浄土三部経を楽しむスレ(1)

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1神も仏も名無しさん
大乗仏教のお経って、繰り返しが多くて退屈で、
意味が分からなくてつまんないと思いがちです。でも、
読んでいくと本当に味わい深いものだと思えることがあります。

浄土三部経もまたそんな本当に味わい深いお経なのだと思います。
ここでは皆さんそれぞれが得た感激、驚き、喜びなどを共に分け合いましょう。
特殊な解釈の方々だけでなく、皆が楽しんでいただければ幸いです。
それから、読み方が分からないって人も来て下さい(実は、それが私自身なのですが)。

スレの方向付けは >>1-24 にあるかもしれません。
2神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 00:44:20 ID:fRDeqzOy
先日、観音経の読み方に「理訳」、「理釈」というのがあると知りました。
それまでは、「念彼観音力」すれば、火の穴が池に変わったり、宙に浮いたり、
盗賊から逃れられたりと、変なお経だなと思っていたのが、「あ、こんなに
素晴らしいお経なんだ」と思えるようになりました。その後だと、「事釈」で
読んでも心温まる良いお経、勇気を与えてくれる素晴らしいお経だと思うように
なりました。浄土三部経もこんな気持ちで読んでみたいと思います。

そういえば、南無阿弥陀仏したら、観音様が阿弥陀仏と勢至菩薩と一緒に迎えに
来てくれるんですよね。
3神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 00:45:18 ID:fRDeqzOy
姉妹スレ

妙法蓮華経 如来寿量品第十六
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1182855379/l50

【独一本門】日蓮佛法を獅子吼するスレ【唯一佛乗】
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1182745980/l50

▲【般若心経・観音経のパワーと凄さ】▲
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150855711/l50

最強の経典・法華経の弱点
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1170993270/l50

釈迦が法華経は解いてないというのはデタラメか?
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1173715711/l50
4神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 00:47:28 ID:fRDeqzOy
観無量寿経の日想観の後、水想観って、反則技って言いたい
くらい急に難しくなりませんか? と思う人は他にいませんか?

これが言いたいがためにスレを起こしてしまった。
5神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 01:07:32 ID:fRDeqzOy
一つ聞きたかったのですが、観無量寿経で、イダイケさんがお釈迦様に
阿弥陀仏の仏国土を観せてもらう前に、お釈迦様の口から光が出て
イダイケさんの旦那さんの頭を照らして、迷いの世界から抜けていってしまうでしょう。
あれはどういう意味があるのでしょうか?

もしかして読者がいつまでもイダイケさんの旦那さんのことが気にかかり、
本論に入っていけないといけないので、旦那さんの方はあそこで片をつけたのでしょうか。
6神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 01:10:47 ID:fRDeqzOy
夜遅いのでとりあえずはおやすみなさい。
7神も仏も名無しさん:2007/06/28(木) 20:32:33 ID:kpsncQJE
こんにちは法華経スレから来ました。
浄土経についてこちらで語り合いましょう。

>>5 その推測は恐らく間違っていないと思いますよ。
片付けるというか、死んでしまったのを綺麗にかざったというような感じでしょうか。
 
8神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 00:17:51 ID:YJ0B9DWL
>>7
あっ、どうも。来ていただき、ありがとうございます。

そうですよね。幽閉され、食事をとる道も閉ざされてしまった
王がどうなったか、やっぱり気になりますものね。

あれっ? イダイケさんはどうなったのでしょう?
最後の方に、全ての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得たと書いてありますが、
歴史上のイダイケさんはどうなったのでしょう。最初の方に、王子が大臣さんたちに
「母を殺めるような奴は許せん」と説得されたので、幽閉されていても、
食べ物と飲み物は出たのかな。
9神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 00:26:42 ID:YJ0B9DWL
私は、やはり、臨終のときに極楽往生できるという教えにはなじめません。
観音経のように「理訳」、「理釈」してみると、
  阿弥陀仏に南無することにより、臨終のときに極楽往生する

  阿弥陀仏に南無することにより、たった今までの、わがままで、貪欲で、
  怒りっぽくて、愚かな自分はお亡くなりになり、その瞬間から、この上無い
  さとりを求めようとする自分が生まれる
と読めるように思うのですが。

でも、私も死ぬのは怖いので「事釈」で、
  臨終のとき、阿弥陀仏が観音様と勢至菩薩を連れ添って
  迎えに来てくれるので、怖くないよ
というのも有難い事だと思います。

南無阿弥陀仏
  
10神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 15:13:00 ID:It21TQ6M
どうやらみんな有難い教えと言うことで決着したようです。

イダイケさんは尼さんになったのではなかったでしょうか。
11神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 15:15:11 ID:It21TQ6M
観経は無理に観想しなくても、読んでいるだけでイメージが沸きあがってくる来る感じで、イメージ力が上がって来るようです。

 南無阿弥陀仏
12神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 21:34:59 ID:It21TQ6M

こちらの聖典電子化協会に漢本と訳本がありました。

http://www.icho.gr.jp/seiten/index.html
13神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 23:40:51 ID:YJ0B9DWL
世尊よ、観経にしても大経にしても数多くの仏国土を見て良いところを取り入れたり、
極楽浄土を見たりすることに価値があるように書いてあるのですが、これはどう
解釈すればよいのでしょうか。

仏国土や極楽浄土は、自分の心の目指すべき状態で、一つ一つそれを取り入れるように
しなさいということでしょうか。例えば、四十八願の第1願

  たとい、我、仏となるを得ん時、国に地獄、餓鬼、畜生あらば正覚を取らじ

は、「自分の心に地獄、餓鬼、畜生が無い状態を目指しましょう」とも取れるように
思います。第2願
  たとい、我、仏となるを得ん時、国中の人・天、寿終りてのち、また三悪道に
  更(かえ)らば正覚を取らじ
は、「決して心が三悪道に更(かえ)るようなことはしません」という決意とも取れると思うのです。

第2願は少し無理がありますかね。
14神も仏も名無しさん:2007/06/29(金) 23:51:05 ID:YJ0B9DWL
往生と成仏は、菩薩の道と仏の関係と良く似ているように思います。

阿弥陀仏の御名を唱えた瞬間に往生が決まり、往生して法を聞き、仏になるとは
阿弥陀仏の御名を唱えた瞬間に「この上ない正しい悟りに至るのだ」という決意が生まれ、
そうしてやがて悟りを得ることができるということの例えなんじゃないでしょうか。

ただ、その「正しい悟りに至る決意」は我流に「頑張る」ことではなく、「我」を捨てることで
愚かな感情から自由になることと言っているように思います。
15神も仏も名無しさん:2007/06/30(土) 21:04:09 ID:PZKqEIqg
>>13 は少し苦しいようですね。私はヨーガ的なイメージングと捉えてますが。
16神も仏も名無しさん:2007/06/30(土) 21:30:00 ID:ih6qOYML
ヨーガ的なイメージングとはどういうことでしょう?
17神も仏も名無しさん:2007/06/30(土) 21:41:26 ID:PZKqEIqg
つまりヨーガでやるような、守護神などをイメージする修行です。
18神も仏も名無しさん:2007/06/30(土) 21:52:10 ID:ih6qOYML
そうですか。
私はヨーガをあまり知らないのですが、阿弥陀仏を守護神として
その方が四十八願で、自分を含めた衆生を導いているとイメージするのですか?

違ってるかな。
19神も仏も名無しさん:2007/06/30(土) 22:16:05 ID:PZKqEIqg
それでいいんじやないでしょうか。

確か昔の仏画にもそのようなものが阿弥陀来迎図とか、極楽浄土図とか多くあったような気がします。
 それもイメージングの助けに使ったような。

まあ、本当かと聞かれると判りませんが。
20神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 13:06:00 ID:QwVOMjBf
すみません。

観経の中に現れる数字って意味を持っているものなのですか?
例えば、
  ・世尊の口から出た五色の光。幽閉された王様の頭を照らし、悟らせてしまった光です。
  ・水想観で極楽の下にある
    金剛七宝の金幢
    その幢が八方(八角形)をしていること
    それぞれの面に貼り付けてある宝石の色が八万四千色なこと
など、仏教の数に疎いものですから、何かあるのかなと思いまして。
21神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 13:10:10 ID:QwVOMjBf
ところで >>12 の聖典の電子データのご紹介ありがとうございます。
おかげさまで、観無量寿経と阿弥陀経の読み下し文をA4、1枚裏表に
細かく印刷して、常に携帯できるようになりました。

(Word に読み込んで、16ポイントにして、1枚に8頁印刷すると、
裏表で1枚に収まる。)
22神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 14:21:40 ID:9eRmNje8
お役に立てて光栄です。
聖典を毎日持ち歩くとは熱心ですね。
お守りとしては最高かも知れませんね。

ところで私見ですが数字の五は五大、地、水、火、風、空に対応していると思います。
黄色、青、赤、白、黒、などの色とも対応していたので、五元素全ての色の光を放つのは、五元素を全て司ることの出来る仏陀を象徴していると、思います。

後の数は仏典に良く出てきますが、一つ一つの意味は良く判らないです。
今度、調べてみたいと思います。
23神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 15:00:10 ID:QwVOMjBf
どうもありがとうございます。

浄土三部経は、昔、飛ばし読みして、何か大層なことが書いてあったり、
繰り返しが多くて読みにくかったりという印象しか残らなかったので、
今は、一言一言、ゆっくりと読んでみようかなと思っています。
それほど急ぐ理由もないし。
24神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:00:36 ID:9eRmNje8
あの聖典は私の環境だと、一部の漢字が文字化けしているのですが、大丈夫でしょうか。
25神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:06:36 ID:9eRmNje8
後出しで恐縮ですが、こちらに現代語訳浄土三部経と、その他の経典がありました。

http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/index.htm
26神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:09:53 ID:QwVOMjBf
>>24
観無量寿経は気がつきませんでしたが、阿弥陀経は最初の
    摩訶劫賓那・薄拘羅・阿&M007511;楼駄
がおかしいくらいだったように思います。大経の方は全部は
見きれていません。
27神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:14:58 ID:9eRmNje8
そうでしたか、やっぱり>>25の方が良いようですね。
初期経典のダンマパダとかもありますし。
28神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:21:07 ID:QwVOMjBf
いえ、それぞれどちらも良いと思います。
>>12 は書き下し文がありましたのでありがたかったです。
29神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 20:37:01 ID:9eRmNje8
そうでしたか、お役に立てて光栄です。

これから、少し経典の一部などを晒していろいろと書きこんでみたいと思います。
30神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 22:03:44 ID:QwVOMjBf
> これから、少し経典の一部などを晒していろいろと書きこんでみたいと思います。

はい、よろしくお願いします。
31神も仏も名無しさん:2007/07/01(日) 22:44:12 ID:9eRmNje8
今日は遅いので明日からにします。おやすみなさい。
32神も仏も名無しさん:2007/07/02(月) 10:00:49 ID:evDvxYLf
観経から水の観想の部分を抜き出します。

「水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。
水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。
そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。」

本当は水想観はこの部分だけですが、何故か後の地想観と混ざってます。
どこかで翻訳間違いでもあっのでしょうか。
33神も仏も名無しさん:2007/07/02(月) 12:24:20 ID:cfKLZqvJ
>>32

私も同じ感想を持ちました。下に引用した部分も水想観と
言っているのですが、内容的には極楽の大地のことですし、
あまりにも次の地想観があっさりとなんですよね。
翻訳間違いという可能性もあるわけですね。

  下に金剛七宝の金幢ありて、瑠璃地をフげたり。
  その幢、八方にして八楞具足せり。一一の方面は
  百宝の所成なり。一一の宝珠に千の光明あり。
  一一の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映ずること
  億千の日のごとし。具に見るべからず。瑠璃地の上に、
  黄金の縄をもって雑廁間錯し、七宝をもって界いて、
  分斉分明なり。一一の宝の中に五百色の光あり。その光、
  華のごとし、また星月の虚空に懸処せるに似たり、光明台と成る。
  楼閣千万にして、百宝合成す。台の両辺においておのおの百億の華幢あり、
  無量の楽器をもって荘厳とす。八種の清風、光明より出ず。
  この楽器を鼓するに、苦・空・無常・無我の音を演説す。
  これを「水想」とす、「第二の観」と名づく。
34神も仏も名無しさん:2007/07/02(月) 12:26:46 ID:cfKLZqvJ
でも、このイメージは何なんでしょうね。
とても荘厳できれいなんですが。
35神も仏も名無しさん:2007/07/02(月) 19:21:29 ID:evDvxYLf
まったく素晴らしいですね。

光が集まって台になって、建物が出来るとは、夢のような光景でしょう。
36神も仏も名無しさん:2007/07/02(月) 22:13:04 ID:evDvxYLf
簡単にすると、八角形の宝石で作られた幡が、ガラスの大地を支えていて、その大地は金の道路があって、宝石で区切られ、その光で台や、建物などが建っているという感じでしょうか。

 凄いイマジネーションです。
 まるでSF映画の未来の都市みたいです。
37親鸞聖人 ◆ie9/JTrgbY :2007/07/02(月) 22:50:06 ID:AjxM6XYE
素晴らしいですよね
宜しくお願いします
38神も仏も名無しさん:2007/07/03(火) 01:53:52 ID:JI+tArSU
「八角形の宝石で作られた幡が、ガラスの大地を支えていて」というのは
「八正道が極楽の世界を支えていて」とは取れないでしょうか。
39神も仏も名無しさん:2007/07/03(火) 11:11:14 ID:xVI+bJAd
>>37 よろしくおねがいします。

>>38 そうかも知れません。
 八正道に対応しているのかも。
40神も仏も名無しさん:2007/07/03(火) 21:37:29 ID:xVI+bJAd
ここから少し長いですが、宝樹の観想になります。

 「宝の樹を想い描くには、まず一つ一つの樹を思い描き、それらが七重の並木になったようすを想うがよい。
それぞれの樹の高さは八千由旬であり、これらの宝の樹は等しくみな七つの宝ででき花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つがまた異なった宝の色を持っている。
瑠璃色の中からは金色の光を出し、玻璃色の中からは紅色の光を出し、瑪瑙色の中からは蝦蛄の光を出し、蝦蛄色の中からは緑真珠の光を出し、その他、珊瑚、琥珀などすべての宝の光でさまざまに輝いている。」


41神も仏も名無しさん:2007/07/03(火) 21:38:34 ID:xVI+bJAd
続き

「また樹々の上には美しい真珠でできた網が一面におおっていて、それぞれの樹に七重に重なっている。
その網と網の間には五百億の美しい花で飾られた宮殿があって、それはまるで梵天の宮殿のようである。
その宮殿の中には多くの天の童子がいて、それぞれ五百億の宝玉でできた胸飾りを身につけている。
それらの宝玉の光は遠く百由旬を照らし、まるで百億の太陽や月を一つにあわせたようで、そのみごとさは言葉に表しようがない。
さまざまな宝の輝きが互いに入りまじり、その色どりは実に美しい。」
42神も仏も名無しさん:2007/07/03(火) 21:41:09 ID:xVI+bJAd
続き
「また、これらの宝の樹々は整然と向かいあって列をなし、葉の並びもよくととのっていて少しも乱れることがない。
それぞれの葉と葉の間にはさまざまな美しい花が咲きそろい、花の上には七つの宝でできた実をつけている。
この葉の一つ一つは長さも広さも等しく二十五由旬であり、その葉には千の色と百種の模様があって、まるで天の宝玉の飾りのようである。
たくさんの美しい花は金色に輝き、まるで火の輪のようにきらめきながら、葉と葉の間でまわっている。
ちょうど帝釈天の宝の瓶のように、その花からは次から次へと多くの実がわき出ている。
そしてその実が放つ大いなる光明は、幡と数限りない宝に飾られた天蓋となる。
その中には、世界中でなされる仏のすぐれたはたらきのすべてが映し出され、さらにさまざまな仏がたの国々も、みな映し出されている。
 このように極楽世界の宝の樹を想い描きおわったなら、またそのすがたを一つ一つ順々に想うがよい。
そしてそれらの幹や枝や葉や花や実などを、すべてはっきりと想い描くのである。
このように想い描くのを樹想といい、第四の観と名づける。」
43神も仏も名無しさん:2007/07/04(水) 04:26:51 ID:L6x1rFfr
とても美しい文章ですね。
岩波文庫の訳とだいぶ文体が違いますね。

こんなに美しい文章だったんだ。
44神も仏も名無しさん:2007/07/04(水) 12:42:01 ID:Xh5uMtrs
きてみた。ノシ
45神も仏も名無しさん:2007/07/04(水) 21:48:39 ID:j3zq1CUP
>>43 全く素晴らしいですね。

樹木に対する信仰は世界中にあり、宝樹のイメージも多々ありますが、この観経のイメージが一番凄いです。

ユダヤ教のカバラにある生命の木や、北欧神話の世界樹、聖書の天国の木、チベット密教には曼荼羅のような集会樹がありますが、いずれも比べ物になりませんね。

46神も仏も名無しさん:2007/07/04(水) 22:11:59 ID:j3zq1CUP
>>44 よろしくおねがいします。
47神も仏も名無しさん:2007/07/05(木) 19:48:40 ID:senlBBlW
次は池水観です。 

 「次に極楽世界の池の水を想い描くがよい。
 極楽世界には八つの池がある。
そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。
そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。
その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。
一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。
宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れ、また樹々をうるおしている。
その流れからおこるすばらしい響きは、苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。
また、宝玉からは金色のすばらしい光が輝き出ている。
その光は百もの宝の色を持つ鳥となり、そのやさしく美しい鳴き声は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念じることをほめたてている。
このように想い描くのを八功徳水想といい、第五の観と名づける。」


48神も仏も名無しさん:2007/07/05(木) 19:52:45 ID:senlBBlW
如意宝珠から八功徳水が出ているというのは、他の経典にもあったようです。池や水路の描写は観経だけではなかったでしょうか。
49神も仏も名無しさん:2007/07/05(木) 22:08:05 ID:NVTnkuqv
観経のこれらのイメージは実際にそれを観想することを
意図して作られたものなのでしょうか?

それと鎌倉時代の法然が口唱念仏を流行らす前の浄土信仰は
このようなイメージを描く練習だったのでしょうか?
50神も仏も名無しさん:2007/07/06(金) 11:13:10 ID:8TEHFNTk
実用として作られたとは思います。
イメージングは大体、実際よりもかなり大げさに、イメージするようなところがあります。
例えばヨーガでも、1000の太陽が集まったような光明をイメージするように、とか書いてあるので。
 イメージングを大げさにすることで、常にイメージの限界に挑み、現実にも効果的なものになるのではないでしょうか。

組織として修行していたというのは不明ですが、個人的にはかなりやっていたのではないでしょうか。
51神も仏も名無しさん:2007/07/06(金) 11:14:39 ID:8TEHFNTk
法然以前の浄土信仰については判りません。
専門ではないので。
52神も仏も名無しさん:2007/07/07(土) 18:36:40 ID:uKPN/YPU
無量寿経の以下の部分は本当に「そうだな」と感じます。私たちは心のあり方次第で
何でも「苦」になり、何でも「喜び」になるんだなと思います。

ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを
争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと
生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも
富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうが
なかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、
後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らか
なときがないのである。

http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub25.htm
の95頁あたりです。

ここらあたり、また、その後も、このお経にしては分かりやすい文章が
続いているように思います。
53神も仏も名無しさん:2007/07/07(土) 20:23:08 ID:nsNFfaJg
ありがたいことです。

南無阿弥陀仏。

54波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆qz6MxwopJw :2007/07/07(土) 20:27:16 ID:AlfaxTkz
現世諦めて死んでから西方浄土に転生か?

南無妙法蓮華経
55神も仏も名無しさん:2007/07/07(土) 20:30:13 ID:nsNFfaJg
アフォはスルー。

南無阿弥陀仏
56神も仏も名無しさん:2007/07/07(土) 21:29:49 ID:uKPN/YPU
上( >>52)のように分かりやすい部分の他に、大経もイメージが豊かな部分が
多いですね。例えば、下のような記述 ( http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub24.htm 69頁あたり)。

 またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、
それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数
の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように
黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、
太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億
の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がた
が現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれてお
いでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくす
べてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々
に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」

このお経の特徴はとにかくきれいなことですね。
57神も仏も名無しさん:2007/07/07(土) 22:27:28 ID:uKPN/YPU
>>55 nsNFfaJg

よそに行っていたずらして来ちゃダメよ。
そういうのは自分に降りかかってくるんだから。
あそこは特に姉妹スレだし。
58ぽち:2007/07/08(日) 10:59:34 ID:E40k2tmh
こんにちわ。勉強させていただきました。ノシ
59神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 13:14:36 ID:u/EbdIh0
皆様も、浄土三部経を読まれて心に響いた部分やその感想を
書いていただければ幸いです。
60神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 19:40:40 ID:R64e3aV2
ちよっと面白い書きこみ>>54があるので、言及しておきましょう。

浄土信仰を他力本願の来世信仰にしたのは、親鸞以降のことでしょう。
浄土教自体はここでも書きこまれているように、ヨーガ的な要素もあり、一概に来世のみを求める信仰形態を意味するとは思えません。

確かに往生の緒形態についての記述もありますが、それらは寧ろ予備的な内容とも読み取れる。
現世での修行を中断せざるを得なかった者への、救いを意味するように受け取ることも可能でしょう。

同様の来世信仰はチベット密教にも転生のヨーガとしてある。

本来の浄土教の在り様は、やはりヨーガのイメージング的な要素が強いように思えますが、いかがでしょうか。
61神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 19:55:58 ID:bjeay0mR
親鸞以降とはいえないよ。
むしろ善導あたりからじゃないの?
62神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 20:13:01 ID:u/EbdIh0
>>60

親鸞さんが来世だけの信仰かというと「現生十益」というように信心が定まれば
現世で十益(十番目は仏になることの定まった位に入るという利益)があると
言っているので、初めて南無阿弥陀仏と唱えて臨終までの心の乱れない人生を
大事にしているのではないかと思います。
63神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 20:16:34 ID:u/EbdIh0
>>62 に追加。

名を称えるという行為を重視しはじめたのがというのなら法然とか親鸞から
なのかもしれませんが、それも >>61 さんがいうように善導なのかもしれません。
64神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 20:21:53 ID:u/EbdIh0
最近、あちこちの浄土真宗のサイトのお話を読ませていただいているのですが
やはり、お経の解釈が、念仏を唱えることに引っ張っていってるような感じを
受けます。あの荘厳なイメージやそこの部分の仏教的な解釈は二義的に
なるんですかね。それはそれで勿体無いと思う今日この頃です。

お家は浄土真宗の檀家ですが。。。
65神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 22:06:13 ID:R64e3aV2
みなさんたくさんのレスありがとうございます。
>>61
善導って誰?
詳しい解説をお願いします。

>>64それも日本的な展開なのかもしれません。
教義より一念、根性のようなものが大事というのが。

66神も仏も名無しさん:2007/07/08(日) 23:13:19 ID:u/EbdIh0
色々インターネット上のサイトを調べていたら、
浄土教で現世往生(的)な解釈をしたのは親鸞からで、それ以前は
基本的には来世往生と書いてあるところがあったのですが、
どうなんでしょう? 真宗に詳しい方。浄土宗に詳しい方。

それはそうと浄土三部経を楽しむスレなので、こういう議論以外にも
直に文章に触れ、楽しんでいったらいいんですかね。
67神も仏も名無しさん:2007/07/09(月) 09:37:58 ID:UikeZxoL
私も調べてみましたが、今かなり揉めているようです。
宗派問題も絡んでかなり長引きそうなご様子。


http://urawa.cool.ne.jp/tamahi/ou.html
68神も仏も名無しさん:2007/07/09(月) 19:37:27 ID:UikeZxoL
全然関係無い話題ですが、ぽちさんはかなり成長しましたね。
トラブルにもちゃんと公平に気を配って、調停するのは大したものです。

関係無い話題ですみません。
次から再開します。
69神も仏も名無しさん:2007/07/09(月) 19:40:34 ID:UikeZxoL
楼閣の観想です。

「また、そのようにいろいろな宝で飾られた国土の各地には、五百億のみごとな宝の楼閣がある。
その楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。
また空には楽器が浮んでおり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである。
 このように想い描きおわったなら、ほぼ極楽世界の宝の樹と宝の大地と宝の池を見たということができる。
これを総観想といい、第六の観と名づける。」

なんだかみんな繋がっているようですね。
70ぽち:2007/07/09(月) 20:02:36 ID:Svf2WzqW
>>68
どうもありがと。おかげさまで。

48願は感動です。自分も七夕の短冊を書くに当たって、
そんなふうであれたらと思います。無理ですが・・
71神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 01:11:27 ID:6prlgr/i
>>67

まあ、まあ。そんなことが起こってたんですか。

何と言いましょうか。

生きて往生、死んで往生。どちらも往生という言葉を使うのが良くないのかな。

生きて往生その1、死んで往生その2。やがては極楽で法を聞いて成仏かな。
72けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/07/10(火) 08:26:59 ID:B1G+cPlH
>>65 善導大師は、中国唐の時代の僧侶です。
法然さんは、善導大師の書いた解説本を見て、
念仏往生の道に入ったのです。
ですから、法然さんは善導大師を師と仰いでいます。
浄土宗の仏檀では、真ん中に阿弥陀仏、左右に一人ずつお坊さんがいる形が多いです。
この二人のお坊さんが、善導大師と法然上人です。
善導大師の像は下半身が金色です。
法然さんの夢に善導大師が現れたときに下半身金色だったからです。
師とあおいでいますが、二人は夢の中でしか会ったことがありません。
73神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 12:29:03 ID:B1G+cPlH
>>71
「即得往生」って書いてるわけですよね…。
「往生を得る」のと「往生する」のは違う気がします。
往生が決定して往生の権利を得る(往生を得る)のは生きてるうちでも、
浄土へ往生するのは命終ではないでしょうか。
74神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 12:36:47 ID:B1G+cPlH
>>64 観想は難しいので誰にでもできる修行ではないけど、
称名は誰にでもできる易しい修行ですからね。
75神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 20:24:09 ID:EaubQWvm
>>71 これが立ち往生というものでしょうか。


>>72 解説ありがとうございます。
 
76神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 21:04:42 ID:EaubQWvm
さて、今まで観経について書かれた観想を総合すると、まず八角柱の柱で支えられた大地があり、そこに宝樹の林がある。
 そして、八功徳水の池があり、楼閣がある。
 いずれも沢山の宝石で飾られ、自然に鳴る楽器や天人などが住んでいる。

 となるでしょうか。

 これで大体極楽浄土の外観が描写されたようです。

77しちょり ◆hEpdoZ.tHU :2007/07/10(火) 21:11:18 ID:QDuqNlfb
浄土の教えはいいと思います。
78神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 21:19:47 ID:EaubQWvm
最高ですね。
79神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 23:36:50 ID:6prlgr/i
>>75
> これが立ち往生というものでしょうか。

うまい!

けど、だれが面白いことを言えと。。。
80神も仏も名無しさん:2007/07/10(火) 23:42:56 ID:6prlgr/i
>>73 他

けど、往生とか成仏とかが臨終を迎えてからというところが
日蓮系につっこまれたりして嫌なことはないですか?

元々仏教は生きているときの苦を御する方法だと思うので
臨終を迎えてからという考え方に違和感がなんとなくあるのですが。

浄土系は好きなのは好きなんですが。。。
81神も仏も名無しさん:2007/07/11(水) 00:25:05 ID:+1L8dCmz
>>80 人生のハッピーエンドが決定すれば、生きるのが楽になります。

まぁ、浄土信仰は、仏教のオマケみたいなもんですけどね。
82神も仏も名無しさん:2007/07/12(木) 23:34:19 ID:7GIKIydY
>>81
> 人生のハッピーエンドが決定すれば、生きるのが楽になります。

それはそうかもしれませんが、やっぱり生きているうちにも
色々な欲から自由になることを教えてくださってる気がするのですが。
83神も仏も名無しさん:2007/07/13(金) 08:26:14 ID:xuO4CmlN
>>82 たしかに、三部経には生きてるうちに実践すべき仏の教えが散りばめられていますね。
ただ、浄土への往生に関しては、やはり命終後のことでしょう。
84神も仏も名無しさん:2007/07/13(金) 08:29:30 ID:xuO4CmlN
無量寿経を普通に読むと、釈尊は、
「極楽浄土のりっぱな菩薩達の修行をお手本にして、この世のあなた達も精進しなさい」
と言ってるようにも思えます。
85神も仏も名無しさん:2007/07/13(金) 23:17:45 ID:CCVgyjt6
そうですね。往生は臨終後ということにしておきます。

最近思ったのですが、大好きな歌を聴いてると元気になってくるので、
南無阿弥陀仏を唱えたり、極楽の荘厳な景色を思い浮かべたり
するのも実際に効果があるんだろうなと思いはじめました。

実のところ、このように疑り深い人は救われないんでしょうね。
86ぽち:2007/07/14(土) 18:39:10 ID:Z/62TXxT
こんばんは。楽しく読ませていただいております。
ぽちスレにクイズをつくってみました。
どなた様もふるってご参加ください。
87神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 21:21:55 ID:qBe1iUux
みなさんお久しぶりです。
と言っても誰か判らないでしょうが。

何やら2ちゃんの方でアク禁やらで、書きこめなかったようです。
再開します。

これからはいよいよ阿弥陀如来や菩薩部の観想になります。
88神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 21:25:52 ID:qBe1iUux
先に華座の観想ですね。

「韋提希よ、その仏を見たてまつりたいと思うなら、次のように想い描くがよい。
 まず七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描くのである。
その花びらには八万四千のすじがあって、まるで天の美しい絵のようである。
またそのすじは、それぞれ八万四千の光に輝いている。
それらが一つ一つはっきりと見えるようにするがよい。
花びらは小さいものでも大きさが二百五十由旬はある。
この蓮の花には、このような花びらが八万四千もあるのである。
その花びらと花びらの間はそれぞれ百億の宝玉で飾られていて、それぞれの宝玉は千の光明を放っている。
その光明はまるで七つの宝でできた天蓋のようにひろく地上をおおっている。
蓮の花の芯は釈迦毘楞伽宝でできた台座となっており、さらにそれが八万の金剛宝・甄叔迦宝・梵摩尼宝や美しい真珠の網でいろいろに飾られている。
そしてその台座の上には四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねたように高く、宝柱の上の幔幕はちょうど夜摩天の宮殿のようであり、五百億もの美しい宝玉で飾れている。
それぞれの宝玉には八万四千の光があり、その光はそれぞれ八万四千の異なった金色に輝き、さらにそれらの金色の輝きがひろく宝の大地に満ちわたり、いたるところでさまざまなすがたとなる。
、すなわち金剛の台ともなり、真珠の網ともなり、あるいは色とりどりの花の雲ともなるというように、いたるところで見るものの思うままのすがたをとり、仏のすぐれたはたらきをあらわしている。
このように想い描くのを華座想といい、第七の観と名づける」
89ぽち:2007/07/15(日) 21:26:08 ID:DVIJ9Afl
こんばんわ。
90神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 21:40:25 ID:qBe1iUux
ぽちさん、こんばんわ、

ここで少し一般教養として経典のことを話しておきましょう。
お釈迦様が実際に説かれた経典は、初期の阿含経などであり、大乗経典の多くはお釈迦様の死後に成立したものです。
 この浄土三部経などもそのような死後につくられたものらしいということです。

 
91神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 21:50:51 ID:wWE5eTNf
今日、本を読んでいたら、
  仏教では聞き手に合わせて法を説くことを対機説法といい、
  その数は八万四千ある
と書いてあったのですが、観経に現れる八万四千はその数を言って
いるんでしょうか?
92神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 22:01:03 ID:qBe1iUux
そうかも知れません。
八万四千の法門とか、良く聞きますね。

全然、関係無い話ですが、中国で弾圧された法輪功も仏教の八万四千の法門の一つだと言っていました。
 仏教ではかなり普及している数字のようです。

93神も仏も名無しさん:2007/07/15(日) 22:16:01 ID:Rzr225I5
398:20才男 :2007/07/15(日) 22:06:23.23 ID:gG9pWhb60 >>390
[email protected]
94神も仏も名無しさん:2007/07/16(月) 08:46:30 ID:0WQ0ihB0
>>88

その美しい蓮の花が無数の宝石により無数の光を放っていることは
仏が世の中の無数の人に合わせた教えを説いていることを想像すれば
良いのですかね?

無数の生命体が宇宙を満たしていることを想像することも出来そうですが。

まあ、人ぞれぞれ何を想っても良いのかも知れませんが。。。
95神も仏も名無しさん:2007/07/16(月) 13:42:09 ID:qodpEovd
 これは未だ阿弥陀如来がお座りになる華座の観想なので、そこまではイメージしなくてもいいのではないでしょうか。
 この後、阿弥陀如来の姿を観想する時に、そのお体から発する八万四千の光明で衆生を摂め取られるというイメージが出てきます。

 密教などでも神仏をお迎えする時には、先ず蓮華座や獅子座という座をイメージしてから、本体の神仏をお迎えするという手順があります。
 その意味では密教的なイメージの順に適っていると言えるかも知れません。
96神も仏も名無しさん:2007/07/16(月) 13:52:32 ID:qodpEovd
ここからが阿弥陀如来の観想になります。

「この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。
 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。
このため、そなたたちが仏を想い描くときその心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となり、この心がそのまま仏なのである。
まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。
だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと想い描くがよい。
 阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。
目を閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、その蓮の花に座っておいでになるようすを常に想い浮べるがよい。
 こうして仏像が蓮の花に座っておられるのを思い描くと、心の目が開いて明らかにはっきりと七つの宝で飾られた極楽世界の大地や、池や立ち並ぶ樹々を見る。

 その上を美しい宝の幔幕がひろくおおい、またいろいろな宝で飾られた網が大空一面にかかっているのを見るであろう。
これらのようすが、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。」
97神も仏も名無しさん:2007/07/16(月) 13:54:09 ID:qodpEovd
次が観世音菩薩と大勢至菩薩です。
 「この観が終わったなら、さきほどの蓮の花をまったく同じ大きな蓮の花が一つ、仏の左側にあると想うがよい。
また大きな蓮の花がもう一つ、仏の右側にあると想うがよい。
そしてその左側の蓮の花に観世音菩薩の像が座って、仏と同じように金色の光を放っているのを想い描く。
 また右側の蓮の花に大勢至菩薩の像が座っているのを想い描くがよい。

 この観が成就したとき、阿弥陀仏の像と観世音・大勢至の二菩薩の像がみな金色の光明を放って、宝の樹々を照らすのを見るであろう。
それぞれの宝の樹の下にはまた三つの蓮の花があって、それらの蓮の花に一仏と二菩薩の像が座っておいでになる。
 そのような一仏二菩薩の像がその国に満ちわたっているのを見るのである。
 以上の観が成就したなら、行者は、極楽の水の流れや光明、またさまざまな宝の樹や鴨や雁や鴛鴦などが、みなすぐれた教えを説くのを聞くであろう。
その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。
そこで行者は聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。」
98ぽち:2007/07/16(月) 17:51:45 ID:A3OkI2fu
新潟、地震。被害少なきを祈ります。
99神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 12:22:28 ID:SRP8LS2g
>>97
> 以上の観が成就したなら、行者は、極楽の水の流れや光明、またさまざまな宝の樹や鴨や雁や鴛鴦などが、
> みなすぐれた教えを説くのを聞くであろう。
> その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。
> そこで行者は聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。」

ここの部分は
    聖教電子化研究会
    http://www.icho.gr.jp/seiten/html/111.html
の方では

> 水鳥・樹林および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ。
> 十二部経と合して、出定の時憶持して失せず。

にあたるんですか? このような分かりやすい日本語で書かれていると

> その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。
> そこで行者は聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。」

ここの部分は
 (1)冥想して神秘的な体験をして、それを教えにしなさい ともとれるし
 (2)法は自分自身の中にあるのだ という教えともとれるし
 (3)自分自身の心の動きを細かく観察することが悟りにいたる方法である ともとれるし
その他、色々な受け取り方を思い浮かべてしまいます。
100神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 12:47:21 ID:SRP8LS2g
>>99 に追加。

その他の解釈の方法としては、
 (4)阿弥陀仏、観音菩薩、大勢至菩薩から手が差し伸べられているので
   (自我を捨てて)それを受けること
でしょうか。

100 ゲット。
101神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 14:37:02 ID:WNta4NDx
>>99 あまり解釈を付け加えないほうがいいのでは。単に観想のやり方を書いてある部分だし。
その先のことは、観想すれば自ずとわかることであり、
観想しなければわからないことだから。
102神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 17:48:01 ID:SRP8LS2g
>>101

なるほど、そうなのかもしれません。
103神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 20:43:35 ID:eNsl9Z5/
>>101 いいことをいいます。仏教は実践が大事です。

>>99 私の答えは一番ですが、そこのところが、いわゆる密教的な、神秘主義的な展開だと思うわけです。
 こういう観想したというか、イメージした神仏から声を聞いたり、アドバイスを受けるというのは、ある意味世界中のシャーマニズム、神懸りなどに共通した行と言えるのではないかと思います。

 現代のシルバ・マインドコントロールなどの自己催眠によって心の中のアドバイザーをイメージして、その答えを聞くというのがあります。
 それは潜在意識からのメッセージと言うべきもので、かなり正確な情報も在るといわれています。

 しかし、やはり正確さを期す為に、漢本などには経と良く照らし合わせなさいと書いてあるのでしょう。 
 密教ではこの後、イメージした神仏と一体になるという行に入ります。
 しかし、観経は何故かここで止まっています。
104神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 20:47:54 ID:eNsl9Z5/
ここから阿弥陀如来の詳しい姿を観想します。

「この観が成就したなら、次に無量寿仏の真のおすがたと光明を想い描くがよい。
阿難よ、よく知るがよい。
無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばゆく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬である。
また眉間の白毫は右にゆるやかにめぐり、その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目は四大海水のようにひろびろとしており、清らかに澄みきっている。
またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほどである。
その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそっている。
 また、無量寿仏のお体には八万四千のすぐれたところがあり、そのそれぞれにはまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。
さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。
その光明やお体の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。
ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。
 このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見たてまつることになる。
すべての仏がたを見たてまつるのであるから、この観を念仏三昧と名づける。
また、この観を行えばすべての仏のおすがたを想い描くことになり、仏のおすがたを想い描くのであるから、仏の心を見たてまつることになる。
その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。
 この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得ることができる。
105神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 20:50:09 ID:eNsl9Z5/

観想のコツのようなもの
「だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。
そして無量寿仏を想い描こうとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるがよい。
それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くことである。
眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を持つおすがたがおのずから現れてくる。
 こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなわちさまざまな世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。
さまざまな仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得ることを約束してくださるであろう。
このように想い描くのをひろくすべての仏のおすがたを想い描く想といい、第九の観と名づける。」
106神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 20:51:31 ID:AvDOf5rs
すごいですね。まぶしくてクラクラしてくる
107神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 20:54:14 ID:eNsl9Z5/
八万四千の光明ってもう想像できないですね。

私は以前からパソコンのCGなどで、この経の正確なイメージを再現できないかと思っているのですが。
108神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 21:04:56 ID:SRP8LS2g
>>103
> (1)冥想して神秘的な体験をして、それを教えにしなさい ともとれるし
> (2)法は自分自身の中にあるのだ という教えともとれるし
> (3)自分自身の心の動きを細かく観察することが悟りにいたる方法である ともとれるし

この3つを書きながら、度合いや意味づけが少しずつ違うだけで、よく似た意味だなと
思っていました。でも(1)はなんとなく怪しい新興宗教みたいだし、(3)は
ヴィパッサナーの瞑想法などに通じるものがありそうです。この間、読んだ
「気楽なさとりかた」という本にも、まず自分の心の動きを観察するところから
始めなさいと書いてあったのを思い出しました。
109神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 21:14:57 ID:eNsl9Z5/
自分の心を観察するというのが、仏教本来の教えですね。
止観の観です。

しかし、この経は明らかに違いますね。
敢えて言うなら止の集中の行のようです。
阿弥陀如来の姿を観想する念仏三昧という言葉からも、判ります。

強い集中力によって神秘的な体験などもしながら、悟りを目指すという道でしょうか。
110神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 21:41:43 ID:SRP8LS2g
>>109
> 敢えて言うなら止の集中の行のようです。
> 阿弥陀如来の姿を観想する念仏三昧という言葉からも、判ります。

「止の集中の行みたい」というのは私にはまだ分かりません。
そのうち分かるようになるでしょう。

今後ともよろしくお願いします。
111神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 21:57:19 ID:WNta4NDx
>>109 目的は、極楽浄土へ往生することではないでしょうか。
ですから、念仏三昧で悟れるという教えではない。
念仏三昧ができれば極楽へ往生できるよ、ってことでは?
最終的な悟りのための修行は、極楽へ往ってからやるわけです。
112神も仏も名無しさん:2007/07/18(水) 21:11:42 ID:hn7AADnt
>>110 こちらこそお願いします。

これから少し>>111さんへの返答も絡めて、長くなるかも知れませんが、私の知るところと、思うことを解説してみていと思います。

 最初に止観について少し解説して置きます。

 仏教というのは、基本的に悟りを開くための教えであります。
 その方法として提唱されているのが、止観な訳です。

 止は心を止める集中などの修行。
 観は心を観る観察の修行です。

 心は意馬心猿の名前通り、非常に激しく動き、観察しがたいので止によって心を止めて観察すると言われています。
 文献としては天台の小止観、摩訶止観などです。


 しかし、実際に実践になると、悟りを得るための修行は止の方にかなり傾いている訳です。
 例えば禅などでは公案や数息観などの、一心に集中させる修行のみを行わせ、密教やヨーガなどは、やはり観経と同じ神仏の観想によって集中させる修行を行っているようです。

 理論としては止観がありますが、やはり実践では集中の行を完成してから、観に入るというのは難しいものがあるのでしょう。
 理論通り止から観に入るより、むしろ止にそのまま集中させた方がより速やかに、易しく悟りに至れると言う経験則みたいなものでしょうか。
 それゆえ集中一辺倒となっているのでしょう。

 それらを踏まえて考えてみると、この観経による修行は、ただ一心に阿弥陀仏を観想し、念仏三昧に入るといいますから、充分に止の行として悟りに至れる可能性があるのではないかと思う訳です。
113神も仏も名無しさん:2007/07/18(水) 22:18:49 ID:CxxMHn7F
>>112 悟りというのは、無常・無我に納得して智慧がひらき、
苦悩の原因である煩悩がなくなることではないでしょうか。
止(三昧)の修行だけでは、禅定の境地(梵天のレベル)にはなれても、
悟りではないのでしょうね。
114神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 00:57:51 ID:mOpxJi7w
悟りとか、小悟とか、大悟とか、往生とか、成仏とか色々な言葉があって、
たぶん、宗派によってもそれぞれ違うような気がします。

浄土系だと極楽浄土に往生して、そこで悟りを開いて成仏するようなイメージが
あるのですが、禅の宗派では、白隠なんか、何回も悟ってるようだし、
最初の悟りのあと禅病に悩まされているという、「悟りを得ても究竟涅槃では
ないのね?」と言いたくなる様な状態です。

こういう一つ一つのジャンプを悟りというなら、観経の色々な観想の段階で
悟りを得ているといってもよいように思います。
115神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 01:02:21 ID:mOpxJi7w
>>112

私がよく分からないと言ったのは、止観の止と言われるところで、
もし、

> その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。
> そこで行者は聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。」



>  (1)冥想して神秘的な体験をして、それを教えにしなさい

のように解釈するなら、止観の観か、あるいはその後かという気が
するのですが。
116神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 08:02:35 ID:McQssqmg
>>115 観想の対象と一体感を得たり、
不思議なものを観るような三昧は、「止」だと思います。
117神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 09:18:14 ID:mOpxJi7w
>>116

了解しました。
今は私はよく分かりませんが、そのうち勉強していけば
分かるようになるかもしれません。
118神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 11:40:50 ID:ZcGDeqHi
止観の観は本来、観察、物事というかここでは心を観察するという意味です。

観経の観は観想、イメージすることですね。

この観察と観想の混乱は良くありますね。

少しスレ違いですが、仏教での悟りを得るというのは知識を得ることではなく、阿頼耶識の消滅を意味すると思いますが。
まあ、この論争だけでスレを消費してしまいますので止めておきましょう。
とにかく私の主張は念仏三昧でも、悟りに至れるということです。
119神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 12:31:43 ID:McQssqmg
>>118 どうでしょうね。
通常の私達の心は欲界心です。
眼耳鼻舌身からの刺激(色声香味触)に依存し右往左往している心です。
三昧(禅定)の心は、色界心や無色界心です。
色界心は、色声香味触への欲はないけれど物質には縛られている心で、
梵天(神サマ)なども色界心の生命です。
念仏三昧などのように物質的対象を観想して
その対象と一体感を得るような状態は、色界心だと思います。
無色界心は、物質的束縛がなく心のみで活動できる状態で、
釈尊が最初に弟子入りした仙人などもこの無色界の禅定を説いていたようです。
で、仏教のめざす最高の悟りは、欲界への執着も絶ち、
さらには色界や無色界のすばらしい三昧の境地への執着も絶ちます。
ですから、念仏三昧だけで悟れるのかどうかは疑問です。
120ぽち:2007/07/19(木) 19:51:22 ID:1hNZgyXA
こんにちわー。
121ぽち:2007/07/19(木) 20:01:38 ID:1hNZgyXA
なかなか悟ったって言う人はいないね。
122ぽち:2007/07/19(木) 21:09:48 ID:1hNZgyXA
あ、これは念仏だけの話ではなく、すべての宗派で。
123神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:35:07 ID:ZcGDeqHi
私の見解は以前に申し上げた通りです。
ここは経を楽しむスレなので、論争は避けます。
一つだけあなたたちが、我見を離れ、謙虚に悟りと、悟った人を求めるのでなければ、例え目の前にその人が居ても気付かないでしょう。

観経の続きを再開します。
124神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:37:04 ID:ZcGDeqHi
観世音菩薩の観想です。

「さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世音菩薩を想い描くがよい。
 この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。
その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の化身の仏がおいでになる。
その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の菩薩と数限りない天人がつきそっている。
 また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている。
頭には宝玉でできた立派な冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立っておいでになる。
 この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそなえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。
その光明の一つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべての世界に満ちておいでになる。
そのようすはたとえていえば紅の蓮の花の色のようである。
 またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。
また手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。
そのそれぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はまた八万四千の光を放っている。
その光明はやわらかで、ひろくすべての人々を照らしている。
菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人人をお導きになるのである。
 またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされるときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらないところがない。
 その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは仏と同じであり、ほとんど異なることがない。
ただ、頭の肉髻と無見頂の相とが仏に及ばないだけである。
このように想い描くのを観世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づける」
125神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:39:57 ID:ZcGDeqHi
続きです。

「もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。
この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり知れない功徳が得られるのである。
ましてそのおすがたをはっきりと想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
 そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想い描き、次に宝冠を想い描くがよい。
こうして順々に他のいろいろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
126神も仏も名無しさん:2007/07/20(金) 19:54:56 ID:tXZBDFFF
観音様は阿弥陀如来と大体おなじ姿形ですが、肉髻が少し違うようです。
127神も仏も名無しさん:2007/07/20(金) 20:00:03 ID:tXZBDFFF
次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。
 この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。
しかしその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らしている。
そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。
また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。
そのためこの菩薩を無辺光と名づける。
またこの菩薩は【智慧】の光でひろくすべてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うのに、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。
そのためこの菩薩を大勢至と名づけるのである。
 この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花にはそれぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべての仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されている。
またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。
その肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく仏のはたらきが現れる。
その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同じで少しも異なるところがない。
 この菩薩を歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。
この菩薩を座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地もまた揺れ動く。
そしてそのすべての世界におられる数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示して苦しみ悩む人々をお救いになるのである。
 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。
 この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
この観を行うなら迷いの世界に生まれるようなことは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。
128神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 09:45:13 ID:W7tRDvkx
浄土教には浄土を観察するという言葉もあるでよ。
129神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 18:30:23 ID:tMGnc+lc

> また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。

観経は「観る(見る)」ということに相当重きを置いてるようですよね。
イダイケさんもお釈迦様に「どうやって阿弥陀仏の仏国土を見たらよいのでしょう?」と
尋ねているし、現在の普通に暮らしている人が思い描く「見る」に対する価値観と
かなり違うような気がして戸惑うのですが。
130神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 20:52:56 ID:BOh8tVbJ
>>128 そうでしたか、浄土教でもやっぱり観想はしていたようですね。

>>129 確かにそうですね。何か切羽詰ったものを感じます。

 
131神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 22:33:49 ID:+KmTcAtw
>>130 イダイケ夫人は、この時かなりせっぱつまってたからね。
132神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:40:36 ID:zoECaCXg
>>131確かにそれもあるかもしれません。

或いは如来の姿を見たものは、救われるという信仰でしょうか。
133神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:42:33 ID:zoECaCXg
更に続きます。
「以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
 まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。
そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。
また自分の目が開くのを想い描くがよい。
そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。
さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。
この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。
この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。
このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
 無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである」
134神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:46:31 ID:zoECaCXg
そして、最後の観想です。

「もし、心から西方極楽世界に生れたいと思うなら、まず池の上に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描くがよい。
 さきに説いたように、無量寿仏のお体の大きさははかり知れないほどであるから、愚かな人間ではとうてい想いの及ぶものではない。
しかしながら、無量寿仏が菩薩のときにおたてになった願の力により、よく心をこらして想い描くなら、必ずその仏の真のおすがたを見たてまつることができるのである。
ただ仏の像を想い描くだけでも、はかり知れない功徳が得られるのである。
まして無量寿仏のおすがたにそなわったすべての特徴を想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
 阿弥陀仏は神通力を思いのままにはたらかせ、すべての世界で自由自在にさまざまなおすがたを現される。
ときには大空一面に満ちわたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または八尺の小さなおすがたを現される。
そしてこのように現されたおすがたは、みな金色に輝いている。
また円光の中の化身の仏や宝の蓮の花などは、前に説き示した通りである。
 観世音・大勢至の二菩薩は、どこでも同じおすがたをしておいでになるから、人々はただ二菩薩の頭の特徴を見ることによって、これが観世音菩薩であり、これが大勢至菩薩であると知るのである。
この二菩薩はともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導きになる。
このように想い描くのを雑想観といい、第十三の願となづける」
135神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 22:58:00 ID:pqDJcmCk
>>132

私は「仏や菩薩や仏国土を観る」ということは、正しい法を知ることだったり、
理想を知って自分自身をそれに近づけることだったり、正しい考え方を知って
今の愚かさから来る苦悩を取り除くことだったりするのではないかと思います。

うーん、でも、もしかしたら観るだけで幸せになれるというのもあるかもしれませんね。
冥想のあとは心が落ち着いて幸せですものね。
136神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 23:12:55 ID:b9euO7YS
>>135
観経に関しては、極楽浄土に往生するための方法としての観想だと思います。
お経をそのまま信じにくい場合に、自分の理解できる内容に解釈して信じようとするのは、
あまりよくない気がします。
137神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:29:22 ID:J0pDeaCI
>>136

うーん、そうかもしれませんが、強弁しなければ良いんじゃない?
ここは「浄土三部経を楽しむスレ」なんだし、
  「私はそう思いました。そう感じました。」
という表明な訳だから、他の人に押し付けてる訳でもないし。

その程度で聞いておいてくれれば。。。

到底不可能な解釈だったら、そう言ってくれてもよいですが。

> 観経に関しては、極楽浄土に往生するための方法としての観想だと思います。

イダイケ婦人が、「観る方法を教えてくれ」と言っているのは、
「極楽往生する」=「極楽を観る」という当時の共通理解があったからだと
おっしゃってます?
138神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:41:10 ID:J0pDeaCI
↑に追加。

大経で法蔵菩薩が全ての仏国土を見せていただき、それぞれのすぐれたところを
とって極楽浄土を作ったことを考えれば、極楽を観ることは、極楽往生する
手段というよりは、極楽のすぐれたところを見てとって、自分の正しいものに
していくという方が直接的なとりかたのように思いますが。
139神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:43:44 ID:J0pDeaCI
>>137
修正。

  「自分の正しいものにしていく」→「自分を正しいものにしていく」
140神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 14:46:39 ID:bcQ5JvKt
まあ、みなさん一休みしながら楽しんで行きましょう。

えー

阿弥陀如来と観世音菩薩と大勢至菩薩の違いは、頭の肉髻にあるということですね。

観世音菩薩は阿弥陀如来より肉髻が小さくて、大勢至菩薩はそこに宝瓶があるということです。
象徴的ですね。

肉髻はヨーガでは王冠のチャクラがあるとされている所で、観世音菩薩はここが小さいのはまだ少し阿弥陀如来よりは修行が足りないということでしょう。
141神も仏も名無しさん:2007/07/24(火) 20:32:30 ID:eCnamdGf
大勢至菩薩の宝瓶というのは、良く判らないですね。
何かを象徴しているようですが。
142神も仏も名無しさん:2007/07/25(水) 20:26:09 ID:6Pdae553
観世音菩薩の御業については、法華経の観世音菩薩普問品、いわゆる観音経にありますが、くわしい御姿についてはこの観経によるものが一番ですね。
 
143ぽち:2007/07/26(木) 19:20:46 ID:0RdAp6ib
ぼくはこの観音さまというのが好きですね。本当は好き嫌いとか
はいけないのかも知れないけど。
実際にいるかいないかはともかくとしても、考え方は大好きです。
基本的に、くれというものをくれようとする姿勢が好きです。
144神も仏も名無しさん:2007/07/26(木) 20:22:45 ID:aRZlGSi0
観音様は仏母と呼ばれることもある、仏教徒全体の母神のような感じですね。
母の慈悲を体現したような存在です。
大抵の宗派で拝まれています。

南無観世音菩薩。
145ぽち:2007/07/26(木) 20:28:12 ID:0RdAp6ib
南無観世音菩薩
146神も仏も名無しさん:2007/07/28(土) 11:54:32 ID:McckEFEb
真宗のお寺の法話ですが、念仏を行と捕らえていたり、無量寿経の
読み方に関してのお話があったりで、わたしは面白く思いました。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/houwa/houwa1.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/houwa/houwa2.html
・・・
147神も仏も名無しさん:2007/07/28(土) 22:16:20 ID:eMTPn50T
浄土宗では、浄土三部経を象徴やたとえ話とは考えません。
お経にあるとおりに、阿弥陀様が実在し、
臨終に迎えに来てくれて極楽へ往生させてくれるのです。
それを信じられない人は、浄土教にこだわらず、
たとえ話ではなくストレート仏教思想を学べばいいでしょう。
148名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 00:35:43 ID:fHcz7T9F
> 浄土宗では、浄土三部経を象徴やたとえ話とは考えません。

ああ、なるほど、そうですか。
149ぽち:2007/07/29(日) 01:13:56 ID:LXHeGGm4
>>146 とてもいい法話でした。ありがとうございました。
150神も仏も名無しさん:2007/07/31(火) 20:55:53 ID:MFwpSNDr
さて、前回まで観想は終わったので、今度は往生の相です。
上品上生から下品下生までの九種類あるそうです。

「その中で、まず上品上生から説き始めよう。
 人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。
その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。
この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
 次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。
それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。
この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。
 その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。
すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。
この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。
そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
 このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。
そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。
さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。
そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。
これを上品上生のものと名づける。」
151神も仏も名無しさん:2007/07/31(火) 20:59:11 ID:MFwpSNDr
上品上生は流石に豪華です。

阿弥陀如来も全員迎えに来て、宮殿付きだそうです。
152ぽち:2007/07/31(火) 22:09:05 ID:iTWDf3de
おお。。
153神も仏も名無しさん:2007/08/02(木) 20:06:57 ID:4ICQq5K6
色々な仏に仕えて教えを受けて極楽に帰ってくるんですね。
これはどう考えればよいのでしょう?

実は、読んでいて、仏連合みたいなものを考えてしまいました。

ラスベガスでは複数のホテルが地下でつながっていて、
こちらのホテルで提供していないサービス(カジノやショー)は別の
ホテルでサービスしていて全体としてお客さんに大きな
サービスを提供するとか。
154神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 10:08:42 ID:OEGaLHH4
他の大乗経典にも度々、様々な仏の国土を訪れて、供養したり、教えを受けたりするというのが出てきますね。
修行の一つとして、諸仏の供養というのがあるようです。
155神も仏も名無しさん:2007/08/10(金) 01:37:23 ID:eOLvfkzd
法華経も浄土経も禅も似てますね、本質のところは。
156けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/08/10(金) 08:22:38 ID:h8kaw0Xi
>>155 どれも、これさえやってればよかったんだ、という安心感がありますね。
157神も仏も名無しさん:2007/08/10(金) 17:13:43 ID:0POyLJ9/
>>155

その本質的に似ているというのは、
どれも心に振り回されないための修行だというところがですか?
158神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:49:42 ID:+T2jKI2O
今も浄土三部経を観想に使っている宗派ってあるのでしょうか。
159age:2007/09/11(火) 01:46:49 ID:IQxdCZVr
四苦八苦に、嫌な人と一緒にいなければならない
苦しみがあると思います。

明日も嫌な上司と打ち合わせをしなければならないのですが、
浄土三部経の中にその解決のヒントはありますか?
160けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/11(火) 07:55:43 ID:VSAQJ15s
>>159 極楽浄土では嫌な人にも会わなくてすむ。
161神も仏も名無しさん:2007/09/12(水) 01:00:58 ID:XlVo0SIc
>>160
えー? でも、極楽浄土にみんな来てるかもしれませんよ。

っていうより、問題は、今日だ。今日。あなたがそんなことしか
言ってくれなかったので、有効な策の無いまま上司に会って
しまったではないか。まあ、怒られなかったからいいけど。

とりあえず、南無阿弥陀仏でも唱えて寝よう。
162けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/12(水) 12:29:07 ID:7ueaWxNJ
>>161
極楽では、みんな仏のように穏やかな性格に変わりますので、心配いりません。
上司の顔を見て、仕事に必要なこと以外の妄想(嫌だとか)が浮かんだら、
頭の中で念仏して、妄想を強引にでも中断しましょう。
妄想が中断されると、感情も中断されます。

極楽の住人は、空・無相・無願の禅定を実践して、
心が妄想にとらわれることがありません。
我々は、空・無相・無願の三解脱門の禅定をやるのが難しいので、
念仏の利剣によって、
妄想をスパスパ斬り捨てながら生きてゆきましょう。
163神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 02:00:25 ID:BasRRGhm
>>162
今度はすごく良いアドバイスをありがとうございます。

顔を見て、「嫌だ」とか「怖い」と思ったら、「南無阿弥陀仏」と
心の中で言うことにします。

怒鳴られたり、「これをどうするか言ってみろ」と言われたときには、
即応が求められますので、短く「なむ」だけ言って、心を仕事に向ける
ことにします。

ところでけちゃっぷさんは念仏を唱えることで、妄想がスパスパ斬れますか?
私はそれほど心地よく斬れません。
164けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/13(木) 09:59:22 ID:whesNBxM
>>163 妄想をまったくなくすなんて難しいです。
念仏を心の主人、妄想は心のお客さんだと思いましょう。
あるいは、念仏が心の家、妄想は心のおでかけ。
妄想に気付いたら念仏に戻る。
ただそのくりかえしだけでいいと思います。
妄想が妄想だとわかったら、それだけで全然ちがいます。
仕事は、いくら怖いとか嫌だとか思ったって、
どうせできることしかできませんから、
できることだけやればいい。
ただ、妄想してる時間のロスは意外に大きいので、
同じことをぐるぐる考えないようにすれば、
仕事も早くなるのでは。
165神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 22:50:11 ID:BasRRGhm
>>164

> ただ、妄想してる時間のロスは意外に大きいので、
> 同じことをぐるぐる考えないようにすれば、
> 仕事も早くなるのでは。

では、そういたします。

> 妄想に気付いたら念仏に戻る。
> ただそのくりかえしだけでいいと思います。

何か禅定みたいですね。
166神も仏も名無しさん:2007/09/18(火) 17:50:46 ID:DVm240IF
>>158
大阪は天王寺区の一心寺(浄土宗)で日想観をやってるって
ホームページに書いてありますね
167神も仏も名無しさん:2007/09/18(火) 22:40:44 ID:OylxLdXj
>>166
ホームページを観てみました。本当ですね。
しかも昨日だったりする。雨がふってたら流れたのかな。

情報ご提供、どうもありがとうございました。
168神も仏も名無しさん:2007/09/19(水) 20:59:22 ID:9qW7Ux4t
>>167
どういたしまして。
169神も仏も名無しさん:2007/10/05(金) 22:10:36 ID:nOZnH5uH
サティやイトーヨーカドーで幼児をトイレに連れ込みいたずらする事件が相次いでいるようです。
男の子はお尻にボールペンを入れられ、
女の子はもっとひどくて三歳で子宮を全摘出しなくてはならないほど。
口には粘着テープをされたらしい。
ママと買い物していて子供だけ男子トイレに入ったときや
ママと別の個室に入って一人で出たところを狙われたらしい。
もしお子さんを一人でトイレに行かせているのなら気をつけてあげてください!
170神も仏も名無しさん
トイレに防犯カメラつけるべきだよね。