【浄土真宗】妙好人と学ぶ6【信心獲得(決定)】

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1神も仏も名無しさん
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)
前スレが500kオーバーのため、立てました。

前スレ
【浄土真宗】妙好人と学ぶ5【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ4【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1202651606/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ3【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1200414712/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1198478098/
【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1191756120/
2渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 10:08:54 ID:txdCAaym
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/873
 釈迦は、自分を「あほ・馬鹿・あんぽんたん・キチガイ」とよぶような人にはものごと教える責
任はないと考えていた。自分を「先生」と呼ぶ者には全力でみずからの認識を伝えた。釈尊先生は、
祇園精舎に入学した生徒に、自分は「先生」であり、自分を先生と呼ぶべきことを教え、自分を先
生と呼ばせた。
 釈迦を先生と呼ぶ者は、釈尊先生との学びの世界に入った。限りない光の世界、限りない命の世
界に入った。祇園精舎に入った。阿弥陀仏を「先生」、つまり阿弥陀仏と呼ぶ者は、阿弥陀仏の世
界、限りない光の世界、限りない命の世界、つまり極楽浄土に往生する。

 教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、
「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざ
らしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。(観無量寿経)

 下品下生の愚人が、進退窮まり、身動きできなくなった。その時、親切な友人が言った。仏を観
想してごらん。観想念仏をしてごらん、と。ところが、この愚人は苦しみの余り、観想念仏ができ
なかった。友はいう。観想念仏ができないなら、「無量寿仏(先生)」と称えてごらん、と。愚人
は、真剣な思いで声に出し「南無阿弥陀仏(ああ先生)」と、十回程称えた。


>>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/863
>中世においては霊的存在など科学(常識)であったが故に、仏教者は鬼神を遠ざけた。
現代は霊的存在そのものを、非科学的だとして認めない。

 そこで貴方は鬼神を礼拝するのでしょうか?。しないのでしょうか?  (苦笑)


>>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/865-870
 相手不在、孤高恍惚の独り言の世界で場外乱闘ばかり続けるのやめたらどうよ。
3神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:11:02 ID:deq1de9Z
>>1
乙カレー様です
4神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:17:33 ID:deq1de9Z
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という名号を本尊にしている
浄土宗は阿弥陀仏が本尊。この違いは大きいのかもしれない
5神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:28:41 ID:5unxvXyg
【重要なお知らせ】

精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
6神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:30:06 ID:5unxvXyg
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者
7神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:32:39 ID:5unxvXyg
念仏宗渡海会(「こんにちは会」ともいう)
・教祖 渡海 難(「とうみかたし」と読む) ←渡海紀三朗文科相とは無関係
・会費 4000円
・HP  ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/
・根本聖典(?)親鸞の思想と教行信証(世界数ヶ国後に翻訳されると本人が称している)
「親鸞仏教の正当性を問う」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/970/970632275.html
「親鸞仏教の正当性を問う(パート2)」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/975/975404451.html
「親鸞仏教を見直そう。」ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/979/979297776.html
「親鸞仏教を問う(V)」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1000/10001/1000165825.html
「親鸞仏教論 W」ttp://life.2ch.net/psy/kako/1012/10129/1012997700.html
「□■ЯЯ親鸞仏教(浄土真宗)質問箱RR■□」ttp://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1123906853/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○」ttp://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1157628310/
「○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○」ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/
・教義 渡海教祖の思いつきで右に左にコロコロ変わる。ある時はお釈迦さまの代弁者となり、ある時は親鸞思
想の代弁者となる。大川隆法の「霊言」のようなものである。
ちなみにカルト教団に「サタン」とするものがあるのと同じく念仏宗渡海会にも「親鸞会」や「浄土真宗のお坊
さん」というサタンが存在し、自分に都合の悪い者がいると「親鸞会」や「浄土真宗のお坊さん」と言って決め
つける。
ちょうど創価学会の「日顕宗」のようなものと思えばいいだろう。
・会員数 ゼロ(笑)
・教祖の性格 一言で言えば基地害、電波。独善的で絶対に他人の言うことを聞かない。
裁判の時弁護士が使うような論法で次々と質問をはぐらかす。
・活動 2chでの布教活動を主とする。
あと、彼にとってのサタンである親鸞会の退会者に狙いをつけて退会者狩りを行うが念仏宗渡海会の信者になっ
たという話は聞いたことがない。
渡海会には「座禅念仏」という行があるそうだ。それを真宗関係のサイトで説いて回った所、次々と拒絶されて
いる。
あと「ああ先生」という呪文もある。詳しいことは分からないが人の意見を聞かない奴に先生もヘチマもあった
ものではないが。
8神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:33:52 ID:OaE3XQ+c
昔のお坊さんは、霊能を持っていたようだ。

祐天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

祐天(ゆうてん、寛永14年4月8日(1637年5月31日) − 享保3年7月15日(1718年8月11日))とは、浄土宗総本山増上寺36世で、江戸時代を代表する呪術師。
字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、
強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという。

祐天は陸奥国磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、
暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。
不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。
5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、
幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、
正徳元年(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。
晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。
享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。

祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、
羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の亡魂を解脱させた話で、
曲亭馬琴はそれをもとに『新累解脱物語』を著している。
のちに三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』で有名となった。

9神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:38:01 ID:5unxvXyg
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。
10神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 10:39:17 ID:5unxvXyg
もう渡海難の話題はうんざりだろうけど、まだまだ出現するかもしれないので、
特定するためプロファイリングしてみますね。

渡海 難 とはこんな人物

 ●年齢は60歳くらい

 ●浄土真宗、真宗の僧侶、親鸞会に深く怨みを持っている

 ●来世を否定して、現世を肯定

 ●阿弥陀仏は架空の存在と主張

 ●親鸞聖人が問題を解決したから、我々は世間のことに努力すれば良いと
  「十劫安心」まがいのことを言う

 ●カウンセリング、自律訓練法など、いろいろな事を経験したらしい

 ●正規の宗教教育は受けておらず、すべて独学のようだ

 ●座禅して念仏せよと主張するが、その目的は不明
  ココロが癒されて身体に良いのかな?


11渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 10:51:59 ID:txdCAaym
>8
 世の中には霊能者がいるということと、自分も霊能力に依存すると言うこととは
別の問題だ。
 自分は霊能力に依存するということ、「浄土真宗とは霊能力に依存する宗教であ
る」というのとは別の問題だ。
 
 そうは思わんかね?。浄土真宗とは霊能力に依存する宗教ではないんだ。ここ
はしっかりと認識しようじゃないか。
12神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 11:01:53 ID:OaE3XQ+c
>>11
釈尊は天界から地獄まで見通す偉大な霊能者だった。そうは思わんかね?
13渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 11:30:37 ID:txdCAaym
>12
14渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 11:35:35 ID:txdCAaym
>12
>釈尊は〜偉大な霊能者だった。そうは思わんかね?

 弘法大師は偉大な霊能者だったと言われれば、そうかなとも思うが、釈尊は
遠すぎて分からんね。
 貴方は、釈尊が偉大な霊能者だったから、自分は鬼神を礼拝するというのか?
好きにすればいい。ただ、それが往生極楽の道(歎異抄2章)と考えなさんなよ。
 まあ、そう考えても貴方の勝手だけどね。 
15神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 11:39:03 ID:Pk+TpfSJ
弘法大師>釈尊?
16神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 11:45:50 ID:OaE3XQ+c
>>14
源信僧都は、霊能力者だというのは認めるかね?
17神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 11:50:48 ID:OaE3XQ+c
古今東西、高僧や開祖は、ほぼ霊能力者であるな。
江原氏は、現代では珍しい、善人の霊能者であるぞ。

18神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 11:51:10 ID:NXNaEq+V
富山県では違法マフラーとか改造車乗ってる男は
喧嘩上等の証っていう地元の暗黙のルールだよ。いつでも喧嘩上等らしいけどなにか?
19神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 12:07:23 ID:Kb1i1TQg
ニート海難が名無しで立てたスレか
20渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 12:13:13 ID:txdCAaym
愚禿悲歎述懐
浄土真宗に帰すれども 真実の心は有り難し 虚仮不実の我が身にて 清浄の心も更になし
 浄土真宗を学んでいるが、真実の心はなかなかないものだ。虚構と借りものばかりで真実は何
もない。そんな我が身で、清浄の心はさらにない。

外儀の姿はひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪儀多き故 奸詐百端身に満てり
 自分は、確かに外見的には賢者であり、努力もしているような格好をしている。ところが貪り
・怒り・間違った立ち居振る舞いも多い。嘘偽りも全身に満ちているではないか。

悪性更に止め難し 心は蛇蝎の如くなり 修善も雑毒なる故に 虚仮の行とぞ名付けたる
 そんな自分であればこそ、間違った行為はなかなか改めることができない。心は邪悪な蛇、さ
そりのようである。善をしていても、結局は毒が混じっている。だからこそ、自分が行っている
善は、嘘物・借りものに過ぎない。

無慚無愧のこの身にて 真の心はなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方に満ち給う
 そんな我が身だからこそ、天に恥じることもできない。地に恥じることもできない。真実の心
は何一つ無い。そんな我が身でも、一つだけできることがある。阿弥陀仏が与えて下さったその
名を称えることだけはできる。この素晴らしさは、あらゆる世界に満ちている。

小慈小悲も無き身にて 有情利益は思うまじ 如来の願船在ずは 苦海をいかでか渡るべき
 少しでも苦しみを抜こう、少しでも楽を与えよう。そのようなことが何もできない。自分はそ
んな身である。生きとし生けるものを救っていこうというようなことは、考えることもやめよう。
もし阿弥陀仏の願船がなかったら、自分はこの苦しみの世界をどうやって渡ることができたろう
か。念仏を称える者は必ず救う。もし果遂しなかったら大乗の仏になったことにならない。その
ように誓ったあの阿弥陀仏の励ましがなかったら、称名念仏を称えると言うこともなかったろう。
阿弥陀仏の誓いがあったからこそ、真実の世界に至ることができた。もしそれがなかったなら、
苦海のなかで、ずっと翻弄されていただろう。
21渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 12:13:45 ID:txdCAaym
蛇蝎奸詐の心にて 自力修善は叶うまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にて果てぞせん
 蛇さそりと同じ身である。嘘偽りばかりである。自力の心で善を行おうとしても、何一つ達成
することはない。もし、阿弥陀如来の救いを信頼することがなければ、天にも恥じず、地にも恥
じず、そのまま死んでいく身だったのだ。

五濁増の徴には この世の道俗尽く 外儀は仏教の姿にて 内心外道を帰敬せり
 飢餓・天災・戦争などが増え、誤った考えが蔓延し、人を迷わす煩いや悩みが増加し、人々に
多くの苦しみが増え、人々が短命になる、そんな時代になってきたようだ。出家も在家も、外見
は仏教を装い、内心は仏教以外の教えを信奉している。

悲しき哉や道俗の 良時吉日選ばしめ 天神地祇を崇めつつ 卜占祭祀勤めとす
 悲しいことだ。人々は、時刻・日にちを占い、占いで時期を選択する。天の神、地の神を信仰
し、占いや迷信の祭りに関わろうとする。

僧ぞ法師のその御名は 尊き事と聞きしかど 提婆五邪の法ににて 卑しきものに名付けたり
 僧とは法師という名は、本来は尊いものだと聞いていた。しかし釈迦を殺そうとして傷を負わ
せた提婆が説いた五つの邪な法と類似した教えであり、まるで低俗な教えであるかのように扱わ
れている

外道梵士尼乾志に 心は変わらぬ者として 如来の法衣を常にきて 一切鬼神を崇むめり
 外道つまり、梵天を崇めるバラモン教、あるいはジャイナ教、こういう教えと仏教徒は、本質
は違いがない。そう言って、仏教の坊さんの着物を着て様々な、一切の鬼神を崇めている。
22渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 12:14:28 ID:txdCAaym
悲しき哉やこの頃の 和国の道俗皆共に 仏教の威儀を基として 天地の鬼神を尊敬す
 悲しい話だ。最近の日本の坊さんも在家の人も、仏教の格好をして天地の鬼神を信仰している。

五濁邪悪の徴には 僧ぞ法師という御名を 奴婢僕使と名づけてぞ 卑しき者と定めたる
 五濁の世の中で邪悪がはびこってきた証拠には、僧とか法師というその名が、身分の低い従僕、
召使いのように扱われ、非常に卑しい人として扱われている。

無戒名字の比丘なれど 末法濁世の世となりて 舎利弗目連に等しくて 供養恭敬を勧めしむ
 自分は、流罪の身となり、僧籍を剥奪され、受戒の効果のない者である。しかし善導大師の教
えによって、形ばかりの僧となっている。戒律も崩れた末法の時代、乱れた五濁の時代だからこ
そ、今、自分はかつての舎利弗尊者、目連尊者と同様の立場に立っている。人々には供養恭敬の
重要性も勧めている。

罪業もとより形なし 妄想顛倒のなせるなり 心性本より清けれど この世は真の人ぞなき
 罪業と言っても実体はない。誤解と妄想で生まれてくるものだ。本質はみな清らかである。し
かし、この世には真実の人はほとんどいない。

末法悪世の悲しみは 南都北嶺の仏法者の 輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり
 戒律が崩れた末法の世にあっての悲しみは、奈良あるいは比叡山(本願寺も含むか)の仏法者
達、あるいは御輿を担ぐ下級僧、力僧、すべて名誉・肩書きだけの形ばかりのものになってしま
ったことだ。

仏法侮る徴には 比丘比丘尼を奴婢として 法師僧徒の尊さも 僕従者の名としたり
 仏法を軽視する証拠には、僧あるい尼僧を身分の卑しい従僕のように扱うようになったことだ
だ。

已上十六首これは愚禿が悲しみ嘆きにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧と
申すも法師と申すも憂きことなり 釈親鸞書之
23神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 12:50:12 ID:RT0UG+sZ
浄土真宗は霊能とは無縁だけど、不思議は多いです。
けど、みんなそういうことが本筋じゃないのを知ってるから、何も言わない。
凡夫が仏になる不思議、名号不思議の信心だけあればいいですから。
24渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/02(日) 13:01:25 ID:txdCAaym
>16
>源信僧都は、霊能力者だというのは認めるかね?

 さあ。わからんね。それで源信僧都の霊能力は、どこかで生きて
いるのかね?

 霊能者だったかどうだったか、僕には関係ない話だな。源信僧都
はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたか
ら、源信僧都は偉かったのだ。それ以外は僕には関係ない。
25神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 13:07:43 ID:OaE3XQ+c
>>24
死後往生というのなら、
あの世には何が往生するのかね?
26神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 13:30:54 ID:Rb3bV/9a
>>25 あとで風呂に入ろうと言うとき、
いったい何が風呂に入るのか?
私は瞬間瞬間に生滅していて、固定的な主体はない。
27神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 13:43:51 ID:3TbzB9Ei
このスレは
「妙好人と学ぶ」スレじゃなくて
「キモヲタ(自称妙好人)と遊ぶ」スレになってるな
28298:2008/03/02(日) 14:04:13 ID:6pprPk9G
スレ立て、ありがとうございます。

>>前スレ871
弥陀をたのむ、その一念に信をいただく。
とても、簡単な事です。
その一念に信がうまれますから、
その後は、上一形に至るまで、
御恩報謝のお念仏です。

つまり、けちゃっぷさんは、法然聖人のお念仏を理解していると
考えていて、理解した上で、その価値を否定していると思っていらっしゃるという
ことですね。

私は、法然聖人も仰いでおります。偉大な方です。

私たちは、一枚起請文に違わぬことをしていると思っております。
信をいただけば、その内容が、あざやかに浮かび上がります。

聖人のお気持ち、願いが、感じ取れます。

「一文不知の愚鈍の身になす」というのは、本当にその通りなのです。

南无阿彌陀佛
29神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 14:10:55 ID:6pprPk9G
>>前スレ871 http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1203573106/871

◎ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して
南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに篭り候ふなり(一枚起請文)

三心・四修も、「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふ」ときには、
自然と具わるものなのです。

これは、恩徳讃

◎如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし

   師主知識の恩徳も
    骨をくだきても謝すべし

にも、つながることです。

わずか一念にして、如来の清浄な心を我が身に受ける。
その御恩は、はかりしれません。
30298:2008/03/02(日) 14:11:43 ID:6pprPk9G
>>29は、私が書きました。
31298:2008/03/02(日) 14:17:02 ID:6pprPk9G
そして、一念にて、信が生まれるお念仏をお称えしなければなりません。

一念にて、信が生まれないお念仏は、如説でないのです。

ですから、「如説」とは何かを、知らねばなりません。

それにはまず、多くの方は、お聖教を読むことになると思います。

そして読んでいるうちに、読むだけでは足りず、
尋ねねばならぬと理解します。

読まなくとも、指導者に会うならば、教えていただけます。

自らを、一文不知の愚鈍の身になして、ただ一向に申すお念仏です。

凡夫が生涯にただの一度で満足し、
弥陀の真実信心をいただき、感謝するお念仏です。

その後は、いのちのびれば
御恩報謝のお念仏をつづける。それだけのことなのです。

南无阿彌陀佛
32298:2008/03/02(日) 15:23:37 ID:6pprPk9G
凡夫の出離得脱を可能にするのが南无阿弥陀仏です。
わずか一念にて、その功徳は行者の身に満ちます。

南无阿彌陀佛
33298:2008/03/02(日) 15:31:08 ID:6pprPk9G
◎助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし(親鸞聖人)
34神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 15:49:00 ID:Xv0Fgp/p
35298:2008/03/02(日) 15:49:02 ID:6pprPk9G
阿弥陀様の光明は、地獄界の衆生の苦悩も
除いてくださいます。
本当に尊いです。
36298:2008/03/02(日) 15:51:07 ID:6pprPk9G
>>34
けちゃっぷさんは、弥陀に救われようというよりは、
易行である聖道を歩もうとされている方のようです。
行については、自分なりの解釈を大切にされているようです。
37298:2008/03/02(日) 15:52:58 ID:6pprPk9G
>>34
また、けちゃっぷさんは、私たちが奉じている教えを、
釈尊の出世本懐とは、思っておられません。
38298:2008/03/02(日) 15:55:38 ID:6pprPk9G
信じない方に、何を言っても信じませんので、
なぜか信じることのできる方に、
善友を探してほしいです。
弥陀の救いは、むなしいものではなく、
今の世にも、伝わっております。
凡夫が一念にして信決定できる、南无阿弥陀仏です。
これにより、極楽往生が治定致します。
南无阿彌陀佛
39298:2008/03/02(日) 15:56:01 ID:6pprPk9G
極悪が極楽に参る。不可思議なことです。
40神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:02:39 ID:Xv0Fgp/p
>>38
> 信じない方に、何を言っても信じませんので、
> なぜか信じることのできる方に、
> 善友を探してほしいです。

>>39
> 極悪が極楽に参る。不可思議なことです。

あなた、自己矛盾してますよ。
信じない極悪が極楽に参るのでしょう?
それならば、信じようとしなくてもいいじゃないですか。
善友なんて探す必要も、信じようとする必要もありませんよ。
41298:2008/03/02(日) 16:05:22 ID:6pprPk9G
>>40
そうですね、矛盾されているように感じると思います。
「信じる」というのは、凡夫の心で信じるのです。
それはなぜかと言えば、凡夫なりに信じていなければ、
探すこともできないからです。
凡夫が信じることができないのは、深信ができないのです。
深信は、弥陀がくださるものです。

あなた様は、わかろうとせず、否定しようとされていますね。

そのような方が、私の言うところの「信じない方」なのです。

獲信を求めない方が、何の用があって読んでいるのですか。
42298:2008/03/02(日) 16:07:08 ID:6pprPk9G
会わせてわかることと、
実際に矛盾していることと、
これらのことも、理解しようとするときには、
分けてゆかねばなりませんが、
そのような営為によって、
凡夫に辿りつけるところなど、たかが知れています。

ですから、弥陀をたのみ、
弥陀から真実信心をいただくのです。
43298:2008/03/02(日) 16:09:33 ID:6pprPk9G
善友を探す必要がないという方がいらっしゃいますが、
真宗のお聖教に「たずねましょう」という内容は、
出てきています。

真宗のお聖教だけではなく、パーリ仏典でも、善友について説かれています。

ひとりで歩むのは、善友に会えていない方です。

そして、心がけとしては、ひとりのしのぎが続くのです。

お聖教から離れた信は、私には、あまり関心がありません。
44神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:11:27 ID:Xv0Fgp/p
>>41
> あなた様は、わかろうとせず、否定しようとされていますね。

あなたは、自分のことは棚に上げて、他人ばかり非難されるようです。
あなたは私の言葉を理解しようとしていないのではないですか?
あなたも、「信じない方」なのです。
自己矛盾してますよ。
45298:2008/03/02(日) 16:12:15 ID:6pprPk9G
お聖教に基づかない妄説を広めようとする方々は、
意識するしないに関わらず、自障障他のはたらきに
動かされているのだと思います。

凡夫が救われるのを、望まない力です。

しかし、そのような方が、いつそのような力から離れないとも
限りません。

善行を心がけたり、御名号に親しんでいるうちに、
守られてゆくはずだからです。

南无阿弥陀仏は世界を照らし、
凡夫を救い摂ってくださいます。
46神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:13:25 ID:Xv0Fgp/p
>>43
親鸞聖人という善友以上の善友がいらっしゃるのですか?
47神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:16:55 ID:Xv0Fgp/p
>>45
> お聖教に基づかない妄説を広めようとする方々は、

ひょっとしたら自分がそうであるかもしれないと、振り返ってみないのですか?
外ばかり見て、自分を見つめることがない、それでよく信心を得たと大ホラを吹けますね。
あなたは、単なる嘘つきかほらふきか勘違い者ですよ。
48298:2008/03/02(日) 16:17:32 ID:6pprPk9G
>>44
何を理解してほしいのですか?
主張があるなら、書いてみて下さい。
否定されているだけでしょう。

私が「信じない」のは、あなたの否定を信じないのです。

あなたの否定を信じる必要性が、私にはありません。

あなたは、弥陀の救いを隠そうとされているでしょう。

凡夫が一念にて信をいただけるお念仏を、
あなたは否定しようとされているのではないですか。

「一念にて信むまる」ということは、法然聖人も、
繰り返し説かれていることです。

そのように明らかなことを否定するのは、
おかしいことです。

「一念にて信むまる」お念仏とは、どのようなものか。

如説に申すお念仏とは、どのようなものか。

それを求めてもわからない方に、
善友を探してほしいのです。
49298:2008/03/02(日) 16:19:46 ID:6pprPk9G
>>47
ひょっとしたらそうかもしれないから、お聖教を読んでいます。
そして、こちらの一連のスレッドでも、お聖教を引いています。

>外ばかり見て、自分を見つめることがない、それでよく信心を得たと大ホラを吹けますね。
>あなたは、単なる嘘つきかほらふきか勘違い者ですよ。

このような判断を、どのようにして行っているのですか?
いわれのない批難では、ありませんか?

私は、弥陀の救いについて説明しています。

弥陀の救いとは、凡夫が一念にて、真実信心をいただき、
極楽往生が治定するのです。
50神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:20:34 ID:Xv0Fgp/p
>>45
> 善行を心がけたり、

基本的に弥陀の本願の本旨に反しているでしょ。
「当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、」
51298:2008/03/02(日) 16:21:08 ID:6pprPk9G
>>47
そして、私は、私が申していることに矛盾するお聖教があれば、
それを出してくださいとも、繰り返し書いています。

それであれば、共通の基盤がありますから、
話も進みます。

ただ否定されても、その説を受け入れる必要性を感じないのです。

弥陀に救われる方が増えることを、
私は望んでいます。
52298:2008/03/02(日) 16:22:37 ID:6pprPk9G
>>50
私は、善行で信心がいただけるとは書いていません。

また、善行をこころがけるのは、仏教徒として当然です。

これ(前行)の内容も、お聖教に書いてあることです。

心あたりが、無いのですか?
53298:2008/03/02(日) 16:23:36 ID:6pprPk9G
>>52
もちろん、弥陀をたのむのは、無上の善行です。
これを善行と呼ぶのなら、善行にて信がいただけることになりますが、
凡夫が為す善ではなく、弥陀にいただくものです。
54298:2008/03/02(日) 16:27:23 ID:6pprPk9G
極楽往生が治定したからと言って、
善行を心がけないのは、良くないことです。
御恩報謝のお念仏を続けて行くうちに、このような傾向は、
自然と変わってゆきます。(「自然」の内容は、
機によって異なります。)

どんな悪人でも弥陀に救われるからと言って、
あえて悪行を為す事は、よくないことです。
善行しようとしても、悪を為すのが凡夫です。
そのような方でも、心をひるがえし、
弥陀をたのめば一念にて救われるのです。
55神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:31:07 ID:Xv0Fgp/p
>>52
> 善行をこころがけるのは、仏教徒として当然です。

「こころがける」という行為は自然に出てくる行為ではなくて、
努力するということでしょう?
それは弥陀にいただいたものではないでしょう?
数行の短文の中にも、私のようなっ浄土真宗初心者にもわかるような矛盾がありますよ。
56298:2008/03/02(日) 16:35:22 ID:6pprPk9G
>>55
初心者の方なのですか、それであればお詫びします。
しかし、それなら、あまり強く否定することも、
ないのではありませんか。

疑問をよく整理してみてください。

単なる否定と、疑問とは、異なります。

疑心は、解くべきものです。

「こころがける」というのは、努力するということですよ。

どこに矛盾を感じているのか、
もうすこし、教えていただけないでしょうか?

信前と信後にわけて聞いていただければ、
助かります。
57298:2008/03/02(日) 16:43:18 ID:6pprPk9G
弥陀をたのむは、無上善。
凡夫に足す善などありません。
では、足す善が無いから、善は心がけ無いのかと言えば、
そうではありません。
このような凡夫が救われたかたじけなさに、
御恩報謝に、極楽往生は治定していますけれども、
できる範囲で善行をこころがけようと思います。
それでも、できないんですよ。そんな凡夫が極楽に参れるから、
かたじけなくて、ありがたく、懺悔感謝のお念仏が出るのです。
ただ、それが往生の因にはならないだけです。
もう、極楽往生の因は、いただいているからです。
因にならなくても、やるから、尊いのですし、
そのようなことをする自分ではなかったのが、
変えさせていただけたことも、うれしいのです。
南无阿彌陀佛
58神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:46:03 ID:Xv0Fgp/p
>>54
> 心をひるがえし、 弥陀をたのめば一念にて救われるのです。

あなたは、私が弥陀をたのんだら、その私が阿弥陀さまによって救われると思っていませんか?

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

「こころのおこるとき、すなはち」ですよ。
人間の側がこころをおこしたら、とは書いてないと思います。
こころをおこすのも救われるのも私の行為ではないと思います。
59298:2008/03/02(日) 16:47:07 ID:6pprPk9G
>>58
>人間の側がこころをおこしたら、とは書いてないと思います。
>こころをおこすのも救われるのも私の行為ではないと思います。

これは、その通りです。
弥陀をたのむときには、自力の心はふりすてられ、
自力は廃っています。
60298:2008/03/02(日) 16:56:32 ID:6pprPk9G
>>55
初心者という自覚があるのであれば、
他を強く否定するのは、おかしいとは気付かれませんか?

そのようなところから、
自らが凡夫だと思える方は、
次第に、弥陀をたのむ気持ちになって行くのだと思います。

南无阿彌陀佛
61神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 16:59:16 ID:Xv0Fgp/p
>>60
否定ではありません。
繰り返しますが、あなた自身の、矛盾を指摘しているだけです。
62298:2008/03/02(日) 17:02:20 ID:6pprPk9G
>>60

ご自身の発言を見て、どう思われますか?

>>47
>外ばかり見て、自分を見つめることがない、それでよく信心を得たと大ホラを吹けますね。
>あなたは、単なる嘘つきかほらふきか勘違い者ですよ。

これでは、「単なる否定」ととられても、仕方がないとは思いませんか?

そして、初心者の方が、「矛盾を指摘」は、おかしいでしょう?

「わからないところを質問する」というかたちに、
なるのではないでしょうか?

矛盾があると感じられるのであれば、それをよく整理して、
順番に質問してゆけば良いのだと思いますよ。
63神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:05:22 ID:Xv0Fgp/p
>>62
> そして、初心者の方が、「矛盾を指摘」は、おかしいでしょう?

初心者だから気づく矛盾ってあるとおもいますよ。
無知だから・・・。
それに、信心を得たということは専門家でしょ?
専門家なら私の戯れ言にムキにならないで下さいよ。
信心をいただいた優しい心でお願いします。
64298:2008/03/02(日) 17:07:13 ID:6pprPk9G
>>61
初心者の方であれば、矛盾が多いと感じられるのは、
仕方がないことなのです。

ですから、よく疑問を整理して、
それらを会わせて理解できるように、
心がけることが大切だと思います。

一見、矛盾しているととれる表現は、
お聖教にも、たくさんでてきます。

それらにつまづいて弥陀の救いを判断してしまうことは、
私たちからすれば、とても、もったいないことなのです。

時間がかかっても良いですから、よく疑問を整理してみてください。

この一連のスレも、もう6つ目です。

私の発言を通して読めば、さらに矛盾があると感じられることと
思います。

否定のためでないのであれば、質問していただければと思います。
65298:2008/03/02(日) 17:14:12 ID:6pprPk9G
>>63
>それに、信心を得たということは専門家でしょ?
>専門家なら私の戯れ言にムキにならないで下さいよ。
>信心をいただいた優しい心でお願いします。

こういう考え方は、初心の方として、望ましくありません。
教わる側の方が、低くなるのが本来の姿です。
それでは、教われることも、教われなくなってしまい、
あなた様の世界が、狭くなってしまうと思います。

「初心者だから気付く矛盾がある」というよりも、
「初心者の方が矛盾と感じる点は、共通している」のだと思います。

既に歴史がありますから、さまざまな疑問は、
問われてきていると思います。

また、「信心獲た方が専門家」というのは、信のいただき方を知っているという
意味においてはそうですが、必ずしも教義に詳しいことを意味しません。

ただし、それは世間的な意味においてであって、
本当の意味においては、救われ方を知っている以上、
教義に詳しいと言えると思います。

そして、自身を無知だと思うなら、態度に変化が現れるでしょう。
あなたは無知と称していますが、知っていると思っていて、
交渉のために、嘘をついているだけですよ。そのような態度は捨てて下さい。
66298:2008/03/02(日) 17:16:55 ID:6pprPk9G
>>63
無知なのに、「矛盾を指摘」とは、おかしいでしょう?
次第に、ご自身のすがたが見えてくることを、
願っております。

そして、弥陀の救いを真実と感じる方は、
善友をお探しし、善知識にもお会いして、
六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのんでほしいと思います。

南无阿彌陀佛
67298:2008/03/02(日) 17:18:11 ID:6pprPk9G
そして、信を獲た方は、
無知であるのに、知っていることがあるのです。
それが、南无阿彌陀佛です。
したがって、無知でありながら、智者なのです。
凡夫がたのんで佛となる。
本当に、不思議です。

南无阿彌陀佛
68神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:20:00 ID:Xv0Fgp/p
>>65
> こういう考え方は、初心の方として、望ましくありません。
> 教わる側の方が、低くなるのが本来の姿です。

そうなのですか?
仏陀は、平等を説いたと社会の時間に習いましたし、
阿弥陀さまの他力の教えは絶対の平等を説いていると読んだのですが・・・。

まぁ、私が偉そうに感じられたのなら申し訳ありませんが・・・。
69298:2008/03/02(日) 17:20:25 ID:6pprPk9G
地獄一定の凡夫が、極楽往生治定する。
このようなことは、いくら考えても、わかるはずがありません。
したがって、信心為先であるのです。
70神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:22:30 ID:Xv0Fgp/p
それとね、あなたの書き込み、分量が多すぎますよ。
素人には読み切れません。
知って欲しいなら、もう少し完結にすべきだと思います。
とくにこういう掲示板では。
71298:2008/03/02(日) 17:23:27 ID:6pprPk9G
>>68
>> 教わる側の方が、低くなるのが本来の姿です。
>そうなのですか?

そうですよ、よく仏典を読んでください。
釈尊にお伺いするときには、作法を伴うことが多いです。

>仏陀は、平等を説いたと社会の時間に習いましたし、
>阿弥陀さまの他力の教えは絶対の平等を説いていると読んだのですが・・・。

「平等を説いた」というのは、おそらく「捨」の教えを指しているのでは
ないかと思います。

あなた様の平等の観念は、「平等」ではなくて、
「傲慢の正当化」ではありませんか?

それは、仏説に反していると思いますよ。

初心とのことですが、それを言い訳にせず、
釈尊の教えを知りたいのであれば、社会の授業で満足せず、
お経様も読まれてください。

三部経は、お読みになりましたか?
72神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:24:00 ID:Xv0Fgp/p
>>69

>>58 どうしてもここに戻りますね。
73298:2008/03/02(日) 17:25:21 ID:6pprPk9G
>>70
読み切る必要など、ありませんよ。
お経様も、とてつもなく膨大でしょう。
ですから、三経が選ばれていますし、
縮めていえば、南无阿彌陀佛の六字なのです。

私が書いていることも、すべて、この六字のための
方便です。

善友を探し、善知識に会い、六字のいわれを
聞き開き、弥陀をたのめば、それで良いのです。
74298:2008/03/02(日) 17:27:04 ID:6pprPk9G
>>72
それは、私が書いている「弥陀をたのむ」がどういうことか、
よくわからないからではないでしょうか。

弥陀をたのむときには、自力はすたります。

ですから、非行の行であり、他力の行であり、凡夫の側からすれば、
非善なのです。
75神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:28:25 ID:Xv0Fgp/p
>>67
> 凡夫がたのんで佛となる。
> 本当に、不思議です。

>>69
> 信心為先であるのです。

>>58 歎異抄の言葉と矛盾してると思うのですが・・・。
76298:2008/03/02(日) 17:34:05 ID:6pprPk9G
>>75
お手数かけてしまうのは、申し訳のないことですが、
歎異抄のどの箇所と矛盾していると思われるのか、
引いていただけると、助かります。

できれば、感じた矛盾の内容の説明があれば、
お返事しやすいです。

念のための補足ですが、「佛となる」というのは、
たのんだ瞬間に成仏するという意味ではありません。
佛になるのが定まるという意味です。

◎ただ凡夫の仏に成ることををしふべし、
後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし(聞書185)
77神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:35:37 ID:Xv0Fgp/p
>>74
> ですから、非行の行であり、他力の行であり、凡夫の側からすれば、
> 非善なのです。

これは当然でしょう。
自分では何もしていないのですから・・・。
78神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 17:36:20 ID:Xv0Fgp/p
>>76
>>58 
79:2008/03/02(日) 18:20:55 ID:DTV/8paJ
スレ立てお疲れ様です。渡海さんも、妙好人と学ぶために建てられたのですね。尊く思います。

信心獲得したいと思う方々のためのスレです。信心獲得された方々の書き込みを心よりお待ちしております。

信心の沙汰をせよ、の仰せに従ってまいります。
80神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 18:28:14 ID:GnTUx1aU
>74
前スレ>846
我欲で信じても何にもならないよ。聖道門の聖者ならば、
為すべき事を為したと表明できるだろうけど、煩悩罪濁の凡夫が、
為すべき事を為したなんて言っても、為すべき事も嘘なら、
為した事も嘘なんだから。ぜんぜん、自力すたってないじゃん。
往生の業因は、兎の毛先までも阿弥陀さまのお陰でしょ。
お釈迦さまや阿羅漢ならばともかく、凡夫の身もわきまえず、
為すべき事を為しただなんて自己満足以外の何物でもないよ。
81神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 18:36:22 ID:AAvtrBRu
>79
>スレ立てお疲れ様です。渡海さんも、妙好人と学ぶために建てられたのですね。尊く思います。

渡海の場合は「妙好人と学ぶ」のではなく、自ら「妙好人」を名乗ってオナニーしたいだけなんだよ。
298もけちゃっぷも。
82298:2008/03/02(日) 18:50:10 ID:6pprPk9G
>>79
スレ立てするときに、名無しで立てるのは、「なるほど」と思いました。
見倣いたいと思いました。

>>80
>為すべき事を為しただなんて自己満足以外の何物でもないよ。

確かに、自己満足かもしれません。
そして、恩徳讃でうたわれているのは、そのような自己満足についてだと思います。

信前であれば、なかなか自己満足も、
出ない私が、こうしてよろこばせていただけるのも、
ありがたいことなのです。

自力がすたることは、真実行によります。

この道は、本当に聖道ではなく、易行なのです。
83神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:02:26 ID:Xv0Fgp/p
>>82
>確かに、自己満足かもしれません。

自己満足は、 >>58 の
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ
とは違うでしょう?
あなたの言ってることは根本的におかしいですよ。
84神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:04:18 ID:Xv0Fgp/p
>>82
> 恩徳讃でうたわれているのは、そのような自己満足についてだと思います。

親鸞聖人の信心は自己満足?
親鸞聖人を愚弄していませんか?
85298:2008/03/02(日) 19:08:39 ID:6pprPk9G
>>84
弥陀からいただく信心は、どなたのものも同じです。
自己満足と呼んだのは、あなた様ですよ。
他力にもよおされた、尊い自己満足なのです。
86298:2008/03/02(日) 19:10:26 ID:6pprPk9G
>>83
>あなたの言ってることは根本的におかしいですよ。

本当にそう思うなら、わかろうと思って、よく読んでほしいです。

それから、「根本的におかしい」のであるなら、
その違いや、矛盾を、説明できるのではありませんか。

初心の方だから、気楽に「根本的におかしい」と断じることが
できるということなのですか?

初心ではあるけれども、根本はとらえているという自負は
お持ちであるということでしょうか?
87298:2008/03/02(日) 19:14:08 ID:6pprPk9G
>>83
私が言っているのは、弥陀をたのめば、
弥陀から信心をいただき、
その後は、御恩報謝のお念仏になるということです。
88298:2008/03/02(日) 19:15:18 ID:6pprPk9G
易行にて、親鸞聖人と同じ信心をいただける。
だからこそ、ありがたく、もったいなく、
御恩報謝であるのだと思います。
南无阿彌陀佛
89298:2008/03/02(日) 19:17:46 ID:6pprPk9G
>>83
初心ということは、よくわかっていないということですよ。
たしかに、この道は易行ですので、初心の方が、
あっという間に、信をいただいた方になってしまいます。
それでも、信をいただくまでは、
本当に見当違いのことを、考えているものです。

「信をいただくまでは、見当違いのことを考えているもの」と
わからないのであれば、初心とも思っていないのではないかと
思います。
90神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:17:50 ID:Xv0Fgp/p
>>87
> 弥陀をたのめば、

これは誰がするのですか?
91298:2008/03/02(日) 19:18:20 ID:6pprPk9G
>>90
信をいただくその時には、弥陀が為しているのです。
弥陀の早業です。
92神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:25:25 ID:Xv0Fgp/p
>>87
@ 弥陀をたのむ、
A 弥陀から信心をいただく
B 御恩報謝のお念仏

これはすべて阿弥陀さまが為して下さるのですね。
93298:2008/03/02(日) 19:25:55 ID:6pprPk9G
>>90
今のあなた様は、自力がすたっていません。
自力がはたらいています。
それは、わかるでしょう?
しかし、信をいただくときには、
自力がすたり、他力の救いをいただくのです。

ですから、途中で、自力から他力に移行します。

この切れ目を、凡夫が厳密に認識することは、できません。

自覚できるのは、ある程度の時間範囲です。
94神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:26:30 ID:Xv0Fgp/p
>>91
> 信をいただくその時には、

違うのか。
条件があるみたいですね。
95神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:27:57 ID:Xv0Fgp/p
>>93
> 今のあなた様は、自力がすたっていません。
> 自力がはたらいています。

私は信仰できていませんから、自力のかたまりです。
私のことは今はいいです。
96298:2008/03/02(日) 19:32:30 ID:6pprPk9G
>>92
阿弥陀さまがはたらいてくださっていることはもちろんですけれども、
「すべて阿弥陀さまが為す」とあなた様に言い切った場合、
おそらく誤解が生じるでしょう。

「これは」と言っていますが、その範囲を、きちんと限定することも、
むずかしいのです。境界は凡夫の錯覚だからです。

レストランでコックさんが料理をつくっても、
いただく方も、お店に行きますし、
席についたり致します。

食事も、口まで自ら運びます。

御恩報謝のお念仏も、口から自然に出るとも言えますし、
自ら口に出すとも言えるのです。

しかし、自ら口に出しているとしても、
それを自力のお念仏と批難するには、あたりません。

なぜなら、他力をいただいている以上、
それは既に他力のお念仏になっているからです。
97298:2008/03/02(日) 19:35:08 ID:6pprPk9G
>>95
自力だと批難しているのではありません。
今、自力であって、他力の信をいただくとすれば、
「自力から、他力に移る」のだと、その道理をわかっていただければと
意図しています。

ですけれども、その切れ目も、きちんとは、わからないのです。

しかし、たとえば、ある日に救われたのであれば、
「その日のどこか」ということは、推測できます。

もちろんこの理解も、とりあえずのものに過ぎません。

私たち凡夫に、弥陀の救いをきちんと理解することは、
できないのです。
98神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:37:53 ID:Xv0Fgp/p
>>86
自己満足の信心は偽者でしょう?

>>85
> 自己満足と呼んだのは、あなた様ですよ。

>>80 は私ではありません。


> 他力にもよおされた、尊い自己満足なのです。

尊い思い込み・勘違いの可能性の高い確かなものではない自己満足。
信心ってそんなにあやふやなものですか?
99神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:44:21 ID:Xv0Fgp/p
>>97
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

親鸞聖人の説明は、はっきり分からないことを、説明されているのですか?
100298:2008/03/02(日) 19:44:42 ID:6pprPk9G
>>98
私に勘違いがあったようです。申し訳ありません。

弥陀にいただく信心は清浄なものですが、
凡夫が自分でわかると思っている心(顕在意識)は、あやふやなものです。

それでも、信心の体は南无阿弥陀仏です。

救われたことを顕在意識において、はっきりさせてゆくには、
後念相続をしてゆくことになります。

それでも、所詮は凡夫の妄信です。
この部分を、「自己満足」と呼ぶことはできます。

しかし、この「自己満足」のよろこびは、極楽往生治定した上での、
よろこびです。

自分の意識にわかろうとわかるまいと、極楽往生治定には
変わりがないということです。

往生の因は、弥陀がくださる信心だからです。

信心いただいても、煩悩の雲におおわれて、それとわかりません。
光明をいただいても、煩悩におおわれた眼には、それとわかりません。

それでも、往生治定なのです。
101神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:46:50 ID:Xv0Fgp/p
信心をいただかれたということは、上記の歎異抄を経験されたということではないのですか?
102298:2008/03/02(日) 19:47:51 ID:6pprPk9G
>>99
何を「はっきり」と呼ぶかによります。

私たちが、日常会話で用いているところの「はっきり」で良いのであれば、
救われたと「はっきり」わかります。

六字は尊いとわかります。涙を流す方もおられます。

それでも、妄念が残ります。煩悩が果てるわけではないからです。

救われたとわからなければ、感謝することも、よろこぶことも、
自信教人信も、できないでしょう?

しかし、厳密に問われれば、「わからない」と言わざるを得ません。
それは、凡夫の認識には限界があるからです。

厳密に言うならば、「信じている」と言う他はありません。
103298:2008/03/02(日) 19:48:29 ID:6pprPk9G
>>101
経験したと言うことですよ。
10人の行者がいれば、10人全員が、例外無く経験できます。
そのような南无阿彌陀佛があるのです。
104298:2008/03/02(日) 19:50:29 ID:6pprPk9G
>>101
そして、「経験した」と私は思うわけですが、「絶対にそうなのか?」と言われれば、
「絶対に」とは言えないのです。

昨日の通常の経験を問われても、「絶対に」ということは、言えないでしょう?

記憶の変性の可能性もあります。勘違いの可能性も残ります。
105神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 19:55:52 ID:Xv0Fgp/p
>>104
> 「絶対に」とは言えないのです。

絶対ではなかったら、阿弥陀さんの為したことではないのではないですか?
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とは言えず、
「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」とは言えないのではないですか?

> 昨日の通常の経験を問われても、「絶対に」ということは、言えないでしょう?
> 記憶の変性の可能性もあります。勘違いの可能性も残ります。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
この経験を、通常の経験とは言わないでしょう。
106298:2008/03/02(日) 19:56:31 ID:6pprPk9G
>>100
>それでも、所詮は凡夫の妄信です。

これは、よくない書き方でした。
妄信ではありますが、内に他力信心を持っており、
その光が煩悩を超えてとどいておりますので、
妄信と批難されるならば、「そのとおり」と言うことになりますが、
自身の感覚としては、「尊い信をいただいた」となります。

客観的なものではないので、他からの批難を否定することもありませんが、
主観的には、よろこべるものです。

このよろこびは、素晴しいと思いますから、おすすめできると
思っています。

このよろこびは、うれしいものですし、未安心のときとの違いを、
実感できるものでもあります。
107298:2008/03/02(日) 19:59:42 ID:6pprPk9G
>>105
弥陀に救われた経験は、通常の経験とは、もちろん違います。

たとえば、私は、自力がすたった経験は、他にはしておりませんし、
自力の心をふりすてた経験も、他にはございません。

他力の行を理解した経験も、他にはございません。

自力の信ではなく、弥陀からいただく信であると明らかになった経験も、
他にはありません。

ですから、私はよろこんでいます。

ただ、どれも、客観的に証明のできるようなものではありません。
これは、私が少し慎重な言い方をしているからです。

同じ信をいただいて、言葉上、別のよろこび方を表現される方も、
もちろんいらっしゃることでしょう。
108298:2008/03/02(日) 20:04:07 ID:6pprPk9G
信心の体は南无阿弥陀仏なのですから、
自分が信じようが、信じまいが、
極楽往生は定まっているということなのです。
109けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 20:33:53 ID:Rb3bV/9a
>>108 一度は往生浄土を信じた僕が、やはり聖道門に心が動いてしまった。
これも阿弥陀様の意思なのでしょうか?
110神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 20:55:44 ID:deq1de9Z
盛り上がってますね〜
111神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:04:55 ID:YnUIyyQa
>>109
弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、
一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、
すでに定聚の位にをさめしめたまひて、
歎異抄14章
とあります。
揺らぐものは信心をいただいたという自己満足、勘違い、思い込みだったのではないですか?
112298:2008/03/02(日) 22:12:17 ID:6pprPk9G
>>109
阿弥陀様は、導いてくださっていると思います。
「一度は往生浄土を信じた」の「信じた」の中身によると思うのです。
お話お伺いしている限りでは、如説にお念仏なさったようには、
私には、思えません。

「如説に申す」ということは、「念の心を悟りて」ということとは、
違います。

六字と一体になった経験は、無いようですので、
不定聞なのだと思います。

それは、私が>>108に書いている「信じようが、信じまいが」とは、
また別の意味のことです。

けちゃっぷさんによれば、「聖道は易行」とのことですが、
それはあくまでも、「修することができる」という意味なのだと思います。

易行門では、極楽往生が治定し、永劫の流転から抜けることが定まるのです。
あっと言う間に、ゴールにまで至るのです。
113神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:17:41 ID:uEGVwDqC
http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/Shoho_to_burechin/pdf/S11-Chilson.pdf

要はこういうことでしょ。
こういうのをまことしやかに宣伝する人がいるから、浄土真宗が誤解されてしまう。
迷惑千万。
114神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:21:47 ID:uEGVwDqC
298さんは自分の信心に疑問を持つものがいると、

・疑問の根拠をお聖教から引けと言い、
・引用したら「読み方が間違っている」と言い、
・「信心いただくまではわからないでしょう」と言い
・最後は怒涛の南無阿弥陀仏の賛辞でレスを押し流す。

これしかしてないような。
もうほとんど荒らしじゃないですか…

115神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:24:55 ID:uEGVwDqC
他人に対して、自分を見ろ自分を見ろとよく言いますが、
298さんこそ、「凡夫にはわからなくていいんだ」、と
自分のことを振り返りもしていません。

もう渡海さんと一緒で、相手にするだけ時間の無駄かも。
116298:2008/03/02(日) 22:33:17 ID:6pprPk9G
>>114
「読み方が間違っている」と言われ続けているのは、
私のような気がしますが・・・

>>115
時間の無駄と思う方が相手にする必要がないのは、
全くその通りであると思います。

私は、あくまでも、獲信を求める方に、
実際に獲信してほしいのです。

南无阿彌陀佛
117神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:33:32 ID:YnUIyyQa
>>113
プリントして読んでみます。
ありがとうございます。
118神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 22:36:39 ID:YnUIyyQa
>>116
あなたの信心もふらふらとしたもので、
金剛の信心を得たとは思えないのですが・・・。
119298:2008/03/02(日) 22:38:46 ID:6pprPk9G
>>118
思えなくて、構いませんよ。
私のようなものを見て、
そこに真実があるのではと、思ってくださる方のいるのですから。

ひとりひとりが、その方の道を歩めば、良いのです。

否定的な方が、意見を変えることは、めったにありませんが、
そのやり取りを見て、学んでいる方々がいるのです。
120けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 22:43:26 ID:Rb3bV/9a
>>112 おっしゃることは理解できますが、
全ては結局、浄土三部経の内容が事実で、
阿弥陀仏が実在しなければ成り立たない理屈です。
僕は、阿弥陀様が夢に現れてくださったことがあり、
それからは、阿弥陀仏は実在すると思って(みなして)いました。
浄土宗の場合、人格的な報身の阿弥陀仏をお経のままに信じる教えです。
実在の人物と同じように、阿弥陀仏がいると思えなくてはいけません。
121298:2008/03/02(日) 22:49:23 ID:6pprPk9G
>>120
けちゃっぷさんが聖道門に行かれるのは、
けちゃっぷさんの道です。
それに、聖なる道を歩まれるのですから、尊いことと思います。
そこまでは私にもわかりますが、
なぜ、私たちを否定するのですか?
阿弥陀さまに救われて、よろこんでいる人がいても、
良いのではないでしょうか?
けちゃっぷさんによろこべないと、
私たちを否定するのですか?
聖道門では、浄土門を否定するのですか?
もし、そのような見解をお持ちであれば、
パーリ仏典にて、否定していると思われる箇所を
引いてくださいと、以前御願いしました。
「あまり読んでいない」ということで、お答えいただけなかったと
記憶しています。
否定されたいのであれば、せめて、六十二の邪見を読んで、どれにあてはまると思うのか、
考えてほしいと私は思っています。
122298:2008/03/02(日) 22:50:37 ID:6pprPk9G
>>120
>浄土宗の場合、人格的な報身の阿弥陀仏をお経のままに信じる教えです。

これも、私としては、できれば法然聖人のおことばを、引いてほしいのです。
真筆かにこだわらなくても、思い当たるものを、引いてほしいと思っています。
123神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 23:14:56 ID:deq1de9Z
>>113-114
ふつうに「浄土真宗」といえば教団・組織としての真宗十派、
また彼らが保ち伝えている教義を指していると思うだろうね〜。

124神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 23:17:13 ID:deq1de9Z
あと、浄土真宗でも「我こそ正統派!」っていうところで
浄土真宗○○会っていう名前をつけてるところもあるけどさ。
125けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 23:23:03 ID:Rb3bV/9a
>>121 戒禁取見でしょう。
126神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 23:31:02 ID:yPG7hIZO
>>121
>浄土門を否定しているパーリ仏典
ないですねえ・・まだ阿弥陀が創作されてないというかw
強いていえば

風説により信じるなかれ
伝説により信じるなかれ
億説により信じるなかれ
経本の引用により信じるなかれ
尋思により信じるなかれ
理趣により信じるなかれ
因相を熟慮して信じるなかれ
歓受容認とて信じるなかれ
説者が堪能とて信じるなかれ
師なりとて信じるなかれ

「カーラーマ経」

これじゃ浄土門はなりたたないでしょう
127けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/02(日) 23:46:05 ID:Rb3bV/9a
>>122 298さんのレスが長くて読み辛いと言われるのは、
引用が多いからでしょうね。
一枚起請文を見ていただければわかるように、
素直に念仏往生を信じる教えです。
子供がサンタさんを信じるのと同じように純粋に。
それ以前に、三部経をそのまま信じないなら、浄土教の意味がないでしょう。
臨終に来迎をいただいて、極楽浄土に往生する教えですから、
浄土が実在して本当に往生できなきゃ意味ありません。
128298:2008/03/03(月) 00:13:08 ID:a+j1Bs6W
>>126
それで、「成り立たない」となぜなるのかが、よくわからないのですが・・・
南无阿弥陀仏によって、自らの身に、信をいただくことができ、
信後も、日常の生活をしながら、御恩報謝のお念仏を為し、
お聖教の内容も、確認してゆけます。

私は、それらの根拠からは、成り立たないとは思いません。
129298:2008/03/03(月) 00:15:32 ID:a+j1Bs6W
>>127
「三部経をそのまま信じて」ということであれば、
「学文して、念の心を悟りて」ということになると思います。

そのような必要も無く、南无阿弥陀仏で良いのです。
130298:2008/03/03(月) 00:16:32 ID:a+j1Bs6W
>>126
浄土門に限らず、聖道門でも、そこに当てはまる方と、
当てはまらない方がいるのだと思います。

私は、その教えは、浄土門にとっても、とても大切だと思います。
131けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:16:58 ID:EOw14cr+
>>128 お聖教自体が間違ってたらどうするんですか?
132298:2008/03/03(月) 00:19:57 ID:a+j1Bs6W
>>131
お聖教を信じ込むわけではありませんので、特に問題は生じないと思います。
あくまでも、自らの経験によって、確かめてゆくのですから。
お聖教も、あくまでも、六字のための方便です。
133けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:20:39 ID:EOw14cr+
>>121 阿弥陀仏に救われて喜んでいる人々が、
浄土三部経に騙されて洗脳されてる人々だったら、
早く目を覚ましてもらうほうがよいでしょう。
なぜ否定するかといえば、上記の理由です。
134298:2008/03/03(月) 00:20:53 ID:a+j1Bs6W
>>131
実際に信をいただき、実際に心の状態も変わってゆき、
実際に、日常生活に生かして行く。
このように、信仰を生きて行くことが大切であると思います。
135神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 00:23:03 ID:79vHmu8W
>107
自力がすたった経験を誰がするのでしょーね。
無明煩悩に満ちた凡夫人が経験するのでしょ。
その経験をした本体は、あてにならない者と言うことになるよ。
あてにならない者の経験はあてになる?真実の経験って言える?
どんなに不思議な体験も、元が妄想転倒で出来てる凡夫の体験に過ぎないよ。
なーんにもあてにならない体験なんて、元から必要なかったんだよ。
自力すたった経験もあてにならないです。
弥陀のご本願をたのめと勧められているのに、
自力すたったんだって、自力で確信してる。
自分は弥陀をたのんだんだって、凡夫の妄想転倒の経験に基づいて信じてる。
これって仏智疑惑なんじゃない?必ずたすけると言う誓いだけじゃ
足りなくて、自分は信心決定したんだ、自分は自力捨てたんだって、
確信することで安心が得られると思ってるんじゃないかなー。
それ自体、妄想転倒の産物なんじゃないかな?
どんな確信しようが妄想転倒。どんな経験しようが妄想転倒。
死ぬまで煩悩成就凡夫人なら、たのんだ経験もたのみにならず、
善知識でさえ、たのみにならず。ただ必ずたすける弥陀たのめ。
四の五のゆうたは昔のことよ。なんにも言わぬがこっちの値打ち。
お軽さんだよ。南無阿弥陀仏
136けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:23:11 ID:EOw14cr+
>>134 間違った教えでさえ、信じればそのような効果があるのですから、
本当のブッダの教えなら、もっと効果があるかもしれませんよ?
137298:2008/03/03(月) 00:25:10 ID:a+j1Bs6W
>>133
それはそうかもしれませんが、十分な根拠を持たずにやるのは、
時期尚早ではありませんか。
聖道の方であれば、なおさら、自らがわかることに
基づくのではないのでしょうか。
まず、けちゃっぷさんが修行をつづけ、
証果を得ることが、先決ではないかと思います。

「浄土三部経に騙されて洗脳されてる」というのを、
どのようにして、確認されたのですか。

また、けちゃっぷさんは、現在、

「阿弥陀仏に救われて喜んでいる人々は、
浄土三部経に騙されて洗脳されてる人々である」

という見解をお持ちなのですか。
138神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 00:26:50 ID:79vHmu8W
>134
どうせ遅かれ早かれ死んじゃうんだから、
自己満足だけでおしまいじゃもったいないよね。
でっかいよー、世界は。
139けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:28:01 ID:EOw14cr+
>>137 騙されている人々だと思います。
僕自身、浄土宗の僧侶として人々を騙してきた共犯者だったので、
浄土教が仏説ではないと知ってもらうことは、
僕にとって罪滅ぼしの意味もあります。
140298:2008/03/03(月) 00:28:46 ID:a+j1Bs6W
>>135
何もわからない135様は、弥陀をたのんだのですか、
たのんでいないのですか?
御自身なりに弥陀をたのんでいると思っているからの、
ご発言なのではありませんか?
何もわからないなら、信後のお念仏は、
どうやって行うのですか?

135様は、ご自身は浄土往生なさると思っているのですか?

もし、わからないとするならば、それで安心できるのですか?

安心しているならば、弥陀をたのんだと思っているということでは、
ないのでしょうか。

あるいは、御恩報謝のお念仏は、ただ書いてあるだけで、
凡夫はそこまで至らないということでしょうか?

それであれば、凡夫直入の易行であるということは、
どうなるのでしょうか。
141けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:31:40 ID:EOw14cr+
>>137 証果は、少しずつ体験しています。
その一つが、浄土教が仏説ではないと
真っ正面から受け止められたことです。
大学で知識としては習っていたにもかかわらず、
僕は、事実から目をそらしていたのでしょう。
142298:2008/03/03(月) 00:31:51 ID:a+j1Bs6W
>>139
けちゃっぷさんが人々を騙すことになったのは、
信心決定していないのに、教えを説いてきたからだと思います。
またその愚を繰り返すのですか?
聖道においても、証果を得てから、説いていったらいかがでしょうか?

「浄土教が仏説ではない」というのは、けちゃっぷさんが体験した範囲に
過ぎないのではありませんか?

如説に行わなくて、信が獲れないのは当たり前で、
それは、お聖教の通りであると、私は思います。

浄土門を捨てて、聖道に帰したのであれば、
まずはその道を、きちんと歩まれることだと思います。
143298:2008/03/03(月) 00:33:14 ID:a+j1Bs6W
>>141
>その一つが、浄土教が仏説ではないと
>真っ正面から受け止められたことです。

証果の定義が、私とは違いますね。
私が申しているのは、仏典に約束されている成果を
我が身に得たかということです。

ひとまず、パーリ仏典の現代日本語訳を、
読まれたらいかがですか?

それも嫌なのですか?
144298:2008/03/03(月) 00:35:06 ID:a+j1Bs6W
>>141
>その一つが、浄土教が仏説ではないと
>真っ正面から受け止められたことです。

しかも、けちゃっぷさんがわかったのは、「浄土教が仏説ではない」ということではなくて、
「これまで自分が信じてきたことは、間違っていた」ということでしょう。

「私は間違いでした」ということと、
浄土教全体を否定することは、違うと思います。
145けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:37:46 ID:EOw14cr+
>>142
僕が悟ろうが悟らまいが、
浄土三部経が仏説ではないというのは常識です。
浄土門の僧侶の先生方でさえ、
大学ではそのように言われています。
学問の世界と教義の世界とで違うことを教えるのは、
おかしいでしょう。
もし、大学では仏説じゃないと教えている先生が、
自分のお寺の檀信徒さんにはお釈迦様の教えだと説明していたら、
298さんは、どう思いますか?
146298:2008/03/03(月) 00:44:27 ID:a+j1Bs6W
>>145
>もし、大学では仏説じゃないと教えている先生が、
>自分のお寺の檀信徒さんにはお釈迦様の教えだと説明していたら、
>298さんは、どう思いますか?

それは、おかしいと思います。
ですから、そのような方を見て、けちゃっぷさんが「おかしい」と思われたのであれば、
それは適切なことであると、私は思います。

その先生も、「仏説じゃない」と言うくらいですから、
信を獲ていない方なのだと思います。

信を獲ていれば、「現代の学問研究では、仏説ではないという意見が強いですので、
私はそのような知識をお伝えしますけれども、私は個人的には、
仏説であるといただいています」のような言い方になるのではと思います。

このような言い方をすれば、「先生は、なぜそのような確信を得ているのですか?」と
さらに尋ねる学生も、時には現れるだろうと思います。

しかし、そのけちゃっぷさんの経験から、浄土門全体の否定につながるのは、
飛躍があると思います。
147298:2008/03/03(月) 00:46:20 ID:a+j1Bs6W
>>145
>常識です。

この考え方が、聖道門的ではないと、私は思うのです。
ですから、私の聖道門理解と、けちゃっぷさんの聖道門理解には、
違いがあると思っています。

できれば、パーリ仏典を読んでほしいです。

そこで説かれていることと、浄土門との関係であれば、
私はある程度、お話することができるからです。
148けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:49:19 ID:EOw14cr+
>>143 仏典は、三蔵全てを読んだわけではないですが、
手に入ったものは読んでいます。

戒禁取見の煩悩が減ってきたから、
浄土教が仏説じゃないと素直に受け入れられるようになったのだと思います。
「アーナンダよ、スジャーターという在俗信女は、
三つの束縛を滅ぼしつくしたから、〈聖者の流れに踏み入った人〉であり、
悪いところに堕することの無いきまりであって、
必ず悟りを達成するはずである。」(ブッダ最後の旅、ナーディカ村にて)
ここで三つの束縛と呼ばれてる三つの煩悩(三結)が、
有身見(見結)、戒禁取見(戒取結)、疑(疑結)です。
悟りの第一段階〈預流果〉では、この三つの煩悩が消えます。
私達は、とりあえず預流果をめざしていますから、
この三つの煩悩を減らし、消すのが当面の目標です。
149けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 00:52:16 ID:EOw14cr+
もちろん、戒禁取見だけでなく、疑(疑結)も減ってきたから、
浄土教を言われるままに信じこまずに、
真理を確かめてみようという気持ちになったのでしょう。
150神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:01:09 ID:AXeKbgXE

完全に仏説でないって言いきるのは上座部的にもだめなんですね
「固定した見解をもたない」っていうのが戒律ですから
親鸞ファンでもないですけど
僕なら「親鸞ファンですので虚構ですけど真実のつもりです」と言います


151けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:01:29 ID:EOw14cr+
三つの煩悩がなくなれば、その人は修行が退転することがありません。
ですから、極楽浄土に往生するのと同じです。
152神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:04:45 ID:79vHmu8W
>140
凡夫に何か解ろうが解るまいが何の価値もないよねー。
石・つぶて・かわらの破片を宝石だと勘違いしてるだけじゃないのかな。
弥陀が若不生者と誓われた。嘘がない誓い、まことの願いだっておっしゃるんだよ。
石・つぶての私が、石・つぶての経験に基づいて「これは真実だ」
なんて判断できるわけないじゃん。判断自体が石・つぶてなんだから。
仏が、お前を必ず浄土に参らせる、と言われている事以外、
何を付け加えようと言うの?付け加えられるものを何も持ってないのに。
ダイヤモンドに、何か変なまぜものしようとしてるんじゃないの?
おいしい餃子も、メタミドホス混ぜたら台無しだよー。
阿弥陀さまのおはからいは、ただお前をたすけるぞ。
それはそれは、ありがとうございます。南無阿弥陀仏
浄土に往くのか、地獄に逝くのか、わしゃ知らん。アレに聞け!
あと、安心なんかいらないねー。凡夫の求める安心だから、
欲にまかせたものに違いない。気持ちいいからとか、楽しいからとか、
僕らはそんなんが大好きだけど、そんな煩悩あてにならないし、
第一、浄土往生のためには何一つ必要ないよね。
因浄なるが故に果浄なり。因願浄なるが故に果報浄であられる、
弥陀をたのめと言うことだね。
南無阿弥陀仏
153298:2008/03/03(月) 01:06:15 ID:a+j1Bs6W
>>148
とりあえず預流果をめざすというのは、
如説であると私は思います。
三宝帰依ができること自体が、証果であると、
私は思っています。

聖道を歩む方を否定する気持ちは、
私にはありません。

仏門を歩む方は、内道の仲間であると思っています。

戒禁取見を捨てるべきなのは、もちろんのことです。

ですから、浄土門では、

◎もし人、無上菩提の心を発さずして、ただ彼の国土の受楽無間なるを聞きて、
楽の為の故に生を願ぜば、また当に往生することを得ざるべし(論註)

とあるのではありませんか?

そして、浄土門では、無戒です。無戒は、戒禁取見ですか。

あるいは、南无阿弥陀仏が戒禁取見に当たるということでしょうか。

そして、浄土門では、自らの善行を、浄土往生の因としません。
それが、戒禁取見に当たるのでしょうか。
154けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:07:12 ID:EOw14cr+
>>150 でも、仏滅後何百年も経ってから、いきなり、「じゃんじゃじゃーん!今まで知られてなかったけど、こんなお経がありました!」
って言って、見たことも聞いたこともない内容のお経を
持ってくる人がいたらどうでしょうか?
お経を代々伝えている長老達から見たら、
「うそやろ。そんなの聞いたことないぞ。」って、
明らかに捏造だったら?
155298:2008/03/03(月) 01:08:25 ID:a+j1Bs6W
>>149
>言われるままに信じこまずに、
>真理を確かめてみようという気持ちになったのでしょう。

これは、良いことであると私は思います。
「浄土教が仏説である」と言われて、ただ信じ込むのでもなく、
「浄土教が仏説でも無い」と言われて、ただ信じ込むのでもなく、
目の前の体験を観じながら、進んでほしいです。

浄土教では、衆生が存在しないことも、説かれていますよ。
156298:2008/03/03(月) 01:15:35 ID:a+j1Bs6W
>>151
仏門であれば、目指す所は同じです。
機に応じて、辿る道が違うだけだと思います。
157けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:16:09 ID:EOw14cr+
ブッダの死後に弟子達が集まって会議して、
「結集」という作業が行われ、
みんなが知ってるお経はすべて会議の中で出し尽されたはず。
浄土三部経が仏説であり、しかも出世の本懐というくらい大事な教えなら、
なんで、結集の会議のときに出てこなかったのでしょうか?
結集にはアーナンダ尊者も出席されてたのに、
浄土三部経のことをアーナンダ尊者が黙っている必要など、ないはず。
158けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:20:37 ID:EOw14cr+
>>153 迷信を信じるのも戒禁取見です。
阿弥陀仏信仰は、ただの迷信です。
159けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:29:01 ID:EOw14cr+
阿弥陀経の冒頭には、たくさんの弟子達の名前を挙げて、
それらの弟子達が阿弥陀経の説法を聞いていたと書かれています。
だったら、結集のときに、その弟子達全員が阿弥陀経をど忘れしていたの?
それとも、弟子達が申し合わせて、
阿弥陀経を「公式記録」には残さないような理由があったの?
それとも、阿弥陀経の冒頭に書かれている、説法を聞いていた弟子達の名前は嘘で、
お釈迦様は、結集に出席しなかった無名の弟子にだけこっそり説いていたの?
そうだとしたら、たくさんの弟子達が聞いていたという嘘の記述を、
不妄語戒を破ってまで付け加える必要がありますか?
160298:2008/03/03(月) 01:34:25 ID:a+j1Bs6W
>>159
けちゃっぷさんは、第一回仏典結集において、
仏陀の教えがすべて文字化されたと教わっているのですか?

>>158
>阿弥陀仏信仰は、ただの迷信です。

これをどうやって、認識されたのでしょうか?
161298:2008/03/03(月) 01:36:29 ID:a+j1Bs6W
>>158
>阿弥陀仏信仰は、ただの迷信です。

これは、見取見には当たらないのですか?
162けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 01:45:04 ID:EOw14cr+
>>160 文字化はされてないのでは?
でも、結集のときからあったお経ならば、
南伝仏教で伝承されていないのは不自然でしょう。
迷信じゃないとしたら、阿弥陀仏は僕を見捨てたのでしょうね。
163298:2008/03/03(月) 01:58:52 ID:a+j1Bs6W
>>162
阿弥陀仏が、けちゃっぷさんを見捨てるはずがないと思います。
聖なる道を歩むにあたり、わざわざ「見捨てられた」と思うことも、
ないのではないかと思います。
私は浄土門の人間ですから、個人的には、
けちゃっぷさんも弥陀に救われてほしいと思います。
「易行なのだから」と思います。
しかし、時期でないのであれば、私にできることは、ありません。
浄土門がダメだと思われても、仏教をお捨てにならなかったことを、
よろこびたいと思います。
164298:2008/03/03(月) 02:05:28 ID:a+j1Bs6W
>>152
「獲信」ということも、否定されているのでしょうか?
165神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 09:42:39 ID:BdOxLrNo
>>145 >>154 >>157 >>158 >>159
いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に浄土を構えられた。
そして、現在でも、この極楽で人々のために説法している。
この極楽という仏土は広々としていて、辺際のない世界であり・・・・・・
この浄土には一切の苦はなく、ただ楽のみがある。
この世界では、一切の人々も仏と同じく、智慧と慈悲とにきわまりがない。
常に法楽をうけ、諸仏を供養し、出でては苦の衆生を救済し、化益することができるのである。
しかも、この国土は法性の理に応ずる無為涅槃界であり、一切の衆生を導き救うために仏によって構えられた世界である。
166神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 09:43:02 ID:BdOxLrNo
バカバカしい、実にバカバカしい。
こんなアミダマン物語なんて、ウルトラマン、ガッチャマン、ドラゴンボールのほうがよくできてるよね。
信じるものは救われる、これじゃキリスト教のパクリだよね。
こんなバカバカしい物語を仏陀は悟ったのではないはず、
こんなバカバカしい物語を仏陀が説いたはずはない、
こんなのは仏教ですらない。
竜樹も世親も初めはそう思われていたのではないでしょうか?
167神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 09:45:45 ID:BdOxLrNo
竜樹、世親の時代に浄土三部教が存在したかどうか、史実は未確認発言でした。
168神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 10:15:47 ID:uZnTN9In
まあ、確認された史実だけを重視する方は、宗教よりも心理学とか精神科学向き
かもしれないですね。
しかし、ここを読んでるかぎりでは、けちゃっぷさん自身は浄土教に対する
思い入れがすごく強いんだなと。真摯に考えれば考えるほど矛盾を感じるのかな。
ただ、ちょっと甘えん坊で子どもっぽいところがあるもので、いまは少し拗ねてる
ところみたいです。また阿弥陀さまから廻心があるかもしれないですよね。
・・なんてエラそーにかいてますけど、ゆるしてね。
法然さんが大好きみたいだから、やっぱりなんとなく親しみを覚えるんですよね。(笑)

169神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 10:17:21 ID:rdEsy95Z
大乗仏教運動には霊界のキリスト精神が影響を与えている。
源信はヨハネ、法然はマタイ、親鸞はパウロの転生。
170けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 12:25:57 ID:EOw14cr+
>>169 聖書の神様の正体が梵天だとしたら?
2500年前に梵天はブッダの教化を受けて衆生救済に燃えはじめ、
その500年くらい後に、キリストを遣わした。
171けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 12:34:11 ID:EOw14cr+
>>166 世親菩薩は、お経をそのまま信じておられたのでは。
だから、地獄の描写とかもそのままに信じていて、
獄卒(地獄の鬼)が罪人を責めたてるというのも信じていた。
唯識(すべての存在は識が造り出す夢みたいなものだ)を説明するために、
地獄の罪人は地獄の業火に焼かれ苦しむのに獄卒が平気なのは、
地獄の火も獄卒も識がつくりだしたものだからだ、
っていう例をだしている。
172神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 12:40:24 ID:hOmx6LFc
>>166
眼光紙背に徹してかからな、どんなテクスト読んでも意味ないわね。
173神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 12:44:38 ID:rdEsy95Z
アンデレ(十二使徒)→蓮如→アブラハム・マズロー(心理学者)
174神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 13:09:30 ID:CbzwHWvY
>>172
イソップ物語は、ウサギやカメなどが登場して会話をする、明らかに現実にはあり得ない作り話だよね。
でも、その物語の中に教訓が込められている。

浄土三部経に仏陀の覚りが込められているなら、それは仏典。
または、浄土三部経で仏陀と等しい覚りを得ることができるなら、それは仏典。

>>171
私も読んだことがありますが、
例えに使われている地獄や亡者などの描写は生々しいものですね。
しかし、世親が伝えたいのは地獄の描写ではないでしょう?
世親の論から学ぶべきは、
私たちが経験している現実は、私たちを離れて外に実在するものではなく、
一瞬一瞬自分の経験が映し出したものを経験しているにすぎないという唯識の考え方でしょう?
175298:2008/03/03(月) 15:46:15 ID:bZBcy7cL
>>23
そうですね、奇瑞あるところ、一流とは限りませんし。
奇瑞を重視すると、間違った方向に進むだろうと思います。
あくまでも、如来から信をいただけることが、奇跡です。
176298:2008/03/03(月) 16:17:45 ID:bZBcy7cL
>>127
獲信するために、難しい話が必要でないことは、もちろんです。
それでは、凡夫が救われません。
むしろ、難しい話を知っている方は、
それをひとまず横においておいて、
自らを愚者となして、弥陀をたのまねばならないのです。

「愚者となす」というのは、これまでいくら知っているつもりでも、
それは何の役にも立たない知識だとわかることです。

知識にこだわる方こそ、これがむずかしい。

だから、

◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとの
まゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしを
みまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、
「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき(御消息)

なのだと思います。

御恩報謝も、愚者になりて、南无阿弥陀仏と称えてゆくのです。

南无阿彌陀佛
177298:2008/03/03(月) 16:20:34 ID:bZBcy7cL
もう救われている。南无阿彌陀佛以外には、何も要らない、
というのは、とてもすっきりしていると思います。
南无阿彌陀佛
178298:2008/03/03(月) 16:31:13 ID:bZBcy7cL
>>168
私がけちゃっぷさんに聖道を歩んでもらいたいのは、
観の力が伸びるにしたがい、自分の力もわかり、
どの程度の禅定に入れるかも、わかるようになるからです。

それにより、南无阿弥陀仏に出会ったときに、
「凡夫直入の易行」ということが、深く実感され、
弥陀にいただく信心はわからなくても、
深法を伝えてくださったありがたさがわかると思うからです。
179298:2008/03/03(月) 17:11:09 ID:bZBcy7cL
>>152
弥陀のおたすけの受け取り方を、説いていらっしゃるのでしょうか?
そして、受け取り方には、是非があると。
180298:2008/03/03(月) 17:29:15 ID:bZBcy7cL
>>113
通常1年かかる加入儀礼を、易行と思う方もいるのでしょうが、
私には、そうは思えないことです。
読めない方には、同じに見えるのでしょう。
あくまでも、凡夫直入の弥陀の本願海です。
181けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/03(月) 18:19:25 ID:EOw14cr+
298さん、わざわざありがとうございました。
182298:2008/03/03(月) 23:17:28 ID:bZBcy7cL
押し付ける法でも無いですし、望む方のためのものですが、
隠すものでもありません。
あくまでも、宿善の機に対しては、開かれているものです。
六字のいわれには、深い意味があると、私は思います。
183298:2008/03/04(火) 01:45:51 ID:+2T9WAav
けちゃっぷさんを見ていると、

◎もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、
かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・
大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、
この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、
善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん(化身土巻)

が思い起こされます。
184298:2008/03/04(火) 02:43:25 ID:+2T9WAav
◎平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得(ほっとく)せば、
そのときをもって娑婆のをわり、臨終と思ふべし(執持鈔 第五章)

ひとりでも多くの方に、この臨終を体験してほしいです。
そして、信心決定し、無碍の一道を、歩んでほしいです。
185神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 07:21:31 ID:k0w4vfmq
298さん、サイト持ってるんですね。
このスレッドで無駄にレスを流さないで、そこで好きなだけ書けばいいのに。
186神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 07:34:50 ID:k0w4vfmq
某掲示板でも、その掲示板の趣旨を無視して、自分の信仰告白と布教に終始して、
注意されていましたね。こちらでも、なんというか、このスレッドをご自分の
布教のために私物化しているように見えます。

なぜこんな風に書くかというと、ほかのひとが信心の沙汰をしようとすると、298さんが
「こうでなければならない」と、ご自分の宗教を押し付けてこられるので…
少しでも298さんの主張と違うと、「まじめに獲信しようとしていない」と
決め付けられ、不快な気分にさせられるからです。
せっかくのこのスレッドを、298さんの布教のために、私物化されているように
みえるからです。

このスレッドは、浄土真宗の信心に関心を持ち、まじめに求めようとされる方に、
広く開かれているものだと思います。

南無阿弥陀仏。
187けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/04(火) 07:52:30 ID:BUE+v0hq
>>183 それらもすべて、浄土三部経が仏説であるから言えるセリフです。
188神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 08:09:30 ID:k0w4vfmq
 われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
 つれてゆくぞの親のよびごえ
                   (原口針水)

 もつれがみとかす大悲の誓いゆえ
 おもきさわりもいとぞかるがる

 もつれがみといてやるとのおことばに
 手にもつ櫛もどこえいたやら
                  (おかる)

 「お浄土まいりのことならば、おらの話より、
  如来さんのおよび声を聞け」
                  (庄松)

 「この心に相談すりゃ、まあちょっと、云うぞいな。いつ相談してみても、
  いけんけえのう。親さんに相談すりゃ、助ける、助ける、そのまんま助ける。
  いつ相談しても親さんは間違いないけんのう。」

 「一口称えて足らんでなし、千口称えて足ったでなし、
  ただお念仏は、せいだいて、たしなまして頂きましょうぞなぁ」
                  (源佐)
189神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 08:17:12 ID:k0w4vfmq
>けちゃっぷさん

浄土三部経が仏説であるかどうかは、お釈迦様に聞いてみないと
本当のところはわからないと思います。

ただ、自分が生死の問題に直面して、目をそらすこともできなくなったとき、
自分の腹の中に、どうにもならないものがあるのが見えてきて、
これがあるからには、この身このままを助けるぞ、と言われたという
阿弥陀仏がおられることは、なるほどと思えます。
190298:2008/03/04(火) 09:40:35 ID:LOjnh4Zf
>>186
某掲示板というのは、浄土真宗親鸞会被害者掲示板のことでしょうか。
「自分の信仰告白と布教に終始して、注意され(る)」というのも、
大分語弊のある言い方だと思います。

あちらの掲示板では、独特な方がいらっしゃいましたね。

私はそれを危惧し、書き込みました。

書き込んだ上で、中立的な場所ではないと、私は判断しました。

興味のある方が、過去ログを閲覧して、判断すれば良いことだと思います。


>なぜこんな風に書くかというと、ほかのひとが信心の沙汰をしようとすると、298さんが
>「こうでなければならない」と、ご自分の宗教を押し付けてこられるので…

これは、どういう意味なのですか?

私は、ひとりひとりが、その方の道を歩めば良いと思っています。

その上で、自分の思うところを書くのは、当たり前のことだと思います。

何を採用するのかは、読んでいる方が決めれば良いことです。

異安心の秘事扱いをされているのは、私です。

真宗自体を否定する方もいらっしゃいます。信心の沙汰以前のことです。
191298:2008/03/04(火) 09:46:29 ID:LOjnh4Zf
>>187
けちゃっぷさんが、浄土三部経を信じないことはわかりましたが、
その議論は、基本的にスレ違いであると思っています。

疑問を持つことは、もちろん自由ですけれども、
真実信心を求める、はるか以前の場所における議論ではないでしょうか。

信心を求める方は希だと言えます。

そして、獲信をかかげても、獲信できない場所ばかり。

お聖教と割符の合う信心を探すべきです。

坊主分でも、信心獲ていない方がいると、蓮師も御文でおっしゃっています。

信心を求める方は少ないから、信心の沙汰をする方は少ない。

私と立場は違いますが、>>152の方は、信心の沙汰をしていると思います。

ただ、覚えたセリフを言っているような感じが有ります。

>>186の方の信心は、全然わかりません。

どう阿弥陀仏を信じているのでしょうか。
192298:2008/03/04(火) 09:50:43 ID:LOjnh4Zf
>>186
浄土真宗親鸞会被害者掲示板では、最近私は書いていませんが、
例の方が、以前と同じような書き込みを、復活させましたね。

頃合いを見て、また書き始めたということでしょう。

例の方が他を罵倒する表現を含む書き込みをしても、
私が書くまでは、被害者の会からは、苦情もありませんでした。

とても不自然だと感じています。

浄土真宗親鸞会被害者掲示板のことをあまり書くのは、
スレ違いの話題だと思いますので、ここまでにします。
193298:2008/03/04(火) 09:51:18 ID:LOjnh4Zf
>>192
浄土真宗親鸞会被害者掲示板 → 「浄土真宗親鸞会 被害」家族の会 掲示板
194神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 09:52:21 ID:6Pl/UfN3
たとえ浄土の教えが仏説でなくウソであろうとも、
その教えにすがるしかない、他を頼ることができない、
そういう私のための教えなのだと思います。

でもさ、龍樹は、バラモンの学問をすべて習得したのち仏教に転じて、部派仏教と初期大乗とを学んだと言われ、
世親は、説一切有部の論書「倶舎論」の著者。
龍樹も世親も大乗しか知らないのではなく、大乗を選び取ったのではないですかね。
部派仏教は学ばなかったかもしれませんが、法然上人も親鸞聖人も比叡山で広く仏教を学ばれ、
その結果、浄土の教えを選ばれたのではないですかね。

だからどうなんだって言われても、それだけのことなんですけどね。
195298:2008/03/04(火) 09:57:20 ID:LOjnh4Zf
>>186
>少しでも298さんの主張と違うと、少しでも298さんの主張と違うと、
>「まじめに獲信しようとしていない」と決め付けられ、不快な気分にさせられるからです。

これは、私のどの発言を指しているのでしょうか?

決めつけられていることが多いのは、私ではありませんか?

たとえば、

>>47
>外ばかり見て、自分を見つめることがない、それでよく信心を得たと大ホラを吹けますね。
>あなたは、単なる嘘つきかほらふきか勘違い者ですよ。

これは、決めつけではないのでしょうか? 他にも、いろいろありますよ。
196298:2008/03/04(火) 10:03:40 ID:LOjnh4Zf
>>194
私も、祖師の方々は、大乗の教えを選び取ったのだと思っています。
釈尊は、物証を残しませんでした。
それには意図があるだろうと私は思っています。
おそらく、盲目的に信じる方が出るのを予測されたのだと思っています。

一方、法然聖人や、親鸞聖人は、ご自分の主張を表す文章を遺されています。
これは、仏教の中のひとつの主張であるから、
選択肢のひとつとして、出されたのだと思います。
197渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2008/03/04(火) 10:06:21 ID:ltThHZcz
 298は逆だろうな。基本的に今時のオタクなんて本当に幅が広いし、
普通にオシャレしてるのや、家族づれやカップルでコミケとかに来てるのもいる・・・
(個人的にはどうか?と思うが)
 結局の所、298みたいなタイプは元からあるアーキテクチャを再認識してるだけで、
オタクの格好を知ってるのではないと思うのだが・・・。
(オタクでも普通の格好の人なら、298タイプはオタクとは見なさず、
 オタクの中で、正にオタクっぽい格好をしている人のみをオタクと298タイプの人は見なす。)


 あと、もう一つのとして男の格好ってそれほどバリエーションがないからねぇ・・・
フォーマルな格好でなくて、かつ極端に個性を強調しようとしない、
普通の格好だと簡単に分類されてしきれてしまうぐらいしか種類がないから、
コミケなんか3日間で50万人以上来るだもの、
オタクに衣類の流行がなくても似た服が多く見られるのはある種当たり前。

        ,. -ー冖'⌒'ー-、
       ,ノ         \
       / ,r‐へへく⌒'¬、  ヽ
       {ノ へ.._、 ,,/~`  〉  }    ,r=-、
      /プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く    /,ミ=/
    ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐'  リ,イ}    〃 /
   / _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ    〃 /
  ,/ └' ノ \   こ¨`    ノ{ー--、〃__/
  人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\
. /   |/ |::::::|、       〃 /:::::/    ヽ
/   |   |::::::|\、_________/'   /:::::/〃
198渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/04(火) 10:27:14 ID:c5bn5CXE
>>197  忠告
    渡海難の名前を無断で使われるのは不愉快である。


>>25
> 死後往生というのなら、あの世には何が往生するのかね?

 生前のその人の全一生・全人格・全肉体・全精神・全業績・全過誤・全後悔・全喜び、全てが
そのまま往生する。

 昨年6月、元総理の宮澤喜一さんが亡くなった。池田勇人元総理に見いだされ、大蔵省から政
界に入った大物政治家だった。総理総裁を経験後、その後、二度も大蔵大臣に就任している。あ
の人は、国家の経済財政政策を得意分野としていた。
 宮澤喜一さんはどこに行ったのか。あの人は鬼籍に入った。人は死ぬと、「生きている人」と
言われるグループから、「亡くなった方」と言われるグループに移る。人は死ぬと、生前の「全
一生・全人格・全肉体・全精神・全業績・全過誤・全後悔・全喜び 等々」全てが亡くなった方
と言われるグループにそっくり移る。
 人は、死ねば全てが無くなるわけではない。その全一生・全人格・全業績などは全て残る。
「亡くなった方」と言われるグループの中にそれがある。創業者の生前の遺訓が、その後も企業
経営の基盤になっている会社はいくらである。松下幸之助さんなどは、松下電器産業では、「亡
くなった方」と言われるグループの中にあって、いまなお生き続けているだろう。
199渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/04(火) 10:28:06 ID:c5bn5CXE
 生涯念仏を称え続けていた人は、「生涯念仏を称え続けて今は亡くなった方」と呼ばれるグル
ープに入る。そこが極楽浄土である。生涯念仏を称え続けて亡くなると、「生涯念仏を称え続け
て今は亡くなった方」と呼ばれるグループに入るということ、これが極楽往生だ。死後往生の考
えである。

 「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。大無量寿経四八願
は、この言葉から始まる。ケダモノの心でケダモノ行為をする者を畜生と言う。畜生には知恵が
ない。欲望に駆られ、欲望のままに行動する。畜生には休息がある。満腹のライオンは獲物を追
わない。欲望に休みがなく、果てしなく追い求めていくなら、それはもうケダモノではない。こ
れは化け物である。これを飢えた鬼、餓鬼と言う。餓鬼には意思と行動がある。やがて行動が続
かなくなるときがくる。欲望は紅蓮の炎のように燃えさかるばかりで、体は南極の厚い氷の中に
閉じこめられる。そんな状態になれば、これは地獄である。地獄・餓鬼・畜生を三悪道と言う。
この世界には智慧がない。三悪道をどうにかしなければならない。仏教(四十八願)はここを原
点(第一願)とする。

 念仏を称えてみなさいな。仏は我々にそう教える。仏の最大の眼目は四八願の冒頭にある言葉、
地獄・餓鬼・畜生界をなくそうということにある。仏の願いに賛同し、一人でも多くの人が念仏
を称えだせば、それこそ仏が喜びとするところである。念仏する者は我が親友なり、我が親厚な
りという。
 仏の願いに賛同し、念仏を称え続けたなら、必ずや大涅槃を得るだろう。阿弥陀仏の第十八願
はそう言う。大涅槃を得るのは、肉体の死の前にある人もいるだろう。しかし、肉体の死の前に
は時間的に間に合わない人もいる。時間的に間に合わなかった人は、まさにその死の瞬間に、
「極楽浄土に往生し、大涅槃を得た」と、仏陀からそのように評価を受ける。なぜなら、真実の
因は必ず真実の果を生むからだ(評価論)。
200渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/04(火) 10:29:22 ID:c5bn5CXE
 三悪道を無くそう。仏の願いに賛同し、自分も念仏を称えていくと言うことは素晴らしいこと
だ。とても意義のあることだ。仏はそう称える(阿弥陀経)。死ぬときまで念仏を称え続け、一生を
終えれば、たとえ生前に大涅槃を得るに至らなくても、決して失敗ではない。意義ある素晴らしい
人生を過ごしたことになる。だからこそ、彼らは、「生涯念仏を称え続けて今は亡くなった方」と、仏か
らそう呼ばれるグループに入る。極楽往生するとは、「素晴らしい人生だった」と、仏から全人
生、全人格がそのように賞讃される人々の世界、仏の賞讃の世界に入るということである。極楽
浄土に往生するとはそういう意味だ。大涅槃を得たとは、そのように仏から、その全人生につい
て評価を受けると言うことである。
201神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 10:51:24 ID:PNTOkuht
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202298:2008/03/04(火) 11:26:24 ID:LOjnh4Zf
「希」ということについて、「この教えを伝えるのは、ザルで水をすくうようなものだ」
という言い方を聞きます。

すくわれる水の少なさに絶望していては、
ザルで水を救うことがイヤになり、その動作が止まってしまいます。

私が考えるのは、「ザルで水をすくいまくろう」ということです。

1回すくうよりも、100回すくえば、100倍の水がすくえるだろう。

そして、ご縁のある方が増えるほど、特定の方に固執する必要がなくなり、
自由になります。

次へ、次へと進めるからです。

こういうことを、10年、20年続けると、その足跡がのこり、
蓄積されてゆきます。

やるか、やらないかだけです。
203298:2008/03/04(火) 13:05:47 ID:LOjnh4Zf
>>186
そもそも、妙好人と信心決定を学ぶというのは、「布教して下さい」ということだと思います。

そして、適切な方の布教を求めるということだと思います。

他者から見た場合、自称を超えることはできないのですから、
たとえば、自称であるところの妙好人の方が複数いるとして、
その方々の主張を聞いたり、あるいは質問したりして、
適切であると思えば、さらに求めれば良いし、
誰にもピンと来なければ、さらに他所を探せば良いだけのことだと思います。

「ピンと来る」というのは、単なる自称ととらえるのではなく、
それを超えて、そこには真実があると感じるということです。

「ご自分の宗教」とおっしゃいますが、それ以外の何をやれというのでしょうか。

自分の信じるところを表してゆくことこそ、望ましいことであると考えています。

そして、信心獲ていない方が布教しようとするのは、
真宗の場合、自障障他の教えに反すると、私は思っているわけです。

「ピンと来ない」というのは、あくまでも「私には納得いかない」ということなので、
「真宗としておかしい」と主張するには、お聖教と照らして行く、ということだと思っています。
204298:2008/03/04(火) 13:32:51 ID:LOjnh4Zf
>>166
宿善開発を言うなら、ふつうに考えて荒唐無稽と考えられる物語が
真実を含むように思える。
我ながら、これはおかしい。どうして、これをリアルに感じるのだろう?
そのようなところからも、自分にはわからない自分というものを感じて、
救いに導かれるものだと思います。
荒唐無稽に感じて、そこにとどまる方は、その方にとって荒唐無稽で無い道を
歩めば良いのだと思います。
荒唐無稽なような気もするけれども、どうもそれだけではないような気がする、
のような段階の方は、さらに尋ねてゆき、自分がどう感じるかを見て行けば良いと
思います。
あくまでも、内からもよおすものなのだから、無理することもないと思います。
205298:2008/03/04(火) 13:50:07 ID:LOjnh4Zf
◎おなじく仰せに、まことに一人なりとも信をとるべきならば、
身を捨てよ。それはすたらぬと仰せられ候ふ(聞書114)

ザルのお話に対応すると思われるのが、この御文です。

「身を捨てよ」とあるから、一人でも信を獲っていただけるなら、
この身を捨てる。

これも、実行しきれるものではないかもしれませんが、
心がけとしては、御恩報謝であり、ひとりでも多くの方に、
共に浄土に参ってほしいものです。
206笑いのマートル:2008/03/04(火) 15:48:14 ID:cr7GzFhU
大海の水を耳かきで掬うと言う喩えもありますね。
ガンジス川の砂の中の一粒を探すというのもありますね。
もし、私の命と引き換えに確実に救われる魂があるのなら、この命を差し出す覚悟です。
ジャンヌも荒廃しきってしまい、痛ましい限りです。
この掲示板を読んで、どれだけの方が真実だと思ってくれるのか・・・
一日も早い真実信心を弥陀より賜ってくれる人がこの掲示板より出てきてくれる事を願ってやみません。
あまりにも簡単な法である為、愚かな知識も無い者も聞く事の出来る法である為、眼が不自由でも耳が不自由な方ですら聞けるとても普通の人では理解できない弥陀の不可思議あってのこの法を信じるのは、困難なのだと思います。
207笑いのマートル:2008/03/04(火) 16:23:00 ID:cr7GzFhU
298さんこんにちは。
私が誰だかご承知の上だと存じます。
私は、浄土真宗オタクの一人ですよ。
この命を差し出す覚悟と書きましたが、
この私の人間界の寿命と引き換えに、
一人を救えるのなら、この命など惜しくもありません。
でも凡夫かな?
やっぱりいざとなったら惜しく思ってしまいます。
さすがは阿弥陀様ですね。
寿命はそのままで、私にお役目を下さる。
これから先、私をきっかけにして何人の衆生が救われていくのか・・・
憑いて離れぬ影で居たい。
208神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 18:24:06 ID:9xNm/M1h
>202
自力ですね。
209神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 18:32:04 ID:9xNm/M1h
>207
あぁ、これも自力の心を旨としてるなぁ。
書き方の問題なのかもしれないけど、
自分が獲た、領解した、解った事を元にして、
それを生きがいのようにしてるんじゃないかなー。
凡夫の心を基礎にして、その上に生きがいを建てても、
土台が腐ってるから、立派なものを築けば築くほど被害は大きくなるよ。
みんな崩れ落ちる。己が分を思量せよ、俺の言葉じゃないですよ。
親鸞聖人のお言葉です。
210神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 18:41:18 ID:6feYLQWb
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211渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/04(火) 19:40:12 ID:c5bn5CXE
>203
>私が考えるのは、「ザルで水をすくいまくろう」ということです。1回すくうよりも、100
回すくえば、100倍の水がすくえるだろう。

 一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作
急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒・雑修の善と名づく。また虚仮・諂偽の行と
名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲
する、これ必ず不可なり。(化身土)

 前々住上人、仰せられ候う。「そのかごを水につけよ」と、わが身をばほうにひてておくべき
よし、仰せられ候う。万事、信なきによりてわろきなり。善知識の、わろきと、仰せらるるは、
信のなきことをくせごとと、仰せられ候う事に候う。(聞き書き)

 外道と内道とは、考え方が正反対だ。秘事法門には洗脳されたくないものだ。

>そもそも、妙好人と信心決定を学ぶというのは、「布教して下さい」ということだと思います。
そして、適切な方の布教を求めるということだと思います。

 教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信を
とるべし。
 298は弁舌さわやかだが、聖教の根拠が何もない。
 大津近松殿に対しましまして、仰せられ候う。「信心をよく決定して、ひとにもとらせよ」と、
仰せそうらいき。
 布教をしようとするよりも、298は、疑城胎宮の金鎖から逃れるのが先だ。
 蓮如上人、仰せられ候う。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候う。
 聖教はよみやぶれるほど読みたいものだ。教行信証を昼寝の枕にしていれば読んだことになる
と思っている298は残念なことだ。
212神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 20:37:58 ID:k0w4vfmq
なんだか、298さんとそのお仲間にかかると、信心が幸福のペンダント並になってしまいますね…。

>>113
このような、人によってつくられる信心は、臨終の時に崩れ去ります。
生きているときに、真実の阿弥陀仏の光明のうちに、おさめとって頂かなくては。
「助かったつもりの」信心では、どんなに固く信じていても、必ず崩れます。

凡夫直入は、その通りです。
「次第相承の善知識から、何か特別の「六字のいわれ」を聞く」、ということすら要りません。

ただ宿善開発の一念に、阿弥陀仏の御懐に抱き取って頂けます。
そのためには、蓮如聖人も仰っておられるように、ひたすらに真剣に仏法を聞かせていただくこと。
心のざるで仏法を掬うのではなく、心のざるを仏法につけること。

どんな悪人でも、どんなに取るに足らないものでも、必ず、
阿弥陀仏をたのむ一念で救いとってくださいます。
阿弥陀仏のまことの心の中に、おさめとってくださいます。
摂取不捨とは、なんと有難くかたじけないことでしょう。

そのうえは、ただただ嬉しくかたじけなく、御礼のお念仏、称えさせていただくのみです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
213神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 20:53:47 ID:uQkyJKvm
>>212
>阿弥陀仏をたのむ一念で救いとってくださいます。

たのむ一念、とはどういう一念なんでしょう?
これがなにより大事ですよね。
これさえわかれば信決定!
でも、わかるとか、わからないとか、じゃないのかな?よくわからん。。。
214神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 21:11:45 ID:uQkyJKvm
「たのむ一念」について
このスレの主要な方の書き込みを読んでみると
渡海氏の場合は、ひたすら座禅して念仏せよ、というのですから連続した「たのむ一念」でしょうか。
298氏の場合は、次第相承の善知識にあって教えをうけよ、ですよね。
あと、私の理解が足らないからか、よく解らないのが>209氏と>212氏。
両氏の書き込みはとても興味深く読ませていただいてるのですが、お二人の信心の次第が
どういうものか雲をつかむようで。
まあ、そう簡単にわかるようなものではないと言えばそれまでですが。
いまひとつ、ピンとこないのです。
「凡夫の思う信心などあてにせず、阿弥陀仏の本願成就を感謝せよ」
そんな感じなのかなあ。
215神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 21:37:30 ID:KUHqvsOP
言葉遊び的なものはすべてインチキでしょう。
216神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 21:44:51 ID:282XeSXi
>>215
だってここは渡海難と298という2人のインチキ(自称妙好人)が自分の主張を述べるだけのスレだもの。
217神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 21:47:47 ID:k0w4vfmq
>>214
わからない、ピンとこない、と思える気持ちこそ、大事なものです。
それを抱えて、仏法に身体ごと向かわせて頂くのみ。

必ず、自分の腹底に、阿弥陀仏のお呼び声が届いて頂けますから、そこまで進ませて頂くのみです。

たのむ力のないわたしであった、そのわたし目当ての、
阿弥陀仏のご本願であった、と知らせて頂くんです。

「南無」はたのむ機の方、「阿弥陀仏」はたのむ衆生を必ず助けるぞと誓われた、法の方。
阿弥陀仏は私たち衆生のことを、本当によく知っていてくださいますから、
南無阿弥陀仏のお六字の中に、たのむ衆生のこころまでも、成就してくださっている。
それを頂いたときが、信心決定です。

おかる同行の、

  おかるおかるとよびさまされて ハイの返事も向こうから

というお歌の通り。

ただただ広大無辺なお慈悲、不可称不可説不可思議な
阿弥陀仏のご本願が嬉しいばかりです。
218神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 22:06:21 ID:uQkyJKvm
>>217
はあ。そうですか。よくわからないけど、そうなんだろうなあ。

>阿弥陀仏のご本願が嬉しいばかりです。

嬉しいということは、すでに阿弥陀仏のご本願をいただいたのですね。
いったい、どういうふうにいただけばいいのでしょうか。

219神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:07:52 ID:uQkyJKvm
>南無阿弥陀仏のお六字の中に、たのむ衆生のこころまでも、成就してくださっている。
>それを頂いたときが、信心決定です。

と、いうことは、我々のこころはすでに弥陀に救われているということ?
そして、それを自覚したときが信心決定、ということなのでしょうか。
220神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:30:23 ID:k0w4vfmq
>>218

「どういうふうに」頂くものではないです。
どうやって、どうにかして…というのはすべて自力の「わろき」心で、ふりすてねばならないものです。
ですが、捨てたと思っても、捨てたつもりの心が自力ですから、到底自分ではすてられません。

けれど、どうやって、どうにかして…と悩みながらも進ませて頂いてこそ、宿善開発のときがきます。
とにかく、真剣に仏法を聞かせて頂くのみ、です。

>>219
>と、いうことは、我々のこころはすでに弥陀に救われているということ?
>そして、それを自覚したときが信心決定、ということなのでしょうか。

阿弥陀仏は、こういうものを必ず救うぞ、とお約束してくださっているのですが、
わたしたちには悲しいに、自分が「こういうもの」であることがわからないのです。
だから、阿弥陀仏の本願と言っても他人事にしか聞こえない。
阿弥陀仏のお呼び声がわからないんです。

阿弥陀仏の光明によって、本当の姿が照らし出されたとき、到底助からない
自分であることが初めてわかり、その自分を、必ず救うぞと呼んで下される
阿弥陀仏の本願が初めて届くのです。

すべて他力のおはたらきによって、堕ちる私がそのままに救われたすがたが、
南無阿弥陀仏であった、とわからせて頂きます。

 聞いて助かるじゃない
 助けてあるをいただくばかり

と、浅原才市さんがうたっている通りです。
221神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:31:26 ID:KUHqvsOP
>>219
それ、十劫安心。念仏をすることがいらない教え。
親鸞とは無関係とおもお。
やはり言葉遊び

222神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:45:07 ID:NBLxPw+a
わたしは217ではないが、おジャマさせてください

>いったい、どういうふうにいただけばいいのでしょうか。

1、これは次第を相承した善知識により獲信に導かれた人は、「たずねれば分かる、易行である」と言うはず。

2、厳しい求道の果てに獲信した人は、
  「法話を真剣に聞き、おのれを知らせてもらいなさい」
  「疑煩悩あるまま、阿弥陀様にまかせなさい」
  「まかせられんまま、まかせなさい」
  と、禅問答のようなことを言いがち。

このように分かりにくいことを言うのは、相承による獲信ではなく、あくまで偶発的に獲信したから。
そのため、言葉にしづらい他力による部分を自分の言葉でなんとか表現しようとして、こうなりがち。
この道は禅宗の悟り体験と同じで、ある種のセンスがないと、獲信は難しい。
しかし念仏による獲信には違いないので、易行とは言える。が、センスが関わってくるので、易道ではなく難道というべき。

例えば、身調べで獲信したとされる吉本伊信は、自分の偶発的獲信を他の人にも適用しようと、内観道場を作った。
しかし、わたしの知人もそこにいったことがあるが、獲信はできなかったという。

また、このような偶発的な獲信体験のサンプルを集めて、プロセス化した集まりもある。
結果(獲信体験)から、原因(獲信にいたりやすい求道)を抽出した場所である。
確かにそのような場所では、高確率で獲信する人が出ているようだ。

しかしながら、次第相承による100発100中の獲信には、及ばない。
223神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:49:42 ID:9xNm/M1h
>221
念仏をすることがいるなら、自力でしょ。浄土往生に称名念仏がご入り用って、
「凡夫の身ではからっている」のだから。
そして、心得ている自分は救われているとか、
こいつより俺は解ってる、上なんだって思いたいのだから。
いるもいらぬも「はからい」だね。
お悟り得た方が、称南無阿弥陀仏とお勧め下さるのだから、
いのちあらんかぎりは称えましょ、南無阿弥陀仏
いるいらんって発想自体、凡夫の欲望じゃん。ほっとけほっとけ。
224神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:59:24 ID:k0w4vfmq
>>222
>しかしながら、次第相承による100発100中の獲信には、及ばない。

救われるものには、宿善の厚さ薄さによって後先があります。
それは、他人が左右できるものではありません。

次第相承の善知識であろうと凡夫であれば、他人の宿善の厚い薄いを
明確に判定することなどできません。
それは阿弥陀仏と、本人との間のことだからです。

つまり、そのような方法での「100発100中の」獲信は、
阿弥陀仏からいただく他力の信心ではありません。

自力である以上、そのようなものは、必ず崩れます。
225神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:06:58 ID:Qf0RCGDS
>222
面白い切り口だなー。獲信をどんな風に理解してるのかによって、
さまざまな説が生まれるよね。@体験説。A非体験的体験説。B無体験説。
自我が意識的に考えられてる日本の今の現状では、
@が支持されるだろうね。そして、体験やそれぞれの師匠の相違によって、
対立構造が出来てく。自分の体験を重視するんだから、
しょうがないよね。俺は体験に基づいてる、お前は違うなってな具合にね。
俺はあんたの体験なんて知ったことかって立場。
追体験なんて求めてる人を見ると、
一回こっきりの人界の所生なのに、いつ死ぬかもわからんのに、
あーあーもったいないって思うけど、じゃ、俺はと言ったら、
さして変わる所もないなー。南無阿弥陀仏
226神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:10:34 ID:Qf0RCGDS
>224
親鸞怪の人だね。沙汰できんもんは沙汰しなきゃいーのに。
227神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:17:38 ID:r0slw9Dq
怪って(笑)

いや、ここは沙汰できんもんを沙汰するところみたいですから。
228298:2008/03/05(水) 00:32:22 ID:mKLPavVZ
>>223
>念仏をすることがいるなら、自力でしょ。浄土往生に称名念仏がご入り用って、

「称名念仏が入り用でない」というのは、かなり変わった説だと思います。
根拠は、選択集です。

◎第四に称名正行は、もつぱら弥陀の名号を称するなり(選択集)

ここまでハッキリ書いてあるわけですから、私からすれば、
真宗である以上、そこが議論になるのは、かなりおかしなことです。

(ハッキリさせるためには、さらに選択集を引かねばなりませんが、ここでは、省略します。)

ですので、称名念仏が正行であることは前提とします。

通常問題となるのは、さらにその先の内容だと思います。

◎如彼名義欲如実修行相応というは、彼の無礙光如来の名号は、
能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満てたまう。
然るに称名憶念すれども、無明なお在りて所願を満てざる者あり。
何となれば、実の如く修行せずして、名義と相応せざるに由るが故なり(論註)

称名正行であるのに、獲信しない。それはなぜか?

それは、「実の如く修行せずして、名義と相応せざるに由るが故」であると。

では、「如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応」とは何か。

ここが議論になるのが通常であるというのが私の認識です。

しかし、この一連のスレッドでは、そこが議論になることは、
ほぼありません。
229298:2008/03/05(水) 00:33:10 ID:mKLPavVZ
>>227
>いや、ここは沙汰できんもんを沙汰するところみたいですから。

◎罪のあるなしの沙汰をせんよりは、
信心を取りたるか取らざるかの沙汰を
いくたびもいくたびもよし(聞書35)

◎しかるに当流において毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、
在家無智の身をもつて、いたづらに暮しいたづらに明かして、
一期はむなしく過ぎて、つひに三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、
せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心は、ひとの信心は、
いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、
ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、
言語道断あさましき次第なり(御文1-12)
230神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:35:32 ID:KOB7IUia
>224
>救われるものには、宿善の厚さ薄さによって後先があります。 >それは、他人が左右できるものではありません。
>次第相承の善知識であろうと凡夫であれば、他人の宿善の厚い薄いを >明確に判定することなどできません。
>それは阿弥陀仏と、本人との間のことだからです。

ここまでは、同意できます。
(ただ宿善の厚薄については、真宗に近づいた時点で「厚い」とわたしは思いますが)
ところが、次の部分へのつながりがよく分かりません。

>つまり、そのような方法での「100発100中の」獲信は、 >阿弥陀仏からいただく他力の信心ではありません。
>自力である以上、そのようなものは、必ず崩れます。

なぜ「宿善の厚薄を他人が左右できない・明確には判定できない」からといって、
「相承の善知識の導きによる獲信は、 阿弥陀仏からいただく他力の信心ではありません」
と断言できるのでしょうか? しかも
「自力である以上、そのようなものは、必ず崩れます」という断定も、何を根拠に自力だと言いきれるのでしょうか?

これは「AイコールBである。よって、AnotイコールC(←Bとは関係のないC)である」という
詭弁術に見られる「すり替え」であるように見えます。 

もしくは、単に獲信していないための誤解なのでしょうか?
そうであれば、まずは信をおとりになってから、沙汰すべきでしょう。
当然ですが、信をとらなければ、信心の沙汰は無為なものになります。

信無き沙汰は、ラーメンを食べたことがない人が、ラーメンについて
いかにも食べたことがあるように饒舌に語るのと同じく、滑稽でむなしきものです。
また、信あると思い込んでいる人が、沙汰により信が崩されたとあらば、やはり急ぎて信をとるのみです。
231298:2008/03/05(水) 00:35:51 ID:mKLPavVZ
>>224
>救われるものには、宿善の厚さ薄さによって後先があります。
>それは、他人が左右できるものではありません。

これは、その通りです。

次第相承の善知識に会うにしても、早い遅いがあるでしょう。

お会いできたとしても、法に頭が下がるかどうか、
早い遅いがあるでしょう。
232神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:40:40 ID:r0slw9Dq
>>231
>救われるものには、宿善の厚さ薄さによって後先があります。
>それは、他人が左右できるものではありません。

こうであるのに、

>「次第相承による100発100中の獲信」

こうなるのが、おかしいのです。
宿善開発の時期は人さまざまなのに、次第相承のところへいけば
「100発100中」獲信できる、というところが。
233298:2008/03/05(水) 00:41:41 ID:mKLPavVZ
>>214
>298氏の場合は、次第相承の善知識にあって教えをうけよ、ですよね。

はい、たしかにその通りです。ご理解くださいまして、感謝致します。

念のための補足ですが、教えをうけて獲信ではありません。

「教え」の内容は、弥陀のたのみ方です。

あくまでも、弥陀をたのんで獲信となります。
234298:2008/03/05(水) 00:46:39 ID:mKLPavVZ
>>232
>宿善開発の時期は人さまざまなのに、次第相承のところへいけば
>「100発100中」獲信できる、というところが。

次第相承の善知識に会い、法に頭が下がるということは、
かなりのところまで、宿善が開発されたということです。

信前の方は、まわりを見回してみてください。

一体、どれだけの方が、次第相承の善知識にお会いしていますか?

法に頭が下がり、六字のいわれを聞き開いたならば、
さらに、宿善が開発されたということです。

そして、いざ、弥陀をたのみ、信をいただいたとき、
完全に開発されたと言えると思います。

◎宿善開発の機として他力往生の師説領納せば、平生をいはず
臨終を論ぜず、定聚の位に住し滅度に至るべき(改邪鈔)
235神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:49:48 ID:KOB7IUia

>こうなるのが、おかしいのです。
>宿善開発の時期は人さまざまなのに、次第相承のところへいけば
>「100発100中」獲信できる、というところが。

やはり弥陀をたのんでおられませんね。
厳しい求道の果てに偶発的に獲信された人(次第相承の善知識の導きでない)でも、
このような言い方はされません。
第一に「次第相承のところへいけば」「獲信できる」ではありません。
あくまで「弥陀をたのむ」で、獲信するのです。これは求道による獲信者でも、うなづかれるところです。
そして、善知識に近づいても、全く素通りする人も、法に頭を下げようとして下がらない人もおられます。
まさに「>宿善開発の時期は人さまざま」なのであります。
236298:2008/03/05(水) 00:50:24 ID:mKLPavVZ
>>234
ただし、宿善の厚薄については、さらにいわれがあります。
これは、獲信後に、善知識に聞いていただければと思います。
237298:2008/03/05(水) 00:57:04 ID:mKLPavVZ
>>230
>また、信あると思い込んでいる人が、沙汰により信が崩されたとあらば、やはり急ぎて信をとるのみです。

良い言葉ですね。
本当に、ひとりでも多く、少しでも早く、救われてほしいものです。
238神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 01:03:21 ID:r0slw9Dq
>>235

そのように言われるということは、ご自身が、
阿弥陀仏と遇われていないという事ですね。
獲信されたかたは、阿弥陀仏の「たのみ方」があるなどと、言われるはずはありませんから。
「たのみ方」と言うのがそもそも自力なので、すてるべきものなのです。

「次第相承の善知識」に会おうと会うまいと、たのみ方を聞こうと聞くまいと、
信心決定には、なんら関係がありません。

宿善開発して、阿弥陀仏のそのまま来いのご勅命を素直に聞き開かせていただき、
阿弥陀仏をたのむ一念で、もったいなくも仏様のまことのこころに、摂取不捨と
おさめとって頂けるのです。

そのうえは、ただただ嬉しくかたじけなく、御恩報謝のお念仏称えさせて頂くばかりです。
239298:2008/03/05(水) 01:13:08 ID:mKLPavVZ
>>238
>「次第相承の善知識」に会おうと会うまいと、たのみ方を聞こうと聞くまいと、
>信心決定には、なんら関係がありません。

◎さればこのほかには、また後生のためとては、なにの不足ありてか、
相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、ひとをもまどはし、
あまつさへ法流をもけがさんこと、まことにあさましき次第にあらずや(御文3-10)

「相伝もなきしらぬえせ法門」とあるのですから、相伝は、必要なのでは・・・


◎しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、
一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり(口伝鈔)

宿善開発する機は、「善知識にあう」ように読めますし、
「開悟せらるる」のようにも読めると思いますが・・・


◎たとひまた、釈尊西天に出でて三部の妙典を説き、
五祖東漢に生れて西方の往生ををしへたまふとも、
源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、
われらいかでか生死の根源をたたん(持名鈔)

次第相承の善知識に、何かを授からなければいけないようなのですが・・・


◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)

やはり、「善知識にあひ」「をしへをうけ」が、必要なようなのですが・・・
240神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 01:13:42 ID:r0slw9Dq
そもそも、信心決定とは、阿弥陀様と本人(宿善の厚い薄いがそれぞれちがう)との間のこと。
そこに、ほかの人間が介入する余地はありません。

次第相承による100発100中の獲信などということが、あるわけがないのです。

人が介入することで獲信の可能性が100%になるのなら、
それは阿弥陀仏から賜る、絶対他力の信心ではありませんよ。
241298:2008/03/05(水) 01:18:21 ID:mKLPavVZ
>>240
>次第相承による100発100中の獲信などということが、あるわけがないのです。

◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)

「かならず」と書いてありますよ・・・
242298:2008/03/05(水) 01:27:04 ID:mKLPavVZ
>>240
>そもそも、信心決定とは、阿弥陀様と本人(宿善の厚い薄いがそれぞれちがう)との間のこと。
>そこに、ほかの人間が介入する余地はありません。

◎一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、
五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。
宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)

ここを読むと、善知識が必要なように、思えてしまうのですが・・・
243神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 01:27:06 ID:r0slw9Dq
>>239
>「相伝もなきしらぬえせ法門」とあるのですから、相伝は、必要なのでは・・・

浄土真宗の教えをきちんと伝えていないえせ法門ということですね。

>宿善開発する機は、「善知識にあう」ように読めますし、
>「開悟せらるる」のようにも読めると思いますが・・・

>やはり、「善知識にあひ」「をしへをうけ」が、必要なようなのですが・・・

五重の義をみれば、善知識に会う必要があるのはあきらかです。
ただし、善知識に会うことが必要なのは、宿善になる聴聞をさせて頂くためのもの。
特別なおいわれを聞く必要は、ありません。

>次第相承の善知識に、何かを授からなければいけないようなのですが・・・

文章をよくお読みください。「次第相承の善知識これを授けたまはずは」の「これ」は
「三部の妙典」です。
上と同じですね。善知識に出会って、仏法を聴かせていただかなくてはいけないということです。

>「かならず」と書いてありますよ・・・

善知識に教えを受けなくてはいけないのは、上に書きました。
ここの「かならず」は、「南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば」にかかりますよ。

「南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば」かならず、摂取の光明におさめ摂っていただけます。
それは、浄土真宗の教えそのものです。

そこに、「次第相承の善知識」から、「特別ないわれ」を聞くか聞かないかということは、一切関係ありません。
244298:2008/03/05(水) 01:38:57 ID:mKLPavVZ
>>243
>そこに、「次第相承の善知識」から、「特別ないわれ」を聞くか聞かないかということは、
>一切関係ありません。

◎あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、
この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、
一流真実の法義を沙汰すべからざるところ(御文4-5)

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)

この2つを読むと、「宿善の機のみ聞ける話」=「当流の法」があるような気がしてしまう
のですが・・・

◎善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

六つの字のいわれをよくききひらけば、「報土に往生すべき他力信心の道理なり」と
心得られるそうなのですが・・・

そのような六字のいわれを教えてくださる方が、善知識なのではないのですか・・・
245298:2008/03/05(水) 01:45:04 ID:mKLPavVZ
>>243
>五重の義をみれば、善知識に会う必要があるのはあきらかです。
>ただし、善知識に会うことが必要なのは、宿善になる聴聞をさせて頂くためのもの。
>特別なおいわれを聞く必要は、ありません。

では、五重の義は、時間的順序では無い、ということなのでしょうか・・・

なぜ、蓮師は、

1. 善知識 2. 宿善

としなかったのでしょうね・・・


◎宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり(御文2-11)

ここを読んでも、私には、宿善を開発してから、善知識にあうような気がしてしまうんです。

なぜ、「善知識にあひて、宿善を開発せずは」では、ないんでしょうね・・・

なにか、深いみ心がおありなんでしょうか・・・

先程の引文と合わせれば、宿善を開発してから、善知識から聞ける話があり、
それこそが、六字のいわれであるように思いますが、
解釈は、多様ですからね・・・

さまざまな読みがあるのだと思いますけれども・・・

南无阿彌陀佛
246神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 01:47:12 ID:Qf0RCGDS
>228
起きちゃったよ。
親鸞聖人は浄土往生の因は何に限ると仰せられていますか?
称名ですか、信心ですか?真実行を行じることですか、唯信ですか?
おやすみ
247298:2008/03/05(水) 01:49:42 ID:mKLPavVZ
>>246
信心正因でしょ。
その信心を、どうやっていただいたら、いいんでしょうね。
248298:2008/03/05(水) 02:03:03 ID:mKLPavVZ
>>243
>>「かならず」と書いてありますよ・・・
>善知識に教えを受けなくてはいけないのは、上に書きました。
>ここの「かならず」は、「南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば」にかかりますよ。
>「南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば」かならず、摂取の光明におさめ摂っていただけます。
>それは、浄土真宗の教えそのものです。

ということは、

◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、
善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、
かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)

「善知識にあひてそのをしへをうけて」の「て」というのは、
この「て」をくぐり抜けるのが、なかなか大変ということですね。

蓮師はお気楽に「て」と書いていますけれども、
たとえば、この「て」は、へたすると何十年もかかるということですか?

ところで、「この南無阿弥陀仏の」とあるのですが、「この」とは、何なのですか?

私は、「をしへをうけ(た)」南無阿弥陀仏のことだと思ってました。

そして、その名号は、南無とたのめるそうなのですが、何か、勘違いしてますか?

私って、文字通りに読み過ぎですか??
249神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 02:04:17 ID:r0slw9Dq
>>244
>この2つを読むと、「宿善の機のみ聞ける話」=「当流の法」があるような気がしてしまう
>のですが・・・

そもそも無宿善の機は、仏法を耳に入れることができません。
そういった人が紛れ込んでいて、いたずらに仏法を謗る罪をおこすようなことの
ないように、との御心から言われたものです。

ここでいう「当流の法」は、蓮如聖人がご文章の中で繰り返し明らかにされている、
阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける、という、浄土真宗の教えにほかなりません。

>六つの字のいわれをよくききひらけば、「報土に往生すべき他力信心の道理なり」と
>心得られるそうなのですが・・・

>そのような六字のいわれを教えてくださる方が、善知識なのではないのですか・・・

それが善知識です。そして六字のいわれとは、何度も何度も蓮如聖人が御文章に
書いてくださっていること以外には、ありません。

「然れば、この信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六の字を
心得わけたるが、即ち他力信心の體なり。また〜」

御文章を都合のよいように読み、何か特別な「いわれ」があるから、それを特別な人間から
聞かなくては信心決定できない、というようにいうのは、
「阿弥陀仏をタノム一念で、どんなものであろうと、必ず救い取る」と誓っておられる、
阿弥陀仏の本願力を、疑っているのではありませんか。

阿弥陀仏の本願には、余計な付属物や条件はまったく必要ありません。真剣必死に
求めさせていただけば、必ず必ず、阿弥陀仏の真実信心におさめとられ、今生只今から、
喜び一杯に生かされていくのです。
250298:2008/03/05(水) 02:08:41 ID:mKLPavVZ
>>249
>そして六字のいわれとは、何度も何度も蓮如聖人が御文章に
>書いてくださっていること以外には、ありません。

そうなのですか・・・

◎御文はこれ凡夫往生の鏡なり。
御文のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり。
大きなる誤りなりと云々(聞書177)

御文のうへに法門があると思うのは、大きな誤りだと
思っていました・・・
251298:2008/03/05(水) 02:10:37 ID:mKLPavVZ
>>249
>ここでいう「当流の法」は、蓮如聖人がご文章の中で繰り返し明らかにされている、
>阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける、という、浄土真宗の教えにほかなりません。

◎しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり(御文4-1)

では、無宿善の機がいるかもしれない場所では、
「阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける」という教えは、
言わない方がいいんですね・・・
252298:2008/03/05(水) 02:20:40 ID:mKLPavVZ
>>249
>御文章を都合のよいように読み、何か特別な「いわれ」があるから、それを特別な人間から
>聞かなくては信心決定できない、というようにいうのは、
>「阿弥陀仏をタノム一念で、どんなものであろうと、必ず救い取る」と誓っておられる、
>阿弥陀仏の本願力を、疑っているのではありませんか。

では、善知識は、「特別な人間」では無いのですね・・・

もちろん、善知識も凡夫だとは思いますけれども、
そういう意味では、「特別な人間」とは言えないかもしれませんが、
誰でも善知識で、誰から聞いても、信心決定できるということなのでしょうか??

まわりをみわたしても、そのようには見えないものですから・・・

このようなスレが立つくらいですし・・・
253298:2008/03/05(水) 02:22:53 ID:mKLPavVZ
>>249
>「阿弥陀仏をタノム一念で、どんなものであろうと、必ず救い取る」と誓っておられる、
>阿弥陀仏の本願力を、疑っているのではありませんか。

たのみ方を教わると、どうして本願力を疑っていることになるのですか??

弥陀をたのめば救われると信じているから、
たのみ方を教わる気になるような気がしますが??
254神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 02:26:57 ID:r0slw9Dq
>>248
>では、五重の義は、時間的順序では無い、ということなのでしょうか・・・

宿善はすべての基となるものですから、その上に、すべてが重なっていきます。
信心決定の際に宿善開発となるためには、善知識からの聴聞は当然、必要です。

>「善知識にあひてそのをしへをうけて」の「て」というのは、
>この「て」をくぐり抜けるのが、なかなか大変ということですね。

善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
親鸞聖人も仰っています。

>蓮師はお気楽に「て」と書いていますけれども、
>たとえば、この「て」は、へたすると何十年もかかるということですか?

前に、298さんは御文章は一文字一文字が大変に大切なものだと言われましたね。
一文字の「て」であろうと、読み過ごしてよいものではないですね。

>ところで、「この南無阿弥陀仏の」とあるのですが、「この」とは、何なのですか?

「南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず」の「南無阿弥陀仏」、
という意味での「この」です。同じ南無阿弥陀仏です。

>そして、その名号は、南無とたのめるそうなのですが、何か、勘違いしてますか?

ここでの「南無阿弥陀仏の名号」は「聞其名号 信心歓喜」の名号を指しますから、
「南無阿弥陀仏の名号」を、阿弥陀仏のお名前でありおはたらきそのものとしてみています。
なのでやはり、あくまでも、「南無とたのむ」のは阿弥陀仏です。

このあたりのこと、詳しく教えてくださるのが善知識です。
255298:2008/03/05(水) 02:27:16 ID:mKLPavVZ
>>249
>阿弥陀仏の本願には、余計な付属物や条件はまったく必要ありません。
>真剣必死に求めさせていただけば、必ず必ず、阿弥陀仏の真実信心におさめとられ、
>今生只今から、喜び一杯に生かされていくのです。

本願の説明を聞くのが、余計とは、思えないんです。すみません。
256298:2008/03/05(水) 02:29:08 ID:mKLPavVZ
>>254
>善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
>親鸞聖人も仰っています。

じゃあやっぱり、善知識は、「特別な人」なのでは?
257神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 02:42:24 ID:r0slw9Dq
>>250
>御文のうへに法門があると思うのは、大きな誤りだと
>思っていました・・・

私がそのようなことを書きましたか?

>では、無宿善の機がいるかもしれない場所では、
>「阿弥陀仏をたのむ一念で救っていただける」という教えは、
>言わない方がいいんですね・・・

蓮如聖人の時代ではそれが必要だったとお聞きしています。

>誰でも善知識で、誰から聞いても、信心決定できるということなのでしょうか??

狭い意味で言えば、真実の仏法を、聞くものにわかるように正しく教えてくださり、
自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。
その意味で善知識は、特定の人をさすことはありません。
善知識は五重の義の一つであり、蓮如聖人の仰るように、五重の義が揃えば、信心決定させて頂けます。

そして実際には、なかなかおられない貴重な方だと思いますよ、善知識は。

>たのみ方を教わると、どうして本願力を疑っていることになるのですか??

「たのみ方」が自力そのものだからです。たのむことができる自分だと言う気持ちが消えていませんし、
むしろその「たのみ方」を持って、自分のちからで、たのもうとしているからです。

「このたのみ方でたのめば、救われる。」=「このたのみ方でたのまなければ、救われない。」と、
阿弥陀仏のご本願を疑っています。そのままこい、とお呼びくださる
阿弥陀仏のお力を疑っています。
258298:2008/03/05(水) 02:44:46 ID:mKLPavVZ
>>254
>善知識にあうことのも、教えるのも聞くのも難しいと
>親鸞聖人も仰っています。

◎善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

連想されるのは、この御和讃です。

これは、個人的な解釈を申し述べます。私の味わいです。

私はこれは、すべて善知識について述べているといただいています。

善知識に会うことも難しい。
善知識を知っていても、教えることも難しい。
善知識についての話を聞いても、それをよく聞くことが難しい。
しかも、そのような善知識の存在を、信じることは、さらに難しい。

このようにいただいております。
もちろん、証明のできるようなものではありません。

南无阿彌陀佛
259298:2008/03/05(水) 02:49:02 ID:mKLPavVZ
>>257
>「このたのみ方でたのめば、救われる。」=「このたのみ方でたのまなければ、救われない。」と、
>阿弥陀仏のご本願を疑っています。そのままこい、とお呼びくださる
>阿弥陀仏のお力を疑っています。

「一称の南无阿彌陀佛で救われる」と信じることが、本願を疑っていることになりますでしょうか?

本願を信じているからこそ、南无阿彌陀佛を一称したつもりでも救われないなら、
「本願相応の称名では無いのだろう」と思うのではないでしょうか?

では、「本願相応とは、どういうことか?」と疑問に思ったときに、
そこを教えてくださる尊い方が、善知識ではありませんか?

自己流では本願相応にならないからこそ、善知識から、
教えをいただくのでは、ないのでしょうか。
260298:2008/03/05(水) 02:56:53 ID:mKLPavVZ
>>257
>狭い意味で言えば、真実の仏法を、聞くものにわかるように正しく教えてくださり、
>自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。
>その意味で善知識は、特定の人をさすことはありません。

ひょっとしたら、誤解があるのかもしれませんが、私は、
「次第相承の善知識は日本にただ一人」と言っているのでは、ありませんよ。

御開山一流のおいわれを守り、実語を守り、相承してきている方々は、
ある程度の人数いらっしゃるはずです。

それは、大切な大切な法だからこそ、守られてきたからです。

「南无阿彌陀佛は尊い」その本当の意味を、教えてくださる方々です。
261298:2008/03/05(水) 03:04:21 ID:mKLPavVZ
>>257
>「たのみ方」が自力そのものだからです。たのむことができる自分だと言う気持ちが消えていませんし、
>むしろその「たのみ方」を持って、自分のちからで、たのもうとしているからです。

念のために申し上げておきます。
「たのみ方」という言い方は、私がわかりやすくするために用いたもので、
正式なものではありません。
ですので、そのために誤解が生じたならば、お詫び申し上げます。

私が言うところの「たのみ方」には、「もろもろの雑行雑修自力のこころのふりすて方」が
含まれます。

つまり、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて」るのは、
「たのみ方」を、教えていただいた後です。

この「たのみ方」を教わらずして、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすて」ることは、
めったにできないのであろうと思っております。

よくお考え下さい。

>自力をふりすてて弥陀をたのめ、と教えて下さる方が善知識です。

ここと、私は同じようなことを言っております。

私が言っているのは、「その具体的方法まで教えてくださる」ということです。

だから尊いのです。だからこそ、その尊さに涙し、
骨を砕きても、と思うのです。
262神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 03:05:45 ID:r0slw9Dq
>>255
>本願の説明を聞くのが、余計とは、思えないんです。すみません。

ご本願の説明は、真宗聖典のすみからすみまでに書かれていますよ。
隠された特別な「いわれ」というようなものは、余計なものです。

>>256
>じゃあやっぱり、善知識は、「特別な人」なのでは?

私が特別な人ではない、というのは、「次第相承の」(つまり特定の)善知識でなければ
ならないということは、ありえないということです。
正しく仏法を教え、弥陀をたのめとすすめてくださるかたならば、どなたであろうと、
五重の義でいう善知識足りえます。

私は298さんの善知識ではありえませんので、これ以上細かいことは遠慮させて頂きます。

とにかく、阿弥陀仏をたのむ一念で、金剛の信心、六字のお宝を丸ごと頂き、
阿弥陀仏の御懐に包まれることができるのです。

阿弥陀仏は、生死流転から逃れる術もなく苦しみ惑う私を、もったいなくも
一人子とお思いくださり、なんとか助けんとご本願をたててくださり、そして機法一体の
南無阿弥陀仏を成就してくださった。
そのやるせない御心を思えば申し訳なく有難く、常に光明に包まれてあるこの身の
幸せがあふれ出て、御恩報謝のお念仏となるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
263神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 03:15:14 ID:r0slw9Dq
>>259
>「一称の南无阿彌陀佛で救われる」と信じることが、本願を疑っていることになりますでしょうか?

自分の力で称えることで救われる、というのなら、それは自力です。

>本願を信じているからこそ、南无阿彌陀佛を一称したつもりでも救われないなら、
>「本願相応の称名では無いのだろう」と思うのではないでしょうか?

一称したつもりでも救われないのは、真実信心がないからです。自力のふらふら信心だからです。
自己流とかそういうレベルのものではなく、自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、
とうてい助からないのだと教えてくださるのが、本当の善知識です。

>>261
>私が言うところの「たのみ方」には、「もろもろの雑行雑修自力のこころのふりすて方」が
>含まれます。

「ふりすて方」と仰いますが、自分で振り捨てることができるものではありません。
264298:2008/03/05(水) 03:41:31 ID:mKLPavVZ
>>263
「非行の行の方法を教わる」と聞けば、矛盾に聞こえることは、
よくわかります。

◎本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ(唯信鈔文意)

◎専修とは、ただ仏名を称念して自力の心を離る(化身土巻)

これを我が身に体験できる方法(すなわち、真実行たる南无阿彌陀佛)があると、
私は思っていますし、それを体験したと思っているということです。

◎まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、
自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、
今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ(改邪鈔)

この「能化の説」がそれにあたると私は考えますが、
これだけでは、あなた様にとりましては、根拠が弱いことでしょう。

よく勉強されている方だと思いますので、私としては、
どうかして、弥陀の本願海に入る一味となってほしいと思う所です。

私の教学力の不足が残念です。

私が言う「たのみ方」というのは、「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法であるということを、
これだけの根拠では信じていただけないとは思いますが、
印象にとどめていただけたらうれしいですので、繰り返し申し述べさせていただきました。

そして、万が一、そのような方法を求める気分になったときが来ましたら、
どうか私のところでも、他の方のところでも、遠慮なくお訪ねください。

ひとまず、あなた様にわかっていただくような言い方(典拠も含め)を、考えておくように致しますので、
しばらくしたら、またこのスレを見ていただけたら、うれしく思います。
265けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/05(水) 08:01:23 ID:K/COVVFf
>>241 「かならず」と書いてあることが間違いかも。
266:2008/03/05(水) 08:05:27 ID:CwlwtZlA
おはようございます。本当に、御文章はありがたいと思います。蓮如上人の仰せにしたがってまいります。
267神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 09:01:57 ID:r0slw9Dq
>>264
>これを我が身に体験できる方法(すなわち、真実行たる南无阿彌陀佛)があると、
>私は思っていますし、それを体験したと思っているということです。

思っている、の信心では、生きているうちはまだしも、臨終に際したときには到底まにあいません。
死ぬときは、その「思っている私」を失うのですよ。

>私が言う「たのみ方」というのは、「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法であるということを、

なんらかの方法があると思っているうちは、自力です。
すべて阿弥陀仏のおちからひとつによって、「他力の行、非行の行」にいたらせていただくのです。

それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。
隠されたやりかたは、なにもありません。

そしてこれも、阿弥陀仏のお育ての光明のはたらきひとつによるものです。

阿弥陀仏のご本願力によって、自力がすたったとき、
本願海に帰入させて頂き、法然上人、親鸞聖人、蓮如聖人と全く同じ、
阿弥陀仏から賜る真実信心を頂いた身となれます。

「自力のわろき心」に早く気づかれて、どこどこまでも私たちのために
ご苦労してくだされた真実の親様の懐に、早く早く抱き取られてくださいますよう、
無常の大嵐の来ぬうちにと、阿弥陀仏の光明に照らされ、念じております。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
268神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 09:51:04 ID:UkLrXbHk
298氏の「思っている」は、たぶん客観的な意味あいでおっしゃっているのだと思います。
変な言い方かもしれませんが、客観的に見て決定した領解ができていたのであれば、
臨終に際して、いくらのたうちまわっても大丈夫なのではないでしょうか。
核心のところはよくわかりませんけど。

>267氏の信心と次第には、なるほど、と思います。
もしかしたら、そうかもしれないなあという気がします。
しかし、ひとつ問題に思うのは、そのとおりに信心を決定し、また領解するのは
私のような者にとっては、たいへんに難しいのではないかと感じることです。
方法論が確立している禅宗のほうが、まだしもやりやすいのでは、という気がします。
十人も百人ももらさず、というふうにはいかないかな、というのが少し心にひっかかった点です。
269神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 11:26:38 ID:UkLrXbHk
>それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
>求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。

私はこういうふうなことができる人間ではないのですが・・
ちゃらんぽらんでいい加減な男です。
開き直るわけではありませんが、「真剣必死」にはどうしてもなれません。
しかし、真剣必死に求めた後に決定したというのであれば、それもある意味
自力なのではないでしょうか?ちがうのかな。
凡夫がもろともに救われるには、真剣でもぼんやりでも、とりあえず「たのむ」ことが
できたなら往生する、というのが本当なのじゃないかな、と思ったりします。
270神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 12:17:16 ID:2ROQnj2l
全国に数人居ると謂われる、次第相承の善知識は、どの団体に属しているのか?
それぞれが、正統性を主張しているのだが、どれが本物でどれが偽者?

はっきり示してもらわないと、探せといわれても一般人は迷うばかり。

血脈相続の伝統教団、真宗十派の善知識(門主)。
内観やカウンセリングなどの心理学系の善知識。
真宗系新宗教の善知識。
各地に点在する講組織の善知識。
隠し念仏や無数の秘事法門の善知識。
271神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 12:36:29 ID:Qf0RCGDS
真剣、必死も要らないね。凡夫の真剣は、なまくらで刃こぼれしてるから、
怪我のもとだよね。豆腐も斬れない。利劔即是弥陀号だよ。
南無阿弥陀仏にゃかなわないぜー。バッサバッサと斬りまくる。
今日も斬られまくりさ。
あと、自分がちゃらんぽらんだって認識する事も要らないよ。
ちゃらんぽらんな人が、自分の事を私はちゃらんぽらんです、
って告白しても、ちゃらんぽらんの人の自己分析なんて所詮ちゃらんぽらん。
お悟り得た方が、汝は凡夫なりと言われるから、凡夫なんで、
自己認識ほど危ないものはないよ。ちゃらんぽらんなんだから。
納得して、これでいいんだも、面々のおはからい。
凡夫だからしょーがないじゃんも、面々のおはからい。
死ぬまで凡夫で抜けられないなら、凡夫の言うことに従っても、
あるのは迷いだけ。迷いないのは何だろう?
仏果を得られた若不生者のお誓いだよ。必ずたすける、必ず浄土に参らせる。
ありがとうございます、南無阿弥陀仏
272神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 12:44:53 ID:UkLrXbHk
>>271
>仏果を得られた若不生者のお誓いだよ。必ずたすける、必ず浄土に参らせる。
>ありがとうございます、南無阿弥陀仏

お誓いがあるから浄土に参れるといっても、どうしてそれが自分にもあてはまるのでしょうか。
ありがとうございます、というからには、お浄土参りができる体となったのでしょうね。
どうしてそれが認識できるんだろか?
・・なんていうと、凡夫に認識もなにもない!って言われそうだけど。
でも、なんらかの、信心を得る境い目的なものがなければ、それと思わないんじゃないかな。
273笑いのマートル:2008/03/05(水) 14:01:54 ID:AkW/WPoH
縁がなければ聞けない謂れ。
色々な団体があり、どの道を選ぶかもその人の縁。
鉄の下駄を磨り潰してでも捜せとも言われている。
自分の信じた道を進むしかないのがこの道の難しさ。
真実はひとつのはず。
信じただけでは救われないのが浄土真宗の謂れを聞くと言う事。
宿善の無い者には、謂れと言われても何の事だか見当もつかない。
274神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 14:05:06 ID:gIXrZPAI
>>273
大乗じゃないってことですね
275神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 14:07:01 ID:gIXrZPAI
はじめから救われる救われないが資質によって決まっている。
大乗の至極といわれる真宗とは別のオシエですよ、それは。
276神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 14:10:39 ID:gIXrZPAI
>>169
ちなみにわたしは法然はイエスの霊だと思いますね。
277神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 14:18:20 ID:UkLrXbHk
難中之難無過此難とおっしゃってるのですから、大乗のオシエでしょう。
生まれ変わり死に変わりする間に、仏に縁をむすんでもらって宿善つんで
やっと開発したときに信心決定、なのでしょうね。
常不軽菩薩ではないけれど、いつかはみんな仏果を得るのだとは思います。
ただ、それが今生であってほしい。
永劫の流転輪廻を思えば気が遠くなりますから。
278298:2008/03/05(水) 14:31:03 ID:1IRY/YW5
>>274
第十八願を聞くには、そのための宿善が要りますが、
第十九願、第二十願は、すぐにでも実践できますよ。
279298:2008/03/05(水) 14:35:46 ID:1IRY/YW5
>>277
「今生であってほしい」と思われる方は、自らに宿善あることを信じて、
探してほしいと思います。

◎もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

とある通りです。
280298:2008/03/05(水) 14:37:27 ID:1IRY/YW5
>>273
「鉄の下駄を磨り潰してでも」というたとえは、私も聞いたことがあります。
御文様を読みながら、探してほしいと思います。
281298:2008/03/05(水) 14:42:00 ID:1IRY/YW5
>>267
>思っている、の信心では、生きているうちはまだしも、臨終に際したときには到底まにあいません。
>死ぬときは、その「思っている私」を失うのですよ。

「思っている私」を失うからこそ、真実信心が相続して、
浄土に至り、滅度に至るのです。

南无阿彌陀佛
282298:2008/03/05(水) 14:45:50 ID:1IRY/YW5
>>267
>それには、ただ、親鸞聖人、蓮如聖人の教えてくださったように、仏法を真剣必死に
>求めさせていただき、宿善を求めさせていただくこと、ひとつです。
>隠されたやりかたは、なにもありません。

別に、隠されていないですよ。求める方には、開かれている教えです。
「仏法を真剣必死に求めさせていただき」という方であれば、
法に頭が下がるでしょうから、聞くことできると思います。

聞く話の内容が違うのだとは思いますが、
否定している場所が不思議な感じがします。

誰に教わるにしても、聞きに行かねば教われないのではないでしょうか。

ましてや、とても大切なことであれば、会いに行って聞くのは、
仏法に限らず、当たり前だと思います。
283神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 15:09:42 ID:2ROQnj2l
正々堂々と、
所属団体名を明かすべき。
それが出来ぬのなら、単なる惑わかし。
衆生救済の熱意のある正統な大乗仏教団体は皆オープン。
こそこそとケツの穴の小さいことではいけません。
284神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 15:29:00 ID:2ROQnj2l
法然聖人の正しい転生。

聖トマス(イエスの十二弟子、インドに布教伝道)→提婆菩薩(竜樹の弟子)→法然聖人
285298:2008/03/05(水) 16:25:40 ID:1IRY/YW5
>>283
探しているうちに、そのお姿を見て、お手引きくださる方がいらっしゃるのです。
283様が正統な大乗仏教団体と思われるところで、
求められたらよろしいかと思います。
おそらく、283様は、どちらの大乗仏教団体においても、求められていないのではないかと
思います。
それは、「正統」とは、本当は信じていないということなのではないでしょうか。
探しているうちに、そのようなことも、わかってくるのではと思います。
283様が「正統」と思われている大乗仏教団体は、どちらの団体ですか?
「皆」とおっしゃるくらいですから、複数あるのではないかと思います。
そして、そのうちの、どちらで法を求めていらっしゃるのですか?
もし、どこでも求めていらっしゃらないなら、「正統」と信じながらも、
求めないのは、どういうことなのでしょうか?
286神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 16:25:51 ID:Qf0RCGDS
>272
南無の二文字があるからね。共にご成就あそばされたのは、
お前と俺とは一心同体、弥陀の正覚すべてをなげうった誓いだから。
信心の体は南無阿弥陀仏だよ。凡心に体を求めたり、
凡心が創りだす体験に体を求めても、蛇蠍の毒しか出てこないよねー。
そーいうものによりかかってるのを自力って言うんでしょ。
骨折り損のくたびれ儲け。
287298:2008/03/05(水) 16:31:16 ID:1IRY/YW5
>>286
信心の体が南无阿弥陀仏だからこそ、凡夫の迷心は、
関係がありません。
往生ほどの一大事は、凡夫があれこれ詮索することではなく、
弥陀におまかせするということです。
南无阿彌陀佛
288298:2008/03/05(水) 16:43:12 ID:1IRY/YW5
>>286
南無の二字は、他でもあると思います。
阿弥陀仏は法であり、だからこその真宗であると思うのですが、
このあたりは、どのようにお考えでいらっしゃるのでしょうか?
また、南无阿彌陀佛は六字ですが、さらにちぢめれば、
阿弥陀の三字であり、このことは、多くの法話においては、
あまり強調されませんけれども、三字名号という考え方も、お聖教に出て参ります。
ここの領解は、どうなさっていらっしゃいますか?
阿弥陀仏も法であり、阿弥陀も法だということです。
そして、これは私の個人的な領解ですが、
名号を一字に縮めるならば、阿だと思います。
阿の字の法こそが、衆生を救う法の要だと思います。
そして、阿の字の法というのは、その指し示すところは、
阿の字ですら無いのですから、そこまで行けば、
名号は文字では無く、智慧なのです。
南无阿彌陀佛
289神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 17:03:26 ID:Qf0RCGDS
>287
全くそうだね。
>288
機法一体章だよ。あとは知らない、>287の通り。
290298:2008/03/05(水) 17:25:32 ID:1IRY/YW5
>>289
南無はたのむ機であり、また信ずる機でございますね。
そして、どちらの解釈にも、弥陀が入ってございます。

◎このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり(御文4-14)

◎しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり(御文3-7)

さらに私は、ここに、

◎うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな(御文1-1)

を重ねまして、よろこんでおります。

うれしさにも、ふたつあるようでございます。

南无阿彌陀佛
291笑いのマートル:2008/03/05(水) 17:26:37 ID:AkW/WPoH
縁があれば、自然と法の方からのお誘いもあるでしょう。
捜し求めて辿り着く人もあれば、
何もしなくても生まれただけで謂れを聞けてしまう者も居るでしょう。
298さんと私の真宗は、知らない人には、
矛盾だらけの教えに聞こえると思います。
三度の食事は、この体を生かすために食していても、
百歳も二百歳も人間は生きられません。
ある意味、死に向かって生きていると云う事は、
いずれ死んで行く為に物事を消化している様なものです。
健康に長生きする為に食べている食事でさえ、
いずれそれも虚しく死んで行きます。
この世は、実は、矛盾だらけの世の中です。
なんだか哲学っぽくなってしまいました。
292神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 17:37:02 ID:Qf0RCGDS
>273
縁がなければ聞けないなんて、自力の囲いを作んないでよー。
それは、あなたの経験上の事に過ぎないのだから。
阿弥陀さまのお目当ては、無有出離之縁の私だよ。
縁もゆかりもない奴を取っつかまえて、永く捨てないよ、お前は私の一人子だから。
一子地の悟りは、もの足りない?摂取不捨では不足ですか?
正覚成じた金言に、凡情自力の毒を盛り、人迷わせて、困らせて、
我が意得たりとしたり顔。あなたはだあれ?お釈迦さま?
無有出離の凡愚なら、得体のしれない毒入りの
ミックスジュースを飲まそうとしないでよー。
293298:2008/03/05(水) 17:44:02 ID:1IRY/YW5
>>292
>縁がなければ聞けないなんて、自力の囲いを作んないでよー。

◎この宿善・無宿善の道理を分別せずして、
手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、
もつてのほかの当流の掟にあひそむけり(御文3-12)

とありますように、それは当流の掟なのです。
294笑いのマートル:2008/03/05(水) 17:44:10 ID:AkW/WPoH
月の光は照らせども、蓋ある井戸に月は宿らず。
皆が仏の教えを聞ける身でありながら、
心を閉ざしているのは他でもない自分です。
295神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 17:48:54 ID:Qf0RCGDS
>290
身にあまりぬるのは他力だからだよ。
「いやー、私は身にあまるうれしさで一杯です」って言っても、
実は、ちゃーんと身におさまってるんだよね。我が身がそう感じてるんだから。
身にあまりぬるのは、諸仏の喜びだから。凡夫の喜びはあてにならないよねー。
何か言われたら、すぐどっかいっちゃう。批判されれば、消えていく。
喜びにも、凡情のぬか喜びと、
弥陀仏のお徳を称讃する諸仏のお喜びじゃ、月とすっぽん。
喜びは消えて逃げるよ。消えぬお慈悲が南無阿弥陀仏
296笑いのマートル:2008/03/05(水) 17:54:35 ID:AkW/WPoH
昔のジャンヌが懐かしい。
297298:2008/03/05(水) 17:56:08 ID:1IRY/YW5
>>295
よく読んでください。

◎正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに
仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。
かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、
よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり(御文1-1)

まず、「正雑の分別をききわけ」、
次に、「一向一心になりて」、
そして、「信心決定」。

その上に申す念仏ですから、これは、信決定後の、
御恩報謝のお念仏ですよ。

本当に、格別なものです。

早く、このよろこびを、ご縁ある方に、味わってもらいたいものです。

南无阿彌陀佛
298298:2008/03/05(水) 17:56:33 ID:1IRY/YW5
>>296
そうですね。良い時期に見れたと思います。
299神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:06:42 ID:Qf0RCGDS
>297
そー受け取ると、『歎異抄』と矛盾するよねー、蓮如上人のお喜びは。
私の体験したこの喜びをあなたにも味わってほしいです
って言うお勧めなのかな?
300神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:07:02 ID:2ROQnj2l
たくさんある講組織にも、それぞれ善知識がいる、とのことだが、
客観的にどの講に次第相承が伝わっており、どの善知識が本物なのか?
その判断基準がわかりかねる。

301298:2008/03/05(水) 18:13:34 ID:1IRY/YW5
>>299
歎異抄の、どの部分と矛盾するとお考えですか?

>>300
客観的に分かりきることは、できないのではないかと思います。
「よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄)とある通りです。
そして、ここで大切なことは、「仰せを信ずる」では無いということです。
御文様や、お聖教を御拝読し、そこに書いてあることと符合する信心を探して行くことだと思います。
「ひとりのしのぎ」たる由縁だと思います。
尋ね歩いているうちに、見えてくるものがあるだろうと思います。
302神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:16:59 ID:Qf0RCGDS
>301
唯円房のご不審のところだよ。
303神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:39:56 ID:Qf0RCGDS
>293
俺も、他宗他派の人に対して、特に法華系の人、また、宗教嫌いの人、
喧嘩になりそうな人に、あえてお話したりはしないよ。
興味もってるよーなら、お話するけど。でも、縁がなければ聞けないなんて事は
一言も言わない。阿弥陀さまはそんなこと仰っておられないから。
大体、宿善・無宿善の判別能力無いし、もしその判断が誤りだったら、
大変じゃん。大体、凡夫は自分ひいきだから、
多分、自分の意にかなう者を宿善有りと判断しそうだし。
一向一揆が起こるような時代背景がないなら、
この『御文』を積極的解釈するのは、利己主義に陥るリスクが高いね。
だから、宿善無宿善に関しては、親鸞聖人のお手紙等に即して
解釈すべきだよって、君の善知識さんに伝えといて。
蓮如上人も親鸞聖人には頭上がらないからね。蓮如上人だけでは
どーにもわからんって時は、親鸞聖人に還るといいと思うよ。
304神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:45:18 ID:2ROQnj2l
>>301
どの善知識が本物?

血脈相続の伝統教団、真宗十派の善知識(門主)。
内観やカウンセリングなどの心理学系の善知識。
真宗系新宗教の善知識。
各地に点在する講組織の善知識。
隠し念仏や無数の秘事法門の善知識。

305神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:57:45 ID:Qf0RCGDS
>301
あと、付け加えるなら、自分が体験した狂喜を人に勧めるって事は、
凡夫の転倒した喜びを勧めている事とも言えるよね。
凡夫が喜ぶも喜ばないも、そこには煩悩が介入してない所はない訳です。
まかり間違えば、凡夫の喜びと言う煩悩をあてたよりにする信心
それを求める宗旨ってことになっちゃうよ。
それってもはや外道ですよね。
306けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/05(水) 19:25:30 ID:K/COVVFf
>>284 勢至菩薩の化身
307神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 19:39:40 ID:aV10mSdk
祝! けちゃっぷさんと初めて意見が合った!
308神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 19:52:08 ID:aV10mSdk
スレ違いかもしれないけどね。
うちの近辺に法然上人の旧跡がいくつかあるのよ。
で、たまにドライブがてらにそこへ行ったりしてね、
「ああ、800年の昔、法然さんはこんな辺地へやってきてご先祖たちを済度してくれたんだなぁ」
なんて、ぼんやり思ったりするわけです。
先日、浄土宗発行の小冊子に、まだ私の知らないご旧跡がいくつか載ってました。
春になったら、法然さんの足跡を探しに、カメラでも提げて出かけようかなって思ってます。
309神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 20:12:50 ID:aV10mSdk
>>305
そりゃあ、狂喜する人もいるかもしれないし、なんともない人だっているかもしれない。
喜ぶ喜ばないは煩悩でも、いただくものが他力の南無阿弥陀仏ならいいのでは?
どう感じるかは人それぞれです。でも、南無阿弥陀仏はみんな一緒です。
310298:2008/03/05(水) 21:24:56 ID:NkmxqUeR
>>309
南無阿弥陀仏がみんな一緒って、ほんとうに、いいですね。
311298:2008/03/05(水) 21:25:07 ID:NkmxqUeR
>>301
たとえば、真実信心いただいて、「こよひは身にもあまりぬるかな」とよろこんだとします。
やっぱり、永年求めていた方とか、とてもよろこばれるだろうと思います。
(もちろん、何もわからない方もいるだろうと思います。)
ですけれども、あんなにおおよろこびしたとしても、凡夫ですから、
とっても素晴しいものをいただいたはずなのに、
よろこべない時がある。
そういうときの、ご不審について、お尋ねになったのではないでしょうか。

聖人も、

◎ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、
遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

とよろこんでおられます。聖人ですら、自らのよろこびの心は、揺れるわけです。

聞書にも、

◎時々懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑い嘆くものあるべし、
しかれども、阿弥陀如来をひとたびたのみまいらせて往生決定の後なれば、
懈怠多くなることのあさましや、かかる懈怠多くなるものなれども、
御助けは冶定なり、ありがたやありがたやと喜ぶこころを
他力大行の催促なりと申すなりとおおせられ候なり(聞書)

とあります。よろこびの心は、揺れます。ですから、歓喜正因は異安心とされるのだと思います。
「よろこべ」ではなく、あくまでも、「たのめ」なのです。

◎弥陀の名をききうることのあるならば 南無阿弥陀仏とたのめみなひと(蓮如聖人)
312神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 21:28:58 ID:r0slw9Dq
>>269
>私はこういうふうなことができる人間ではないのですが・・
>ちゃらんぽらんでいい加減な男です。
>開き直るわけではありませんが、「真剣必死」にはどうしてもなれません。

ああ、真剣必死って、なろうとしてなれるものではないですね。
どうしてもこうなりたい、こうしたいと言う気持ちが強ければ、
真剣というかたちで外に現れるのであって。

どんなものぐさ者でも、寝ているところをたたき起こされて
「家が火事だ!」と言われれば外に飛び出すでしょう。…多分。

最終的には、「真剣必死になれない自分」めあての
阿弥陀仏のご本願なのですが、他力信心いただくまでは自力なので。
後生の一大事が心にかかってくれば、世間並みの真剣必死にはなります。

>凡夫がもろともに救われるには、真剣でもぼんやりでも、とりあえず「たのむ」ことが

「たのむ」身になったら、もちろん往生します。
阿弥陀仏のご本願まことですから。
313298:2008/03/05(水) 21:48:27 ID:NkmxqUeR
>>303
>俺も、他宗他派の人に対して、特に法華系の人、また、宗教嫌いの人、
>喧嘩になりそうな人に、あえてお話したりはしないよ。
>興味もってるよーなら、お話するけど。でも、縁がなければ聞けないなんて事は
>一言も言わない。阿弥陀さまはそんなこと仰っておられないから。

明言していないだけで、結局、同じようなことをやっているように思えるのですけれど・・・

お話しないのは、誹謗を恐れてのことです。

誹謗の果は、ご存知でしょう? そのようなリスクを、相手の方に負わせるわけに
行かないのです。


>だから、宿善無宿善に関しては、親鸞聖人のお手紙等に即して解釈すべきだよって、

これは、どの消息のことでしょうか?
314神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 22:02:11 ID:r0slw9Dq
>>271

信後のかたがこのように言われたら、うつくしく他力信心を獲たる姿ですね。
信前のかたが同じように言われたら、信心を心得顔の単なる怠け者ですが。

>>282
>否定している場所が不思議な感じがします。

わたしもずっとずっと不思議に思っていました。けれど、鬼が
仏と遇わせて頂く、本願力の不思議にくらべたら、ぜんぜん不思議ではないですね。

それにつけても、あい難き善知識にあい、聞き難き仏法を聞かせて頂き、
南無阿弥陀仏に生かされて往く、このうれしさ、よろこび。

   「「後生を助けたまへ」とたのみ申せば、
   この阿弥陀如来は深く歓びましまして、その御身より
   八万四千の大なる光明を放ちて、その光明の中に
   その人を摂め入れておきたまふべし。」(御文章 二帖目十三通)

その上は、泣くも笑うも、生きるも死ぬも御六字の中とは……
ただ仏恩の深さに泣き、お念仏称えさせて頂くばかりです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
315298:2008/03/05(水) 22:09:11 ID:NkmxqUeR
>>311
このお話は、以前少し議論になった深心のお話にもつながると思うのですが、
歓喜そのものは、信心のひとつの相であって、これは凡夫の意業ではないわけです。
ですけれども、それが凡夫の三業にあらわれてくることがあって、
これがいわゆる「よろこび」です。このよろこびは、出たり消えたり、揺れます。
それでも、よろこべるほうが、凡夫はうれしいですからね。
御恩報謝のお念仏を続けたり、後念相続をしたりしていれば、
よろこびやすくなってくると思います。
これをたとえ話で、「真宗のデザート」と幾度か書いています。
楽しい日暮しのための、おまけですけれども、凡夫にとっては、大切なものです。
阿弥陀さまの、細やかな心遣いがわかります。
ですけれども、所詮は凡夫の心ですから、何かあれば、ゆらぐのです。
この凡夫の意業のよろこびが往生の因ではありませんから、
往生にとって、必要なものではないのです。
316298:2008/03/05(水) 22:21:31 ID:NkmxqUeR
>>282
>>否定している場所が不思議な感じがします。
>わたしもずっとずっと不思議に思っていました。けれど、鬼が
>仏と遇わせて頂く、本願力の不思議にくらべたら、ぜんぜん不思議ではないですね。

私が不思議と書いたのは、
善知識にお話を聞きに行くことを、「隠されている」と否定していると
思ったからです。
求める方は聞けるお話なのですから、「隠されている」と表現することもできなくはないと
思いますけれども、あえて、そのような言い方をすることはないんじゃないかと
思います。

「大切にしている」という方が近いんじゃないかと思います。

「真髄は、直接、善知識に会いに行って、面会して、
お願いした上で教えてもらうことです」ということを、私は言っているわけです。
317神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 22:28:35 ID:r0slw9Dq
  「われわれの地獄におつることは、いまさらのことではない。あたりまえのことじゃ。
   その地獄におつるものを、おみとおしあそばして、必ずたすけるとおおせらるるが
   阿弥陀如来さまの勅命じゃが、それでもそなたは、地獄へ行くのか。」
                              (香樹院徳竜)

  「称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を
   称えることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいている
   お念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来さまは、何のために
   ご成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまの
   み心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを
   聞くことになるではないか。」
                              (香樹院徳竜)


  「ありがたや、ひとり子を、一人でおきたまわぬが親のお慈悲なりけり。」
                              (一蓮院秀存)

  「弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。「華山に向いて花を見、明月に向いて明月を観る」
  というごとく、機の方にむかわずして、必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が、
   「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」こころなり。」
                              (一蓮院秀存)
318神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 22:41:31 ID:r0slw9Dq
>>316
>私が不思議と書いたのは、
>善知識にお話を聞きに行くことを、「隠されている」と否定していると
>思ったからです。

わたしは、298さんが、
「特定の善知識に、特定のいわれを聞かなくては信心決定できない」
「たのみ方を聞く」「他力の行、非行の行」(に至るため)の方法を聞く」
と言われていることに対して、ちがう、と申し上げました。

仏法を正しく教えて下さる善知識にお会いして、聴聞させて頂き、
御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとなったとき、信心決定するのです。

真宗聖典に書かれてあるとおりです。
そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

>「真髄は、直接、善知識に会いに行って、面会して、
>お願いした上で教えてもらうことです」ということを、私は言っているわけです。

「真髄」が、真宗聖典に書かれてあること以外にあると言われるのであれば、
ちがう、と申し上げます。
319298:2008/03/05(水) 22:50:44 ID:NkmxqUeR
>>318
>「真髄」が、真宗聖典に書かれてあること以外にあると言われるのであれば、
>ちがう、と申し上げます。

私の言う「真髄」というのは、それを聞いた後で、お聖教を読み直してみれば、
「なるほど、書いてあった、読めていないだけだった」とわかるようなものです。

「領解を合わせる」ことについて、繰り返し書いています。

真髄と言っても、お聖教を離れたものではありません。

「補完するもの」という言い方であれば、近いと思います。

あるいは、扉を開ける鍵のようなものです。

それにより、お聖教を読めるようになるので、正統性を自覚することができます。

この過程が、後念相続に含まれます。

◎この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし(親鸞聖人)
320298:2008/03/05(水) 22:52:52 ID:NkmxqUeR
>>319
「補完」という言い方は、よくないかもしれませんね・・・

◎重宝(ちょうほう)の珍物(ちんぶつ)を調(ととのえ)へ経営(けいえい)をしてもてなせども、
食(じき)せざればその詮なし。同行(どうぎょう)寄合(よりあ)ひ讃嘆(さんだん)すれども、
信をとる人なければ、珍物を食(じき)せざるとおなじことなり(聞書230)

同じ物を食べた者同士であれば、話が合うような感じに近いかもしれません。

「親鸞聖人と同じだ」「蓮如聖人と同じだ」と、話が合いますので、
うれしくなるのです。
321298:2008/03/05(水) 22:57:58 ID:NkmxqUeR
私がこの一連のスレに書いてきたことは、
お聖教と比べるべくもなく、ひどいものですけれども、
こんなものでも、その「真髄」を聞き、弥陀をたのんだ後で読んでみれば、
「なるほど〜」と、あちこち領解が合うはずです。

信前には、わからなかったことが、あちこち、「なるほど、なるほど」と
うなずけるようになるのです。

私がHPに書いていることもそうです。

しかし、信後の方だけを対象に書いていては、お導きになりませんので、
わからないところを残しつつ、お導きになることを意識しています。

わからなかったところが、信を獲たら、わかるようになった。

このようなことも、つまらないことかもしれませんが、「同じ信を獲たようだ」と傍証になるのです。

私と同じ信を獲ても、たいしたことないかもしれませんが、
御開山や蓮師と同じだと感じられれば、うれしくもなるでしょう。

信心そのものがわかりませんからね。方便です。
322298:2008/03/05(水) 23:08:53 ID:NkmxqUeR
>>318
>真宗聖典に書かれてあるとおりです。
>そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
>なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

真宗聖典に書かれている、百発百中の方法があるわけです。
もちろん、大経にも書かれていますし、往生要集にも書かれていますし、
選択集にも、行巻にも、書かれています。

ですけれども、凡夫が読んでも、わからないのです。

これを、わからせてくださる方が、善知識です。

「わからせてください」と、御願いして、はじめて聞ける話があるのです。
(このセリフの通り言わなければならない、という意味ではありませんよ。)

「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、
善知識にたのむこともできなければ、
念仏行者にたのむことも、できません。(後二者の「たのむ」は、「お願いする」の意味です。)

そして、弥陀をたのめば、一枚起請文も領解文も、とてもよくわかって、
さらにうれしくなるわけです。

南无阿彌陀佛
323298:2008/03/05(水) 23:13:42 ID:NkmxqUeR
良いたとえかわかりませんが、たとえば、物理の本に、

F=ma

と書いてあるとします。そして、「これで物体の運動が予測できるのだ」と書いてある。

しかし、これだけでは、凡夫には、わからないのかもしれないのです。

ですけれども、わかる方に教わって、問題を解いて、計算もできるようになってみれば、
「なるほど、書いてあった」ともわかります。

同時に、十分な情報でなかったこともわかりますね。

教えてくださる方が必要なレベルの情報量になっているわけです。

それで、本だけを読んでいる方は、「Fというのは、ファイト、すなわち攻撃のことであり、
この攻撃によって、の『よって』が『=』であって、それによって、
向き(m)が、明らかになる(a)のである」のような、
知っている方から見れば、実にとんちんかんなことを言ったりしています。
324298:2008/03/05(水) 23:22:09 ID:NkmxqUeR
私は、これからしばらくの間、真宗が広がるだろうと思っているのですが、
そうすると、輪廻から抜けて、極楽浄土に救い摂られてしまう方が増えます。
信じない方からすれば、荒唐無稽なお話ですけれども、
私には、とても不思議な感じがします。
信じない方が知らぬ間に、易行にて、救われてしまう方々が出て来る。
とても不思議です。
そして救われた方は、厭離穢土になり、心も次第に丸くなる。
一般の方は、欣求穢土なので、それを見ていると、ますます不思議だし、
穢土はそもそも思い通りにならないのだから、苦しむに決まっているし、
こんな自分が、そんな不思議な教えを信じたことも不思議だし、
不思議がたくさんです。
325神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 23:40:46 ID:Qf0RCGDS
>313
よく読んでねー。同じ事じゃないよ。それから、謗法の罪が重いと言うのは、
阿弥陀さまが唯除の文でその重さを殊に誓って下さってますね。
でもね、自分の事については気をつけようと注意する事は出来るけど、
他人に謗法の罪を造らせないようにしようなんて、凡夫風情が何言ってんの?
って感じ。業縁に流されて、何でもしてしまう私が、
他人に謗法罪を造らせないようにとはからうこともおこがましいよね。
明日、自分だって、業縁もよおせば謗法罪さえ平気な顔して造ってしまうかもしれない。
そのために、念押しに「唯除」と誓われてあるんじゃないかな。
籠は、弥陀の智願海水に漬けておくのが一番って言われる所以だよね。
漬けとかなけりゃ、驕り高ぶる凡夫風情は何やらかすかわからないからねー。
いやいや、何やらかすかわからんから、漬けておけとのお勧めですね。
つくづくあてになるのは、若不生者のご本願だなー。南無阿弥陀仏
326神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 23:51:31 ID:Qf0RCGDS
>324
ご消息読んでね。仏法がひろまるひろまらないも、仏天のおんはからいだよ。
これからひろまるよーって、凡夫風情で胸張られてもねー。
仏天のおんはからいだよ、何事も。凡夫の思いはあてにならないなら、
沙汰する価値もないって事だね。
仏天のおんはからい以外に、余計な事を付け加えるから、珠に傷なんだよね。
327298:2008/03/05(水) 23:56:32 ID:NkmxqUeR
>>318
>そのほかに、「百発百中」信心決定させていただく、特別な方法があるのではありません。
>なにか特別・確実な方法があるように言って、ひとの心を迷わせるのは、よくないことです。

「最勝の直道」という表現がございます。
「凡夫直入の真心」という言い方もございます。
「愚鈍往き易き捷径」とも申しますね。

「あくまで凡夫直入の真心」というのは、聖人ならでは、ということではなく、
聖人も、自らを、あえて愚鈍の身となしまして、
私ら凡夫と同じようにして、弥陀をたのまれたのだと、
私は思っております。

これも、証明のできることではございませんが、
「直道」「直入」「捷径」あるいは、「極速」これらの表現を見ますときに、
凡夫にとっても、よっぽど早いものであろうと思われます。

「頓中之頓」ともおっしゃっております。

◎さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、
なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、
余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、
みなほとけになるべし。このこころひとつをたもたんはやすきことなり(御文3-3)

蓮師も、実にやさしいとのお言葉です。これが、詭弁であっては、
おかしいと思うのです。

南无阿彌陀佛
328298:2008/03/06(木) 00:01:39 ID:NkmxqUeR
>>326
これから広まると思うのは、私のはからいです。
凡夫のはからいですから、はずれても当然です。
目の前の方が、お話を聞いてくださるかどうかが、
仏のおはからい。
目の前の方に、宿善があるかどうかが、仏のおはからいです。
お話を受け入れてくださるか、受け入れてくださらないかを、
私がはからっても仕方がないということだと思います。
私は、目の前のことをやるだけです。
この掲示板に書いている私のことばは、誰が読んでも同じです。
それでも、受け入れる方もいれば、拒絶する方もいます。
そこを、私がはからっても仕方ないということだと思います。
そして、幾人の方が受け入れてくださるかが、仏のおはからい。
人数少なければ、事務的には、あまり作業が増えません。
人数が増えれば、またやることが変わってきます。
そこに文句を言うのは、おかしい、ということだと思います。
私は、淡々と、仏の手足となるべく、はたらくだけです。
少なかろうが、多かろうが、歩んでゆくのです。
329神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 00:02:53 ID:r0slw9Dq
>真宗聖典に書かれている、百発百中の方法があるわけです。

ええと…五重の義のこと、宿善の話はどうなりましたでしょうか?

人それぞれ、宿善の厚い薄いがあり、信心決定は、その本人と、
阿弥陀仏の間のことです。
ですので、とある方法をとれば全員が百発百中、確実に
信心決定できるということは、ありえません。

また、その方法が「たのみ方」などでしたら、自分のほうであれこれ頑張って、
信心いただこうとしていることになります。
「そのまま来いよ」のお勅命を無視しているわけですから、
他力信心は何時までたっても頂けません。

宿善の厚い薄いを無視し、阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声を無視して、
なにかそれっぽいような心を得たと思っても、またもしそれが真宗聖典に
書かれていることと合致していても、それは
阿弥陀仏から賜る真実信心ではないですよ。


>「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、

まさかこれを、「自力まにあわなかった」という体験だと思われていませんよね?
330298:2008/03/06(木) 00:03:18 ID:ztmHD2Ya
>>325
その凡夫風情が、私にお説教をするのは、どういうことですか?
331298:2008/03/06(木) 00:05:44 ID:ztmHD2Ya
>>329
>人それぞれ、宿善の厚い薄いがあり、信心決定は、その本人と、
>阿弥陀仏の間のことです。
>ですので、とある方法をとれば全員が百発百中、確実に
>信心決定できるということは、ありえません。

ここの理屈が、よくわかりません。
全員が信決定できないならば、「凡夫直入」とは言えないような気がします。

直ではなく、まだ間に何かが必要ということになりはしませんか?

宿善の厚薄については、善知識に会うまでの時間だけでなく、
他にもいわれがあります。
332298:2008/03/06(木) 00:09:55 ID:ztmHD2Ya
>>329
>「読んでもわからぬ自分である」とわかるまでは、弥陀をたのむ以前に、
>まさかこれを、「自力まにあわなかった」という体験だと思われていませんよね?

いわば、「(浅い)自力間に合わぬ」ということですね。
真実信心のひとつの相である「機の深信」の前に、
信前の凡夫の意業に「機の深信のようなもの」が現れることが多いのと似ています。

「自力まにあわぬ」ときちんとわかるのは、弥陀をたのんだ後です。

他力信と明らかに知られたことにより、自力まにあわぬとわかるのです。

そして、自力がすたるのは、弥陀に信心をいただくときです。

あくまで弥陀からいただく信心でありますので、
自分の心をどうこねくり回そうが、どうにもならないということです。
333298:2008/03/06(木) 00:14:28 ID:ztmHD2Ya
>>329
>宿善の厚い薄いを無視し、阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声を無視して、
>なにかそれっぽいような心を得たと思っても、またもしそれが真宗聖典に
>書かれていることと合致していても、それは阿弥陀仏から賜る真実信心ではないですよ。

よく意味がわかりません・・・
どうやって、判別しているのですか?

それに善知識は、「宿善の厚薄」を無視しませんし、
阿弥陀仏のそのまま来いのお呼び声も無視しませんよ。

「そのまま」を否定しているのは、あなた様なのでは・・・

「聴聞が足りない」を、私たちは、「そのまま」とは申さないのです。

本当に、その身その心のままで、すぐに信心決定できます。
何も、むずかしくありません。凡夫直入の真心です。
334神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 00:18:39 ID:q141IIic
>全員が信決定できないならば、「凡夫直入」とは言えないような気がします。

凡夫直入とは、聖道門とくらべてのことであり、「直」は、間に何かさしはさまないことを示すのではないです。
ともあれ、どんなものをもすくう阿弥陀仏の御本願ですから、全員がいつかは
信心決定するのは疑いないことです。

ただ、宿善の厚薄によって、あとさきがあるということ。

宿善が熟して開発しなければ、信心決定はできません。
宿善厚薄が人それぞれなのに、必ず信心決定できるとは、よもや宿善を
速やかに熟させる方法でもある、と考えているのですか?
それを、仏様でもない凡夫が行うのでしょうか?
335298:2008/03/06(木) 00:20:01 ID:ztmHD2Ya
以前、どなたかが書いていましたけれども、
真宗に興味を示すだけで、興味を示さない方よりも、
(真宗で言うところの)宿善は厚いのです。
念仏行者に会えた方は、会えない方よりも、
宿善は厚いのです。
次第相承の善知識に会えた方は、会えない方よりも、
宿善が厚いのです。
法に頭の下がった方は、下がらぬ方よりも、
宿善が厚いのです。
六字のいわれを聞けた方は、聞けぬ方よりも、
宿善が厚いのです。
そして、弥陀をたのんだ方は、たのまぬ方よりも、
宿善が厚いのです。

宿善の厚薄はあります。
この掲示板で、私の同じことばを読んでも、
受け入れる方も、拒否する方もいらっしゃいます。

受け入れる方にも、早い遅いがあります。
宿善の厚薄があることが、わかるではありませんか。

なぜ、無視していることになるのでしょうか?
336298:2008/03/06(木) 00:22:21 ID:ztmHD2Ya
>>334
>宿善厚薄が人それぞれなのに、必ず信心決定できるとは、
>よもや宿善を速やかに熟させる方法でもある、と考えているのですか?

次第相承の善知識に値い奉り、六字のいわれを聞き開けた時点で、
もう、宿善は、かなり開発されているのです。

宿善が開発されているからこそ、六字のいわれが聞き開けるのであって、
宿善を開発して、聞かせるのではありません。

あくまでも、ご本人が選択されることです。

既に、宿善の開発がなされている方に、
法を伝え、その最後の導きがなされるだけです。
337298:2008/03/06(木) 00:27:54 ID:ztmHD2Ya
>>334
>ただ、宿善の厚薄によって、あとさきがあるということ。

わかりやすいように、具体的に申しますね。

たとえば、私を尋ねてきた方がいらっしゃるとします。AさんとBさんとします。
メールをくださった方でもいいです。

仮に、Aさんの方が早く尋ねてきたり、メールをくださったとしても、
それでも、Aさんの方が早く弥陀をたのめるかと言えば、
そうではないのです。

あれこれ、やり取りはするけれども、疑っていれば、
先に進めないでしょう。

「宿善の有無を見る」というと、私が裁判官のように感じる方が多いかもしれませんが、
そういうことではありません。

先方が疑って、断るだけです。

一方、Bさんは、Aさんの半年後に来たけれども、
すぐに善知識に会いに行って、すぐに信決定したならば、
この狭い時間範囲の中でも「あとさき」があることになります。

ましてや、本来の意味における「あとさき」というのは、
永劫の流転を考えているのです。
338神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 00:43:30 ID:q141IIic
>>337
>「宿善の有無を見る」というと、私が裁判官のように感じる方が多いかもしれませんが、
>そういうことではありません。
>先方が疑って、断るだけです。

つまり断らなかったかたは、宿善開発しているとするわけですか。
実際のところ、宿善開発は自分も他人も、確かなところがわかるものではないし、
であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

その人に「法を伝え、その最後の導きが」なされたときでも、やはり百発百中、
信心決定させることができるとするのであれば、それは人が作り上げる信心ですよね。
http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/Shuppanbutsu/Shoho_to_burechin/pdf/S11-Chilson.pdf

このような、善知識の導きの元に一定の儀式をとりおこない、
それをもって他力信心いただけた、とみなすということでしょうか。
阿弥陀仏から信心いただいたつもりになった、自力信心だとおもいますが。

そうでなくても、お話を聞けば聞くほど、人の介在する余地が多すぎます。
ひとがこねあげた信心と、ますます疑わしくなります。

本来は、呼んでくださる阿弥陀仏と、それをすすめる善知識、よばれる自分の三人ですむはずなのです。
339298:2008/03/06(木) 00:55:11 ID:ztmHD2Ya
>>338
>であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

むしろ、「断った方にも、宿善開発していた人がいたかもしれない」ということでは
ありませんか。

というのも、正法を伝えるところは、一カ所では無いからです。

宿善あっても、その方が、どこで法をいただくかまでは、わかりません。

しかし、いずれにしても、開発された時点で、
どこかで、次第相承の善知識に会い、六字のいわれを聞き開くはずだと思います。


>その人に「法を伝え、その最後の導きが」なされたときでも、やはり百発百中、
>信心決定させることができるとするのであれば、それは人が作り上げる信心ですよね。

この論理が繰り返されていますが、なぜそうなるのかが、わかりません。
弥陀からいただく信心です。人が作り上げるようなものではありません。

繰り返しになりますが、

◎さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、
なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、
余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。
このこころひとつをたもたんはやすきことなり。ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとは
おほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそ
ほとけにはなるべけれ(御文1-11)

このように、簡単なことなのであって、十人が十人であり、
「いわれをよく知る」ことが重要です。
340298:2008/03/06(木) 00:57:38 ID:ztmHD2Ya
>>338
>であれば、断らなかった方にも宿善開発していないひとがいたかもしれない。

そして、宿善開発していない方は、結局どこかで断ると思いますし、
どこかで、求められなくなると思います。

弥陀をたのめば信決定するのですから、信決定まで至れば、
宿善開発されたことは確実だと思います。
341神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 01:02:39 ID:q141IIic
>>298
>この論理が繰り返されていますが、なぜそうなるのかが、わかりません。
>弥陀からいただく信心です。人が作り上げるようなものではありません。

宿善開発ということがないのに、信心決定はありえませんよね。
断らなかった方で宿善開発していなかったかたがいたとする。
それにもかかわらず、「百発百中信心決定した、獲信した」というのであれば、
それはほんとうの信心決定ではなく、阿弥陀仏の真実信心を頂いていないということです。


どうしてこんなにややこしく奇妙な儀式になるのでしょうね。
なかなか信心決定できずに苦しんだ人が、ともかく自分の力でできそうな「方法」を
考え出してしまったのでしょうか。

信心決定とは、
ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。
必ずたすけるぞ、の阿弥陀仏のお勅命に、ハイと答えさせて頂くだけのこと。

そうして真実の親様の、暖かき懐に抱き取って頂いた後は、逃げるもかなわず
身に余る歓喜の中で、吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです。
342298:2008/03/06(木) 01:03:31 ID:ztmHD2Ya
>>338
>そうでなくても、お話を聞けば聞くほど、人の介在する余地が多すぎます。

これは、どこを指しているのですか?

獲信者を探す→次第相承の善知識を紹介してもらう
→次第相承の善知識に会う
→六字のいわれを聞き開く
→弥陀をたのむ

あなた様が想定している本来の真宗と比べて、
どの部分に、「人の介在する余地が多い」のですか?

あなた様のまわりで獲信している方と比べて、
どの部分に、「人の介在する余地が多い」のでしょうか?

他所でも、これくらいは、人が介在するように思いますけれども。

それに、人が介在しては、いけないのですか?

どのような典拠があるのですか? 善知識が必要なことと、善知識が「ひと」であることには、
典拠があります。
343298:2008/03/06(木) 01:09:53 ID:ztmHD2Ya
>>341
>断らなかった方で宿善開発していなかったかたがいたとする。

法を聞くところまで進んで、宿善開発していないというのは、おかしいです。

行巻にも、

◎ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く

◎宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん

とあります。

そして、

◎もし聞見せば精進して求めよ

とありますように、善知識あることを聞けば、あるいは、見るならば、求めねばならないのです。
344298:2008/03/06(木) 01:11:13 ID:ztmHD2Ya
>>341
>信心決定とは、ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。
>必ずたすけるぞ、の阿弥陀仏のお勅命に、ハイと答えさせて頂くだけのこと。

これは、あなた様も、あなた様のまわりの方も、
「ハイ」と答えて、獲信しているということでしょうか?
345298:2008/03/06(木) 01:13:43 ID:ztmHD2Ya
>>341
>信心決定とは、ただ、阿弥陀仏の御本願ひとつ、腹底に聞き開かせていただくのみ。

これは、とても大切な部分についてのことだと思いますが、
典拠はございますか? 特に、「腹底」の意味を知りたいです。

また、聞き開くのは、「いわれ」ではなくて、本願なのですか?
346298:2008/03/06(木) 01:17:05 ID:ztmHD2Ya
>>341
>吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです

二河白道のたとえと、大分領解がずれてはいませんでしょうか?
347298:2008/03/06(木) 01:19:41 ID:ztmHD2Ya
>>341
>そうして真実の親様の、暖かき懐に抱き取って頂いた後は、逃げるもかなわず
>身に余る歓喜の中で、吸う息、吐く息、南無阿弥陀仏と生きさせて頂けるのです。

これでは、二河など無く、また、白道は大道のようですね。

この広々とした感じは、私には、無人空きょうの沢を連想させます。

そこから踏み出して、細い白道を歩み始めねばならぬと思います。
348神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 01:21:11 ID:q141IIic
>>342
原点に戻りましょうか。

「六字のいわれ」=「たのみ方」は、信心決定において全然、必要ではありません。
こちらの側の「たのみ方」はすべて自力。
自力による信心決定は不可能です。

それを聞かなければ、決して信心決定できないということはなく、
それを聞いたからと言って、必ず信心決定できると言うこともありません。

「たのみ方」が自力だからです。
349298:2008/03/06(木) 01:26:51 ID:ztmHD2Ya
>>348

(他力に至る)たのみ方であると、幾度も書いているわけですが・・・

あくまでも、他力によって信決定するのです。

ですけれども、そのようなものの存在は、認められないということですよね。

では、原点に戻るとして、348様のところでは、善知識から、何を聞くのですか?
なぜ、善知識が必要なのですか?

348様のところの獲信者の方は、
善知識から、何を教わっているのですか?

348様のところでは、たとえ真剣な方でも、
真剣な方が善知識の話を聞いても、
獲信できないということでしょうか?

私は、「百発百中」と書いています。348様のところでは、
どれくらいの確率なのですか?
350298:2008/03/06(木) 01:31:16 ID:ztmHD2Ya
>>348
>「六字のいわれ」=「たのみ方」は、信心決定において全然、必要ではありません。

「六字のいわれ」が「たのみ方」なのかはともかく、

◎されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、
信心決定の体とす(御文3-7)

「体とす」なのですから、六字のいわれは必要ではありませんか?
351神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 02:22:06 ID:q141IIic
>>344
>これは、あなた様も、あなた様のまわりの方も、
>「ハイ」と答えて、獲信しているということでしょうか?

私の周りも何も、信心決定とは、阿弥陀仏のそのまま来いよのお呼び声に、
素直にハイと答えさせて頂くまでのこと。すべて、本願他力のおひとりばたらきです。

>>345
>典拠はございますか? 特に、「腹底」の意味を知りたいです。

仏法は身体で聞けと言われますが、上の心(頭)でなるほどと納得していても、
腹底には違う心がある。そこに仏法をよくよく聞かせなければなりません。

適切な典拠ではないかもしれませんが、ご参考に。

「一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませと
おもふこころの一念の信まことなれば、」(御文章第一帖三通)

>>347
>これでは、二河など無く、また、白道は大道のようですね。
>この広々とした感じは、私には、無人空きょうの沢を連想させます。

大慈大悲の阿弥陀仏の光明のうちに、摂取不捨と抱きとられてみれば、

「しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風しずかに衆禍のなみ転ず。」

生死の大海の苦しみが、煩悩即菩提と苦が楽に転じてくだされる。
そして仏凡一体とならせて頂いた身は、もうけっして、一人と言うことはありません。
352神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 02:34:51 ID:q141IIic
>>349>>350
>(他力に至る)たのみ方であると、幾度も書いているわけですが・・・

ここでは「たのみ方」を問題にしています。
「他力にいたるにはどうすればいいか」を、あれこれするのは自力タノム心ですよね…
その自力タノム心でもって、他力に至ろうとするのは、これは無理です。
あくまでも阿弥陀仏のお力ひとつで、他力に至るのですから。

>では、原点に戻るとして、348様のところでは、善知識から、何を聞くのですか?
>なぜ、善知識が必要なのですか?

何度も書いてきましたが、正しい仏法を聞かせて頂きます。
善知識がいなければ、自分流に真宗聖典を読んでしまい、誤る事もありますから。

>348様のところでは、たとえ真剣な方でも、
>真剣な方が善知識の話を聞いても、
>獲信できないということでしょうか?

まことに宿善まかせ、とのお言葉の通りです。

信心決定されたかたは私の知っている範囲では、多くはおられません。
「往き易くして人なし」といわれたお言葉の通りです。
「なったつもり信心」獲得のかたが多くおられるよりは、よきことと思います。
353298:2008/03/06(木) 02:57:16 ID:ztmHD2Ya
>>352
>ここでは「たのみ方」を問題にしています。
>「他力にいたるにはどうすればいいか」を、あれこれするのは自力タノム心ですよね…
>その自力タノム心でもって、他力に至ろうとするのは、これは無理です。
>あくまでも阿弥陀仏のお力ひとつで、他力に至るのですから。

そうですか・・・

如来は、為物身でもあるわけですが・・・

◎云何なるをか実の如く修行せずして、名義と相応せずと為る、
謂く、如来は是れ実相身なり、是れ為物身なりと知らざればなり(論註)
354298:2008/03/06(木) 03:05:50 ID:ztmHD2Ya
>>352
>信心決定されたかたは私の知っている範囲では、多くはおられません。
>「往き易くして人なし」といわれたお言葉の通りです。
>「なったつもり信心」獲得のかたが多くおられるよりは、よきことと思います。

獲信者は、全体から見れば、ごくわずかです。

「ガンジス川の砂の中の一粒」のたとえのとおりです。

易行であり、すぐにでも獲信できるものですが、
信じる方がおりません。

正に、「往き易くして人なし」

受け入れる方が、めったにいないのです。

私のまわりにも、あまりいません。説得できる類いのものではないからです。

ひとりが信決定すれば、多くの仏菩薩が祝福すると言われます。

それ程価値があることです。

そして、インターネットにより、「希」な方を探せる可能性が高くなると私は思っています。

また、獲信者同士の交流も、これから、より容易になってゆくでしょう。
355298:2008/03/06(木) 03:13:49 ID:ztmHD2Ya
>>351
>仏法は身体で聞けと言われますが、上の心(頭)でなるほどと納得していても、
>腹底には違う心がある。そこに仏法をよくよく聞かせなければなりません。

これは、その通りであると思います。
そこに「仏法をよくよく聞かせ(る)」方法を、
善知識が教えてくれるかどうかの違いのようですね。

そして、351様は、「そのような方法など、そもそも無い」というお立場のようです。

では、称名正行については、どう解釈されるのですか?

◎しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻)

五念門とは、真実信心いただく行なのでは、無いのでしょうか?

五念門については、どう教えられていますか?
356298:2008/03/06(木) 03:22:06 ID:ztmHD2Ya
>>351
>信心決定とは、阿弥陀仏のそのまま来いよのお呼び声に、素直にハイと答えさせて頂くまでのこと

信心決定については、たくさんの御文がありますのに、
この言い方を用いられることには、何か意図があるのですか?

また、351様の「受け入れる/受け入れない」と、私の「受け入れる/受け入れない」は、
少し意味が異なるようですね。

私が言う、「受け入れる/受け入れない」とは、
「受け入れる」方には、さらに次の話があり、さらに次の話があり、
とお話が続いて行き、求める方、すなわち、「わかりました。御願いします」と、
次々求めてゆかれる方は、易行道にて、獲信にまで至るわけです。

351様の場合には、お話にうなずいている方でも、
「受け入れる/受け入れない」があるようですね。

つまり、上の心でうなずくだけでは、先に進めないということですね。

私が言っているのは、「上の心でうなずく」方は、先に進んで次の話を聞くことができ、
そして、「腹底の心」(ここでは、根源無明の意味とします)に仏法を聞かせる方法を
教わることができるということです。

そして、その通りにするならば、「誰でも」腹底の心に仏法を聞かせることが
できると主張しています。

そして、「その通りにする」ことも、誰でもできると主張しています。
それは、難行ではなく、易行だからです。

351様の考えでは、上の心では「受け入れている」つもりの方も、
そこでとどまってしまうことになってしまいませんか?
357298:2008/03/06(木) 03:55:54 ID:ztmHD2Ya
こんな自分に用はない
こんな自分は投げ捨てて
如来の信に飛び乗って
自分は捨てて往生す
自分のことが他人事
如来の視線が南无阿彌陀佛
358298:2008/03/06(木) 04:34:19 ID:ztmHD2Ya
>>318
>仏法を正しく教えて下さる善知識にお会いして、聴聞させて頂き、
>御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとなったとき、信心決定するのです。

これについても、全く異論はないのです・・・

やはり、「御本願のとおりに阿弥陀仏をたのむすがたとな(る)」には、どうしたら良いのか、
そこを教えてくださるかどうかが、違いのような気がします。
359298:2008/03/06(木) 05:00:12 ID:ztmHD2Ya
>>263
>自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、
>とうてい助からないのだと教えてくださるのが、本当の善知識です。

これも、異論がないんですよね・・・

「自分が称えるお念仏で助かろうと思う自力の心では、とうてい助からない」で
とどまるのか、では、実際にどうすれば良いのかを教えてくださるのかが、
やはり違いのようですね。

ですけれども、一般向けの法話では、正雑二行の沙汰はなされないのですから、
263様が、「では、どうすれば良いのですか?」と尋ねていないだけかも
しれないですね。

「不審は尋ねるように」と、蓮師もおすすめです。

◎また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、
信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰せられ候ふなり(聞書40)

蓮師は、高台からではなく、このように同座をしてくださいます。
善知識のあるべきすがたを、お示しだと思います。

どうか、263様も、ご縁のある善知識に、遠慮なく、ご質問されたら、良いと思います。

善知識様は、それをお待ちでいらっしゃると思います。
360けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/06(木) 08:25:46 ID:2ACfQi46
298さん、妙好人って、そんなに理屈っぽくない気がします。
お聖教から切り張りしたような
型にはまった説明じゃなく、
直感的な298さんのお言葉を聞かせて欲しいです。
361298:2008/03/06(木) 08:51:47 ID:ztmHD2Ya
>>360
直感的なことも、いろいろ書いてますよ。

(形式としては、主に短い詩のような感じで。)

すごく、簡単に言えば、この世のことは、どうでもいい。

どうでもいいけど、煩悩があって、それはやっぱり普通の欲です。

ですけれども、「どうでもいい」が基盤にあるから、
ぐっと楽になりました。

だから、普通の欲が、普通でない。信心が染み込んでいる欲なのかなと思ったりします。

欲が重たくない。あっさりしてきた感じがします。
362298:2008/03/06(木) 08:54:28 ID:ztmHD2Ya
それと、これはよく言われることですが、
次第に世界がはっきりして、明るくなってきました。

私の場合は、信をいただいて、半年以上たってからのことです。

心の苦しみは、明らかに軽くなりました。

これは、獲信して、一気に軽くなり、それからは、徐々に軽くなってきています。

地獄に行く気がしなくなりました。
363298:2008/03/06(木) 08:57:07 ID:ztmHD2Ya
あとは、全体的に、楽しい気分になってきたことですね。

いろいろと、現世的なことも、前よりこだわりがない分、
楽に処理できているような気がします。

よく、なんでもかんでもなむあみだぶつ、のようなことを聞くのですが、
たしかにそんな感じです。

口に出すお念仏は、信前よりも、親しみ感じて言うようになりました。

ですけれども、こういうのは、あくまでも個人的な経験で、
人によって、違うのだろうと思います。

ある程度、似た傾向はあると思いますけれども。
364298:2008/03/06(木) 09:01:01 ID:ztmHD2Ya
信をもらうのは、「娑婆の葬式」と聞いてましたから、
「あー、死ぬんだな、死んでもいいや、もうこんなのは」と思ってました。

「こんなのは」というのは、自分のことです。

捨てたくても捨てられない自分でしたから、もうどうなってもいい、
捨てれるものなら捨てたい、と思ってました。
365298:2008/03/06(木) 09:04:12 ID:ztmHD2Ya
そして、これも定番だと思いますが、私の場合も涙が出てきました。

心のどこがよろこんでいるのか、わからないんですけれども、
うれしく、ありがたく、心のどこかがよろこんで、涙が出て来る。

信をいただいた後でも、心のどこかがよろこんでいる感じがあって、
これが、うれしさやたのしさのもとになっていると思います。

「根源無明」という言い方を、事前に聞いていたせいかもわかりませんが、
心の大きなトゲ抜きをしたような感じです。
366神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 09:39:53 ID:q141IIic
298さん、下の心こそ、自力で法をきかせようとしても、到底きいてくれるものではありません。
他力になるには、他力によるしかないのです。

「このようにすれば下の心に聞かせられる。このようにすれば他力になれる」
そのこころが自力です。自力でなろうとしても、他力になれるものではありません。
すべて、阿弥陀仏のおひとりばたらきなのです。

自力のこころが腹底にいすわるうちは、法を聞いても他人様のこと、
わたしのことではよもやあるまいと思っているから、
御本願が、親様の命がけのお呼び声が、届きません。

それが届いてくださったとき、ああ、
御本願に間違いなかった、おちる私に間違いなかった、
その私を助けてくだされる阿弥陀様に間違いなかった、と
知らせて頂き、有難さと申し訳なさと、
真実の親様に遇えた嬉しさに、ただただお念仏称えさせて頂く身になるのです。

すべて、阿弥陀仏の命がけの御本願、光明のおひとりばたらきです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
367神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 10:03:24 ID:xKFQ8ZeP
全国に数名いる法然から伝えられたという次第相承の善知識は、三宝帰依をした僧侶では無い。
しかも、どこの誰かも秘密にされる善知識から直接教えを受けない限り、信心を得ることは、不可能だという。

いい悪いを抜きにして、これはもう普遍宗教、仏教ではなく、民間信仰の類であろう。
368渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 11:51:25 ID:fZbqgYrf
>213
>阿弥陀仏をたのむ一念で救いとってくださいます。たのむ一念、とはどういう一念なんでしょう?

 他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。
他力というのは、阿弥陀仏を頼む一念が起きるとき、やがて御たすけが受けられてくる。

「頼む」(広辞苑)
(1) 手を合せて祈る意からか。自分を相手にゆだねて願う意。力を貸してもらえるよう、相
手にすがる。
(2) あてにする。それを力とする。
(3) ゆだねる
(4) 信用する。
(5) その人を主人として一身を託する。
(6) 武士などが、他家を訪れて案内を請う言葉。たのもう。
(7) 懇願する。

 頼むとはどういう意味か。ここに混乱があるようだ。頼むには、「信用する」「主人として一
身を託す」「他家で案内を請う<たのもう!>」「懇願する」という意味がある。蓮如の言う
「頼む」がこれらの意味でないことは文意から明らかだろう。争いはないと考える。
 「相手にすがる」という意味と「力とする」という意味が残る。両者は内容が違う。はき違え
てはいけない。

 頼るという場合、「−に頼る」という表現と、「−を頼る」という表現とがある。蓮如の御文
の中に、「阿弥陀仏に頼る」という言い方は一箇所もないはずだ。全て「阿弥陀仏を頼む」とい
う言い方をしている。相手にすがるという意味であれば、「阿弥陀仏に頼る」という言い方にな
る。「神にすがる」「神に頼る」という言い方になる。「神にすがる」という意味の場合、「神
を頼る」という言い方をしない。では、「阿弥陀仏を頼む」とはどういう意味か。これは、「阿
弥陀仏を力とする」という意味だ。ゆだねるには、(1)に近い場合と(2)に近い場合とがあ
ると考える。
369渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 11:53:55 ID:fZbqgYrf
 「阿弥陀仏を力とする」とはどういう意味か。考えよう。大工さんに頼んだと言えば、大工さ
んに仕事を丸投げしたということになるだろう。家の新築工事のすべて委ねるとき、「家の建築
を大工さんに頼んだという」言い方をする。確かに、「大工さんを頼んだと」いう言い方もある。
この場合には、家の新築に当たり、たとえば自分(依頼人)は「電話をした」、「呼んできた」
というような意味がある。
 「家の建築を大工さんに頼んだ」と言えば、大工さんは、電気配線工事、排水工事などについ
て大工さん以外の請負業者に裁量で仕事を下請けさせることができる。つまり大工さんは全権委
任を受けている。
 一方、「大工さんを頼んだ」といえば、大工さんは、大工さん以外の請負業者に電気配線工事、
排水工事などを勝手に依頼できない。大工さんには全権委任がない。「大工さんを頼んだと」い
う場合には、依頼主にも主体的な行動がある。あくまでこれは部分委任である。行動の一次的な
主体は依頼主にある。依頼主はそのとき眠っているなり何もしないでぼーとしているという意味
ではない。

 阿弥陀仏を頼むとはどういう意味か。全権委任か、部分委任か。果たして丸投げという意味だ
ろうか?。阿弥陀仏を頼むとは「すがる」という意味ではない。むしろ「(部分的に)あてにす
る」、「(部分的に)力にする」という意味で考えるべきである。「あてにする」、「力にす
る」とはどういう意味か。水先案内という言葉が一番近いと考える。

 外国船が東京湾に接近すると、湾外で外国船は水先区水先人会に無線連絡をする。水先人は、
入湾する船にパイロットボートで急行し、そこに乗り込む。船長から船の性能など操船に必要な
情報を入手し、船長に対しては港や水域の状況及び航行計画について説明し、航路を決定する。
水先人はあくまで操船上のアドバイザーであり、操船上の最終責任は船長が負う。船長は、水先
人の技能を力にし、水先人の技能をあてにしてそのアドバイスを受け、操船する。水先人に操船
を丸投げするという概念はない。岩礁に乗り上げ、あるいは他船と衝突して沈没すれば、最終責
任は水先人ではなく船長が持つ。これが「水先人を頼む」という意味である。

370渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 11:55:51 ID:fZbqgYrf
 建築中で大工さんが毎日出入りしてる現場で夜、火事が起きれば、それは大工さんの責任であ
る。建築主は、大工さんに金銭支払い義務を負うが、それ意外は火気管理、盗難管理も含めてす
べて大工さんに委ねる。「大工さんに頼む」という意味との大きな違いである。

 二河白道で、東の岸では「決定してこの道を尋ねて行け」という声がある。西の岸では、「汝
一心に正念にして直ちに来れ」という声がある。釈迦と阿弥陀は何をしているのか。釈迦と阿弥
陀は担架に乗せて行者を搬送するというのか。そうではない。水先案内をしているのだ。行者に
は水先案内に従うか従わないかという選択権がある。水先案内を選択する上では、選択上の責任
は行者本人にある。その道を西に進んでいってその結果で酷い目にあっても、その責任は、釈迦
や阿弥陀の技能をあてにした行者に、自己責任として被ってくる。そういう状況背景の下で、行
者は水先案内を釈迦と阿弥陀に委ね、その水先技能をあてにして西に向かったのだ。行者にはこ
のとき、釈迦と阿弥陀の水先技能があてにできるという判断があり、水先案内をあてにしようと
いう決意があり、選択があり、前進歩行という実行行為がある。判断・決意・前進歩行する行者
は自力の行者だろうか、他力の行者だろうか。他力はどこにあるのか。他力は、判断と意思決定
過程の中に、知恵として内在している。東京湾で、水路はこの道を進もうという判断の決定過程
に、水先人の知恵、技能が生きて内在している。

 阿弥陀を頼むとは、阿弥陀の水先技能をあてにすると言う意味だ。阿弥陀はどのように水先案
内をしているのか。それが二十願だ。

 設い我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの善
本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは正覚を取らじ、と。
371渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 12:06:43 ID:fZbqgYrf
 二十願の場合の我が国に生まれんと欲わんの我が国はどこか。大会衆門(正定聚)であるか、
宅門以降(大涅槃)であるか。

定散自力の称名は 果遂の誓いに帰してこそ 教えざれども自然に真如の門に転入する

 これは大会衆門(正定聚<真如の門>)というのが宗祖の判断である。つまり、必ずや至心・
信楽・欲生心を起こさせるだろうと言っていると解すべきだ。念を我が国にかけつまり一心不乱
(阿弥陀経)に、もろもろの善本を植えるつまり念仏を称えれば、必ずや至心・信楽・欲生心を
起こさせる、果遂せずはつまり多少時間がかかってももしそれで結果が出なかったら、水先案内
が失敗だったら、自分は大乗仏教が言う仏つまり真の教育者になったことにならない。阿弥陀仏
は、教育者としてつまり大乗の仏として行者に道を示している。水先案内をしている。水先案内
の内容は、一心不乱に念仏を称えよということである。
 阿弥陀仏は、二十願で信前の不定聚に、念仏を称えよと示している。この水先人の言葉にをあ
てにし、阿弥陀仏の技能を力に自らが念仏を称えていくと言うこと、これが阿弥陀を頼むという
意味である。そのように認識すべきであろう。

 「一念」についてはなお、続く。
372渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 12:54:07 ID:fZbqgYrf
>370
誤 「大工さんに頼む」という意味との大きな違いである。
正 「大工さんを頼む」という意味との大きな違いである。

誤 水先人の知恵、技能が生きて内在している。
正 水先人の知恵、技能が生きて内在している。その裏には相互
の信頼関係つまり、「信」が生きているのだ。互いの信頼がなけれ
ば水先案内はできない。
373神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 13:12:11 ID:qpyxfWqV
>361
嘘だー。臨終の夕べまで怒り嫉み腹立つ心は絶えないよ。
絶えないから、弥陀が常に摂めとり護って下さるんだよ。
欲が出なくなった、この世の事がどうでもよくなったも、凡夫の欲。
業縁もよおせば、コロコロ変わっていく。
業縁もよおせば、ひょこっと不安が顔を出す。
変わらないのはお悟り成就の上のお言葉だね。
阿弥陀さまのかならずたすけるのお言葉が真なんだよ。
自分の心得を相手にして、うなづいているのは、
凡夫が自分のまわりに防御壁を囲って、
自分に都合のよい事だけを壁の内側に集めて、
いつも、私は信心得たから大丈夫って自分に言い聞かせてるだけ。
そして、壁を強固にする事が金剛心だと思ってる。
これも一種の疑城胎宮かもね。
374神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 13:32:14 ID:oQ/8OGSO
信心決定したからといって、三毒煩悩は絶えないでしょうね。
でも、心の落ち着きを得た人も、当然いるはずだし。
凡夫は凡夫のままですが、法を深く味わいながら生きていけるなら言うことは
ないじゃないですか。そんでもって目が閉じればたちまちにして往生安楽国。
これに過ぎたる幸せはないです。
それに、疑城胎宮っていうけど、自力の念仏でここに行くのだってとっても難しいと思いますよ。
それにひきかえ、他力でいく極楽のなんとやさしいことか。
信じることはとびきり難しいのかもしれないけど。
375298:2008/03/06(木) 14:42:31 ID:ztmHD2Ya
>>373
>阿弥陀さまのかならずたすけるのお言葉が真なんだよ。

「かならず」とのことですが、

>自分の心得を相手にして、うなづいているのは、
>凡夫が自分のまわりに防御壁を囲って、
>自分に都合のよい事だけを壁の内側に集めて、
>いつも、私は信心得たから大丈夫って自分に言い聞かせてるだけ。

こういう人は、助けないということなのでしょうか。
よくわかりません・・・
376298:2008/03/06(木) 14:52:29 ID:ztmHD2Ya
>>366
他力をいただくその前までは、自力であること、もちろんのことです。
どのような方法で他力をいただくにせよ、その直前までは、
自力があるはずです。

>自力でなろうとしても、他力になれるものではありません。

これは、第二十願の化益が難しいことをおっしゃっているのでしょうか?

第十八願は、あくまでも易行です。それは、所行であるからです。
能行は第十七願です。

他力のいただき方があるからこその、愚鈍往き易き捷径です。

たとえ一代の教をよくよく学すとも、自らを愚鈍の身になせる方は、
法をいただき、如実に修行することができることでしょう。

ここでも、注意しなければならないのは、「鋭利往き易き捷径」では無いことです。

如実修行相応の称名により、信をいただけるはずです。
377ニュー大谷:2008/03/06(木) 15:40:00 ID:ZYrwAs48
自力だなんだと言って、結局は
念仏を称えていないひとの言い訳でしょう。

378298:2008/03/06(木) 18:05:15 ID:ztmHD2Ya
>>366
◎謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行というは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。
この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく(行巻)

とあるのですから、行はあるのではないでしょうか。
しかも、極速円満する行です。

極速であり、しかも、それによって、足りています。

南无阿彌陀佛
379298:2008/03/06(木) 18:15:23 ID:ztmHD2Ya
◎若し人、無量生死の罪濁ありと雖も、
彼の阿弥陀如来至極無生清浄宝珠名号を聞きて、
これを濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅し、心浄くして即ち往生を得(論註)

なんと尊い名号かと思います。
380神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 18:18:40 ID:qpyxfWqV
>374
心の安定を得たって、真宗だったら他力じゃなきゃ意味ないんじゃない?
どんな宗教だって心の安定安心を得ている人はいるだろうし、
それをもって、真宗だとは言えないよね。
真宗は弥陀にまかせまいらせるのであって、
自分の安心にまかせるんじゃないね。心が落ち着きました、
もういつ死んでもいいですなんて、造りと造る悪業煩悩を棚に上げて、
信心決定したと確信してる自分に酔ってる状態で良しとしてしまってるんじゃないかな。
自分の殻を造って、過去の体験にお籠もりするんだから、
疑城胎宮と言えるんじゃない?自力信で弥陀をはからっているのは、
称名を多功徳多善根と信じてそれを積み上げて、
それと引き替えに浄土に参ろうと、はからっている事と、
若不生者の誓いをはからっている点では同じ事だからね。
自分はどこまでも常没流転の凡夫ならば、
この世のことなんてどうでもいいなんて、
なま悟りの様な、そんな偉そうなこと言えないよ。
何思っても、何言っても、何一つあてにならない、
そんな不定不浄の我執の心を述べるより、
弥陀はかならず救います。我が心あてにせず、弥陀のお心を
常によりどころにして生きていこーよ、いつ死ぬかわかんないけど、
悪業煩悩毎日造って地獄しか逝く所ないだろうけど、
皆、阿弥陀さまが引き受けて下さるって仰ってる。我が身まかせず、
弥陀におまかせしましょう、南無阿弥陀仏と言う具合に、
お勧めすべきなんじゃないかなー。
381298:2008/03/06(木) 18:25:03 ID:ztmHD2Ya
>>380
まあ、いろいろな解釈があっても、いいのではないでしょうか。
私は、弥陀をたのんだと思って、満足してますし、
尋ねてきた方も、弥陀をたのんだと思ってくだされば、
うれしいのです。
現状、真宗にも、いろいろあるということですね。
満足しているのが、よっぽど気に入らないようです。
それも、また、不思議なことです。
如来に生かされるよろこび。
南无阿彌陀佛
382298:2008/03/06(木) 18:26:29 ID:ztmHD2Ya
>>367
きっと私は民間信仰なのでしょう。
私は、この民間信仰を、気に入っているのです。
南无阿彌陀佛
383298:2008/03/06(木) 18:29:53 ID:ztmHD2Ya
疑い深い私のはずなのに、どうしてこの教えは、信じる事ができたのか。
とても不思議です。はじめから、ホントと思い、そのままでした。
384298:2008/03/06(木) 18:32:25 ID:ztmHD2Ya
未安心のときも、御文様を読んでいましたが、私は、信後の方が読みました。
信心いただいた気はするけど、ホントにいいのか? と確認するために、
お聖教様にお相手していただいて、鏡になっていただきました。
時代順にさかのぼって読み、パーリ仏典の現代語訳まで読んで、
自分なりに納得しました。ひとりひとり、道は違うのだと思います。
南无阿彌陀佛
385298:2008/03/06(木) 18:35:25 ID:ztmHD2Ya
この教えがすごいのは、信をいただいても凡夫、
善知識様も凡夫だということです。
ですから、あんまり期待して獲信者や善知識様に会いにゆくと、
失望もするんじゃないかと思います。
獲信しても、あまり変わらない。
内輪でよろこんでいるだけに、見えるんでしょうね。
まさに、お遊びです。そんなお遊びが、私は好きなんですね。
南无阿彌陀佛
386298:2008/03/06(木) 18:40:10 ID:ztmHD2Ya
易行で極速。忙しい現代人に、ピッタリですね。
南无阿彌陀佛
387298:2008/03/06(木) 18:42:55 ID:ztmHD2Ya
それにしても、どうして南无阿彌陀佛で救われるのか。
本当に、ワケがわかりません。あっと言う間、凡夫の心が早変わり。
変わって称える南無阿弥陀仏。凡夫のままの南无阿彌陀佛。
388笑いのマートル:2008/03/06(木) 18:42:56 ID:MY5263zl
南無阿弥陀仏の称名も阿弥陀仏にさせて貰うから他力なんだけれど、
この意味が判る人はまず居ないでしょうね。
298さんは、判りますか?
389298:2008/03/06(木) 18:43:53 ID:ztmHD2Ya
>>388
わかってるつもりなんですが、「わかってない」と言われつづけている感じです。
わかってないのかもしれません。
390298:2008/03/06(木) 18:50:19 ID:ztmHD2Ya
わかってるつもりで、わかってないのかもしれなくて、
でも、いろいろ読んでいると、「この方には教わりたいなあ」「この方は、ちょっと・・・」のように
自分に判断が出てきます。「さすがにそれは・・・」と思うことが多いですが、
自分が間違っているかもしれません。だから今でもこうして、
信心の沙汰をつづけています。
391298:2008/03/06(木) 18:57:04 ID:ztmHD2Ya
なぜ、わかっているつもりなのかもしれないかというと、
ことばには、いろいろな解釈が可能だからです。
ですから、「文字どおりに読め」というアドバイスが、とても大切だと思います。
それでも、ことばには限界があり、「どこまで文字どおりなのか」という判断が、
なかなかできないと思います。
同じことばを読んでいても、ならっている解釈で、別の意味になってしまいます。
私としては、なるべく文字どおりに納得できる解釈を採りたいと思っています。
ですから、今の自分が考えている解釈よりも、さらに文字どおりと思える解釈があれば、
「ああ、なるほど」と思うと思います。
南无阿彌陀佛
392神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 19:00:34 ID:lGWCw9zM
>380
>皆、阿弥陀さまが引き受けて下さるって仰ってる。我が身まかせず、
>弥陀におまかせしましょう、南無阿弥陀仏

見事な自力での解釈ですな。
弥陀におまかせできない人が、おまかせさせていただける法なんですが・・・意味が分からない人はどうぞ獲信を求めてください。
獲信したら「なーるほど、そういうことね」って分かるようになりますから。
393298:2008/03/06(木) 19:02:03 ID:ztmHD2Ya
>>380
仮に他力信をいただいていないとして、それでも、すごく楽になっているので、
自分としては、進展している感触があります。
そして、こうしてあれこれやり取りさせていただいて、
お聖教にふれあってゆけるのは、ひとりで読むより、ありがたいこと。
批判されるにも理由があるはずだから、よくスレを読み返して、
考えています。
もし、間違っていたとしても、こうしてコミュニケーションしているほうが、
本物に出会いやすいような気もします。それも結局、ひとりのしのぎ。
いろいろな意見を読めることは、たのしいし、感謝しています。
394298:2008/03/06(木) 19:05:05 ID:ztmHD2Ya
>>392
>弥陀におまかせできない人が、おまかせさせていただける法なんですが・・・
>意味が分からない人はどうぞ獲信を求めてください。
>獲信したら「なーるほど、そういうことね」って分かるようになりますから。

これは、「南無阿弥陀仏の称名も阿弥陀仏にさせて貰うから他力」(>>388)よりも、
よくわかる気がします。

392様は、同じようにわかりますか?

私の場合は、「なるほど度」に差がある感じがします。(392と388を読んだときの
自分の気持ちを見た場合。)
395298:2008/03/06(木) 19:11:59 ID:ztmHD2Ya
とりあえず、一枚起請文と領解文については、おそらく一文字残らず
うなずけていると思います。
まだ、この掲示板はそこまでの段階に進んでいないと思いますが、
いずれ、掟を守りながらも、信心の沙汰ができる場所になっていったら、
おもしろいことです。
396298:2008/03/06(木) 19:26:33 ID:ztmHD2Ya
「阿弥陀仏が法である」ということは、よくよくわかるのですが・・・
397神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 21:36:59 ID:q141IIic
夢の世に 称えるまこと 南無阿弥陀仏 大慈大悲の 親あればこそ

「たのみ方」を教わっても、たのめはしません。
寝ている人が、夢の中で、こうやれば起きるぞ、とおそわっても、
例えば自分をひっぱたいて起きたつもりになっても、寝たままです。
夢から覚めて、ほかの夢に入るばかり。
起こして下されるのは、阿弥陀仏のお呼び声のみです。

よそ見せず、寄り道せず、自力の安心に腰掛けず、ただひたすらに、
一向専念無量寿仏。
ほかには、何も要りません。

何事も、宿善まかせ、ですけれど…
それにしても、仏様の慈悲は、誰より重い荷をもつ私に、誰より深くかかってくださる。
大慈大悲の阿弥陀仏の光明のうちに、照らされ守られ通しとは、
なんという幸せ者かと、喜ばずにいられません。

(利井鮮妙)
  「南無阿弥陀仏のすがたとは、お慈悲のこころということじゃ。
  もっとわかりやすくいえば、親心というものじゃ。
  親というものは、わが子がどんなに愚かなものであっても、よう見捨てぬものじゃが、
  大悲の親さまは、私どものような煩悩ばかりをおこしている浅ましい凡夫を、
  どうしてもみすてることはできぬ、ほかの仏さまや菩薩さまが、
  見放してしまわれたこの私を、どうかして救うてやらねばならぬとねがいたち、
  『われたすけずんば、またいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして』
  私をたすける親さまとなってくだされた。
  それが南無阿弥陀仏さまじゃで、きっとおたすけくださることは、さらさら
  疑いのないことである。何がまちがっても、こればかりは決してまちがわぬ。
  このようにこころえることを『南無阿弥陀仏のすがたをこころうる』といわれたのじゃ。」
398神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 22:51:02 ID:l59mK9LA
>>397
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
399渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/06(木) 23:58:15 ID:fZbqgYrf
>371
頼む一念

 他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念
仏ともうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿
弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。

 東京湾を航行するには、船長は水先人との信頼関係が重要になる。水先人とケンカするようで
は東京湾を航行できない。外国船の船長は、見知らぬ日本に仮に初めて訪問し、初めて出会った
ような水先人ともケンカしてはならない。水先人と船長との間で最も重要なものは、互いの信頼
関係だ。たのむ一念の一念とは、念仏を称えよと水先案内してくれる水先人とのこうした信頼関
係だろう。

 水先人と船長との間の信頼関係は、一念で成立させたいものだ。この場合の一念は、時克の極
速を表す。つまり、信頼関係は一瞬で結ぶ。信頼関係が一念で生まれれば、それで十分だろうか。
「水先人さん。信頼関係ができましてので、どうぞ安心してお帰り下さい」などと、こんな馬鹿
な話はない。水先人とは一念で信が生まれれば、その後乗船を続けて仕事をして貰う。本番は信
頼後である。一念とは、づっと続く不二の継続の信頼関係である。

 船長が水先人を信頼すれば、水先人も船長を信頼する。その中で信頼関係が持続する。水先人の
技能は操船する船長の頭脳の一部に滑り込む。
 水先人の技能は、操船する船長の技能の本質的一部となり、やがて安全操船を実現する。念仏
者が阿弥陀仏との信頼関係を構築すると、阿弥陀仏の知恵と慈悲は、念仏者が称える念仏そのも
のとなって念仏者に作用する。これを、自力をくわえざる他の力と言う。
400298:2008/03/07(金) 01:37:45 ID:JlTik73c
>>397
よろこべてるなら、しあわせなことですね。
私たちを助けてくれるお姿が、南无阿彌陀佛であって、
そのような姿になってくれたおかげで、
我らも弥陀をたのめることが、うれしいことです。
南无阿彌陀佛
401298:2008/03/07(金) 01:41:29 ID:JlTik73c
>>397
>「たのみ方」を教わっても、たのめはしません。

五念門は、むなしいことなんでしょうか・・・
法然聖人からの一流では、無いんでしょうね。
お念仏にも、いろいろあるんだと思います。
402298:2008/03/07(金) 02:19:30 ID:JlTik73c
◎弥陀仏の本願念仏は、邪見・?慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし

「邪見・?慢」にとっては、本当に難しいのですから、
「たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして」が
大切なのだと思います。


◎難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ

易行の水道なのですから、本当にラクなものです。


◎弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る

「自然に」で他力がはたらくと、私は考えます。
「憶念弥陀仏本願」は、「自然に」の前だと思います。

南无阿彌陀佛
403298:2008/03/07(金) 02:46:43 ID:JlTik73c
>>380, 397
このおふた方は、選択を押し進め過ぎて、正行までも捨てられてしまったような気がします。
正雑も、専雑もありますけれども、正も専もあるのであって、
廃立というのは、廃だけではなくて、立もあるのだと思います。
五念門が「弥陀のたのみ方」でないなら、
五念門とは、一体何なのでしょうか?
何のために、正雑を考え、選択があるのでしょうか。
選び取られた行を行えば、獲信するのではないのですか。
404けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/07(金) 07:59:15 ID:prb9Zo/j
浄土宗では、五念門よりも五種正行を言うかな。
405けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/07(金) 08:29:26 ID:prb9Zo/j
>>396 「阿弥陀仏は法である。」とはどんな意味?
言葉だけ聞いたら色んな解釈できそう
406神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 10:04:49 ID:hgfPxY/k
秘密のたのみ方を公開希望。
407神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 11:22:48 ID:1ie7xg3A
業界人の通うレストランの裏メニューじゃあるまいし
408渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/07(金) 11:24:40 ID:biih+vVh
>403
 なんというかなぁー。
 まあ、僕としては、聖教の根拠を示してほしいものだなぁ。
 聖教の根拠がなければ、何とでもいえるからなぁぁ。

 298さんは信心獲得者として、聖教の枠外、場外乱闘では元
気そのものなんだよね(苦笑)。
409神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 11:24:46 ID:1ie7xg3A
とはいえ赤ちゃんでも出きるたのみ方というから
やっぱり知りたいよね
410神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 11:25:57 ID:1ie7xg3A
>五念門が「弥陀のたのみ方」でないなら、
五念門が弥陀へのたのみ方ってどういう意味なんだ?
411神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 11:52:02 ID:hgfPxY/k
法然直伝の次第相承の善知識は、赤ちゃんをも獲信させることが出来るらしい。
412神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 12:00:59 ID:nm1nA/xK
298も渡海難も仕事探せよ
413神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 12:01:00 ID:hS594a6F
獲信させてくれるのは阿弥陀さんでしょ。
414渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/07(金) 13:32:32 ID:biih+vVh
>404
>浄土宗では、五念門よりも五種正行を言うかな。

 じつはここが親鸞仏教と法然仏教の大きな違いなんですよね。
 親鸞は約60歳、決死の覚悟で関東から京都に戻った当時、
京都の浄土宗は西山派仏教だった。
 恐らく親鸞は、浄土一門からスポイルされたと思うんです。親鸞
が死ぬと、親鸞派は直ちに親鸞を宗祖として担ぎ出す。これは、
親鸞教学がある一線を越え、法然教学とは決して相容れない独
自の教義を建てていたことにあると考えます。
415渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/07(金) 13:35:34 ID:biih+vVh
>414
「スポイル」はおかしい。「無視」に言い換えます。 (;^_^A アセアセ・・・
416神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 14:47:29 ID:hS594a6F
親鸞さんは、法然さんのおっしゃるとうりの念仏を受け継いだから、浄土真宗というのだと思ってますが。
417298:2008/03/07(金) 14:52:52 ID:9OmCG9/Q
>>404
たしかに、「五種正行」と言った方がよかったかもしれないです。
正助があり、正助を理解して正行を修することが大切だと思っています。
助も捨てるのでは、正行に助業が含まれるのは、おかしいと私は考えます。
しかし、観察正行にしても、いったい何をどう観察するのか、
教わらずにどうやって実行しようというのでしょうか。

◎第二に観察正行というは、専ら彼の国の依正二報を観察するなり。
即ち文に、一心に彼の国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念すと云える、
これなり(選択集)

また、それらを細かく文書にしたところで、如法に修することができるはずもなく、
異安心を増やすだけだと思います。
私は、現在の形態に納得しています。
直接教わることを異端視する考え方は、よくわかりません。
直接教わることがめずらしいのではなく、真宗がめずらしいのは、
在家組織があり、在家善知識がいらっしゃることだと思います。
そしてそれは、私には、教義的に納得の行くことです。

◎また天親の『浄土論』にいふがごとし。もしかの国に生ぜんと
願ずることあるものには、勧めて五念門を修せしむ。
五門もし具すれば、さだめて往生を得(往生礼賛)

◎もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、
畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。
なんらか五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、
四には観察門、五には回向門なり(浄土論)
418298:2008/03/07(金) 14:54:22 ID:9OmCG9/Q
>>416
私も、親鸞聖人は、法然聖人のお念仏を引き継いでいると思います。
そして、さらに相承が続き、蓮師も引き継いでいますし、
今の世の善知識に至るまで、相承が続いていると考えています。
その過程で、一子相伝ではないために、枝分かれし、血脈となり、
各地に広がっていると考えます。
419298:2008/03/07(金) 14:56:26 ID:9OmCG9/Q
>>405
詳しくは、掲示板では書く事ができません。
ただ、「阿弥陀仏は法である」ということが、
(その方なりにでも)わからないとすれば、
御同行では無い(あるいは、その可能性がかなり高い)と言えると思います。
420神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 16:02:17 ID:hgfPxY/k
コピペ
法然の没後、長老の信空が後継となったものの、
証空・弁長・幸西・長西・隆寛・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で微妙な違いが生じていた。

その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。
すなわち、信空の没後、京都の浄土宗の主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、
東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して所業本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。
もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、
他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。

法然から「次第相承の正しい念仏」を受け継いだのは誰?その他の宗派は偽者?
421298:2008/03/07(金) 16:13:56 ID:9OmCG9/Q
>>397
>「たのみ方」を教わっても、たのめはしません。
>寝ている人が、夢の中で、こうやれば起きるぞ、とおそわっても、
>例えば自分をひっぱたいて起きたつもりになっても、寝たままです。
>夢から覚めて、ほかの夢に入るばかり。
>起こして下されるのは、阿弥陀仏のお呼び声のみです。

夢の中に、実際に起こしてくださる方が現れるということですね。
知らず知らず、寝ている身体を揺り動かしてくださる方がいる。
その刺激によって、夢の中に変化が現れたと見るわけです。
422298:2008/03/07(金) 16:16:23 ID:9OmCG9/Q
流転のくびきから解放してくださった感謝は、
なにものにも代え難いということです。
423神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 16:49:20 ID:hgfPxY/k
浄土真宗本願寺派 真宗大谷派 真宗高田派
真宗興正派 真宗佛光寺派 真宗木辺派
真宗誠照寺派 真宗出雲路派 真宗三門徒派
真宗山元派 真宗浄興寺派 原始真宗 浄土真宗別格本山(単立)
弘願真宗 淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗浄光寺派) 真宗北本願寺派
浄土真宗遣迎院派 浄土真宗東本願寺派(前・東京本願寺) 
本願寺維持財団 本願寺(大谷本願寺) 浄土真宗親鸞会
浄土真宗一の会 カヤカベ教 仏眼宗 真宗長生派 浄土真宗同朋教団
仏教真宗 門徒宗一味派 浄土真宗華光会 浄土真宗親鸞会

「次第相承の正しい念仏」を受け継いでいるのはどこ?その他の宗派は邪教?


424298:2008/03/07(金) 17:47:46 ID:9OmCG9/Q
◎ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること
勿体なき次第なり(御文1-14)

◎そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、
そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は
一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて
浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、
わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗に
ひきいれんとせしによりて、その不同これあり。しかりといへども、あながちに
これを誹謗することあるべからず。肝要はただわが一宗の安心をよくたくはへて、
自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり(御文2-15)

信決定は、宿善によるが故に、宗派全体で獲信しているということは、
基本的には無いと思います。

どの宗派に、受け継いでいる方がいても、私は納得できます。

真宗においては、門徒が先に獲信することもあるはずです。

◎ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく
存ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され法義を
心にかけられ候ふ、一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。
そのとき仰せられ候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ(聞書116)
425神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 18:02:49 ID:hgfPxY/k
法然直伝の正統なる口伝の次第相承の善知識は、全国に数人しかおらず、その教えは一般には公開されていない。
かつまた、その善知識からの直接の面会を受けねば、信心を得ることは出来ない。
↑↑↑
このことを裏返すと、一般に解放されている寺院もしくは、僧侶は偽である。
かつまた、その信者の中にも一人たりとも信心を得ているものはいない。

このようになるのだが。これは、和合僧破戒になるな。

426神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 18:03:07 ID:biih+vVh
>419
> 詳しくは、掲示板では書く事ができません。
> ただ、「阿弥陀仏は法である」ということが、
> (その方なりにでも)わからないとすれば、
> 御同行では無い(あるいは、その可能性がかなり高い)と言えると思います。

「みなひとの まことの信は さらになし ものしりがおの ふぜいにてこそ」、近
松殿の、堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候う。「あとにて、このこ
ころをおもいいだしそうらえ」と、御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりが
お」とは、われはこころえたりとおもうが、このこころなり。

 分からないなら、素直に「私には分かりません」と言えばいいものを。
 「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。

 御掟は守りたいものだなぁ(苦笑)。
427神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 18:17:53 ID:biih+vVh
>389
> わかってないのかもしれません。

 そうですね。全く分かってないんでしょうな(苦笑)


>395
> とりあえず、一枚起請文と領解文については、おそらく一文字残らず
> うなずけていると思います。
            まあ、冗談として聞いておきますよ。(苦笑)
428298:2008/03/07(金) 18:48:52 ID:9OmCG9/Q
>>425
それは、私の書いた文章ではないのですが、

>このことを裏返すと、一般に解放されている寺院もしくは、僧侶は偽である。
>かつまた、その信者の中にも一人たりとも信心を得ているものはいない。

このように、私は考えていません。
内心に秘めているだけで、尋ねる方を待っていると思います。
もちろん、「秘めている」とは言え、お話をよく聞けば、気付くことはできるはずです。
ここに書いてきたようなことが、気付くきっかけになればと思っています。

先程引いた聞書116(>>424)が参考になると思います。
429298:2008/03/07(金) 18:54:14 ID:9OmCG9/Q
>>427
>まあ、冗談として聞いておきますよ。(苦笑)

冗談としてではなく、まじめに書いています。
ですから、私を尋ねてきた方で、信を獲ることできた方には、
直接質問いただければ、説明致します。
430298:2008/03/07(金) 18:59:32 ID:9OmCG9/Q
私が尋ねていたときに、これは、真宗の僧侶の方ですが、
「いついつまでに獲信せねばならぬと、お急ぎなのですか?」と聞かれました。
「特に期日を定めていませんが、短命の機と考えておりますので、
一刻も早くと考えております」という内容をお伝えしたところ、
「私は、そのような方法は知りません」というお答えでした。
そこで、私はさらに探しました。
私は、この方は、素直な方だと思います。
「私は、知りません」と「そのような方法が、あるはずがありません」は、
大分開きがあります。
431298:2008/03/07(金) 19:11:43 ID:9OmCG9/Q
>>412
私は娑婆の仕事も、持っています。在家です。
いつまでも2chに書き込みできるかもわかりません。
今のところは、目の前のこととして、行っているということです。
432298:2008/03/07(金) 19:22:42 ID:9OmCG9/Q
娑婆の仕事には、実務能力を向上させるという効用があります。
しかし、教えを伝えるというのは、宿善がからんできますので、
通常の仕事のようには参りません。
あくまでも、弥陀の導きが必要です。
433298:2008/03/07(金) 19:32:35 ID:9OmCG9/Q
直接伝えねばならない話が多いということは、
それほど多くの人数には、直接お伝えできないということです。
しかし、「正法があるのだ」ということは、多くの方にお伝えすることができます。
もちろん、お聖教にも、そう書いてあります。
それを、ある程度本気にしている方が、このようなリアルタイムの書き込みを見れば、
さらにリアリティを感じ、「やはり今にも伝わっているのだ」と探しはじめることを
期待しています。
434けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/07(金) 19:48:53 ID:prb9Zo/j
>>420 証空さんは、他宗派から転向したのではなく、
最初から法然の下で出家した「はえぬき」でしょう。
選択集の制作にも関わってるし。
そう考えたら、証空さんがいちばん法然さんの教えを理解していた可能性が高い。
435神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 19:55:11 ID:biih+vVh
>>421
> 夢の中に、実際に起こしてくださる方が現れるということですね。
> 知らず知らず、寝ている身体を揺り動かしてくださる方がいる。
> その刺激によって、夢の中に変化が現れたと見るわけです。

 半睡状態で意識が朦朧としているとき、潜在意識の中に呪文を潜り込ま
せるのでしょうかね。

 旧ソ連のKGBが西側に送り込むスパイに行った教育を連想します。北朝
鮮が日本に送り込むスパイも、同じような教育を受けているんでしょう。源流
は、日本の秘事法門の手法を使っていたとは、思いもよらなかった。貴方も、
そんな風な形でマインドコントロールされた信心決定者なんでしょうかね。
 
半睡状態で潜在意識の中に呪文が潜り込まされた信心なら、本人は大まじ
めでも、他人からは冗談みたいな信心に見えますよね。

 貴方の信心が、およそまともじゃなく、冗談信心だと言うことは、このスレ
を見ている人の多くが感じている感想だと思いますよ。
436神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 20:23:41 ID:hgfPxY/k
結局のところ298氏は、
法然直伝の次第相承の善知識を探しだせ、というだけで核心部分は何も言わない。
すなわち、

次第相承の善知識とは、どこのだれなのか?
自分の所属する団体は何なのか?
正しい弥陀のたのみ方とはどのようなものなのか?

問いただしても、掟があるとか、公開の場では言えないとか、異安心が増えるとか。

故にこのスレはマンネリ化している。





437298:2008/03/07(金) 20:46:43 ID:9OmCG9/Q
>>435
>半睡状態で意識が朦朧としているとき、潜在意識の中に呪文を潜り込ませるのでしょうかね。

私は五念門についても述べています。
正行についても述べています。
あなたは、あなたが書いたこの内容が、それのどれに該当すると考えているのですか。
438298:2008/03/07(金) 20:48:56 ID:9OmCG9/Q
>>436
>結局のところ298氏は、
>法然直伝の次第相承の善知識を探しだせ、というだけで核心部分は何も言わない。

私は「直伝」とは言っていませんが、私が書いている内容に似ています。

私が書いているのは、まず探し出すべきなのは、獲信者であるということです。

そもそも、御文様も、よく読めば、そのような内容になっています。
439298:2008/03/07(金) 21:01:02 ID:9OmCG9/Q
>>438
>そもそも、御文様も、よく読めば、そのような内容になっています。

「よく読めば」と書きましたが、一意的にそのように読めるようになっているわけではありません。
あくまでも、多義性が残る書き方になっています。
440笑いのマートル:2008/03/07(金) 23:58:01 ID:WPEaeaQC
御文章は、信心の鏡、信心を獲る為の道標ですね。
本気で信心を獲りたいと考えている人には、
疑問の残る言葉や言い回しが沢山散りばめてあり、
信心をいただくと、その疑問が晴れ晴れと判る仕組みになっている。
念仏を修行するってどう言う事か、信心を得ない限りこれだと判らない。
そういう言葉が沢山収められている。
私が思うに、自分は真面目な真摯な心で居ると思っている人程、
自分を良く見せようと云う鎧を、
沢山身に纏ってしまっているんじゃないかと思います。
バリケードまで張って対抗している人も見受けられます。
誰にでも開かれている真宗ですが、
より分けているのは、こちら側ではなく、本当は、
自分の心ではないでしょうか?
441渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/08(土) 01:16:35 ID:29LiErmN
>437   ??
 何が言いたいの?
 冗談? 本気? 撹乱? 煙幕? すり替え?  場外乱闘?
442笑いのマートル:2008/03/08(土) 01:46:49 ID:qFhBa8Vv
>441
ある人から見れば妄想でいいんじゃないの?
あんまり意味無いと思うけれど。
五念門=五重の義
助行あっての正行
一種のマインドコントロールでしょ。
宗教にしろ、哲学にしろ、道徳にしろ。
この世の中、思い込みで生きている様なモノよ。
443笑いのマートル:2008/03/08(土) 02:42:22 ID:qFhBa8Vv
この世は無常だと思えない人ばかり。
全てが形を変えないと思っている。
この地球でさえ動いている。これも無常だ。
生きとし生きてはいても、日々死に向かって無常を体験している。
道徳もその事態自体で変化している。
今の世の中、宗教も哲学も道徳もごちゃ混ぜ。
444笑いのマートル:2008/03/08(土) 02:47:47 ID:qFhBa8Vv
〉443
訂正
道徳もその時代時代で変化している。
の間違いでした。
445298:2008/03/08(土) 03:02:36 ID:+jLX9dTw
>>441
もともと不可思議なことなのに、そもそも近づこうとしていないのですから、
わけがわからなくて、当然だと思います。

>>440
>御文章は、信心の鏡、信心を獲る為の道標ですね。
>本気で信心を獲りたいと考えている人には、
>疑問の残る言葉や言い回しが沢山散りばめてあり、
>信心をいただくと、その疑問が晴れ晴れと判る仕組みになっている。

そうですね、御文章は、そういうものですよね。
求めている方にとって、ものすごく価値のあるものだと思います。
446298:2008/03/08(土) 03:43:20 ID:+jLX9dTw
>>434
真宗では、「自分では善を積めない」のようなことを言いますが、
決して、善行を捨てているのではありません。
四無量心は、私もすばらしいと思います。
ただ、それを「無量」には広げられない凡夫であるだけで、
心がけようとしていないわけではありません。
そして、心がけようとしても、心がけを忘れる事も多い凡夫であるというだけです。
そもそも、慈しみの心というのは、「自因自果だから」と、他を捨て置く心では
ないでしょう?
世間では、「自業自得だから」と、自らの悪行によって苦しむ方を放っておく考えもありますが、
仏法では、そのような方のしあわせも願いますし、そのような方の苦しみが減ることも
願うと思います。
自業自得だから、その方が苦しんでも良いのではなく、
なんとかして苦しみを減らしてあげたいですし、
なんとかして、しあわせになってほしいと願うのが仏法であると思います。
そして、そのようにして、自らが慈悲心を起こそうとするだけでなく、
私たちに対して、大慈悲心を起こした方がいらっしゃって、
その慈悲を受けようとするのが、浄土門だと思います。
そのような慈悲に救われたからこそ、できないなりに、
心がけようと思えるのだと思います。
聖道を信じ、成就を信じ、永劫の流転を信じるなら、
これまでの成就者が、私たちに慈悲を向けていることも、
想像できるのではないでしょうか。
もちろん、受け入れる必要はありませんが、否定することもないのではないかと
いうことです。
浄土三部経が受け入れられなくても、これまで、成就者がいたことは想像できると思います。
447笑いのマートル:2008/03/08(土) 04:10:13 ID:qFhBa8Vv
御文章は、信心を得た人にも鏡としてとても大切なものですね。
今まで分らなかった言葉が瞬時に理解できる。
私は、色々教えて貰って御文章の意味を
理解出来る様になって来ましたが・・・
448笑いのマートル:2008/03/08(土) 04:11:37 ID:qFhBa8Vv
信心を得たからこそ、毎日が修行ですね。
449けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/08(土) 08:30:06 ID:JSaCXd6X
念仏で往生が決定したら、
もう往生のためにこの世でやることはないわけでしょう。
だったら、ダメもとで、
仏教の善行に挑戦して生活していきたい。
450神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 09:11:56 ID:UBKeDXPB
そろそろ飽きてきた
451神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 09:29:09 ID:DyLVtrqE
ここはコテハンのオナニースレか
452神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 09:43:53 ID:WeWouAvt
同じことの繰り返しだね。ひとりよがりもいいところ。対話もないし。
おわったよこのスレ
453神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 09:57:25 ID:WeWouAvt
おわったよと書いておいてなんですが
往生が決定しているならやはり
仏道修行・善行にはげむべきですかね。
そういう意欲がグングン湧いてくるものなんでしょうか。
それとも、世界の平和と人間の平等のために戦う!とか
倫理・道徳的に優れた模範的な・・・二ノ宮尊徳みたいな人物になる!
と意気込む感じになるのでしょうか。
454神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 10:03:11 ID:whVtegTQ
人によりけり
455神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 10:05:50 ID:WeWouAvt
>>454
「はぁー、往生決定しちゃった。あれ?もう何もやる気でねー」
って人もいるのかな。
456神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 10:18:48 ID:O3I/fHhr
>「はぁー、往生決定しちゃった。あれ?もう何もやる気でねー」
って人もいるのかな。

求道しまくった後に獲信した人なら、信後の味わいとして
「あれ?本当に全部阿弥陀様がしてくれてんじゃん!おれ、あんなに求めて悩んだのに・・・法に頭を下げさせてもらったら、おれががんばらなきゃなんないこと、なかった!」
みたいな感覚を味わってビックリする人もいるよ。

でも、背負ってた悩みを下ろすから楽になるので、「何もやる気出ねー」っていうのとは違うけどね。
「後生の解決のために求道するやる気が出ねー(というか求道する必要がない)」となる。
457神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 10:23:38 ID:WeWouAvt
>>456
なるほど。ありがとうございました。
458渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/08(土) 10:45:21 ID:29LiErmN
>445
> わけがわからなくて、当然だと思います。
 ノータリンの寝言を言うのもいい加減にしたらどう?

>>信心をいただくと、その疑問が晴れ晴れと判る仕組みになっている。
>そうですね、御文章は、そういうものですよね。

 御文四の五ではとんだ勘違いをしていたようだが、その後は晴れ晴れと分かるよう
になったのか?。おぬしは、読み違いを指摘されれば、コンチクショーと思うだけで、
晴れ晴れとすることなんか全くないだろう。

 同じく仰せに云わく、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。弥陀の御
助けあるべきことの尊さよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきこ
となり」と、仰せられ候うと云々 されば、『口伝鈔』に云わく、「されば、この機のうえに保つところの
弥陀の仏智を、積のりとせんよりほかは、凡夫、いかでか往生の得分あるべきや」と、いえり。

 機の深信が分からんおぬしには、「心得たと思うなよ」と言っても、まあ、蛙の面にションベン
の類だな(苦笑)。

459神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 10:47:57 ID:UBKeDXPB
獲信のメカニズムはどういうもの?

キリスト教(その他の宗教)においても、回心というものがある。
それは、己を空しくして、祈ることによって、神より与えられるらしい。
神秘体験をするものもいる。また、臨死体験後に宗教的人間に変貌するというのもある。
突然、天啓を受けるものもいる。
浄土教においては、念仏によって、仏より与えられる訳だが、
人間以上の存在から与えられる他力という点、不可思議、神秘主義という点では同じか?
違いといえば、輪廻転生の教義の有無だろうか?
しかし、初期キリスト教においても輪廻転生は説かれていたとも聞く。

また、単なる感情の高ぶりや、自己催眠、憑依現象等との違いをどう判断するのか?

宗教対話や相互理解、シンクレティズム、ニューエイジ思想、宗教多元主義がますます重要とされる現代においては、
これらが明確にされる必要がある。
460神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 11:05:47 ID:oOzFRvrI
ヽ  ノ        `ヽ r´       ヾ ソ
  ~ヽヽ         U        /ノ
   ヽノ

         /:::::::渡海:::::::\ 
       /::::::::::::::::::::::::::::::::\ 
       |:::::::::::|_|_|_|_|_| 
-´⌒二⊃. |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ   ⊂二⌒丶
 _ソ.   |::( 6  ー─◎─◎ )     ヾ__
.       |ノ  (∵∴∪( o o)∴)
      |   <  ∵   3 ∵>
     /\ └    ___ ノ
       .\\U   ___ノ\
         \\____)  ヽ

┌──────────────────────────┐
│アイツヤバイよ!変だ? アイツヤバイよ!変すぎる!       |
└──────────────────────────┘
461神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 11:42:00 ID:q9lqIqbw
信心決定は、すべて阿弥陀仏の本願力ひとつです。
百発百中、信心決定させてくれる人は、いません。それは、夢の世で見る夢です、

自分で思う、知った、分かった、納得した、たのんだ、助かった、ぜんぶ間に合いません。
もし万が一、「正しいたのみ方をしたからもう大丈夫」などと思うなら、大変なことです。

たのむちからもない私たちを、そのまま救うぞと誓われている、
阿弥陀様のお呼び声によって、素直にハイと言わせて頂き、
大功徳の御六字と、一体とならせて頂くこと、大切なのはこれだけです。

阿弥陀様の光明のうちに抱かれて、吸う息吐く息、
南無阿弥陀仏と御恩報謝の念仏唱えさせて頂ける、そのよろこび、
御六字に生かされて往く、そのしあわせは、夢の世の幸せとは比べるべくもありません。
夢の世はすべて、そらごと、たわごと、まことあることなし。
念仏のみぞ、まことです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
462神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 11:50:20 ID:whVtegTQ
それでは、たのまなくても心配いらないのかな?
463298:2008/03/08(土) 11:57:13 ID:CNVYVqeQ
>>458
機の深信があるの無いのと、あなた様に判別できるなら、すごいことですね・・・
御文4-5の勘違いとは?
「無宿善の機に正雑二行の沙汰をすべからず」のことですか。
今でも同じ意見です。

>>449
至徳具足の益がいただけますし、御恩報謝の南無阿弥陀仏にすべてがこもっているのですが、
それがわからなくても、極楽往生治定に変わりはないのですから、
励みたいことがあれば、それに打ち込むのも良いことだと思います。

>>455
いると思いますよ。
そして、常行大悲の益がいただけますから、他の方が信を獲ることを望むと思います。
これも、そんなことを思っていないつもりでも、必要なときには、
その気持ちが頭をもたげてきます。
そして、機により、また後念相続により、その気持ちも強くなるだろうと思います。
464298:2008/03/08(土) 12:00:29 ID:CNVYVqeQ
>>461
>たのむちからもない私たちを、そのまま救うぞと誓われている、
>阿弥陀様のお呼び声によって、素直にハイと言わせて頂き、
>大功徳の御六字と、一体とならせて頂くこと、大切なのはこれだけです。

「素直にハイ」というのは、どういうことですか?
465渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/08(土) 13:08:59 ID:29LiErmN
>463
>機の深信があるの無いのと、あなた様に判別できるなら、すごいことですね・・・

 判別?。すごい?。判別くらいで凄いなどと言っていれば、序の口だ(笑)。おぬしの
顔はここからよーく見えるぞ。
 おぬしの頬には文字が書いてある。「私には信心がありません」と。大きく書いてあるぞ。
 鏡を見てみるといい。もっとも鏡を覗く目も、おぬしは節穴だから、何も見えんだろう。

> 御文4-5の勘違いとは?

 まあ、忘れたんだろう。読み違いを指摘されれば、コンチクショーと思う。その後はスッ
カラカンで忘れていく。機の深信が無いというのは、まさにそこだ。そこだ。
 心そこになければ、見ても見えず。聞いても聞こえず。

 まあ、疑城胎宮の中、金鎖に縛られ、500年の惰眠を貪るだけだ。
466298:2008/03/08(土) 13:11:42 ID:CNVYVqeQ
>>465
何が言いたいのか、本当にわかりません。
ちゃかして遊びたいということなのでしょうか?
今生で、本当に救われることができるのですよ。
ご自分の後生のことです。よく考えていただけたらと思います。
467298:2008/03/08(土) 13:16:52 ID:CNVYVqeQ
弥陀に救われる道は、本当に単純です。
まずは、何はともあれ、獲信者を探すことです。
獲信者で、この信心を獲ているかたは、出第五門により、
お手引きもできるようになっています。
それにより、お話をよく聞き、納得すれば、
救いまで辿り着き、この流転から抜けることができます。
468298:2008/03/08(土) 13:19:05 ID:CNVYVqeQ
救われる方が出るのは、本当にうれしいこと。
諸佛も祝福してくださる、めでたいことです。
そのおひとかたを救い摂るために、
ものすごい数の仏菩薩が、これまではたらいてくださり、
ついに、そのときに至ったからです。
469渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/08(土) 13:21:23 ID:29LiErmN
>466-467
 所詮は外道の寝言だ。
470298:2008/03/08(土) 13:22:42 ID:CNVYVqeQ
穢土にこだわる気持ち捨て、
常楽我浄があると知る。
生まれぬ世界があると知り、
諸行無常は仮の夢。
報土に至る還り道。
離れる自分は夢となり、
夢の世界はのこりゆく。
471298:2008/03/08(土) 13:23:50 ID:CNVYVqeQ
軽く救われ南無阿弥陀仏。
身も心も軽くなる。
軽い心で南無阿弥陀仏。
如来に挨拶うれしくなる。
472298:2008/03/08(土) 13:26:02 ID:CNVYVqeQ
如来に挨拶南無阿弥陀仏。
親しい如来に南無阿弥陀仏。
心の深いところに招かれて、
如来に呼ばれて南無阿弥陀仏。
私が来迎南無阿弥陀仏。
諸佛のまもり南無阿弥陀仏。
473298:2008/03/08(土) 13:27:27 ID:CNVYVqeQ
栄える花が散るごとく、
無常の風にさらわれて、
目覚める場所は南無阿弥陀仏。
474神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 13:29:54 ID:WNPlCXfq
>>469
貴様も外道だろ
        /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \   パー───ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
      <       (☆)   〉                     /               \
       \ =======,/                  (__i|__i|__リ     ;       |
        /~`ー=、=,=ィ.                  (   ;;    ∪     |
      /    (●)ヾ'(●) \                    ,◎─ 〃⌒)         |
      |    "⌒(__人__)⌒" |    _'そ       (o,;(´   ´_'ノ     ,; ′;| ´  ;  '
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.      |       o|   .|               /     |           |
      |   ===   | ==|                /      |           |
475神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 15:39:38 ID:2zdxfccU
オンマニペメフン
476神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 20:32:41 ID:UBKeDXPB
セクト主義は嫌ですな

コピペ
指導部の管理
情報源の管理、外部での社会活動の抑制、外者との連絡を断ち切ることの奨励
無謬性・神聖な教義
自分たちの教義が唯一の真理であり、救済への唯一の道と説明。教義に対する全ての批判の抑制
逸脱した神秘主義
事件と自然現象の因果づけ
純粋性
到達不可能な理想を示し、信徒(会員)の行動を規制し、常に更なる努力を求める
独裁性
グル・教祖の強い権力、個人崇拝
秘密教義(秘教主義)
外部への漏洩が厳禁とされる秘密の教義
エリート主義(秘教主義)
信徒(会員)が他者よりも優れているとする

477神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 21:34:49 ID:OqPnVqRo
ものすごくゆるやかな集まりなんですが、セクトなんでしょうか?
真実信心を伝えるほかは、一般の講とかわりないように思いますけど。
だいいち、きちんとした組織自体がないかもしれません。よくは知りませんけど。
お領解文のとうりにしましょうね、っていうだけ。出入り自由。
罰則とかそういうものもないです。

しかし、このスレを読むところでは、みなさん秘事法門のことはよく知っていても、
一流のすがたはまったくご存じないようです。
あらためて思うこと。
一味同行といってもやはり凡夫。いろんな人がいただろうに、よくもまあ何百年も大きな
逸脱者もなく続いてきたものだなあ、と。
先輩方が守ってくれたおかげで、私も法に遇えたんですよねえ。しみじみと感謝です。
478神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:11:02 ID:UBKeDXPB
>先輩方が守ってくれたおかげで

だれのこと?
479神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:26:28 ID:UBKeDXPB
世間一般の常識を馬鹿にしたらあかん
480笑いのマートル:2008/03/08(土) 22:28:42 ID:qFhBa8Vv
次第相承の善知識の事じゃないの?
481神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:31:19 ID:UBKeDXPB
>>480
>次第相承の善知識の事じゃないの?

何ですかそれは?

482笑いのマートル:2008/03/08(土) 22:43:12 ID:qFhBa8Vv
御聖典を良く読めば、先達の次第相承の善知識、
と言う者について書いてありますよ。
判らなければ判らないでも仕方ありませんね。
483神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:59:50 ID:UBKeDXPB
>>482
うざい
484神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 23:05:42 ID:eokRsFRQ
渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
298
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU
笑いのマートル

この4人の中で最も基地外な奴は誰か決めようぜ
485笑いのマートル:2008/03/08(土) 23:31:11 ID:qFhBa8Vv
一番の基地外は、私でーすっ。
486神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 23:31:30 ID:bHpqXBP7
>>484
宗教板で固定ハンドルで書き込む。それだけで大したものだと思うがな。
お互い、名無しさんだが
487けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/08(土) 23:34:39 ID:JSaCXd6X
>>484 おのれ!よくも気にしていることを!
488笑いのマートル:2008/03/08(土) 23:36:42 ID:qFhBa8Vv
私の頭の中は、膿んでいます。
489けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/08(土) 23:37:47 ID:JSaCXd6X
>>488 上半身の話に興味ありません。
490笑いのマートル:2008/03/08(土) 23:48:26 ID:qFhBa8Vv
私の場合、下半身に興味が湧かないんですぅ。
軆全部が膿んでしまっている様で・・・
ココって、基地外が楽しく集う場だと思っているんだけれど。
491神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 00:10:42 ID:U2xVcZod
次第相承の善知識の浅漬けのおかげです。
492298:2008/03/09(日) 00:34:43 ID:IfNoBj1q
凡夫が一称で救われる南無阿弥陀仏です。
だからこそ、凡夫も修することできるのだと思います。
弥陀をたのむだけで、他は何もいらない。
弥陀との取引、ただ一度。
それで、互いに了解し、あとは、御恩報謝のお念仏。
「これなら凡夫も救われる」と思います。
493笑いのマートル:2008/03/09(日) 00:38:52 ID:8w2Y+vUu
>491
凡夫の起す信心は、浅くとも、弥陀の信心が深いゆえ、
大慈大悲の親様に、守られて育ててもらうが信心です。
494神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 00:45:10 ID:4nx3ElXD
セクトの自覚出来てこその凡夫でござるよ。
だからこそ、凡夫も修することができるのです。
「こんなセクト主義に陥っている凡夫の私も救ってくださる」のが南無阿弥陀仏です。
弥陀をたのむだけで、他は何もいらない。
弥陀との取引、ただ一度。

まさか!
しかし、その取引のやり方は、法然から代々伝わる秘された次第相承の善知識から聞かねばならない。
などと、おっしゃるのか?
495298:2008/03/09(日) 00:47:11 ID:IfNoBj1q
>>493
そうですね、おかげを言うなら、阿弥陀様のおかげさまですよね。
次第相承の善知識の、浅からぬ御勧化により、
深法を知ることができ、ついに、他ならぬこの凡夫が、雑行雑修自力の心をふりすてまして、
一心に弥陀をたのみ、真実信心をいただきます。
このときばかりは凡夫ではありませんが、その後、またしても、
ずっと凡夫です。
ですけれども、この凡夫は、弥陀によって、変えられている凡夫、
単なる凡夫ではなく、正定聚に住する凡夫です。

◎世尊 我一心

この「我」を無視する方々が、いらっしゃるようです。
496298:2008/03/09(日) 00:50:19 ID:IfNoBj1q
>>494
すみません、よく意図がわかりませんでした。
「取引」というのは、比喩ですよ。
弥陀の正覚と、凡夫の救いには関係があります。

凡夫の生涯にただ一度、その一念にて信が生まれ、
極楽往生が治定致します。これにより、正定聚に住し、
滅度に至ることが定まるのだと思っています。
497298:2008/03/09(日) 00:51:31 ID:IfNoBj1q
同じ話を聞いて、信じる方と、信じない方がいます。
信じる方は、なぜ、自分でも、このような話を信じるのか、
不思議なことと思います。
それにより、宿縁をよろこぶことができると思います。
498298:2008/03/09(日) 00:54:30 ID:IfNoBj1q
この救いの獲信者は、まわりの凡夫を、獲信させることができるのです。
これも、この救いの大きな特徴であると思います。
救ってくださるのは弥陀ですけれども、
本当に感謝されることなど、生まれて一度もないような、この泥凡夫が、
人様によろこばれることを行うことができます。
菩薩行ができないはずの凡夫が、
菩薩行を行うことができます。常行大悲の益をいただきます。
そして、そのすべてを行ってくださるのは、阿弥陀様なのです。
彌陀の手足となれることに、感謝です。
南无阿彌陀佛
499298:2008/03/09(日) 00:59:45 ID:IfNoBj1q
◎念仏成仏是真宗

尊いおことばだと思います。
念仏によって、成仏するのです。
南无阿彌陀佛
500神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:00:46 ID:4nx3ElXD
>>496
>凡夫の生涯にただ一度、その一念にて信が生まれ、
>極楽往生が治定致します。これにより、正定聚に住し、
>滅度に至ることが定まるのだと思っています。

それは教科書どうりだが、
その為には、特定の全国に数人という善知識(?一般常識では考えられぬ)からの面受が必要なのか、どうなのか?

セクト
指導部の管理
情報源の管理、外部での社会活動の抑制、外者との連絡を断ち切ることの奨励
無謬性・神聖な教義
自分たちの教義が唯一の真理であり、救済への唯一の道と説明。教義に対する全ての批判の抑制
逸脱した神秘主義
事件と自然現象の因果づけ
純粋性
到達不可能な理想を示し、信徒(会員)の行動を規制し、常に更なる努力を求める
独裁性
グル・教祖の強い権力、個人崇拝
秘密教義(秘教主義)
外部への漏洩が厳禁とされる秘密の教義
エリート主義(秘教主義)
信徒(会員)が他者よりも優れているとする
501298:2008/03/09(日) 01:04:29 ID:IfNoBj1q
この救いを信じることができる方は、宿善のある方だと思います。
そして、信を獲た後には、「信じることができて、よかった」と、
感謝の気持ちが出てくることと思います。
厳しい救いが多い中、凡夫が生涯にただの一度で救われてしまいます。
そして、この救いは、最上のものなのです。
これ以上のものは、私は無いと思い、これこそが「真宗」であると、
自信を持って思っています。
信を獲て、いろいろ確認して行くと、確信は、さらに強まることと思います。
事実を知る方は、いわれなき批判が、いわれなきものであると理解します。
偽物は、はじめこそ派手ですが、時とともに、メッキがはげ落ちます。
一方、本物は、はじめ地味かもしれませんが、
時とともに、その真価を輝かせるものです。
信じることができたことを、私はよろこびます。
南无阿彌陀佛
502298:2008/03/09(日) 01:08:52 ID:IfNoBj1q
>>500
「特定の全国に数人」というのは、誰の説なのですか?
あなた様は、何がやりたいのですか。

釈尊の法門は八万四千とも言われ、多くの数があります。
どの法門にても、如説に修行するなら、滅度に至れると思います。

真宗の救いは、私のような悪機でも、
約束通り易行にて、彌陀の清浄心をいただくことができます。

どのような悪行をこれまで積み重ねていようとも、
生涯にただ一度の回心にて、真実信心をいただき、
極楽往生が治定します。

悪行を積んでいるからと遠慮するのではなく、
そのような自分をおめあての本願だと、
それまでの自力のあしき心をふりすてて、
一心に彌陀をおたのみすれば、彌陀はおよろこびになって、
光明を発しまして、救い摂りくださいます。

南无阿彌陀佛
503298:2008/03/09(日) 01:13:13 ID:IfNoBj1q
神の前に出るのを恐れる方がいます。
それは、自らが醜いことを恐れたり、
あるいは、罰を恐れるからです。

彌陀は、罰しません。彌陀は、救います。
不退転の救いを授けて下さいます。

この不退転というのは、真理の意味において、
不退転です。

このような力強い救いをいただき、凡夫が生まれ変わります。

彌陀に生かされる後世は、何があろうとも、
浄土に救い摂られる後世です。

諸佛諸菩薩に護られまして、火の河水の河にも、決して落ちることなく、
細き道でも、護られて、彼岸に達することができ、
引き返せと勧める声にも、ひきとどめられることがありません。

南无阿彌陀佛
504神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:13:58 ID:4nx3ElXD
>>501
対話が出来ぬのか?



505298:2008/03/09(日) 01:16:15 ID:IfNoBj1q
>>504
何が言いたいのか、よくわからないのです。
主張を書いて下さい。

コピペを繰り返していらっしゃいますが、
主張は何なのでしょうか。
506神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:18:33 ID:4nx3ElXD
>>502
>「特定の全国に数人」というのは、誰の説なのですか?
>あなた様は、何がやりたいのですか。

このスレを読む限り、
『法然から代々伝授された次第相承の善知識の面授を受けねば、信心を得ることが出来ない。』
と主張しているようにお見受けするが違うのか?
507298:2008/03/09(日) 01:19:22 ID:IfNoBj1q
>>504
そのコピペの内容に、私たちが該当しているといいたいのでしょうか?
それは、実際に尋ねてきた方々が、自らの見聞にて判断されることと
思います。

どのような組織でも、途中で変質する可能性がある以上、
他山の石として聞き流すことは、よくないことだと思いますけれども、
主張がよくわかりません。

読者の方が、あれこれ想像するのが意図なのですか?
508298:2008/03/09(日) 01:22:00 ID:IfNoBj1q
>>506
その言い方をもとにするならば、

「法然聖人から代々面授された次第相承の善知識から六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのむことによって、弥陀の真実信心をいただくことができる」

のような言い方がいいと思います。
509神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:26:56 ID:4nx3ElXD
>>508
ならば、

「法然聖人から代々面授された次第相承の善知識から六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのむことによって、弥陀の真実信心をいただくこともできるが、その他の方法も無数にあると思う。」

これには同意できるか?
510298:2008/03/09(日) 01:33:51 ID:IfNoBj1q
>>509
「その他の方法」というのは、「何の(ための)」方法ですか?
511神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:35:56 ID:Zwp1Fiy+
>>509
ないとは言い切れないじゃん、そんなの
こと信心に関してはワタクシゴトとして受けとらなければ意味がないよ。
512神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:38:20 ID:4nx3ElXD
>>509
何でもいいが、日本語が読めるのなら常識で判断せよ
513神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:39:50 ID:4nx3ElXD
>>512
アンカー訂正した

>>509>>510
514298:2008/03/09(日) 01:45:29 ID:IfNoBj1q
>>512
そういうことであれば、まじめな質問とは思えません。

滅度に至るためには、たくさんの方法があると思います。

次第相承の善知識に会うにしても、ひとりひとり、辿る道は違います。

そもそも、何のための質問であるのかも、わかりません。

一体、何を確認したいのでしょうか。

ご自身の求道につながらないなら、あまり意味が無いのではありませんか。
515神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:49:11 ID:4nx3ElXD
それではやはり

『法然から代々伝授された次第相承の善知識(?)の面授を受けねば、信心を得ることが出来ない。』

この主張が該当し、セクト主義であろう。

その評価は、一般社会(2ちゃんも含め)が判定し、

偽物は、はじめこそ派手だが、時とともに、メッキがはげ落ちることとなるだろう。

本物ならば、例えば、近代の次第相承の善知識の人物名をあげてみよ。
516298:2008/03/09(日) 01:50:39 ID:IfNoBj1q
>>515
その行為の意図を聞いています。
何の為に、そのようなことをしているのですか。
あなた様の求道に、どのように役立たれるのですか。
517298:2008/03/09(日) 01:55:14 ID:IfNoBj1q
>>515
まず、あなた様は、自身でセクト主義の属性を示す(?)コピペを
掲げておきながら、そのどの要素に該当するのか、
きちんと検討を行っていないと思います。

何が目的なのですか。

自身の後生のことは、考えていらっしゃいますか。

滅度は目指していらっしゃいますか。

もし、釈尊を奉じていない方であれば、
入り口は、七佛通戒偈であるはずです。

ご自身が信じ得る、仏道を歩まれてほしいと思います。
518神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:57:26 ID:4nx3ElXD
>>516
話をすり変えぬよう。
大切なのはサービス(慈愛)精神でおじゃるよ。
519神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 01:59:24 ID:4nx3ElXD
>>517
後生(オカルト)は、心配ご無用。
それよりも、仏法僧の誹謗はやめられよ。
520298:2008/03/09(日) 02:03:15 ID:IfNoBj1q
>>518
すり変えているとは、思いません。
もともと真宗の教えは、他派に対しても、語られぬものです。
仏教は、対機の教えです。
他の方にたいして説かれていることについて、
その内容を問うても、そこに意味を感じなければ、
私は答えようと思いません。

理解しようとしない方にたいして説いても、
受け取ってもらえませんし、
誤解されるなら、相手の方に苦しみを与えることになります。

また、サービス精神と、慈悲の心を育てることは、違います。

慈悲の心は、あくまでも、抜苦与楽であると思います。

私は、あなた様には、七佛通戒偈をおすすめしたいのです。

そして、慈悲心についても学び、
けちゃっぷさん等から、慈悲の瞑想なども学び、
実践してください。

仏教は、あらゆる方に対し、成果の出る道が準備されていると思います。
521298:2008/03/09(日) 02:08:44 ID:IfNoBj1q
>>519
>それよりも、仏法僧の誹謗はやめられよ。

おっしゃっていることの意味がわかりません。
何が誹謗に該当すると思われていらっしゃるのですか。

ひとりひとり、辿る道は異なるのです。

真宗は、たとえば、自らを罪深いと思い、
このような自分では救われぬと思う方に、
救いの道を示すものです。

このような教えを、必要としている方がいらっしゃいます。

そして、後生をオカルトと呼ぶ方は、信心を求めていらっしゃらないのですから、
私が話しかけている対象とは、違います。

私は、後生に一大事を感じ、弥陀に救われたいと思っている方に、
お話しています。
522298:2008/03/09(日) 02:11:14 ID:IfNoBj1q
弥陀に救われたいと思う方には、今の世にまで、
弥陀の救いが伝えられていることを、知ってほしいです。

そして、約束どおりの易行であり、
弥陀に救われることは、本当に簡単であることを、知ってほしいです。

これまでの罪の量に関わりなく、
弥陀は救ってくださることを、知ってほしいです。

真宗の教えは、求める方に、開かれている教えであることを、
知ってほしいです。
523笑いのマートル:2008/03/09(日) 02:12:06 ID:8w2Y+vUu
宿善が無ければ、いくらこちら側から問いかけても、
平行線を辿るだけだと思います。
298さんは、皆様の質問等に真摯に返事を書いていると思いますよ。
基地外に何を言っても無駄だと思います。
所詮基地外。
信心には、掟もあるし・・・
知りたければ、横柄な態度を取る前に腰を低くして尋ねるのが、
マナーだと思います。
人を見下す様な言い方をすると云う事は、
自分を上の人間だと思っている現われだと思います。
524神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 02:16:38 ID:4nx3ElXD
>>520
貴殿の善知識は三宝に帰依している仏教徒なのか?



525298:2008/03/09(日) 02:20:07 ID:IfNoBj1q
>>524
あなた様は、どうなのですか。
私は、真宗にて、信をいただきました。
あなた様は、仏教徒なのですか。
三宝を信じていらっしゃいますか。
526神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 02:23:16 ID:4nx3ElXD
>>523
貴殿の宗教では、基地外という不悪口が許されているのか?
おっと、罪悪深重の凡夫は、しかたがないのだったな。
527神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 02:31:43 ID:4nx3ElXD
>>525
どの真宗なのか?教えてけろ。

コピペ
浄土真宗本願寺派 真宗大谷派 真宗高田派
真宗興正派 真宗佛光寺派 真宗木辺派
真宗誠照寺派 真宗出雲路派 真宗三門徒派
真宗山元派 真宗浄興寺派 原始真宗 浄土真宗別格本山(単立)
弘願真宗 淨土真信宗浄光寺派(浄土真宗浄光寺派) 真宗北本願寺派
浄土真宗遣迎院派 浄土真宗東本願寺派(前・東京本願寺) 
本願寺維持財団 本願寺(大谷本願寺) 浄土真宗親鸞会
浄土真宗一の会 カヤカベ教 仏眼宗 真宗長生派 浄土真宗同朋教団
仏教真宗 門徒宗一味派 浄土真宗華光会 浄土真宗親鸞会

上記以外
528298:2008/03/09(日) 02:36:15 ID:IfNoBj1q
>>527
真宗には、どの真宗とか、あの真宗とかいうものはありません。
如法である以上、真宗は「ひとつ」です。
本当に知りたいなら、これまでの私の書き込みを、よく読んで下さい。

世間の組織と、法を混同していませんか?

そのような探し方では、法に至ることは困難であると思います。

どの派でもいいです。まずは、勘でもいいですから、ご自身で選び、
尋ね歩くことを始める事です。

とりあえず、近場から始めるのも、良いことだと思います。

自らの足で、尋ね歩いてください。

あるいは、インターネットを好むなら、メアドを公開しているお寺様を探し、
まずはメールにて尋ねることもできるでしょう。

行動して下さい。
529298:2008/03/09(日) 02:41:09 ID:IfNoBj1q
他の過ちを探し、文句を言う気持ちを出しては、
心が汚れてしまいます。
過ちを取り除き、苦しみを取ろうとしても、
自らが間違えている可能性が残ります。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀様の救いです。
阿弥陀仏が清浄である故に、
私が凡夫でも、お手引きした方も救われます。
南无阿彌陀佛
530神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 02:46:12 ID:4nx3ElXD
>>528
何故真宗?本流の浄土宗では駄目?

531298:2008/03/09(日) 02:47:06 ID:IfNoBj1q
「怒りは慈しみで消せ」という教えがあると思います。
怒りの火は、慈しみの水によって消えるからです。
私の心には、無明の闇がありました。
闇は、光によって消えます。
弥陀の光に、闇を消していただき、明るくしていただきました。
光はとどまってくださいます。
532298:2008/03/09(日) 02:48:24 ID:IfNoBj1q
>>530
真宗は浄土宗です。これまでの私の書き込みを、よく読んでください。
533神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 02:58:36 ID:4nx3ElXD
>>532
真宗や浄土宗というのは、団体のことではなく、

法然の教えを信仰している、個々人のことをいうのであれば、

何故、『特定の善知識から教えを受けねばならない』というような団体の狭い視野(セクト)で語っているのか?

無数に存在する浄土宗真宗の僧侶門徒の信仰を理解しているのか?




534神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 03:11:08 ID:4nx3ElXD
「私の信仰は真宗の本流です。その他は偽者。善知識の面授にて必ず浄土往生できます。探してください。」

などと放言するのなら、

その善知識の連絡先か著書、HPぐらい紹介するのが世間の常識というもの。
535笑いのマートル:2008/03/09(日) 03:51:11 ID:8w2Y+vUu
>534
五文章にも、自分で探せと書いてあったと思いますが・・・
信じていない人にむやみやたらに紹介など出来ません。
紹介された方がとんでもない迷惑を被りかねません。
ココは、公の場です。
阿弥陀仏に頭を下げられる心のある人でなければ、
こちらも安心して紹介など出来ません。
横柄な方に紹介をして失礼があっては困ります。
本気で信心を得たいとお考えの方にしかお教えできません。
536神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 07:07:48 ID:oISEhHqk
「探してください」といわれてもそんなグループ知ってる人いないよ。
ここに書き込んで質問してた人のなかにも
「自分の師に尋ねたけど、そういうものは知らないといわれた」って人いたし。

「探したりないだけ」「後生解決の熱意がない」→「宿善が無い!」って言うんだろうけどね。
537神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 08:26:58 ID:l6jzfp87
>>462
>それでは、たのまなくても心配いらないのかな?

「たのむこころのない私だった」、「その私のために、たのむこころまでも成就してくださったのが
阿弥陀仏だった」、と知らされたときが信心決定です。
信心が決定していなければ、心配は必要です。

>>464
>「素直にハイ」というのは、どういうことですか?

信心決定までは、いくらご本願を聞いていても、私がめあてとは思っていません。
関係ない、とよそを向いています。だから、「我にまかせよ、かならず助ける」の
阿弥陀仏のお呼び声に、そのまま「ハイ」と答えることができません。

「いくらそのままとおっしゃっても、正しいたのみ方でたのまなければだめだろう」と
思っているすがたが、それです。


「正しいたのみ方」を探すことも、「百発百中信心決定させてくれる人」を探すことも要りません。
必要なのはただ一つ、阿弥陀仏の必ず助けるのお誓いを、そのままに頂くことです。
538神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 08:45:32 ID:l6jzfp87
「そのまま来い」のそのままがわからず、なんとか、はっきりした形でわかりたいと思う方が、
「この人に教わればよいのだ」「このたのみ方ならよいのだ」と、安心したいと思うのは当然です。
信心決定前は、誰もがそうです。

けれど「この人に教わったから」「このたのみ方でたのんだから」大丈夫だ、と
思うのは、自力の安心に腰を据えているのです。
真剣に、必死に阿弥陀仏の救いを求めるひとこそ、陥りやすい、
自力のこころが作る罠、自分でつくって自分で落ちる罠です。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏がわたしたち一人一人に、じかに渡してくだされる、
仏様の大功徳のおさめられたお宝です。
「必ず信心決定させる」という人を探すよりも、
「必ずそのまま救う」と誓われている、阿弥陀仏のお呼び声一つを聞くこと。
それ以外には、要りません。
539神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 09:20:55 ID:4nx3ElXD
>>535
故人の善知識の著書ぐらい紹介しても迷惑はかかるまい。
540神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 09:55:15 ID:oISEhHqk
>>537-538
ありがとうございます。
541神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 11:07:47 ID:iCaWb9nO
>>537
>「たのむこころのない私だった」、「その私のために、たのむこころまでも成就してくださったのが
>阿弥陀仏だった」、と知らされたときが信心決定です。
>信心が決定していなければ、心配は必要です。

「知らされたとき」というのが、凡夫の妄念かそうでないかを、どうやって見極めたらよいのですか?
542神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 11:14:18 ID:73GO1xqE
>>541 阿弥陀仏信仰自体が妄念。
妄念をもって妄念を慰めているだけだから、気にするな。
妄念を本当に克服したいなら、聖道門へ行け。
543298:2008/03/09(日) 14:29:17 ID:3ZZQavEa
誤った考えで心が一杯の人は、決して悲しみから自由になることができません。
その誤りを、少しずつ検討し、修正する方法があります。
五戒を守ることから実践をはじめるべきです。
戒によって強められ、以前とは異なる力を得ます。
誤りが多過ぎて、どうにもならないと思う方も、
小さな一歩を重ねる方法があります。
弥陀は徳を積み、廻向によって一気に救い摂る方法を成就しています。
その価値がわかる方は、探されることでしょう。
弥陀も諸菩薩も、浄土から見ています。
探す方を、打ち捨てることはありません。
必ず導かれ、その導かれた経験が、後念相続の役に立つことでしょう。
気になる方は、探してください。探しているうちに、求めているかもわかります。
出会いがあり、新しい情報に触れることにより、考え方に影響があり、
次第に導かれてゆくはずです。
何年かかるかもわかりません。永劫の流転と比べれば、一瞬のことです。
南无阿彌陀佛
544神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 14:39:28 ID:iCaWb9nO
阿弥陀仏のお呼び声、とはどういうのだろうか・・・
545298:2008/03/09(日) 14:42:38 ID:3ZZQavEa
>>539
そのために、真宗聖典があるでしょう。

>>537
>「いくらそのままとおっしゃっても、正しいたのみ方でたのまなければだめだろう」と
>思っているすがたが、それです。

その身、その心のままで、正しいたのみ方で弥陀をたのむのです。
そして、正しいたのみ方でなければ、ダメです。

その証拠に、如来から信をいただけないでしょう。

求めても、カラ回りする感覚があるのではありませんか。

◎しかるに称名憶念することあれども、
無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、
実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。
いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。
いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり(教行信証)

称名憶念しても、信を獲ることできないなら、
それは、「実のごとく修行せざると、名義と相応せざる」が理由です。

そして、その理由は、如来は実相身であり、そして、為物身であると知らないからなのです。

537様は、如来が為物身であると、知っていらっしゃいますか?

そして、信を求めていらっしゃいますか。後生を信じていらっしゃいますか。

仏法は、あらゆる方を変えてゆきます。後生を信じているなら、
それがスタートになるでしょう。
546298:2008/03/09(日) 14:46:25 ID:3ZZQavEa
>>544
阿弥陀仏のお呼び声というのは、この宇宙にも、満ち満ちているのです。
「極楽浄土に来てください」という弥陀からの招待の声です。
私たちは、招かれています。
しかし、因果の理法がありますので、それを、私たちの側から、
受け入れなくてはなりません。
それを「うなずく」のように表現致します。
このうなずき方も、教えていただけます。

この弥陀の声は、智慧であり、私たちの無明を、一瞬にて晴らす力が
あります。

南无阿彌陀佛
547渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/09(日) 14:46:37 ID:XELzYQi5
>543
> 五戒を守ることから実践をはじめるべきです。

 浄土真宗を隠れ蓑にして、どこの誰の宗教を教えようとして
いるんだい? (苦笑)。

>545
> そのために、真宗聖典があるでしょう。

 真宗聖典の教えとは、大きくずれているだろう。
548298:2008/03/09(日) 15:00:06 ID:3ZZQavEa
>>547
弥陀をたのめとわからぬ方に勧めても、その方がその方向に進まないならば、
むしろ害悪を為すことになります。あくまでも、仏教は、対機です。
そして、そのような方に善行を説くことは、有用です。仏道の価値を知るでしょう。
弥陀をたのまぬならば、善行を心がけるべきです。
何をしても良いからと、弥陀をたのまず、ただ放逸になられたとしたら、
その方は、さらなる苦しみを生むことになります。
第十九願、第二十願にも、意味があります。
そもそも、宿善の機には、善心もあるのです。
文字通りの悪心しかなければ、救いを探すこともなければ、
法に頭が下がることもありません。
好んで悪を為す方も、弥陀をたのめません。弥陀をたのむ気分にならないからです。
いわゆる三学の戒定慧とは違いますが、私は、この順序を感じます。
戒によって守られ、定というのは、自力の心を打ち捨て、一心に弥陀をたのみ、
慧とは、弥陀の智慧光により、無明の闇を晴らします。
この闇が晴れたことにより、新しい因果がはじまり、滅度に至ります。
549神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 15:14:49 ID:U2xVcZod
>>544
フォーーーーー

とかいっているはず
550298:2008/03/09(日) 15:14:52 ID:3ZZQavEa
>>547
他流を勧めることは、医師間の関係にも似ています。
病の状況により、他の専門医が適切と思えば、紹介状を書いたりするでしょう。
患者が増えることが、医師の繁昌ではありません。
治癒される方が増えることが、繁昌です。

仏法を語る団体も、患者を増やすことを誇るところもあるでしょう。

私たちは、あくまでも、治癒を目的とするべきなのです。

自らを治し、その上で、他を治します。

三毒におかされ、悪行ばかりを為す身になってしまいました。
まず、それをいずれかの場所で、治癒することです。

五戒も、不造十惡業も、正しい方向を向くために、役に立ちます。

南无阿彌陀佛
551神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 15:19:12 ID:iCaWb9nO
298さんのおっしゃる弥陀の呼び声、を聞くときには、宿善、善知識、光明、信心、名号が
同時に全部揃っているのが条件のようですね。
>538さんの場合には、五重の義が必ずしも同時でなくてもよいようにも読めますね。

・・ちょっと御文章、読んでみよっと。
552298:2008/03/09(日) 15:26:33 ID:3ZZQavEa
>>551
>298さんのおっしゃる弥陀の呼び声、を聞くときには、宿善、善知識、光明、信心、名号が
>同時に全部揃っているのが条件のようですね。

「同時」というのは、素晴しい洞察だと思います。
私は、「時間的順序」をにおわせた書き込みしかしていないと思います。

ここにも顕彰があり、五重の義は、時間的順序でもあり、同時に成就するものでもあります。

南无阿彌陀佛
553神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 15:39:55 ID:4l9U3Por
>>542
やっぱりそうなのでしょうか。妄念をもって妄念を慰める・・・
聖道門で少しずつ進むほうがよいのでしょうか。
554神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 15:43:27 ID:4l9U3Por
まあ、もともと仏というのは悟った人という意味ですからね。
いくら救われないといっても、やはり聖道門で漸進していく、
その過程にこそ意味がある・・・という言い方も出来るのかもしれません。
555298:2008/03/09(日) 16:11:52 ID:3ZZQavEa
>>553, 554
漸教にも、もちろん、意味があると思います。
聖道門にも、浄土門にも、このどちらにも、
「自力の信に凝り固まる」ワナがあると思います。
いずれの道をゆくにせよ、ひとりのしのぎであることに変わりはなく、
大慈悲心のはたらきを受けながら、進むのであると思います。
556298:2008/03/09(日) 16:19:24 ID:3ZZQavEa
>>541
>「知らされたとき」というのが、凡夫の妄念かそうでないかを、どうやって見極めたらよいのですか?

まず第一に、領解文と領解が合うことです。
さらに、御文様とも領解を合わせ、次第に、お聖教全体にまで、
領解を合わせることを進めてゆくことだと思います。

もちろん、わからない点は残りますけれども、信前とは、お聖教のわかり方が違うことにより、
主観的な納得は形成されるでしょう。(完全に納得することは、おそらくできないだろうと
思います。人の納得には、多く閾値があり、ある程度以上の納得が得られれば、
多くの方にとっては、落ち着くものです。)

そして、自身にはたらく真実信心のはたらきを、少しずつ、
感じるときが出て来るだろうと思います。

囲繞を感じることも、あるかもしれません。

常行大悲の益は、わかりやすいと思います。

御恩報謝のお念仏により、心境に変化も感じられて来ると思います。

信を獲った直後に、「ああ、ありがたい」という感慨も、多くの方には、
出るだろうと思います。

南无阿彌陀佛
557298:2008/03/09(日) 16:28:36 ID:3ZZQavEa
>>538
>「必ず信心決定させる」という人を探すよりも、
>「必ずそのまま救う」と誓われている、阿弥陀仏のお呼び声一つを聞くこと。
>それ以外には、要りません。

◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文1-11)

「他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定(せよ)」と
あります。

「次第」を知っている方です。あくまでも「ひと」です。

◎他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)

ここでも、「人」にたずねよ、とあります。

◎さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、
真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。これまことにあさましき執心なり(御文3-8)

自分の何が間違っているのかを「人」にたずねよ、とあります。
558298:2008/03/09(日) 16:32:51 ID:3ZZQavEa
◎信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて
他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文4-7)

>>557で引いたところでは、「ねんごろに」「あながちに」。
ここでは、「いくたびもいくたびも」。

ちょっと聞くだけでは、聞く側に誤解もあるでしょうし、
話す側も、心を開いて話してはくださらないでしょう。

だからこその、「なんごろに」「あながちに」「いくたびもいくたびも」であると思います。

重い戸を押し開くまで、たずねるべきであると思います。

「信心をえたるとほり」を聞くのですから、これは、獲信者に聞くのだと思います。
559298:2008/03/09(日) 16:35:04 ID:3ZZQavEa
>>558
なんごろに → ねんごろに
560神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 16:55:43 ID:4nx3ElXD
蓮如 (1415 - 1499)中興の祖とされる
実如 (1458 - 1525)
証如 (1516 - 1554)
顕如 (1543 - 1592)戦国時代に織田信長などと対立
准如 (1577 - 1630)東西本願寺に分立
良如 (1612 - 1662)
寂如 (1651 - 1725)
住如 (1673 - 1739)
湛如 (1716 - 1741)
法如 (1707 - 1789)
文如 (1744 - 1799)
本如 (1778 - 1826)
広如 (1798 - 1871)
明如 (1850 - 1903)海外開教を実施
鏡如 (1876 - 1948)大谷探検隊を派遣
勝如 (1911 - 2002)
即如 (1945 - )現門主

蓮如以降、どの代で、次第相承の善知識が途絶えたのか?まさか実如から?
561298:2008/03/09(日) 16:57:07 ID:3ZZQavEa
仏陀の説かれた教えは、あらゆる人にとって、ためになるものです。
浄土門の教えも、弥陀をたのまぬ人には意味がないかと言えば、
そんなことはありません。
法蔵菩薩は、私たちのためにご修行くださいました。
その修行の間、清浄でない念を出したことは、一度もないのです。
このように聞けば、慈悲のイメージを、わずかながらも、知ることができます。
私たちは、これを単なる物語とは捉えませんが、
そのような気分で聞いていると思っている方も、
苦しまれたときに、「阿弥陀さま」と心を向けるかもしれません。
そのような行為を、阿弥陀さまは、観てくださっています。
そして、救いへと導き、必ず救い摂ってくださいます。

また、大経を読めば、今生の状態は、過去の因によるのだということも、
書いてあります。

ですから、幸福を求める方は、善行を心がけようと思うでしょう。
562298:2008/03/09(日) 16:59:11 ID:3ZZQavEa
>>560
どのような興味から、そのようなことを知りたがるのか、
よくご自身の心を観て下さい。
その心が、ご自身を幸せにするものなのかどうか、
仏教の教えに照らして、考えていただけたらと思います。

あくまでも、ご自身を幸せにすることを考えてほしいと思います。

あなた様がやられていることは、悪口の勧めに該当する可能性が
高いと思います。
563298:2008/03/09(日) 17:06:34 ID:3ZZQavEa
仏の教えを聞く方は、まずご自身をしあわせにすることだと思います。
それこそが、仏の望みであると思うからです。

そして、しあわせな方は、まわりの方をしあわせにします。

不幸な方は、まわりの方の不幸を望みます。
ですから、まず、しあわせでなければなりません。

不幸であれば、毒をまき散らして生きることになります。

このような自分を嫌悪する方は、良き方向へ、一歩を踏み出したことになります。

しかし、嫌悪と言っても、嫌悪心を出しては、また心が汚れてしまいます。

では、どうすれば良いかと言えば、あくまでも、
しあわせを願うことになると思います。

すべての生命のしあわせを願われた、阿弥陀如来のみ心を思うとき、
私たちは、大慈悲心を観じようとしているのです。

如来を目指し、自らを進める方も尊いですし、
如来を信じ、如来に救われる方も尊いです。

菩提の道を歩む仲間であることに、変わりはありません。

ひとりひとりが、自らをしあわせにすることが、大切であると思います。

南无阿彌陀佛
564298:2008/03/09(日) 17:15:24 ID:3ZZQavEa
ことばというのは、伝達のためのものですから、
受け取った方が、どのような意味を感じるかが大切です。
それにより、対機になると思います。
南无阿彌陀佛
565298:2008/03/09(日) 18:33:55 ID:3ZZQavEa
>>551
御文様を、素直に読んでゆけば、必ずわかってくることがあると思います。
古文の読解に難がある方(私もそうです)も、
あくまでも原典を読み、辞書を引くことにより、次第に読みやすくなってくるのでは
ないかと思います。
現代語訳を読まれる場合も、「あれ?」と思う箇所があれば、
原典を確認しながら、読むのが良いことだと思います。
私も、いずれ、現代語訳をHP等で発表してゆきたいと思います。
御同行の意見も取り入れながら改訂してゆきたいと思っております。
566298:2008/03/09(日) 18:41:22 ID:3ZZQavEa
>>547
私が身近な方にお話するときに、一番多いパターンは、
「考え方」としてお話することです。
この場合は、仏教として話さないことも多いのです。
これは、なぜかと言えば、あくまでも、その方にとって、受け入れることができるだろう
範囲で話すことが良いと考えるからです。
そして、何を話しても、その先には、六字が指し示されているように、
話すことを心がけようとしております。

「考え方」として話すこともあり、仏教としてのお話をすることもあり、
真宗としてのお話をすることもあります。

そして、誰もがすぐに救われる道こそが、難信であるのです。

どのような方が目の前にいらっしゃるかは、
その時々によるのですから、あくまでも、目の前の方のために、
お話するのが良いのではないでしょうか。
567298:2008/03/09(日) 18:51:04 ID:3ZZQavEa
しあわせになるために、しあわせになるための覚悟が必要だと思います。
それこそが菩提心であると思います。
それでも、そのような菩提心を形成することができません。
これは、自己観察です。
仏道に限らず、どの分野でも、同じことをやろうとしても、
達成する方と、そうでない方が出てきます。
それは、過去生を含めました、それまでの、その方の行為によるのだと思います。
私の場合は、しあわせになる気持ちを堅固にしようとしても、
それに十分に守られることができず、
三毒に翻弄される自らが見えて参りました。
放っておけば、わがままになるばかり、向きを変えることもできず、
どうにもならない自分であったと思います。
今は信をいただきまして、南無阿弥陀仏を体とする信心がございますので、
凡夫の迷心だけではございません。
仏道は、いずれにしても死を超えることができるのですから、
どの道でも、自らに合う道を進まれることが良いことだと思います。

南无阿彌陀佛
568神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 21:39:30 ID:l6jzfp87
>>541
>「知らされたとき」というのが、凡夫の妄念かそうでないかを、どうやって見極めたらよいのですか?

今、人生で、一番確実だと思っていることは何でしょうか。
阿弥陀仏の本願が、そのものの(比べるべくもないのですが、例えば)、一万倍どころじゃなく、
1不可思議倍…確実なことになります。

本当に拙いたとえですが、「私は1+1は2であると思っている」というのは不自然なように、
阿弥陀仏に救われたことが、もはや言うこともいらない(言うまでもない)、自明のことになります。

>>544
>阿弥陀仏のお呼び声、とはどういうのだろうか・・・

そのまま来い、必ず助ける。
南無阿弥陀仏。

569神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 21:39:54 ID:l6jzfp87
>>545
私の後生を心配して頂いて、本当にありがとうございます。
298さんの後生は、本当に本当に、大丈夫ですか?

>求めても、カラ回りする感覚があるのではありませんか。

から回りする感覚こそ大切です。生死流転する姿そのものだからです。だからこそ、
「これでは空回りだ、正しくたのまなければ」も、
「やっと正しくたのめた、これで大丈夫」も、
自力かなわず流転している姿です。

>そして、正しいたのみ方でなければ、ダメです。
>その証拠に、如来から信をいただけないでしょう。

いいえ。それは誤りです。

阿弥陀仏のご本願ひとつを聞き開くことが、信心決定です。

五重の義で言われる善知識は、その直前にあるとおり、
  「そもそも善知識の能というは、『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と、
  ひとをすすむべきばかりなり。」
です。
570神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 22:20:43 ID:BvHizBgj
298さんのお話を聞く 自力
親鸞のやった念仏を称えてみる 他力

これでいかがでしょう。
571神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 22:23:55 ID:l6jzfp87
ただいまこのときも、調熟の光明は、すべてのひとを育ててくださっている。
ものすごい本願力で、すべての衆生を、十八願へと導き入れてくださいます。

なればこそ、たとえ今どんなに空回りしていると感じても、宿善が熟して、
摂取の光明におさめとられ、無碍の一道に出させて頂くときが、必ずあります。
久遠劫の昔からお呼びづめでいてくださる、
生きた阿弥陀仏の御懐に抱き摂られ、仏も喜び、我も喜び、
南無阿弥陀仏と御恩報謝のお念仏を称えさせて頂ける時が、必ずきます。

「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」

一向専念無量寿仏。
必ず、救って頂けます。
572笑いのマートル:2008/03/09(日) 22:24:34 ID:8w2Y+vUu
この世は、全て自分の思い込みの世界だと思いますよ。
こうあるべきだなんて、時代と共に、
年月と共に変化して行くものでしょう。
この世は、無常だらけですね。
この間テレビでのろまな人を
英語で氷河のようだと喩えると言っていたけれど、
動いていないような氷河ですら無常なんだと思いました。
これが最後のチャンスと心が動いてくれると良いんですがね。
人間は、まだまだ生きられる、まだ死なないと思っている。
でも、いつかは死ぬ。
死期を知らされていないだけで、今日とも明日とも知らぬ身なればこそ、
急いで善友を探し、善知識の下で一念帰命して欲しいものです。
ご信心に必要なのは、この身ひとつ、あとは、何の用意もありません。
信じられる人だけでいい・・・
ふと思う事があれば、行動に移す事でしょう。
573神も仏も名無しさん:2008/03/09(日) 22:43:25 ID:uLz4HDuR
創価学会の魔界連鎖は何時まで続くのか?
私は現実に創価学会の悪意を体験し続けています。
私に売春を強要し、毎日毎日ウインクを繰り返し、私を苦しめて来た変態創価婆さんもいます。
私にふられた腹いせに、偽りに満ちた狂言・悪口・策略を繰り返しています。
哀れです。
また、 暴言を楽しむ狂気の婆さんもいます。

過去に、自滅して退職した狂気の池田狂信者もいました。
(一般創価学会員も多数います)
人格攻撃目的の工作員でした。
笑顔で近寄り、頃合を見て創価得意の「攻撃」の後は、「反撃」すると「被害者」を装うお決まりのパターン。
わかり易いカルト攻撃。
うんざりだが面白い。
問題の創価魔女ばあさんは地元でPTAの役員をしている模様。
創価の好きな戦術です。
地域が汚染されて行くのが悲しい・・・^^^
きりがありません。
創価学会の集団的悪意。
集団的ストーカー行為は長年の事。
バイオハザード。
狂気の新興宗教です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www3.ezbbs.net/15/momo7/
創価は「危険な組織」
フランス・チリ・ベルギー・オーストリア・ドイツ・アメリカ議会下院等がそう指定しています。
納得出来ます。
これが現実。
574298:2008/03/09(日) 23:20:42 ID:3ZZQavEa
>>569
>>そして、正しいたのみ方でなければ、ダメです。
>>その証拠に、如来から信をいただけないでしょう。
>いいえ。それは誤りです。
>阿弥陀仏のご本願ひとつを聞き開くことが、信心決定です。

「聞き開く」のは、何でしょうか。

◎平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、
宿善の開発によるがゆゑなり(御文1-4)

ここでは、「ことわり」となっています。そして、それは「宿善の開発による」のです。

「本願をききひらく」のではなく、「本願のわれらをたすけたまふことわり」を
ききひらくのです。


◎善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

ここでは、「六つの字のいはれ」をよくききひらくことになっています。

そして、私からすれば、「六つの字のいはれ」とは、「本願のわれらをたすけたまふことわり」です。

善知識は、これを伝えてくださいます。
575298:2008/03/09(日) 23:24:13 ID:3ZZQavEa
>>569
>>そして、正しいたのみ方でなければ、ダメです。
>>その証拠に、如来から信をいただけないでしょう。
>いいえ。それは誤りです。
>阿弥陀仏のご本願ひとつを聞き開くことが、信心決定です。

既に>>545にて引きましたが、

◎しかるに称名憶念することあれども、
無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、
実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり(教行信証)

不如実修行であったり、名義不相応であるならば、
称名憶念しても(したつもりでも)、信をいただけないのです。

したがって、如実修行であり、名義相応である称名を為さねばなりません。

御本典にもこのように示されているのに、
なぜ、否定なさるのですか。
576298:2008/03/09(日) 23:32:07 ID:3ZZQavEa
>>569
>五重の義で言われる善知識は、その直前にあるとおり、
>  「そもそも善知識の能というは、『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と、
>  ひとをすすむべきばかりなり。」
>です。

これだけでは、説明として、不足です。
では、569様のお考えでは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
このセリフで人に勧めるならば、皆、善知識になるのですか。

それが、五重の義の善知識ということになるのでしょうか。

私の考えでは、違います。

お話をお聞きになっている方が、

「では、一向一心に弥陀に帰命するには、どうすればよいのですか?」

とご質問くださいましたときに、明快な答を持っている方です。

わかったような、わからぬような話をする方ではありません。

世間難信の捷径、極速円融の白道をお示しくださる方です。
577298:2008/03/09(日) 23:38:05 ID:3ZZQavEa
>>659
>298さんの後生は、本当に本当に、大丈夫ですか?

本当に大丈夫かと問われれば、わからないと申す他はありません。
わからぬままで、安心するのです。


>から回りする感覚こそ大切です。生死流転する姿そのものだからです。だからこそ、
>「これでは空回りだ、正しくたのまなければ」も、
>「やっと正しくたのめた、これで大丈夫」も、
>自力かなわず流転している姿です。

ここは、よく意味がわかりませんでした。
から回りする感覚があるのであれば、納得する場所を求めて、
さらに探すべきであると思います。

もちろん、から回りをするのを良しとする方は、
その場所にとどまって、から回りを続けるのでしょうが、
何のために、求道なさっているのでしょうか。

後生の一大事を感じながら、
から回りを良しとする考えは、よくわかりません。

ですから、私から見れば、
659様は、後生のことを、たいして気にしていないのだと思います。

気にかけている方は、探すだろうと思います。

「やっと正しくたのめた、これで大丈夫」は、それが適切であるならば、
流転を抜けるすがたでしょう。
578298:2008/03/09(日) 23:38:49 ID:3ZZQavEa
>>577
659 → >>569
579298:2008/03/09(日) 23:39:58 ID:3ZZQavEa
>>569
>>そして、正しいたのみ方でなければ、ダメです。
>>その証拠に、如来から信をいただけないでしょう。
>いいえ。それは誤りです。

なぜ、誤りなのでしょうか。
正しいたのみ方こそが、肝要です。
それこそが、南无阿彌陀佛であるからです。
580298:2008/03/09(日) 23:42:38 ID:3ZZQavEa
何に説得力を感じるかということも、
結局は宿善ですし、
後生が気になるかどうかも、結局は、宿善です。

後生が気になる方は、めったにいないのでしょうし、
後生が気になっても、「では、どうするか?」は、
ひとそれぞれだと思います。

私が書いているようなことに、真実があるのではと感じる方は、
探されれば、きちんと法脈に出会えるはずです。
581神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 00:52:34 ID:Ab42Dxoa
>>576
>では、569様のお考えでは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
>このセリフで人に勧めるならば、皆、善知識になるのですか。

これは、私の考えと言うより、298さんが一番参考にされている御文章の仰せです。
貴方の考えがそれと違うとしたら、それは貴方の、独自の解釈ですね。

>>574
これは、信前と信後のお念仏のすがたを言われたものでしょうか。
信前、信後の念仏の違いを示されたものなら、別に否定はしておりません。

>>577
>から回りする感覚こそ大切です。生死流転する姿そのものだからです。

といったのは、生死流転から抜け出すことは、自力ではかなわぬことだからです。
「正しいたのみ方でたのむ」は、自力で抜け出そうと言うことなのですから、
それは「かなわぬ」ことですよ、と言ったのです。

298さんは「自力かなわで流転せり」が、ご自分のことになっていないのですか?

>>579
>なぜ、誤りなのでしょうか。
>正しいたのみ方こそが、肝要です。

「正しいたのみ方をすればたのめる我らだ」と思っているのが誤りです。それは、まだ自分が
見えていないのです。機の深信がない姿であり、つまり信心決定していないすがたです。
582298:2008/03/10(月) 00:59:19 ID:+0XaDUsc
>>581
>>では、569様のお考えでは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、
>>このセリフで人に勧めるならば、皆、善知識になるのですか。
>これは、私の考えと言うより、298さんが一番参考にされている御文章の仰せです。
>貴方の考えがそれと違うとしたら、それは貴方の、独自の解釈ですね。

あいまいな言い方をなさいますね。
では、581様は、

「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、このセリフで人に勧めるならば、
皆、五重の義の善知識になる

とおっしゃるわけですか。

やはり、まじめに議論されている方とは思えません。

それでありながら、581様には、教えをいただいている善知識様が
いらっしゃるわけでしょう。

解せません。

「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とはどういうことか、その内容について、
語っているはずだからです。

581様が教えをいただいている善知識が、
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」というセリフを
ただ繰り返しているというのは、おかしいと思います。
583298:2008/03/10(月) 01:01:14 ID:+0XaDUsc
>>581
>「正しいたのみ方をすればたのめる我らだ」と思っているのが誤りです。それは、まだ自分が
>見えていないのです。機の深信がない姿であり、つまり信心決定していないすがたです。

この主張が繰り返されていますが、典拠はあるのですか。

如実修行相応の称名をすれば、良いのではありませんか。

では、「我一心」というのは、
「機の深信がない姿であり、つまり信心決定していないすがた」であるわけですか?
584298:2008/03/10(月) 01:02:53 ID:+0XaDUsc
>>581
>といったのは、生死流転から抜け出すことは、自力ではかなわぬことだからです。
>「正しいたのみ方でたのむ」は、自力で抜け出そうと言うことなのですから、
>それは「かなわぬ」ことですよ、と言ったのです。

正しいたのみ方であれば、他力の信をいただけるでしょう?
他力の信がいただけないなら、正しくありませんよ。

「正しいたのみ方が存在しない」という議論ですか?
585298:2008/03/10(月) 02:27:19 ID:+0XaDUsc
◎みな人ごとにわれはよく心得たりと思ひて、さらに法義にそむくとほりをも
あながちに人にあひたづねて、真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。
これまことにあさましき執心なり。すみやかにこの心を改悔懺悔して、
当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、
まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへらんにことならんものか(御文3-8)

もし、信心獲得がまだであるならば、「すみやかに」とありますように、何が違うのかを、
よく尋ねて、信を獲るべきであると思います。

◎あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、
信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり(御文4-15)

信心決定は、短い期間の間にも、十分にできるものです。
586298:2008/03/10(月) 02:33:52 ID:+0XaDUsc
この地上世界には、仏法が伝わっています。
日本は、大乗相応の地、凡夫がいとも簡単に救われてしまう、
弥陀の法が伝わっています。
私の心には、弥陀の真実信心があります。
弥陀をたのめたのは、人身をいただいたからです。
人身をいただけたのは、両親のおかげです。
本当に、うれしく、ありがたいことです。
587298:2008/03/10(月) 02:46:07 ID:+0XaDUsc
腹が立つとき、その多くは、何かが「自分の思い通りにならない」のだと
思います。
だから、それは、阿弥陀様におまかせです。南無阿弥陀仏。
588298:2008/03/10(月) 03:10:50 ID:+0XaDUsc
この信が批判されるのは、阿弥陀様におまかせというところから、
責任放棄と見え、自ら、自らの人生を良くしようと努力するように
見えないことにあるのだと思います。

しかし、

◎まづ開山聖人の定めおかれし御掟のむねをよく存知すべし。
その御ことばにいはく、「たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者とみゆるやうに
振舞ふべからず。また外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、
内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろに仰せ定め
おかれしところに(御文3-11)

とあるのですから、それは御開山の本意ではないと思います。

信をいただいたからこそ、
「外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし」
そして、それができるのは、信をいただいたからなのだと思います。

内心には、信心。そして、外相には、仏法者と見えるのではなく、
仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とする。

これこそが、うつくしき念仏者のすがたであると思い、
わたしも、そのように心がけたく思っております。
589298:2008/03/10(月) 03:21:01 ID:+0XaDUsc
信を獲っていない方を、「かわいそうな方だ」と観る考え方について、
聞いたことがあります。

しかし、阿弥陀様が、命をかけて修行してくださったのは、その方のためです。

なんとかして救いたいと、永劫の時間をかけて、
御修行くださいました。

今では成就して、西方極楽浄土にいらっしゃいます。

阿弥陀様を仰ぐ私たちとしては、「何とか、救われてほしい」と思うことが、
弥陀のみ心にかなうことだと思いますし、みなさま、そう思われることと思います。

これは、抜苦与楽の心だと思います。

ところが、救われてほしいあまりに、相手の方を苦しめてしまうのでは、
本末転倒だと思います。

まず、小さな苦を抜くことを心がける。
そして、小さなよろこびを与えることを心がける。

そうした行為をつづけるうちに、
信頼関係も生まれ、弥陀をたのんでくださる方も出るのであろうと思います。

大きな苦を抜き、大きなよろこびを与えるのは、
弥陀にしかできません。

しかし、小さな苦を抜き、小さなよろこびを与えることは、
私たちにもできると思います。

そしてそれが、弥陀の救いにつながるならば、大きな苦を抜き、大きなよろこびを
与えたことになるのだと思います。
590298:2008/03/10(月) 03:28:29 ID:+0XaDUsc
同じような考え方に、

「弥陀の救いは、大きなよろこびであるのだから、
それを得てもらうためには、小さな苦しみを与えても良い」

という考え方があります。

私は、この考え方も、おかしいと思います。

釈尊の教えは、はじめから、終わりまで、良いもののはずです。

はじめが苦しくて、最後になって、やっと良くなるようなものは、
偽物です。

そして、はじめが苦しいようなものは、結局、最後まで苦しいままだと思います。

だまされて、苦しい道を歩みます。しあわせな道に、乗り換えねばなりません。

釈尊の教えといいながら、脅しを含むものが多いように思います。

釈尊が、脅しで信仰に導くとは、私は思えません。

小さな苦しみこそ、大切にするべきものだと思います。

その小さな苦しみを抜こうとしているのに、相手を苦しめてしまうのは、
凡夫だからです。それでも、相手の方の、小さな苦しみをも抜いてあげようと、
気を遣うことが大切であると思います。

小さな苦しみも大切にして、それも、抜いてあげようとすることであると思います。

小さな苦しみも抜けないのに、大きな苦しみが抜けるというのは、
おかしなことですし、説得力もないことだと思います。
591298:2008/03/10(月) 03:32:49 ID:+0XaDUsc
真宗では、地獄を説きます。

これが、脅しであると受け取られることが多いのです。

そして、実際に、地獄の話で脅す方がいます。

そのような方こそが、地獄行きだと知らねばなりません。

脅すのではなく、なんとかして、救おうとするべきです。

地獄行きとも知らずして、ただ救われるなら、それが一番良いのです。

そして、救われた後に、「実は地獄行きだったんですよ」と教えるなら、
「ああ、そうだったんですか、それは良かった」というお話にも、なるでしょう。
592298:2008/03/10(月) 03:40:45 ID:+0XaDUsc
自分が救われて、地獄行きから救われたとします。

世間を見てみると、同じく地獄に行きそうな方が多い。

もちろん、中には、天界に行きそうな、素晴しい方もいます。

ところが、地獄に行きそうな方が多く、
そして、そのような方々は、後生を気にしないどころか、
今、身の回りにいる、身近な方のことも、気にしません。

決して、地獄に堕ちてほしいわけではなく、
できれば、往生治定してほしいですけれども、
今生では、無理そうです。

そんなときは、どうするか。

やっぱり、優しく接する以外には、無いのだと思います。

そして、優しくすることが難しければ、
距離をおくことであると思います。

自分には無理だから、弥陀におまかせします。

どうしても、ということであれば、一度、浄土に参りまして、今度、還相になってから、
助ければ良いのです。

自分も似たようなものだったのですから、批難することもありません。

そんな自分が救われたうれしさを感じると同時に、
その方が救われることを願いまして、
廻向の南無阿弥陀仏をお称えします。
593298:2008/03/10(月) 03:47:59 ID:+0XaDUsc
廻向の南無阿弥陀仏というのは、

「あの方も、南無阿弥陀仏に救われますように」

という心です。

もちろん、

「あの方も、阿弥陀さまに救われますように」

でも、良いのです。

ただ、

「南無阿弥陀仏」

でも、良いのです。

相手の方に聞こえる声で言えば、嫌がられます。苦しみが、生まれます。

また、名利の心や、攻撃心も、生まれるかもしれません。

ですから、小さな声で、あるいは、心の中で、願えばよいと思います。

時を超え、十方衆生に廻向する南無阿弥陀仏が、一番範囲が広い廻向であると思います。
594298:2008/03/10(月) 03:53:01 ID:+0XaDUsc
廻向の南無阿弥陀仏は、信前の方でも、実行できます。

「あの方が、阿弥陀さまに救われますように」

「あの生命が、阿弥陀さまに救われますように」

と、願ってゆきます。

称名の徳を、自らのものとせず、振り向けてゆきます。

このとき、如来に、その南無阿弥陀仏が届きます。

私は、この行為は、宿善になると思っています。

阿弥陀さまは、根源の無明を晴らしてくださいます。

私たちには、そのようなすごいことはできません。

ですから、「せめて」私たちにできるようなことで、
その方の、あるいは、その生命の、苦しみを減らすことを
したいと思います。

これは、弥陀への、御恩報謝の心です。
595笑いのマートル:2008/03/10(月) 06:34:21 ID:TlV+N08o
所詮地獄に行く身なればこそ、善き人の仰せに従い、
騙しすかされても、もと行く道は地獄にりけり。
小さい修行の微塵すら出来ぬ身なればこそ、
南無阿弥陀仏に救われると聞き、
ただ頼るばかりは、弥陀の称名ばかりなり。
称名も、聞いてみれば、この事かと占められ候。
これで地獄に堕ちようとも、もと居た古巣に帰るだけ。
御殿に行けると教えられ、言ったって、
見た事ない為どんなものかと思うだけ。
この世に長く住み着いて、御殿の居心地の良さを知る由も無し。
只で住まわすと言われても、騙されまいかの疑いに、
そっぽ向くのはこの心なりけり。
弥陀様は私の為に建てた御殿なれど、
見た事ないもの信じぬ心の私達。
煩悩の厚い雲に覆われて、見る事叶わぬ極楽浄土。
596神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 08:12:25 ID:qUsi16Tj
極楽浄土は見えないが
極楽浄土成就の証しであり、
浄土往生決定の証しである
南無阿弥陀仏は見えるぞ
597神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 10:56:34 ID:Ab42Dxoa
>>582
>581様が教えをいただいている善知識が、
>「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」というセリフを
>ただ繰り返しているというのは、おかしいと思います。

おかしいと思われるのは、その台詞にこだわられるからですね。
どれだけ言葉をつらねようと、その一つのことを言われるのが、五重の義の善知識です。
蓮如上人の膨大なご文章の全ても、そのこと一つを伝えられていますね。

一方で、298さんは、「一心一向に、信心決定させる善知識を求めなさい」と
言われています。これは蓮如上人の教えられていることと異なりますね。

また、298さんの善知識が、「一心一向に、信心決定させる善知識を求めなさい」と
言っておられるならば、蓮如上人とは違うことを教えられていることになります。

>>584
>正しいたのみ方であれば、他力の信をいただけるでしょう?
>他力の信がいただけないなら、正しくありませんよ。

>「正しいたのみ方が存在しない」という議論ですか?

298さんは、「正しくたのむ → 信を頂く」であると言っておられるのですね。
私は、「信を頂く=正しくたのむ」であると言っています。

自分の力で正しくたのむことは、凡夫には、できないことです。
阿弥陀仏を正しくたのめるのは、まったく、阿弥陀仏の本願のお力によって、
阿弥陀仏から頂く、他力の信心によって、のみです。

これは、「出離の縁あることなし」の機の深信がなければ、わからないことです。
他力の信心頂けば、機の深信がありますし、それがなければ、他力の信心ではありません。
598けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/10(月) 12:27:14 ID:lBAeVdPO
>>590 釈尊の教えではない阿弥陀仏信仰を、
釈尊の教えだと説くことも問題でしょう。
599神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 12:51:55 ID:qUsi16Tj
>>598
阿弥陀様で飯食わせてもらっとる、浄土宗僧侶のアンタが言うなw
600神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 14:12:27 ID:uLXfPYOZ
現代では一般人の方が、スピリチュアルや精神世界のブームで、
天国地獄の存在や魂、輪廻転生に関して造詣が深く、信仰心ももっている。

かえって、仏教学者や職業坊主に、唯物論者が多い。

江原氏等が偽宗教者にかわって奮闘している。
601298:2008/03/10(月) 14:52:40 ID:+0XaDUsc
>>597
>一方で、298さんは、「一心一向に、信心決定させる善知識を求めなさい」と
>言われています。これは蓮如上人の教えられていることと異なりますね。

◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、
信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、
もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(御文1-11)

私が言っているのは、
「他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづね」
ということです。

また、

◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を
南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)

とありますように、

1)善知識にあひ
2)をしへとうけて
3)名号を南無とたのむ

ということです。そして、その「をしへ」とは、

◎善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり(御文3-6)

「六つの字のいはれ」をよくききひらくのです。
602298:2008/03/10(月) 14:57:19 ID:+0XaDUsc
>>597
そして、御文1-15をよく読めば、

◎また名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。

と書いてあります。つまり、きちんと称えるには、「こころえ」が要るのです。

それを教えてくださるのが善知識です。

◎善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を
南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり

そして、そうこころえれば、

◎これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。

とありますように、「南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがただ」と
わかるのです。
603298:2008/03/10(月) 15:00:00 ID:+0XaDUsc
>>597
>自分の力で正しくたのむことは、凡夫には、できないことです。

あくまでも、他力の行、非行の行です。
その方法を教わるのです。

そして、信をいただけば、凡夫が自分で起こす信心ではなかった、
あくまでも、弥陀がくださる他力の信心であった、と明らかにわかるのです。
604298:2008/03/10(月) 15:11:03 ID:+0XaDUsc
>>597
>どれだけ言葉をつらねようと、その一つのことを言われるのが、五重の義の善知識です。

求めている方に対しては、そんなに長いことばは要りません。
すぐに終わるお話です、易行ですから。
そして、弥陀をたのんで、獲信します。

そのような易行の存在を信じる方が、希なのです。

「易行だよ」と聞いても、信じませんし、「善知識に法を聞くんだよ」と言っても、
信じません。

しかし、宿善の開発が進んでいる機は、「もし易行であるならば、だからこそ、
本物だろう」と感じます。

同じ話を聞いても、感じ方が違うのです。
605渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/10(月) 15:51:58 ID:sExGaQXS
>604
> すぐに終わるお話です、易行ですから。そして、弥陀をたのんで、獲信します。

 獲信した人は、例えば他人から間違いを指摘された場合、「コンチクショー」と腹立たしく思
い、しばらくすればアッケラカンと忘れてしまうような人になるんでしょうかね。
 それとも、「ああそうか。自分はまだまだ至らなかったな」と思うような人になるのか。
 どっちなんでしょうね。

 まあ、答えは298さんの頬に書いてある。ここの掲示板を見ている人には、ほとんどの人に、
書いてあるその内容が読める。
 それが読めない人も少数ではあるがいる。298さんの頬に何て書いてあるか、それが読めな
い少数の中には、298さん本人も含まれているようですね。そんなところでしょう。
       (苦笑)
606神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 15:59:28 ID:uLXfPYOZ
日本に数名しかいないという在家善知識から法を聞かねば往生できないとすれば、
離島や僻地に住む人、中国人やアメリカ人、ヨーロッパ人にとっては、難行だし、本物ではないだろう。
607298:2008/03/10(月) 16:05:16 ID:+0XaDUsc
>>606
地理的障壁や、時間的障壁を障壁と考えるのは、
妄想であると私は思います。
そもそも、善知識の人数をそのように限定して捉えることが、
間違いであると思います。
求める方は、必ず導かれます。
608神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:17:31 ID:uLXfPYOZ
>>607
善知識はどにおり、また何名存在するのか?
それらの人々は、何らかの看板を掲げているのか?
609笑いのマートル:2008/03/10(月) 16:19:49 ID:TlV+N08o
私の知る限り、アメリカ人もこの法に遭った人は居ますよ。
縁ある人は、人種も国籍も関係なく聞く事が出来ます。
地理的に近くとも、善知識の隣に住んでいても縁が無ければ、
法に遠いと言えるのではないでしょか?
僻地に住んでいても縁ある人は、
法に近いと言えるのではないでしょうか?
610笑いのマートル:2008/03/10(月) 16:24:33 ID:TlV+N08o
>608
看板は掲げていませんよ。
色々な意味があり、看板は掲げません。
人伝にしかわからないです。
看板を掲げなくとも、求める人には関係ありません。
611神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:25:03 ID:uLXfPYOZ
>>609
その宗教の善知識は日本以外にもいるのか?
612298:2008/03/10(月) 16:27:49 ID:+0XaDUsc
>>611
そのような問いが、あなた様自身の求道に資するかを
考えるべきだと思います。
日本以外にいると聞けば、あなた様はその国にまで、
会いにゆくのですか?
613神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:29:26 ID:uLXfPYOZ
>>612
ブラジル人はどうすればいいのか?
614298:2008/03/10(月) 16:32:57 ID:+0XaDUsc
>>613
なぜ、自身のことは捨て置いて、他の事を考えようとするのですか。
あなた様がどうなさるかが、あなた様にとり、まず第一に大切なことです。
自らの求道から目をそらし、質問を重ねているように思います。

自分がばかりが大切なあなた様が、
この話題になると、他を気にしているフリをすることが、
おかしいことです。

そこを、見つめることです。
615298:2008/03/10(月) 16:34:54 ID:+0XaDUsc
>>613
私は、地理的障壁は妄想に過ぎません、と申し上げました。
616神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:38:39 ID:uLXfPYOZ
地域や言語を限定されるのでは、易行とはいえない。
かといって民間信仰が間違いではない。
インディアンの信仰も真実であるように。

617298:2008/03/10(月) 16:41:27 ID:+0XaDUsc
ブラジル在住の方について言えば、
まず、ブラジルにも善知識がいらっしゃるかもしれません。
また、ふだんブラジルに住んでいる方が、
日本に来たときに、善知識に会うかもしれません。
日本に善知識がいると聞き、日本までいらっしゃるかもしれません。
ふだんは日本に住んでいる善知識が、
ブラジルに行ったときに、お会いするのかもしれません。

私は、日本に住んでいる善知識を知っています。

しかし、探しはじめた方が、獲信者にお会いしてよく話をお伺いしてみると、
その方が法を聞いた善知識は、ブラジルに住んでいるかもしれません。

それでも、もしその方が信じ、求めるならば、
ブラジルまで、会いに行くだろうと思います。

どちらの善知識にご縁があるか、それは、私たちがはからうことでは
ないと思います。
618298:2008/03/10(月) 16:46:01 ID:+0XaDUsc
>>616
あなた様は、知らないものについて想像し、
妄想にもとづいて判断しているに過ぎません。

そのような方が、求め、探すことは、無いでしょう。

妄想を確かなものとし、判断の基準としていると
思います。

彌陀は、尽十方無碍光如来です。

ご指摘は、あたりません。
619298:2008/03/10(月) 16:48:00 ID:+0XaDUsc
>>616
>インディアンの信仰も真実であるように。

では、教えを求めて、会いに行かれましたか?
620笑いのマートル:2008/03/10(月) 16:48:36 ID:TlV+N08o
何を信じるかその人の自由です。
たとえ、日本にしかなくても、
求める人は、自分の信じた道を歩む事でしょう。
日本人だって、キリスト教信者は居る訳だし、
私達の言っている浄土真宗は、
人伝でないと聞けない仕組みになっているから、
たとえ、ブラジル人であっても、アフリカ人であっても、
善友によって導かれて行く事でしょう。
信じる者には開かれた教えです。
621神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:50:56 ID:uLXfPYOZ
ブラジルにも善知識がいるというのは妄想ではないのか?
日本にいる善知識を何人知っているのか?
622298:2008/03/10(月) 16:51:58 ID:+0XaDUsc
>>613
そして、あなた様がブラジルの方を気にかけるのであれば、
まず、あなた様が獲信し、
次に、ブラジルへと、教えを伝えにゆけば良いのです。
623神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:54:06 ID:uLXfPYOZ
人に勧める以上、ある程度の情報を提供するのが筋ではないか?
善知識を探すには、どの地域がいいのか?
624298:2008/03/10(月) 16:57:07 ID:+0XaDUsc
>>621
同じような傾向の問いを、繰り返していますね。
そのような問いへの答が、あなた様が求め始めるために、
必要なのですか?

たとえ、ひとりでも善知識がいるかもしれないのであれば、
探し始めたら、いかがですか?

単に、あなた様は、信じていないだけでしょう?

あなた様が、信じる道を辿れば、それで良いのです。

ご自身のことをよく考えて、ご自身をしあわせにすると思われる道を、
歩んでほしいと思います。

あなた様にとって普遍的と思われる教えがあるとすれば、
その道を歩まれたら、いかがですか。

あなた様にとって真実である、インディアンの信仰を、
あなた様は求めていますか?

もし、他に真実と思われる道を知らずして、求めないなら、
あなた様にとっての「真実」というのは、その程度の意味であるということです。

インディアンの信仰の指導者は、何人いらっしゃるのですか?

日本にも、いらっしゃるのですか?

あなた様自身の求道こそが、あなた様にとり、大切であると思います。
625神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 16:57:12 ID:uLXfPYOZ
沖縄、北海道にも善知識はいるのか?
626298:2008/03/10(月) 16:57:34 ID:+0XaDUsc
>>623
お住まいの地域から、探すことです。
627笑いのマートル:2008/03/10(月) 16:58:26 ID:TlV+N08o
何人もの善知識を知っていようが、
自分と縁のある善知識は一人居れば十分です。
628神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 17:01:10 ID:uLXfPYOZ
どこを探せばいいのか?
通常は、どのような宗教でも、連絡先が明示され、求道者には開かれているものなのだが。
629笑いのマートル:2008/03/10(月) 17:07:53 ID:TlV+N08o
自分の住まいの地域から探しても見付かるとは限らないでしょ?
この法は、あくまでも縁であって、地域性ではないはずです。
沖縄に住んでいる方が、
北海道の善知識と縁があるとは否定できないと思います。
630神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 17:08:32 ID:uLXfPYOZ
消息不明の善知識を探し出せ、というのは難行というより苦行である。
631298:2008/03/10(月) 17:08:58 ID:+0XaDUsc
>>628
この掲示板を接点とするのであれば、
まず、この掲示板の過去ログも、すべて読んでみたらいかがですか。
私は、私の連絡先は、明示されていると考えています。

ですから、会いに来てくださった方もいるのです。

そして、私にこだわる必要はないのですから、
基本的には、まず地元で探すことが良いことだと思います。

これは、後念相続が容易であるということと、
御同行がそばにいるのは、心強いということ、
そして、その場所に現在住んでいることに、
意味があるかもしれないからです。

しかし、この掲示板でこの教えを知った方は、
ここに縁がある方かもしれません。

ですから、私は別に隠れていません。

私としては、私の発言をあれこれ読み、
「もしかしたら本当かもしれない」と思う方に尋ねてほしいので、
このようにしています。

真剣な方は、手に入る情報は、真剣に読むだろうと思います。

私も、ジャンヌの過去ログは、相当な回数読みました。
632笑いのマートル:2008/03/10(月) 17:11:32 ID:TlV+N08o
>628
善友が唯一の看板でしょう。
この法を求める人には、連絡先も所在地も判る仕組みになっています。
633298:2008/03/10(月) 17:13:31 ID:+0XaDUsc
>>630
なぜ、獲信者から探すかと言えば、獲信者は、善知識を知っているからです。
そして、それがどの程度気軽に達成されるかは、
その方の宿善の厚薄だと思います。

現在、はじめからある程度信じている方にお会いするようにしているのは、
私が怠惰だからに過ぎません。

本来は、「信じないぞ」という方にでも、会いにきてくださるのであれば、
お話をするのが良いことだと思っています。

しかし、今のところ、私の側で、準備ができていません。

たまに会いに来て下さる方に応対するだけでも、手一杯なのが現状です。

掲示板は、他の作業をしながらでも書き込めるという利点がありますので、
重宝しているのです。
634笑いのマートル:2008/03/10(月) 17:39:03 ID:TlV+N08o
見えない糸を手繰る事が縁へと誘うでしょう。
信じないぞと言う人ほど、
実は、求めていたりするものですよ。
635神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 17:58:52 ID:KFRyBwP2
>633
そういう事、一切がっさい「はからい」じゃないの?
こういう具合になってますって、心得てるんだからさ、
そりゃ、意識してなくても自然に心得顔、心得語になるよね。
積み重ねた業の働きは、勝手に表に現れ出るもんだから、
包み隠すのは難しいね。そんな高慢な凡愚が弥陀のお仕事手伝ってるつもり
になってるんだから、邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難のお言葉は
よくよく味わわないといけないよねー。
心得顔のはからい事は、実は阿弥陀さまのお仕事を邪魔してるんだよ。
636298:2008/03/10(月) 18:06:22 ID:+0XaDUsc
>>635
阿弥陀さまのお仕事を邪魔することは、
誰にもできないと思います。
求める方が、日々救われてゆきます。
南无阿彌陀佛
637笑いのマートル:2008/03/10(月) 18:07:55 ID:TlV+N08o
こちらがはからずとも縁があれば、
自然と心が開かれるモノだと思いますよ。
会いたければ、会いに行けば良いし、
話を聞きたければ、話を聞きに行けば良いだけでしょ。
人を選り分けるのは自分じゃなく阿弥陀仏の仕事だと思います。
そして、何よりも、選り分けているのは、
あなた達の心ではないでしょうか?
638298:2008/03/10(月) 18:25:22 ID:+0XaDUsc
>>635
自力の求道の徳を廻向して、極楽浄土に往生するのは困難なことですが、
法は、求めねばなりません。

◎なんぢら、よろしくおのおの精進して心の所願を求むべし(大経)

◎たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、
この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし(大経)

◎まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし(大経)
639けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/10(月) 18:35:16 ID:lBAeVdPO
僕は、298さんから善知識のヒントをいただきました。
不特定多数の目にとまる掲示板で
教えてもらったわけではありませんが。
なぜ、不特定多数の目にとまる掲示板等で話さないのか、疑問ではあります。
わりと有名な団体だから、今さら隠す意味ないのに…
298さんが公開しない以上、僕から言うわけにもいきませんが、
見ていてもどかしいです。
んー、なぜ?
640神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 18:35:56 ID:uLXfPYOZ
>>629
>自分の住まいの地域から探しても見付かるとは限らないでしょ?
>>631
>基本的には、まず地元で探すことが良いことだと思います。

どちらの主張が正しいのか?

641298:2008/03/10(月) 18:36:34 ID:+0XaDUsc
>>640
両立すると思いますよ。
642神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 18:40:30 ID:uLXfPYOZ
在家善知識が率いる念仏集団とは、いかなる団体なのか?
643298:2008/03/10(月) 18:50:42 ID:+0XaDUsc
>>639
探す方にとってわかるのであれば、それで十分だからです。

また、

◎他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、
報土往生を決定せしむべきなり。(御文3-1)

とありますように、「人にたずねよ」ということであって、
御文様でも、個人名や団体名を明示しておりません。

あくまでも、信心の沙汰を通じ、その方にとっての、
有縁の道を探して行くことだと思っています。
644神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 18:59:53 ID:KFRyBwP2
>636
求める凡愚、求めさせようとする凡愚、どちらも
凡愚による凡愚のためのはからいじゃない?
求めていた信心が求められたなら、因は凡愚の求め心だよね。
その結果、求めていた事がかなえば、喜びが現れると。
因が仏果を得られる因ではない、凡愚の造作を因とするのだから、
果として得た喜びも、また単なる凡愚の造り事って事にはならないのかな?
それは、お金を求めて、お金を得た、喜びが出た、というのと、
方向性は変わらないよね。この自力をあてにして、今まで迷ってきたんじゃないかなー。
645神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 19:03:25 ID:qUsi16Tj
大丈夫!そんな私達をかねてから見通した上で、
南無阿弥陀仏が成就されたんだからさ!
みんな救われてる!阿弥陀様の光の中さ!
後は飽きるまで言い合えばいいさ!
646298:2008/03/10(月) 19:03:49 ID:+0XaDUsc
>>639
私は、聖道を歩む方は、本当に尊いと思います。
「聖」と言う通りです。

浄土門の真宗では、頓中の頓であり、あっという間に信がいただけてしまいます。

それでは、その後は何をすればよいか? というと、
御恩報謝のお念仏があり、これも南無阿弥陀仏です。

ですから、信後にも、何か行をやりたい方は、
御恩報謝の南無阿弥陀仏を為せば良いのですし、
それは、奨励されています。

◎その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、
かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり(御文3-13)
647298:2008/03/10(月) 19:05:19 ID:+0XaDUsc
>>644
法を求めるはずのない凡愚が法を求めるのも、
これも、阿弥陀様の調熟の光明によるお育ての故である、
と観てゆくのです。
648笑いのマートル:2008/03/10(月) 19:46:31 ID:TlV+N08o
聖道門の看板を揚げている寺の坊主が、
秘かに浄土真宗の信者とも限りませんね。
蓋をしている井戸には、月の光が届かないし・・・
御文章にも、
善知識の下で一念帰命せよとの仰せ。
弥陀の光明も、善知識の下で、井戸の蓋を開けなければ、
光明は宿りませんよ。
普段から弥陀の光明は浴びていますが・・・
摂取不捨の光明は、善知識の助けが無くては届きません。
649神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 19:50:07 ID:qUsi16Tj
>647
そりゃそうさ
南無阿弥陀仏に出会った時点で、阿弥陀仏の
摂取不捨の光明に包まれてんだから。

後の称名はそのまま自他聞名であり、自信教人信であり、
仏徳讃嘆なんだよ。
650神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 19:50:52 ID:qUsi16Tj
>647
そりゃそうさ
南無阿弥陀仏に出会った時点で、阿弥陀仏の
摂取不捨の光明に包まれてんだから。

後の称名はそのまま自他聞名であり、自信教人信であり、
仏徳讃嘆であり、阿弥陀仏の顕現なんだよ。
651神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 19:58:39 ID:qUsi16Tj
別に善知識にこだわらなくてもいいじゃん。

南無阿弥陀仏がすでに与えられてんだからさ。

南無阿弥陀仏を本願成就と仰ぐか、
往生の為にとなえるか、
諸行の一つと見るか、
無視するか、そりゃ見る人に
よって異なるとは思うけどね。
652神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:12:48 ID:R49+YTvf
>>651
それじゃあなたは善知識なしで南無阿弥陀仏をいただいたんですか?
その場合、どのような領解なんでしょうか。
653神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:21:15 ID:qUsi16Tj
法然さんは善導の書物から得信したよ。
だから〜善知識善知識って言ってたら
善知識だのみになりゃしないか?

後で振り返って見て、「あ〜あの人は善知識だったかもな〜」
と思うならともかく、私が善知識です!なんて言うヤツいるわけねーやんw
もしいたら、そいつ怪しいと思わないとダメだよww

阿弥陀様は、南無阿弥陀仏を与えるためには
何でもお使いになるんじゃないか?
人でも書物でも何でもね。
だから善知識じゃないと得信出来ないって
言ったり思わせたりするのはどうかなと思うね。
654神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:24:37 ID:qUsi16Tj
善知識のような人がいなくたって、
南無阿弥陀仏に感動も喜びも感じなくたって
南無阿弥陀仏がそのまま私達の往生決定の
証だからいいじゃん。
そのまま南無阿弥陀仏を仰げばいいじゃん。
655神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:28:53 ID:qUsi16Tj
南無阿弥陀仏以外に何か特別な信心とか
喜びを与えようとする人がいるとすれば逆に
危ないんじゃねえの?
南無阿弥陀仏しか無いんだよ、浄土真宗はね。

浄土三部経も教行信証も七高僧の著書も、みんな南無阿弥陀仏の解説書なんだからさ。
656神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:29:43 ID:R49+YTvf
>>654
あなたがそれで満足されているのなら、いいです。
657神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:33:35 ID:uLXfPYOZ
わざわざ団体名を隠すということは、やましいことがあるのか?
658神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:33:52 ID:qUsi16Tj
満足出来るとか出来ないとか
往生には全く関係無いんだけどねw

おかるさんも言ってる。
「おさしつかえなし、用事なし」ってね!
659神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:39:02 ID:R49+YTvf
それなら善知識の教えを受けるのも、差し支えないのでは?
660神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:46:23 ID:R49+YTvf
南無阿弥陀仏しかない、って言いながら
その南無阿弥陀仏がどういうものか判らないままに言っているような気がする。

661神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:46:28 ID:qUsi16Tj
>659
だから、「私こそが善知識だ」なんて言うヤツは普通いないって言ってるっしょ?

それとも何なの、あなたが勝手に善知識だと思ってんの?
別に構わないんじゃないか?勝手に善知識と思う分には。

だけど、特定の人間からしか信心を得られないって言うのなら、それは違うよ。
そういう事を言いたいんじゃ無いんだよね?ただご聴聞したいだけなんだろ?
あなたが善知識だと思う人からね。
662神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:47:20 ID:R49+YTvf
あ、ごめん。そんな気がしただけね。
違ってたら謝ります。すんません。
663神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:48:24 ID:qUsi16Tj
>660
南無阿弥陀仏は十方衆生を必ず仏にする、という阿弥陀仏の誓いが成就した証しであり、阿弥陀仏そのものだよ!
664笑いのマートル:2008/03/10(月) 20:48:38 ID:TlV+N08o
どの道歩もうが、全て思い込みの世界でしょ。
弥陀の光明を普段から浴びているから
何も善知識など必要ないと思うんだったらそれで良いのでは?
善知識頼みって言うのは、善知識に金品を奉げたりして居る人の事?
善知識が、御浄土に行かしてくれるわけでもないのに。
別に隠している訳じゃあないけれど、団体行動をしていないんで・・・
665神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:50:19 ID:GKcBgMj+
まあそれぞれ好きにやればいいんじゃないの。
でもね、こちらの信心が本物で、ほかは全部ダメです、
なんて内輪でひそかに言ってる分にはいいけど、こういうところで言うと
反感を買うんじゃないかと思うよ。
666神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:56:25 ID:qUsi16Tj
まあすでに俺とか気付いてる人にはモロバレなんだがw
そんなこんなで日暮らしの私達を
必ず仏にする南無阿弥陀仏はありがてぇなぁ
667神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 20:59:03 ID:qUsi16Tj
南無阿弥陀仏は宗派とか会とか、超えてるからな。

それに条件つけたり、利用するヤツもいるだろうけどな。

そんな私達の為の、本願成就の南無阿弥陀仏なわけよ!
668笑いのマートル:2008/03/10(月) 21:03:23 ID:TlV+N08o
各々が我こそは本物だと思っていれば、
それはそれで良いのではないですか?
色々な解釈がある訳だし・・・
誰もが本物であり、または、全てが偽者って事よ。
何を信じるかはその人の自由であり、縁である訳だから。
669神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 21:13:10 ID:qUsi16Tj
つーか、私達がみな偽物で、
本物は南無阿弥陀仏なんじゃねーかな!
670神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 21:16:05 ID:R49+YTvf
あんた、心底、阿弥陀さんが好きなんだねぇ。
671神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 21:18:13 ID:qUsi16Tj
それはどうかな(笑)
672神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 21:26:04 ID:R49+YTvf
いやいや。そう見えますよ。なかなかのものです。
私とは領解は違うみたいだけど、それでも、いずれは浄土で会って
「ああ、あのときの!」てな具合でお話ができたらいいですなあ。
673神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 21:47:18 ID:qUsi16Tj
そうなればいいですね(^-^)/
674笑いのマートル:2008/03/10(月) 21:59:35 ID:TlV+N08o
縁があれば皆で極楽で顔合わせですねぇ。
極楽には、時間が有って無い様なものですから・・・
何時かは顔合わせが出来るでしょう。
皆が光明に照らされているんだったら、何でこの人間界が必要なのかな?
六道ももう必要ないはずだし・・・矛盾を感じてしまった。
数多の世界を照らしている光明に全ての衆生が照らされて居るのなら、
何で今更六道が存在するのか不思議だ。
何で今、私は人間で居るのだろうか・・・
675神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 22:24:01 ID:KFRyBwP2
>668
互いに我こそは真実信心得たりと言っていればよいのであれば、
我こそは真実信心得たりと言う事自体、何の意味もないって事だよねー。
みんながみんな好き勝手な事思って、妄想して、
やれ救われただの、やれ救われないだの、
解ってるの、解ってないのって言い合ってるのは、
結局、自己満足同志の叩きあいに過ぎないんだから。
言うなれば、似たような意見の人達が、サロンで馴れ合ってる感じ?
そんな儚い物あてになんないじゃん、ホントのとこはさ。
若不生者のお誓いだよー。無縁の大悲の勅命だよー。
壊れちゃう物ばかり集めても、罪悪生死の世界は逃れられないよね。
そんなガラスの十代も、絶対離さない離してなるものか、
摂取不捨の仏さまは伊達じゃないよー、南無阿弥陀仏
庄松おまえを助けるぞ、庄松おまえを助けるぞ
阿弥陀さまのお心が、本物なんだねー。
676神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 22:43:02 ID:KFRyBwP2
>674
過去世の業報による苦果を受けてるんだろうねー。
また、自分の心を頼み、阿弥陀さまのお心をたのまなかったから、
自業自得で輪廻をへめぐってるとも言えるかな?
若不生者の誓いを聞いて、こうしなければならない、
ああしなければならない、こうであってこそ、
あれやこれやしてきたから浄土往生間違いない、と自らの心で拵えて、
自らの行為や思いや経験をたのみとしてきた。そんな自力の心を旨として
三恒河沙の諸仏方からお説法を聴いときながら、悉く無駄にしてきたんだよ。
そんな私が一人子なんだと、南無阿弥陀仏
677298:2008/03/11(火) 00:45:00 ID:BQDIztjQ
◎しかるに自力の道は化益なお難し。故に見聞する所、現在の得益は未だその証を得ず。
故に千が中にその一もなしというなり(六要鈔)

◎また云わく、浄土の要、逢いがたしと(化身土巻)

◎身業とは礼拝なり。口業とは讃嘆なり。意業とは作願なり。智業とは観察なり。
方便智業とは回向なり。この五種の業和合すれば、
すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえりと言えり(証巻)

◎佛説に任せて六字をとなふれば、佛の本願に乘じて必往生を遂候。
別に心得ぱ往生しそこなひ候(法然聖人)

◎よき地によき種をまかんかことし、かまへて善人にしてしかも念佛をも修すへし、
これを眞實に佛教にしたかふ物といふ(念佛往生義)

◎むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛をながく斷じて、
五戒十戒等かたくたもちて、やん事なき聖人も、自力の心に住して念佛申さんにおきては、
佛の來迎にあづからん事、千人か一人、萬人か一二人なんどや候はんずらん(念佛往生要義抄)

◎上人の給はく、口傳なくして淨土の法門を見るは、
往生の得分を見うしなふなり(つねに仰られける御詞)

◎念佛を修すといへとも、うたかふ心あるものはむまれさるなり(念佛往生義)
678298:2008/03/11(火) 02:50:43 ID:BQDIztjQ
自力かなわぬと知らされるのは、
本願相応の南無阿弥陀仏を称したときです。

このとき、それまでのすべてが自力であったと知らされます。

他力であろうと思い込もうとしていたことも、
自力で他力を想像していただけだと、知らされるのです。

「念の心を、事前に知ろうとしていただけだった」と知らされます。

信前の方は、「何が違うのか?」と思うと思います。

自力に執心していれば、違いがわかりません。

◎信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり(御文5-5)

信を獲れば、この御文章がよくわかり、そして、「信心の体は、南无阿彌陀佛である」
「凡夫がはからっても、仕方が無い。弥陀におまかせだ」ということも、
理解されるのです。

確かな南無阿弥陀仏があります。それを知るには、
次第相承の善知識に会い奉り、六字のいわれを聞き開くことです。

信じぬ方に、信じてもらうことは、とても難しいです。
ですから、ご自分の道を既にお持ちの方には、その道を歩んでいただけたらと思います。
いまだ、ご自分の道が定まっておらず、道を探しており、
そして、私のことばに、何か真実があると感じる方に、探しはじめてもらえたらと思います。

南无阿彌陀佛
679298:2008/03/11(火) 03:12:24 ID:BQDIztjQ
「自力では救われぬ」と感じる方は、
求める程に、八方ふさがりであると、唖然とするはずです。

(もちろん、「自力で地道に聖道を歩もう」とされる方も、
いらっしゃると思います。この方は、目の前に、道を見ております。)

では、どうしたら、その自力から抜けられるのか。

そこを教えて下さるのが、善知識様であり、
自分では決してできなかったことを、いとも簡単に解決する方法を
教えてくださるから、ありがたいのです。

また、教わらずして、「もう、阿弥陀様に救われているから、いいのだ」と
感じる方にも、そのありがたさがわかりません。

◎そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる
弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。
そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、
われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり(御文1-13)

弥陀の名を聞き、弥陀の救いがあることも聞いた。
ぜひ、その弥陀がくださるという、信心をいただいてみたいものだ。
そのような方に必要なのが、「われらが往生すべき他力の信心といふいはれ」であり、
それを教えてくださるのが、善知識なのです。

南无阿彌陀佛
680298:2008/03/11(火) 03:48:07 ID:BQDIztjQ
>>653
愚禿鈔では、真の善知識は「善性【人】」となっています。
つまり、「人」です。

◎ 「〈無人空迥の沢〉といふは、悪友なり。真の善知識に値はざるなり」となり。
     「真」の言は仮に対し偽に対す。
     「善知識」とは、悪知識に対するなり。
     真の善知識、     正の善知識、
     実の善知識、     是の善知識、
     善の善知識、     善性人なり。
     悪の知識とは、    仮の善知識、
     偽の善知識、     邪の善知識、
     虚の善知識、     非の善知識、
     悪の善知識、     悪性人なり。
681298:2008/03/11(火) 03:49:38 ID:BQDIztjQ
>>655
もちろん、南无阿彌陀佛こそが、我らが信心の体であるのです。
南无阿彌陀佛を離れた信心は、ございません。
あくまでも、南无阿彌陀佛です。
682神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 08:32:32 ID:QBYNm9Jz
>681さん
善知識に会わせるまでもなく、
あなたがその善知識さんから
聞いた六字のいわれを
ここで書いて多くの人たちに
見てもらえばいいんじゃないの?
683笑いのマートル:2008/03/11(火) 08:58:55 ID:E6oTF9XI
謂れって言葉でも文字でもないんだよねぇ。
身・口・意で聞くのが謂れ。
身の部分は言葉じゃ説明出来ないと思うけれど。
皆、聞くと言う事を耳で聞くと勘違いしているんだよね。
人の言う事を人の言う通りにするって云う言い方だってあるわけだし。
684神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 09:23:24 ID:QBYNm9Jz
あと、勘違いしやすいのだが、
六字のいわれを聞く事が
浄土往生の「条件」とするならば
それは間違いだよ。
聞く事すら、浄土往生には必要なかったんだな、
という事を聞かないとね。
こっち(衆生)の方から浄土往生に役立つものなど何にも無いのだからね。
685神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:03:06 ID:QBYNm9Jz
だから、浄土真宗においては称名も聴聞も
仏徳讃嘆なワケだ。
686神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:08:00 ID:sjbSSoff
聖道門と浄土門の教えは違うのですか?
687神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:30:31 ID:LeG9gpgq
善知識教のネット布教はそろそろネタ切れ。団体名は何?。
688神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:37:00 ID:bcn+ZztY
>だから、浄土真宗においては称名も聴聞も
>仏徳讃嘆なワケだ。

すみません、ここすごく詳しく聞きたいのですが、教えていただけませんでしょうか?
聴聞も仏徳讃嘆、というのは目からウロコな感じがしてびっくりしています。
(茶化そうとしてるのではありません、本当に教えてほしい)
689神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:42:23 ID:QBYNm9Jz
>688
浄土真宗では、ご聴聞も自分の往生のため、とか、信心決定のためにするのではありません!

読経も法要も称名もご聴聞も全て、南無阿弥陀仏に出会わせて頂いた事への阿弥陀仏への報恩感謝・仏徳讃嘆の営みです!
690神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 10:54:40 ID:bcn+ZztY
>689

わたしは聴聞に行けないとき、なんだか悪いことをしているような気になるのですが、
689様だったら、ご聴聞にいけない日などどのような気持ち・味わいを持たれるのでしょうか?
691神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:06:12 ID:QBYNm9Jz
>690
何も思わないです。
ご聴聞してなくても、罪ばかり作って、それで何とも思わないこの私ですが?

そういう私のための、ご本願成就の南無阿弥陀仏と味わっています。
692神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:19:38 ID:QBYNm9Jz
私がある時、罪悪感を持ったとしても、
そんなものは時間が経てば消えてしまう一時の感情に過ぎません。
感謝感動感激歓喜…みな全てそうです。

そんなものは浄土往生には全くあてにならないのです。
だから、結局は南無阿弥陀仏だけなんですよ。
693神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:24:04 ID:QBYNm9Jz
浄土往生には私のものは、全くあてにならないし
障害にもならない。南無阿弥陀仏で往生決定、信心決定、行決定、成仏決定!

皆さん、そう言われても別に嬉しくないでしょ?
でもいいんです。嬉しかろうが嬉しくなかろうが、南無阿弥陀仏で往生決定なんです。

皆さんよかったね
694神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:30:59 ID:N/U78xrx
でも、往生したいという意思表示は必要でしょ?
695神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:37:38 ID:N/U78xrx
助けて、から 助かった、に変わる境目はないのかな…
696神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:46:23 ID:dfuS3CS4
ありますよ。それが信心決定。
697神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 11:54:50 ID:dfuS3CS4
>だから、浄土真宗においては称名も聴聞も
>仏徳讃嘆なワケだ。

これ、信後。

こう思えないうちはとにかくひたすら称名、聴聞。
当然、自分の行いが往生の役に立つことはないから、往生極楽のためにするのではない。
助けて、が助かった、になるまでとにかく称名、聴聞。
698神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:11:09 ID:QBYNm9Jz
>694さん、あなた往生したいって思いが本当にあるの?

あるならスゴいね〜俺には無いね!だってこの世がいいもんね〜

往生したいって意思表示が往生の条件なら、俺は条件には当てはまらないねぇ(笑)
699神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:13:56 ID:QBYNm9Jz
あと、別に助かった!なんて思いも無いもんねぇ(笑)
助かった!なんて思うのが浄土往生の条件なら、
俺は当てはまらないねぇ(笑)

誰がそう言ってんのか知らねーけどね(笑)
700神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:19:12 ID:N/U78xrx
意思表示しない人は往生しないと思う。
701けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/11(火) 12:20:08 ID:GeTCSEvQ
>686
仏教を浄土門と聖道門に分ける考え方自体が
浄土門から見た認識。
浄土門は、
この世で悟るのが難しいので、
悟りやすい環境である極楽浄土への往生をめざす教え。
聖道門は、
悟りをめざす教え。
浄土門の往生しかたにも、自力と他力がある。
自分の善行の功徳で往生するのが自力、
阿弥陀仏の本願力で往生させてもらうのが他力。
702神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:20:49 ID:QBYNm9Jz
助かった!とか、往生したい!という思いすら、
あっても無くてもいいんだな〜なら安心出来るね!
703神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:23:47 ID:QBYNm9Jz
>700
ふ〜ん(笑)意思表示しなきゃダメなんだ(笑)
じゃあ、俺はあなたの行くお浄土にはお参り出来ないね〜(笑)
704神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:29:04 ID:N/U78xrx
阿弥陀仏は各自の意思を無視はしないと思う。
705神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:49:39 ID:QBYNm9Jz
阿弥陀仏は、往生への意思無き者達も救う。
だから「十方衆生」なんだぜ
706神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 12:50:40 ID:QBYNm9Jz
意思の有る無しを
問わないのが、
諸仏と阿弥陀仏の最大の違いだぜ
707けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/11(火) 12:57:38 ID:GeTCSEvQ
>>706 それじゃあ、念仏往生じゃなくて強制連行では。
往生したくない者まで強制連行されないでしょ。
708神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 13:02:59 ID:QBYNm9Jz
人間の強制連行と
阿弥陀仏の摂取不捨を一緒にすんなよ(笑)
709神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 13:07:13 ID:LeG9gpgq
これからの時代、観念論だけでは通用しない。坊さんは霊的知識を受け入れる必要がある。
710神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 13:13:43 ID:QBYNm9Jz
念仏往生は、称名往生・信心往生に限るんじゃなくて
名号往生なんだよ。
711神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 13:42:03 ID:N/U78xrx
それじゃ、浄瑠璃世界に往生したくても極楽に生まれちゃうをだね。
712298:2008/03/11(火) 13:47:41 ID:SwUUfGuQ
>>710
◎十方恒沙諸仏如来、皆共讃嘆無量寿仏威神功徳、不可思議。
諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転(大経)

「聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国」とあるわけですが、
お経様のこのような部分は、無視されるわけですか?

信心にも、いろいろあると思いますけれども、
後生を本当に気にかけていらっしゃいますか?

後生が気になる方であれば、「これでよいのか、これでよいのか」と、
あれこれお聖教をお調べになるのではと思います。
713298:2008/03/11(火) 13:51:21 ID:SwUUfGuQ
>>710
信を獲っていない方を、蓮師が歎いていらっしゃいますが、
710様の説では、それがおかしいことになってしまうと思います。

また、御本典にも化土往生が説かれていますが、
それは、意味がないことなのでしょうか。

◎念佛を修すといへとも、うたかふ心あるものはむまれさるなり(法然聖人)

とありますけれども、また、一枚起請文の冒頭にも、否定されている念仏が
出てきますけれども、これらの内容は、無視されるのですか。

それとも、法然聖人、親鸞聖人、蓮如聖人に基づくのではなく、
また、別の流れのお念仏なのでしょうか。
714神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 13:59:43 ID:QBYNm9Jz
「聞其名号」に極まってるんだよね。
信心歓喜も乃至一念も、聞其名号の後に起こる事なんで。
浄土往生の条件じゃないんで。
至心回向は、「(阿弥陀仏が)至心に回向せしめたまへり」だから、
問題無し。至心の体は南無阿弥陀仏だからね。

だいたい、阿弥陀仏の無条件の救いに、いろいろ条件付けたがるのが
我ら人間のあさましさだから仕方ないっちゃ仕方ないんだけどさ。
称名往生も信心往生もいいんだけどさ、
「それのみじゃないと救われない」って言いだし始めるとおかしくなるんよ。
715神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:07:46 ID:QBYNm9Jz
>713
あのね、法然さん、親鸞聖人、蓮如それぞれ南無阿弥陀仏について説かれているし、
僕は親鸞聖人の流れを組むものだけどさ、その人たちを絶対視したらいかんのよ。
絶対なのはあくまでも阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏しか無いんだよ。
南無阿弥陀仏で救われるなら、化土はすでに関係ないだろ。
南無阿弥陀仏で救われが決定してるのに、
さらにその南無阿弥陀仏を阿弥陀仏に回向しようとしたり、
諸行の一つとして見て功徳を積むために行じたりする事を嘆かれて、
ご本典は書かれたもんだと俺は受け止めてるよ。
716神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:13:29 ID:QBYNm9Jz
蓮如さんは…ちょっと誤解を招きやすい書き方説き方をしてるよ。
当時としてはそれで良かったんだろうけど。
当時の一般民衆は、これは西山派の教え、これは本願寺派の教え、
とか区別しないっしょ。なんまんだぶはありがてぇ〜って思った人たちが
ほとんどだと思う。
西山派の教えとかをうまく利用したのが蓮如さんだと思う。
御文章を拝読するには気を付けて読まないとダメだって、先生にも言われたしね。
717神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:18:36 ID:N/U78xrx
蓮如さんを疑う前に、キミの先生を疑うべきだと思う。
718神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:25:47 ID:QBYNm9Jz
そう思って自分なりに考えてみても、
御文章は確かに注意して読まないと
いけない部分があると思う。
719渡海 難  ◇Fe19/y1.mI:2008/03/11(火) 14:26:56 ID:Il/Lz0lQ
      。ρ。      
         ρ      
         mドピュッ
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  ) ああ、先生、逝くっハァハァ・・・
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) ) ノータリンの298もけちゃっぷも笑いのマートルも
    /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|   名無しのボーズ共も全員馬の下痢便で顔洗ってこーい!
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)  
   (__/
720神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:30:43 ID:QBYNm9Jz
とにかく、法然でも親鸞聖人でも蓮如でも、
その人たちの説いた一説を絶対視したら間違うと思うよ。
なぜなら法然も親鸞聖人も蓮如も、阿弥陀仏に救われるべき衆生の一人なんだからさ。
阿弥陀仏の教えを伝えた人たちではあっても、
阿弥陀仏そのものじゃ無いんだよ。

絶対なのは阿弥陀仏であり南無阿弥陀仏しかない。
それが法然さん親鸞聖人、蓮如の説いた教えだと思うし、
それが浄土真宗だと俺は受け止めてるよ!
721神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 14:49:41 ID:5gE1fFSa
いいこと言っているんだけど、根本のところで勘違いしてないかな。
722神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 16:56:47 ID:QBYNm9Jz
善知識○○先生だのみじゃなくて、
南無阿弥陀仏をたよりにせよ!

衆生のはからいではなく、南無阿弥陀仏をあてにせよ!
723神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 16:59:40 ID:QBYNm9Jz
勘違いをそのまま救う、
南無阿弥陀仏なんです!
724神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 19:05:34 ID:QBYNm9Jz
南無阿弥陀仏が絶対の幸せとか、
そんなのは個人の解釈だから
どうでもいい!
南無阿弥陀仏で私達は無上の悟りを開いた仏
にならせて頂くのです!
この世では南無阿弥陀仏の光に包まれて生き抜くのです!
725298:2008/03/11(火) 19:08:31 ID:SwUUfGuQ
>>724
燃えてますねー
信心をあらわすのは、とても良いことだと思います。
726298:2008/03/11(火) 19:22:51 ID:SwUUfGuQ
>>720
>絶対なのは阿弥陀仏であり南無阿弥陀仏しかない。
>それが法然さん親鸞聖人、蓮如の説いた教えだと思うし、
>それが浄土真宗だと俺は受け止めてるよ!

まったくその通りですね。
脱帽です。
727298:2008/03/11(火) 19:28:26 ID:SwUUfGuQ
いやそれにしても、本当に尊い南無阿弥陀仏ですね。
仏にさせていただけるなんて、夢のようです。
728298:2008/03/11(火) 19:56:57 ID:SwUUfGuQ
>>714
>「聞其名号」に極まってるんだよね。
>信心歓喜も乃至一念も、聞其名号の後に起こる事なんで。
>浄土往生の条件じゃないんで。
>至心回向は、「(阿弥陀仏が)至心に回向せしめたまへり」だから、
>問題無し。至心の体は南無阿弥陀仏だからね。

そうですね、そう思います。「聞其名号」こそが、大切であると思います。
729笑いのマートル:2008/03/11(火) 20:46:08 ID:E6oTF9XI
名号にも色々な解釈がありますね。
浄土往生には、五重の義が揃った時ですね。
すべてが南無阿弥陀仏に込められて居る。
南無阿弥陀仏をどう理解するのかは、おのおのの解釈ですよ。
たかが南無阿弥陀仏、されど南無阿弥陀仏。














730笑いのマートル:2008/03/11(火) 20:53:13 ID:E6oTF9XI
298さんって頑張って書き込みしていますね。感心してしまいます。
この法を信じる人を探すのは、至難の業ですよ。
基地外の仲間入りをしたいと考える人が出てくると良いですね。
731神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 21:11:11 ID:LeG9gpgq
「この法」って、何宗?宗教法人?無登録?
732神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 21:13:23 ID:0iVT8Yku
いつも南無阿弥陀仏と一緒だよ
733神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 21:59:00 ID:RwIlavY4
>639 :けちゃっふ゜
>僕は、298さんから善知識のヒントをいただきました。
>わりと有名な団体だから、今さら隠す意味ないのに…
>298さんが公開しない以上、僕から言うわけにもいきませんが、
>見ていてもどかしいです。
>んー、なぜ?

なんという名前の団体ですか?
734けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/11(火) 22:32:22 ID:GeTCSEvQ
>>733 298さんに訊いてください。
735渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/11(火) 23:40:24 ID:mrodDwOr
念仏研修会 第2回目
 3月31日 午後の部(念仏・座談)   11時から16時
       教行信証講読        16時から19時
       夜の部(念仏・座談)    19時から23時
 午後の部と夜の部と選択可。両方参加も可能。途中退席も可。なお、プログラムは多少の変更
の可能性もあります。

 場所 愛知県 (名古屋地区)

 五会念仏法事讃略抄(親鸞真筆)・至道抄(存覚著)・御文(蓮如著)を骨格ベースに、鎌倉・室
町期の真宗の念仏道場のスタイルを復活させ、座禅しながら五会念仏(念仏三昧)を勤修します。
 問い合わせ先  [email protected] 渡海 難

 1回目の後、すぐに2回目をしたいという反響に応えるものです。なお、今後定期的に行っていく
かどうかは、全て未定です。
736神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 23:50:30 ID:RwIlavY4
>>734

けちゃっぷさんは298さんにメールでコンタクトをとったり、298さんのHPで質問して
団体名のヒントをもらったのですか?
737神も仏も名無しさん:2008/03/11(火) 23:53:14 ID:LWAUm6fE
  |\__/ハ__
 {_____」
       
         \\              ∧_∧
◎     ≫〃vミー‐w  へ          (´<_` )  >>735あちこちでマルチポストするなキモオタのくせに
  \   彡_____彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \   それから妄想はお前の脳内だけでやってろ!
      {_親●鸞___| )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )
 ◎-○一( * *    ヽミ            |.      |
      ((_ _ (( ( ;;;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ.〉      | |
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ:: -=_二__ ̄ .   \_     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ        ̄\      / /
    (   ) 渡 ≡ ;;; )  )         .\__/_丿
     |__|. 海 ≡ ;;; )_l          .|  |
    _|  |  難 ≡ ;;;; ) (           |  |
   |  \.._\.      入 \,       |  |
   |ハルヒ(_る〜〜〜〜〜wv)       \ ヽ
   |___||:::::::::::::/::::::::::/               \ |
         .|;;;;;;;;;;;/;;;;;;;;;;;/             / ノ
         (___|)__|)  
738298:2008/03/11(火) 23:56:37 ID:SwUUfGuQ
生涯にただ一度の南無阿弥陀仏において、
凡夫が、その身その心のままで、
弥陀の清浄の真実信心をいただき、
その後は、自らそれを証しつつ、御恩報謝のお念仏をつづけることになります。

真実行であるかどうかは、
実際に自力がすたれるかどうかで、わかると思います。

自力がすたり、弥陀から真実信心をいただき、
自分を作り変えていただきます。

これまでは、自分で自分をなんとかしようとしてきたわけですけれども、
それを一度あきらめて、弥陀におまかせします。

一度死を経験することにより、
自らが、変わると思います。

重い苦しい気持ちを、その永劫の荷物を、ひとたび、すべて降ろして、
弥陀におまかせいたします。
739298:2008/03/12(水) 00:03:05 ID:SwUUfGuQ
他力の行とは何か、非行の行とは何か、
それを理解し、
自分ではアクセスすることのできなかった心の領域に、
魔から見えない状態になりまして、
弥陀に連れられ、作り変えてもらうのだと思っています。

あまりの一瞬ですから、凡夫には、何が起きたか、
わかりません。

我が身におきた変化は、それから、確かめてゆくことに
なるのだと思います。

凡夫からはアクセスできない深さですから、
一度いただいた信心を、凡夫の側からどうすることも
できないのだと思います。

残るは、この御恩に感謝して、
称え奉る南无阿彌陀佛です。

金色の大仏千体寄進するよりも、
ただ一声の南無阿弥陀仏の方が、
はるかに尊いのであると教わっています。
740298:2008/03/12(水) 00:10:47 ID:UCO1EAFV
私が小さい頃に思っていた事は、

「南无阿彌陀佛は、確かに尊いと思うけれど、
よく信じられるものだな。
素直な方は尊いな。自分みたいに疑い深い者には無理だけれど、
きっと、単に口に出す以上の意味があるはずだ」

のようなことでした。

不勉強のため、御文様の存在を知らず、
ご縁があって、浄土宗のお寺さんとのおつきあいをいただき、
法然聖人の御文章を読むようになりました。

これが、大きなきっかけになっています。

そして、ジャンヌ掲示板を見て、蓮師の御文章を読み、

◎世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、
たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり(御文3-2)

とおっしゃっていることを聞きまして、小さい頃からの疑問に、
光をあてられたことを感じました。

そして、「たずねよ」とあるので、たずねたのです。
741298:2008/03/12(水) 00:13:05 ID:UCO1EAFV
ついに、聞き開くことのできた六字のいわれは、
私にとっては、納得の行くものでした。

しかし、それでも、「このような自力執心の自分が、
本当に大丈夫だろうか。自分だけ、救われないということは無いだろうか」
という疑問がありました。

もちろん、「納得がゆく」といっても、100%ではありませんので、
その意味での疑いも残っていました。

そして、弥陀をたのみ、私は救われたと感じ、
感動しました。なぜ、そう感じたのかは、よくわかりません。
ただ、弥陀に感謝しました。
742298:2008/03/12(水) 00:14:51 ID:UCO1EAFV
疑い深い私には、第二十願は、むずかしいものでした。
第十八願は、宿善を必要としますけれども、
それでも、凡夫直入の易行です。
第十九願、第二十願を成就できる方は、尊いです。
それには、別の意味の宿善が要るであろうと思います。
743298:2008/03/12(水) 00:22:46 ID:UCO1EAFV
御恩報謝の南無阿弥陀仏には、すべての修法がこもっているそうです。
ですから、信をいただいている方は、
時間を見つけて、御恩報謝の南無阿弥陀仏を、1日1分でも良いから、
やってほしいと思います。
極楽往生は治定しているのに、感謝の気持ちで、手を合わせて、
称えてゆくのです。
744298:2008/03/12(水) 00:57:51 ID:UCO1EAFV
信後の廻向のお念仏については、

◎一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向すべしと候ふも、
さるべきことにて候ふべし(御消息)

のようなお示しがあります。

自分が救われた感謝とかたじけなさに申す南無阿弥陀仏も御恩報謝ですし、
もう、自分は救われているのですから、十方衆生に回向する南無阿弥陀仏も、
御恩報謝なのだと思います。

「足す善など無いのに、なぜ?」と思われる方も、いらっしゃると思います。

弥陀が永劫御修行くださったのですから、弥陀からの回向で十分であり、
凡夫からの回向など、微々たるものであるはずだからです。

そして、凡夫ひとりからの回向は、微々たるものでも、
弥陀に救われる者が希だとしても、弥陀の救いは、
この宇宙だけではなく届いているのですから、
その集積は、力になるであろうと思っております。

ですから、この宇宙を超えて広がっている御同心の回向の御恩報謝の
南無阿弥陀仏も感じながら、称える南無阿弥陀仏であると思います。

無神論者の方でさえ、本当に望ましいこと、あるいは、
自分にとって大切な方の大切なときには、祈ったり、願ったり、
致します。

足す善などない凡夫ですが、どんな微々たるものでも、
少しでも役に立てばと、差し出したくなったときに、
我らに出来ることは、真実である南無阿弥陀仏であると思います。
745298:2008/03/12(水) 01:04:31 ID:UCO1EAFV
>>690
横レス失礼致します。
聴聞に行かずとも、口に出せる六字です。
暇を見つけて、耳に聞ける声で南無阿弥陀仏と口に出せば、
それが最高の聴聞であって、それ以上のものは無いと思います。

すべては、南無阿弥陀仏のための方便に過ぎないのだと思います。
746298:2008/03/12(水) 02:54:28 ID:UCO1EAFV
通常は、この世のことに関わって、「それを、どのように良くしようか?」
あるいは、「苦しみから、どう逃れよう?」と思って生きています。

南無阿弥陀仏は、全く異なる発想です。
747298:2008/03/12(水) 02:55:48 ID:UCO1EAFV
まず救われて、次に、それを感謝してゆきます。
748298:2008/03/12(水) 02:58:34 ID:UCO1EAFV
阿弥陀仏が、本師本仏であるということも、
押し付けることではなく、
あくまでも、私たちが、私たちの信心として、
抱くことであると思います。
749298:2008/03/12(水) 03:06:59 ID:UCO1EAFV
聴聞というのは、信前であるのであれば、
「そんな素晴しい仏様がいらっしゃるのであれば、
ぜひ救われてみたいものだ」という気持ちを育てるためのもの、
信後であれば、「本当に素晴しい阿弥陀仏に救われて、
本当によかった」と感謝できるためのものであると思います。
感謝の表現は、御恩報謝の南無阿弥陀仏です。
救われたうれしさに、お称え致します。
750298:2008/03/12(水) 03:15:25 ID:UCO1EAFV
御恩報謝のお念仏を積み重ねてゆくことが、
とても大切だと思っています。
極楽往生が治定したうえで、お称えしてゆきます。
751神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 06:02:37 ID:nm3Vzp6F
>>720
私もそう思う。親鸞聖人も謙虚にも自分の事を愚か者と言っていた。まずその点において、すごい人やなあ、と思う。でも人間でない何かのように思ってる訳ではない。

そういえば創〇の奴に、「君らのとこの門主って、えらい弱々しいなあ。そんな人が門主で大丈夫なん?w」と言われたが、まさか大谷さんを崇拝してる訳でもないので、
「別に。あまりにカリスマ性のある人だったら、変な事言い出した時に文句も言えなくなるから、まあいいんじゃないw」
と言い返した事もあったな。

まずは謙虚になりたい…
752けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2008/03/12(水) 08:01:22 ID:1IK8TmzF
>>736 298さんが、まるで阿弥陀仏の光明のように、
僕への連絡方法をみつけてくれました。
753神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 09:28:09 ID:IMOhoBP4
412 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/12(水) 00:04:00 ID:mrodDwOr
>411
>嘘を書くんじゃねーよ、本当は誰も来なかったから中止になったんだろ?

 そんなことないよ。僕を入れて七人で約5時間やったんだよ。
 複数のアイドルオタクが一箇所に集まって本尊に向かい、オタ芸をするなんて、
浄土真宗史上400年ぶりの大事件だよ。

 天下を統一した徳川幕府が一向一揆の再発を恐れ、浄土真宗の五会念
仏を標的とし、集団的布教と集合を禁じ、浄土真宗のエネルギーを削いでか
らから400年、歴史的復活の瞬間はささやかでも、非常に充実した一瞬だっ
たよ。今度は秋葉原からメイドを呼んで、出張メイド喫茶に挑戦するよ。
754渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/12(水) 11:18:27 ID:XpORbc8g
 引用するなとは言わない。引用する場合には、改竄しないでほしいものだ

http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/411
>嘘を書くんじゃねーよ、本当は誰も来なかったから中止になったんだろ?

 そんなことないよ。僕を入れて七人で約5時間やったんだよ。
 複数の人が一箇所に集まって本尊に向かい、五会念仏をとなえるなんて、
浄土真宗史上400年ぶりの大事件だよ。

 天下を統一した徳川幕府が一向一揆の再発を恐れ、浄土真宗の五会念
仏を標的とし、集団的布教と集合を禁じ、浄土真宗のエネルギーを削いでか
らから400年、歴史的復活の瞬間はささやかでも、非常に充実した一瞬だっ
たよ。
755神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 11:40:52 ID:Zr0jFE3m
>>752
有名な団体だったの??
756神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 11:49:23 ID:Zr0jFE3m
有名な団体のなかに「掟」によって他言できない「六字のいわれ」を
教わって百発百中で獲信するとか、赤ちゃんでも獲信する、なんて団体
無いと思うんだけどなぁ・・・。
757神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 11:49:42 ID:z+d+kkYJ
仏教でいう菩薩や如来は、
衆生救済のために、現代でも人間として転生しているというのは、本当でしょうか?

そういう意味では阿弥陀如来は人格神、神霊なのでしょうか?
758神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 14:30:43 ID:zysvaX47
阿弥陀如来はいつも一緒だよ
759笑いのマートル:2008/03/12(水) 16:03:43 ID:iFbKYTig
団体名を掲げていたら逆に偽者の可能性が高いですね。
ひっそりと細々とやっているのが我らですから。
信じて探せば辿り着ける仕組み。
298さんも有名な団体に所属していないはずですが、どうでしょうか?
宗教って自己満足の世界でしょっ。
所詮。
何を信じて何を求めるか、その人の自由。信じないのもまた自由。
760神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 16:15:28 ID:zfZILCME
組織的な団体を運営するとなると、やはりお金が要ります。
大金が目の前にあると、いくら出来た人でも、欲心膨らまずにはおられませんな。
宗教にお金が絡むと、ろくなことにならないです。
761神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 16:53:38 ID:z+d+kkYJ
仏教においてはサンガ(僧団)は敬われなければいけません。
三宝帰依を軽視するようでは、仏教徒とは呼べないでしょう。
762笑いのマートル:2008/03/12(水) 17:19:10 ID:iFbKYTig
お金を積んで往ける極楽でもないし。
三宝帰依も南無阿弥陀仏の六字に籠められていますし。
当流には、五戒も厳しく定められていますし。
この上は、定めおかせられる御掟とも言われていますし。
店開きをすれば、お金の流通が生まれてしまう。
だから、看板も揚げずに、阿弥陀様への御恩報謝と、
細々と趣として遊ばされている。
それが善知識であり、その意思を継いだ念仏者の姿でしょう。
763神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 17:38:14 ID:D8iR8FXF
子供たちのグループもたわいもない秘密を大切にするでしょう。
秘密があることによりグループ外の者との差別ができ、グループ内の者には特権意識が生れる。
部外者がその秘密を知りたがるほどに秘密の価値は上がる。
秘密がグループが存在する意義となる。

しかし、阿弥陀仏の誓願、大乗仏教の基本的精神・・・と、特定の者しか知りえない秘伝がある、そこには単純な矛盾があると思うのだが・・・。
疑問を感じるようなら信じたとは言わないので、何の矛盾も感じないのでしょうがね。
秘伝をネタにするカルトでないことを願います。
764笑いのマートル:2008/03/12(水) 18:11:25 ID:iFbKYTig
別に大事件を起こそうなんて考えていないし、
世の中の決まりは守っているし、
納税だって一個人として納めているし、
信者からお布施なんて貰っていないし、
強制もしていないし、お金を持って行ったら、逆に返されてしまうし・・・
仏法は、趣味のひとつでしかありませんよ。
求めてきた人が歓んで帰ればそれで良い事だし。
御文章の念仏を修行するとはどう云う事なんだろう?、
と疑問に思った人だけが、
善知識の下で南無と一念帰命すれば晴れ晴れと知られる法だから。
自己満足の個人でいいんじゃないの?
765神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 18:15:48 ID:z+d+kkYJ
自分の処の善知識に教わる以外の方法では、信心を得ることは不可能、と言っている時点でセクトでしょう。
766笑いのマートル:2008/03/12(水) 19:48:21 ID:iFbKYTig
別に自分の所以外にも善知識は存在している訳だし・・・
否定もしなければ肯定もしないよ。
要は、自分の信じた道を歩めばいいだけじゃん。
何を信じるかは個人の自由でいいんじゃないの?詰まる所。
信心に垣根はない訳だし。
宗教なんて、結局は、
自分の信じたモノがサイコーーーー!!って叫んでいる訳だし。
エホバの信者が雨の降った日にウチに来るのは何故?
倫理っつーのも来るわな。しかも大体は2人セットでね。
そー言えばエホバの信者が言っていたけれど、
エホバは今でもご修行中の身なんだって。
比べるのもどうかと思うけれど、
阿弥陀仏は、ご修行を成就しているんだよね・・・
宗教に何が正しいなんてないと思うよ。
自分で納得して信じられれば、それで良しって事でしょ。
ここの掲示板は、
浄土真宗を信じて褒め称える場でもあると思っているけれど。
767笑いのマートル:2008/03/12(水) 20:01:26 ID:iFbKYTig
あるホームページで、
小島よしおのネタをウルトラマンがやっていた。
チョー笑えた。ウルトラマンが『ウィーーー』って
怪獣に往復ビンタをリピーターで喰らって、
『でもそんなのかんけーねー』っていいながら
怪獣のシッボを地面に何度も投げつけるリピーターがまた笑えた。
ウィーーーーーー!!!
768笑いのマートル:2008/03/12(水) 20:14:40 ID:iFbKYTig
我の信心浅けれど弥陀の信心深き故、必ず救うのお言葉に催され。
南無と一念たのめば、あら不思議、
正定聚の位にひとっ飛び。
あら不思議の南無阿弥陀仏。
たのむ衆生は捨て置かぬ。
逃げた者をも掴む弥陀の御手。
769神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 20:20:16 ID:Qd+LJZcW
>759
それはちょっといただけないなー。
お釈迦さまは私の自己満足欲を満たすために法を説かれたわけじゃないよね。
他人から、真宗によって毎日生活する事は、自己満足じゃんって、
言われても、そうだよねーとしか言えないけどさ。
自分から言う必要ないじゃん。ニヒリズムっぽく聞こえるよ。
しかも、真実信心なんてごたいそうな冠ついてるスレで。
あなたの自己満足の気持ちってそんな大事なものなの?
阿弥陀さまの若不生者の気持ちを聞かせてもらいながら、
はずかしいんじゃない?と俺なんかは思うんだけどねー。
770神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 20:23:00 ID:z+d+kkYJ
>>766
>別に自分の所以外にも善知識は存在している訳だし・・・

善知識とは誰のことを言うのでしょうか?
誰が判断するのでしょうか?

蓮如以降の善知識を一人でもいいからあげてください。
出来なければカルトです。


771神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 20:42:17 ID:qVL60Ckz
>>761
同意。在家のものはお袈裟を召されたお坊様がたを尊ぶべきです。
772神も仏も名無しさん:2008/03/12(水) 20:43:57 ID:Qd+LJZcW
>768
凡情に流された自己満足とハイテンションで造り上げた言葉なんて、
有り難くも何ともないねー。それよりも、弥陀の本願述べましょー。必ず助くの誓願を。
そうじゃないと、凡情に流された自己満足を、
これこそ真実だと、錯覚する人が出てくるよ。
人間は自分の欲望に従って、魔を魔とも思わない、
鬼神大好きな化け物だからね。
体験、経験、味わい、何を取っても真実無し。ただ助くる弥陀の本願有り難し。
773298:2008/03/13(木) 00:41:41 ID:WLNrGz4d
>>772
私にとっては、弥陀を褒めることばは、ありがたいです。
放っておけば、三毒に強く影響された思いが出て来るわけですが、
そんな私も、そのままで救ってくだされた。
弥陀に感謝していますから、弥陀を讃嘆することばは、
とてもありがたく思います。
南无阿彌陀佛は、弥陀を讃嘆することばとして、
最高のものだと思います。
阿弥陀を阿弥陀と呼ぶことが、既に讃嘆です。
無量であり、無寿である、大応供を讃え、
名号をお供えすべく、御恩報謝をお称えする。
御恩報謝も、行住坐臥を問わず、いつでもできることも、
ありがたいことです。
774298:2008/03/13(木) 00:51:07 ID:WLNrGz4d
救われて、もう極楽往生治定ですから、何もすることがない、ということだと、
凡夫には、不足が出てくるのです。
放っておけば、何をするかわからないのが凡夫です。
ですから、時間を見つけて、
御恩報謝の南無阿弥陀仏をお称えしてゆくことが、
とても大切だと思っています。

念仏が称えられるように、生活設計をせよ、と法然聖人は、
おっしゃってくださっていると思います。

御恩報謝のお念仏をお称えする時間があることが、
ありがたいです。

生活の、ちょっとした隙間にも、南無阿弥陀仏は簡単にお称えすることが
できます。

救われようと思ってお称えする南無阿弥陀仏と、
救われたうえで、その感謝にお称えする南無阿弥陀仏は、
大分違うと思います。

ですから、まずは救われてしまって、あくまでも、その上で、
あとはその感謝で、お称えしてゆくことが大切だと思います。

救われた感謝にお称えする南無阿弥陀仏は、
可能な限り、一生お称えしてゆくのだと思います。
775298:2008/03/13(木) 01:34:12 ID:WLNrGz4d
阿弥陀さまに救われたい方は、
「阿弥陀さまって、どんなだろう」と、
あれこれ想像すると思います。

そして、まだ救われていなくても、
救われる予感だけでもうれしくなって、
「南無阿弥陀仏!」が出てしまうと思います。

救われてなくったって、
「うれしそうだねー」
「だって、阿弥陀さまが救ってくださるんだもん!」というノリで、
進んでゆけるだろうと思います。

そんな方が救われたときのよろこびは、
またいかほどのものでしょうか。

やはり、あふれるほどのものになると思います。

そして、それが楽しみで、ますますうれしくなってしまうと思います。

こうやって、信前でも、盛り上がれます。

阿弥陀さまは、必ず浄土から見てくださっているのですから、
期待に盛り上がりながら、南無阿弥陀仏を信じてお称えしていれば、
必ず導いてくださるはずです。

「どうせ自分なんか」と思う必要はありません。

すべてを弥陀におまかせして、信前も南無阿弥陀仏、
信をいただくのも南無阿弥陀仏、信後も南無阿弥陀仏であると思います。

南無阿弥陀仏
776298:2008/03/13(木) 01:39:07 ID:WLNrGz4d
信後は、弥陀の名前を出さなくても、救われたよろこびを前面に押し出して、
うれしそうで、たのしそうで、恵まれてそうで、満たされてそうな雰囲気を、
バンバンに出せれば、それが良いのだと思います。

弥陀の名を、わざわざ出すことは良くないことですけれども、
内心に秘めながらも、秘めども外相に出てしまう、
このうれしさは隠せない、というのは、いい感じです。

「だって、こんな凡夫が、救われちゃうんだよ!」

というセリフはそのまま口に出せませんが、そういう雰囲気が、
にじみ出てしまう感じが、いい感じだと思っています。

そして、ひとりのときには、「南無阿弥陀仏ー」。

よろこべなくてもいいんですが、よろこべれば、本人もうれしいですし、
まわりもハッピーです。

南無阿弥陀仏
777神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 02:27:34 ID:OiOrZB3n
>773
諸仏の讃嘆される言葉は有り難いけど、私が弥陀を讃嘆する言葉なんて、
有り難迷惑じゃん。自分の讃嘆に依っているのだから。
讃嘆してる気持ちに酔ってる凡夫、酔っ払いの凡夫は、
何を言っても聞く耳持たない。ただ酔いにまかせて、喜び浮かれてるだけ。
そして、その喜びを、俺は、獲信見敬大慶喜を体験したんだと、
お銚子片手に躍ってる。それって自力ですよねー。
778神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 02:29:01 ID:OiOrZB3n
>776
煩悩の造る心だね。
779298:2008/03/13(木) 02:51:02 ID:WLNrGz4d
>>777, 778
他者否定が好きな方ですねー

自力を否定するということは、
救われるとは何か、理屈で追いかけているだけなのでしょう。

弥陀から背を向けて、逃げていらっしゃるのです。

ところが、この身、この心、そのままで、弥陀は救ってくださいますよ。

それがわからぬまでは、
この気持ちがわからぬのも、仕方なし。

否定して否定して、自らの後生を見つめましょうよ。

よろこび合うのが御同行。

南無阿弥陀仏
780298:2008/03/13(木) 02:52:24 ID:WLNrGz4d
弥陀に救われるよろこびがわからないとは、
これまた驚き南無阿弥陀仏。

よろこぶかは機によれど、
その否定はおっかしい。

救われるフリ、救われたフリ、
後生に何の役に立つ。

同行からは、まるわかり。

ごまかし逃げても、つつぬけよ。

南無阿弥陀仏
781298:2008/03/13(木) 02:53:41 ID:WLNrGz4d
他力に救われた後は、
自分の心のよろこびも、
他力といただいて、よろこんでゆくのです。

これは、讃嘆の基本です。

それがわからないんですか・・・
782298:2008/03/13(木) 02:55:00 ID:WLNrGz4d
同行よろこび、ありがたし。

それがわからぬ御同行?

ありえない、ありえない。

にせものにせもの、あっちいけ。

弥陀の救いは、ここにあり。
783298:2008/03/13(木) 03:00:02 ID:WLNrGz4d
凡夫が救われたよろこび。
真宗聖典のあちこちに、書いてある。

それがわからぬ愚か者。

救われる愚か者と、救われぬ愚か者。

愚かとわかって救われる。
愚かだけれど智慧が有る。

南無阿弥陀仏。
784298:2008/03/13(木) 03:01:35 ID:WLNrGz4d
弥陀の救いを隠す者。

弥陀を語って隠す者。

信じていないがその故に、
何を為そうと気にしない。

偽物ほどいて弥陀至り、
凡夫が救われ安堵する。

今に伝わる南無阿弥陀仏。
785298:2008/03/13(木) 03:02:46 ID:WLNrGz4d
弥陀の救いは無比無上。

誰のものにもなりはしない。

求む凡夫をただ救い、
弥陀は救っておよろこび。
786298:2008/03/13(木) 03:03:34 ID:WLNrGz4d
救いを私物と為すものは、
信じぬ故に好き勝手。

弥陀は衆生をただ救う。

南無阿弥陀仏の御名号。
787298:2008/03/13(木) 03:09:33 ID:WLNrGz4d
弥陀に近くて遠き者。

弥陀に遠くて近き者。

真宗聞いたこと無けれども、
救いと聞いて救われて、
獲信見敬大慶喜。

弥陀の理屈をとなえても、
弥陀から離れて南無阿弥陀仏。

世間難信細い道。
凡夫がたよりの大道に、
南無阿弥陀仏がこだまする。
788298:2008/03/13(木) 03:12:00 ID:WLNrGz4d
信じぬ理屈のともがらは、
南無阿弥陀仏を称えない。

お金が欲しくて南無阿弥陀仏。

見事ににせもの南無阿弥陀仏。
789298:2008/03/13(木) 03:13:24 ID:WLNrGz4d
獲信者に負けないよう、
南無阿弥陀仏を称うべし。

南無阿弥陀仏
790298:2008/03/13(木) 03:26:31 ID:WLNrGz4d
たのしいはずの南無阿弥陀仏。

むずかしいことは、何も無し。

凡夫がたのんで南無阿弥陀仏。

本当に、カンタンに救われます。

だからこそ、素晴しいと、命をかけて御布教くださった方々がいるのだと思います。

本当に簡単に、救われるのですから。

「簡単な救いなど、あるはずがない」

そういう思いをひっくり返す、南無阿弥陀仏です。

これほど簡単なものを、あえて難しくしようとする方々がいます。

簡単だからこそ、凡夫にとって、ありがたいのです。
791298:2008/03/13(木) 03:37:57 ID:WLNrGz4d
悩み苦しむ方は、弥陀をたのんで、救われてほしいです。
これまで、ためにためた荷物を、すべて降ろして、
弥陀にすくっていただきます。

弥陀は、どんな方でも、受け入れてくださいます。
792298:2008/03/13(木) 03:40:23 ID:WLNrGz4d
自分でできる方は、その方に歩む道があるでしょう。

こんな自分ではどうにもならぬという方は、
弥陀をたのんでほしいです。

それまでどんな自分でも、
弥陀をたのめば救われます。
793298:2008/03/13(木) 04:31:45 ID:WLNrGz4d
弥陀の救いは、即時の救い。
弥陀の救いは、易行の救い。
弥陀の救いは、無上の救い。
弥陀の救いは、大慶喜。
794神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 08:26:45 ID:c8KVEBjV
しかし、在家善知識に教わらない限り救われることは無いそうです。


795笑いのマートル:2008/03/13(木) 08:59:41 ID:jOsB8myU
別に、在家の善知識じゃ無くったって寺の善知識だって存在するわけだし。
善知識の名前や所在地を明らかにして、
若しも、この掲示板を見ている人間が迷惑をかけないとも限らないから、
言わないだけです。
本当に、この法を捜しているのなら、他に知る方法はあると思いますよ。
毎日の浄土真宗って言うホームページもあるし。
別に秘密結社じゃないけれど、
公共性を考えれば、
名前も所在地も言いたくても言えないのが現状じゃありませんか?
人に名前や所在地を教えろ、と云う前に、この掲示板に、
自分の素性を詳しく書いてから尋ねたら宜しいのではないですか?
796笑いのマートル:2008/03/13(木) 09:15:44 ID:jOsB8myU
ご信心を頂いた瞬間から、他力ですよ。
今は、阿弥陀様に生かされている身だと思っています。
生活をして行く上で、ひとつ息を吸い、
ひとつ息を吐く事も皆、弥陀のお計らいだと思います。
自分で蒔いた種は、自分で刈らなくてはならないけれど、
それすらも、お手伝い下さっていると感じていますよ。
他力の信心を頂いたら、この世に生かされていると言う思いが強いですね。
一度死んだ命です。
弥陀に新たに命を与えられて今を生きている。
全てがお陰様の気持ちになる。
苦も楽も仕事も、与えられたと思えばこんなに楽な気持ちになる。
797神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 09:21:58 ID:GgYcrs/G
秘密の在家善知識を探すよりも
所在を公開している上座部仏教やチベット仏教の師に
ならうほうがよさそうな気がしてきた。
けちゃっぷさんじゃないけどさ。。
798笑いのマートル:2008/03/13(木) 09:38:21 ID:jOsB8myU
本当に救われたいと言う気持ちで捜せば、
いとも簡単に見つけ出せますよ。
何しろ阿弥陀様の方からやって来てくれる。
心がない人間は、阿弥陀仏から逃げているだけだと思います。
別に逃げ隠れしている訳じゃありませんので。
逃げ隠れしているのは、自分の方だと気付けば、あっという間のお膳立て。
799笑いのマートル:2008/03/13(木) 10:21:50 ID:jOsB8myU
何だかんだ言っても死んでみない事には、
本物だったか偽物だったか分からないし。
真実信心なんて本当は、嘘っぱちかもね。
何処にもそんなモノないのかもよ。
人間の作り出した幻想なのかもね。
南無阿弥陀仏を称えることすらままならない私を救ってくれると言う、
南無阿弥陀仏に賭けてみただけ。
修行なんて出来ない私を救うと仰った阿弥陀様に縋っただけ。
所詮、地獄に堕ちる身なれば、
弥陀のお前一人を救うぞのお呼び声に縋っただけ。
もともと地獄に堕ちる身なれば、
信じて縋ってこの世だけでも心を楽に暮らせれば有り難いものだ。
死なない為に生きるより、死ぬ為に今日を生きている有り難さ。
今を生きる為に食事をしていても、裏を返せば、所詮死に向かっている。
矛盾だらけの世の中。
ある医者が、死亡証明書の死因の欄に、
生まれてきたから、と書きたいと言っていた。
人間生まれた時から死が待っている。
死は、老若男女隔たりなく平等に訪れる。
早いか遅いかの違いだけ。
自分は死なないと、まだ生きられると思っていたら大きな間違い。
何時訪れるのか分からない。
800神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 10:50:26 ID:c8KVEBjV
秘密教の布教はスレ違いだし。
捜せというからには、宗教名を明かすべき。
社会のルールは守りましょう。
801笑いのマートル:2008/03/13(木) 11:05:09 ID:jOsB8myU
宗教名で言えば、浄土真宗ですよ。
浄土真宗にも色々ありますから、
それに、御文章にも捜せと書いてありますよ。
あいたずねよ、とね。
土蔵秘事だと思われても、
土蔵秘事でも信じていればそれでいいんじゃないの?
光明なんて見た事もない。
御文章にも所在は明らかにされていない。
知りそうもない人が知っていると書かれている。
御文章をよく読んでみてはいかがですか?
802神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 11:07:20 ID:GgYcrs/G
蓮如教と親鸞教があるようだ。
803神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 12:39:56 ID:c8KVEBjV
>寺の善知識だって存在するわけだし。

何宗の何寺のどのお坊さんが善知識なのでしょうか?
804笑いのマートル:2008/03/13(木) 13:07:24 ID:jOsB8myU
>803
片っ端から探してみれば良いんじゃないんですか?
住んでいる周りに宗派を問わずに寺はある訳だし。
御文章には、在所を探すようにとの仰せ。
805神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 13:10:41 ID:OiOrZB3n
>793
狂喜だよ。凡夫の喜びなんだから、煩悩が造り上げたものだよね。
その煩悩が造り上げた喜びを誇ったり、守ろうとしたり、
真実信心の証だと思ったりしてる。喜び多いもあさまし、だよー。
南無阿弥陀仏の他無いと言いながら、南無阿弥陀仏の若不生者の御心の他に、
自分の喜び心をプラスして、信心得たと思ってる。
それって、ふたごころと言うべきなんじゃない?
自我と言う事が「ある」と確信されてる現代
(無我を本とする仏教と相反する時代)にあって、
ここらへん我が身をせめないとね。自己中心信心ばっかりが、
はばをきかせて、阿弥陀様のお心は捨て置きになっちゃうんじゃないかなー。
806神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 13:13:38 ID:fovh5oGG
ちかごろは、ここを覗くのが日課になってる俺。
なんとなく気になって、仕事の合間に、チラチラと読んだりカキコしたりしてます。
一般的からは、そうとう変わってるのかもしれん。
しかし、このスレで読んだり書き込んだりしてるのは、みんなどんな人たちなんだろねぇ。
どっちにしろ、傍から見たら、すごい変人の寄り集まりみたいに思われるんだろなあ。。。
807笑いのマートル:2008/03/13(木) 13:34:40 ID:jOsB8myU
善知識を探していますが、知っていますか?と、
手当たり次第、聞きまくれば、見付かるかもね。
後生が心配な人の為にある教えですから。
この世を上手く生きようとか、
お金儲けが出来るようになる訳でもないし、
病気が治る訳でもないし。
死んだ後、極楽に往ける約束をして貰うだけですから。
この世で良い事があるなんて思う方がおかしな話になります。
本気で求めれば辿り着くんじゃないんですか?
袈裟着た坊主をお探しなら、そこら中に居ますよ。
お話も立派な方々かいらっしゃいますよ。
先ずは、『善知識様を探しています。』と、
近所のお寺の門を叩いてみるのが宜しいかと思います。
808神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 13:45:31 ID:c8KVEBjV
秘密教の善知識のお坊さんを捜すには、無慈悲にも、
コンビ二より多いといわれる全国に何万件もある寺院をかったっぱしから訪問しろ、とのことです。


809笑いのマートル:2008/03/13(木) 13:50:57 ID:jOsB8myU
>808
本気で後生が気になるなら探すんじゃない?
別に秘密教でも何でもありませんよ。
本気で探している人には、とってもオープンなんですけれど。
810神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 14:03:33 ID:c8KVEBjV
ところで、善知識様は全国に何人ぐらいいるの?



811笑いのマートル:2008/03/13(木) 15:14:27 ID:jOsB8myU
何人くらい居るのでしょうねぇ?
自分と縁のある善知識は
一人居れば十分なんで数えようなんて考えていないから・・・
善知識を探す前に善友を探すほうが手っ取り早いと思いますよ。
善友を探すほうが、コンビニより多い寺を捜すより沢山居るはずですから。
この法を内にしている人は、皆、公に喋らないし、
相手を観て、こちらも話すかどうか考えるから、
実際に真摯に話を聞きたいと私の家を訪れた方も居ます。
誰であれ求める方にはいつでも受け入れられる様にしていますよ。
ただ、実際に本気で求めようと言う方が、
そういう方が本当に少ない。
812神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 15:16:32 ID:qOFicEVU
善知識なんていないよ。

自称善知識はいても、本物はいない。
813298:2008/03/13(木) 15:28:40 ID:WLNrGz4d
>>805
>ここらへん我が身をせめないとね。

あなた様の言う「我が身」というのは、常に他者でしょう?

あなた様は、あなた様を責めたらいかがですか?

それが、あなた様の考え方なのですから。

私は、弥陀に救われたことをよろこび、感謝します。

阿弥陀さまは、実際に、この「我が身」を救ってくださいます。

よろこびを否定するのは、おかしいと思いますよ。

私は、「よろこべるものなら、どんどんよろこびましょう!」という立場です。
(救われても?)我が身を責めよという、あなた様とは、大分考え方が違いますね。

せっかく易行で救ってくださった。弥陀は、私たちがよろこぶのを望んでいると
思います。

弥陀に救われたら、それをどんどんよろこべばよいのだと思います。

出離の縁がないはずの、そんな自分が救われた。だからこそ、うれしく、ありがたいのです。

南無阿弥陀仏
814298:2008/03/13(木) 15:29:58 ID:WLNrGz4d
>>812
そう思う方は、探さない。
だからそれで、良いのです。

出会う前から、「今の世にもいるはずだ」となぜか感じる方が、
探すのです。

自ら意識的に探さなくても、たまたま獲信者と縁を得るかたもいるでしょう。
815笑いのマートル:2008/03/13(木) 15:36:04 ID:jOsB8myU
>812
298さんは、善知識の存在を認めた上で、
この掲示板を立てたんだと思いますよ。
ココは、善知識の存在を認めた上で立てているスレだと思いますよ。
本願寺も善知識を否定して、
善知識と言う言葉を削除する方向で動いているらしいし。
信じない人は信じないで良いんじゃないの?
816298:2008/03/13(木) 15:36:59 ID:WLNrGz4d
>>797
その後の実際のご自分の行動を見てみれば、

>所在を公開している上座部仏教やチベット仏教の師に
>ならうほうがよさそうな気がしてきた。

が本当かもわかるでしょう。

よさそうな気がしてきて、その気持ちが強いなら、実際に訪問して、
教われば良いのです。

同じように、「阿弥陀様に救われてみよう」という方は、
実際に訪問してゆけば良いのです。

どの教えでも、(少なくとも、とりあえずは)納得の行く師を探すことになるでしょうから、
何派であれ、訪問してゆけば良いと思います。

ネットであれこれ読んで、意見形成することに慣れていれば、
探すこと自体が大変です。

上座部仏教でも、チベット仏教でも、どんどん尋ねてみることだと思います。
817298:2008/03/13(木) 15:43:52 ID:WLNrGz4d
>>815
この掲示板がはじまったきっかけは、私は詳しく知らないです。
おそらく、7様であれば、ご存知ではないかと思います。
あくまで、私は298ですから、途中から参加しています。
被害者掲示板で、H2Oさんに、こちらを教えていただきました。

「妙好人と名乗る方が書いていますが、同一人物ですか?」

という趣旨であったと思います。

少しの間読んでから、書き込みはじめました。
818笑いのマートル:2008/03/13(木) 15:49:15 ID:jOsB8myU
私は、てっきり298さんが、始めたのだと思っていました。
819298:2008/03/13(木) 15:52:37 ID:WLNrGz4d
>>818
違いますよ。おそらく、親鸞会関連スレから、派生したのだと思います。
期せずして、親鸞会様との縁が、少しずつ、深くなっている気がします。
現状、活発に活動している団体として、親鸞会があるということなのでしょうか。

私は、ただ、流れに任せるばかり。

被害者掲示板も、教わりました。

ジャンヌは、自分で検索して見つけたのです。
820神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 15:57:12 ID:c8KVEBjV
全国に数人しかいない名無しの善知識を探し出せ、と言われても・・・・。

821298:2008/03/13(木) 16:01:05 ID:WLNrGz4d
>>808
そもそも、秘密教と呼ぶくらいですから、趣旨が理解できていないでしょうし、
揶揄しているだけでしょう。

三部経にも、具体的な寺院名は書いてありません。

◎汝等、宜しくおのおの精進して心の所願を求むべし。疑惑中悔して自ら過咎を為して、
かの辺地七宝の宮殿に生じて五百歳の中にもろもろの厄を受くることなかれ(大経)
822298:2008/03/13(木) 16:04:34 ID:WLNrGz4d
>>820
「数人しかいない」っていうのは、誰の説なんですか?
たとえ、「ひとり」だとしても、求めている方は、探そうとするでしょう。
しかも、私たちが信じている阿弥陀様は、浄土から、私たちのことを、
知っているのですよ。
阿弥陀様だけでなく、諸菩薩も、私たちをご存知です。
そのようなことを受け入れている方であれば、
導かれることが、理解できるはずです。

信じない方は、行動しない。それだけのことです。

あなた様は、本当に求めていますか?
823神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 16:30:00 ID:c8KVEBjV
善知識様は何県にいるのですか?
824笑いのマートル:2008/03/13(木) 17:03:08 ID:jOsB8myU
47都道府県何処にでもいると思いますよ。
この世の中、何処に行くにも交通の便は滞りないんですから。
善友は、それこそ何処にでも住んでいるのだから、
先ずは、善友探しでしょ。
善知識にばかりこだわっていたって、
来世の心配をする方が先だと思いますよ。
縁があれば、自ずと弥陀のお慈悲に催されて、
あなた自身と縁のある善知識の下へ導かれて行く事でしょう。
この世に何人善知識が居ようとも、自分と縁ある善知識は一人です。
何県に住んでいる善知識と縁があるのか、
蓋を開けて見ないと分かりませんよ。
825298:2008/03/13(木) 17:28:26 ID:WLNrGz4d
>>823
よく考えてみてください。
今のあなた様にとっては、一番近いのは、インターネットでしょう。
実際に、こうして書き込んでもいらっしゃるのですから、
抵抗感も、比較的低いはずです。
では、インターネットを通じて、どれほど探されたのかということです。

読んで知ったつもりになっているだけでは、
なかなか先に進めません。

このスレでも、過去スレまですべて読めば、
それなりの量があるでしょう。

お聖教と照らしてゆけば、それなりの時間もかかるはずです。

そうやって、ご自身にできるところから、
尋ね歩くのです。
826神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 17:43:05 ID:9ubhn1rM
>>811 善知識とは善友のことですよ
827神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 18:18:22 ID:c8KVEBjV
何一つ質問には答えてもらえないのですね。
828神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 18:53:43 ID:OiOrZB3n
>813
わが心にまかせず、わが身をせめよって、蓮如さんのお言葉じゃなかったっけ。
出離の縁がなかったのが、この度、出離の縁がありまして、
なんて言うのは、結局、機の深信がないんだよね。
無有出離之縁は、私の本性でしょ。
その無有出離之縁の私を救わんと立ち上がられたのが、
阿弥陀さま。凡夫が造る汚濁の喜びなんてあてになんないじゃん。
あなたに法を勧められた人はかわいそう。そんな無常な喜びを常なるものと
錯覚して、弥陀をたのまず、自分の感情をたのんで、
輪廻を繰り返し続けるんだから。南無阿弥陀仏
829神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 18:54:55 ID:moqmR0Bb
ここは精神病院の隔離病棟か
830神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 19:06:45 ID:OiOrZB3n
>825
インターネットで探した人は助ける法。お釈迦さまは別け隔てないのにねー。
求める人も、求めざる人も。(例、アングリマーラ)
我が喜びを宝物と思って暮らす。塀を築いて宝物が盗られないように、
傷つけられないように、大事に大事にね。
蓋あけてみたら、ただの汚物・煩悩の塊なのにねー。
きれいな箱に入れたり、リボンつけたり、
希少価値があるよーって宣伝すると、それっぽく見えるのかな?
凡そ、如来の誓願とはかけ離れてるよねー。
831神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 19:25:07 ID:c8KVEBjV
>47都道府県何処にでもいると思いますよ。

法然直伝の次第相承の善知識は、最低、全国に47人以上は存在するということでよろしいですね。
それならば、まだ探しがいがあるでしょう。



832神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 19:45:51 ID:c8KVEBjV
善知識は、実は日本に500人ほどいるらしい。
でも、自分からは言わないから、『あなたは、善知識ですか?』と聞かなければいけないらしい。

交番で聞いても、不審人物に疑われるので注意しましょう。
833笑いのマートル:2008/03/13(木) 19:58:31 ID:jOsB8myU
何人居るかは定かではありません。
なにせ看板を揚げていないし。
善知識が直接の善友と云う縁の方もいらっしゃるでしょうが、
善友が全て善知識であるとは限りません。
弥陀の代官と善き人は別です。
本気で極楽浄土を願うならお探し遊ばせ。
縁があれば、信じる事も可能でしょう。
信じないのならそれも良しですね。
沖縄に住んでいても北海道の善知識と縁があるって事も考えられますし。
善知識が何処に住んでいようがあまり問題じゃないと思いますよ。
その前に、善知識の所在を知っている善友を
お探しになった方が早道だと思います。
宝の山に入りて、手を空しく帰る事をばするなんずれ。
見つけた宝は大切に胸にしまって置きなさい。
臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞ
妄念は、もとより凡夫の地体なり。
この世に生きている限り、信心をいただこうが、
妄念に駆られた凡夫でしかありません。
何が真実なんでしょうねぇ?
834神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 20:21:15 ID:c8KVEBjV
極楽浄土に往生する方法は、
観無量寿経にも、往生要集にも、観経疏にも説かれてます。

日本に何人居るかは定かではない匿名の善知識に教わりなさい、などとは説かれてはいません。

『日本往生極楽記』『続本朝往生伝』『拾遺往生伝』『三外往生伝』ぐらい読みましょうね。

835神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 21:02:47 ID:UNR+2+FX
ここにいる人は、みんな、南無阿弥陀仏に向かわれているのですね。
何一つあてにならないこの世の中で、たったひとつ、絶対に
確かな阿弥陀仏のご本願に向かわせて頂くとは、本当に本当に
素晴らしいこと、幸せなことです。

死んでみなければわからない、というのは、摂取不捨のご利益に
あずかっていないときのことです。
信決定したとき、地獄行きがはっきりし、同時に極楽行きがはっきりします。
ほかのことならいざしらず、自力の心なら「わからない」ということもあるでしょうが、
阿弥陀仏のご本願のお力ですから、もう絶対に間違いはありません。

尊いことですね。我がたのむのではありません、たのむ力のない私たちですから、
阿弥陀仏がたのむこころも丸ごと、わたしたちに功徳のすべてをくだされる。

それを聞く一つで頂いたなら、それからはもうずっと、
仏様のまことのこころと一つになって、離れると言うことはありませんから、
生きているうちからこころは浄土にあそび、肉体の死とともに、ほんとうに浄土に
生まれさせて頂ける。

一向専念無量寿仏とならせて頂く、他力の信心の素晴らしさ。
頭でわかったつもりになるのではなく、体ごと知らせて頂けるのですから、
浄土真宗は素晴らしいのです。

ありがとうございます、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
836神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 21:17:46 ID:UNR+2+FX
後生ほどの一大事、自分のこころをあてにしていては到底、まにあいません。

善知識は、阿弥陀仏をたのめ、と教えて下さるかたです。
身近に善知識が見つからないのなら、お聖教を読みやぶれるまで読みましょう。
すばらしい善知識がたが、導いてくださいます。

聞即信、必ず阿弥陀仏の光明に遇わせていただけます。
837神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 22:25:29 ID:zCuaKUYH
探せ、探せ、と言われても、
死の床に臨む人はどうでしょうか。
体が動かせない人はどうでしょうか。
日々の雑事がそれを許してくれない人はどうでしょうか。
引きこもっている人はどうでしょうか。
彼らは全員ダメということになりますね。
意外に阿弥陀様の教えも敷居が高い。
838神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 22:31:04 ID:TtlhN8y+
だいじょうぶ。たのませてくれるよ!
839神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 22:42:17 ID:c8KVEBjV
デリバリー善知識サービスもあるよ!
840神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 22:56:18 ID:TtlhN8y+
>>839
いや、冗談じゃなくて本当に。
求めているけど動けない人には、来てくれることだってある。
お金にもなんにもならないのに、真心からやってきてお取り次ぎしてくれます。
841神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 23:07:29 ID:OiOrZB3n
>833
そういう事をあなたに教えてくれた人って、本当に善知識なのかなあ?
本気で探せ、ってお勧めをしなさい、なんて事を教えている人は、
弥陀をたのめと教えるばかりではない人って事になるよね。
何にも知らない人に、付帯条件をつけて、ひとり悦に入ってる人は、
善知識とは呼べないんじゃないかなー。
842神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 23:31:43 ID:VTQ0yyh9
298と渡海難と笑いのマートルとけちゃっぷは善知識でも妙好人でもない。
つまり、このスレに善知識と妙好人はいない。

これだけは言える。
843神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 23:43:50 ID:c8KVEBjV
>求めているけど動けない人には、来てくれることだってある。
>お金にもなんにもならないのに、真心からやってきてお取り次ぎしてくれます。

どこの誰に頼めばいいのでしょうか? いい加減に教えてください。

844神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 23:50:01 ID:TtlhN8y+
>>843
知りたいと思ってないくせに〜
>834で善知識を否定してるし、極楽浄土に往生する方法だって
本を読んで、詳しく知っているらしいじゃないですか。えらい!
あなたには善知識は必要ありません。そのまま極楽にいってくださいませ。
845神も仏も名無しさん:2008/03/13(木) 23:59:44 ID:TtlhN8y+
ところで841さんの書き込みに、最近キレがなくなったような。
惰性で書いてるのかな。このスレに飽きてきた?
846神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 00:04:15 ID:c8KVEBjV
善知識に教わらなくても、極楽浄土に往生できるのでしょうか?
847神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 00:26:20 ID:D2fLD0+x
 阿弥陀様が助けに来てくれている。自分は阿弥陀様を求めて探し
回ってる。そして二人は陸上トラックの様な円形のコースいる。
人呼んでコース輪廻。

 阿弥陀さまー>入 救うよ!待ってて今行くから!>仏

 入…(阿弥陀様の声がする!円形コースだからこのまま走れ
    ば阿弥陀様に後ろから追付けるはずだ!)

うおお!阿弥陀様ー!>入====33       ちょwww>仏
 
 
848298:2008/03/14(金) 00:26:45 ID:exy4/fSE
後生を信じていない方は、善行からはじめるのが良いと思いますし、
「言うだけなら、言ってみよう」という方は、
南無阿弥陀仏を口に出すことからはじめるのが良いと思います。

探している方は、正信あることを聞いたとき、
確認しようとする心が動くはずです。
849298:2008/03/14(金) 00:29:12 ID:exy4/fSE
>>837
その方々は、あなた様のお知り合いなのですか。
そして、弥陀を求めている方々ですか。
あなた様のお知り合いであれば、
まずは、何をさておき、あなた様ご自身が救われることが、
肝要であると思います。

あとは、その方々との信頼関係を築いてゆくことだと思います。

「俺は体が動かなくて、善知識を探せないけど、
俺のかわりにお前が探してくれ。
お前が探した善知識なら、俺は信じる」

という信頼関係があるならば、あなた様が救われたとき、
あなた様のお知り合いも、スムーズに救われるだろうと思います。

南無阿弥陀仏
850298:2008/03/14(金) 00:32:48 ID:exy4/fSE
>>846
善知識に教わらないことを望むなら、ご自身で追究し、
救われるよう、精進したらよろしいかと思います。

教わって救われたい方は、
次第相承の善知識を探し、
六字のいわれを聞き開き、
弥陀をたのんで、易行にて、往生治定すれば良いのです。

まず大切なのは、あなた様が何を望むかということです。
851298:2008/03/14(金) 00:34:18 ID:exy4/fSE
>>835
>信決定したとき、地獄行きがはっきりし、同時に極楽行きがはっきりします。
>ほかのことならいざしらず、自力の心なら「わからない」ということもあるでしょうが、
>阿弥陀仏のご本願のお力ですから、もう絶対に間違いはありません。

これは、あなた様のご体験ですか。
それとも、教義上、学んで聞き知ったお話でしょうか。
852神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 00:38:45 ID:QtNJ7NY2
298や渡海難は善知識がもういいなら就職しなよ。
こればっかりは自力でね。ただ善知識に会うより
もずっと簡単だから。
 さー、歎異抄読んで寝るわ。
853298:2008/03/14(金) 00:39:53 ID:exy4/fSE
お聖教も大切ですが、あくまでも、六字を信じるためのもの。
弥陀の救いを信じる方は、お聖教を読む必要もありません。
善知識の話を聞いて、「そうなのか」とうなずいて、
弥陀をたのんで信心決定です。

お聖教は、「そうは言っても、そんなもの信じられないよ」という方が、
理屈でもって次第に納得し、六字を信じる気分になってゆくためのものです。

ご聴聞も、同じです。

南無阿弥陀仏
854神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 00:46:25 ID:NywIsfWN
>>846
>善知識に教わらなくても、極楽浄土に往生できるのでしょうか?

特定の善知識に教わらなくてもできます。
往生極楽のために必要なのは、阿弥陀仏から賜る信心ひとつ。

ただ、善知識は阿弥陀仏に一心一行に向かえと教えて下さる方なので、その方と
あわなければ阿弥陀仏に向かうことができないと言う意味では、できませんね。
855神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 00:46:39 ID:1EZMM7Tz
>善知識に教わらないことを望むなら、ご自身で追究し、
>救われるよう、精進したらよろしいかと思います。

全国に何人いるか定かではない次第相承の善知識に教わらなくとも、
信心決定する場合もあるということなのですね。
856神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 01:32:55 ID:NywIsfWN
>>851
>これは、あなた様のご体験ですか。
>それとも、教義上、学んで聞き知ったお話でしょうか。

教義でももちろん教えて頂きますが、聞くと知るとでは大違い、です。
仏様の真実が貫いているゆえに、ほかとは比べ物にならないほど明らかな、体験です。
すべてご本願のひとりばたらきによって、わからせていただくことです。

>>853
お聖教、聴聞をおろそかにしては、あやういですよ。
お聖教、聴聞より大事なものは、南無阿弥陀仏ひとつ。

阿弥陀様から頂く、他力の信ひとつです。

たのむもたのまぬも自力のはからい。
最後には投げ捨てて、絶対他力の本願海に帰入しなければ、往生一定とはなれません。
それには、自力のたのみ心をあてにして安心していては、絶対にダメです。

けれどすべてのひとを必ず救わずにはおかないとの、
阿弥陀仏の強い強いご念力に引き出されて、皆様、ここにいるのです。
尊いことですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
857298:2008/03/14(金) 01:36:40 ID:exy4/fSE
>>856
>仏様の真実が貫いているゆえに、ほかとは比べ物にならないほど明らかな、体験です。
>すべてご本願のひとりばたらきによって、わからせていただくことです。

あなた様ご自身は、その明らかな体験を、
体験なさっているのですか?

それとも、「聞くと知るとでは大違い」ということを、
聴聞で教わって、それをそのまま書いているということでしょうか?
858298:2008/03/14(金) 01:42:05 ID:exy4/fSE
>>855
素直に聞ける状態には、無いようですね。
ご自身のお考えがあるならば、
私に聞くよりも、そちらを優先してください。
859神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 01:46:29 ID:Vwx0pp0h
>845
忙しいからねー。もう書くべき事は書いてるし。
善知識のことにしても、真実信心のことにしてもね。
善知識(悪知識)に弥陀の本願のおいわれ聞いて、
感動して、こんなのいままでなかったーっていう体験あてにしてる人は、
その体験をあてにして生きていけばいいんじゃないの。
それは弥陀をたのんでるのではなくして、我が心をたのんでいるだけ。
感情の揺さぶりに、人は弱くて、その感動やら体験やらに身をまかせてしまう。
そんな事に流される私だからこそ、成就された他力の救いだったはずなんだけど、
ホント、人ってつくづく恐ろしいね。
感情や欲望にまかせて他力の救いを平気で食い物にする。
独占欲にまかせて、阿弥陀さまの心臓をえぐりだして、
その心臓を握って、俺こそは信心獲得の機なりと叫ぶ。
凡夫の煩悩成就のために起こされた本願じゃなかったのに。
煩悩に利用される阿弥陀さまが、かわいそう。
それでも、不取正覚と言われた阿弥陀さま。なんで切なる誓願を聞かないんだろ。
凡愚をはるかに超えてるのに、今、なんでまた凡愚をすくおうとして下さるの?
ホントこんな奴の相手するのやめときゃいいのに。
自業自得で地獄に堕ちる、それがあたりまえの私たちなのに。
ごめんね、南無阿弥陀仏
ありがとう、南無阿弥陀仏
860298:2008/03/14(金) 01:49:25 ID:exy4/fSE
>>856
>お聖教、聴聞をおろそかにしては、あやういですよ。

お聖教、聴聞がどうであるかは、直接の関係は無いと思いますが・・・

すべては、南無阿弥陀仏の六字に収まっていると思います。

あなた様がご自身が、自身を指して「あやうい」と言うのであればわかりますが、
お聖教をほとんど読まなくても、また、ほとんど聴聞しなくても、
信心決定する方はいます。

お聖教読まなくても、弥陀をたのめば信心決定致します。

そう聞いても信じられない方のための、
お聖教であり、聴聞です。

それらも結局は振り捨てて、弥陀をたのまねばなりません。

他力信である由縁です。

あくまでも、信心為先であり、弥陀をたのめる方は、まず弥陀をたのむべきであると思います。

それが信じられない方は、ご聴聞です。

真宗にピンと来ない方は、善行から入ります。
861神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 01:56:47 ID:Vwx0pp0h
>858
人を責めるなよ、我が身を責めよ。いたらない所があるなら、
相手が納得信用しないなら、自分の言動に問題があると、
まず、我が身を責めるべきと善知識蓮如上人は言われてませんでしたかねー。
お互い、出離の縁なき御同朋ならば、上座に座らず、とことん膝突き合わせるべきかと。
横レスごめんね。
862神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 02:00:27 ID:Vwx0pp0h
>860
よくわかんないけど、文字が読めるなら、お聖教を大事にしよーね。
読み破れ、掛やぶれのお勧めがあるんですから。
863298:2008/03/14(金) 02:07:54 ID:exy4/fSE
信心獲得をするために、私が知っている確実な方法は、
次第相承の善知識に会い奉り、
六字のいわれを聞き開き、弥陀をたのむことです。

他の方法があるという方は、その方法を実践したら良いでしょう。

その方法の有効度については、私は知りません。

しかし、私が言っている方法は、凡夫が弥陀をたのみ、
100発100中で信決定する方法です。

そのような方法があると信じられない方は、探しもしない。

ですから、別に、困りません。

もともと、信じていないのですから、その方の道を歩めば良いだけです。

信じる方は、探し、導かれ、救われます。そして、易行であると知ります。

私は、そのような方が、ひとりでも多く出ます事を、願っております。

そして、私と同じようにして信をいただいた方は、
他力の行とは何かを理解し、非行の行とは何かを理解し、
他力の信というのは、正に他力であって、自力の信ではないのだということ、
「知った、わかった」とやっても、何も意味もないことを、
明らかに理解することでしょう。

弥陀にたまわる他力信は、まさに他力の信であるということが、
あざやかに理解され、そこから先は、御恩報謝の南無阿弥陀仏を続けてゆきます。

南無阿弥陀仏
864298:2008/03/14(金) 02:10:22 ID:exy4/fSE
>>861
そういうあなたが私を責めてるわけですが。
あらゆる方に納得信用いただくことなど、できません。
あなたは、できますか? できないはずです。

あなたは、他人を責めてばかりですね。
865298:2008/03/14(金) 02:22:20 ID:exy4/fSE
あらゆる方に納得いただくどころか、
ほとんどの方には、理解されないはずです。

だからこそ、「お聖教の通りだ」と納得されます。

それでも、「凡夫が一度で救われる南無阿弥陀仏があるはずだ」と
思われる方も、中にはいらっしゃいます。

そう言うことを言えば、「そんなものはないよ」と否定する方々がいるだろうことは、
このスレを見れば、容易に推測できます。

そのような求めている方に対して、
私は、「確かにそういう南無阿弥陀仏がありますよ」ということを、
お伝えしたいのです。

「そんなものはないよ」と言う方は、単に知らないだけかもしれません。

ですから、自信を持って、探してほしいと思います。
866298:2008/03/14(金) 02:27:35 ID:exy4/fSE
探すときに、マニュアルになるのが、御文様です。

御文様を繰り返しご拝読し、
御文様と同じ内容の信心を探してゆきます。

自身の直感を信じ、弥陀の導きを信じて、
探すのです。
867298:2008/03/14(金) 02:29:45 ID:exy4/fSE
この一連のスレでも、御同行とおぼしき方々が、散見されます。

御同行で、このスレを見ているのは、本当に極一部だけのはず。

ですから、私は意を強くするのです。

信じる方には、探してほしいです。

そして、今生にて、流転を打ち止めにしてほしいです。
868神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 02:29:53 ID:Vwx0pp0h
>863
それ自体、間違ってたんですよ。確実な方法とあなたが思っていること自体、
自力のはからいだったんですから。
>864
私の言葉じゃないからね、蓮如さんのお言葉だよ。
蓮如さんを善知識と思って生きる人達にとっては、金言だよー。
もちろん、私にとってもね。あなたは金言を金言として受け取らないんだから、
本音は、蓮如さんなんかどうでもいいんじゃないかな?
自分が救われた感動に酔いたいという煩悩が本音。
そして、そんなのを宝物だと勘違いして欲しがる、
同じく煩悩に燃える人を釣り上げる。
自分と自分の善知識(悪知識)を正当としたい煩悩に動されて、
それに生きるのが、真実にかなった生き方だと思ってる。
弥陀を一心にたのめと勧めるばかりなのに、余計なはからい加えないでね。
869298:2008/03/14(金) 02:31:04 ID:exy4/fSE
>>868
なぜ、間違いとわかるのですか?
そして、あなたが正しいとわかるのですか?

あなたの論法は、他人に対しては、「余計なはからい」、
自分に対しては、無批判です。

それで、誰が救われるのですか。
870298:2008/03/14(金) 02:34:49 ID:exy4/fSE
>>868
あなた自身は、自力のはからいまみれの泥凡夫では、ないのですか。
上座から注意しつづけているのは、誰ですか。

蓮師の金言は、金言です。

あなたに、私の本音が、どうしてわかるのですか。

私は、あなたは、たいして求めていない方だから、
今の状態(わかり方)で、満足しているだけだと思いますよ。

自力の信など何の役にも立たぬと、
あなた様が理解しているようには、私には思えません。

あなたは、ひたすら、他者否定を繰り返すばかり。
弥陀への信心は、どこにあるのですか。
信心を、あらわしてください。

蓮師の金言を金言というのであれば、
私の忠言にも、耳を傾けたら、いかがですか。

それとも、他人の言葉は、耳に入りませんか。
871298:2008/03/14(金) 02:37:42 ID:exy4/fSE
>>868
蓮師の金言を金言と言うなら、はっきり申し上げますが、
私は、あなたの信心は、「わかったつもり」の信心であると思います。

いったいいつ、弥陀をたのんだのですか。

弥陀は我らを救ってくださると言いながら、
ひたすら私への否定を繰り返していますね。

あなたが、あなたの言う通りのことを信じているなら、
私も弥陀に救われていると思うはず。

否定のための否定を繰り広げている方だと解しています。

おそらく、たいして後生のことなど信じていないから、
いい加減なことを書けるのでしょう。

誰もが弥陀に救われると言いながら、
弥陀の救いを、えらく狭いものにしていますね。
872神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 02:38:35 ID:Vwx0pp0h
>867
そりゃ、あなたの意見に同意する人は少ないよね。
当たり前じゃん。真宗騙って、実は自力歓喜の宗旨すなわち、
298宗の同行なんて、何にも知らない人が網にかかるだけだよ。
873298:2008/03/14(金) 02:39:17 ID:exy4/fSE
>>868
あなたの考え方は、誰でも既に弥陀に救われている、というようなものでしょう?
あるいは、「南無阿弥陀仏を生まれてはじめて一度となえたときに、
弥陀をたのんだのだ」というような考え方でしょう?

違うのですか?

一体誰が救われて、誰が救われていないのですか?

否定するばかりではなくて、はっきりとあなたの信心を、
あらわされては、いかがですか?

あなたの考えでは、誰が弥陀に救われていて、
誰が弥陀に救われていないのでしょうか?
874298:2008/03/14(金) 02:41:36 ID:exy4/fSE
>>872
私は、救われ方まで、書いています。
あなたは、否定するばかり。

では、弥陀に救われたい方は、どのようにしたら、
救われるのですか?

あなたは、示せるのですか?
875神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 02:48:52 ID:Vwx0pp0h
>871
ホント、自力のかたまりですね、驚いた!
しかも、過去にあった秘事法門の人の言い分とさして変わらない。
人って、江戸時代から変わってないんだなーって改めて思うね。
まあ、どこがどう自力なのか、明日、また詳しく書くねー。
876神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 02:52:16 ID:Vwx0pp0h
>873
認識が甘いよー。よくそれで、聞分けたなんて思えるもんだ。
詳細は明日ね、おやすみ、南無阿弥陀仏
877298:2008/03/14(金) 02:52:23 ID:exy4/fSE
>>875
どこがどう自力って、私の行為が自力なのは、当たり前でしょう・・・

肝心なのは、

1)弥陀に救われたい方は、どうすればよいのか

そして、

2)誰が救われて、誰が救われていないのか

ということです。

私が言うこと為すこと自力なのは当たり前ですから、
そんなことを示しても、無駄です。

大切なのは、他力の信を、どのようにしていただき、
実際に自分が、どうやったら救われるのか、
そして、有縁の方に、どうやって救われていただくのか、
ということです。
878神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 03:33:56 ID:ruH/p1dF
何か難しくてよく分からんけど、私はいちいち念仏はしないが、他力、お蔭さま、有り難いという考え方が好きで、真宗門徒だと堂々と言ってる。

数年前までは、ただ家の宗派だ位にしか思ってなかったし、今でも寺の行事に参加するような熱心な門徒でもないが、寺関係でない真宗にまつわる本を読んでいるうちに、「そうなのか!」と、パッと目の前が開ける思いがした。

今考えても、なんでそういう本を読もうと思ったのかも分からない。必死で求めようとした訳でもない。何か分からないけど、何かに導かれたかのように出会った感じ。

でもそれからは、必要以上に悩み苦しむ事もなくなったし、多少悩んでも、いつか何かのヒントになるのかも…、そんな苦しい時だけど助けてくれる人もいるし…と思えるようになった。

でも所詮はアホなんだから、それ自体幸せな勘違いかもしれんし、人にそう考えなさいと押し付ける訳にもいかん。それでも私自身は何か知らんけど、波はあっても心穏やかに生きていけてるし、まあいいか、なんて…

無理して信じようとしてもしょうがないし、無理な時は無理やろ何事も、って今は思ってます…
879298:2008/03/14(金) 03:40:19 ID:exy4/fSE
>>878
導かれて、ラクになって、真宗門徒という自覚が生まれて・・・
素敵なことだと、私は思います。

南无阿彌陀佛
880298:2008/03/14(金) 03:42:54 ID:exy4/fSE
>>875
実際、あれこれ教えていただけるなら、それは、とてもうれしいことです。

特に、秘事法門云々については、具体的に、
どういう秘事法門と、どこが似ているのか、詳しく教えていただけたら、
とても助かります。

なぜかと言えば、もうずーっと、この(一連の)スレでも、秘事法門と呼ばれることがつづき、
具体的な指摘は、ほとんど無いからです。
881298:2008/03/14(金) 03:44:31 ID:exy4/fSE
>>876
「認識が甘いよー」の意味が、よくわかりませんでした。

詳細を、お待ちしております。

南无阿彌陀佛
882神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 09:15:23 ID:1EZMM7Tz
>他の方法があるという方は、その方法を実践したら良いでしょう。
>その方法の有効度については、私は知りません。

仏教には他を認める寛容さがあります。
自分達以外の宗教の有効性は認めないというのではカルトと思われますよ。

883神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 09:23:12 ID:1EZMM7Tz
>この一連のスレでも、御同行とおぼしき方々が、散見されます。
>御同行で、このスレを見ているのは、本当に極一部だけのはず。

一般的には、全国に何人いるか定かではない次第相承の善知識など認知されていません。
スレタイも、通常の浄土真宗のものなのであたりまえです。
それを、自分達がさも正統かのように印象操作をするのは止めた方がいいですよ。
まず、自らの団体名を明かすべきです。そうすれば、見ている人ともまともな対話ができるでしょう。
884神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 10:12:31 ID:0G/MVvBc
>>848
> 善行からはじめるのが良いと

>>850
> 善知識に教わらないことを望むなら、ご自身で追究し、
> 救われるよう、精進したらよろしいかと思います。


阿弥陀さまの呼びかけに逆って自力に励めと言っているように思えるが・・・。
「善行」「精進」って誰のどこの教えって感じ。
オームの麻原でさえもっともらしく仏教後を使っていた。
もっともらしいから、高学歴のエリートでさえ信じてしまったんだろ。
統○教○、ヤ○ギ○会、エ○バの証人・・・カルトと呼ばれる宗教も一応はそれらしい教義を称えている。
そして、自分たちだけが正しい教えを受け、自分たちだけが救われると信じている。
目覚めれば実にバカバカしい教えを信じ込んでいたと思えるが、盲信している間は・・・。
885神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 10:35:08 ID:+zbyM5AB
不審だなと思ったら、スレをよく読んで、発言の流れを確認したらよいと思います。
886神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 10:59:30 ID:0G/MVvBc
>>885
話の流れで時には自力を推奨する、
そんないいかげんな教えだとは思わないがな、
阿弥陀仏の教えは。
887神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 11:21:44 ID:+zbyM5AB
なるほどなるほど。
どちらにせよ、あなたのおっしゃるように盲信はよくないですよね。
いいことおっしゃってます。点検は欠かせませんね。
888神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 11:27:30 ID:0G/MVvBc
絶対他力の教えが信じがたいから、自分たちが理解しやすく「信前は・・・」という言い訳をつけて
「もろもろの雑行雑修自力」を手段として正当化しているように感じる。
自分の都合に合わせて、阿弥陀さまの教えをねじ曲げているように思える。
889神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 11:36:07 ID:+zbyM5AB
>>888
どこがどう、教えをねじ曲げているのか、検証されてみてはいかがでしょうか。
あなたの信心と比べてみて、どこが間違っているか考えるのも、たいへんに有意義かと思います。
890渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/14(金) 11:48:51 ID:rNfgwXbd
>889
 あなたは298さんじゃないけど、298さんのスタンスを真似して2ちゃんねるで
そのスタンスを楽しんでいる感じですね。

 僕は298さんのスタンスを真似しようとは思わないけど、298さんと同じような
スタンスに立つことは、決してむずかしいことじゃない
 ようするに、自分の確信を聖教との関係で検証することを放棄し、自分の信は
絶対に間違いないと確信すればいいだけですからね。自分と相手との考えが
違っていれば、相手の考えは聖教との関係が外れているという言い方をすれば
いい。
 機の深信さえ取り払えば誰でも自分が阿弥陀仏になれるという話の典型みた
いなものだ。
891神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 12:22:02 ID:+zbyM5AB
スタンス云々は、実はどうでもいいことであると思います。
要は、自分がどういう信心をいただいているかを考える場ができれば、議論に優位に立とうが劣勢だろうが、問題ではないのかと。掲示板にも怨憎会苦があるのでしょうか。
人というものは、なかなかアタマの固いものですから、どうしても自論にこだわってしまいます。
いろいろと感情的なこともでてくるでしょう。しかし、それだからこそ、他力というものを考えることができるのだと思います。
そして、スレを読む人も、真剣に考えている人であれば、何かひっかかるところを感じるはず。
どういうふうに考えるかは、人それぞれであります。それは仕方がないですね。
まあ、私は教学的なことは何も知りませんから、大きなことは言えませんけどね。
892渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/14(金) 13:05:01 ID:rNfgwXbd
>891
 何を仰りたいのかよくわかりません。世の中には、僕に理解できないようない
ろんな考え方があるのでしょうね。
 http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/413 に書きましたが、
 現代の浄土真宗は、仏教としては壊れているようです。

 宗教的アイデンティティーを構築している人がたくさん群がっている宗教が、
実は壊れている宗教であれば、そこには収拾のつかない理解不能の様々な
考え方が、人の数だけ散乱している。

 あなたの考えも、とりとめもなく散乱しているそんな理解不能の思想の一つ
だと思います。
893神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 13:30:18 ID:+zbyM5AB
私はこのスレで自分の信心の再検証をさせていただいています。
毎日、ドキドキワクワクしながら覗いています。
このスレの住人の方々、本当にありがとうございます。
894笑いのマートル:2008/03/14(金) 13:45:07 ID:OmHfbvfJ
私は、自らが善知識なんて、
一言も言っていないのに勝手に誤解されても困ります。
妙好人だなんて事も言っていませんよ。
凡愚の身です。
団体所属していないので、団体名もありません。
ただ、善き人の仰せに従い信じているだけです。
知ればなぁんだって思うだけでしょう。
妄念が地体の我らですから、
結局自分で自分を惑わし、かどわかしているだけだと思いますよ。
妄想は楽しいですから。
895神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 13:48:53 ID:ZL6CDQl6
>>892
>http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1179146870/413 に書きましたが、
>現代の浄土真宗は、仏教としては壊れているようです。

渡海難の頭の中も壊れてるけどな。
896笑いのマートル:2008/03/14(金) 14:00:50 ID:OmHfbvfJ
自分こそは、マトモな人間と思った瞬間に、
マトモでないのはないでしょうか?
所詮、宗教なんて自分よがりなんだから。
我こそは正しい道を歩んでいるって思っているんじゃないの?
浄土真宗は、南無阿弥陀仏の六字に凡て篭っているんだから、
それ以外は必要ないんだと思いますよ。
どんな時も南無阿弥陀仏。
善知識の下で一念帰命するのも南無阿弥陀仏。
897笑いのマートル:2008/03/14(金) 14:26:07 ID:OmHfbvfJ
御文章は、信心いただく前の人間には、信心の道標。
信心いただけば鏡へと変わる。
横柄に読めば、宝を目の前にして断念せざるを得ない。
要が分かれば、信心獲り易し。
自分の後生、いかようにも自分の業縁。
宿縁を歓べる身なればこその南無阿弥陀仏。
898笑いのマートル:2008/03/14(金) 14:30:20 ID:OmHfbvfJ
さぁて、すごとでもすんべかなぁ?
たいすたすごともねぇけっどもよぉ。
おらぁどこさすんどんだべなぁ?
899神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 15:05:08 ID:F+wIZpfR
善知識の浅いご恩のおかげです。
900298:2008/03/14(金) 16:32:46 ID:YV80QrAN
>>891
掲示板にも、怨憎会苦は、あるのでしょうね。
そして、そのような中、翻弄されてしまう私たちが、
そのままで救われてしまう不思議さだと思っています。

>>893
私も、いろいろと自分がわかるきっかけをいただいていて、
感謝しています。

自分の心がいかに小さいか、照らし出されます。
誰でも救う阿弥陀さまの大きさに、
感謝します。

六字と一体になれば、
往生は、阿弥陀さま任せ。

ありがたいことです。
901298:2008/03/14(金) 16:41:23 ID:YV80QrAN
>>894
妄念が体では無く、南无阿彌陀佛が体である。
いただいていない人には、わけがわからないでしょうし、
「何が違うのか?」と思うと思います。

それは、疑い、怒りをぶつけているということだと思います。

このような自分が、いただけたことは、本当にうれしく、ありがたいことだと思うと同時に、
このわかり難き法に、いつか気付くきっかけが訪れて、
求める方が現れることを、願っております。
902298:2008/03/14(金) 16:43:16 ID:YV80QrAN
永い流転に結論が訪れ、南无阿彌陀佛によって、
迷いにピリオドが打たれます。

法性から迷い出る、永い永い旅もおわり、
また還ります。南无阿彌陀佛
903298:2008/03/14(金) 16:48:46 ID:YV80QrAN
六字のありがたさが、これから称揚されてゆくだろうと思っています。
インターネット時代ですから、これから、御同行のページも、増えてゆくでしょう。
そうなれば、次第に、探し易くなるだろうと思います。
904神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 17:18:11 ID:1EZMM7Tz
現在開設されている、真宗系の多くのページは御同行のものではないということですね。
905笑いのマートル:2008/03/14(金) 18:04:15 ID:OmHfbvfJ
横川法語に、
まづ三悪道を離れて人間に生るること大きなるよろこびなり。
身は卑しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思ふことかなはずとも地獄の苦に比ぶべからず。
世の住み憂き葉厭ふたよりなり。
このゆゑに人間に生まれたることを喜ぶべし。
信心あさけれども本願深きゆゑに、たのめば必ず往生す。
念仏ものうけれども称ふれば定めて来迎にあづかる。
功徳莫大なる故に。
本願に遇ふことを喜ぶべし。
また云く、妄念は、もとより凡夫の地体なり、
妄念のほかに別の心はなきなり。
臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞ
と心得て念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずる時こそ、
妄念をひるがへして覚りの心とはなれ。
妄念のうちより申し出したる念仏は、濁りにしまぬ蓮のごとくにて、
決定往生疑あるべからず。
906298:2008/03/14(金) 18:08:25 ID:YV80QrAN
>>904
おそらく、多くは違うだろうと思います。しかし、私が言うからといって信じるのではなく、
あくまでも、ご自身で判断するようにしてくださいね。

ご自身の、有縁の道を歩んでゆくことが肝要だと思います。
907笑いのマートル:2008/03/14(金) 18:09:04 ID:OmHfbvfJ
訂正
世の住み憂きは厭ふたよりなり。
の変換ミスでした。
908神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 18:11:36 ID:0G/MVvBc
>>896
> 所詮、宗教なんて自分よがりなんだから。

仏陀の覚りはひとりよがりでしょうか?
そんな独善的なものを真実と呼ぶのでしょうか?
いつどこで誰にあっても正しい、そういうものを真実というのではないでしょうか?
909笑いのマートル:2008/03/14(金) 18:17:19 ID:OmHfbvfJ
揚げ足取ってお遊び下さいませ。
910298:2008/03/14(金) 18:43:13 ID:YV80QrAN
>>886
真宗においても、善行は、いつでも推奨されていると私は考えます。
その上での、悪人正機です。
911298:2008/03/14(金) 19:09:38 ID:YV80QrAN
弥陀の光明は、この地上だけでなく、六道すべてに、また、この宇宙だけではなく、
他の宇宙にまで、くまなく届いているのであると思います。

摂取の光明を受け入れるかどうかは、本人次第であって、
あくまでも、望む方のためのものです。

受け入れる方は、三恒河沙の諸佛のお育てにあずかっているからなのですから、
本当に手間ひまのかかる菊の花でございます。

このような手間ひまをかけていただきまして、
おかげで咲かせた清浄心、心に育つ南無阿弥陀仏を、
泥の妄念の中からでも、汚れのなき南無阿弥陀仏を、
これからも、お称えさせていただきたいと思います。

南无阿彌陀佛
912神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 20:40:17 ID:0G/MVvBc
>>910
本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。

念仏は行者のために、非行・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと云云。
913笑いのマートル:2008/03/14(金) 20:44:32 ID:OmHfbvfJ
南無阿弥陀仏は満願成就なれば、南無阿弥陀仏の他に善行はなし。
914神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 20:45:49 ID:0G/MVvBc
>>910
> 私は考えます。

あなたの考えなら298教でしょう。
また、揚げ足取りって言われるでしょうが、他人には聖教を読めだの、証拠を示せといいながら、
自分たちは、自分の考えだの、独り善がりだの・・・自分勝手だよ。
915神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:02:16 ID:0G/MVvBc
>>911
> 弥陀の光明は、この地上だけでなく、六道すべてに、また、この宇宙だけではなく、
> 他の宇宙にまで、くまなく届いているのであると思います。
>
> 摂取の光明を受け入れるかどうかは、本人次第であって、
> あくまでも、望む方のためのものです。

受け入れないってことは届いてないってことだよ。
くまなく届いているはずなのに、届いていないところがあるってどういうことだよ。
916神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:05:01 ID:NywIsfWN
そもそも私とはどんなものかと法の鏡で見せて頂けば、寝たい食いたい楽したい一杯、
欲が遮られればたちまち怒りの炎で一切合財焼きつくし、怒ってもどうしようもないとなれば
いつまでも愚痴愚痴と恨み言が尽きない。

そんな私を救う仏様があると聞けば、やれありがたやと拝みはしても、拝む方向がそもそも間違い、
自分の心がこしらえた何かを、後生大事に有難がっている。迷いの心でこしらえるものですから、
鰯の頭にも劣ります。

そんなぐあいに、到底助かる縁のないことが、本願のお力によって分からせて頂けば、
そんな衆生を先刻ご承知の阿弥陀仏のご本願ですから、堕ちたそのときが摂取不捨と
すくいとられ、往生一定の身とならせて頂けるのです。
ご本願の通りに助けられてこそ、信心の行者とならせて頂き、御礼のお念仏を
称えずにいられなくなります。

本当に言葉もこころも絶え果てた先に、堕ちる先から救われてあったと
分からせて頂く、尊い尊い南無阿弥陀仏、本願他力のお念仏です。
917神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:13:09 ID:NywIsfWN
>>874
>では、弥陀に救われたい方は、どのようにしたら、
>救われるのですか?

ご本願を聞き開くひとつ、です。

>>863
>しかし、私が言っている方法は、凡夫が弥陀をたのみ、
>100発100中で信決定する方法です。

もちろん、既に、わたしたちが聞く一つで信心いただけるまでに
阿弥陀仏が仕上げてくださっていますので、凡夫は聞く一つで100発100中、信決定させて頂けますよ。
宿善の厚いか薄いかによって、救われるあとさきがあるのみです。

必要なことは、ただ、ご本願を聞くのみ。腹底に「徹到」するまで、聞き開くのみです。
お聖教に、すべて書かれていますよ。

>>860
>あくまでも、信心為先であり、弥陀をたのめる方は、まず弥陀をたのむべきであると思います。

ご自分でたのめると思っておられることが、あやうい、あやうい。
あくまでも、阿弥陀仏から丸ごと頂く、絶対他力の信心です。
918神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:24:11 ID:NywIsfWN
>>857
>あなた様ご自身は、その明らかな体験を、
>体験なさっているのですか?

有難うございます。堕ちると決定させて頂き、助かると決定させて頂いております。
有難いこと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

体験と言うことで言えば、凡夫一人の体験ならば、どんな素晴らしいものであっても
なんの当てにもなりません。
けれど仏様のまことのこころが、仏様のほうから、こちらにぶち当たってくださいますので、
地獄行き間違いない凡夫が、一念で正定衆とならせて頂けるのです。
尊いことですね。

凡夫の経験をいくら確かめても、たのみにしても、何にもならないことです。
煩悩にまかせてどんな幻覚でも作り出すのが、凡夫のこころですから。
蓮如上人は、「信心の溝 をさらへて、弥陀の法水を流せ」と教えてくださっていますね。

それにしても、なにひとつまことのない、虚仮不実の凡夫に、
真実の阿弥陀仏の法水が流れてくださるとは…
本当に尊い、他力のご本願ではありませんか。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
919298:2008/03/14(金) 21:26:35 ID:YV80QrAN
>>917
>ご自分でたのめると思っておられることが、あやうい、あやうい。
>あくまでも、阿弥陀仏から丸ごと頂く、絶対他力の信心です。

私は他力だと言っているのに、
その意味がわからず、
自力と決めつけることを繰り返しているのだと思います。

917様にとって、「あやうい」と思わない道があるのであれば、
その道を歩めば良いだけのこと。

腹底に「徹到」するまで、聞き開くのみとのことですので、
その道を、進んで行けば良いのだと思います。

「徹到」したときに、きっとわかることがあるのでしょう。

一方、私は、「腹底」とか、むずかしいことは言いません。

あくまでも、易行であると言います。

凡夫が聴聞により、自ら思い詰める腹底は、所詮は、浅いものであると思います。

代わりに、凡夫が生涯にただ一度で信心決定する、真実行たる南無阿弥陀仏があるのだと言います。

そして、それは五正行に基づくのだと言います。

しかも、五正行は、阿弥陀の三字に入っていると主張します。

求める方が、選択すればよろしいことです。

南无阿彌陀佛
920神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:28:50 ID:NywIsfWN
他人の極楽往生が確かかどうか、善知識であろうとわかりません。
自分の極楽往生もまた、他人に聞いてもだめ、自分の心に聞いてももちろんダメ。
阿弥陀様に聞くことです。

そして、聞かねば安心できないのは、摂取不捨のご利益にあずかっていない身のことなのです。
921298:2008/03/14(金) 21:31:04 ID:YV80QrAN
>>920
>自分の極楽往生もまた、他人に聞いてもだめ、自分の心に聞いてももちろんダメ。
>阿弥陀様に聞くことです。

どういう意味なのでしょうか?

どうやって、聞くのですか? これは、「質問する」という意味でしょうか?
922神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:32:03 ID:1EZMM7Tz
だ か ら、
全国に一人しかいないのかもしれない善知識様を、探し出して、
直接対面して教えを聞かなければいけないというのは、どう考えても易行ではありません。
923神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:34:52 ID:NywIsfWN
>私は他力だと言っているのに、
>その意味がわからず、
>自力と決めつけることを繰り返しているのだと思います。

かなしいこと、おたがい、聞く耳をもたない凡夫同士の会話とは。
貴方様も、確実に読み違いをなさっておられます。

>凡夫が聴聞により、自ら思い詰める腹底は、所詮は、浅いものであると思います。

自ら思い詰める腹底とは、なんでしょうか。だれが、そう言いましたでしょうか。
貴方様が、すべて、ご自分の頭の中でこしらえたことですね。

このように掲示板の書き込みでさえ、文字の通りに読むことのできない凡夫です。
そのような自分が、まちがえずに「弥陀をたのむ」ことができるかどうか、明白ではないでしょうか。

あくまでも、阿弥陀様から、ご本願のお力によってお育てを頂き、信決定させていただくのです。
尊いことですね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
924神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:35:50 ID:KE+nG/wG
>>527
浄土真宗と一口に言ってもいろいろな宗派があるんですね。
925298:2008/03/14(金) 21:38:42 ID:YV80QrAN
>>922
そもそも、これまで永劫の流転を重ねてきているのですよ。
しかも、実行もしないで、易行ではないとおっしゃっているのでしょう?

「どう考えても」というのは、今現在の、あなた様の先入観の枠内にしか、
過ぎないのではありませんか?

易行ではないのは、そうやって、あなた様が考え込んでいるのが、
易行では無いのです。

探されている方は、現実に、善知識に会い、信心決定していると思います。

思い悩んで進まないことに比べれば、
どれほど易行であるでしょうか?

どうして、実行もせず、決めつけることを繰り返すのでしょうか?

弥陀が浄土から見守ってくださっている以上、
探しはじめれば、辿り着くはずではありませんか?

それがわからないなら、結局、弥陀をたのんで救われるということも、
わからないだろうと思います。

往生ほどの一大事、凡夫がはからうのではなく、
弥陀におまかせするのです。

ご自身で進みたい道がある方は、その道を行かれれば良いのです。

一方、「凡夫が生涯に一度で救われる南無阿弥陀仏、そんなものがあるならば、
ぜひ体験してみたいものだ」という方は、探してゆけば、
弥陀の導きにより、善知識に会うことができるはずです。
926298:2008/03/14(金) 21:44:30 ID:YV80QrAN
>>923
>自ら思い詰める腹底とは、なんでしょうか。だれが、そう言いましたでしょうか。
>貴方様が、すべて、ご自分の頭の中でこしらえたことですね。

文字にはそう書いていないだけで、あなた様はそのように発言していると、
私は解しています。

そして、私から見れば、あなた様は、おそらく、思い詰めてもいないだろうと
思っています。

思い詰める腹底すら、見た事のない方が、
弥陀をたのんだと書いていると思います。

それは、弥陀のことも、後生のことも、信じていないから、
できることです。

あなた様は、私の書き込みを、文字通りに読めていますか?

阿弥陀の三字には、兆載永劫の御修行が、こめられています。

それを受け取って、信心決定するのです。
927神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:49:33 ID:KE+nG/wG
阿弥陀は梵語の音写で、AMITA はかることができない という意味です。
928298:2008/03/14(金) 21:51:09 ID:YV80QrAN
求める方は、お約束の通りに、南无阿彌陀佛のいわれを聞き開き、
信心決定することができます。

その過程を思い返したときに、弥陀のお導きであったと、
しみじみと振り返ることができるであろうと思います。

南无阿彌陀佛に辿りつかれた方は、
その強縁を、よろこべると思います。

その信心を内に秘め、
御恩報謝の南無阿弥陀仏を、よろこばせていただけます。
929神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:52:47 ID:NywIsfWN
>>921
>どういう意味なのでしょうか?

書いてあるとおりの意味です。
極楽往生のことは、お浄土のない他人や自分に聞いたって、何にもなりません。
お浄土を持っておられる阿弥陀仏に、お尋ねください。

何も分からぬ、何も聞こえぬ凡夫を、だからこそ、いとおしいとお思い下さる
大慈悲の親様ですから、きっときっとお答えくださいます。

>どうやって、聞くのですか? これは、「質問する」という意味でしょうか?

阿弥陀仏に、お尋ねくださいませ。
お聖教をお読みになり、聴聞を重ねてくださいませ。
阿弥陀仏のお力によって、必ず、必ず聞かせて頂けます。

信頂いた後は、聞くまでもなく決定していることです。
930神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 21:57:06 ID:KE+nG/wG
阿弥陀は過去完了の成果ということなのでしょうか。
931298:2008/03/14(金) 21:59:34 ID:YV80QrAN
思い詰めることは、信決定には、必要ではありませんが、
聴聞から信を取ろうということになれば、
自分の機を見つめたりして、罪悪感を醸成するか、
あるいは、「弥陀は誰でも救って下さる」というお話を繰り返し聞いているうちに、
「(ということは)自分も救われているのだ」という実感を抱くようになる、
ということだと思います。

現行の広く行われている信心決定の試みは、
だいたい、この2種に大別されると思っています。

私が書いているのは、このどちらでもありません。

信心為先の考え方に基づき、まずは、弥陀をたのんで、信決定させていただきます。

その後に、御恩報謝の南無阿弥陀仏をお称えしてゆくのです。

救われようとして称えるのではなく、
救われたことをよろこび、感謝して、お称えしてゆきます。

回心は生涯にただ一度。その後は、たとえ自分の表面の心が、
弥陀をたのんだことを忘れることになろうとも、
真実信心は変わらず相続して、極楽浄土へと連れていってくださいます。

そう信じ、感謝して、そのかたじけなさに、御恩報謝の南無阿弥陀仏も、
あくまでも、御恩報謝として、為してゆきます。
932神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:00:56 ID:NywIsfWN
>>926
>文字にはそう書いていないだけで、あなた様はそのように発言していると、
>私は解しています。

そうやって、世界を自分にわかるかたちにゆがめてしか、受け取ることができないのが、
凡夫のかなしさです。
それゆえに、阿弥陀仏のお呼び声を聞く耳がないと申すのです。

そんな凡夫を、いとしい、かわいいとお思いくだされて、過去から未来永劫苦しみ続ける私たちを、
みておれないと、我一人助けんとお思いたってくださった、
尊い尊い親さまです。
わたしたちすべてに、全世界の大功徳をいっぱいに詰め込んだ
御六字の名号を、どうかうけとってくれよと差し出してくださいます。
こんなもののために、ようこそ、ようこそと、有難く尊く、感謝させて頂きましょう。

おまえが助からなければ私は仏にならないぞ、とまで誓ってくださっているゆえに、
私たちがそれを頂かなければ、仏様の全てのご苦労を、無にしてしまうのです。
世間の人ならば約束をしても、思うように果たせないということがあるかもしれません。
でも、阿弥陀仏のお約束は、たがえるということはないのです。
933298:2008/03/14(金) 22:05:32 ID:YV80QrAN
>>929
まずは、弥陀の代官たる、善知識に尋ねるのでは、ないのですか?

そして、あなた様のところでは、善知識に尋ねにゆくと、
「阿弥陀仏にお尋ねくださいませ」ということに、なるのでしょうか?

いろいろな考えがあるとは思いますけれども、
それで本当に解決するのでしょうか?

それでは善知識に会うことに、私であれば、あまり意味を感じませんし、
はぐらかされたと感じると思います。

「ずいぶんのんびりしているな」と私なら、思うことでしょう。

私には疑問ですけれども、あくまでも、求める方が選択することです。

それで安心できている方にとっては、ありがたい教えであることに、
変わりはないからです。

このように疑い深い私が、よく信じられたと思います。

求めている方が選ぶことです。

私は、あくまでも、10人が10人、間違いなく、例外無く信心決定できる法があり、
その法とは南无阿彌陀佛であり、その法を伝えて下さるからこそ、
善知識は尊いのであると、申し上げます。

南无阿彌陀佛
934298:2008/03/14(金) 22:10:06 ID:YV80QrAN
>>932
>御六字の名号を、どうかうけとってくれよと差し出してくださいます。
>こんなもののために、ようこそ、ようこそと、有難く尊く、感謝させて頂きましょう。

その六字の名号の受け取り方を教えてくださるのが、善知識様です。

凡夫が自分で受け取ろうと思い立っても、
一体どうすれば良いのか、わからないはずです。

それを、わかりやすく噛み砕いて、
一文不知の方にもわかるように教えてくださり、
それまで仏道修行をしたことのない方でも、
ひとりとして洩れることなく、阿弥陀様の信心をいただける方法を、
伝えて下さるのです。

せっかく弥陀の御修行の成果がありましても、
それを我が身に受けないのであれば、
また流転に戻ってゆきます。

人身いただいた意味を考える時、
今生で、なんとかして信をいただきたい。

そう思う方を、弥陀は決して捨て置きませんから、
どうか求めてほしいと思います。

南无阿彌陀佛は、実際に易行であって、
弥陀をたのめば、弥陀の清浄心がいただけるのです。

南无阿彌陀佛
935神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:16:25 ID:1EZMM7Tz
>探されている方は、現実に、善知識に会い、信心決定していると思います。

どの団体の善知識に会えばいいのでしょうか?
善知識はそれぞれの宗派にいるはずです。
まじめに求めている人のためにも、無責任な発言は謹みましょう。

浄土真宗本願寺派 真宗興正派 真宗出雲路派 真宗山元派 門徒宗一味派 仏眼宗
仏教真宗 浄土真宗親鸞会 真宗大谷派 大谷本願寺 浄土真宗東本願寺派
(財)本願寺維持財団 真宗三門徒派 真宗浄興寺派 原始真宗 稲田山西念寺浄土真宗(単立)
真宗長生派 浄土真宗同朋教団 真宗高田派 真宗北本願寺派 真宗仏光寺派 淨土真信宗浄光寺派
真宗木辺派 真宗誠照寺派 大法輪台意光妙教会 和の教会 無量寿寺 ハニベ岩窟院   
真宗遣迎院派 中山身語正宗 真宗一心山昌玲寺派
936神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:20:41 ID:NywIsfWN
>>927
>阿弥陀は梵語の音写で、AMITA はかることができない という意味です。

無限の光、無限の寿命をもっておられるということで、
無量寿仏、無量光仏とも呼ばれますね。
はかることのできない御力をそのままにあらわしておられるお名前ですね。

>>933
>いろいろな考えがあるとは思いますけれども、
>それで本当に解決するのでしょうか?

この世で信じられるものは、
阿弥陀仏一仏です。
阿弥陀仏にお尋ねして信じられないものを、ほかの人に尋ねて信じるというのが、
そもそも顛倒しています。

一心一向に阿弥陀仏へ向かえ、と教えて下さるからこそ、
善知識もお聖教も、尊いのですよ。
937298:2008/03/14(金) 22:21:03 ID:YV80QrAN
>>935
まず、団体名で判断しようとする考え方が、間違っていると思います。

それに、あなた様は、団体名で判断するようなタイプではないでしょう。
それなのに、なぜ、団体名で聞こうとするのですか?

まじめに考えていない証拠ですよ。

もし、私が、あなた様のあげている派名群から選択して、
「〜が本物ですよ」と言えば、それを無批判に信じるのですか?

そんなこと、できないでしょう?

あくまでも、あなた様自身が信じる道を、進むしか無いのです。
938笑いのマートル:2008/03/14(金) 22:22:54 ID:OmHfbvfJ
>930
五劫思惟と兆歳永劫の御修行を成就して十劫が経つと言われています。
お釈迦様は、
八千遍も人間界にいらして衆生を済度しているとも言われています。
56億7千万年後に、弥勒菩薩が、願成就して、
確かな人数は忘れましたが、
やはり何度か人間界に御出座し下さり、
衆生を済度すると言われています。
しかし、何で修行の年数がこれから生まれ来る、
只今、御修行中の菩薩の修行が終わる時が分かるのか不思議。
それよりも疑い出したらキリがない事ばかり。
馬鹿になって信じるだけか。
939298:2008/03/14(金) 22:25:22 ID:YV80QrAN
>>936
>阿弥陀仏にお尋ねして信じられないものを、ほかの人に尋ねて信じるというのが、
>そもそも顛倒しています。

そうですか・・・

私は、「阿弥陀仏にお尋ねして信じる」という考え方では無いものですから。

あくまでも、弥陀をたのんで、信決定致します。

そして、まずは、弥陀の代官たる善知識に尋ねることになります。

「弥陀に尋ねよ」と言われても、何をやったら良いのか、
私には、わかりませんね。

体よくごまかされたと感じるだけです。

名号を飾って、名号に問いかければいいんですか?

それとも、自分の心に想像した阿弥陀仏に問いかければいいんですか?

聞き手によって、さまざまな意味に取れそうな教えだと思います。

私の考えは、全く違います。

まずは、弥陀の代官たる善知識に弥陀のたのみ方を教わり、
実際に、自ら弥陀をたのみ、
信をいただくときには、他力の行であり、非行の行である南無阿弥陀仏を
為さねばならないと思います。

南无阿彌陀佛
940神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:27:43 ID:1EZMM7Tz
>>937
どの善知識に会えばいいのですか?と聞いているのです。
自称善知識は教団、団体、集団にそれぞれ存在するのであるから、
善知識に会えとしつこく勧誘する以上、どの善知識を探せばいいのかを示す必要があるでしょう。
941神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:28:28 ID:vu8S7jXh
あんた達の崩れやすい信心なんて、阿弥陀さん要求しとらんて(笑)
942298:2008/03/14(金) 22:33:01 ID:YV80QrAN
>>940
それは、あなた様ご自身の求道のこととして、おっしゃっているのですか?

それであれば、身近なところから尋ねてゆき、
私がこの掲示板で書いてきているような内容を、
尋ねていってみては、いかがですか?

この内容も、幾度か書いていると思います。

インターネットでメールの出せる寺院を探し、
そこにメールしても、良いと思います。

これまで、何を行いましたか?

信じるからこそ質問する方と、信じないからこそ質問する方がいます。
943神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:33:16 ID:vu8S7jXh
阿弥陀のたのみ方

たのみ方出来ない人どうすんの

○○先生の言う事じゃわからない、聞けない人どうすんの?
救われないの?


阿弥陀さんの救いを独占する言い方はやめようや(笑)


阿弥陀さんは、頼もうが頼まんが救う、言ってますよ〜

それが南無阿弥陀仏だよ〜
944神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:35:30 ID:1EZMM7Tz
人々は、宗教を判断する際に、社会的評価、信者の姿、歴史、活動内容をみるのです。
勧誘したいのであれば、正々堂々と名乗ればいいだけのことです。
945神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:39:28 ID:1EZMM7Tz
>現在開設されている、真宗系の多くのページは御同行のものではないということですね。
>>おそらく、多くは違うだろうと思います。

>インターネットでメールの出せる寺院を探し、
>そこにメールしても、良いと思います。

無責任なことばかり言わない方がいいですよ。
946笑いのマートル:2008/03/14(金) 22:42:00 ID:OmHfbvfJ
>940
なんだか善知識頼みのように聞こえてきます。
どの善知識に会うのかは、その人その人で縁が違います。
ご自分で本物だと思う看板を
掲げたお寺を探してみてはいかがでしょうか?
私の善知識は、一般人で一個人ですので、団体ではありません。
ご自分で、看板を掲げているお寺に聞きに入ってみたら良いかと思います。
本気で探す気などないと思えます。
本気で後生の心配をしていれば、自ずと道は開けると思います。
善知識に逢う前に、先ずは善知識より数の多い、
善友をお探しになったら宜しいかと思います。
寺の坊主は一人でも、檀家は沢山居るわけですから。
947神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:43:05 ID:NywIsfWN
「善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』と言える使なり。 」(御文章)
「善知識の能というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と人を勧むべきばかりなり」(御文章)

宿善開発して善知識にお会いすることができてから、信頂くまでの間に、さまざまな
心の動きがあり、その中に、自力の安心に腰掛けるということもあります。

阿弥陀仏のご本願を真剣に聞き求めていくと、やはりどうしても、「お慈悲を素直に
受け取ることができない。私の側に問題があるんじゃないか」ということになり、
「素直に受け取れるようになろう」と努めるのですが、いくらやっても、それは自力のうち。
往生の手助けにはまったくなりません。

それを見せて頂くということがすでに、永劫の間繰り返してきた生死流転の自分のすがたを、
阿弥陀仏の光明のお育てに遇って、見せて頂いているのだということをわからず、
こうしていても堂々巡りだ、徒労だ、と思うことも多々あることです。

ここで、堂々巡りから抜け出そうとして、それができたと思ってしまうのが自力の安心。
やっぱり、煩悩でできている凡夫だから、自分のそんな姿は見続けていたくないですから。
そして、疲れてしまって休みたくなる。
…といっても自力の安心では、何時までも休んではいられないので、
結局は、これではやっぱりだめだと、再び歩きはじめるのですが。

298さんと、その同じ教えをひろめようとしておられるかたたちは、
いまは自力の安心であろうと、ゆっくり休みたいと思われているのでしょう。
そして、自分と同じように疲れた人に、ここで休めばいいと教えておられるのでしょう。

いっぽう、阿弥陀仏は、そんなわたしたちを常に、うまずたゆまず、お育て下さり、
ついには無明の闇をうちやぶり、遍照の光明の中に、しっかりと抱き取ってくださいます。
尊いことですね。すくわれたかたも、現在、お育てにあっているかたも、本当に幸せな、わたしたちです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
948298:2008/03/14(金) 22:43:25 ID:YV80QrAN
>>943
>たのみ方出来ない人どうすんの

そんな人いません。(よっぽど例外的な人は除きます。)

>○○先生の言う事じゃわからない、聞けない人どうすんの?
>救われないの?

それは、その○○先生がおかしいので、きちんと救ってくださる方
(正確には、救いを伝えて下さる方)を探さなければならないと思います。

どのような機でも救われるのですから、
わからない自分を責めるのではなく、
救ってくださる法を探すべきなのです。


>阿弥陀さんは、頼もうが頼まんが救う、言ってますよ〜

これは、どこから来ている主張なのですか?

ではなぜ、今私たちは、こうして人間界にいるのですか?

弥陀の救いが成就したのは、はるか昔のことですよ。

あなた様は、みなさまの今の気持ちをラクにしてあげたくて、
親切からおっしゃっているのだと信じますけれども、
あなた様の根拠は、どこにあるのですか?
949神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 22:51:32 ID:u/CGyTxF
南無阿弥陀仏はいつもそばにいるよ
950298:2008/03/14(金) 22:53:44 ID:YV80QrAN
>>944
>人々は、宗教を判断する際に、社会的評価、信者の姿、歴史、活動内容をみるのです。
>勧誘したいのであれば、正々堂々と名乗ればいいだけのことです。

なんで勧誘しなければならないのですか?

どの善知識に縁があるかは、ひとりひとり違います。

大切なのは、弥陀の法をきちんと伝えてくださるということで、
そこさえ大丈夫であれば、あとは、その方のご縁でしょう。

同じ法であれば、同じようなことを主張しているはずですから、
そこで、信をいただけば良いのです。

浄土から弥陀が見て下さっているのですから、
求めている方は、導かれます。

社会的評価云々という方は、そもそもこの法とは関係がないでしょう。

「人々は」ではなく、あなた様自身が、どうであるかということです。

あなた様と同じような考え方をしない方もいらっしゃいます。

あくまでも、「私(ID:1EZMM7Tz)は、宗教を判断する際に、社会的評価、信者の姿、歴史、
活動内容をみるのです」ということでしょう?

それであれば、あなた様が、「社会的評価、信者の姿、歴史、活動内容」を見て、
あなた様にとって信頼のできる団体に入り、あなた様にとって信頼の出来る善知識から
教われば、それで良いのではありませんか?

その場合も、あなた様がご自身で探されることに、変わりはないはずです。
951笑いのマートル:2008/03/14(金) 23:00:41 ID:OmHfbvfJ
いわしの頭も信心
何を信じるか、どの道進むかはその人の業縁でしょう。
信じないのも信心だしね。
色々な考えや信念がって良いんじゃないの?
952298:2008/03/14(金) 23:03:00 ID:YV80QrAN
そもそも、今生で、真宗にご縁のない方もたくさんいるはずですし、
あくまでも、弥陀の救いを求めている方が、
弥陀に救われるのが本当だと思いますし、
それ以外は、無理だと思います。

ですから、弥陀をたのむ方が増えるも減るも、
あくまでも、弥陀のはからいであって、
弥陀におまかせになるのだと思います。
953神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:04:29 ID:1EZMM7Tz
>どの善知識に縁があるかは、ひとりひとり違います。

>浄土から弥陀が見て下さっているのですから、
>求めている方は、導かれます。

それぞれの団体の善知識も本物であり、どの団体でも、縁がある善知識に教わることで極楽往生できる、ということですね。

954笑いのマートル:2008/03/14(金) 23:06:15 ID:OmHfbvfJ
勧誘なんてしていないと思いますよ。
善知識の探し方を書いているだけだと思います。
探そうと言う気のある人に分かってもらえれば良い事です。
そう書くと、また独りよがりって言われるんだろうなぁ・・・
本気で後生の心配をしている人には、自ずと、お声がかかると思いますよ。
955298:2008/03/14(金) 23:08:08 ID:YV80QrAN
>>953
>それぞれの団体の善知識も本物であり、どの団体でも、
>縁がある善知識に教わることで極楽往生できる、ということですね。

全然違います。
そのような決めつけをせずに、自身で確認してゆくべきだということを、
言っています。
956298:2008/03/14(金) 23:14:06 ID:YV80QrAN
>>947
>298さんと、その同じ教えをひろめようとしておられるかたたちは、
>いまは自力の安心であろうと、ゆっくり休みたいと思われているのでしょう。

私は、あくまでも、他力信について言っています。

弥陀にいただく信心です。
957神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:15:29 ID:NywIsfWN
>>939
>名号を飾って、名号に問いかければいいんですか?
>それとも、自分の心に想像した阿弥陀仏に問いかければいいんですか?

自力で考えうる限界は、やはりこのくらいですよね。
わが身の上にいきてはたらく阿弥陀仏のおちからを感じられない方が、
他力の信心得たといい、同じ方法をひとさまにすすめるのは、おかしいとご自分で思われませんか?

>実際に、自ら弥陀をたのみ、
>信をいただくときには、他力の行であり、非行の行である南無阿弥陀仏を
>為さねばならないと思います。

これはそのまま救うの阿弥陀仏のお誓いを、お呼び声をはねのけて、自力をたのんでいるのですよ。

「自ら弥陀をたの」むことは、凡夫には、できないことです。
(自分の心で作り上げた、「「弥陀」と名づけた何か」をたのむことはできるでしょうけれど…)

みずから為すことは、なにひとつ、他力の信心をいただくためにはなりません。

すべて、阿弥陀仏のおひとりばたらきです。
958笑いのマートル:2008/03/14(金) 23:16:56 ID:OmHfbvfJ
我こそは、善知識って言い触らしている人の方が危ないと思うけれど。
自分で本物だと思えばそれで良いんじゃないの?
難中の難、これ以上信じる事が難しい法はないんだから。
信心は獲り易いんだけれどね。
信じる人が稀な教えだから。
959298:2008/03/14(金) 23:21:12 ID:YV80QrAN
>>957
>自力で考えうる限界は、やはりこのくらいですよね。
>わが身の上にいきてはたらく阿弥陀仏のおちからを感じられない方が、
>他力の信心得たといい、同じ方法をひとさまにすすめるのは、おかしいとご自分で思われませんか?

全くの誤解です。

「弥陀に尋ねよ」とおっしゃったのは、あなた様です。

結局、具体的なことがわからないから、のらりくらりと
言い逃れしているだけではありませんか?

こと、信心というのは、真剣なことでしょう。

それで、後生を真剣に求めている方に、対することができると、
本気で思っていらっしゃいますか?

それでも、南无阿彌陀佛は尊いとお伝えくださっていますから、
そのことばを信じ、弥陀をたのもうと思っている方は、
必ず導かれることだろうと思います。

弥陀は、見てくださっています。弥陀を求めるその気持ちは、
決してむなしいものにはなりません。

何のご縁も感じられない方も、弥陀を信じて、南無阿弥陀仏を口に出してほしいと思います。

私が言っていることは、次第相承の善知識から、弥陀のたのみ方を教われば、
誰でも弥陀をたのむことができ、弥陀の真実信心をいただけるということです。

そして、それは全くの易行であり、私物化されるようなものではなく、
あくまでも、弥陀からいただく信心であるということを、繰り返し書いているのです。
960298:2008/03/14(金) 23:24:12 ID:YV80QrAN
>>957
何とかして救われたい方に、「弥陀に尋ねよ」それで、本当にいいんでしょうか・・・

そのような教えで満たされない方は、自分を責めるのではなく、
他を探すべきであると思います。

機を問わず救ってくださる阿弥陀様ですから、
もし救われないなら、法に問題があるはずです。

もちろん、そこで満足ゆかれる方は、その場にとどまれば良いのです。

満足行っていないのに、自分を責めている方はかわいそうですから、
どうか自分の判断を信じて、他所をあたってほしいと思います。

わからないのは、聞き方が悪いのではありません。
961神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:25:08 ID:1EZMM7Tz
真宗の在家講社はたくさんあって、それぞれの善知識が本流を主張しているということですが、
どの善知識が本物なのでしょうか?それとも、全ての善知識は本物なのでしょうか?
962神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:26:02 ID:KE+nG/wG
次第相承り弥陀のたのみ方 を最初に考えたのは誰?
阿弥陀様?
963298:2008/03/14(金) 23:27:13 ID:YV80QrAN
>>962
それはこの地上においては、もちろん御釈迦様でしょう。
「考えた」というよりは、伝えてくださたったのだと思います。
964神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:27:18 ID:KE+nG/wG
次第相承り→次第相承の
965298:2008/03/14(金) 23:28:09 ID:YV80QrAN
>>963
伝えてくださたった → 伝えてくださった
966神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:29:22 ID:KE+nG/wG
つまりお釈迦さまの時代から たのみ方 が伝わっているということなんですね。
阿弥陀様が神通力でお釈迦さまに伝え、それをお弟子さんたちに伝えたと。
967298:2008/03/14(金) 23:30:01 ID:YV80QrAN
>>961
ご自身で、確認してゆくことです。
そのように大切なことを、他にたよろうという気持ちが、間違っていると思います。
968298:2008/03/14(金) 23:33:26 ID:YV80QrAN
>>966
私たちの考えでは、阿弥陀如来が、お釈迦さまとして、応現してくださったのです。
そして、時を得て、場所を得て、人を得て、救いの法を伝えてくださったのだと思っています。
私たちは、釈尊から、今の時代にまで、法が伝わってきたと考えています。
969神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:33:50 ID:1EZMM7Tz
在家講社の中の一部には、本物の善知識がいて、
他の真宗系団体の善知識は全て偽者ということになるのでしょうか?
970298:2008/03/14(金) 23:35:56 ID:YV80QrAN
>>969
「全て偽物」というのを、一体、どのようにして確認しようとお考えですか?
あくまでも、ご自身で、ご確認してゆくことです。

あなた様にとって、「本物」と感じられる善知識を探してゆくことであると思います。
971神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:40:34 ID:NywIsfWN
>>960
>何とかして救われたい方に、「弥陀に尋ねよ」それで、本当にいいんでしょうか・・・

それでこそ、素晴らしい善知識ですよ。本当にいいも悪いも、
阿弥陀仏のみが、「何とかして救いたい」と、言ってくださっているのですから。
最後の最後、善知識にいえるのは、
「阿弥陀仏に帰命せよ」、これだけです。

>「善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』と言える使なり。 」(御文章)
>「善知識の能というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と人を勧むべきばかりなり」(御文章)

もう一度、いえ、何度でも、善知識とはなんであるか、御文章をおよみください。
そして阿弥陀仏のご本願とはいったいなんなのか、他人事でなく、自分のこととして、
くりかえしくりかえし読んでみてください。

一向専念無量寿仏。たいせつなのはこれひとつです。
972298:2008/03/14(金) 23:44:02 ID:YV80QrAN
>>971
>一向専念無量寿仏。たいせつなのはこれひとつです。

「一向専念無量寿仏」に、異論はありません。

南无阿彌陀佛とは、正にその通りのことです。

そして、「一向専念」ができない凡夫が、
生涯に一度、向きを変えなければならないのです。

そして、一度弥陀の方を向けば、生涯、向きっぱなしなのです。

これにより、信後も、他の修法を必要とせず、
御恩報謝の南无阿彌陀佛で良いのです。
973298:2008/03/14(金) 23:48:00 ID:YV80QrAN
>>971
>それでこそ、素晴らしい善知識ですよ。本当にいいも悪いも、
>阿弥陀仏のみが、「何とかして救いたい」と、言ってくださっているのですから。
>最後の最後、善知識にいえるのは、
>「阿弥陀仏に帰命せよ」、これだけです。

私は、この内容にも、異論はないのですよ。
それでこそ、「聴聞に極まる」と言えます。

では、極まってどうなるかと言えば、

「今生にて、弥陀に救われずにはおかない」

となるのです。

では、どうするか?

ここに至って、宿善が開発し、法に頭が下がり、
六字のいわれを聞き開いて、弥陀をたのむことができるのです。

最後の最後の最後に、救われるきっかけを与えてくださるのが、
次第相承の善知識ですけれども、もちろん、そこに至るまでも、
多くの善知識が、導いてくださいます。

ひとりひとり、歩む道は違いますが、ゴールは南无阿彌陀佛です。
974神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:51:31 ID:1EZMM7Tz
いまいち次第相承の善知識像がつかめません。
書物か何か紹介してもらえれば、その凄さがわかり納得できると思います。
975神も仏も名無しさん:2008/03/14(金) 23:52:12 ID:NywIsfWN
>「善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』と言える使なり。 」(御文章)

「どのように」帰命せよ、ではありませんよ。

帰命とはそもそも、そっくりそのまま、うちまかせるということです。「どうやって」も「このように」もないのです。
煩悩具足の凡夫を、そのまま救うと誓って下された、
阿弥陀仏のご勅命に、ありのままの我が身をゆだねて、一切合財おまかせする、ということです。

「いや、このままではちょっと…」「正しくたのまなくては…」というのは、
そっくりそのまま、ではないゆえに、他力になっていないのです。
976笑いのマートル:2008/03/14(金) 23:56:20 ID:OmHfbvfJ
後生が本気で気になった人が救われる法だと思いますよ。
難しい事など何も無い。
善友の方からやって来てくれて、
わざわざ手を引いて、善知識の所まで案内してくれる。
977298:2008/03/14(金) 23:57:32 ID:YV80QrAN
>>974
次第相承の善知識が凄いのも、あくまでも、弥陀の凄さに依るのです。

法の観点から見れば、あまりにも尊い善知識様ですが、
あくまでも、私たちと同じ、凡夫です。

弥陀の救いを取り次いでくださることが凄いのであって、
凄いのは、弥陀であることに変わりはありません。

ですから、弥陀の救いを求める方にとっては、
ものすごく価値がありますけれども、そうでない方にとって、凄いかは、わかりません。
978298:2008/03/15(土) 00:02:30 ID:Uwi2aXG8
>>975
>帰命とはそもそも、そっくりそのまま、うちまかせるということです。「どうやって」も「このように」もないのです。

おっしゃる通りで、「そっくりそのまま、うちまかせる」そのときには、
「どうやって」も「このように」も無いと思います。

ですから、行者にとっては非行なのです。

では、「そっくりそのまま、うちまかせる」には、どうすれば良いのでしょうか?

ここに、方法があり、10人が10人、間違いなく、「そっくりそのまま、うちまかせる」方法が
あるということです。

だからこその易行です。

南无阿彌陀佛
979笑いのマートル:2008/03/15(土) 00:02:30 ID:8U06Q7UW
>974
大体が、一般人ですよ。書物を見るより、
一日も早く善知識に会えることを祈ります。
善知識の役目は、命がけですよ。
980298:2008/03/15(土) 00:04:40 ID:Uwi2aXG8
>>974
そして、そのような望みをお持ちであれば、
その望みのままに、弥陀をたよりにして、弥陀に願ってほしいと思います。

あなた様がご納得のできるような書物を著していらっしゃる善知識に、
出会えるはずです。

それが誰なのか、私には、わかるはずもないのです。

あなた様と、弥陀とのご関係です。

どうか、弥陀を信じて、弥陀に願ってください。

南无阿彌陀佛
981笑いのマートル:2008/03/15(土) 00:10:20 ID:8U06Q7UW
たのみ、縋る心の縁ある方は、導かれて、弥陀に深々と頭を垂れ、
お願いする気持ちになるでしょうし、
縁のない方は、反発心と疑念のまま弥陀を頼むという事が、
出来ないのだと思います。
982神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 00:17:55 ID:iMbIV84r
そもそも頭のてっぺんから足のつま先まで、煩悩でないものはない。
そっくり丸ごと煩悩でできあがっているのが、私というものです。
そうであってみれば、いくらなにをどう努めてみたところで、
三業すべてが常に地獄行きのたねをまき続ける私たちです。

せめて、「まことのこころになりたい」「助かりたい」「お浄土に行きたい」と
願うくらいの心はあるだろうと思ってはみますが、それさえ実は、ないのです。

願ってくださるのは、阿弥陀仏です。
私の姿をはるか昔からみつめてこられ、私の苦しみを我が苦しみと感じてくださり、
ほかの一切の諸仏がこれはどうにもならんと投げ出されたのを、
我一人助けねばならんと、どうか助けさせてくれと願ってくださったのが、
阿弥陀仏でした。

他力の信心など頂く気はさらさらない、仏法を求めようとも思わない、
煩悩におぼれる今が楽しいのだと現世にしがみつくわたしを、
大慈大悲の親様はまっさきに、堕としはせぬぞとつかまえてくださいました。

じぶんでは阿弥陀仏をたのむちからのない、出離の縁のまったくない、
未来永劫、地獄が住処のわたくしこそ、ご本願をたててくだされた正客とは、
本当に尊い尊いみ教えではありませんか。

なにひとつあてにならないこの世で、たったひとつ
真実の、南無阿弥陀仏に生かされて往くよろこびに、
ただただ御恩報謝のお念仏称えさせて頂くばかりです。
983298:2008/03/15(土) 00:20:43 ID:Uwi2aXG8
>>982
どうしても、作文みたいに思えてしまうんですよね・・・
御恩報謝のお念仏の前に、信決定することだと思いますよ。
杞憂だといいですが。
984神も仏も名無しさん:2008/03/15(土) 00:24:11 ID:iMbIV84r
>>978
>では、「そっくりそのまま、うちまかせる」には、どうすれば良いのでしょうか?

「どうすれば良いのでしょうか?」の「どうすれば」がそのまま、
阿弥陀仏のご本願をはからっているすがたですよ。
どうにかすれば、どうにかなれる自分だと、まだ思っているのです。

>ここに、方法があり、10人が10人、間違いなく、「そっくりそのまま、うちまかせる」方法が
>あるということです。

「方法」というのもそのまま、おのが分別、自力のはからいです。
自力のはからいさっぱりやめて、
弥陀の思案におまかせすること。

聞即信、と教えていただいてありますね。
聞く一つで、真実の信心頂けるのです。
985298:2008/03/15(土) 00:24:41 ID:Uwi2aXG8
>>975
>「いや、このままではちょっと…」「正しくたのまなくては…」というのは、
>そっくりそのまま、ではないゆえに、他力になっていないのです。

◎しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、
実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。
いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、
これ物のための身なりと知らざるなり(教行信証)

これは、「正しくたのまなくては・・・」ということでは、ないのですか?

そもそも、五種正行にも、「正」の字が入っていますよ。
986298:2008/03/15(土) 00:26:46 ID:Uwi2aXG8
>>984
>「どうすれば良いのでしょうか?」の「どうすれば」がそのまま、
>阿弥陀仏のご本願をはからっているすがたですよ。
>どうにかすれば、どうにかなれる自分だと、まだ思っているのです。

肝心のときには、自力がすたれるのですから、問題ありません。
そして、ただ無心になるだけであれば、魔が入り込んだりする可能性もあると思いますが、
弥陀の救いは完成された法ですから、そのような心配もありません。

たのむ行者はすべて、易行にて、弥陀の真実信心をいただけます。
987298:2008/03/15(土) 00:28:23 ID:Uwi2aXG8
>>984
>聞即信、と教えていただいてありますね。
>聞く一つで、真実の信心頂けるのです。

これにも異論はありません。
「聞其名号」これだけです。

では、聞くとは何か?

ということです。
988298:2008/03/15(土) 00:29:36 ID:Uwi2aXG8
「身体全体で聞く」とよく言いますが、私は、これにも異論はありません。
確かに、身体全体で聞くのです。

そして、確かに六字と一体になります。

そのような法があるのです。

南无阿彌陀佛
989神も仏も名無しさん
>>983
>御恩報謝のお念仏の前に、信決定することだと思いますよ。

298さんも早く早く信決定なされて、大慈悲の阿弥陀仏に、よろこんでいただきましょうね。
早く、他力信心の妙味を、こころからよろこびあいたいものです。

悪人も善人も、ともにやがては一味の信心頂ける身になるのですから、
尊いことですね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。