因果応報の証明

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12考える名無しさん
 ニーチェは、人間は「力への意志」によって、世界を切り分けて解釈しているに過ぎず、
その切り分けられた「何か」が、あらかじめ客観的に存在しているわけではないといった。

 フッサールは、自分の外側に「客観」的な事物が存在するのではなく、
すべては自分の意識に現れ出るものだという。

 ハイデガーは、「自分」という存在が単独に存在するのではなく、
自分とは他者(他物)との関係において、初めて「自分」なのだという。

 これらが、仏教の「唯識論」と大部分で重なり合うところがおもしろい。
唯識論では、人間の認識を八種(八識)に分類する。
その内の6つは、般若心経で言う「眼耳鼻舌身意」、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいわゆる「五感」と、
意識である。残りの2つは、末那識(マナ識)という「自分」にこだわる心の働きと、
命にこだわり維持しようとする働きとも言うべき阿頼耶識(アラヤ識)をいう。

 いわゆる「理性」はこの八識で言う「意識」だと考えても、ほぼ差し支えないと思うが、
しかしこの「意識」は「五感」からの入力だけでなく、さらに根底にある「末那識」や「阿頼耶識」の強い影響下にある。
この「末那識」と「阿頼耶識」の働きを、ニーチェの「力への意志」に置き換えてもよいだろう。

 彼の考えでは、「世界」とは無秩序な混沌(カオス)であり、
本来「あれ」とか「これ」という区別(秩序)のない「連続体」《空・諸法無我》である。
そこから人間が「力への意志」によって、ある秩序を切り出すようにして認識する。
つまり、この世の一切のものには「ものそれ自体」が持つ性質というものはない、というのである《諸法無自性》。

ついでにいうと、人間の認識が、連続体である「世界」から切り出した「あれ」や「これ」に名前を付けると、
言語の分節性という話になる。実はこれも仏教思想の中でも指摘されている。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin50.html