれほど逃げ回っても、遂に仏の掌から抜け出せなかった孫悟空に似ています。

結局のところ、自身に問うてみて、念仏を捨てることができるのであれば、それは良くも悪くも自力の信心ということになるでしょうね。
255神も仏も名無しさん:2009/08/05(水) 20:39:31 ID:XAJ+59Z7
依存性の強い麻薬、覚せい剤とかコカインとかをやると、
脳の神経細胞に新たに手(樹状突起、シナプス)が伸びて、
脳内に「麻薬を再び求める回路」が新生するんだって。脳が縮む一方で新生回路ができる。
常人にはない回路で、麻薬を求める優先順位が高くなるんだって。

Windowsパソコンでいえば、動画再生処理にリアルタイム優先度が「1」になってマウスすら動かない。
タスクバー右クリック → タスクマネージャ → プロセス → wmplayer.exe → 優先度の設定 → リアルタイム
 「警告:予期しない結果になることがありますが、本当に変更しますか?」 → はい、クリック!
骨董品級の低スペックパソコンのウィンドウズメディアプレイヤーで大画面エロ動画再生 → マウスすら動かず、再起動できない。

その「麻薬を再び求める回路」ができ、麻薬を求める優先順位が高くなると、
麻薬を追い求めてもう現実の社会に帰ってこられない。人生を麻薬獲得にささげちゃう。
脳内にある悪魔の神経回路を摘出したり、悪魔の神経の糸を一本一本切る脳外科技術は現在ないよ。
現実の社会に帰ってきたような演技、芝居はできるけど、それはあくまで演技で芝居。
http://jp.youtube.com/watch?v=286bQdWku_c

http://www.damnfunnypictures.com/Weird/807/Faces-Of-Meth/
一般人(左)、覚せい剤常習後の廃人(右)
http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/8/a/8a380c3a.jpg
華原朋美のまともな時代(左)、奇行が目立つ頃(右)
朋ちゃん(右)、どう見てもジャンキー末期の顔。
朋ちゃん、吹き出物は治ったけれど、脳に搭載した新回路は消えない。
上機嫌で「フォー!」と奇声を出しながら全裸で病院内を疾走!
そして、寂しそうに『I'm Proud』を歌う。
麻薬を求める悪魔の脳内回路は完成したので、
朋ちゃん、日の当たる世界に帰ってこられないよ。
256渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/06(木) 01:39:10 ID:5GmzbyHe
>>254
>>で親鸞さんは三心を具したのか、具さなかったのか。この辺はどうでしょうか。

yPkpUtnH「この辺が一番あやふやなところで、私などの手に余るテーマなんですが」
親鸞  「はて、そんなに難しかったかのぅ?」 
yPkpUtnH「自力の信心、他力の信心という観点から能書きを垂れてみよう」。
親鸞  「ほほう」
yPkpUtnH「先ずは、真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信
      心を具せざるなりという問題から説明します。」
親鸞  「なるほど」
yPkpUtnH「たとえば、ニュースキャスターが原稿にある六字の名号を読んだとします。」
親鸞  「なるほど。なるほど」
yPkpUtnH「そこには当然信心など無いわけで、親鸞さんの主張は正しいということにな
     ります」。
親鸞  「なるほど。なるほど」
yPkpUtnH「一方で、名号不思議を信じるか誓願不思議を信じるかと、人々を言い驚かせ
     る輩が現れて、歎異抄の作者を嘆かせる事態も発生します。」
親鸞  「そういう問題とは違うと思うけどなぁ。なるほど。なるほど。」
yPkpUtnH「これは、親鸞さんが、仏の信心と凡夫の信心との違いを、明確に区別しなか
     ったのが原因です」。
親鸞  「ほほう。」
yPkpUtnH「そこで、もう一度ニュースキャスターに登場してもらって、原稿にある名号はホントに
     願力の信心を備えていないのかどうか考えてみたいと思います」。
親鸞  「なるほど。なるほど。」
yPkpUtnH「もしもあると仮定するなら、第一にキャスターと名号との出会いがあります」。
親鸞  「はて?。あると仮定できるの?」
yPkpUtnH「ついで、TVを観ている視聴者と名号との出会いがあります」。
親鸞  「そんなのは出会いじゃないと思うけどね。」
yPkpUtnH「それは何物も生まないかもしれないが、もしかしたらそれを契機として念仏者
     が生まれるのかもしれない」。
257渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/06(木) 01:43:45 ID:5GmzbyHe
親鸞  「瓢箪から駒が出るという話ですか?。まあ偶然と言うのはあるかも知れないけど、
    偶然を期待するの?ディスニーランドの魔法使いのおばあさんの話ですか?」
yPkpUtnH「そこには仏の力が作用している可能性があるのではないか、ということです」。
親鸞  「奇跡を期待するのね?」
yPkpUtnH「さて、自力の念仏と他力の念仏を区別するものは、信心であると親鸞さんは説
     きます」。
親鸞  「ほほう」。
yPkpUtnH「たとえば、渡海流の「座禅して念仏して脳を活性化する」という教義であれば」、
親鸞  「はて?聞いたことがない。あやつまた変なことを吹聴しておるのかな?」
yPkpUtnH「座禅して念仏しなければ脳が活性化しないわけで」。
親鸞  「はて?脳の活性化法などは、たくさんあるような気がするが」。
yPkpUtnH「脳など活性化したくないよという人は座禅して念仏しなければいい」。
親鸞  「ほほう」。
yPkpUtnH「つまり、自力作善の信心は、凡夫の側にも拒否権があるわけです」。
親鸞  「なるほど」
yPkpUtnH「ところが、他力の信心は仏の命令であって凡夫には拒むことができない」。
親鸞  「拒否すると銃殺刑にでもなるのかな。恐ろしい」。
yPkpUtnH「これを、親鸞さんは不退転と呼んでいます」。
親鸞  「はて?。記憶にない」。
yPkpUtnH「不退転とは、凡夫が強い意志の力で仏を信じ抜くという意味ではなく」。
親鸞  「はて?」。
yPkpUtnH「信じるのを止めて退転しようとしてもできなくなった境地のことです」。
親鸞  「聞いたことがない」。
yPkpUtnH「ちょうど、どんなに飛び回っても、どれほど逃げ回っても、遂に仏の掌から抜け
     出せなかった孫悟空に似ています」。
親鸞  「孫悟空の話だったのか。それなら、ワシの出番はないわな」。
yPkpUtnH「結局のところ、自身に問うてみて、念仏を捨てることができるのであれば、それは
     良くも悪くも自力の信心ということになるでしょうね」。
親鸞  「はて。病みつきになるということはあるだろう。病みつきになれば捨てられん。それで
     も自力の信ということはあるだろう。病みつきでなくても、計画的に称える人もいるだろ
     う。それでも、自力の信と、他力の信はあると思うぞ」。
258渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/06(木) 13:04:24 ID:5GmzbyHe
>渡海流の「座禅して念仏して脳を活性化する」という教義であれば、

1 渡海流の教義があると、yPkpUtnHは思っている。
2 渡海流の教義であると、yPkpUtnHは思っている。
3 渡海流の教義があると、渡海難が主張している。
4 渡海流の教義であると、渡海難が主張している。
5 渡海流の教義があるという噂があるとyPkpUtnHが思っている。
6 渡海流の教義であるという噂があるとyPkpUtnHが思っている。

 どういう意味なのか、はっきりしてほしいものだ。
259神も仏も名無しさん:2009/08/07(金) 03:00:33 ID:74JviFIX
霊波之光は信者に向かって『人類救済』に向かって前進しよう、と教えていますが、
教会のいう『人類救済』の意味するところはなんでしょうか?
普通に考えると、廻りの人を霊波之光に入信させて、霊波之光の奇跡で「病気」や
「経済苦」に苦しんでいる人を救ってあげる、ということになるのでしょう。
ところが、霊波の信者になって本当に救われるのでしょうか? 教会に言われる
ままに、もう何年も賛助会費や感謝献金を払っても、一向に病気がよくならない人
や、相変わらず生活面で経済的に苦しんでいる人がほとんどではないでしょうか?
自分の知人もそうです。いつかは救われると信じて、ひたすら教会の言うとおりに
歩まされています。これも月間誌(RHK)に載せられている体験談を無条件に信じ
込んでいることが原因です。信者のお金は人類救済のためには使われていません。
元信者の方の投稿等を読むと、これらの体験談は霊波之光教会によって捏造・誇張
されていることがよく分かります。このような体験談の捏造・誇張は、新興宗教と
よばれる宗教団体の常套手段です。うそだと思うなら、他の新興宗教のホームページを読んでみて下さい。
同じような体験談が山ほど載せられていることに信者の方もがく然とするはずです。
日本は教育レベルの高い民族だといわれています。安易に教会の発表する体験談を
盲信するのはやめましょう。あまりにも悲しいことです。
このスレもそろそろ終わりですね。信者の方の幸せを祈っています。

260渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/07(金) 09:39:12 ID:VqWxDihj
>>243
>で親鸞さんは三心を具したのか、具さなかったのか。この辺はどうでしょうか。この辺が一番あや
ふやなところで、私などの手に余るテーマなんですが、自力の信心、他力の信心という観点から能
書きを垂れてみようと思います。

 先ずは、『道を歩けるようにしてくれてありがとう。感謝です』という真実の信心は、めがねをかける
という行為を具す。めがねをかけるという行為があるからといって、『道を歩けるようになって嬉しいと
喜んでもらおう』という眼鏡屋さんの願力に基づいて『感謝です。ありがとう』という信心を、かならず
しも具せざるなり。という問題から説明します。

 たとえば、ニュースキャスターが原稿にあるめがねを眺めたとします。そこには当然『道を歩けるようにし
てくれてありがとう。感謝です』と、道具を大事にする信心など無いわけで、親鸞さんの主張は正しい
ということになります。

 一方で、『めがねには人を喜ばせる力があるんだ』という名号不思議を信じるか、『道を歩けるよう
になって嬉しいと喜んでもらおうという眼鏡屋さんの思いがあるんだ』という誓願不思議を信じるかと、
人々を言い驚かせる輩が現れて、歎異抄の作者を嘆かせる事態も発生します。

 これは、親鸞さんが、『道を歩けるようになって喜んで貰おう』と、近眼者のことを心配する眼鏡屋
さんのプロとしての職業魂の信心と、『眼鏡をくれてありがとう。感謝です』という近眼者の、使用者
としての喜びの信心との違いを、明確に区別しなかったのが原因です。

 そこで、もう一度ニュースキャスターに登場してもらって、原稿にある眼鏡は、『道を歩けるようになって喜
んで貰おう』と近眼者のことを心配する眼鏡屋さんのプロ意識としての願力の信心をホントに備えてい
ないのかどうか考えてみたいと思います。

 近眼者のことを真剣に心配する眼鏡屋さんの願力の信心が原稿の眼鏡にもしもあると仮定するな
ら、第一に眺めるだけのキャスターとめがねとの出会いがあります。
 ついで、TVを観ている視聴者とめがねとの出会いがあります。
261渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/07(金) 09:41:38 ID:VqWxDihj
 それは何物も生まないかもしれないが、もしかしたらそれを契機として、TVを観ている視聴者が、
『眼鏡をくれてありがとう。感謝です』と思う近眼者が生まれるのかもしれない。

 そこには『道を歩けるようになって喜んで貰おう』という眼鏡屋さんのプロ意識が作用している可能
性があるのではないか、ということです。

 さて、『眼鏡があって当たり前、なんとも思わない』と、場合によれば道具を粗末に思う自力の眼
鏡と『眼鏡をくれてありがとう。道が歩けます。感謝です』と、道具を大事に扱う他力の眼鏡と、を区別
するものは、道具と作成者とに対する感謝であると親鸞さんは説きます。

 たとえば、渡海流の『眼鏡をかけて眼の認識力を活性化する』という教義であれば、 眼鏡をかけな
ければ眼は活性化しないわけで、眼など活性化したくないよという人は、自分が近眼でも眼鏡を使わ
なければいい。

 つまり、自分の眼だけで十分だという自力作善の信心は、近眼者の側にも眼鏡を拒否する権利があ
るわけです。

 ところが、魔法使いハリーポッターの他力の信心は魔法使いの命令であって凡夫には拒むことができ
ない。これを、親鸞さんは不退転と呼んでいます。

 不退転とは、凡夫が強い意志の力で眼鏡屋さんの真剣な優しい心を信じ抜くという意味ではなく、
 魔法使いハリーポッターを信じるのを止めて退転しようとしてもできなくなった金縛り境地のことです。
 ちょうど、どんなに飛び回っても、どれほど逃げ回っても、遂に魔法使いの掌から抜け出せなかった孫
悟空に似ています。

 結局のところ、自身に問うてみて、眼鏡を捨てることができるのであれば、それは良くも悪くも自力の信
心ということになるでしょうね。
262神も仏も名無しさん:2009/08/07(金) 11:19:01 ID:WQumI3rf
>>251 親鸞さんだけで十分。

でも親鸞自身は原始仏教を知っていたんですか?
263渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/07(金) 13:37:48 ID:VqWxDihj
>>262
> でも親鸞自身は原始仏教を知っていたんですか?

A 1190年代、京都北嶺での学問水準で認識されていた原始仏教に関する知識を
 もっていたか。

B 2000年代、東京大学、京都大学などでの仏教哲学の学問水準で認識されてい
 る原始仏教に関する知識をもっていたか。

 どちらのことを質問しているのですか?。Bであれば、その可能性はゼロだと思います。
Aについては外の方に伺ってください。
 1190年代、京都北嶺での学問水準で認識されていた原始仏教に関する認識は、どの
程度か、僕には分かりません。

 貴方とは、仏教に向かう目的が違うようです。
 眼鏡は、遅くとも13世紀末のイタリアでは製作されていたようですね。1306年のイタリアの
教会でされた説教記録の中に出てくるそうです。

 13世紀末のイタリアで製作された原始眼鏡について何か知っていても、近眼の人には関係
ありません。仏教マニヤの道楽とつきあうつもりはありません。

 先人の親切に感謝しつつ、現代の眼鏡屋で売っている眼鏡をカタログで研究することの方
が、現代人には重要です。
264神も仏も名無しさん:2009/08/07(金) 22:30:23 ID:VNRuTYGN
× 眼鏡屋
○ 骨董屋
265神も仏も名無しさん:2009/08/08(土) 03:30:46 ID:kEhGWcBj
>>254ばんさんへ−−−−返答がおそくなりました。
−−つまり、自力作善の信心は、凡夫の側にも拒否権があるわけです。
ところが、他力の信心は仏の命令であって凡夫には拒むことができない−−
問題はここなんです。本典信巻の三一問答で大経には至心信楽欲生の3つの心を起こして十念せん
とあるのに天親菩薩は一心と言ったのはなぜかを親鸞さんは考えますよね。
で答えはどれも真実の心と言う一点で一心で開けば三心だというわけです。じゃ18願文に初めから
一心と弥陀は誓えばいいのにどうしてわざわざ三心といったのか。
266神も仏も名無しさん:2009/08/08(土) 03:41:53 ID:kEhGWcBj
>>254ばんさんへ−−
3心といったのは仏になるためにこの三つの心が必要なんだと言うわけです。
ところがこの3つの心は凡夫にはないから弥陀が回向するというわけです。
ここからが問題なんですが、この回向される3心は他力の信心で仏の命令であって
凡夫には拒むことができない−−−となるわけでしょ。となると
結局真宗は絶対者なる弥陀がいてその働きを拒否できないというのですから
これは運命論とどうちがうのかということなんです。
一切すべては弥陀の真実なる働きの回向であると、要するに他力であるとなると
宿命論や運命論、あるいは西洋の神の概念とどうちがうのか。
この辺はどうでしょうか
267神も仏も名無しさん:2009/08/08(土) 04:28:35 ID:Yo2koA2L
>>266
「拒むことができない」のは、仏の本願の結果です。

凡夫はその回向を拒否していることによって、輪廻を横出できない。

凡夫にとっては、弥陀の本願との出会いは「運命」「宿命」であるしかないかな。

西洋の神は自由意志としての自力なくしては救済なしでしょう。
268渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 10:37:31 ID:UZZCcZoZ
>>265
 眼鏡はすばらしい道具なのに、物を粗末にする心の人は眼鏡を粗末に扱う。平気で置
き忘れたり、乱暴に扱ったりする。壊したり無くしたりする。つまり眼鏡なんか半分どうで
もいいと思っている。物を粗末にする心の人は凡夫の側に拒否権があるわけです。
 ところが、眼鏡に感謝しながら眼鏡を大事に使わせてもらおうと、眼鏡屋さんのプロ意
識にひたすら感謝していく他力の信心の人は、めがねを肌身離さず大事に扱う。大事に
扱ってくださいという強いメッセージが眼鏡屋さんからあるんだと思い、眼鏡屋さんの心を
決して無駄にしてはいけないんだと思う。凡夫はそのメッセージを拒むことができないと
思っている。だから感謝しながら、肌身離さず大事に扱う。
 問題はここなんです。本典信巻の三一問答で大経には、<真剣な心の至心>と、<喜
びに満ちた信楽>と、<生き生きとした生活をしたいと思う欲生>の3つの心を起こし、眼
鏡は十回以上大事に使ってもらいたいとあるのに天親菩薩は、<ありがたい、ありがた
い、ありがたい>の一心ですと言ったのはなぜかを親鸞さんは考えますよね。
 答えはどれも真実の心と言う一点であり、ありがたいありがたいという一心を開けば、真
剣な心で、喜びに満ち、生き生きと生きていけるという人生に自信に満ちた三心だというわ
けです。じゃ18願文に初めからありがたいありがたいの一心と眼鏡屋さんは誓えばいい
のにどうしてわざわざ三心といったのか。

 天親菩薩が3心といったのはなぜか。近眼でもしっかりと無明の道を、自信を持って歩け
るようにしてあげたいという眼鏡屋さんの世界観、社会観と共通の認識界に、近眼の人が
立てるようになるにはどうすればいいか。近眼の人が、自分でそのような自信がもてるよう
になることが必要なんだと言うわけです。
 ところが、目が悪くて道を歩けないで困っている近眼者は、そんな自信が出ない。そこで、
眼鏡屋さんが眼鏡を渡す。眼鏡には「真剣な心で、喜びに満ち、生き生きと生きていけるん
だという自信を持ってください」という祈りが込められてある。つまり、眼鏡屋さんが近眼の
人に自信をくれるわけですよね。
269渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 10:39:14 ID:UZZCcZoZ
 ここからが問題なんですが、眼鏡屋さんが近眼の人に渡す三心は、眼鏡屋さんから近
眼の人に渡す自信つまり他力の信心で、眼鏡は大事に肌身離さず使ってくださいという、
眼鏡屋さんからの強いメッセージが込めてある。眼鏡を使い出すと、眼鏡が非常に便利だ
から近眼の人は眼鏡を手放せなくなる。つまり、眼鏡などいらないと、そんな風には近眼の
人は拒むことができない−−−となるわけでしょ。となると結局真宗は、絶対者なる眼鏡屋
さんがいて、その働きを拒否できないというのですから、これは運命論とどうちがうのかとい
うことなんです。

 一切すべては眼鏡屋さんのプロとしての職業意識に基づく真実なる働きの回向であると、
要するに他力であるとなると、因果の理法を越えた宿命論や運命論、あるいは西洋の魔法
使いの神の概念とどうちがうのか。この辺はどうでしょうか

>>267
>拒むことができない」のは、近眼の人でも、道を危険無く歩けるようになって貰おう、真剣な
心で、喜びに満ち、生き生きと生きていけるようになって欲しい、自信を持って欲しいと思う眼
鏡屋さんの祈りの願いの結果です。
 凡夫は眼鏡屋さんからのそのメッセージを拒否していることによって、眼鏡を粗末にする。
眼鏡を使わない。だから相変わらず道を満足に歩けない。電柱にぶつかったり、マンホール
に落ちたりする。
 凡夫にとっては、眼鏡屋さんの真剣な心との出会いは「運命」「宿命」であるしかないかな。
 西洋の神は、「眼鏡なんかいらんよ。おれはおれの眼で十分なんだ」という、自由意志とし
て眼鏡を粗末にする思いがなくしては救済なしでしょう。
270神も仏も名無しさん:2009/08/08(土) 16:39:43 ID:kEhGWcBj
親鸞さんの思想は結局全分他力を強調したために仏教の基本中の基本、縁起からずれてしまい
絶対神、アラ−やキリストのようになってしまったのか。すべてのものはすでに決まっている。
凡夫が拒否しても関係ない。その働きによって動くだけだ。となる。善悪も関係ない。
要は凡夫に可能性がない、0だから弥陀が回向する。回向されたものは凡夫の気持ちにかかわりなく届く。
一切を無条件で救うわけだ。ところが唯除というのがあったんだよ。すべてじゃなく省かれる者があった。
ここまでだと因果の道理に縁起にもあう。ところが親鸞さんはこの5逆とホウボウ罪のものも
結局は救われるとなった。これだと結局すべてが救われる。全知全能の神と同じ。
ちがいは西洋の神は天国と地獄にわける。弥陀はみんな天国、浄土だけ。この違いしかない。
この辺はどうでしょうか
271神も仏も名無しさん:2009/08/08(土) 18:45:15 ID:BtZ8J9Mn
>> 眼鏡はすばらしい道具なのに、物を粗末にする心の人は眼鏡を粗末に扱う

度が合わなくなれば捨てられます。親鸞教義は
現代人の度数に合ってますか?
272渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 19:05:21 ID:UZZCcZoZ
>>270
 歎異抄は、「この名字を称えん者を、迎えとらんと、御約束あることなれば、まず
弥陀の大悲大願の不思議に助けられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏
のもうさるる」と言うんだけど、親鸞さんの思想は「名字を称えん者」と、「念仏のも
うさる」を断章取義で省略し、結局全分他力を強調したために仏教の基本中の基
本、縁起からずれてしまった。

 誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、
むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけ
られまいらせて、生死をいずべしと信じて、如来の御はからいなりとおもえば、すこ
しもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生
するなり。

 こう読んだわけだ。一部落ちているでしょ。

 無明の道を歩けないで困っている人がいる。それで昔の人は一生懸命眼を訓練
した。ところが眼鏡屋さんが現れ、眼鏡を作ってくれた。近眼で困っている人は全
て助けてあげよう。みんなに喜んで貰おう。みんなが喜んでくれることが自分の最
大の幸せだ。これを使えば誰でも道が歩ける。一人で歩ける。きっと喜んでくれる
だろう。喜んで貰うこと、それだけが自分の喜びだ。眼鏡屋さんはそう思った。
 「喜んでくれること、それだけが自分の喜びだ」と言ってます。喜べばいいんだ。
眼鏡をかけなくていいんだ。眼鏡をかけない人も救ってくれる。「ありがたい。あり
がたい」と親鸞さんはそう言い出したわけね。

 眼鏡を使って貰おうと思っていた眼鏡屋さんが、絶対神、アラ−やキリストのよう
になってしまった。眼鏡屋さんが救ってくれるということにすべてのものはすでに決
まっている。凡夫が眼鏡を拒否しても関係ない。全ての者を救うという眼鏡屋さん
のその働きによって動くだけだ。となる。
273渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 19:06:05 ID:UZZCcZoZ
 眼鏡屋さんは、善人も悪人も、近視で困っている人はすべて救おうと思った。そ
うしたら、善悪も関係ないと言い出した。要は近視なんだから道をうまく歩けない。
近視には可能性がない、0だから眼鏡屋さんが救いをくださる。眼鏡屋さんの救い
は凡夫の気持ちにかかわりなく届く。

 眼鏡屋さんは一切を無条件で救うわけだ。ところが唯除というのがあったんだよ。
すべてじゃなく省かれる者があった。
 ここまでだと因果の道理に縁起にもあう。ところが親鸞さんはこの5逆とホウボウ
罪のものも結局は眼鏡屋さんで救われるとなった。これだと結局すべてが救われ
る。全知全能の神と同じ。
 ちがいは西洋の神は天国と地獄にわける。弥陀はみんな天国、浄土だけ。この
違いしかない。この辺はどうでしょうか
274渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 19:23:24 ID:UZZCcZoZ
>>271
> 現代人の度数に合ってますか?

 度数が合っている人もいる。合ってない人もいるかも知れませんね。
 度数とは、自分で試してみないと分からないんですよ。他人には分からない。
 自分に合わなくても、他人に合うこともある。他人に合わなくても、自分に合うこ
ともある。

 ものは試しという外はない。

 最近、あるひとから報告を貰いました。登校拒否している子がお寺で修行したいと
自分から言い出してきたそうです。真宗のお寺には修行が無い。試しに五会念仏を教えたそう
です。すると、気持ちがいい。面白いと言い出し、もっと続けると言っているそうです。

 夏休み、どのくらい続くか分かりません。一回では、まあ五分、十分程度なんでしょう。しかし、
体験するというのは貴重なことだ。

 今は気持ちがいい、面白いと言う段階なんでしょう。それでいい。それでいい。それがいい
それがいい。面白いと思って体験してくれると非常に心強い。

 将来、本当に人生で動きがとれなくなるような境遇に、その子がもし陥ったなら、子供の頃
に面白いと思った五会念仏をもう一度思い出してくれるだろう。そのとき、五会念仏はきっと大
きな力になるだろう。そのとき、こんどはもう一度、心底、本当に喜んでくれるときがくるだろう。
かつて、遣唐使達が国家事業として決死の覚悟で先進中国に求めていったものがこれだった
のだと、分かってくれるかもしれない。そんな風に思います

 
275渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/08(土) 19:28:49 ID:UZZCcZoZ
>>271
> 現代人の度数に合ってますか?

 登校拒否の子は未来の大人。未来を背負う人。
 五会念仏は、貴方のような現代人の度数に合わなくても、未来の人には
合っているのかも知れませんね。
276神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 02:55:57 ID:GNHAwgQB
        「神ってやつの存在意義はなんだと思う?」


   「人間に出来ない事を出来てこそ、「神」の存在意義があるのさ」

例えば、第二次世界大戦時の日本にとっては、

「実際に神風を吹かせて、連合艦隊を壊滅させてこそ、「神」の存在意義があった」

       「出来なきゃ、カスほどの値打ちもねーよ」

  「で、俺は「神」だ。「人には出来ない事も「神」には出来る!」」

    「その期待に答えられないような「神様」なんていらないさ」

          「少なくても、俺はそう思っているよ」

277神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 09:57:21 ID:K30rHl/M
>>265
遅くなってすみません。花火などに現を抜かしていたもので、といっても、
ほとんどは浴衣の女の子たちの襟足などに見とれておったわけで、
この助平心だけは我が事ながらどうしようもないですね。

さてと、>一心と弥陀は誓えばいいのにどうしてわざわざ三心といったのか。
理由については、わかりません。
まあ、仏の心が理解できないのは私の愚かさということで。

>>266
>宿命論や運命論、あるいは西洋の神の概念とどうちがうのか。
ほぼ同じだと言ってよいと思います。
親鸞にも、後の妙好人にも、宿命観は色濃く反映しています。
神との違いは、仏も元は人であったということ、
そして救済は契約ではなく大慈悲心によるということくらいです。

>>270
仏教というのは、人間生が苦であると認識し、苦の源である無智を智に変えることによって苦を滅するという教えです。
そのためには出家して八正道を修することが必須条件であったわけです。
(末法思想は、こうした出家主義や自力作善の修行を打ち砕いたんですが)
釈尊は出家には縁起を、在家には輪廻を説かれた。
両者まあ同じことなんですが、大乗仏教は在家を主体とした運動なので、
輪廻からの解脱というテーマが中心となって発展してきたわけです。
そこで親鸞仏教の本質は何かといえば、この輪廻からの解脱を、他力という絶対存在を置くことで解決したということができます。
つまり、死苦を滅するのではなく超克する仏教だと言えると思います。
親鸞は、これを横超と呼んでいますが、言いえて妙だと思います。
278神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 10:04:14 ID:o2cIzW9g
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279渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/09(日) 13:40:38 ID:oCtamWy/
>>277
 宿命論や運命論、あるいは西洋の神の概念とどうちがうのか、同じだと言って
よいと思います。味噌と糞の違いを聞かれても、私らは同じと言う外はありませ
ん。当たり前でしょ。

 親鸞にも、後の妙好人にも、宿命観は色濃く反映しています。宿命観とは何か
と聞かれても、まともに答えることはできませんので、野暮は聞かないでください。
 神との違いは、仏も元は人であったということ、そして救済は契約ではなく大慈
悲心によるということくらいです。神も仏も、寓話と実話と神話の区別も分からん
で言っていることくらいは理解しておいてください。
 契約と言いましたが、「この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束ある
ことなれば」と歎異抄では言っています。契約とは何か、慈悲とは何か、約束とは
何か、上っ面の単語ではなく、背後の本質的概念が重要なんでしょうが、口先だ
けで回答していますので、了承しておいてくださいな。

>>270
 仏教というのは、人間生が苦であると認識し、苦の源である無智を智に変えるこ
とによって苦を滅するという教えです。親鸞の和讃では無明の闇とか無明長夜と
か言っています。無明の闇を智慧で破ろうという教えです。そのためには出家し
て八正道を修することが必須条件であったわけです。末法思想は、こうした出家
主義や自力作善の修行を打ち砕いたんです。眼鏡屋さんは周囲がクリヤに見え
る眼鏡をくれた。阿弥陀さんは、長夜を照らす燈炬つまりたいまつをくれました。

 釈尊は出家には縁起を、在家には輪廻を説かれた。ところが、縁起とは何か、
輪廻とは何かという難しい話ではなく、これを使いなさいよと、いわば懐中電灯を
直接渡してくれたわけです。難しい構造論は知らなくても、使用法さえ分かれば
使えますからね。

 縁起と輪廻とはまあ同じことなんですが、大乗仏教は在家を主体とした運動な
ので、輪廻からの解脱というテーマが中心となって発展してきたわけです。ところ
が、親鸞さんは、そんなおしゃべりじゃなく、道具を渡してくれた。これを使いなさ
いなと本当はそれで全部解決するはずだった。
280渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/09(日) 13:42:29 ID:oCtamWy/
 親鸞仏教の本質は何かといえば、この輪廻からの解脱を、他力という絶対存在
を置くことで解決したということができます。つまり、近眼で道が歩けないと泣いて
いる人に、輪廻とは何か、解脱とは何かとお説教することでなく、眼鏡を使うこと
で、危険無く道を歩けるようにしてくれた。不安・危険という輪廻からの解脱を、「眼
鏡を渡すという他からの働き、つまり他力」という絶対存在を置くことで解決したと
いうことができます。

 道路には依然として電柱も立っています、マンホールもあるでしょう。そうした危険
物を除去するという形で危険をなくすつまり死苦を滅するのではなく、歩く人が危険
を察知して克服するつまり超克する仏教だと言えると思います。親鸞は、これを横超
と呼んでいますが、言いえて妙だと思います。
 ところが眼鏡は嫌だ。たいまつはいやだという人が登場してきたわけです。お坊さ
んです。眼鏡は嫌だ、たいまつは嫌だが、俺たちを救えという。子供みたいなことを
言う人が集団を作り、聞法だ、聞法だと言います。俺たちの話を聞け、といって騒ぎ
ます。大谷光淳などは、聞法道場としての寺院機能の発揮を訴えると、トンチンカン
なことを言います。

 こうした連中が、自分達こそ真の仏教だと言い出したので、親鸞聖人以来の仏教
はほとんど壊滅状態になっています。
281神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 16:47:44 ID:2hY1hfNX
>>280
浄土真宗は輪廻を否定しているはずですが。
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar2.pdf
282渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/09(日) 17:55:19 ID:oCtamWy/
>>281
> 浄土真宗は輪廻を否定しているはずですが。

そんなはずはない。輪廻を否定したら浄土教ではない。輪廻思想は
浄土教の重要な柱です。

 俗論としての貴方の輪廻観が間違っているんでしょう。
283神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 18:25:12 ID:ee7CCH1E
>>282
現に輪廻を否定する教団があるのに、間違っていると言っても始まらないです。
根拠があっての輪廻否定でしょう。
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar2.pdf

上記サイトのどこが間違っていますか?
284283:2009/08/09(日) 18:34:07 ID:ee7CCH1E
間違っている点を具体的に指摘してみて下さい。
285神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 20:35:22 ID:K30rHl/M
>>281
>「この世からあの世へと繰り返し繰り返し、生まれ死ぬ輪廻を受ける人々は、無
>明こそによって行くのである。この無明とは大いなる愚痴であり、それによってこ
>そ長い輪廻があるのである。しかし明知に達した生けるものたちは、再び迷いの生
>存に赴かない。」(スッタ・ニパータ729,730)

その論文からの引用です。
輪廻を否定しているどころか、無明の凡夫には輪廻があると明言しています。
親鸞さんも私も、明智に達してはいないので、当然輪廻が存在するのです。
286神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 20:52:58 ID:EHM22tML
>>285
親鸞も輪廻中ですな。念仏しても輪廻は止まらないんだ。渡海難さんの場合も
輪廻が続く。
287神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 21:17:50 ID:K30rHl/M
>>286
親鸞さんが現在輪廻中かどうかを、私は知りません。
ただ、親鸞さんの説が正しいのであれば、
往相回向を終えられて、現在修行中か環相回向の最中だろうと想像するばかりです。
往相回向・環相回向というのは最後の輪廻です。
あなたが今念仏して輪廻を止められるというのなら止めてみればいいですよ。
明智に達して、仏の三十二相があなたに具現するかもしれません。
もしもしたなら、画像をupしてくださいね、おねがいします。
288神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 21:21:13 ID:EHM22tML
>>287
親鸞説が正しい可能性は皆無です。阿弥陀経も無量寿経も仏陀の
金口の説法ではありません。親鸞はすべての仏典を釈尊直説と誤解して
浄土真宗を創業したわけですからね。w
289神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 21:43:10 ID:K30rHl/M
>>288
釈尊直説の仏典など何処にも存在しないでしょう。
ただ、釈尊の心を伝承した仏典ならいくらでもある。
三部経も教行信証も歎異抄も、釈尊の心を宿している。
それが観える人もいれば観えない人もいる。
観えない人は、逆に幸福な人だとは思いますけどね。
290神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 22:11:54 ID:EHM22tML
>>289
親鸞が悟れていない、という話題です。w

なにしろナンマイダは800年も昔の仏教です。今どき真顔で信じている
渡海難とかいうスレ主は脳を患ってるんじゃないですかねえ。
291神も仏も名無しさん:2009/08/09(日) 22:37:36 ID:K30rHl/M
>>290
悟れていない親鸞だから信じられるんですよ。
悟ったあなたなら私は信じないw

スレ主が脳を患ってる可能性については、まあ、言わぬが花ということにしておきます。
それと、仏教を真顔で信じている人は少なくないですよ。
釈尊は親鸞より古くて2500年も前の人です。
キリスト教なら2000年前の教説です。
ましてユダヤ教ならもっと古いw
信じるということについては、以前触れたのでこれ以上書きません。
ただ、私が脳を患っているから信じているというのなら、
それは、あると思います。
292神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 00:35:37 ID:5czCtqf/
>>283
>上記サイトのどこが間違っていますか?

こんないい加減な文章を持ち出すのは止めにしましょうね。

>死後の世界は執着の産物
>インドでは輪廻転生が常識だから、「あの世」を語らないし、墓も造らない。
>日本では事情が違い、霊魂の行き先を想定することが常識だった。
>これは仏教的見地から言えば、死んでもなお自我にしがみつきたい執着の産物といえる。
>「あの世」が存在するかどうかはだれにも証明することはできず、仏教徒にとってはあってもなくてもどうでもよい。

輪廻転生が常識なら、「あの世」を語るのが常識だと普通の人は考えます。
釈尊にも、「あの世」を語った言葉が当たり前に出てきます。(>>285参照)
また、墓が造られたかどうかも、文献にあたればすぐに出てきます。
葬送の仕方は色々ですが、古代インドのカーストに応じたお墓も作られていたそうです。

特に最後の一行がひどいですね。
親鸞は、この世を穢土、あの世を浄土と呼んだので、最後の文章を読み変えてみましょう。
「浄土が存在するかどうかはだれにも証明することはできず、真宗にとってはあってもなくてもどうでもよい。」
これはそのまま、真宗を誹謗中傷する人が書いた文章だといっていい。

>上記サイトのどこが間違っていますか?
上記サイトのどこが正しいと判断されましたか?
293神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 00:39:12 ID:NN9IZmf4
--釈迦当時のインド社会では業報輪廻の考えで善因楽果、悪因苦果。ところが釈迦はこの因から果はなんら必然性を持たない
と説くわけですね。要するに今の行為が未来に本当に苦になるのか楽になるのか分からないというわけです。そこで釈迦は自業自得を
説いて果から因という方向で今の状態は過去にあった因によってあるんだから受け止めていけというわけです。
輪廻に関しては実態としてはそんなものは無い。無明によって作り出された世界であるだけで明智によって輪廻の考えは無くなる訳です。
これは無我をとく仏教だからわかるけど、問題はどうして輪廻ゃさらに三世輪廻が復活したかというところなんです。
この辺はどうでしょうか
294神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 01:01:42 ID:0UmgygWw
>>283は釣り。本気で食いつかないように。もっともそのホームページは
本物のお寺さんの作品ですけど。
295渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 01:47:26 ID:isilLjMa
>>283
>上記サイトのどこが間違っていますか?

 この掲示板で事実上の公人、あるいは準公人ではない方の論文を、突然論評しなさいという
ことですか?。失敬な方ですね。僕はそんな行儀の悪いことをしませんよ。

 僕は、2ちゃんねるに書き込まれた記事にはレスを付けます。お互いにレスを交換し合うという
のが、掲示板の暗黙の了解事項ですからね。しかし、それ以外の見ず知らずの人の論文を、便
所の落書きとも悪評を受けている2ちゃんねるで評論するなどと言うことは、原則としてできませ
ん。当たり前でしょう。
 そういうことを専門にやっている不良暴力団グループが2ちゃんねるにいることは承知していま
す。競争相手を心理的に追い詰めて社会的に葬るいわゆるゴロツキの煽り屋という連中です。
激しいところでは自殺者も出しているそうです。幸いにも、真宗系のスレにはいないようです。

 2ちゃんねる以外で、気になるような記事であって、その方の記事中に記事主宛に投稿可能な
コメント欄あるいはメールアドレスが書いてあれば、その方のホームページ又はブログの中で投
稿することはあります。第三者からの投稿を希望していると判断できますからね。
 それ以外の場合、一切論評しません。当たり前でしょう。僕は押しかけ家庭教師を買いかぶる
つもりはありません。

 貴方はいったいどこの誰ですか。上記サイトとどういう御関係ですか?もっとも、2ちゃんねる
で名無しに名を名乗って貰っても、それをそのまま鵜呑みで信じるようなことはしませんよ。

 記事主が著名な方である場合、あるいはその内容が学術的に特に意味があると判断した場合、
公人、あるいは準公人でなくても、社会的影響を考えて例外的に論評させて貰うことはあります。
その場合には、2ちゃんねるではなく、自分のブログに書きます。記事主には、このような記事を
書かせて貰いましたと通知します。相手から反論を受ける場合には、便所の落書きとも悪評を受
けている2ちゃんねるに書けというのは非常識でしょう。僕は自分のブログに投稿欄を持っています。

 それ以外は論評しません。
296神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 01:55:02 ID:5czCtqf/
>>293
>ところが釈迦はこの因から果はなんら必然性を持たないと説くわけですね。
そんな説もあるんですね。
私などは頭が単純なので、苦という結果の因をたどっていくと、最終的には無明という原因に行きつく。
したがって、無明を智慧に置き換えれば、必然的に結果としての苦を滅することができる、と説いたのだと理解しています。
空論の中には、縁起を、因果ではなく同時性に見出そうという主張もありますが、私的には同意できません。

輪廻についても同じです。>>285の引用文をよく読んでみてください。
どこにも輪廻など無いとは書かれていないでしょ。
無明を明智に置き換えたなら、輪廻からの解脱が可能になるよと説かれている。
つまり、解脱ができたときに、初めて輪廻に影響されないということです。
禅家でいえば、輪廻に落ちずではなく輪廻に眩まずというところでしょう。
しかし、それはあくまで仏の特権であって、無明そのものとしての存在である凡夫の話ではありません。

教行信証を読むと、煩悩にさいなまれる親鸞自身の愚痴が散在していることに驚かされます。
仏教の論釈としては異常といってもいいくらいの自己表明です。
それは勿論、親鸞が意図的に挿入したわけで、その意図が理解できれば、親鸞仏教が理解できます。
297神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 03:16:12 ID:TdHbyOlZ
・ おとぎの国の王様あらわる
・ おとぎの国は三角ピラミッドの身分社会。
・ おとぎの国の身分は 魂の波動の高さ
・ 魂の波動は 善悪できまる。善悪の基準になるのは王様の考えと言葉(書籍etc.)
・ どの身分になるかは、この世に生きてるときの行いと心の中の善悪できまる。
・ 総合点数50点以下は おとぎの国の拷問部屋行き。
・ 日本人は 6割の人がおとぎの国の拷問部屋行き
・ 偏差値あげなさい。教えて上げるから。人の偏差値も上げてあげなさい。
拷問部屋に行かないように・・との指令。
・ おとぎの国の王様には 今回しか会えません。おとぎの国へ帰ったら王様とは
身分が違うので 会えませんよ。さぁ、今偏差値上げとかないと。・

このようなしくみです。このような見方を霊的視点でものを見る、
と教えられます。で、このおとぎの国が真実で本当で実在です と、
繰り返し 聞かされます。仏陀の霊、イエスキリストの霊、孔子の、
坂本竜馬の、日蓮の、空海の、世界中の救世主の霊がさまざまな方法
で あなたたちを救うために 降りてきていて今 救世の時代が始まっ
ているのですよ。信じないと 拷問部屋〜〜。。。で、信者は 怖い
から 魂の偏差値を上げる。また、恐怖心を植え付けるため、
拷問部屋は たいへん酷い世界だと教えられています。誰でも一生懸命
になるよう、常に時間が無いと追い立てられています。世紀末で
破局が来る、とか。彼らが焦るのは、救うという使命を果たしたいが
ためです。脱操作を施す人は、このような世界観、宇宙観で考えてい
たとあらかじめ 理解しておく方がよりスムーズに行くと思います。
298神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 04:00:41 ID:pslefFIo
もし、親鸞が生きていたら、酒井法子になんと言っただろうか。

念仏しなさいとただそれだけだろうか。
299渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 11:04:29 ID:isilLjMa
>>283
> 現に輪廻を否定する教団があるのに、間違っていると言っても始まらないです。
> 根拠があっての輪廻否定でしょう。

 教団がどうだこうだという議論には僕は参加しません。輪廻を否定する教団があるかな
いかということは、何の証拠にもならないと考えます。

 輪廻は、あると言ってもいい。ないと言ってもいい。あるというのも、ないというのも、いわ
ばものごとの説明手法の問題だ。浄土教は輪廻があるという論法方法を採用し、輪廻肯
定論の立場で様々な事象を説明する。
 同じことを、輪廻はないという説明手法をとって説明することも可能でしょう。ただ、浄土
教は伝統的に「輪廻はある」という説明手法を採用してきている関係から、先人の書き物も
輪廻肯定論で読むとわかりが早い。輪廻否定論の場合には、頭の体操として翻訳が必要
になる。煩わしい。

「ここをもって生死流転し、休止することあることなし」。(大経)
「その中に展転して世世累劫に出ずる期あることなし。解脱を得難し。痛み言うべからず。
これを二つの大悪、二つの痛、二つの焼とす」。(大経)
「死して後に神明更りて生ずと信ぜず。善を作りて善を得、悪を為りて悪を得と信ぜず。真
人を殺し衆僧を闘乱せんと欲い、父母・兄弟・眷属を害せんと欲う。六親憎み悪みて、それ
をして死せしめんと願う」。(大経)

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」。(教行信証)
「初めに等活地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。縦広一万由旬なり。 〜 昔、
放逸にして殺生せるもの、このなかに堕つ。以上、『正法念経』による。」 (往生要集)


 輪廻論は浄土教のスタートから先人が利用してきている。ここで言おうとしていることを、
輪廻否定論で説明しようとしたら、翻訳が煩わしい。だから僕らは輪廻はあると説く。
 ただ、輪廻否定論に翻訳できないというような輪廻肯定論だったら、それは何かが間
違っているのでしょう。輪廻肯定論に翻訳できない輪廻否定論も、何かがおかしいのでしょ
う。僕はそう思う。
300渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 11:17:21 ID:isilLjMa
>>286
>親鸞も輪廻中ですな。念仏しても輪廻は止まらないんだ。渡海難さんの場合も
> 輪廻が続く。

 親鸞は完全に輪廻は止まってますよ。 
 渡海難さん?。境界線かな? (アハハ)

>>288
 輪廻が解決できれば、それが仏陀の金口の説法 
 輪廻が解決できなければ、非仏陀の法

 要は、輪廻が解決できたか否かだけが問題になる。
 骨董品より、時代に合った真理を学ぼう。
301渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 11:30:35 ID:isilLjMa
>>298
> もし、親鸞が生きていたら、酒井法子になんと言っただろうか。
> 念仏しなさいとただそれだけだろうか。


 私の話を聞く耳がありますかと問うだろうね。
「是非教えて欲しい」といえば、座禅の組み方と呼吸法を教え、五会念仏をしてみなさい
というだろう。

「念仏は嫌です」と言えば、それで話は終わりだ。

 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり
 まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。(蓮如)

 大事な前提だ。
302渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 11:38:23 ID:isilLjMa
>>296
 いろんな人が見ている2ちゃんねるより、どこか大学の研究室で議論してくると
いいでしょう。宇宙人の寝言が大好きという人がたくさんいます。
303神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 11:52:50 ID:XBQ21+RC
これだけは言える

 親 鸞 会 は カ ル ト
304神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 12:02:18 ID:HD4oX2Bt
┌───────────────────────────────────┐
│2ch.net                                                  .|
├───────────────────────────────────┤
│ 問題が発生したため、>>1の人生を終了します。ご迷惑をおかけして申し訳あり   |
│ ません。                                               |
├───────────────────────────────────┤
│ 作業途中であった場合、その情報は失われた可能性があります。           .|
|                                                    |
| この問題を 2ch に報告してください。                            .|
| 弊社に送信するためのエラー報告が作成されました。 弊社では、この報告を匿名の |
| 機密情報として扱います。                                     |
│                                                         |
│ エラー報告に含まれるデータの参照:  ここをクリックしてください。             |
│                         __________  ______    |
|                         |エラー報告を送信する(S)| |送信しない(D)|   |
│                           ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    |
└───────────────────────────────────┘
305馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/08/10(月) 12:05:49 ID:IRsAvzs8
 高周波、高圧電圧をかけたテスラコイル回路によるハチソン効果(反重力)は
エーテル波の歪みを利用したものである。
 フィアデルフィアの実験では、駆逐艦をプラズマで幽閉すると瞬間移動し、甲
板と船員の体とが融合すると言う奇怪現象が起きた。駆逐艦が瞬間移動する事
が出来たのはエーテルの束縛を離れたからである。甲板の鉄と人間の体が融合
したのは、原子結合力もエーテル力に依存しており、エーテル力がかからない
場合は素粒子がばらばらとなっており、エーテル力がかかると霊体の型通りに
原子が再結合される。何らかの支障があって、鉄の原子と体の原子が混合して
しまったのである。
 この二つの事例から、重力はエーテル(神の気)によって生じ、原子内の素粒
子を結合させている力もエーテル力である事が証明された。
 本物の宗教は釈迦、キリスト等の教祖が開いたもので、今の宗教はどれも悪
魔が改悪したものである。
 今の科学は神の道から外れた魔道を行くもので滅びる運命である。
 学問、経済、政治、道徳も何もかもが魔道に落ちて、正しい物は一つもない。
経済は正業である昔ながらの米作り農業を食い物にしている弱肉強食経済であ
る。弱者が滅べば強者も滅びるのが理の当然である。
 まさしく、末法の世である。だから、正神が世を立て替えるのである。早く
改心して、鬼退治される鬼から神人とならねば日本人として生まれて来た甲斐
がない。畜生以下では人として恥かしいのである。
306馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/08/10(月) 12:09:07 ID:IRsAvzs8
 聖徳太子の未来記
 その時、魔王波旬は仏法によって釈迦の仏法を破り、日本を乗っ取って鬼の
国にしようと願う。故に3人の眷属を使う。邪法を授けて日本の衆生を惑わし、
三悪道に落さんと欲する。
 親鸞法師、阿弥陀仏の念仏を唱えさせ、戒律を守らず、女犯を許し、斎食を
行わずして肉味を喰らう。法を破って肉食する事が戦争が起きる因縁(怨霊が恨
みを晴らす)であり、亡国の基である。日本の末世には六天の魔王が猛威を振る
い。日本人の悲劇を見て外国人が喜ぶ。畜生顔の人が物を言う。夜半に太陽が
出る。地獄の苦しみに耐えて誠を尽さねば罪を償えない。早く改心する者程楽
になるぞよ。
 人の先祖は神であり、生物は神魂の宿った同類である。この様な教の神道が
あるのになぜ仏教が普及したのか。外国に侵略され、仏教の邪法と煩悩に迷わ
されのである。
 乙巳の変は三韓の献貢の日に、倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が
天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来
なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳
に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら
3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必
要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は
仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。
 年号は天皇名と一致する筈だが、変後に九州年号が使われたのは天皇暗殺の
証拠。
 2・26事件は百姓一揆である。景気悪化のしわ寄せを米価引き下げによる農民
苛めによって消費者を助けて凌ごうとしたのである。昭和天皇は弱者を見殺し
にする冷血漢である。
 天皇はアメリカとの密約で原爆投下まで降伏するなと命令されていた。朝鮮
人の天皇は日本人が幾ら死のうが平気なのである。本当なら自決する筈である。
307渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/10(月) 12:10:24 ID:isilLjMa
 親鸞聖人の輪廻観は、『業報差別経』言。<専修寺蔵 親鸞真筆>という
文書を読むと参考になるでしょう。味のある文書です。関東に残していく弟子
達への最後のメッセージだったんだろうと思います。 

 漢文ですが、宗祖が送り仮名を振ってくれています。短いです。

 真宗聖教全書 五 拾遺部 下 搭載

 輪廻論は味のある面白い思想です。輪廻否定論は、味も素っ気もない。
親鸞さんも輪廻論の愛好家、僕も輪廻論大好きです。肌が合うんですね。
輪廻否定論を主張するなら、どうぞ御勝手にと言いたくなる。

 輪廻否定論なら、親鸞さんとは手を切ったらどうですか。参考アドバイスです。
308神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 16:36:51 ID:xiu+HY0x
浄土教は誰の説ですか?まさか、『ダンマパダ』の釈迦説ではないでしょうね。
309神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 18:29:38 ID:NN9IZmf4
---結論は仏教は輪廻は実態としてあるのではなく無明によって起こる。証文はスッタニパ−タ729−この世からあの世へと繰り返し繰り返し
生まれ死ぬ輪廻を受ける人々は無明によってこそ行くのである。
−−730この無明は大いなる愚痴でありそれによって長い流転があるのである。しかし明智に達した行ける者たちは再び迷いの生存につかない。
龍樹も根本中論ゲ26章に無明に覆われた者は再生輪廻に導く三種の行をおこないそれらの業により五趣におもむく−−−
ここも無明によって輪廻がある、起こるといっている。確かに考えてみれば悟ってこの世で仏になっている釈尊は無我に住しているわけだから輪廻の主体は
どこにもない。ところが問題は弟子の方で弟子の中にはこの世で悟れない仏になれないものが居るわけですよ。つづく

310神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 18:39:51 ID:NN9IZmf4
この世で仏になれない者にとっては死がきたら今までの行が無駄になる。それでは困るわけです。
そこで次の生、その次の生でなおかつ修行して仏になろうと考えるわけです。釈迦が迷いの生存はこの世限り。もはや生まれ変わることはない−−と
いえたのは仏になることが出来たから。ところが仏になれない者は輪廻転生を認めないと自らが仏に成ることが出来なくなるのが問題なのです。
また悟っていませんから無我になりきれない。有我なのですから輪廻転生は認めやすい。さらにどうして自分は悟れないで釈迦は悟れたのかが問題となり
きっと釈迦は前世に生まれ死に変わりしながら修行をしてきたからこの世で悟れ仏に成ることが出来たと考えたわけです。
だから自分もこの世で悟れなくても次の生で悟れるようにと考えるのですよ。
この瞬間に仏教は否定したはずの輪廻転生を認め取り入れてしまう間違いを起こしたのですよ。−−
ここに浄土教の根本があるんです。−−こん辺はどうでしょうか
311神も仏も名無しさん:2009/08/10(月) 21:55:27 ID:5czCtqf/
>>310
>この瞬間に仏教は否定したはずの輪廻転生を認め取り入れてしまう間違いを起こしたのですよ。

うーん、存在論に関する論争と言うのは、昔から得るものが少ないと決まったものです。
否定をすれば存在しなくなるというのなら簡単な話なんですがね。

「明智に達した行ける者たちは再び迷いの生存につかない。」
これは、明智に達した仏の境地です。
逆にいえば、明智に達しなければ迷いの生存から逃れられないという主張です。
で、あなた自身はどっちなんですか?
あなたは明智に達した仏ですか?

親鸞も私も、迷いの生存から逃れられないという自己認識を出発点としています。
それが、明智に達した仏の主張だからです。
312神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 03:44:35 ID:WvC9EwbS
311−−親鸞も私も、迷いの生存から逃れられないという自己認識を出発点としています。
それが、明智に達した仏の主張だからです。−−ここが問題なところなんです。
というのは輪廻転生も無明により起こり明智によって滅する。即ち実態としてあるわけではない。
この迷い、煩悩もまた縁起であって起こす私も縁起。私も煩悩も迷いも実態としては存在しない。
迷いの存在ということは無明であることなんだけれども、具体的に無明とは何か。何に対して無明なのか。
どうして無明なのか、それを仏教では10大煩悩というので説明するわけですね。
貧、いかり、ぐち、慢、疑−縁起を疑う、有身見、辺、邪、見取、戒禁取。最後の5大煩悩は5つの誤った見方。
この誤った見方のために苦しみや迷いがおこるわけですね。
特徴は実体としてあると思うことです。ところが辺見があるからさらに有ると考えても邪見、無いと考えても邪見というのです。
結論としては私も煩悩、迷いも縁起であってそれ自体としては存在しないとなると煩悩を滅することもなく
かといって私は今現に煩悩で迷っているとなるわけです。
この辺はどうでしょう。
313神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 15:07:25 ID:Dx5OdJwW
>>312
禅家などでは、否定して行ったら無になっちゃったよ、というのを一枚悟りと言って嫌うそうです。
存在しないはずの煩悩がどうして苦を生じるか。
たとえば、手を切れば痛い、それは凡夫であっても仏であっても同じです。
痛くなければただのマネキンです。
凡夫と仏との違いは、それが苦を生むか生まないかの違いです。
手を切って悪態を吐いたり恨んだり嘆いたりするのが無明です。
手を切った痛みを苦としない、それが仏の明智です。

手を切れば痛い。
仏はそれを縁起とも輪廻とも呼んだ。
その痛みは時が来れば消えます。
だから実体としては存在しないと言ったのです。
実体が無いからと言って、手を切っても痛くなくなるわけではありませんよ。
314渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/11(火) 17:47:00 ID:MkQbK6LC
>>308
> 浄土教は誰の説ですか?まさか、『ダンマパダ』の釈迦説ではないでしょうね。

 ただこの高僧の説を信ずべし(行の巻)
 親鸞は、龍樹以下、法然上人までを並べ、この高僧の説を信ずべしという。ところが
その中身は、いずれも先人の主張を木っ端微塵に粉砕して先人の皮一枚を被った親
鸞のオリジナルの説だ。

 親鸞仏教は、親鸞法師の創作説と言うべきだろう。しかしそれは、弥陀の直説、
釈迦の本懐を説いている。
315神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 20:42:48 ID:C38s93NL
親鸞会ブログナビ
http://www.shinrankai.biz/
316神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 21:43:53 ID:xRFU3t/E
>>314
釈迦の本懐を説いている、と考える根拠を提示して下さい。
渡海さんの単なる独断ですか?
317神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 22:10:37 ID:C38s93NL
>>316
愚問w
318神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 22:18:58 ID:zPxbVKk+
313−−しかし聖道門なんかは修行によって煩悩を断ち切るわけでしょう。私というのも確かな
存在としてあり煩悩も確かな存在としてある。だから自分の力で一生懸命修行すれば1つ1つ煩悩を
押さえ込んで煩悩を滅してしまうことが出来ると考えてるのかな−。凡夫の自覚はない。賢者の自覚。その点凡夫なんかは
縁起や空の教えに照らし出されながらその真のあり方を了解しているけれど、やはりその通りには生きられない。
相変わらず私だと我執し煩悩に束縛されている。そして遇縁によってなんでもしでかす。
319神も仏も名無しさん:2009/08/11(火) 22:30:22 ID:zPxbVKk+
そう考えるとこの覚者、仏の世界はこの世は浄土、即ち48願の世界そのものでそれこそが真のあり方なんだろうね。
その中に縁によって有りながら我を立てる凡夫は煩悩によって地獄餓鬼畜生等の世界を作り出しては苦しんでるわけだ。
どちらが本当の真実の世界かというとそれは覚者、悟ったものの示す世界こそが真実のすがたなんだろう。
こう考えると親鸞さんの言葉といろいろ重なる。二種深心、さるべき業縁もよおせばいかなるふるまいもすべし。
この辺は。
320渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/12(水) 13:23:48 ID:oUTEvms4
>>285
>親鸞さんも私も、明智に達してはいないので、当然輪廻が存在するのです。

 私(ID:K30rHl/)は明智に達してはいない。だから親鸞さんも明智に達してなく、当然輪廻
が存在するというのは、ID:K30rHl/の妄想だろう。親鸞さんは輪廻などない。無限の過去か
ら、無限の未来に向かい、その間、一度も輪廻はなかった。僕はそう思うね。

>>288
>親鸞はすべての仏典を釈尊直説と誤解して
   見解の相違だな(w。

>>291
>悟れていない親鸞だから信じられるんですよ。
    おかしなことを言う人だな。親鸞は悟った人だよ。

>>292
>これはそのまま、真宗を誹謗中傷する人が書いた文章だといっていい。

 誹謗中傷じゃないだろう。こういう意見も正しいと言える余地はあるだろう。
 見解の立場が異なる人の話も素直に聞けるようになりたいものだ。異なった視点で物事を
考え、その結果を伝えてくれる人は大事な人だ。

>>293   ??

>>309
>無明によって輪廻がある、起こるといっている。

 無明によってどうして輪廻が起きるのかを言わないと説明にならないでしょう。
321渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/12(水) 13:24:31 ID:oUTEvms4
>>310
>この世で仏になれない者にとっては死がきたら今までの行が無駄になる。それでは困るわけ
です。そこで次の生、その次の生でなおかつ修行して仏になろうと考えるわけです。

 あなたの考えは、要するにご都合主義ということですな。自分の都合でどうでも変わる。

>>310
>こん辺はどうでしょうか
 輪廻流転はご都合主義であるという主張には、賛成する人はすくないと思います。

>>311
>親鸞も私も、迷いの生存から逃れられないという自己認識を出発点としています。それが、
明智に達した仏の主張だからです。

 意味不明。
 自分は迷いの生存から逃れられないからと言って、親鸞さんを自分の道連れにするというの
は、いかがなものか。
 貴方の方こそ、親鸞さんの道連れにして貰うことを考えたらどうですか。
322神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 14:03:09 ID:fAVXUhDo
>>321
>貴方の方こそ、親鸞さんの道連れにして貰うことを考えたらどうですか。
まあ、私はへそまがりなんでw
親鸞さんを神格化して教条的に信奉する趣味はないんですよ。

>>319
また、夜にでもカキコします。
323神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 14:47:44 ID:wtpI/oXt
324渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/12(水) 14:52:11 ID:oUTEvms4
>>322
 されば、かたじけなく、わが御身に引きかけて、我らが、身の罪悪の深きほど
をも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが
ためにて候いけり。

 近眼だからと積極的に眼鏡をかけ、自分達が歩くべき道を我々に先んじて
しっかり見つめ、道の険しさを教えてくれている人と、

 近眼で物が見えませんと、眼鏡を拒んで昼寝して開き直っている人、

 自分と親鸞とを同じに扱い、迷いの生存から逃れられないなどと、十把一絡
げにする人とは、見解を同じになれませんな。
325神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 15:07:43 ID:fAVXUhDo
>>307
> 輪廻論は味のある面白い思想です。輪廻否定論は、味も素っ気もない。
>親鸞さんも輪廻論の愛好家、僕も輪廻論大好きです。肌が合うんですね。
>輪廻否定論を主張するなら、どうぞ御勝手にと言いたくなる。

> 輪廻否定論なら、親鸞さんとは手を切ったらどうですか。参考アドバイスです。

>>320
>親鸞さんは輪廻などない。
>無限の過去から、無限の未来に向かい、その間、一度も輪廻はなかった。
>僕はそう思うね。

輪廻は無いけど輪廻論の愛好家ですか?
変わったご趣味でいらっしゃる。(笑

> 誹謗中傷じゃないだろう。こういう意見も正しいと言える余地はあるだろう。
> 見解の立場が異なる人の話も素直に聞けるようになりたいものだ。異なった視点で物事を
>考え、その結果を伝えてくれる人は大事な人だ。

>>324
> 自分と親鸞とを同じに扱い、迷いの生存から逃れられないなどと、十把一絡
>げにする人とは、見解を同じになれませんな。

見解の立場が異なる私の意見も、素直に聞いてもらえると有難いんですがね。
そうはイカの金玉ですか?
326神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 15:17:26 ID:4/GiUZ5A
>>325 変わったご趣味でいらっしゃる。(笑

浄土真宗から離陸して、ほどなく「渡海難宗」を
オープンなさるそーです。
327渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/12(水) 19:23:02 ID:oUTEvms4
>>325
> 輪廻は無いけど輪廻論の愛好家ですか?
> 変わったご趣味でいらっしゃる。(笑

 阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ  化縁すでにつきぬれば 浄土にかえり
たまいにき

 無限の過去から無限の未来に向かって輪廻を越えている阿弥陀如来が、仮に親鸞聖人
として姿を現し、行うべきことを終え、やがて浄土に帰って行かれた。

 親鸞聖人をそのように仰ぎ、味わうのは変わった趣味ですか。
 まあ、ちょっと難しかったかも知れない。
 
>私の意見も、素直に聞いてもらえると有難いんですがね。

 こんな匿名の掲示板で「私だ、わたしだ」と言われても、どこの私か分からないんですよね。
失礼でもありましたか?
328神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 20:31:56 ID:fAVXUhDo
>>319
>二種深心、さるべき業縁もよおせばいかなるふるまいもすべし。
機法の二種深信は、あなたもご存じだと思いますが、どちらも他力の信心です。
まあ、セット販売なんですね、どちらを欠いても意味がない。
悪く取れば飴と鞭ということで、それほど凡夫というのは度しがたい存在なんだということです。
凡夫の自覚が何故他力なのか、という点は長くなるので省略します。

そこで、業縁と人間の自由意思との問題ということになりますが、
結論からいえば、人間の自由意志など存在しない、ということになります。
この辺が、決定論の泥沼で、この結論を受け入れるには勇気が必要です。
しかし、親鸞さんは、おそらく、そうした宿命観を持ち続けたであろうと思われます。
私は、はるかに軟弱なので、そこまで徹底してはおりませんが(自嘲

たとえば、100人を殺せば云々の章が歎異抄にあります。
これは、相手が唯円だから、という言い訳は通用しません。
業縁を説明するための方便だという誤魔化しもききません。
もしも、誰かが100人を殺してきたなら、オウムの麻原と同罪です。
では、何故にそのような際どい質問を成したのか?
それは、親鸞自身が、この質問を常に自問自答してきたからです。
そこには、100人を殺す親鸞の姿があったのかもしれない。
しかも100人を殺してなお、仏の誓願は損なわれことがない。
100人を殺す親鸞ならば、なおさら浄土往生は必至だろうと。
まあ、この辺は私の想像です。
とにかく、仏の目から見たならば、親鸞も麻原も変わりがないということです。
どちらも罪悪深重の凡夫の姿です。

まあ、こういうことを書くんで、真宗坊主から叩かれるわけで、
あるいは親鸞バンザイの渡海難の顰蹙を買う理由があるわけです。
ただ、反省はするけど後悔はしない主義なので気にはしませんが、
このカキコ自体が、私の業縁の結果だということは確かなようです。
329神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 20:54:56 ID:JrurywP0
>>327
「阿弥陀如来が、仮に親鸞聖人として姿を現し」ってアナタ、親鸞は
オマンコするぐらいしか能のない凡人。愚禿のオマンコ爺を阿弥陀仏に
しちゃイカンでしょうが。
330神も仏も名無しさん:2009/08/12(水) 22:23:54 ID:fAVXUhDo
>>327
> 無限の過去から無限の未来に向かって輪廻を越えている阿弥陀如来が、仮に親鸞聖人
>として姿を現し、行うべきことを終え、やがて浄土に帰って行かれた。

まあ、輪廻しないはずの仏が親鸞に化身して輪廻したという点を除けば、
これは、渡海難としては上出来だと思いますよ。
私も、親鸞さんは観音の化身だと信じていますから、
かつては、おとぎ話の主であった仏が、現実の仏になっただけでも格段の進歩です。
ただ、仏の化身だから神格化してしまったのかと、そこだけが残念です。
私の親鸞は、泣きもすれば笑いもする只の人です。
この辺は、どうでもいいことですけどね。

>こんな匿名の掲示板で「私だ、わたしだ」と言われても、どこの私か分からないんですよね。
>失礼でもありましたか?

とんでもない。失礼とは思いませんよ。
ただ、脳を活性化された人なら、解らないことはあるまいと思っただけのことです。
331神も仏も名無しさん:2009/08/13(木) 04:10:34 ID:9IJcB9np
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非会員のお申込みは、受付けておりません。
※実践経営塾・実践二世塾参加者限定
※25期実践経営塾にお申込みの新規会員様も可 参 加 費 36,750円(税込)
※懇親会費が含まれております。※表示金額は、お一人様の料金となっております。
[キャンセル料金について]お客様のご都合によるキャンセルにつきましては、
以下の通りの料金をお支払いいただいております。
開催2週間前まで:受講料の20% 開催1週間前まで:受講料の50%
定 員 50名 会 場 ホテルサンルートプラザ新宿 [地図]
プ ロ グ ラ ム 13:00-15:00 株式会社ジョブコンダクト様講演
         代表取締役 吉川 隆二様
15:15-16:15 保険サービスシステム株式会社様講演
         代表取締役社長 橋本卓也様
         馬場 栄様
16:15-17:00 株式会社武蔵野 代表取締役 小山昇講演
17:30-19:00 懇親会
備 考 宿泊手配希望の方は、申込みの際に手配希望の旨を登録ください。
宿泊費は、お客様負担となります。 手配先は、ホテルサンルートプラザ新宿となります
332渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/13(木) 09:37:01 ID:4UJIdQS+
>>318
>相変わらず私だと我執し煩悩に束縛されている。そして遇縁によってなんでもしでかす。

 単に怠惰なだけでしょう。仏教の前に学ぶことがありそうですね。
 極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻(ひごう)だる心も、思い直してこそあるべ
きに、その徴(しるし)もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候。
 極楽浄土を願い、念仏を称えるようになれば、それまで歪んでいて心も反省するようになるは
ずですが、その徴候もないような人には、「煩悩具足だから、遇縁によれば何をしでかしてもいい
んだよ」などと、決して言ってはいけない。仏教より先に常識を学びたいものです。

>>319
>さるべき業縁もよおせばいかなるふるまいもすべし。

思いがけないきっかけがあれば、どのようなことをしてしまうか分からないような危険がいつでも
あります。用心には用心を重ね、気を引き締めて注意しましょう。そう言っているのでしょうね。

>>328
>親鸞さんは、おそらく、そうした宿命観を持ち続けたであろうと思われます。

 煩悩に狂わされて、思わざる外に、すまじきことをも振る舞い、言うまじきことをもいい、思うまじ
きことをも、思うにてこそあれ。
 煩い、悩みに翻弄され、思いがけず、心ならずもしてはならないことをしてしまい、言ってはなら
ないことを言ってしまい、考えてはならないことを考えてしまうと言うことはあるでしょう。不可抗力、
正当防衛というのもこの中に入るでしょう。

 障わらぬことなればとて、人のためにも、腹黒く、すまじきことをもし、言うまじきことをも言わば、
煩悩に狂わされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、返す返す、あるまじきことなり。
 へいちゃらさ。大丈夫なんだ。怖いことなんかあるものか。そんな考えで、他人に対して悪い計
略を立て、してはならないことをし、言ってはならないことを言えば、これは煩いや悩みに翻弄さ
れてということではなりません。人には、判断力も理性も自由意思もある。常識で考え、故意に悪
行を行うということは、決して決してあってはならないことです。
333渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/13(木) 09:41:30 ID:4UJIdQS+
>あるいは親鸞バンザイの渡海難の顰蹙を買う理由があるわけです。

 親鸞バンザイでなくても、宿命などを主張すれば、渡海難の顰蹙は買いそうですね。仏法
には無我。われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。固定的なものは何もない。

>>329
 親鸞聖人と言っても、同姓同名の人が、二人も三人もいるようだ。
 自分の姿を鏡に映し、自分の鏡像を指さして、「あっ、親鸞聖人だ」と言っているんでしょう。
「愚禿のオマンコ爺」などという言葉を見れば、ID:JrurywP0はどんな人物か。全身これ性欲
というような方なんでしょうね。お気の毒な苦しい姿が目に浮かびます。

>>330
>渡海難としては上出来だと思いますよ。
 賞めていただいてもうれしさ半分ですね(w

>私も、親鸞さんは観音の化身だと信じていますから、

 単眼で見ているのか、複眼で見ているのか、分かりませんね。多分、単眼で見ているんで
しょう。観音の化身と言われた親鸞さんが、草葉の陰でお風邪を召してくしゃみなさらないこと
を祈ります。

>かつては、おとぎ話の主であった仏が、現実の仏になっただけでも格段の進歩です。

 弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のこと
はつねにさたすべきにはあらざるなり。(末燈鈔)。仏法は無我(聞き書き)。阿弥陀仏というの
は、自然という概念を知らせるための一資料である。この理屈は、一度分かれば、それ以上議
論することではありませんが、分からない内は、分かるまで徹底的にお考えください。

はじめて弥陀仏とぞ聞きならいて候う。はじめて阿弥陀仏について教わったとき、そのように
伺いました。阿弥陀仏は架空であると言うことは、浄土教仏教の原点です。外のことは、これが
腹に据わらないと、話が前に進まない。
334渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/13(木) 09:48:34 ID:4UJIdQS+
 空と言い、輪廻という。有と言い、無という。おとぎ話の主であると言ったかと思えば、化身であ
ると言う。仏教は複眼です。複眼は不可分であり、一体であり、一方から他方にはいつでも翻訳
できる。表現は違っても、統一的価値観の裏表です。

>仏の化身だから神格化してしまったのかと、そこだけが残念です。
 仏法は無我。複眼の味わいです。真如とも言い、仏ともいう。法身、報身、化身、応化身と話の
中身は自由自在。神になったら無我にならない。

>私の親鸞は、泣きもすれば笑いもする只の人です。
 自分の鏡を見て、自分の鏡像を親鸞聖人だと思っているんでしょうか。鏡の中の自分も、自分と
一緒に泣きもすれば笑いもするが、所詮は只の影に過ぎない。

>脳を活性化された人なら、解らないことはあるまいと思っただけのことです。

 買い被りすぎです。僕に幻惑しましたか。
 念仏という眼鏡を外せば、僕こそ貴方と変わらないただの人です。泣きもすれば笑いもする。
 とんち彦一の遠めがねは偽物だった。脳が活性化したからと言って、どこの誰とも知らない貴方
が手取り足取り見えるわけではありません。失礼があればお詫びする。
335渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/13(木) 18:07:16 ID:4UJIdQS+
>>334
× 所詮は只の影に過ぎない。

○ 所詮は只の影に過ぎない。貴方の嫌がることは、決して言
わないでしょう。
336渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/13(木) 19:55:42 ID:4UJIdQS+
>>330
>まあ、輪廻しないはずの仏が親鸞に化身して輪廻したという点を除けば、

 僕には想像もできない発想だったので気づきませんでした。
 化身とは輪廻だと思っているんですね。驚きました。
 「親鸞さんは観音の化身だと信じています」というのは、観音が輪廻した
という考えなんでしょう。

「世世に善導いでたまい 法照少康としめしつつ 功徳蔵をひらきてぞ 諸仏の本意とげたまう」
 ↑
 これも輪廻なんでしょうか。

 これすなわち権化の仁、
 ↑
 これも輪廻?

 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到
るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶
す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

 阿弥陀も観音も善導も権化の仁も、生・老・病・死が続いているということでしょう。

 ID:fAVXUhDoさんの親鸞さんは、ID:fAVXUhDoさんに耳障りのいいことしか言ってくれないよう
ですね。ID:fAVXUhDoさんの親鸞さんの実体は、やはりID:fAVXUhDoさんの鏡像(影)ですね。
337神も仏も名無しさん:2009/08/13(木) 20:19:31 ID:epLaeOuC
質問です。西方の阿弥陀仏と東方の阿閦仏は何が同じで
何が違うんですか。阿閦を信仰したらいけない、という教えでも
あるんでしょうか。
338神も仏も名無しさん:2009/08/13(木) 20:36:39 ID:gKL0uOQI
人間は複雑です
しかし不毛な宗教論争に人生の多くの時間を割くより
政治に興味を持ち選挙に行ったほうが
よほど世のため人のためになることでしょう
仏教で世の中は良くなりません
339神も仏も名無しさん:2009/08/14(金) 02:27:12 ID:sk3DMsBi
科目は給与のマイナス、消費税は給与と同じで不課税。
社会保険料相当額などという名目の部分があったら、法定福利費のマイナス。非課税。
通勤手当なら自社がそれを処理している科目のマイナス。これは課税。
つまり、出向先から受け取った分だけ、自社の負担をなかったことにすればいい。

出向ではその従業員を指揮監督するのは出向先。
外部委託なら自社。この場合、自社が受け取る委託料は課税売上。

労働法上、出向、外部委託、派遣のどれに該当するかの判定は簡単には
説明できないからネットを検索するなら本読むなりして。
どれかが確定していれば、(退職金以外の)税法の扱いは単純。
340神も仏も名無しさん:2009/08/14(金) 09:29:27 ID:XJ2jqoAX
>>336
> 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到
>るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶
>す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。

> 阿弥陀も観音も善導も権化の仁も、生・老・病・死が続いているということでしょう。

逆ですよ。
これは、横超断四流の説明です。横超は、四流を断じて往生することです。

ところで、親鸞さんは仏の再来で輪廻しない、と。
まあ、そこまでは良しとしましょう。
では、渡海難は輪廻するのかしないのか?
渡海難も座禅して念仏して脳を活性化した。
親鸞さんと同じだから、渡海難も仏の再来だという認識ですか?
そうでないなら、親鸞さんと渡海難の違いはなんだと思われますか?
341神も仏も名無しさん:2009/08/14(金) 10:11:20 ID:/xtKabPy
ここは狂人の集まりですか。
342渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/14(金) 12:06:55 ID:29mow0x3
>>340
>親鸞さんと同じだから、渡海難も仏の再来だという認識ですか? そうでないなら、
親鸞さんと渡海難の違いはなんだと思われますか?

 ID:XJ2jqoAXさん。しばらく休んで頭を冷やした方がいいようですね。プールにで
も行って頭を冷やしていらっしゃい。
 貴方の問に答えるのは簡単なんだけど、貴方には僕の話が聞けないようです。貴
方が言う「親鸞聖人」も、実は貴方に心地よい都合のいい話だけを言う貴方の鏡像
だ。渡海難は貴方の鏡像にならない。貴方には、自分の鏡像がいう話は聞くが、自
分を変革してくるような話はまともに聞こえないようですね。

 感情的になり、耳を塞いでへそを曲げて質問してくる人には回答する気ちになりま
せん。人間の自由意志など存在しないという宿命観を持っていれば、向上しようとい
う気持ちなど起きないでしょう。向上しようという気持ちがなければ、虚心坦懐に相手
の話を聞くということもない。

 話せば話すほど虚しくなるばかりです。仏教を勉強する前に、まず社会の常識を学
び、向上心、克己心、使命感などをもった真人間になって戻っていらっしゃい。そのと
き、僕が何も言わないでも、貴方の鏡像ではない本当の親鸞聖人の声が貴方の耳に
届くでしょう。
343渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/14(金) 13:47:45 ID:29mow0x3
>>337
>阿しゅく仏は何が同じで何が違うんですか。阿しゅく仏を信仰したらいけない、
という教えでもあるんでしょうか。

 諸仏は大悲が同じです。悲が同じですから、慈も同じだと言っていいと思い
ます。諸仏は慈悲心が共通しています。慈とは、苦しんでいる人の苦しみを除
こうとする心です。悲とは、喜びを失っている人に喜びを与えようという心です。
抜苦与楽という言葉で表されています。

 諸仏は本願が違います。願とは意思です。意思をもち、その意思を実現しよ
うとする行動(力)があって人は人格を備えます。人々の苦しみを除こう、人々
に喜びを与えよう。その思いは諸仏に共通します。しかし、具体的に何をする
かとなると、諸仏は慈悲心を具体化するための意思がそれぞれ違います。意
思が違えば行動も違ってきます。
 ある人は、人々に真理を説く教師になろうとします。ある人は、病気で苦しん
でいる人の病を治す医師になろうとします。医師と教師は、苦しんでいる人の
苦しみを除き、喜びを与えるということでは共通しますが、それを実現するた
めの道が違います。
 阿弥陀仏は教師、阿しゅく仏は医師であると考えます。なお、阿しゅく仏は医
師であるという考えは、阿しゅく仏と薬師如来とを同一と考える立場です。僕は
これを採用しています。阿しゅく仏と薬師如来とは非同一であるという立場もあ
るそうです。この場合には、阿しゅく仏の実体が僕にはよくわかりません。

 ものを生産し、富を増やすことで人々の苦しみを除き、喜びを与えようと考え
る立場もあります。生産者です。宝生如来は生産者に真理をもたらします。人
々に休みを与えることで苦しみを除き、喜びを与えようと考える立場もあります。
不空成就如来と言います。
344渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/14(金) 13:51:08 ID:29mow0x3
 教師は人々に未来を信じ、未来に向かって歩めと教えます。太陽は東から西
に向かって移動しますから、西は未来を象徴します。阿弥陀如来は西に真実
界を開いています。
 医師は病の原因を過去に探します。過去にこそ真理があると考えます。東は
過去を象徴します。阿しゅく仏(薬師如来)は東におります。
 生産活動は太陽が南にある時に行います。宝生如来は南におります。
 太陽が北にある時、太陽は沈んでおり、そのときが夜です。不空成就如来は
北にいます。東西南北の中心に、大日如来がおります。

 かつて釈尊は、人々の太陽であり、人々を教え導く教師であり、富をもたらす
生産者であり、安らぎを与える休息所であり、病人を直す医師でありました。こ
うした原始釈尊の五つの作用が独立し、五つの仏が誕生したと僕は考えます。

 どのような仏をもって自分の心のよりどころにするのも自由ですが、我が名を
称える者を極楽浄土に迎えよう、つまり自分を先生と呼ぶ者にはかならず真実
をもたらそうという本願(意思)を持っているのは教師像を有する阿弥陀仏だけで
す。

 過去には、阿しゅく仏(薬師如来)信仰が盛んな時代があったそうです。病気が
人々の最大の不安だった時代です。証文は忘れたのですが、本願になくても、阿
しゅく仏の名を称えれば阿しゅく仏の浄土に往生し、宝生如来の名を称えれば宝
生如来の名の浄土に往生し、不空成就如来の名を称えれば不空成就如来の浄
土に往生するという考え方が確かあったと思います。インターネットなら、誰か知っ
ている人がいるでしょう。
345渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/14(金) 15:42:22 ID:29mow0x3
>>344
>浄土に往生するという考え方が確かあったと思います。
   ↑
  思い出した!!
  
 一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なるべし。方に随いて一仏を礼念し
課称せんに、また生まるることを得べし。    (行の巻)
346神も仏も名無しさん:2009/08/15(土) 03:17:00 ID:g9eqGtfh
なんか大皿に乗った黒い山が出てきた
なんだあれは。食い物なのか?;´Д`)
流石に食えない。無理をすると逆に迷惑を掛ける。もう断ろうと俺は思った。

そしたらファットママが
「( ´ ・ω・ ` )今日はね。ナタリー(娘)があなたのために牛丼を作ったの」

そしてその巨大な牛丼に、また卵をアホみたいドッバドッバ乗せてる
ナタリーを見たら、俺を見てニコニコ笑ってるし( ´ ▽ ` )
辛いけど流石に断らないとと俺が葛藤する間もなく
豚母が牛丼を切り分けて、さらにまた卵かけて、俺に皿を突きつけて
「( ´ ・ω・ ` )モーア?」

駄目じゃん、俺は弱すぎ。ここで食えないと言う度胸が無い・゚・(ノД`)・゚・。
仕方なく皿を受け取り一口・・・・・
うがっ、糞甘っ。砂糖何キロ入れてるんだこの養豚場は?('A`)
そこでニコニコ笑顔のナタリーが寄ってきて「( ´ ▽ ` )ハウ?(美味しい?)」って
笑うなデブ!俺を殺す気か!?

347渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/15(土) 10:43:36 ID:KZwi4p+4
>>316
>釈迦の本懐を説いている、と考える根拠を提示して下さい。

 貴方に耳があるかなぁ、という心配がある。
 これを議論する場合、釈迦の教えを特定する必要もある。話は長くなる。
 316さんは、日蓮系の立場の方でしょうか。もし日蓮系の立場となると、釈迦とは何かという、釈迦
の本質論で見解の相違という問題が露見し、議論が紛糾する心配もある。僕は、日蓮さんの書き物を
読む機会がほとんどなかったから、ほとんど知らない。日蓮論に話が飛ぶと、僕は何も言えなくなる。

 まあ、立ち往生しても、面白いことは事実だろう。

 「大無量寿経がなぜ真実経なのか」という問もあった。これは重要な問題だ。親鸞仏教を考える場合、
避けて通れない。

 さてどうしたものか。しばらく考えよう。

>渡海さんの単なる独断ですか?

 まあ、そう考えて貰ってもいい。むしろ仮説と言って貰えると嬉しい。
348316:2009/08/15(土) 11:27:12 ID:0ISOONhz
> 316さんは、日蓮系の立場の方でしょうか。

インド仏教の立場です。2500年前の仏陀の立場です。
349316:2009/08/15(土) 11:30:41 ID:0ISOONhz
原始仏教の立場、とお考え下さってもよろしい。
350神も仏も名無しさん:2009/08/16(日) 02:54:11 ID:ySmCWw+U
【社会】中皮腫や喫煙で「肺がん」が起こる仕組みを解明 - 岡山大学チーム(内部被爆について)
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1248755268/
石綿やたばこ、粉じんに含まれる鉄が肺に入ると、鉄を含む「フェリチン」
というたんぱく質が形成される。フェリチンは大気中などにある
放射性物質ラジウムを集めて蓄積させ、がんを引き起こすという。
研究チームは、高濃度のラジウムが出す放射線で強力な内部被ばくが起き、肺組織の
遺伝子を損傷させてがんを発生させると結論付けた。
http://www.google.com/scholar?q=tobacco+polonium&hl=ja&lr=&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
タバコ中のポロニウムについての論文(ラジウムも出現)

ポロニウムについて補足
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0
ラジウムがアルファ崩壊してラドンになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0
ウラン系列の過程でラドン222が崩壊することによって
ポロニウム218が生じ、更にこれが崩壊していく過程でポロニウム214、
ポロニウム210が生じる。
ポロニウムが発するアルファ線自体は皮膚の角質層を透過出来ないため、
ポロニウムを体内に取り込まない限りは被曝の危険性は少ないともいえる。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071204/erp0712041804010-n1.htm
−−なぜ、リトビネンコ氏は殺害されたのか
−−致死性の放射性物質ポロニウム210が使われたのはなぜなのか

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/cigaret/1159190819/494 <<クリックで情報の詳細(2ch内リンク)
1、今は亡き筑紫哲也さんの失言から学ぶ教訓
(ナチス・ドイツによって強制収容所のガス室で用いられた毒ガス・繊毛 )
などなどなどなどなど あの麻生さんも登場
351神も仏も名無しさん:2009/08/17(月) 03:44:43 ID:Qwy2C6Kw
     |┃三                  ━■━
     |┃                / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
     |┃               /  _____  `、
 ガラッ. |┃               | /        \ |
     |┃  ノ//            .| | -=・=- -=・=- | |.
     |┃三              | |    ∩     .l |   俺のスレでキチガイ書き込みしてるやつ。かかっこい!ザコがよー
     |┃                .| .ヽ  ー===-'  ../ |
     |┃                V  .ヽ::  ̄   ./  V
     |┃三             ヽ    ヽ::_______./    ./
     |┃三              l  {    l  /     i  |
     |┃三             ノ  | ,。  ∨   。  ,|  |
     |┃                 /  ,l ‐- ' | '、__,. ハ  !
     |┃               /  ,' !  -‐ ' ! 、_ _ ,. ,! l  !
     |┃             ,'  / | "´  l|   `" | ,'  |
     |┃  ノ//         ,'   /  ,}     _j!       } |  ,!
     |┃三           l , '  / 丶  j{   ,   イ ,  l
     |┃             ノ j   '  、` ハ  /   } ,ノ f
     |┃            // /   |    ,! | , '   |/  |
     |┃三          { 'J、   |   ヽ{ つ    し', ,/
     |┃三          `¨ ´   !    `Ti      |{ノノ
                        |     ハ     |
352渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/17(月) 13:34:56 ID:/u1a8vL+
 高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかる、
本尊あまたあり、いはゆる六字の名号、不可思議光如来、無碍光仏等なり。
 高祖親鸞聖人が存命中、将来の門弟達にむけて決めた本尊にはたくさん
ある。南無阿弥陀仏という六字の名号の外、不可思議光如来と無碍光仏等
があった。

 梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。このほか、あるひは天竺・晨
旦の高祖、あるひは吾朝血脈の先徳等、をのおの真影をあらはされたり、こ
れによりて、面々の本尊、一々の真像等を、一鋪のうちに図絵して、これを光
明本となづく。
 六字の名号は梵語、不可思議光如来と無碍光仏は漢語である。いずれも弥
陀一仏の尊号である。このほか、インド、中国、日本の先人の姿を絵にした。
本尊と絵像を一枚の絵にしたものは光明本という。

 仏はすなはちこれ不可思議光如来、 〜 このゆへに真仏の体なるをもて
中尊とせらるとなり。
 南無阿弥陀仏と不可思議光如来と無碍光仏とは川の字に三列に並べる。
不可思議光如来が阿弥陀仏の実体であるから、これが中央になる。

 南無阿弥陀仏の名号は、まさしき所帰の行体なり。 〜 名号はまさしき行
体なるがゆへにみぎにすえたてまつられ、無碍光はその徳をあらはすことば
なるがゆへにひだりに安ぜらる。
 南無阿弥陀仏は、実践する行体である。したがってこれは右に設置する。無
碍光仏は徳を示すから左に設置する。
353渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/17(月) 13:36:09 ID:/u1a8vL+
 二尊の形像をもてまへに安ぜられたり。まづ弥陀の形像は、『観経』の像観
のこころなり。 〜 第八の観は像観なり、これ形像なり。
 南無阿弥陀仏と不可思議光如来と無碍光仏とを三列に並べた前に、阿弥陀
仏像と釈迦仏像とを設置する。阿弥陀仏は観経の第八の像観を使用する。
 
 つぎに釈迦の形像をのせらる、ことは、一代の本師、二門の教主なるがゆへ
なり。そのゆへは、阿弥陀如来大悲のちかひをたれたまふとも釈尊これをとき
たまはすば、衆生いかでか信知することをえん、弥陀を念ぜんひと、ことに釈
尊の恩徳を報ずべきなり。 〜 釈迦は能説の恩を報じ諸佛は護誠の徳を謝
せんがためなり。
 阿弥陀仏の形像と併せて釈迦の形像を安置する。一代の本師、聖道門・浄
土門の教主だからである。阿弥陀仏が如来の大悲の誓願を立てても、釈迦が
これを説かなかったら、我々は阿弥陀仏を知ることはなかった。阿弥陀仏を念
じる人は、釈尊の恩徳を知らなければならない。釈迦には、教えを説いてくださ
ったことの恩を感謝し、諸仏にはそれを守ってくださってその徳を感謝すること
が必要である。

    弁述名体抄     (存覚 著)

 釈迦は何を説いていたのか。親鸞フィルタを外してその教えを考えてみること
は必要だろう。
354神も仏も名無しさん:2009/08/17(月) 15:28:16 ID:w3V5Y93l
「南無阿弥陀仏は、実践する行体である。」(>>352)というのは何のことですか。
今も衆生救済活動を継続中、ということですか。
355渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/18(火) 10:48:09 ID:AGCjqmHE
 彼はほどよき数の行列を従え、 〜 旗のはためく表通りに出た。
 女たちは 〜 好奇心に駆られて 〜 われ先に露台に踊り出た。 〜 曳きずる車
のごときふくよかなお腎と雲のようにゆったりした豊満な乳房が重いので、彼女たちの
足どりを緩慢にしてしまった。ある女は 〜 ひそかに恥部につけた装飾品を隠さんと、
差恥のゆえに大胆になれず、足どりを抑え、あえて急いではいかなかった。
 シュッダアディヴァーサ神群は、 〜 一人の老人をその場につくり出した。 〜 。
「この男は老いによって破砕されているのであります。 〜 いまや老年に達しました。
〜」。この偉大なる人は、老い(のこと)を耳にして、あたかもすぐ近くに雷鳴の轟くのを
聞いた牛のごとく、恐怖に戦いた。
 神々は、またしてもその身体が病に蝕まれている一人の男をつくり出した。 〜 。
「病いと名づくる大いなる不幸があり、 〜 この病いによってかく身の自由がきかぬ
ようになってしまいました」。 〜 王子は心消沈し、あたかも水面の波間にゆれる月
影のごとくに震えた。
 例の神々はその道すがらに死者を仕掛けた。 〜 「永遠の眠りにつき、意識もなく
なって草木と化したものです。 〜 一切生類に共通の終焉のわざであります。 〜 」。
 老病死の恐怖を知っている心ある人なら、なん人が立っていても、すわっていても、
また横になっていても、それを見て心安らかでいられようか。ましてこのように笑いこ
けているなど。(大乗仏典 ブッダチャリタ 第13巻 中央公論 昭和49年)
356渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/18(火) 10:50:37 ID:AGCjqmHE
 釈迦は、西暦紀元前463年に誕生し、紀元前383年頃に亡くなっているという(中村
元 説)。
 釈迦はインドで釈迦族の王家に生まれ、物思いにふける少年期を過ごす。
パーリ語の初期の仏典では、宮殿の往復の道の中で老・病の苦しみを反省している
という。これが増壱阿含経などの漢訳になると老・病・死について説いている。
 その後、この話は発展する。東の城門を出ると老人に会い、南の城門を出ると病人
に会い、西の門を出ると死人の屍を見、その帰途に出家修行者を見たという話が出る。
 中村元は言う。「これに対して生の苦しみを加えて四苦とし、さらに八苦とするのは
後代の教義学的反省が加わってから後のことである」と。「四門出遊の話はパーリ語
経典の中に見あたらない。」

 仏教の原点は四門出遊にある。僕はそう考えている。この場合、問題になるのは、
史実性である。四門出遊は史実か、非史実か。仮に史実ではないとすれば、仏教に
は原点がなかったということになるのか。何が原点になるのか。
 四門出遊は何を問題にするのか。老・病を問題にするのか、老・病・死を問題にする
のか、生・老・病・死を問題にするのか。
 仏教の原点とは、イコール親鸞仏教の原点である。親鸞仏教のまさに本質に関わる
重要問題であると考える。


>>354
 通常、念仏者は「南無阿弥陀仏」と称えます。存覚は、五会念仏の行者です。五会念
仏は「南無阿弥陀仏」と称えます。「帰命不可思議光如来」あるいは「南無無碍光仏」な
どとは称えません。
 念仏者が称名念仏行を実践するときは南無阿弥陀仏という声を出すということです。
357神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 11:58:53 ID:6/osHlcn
>>仏教の原点は四門出遊にある。この場合、問題になるのは史実性である。

生老病死は人類に普遍的です。
仏陀個人の生老病死になぜ史実性が関係してくるのですか。
変なことを言う人ですね。
358渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/18(火) 13:49:38 ID:AGCjqmHE
>>357
>生老病死は人類に普遍的です。仏陀個人の生老病死になぜ史実性が関係してくるので
すか。変なことを言う人ですね。

 四門出遊の史実性と、生老病死は普遍的かどうかという問題とは別の問題です。 木村拓
哉さんが、昨日デイズニーランドに行ってミッキーマウスに会ってきたかどうかという問題と、
木村拓哉さんには生まれた瞬間があり、病気になる時もあり、やがて老人になり、必ずいつか
死ぬという普遍的問題とは別の問題です。生老病死があるということと、昨日デイズニーランド
に行ったかどうかということは、全く関係有りません。

 生老病死は人類に普遍的かどうかということと、釈迦が城から出て、誰に会ってふさぎ込んだ
かは、まったく無関係です。

 仏教スタートの瞬間についてはいろいろな説があると考えます。一番オーソドックスなのが、三
五歳の悟りを開いた瞬間を当てる考えでしょう。そのとき釈迦は仏陀になりました。 釈迦が出家
した瞬間をもって仏教のスタートと考える考え方もあるでしょう。
 釈迦出生の瞬間と考える考え方もあります。今回引用したブッダチャリタの作者はこの説を採っ
ているようです。
 釈迦入滅の瞬間、つまり釈迦が全ての仕事をやり終えて無余涅槃に入った瞬間と考える考えも
あるでしょう。
 僕は昔から四門出遊の時を仏教のスタートと考えています。

 四門出遊の時と仮定すると、この説を説得的に肯定するには越えなければならないいくつ
かのハードルがあります。その一つに、史実性があります。
 仏教の原点は何か。これを考えることは重要なことです。これは、浄土真宗は仏教かどうか
というリトマス試験紙になります。
 浄土真宗とはなにかが分からなくなれば、どこに戻って考えるのか。原点とは、分からなくな
った場合の戻り先です。つまり、四門出遊の時に戻れないような思想は仏教ではない。
 ある考えを持って、これが浄土真宗である。仏教であると言えるためには、最低限、四門出
遊の原点に戻れなければならない。しかし、その四門出遊が史実でなければ、仏教には原点
がないということになります。つまり、仏教などは世の中に存在しない。そういう話になるのでは
ないでしょうか?仏教などは世の中に存在しないという説は、僕は採用しません。
359神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 16:15:53 ID:CQGY2AMc
木村拓哉も仏陀も等しく生老病死は免れません。
「等しく」の意味、お分かりですね?

「木村拓哉さんが、昨日デイズニーランドに行ってミッキーマウスに会ってきたかどうかという問題と、
木村拓哉さんには生まれた瞬間があり、病気になる時もあり、やがて老人になり、必ずいつか
死ぬという普遍的問題とは別の問題です。」

当たり前です。個人的にミッキーマウスに会うことと
万人に普遍的な生老病死とは、まったく別次元の話です。
混同させるほうが間違っています。変なことを
言う人ですね。
360神も仏も名無しさん:2009/08/18(火) 21:23:50 ID:M0uQFlTZ
僕は昔から四門出遊の時を仏教のスタートと考えています。となると大経の過去五十三仏や
アミダの十劫、あるいは無量寿などの表現は成り立たなくなるぜ。遙か過去から仏は居るわけだからね。
仏と仏が相念じることも無いわけだよ。
361渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/19(水) 00:59:35 ID:DJs4X2oR
 どうも話の波長が合わない人がいるようです。
 木村拓哉も仏陀も等しく生老病死は免れなくても、昨日、木村拓哉さんがディズニーランド
でミッキーマウスに会ったかどうかをはっきりさせなければならないというような状況場面だっ
て、可能性としてはありうるわけです。

 木村拓哉も仏陀も等しく生老病死は免れなくても、釈迦の四門出遊の状況をはっきりさせ
なければならないというような状況場面もあるわけです。

 渡海難は、仏教の起源、浄土真宗の起源を、釈迦の四門出遊にあるという仮説を立ててい
ます。釈迦の四門出遊に仏教の起源、浄土真宗の起源があると主張する場合、越えなけれ
ばならないハードルがある。その一つは、四門出遊の状況をできるだけ明確にし、そこからは
たして仏教が始まるか、浄土真宗が始まるか、それを明確にすることです。

 仏教の起源はいつか、浄土真宗の起源は何か。そういう問題意識を持つこと自体が理解不
能という人には、何をどう説明していいかわかりません。

 「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を
選ばしめたまえり」。
 浄土教の起源はいつか。浄邦縁熟したのはいつか。親鸞は、王舎城のクーデター事件を挙
げています。僕は、親鸞の認識をそのように知っている上で、敢えて四門出遊の時と言ってい
るわけです。釈迦教を親鸞のフィルタを外して直視することは、浄土真宗の本質を知る上で大
事なことであると考えているからです。

 なお、王舎城のクーデター事件の時をもって浄土教の開宗時点と親鸞が主張することは奇
異な感じもします。大無量寿経が真実の教であれば、大無量寿経説法時が起源になると考え
るのが自然でしょう。しかし、親鸞はその考えを採らなかった。これは面白い論点ですが、今回
議論するつもりはありません。

 過去五十三仏やアミダ十劫などという話を持ち出すのはナンセンスです。
仏陀が生老病死は免れないかどうかという問題は、必要な時に議論します。今は保留です。
362渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/19(水) 12:54:39 ID:DJs4X2oR
 ブログ『親鸞仏教』更新しました。

 久しぶりに念仏研修について書きました。
 念仏研修のあり方について、考えを変更しました。

  しんらん.jp
363神も仏も名無しさん:2009/08/20(木) 00:29:04 ID:TWEIeo5a
江蘇省蘇州市の梅花新村では公衆トイレへ行くのを面倒がって痰つぼに大便をした後にそのまま川に
流してしまうモラル違反がこのところ続出している。7月22日付で蘇州日報が伝えた。

  これは早朝に運動をする習慣がある60歳過ぎの男性が「こんな非文明的行為は見るに耐えない」と
して同紙に通報したことから発覚したもの。男性は7月21日午前4時20分頃(現地時間)に自転車に
乗って蘇州公園に向かった。その途中でお年寄りが手に持った痰つぼの中身を川へ流す光景を目撃。

 そこで男性は停まってよく見たところ渡海難だった。このため男性は「いったい何をしているんだ」と叫んだ。
しかしお年寄りは黙ったまま痰つぼを洗って自宅へ帰った。男性は同紙の取材に対して「すぐ近くに公衆
トイレがある。こんな行為は野蛮だ」と語った

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0815&f=national_0815_001.shtml
364渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/21(金) 12:08:25 ID:gaomx2Du
 四門出遊の故事は、非常に深い哲学性が凝縮している。それだけに、作為的なも
のを感じる

 史上の釈迦は四門出遊にどこまで関わったか。少年期、城の中で物思いふける子
供だったろうということは想像がつく。そういう少年は世の中に多い。釈迦は例外だっ
たと考える必要はないだろう。
 城の外に出ることがあった。一日の二四時間、一年の三六五日、城の中の籠の鳥
だったとは思えない。
 城から出る時、数人のお供がいたかも知れない。釈迦族は小さな王国だ。大きな行
列を作るほどの余裕があっただろうか?。行列で城外に出たというのは、想像の域を
出ないが、あれは馬鳴の創作だろう。

 場外に出て病人や老人を見たか。見なかったとは言えない。しかし、場外で病人や
老人を見なければ生老病死の問題に気づかないか?。そうでもないだろう。城の中で
も病人がいる。死人もいただろう。早い話、釈迦の生母は、釈迦が生まれてすぐに死
んでいる。釈迦は、母のいない子供だったのだ。実際には、こういう問題の方が子供
の心に宿題をのこす。
 釈迦は、城の外に出て初めて病人や老人を見、驚いて悩み始めたという。象徴的
哲学性が包含されていて、史実としては技巧にすぎた話だと思う。
365神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 00:30:59 ID:WTuHUIPF
で、その四門出遊の故事はどこに説いてあるのですか。その他に釈迦がどうして
出家をしようと決意をしたのが説かれている箇所や教典はどんなのがありますか。
またどうして35歳、子供が生まれてまもなくすぐに出家したのでしょうか。
仏教が出家を説く教えなら、例えばみんな出家したら人類は滅んでしまうのではないでしょうか。
この辺はどうでしょうか。
366渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/22(土) 01:11:38 ID:aKEsEQj5
>>365
> で、その四門出遊の故事はどこに説いてあるのですか。

>>355 に書きました。

>その他に釈迦がどうして出家をしようと決意をしたのが説かれている
箇所や教典はどんなのがありますか。

 本件の議論の本筋から外れますので割愛します。

>またどうして35歳、子供が生まれてまもなくすぐに出家したのでしょうか。

 本件の議論の本筋から外れますので割愛します。

>仏教が出家を説く教えなら、例えばみんな出家したら人類は滅んでしまう
のではないでしょうか。この辺はどうでしょうか。

 本件の議論の本筋から外れますので割愛します。
367神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 03:07:09 ID:4cc529Eu
09.8.19.青山繁晴がズバリ!1/7〜7/7 (再投稿分)
 新政権の課題:新型インフルエンザと北朝鮮の人質戦略
http://www.youtube.com/watch?v=OD96eZLekdg
http://www.youtube.com/watch?v=cmhndVzXHTA
http://www.youtube.com/watch?v=dXHDjK6eQCs
http://www.youtube.com/watch?v=utwDdYfD1j8
http://www.youtube.com/watch?v=xWQxeLmBr5o
http://www.youtube.com/watch?v=s0c8lmgj_sc
http://www.youtube.com/watch?v=e-Em0cJFYhY

・日本でも最大6000万人が感染する恐れがある
・次の政権の最大の課題はワクチンの割り当て(優先順位付け)
・失策をするとワクチンが闇取引され必要な人に行かない可能性あり
・元大統領の死去により、現代グループと北との闇取引が晒された
・今回の現代グループのケースはクリントン訪朝と同じ構図

・アフガニスタンでは軍閥による腐敗が蔓延。貧富の格差が広がっている。
・カルザイ政権の腐敗を暴いた前財務大臣も立候補している

368神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 10:12:22 ID:fO0twRuZ
渡海は、答えられない質問には、答えないんだ。
高森と同じじゃないの。

親鸞会のスレを荒らしている暇があったら、真宗教学を勉強しておけよ。

自分と少しでも似た主張をしたら、自分の主張をコピペしただと。

頭がイカれているよ。

馬の小便で顔を洗って出直してこい!!
369神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 10:23:21 ID:fO0twRuZ
親鸞会と論争をして本願寺が火だるまになるという話のすり替えか。

親鸞会の手口と一緒。

基地害には、理屈は通じないからね。
370神も仏も名無しさん:2009/08/22(土) 10:58:00 ID:Hg15enEP
親鸞って淫乱ですか?
371渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/22(土) 19:14:46 ID:aKEsEQj5
>>368
 誤解を招くのはいやだから一言だけ言っておく。

>自分の主張をコピペしただと。

 「渡海難のコピー説ではないのか?」とは書いたが、「自分の主張をコピペした」とは
言ってない。

 コピペはインターネット上ではコピーペーストという意味で、丸写しという意味になる。
丸写しとなれば、著作権の問題が絡む。著作権が絡むような丸写しがあるとは言って
ない。

 コピー説とは、渡海難が既に主張していた範囲内の主張であり、その範囲を超える
新たな創造的、独創的な主張は感じられないという意味だ。

 文章の丸写しでなければ、渡海難が既に主張していた範囲内の主張を重ねて誰が
主張しても、それは言論の自由である。しかし、仮にコピペであれば、それなりの抗議
をすることがある。今回はコピペの事例に該当しないようだ。 
 
 馬の小便で顔を洗って出直してくる必要があるのは、 ID:fO0twRuZの方だろう。
372神も仏も名無しさん:2009/08/23(日) 16:17:32 ID:sAiimHEC
で、その四門出遊の故事はどこに説いてあるのですか。その他に釈迦がどうして
出家をしようと決意をしたのが説かれている箇所や教典はどんなのがありますか。
またどうして35歳、子供が生まれてまもなくすぐに出家したのでしょうか。
仏教が出家を説く教えなら、例えばみんな出家したら人類は滅んでしまうのではないでしょうか。
この辺はどうでしょうか。


373神も仏も名無しさん:2009/08/24(月) 02:59:51 ID:Q5rAyVPB
世界は闇の勢力の手に落ちたwwww
CO2によって世界がすべてコントロールされるw
日本が最後までごまかし抵抗していたがそれも終わるw
世界中の政権がすべて直接支配に入るwwww

言論統制が来るぞwwww
本屋から自然原因派の本が消えるぞw
CO2削減に異論を唱えた人は全員牢獄だw死刑だw
ローマ法王がエコw天皇もエコ宣言するぞwwww
科学も宗教も歪められたぞw今度は科学も宗教も殺されるw
資本主義が終わるw世界的完全統制経済が来るんだぞw
あっというまの超暗黒時代到来に恐怖してももう遅いw

みんなもっと喜べwwwwww
374神も仏も名無しさん:2009/08/25(火) 03:28:54 ID:nPCc4XJP
396 名前:東京都名無区[sage] 投稿日:2008/04/06(日) 23:01:00 ID:zj/C74hs [ p2218-ipbf4010marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
早稲田大学新聞と社学自治会ってどういう関係?
無関係だよね?

親から自治会はやばいから一切かかわるなって言われたから大丈夫だったんだけど、
早稲田新聞はいっちゃった。
大丈夫?

397 名前:東京都名無区[sage] 投稿日:2008/04/06(日) 23:03:40 ID:zj/C74hs [ p2218-ipbf4010marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp ]
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1471/07/070929okinawa_s.htm
↑これみればわかるけど、社学自治会はそんなにやばいところじゃないよ。
確かにいろいろと迷惑かけてしまうこともあるけど、それはごめんなさい。
基本的には、平和を求める社民党みたいなもの。
社民党っていうのは国会にたくさんの議席があるし、
福島瑞穂さんとかちゃんと国民生活のことを考えているじゃん?
社学自治会も同様に学生生活の向上を目指して日々活動してるみんなの味方!
375渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/25(火) 10:58:46 ID:nK3Kc5wu
 釈迦は、城を出て人間の現実を知った。それは、城の外に出なければ知ることの無かった現実
だったのか。
 城の中で知る現実と、城の外で知る現実をは本質的に異なる。城の外に出なければ知ることが
無かった。釈迦の教えを継承した古代の先人達は、自分達の師である釈迦の認識をそのように考
えていたと言うべきだろう。
 城とは何か。釈迦は、紀元前400年頃、北インドの迦毘羅城の王子として生まれている。しかし、
釈迦があるとき飛び出た城は迦毘羅城ではなかったと言うべきだろう。それは、自我の城である。自
我の城とは自己防衛の城である。釈迦は、自己を防衛する城の外に出て人間の現実を知り、それ
が出家の原因となる。

 釈迦だけではない。我々でも社会の現実を知り、人生の現実を知って苦しむことがある。世の中に
は多くの苦しみがあることは我々でも知っている。しかし、我々が知っているという苦しみと、釈迦が
知った苦しみとは、同じなのか、違うのか。どうやら何かが違うようだ。少なくとも古代の先人達は、
「違う」と考えたようだ。自己を防衛の中で見た苦しみと、自己防衛を捨てたところで見た苦しみとは、
本質的な違いがあるようだ。我々は、自我の目で現実を見る。釈迦は、無我の目で現実を見た。

 釈迦は、釈迦族の王家に生まれたという。恐らくこれは史実なのだろう。僕はこの史実性を争わな
い。しかし、城の王子として誕生するというのは釈迦を含めた王侯貴族だけの話ではない。あらゆる
人々が城の王子、王女として誕生している。人は自我の城、自己防衛の城の中に誕生し、その中で
育つ。自己防衛の城は重要であり、これがなければ様々な外敵からの攻撃にさらされ、人は安全に
生きていくことはできない。しかし、これが強すぎると人は成長がない。城の中に閉じこもっている限
り、我々は現実を直視することができない。

 仏教というものは、紀元前四世紀頃、北インドに出現した一人の人物が自我の城、自己防衛の城
を抜け出て自分達の現実を直視したところにスタートした。少なくとも、釈迦仏教の初期の後継者達
は、自分達の原点である釈迦をそのように認識していたと知るべきだろう。

 それでは、そのとき釈迦が認識した現実とは何か。老病なのか、老病死なのか、生老病死だったの
か。考えてみたい。
376神も仏も名無しさん:2009/08/25(火) 16:20:59 ID:s2QZ5AbS
話題から逸れるかも知れませんが、質問です。

「往相廻向」とか「還相廻向」とかいう言葉をよく聞きますが、
阿弥陀経を読んでもそんな仏教語は出てきませんでした。お経の
どこに書いてあるんですか?
377渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/25(火) 22:17:21 ID:nK3Kc5wu
>>376
> どこに書いてあるんですか?

 議論の本筋に反します。

 渡海難宛の質問でしたら、

 ぶろぐ親鸞仏教(しんらん.jp)のコメント欄

 又は

  百家争鳴 内 の  掲示板に書いてください。

 
378神も仏も名無しさん:2009/08/25(火) 23:56:38 ID:nPCc4XJP
民主党都議が民主マニフェストを「偽装」と批判地方参政権付与の方針維持書いていない!
★ミコスマで検索 http://mikos○uma.blog.shin○obi.jp/
殿堂 新作動画 みてください
★民主党の正体http://www35.atw○iki.jp/ko○lia/pages/159.html

「 ■この党が政権をとったら一週間で日本は終わりである!■ 」
大江康弘(改革クラブ)といってます (2008年8月28日に民主党を離党)
この間の討論でも民主党の防衛に激高してました
(既婚女性の鳩が気持ち悪いwとかも見てください)
★★これ リアルとネットと両方でとにかく拡散してください★★

国民は じゃ4年後さえと言えば 四年後の選挙のときは他ににすりゃいいわと安易に考えると
思ってるのです でもそのときには1000万人移民 と沖縄から3000万人
ビザなし入国で日本人に主権はありません
沖縄にビザなしということは日本中に入れるのですから

在日のかたでもこのような国家がいずれつぶれることは目にみえてると思います
これまでのような治安の安定した生活はできませんよ。

■もう政権取った気で通信を握ることまで言い出してます↓
http://news.go○o.ne.jp/article/sankei/business/m20090818006.html
電波オークション、民主が検討 通信業界・総務省に激震
2009年8月18日(火)08:05
政策集の中で、通信・放送行政を総務省から切り離し
、独立行政委員会「通信・放送委員会」を設置する
日教組が学力テストなくしますが橋下知事いいんですか?

反自民のひとも 民主が毎日数々の重大(トンデモ)発表してるのに
こんなこともマスコミはいわないのが気味悪くないですか?
379神も仏も名無しさん:2009/08/26(水) 00:12:59 ID:hmoXQTAQ
・最近あまり使われなくなった、もしくは使っているとちょっと恥ずかしいネット用語は何か?
 500人のインターネットユーザーの意見を集めてみました。
 まずは少数意見ながら、ぐっと来たネット死語を集めてみました。皆さん、いくつ知ってますか?

■IT革命
■gdgd →"ぐだぐだ"の意
■(語尾に)〜だお。 
■ノシ →手を振っているところを意味する簡単なアスキーアート
■ハァハァ →興奮を示す。"萌え〜"とともにあまり使われなくなっております。
■ワロス、バロス →笑う、爆笑する、を意味する言葉。
■どうみても××です。本当にありがとうございました。
■dクス →トンクス→ありがとうを意味する
■インテル入ってる
■プギャー →あざ笑っている様子。
■またーり →主に掲示板などで、荒らしや激しい議論がない状態でレスが進行すること
■マンセー →バンザイ。
■ユビキタス
■漏れ →オレ。落ち着け→もちつけなど、なぜかネットは"お"が"も"に訛る。
■うはwwwwwwwwwww。 →このようなwの連続使用は、だんだん減ってきました。

 さて、懐かしい言葉がたくさん登場しましたが、読者アンケートによる投票結果ベスト10は以下でした。

1位 キター!  < キターー(゜∀゜)ーー! などバージョン違い含む> 36票
2位 キボンヌ 15票
3位 orz 12票   萌え 12票
5位 オマエモナー、モナー 9票   逝ってよし 9票
7位 (藁)、ワラ 8票
8位 ダメポ、ヌルポ、もう駄目ぽ、 7票   香具師 7票
10位 ネチケット 6票   ネットサーフィン 6票 (一部略)
 http://news.ameba.jp/cobs/2009/08/43797.html
380神も仏も名無しさん:2009/08/27(木) 02:32:34 ID:p+rz5J12
うつ病は誰でもかかる可能性がある。かかりやすい人とそうでない人がいる。
かかりやすいのは、とにかく真面目な人。そして、ちょっと不器用な人。
人の話を鵜呑みにするような、素直過ぎるところがある人。わかる?
普通の人には何でもないことがとても大きく響く、感受性豊かな人もそう。
これらを満たしている人がかかりやすい病気なの。私はうつ病。
真面目でちょっと不器用で、素直過ぎて、感受性が豊かな人間てことね。

「頑張れ」禁止。「早く治るといいね」禁止。「困ったもんだね」厳禁。
ただただ、私の話に耳を傾けて。肯定的な相槌のみ許可。説教厳禁。
あなたの考えなど興味ないし聞きたくない。余計な入れ知恵しようとしないで。
腹にイチモツとか持たれても、すぐ気付くんで。そういうトコ敏感なんで。
私がブルーな時は、じっと黙って私からの指示を待って。何も働きかけないで。
良かれと思ってやることの全てが迷惑な時もある。それぐらい分かって。
言うまでもなく、その場を黙って離れるのは「死ね」と同じ意味だから厳禁。
ひたすらそこにいて。必要になったら話しかけるんでヨロ。
でも、こちらがそういうことを口に出したら、ちょっと傲慢に見えてイヤ。
だから言う前に察して。そしてベストな動き方を瞬時に判断し、手際よく実行して。
気を遣っている素振りは決して見せず、飽くまで自然に。こっちが負担に感じたら、
それは失敗だから。心して取りかかって。1回の失敗が命取りだから

そんなわけで、私はうつ病。弱肉強食の世界で、自力で飯は食えないけど、
自分はVIPだから特別に食わせてもらうんで、全面協力ヨロ。
なお、傷つきやすいので決して罵倒はしないで。嫌な顔も禁止。
イヤミなど言語道断。いつでも誠意を持って、しかも笑顔で協力。義務だから。
内心イヤなのに作り笑顔とかされても、こっちすぐ見抜くから。そういう力あるから。
381渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/27(木) 10:15:09 ID:fKg7AWPt
 四門出遊の故事は経典間で異同があるようだ。経典は、一般に西暦紀元前二世紀頃から出現し、
その後数百年に渡って書かれてきた。出現区域もインド大陸、中国大陸に跨る。経典の刊行には
伝統的手法と手続きがあったはずだ。伝統的手法と手続きを採っている書であれば、区域をヒマラ
ヤ山脈の南北で仕切り、ヒマラヤ山脈の北方で最初に書かれた経典は偽書であると称して異端扱
いすることは、学者の道楽の域を超えない。
 経典編纂時代前期では老・病と書いている経典が出現した。中間期には老・病・死と書いている
経典が出現した。その後、生・老・病・死という主張が出てきた。中村元はそういう。四門出遊は、中
村元のこの説をベースにする。

 時代と地域が異なれば経典の内容に異同がおきるのは自然な事だ。老・病と、老・病・死と、生・
老・病・死とは、同じ概念なのか、異なる概念なのか。
 老・病は生・老・病・死の省略形である。省略形であると仮定すれば、我々は生・老・病・死という概
念だけを考えればいい。そうではない。言い換えである。このように言うなら、老・病という概念だけを
焦点に絞り、それだけ考えればいい。
 前期と後期とでは思想が変わっているのだと仮定することも可能だろう。その場合、前・中・後期そ
れぞれで思想が異なると考えてもいい。前期と中期とは同じだが、後期になって思想が変わったと考
えてもいい。前期と中期とでは異なるが、中期と後期とは同じであるという考えもあるだろう。

 前期と後期とでは思想が変わっていると考えると、仏教の本質はどこにあるのか。前期の思想こそ
実証主義的歴史学的に釈迦に一番近いから、これが仏教の本当の教えであるという主張も可能であ
る。思想が安定したのは後期であるから、後期の思想が仏教の本質である。そのような主張も可能で
ある。

 また、中村元は言う。「生の苦しみを加えて四苦とし、さらに八苦とするのは、後代の教義学的反省
が加わってから後のこと」という。生を扱っている経典はないということなのか?。議論の対象として
考えよう。

 いずれの立場を採る場合でも、他説を誠意をもって丁寧に批判していくことは大事なことだ。思想
は変化した。生・老・病・死という四苦をもって仏教の原点と考えるべきである。僕はこの立場を取る。
382神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 01:28:27 ID:4G7Tf/+l
1-仏教ですが、釈尊が原点と思われているようですが、違うと思いますね。釈尊の時代、バラモン教というヴェーダという聖典に基づいた多神教の宗教がありました。このヴェーダに仏教の原点となる教義があったのではないかと思います。
2-「四門出遊」の故事は一般に受け取られているような,釈尊の感受性の強さのような問題ではなく,社会問題としての生老病死の悲惨さ,それが仏教の原点となったはずである,このように考えています
3-人間にはなぜ、苦があるのか。まさに釈尊の出家の動機はすべてここにあり、仏教の原点もここにあったと言っても過言ではない
4-仏教の祖はお釈迦様〈釈尊〉であり、原点はそのお釈迦様がお説き残しくださった教えであるはず。仏教の原点、それは一体何なのかといいますと「縁起なる法」です
5-現在ルンビニは、仏教の原点としてみなおされ、仏教の一大センターとして再開発がすすんでいる。各国の仏教寺がたちならび、宗派をこえて祈りがつづけられている。この地にたてば、古代インドの悠久の歴史と、ここから中国をへてと
おく日本にまでつたわったシャカの教えの大きさにおもいをはせることができる
383神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 04:11:32 ID:zPF3MGmY
うーん、職場内での心象は悪くなっています・・・
朝は苦手なほうではありますが早起きしてもギリギリまで会社へ行きたくない感じです。
前は就業時間後に社内でのんびりする事もできたんですけど
今は時間がきたらすぐにでも帰る感じです・・
転職できる若さならいいんですけど歳も30代前半と若くはないし、
給料も悪くないし大きな企業なのと、転職で有利なほどスキルがあるとは思えないし・・
そう考えると死んだほうが楽なのかと思うこともありますけど
親がもう亡くなっていて俺がしっかりしてないとという気持ちもあって・・
昔は嫌な思いをさせた奴が生きてこっちが死ぬのはまっぴらとか思ってたけどそういうのはどうでもよくなってきた。
384渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/28(金) 09:18:23 ID:7y+Ex5cz
>>382
> 1-
> 〜このように考えています
 うむ。なるほど。

> 2-
> 〜このように考えています
 うむ。なるほど。

> 3-
> 〜と言っても過言ではない
 うむ。なるほど。

> 4-
> 〜何なのかといいますと「縁起なる法」です
 うむ。なるほど。

> 5-
> 〜大きさにおもいをはせることができる
 うむ。なるほど。
385渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/28(金) 10:26:58 ID:7y+Ex5cz
 経典編纂時代前期では老・病と書いている経典が出現した。中間期には老・病・死と書いてい
る経典が出現した。その後、生・老・病・死という主張が出てきた。中村元さんはそういう。そうで
あれば、老・病と、老・病・死と、生・老・病・死とは全て同じ意味であるとは考えにくい。経典編纂
時代は、初期と後期とで数百年の開きがある。その間、インドは躍動的に発展する世界最先端
の文化国家だった。仏教以外の価値観が変動する中、仏教思想が固定して動かなかったという
ことは想像できない。

 我々の現代の回りでも、生とか老とかいう言葉には人によって様々な概念が付与されている。
決して一様ではない。そうであれば、経典の中に登場する生・老・病・死も様々に変わっているだ
ろう。その意味するものは何か。我々の身の回りに転がっている様々な考えの中にヒントは転がっ
ているはずだ。それらの中から仮説的に拾ってみたい。

 前期には、老・病をもって人の苦と考える考えが登場したという。注目すべきは死を苦と考えて
ないということだろう。死ねば苦しみから逃れられるという考え方である。自殺者が持つ価値観で
ある。自殺者の多くが、現実の苦しみから逃れるために死を選ぶ。
 死は苦しみではない。老・病こそが苦しみである。老・病の苦しみは、最後には死なら解決でき
る。死は最善の選択肢では決してない。しかし、老・病の今の苦しみよりはましである。そう考える
のだ。

 この考え方は間違っていると、誰が言えるだろうか。少なくとも、僕には言えない。僕自身でも、
いつこのように考えるようになるか分からない。例えば、忘れられないのが江藤淳の死である。彼
は著名な言論人だった。最後は重い病気にかかり、苦しみに耐えられず「自ら処決して形骸を断
ずる」と言う言葉を遺して死を選んだ。自らの命を絶った。病いだけではない。老いていく身の苦し
みに耐えられずに自殺を選択する老人は決して少なくない。明日は我が身かも知れないと思うと、
僕は背筋に寒さを感じる。
386渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/28(金) 10:27:41 ID:7y+Ex5cz
 死刑制度を支える思想もこの考えだろう。死刑制度は死をもって贖罪させるという考えである。犯
罪者を苦しめても解決にはならないが、死を与えることは解決の一つである。犯罪を犯した人間に、
がん細胞を移植して病気にさせて苦しめようという提案は、社会には存在しない。しかし、死は犯罪
の解決になる。死と、老・病とは明らかに異なると考えているようだ。

 経典編纂時代前期の我々の先人達は、老と病の問題の解決こそ、自分達の根源的なテーマであ
ると考えたのではないか。実に考えさせられる重い問題が含まれている。
387神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 17:24:13 ID:4G7Tf/+l
うむ−−中村元先生の引用をされるならまず次のことを常に心にかけていればいい。
仏教とは無論争の境地を安穏なりと観ずる。いわば無立場の立場に立ったのである。
私にはこのこと説くということが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると
確かに知って諸々の見解に於ける過誤を見て固執することなく省察しつつ内心の安らぎを
私は見た。
−−−つまり常に自己反省を行って偏見に陥らないように。また自分だけを
すぐれたものと思ってはならぬ。と戒めている。
388渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/28(金) 18:33:41 ID:7y+Ex5cz
>>387
>うむ−−中村元先生の引用をされるなら

 中村元先生のご人格を別にして、その科学的研究成果のほんの一部を、検証省略
の形で便利に活用させて貰うだけです。
 研究成果を活用させて貰うのであり、私は中村先生に人格を教わるというつもりはあ
りません。

>まず次のことを常に心にかけていればいい。〜

 立派な方は、立派なことをおっしゃるものだと、感心させられるものですよね。
 どうか、あなたも尊敬する中村先生を見習って今後、努力精進なさってください。
389神も仏も名無しさん:2009/08/28(金) 21:15:27 ID:BxJHiLYU
>>388
387さんの注意は傾聴に価します。まるで自分には無関係と言わんばかりの
態度。傲慢な人ですね。
390神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 03:09:58 ID:uH4Emtur
電話ですか…。
結果が分かってますのでできません…。
相手は
『しつこい!言いたいことあるなら電話してこい!』
とメールしてきましたが博峰さん、それって逆じゃないですか。
無理矢理終わりにさせたのは誰ですか。
電話しても答えはもう分かっているし先程上に書いたのが引っかかり電話したくないのもあります。
今でもメールで脅しています師と上司に言ってやる!
ってでも一向に無視。私が絶対久遠寺にきて自分のこと言うわけないと思ってあぐらかいてるんでしょうね…。博峰さん…。
ごめんなさい…。
私ずっとこんなことばかり言ってばかりいて…。
こいついい加減にしろよ…。
と思うのが普通ですね…。
391神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 09:19:43 ID:B520yeCi
浄土真宗の皆さんは
法華経(特に日蓮の他宗批判)や禅や密教のことや
其々の対立等はどう思ってますか?

神社仏閣スレ辺りだと両者への否定意見ばかりが目立ってるから
此処で聞いた方が良いと思って……
392渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/29(土) 13:39:56 ID:0DIEJmh6
>>389
>387さんの注意は傾聴に価します。まるで自分には無関係と言わんばかりの
態度。傲慢な人ですね。

 仏教とは無論争の境地を安穏なりと観ずる。渡海難は傲慢だ、いや傲慢では
ない。いやいや傲慢だ。このように、傲慢という評価の枠をめぐって人を当ては
める意味のない論争はしたくないものですね。論争を離れ、無論争の境地を安
穏なりと389さんもいつかは観じたいものです。387さんの注意は、389さんには
とても傾聴に価いする言葉だと、僕も思います。

「渡海難は無関係と言わんばかりの態度を取っている。傲慢だ。けしからん」と
いう立場はなくしたいものです。389さんも、387さんの注意をしっかり傾聴し、是
非、無立場の立場に立ちたいですね。

「自分には無関係と言う態度はけしからん。傲慢な態度はけしからん。それは悪
いことである」。
 私(中村元)にはこのように説くということが私にはない。もし。このように説けば、
「無関係と言う態度はけしからん」「傲慢な態度はけしからん」ということを内容と
する執着だからである。

 執着を執着であると確かに知り、諸々の見解に於ける過誤を見て固執すること
なく省察しつつ、内心の安らぎを389さんも是非見られるようになると、すばらしい
ですよね。

 387さんの注意は、389さんにはとても傾聴に価します。389さんも、常に自己
反省を行っていきたいものです。
 「無関係と言わんばかりの態度。傲慢な人」。渡海難はけしからん。私389は、
渡海難のような傲慢ではないぞ。このような偏見に389さんが陥ることは、389さん
は避けたいものですね。渡海難はけしからん。傲慢な人。自分389はそうではない
ぞ。渡海難とは違うぞ。このように自分だけすぐれたものと思ってはならぬ。この
ような戒めを387さんはなさってくだっさった。387さんの注意を、389さんはそのよう
に味わいたいものですね。
393渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/29(土) 13:50:13 ID:0DIEJmh6
>>391
 大事な議論をたくさん含んでいますが、ここでは別の話が進行中です。
 当分、渡海難はこれに対応しません。

 ブログ親鸞仏教の「百家争鳴」に書いてくだされば、渡海難は対応します。
 
394神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 21:32:52 ID:zPSI96ir
破邪顕彰という考えがありますね。邪を破るのが日蓮宗。だから目が外に向く。
浄土真宗の親鸞さんの場合は顕彰ですね。目が内にというか内省というか求心的に向く。
これは親鸞さんのかかれた書物も顕浄土真宗教行証というように真実なるものを顕すという方に
重きを置いていますね。真実なるものをあきらかにする事がそのまま邪を破ることになるとする考えですね。
これの考えの原点は釈迦にあります。釈迦仏教の基本は自受用三昧でこれは自ら真実の道を明らかにしてその道を
歩むことが本当に真実なら人は自ずから付いてくるという考えです。だから教えを人に説いてシャクフクしようとか
従わせようとか考えもせず自らが真実なるものを明らかにしていく立場なのです。
つづく−−−

395神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 21:49:48 ID:zPSI96ir
その2−−これは、内省という立場に立たないと出てこないのです。即ち
日蓮は己を釈迦の生まれ変わりだと考え己を賢者とするため、他に対して破邪なのです。
お前らが間違っているけしからん。となるのです。
それに対して親鸞さんは自己を凡夫とみるわけです。これは内省の目です。この立場に立った最初の
人が日本では聖徳太子です。この方は親鸞さんの考えでは和国の教主であり、また太子は出家せずに在家のまま
仏教を成就された理想の信者として親鸞さんは尊敬されたのです。その聖徳太子の17条の憲法に和が大切である。そのためには
厚く仏法僧を敬え。なぜなら仏教は我必ずしも是にあらず彼必ずしも非にあらず。
我必ずしも非にあらず、彼必ずしも是にあらず。これ皆共に凡夫、たたびとなりという事を教えるからだと書いてある。
これは聖徳太子が内省というものの見方をされおり、共に凡夫と教える仏教こそ、和をもたらす教えだと見抜かれているのです。
これは法然さんや親鸞さんに受け継がれていく内省の見方なのです。
近年ではドイツの哲学者ハイデッカ−が最晩年に歎異抄を読んでこれに気づいておられます。
この歎異抄2条でも親鸞さんは関東の門弟に念仏を勧めるのですが、最後は念仏をとるもとらぬもおのおの自分で判断しなさいといってます。
そしてそれぞれが縁により教えに遇い救われなさいというのです。
396神も仏も名無しさん:2009/08/29(土) 22:02:45 ID:zPSI96ir
あと出拠を示します。自受用三昧に関しては中村元先生のブッタ入門146ペ−ジ。
ハイデッカ−に関しては病床から送られた手紙。内容は以下の通り。
今日、英訳を通じて、初めて東洋の聖者親鸞を知った。
 もし、十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び、親鸞の教えを聞いて世界中に広めることを生き甲斐にしたであろう。だが、おそかった。
 自分の側には、日本の哲学者や思想家が三十名近くも留学していたが、誰一人日本にこんな偉大な人がいたことを聞かせてくれなかった。
 日本の人たちは何をしているのだろう。日本は戦に負けて、今後文化国家として世界文化に貢献すると言っているが、私をして言わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
 何もいらないから、親鸞の教えを世界に宣伝していただきたい。
 商売人、観光人、政治家であっても、日本人にふれたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。
 そうしたら世界の人々がこの親鸞の教えの存在を知り、それぞれにその教えをわがものとするであろう。
 その時初めて、世界平和の問題に対する見通しがつき、二十一世紀文明の基礎がおかれる
397神も仏も名無しさん:2009/08/30(日) 03:14:47 ID:D0gULDQd
あー、忘れてた訳じゃないんだ。しかしあのレース展開とタイム差ではなあ・・・
佐藤敦之選手の6位入賞は健闘の部類に入るとは思うんだけど、ちょっと素直に喜べない。
あれでゲブとかワンジルとか今年のロッテルダムで4分台出した二人とか出てたらと思うと
正直ぞっとするわ。まあ去年の北京を見てるからこの結果の予測は容易に出来たけどな。

佐藤選手は礼儀正しくて凄く好きなんだけど、ゴール後のはしゃぎっ振りが、何と言うか・・・
言葉は悪いけど見ていて痛々しかった。もう日本の男子マラソン界が世界の舞台で本気で
表彰台を狙う、という時代は完全に遠い過去になってしまったんだな、って・・・(遠い目)
398渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/30(日) 11:21:20 ID:8oHTLnad
>>394-396  ノーコメントとします。

>>386の続きです。
 苦とは病と老である。インドでは仏教者がそのように考えていた時代があった。仏教は、人が
生まれた後、死ぬ前までの期間を問題にし、その期間をいかに生きるべきかを考えるべきであ
る。
 スッタニパータあるいは法句経などには、一般に生まれる前はどうであったかという視点はな
い。死んだ後、人はどうなるという視点はない。ただ、これらの経典は、後の時代に様々に書き
加えられており、どれが最古の記述か判定が難しいようだ。もし、最古の記述だけを抽出でき
れば、本質的には「生まれた後から死ぬ前までの期間をどのように充実して生きるか」という視
点で書かれていたことがはっきりするだろうと思う。
 生まれる前はどうだったか。死んだ後はどうなるか。そのようなことはどうでもいいことだ。生
は自然であり、死も自然である。自然の生を論じても始まらない。自然の死を論じても始まらな
い。抽象論ではなく、むしろ現下の問題を解決していこう。彼らはそのように考える。生・老・病・
死の四つを苦と考える考えも、実は古い考えと根っこではつながっている。二苦ではなく、苦を
四苦と考える人が扱う生の問題、あるいは死の問題、それらの一部は、二苦で考える人の中で
は老あるいは病の問題の中に取り込んでいるはずである。その意味で、病あるいは老の範囲も
変動があるだろう。

 苦を病と老だけでとらえるとらえ方は、その前の時代の考え方に対するアンチテーゼとして出
てきたものだろう。その前の時代の考えとは何か。それは、死を苦と考える思想ではなかったか。
 この辺の問題の答えは、六師外道の考えを思想史的に研究しないと正確には出てこない。僕
にはその研究環境がない。想像で言わせてもらいたい。僕の想像が専門家から見て噴飯物なら
無視して欲しい。
399渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/30(日) 11:22:07 ID:8oHTLnad
 釈迦の時代、インドでは大きな国がいくつもあった。当時、バラモン教は権力を握った権力者の
ための宗教であり、大きな権力を握った人々にとって唯一の苦しみ、悲しみは、死の問題ではな
かったか。かつて中国の秦の始皇帝は不老不死の薬を全国に探させたという。同じような問題は
インドのバラモン教の中にもあったはずだ。
 この考えに反対する考えが出てくる。死は自然であり、恐れるべきではない。死それ自体は決し
て問題ではない。それよりも、死ぬ前までの生き方を、智慧をもって充実させよう。死を苦の枠か
ら外し、老病を苦の対象にした人々の考えはそのようなものではなかったかと想像する。
400神も仏も名無しさん:2009/08/31(月) 04:41:00 ID:+SeqtcRx
不整脈以外の動悸を起こす病気

動悸は必ずしも不整脈だけが原因とは限りません。心臓以外の病気として、
例えば次のような病気があるときにも動悸・息切れとして感じることがあります。

・貧血……若年女性に比較的多い。時には爪が変形することや、異食症を
伴うこともある(氷や地面の土などを病的に欲する)。中高年以降の貧血では、
消化管出血(胃潰瘍、大腸がん)による貧血も考慮する。

・COPD(慢性閉塞性肺疾患)を代表とする呼吸器疾患……喫煙の経験のある人、
塵肺や結核後遺症でも見られることがある。息切れや咳、痰を伴うことが多い。

・甲状腺機能亢進症……甲状腺ホルモンが過剰な状態。病的にやせて、
眼球が突出して見えることも。

・発熱……感染症(風邪など)が原因であれば、感染の治癒に伴い動悸も自然に軽快する。
ただし、発熱があまりに長期間(2〜3週間)続く場合には腫瘍や膠原病なども考慮。

・心因性……ヒステリーが原因となることも。

・薬剤性……お腹の薬、稀ながら目薬が原因となる可能性も。
この他にも稀ですが、食後に動悸を感じる場合には逆流性食道炎を代表とする、
食道や胃の病気でが潜んでいることもあります。

401渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/08/31(月) 09:55:31 ID:s9dTbT82
 苦とは老・病・死である。三苦説はそう主張する。三苦説は、二苦説に対するアンチテーゼであり、二苦
説の主張を継承しながら、死を苦と考える一苦説を包摂した弁証法的な議論であろうと考える。思想史と
してはきわめて自然に出てきた変化ではないだろうか。

 僕は、以前、このような三苦説があることをしらなかった。駒澤大学の先生が仏教の話をしていたとき、
普通なら生老病死というべきところを老病死と表現しており、そのときは実に奇異な感じをした。しかし、
苦は四苦ではなく三苦であると考えることは自然な事だ。古い経典の中には、そのような主張をしている
ものが少なくないのだろう。考えてみれば、生を苦と考えるのは異常である。老・病・死をもって苦と考え
る考えは極めて自然である。

 自殺してはいけない。自殺をしても何の解決もない。自殺をすれば、更に多くの人が悲しみ、苦しむ。
人はどこまでも生きていく苦しみに耐え、がんばっていかなければならない。三苦説は、例えば自殺をし
ようとする人に、そのように説くだろう。自殺は悪か。餓えた虎を生かすため身を投げ出す『捨身飼虎』と
いう布施行を賞讃する故事が仏教には伝わっている。恐らくこれは二苦説の時代の思想だろう。生まれ
てから死ぬ前までの間、充実した人生を歩めば、その先には死の選択もある。二苦説はそのように考え
るだろう。

 三苦説では死の選択を悪と考えるはずだ。二苦説と三苦説は異なる。生まれた後から死ぬまでの間、
いかに生きるのが正しいか。一苦説を批判した二苦説の考えを継承するため、三苦説は二苦説との違い
が一見して不明確である。しかし、死による解決という究極の解決策は決して容認しないという意味で、二
苦説とは明らかな相違があるだろう。
 なお、この三苦説に立っている具体的な経典を僕は知らない。スッタニパータあるいは法句経の中には
この時代に追加された警句が入っているのだろうが、特定ができない。三苦説時代に加わった警句であっ
ても、必ずしも三苦説思想の特徴が出ているとは限らない。三苦説は阿含経などの中に現れているのだ
ろうか。具体的中身はそのような経典と出会えた時に考えてみたいと自分としては考えている。
402神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 01:41:34 ID:wLwjQz0A
ロシア・シベリア(Siberia)地方で、元警察官の男性が「イエス・キリスト(Jesus Christ)の再来」
として信者を集めている。

「ビサリオン師(Vissarion, the Teacher)」または「シベリアのイエス(Jesus of Siberia)の名で知ら
れる「その人」が、茶色の長髪に至福に満ちた微笑みをうかべ白衣の裾をなびかせてロシアの極東の
村ペトロパブロフカ(Petropavlovka)に現れると、人びとは「先生がいらっしゃった!」と彼に群がった。

 女性たちは感極まって涙を流し、祝福を受けようと手を差し伸べる。ある女性信者は「まるで永遠の
よう」と興奮気味に語り、男性信者は「彼は地上に存在する愛そのものだ。君も感じたかい?」とため息をつく。

 救世を約束するビサリオン(Vissarion)氏の宗派は、シベリア地域に約4000人の信者を持つロシアでも
最も熱狂的な新興宗教の一派だ。毎年8月、1991年に最初の「説教」を行った同地で群衆に語りかける。

■元警官、「お告げ」で目覚める

 ビサリオン氏は、本名をセルゲイ・トロップ(Sergei Torop)といい、かつては近郊のミヌシンスク(Minusinsk)
で交通警察官をしていた。しかし、旧ソビエト連邦が崩壊に向かいつつあった1989年に職を失い、そのとき、
神のお告げを受けて「覚醒」した。

 どのようにして自分が「神の子キリスト」だと悟ったのかとのAFP記者の質問に、ビサリオン氏はひざに手を置き、
静かな声で次のように答えた。「興味深くも、非常に複雑な出来事でした。自分自身の内部から、それまで
抑えつけられていた激しい何かがこみ上げてくるのを感じたのです」

■以下詳細 フラッシュ写真あり 
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2635897/4502471

403神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 08:09:36 ID:pt1UxrAq
>>402 最近はそういう事を素直に信頼出来ないので
どうすれば良いんですか?
404神も仏も名無しさん:2009/09/01(火) 16:49:15 ID:LwBUePua
>>403
> 一方で、元信者などの話によると
>1990年代に自殺または厳しい生活環境が原因で死亡した信者もおり、
>ダニなどが病原の病気が信者の間で流行しているともいわれる。
405渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/02(水) 10:55:30 ID:buGKxSC6
 二苦説、三苦説というのは、比較的登場しやすいと思う。二苦説、三苦説に比べる
と、四苦説というのは登場しにくい。普通は、子供が生まれると祝福し合う。生が苦で
あるという主張は、当初はなかなか受け入れられなかっただろう。
 四苦説の登場のきっかけは何だったのか。それは三苦説に対するアンチテーゼだ
ろう。老・病・死をもって苦と考える考えは中途半端である。死は、老・病を原因とす
る。老・病は生を原因とする。なぜ老・病・死が生じるのか。その原因は生にある。善
因は善果をもたらすが、悪果は悪因で生じる。苦果が楽善を原因とするという考え
は因果の法則に反する。原則論的な主張がおきてくる。老・病・死を苦と考えるなら、
生も苦と考えなければならない。
 生を苦と考える考えは、従来説と摩擦を起こしながら仏教界に劇的な変化をもた
らす。老・病・死だけでなく、生も苦と考えるなら、苦を従来の定義枠の中で議論をし
てもはじまらない。子供の誕生は喜びであり、これを不幸と考えることは、特別な事
情がある場合を除いてありえない。仏教の先人達は定義概念の変更が迫られた。
定義の変更は、仏教を、形而下的な実践倫理の教えから、必然的に形而上学的な
抽象的普遍的思想に変貌させる。大乗仏教とは、この四苦説から発展したもので
あり、四苦説がなければ大乗仏教の登場はなかったのではないか。四苦説の出現
こそ、大乗仏教発祥地、アフガニスタン、パキスタン地区の僧院だったかもしれない。
 生も苦と考えるなら、生・老・病・死を、再起・疲労・彷徨・挫折という概念でとらえ
直さなければならない。
 生・老・病・死を、再起・疲労・彷徨・挫折という概念でとらえるなら、人格は意思と行
動で把握する。人とは何か。ギリシャ人は、人を精神と肉体でとらえた。インドでは、
意思と行動の融合体でとらえるのだ。
406渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/02(水) 10:56:35 ID:buGKxSC6
 人は、しばしば新たな意思と新たな行動で再起する。再起はやがて疲労の時期を
迎える。向かおうとする意思は変わらなくても、行動が釣り合わなくなる。目的を失っ
て彷徨いだすこともある。行動は変わらず継続しているが、意思はその行動に釣り
合わなくなる。やがて、意思も行動も離れる。これを挫折という。
 人はしばしば再起と挫折とを繰り返す。生・死・生・死を繰り返すのだ。これを迷い
という。生・死・生・死を繰り返すという考えは、輪廻観と統合する。

 普遍的な苦の存在に気づいた人々の中から、新しい動きが始まる。大乗運動であ
る。西暦紀元前100年ころ、釈迦が死んで200年から300年が経ている。仏教思想
は北インドで飛躍的な発展を始める。浄土真宗の原点もここにある。
407神も仏も名無しさん:2009/09/02(水) 17:20:07 ID:k8yekD2P
規制の例:
クラナドやリトバスみたいなエロゲ→制服着たエロゲだから規制
その他のエロゲ→未成年に見えるキャラや学生服のキャラがいたら規制
ToLOVEる、ドラゴンボールみたいな漫画→普通に規制、DBはブルマの乳首あるからアウアウ
ハルヒ、らきすたみたいな京アニ→下着や入浴シーンがあるから規制
エヴァンゲリオンやガンダム→アスカのパンチラ、プルの入浴シーンとかで規制
ドラえもん→しずかちゃんのパンチラとか入浴シーンで余裕で規制
サザエさん→ワカメちゃんのパンチラで逮捕レベル
キューティーハニー→ハニーが16歳だからもちろん規制
宮崎駿作品→着替えとか入浴シーンとかあるのは規制。トトロも規制。
クレヨンしんちゃん→しんちゃんのチンコが原因で規制
リボーン→京子やハルの入浴シーンあるからアウト
ぬーべ→女子小学生の入浴シーンと16歳のゆきめが居るから規制

その他:
未成年のジャニーズの乳首露出→児童ポルノ扱いで規制(自民が発言済み)
少年雑誌のアイドルのグラビア:未成年が水着とか余裕で規制
AV→顔が幼く見えるのとかは規制
芸術作品→天使の全裸とか児童ポルノだから規制
H描写があるレディコミ・少女漫画→麻生閣下が規制したがってるから規制

【 自由民主党 葉梨康弘 議員 発言要旨 】
・メール、郵便、FAX、いかなる手段で児童ポルノを所持していても逮捕する ← ダイレクトメール受けてもアウト
・電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かるはず ← 電子メールを知らずに開いてもアウト
・顔が幼くて制服を着ていれば児童ポルノだと判断される ← AVのロリ顔や制服が全部アウト
・ジャニーズでも乳首が写っていたら児童ポルノだ ← ジャニーズの水着もアウト
・児童ポルノかどうかは見た目でわかる。芸術性など考慮しない ← 美術館の裸婦もアウト
・ハードディスクに入っている画像を何回開いたかで故意性を審査する ←警察に携帯やパソコンの中身を調べられる
・マンガやアニメやゲームは悪影響の研究をして三年後に規制する予定 ←野田が進めている計画?
・民主案は相続物に児童ポルノがあっても逮捕できないので困る ←民主案が通ればまだマシ

408渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/03(木) 11:22:12 ID:yDfXN8yl
 苦とは何か。苦とは老・病・死である。駒澤大学のある先生はそんなことを言っていた。苦とは
生老病死ではない。四苦説は大乗仏教で言われてきた概念であり、大乗仏教は非仏説である。
釈迦の教えではない。そんなことが言いたかったのだろうか。詳しい説明はなかった。大乗仏教
は釈迦の教えではない。だから自分は三苦説を採る。そう考えるなら、それも一つの見識だろ
う。それではどうして二苦説を採らないのか。歴史的にはその方が釈迦の教えに近いのではな
いか。
 三苦説ではない。二苦説である。仮にそう主張しても、二苦説にしっかりした根拠があるわけ
でもない。二苦説にも、これこそ釈迦の教えであるという保証はない。仏教最古の経典であっ
ても、釈迦の死後百年以上過ぎてから書かれているからだ。経典の時代には盛んに思想が
変化したが、それ以前には変化がなかったという保証はない。仮に、バラモン教が死だけを苦
と考える一苦説を採用していたとしても、老病の二苦説との間には開きが大きい。その中間説
の存在も仮想できなくはない。釈迦は病をもって苦と考える一苦説を主張し、それに対して二
苦説という批判論が弁証法的に出た可能性を誰が否定できるだろうか。
 仏教ではそもそも歴史上の釈迦が何を主張していたかということを考えても、学者の道楽を
別にすれば余り意味はない。近代物理学は、事実上ニュートンが創設したと言っていい。だか
らといって、歴史上のニュートンが言わなかったことは物理学ではないと主張する者がいれば、
社会から失笑を買うだろう。歴史上の釈迦が言わなかったことは仏教ではないと主張する者が
いれば、失笑以外の何者でもないと考える。
 経典編纂時代、苦の概念は二苦説、三苦説、四苦説と、仏教は弁証法的に変貌してきたよう
だ。後の説は必ずしも先行説を打破したわけではなく、対立する主張とは長い併存時代もあっ
ただろう。現在でも、二苦説、三苦説は生きた主張であるのかも知れない。どれを間違い、どれ
が正しいと言っても意味がない。我々は仏教から何を学ぼうとしているのか。自分自身が仏教
に向かおうとするその姿勢が問われてくる。
409渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/03(木) 11:25:03 ID:yDfXN8yl
 二苦説、三苦説、四苦説と、弁証法的な変化があったとしても、その中で変わらないものがあ
る。人々の苦を抜こう。人々に楽を与えよう。この姿勢は変わってないというべきだろう。諸仏の
大悲は同一である(化身土)。変わったのは苦の概念である。智慧は変わる。変わると言っても
全てではない。コアの部分は変わらない。老・病は苦であるというコアは一貫している。
 生まれた後、死ぬ前までの間の生き方を現実的に大事にしよう。この考えは、智慧のコアとし
て存在する。老・病に生・死を加えるかどうか。これには変化があるようだ。
 僕らは、老・病に生・死を加え、再起・疲労・彷徨・挫折という概念で苦の問題をとらえる。それ
は、生まれた後、死ぬ前までの間の生き方をとても大事にする考えであることは言うまでもない。

 死後のことだけを問題にする仏教、人が死んだら登場する仏教、生まれた後、死ぬ前までの
間の生き方をおろそかにする仏教、そういう仏教は仏教ではない。世間虚仮、唯仏是真(聖徳太
子)と言おうが、物質的恵まれ、生まれた後、死ぬ前までは、少なくともほとんど不自由のない人
々が、死んだ後のことだけを心配するという仏教は、仏教ではない。釈迦以前、つまり無仏の教
え、外道の教えであると言わざるを得ない。生まれた後、死ぬ前まで、この期間の生き方を大事
しよう。仏教はまずそれがコアである。仏教はそれを呼びかけている。僕は、その考えは決して
忘れてはならないと思う。
410神も仏も名無しさん:2009/09/03(木) 13:10:22 ID:6GME+zty
「釈迦以前、つまり無仏の教え、」とか言ってますが、釈迦以前にも悟った
人ぐらい沢山いましたね。私もたまたまその道(悟りへの道)を発見したに
過ぎない、と釈迦自身が言ってますから。
411神も仏も名無しさん:2009/09/03(木) 19:40:48 ID:UJstMJeI
410
問題はそこなんですよ。大経にも過去53仏が説かれてある。異訳にも過去仏はもっと
多く説かれる。そうなると釈迦から仏教が始まったのではない。ずっと以前無始以来あるわけだ。
また弥勒なんかも未来仏になると説くから、本質は仏教は永遠、無量寿ということになる。
おそらく引力とニュ−トンの関係によく似ているね。ニュ−トンが万有引力を作ったのではなく発見して証明した。
しかしきっとニュ−トン以前にもこの引力に気づいていた人も居たに違いないし、たとえニュ−トンがいなくても
きっと誰かが発見したであろう。釈迦と法もこの関係だろうね。
412神も仏も名無しさん:2009/09/03(木) 21:25:09 ID:t++LEwgu
>>411
親鸞は「悟ったのは釈迦1人だけ」と言っていたけど、明らかに間違ってる。
お経のどこを読んでいるのかねえ、あの愚禿のオッサンは。
413神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 01:35:16 ID:iQ7q8dnF
英国も破綻へ

 財政赤字の急増と、量的緩和策による通貨の過剰発行によって破綻が
近づいている構図は、米国だけでなく、英国でも同じだ。英国はプロパ
ガンダ戦略の元祖であるだけに、経済破綻の接近があまり報じられていない。
だが英国は、米国と同じデリバティブ型の金融システムを持ち、米国と
同じ金融危機を抱えている。英国は、経済規模が米国より小さく、ポンドも
ドルと違って基軸通貨ではないため、米国より先に、劇的な破綻が来ると
予測される。

 英国は史上最悪の財政赤字の急増となっており、英国債の売れ行きが
悪化して金利が上昇するのを防ぐため、英中銀がポンドを増刷して売れ
残りの英国債を買っている。英金融界は、この英中銀の量的緩和策を
危険視しているが、英中銀は「来年になったら、英政府が資金調達する
のは難しくなるので、今のうちにやっておいた方が良い」と考えている。
つまり英中銀自身、来年までに英国は財政破綻するので、その前にポンド
増刷で資金調達しておこうと考えている。
414神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 02:37:48 ID:JZnsB7zi
悟らないと仏になれない。諸仏と親鸞は言っている。法然のことも諸仏善知識と言っている。

415神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 10:47:08 ID:SgARIa1c
渡海は、親鸞会のスレを荒らすな。基地外の寝言は、誰も聞きたくないんだよ。
「親鸞会教義の誤り」の管理人に呆れられる程度の教学力で、偉そうなことをいうなよ。

紅楳氏が間違っているところがあるかどうかは、誰も問題にしていないの。

親鸞会の誤りを明らかにするのが、目的なの。

空気の読めないノータリン自営業者は、親鸞会のスレに来るな。
416神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 10:51:44 ID:SgARIa1c
基地外のところに親鸞会の脱会者が行かないからと言って、
勧誘するなよ。

高森と同類のカルト渡海。
417神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 11:08:21 ID:JVWNbGVJ
真宗嫌いにとっては、敵の敵は味方なんだろw
418渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/04(金) 11:08:51 ID:3Wnv7iMf
>>410,>>414
 議論の筋から外れるのでノーコメント。

>>411
>問題はそこなんですよ。

 問題はそこなんですよ。桃太郎には、川から流れてきた桃から子供が生まれたと説かれて
いる。別のところには瓜から女の子が生まれたという話も説かれている。そうなると、子供は
母親から生まれた者ばかりではない。桃から生まれたり、瓜から生まれると言うことは、ずっ
と以前無始以来あるわけだ。
 桃太郎では犬や猿が弓や刀をもって乱闘すると説く。昔は大変立派なお犬さんやお猿さん
がいたということだ。

 おとぎばなしと実話との区別のつかないカキコは相手にできません。
419神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 15:14:43 ID:pXIIt9/B
>>414
プッ。
法然が諸仏うちに入るなんて、
痴呆症かね、その人は。w
420神も仏も名無しさん:2009/09/04(金) 17:24:47 ID:SgARIa1c
テメエの言うことなんか、誰も聞きたくないんだよ。
親鸞会スレに現れるなよ、ノータリン自営業者!

嫌われ者で、誰も共感してないだろうが、気が付けや、鈍感ジジイ!
421神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 01:38:00 ID:LneKlvCs
うちの会社はソフト開発しているんだが、何人か外国人がいる。
半年前のある日、徹夜作業の時に同僚のインド人と夜食の話に。

印「小腹減ったなぁ・・・夜食までは必要ないんだけど。」
俺「確かに、腹減ったなぁ」
印「チョコバーでも買ってくるかなぁ・・・でも太るし、買いに行くの面倒。」
俺「なら、これ食う?」<糖分補給に愛用している、コンビニで買った50円の小さな羊羹を差し出す。
印「何これ?(・〜・)モグモグ・・・ウマー!もう一個頂戴!」
俺「いいよ、ほら・・・」
この流れを3回繰り返す。印度人羊羹の虜に。
この事が切欠で、開発が羊羹に侵食する事に・・・

以下、この半年のうちの開発の羊羹史

翌週、この印度人が羊羹箱買いし、会社の冷蔵庫の一角を占拠。上司の怒られる(つД`)
2週間後、印度人が他のスタッフに夜食羊羹について熱弁する。
3週間後、印度人の買い置きの羊羹が、他の外国人スタッフ多数に食われ(つД`)になる
一ヶ月後、うちの開発スタッフ過半数の簡易夜食用常備食が羊羹となる。
二ヵ月後、開発スタッフのなかで、羊羹がこし餡派と粒餡派で大論争になる、決着は着かず。
三ヶ月後、開発部の冷蔵庫の一角に羊羹(つぶ餡&濃し餡)が常備されているのが普通になる。
四ヶ月後、納期間際でスタッフ全員が徹夜になり、羊羹が切れて大問題になる。
      深夜、俺が大量の羊羹を買いにコンビニを走り回る羽目に(つД`)
五ヵ月後、午後三時の休憩にも、一部スタッフが羊羹を食べる様になる。
半年後の現在、三時のの休憩に羊羹が「おやつ」として定着。

最近では、外国人スタッフも含め、お取り寄せ羊羹の試食会までするようにまでに。
ある欧州人スタッフ曰く、「羊羹は最高のガソリン」とまで断言する奴までいるし。
何はともあれ、この半年でうちの開発スタッフは羊羹に侵食された模様ですw
422神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 07:52:11 ID:NcdCl3El
>>418
親鸞自身は、おとぎばなしと実話との区別は
ついていたんですかね?
423馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/05(土) 11:04:09 ID:IakzCUl8
 江戸時代、百姓は馬車馬の様にして働き、重い年貢に苦しめられ、ご公儀に
無礼を働いたとして、犬猫の様に殺された。
黒船が来て、幕府が外国の要求を受け入れた為に、庶民の生活が益々苦しくな
った。坂本竜馬ら草莽の士が窮民を救う為に倒幕に立ち上がった。明治維新を
実現させる為に何万人もの草莽の士が斃れた。
 帝政ロシアは日本を含むアジアの侵略を企み、コンクリで固めた旅順要塞を
建設して、その基地にしようとした。貧しい日本は乏しい武器弾薬を使って、
肉弾攻撃を行うしか方法がなかった。死屍累々の山を築いても、28センチ榴弾
砲をもってしても、堡塁を破壊する事は出来なかった。砲撃の援護射撃を受け
た決死の肉弾攻撃が功を奏した。乃木将軍の真心に将兵が奮い立ったのである。
ロシアの侵略を防ぐ為に何十万人もの兵士が斃れた。
 メーソンはアジア侵略を防ごうとする日本を、侵略者に仕立てて葬る為に、
日本のメーソンを使って真珠湾攻撃を工作させた。日本の最後通牒遅延を工作
したのは、騙し討ちにして米国民の戦意を高める為である。
暗号解読によって空母等新鋭艦を避難させた。ミッドウェー海戦で艦爆の兵装を
転換させて敗因を作った。日本軍は玉砕、神風特攻で最後の抵抗を試みた。自
分の命を捧げる事で護国の鬼となって、国民の命を護ろうとした。日本を護る
為に何百万人もの人命が失われた。最後に特攻隊員・大塚要の遺書を紹介します。
 母上様
 要は特攻破邪隊第3隊の一員として往きます。
 母上様もこの一事あるは覚悟されていた事と思います。
父亡き後、母上がいかに御苦労なされたか一番知っている自分です。しかし、
国あっての家です。国のお役に立つ、君の御楯となる、男子としてこれ以上の
光栄がありますでしょうか。母上には申訳ありません。家はお願いします。要
が先に逝ったからとて、母上は決して悲しまないで下さい。また身体を悪くさ
れたりすると死んでも死に切れません。健康に充分注意して決して無理をせず、
強く生きて下さい。
424渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/05(土) 12:38:35 ID:lfGrgeTo
>>422
>ついていたんですかね?

 議論の本筋に反します。
 渡海難宛の質問でしたら、
 ぶろぐ親鸞仏教(しんらん.jp)のコメント欄
 又は
  百家争鳴 内 の  掲示板に書いてください。
425渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/05(土) 13:44:19 ID:lfGrgeTo
 また、中村元は言う。「生の苦しみを加えて四苦とし、さらに八苦とするのは、後代の教義学的
反省が加わってから後のこと」である。

 僕は中央公論社が出版した大乗仏典シリーズの『ブッダチャリタ(仏所行讃)』という本を見て
いる。
 ブッダチャリタは、釈迦が城を出た直後を次のように書いている。これは生を暗示する記載だ
ろう。
 「女たちは 〜 好奇心に駆られて 〜 われ先に露台に踊り出た。 〜 曳きずる車のごとき
ふくよかなお腎と雲のようにゆったりした豊満な乳房が重いので、彼女たちの足どりを緩慢にし
てしまった。ある女は 〜 ひそかに恥部につけた装飾品を隠さんと、差恥のゆえに大胆になれ
ず、足どりを抑え、あえて急いではいかなかった。〜」。

 ブッダチャリタは馬鳴(めみょう)が書いている。馬鳴はブッダチャリタの外にも、大乗起信論の
著者でもある。実際の生没年は不明だが、カニシカ王(在位128〜153)と知遇があったそうだ。
ブッダチャリタもその頃書かれたものと考える。
 カニシカ王は、アフガニスタン国境に近いパキスタン領、ペシャワールの王である。大乗仏教
の発生地に近い。四苦説は大乗仏教の中から提唱されてきた考えなのだろうと思う。
 生を四門出遊の問題として、つまり自我を捨て、無我において観察すべき対象であるという考
えは、西暦2世紀の頃には北方インドの仏教徒の中で確立していたようだ。
426渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/05(土) 13:45:05 ID:lfGrgeTo
 浄土真宗は、生・老・病・死の現実を、自我という自己防衛の城を取り払って見直すところに原
点があるということを忘れてはならないと思う。親鸞聖人の教えは釈迦の本懐を説いている。浄
土真宗は釈迦の教えの原点を原点としている。僕はそう言っていいと思う。親鸞が法然の下に訪
れた時の様子を、恵信尼は手紙に書いている。

 何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う。山を出でて、六角堂に百日こもら
せ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあ
ずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあ
いまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、

 外でもありません。主人が法然上人の下に尋ねた時のことは、改めて言うようなことではない
かも知れません。比叡の山を出、京都市中の六角堂に百日間籠もりました。そこで後世を祈っ
ていたのです。九十五日目、聖徳太子の文をむすび、霊験を得ました。やがてその後の日の朝、
そこを出られ、後世の助かる縁を求め、法然上人の下を尋ねました。
427神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 14:43:09 ID:jRDUtfa6
>>426
後世て何?
後生のこと?

仏教は後生なんか扱わないよ。仏教の基礎が理解できていないのだから、もっと
謙虚になった方がいいと思うよ。
428渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/05(土) 16:15:45 ID:lfGrgeTo
>>427
> 仏教は後生なんか扱わないよ。仏教の基礎が理解できていないのだから、もっと
>謙虚になった方がいいと思うよ。

 未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ。今世後世、実の如く之を知る。(法華経)

 後世は、大乗仏教では一般的な言葉なんじゃないか?。

 議論の本筋から外れる議論は控えます。
429神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 16:25:21 ID:lfGrgeTo
追加
 三寶と後世の果報を信ぜず(涅槃経) <親鸞見聞集>
430神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 19:11:42 ID:weDGz76m
まあ両方ともほどほどに。それに一部分だけ抜き出してもその前後の箇所やその部分は全体で
何を言いたいのかをつかまえないとね。
431神も仏も名無しさん:2009/09/05(土) 20:15:56 ID:lfGrgeTo
>>430
>一部分だけ抜き出してもその前後の箇所やその部分は全体で
> 何を言いたいのかをつかまえないとね。

 ばかばかしい。お好きになさいませ。つきあいきれません。
 ノーコメント
432神も仏も名無しさん:2009/09/06(日) 01:32:48 ID:C9sXBTAe
久しぶりだね、元気してた?
ってミカはオレのアドレスなんてもう消しちゃったかな(苦笑)
それとも1年も付き合った相手だし、まだ何となく気になって消してなかった・・・って思うのはオレの自惚れ?(笑)
とにかく俺は元気だよ(^O^)/
仕事はまだしてないけど、おかげで自分を見つめ直す良いきっかけになったと思ってるし、
やっぱり俺は追いかけたい、夢を。
・・・なんてちょっとクサかったかな(笑)
そういえばオレの夢って言ってなかったっけ?
ずっとミュージシャンになりたくてさ、最近はインターネットで色々と情報収集してるんだ(笑)
昔からオレって感性が鋭いとかよく言われてたし、自分でも向いてるって真剣に思うようになった。
最近は作詞なんかもやってて、友達に言わせればプロ級なんだって(爆)
ミカは来週時間作れる? それとも忙しいかな(笑)
よかったらお茶でも飲もうよ(^^)v
奢るから、さ(笑)
その時に歌詞の感想聞かせてくれると嬉しいな(^_−)−☆
ミカを想って・・・書きました♪

【キミにつながる空〜Love Sky〜】

雨降りの真夜中 キミからのTELが鳴り止まない
キミはまだ泣いているのかな それとも泣き疲れて fall asleep?

cry cry cry...don't cry...
もうちょっとだけキミの笑顔が見たい

Love Sky 今はまだ曇り空だけど
Love Sky いつかはキミの笑顔にDiving...
433433:2009/09/06(日) 16:31:55 ID:KqQ3vt5f
十八願が本願というけれど、何で一番じゃなくて
わざわざ十八番目の願を本願とするんでしょうか・・・

大事な事は一番目か、もしくは最後にもってくるのが普通だと思うんですが。
434神も仏も名無しさん:2009/09/07(月) 00:46:00 ID:c9s6efaC
簡単にいうと仏になるために大きく二つの道がある。一つはこの世でなるか、あの世でなるか。
この世でなるとしてどうしたら成れるのか。これも簡単。この世で仏になった釈迦がいるから
釈迦の教えを信じてその内容を聞くのよ。それによるとまず正しく見る。
即ち縁起の法を見てそのごとくなるように努力しろというわけ。
これをまとめると、世の中には縁起の法という働きがあるらしい。これはいつでも何処でもみんなにある。
言葉にするのが難しいらしいのだがすべてのものは縁によって成り立っているという。
だから常でなく縁が変われば移り変わるんだとさ。またあらゆるものは、いろいろなものが集まって成り立って居るんだと。
この私もそうなんだとよ。だから縁が変わると生まれたり無くなったりするんだってさ。
この働きと私が一つになればいいわけだよ。すると縁起の働きを悟り仏になったわけだ。



435神も仏も名無しさん:2009/09/07(月) 02:30:28 ID:BybkcTVO
436渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/07(月) 10:48:05 ID:bkNn/oFx
>>426
 「後世」は、大無量寿経でも、法華経、涅槃経でも広く扱っていることを知らないという人がいるようだ。そ
んなことは特に知らなくても問題ではないと僕は思うが、そんな簡単な話ではないらしい。

 「後世の扱いの有無についての認識」は、「仏教の基礎的理解の存否についてのリトマス試験紙」になる。
「仏教の基礎が理解できていない人」が仏教について自説を語ることは謙虚さを欠く。「仏教の基礎的理解
の無い人」に対し、「貴方は謙虚ではない」という資格が自分にはある。そう考えている人がいるようだ。

 「仏教の基礎的理解の存否」を問題にし、「後世の扱いの有無についての認識」でそれ分かると主張する
人は、少なくとも後世の扱いの存否くらいは、自分で知っておくべきだろう。後世の扱いを知らないならば、
自分の考えに照らし、自分は仏教の基礎的理解がないと認識すべきだろう。

 他人に対し、「貴方は謙虚ではない」というなら、まず自分の謙虚さの有無を問うべきだ。自分の謙虚さの
有無を顧みず、「貴方は謙虚ではない」と他人にいうなら、自分の傲慢さを恥じてほしい。

 「貴方は仏教の基礎的理解がない。貴方は謙虚さがない」。自分の自画像を相手に重ね、自分の自画像
と相撲を取る。自作自演の一人芝居が趣味なんだろう。

 西派の坊さんには済まんが、2ちゃんねるで培われた僕の偏見か。このレスで頭の悪そうな人を見ると、
みんな西派の坊さんに僕には思えてくる(苦笑)。

 馬鹿な奴は全て西派の坊主と思われるようになれば、信頼が頼りの宗教宗派は大変な危機ではないか。
僧の社会的使命観・社会的責任観・目標管理・自己研鑽・社会人としての常識・礼儀。西派は、宗派内に仏
教以前の社員教育・研修がないようだ。多分、それが組織の最大の病巣だろう。組織は腐敗が拡大している。


>>433
 康僧鎧と善導の見識の違いです。重要な問題を含んでいます。いまは、議論の本筋に反します。
 渡海難宛の質問でしたら、ぶろぐ親鸞仏教(しんらん.jp)のコメント欄 又は「百家争鳴」内の掲示板に書
いてください。
437渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/07(月) 10:52:59 ID:bkNn/oFx
>>436

誤 >> 426

正 >>427
438神も仏も名無しさん:2009/09/08(火) 01:07:45 ID:lnuzcQuU
親鸞会に関する最新の情報

●親鸞会.net
http://www.shinrankai.net/
 ・サイト下部のミニニュースは新しい話題を提供しているようです。(画像あり)
  また、最近の行事の様子は、公式サイトの「沿革」にあります。
  http://www.shinrankai.or.jp/s/enkaku/enkaku.htm

 富山県射水市の親鸞会館(正本堂)では毎月ご法話が開催されています。
 「仏法は聴聞に極まる」
 親鸞聖人のみ教えを聞き求めましょう。
 ・会館へのアクセスマップ
  http://www.shinrankai.or.jp/s/access/access.htm
  http://www.shinrankai.net/info/kaikan.htm(Googleマップ付)
439神も仏も名無しさん:2009/09/08(火) 01:08:27 ID:lnuzcQuU
(参考)
批判に対する反論関係
・親鸞会批判の真実 被害家族の会の正体
 http://kazoku.sub.jp/
・なぜ私は親鸞会をやめたのかを読んで
 http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/
・マインドコントロールと親鸞会の真実
 http://mindcontrol.tudura.com/
・「親鸞会の本尊論を再考する」を読んで
 http://shinrankai.sytes.net/

会員の体験記
・親鸞会の真実 何が息子を変えたのか
 http://www.geocities.jp/ongwanji/
・浄土真宗の真実信心を求めて
 http://www.daihi.net/
・浄土真宗を憂う
 http://shinshu.fubuki.info/
・法悦の泉
 http://religion.saloon.jp/
440渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/08(火) 10:35:17 ID:Nrqmq6+R
 鎌倉時代、いわゆる鎌倉仏教と言われる宗派が多数生まれる。そのうち、現存するのは六
宗派だろう。臨済宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗である。時宗の一遍を除きそれ
ぞれの宗祖は全て比叡山で学び、途中で山を下りている。比叡山を下りた後の歩みには共
通点がある。彼らは、盛んに武士達にアプローチした。

 親鸞は後世の助かる道を求めて六角堂で祈り、後世の助かる道を求めて法然の下に行っ
た。その法然も、比叡山で修行し、山を下りた高僧の一人だった。法然・親鸞・日蓮の三人は流
罪という弾圧を受けている。

 比叡山で修行していた人々は、何に苦しみ、何にその解答を得たのか。親鸞については、女
の尻が忘れられず、悶々としてそれを追いかけて山を下り、結婚したんだろうと、当時の坊さん
に対して実に失礼なことを言う人もたくさんいる。
 「公然たる妻帯に踏み切るという、従来のモデルではとうてい許されないこの?神の行為に
堪えられなかったに違いない(梅原猛の歎異抄入門)」と書かれ、「公然の妻帯僧」・「?神の
僧」などと、有り難くもないレッテルをさかんに貼りたがる。

 当時の時代背景を追ってみた。
441渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/08(火) 10:36:30 ID:Nrqmq6+R
1156年 保元の乱(法然23歳、栄西15歳) 
1159年 平治の乱(法然26歳、栄西18)
1168年 栄西(35歳)が宋に留学
1175年 浄土宗開宗(法然42歳)
1180年 源平の合戦開始(法然47歳、栄西39歳、親鸞7歳)
1181年 親鸞得度
1184年 木曾義仲 征東大将軍(法然51歳、栄西43歳、親鸞11)
1185年 平家滅亡(法然52歳、栄西44歳、親鸞12歳)
1189年 義経自刃(親鸞16歳)
1192年 鎌倉幕府樹立(親鸞19歳)
1199年 頼朝死去(親鸞26歳)
1201年 親鸞(28歳)が法然教団に参加
1204年 2代将軍源頼家幽閉暗殺
1217年 道元(17歳)が栄西の弟子明全に師事。
1219年 3代将軍 源実朝 暗殺
1221年 承久の乱(親鸞49歳、道元21歳)
1223年 道元(23歳)が宋に留学
1224年 親鸞(52歳)による教行信証執筆
1251年 一遍は、法然の孫弟子に当たる聖達の下で浄土宗西山義を学ぶ。
1253年 日蓮宗開宗(日蓮31歳)
1274年 元寇の役(日蓮52歳)
      一遍(37歳)は、念仏札を配り始める。
1281年 元寇の役(日蓮58歳)
442渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/08(火) 10:42:38 ID:Nrqmq6+R
>>440
 ?神の行為 → 涜神の行為
443無明の闇:2009/09/08(火) 20:41:41 ID:DEbRUucc
鎌倉時代の仏教の特色は選びという事だ。それぞれの旗印を考えればすぐに分かる。
法然さんは選択本願念仏、親鸞さんは唯信心、道元さんはひたすら座禅、日蓮さんは唱題成仏
いずれもこのこと一つというのが特徴。
法然さんにいったてはさらに明確に言うよ。選択というは取捨の意なり−−−二門章 即ち選び取ると言うことは
他を捨てることだね。親鸞さんもこれをうけて唯というはこのこと一つをいうなり。二つ並ぶことを嫌うことばなり
という。いずれにしても、あれもこれもじゃなくてこの事一つというのが鎌倉仏教の特色だ。
二つめは山の仏教ではないということだね。すなわち民衆に対して救いを説くのよ。山の宗教はあくまで国家僧であり国家の発展を祈る。
権力者のための仏教だ。それに対して鎌倉仏教の諸氏は本来仏教の目指すのは大乗菩薩道、大衆の救い、むしろ権力者から虐げられている
人々こそ救われなければと民衆の救いに出て行った。これが二つめの特徴だ。
三つめは末法時代においての救いが完全に明らかにされた点だね。これによって釈迦仏教の究極が法然−親鸞さんを通して明らかになった。
簡単にいえばすべてのものが救われる道が明らかにされたわけね。以上
444神も仏も名無しさん:2009/09/08(火) 23:39:55 ID:YnaoI1oC
親鸞会に関する疑問、質問
・公式サイトにQAコーナーがあります。
 http://www.shinrankai.or.jp/s/qa/qa01.htm
・また「親鸞会 親子ネット」のFAQも役に立ちますので、参考にしてください。
 http://homepage2.nifty.com/shinran/faq/index.htm
445433:2009/09/09(水) 01:55:59 ID:ki8iKCIk
>>436
失礼しました。
親鸞仏教(しんらん.jp)のコメント欄にて送信いたしました。
優先の議題が終了してかれで結構ですので、よろしくお願いいたします。
446渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/09(水) 10:40:37 ID:CULnv0nl
>>445
 非常に面白い問題の提起、ありがとうございました。
 実は、この問題は、僕が以前、ある坊さんから仏教を教わっていたとき、その坊さんに最初
に抱いた疑問の一つでした。この坊さんの言っていることはおかしいんじゃないか。そう思っ
て、その人を離れていく心理的遠因の一つになった問です。僕と同じような疑問を持つ人も
いるものだと、関心しています。

 西派の坊さんだそうですね。名乗ってくださったことに感謝します。僕はこれまで2ちゃんね
るではかなり西派の人に激しい言葉をぶつけてきました。ここで西派を名乗ることはかなり勇
気がいることではなかったかと、勝手に想像します。
 西派にも、仏教について真剣に考えている人はいるはずだと、そう思ってきていましたが、2
ちゃんねるには、猥褻画を貼ったり、ノートントラップを貼ったりすることに代表される頭の悪そ
うな坊さんばかりが西派からは登場してきて閉口していました。

 当然のことですが、親鸞は、親鸞の教えを知らない人に親鸞の教えを説いていました。親鸞
の教えなら百%鵜呑みにするという人を相手にしていたわけではありません。親鸞の教えは
おかしいんじゃないか。そのように疑いを持つことこそ、ものごとを真剣に学ぶ第一歩でしょう。
おかしいと思えるところの根幹を自分の中で明瞭化し、いつでも親鸞フィルタを外して考えるこ
とを忘れない。これこそが、親鸞に仏教を学ぶ上で一番大事なことと思います。

 大無量寿経は真実の経であり、十八願を王本願というなら、十八願こそ第一願にくるだろう。
何か嘘があるんじゃないか。一番大事なのは、第一願ではないのか。嘘を隠さず正直に言っ
て欲しい。このような疑問を持つことこそ、親鸞仏教を学ぼうとする者にとっては最も重要な態
度だろうと思います。
447渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/09(水) 10:42:55 ID:CULnv0nl
 親鸞の主張を真剣に考えている若い人も西派におり、この2ちゃんねるにもいるということを認
識し、僕は今後も発言をしていきたいと思います。
 西派には頭の悪い坊さんがたくさんいるようです。そういう人の一部が2ちゃんねるに常駐して
います。そういう人には、従来の態度を変えるつもりはありませんが、貴方のような人もいること
は、覚えておきたいと思います。

 コメント欄に送信したとありましたが、実際には電子メール欄に書き込まれていました。親鸞仏
教のコメント欄に移しておきました。メールアドレスは伏せておきました。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/2009/09/post_111.html#comments

 浄土真宗と原始仏教との関係について議論はもうしばらく続きます。その後で本願論を議論し
たいと思います。
448神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 12:13:22 ID:XgAOw8Oe
いいね〜
宗派では特定のことしか教えないから
こういった掲示板は教学の常識を変えるね
449神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 16:24:32 ID:hchHM43X
親鸞会ブログナビ
http://www.shinrankai.biz/

清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

私の白道
http://byakudo.exblog.jp/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/
450433:2009/09/09(水) 16:43:52 ID:MOunTuvj
>>447
>>実際には電子メール欄に書き込まれていました
いつも見ているだけなので、こういったやり取りは不慣れでして、お手数をおかけしました。

お察しの通り、所属を名乗ることについては躊躇しましたが、質問する者としての礼儀と、
もう一つは質問者の所属が分かることによって渡海さんの話の進め方もスムーズになると思い、
最低限ですが名乗らせていただきました。、


どうぞお話を続けてください。
451神も仏も名無しさん:2009/09/09(水) 17:42:28 ID:2+I5NA0F
もっと親鸞会の情報を書き込んで下さい。親鸞会はすばらしい!
452馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/09(水) 21:41:02 ID:PUjt2/H1
 狂牛病は牛の共食いによって起き、豚インフルは豚の共食いによって起きる。
牛も豚も人間に近い動物で、彼らを食う事は共食いと同じである。
 神の最後の審判
 日本人は神の戒律(不殺生(肉食も)、不姦淫、不愉盗、不虚言、不破壊(神が
創り賜うた自然の破壊))を破った罪で死刑に処する。ただし、反省して改心し
た者は、それまでの罪に応じた死の苦しみの試練に耐える事が出来れば、弥勒
の住人となれる。改心出来ない者は当然その試練に耐えれないから、段階的に
動物以下にされる。最下位は草木に替えられる。その中でも極悪なものは魂ま
で焼き滅ぼされる。
 人間供の罪状
 科学者 神の存在を否定し、神の働きを愚かな理論にすり替えて誤魔化し、
人民を騙している自然破壊の極悪人。
 宗教家 神の戒律を人民に正しく伝えず、悪魔の宗教を広めた極悪人。
 政治家 神の天産自給の政治を行わず、金権政治をはびこらせた極悪人。
 教育者 間違った道徳、学問を世に広めて、非人を産み出す学歴社会を築い
た極悪人。
 医 者 人民の悪業を悟らせず、邪道の西洋医学で誤魔化して、自然治癒力
を毒によって弱体化させている極悪人。
 農 家 土地を農薬と肥料で汚染し、毒漬け作物を売っている悪人。
 主 婦 女の役割(家事等)をまともに勤めず、男に逆らって、不道徳を行い、
社会制度を壊している悪人。
 企業家 金儲けに走り、公害を撒き散らし、国民から搾取している悪人。
 公務員 公僕を忘れ、世の為に働いていない、税金泥棒の悪人。
 商 人 商品を右から左に動かすだけで暴利を稼ぐ悪人。
  その他世の為に不必要な職業 人の生血を吸っている悪人。
 世の為に役立っているのはただ一つ、昔ながらの百姓のみである。
453神も仏も名無しさん:2009/09/10(木) 03:10:26 ID:4mGm7DkT
田中美絵子サイト偽装まとめ(9月10日第1版)

田中美絵子 OFFICIAL WEB SITE (http://www.tanakamieko.jp/ )にアクセスしようと
すると、以下の表示が出る。

 現在アクセスが集中しており閲覧が難しい状態となっております。
 申し訳ありませんが、お時間を空けて再度アクセス下さい。

ところが、ページソースを見ると…。

<!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN">
<html lang="ja">
<head>
<meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=UTF-8">
<title></title>
</head>
<body>
現在アクセスが集中しており閲覧が難しい状態となっております。<br />
申し訳ありませんが、お時間を空けて再度アクセス下さい。
</body>
</html>

つまり、ホームページを偽装している。
過去スレで誰かが言ってたが、本人が自分で電話に出て
「この番号は現在使われておりません」って言ってるようなもの。

454渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/10(木) 11:58:09 ID:sLVRNn1T
 激動の時代、どのような者が歴史に登場し、歴史はどのように変化していくか。概観してみた。
 武士の時代が終わる時、全国に渡って戦争が起きた。鳥羽伏見の戦い、上野戦争、会津戦争、函館戦争
である。西南の役をもって我が国は内戦の時代が終わる。
 内戦では多くの兵士達が死ぬ。戦争以外でも、テロと弾圧で多くの人々が傷つき、死んでいった。ほとんど
が、二十代から三十代の若者である。病死もいるが、病を顧みずに無理をした事実上の戦死とみていいだろう。
 幕末から明治維新にかけ、激動の時代変革を動かしたのは、死を恐れず時代に立ち向かっていった
二十代、三十代の若者だった。

明治元年(1868)前に死んだ人の享年と死亡年
 吉田松陰(29歳 <1859年刑死>)、坂本龍馬(31歳 <1867年暗殺>)、
 高杉晋作(27歳 <1867年病死>)、中岡 慎太郎(29歳 <1867年暗殺>)
 井伊直弼(45歳 <1860年暗殺>)
 幕末期、明治を目前に多くの者が暗殺と刑死で死んでいった。

明治元年(1868年)の年齢とその後の死亡年
木戸孝允(35歳 <明治10年病死>)、大久保利通(38歳 <明治11年暗殺>)、
西郷隆盛(40歳 <明治10年戦死>)、小松帯刀(33歳  <明治3年病死>)
松平 容保(32歳 <明治26年病死>)
近藤勇(34年 <明治元年刑死>)、土方 歳三(33年 <明治2年戦死>)、
勝海舟(45年 <明治32年病死>)
 明治元年を通過した者も、その後の余命は一般に短い。天寿を全うした者は少い。

吉田 松陰  1850年、九州に遊学、会津藩旅行、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収
 1853年 アメリカ密航計画 野山獄に収監
 1855年 出獄を許され、杉家に幽閉
 1857年 松下村塾を開塾
 1859年 安政の大獄斬刑
坂本龍馬
1862年 脱藩 その後、勝海舟の弟子となる。
高杉晋作
 1864年 脱藩 投獄 謹慎処分
 1865年 赦免
455渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/10(木) 12:01:51 ID:sLVRNn1T
 若者は、命知らずで組織を抜け出し、自らが信じる道を突っ走る。多くの同志の死を乗り
越え、あるいは多くの同志が乗り越えてく礎の屍となって自らの身を曝すことを彼らは恐れ
なかった。
 煩悩に狂わされ、女の尻が忘れられなくて組織を抜け出し、駆け落ちをしたという志士た
ちを僕は知らない。幕末から明治にかけて、日本を大きく動かした若者たちこそ、まさに命
を賭けて後世を憂いた人々だっただろう。

 時代が激しく変化する時、若者は将来の国を憂い、情熱をたぎらせて命を捧げ、時代の
変革に乗り出す。比叡山を飛び出た栄西・法然・親鸞・道元・日蓮もそのような人々だった
のだろう。現代では、それぞれ宗派を開いたことでこの五人の名前が有名だが、実際には
その百倍、二百倍もの人々が飛び出ていただろう。例えば、一念多念分別事を書いた隆寛
律師なども、地味な存在であっても、比叡山を飛び出た忘れられない一人である。

 栄西・法然・道元・日蓮などは確かに、時代の変化に情熱をたぎらせて比叡山を飛び出し、
栄西・道元はさらに中国にまで渡っていった人だ。しかし、親鸞だけは違う。女の尻の味わ
いが忘れられず、女のことを夢にまで見、性欲にいたたまれなくなって駆け落ちし、その後甘
い甘い結婚生活に入た。浄土真宗を標榜する坊さんでさえそのように思うのは、それぞれの
勝手だ。親鸞聖人は、私たちと同じ、愛欲の広海に沈没する煩悩具足の身なんです。そんな
ふうに自分のノータリンぶりの自画像を宗祖にかぶせ、自分も親鸞と同じだと、自分のノータ
リンぶりに鼻提灯をふくらませてアグラをかく。ノータリンには、僕がいくら反論しても、貸す耳
などはないだろう。

 ノータリンに反論するつもりはない。比叡山を下りた時の親鸞の真意というものを、僕は実
体に即して推測してみたい。
 なお、行者宿報の夢告伝説は史実に反することは、以前、ブログに書いた。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/2009/07/post_98.html
456無明の闇:2009/09/10(木) 23:31:03 ID:ijwZWjd8
親鸞聖人の結婚観について一考察。
親鸞さんは聖徳太子を尊敬されておられるわけです。7高層様と同じように。
それはどうしてなのか。聖徳太子の和讃も作られており、また太子を和国の教主とまで言われています。
理由はいくつか有りますがその中の一つに仏教を非常に厚く信じておられた点なのです。ところがその太子は
出家されずに在家信者のまま一生を過ごされたのです。ここに親鸞さんは仏教徒の理想を見られたのです。
二つめは内省という求心的なものの見方を聖徳太子は仏教によって身につけられた点です。
この伝統は遠く善導さん、太子、源信さん法然上人、親鸞さんと受け継がれているのです。
簡単いえば凡夫の自覚なのです。17条憲法も最後に自他ともにこれ凡夫なりとおっしゃっています。
つづく
457無明の闇:2009/09/10(木) 23:44:39 ID:ijwZWjd8
親鸞さんは叡山において29年堂僧をされておられたのです。当時の平均寿命は
50歳前後の時代に今更、女性を求めたりはしないでしょう。またむしろ当時は表は
聖僧でも隠れて女性と交わっていた僧は少なからずいたわけです。法然門下の時に署名を
僧シャックウとされておられますのでこの時までは少なくても僧の自覚であり、聖僧であったと
思われます。親鸞さんは叡山で仏道に悩まれ聖徳太子のゆかりの地である六角堂に参籠され夢告をうけ
法然さんの草庵に訪ねて行かれるわけです。それから100日間通われて自分の疑問をぶつけ、また
法然さんから念仏の教えを聞かれるわけです。ここで妻となる恵心尼さんと出会われるわけですね。
もともと恵心尼の方が先に法然さんの元に通っておられて、そこに親鸞さんが後からこられた。
これは恵心尼さんのお手紙に書いてある。  
つづく
458無明の闇:2009/09/10(木) 23:58:43 ID:ijwZWjd8
おそらくこの法然さんの元におられた時に結婚をされたか、流罪地でされたか。
結局親鸞さんは出家の救いではなく在家の救いの道を歩まれるのです。
これを決心させたのは聖徳太子が在家のまま一生を仏教徒として過ごされたこともあるだろうし
またこれこそ仏教の救いの目指すものとの考え方もあっただろうし、法然さんからのようは念仏申される用にすべし
妻をめとって念仏がでるならめとればよい。一人で居る方が念仏がでるなら一人でいるがよい−−
とのお言葉に裏付けられたのも理由の一つだね。一遍さんなんかは自分は一人で尚かつ遊行しないと念仏がでないから
しているんだ。ここまでしないと念仏が申せない下の人だと自分のことをいっているよ。
念仏に上中下の三あり。上の念仏者は妻をめとり家をもち生活しながらできる念仏者。中のものは妻はいないが家を持っている念仏者。
下の念仏者は家をすて妻をすて一人にならないと念仏が申せないもの。私は下の念仏者といっている。すると一遍さんにとっては
親鸞さんは上の念仏者、法然さんは中の念仏者と写ったわけです。
つづく
459無明の闇:2009/09/11(金) 00:10:32 ID:eT0bKbR3
結局親鸞さんは最も念仏を申すことが難しい環境の中で念仏者の道をいかれた訳です。
それは仏教が出家せずに在家のままで救いが成り立つのか。そのことを自ら体解し顕さなければ
法然さんやお釈迦さんの教えはすべてのものを救えない、特殊な人のみを救う教えとなるわけです。
専門用語では大乗ではなく小乗ということになる。そういったものを背負って結婚され子をそだて
その中に大乗仏教を完成されて行かれたのであります。だから机の上の論理ではな身をもって確かめられたからこそ
確信となるわけです。三つめは末法思想の考えであります。時は今末法なのですからこの時代は行や戒律が成立しないわけです。
どうして破戒になるのでしょうか。破戒というのは戒律がある時代に破るから破戒になる。戒律がない時代の末法は無戒であるのです。
ならば妻をめとっても破戒ではない。問題は無戒の末法のすくいは何かと言うことなのです。
460無明の闇:2009/09/11(金) 00:23:15 ID:eT0bKbR3
末法になり無戒の時代だからこそすべての人が平等になる。それまでは戒律を守れるものが上で守れない在家は下なのです。
だからこの無戒のすべてが平等の時代の救いはすべてのものが救われる教えでないと真実とは言えないのです。救いに条件が
あるのは正法像法の時代の教えなのです。大無量寿経がどうして真実なのかは、救いの対象が十方衆生と願文にあるからです。
まさに無戒の時代には十方衆生と呼びかけていなくては真実とはいえないのです。だからこそ
この大無量寿経は真実の経なのです。
461神も仏も名無しさん:2009/09/11(金) 02:05:12 ID:qeqmJ/Nw
リーマンショックがあらわれた!
リーマンショックはマダンテをとなえた!
アメリカは500ダメージをうけた!
日本は300ダメージをうけた!
イギリスは800ダメージをうけた!
イギリスは死んでしまった!
麻生「いのちをだいじに!」
麻生「フバーハ!」
麻生「スクルト!」
麻生「ザオリク!」
麻生「ベホマラー!」
馬車からマスコミがとびだしてきた!
マスコミ「ザキ」
麻生は死んでしまった!
馬車から鳩山がとびだしてきた!
鳩山は混乱している!
鳩山「パルプンテ」 ←いまここ
462神も仏も名無しさん:2009/09/11(金) 10:58:05 ID:JFdepjlQ
>>460
結局イデオロギーですか 興味ないな
463渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/11(金) 11:36:51 ID:KHHeijit
 保元の乱・平治の乱は、摂関政治が行き詰まった朝廷内の覇権争いが原因だ。都で政
権闘争を原因に大規模な武力が発動したのは薬子の変以来350年ぶりである。しかもそ
の規模は薬子の変とは比較にならない。王位継承を巡る反乱で保元の乱・平治の乱に匹
敵するのは壬申の乱(672年)、つまり480年ぶりのことだ。
 平安時代にも京都以外では内乱もあった。俘囚の乱(889年)、将門の乱(940年)純友
の乱(940年)などである。しかし、これらはいずれも無事に収まっていた。

 平治の乱の後、平家つまり武士団の発言力が急速に高まる。武家の統領である平清盛
は天皇家の姻戚なり、娘は安徳天皇を生む。日宋貿易を独占し、政治の中心を福原に移
す。大量の武士達が公卿、殿上人として政治に参加しだした。将門の乱・純友の乱で官軍
となって乱の鎮圧側に加わった者の子孫は、その後、各地で正当な武士として大きな力を
もちだした。平家は、全国の荘園を領家や預所という荘園管理者を事実上の配下に加え、
全国を武士団ネットワークで支配する形を完成させる。彼は、甲冑に身を固め、刀と槍と弓
矢とをもって集団的に発言する。平家でない者は人にあらずと放言する者が出る(平家物
語)。しかし、その多くは自分の名前も書けない、読めない人々だったろう。
 自分の名前も書けない、読めない人々が出す指令は朝令暮改となる。朝出た指令が夕
方に変わっている。刀と槍と弓矢でそれに服従を強いられる者は、表面的には従う形を取っ
ても、考えていることは違ってくる。仕えるという行為は継続しても、意思は別の方に向かい
出す。面従腹背という病的な現象が生じてくるのだ(彷徨)。
464渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/11(金) 11:37:46 ID:KHHeijit
 やるべき目標・意思は固まっても、具体的に何をしていいのかは分からない。昨日の命令
と今日の方針とが百八十度変われば、現場は混乱する。組織は急速に老化を起こす(疲労)。
 彷徨し、疲労した政治社会は、多くの不幸を作り出す。こんな時代は長く続くはずがない。
必ずや立ちゆかなくなって挫折する(死)。その後(後生)はどうなるだろう。早く正しく社会を
再生させなければ、大変なことになる。
 社会の危機に当たって、社会の変革を志す者が登場するのは、幕末と明治維新の時代だ
けではない。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、同じような時代だった。栄西・法然・親
鸞・道元・日蓮という五人の賢人の中では、後生の一大事に最も早く気がついたのは、最も
早く生まれていた栄西と法然だったということだろう。
465渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/11(金) 11:59:28 ID:KHHeijit
 現在における生(再生)・老(疲労)・病(彷徨)・死(挫折)は、過去、無数の人々が繰り返し繰り
返し経験してきた生老病死といささかも変わらない。今後に渡って無数の人々が繰り返し繰り返
し経験して行くであろう生老病死といささかも変わらない。まさに繰り返し、繰り返し、繰り返され輪
廻する生老病死なのだ。この現実にどう立ち向かうのか。次にはどう再生していけばいいのか。
                                           (後生の一大事)

 中国は、当時、日本より文化が進んだ国であり、日本がいま経験している生老病死は、中国で
はそれ以上に経験してきているはずだ。そうであれば、何か解決の知恵が中国にあるのではない
か。栄西は、比叡山での学習に見切りを付け、中国に留学する。一方、法然は、既に日本に伝来
していた善導大師の言葉の中に光明を見つける。しかし、このとき彼らが手にした手段は、意外に
も共通していた。しかもその道は、やがて弾圧・迫害という形で排斥を受けるという点でも類似して
いた。
466神も仏も名無しさん:2009/09/11(金) 16:24:23 ID:ZxZwZKy8
「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」ふうのスレッド、「釈迦よりも親鸞聖人を
有難がり」の変なスレッドはここですか。
467渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/11(金) 18:19:30 ID:KHHeijit
>>457
 またむしろ当時は表は聖僧でも隠れて女性とエッチしていた僧は少なからずい
たわけです。法然門下の時に署名を僧シャックウとされておられますのでこの時
までは少なくても僧の自覚であり、隠れてエッチしていたと思われます。親鸞さん
は叡山で仏道に悩まれ聖徳太子のゆかりの地である六角堂に参籠され、公然と
エッチしなさいよと夢告をうけ、法然さんの草庵に訪ねて行かれるわけです。それ
から100日間通われ、エッチしてはいけませんかと自分の疑問をぶつけ、また法
然さんからエッチしていいよという念仏の教えを聞かれるわけです。ここで妻とな
る恵心尼さんと出会われ、恵心尼さんに手を出すわけですね。もともと恵心尼の
方が、ここならエッチができると思って先に法然さんの元に通っておられて、そこ
に親鸞さんが後からこられ、手を出してきた。これは恵心尼さんのお手紙に書い
てある。

 ↑
 こういう発想をする人は、僕は卑しい人間だと思う。
 当時の坊さんに対して、失礼なんじゃないか?
468神も仏も名無しさん:2009/09/11(金) 19:12:30 ID:57LwCyVU
善知識中根繁先生^^
469無明の闇:2009/09/11(金) 22:36:16 ID:6RjllOMg
まあこればかりは、末法思想を理解していないと親鸞さんの思想は分からない。
当時の僧もよく理解していないのが多くいた。中には自分を釈迦の生まれ変わりなどと
言うのもいた。仏教のいろんな教えの一つに真宗があるのではなく、各宗派は結局真宗に行き着くしかない。
浄土真宗が仏教の究極的な教えなんだよ。
470渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/11(金) 23:50:20 ID:KHHeijit
>>469
 もともと恵心尼の方が、ここならエッチができると思って先に法然さんの元に通って
おられて、そこに親鸞さんが後からこられ、恵心尼にエッチしようと誘った。恵心尼は
喜んで誘われてエッチした。お手紙に書いてある。
 
 浄土真宗が仏教の究極的な教えなんだよ。
  ↑
 自分の頭がどういう宗教で洗脳されているか、よく考えた方がいいぞ。
471神も仏も名無しさん:2009/09/12(土) 00:53:05 ID:2rLUmllV
罪悪感もなく平気で盗作する神経の持ち主”高森顕徹”
その著作(パクリ)の歴史をみる。

高森顕徹氏の著書のルーツ
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/index_pkr.html

大沼法龍師の言葉
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu

大沼法竜師に学ぶ 故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく
http://blog.goo.ne.jp/onuma_horyu/

高森顕徹氏の獲信体験
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/gyakushin.html

親鸞会録音資料
http://shinrankai.hp.infoseek.co.jp/recdata.html


472渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/12(土) 14:16:31 ID:D7IYjL7G
 ブログ親鸞仏教を更新しました。

 意外にも真言宗立川流と浄土真宗との密接な関係が見つかったと
思います。

 真言宗立川流と浄土真宗との関係を書いてみました。

  しんらん.jp 
473馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/12(土) 14:46:31 ID:VyOr/524
 明智光秀の正体は斎藤義龍
斎藤義龍→明智光秀→千利休→表:南光坊智楽院(南朝内落胤)、裏:柳生石舟斎
斎藤竜興→古田重勝→古田織部→表:柳生宗矩、裏:服部半蔵
 美濃8代守護・土岐成頼は丹後から逃れた一色兵部少輔義遠の子である。義遠
は八社神社に鐘を奉納したが、元は垂井町清水寺の鐘である。これは天皇家血
筋の成頼を貰った美濃側の返礼で、彼は後醍醐天皇の子孫、長屋親王の血筋で
ある。秀吉、家康が光秀を殺す事が出来ないのは天皇家の崇りを恐れたからだ。
 成頼の孫が頼芸で、道三は彼の愛妾・三芳野を貰った。そのお腹にいたのが
義龍である。だから、一色左京大夫義龍と名乗った。義龍は親殺しと言われて
浄土宗と争って、その混乱の責任をとって、跡を竜興に譲って隠居した。名を
明智光秀と変え、放浪に出た。彼が義昭の幕臣になれたのは一色家の血筋の為。
信長が光秀を家来にしたのは、彼の才能に惚れたからであり、彼に従属する美
濃衆を利用する為である。
 谷汲の頼芸の墓の家紋は二引き両で一色家の家紋である。天海の喜多院の家
紋も同じ。光秀が義龍である証拠は隣の三芳野神社で、母を偲んで名付けた。
 秀吉が利休を切腹させた・嘘のは正体が光秀だとばれたから。家康が織部を
切腹させたのは正体が竜興だとばれたから。
 重勝と織部は本巣市山口で生まれ、同時期に同じ官位を得ている。両者は同
一人物。生れも辰年。
 柳生家の家紋は二階笠で、謂れが坂崎政道から譲られたと言う。しかし、家
紋は血筋を表す大切な物で貰う訳がない。秀吉は重勝に朝鮮役の軍功で唐人笠
三の家紋を与えた。二階笠はその変形である。忍術は天皇の神仙術から派生し、
裏柳生の御庭番はそれである。
 一色軍記では一色義定は本能寺の変以前の2月に殺されたとあり、丹州三家物
語では9月に殺害とある。即ち細川藤孝は信長殺しの犯人側で、義定が光秀に味
方しない様事前に殺害し、事後にすり替えた。信長は本能寺ではなく二条城で
秀吉に殺され、信忠は安土城で家康に殺された。父子の遺骸を光秀天下防止の
為隠した。明智軍記はその秘密隠蔽の為に書かれた。明智城跡の六親眷属幽魂
塔の下から江戸時代の煙管が出た。偽装である。
474無明の闇:2009/09/12(土) 21:06:33 ID:wTkJFNxb
さてと仏教に二つの道があるんだよ。一つはこの世で悟り仏になる。これ聖道門。
もう一つはあの世で浄土に生まれ、浄土で仏になる。これ浄土門。問題はどの仏の浄土を
選ぶかだね。親鸞さんはどうしてアミダ仏の浄土を選ばれたのか。

475無明の闇:2009/09/12(土) 21:09:04 ID:wTkJFNxb
聖道門は時代が末法だから当然無理。残るは浄土門だけ。
476神も仏も名無しさん:2009/09/13(日) 02:05:28 ID:4f7bbVDf
何度言っても日本語が理解できないアホが多いのでもう一度。

このスレは重複スレにつき、削除依頼が出されてます。
下記へ移動してください。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1231604002/l50

今度このスレに書き込んだ場合は「重複スレ保全荒らし」として運営側に報告します。

また、「趣旨が違うから重複してない」とか「ここは独立したスレ」とかあれこれ理由をつけて重複スレを正当化しようとしてる人がいますが、そんな言い訳は通用しません。
今後そういうことを言う人がいても一切受け付けません。
477渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/14(月) 13:49:02 ID:Jxbz29Oy
 1184年、法然、栄西らが恐れていた事件が都で起きる。平家を追い出した木曽義仲が京都に入る。
木曽義仲軍の実体は規律ある兵隊ではなく、木曽の山賊集団だった。彼らは京都市中で蛮行の限りを
尽くし、治安維持に失敗する。当時、親鸞は十一歳である。事件の中身は十分理解できただろう。

 かつて、カンボジアでアメリカが国王政権を倒してロンノル傀儡政権を樹立する。傀儡政権には地盤が
ない。国王政権時代には山中に追いやられていたポルポト軍が勢力を拡大し、ロンノル政権を倒す。ポ
ルポト派は、極端な原始共産主義を妄想し、約百万の人々を虐殺し、その後カンボジアは泥沼の内戦に
陥る。文字を読めない、書けない山賊に大国が鉄砲・大砲・ロケット・地雷を渡せば、社会は生き地獄と
化す。

 木曽義仲軍は義経軍によって駆逐される。義経軍は西に進軍し、京都を退去していた平家を壇ノ浦で
滅ぼす。義経は京都で英雄として迎えられるが、その義経も、やがて陸奥で自刃する。源氏はその後、
全国に勢力を拡大するが、平家以上に内部で殺し合いが続く。頼朝は弟の範頼を殺し、二代将軍頼家
は頼朝の弟の阿野全成を殺している。

 人は、意思と行動で人格が決まる。意思と行動が同一であれば、同じ人格である。意思が変わり、行
動が変われば新たな別の人格が再生する。人は、再生・疲労・彷徨・挫折を繰り返す。再生と挫折を繰
り返す。生死生死を繰り返す。これを迷いという。
 今、現在のこの生死生死は、過去、無数の人々が繰り返したきた生死生死といささかも変わりない。将
来に向かって無数の人々が繰り返してきた生死生死ともいささかも変わりない。
 いまこの私は、過去、無数の生死生死を繰り返し、将来に向かって無数の生死生死を繰り返していく。
自分達はその現実にどう向かっていけばいいのか。幕末の時代、多くの若者が国を憂い、革命に命を賭
けた。平安末期にも、多くの若者が後世の国を憂いたはずである。

 親鸞は二九歳の時、聖徳太子に後世を祈ったという。どのように祈ったのか。女の尻の味わいが忘れ
られません。どうか在家のようにいつでもエッチができますように。在家の身でいつもエッチができた聖
徳太子を尊敬し、わたしもエッチができますようにと祈ったのか。僕はそういう発想をする人を卑しいと思う。
478渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/14(月) 13:50:32 ID:Jxbz29Oy
 この時代、五人の賢人が歴史に名を残す。いずれも比叡山の出身者である。同様の大規模な学生達
を抱えていた高野山からは、五人の賢人ほどの歴史を塗り替える人は出ていない。比叡山天台宗独特
の激しい情熱的な思想があったはずだ。鎮護国家がそのキーワードだと思う。鎮護国家の思想は、聖徳
太子に遡る。
479無明の闇:2009/09/14(月) 19:56:09 ID:a9SZBBrj
さてと仏教に二つの道があるんだよ。一つはこの世で悟り仏になる。これ聖道門。
もう一つはあの世で浄土に生まれ、浄土で仏になる。これ浄土門。問題はどの仏の浄土を
選ぶかだね。親鸞さんはどうしてアミダ仏の浄土を選ばれたのか聖道門は時代が末法だから
当然無理。残るは浄土門だけ---数々ある諸仏の中で
親鸞さんはアミダ如来の浄土を選ばれた。理由は一つは他の諸仏が褒め称えている点、
二つめは釈尊自身がこの経を残すと言われている点、三つ目は衆生の往生が誓われている点である。
480無明の闇:2009/09/14(月) 19:56:55 ID:a9SZBBrj
次にこの一つ一つを検証していこう。
481神も仏も名無しさん:2009/09/15(火) 01:22:22 ID:qASXq4hm
友人:「もうダメかもしれない……」

 なんだどうしたと聞くまでもなく、ただ、長年使っているPCがいよいよ熱暴走気味で動かなくなってきたので、
そろそろ買い換えたいとのこと。

 そのPCは、Pentium 4 1.8GHzで、メモリ1GB、HDD 40GBという液晶一体型デスクトップだが、この友人は
このマシンで購入当時からラグナロクオンライン(RO)をずっと遊んでいる。このオンラインMMO RPGは、この
手のゲームの中では動作は軽いほうであり、最近の標準的なマシンならまず問題はないだろう。

 んー、じゃあ予算は?

「5万円、いや3万円で」
「おいおい……」

482馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/15(火) 14:12:33 ID:rxyizPn6
 宮本武蔵の正体は柳生十兵衛
 宮本武蔵と佐々木小次郎との巌流島の決闘は1612年に起きた。細川家の剣術
指南の小次郎は武蔵に敗れて18歳で亡くなる。小次郎は富田勢源の弟子である。
しかし、勢源は美濃国主・斉藤義龍の御前で梅津某と試合を行い、勝っている。
それは1560年の事で勢源は40歳を過ぎていた。仮に彼の生年を1520年として、
1612年には92歳である。そんな年寄が弟子をとるのか。小次郎は18歳で指南役
が勤まるのか。勢源は小太刀の使い手、小次郎は長剣で矛盾している。
 豊前29万石の藩主・細川忠興は慶長15年小倉城を改築して移った。翌年津山
藩船が小倉領海を侵犯する事件が起きた。翌々年に巌流島の決闘となる。徳川
家光(光秀の子)は、父を謀反人に仕立てた忠興を、改築を口実にして反逆罪で
失脚させる為、武蔵(公儀隠密・柳生十兵衛)を津山藩船に乗り込ませて侵入さ
せた。忠興は剣豪・小次郎を雇って、御前試合の形で殺そうとした。だから、
武蔵は逃亡の為に、遅れて船で来たのである。
 武蔵は徳川家の為に働いている。関ヶ原の戦いでは宇喜多軍に紛れて内部撹
乱。大坂の陣では豊臣軍に紛れて内部撹乱。島原の乱では小倉藩家老・伊織と
共に参戦。武蔵が師とした沢庵和尚は柳生宗矩との関係が深い。紫衣事件で出
羽上山(藩主土岐頼行は光秀と血縁)へ流罪になった沢庵を、宗矩が家光に進言
して赦免させた。その使者の十兵衛は出羽国正法ヶ原で伊織を得た。家光は彼
の為に東海寺を建立した。沢庵は光秀の血縁者である。武蔵の五輪書には禅の
思想が入っており、枯木鳴鵙図は名画である。頼芸の鷹図と印象が似ている。
十兵衛は頼芸の曾孫。
 忠興の跡を継いだのは三男忠利で、長男廃嫡、次男自刃と二人が失脚したの
は不自然である。忠利は幼時、家康に人質にとられ、友矩とすり替わったので
ある。
 武蔵の父・新免無二斎は入道名で本名でない、暗号。新しく免ぜられた→剣
術指南役の宗矩。十兵衛は氏井孫四郎光秀と署名した文書を残して暗号にして
いる。柳生家は光秀の血筋で、十兵衛は明智十兵衛光秀からの由来。
 美濃から名僧、剣豪を輩出している。心頭滅却の快川禅師、宝蔵院槍術・可
児才蔵、鏡新明智流・桃井春蔵等。
483神も仏も名無しさん:2009/09/16(水) 00:13:27 ID:lABxieS7
名門・開成高校の隠れた技巧派卒業生

菅沼栄一郎(54)、朝日新聞社の記者。
編集委員、2007年9月1日より東京本社地域報道グループ。

この卒業生は週刊誌の記事の中で、関係があった女性から、
下記内容の変態性欲的行動を暴露されている。

  『女性器に対する執着が強く、バナナを無理やり
   女性器に挿入してそれを食べた』
  『女性の髪の毛をわしづかみにして首を捻じ曲げ
   て性器を見せた』
  『卑猥な言葉を言うように強要した』
484渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/16(水) 10:07:04 ID:joeVqZZQ
 比叡山延暦寺は、当時、歴史を塗り替える五人もの賢人を輩出する。高野山教学と延暦寺
教学との違いは何だったか。五人の賢人の共通項は何だったか。争いを鎮め、国を守れとい
う鎮護国家の思想だったと僕は思う。
 日本真言宗の思想に鎮護国家の思想がないわけではない。しかし、日本天台宗の思想と
比べれば、強弱に開きが大きい。空海は、鎮護国家の寺として京都に東寺を建てる。東寺に
は高野山で修行を完成させた者が入る。鎮護国家とは、仏道修行を完成させた者の重要な
仕事だった。仏道の修行は都の政治の喧噪から離れた地で行う。鎮護国家は、仏道入門者
も含めた修行中の者全てに一丸となって求められる問題ではない。鎮護国家は、宗門の一
部に追加的に要請されている付随的問題と言うべきだろう。

 日本天台宗では、仏道入門者も含めた全ての人にとって鎮護国家は重要な問題である。
比叡山は京都盆地を囲む一角にある。比叡山延暦寺は、京都御所の北東すなわち丑寅の
方角に位置する。鬼門という。国を乱す外敵は北東から進入する。鬼は牛の角をはやし、虎
布を腰に巻く。丑寅から来た外敵という意味だ。延暦寺は、国家の中枢である京都御所の鬼
門を護持する。すなわち、存在そのものが鎮護国家を目的とした古代の呪術的意味を持っ
ている。ちなみに、江戸城の鬼門を守るのは天台宗寛永寺の役割である。鎮護国家は日本
天台宗の核心的思想であり、存在の基礎である。それは天台僧一人一人がその役割を担う。
485渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/16(水) 10:07:45 ID:joeVqZZQ
 鎮護国家の思想は、聖徳太子に始まる。日本人で最初に仏典・漢籍を自力で読めたのは、
恐らく聖徳太子だったろう。排仏派の物部氏を排除し、外国の文化に対して国を開き、遣隋
使を最初に中国に送ったのも聖徳太子である。聖徳太子は日本で最初に官立寺院すなわ
ち四天王寺を建立する。四天王寺は、金光明四天王大護国寺という。護国を目的とし、四天
王すなわち武力で国を守る神々を祭る。
 親鸞は、我々が幕末・明治期の勤王の志士すなわち吉田松陰、坂本龍馬、大久保利通ら
をしばしば尊敬するように、古代において国家の礎を開いた聖徳太子を尊敬していた。
 摂関政治が行き詰まり、武士団が政治を動かすようになり、戦乱と暗殺が止まなくなった動
乱の時代、自らが鎮護国家の基礎となるように徹底的に教育されてきていた親鸞が、六角堂
で聖徳太子に祈ったものこそ、国家の後世の一大事に当たり、今、自分は何をすべきかとい
う問題ではなかったかと考える。
 親鸞はその問題をどのように解いたのか。釈迦の教えに戻って考える。
486無明の闇:2009/09/16(水) 13:25:01 ID:2HV8/Cz2
親鸞さんが聖徳皇を尊敬されたのにはいろいろある。まず凡夫の自覚にたっておられたこと。
次に在家仏教として歩まれたこと。よく聖徳太子が仏教を根底に国家を治めようとしていたと言われるけれども
問題はその内容なのです。どうして仏教でないといけないのか。ここに仏教の内省のものの見方でみな共に凡夫−−ただびとと
言うことを掴んでおられる点。
次に実は親鸞さんは聖徳皇の和讃では自分のことを愚禿善信作と書かれている。
これに対して浄土や高僧和讃は愚禿親鸞と名告っておられる。この善信と親鸞の二つのお名前を使われたのはどうしてか。
次にもっとも太子を尊敬される理由は親鸞さんが太子の哀れみによって自分を弥陀如来の誓願に付き従わせられたからだと
言われている。親鸞さんが六角堂を訪ねられたのは聖徳太子の本地は観音であると当時信じられていた事、さらに
観音は弥陀の慈悲を現す菩薩であること、また観音の妙智力はよく一切の人々の苦を救う事から
六角堂に行かれたのだろう。さらに以前若かりし頃の夢告の話などもある。
では六角堂の観音に何を祈ったのか。文書には後世を祈ったとあるが内容は定かでない。
また御伝抄には設女犯の文もあるがこれも定かでない。では何か。
487神も仏も名無しさん:2009/09/17(木) 02:35:45 ID:AF7+Kbwv
八年以上嫌がらせを続けている在日朝鮮人の粘着アンチソーテック山仲克実について

アンチサイト「ソーテックユーザーの会」の管理人
http://web.archive.org/web/20010413090853/http://www.tcct.zaq.ne.jp/yamanaka/higai.htm
管理人 山仲 克実   他数名 と左下に記述
掲示板不正操作、ソースを確認せず誹謗中傷文を公開する等の数々の疑惑を抱え
最後は弁解を一切行わず逃走、サイトを閉鎖する。

山仲克実が運営していた別サイト
http://web.archive.org/web/20030817155352/www.tcct.zaq.ne.jp/yamanaka/ouzi/1craft.htm
生年月日等が記述されている
1969年 12月28日生まれ
趣味  バイク。 音楽?。 廃品回収&直して使うのだ
好き  肉とか魚の刺身 お酒      嫌い  しつこい人 卵 

山仲克実が運営していたジャズバー「皇子倶楽部」について
http://web.archive.org/web/20040222204453/http://www.jjazz.net/guide/jazzclubguide/index_jazzclubguide1.php3?lid=83
住所等の詳細が記されている。在日の巣、大阪東豊中在住
お勧め料理品目  キムチ冷めん

「皇子倶楽部」内と山仲克実の写真
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4194/pri_12-31-2001.html
上から三番目が山仲克実
「’ソーテック被害者の会’でもおなじみのマスターはハイテンションやった」
488渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/17(木) 13:18:44 ID:Armr/woC
>>486
 親鸞さんが聖徳皇を尊敬されたのにはいろいろある。まず凡夫の自覚にたっておられたこと。
凡夫ですから、煩悩具足です。エッチの欲は我慢できませんよね。

 次に在家仏教として歩まれたこと。在家であれば、毎日エッチができて幸せです。よく聖徳太子
が仏教を根底に国家を治めようとしていたと言われるけれども、問題はその内容なのです。凡夫
には、国家のことよりエッチが一番大事です。

 どうして仏教でないといけないのか。ここに仏教の内省のものの見方でみな共に凡夫−−ただ
びとと言うことを掴んでおられる点。つまり、エッチを我慢できない身ということです。

 次に実は親鸞さんは聖徳皇の和讃では自分のことを愚禿善信作と書かれている。これに対して
浄土や高僧和讃は愚禿親鸞と名告っておられる。この善信と親鸞の二つのお名前を使われたの
はどうしてか。愚かな禿ですから、エッチが我慢できませんということだったのでしょう。

 次にもっとも太子を尊敬される理由は親鸞さんが太子の哀れみによって自分を弥陀如来の誓願
に付き従わせられたからだと言われている。太子の哀れみによって、いつでもエッチをしなさいよと
言って貰えたのです。エッチを我慢できない人を弥陀如来が救ってくれますよと言う誓願に付き従
わせられたからだと言われている。

 親鸞さんが六角堂を訪ねられたのは聖徳太子の本地は観音であると当時信じられていた事、さ
らに観音は弥陀の慈悲を現す菩薩であること、また観音の妙智力はよく一切の人々の苦を救う事
から、いつでも好きな時に好きなだけエッチしなさいよと、夢でそう言ってもらいたくて六角堂に行
かれたのだろう。

 さらに以前若かりし頃の夢告の話などもある。そこで味をしめ、六角堂の観音に何を祈ったのか。
エッチをしたいのでエッチさせてくださいと祈ったのでしょう。文書には後世を祈ったとあるがそんな
ことは内容が定かでない。また御伝抄には設女犯の文もあるがこれも定かでない。エッチしてい
いよと言われ、法然上人の下に行ったことは間違いがない。
 法然上人のもとでエッチして、子供をたくさん作りました。
  ↑
 自分達の宗祖をこんな風に想像している浄土真宗の坊さんなら、恥ずかしい限りだと、僕は思います。
489渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/17(木) 13:57:07 ID:Armr/woC
>>457
>むしろ当時は表は聖僧でも隠れて女性と交わっていた僧は少なからずいたわけです。

 法然上人の吉水教団と真言立川流教団とを混同している学者がいる。
 親鸞聖人は、真言立川流だったと言いたい人がいる。


 真言立川流
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)
 陰陽の二道により真言密教の教理を発展させたもので、男女交合の境地を即身成仏の境地と
見なし、男女交合の姿を曼荼羅として図現したものである。
 男女交合の境地、すなわちオルガスムスが即身成仏の境地であるとされる。

創始
 1113年 〜 輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、 〜 武蔵国立川(たちかわ)出身の
陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。 〜 醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
 その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流
の信徒となっていたといわれる。

中興
 鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観は、 〜 鹿児島の硫黄島
へ配流された。
 1333年(元弘3年) 〜 帰京を果たした文観は、東寺の一長者にまで上り詰めた。
 1335年 〜 一長者の地位を剥奪された文観は、 〜 吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き
従い、親政の復活を期して陰で動いた。
490無明の闇:2009/09/17(木) 22:52:39 ID:kMrGZocA
親鸞さんが叡山をおりて法然上人のもとに行かれるわけだけど、もともと叡山におられたときから
法然さんの吉水での布教活動のお噂は親鸞さんの所にも届いていたわけです。
最澄が仏典を持ち帰って実はまだ紐解かずにそのままの経典も多くありました。その後天台の僧侶がそういった
書物を紐解き仏教の本質をつかんでいくわけです。この時中国のメガネなしに自己流に僧侶が読むのだけど
結果としてこれが釈迦仏教の本質をとらえることになっていくのです。
491無明の闇:2009/09/17(木) 22:59:56 ID:kMrGZocA
それは大乗仏教の精神だったわけです。自己の救いのみならず一般の民衆の救い布教なのですが
これを法然さんは吉水でされていたわけです。ところが叡山はどうだったかというと、当時僧尼令のもと
布教は禁止され、違反したものは僧籍剥奪、さらに国家の許可なしに僧にはなれなかったのです。
親鸞以前にもこの大乗仏教の精神をもって民衆に布教した僧に行基さんがおられました。しかし僧籍を国家によって
剥奪されるのです。親鸞さんもこの大乗菩薩道の道こそ仏教であると思われ法然さんの元に行くのですが中々踏み込めずに
いたのです。しかしその最後の後押しになるのが六角堂参籠の観音、聖徳太子のお言葉だったのです。
492神も仏も名無しさん:2009/09/18(金) 03:08:02 ID:YARNiOrZ
「ワタミ」会長の渡辺美樹氏、髪切りパワハラ?
 理事長務める学校の元教師が提訴へ

http://news.livedoor.com/article/detail/4346352/

 学校法人「郁文館夢学園」(東京都文京区)に教師として勤務していた男性(50)が、
「上司からいわれのない中傷を受け解雇された」として、
同校を相手取り地位保全と慰謝料300万円の支払いを求める訴訟を
近く東京地裁に起こすことが13日、分かった。

 「―夢学園」は居酒屋チェーンを展開する「ワタミフードサービス」の渡辺美樹会長(49)が、
理事長を務めている。

 訴えによるとこの男性は、2005年4月から09年3月まで同校で体育教師として勤務。
学校の備品を購入した際、金銭管理の不備を一方的に責められ、解雇されたという。

 また男性は陳述書などで、渡辺理事長によるパワーハラスメントを指摘。
08年10月24日、渡辺氏が同校で行われた職員会議後に、
40代の男性教師の髪形が気に入らないとし、ハサミを持ってくるよう部下に命じ、
教師の髪を切らせたとしている。
渡辺氏自身も、ハサミを手に髪を切り「これは断髪式だ」と言ったという。

 渡辺氏らによるパワハラは、校内で日常的に行われていたとしている。

 この件について、複数の教師が当時の校長に事情説明を要求。
校長は複数の学校関係者にメールを送り「断髪式」の事実を認めたという。
メールでは「(断髪は理事長と教師の間で)合意がとれていたとはいえ、
理事長に『話を知らない人から見れば、
理事長の権威を示すような印象のよくない行為である』
と意見できなかったことを悔やんでいます」などと説明している。
493渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/18(金) 14:55:28 ID:85gYVYKh
>>490-491
 親鸞さんが叡山をおりて法然上人のもとに行かれるわけだけど、もともと叡山におられたとき
から、あそこに行けばエッチができると言う法然さんの吉水でのエッチな布教活動のお噂は親
鸞さんの所にも届いていたわけです。
 最澄が仏典を持ち帰って実はまだ紐解かずにそのままの経典も多くありました。その後天台
の僧侶が、エッチができるぞと言うそういった書物を紐解き、エッチ仏教の本質をつかんでいく
わけです。この時中国のメガネなしに自己流に僧侶が読むのだけど結果としてこれが、凡夫は
エッチが我慢できないという釈迦仏教の本質をとらえることになっていくのです。

 エッチを我慢するのは聖道門、凡夫は浄土門でエッチをしようというそれは大乗仏教の精神
だったわけです。自己の救いのみならず、エッチが我慢できない一般の民衆の救い布教なの
ですがこれを法然さんは吉水でされていたわけです。ところが叡山はどうだったかというと、当
時僧尼令のもとエッチな布教は禁止され、違反したものは僧籍剥奪、さらに国家の許可なしに
僧にはなれなかったのです。親鸞以前にも、エッチをしようというこの大乗仏教の精神をもって
民衆にエッチな仏教を布教した僧に行基さんがおられました。しかし僧籍を国家によって剥奪さ
れるのです。親鸞さんもこの大乗菩薩道の道こそ仏教であると思われ法然さんの元に行くので
すが中々踏み込めずにいたのです。しかしその最後の後押しになるのが、エッチをしなさいよと
いう六角堂参籠の観音、聖徳太子のお言葉だったのです。
  ↑
 おぬしはいったい何を考えているんだ?
 自分が一体何を言いたいのか、どういう考えを持っているのか、客観的に振り替えれる
ようになることが必要だな。
 自分の考えがおかしいことはわからんだろう。いままで学んできてもの全て抹消しろ。
494無明の闇:2009/09/18(金) 21:39:52 ID:zUG5TROc
法然さんや親鸞さんがどうして流罪になったのか。本当は上皇の女官を出家得度させたからなのです。
もともと僧尼令によって出家は国家が許可をし、さらに一般人の民衆には布教禁止だった。
さらに当時叡山や奈良の大寺院との教義のいざこざがあるわけです。浄土の真宗が仏教の教えの中の一つだと
解釈する天台や奈良に対して他のすべての仏教の教えは浄土の真宗に帰すると言ったものだから他の宗派から
攻撃をされたわけです。しかしこればかりは末法思想がウラにあっての理解なのです。



495無明の闇:2009/09/18(金) 21:49:32 ID:zUG5TROc
当時は貴族の力も弱まり武士が力をつけ、さらに叡山や興福寺も力を持っていたのですそこで叡山や奈良興福寺からの弾圧に対して調停も困っていたのです。そこに女官を出家させるという
国家の出家の権限、権力を奪うことをやり、尚かつ一般の大衆にも布教をしているという僧尼令の違反を理由に
流罪にするわけです。ところがそれじゃ民衆や武士は納得しないわけです。
せっかく自分たちに法を説いてくれているわけだから。そこで女性スキャンダルをでっちあげ、女官にたいしてたぶらかしたという理由をつけ民衆に対して流罪を納得させようとしたのです。

496神も仏も名無しさん:2009/09/18(金) 21:55:08 ID:XTNPDuSY
>>494
頭固いな
497神も仏も名無しさん:2009/09/19(土) 03:07:54 ID:qU62kYQt
清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

私の白道
http://byakudo.exblog.jp/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

親鸞会教義の誤り
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/

高森先生の親鸞会教学を検証する
http://atamagaokasiku.blog34.fc2.com/

浄土真宗親鸞会を考える 新・ハトの会
http://kauffman0521.blog88.fc2.com/
498渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/19(土) 10:14:59 ID:mtAsnQKN
 (父王の都)カピラヴァストウにおいて、なお私のことを顧慮してくれている人があれ
ば、お前はその人たちに言ってくれ。『彼に対する愛情はもう捨てたほうがよい、また
その決心のほどを聞くがよい。彼は生死を克服す(ることができ)れば、すぐにでも帰
ってくるということだ。しかし、努力を怠って目的を果たさないときには、死するであろ
う(彼にはそのいずれか一つしか残っていない)』と。 〜。 
 駿馬力ンタカは舌(の先)で両足をなめ、そして熱い涙を流した。王子は、網模様が
あり、卍の印も鮮かに、その掌に輪の(印)のついた(瑞相をたたえる)手をもって、この
馬を撫で、あたかも同年輩の友に語しかけるように、彼に言った。
 「カンタカよ、涙を流してはいけない。(汝の)名馬のほどはここに示された。しんぼう
してくれ。汝のこの労は速やかに報いられるであろう」。
 彼は決然として、チャンダカの手もとにあった、宝石をちりばめ、象嵌した黄金の条
も色鮮かな刀の束に手をかけ、あたかも穴から蛇をひき出すように、鞘から鋭い剣を
ひき抜いた。青蓮の花弁のように青光りする剣をひき抜くや、(頭から)彼は毛髪もろ
ともきらびやかな冠を切り落とし、あたかもハンサを湖に放つごとく、この光線の縞の
ように輝く房々した髪のはためく冠を天に向かって投げかけた。 〜 。
 偉大なる王子は、満面に涙をたたえるチャンダカを退去させ、オレンジ色の衣を身
にまとい、満足と名誉(の思いを心に)持して、行者の庵のあるほうに向かっていった。
そのさまはあたかも星宿の王(月)が夕焼け雲をまとうごとくであった。 〜 馬丁は両
腕を(天に)揚げて烈しく働突し、大地に倒れた。
      (中央公論社 『大乗仏典』ブッダチャリタ 昭和49年)

 人は、再生・疲労・彷徨・挫折を繰り返す。再生と挫折を繰り返す。生死生死を繰り
返す。これを迷いという。今、現在のこの生死生死は、過去、無数の人々が繰り返し
たきた生死生死といささかも変わりない。将来に向かって無数の人々が繰り返してき
た生死生死ともいささかも変わりない。この現実に我々はどう立ち向かっていけばい
いのか。
 二千数百年昔、古代インドに出現した釈迦は、出家という形を提案する。考えてみ
たい。
499渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/19(土) 10:24:13 ID:mtAsnQKN
>>498
× 働突し、大地に倒れた。
○ 慟哭し、大地に倒れた。
500無明の闇:2009/09/19(土) 13:21:02 ID:y07gHm2q
話はそれるがインドでは釈迦当時出家はある意味ごく当たり前というか、むしろ理想とされていた。
つまり生まれ、勉強して、家庭を持ち、社会のために尽くして、出家して遊行してなくなる。
こういった人生を理想としていたのです。しかし条件があり妻子子供が生きていくだけのものを残して
出家しないといけない。当時さらにこういった出家者に対して食べ物を差し上げる社会も出来ていた。
だから何もお釈迦様が出家したのはめずらしい事ではないのです。
501無明の闇:2009/09/19(土) 13:31:41 ID:y07gHm2q
出家も大衆への布教も国家によって決められる。そして僧は国家の安泰のため祈願していればよい。−−−このようなものは
仏教ではないことは経典を読めばわかるわけです。だから心あるものは山をおり大寺院を去る。
仏教がすべての人を救うなら世界宗教であるはず。ならば国家を相対化していなくてはつじつまが合わない。
民俗宗教になるぜ。エリザ゛べスが伊勢神宮にいって、ここはどんな神を祀っているのかという質問に
神主が日本の国民の平和と国家の繁栄を願う神だと言ったら、あ−−そうですかといって帰ったというね。
つぎに本願寺に午後やってきて同じ質問をしたんだよ。そしたら生きとし生けるものをすべて救う神だといったら
エリザベスが私や英国の民は救いの中に入るのかと聞き返してきた。当然だと答えたら、参り方を教えてくれといって
手を合わせて参ったんだよ。−−−民族宗教と世界宗教の違いだね。
502渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/19(土) 22:08:36 ID:mtAsnQKN
 出家も大衆への布教も国家によって決められる。そして僧はエッチもしないで国家の安泰
のため祈願していればよい。−−−このようなものは仏教ではないことは経典を読めばわ
かるわけです。
 親鸞がエッチを我慢して鎮護国家などに関心を持っていたはずがない。芸能界が覚醒剤
で汚染されようが、自殺者が年間3万人を超そうが、幼児虐待の相談件数がうなぎ登りにな
ろうが、それがどうした。そんなこと心配してどうする?国家だって?ちゃんちゃらおかしい。
大事なことは、凡夫がエッチできるかどうかということだ。だからエッチしたいと思う心あるも
のは山をおり大寺院を去る。

 仏教がすべての人を救うなら世界宗教であるはず。念仏する者しか救わないなんてのは、
世界宗教の名折れだ。国家は相対化していなくてはつじつまが合わない。自殺者が年間3万
人だって、それがどうしたばかばかしい。小さい話だ。派遣労働者など、勝手に首つって死ね
ばいい。みんな小さい話だ。それでないと、仏教は民俗宗教になるぜ。
 エリザべスが伊勢神宮にいって、ここはどんな神を祀っているのかという質問をした。世の
中の判断は、エリザべス女王の判断が基準になるんだ。エリザべス女王には恐れ入ったか。
神主が日本の国民の平和と国家の繁栄を願う神だと言った。あ−−そうですかといって帰っ
たというね。ざまぁみろ。日本の国民の平和と国家の繁栄などは糞食らえ。

 つぎに本願寺に午後やってきて同じ質問をしたんだよ。そしたらエッチしたいという生きとし
生けるものをすべて救う神だといったら、エリザベスが私や英国の民はみんなエッチがした
いのです。救いの中に入るのかと聞き返してきた。当然だと答えたら、参り方を教えてくれと
いって手を合わせて参ったんだよ。−−−民族宗教と浄土真宗エッチ教との違いだね。
  ↑
 >>501 名前:無明の闇よ。!! 頭がくるくるパー状態か?
  豆腐の角で頭ぶつけて休んでいたらどうだ?
503無明の闇:2009/09/20(日) 00:49:20 ID:xrh9xq+3
ちょいと寄り道にそれるが、そもそも神不拝といっても何も伊勢神宮や出雲大社を拝むなというのじゃ
ないんだよ。親鸞さんが問題にしているのは日本古来の神なんかじゃない。
むしろ神や仏でもいいんだけど、要は鬼神と言うのを問題にしているんだぜ。
神仏に手を合わせていても拝んでいるのは自分の欲なんだよ。健康に−−商売繁盛−長生き−あの世で良いところに生まれますように−−
全部これ己の欲望だぜ。この自分の欲望を拝むのを鬼神というんだよ。形は神仏に手を合わせ拝んでいるように
見えるけど、実はみんな鬼神を拝んでいるんだ。だから真実の教えはそれを教えてくれる教えこそが真実だよ。
あと502番のように私の意見に逆らうのもよし、従うのもよし。どちらでも良いんだよ。
親鸞さんの言葉にそれもあるんだよ。信順を因となし疑法を縁となして−−−ってね。
まあ502番も私の意見を避難して仏法の縁となっていることに喜べ。
504神も仏も名無しさん:2009/09/20(日) 02:26:03 ID:OFaDTQiP
昔のきよもり問答から………宗教=危ないというイメージを作ったのは親鸞会だった!



 第一に、色々な事情があるにせよ、正体を隠して勧誘をするのは、決して世間から理解されるやり方ではありません。

 一時的には、学生が集まるかも知れませんが、結果的には不審を買い、会の評判も落とすことになると思います。

 もちろん、私も学友部で活動していましたから、「宗教」と言うだけで、「危ない」「近寄るな」と思われてしまい、教えを聞いてもらえないという意見があるのは分かります。

 しかし、その「宗教」=「危ない」というイメージを作っているのは、誰でしょうか。

 正体を隠して勧誘をする、ということ自体、「宗教」=「危ない」というイメージ作りに、加担しているとは言えないでしょうか。

 これは自業自得というものであって、みずから改めてゆかねばならないと思います。
505無明の闇:2009/09/20(日) 13:58:52 ID:Qk097OXR
504-まったくその通り。そもそも仏教なんか教団としては弱いんだよ。親鸞さんの教えもそうだ。
釈迦も親鸞も弟子一人も持たずといっている。また父母孝養のため念仏した事はないとも。
こんなんじゃ教団としては成り立たない。それに仏教は以前にも書いたけど
自受用三昧が基本だよ。自らがその道を歩む。それが正しければ人は自ずから付いてくる。
勧誘だのしないんだよ。
506無明の闇:2009/09/20(日) 14:05:18 ID:Qk097OXR
そんな親鸞会なんか龍谷にいたのか。私は一度もお目にかかったこともない。
どこにいたわけ。大宮か。図書館か、私は深草には行ったことないから分からん。
いつ頃の時代なのか。まあどうでもいいけど。少なくても東大にはいなかったぞ。
まあ私たちのような他大学の印哲系は本山系の大学のかやの外だからどうでもいいけど。
507渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/20(日) 14:16:18 ID:/Z+ZrvsY
 釈迦が出家した時の状況はどうだったか。後世の仏伝作家達が、昔からの伝承と自分達
の哲学的想像を織り交ぜて描いている。出家とはどういうことか。馬鳴の考えを掘り起こして
みよう。

 手段
 <彼に対する愛情はもう捨てたほうがよい>
 恩愛の情を断つ
 
 目的
 <彼は生死を克服す(ることができ)れば、すぐにでも帰ってくる>
 生死つまり再生・挫折・再生・挫折の繰り返しを克服する道を探すと言うことだ。後生の一大
事の解決を求める。これが出家の目的である。

 覚悟
 <努力を怠って目的を果たさないときには、死するであろう>
 道が得られなければ、その後の選択は死があるだけである。

 退路を断つ
 <満面に涙をたたえるチャンダカを退去させ>
 もと来た道を戻らない。前進あるのみである。

 誇りと自信をもつ
 <オレンジ色の衣を身にまとい>
 インドでは、おそらくオレンジ色の染料が簡単に手に入るのだろう。簡単に手に入る染料で染め
た服をまとうと言う意味があるのだろう。
 それと、オレンジ色は黄金色に近い。仏像は黄金で輝く。つまり、オレンジ色は決してさびること
のない不変性を象徴する。そこに修行者の誇りと自信と決意とを表していると考える。
508渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/20(日) 14:18:30 ID:/Z+ZrvsY
 人の心は忘れない
 <涙を流してはいけない。(汝の)名馬のほどはここに示された。しんぼうしてくれ。汝のこの労は
速やかに報いられるであろう>
 恩愛の情は断つが、人の心は決して失わない。

 王位を捨てる・生まれ変わる
 <彼は毛髪もろともきらびやかな冠を切り落とし>
 毛髪を切り落とすと言うこと。髪を落とすと言うことは、赤ん坊になるということ。生まれ変わること
だ。釈迦が出家した時、人間の心は失うことなく、一人の王が死に、一人の僧が生まれた。釈迦は
最後の輪廻を経験した。
 生まれ変わったとき、釈迦は王位を捨てた。人は、全て王位にある。自我と防衛本能で守られた自
分の価値観、世界観の中の主人であり、王である。出家すると言うことは、自分を守ってきた価値観、
世界観を出る。この王位を捨てるということ、これが出家の最大の仕事だろうと思う。

 行者の仲間に入る
 <行者の庵のあるほうに向かっていった。>
 修行は、同じ心を持った者が互いに助け合う。修行者の仲間に加わるということだと思う。

 釈迦の出家ありかたは、その後、彼の継承者達の思想に多大の影響を与えている。釈迦に真実を
学ぶ全ての者にとって、真実を学ぶ時の指針になると思う。
509神も仏も名無しさん:2009/09/21(月) 01:33:42 ID:+56v7Q/p
■状況的には自殺か他殺の可能性が高い臼井儀人さんの死■

◆以前自殺した人の場所が臼井さんの遺体発見場所と同じ荒船山の艫岩(自殺の名所か?)
◆子供が登っても危険な場所が全くないという多数の登山者の意見
◆登山に行ったのを知っているのに、警察は「失踪」で捜査していた
◆携帯電話だけ、山に入る前に、全然離れた場所に置き捨ててあった
◆11日の夕方に帰ると言って出かけたのに(現時点では死んだのも11日と推定)、
 12日に軽井沢・13日に下仁田で携帯の微弱電波をキャッチ
 日帰りの山登りなら絶対にあり得ない現象 その間に家族に電話を入れなかったのもおかしい
◆もし12日13日の携帯を持ってたのが他の奴なら、殺人もありうる
◆死の直前のクレしんのストーリーが不自然に暗く、周囲に不審がられていた
◆エホバの証人の件で親族(臼井さんの母親が創価)ともめていた
◆エホバでは自殺は禁止されている
◆以上により、事故の可能性はほとんどない

参考情報

母親が静岡にいた頃から創価 ところが臼井さんはエホバに乗り換え
創価母親と臼井さんがもめていた そしてナゾの死

(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル まさか・・・・・・・・・ひょっとして・・・・・

創価の勧誘を断った為、集団ストーカーされ自殺した清水由貴子さん
http://www.youtube.com/watch?v=Wo28LIJU5qM
★清水由貴子さんの証言全文★ 警察も消防も郵便局まで創価とグルだった・・・(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
http://antigangstalking.join-us.jp/doc/CivilSuit_03_e40_yukiko_shimizu.pdf

510馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/21(月) 14:25:22 ID:CaO/gb4Y
 人間がいたいけな牛豚を斬首している。天道はこれを許さず。
 天武天皇の正体は竹田皇子
 蘇我馬子(百済王義慈)、蘇我入鹿(豊璋)と蘇我蝦夷(藤原不比等)にとって日
本を乗っ取る為の敵は彦人皇子と竹田皇子である。大化の改新は彦人皇子(聖徳
天皇)を蘇我入鹿(豊璋)と藤原鎌足(新羅武烈王)が暗殺した事件である。入鹿は
聖徳太子の係累を滅ぼした。蘇我氏の悪名が広まったので藤原氏と改姓し、豊
璋は彦人皇子の曾孫の中大兄皇子になりすました。聖徳太子の暗殺を隠す為に、
彼の業績を前にずらし、中大兄皇子の業績を後にずらした。だから彼は19年間皇
太子のままでいなくてはならなかった。その間、高市天皇、長屋天皇が治めた
が、それを女帝にすり替えた。
 天武天皇が古事記を選録させたのは、諸家に伝わっている帝紀及び本辞は真
実と違い、多くの虚偽が加わっている。今の内にその誤りを正さねば、幾年も
経たない内にその趣旨が失われてしまう。それらは国家の原理、天皇政治の本
である。正しい帝紀を選んで記し、旧辞をよく検討して偽りを削って真実を定
めて、後世に伝え様と考えたからである。こんな言葉は日本天皇でないと発言
出来ない。天皇は肉食禁止の詔も出している。
 安万呂が言う。上古の時は言葉とその内容が素朴で、文章に書き表すとなる
と、漢字の用い方が難しかった。全ての漢字の訓を用いて記した場合には、漢
字の意味と言葉の意味が一致せず、全て音を用いて記すと記述が大変長くなる。
そんな訳で一句を記すのに音訓を混用した。日下を玖沙訶(くさか)と記した。
これは神代文字をそのままの発音で表すとくさかだが、太陽の下と言う意味で
ある。日本には漢字以前に神代文字があった。外国の侵略によって神代文字を
破棄させられ漢字を強要された。これは日本人の知能を低下させる陰謀である。
 正しい皇統の敏達天皇の皇子から該当者を探すと、竹田皇子が一番可能性が
高い。竹にはかぐや姫伝説の意味が込められている。天皇の皇后には大国主命
の娘が代々なっていた。それが藤原氏に代わった。それまでは母体が日本天皇
で魂がユダヤ王であったが、その両方がユダヤに代わった。だからかぐや姫は
月(幽界)へ帰ったのである。
511無明の闇:2009/09/21(月) 15:16:43 ID:vHuuTFw1
親鸞さんが出家したのは何らか一家に生活できない事柄が生じたからだ。
父親を始め、兄弟みんな出家しておられる。それもみんな違う寺だ。
没落貴族とはいえ、いろいろ頼って出家したんだろ。しかし叡山での位は高くない。
当時叡山は修行で地位があがるのではなく、貴族の地位でつく位が決まっているんだよ。
念仏三昧堂の堂僧なんかは全然たかくない。 
512無明の闇:2009/09/21(月) 15:30:19 ID:vHuuTFw1
ところがかえってこれがよかった。この横川に念仏の教えがあり、この中に
かすかに仏教が残っていたんだな。まあ流罪になるわけだけど、そんなに悲惨な
生活ではない。流罪地へは京都市内から大津口までは輿にのってお付きの人もおられた。
琵琶湖は船で行かれただろうし北国街道は歩いて越えられ、さらに船で越後に入られたと思われる。
まあ流罪になった人で流罪地に到着していろいろ記録が残って確認されているのは法然さんと親鸞さんぐらいで
あとの僧達は記録がないのを考えるとどうも腑に落ちない点もある。
しかし叔父が今で言う越後の国の副知事クラスだから、さらに恵心尼の家の領地もあり
飲まず食わずの生活ではない。では親鸞さんや法然さんは流罪をどう受け止められていたのか。
ここが問題だ。

513神も仏も名無しさん:2009/09/22(火) 02:00:50 ID:J0s9ZGTy
>わたしの白道を書かれている方はどなたですか?
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-category-4.html
514渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/23(水) 10:59:50 ID:UUQ948a/
 一向専修の人においては、回心ということ、ただ一度あるべし。その回心は、日ごろ本願
他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を給わりて、日ごろの心にては、往生叶うべからずと
思いて、もとの心をひき変えて、本願を頼みまいらするをこそ、回心とは申し候え。(歎異抄)

 出家という生き方は、誰にでも可能という訳にはいかないだろう。一家の大黒柱が出家す
れば残った家族が路頭に迷うこともある。浄土真宗は、物理的出家という形をとらなくても、
やや曖昧な言い方をすれば精神的出家という生き方を提案している。釈迦のような出家は
取らないが、心はそれに近い生き方を提案する。引用した歎異抄の言葉は、そのような精
神的出家という生き方を提案している言葉だろう。
 念仏者になるということは決断だ。自己防衛の迦毘羅城に籠もっている日ごろの心にて
は、再生・挫折・再生・挫折という悪循環を断ち切ることができない。悪循環を断ち切れた
世界に往き、そこで新たな生き方をしていくことはできない。そう思って自分自身の迦毘羅
城を捨て、外に出る。阿弥陀仏の本願を頼みとする行者の庵、正定聚の住む方向に歩み
出す。これが浄土真宗の精神的出家である。僕はそう思う。

 出家は慎重に判断する。世の中にはすばらしい先人はたくさんいる。宗教もたくさんある。
本当に仏教でいいのか。どうしてキリスト教を信じないのか。キリスト教こそ、世界最大の
宗教として、多くの人々が信仰している。なぜ自分は仏教なのか。
 なぜ親鸞なのか。日蓮聖人は念仏無間という。念仏を称えれば無間地獄に堕ちると教え
ている。なぜ、自分は念仏宗を選ぶのか。
 無宗教ではいけないのか。なぜ無宗教という選択を選ばないのか。
 親鸞を自分の師匠として選ぶなら、その前にしっかり考えて欲しい。相談できる相手がい
れば、相手にしっかり聞くがいい。答えをはぐらかしたり、曖昧にするような人は相手にする
な。しっかりと答えてくれる人を探してほしい。
 
 この上は、念仏を取りて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなり。
515渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/23(水) 11:03:47 ID:UUQ948a/
 「阿弥陀さまは、私がわかろうがわかるまいが、首に縄をつけてでも、とにかく、おまえを地
獄に落としてなるものか。迷わしはせん。早う私の懐へ抱き寄せたいんじゃ」など、がんじが
らめのマインドコントロールの縄で相手を縛るのは、外道の宗教である。
 痛くもない腹を探る宗教は外道である。お伽噺は幻想である。本性を隠すのは詐欺師である。
 
 形もましまさぬ様を知らせんとて、始めに弥陀仏とぞ聞き習いて候。弥陀仏は、自然の様を
知らせん料なり。(自然法爾抄)。

 桃太郎は形而上の存在だから形はない。架空の存在である。入門者に最初に言う言葉、そ
れは、「桃太郎は勧善懲悪という概念を伝えるための手段である」ということである。お伽噺は、
子供に大事なことを伝えるための道具である。

阿弥陀仏は形而上の存在だから形はない。入門者に冒頭に言わなければならない言葉、そ
れは「阿弥陀仏は、自然という概念を伝えるための手段である」ということである。これはあくま
でも、仏教が扱う道具である。道具は、人がよりどころに使うものであり、人が使われるものでは
ない。

 なぜ仏教か。なぜ浄土真宗か。なぜ念仏か。お伽噺でなく、マインドコントロールでなく、客観
的合理的に説明できる根拠を持って合理的に判断しようではないか。
 桃太郎をよりどころにし、これまでの心を反省して善を行い、悪をやめる。桃太郎は子供達に
そうした生き方を期待している大事なお伽噺である。
 日ごろの心にては往生叶うべからずと気づけば、阿弥陀仏をよりどころにし、本願をよりどころ
にして座禅して念仏を称える。五会念仏を称える。奢摩他・毘婆舎那を実践していく。これが浄土
真宗の出家である。
 客観的合理的根拠に基づき、納得しているから念仏者は後戻りしない。揺らぐことがないよう
に乗ってきた馬チャンダカは迦毘羅城に戻す。
 オレンジ色の衣はまとわないが、納得している心はオレンジ色で決してさびることがない。客観
的合理的根拠に基づくから、人の心は忘れない。
 正定聚に向かって歩み出す。これが浄土真宗の出家である。ぼくはそう思う。
516神も仏も名無しさん:2009/09/23(水) 16:52:50 ID:eD+Mb7Kg
>なぜ親鸞会は、「なぜ私は親鸞会を辞めたのか」のサイトが出来たとき「なせ親鸞会を
>辞めたのかを読んで」を作ったように、親鸞会教義の誤りを指摘するサイトに対する
>反論サイトを作らないんでしょうか?

反論サイト作ってもその論理がきわめて曖昧でつっこみどころが満載ですので、
また、その反論サイトがつくられて、結果的に親鸞会批判を助長してしまうことに
なることを、W部弘宣部長がようやく学んだので、反論サイトはつくらずに、
うちわで会員に「やめないでね、おねがい」と言うようになったと聞きました。


>http://n.m.livedoor.com/a/d/4334029
>livedoorニュースの記事が、捏造ならどうしてすぐに裁判所に訴えないのですか?

捏造でないので、訴えられません。
もし仮に、捏造だとしても、裁判所に訴えることで、親鸞会の恥部が法廷で明らかに
なる恐れがあるので、親鸞会は絶対に裁判沙汰にはもってゆけないのです。

517神も仏も名無しさん:2009/09/24(木) 13:57:38 ID:SCtMhm8O
親鸞会の教えを聞くようになるには、配慮が必要と言われます。
しかし、部外者に知られたらそれだけでも聞かなくなるくらい高額の御法礼、厳しい参詣目標。
部外者に隠しまくらないといけないことばかり、親鸞会はしていませんか?
50周年大会のとき、参詣者は会員以外も含めて全員、1日2万5千円、2日間で5万円の御法礼でした。
5万円出せない人は全員支部長が特別申請、○○が理由で5万円の御法礼が出せないと布教局長に報告しました。
その際、支部長は、「参詣者は全員御法礼5万円ですが、誰でも彼でも金額を言っては、また親鸞会は金集めをしていると悪い評判がたってしまいます。だから充分な配慮が必要です。」
「特別申請するのに、1人1人理由を書いて申請しないといけないから、班長のみなさんは状況を詳しく教えてください」
等々、無理矢理上から高額の御法礼を決められた悲哀と、けれども人数を集めて、申請をしないとまた問題にされる焦りが感じられて、とても可哀想でした。
518渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:13:33 ID:cm450dwB
 出家した釈迦は、その後、二人の先人の元を訪ねる。資料としては、中村元さんの
ゴータマ・ブッダ(釈尊の生涯 春秋社 刊)を使わせ貰う。
 先人の一人は、アーラーラ・カーラーマという。もう一人は、ウッダカ・ニ・ラーマプッ
タという。中村元さんの引用元は、方広大荘厳経である。

 アーラーラ・カーラーマはわたくしにこのように言った、―「きみよ。ここにいなさい。
この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずしてみずからを師としてみず
から知り、証し、体現し得るほどのものである。」と。
 そこでわたくしは久しからずして、速かにその教え(法)に達することができた。かく
てわたくしは、ただ唇を打つ程度、ただおしゃべりする程度には知識のことばを語り、
長老のことばを語ることができ、「われは知る」「われは見る」と自他ともに認めるほど
になった。 〜 アーラーラ・カーラーマは、わたくしの師でありながら、弟子であるわ
たくしを自分と同等に置いて、大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した。そ
のときわたくしはこのように思った、―「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止
滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。た
だ無所有処を獲得し得るのみ。」  

 ウッダカ・ニ・ラーマプッタはわたくしにこのように言った、―「きみよ。ここにいなさい。
この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずして自らを師として、みずから
知り、証し、体現し得るほどのものである。」
 そこでわたくしは久しからずして、速かにその教えに達することができた。かくてわた
くしは、ただ唇を打つ程度、ただおしゃべりする程度には知識のことばを語り、長老の
ことばを語ることができ、「われは知る」「われは見る」と自他ともに認めるほどになっ
た。 〜 ウッダカ・ニ・ラーマプッタは非想非非想処を宣説した。 〜 ウッダカ・ニ・ラ
ーマプッタは、わたしと修行を共にするものでありながら、わたしを師の地位に置いて、
大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した。
519渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:14:14 ID:cm450dwB
 そのときわたくしは、このように思った、―「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、
止滅に赴かず、平安に赴かず、智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ
非想非非想処を獲得し得るのみ。」と。そこでわたくしは、その教えを尊重せず、その
教えに慊らず、出で去った。 

 アーラーラ・カーラーマは無所有、ウッダカ・ニ・ラーマプッタは非想非非想を説いて
いたという。釈迦が、成道前に一度は教えを請い、その教えに飽きたらずに放棄した無
仏の教えである。実体は何か、それを浄土真宗の教えとの関係で考えてみたい。
520渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/26(土) 13:18:33 ID:cm450dwB
>>515 訂正

× 揺らぐことがないように乗ってきた馬チャンダカは迦毘羅城に戻す。

○ 乗ってきた馬とチャンダカとは迦毘羅城に戻す。
521渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/28(月) 10:30:37 ID:1mfEszA6
 釈迦の出家の目的は、再生(生)・挫折(死)・再生(生)・挫折(死)の繰り返しを終わ
りにし、持続的継続を可能にする方法を取得することにあった。釈迦がアーラーラ・カ
ーラーマとウッダカ・ニ・ラーマプッタに求めたものもそれであり、二人には、釈迦が知
りたいと思った問題の解答があるのではないかと思ったからだ。
 アーラーラ・カーラーマは無所有処の教えを説いていたという。「難しいことではない。
すぐに分かる」アーラーラ・カーラーマは無所有の教えについて釈迦にそのように言う。
「きみよ。ここにいなさい。この教えは、そこにとどまるならば、智者は久しからずしてみ
ずからを師としてみずから知り、証し、体現し得るほどのものである。」
 釈迦はほどなくしてそれをみずから知り、証し、体現した。するとアーラーラ・カーラー
マは「大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した」という。アーラーラ・カーラー
マは、釈迦だけでなく、それの考えを知り、証し、体現した人には、誰に対してもそのよ
うに振る舞ったのだろう。

 無所有というのは、頭で考えることではない。要するに、所有品も道具ももたないこと
である。その考えの流れは、インドでは現代にもある。彼らはジャイナ教徒という。ジャ
イナ教徒の裸行派は今でも存続し、素っ裸の生活をしている。女性でも出家は着衣を
着けないそうだ。

 再生・挫折・再生・挫折の失敗はなぜ起こるのか。物欲があるからであろう。物欲を断
ち、あるがまま、自然に生きれば再生・挫折・再生・挫折という愚かなことはなくなる。彼
らはそのように考え、それを実践する。

 釈迦はアーラーラ・カーラーマの場を去る。「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴か
ず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない」。
釈迦はそう考えた。「わたくしはこの教えを尊重せず、この教えにあきたらず、出で去っ
た」。

 成道前、釈迦はアーラーラ・カーラーマの考えを退けた。しかし、悟りを開いた後、釈
迦は、幾度か弟子達にその同じ教えを説いている。中村元は『スッタニパータ』を引用
する。
522渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/28(月) 10:31:35 ID:1mfEszA6
 尊師は答えた、「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有を期待しつつ《そこには何も
存在しない》と思うことに依って、煩悩の流れをわたれ。
 諸々の欲望をすてて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
 ウパシーヴァ尊者がいった、「一切の欲望に対する貧りを離れ、無所有にもとづいて、
他のものをすて、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、―かれは退き堕する
ことなく、そこに安住するでありましょうか?」
 尊師は答えた、「ウパシーヴァよ、一切の欲望に対する貧りを離れ、無所有にもとづい
て、他のものをすて、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人―かれは退き堕す
ることなく、そこに安住するであろう。」と。』
 
 浄土真宗に無所有の考えがある、かどうか。無所有の考えは全く存在しないように思
われる。裸行という考えが出てくるなら、現代の浄土真宗の坊さんなら、とんでもない話
だと言うだろう。浄土真宗は在家主義であり、在家主義に無所有の考えはないと、きっぱ
りと言うだろう。
 しかし、現代の浄土真宗の専門家でも、ほとんどの人が見たことがなく、関心も持って
ない文書がある。一度は存在を知っている人も、二度と見たくないと思っていて、恐らく消
し去りたいと思っているであろうと思われる親鸞の重要な古い肉筆の文書の中に、これに
非常に近い主張が書かれている。親鸞の考えは奥が深いのだ。後で紹介して考えたいと
思う。
523無明の闇:2009/09/28(月) 17:45:35 ID:qoSp4lWw
さてと、大経の教えが真実なのに釈迦の教えがそのごとく歴史にあらわれてこないといけないのです。
たとえば仏教の歴史観でいえば、末法思想が釈迦によって語られ、そのごとく歴史に現れないと、いけないのです。
親鸞さんや法然さんはこの末法時代の凡夫の救いを求めたわけです。
大経に於いては、時代が経つにつれて仏の教えは滅び、人はウソや偽りを言い、様々な悪を犯し、さらに時代が
たてばいっそう激しくなることを釈迦自身が語っているわけです。
−−我世を去りてのち経道ようやく滅し云々−−五悪段の後のところです。
ここにお釈迦さん自身がちゃんと末法を語っておられる。
まずここをおさえて於かないと話が進まない。そこでお釈迦さんは後の凡夫のために
アミダの他力の教えを残されたのです。この教えは正像末を貫き法滅においても通じる
法なのです。
524神も仏も名無しさん:2009/09/28(月) 19:01:15 ID:SF5r+rBK
>>523
「ここにお釈迦さん自身がちゃんと末法を語っておられる」って
あんた、大乗経典が釈尊の言葉の速記録だとでも思ってんの?

アホちゃうか。
525神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 02:16:08 ID:nljt3YxU
まあつまりHしたいんだろ?
2人きりでそういう雰囲気になったらキスくらいするよね
その後、真面目に「Hしたい」とでも言ってみるといいよ

もちろん女の子には「結婚してからじゃないとしない」っていう人もいるし
「万が一子供が出来ても育てられる状況じゃないとダメ」みたいに思ってる人もいる
これ以外にも色々理由はあるだろうし、もしHを拒否されても、それに対して色々つっこまないこと
それでもHしたいなら真剣に話し合うべき。別に本番しなくても他の方法で性欲は発散できるわけだし
ハッサンはとびひざげりをはなった!

ちなみに俺は今の彼女とは付き合って2日目でHしました
でも周りがこうだから俺達もしようぜ!みたいなのは絶対だめだぜ
それぞれペースってもんがある
526渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/29(火) 11:32:14 ID:LnxbiSk2
 極楽浄土について

 親鸞仏教

 これまでの議論を、中間的にまとめてみました。

 全体像がすこし見やすくなったと思います。

 しんらん.jp
527神も仏も名無しさん:2009/09/29(火) 21:05:53 ID:nljt3YxU
なぜおばはんは韓流のような純恋愛ドラマにハマるのか?
それは韓流ドラマが物理的にフィクションではあるが
確実に現実生活のメタファーとして視聴者に捉えられるからでしょう
馴染みのある光景を排除して、それでいて何処と無く親近感を感じてしまう程度のキョリ感
それこそ韓流なのです
つまりおばはんが韓流にハマるのは、大学生がアニメにハマるのと
根本的に同次元の事象であると言えるのです
528無明の闇:2009/09/30(水) 03:16:41 ID:Ioe+ltoa
ついでに524に答えておこうか。まずお前にはその考えがでるということはいくつかの点がある。

1つはお前には仏教の救いが必要でないとお前自身が思っている。
2つには、したがって、お前は山を遠くから見ているだけで実際に登っていない事を自らが証明している。
3つに、仏教は仏道だからお前はその道を歩んでいないことを証明している。
4つには仏教は信をもって能入とするということをお前はしらない。
5つにはお前は仏教がどのようにつたわり私を救うのかを知らない。
6つには仏教は現代の今から過去をみることを知らない。
7つには歎異抄の2条を読んだこともないからそれが分からないのだよ。
8つにはお前は自分自身を本当に見れていない。自分を賢とみて仏典を自分に合うように
理解をしょうとしている方向に救いはない。
9つに我かくのごとく聞くの仏典の最初の言葉の意味をしらない。
10にお前は月をさしている指を見ようとしている。そして指をみて月ではないといっている。
指の指し示す方向に月はあることを知らない。
11にお前は後得智ということを知らない。この智によって経典は説かれている事を知らない。
12にお前は言葉にとらわれている。
まだまだ100ぐらいあるけど、肝心なのはお前は救いに遇っていない。人に会っていない。
現実の救いがあって、その意味を経典に聞くんだよ。親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。
それが現実にあって、その意味を、歴史的真実の意味を経典に聞かれて行かれているんだぜ。
今、ここに阿弥陀の名がある、その歴史的意味をさかのぼって聞かれているんだよ。7高僧、釈迦をつらぬいて
弥陀まで。最後にお前は大無量寿経を読んでいないし、親鸞さんの本典もよんでいない。
だから名号をもって経の体とするなりという言葉をしらない。
529無明の闇:2009/09/30(水) 03:28:29 ID:Ioe+ltoa
もう一度書いてあげよう。
まだまだ100ぐらいあるけど、肝心なのはお前は救いに遇っていない。人に会っていない。
現実の救いがあって、その意味を経典に聞くんだよ。親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。
それが現実にあって、その意味を、歴史的真実の意味を経典に聞かれて行かれているんだぜ。
今、ここに阿弥陀の名がある、その歴史的意味をさかのぼって聞かれているんだよ。7高僧、釈迦をつらぬいて
弥陀まで。最後にお前は大無量寿経を読んでいないし、親鸞さんの本典もよんでいない。
だから名号をもって経の体とするなりという言葉をしらない。
この経はどこを切っても名号だということよ。アミダ如来ということよ。さらに本質は釈迦が説いたんじゃないんだぜ。
アミダ如来が釈迦に説かしめた。言葉を変えていったら月が指をささしめたわけだ。
このあたりは現実に私にアミダ如来の救いの成就がありそれを聞いていって、17願にたどり着くわけだから
救いがないものには見えてこない世界だ。その人間は救われていないから疑う。経典を疑い、釈迦を疑い、親鸞を疑う。
お前は救いを求めていない。
530神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:02:53 ID:b4DECi4f
>>528 12にお前は言葉にとらわれている。

13におまえはお経がおとぎ話であることを知らない。w

…浄土経典はお釈迦さまがお説きになったものではありません。アンデル
センが『人魚姫』を創作したように、グリム兄弟が古老を訪ねて『白雪姫』
を採録したように、浄土経典は後世の仏教徒たちが作り上げたおとぎ話に
過ぎないものです。(真宗批判サイトからコピペ)
531神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:13:46 ID:rFYMZdpP
>>529 親鸞さんは法然さんにあって阿弥陀に救われたんだよ。

「親鸞は法然にあって阿弥陀のヨタ話に騙されたんだよ」と書けっ。w

…仏の説き給いし大乗経の各章には、共通して禅定と知慧の波羅蜜多が説
かれ、浄土経典だけを例外扱いするには及びません。また信仰による「死
後の救済」を説いていないことも大乗経各章に共通し、浄土経典の場合も
例外ではありません。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生する
ぞと思い取」る法然のいかがわしい仏教は、経蔵・論蔵・律蔵の中のどこを
探しても見つけ出すことはできません。(同上)
532神も仏も名無しさん:2009/09/30(水) 07:21:39 ID:rFYMZdpP
…彼らが拘泥する法蔵菩薩の四十八願にしても、異本間では願数が揃わず『仏
説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』と『無量清浄平等覚経』は二十四願ま
でしかないし、『大乗無量寿荘厳経』は三十六願で止まってしまい、チベット
訳は四十九願にまで増広されています。法然が「王本願」と呼んだ法蔵第十八
番誓願も、やはり異本間に異同があり、至心信楽を欠いているものもあります。
(同上)ttp://kokageno.jakou.com/shousingetop.html
533渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/30(水) 11:58:31 ID:QqVs9GJB
 非想非非想処とはどんな思想か。中村元は『スッタニパータ』を引用している。『ありの
ままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想い無き者でもなく、想いを消滅した者でも
ない』。
 非想非非想という命名の基本となった言い回しだろうと思う。中村元は、この言葉に、「非
想非非想ということがはりきりと示されている」と評価している。しかし、否定形の言葉を綴
られれば、僕には真意が伝わってこない。物事は肯定系で説明してほしいものだ。

 中村元はもう一つの言葉を紹介してくれている。この中身は詭弁であると言っているが、
僕にはこちらの方が意味が伝わってくる。中村元は『中阿含経』第二十八巻「優陀羅経」を
引用する。

 『チュンダよ。実にウッダカ・ラーマ・プッタはこのようなことばを語った、―「見つつ、見
ず」と。何を見つつ、見ないのであるか?。よく磨かれた剃刀の面(平)を見るけれども、
その刃を見ないのである。これが「見つつ、見ず」と言われるものである。ウッダカ・ラー
マ・プッタの語ったこのことは、劣って卑しく、凡夫のことであって、聖に非ず、意義のな
いことで、剃刀のことのみを暗に含めて考えてそういうのである。しかし「見つつ、見ず」
ということを正しく語る人が語るならば、「見つつ、見ず」ということを正しく語るべきであ
る。では、何を見つつ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一切の相
を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にか
くのごとく見るのである。「ここでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄と
なるべきである。」と、かくのごとくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべき
である。それはかくのごとく円満となるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないので
ある。これが「見つつ、見ず」と言われるのである。』
534渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/30(水) 12:00:26 ID:QqVs9GJB
 ウッダカ・ラーマ・プッタは、「見つつ、見ず」という言葉を振り廻して人々を驚かした。し
かし、誰もその意味を了解することができなかった。その意味を尋ねると、「このことば
の意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らくして答えよう。」
といって、四ケ月間、人の尊敬供養を受けていたという。その後に「〈見つつ見ず〉という
のは〈剃刀の平は見るべからず〉という意味である」と説明した、ということになっている。

ウッダカ・ラーマ・プッタは、一方では非常に尊敬される一方、激しく非難する人もいた
という。こういう事情を考えると、ウッダカ・ラーマ・プッタの思想の実体が僕には見えてく
る感じがする。ウッダカ・ラーマ・プッタの教えの実体は、現代浄土真宗からは非常によく
見えてくる。現代浄土真宗こそ、その亜流ではないか、そんな感じがするのだ。

 内容を考えてみる。
535渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/09/30(水) 17:37:43 ID:QqVs9GJB
>>534
誤 現代浄土真宗からは
正 現代浄土真宗教団を含む多くの現代の組織、あるいは人々の本音から

誤 現代浄土真宗こそ、その
正 現代浄土真宗教団を含む現代の多くの組織こそ、ウッダカ・ニ・ラー
 マプッタ教の
536馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/10/01(木) 12:23:26 ID:t97jmERI
 織田信長の出自は物部守屋の子孫
 織田家は津島神社を氏神としている。津島神社の祭神は素盞鳴神で、牛頭天
王とも呼ばれる。物部氏の祖神は饒速日命であり、素盞鳴神の神裔である。
 信長は今川義元との田楽狭間の戦いの必勝祈願に熱田神宮に詣でている。熱
田神宮には素盞鳴神の八岐大蛇退治の時に、大蛇の体内から出て来たと言う草
薙剣が奉納されている。神武天皇の皇后・伊須気余理姫は大物主命(大国主命で
素盞鳴神の神裔)の娘であり、神八井耳命はその次男で尾張の丹波臣の祖である。
丹羽長秀はその子孫である。
 物部氏は蘇我氏と神仏戦争を行った日本土着の民族である。だから、蘇我氏
(朝鮮人)の秀吉と家康によって暗殺された。その時代の天皇家も蘇我氏を改姓
した藤原氏で同類である。
 美濃市の大矢田神社のひんここ祭りは、素盞鳴神の八岐大蛇退治を題材にし
ているが、本当は信長の仏魔退治を称えているのである。(素盞鳴神を演じる代
官の陣笠に木瓜の家紋が入っている。織田木瓜である。今から五百年前から始
まったと言われている。)百姓が一向宗の邪教に洗脳されて魔道に落とされて行
くのを、信長が素盞鳴神の様に大蛇の仏魔を切り倒して救う場面を人形劇で演
じている。信長は比叡山延暦寺を焼き払って僧侶を皆殺しにし、長島の一向一
揆を殲滅させた。正に英雄である。浄土真宗や日蓮宗等を信仰すれば畜生道に
落ちて、犬猫等に生まれ変わる外ない。家で飼っている犬猫は、因縁によって
その家へ辿り付いた、ご先祖の姿なのである。主人が大病して犬が身代わりに
なって死んだという話は、主人と犬が霊的につながっていたと言う証拠である。
537無明の闇:2009/10/02(金) 13:33:17 ID:FgNw8nQk
やっとつながった。530−531−532はいはい質問待ってました。はいそうですかと引き下がられると
こちらも困る訳です。今日は違う角度から。普通この手の質問、即ちお経は釈尊の説かれたあるいは書かれたものでない。
仏説ではないという質問はずっと昔からあり答えも出ているのです。よく答えるのは六時成就でする。
釈尊滅後、30年ぐらい経て結集があり多聞第一アナン尊者を中心に編集していく話。そして第二結集のとき解釈の違いから分裂していき
部派仏教になっていく。この時にこれは釈尊が説かれたのに間違いないという証明をするために
我かくのごとく聞く−−−信、聞  
ある時仏ましまして何処で誰にこの教えを説いた−−−時、説いた人、場所、誰に説いたかがあるわけです。

538無明の闇:2009/10/02(金) 13:45:14 ID:FgNw8nQk
ところが6時成就があるからといって釈尊が本当にこの教えを説いた証明になるのかどうか。
後のものが6時成就をいれて創作もできるわけです。現に中国や釈尊滅後いろいろな経典が成立をしていったのです。
だからその経典を真と仮と偽に分けたりもしている。これは親鸞さんもやった。
またこうも考えられる。釈尊の教えは時代とともに深まりはしないのです。真実をあらわしたわけだから、真実なるものは
変わらなく、いつの時代もあるとなると、釈迦の時代と龍樹の時代と親鸞さんの時代も同じでないといけない。
同じ水でないといけないのです。ただし釈迦と龍樹と親鸞と私では器はみな違うけどね。その違う器に入る水は同じでないと
いかんのですよ。だから釈迦の説いたところが一番高く、だんだんそれが低くなる。言葉を変えればずれる。それを今度はもう一度
もとの高みにもどそうとする。もとにもどってまた時がたつと低くなる。また高みにもどす。この繰り返しで教えが伝わるわけですよ。
539無明の闇:2009/10/02(金) 14:04:37 ID:FgNw8nQk
その高みは何かというと釈尊は縁起、龍樹は空、親鸞さんは本願念仏と表現したわけで
同じことなのですよ。そもそも釈尊の説法というのは対面者にあわせて釈尊の悟りを内実として
いろいろな問題に対応し説法されたわけだから、問題はその悟りの内実が問題になる。
それを縁起といったり空といったり本願というわけです。
これを言葉、語によらず義に、意味によるというわけです。この視点から無量寿経は歴史的実在としての
釈尊が弥陀の本願海を説いたと言い切り、龍樹は釈尊は一切空を説いたと言い切っているわけです。
540渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:17:46 ID:wLeWGq2l
 ウッダカ・ラーマプッタは、「見つつ、見ず」という。こういう言い方を現代の我々でもしばしば
することがある。われわれは見て見ないふりをする。ウッダカ・ラーマプッタの主張は、見て見
ない振りをせよということだったろうと思う。こういう主張であれば、浄土真宗教団のなかにもあ
る。

 最近は冤罪事件が社会問題になっている。浄土真宗は、冤罪で流罪となった人物が宗祖で
ある。浄土真宗教団には、刑務所で収監者と直接接している教誨師が少なくない。教誨師総
裁も浄土真宗の近くにいる。もっともその人は、宗教の本は自分では書けないので、幽霊に書
いて貰って出版して儲けたそうだ。商魂だけはたくましい。

 しかし、冤罪事件の解決に浄土真宗が関わったという話は、一度も聞いたことがない。死刑
囚の身から冤罪が晴れて出所した人が、教誨師ほど冤罪事件に無関心な人はいないと、そん
な意味のことを書いていた。
 鎮護国家だって?。とんでもない。自殺者が年間3万人を超そうが、幼児虐待の相談件数が
うなぎ登りになろうが、それがどうした。そんな社会の問題を心配してどうする?。小さい話じゃ
ないか。そんなこと心配していたら、浄土真宗は日本だけの民俗宗教になってしまう。我々は
凡夫である。仏教がすべての人を救うなら世界宗教であるはずだ。そんな意味のことが、2ちゃ
んねるにも書かれている。
 真宗の人の多くは社会に対する責任に消極的である。僧としての社会的使命感が乏しい。向
上心を嫌う。私たちは凡夫ですから自力はだめです。阿弥陀様が救ってくださるという他力を主
張する。僕は、こういう他力の教えを、見て見ないふりをする現代のウッダカ・ラーマプッタ教だ
ろうと考える。

 教誨師をやっていると言えば肩書きがつく。しかし、冤罪事件に取り組めば、法務省からにら
まれ、苦しみが生じる。冤罪事件など、見てみない振りをすれば決して苦しむことはない。無実
の人が死刑になっても、一生懸命にそれを見ようとするから苦しくなる。心配になる。不安にな
る。見なければ苦しみはない。寺は先祖代々世襲で続く。教誨師は、安楽椅子に乗っていれば、
苦しみなどはやってこない。
541無明の闇:2009/10/02(金) 14:20:24 ID:FgNw8nQk
釈尊の言葉にとらわれたら一番さかのぼる事が出来るのはスッタニパ−タか法句か。
しかしそれでも矛盾がでてくる。またあのとき説かれたのとこの人に説かれたこと等々を
あわせるためにより複雑で矛盾が矛盾をよびさらにつじつま合わせがおこる。
ニュ−トンの万有引力のようなものだよ。今の時代もニュ−トンの時代もあるだろ。
べつにその力をニュ−トンが作ったわけでもない。きっとニュ−トン以前もこの力はあってこれに気づいて
いた人もあっただろうし、ニュ−トンがこの世に出なくても後の人がこの力に気づき証明しただろうし。
そんな力を知らなくても引力のなかにいるんだよ。疑ってもその力の中にいる。忘れるんだったらたまにでも
引力の事を思い出せ。それには口にだしてインリョクがあるというのが一番。
まあこれは喩えだけど、この引力を縁起や空、なも阿弥陀仏に変えるのよ。
542渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:23:36 ID:wLeWGq2l
 ウッダカ・ラーマプッタは言う。「ここに実に明知者がいる。ここに実に一切にうち勝った者がい
る。掘り取られなかった節ある根を、ここに掘り取った。」と。ウッダカ・ラーマプッタは明知者なら
ざる者でありながら、「われは明知者である」と語り、一切にうち勝った者ではないのに、「われは
一切にうち勝った者である」と語り、また節ある根は掘り取られていないのに、「われは節ある根
を掘り取った」と語る。

 門徒は言う。「私は救われているんですよ」と。門徒は自分が凡夫であると言い、「信心がある」
と言う。救いはなんら解決していないのに「救われている」と語り、生老病死は何一つ解決してい
なのに、「阿弥陀様が救ってくださっている」と語る。

 ウッダカ・ラーマプッタは禅定をしていたようだ。見て見ない振りをすると言っても、何となく不安
にはなる。寺は世襲に安住すれば不安はないというが、子供が生まれなかったら、宗教法人は
他人の手に渡る。自殺しなければならないようなことが自分に起きたらどうしよう。不安はよぎる。
禅定は、そんなことも見て見ないようにするための手段だろう。
 門徒は禅定をしない。そのかわり、気休めを言う。「そういう凡夫だからこそ阿弥陀様が全てを
お見通しして救ってくださっている。ありがたい、ありがたい」と。
 浄土真宗の坊さんの講演会に行くと、最前列に座り、回りの人の迷惑も考えず、公演中「ナン
マンダブ、ナンマンダブ」とこれ見よがしに念仏を称えている人がいる。この人に、少し静かにした
らどうだと注意する人もいない。念仏を称えるのもいいが、念仏は他人に聞かせるものではない。
禅定はないが、気休め念仏という見せ物念仏は一部にある。

 中村元は経典を紹介する。
 ウッダカ・ラーマプッタは何を見つつ、見ないのであるか?。「かくのごとく一切の相が具わり、一
切の相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満なる清浄行が明らかにされた。」と、実にかくの
ごとく見るのである。

 阿弥陀様が救ってくださっていると言って見て見ない振りをすれば、一切の相が具わり、一切の
相を円満し、減なく増なく善く説かれ純粋円満になる。
543渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:25:57 ID:wLeWGq2l
 経典は言う。「ここでこれが除かるべきである。それはかくのごとく更に清浄となるべきであ
る。」と、かくのごとくそれを見ないのである。「ここでこれが加えられるべきである。それはか
くのごとく円満となるべきである。」と、かくのごとくにそれを見ないのである。これが「見つつ、
見ず」と言われるのである。

 「無実の人が犯罪者とされて収監されているようなことは許されるべきではない。直ちに釈
放すべきである。更に清浄となるべきである。」と、このようには教誨師は考えないのである。
なぜならそのように主張し努力するすることは自力だからである。「冤罪はなくすべきである。
かくのごとく国家による人権侵害をなくし、社会を平和にすべきである。社会は円満となるべ
きである。」と、教誨師は真実を見ないのである。なぜなら自力では問題が解決しないから
である。これが「見つつ、見ず」つまり「見て見ない振りをする」と言われるのである。努力をし
たり、使命感を持ったりする自力はいけません。

 こんなことを言う人ばかりではないと思うが、使命感、責任感、努力、克己心、闘争心、研
究心、こういう生きた魂が自力という言葉で一括して否定できるのは、現代浄土真宗の不思
議な教義の特徴であり、ウッダカ・ラーマプッタ教との共通点ではないだろうか。

 保元・平治の乱、源平の合戦、武家政権の誕生、平安時代という比較的平和な時代が一
気に幕を下ろして戦乱の時代になった時、鎮護国家をたたき込まれていた法然・親鸞らが一
斉に山を下りる。そんな中で親鸞は、女の尻を追っかけたんだろうと卑猥な評価をし、あの
人は自分達と同じ凡夫だなぁなどと、嘲弄の言動を浴びせる。「見つつ、見ず」、「現実を見て
見ない振りをする」。苦しみのない思想の真骨頂だろと僕は考える。

 ウッダカ・ラーマプッタの教えは、誰もその意味を了解することができない。その意味を尋
ねると、「このことばの意味は深遠であって、腹工合の善い時でないと答えられない。暫らく
して答えよう。」といって、四ケ月間、人の尊敬供養を受けて、その後に「〈見つつ見ず〉という
のは〈剃刀の平は見るべからず〉という意味である」と説明した。
544渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:29:59 ID:wLeWGq2l
 「見て見ない振りをする」というのは、人間の本音である。真正面切って説くと正義感に駆ら
れている人からは猛反発を受ける。「腹工合の善い時でないと答えられない」とウッダカ・ラー
マプッタがいうのは、まじめに答えることはできませんという意味だ。四ケ月間、人の尊敬供養
を受け、ウッダカ・ラーマプッタはその後、「剃刀の平は見るべからずという意味」だと、抽象的
に慎重に説明する。「危ないところには近寄らない。冤罪者が泣いているというような問題には、
法務省がへそを曲げるから、刑務所に出入りしている教誨師は関わらない」ということである。

 仏典は言う。かつて或るとき、トーディ村のバラモンの仲間のうちには他人を非難する人々が
いた。

 刑務所に出入りし、収監者と直接面接していながら、冤罪には無関心な教誨師は、法務省か
らは喜ばれても、解放後の元収監者からは嫌われる。トーディ村のバラモンでなくても、社会
的な責任を果たそうとしない宗教人は、法務省以外からは非難を受けるだろう。

 「このエーレッヤ王は愚かである。かれは修行者ラーマプッタを深く信じ、またかれにこのよう
に服従している。すなわち挨拶、起って迎えること、合掌、敬虔な態度を示している。またエー
レッヤ王の侍従であるヤマカ、モッガツラ、ウッガ、ナーヴィソダキ、ガンダッバ、アッギヴエッサ
も愚かである。かれらは修行者ラーマプッタを深く信じ、またかれにこのように服従している。

 しかし、そんな教誨師を深く信じ、またかれにこのように服従している人もたくさんいた。ラーマ
プッタ、あるいはウッダカ・ラーマプッタは、物腰が柔らかく、いつもにこやかにしていたようだ。
 法務省に歓迎され、犯罪を犯した収監者に他力本願の阿弥陀様のすばらしいお話をしている
坊さんであると言えば、尊敬する人も多いだろう。
 ウッダカ・ラーマプッタは社会的にも相当の尊敬を受けていたようだ。

 ただ、この問題は非難ばかりしていられない深刻な問題も絡んでいる。肯定はできないが、簡
単に否定もできないというジレンマがある。
 
「この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正
覚に赴かず、安らぎに赴かない」生老病死の最終的な解決にはなり得ない。
545無明の闇:2009/10/02(金) 14:33:29 ID:FgNw8nQk
宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法という。空とも言う。名号ともなも阿弥陀仏とも言う。
釈迦はこの働き力を悟り、言葉で多くのものに伝えた。ある時は有無にとらわれるなといい
ある時は三法印、ある時は執着をなくせ、ある時はとらわれるな、ある時は無一文等々
この働きの中にすべてのものはある。疑おうが、関係ない。この中で生まれこの働きに帰る。
この働きは釈尊以前にもあり以後もあり、釈尊が作ったのではない。
この働きを知らなければ、我をたて、常とおもい、悔やみ苦しむ。
この働きと同じになれば無我無常、苦しみは消える。この働きを知らないところ無明から苦しみは
起こり、有から輪廻がおこる。しかし凡夫は分かってもすぐに忘れ、うなずいても
そのごとくならないが、忘れずに心にとどめておけ。一つの覚えやすい言葉にして口に称えよ。
たとえその働きを知らなくても、その中にあって苦しんでもその働きは常にお前を包んでいると
こうなるのよ。仏教も真宗の親鸞さんの教えも簡単だろ。
546渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2009/10/02(金) 14:51:26 ID:wLeWGq2l
>>545
 宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法という。空とも言う。名号ともなも阿弥陀仏とも
言う。釈迦はこの働き力を悟り、言葉で多くのものに伝えた。 〜 この働きを知らないとこ
ろ無明から苦しみは起こり、有から輪廻がおこる。しかし凡夫は分かってもすぐに忘れ、う
なずいてもそのごとくならないが、忘れずに心にとどめておけ。一つの覚えやすい言葉にし
て口に称えよ。
 無明から苦しみは起こり、有から輪廻がおこるんだから、いやなことはみんな忘れろ。

 心配するな、たとえその働きを知らなくても、その中にあって苦しんでもその働きは常に
お前を包んでいるとこうなるのよ。嫌なことは見なければいい。放っておけばうまくいく。仏
教も真宗の親鸞さんの教えも簡単だろ。

 詳しいことは、腹工合の善い時でないと答えられない。現代の非想非非想の思想だ。考
えるのでもない。考えないのでもない。ウッダカ・ラーマプッタの教えは難しい思想ではな
い。それは、現代の浄土真宗,の中に生きている。
547神も仏も名無しさん:2009/10/02(金) 20:30:03 ID:xQj5J9LX
>>545
(1)仏教も真宗の親鸞さんの教えも簡単?それなら日蓮や道元の教えも
簡単だ。それがどうした。
(2)宇宙を貫くおおきな働きがあって縁起の法といい、まあ空ではあろ
うけれど、それは阿弥陀仏ではない。どさくさにまぎれてデタラメを言わ
ないように。
548神も仏も名無しさん:2009/10/02(金) 20:48:25 ID:xQj5J9LX
>>537
お経は仏説だ。親鸞は仏説として浄土真宗を開いたはずだ。今さら仏説では
ない、と訂正しないように。親鸞教義が成立しなくなるだろ。
549無明の闇:2009/10/02(金) 22:33:38 ID:FgNw8nQk
まず誰も仏説ではないと言ってないぜ。大経は仏説だ。三部経もな。だから言ってるだろ。
これを言葉、語によらず義に、意味によるというわけです。この視点から無量寿経は歴史的実在としての
釈尊が弥陀の本願海を説いたと言い切り−−−−って。
547−−意味がわからない。日蓮道元がなぜ関係してくるのか順序だてて述べろよ、
お前それじゃアミダブツをどう理解しているんだよ。述べてみろよ。デタラメと言うんだったら
根拠を示せよ。なんなら真宗の6字釈か正信げを使ってもいいぞ。どちらにしろ
縁起−空までは理解できていてアミダが同じなのが分からないんだろ。日蓮宗か禅宗かだろ。
聞いてやるぜお前のアミダブツ理解を。
550無明の闇:2009/10/02(金) 22:40:24 ID:FgNw8nQk
それから−−−親鸞は仏説として浄土真宗を開いたはずだ−−ここが根本的に違ってる。
親鸞さんの教えを宗派としてとらえると、あかんのだよ。一宗派に止まるような教えではないんだよ。
551神も仏も名無しさん:2009/10/03(土) 09:55:22 ID:Qmx21Ah5
>>550
宗派に止まるから浄土真「宗」だ。「宗」の字が読めないのか。
552無明の闇:2009/10/03(土) 22:22:30 ID:BJncaVKV
551−−そんなことより早くアミダブツ理解を示したらどうか。
あとは浄土の真宗と読むと少しは見えてくる世界もあるぜ。それから真宗と言う言葉は
中国の禅宗の坊さんでも使うんだぜ。禅宗の僧が我が真宗においては−−−−。
まあ信楽先生の真宗学原論でも読み直すことだね。
553神も仏も名無しさん:2009/10/04(日) 03:47:19 ID:tBwd+PRr
会にいたころは、真実のためには、多少の犠牲も仕方ない、と、思っていた。
他力といっても、 自力いっぱい求めて すたるところまで!といわれると、
この人の言うことに間違いはない、と、鵜呑みにした。
でも、いろいろ、とてもうそ臭さが最近はばれて、とても信じられない。
これは、真面目に求めようとした人なら、当然起こる気持ちだと思うし、
今残っている人が、同じように思わないなら、思考停止で、おかしいと思う。
だいたい、光に向かって、みたいに、生き方の先生として、廃悪修善を説きながら
人の文章を、そのままパクルなんて、よくやるよね。盗みはだめと言っている人が
言行不一致すぎる。それなら言わなきゃいいのに。「余裕はたなぼたでは来ない」も
どんな神経しているんだろ。随行してた○田講師がけなげだよ。
一日のご説法が命がけ!というのも、今から思えばどこが命がけなんだ!と思うし、
対機説法が大事といいながら、一度も舞台から降りて、手に手をとって会員に話かけ
ようとしてなかったよね。ホント会員にとって遠い存在だ。
講師の人も、盲信の何ものでもないよね。
正しい先生なら盲信もいいが、ここにきて、こんなに怪しいし、いつ亡くなるかもしれない人。救われてない
なら、これで本当に正しい教えだったのか、と、疑問が起きて当然ですよね。
すべてが化けの皮が剥がれてきている。早く目を覚まして、教えに依るように
原点に帰って、よく 考えようよ!
世の中、私こそ真実! という人が多いが、残念ながら、親鸞会はその例にもれず
似て非なるものだったと ばればれなんだから。
お世話になった という思いは、尊い感情だとは思うが、自ら言っているとおり、
万死に値する悪を しゃあしゃあとしている人物、もっと、正見しないと、
ひとごとじゃあない。また 周りをまきこんだ責任を感じるなら、よくよく冷静に
考え、勇気ある決断をする方が一人でも出て欲しいと願います。
554無明の闇:2009/10/04(日) 13:25:20 ID:lmtGV+kg
私はその親鸞会なるものはぜんぜん知らないけど、分からんから意見のしようがない。
それとここはその会の掲示板なのか。難度とか言う人はその関係者なのか。
まあ私なんかはどこにも属してないけど。私なんか勝手にやってきて勝手に意見書き込みしているけど。
553番の貴殿もなんか名前つけて書き込んだらいいよ。本典の総序からつけるというのはどうかな。
名前つけないと誰がどの意見をいっているのが分からないからね。
555神も仏も名無しさん
>>552
阿弥陀仏は仏国土に住する。仏国土を理解すれば阿弥陀仏を理解できるし、
阿弥陀仏の理解は仏国土の理解である。

(以下Wikipediaから引用)
精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清
浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。し
たがって、浄土とは仏国である。
『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また
『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)な
るが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。
すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。

――ということだ。アホバカ宗学者信楽峻麿を早く卒業するように。