■原始仏教談話室 その5■

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1暇人
漢訳阿含経やパーリ仏典に説かれている教えについての談話室です。
参学の途上にある者同士の談話室です。まったり ゆったり学んでいきましょう。
ご関心・興味ある方が気軽にカキコできるように
初心者の方に優しくで お願いします。

以下ご参考に
原始仏教の定義 森ゼミの「原始仏教ってなーに」
www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html
原始仏教関連過去ログ倉庫
www.geocities.jp/jfcps873/index1.html 
パーリ仏典
www.metta.lk/tipitaka/
www.tipitaka.org/index.html
大正大蔵経-中華電子佛典協会
cbeta.twbbs.org/index.htm

難しい話や議論、論争は「原始佛教その19」へ
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/l50

前スレッド  ■原始仏教談話室その4■
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1146643240/l50
2Gocc (Get Mocc) ◆HswindowsI :2006/10/21(土) 01:17:32 ID:+2dAlutQ
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3名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 09:47:52 ID:BgMwdX5O
>>1
スレ立て乙
4名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 11:47:22 ID:NqY3wvF6
猿は死を理解出来ないのです。
母性本能とは関係ありません。
5名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 12:00:52 ID:NqY3wvF6
死を悲しむのは人類だけです。
6名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 12:07:58 ID:NqY3wvF6
人類は死が悲しいのです。
7名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 14:02:03 ID:AgGQEq8S
> 996 :名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 09:15:11 ID:fdy5O4JL
> >>991
> >類人類の段階から、
> ここは原始仏教談話室なので言わせて頂くが、原始仏典に於いて人間は猿から進化した
> とはなっていない。むしろ天人から退化したとも言うべき記述があります。進化論をも
> 鵜呑みにすることなく、そんな話も出来たらと思っています。

原始仏典での記述に関連して、類人猿にも類似の現象があったことを紹介したいと思い、
現在に引き付けた文脈で書いた、ということです。

> 天人から退化したとも言うべき記述があります
この点すこし疑問でもあるので、後学のため詳述お願いできればと思います。

> 進化論をも鵜呑みにすることなく
進化論に問題があることは承知しています。「ちくま選書」にそういう本がありましたね。
しかし、人類と類人猿との遺伝子レベルでの比較や形態比較などから、進化論を受容しています。
少なくとも、テネシー州の教科書裁判のような進化論完全否定の立場ではないです。
8名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 14:06:31 ID:x5JRrx22
>死を悲しむのは人類だけです

そんなことは無いと思うよ。像であれなんであれ、自分の子供をよく守る習生のあるものは、
そもそも、失うと言う悲しみから来る感情を原因として、子供を守っているのではないだろうか?
確かにそうに違いないと思う。仏教は全てのものは平等であると言うのは、全てのものは縁起の法則にある者であると言うことであり、
人間が子供を守ると言う原因結果があれば、そして像や他の動物にも、子供を守ると言う習生があれば、
そこには同じ縁起の法則が働いており、多少の薄い濃いの差異があるかもしれないが、人間の理解するところは、
間違いではないというべきであると思う。その証左に、生き物を殺傷しない、と言う戒めは
アリにも及ぶではないか。
9名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 18:10:57 ID:xtjQQDRU
>>900(前スレ)
ゴータミーの執着とゴータミーの子どもの命への執着とは、不可分です。
人間と人間の思想とが、それぞれ独立してあるのではなく、不可分であるように。
生と死もそうです。相対的に対象化させて捉えるだけでは、悟りに触れていることには
ならないと思います。ゴータミーは「不死に至る道を修めた(222)」の不死とは、生と
死の相対から抜け出たという意味でしょう。生と死は、一ならず、異ならず≠アれが
中道のスタンスだと思います。

ロシアの婦人の件については、悟ったお釈迦様には、食中毒のエピソードだってあるわけ
ですから、何にも食べずに生きていられると言う奇跡を根拠に、その女性が悟りに触れて
いるということにはならないと思います。また、粗大な食物ではなく、微細なエネルギー
を食するという理由を以ってしても、同様に悟りの理由にはならないと思います。
10名無しさん@3周年:2006/10/21(土) 18:18:56 ID:xtjQQDRU
>>9

900→990の間違いです。m(__)m
11名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:48:14 ID:OUAzW+Ba
test
12名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:50:40 ID:OUAzW+Ba
公開プロキシ規制中とかで書き込み出来ず失礼しました。
>>7
 こうして暫らくすると,この水の上層が変化して味地(rasa‐pathavī)と
いうクリームのように美味な地となる。以上の各地が完成次第,次々と破壊
されなかった上の梵天地から,業が尽きたり寿量の終った天人達が各地に転
生して来るのである。この味地の人界に結生して来た者達も,梵天から転生
したばかりであるために前世の勝れた性質が残っていて,この地上には男女
の性別もなく,喜を食とし,体から光を発し空中を飛んでいるのである。そ
のうち彼等の中の好奇心の強い者がこの味地を見て,その美しさと香りに引
かれて舐めてみると,それがあまりにも美味なので何度も味わうのである。

それを見た他の者達も真似をして舐め,その美味を知り,すべての者がそれ
を食事として多量に摂るようになる。するとその味に対して生じた渇愛のた
めに体から光が失われて世界が真暗闇となる。その不安な暗闇を除くために
彼等の過去の善業によって50ヨージャナの太陽が現われて来るのである。そ
の太陽が沈んだ後にも彼等の求めに応じて、49ヨージャナある月と諸の星が
現われて来るのである。このように世界の創造のための雨が降り出してから,
太陽・月・星が出現するまでの間が成劫である。
13名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 10:51:29 ID:OUAzW+Ba
──略──
 こうして,太陽・月・星が現われてから,人々の食物は味地を食べる時代
を経て,次には地煎餅(bhūmi―pappaţaka)を食べるようになる。次には,地
が更に変化したパダーラタ(padālata)という蔓草を食べ,最後に米を食べる
時代となるのである。米を食べるようになると体内に食物の粕が残り,大小
便となるから,それを排泄するための出口も生じるようになり,更に男女の
別が生じて来る。この男女の別は,梵天に生まれる前の欲界に住していた時
の性が現われるのである。
 このようにして現に見られる人間の生活が始まって来たのである。この太
陽・月・星などが現われてから全世界を滅ぼす大雨が降るまでの間が住劫で
ある。
14名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:06:14 ID:rB9/gG5i
動物には未来予測能力がないから、つまりこうすればああなると言う認識がない。
あるのは条件反射だから
死、つまり生存の断絶は予測できないし認識できない
と言うのが現在の科学の見解です。
京大の霊長類研究所の先生が書いてたよ。
15名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:36:07 ID:BGtHPsZP
>>12-13
ご紹介ありがとうございます。
> この味地の人界に結生して来た者達も,梵天から転生したばかりであるために
> 前世の勝れた性質が残っていて,この地上には男女の性別もなく,喜を食とし,
> 体から光を発し空中を飛んでいるのである。

この部分ですね。これは世記経や倶舎論世間品、立世阿毘曇論と対応パーリ文
ローカ・パンニャッティ、カターヴァットゥなどで語られる宇宙生成譚のようですね。

細部に関して、各部派で相違する解釈も種々あるようですが、
こういった世界観が、いつ、どういう形で仏教に入ってきたのか興味があります。
16名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 12:55:09 ID:YxuQ1vx3
>死、つまり生存の断絶は予測できないし認識できない
犬や猫などには死が予測できない、というのはそういう気もするけど、
死が認識できない、とまで言えるのかな。死んだかどうかは分かるのではないかと思うけど。
その点、京大霊長類研の方が具体的にどういう表現をしていたか気になります。

洞窟遺跡で見付かった原人だかの骨の回りに、花粉のある植物の痕跡があったとかで、
花を手向ける風習が原人にもあったのか、ということが話題になったことがあったけれど、
一緒に生活した者を失った場合の悲しみは、原人にもあったのかも知れない。
17名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 17:36:27 ID:JrvctqhX
―平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜慈しみの心づかいをし
っかりたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ―(スッタニパータ)

スマトラ地震で死んでいった人達と、残って悲しんでいる人達とに対して、
ブッダならどの様に、対処されるでしょうか?

18名無しさん@3周年:2006/10/22(日) 21:35:31 ID:JrvctqhX
>>14
>つまりこうすればああなると言う認識がない。 あるのは条件反射だから

全ては条件反射ではないでしょうか?どんな行為でも必ずそれに伴う結果が伴います。
それを条件反射と言わなければならないと思うのですが。
19名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 16:24:29 ID:cTGcF9oo
因果のなかに生物学的反射は含まれますが
因果の全てが生物学的反射ではありませんよね。

瓦をハンマーで叩くと割れる。
これは因果であっても、反射ではありません。
因みに因縁の「縁」は副次的原因、つまり条件とか環境のことですけど。
20名無しさん@3周年:2006/10/25(水) 19:38:12 ID:7ZU6p/2E
>>19
>因みに因縁の「縁」は副次的原因、つまり条件とか環境のことですけど。

仮に、原因に、ひとつは直説原因、もう一つは副次原因というものがあるとしても、
どれかを欠けば結果が無いならば、結果に対しては、副次であろうと直説であろうと無関係に、原因となると
言わなければならないと思います。経典(涅槃経)は、たしか、種を植えても、湿度温度がなければ成長しない。
種は直説原因であるし、温度湿度は間接原因、詰まり、「縁」としていたと思います。


21名無しさん@3周年:2006/10/28(土) 13:22:53 ID:kQsOyXls
俺は方便に付いて話したかったのだが、そして俺の考えでは、方便とは、縁起の法則の使用である、というのである。
智慧とは、縁起の法則の現象を見て、縁起しているものには実体が無いと言う判断である。従って、智慧と方便は、
空諦と縁起の法則の別の表現であるのだ。
 大乗経典においては、空諦と言う言葉が主流であるが、原始経典では中道と言う言葉が主流の様である。
しかし、これは同じ意味であり、翻訳の如何に関係しているのかもしれない。
 縁起と言う言葉は、大乗ではまれである。その代わりに方便と言う表現が強調される。
22名無しさん@3周年:2006/11/02(木) 20:13:16 ID:gAMD2cph
>>21
浄土にいて、空を完全に体得してるものは、方便を用いて衆生に接する以外ない。
例えば、旧約聖書は天地想像を述べているが、これが菩薩の方便と言われるものである。
23名無しさん@3周年:2006/11/03(金) 08:41:41 ID:/eTAtAAO
旧約は下手な方便か。
24暇人:2006/11/12(日) 05:09:42 ID:onGPKV7W
原始経典で「方便」という語はみたことない
見たことないというか 関心がないので 注意して調べたことないが
例えば 
釈尊が子を亡くした母に
「死人を出したことない家から芥子粒を貰っておいで
そしたら生き返らせてあげる」と言ったのは方便ではないだろうか。

これは「嘘」というより「真実に至る為の手立て」
25名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 09:45:49 ID:oNouF/1s
火宅の喩え
26名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 16:00:23 ID:wyu/CW9B
原始仏典〈第2巻〉長部経典2/春秋社に、
生成の由来についての大なる経―「大縁方便経」というのがあるみたいですが。
http://item.rakuten.co.jp/book/1612406/

説法の法とは、衆生の煩悩・執着を落とし、悟り・涅槃に導くための手段=方便
なのだから、仏が衆生を導く教えは、すべてが方便ということになると思います。
27名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 16:03:45 ID:FtXZBakF
>>24 分家・新婚夫婦の新宅なら、死人を出したことがないのでは
28名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 18:56:15 ID:N4WIwIa0
>>25
下らない小さな玩具を求めて争いをしている子供達に向かって、大きな牛が引く、それもとても速く走るぎゅ車
が家の外にある、それに乗って遊べ、という主旨の方便でしたね。
 中道に導くための方便方法でした。小さな詰まらない玩具と、生きている大きな牛とその後ろの見事な車、
そのさまは、詰まらない玩具と比べたら、比較になら無い物であり、それを想像したり、見たならば、
小さい詰まらない玩具など目もくれないようなものでした。正覚者の提示した牛車を縁として、家宅から飛び出したのです。
つまり、小さな詰まらない玩具と、生きた牛の引く車とは縁起関係にあります。小さな詰まらない玩具に執着して居る者は、
おおきな牛の引く車にも執着しているのです。これを両極端に執着すると言うのです。この両極端に執着する性質を
りようして、導くことを縁起の法則を利用して導くというのであると思うのです。
 しかし目的は、両者からの解脱です。火宅から飛び出すということで、解脱したのであると思います。
 

しかし本当の目的は、火炎が燃え盛る家からの救出でした。

29名無しさん@3周年:2006/11/12(日) 21:04:01 ID:N4WIwIa0
>>28訂正
しかし本当の目的は、火炎が燃え盛る家からの救出でした。 →削除

たしか、原始経典に、ニルバーナに入りるのも縁起である、とある。当然だ。
次ぎに、ニルバーナにもその原因にも執着しない、と言うのがある。
30暇人:2006/11/13(月) 05:29:39 ID:NP5Jtm4y
>>26

失礼しました
31名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 23:23:49 ID:cnHn+QXB
縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?
32暇人:2006/11/16(木) 06:04:51 ID:XnSZHjgA
縁起の法則←なんかカルトぽい
33無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 10:49:37 ID:5LBZdPs3

縁起の法則→原因と結果の法則

結果として「苦」を解消するためには、
「苦」の原因を滅すればよい。
原因がなければ、結果は生じない。
34無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 10:54:33 ID:5LBZdPs3
>>33

訂正前
結果として「苦」を解消するためには、

訂正後
結果としての「苦」を解消するためには、


>>31 :名無しさん@3周年:2006/11/15(水) 23:23:49 ID:cnHn+QXB
> 縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?

「人の苦を抜く」との表現はどこから?
新興宗教で「抜苦代受」と、非仏教の教えを説いているところはあるが。
原始仏教では、自業自得が大原則。
代受はありえない。
35暇人:2006/11/16(木) 19:44:54 ID:PIqMimjM
>>33

生老病死の苦を解消するには どうするん?
36無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 22:25:50 ID:7hA9TaYn
>>35 :暇人:2006/11/16(木) 19:44:54 ID:PIqMimjM

> 生老病死の苦を解消するには どうするん?

八正道で、解脱すれば解消よんさま


37名無しさん@3周年:2006/11/16(木) 22:29:43 ID:3q3fBJSC
df
38暇人:2006/11/16(木) 22:30:39 ID:PIqMimjM
んだね 悟ればとあるね。

ただ法則というのはどなんだろうね
それは法則なのか
39無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/16(木) 23:13:33 ID:7hA9TaYn

よくわかりませんが、
法則だとしたら、何か、不都合でもあるのですか?

私は、法則or真理だと思います。
40暇人:2006/11/16(木) 23:26:53 ID:PIqMimjM
うん 法則と絶対化したりする感じぢゃない気がするのね 釈尊。

彼あれば此れある。単純な事実を指摘みたいな
だけど言われてみて 目からうろことか
41無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/17(金) 05:45:01 ID:LB5Lm9J+
>>40 :暇人:2006/11/16(木) 23:26:53 ID:PIqMimjM
> うん 法則と絶対化したりする感じぢゃない気がするのね 釈尊。

ああ、そうですね。

『縁起の立場そのものを説くことは、
すでに一個の見解に堕すことで、
縁起の立場をふみはずすことになる。』
と森章司先生も「仏教的ものの見方」の中で述べていますね。

ただ、仏典に以下に対応する部分があったこともたしか。
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation.html
 ブッダの体系は、大きく二つの部分から成っている。まず、中心に置かれるのが、
縁起(因果関係)の論理学である。彼はこれを第一義とし、

●縁起を「これに縁ること」と具体的に呼んで、
●「如来が出現しても、如来が出現しなくても、これ(=「これに縁ること」)は確立している」

と述べたのである。
これは、わたしたちの住む自然界、つまり、現象世界を直接表現するための論理学である。
42名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:50:59 ID:jW+MAJ1A
> 縁起の法則を用いて、人の苦を抜くとはどのようなことなんだろう?
抜苦与楽です。
縁起の法を学び体得し慈悲が育まれて人の苦をスルーできなくなるから抜苦与楽です。
慈悲とは大乗仏教の菩薩の特権ではありません。
仏教全般を貫いている不可欠な要素です。
43名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 19:01:52 ID:Wm4bNQn0
火事場の馬鹿力と言う諺があります。火事と言う大騒動に縁すると、それまで小さな力も出せないで居た人が、
大きな力をだして居るという事実である。これもある執着から人を離れさせる方便を言うものではないだろうか?
 又、海の塩が異常に引いていったところ、海岸の住民は、それを奇貨として海岸から潮の引いた海底に入り遊んでいた。
所が、小高い丘の上に建っていたお寺の坊さんが、その塩の引いたのは地震によるものであり、必ず津波が来る
と判断し、住民を丘の上に避難させる為に、お寺に火をつけて、お寺の災難を住民に知らせ、住民を海底から
丘に駆けつけさせた。かくして住民は津波から逃れることが出来た、と言う話がある。
 人が楽しみを求めて、酒を飲んだり、遊戯にふけったりするのも、執着を離れる手段即ち方便ではないだろうか?
人を苦から抜け出させるための方便としては、四諦の法門などがあると言われるが、菩薩と縁する人は、苦から逃れるであろう。
なぜなら、菩薩は、人の苦を見、それが縁起しているだけの実体の無いものであることを見ているからであり、
その実体の無い幻を、他の幻を作り出すことにより、執着からはなれさせることが出来るのである。
菩薩は一切が空で、実体有るものは無いと言うことを知っているから、自分が幻を作り出す以外、幻なるものは無いのである。
菩薩の代苦と言われるものは、この縁起の理法を応用することにより、苦しみとしてある幻を、消してしまうことに違いないと思う。
そして是が抜苦与楽と言われるものであるに違いない。菩薩に取り、このような苦が世間に多ければ多いほど、沢山の仕事があるのであり、
それは菩薩にとって少しも嫌な仕事ではないのだ。地獄に居ても菩薩自身は浄土である。地獄で菩薩に縁するもの達は
浄土に入るのであろう。
 原始経典には、このような教えは無いが、原始経典に言う、「善い行い」は
菩薩の行いを否定するものではなく、実にこの菩薩の行いのことを言って居るのだ。
44真光青年隊:2006/11/17(金) 19:11:07 ID:7eKfIZJR
『手かざし実践の鬼(御二)』こと「真光青年隊」でごんす(大爆笑)
最近メッキリ冷え込んで参りまして、とうとうストーブを使い始めました。
今日は感・感・感激!嬉しき有難き!世界総本山 元主晃大神宮に於きまして、
な・な・なんと!四十七周年秋季大祭の初日でございます!
岐阜県高山市も、かなり冷え込んでおる事と思います。
メインは何と言っても進発式でございますよ!
世界中から集結した真光青年隊代表者による「万国旗・御神紋旗・道場隊旗」の堂々たる大行進が行なわれるのであります!
私も旗手及び大祭御奉仕の経験が感度かございます。
あの感動は言葉に言い尽くせない込み上げて来る大神様への想いが沸き起こってまいるのでございます。
旗手介添えの隊員諸君もご苦労様です。
初次見面、請多関照(初めまして、宜しくお願いします)
実は私、「中華人民共和国」に無数の拠点、各道場と大都市圏には必ず大道場の設立を許されるよう日々祈り続けております。
これは「社会主義体制から神主主義」の移行を以前から強く叫び続けておるところから発せられておる所でございます。
その為の語学習得「中国語(北京語)」のための勉強にも少々取り組んでいます。
さぁ、貴方たちも是非、私と共に中華人民共和国の大神業恢弘普及に向けて歩武を進めさせて頂きましょう!!
当然、手かざし実践の鬼と豪語する以上、真光の業の急所は、完全制覇していますよ(笑)
こんな事は初級受講者の基本中の基本であり、それ以上に「霊細胞、幽細胞」を浄めるという霊主の捉え方が極めて重要であります。
真光の業にも奥義がございます。
口先だけではなく実践こそが極めて重要であり、最も大切な要諦でございます。
まさに天文学的数字では計り知ることの出来ない人知人力を超越した「極微実相の世界」なのです(笑)
はっきり申し上げると私ぐらい皆さん方の為を想って考えてみ教えを書いている人(霊止)はいないと思います。
私のお伝えしている「み教え」は非常に奥が深いのでございます。
私の書く内容を読めば誰でも一発で分かります。
この事を簡単に考えておってはなりません。
この事を今日は厳しく申し付けておきます。
45名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 19:21:16 ID:Wm4bNQn0
>>43つづき
 そもそも修行とは、あらゆる妄想を消滅させる行いであるが、こう妄想を消滅させると言うことは、
縁起しているものが妄想であると知ることであり、故に、妄想に引っかからないで居られるのである。
その妄想なるものは、一人において生じるということは無いのではないか。つまり一つの妄想は
あらゆる妄想を生じさせているのであるから、一人の人においてすべての妄想が消滅すると言うことは、
その人に縁するあらゆる人の妄想も消滅しているはずであろう。この故に「聖者の居るところは楽しい」と言われるのである。
又仏国土と言われるのもこのことであろう。
46名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 20:36:24 ID:wuRVGew/
暇人は馬鹿だから、理法とでも言っておけ。
47暇人:2006/11/18(土) 09:20:36 ID:seS4y89+
縁起は論理学ではないと思うけどね。
「視点」かも。
まだ理法のほうが一般的だけども いっしょぢゃん
48名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 09:59:28 ID:HP93/ZNE
>>47
縁起が論理
縁起は論理

何れも理屈に合わない。石飛さんはあれだけ論破されているのに気づかない。
理法という言葉は法則ほど狭くない。西洋哲学用語の制限から比較的自由。
49暇人:2006/11/18(土) 10:46:18 ID:UYj1L21P
法則とか 理法と言ってしまうとさ
(理法は日本大乗では一般的だし 法則はカルトが使っているが)
なんだか水戸黄門の印籠みたいになっちゃうような気がしてさ
「この紋所が目に入らぬか ひかえろー」みたくさ
「縁起の法則を用いて、人の苦を抜く」だと
なんだが
万能薬「縁起の法則」! 苦しみに効果的 即癒されます とか
50名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 10:58:05 ID:xxwXQ0Q1
・世俗諦では、「縁起とは」と言語で表現される事もある。
・勝義諦においては、縁起はあくまで観る(視る?)ものである。
(まぁ勝義諦では縁起すら空だが)

そこは言語表現のおいつかない領域。
実践を目指す人は、色々言わずに先ずは観察しようぜ。

三吉さんは成就したのかな?
51名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 11:00:06 ID:HP93/ZNE
>>49
理法とはもっと個別的、個人的な観点というほどのニュアンスがないかな。
真如なら「カルマの法則」に近いね。
縁起も所詮釈迦の観察だし、それに屁理屈をつけたもの。
万人に合うとは限らない。

十二縁起のそれぞれの現象に因果関係があるというのは真理
その個々の現象を総体として固定付けてしまった場合は真理とは呼べない。
なぜなら、さまざまな現象を想定できるから。

縁起が真理であると主張するのであれば、縁起の個々内容の必然性を論じなければならない。
石飛論はその作業を飛ばして真理表の矛盾をつくだけである。
また、真理表無矛盾指摘にも誤謬がある。
よって、石飛論は詭弁である。
52名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 12:48:51 ID:MzSzzIk7
縁起の法を理解するだけの機根や心の成熟がないと、たとえそれを印籠代わりに
持ち出しても、縁無き衆生は度し難し。その為にも慈悲の心でもって、様々な応病
与薬(対機説法)の工夫が必要とされる。
仏教が他の宗教と異なる視点は、存在論としての法を説かないことである。縁起の
法(則)とは、人間が自然界(人間を含む)を秩序立てて観察するための形式としての
理法であり智法であって、客観的な実体論や存在論としてのそれではない。縁起が
真理であるというのは、縁起=無常・無我・空が真理という論理で思惟すれば、実
体論や存在論の落とし穴に陥らずに済むのではないでせうか。
53名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 20:57:52 ID:FfUyxQ8/
縁起=空ではない。縁起であるから空なのだ。空と縁起は全く異なるものである。
縁起は世俗対と言われるように、理解は容易である。しかし縁起であるから空であると言う判断は、
釈尊だけではないか。
54名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 20:59:19 ID:k3IIoHF7
>>23
いえー
55お大師様かまってチョ♪:2006/11/18(土) 21:47:17 ID:hfV/5E8c
嵐にきたじょぉ
ヽ(´∇`)ノ
縁起=空♪
だから
色即是空
空即是色
色は縁起と深く関わってる♪ 是諸法空相
この世に存在するものは縁起と深く関わっている♪
56名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 22:07:21 ID:MzSzzIk7
>>53
>空と縁起は全く異なるものである。
世俗諦を通して透徹されるのが勝義諦(空)ですから、縁起と空が
全く異なる独立した別物であるなら、縁起であるから空なのだとする
論理は成立しないでしょう。
>縁起は世俗対と言われるように、理解は容易である。
言葉は月を指し示す指にすぎないのではない。
指は指自身を指し示すことがことができないからこそ、指の先には月がある。
指は縁起で言説諦(世俗諦)、月は空で勝義諦。前者は有為法、後者は無為法。
有為と無為の間に断裂はない。性相融即、別の言い方を、色即是空。
57名無しさん@3周年:2006/11/18(土) 23:28:07 ID:FfUyxQ8/
ニルバーナとは何も起こらない状態を言う。無起と言う。無作と言う。この意味は、
縁起するものが無いと言う意味である。縁起状態ではないと言うのがニルバーナの意味である。
であるから、ニルバーナを空の他に、一相無相無願・無起・無作とも言うのである。
 縁起とはある相が、因縁条件により生じると同時に、前のものが滅する、という「変化」を言う。
この「変化」と「ニルバーナ」は全く異なるものであるといわなければならない。これが理法である。
 
 色即是空・空即是色というのは、空と色が同じものであると言うのではない。
あくまでも「空」が真実なのである。
 空とは実に無判断を意味するが、色は、分別判断を意味する。分別判断とは
「是あれば彼あり、これ無ければ彼無し」の判断であり、この判断は、空と言うと言う「無判断」
に至るものであるが、あくまでも、前者の分別判断から、後者の無判断に至るのであるから、
分別判断と無判断が同一と言うことは出来ない。これは論理である。

色即是空・空即是色 この意味は文字通り取ってはならない。この真意は、一切が空であると言うことを意味している。

 もし誰かがあるものに執着し、それ以外目に入らないとするなら、目には要らないものは心にも入らないものであり、
このかれが等閑視している状態が、色即是空・空即是色なのである。真実を体得しょうとしている修行者は一切のものに執着せず、
彼にとって、世界は、 色即是空 空即是色 なのであろう。

58お大師様かまってチョ♪:2006/11/19(日) 00:19:06 ID:2Ne8uADa
行を深めて般若波羅密多した時に色即是空というものがどんなもんかを理解した
つまり
般若波羅密多にならなきゃ色即是空ってのはどんなもんか分からないよん♪
ヽ(´∇`)ノ
59お大師様かまってチョ♪:2006/11/19(日) 00:23:47 ID:2Ne8uADa
ヽ(´∇`)ノ何故
分かりやすく空を無って表現しなかったんだろう
色即是無ってしてくれたら簡単なのに♪
般若心経には他で無って使って空と無とを区別して使ってるのにね♪
60名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 01:52:17 ID:nSt+e/fR
>色即是空・空即是色というのは、空と色が同じものであると言うのではない。
>あくまでも「空」が真実なのである。
> 空とは実に無判断を意味するが、色は、分別判断を意味する。分別判断とは
>「是あれば彼あり、これ無ければ彼無し」の判断であり、この判断は、空と言うと言う「無判断」
>に至るものであるが、あくまでも、前者の分別判断から、後者の無判断に至るのであるから、
>分別判断と無判断が同一と言うことは出来ない。これは論理である。
同一と言うことはできないという単一判断なら、断見です。
正見(中道)なら、同一でもなく別異でもなくでしょう。
性相融即(色即是空)の即は中道の立場です。
単純な=ではなく、二辺を離れた重層的な=なのです。
実に縁起により中道が導き出されますから、縁起するものがない=無起・無作
の断見は、中道(正見)に違背していることになります。
61無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/19(日) 06:33:44 ID:f1ghXyqq
.
人間であれば、哺乳類である。
しかし、
哺乳類であるからといって、人間であるとはいえない。
.
この世に、常住不変なものはない。
自性は存在しない。
諸法無我ゆえに諸行無常である。
したがって、色即是空ということができる。
空とは自性は存在せず、全てのものは、他(の因縁)により成立していることを意味する。
.
しかし、空即是色は、一体何を意味するのか?
色即是空の逆は、いかなる、論理によって真理足りえるのか?
62名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 07:02:09 ID:ajThOeay
>この世に、常住不変なものはない。
あるじゃん。あれだよ。あれ。
あれがなきゃ仏教じゃない。
63名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 12:40:41 ID:KuL6K3Tj
真実は自性が無ければならない。空が真実なら空は自性あるものである。
自性あるものは、単一なものでなければならない。
64名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:14:25 ID:/gnr1G5d
>>62 常住不変なものは一切ないってのが仏教です
65名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:19:26 ID:MfGj5lMi
一切の事物に於て、縁起・無自性・空ならざるものはなし。
空の外延は無限大である。
外延が無限大なら、空の内包は反比例的に無限小である。
空に中味が無い、空に性質が無い、性がないから無自性という。
空が真実という言葉のぎりぎりにおける表現は、空という無自性が真実ということだろう。
外延は色、内包は空。ここでも色即是空が成立している。^^
66名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:38:40 ID:KuL6K3Tj
>>65
 外延とは何ですか?どんな概念ですか?
67名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 14:42:14 ID:MfGj5lMi
ぐぐって下さい。
ネットは百貨辞典です。
68名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:19:10 ID:KuL6K3Tj
>>61
>しかし、空即是色は、一体何を意味するのか?
色即是空の逆は、いかなる、論理によって真理足りえるのか?

五蘊は空であると言って居るのだ。そのなかの一つである色が空であると言うのを取り出しているのだ。
色は色形という物を表現している。その色形を認めるものは、「受」である。「受」無くして色形を見ることは無いのだ。
受が空であるといえば、色が空であると言う必要も無いのだ。
 五蘊を略して、色心と言う。この心には受想行識があるのだが、これらのものと色を区別しているのは、
便宜的なものであると思う。むしろ心の方を絶対的に重んじる方が間違いが起きないのではないかと思う。
心と物質は相対的に存在するものではない。そこで、受想行識が空であるので、物質である色は、
当然に空であり、色は心により認められるものであるから、当然に空である、といわなければならないだろう。
前者を、空即是色と言うのであり、後者を、色即是空というのであろう。
 五蘊全体が空であると言って居るのを閑却して、色即是空、空即是色だけでは混乱するのではないだろうか。
69名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:31:13 ID:/gnr1G5d
スマさんは「空即是色は後世の付け足し」と断言してたな
70名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 16:43:08 ID:KuL6K3Tj
スッタニパータの最後の章:第五彼岸に至る道の章、ではじめて「空」という表現が出てくるんだよね。
71名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 19:49:02 ID:KuL6K3Tj
>>64
不生不滅なもの、造られざるもの、これが空であるが、自性あるものとしてあるといわなければならない。
72名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 20:02:25 ID:nqyP92gi
398 名無しさん@3周年 sage 2006/11/03(金) 21:01:16 ID:ZzchwiI7
>> 227 >> 341
> 諸仏あるいは我を説き、あるいは無我を説く


「小空経」(『中部経典』、『中阿含経』巻49)
釈尊が鹿子母堂という講堂でアーナンダと比丘たちに説く。
「ここに牛はいない。牛に関して言えば、空である。
しかし、比丘はいる。比丘に関して言えば、空ではない。」

(補記。牛を探しに来た人々なら、後から来た人が「いるか?」と聞いて、先に中を覗いた人は
【いない】と答える。比丘を探しに来た人々なら「いるか?」【いる】となる。)

この「講堂の牛と比丘」の論法で、以下を見てゆく。

> 村想の時は[我なし]、人想の時も[我なし]、林想の時のみ[我あり]、と見る。
> 人想の時は[我なし]、林想の時も[我なし]、地想の時のみ[我あり]、と見る。
以下、同様にして、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の、いわゆる四無色定についても考察してゆく。


以上、「〜に関して言えば無我、…に関して言えば有我」というように、
四句分別の第三句「Aあり、また、非Aあり」を、同時に異なる立脚地から見ている例である。

73名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 21:26:25 ID:pXv/sWMn
>>69
案外あるかもしれない>付け足し
しかしなぁ縁起の概念で世界を眺めて、一回自分の中で(概念まみれの)
世界が崩壊し、その後違う形で世界の再構築が行われるから
色即是空 空即是色
ってのもアリなんじゃないか?と思ってはいたんだが・・・
まぁ再構築された世界は決して「色」ではないんだけどね。
74名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 22:16:32 ID:KuL6K3Tj
>>64
仏教がこの教えの程度で留まっているなら、仏教はニヒリズモであろう。
この真理に従えるもんは居ない、不可能だから。宇宙の闇に飛び込むような者である。
 空が自性あるものとして存在していることがわかるなら、これ以上に頼れる存在は無いのである。
 空が自性あるものであるので、縁起している無自性な物に執着しては行けないのである。

 自性あるものは、自存するものである。仏陀は自存者と呼ばれている。
 自存するものは、相対的存在ではあり得ない。
 一切は縁起しているもので、自性が無いと言われた。
其処で一切は無自性であると言われる。又自性あるものは無いとも言われる。しかし、ここにおける無自性は
あくまで、縁起している一切である。縁起しないものは無いのか?
 一切の無自性が縁起して居ないのだ。無自性なるものと無自性なるものは縁起関係に無い。
それなら、無自性が自性あるものといえるのである。 一切が無自性であるから、一切が無自性と言う自性を持っているのである。
そして、無自性と無自性は異なるものではないので、一相である。一相であるなら、其処に識別できる異なる相は無いのであるから、無相である。
無相であるなら、何かを求めることは間違った望みである。何かに当たるその物が存在していないのが真実であるから。望むなら、その人に禍となるであろう。
7562:2006/11/19(日) 23:05:12 ID:ajThOeay
>縁起しないものは無いのか?
何にも依存せずに存在するものがある。
縁によって作られるものではなく、無縁のものを忘れてますよ。皆さん。
あれですよ。あれ。
76名無しさん@3周年:2006/11/19(日) 23:26:36 ID:r+pDinJS
鳥だ飛行機だ
いや!
アートマンだ!!!11
77無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/20(月) 05:50:04 ID:uoZLOLv1

五蘊は無常
涅槃は常住不変

したがって、この間には物凄い断絶があるのだが、
なんかどこかでごまかされてあいまいにされている希ガスw
78名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 07:52:58 ID:k2D3mx0O
涅槃って身体と自我が雲散霧消した状態のことをいうんじゃないの?
涅槃っていうモノがあるの?
79名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:21:41 ID:pql6Qtud
ルージュと言う人が、無自性空を説き、しかし、自性を説いていないなら、、実に言葉で「自性あるもの」を説いていないなら、
それは涅槃を説かない欠陥ある教えであると思う。
 そもそも、無自性無自性というのであるから、自性を前提に、又は、自性と相対的なものと考えねばならない。

 それから、今まで、勝義諦は表現できない、と言う意見があったが、そんなとは無いと思う。
もちろん教えとしての言葉は、理解され、その人の栄養となる時がある。そのための教えの言葉であろう。

 >>77
変化するものは常住ではない。変化して居るものは実体が無い。そのことを空といい、空とは
従って、変化が無い、と言う意味である。空は変化が無いのだ。変化の無いものは常住である。常住
であるものは自性があるのだ。涅槃は常住であり、それは空だから、自性があるから。
80名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:27:02 ID:WsmWItxp
>>78
状態だろうがモノだろうが境涯だろうが境地だろうが、
それが、(なんらかの)縁によってもたらさるのかどうか?という点に
無宗ださんの疑問は収束するのだよ。
涅槃は、縁起の内にあるのか外にあるのか?

たとえ、状態(≒境地・境涯)であったとしても、
それが、行(≒八正道)を縁として、一個人の上に顕われるものならば、
出家し、努め励むことによって一個人に見られるものならば、
それは、梵行を行ずることによってその人の上に生じた、と言い得るのではないか?
それとも、そうした個人の行が為されようが為されまいが(もっと言えば、釈尊の成道に関わらず)、
「ある」ものなのか?(勿論、経典にはそう書かれているが・・・)
81名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 08:32:46 ID:pql6Qtud
>>75
 62さん、必ずその「あれ」を明かしてください。
82名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 09:38:45 ID:AGc/Tbow
真摯に修行をし、求めるものにはいつでも変わらずに顕現するから、如来は常住
であると大乗の涅槃経には書かれているんだし、釈尊以前にも過去仏というのは
いたのだから、釈尊以前にも釈尊成道にも関わらずに、如来や涅槃といわれるも
のがあるとしても、不思議ではないと思う。原始仏典で言う常住不変とは、そういう
意味ではないですか。仏教では、主観を離れた客観的存在法、何ものにも依存せ
ずにそれ自体で単独に存在する実体法は説かないでしょう。もし、自性としての
法を認めるなら、わざわざ縁起の法とか四諦とか三法印なんて今更ながら説く必然性
もなかったでしょうし。三法印の、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静は、涅槃の境地が
縁起の法と密接に結びついてることを表わしている。

ての法は
83名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 09:41:14 ID:AGc/Tbow
ての法は、消し忘れです。^^;
84名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 10:10:26 ID:AGc/Tbow
縁起の内とか外という分別を離れたのが涅槃ではないのかと。
無常涅槃を得た覚者の縁起は、法性縁起でしょう。
法性が常住ということは、原始経典にも書かれている。
85名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 10:22:19 ID:AGc/Tbow
>>84
無常涅槃×
無上涅槃でした。^^;
8662:2006/11/20(月) 10:44:15 ID:SKdF4Qwo
>>81
もちろん、涅槃で御座います。
「第三涅槃に関する経」が説かれるに当っては、次のような話がある。世尊は種々の理由によっ
て輪廻の危険を示し、涅槃に関する法話を説かれた。すると修行僧たちは、こう考えた。「世尊は
この輪廻が無明などの縁によって作られるものである、涅槃は縁によって作られるものではない
と説かれた。とすると涅槃は無縁である。一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」と。
そこで世尊は説かれた。「この世において、或る人々は〃涅槃というものはただの言葉だけだ。
第一義的に得られるものではない〃と理解しているが、これは誤解である。涅槃というものは
第一義的に得られるものである。」と。
87名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 17:59:50 ID:DVjRNLZZ
>>48
さて、どれだけ論破されてるか?
私は、木村俊彦さん以外に批判した人は知らないが?

>>51
>>縁起が真理であると主張するのであれば、縁起の個々内容の必然性を論じなければならない。

論じなければならない必然性は何?

>>真理表無矛盾指摘にも誤謬がある。

それはどんな誤謬か? 
西洋論理学体系を真として、その記述・説明体系に合わなければ誤謬とするのでは、甚だ幼稚で木村さんと同じ。
それではインド思想を研究する意味が無くなるでしょう。
88名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 18:25:39 ID:pql6Qtud
>>86
>一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」

それでどの様に涅槃は得られると教えているのでしょうか?そして第一義的に得られるとはどのような意味でしょうか?
89名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 18:33:46 ID:SKdF4Qwo
「第四涅槃に関する経」が説かれるに当っては次のような話がある。世尊は種々の表現で涅槃に関する法話を説かれた。
すると修行僧たちは、こう考えた。「世尊によって涅槃の偉大さは示されたが、それに到達するための方法はまだ説かれて
いない。どのようにしてわれわれ修行者は涅槃に到達することができるだろうか」と。そこで世尊は説かれた。
「すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
涅槃に到達することができる。」と、このようにして感興をもって唱えられたのが本経である。
聖なる道とありますので八正道ということでしょうか。
90名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 20:07:31 ID:AGc/Tbow
>>86
81ではありませんが、涅槃が第一義的に得られるとのことですが、勝義諦のことを
唯識では第一義諦とも言います。梵文は解らないので、原語的にはどのようになって
いるかは知りませんが、関係があるのでしょうか。
91名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 20:23:20 ID:AGc/Tbow
仏典で言われている常住なんですが、常住とは縁起や空、如、法性、涅槃もなんです
が、同義語とされるそれらの概念を中道によって正思惟していった別の言い方だと思
うのです。それらの概念の中の縁起について言えば、もしも縁起に始まりがあるなら、
終りもあるということになりますが、それでは断見になってしまいます。終りがない
ということになると、今度は常見ということになります。ですから正見(中道)では、
無始無終です。始まりも終りもなければ、それは変化のない常住と言うこともできま
す。常住といっても、あくまでもベースは縁起(中道)が前提ですが。中論の八不中道
を端的に言うなら、常住(不変)です。ちょっと引っ掛かるのは、不断不常ですが、終
末も常恒もないなら、やはり無変化の常住です。(常無常無二だと解り易いと思う)
涅槃寂静とは、こういう常住不変のことを言うのではないですかね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中論・帰敬序 (八不)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)何ものもあらたに生ずること
なく(不生)何ものも終末あることなく(不断)何ものも常恒であることなく(不常)
何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)何ものもそれ自身において分かた
れた別のものであることはなく(不異義)何ものも[われらに向かって]来ることも
なく(不来)われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的議論)の消滅
というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最
も勝れた人として敬礼する。
                ◆中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)より◆
9262:2006/11/20(月) 21:08:37 ID:6Gn+xu71
アビダンマから少し書きます。

「ここに言われたアビダンマの義は、第一義的には全部で、心と心所と色と
涅槃との4種である。
 
 第一義(paramattha)とは、第一(parama)の本質(attha)、心(citta)とは、
所縁を知る本質、心所(cetasika)とは、心に相応して生じる本質、色(rupa)
とは、例えば冷熱の温度などによって変化する本質、涅槃(nibbāna)とは、
すべての苦の寂滅という本質をいう。例えば、貪(lobha)は欲求するという
性質を有するが、それは人・天・梵天などのあらゆるものに於ても変らない。
即ち、犬の貪と人間の貪でも、欲求するという性質は同じなのである。この
ように本質が変らないことを第一という。従って心などは、その本質が変ら
ないので、第一義といわれる。

>涅槃が第一義的に得られるとのことですが、
ここに引っ掛かるのは分かります。第一義的といえば無条件(無縁)でと
言っても良いでしょうから...
9362:2006/11/20(月) 21:20:11 ID:6Gn+xu71
参考までに涅槃に関する経を挙げます。

 第一涅槃に関する経

 「修行僧たちよ、このような涅槃がある。すなわち、そこには、地も水も火も風も
空無辺処も識無辺処も無所有処も非想非々想処もなく、この世、あの世もなく、
月日の両者もないものである。修行僧たちよ、私はその涅槃にある世界から来るとも、
ある世界へ行くとも、ある所にとどまるとも説かない。死ぬとも、生れるとも説か
ない。その涅槃は、滅することもなく、生ずることもなく、対象をも所有しない。
この涅槃こそ苦しみの終わりである。」と。

第二涅槃に関する経

 「涅槃というものは見られ難い。真理は容易に見られない。渇愛の苦因(集諦)の
捨断によって(苦諦、道諦、滅諦を)知り、また見る者に、不安はない。」と。
9462:2006/11/20(月) 21:20:46 ID:6Gn+xu71
  第三涅槃に関する経
 
 「修行僧たちよ、生じることもなく、存在することもなく、造られることもなく、
作為されることもないもの(涅槃)がある。修行僧たちよ、もし生じることもなく、
存在することもなく、造られることもなく、作為されることもないものがないならば、
この世において、生じ、存在し、造られ、作為されるもの(五蘊)の解脱はありえないで
あろう。修行僧たちよ、生じることもなく、存在することもなく、造られることもなく、
作為されることもないものがあるから、生じ、存在し、造られ、作為されるものの解脱は
あり得るのである。」と。

  第四涅槃に関する経

 「執着があれば動揺があり、執着がなければ動揺はない。動揺がなければ安らぎがあり、
安らぎがあれば渇愛はない。渇愛がなければ(あの世、この世の)往来はない。往来が
なければ死、生はない。死、生がなければこの世、あの世の両世に生まれることはない。
これこそ苦の終わり(涅槃)である。」と。

これらは Udāna に所収されています。
95名無しさん@3周年:2006/11/20(月) 21:59:17 ID:AGc/Tbow
>>92
>>涅槃が第一義的に得られるとのことですが、
>ここに引っ掛かるのは分かります。第一義的といえば無条件(無縁)でと
>言っても良いでしょうから...

レスありがとうございます。
べつにそういう意味で引っ掛ったわけではないのですが。
第一義的といえば無条件(無縁)という場合の無の使い方は、有に対する無
のような相対無ではありませんね。相対的有無を含みかつそれを超越するような、
絶対無(あまり適切な表現ではないが)の無ですね。中道や空は、まさしく対立的
有無を超えた適切な言葉だと思うのですが。
96名無しさん@3周年:2006/11/21(火) 20:42:11 ID:/TvjWVkA
>>89
>「すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
涅槃に到達することができる。」

 大教でも「捕らわれの無い、妨げの無い、仏の智慧」を疑ってはならないと書かれて居ます。
「すべてのもににこだわることが無い」は、一切は縁起ものゆえに実体が無いという理法によるものです。
どんなに恐ろしいことが生じたと思っても、また、どんなに嬉しいと思うことが生じたとしても、いっさは縁起もの故に、
実体が無いと覚り、言い聞かせ、信じ、安楽に居ることにしょう。
 安楽に至る理法を解き明かしてくださった仏陀に尊崇の念を持つべきではないでしょうか?
97名無しさん@3周年:2006/11/23(木) 14:34:52 ID:vI0YZ+NV
『すべてのものに』と言って居るのに注意だ。一点でも空に反するものを無意識にでも
心にあるなら、『心身に安らぎ』は来ない。
 縁起はすべてのものに及んでいる。縁起に拠らずにあるものは無い。従ってすべては空なのである。

 仏教は縁起を言うものであるからといって、縁起を担ぐと言う意味の縁起であると思っている人がいる。
それは全くの、転倒した間違いであると思う。すべてのものは縁起であるから、すべてのものに実体が無い、故に、空であると言うのが仏教である。
 空は清浄である。
98名無しさん@3周年:2006/11/23(木) 15:33:51 ID:vI0YZ+NV
一切は無実体、無自性、空であるから、詮索し学ぶべきものが無いのである。
習得すべきものが無いのである。この真実『空であること』を知り、納得し
実践する人を『無学』を実践する人というべきであり、体得した人を
『すべてのものにこだわる事無く、心身に安らぎのある人』というのである。
 空しい哲学とキリスト教は言う、仏教では哲学的断定を捨てよ、と言うが、
これは『無学』を言うものである。
99無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/24(金) 12:46:18 ID:i386OEfa

>すべてのものにこだわることがなく、身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、涅槃に到達することができる。

修飾語を取っ払い、核となる部分を抜き出すと、

>修行者は涅槃に到達する

となると思うのだが、
修行者は、五蘊という無常な存在であり、
涅槃は出世間の常住不変のものであるから、

>五蘊は常住不変に到達する

というのはやはり、どこかおかしい。
どこで、間違えているのだろうか?
100名無しさん@3周年:2006/11/24(金) 20:21:27 ID:qMENs8oz
>>99
無常と言う妄想が消滅すれば、常住不変に到達する、ってことだろう。
五蘊は無常、涅槃は常住。五蘊は虚妄、涅槃は真実。
101名無しさん@3周年:2006/11/25(土) 06:46:39 ID:LWQY6HFq
縁起するものを皆殺し『阿羅漢』するのは、縁起するものには実体がないと言う真実に目覚めた智慧
である。縁起=業=輪廻=因果=六道(地獄)・縁起≠空諦
102名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:03:42 ID:A20zId2x
無常の意味は通常は、刻一刻と変化しており一刻もとどまるものはない、といって、時間的経過を強調して言われることが多いようだ。
この意味解釈は仏教的ではなく、間違っていると思う。釈尊が死に際に、すべてのものは無常であるといわれたとあるが、これは疑問である。
又、いとし子を失ったゴーダミーに、死人をだして居ない家を探して告げたなら、子供を蘇らせてあげようといわれたと言う話があるが、そしてこの時も
無常の説教が為されたと言うことではなかったか?ゴダミーの狂気を静める方便としては有益であったかもしれないが、彼女が子供を産むほどの年齢に達していた婦人であったなら、
皆が死ぬことぐらいはわかっていたのではないか?
 無常の正しい意味解釈は、時間的変化ばかりではなく、空間的変化をも意味しているのだ。色に於いての変化に付いては色即是空と言われ。
識の変化については、識則是空と言われるのである。色即是空は空間的変化が空であると言う意味であり、識即是空は時間的変化を言うもんである。
時間的に心が変化しているのは、空間における様々な色形があることが変化であるのと同じなのだ。四角が一つの相であるように、ある悲しい思いも一つの相なのだ。
このような相が縁起しているもの故に実体がない空であると言うのである。
 無常と言う意味はまさにこの意味においていわれなければならない、さもないならば仏教ではないのである。
つまり無常とは、常にある相、換言して自性ある相、実体ある相、はないと言う意味に使用されるべきである。
 ゴーダミーには、この真理と真実を認め修行するならば、いとし子にまみえることが出来ると諭すべきであった。そしてこれは真実である。
103名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:11:38 ID:A20zId2x
つづき
>つまり無常とは、常にある相、換言して自性ある相、実体ある相、はないと言う意味に使用されるべきである。

 縁起しているものに実体があると妄想して居ることが前提である。縁起しているものに自性が無いと知っている人には、
空無自性こそ自性あるものである、といわなければならない。
104名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 10:18:40 ID:A20zId2x
>>102訂正
>そしてこれは真実である
       ↓
    ”  真理 ”。    
       
105名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 12:45:55 ID:zdq+lJhU
>空間における様々な色形があることが変化である

それは、変化というより多様性では?
空間的変化というと、位置を変えることじゃないかな。
106名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 15:18:53 ID:A20zId2x
>>105
白い色が黄色の色と隣り合わせにある。四角形がある。色は必ず隣合わせの色を持っている。その隣り合わせの色と相対的にのみ、
自身の色を主張できる。色は必ず相対的存在である。四角形とその周囲の形は相対的存在である。
どちらかがなくなると他方も存在し得ない。
 白色は、ある点で黄色に変化しているのである。四角形はある線から、、四角形でないあるかたちに変化しているのである。
この変化のはじまる地点を、位置を変えるといっても良いのであるが。
しかし真実にはいかなる変化も無いのである。
 世親はこの変化の無いことを論理的に論証していたが。それは確か中間部におけるものだった。顕微鏡的に変化の始まる地点を
考究してみると、無いと言うのである。
107名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 15:55:43 ID:aRQpRG9n
諸行無常の行とは何かだれか説明してみ?
サンスカーラとは何か?
どうして中国語の行と訳されたのか?
日本語にすると何?
108名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:04:16 ID:gqudm7t+
「白い、と、黄色い」「四角形、と、たとえば三角形」というも、それは相対的な言い条である、
相対的である二つの片方が変化すれば、もう片方も前の状態ではありえない、
ということはわかるけど、

「無常が空間的変化をも意味する」という主張は、
時間的変化抜きで、単に空間的変化のみをとらえて言ってるのか、それとも、
時間的変化には、必然的に空間的変化も含意されている、ということなのか。
109名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:45:40 ID:A20zId2x
>>108
>時間的変化には、必然的に空間的変化も含意されている、ということなのか。

その通りと考えています。いやその通りです。
阿弥陀の浄土は、無限に広大である、と言われます。阿弥陀の浄土の仏菩薩声門の命は無限であると言われます。
そして、アミターバと言うのは無限の光と言う意味であり、アミターユスと言うのは無限の寿命即ち時間を意味す居ると言われています。
この阿弥陀仏の名前は偶然についたものではなく、時間と空間が同一のものであることを意味しているのです。
その広大さが無限と言うことで、空と言うことをも意味しています。
 広いと地を買えば、自由に遊べる場所があるということであり、その遊ぶ時間も随伴して長いものになる、と考えているのは言うまでも無いでしょう。




110名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 20:57:37 ID:A20zId2x
時間=距離(空間)
111名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 21:46:54 ID:52agi8BS
中論の去来品の最初の偈を「行くところ」とのみ訳しているのも見受けますが、
これはチベット訳の影響かな。
ほんとうは「世路」と言いたいのでしょうね。世(時間)の流れを路ととらえる見方。
gam-には「時が過ぎ行く」という意味もあるし、羅什の漢訳にも「時」と訳されています。
112名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 22:40:18 ID:A20zId2x
>>107
「 祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り、盛者必衰の理を表す.」
ここから判断するに、「行」は意志に基づく行為ではないでしょうか?
その意志は欲に導かれているのです.
 漢訳で「行」と訳されているものはすべて同じ意味を持つものと考えたほうが無難です.
十二支縁起の「行」、五蘊の「行」、諸行無常の「行」。
113名無しさん@3周年:2006/11/26(日) 22:51:40 ID:kYg5Rn+c
>>111
質問を御許し下さい。

>gam-には「時が過ぎ行く」という意味もある
御迷惑とは思いますが、宜しければ、
上記御発言箇所のソースを御教え頂けないでしょうか。

2品冒頭の「すでに去られたもの(gata)」等の「もの」が、
御発言のように世路や時間なのか、路や空間なのか、
迷っておりまして、この点につきましても、
御意見を御教え頂ければ幸いです。
114名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 20:29:34 ID:7RXt2W7H
>>113
gam-についてはゴンダ文法の語彙欄をご参照ください。

「世路」という語は両義を併記させたものと思います。世が時間を、路がみちを。
両様にとらえうる、というか両義を兼ねたものとして表現しているのではないでしょうか。

(これは時間というものを、それ単体で存在すると見るのでなく、
ものの介在のもとで見る、というような理解ともかかわってくると思います。
また、時間を実時でなく、仮時(三摩耶時)としてとらえる点も重要のようです。)

「世路」をイメージで言えば、歩いている人が通り過ぎている路のイメージだけでなく、
それと共に時間の移ろいをも同時に見ているようなイメージでしょうか。
「三世」実有法体恒有説を批判する龍樹の立場からは、やはり
過去・未来・現在という時間の視点も欠かせないと。

ほんとうは、仏教の空間論というのも検討を要する気もするので、虚空とか、
倶舎論界品で描かれるような宇宙論に行く前の、身近な空間論があればいいんですが。
115名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:01:44 ID:LcN/yY9o
>>112
サンスクリタ(有為)と比べて、サンスカーラ(行)は受動でない、というニュアンスの違いなのでしょうか。
そうだとすると、「意志に基づく行為」ということで大よそはいいとして、
ただその外に、勤勇(意志)に基づかない雷なども諸行無常の中に入れられるので、
因縁が仮に和合してでき上がったもの、といった感じで捉えています。
116名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:17:16 ID:9CBYITRw
あ、そうか。時間と空間と行は関係していたのか。つまり、行とは時間と空間の別語であるのではないか、と問うて居ると考えられる。
117名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:32:41 ID:pyGwugnt
gam-
to go or pass (as time e.g. {kAlegacchati}, time going on, in the course of time)
--Monier
118名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 22:43:08 ID:9CBYITRw
時間=距離=数=縁起→空無自性=自性
119名無しさん@3周年:2006/11/27(月) 23:03:08 ID:YZcJgCsb
ただ、gataを(行かれた路)として見れば、
行ったのは人などである、と見なせますが、
(路と見た場合、省略されていると想定されるmArgaは中性なので、
gataが中性gatamととらえられていることはクリアできています)

(過ぎ去られた時間samaya)と見た場合、
過ぎ去る行為をしたものは何か、ということを考えないといけなくなるのです。
それで時間をどうとらえていたのか、ということが検討課題となるわけです。
120113:2006/11/28(火) 12:09:09 ID:sSm0fYi4
御返答ありがとうございました。
121名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 23:05:29 ID:VmpLWiTY
心無く色が有るだろうか?あり得ない。
色無く心があるだろうか?
122無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/29(水) 11:10:20 ID:PBO/ECZ4
>>121 :名無しさん@3周年:2006/11/28(火) 23:05:29 ID:VmpLWiTY
> 心無く色が有るだろうか?あり得ない。

何故?
「死体」って、心無く色(身体)だけがあるのではないですか?
123名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 12:21:16 ID:6rUo32hq
 ニーチェは、人間は「力への意志」によって、世界を切り分けて解釈しているに過ぎず、
その切り分けられた「何か」が、あらかじめ客観的に存在しているわけではないといった。

 フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
すべては自分の意識に現れ出るものだという。

 ハイデガーは、「自分」という存在が単独に存在するのではなく、
自分とは他者(他物)との関係において、初めて「自分」なのだという。

 これらが、仏教の「唯識論」と大部分で重なり合うところがおもしろい。
唯識論では、人間の認識を八種(八識)に分類する。
その内の6つは、般若心経で言う「眼耳鼻舌身意」、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいわゆる「五感」と、
意識である。残りの2つは、末那識(マナ識)という「自分」にこだわる心の働きと、
命にこだわり維持しようとする働きとも言うべき阿頼耶識(アラヤ識)をいう。

 いわゆる「理性」はこの八識で言う「意識」だと考えても、ほぼ差し支えないと思うが、
しかしこの「意識」は「五感」からの入力だけでなく、さらに根底にある「末那識」や「阿頼耶識」の強い影響下にある。
この「末那識」と「阿頼耶識」の働きを、ニーチェの「力への意志」に置き換えてもよいだろう。

 彼の考えでは、「世界」とは無秩序な混沌(カオス)であり、
本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
そこから人間が「力への意志」によって、ある秩序を切り出すようにして認識する。
つまり、この世の一切のものには「ものそれ自体」が持つ性質というものはない、というのである《諸法無自性》。

ついでにいうと、人間の認識が、連続体である「世界」から切り出した「あれ」や「これ」に名前を付けると、
言語の分節性という話になる。実はこれも仏教思想の中でも指摘されている。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin50.html
124名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 19:37:12 ID:tdyl5tJo
>>119の訂正です。mArgaは男性名詞でした。また、想定される語は、mArgaというより、
adhvanの方がより適切だと思います。mArgaは、どちらかというと、24章で論じられる四諦の
道諦の方でしょうね。

世路の原語は addhan m. (Skt. adhvan) で、これは路・旅路と共に、時・時間・経過とも訳します。
なお、三時・三世の原語は tayo addhA。

時間論に関わる世無別体依法而立、Ac.副詞化/impers.などの細かいことは、そのうち「原始佛教」スレの方にでも。
125名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 23:30:14 ID:KjIgA/uA
>>122
 死んだ当人は心(受想行識)を失っているので、自分が肉体を持っている事を認識していないのだから、
色は無い。
 第三者は、死んでる人を見ているが、自分の心を通じて、死体と死体から心の失せたことを認識している。
この第三者の、死体を認識する心と、死体から心の失せたことを認識する心が無ければ、死体とその死体から心の失せたことを認識
することが無いのである。従って、心無く、死体と死体から心の失せたことを認識することは無いのであるといわなければならないのではないでしょうか?
従って、色があるが、心が無いと言う状態はあり得ない。
 そして、どうも、色が無くして、心があるということも言えないのではないかという気がする。
やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。
126名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:05:14 ID:KjIgA/uA
>>125つづき
五蘊があると妄想している人は、死んでも五蘊は、存在しつづけると考えているということであるから、
妄想は、三世の渡るのであるから、その時点で、永遠な妄想の世界を形成しているのである。彼は正法を受け入れない限り
永遠の地獄から抜け出ることは出来ない。勧経に正法に縁することにより、成仏できる子とを説いているが、これは真理であると思う。
科学的な真理である。
 正法を受け入れている人、そして理解している人は、五蘊は空であると信じているから、決して輪廻することは無く、
縁起(因果)の世界から離脱しているから、自分の死を見ないし、生をも見ないのである。
正法を受け入れている人、それを理解している人は、他人の死を見ないし、他人の生をも見ないであろう。こう言う理屈にならないだろうか?

127名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:50:24 ID:KKCQ+PQI
>>123
西洋哲学においても縁起と言うことは理解されているのですね。其処から発展して、
空思想に発展しないのは、どうしてでしょうか?キリスト教の影響でしょうか?
挙げられた哲学者の時代には、インド思想が翻訳されて著名な思想かが感動したと言う記述を
見たことがあります、シェリングだったでしょうか?にも関わらず、空思想に発展しなかったのでしょうか、それとも
短に、紹介漏れでしょうか?
128名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 18:52:48 ID:KKCQ+PQI
>>123
 >彼の考えでは、「世界」とは無秩序な混沌(カオス)であり、
本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
そこから人間が「力への意志」によって、ある秩序を切り出すようにして認識する。
つまり、この世の一切のものには「ものそれ自体」が持つ性質というものはない、というのである《諸法無自性》。

無秩序な混沌=本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
これが理解できないし、仏教と違背する。
 空は一相無相とも言い、カオスのようなものではない。空自体で清浄なのだと言われている。
そして、真実は一つであり、一つは空でなければならないのである。
129無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/11/30(木) 19:20:41 ID:4OL3wWtY
>>125-126
つまり、

>>123 :名無しさん@3周年:2006/11/29(水) 12:21:16 ID:6rUo32hq
>  フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
> すべては自分の意識に現れ出るものだという。
と同じ立場ということですね?

・生物が絶滅しても夕焼けは赤いだろうか。
・無人の森で木の倒れる音はするのだろうか。
といった問いには、
認識主体が存在しないところに、認識対象は存在しない
と応えるわけですね?

私は、「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と考えます。
だから、赤いし、音はすると考えます。

>  そして、どうも、色が無くして、心があるということも言えないのではないかという気がする。
私は、脳がなければ、高度な思考はありえないと考えます。

そういう意味で
> 色が無くして、心があるということも言えない
と考えます。
130名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:54:46 ID:KKCQ+PQI
やはり違うと思う。
色があるかどうかどうして知るのですか?
心を通して以外無いでしょう?
だったら、やはり、色は心の範囲内にあるのであるといわなければならないでしょう。
 唯識と中間派の領域に入っているのではないでしょうか?
131名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 20:58:14 ID:KKCQ+PQI
>>130つづき
色は心から独立して存在し得ない。
132名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:07:51 ID:uX/mPvw8
>>131
それは、五蘊の色だよね?
六境の色も?(他五境も同様だが・・・)
それって独我論?
133名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:32:24 ID:KKCQ+PQI
>>132
 六境の色も同じことであると思います。
134名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:36:46 ID:uX/mPvw8
ということは、仏教は、
菩提樹の下から既に唯識だったということか・・・。
135名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 21:46:20 ID:KKCQ+PQI
目が無くして色は無い。
色が無くして眼は無い、とはいえない。この色は他の根により既に認識されているもので、
それは具体的に、あるものがあるとか無いとか想定しているのであり、それが無い時眼が無いとか、それが無い時
眼があるとか言っているに過ぎない。つまり、色はひとつのものばかりではないのであり、しかもあるものが無い時
眼が無いとかあるとか言う様に要求しているが、他に色がある以上色は必ずあるのであるから、そして、それは心により認識されているのであるから、
人を騙してここに有る色はないと言っても、無益な仮論である。即ち心により認識された色は必ずあるのである。
心がなければ色はない。
136名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:04:49 ID:KKCQ+PQI
>>134
 そう考える方が、合理的であると思いますね。
仮に主体客体があるとしても、それを認めるのは何でしょうか?やはり心でしょう。
そして両者を空ずる判断は必須なのですから、そして、空ずる対象は、あると思っている心です。
原始経典においても、唯識に基づく真理の教えが多くないですか?
137名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 22:56:26 ID:uX/mPvw8
>>136
本スレ(或いはその先)へ持っていくべきかもしれませんね。
教証の精査をして貰えるかもしれません。
138名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 23:55:52 ID:uX/mPvw8
>>123
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1161498172/12


マルチか?
ま、こっちへ貼って正解かもしれんがw
139転載:2006/12/01(金) 00:00:15 ID:j0MK1s52
31 名前:疑問[] 投稿日:2006/11/30(木) 21:12:39 ID:6dnmU7H2
疑問なんだが仏教は出家をして布施で生きるとしたら、世の中みんな仏教徒になって出家してしまったら
子供は出来ず、人類は滅びてしまうんじゃないのか。そうすると仏教は人類滅亡の教えと言うことにならないか。
二つに出家をして戒律を守り修行をした者が悟りをひらき救われて在家で戒律は守れず修行も出来ない者は救われない
のかどうか。その在家が出家者に布施をしてるんだろ。在家の救いはどうなる。
三つに生き物の殺しはどう考えればいいのか。仏教は生き物の命を殺すなというけど
それじゃどうやって生きるのか。出家の僧は生き物を殺さないといっておきながら、在家が殺した生き物や穀物をもらって
しっかり食べて自分は命をつないでるだろ。それじゃ生き物を殺し食べたり布施をした在家が地獄に行くのなら、出家者は罪を在家に
押しつけていることにならないか。
140素人:2006/12/01(金) 00:07:59 ID:IJlMVZpF
>>139
なかなか良くまとまった質問事項かと思います。
ゆっくり時間が取れたら、レスしてみたいと思ってます。
本スレのように、しっかりとした教証をベースにとはいきませんが、
(その辺は本スレでアホダラさんがやってくれるでしょうw)
自分へのドリルとして、答えてみたい気がします。
気長に待ってください。
141名無しさん@3周年:2006/12/01(金) 22:16:35 ID:z/ra2Olk
知性は五蘊の何処に属するのだろうか?知性が縁起そして、空であることを判断するのだが。
それとも五蘊に属さないのだろうか?この点に中間派と唯識派の論争の回答の鍵があるように思われるが。
142名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 11:01:06 ID:pjTMuZD6
>>141
心のことを知性といってるのではあるまいか?
五蘊は何によって五蘊と言われるのであろうか?
知性は何かを創り出したか?
心は何かを創り出したか?
五蘊というものを造り知らせめた。
しかし
空と言う究極の真実は、知性:心を滅ぼしたのではないか?
知性:心が空というものを創り出したのではない。
反対であろう。空と言う真実に出会って滅んだのである。
 
143名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 20:29:45 ID:qlKFw7JQ
問う者 としての投稿者
>>142へ 解なり!
144無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/02(土) 20:50:59 ID:D+aRrLNu
>>130-131
> やはり違うと思う。
> 色があるかどうかどうして知るのですか?
> 心を通して以外無いでしょう?
> だったら、やはり、色は心の範囲内にあるのであるといわなければならないでしょう。
>
> 色は心から独立して存在し得ない。

他人はどこに、存在するのですか?
あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?
145名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 21:00:05 ID:jFDxBU6r
なるほどw
他人の身体は五蘊の外にあるが
「他人」(→当人によって知覚・認識された「他人」というキャラクター)は
識の内、或いは眼耳鼻舌身意の意識に於いて生じたもの、
ということ?
唯識っぽいな・・・。
146名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 23:09:26 ID:pjTMuZD6
>>144
>他人はどこに、存在するのですか?
あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?

私の五蘊の中に他人は存在します。私の五蘊が無いならば、即ち私が存在しないならば、
この世界は存在しません。この世界とは縁起の世界です。
147無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/03(日) 05:46:15 ID:3Eds04da
>>146 :名無しさん@3周年:2006/12/02(土) 23:09:26 ID:pjTMuZD6
> 私の五蘊の中に他人は存在します。私の五蘊が無いならば、即ち私が存在しないならば、
> この世界は存在しません。この世界とは縁起の世界です。

レス、ありがとうございます。
私とあなたとでは、根本的に世界観が異なるようです。

私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。


私は現在、以下の考え方に共感しています。

> ある仏教徒の「死後の世界」観
> http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html
148名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 07:50:51 ID:ghUd4+gH
>「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と考えます。
>脳がなければ、高度な思考はありえないと考えます。

「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」と
“「考え」て”おられます。矛盾に御気付きでしょうか。
一切の「考え」をも介さずに、「脳がなければ、
高度な思考はありえない」と可能でしょうか。
如何なる認識行為も介さずに、脳研究は可能でしょうか。


>他人はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
あんたの五蘊の外ですか?
>私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。

「私」「はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
あなたの五蘊の外ですか?」
「縁起」ゆえに、「私」が「存在し」ないのに、
どうして「他人」が「存在するのですか?」
ところで、「縁起の世界」なのに
「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」のでしょうか?
149無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/03(日) 12:33:25 ID:ADBdBqev
>>148
> 「私」「はどこに、存在するのですか? あなたの心の中ですか?
> あなたの五蘊の外ですか?」
> 「縁起」ゆえに、「私」が「存在し」ないのに、
> どうして「他人」が「存在するのですか?」
> ところで、「縁起の世界」なのに
> 「自分の外側に「客観」的な事物が存在する」のでしょうか?

「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。
こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

薪に火をつければ、炎の揺らめきを目にすることができます。
そこに火は存在するのです。
火は縁起しているのです。

火は自分の外側に「客観」的に存在しています。
炎は、目によって、網膜に写し取られ、
脳で情報処理されることにより、
炎として認識されます。
150名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 22:52:44 ID:HNoIztCZ
>>147
>私が生まれる前から、この世界は存在しましたし、
私が死んだ後も、この世界は存在し続けるでしょう。
この世界とは縁起の世界です。

縁起の世界とは虚妄の世界ではなかったでしょうか?真実の世界は不生不滅なものとして
あると言っているのではないでしょうか?
 この世に存在するものはすべて最初から常に平安で、静かである。―――法華経方便品

私は現在、以下の考え方に共感しています。

 ガンダルバの城ではないでしょうか?

151名無しさん@3周年:2006/12/03(日) 23:21:23 ID:HNoIztCZ
>>149
>「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。

 常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

 唯識派と中間派の論争も、帰結するところは、同じなんですよね。ともに空であると。
日常生活においても、これはどんな縁起関係の故に生じたものか、解らない時があります。
でも結論が同じである場合、必ず論争の解決は出来ると感じます。縁起関係と言う理法と、
縁起しているものには実体が無いと言う判断理法が両者において、問題となっていません。
私は前に、真実により心:知性は滅ぼされた、と言いましたが、不適切と思います。
心:知性は真実に服従することになったと言うべきです。
 であるとすると、以下の勧経の言葉はどの様に解釈するべきだろうか?
「次ぎに仏を観想するのだ。それはなぜかと言うと、諸々の仏如来達は、存在するものすべてを身体とする者であり、
すべての生ける者どもの心想の中には入って来るからである。それ故に、あなた達が心に仏を観想する時
この心がそのまま仏の32の大相であり、80の小相なのだ。
 この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。智慧海の如き諸々の仏たちは心想から生ずる。」
152無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/04(月) 05:31:07 ID:HSTwXGrZ
>>150
> 縁起の世界とは虚妄の世界ではなかったでしょうか?真実の世界は不生不滅なものとして

三界は縁起の世界であり、人間界は三界の内にあります。
たとえ、虚妄の世界であったとしても、存在はしているのではないでしょうか?
もし、仮に不生不滅な真実の世界が存在するとすれば、それは出世間にあり、
議論の範囲を超えていると私は考えます。

>>151
> 常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
> 我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

あなたは、「自性がある」ものにだけ実体があり、「自性がある」ものだけが存在すると考えているのですか?
たしかに実体があるは、誤解を招く表現だったかもしれません。
しかし、私は縁起している物には、自性はないが、存在はしていると考えます。

私は縁起している。あなたは縁起している。掲示板は縁起している。
縁起している掲示板は、私にとってもあなたにとっても、認識対象として存在している。
この場合、「掲示板は客観的に存在している」と言ってよいと考えます。

苦は存在します。
苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。
153名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 06:10:01 ID:QFM08CbZ
問う者 としての投稿者
>>152
涅槃も滅しませんよ。
154無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/04(月) 06:51:00 ID:HSTwXGrZ
>>153 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 06:10:01 ID:QFM08CbZ
> 涅槃も滅しませんよ。

その根拠は?っチューカ、涅槃は世間にありますか?
あなたは、涅槃を認識しているのですか?
涅槃はどこに存在するのでしょうか?
155名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:00:59 ID:vD+uHrr2
>「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
しかし、「如是我聞」の我は存在します。
こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

“「私」”「の五蘊の中に」、「掲示板に書き込みをしている」“「私」”が
「存在」するのですか? 
前者の「私」とは、「五蘊の“中”に存在し」ているのですか?
前者と後者の「私」とは何者で、かつ、両者の関係はどのようになるのですか? 
「「縁起」ゆえに、常住不変」ではなくとも「私」は「存在」するのであれば、
「私」と称する際の必要最低限の条件とは何ですか?
「五蘊の“中”」とは何処ですか? 「五蘊」に「中」と非「中」があるのですか?


>火は自分の外側に「客観」的に存在しています。
炎は、目によって、網膜に写し取られ、
脳で情報処理されることにより、
炎として認識されます。

一切の認識行為を介さずに、
「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」と可能ですか?
一切の認識行為を介さずに、「脳で情報処理されること」を研究可能ですか?
156名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:55:14 ID:vD+uHrr2
>「自性がある」ものだけが存在すると考えているのですか?
>しかし、私は縁起している物には、自性はないが、存在はしていると考えます。

「自性はない」「もの」が「存在すると考えているのですか?」
「縁起している物には、自性はない」のに、何故「存在はしている」のですか?


>私は縁起している。あなたは縁起している。掲示板は縁起している。
縁起している掲示板は、私にとってもあなたにとっても、認識対象として存在している。
この場合、「掲示板は客観的に存在している」と言ってよいと考えます。

「私」、「あなた」、「掲示板」は「縁起している」のに、何故「存在している」、
「客観的に存在している」と「言ってよいと考え」るのですか?


>苦は存在します。 苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。

「苦は存在し」、「虚妄」ではないのならば、「苦は滅」するのですか?
157名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:20:33 ID:vD+uHrr2
>常住不変(空性)のあなたは存在するが、縁起している「如是我聞」のあなたは存在しないのではありませんか?
>我々はその様に学んできました。縁起しているものには実体が無い、縁起していないものにだけ実体がある、それは空性無自性と言う自性である、と。

「常住不変」が何故「空性」なのですか?
「空性無自性と言う自性」とするならば、何故「空性“無”自性」と称し得るのですか?

空性という見解(『中頌』]V−8)の見事な見本に・・・。
158名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:21:09 ID:tgygt5bX
問う者 としての投稿者
>>154
アハ体験ですよ。「涅槃を認識する」この意味が分かります?
答えは、最初から述べていますよ。
「 言葉に頼らない思考が出来るなら
  思考を伴わない理解に至ったらどうでしょうか? 」
私は才無き者、
私は能無き者、               以上。
   

159名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 22:45:55 ID:OUhugbQE
>>157

「常住不変」が何故「空性」なのですか?
縁起しているもの又は、原因結果の関係にあるものは、必ず相対的に存在している。
相対的存在無くしては、縁起又は因果関係はあり得ない。
 相対的存在は、両者二つのものがある。これらは相依的存在であるから実体「自性」が無い。
しかし、1者しか存在しないならば、その1者は絶対的存在であると言うことである。
1者だけの存在であるならば、 生滅はしない。解りやすい例えとして色相を例にとって見よう。
色んな色相がある。各種の色相は、隣り合う色相と相依関係により存在している。今一つの色相のみが存在しているとしょう。
それを「青」としよう。青色しか無い時、青と言う色相を認識するだろうか?しないだろう?
これを「一相」と言い「無相」と言い、「空相:空性」というのである。
 いろんな色相が無限にあるが、それらはすべて相依関係により存在しているだけで、自性「実体」が無いと判断される。
それ故色相すべては無自性であるのだ。真実には色相は無いのである。これを色相における空性というのである。
今まで色相があると思っていた者には、色相が無いと言うのを言葉で教えるとき、空性と言う表現が使用されたのである。
 今色相環における例を取ったが、現実は色相ではなく五蘊がそれに当たるのである。
相対的存在は実体が無いから幻であるし、幻ですらなくなるのである。しかし、絶対的存在は、
縁起するものではないので、常住不変である。常住不変な者は、相手を持たないので、
1者であり、無相であり、空性であるのだ。
 
>「空性無自性と言う自性」とするならば、何故「空性“無”自性」と称し得るのですか?

人を案内する時、言葉と言う表現手段を用いるのである。言葉は案内手段である。特に空無自性は、
縁起関係にあり相対的に存在している両者を止観する時に最初に必要な案内言葉であると思う。
160名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 22:49:07 ID:OUhugbQE
>>157
>空性という見解(『中頌』]V−8)の見事な見本に・・・。

ここにどのように書かれているか引用してください。
161名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 23:04:16 ID:Q5i0arUT
>>131
>色は心から独立して存在し得ない。

色と心は相互に依存して存立している、という見方を一旦離れて言うと、

「感受および推量を通して知りうる以外の色は(あったとしても)認知しえない。
よって、存在するとは言わない」と言うのがいいんじゃないのかな。
つまり、「認知外Aは存在しない」ではなく「認知外Aが存在する、という主張の否定」じゃないかな。

これは、全てを認識不可能とする一般的な不可知論とは違って、
「不要不急な領域(特に形而上学に属する)の知に関しては無記、知るべきことに関しては全知」
という釈尊の立場にも合致すると思うけど。
162名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 05:46:40 ID:CujBkzFO
>常住不変な者は、相手を持たないので、
1者であり、無相であり、空性であるのだ。

「常住不変な者は、相手を持たないので、1者であり、無相」なのだとしても、
それが何故、「空性である」のですか?


>人を案内する時、言葉と言う表現手段を用いるのである。言葉は案内手段である。特に空無自性は、
縁起関係にあり相対的に存在している両者を止観する時に最初に必要な案内言葉であると思う。

今度は、『中頌』]]U-11への抵触されているような…。


>ここにどのように書かれているか引用してください。

論拠は適切に挙げてあります。希稀本ではないので、簡単に確認可能なはずです。
空性について言及しながら、この重要な本頌を暗記していないのは不可解です…。
ところで、こういうことをいうからには、
>>151、そして、>>159の論拠を引用してからにして下さい。
もちろん、今後の投稿でも必ず論拠を引用して下さい。
163名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 08:47:32 ID:MHPl+hdw
【科学】人間の赤ちゃんは「生後5カ月」で人の顔を認識する
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1165254272/

生後五ヶ月ぐらいから視覚情報の概念化を始めているそうな。
こりゃあちょっとやそっとじゃあ悟りは開けんなぁw
164無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 12:56:55 ID:IfhPhnK2
>>155 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 19:00:59 ID:vD+uHrr2
> >「縁起」ゆえに、常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない。
> しかし、「如是我聞」の我は存在します。
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

> “「私」”「の五蘊の中に」、「掲示板に書き込みをしている」“「私」”が
> 「存在」するのですか? 
おかしな表現になっているね。スマソ。次のように訂正させてくれ。

【訂正前】
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は、私の五蘊の中に存在します。

【訂正後】
> こうして、掲示板に書き込みをしている私は存在します。

五蘊と私の関係は、厳密にはよくわかりません。
単に一人称として使用しています。それで、意味が通じませんか?


> 一切の認識行為を介さずに、
> 「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」と可能ですか?
> 一切の認識行為を介さずに、「脳で情報処理されること」を研究可能ですか?
『「火は自分の外側に「客観」的に存在しています」』は認識結果です。
認識行為がなければ、認識結果は生じません。
また、認識行為無しで研究が成立するとも考えられません。
したがって、どちらの応えも「可能ではありません」になります。

いったい何を聞きたいのでしょうか?意図が不明です。
165無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 12:57:38 ID:IfhPhnK2
>>156
> >苦は存在します。 苦は虚妄だとレッテルを貼っても、苦は滅しません。
>
> 「苦は存在し」、「虚妄」ではないのならば、「苦は滅」するのですか?

どうも、
・縁起する
・存在する
・虚妄である。
・滅する
といった、言葉の定義に関して、合意が取れていないようですね。

わたしは、「縁起したもの」は、
・他の原因により、生じた結果である。
・他によって成立するもの
・自性がなく、空であるもの
と考え、これを「存在する」と称して良いと考えます。

「虚妄である。」とは、逃げ水をみて、水があると誤認識する場合のような、
認識において、なんらかの不具合の発生している状態というイメージがあります。

「滅する」とは、「縁起しているもの」の原因を取り除くことにより、
「縁起できなくすること」を意味すると考えます。

あなたの定義を教えて下さい。
166無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/05(火) 13:00:57 ID:IfhPhnK2
>>158 :名無しさん@3周年:2006/12/04(月) 20:21:09 ID:tgygt5bX
> 問う者 としての投稿者

すみませんが、私には、
あなたの書き込みを理解する能力が無いようです。
また、理解しようとする気力も起きません。
167名無しさん@3周年:2006/12/05(火) 21:03:22 ID:hdg3rhqS
>>161
正しく理解してくださいました。
168名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 21:03:33 ID:hT3dqH4K
>>167
とは言うものの、もう少し。
智慧とはなにか?

ち‐え〔‐ヱ〕【知恵・×智×慧】
「ちえ」を大辞林でも検索する
1 物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。「―を借りる」「生活の―」

2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。

上の解釈はヤフー辞書からであるが、どうも不満である。

 智慧とは、真理真実を知ったことによる利益である、と言うべきであると思う。
智慧と漢字するが、知恵の意味に他ならないと思うのだ。
 真理真実を知っているので、虚妄に惑わされないで、道を間違えないのである。
闇を照らす明るいランプがあるので、迷わないのである。
 この様な意味が上のヤフーの解釈にはないのである。
このような解釈こそ適切で、原語のサンスクリットにおいても、このような意味で知恵と言う表現を用いていないなら、
真理真実の意味を知らないのではないだろうか?
 
めぐみ【恵み】
1 めぐむこと。恩恵。また、いつくしみ。「自然の―」「天の―」
2 キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう。聖寵(せいちょう)。
めぐみ‐の‐あめ【恵みの雨】
1 大地をうるおして草木を生育させる雨。慈雨。また一般に、天の助けのように降る雨。「連戦の選手たちには―となった」
2 神仏の恵みや君恩などが隅々まで行きわたるたとえ。 「君が代に民の伏屋もうるふなり―や... [さらに]
169名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 21:31:23 ID:hT3dqH4K
つづき
色であろうが、五蘊の他の蘊であろうが、自分と縁起していない蘊はあり得ないのである。

170名無しさん@3周年:2006/12/07(木) 21:26:06 ID:0MZYyLxb
一切は縁起しているのであるから、一切は空で、総体的に見て空であり、一相であり無相であると言う。
それなら、一切は空であり、総体的に空一相であるところ、其処にある一点を設定するとしよう。
それは1点と言う認識であり、執着である。執着で無いなら、1点があるとは認識しないだろうから。
 そこで、1点があるとすると、1点の他の部分が必然的に生じているものと言わなければならない。
1点を設定することにより、今1点とその他の部分という他のものが生じて、あるものは二つとなった。
1点と他の部分は相対的に存在しているのだ。次ぎに、この1点とその他の部分を合わせて、一つのものと考える事が出来る。
そして、そのあわせたものを一つと考えると、その一つと、その他の部分も考える事ができる。
こうして無限に有るものが拡大していくことになるのだ。
 空である真実に対して、一つの小さな執着点を持つと、無限に他の執着するものが生じてしまうのである。
この執着とは真実に対する「罪」「反逆」である。一切は空であると理解しその体得を目指す修行者は、ほんの小さな罪をも
頭上の大雲の様に恐れる、と原始経典においても言われている。上に言う様に一切の執着を必然として所有してしまうからである。
 それから、一つの執着を持つと無限に他のものを相対的に存在せしめ、それらを執着として所有することになると言う
今日接は、古代ギリシャのパルメニデスの教説である。プラトンの「パルメニデス」を参照されたし。
仏教の空を理解している人には、善き友となると思います。

 ゼノンのアキレスと亀の競争のパラドックスと言われる話が有ります。
早い、遅いの変化は無いと言う証明です。物と物との変化はないと言うのです。
諸法は一相であると言うのです。ものは分割できないと言う証明です。
171名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 05:16:35 ID:RuudTwHN
>>164>>165

>五蘊と私の関係は、厳密にはよくわかりません。
単に一人称として使用しています。それで、意味が通じませんか?

「常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない」、しかし、
非「常住不変」なる「五蘊と私の関係は、厳密にはよくわか」らないならば、
その「一人称」されているのは、結局は何ですか?
言い出したそちら様が「厳密にはよくわか」らないのに、
こちらに「意味が通じ」るというのです「か?」


>いったい何を聞きたいのでしょうか?意図が不明です。

「いったい何を」述べ「たいのでしょうか?意図が不明です。」
「どちらの応えも「可能ではありません」にな」るのに、
「火は“自分の外側に「客観」的”」なのですか?


>あなたの定義を教えて下さい。

「「縁起したもの」は、・他の原因により、生じた結果である。
・他によって成立するもの ・自性がなく、空であるものと考え」ます。
何故「これを「存在する」と称して良いと考え」るのですか?
「虚妄」とは空性です(『中頌』]V-2)。
「「滅する」とは、「縁起しているもの」の原因を取り除くことにより、
「縁起できなくすること」を意味すると考え」るのに、
「苦は存在し」、非「虚妄」なのですか?
「存在」「の定義を教えて下さい。」
172無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/09(土) 06:10:03 ID:lnlV9luL
>>171
ことば遊びならパスしたのですが。

> その「一人称」されているのは、結局は何ですか?
> 言い出したそちら様が「厳密にはよくわか」らないのに、
> こちらに「意味が通じ」るというのです「か?」
はい。意味は通じると思いますよ。
あなたは、ご自分で、「そちら様」、「こちら」という言葉を
使用されています。
「そちら様」というのが、私にとっての「私」であり、
「こちら」というのが、あなたにとってのその「一人称」です。

そして私は、
「そちら様」や「こちら」は、
縁起していると主張しています。

ここまではいかがでしょうか?
173名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 06:28:01 ID:UceTzdbL
>>171
>>172
どちらも正しい
174名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 07:17:28 ID:RuudTwHN
>>172
>はい。意味は通じると思いますよ。

いいえ「。意味は通じない」「と思いますよ。」
「そちら様」は「常住不変な「私(アートマン)」は「存在し」ない」、
しかし、 非「常住不変」なる「五蘊と私の関係は、厳密にはよくわか」らないと
しているからです。つまり「私」や「一人称」「という言葉」で何が指示されているか
「よくわか」らないのに、どうして、「一人称」と
「そちら様」「こちら」を結び付け得るのですか?


>ことば遊びならパスしたのですが。

「ことば遊びならパスした」い「のですが。」
自己矛盾したり、肝心な点については答えないことが多過ぎます。
ちなみに、「パス」してくれても構いませんけれども。

「こ」れで「いかがでしょうか?」
175莫迦牟尼佛 ◆6.4oHoukEI :2006/12/09(土) 09:39:08 ID:oY3MuHct
しかしまぁ変なコテハンが多いこと。
176無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/09(土) 16:17:32 ID:+Mr/4IiI
>>174 :名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 07:17:28 ID:RuudTwHN
> 「こ」れで「いかがでしょうか?」

結局、世界観が違うということで、いいんでないの?

あなたは、
----------------------------------
一切が空であり、
したがって、一切は虚妄であり、存在しない。

苦も存在せず、苦を滅するためには、
ただそのことに気付けばよい。

涅槃だけが存在する
----------------------------------
といっているだけですよね?
177名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 21:41:46 ID:eSRQf1Cb
やはり真理真実は一つであると言うのが真理である以上、それを認めない又はそれに至らないくて途中で妥協するのは、
真理真実に反すると思うね。

 仏教に反する教えとして、人は神になれないと言う教えが有ると思うのだ。
人はキリスト教のエホバの神と同等の神にならなければ救いはないのである。
その様にキリストも教えているのである。インドのバラモン教をも釈尊は全否定しているのではなく、
人が絶対神になれると言う教えは受け入れているのだと思う。それに反する部分は否定しているのだ。
この様に考えてくると、ギリシャ神話などももう一度、この様な認識のもとに読み直してみてもいいと思う。
178名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 22:38:34 ID:PIIDgsCE
>>177
>やはり真理真実は一つであると言うのが真理である以上、それを認めない又はそれに至らないくて途中で妥協するのは、
>真理真実に反すると思うね。

論点先取の例文みたいだ

>真理真実は一つであると言うのが真理である

まず、これを証明しないと
179名無しさん@3周年:2006/12/09(土) 23:01:25 ID:eSRQf1Cb
>>178
証明を観たいのか?
180名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 09:32:34 ID:9TKa9yo2
>>176
またも、答えを飛ばしています。

>結局、世界観が違うということで、いいんでないの?

論破出来無いとなると、懐疑論的に、
「結局、世界観が違うということ」で片付けるのですか?
こういうのを「ことば遊び」「と」言う「んでないの?」


>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

何者が?
ところで、「一切が空であ」るのに、「一切は」「存在しない」し、
「涅槃」は「存在する」のですか?
181名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 12:47:26 ID:odaRYQxu
電波ゴッコはやめれ
182名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 17:57:34 ID:VWUA0EN9
>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

三世として過去現在未来と言われるが、過去と未来だけだ。
そこで、過去にも未来にも一切こだわらない現在(過去と未来の境界)、どうのような心境であるかが言われるべきである。
そこには、縁起(原因結果の基づく心境)による悲喜の心境が全く見出せないのである。
それらを否定する心境があるのみである。彼の心は色心が無限にい縁起して広がっているのに応じて、
その縁起している色心に束縛されていないから、色心を超越して、見下し、無限に広がっていくのである。
縁起して居る者に執着すると言う罪を犯さないから、執着ゆえに束縛されるということが無く、真理真実を見失って、
迷うと言うことが無い。この様に推測される。彼は自分が何年の何月何日に生まれ、何歳であるかと言うことを思わない。
自分の肉体の死滅を心配することが無い。食物に付いて心配すると言うこともない。
 このような心境に付いて大乗経典は、長々と叙述しているね。


183名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:09:58 ID:VWUA0EN9
>あなたは、 一切が空であり、したがって、一切は虚妄であり、存在しない。
苦も存在せず、苦を滅するためには、ただそのことに気付けばよい。
涅槃だけが存在する といっているだけですよね?

三世として過去現在未来と言われるが、過去と未来だけだ。
そこで、過去にも未来にも一切こだわらない現在(過去と未来の境界)、どうのような心境であるかが言われるべきである。
そこには、縁起(原因結果の基づく心境)による悲喜の心境が全く見出せないのである。
それらを否定する心境があるのみである。彼の心は色心が無限にい縁起して広がっているのに応じて、
その縁起している色心に束縛されていないから、色心を超越して、見下し、無限に広がっていくのである。
縁起して居る者に執着すると言う罪を犯さないから、執着ゆえに束縛されるということが無く、真理真実を見失って、
迷うと言うことが無い。この様に推測される。彼は自分が何年の何月何日に生まれ、何歳であるかと言うことを思わない。
自分の肉体の死滅を心配することが無い。食物に付いて心配すると言うこともない。
 このような心境に付いて大乗経典は、長々と叙述しているね。


184名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:14:21 ID:VWUA0EN9
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub25.htm その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それ
に執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどま
るのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何
ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競
い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与
えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持
たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。
つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深
い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜
ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。

 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべ
てその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を

185名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 18:16:24 ID:VWUA0EN9
つづき
88
-----------------------------------------------------------------------------
修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、
清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を
自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、
すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさ
またげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界
はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏の
さとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを
除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべての
もののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除か
せる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけ

を楽しむのである。

 これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い
求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果
186無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/11(月) 12:19:56 ID:joBTQVtB
>>180
> またも、答えを飛ばしています。

ふー。面倒臭いね。
じゃあ、最初からやり直そうか?

>>121-122
>>125
> やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。
●心というのは五蘊から色を除いた、残りの四蘊と考えていいのだろうか?(1)

●この時点での、あなたの主張は、
・色は存在する(2−1)
・心は存在する(2−2)

ということでいいですか?

>>126 :名無しさん@3周年:2006/11/30(木) 00:05:14 ID:KjIgA/uA
> 五蘊があると妄想している人は、死んでも五蘊は、存在しつづけると考えているということであるから、
> 妄想は、三世の渡るのであるから、その時点で、永遠な妄想の世界を形成しているのである。彼は正法を受け入れない限り

●で、ここでは、
・「五蘊がある」というのは妄想である。(3)
とあなたは主張していますか?

●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?
187名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 19:11:14 ID:Q/tWkLWl
>>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
>●それはすなわち、
・色は存在しない(4−1)
・心は存在しない(4−2)
ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?

なるんだと思っています。
視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。
そうすると色は色を知ることが出来ないのです。何によって色を知るのでしょうか?
それはやはり、受想行識により判断しているのだと思います。所が、受想行識は、そもそも縁起の産物であるので、
実体として存在していないのです。ですから、やはり、色というものは識(心)無くして存在していないと言うことになるのではないでしょうか?
 感覚器官を受そのものと勘違いしていたので、 「やはり、色と心は相対的に存在するという結論かも。 」
と言ったのです。
 相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、そこに統一した原理の如き法則を求めるのは、ゼノンのパラドックスとなるのではないでしょうか?



188名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:35:32 ID:raCSTr24
>>186
>ふー。面倒臭いね。

「じゃあ、」何故、返答を飛ばし、懐疑論をやっておきながら、
「最初からやり直」すというのですか? 矛盾しているし、都合が良すぎませんか?
ところで、そちら様が挙げたのは、全てこちらの投稿ではありませんね。

それにしても「ふー。面倒臭いね。」
こちらを「パス」して頂き、>>187との議論を頑張って下さい。
189名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 08:55:37 ID:y9OAO0gg
死か死、五感(五根)を備えているのは肉体であり、肉体というのは色に分類しているが、
その肉体が滅するならば、五感も滅するのである。五感が滅するなら意根も滅するのである。
こうして人間と言う肉体の存在に迷うのが凡夫である。
 誰か六根六処六入を整理して書いてくれないかな。五蘊に基づいて論ずるのが言いか、
六根に付いて論ずるのが良いか、五蘊と六根の関係又は相違点はいかなるものか、一度整理してみるのがいいと思う。
190名無しさん@3周年:2006/12/12(火) 15:25:57 ID:TkIJ4VKU
カラスの変異体?
括弧の使用法が変ですね。
まずは言語のルールを守って言語を超えましょう。
191カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:16:01 ID:79Nq6snv
なんかいらいらする夜だぜ。
何も知らない馬鹿が、また知った風な口を聞いてるよーだなー。

>>190
言語を超えるってさ、それはある意味正しいだろう。だがお前に聞こう。
その言語を超えようって思う思考は、何から成ってるんだよ?あぁ?
おまえが真理を悟るには、千年はえぇんだよ、無智、無能が。「言」を悟らない馬鹿仏教徒が、
知ったふうな口を聞いいてるのは、笑けるんだよね。馬鹿ばっか。
192カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 03:25:20 ID:79Nq6snv
「言」を持たない犬や猫は、生まれながらに悟っているんですか?(大爆笑)

馬鹿仏教徒さんたち。現代仏教の大乗思想に毒されている君らは、心配しないでも今生は棒に振る。
諦めて、来世にかけるんだな。馬鹿は死ななきゃ治らないんだよ。残念だったね。ククク。
193カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:40:33 ID:2aLBBkLZ
そういや法華経には、女は涅槃に入れないので、悟りを開いた女坊主の股間から
男性器が生えてきて、成就するなんて、漫画みたいな話があったな。

女は、自らを男性にしないと、命はない。だが、女は命を生み出す。女がいなければ命はないのだ。
子宮を持つ女がいるから我々「人」もいる。我々「人」がいなければ、命もなく。涅槃もない。
完全な無は、涅槃ではない。無は無だ。それ以上でもそれ以下でもない。
なぁ>>190さん。言語を超えましょうなんて言ってるあんたなら、言ってる意味わかるよな?(嘲笑)

だいたい馬鹿は、宗教上の、男、女の意味もわかってなねぇで、「言語を超えろ」なんて、したり顔で話すんだよね。
「言」を悟らない奴に、何の悟りか。哀れ、馬鹿に付ける薬はなし。

ちなみにキリスト教の命とは、この世の命のことではない。
イエスはこの世に生まれ、この世に生きる我々を、死人達と呼んでいる。
そして彼は、死者の中から復活したとされる。わかるかな?わかんねぇだろうな〜。盲人は盲人のままだ。

194カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 20:47:31 ID:2aLBBkLZ
釈迦の悟りは、輪廻からの解脱だ。
死なないということは、生まれてこないということだ。

なぁ>>190さん。
「言」をもたない獣は、どうしてまたこの世に生まれてくるんですかね〜〜。
「言」を持たない獣は生まれながらに悟っているんでしょ〜?
悟っているのにどうしてまた生まれてくるのでちゅか??獣は言語を超えてるんでしょ?わっははは。

何も知らんボケが、知った風な口聞くなよ。
195カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/13(水) 21:01:16 ID:2aLBBkLZ
涅槃とは無でちゅか?
わはは はははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははははははははは
は〜アホクサ。
196名無しさん@3周年:2006/12/13(水) 23:29:44 ID:0lNoCT6T
縁起に逆らわない。それは、縁起しているものには実体がないと言うからである。
今までは、実体があると思っていたために、それを避けよう、それをうまくかわそうとしていたが、
縁起に従っていても、それに執着していないので、縁起に従うことで何かを得ると言うことが無いのだ。
縁起しているものには実体が無いので、縁起しているものに逆らわないのである。
縁起しているものに実体があるのなら、それを避けるように知恵を必要とするだろう。
197名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:35:22 ID:afozyuJd
女なんて大嫌いだ 嫉妬深くて陰口が大好きで 虐めは陰湿 お前等ブス女に私の気持ちなんてわかんないだろな この世に生まれてこなければよかったのに こんな辛い思いして生きるぐらいなら
198名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 03:40:57 ID:afozyuJd
私は自分の子供を産み自分の手で育てる事が一番の私の夢だった その夢が叶えられた事は一番の幸せかな でも結果は孤独だ 後は死を待つばかりとなった
199名無しさん@3周年:2006/12/14(木) 09:38:51 ID:Yo3K5qiR
嫉妬深さや陰口をたたくのは男も一緒。人間は陰口をたたくように出来ているのだから、自分が成功すること、幸せになることが最大の復習になる。
辛い思いをすれば一番喜ぶのは陰口をたたいた人間ですよ。

あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。
200カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:06:15 ID:CGEf3+EZ
真理は人を自由にする。
この言葉の、本当の意味を、理解する者は少ない。

>>198
あんた仏教徒か?
仏教徒が、家族愛の執着を断ち切れず、苦しむなんざ笑える。
情けない奴め。幸いあんたは自分は傷ついたかしらんが、相手は傷つけていないんだろ?
それでいいじゃ「ないか。

家族愛。そんなものは捨てろ。たわけめ、あんたは仏教の何を学んだんだ?
>>199は、知ってか知らずか、いいことを言っている。
お前は独りになった。”独りになるということは、自由になった” ということだ。
せっかく自由になったんだ。自由を楽しめ。そしてあんたが仏教徒なら、自分の成すべきことがあるはずだ。
こんなとこでぐちってないで、自分の成すべきことをすればいい。
201カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2006/12/14(木) 20:13:49 ID:CGEf3+EZ
>>197
妬み嫉妬深さは、男も一緒。むしろ男のほうが、何をやっても上だ。
下手すると社会的に抹殺される。女の妬み、嫉妬など、せいぜい嫌がらせか
陰口くらいだ。男の嫉妬、妬みなどと比べれば、かわいいものだ。

男の陰険さは、女の比ではないよ。
202名無しさん@3周年:2006/12/15(金) 23:29:10 ID:/5rrrHlA
>>199
>あと孤独というのはすばらしい事なんですよ。みんな一人になりたくてなれないのですから。
せっかく孤独になれたのなら、自由を満喫してください。

仏典も孤独を勧めていますね。村八分にあっているのを幸いに、このままになっておこうかな?
203無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/17(日) 12:19:18 ID:sY63ie9G
>>187
レスありがとうございます。

> >>186名無しが二人居てその二人を混同して相手にしていますが、とりあえず。
大変、失礼いたしました。

> >●それはすなわち、
> ・色は存在しない(4−1)
> ・心は存在しない(4−2)
> ということになるんでしょうか?、ならないのでしょうか?
>
> なるんだと思っています。
> 視覚の対象として色をいいます。色が無くては視覚(眼と言う感覚器官)というものが無いでしょ。更に眼識というものも言えないことになります。
> 五蘊の「受」というのは、この眼識のことと言うべきではないでしょうか?だとすると、
> 眼は眼を見ることはできず、物質は物質を知ることはできません。感覚器官も色の内の一つです。

私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。
自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。

もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

>  相対的に存在して居るものはガンダルヴァの城ですから、
たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?
204名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:32:36 ID:UhCeIm9m
>>203
>ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?

>たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
 五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
しかし、五蘊が縁起の存在であると理解し、縁起の存在であるなら、実体として存在していないと判断
するなら、今までの五蘊に基づく判断は、措信してはならないと判断すべきものとなるでしょう。
にも拘わらず今までの習慣から、五蘊の情景が払拭できないのですから、その時に、
これは『ガンダルヴァの城』である、と言い聞かせることになるでしょう。この様に自己を抑制する修行を続け
るならば、ガンダルヴァの城に捕らわれない様になるでしょう。そして『ガンダルヴァの城』とは
縁起している無限の宇宙を指すことになります。
 
>相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?

相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
その心を滅却することになるでしょう。
 相対的に存在しているもの、と認めるなら、上の様に進展すると思いますが、その反対に、
相対的に存在するものは、実体として存在するものであると言う考えに進展する、と言うのは理解できないところです。
しかし、何か誤解が存在すると思われますから、あなたのいうように「相対的であれ、存在して居るとの前提」
の話を聞いてみたいものです。どの様に進展するのですか?

205名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 18:57:36 ID:UhCeIm9m
ガンダルヴァの城」とは、蜃気楼の城と言う意味です。
206名無しさん@3周年:2006/12/18(月) 22:41:19 ID:uTBW+phh
自分を支配する心などないのです。空が真実ですから。
何か心に浮かんできたら、それを縁起しているものと知って、『空』じましょう。
心配も、ウキウキする心も、実体の無いものと『空』じましょう。
207名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 09:50:40 ID:XWoonAh9
「世界を空なりと観ぜよ」(小空経?だったっけ)



208名無しさん@3周年:2006/12/19(火) 21:25:20 ID:v5rN5SRS
>>207
スッタニパータ
-------------------------------------------------------------------------------
◆<16、学生モーガラージャの質問>◆
--------------------------------------------------------------------------------
1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。
しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

209名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 08:07:03 ID:deWOMIGg
>>203
>私は仏教の原点に、生老病死という苦が存在していたと考えています。
ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。

「仏教の原点」は、「生老病死という苦が」縁起せることだ「と考えています。」
「ですから、」無自性なる「苦が」「存在していた」とか「存在していない」
「といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。」


>自分で自分の眼を見ることはできませんが、他人の目を見ることは可能です。

「自分」「を見ることはできません」から、「他人」「を見ることは」不「可能です。」


>自分の認識するものが、実際に外界にあることの保証を得ることはできませんが、
実際に外界に、もの(苦)が存在するとすれば、
私たちがそれらをどのように認識しているかのモデルも構築できます。
もし、外界にものが存在することを否定するならば、
バーチャルリアルティを仮定したり、水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり
といった非常に不自然なモデルを仮定することになると考えます。

「外界にものが存在することを否定するならば、バーチャルリアルティ」はありえるのですか?
「外界」がないのに、何に比して何者が「バーチャルリアルティ」なのでしょうか?
「外界にものが存在することを否定するならば、」「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」はありえるのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳」は「外界」ではないのですか?
「水槽に浮かぶ電極をつながれた脳を仮定したり」とありますが、「仮定」とは認識ではありませんか?

「非常に不自然な」のは、漸く自己矛盾を認めながら尚も、
「非常に不自然なモデルを仮定」していることです。
210無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 10:47:34 ID:2KafzQpR
>>204
> >ですから、「実は、苦は存在していない」といわれると、それ以降の会話が非常に困難になります。
> 苦が存在しているのと同様に『楽』も存在しているのですね?
そうですね。ただ『楽』が存在するというよりは、
苦の無い状態を『楽』と呼ぶということになるかと思います。十悪に対する十善の関係と同じです。

> >たとえ、ガンダルヴァの城だとしても、「なぜガンダルヴァの城を認識するか?」の理由付けは必要でしょう。
>  五蘊を真実在であると思っている時、五蘊に基づく存在は実在しているのです。
この辺、言葉に混乱がありませんか?
「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> >相対的であれ、存在して居るとの前提で話を進めてよろしいでしょうか?
>
> 相対的存在であるが故に、実体がない、それ故に、自分は一切に拘束され無いようにしよう、
> と考える様にするのが、真実真理を知ったものの考える道であると思います。
これに異存はありません。

> 心に、明日の食物をどうして手に入れようかと考える心が生じたなら、即座に、
> その心を滅却することになるでしょう。
いえ、その渇愛の心を直接滅することができないから、
それが無明に基づくことを理解し、その心が初めから生じないように修行をするのです。

 相対的であれ、苦や煩悩が存在し、それに執着する我もまた縁起しており、
 そのままでは、また輪廻を続けることになるから、
 我を含めた相対的な存在には執着しないように修行をするのです。

> しかし、何か誤解が存在すると思われますから、
たしかに、どこかに、ちょっとして誤解がありそうですね。
211無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/22(金) 20:20:13 ID:2KafzQpR

第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、
第二の矢は、主観的に存在する。

客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。
212名無しさん@3周年:2006/12/22(金) 20:42:17 ID:hmNKFDcw
客観的に存在するものなど、存在しない。
213名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
>>211
>第一の矢も、第二の矢も、

これは何のこと?
214名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:53:15 ID:Vtn4d/3n
>客観的に存在するものは、自分の心とは関係なく存在し、
主観的に存在するものは、自分の心に依存して存在する。

で、一切の認識行為を介さずに、「客観的に存在する」と出来るのですか?

ところで、懐疑論や自己矛盾言動を繰り返して平然としていると、
あ○み氏の同類ということに成りますが、それで宜しいですか?
215名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
>>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
あるからでしょう。そのあるものは、既にそれと相対的なある物を「必然」として
生じているのであるといわなければならないのです。ですから、相対的に存在している一方を
実体として存在していると妄想しているのです。何か有るものがあると妄想しないならば、それに「必然」
として付随する相対的存在を見ることは無いわけです。あるものを妄想し、それに伴って必然的に生じる
相対的存在が、連綿と無限に生じるのを「輪廻」するというのだといわなければならないと思うのです。
 何かあるものが有ると思う(妄想する)ことを、「執着」というのであると思うのです。
色があると思うこと、すなわち、色形があると思い、ある色形は良く、そうで無いものは悪いと考えることは、
色に執着しているのです。受があると思うこと、すなわち、ある感覚は快く他の感覚は悪い、と考えることは受に執着しているのです。
色んな光景を見ても、それに執着しないとは、そのある部分を珍重し、手に入れたい、そして、そこに家を建てたい、そして、
そして、こんな生活を実現したい、と思わないことであると思うのです。凡人には
困難なことでしょうでしょうけど。
216無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:38:33 ID:58zScJon
>>213 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 11:52:31 ID:XU5vQnFz
> >第一の矢も、第二の矢も、
>
> これは何のこと?

「第二の矢を受けず」でググレばいろいろ出てきます。

ttp://www.myoshin.com/story/sensin_ippannhouwa_015.htm

ttp://www.shinryuji.jp/daruma_req.htm
<−−
釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、花瓶に生けようとする。
これが第二の矢であります。
ここには私たちの執着があるのです。
−−>
217無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 13:39:23 ID:58zScJon
>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> >>210「五蘊を真実在であると思う」という思考に依存して、
> 「五蘊に基づく存在」が、「実在」するか「縁起の存在」かが決まる訳ではなく、
> 三界に「存在するもの」は全て、「縁起の存在」ですよね?

> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

えーと、
「人が空である」という意味で、
私は人は「縁起の存在」である
といって良いと考えているのですが、あなたは、違うのでしょうか?

人は空である。
人は縁起している。
人は縁起の存在である。

私は、同じ意味で使おうとしたのですが、あなたは、
「空」≠「縁起の存在」
と考えているのでしょうか?
218名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz
>>217
>「空」≠「縁起の存在」

この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?
219無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 15:32:30 ID:58zScJon
>>218 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 14:30:54 ID:XU5vQnFz

> この通りであると考えています。縁起と言うことを認識していない状態になることが修行の目的であり、
> 無念無想とか一相とか言うのはそのことと考えます。縁起から離脱した状態が「空:涅槃」であると理解します。
> 「縁起の存在」というと、縁起していることを認識している自分を抜きに出来ません。これは前者の
> 無相とという「無変化」とは性反対の状態でしょう?

「苦」は、縁起していて、諸行無常。
「空」=「涅槃」で、常住不変。

ということですか?

「空」=「涅槃」と考えたのには、根拠となる経典とかはあるのでしょうか?
220名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
>>219
ダンマパダ
92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人──このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうこちなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥かせないように──そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人──そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲望を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。

221無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/23(土) 17:32:10 ID:1F4fGVNG
>>220 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 15:54:18 ID:XU5vQnFz
> ダンマパダ
> 92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
>
> 93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

引用ありがとうございます。
なるほど。「空」を、私とあなたでは全く違う意味で使っていたことがわかりました。

>>215 :名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 12:53:37 ID:XU5vQnFz
> 縁起の存在となるのは、人が空である真実に反して、何かあると妄想するものが
> あるからでしょう。

さて、そうすると、
私は

人=五蘊=縁起の存在=諸行無常

と、考えているのですが、
あなたは、

人=空=涅槃=常住不変

と考えているということでしょうか?
222名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 17:35:15 ID:Vtn4d/3n
>釈尊は「第二の矢を受けず」としばしば語りました。
美しいものを見て美しいと感ずる。例えば美しい花を見て美しいと感ずる。
これは第一の矢であります。
問題は、美しい花だからといって、それをわが家に持ち帰り、
花瓶に生けようとする。 これが第二の矢であります。
>第一の矢も、第二の矢も、縁起したものであるが、
第一の矢は、客観的に存在し、第二の矢は、主観的に存在する。

これを以って自己矛盾していないとしたいというわけですか。
しかし「美しいものを“見て”美しいと“感じる”」のではありませんか?
「美しいもの」とは「見る」「感じる」ことを介在させずに可能でしょうか?
223名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
>>221
人=空=涅槃=常住不変
と考えているということでしょうか?

この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。
224名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:06:50 ID:XU5vQnFz
空とは何も無いと言うが、空の状態はすべてのものが満足の状態を言う。
225名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 19:16:51 ID:v6VVBuXe
時代や部派(或いは経典)ごとに
「空」や「人・我」の語義を、箇条書きでいいから整理してみたら?

まるで、北半球では「12月は冬だ」と言い
南半球では「12月は夏だ」と言い合っているようだ。
12月って何?

空って何?
226名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
ID:XU5vQnFzですが、先ほどラーメン屋から車を運転しバックで出る時、どう言うわけか、コンクリートの電柱にぶつかってしまった。
位置的にはぶつかりやすいところに電柱があるのですが、そして、入る時もそれを経験しているのですが、
損傷は大したことは無く、運転にも支障はない。プラのバンパーが20〜30センチ割れている。しかし衝撃はがツンとしたもので、慌ててバックのままアクセルを少し踏んでしまった。
これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
何もなかったことになるのだろうか?
227名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 21:58:04 ID:ihqD+b1c
そうですね
228名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 00:04:24 ID:J7W+TTV8
>>221
、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」なので以下のように言われるのである。
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

>>225
>空って何?
 
 一相無相の別名だ。求めるものがすべて自分に備わっているので満足するのである。すべては自分
である。自分自身であれる。自存者である。
229無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 05:56:03 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

私は、そうは思いません。
「縁起と空の論理」の前に、十悪の殺生に該当してしまうと考えます。


>>223 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 18:52:57 ID:XU5vQnFz
> この人とは、「真人」を言います。つまり覚りを得ている人であります。
> 覚りを知らず、得ていない人は、「人=五蘊=縁起の存在=諸行無常 」と成ると言うことです。

我(アートマン)については、どのようにお考えでしょうか?

ひょっとして
===
我=五蘊 と妄想することが、誤りであり、輪廻の原因である。

我=空=涅槃=梵=常住不変であり、

悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?
230無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 08:10:13 ID:rrDbxvdm
>>226 :名無しさん@3周年 :2006/12/23(土) 21:22:18 ID:XU5vQnFz
> これが人であったらと思うと、ぞっとする。縁起と空の論理から言うと、人を轢いても縁起であるから、空である、すなわち
> 何もなかったことになるのだろうか?

ん? ちょっと、待った。

> 縁起であるから、空である
って?

「人を轢いても縁起である」というのは、
いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きた
という意味ですよね。

それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?
231名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:03:07 ID:J7W+TTV8
梵我一如
>>229
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)
が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとさる。不二一元論ともいう。

>我=空=涅槃=梵=常住不変であり、
悟りの境地は「梵我一如」
===
と、お考えなのでしょうか?

空が梵と同じものなら、当然そう言うことになるでしょう。
所が、頭書の解説の様に、支配する原理というと、それは仏教に言う「縁起の理法」
と言うべきです。私の今の理解では、縁起の理法はあくまでも世俗諦であり、勝議諦として「空」
の真理真実を説かれるべきなのに、それが無いのがおかしい、つまり、究極の真実をといていないのであると思われます。
パルメニデスは、これを解き明かしています、プラトンも後半パルメニデスに近づいて自分のイデア論に疑問を呈している
と言われています。
232名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
>>230
>「人を轢いても縁起である」というのは、いろいろな要因があって、
結果として人を轢くというできことが起きたという意味ですよね。
それが、どうして『あなたのいう「空」である』ということになるのですか?

要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。実体が無いことを「空」と言います。
空であるので、無相:一相:といいます。つまり、この様の事故は無かったのであると言うことになるのです。
この空思想の故に、どんな人の罪も許されると言われるのです。但し、この空の真理を理解し信じるならばですが。
この真理を無視誹謗するものは決して許されない、と言うことにもなるのです。
233無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/24(日) 13:19:55 ID:rrDbxvdm
>>232 :名無しさん@3周年 :2006/12/24(日) 10:12:03 ID:J7W+TTV8
> 要因とは原因のことです。その原因があって結果があるのです。この原因と結果は相対的に存在しています。
> 相対的に存在しているものには、実体が無いというのが仏教です。
ここまでは同意です。

> 実体が無いことを「空」と言います。
私は、縁起したものには、「実体が無い」という性質があり、
その性質を「空」と呼ぶと考えていました。

したがって、

◎相対的に存在しているもの=縁起の存在
であると同時に
◎縁起の存在=空
でした。

あなたは、
---
縁起の存在には、実体が無い
実体が無いことを「空」という
しかし、
>>218
>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?
234名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 14:59:27 ID:J7W+TTV8
>>233
>>「空」≠「縁起の存在」
> この通りであると考えています。

つまり、縁起の存在は、「空」ではない。
---
と主張しているように思うのですが、どうなのでしょうか?

○執着心により、存在が発生し、その存在は必然として無限に相対的存在を発生する。
これが縁起の存在(世界)である。これが空と何の関係もない世界であることは明らかだろう。
彼は原因を作って結果を求めている。それを繰り返している。善因を作ろうとしてその結果を求める。
 しかし縁起しているものには実体が有り得ないと観る者は、無作:無願となり、執着心を起こして
縁起の世界を造ろうとしない。彼は世界が空であることを知っているからである。
 人は縁起せるものには実体が有り得ないと言う真理を知るまでは、縁起せるものを実体あるものと追い求めていたのである。
したがって、縁起の世界≠空の世界である。
235名無しさん@3周年:2006/12/27(水) 20:00:03 ID:Dk99jsVM
問う者 としての投稿者
>>234
「縁起の世界」を論証する決定稿。
 
236名無しさん@3周年:2006/12/27(水) 22:30:21 ID:pQn5Gass
サンユッタニカーヤU第W篇 第二章 第九節 「耕作者」
  ・・・・・
 さて悪魔悪しき者は、農夫の姿を現し、大きな鋤を肩に掛けて、長い牛追いの棒を手にして、
髪を振り乱し、大麻の衣を着て、足は泥にまみれたままで、尊師に近づいた。近づいてから尊師に次ぎのように行った。
「修行者よ、牡牛を見ましたか?」
「悪しき者よ、どうしておまえは牡牛に用があるのか?」
「修行者よ、目は私のものです。色形は私のものです。眼が対象の触れて起こる識別領域は私のものです。
音声は私のものだ。聴覚作用は私のものだ。聴覚作用が対象に触れて起こる識別領域は私のものだ。
そなたは何処へ行ったら私から逃れられるだろうか?
 嗅覚作用は私のものだ。香りは私のものだ。(以下六根六識六処に付いて上述の繰り返しとなる。 
・・・・・・・・・・・・・)」
「悪しき者よ、目はそなたのものである。色形はそなたのものである。目の接触から生じた識別領域はそなたのものである。
しかし、目が存在せず、色形が存在せず、目の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、そなたの行くべき通路は存在しない。
237名無しさん@3周年:2006/12/27(水) 22:31:40 ID:pQn5Gass
つづき
 悪しき者よ。聴覚器官はそなたのものである。音声はそなたのものである。聴覚器官の接触から生ずる識別領域は、そなたのものである。
しかし、聴覚器官が存在せづ、音声が存在せず、聴覚器官の接触から生ずる識別領域が存在しないところには、
そなたの行くべき通路は存在しない。 
 悪しき者よ、嗅覚器官はソナタのものである。以下上述と同様に六根六識六書の否定と続く・・・・・」

悪魔曰く
「人々がこれが我が物であると語るところのもの
 これは我が物であると語る人々
 そなたの心がそこに留まるならば、修行者よ、そなたは私から逃れることは出来ないであろう。」
尊師曰く
「人々が我が物であると執着してかたるところのもの、それは、私に属するものではない。
 執着して語る人々がいるが、私は彼等の一人ではない。
 この様に知れ、悪魔悪しき者よ。そなたは私の行く道をも見ないであろう。」

そこで悪魔悪しき者は、「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は私のことを知っておられるのだ。)と気づいて
打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消えうせた。

 以上の教説は非常に学ぶべき教えである。どうして六根六処六識が存在しないか、これが書いてないのであるが。
238名無しさん@3周年:2006/12/29(金) 20:43:20 ID:LKRIWSWh
正しい姿勢とはどんな姿勢か?肉体あるいは身体(色)があると思っていない心(空)
の宿る若しくは、支配する姿勢である。
 反対に悪い姿勢とは、肉体身体があると思い、それに依存する心が宿る若しくは支配する姿勢である。
この時、その心の支配する身体は病巣である。
 こんな風に思うが、健康な時だから言えるのであって、病気になった時に、その時に正しい姿勢を
訓練すれば、病巣が消えるのだろうか?病巣が消えるとは、その人が病気から開放されると言う意味であるが。
 坐禅は有効であろう。
239(。・"・。)麻巳子 ◆05x0pGqD0U :2006/12/29(金) 21:54:37 ID:OKtiPWxE
>>234
味噌と醤油でレシピを作れないちとは本物の味を知らないで本物を語るばぶ。
240無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2006/12/30(土) 00:47:23 ID:V00JnZgv
>>234
> ○執着心により、存在が発生し、その存在は必然として無限に相対的存在を発生する。
> これが縁起の存在(世界)である。
はい、同意します。

> これが空と何の関係もない世界であることは明らかだろう。
明らかではありません。

> 彼は原因を作って結果を求めている。それを繰り返している。善因を作ろうとしてその結果を求める。
>  しかし縁起しているものには実体が有り得ないと観る者は、無作:無願となり、執着心を起こして
> 縁起の世界を造ろうとしない。
いいえ。
縁起の世界自体は、空の世界として、今、ここにあり、
彼が作っているのは、縁起の世界自体ではなく、縁起するものです。

> 彼は世界が空であることを知っているからである。
>  人は縁起せるものには実体が有り得ないと言う真理を知るまでは、縁起せるものを実体あるものと追い求めていたのである。
同意です。

> したがって、縁起の世界≠空の世界である。
同意できません。
たとえば、数には、正の数、負の数がありますが、0はどちらでもありません。
阿羅漢の解脱の境涯は、この0に相当すると考えます。
0が、数の集合の一要素であるように、
阿羅漢の解脱の境涯も、縁起の世界(=空の世界)におけるひとつの状態に過ぎません。
241名無しさん@3周年:2006/12/30(土) 03:11:38 ID:rrCRt42S
>>そこで悪魔悪しき者は、「尊師は私のことを知っておられるのだ。
>>幸せな方は私のことを知っておられるのだ。)と気づいて
>>打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消えうせた。

ここの意味がわからない。
何故尊師が自分のことを知ってることに
落胆したのか??
尊師をだまし、言いくるめようとしたが
自分の正体を見抜かれていると悟り落胆し去った(自然消滅)
したってこと?

まあこの話は比喩なんだろうけど。。。

242名無しさん@3周年:2006/12/30(土) 14:25:28 ID:Z81mAsq0
>>240
> 縁起の世界自体は、空の世界として、今、ここにあり、
彼が作っているのは、縁起の世界自体ではなく、縁起するものです。

「汝に敵を愛せよ。上着を奪うものには下着をも与えよ。右のほほを打つものには左のほほをも打たせよ。
」仏教では、「与えよ、すべてを与えよ。脳髄をも与えよ。肉体を与えよ。目を与えよ。」などといい、
イエスは死人を蘇らせ、わずかの食物から何千人にも満足させる食物をつくりし」
仏教では、「太陽や月を手に掴み、空中に上がって下半身から水火を噴出させ、又、空中から説教をし
地上の人に聞かせ、壁や川を通過する」などの奇跡をすることが説かれている。
 以上の行為は、縁起の世界に拘束されていない人で、縁起の世界を観ていない人のする行為であると思う。
彼らには世界は一相無相なのである。しかし、このような奇跡は、縁起するものである。神が天地創造したと同じ理屈で、
このような奇跡をしたものと思う。しかし、彼らには、このような奇跡は本来の望むことではなかったはずではないだろうか?
これらの奇跡は教導のための方便であると思う。このような奇跡もその余の相対的な存在を生起せしめ縁起の世界をなすものであることは間違い無いだろう。
それは、そのような奇跡の前と同じ、やはり、縁起の世界なのである。単なる慰めの方便であったのではないか。
 つまり彼らはこのような方便の世界を決して喜んではいないのである。涅槃とは、なにも「起こらない」世界であると言われる。
つまり、縁起するものが無い世界であると言うことである。縁起の世界とは、
物事が次ぎから次ぎへと起こる世界のことである。この相違は明らかではないか?

243名無しさん@3周年:2006/12/30(土) 14:34:05 ID:Z81mAsq0
>>241
>尊師をだまし、言いくるめようとしたが
自分の正体を見抜かれていると悟り落胆し去った(自然消滅)
したってこと?

文中にもあるように、尊師を拘束しようとしている悪魔、その悪魔の心は、「縁起するものには実体が無い」という「知恵」
が欠如しているゆえに生じているものである。尊師も以前はそのような知恵を欠き、今の悪魔と同様の境地にあったのである。
しかしこの「空諦」を得て、拘束を脱したのであるが、以前の無知に誘惑する心と戦うときがあったのであろう。
 こんな解釈ではどうか?
244名無しさん@3周年:2006/12/30(土) 21:40:01 ID:KkERnBfh
尊師つーとこっちを連想するな。
ttp://www.youtube.com/watch?v=1MWrCWwLFd4
245名無しさん@3周年:2006/12/31(日) 17:42:43 ID:JEZIXU/o
>>239
>味噌と醤油でレシピを作れないちとは本物の味を知らないで本物を語るばぶ。

芸術的な表現だな。
246名無しさん@3周年:2007/01/01(月) 08:31:11 ID:9JjrKbIr
>>245
>芸術的な表現だな。

不精に磨きをかけてるのさ。
247名無しさん@3周年:2007/01/02(火) 11:39:03 ID:MXD6JQcl
ある聖者は、近くを荷馬車の大群が通りすぎるのに全く動じなかったばかりか、その存在をも全く認めなかったのである。
釈尊は、それに縁して、自分の体験を語り、それは、自分が瞑想している時、隣か近所に、落雷があり、数人が死んだ事件を上げた。
数人の村人と家畜が死ぬほどの事件であったので、他の村人がそこに集まってきた。そして釈尊に、その事件のことを問うたが、
釈尊はその事実を全く知らなかったのである。釈尊の耳には落雷の激音が聞こえなかったのであった。
 この様に縁起している事物は聖者には無い(存在していない)のである。
 以下は大教の引用であるが、やはり上の聖者の世界を明らかにしたものであると思う。

248名無しさん@3周年:2007/01/02(火) 11:40:06 ID:MXD6JQcl
 「 阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく
無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみな
ともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほ
めたたえておられるのだから 」

 そこで阿難は、仰せ通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正し
て西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるか
に無量寿仏を礼拝して申しあげた。

  「 世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩
や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」

この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろ
くすべての仏がたの国々をお照らしになった。すると、鉄囲山や須
弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。
ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれると
き、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面
にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩
薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の
光だけが明るく輝いたのである。

 そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての
世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放
たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見
たてまつった。ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、
男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてま
つり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。
249名無しさん@3周年:2007/01/02(火) 12:27:51 ID:MXD6JQcl
皆様新年開けましておめでとうございます。
こんな挨拶は修行者にふさわしいかどうか疑問ですが。ふさわしくないでしょうね。
すべての人が新年だと言って気持ちを根拠無く形成しているのを、一人離れて見ているほうが
修行者ではないかと思いますが、どうでしょうか?
250名無しさん@3周年:2007/01/04(木) 21:44:36 ID:LKgSrIwO
仏教は傍観者になる教えとは違います。
251名無しさん@3周年:2007/01/05(金) 21:07:35 ID:400RGVh5
仏教では慈悲喜捨の教えが良く理解されていないと思う。キリスト教の「汝の隣人を自分の様に愛せ」という
教えに相当するのであるが、空の真理真実との関係の説明に欠けるのだ。もっともキリスト教の隣人愛の説明も
その原因理由が説かれているとは思わないが。「友の為に自分の命を捨てること、これよりも大いなる愛は無い」と言っていたと思うが、
この理由は、誰か説ける者がいるだろうか?この理由を説くことは、仏教の慈悲喜捨の理由を説くことになると思う。
252名無しさん@3周年:2007/01/06(土) 20:41:50 ID:y6fgqQ65
飢えた虎にわが身を差し出した釈迦の前世譚にも通じるしれません。
悟りの重要な要素として、有身見を超えるというのがあります。
縁起と空のことわりが解れば、「私」という厚い自我の殻が破られて、
自他の境界も無くなります。私という存在は、同時に重々無尽に他のものと
繋がっている。無差別相の世界に生きることは、そのまま慈悲喜捨に結びつく
のではないだろうか。
253名無しさん@3周年:2007/01/07(日) 18:26:33 ID:9hlcBtwW
ものには実体が無いので、「上着を奪うものには下着をも与えよ」となるのである、と思う。
同様に、命なる者の実体が無いので、「友の為に命を捨てる者は最大の愛を示しているのである」といえるのであると思う。
実体の無いものを与えて、愛を示していると言うのは、皮肉のようである。しかし、相手の友はその時、実体の無い命と思っていないのであるから、
利益をもらったと思うのである。
 人の上着や下着を奪って、着ているのは気分的に良いものなのだろうか?又、
人の命を貰って生きているのは良心のとがめが無いものだろうか?そもそも他人の命をもらえるものなのか?
 今までの理解では、修行する者が無所有を心がける理由は、一切が空であって、実体あるものが無いので、
所有しているという観念そのものが害であるので、無所有となるのであると、理解していた。所有しているということは、
その人の幸福になるための妨げなのである。真実は空であるから。そこで、空を体得した覚者は、煩悩の激流にながされている人を見て、
その人が一番大事に思っているものは、命であると見るのではないだろうか?何とかして、命なるものへの執着を
除いてやりたいと考えるんではないだろうか?その命とは、十二処を具えた身体であろう。
 そこで、有身見の人が一番恐れるのは難であろうか?それは空諦であろう。
そこで、覚者は、幻の身体を作り、それを滅して見せるのである。殺させるのである。
これが命を与えると言う事の真相であろう。
 しかし、これでは人を空諦に導く事には少しもならないな。悪魔に餌を与えたようなものではないか。

254名無しさん@3周年:2007/01/07(日) 21:39:28 ID:AEAt0Rup
幻の身体を作り、それが滅するのを見せられても、いささかも同様しないのが、空諦を体得したということ
でしょう。幻なら最初から滅するも殺されるもない、と解っているから。悪魔が餌を呑み込んだとすれば、
それは現実に即した実際の殺人において、他の命を殺める場合に上記の論理を都合のいいように一方的
な殺人正当化に用いた場合です。自他不二の深い洞察とは、相手の痛みや苦しみをそっくりわが事として
受け止められることです。そういう空性ゆえの命の大切さが解れば、悪魔の餌に惑わされることもないでしょう。
255名無しさん@3周年:2007/01/07(日) 21:41:07 ID:AEAt0Rup
慈悲の三縁として、衆生縁の慈悲は人情の世界、法縁の慈悲は仏法に縁させようと働く慈悲、
無縁の慈悲は対象のない慈悲、すなわち空性に導く慈悲。
↓のサイトに解りやすく説明されています。
 
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-daijo2/sanenjihi-daijo.htm
   ↓↓↓
だいたい仏教で言う慈悲というのは、無縁の慈悲がいちばんの基本です。無縁の慈悲を抜きにして、
衆生縁の慈悲も法縁の慈悲もほんとうは成り立たないというのが、仏教だと思います。困っている衆生が
いれば助けるということは、そのかぎりでは人情だけれども、その根底に無縁という、わが身の命の事実
をともどもに明らかにしていくという基本線があれば、衆生縁の慈悲も仏道になっていくわけです。しかし、
無縁の慈悲がなければ、それは単なる人情に終わるわけです。ですから、小慈悲、中慈悲、大慈悲という
ことについて、小慈悲は人情の世界、中慈悲は仏道を学ぶ世界、大慈悲は仏道に生きる世界と考えては
どうでしょうか。人情の世界にはたらくのが小慈悲であり、仏道を学んでいるものにはたらくのが中慈悲で
ある、仏道に生きる人にはたらくのが大慈悲である。そういうようにいいますと、法縁から仏道が始まると
決めつけることになりますが、もとよりそうではありません。そういうものを踏まえたうえで、無縁の慈悲を
根底にして、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲というものを明らかにしていくと、すべてが仏道になっていく、そ
ういうように言えるのではないかと思います。
256名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 12:03:05 ID:MLU1FGIH
スマナサーラ長老と藤本晃さんの本
『アビダンマ講義シリーズ第二巻 心の分析 ブッダの実践心理学』より…

仏教のアビダンマでは、まず心を「勝義諦の一つ」と位置づけています。
勝義諦とは、「真実、真にあるもの」という意味の仏教用語です。
仏教のアビダンマでは、勝義諦・真実・真にあるものは
「心と心所と物質(色)と涅槃の四つだけ」と説明しているのです。

257名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 13:30:15 ID:xWmkxziS
>>254
>自他不二の深い洞察とは、相手の痛みや苦しみをそっくりわが事として
受け止められることです。

仏菩薩は、 理解する人ではあっても、苦しみを共有する人ではないのではないだろうか?
縁起しているものには、命はない、つまり実体:主体性は無いのである。風や水流を見てみると、彼らには主体性:命があるとは思わないだろう。
気の向くままに流れるのだ。高いところから低いところヘと。  
 仏菩薩は縁起から離脱している第三者である。であるから、誰をも平等に観る事が出来る。
水流や風を観る人であるが、それらに流される人ではない。しかもそれ(縁起している水流や風)に命を観る事が無いのである。
であるから、それらに負ける事無く、それらを容易に思うままに変えることが出来るのである。どうやって変えるのか。
別のものを相対させることに拠って。水流や風の奴隷となっている人には岸や避難場所と言う涅槃を教えることに拠って。
 無縁の慈悲とは、対象を平等に見ている為に、慈悲の相手方を選ばない、という意味であると思うが。
( 独り言である。)
258名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 13:50:39 ID:xWmkxziS
>>256
>「心と心所と物質(色)と涅槃の四つだけ」と説明しているのです。

竜樹が反論するわけだ。
しかし、こんな説は何処から出てきたものだろう。原始経典には見出せないのだが。
あるいはあるのかな?
259名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 14:13:36 ID:MLU1FGIH
経・律・論を三蔵といいますね。
アビダンマ(アビダルマ)とは、三蔵のうちの論にあたるものらしいです。
お経の解説書、あるいはお経の説を体系的にまとめたものでしょう。
仏教の悟り(出世間心)である四向四果は、
色界心の禅定とともにあるので、
欲界心のように五根からの刺激に執着することはない。
物質や心所の存在を認めてもどうせ執着しないんだから、
普通に認めちゃっていいのかも。
『心の分析』の本には、
「無色界心は対象を取らないので、
その状態から変化生滅する無常を捉えるヴィパッサナー瞑想をして
出世間心を作ることはできません。
いったん色界五禅定のどれかに戻ってヴィパッサナー瞑想をじす。」
とある。
龍樹や世親が説いてるのは、
もしかしたら深すぎる禅定である無色界心のレベル(梵天のレベル)なのかも。
それはブッダが二人の仙人から習った禅定の最高レベルだが、
ブッダが発見した智慧の最高である出世間心ではない。
260名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 14:35:05 ID:MLU1FGIH
『心の分析』の本では、
欲界心・色界心・無色界心・出世間心の順番に解説しています。
色界の禅定は、経典では初禅から第四禅までの四つになっているけれど、
アビダンマではさらに細かく分析して五つの禅定になっているようです。
無色界の禅定は、空無遍処定・識無遍処定・無所有無遍処定・非想非非想処定の四つです。
これらの禅定は仏教以前からあったものだそうです。
禅定に関して仏教が付け加えたのは、
不還か阿羅漢の人でサマーディもある人が、心の波を切って止める、
滅尽定だけだそうです。
色界禅定にともなうヴィパッサナー瞑想によって悟る瞬間には、
心は一瞬だけ対象を取らないそうです。
「その対象を取らない心は一人の生命には四回しか生まれません。
阿羅漢になって、その上禅定の経験もある場合は、何回でも作れます。
滅尽定という「状態」です。」
とあります。
261名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 18:41:13 ID:xWmkxziS
こうして、何ものにもさ
またげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界
はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏の
さとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを
除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべての
もののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除か
せる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけ
を楽しむのである。
大教から引用。
262名無しさん@3周年:2007/01/08(月) 20:38:17 ID:Ema2SDWt
>>257
>仏菩薩は、 理解する人ではあっても、苦しみを共有する人ではないのではないだろうか?

相手の痛みや苦しみを、そのままわが事としてして受け止める仏道者を離れての、絶対他者
としての仏菩薩がいるのではないという意味では、理解と共有は相反しないでしょう。仏菩
薩の境地を体現するのは、仏道者自身なのですから。

>無縁の慈悲とは、対象を平等に見ている為に、慈悲の相手方を選ばない、という意味である
と思うが。

慈悲の相手方を選ばないということは、慈悲の(特定の)対象がないということです。つまり
無縁=対象がない、換言すれば、空性を体得した仏道者は、慈悲の対象を平等相において捉える。
空性に導くというのは、仏道者ではなくて、法の側からの表現です。仏道者の自帰依は、法帰依
によって導かれるのですから。
263名無しさん@3周年:2007/01/09(火) 17:47:59 ID:0URI4VFa
>>260
>無色界の禅定は、空無遍処定・識無遍処定・無所有無遍処定・非想非非想処定の四つです。
これらの禅定は仏教以前からあったものだそうです。

上の諸定はまさに縁起と空の理法から来るものと思うのですが、釈尊が縁起と空の理法を説く前から、
縁起と空の理法が誰かに拠って説かれていたと言うことになるが、それでは釈尊に由来する仏教の起源は
嘘だと言うことになるではないか?
 修行段階を説くことは、二の次で、縁起と空の真理真実を説くことの方が、大事であると思う。
釈尊は単なる修行完成者なのであろうか?
 六師外道の説の中に、縁起と空の理法に通じる説もあるとは思う。例えば、因果の理法は無い、と言う説があった。
これは空の真実を説くものであるなら、釈尊の説と同一ではないか。
264名無しさん@3周年:2007/01/09(火) 19:44:20 ID:cOKgQ8VS
坐禅と見性第50章 公案と見性B流れる水
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1167920142/
265名無しさん@3周年:2007/01/09(火) 22:31:40 ID:mv+xuzSw
>>263 禅定(瞑想による精神統一)の方法とレベルについての説明です。
そのような禅定の修行は仏教以前からあったらしいです。
その禅定の状態を体系的にリストにして名前をつけたのが、
「空無遍処定」などの禅定の呼び名です。
無色界の禅定は、仏教のめざす悟りではないそうです。
仏教がめざす悟りの心とは出世間心であり、
「四向四果」と言われる八段階の悟りのプロセス、智慧のレベルがあります。
266名無しさん@3周年:2007/01/09(火) 22:39:14 ID:mv+xuzSw
日本仏教は、三昧(禅定)と悟り(智慧)を混同したり、
三昧に偏りすぎていたのかもしれませんね。
それだと、不二や一即一切、梵我一如的な教えのみになってしまい、
煩悩即菩提や本覚思想になるのでしょう。
出世間心とは、苦である一切、この世間から、生命の世間から解脱し、
涅槃へ向かう心なのです。
煩悩即菩提や、輪廻の究極が涅槃の究極であるみたいな考えは、
ちょっとずれてるのでしょう。
267名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 21:30:39 ID:uuESN0e5
縁起する心を空諦で打ち殺す。宇宙の果てまでも追っかけて、打ち殺す。究極に至るまで打ち殺さないと救いは無い、空諦の恵みは無いと思う。
268名無しさん@3周年:2007/01/11(木) 06:16:27 ID:XUOw1fJc
問う者 としての投稿者
>>267
威勢がいいのも好いけれど、
269名無しさん@3周年:2007/01/11(木) 21:02:54 ID:Svxy1227
たまに、NASAとか日本の天文台とかが、宇宙の何億光年もの彼方に、
何とかを観つけたと発表する。これがうっかりしていると、空諦の恵みを破壊するのだと思う。
宇宙は宇宙としてあると思ってしまうのだ。このような発見も縁起物である。
そうであるから実体が無いのである。この事を「宇宙の果てまでも追っかけていって打ち殺す」というのである。
 
 進化論と神の創造論争も、空諦から説明するとわかりやすい。
進化論は縁起の理法であり、創造説は縁起の理法から空諦に至る説である。
 現代においても進化論と創造説が真剣に論じらるのは、空諦と言う仏の知恵を擁護する
心が働いているからであると思う。
 
270名無しさん@3周年:2007/01/11(木) 21:52:39 ID:Svxy1227
>>266
>梵我一如的な教

梵が空諦であり、我が空諦であるなら、これで良いのでは?

 非想非非想処とは、想と非想とが相対的存在であるから、両者を実体の無いものと
否定すべきであるから、非想及び非非想ということになる。これは縁起の法則と、
空の真実のことであり、仏教ではないか?これが釈尊以前にあったと言うのは、
ブッダと言う名称が釈尊以前にあったと同様のことなのか?
釈尊が滅尽定をいったとしても、これは修行の正しい段階を追加したもので、
真理真実を変えるものではないのではないのか?
 釈尊以前に六仏がいたといわれている。釈尊は第七番目の仏であると言うのだ。
真理は一つであるから、真理と真実であると言うなら、人が違っても、それは同じであるはずだ。


271名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 08:23:51 ID:zq6DkNH6
>>270 無色界心である非想非非想処などは、
観察対象がなくなるので無常を観察できないらしい。
深すぎる三昧は智慧がはたらかなくなるということでしょう。
無色界心の三昧を体得した人でも、
観察(ヴィパッサナー瞑想)するときは色界心の状態で行うらしい。
禅定よりも智慧、無色界心よりも出世間心を重視するようです。
無色界の禅定に入る修行は仏教以外でもあるけれど、
仏教はそれを体系的に説明したとのこと。
272名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 20:15:21 ID:bJYDwdeb
>>266
>出世間心とは、苦である一切、この世間から、生命の世間から解脱し、
涅槃へ向かう心なのです。

出家と言うことですか?
273名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 12:09:06 ID:tyWXrKR9
>>272 簡単にいうと、「さとり」の心です。
四向四果(四道四果)という段階的なさとりの心をまとめて「出世間心」と呼ぶようです。
参考までに
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html

第一段階のさとりである預流果までなら、
瞑想などの修行をしなくても教えを聞くだけで悟る人もいるようです。
274名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 15:21:33 ID:NWkT2nLh
般若経(中観)と唯識の思想は、すべての大乗仏教を貫く二大潮流だと思うのですが、無着は摂大乗論の中で、
「此の無分別智は即ち是れ般若波羅蜜と名は異なるも義(ものがら)は同じ」と述べています。その無分別智の五つの特質を
以下に記します。

無分別智の五相
@思惟に非ざるを離る」
 思惟を離れたものが無分別智だということになると、熟眠や狂酔は思惟を離れているから無分別智だということになる。
A「覚観地に非ざるを離る」
 若し覚観地を過ぎているからという理由で無分別智だと言うならば、第二禅より上は已に覚観地を過ぎているから、無分別智
 だということになる。「思惟に非ず」と「覚観地に非ず」という二義を具えたものを無分別智と言うならば、凡夫も無分別智を得る
 ことになる。
B「滅想受定の寂静を離る」
 無想定滅心定等においては、行者は心及び心法を離れているから、無分別智と名づくべきではないかと言うかも知れぬが、此
 れらの定は智と呼ぶことはできない。なぜなら、滅心定等においては心及び心法が無いからである。
C「色の自性を離る」
 若し無分別智は分別が無いのだから、色の自性の如くであると言うなら、そうではない。色は鈍であって、物を認識する働きが
 ないから、無分別智が色の自性の如くであると言えば、無分別智も知るという働きの無いものになる。
D「真実義において異分別を離る」
 若し真実の義(対象)すなわち真如等を分別することによって智として現れるならば、是の智は分別があっても、無分別智を成
 す。なぜかと言えば、此の分別は真実の義(真如の境)を分別するから、分別しても物を差別(相異)において捉えない。虚妄
 分別が物を区別し差別相において捉えるに対して、無分別智は平等相において捉える。真実の義を分別するのは、後得智の
 分別である。
275名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 15:22:50 ID:NWkT2nLh
上記の特質に照らし合わせてみれば、日本の仏教?すなわち大乗が、三昧(禅定)と悟り(智慧)を混同しているという指摘は、 少
し違うのではないかと考えたりもします。煩悩即菩提も生死即涅槃も、もちろん原始仏教にはないでしょうが、それは、大乗の特
質が、出家(菩提・涅槃)と在家(煩悩・生死)の厳格な二元化を取っ払ったことに起因しているとも言えましょう。そして、大乗の
要となる中心思想が、無住処涅槃にあるなら、当然にその実践道は、「惑を滅すと雖も涅槃に住せず、分別を起こすと雖も生死に
住せず」ということになります。涅槃にも生死(煩悩)にも執著しないで、真実の自己を生きる、その無上の智慧は、何に由るかと言
えば、無分別智(般若波羅蜜)と、それを得てからの後得智にあります。原始仏教にしろ、大乗仏教にしろ、智慧を蔑ろにしたら、も
はや仏教とは言えないでしょう。八正道の第八番目は、正定となってますが、これは正しく内省する禅定とすれば、無分別智(般若-
波羅蜜)と少しも変わらないと思います。
276名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 17:01:53 ID:sO4YUJ48
素朴に考えると、バラモン教が支配的だった当時、
釈迦が長い試行錯誤の末に何か新しいことを決意したとすれば、
それはバラモン教の否定くらいしかないんじゃない?
具体的にはバラモン教の3点セットである、
カースト制度・修行・輪廻転生の否定ということではないですか?
もしバラモン教を否定ではなく肯定したのなら、
彼はバラモン教の一宗派の開祖に過ぎないでしょ。
実際に彼の死後、
バカな弟子達が信者欲しさにバラモン教の3点セットをコッソリ密輸入したお陰で、
バラモン教の聖人の一人として列せられるハメになった訳でしょ(笑、でも可哀相)。
勿論、輪廻自体を否定してるのだから、それからの解脱も必要なくなる訳です。
そういう意味では、仏教はインドで生まれインドで死んだ宗教なのかな。
玄奘もご苦労様でした、なんて言うとバチが当たるのかな。
ま、暇潰しの妄想です。
277名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 17:29:09 ID:sO4YUJ48
誤解を招くかも知れないので、追記します。
ここで議論されていることが詰まらないと言っている訳ではありません。
各思想に固有な論理構造には常日頃から興味を持っていますし、
部分的にでも定式化出来たらと思っています。
仏典には疎い数学者ですが、他人の論文の証明展開を愚直に追うよりも、
その人の思想的背景を先に掴んだ方が、余程理解が早い、
ということを日常的に経験しています。
中村元さんの論理学における研究も、とても良い刺激になっています。

278名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 18:38:24 ID:tyWXrKR9
>274 なるほど、無着さんは、三昧と智慧を混同していないようです。

>275 智慧(般若)は、八正道の中では正見にあたるのではないでしょうか。
279名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 20:25:57 ID:NWkT2nLh
>>275 智慧(般若)は、八正道の中では正見にあたるのではないでしょうか。

八正道の正見だけをぶつ切りにして捉えるよりは、私は八正道の全体が智慧
だと考えます。
280名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 21:08:43 ID:tyWXrKR9
>>279 なるぼど
281名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 07:18:41 ID:+K7JZ4bg
>>280
>なるぼど

なるBODOか?w
282名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 09:22:16 ID:+K7JZ4bg
>>281
下らぬことを言って済まんです。
283名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 15:21:46 ID:+K7JZ4bg
>>273
 適宜なサイトを紹介してくださいました。受容できる説明です。
284名無しさん@3周年:2007/01/15(月) 21:09:58 ID:vpRGfLkl
2チャンネルが差し押さえだって。
285名無しさん@3周年:2007/01/15(月) 22:33:36 ID:5jOOi62x
来週からは、3ちゃんねるで
286名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 00:12:11 ID:dJMM5z5p
ttp://jbbs.livedoor.jp/study/6782/

LDの板を利用しよう。
287名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 18:14:17 ID:dJMM5z5p
著作権はヒロユキ氏に有るのだから、名誉毀損の問題は、ヒロユキ氏一人に有るというわけか?
それでは何故、書いた本人の情報開示を求める事ができるのだらう?
  <2ちゃんねる>書き込み者を名誉棄損で告訴 神奈川の学校
1月16日3時2分配信 毎日新聞



288名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 18:37:42 ID:C13ecEBx
>>287
著作権は書いた人でしょう。
2ちゃんにある情報は名もないユーザーの発言を寄せ集めてできているのだから
ひろゆき被告に断らずに引用するのも自由。
289名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 19:00:26 ID:PSQxaA1z
>>288 
カキコするときに表示される長ったらしい文章(投稿確認)読んでないだろ?
290名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 22:07:35 ID:k/FJuQwZ
ここにいる人たちは、創価学会や顕正会や日蓮正宗をどう思ってるニダ?
カルトと自分たちはどう違うニダ?
291名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 23:05:06 ID:dJMM5z5p
 >>273http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html

>このように仏法を知識として学ぶこと自体が、悟りへの第一歩・法随行の一部だと自分に言い聞かせて、分を弁えず、まだ手にしてもいないことを、偉そうに文章にしました。

>>290
日蓮は空諦を言わないから仏教者ではない。
292名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 23:07:49 ID:dJMM5z5p
仏教を知識として学びましょう。
293名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 13:26:41 ID:OaSLiPWC
>>292,291
冷静にお答えて頂き、感謝致しております。
無知を承知で、更に初等的な疑問。
釈尊が(最初に)悟りを開いたとして、まだ悟りを開いたことのない人たちは、
そのことをどうやって確かめることが出来るですか?
それに対して、「それは悟りを開けばわかる。」と言う人もまた、
悟りを開いたことのある人なのでしょうか。
しかしそのことを確かめるには・・・。
結局相手の言いなりにならないと先へ進めないのでしょうか?
これでは、カルト教団の典型的な手口と混同されても、仕方ないのでは。
そんなことに悩んでいるうちは悟りは開けないよ、
なんて言われるかも知れませんが・・・。
如何に。
294名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 17:42:40 ID:mgpJhMvB
うーむ。いい質問だ。正直困った・・・お手上げ。
295名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 18:00:40 ID:OaSLiPWC
>>294
悪意のある質問ではないので、その点は安心して頂ければ幸いです。
このような問題について真摯にお考えになっておられる方々と、
救済を謳いながら自分たちの救済しか考えてないようなカルト教団の連中とは、
峻別した上での質問ですから。
ただ、それらを悪用するカルト教団にウンザリしてるんです。
そしてウンザリしてるだけでは、結局被害者を見過ごすだけなので、
少しでも有効な方法を模索しているのです。
296名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 18:02:18 ID:jyuJ4+j1
おっしゃるとおり、降参しました。
297名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 18:27:30 ID:OaSLiPWC
>>296
とんでもない。私は自分の無力さを曝け出しただけです。
因みに日付けが違うのでIDが異なっていますが、レスの276,277,290も私です。
特に290の聞き方はふざけ過ぎてました。

298名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 19:07:53 ID:HzxozCR4
>297さんの話は、みんなの盲点を指摘していると思う。
釈迦が悟りを開いたブッダガヤーから、ガンダーラ、中国、韓国、日本へと
仏教が伝来する中で、仏教が大きく変質していると考えるのが自然。
伝聞ゲームは話がさかさまになる可能性を教えている。
伝統仏教は正しいというのは、単なる思い込みかもしれない。


299名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 20:04:03 ID:dmjf0sq0
問う者 としての投稿者

「伝統仏教」 って何?
300名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:06:19 ID:eQ99xufV
仏教自体が、草創期はバラモン教の異端としての位置づけだたっと思う。
今風な言い方をすれば、それは「カルト教団」。
カルトという言葉を、じっくりと吟味してみるのも良いと思う。

>「伝統仏教」 って何?

私の場合、第一印象としては、「形骸化」です。



301名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:15:09 ID:ixuAW2Iu
>>293 仏教も宗教ですからね。
しかし、ブッダの教えが正しいかどうかは、
誰でも検証することができるのでは?

日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老によると、
普通の人が教祖様になって悟ったふりして色々語ったとしても、
それは欲界心のレベル、
つまり眼耳鼻舌身で知り得る知識を
組み合わせて想像されたにすぎないレベルの話になるから、
色界心・無色界心という三昧の世界を体験した人からみたら
バレバレなのだそうです。

302名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:24:26 ID:ixuAW2Iu
色界心と無色界心は禅定(三昧)の世界ですが、仏教の悟りはそれとは違うそうです。

仏教の悟りの心とは、四向四果と呼ばれる四段階の出世間心だそうです。
ただし、四向四果に至る人は、必ず色界心の禅定を伴っているそうです。
無色界心は三昧が深すぎるので、
たとえ無色界心の禅定をマスターしている人でも、
出世間心に入るときには色界心までもどすそうです。
そういえば、大パリニッバーナ経(ブッダ最後の旅)でブッダが入滅するときも、
いったん無色界禅定まで入ってから、また色界禅定までもどり、
そこからただちに涅槃に入ったように記憶してます。
303名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:33:09 ID:fvFwbRjd
>>293
スッタニパータ
509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

 このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、
ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。
だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」

304名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:37:33 ID:fvFwbRjd
釈尊が真理を明らかにして下さるからでしょう。
305名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 21:55:48 ID:C5QhlnuQ
問う者 としての投稿者
>>293
確かめるなんて出来ませんよ。
>>303
カルト教団へ、直行(まっしぐら)ですね。
306名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 22:13:52 ID:Tbzw24v3
伝統宗教は江戸時代までの八宗派、天台宗、真言宗、浄土宗、
浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗ではどうでしょうか。
307名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:05:42 ID:zQ/O/R5u
298の伝聞ゲームは伝言ゲームの誤記。
306の伝統宗教は伝統仏教の誤記。
 
各宗派は自分たちの教義や組織を正しいと思っている。
しかしたとえば、本山の住職はほんとうに悟っているのかどうか。
悟っているという証拠はどこにあるのか。どこにもない。
308名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:21:24 ID:fvFwbRjd
>>305
スッタニパータの509の教説ではなく、それ以下の感想が、こちらの紹介したいところですが。
309名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:38:46 ID:ixuAW2Iu
>>307 四段階の悟りのうちの第一段階である預流果までなら、
知識を学ぶだけで悟る人もいるそうです。
預流果になると、
無常を実感して欲界への執着から離れようとする気持ちになり、
教えへの疑いや迷いがなくなり、
既成宗教の儀式・苦行などへの執着がなくなるそうです。
しかし預流果ではまだ、
貪りや怒りや無明などの煩悩が消えたわけではないそうです。
日本の僧侶でも、預流果くらいになら達してる人がけっこういるのでは?
310名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:47:29 ID:OaSLiPWC
「仏典に遡って都合の良い文言を引用したつもりでも、
すぐにそれを覆す資料が見付かってしまう」、という歴史を、
これかも繰り返すおつもりですか?
311名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:51:01 ID:HuRrkU3X
>>297 さんの言ってることは前提を吟味することでしょう?
釈迦が悟っていなかった可能性もあるわけで、
そうだとすれば仏教は消え去るべき宗教になるわけです。
 
悟ったといっても証拠がないからだれも信じない。
それなのになぜ仏教として成立したのか。
支配者が仏教に利用価値を見出した? 


312名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 23:55:51 ID:eQ99xufV
このスレを見ている人はこんなスレも見ています、というから、

『雅子様いじめ、やめれ! [既婚女性]』というのを覗いてみたけど、

ずいぶんと異質なものを感じただけでした。どういう関連性があるのだろうか。
313名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:03:36 ID:EQKZ7pWh
310の追伸。
済みません。後半部、「ら」が抜けてました。
「仏典に遡って都合の良い文言を引用したつもりでも、
すぐにそれを覆す資料が見付かってしまう」、という歴史を、
これからも繰り返すおつもりですか?
314名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:11:33 ID:GlGdGT3I
>>311 少なくとも、当時のバラモン達は簡単に釈尊に論破され、
しかもすぐに弟子入りしてしまった。
だから、ゴータマは何か魔術を使うのではないかと噂されたらしい。
諸行無常ひとつとっても、誰も否定できないし、言われてみれば誰もが納得する。
しかし、無常を教えの前面に出そうというのは、普通なかなか思いつかないのでは?
無常は誰でも知ってることなのに、
それこそが究極の真理だったとは誰も気付かなかった。
315名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:19:33 ID:B87vQ0mb
スッタニパータに「サーりぷったが無上の法輪をまわす」って
ありますがどういう意味でしょう?次の仏陀は弥勒なんでしょ?
316名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:26:24 ID:EQKZ7pWh
更に313の追伸。
そろそろ一休み致します。
色々ご教示頂き、有り難う御座居ました。
またお相手して下されば、幸いですm(__)m
317名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:29:22 ID:m/sMWEtv
>>313
具体的な例を挙げてもらいたいですね。
318名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:35:51 ID:m/sMWEtv
>>312
関連無くとも変じゃないだろう。その人は、そのスレにも関心があるというでけじゃない?
319名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 00:46:48 ID:m/sMWEtv
>>315
弥勒が次ぎの仏と言うんは、大乗仏教の言うことだ。
弥勒と単に言うのではなく、弥勒菩薩といわなければならない。
原始仏教においては、菩薩と言う概念はない。単に修行者といってるようだ。
それを大乗では、菩薩とはっきりと言うようになったようだ。
菩薩こそ仏になる修行者であると言う見解のもとに。
 大乗は原始経典にある修行者の意味内容の説明に満足しなかったものだと思う。
満足できない点が高じて、菩薩と言う修行者を登場させたのだと思う。
 ここに色々と難しい問題があるのだよ。大乗と小乗の違いとして。
320名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 01:00:13 ID:NwfykUqG
>>314
釈迦がいた当時、バラモンとクシャトリアとが争い、
クシャトリア出身の釈迦を支持した勢力があったようです。
アショカ王の時代に、仏教は国策としてインド全体に普及します。
日本でも聖徳太子の時代に仏教が国策になりました。
 
これらが意味するのは、支配者にとって仏教の教え(経典)は、
国家支配に都合のよい側面があったということではないでしょうか。
あるいは当初から、釈迦本来の教えが歪められてスタートした
可能性があるということではないでしょうか。
 
悟りには証拠がなく、悟ってない人はその人を簡単には信じない、
という現実から推理してみました。
321名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 02:16:54 ID:bJKv8d1A
現代のように外国へもジェット機でひとっとびというような時代でない頃に、
命懸けでタクラマカン砂漠を越え、あるいは暴風の荒れ狂う海上を越えて、
途中で命を落とす者も続出したであろう、日本に着いた鑑真和上は、苦労の
あまり失明さえしながら、それでも日本に伝えたかった仏教の真実。やはり人間
の探究心に適う、確かなる手ごたえを感じさせる、そういうものがあるのだろう。


322名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 14:07:53 ID:vPH/LF/e
      □  +   +    *          /\  
      □   ∧渡∧ +          /  . .\   
      ‖  (0゚・∀・) ワクワク     /      \  
   __‖  (0゚∪ ∪+ テカテカ   @    .  .  . \ 
   \三三三三三三三三三三三三三三|   . .   .  \ 
~~~~~〜~~~〜~~~〜〜~~~~〜~~~~〜〜~~〜~〜~〜~~~~〜〜~\~~~〜~~~〜゚マグロ~~~〜~~~〜〜~~~~〜~~~~〜〜~~~
                                   .  \   ∠@》))))))\/| ≡ 
                                      [ガッ] < 》凵j)))〆ソ ≡ 

花薬欄(碧巌録) かやくらん

 『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案があります。


挙(こ)す。僧、雲門に問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ清浄法身(しょうじょうほっしん)」。

門曰(いわ)く、「花薬欄」。


 雲門文偃(ぶんえん)禅師(八六四〜九四九)に一人の僧が問います。

「煩悩妄想(ぼんのうもうぞう)がすっかりなくなった美しい清浄な悟りの本体とはどんなものでしょうか」。
雲門、答えて曰く、「花薬欄」(花畑)。
323名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 21:13:44 ID:fb1HSQXt
>>321
鑑真などの伝道は確かな手ごたえを感じたからでしょうね。
 
支配者が仏教を歓迎した理由がある
神という絶対者を置かないから、仏教が支配者の上に立つことはない。
この世は空だから、支配者の悪事が責められることはない。
四諦八正道で庶民を教化し、社会の治安を確かなものにする。
 
日本仏教も、国家鎮護であり、民衆統治の手段であった。
こういった側面を割り引いて評価すべきだろう。
支配者の保護がなければ滅びていた可能性が大きい。
324名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 21:40:59 ID:m/sMWEtv
>>323
>仏教が支配者の上に立つことはない。

庶民の上に立つ支配者もいないのだ。
325名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 22:14:47 ID:m/sMWEtv
>>320 
悟りには証拠がなく、悟ってない人はその人を簡単には信じない、
という現実から推理してみました。

覚った人は覚ってない人の疑問を明快に解決すると言う事実がある、この事実に基づいて、
覚ってない人は、覚っている人を有りがたく尊敬し師事する様になるようです。
 経典にある、釈尊に師事するに至るケースは、釈尊の回答が他の人から聞くようなものではなく、
確かに満足することが出来たことを伝えています。
326名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 22:24:41 ID:RwDxfALi
>>276
これも明察である。経典の理解に背景や歴史なども参考になる。
 
>324
仏教は支配者の上に立たない → 支配者は仏教を支持し、利用する。
国家は支配者と庶民の上下関係で成立している。
327名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 22:43:49 ID:/qSvNMCi
釈迦はバラモン教を否定しただけかもしれない。
釈迦が何を悟ったか、あまりはっきりしない。
支配者によって仏教が利用され、保護されてきた。
 
仏教は過大評価されていたのかもしれない。
釈迦の悟りは具体的に何だったのか。
328名無しさん@3周年:2007/01/18(木) 23:14:15 ID:m/sMWEtv
>釈迦の悟りは具体的に何だったのか。

執着すべき対象は何も無く、一切は空一相無相であると言うことでしょう。
329名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 00:05:44 ID:GbxRWYI6
釈迦は存在するもの全ては無いことと同じという最高の真理を悟ったんだよ
330名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 01:35:24 ID:f7XwqCs3
>>327 四諦を悟ったんじゃないでしょうか。
苦しみと、苦しみの原因と、苦しみの消滅と、苦しみを消滅させる方法について、
悟ったんでしょう。
331名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 05:38:06 ID:CnjxisvM
問う者 としての投稿者

「覚った人は覚ってない人の疑問を明快に解決すると言う事実がある、」って、そんな事実なんてありませんよ。
 こんな考え方を持つから、イカサマ・カルト教団の被害に遭うのですよ。

332名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 08:27:59 ID:f7XwqCs3
>>331 疑問を解決できない悟った人はいないが、
疑問を解決してくれる人が悟っているとはかぎらない。
333名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 20:18:48 ID:7UKEwkLc
>>331-スッタニパータ
-------------------------------------------------------------------------------
◆<14、ダンミカ>◆
--------------------------------------------------------------------------------
 わたくしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのときダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに近づいた。
そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。
376 「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、
また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

377 実にあなたは神々とこの世の人々の帰趣と究極の目的とを知っておられます。
奥深いことがらを見る方で、あなたに比ぶ人はいません。世人はあなたを、優れた目ざめた人(ブッダ) だと呼んでいます。

378 あなたはすっかり証りおわって、生けるものどもをあわれんで、智識と理法を説かれます。
あまねく見る人よ。あなたは世の覆いを開き、汚れなくして、ひろく全世界に輝きたもう。

379 エーラーヴァナと名づける象王は、あなたが勝利者(ブッダ)であると聞いたので、
あなたのもとに来ましたるかれもまたあなたと相談して、(あなたの話を)聞いて、
『いいなあ』といって、喜んで去りました。

380毘沙門天王であるクヴェーラも、また教えを請おうとして、
あなたに近づいてきました。賢者よ。かれに尋ねられたときにも、
あなたは話をなさいました。かれもまた(あなたの話を)聞いて、喜んだ姿を示しました。


334名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 20:20:30 ID:7UKEwkLc
381 アージーヴィカ教徒であろうとも、ジャイナ教徒であろうとも、論争を習いとするこれらのいかなる異説の徒でも、すべて、智慧であなたを超えることはできません。立ったままでいる人が急いで走ってゆく人を追い越すことができないよえなものです。

382 論争を習いとするいかなるバラモンでも、老年であろうとも、あるいは(中年、あるしは青年の)バラモンであろうとも、またそのほか『われこそは論客である』と自負している人々でも、すべてあなたから<ためになることがら>を得ようと望んでいるのです。

383 先生! あなたがみごとに説きたもうたこの教えは幽微であり、また楽しいものです。あなたにお尋ねしますが、どうぞわれらにお説きください。最高の<目ざめた方>(ブッダ)よ。

384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。──神々がインドラ神のことばを聞くように。」

385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。
335名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 20:28:16 ID:7UKEwkLc
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta-0t.htm
 残りは上のサイトを参照。
我々でも釈尊に対面していたなら、同じように感嘆していただろうと思う。
336名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:34:49 ID:QLrAK1DE
>>309 預流果・・・悟りの実体が見えてこない。
>>314 最高の境地は無常・・・世の中が常ならぬことを知るには
          それほどの努力を必要としないと思う。
>>325 悟った人は何でも知ってる・・・それはない。悟りと知識は別。
>>322 花薬摘(花畑)・・・あの世の風景ですね。これは考えられる。
>>328 空一地相無相・・・実体が見えてこない。経典はこれかも。
>>330 四諦・・・実体ではなく、ものごとの因果関係ですよね。
>>333>>335 何を悟ったのかが不明です。
 
遅くなりましたが、えらそうに感想を述べてみました。謝謝。




337名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:53:55 ID:XY9fhLoL
>何を悟ったのかが不明です

「苦の原因を見つけたよ」ってことでしょう。
338名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:54:44 ID:igD9UEHh
釈迦の悟りが何だったのか、膨大な経典があるのにはっきりしない。
話は逆で、はっきりしないから膨大な経典があるのでしょう。
 
釈迦の悟りより、バラモン教やヒンズー教のほうがわかりやすい。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)という二語で片付いてしまう。
バラモン教から釈迦を理解したほうがよさそうな気がする。
  
仏教は無神論だから梵(ブラフマン)を否定する。
無常や無我、空を説くから我(アートマン)を否定する。
そうすると釈迦が説いたのはバラモン教を否定するだけの哲学になる。
仏教は宗教的な悟りではない。仏教は単なる哲学であり思想?
339名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 01:03:56 ID:eMDd51qH
>>338 四諦を悟ったんでしょう。
苦悩の原因を消して苦悩を消す方法をみつけ、
実際に苦悩を消すことに成功したということ。
具体的に書かれてあるのになぁ…。
仏教はすべて四諦説の延長だといえるでしょう。
340名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 01:14:34 ID:eMDd51qH
>>336
初めて無常を体感し一瞬だけ滅尽定を経験して
悟りの第一段階である預流果になると、
三つの煩悩が消えるそうです。
それは、有身見と疑と戒禁取だそうです。
有身見とは、わが身を無常だと知らずに執着すること。
疑とは、教えを吟味したり試したりもせずに始めから信じない、いわば保守的な心。
戒禁取とは、儀式・慣習や苦行への執着やあこがれ等。
預流果では、まだ欲望や怒りなどの煩悩はなくならないけれど、
仏教の正しさを実感して修行に意欲が出るので、
最高の悟り阿羅漢果へ向かう流れに乗ったことになる。
341名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 01:51:50 ID:zl5E1mVJ
諸行無常・・・人生はほどほどの見通しがたてば間に合う。
 
諸法無我・・・自分がじつは幻だなんてだれも思ってはいない。
 
一切皆苦・・・全部が苦なら死んだほうがまし。楽もあるって。
 
涅槃寂静・・・煩悩がない→苦もない。そんなの当たり前。
342名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 02:16:29 ID:N8wBYQmt
苦諦・・・世の中は苦ばっかりじゃない!!!
集諦・・・しかし苦があるとすれば苦の原因がある。
滅諦・・・その原因が除去できれば苦は滅する。
道諦・・・その方法が八正道。
 
ところがこの八正道は、悟った人には用がなく、
悟ってない人は実践できないという、無意味な教えではないのか?
343名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 08:59:49 ID:eMDd51qH
>>342 実践すれば、悟った人に少しくらいは近づけるのでは?
心の成長は少しずつ段階的に悟りに近付くものであり、
だから実践すればするほど成長できるすばらしさがある。
そして、成長すればするほど人生の苦悩が少しずつ減っていく。
筋肉だって思考回路だって、使えば使うほどその部分が強くなる。
嘘をつけばつくほど嘘をつく癖がつくが、
逆に正しく話すように気をつければつけるほど、正しく話す癖がつく。
やったらやっただけ結果が出るから、
修行は辛いどころかおもしろいのでは?
344名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 10:23:35 ID:01J/G/iR
仏教では「多聞」が推奨される。これは突っ込みが前提であろう。
突っ込みとは、疑問の提示である。論理的におかしいところ、矛盾しているところ、
こう言う各自の疑問を提示し、それに対して、勉強の成果として答えられねばならないだろう。
人を騙す言葉は知識ではないだろう。自分がよく理解し説明できる知識である必要があろう。
345名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 10:33:01 ID:01J/G/iR
執着と言うことがたびたび言われる。執着とは、何か?苦の原因と言われるが。
何故人は執着するのか?
346名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:18:30 ID:CiTjGT+D
>>336 訂正
花薬摘 → 花薬欄   空一地相無相 → 空一相無相
 
>>343 おっしゃるとおりだと思います。 
悟っていなくても正しい道を歩もうとする気持ちが必要でしょう。
342は話を単純化するために対照的な表現になりました。
 
>>345 執着がなければ苦も生じない、こういうこともあるでしょう。
しかし執着することで喜びが生じるのです。はまってこそゲームです。
たとえば仏典が好きな人は、仏典に執着していると言えませんか?
生きていて執着から卒業できるかどうか・・・淡白にはなれるでしょうが。
 
我(アートマン)を体験したら、その我(アートマン)を作ったのはだれか
と疑問がわく。それゆえ、我(アートマン)を体験をしたら、
梵(ブラフマン)の体験まで進もうとするはずである。
 
そう考えれば、釈迦が梵(ブラフマン)を否定するなら、
我(アートマン)も体験していないことになる。釈迦には体験がない?
347名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 13:57:22 ID:01J/G/iR
>>346
八正道を突き詰めてなんであるか知るべきであると思います。

>たとえば仏典が好きな人は、仏典に執着していると言えませんか?

仏典は、人を執着から離れさせてくれる教えなので座右の書にするのです。

◆<4、田を耕すバーラドブァージャ>◆
--------------------------------------------------------------------------------
 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。
 そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。
 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、
「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と
> (師は答えた)、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。
 (バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。
76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」
348名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 13:59:18 ID:01J/G/iR
77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。

78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。

79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですかから。」

349名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 14:02:06 ID:01J/G/iR
81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。
バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。
詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。
バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。

82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。
「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」
「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、
神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、
この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、
或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。

350名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 14:06:17 ID:01J/G/iR
>>346
>それゆえ、我(アートマン)を体験をしたら、
梵(ブラフマン)の体験まで進もうとするはずである。
 
あなたのアートマンの体験とは、五蘊のことでしょう?五蘊の中に梵もあるわけでしょう?
五蘊の中でも、色、つまり身体のことではないですか?身体と、その身体を包む宇宙との関係のことではないですか?
 身体と宇宙とは独立して存在しているものではないと言うのが縁起説なんです。身体が無ければ宇宙が無いと言う判断が、空思想なんです。思想といいますが、これは真理であると思います。
 身体と宇宙とは独立に存在していると言えますか?
 独立に存在していないので、身体を体験したら、次ぎは、宇宙を体験すると言う順序には進まないと思いますが。

351名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 14:09:27 ID:01J/G/iR
>そう考えれば、釈迦が梵(ブラフマン)を否定するなら、
我(アートマン)も体験していないことになる。釈迦には体験がない?

 梵(ブラフマン)といっても、この意味は、宇宙の真理という意味でしょう?
何を宇宙の真理であるといってるかが重要です。ブラフマンが宇宙の真理であると言う訳ではないのです。
さも無いと、宇宙の真理が宇宙の真理であると言うことになり、何の説明も為されないことになります。
 釈迦は、宇宙の真理真実を、空一相無相であると言われました。
身体とその余の宇宙とは相対的存在である、故に、身体にも宇宙にも実体は無く、
そう言う真実を表現するなら、空相無相一相である、と言うのです。

352名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 15:46:34 ID:I6fZnrws
>>347 〜 >>349
耕作の例えには心と現実の混同がありませんか。
心の世界を耕しているのなら、心の世界に育った果実を食すべきでしょう。
それをもって現実の食料を得る権利は生じないはず。
 
心を養うために仏典を読む、ということはあるでしょう。
しかし仏典にこだわりはじめたら執着でしょう。
読むのに人生の大半を費やすような、ぼう大な経典はウソでしょう?
執着を否定する教えが、じつは執着そのものであったというユーモア?
353名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 16:13:38 ID:I6fZnrws
>>350 〜 >>351
身体にも宇宙にも実体がなく空相無相である、かどうかは疑問。
電車も自動車も空相無相であり、実体がないなどと普通思わない。
そう思ってる人は、電車にひかれ、自動車にひかれる。
 
真理を空相無相にすると、釈迦は何も体験していないことになる。
空相や無相を体験することは決してないからだ。
どうやら釈迦の悟りは、体験としての悟りではなさそうである。
仏教の悟りは経典の中にある? 経典を読めばすむ?
354名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:26:16 ID:01J/G/iR
>>353 
>真理を空相無相にすると、釈迦は何も体験していないことになる。
空相や無相を体験することは決してないからだ。

これ故に、無生法忍、不生不滅と言われるのである。菩薩が高貴で、恩着せがましいところが無いのは、
この理由によるものであり、何か特殊な根性によるものではないのである。
又、太陽が善人にも悪人にも平等に、慈光を注ぐ様に、慈悲をたれると言われる理由も、ここにあるのである。
無分別智と言われる知恵もここに発するのである。
 無相の真実から離れた心を汚れた心という。嘘偽りの心であるから。この嘘偽りの心から
離れることを解脱といい、このような解脱は体験である。
355名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 19:55:52 ID:X+1Piec6
悟りは無相空相と言われても何のありがたさも感じない。
 
なぜ仏教がインドで滅びたかわかるような気がする。
 
庶民にとっては梵(ブラフマン)と我(アートマン)で十分だからだ。
 
シンプル・イズ・ベスト・・・真実なものは単純である。
356名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 20:14:40 ID:X+1Piec6
無相空相はどうやって知るのですか。
 
体験できないのだから、経典で学習することになりますよね。
 
これって仏教の教えが哲学だからではないですか。
 
残念だけど仏教は哲学であり、宗教ではないらしい。
357名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 20:15:47 ID:01J/G/iR
>>352
>耕作の例えには心と現実の混同がありませんか。
心の世界を耕しているのなら、心の世界に育った果実を食すべきでしょう。
それをもって現実の食料を得る権利は生じないはず。

三輪清浄に反する行為は受け入れられないのである。この農夫の果実は、この農夫の正しい心の中に生じた食物ではなく、
しかし、悔い改めた農夫の心は、受け入れられたのである。毒の食物は消滅した。
358名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 20:32:34 ID:X+1Piec6
>>357
「自分で働いて食べなさい」と言った農夫はまちがってる?
「心を耕してる」と言うなら、そこで取れたものを食べたらいい。
 
それに食物を恵んでもらう立場の人が、自分が食物を受け入れて
やったのだとい態度を取るのはよくない。話が転倒している。
359名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 20:43:54 ID:01J/G/iR
>>356
>無相空相はどうやって知るのですか。

縁起しているものには実体が無い、という判断は、理解できないですか?
又、唯一なるものは、無相であり、空相であると言う判断も、理解できませんか?
理解できるものは、体験できる、つまり、理解した通りに行為できるのではないでしょうか?

>残念だけど仏教は哲学であり、宗教ではないらしい。

キリスト教でも、真理と強調します。真理を欠いた宗教は偽者です。哲学は、真理を求め愛するものであり、
真理を獲得したものではないのでは?エピクロスは哲学者といわれていますが、教祖というべきではなかったでしょうか?
パルメニデス、ピタゴラス等も、哲学者と言われていますが、宗教教団だと思います。
360名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 20:53:58 ID:cxQE8/+6
問う者 としての投稿者

無相空想を体験するは可能。
受売りですが次の言葉を、科学哲学者のウィトゲンシュタインが鋭い言葉を残している
「我々は、言葉にて語り得るものを語り尽くしたとき、言葉にて語り得ぬものを、知ることがあるだろう」
読み替えると、「論理にて考え得るものを考え尽くしたとき、論理にて考え得ぬものを理解する」

361名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 21:05:21 ID:01J/G/iR
>>358
「82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。 」
 
 上の意味はどう言う意味であると思いますか?
362名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 21:50:55 ID:FLa4x3xL
>>360
常識的には100パーセント無理です。
無相は<何もない>のだから体験しようがないのです。
空相も<実体がない>のだから体験しようがないのです。
 
>>361
悟った人が他人の福田になる理由・・・わかりません。教えてください。
この社会は逆であり、部下が上司に贈り物をします。
社会的な地位が上がれば、さらなる名誉や金銭がついてくる。
363名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 22:22:33 ID:Ou1/yKYV
>>359
仏教の誤りは言葉を過信しているところにある。
言葉で真理を語りつくせると思いこんでいる。
  
体験を理解するために言葉がある。
言葉で理解できれば体験できる、という考えは転倒です。
言葉以前に、神がいて世界があり体験がある。
神を信じるのは体験からでしょう。
364名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 22:50:04 ID:01J/G/iR
>>362
>無相は<何もない>のだから体験しようがないのです。
空相も<実体がない>のだから体験しようがないのです。

「体験」と言われるが、この「体験」なるものが、望んではなら無いものです。
体験を求めるのは、空相に反するのです。空相とは、体験というような物事が起きること、即ち
縁起することの無いようになることです。心において、縁起するものが消滅し、再び生じないようになる事が空相なのです。
縁起するものは実体が無いと言う判断を尊重し、それを真実と認め、それに従うことに拠って、
空相に至ることが出来ると思うのです。これは体験ではないでしょうか?これは縁起しているもんには実体が無いと言う判断
に基づいて行為することにより達成できる体験ではないでしょうか?
365名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 23:11:58 ID:01J/G/iR
>>362
>悟った人が他人の福田になる理由・・・わかりません。教えてください。
この社会は逆であり、部下が上司に贈り物をします

部下が上司に贈り物をするのと同様にブッダに贈り物をするのですよ。
ただし、仏陀はよい贈り物だけを喜ばれるのです。良い贈り物とは、あなたがブッダに近づく人間になることだと
思います。仏陀はあなたを必要としていません。自存者ですから。あなたが自存者になる為にブッダを必要としているのです。
食物なり他に何かを贈呈する時には、三輪清浄に反し無いように贈り物を出来るようになることを望んでおられる
ものと解すべきではないでしょうか。
366名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 23:36:23 ID:01J/G/iR
>>363  
>体験を理解するために言葉がある。
言葉で理解できれば体験できる、という考えは転倒です。
言葉以前に、神がいて世界があり体験がある。
神を信じるのは体験からでしょう。

色心は縁起である。縁起は妄想である。妄想には実体が無い。真実は無実体である。
真実が神であると呼ばれるべきである。
367名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 00:01:26 ID:1n/ovU1c
>>365
悟った人と会社の上司を同じ? 悟った人が俗っぽくなりませんか。
それに自存してるなら物乞いしなくても・・・
 
>>364 >>366
だいたいの日本人が無相空相を理解できないと思います。
なぜなら話が転倒していて不自然だからです。
368名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 00:04:37 ID:V2LTum/P
ここは原始仏教スレだぜw

いいかげん、無相とか空とかから離れろよwww
369名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 00:08:08 ID:01J/G/iR
>>367
>なぜなら話が転倒していて不自然だからです。

詳しく。
370名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 00:55:54 ID:/ldisBWN
>>368
すまんね。でも「釈迦の悟りは何か」という問題意識は同じだと思う。
371名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 09:48:21 ID:BKIw/zRw
>>368
原始仏教も空を基本にしている。ところが、四諦の法門の前提に、「これあれば彼あり、これ無ければ彼なし」の
文が無いのだ。これは不備である。縁起と空の説明がなくては、四諦の法門も成り立たないのである。
この不備が大乗小乗の問題を引き起こしているのではないだろうか?八正道の説明が空諦に基づかないでは
出来ないのである。
 大乗仏教が興隆したのは必然であったと言うべきではないかな。
372名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 12:23:52 ID:YvRCtNKP
>>365
話の内容は、布施のこと、僧侶という職業の是非、出家の是非などに
関係しています。どれも重要なテーマで簡単には結論が出ないでしょう。
個人的には、心の畑を耕していることと、現実の畑を耕していることは
別の話であると理解しています。
 
>>369
言葉は現実を知るための道具です。しかし言葉には限界があります。
言葉は、ある事物を指示するか、事物同士の<関係>を表すだけです。
現実は立体的なのに言葉は平面的です。この言葉で真理を追求すれば、
事物(現実)以外に残るのは事物の<関係>だけになります。
この<関係>が仏教でいう真理=<空>です。
 
言葉は道具だったのに、言葉を軸に、話が転倒してしまったでしょう? 
仏教は、<空>を真理にして、現実を虚構にしてしまう。  
373名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 13:26:58 ID:qvGPVwhE
心が心所(心に起こる感情)を取らない、心所に依存しないのが涅槃では?
色界心では心が欲から離れてるが、まだ色と心所に依存している。
無色界心では心が色からも離れているが、
まだ慢や無明などわずかながら心所に依存している。
出世間心つまり悟り・涅槃では、
心が欲にも色にも心所にも依存しない。
心が三界から離れて心のみになる。
374名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 13:55:11 ID:qvGPVwhE
心を映画のフィルムの回転だとすると、
心の回転を静止画像かと思うほど遅くし
煩悩を一時的に休止させるのが禅定。
出世間心は逆に、智慧により心の回転を速く速くして、
色や心所のわずかな隙間を撮影できるようにし、
点滅をくりかえしてる現象の滅の瞬間をとらえる。

フィルムの回転が撮影対象よりも速いため、
何も映っていないコマができる。
それが滅尽定であり涅槃であり出世間心かも。
375名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 14:01:57 ID:PrnbHMnW
376名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 16:06:36 ID:BKIw/zRw
>>372
>心の畑を耕していることと、現実の畑を耕していることは
別の話であると理解しています。
 
一切は空相であると言う時、現実も心という区別も無いのだよ。
377名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 16:10:04 ID:YvRCtNKP
アショカ王はインド統一で多数の人間を殺した。
王はその後、仏教に帰依し、仏教を全インドに普及させた。
多数の人間を殺したアショカ王にとって、自分の罪業を帳消しにする
<空>の教えはありがたかったことだろう。
 
低カースト出身で、人を殺しまくったアショカ王は、
輪廻転生・因果応報・カーストを説くバラモン教では救われないのだ。
 
これが仏教が生きながらえ、日本に伝わった歴史的背景だ。
378名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 17:02:59 ID:cIzv66/q
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」は仏教のシンプルで分かりやすい教えです。
その根柢には、善因善果・悪因悪果が流れています。
仏教の縁起や空の教えの素晴らしさは、たとえ悪を為した者でも心を悔い改めて精進すれば、その悪を善に転ずる
ことができるという点にあります。もしも悪というものに実体があり、悪が悪自体としての自性を有するものであるなら、
その悪は永遠に悪のまま変化は無く、従って悪を為した者が悔い改めて善を為そうと努力をしても、所詮は無駄な努
力ということになってしまいます。煩悩の氷が溶ければ菩提の水となるのは、煩悩と呼ばれる私たちの厚い執着に
覆われた自我の殻が、実は無知ゆえに顛倒した妄想に過ぎないことを気づかせてくれるでしょう。仏教の縁起や空の
教えは、暴虐の限りを尽くしたアショカ王の、暴虐の限りを尽くしてもそれでも満たされない虚しい心に、慈悲の光を注
いでくれたのだと思います。

379名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 19:17:22 ID:hwaaphbf
全インドを統一したアショカ王はバカではない。
仏教に感化されたのではなく、治安のために仏教を利用したに過ぎない。
仏教を選んだのは、バラモン教が都合悪かっただけだと思う。
380名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 19:39:57 ID:hwaaphbf
釈迦は無神論者だけど、アートマンぐらい体験していたかと思っていた。
 
残念だけど何も体験していない単なる哲学者のようだな。
 
それもニヒリスト・・・無とか空とかを主張しているから。
381名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 20:44:36 ID:cIzv66/q
戦乱や暴動から国を救うのに仏教が役立つなら、それはそれで意義あることです。
為政者たるもの、何も施さずに、国土の荒れるがままを放置し、民衆の艱難をやり
過ごすことを、仏法が止めさせたのですから。

原始仏教スレで何だけども、随分と無相という概念に執心があるようなので、
無相と(有)相との関係をもっとじっくり熟考されたらどうですか。

「無相とは相に即して無相」(六祖壇経)
「無相の故に相ならざるはなし」(曇鸞)

382名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 21:24:19 ID:hwaaphbf
仏教自体が<無>に執着していると指摘してるのですよ。
諸行無常とか諸法無我とか、仏教にはやたら<無>が出てくるでしょう。
<無>の例を出したりして、あなたも相当<無>に執着してませんか。
383名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 22:46:40 ID:9TS3qLHi
普通の人はりんごが無いことを「ゼロ個ある!」とは
言わないんじゃないかなあ
384名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 23:03:14 ID:BKIw/zRw
>>378
>諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

何が善で何が悪か教えてください。
385名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 23:27:49 ID:q9h1F990
ガウタマ(釈迦)の説いた仏教は、虚無主義。

何が善とかなにが悪なんてない。
もちろん人の死が不幸なんて思ってもいない。
自分の心を諸行無常にすることによって、心の救済をといたんだろう。

つまり宗教というよりも哲学。

ちなみにガウタマシッダールタの階級は武人・国王。
386名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 23:50:09 ID:qvGPVwhE
>>380
出家当初二人の仙人に禅定を習い、
色界心の禅定(初禅から第四禅)・無色界心の禅定(第五から第八禅)を体得しました。
たいがいの教祖様たちが悟りと勘違いする煩我一如レベルの禅定は色界心の第三禅くらいまでらしいです。
なぜなら、対象と一体になって喜びを感じるというなら第三禅までで、
第四禅に至ると一体感だけになり喜びも消えるから。
禅定に喜びを感じるうちは、まだレベルが低い禅定。
また、仏教の特徴は禅定より智慧にある。
禅定の世界(神レベルの境地)に執着するのもよくない。
387名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 23:57:40 ID:BKIw/zRw
自分と他人の間に、こだわりとなるもの、なにか差別と成るものが無い、と言う状態は、
望ましいと考えるのが普通ではないか?理解し合えないとか、固定的な差異を見るのは、
不都合ではないか?しかし、一相であるとか無相であるとか、空相であるとか言うのは、
このような差異が無いと言う意味なのである。
388名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:12:10 ID:Sz7d4Ewh
>>385 知識だけで悟れる可能性があるのは
四段階の悟りのうちの第一である預流果までで、
そこから先は瞑想によって体験しなければ悟れないそうですよ。
だから、仏教ただの哲学ではない。
欲望や怒りを消せば心が平安になるだろうと知識で気付くのは預流果の悟りレベル。
実際に欲望や怒りが減るのは
瞑想によって第二段階の悟りである一来果になったときで、
第三段階の不還果になると欲望や怒りは完全に消える。
しかしまだ、プライドと落ちつかない心と無明の煩悩があり、
それらが消えるのは最高の悟りである阿羅漢果になったときらしい。
389名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:14:32 ID:d2kB6a+W
そこで、善悪と言うものがあるとしても、この真実である一相無相空相
と対立するものではあってはならないだろう。
 人間関係ばかりではなく、自然を相手にしてもこのようでなければならない。
まさに相手の人は自分なのであり、まさに目にする自然は暴風雨であろうと静かな光景であろうと
自分なのであることを知らなければならないのである。「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」という教えは
真理であるといわなければならないんではあるまいか。そのような態度は一相に適い、無相に適い、空相に適うからである。
 それでは、自分に危害を加える相手に直面した場合はどの様に考えたらいいのだろうか?
 
390名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:39:03 ID:Sz7d4Ewh
>>389 なんか、あなたの意見がわかりにくい…。
仏教の善心とは、不貪不瞋不痴らしいです。

原始仏教じゃないかもしれないが、空・無相・無願を三解脱門といいます。
分別・差別・判断はすべて空なる妄想・錯覚です。
真実ありのままの真如には差別すべき特徴がない(無相)。
すべてがホントは無相だから、貪りや怒りを起こす対象にはならない(無願)
391名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 20:02:15 ID:H80Cmuca
>>383
その通りだと思う。普通は「ゼロ個ある」とは言わない。
そう言うのは、〈梵〉や〈我〉を否定するためのレトリックでしょう。
〈梵〉や〈我〉などない、ゼロなんだと言いたいのだ。
 
>>385
釈迦は元武人で元国王、仏教を広めたアショカ王も武人で国王。
日本でも空を説く禅宗は、人殺し集団である武士のバックボーンだった。
仏教は善悪の判断を麻痺させるアヘン・・・
 
392名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 20:12:37 ID:H80Cmuca
>>381
人殺しのアショカ王に認められて手柄のように喜んでいる人もいる。
しかし恥じるべきでしょ。類は友を呼ぶって言うじゃない。
393名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 20:23:26 ID:H80Cmuca
>>386 >>388
禅定が<空>ではなく、智慧が<空>なのですか。
阿羅漢果とは具体的に何でしょうか。
 
言葉はコミュニケーションの道具にすぎません。
日常的に使う日本語で、できるだけ簡単に教えてください。
394名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 21:23:57 ID:Sz7d4Ewh
阿羅漢果とは、すべての煩悩が消えた境地です。

禅定は精神集中、智慧は観察による気付き。
すべてが空(有でもなく無でもなく、しかも有であり無である)だと
気付くのも智慧でしょう。
395名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 21:51:49 ID:d2kB6a+W
>>390
> あなたの意見がわかりにくい…。

その通りだろうと思います。
しきりに善を為せと言われます。それで善を為せば善果がえら得ると期待し、善をしたいと言う意欲が生じるのですが、
それでは善とは何か、戸惑ってしまうのです。
 貪瞋恚痴は三毒と言われます。これは積極的に出来るものではないです。十善戒又十悪とも言われます。これも消極的ではないでしょうか?
大乗経典は、縁起と空を広めることが最大の善であると言っています。これは般若経典や法華経の安楽行品に言われています。
縁起と空の理法は、仏の智慧といわれるものであり、大教では、「捕らわれのない、妨げの無い、仏の知恵」を疑ってはならないと書かれています。
この理法を伝えることとこの理法を実行する以上に全なる行為はないのではないでしょうか?
そして、十善戒も八正道も、畢竟この理法の実行に他ならないと思います。
 何か差別意識が発生する可能性のある時には、一相であることと一相であることを証明する実行をすることです。
かかる見地から、自分を愛するように隣人を愛せよ、と言う教えがあるのではないでしょうか。
 ものには変化というものが真実にはないと言うのが真実でした。自分に敵対する人又は、自分に不都合な自然の脅威
これらも変化に他ならないのですから、しかし真実は変化のない一相なものであると見なすことが、
「信仰」と言われるもんではないでしょうか。>>348 ブッダは縁起と空の理法を信じておられたのであり、これは釈尊もしくは、修行者の「信仰」であるのです。
 真理なる理法であるから、それの現実化を信じることが出来るのであると思います。
イエスの場合も同じ信仰であったと思います。多分地震であったろうと思われますが、高い石造りの塔が崩れ倒れました。
その下敷きになって25名が死んだと言う報告をイエスが聞いた時、彼は、あなた方も罪を悔い改めないならば同じようになるであろうと
言われたそうです。この罪とは、一相であると言う真実をないがしろにすることです。

396名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 22:02:29 ID:d2kB6a+W
原始経典のどれかにも、法布施以上に良いものはないと言われています。
397名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 22:11:29 ID:Yclkr0+u
>>395
イエスは縁起や空など説いてません。
あなたの話はちがう話を混ぜている。よくわかりません。
あなたに問う。人を殺すのは善ですか。悪ですか。
398名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 22:22:16 ID:aUVhc5gF
>>396
布施の是非。たとえば会社で、何もしないでぼんやりしている社員が
いたとする。この社員を社長が注意したら、頭の中で仕事をしていた
のであり、遊んでいたわけではないと答えたとしよう。
わたしが社長なら、それだったら働いてることと同じだなどとバカな
ことは思わない。この社員を解雇するかどうか検討する。
 
399名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 22:30:02 ID:d2kB6a+W
>>397
十善戒に人を殺してはいけないとあるから、人を殺すことは、悪です。

>イエスは縁起や空など説いてません。

真理真実を尊重し、真理真実を神としているなら、それは縁起と空の理法を説くもんです。

>>398
法布施とどのような関係にあるのか?
400名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 22:39:46 ID:hJzaxn2M
>>394
有であり有でないとは何。無でもなく無であるとは何。
そういった奇妙なものは存在しないのではないでしょうか。
401名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:02:33 ID:LZtu2Gq5
>>399
空の教えから、人を殺すなという戒がどうして出てくる?
 
イエスの真理〈神〉と、仏教の真理〈空〉とはちがう概念です。
同じ真理という言葉だから、イエスも縁起や空を説いているというのは
変ですよ。詭弁のように聞こえますね。
 
あなたの話は >>348ですよね。
実際に畑を耕していた農夫が社長であり、何もしないで心を耕していた
ブッダが社員です。何もしない人に給料は払えないでしょう?
402名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:04:30 ID:CIEYSkTC
現代の価値観で語ってんじゃねーよw

馬鹿かおまいらはw
403名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:40:44 ID:Sz7d4Ewh
>>400 有といえば有だけど、無といえば無。
たとえば、「ハンバーガー」は有であり無であり、有でもなく無でもない。
ハンバーグとパンが一緒になった状態を「ハンバーガー」と名付けているけど、
「ハンバーガーそれ自体」はどこにもない。ハンバーグとパンしかないわけです。
だから「ハンバーガーは空である」という。
空であるというのは、「それ自体」が独立して存在するわけではないということ。
それに気付けば、ハンバーグとパンにかけられた「ハンバーガー」という魔法を
いつでも説くことができる。
「ハンバーガー」を食べたいという執着が解ける。
404名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:41:09 ID:d2kB6a+W
>>401
>空の教えから、人を殺すなという戒がどうして出てくる?
 
空の世界は、一相であり、生死が無い。人を殺さないのは生死のない涅槃に近いのであり、
そこに近づきたい人は、死を見ないようにしなければならない。

>イエスの真理〈神〉と、仏教の真理〈空〉とはちがう概念です。
同じ真理という言葉だから、イエスも縁起や空を説いているというのは
変ですよ。詭弁のように聞こえますね。
 
真理とイエスが言い、釈迦が言う時は、その真理は、何処においても通用するものと見なしていたと考えるのが相当でしょう。
釈迦が真理と言う時、アラビア人の世界においては、これは通用しないと考えたと考えられません。
それならば、真理とはいえないことは釈迦は御存知でしたでしょう。イエスにおいてもしかりでしょう。
真理とはそのようなものだからです。
 そこで相方の真理真実を見てみますと、異なるところがありません。
イエスは、「唯一の神」と言い釈迦は「一相」というからです。
しかしキリスト教においては、学問的に「唯一」が論じられていないですね。
すべての創造者としての「唯一の神」です。

>あなたの話は >>348ですよね。
実際に畑を耕していた農夫が社長であり、何もしないで心を耕していた
ブッダが社員です。何もしない人に給料は払えないでしょう?

人を幸せにする人に対して尊重する意味で布施をするのです。
給料を払うのです。一時凌ぎの腹を満たす食物を与えるよりも、
永遠の幸せを与える人の方が、良き労働をしていることになるでしょう?
405名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:46:58 ID:d2kB6a+W
訂正
 「一相」→「一相の仏」
406けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/01/22(月) 23:53:30 ID:Sz7d4Ewh
この場合の空とは、名詞ではなくて形容詞や形容動詞でしょう。
「ハンバーガーは空だ」「ハンバーガーは大きい」と言えるけど、
「空は大きい」「大きいは空だ」「空は大きくない」などとは言わない。

さて、
「肉とパンを合わせてハンバーガーと呼ぶことにしましょう」と、
約束ごとを共有している人同士の間でしか、
「ハンバーガー」は存在しない。
知らない人は、
「肉は知ってます。パンも知ってます。でも、ハンバーガーって何?
昨日肉食べて今日パン食べてもハンバーガー食べたと思えばいいじゃないの?
ハンバーガーが食べたいなんて、アホらしいなぁ。」となる。
そういうハンバーガーみたいな状態を表すとき、
「ハンバーガーは空だ」と表現する。
407名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 23:55:32 ID:Sz7d4Ewh
>>404 基本的な質問。
あなたの言う「一相」ってどういう意味ですか?
408名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:00:22 ID:d2kB6a+W
>>407
一相=空相:無相:無願:無作:無起:涅槃:無限(無量:無辺):智慧:ブッダ:
409名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:01:47 ID:VZHF5x+7
>>401 空を説くは、苦悩の原因を消すため。
人を殺すなというのも、苦悩の原因を消すため。
空を悟るのは目的じゃなく手段ではないでしょうか。
目的は、苦悩を消すこと。
しかし、苦悩を消す方向に向かには、空に気付くプロセスが必要。
410名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:09:33 ID:VZHF5x+7
>>408 おかしいおかしい。つなげすぎでしょう。
一相がブッダで、一相が涅槃?
一相に気付くと涅槃の境地になり、涅槃の境地になった人をブッダと呼ぶ、
とかいうなら理解できるけど…。
「何もなくなりゃしないのさ、形が変わっていくだけさ」
という感じが一相なんでしょうか?
411名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:13:36 ID:fJVp8wIY
>>403 空は言葉遊び・・・やっと白状しましたね。
 
>>404
生死がない涅槃 → 死がないから「殺すな」ですか。 
生もないわけだから「殺せ」になりませんか。これも詭弁っぽい。
 
イエスの真理は神を肯定すること、釈迦の真理は神を否定すること。
真理の内容が正反対であり、二人を同じにしてはダメで〜す。
 
無や空を説かれても迷惑。何にもならない。
転倒を指摘するのだから逆に治療代を請求したい。
412名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:21:47 ID:VZHF5x+7
>>411 言葉遊びではありません。
実践を伴うならば。
たとえば、見たものに対して思い浮かぶ概念は空だと気付いていれば、
概念からすぐに脱却して、ただ見るだけに戻れる。
瞑想によって空なる妄想を中断し続けるのです。
413名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:27:53 ID:VZHF5x+7
「ウザイ、シネ」などと言われても、
それをただの音声だとだけラベリングすれば、
痛くも痒くもない、鳥のさえずりと同じ。
しかし、音声をきっかけに空なる概念、妄想に心がとらわれると、
怒りや悲しみなどが生まれてきて苦悩の原因になる。
肉は肉、パンはパンだと気付くように、音声を音声だと気付けばいい。
苦しくなるのは、肉とパンをくっつけてハンバーガーにしちゃうように、
ただの音声を悪口にしちゃうから。
ハンバーガーも悪口も、「それ自体」は存在しない、空である。
414名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:37:37 ID:fJVp8wIY
>>413
悪口を無視しろってか。それだったらみんな普通にやってる。
なにも仏教の空を持ち出さなくてもいいと思う。
ハンバークの場合も単なる想像だから。
415名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 01:07:47 ID:VZHF5x+7
>>414 みんなやってるなら、イジメでウツになる人なんていない。
感情は無常。感情はすぐに変化し過ぎ去る。
何かとらわれている対象が空だと気付くと、
そのとらわれによる感情が、すぐに過ぎ去ってくれる。
416名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 07:35:15 ID:F4D1V+jd
横から失礼
確かに囚われの心がなければ、イジメだとは認識しないし
いじめるものも、特定の人間をいじめたりはしないね。
>414
捉われないことは「普通」には出来ないよ。
囚われているからこそ人間はムキになる
417名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 19:53:03 ID:Q3M1FG6f
軽い悪口なら無視。みんなが普通にやってることだ。
 
でも無視できない悪口もある。こんな場合は言い返したり、
そこから離れるのもいい。言葉を単なる音声だと思うのもいいだろう。
さらに集団による執拗な悪口もある。そんな場合は逃げたほうが利口。
 
いじめであっても程度がある。程度によって対策は異なる。
とらわれてるとか、とらわれてないとか気にしないでいいと思う。
たまにはムキになって反撃するのもいいだろう。
悪いのは、いじめている連中だ。遠慮はいらない。
418名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 20:12:54 ID:Q3M1FG6f
仏教にもどせば、いじめても空、いじめられても空。
情けないね。落とし穴に落ちたような、救いようのない話になる。
 
イエスなら「愛し合いなさい」で片づける。
いじめられてる子どもたちは空を悟らなくてもいい。 
419名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 20:48:13 ID:2pQYV8ZW
409 :名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 00:01:47 ID:VZHF5x+7
>>401 空を説くは、苦悩の原因を消すため。
人を殺すなというのも、苦悩の原因を消すため。
空を悟るのは目的じゃなく手段ではないでしょうか。
目的は、苦悩を消すこと。
しかし、苦悩を消す方向に向かには、空に気付くプロセスが必要。


>>410
>>408 おかしいおかしい。つなげすぎでしょう。
「何もなくなりゃしないのさ、形が変わっていくだけさ」
という感じが一相なんでしょうか?

一相とは混じりけのないまったく純粋なものをさすのだ。変化しているものが一相と言う発想は有り得ない。変化とは縁起のことを言う。縁起している相方のものは、縁起ゆえに自性「実体」が無いと判断されるのだ。
故に、無実体なものこそ真実であり、それは純粋なものであり、それ以外なにも有り得ない者といわなければならないのだ。



420名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 20:52:00 ID:2pQYV8ZW
>>411 : 
>>404
生死がない涅槃 → 死がないから「殺すな」ですか。 
生もないわけだから「殺せ」になりませんか。これも詭弁っぽい。

 生死も変化である。変化しているもんは縁起であり、実体が無いのだ。
自ら死と言う変化を生じさせる
行為は、一相と言う真実の世界に近づこうとするものの態度であろうか?
それは一相の世界ではなく、
無限にものが交じり合った世界である。

>イエスの真理は神を肯定すること、釈迦の真理は神を否定すること。
真理の内容が正反対であり、二人を同じにしてはダメで〜す。
 
 イエスの神と釈迦の神はそもそも違う。イエスの神は唯一の神であるが、
釈迦のご存知であった神は、たくさんの神がいたのであり、
それらの神を釈尊は神としておられる。 名前が同一であるからといって、内容も同じであると考えてはならない。
今の英語でもイギリスのある単語が、アメリカでは全く違った意味に用いられており、
誤解を生むものとなるようなものである。日本でも、関西では、「かって来なさい」というと、
標準語の「借りてきなさい」という意味であるが、東京では、それは「お金をだして買ってくる」という意味に成る。
借りると買うが同じ発音であるのだ。
 更に、神とか仏とかブッダとか、その他の尊称が大事なのでは、全くないのである。
大事なのは、「唯一」
「一相『これも唯識という表現があるように、唯一と言う意味があるって、
その意味の一相なのだ』」というところにある。これは『理法』と言われるもので、あらゆる時・所に通用するので
、真理と言われるのである。
 同じ真理真実を説いているのである。

421名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 21:02:36 ID:2pQYV8ZW
>>412
縁起しているものは妄想であり実体が無い。真実は空相であり一相である。
縁起しているものは、宇宙の果てまで、そのさらに果てまで縁起しているのであるから、又、極微の更に
極微の果てまで縁起しているのであると考え無ければならないから、その世界全体が、妄想であると見做し、
実体のないものと判断しなければならない。一切が空であると言うのは、究極に至るまで空であると言う意味である。
空とはこのようなものを言うのであるから、空を自分の世界の部分的な範囲に限って利用しても、空のもたらす恵み、
即ち、般若の智慧の恵みはない。空はすべての縁起に打ち勝つ上位の真理真実であるから、勝義諦と言われるのである。
422名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 21:12:34 ID:MAW6WXJc
高校からの友達に子供が生まれたんだけど、未熟児で
仮死状態で生まれて、低酸素状態が長かったせいで
高度の脳性マヒになったって。
今日面会に行ってきたんだけど、友達は放心状態って言うか
鬱状態になってて、私に泣きながら「ふじこふじこ」言ってた。
昔からこの友達のこと嫌いだったんだよね。お金に汚いし、結婚しても男に媚売るし、
仕事は私や後輩に押し付けて、上司には自分が全部やってますって感じに報告するし。

結婚した時も、
「女は結婚して好きな人の子供を生んで、家庭を守ることが1番の幸せなの」
って、有頂天になってたし。なのにいざ子供が生まれたらこのざまwww

一応は「生まれてきた命なんだからあんたがしっかりしなくちゃダメ」
「障害を持って生まれてくる子供は、神様がこの両親なら育てられるって
  授けてくれたんだから、この子は天使なんだよ。」
って慰めといた。これで、あいつの人生も池沼の奴隷だねw

赤ん坊は自分でおっぱいも吸えないから、口から胃までチューブが入れられてた。
点滴もしてたし、保育器に入れられててpgrものだったwww
つい写真も撮っちゃったよ。思い出すだけでうれしくて、笑えてくる。

これからも、しばらく面会に通っていつか
「あんたが望んだ女の幸せなんだから、最後まで家庭を守れば?」って突き放したい。



423名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 21:25:06 ID:2uJzYKV1
>>419 〜 >>421
難しくて、よくわかりません。
空によって、いじめをどう解決したらいいですか。
424名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 21:57:58 ID:2pQYV8ZW
>>423
いじめとはなにか説明してください。具体的にそして、それを一般化して。
425名無しさん@3周年:2007/01/23(火) 22:12:46 ID:p9MULd9K
人が、社会的動物である以上、
いじめが生じてしまう条件(環境・関係等)は、なくなることはないだろう。
が、いじめになってしまう一歩手前で食い止めることは可能かもしれない。
そしてそれは、けっして「空」などではないだろう。
一人一人の子の成育環境と、周囲の関わり方とがそれを可能にするのではなかろうか。
そのための智慧(参考となる視点の取り方・心の持ち方・他者へのまなざし等)を提供することは、
仏教・原始仏教にもできることかもしれない。


てか、スレ違いじゃね?
426名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 00:51:47 ID:JToTdA63
>>425
いじめとは差別を言うもののようですね。真実は平等であるところ、
それに不平等な差別をするのです。差別は、一方に執着しているものです。
かくして、一切の妄想である縁起が発生します。
 真実なる平等とは、一相のことですが、この一相は必ず無限なものです。無限なものでないなら
一相とはならないのです。一相が空相無相など他の表現をも持つことはここでは言いません。
このような一相なものを人がある点で区切る事が執着によるものです。これは妄想であり、決して
ある点で区切られているのではありません。真実はあくまでも一相なものとしてあるのです。
 人間は誰でも幸福になりたいと考え、そのための方策を考えます。 人よりも自分が苦しみたくないのです。
そのために、自分の利益になるものは集、め利益にならないものは排斥するのです。
平等であるところに、自分と他人と言う区別を作りました。そして、これは妄想です。
この妄想がその他の区別を無限に創り出すのです。こうして自由と平等と言う真実「一相」が破壊されていくのだと思います。
 いじめとは、この自由と平等のないこと、自由と平等の不存在であるといえると思います。
日本の憲法は自由と平等を基本として言いますが、それを教育の上で、始めの指針であり、最後の結論であるように、しているものと解されます。
所が、実際の教育現場では、差別をすることが教育の目的である、となっていないでしょうか?
あるものは優秀である、あるものは劣悪であるとゆう風に。教育現場においても、仏教の空の理法は、
目的にならなければならないと思います。
427名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 06:31:51 ID:x8lMtpw9
>>426 最終目的は涅槃(平安なる滅び)では?
空を悟っただけでは、欲も怒りも消えないよ。
428名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 07:22:53 ID:ej+lHzTZ
あのな
イジメなんてのは宗教以前、道徳人倫の問題。
道徳が身についていない奴に宗教を教えても無駄。
中学も卒業できないのに大学受験するようなもんだ。
429名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 07:28:34 ID:x8lMtpw9
悟っている人はいじめられても苦悩しない。
しかし、悟っていない人はいじめに悩む。
悟っていない人にいきなり「いじめも空だ」と教えたって、
すぐに苦悩が消えない。

仏教の目的は自他の苦悩を減らすこと。
だから、悟っていない人の苦悩も減らす方法が必要。
それが戒でしょう。
悟ってれば殺されることさえ苦痛じゃない。
しかし悟っていない人は殺されると苦痛になる。
だから戒では殺すなと説く
430名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 07:30:29 ID:ej+lHzTZ
ついでに「空」は悟れないよ。どうがんばっても。「空性」なら悟れるけど。

たぶんほとんどの奴が、「空」と「空性」の違いが分からないまま
しゃべっている。空は無と勘違いする。
そもそもゼロを発見したのはインド人。
「空」はサンスクリット文法の特性が分からないと理解できない。
言語の違う中国では空を無に置き換え、誤解が発生した。
中国語以上に抽象表現が難しい日本語での理解はさらに困難。
辻文法を読むことをオススメする。
インドでも言葉は神聖なもの。
431名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 09:40:35 ID:x8lMtpw9
>>430 たとえば、「物質は空だ」と気付く場合を、
「空を悟る」と言っては間違いなの?
432名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 16:44:46 ID:ej+lHzTZ
「物質は空である」と言った場合、
インド語では「物質は空という性質を持っている」とも理解できる。
この「空という性質」が「空性」。
認識と言った場合、物質の中に有るこの「空性」が認識される。

赤い花が有る場合、この赤は独立して認識されるのではなく、花に付帯して
初めて認識される。花から切り離された「赤」は認識できない。
認識できるのは「赤い性質」。
と、私は習ったんだけど・・・
433名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 18:15:33 ID:9L4fNMer
インドに空の思想があったとしても
イコール原始仏教と断じるのは乱暴だろ
434名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 19:14:45 ID:JRBM499r
空にしても空性にしても、どこからやってきたのだろうか。
どこで見つけたらいい? 洗脳だったらイヤだなあ。
435名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 19:35:08 ID:x8lMtpw9
>>432 執着を離れて苦悩を減らすのが悟りの目的なんだから、
「空を悟った」と言おうが「空性を悟った」と言おうが、
たいした問題じゃない気がするんだけど…。
436名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 19:41:42 ID:JRBM499r
>>428
道徳から宗教が生まれるのではない。宗教から道徳が生まれる。
宗教が中学なら、道徳は高校で学ぶべきものである。
437名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 20:01:15 ID:hKeMRMlG
>>436
馬鹿は帰れwww
438名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 20:34:23 ID:JToTdA63
>>434
大変大事な問題に直面しているね。この板でも何回か言って来たのだが。
少しグッグッて見て、自分で努力して。

>>432
>物質の中に有るこの「空性」が認識される。

ある物質の中にはそれこそ無限の性質がありそれらは他の物質と縁起関係にある。
縁起関係にある以上、それらはすべて自性「実体」が無いのである。
外見も縁起関係から洩れることはない。であるから、外見を始めすべてが空性である、だから、
残ってあるものはないと言うべきだろう?空性と言おうが空と言うおうが『無』といおうが同じことではないだろうか?
 どちら化と言うと、「空性」という時は、外見が残存していて、中身が無い時に使用する表現の様ではないだろうか?
しかし外見も縁起している以上無いのである。
439名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 20:39:05 ID:JToTdA63
教育基本法で、国と郷土を愛そうとかの文言が入っていると言うことであるが、
国と郷土などあると考えるのは、妄想の国と郷土に執着しようと言っているもので、
真理真実に実に反している文言である。悪魔の智慧である。
440名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 20:53:36 ID:JToTdA63
知能テストをして、生徒の能力を測定出来ると考えるのは、これまた、悪魔の智慧である。
知能テストの点数で子供を見るのは、知能テストに執着するものであ理、差別その者である。
441名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 21:24:37 ID:hKeMRMlG
>>440
お前も帰れw
442名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 22:51:39 ID:JRBM499r
>>438 空の由来には欠陥がある!!
この世の事物はおたがいに関係している。この関係を空という。
それを論証したのが竜樹である。しかし話の流れから見れば、
最初の事物を捨象し、事物の関係性を空と言い直しただけではないか。
 
逆に空の概念は現実に対して何の意味もない。
空は単なる関係性だから、その概念は具体的な場面でまったく無力である。
いじめても空、いじめられても空。人を殺しても空、殺されても空。
443名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 23:17:38 ID:JRBM499r
>>439 >>440
今の学校教育では解決できない問題がある。たとえばアメリカでは、
学校教育から離れ、自宅での学習を認める制度があるらしい。
 
これもネット社会の恩恵だろう。こうすればいじめは解決するし、
各家庭の教育方針によって自分の子どもを教育できる。
お寺が活用され、寺子屋風な教育が再現するかもしれない。
444名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 23:19:55 ID:JToTdA63
>>442
>事物の関係性を空と言い直しただけではないか。

事物は相互に縁起関係にある。故にどの事物にも自性が無い、と竜樹は説いたのだろう?
自性が無いのであるから、縁起関係も消滅しなければなら無いだろう?残るものは何も無いんじゃない?

>その概念は具体的な場面でまったく無力である。

その概念(空諦)を知ったならば、現実の方が何の力をも持たないのではないだろうか?

445名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 23:42:21 ID:JRBM499r
>>444
自生については竜樹の論理に欠陥がある。
竜樹は縁起関係から空を結論する。しかし自生の有無が検証されてない。
自生があって、かつ縁起関係がある可能性は排除できないだろう。
446名無しさん@3周年:2007/01/24(水) 23:49:37 ID:JToTdA63
>>443
いじめは差別と捉えたい。差別には2種類ある。
先生が子供を差別する場合。子供同志において差別が生じるばあい。
子供が差別行為をする場合は、その原因となる観念は、大人からの影響である。
反対に、差別しないとするならば、その原因観念も、大人からの教育的影響である。
 先生が子供を差別する場合は、先生の差別観念は、無知無明からと言うべきである。
大人においては、仏教とかキリスト教その他の道徳倫理の教えを得る機会があるもんと考えられる。
それらに基づいて、善悪を判断できた訳であるから、子供を差別するの言い訳はでき無い。
そして、その差別は子供たちに強い影響を与えていると考えねばならない。
 そうすると子供のいじめは、学校側に全面的な責任があるといわなければならいと思う。
先生から差別を受けて育ったこどもに大人になった時、国郷土を愛することを求めることは出来ない。
反対に国郷土を愛さないであろう。
447名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 00:06:41 ID:w62IcwEp
>>445
>しかし自生の有無が検証されてない。
自生があって、かつ縁起関係がある可能性は排除できないだろう。

一切が空であることこそ、自性なのである。これを涅槃と言っているのではないか?

448名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 00:10:24 ID:w62IcwEp
>>445
>自生があって、かつ縁起関係がある可能性は排除できないだろう。

空相こそ自性であり、自性とは、絶対を言うのであるから、それが縁起関係を持つことはあり得ないと言わなければならない。
449名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 00:24:47 ID:amKZxyLA
>>446
おっしゃるとおりです。私の思いもまったく同じです。
私が考えてるのは、この現状をどうしたら改善できるかということです。
そしてあなたの話に答えがあります。大人の責任です。
 
人間の天職は、神を探し、神に従って生きることです。
親は神を信じ、子どもにひたすら神を教える義務があると思います。
こんな人たちが社会を作るなら、ずいぶん穏やかな社会ができるでしょう。
これ以外のことは手段です。アーミッシュに似てるかもしれない。
ただしこう生きるには神が生きてないとだめです。
空だとか、概念でしかない神ではだめです。
450名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 00:48:35 ID:amKZxyLA
>>447 >>448
空こそが自生であるという論証がないでしょう。
 
空にしても空性にしても、こういったものを根本にすえると
そこからは何も生じない。これが解脱ですか。でも、
空を悟っても、この俗界で今日も生きなければならない・・・
451名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 06:14:34 ID:UlMWpMaZ
問う者 としての投稿者

空を悟って、この俗界を生きることは愉快だよ。
空を悟ろうとして、この俗界を生きることは有意義だよ。
空を悟るを知らずして、この俗界を生きるは闇だよ。
452名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 07:00:41 ID:J8xOiWPq
空と空性を混同すると、実際の修行の妨げになります。
仏教には必ず修道論が伴います。
なにも竜樹は机の上で空の理論を完成させたのではありません。
止観などの禅定の修習のうえで悟ったわけですから。
中観には中観の修道があります。それを現観と言います。
密教になると空性の性質は変化し、さらに重要なものになっていきます。
453名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 12:43:02 ID:+cCs3T2G
>>447 縁起故に自性がないから空だと言うのでしょう?
空であることが自性だなんてわけわからん。
自性とは、「それ自体」のことじゃないんでしょうか。
「歌」それ自体は無い。「歌」は、
音と耳がと心が縁起して想像された現象だから。
音とは、四大という物質エネルギーのひとつである地大が、
耳というチャンネルから認識されたもの。
音は地大が縁起したものだから、音それ自体は存在しない。
まず、少なくとも、
計測機器や推論・推測を使わずに直接知覚することができないものには
それ自体が無い(無自性)ので、
それらは空であるとわかる。
454名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 12:46:36 ID:+cCs3T2G
>>452 簡単に言うと、「空」とはどういう意味?「空性」とはどういう意味?
455名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 17:27:03 ID:J8xOiWPq
竜樹は「言葉」の持つ性質を深く洞察しました。
その結果、言葉が「そのもの」を直接表していないことに気づきました。
しかし、一方我々はその「言葉」なしには何ものも認識できません。
(不正確ですけど、失語症の患者はものの認識がおかしいそうです・・・)

空、空性は「本来言葉では示せないそのもの」を可能な限り、
言葉の過失から離れて言い表した概念です。
つまり、残念ながら空そのものを「空とは○○である」と言葉を用いて言い表すことは
不可能です。
一方、密教の時代になると空性は水晶の例えで説明されます。
透明な水晶に赤いものを近づけると赤くなり、黄色いものだと黄色くなる。
しかし、水晶が赤や黄に染まったわけではない・・・
密教では空性は「有る」とされます。
と、私は習いましたけど・・・
456名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 19:22:54 ID:+cCs3T2G
>>455 空とは、真如のことなの?
むしろ、真如じゃないことを空だと言って、
執着するなと説くんじゃないの?
「物質は空だ」というのは、
「物質は妄想だから真如ではない」という意味では?
457名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 20:16:22 ID:BZLextNU
>>451 空は<関係>だから、空を体験することは決してできない。
 
言葉は、ある事物を指示するか、事物同士の<関係>を表すだけ。
竜樹は、こういった性質に制約された言葉で、真理を考察した。
真理は一般的である。だから竜樹は、個別の事物を捨象し、
事物同士の<関係>が真理であると理解した。これが<空>である。
 
しかしこの流れには明らかな誤りがある。
竜樹は、個別の事物を捨象し、最初から我(アートマン)を排除している。
そのために、後に残った言葉の<関係>は、実体がない<空>であり、
無自生であるという主張になる。
  
458名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 20:28:01 ID:BZLextNU
常識的に考えて、作用は作用だけでは<空>であり、
作用点を持つ<我>があって初めて現実になるのではないか。
459名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 20:42:09 ID:BZLextNU
つぎのふたつは別の話ではないでしょうか。
 
事物それ自体、あるいは事物同士は依存関係にある。
 
生物を含む事物には我(アートマン)がある、あるいはない。
460名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 20:46:00 ID:+cCs3T2G
>>457 空を体験するってどういう意味?
何か対象について、空だと実感することとは違うの?
461名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 21:23:42 ID:hI5CUput
>>460
体験は対象を、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れること。
実感・・・たとえば「楽しい」という実感があります。
これには楽しんでいる対象があります。空の場合も同じで、
空を実感するというなら、空という対象を体験しているはずです。
しかし実体のないのが空だから体験のしようがないのです。
462名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:08:59 ID:+cCs3T2G
>>461 実体がないことを空だというのであって、
空という実体のないものが有るということではないのでは?
りんごは赤い、りんごは空である。
りんごを見て赤いと思うこともできるし、
りんごを観察して空だと気付くこともできる。
真如と空をごちゃまぜにしてはいけないと思います。
463名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:09:47 ID:w62IcwEp
>>453
>空であることが自性だなんてわけわからん。
自性とは、「それ自体」のことじゃないんでしょうか。

自性あるものとはそのもの自体で存在しているもの、及び存在し得るものでしょう?
決して他に依存するところが無いのである。であるから絶対な存在である。他の一切の存在を認めないのである。
他にあるものを認めるならば、それは絶対とはいえない。お互いに相対的存在となる。
 他のものが消滅しても自分が存在しているなら、それらは相対的存在では無かったのである。
両方とも消滅しないならば、両方のものは異なるものではないのである。しかし消滅したものは
実体の無い自存し得ないものであったのである。
 このような実体が無いのに自存しているかのように見えるものを妄想と言う。
相対的存在はすべて自存しているもんではありえない。であるから相対的存在はすべて妄想である。
妄想が消滅したところに残っているもんは、いかなる相をも持っていない。無相である。
これこそが自存するものの特徴である。空相は無相である。空相だけが自性あるものである。

>>454
空性とは自性・無自性との関連から使用された表現ではないだろうか?自性あるものは空だけであり、それを空性といっても
空と言う自性を意味すると解釈する限り問題ないと思う。
464名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:17:48 ID:+cCs3T2G
>>463 んー…。
縁起だから無自性であり、無自性だから空であるわけでしょう?
縁起→無自性→空、という論理的流れ。
なのに、自性ある「もの」は空だけ…なんておかしくないですか?
そもそも「空」って、「もの」ではないのでは?
「空」は名詞じゃなくて、形容詞か形容動詞だと思うのですが…。
465名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:21:56 ID:+cCs3T2G
「無相」というのは、相が無いという意味ですね。
相は、つまり物事を判断分別する特徴や属性は、無い。
なぜ相が無いかというと、
相は縁起ゆえに相対的なものだから、
相には「それ自体」(自性)が無いから、
相は空であるから、故に相は無い。
466名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:22:40 ID:X8KN2rzR
空を実感したと思う人は、空の体験ではなくても、
何らかの非日常的な体験をしたのだろう。
 
たとえば、我(アートマン)があったとして、その我(アートマン)に近づいた
のかもしれない。自我意識が希薄になり、自我の曇りがうすれるなら、
般若の知恵が姿を見せ始める。
 
空にこだわり、空という言葉にだまされているが、
実際には我(アートマン)の片鱗に触れたもしれないのである。 
467名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:27:29 ID:AtVOeMDn
>>455
密教はここで語るものじゃないでしょう。
468名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:35:40 ID:w62IcwEp
>>461
>体験は対象を、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れること。
実感・・・たとえば「楽しい」という実感があります。
これには楽しんでいる対象があります。空の場合も同じで、
空を実感するというなら、空という対象を体験しているはずです。
しかし実体のないのが空だから体験のしようがないのです。

縁起している物を楽しむと言うのは、まさに実体の無い幻を追いかけているもので有り、
これほど恐ろしいことがあろうか?救い様が無いのである。しかし、縁起しているもんは実体が無いと智慧の目で見、
それに惑わされないなら、苦しむと言うことは無いのである。実体の無いものを楽しもうと追求していても、決して目的を得ることが出来ないのである。
しかし、苦しみから開放されている状態とは、そして決して将来に渡っても苦しむということが無いとしたなら、
それは平安と言う快楽ではあるまいか。これが涅槃と言われるものであると思うが。

469名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:36:16 ID:+cCs3T2G
>>466 梵と我と空をごっちゃにしてない?
三昧と智慧をごっちゃにしてない?
空を悟るのは無常を悟るのとセット。
執着に値しないと気付く。
三昧には喜悦がともなうから勘違いするらしい。
470名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:41:38 ID:w62IcwEp
>>467
一つの有益な解釈を紹介しているのであるから、歓迎しても良いのでは?
471名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:47:37 ID:lY+yghT8
>>462
りんごを観察して空だと気づく人は変です。りんごはりんご。
 
>>465
日常的な言葉で、空はどんな形容詞・形容動詞になりますか。
472名無しさん@3周年:2007/01/25(木) 23:49:21 ID:w62IcwEp
>>464
無自性というのなら、自性あるもんはないのかとの疑問は必然として生じる。
無自性無自性と言うのは、それは幻であり、追求すべきものではないという意味で、強調するのである。
そこで自性あるもん、本当にあるもの、真実なもの、これを尊重しこれに従わなければならないと言って居るのである。
それなら自性あるものとはなにか?それは縁起している無自性なもんを追及しないところにあるものである
、と確かに説かれ無ければならない。
473名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 00:22:31 ID:1xhj9jGk
>>468
楽しみは許される。仏も涅槃を楽しんでる。
 
>>469
空にだまされてる人たちへの助け舟です。どうごっちゃにしてますか。
474名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 00:27:34 ID:mZltgRip
>>473一行目、同意。


ってか、みなさん、空から離れませんか?w
「空」という概念がなくても仏教は語れるのではありませんか?
475名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 08:31:29 ID:qZyXgMtn
>>471 リンゴは「空」だというのは、
リンゴは「有でもなく無でもなく、しかも有であり無である」という意味では。
476名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 12:36:22 ID:qZyXgMtn
>>472 テレビのアンパンマンは実在しないと誰かが行ったら、
じゃあ宇宙のどかに別にアンパンマンが実在するはずだと考えて、
アンパンマンを探し求めるのですか?

リンゴは、世俗諦においては有る。これこれこういう状態の物体をリンゴと呼ぶことにしようと、
日本語を話す人の世の中でだけ通じるルールとして、
リンゴは存在する。
しかしリンゴは勝義諦ではない。
勝義諦は、人と人が決めた世俗のルールにかかわらず存在が認められる物事。
アビダンマでは、勝義諦は、色・心・心所・涅槃の4つだけだというそうです。
色(物質)を世俗諦においてリンゴだミカンだと仮に分別することはある。
しかし、そんなルールを知らなくても、
色か心か心所か涅槃かの区別は誰でもできるからでしょうか。
物質を分別するルールを知らない赤ちゃんでも、
物質と心との区別はついているだろう。
477名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 12:42:36 ID:qZyXgMtn
リンゴは空であるという意味は、
リンゴは世俗諦であり勝義諦ではない、という意味にもとれるかも。
478名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 12:59:53 ID:qZyXgMtn
>>473
仏道は、戒・禅定・智慧の三学の実践ですよね。
真如や真我やアーラヤ識・円成実性は、
色界や無色界の禅定において体験する境地かもしれない。
しかし、空を悟るのは智慧。
禅定の修行で集中力を養うのは、
観察による智慧をやりやすくするため。
深すぎる禅定は神秘体験をさせるが、
智慧がなければ涅槃にはならない。
涅槃は、煩悩の死滅、平安なる滅びであり、
真如だ梵だ神だなどと認識判断する心も滅びているから、
そのような認識が及ばない。
479名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 20:07:55 ID:au54Sa2E
>>475
「有でもなく無でもなく、しかも有であり無である」
こんな奇妙な日本語はありません。変だってことに気がつきませんか。
>>477
りんごに世俗諦も勝義諦もないでしょう。りんごはりんごです。
>>478
空はまちがっているので、空を悟らないほうが利口です。
空によって認識判断が滅びる・・・だから空など悟るなって。
480名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 20:25:00 ID:au54Sa2E
仏教が<空>に執着するのは、
この世は<空>だと思い、あるいは世間にもそう思わせて、
悪いことをする準備をしているように思える。
神を否定しているのも悪事には好都合だ。
481名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 20:36:21 ID:IjlGfA6p
キリスト教にも<空>に似た免責の思想がある
信仰義認・・・行為ではなく信仰だけで義とされる
キリストによる贖罪説・・・洗礼を受ければ罪は許される
482名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 20:37:22 ID:qZyXgMtn
>>479
今手元にないのですが、岩波仏教辞典には、
「有でもなく無でもなく、しかも有であり無であるという現象のあり方」
…みたいな説明がありましたよ。
実体的な有か無かという執着を離れろということでしょう。
「りんごがここに有る」と言っても、
実際に認識するのは色彩や香りや味や手触りであって、
「りんごそれ自体」を認識することはできない。
483仏教ファン 113:2007/01/26(金) 21:22:51 ID:a7pe96vp

おじゃまします m(..)m

南伝仏教の教義用語をまとめた「アビダンマッタサンガハ」には、瞬間の
心の動きを「17刹那が色法の寿命である」と記述した『W 摂路分別』と
いう章があります。この、心の動きがディジタルに観察できるという考え
方は、「倶舎論」には無いように思えるのですが、このあたりを研究した
学者さんの論文(できれば日本語で..)はどこかにないでしょうか?

よろしくお願いします。
484名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 21:32:42 ID:r3rVRtt/
>>475
りんごが空であるとは、目に見えるりんごは、りんごという主体=我=実体があるのではないと言う意味。
それを受けるテーブルが有って始めてそこにあるのであり、空気があって始めてあるのであり、
あなたの眼と言う視覚器官が有って始めてあるのであり、あなたの意識が有って始めてあるのです。
逆に、テーブルが無ければ、空気が無ければ、あなたの目が無ければ、あなたの意識が無ければ、りんごは有るでしょうか?
しかし、りんごに実体=我=主体=命=自存の性質=自性が有るならば、りんご以外のすべてが無くともりんごはあるのではないでしょうか?
でもそのような実体が無い事は先に、否定されました。りんごは他のものに依存して存在しているものと言わなければならないのです。
自分だけで存在できず、周りの他のものに依存して始めて存在しているものを真実には有るものではなく、幻であり、見るものの意識に依存しているもの、
であるから、真実にはりんごなるもんは無いという意味で、空とか無相とか言ううのです。
 あなたはどう思いますか?
485名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 21:33:53 ID:r3rVRtt/
>>480
あなたの『神』なるものを説明してください。
486名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 21:36:31 ID:mZltgRip
>>483
そこまで詳しい人居るかなぁ・・・w


ってことで、こちらどうぞ。 大概引っかかると思う。
ttp://www.inbuds.net/jpn/index.html

或いは、ここのような各大学のデータベースとか・・。
ttp://www.komazawa-u.ac.jp/~toshokan/el/ronbun1.html

東大の印哲なんかも検索ページあるかも・・。調べてないけどw
487名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 21:42:20 ID:mZltgRip
>>483
それから、こちらでも訊いてみたら?
つ原始佛教 その21
 http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1169453597/

専門の学者さんが大勢書き込んでるようだからw
488仏教ファン 113:2007/01/26(金) 21:51:52 ID:a7pe96vp
>>486, >>487

迅速にご教示いただき、ありがとうございます。

さっそく、ご紹介いただいたところを訪ねてみます。

では。 m(..)m

489名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 22:26:22 ID:qZyXgMtn
>>484
>>475
りんごが空であるとは、目に見えるりんごは、りんごという主体=我=実体があるのではないと言う意味。
それを受けるテーブルが有って始めてそこにあるのであり、空気があって始めてあるのであり、
あなたの眼と言う視覚器官が有って始めてあるのであり、あなたの意識が有って始めてあるのです。
逆に、テーブルが無ければ、空気が無ければ、あなたの目が無ければ、あなたの意識が無ければ、りんごは有るでしょうか?
しかし、りんごに実体=我=主体=命=自存の性質=自性が有るならば、りんご以外のすべてが無くともりんごはあるのではないでしょうか?
でもそのような実体が無い事は先に、否定されました。りんごは他のものに依存して存在しているものと言わなければならないのです。
自分だけで存在できず、周りの他のものに依存して始めて存在しているものを真実には有るものではなく、幻であり、見るものの意識に依存しているもの、
であるから、真実にはりんごなるもんは無いという意味で、空とか無相とか言ううのです。
 あなたはどう思いますか?

そうですね。同意します。
490名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 23:38:01 ID:mZltgRip
491名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 23:44:20 ID:8dW5k+cq
>>484
りんごがまぼろし、りんごをのせている机もまぼろし。
まぼろしの上にのっているまぼろし。
それでは目の前にあるりんごは何? 食べられないの?
あまり考え過ぎないほうがいい。
 
>>485
仏教の真如は<空>であり、<神>はどこにもいない。
それとも<神>がいるのですか。
492仏教ファン 113:2007/01/26(金) 23:57:31 ID:a7pe96vp
>>490

ご助力いただき、ありがとうございます。

123件のうち、南伝仏教系の『清浄道論』を参照している下記の2件の文献がヒントになりそうです。

  1) 金 宰晟:「『清浄道論』における刹那定」
  2) 金 宰晟:「『清浄道論』における刹那定と近行定 Samathay?naとVipassan?y?naの接点」

以上、御礼かたがた、ご報告まで。  m(..)m



1)金 宰晟:「『清浄道論』における刹那定」
2)金 宰晟「『清浄道論』における刹那定と近行定 Samathay?naとVipassan?y?naの接点」

以上、御礼かたがた、ご報告まで。  m(..)m
493名無しさん@3周年:2007/01/26(金) 23:58:19 ID:8dW5k+cq
言葉から抽象された<空>より、
 
視覚や触覚のほうが根源的て、より上位の認識であることを学びましょう。
 
言葉による認識は暗がりを懐中電灯で照らすようなもの。
 
概念でしかない<空>で事物の本質を認識するなんてムリ。転倒。 
494仏教ファン 113:2007/01/27(土) 00:02:21 ID:ZHMoAE7G
>>492

うわっ、最後の4行がダブってしまいました。

書き込みが不慣れで、どうも失礼しました。

495名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 00:17:23 ID:9Y2sQbYz
僧侶さん、あなたたちは難しい言葉を使っている。
 
しかしあなたたちが言ってることの結論は<空>じゃないですか。
 
平たく言えばカラッポ。平たく話しましょうね。
 
496名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 00:28:51 ID:DlL3fsN4
>>495
      /|
\_WW/ |WWWWWWWWWWWWWWWWW/
≫緊急指令! 緊急指令!        ≪
≫釣り師出現!               ≪
≫ピラニア部隊はただちに掃討にあたれ!≪
/MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM、\

                        |         |       .   |
                        |         |      .    |
                         j      ..    j            j      ..
     アセ               /V\      /V\       /V\ ∧∧
  アセ                  /◎:::.:..__ヽ    /◎:::.:..__ヽ     /◎:::.:..__(゚Д゚,,)
   ∧∧            _ ム::::(   .)::| _ ム::::(   .)::| _ ム::::(   .)::⊂ |
   (,,゚Д゚) イソゲイソゲ...    ヽツ.( ):::::::::.:::::::...| ヽツ.( ):::::::::.::::::...| ヽツ.( ):::::::::.::::::...||  .|
   |⊃|             ヾソ::::1号:::::ノ   ヾソ::::2号:::::ノ   ヾソ::::3号:::::ノ| |〜
  〜|  0 アセ            ` ー ‐'"‐'     ` ー ‐'"‐'     ` ー ‐'"‐' UU
  ....し'´       ∧∧
テケテケテケ      (,,゚Д゚)
            |⊃|
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           ....し'´
       テケテケテケ
497名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 00:53:31 ID:QkIf4283
>>491
>それでは目の前にあるりんごは何? 食べられないの?
あまり考え過ぎないほうがいい。

りんごを食べたいと思うのも縁起だろう?味良し、外見良し、と思うのも縁起だろう?
498名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 01:02:15 ID:QkIf4283
>>491
>仏教の真如は<空>であり、<神>はどこにもいない。
それとも<神>がいるのですか

あなたの言う(神)とはどのようなものか?と聞いているのだ。
単に世間で「神」という言葉を聞いているところの「神」であって、自分で説明できない
ものですか?一般的に、うそ偽りを嫌われるお方である、というくらいは共通していますが。
499名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 01:08:33 ID:HqNzbjnS
>>498
人にものを聞くのにいばっちゃだめでしょ。
まずあなたから詳しく語るべきではないだろうか。
500名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 11:37:05 ID:mbOJkqdE
>>498
「神」の共通性は、うそ偽りを嫌われることですか?
 
そうすると仏教には<空>と無関係に「神」がいないことになる。
 
ブッダ自ら法華経で、うそを方便として肯定する。
501名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 11:45:16 ID:QkIf4283
>>464
>縁起→無自性→空、という論理的流れ。
なのに、自性ある「もの」は空だけ…なんておかしくないですか?

無自性という自性である、と言う意味なのだ、空だけが自性あると言うのは。
 そこで、それなら、『自性』そのものを考えてみよう。
 自性とは自らの持つ性質と言う意味である。他からの影響により有るものではなく、他に影響を与えても
他から影響を受けることが無いと言う性質である。一切他から影響を受けることが無いとは、
全然他を無視している状態ではないか?その自性にとっては、他はないのであると言うべきだろう。
他のものをすべて消滅させるものと、とも言うべきではないか。
 ここに二つの自性あるものがあると誰かが言うなら、先に言った自性の性質から、二つの自性あるものは、
並存し得るであろうか?出来ないだろう?自性有るひとつのものは、他のもう一つの自性有るというものの存在を
全く認めないのであるから。そしてお互いにその様に他を認めないと言うことになるのだが、
お互いに消滅すると考えるべきだろうか?相言うことも有り得ない、自性とは、他の影響を受けない存在であるから。
相すると、この二つの自性あるものは、一つのものであったと考えを改めなければならないだろう。
かくして自性あるものは絶対的に一つのものとして、全ての他のものを消滅する存在でなければならない。
そこで、一つの相のものだけが存在するのなら、他のものと識別する相が無いと言うことであるから、
相に変化が無いと言うことであり、故に、「無相」というべきだろう。又、空間的観点から
無相を見た場合に、何も無い空間の様であるから、「空、空相、空性』というのが相当だろう。


 
502名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 12:05:56 ID:QkIf4283
>>500
わかりやすい質問にしてくれさい。
503名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 12:52:48 ID:e3Lu8Fm9
>>501 自性とは、直接認識される「それ自体」のことでは?
りんごを見たと言っても、実際には眼が光を見た。
目が光を見たといっても、
実際には眼のチャンネルが物質からの刺激、つまり痛みを感じて、
その痛みの強弱から光や色彩だと判断した。
仏教を理解するには、
瞑想によって観察者が認識対象を分析している教えだという前提を
忘れてはならない。
今・ここで、私がリンゴだと判断したその刺激は、
本当にリンゴそれ自体を知覚した刺激かというと、それは違う。
色・心・心所が縁起した組み合わせのパターンに、
リンゴだとか何だとか名付けただけにすぎない。
504名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 13:02:44 ID:8/jJ3Alc
>>502
法華経の中で、ブッダはうその効用を積極的に認めている。
 
あなたの説明では、神はうそ偽りを嫌われるわけだから、
うそを認めるブッダは神ではないことになる。
さらにはブッダをとりまく諸々の神々も当然に神ではない。
 
これはわたしではなく、あなた自身が言ってることである。
あなたの説明を法華経で確かめただけ。
505名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 13:08:19 ID:e3Lu8Fm9
>>501 無自性と自性とは、長いと短いとのような相対的な概念でしょう。
執着するなと言うために空を説き、
空だというために無自性を説き、
無自性を言うために縁起を説く。
執着の対象が消えれば、空や無自性を説く必要もない。
真実に有るものは何か…などと探し求めるのは仏教の目的ではない。
何も求めなくなるのが目的。
心が色にも心所にもくっつかず何も認識しなくなるのが目的。
認識対象がなくなるのだから、何も存在しなくなる。
真実にあるものだとか、
そういう何者も認識できないような空想上の真理を求めても、決してみつかりはしないし。
506名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 13:20:33 ID:e3Lu8Fm9
>>501 一つの相のものだけが存在するという状態は、
ブッダが悟る前に二人の仙人から習った、無色界心の禅定ではないでしょうか。
無色界の禅定とは、八段階の禅定のうちの後半四段階。
空無遍処・識無遍処・無所有処・非想非非想処です。
なお、禅定の前半四段階は色界心ですが、
アビダンマでは四段階ではなく五段階に分類するゃうです。
第一段階では、尋・伺・楽・喜・一境性という五つの心所を伴う。
それが、第二段階では尋が消え、第三では伺が消えと、
だんだん減って、
色界心の第五段階では一境性だけになる。
禅定になると観察対象との一体感(一境性)が生まれる。
そこから禅定が進むと段階的に、
尋・伺が消えて観察対象についての思考がなくなり、
楽・喜が消えて、宇宙や神と一体感などというような喜悦もなくなる。
瞑想で神と一体になりなんともいえない喜びを感じたなどという教祖様は、
仏教からみれば禅定のレベルがまだ低い。
507名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 16:01:36 ID:QkIf4283
>>504
あなたは「神」という言葉をたびたび使用するが、その神とはどのような存在であるとして使用しているのか、と質問しています。
察するところ、ただ言葉としてしか認識してい無い様に思われるが。
 それから、キリスト教の神と、ブッダの当時の神々とは、唯一神の神と多神教の神々との相違が有ることは既に言いました。
あなたの言う神は多神教の神々ですね?ブッダはその神々への信仰を捨てよと言われました。
それは真理真実ではなかったからです。
 ブッダは、真実は空であると発見されたのです。その真実を説き教える、その教えが真理です。
真実は空ですから、真理の教えも真実にはあるわけには行きません。その真理の教えのことを方便と言うのです。
教えはイカダです。空と言う涅槃に至ったならば、イカダである真理は不必要になります。この事を説いているのが、
般若心教です。心教が代表的に簡潔に説いているというだけです。
 真理の教えは、空と言う真実から見れば、真実に有るものではないので、嘘の部類にはいるでしょう。
しかし真理であることは疑ってはならないと言われていますが、その訳は解りませんか?
単なる信仰を要求する神々と真実に導く真理の教えとは、相当違うでしょう。神々も嘘偽りを嫌うと言う点では
真理の教えに近いとは言えると思いますが。
508名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 16:54:51 ID:QkIf4283
>>505
>執着するなと言うために空を説き、
空だというために無自性を説き、
無自性を言うために縁起を説く。

これはあべこべであると思います。真実が空であるから、その真実に
従う為に、執着を除くのです。
無自性なる故に空と言うのです。
縁起なる故に無自性と判断するのです。重大な転倒ではないでしょうか?
 原始仏教の中の四諦の法門の所で、最初にこの空の真実の説明が抜けていると思います。その為に何故四諦の法門があることになるのか
なかなか理解されないのでは、と思います。原始仏教経典の中には充分に空の思想が有りますから、
四諦の法門に連結して空の思想の成り建ちがあってしかるべきと思うのですが、それが無いのは、編集者の過失であると思います。
十二支縁起の法門にはその前提として縁起の法則が述べられていますね。しかしここでも空の思想が明確ではないと思います。
この不備の故に大乗仏教が起こったのではないかと思います。
509名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 17:11:09 ID:InOnZEeV
>>507
重要なのは、仏教が無神論であり、神を否定していることです。
 
<空>の話からも、あなたの神理解からも、神は否定される。
 
わたしが神を定義しなくても、それだけで話としては十分です。
 
<空>に執着したり、神を否定したりすることが
 
悪事に道を開き、自分自身から悪事を隠してしまうのです。
510名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 18:09:38 ID:QkIf4283
>>509
> 仏教が無神論であり、神を否定していることです。

あなたの神とはなにか、と再度お尋ねします。
私は、神と言う表現は単なる表現であって、その中身はブッダの言う真理真実に他ならいないと見ているのです。
神と他の原語に翻訳する時に、それは正しいかどうか、翻訳者の力量によりる所があるでしょう。困難であることが想像できます。
しかし真理とか真実とか言うと、それは道理、理ですから、表現には関わらないと思われます。
キリスト教の神は真理であると言っています。インドの又はその他の国の神々は真理であるとか真実であるとかの説明は聞いたことが無いのです。
真理を一方では神といい、他のほうでは仏とかブッダとか、さらに空であると言っているわけです。
キリスト教では真理の説明は不充分です。しかし真実から流れ出るはずの教え(これこそ真理というべきであって、真実とは区別するべきであると
思います)が同一なら、その源も同一ではないかと推測できるのではないでしょうか?
キリスト教の真実は説明不足ですが、真理の教えが仏教と同一と言っても良いと思いますから、キリスト教の真実なる神は
仏教の空のことであると言って良いと思うのです。ですから私はキリスト教の神を否定するものではないのです。
511暇人:2007/01/27(土) 18:47:21 ID:SQf4zbc3
法華経も般若心経も原始経典ではなく大乗経典なんだけどね。。

それと原始経典で神々は否定されてませんよ
原始経典では仏陀は神々と対話しています
512名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 19:24:54 ID:InOnZEeV
>>510
神については、新約・ヨハネの手紙第一に「神は愛」という話がある。
これは仏教の「空=カラッポ」とはちがう。愛は空(カラッポ)ではない。
キリスト教と仏教はまったくちがう。
 
百聞は一見に如かず・・・。言葉ではなく体験しないとわからない。
聖書の中に「命」はない(ヨハネ福音書5:39〜40)
513名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 19:52:30 ID:InOnZEeV
>>512
話がそれて申し訳ないです。ただ、仏陀がそうだったように、
ここのみんなも真理とは何かに熱心なのです。
大乗仏典は原始仏典を消化することで成立したはずです。
原始仏典も真理の探究に役立つから意味があるのでしょう。
 
法華経でも仏陀は神々を否定しません。
むしろ神々は仏陀の賛美者として登場しますよね。
わたしは<空>を問題にしてるのです。
514名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 19:56:46 ID:QkIf4283
>>512
>聖書の中に「命」はない(ヨハネ福音書5:39〜40)

命があると言っている。誤読ですね。

>愛は空(カラッポ)ではない。

 愛は唯一なのだろう?
 そこで愛とは何であるか説明して欲しい。
515名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 20:23:25 ID:InOnZEeV
>>514
それより、まぼろしの机の上にある、まぼろしのリンゴなどという
机上の空論は卒業しようよ。リンゴが食べられたらそれでいい。 
  
最澄も空海も竜樹の<空>など信じてはいない。
日本仏教は「諸法実相」によって諸法無常や諸法無我を否定している。
もともと<空>は妄想であり、山川草木悉有仏性だった。
516名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 20:57:44 ID:QkIf4283
>>515
日連か?日蓮は仏敵、獅子身中の虫。
517名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 20:59:05 ID:QkIf4283
なるほどザワールドを見よう。インダス文明の文字解読か?
518名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 21:03:17 ID:InOnZEeV
513の >>512 は >>511 のまちがいでした。訂正します。

519名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 21:15:32 ID:InOnZEeV
>>516
日蓮じゃないって。
最澄の天台法華宗だ。空海の胎蔵界曼荼羅だ。
520名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 22:04:23 ID:QkIf4283
>>519
阿、天台か?あいつが仏教の獅子身中の虫。日蓮の親。

>>515
>日本仏教は「諸法実相」によって諸法無常や諸法無我を否定している

諸法実相と言う意味は、無常無がを否定する意味か?おかしいんじゃないの?
521名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 22:31:28 ID:InOnZEeV
>>520
実相と有相とは何かちがう。ここに最澄や空海の工夫がある。
 
凡人は、諸般の事情で、<空>を否定しきれなかった先人の苦労を
しのぶべきではないか。何もおかしくはない。
今なら、はっきり宣言できる。無常無我などないよ〜ん。
522名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 22:42:06 ID:QkIf4283
>>521
おかしいとは、論理的に筋が通らないことを言うのだ。「なにかが違う」とか「工夫がある」など、
論理と何の関係も無い。論外。
 ここは論理的に説明するところ。それから最低限度の日本語を使用できなければ話になら無いと思う。
523名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 22:49:41 ID:d4cO9dlh
無常がないって仏教の完全否定じゃない?
524名無しさん@3周年:2007/01/27(土) 23:45:52 ID:InOnZEeV
>>522 >>523
わたしは<空>を否定するだけ。浄土信仰は肯定する。
 
最澄や空海の<諸法実相>が無常無我を否定する。
<諸法実相>という表現は奈良仏教への遠慮ではないでしょうか。
525名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 00:08:05 ID:Q8KGozXa
>>524
<諸法実相>が

上はどう言う意味であると言われるのですか?
526名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 00:34:23 ID:Dpvl64AQ
>>525  
諸法実相は、諸法は空ではなく、実相であるとする。
実相とは現象即実在という思想である。これは空の否定である。 
527名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 00:47:10 ID:s/0q/psm
>わたしは<空>を否定するだけ。浄土信仰は肯定する

単なるアホということが判明しました
528名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 07:12:54 ID:yYpNTFgj
>>508 仏教は、「真実とは何か」などという
知的好奇心を満たすための哲学ではないでしょう。
真実を求めるのが仏教の目的ではなく、
苦悩の消滅が目的です。
苦悩の消滅のために煩悩を消すのであり、
そのための手段が八正道、戒・定・慧の三学です。
空を知ることは、正見、智慧の実践ですが、
それは苦悩を滅ぼすためにやるのです。
529一在家 ◆03gfAyqM2A :2007/01/28(日) 08:48:34 ID:IMhIZ6UK
久々に来てみたら、「神」が話題になってますので一言。

原始仏典では、梵天を初め多数の神々(多くは自然霊)が登場します。
少なくとも仏教で神の存在は否定しておりません。

日蓮の真筆の中にも、彼が天照大神、八幡大神等を敬っていたことが
度々登場します。更に同名天(守護霊)の存在も説いてます。

分かり易く言えば、神の存在は否定せず、でも神を頼らず法に従う、
帰依するというのが仏教でしょうかね。
530名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 11:34:41 ID:Q8KGozXa
>>505
>>501 無自性と自性とは、長いと短いとのような相対的な概念でしょう。

自性あるものも無く無自性なるものもないと判断し、その上で、現れ来るものが自性あるものであると思います。
この最終的な自性は「相対的な概念」ではないです。自性のことを空:涅槃と言っています。
以下はパルメイニデスの教説ですが、真理真実は、国や人種、時代など関係無く通用するものだと思います。
引用部分が短いので理解し難いかと思いますが、参考の為に。
パルメニデスより。
いざや、私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ。
探求の道として考えられるのは、ただこれらあるのみぞ。
 即ちその一つとは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、これは説得の女神の道である「真理に従う故に」。
 他の一つとは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、この道は全く尋ね得ざる道であることを私は汝に告げる。なぜならば、汝はあらぬものを知ることもできなければ「それは為し得ぬこと」、語ることも出来ないから。
 V
 なぜならば、「思惟すること」と「あること」とは同じであるから。
 W
 現前してはいないけれども、知性には現前しているものを、しっかりと見よ。
あるものがあるものにつながっているのを切り離すことは出来ぬであろう、ーーーそれが秩序を為してあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、集まっているにせよ。
531名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 12:11:18 ID:Q8KGozXa
>>526  
諸法実相は、諸法は空ではなく、実相であるとする。
実相とは現象即実在という思想である。これは空の否定である。 

 漢文は解らないのですが、諸法実相と叙述すると、諸法=実相と解するものですか?
諸法無我と言うのは、諸法=無我でしょう。無我と言うのは諸法に主体的な命:我が無いと具体的に
説明していると解されます。しかし、実相と言うのは、何が実相であるかわからないのです。
実相が何であるかに付いて、いろいろな説がインドにおいて現れたんでしたよね。仏説においても、
そのような色々な説を前提にして実相とはこのようなものであると説いています。実相とは真実のことでしょう?
何をもって真実と言うかが答えられなければならないのではないでしょうか?
この漢文の表記の解釈に付いて諸法=実相と訳して居るものは見当たらないですね。
諸法実相は、空であるとこそ言うための準備的表現であり、諸法=真実であるというものであり、
従って、空諦を否定する言説であると言うのは狂った解釈だと思いますよ。
532名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 14:06:42 ID:Q8KGozXa
>>528
>空を知ることは、正見、智慧の実践ですが、
それは苦悩を滅ぼすためにやるのです。

これで良いんじゃない。
533名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 15:58:32 ID:Q8KGozXa
>>524
>わたしは<空>を否定するだけ。浄土信仰は肯定する。

空諦を否定して良いことを積み重ねても浄土には入ることはで居ないといわれている。

そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。

  「 胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにそ
の宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな
思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や
声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳
を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽し
みはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
 しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知
り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、す
ぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養する
ことができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさま
ざまな功徳を積むこともできる。
 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大き
な利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智
慧を疑いなく信じるがよい 」 ―――――大教




534名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 16:59:56 ID:TngDjpi0
>>528
「真理とは何か」は知的好奇心ではなく、生きるための切実な問い。
あなたの言ってるのは、仏の教えを頭から信じろと言う洗脳です。
 
>>529
このスレで神を真っ向から否定してるのは<空>論者です。
535名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 17:24:58 ID:DvEUyK9/
胎蔵界曼荼羅はこの宇宙が神の体であるという思想を表現したもの。
 
金剛界曼荼羅は悟りの観点から胎蔵界曼荼羅に序列をつけたもの。
 
空海はこの宇宙に仏性が宿っていることを語っている。
 
山川草木悉有仏性・・・諸法実相を説く最澄と同じ。
 
諸行無常・諸法無我・一切皆空はみんなウソ・・・これが日本仏教
536名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 17:47:51 ID:DvEUyK9/
日本仏教はヒンズー教です。ヒンズー教でいいんじゃない。
  
転倒妄想の竜樹、この人の<空>が消えれば仏教は正常にして健全。
537名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 21:02:41 ID:Q8KGozXa
>>535
全然仏性の意味がわかってないと思うよ。仏性とは空性のこと。
538名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 21:14:11 ID:yYpNTFgj
>>537 仏性という概念を忘れても、仏教にはさしつかえないと思います
539名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 21:28:24 ID:Q8KGozXa
>>535
>山川草木悉有仏性・

一切は空であると言う真理の言葉は、「山川草木悉」空であると言う意味を含む。
540名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 21:29:51 ID:Q8KGozXa
山川草木は、五蘊の中の《色》に相当する。
541名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 21:57:25 ID:yYpNTFgj
>>535 四諦説という基本を忘れてはいけないと思います。
諸法実相、だから何ですか?
煩悩を消さないと苦悩が消えないのです。
執着を消さないと苦悩が消えないのです。
仏性というのは、
誰にでも修行すれば煩悩を消せる可能性がある、
誰にでも悟りの可能性がある、
という程度に理解しておくべきでしょう。
煩悩の雲を取り去れば、誰にでも仏性という悟りの月が現れると言われますが、
やはり、煩悩を取り去らなければならないのです。
煩悩即菩提的な本覚思想は、
四諦説を忘れがちになりそうで、危険な気がします。
542名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 22:27:37 ID:Q8KGozXa
>>541
>修行すれば煩悩を消せる可能性がある

何が真実であるかわからないで、どのような修行が適正であるか解りますか?
543名無しさん@3周年:2007/01/28(日) 22:35:05 ID:Q8KGozXa
>>541
八正道を解説して欲しいのですが。
544名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 00:24:20 ID:LcIe+CrR
>>542 何が正しいのかといえば、四つの真理、
つまり四諦説ではないでしょうか。
また、四法印であり、五蘊や十八界ではないでしょうか。
545名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 00:31:47 ID:LcIe+CrR
>>544 煩悩を消せば苦悩が消えるということが真実だから、
煩悩を消すための修行をすればよいのでは?
546名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 16:26:19 ID:aixt2RNG
諸法の実相、即ち人間を含め一切の存在法則は、無常=無我=縁起法である。

膜妄想!

547名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 16:44:57 ID:aixt2RNG
だからね、やりたいことはゼーンブやっちまってでも、

とにかく先ず、悟りありき、ですよ。

本当のこと=無常=無我=縁起を悟って、澄み切ったこころで
世間を超越して新しく生き直す。仏教の真髄ってこれだけですよ。
それでも肉体がある以上、煩悩は出ます。肉体上の欲求も出ます。
しかし、悟れば、苦の素である生じた煩悩を客観視して、離れる事ができます。
何があっても大丈夫、平常心のそのまんまで悟り、です。
548名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 19:36:27 ID:h9V9GsYq
>>547
やりたいことやってたら逮捕ですね・・・大明神

549名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 19:41:19 ID:LcIe+CrR
>>547 あなたのおっしゃっていることは、
四段階の悟りの最初にあたる預流果だと思われます。
預流果では、無常・無我に気付くので、心身を客観視できるはずです。
それで、仏教への確信ができて、
涅槃に向かう成長の流れに乗るのです。
しかし、その段階ではまだ欲や怒りなどはそのままだそうです。
550名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 22:02:19 ID:HeGgkkQ5
自分も預流果には入っていそうだ。
551名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 23:02:40 ID:LcIe+CrR
>>550 おめでとうございます!
552名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 23:29:54 ID:h9V9GsYq
>>541
諸法実相は、この世が実体であり、<空>ではないという宣言です。
 
日本人の感性は、最澄や空海が見抜いたように、山川草木悉有仏性に
 
あります。この感性は神道的であり、この感性が仏教のヒンズー的部分に
 
共感するのではないかと思います。
 
本覚思想の、真理探求への熱心さが失われる点については、
 
まちがった考えである<空>の思想で補うのではなく、
 
キリスト教の<罪の意識>で補うべきだろうと考えています。
 
真理にとっては、神道も仏教もキリスト教も無関係ではないでしょうか。
553名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 23:34:23 ID:Kk+selTM
>>552
>諸法実相は、この世が実体であり、<空>ではないという宣言です。
 
なぜそういう意味になる?

>まちがった考えである<空>の思想で補うのではなく、

 空の思想がなぜ間違った考えか?
 
554名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 23:34:56 ID:Kk+selTM
>>552
>諸法実相は、この世が実体であり、<空>ではないという宣言です。
 
なぜそういう意味になる?

>まちがった考えである<空>の思想で補うのではなく、

 空の思想がなぜ間違った考えか?
 
555名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 23:54:26 ID:h9V9GsYq
554 それらについては既述
 
諸法実相については >>526
 
<空>については >>442 >>445 >>457>>459
556名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 08:41:11 ID:uQnBYsF0
>現象即実在

縁起を否定する根拠は?
>>445
>竜樹は縁起関係から空を結論する。しかし自生の有無が検証されてない。
自生があって、かつ縁起関係がある可能性は排除できないだろう。

もっと詳しく解りやすく説明してくれ。
557名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 14:33:55 ID:7TAApzjC
諸法=全存在の 実相=真実の様相は

  無常=無我=縁起=無自性の空なるが真理である。

従って、ゴータマ・ブッダの仏教においては、常住・永遠・不変・不滅な実体を否定する。

阿頼耶識、如来蔵、仏性、法身、びるしゃな、大日、阿弥陀、久遠の本仏、無位の真人など

バラモン・ヒンドゥ的「梵」概念迷妄であり、ブッダの仏教に反する救済神の設定である。

看板にいつわりあり。キミ達にはブッダの仏教の教えは無理だ。依頼心が強すぎる。
558名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 17:05:09 ID:rWUbvdvr
初学の徒の愚問です。
よろしかったら教えてください。

空の思想と輪廻転生の思想はどう折り合いがついているのですか?
輪廻転生で転生される実体とはなんですか?
559名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 17:14:27 ID:nQ8lnU5t
>>558
輪廻はするが転生はしないw
560名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 17:39:32 ID:K2ZsoyQj
>>558 それを言うなら、お坊さんだって
「わたし」とか「あなた」という表現をします。
「わたし」も「あなた」も空ですけど、
昨日の「わたし」と今日の「わたし」の連続は認めてます。
561 あだち:2007/01/30(火) 17:39:54 ID:FdhjLwv+

   「勝手メール」失礼します。

 ■□ 「こころを強くするメッセー」のご案内 ■□
 
   
       「幸せを得る最大の秘訣」

   幸せの秘訣、それは簡単なことです。まず
  毎朝早く起きることです。この簡単・単純な
  ことをなおざりにしているから「幸せ」をつ
  かむことができません。
  
   ところで、あなたは朝早く目をさましたら何をし
ますか。「徳」ある人は朝をこのように得あるも
のとします。

    まず「見える」ことに感謝します。「聞こえる」
ことに感謝します。この世には見えず聞こえず
何の感覚もない大勢の人がいます。

    あなたは五体正常で新しい朝を迎えること
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   謝する事です。感謝の積み重なりが「幸福」
   という形になってあなたに還ってきます。

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    「こころを強くするメッセージ」と Google 
   にて 検索してください。    
562名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 18:01:26 ID:rWUbvdvr
>>560
レスありがとうございます。

>昨日の「わたし」と今日の「わたし」の連続は認めてます。

そうなると『「わたし」を「わたし」たらしめている当のもの』
というものが連続して存在し続けていて、
それが輪廻転生の主体なのだとすると、
その主体の存在と空の思想とはどう折り合いがつくのか?
という疑問がどうしても湧いてきてしまいます。

「わたし」と言った瞬間の「わたし」はその瞬後に変化してし
まっていて連続性はない。
そのように私は無我、無常を理解しているのですが、
思い違いをしているのでしょうか?
563名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 18:32:43 ID:uQnBYsF0
虚栄心のようなものは、以下の十善戒のいずれに違反するだろうか?

(一)殺生をしない
 (二)盗みをしない
 (三)ふしだらな行為をしない
 (四)嘘を言わない
 (五)へつらいを言わない
 (六)悪口を言わない
 (七)二枚舌を使わない
 (八)貪りの心を持たない
 (九)そねみ心を持たたない
 (十)邪心を持たない

 今までの人生の中で、この十のやってはいけないことのすべてをやってしまった気がする。

 (一)殺生。さすがに人を殺したことはないが、蚊やゴキブリなどは、私の手にかかった数は計り知れない。
 (二)盗み。人の家の庭の柿や枇杷の実は、子どもの頃、よく失敬してきたものだ。お〜。畑の西瓜を盗んだこともある。
 (三)ふしだらな行為。立小便も含まれるならば、よくやった。ここには書けないようなふしだらな行為もした。
 (四)嘘。これは今でも毎日言っている。
 (五)へつらい。これも毎日の日課だ。
 (六)悪口。人の悪口ほど面白いものはないと思っている。
 (七)二枚舌。これはプロ級と自認している。
 (八)貪りの心。貪っています。
 (九)そねみの心。人の成功に対して心から喜ぶという広い心を持っていない。
 (十)邪心。もし、心という物体があるのなら私の心の半分は邪心であろう。

四の嘘を言わないに違反すると思うが。 
564名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 18:35:56 ID:uQnBYsF0
565名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 18:50:32 ID:uQnBYsF0
以下によれば、ちゃんと中道を説いてから、中道と連結して四諦の法門を説いたことになっているのだ。

八正道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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仏教
八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、आर्याष्टाङ्गो मार्गो)

「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。
この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道 (aaryaamaarga)と言う。
八正道は四諦の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。
四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、
このような総括がインドの様式のようである。

566名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 18:52:09 ID:uQnBYsF0
つづき
古い『相応部経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪)で、まず非苦非楽の中道を説き、
それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。
四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、
ついで四諦を説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、
八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。
釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。
釈尊の直接の教えからは程遠いとされる真言宗も、教相・事相の両立を説いている。
われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。

目次 [非表示]
1 正見 (samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)
2 正思惟〈samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa〉
3 正語 (samyag-vaac, sammaa-vaacaa)
4 正業 (samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)
5 正命 (samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)
6 正精進 (samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)
7 正念 (samyak-smrTi, sammaa-sati)
8 正定 (samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)
9 関連項目

正語に励みましょう!
567名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 19:35:30 ID:uQnBYsF0
>>562
「自己」と言うものと「私」というものは違うと思います。
自己とは、正しい態度を維持している主体をいい、それは、空性を維持する自分と言うことです。
常に無願に徹し、欲に引かれ無い様に我が身を保持することです。しかし、「私」
と言うのは、相対的に生じる意識です。相手があって生じると言う意味です。相対的に生じるもんは、
実体がありません。しかし、先に言いました「自己」と言うのは、空性その者です。
空性こそ涅槃で有ります。
 輪廻転生とは涅槃と正反対の状態です。涅槃は永遠の安楽ですが、輪廻は永遠の地獄です。
自己を保持せづに、実体の無い「私」に実体があると執着しますと、それに縁起してあらゆる実体の無い
もの(諸法)が生じます。これが輪廻転生です。涅槃においては、物人はすべて平等ですから、差別意識がありません。
輪廻においては、有無と言う幻、うそ偽り、もまた、平等で差別が無いのであると思います。
 以上の言説は、真理真実である、中道:空に基づいて言われなければならない理法であると思って居ます。
正語とは真理真実を説明するもので無ければならないと思います。
568名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 19:55:22 ID:uQnBYsF0
>>562
>「わたし」と言った瞬間の「わたし」はその瞬後に変化してし
まっていて連続性はない。
そのように私は無我、無常を理解しているのですが、
思い違いをしているのでしょうか?

全く連続性が無いというべきでしょう。その時その時生じる「私」は縁起したものだからです。
そして縁起しているものである以上、無我「主体性、命、実体が無いのです。)です。無常(我、命
、実体が無い以上)です。
 しかし、執着している「私」は、常に執着している以上、その人にとってあるのだと思います。
それが更に無限の縁起を引き起こすのであると思います。
569名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:41:06 ID:m0yDYHYD
空論者は、この世を空にして、あの世も空にしてしまう。
これではどこもかしこも空。。みんなまぼろし。。
 
みんなまぼろしで、どこにも実体がないというばかばかしさ。
みんなまぼろしと言うことと、みんな実体と言うことのちがいは何か。
570名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:48:10 ID:uQnBYsF0
空とは一相のことで、これこそ実体そのもので、これ以外に実体なるもんは無いのである。
諸法が実体そのものであるなどとの言説は、言う人自体が、自分が何を言って居るのか解ってないのである。
571名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:53:10 ID:rWUbvdvr
>>567
丁寧なご説明ありがとうございます。

>自己とは、正しい態度を維持している主体をいい、それは、空性を維持する自分と言うことです。

やはり主体(自己)の存在は確かなのですね。
空というのはその主体の状態あるいは属性なのかな。
つまり主体が空性という状態を獲得することが涅槃であり
輪廻の輪から抜け出すことなのかな。
そのための実践が八正道なのかな。

実体は無い。あると思うのは執着である・・・
有無と言う幻・・・
うーむ、難しい。

>>567
連続性を否定しつつ自己という主体の存在を肯定すること。
私がひっかかっているのはこの辺のことです。

もっと勉強してみようと思います。
572名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:56:02 ID:m0yDYHYD
四諦・・・苦集滅道の誤りは、
人生には苦と楽があり、楽もあるということですね。
四諦が誤りであれば八正道も誤りになるけど・・・ちがいます?
573名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:02:19 ID:zMp0BgNz
まあ人生は死に向かって流れていくレールの上を
流れていくようなものだからね。
574名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:05:48 ID:77Vt90SK
>>572
四諦においては、【「楽」がない】とは述べられておりませんが?w
575名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:12:58 ID:m0yDYHYD
>>570
空が実体だなんて詭弁だよね、実体がないのが空だから。
空が実体なら、空という言葉をやめて実体を使えばいいわけだね。
あなたは何を言ってるのかわかっていないのではないか。
576名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:30:37 ID:m0yDYHYD
>>574
四諦の苦は、この世は苦であるという真理だ。
そして真理と言うからにはあらゆるケースを網羅しているはずだ。
しかしこの世は楽しいというケースをあるから、
四諦が真理かどうかあやしいくなる・・・という疑問だ。
577名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:35:35 ID:rWUbvdvr
「実在すのは個物か?それとも普遍概念か?」という西洋哲学の普遍論争と
仏教の諸法実相と空の関係って似ていますね。

実在論の立場の人は個物の連続性を否定して普遍こそ実在するというし、
普遍を否定する唯名論者は普遍なんて名前だけで個物だけが実在するといっている。
空の概念を普遍に諸法の実相を個物に対応させると同じ図式になるような感じがする。
だけど根本的に違うんでしょうかね。
578名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:35:51 ID:77Vt90SK
>>576
仏教という枠(視線)の中での真理です。
お間違えのないようにw
579名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:01:23 ID:uQnBYsF0
>>571
【 第十二章 自 己 】
--------------------------------------------------------------------------------

157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

159 他人に教えるとおりに、自分で行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。

162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。

163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。


580名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:02:57 ID:m0yDYHYD
>>578
576の訂正  楽しいというケースをあるから → ケースがあるから
        あやしいくなる → あやしくなる
 
空の概念を、空=実体 などという言葉の遊びにしたり、 
仏教に枠を設け、枠の中だけで真理を考えていていいのか。
581名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:10:35 ID:77Vt90SK
>>580
「仏教に枠を」ではなく「仏教という枠(視線・視点)」です。
勿論それを真理【として受け取る】事は可能かと思いますが・・。

それから、「空」という概念など無くても仏教は成立します。
582名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:14:35 ID:uQnBYsF0
>>572
何を楽と言い、何を苦と言うか、それが問題なのだ。
四諦は楽をも苦と言って居るのだ。その訳は、この世間における楽というものは、
具体的にどんなものか言うことが出来る。楽そのものと言うもんは無いだろう?
それらは生じるもので、且つ滅するものであろう?つまり縁起しているものなのだ。
縁起しているものには実体が無いのだ。楽だと思って居るものを喜んでいるのは、実体の無いものを喜んでいる
ということになるのだ。恐ろしいことではないか?これは必ずその正体がばれて苦しむことが目に見えている
というべきだろう?苦しみも同様に言われなければなるまい。要するに縁起しているこの世間には
真実の楽なるものは無いのであり、むしろ、縁起して居るものはすべて実体が無いものであるから、
それらに執着するのは、苦しみを求めるものであると言うべきだろう?だからこの世間には苦しみしかないよ、と言う教えとなるのだよ。
583名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:14:36 ID:K2ZsoyQj
>>576 楽しみがあるから浮かれて判断を誤ったりもする。
楽しいというのは誘惑。楽しみが起こることも、苦。
楽しいと思いたくないのに楽しいと思ってしまうことも、苦。
過ぎ去らない楽はないのに、楽に目を奪われて罪を犯す人のなんて多いことか。
恋愛という楽のために殺人まで犯す愚かさ。
584名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:31:28 ID:rWUbvdvr
>>579
ダンマパダですね。
ありがとうございます。
585名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:42:44 ID:uQnBYsF0
>>575
>空が実体だなんて詭弁だよね、実体がないのが空だから。
>>580
>空の概念を、空=実体 などという言葉の遊びにしたり、

空だけが実体あるものであると言うことを理解するのは難しいことじゃないよ。
実体とか自性とかは、自存しているもので、他に依存した存在じゃないという意味だろう?
こう言う意味で言われているのだ。
 この世界は縁起しているものであるだろう?究極に至るまで。
縁起して居るものを諸法と言うのだ。だから諸法の数を数えられるか?諸法も無限にあるのだ。
だから諸法はお互いに縁起関係にある存在であるから、諸法のすべては実体が無い存在なのだ。
 次ぎに実体あるものとは、自存しているものだけであった。それは縁起していないものだ。
縁起していないものとは、相対的存在ではないという意味だろう?相すると自存しているもんは、
他だそれだけが存在しているものと言うことになる。単一の存在であるのだ。それ以外なにも無いと言う存在なのだ。
それなら、それは無限にそれだけでなければならないだろう?つまり単一なものが無現に存在しているのだ。これが一相と言うものなのだ。
一相なものは無相ということだ。一相と言うことは、変化が無いと言う事だから。そうすると一相の世界には、
識別できる何物も無いと言うことだろう?これを空と言うのだ。であるから、実体あるもの即ち、自存するものは、
空だけであると言うことになるのだ。これは理法で真理である。質問あるか?
586名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:51:02 ID:m0yDYHYD
>>582
混乱してませんか。570で「空とは実体そのもの」といい、
582で「縁起してるものには実体が無い」という。
変ですねえ。実体がないから空だというのではないですか。
この現実は空なのか、空ではないのか、はっきりしてくれませんか。
587名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:00:53 ID:uQnBYsF0
80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

81 一つ岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。

82 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

83 高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。

588名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:01:05 ID:77Vt90SK
>>586
縁起=一切の存在は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということ。
     故に、全ては無常であると言われる。
     (ちなみに無常を解する場合に、ネガティヴに虚しいというのでなく
      「単に移ろいゆくということ。そしてそれは、向上の可能性をも含む」と見るべきであろう。)
空=本来は「空性」というべき。もろもろの存在は縁起によって成り立っており、固定的実体がないということ。

ここでいう「実体」は、
不変で、他の影響を受けず、種々の存在にとっての根源であり(種々の存在はこれによって存在しうる)、
種々の存在に対しては影響を与え、物質的なものでなく(→通常感覚知覚できるものでなく)、
あるものを、あるものたらしめる唯一の要素(他の要素は重要でない!)と見做されるもの。
また、それのみで存在しうる(縁起するものでない)。術語では、「自性」と言われる。
この意味の実体を否定することは、個物や対象そのものの存在を否定するものではない。


【補】
色即是空=色は、空なる性質を持っている。(縁起するものである) → 空そのものではない。
空即是色=空なる性質を持つものは、すなわち色である。
        当然、受想行識についても同様に見る。


>この現実は空なのか、空ではないのか
空なんでしょうねw  
目の前のモニターも、日々聞こえてくるニュースも、街で見かけた可愛い子も、
あなたも、そして私も、空なのでしょう。

「空」とは、幻とか虚無とか何も無い事ではないのだろうと思います。
種々の存在の「在り様」を指して「空」と称しているのだと思いますよ。
(もっとも、原始仏教(少なくとも南伝の経中)からすると、少し違ってくるでしょうが・・・。)
589名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:10:54 ID:uQnBYsF0
>>586
>実体がないから空だというのではないですか。

縁起して居るものには実体が無い。縁起して居るものは幻である。縁起しているものの正体は空である。
相対的存在の正体は両方とも空である。一切は相対的存在である。故に一切は空である。
一切が空である故に、一相である。
 縁起している諸法には実体が無いが、諸法の本当の姿は空であり、空自体は自存するものであるから、
実体がある。どう?
590名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:19:05 ID:K2ZsoyQj
>>589 空は名詞じゃない。空は主語にならない。空は述語。
主語があるから空がある。観察対象があるから空だと気付く。
無相ならば、空だという判断さえなくなるのでは?
591名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:22:45 ID:K2ZsoyQj
諸法(心が分別判断する対象)は、実体のない妄想、空である。
判断を離れ、概念を否定するために、空というだけ。
なぜ実体的な真理を見い出したがるのか。
そんなものは無いのに。
空だというのは、そんなものは妄想だという意味。ただそれだけ。
592名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:27:50 ID:K2ZsoyQj
>>589 諸法の本当の姿は空…?
「本当の姿」など無い。「本当の姿」こそ空しい妄想ではないでしょうか。
何か(本当の姿など)を探してはいけない。
何も求めるなと言うために空を説くのだから。
求めず捨て去る。めでたしめでたしと物語を終える。
フッと吹き消す。
593名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:33:56 ID:m0yDYHYD
>>588
ていねいな解説、ありがとうございます。
 
要するに、縁起しているものには実体がなく、実体がないものを空(相)
という、でいいわけですよね。
 
さて現実が空かどうかですが、そういう認識にどんな意味があるのか
という疑問がわきませんか。リンゴが空であろうがなかろうがどうでもいい
のです。食べられたらそれでいいのではありませんか。
そうすると空は無意味な空論になりませんか。
594名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:42:39 ID:K2ZsoyQj
>>593 空は無常とセットでしょう。
リンゴの味は食べたら過ぎ去っちゃう幻。
595名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:45:01 ID:77Vt90SK
>>593
そうです。
だから、原始仏典には空の記述が少ないのです。
(また、その意味するところも大乘のそれとは異なっているでしょうw)

執着・とらわれ・対象の固定化 etc. への戒めとして「空」を受け止めるべきでしょう。
また、「(大乘的(哲学的))空」の誕生は、
法有等への反駁・アンチテーゼとしてのものだったことも心に留めておくべきでしょう。
また、「空」という概念の一人歩きにも気をつけた方がよさそうです。
今は、もしかしたら誕生時とは似ても似つかない「空」になっているのかもしれませんよw
596名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:47:38 ID:m0yDYHYD
>>581
仏教という枠(視線・視点)でもかまいませんが、それって洗脳では?
空がなくても仏教が成立する・・・その理由が聞きたいですね。
597名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:54:10 ID:uQnBYsF0
>>591
>空だというのは、そんなものは妄想だという意味。ただそれだけ。

そうではない。これではニヒリズムに他ならないだろう。
真相は空であると言う意味なのだ。諸法実相の意味は、諸法の本当の姿は、と言う意味であり、
それは空であると言うのが仏教である。実相と言うのに応じて、空ではなく、空相と言うべきか。
実相とは真実と言う意味であるから、それが空しいと言う意味にとってはならないだろう。
空しいと言う意味はつまらない、避けるべきものと言う意味。空相は避けてはならない、知るべき真実である。
確かに重複しているところがある。

>>592
>何も求めるなと言うために空を説くのだから。

この世の苦しみは無いと言う真理真実が空なのだが、その真理真実を体得するのが修行の目的である。

>>590
>無相ならば、空だという判断さえなくなるのでは?

要するところは、諸法に迷って居るものを教導する教えとして存在している表現なのであると違うでしょうか?
598名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:58:47 ID:m0yDYHYD
>>594
リンゴを食べたことを幻と言ってみてもねえ。
ほとんど無意味なのでは。別に幻だなんて言わなくてもいいのでは。
この現実を真実だと思って生きるほうがよっぽどいいのでは。
幻だと思ったらどうでもよくなるのではないのですか。
空など何の役にも立たないのでは。
599名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:58:48 ID:77Vt90SK
>>596
洗脳ではなく、「信」といって欲しいところだなw
或いは、「出かける時に車をやめて徒歩にするような選択」とでも言おうか・・・。
自身(或いは世界)を見つめる際に、仏教という色眼鏡を使用するということ。
眼鏡を掛けるかどうかは個々人にお任せ。
少なくとも私は、釈尊の視線が妥当なものであると思えるから仏教という眼鏡を使用している。
そしておそらく、この世の在り様に対する姿勢としては、
「真理」として扱っても構わないだけの鋭さがあるだろうと思う。


「空」と言わずとも「縁起」で十分ということ。
600名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 00:03:19 ID:77Vt90SK
寝ます。


ノシ
601名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 00:04:53 ID:uQnBYsF0
>>593
>要するに、縁起しているものには実体がなく、実体がないものを空(相)
という、でいいわけですよね。

違う。実体の無いものは幻とでも言うべきもの。真相が空であると言うことである。
真相とは実相:真実と言う意味。
 幻は実体の無い者で、存在していないのである。存在して居無いものを論ずることは出来ないのである。
論じ様としても矛盾して、語ることができないものであろう。
>>530
即ちその一つとは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、これは説得の女神の道である「真理に従う故に」。
他の一つとは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、この道は全く尋ね得ざる道であることを私は汝に告げる。なぜならば、汝はあらぬものを知ることもできなければ「それは為し得ぬこと」、語ることも出来ないから。
602名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 00:15:09 ID:qDSHl+9B
>>597 やっぱり混乱してるように思います。
 
>>599
縁起は単なる因果関係です。言葉の相関関係と同じ類で、単なる
認識方法ではないですか。仏教である必然性はないでしょう?
603名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 00:17:18 ID:eYD0Hmx9
>>597 空しくてつまらないから、避けるべきなのです。
心が幻をいやになって対象を捨て去る、滅尽定、平安なる滅びが、涅槃。
仏教の悟りは出世間心です。幻である世間から離れる。
色界の禅定の初期では、対象との一境性に楽や喜を伴うため、
これこそが宇宙の真理だなどと、禅定の境地に執着してしまうそうです。
しかし、禅定が深まり色界心の最終段階になれば、
楽や喜も消え、一境性だけになるそうです。
色界心はまだ物質に束縛された心ですが、
観察対象との一如の境地になるのです。
そういう禅定の境地を真如だとか実相だとか勘違いして、もてはやしてはいけない。
禅定は、まだ心が対象をつかまえている。
心が滅尽するのが涅槃です。
真理や実相なども捨て去り、消えてハイおしまい。
604名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 00:26:18 ID:eYD0Hmx9
仏教は、戒・定・慧の三学。
定とは、禅定・三昧のことです。
これには、色界心の禅定と無色界心の禅定がある。

慧とは、観察・智慧・悟りのことです。
悟りの心は出世間心と呼ばれ、四向四果という悟りの段階があります。
出世間心とは、
心が何の対象もつかまえない、滅尽定の瞬間を体験したことで気付く心です。
そこには、
実相とか真如とか空性だとかいうようなすばらしい何かがあるはずないのです。
なぜなら、心が何もつかまえず認識がストップするのだから。
滅尽定を体験すれば、世間は幻だと気付く。
605名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 05:54:48 ID:WhXgut76
問う者 としての投稿者

「世間は幻だと気づく」、すばらしい何かがあるはず。
606名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 08:23:22 ID:eYD0Hmx9
妄想を妄想だと気付くだけでしょう。
残るのは、過去の業の残り火だけ。
ただ機械的に、止まるまで動くだけ。
607599:2007/01/31(水) 10:30:37 ID:DGdXPqR2
>>602
> 縁起は単なる因果関係です。
そうですね。
>単なる認識方法ではないですか。
そうですね。

>仏教である必然性はないでしょう?
縁起のみであれば仰る通り、仏教である必然性はありません。
座右の銘として仏語を受けとめ、日々の生活に個々が活かしてゆけばよいでしょう。
その意味で仏教はすごく簡単な教えなんですよ。(哲学的側面は別としても・・。)
では、なぜ難しいのか(困難なのか・難行なのか)?
そこに、自らを律し、一つ一つの行為が善なるものであるように、涅槃へと向かうものであるようにすることが難しいのです。
(縁起に基づいて)執着を離れることが難しいのです。

また釈尊は、縁起を説くと同時に修道の方法もまた説いています。
だから、四諦八正道はセットの言葉としてよく用いられるし、仏教を特徴付ける大きな要素かと思われる。
出家在家を問わず、より苦悩の少ない生へ向かうベクトルとして、教えはある。
仏語に出会い、頷き、共感し、敬意を表するならば、仏教を選べばいい。
理解はできるけれども、共感しないとか、実践面で自分に向かないとなれば選ばなければいい。
人生の杖となるもの(視線)は他にもある。

2500年前、釈尊によって、縁起・四諦という「視線」が提示された。
あとは、出会った一人一人がどう受けとめ活用してゆくかでしかない。
縁起という理の周縁、及び縁起を基軸にした身口意の行為にも目を向けたとき、
仏教である必然性が生じるのだと思います。
608599:2007/01/31(水) 10:41:49 ID:DGdXPqR2
ちなみに、仏教と称するのは後代のラベルとしてだと思います。
最初期は釈尊の言葉しかなかった。
彼の人生観でしかなかった、とも言い得ると思いますよ。
そのようにみれば、「仏教である必然性」という謂いはあまり意味が無い。
逆に言えば、「縁起を基軸とした視点を持つこと」を「仏教」と括ることも可能かもしれない。
609名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 18:07:15 ID:OVYDOMA/
>>602
>やっぱり混乱してるように思います。

何処が混乱してる?


 
610名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 19:49:28 ID:qDSHl+9B
>>607
おっしゃってること、よく理解できました。
最終的に何を信じても個人の自由だろうと思います。
  
ここでは、何かテーマがあり、それについて主張し反論し、
それらに<理由があるのかどうか>を吟味する・・・理由の吟味です。
自分を押しつけなければいいでしょう。
611名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 19:57:54 ID:qDSHl+9B
>>609
それでは聞きますけど、空の具体的な中身は何。
真実や真相や実相ではなくて、もう少し具体的に説明してほしい。
612名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 20:46:42 ID:OVYDOMA/
>>611
何も無いんだよ。これがどう混乱してる?
613名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 20:52:33 ID:eu/n7u8i
じゃ生きる意味もないの?
614名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 20:59:41 ID:OVYDOMA/
>>613
生きるってどう言うこと?
615名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:02:12 ID:OVYDOMA/
何も無いのが真実として認めるもんは、生きることとか、死ぬこととか何かを知るとか、
忘れるとか、何であろうが、そのようなものが有ると思わないのである。真実に従う故に。
そして真実に従う故に、彼は、あらゆる重荷を肩から下ろしているのである。
 と思うが、あなたはどう思いますか?
616名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:25:28 ID:OVYDOMA/
仏の知恵に従うもの(菩薩)は以下の様であるととかれている。始めの部分だけを引用します。後は自分でお読みください。
以下のサイトの大教には、浄土の姿も説かれている、参考に読んで見れられると良い。

http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub25.htm

(30) さらに釈尊が阿難に仰せになる。

  「 無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常
に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。
 その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それ
に執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどま
るのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何
ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競
い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与
えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持
たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。
つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深
い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜
ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。

 またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべ
てその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を
修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、
清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を
自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、
すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさ
またげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界
617名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:37:51 ID:qDSHl+9B
>>615
(縁起しているものには)実体がない。
実体がないものは幻 >>601 これがあなたの主張です。
そして空は何もないこと >>612・・・これもあなたの主張です。
そうすると空は、幻のようなものであり、実体がないものになりませんか。
普通の用語法では、あなたが<幻>というところで<空>という。
そこで空を使いたくないなら、話の最初から検討するべきでしょう。
618名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:00:44 ID:309nxAii
>>616
おいおい「仏説」なんてインチキやないか!

 嘘つき妄想経は論外

ブッダは超空虚な「菩薩」なんて説いておられない。
619名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:22:30 ID:PSWJwFGE
>>617
真実として、そこに何も無いのにりんごがあると見えるとき、そのりんごは幻であるというだろう。
何も無いと言う真実を空「空性、空相」と言い、幻を妄想・虚妄と言うのである。
真実と虚妄の違いだよ。虚妄の世界に騙されないで、真実である空相に従うようにしなければならないのだ。

>>618
原始経典で、修行僧とか求道者とか訳されて居る者は、大乗の菩薩であると言うべきです。
法華経においても、シャリホツ等の声門などとされていた者達が、菩薩と訂正されている。
 原始経典で、修行者はかくあるべき、かくあるであろうといわれているそれは、大乗の菩薩の説明であります。
 
620名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:23:37 ID:b0HlAEBI
 大乗仏教では嘘つき、でっち上げ、虎の皮をかぶったキツネ

なんでもござれだな。
 
 当然、自称「仏教」もゴータマブッダの教えではないと言う意味で、大嘘だ。

北伝は大乗経典で、中国人特有の道教とはちゃめちゃ乱交の末に禅宗ができて、

ヒンドゥも頑張って中国で「密教」に変態し、ナイーブ日本人が何が本物かも知らずに、

得意の物まね輸入した。そこでまたまた日本のご先祖崇拝アニミズムとはちゃめちゃ乱交して

ゲテモノ複数日本仏教のできあがり。もちろんブッダご本人のは責任はない。

鎖国の影響もあり、これが幕末まで続く。

真の本物仏教は、ブッダ成道後2350年もたって、ようやくヨーロッパから伝来した。

情けない。

 日本の「仏陀」とは俺の事か?とブッダいい。
621名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:32:11 ID:PSWJwFGE
>>620
仏教の基本的教理は大乗においても少しも代わっていないと思います。外形的な
、仏教の基本的教理を変えない変化は認められますが。
622名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:42:40 ID:5I4FcMzq
>>619
机の上には継続してリンゴがのっている。それを見て
何もないと言う人もいるし、いや幻を見ていると言う人もいる。
どちらも同じ、どちらも真実ではない。
>619 どうした? わけわかんない空論で混乱してないか。
623名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:45:45 ID:b0HlAEBI
だいたい、日本の坊主どもが日本語ではなく、漢訳経典をそのまま
仏壇やお墓に唱えるスタイル自体がナンセンス極まる。
 日本語で生きている人間にお経を読んであげる、のが本当だろう。
 存在の実相が無自性空なら、霊魂なんて妄想で仏壇や墓には霊魂なんかなく、
単なるモニュメントにしか過ぎないと、はっきり表明したらどうだ。
遺骨や、仏像などへのモノ、偶像の崇拝は仏教精神ではない、とも表明してはどうだ。

葬式仏教はブッダの仏教ではない。
624名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 01:13:51 ID:5I4FcMzq
>>623
おっしゃってる通り。そうなんだよねえ。空論者は現実を忘れてる。
頭をひっぱたかれないとだめかのう。
625名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 11:37:41 ID:T+G0oYIZ
>日本語で生きている人間にお経を読んであげる、のが本当だろう。
日本語で唱えれば何でも日本人は理解できる・・・・
有る意味正いが、有る意味間違い。
君は日本語で書かれたものは何でも理解できる?
六法聞かせてあげようか?
その代わり、ちゃんと理解してねwww
626名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 11:44:10 ID:+HICBmHa
>>620
平川彰『仏教通史』ぐらい読もう。
627名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 12:24:50 ID:OyIfG4To
>>623
無色界(物質に束縛さずに動ける心)に属する梵天などの存在は、
仏教でも認めますよね。
物質を伴わないんだから、科学では扱えない、
禅定の世界だけど。
628名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 12:28:58 ID:OyIfG4To
>>623 原典のまま次の世代に伝承する方法としては、
原文を読み合わせするのも有効な手段だと思う。
極端な話、仏教弾圧でテキストを焼かれたりしても、
口伝えで暗唱してればなら次の世代に遺せるし。
もちろん、意味を理解してないとダメだけど。
629名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 12:32:54 ID:OyIfG4To
中国人の過ちは、
漢訳したあとで原文を紛失して漢訳だけ残ってたりすること。
逆に日本では、伝わってきた漢文のテキストをちゃんと保存できてる。
630名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 16:53:55 ID:T+G0oYIZ
>623
日本仏教に批判的な人は、よくこういうことを言っていますね。
その通りなんだけど

でもね、例えば漢訳仏典を現代中国人が聞くだけ、読むだけで理解できるわけじゃない。
また玄奘訳の経典を唐代の人が聞いてすぐ理解できたわけではない。
さかのぼってサンスクリットのテキスト
サンスクリットの読み書き、会話どのくらいの人が出来たと思う?

言語が何語であれ勉強しないことには理解できないものです。
翻訳しないほうが、かえって誤読が無くいい場合もある。
経典を理解させる努力と経典の言語は別だと思う。
631名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 17:26:12 ID:NrezN6mT
ブッダはそれぞれの国の言語で私の教えを学ぶことを許す。雅語(サンスクリット)に
訳することは認めない、とか言っていますね。(律蔵)
632名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 18:46:04 ID:PSWJwFGE
>>622
>机の上には継続してリンゴがのっている。それを見て
何もないと言う人もいるし、いや幻を見ていると言う人もいる。
どちらも同じ、どちらも真実ではない。

俺は混乱していると思わないけど、お前は混乱していると思うよ。
察するに、今だ空諦がよく理解されていないようである。
りんごが存在していないと見るのは、智慧の眼に拠って見るのである。
智慧の目とは、相対的存在は自性を持たないと言う判断である。
智慧の目が中途半端であるので、混乱しているのではないか?
一切は縁起しているもので在るから、一切は空であると言う時、
その一切にはいかなる例外も無いのだ。一切は空であると言う判断は、
一切は縁起であると言う判断を征服し包含する。
633名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 18:53:20 ID:PSWJwFGE
>>627
>科学では扱えない、禅定の世界だけど。

六波羅蜜の、禅定は、般若に智慧に安住することであると思う。であるから、
禅定の完成は、知恵の完成となるのである。
 それから、科学の世界は禅定の世界と別にあると考えるのは間違いである。
科学の世界は般若の智慧からは消滅しているのだ。科学の世界は縁起の世界なのだ。


634名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 18:57:09 ID:GxhUJjGn
>>632
>その一切にはいかなる例外も無いのだ。一切は空であると言う判断は、
>一切は縁起であると言う判断を征服し包含する。
だから、「空」を前面に押し出すスタンスは危険なんだよw
2chやネット内に溢れる「空」思想を御覧なさい。 まさに空っぽだw
また、空厨と心経厨は大抵被っている気がするwww

あくまでも、視点の一つであるという自覚を忘れてはならない。
忘れた瞬間に、自身が「空」に飲み込まれ、全てが虚無と化すだろう。
そこに三宝はあるのか?帰依はあるのか?信は?戒は?定は?
縁起は?苦の滅は?
そこに釈尊の涅槃はあるのか?
635名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 18:57:09 ID:AamTJPzm
>>630
インド人のゴータマは、日本語でインド人に説いたのかな?
原語にこだわりたいなら研究室だけにしたらいい。
サンスクリットを処分した中国人はえらい!
言葉にこだわってるうちはダメなのだ。
636名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:03:23 ID:PSWJwFGE
この設問に答えて欲しい。
番町皿屋敷の話がある。詳しいことは知らないが、要するに、あるおんなのしょうじきな使用人が、
食器の管理をしていて、ある時、その数を数えているとどうしても一枚足らない。
何回数えても一枚足らないのであった。その訳は、悪い同僚が一枚抜き取って、彼女を貶めようとしたためであった。
 ここにおける縁起と空の関係と、執着と苦の関係を説いてみて欲しいのだ。 よろしく。
637名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:09:35 ID:PSWJwFGE
>>634
>そこに三宝はあるのか?帰依はあるのか?信は?戒は?定は?
縁起は?苦の滅は?
そこに釈尊の涅槃はあるのか?

まさにここにのみこれらがあるのであり、ここ以外にはないのである。
638名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:09:53 ID:GxhUJjGn
>>636
その必要があるのか?w


てか、問い方が、既に何らかの答え(或いはアウトライン)を自分は持っていてそれと照らし合わせたい、
というものに見えるが?
639名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:18:52 ID:PSWJwFGE
>>638
もちろん俺自身も何ほどかの考えを持っている。しかし、この問題を考えることは
有意義と思うのだ。
 ここには、盗みと盗む人、完全な縁起と不完全な縁起の理解、空諦の教養の無い人、などの問題がある。
640名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:46:55 ID:NrezN6mT
>>627 ちなみに梵天は色界地なんだが・・・。表を貼り付けてくれたいが大きすぎてエラー
となるのでこんなもんで・・・
http://72.14.235.104/search?q=cache:SIkZCzp5jxUJ:www.dhammarain.org.tw/canon/Abhidhammatthasangaho/Abhidhammatthasangaho-5.doc+%E8%89%B2%E7%95%8C%E5%9C%B0&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=22
641名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 20:13:26 ID:PSWJwFGE
>>639
俺自身の問題、つまり反省、したいのだ。
642名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:36:09 ID:MtBWUvk5
>>639>>641
なるほど。
ところで、
>完全な縁起と不完全な縁起の理解     は、
「完全な縁起」についての理解と「不完全な縁起」の理解ということ?
それとも、
縁起についての「完全な理解」と「不完全な理解」ということ?
643名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:40:22 ID:PSWJwFGE
>>642
>縁起についての「完全な理解」と「不完全な理解」ということ?

これですねw。

644名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:10:29 ID:PSWJwFGE
番町皿屋敷の話はいくつかの筋があるようで、俺が言ったものそのものではない様ですが、
問題とすべきところは、この使用人が、皿の数が足りないことに付いての縁起の法則の適用が不完全でなかったかと言うことである。
数が足りることも縁起であるが、数が足り無い時も、その原因が必ずあるはずであると考えるべきであったのだ。
所がこの使用人は、自分を疑うに至ったのである。疑ってはならないのに疑ったのである。
自分の過失であるか、それとも他人の故意による窃盗であるか、この可能性に思いを致すべきであった。
 この使用人は、そもそもスパイとしてこの家に奉公したものであった。つまりこの使用人そのものが、個人情報を
窃盗する人であったのである。従って、自分が窃盗されて居る時に、確固とした自己を維持できなかったと言うべきではあるまいか?
ここで言えることは、誰でも自ら悪をなしてはならない、もしするなら、その結果を免れない、と言うことである。
 そこで、この使用人が、自己に原因があろうと他人に原因があろうとその他の自然現象に原因があろうと、
難であろうと、必ず皿の足りないのには原因があるのであり、それなら、この皿の足りないことも、その原因も
実体のないものであるから、決然として、皿の足りないことを罪としないで、主人の前に出る必要があったのである。
これが信仰と言われるものではないだろうか、と言うことである。
 どう思いますか?
645名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:19:59 ID:PSWJwFGE
>>644
自己も対境もすべて空であることを疑ってはならないのである、と思うのです。
これが信仰。
646名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:23:44 ID:PSWJwFGE
この世間の事象はすべて縁起しているものであり、縁起しているものは全て、人の罪から生じてきている。
我々は自分の罪、他人の罪の只中にいるのである。縁起している世間にいる限り、又は、縁起している世間(世界)に生まれてきた限り、
この罪から逃れることは出来ないのではないでしょうか?つまり一切は苦なのです。
647名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:27:22 ID:PSWJwFGE
そして、決して、誰か他の人に正義(正法)を期待しては行けないのです。
ただし、仏様以外は。これが法灯明、自灯明。
648名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:32:47 ID:PSWJwFGE
この哀れな使用人の体験は、人事と考えてはならないのです。仏の知恵でなければ救われる道はないのでは。
仏の知恵のの世界が一相であると同様に、地獄の世界も苦(嘘偽り)というものにおいて一相なのではないでしょうか?
649名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:42:10 ID:PSWJwFGE
273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。
274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

○278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

実に以上の様であり、278の「形成されたもの」とは縁起したものと言う意味であり、どうして形成されるのかと言えば,人の執着が生じるからである、と言うべきではないでしょうか?
650名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:49:32 ID:PSWJwFGE
決して人は自分の為した善行悪行を執着してはならない。善行は良いとして、悪行
は反省して今後し無い様にしなければならないと考えることすら、究極においては、
執着であるから、しては行けないのである、といえないでしょう化?避けるべき悪は、
一つに、執着なのである。
651名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 10:18:05 ID:U/XhcdLr
執着しないということは、無視する・排除する・ということではない。
文字通り「とらわれない」ということだ。
善行を重ね悪行を離れるという在り様にも、
執着はしないが援用はする、という姿勢が重要であろう。
「空」や「無所有」「融通無碍」「一切を放下する」など様々な言辞は、
視線として、基盤として持つべきものかもしれないが、
それを、そっくりそのまま日常に、全ての事象に適用するのは本義ではなかろう。
勿論、出世間(出家遊行生活)に於いては、完全に排除される事象・概念もあろう。
しかしながら、ヒトが、他と関わりをもって生きざるを得ないものであるなら、
常識的な部分を(行為に於いて)採用することは、為されなければならない。
それが、仏の(比丘の)戒というものではなかろうか・・。(参:梵網経・沙門果経)

極論こそが避けられるべきだと思われる。
652名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 12:49:58 ID:HHvFEf0v
>>651 悟りは段階的なものです。
初めの預流果の悟りで、無常・無我に気付き、
自己をある程度客観的に見られるようになり、
仏教にも確信をもち、修行が進みだす。
しかし、欲や怒りなどはそのまま。
次の一来果で、欲や怒りが減る。
さらに次の不還果で、欲や怒りは完全になくなる。
この時点からは、もう俗世間での在家生活はできないらしい。
出家して、阿羅漢果をめざして修行するしかなくなる。
653名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 12:53:57 ID:HHvFEf0v
すべては無常・空だと知っても、
それですぐに煩悩が消えるわけではない。
よく気をつけて冷静でいるときには大丈夫でも、
トラブルがあったりすると怒りや欲にとらわれる。

預流果で消えるのは、疑と有身見と戒禁取の三つの煩悩だけ。
654名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 14:12:50 ID:U/XhcdLr
仏教に於ける「見」ということを少しく言い換えるなら、
「そのようにみる」ということではないか?
「如実に見る・あるがままに見る」「厭うべきものと見る」「近づくべきものと見る」など、
ある基準(釈尊の示された諸々の教え)に寄り添った視点を持つということではないか?

諸法、諸行は、【そのように】見られるべきものであって、必ずしも【そのようなもの】そのものではなかろう。
(よしんば、【そのようなものそのもの】であったとしても、それは、
 『仏教という枠組み』、『仏の立場から見て』、『悟りの世界では』、『涅槃に資するかどうか』
 等の基準に於いてそうであるだけだ。 仏教外の価値観にとっては、種々の概念は無用の長物であろう。)

これは、特に「空」等の術語が使用される際に注意されるべきだが、
(文法的読みは別として)「○○が空である」と言われた時、○○が『空そのもの』であるわけではない。
『○○は、空なるものとして見られる』ということであろう。
五蘊皆空と言われた時も、五蘊が無いわけではない。五蘊は空なるものとしてあるだけだ。
(だから私は漢訳心経があまり好きではないw ズレた読み・極端な読みを誘引する要素が多すぎる。)


文法的に「〜である」と述べられていても、それは必ずしも普遍としての真理として「〜である」わけではない。
655名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 14:50:21 ID:BDwltc2Y
>>646
何で苦なんだろうね。楽でもよかったのに。
これは御釈迦さんでもわかんないでしょ。

仏教は小難しく哲学の様なものだね。
これじゃ普及しないよね。
仏教国がイスラム教に改宗していったのが分かる機がする。
656名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 14:55:26 ID:FaQwQLB7
>>652
そんな四果より五道があるでしょう。
水野弘元先生『仏教要語の基礎知識』ぐらい読もう。
657名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 16:34:54 ID:5tFxc25p
>>646
一切皆苦と読むと>>655となる。
Sabbe sańkhārā dukkhā
だから、形成されないものは楽なのよ。
658名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 16:44:56 ID:FaQwQLB7
形成されないものは、残念ながら涅槃しかないのが原始仏教じゃない
659名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 17:36:50 ID:5tFxc25p
形成されないものが涅槃であるというのはその通りだが涅槃だけだったかね。
また、今の文脈は一切の中に涅槃が含まれないないのなら一切が一切でなくなるし、
涅槃を含んで一切なら理に合わないというお話よ。
660東アジアニュース速報+:2007/02/02(金) 18:23:37 ID:bxTZF0/4

東アジアニュース速報+ 板
ttp://news21.2ch.net/news4plus/

【寺院襲撃事件】背後に盗品転売組織か 韓国人が住職に売りつけに来ていた [02/02]
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1170394346/

【犯罪】 韓国人が国重文の仏画狙い寺襲う 二名は母国へ逃亡 ★2[02/01]
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1170328067/
661名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 18:53:14 ID:m3VQXCa0
>>659
>また、今の文脈は一切の中に涅槃が含まれないないのなら一切が一切でなくなるし、
涅槃を含んで一切なら理に合わないというお話よ。

涅槃を知らない人に教えるケースなのだ。涅槃を幾らかでも知るようになる時、その時両方を見ることになるから、
その時は、涅槃も求めず、輪廻も求めない、と言う修行になるのでは。
確かそのような真理の言葉があった。以下はそれと少し関係があるかも。
418 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、
──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。 ―――― ダンマパダ

662名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 19:12:09 ID:m3VQXCa0
>>655
縁起している苦・楽は実体のないもの、虚妄だから。
663名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 20:30:48 ID:U/XhcdLr
>>659
>>657のパーリ文を例にとれば、
「一切」は「諸行」を修飾しているだけ。「(一切の)諸行は」という読みになる。
決して、『一切が』という意味ではないことに注意する必要があるのでは?
また、たとえ日本語で「一切」とのみ言われたとしても、それは「諸行について言われた」と解するべきかと思う。
パーリ文において、sabba のみで何かが示されることはないんじゃないのかな?
必ず 『sabbe ○○』という形になるんじゃないかな? (→詳しい人の降臨キボン)

ここが、日本語訳の弱点かもしれない・・・。
仏教に於いて「一切」と言われる時は、必ずしも「微塵も例外のない一切」ではないだろうと思うのだ。
常に、条件付の一切であろうと思われる。 「一切智者」然り、「一切皆苦」然り、「一切法」然り・・・。
(ま、その例外は「涅槃」のみだと思ったが、言われるように、あと何かあったような気もする・・・。
ま、おいらは所詮この程度ってことかw)
664名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 20:55:12 ID:5tFxc25p
sabbe sańkhārā
 諸      行
だから。「(一切の)諸行は」──この辺りも言うなら「一切の行は」となる。
>また、たとえ日本語で「一切」とのみ言われたとしても、それは「諸行について言われた」と解するべきかと思う。
ここは無理あるよ。そんな以心伝心は勘弁してよ。sabbe はここでは形容詞でしょ。
それなら、「一切皆苦」の原語は何? と、突っ込みたくなるあるよ。それではっきりすると思うよ。
漢訳は(サンスクリットからの)翻訳自体に問題が多いのと、日本語における漢字の用法から誤解を生じやすいので気をつけたほうがいいと思ふ。
665名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 21:01:51 ID:HHvFEf0v
>>656 五道(または六道)輪廻の五道のこと?
四果より五道とは?意味がよくわかりません。
五道は五種類の迷いの生で、四果は四段階の悟りでしょう?
666名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 21:48:01 ID:m3VQXCa0
>>663
>常に、条件付の一切であろうと思われる。 「一切智者」然り、「一切皆苦」然り、「一切法」然り・・・。

どのような条件がついていると思っているのですか?
667名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 23:45:24 ID:m3VQXCa0
>>654
>五蘊皆空と言われた時も、五蘊が無いわけではない。

五蘊がなくなるのだと思う。五蘊があると思わなくなるのである、というべきか?
その時はやはり、五蘊はその人に取りなくなるんであろう。
668名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:49:20 ID:U5Ubiq8E
人生には苦と楽があるのに、
 
なぜ仏教は苦だけに目をつけて<一切皆苦>というのか。
 
ブッダが悲観的、厭世的な性格だったからではないか。
  
ブッダは自分の子どもにラーフラという名前をつけた。ラーフラは悪魔。
 
これもブッダの悲観的、厭世的な性格を証明する。
  
幼いときに母親を亡くしたことが影響してるのではないか。
669名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 00:59:49 ID:uurfKW8M
>>668 ラーフラの名前が、釈迦族の中で悪い意味名前だったのかは疑問。
シッダールタの出家のタイミングにしても、
王族の後取りとなるべき息子を生んだことで
自分の役目を果たせたから、決意できたのでは?
670名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 01:22:48 ID:Lxmc1f+f
ラーフラが悪魔は、宗教学者の山折さんの新聞記事から。
  
それまでは「障りある者」だと思っていた。いずれにしろ悪い意味。
  
妻子を捨てて出家することの善悪もあると思う。
 
仏教の慈悲には、ブッダの母親への思いがあるような気もする。
671名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 12:42:32 ID:APPE4yGO
>>668
>人生には苦と楽があるのに、

>>>662 縁起している苦・楽は実体のないもの、虚妄だから。

662の説明に同意できない理由は何ですか?
672名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 13:42:24 ID:ijEv3a3E
人生に苦楽あり・・・ブッダは<一切皆楽>と悟ることもできた。
それなのに<一切皆苦>と悟った。ここが奇妙なのではないですか。
 
人生は長いようで短い。苦労ばかり多くて楽しいことはわずか。
そのわずかな楽しみを、思い切り楽しみたいではないですか。
 
そんなとき「楽しみは虚妄だから目を覚ませ」と言われたとしよう。
何かと耳を傾けたら、「人生は空であり、神も仏もみんなウソ」などと
説いている。まるで不幸からの使者のようじゃない?
 
しかしそれだったら楽しんでるほうがいい。
苦を選ぶか、空を選ぶしかない教えなら、楽しんでいるほうがいい。
673名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 13:56:43 ID:cuWUU62x
苦は苦しいという意味ではなく、本来の意味は
永遠なものはなくなにもかも移り変わって虚しいということ。
674名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 15:16:56 ID:uurfKW8M
>>672 遊ぶために借金しても、あとで返済が待ってる。
快楽はすぐ過ぎ去る。怠けたぶんだけ苦しみがやってくる。
一切が苦しみならば、一切から離れればよい。
一切とは、眼耳鼻舌身意の六根・色声香味触法の六境・眼耳鼻舌身意の六識の十八界のこと。
一切皆苦とは、十八界が皆苦しみであるという意味。
十八界から離れれば、苦しみも消える。一切が消えるから。
675名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 16:01:20 ID:JWNJ6WXR
>>673  
それは<諸行無常>でしょう。苦は思い通りにならないから生じる。
しかし思い通りにいくときもある。そのときは楽しめばいい。
 
>>674  
借金して遊ばなければいい。そうじゃなくて試験に合格したとか、
好きな人に会えるとか、そういった類の楽しさです。
苦労のあとの楽しみ、ここまで否定しなくてもいいでしょう。
676名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 16:13:05 ID:cuWUU62x
>苦は思い通りにならないから生じる。
>しかし思い通りにいくときもある。

それが虚しいと感じて釈尊は出家したんだが。

経典に出てくる喩えとしては、断崖絶壁に突き出た木の枝を
噛んでぶら下がってる男がいて、上から滴り落ちるハチミツを
ときどき味わっている。そういうのが我々の楽しみだそうです。
677名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 17:16:42 ID:APPE4yGO
涅槃の楽しみ、即ち、一相:無相;空相:無願の楽しみに付いて話されていない。
真実の楽しみを誰か話してくれ。
678名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 17:30:31 ID:eZ/wCUY2
>>676
たまに思い通りにいけばいいじゃないですか。
繰り返すけど、人生には苦と楽があり、苦が多くて楽はほんのわずか。
苦が多いからといって、現実の全体を虚しくしたら誤り。
 
ハチミツの例えは理解できません。
断崖絶壁の木の枝を噛んでぶら下がっているのはどうして?
679名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 17:41:44 ID:APPE4yGO
>>678
>断崖絶壁の木の枝を噛んでぶら下がっているのはどうして?

例えだよ。
680名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 17:48:42 ID:61XDHNuj
>>678
お釈迦さんは強制していない。
涅槃は、見たいものが見ればいい。
「ehi bhikku^(来なさい、比丘よ。)」と言われるのはなぜか?

不要な人は仏教を学ばなくてもいい。縁起にも無常にも無我にも気付かなくていい。
興味が涌いた時、自身が無常であることに気付いた時、その時、釈尊に礼すればいい。
戸はいつでも開け放たれている。
681boo:2007/02/03(土) 17:57:34 ID:5JXsLbPP
一切皆苦というのは諸行無常と諸法無我に逆らった時に起こる結果ですよ。
階段から落ちたら痛いように、法則に逆らったら痛い目にあいます。
682名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 18:17:05 ID:APPE4yGO
私はこの様に聞いた。ある時尊師は サーヴァっティ市で、ジュータ林の園に留まっておられた。
その時悪魔悪しきものは尊師に近づいた。近づいてから尊師のもとで、この詩句を唱えた。

「子あるものは子に付いて喜び、又牛のあるものは牛に付いて喜ぶ。
人間の喜びは、執着するよりどころに拠って起こる。
執着うするよりどころのない人は、ジツニ喜ぶ子とが無い。」

 尊師曰く
「子あるものは子に付いて憂い。又牛のあるものは牛に付いて憂れう。
人間の憂いは執着するよりどころに拠って起こる。
実に執着するよりどころのない人は、憂れうることが無い。」
 
 そこで悪魔悪し着ものは、「尊師は私のことを知っておられるのだ。幸せな方は
私のことを知っておられるんだ。」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消えうせた。
683名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 18:18:17 ID:APPE4yGO
>>682 サンユッタニカーヤ・U「歓喜」
684boo:2007/02/03(土) 18:25:15 ID:5JXsLbPP
憂いって何でしょう?
685名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 19:14:13 ID:APPE4yGO
心を支配する心配のことでしょう。
686boo:2007/02/03(土) 19:25:53 ID:5JXsLbPP
ややこしくて解りません。
687名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 19:55:48 ID:ooO1cXSE
>>679
ハチミツの例えが、例えであることはわかっている。
 
聞いてるのは、人生がどうして、断崖絶壁の木の枝を噛んでぶら下がってる
 
ようなものなのかということ。この例えは、人生は苦であるという前提を
 
絵にしただけ。しかし問題は、その前提が正しいかどうかです。
688名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 20:03:54 ID:uurfKW8M
>>678 あなたは、まだマシな人生を送ってる方だからそう思うのでは?
689名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 20:38:16 ID:ooO1cXSE
>>688
仏教は、自殺を考えてる人に「人生は虚しく苦痛である」などと
 
説くわけです。しかしこれでは自殺をすすめているようなもの。
 
仏教にはどこかしら誤りがある、という直感でしょう。
690名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 20:55:32 ID:cuWUU62x
自殺したい人を無理に止めるようなことはしないけど、自殺しても
レベルの低い環境に生まれ変わるだけだよ、くらいのアドバイスはするとおもう
691名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 21:08:43 ID:APPE4yGO
自殺する原因にどのようなものがあるでしょう?
それはどのようなものに執着しているかを探求することになるでしょう。
自分で気づかないでいる執着というものが危険です。
人生における栄誉に執着してい場合、それももっと具体的に言えるでしょう。
創価の池田の様にノーベル賞と言う勲章に執着しているあばい等。
 一切は空と言う意味もさらに吟味してみる必要があるでしょう。この一切は空の意味は、
解ったような気にはなるのですが、なかなかそのとおり理解しているかどうか疑問視すべきです。
その通りに一切は空であると信じるなら、苦しみから開放されるというのが道理です。
そしてこ例外に解脱する道はないでしょう。
692名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 21:09:59 ID:APPE4yGO
そしてこ例外→訂正 そしてこれ以外
693名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 21:13:05 ID:APPE4yGO
さ、自分は阿弥陀を見習って、人類を救う人になろう、と考えることも執着
になるのではないでしょうか?そもそも、救われるべきなにものもないのが真実ですから。
694名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 22:31:33 ID:8/CMOJ76
未練が無くなれば自殺して良しってのが仏陀の見解では。
ジャイナ教もそうみたいだし。
695名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 22:32:59 ID:IfRKJcmh
>>686
「修行僧たちよ、憂いとは何か。修行僧たちよ、心の苦、心の不快、心に触れる
ことによって生じる苦、不快の感受、修行僧たちよ、これが憂いと言われる。」
これが「大念住経」における「憂い」の説明です。
696boo:2007/02/03(土) 22:37:39 ID:5JXsLbPP
心をなくせばいい。他の為に尽くせば自分を忘れる事が出来るそうです。
697boo:2007/02/03(土) 22:39:39 ID:5JXsLbPP
輪廻転生、自殺したらまた同じ事を繰り返す人生がやって来ますよ。
十如是です。
698名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 22:48:47 ID:coZ1Kz4M
699名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 22:54:51 ID:APPE4yGO
>>696
心をなくせばいい。他の為に尽くせば自分を忘れる事が出来るそうです。

他の為に尽くすとは具体的にどうすること化、説明を?



 
700名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 22:56:49 ID:APPE4yGO
>>697
どうして同じ人生を繰り返すことになるのか、説明を。
701名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:06:02 ID:cuWUU62x
たとえば職場でつらいことがあって転職したとする。
転職先でも同じトラブルがある。その繰り返し。
自分で乗り越えない限りどこに行っても同じトラブルにつきまとわれる。
702名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:13:52 ID:coZ1Kz4M
703名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:18:34 ID:AagKfUwl
他人に何を言うかは自分に何を言うかでもある。
 
自殺を考えてる人に・・・「人生は虚しく苦痛だ」と説く
 
殺しを考えてる人に・・・「人生はまぼろしであり、空だ」と説く
 
これで納得できるか。むしろ逆効果ではないのか。
704名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:22:34 ID:coZ1Kz4M
>>703
>むしろ逆効果
その通り。
お釈迦さんは、そのような言葉を選ばないだろう。
705名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:33:50 ID:uurfKW8M
>>703 自殺する人は何のために自殺するのか。
人を殺す人は何のために殺すのか。
その、「○○だから」「○○のため」が、虚しいものだとわかれば、
自殺する理由がなくなる。殺す理由がなくなる。
706boo:2007/02/03(土) 23:34:57 ID:5JXsLbPP
その言葉は、別にその相手をおとしめてやろうとして発した言葉じゃないと思いますよ。
それが一番適切な助ける為の言葉と判断したんだろうと思います。
あなたならどうですか?
707名無しさん@3周年:2007/02/03(土) 23:37:16 ID:APPE4yGO
人は執着しているものに束縛されている。言い換えれば支配されている。
執着しているものから脱するための教えが、必要である。
それは縁起と空の理法で有る。執着しているものは縁起しているもので実体がないと言うこと
を知るべきである。執着を『超越する』ことである。原始経典は『超越せよ』とさかんに教える。
空の真実が支配するとは、人を支配するものが何もないということである。
708名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 01:09:30 ID:kZL/BHDe
たとえば病気で苦しんでいるとき、それをまぼろしであると観じても、
 
現実には病気の苦しみから解放されない。それゆえ、
 
現実をまぼろし、空であると観じることは妄想に過ぎない。
 
この妄想は、まぼろしのベールで現実をくるみ、自分と現実との距離を
 
遠ざける。やってることが逆じゃないだろうか。
709名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 01:20:35 ID:GC1fbfU3
>>708
>>654

君も空教信者なのか?w

2chてのは、どうしてこう極端な輩が多いのかなw
710名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 04:47:16 ID:YxhFAsOq
>>708 瞑想で禅定と智慧を体得しないと、知識だけでは煩悩を消せないのでは?
711名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 09:53:44 ID:6DlTWsPK
肉体はいずれ滅ぶものと観じているから病気の苦しみも観察するのみ。
医学的治療で治るものなら治療を受けるし、治らないならその事実を受け入れる。
712名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 10:10:05 ID:436PfmvY
>>708
> 病気で苦しんでいるとき

病気の苦痛とは、五蘊の中の何なのだ?
一般的に、自動車事故で人が死ぬと、あってはならい事態になった。というんは、
人の命が失せたからであると。加害者、被害者の区別の発生。
人の命が失せてはならないと言う前提があるから、その前提が苦痛を引き起こしていないだろうか?
その前提が無い場合でも、同じ様に苦痛が発生するだろうか?
人の命が失われてはならないと言う前提は、命というものへの執着というべきではないだろうか?
五蘊の、色受想行識、これらは掛け買いの無いものであると言う前提が苦痛の原因ではないだろうか?
されば当人も、周囲の者も、この前提に執着しているなら、苦痛は必然として縁起して発生しているのである。
縁起してとは、死という事実がたちどころにあらゆるものを縁起せしめるからである。
 しかし真実の仏教は五蘊は空であり、執着すべきものではない、と教えている。
これに従えば、五蘊に対する欲から生じる苦痛もないはずではあるまいか。縁起している五蘊には実体が無い、
命が無い、と言うのであるから。
713名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 10:35:48 ID:436PfmvY
>>710
行住坐臥は知恵を先とし知恵を後とするとあるように、坐禅だけを特別に取上げる
根拠はないのでは。
714名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 11:26:38 ID:YxhFAsOq
>>713 瞑想で心を変化させないと。思想ではなく、心の質を帰る。
715名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 11:57:01 ID:436PfmvY
>>714
>心の質を変える。

どの様に?

716名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 12:04:21 ID:YxhFAsOq
ヴィパッサナー瞑想の実践。
http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html#2
717名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 13:37:27 ID:aPs9k0SY
仏教は苦楽の苦を選んで話を展開する。楽を忘れている。
 
空の思想は人生の岐路でまったく役に立たない。自殺も他殺も自由。
 
仏教は、言葉を操作して妄想し、現実を虚しいまぼろしにする。
718名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 13:55:18 ID:436PfmvY
>>717
>>>662 縁起している苦・楽は実体のないもの、虚妄だから。

662の説明に同意できない理由は何ですか?
719名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 14:24:25 ID:436PfmvY
>>717
>楽を忘れている。

あなたの「楽:楽しみ」とはなんですか?

 
720名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 14:39:52 ID:436PfmvY
縁起するものをアラハットした者は、平安な心を得たものであり、彼の平安は
一相:無相:空相:無願なるものであり、それは自存するものであり、全てのうそ偽りを撃退する。
彼に近づくものは彼と同じ平安なるものとなるであろう。平安こそあるものであるから。
721名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 15:15:27 ID:I7hVvO9D
>>718 >>719 >>720
真理はひとつ。神を肯定する思想と神を否定する思想があれば、
 
どちらかが正しくて、どちらかがまちがっている。
  
仏教は神を否定する思想ですが、根拠は縁起(事物の関係)にあり、
 
事物は縁起しているから実体がなく、空であると主張する。
 
しかし、縁起している = 実体がない にはならない。
 
実体があって、縁起している場合があるかもしれない。
 
仏教は縁起だけであり、実体の有無を検証していない。
 
そして事物に実体があれば、仏教は成立しないことになる。
722名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 15:44:34 ID:yO1x7ua8
実体の定義による。仏教だと、永遠なものはなにもないという意味で
実体はない、という言い方をする。
723名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 15:56:14 ID:436PfmvY
>>721
>神を肯定する思想と神を否定する思想

 神とは何か?と言うことが問題だ。真理は一つと言って居るから、神=真理
というのではないのか?
724名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 16:31:21 ID:436PfmvY
>>723
えんぎの意味が解っていない。実体あるものが縁起すると言う道理はないのだ。
725名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 16:36:07 ID:ffQ0xuAl
実体の定義は永遠なるもの。いいかえれば神。
 
仏教が実体がないと言うとき、そう主張をする根拠がない。
 
事物の縁起からは、実体がないという結論はでてこない。
726名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 16:44:43 ID:yO1x7ua8
縁起も色即是空も悟ってみないとわからない。考えても無駄。
止観するなりヴィパサナするなりして悟るのが先決。
727名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 17:38:22 ID:dZoh7B+/
日テレのアナも病気になる前は「自殺はダメ」と
言ってたんだろうなあ。
728名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 17:40:39 ID:436PfmvY
>>725
>仏教が実体がないと言うとき、そう主張をする根拠がない。
事物の縁起からは、実体がないという結論はでてこない。

論理的に説明してください。
729名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 20:22:36 ID:SKHKBGgg
神の定義というのは「天地万物一切の創造者」で「全能」
ですかね。
730名無しさん@3周年:2007/02/04(日) 21:13:04 ID:436PfmvY
>>729
しかり(そのとおりである)でしょうね。神を愛するとは、まさに空を愛することなんですね。
(汝の神を心を尽くして愛せよ。自分を愛する様に汝の隣人を愛せよ)。これを仏教に置換えるなら、
空なる自己を整えよ、隣人を自己と同一な空なるものとして遇せよ」ということになるおともいます。
けだし、神とは空であり、自己とは空でありしたがって神であり、隣人も空で有りしたがって隣人も神である、からであると思います。
731名無しさん@3周年:2007/02/05(月) 16:06:34 ID:2PA3+5TC
少し読んでみたけど、ここの人達は
ネコの年が来ても悟れなさそうw
732名無しさん@3周年:2007/02/05(月) 22:03:50 ID:CELnvMaq
地球温暖化などと騒いでいるが、地球が有る、宇宙が有ると言う観念を植え付けるものである。
仏教徒なら、地球がある、宇宙があるなどと考えてはならない。
 少子化などと騒いでいるが、人間がいるという観念を植え付けるものである。
仏教徒なら、人間がいるなどと考えてはならない。
 
 ウダーナヴァルガ 安らぎ
21不生なるものがあるからこそ、生じたものの出離を常に語るべきであろう。つくざれざるものを(=無為)を観じるならば、
作られたものから(=有為)から解脱する。
22生じたもの、あったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積
、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じるもの、―――それは喜ぶに足りない。
23それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみの事柄の止滅であり、作る働きに静まった安楽である。
24そこには既にあったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところの境地を
、私は良く知っている。
25来ることも無く、行くこともなく、生ずることも無く、没することも無い。住して留まることも無く、
依拠することも無い。――――それが苦しみの執滅であると説かれる。
26水もなく、地も無く、火も風も侵入しない所、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
27そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地に付いての自己の沈黙を自ら知るがままに、
かたちからも、かたちなきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
28覚りの究極に達し、恐れることが無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。
これが彼の最後お身体である。
733名無しさん@3周年:2007/02/05(月) 22:24:21 ID:2PA3+5TC
神が創りブッダが壊す。
734名無しさん@3周年:2007/02/05(月) 22:33:00 ID:CELnvMaq
一神教の神は、自分の創造したものを愛する様に求めていないのだ。
キリスト教においても被創造物は無意味である。
735名無しさん@3周年:2007/02/05(月) 22:59:30 ID:2PA3+5TC
一神教の神って宇宙人だよ、まちがいなく。
736名無しさん@3周年:2007/02/06(火) 08:09:51 ID:o+LzGOos
>>732
日本語版で売ってますか、その本。
あったら題名教えて下さい。
おねがいします。
737名無しさん@3周年:2007/02/06(火) 08:14:03 ID:yja4uAmO
>>736
「ブッダ感興の言葉」岩波文庫(青)/中村元
738名無しさん@3周年:2007/02/06(火) 08:20:10 ID:o+LzGOos
早々とありがとうございます!
739名無しさん@3周年:2007/02/06(火) 23:39:15 ID:M6NwpvWP
>>737
岩波原始経典の中で、観興の言葉が一番しっくりくる。
740名無しさん@3周年:2007/02/06(火) 23:43:20 ID:M6NwpvWP
このような優れた真理の言葉が、誰にでもわかる言葉で、誰にでも唱えられ暗記されていたという
時代と国があったのだ。彼等の教養は完全であったと言えよう。
741名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 22:06:52 ID:cQYy7ZU8
ウダーナヴァルガ 励み
29修行僧は勤め励むことを楽しみ放逸の内に恐ろしさを見、微細なものでも粗大なものでも、
全て心の煩いを、、焼き尽くしながら歩む。――――、燃える火の様に。
 
 心の煩いとは何であろうか?執着したことによって心に生じる「執着を原因として生じる苦と言う結果」
である。しかし、ブッダの教え、一切は空であるのが真実であるという教えを信じるものは、
執着と言う原因も、その結果である苦も、実体の無い者、即ち、何ら命のある相手ではないと知って、信じて、
そのような苦しい思いを焼き滅ぼしながら進むのである。――――燃える火が、枯れた雑草を
一面に焼き払って進む様に。このような意味に採るべきではないだろうか?

そして
30修行僧は勤め励むことを楽しみ放逸の内に恐ろしさを見、一切の束縛の絆の消滅し尽くすことを
次第に体得する。
  












742名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 22:31:01 ID:f9ldkeh9
んー・・・
物事に執着しなくなると何がいいんですか?
743名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 22:50:59 ID:cQYy7ZU8
>>742
永遠の平安。
744名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 22:51:07 ID:nYO1JJyz
>>742
自分の思い通りにならないからつって、勝手に自分で自分を苦に追い込む事態が
激減する。
但し無理矢理「執着を無くすぜ!」つってやってると、それは無執着という新しい
ものに執着してるだけで、本来の執着心が消えてるかどうか不明瞭だから、あん
まり意味が無い。
日頃から自分に習慣付けをしていって、気が付いたら執着が薄れてきてた、という
のが理想的。
ま、言うは易し、行なうは難しの典型だけどねん。
745名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 23:15:16 ID:trWjPJCn
>>742
「ま、いいか」で楽しく生活できる
746名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 23:18:46 ID:cQYy7ZU8
都会のホームレスは事実として、無一文に近く、家も近親者の束縛も無いだろう。
彼等は一番仏の境地に近いのである。しかし、そのような事実状の仏の境地に近くとも、
彼等の心において、裕福な生活を望んでいるなら、また残してきた近親者を求めているなら、
彼等のホームレスの境地は無意味である。
 誰か、仏の智慧を彼等に教えてやれば、その人は功徳を得るだろう。莫大なもので、限りが無い功徳であろう。
747名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 01:13:54 ID:Qhj6l6cH
>>741 執着があると、放逸になってボーっとしちゃう。
それで現実をしっかり観る智慧が弱くなるんですよね。
車に乗る前に嫌なことがあって、それに執着していると、
運転しながらも心は上の空で放逸になり、
目の前の現実を観ていないので事故の原因になる。
だから放逸は恐ろしい。居眠りや酒酔いも放逸だから危険。
妄想にとらわれずに、
変化し続ける現象に対して「よく気をつけて」い続ける。
それをたえ間なく続けるのが精進。
748名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 02:18:42 ID:hDEJaIET
濡れ手を粟の中に突っ込むと一面に付いてくる。
同じことを乾いた手でやると、何事もなかったように元のまま。

人生生きて行くと嫌な目にあったり酷い仕打ちをされたり
逆に凄くウマい汁を吸えたりするんだけど、左右されないようになる。

本来の自分、神様があるように造られた自分自身。
749742:2007/02/08(木) 16:01:52 ID:b9x0gcFk
むー・・・

そうすると最終的には
「別に死んでもいい」
には、ならないのですか?

それとも日常の些末なことに限り、ってことなんだろうか・・・

煽ってるみたいだったら、申し訳ないです。宗教として、というより仏教的な考え方に興味があるので、教えていただきたいのです。
750名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 17:50:49 ID:wKbsXu90
27そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地に付いての自己の沈黙を自ら知るがままに、
かたちからも、かたちなきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
28覚りの究極に達し、恐れることが無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。
これが彼の最後お身体である。ウダーナヴァルガ

>そうすると最終的には
「別に死んでもいい」
には、ならないのですか?

 質問の意味がよく判らないが、成仏するとは、「28覚りの究極に達し、恐れることが無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。
これが彼の最後の身体である。 」であるから、生死から解脱しているのではないか。
だとすると、死ぬことは、良いのか悪いのか、などと言う心配は無い。このような心配は、いまだ執着を脱してい無い時のものでは。
 生死と言う変化は、そもそも実体の無いもの、と判断すべきものでは?
 生の前、つまり生まれる前を考えると同様に、死んだ後のことを考えるのでは?
そこにあるのは、縁起している諸法があるのみ。実体は無い。・・・・



751名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 17:57:11 ID:+/jRu/xs
>質問の意味がよく判らないが

生きる意義を問うてるのではないでしょうか。
「やるべきこと」は存在するのか。
752名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 18:05:19 ID:wKbsXu90
>>747
「放逸」とは「本来の自己を失う」という意味でしょうね。自己を失う原因が執着であると。
753名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 18:17:39 ID:b9x0gcFk
>>750 言葉足らずですいません。お話を伺っていると、執着も思考も放棄して無感覚になることを理想とするような印象を受けたのですが・・

>>751さんの言葉をお借りしますが、そうすると個人が生きている状態に留まる理由がないように感じたのですが、それは間違いでしょうか?
754名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 19:31:12 ID:wKbsXu90
>>753
当然の成り行きの様に思います。
 苦の滅:涅槃に付いて論じられることが求められているのだと思います。
涅槃とはどのようなところであるかの説明は、原始経典には楽しいところ程度の説明しか思い出せないのですが、
大乗経典で浄土三部教の大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経には特別に説かれています。
多いに参考にしたいところです。
 人の心が一相となった時、換言すれば、無念無相となったとき、純粋になった時の情景と言うべきでしょう。
755名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 19:39:46 ID:Qhj6l6cH
>>753 生きていなければいけない理由はなくなるのでしょう。
でも同時に、すぐに死なねばならない理由もなくなる。
あとは、過去の業の残り火が燃え尽きるまで、
死ぬまで生きればいいだけの、気楽な人生になる。
ただし、他人との約束や誓いがある場合には、
その責務を果たすまでは死なない。
また、他人から頼みごとをされたら、
断る理由もないので、できる範囲のことは応じる。
ブッダは、他人から教えを乞われたので、他人を導くために余生を捧げた。
そして、弟子や信者がある程度立派になったと判断したので、
滅尽定によって、平安なる滅び、すなわち涅槃に入りられたのです。
756名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 20:24:11 ID:b9x0gcFk
>>754 >>755
回答、本当にありがとうございます。

俗物なので、ネハン(変換できず)という場所が理解できないし、どうしても現世利益的な考え方に沿ってしまうのですが、今の世の中は気楽に生きるには、どうにも無理があるように感じてしまいます。


現代には悲惨な事件や紛争があふれているし、そのようなことから目を背けたいとも思いません。
請われてもいないのに他者に施すことは、仏教では禁忌という事でしょうか。
私は、みなで幸せになりたいと思うのですが。
解脱(でしょうか?)出来なかった人たちは、仏法の上ではどのような運命をたどるのですか?
757名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 20:57:37 ID:Qhj6l6cH
>>756 涅槃とは、なーんにもなくなることです。
二度と生まれ変わらない、二度と現象世界に現れない。
はい、おしまい。めでたしめでたしと終わることです。
極楽浄土や天国みたいなものではありません。
涅槃は、世間から離れていなくなる。
758名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 21:09:59 ID:JBOaBJ6Y
>>756
>請われてもいないのに他者に施すことは、仏教では禁忌という事でしょうか。
施しの種類にもよりますが・・・
仏教ではどうだったでしょう?仏教系新興宗教ではやれ菩提心だやれ菩薩道だ
と、他人に関わる事を推奨する傾向が強いようですが・・・

「苦を消滅」させるという事を最優先に考えるならどうなるでしょう?方法論は最低限
のものを残して執着を薄れさせていくこと。では執着を薄れさせていく為には?っ
て思惟していくと、禁忌とまでは強くなくても、「するべきではないね」って事になる
だろうと考えます。
良かれ悪しかれ他人との関わりは、その人にとって執着(最近流行りの言葉だと
しがらみですか?)を生み出します。それをわずらわしいものだと捉え、本気で修行
に打ち込むために山野に篭もった修行僧が何人も居た事を思い起こして下さい。


一応フォローとして。
「施し」について、あなたが完全に三輪清浄を為し得ると考えるなら、為されれば
宜しいかと思います。
759名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 21:10:29 ID:JBOaBJ6Y
>私は、みなで幸せになりたいと思うのですが。
結構な事でしょう。ただ何を幸せと捉えるか?という問いには十人十色の解答がある
という事も考えねばならないでしょう。他人から見れば、どうみても不幸せな人生を
歩んでる人がいたと仮定しましょう。判りやすくする為に極端な例を出しますよ。
たとえばゴキブリみたいなヒモ男に貢されて、自分はソープに勤めながら二人の生活
を支えてる、といったような生活を送っている女性がいたとします。この男は依存症、
女は共依存症です。無理矢理引き離したら、女性は恐らく放心状態に陥るでしょう。

本人がその状態を幸せだと考えている場合、その幸せを取り上げる権利が誰に
あるのでしょうか?
二人そろって更正させる自信があるなら手を出せば宜しいかと思いますが、そんな事が
できる人間は既にブッダ(覚者)でしょうね。

結果に責任のもてない慈悲業は往々にして余計なお世話でしかないです。
無力な凡人なら、どうしても関わりを持たなければならない人以外には手出しをしない
のが宜しいかと思います。

>解脱(でしょうか?)出来なかった人たちは、仏法の上ではどのような運命をたどるのですか?
生き続ける限り、六道を輪廻し続けるんじゃありません?
760名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 21:17:38 ID:p9baHWWw
>>756
755の4行目までは、そのまま受けとってもいいでしょう。757はスルーして下さい。

>今の世の中は気楽に生きるには、どうにも無理があるように感じてしまいます。
みんなそうなんじゃないですか? (あなたは、そんなに(ブッダの)悟りを求めてるのですか?)

>請われてもいないのに他者に施すことは、仏教では禁忌という事でしょうか。
そんなことはないw それでは慈や悲が無意味になる。
(勿論、強引な勧誘や、或いは思想の押し付けは避けられるべきでしょうが・・。)

>解脱(でしょうか?)出来なかった人たちは、仏法の上ではどのような運命をたどるのですか?
経典には、悟っても(法眼を得ても)出家しない者は云々という記述や、
次の生で・・・とか言われたりもするけど、
現代社会に則してリアルに考えるならば、別段どうということはない。
普通に生き普通に死んでゆくだけだ。
761名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 21:27:05 ID:VzzBe0OW
>>757
そうしますと、以下の理解でOKですか?
人間はこの世に生まれない方いい。それが至福の状態である。
めんどくさい事が嫌いだから涅槃ていいですね。天国よりいいかも。
762名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 21:34:59 ID:p9baHWWw
>>761
世俗にかかずらわない、煩わされないという意味で、
「負債のない生活」という出家生活の讃美を読めば、
あながち外れではないでしょうが、
決して、一切の関係を絶ち、無関心になり、無視を決め込むことではない。
これだけは注意してほしい・・。

また、 >この世に生まれない方がいい  は、
(仏教的には)無意味な問い、無意味な文では?
自分が生まれないことが自分に関係あるでしょうか?
生まれていない貴方はどこかに存在しますか?
「とりあえず生まれてしまった。さて、どうしよう。」
が、スタートラインじゃないかな?
763名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 22:02:28 ID:b9x0gcFk
ありがとうございます。

正直に言うと、別に神秘主義的なものに憧れてるわけではありません。考え方が違う人を異端視する排他的な思想なら、嫌だなぁと思っての解脱云々でした。

宗教として興味があるわけではなく、あくまで先人の哲学に学ぶという意味での質問でしたが、回答してくださった方々、本当にありがとうございました。
非常に興味が湧いたので、これから色々学んでいきたいと思います。


乱文に付き合っていただいて申し訳ないです。ありがとうございました。
764名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 23:31:08 ID:Qhj6l6cH
>>761 この世とは、仏教でいう世間のことではないでしょうか。
世間とは、欲界心・色界心・無色界心という三種類の心の世界です。
欲界とは、普通の人間の心で、
眼耳鼻舌身からの刺激にとらわれた欲の世界。
色界は、禅定によって物質との一体感(一境性)を得て、
神と錯覚しちゃうような光をみたり喜びを感じたりする心。
眼耳鼻舌身への欲からは離れますが、物質には束縛された心です。
さらに禅定が進むと無色界心。
これは、物質から心が自由になり、心だけで動く世界です。
これもあまりにもすばらしい境地であるため、
その境地に執着してしまうのです。
しかし、どんなすばらしい境地でも無常ですので、
いつかは禅定の境地も消えてしまいます。
ですから、神の世界ともいえる禅定の境地は、究極の幸せではありません。
仏教の涅槃は、これら三界の世間から離れる出世間心です。
心身に依存している我々には、見ることも語ることも想像することもできない。
我々の世界から完全に消えてしまう。
その先は、誰にも想像できないし、物語ることもできない。
めでたしめでたし、おしまいです。ハッピーエンド。
765名無しさん@3周年:2007/02/08(木) 23:37:24 ID:Qhj6l6cH
>>761 この世に生まれるのは、過去のカルマの結果です。
無常・無我をさとったら、
三界の世間への執着がなくなるのです。
この世に生まれるのはカルマの結果なのですが、
この世への執着がなくなると新たなカルマをつくらなくなり、
ついには、二度と生まれ変わらなくなるということです。
766名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 11:48:35 ID:+GAMI42/
>>737
「ブッダの真理の言葉・感興の言葉」840円
でいいんですよね?
767名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 17:21:06 ID:s64jWlqf
>>766
そう、その本です。
768名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:07:00 ID:+GAMI42/
ありがとう。
買って読みます。
769名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:29:28 ID:s64jWlqf
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
原始経典とは何が何やら解らないが、上のサイトに紹介されている
説教もまた、絶対に理解できなければならない教えであると思います。
770名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:38:01 ID:/BumKsED
>>769
ん?
またオウムの宣伝文書かいw
771名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:50:27 ID:s64jWlqf
六根清浄と空性とはどのような関係にあるのだろうか?
772名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:53:31 ID:IOMnBzs0
だからwww

何でもかんでも空に結び付けんなよw
馬鹿か?

「空」で仏教の全てを語れる、全てを包含できると思ったら大間違いだ。
773名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 19:23:46 ID:s64jWlqf
清浄とは、混ざりの無い純一と言う意味であろう。これを一相といい、一相と言うなら、
空相であり、無相:無願である。であるから、文字通りでは、六根が純一なものになると言うことになる。
即ち、六根が空相;無相:一相:となると言うことである。そうすると六根は消滅するということなのか?
774名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 19:45:01 ID:s64jWlqf
>>773
それなら以下の経説はどう言うことになるのか?
妙法蓮華経 法師功徳品第十九

爾の時に仏、常精進菩薩摩訶薩に告げたまわく、
若し善男子、善女人、是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。
是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、
千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん。

是の善男子、善女人は、父母所生の清浄の肉眼をもって、三千大千世界の、内外のあらゆる山林、
河海を見ること、下阿鼻地獄に至り、上有頂に至らん。亦其の中の一切衆生を見、及び業の因縁、
果報の生処を悉く見、悉く知らん。

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
若し大衆の中に於いて 無所畏の心を以って 是の法華経を説かん 汝其の功徳を聴け 
是の人は八百の 功徳ある殊勝の眼を得ん 是れを以って荘厳するが故に 其の目甚だ清浄ならん
父母所生の眼をもって 悉く三千界の 内外の弥楼山 須弥及び鉄囲 並びに諸余の山林 
大海江河水を見ること 下阿鼻獄に至り 上有頂天に至らん 其の中の諸の衆生 一切皆悉く見ん
 未だ天眼を得ずと雖も 肉眼の力是の如くならん
775名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:20:23 ID:YsFZ4/jB
>>762-765
レス有難うございました。
776名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:41:01 ID:s64jWlqf
>>770
またオウムの宣伝文書かいw

カラスであろうがオームであろうが、このような経典を開示しているのはVERY GOODだ。

772 :名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 18:53:31 ID:IOMnBzs0
>何でもかんでも空に結び付けんなよw
馬鹿か?

違う、全ての真理は空諦に帰結しなければ、それは間違っているのだ。
777名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:43:15 ID:IOMnBzs0
>>776
文体古いが
南伝大蔵経の方がまだましw

ちなみに自分は片山訳をお薦めするがw
778名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:48:24 ID:s64jWlqf
>>777
ネットに載って無いと価値は少ない。容易にコピーできる。
779名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:50:49 ID:IOMnBzs0
>>778
中身・内容とは関係ない要素だなw
780名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 20:59:09 ID:s64jWlqf
>>779
経典の内容は、一つに理法なのだ。理法の翻訳は、それほど間違いを来さないんじゃ?
片山氏の翻訳を時に応じて紹介してください。
781名無しさん@3周年:2007/02/09(金) 22:14:40 ID:s64jWlqf
>>774
肉眼 天眼 慧眼 法眼 仏眼 のうちの肉眼の功徳を言っているのだ。

 変化しているものを智慧の目を以って見ると、それは一つのものと見えるのであろう。
そして、それは清浄なのである。
782名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 06:26:11 ID:AQEsEEhi
教えて君で申し訳ないですが
阿含経は原始仏典に入るのですか?
また日本語訳はありますか?
783名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 06:50:46 ID:QWtHUugG
>>782
>>769に紹介されているサイトに、直ぐ観る事が出来る。
分類の仕方を知る必要我あると思いますが、アゴン経典からほかの全ての大乗経典も
生まれていることは確かであると思います。アゴン経典のことを原始経典と言っているのです。
784名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 07:47:48 ID:03NFfkTn
>>769 のサイトの中の、この部分
http://tetugaku.fc2web.com/butten/apadana2.htm
で、気になる説明がありました。
三界と如来の三身を対応させた説明。
欲界が応身、色界が報身、無色界が法身だと。
三身は原始仏教でも説かれていたのでしょうか?
また、上記のように三界に対応しているのでしょうか?
785名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 08:20:29 ID:AQEsEEhi
>>783
ありがとうございます。

スッタニパータやサンユッタ・ニカーヤのほうが古いのですよね?
769のアゴンはアレがすべてなんでしょうか?
本としては出版されていないのですか?
786名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 21:21:23 ID:QWtHUugG
>>784
原始仏教と言う名称は、あたかも、原始人類とか、原始的形態、原始的生物とかの様に、
未発達の状態を指すもののようです。しかし、仏教においては原始仏教と言う呼称は適切ではないと思います。
最初期の釈迦が発見した真理真実は、真理真実として未発達で、真理真実の萌芽のようなものであったなら、原始仏教と
言って良いかもしれませんが、釈迦の発見したものは、十分にそれだけで存在し得るものであったと言えると思います。
それは理法でした。この世界を理法により理解すると言うのであれば良いのですが、理法から離れてこの世界を理解しようとする
言説は転倒したものだと思います。理法を説明する段階で、補助的にそれまでの言説を引用援用するということはあったでしょう。
この三界、三身という概念もそれに属すると思います。あるいは、それから派生したものである、と思います。
 先ずは釈迦の理法と学ぶようにすることがかんじでんあると思うのです。真理真実と言う理法を知るならば、
それから十方にそれを源とする真理の言葉が流れ出てくるのです。それが数ある仏典です。大乗経典もそれに他なりません。
 質問されている答えも自ずから出てくるでしょう。私はその答えは肝心なところから相当にはなれたところにあるように思います。
 三界に対応していないと思います。原始経典には、大乗経典のあらゆる教えの根拠があります。大乗経典は原始経典を超えるものでは
全く無いと思って居ます。
787名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 21:28:24 ID:QWtHUugG
>>785
真理真実はどの時代に言われても良いものです。それを説いているのが、何時の時代のものか、誰が説いたものか、
そのようなことは本来的にどうでも良いことでしょう。蓋然的に、釈迦が説いたとされて居るというだけで、
その今日説に接してみてよいと思います。真理真実であるとする教説が自分で納得できれば、それを採り入れるので良いのではないでしょうか?
 大蔵教として出版されて居る物があるようですよ。
788名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 21:40:51 ID:AQEsEEhi
>>786
最初の2行読みました。
789名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 22:08:15 ID:2BluMnu/
>>786 釈迦が発見した真理真実

お釈迦さんは真理真実を発見した人ですよね。
真理真実って誰が創ったんですか?自然に湧き出て来たんですか?
その事についてお釈迦さんは何かいってるんですかね。
790名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 22:20:15 ID:QWtHUugG
>>789
何が真理真実だと思っているの?
791名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 22:40:35 ID:2BluMnu/
>>790
よく分かりませんがw
悟りを得る方法とでも言っておきましょうか。
792名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:01:21 ID:TRFnca2v
ふつう釈尊の発見した真理といえば四諦、八正道をいうんじゃないの
793名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:17:57 ID:QWtHUugG
>>791-792
違う。諸法無我、一切皆苦、諸法無常 一切皆空
これらだよ。これらを代表させて一切皆空である。
この真実から、四諦八正道の真理が生じるのである。それからそのたの全ての教えが生じるのである。
794名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:26:14 ID:QWtHUugG
そこで、一切皆空を作ったのは誰かと言う問いには、これは造られたものではないので、
その問い自体は不可能である。沸いてきたのかの問いには、生じたものではない、又、生じるものではないので、
その問い自体不可能である。
795名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:33:14 ID:QWtHUugG
>>793
訂正 諸法無常→諸行無常
796名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:40:45 ID:2BluMnu/
>>792-795
難しくて理解できませんが、有難うございました。
797名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 23:50:51 ID:QWtHUugG
>>796
難しいことは無いですよ。
全てのもの、これを諸法というのですが、諸法は縁起関係において存在しているということは、理解できませんか?
798名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 00:19:19 ID:psrmeelt
仏教の話には、難しそうな言葉;不慣れな言葉(熟語)が沢山出てきますが、
それらの表現は2種類に分けられると思います。一つは、原語であるサンスクリットとかパーリ語から、
漢訳された表現。もう一つは、仏教自体が、ひとつのものをたくさんの別の表現をするのであり、
それが仏教の特徴的な教えそのものであるのです。原理的な仏教の縁起と空の意味を理解していないと、
同じ意味の別の表現を、異なるものと誤信し、とてつもなく高い壁の様に観じることがあります。
例えば先に挙げました、無常、無我、苦、空なども、一つのものの別な表現です。更に一相、無相、無願
無辺、無量などと言うのも、すべて別な表現です。これらの表現は縁起して居るものには自性が無いと言う
理解からくるものです。
799名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 18:30:12 ID:psrmeelt
>>785
>スッタニパータやサンユッタ・ニカーヤのほうが古いのですよね?
769のアゴンはアレがすべてなんでしょうか?

それはそれを訳した中村博士が解説しておられます。
769のアゴンは、オームが開示したものと言う話もあります。私はそこにあるのがアゴンの全てかどうかなど、
わかりませんが、それだけではないようです。漢文を読めるなら、アゴンのサイトがあって、そこには769
以上のものがあるようです。
 このような知識に付いてはググッて見られると相当に満足できる情報に接することが出来るでしょう。
 阿含経典として出来あがったのは釈尊死後500年後らしいです。それまでは、口伝であったようです。
彼れの原語は表音原語ですから、口伝は我々が日本語を使用してするようなものではなく、文字として留めるよりも、
口伝として留める方がベターだったとも想像できます。表音文字は話しているほうが容易で楽しいのだと思います。
800名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 18:40:13 ID:IxRJHkb8
>>799
>アレがすべてなんでしょうか?
とんでもないwww
本気で興味があるなら、骨が折れるだろうが
南伝大蔵経の読破をお勧めする。大きい図書館なら置いてないかな・・?
801名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 21:56:59 ID:psrmeelt
802名無しさん@3周年:2007/02/11(日) 21:59:50 ID:psrmeelt
>>801
「阿含経の解釈」をクリック
803名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 15:47:33 ID:z/C5J9mG
もし「眼は我である」と言う者があれば、これは誤りである。なぜならば、眼は生滅するからである。
もし、眼が我ならば生死を受けなければならない。だから、眼は我であるとの考えは間違っている。
      ―――六六教
変化する一切のものは自分ではない。自分とは変化しない絶対的存在である。これは空性に他ならない。
804名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 15:57:02 ID:FAJChw4K
>>803 なんでそうなるの?!
変化するものは自分ではない。
変化しないものはないから自分はどこにもない。
だから自分という想いは空であり、自分とは妄想にすぎない。
空性か自分なんて結論はおかしい。
自分は空だから自分はない。
805名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 16:01:10 ID:FAJChw4K
空性が自分だなんていいだしたら、梵我一如みたいな思想になっちゃう。
それは、単なる無色界禅定への執着にすぎない。
空性だとか一如・一相だとかいう禅定の境地さえも捨て去らねばならない。
仏教の目的は、涅槃。滅尽。平安なる滅び。
806名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 16:06:05 ID:z/C5J9mG
如実に知見するとは何か。眼の所作ないし涅槃に向かうことである。
このように比丘眼は我ではない。色・眼識・眼触・眼触より生ずる受・受の苦・楽・不苦不楽、これらもまた我ではないと観察する。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である。これを如実に知見すると言う。

眼の所作ないし正しく涅槃に向かう。これを六六経と言う』と。
807名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 16:34:31 ID:dc96C0vU
どなたか、肉体的な苦についてお教えください。

wikiを見ると
「仏教で説く苦は精神的な苦痛であり、覚りを得たからといって
 肉体的な苦痛が無くなる訳ではない」
といった内容の事が書いてあるのですが、
痛みや熱さ寒さなどの肉体的な苦については
仏教では克服できないのでしょうか?

それとも、釈迦は精神的苦痛だけでなく
肉体的苦痛へ対処する方法も語っているのでしょうか?
808名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 16:42:22 ID:+NQpzSXQ
悟りを開くとなんでも客観視できるようになるらしい。
肉体の苦痛も例外ではないので、死に至る拷問なんかも平気になるとか。
809名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 17:17:49 ID:z/C5J9mG
>>804
>変化するものは自分ではない。
変化しないものはないから自分はどこにもない。

これおかしいよ。判る?

810名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 17:19:52 ID:z/C5J9mG
>>809
808はおかしくない、失礼。
811名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 17:22:25 ID:z/C5J9mG
>>809
>変化するものは自分ではない。
変化しないものはないから自分はどこにもない。

これやっぱりおかしいよ。判る?
812名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 17:42:27 ID:z/C5J9mG
>>807
>それとも、釈迦は精神的苦痛だけでなく
肉体的苦痛へ対処する方法も語っているのでしょうか?

>>806「このように比丘眼は我ではない。色・眼識・眼触・眼触より生ずる受・受の苦・楽・不苦不楽、これらもまた我ではないと観察する。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である。これを如実に知見すると言う。 」
この経文が答えになってると思うけど。六根に生じる苦痛は自分ではないのであるということを学ぶべきじゃない?
813名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 18:07:40 ID:z/C5J9mG
>>804
>変化するものは自分ではない。
変化しないものはないから自分はどこにもない。

やっぱり論理的にはおかしくないか。
しかし、自分と言うもんは変化しないんだよ。変化し得ないんだよ。
自分が変化すると言うことは、自分が違う人間になるということだろう?
自分が異なる自分になると言うことは、有り得るかい?


814名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 18:07:41 ID:HIDa/FJH
>>807
パーリ版『大般涅槃経』をお読みなさい。
「アーナンダよ、布を敷いて下さい。私は疲れました。休みたいのです。」とか、
チュンダの供養の後とか・・。

或いは、『聖求経』だったかな? 苦行中の様子が回顧して述べられていたように思う。
815名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 18:11:28 ID:HIDa/FJH
>>813
一分一秒ごとに違う自分のはずだよ。 v(^^)

我々の日常に於いて、自己同一性はどのように保たれているのだろうか?
夜寝て、朝目覚めた時、昨日の自分と今の自分が同一であることは、
何によって担保されているのか?
気を失って、或いは手術で全身麻酔を受け目覚めた時、以前の自分と今の自分が同一であることは、
何によって担保されているのか?

よく考えてみようw
816名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 19:03:50 ID:z/C5J9mG
>>815
その様に変化する自分を見つめる『自分』がある。これが不変の自分なんだ。
不変であるなら、空性である。」
817名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 21:13:59 ID:z/C5J9mG
>>804
>だから自分という想いは空であり、自分とは妄想にすぎない。
空性か自分なんて結論はおかしい。
自分は空だから自分はない。

空性、一相、無相、これらこそ自性即ち自存するものである。此れらに相対するものはありえない。
818名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:06:46 ID:FbEPDki4
変化と言う概念が成立するためには、過去と現在を対比する必要がある。
(さっきまでは寒かったけど今は暖かい、温度が変化したとか)
過去とか未来とかは本当は、「今」思うことでの中にしかない。
「今」思うことを離れ、過去とか未来が独立しての成立はあり得ない。
で、「今」は思おうが思うまいが何してようと自分の都合にかかわらず勝手にのさばっている。
私の言う「今」ってのはあなたがモニターに目を通して字を追ってる「今」このことよ。

過去から未来に向かう時間軸ってのは便利だけど本当のことではない。
あなたの思い込みを離れれば、本当は「今」でしかないんだから、何かが変わるとか、変わらないとか
そういう言い回しは適当でない。他のものと比較しようがないから。
生じ滅しとか増える減るとかきれい汚いとかも比較によって生まれるものだから同様。
819名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:23:58 ID:z/C5J9mG
>>818
だから、結論として、自分というものは空性であると言うことに同意するのですか?
820名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:29:17 ID:FAJChw4K
>>816 「空性」っていうモノが存在するというのですか?
なぜ「空性」の実体視にこだわるのでしょうか?

仮に「空性」という自分が存在するとしたら、
そんな自分さえも滅ぼすのが仏教の目的でしょう。
821名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:31:39 ID:FAJChw4K
>>816 変化する自分をみつめる自分があるならば、
それは無明と呼ばれる煩悩の親分のことでしょう。
そいつを滅ぼすのです。
二度と自分にもどらないように。苦しみの生を終えるのです。
822名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:53:03 ID:z/C5J9mG
>>820
>仮に「空性」という自分が存在するとしたら、
そんな自分さえも滅ぼすのが仏教の目的でしょう。

空性とは空相と言う自性であることを断って置きます。
この空性をいかようにも滅ぼすことは出来ません。故に勝義諦と言われるんです。

>>821
>変化する自分をみつめる自分があるならば、それは無明と呼ばれる煩悩の親分のことでしょう。
そいつを滅ぼすのです。

無明とは、変化するものに自性があると妄想し、変化を平等に観察できなくする知性のことだと思います。
変化をそのまま平等に観察する自分は、変化に自性があるとして束縛されていないのです。しかし、
そしてこの自分とは、知性のことであり、仏教では、知恵と言い、いわゆる般若の智慧のことです。
般若の智慧のことを勝議諦とも言い、又、般若の利剣を振るうと言う様に使用され、この知性に逆らえるものはないのです。
823名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 23:55:44 ID:tOy+ctTi
もういいかげんに空教ウザイ。
空教の人には、
原始仏教で空がどれくらいの比重か教えてほしいもんだw
824名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:04:25 ID:Sksc5xmC
>>823
■ 無常・苦・空・非我(無間等経)

摩訶拘希羅は舎利弗に言いました「質問があります。もし暇があったら答えてください。」舎利弗「聞いてください。知っていることは答えます。」

摩訶拘希羅「もし、比丘が修行法を求める場合、どのように勉強努力し、
どのような法を思惟するべきですか。」
舎利弗「もし比丘が、また、修行法を知らず、法を求めるならば、
精進努力して五受陰は病気であり、癌であり、刺し傷であり、殺害であり、
無常・苦・空・非我であると思惟しなさい。これが修行法である。
もし比丘がこの五受陰に於いて、精進努力して思惟すれば須陀亘果を得ることが出来る。」
以下略
825名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:06:15 ID:JkmDxOsp
>>824
たった一箇所か?wwwww
826名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:11:18 ID:Sksc5xmC
>>825
仏教は原始経典においても空諦は第一義諦だよ。これが無いとぜんぜん教えとして
値打ちが無いのだ。他にも幾らでもあるよ。これが無いと言う教を探すことはできないとおもって良い。
827名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:12:17 ID:Sksc5xmC
おやすみ、
828名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:17:21 ID:JkmDxOsp
>>826
そかw 比重を意味合いでとったのか。
記述の量を問うたのだが・・・。
せめて、南伝大蔵経総索引から、これだけ記されているとか言ってほしかったw

私個人の見解を述べさせてもらえば、
原始仏教においては、「空」という言葉や概念がなくても全く不都合は無い。


オヤスミ  ノシ  >>827
829名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 00:53:42 ID:7Vy4h+PY
皆さんの間では周知の事実かもしれませんが
私にはハッキリと分かっていないので、どうか教えてください。

仏教の目的は、学ぶ私達にとっては>>757さん・>>765さんの言うような
『涅槃』という理解でいいのでしょうか?
カルマを消せば、死んだ後生まれ変わるという事の原因が消滅するので
生きている間にカルマを消すのを目指す。

それで、質問ばかりで恐縮ですが、
涅槃というのは何も無い何も感じない状態なのでしょうか?
それとも自分やこの世はなくても楽とか心地よいといった感覚は存在するのでしょうか?
それとも、楽とか心地よいといった感覚が例えば音だったり色だったり物だったりと
何か形を現して存在するのでしょうか?

どうか、教えてください。
830名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 07:17:38 ID:lA0u7EOG
空とはもともと、縁起=無自性=空という意味であって、それが空教の人達にかかれば、
一相=無相=自性=空という意味にも解釈する。
少し利口な人ならすぐに気づくと思うが、これは正反対なことを空という言葉で説明していることに
なり、矛盾している。そこを指摘すると、空教の人は、詭弁が仏教だと思っているので、
仏教は、自性、無自性と言う二辺によらない中道である。中道、すなわち「空」である。とこれまた空という
単語で仏教を説明しようとする。空教の彼らにかかれば、空は無自性でもあり、
空は自性でもあり、空は中道にもなる。まるで正反対のことを、同じ空という単語で説明する彼らの能書きは
所詮は、詭弁でしかなく、詭弁でしかない彼らの論理は、全く中身の無い、空理空論である。
それこそ中身の無い空。なんのことはない。彼らは空という言葉に執着しているのである。だからなんでもかんでも
空という単語で説明しようとし、彼らの能書きは矛盾だらけになり、その矛盾を正当化しようとして、
詭弁で理論武装をしようとする。だが所詮は詭弁は詭弁でしかなく、彼らの空理空論は、
全く中身の無い、空しい空である(苦笑)
831名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 07:18:41 ID:lA0u7EOG
だいたいの元凶は、縁起=無自性のことを、空と表現した先人達であり、幼稚な思考の持ち主は、この空(クウ)という
単語にしびれ、執着したことにより、日本の仏教の悲劇があるように思える。
そもそも発音が悪い。先人達が、この空と言う言葉、空(クウ)と発音せず、空(カラ)と発音していれば、
彼らの迷いは無かったと思える。むしろ空の本来の意味を知るものなら、空(クウ)というより、空(カラ)と発音した
ほうが、よりしっくりくるというものだ。なまじっか空(クウ)などと、意味ありげな、かっこつけた発音するものだから
幼稚な彼らが、必死にその単語に執着するのだろう。最初にも言ったが、
空とは、もともと縁起=無自性=空と言う意味で使われたものだ。それを、全く正反対の意味の自性を
空で説明するのはやめていただきたい。縁起で成り立つ無自性なこの世界は、
実は実体の無い、空(カラ)のようなものである。空とはもともとそういう意味で使われていたものである。
『この世を泡沫のごとし、陽炎の如しと観ぜよ。さすれば死魔の王も彼を見ない』。つまりはそういうことなのである。
空教の人たちの空という言葉への執着はすさまじい。彼らの迷いは深い。
832名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 08:28:39 ID:q5Laavs+
>>830 「空性」という言葉もわかりにくいですよね。
まだ、縁起と言うほうがまし。
833名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 09:37:51 ID:SQ2xi9tU
空性は中観の悪取空の反省の下にうまれた唯識の用語と理解したほうが良いと
思います。
悪取空のひとは空性が有ることを認めません。
また上記の「一相=無相=自性=空」これを「空教」と言うんですか?
それは、悪取空でも中観でもなく中国禅か日本の本覚思想です。
日本人は抽象的概念も情緒的に解釈してきました。
したがて無常であれ空であれ、もののあはれと結びつき日本の文化文芸に
大きな影響を残しました。
それはインド的解釈としては誤りでも、日本人の感性にはあっていたのではないでしょうか?
834カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/13(火) 18:50:04 ID:lA0u7EOG
>>833
>また上記の「一相=無相=自性=空」これを「空教」と言うんですか?

ちょっと違う。空教の人達は、時に、空とは、一相=無相=自性=空と説明し、
時には、縁起=無自性=空とも説明し、仏教とは、自性、無自性の二辺によらない中道=空
と言う意味でも、「空」という単語で説明する。ちょっと利口な人ならわかるが、
これらの三つは、まるで違う意味なのに、「空」と言う単語に執着する彼らは、なんでもかんでも
「空」と言う単語にからめて説明しようとする。違う意味のことを、「空」という単語で
すべて完結しようとするものだから、おかげで彼らの仏教は、詭弁で塗り固められている。
詭弁が仏教ではないのだよ、空教の方。
835カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/13(火) 18:51:03 ID:lA0u7EOG
何度も言うが、「空」とは、もともと縁起=無自性=空という意味で使われた言葉であり、
それを、一相=無相=自性=空ともいいだすと、本末転倒である。
自性と無自性とは、正反対のものである。それを指摘すると、仏教は、自性、無自性の二辺によらない
空である。なんて切り替えされたら、これは詭弁でしかないですよと言うことだ。
自性、無自性の二辺によらないと言うことは、あくまで中道であり、空と表現するのはおかしい。
また自性、無自性の二辺によらないと言うことは、つまり、一相=無相と言うことになり、
それは自性ということになる。何度も何度も言うが、空とはもともと縁起=無自性=空という意味であり
自性とはまるで正反対のことを言う。空とは所詮、縁起で成り立つこの世の説明をしているに過ぎない。
ただ言葉で自性と表現すると、相対する無自性というものが現れ、
それ一本で存在できる自性は、正確に言うと、言葉では表現できないものである。
正確に言うと、自性、無自性という二辺によらない中道。これを自性という。ただ、便宜上、皆に説明するとき
自性という単語を利用しているに過ぎない。本来自性とは言葉では表現できないものである。
言葉が名前を与え、言葉は識別するものである。この世は縁起で成り立つ相対世界。

〜ヨハネ福音1:03
>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

この世界の創造主は本当はだれだか、わかるかい?
836名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 20:38:24 ID:Sksc5xmC
>>829
三十二) わたしが仏になるとき、大地から天空に至るまで宮殿・楼
閣・水の流れ・樹々や美しい花など、わたしの国のすべてのものが、
みな数限りない、いろいろな宝とさまざまな香りでできていて、そ
の美しく飾られたようすは天人や人々の世界に超えすぐれ、その香
りはすべての世界に広がり、これをかいだ菩薩たちは、みな仏道に
励むでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きませ
ん。
――――大無量寿経

837名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 20:47:47 ID:Sksc5xmC
>>835
>それ一本で存在できる自性は、正確に言うと、言葉では表現できないものである。
正確に言うと、自性、無自性という二辺によらない中道。これを自性という。ただ、便宜上、皆に説明するとき
自性という単語を利用しているに過ぎない。本来自性とは言葉では表現できないものである。
言葉が名前を与え、言葉は識別するものである。この世は縁起で成り立つ相対世界。

難しいw。

>〜ヨハネ福音1:03
>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
この世界の創造主は本当はだれだか、わかるかい?

自分だよ。各自だよ。
838名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 21:23:06 ID:Sksc5xmC
真実はいっ相で無ければならない。真実は空相で無ければならない。真実は無相で無ければならない。
しかし、縁起が真実であることは有り得ない。縁起は幻であり、虚偽である。縁起=空と言うのは間違っているのだ。
又、無自性=空と言うのも間違っている。縁起=無自性である。以下に論証しよう。

 諸法は縁起である。今諸法の内二つのものだけを取り出そう。
AとBである。両者は縁起しているのだ。Aが無ければBはなく、bが無ければAは無いのだ。
このような存在は実体としてあるもんではない。故に両者は、幻である、と言う。
これが、縁起=幻=虚偽=無自性である。このようなことが知性により見破られたので、
真実は、空である、と言うのである。そして、A=B=空となるのである。これを平等と言う。
空という一つのものがあるのだから、一相と言う。一つのものしかないので、そこにはいかなる変化もないのであるから、無相という。
 さて、これが現実の我々の生活にどう言う関係があるのか、と言うことであるが、我々の心の動きは全て縁起しているのである、それ故に
我々の心の動きは全て虚妄であり無自性なのである。あれを発見したのは私の功績であるとか、あれを為したのは私の恥であるとか、その様に
思うことは、虚妄無自性なものを取り押さえている事になり、それらに付いて誇ったり悲しんだりして居るのは、虚妄なものに
自らの虚妄を加えるもの(自作自演)であるのだ。この自作自演は三世(過去現在未来)に渡るものとなる。しかし、
一方、虚妄を見破るなら、縁起して居るものに囚われない様になる。それはどのような状態なのだろうか?
839名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 21:36:34 ID:6dqxMvtf
皆さんヘッドトリップすごいですね。
さようなら。
ボクは瞑想しまつ。
840名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 21:38:03 ID:Sksc5xmC
838つづき
自性に付いて
縁起して居るものは無自性であるが、縁起していないものは自性があるのだ。それは絶対存在だからだ。
真実は一つである。二つの真実というものは有り得ない。両者が同じ内容なら、それは一つの真実である。
お互いに異なって真実を主張できない。お互いに相手を排斥するからだ。そのようなものは縁起して居るものである。
縁起しているもの故に、真実ではないのである。どちらかが真実であり他方が虚偽であると言う場合は、二つの真実があると言う設問に該当しない。
この場合は、真実でないほうには縁起関係があることを証明できるはずである。この場合でも仏教では
真実と不真実も縁起関係にあるものと見て、真実でも真実で無いもんも、共に否定し、縁起関係から脱したもんを真実とする。
841名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 21:49:12 ID:Sksc5xmC
840つづき
 真実とは自性あるものである。
842名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 22:20:08 ID:Sksc5xmC

>>838
>一方、虚妄を見破るなら、縁起して居るものに囚われない様になる。それはどのような状態なのだろうか?

そこは一相の世界である。自分と異なるものは一切無い。自存しているのであるから、
他に頼ることは無い。あらゆることに満足がある。
843829:2007/02/13(火) 22:54:31 ID:7Vy4h+PY
>>836
レス感謝いたします。

という事は、自分の消滅は死んで全てが無になるといった状態ではなく
苦痛の存在するこの世から永遠に消滅するだけで、
様々な幸福や心地よさが音や色となって現れる、という解釈であってますか?

カルマというのも、具体的には
苦を生む原因を全て消し
二度と発生しないようにすれば、あとは楽を生む原因と結果だけが残り
永遠に安楽や幸福を得られるので、生きてる間に
カルマを消すように励む感じでいいのでしょうか?
844名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 22:58:52 ID:q5Laavs+
>>843 あなたは、人に教えてを求めていながら、
実は、あなたの好ましい教えしか受け入れたくないのでは?
845名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 22:59:03 ID:JkmDxOsp
>>843
とりあえず入門書的な簡単なものでいいから、
普通の仏教の本を読め。
話はそれからだ。
843の内容は似非仏教と紙一重だぞw
(紙一重だということを理解しつつ、そこにとどまる事ができるバランス感覚が貴方にあるなら、
別に何も言わないが・・・w)
846名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 23:02:05 ID:q5Laavs+
>>842 一相とかいうのは、禅定の境地でしょう?
禅定のすばらしい境地からも解脱するのが涅槃じゃないですか?
847名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 23:30:58 ID:Sksc5xmC
>>846
禅定の完成を追求する過程で、完成に近づくと禅定と言う観念を捨てなければ禅定の完成とはならないと
言われなければならないと思います。そして、禅定の完成とは智慧の完成に他ならないのです。
そして、智慧の完成、禅定の完成とは解脱であり、解脱知見を知ることになると思います。
これが涅槃であると思います。一相とは空相無相の別の表現です。一相の完成、無相の完成、
空相の完成、これが知恵の完成であると思います。智慧とは、真実が空相であり、無相であり、一相であることを
知ることでしょう。ですから、一相からの解脱と言うことは有り得ないでしょう。一相を完成することが禅定を完成することなんですから。
848名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 23:37:56 ID:JkmDxOsp
禅定の完成ねw

アーラーラ仙ウッダカ仙についてはどう位置付けてるの?
849名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 23:50:40 ID:Sksc5xmC
>>848
アーラーラ仙ウッダカ仙←こんな人の話は良く知りません。こちらが判断できる材料を出して欲しいね。
850829:2007/02/13(火) 23:57:06 ID:7Vy4h+PY
>>844
はい・・仏教の「永遠」とか「苦痛が無い」とか「原因と結果」といった内容にひかれて教えを乞いてるので
教えの全てを信じている訳ではないと思います。
ただ、本当に仏教の教えで、いつか永遠に幸福になれるなら
素晴らしいと思うので学ぼうとしています。

>>845
自分なりに簡単な本を読んだりネットで調べられる程度に調べたつもりなんですが、
それでも、「永遠に苦痛が無い」とか「永遠の幸福」に固執してしまいます。
これが目的では駄目なのでしょうか?
涅槃というのは方便ではなく実際に存在しますよね・・・?
どうか、お教えください。
851名無しさん@3周年:2007/02/13(火) 23:57:39 ID:JkmDxOsp
>>849

      _, ,_
.    ( ゚Д゚)
.    ( つ旦0
    と__)__)

      _, ,_
.    ( ゚Д゚)
.    ( つ旦0
    と__)__)


      _, ,_
.    ( ゚Д゚)
.    ( つ 0    ガシャ
    と__)__) (__()、;.o:。
             ゚*・:.。



      _, ,_
.    ( ゚Д゚)  < マジか?
.    ( つ 0
    と__)__) (__()、;.o:。
             ゚*・:.。
852名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:05:06 ID:8XEUJDHU
>>850
自分の知る範囲のものは全て縁起して居るものであることを知るのが最初である。
次ぎに縁起しているもんは実体「自性」が無いということを知ることである。
それを真実とし、真実を尊重し、真実に従うと言うことを自分に課し、真実そのものに自分がなる
ようにならなければならない。それが仏道修行の完成である。
853名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:09:40 ID:S/5V5da/
>>850
たとえば、あなたが野球が好きで、イチロー選手に憧れていたとする。
イチロー選手には、当然彼なりの境地というか技術や理論があるだろうし、
練習方法もあるだろう。
が、あなたにそれができるだけの(=イチロー選手と同じような)能力があるかどうかがまずポイント。
そして、彼と同じ練習方法や経験や理論の実践ができるかどうか?

仏典の記述を信ずるなら、涅槃はあります。
そしてそれは、現世において見ることが可能なものとされています。
しかしながら、そこへ到達することは容易ではない筈です。
まず、目の前の一歩二歩を進むことが重要なのでは?

また、涅槃の境地を『一度手に入れたら、あとは左団扇』というように捉えるのは、
よくないと思います。 継続は力なりとよく言いますが、
常に律し続けてこそではないでしょうか。

また、(仮に「解脱したら」という言い方にしますが、)そのあと、
苦痛がないとかありえませんからw  なによりも、
お釈迦さんは食中毒で死んだと言われるのですよ。(心を鎮めて痛みに耐えたという記述もある)

大般涅槃経をお読みなさい。
854名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:11:09 ID:8XEUJDHU
>>835
>この世界の創造主は本当はだれだか、わかるかい?

あなたの解答を開陳してください!
855名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:39:23 ID:AMPp7+Gq
>>835 創造主は私であり、創造主である私を消し去るのが涅槃では?
856名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:45:42 ID:AMPp7+Gq
>>847 何かを完成しようとしたり、
一相とか無相とかいう存在を求めたりという方向性は、
本当に正しいのでしょうか?
たとえ一相と呼ばれる真実存在するものがあったとしても、
その存在するものの世界から消えてなくなるのが涅槃ではないの?
一相・無相の真如が仮に在るとしても、
その、在るものの世界から消えてなくなるのが涅槃では?
857名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:47:47 ID:AMPp7+Gq
真に在るものを置き去りにして、私達はフッと消える。
858名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 00:50:35 ID:AMPp7+Gq
>>852 真実はくだらないから、真実をこの世に遺して、私よ消え去れ!
私よ、失われろ!失われることによって失え!
859名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 07:44:34 ID:8XEUJDHU
>>856
>一相・無相の真如が仮に在るとしても、
その、在るものの世界から消えてなくなるのが涅槃では?

虚妄の世界から真実の世界にはいる事を涅槃と言うのでは?
真実の世界から消えると言うことは、虚妄の世界に入るということであり、
それは避けるべきことでは?
860名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 07:52:07 ID:8XEUJDHU
>>834
無自性という自性を理解できないはず無いだろう?
無自性とは諸法に対して言われる呼称。したがって諸法は、無自性という単一な
性質である。この単一な性質は相対する相手を持たない、従って、自存するものであるから、
自性あるものといわなければならないし、言いうるだろう?
861名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 08:29:29 ID:AMPp7+Gq
>>860 心が何も認識しなくなったら、無自性もくそもないやろ。
862名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 18:24:42 ID:8XEUJDHU
>>861
心が認識することを意識するような、今までのような苦痛がなくなるんじゃないかと思う。
なぜなら、必要な物はすぐに接して存在しているのだから。認識するとか判断するとか言うような
ことが無くなるのだよ。とにもかくにも、自分と異なるものは無いのであるから。一相の世界、無相の世界、空相の世界、無願の世界
なのだ。つまり、認識無しこそ、自性(自存)の世界の特長と言うべきでは?
863名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 18:32:54 ID:S/5V5da/
一相でも無相でもいいけど、
それは「相」なんだよな? それは、「在り様」という意味合いにとってもいいのかな?
それとも、単純に「姿かたち」のことなのかな?
切り取って提示できるような、静的なものなのかな?
864名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 18:33:58 ID:8XEUJDHU
>>862つづき
それから滅尽定であるが、滅尽するんは煩悩という縁起に拠る虚妄であろう?
虚妄が晴れるから真実相が現れるのだよ。真実相を実相とも言いこれが一相無相だ。
 
865名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 18:35:16 ID:xKHAaug6
スッタニパータだったか「快楽と考えているものは実は
釣り針である」というような記述があったと思う。
欲に釣られて海上(人間界)でじたばたしている魚。
それが我々の姿なのだ。
866名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 18:51:13 ID:8XEUJDHU
>>863
縁起している諸法は、それぞれの法つまりもろもろのものは、相と捕らえるのだ。
これあれば彼あり、これ無ければ彼無しに言う、これ、あれ、が諸法に言う、法であり、
相なのだ。この縁起関係は確かに言えるのであるが、あくまでも虚妄の関係なのだ。決して真実にある関係ではないのだ。
その証拠に、その関係を数学的に、科学的に見極めようとしても、不可能なのだ。
ゼノンの亀とアキレスのパラドクスがそれだ。縁起して居るものは虚妄であると言うことを良く理解すべきだな。
867名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 19:01:26 ID:S/5V5da/
>>866
その考え方でいけば、「行」こそが「相」に対応するんじゃないかい?
868名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 19:04:50 ID:8XEUJDHU
>>867
「行こそ」と強調し無くとも、行も相の別の表現だろう。
869名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 19:15:15 ID:8XEUJDHU
>>863
真実相としての一相が何かと言う質問?
それなら、虚空が適当かな?無相一相空相と言うのも、真実相のあり様を説明しているのだと思うけど。
870名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 19:50:52 ID:AMPp7+Gq
>869 一相とか自性を認識してるのは誰なの?
あなたが言ってるのは無色界禅定じゃないのか?
限りない虚空を念じるのは、
空無遍処でしょう。
それをマスターしたら次は、識無遍処。
その次は無所有処。
そして、非想非非想処。
これらの無色界禅定は、まだ三界(世間)にとらわれた心でしょう。
仏教独自の悟りとは、滅尽定であり、出世間心ですよね。
一相とか自性にとらわれてるなら、まだ無色界心に縛られてるから、
世間を出た心にはなってない。
871名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 20:15:12 ID:8XEUJDHU
>>870
>一相とか自性を認識してるのは誰なの?

一相とか自性は認識対象がないという意味。無自性とか縁起とかの観念は、
今だ認識対象から解脱を促進させる説明言葉ではないと思う。
 四無識定についても、それぞれの認識されるような対象が無いと言う状態を説明する言葉。
四無指揮定相互の関係も差別の無い一つのものでアルルといわなければならないと思います。
つまり別々なものとして捉えては行けないし、捕らえるのは間違っていると。たとえば、
無所有定を修するとは、必然的に他の三つを修することになるというわけ。そしてこれらの修行の完成が
滅尽定となるのでは?
872名無しさん@3周年:2007/02/14(水) 20:24:35 ID:8XEUJDHU
>>871つづき
>一相とか自性を認識してるのは誰なの?
 
 答えは、修行する人でしょう。
修行する人は、目標を理解していなければ、修行できない。その目標が
空相一相無相無願です。所有観念、非想観念、空相観念、識(縁起)観念
これらは、一相無相空相に障害となっているわけです。
873名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 01:07:57 ID:OlOXWlBX
>>871 スマナサーラ長老のアビダンマ講義の本では、
出世間心には、色界禅定のどれかををともなうと書かれてました。
無色界禅定は三昧が深すぎて、出世間心は生じないらしい。
大パリニッバーナ経でブッダが入滅するときにも、
まず色界の四段階の禅定から無色界の四段階までいって、
再び色界心にもどってから、
ただちに全き涅槃に入られたと書かれてあった。
色界禅定や無色界禅定四つは、明らかに別々の段階であり、
ぜんぶ一緒なんてことはない。
そして、禅定を修行するものは、必ず同じ順番でそれらを体験するらしい。
874名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 23:09:12 ID:MslQubOs
五蘊は色心と略称する。三界とは色心の世界である。色心が空であるので、
色心への執着から解脱する必要がある訳である。つまり三界からの解脱とは色心からの解脱のことであろう。
 三界を欲界色界無色界と分けて居るが、欲界の中に無色界も色界もあると考えるのがそうとうではないだかろうか?
相すると、色界からの解脱のための禅定修行が四禅であり、無色界からの解脱が四無色定の修行によると考えるべきではないだろうか?
そこで色とは心(識)に依存して存在するものであるから、そして(心)識は観念であるから、無色定における禅定により消滅させられなければならない。
 どうも色界から解脱の為に四禅が必要になるのであり、無色界からの解脱の為に四無色定が必要なのではないだろうか?これらの禅定の完成が滅尽定であり、
それは涅槃であると。じゅんじょとしては「色界禅定や無色界禅定四つは、明らかに別々の段階であり、
ぜんぶ一緒なんてことはない。 そして、禅定を修行するものは、必ず同じ順番でそれらを体験するらしい。」ということになるのじゃないかな?
下から上に上がるのである。一番上の目標が滅尽定である。

875名無しさん@3周年:2007/02/15(木) 23:25:13 ID:MslQubOs
ごたごた言わないで、滅尽定を目指して修行すべきだよねw。
876名無しさん@3周年:2007/02/16(金) 13:49:45 ID:iTOluBOE
うんだ。
877名無しさん@3周年:2007/02/16(金) 19:37:01 ID:Z0F8OWhN
縁起と言うのは理法であるのか真理であるのか、真実であるのか?
878名無しさん@3周年:2007/02/16(金) 20:40:51 ID:Z0F8OWhN
単純に縁起=空=無自性などと等式にしているが、竜樹すらこの様な意味を意図していないのではないのか?
879名無しさん@3周年:2007/02/16(金) 20:49:02 ID:Z0F8OWhN
単純に縁起=空=無自性などと等式にしているが、竜樹すらこの様な意味を意図していないのではないのか?
880名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 03:05:34 ID:n3GPp1X5
>>879
縁起だから無自性である。無自性だから空である。縁起だから空である。
イコールで結ぶのは、少しちがうような…。
881名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 20:58:08 ID:CBJiGkyQ
>>880
相ですよね。=を使わない方が正しく伝えていると思いますね。
諸法無我と言う場合も、諸々の縁起して居るものは、それぞれ実体我無いと言う意味でなければならないです。
あくまでも諸々のものです。そこで、もろもろのもので、それぞれ(無我:無自性)なものが
無限にある場合を見なければならないのですが、そこには無自性一つしかないのです。つまり空相一つがあるのみです。
もろもろのものは失せてしまっています。そこで、諸法の実相は無我である、または、諸法の実相は空相である、
又は、諸法の実相は一相である、とこのように言うのが正確であると思うのです。
882名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 21:34:05 ID:n3GPp1X5
何か認識する対象(法)があったときに、
それが無自性だ、空だと直感するのは難しい。
しかし、その法が縁起であることはすぐわかる。
縁起であるということは相対的なものなので、
法それ自体に自性がないとわかる。
無自性だとわかれば、空(有でもなく無でもなく、しかも有であり無である)とわかる。
まず縁起に気付き、縁起だから無自性だ、無自性だから空だと判断できるようになる。
逆の順番は難しい。
まず空だと直感でわかってから、これは縁起だと判断することは、ない。
甘いから砂糖水だと判断する順番はあるが、
見ただけで砂糖水だと気付いて甘いに違いないとわかる人はいない。
883名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 22:21:03 ID:CBJiGkyQ
>>849
アーラーラ仙ウッダカ仙

無所有処定、非想非非想処定は快楽なんでしょうね?これらを経験の後に苦行をするんですね。
それから、苦でも無く楽でも無いところに真実があると悟ったのですね。そして、不苦不楽
の中道は、縁起の理法の理解でもあったのです。先の仙人のところでの修行にはこの中道と言う理法が
説明されなかったのです。中道即ち空相の真実に基づいた修行であったなら、釈尊は、満足できたのではないでしょうか?
それにしても、無所有処、非想非非想処も中道空相の道に合うもので有ると思います。
ジャイナ教徒の教義も仏教と非常に似て居て仏教と兄弟関係にあるといわれていませんか?
なんか釈尊の教義に近い程度の思想が合ったと考えられるんではないでしょうか?
884名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 22:25:22 ID:CBJiGkyQ
>>882
>有でもなく無でもなく、しかも有であり無である)とわかる。

「しかも有であり無であると」、これが解らない。これは有り得ないと思われるのですが。
どうしてこのように言えると思いますか?
885名無しさん@3周年:2007/02/17(土) 22:41:52 ID:CBJiGkyQ
>>882
>まず空だと直感でわかってから、これは縁起だと判断することは、ない。
甘いから砂糖水だと判断する順番はあるが、
見ただけで砂糖水だと気付いて甘いに違いないとわかる人はいない。

私達は、あるものが縁起している事を頭で「知性」で理解します。
その時、どのような縁起関係にあるのかすべてにおいて知っているとはいえないです。
でも真実には、十全方向に縁起関係があるはすです、このように推定できることをも理解しているのでは
無いでしょうか?この、推定するということが『信仰』であると思うのです。信仰とは、空であるから
今の現象に拘泥することは、空と言う真実に反することであるから、空を信じ拘泥しないことにしよう、とするべきであると思うのです。
 ですから、空であると言う真実を信じてあらゆるものを見ると言う方向に進むのがあるべき姿ではないでしょうか?
 受想行識においても空であるとの真実が働くのですから、この信仰は大事であると思います。
886名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:10:16 ID:XByWmoQ9
>>884 難しく考えなくていいでしょう。
有でないといえば有でないともいえるし、無でないといえば無でないともいえるし、
しかも、
有だといえば有だともいえるし、無だといえば無だともいえる。
すなわち、中道。
887名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:20:15 ID:iIrJQWmF
>>886
要するに拘泥しないと言うことになるようですね。
「しかも有であり無であると」という表言をしている経典でも有りましたらご紹介願いませんか。
888名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:20:25 ID:XByWmoQ9
たとえば、「湯」は、温かい水をそう名付けたもの。
温かさと水とが縁起して、「これは湯だ」という判断が生まれる。
したがって、本当は「湯」という物質それ自体が存在するわけじゃなく、
水が温かいという現象があるだけ。
なので、「湯」は有ではない。
しかし、「湯」と名付けられた温かい水がそこに無いわけではない。
ということは、
「湯」はやっぱしそこに有るじゃないかともいえるし、
いいえ無いですよともいえる。
889名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:25:06 ID:XByWmoQ9
>>887
お経は知らないけれど、
岩波仏教辞典で「空」を引くと、
説明の中にそういう表現があります。
890名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:30:41 ID:iIrJQWmF
>>888
それはちょっと問題ある解釈じゃ?
湯と言うのは、冷たい水に相対して存在を認めるときの表現であろう。
つまり、冷たい水が無いなら、湯という水はないのである。湯と言うのは、
温かい水と言う意味である。さらに、ここでは、暖かさと冷たさが相関関係にあるのだ。
温かいと言うことが無ければ冷たいと言うことは無いのである。であるから、温かいと言う事象
に実体があるのではない、と言われねばならないのである。
 これは早い遅いに付いて言われるのと同じ理屈であると思いますが、どう思われますか?
891名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:36:13 ID:XByWmoQ9
>>890 はい、そうです。
今は、「湯」が空がある説明をするために、
仮に、温かい水しかないと表現しました。
温かさも水も、湯のように分析すればやはり空です。物質的現象は分析すれば、
地(大地のことじゃない)・水(ウォーターのことじゃない)・火(炎のことじゃない)・風(空気の流れのことじゃない)
という4種類の特性の組み合わせにすぎないようです。
892名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:42:14 ID:iIrJQWmF
この前テレビで、タイの屋台を紹介していました。鶏肉の揚げ物を売って今した。
大きな鍋には油がふつふつと泡を立てていました。その温度は推定200度はあったでしょう。
売人のタイ人は、その煮えている鍋の中にある鶏の肉を素手ですくっているのです。
そのタイ人は、「自分はなんとなく煮えている油鍋の中にてを入れてみたくなっていれると何とも無いことが判った、」と言っていました。
といっいました。彼はその手法で作業をしているのです、何時も。現実ですよ。
どう思いますか?彼の手は特別なんでしょうか?
893名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:54:05 ID:qmTBAUKA
マイナス云十度で赤ん坊を外で日光浴させる
ロシア人は特別だと思います
なぜ凍え死にしないんでしょう
私はマイナス10度くらいで凍え死にする自信があります。
894名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 00:55:32 ID:iIrJQWmF
>>889
それは読み間違いでは?
縁起しているものは、あるように見えるけれども、実体が無い、と言うのが理法です。
真実にあるのではないので、それに執着しない、という態度が正しいのである、と言うのが仏教の教えです。
にも拘わらず、有ると言っても良いし無いといっても良い、と言うのでは、執着しないと言う理由が無くなりませんか?
むしろ、オームの教えの法が考えてみる価値が有るかもしれません。オームは両者の否定ではなく、
両者を肯定して、どちらも平等に良い、というような解釈をしていたような記憶があるのですが、
・・・。お手数ですが、その辞典の、その部分を引用できませんか?
895名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 01:01:01 ID:iIrJQWmF
>>893
ロシア人にしろ、北欧人にしろ、赤ん坊を厳寒の中で散歩させたりすると言うのは、
テレビで見ましたが、それは、丸裸にして散歩させると言うものでは有りませんでした。
顔だけを厳寒に曝すのです。その方が体に良いと言う理由がありましたね。それを忘れました。
 それとも裸で日光浴をさせるのですか?
896引用します:2007/02/18(日) 02:12:23 ID:XByWmoQ9
以上により、
〈空〉は
有でもなく無でもなく、しかも有であり無であるという、
一見パラドックスにあるが、
これは
存在・ことば・現実・人間・世界そのものが免れえない限界性と自己矛盾を
そのまま反映しており、同時に、
〈空〉は
相対化をどこまでも徹底し、かつ絶対への志向をはらんでいる。

897名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 07:51:51 ID:9eMUluTr
アイシュタインは素朴実在論者たったというのが世間一般の認識。
これはネットでも検索かければ、すぐにわかることと思うんだけどな。
それを違うなんて、変なこと言う人いるんですね
>>889
白いものでも屁理屈こねて黒いものだと主張するのが高級な主張だと思ってる人は、
どんなに頭が良くても、救いようのない馬鹿です。
898名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 07:55:12 ID:9eMUluTr
>>897
スマン誤爆した。
899名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 13:41:28 ID:iIrJQWmF
>>896
この説明じゃ判らないと言うのが一般でしょう。
縁起してるものは実体が無い、すべて縁起であるから実体が無い。実体が無いのであるから、
何かを得たといって喜ぶことは出来ないし、何かを失ったからといって悲しむことも無い。
かくして、縁起の世界である世間を脱出し、清浄の境地である浄土の住民となり、汚れた世間の人を導く
道師となる、と言うのが仏教である。彼はゴミ捨てに咲いた華麗な花の様である。世間にいても世間に染まる古都は無いのだ。
空諦の故に。
900850:2007/02/18(日) 18:44:52 ID:iGDIQafP
レスありがとうございます。

>>852
縁起や自性について知るのに、ネットで調べて知るという方法では不可能でしょうか?
皆さんの言う大般涅槃経などは、専門の厚い書物を読むか
縁起について知るのも寺で数年間禅をするといった事をしないとダメなのでしょうか?
私はこういう掲示板で人に聞いて分かる事と思っていますが、この方法だけでは
不可能でしょうか?どうか、教えてください。

>>853
その「目の前の一歩二歩」が何かすら分かりません。
真剣に涅槃を目指すのなら寺に行かないとダメでしょうか?
それともネットや本で知識を得てあとは日常生活で応用できればいいのでしょうか?

涅槃についても不思議なんですが、苦痛がないとかありえないなら
あまり意味がないように感じてしまうんですが・・・
消せるのは精神的苦痛だけで後は自然に従い肉体的苦痛を感じるなら、
動物と同じだと思うんです。

質問ばかりで恐縮ですが、どうかお教えください。
901名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 21:12:54 ID:iIrJQWmF
http://www.j-theravada.net/index.html
http://www.j-theravada.net/sakhi/sakhi-index.html

上を良く読んでその通り実践し、足らないなら会員になって指導を受けるのがよいと思います。

>消せるのは精神的苦痛だけで後は自然に従い肉体的苦痛を感じるなら、
動物と同じだと思うんです。

両方何とも無くなるんだと思いますよ。
902名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 21:47:46 ID:iIrJQWmF
>>900
>>806「このように比丘眼は我ではない。色・眼識・眼触・眼触より生ずる受・受の苦・楽・不苦不楽、これらもまた我ではないと観察する。耳・鼻・舌・身・意もまた同様である。これを如実に知見すると言う。 」
この経文が答えになってると思うけど。六根に生じる苦痛は自分ではないのであるということを学ぶべきじゃない?

六識に生じる苦痛は自分ではないと言う教えの何処が沸かない?この教えの前に理由があったと思うけど。
縁起して居るものを無常と言うと言うことは解りますか?

903名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 22:44:28 ID:tUn3P9Qi
850さんはホント人生危ない方向に走り出そうとしてるよ。気をつけて!

こういうことは、あなたがイメージしてるような特別な物事を目指す方向ではまったくないよ。
それから、たとえそういう永遠の生とか標榜するとこがあってもうそっぱちだから行ってはいけないよ。
超人を目指すようなとこには行ってもしょうがないよ。本当に損よ。
904名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 20:52:04 ID:4VsATxAP
この世間は実に幻であり、虚妄の世界ですから、我われがいま現実と思っている状態で、
高い崖から身を投げると言う行為を妄想するなら、それはまさにその通りの行為が為されているのであると、
知るべきです。心において憤怒の思いで人を殺しているなら、それはそのままこの虚妄の世界において
現実のものとなっていることを知るべきであると思います。この世間自体が虚妄の世界なんですから、
いまの我々が心において妄想することが、それだけが妄想で、他のものは妄想では無いとは言えないのではないでしょうか?
905名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 21:33:25 ID:4VsATxAP
>>904
今色に置いて現れる事象を言いましたが、心とする受想行識においてはそれは
確かに存在していると言えないでしょうか?心においてあるものが色に置いて現れないと言うのは、
どう言うことなんだろうかと言う疑問が生じます。その理由は、惨状を原状に戻すと言う妄想が成就するからである、
と言えないでしょうか?

906名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 22:25:42 ID:4ZVsv7B3
 地球の周囲を大気が包んでいる。その様に縁起の存在の周囲を空諦が包んでいる。
空諦を包むものは無い。空諦は中の縁起の存在をだんだんに抑圧し殺していく。何時か消滅する定めである。
907名無しさん@3周年:2007/02/21(水) 23:34:53 ID:j9GopngV
空というものは一相であり、純一である。汚れの無い心であり、一心である。
これが全てを圧倒するのである、これに抵抗できるものは無い。故に仏の慈悲の光、知恵の光は
無限であると言われるのである。この光に会うものは全ての苦しみを忘れ去ることに拠って捨てるのである。
この純一な心、仏の心を称える言葉が聞かれることが無いんじゃ?
 しかし以下のものを挙げることが出来る。
908名無しさん@3周年:2007/02/21(水) 23:36:46 ID:j9GopngV
宝積教、
一切の仏と菩薩に礼拝する。十方の果てしなく極まりない世界におられる過去、未来、現在のあらゆる仏と菩薩に礼拝する。尊い神聖な(知恵の完成)に礼拝する。
 一 妄想無く、計り知れない(知恵の完成)よ、貴方に礼拝する。完全無欠な者よ、完璧なものが貴方を見る。
 二 汚れなく、言葉も文字も離れている虚空のような貴方を見てこそ、まことに人は如来を見る。
 三 正しい者達は、月と月の光に違いを認めないように、師徳高い貴方と世間の師である仏との間に違いを認めない。
 四 慈悲にあふれた者達は、仏の教えの先頭を良く貴方を、(自らに)踏み行い、比べ物も無い偉大な存在を容易に得る。信を愛するものよ。
 五 ひとたび心が清らかとなり、規則に従って貴方を見るとき、その見ることはむなしからず、その人は必ず完成を得る。
 六 貴方は他の者の為に身をささげる雄雄しいものを皆、生み育てるやさしい母である。
 七 慈悲に満ち世間の師である仏達も、あなたの子供であるゆえ、貴方はあらゆる者の祖母である。幸あるものよ。
 八 非難の無いものよ、星を従える新月のように、あなたは常に、汚れの無い全てのパーラミターを従える。
 九 至るところで如来達は、導かれる人々の(違い)によって、一人の貴方を、異なった名称で、いろいろの姿として賞賛する。
 一〇 露のしずくが太陽の光に当たって消えるように、貴方に会えば、論者達の議論も誤りも消滅する。 
 一一 同じ貴方が、愚かな者には恐怖を起こして、恐ろしく見え、賢いものには慰安を与えて、親しいものに見える。
 
909名無しさん@3周年:2007/02/21(水) 23:37:49 ID:j9GopngV
 一二 貴方を寄る辺としながらも、貴方に対して愛着さえしないようなものに、どうして他のものに対する貪りや怒りなどがあるであろうか。
 一三 貴方はどこからも来ないし、どこにも行かない。全ての場所において、知者も貴方を捕らえない。
 一四 まさに貴方を見ないようなもの達こそ、まことの意味で(貴方を自らに)踏み行うのである。行なって彼等は解脱する。之こそ大きな不思議である。
 一五 まさに貴方を見る者は縛される。見ない者も駁される。まさに貴方を見る者は解脱し、見ない者も解脱する。
 一六 ああ、誉れ高いものよ、貴方はすばらしい。貴方は深遠である。貴方は量りがたいこと、幻のごとく、且つは現れ、且つは現れない。
 一七 諸々の仏や独覚や声門に仕えられた貴方こそ、ただひとつの解脱の道である。他に道の無いことは、決定的である。
 一八 世の守護者(である仏達)は、身体を持つものの言葉や概念に合うように、慈悲によって貴方を語り、そして又語らない。
 一九 この世の誰が貴方を称えることができようか――無相無垢であり、いかなる者にも依存せず、あらゆる言葉の境を越えている貴方を。
 二〇 そうであるけれども我々は、ほとんど称えることもできないほどの貴方を、世の習いに従い、このような言葉を使って、賛嘆しようと望み、心安らかである。

910名無しさん@3周年:2007/02/23(金) 23:34:42 ID:BQ0fin5u
age
911名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 14:20:22 ID:b2OCJibp
確かに原始経典を読んでみると、弟子達は釈尊の教えを信じて、また、釈尊を信じて
誰をも省みずに、聖人になってこの世間からいなくなるような印象をぬぐえない。
 修行が世間の中で行われるというのじゃなく、山林に入ってすることを取り立てていわれる。
しかし、山林でなくとも、世間の中において、部屋に閉じこもって孤独の境地を得られるのでは無いか。
この山林での修行は比喩的な教示と考えてよいと思う。
 さて修行するとはどう言うことか?
心を清浄にすることである。山林であろうと、部屋の中であろうと、その人の心が清浄になろうとしているのは、
周囲のものに目には見えないけれども感取されるものではないだろうか?清らかな香りが漂うのである。


912名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 20:12:32 ID:bacJgmgL
>>911 ブッダの時代は、毎朝托鉢で食事をいただくだめに街に出かけてたし、
在家信者の家に招かれることもあったわけだから、
山にこもって生活してたわけではないでしょう。
913名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 21:56:46 ID:b2OCJibp
>>912
そうでした。それが現実でした。ですから、周囲の人を十分感化できたのです。
914名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 22:24:44 ID:ISJZrJSs
托鉢では原則としてしゃべらないと
どこかで聞いた気がする。
915名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 22:50:33 ID:b2OCJibp
トラブルのような問題がある場合には、決してそのままにしないで、それを機会に法を説くと言うことをしています。
トラブルが無い方がごく少ないと思われます。法を説く機会が多ければ多いほど値打ちある修行になったというべきでしょう。
 以下の例がそれを例証しているでしょう。

わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。
 そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。
 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、
「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と
> (師は答えた)、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。
 (バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。
76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」

77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。
916名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 22:52:06 ID:b2OCJibp
78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。

79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。
──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですかから。」

81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。
詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。
917名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 22:54:06 ID:b2OCJibp
以下略
918名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 23:04:17 ID:bacJgmgL
>>916 求められれば教えを説くが、
教えを売り物にして対価を得てはならないということですね。
919名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 23:26:14 ID:b2OCJibp
相手に必要な場合、求められ無くとも、為になることをするということでしょう。
920名無しさん@3周年:2007/02/24(土) 23:53:53 ID:b2OCJibp
三輪清浄であるべきということでしょうね。
921カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 07:26:38 ID:rpxa5fW+
俺、一つだけ疑問がある。
釈迦は確かに真理を悟った人物だし彼の説く法は間違いないものであると思うが、
一つだけ疑問があるんだ。
スッタニパータなどの原始経典を読んで一つ疑問に思うこと。
それは彼らは、どうも布施に執着しているように感じた。
俺は思う、布施など、人に施しを与えるには、その相手を間違えてはいけない。
本当に困ってる人がいれば、それを我が事のように思い、
助けてあげる。ほら、昔は言ったじゃない。困ったときはお互い様。ってさ。
釈迦の率いる僧団、サンガにいた連中は、信者達や、他人の布施を頼りに食っていた。
彼らは、自分の食いぶちは、農業などするなりして、自分達で得るべきだったのではないのだろうか。
そして真理を知る彼らこそ、、聞く耳のある人達、彼らの幸せを願い、法を説く。
そして彼ら、サンガにいた人達こそ、施されるだけではなく、目の前に困った人がいれば、施しを与える。
真理を知る者なら、施しをもらうほうではなく、与えるほうにならなければならない。真理を知る者なら
そうするべきだと思うし、それが涅槃に至る道だと私は確信している。なぜなら真理とは「一」であるから。
「一」すなわち、それは、エゴなき、愛なのだから。
922カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 07:36:18 ID:rpxa5fW+
もちろん、皆のため、法を説き、それに対して、聞いた側から、感謝の気持ちで、
施しを与えてもらえたのなら、それは遠慮なくいただくべきものだろう。
人が働き、それにふさわしい報酬を得るのは、なにも間違いではない。当然のことである。
そしてできれば、その施された物を、他の困っている人達に与えてやれれば、尚、良き事だろう。
原始経典など読むと、釈迦は真理を悟り、彼の教えは素晴らしいものだと思うが、どうしても彼らには布施に
対する執着を感じてしまい、いやらしさを感じてしまう。
釈迦の仏教(原始仏教)は、事実上滅亡したものだと私は思う。
仏教には、因果応報という教えがある。彼らが本当に良いことをしていたのなら、
釈迦の仏教は、衰退することなく、釈迦の死後も、尚、発展していかなければおかしい。それが法というものだ。
どうしても原始経典を読むかぎり、彼らの布施に対するいやらしさを感じてしまう。それは、テーラーワーダに
顔を出したときも感じたものだ。原始仏教が衰退していったのはここら辺にげんいんがあるのではないだろうか。
因果応報。人はその行いにより、その報いを受ける。釈迦は食中毒で亡くなったと聞く。
これは因果応報の象徴的なできごとだったのではないだろうか。
たとえ真理を悟り、知識として真理を知りえようと、行いが違えば涅槃には至れないものである。
だがそれはとても難しいこと。それができれば、もともと我々はこの世界にはいない。私とあなたを分ける、この世界にね。
キリスト教には原罪という教えがある。多くのキリスト教徒は、この原罪とはなにかを理解していない。
私がこの原罪とは何かを、聞く耳のある人に伝えよう。
我々は本来一つであるのに、自己だけを愛し、他を愛さない。我々の心はエゴという名のサタンが支配する。
人は、このエゴにより争う。悲しいかな、どうして一つなのに、”私とあなたを分け”、人は争うのか。
一つを二つに分けた我々は、悪い存在なんだよ。
923カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 08:08:05 ID:rpxa5fW+
ヴィパッサナーの瞑想に興味があり、私は以前、ゴエンカさんの所の10日間の合宿に参加した
事がある。正直、彼のヴィパッサナーは、理論的には失望するような内容だった。
テーラワーダさんのところのほうが、理論的には、まだ納得できる者だと思う。だが、ゴエンカさんのところの
私利私欲ではない、布施に対するアプローチは大変共感できるものであり、対して
テーラーワーダさんのところは、正直、布施に対して、いやらしさを感じた。
理論的には、ゴエンカさんより、テーラーワーダさんのところのほうが優れていると思えるのだが、
ゴエンカさんのところは、仏教発祥の地、インドにて、大変立派な瞑想センターまで持つに至り、。
対してテーラワーダさんのところはどうだろう。私はこれこそ法が働いているのではないかと思える。
どんなに立派な理論より、本当に大事なことは、行いなのだ。つまりその人の生き様。
私利私欲に走り、どんなにこの世に富を築こうと、死ねば終わり。本当の富は別のところにある。
そしてその場所こそ、本当の我々の心がある。そこが本当の自分なのだ。
この世の自我は、夢。我々は夢を見ている。
布施とは、困った人を助けてやることであり、また、私利私欲ではなく、他者のためを思い、法を説き、
行動する人を、助けるならば、それはかけがえのない功徳を積むだろう。
それが本当の自分のための富なのだ。間違えても布施とは強制するものではない。
本人の自由意志に任せるものであり、法を説くものはただ法をとけばいい。
その言葉を聞き、真理を理解する者なら、私利私欲で動いていないあなたを、黙っていても助けてくれるだろう。
法を説く者が、他人の布施を、あてにしたとき、その心が芽生えたとき、
その人の、その団体の、堕落が始まるのだろう。
924名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 09:17:56 ID:JERsaxjf
>>922 教えを売り物にして対価として布施をもらうことを、
釈尊は禁止してましたよね。
やはり、在家の者が出家者を養うのは当然という文化的背景があるのでしょう。
在家信者は布施をすることで功徳を積めるのですから、
出家者が在家信者にこびへつらう必要もないのでしょう。
スマナサーラ長老がどこかで書いてましたが、
スリランカでは人に何かしてあげるのはあたりまえだから、
わざわざサンキューなんて言わないらしい。
長老がスリランカに帰った時に
ついつい日本暮らしの癖でサンキューなんて言ってしまって、
むこうの子供達に笑われたらしいです。
925カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 10:06:14 ID:rpxa5fW+
>>924
人の心は「言」によって成る。
たった一つの言葉が、人の心を幸せに満ちたものにするが、
たった一つの言葉が、人の心を殺しもする。
言葉は、人の心を殺しもするが、生かしもするのだ。
真理を悟る者なら、感謝の言葉など期待することなく、他人に施しを与えるだろう。
だが、修行の発展途上の人なら、感謝の言葉一つ投げかければ、嬉しく思うものだ。
自分のしてほしいことは、なんでも人にしてやれ。
真理を悟る者なら、相手の喜ぶこと進んでしてやるものだ。
そsこで感謝の言葉を述べる、相手にやさしい言葉を投げかける。
それは悪いことではない。
そして相手を本当に思いやるなら、感謝の言葉など期待することなく、他人に施しを与える心を
持てるよう、気付きを与えるものだろう。

自分のしてほしいことは、なんでも人にしてやれ。

が、一つ言っておく。たとえ真理を悟る者なら、他人に何かしてあげるのは当然だと知っていても、
感謝の気持ちを一つでも述べられれば、嬉しいもの。
人の心は「言」によって成る。言葉一つで人の心は幸福になりもするが、言葉一つで、人の心を殺しもする。
他人の心の幸せは、自分の幸せだと知れ。

自分のしてほしいことは、なんでも人にしてやれ。

まだ、心の完成をしていないものからの施しを受けたものが、感謝の言葉一つかけることなく、
当たり前のことだと、偉そうにふいんぞり帰っている者など、悟りには至っていない。そのような傲慢な御仁は、
なにもわかっちゃいないのさ。
926カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 10:12:12 ID:rpxa5fW+
「言」は識別するもの。「言」で表現されるものは、全て縁起するものを生む。
「言」は万物の生みの母。男は在りて在る者。女は男のハート。
彼女は男の内にあり、男と女は一つである。
「言」はあなたと私を識別し、相対世界であるこの世界を生んだが、「言」による知恵こそ
我々を再び、一つにするだろう。「言」は我々を生かしもするが、殺しもする。
おまえが他者と識別する命は、おまえ自身なのだ。なぜなら本当の命は、一つなのだから。
我々人の心から「言」を失えば、ただの獣と等しい。
「言」を持たない獣は、エゴのまま生きる。彼らに真理を悟ることはないだろう。
「言」を持たない獣達を憐れみたまえ。「言」を持とうと、真理を悟らず、エゴのまま生きる人間と、
獣共と、何の違いがあるというのか。彼らは獣のままである。真理を悟ることが許されていない、「言」を持たない
獣達を憐れみたまえ。「言」持とうとぷと、真理を悟ることなく、エゴのまま生きる「人間共」を憐れみたまえ。
「一」は命そのもの。だから生き物を殺してはならない。
おまえが他者と識別している命は、実はおまえ自身なのだ。だから生き物を殺してはならぬ。
他の生き物を殺す者は自分自身を殺している。どうして自分自身を殺すものが、生きられようか。
だから生き物を殺してはならぬ。

生きとし生けるものは幸せであれ。
私は幸せであれ、私の大事な人も幸せであれ。私を憎む人も幸せであれ。「言」を持たない獣達にも真理の光を。
無明に囚われし、「言」を持つ人々にも真理の光を。生きとし生けるものは幸せであれ。
なぜなら生きとし生けるものの幸せは、私の幸せなのだから。

生きとし生けるものは幸せであれ。

聞く耳のある者は幸いである。
927名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 10:54:03 ID:JERsaxjf
>>925 言いたいことはわかるけど、それは日本人的な感覚の影響が大きいでしょうから、
民族による文化の違いを忘れてはいけないでしょうね。
ブッダが人から食事に招かれたときに、沈黙をもって招きを承けられた場面もあります。
我々の感覚なら、オッケーならオッケーと言いますよね。
返事ぐらいしろよ、と。
しかし、黙ってれば(断わらなければ)オッケーという文化だってあったわけですね。
行きますと約束したのに行けない事情ができたら
約束破ったことになるからかもしれませんが…。
928カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 11:21:30 ID:rpxa5fW+
>>927
相手が別に礼を望まないどころか、礼をされると返って迷惑だと
思っていたのなら、相手に礼を述べる必要などないでしょう。
「自分のしてほしい事は、何でも人にしてやれ」
この言葉を出すと、屁理屈で返す人がいますが、この言葉の意味がわかりませんか?

因果応報を説く釈迦が、布施により出された食事で、食中毒にあたり
死んだのは皮肉なものだと感じます。どんなに真理を悟ろうと、人の心は弱いもの。
心は熱く燃えていても、肉の思いには負けてしまうものです。それほどまでに、肉の思いはすさまじい。
私は、原始仏典を読む限り、サンガの連中の布施に対する執着をどうしても感じてしまいます。
良いことをすれば、良い果報を受ける。
さて、どうして釈迦の仏教(原始仏教)は滅亡してしまったんですかね。
良いものなら、滅亡するどころか、より発展しそうなものですね。ところが釈迦の仏教(原始仏教)は滅亡してしまった。

もちろん私は釈迦の説く法は間違いではないと思っています。
だが一つ言っておきたいのは、彼らの布施に対する教義は、現代のカルトのいい道具にされています。
また彼らも、たとえばオウムのようなアプローチで、在家の信者達に布施を募っていっていたのなら、オウムと同じく
カルトに成り下がっていたものでしょう。因果応報。もしそうなら、彼らが滅亡するのは当然の成り行きだってのでしょう。
オウムが衰退していったようにね。それが法というものです。
929名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 12:10:40 ID:JERsaxjf
>>928
布施した人が礼を言われたいと思うのは、
布施した側が自分の布施したものだと執着してるからでしょう。
それでは、あなたのいう「一」に反するのでは?
左手がかゆくなったので右手で左手をかいてやった場合、
左手は右手に礼を言いますか?
食べものをもらった胃袋は口に礼を言いますか?
930名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:01:48 ID:4NRsOMoT
>>929
>左手がかゆくなったので右手で左手をかいてやった場合、
左手は右手に礼を言いますか?
食べものをもらった胃袋は口に礼を言いますか?

礼など言いません。何故言わないか、ある場合には言うことが有り得るのか、
などと言う論も無いでしょう。無記とはこう言う場合に言うものかも。

しかし胃が痛い時に口に食物を入れた場合、胃はますます悪化します。悪化するのは口に対して文句を言って居ることになら無いでしょうか?
また自殺をする場合、身体のある部分がその他の部分に敵対していると考えて良いでしょう。このように身体が一つとして機能しない場合、
をどの様に考えたら言いのでしょうか?
931名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:12:18 ID:ow4FU4G1
 言 をもたない人間はどうなる?獣だとでも言うのか?言を持つ人間でさえ救われるのだから、持たない人間こそ救われるべきだろう
932カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 13:13:13 ID:rpxa5fW+
>>929
>布施した人が礼を言われたいと思うのは、
>布施した側が自分の布施したものだと執着してるからでしょう。

その通りでしす。わかっているのなら、礼を言われるのが目的の者の布施など、受け取らなければいいのです。
そのような者を、導く力量があるのなら別ですが、導く力量もないのに、どうしてそのような者の布施を、
礼も言わずに受け取るのですか?そのような者から、人に施しを与えるのは当たり前のことだと、
自分は貰って当然などと思ってる者と、礼を言われるのを目的に人に施しを与える者と、一体どういう違いがあるのでしょう。
同じ穴の狢。私は、布施をする相手を間違えてはならないと言った。
このような恥知らずな者に、涅槃はないといっているのです。このような者に、布施を与えるのは
ふさわしくないでしょう。人には良心というものが、多かれ少なかれあるもの。
目の前に困っている人がいる。それを助ける者に、どれだけ、最初から礼を言われることを期待して行動する者がいる?
また逆に、自分が困ったときに助けてくれた人に対して、礼も言わず、当たり前のことだとふんぞり返っている
のなら、助けた相手はどう思うでしょう?もちろん真理を悟る者なら、別にそれはそれでいいと達観するだろうが、
ただの善意でした者なら、悲しむだろう。善意で自分を自分を助けてくれた者を、悲しませるような者は、
布施を与えるにふさわしくないといっているのです。問われているのは
布施する側だけではなく、指導者の心でもあるのです。人の善意を受け取ったとき、礼を言うのは悪いことですか?
人から善意を受け取っても、それは当然なことだと、礼もいわないことが善い事ですか?
善意で人を助けてあげるような、そのような人は、導くことも容易でしょう。
最初から見返りを期待して、布施をする者など、ただの偽善者であり、そのような者を導く力量もないのに、
他人が施しを与えるのは当然のことだと礼も言わずに受け取る者も同じく偽善者だと言っているんだよ。
わかっているのなら、礼を言われるのが目的の者の布施など、受け取らなければいいのです。
933名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:17:06 ID:4NRsOMoT
>>928
布施』は誰の為に取り善行となるのでしょうか?
大乗経典では(特に般若経典)法布施(一切は空であると言う教えの流布)に比べたら、
その他の食物財宝などの布施は無意味であると言う教えがあります。
 そもそも神や仏が食物なり財宝也の布施を必要としていると考えたり、喜ばれたりされると
考えるのは、道理あるでしょうか?
934カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 13:40:45 ID:rpxa5fW+
一つ言っといてやるよ。
よく宗教やってる奴は、自分の願望を満たしたいからその教団に所属し、
自分の欲望を満たしたいがため、その教団に布施をする。
また、それを食い物に、当たり前のようにそのような動機の者の布施を貰いうけ、
いけしゃぁしゃぁと、飯を食い、私腹を肥やす。
どっちも同じ穴の狢だ。本当に功徳を積みたければ、見返りを求めず、
本当に困っている人達に施してやれ。もちろん、信者達を食い物にしているどこそこの
教団の指導者共も、本当に困っているようだったら、助けてやれ。
また、施される者は、当然のことだと散漫になることなく、自分を助けてくれる者に感謝の気持ち
忘れるな。何も困っていない者に、私利私欲のため、施しを受ける者などに
施したところで、何の功徳になるのだ?そんな者達に布施をするくらいなら、ユニセフでも
寄付してやった方がよほど、功徳になるというものだ。

自分の願望達成(私利私欲)の為に布施をするものと、他人の好意を、なんら感謝の気持ち
も持たずに、いけしゃあしゃあとこれまた私利私欲のために受け取る者と、どういう違いがあるというのだ?
そういう連中は同じ穴の狢、偽善者と呼ぶんだよ。
本当の指導者なら、そのような者を導けるだけの力量があるのなら別だが、そうでないのなら、
そのような不純な動機の布施など、受け取らないものだ。そいつが本物だ。

なにが本物で、なにがまがいものか判断できる人を見る目がないのなら、
わけのわからない宗教団体などに布施する金があるのなら、ユニセフでも寄付してやれ。
相手が本物の指導者なら、あなたを賞賛するだろう。自分のところに布施しないで、他の慈善団体に
寄付するあなたを非難する指導者は、間違いなくまがい物だ。
何も困っていないまがい物に、布施したところで、功徳を積むどころか、悪業を積むだろう。
あのオウムの麻原にせっせと布施をしていた、オウムの信者達のようにね。
935名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:58:13 ID:4NRsOMoT
>>931
やっと意味がわかりましたw。人間でもしゃべれない人や、
知的障害者などの人は、救われることを誰よりも望んでいるわけです。
昆虫は不幸である人間から比べたら、それよりも不幸であるから、人間よりも、
先に救われるべきであると言うことですね。
936名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 14:58:26 ID:4NRsOMoT
マジックニカーヤ
p.257
戒ある者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、劣戒の者たちに施すなら、その施物は、施者から清まる。
 劣戒の者が、清らかならざる心で、行為(業)の果の巨なることを確信することなく、施すものを、法(正義)ならざるによって得て、戒ある者たちに施すなら、その施物は、受者から清まる。
 劣戒の者が、清らかならざる心で、行為(業)の果の巨なることを確信することなく、施すものを、法(正義)ならざるによって得て、劣戒の者たちに施すなら、その施物は、両者からして清まることが、まさしく、ない。
 戒ある者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、戒ある者たちに施すなら、まさに、〔わたしは〕その施しを「広大なる果あるもの」と説く。
 貪りを離れた者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、貪りを離れた者たちに施すなら、まさに、〔わたしは〕その施しを「広大なる財施」と説く。


上に戻る↑

937名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:19:09 ID:4NRsOMoT

〔天の神々たちが言った〕「あるいは、物惜しみのゆえに、あるいは、怠り(不放逸)のゆえに、このように、布施は施されない。功徳を望んでいる者によって、
〔法を〕識知している者によって、施さるべき〔施物〕と成る。
 物惜しみの者が、まさしく、それがために恐怖して施さないなら、
それこそが、施さない者にとっての恐怖である。それがために物惜しみの者が恐怖する、
飢えと渇きとがあり、それこそが、この世と他〔世〕において、愚者に触れる。
それゆえに、物惜しみ〔の思い〕を取り除くように。〔世俗の〕垢を征服する者となり、
布施を施すように。諸々の功徳は、他世において、生あるものたちの依拠するところと成る。
 諸々の道を共に行く者であるかのように、少ないなかで献じ捧げる者たち――
彼らは、死せる者たちのなかにあって、死ぬことがない――これは、永遠の法(真理)である。
或る者たちは、少ないなかから献じ捧げ、或る者たちは、多いなかから施そうとしない。
少ないなかから施された施物は、千に等しいものと量られた。
938名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:21:16 ID:4NRsOMoT
施し難きを施し、為し難き行為(業)を為す者たちにたいし、
正からざる者たちは、従うことができない(正しくある者たちの真似はできない)。
正しくある者たちの法(教え)は、捉えどころなきもの。それゆえに、正しくある者たちと、
正からざる者たちとでは、この〔世界〕から赴く所(他世)は、種々なるものと成る。
正からざる者たちは地獄に行き、正しくある者たちは、天上を行き着く所とする」〔と〕。
〔世尊は言った〕「落穂を拾って〔世を〕歩む者――
あるいは、妻を〔養い〕人に〔仕えながら〕少ないなかで施す者――
〔彼は〕法(正義)を行じおこなうであろう。千の祭祀をする者の百千の、
それら〔の祭祀〕は、そのような類〔の施し〕の、〔十六分の〕一にさえも値しない」〔と〕。
〔天の神が尋ねた〕「どうして、これらの者たちの、
広大で、大いなる価値ある祭祀は、
正しい者によって施された〔施物〕の価値に至らないのですか。
千の祭祀をする者の百千の、それら〔の祭祀〕は、そのような類[たぐい]〔の施し〕の、
〔十六分の〕一にさえも値しないのですか」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「或る者たちは、正しからざることに固着して施します――
〔生き物たちを〕切り、打ち、しかして、憂い悲しませて。
その施物は、涙の顔をした、棒(暴力)を有するもの、正しい者によって施された〔施物〕の価値には至らないのです。
このように、千の祭祀をする者の千の、それら〔の祭祀〕は、
そのような類〔の施し〕の、〔十六分の〕一にさえも値しないのです」
〔と〕。
939名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:27:13 ID:4NRsOMoT
サンユッタニカーヤ
尊師よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかの布施もまた、善きかな。
信による布施もまた、善きかな。法(正義)によって得たものからの布施もまた、善きかな。
弁別しての布施もまた、善きかな。さらにまた、生き物たちにたいし、自制ある者もまた、善きかな。
生き物と成ったものたちを傷つけずに歩み、他者の悪態ゆえに、悪を為さない者――
〔人々は〕恐怖ある者を賞賛する。まさに、そこにおいて、〔恐怖なき〕勇士を〔賞賛し〕ない。
まさに、恐怖ゆえに、正しくある者たちは、悪を為さない」〔と〕。
〔世尊は言った〕「布施は、諸々の信によって、多種多様に賞賛された。
しかしながら、布施よりも、まさに、法(真理)の句こそが、より勝っている。
まさに、正しくある者たちは、まさしく、過去において、まさしく、さらなる過去において、知慧を有する者となり、
まさしく、涅槃に到達した」〔と〕。
pp.22-3
〔天の神々たちが言った〕「人間たちにおける、諸々の欲望〔の対象〕は、常住のものとして存在しない。
この〔世には〕、〔迷いの者によって〕欲せられるべき諸々のものが存在する
940名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 17:12:41 ID:4NRsOMoT
941名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 18:16:26 ID:4NRsOMoT
>>940
以上には、布施の功徳が説かれているが、その原因は説かれていない。原因と言うのはどのような理屈で、
布施と言う行為が発生するのかと言うことである。
 ここに言われる布施、は現代における慈善の寄付のことと理解すべきものだろうか?
現代日本は概ね民主主義体制である。税金から憲法で保障された最低生活の為の資金が支出される。
世界の中の貧窮の国に対しては、国連を通して援助がされるような体制になっている。
 この原始経典のままを現代に適用しようとすれば、賄賂の供与をすることになら無いだろうか?
942名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 19:52:14 ID:4NRsOMoT
いかにインドと言う文明国家であったとしても、現代の様に公平な税制があったとは思えない。
聞いたことが無い。
943名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 20:40:46 ID:JERsaxjf
>>932 布施を承けとる人がいなければ布施する側は布施できない。
執着や貪欲を捨てるトレーニングのひとつと考えれば、
最初は礼を言われたいと思いながら布施してた人も、
だんだん執着なく布施するようになっていくのでは?
大乗の六波羅蜜にも、布施と忍辱が入れられてますね。
布施は貪りを捨てる訓練で、忍辱は怒りを捨てる訓練ではないでしょうか。
訓練だから、最初から完璧にできないのが当然で、
反復練習によって身についてくるものなのでは?
944名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 20:48:54 ID:JERsaxjf
あと、布施や寄付に感謝したり、
その布施した人の善行(訓練が進んだこと)を喜んだりするのはいいと思います。
しかし、布施や寄付をもらったと意識しすぎると、「借りができた」みたいな引け目みたいな感覚になると思います。
さらには、沢山布施できるお金持ちに、
より沢山の「借り」があるような感覚になってしまいます。
でも、それはおかしいでしょう。
まったく布施する余裕がない人もいるだろうけど、
そんな人でも内心布施したいという気持ちがあるなら、
いっぱい布施しているお金持ちと同じレベルなはず。
それなのに僧侶が金持ちにだけヘーコラするなら、それは間違いだと思います。
布施しない人も、本当は布施したいけどサイフの事情で布施できないだけかもしれない、
と思うべきでしょう。
945名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 21:46:14 ID:4NRsOMoT
やはり布施の完成の原理は知恵の完成であるといわなければならないと思いますね。
相手、全ての対境は、自分の身体と同じもの、即ち、「一」であると言う理由により、
布施は行われなければならないと言う道理になると思います。
 色と言うと自分の身体に対して存在するものすなわち対境と言われるもの、と考えるならば、
どうも道理がある展開にならないのですが、色というものを、自分の身体をも含めてのもので、
それと区別できるものは、心しかない、と言う一応の判断の故に、生ずる概念と考えねばならないと思います。
相すると自分の身体も目に見える一切の物は色に相当するのであり、それが縁起物であるから、速やかに空相無層一相と
思うことが出来る。次ぎに、残るところの心は、これも縁起ものと見なすに困難は無いから、
一切は空であり、無相であり、一相であるとして、差別の思いがある場合その差別の思いを打破する為に、
布施の行為をする必要が、修行者にはあるのである。差別感情をかもし出すケースは修行者に取り歓迎すべきものとなるのでは
無いだろうか?(思いのままに書いた)
946カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:33:00 ID:rpxa5fW+
>>944
自分の働きに応じた報酬をえるのはなにも間違いではない。
当然のことだ。なにゆえ、そのような者が施しを受けたからと、どうして
引け目を感じる必要があるのだろうか。
布施をしてもらった人を、正しく導いたのなら、その働きに応じた報酬を受け取るのは
当然のことであり、また、真理を悟る者なら、なんの利益を当てにすることなく、
法を説くものだ。布施を当てにし、法を説く者など、堕落しており、彼は真理を悟っていない。
そのような者は、施しを与えるのに値しない。が、このような愚か者でも、本当に困っているのなら、
助けてやれ。それが本当の布施というものだ。
相手に対して、なにもしてやれない者が、他人に施しを受けたのなら、引け目を感じるのは当たり前のことだろう。
せめて感謝の気持ちくらい持て。なにもしてやれなくせに、自分は施しを受けるのは当然だと
いけしゃぁしゃぁと、感謝の気持ちもなく、遠慮なくいただいてる御仁は、単なる厚顔無恥な、愚か者である。
そのような者に布施など与えるに値しない。ただそのような愚か者でも、本当に困っていたのなら、何の見返りも
期待せず助けてやれ。それが布施というものだ。布施を与えることで、返って相手に悪業を積ます結果になるのなら、
最初から、布施など与えない方が良いものである。人を己のエゴの為殺そうとしている者達がいるとする。
そのような者たちに布施を与えるのは善業にはならない。布施を与える相手を間違えているといっているのだよ。
947カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:35:04 ID:rpxa5fW+
布施を当てに法を説く者など、全てまがいものである。
無所有が良いことだと、自分達はむしょゆうをつらぬく傍ら、在家には所有させ、
在家の所有物から飲み食いするのが良いことだという道理はない。
真理を悟るものなら、自分達の食いぶちは、自分達でなんとかすればどうだ。
僧団なら尚のこと、農業でもやり、自給自足すればいい。そして必要な人がいれば、
自分達の食い物を、分け与えてやればいい。ならば畑などの所有物も、所有物とならず、
清い心の持つ者の所有物は、汚れることなく清められる。法を説く者なら、まず自分達の方から、
他人に分け与えることをすればどうだ。布施を当てに法を説いたところで、何の益があろうか。
ただ自分達の所有物に執着し、それをおびやかす者と争う心が芽生えたところに、堕落が始まる。
執着するなとは、そういうことなのだ。
多くの宗教団体の布施に対するアプローチは間違っていると思っている。
彼らの思想のベースは、仏教から来ている。釈迦の残した僧団、サンガは発展するどころか、
滅亡してしまった。それが全てを物語っている。
948カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:40:55 ID:rpxa5fW+
自分の働きに応じた報酬を得ることは何も悪いことではない。
何の引け目も感じることなく、受け取ればいいだろう。
だが、よこしまの気持ちで、他人に施しを与える偽善者がいる。
彼らを導く能力もない、またはなから導くつもりもない者が、他人に施しを与える
ことは当たり前だと、いけしゃぁしゃあと、受け取るのは、単なる不正である。
949名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 22:44:13 ID:JERsaxjf
>>946 布施をもらったら感謝しろと言う裏側には、
布施をくれない人には感謝しなくていいという、
くれる人とくれない人にとの差別があるのでは?
くれる人にもくれない人にも感謝するという平等か、
もしくはどちらにも感謝しないという平等でいいのでは?
950カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 23:05:17 ID:rpxa5fW+
>>949
屁の理屈。

別に無理にわかってくれなくていいよ。
聞く耳のない人に、どんなに話したところで曲解、
相手の真意を捻じ曲げ、揚げ足取りなどで、相手の真意を理解しようとはしないものだ。
951名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 23:12:01 ID:4NRsOMoT
>>947
>釈迦の残した僧団、サンガは発展するどころか、
滅亡してしまった。それが全てを物語っている。

仏教は救いの原理を尊重したのだ。その原理に基づいた教団は大変高度な団体であろう。
しかし、イスラムやキリスト教の様に、救いの原理を強調しないで、一つの心の集団とその拡大を求める者には、
人々は加入しやすいのではないだろうか?今の創価もその類の一つでは?しかし、哲学のない集団は、
内部問題に対処する智慧を持たず、発揮できないのだ。キリスト教内部の戦争、今のイラク内部での戦争がそれを証明していると思う。
所が、仏教内部での戦争とは未だ無いのではないだろうか?聞いたことが無いのだ。それは哲学があるからではないだろうか。
インドでは仏教はほとんど無いに等しくなったが、東洋に於いて生き残ったではないか。
日蓮は仏教を誤解して、哲学を廃した為に、今度の大戦争に影響を与えたといわれている。
仏教は智慧の宗教なんだな。欲の宗教ではないのだ。欲を満足させる智慧ではなく、平安に導く智慧である。
この相違がなかなか理解されず実行できないのでは?
952カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 23:47:12 ID:rpxa5fW+
>>951
おや自分の信仰する仏教を貶すキリスト教徒の私に腹を立てるか?
その心はどこから来る?自分の宗教に執着する者、この世のものに執着する者。
彼らはその執着する心ゆえ、自分の価値観のあわない者と争う。
執着する心は、エゴを生み、エゴは、私とあなたを分かつだろう。
だからこの世のもの全てのものに対し執着するな。執着はあなたと他人が争う心を生むのだ。

一神教はあれはあれでいいのだよ。
今の一神教は、真の一神教のイミテーション。あれはあれで意味がある。
聖書の預言とは、言葉を預けるものである。みよ、世はまさに、預言の通りに進んでいる。
中東の出来事は、何も偶然なものではないのだよ。
執着する心の無くなった者、本当に心が解脱した者に、もはや戒律は必要ない。
次の時代、今の一神教は言うに及ばず、既存の宗教は全て姿を消すだろう。
偽預言者共は、全て封印されるのだ。
その時代に人々は初めて、今まで受け入れなかった真理を受け入れ、自分自身を知るだろう。
だが、その前に、大いなる苦しみが待っている。それは生みの苦しみなのだ。
そして神との新しい契約、新約は成就される。

キリスト教が優れている。いや、仏教の方が優れている。
イエスは釈迦より偉大だ。なにを言う、イエスなど釈迦の足元にも及ばない。
こんなことは愚か者の言うことだ。キリスト教がどうだの、仏教がどうだの、そんなことはどうでもいい。
真理は一つだ。我々を救うのは、何々教ではなく、元からある、永遠不変の真理だけなのだよ。
953名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 00:04:22 ID:RAO/JOPQ
うん、同意。
954名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 00:23:17 ID:RAO/JOPQ
>>952
>聖書の預言とは、言葉を預けるものである

これの説明を求む。
955カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 02:14:52 ID:4wFYmuwS
>>954
黙示録などは預言の最たるものだ。
預言とは言葉を預けるものである。つまり計画書のようなものだ。
旧約は、イエスの十字架により成就された。
旧約の詩篇と、新約のイエスの十字架のエピソードなどは、その象徴的なものだ。
あれは後の者が、旧約の預言の成就の為に編集されたものなのだろう。
預言とはそういうものだ。予言とは違う。

そして、世は新約の通りに動く。これは今も綿々と真の一神教が生きている証拠であり、
真のキリスト教が生きている証拠である。今表立ってあるキリスト教などはイミテーション。
真のキリスト教は、表に出ることなく、今も裏で綿々と息づいている。そして新約は成就される。
イエスの十字架により、旧約が成就されたようにね。

俺の言っていることがトンデモなのか、真なのか、後の歴史が証明するだろう。
執着する心の無くなった者、本当に心が解脱した者に、もはや戒律は必要ない。
人々に意識革命を起こさせるほどの、大いなる苦しみがこの先に待っている。これは生みの苦しみ。
これこそ大乗であり、全世界を巻き込むスケールの大きな真の大乗。新約は必ず成就されるよ。必ずね。
956名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 04:14:43 ID:+alT+EyY
>>955
変な新興宗教止めた方がいいよ。マジで・・
957名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 15:32:44 ID:BfcFhI5Z
真実のキリスト教の歴史は血塗られた歴史だ、殺しと侵略が本質だ。

建前は何とでもいえる。処女を装う売春婦だ。

ブッダの不殺生戒などクスリにもしたくないだろう。
958名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 17:23:43 ID:RAO/JOPQ
>>957
>真実のキリスト教の歴史は血塗られた歴史だ、殺しと侵略が本質だ。

十字軍と三十年戦争、他にどんなものがありましたか?
959名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:27:17 ID:RAO/JOPQ
>>957
>建前は何とでもいえる。処女を装う売春婦だ。
ブッダの不殺生戒などクスリにもしたくないだろう。

これ等は重要な教義とすると重大な問題が生じるが、イエスは重要な教義としていない。
「神のみ心を行うものが私の父母兄弟である。」とか、「私は立法を排するために来たのではなく、立法を確立するために来たのである。」
今は教義に付いて話している。信者がどの様に教義を実行したかではなく。
960名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:30:22 ID:RAO/JOPQ
>>959訂正 立法→律法
 他に論理的に瑕疵があるが、ま、いいかw。
961名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:37:09 ID:DI73r8kY
魔女裁判
カタリ派大虐殺
聖バルテルミーの大虐殺
スペインによる中南米侵略
マウンテンメドウの大虐殺〜ユタ戦争
北アイルランドのカトリック・プロテスタント抗争

キリスト教&虐殺でぐぐるとたくさんでてくる
962名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:39:41 ID:BfcFhI5Z
真実のキリスト教は「聖書」の中にはなく、
真実の仏教は「大乗」の中にはない。

売春婦が処女であることを前提に語っても無効=欺瞞でしかない。
963名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:12:44 ID:xN149wLy
聖書の中でイエスの言葉のみは価値がありそうに感じる。
で、イエスのセリフ「右の頬を打たれたら左を差し出せ」
「コートが2枚あれば、1枚は持ってない人にあげなさい」
これは「怒るな」「貪るな」という「貪瞋癡」のうち2つ。
これがキリスト教のコア、仏教と共通する真理と思う。
964名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:18:29 ID:RAO/JOPQ
>>962
>売春婦が処女であることを

マリアがどうして売春婦か?
965名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:55:13 ID:DI73r8kY
マグダラのマリアと間違えてるんだろ
966名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 20:05:32 ID:RAO/JOPQ
>>962
詳しく隠れている真実を両者とも開陳してください。
967名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 22:19:02 ID:RAO/JOPQ
真実が「一」であるのと関係して一子児思想というんが菩薩の十地にあるのだが。
一子児と言う表現は間違っているかもしれない。
968カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:01:02 ID:4wFYmuwS
キリスト教は君ら仏教徒にとっては馬鹿馬鹿しいものだと感じるだろう。
実はさ、本当のキリスト教は、表立ってはでてきていないんだよ。
世間に表だって出ている今のキリスト教は、本物のキリスト教のイミテーションなのさ。
ほら、マリアの処女受胎があるだろ。もちろんあんなのは嘘さ。
肉の姿をしたイエスという男は、もちろん処女から生まれたのではない。
処女から生まれたのは、「人の子」なのだ。人の子は処女から生まれ、聖霊から生まれた。
これを、聖書では、肉の姿をしたイエスの誕生を、マリアの処女受胎に喩えたのさ。
それを、今、表に出ているイミテーションでしかないまがいもののキリスト教会は、その聖書文言のまま、
自分達の教義にしているのさ。カトリックにはマリア崇敬というものがある。
これも、本当の聖母崇敬のイミテーション。はっきり言って、イエスという名の男の肉の母、マリアには
何の価値も無い。聖母崇敬の本当の意味は、知恵の女神、ソフィアに対する崇敬のイミテーションなんだよ。
もちろん女神とは、君らが思うような存在ではない。彼女は知恵の象徴。
人の知恵は「言」によって成る。「言」は識別するもの。この世は相対世界。「言」は万物の母である。
「言」による知恵は、私とあなたを分け、「人」を殺したが、「言」による知恵が再び我々を一つにし、
「人」を再び生ける存在にするだろう。
969名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 23:05:39 ID:RAO/JOPQ
>>968
キリスト教の話になると俄然と非論理的になるね。

 今日は今から寝る、お先に。
970カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:08:36 ID:4wFYmuwS
「言」を持たない獣は、悲しいかな、悟りを得ることはない。
「言」による知恵は時に聖霊ともなるが、「言」による知恵は、時に悪霊となる。。二つは表裏一体なのだ。
聖霊による知恵は「人」を生かすが、悪霊による知恵は、「人」を殺す。
聖霊は処女のままであり、彼女は「人の子」を生んだ。マリアの処女受胎の話は、これの喩えだ。
反して、悪霊とは姦淫の子供を生み、姦淫により出来た子供は全て呪われる。その報いは、死だ。我々は
姦淫で出来た子なのだよ。イエスという肉の姿をした男はさして重要ではない。重要なのは、彼の言葉だ。
死んでいる者達は、死んでいるものを食べ、死んでいるもの、つまりこの身体を生かす。
だが生きている者は、生きている者を食べ、自ら生ける存在となるだろう。イエスの言葉は、生けるパンである。
人の心は「言」によって成る。言葉は、人の心を生かしもするが、殺しもする。
彼の言葉は、聖霊であり、聖霊は彼を生んだ。聖霊とは父の御心。彼女は父の内にあり、子も父の内に在る。
父とは、絶対なる存在、「一」である。

イエスの道は、己のエゴを滅ぼす道。
イエスという名の男は、十字架のによる御業により、自らを男性にした。そして彼は再び命を得た。

女は男を求め、二人は一体となる。
971カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:34:26 ID:4wFYmuwS
>>969
>キリスト教の話になると俄然と非論理的になるね。

それは君の固定観念。別に非論理的な話をしているわけではない。
ま、無理にわかってくれとは言わないが。
キリスト教=非論理的という固定観念に凝り固まっている人にはなにを言っても無駄だろう。
はなから聞く耳のない人に、なにを言っても無駄だということはよくわかっている。
同じ思考実験のレベルでの話をしていても、仏教思想による、仏教用語による説明なら受け入れられるが、
他の思想による、思考実験レベルの話は受け入れられないというのは、その人の執着によるものである。
仏教という宗教のね。なんにせよ執着は、己の心にエゴを生む。悲しいかな、盲人は、盲人のままである。

スッタニパータ
>〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔あなたが〕尋ねたこの問いについて、それを、あなたに説きましょう。
>名前(名)と形態(色)とが残りなく消滅する所とは、識別作用(識:認識作用一般、
>自己と他者を識別する働き)の止滅によって、この〔名前と形態〕が消滅する、〔ほかならぬ、いま〕この場のことです」〔と〕。

名称は何によってなる?ここで釈迦はないを言いたいのか?簡単な話だ。
名称は「言」によってなる。名づけられたものは、全て相対する縁起を生むだろう。
この世界は縁起によってなる。この世界の創造主は誰か?智慧のある人ならすぐに気付くだろう。
972カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:39:23 ID:4wFYmuwS
もちろんここでいう名称は、たとえばここにビルがある。
このビルを、六本木ヒルズと名づけよう。というレベルの話をしているのではない。
私は、「人」の知恵の話をしている。「言」は人の心にしか持ち得ない。
言葉は識別するもの。そして言葉は、善と悪を分ける知恵を、「人」にもたらした。
この世界は、縁起の支配する、相対世界である。
973名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 23:39:51 ID:YZoOLoY5
>>971
>名称は「言」によってなる。名づけられたものは、全て相対する縁起を生むだろう。
>この世界は縁起によってなる。この世界の創造主は誰か?智慧のある人ならすぐに気付くだろう。

>この世界の創造主は誰か?

唯識?
974カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:55:49 ID:4wFYmuwS
>>973
唯識の思想は大変興味がある。だが、
大乗思想から生まれた唯識は、空の思想の呪縛から解けずに、
自性を認めない。縁起=無自性=空。などというのは、この幻影でしかない
この世界の説明をしているに過ぎない。
釈迦は輪廻からの解脱を説いた。なのに輪廻の主体ともいえる、縁起にいつまでも囚われて、
どういうことか。この世界は縁起で成り立つ無自性な、空である。

完全な無からは何も生まれないし、何も存在できない。
それはこの幻影でしかない、この世界しかり。
完全な無からは、幻影ですら生まれ得ないのだよ。だが幻影でしかないこの世界でさえ、
”今ここ” には存在している。

相対性理論から導かれるもので、特異点というものがある。
今現在は、宇宙は膨張しているそうだが、時間をさかのぼっていけば、宇宙はどんどん小さくなり、ついには点。
いや、物理的には、完全な無になるそうだ。物理的にはね。だがその状態のとき、エネルギーは∞、無限大にある。
これは理論的に証明されているものだ。これは完全な無ではない。あくまで物質的には、ゼロだが、
エネルギーは無限大に在る。私はその存在のことを言っているんだよ。
975悟りは要領:2007/02/27(火) 01:14:22 ID:e1Mz6vqx
キリスト教は、パウロというウデのいい脚本家が、
「神の子の死」という逆説のパズルを、贖罪→復活→再臨というスタイルで演出したことに始る。本質はパウロのフィクション教だ。
しかし、死の間際に“エリ、エリ、ラマ、サバクタニ”と叫ぶ男が、自らの死と復活を予言し、その宗教的説明をあらかじめ説示していたとするのは無理がある。
パウロの演出過剰だ。

 だけど、一休の『死にとむない』(本阿弥行状記)とともに、人間としての遺偈として秀逸であることは確かだ。

>>964  比喩をトンチンカンに実体化するなよ。

大乗仏典も全て、パウロの演出と同じく「如是我聞」を付けたフィクションだ。
ブッダの不妄語戒に反する事はいうまでもない。
976名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 12:19:56 ID:guxyuTA+
>>971 創造主が初めに造った二人の人間は、男女のカップルでした。
なぜなら、言葉による分別を覚えて世界を創造していく赤ちゃんが
最初に認識する人間とは、
両親だからです。
なぜ人間は神に似せられて造られたのか。
両親をはじめとする人間は
赤ちゃんにとって自分に似た存在だからです。

さて、赤ちゃんが認識世界を創造蓄積していくわけですが、
赤ちゃん自体は縁にしたがって言葉や認識を学んでいくわけだから、
赤ちゃんという創造主の背後には縁起があるともいえますね。
聖書は発達心理学なのか?
977名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 12:25:38 ID:guxyuTA+
>>974 唯識が自性を認めないという意見には疑問を感じます。
識それ自体の自性は認めてるのでは?
「円成実自性」とか言いますし。
978名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 18:43:06 ID:GwMGjbqy
>>976
聖書の天地創造説は、人々を神に導くための、モーゼの方便であると考えるべきです。
したがってそこには、モーゼの認識した世界があるのであり、モーセ以外の人の認識とは
は交えていない。しかし、モーゼの認識は、他者との認識と概ね一致したものでした。
そこにはたいがいの人が持つ間違いも、不可解に思っている不思議も、すばらしいと思っている事象も、
問題も、解決も、希望も、みんな含んでいるので、他の人にも理解できるのだと思います。
しかしモーゼほど、すべてを網羅した世界を神の創造に帰した人はいないんじゃないでしょうか?
日本神話でも重なるところがあるでしょう、しかしモーゼの世界ほど完全ではないのでは?
 もーぜははじめに神は天と地を創造したとしていますよね。天だけを創造しその次に地を創造したのではないのです。
一対のものとして天と地を創造したのです。ここに縁起があるというべきです。
これに拘束されてその他ものが順次創造されていくと言うべきであり、ここにモーゼの認識が顔を出しているのであると思います。
方便の仕方を決定するモーゼ個人の認識です。
979名無しさん@3周年
そうそうギリシャ神話の天地創造も、同じものとして解釈すべきである。
 法華経は、全てのものが仏となれることを驚くべきこととして解き明かしているが、
原始経典で、修行を完成させて涅槃に入った人は、釈尊と同様のものとしていると思う。
シャーリプトラは釈尊から全服の賞賛を受け、自分の亡き後はシャーリプトラが法輪を回す人であると、
他の人に話している。また、釈尊は自分には「師の握りこぶしはない」と言明している。
全てを教え、シャーリプトラを称賛しているのであるから、彼が未だ学ぶところが残っている有学の人、
智慧の完成を達成していない人と観ていると、考えるのは間違っていると思う。
 それじゃ何故大乗仏教で、仮にも、シャーリプトラが声門であると貶され、その様に描かれた
般若経典などがあるのかと言う疑問が生じるが、それは、部派仏教に対する牽制である、と見なすのが相当であると思う。
それを法華経に置いて訂正せざるを得なかったのである。そんなわけもあって、法華経は経典としては、
失敗作であるといわれるほどの、経典となっているのである。それから、このようにシャーリプトラを声門と貶した罰として
法華経と言う失敗経典を作ることになったのは、大乗の自業自得というべきである。そして、大乗派は
これでも足りないと観じて、涅槃経を作ることになった。ここにおいては、原始経典の忠実な解説及び、原始経典擁護の
教説をなすことになったのである。涅槃経典が法華経の後に出来たものであることは、史実と言うことである。