○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○

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413渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 浄土真宗は変質した。当初は、寺院(学校)という枠を越え、在野の人々に草の根で称名念仏
という形の如来禅仏教(五会法事讃略抄)を伝えることを目指したものではなかったのか。至道
抄(存覚著)は言う。「私宅をもて道場に擬して、本尊を安ずる淨場とし、念佛をつとむる會座
とするなり」、と。少なくともこの伝統は、蓮如以後、少なくとも安土・桃山時代まではあった
と思う。
 しかし、現代の既成仏教の中で、寺院数が最も多いのは浄土真宗ではないか。東西本願寺を始
めとし、親鸞を宗祖と仰ぐ宗派全体の合計で考えればその数は非常に多い。まさに浄土真宗は寺
院仏教と化している。しかしその寺院には念佛をつとむる會座を設けるという伝統はほとんど皆
無である。
 念佛をつとむる會座の無い浄土真宗の聞法道場が果たして浄土真宗の道場なのだろうか。聞法
道場という言葉は、いつ頃できた言葉なのだろう。聞法と道場とを組み合わせた聞法道場という
奇妙ないびつな言葉は、明治時代にできた明治の新語ではないか。僕はそんな風に思っている。
少なくとも宗派としての浄土真宗寺院仏教は、事実上、称名念仏を忘れ、称名念仏の無い聞法外
道と化しているというべきだろう。
 南宗禅は、臨済宗・曹洞宗という形で日本に根付いている。南宗禅は教外別伝・以心伝心とい
う概念を立てている。しかし、臨済宗・曹洞宗は膨大な数の書籍を社会に放出していることも事
実であろう。もっとも、臨済宗・曹洞宗には、坐るという禅定の中核の伝統は失ってないようだ。
座禅しながら念仏を称え如来禅という伝統を忘れた浄土真宗とは大きな違いである。
 現代の浄土真宗は壊れている宗教である。念仏道場が聞法道場と言われ出したとき、浄土真宗
は事実上音もなく崩壊し、真実は、人々を寄せ付けない竜宮に籠もった。最近、ぼくはそんな感
想をもっているのだ。

>>269 から始まった議論「浄土真宗とはなにか」については、これをもって終わります。