原始佛教 その14

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467名無しさん@3周年
>>451
はい、ご苦労さん。読解力も無く、文法知識も皆無。議論の仕方も知らない。論理構成力以前の
日本語の問題。あまり口を挟まない方がいいよ。この一つの発言だけで大恥かいてるんだから。
まず、これを読め。>>429
   >√bhUとはね、「〜した」したとは絶対にならない。「生まれ起こってくる」という意味なんだ。
   >インドでは「存在」を静的に捉えることは殆ど無く、”comminng”というニュアンスを持って、
   >この語で「存在する」という意味を持つ。また、「生まれ起こってくる」というところから「生起する」
   >(この概念はup√padとも隣接)とか「得る」という意味を持つ。命題的に用いられるときには
   >記述動詞の√asもよく混同されるけど、よく似た用法で存在記述動詞だと、とりあえずは思えばいい。
「ある」という意味はすでに指摘済み。これを読まなかった、あるいは読めなかった馬鹿暇人が狂った
指摘をしたので、人の発言を読めといった。さすがの馬鹿の暇人もそれはわかったらしく、それ以降は
反論していない。それを今、あんたは最低最悪の脳味噌を証明してくれたんだ。軽蔑笑いもできないよ。
  >その根拠は辻§111-4 に明解。それでも納得しないならPan V.4.50
福祉複合語がどんな関係があるというのだ?
辻文法P.246
  >4.Type bhasmi-kR- すべての名詞語幹に語根bhU,asまたはkRを沿え、〜となる、〜である、あるいは〜にするの意味を表す複合語を作る。
  >・・・・その他の語幹は変化せず・・・・-bhUとなる。
これがどう適用されるというのだ?説明してみろ。適用先が今回の話題には無いじゃないか。馬鹿め。さらに
  >その他辻§80、82、89、100、109-II-c
どこがどう関係するのだ?脳味噌あるのか?
   >ところで「あんたの考えている精度より高い記述がすでに発言していたことを
   >指摘したのに」とは何が言いたいのか?
上の文章を読め
   >命題的に用いられるときには
   >記述動詞の√asもよく混同されるけど、よく似た用法で存在記述動詞だと、とりあえずは思えばいい。
これだ。お前に理解できるか?下らん奴だ。
468名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 19:18:20 ID:TFJ1wU1+
>>452

>基準1
>(1−1)仏陀(過去仏を含む)の現観
>(1−2)釈尊の弟子の現観
>基準2
>(2−1)解脱・涅槃・菩提(悟り)と密接な関係を持つ現観
>(2−2)初歩的な証り(見道、預流向)と密接な関係を持つ現観

現観などを現代に適用させて、実践的に捉えようとする真摯な態度だと思います。とくに(2−2)
部分は預流向は横に置くとして、面白いかもしれませんね。その他も色々と探ることで議論の
価値が生まれると思います。中村先生の註記箇所をそのまま載せただけで細かい検証はしていません。
余力が生まれたら見てみましょう。
469名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 19:33:08 ID:TFJ1wU1+
>>459

>パーリ・阿含のテキストや文脈を抜きにして、数百年後の後代の漢訳者
>玄奘の漢訳語「現観」の漢字から意味を探ると どんどん原意から
>離れるのじゃないかとわたしは思う。
居直ってすり替えるのは止めろって。誰も玄奘訳の是非論はしていない。もしやりたかったら
締めなおせ。誰がパーリ・阿含のテキストを無視してるのだ?
文句言うのなら、まず、「現観」を共通する当り前としてのタームで使用している大家の見解を
完全に否定してからにしてくれ。例えば>>

>原意的には、縁起の各支を「知的に理解すること」だったり、
>悟りを意味する語と併記され、「深く理解している」ことだったりする。
それ、完全に潰されていてまだ遠吠えしてるの?本当に醜いよ。

>何度も戯言言うな。現観(abhisamaya)という言葉は
>普通に使っている。こっちの方が共通認識事項だ。前掲中村元の書物、氏の論文など大方が
>現観だ。また、増谷氏の『現観相応』の現観は”abhisamaya”、水野弘元『パーリ仏教を中心とした心職論』P.268
>など、原始仏教の文脈でも現観は共通語だ。前に出したように、四禅を終えて三明を得た後で縁起観
>として生起するものとしてね。
何回も何回も何回も言わすなぼけ!!

>偉大な大先輩の解釈は解釈として横にひとまず置き
>でもココはせっかくの原始仏教スレ 古代仏教でも初期仏教でも
>いいが 私たちもパーリ・阿含に直参しません?
>自分の目で何かを感じませんか?
あんたに直参できるとことは不可能だ。それは証明済み。
470名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 19:37:53 ID:TFJ1wU1+
>>463

>仏陀の正覚体験とは何だったのか?
>やはり、キーは四諦ではなかろうか?

「正覚に至る直前の体験内容」といえばいいのでしょうけど、これが縁起か四諦かはまだ完全な決着を
見ません。縁起=四諦、四諦=縁起と結論付ければ楽なのでしょうけど、仰るとおり、教えを説く場合


>これらを現証するための手段として八正道を説き、
>弟子たちは、八正道の実践により、
>苦諦・集諦・滅諦を現証し、解脱したのではないだろうか?

この方が実践的なのかもしれません。
唐突な日蓮の引用はなぜ?
471名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 19:40:50 ID:TFJ1wU1+
>>465
阿呆陀羅さんはあきれてこないのだと思う。
ここは暇人いぢりのスレッドだからね。今日は踊り足りないな。

一番踊ってくれたのは、>>451だ。呆れるほどの馬鹿だ。馬鹿をいぢると馬鹿が釣れるね。
472栗花 馨 @    9:2005/08/14(日) 20:02:40 ID:EAYlgqd9
阿呆陀羅は桐山氏のもと弟子らしいね。

473栗花 馨 @    9:2005/08/14(日) 20:03:29 ID:EAYlgqd9
阿呆陀羅は机に大敗してるね。
474名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 20:49:09 ID:TFJ1wU1+
>>453
abhisamayaは「觀察」と言う言葉を使っていると思います。
四禪との直接的な記述はこの経典にはまだ見出していません。
475名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 21:47:53 ID:TFJ1wU1+
>>451
もう一度あんたに言う。
暇人同様、なぜあんたみたいな馬鹿が世の中に存在するのか理解できない。
馬鹿の汚名を晴らしたいのなら、

>その根拠は辻§111-4 に明解。それでも納得しないならPan V.4.50
>その他辻§80、82、89、100、109-II-c

>仏教では無常なので恒常に存在するということを避けて用いられる
>√sthA √vRt あたりのことを耳にはさんで誤解したんでしょう。(辻§113-1)

これらを説明してみろ。お前に複合語や助動詞一般、構文論が理解できているとは全く思えない。
そういえば、馬鹿の典型ローマナイズ君も姿を消したな。
476名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 23:07:49 ID:IbLi33HS
>>467 >>471 や〜文章が晦渋で、bhU に「〜ある」の意味がないと
発言しているとしか思えなかったよ。文章ヘタだな。もっと分かるように書きな。
その典型的な例が以下だ、意味とりずらいのはわかるだろう。確実な誤記もあるし。
誤解されてもしかたないとは思わないのか?

「あんたの考えている精度より高い記述が
すでに発言していたことを指摘したのに」

これをどう読めと?

「あんたの考えている精度より高い記述が→を
すでに発言していたことを指摘したのに」

まず、こう誤っているんで意味を取りかねる。
それでも目的語が二重なので難解だ。これが悪文でなくてなんなのだろう。
相手を貶めるための修飾語を多用していることが、原因だ。こう書けばいい。

「より精密に指摘済み」


477名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 23:20:09 ID:TFJ1wU1+
>>476
おまえの読解力のなさをなに自慢してるの?
さすが、馬鹿だね。それよりも、はやく
>>475に答えろよ。お前はその内容を理解していないから絶対に無理だろうけどな。

ゴタゴタ言い訳せずに、早く出て行くか謝罪しろ。
478名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 23:42:52 ID:TFJ1wU1+
>>461
暇人へ。偉大な大先輩?おこがましいぞ、ただの馬鹿がそんなこと口にするな。

新解釈とはだれの新解釈だ?スレ文脈から見ると玄奘の訳語だけど、それが
どうして新解釈となるのかな?説明しろ。あんたに説明しろといって完全に遁走
しているのはもう幾つになってるかな?もうあんたに対する信頼など皆無だけど、
(あ、451の超馬鹿がいるか)まだまだ評価を下げたいか?

abhisamayaネタ、あんたはもう何も言う資格が無いことにまだ気づかないのか?
479暇人:2005/08/15(月) 04:44:37 ID:b5H9GoqQ
@>√bhUとはね、「〜した」したとは絶対にならない←これが精度に欠けている

この意味は、
A>インドでは「存在」を静的に捉えることは殆ど無く、
>”comminng”というニュアンスを持って、
>この語で「存在する」という意味を持つ。
と、展開されているわけだ。

「ある」系に訳しても(”comminng”というニュアンス)があるから云々と
強引に「〜した」を否定している。
ここがトンデモなのが自覚できないのいのか。
Aならば、@はありうる。
480暇人:2005/08/15(月) 04:45:44 ID:b5H9GoqQ
>>469
キミは水準以下だから 相手にされてないのだ
私はそれにもう答えている キミは理解できないらしい。
反論になってなく喚いているだけ。
481暇人:2005/08/15(月) 04:46:24 ID:b5H9GoqQ
>>474

四禅を超出した『現観』をパーリ・阿含のテキストからだしてみろと言われて
出せないのが現状。キミたちは無根拠な話しかできてない。
テキストを出せば、いつも違う箇所ぱかり 180度逆なテキストすら出す
迷妄ぶり、かつて電波は現状の序文を論書本文と誤解して出すし、
電波二世のキミは、正覚の傍証として「煩悩」を意味する「灯明」を出すし
そのお笑いぶりは。。以下略
482暇人:2005/08/15(月) 04:52:57 ID:hzGByJzt
現状の序文  ×
玄奘の序文 ○

>>478
本文読んでなぜかわからんのか。
矢鱈に絡まず 思索しろ

>>475
悪貨は良貨を駆逐する
トンデモぶりを発揮し、良質な客を散らし、
電波を褒め称えるトンデモばかり集めるなって。
キミは柄悪すぎ。
483暇人:2005/08/15(月) 05:02:40 ID:hzGByJzt
>>475

仏教のまともな知識があり なぜ電波を支持できるかがナゾ。
他者を批判するため、自分を誇示するために
あそこまで恥さらしなウソ マチガイ を振りまいているのにね。
で、その支持者は 無茶苦茶の論理展開。
正常な人が誤りを指摘すると、今度は噛み付く。
そして追い出そうと懸命になる。 なぜそこまでむきになるのかが不明。

聞くと電波は「自慢のニフ」を。。。昔はニフで色々発言しているのが彼の自慢だった
モノだ。なにかにつけニフに来い、とか言っていたが、可哀想に。。
そうだったのか。もう2ちゃんのココしか彼の安住の地 みんなが褒めてくれる
居場所がないのかもね それで。。
キモチはわからなくもないが、2ちゃんも電波の私物ではない。
よくよく思索されてくれ。

484暇人:2005/08/15(月) 05:16:30 ID:a8PXr3Lt
>>471
>ここは暇人いぢりのスレッドだからね。

なるほどォ 対話目的ではなく 荒らすのが目的なのだね
だから、180度逆の傍証しても平気なのだね。
論難のための論難。荒らしには「無記」が原則だね
以下このスレッドで キミには「無記」 沈黙が私の答え。

485名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 07:32:30 ID:CeHzNoYV
反論不能の暇人はボロ雑巾のように成り果てて遁走宣言。
ハクチ暇人終了wwww
486暇人:2005/08/15(月) 07:54:34 ID:a8PXr3Lt
五分律の当該箇所に現観などないのであるが、「三明」について少しばかり。
ここでは「四禅と三明と縁起」の関係はどうなっているのだろうか。
この部分では釈尊がひとり瞑想している時、ビンバサーラ王にあれこれ問われ、
「欲度一切生死大苦」と出家した理由、出家という生き様を選択したわけを明らかにして
いる。「あらゆる苦しみから開放」それが目的なのだ、と。王が去った後、再び瞑想を始め、
@「除五蓋離欲惡不善法」乃至「得第四禪」と、煩悩のコントロール、悪い心から離れる
ところから始め、(初禅〜三禅などが省略され)、四禅に至ったとされる。
恐らくこの箇所は仏教以前の修行を象徴しているのであろう。
487暇人:2005/08/15(月) 07:55:39 ID:a8PXr3Lt
A次に「通三十七道品之行」「以此淨心三明洞照」だから、
三十七道品を修行し、三明つまり「宿命明」「他心明」「漏盡明」で思索を更に深めた、と。
「道品」は、bodhipAkSika 菩提分 覚支とも漢訳される実践的修行方法のこと。
仏教の修行、経典に説かれた修行を三十七種に整理する感覚は、部派仏教的であるので、
この箇所は部派分裂後、五分律諸持部派が追加した釈尊の成道イメージが反映されている
と予想できる。
四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道を合計して37。この七系統
の一つ一つが、悟りを得る一体系になっている。
ここはだからあらゆる仏教の修行をした。更に三明洞照した、と。
この三明も悟りとイコールとして しはしば描かれている
(例: テーラガータ270「次いで、わたしの心が解脱した。見よ、教えがみごとに真理に
即応せることを。三つの明知を既に体得した。ブッダの教えはなしとげられた 岩波p76)
つまりここではあらゆる仏道修行が象徴されている。
Bそして「始得佛道坐林樹下」 瞑想によって「始得佛道」。
瞑想によって 始めて仏道を得た。その仏道とは、
「初夜逆順觀十二因緣」十二支縁起だし、つまり
「緣是故有是緣滅則是滅」だ、と。
488暇人:2005/08/15(月) 07:57:46 ID:a8PXr3Lt
「緣是故有是緣滅則是滅」×→「縁是故有是縁滅則是滅」○

つまり「第四禅を得て、三明に達し 縁起の理を観じて悟った」とも読めるかもだが、
本旨は「@仏教外修行(止悪、初禅、二禅、三禅、四禅など)を経て、
    A仏教修行(37道品-四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道)を
修し、三明洞照し、
    B悟りの初夜に「十二因緣」の順観・逆観を為したという伝説を書いているので
すね
初期経典で悟りとイコールに書かれる「三明」をBではなく、Aの最後に出すのは、
この種の通力(過去世の生活を知る通力、透視力、他人の心を読み取る通力、死と生を知る
通力、聴力を浄める通力)を得るのが目的ではなかったと舎利弗に言わしめている
(996-997)からも興味深い。
489名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 08:01:14 ID:7Ppkg2IS
>>479
もう終わっているのになに言ってるの?

>Aならば、@はありうる。
なぜでそうなるのか説明しろ。説明できないと思うよ。
それが出来ないのなら、辞書や文法書から「〜した」と言う用法を説明しろ。
abhisamayaについて、最初は「わかった」とトンデモ以前の間違いの上おして、指摘すると
「〜した」とつくろった。これ自体、滅茶苦茶で知的誠実さがまったくない。「理解をした」といいたいのか?
あんた、「ある」という意味を言っていないから精度に欠けるとか言ってなかった?また居直りすり替えかい?>>437

>>480
まったく答えてないね。あんたが答えられないから逃げいてるだけだよ。
あんたには絶対に答えられない。能力が無い。逃げるのならもう来るなよ。
490名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 08:03:52 ID:7Ppkg2IS
>>481
そういう中傷しか出来ないの?哀れだね。四禅についてはもう中村前掲書で
指摘済み。それを認めないというのなら、中村先生を論破してみたら?根拠
を出しているのにあんたの論法はチンピラ論法だ。
>>482
あんたの本文は滅茶苦茶だからな。意味を成していない。そのことを中傷で逃げるなよ。
付加疑問も知らないとは知的にアウトだな。
>トンデモぶりを発揮し、良質な客を散らし、
>電波を褒め称えるトンデモばかり集めるなって。
>キミは柄悪すぎ。
あまり人の言葉を取らない方がいいよ。ニ系統分裂正確(笑)さんよ。

>>483
ニフのことは知らん。あんたな、自性もabhisamayaも完全に潰されているのがワカランの?
あんたが噛み付いているのは枝葉末節。それよりもニ系統などなどの吉害ぶりの釈明
していないよ。あんたにはマトモな仏教知識はない。abhisamayaを「わかる」と言う時点で
それが証明されている。

>論難のための論難。荒らしには「無記」が原則だね
>以下このスレッドで キミには「無記」 沈黙が私の答え。
敗北宣言?そうだろうな。何一つ答えることなく、沈黙を保った電波の正しさが次々に証明されて
いるんだからな。自性にしてもそうだ。自性の多義性の主張にたいして、「あんたのは三性説から」
といったのは笑い死にそうになった。仏教の通常の知識があるものにとっては笑い死にネタだ。
それからabhisamayaの笑い死にネタ、ニ系統ネタ、パーリ辞書ネタ、パーリ文法ネタ、動詞ネタ、
のお笑いネタ乱発。あんたがそういうのなら、揶揄だけに徹しようか。
491名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 08:06:22 ID:7Ppkg2IS
>正常な人が誤りを指摘すると、今度は噛み付く。
>そして追い出そうと懸命になる。 なぜそこまでむきになるのかが不明。

正常な人って誰?ローマナイズ君はボロボロに論破されてたし、今回の辻文法君も
あんた以下だということを指摘しておいた。あんたはローマナイズ君は正しいと言って
おきながらフォローできずに逃げたじゃないか。間違いを振りまいて人を批判する人の
間違いを指摘するのが追い出しなのか?幼いね。
492暇人:2005/08/15(月) 08:07:58 ID:a8PXr3Lt
私だと
「四禅」に至る仏教外の修行や、仏教のあらゆる修行つまり「37道品」を
すべてやり終え、そして菩提樹下に瞑想し縁起を悟った、と読むな。
もつと簡単に言えば主旨は
あらゆる仏教内外の修行をやり終えたあと、釈尊は瞑想し縁起を悟った、だな。

ついで
『雑阿含経』第12巻 (大正蔵、2巻80ページ中ー81ページ上)は、
雑阿含287経だと思うが、相変わらず原文テキストを確かめることなく、証として
出すトンデモぶり。ここに四禅→三明は説かれていない。
「縁起の各支の無間等」と「八正道」が説かれている。
493名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 08:45:56 ID:7Ppkg2IS
>>492
なに言ってんの?あんたの主張が崩されたわけだろ?それから先に行くにはあんたが崩されたことを
認める必要がある。「宿命通との関係など諸問題があるが」ってだれか言ってなかったっけ。
間違いを認めないで、各論に走り、その各論から論難するのは本当に

知 的 誠 実 さ が 無 い た だ の チ ン ピ ラ  !!

としかいい様が無い。

>『雑阿含経』第12巻 (大正蔵、2巻80ページ中ー81ページ上)は、
>雑阿含287経だと思うが、相変わらず原文テキストを確かめることなく、証として
>出すトンデモぶり。ここに四禅→三明は説かれていない。
>「縁起の各支の無間等」と「八正道」が説かれている。

これも同じ。あんたは前後を読んでいないし、四禅自体なにも解っていない。今回必死に
勉強したんだろ?電波に感謝しろよ。
494暇人:2005/08/15(月) 08:46:55 ID:a8PXr3Lt
つまり雑阿含287経は、
「縁起の各支の無間等」→「八正道」→「我於此法自知自覺。成等正覺」
ですね。
五分律では、Aの一つである「八正道」で悟るという経典なので、
またもや、逆の経証だな。


495名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 08:55:54 ID:7Ppkg2IS
>>494
知的誠実さ皆無君よ。また居直りすり替え分裂症状ですかぁ?笑ってしまいますね。
小学生でもXを食らうその答えは。プゲラ

>つまり雑阿含287経は、
>「縁起の各支の無間等」→「八正道」→「我於此法自知自覺。成等正覺」
>ですね。
>五分律では、Aの一つである「八正道」で悟るという経典なので、
>またもや、逆の経証だな。

だれが正覚の話してるというのだ?abhisamayaと四禅との関連性じゃないか。
あほちゃうか。つーかチンピラの因縁付け?人間やり直せ。
496名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 09:09:48 ID:7Ppkg2IS
何一つ反論できずに向こうでは吼えるだけ。
おまえ、涙でディスプレイ見えないだろ?プゲラ

じゃ、ばいばい。
497無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/15(月) 09:15:59 ID:t6bnLKga
>>474 :名無しさん@3周年:2005/08/14(日) 20:49:09 ID:TFJ1wU1+
> abhisamayaは「觀察」と言う言葉を使っていると思います。
レスありがとうございます。

> 四禪との直接的な記述はこの経典にはまだ見出していません。
そうですか。

私は、今回の現観の問題がこれだけ迷走しているのは、

>>452
> (1−2)釈尊の弟子の現観
> (2−1)解脱・涅槃・菩提(悟り)と密接な関係を持つ現観

> ■■【テーマ2】(1−2)(2−1)
> http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb02.html
> > 545 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/08 22:31
> > 内容的には「概念を超えた縁起の現観」です。
> > 618 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/11 13:56
> > 止観は四禅すべてにわたります。現観はその次の段階です。

の根拠となる経典が提示されていないことに根本的な不具合があると認識しています。
498名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 09:53:50 ID:U51pCEqa
abhūtavādī nirayaṃ upeti
yo vā pi katvā na karomi ti cāha

-DhP306
499無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/15(月) 11:50:07 ID:t6bnLKga
現在のテーマに直接は関係ありませんが、
十二支縁起に関して、

> 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」から引用

があったのでご紹介。

http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=psy&key=1077878397&st=328&to=331&nofirst=true
500暇人:2005/08/15(月) 14:45:35 ID:a8PXr3Lt
四禅三明続き

>>486
ちなみに、平川彰さんは、この五分律の箇所を以下と読み下し、
「四禅三明」と「十二縁起」の併記に触れ、
この箇所では、「四禅三明」で悟ったとしていると解釈されている。
「十二縁起」部分は悟った後の観想の内容であると区別されている。

少草を乞い。持して樹下に至り、敷き已りて結跏趺坐し、直身正意、繫念在前し、
即ち五蓋を除き、欲と悪不善の法を離れ、乃至、第四禪を得て、其の中に遊戯し、
三十七道品の行に通じ、此の淨心をもって、三明洞照せり。
所謂、宿命明・他心明・漏盡明なり。瑞應本起中に説けるがごとし。
是において起ちて鬱鞞羅聚落に到る。始めて佛道を得て林樹下に座す。
初夜に逆順に十二因縁を観ず。
501暇人:2005/08/15(月) 14:46:43 ID:a8PXr3Lt
この解釈は四分律との比較から為される。四分律巻三十一の仏伝箇所では、
「有一人刈草。名曰吉安。菩薩前至此人所語言 我今須草見惠少多。吉安報曰。
「甚善不為愛惜。即授草與菩薩。菩薩持草。更詣一吉祥樹下。自敷而坐。」
草刈をしていた吉安に刈り草を乞い、吉祥樹の下に敷き、座禅したとあり、
これは五分律をより詳しく、しかも菩提樹の箇所が吉祥樹aSvatthaとなっており、
五分律の菩提樹より古い表記であることが予想される。
「直身正意繫念在前。時菩薩除欲愛惡不善法。有覺有觀喜樂一心 遊戲初禪
是謂菩薩最初得勝善法。何以故。由繫意專念不放逸故。時菩薩除有覺有觀。
得內信喜樂一心念無覺無觀。遊戲二禪。是謂菩薩得此二勝善法。何以故。
由繫意專念不放逸故。時菩薩除去喜身受快樂。得聖智所見護念樂。遊戲三禪。
是謂菩薩得三勝法。何以故。由繫意專念不放逸故。時菩薩已捨苦樂。先已去憂喜。
無苦無樂護念清淨。遊戲四禪。是謂菩薩得此四勝法。何以故。由繫意專念不放逸故。」
@愛(執着)を欲することと悪不善の法を除くと初禅
A初禅にはまだあった「有覺有觀」を除くと二禅
B二禅にまだ残存していた「喜身受快樂」を除き去ると三禅
C苦楽も憂喜も超え、「無苦無樂護念清淨」が四禅
502暇人:2005/08/15(月) 14:47:50 ID:a8PXr3Lt
「時菩薩得此定意。諸結使除盡。清淨無瑕穢。所行柔軟住堅固處。證宿命智。
自識宿命一生二生三生四生五生。十生二十生三十生四十生五十生。百生千生百千生。
無數百生無數千生。無數百千生劫成劫敗。無數劫成無數劫敗。無數劫成敗。我曾生某處。
字某姓某如是生。食如是食。壽命如是。壽命限齊如是。住世長短如是。受如是苦樂。
從彼終生彼。從彼終復生彼。從彼終生此。如是相貌。識無數宿命事。時菩薩。
於初夜得此初明。無明盡明生。闇盡光生。所謂宿命通證。何以故。由精進不放逸故。」
と、四禅の次に三明の一「宿命智」が説かれ、
「時菩薩。復以三昧定意清淨。無瑕無結使。眾垢已盡。所行柔軟。住堅固處。
知眾生生者死者。以清淨天眼觀見眾生。生者死者。善色惡色。善趣惡趣。若貴若賤。
隨眾生所造行。皆悉知之。即自察知。此眾生身行惡口行惡意行惡。邪見誹謗賢聖。
造邪見業報。身壞命終。墮地獄畜生餓鬼中。復觀眾生身行善口行善意行善。
正見不誹謗賢聖。造正見業報。身壞命終。生天上人中。如是天眼清淨。
觀見眾生生者死者隨所造行。是謂菩薩中夜得此第二明。無明盡明生。闇盡光生。
是謂見眾生天眼智。何以故。由精進不放逸故。」
更に三明の二、「天眼智」が説かれ
「時菩薩得如是清淨定意。諸結除盡。清淨無瑕。所行柔軟。所住堅固。得漏盡智。
而現在前。心緣漏盡智。如實諦知苦。知苦集。知苦盡。知苦盡向道。以得聖諦。如實知之。
如實知漏。知漏集。漏盡向道如實知之。彼作如是知如是觀。於欲漏意解脫。
有漏意解脫。無明漏意解脫。已解脫得解脫智。我生已盡。梵行已立。所作已辦。
更不復受生。是謂菩薩後夜獲此三明。無明盡明生。闇盡光生。是謂漏盡智。何以故。
由如來至真等正覺發起此智得無礙解脫故。」
と、三明の三「漏盡智」に到る。
503暇人:2005/08/15(月) 14:48:54 ID:tddaza3s
如来は至真の等正覺によって「漏盡智」を発起し、解脱すると説かれている。
そして
「爾時世尊。於彼處盡一切漏。除一切結使。即於菩提樹下。結加趺坐。七日不動。
受解脫樂。爾時世尊。過七日已。從定意起。」と
成道後の瞑想内容はここでは触れられていない。

つまり五分律では、
@「得第四禪」→A「通三十七道品之行」「以此淨心三明洞照」→初夜「十二因縁」が
四分律では、
@「初禅・二禅・三禅・四禅」(仏教内)→A「宿命智」→「天眼智」→「漏盡智」
A「漏盡智」は悟りとイコールになっている。
平川さんは、五分律もこの四分律と同じく「漏盡智」=悟りと読んでいるのだと思う。
私はこれに現時点では賛成しない(私の解釈は既出)
504暇人:2005/08/15(月) 14:56:10 ID:tddaza3s
五分律は、おそらく四分律の後の成立で、この仏伝を部派的解釈から
改変していると思われる。
特にこの箇所では、
「四禅」と「三明」の間に「三十七道品」を挿入し、
「四禅」を仏教以前の瞑想修行の意味を持たせ、
「三明」の最後の「漏盡明」=解脱を本文から消去し、
初夜に十二因縁の瞑想を入れることで、悟りの中味は「十二因縁」である
という立場を強調する立場ではないかと予想する。
505無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/16(火) 08:13:12 ID:vyyPnYrE
http://plaza.rakuten.co.jp/kokoro24/3010
サクルダーイ小経(チューラサクルダーイ・スッタ)

この経典が、禅と四諦観と解脱に関して説いているみたいですね。
この経典は原始仏典なのでしょうか?
506sage:2005/08/16(火) 08:36:58 ID:uPu0gIXL
たぶん原始仏典だろうけど、日本語訳がオウム製じゃないかい?((;゚Д゚)
507名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 08:54:03 ID:6JhLKjz6
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
からたどると同じ文章に行き着くよ。たぶんオウムのダミーサイトだけどね。
>サクルダーイ小経
508無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/16(火) 08:59:56 ID:vyyPnYrE
>>506
一番下に

―HP「哲学之道」より―

とあるように、もともとは、別なサイトのコンテンツなんだろうけど、
本家が今は表向き「廃墟」になっちゃってますね。

> ここは、廃墟、形あるものは壊れる、求めよ、さらば、与えられん。
509暇人:2005/08/16(火) 17:16:31 ID:4sPvEKXL
サクルダーイ大経(中部経典第77経)(「ブッダのことばV 原始仏典五」小林 明美訳 講談社)
らしい。

佐倉さんとこの質問コーナーによると
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism30.html

うん そこはオウムぽいね。
オウム脱会者ののページの
『カナリヤの詩(うた)』47号に
「・元信者手記−マイナー経典『サクルダーイ大経』の悲劇?」とあるね。
オウムが悪用した経典ぽいね

ttp://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/1.html
510名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 17:30:07 ID:FStjd6fB
てかサクルダーイ大経のほかにサクルダーイ小経も存在するみたいよ。オウムだったら
自分たちに都合よく改変して訳しそうだけどね。事実アサハラが手を加えてたって話しだし。
511暇人:2005/08/16(火) 17:33:22 ID:4sPvEKXL
あら 大と小。
失礼しまた。

私の見つけたのは「大」ですね
512無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/16(火) 17:35:34 ID:L4da6Fx5
>>507 :名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 08:54:03 ID:6JhLKjz6
> http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
ここから、どちらへもアクセスできるようです。

サクルダーイ大経(マハーサクルダーイ・スッタ)
サクルダーイ小経(チューラサクルダーイ・スッタ)
513名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 18:27:38 ID:Zoq5mbPL
暇人パワー炸裂だな。所詮暇人は暇人さ。
超小物。
他のスレからロムされている事も知らないで
514暇人:2005/08/16(火) 19:18:54 ID:4sPvEKXL
>>512
そこに紹介されている原始経典は信頼度低いですね
改竄されている可能性があります。

梵網経の項をみましたが、二部構成のうち第一部の「戒」は省略
されてます。
第二部は、「常住論」にはじまり「現法涅槃論」に終わる仏教外の62種の
見解を紹介し、それぞれが知的な判断を根拠にしているのではなく、
渇愛に捕らわれた見解にすぎない。仏教はこれらの見解が根拠にする我執を
超えているのだと説いているのだが、
そのページでは、まず「常住論」を揚げ、
「瞑想によって何生も生まれ変わった自分を経験した場合」
「瞑想によって何劫も生まれ変わった自分を経験した場合」
「瞑想によって十劫・二十劫・三十劫・四十劫・・・」
「推論家・審察家である者」とありますが、
春秋社の原始経典の梵網経のその部分では
「常住論」ではなく「一部常住論者」になっていて
「一部常住 一部無常」を主張する人たちです。
一、「梵天は常住であり、梵天によって作られた有情は無常」
二、「キッダーパードシ天は常住だが 私たちは無常」
三、「マノーパドーシ天は常住だが 私たちは無常」
四、「理論家・推論家が言うには肉体は無常だが、心・意・識である
   我は常住」

まあ改竄というより、一つの立場から経の要点を纏めたものかもですが、
少し妖しいとの感想をもちます
515名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 20:37:25 ID:hU0loS7w
読書量と基礎知識が少なすぎてお話について行くのは大変ですが、色々
なテーマに触発させられていることは確かです。暇人さん他、常連の皆
さん有難うございます◎
516無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/16(火) 20:45:22 ID:L4da6Fx5
>>514
> 春秋社の原始経典の梵網経のその部分では
> 「常住論」ではなく「一部常住論者」になっていて
> 「一部常住 一部無常」を主張する人たちです。
比較する部分が微妙にずれてませんか?

<--
一、「梵天は常住であり、梵天によって作られた有情は無常」
二、「キッダーパードシ天は常住だが 私たちは無常」
三、「マノーパドーシ天は常住だが 私たちは無常」
四、「理論家・推論家が言うには肉体は無常だが、心・意・識である
   我は常住」
-->
と比較するべきなのは、

<--
第二踊品
  一分常住一分無常論 … 「宇宙と我は不滅かつ無常」という世界観
   梵網経六 … 梵天の場合
   梵網経七 … 戯亡天の場合
   梵網経八 … 意憤天の場合
   梵網経九 … 思索によって推論する場合
-->
こちらなのでは?
517暇人:2005/08/16(火) 21:12:12 ID:0wAWP5Uy
>>517

あら 失礼。
「一部常住 一部無常」は、「一分常住一分無常論」と対応してますね。
(細かい訳の点に問題は感じるが)



518暇人:2005/08/16(火) 22:05:49 ID:0wAWP5Uy
常住論は原文にもありますね 失礼しました。
訳はほぼ対応してますね
ちなみに
第一踊品
     梵網経三 … 梵天や光天の寿命を有する場合
→当該箇所原文に「梵天や光天の名前」はない。
   
   梵網経五 … 常住論の限界
→「このようにとらわれ、このように執着している状態は、
これこれの趣に生まれ変わらせ、これこれの来世を作り上げるであろう」
この部分、春秋社訳は
「このように執着され固執された見解は、このような趣く先をもたらし、
このような未来をもたらすだろう」


「この初禅から第四禅の次に、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処と続く」と
最上現在涅槃論 梵網経三二 にあるが、
原文には「空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処」はない
など
519野次馬:2005/08/16(火) 22:31:26 ID:k+nlYnR0
>暇人
せっかくサクルダーイ小経が出されてんだから、そっちのまともな日本語訳を探して
あたったほうがいいんじゃない?
520名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 22:48:37 ID:0wAWP5Uy
>>519

だね 見つけたら書くが 手元にない
521名無しさん@3周年:2005/08/16(火) 22:57:16 ID:uN/FS9Ys
522野次馬:2005/08/16(火) 22:57:26 ID:k+nlYnR0
>>520
パーリやその英訳のサイトを検索すれば一発でわかるでしょ。探して読んでみたら
いい。
523野次馬:2005/08/16(火) 23:04:59 ID:k+nlYnR0
ついでに漢訳も探してみたら?電波を指導すると豪語する大先生ならお茶の子さいさいの
はずだろ?
524暇人:2005/08/17(水) 07:17:34 ID:cavvhbD9
>>521
確かに中部79経みたいね。
525無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/17(水) 09:03:58 ID:M+HIvmqa
>>198 :名無しさん@3周年:2005/08/04(木) 09:38:49 ID:UVGDdmVc
> 「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。そのときわたしには正しい注意と智慧とから
> 現観(abhisamaya さとり)が起こった、「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
-----------


> そのときわたしには正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった、
> 「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
さて、ひとつの議論の焦点は、この文章を

【書き換え1】
> そのときわたしには正しい注意と智慧とから
> 「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と、わかった。
といいかえることが、

妥当か不適切か、

ということでいいのかな?
たとえば、不適切だと主張する人は、次の文章への書き換えは是なのかなあ,否なのかなあ?

【書き換え2】
> そのときわたしには正しい注意と智慧とから
> 「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と、
> 現観(abhisamaya さとり)が起こり、知った。
526名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 10:05:57 ID:3OqjpKVN
>>525
無宗ださま、おはようございます。あと30分ほどで楽しい地蔵盆のお勤めに参ります。
可愛い幼子たちに囲まれて数珠繰りをし、一緒にお菓子を食べながらお話してきます。

さて、無宗ださまの疑問点は
>> 現観(abhisamaya さとり)が起こり、知った。
という書き換えが可能であるかということですね。【書き換え2】この「知った」という言葉の
付加が妥当であるのかということですね。

原文には「現観(abhisamayaさとり)が起こった」で完結しており、「知った」に相当する語
はありません。また、現観とは知ったという通常認識ではなく、非難覚悟で解りやすく説明
するならば、

「実はこれこれしかじかが真実であり、細部はこのような関連性になっており、
全体としてこのように体系化されているのか!!」

という「真実のひらめき」の大げさなものがふわっと湧き出てくるという感じに私は受け取っ
ています。ですから、その次に「知る」という動作は必要ないと考えます。もちろん、その
内容が真実であるためには、多くの思索や経験を通して悩み苦しんだ末に出てくるもの
だと認識しております。「現観(abhisamayaさとり)が起こった」を書き換える必要性を私は
感じません。

それでは失礼致します。
527無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/17(水) 10:38:03 ID:M+HIvmqa
>>526 :名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 10:05:57 ID:3OqjpKVN
> 原文には「現観(abhisamayaさとり)が起こった」で完結しており、「知った」に相当する語
> はありません。
「知った」に関してですが、

>>150 :名無しさん@3周年:2005/08/02(火) 13:32:14 ID:mVbWWzx+
> 「即正思惟 起無間等知」はTassa mayha? bhikkhave, yoniso manasik?r? ahu pann?ya abhisamayoの定型。

[起無間等知]
これを見て、

・無間等が起こり、知った。

と解釈したのですが、

無間等=現観ではなく、
無間等知=現観ということですか?

それとも

漢訳自体が不適切なのでしょうか?
528名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 11:03:41 ID:aBxdO8f0
スレを同時に二つ立てるな!!!
529名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 11:11:55 ID:UObo3YEl
まともに職をみつけて社会人として健全に
働いたらどうなんだ。
530名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 11:18:46 ID:harqtqWv
特に元オウムの暇人、その他。
自惚れカキコは止めろ!!
公衆の迷惑だ!
531名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 11:32:21 ID:3OqjpKVN
無宗ださま。一件終わりました。雨が降りそうですね。

> 「即正思惟 起無間等知」はTassa mayha? bhikkhave, yoniso manasik?r? ahu pann?ya abhisamayoの定型。

>[起無間等知]
>これを見て、
>・無間等が起こり、知った。
>と解釈したのですが、

パーリから推測するに、この「知」は”paNNA”「智慧」のことで、女性名詞・単数・
具格(〜によって)or於格(〜において、〜から)です。ですから「知った」という訳
にはなりません。中村先生はこの”paNNA”を

>正しい注意と【智慧(と)から】現観(abhisamaya さとり)が起こった

と訳されています。

>無間等=現観ではなく、
>無間等知=現観ということですか?

漢訳したときの原本が特定できないので、間違いかどうかを断定は出来ませんが、
「智慧」の文字があったか無かったで語の対照が変わりますね。この「知」の場所
が不自然にも思えます。また「無間等知=現観」であるという断定も私には出来ま
せん。漢文は語順によって格関係を決定する場合が多く、逆にまったくそのような
ことを無視する場合もあり、ネイティブに頼る局面も出てきます。どちらにしろ、
「知った」は考えられませんね。
532無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/17(水) 12:40:04 ID:M+HIvmqa
>>531
初心の者に対し、丁寧な解説ありがとうございました。
「知った」の追加は、忠実な翻訳をこころがけた場合、考えられないということがわかりました。
では、(増谷文雄訳)の妥当性に関しては、どのようにお考えでしょうか?

>>198
> そのときわたしには正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった

>>215
> その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、かような悟りを得た。
> その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、かような解釈をなした。
(増谷文雄訳)

また、これらの部分に関し、順序を変えることは可能でしょうか?
意味が変わってしまいますか?

【1】
そのときわたしには正しい注意と智慧とから
「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と(いう内容の)
現観(abhisamaya さとり)が起こった

【2】
その時、わたしは正しい思惟と知恵とをもって、
「生があるが故に、老死がある。生に縁りて、老死がある。 」という悟りを得た。

【3】
その時わたしは、正しい思惟と知恵をもって、
「有があるが故に、生がある。有に縁って、生がある。 」という解釈をなした。
533無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/17(水) 12:53:30 ID:M+HIvmqa
「悟り」といった場合には、ひらめきとか啓示とか、右脳思考を連想します。
「解釈」といった場合には、理詰めでこつこつと推論を重ねていく、左脳思考を連想します。

> という解釈をなした。
は、日本語として

> ということがわかった。
と置きかえれると思うのですが、どうでしょうか?
534無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/17(水) 12:55:21 ID:M+HIvmqa
>>228
> 本来、仏教全体で最高なる証りとして用いられたが、
は、右脳思考。

> 一般的にabhisamaya一語で用いられる場合は、ただ四諦について理論理解すること
は、左脳思考。

というイメージがあります。
535野次馬:2005/08/17(水) 19:11:51 ID:mlQdY2vZ
星占いだの血液型性格判断と同類の、右脳/左脳ナントカみたいなインチキ科学を仏教
解釈に持ち込まないほうがいいよ。それじゃオウムと同レベルになっちゃう。
http://www.geocities.jp/wakashimu/yota/nou.html
536暇人:2005/08/17(水) 20:42:30 ID:okos6HPZ
「Abhisamayo理解すること」と約せるならば、ahuが「起こる」「ある」でも問題なく
『理解すること』が起こった/理解した と訳せます。これを更に
『わかること』が生じた/わかった と意訳しているのですね。
「Abhisamaya=わかること」とは解釈できないと論じてこそ「わかった」と訳せないと
いい得ます。

■「現観が起こった」に反対の理由
「現観」という語は中期大乗時代の玄奘の訳語であり、一般にわかりにくい。
ギョーカイ用語なので、後代の語義理解が混入し誤読の危険が増す。
せいぜい使用しても、補助的に(現観)というような括弧内表記が妥当
■「悟りが起こった」に反対の理由
当該箇所では実に縁起各支の「集と滅」の併せて22箇所のabhisamayoがあり、
その一々に悟ったでは日本語感覚的に違和感があるから。
ここはもう少し一般的な言い換えとして「理解」「わかること」が最適だから。
537暇人:2005/08/17(水) 20:43:38 ID:okos6HPZ
「真実のひらめきがふわっと湧き出てくる」でも「理解」「わかること」と訳し得ます。
深い思索と悟りの智慧によって、こういう理解がふわっと湧き出た。
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。
深い思索と悟りの智慧によって、真実のひらめきがふわっと湧き出た。
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。
「理解」を「真実のひらめき」と言い換えても大差ありません。

さて「根源より思惟」した 深く深く思惟し続けた そして「pa¤¤àya」によって…です。
この智慧pa¤¤àyaは、般若と漢訳されたり、悟りと同義で使われる智慧です。
「まのあたりにする」とは自分の目の前ではっきりと見るように明瞭に、
「これこれしかじかであり、細部はこのような関連性になっており、
全体としてこのように体系化されているのか!!」と
ありありと理解した、こういうニュアンスだろうと私は思います。
「わかった」と訳すこととなんら矛盾しません。
538名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 20:49:44 ID:abjEB6uF
>536
訳語をどうするか、という問題ではなく、元来どういう意味であるのか、という問題なのだが。
539暇人:2005/08/17(水) 21:27:08 ID:okos6HPZ
>元来どういう意味であるのか

それがあなたのテーマであれば、
それはそれで別個に展開されてください。
540名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 21:34:39 ID:abjEB6uF
>539
そうやってオナニーしてろって。
541無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 00:28:26 ID:pa+mi/OG
>>538 :名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 20:49:44 ID:abjEB6uF
> >536
> 訳語をどうするか、という問題ではなく、元来どういう意味であるのか、という問題なのだが。
ふーむ。
人によって、問題意識はいろいろなんですね。
おかげさまで、肝心な質問をしていなかったことに気づきました。

>>531 さんへ

あなたは、>>198 における現観が、

> http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb02.html
> > 545 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/08 22:31
> > 内容的には「概念を超えた縁起の現観」です。
> > 618 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss 投稿日: 02/10/11 13:56
> > 止観は四禅すべてにわたります。現観はその次の段階です。

> http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1120927505/47
> 47 :阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/10(日) 08:35:11 ID:VrOFm7tl
> ブッダの正覚体験として經典の様々な箇所に記される「縁起の現觀」は四禪乃至滅盡定等九次第定を
> 超出したものであり、「見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の粋を超え、微妙であり、賢者
> のみよく知るところ」であるのはここで発言する方にはいわば常識でありしょう。

この現観と、同じ物だと思っているのですか?
542素人:2005/08/18(木) 00:32:38 ID:RKIjQGWF
現観(abhisamaya)が
ここまでこだわるほど大切な言葉には思えないのだが・・・w
543暇人:2005/08/18(木) 00:45:31 ID:zjO+uYo/
>>542
人それぞれだね。

■メモ■中村元訳と中村元監修本の訳の比較。
「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。
そのときわたしには正しい注意と智慧とから 現観(abhisamaya さとり)が起こった、
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。

これと同文の平行箇所が中部第14経にあり、春秋社から中村元監修で出ている。
当然、上記の中村元選集第11巻をより新しい訳になる。訳者は岡野潔。

「いったいなにがあるとき、老いること、死ぬことがあるのか。なにを成立条件(縁)として、
老いること、死ぬことがあるのか」その時比丘らよ、ヴィパッシン求道者が
根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観)があった。
「生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」と。
544暇人:2005/08/18(木) 00:46:46 ID:zjO+uYo/
@「kimhi nu kho 一体どうして」が新訳のほうが原テキストに忠実
A「〜sati 〜hoti (これ)あるとき(かれ)ある。」も新訳が忠実
B「Jaràmaraõaü 老死」について新訳が噛み砕いた訳
C「Kimpaccayà 何に縁って」について新訳が「なにを成立条件(縁)」と噛み砕いてる
D「Tassa mayhaü bhikkhave」に相当する部分を訳すると助長になるので旧訳は省略
Eyonisomanasikàrà ahu pa¤¤àya abhisamayo に関して
(A)動詞はahuが一つだけだが
新訳は、yonisomanasikàràすると、pa¤¤àya abhisamayoあった
旧約は、yonisomanasikàràとpa¤¤àyaから abhisamayoが起こった
(B)yonisomanasikàrà (yoniso 母胎から 根源よりmanasikàrà 思念)は新訳が忠実
(C)pa¤¤àya慧によって
(D)abhisamayo (旧)現観(さとり) (新)真如をまのあたりにすること(現観)
545暇人:2005/08/18(木) 00:47:56 ID:zjO+uYo/
旧約の中村元訳は比較すると@テキストに忠実ではないし、A訳もこなれていない。
新訳は、比較すると@原テキストにより忠実になった上、B一般人にわかりやすくという
配慮がされている(成功しているかどうかは別)。
E(D)の現観を申し訳程度にカッコ内処理したのもその現われの一つ。
「abhisamayoが起こった」を「abhisamayoあった」に変えている。
ここから「起こった」でも「した」でもどちらでもよいことがわかる。
abhisamayoを<〔真如を〕まのあたりにすること>としているのは、
<さとり>と理解し、噛み砕いた表現なのだと予想される。だから原文にない
〔真如を〕を補われている。
546無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 00:53:29 ID:pa+mi/OG
>>542 :素人:2005/08/18(木) 00:32:38 ID:RKIjQGWF
> 現観(abhisamaya)が
> ここまでこだわるほど大切な言葉には思えないのだが・・・w
そうですか。
わたしは縁起の現観は、結構面白いテーマだと思えるようになってきました。

<--
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

スッタニパータより
-->
涅槃が理論的にこれで達成できるのだとすれば、

無明−行−識における行(サンカーラ)の働きを「まのあたりにする」
渇愛や取(執着)の縁起・縁滅のメカニズムを悟る

を経験すれば、
快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、可能となり、
かつ、再び煩悩に悩まされることは無くなるでしょう。
「不滅のニルヴァーナの境地」というのに納得できます。

一度、自転車に乗れるようになれば、その技術は死ぬまで有効だというのと
似たようなものではないでしょうか?
547素人:2005/08/18(木) 01:24:05 ID:RKIjQGWF
annyAtaの方が面白いと思う。
五比丘(特にコンダンニャ)は何をわかったのか・・・w



おやすみ〜 (´ー`)ノシ
548無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 05:54:39 ID:pa+mi/OG
>>526 さん、おはようございます。
<--
また、現観とは知ったという通常認識ではなく、非難覚悟で解りやすく説明
するならば、

「実はこれこれしかじかが真実であり、細部はこのような関連性になっており、
全体としてこのように体系化されているのか!!」

という「真実のひらめき」の大げさなものがふわっと湧き出てくるという感じに私は受け取っ
ています。
-->
このこと自体に異を唱えるつもりはないのですが、
> 全体としてこのように体系化されているのか!!
この場合の全体と言うのは、十二支縁起全体ではないと思うのです。

>>536 において、暇人さんが、
> ■「悟りが起こった」に反対の理由
> 当該箇所では実に縁起各支の「集と滅」の併せて22箇所のabhisamayoがあり、
> その一々に悟ったでは日本語感覚的に違和感があるから。
といっていますが、
ここにおける現観が、
> 仏教全体で最高なる証り
であったとするならば、「現観(abhisamayaさとり)が起こった」は一度で良く、
その一回の現観によって、縁起各支の「集と滅」の併せて22個の真実をまのあたりに
したという表現になるべきだと思うのです。
549無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 06:06:54 ID:pa+mi/OG
>>470
> 唐突な日蓮の引用はなぜ?
理証・現証という単語を使ってみたかったのですが、
ネットの国語辞典にも載っていないような単語だったので、
その意味の解説のために引用しました。

専門家の皆さんにとっては、不要なことでしたね。
550野次馬:2005/08/18(木) 06:41:02 ID:RcUNr6Ct
>一般にわかりにくい。
わからんかったら調べりゃいいだけの話。下手にポピュリズムに妥協するとよけいに
誤解が増える。それなら注釈の語彙解説を充実させるほうがよほどマシだろ。
551暇人:2005/08/18(木) 08:03:28 ID:BJkAdWtM
>>547
展開されてください。

>>550
本当に理解したら わかりやい言葉に翻訳できるものらしいよ。
ちなみに釈尊は わかりやすい言葉で話したと伝承されていますね。
それとは別に「注釈や語彙解説」の充実しているかどうかというのは大事ね。
552暇人:2005/08/18(木) 08:04:06 ID:BJkAdWtM
>>548
「仏教の全体的な最高のさとり」は、水野弘元著作選集Up105によれば、
<原始経典ではこの語はabhisambujjhati「現等覚する」の語とともに並べて
用いられることが多いから、元来はabhisametiもabhisambujjhatiと同じく、
仏教の全体的な最高のさとりについていわれていたものであろう>
中華辞書は、水野さんの著作を下敷きにしている。若しくは翻訳している。
abhisametiもabhisambujjhatiの併記実例については>>444-445 を参照。

22箇所のabhisamayoは、水野同ページの
「理論的理解による最初のさとり」か、中華の「理解四諦或縁起道理的初歩證悟」に
該当すると思われます。水野さん語義解釈は、
<現観の語はabhi-sam-iから成り、動詞abhisametiは、「正しくよく至る」
「十分に理解する」ということ>
553暇人:2005/08/18(木) 08:04:53 ID:BJkAdWtM
■蛇足■ 語義解釈からは、
「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。
そのときわたしには正しい注意と智慧とから、正しくよく至った。
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。
あるいは、
「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。
そのときわたしには正しい注意と智慧とから、十分に理解した。
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。
554野次馬:2005/08/18(木) 18:29:02 ID:giDjVsSv
「街中で道行く人」の部類で仏教に特に関心のない、三界を三階とごっちゃにしてまったく悪びれない俺のオフクロさんに
553を読ませてみたが、何のことだかよく解らんのだそうな。「生きてたらそりゃ年食って死ぬわねえ」だってさ。「現観」
は「現に見えたんじゃない?」とかと言ってたけど。
555無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 18:33:27 ID:Rt8rNAeP
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto1.html
<--
私は著者のこの主張に同意します。法(ダルマ)とイデア的、哲学的な真理とを混同することによって、
涅槃や悟りを真理と見なす誤解が生じるのだと私は考えています。

これを私流の解釈で詳しく説明してみます。
(a) 涅槃は「境地、体験」です。
(b) 涅槃、悟りの境地において、法(ダルマ)と抽象的に表現されてきたような類の実感的了解が生じます。
ここでいう法とは玉城康四郎氏のダンマ、竹村牧男氏のいう覚体験を指します。
(c) 法(ダルマ)はその核・本質がダルマの体験それ自体です。
その一面が言語で表現されうるにしても、その本質は実感的了解、全人格的な納得という体験です。
(d)「真理」は言葉で表現された命題に関する成立・非成立の判断です。
(e) 体験は真理とは別のカテゴリーに属します。よって体験と真理を関係づけることは無意味です。

この(d)から言葉を超越した真理とか、言葉で表現されえない真理、というものは自己矛盾であり、
無意味なもの、あり得ないものであることがわかります。
-->
<--
仏教的な真理もそれが真理である限り、言葉で明確に表現されうるものです。
そしてそれが四諦、縁起に相当します。
禅や中観、華厳、密教などであたかも真理のようなニュアンスで語られるものは
普遍的真理とは無関係の、ある種の「意識体験」、境地です。
-->
言われてみればあたりまえのことなのですが、熱くなるとわけがわからなくなりますね(笑)
556無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/18(木) 18:34:59 ID:Rt8rNAeP
日本語としての「理解」「わかる」は、意味的に大きく3つに分類できるだろう。
「悟る」は、ある特殊なわかり方、理解の仕方を指すように私には思える。

(1)暗記的理解。知識としてわかる。
(2)論理的理解。頭でわかる。
(3)経験的理解。身体でわかる。腑に落ちる。悟る。
557名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 20:34:48 ID:fgs1gi2I
(0)先見的理解。
558名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 20:41:05 ID:fgs1gi2I
先験だった。
体系的に不十分だったため、落とし込めなかった。
559(*):2005/08/18(木) 22:57:35 ID:nqWcId88
複合完了(辻§84-III)では√bhUは「〜した」と訳される。

ramayAM babhUva 愛した。01,040.011c
AmantrayAM babhUvuz 招待した。02,030.042c
kathayAM babhUva 語った。03,225.005c

以上、すべて『マハーバーラタ』。訳は上村勝彦。

piTThito Thito hoti 後に立っていた。水野『パーリ語文法』§71-4

というようにパーリでも「〜した」と訳される場合がある。

そういえば私はローマナイズ君とか呼ばれてるみたいですが、
電波には当分、答えないとキッチリ宣言ずみなのですが。
560(*):2005/08/18(木) 22:58:55 ID:nqWcId88
>>545
yonisomanasikArA ahu paJJAya abhisamayo:
南伝:正思惟と慧とによりて解生ぜり。(第13巻、14)
増谷訳:正しい思惟と知恵とをもって、かような悟りを得た。(未確認)
中村訳:根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観) があった(未確認)
英訳:I reflected this thoroughly and wisdom and realization dawned on me,
雜阿含經:即正思惟。起無間等知。
国訳:即ち正思惟して、無間等の知を起しぬ。(国訳一切経、第1巻、282)

まず、増谷訳は、南伝を口語に直したようなもので、参照するに足りないと思います。
paJJAya は「知によって」「知から」「知に」「知の」「知において」のいずれにも取れるので、
南伝・増谷訳は「知から」と取って yonisomanasikArA と同格に考えています。
中村訳は「知によって」の具格と取っていますね。
英訳は、reflected thoroughlyが yonisomanasikArA 。wisdomがpaJJAya。
realizationだけがabhisamayoか、あるいはdawned onにまで含ませて意訳したのか、分かりません。
雜阿含は、全く同じ言葉でないでしょうが、正思惟がyonisomanasikArA。
無間等がabhisamayo、知がpaJJAya、起がahuと考えられます。
561(*):2005/08/18(木) 22:59:49 ID:nqWcId88
なぜなら同じ求那跋陀羅が『楞伽阿跋多羅寶經』で次のように訳しています。
1. 於三解脱一一不得無間等法。
2. 除此法已餘化神力現無間等。謂聲聞化神力。
3. 爲餘作無間罪者除疑悔過爲勸發故。神力變化現無間等。
4. 無有一向作無間事。不得無間等法。

その「無間等法」「現無間等」が次のようにmngon par rtogs paとチベット訳され、
1. gang byas pas rnam par grol ba gsum po las gang yang rung ba dang mngon par rtogs par mi 'gyur te /
2. sprul pa'i byin gyi rlabs kyis mngon par rtogs pa ni ma gtogs so / /
3. slar rab tu spro bar byed par 'gyur snyam nas sprul pa'i byin gyi rlabs kyis mngon par rtogs par rab tu ston to / /
4. mtshams med pa byed pa la ni mngon par rtogs pa gcig tu nges pa med de /

その原語は次のようにabhisametA、abhisamayaだからです。
1. tisRNAM vimuktInAm anyatara-anyatarasyAM na-abhisametA bhavanti
2. anyatra nirmita-adhiSThAna-abhisamayAt
4. na-asty ekAntena...abhisamayaH
   (常磐義伸『ランカーに入る』の註によったので全テキストは提示できませんでした)
つまりabhisamayaをa無-bhi間-samaya等と読んだと思われます。
パーリのような原文を想定するなら「即ち正思惟して、無間等の知が起きた」と読むべきでしょう。
つまり求那跋陀羅は、yonisomanasikAra から paJJAya abhisamayo が起きたと解釈していたのです。
とすれば構文としては次のように直訳すると分かり易いと思います。

直訳:如理作意から般若の現観が起きた。
562(*):2005/08/18(木) 23:03:15 ID:nqWcId88
ではそれぞれ術語の意味はどうでしょうか、幸い同じ文がこのように、
DN: yonisomanasik罫? ahu pa末軽a abhisamayo
南伝:方便によりて思惟し、慧によりて覚悟すらく、(第4巻、394)
岡野訳:根元的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観)があった。
           (中村元『原始仏典第2巻』2003春秋社41頁)〔真如を〕は訳者の補註
片山訳:正しく思惟し、慧によって〈生まれが...〉と了解しました。 
           (片山一良『パーリ仏典長部大篇 I』2004大蔵出版64頁)
長阿含經相当箇所:大本経:即以智慧觀察所由。
石川訳:即ち智慧を以って由る所を観察するに、(石川海淨『国訳一切経  阿含部七』45)
森訳:即ち智慧を以って所由を観察するに、(森章司『新国訳大蔵経  長阿含経I』98)

これについてヴァルトシュミットがサンスクリットを出版しているのですが、参照できませんでした。
チベット訳も平等通昭さんの和訳も見られませんでした。ですが、以下で十分だと思います。
563(*):2005/08/18(木) 23:04:39 ID:nqWcId88
片山さんは「慧(paJJA)によって了解した」と訳してますが複註は《この慧が生起し》としていますので、
我々の「般若の現観が起きた」の方が支持されると思います。よって我々は「慧によって」を
「慧の」と読み替えて解釈します。
「それがあれば老死が生じるというその老死の根拠との一致《充分な洞察による一致》が生じた」は、
abhisamayaの註釈に他なりません。つまり「慧の一致《充分な洞察による一致》が生じた」と
「般若の現観が起きた」を言い換えているわけです。「充分な洞察による」は「如理作意から」と考えます。
そして「般若の現観」の内容はもちろん「生まれがあれば老死が生じる」です。
ですから単なる「知」と考えていいでしょう。

一致(samAgama)がabhisamayaの言い換えです。すると「まのあたりにすること」という
「現観」に相当する意味より「無間等」の方が原義に近いでしょう。
とすると「符合」「合致」「当たる」「適合」になるのではないでしょうか。
samAgamaは「到来」という意味があるので「理解」「ひらめき」でもいいかもしれません。

以上によれば、yoniso-manasikAra:無常などに基づく生・滅の随観による正しい思索
paJJA:「生まれがあれば老死が生じる」という知
abhisamayo:符合、理解、ひらめき

よって意訳すればおよそ次のようになるでしょう。

無常などに基づく生・滅の随観による正しい思索から
「生まれがあれば老死が生じる」という知的符合(ひらめき)が起きた。
564(*):2005/08/18(木) 23:09:39 ID:nqWcId88
失礼、以下を>>563の前に読んでください。
片山訳の註です。〈〉内は上の註。MahAvaggaTThakathA, pp.1-207, 1957 ビルマ第六結集版
《》内はその複註であるMahAvaggaTIkA, pp.1-192, 1961 ビルマ第六結集版
これらも原文は参照できませんでした。

片山註26、355頁ー:yoniso-manasikAra. あるいは「正しく意を注ぎ」。
<「正しく思惟し」とは、方便の思惟(upAya-manasikAra)により、道の思惟(patha-manasikAra)により、
ということ。なぜならば、無常など《苦・無我・不浄》を無常などとしてのみ思惟する場合、
正しい思惟(yoniso-manasikAra)と呼ばれるものが生じるからである。
また、これは、「いったい何があれば生まれなどが生じるのか、何がなければ生じないのか」という
生・滅の随観(udayabbayAnupassanA)によって起こるから、
それら《無常などの思惟》のうちのいずれかである。それゆえ、かれは、この正しい思惟により、
この方便の思惟により、「慧(paJJA)によって了解した」のである。
菩薩には、慧によって、それがあれば老死が生じるというその老死の根拠(jarAmaraNakAraNa)との
一致(samAgama)《充分な洞察による一致》が生じた、が、それは何か。生まれ(jAti)である。
それゆえ、「生まれがあれば老死が生じる」と言った。菩薩には、老死の根拠を捉えるこの慧とともに
《この慧が生起し》、《それが生起して》一致が生じた、ということがこの場合の意味である。>
565(*):2005/08/18(木) 23:14:17 ID:nqWcId88
>>545 についてですが>>559 にしたがって

正しい思索から「生まれがあれば老死が生じる」とひらめいた。

としてもいいわけでけして誤訳ではないと思います。
566名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 23:57:21 ID:9OMEgt3w
>559
複合完了については仰せの通りですが、
問題になっている箇所は、複合完了でもないし、
水野文法が示すような
ppt.+√bhU
という形でもないですね。>559の発言意図はなんですか?
567566:2005/08/19(金) 00:14:30 ID:tL4vmEnm
(*)さんが意図的に無視しているのか、注意をはらっていないだけなのかわかりませんが、
「〜した」と動作主を想定した訳と、「〜が生起した・〜があった」と主題についての状態
を記述する訳の違いはどうお考えなのでしょうか?
和訳上のテクニックで「〜した」と訳す、と確かに習いましたし、教えもしますが、abhisamaya
がどういう術語であるかによって「〜した」と訳すことがまずい場合もあるでしょう。
(*)さんの論考を読むと、むしろ「〜した」と訳すのはまずいのではないかと考えます。
ちょうど、「A(Genitive) B-tva」 を「AはBである」と訳すと習いますが、「AにBという性質がる」
と訳さなければ誤訳になる場合があるのと同様であろうと思います。
568暇人:2005/08/19(金) 01:25:01 ID:PNZP6RkG
>>559-565

色々と貴重な情報ありがとうございます。
特に>>562は参考になりました。
南伝の格調高き訳も味があってよいですし、
片山訳のすっきりした「了解しました」という訳部分は私の感覚に近いですね
長阿含・石川・森の「観察」も示唆的です。
それと>>560での南伝と増谷訳の対比により、増谷訳が南伝からの重訳との
論証も参考になりました。「正しい思惟」は、南伝の重訳。南伝は恐らく
雑阿含の「正思惟」からの訳語なのでしょうね。

「ひらめいた」もよいと思います。
あと後代の佛教語に拘るなら「現観」以外に「通達」とも漢訳されたと
聞きます。「通達」は語源的な「正しくよく至ること」 に近いですし、
意味的には「よく理解すること、さとり」というニュアンスもありますので
一つの候補になりえるかもですね。

569太刀山型の土俵入り:2005/08/19(金) 01:28:39 ID:lsiDxnIk
マンコをパーリ語で書くと
570暇人:2005/08/19(金) 01:30:54 ID:PNZP6RkG
古い著作の復刊情報。
ちくま学芸文庫から 渡辺照宏さんの「新釈尊伝」が出ました。
およそ40年前の著作ですが、熱烈なファンもいる渡辺さんの往年の釈尊伝です。
ご関心のある方は本屋さんで手にとられてみてください。
571名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 01:36:55 ID:tL4vmEnm
>563
読めば読むほどわからなくなる主張ですな。
>片山さんは「慧(paJJA)によって了解した」と訳してますが複註は《この慧が生起し》としていますので、
>我々の「般若の現観が起きた」の方が支持されると思います。よって我々は「慧によって」を
>「慧の」と読み替えて解釈します
「この慧」がいつのまに「慧の」にかわってしまったのでしょうか。
「慧」と「現観」の格関係はどうお考えなんでしょう?

ついでに我々って誰のこと?頭だいじょうぶかい?
572暇人:2005/08/19(金) 08:02:32 ID:91CW4Zan
>>554
野次馬さんの御袋さまは、健康な知性をもたれていますね。
>>555で無宗ださんの紹介のHPの次のページに
-『仏教誕生』(189ページ)宮元啓一著、ちくま新書の引用があります

<苦しみを発現せしめる心的機構を解体するものは、あくまでも知恵である。
知恵とは、洞察力という形態をとり、生のニヒリズムをもたらすと同時に生
のニヒリズムから発するともいえる、きわめて合理的な思考のことである。
ことばをかえていえば、当たり前の事実をまともに当たり前の事実として受
容する態度のことである。こうした知恵は、心が濁り、ふらついているかぎ
り、けっして不動のものとはならない。釈尊は、禅定を、知恵を得るための
条件として位置づけた。すなわち、心を澄まし、ふらつきのない安定した状
態にするための有効な手段と見なしたのである。>

生のニヒリズム云々はともかく、
「当たり前の事実をまともに当たり前の事実として受容する態度」が
大事ですね。

それと、あなたの設問の仕方に問題がありますが、略します。

573名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 08:27:17 ID:ZjQsXalR
また、馬鹿の戯言か
574名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 08:28:19 ID:ZjQsXalR
>>572
おまえは原始佛教の教師か?このプリテンダーめ
575無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/19(金) 08:58:22 ID:HIPNn+Kq
>>557-558
サンクス。たしかに
・先験的理解。
が抜けていましたね。
悟りは、先験的理解に分類した方がしっくりきます。

> 体系的に不十分だったため、落とし込めなかった。
おっしゃるとおりです。

ただ、先験的理解の場合にも、
真なる命題(真理)だけが、訪れるわけではなく、
それが真であるという実感もあるだろうし、
それが真であると判断できるだけの「正しい注意と智慧」といったたぐいのものが
あらかじめ必要なのではないかと思います。

「先験的理解」は、技能の習熟をイメージさせる「経験的理解」とは、
なんらかの区別が必要なのはたしかですね。
ちょっと考えてみます。
576名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 09:04:26 ID:IdGPmWwX
>>571
>読めば読むほどわからなくなる主張ですな。

そうですね。読めば読むほど一貫して支離滅裂であることがはっきりしますね。
(*)=ローマナイズ君=辻文法君の流れには大笑いさせていただきました。
大笑いはたくさんあるのですが、>>451をご覧下さい。>>559も素敵です。
>複合完了(辻§84-III)では√bhUは「〜した」と訳される。
複合完了は適用されないと誰かが名言すみなのに使ってるね。筋違い。

>piTThito Thito hoti 後に立っていた。水野『パーリ語文法』§71-4
これは日本語が理解できていないようで。かわいそうだから指摘しないでおいてあげる。
自力で理解できない場合は意味不明反撃するんだろうな。とほほ。ローマナイズ君ならでは
か。電波なんて最近発言して無いのに唐突に「宣言済みですがぁ」とか発作を起こす症例が
続いてますね。チベット訳を引用して自説を補強するのですが、これは自身の主張を曲げる
行為であって、なんの説得力もありません。(内容じゃなくて、行為のほうね。馬鹿だから念の為
これは本題ではない)

>>566 さんの正論に対して何の反論もできない貧弱文法君ですね。そのことは専門家以外の
方々にもすでに見抜かれています。煙に巻く文法羅列には穴ぼこだらけで、なおかつ嫌悪感を
覚えるだけです。法華経を読むのに漢訳もチベット訳も要らないと豪語する思考パターンから
何の成長もしていないじゃない。ついでに”sva√bhU”というような表記は専門家の間では用い
ないとか言ってなかった?

こんな馬鹿に>>568 暇人が賛同するという盆過魑魅魍魎の構図がここにはある。噴出したのがコレ。
>長阿含・石川・森の「観察」も示唆的です。
577名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 09:08:05 ID:B+Ti5cEC
覚えたてで生煮えの付け焼刃ボキャブラリーを集めて並べてみてもしようがない。
578名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 09:28:22 ID:IdGPmWwX
>>564 (*) よ。
菩薩様がちゃんと逃げ道作ってくれていたじゃないか。
のこのこと出て来れないんだよ、あんたは。あんた、先輩風吹かして文法にしても
なんにしても自己絶対化して後輩を押さえつけてただろ?そんな傲慢さがよく
出ているよ。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

高校生諸君、この(*)がインチキかどうかは以下の発言を注意深くよんで判断してくれ。
少しは勉強になるよ。

>piTThito Thito hoti 後に立っていた。水野『パーリ語文法』§71-4
>というようにパーリでも「〜した」と訳される場合がある。

パーリ部分は無視して、
>「後に立っていた」というように「〜した」と訳される場合がある。
というところでいいから。 ヒントは「時制」そして誰かが「記述関係」と言ったことを
まったく理解できていないところ。(w 
もう一つは文法説明するときに、自動詞と他動詞の区別を脳内で出来ていないところ。
これが致命的なんだけどね。こんな人が学者面できるんだから、ハッタリがいかに(以下ry
579名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 10:21:47 ID:IdGPmWwX
高校生諸君へ

>もう一つは文法説明するときに、自動詞と他動詞の区別を脳内で出来ていないところ。
>これが致命的なんだけどね。こんな人が学者面できるんだから、ハッタリがいかに(以下ry

この部分で「サンスクリットやパーリでは自動詞や他動詞が云々」と言い出したら思いっきり笑って
あげましょう。この人、多分高校英語が理解できていないから。

あの人はね、チベット表記やパーリ表記の特徴で個人特定されやすいという脇の甘さを見せています。
くれぐれもそのようなヘマをしないように心がけてくださいね。

もしあの人なら、なるほどと思っちゃいますね。学界では思いっきり馬鹿にされている自己満足屋ですから。
でも特定するところまでは至っておりません。
580名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 11:23:49 ID:0kkD+BJh
原始仏教スレって、2つの宗派に分かれてるの?

やっぱり宗教って分派するようにできてるのだねぇ。
581無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/19(金) 18:41:58 ID:HIPNn+Kq
結局、
・現観は「わかった」ではない。
と主張している人達のいいたいことは、次のようなことだろうか?

『現観には、既存の日本語では表現しきれない微妙なニュアンスが含まれる。
だから、理解等の単語を使用して翻訳するよりは、漢訳の現観をそのまま使用した方が良い』
---

たとえば、
「私は旅先の旅館で、踊り食いを経験した。その日、とれたての白子で。」
という文章が有ったとしよう。

この文章の
「踊り食いを経験した」を「食べた」に書き換えること

「現観がおこった」を「わかった」に書き換えること
とは似たような暴挙だということだろうか?
582名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 18:49:33 ID:vTEUtoNp
現観とは最福寺住職池口現観のことですか・・
583名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 19:57:41 ID:2bYqwBJ6
>「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」

>現観(abhisamaya さとり)が起こった

>「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。

>「いったいなにがあるとき、老いること、死ぬことがあるのか。
>なにを成立条件(縁)として、 老いること、死ぬことがあるのか」

>根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観)があった。

>「生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
>生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」

生があるゆえに老死がある。ごく当たり前のことのようだけど、
これが大変難しいことなんだよね(きっと)。

じゃあ、生は何ゆえあるのか。それは、有があるから。
有は何ゆえ、、、、、取があるから。

このあたりから、現観?できない。(ちょっとふに落ちない)。


584名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 22:08:06 ID:IdGPmWwX
>>581
無宗ださん。

>・現観は「わかった」ではない。
>と主張している人達のいいたいことは、次のようなことだろうか?

それ以下のことでは適用されません。文法的にも、シンタックスとしても、意味的にも
「わかった」にはならないことを皆様はとうとうと説明しているのです。ただそれだけです。
585暇人:2005/08/19(金) 22:57:46 ID:89WHloUW
>>584

説明と言うか 揚げ足取りのレベルだと思うが、その一々に丁寧に
反論し尽くした、と私は思っているが、感じ方は人それぞれあろう。
文法的にも「なる」「ある」談議では「ある」の場合があると論証済み。
訳者にも「起こる」も「した」もあると論証済み。
少なくとも「意味的に」「現観はわかった」と訳せないという有効な
展開は皆無だと思います。

さて問題は、電波一派の直訳でないとマチガイという感覚であろうと思う。
@正解は一つという幼稚さと
A文法的に自分たちは正しいと言うプライド←最後の砦なのであろう。

http://fhonyaku.jp/members/mt/1.htm
翻訳とは何か、参考にされると良いと思う。

まあ中学英語もわからぬ私が言うても反発するだけで 逆効果だろうが。
586暇人:2005/08/19(金) 23:00:24 ID:89WHloUW
>>583

>「有」

うん 難しいですね 
みんなで 考えて見ますか。
587名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 02:56:36 ID:m6kR+xCY
>>585
あんたは頭がいかれている。「なる」「ある」論議など端からない。それは暇人の妄想で
あったことは何回も指摘済み。

>少なくとも「意味的に」「現観はわかった」と訳せないという有効な
>展開は皆無だと思います。

皆さん。よーくご覧下さい。「わかった」と訳せるという有効な展開が皆無なのに
こんなハッタリを言う人が「暇人」なのです。眼をあわさないようにしましょう。
588名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 03:21:49 ID:NRbtA/3T
誰も《感じ方》みたいないい加減で生半可なことを主張してなんかないだろう。おマヌケな感想文を偉そう
に書き込んで悦に入っている馬鹿もん一匹を除いては。
589名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 03:28:46 ID:NRbtA/3T
ついでに中学英語すら解らん、身の程知らずに《反発》している人もおらんよ。侮蔑と嘲弄の標的にしている
だけ。おまいの《感覚》なんか蟷螂の斧にもなってないぞ、暇人よ。
590名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 03:38:56 ID:NRbtA/3T
そんなに口惜しかったら、現観みたいな直訳は道行くオサーンには理解できない不適当な訳だと
かなんとか申し立てて学界相手にでも堂々と論陣でも張って見ろ。おまいの主張が認められれば
新しい定説サマの確立だし、視界の新しい大物《暇人大センセイサマ》の登場だ。
591暇人:2005/08/20(土) 06:25:51 ID:dj/y1ih/
>>587-590

( ^-^)_旦~~
土俵外からの中身のない罵倒をいい加減卒業したらどうかね
592名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 06:31:15 ID:S1deZOCP
そんな安物丸見えで不味そうな茶はイラネ
土俵すらもも作れず読むべき中身も全然ないサイテーな感想文へのまっとうで正確な論評なんだがな。
593名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 06:41:54 ID:S1deZOCP
ホレホレ、専門家も反論できない無敵の暇人論法を引っさげて彗星のように学界へ登場してみろ
よ。こんな僻地でくすぶってる場合じゃないぜ。大先生よぉ。
594名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 06:48:26 ID:S1deZOCP
電波を指導できる程の学力の持ち主なんだろ。その輝かしい実績でも引っさげて学界に
殴りこみ掛けてやれよ。おまいの凄さにみんな驚いて言葉も出ねえだろうさ。
595名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 06:56:15 ID:S1deZOCP
暇人=三吉でネット上あちこちにファンがいるんだろ?ファンサービスに暇人大先生の
大学者ぶりを華麗にプレゼンしてやりなよ。
596名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 07:00:28 ID:S1deZOCP
そうなりゃ
>中学英語もわからぬ私が
なんていうお言葉は大学者のゴケンソンであることがたちまち明らかになるよ。
597無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/20(土) 07:40:55 ID:5uo6p2FL
>>584 :名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 22:08:06 ID:IdGPmWwX
> 無宗ださん。
>
> >・現観は「わかった」ではない。
> >と主張している人達のいいたいことは、次のようなことだろうか?
>
> それ以下のことでは適用されません。

うーむ。はずしましたか。
598無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/20(土) 07:41:32 ID:5uo6p2FL
ところで、

> 150 :名無しさん@3周年:2005/08/02(火) 13:32:14 ID:mVbWWzx+
> 「即正思惟 起無間等知」はTassa mayha? bhikkhave, yoniso manasik?r? ahu pann?ya abhisamayoの定型。

> 531 :名無しさん@3周年:2005/08/17(水) 11:32:21 ID:3OqjpKVN
> 漢訳したときの原本が特定できないので、間違いかどうかを断定は出来ませんが、
> 「智慧」の文字があったか無かったで語の対照が変わりますね。この「知」の場所
> が不自然にも思えます。また「無間等知=現観」であるという断定も私には出来ま
> せん。漢文は語順によって格関係を決定する場合が多く、逆にまったくそのような
> ことを無視する場合もあり、ネイティブに頼る局面も出てきます。どちらにしろ、
> 「知った」は考えられませんね。

とのことですが、
この部分の玄奘の訳はあるのでしょうか?
あるとすれば、どのように訳されているのでしょうか?
599名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 08:41:35 ID:m6kR+xCY
>>596
S1deZOCPさん。
暇人が別スレからあんたがここに出張して、暴れていると文句を垂れてるよ。
あいつきちがいだけだと思ってたけど、チンピラでもあったんだな。

何でもかんでも電波一派だって。相手にされていないのがわからないのかな。
ただ、ローマナイズ君みたいなエセ研究者と同調しながら邪義を撒き散らすの
で、叩き潰す必要があるのかもしれない。

賢い高校生諸君
>>585 の詭弁にもならない屁理屈構造をじっくり堪能してくれ。向学心ある諸君
はこんなあほなことは絶対に考えないだろうけど、この間違いに気づかないので
あれば、大学に受からないよ。国公立は絶対無理だ。

暇人はおそらく '85年にOTの哲学科を卒業し被害妄想・鼻つまみ者だろうというの
は特定出来ている。世界は狭いので注意されたし。創価学会を連呼していたら危
ないぞ。あいつらはきちがいだし。暇人よりはましか。>>585みたいなきちがい発言
できないだろう。
600城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/20(土) 08:43:15 ID:20XeQaVD
それはともかく600
601。。。:2005/08/20(土) 09:39:10 ID:NvhohbUb
>>586 暇人さん

求める心 ←無明
再度胎内に入ろうとする ←行
また身体を得て ←識、名色、六処
この世に再生する ←そして、触、受、愛、取 が生じる
取は確固たる存在であり ←有 ←それは、生〜老死 に至る。
そして無明(求める心)が残る。

これは他スレッドへの私のコメントなんですけど。
これで大筋合っているとして。(違っているかもしれないけど)。

生〜老死の問題を解決しようとすれば、有(存在?)とか、取、愛、
(執着、愛着)を何とかすればいいんだけど、それ自体はどうしようもない。

結局無明に帰着してしまう。ということなんでしょうか?
602。。。:2005/08/20(土) 09:44:48 ID:NvhohbUb
それと、

「無明 、行、識、名色、六処 、触、受、愛、取 」→有→生→老死

ということは、

「無明 、行、識、名色、六処 、触、受、愛、取 」この部分は、生命体
という観点から見れば、存在しない(無)ということなのでしょうか?
「有」ではない、すなわち「無」とはいえないから、「有」以外のもの
ということなんでしょうけど。
603城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/20(土) 09:45:43 ID:20XeQaVD
む、むずい…
604。。。:2005/08/20(土) 10:01:37 ID:NvhohbUb
執着を無くしよう、愛着を無くしよう、煩悩をコントロールしようと
悪戦苦闘しているわけだけど。(この連鎖を見ると)無明を断たない
限り無理なのかも。

そのためには無明の本体を知ることが必須ですよね。仏教の勉強は
「無明とは何か」に尽きる?のかも。
605無宗だ:2005/08/20(土) 10:50:11 ID:jokd8l3Z
求む、素人にも優しい投稿w
さて
【私の理解1】
パーリのabhisamayaに関しては、次の2つの解釈が可能ある。

サンスクリット語根合成    サンスクリット       パーリ
(1)abhi√Sam       abhisamaya         abhisamaya
(2)abhi-saM√i       abhi(S)amaya        abhisamaya
----------

(1)の場合、苦などの止滅の意となる。
(2)の場合、理論的に完全に理解する意で、こちらが「現観」である。
606。。。:2005/08/20(土) 11:00:30 ID:NvhohbUb
1) 生あるゆえに老死ありと 苦を死滅する
2)生あるゆえに老死ありと 理論的に完全に理解する。

2)に一票!
607名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 11:12:46 ID:zRCT/h/6
あのさ、くだらない質問かもしれないけど、釈迦の時代には、インド人は、白色人種と、肌の黒い人種が、
明確に識別できるほどに、混在していたのか?
 今のインド人は、ほとんどが黒い肌をしているが、これは、釈迦の時代から、混血が進んだ結果なのか?
608。。。:2005/08/20(土) 11:16:47 ID:NvhohbUb
お釈迦様は剃髪(髪の毛を剃る)はしていたみたい。
色は黒かったのか白かったのか。
モンゴロイド(アジア系)であったという説もある。
609名無しさん@3周年:2005/08/20(土) 11:34:22 ID:zRCT/h/6
>>608
原始経典を読んでも、大乗経典を読んでも、確かに、色の黒い人種と、少なくとも真っ白と言わないまでも、
黒いと言えず、白蓮を例えにするほどの肌の人がいたことは認めなければならない。
 だとすると、やはり、混血が進んだ結果が現状であると言うべきだろうな。
 アリーア人の侵入前は、ドラビダ人がいたわけだろう。彼らが肌の色が黒かったのではないのか?
かのインダス文明の子孫達だ。彼らが、上下水道を整備した都市国家を形成していたと言うのは、
高い文明を築いていた証拠と言わなければならない。
610無宗だ:2005/08/20(土) 12:20:25 ID:jokd8l3Z
【私の理解1】(>>605)
【私の理解2】
>>228にあるように、

中華佛學研究所のサイトの記述によれば、
http://www.chibs.edu.tw/publication/LunCong/023/69-124.htm
(15)其次,i「行」的語根而形成的abhisameti(abhi-sami)
に関しては

・仏教全体で 最高なる証り
を意味する場合もあるし、abhisamaya一語で
・四諦の理論理解
・縁起のあり方などの初歩的な証り
を意味する場合もある。
611?無宗だ:2005/08/20(土) 12:52:48 ID:jokd8l3Z
【私の理解3】
yonisomanasika`ra` ahu pa??a`ya abhisamayo  の解釈に関して、

>>198
そのときわたしには正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった、
『ゴータマ・ブッダ_釈尊の生涯』 <原始仏教1> 中村元選集・第11巻 春秋社 P.173 L6-

>>543
■メモ■中村元訳と中村元監修本の訳の比較。
「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。
そのときわたしには正しい注意と智慧とから 現観(abhisamaya さとり)が起こった、
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。

これと同文の平行箇所が中部第14経にあり、春秋社から中村元監修で出ている。
当然、上記の中村元選集第11巻をより新しい訳になる。訳者は岡野潔。

「いったいなにがあるとき、老いること、死ぬことがあるのか。なにを成立条件(縁)として、
老いること、死ぬことがあるのか」その時比丘らよ、ヴィパッシン求道者が
根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観)があった。
「生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」と。

>>560
paJJAya は「知によって」「知から」「知に」「知の」「知において」のいずれにも取れる

つまり、「ahu + abhisamayo」に関しては、
現観が起こった/さとりが起こった/〔真如を〕まのあたりにすることがあった/現観があった
と翻訳可能である。
612無宗だ:2005/08/20(土) 13:08:59 ID:jokd8l3Z
【疑問】

〔真如を〕まのあたりにすることがあった
は、文脈から解釈して、

生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」という
真理をまのあたりにすることがあった

ということだろう。(真如を真理と書き換えること自体、アウトとか?)
この日本語を次のように書き換えることにどんな不具合があるのか素人の私にわからない。

生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」という
真理がわかった。
-------
真理をまのあたりにした。
もダメなのかな?
613571:2005/08/20(土) 21:29:32 ID:27GmVltv
>585
あのな、パーリ文であれ漢訳であれ、一つの文を読んでどう理解するのか?という議論だろ。
文法的に正しく読んで初めてその内容が議論できる。
おまえはその前提ができてないんだよ。
だから、内容理解もめちゃくちゃ支離滅裂。
きっとおまえの脳みそもくされはててんだろうな。

議論の前提が理解できないのは、>587の言うとおり。
>559-565 はどういうつもりで発言したのかしらんが、>559 の前提が成り立たない以上、無意味。
それも理解できんあんたが何をいっても説得力なし。
614暇人:2005/08/21(日) 00:11:19 ID:NbivhEGC
>>601-602
叩き台代わりにメモノートです。

■無明(avijjA)  
明(智慧)のないこと(水野「原始仏教」p152以下 平川「インド仏教史上」p72以下)
not secretly, openly/not knowing / ignorant(PTS)
unlearned/ unwise/ ignorance/ spiritual ignorance/ illusion (モニエル)
無知(ゴンダ「インド仏教史」p116以下) (松本史朗「仏教への道」p44以下)
(中村元「佛教語大辞典」十二因縁の項、平川)
迷い(渡辺照宏「新釈尊伝」p192以下、大辞典2−当該項目)
存在の根底にある根本的無知、苦をもたらす原因、最も根本的な煩悩、真実を見失っ
た無知。真理にくらいこと。迷いの根源。(大辞典2)
仏教真理に対する無自覚(法蔵館「仏教学辞典」p238以下十二縁起の項)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これらに対して挑戦的で言いたい放題なのが、解釈が宮元啓一「ブッダが考えたこと」
p152以下-尚引用は適時省略あるので、詳細は本をご確認されてください。
「根本的な生存欲。自覚することが不可能と言う意味で根本的な無知。
「無明」を明知(vijjA=智慧)のたんなる欠如を示す「論理的な概念」だとする和辻哲郎
博士をはじめとする人々の見解はゴータマ・ブッダの実存主義的な経験論をまったく
踏まえてないので、誤った訳である。」

615暇人:2005/08/21(日) 00:14:47 ID:NbivhEGC
■行(saNkhAra)
行為及び行為の集積(水野)
語原的には「共に作ること」「共に作るもの」(水野)
身語意の一切の行為及び経験の集積(水野)
one of the most difficult terms in Buddhist metaphysics(PTS)
(仏教の形而上学において最も難解な用語の一つ)
我々の過去の行動が持つ機能的要因。(ゴンダ)
潜在的構成力(ゴンダ)
潜在的形成力(大辞典)
現象(渡辺)
行為及び意志(松本)
形成力。(大辞典2、平川)
saNkhAraは「これによってつくられる」「これがつくられる」という意味。
ここから(1)形成力(2)形成されたものという二義が成立。更にa潜在的形成力。われわ
れの存在を成り立たせること。または成り立っている状態。業を形成する潜勢力。b
意志による形成力。意思作用。意思的形成力。意志(大辞典2)
生活経験(法蔵館)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記憶、それをもとにした意志とか意向。根本的な生存欲があれば、生きるための認識
とか行為に踏み出さなければならない。そうして踏み出す盲目的な心の作用。
原義は「刻み込まれたり蓄えられたりして潜在的にあるものが持つ、将来にものごと
を作っていく力」ということであることを配慮して「潜在余力」とか「(潜在的)形成力」
という訳語を用いる学者もいるが、それでは具体的にそれが何のことがわかりにくい
のがそうした訳語の決定的な欠陥である。(宮元)
616暇人:2005/08/21(日) 00:15:36 ID:NbivhEGC
■識(viNNANa)
認識判断の意識作用か、認識判断の識の主体のとしてのもの(水野)
過去の全経験を裏付けとして、現在の認識判断(水野)
意識。意識に基づく生の原理(ゴンダ)
思いめぐらすこと(渡辺)
認識(松本)
識別作用(大辞典、平川)
認識作用。はたらく心。識別のはたらきをなすもの。認識する心。viNNANaは、
vi(分析・分割)+√jNA(知)の合成語であり、対象を分析し分類して認識する作用。
後世には心(citta)・意(mano)・識(viNNANa)を区別するが初期には区別なく用いら
れていた。(大辞典2)
生命体としての心身の統一。認識において世界が成立(平川)
精神の主体(法蔵館)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「〜は〜である、ない」という形をとる判断作用。この語を識別作用と訳す学者が
  いるが、「識別作用」は、五蘊の中の「想」の訳語にこそふさわしいのであって、
  識の現代訳語としては理解に混乱をもたらすので不適切である(宮元)
617暇人:2005/08/21(日) 00:16:40 ID:m8RRkvYJ
■名色(nAma-rUpa)
認識される精神(名)と物質(色)(水野)  名は精神以外に概念・名目を含む(水野)
名称と形態。(ゴンダ、松本、大辞典、宮元)
経験上の個人存在の精神的構成要因と物質的構成要因(ゴンダ)
姿と物(渡辺)
精神と物質、心身(大辞典)
@古ウパニシャッドでは名称と形態。仏教最古の詩句ではこの意味。
A個人存在の精神面と物質方面。心と肉体。概念と存在。認識の対象、客観。
B心的な名と物質的な色の複合体。個体的存在としての五蘊の全体(大辞典2)
身体と心。物質、外界までを色に含め得る(平川)
認識の対象であるすべての心や物(法蔵館)
対象は形態を持ちかつ名称づけられるからこそ認識・判断が可能になる(宮元)
■六処(saLAyatana)
認識する為の感覚器官(眼耳鼻舌身の五官及び五官機能)と思惟器官と能力(水野)
六つの入り口。六つの心的作用の領域。六つの感覚器官。(ゴンダ)
六種の感覚(渡辺)
六つの感覚機能(松本)
心作用の成立する六つの場、眼耳鼻舌身意(大辞典)
精神活動がそれを通じて起こる六つの領域。対象をとらえる六つの場。(大辞典2)
眼耳鼻舌身意の六つの認識の領域(平川)
眼耳鼻舌身意の六根(法蔵館)
認識を構成する要素の筆頭に置かれる六つの感官(宮元)
618暇人:2005/08/21(日) 00:17:18 ID:m8RRkvYJ
■触(phassa)
感覚知覚器官または能力(六処)と対象(名色)と識体の接触(水野)
対象と感覚器官との接触(ゴンダ)
接触(渡辺、法蔵館)
対象との接触(松本)
感官と対象との接触(大辞典、宮元)
肌触り、手触りなどの感触(大辞典2)
認識における主観と客観の接触。識(主観)と境(客観)と根(感官)の三者の和合(平川)
■受(vedanA)
苦楽などの感受作用(水野)
感覚。感覚作用、触覚(ゴンダ)
感受(渡辺、松本、法蔵館)
感受作用(大辞典、宮元)
意識のうちになんらかの印象を受け入れること。(大辞典2)
対象を受け入れること。苦受・楽受・不苦不楽受(平川)
知覚(宮元)
619暇人:2005/08/21(日) 00:18:17 ID:m8RRkvYJ
■愛(taNhA)
渇愛(水野、ゴンダ、渡辺、平川、宮元)。
盲目的な欲求。苦悩の根本原因は無明だが、直接原因は渇愛(水野)
感性的欲求(ゴンダ)
欲望(松本)
盲目的衝動、妄執、渇きにたとえられるもの(大辞典)
広くは煩悩を意味し、狭くは貪欲と同じ。渇きに似た激しい欲望。満足するまでやまな
い激しい欲望(大辞典2)
あらゆる煩悩の根底にある欲求性・不満属性。迷いの生存の根底にあるもの
渇愛縁起の系列の始源(平川)
求めて飽くない我欲(法蔵館)
ほとんど抑制不可能な盲目的衝動。対象を認識したことから生じる衝動的な欲望(宮元)

■取(upAdAna)
取著。愛憎という盲目的な激情の念から起こる強い取捨選択の行動(水野)
取著。行為を企て、欲望に合った対象へと向かう働き。執着(ゴンダ)
執らわれ(渡辺)
執着(松本、大辞典、宮元)
煩悩の異名の一つ(大辞典2)
生存に執着(平川)
すべてをわがものとして取り込もうとする執着(法蔵館)
620暇人:2005/08/21(日) 00:20:28 ID:y1Asm0cD
■有(bhava)
存在。我々の過去の行為経験の集積された我々の現存在。(水野)
生存(ゴンダ、渡辺、松本、大辞典)。
語義的には「生成」(ゴンダ)
輪廻の生存(平川)
自覚的な人間の生存(法蔵館)
輪廻的な生存(宮元)

■生(jAti)
死の後に来る来世の生あるいは時々刻々に現れるその人の存在の発生(水野)
生まれること(渡辺、大辞典、平川)
出生(松本、大辞典2)
誕生、生まれ変わること。再生すること。輪廻とは再生・再死を延々と繰り返すこと(宮元)

■老死(jarA-maraNA)
老や死それ自体というより、老や死から起こる苦(水野)
老いと死(松本)
無常な姿(大辞典)
人間苦・無常苦(法蔵館)
老いと死。輪廻的生存の内にある限り逃れられない代表的な苦。
621名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 00:25:17 ID:e3Hu14BG
遺伝子も二千年では変わるらしいね
環境に適応して行くのは自然の道理
赤道直下に肌の白い人が住んでて、
北欧などに肌の黒い人が住んでたら、
却ってグロテスク


622暇人:2005/08/21(日) 00:34:42 ID:y1Asm0cD
後、平川彰著作集第一巻p458に「十二縁起り各支の意味」の項があり、
パーリ相応部12の第二経「分別」の各支の説明を紹介されている。
Vibhaïgasuttaü

http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta2/12-Abhisamaya-Samyutta/01-Buddhavaggo-p.html
だと思う。

623暇人:2005/08/21(日) 01:09:37 ID:y1Asm0cD
>生〜老死の問題
元々、老死は『苦』の現実として最初に置かれたのだと思います。
この老死という『苦』をどう解決したらよいのか。
私たちは机上で老死を考えてしまいがちですが、これは具体的な自分の現実だったのだ
と思います。切実な現実の私の生き様の中にある『苦』。この『苦』の自覚からすべてが
はじまるのだと思います。
『苦』が自分の中で問題にならないならば、以下の縁起各支の展開は単なる教養です。

生は、「人生」ではなく「生まれること」というのが一つのポイントですね。
更に輪廻をどう考えるのかという問題があります。非科学的な「再生・再死」概念を
無視し、自分の現実を足元にして思想的に読む立場もありえるでしょうし、
釈尊の時代はどうであったのか、史実に近づこうとする立場もあるでしょう。

A老いや死は、生まれることがあるからある。
B再生生死を繰り返す輪廻的生存があるから老死はある
ここまではわかりやすいのですが次の「有」が難しくなります。
Bですと、現在の生存のあり方が次の生存のあり方の根拠になるということになるのかな。
Aだと、生命活動一般とかを「有」にしたくなりますが、そういう意味ではないのでしょう。
624暇人:2005/08/21(日) 01:10:54 ID:y1Asm0cD
>取、愛、(執着、愛着)を何とかすればいいんだけど、それ自体はどうしようもない

すべてをわがものとして取り込もうとする執着(取)の背後にある「愛」は、
ほとんど抑制不可能な盲目的衝動として想定されていますから、これを制御するのは
難しいのでしょう。
満足をしらぬ飽くなき我欲が私たちの存在の根底にあり、私たちの生存を突き動かしてや
まない。この愛に至り終わる縁起が渇愛縁起ですね。十二縁起より古いかもしれません。
この我欲が制御でき、無常だからなにものも「我がもの」とできないとわかり、そういう
ありざまから開放されたら、『苦』からも自由になるということなのでしょうね。
625 無宗だ:2005/08/21(日) 10:03:47 ID:fea4NF+4
>>620
>■生(jAti)
>死の後に来る来世の生あるいは時々刻々に現れるその人の存在の発生(水野)
非常にそつのない答えですよねw。

ただ、生と死は常に対応すべき概念だと考えます。
「時々刻々に現れるその人の存在の発生」を生と呼ぶのであれば、
「時々刻々に消えるその人の前の存在の消滅」を死と呼ばなければバランスがとれません。
しかし、この場合の死は苦とはなりません。

>>623
> A老いや死は、生まれることがあるからある。
こちらに一票。

>>622 :暇人:2005/08/21(日) 00:34:42 ID:y1Asm0cD
> 後、平川彰著作集第一巻p458に「十二縁起り各支の意味」の項があり、
> パーリ相応部12の第二経「分別」の各支の説明を紹介されている。
たぶんこれが、「仏教の根本聖典」増谷文雄 p77-80
南伝 相応部経典 12,2 分別
漢訳 雑阿含経 12、16
に対応すると思うのですが、有は三界を意味し、
この世という生命が存在できる場があるから、誕生がある
と解します
626無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/21(日) 17:15:16 ID:fea4NF+4
原始仏教でも重視されていた布施は、
大乗仏教では、菩薩が涅槃に至るために実践するべき行である六波羅蜜の筆頭に挙げられています。
布施波羅蜜の
<--
波羅蜜とはサンスクリット語の「パーラミター」の音写で、「波羅蜜多」ともいいます。「完全な」とか「完成する」という意味があり、
「度」「到彼岸(彼岸に到達する)」と意訳されます。
つまり「布施波羅蜜」とは「完全な布施」とか「布施の完成」という意味になるわけです。
-->
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/kokoro/shinjin/fuse_04_2.html

<--
それでは、「完全な布施」「布施の完成」とはいったいどういうものでしょうか。
これについては「三輪清浄」の布施ということがいわれます。
布施を与える人(能施)と受け取る人(所施)、与えるもの(施物)の三つが清らかで、
滞りがあってはいけないということです。

簡単に言えば、「自分があの人にこういうことをしてやったのだ」などというのでは、
布施波羅蜜にはならないということです。当然、現世の御利益であれ、来世の安楽であれ、
見返りを求めるような布施ではありません。
それどころか「涅槃を求める」ことすら執着とされたりします。

与える側も受ける側も、その時その場において布施が必要だから行うのであって、
形の上でも心の中でもごく当たり前に行われるということでしょう。
そこには、一切の「はからい」がないわけです。
-->
(同URL)

知識を教える、教わるというのも、一種の布施だと思いますが、「完全な布施」というのは難しいですね。
布施をして、逆に悪業を積むなどという馬鹿な事態はお互い避けたいものです。
627無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/21(日) 18:39:06 ID:fea4NF+4
http://tetugaku.fc2web.com/butten/samon3.htm
十八 このように、大徳よ、実にプラーナ・カッサパは、
現世における沙門の果報を問われて、非業を説いたのであります。
たとえるならば、大徳よ、マンゴーの果実について質問されたら、
パンの樹の果実について説明し、パンの樹の果実について質問されたら、
マンゴーの果実について説明するようなもので、
このように、大徳よ、実にプラーナ・カッサパは、
現世における沙門の果報を問われて、非業を説いたのであります。
しかし、大徳よ、私には次のような思いが生じてきたのです。
「実に私のような者は、どうして、私の領内に暮らしている沙門や婆羅門に、
不快感を与えて良いのだと思うことができようか」と。
したがって、大徳よ、私は彼の言説に対して、称賛もしないし、また非難もしないで、
私は内心不満を抱きながら、なんの不満の言葉も漏らさず、
平静に彼が説いた教えを聞いて、しかもこれを尊重しないで、座を立って退出したのであります。
-----

質問をして、延々、見当はずれのテーマに関して説いてもらった場合、どうすれば良いのか?
なかなか、悩ましい問題です。

それで終わらず、説いてもらったことに感謝するように要求されたらどうするべきか?
労力と時間を費やして貰ったことに感謝するのが、一番無難な対応ですね。おそらく。
628名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 19:58:20 ID:cBoPvR74
>627
無臭さんも、暇人も、スレッド間弾道弾はやめてちょ。わかりにくくてしょうがない。
文法無視の読みと珍無類の仏教理解の双運はこっちのスレからはじまったんで、
こっちでおながい。

>質問をして、延々、見当はずれのテーマに関して説いてもらった場合、どうすれば良いのか?
>なかなか、悩ましい問題です。
無臭ださんには、申し訳ありませんが、この発言は、ことの本質が理解できていない、ということの
告白以外の何者でもありませんよ。
むしろ暇人の害毒に毒されたということなのでしょうが。
629暇人:2005/08/21(日) 21:41:42 ID:ZZriRl4z
>>627
感謝は大切ですね。
結果はともあれ、無宗ださんを彼の考える正しい所へ導こうと、
彼なりに尽くされたわけですので、その気持ちは尊重してもよいと思います。
「ご説明有難うございます」とだけ述べ、賛意は示さず、批判もしないのが、
いらぬ摩擦で紛糾せずよいのかもしれませんです。

と、率先して紛糾さしている私が言っては興ざめですが汗。

引用先−沙門果経(十六〜十八)の気になった訳語について すこし瑣末訳語を
(春秋社「原始仏典 長部経典T」p65以下と比較します パーリ原文ノーチェック)

奴隷出身者→奴隷出身兵士 軍事探偵→突撃兵 
かつらを編む者→花輪職人 大きな龍のような勇士→大きな象のような勇士

説いて貰ったことに感謝というより、私の感想では
@電車に乗ったら席を気軽に譲ってくれた無邪気な少年いた。
Aその少年が周りの迷惑を顧みず吊革で体操しはじめた
B少年を注意した
Cすると少年は@に触れ忘恩と逆切れした
630名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 22:00:42 ID:I8/9vzya
496 名前: 暇人 投稿日: 2005/08/21(日) 21:40:52 ID:ZZriRl4z
628 :名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 19:58:20 ID:cBoPvR74
>627
無臭さんも、暇人も、スレッド間弾道弾はやめてちょ。わかりにくくてしょうがない。
文法無視の読みと珍無類の仏教理解の双運はこっちのスレからはじまったんで、
こっちでおながい。

>質問をして、延々、見当はずれのテーマに関して説いてもらった場合、どうすれば良いのか?
>なかなか、悩ましい問題です。
無臭ださんには、申し訳ありませんが、この発言は、ことの本質が理解できていない、ということの
告白以外の何者でもありませんよ。
むしろ暇人の害毒に毒されたということなのでしょうが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ ( ^-^)_旦~~
何度繰り返されても 
くだらんイチャモンはこちらに貼る 理解しましょうね
向こうは 具体的な話をする場所です よろしく
497 名前: 暇人 投稿日: 2005/08/21(日) 21:42:21 ID:ZZriRl4z
向こうで私と遊びたいなら 中味のあるレスしてくらはい。

631名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 22:02:22 ID:I8/9vzya
このような発言を確信的な荒し行為として2chでは嫌われている。
実社会でも同じだろう。個人情報保護法の理念も知らない馬鹿だから。
632名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 22:03:47 ID:f8VZ0F7F
>>627
おいおい。よりによってオウムバージョンを引っ張り出すなよ。きしょいよ。
633名無しさん@3周年:2005/08/21(日) 23:33:32 ID:QYE2O4t3
仏教のスレッドは怨念がこもってるな。
神さんの明るさがないからだな。
634暇人:2005/08/21(日) 23:35:50 ID:ZZriRl4z
■各支「老」 パーリ本文/漢訳/パーリ語辞典/平川訳
Katama¤ca bhikkhave, jaràmaraõaü? Yà2 tesaü tesaü sattànaü tamhi tamhi sattanikàye jarà jãraõatà
khaõóiccaü pàliccaü valittacatà àyuno saühàni indriyànaü paripàko, ayaü vuccati jarà.
云何為老。若髮白露頂。皮緩根熟。支弱背僂。垂頭呻吟 短氣前輸。柱杖而行。身體黧K。
四體班駮。闇鈍垂熟。造行艱難羸劣。是名為老。

Katama¤ca(katama いづれか どちらか ca〜と) bhikkhave, 比丘たちよ
Jaràmaraõaü(jarà 老い maraõaü 死) sattànaü 衆生の tamhi(それにおいては)
tesaü(taそれの複数datそれぞれにそれぞの為に,genそれぞれの)  Yà(ところのもの)
sattanikàye(satta 衆生のnikàye ニカーヤ 部類 集まり) jarà(老衰) jãraõatà(老耄-平川)
khaõóiccaü(毀壊)pàliccaü(白髪)valittacatà(皺よっていること) àyuno saühàni(寿命の/減退)
indriyànaü paripàko(知覚能力の/円熟・毀熟) ayaü (これ この)vuccati(言われる) jarà.(老)

平川訳:比丘たちよ。老死とは何ぞや。それぞれの衆生の部類における、それぞれの衆生の
老衰、老耄、敗朽、白髪、皺皮、寿命の減退、初根の老熟、これを老という。
635暇人:2005/08/21(日) 23:37:02 ID:ZZriRl4z
■各支「死」 パーリ本文/漢訳/パーリ語辞典/平川訳
Katama¤ca bhikkhave, maraõaü? tesaü tesaü sattànaü tamhà tamhà sattanikàyà cuti
avanatà bhedo antaradhànaü maccumaraõaü kàlakiriyà khandhànaü bhedo kalebarassa3
nikkhepo jãvitindriyassa upacchedo4. Idaü vuccati maraõaü. Iti aya¤ca jarà ida¤ca
maraõaü, idaü vuccati bhikkhave, jaràmaraõaü.
云何為死。彼彼眾生。彼彼種類沒.遷移.身壞.壽盡.火離.命滅。捨陰時到。是名為死。
Cuti(死没) avanatà(?ava-下方にnamati曲げる・屈する>nam) bhedo(破壊)
Antaradhànaü(滅没、隠没、消えること) maccumaraõaü(死) kàlakiriyà(命終、臨終)
khandhànaü bhedo(蘊の、あつまりの/破壊) kalebarassa3 nikkhepo(死体の/投棄)
jãvitindriyassa upacchedo(?の/断壊、断絶)Idaü(ayaMのnこれ) Iti(かくして)
aya¤ca A ida¤ca B(このAとこのBと)

平川訳:(略)死没、破壊、滅没、死、命終、諸根の破壊、遺骸の遺棄、これが死と言われる。
636暇人:2005/08/21(日) 23:41:06 ID:ZZriRl4z
■各支「生」 パーリ本文/漢訳/パーリ語辞典/平川訳
Katamà ca bhikkhave, jàti? Yà tesaü tesaü sattànaü tamhi tamhi sattanikàye jàti sa¤jàti
okkanti nibbatti abhinibbatti, khandhànaü pàtubhàvo àyatanànaü pañilàbho, ayaü
vuccati bhikkhave, jàti.
云何為生。 若彼彼眾生 彼彼身種類一生。超越和合出生。得陰.得界.得入處.得命根。是名為生
sa¤jàti (出生)okkanti(入胎、出現)nibbatti(発生、生起) abhinibbatti(再生),
khandhànaü pàtubhàvo(諸蘊の/出現) 人間存在を構成する要素=心身の出現
àyatanànaü pañilàbho(諸処、諸入処/獲得), 心作用が起こるための認識の場の獲得

平川訳(略)出生、出産、入胎、再生、諸蘊の顕現、諸処の獲得、これを生という。
637暇人:2005/08/21(日) 23:54:26 ID:ZZriRl4z
■各支「有」 パーリ本文/漢訳/パーリ語辞典/平川訳
Katamo ca bhikkhave, bhavo? Tayome bhikkhave, bhavà: kàmabhavo, råpabhavo,
aråpabhavo. Ayaü vuccati bhikkhave, bhavo.
云何為有。 三有。欲有.色有.無色有。
Tayome(数詞 三)
kAmabhavo(欲有→欲、愛欲、欲念、欲情、欲楽/生存) 自分勝手な生存。本能的な生存
rUpabhavo(色有→色、物質、肉体、形相、容姿、像、相、画、人形)肉体的な生存。即物的な生存
arUpabhavo.(無色有)精神的な生存。 精神的な生存
平川訳(略):これら三有あり。欲有、色有、無色有。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後代の発展した「三界」という視点から「欲有、色有、無色有」を考えますと、
欲有、色有、無色有は、神話的あるいはシステマッテックに分類された机上の概念へと変化し
てしまうのではと危惧します。
私はもっと身近かつ現実的な我々の生き様に引き戻して考え、この箇所は
生存には「本能的な生命活動」「肉体的な生命活動」「精神的な生命活動」があると言っているの
では、ととりあえず考えて見ます。
638無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/22(月) 06:35:45 ID:Qlt2HwG+
ある人が
ある分野には詳しいが、別な分野には疎いということ
あることは簡単に理解できるのに、別なことはなかなか理解できないこと
対応する相手を差別し、冷酷無比に振舞ったり、慈悲深く振舞ったりすること、
あることにはこだわりがあるが、別なことには無頓着なこと
ある権威は認めるが、別な権威は認めないこと
これは良くあること。

あるテーマに関し、非論理的な思考しかできない人が、
別なテーマに関し、論理的な思考展開をするということ
よく考えるとこれはありえないかもしれませんね。

そうすると、
あるテーマに関し論理の通じなかった人に対して、
それを一般化して
あなたは論理の通じない人だと評することは
ものすごく正しいことだったのかもしれないw
639602:2005/08/22(月) 09:38:34 ID:wmMnNoBc
暇人さん凄い。ちょっと読んでみます。
640城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/22(月) 10:01:42 ID:9GT7xCDy
>>638
適材適所ってことですか?
641602:2005/08/22(月) 10:03:06 ID:wmMnNoBc
>>614
■無明(avijjA)  
明(智慧)のないこと(水野「原始仏教」
not secretly, openly/not knowing / ignorant(PTS)
unlearned/ unwise/ ignorance/ spiritual ignorance/ illusion (モニエル)

存在の根底にある根本的無知、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「根本的な生存欲。自覚することが不可能と言う意味で根本的な無知。
............
............
私の理論は(私のものをここで開陳しても仕方が無いんだけど)

無明=この世に〜を求める心;〜=五蘊とその対象物

現代人にはとても分かりやすくて、五蘊とその対象は、素粒子とエネルギー
にしか過ぎない。決して、甘美な華やかなものではない。そこに何物かを
求めたところで、悲しくて苦しいだけ。
「五蘊皆空」と知れ。
その時、心は「心無けいげ」となる。(般若心経、けいげの漢字が?)
五蘊は色、受、想、行、識だけど、「心」は受、想、行、識とは別もの
みたいですね。


642机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/22(月) 10:13:20 ID:ByXnQ78p
ROM記念
>>637
>欲有、色有、無色有は、神話的あるいはシステマッテックに分類された机上の概念へと変化し
>てしまうのではと危惧します。

同意です。
(ここのとこは非常に大事)
>生存には「本能的な生命活動」「肉体的な生命活動」「精神的な生命活動」があると言っているの
>では、ととりあえず考えて見ます。

まぁ、分類すればそういうことなんでしょうけど。
私は、あまり分類し過ぎるかとおもいます。
生命活動に、本能も肉体も精神も全て意が含まれる。




643城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/22(月) 10:17:21 ID:9GT7xCDy
正直な話、難かしくてわからない。
644机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/22(月) 10:22:17 ID:ByXnQ78p
>>643
>正直な話、難かしくてわからない。

いやいや、なかなかいいことが書いてありますよ。

無宗ださんも、最近急にいい書き込みをするようになった。
以前の書き込みからすると段違い。
645城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/22(月) 10:26:19 ID:9GT7xCDy
>>644
ど、努力します
646机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/22(月) 10:39:35 ID:ByXnQ78p
>>645
そうですか?

電波氏一族は、暇人氏が指摘したとおり【机上の概念へと変化】しちゃってるとこが問題なのです。
よくぞ暇人氏は見抜きなさった。

なかなか、こういうとこは凡人には見抜けないのです。
647602:2005/08/22(月) 10:48:16 ID:wmMnNoBc
城跡さん、

ど、どれが難しいんでしょうか? >>641 ですか? もしそうなら、

もう一度書き直しますけど。
648城跡 ◆kWe8Iv03RI :2005/08/22(月) 10:50:27 ID:9GT7xCDy
>>647
俺がバカなだけなんでお気にせずに…
649名無しさん@3周年:2005/08/22(月) 10:55:36 ID:FkiaGqHw
>>637
>後代の発展した「三界」という視点から「欲有、色有、無色有」を考えますと、

これって何を示す?「三界」の概念自体は阿含経に頻出している。
この主張を言うのであれば、

・古くから有る「三界」についての説明
・後代の発展した「三界」の説明
・上記両者の違い

を述べる必要が有るのではないか。通常、「三有」とは「三界」におけるそれぞれの存在の
あり方(中村『仏教語大辞典』P.455)と解される。上記事典P.457の解説で三界の概念は後
代の発展したものと誤認してしまう人がいるのかもしれない。

原始仏典とされる中に古層を求めるのなら、三界の成立は後代ともいえる。しかし、三有は
三界を前提としている限り(三有は三界より先に成立した概念ではない)、あんたの論点は
定まらない。三有が三界よりも先に成立していることを論証する必要が有る。
650机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/22(月) 11:00:33 ID:ByXnQ78p
なかなか、いい流れになってきましたね。
論客も揃ってるようだし。

  
   良スレの悪寒
651602:2005/08/22(月) 12:19:35 ID:wmMnNoBc
なるほど、生の要因として、三つの有を考えると良く分かりますよね。

欲貪(本能的な欲望)、
色貪(物質への欲望)、
無色貪(精神世界への欲望)、

三有、三界の話が出ていたけど、(別物ではなく)有の集合体が界なのでは?

(お相撲さんと土俵ではなく、お相撲さんの集合がお相撲さん界)
652無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/22(月) 12:47:22 ID:ykTDf/Lg
>>641 :602:2005/08/22(月) 10:03:06 ID:wmMnNoBc
> 五蘊は色、受、想、行、識だけど、「心」は受、想、行、識とは別ものみたいですね。

関係あるかどうか、わかりませんが、
インド哲学における、心身と自己との関係に関しては、

http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/attan.html
自己と世界----インド哲学の視点より

が面白いです。
653602:2005/08/22(月) 13:27:50 ID:wmMnNoBc
>>652 サイトから引用します。

>ヤージュニャヴァルキヤからほぼ一世紀ほど後に現れた仏教の
>開祖ゴータマ・ブッダは、五蘊非我説(無我説ではない)を主張した。
>これは、平易にいえば、「心身のいずれも自己ではない」として、
>自己と心身とを峻別しなければならないという主張である。

(般若心経から)
五蘊は皆空なりと知って、苦しみや恐れから逃れ、安堵し、
(以無所得故)空の中には得る所無しと、般若ハラミタの智慧を得て、
心は無けいげ、無けいげなるが故に、無有恐怖、遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃する。

そういう「心」は空でもなく、五蘊自体でもない、のかな。ということですね。
654602:2005/08/22(月) 13:31:26 ID:wmMnNoBc
「心身のいずれも自己ではない」として、

↑この表現は誤解を生じやすいけど

↓こう直して

「脳(神経系統も)も身体もいずれも自己でない」として、

「心身は不二なるか」の命題の場合は、脳(神経系)は身に含まれていますものね。
655名無しさん@3周年:2005/08/22(月) 18:00:22 ID:S8HiY3FA
阿含経は、生まれ変わらない為の技術書です。
656暇人:2005/08/22(月) 23:05:57 ID:g+4iAIT7
>>649
頓珍漢な難癖は止めて欲しいものだが。。。
@ 他人の書き込み(A)を自分の読み(B)と誤読し、(B)の理由を説明しろと言われても汗
A 自分の情報を絶対化する癖をやめろ。見苦しい。

これって何を示す?←これは何を意味するのでしょうか?とキチンと尋ねさい。
「三界」の概念自体は阿含経に頻出している。←倶舎論と比較するとわずかだぞ。
(しかも雑阿含をあげれば、「欲界と色界と無色界。」の三界とは限らん)
雑阿含461経「三界あり。謂ゆる欲界と色界と無色界。」
雑阿含462経「三界あり。色界と無色界と滅界。」
雑阿含463経「云何三。謂從欲界出至色界 色界出至無色界。一切諸行。一切思想滅界」
雑阿含613経「三界は欲界と恚界と害界」
雑阿含715経「三界あり。謂斷界・無欲界・滅界。」
657暇人:2005/08/22(月) 23:06:31 ID:g+4iAIT7
>三有は 三界を前提としている
それはどの<パーリ・阿含経典>のテキストを根拠にした見解だね。
当該テーマの<縁起「有」支の「三有」>が三界を前提していると具体的に明瞭な
<パーリ・阿含経典のテキスト>を出してくだされ。
簡単に言うと「三有とは三界に生存することだ。」とする原テキストね。

>三有が三界よりも先に成立していることを論証する必要が有る
キミがこう考えたのは<後代の発展した「三界」という視点>という発言を
<三界は三有より後代に成立した>と読み間違ったからできる発言だな。
1古くから有る「三界」−阿含のまだ発展してない三界
2三有
3後代の発展した「三界」の説明−倶舎論や大乗の発展した「三界」

つまり、古い三界。新しい三界を想定しいても「後代の発展した「三界」という視点」
から「三有」をみるのは止めようと書けるのだ
658暇人:2005/08/22(月) 23:11:15 ID:g+4iAIT7
古い三界は、上記の雑阿含の他に、水野「原始仏教」p77あたりの記述も参考に。
私は現テキストからは以下の根拠を未確認かつ水野さんの記述を支持しないが、
アホダラ君などは、この辺を独自解釈の上拡大解釈した見解に立たれている。
・ウパニシャドの三道−第三道(地獄、畜生の世界)・祖道(人界)・天道(天界)
・一応、釈尊も三界を語る。精神上の世界 
欲界(感官の要求の多い場合)
色界(初禅から四禅の状態)
無色界(静寂な精神統一の状態)
・部派時代の生物の生存する具体的世界としての三界
ちなみに大乗の三界説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C

さて私の論点は「神話的あるいはシステマッテックに分類された机上の概念」
六欲天とか浄居天などの神話的記述を組織だって説明する「三界」を
後代の発展した「三界」という視点と書いているのですね。
「三有」にはこういう発展はない。
659暇人:2005/08/22(月) 23:24:56 ID:g+4iAIT7
>>646
>こういうとこは凡人には見抜けないのです

いや私は凡人です。頭のてっぺんからつま先まで。
焼き鳥屋で うだうだ言っているそこいろのエロ親父のひとりです。
それと私には禅はわかりません。

電波男さんもですね、「キミはそう考えるんだ。」
「私はここをこのように読むけどね」と書くなら さほどおかしくないの
ですが、「こう読まん奴は馬鹿だぁー」みたいに一つの解釈を絶対化
しすぎ。それと学問の現場を離れて久しいのでしょう、
その絶対化の依拠論文は20年前のが多いし、記憶違いもしばしば。

まあご怪我とのこと ゆっくりと療養されて英気を養われてほしいですね
660暇人:2005/08/22(月) 23:45:40 ID:g+4iAIT7
■スレッド14の分立に関して■

私は本家争いをする気ありません。
このスレッドを消費した後は、
原始仏教スレッドはアホダラ君らが本家を自認されてますのでお任せし、
こちらは、こちらでせっかくの流れがでてきましたので、
素人同士で、まったりと原始仏教を考える新スレッドを立ち上げては
どうだろうかと思います。
色々ご意見あるかもですが、同じスレッドが分立しているのは
初心の人やかつて遊んだ人たちに不親切ではないかと。

私の不徳ゆえ、新スレッドにも 私を目的とした荒らし諸氏が
来られるかもですが、そのへんはお許し頂き、
楽しく じっくり まったり 原始仏教をそれぞれが それぞれの立場で
研鑽できるスレッドにできたらと思います。
有縁の方々 どうぞ よろしくです。

案@■初心者のための原始仏教■
案A■原始仏教談話室■
案B■原始仏教を語ろう■
教える人-教わる人の固定関係ではなく、知識の多寡を問わず、
同じ立場で、ある時は教わり、ある時は自分の知識が他人を触発し、
それぞれがそれぞれの意見・感想を述べ合う
というのはいかがでしょうか。
など。よろしくー
661暇人:2005/08/23(火) 00:31:45 ID:0w5V56P+
私訳:比丘たちよ。老死とはどんな状態だろうか。
一人一人の人生において、一人一人が、老い衰え、耄碌し、身体のあちこちにガタが来て、
髪は白くなり、皺がより、寿命は残り僅か、視力は衰え、耳は遠くなり、嗅覚も味覚も、肌感覚さえも鈍くなり、心の敏感すら失う、こういう状態が『老』といわれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・
悟っても『老いること』自体を克服できるわけではありません。
釈尊も老い衰え、亡くなられたわけです。
『老い』は即物的には克服できないのに、還滅門が語られるのは、
『老い』そのものではなく、『老いることを苦と感じること』が克服されるのかもですね。
髪が白くなれば、見た目の若さを取り戻すべくヘアカラーで黒く染め、
皺やシミができれば美肌に日々勤しみ、などなど涙ぐましいアンチエイジングが
行われています。それ自体に害はありませんし 悪いことではないですが、
『老いること』を嫌い、避け、逃げても『老い』はゆっくり着実に私たちを
包み込みます。そのあるがままの『老い』と向き合い、『老いの事実』をあるがままに
生きる。そういうのが悟りなのかもですね。
662素人:2005/08/23(火) 00:58:22 ID:jmIdjnQg
「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」なき翻訳は危険すぎる!
100歩譲って、先達の訳出をベースにするとしても、(私訳と断ってはいるものの)、
貴方の望む「素人・一般人・初学者(≒現代人?)の為の訳文を・・」と言うなら
「当時の風土・文化的背景・社会通念etc.への謙虚な眼差し」と、
「現代社会との類似・相違」「現在流通している言葉」への配慮なくしてはありえないでしょう。
また同時に、現在はこの訳(考え方)が主流であるとの併記が必要かと思う。
私的なサークル(例えば、小説家の作品に対してあれこれ感想を言い合うような)、
或いは一寺院の住職が檀家さんのために行うもの等小さなものとしてなら良いでしょうが・・・。
( それでもトンデモは困りますがね・・・(^^;)   けど、やはり主流の提示は必要か・・・w)

別に電波氏始めスレに参加している専門家を意識しての発言ではなく、
学部生ながら仏典に触れたものとして一言レスしておきます。
663暇人:2005/08/23(火) 01:39:43 ID:0w5V56P+
>>662

うむぅ。キミがそう感じたならば キミがまず範を示し、
当該部分の主流の訳を 提示してくれたまえ。

言っている内容は立派だと思う。
ただ 文句だけで 中味がない あなたの訳見本がない。

それと主流の訳かどうかはしらんが 平川訳は出した上での私訳だな。

「当時の風土・文化的背景・社会通念etc.への謙虚な眼差し」←これの見本みたいですね

あなたがこれを踏まえた訳の見本を具体的に見せて 範を示し下さい。
664無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/23(火) 08:58:49 ID:ynIzIMav
>>660 :暇人:2005/08/22(月) 23:45:40 ID:g+4iAIT7
> 私の不徳ゆえ、新スレッドにも 私を目的とした荒らし諸氏が
> 来られるかもですが、

自分が理解力に優れていること誇示したくて
■(1)私が説明しても、あんたには理解できないと思う。
などという、お馬鹿な表現をする輩にはご遠慮願いたいですね.

■(2)あんたに理解できるように、私は説明できないと思う。
という己の無能力の告白でしかないのだから。

こういう場合は、やはりストレートに
■(3)俺の貴重な労力と時間を費やしてまで教えてやる価値はお前にはない!!
という主観バリバリの素直な表現をしてもらいたいものです。

そうすれば、人に嫌がられることに自分の時間を費やすこともなくなり、
自分にとって価値のあることに自分の時間を費やされるようになることでしょう。
665。。。:2005/08/23(火) 09:45:51 ID:QwwlgATl
>>661 老死を超えるとは、老死の反復を乗り越える、もはや老死を繰り返さない、
という意味ではないですか。
666。。。:2005/08/23(火) 09:47:42 ID:QwwlgATl
>>661 それと現世や来世や己の(己のとも思わないわけだけど)肉体に
対する執着を断つこと。手や足や顔や髪の毛がどうして「己」であろうか。
667。。。:2005/08/23(火) 09:50:29 ID:QwwlgATl
そういえば、原始仏教スレッドって二つありますね。
私など、多種スレッドのほうが嬉しいですけど。
668無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/23(火) 12:35:52 ID:ynIzIMav
>>665 :。。。:2005/08/23(火) 09:45:51 ID:QwwlgATl
> >>661 老死を超えるとは、老死の反復を乗り越える、もはや老死を繰り返さない、
> という意味ではないですか。

もし、「かさぶた」が自意識を持っていたとすれば、
まだ、傷口が完全に治っていない時に剥がされ、ふたたび「かさぶた」ができるのを
輪廻転生と考えるのだろうか?

傷口が完全になおり、「かさぶた」が自然にはがれることが、解脱だろうか?
669。。。:2005/08/23(火) 13:02:40 ID:QwwlgATl
カサブタは自意識を持っていないと思う。

輪廻するのは「自意識」。

その「自意識」が「もう二度と肉体を持たない」と決めれば、その「自意識」
は老死を乗り越えたことになる。

正確には、肉体を持たずに、天に生まれたとしても、その天人の自意識は
衰微し死に至る。天の死は人の死より何十倍も苦しいという。
肉体を持たず、天に生まれることをも望まず(涅槃を得れば)、
老死を免れたと言うことができる。

もはや生を望まなければ死もそれほどのことでもなく、
最後の生死も乗り越えたといっても良いほどなのかもしれない。
670名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 13:32:06 ID:CBFzFqsG
>>669
それはカルト思想そのもの。
自意識は肉体が無いと生じないのでまったくのナンセンス。
671(*):2005/08/23(火) 17:07:17 ID:W3jMSNK+
討論を通じて、比丘たちよ、その人が、
ともに語るにふさわしいのかそうでないのかが知らるべきことである。

比丘たちよ、もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、
不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにするならば、このようである人は、
比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

比丘たちよ、もしある人が質問されて、矛盾して答えることなく、他の方に話題をそらすこともせず、
不機嫌になったり敵意を示したり不信をあらわにすることもないならば、このようである人は、
比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。
『アングッタラ・ニカーヤ』3.67.4 石飛道子訳

だから私は、暇人さんや無宗ださんと語りたいと思う。
暇人さんや無宗ださんも以上の釈尊の言葉に従った方がいいと思う。
672(*):2005/08/23(火) 17:07:53 ID:W3jMSNK+
>>355
片山先生の訳は優れているという印象を持ちました。
優れたテキストビルマ第六結集版に基づき、丁寧に註、複註を参照した固い仕事ですね。

逆に岡野訳は、疑問が残りました。〔真如を〕は訳者の補註なのですが、
何を根拠に真如と補ったのか、それが明示されていません。
ここで真如と補うと意味がまったく違ってしまうので、その根拠がはっきりしない内は私は採りません。

>>390 立川さん、そういうところ偉いと思います。見習って欲しいものですね。

ちなみに我々の語法は、エルドスの定義:
2ALused by a writer or speaker to include themselves and their readers or listeners:
As we saw in Chapter 4, slavery was not the only cause of the Civil War.

こんなこと論文を読む人はだれでも知ってることです。いや、驚きました(笑い)
673(*):2005/08/23(火) 17:08:49 ID:W3jMSNK+
>>568 >>610-612
暇人さんや無宗ださん、yonisomanasikArA ahu paJJAya abhisamayo についてまとめに入りたいと思います。
abhisamayoは、片山先生も「了解しました」と訳しているように「わかった」でまったく問題ないでしょう。

ビクらよ! それ(苦と老死の出離についての思索)ゆえ私はこう考えた。
「何があるから、老死があるのか?何に縁って老死があるのか?」と。
ビクらよ! それ(老死の縁についての思索)ゆえ私に正しい思索から知の符合(ひらめき)が起きた。
「生があれば老死がある、生に縁って老死がある」と。

上を石飛さんの論理式に書き換えると A * B, B*C となるでしょう。
A: 苦と老死の出離についての思索
B: 老死の縁についての思索
C: 老死の縁は死だという直感

苦と老死の出離についての思索中に「老死の縁が生である」という直感がひらめいたということでしょう。

我々はpaJJAya を属格と考えます。ですから「知の符合」となるわけです。
そして属格は「 A に属する B」を意味し「B∈A BはA の要素である」となるわけです。
複註であるMahAvaggaTIkAが《この慧が生起し》と解釈するのは、この属格と取っていると
考える以外ないからです。他の訳では方法や理由、起源を示す具格や奪格と読んでいます。
ですが、それではこの註とは矛盾するはずです。つまり具格や奪格では《この慧が生起し》とはならず、
「慧から符合」あるいは「慧によって符合」が生起しとならなければならないからです。
つまり《この慧が生起し》とは解釈できない。ところが属格なら可能です。
「慧の符合が生起し」なら《この慧が生起し》と解釈できることは分かるでしょう。
雜阿含經の「起無間等知」もまったく以上を支持しているでしょう。
無間等は、abhisamaya を「すきまなく一致すること」と考えているようです。
これは「腑に落ちる」「はまる」とかに近い語感ではないでしょうか。
674(*):2005/08/23(火) 17:15:09 ID:W3jMSNK+
paJJAya が後代の「般若」の意味でなく「直感」や「分かること」「知ること」を意味しているように、
abhisamaya も後代の現観や mngon par rtogs pa(はっきり分かること)より、
「符合」「腑に落ちること」という語感で使われていたようです。
まあ、どちらにしてもあんまり変わらないと思いますが。

『瑜伽論索引』によりますと mngon par rtogs paのに対応する漢訳は、
現観、通達、以外にも覺、極思察などもあるようです。

また、この部分についても石飛先生が論じているんですよ。そちらを話題にした方が実りが多いと思います。

参考までに:
現観というのも慧である。それはその行相を現観する。
しかし無明が生じるとそれを現観させないから、「無現観」である。(浪速宣明『分別論註』268)
675(*):2005/08/23(火) 17:17:30 ID:W3jMSNK+
>>389 tathAgataについては、完全に釈尊以前に解脱者の意味で用いられていたことが、
水野先生以前に論証されています。なぜtathAgataの意味が如来か衆生かが問題になるかといえば、
衆生であれば一般的な死後の問題について釈尊は答えられなかったとして輪廻・来世否定の論拠になるからです。

それよりもですね、例えば『岩波仏教辞典』1989で、

   14の形而上学的質問を受け, 論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかったことをいう。

と言われるように釈尊が形而上学については黙して語らなかったと言われますが、
石飛先生によると無記とは「それは私が語らなかったこと」と釈尊が明言することだと指摘されるのです。
これはどういうことかというと「一切智者である私はそう言わない」ということだと思います。

つまり「私の教えではない」=道ではないと言っている訳です。これは沈黙とは違うでしょう。
しかも、相手の主張内容・思想体系を理解した上での発言であることに注意してください。
それ以上は、私がヘタに解説するより石飛先生の本を読んでみてください。
676(*):2005/08/23(火) 17:18:36 ID:W3jMSNK+
>>614
その和辻無明説は、彼の輪廻説と並んで無理な珍説であることはほとんど周知なんです。
ただ、東大系ではそれを公にいうことができなかった。なぜなら師説を否定することになるから。

それを初めて否定したのが有名な梅原猛です。学術的に否定したのは津田真一先生の『反密教学』
いまだに山口瑞鳳、松本史朗、袴谷憲昭などは和辻無明説・輪廻説を支持する珍しい存在です。

以下がまっとうな学者の常識的見解でしょう。
http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/literature/shimoda/sairoku.html

また、宮元啓一氏は、現代の和辻的存在だと思います。明敏だが根本的に外すことがあると。
だから、私はあんまり信用していない。
677(*):2005/08/23(火) 17:27:34 ID:W3jMSNK+
>>660 私は石飛道子、ブッダ論理学を中心にすることを強く希望します。
もう、この本を問題としない原始仏教思想研究は愚かとしか思えません。
678ガイシュツだが:2005/08/23(火) 18:40:53 ID:5iynwz2Y
679名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 18:53:39 ID:goU1VDpk
>672
「我々」のそんな用法は論文書きならだれでも知っているけれど、最近使う人は少ないね。
だから「我々」をよく使う増谷文雄の論文を読むと逆に違和感を感じる。

誰の主張かを曖昧にする利用法もあるわけで、それを自覚していないとは哀れなこってすな。
680机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/23(火) 19:03:15 ID:Sz9/imCX
>>662までロムしました。
貴殿は学部生ですか。なるほど。
では、私が一歩突っ込んだ書き込みをします。
>「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」なき翻訳は危険すぎる!

翻訳を忠実にしましてもですね、原典というのはそもそもが「言語」ですから、
言語そのもの意を追求しましても、仏教の本髄には到らんのです。
そのことも一応は頭の中に入れておかねばならんです。

例えば
「無」という表記ひとつでも、いろいろな解釈ができる。
ようは、言語そのものの意味よりは、どう自分において解釈するか。
ってことが大事かとおもいます。

貴殿は承知かとおもいますが、無というのは一般社会が共通としている認識概念とは意味が違います。
つまり無とは、仏教全てを語るくらいな意味を有している。
言語ひとつにおいて、こと足りるわけです。
また、
無を説明するには、莫大な言語を必要とする。
これも事実です。

@、その他の貴殿の書き込みは、まあそういうことなんでしょうけどね・・・。
681無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/23(火) 19:52:06 ID:ynIzIMav
>>673
最初、持ち上げといて、
あとから、手のひらを返したように罵られるのは嫌なので、
最初から、気に触ることを書くねw

>>673
> 我々はpaJJAya を属格と考えます。

この「我々」の使い方は変。
連名の論文であれば、こういう表現でいいと思いますけど。


「我々」を使うとすれば、たとえば、こんな感じになるのではないでしょうか?

以上の考察より、paJJAya を属格以外と考えるのは無理があることがわかります。
したがって、我々はpaJJAya を属格と考えざるを得ません。

とか、

私は石飛道子、ブッダ論理学を中心にすることを強く希望します。
そうすれば、
もう、この本を問題としない原始仏教思想研究は愚かとしか思えないように
我々はなるでしょう。

とか。
682名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 20:03:18 ID:heMky7Hz
また馬鹿がくだらんことをやっとる 大藁
683名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 20:37:03 ID:CBFzFqsG
「石飛道子、ブッダ論理学」読んだけど、あれは外してるね。
684名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 21:37:08 ID:yNnzxYNw
>>670
それは世俗の常識では?
「識あるが故に、名色あり」
世俗の常識とは逆に、意識があるが故に心身があると縁起の法では説かれる。
685(*):2005/08/23(火) 21:46:44 ID:W3jMSNK+
>>681 たしかに私自身も最初は抵抗ありましたから、一般的語法ではないでしょう。
連名の論文等で著者が複数なのではなく、著者と読者を含めた人称なんです。
私は客観的なことを書く場合にいいたくなるクセがあります。
では、今回から私と書くようにしましょう。

>>684 私もそう思います。ここで流行ってる断見仏教者は、そうとる人が多いんで困ってます。
686名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 22:07:39 ID:goU1VDpk
>685
>ここで流行ってる断見仏教者は、そうとる人が多いんで困ってます。
具体的に誰のどの考えに「断見仏教者」というレッテルをつけておられのでしょうか?
別スレも含め原始仏教スレで輪廻の否定を主張するのは電波氏が中心となると思いますが、
彼の考えと彼の阿含経典理解が断見であるとは思えませんが。

併せてあなたの見解もお教えください。

なお、私は輪廻説に関しては彼とほぼ同意見なので、役不足かもしれませんが場合によってはお相手いたしましょう。
687(*):2005/08/23(火) 22:31:17 ID:W3jMSNK+
いえ、お相手してくれなくていいですよ。
同じことやっても面白くないし、話す気のない人と話してもしょうがないですし。
来世を認めない見解は断見でしょう。いいかげん和辻みたいな珍説に従うのはやめたほうがいいですよ。

本体もオカ板に出現してるようですし。

>「我々」のそんな用法は論文書きならだれでも知っているけれど

>ついでに我々って誰のこと?頭だいじょうぶかい?

という知らない人がいるから書いたのです。いずれにしろ分裂者も含む電波にはコメントしませんよ。
釈尊に従いますので。ということでさようなら
688名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 22:40:14 ID:goU1VDpk
>687
来世を認めないのを断見者と断定するあなたの理解がおかしいのですよ。
来世を認めてしまえば常見に墮します。

それと、宮元はおそらく自分が取り扱ったテキストを読めていないとおもいますので、
彼に対する評価は私も×です。
しかし、和辻の見解のどこがおかしいのでしょうか?もちろん、70年も前の人ですから、
取り扱う資料など、制約があるという欠点は否定できません。
しかし、論理的にテキストが読みこめている(自分の情念で読みを濁さない)という
点では、おそらく彼以降の仏教学者で匹敵する人はだれもいないでしょう。
また、文献学という方法の限界を理解した上でその方法を取っている仏教学者は
現代では殆どいません。その点でも学的に信頼しうる業績であると考えています。
689名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 23:17:40 ID:CBFzFqsG
>>684
>それは世俗の常識では?
>「識あるが故に、名色あり」
>世俗の常識とは逆に、意識があるが故に心身があると縁起の法では説かれる。

そこで言われている識は自意識とは違う。
識に対する無明が自意識ともいえる。

>「無明」を明知(vijjA=智慧)のたんなる欠如を示す「論理的な概念」だとする和辻哲郎
>博士をはじめとする人々の見解

これはこれで↑トンデモだと思うけどね。
690(*):2005/08/23(火) 23:46:35 ID:W3jMSNK+
>688 電波はいつもそういうんだが、一体、そんな説、経典のどこに書いてあるんだね。
その説は、和辻起源の詭弁だろう。我がなければ輪廻しないから来世は無我説と矛盾するといった。
それだったら現在、我々も我がなければ存在しないから、我々は生存してないとなってしまうだろう。
あるいは、我々はこうしてはっきりと存在しているから無我説は誤謬ということになるかのどちらかだろう。
逆に無我・空だからこそ輪廻すると、さらに一切法が成立すると龍樹はいうのだか、なんで分からないかな。

和辻無明説は木村先生に対する「情念」、
彼の輪廻説も仏教から輪廻を排除したいという「情念」にしか読めないけどね。
>689 氏もトンデモって言ってるよ。

宮元氏は、サンスクリットの読みに関しては正に一流で、私なぞ窺い知れないと思うが、
ましてや cikIrSayeH の文法解説といった初等文法もできない人が、何をいってるんだか?
そういう自分の実力を知らないで自分を過大評価するところが電波の電波たるゆえん。

もう勘弁してよ。あなたはアホダラさんと話してればいいじゃない。
691名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 23:56:25 ID:goU1VDpk
>690
cikIrSayeH の文法解説?いきなり説明せよとわめき散らしたのはあんたか。
はたで見てて非常に不快だったのだが、それで辻文法君とバカにされてたのか。
あれはあんた以外の誰も説明する必要はないぞ。
692素人 1/4:2005/08/24(水) 00:13:26 ID:WyJFgczq
書き方がまずかったですね。16・7年前の学部生ですよw
今は、葬式仏教(バラモン教)業界禅宗の副住(^^;)
ちなみに>>355も私です。
さて・・
軽率な書き込みをしたなぁと、今日一日反省していた。
おとなしくROMしとけばいいものをと。


>>662は、当時感じていた(そして今も思っている)理想論です。
お釈迦さんの行履を辿りたかったですが、調べものの膨大な量と範囲に圧倒され、
在学後半週の3/4はバイトに費やし往復4時間かけての通学にも疲れ、
卒後の進路(掛搭)のこととか種々あってあっけなく挫折 orz
ですから、私に訳出は不可能です。少なくとも前記の理想に近い形での訳は無理でしょう。

ただ、この世界に触れたものとして、時折いっちょかみしたくなってしまうこともあり、
気分を害された方には御詫び申し上げます。
一行目の言い方は失礼でしたね、文句ととられてもしかたがない。ごめんなさい。

以下、662の言い訳等を少し記して、去りたいと思います。
>「素人・一般人・初学者(≒現代人?)の為の訳文を・・」 は、
  解り易いということ(≒現代口語であるということ)
  どうしても外せない言い回しの術語でなければなるべく置き換える(ただし、註をしっかりしたものとする)
 ということをしても構わないだろうと思っている。
 この点に関しては暇人さんのスタンスや視点には共感する部分が多い。
 ただしそれは、以下三点をかなりの程度で抑えなければならないだろうと・・。
 特に、当時のインドにしかないであろう通俗概念・生活用語等をどう訳すか?と言った場合に。
>「当時の風土・文化的背景・社会通念etc.への謙虚な眼差し」
>「現代社会との類似・相違」
>「現在流通している言葉」
693素人 2/4:2005/08/24(水) 00:14:41 ID:WyJFgczq
>また同時に、現在はこの訳(考え方)が主流であるとの併記が必要かと思う。
 これは、註がしっかりしていれば、まえがき・あとがきや解題の形で弁明する形でも構わないかも。

順序が逆になったが最後に、
>「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」
ここが最も重要で、最も複雑で、最も気付き難く、最も見失いがちな点であろうと思う。
 採りうるスタンスが幾つもあるということをまず理解しなければならない。
   対象が仏教全般である場合
   対象が総じての仏菩薩である場合
   対象が釈尊である場合
   対象が聖典である場合
   対象がある集団である場合
   対象が一僧侶である場合
    (下二つは洒落ですがw)

 そしてそれぞれで、(直線で表すことが適切か判らないが)

(一言一句を絶対視)
   絶対至上                完全中立              完全批判・非難
     @      A       B     C     D       E      F
     ┣━━━━╋━━━━━╋━━━╋━━━╋━━━━━╋━━━━┫
   盲信                                          不遜
                    信仰の度合い

 のどこに自分が(相手が)腰を据えているのか?(≒どの集団に属しているのか?)
 という見究めが必要であろう。
 属する集団・立場・人間関係によっては発言に制限が加わることもあるだろう。
 そしてさらにそこに、自分の現代的価値観(例えば死後について)との整合性をどうするか?
 という問題も生じてくる。
694素人 3/4:2005/08/24(水) 00:15:14 ID:WyJFgczq
純粋に学問的に聖典に触れるならばCでもDでも構わないし、
現代的価値観によって切り捨てる(或いは換骨奪胎する)部分が多くてもいいでしょう。
仏教を批判するならFでも構わない。
(電波さんはまだ僧籍をお持ちだそうですがw)一匹狼の電波さん阿呆陀羅さんは
BとCの間くらいでしょうか?或いはD?  暇人さんは完璧Cですねw
現代上座部はおそらく@〜Aでしょう。というか伝統仏教を自認するならばそうでなければならない。
そうでなければ黄衣を着る資格はない。(律の問題や学問研究としてはまた別であろうが・・)

あ〜、打っててめんどくさくなってきた。

番号がずれていればずれているほど、議論が成立しにくい。
少なくとも互いの番号を認め合えなければ・・・。


電波さんが修羅なのは解る。が、他の人も含め、なぜこんなにも喧嘩腰なのか?
暇人さんもレスの仕方に傲慢さが垣間見える。
過去スレに目を通したが、読み易かった。半分以上煽り合いだったので、意外に早く追いついた。

自分は、電波氏へ敬意を表しても表しきれない。自分があきらめた世界をしっかりやれているから・・。
その他の書き込んでる幾人かの方達にも頭が上がらない。
でも、それぞれに頷けない点・意見の相違があることもまた事実ではある。
(自分にも多少の自負はある。電波マンセーでは決してない。)
しかしながら、議論をするにはあまりにも自分の技術と知識は拙すぎる。せいぜい質問止まりだろう。
もしかしたら、保管庫の関連スレも覗き終ったのち、まとめて質問をぶつけることもあるかもしれない・・・・。
或いはその頃にはもう2chやめてるかもしれない。
極限られたお気に入りスレのみにしかアクセスしなくなってるかもしれない・・・。
或いは、心を入れ替えて猛勉強して・・・
 んなこたぁ無いなw
695素人 4/4:2005/08/24(水) 00:19:30 ID:WyJFgczq
>>662では「原典への信仰と批判のバランスを保ちつつの吟味」と
一行にまとめてしまったが、こうした
自身の信仰の対象・信仰の程度・自身の属する世界・自身の拠って立つスタンス・自身の信念・
2500年というスパンの重さ(→どこまで回帰するのか・現代との相違をどう受け止め処理するか)・
どのように聖典を(訳を)利用するのか・現代社会現代通念との差異・現代社会との類似・
現代語(現代口語)への冷静な眼差し・・・・
等等等等等等等等等等等等等等等等の諸問題への謙虚な自覚
を抜きにして訳出はあり得ないと考えるので、662のレスとなったわけです。
(勿論、文献学的技術に於ては言うに及ばずですが。)


まだまだまだまだ思うところはあるのですが、
暇人さんに、「できもしねぇこと書き込んでんじゃねぇ! o(・_・)○☆ごるぁ 」
と怒られたので、また暫くROM専に戻ります。

スレ汚し失礼いたしました。 m(_ _)m
重要と思われる質問レスがあったら、返答するかもしれません。

ノシ


お釈迦さんの『負債なき生活』という言葉は涙ながらに噛みしめてしまうな・・・w
696(*):2005/08/24(水) 00:27:12 ID:SkiiSr2a
>> 683 どう外しているのか、説明してくださいませんか?
697無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 01:09:42 ID:u9H7V09e
>>688 :名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 22:40:14 ID:goU1VDpk
> 来世を認めないのを断見者と断定するあなたの理解がおかしいのですよ。
死によって断絶する、死ねば因果応報は無いと考えるのが断見だと理解しています。
したがって、断見者は、来世を認めない。
断見に対するあなたの見解を教えてください。
「来世を認めない」かつ「断見者ではない」人物というのはどのような人なのでしょうか?

> 来世を認めてしまえば常見に墮します。
私は原始仏典は一貫して、
『執着があれば、人は死んでもまた生まれ変わる。
執着がなければ、生まれ変わらず解脱する。 』
と説いていると考えます。
この考えは、来世を認めていますが、常見ではありません。
698電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 02:00:22 ID:IbHt4CCv
(*)=辻文法=ローマナイズ君よ。

ゴチャゴチャへ理屈垂れていないで、宿題をしたらどうなんだ?
私が断見論者?どんな読解力してるんだ。アホ丸出しだ。
オカ板を持ち出したとき、あんたの品性が決定したね。

親切な方々が暇人やあんたを相手にしているようだが、馬鹿は放置すべし。
699暇人:2005/08/24(水) 02:13:37 ID:s0sh2pM2
>>692-695

少し感動してしまったかもです。 よいお話をありがとうございます。
それぞれ違う個性ですので いろいろとありますし
ある部分は共感し 他の部分では差異を味わい
という感じでよいのではないでしょうか。
あなたの視点から意見も是非いろいろとお聞かせ願いたいと思います。

私などは小生意気かつ愚劣ですので 不快なところは多々ありましょうが
ご寛恕いただくと 助かります。
700暇人:2005/08/24(水) 02:30:16 ID:s0sh2pM2
>>677
>石飛道子、ブッダ論理学
機会があれば読んで見ます。いまのところ詳細はわかりませんので、
その著作自体についての賛否については差し控えます。
ただ仮に素晴らしい著作だとしても それ一本に絞ることには
反対です。それぞれの方々が、色んな視点で語ることが 豊かに学べれる
のではないかと愚考しているところです。

>>676
和辻説を引用しているページのアドレスです
http://page.freett.com/Libra0000/070.htm
>>673-674
じっくり読ませて頂きます。
>片山先生の訳
機会があれば、眺めてみたいと思います。ご紹介有難うございます。
(*)さんのおかげで強い関心を持ちました。
>>671
私は例えば、ベロさんから「雑阿含1」、あほだら経さんが
「水野著作選集1-3」のご紹介されていたのも 
樹意さんの引用や無宗ださんの引用も 凄く役立っております。
広く色んな方の意見をお聞きできれば、楽しいです。
701暇人:2005/08/24(水) 02:41:17 ID:s0sh2pM2
>>665
。。。さん ご指摘ありがとうございます。

>老死を超えるとは、老死の反復を乗り越える、
>もはや老死を繰り返さない、という意味ではないですか。

ですね。テキストを忠実によめば そう読めると思います。

>手や足や顔や髪の毛がどうして「己」であろうか

私はそこらへんを、
「手や足や顔や髪の毛」は、「己」ではあるが、
「己のもの」ではない と仏教は語っているのではないかと
おぼろげですが、今のところ考えています。

「手や足や顔や髪の毛」も己の思いのままにならない。
己の思いのままになれないものを「わがもの」と誤解に立ち、
モノゴトを判断している生き様に「苦の根本原因」があると
言っているのではと 想像しています

702暇人:2005/08/24(水) 02:47:39 ID:s0sh2pM2
(*)さん それと下田正弘先生の作品紹介のページの紹介
有難うございます。

書評で名著「涅槃経の研究--大乗経典の研究方法試論」を読み、
是非拝読したいと年来思っていましたが 果たせぬままに、
今に至っております。
このページを週末などにじっくり読ませていただきたいと思います
ありがとうございました。
703机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/24(水) 08:48:23 ID:6bu/BWag
素人どの

禅宗において「信仰の度合い」という書き方はどうかとおもうが・・・
やはり説明せようとせば、そういう書き方にならざるをえない。

学校で教えるのは、そういう矛盾性も孕んだ教学ですね。
それが悪いわけでなくて、説明せようとせば、そこには何らかの矛盾性はでてくる。

でも、説明とすれば上手な説明です。

一休の遺偈とか、慧能の無学とか、乞食信心とか、いろいろな捉えかたがあるけど、
信仰?が篤くても全てを美化してるわけではないです。
704無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 10:47:34 ID:0B4RxwJ+
輪廻問題(釈尊は輪廻を説いたか?)の本質は

(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は業報思想を肯定した。

の2つの真理が矛盾しているために発生しているということだ。
705無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 12:34:26 ID:0B4RxwJ+
>>704
さて、この矛盾は、現代的な感覚で
輪廻を「形而上の問題」と位置付けることにある。

解脱は、三明を得ることで達成される。
三明の1つの能力が宿命通、すなわち、過去世を知ることである。

おそらく、禅定中に己の過去世がイメージされたのであろう。
その過去世が、妄想なのか、客観的事実なのかは、この際問題にはならない。
それが、禅定中に体験できることであるのであれば、その体験をした当人にとって
過去世は「形而上の問題」ではなくなっているわけである。

したがって、
(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は三世にわらる業報思想を肯定した。
(3)釈尊は輪廻を説いた。
は、矛盾無く成立する命題である。
706無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 12:42:05 ID:0B4RxwJ+
>>686 :名無しさん@3周年:2005/08/23(火) 22:07:39 ID:goU1VDpk
> なお、私は輪廻説に関しては彼とほぼ同意見なので、役不足かもしれませんが場合によってはお相手いたしましょう。
さて、私は「釈尊は輪廻を説いた」と考えます.
役不足を自認する方の、レスを希望します。


-------
やくぶそく 3 【役不足】
(1)俳優などが与えられた役に満足しないこと。


(2)能力に対して、役目が軽すぎること。
「―で物足りない」

(Web辞書より)
707。。。:2005/08/24(水) 13:05:46 ID:OSvlMrMs
>>670 さん。

>自意識は肉体が無いと生じないのでまったくのナンセンス。

ブッダには有余涅槃と無余涅槃があり(余は正字で)、無余涅槃は
肉体を持たないブッダ=如来の「自意識」だと理解しているのですが。

全国の神社仏閣でお祀りされている、神々、諸仏はすべて「肉体を持たない
自意識」なのではないですか?
708。。。:2005/08/24(水) 13:07:53 ID:OSvlMrMs
>>676 先日、梅原先生のご著書を立ち読みしたけど、五蘊の定義が間違ってた。。
709。。。:2005/08/24(水) 13:09:54 ID:OSvlMrMs
五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

五蘊=色、受、想、行、識、=人の肉体と精神(&神経系)(活動)ですよね?
710。。。:2005/08/24(水) 13:14:56 ID:OSvlMrMs
>>684
>「識あるが故に、名色あり」
>世俗の常識とは逆に、意識があるが故に心身があると縁起の法では説かれる。

無明あるが故に行あり
行あるが故に識あり
識あるが故に名色あり

無明なければ名色なし。如来は名色を持たない。

と私も思います。


711。。。:2005/08/24(水) 13:18:44 ID:OSvlMrMs
>>688
>来世を認めないのを断見者と断定するあなたの理解がおかしいのですよ。
>来世を認めてしまえば常見に墮します。

来世がない=断見
永遠に続く来世がある=常見

因と縁により来世は変わる=六道の輪廻あるいは涅槃=仏陀の教え
712机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/24(水) 13:20:39 ID:6bu/BWag
>五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

これは勝義諦の説明ですし、

>五蘊=すべての事象 と書いてらっしゃったと思う。

これは世俗諦の説明で、ようは意味は同じ。

「すべての事象」→色
「五蘊皆空」→空

ようは、色即是空。
同じです。
713。。。:2005/08/24(水) 13:29:52 ID:OSvlMrMs
>>701 暇人さん 
>「手や足や顔や髪の毛」は、「己」ではあるが、
>「己のもの」ではない と仏教は語っているのではないかと
>おぼろげですが、今のところ考えています。

色;あなたの肉体は「己」ではないですよ。
受、想、行、識;精神活動、感受、想い、考えも「己」ではないですよ。
無常なるも=苦なるものはすべて「己」ではない。

それでは「己」=「自意識」は無常、苦、空ではないのか?
「己」が苦であれば、もう救いはどこにもないわけですが。
仏陀は、苦集滅道と語った。すなわち救いは有る。したがって
「己」は無常=苦ではない。

無始の昔より無限の未来まで、六道を輪廻しついには涅槃に入る「自意識」
は無常ではないし苦でもないのです。

(無始の昔、無限の未来;ヒトの時間への理解の錯誤から来た表現。
時間なんて本当はないんですよ。)

以上、稚拙ですが、昨夜の私の思索結果です。
714。。。:2005/08/24(水) 13:39:42 ID:OSvlMrMs
>>704 無宗ださん

(1)釈尊は形而上の問題に関し沈黙した。
(2)釈尊は業報思想を肯定した。

形而上のいくつかの命題に対して沈黙した。ではないですか?
無記はすごく限定的ですよね。
確か一つには時空の問題がありましたよね。時空の問題は現代人
でも分かりませんものね。(物理好きの方はお分かりなのかも?)
そのほか心と身の問題とか、如来の死後の問題とか。

>2つの真理が矛盾しているために発生しているということだ。
仏説に矛盾なし?だと思いますけど。
715。。。:2005/08/24(水) 13:42:56 ID:OSvlMrMs
>>705 がありましたね。 ↑これは訂正の要ありですね。

でも、無記は(たしか10個の)限定的な命題のみです。
来世に関しては、如来の死後は問題になっているけど、人の
死後は無記に含まれなかったはずです。人の死後は仏陀はよく
語っていますものね。
716。。。:2005/08/24(水) 13:45:58 ID:OSvlMrMs
>>706 役不足って役者に対するほめ言葉なんですよね。
「あんな役なんて、〜さんにはホント役不足!」とか。
でもこの語の思い違いを利用して相手のご贔屓をいぢめる
というテクニックもよく使う。
717。。。:2005/08/24(水) 13:48:42 ID:OSvlMrMs
>>712 机様、なるほどそういう定義もあるんですね。
それじゃあ、梅原さんの著書も読んでみないと。まだ読んだことがないので。

ありがとうございました。
718名無しさん@3周年:2005/08/24(水) 13:49:46 ID:tC6U1JPV
神道的ですが、分り易かったよ。
http://www.eonet.ne.jp/~musubi-81
719名無しさん@3周年:2005/08/24(水) 16:44:47 ID:vF8fQ2ij
>>716
へえー
720電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 20:31:28 ID:IbHt4CCv
>>690
あんた、誰と話してるんだ?いい加減妄想やめにしたら?
読み返すと、あんたが文法音痴なのはよくわかる。abhisamaya文脈と関係の無い複合語
示してどうするの?abhisamayaを動詞で読んでどうするの?

いつ、私が和辻哲郎を持ち出した?頭の悪い発言してんじゃねーぞ。気持ち悪い奴だな。
721。。。:2005/08/24(水) 20:50:13 ID:OSvlMrMs
>>720 さん、梵語のご専門家ですか?
所詮は表音文字言語、漢語ほどは語彙力はないのでは?
漢文訳で意味はカバーできてないのですか? とか思っています。

言語ばかりやっていて、仏道修行はおろそかにならないのですか?
文面から察するに、かなり「瞋恚」の領域が肥大化しているようにもお見受けしますが。

五蓋;
疑いの心、瞋恚の心、貪欲なる心、
落ち込み物憂くなる心、浮き足立ちいらいらする心、

このあたりをコントロールするのが、仏道入門だと思うのですが。

瞋恚の心、荒々しい言葉を収められますように。驕慢なる心も打ち崩されます
ように。合掌。
722電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 21:05:09 ID:IbHt4CCv
とりあえず、(*)は格関係もきちんと押さ切れない屁たれ文法なんだけど、
例の属格に読むと言ってた唯一の根拠、その註をもう一度読むべしだね。

これで、馬鹿との接触は終わり。別所にて論理学講義を始める。

@基礎固め
形式論理学からはじめ、命題論理学と記述論理学の一応の習得を目指す。
A応用準備
上記基礎範囲での虚偽論の習得を目指す。
B発展1
様相論理(http://akademeia.info/main/math_lecturez2/math_yousouronri.htm 参照)や多値論などの
現代論理学を概観
Bその発展形態、例えば時空様相論理など、石飛さんが不可能だと断定される錯誤を指摘

方向性としては分析哲学と考えていただいて差し支えありません。哲学板でこちらのロマー
も多いので、参加されたい方は「14」スレッドで挙手お願いいたします。解りやすく解説したいと
思います。
723電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/24(水) 21:07:44 ID:IbHt4CCv
>>721
私は心をコントロールしてワザと装っています。
そのことは少しお話したことのある人は知っています。
ネットキャラです。
724無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 23:50:53 ID:u9H7V09e
>>714-715
> 形而上のいくつかの命題に対して沈黙した。ではないですか?
> 無記はすごく限定的ですよね。
そうですね。十無記または十四無記と呼ばれているようですね。
なぜ、それを形而上の問題というふうに一般化したかというと、
それは私が佐倉哲氏の影響を強く受けているからですw

佐倉氏がよく引用する経典に、「一切」とはなにかを説いたものがあります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
<--
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。
「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタニカーヤ 33.1.3)
-->
これをみると、釈尊は経験・観察できる世界(形而下)を「一切」と呼び、
これに関してのみ語ったと推測できます。
725無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/24(水) 23:51:59 ID:u9H7V09e
そして
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html
<--
ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、
見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)
-->
このように、「そのような種類の問い」という言い方をしている経典もあるようなので、
「そのような種類の問い」=「形而上の問題」と言っても不都合はないかと考えます。

ちなみに佐倉氏は輪廻に関しては、
方便として説いただけで、基本的には形而上の問題として無記を通したと考えているようです。


ところで、
霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?
726暇人:2005/08/25(木) 00:48:01 ID:HLnyE5sY
http://page.freett.com/Libra0000/070.htmに
和辻さんの引用のこの部分///////
「かく色受想行識が無我であると言わるるならば、無我のなせる業はいかなる我に触れらるるか(16)」という問いに答える仕方が、まさにこのことを示している/////////

と、「色受想行識が無我」という教説がありますが この続きのパーリ文は
"Taü kiüma¤¤atha bhikkhave, råpaü niccaü và aniccaü và"ti? Aniccaü bhante. です
それは/何、いかなる 考えた 他の方法で 比丘らよ 色 常住の va〜va か・・・か 無常 尊者よ
比丘らよそれを いかに考えたか 「色は常住か無常か」 と。 「尊者よ 無常です」
ここでいう「色」は、我々個人の身体のことでしょう。
身体が無我というのは、「身体が己か、己でないか」とではなく、「身体が、常住か無常」と反問されています。
つまり色「無我」は、身体が私ではない のではなく、 身体は仮に和合して現象している一時状態である
という意味だと私は 今のところ解釈してます
727机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 07:18:22 ID:7UD5iam6
>>717
>五蘊=すべての事象

というのは、つまりは「五蘊は色」というていますね。
「五蘊は色」という捉えかたをする人は、なかなかいないですよ。
(梅原氏は達観した捉えかたです、学者には珍しいですね)
「五蘊は心作用だから色じゃない」。とかね・・・
心作用も色作用も、これは色になります。→色心不二
ここにいう色心は、いわゆる世俗諦で、
これを勝義諦にしますと色心の分別がなくなります。
これを般若心経いおいては「五蘊皆空」と記してあるわけです。

いうに、
三有も三界も、これは世俗の話ですね。
勝義になりますと、三有も三界もないわけです。
この理こそが空なるわけです。


728暇人:2005/08/25(木) 07:29:05 ID:qyhK8eij
>五蘊=すべての事象
私は梅原さんのその発言を読んでないが、
「五蘊=色」と捉えているわけではないと思います。
「五蘊」を「即物的な事象すべて(色)と精神的事象のすべて(受想行識)」と
把握されての「五蘊」=「すべての事象 」ではないかと
729机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 08:13:53 ID:7UD5iam6
>>728
>「五蘊」を「即物的な事象すべて(色)と精神的事象のすべて(受想行識)」と
>把握されての「五蘊」=「すべての事象 」ではないかと

即物的な事象(色作用)も、精神的事象(心作用)も、いわば事象として同じなわけですから、
私が逝ってることと何ら変わらないですね。

事象というのは、それで「色」になるわけです。→色心不二
ですから、五蘊は事象ならば即色になるわけです。
いうに梅原氏は、勝義諦にての言い回し。
勝義だろうが、世俗だろうが、意味は同じですが、
達観しないと、勝義諦の言いまわしはなかなか出来ないもんです。


730机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/25(木) 08:24:01 ID:7UD5iam6
  (つづき)
事象というのは、つまりは縁起ですから、縁起なるものは全てが色です。

事象⇔縁起⇔色。となります。
この理を空といいます。
731電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/25(木) 09:55:03 ID:mWJ7KAta
>>726
>身体が無我というのは、「身体が己か、己でないか」とではなく、「身体が、常住か無常」と反問されています。
>つまり色「無我」は、身体が私ではない のではなく、 身体は仮に和合して現象している一時状態である
>という意味だと私は 今のところ解釈してます

【身体について】

主張   : 無我 → 常住or無常
排除要素: 色「無我」は、「身体が私ではない」
結論   : 身体は仮に和合して現象している一時状態

上記排除要素の説明は不親切ではあるが、言いたいことはわかる。しかし、「己」「身体」の
説明が必要だな。で、原始仏教での”rUpa”は外界のことには着目せず、人間の身体だと
言うのは外してないと思うけど、外界も含むという反論からはどう答えるの?「仮に和合」って
仏教用語だね。使う文脈を外しているのはいいとして、あんたの翻訳論からも外しているよ。

それで?そこからどう展開するの?そのままじゃ尻切れだよ。
732。。。:2005/08/25(木) 10:13:37 ID:qzn+CDEN
みなさん、コメントありがとうございました。

ちょっと難しくて分からない。しばし呆然。

ゆっくり考えて見ます。
733。。。:2005/08/25(木) 11:50:16 ID:qzn+CDEN
>>724 仏陀は見たこと=真理だけを語るんですよね。

でも、その「見たこと」の範囲がかなり一般人とは違うと思う。
例えばテーラガータでは、必ず皆さん、涅槃を得る際には、三明を得ているのです。
三明具足、三明六通を得た人の認識範囲だと思うんですよね。

そして「後有を受けざることを知る」。一般人は「後有」を受けそうですよね。

【調べました】仏の十号から、ウキペディア
明行足(みょうぎょうそく、vidyaacaraNa-saMpanna (sanskrit))
宿命・天眼・漏尽の三明の行の具足者。
734。。。:2005/08/25(木) 11:58:17 ID:qzn+CDEN
>>725 テーラガータ(岩波文庫)から

17 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる
愚鈍な人は、糧を食べて肥る大きな豚のようである。くりかえし母胎に入っ
て迷いの生存をつづける。 ダーサカ長老


「くりかえし母胎に入って迷いの生存を続ける」んですよね。
私もそう思う。迷いを断たない限り、迷いの生存は続く。
735。。。:2005/08/25(木) 12:01:34 ID:qzn+CDEN
>>725

>ところで、
>霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
>といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?

「わたし」「己」「自意識」だと思っています。

頭脳、思考、記憶などはむしろ肉体に属すると思っています。


736。。。:2005/08/25(木) 12:41:23 ID:qzn+CDEN
>>726 暇人さん

色受想行識=五蘊 は 非我ですよね。 「我」の所有物です。

「我」は「わたし」「己」「自意識」=「霊魂」=「こころ」「ハート」です。
 
五蘊は空であり、老死あり、死後には壊れます。

「わたしのこころ」は輪廻し、迷いのハートは繰り返し母胎に入ります。
天に昇る心もあれば、地獄に落ちる心もあるでしょう。
因&縁に応じ流転し、ついにはニルバーナを得て如来になることもあるの
です。

因と縁に応じ流転するが故に無我(恒常で確固たるアートマンではない)
なのでは。

以上、わたしの見解でした。
737無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/25(木) 12:55:10 ID:EIofqd95
>>733 :。。。:2005/08/25(木) 11:50:16 ID:qzn+CDEN
> >>724 仏陀は見たこと=真理だけを語るんですよね。
>
> でも、その「見たこと」の範囲がかなり一般人とは違うと思う。

そうですね。
涅槃寂静なんていわれても、解脱しなければ理解は不能。

対機説法で、相手が理解できる範囲のことを
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
<--
ブッダの教えは、「現に証せられるもの」、つまり、現実の世界で実証できるものであり、
「時を隔てずして果報あるもの」、つまり、未来の果報を約束するものではなく、
今ここでその結果が現れるものであり、また、上記と同じように、「来り見よというべきもの」、
つまり、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、
はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。
それが、ブッダの教えに感動した人々の印象でした。
このようなブッダの教えに感動した人々の印象は、
神秘的形而上学的な問題に対するブッダの沈黙という態度とまったく一致するものです。
-->
といった態度で説いたのでしょう。
自称専門化が、内輪でしか理解不能なギャグをいって喜んでいるのとは、一線を画しています。

http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
このページからたどれる

サクルダーイ大経(マハーサクルダーイ・スッタ)
 サクルダーイ大経五  … 経験実証
http://tetugaku.fc2web.com/butten/saku-b5.htm
この内容もそれを裏付けています。
738。。。:2005/08/25(木) 13:35:04 ID:qzn+CDEN
テーラガータ

240 この世で信仰心の無い親族たちのあいだで、一人でも信仰あり、
聡明な知慧あり、つとめをまもり、戒めを実行しているならば、親族たちの
ためになる。
241
242 かれらは、過ぎ去り、死んでしまいました。かれらは三の天界で
安楽を得ています。わたしの兄弟たちや母は、欲するがままに望みをかな
えて楽しんでいます。 パッシカ長老

..........
欲するがままの天界とは、いわゆる欲天なのだろうか。それが三の天?
親族たちが欲天に生まれて、ちょっとはほっとするけど(地獄よりは)、
また輪廻して堕ちて行くんでしょうに。
........................................


246 以前にはそなたには信仰があった。しかしいまはそなたに信仰が
無い。そなたのものは、そなたのものにほかならない。わたしには悪行は
存在しない。
247 信仰ははかないもので、移ろいやすいものである。
   〜   聖者はどうしてそんなことに、心を浪費するであろうか。
サーティマッティヤ長老。

.............

前段の信仰と、後段の信仰は別なものなんですね。前者は肯定され、後者は
否定されている。前者は三宝への信仰であり、後者は神への信仰。
...
739名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 16:31:26 ID:Al/rqX19
何で電波はああも品がないんだろう?
そこいらの浮浪者のおっさんみたいだ。。。
740名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 17:07:09 ID:bxjy7d22
電波など、まともな研究者なら相手にしないよ。
741名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 17:36:30 ID:BV79DoGl
生まれ変わらない技術が阿含経に書かれている。

私は、体得した。
742名無しさん@3周年:2005/08/25(木) 19:09:29 ID:gAQYeQAW
↑実行委員長?
743電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/08/26(金) 00:27:14 ID:g6WFgubI
で、以下のように(*)の妄想が炸裂していくのだ。

============================================================
上を石飛さんの論理式に書き換えると A * B, B*C となるでしょう。
A: 苦と老死の出離についての思索
B: 老死の縁についての思索
C: 老死の縁は死だという直感

苦と老死の出離についての思索中に「老死の縁が生である」という直感がひらめいたということでしょう。

我々はpaJJAya を属格と考えます。ですから「知の符合」となるわけです。
そして属格は「 A に属する B」を意味し「B∈A BはA の要素である」となるわけです。
複註であるMahAvaggaTIkAが《この慧が生起し》と解釈するのは、この属格と取っていると
考える以外ないからです。他の訳では方法や理由、起源を示す具格や奪格と読んでいます。
ですが、それではこの註とは矛盾するはずです。つまり具格や奪格では《この慧が生起し》とはならず、
「慧から符合」あるいは「慧によって符合」が生起しとならなければならないからです。
つまり《この慧が生起し》とは解釈できない。ところが属格なら可能です。
「慧の符合が生起し」なら《この慧が生起し》と解釈できることは分かるでしょう。
雜阿含經の「起無間等知」もまったく以上を支持しているでしょう。
744無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 12:58:47 ID:rTimnp0V
>>150 :名無しさん@3周年:2005/08/02(火) 13:32:14 ID:mVbWWzx+
> 「即正思惟 起無間等知」はTassa mayha? bhikkhave, yoniso manasik?r? ahu pann?ya abhisamayoの定型。

>>198 :名無しさん@3周年:2005/08/04(木) 09:38:49 ID:UVGDdmVc
> 現観が原始仏教を語るときの共通認識としてどのようであるかの一例。
>
> 『ゴータマ・ブッダ_釈尊の生涯』 <原始仏教1> 中村元選集・第11巻 春秋社 P.173 L6-
> そこでわたしはこのように思った、
> 「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。そのときわたしには正しい注意と智慧とから
> 現観(abhisamaya さとり)が起こった、「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
>
> 註:
> SN.12,10(mahASakyanumi Gotamo),1-2(vol.2,pp10-11)『雑阿含経』第12巻(285)大正2、P.79c-(中村註による)
> 上記「〔正しい注意と〕智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった」はさとりとして縁起を示す定型句。>>150さん参照

さて、現観に関する論点は、いったい何なのか?
現在、論点は次の2点だと私は考えます。

前提:中村元訳の、
>正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった、
>「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。
をリファレンスとします。
745無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 12:59:42 ID:rTimnp0V
【論点1】リファレンスの部分を、

正しい注意と智慧とから
「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と
わかった。

いうふうに「ahu + abhisamayo」に関して、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった、
ではなく
・わかった。
と意訳することに、どんな問題があるのか?

【論点2】リファレンスの部分を、

正しい注意から知の符合(ひらめき)が起きた。
「生があるが故に投資が有る。生に縁って老死がある」と。

いうふうに「pann?ya」を属格と考えることは可能か?
746無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/26(金) 16:00:23 ID:rTimnp0V
>>735 :。。。:2005/08/25(木) 12:01:34 ID:qzn+CDEN
> >霊魂と肉体とは 同一である/別異のものである。
> >といった場合の霊魂とは、何を意味していたんでしょうね?
>
> 「わたし」「己」「自意識」だと思っています。
>
> 頭脳、思考、記憶などはむしろ肉体に属すると思っています。

ちらっと、ひらめきました。
ひょっとしたら、これは形而上の問いだから無記だったのではなく、
問いが不適切だったから無記だったのかもしれません。

アンドロイドにおいて
ソフトウエアとハードウエアとは 同一である/別異のものである。

という問いに答えることは可能だろうか?
無理なのではないかな。

確かに現状、コンピュータの
ハードとソフトは店頭では別々に販売されているわけだが、
動作状態において、これを区別できるのか? それに意味はあるのか?
ということです。
747。。。:2005/08/26(金) 18:44:12 ID:VW/HONp4
>>746 無宗ださんこんばんは。

色;はハードウエアだと思うんですよ。
受、想、行、識;はソフトウェアとその機能。

そして、ソフトウェアのファンクションは「自意識」と密接につながっていて、
両者は別物なのか、一体なのか、無記としか言いようのない状態。すなわち、
ヒトの理解を超えた状態なのではないかと思います。

ブッダのQ&Aは、Q自体が仏陀により設定された重要な命題なので、設問
不良のため答えなしということは無いと思います。

無記=ヒト(人類)の理解の範囲を超えるテーマ、では無いですか?
748。。。:2005/08/27(土) 10:00:08 ID:vo23Zun5
五蘊と自己(アートマン)について

テーラガータ
1160
五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると
見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
− 毛の尖端を矢で射るように。

................................................

やはり、自己は五蘊、とくに受、想、行、識ではなかったのですね。
749無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/08/27(土) 10:01:46 ID:yyfbWjjE
>>745
【論点1】に対する回答として、素人でも比較的わかりやすいのは、
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/612
くらいか?
何故に「プラークリット」なる語句がパーリ語と並列で出てくるのかはよくわからんが。
この主張を読んでみると、「理論理解」のみを「わかる」と解釈し、
「先験的理解」を「わかる」とはいわないと考えているようだ。
私は「現觀」は「先験的理解」のひとつで、「わかる」でもいいと考える。

「先験的理解」を「わかる」とはいわないとすれば、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった」を「わかった。」と意訳することは誤り
であるが、
「現觀」も一種の「わかる」だとすれば、
・現観(abhisamaya さとり)が起こった」を「わかった。」と意訳することによって
 情報の欠落が発生する
ということに過ぎない。つまりわかったはわかったでも、
【ふっと、そのからくりのすべてを目の当たりに生じる】ようにわかった
という詳細が欠落する。

たとえば、
「彼は、√2が無理数であることを、数式をまじえ、背理法で示した」

「彼は、√2が無理数であることのを証明した」
と書き換えると、背理法を使用したという情報が欠落するのと似たようなものである
私は考える。
750無宗だ ◆4eP.G3wMrs
>>745
【論点2】に関しては、

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/629
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/644

にて、「属格とは理解のしようがありません」と書かれているが、
この根拠が、
・文法的な根拠
・文脈的な根拠
・その他の根拠
のどれなのか私に理解不能。

暇人さんの
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1122597067/683
を読むと、
<--
>具格、与格、奪格、属格のどれであっても いいわけね。
んだ いいのだ 訳者の自由だな。 一つの正解があるわけではない。
これだけの可能性があるのだ。
-->
文法的に間違いではなく、文章として意味が通じれば良いという主張ですね。

格変化表は、ttp://www.manduuka.net/pali/ このサイトの

ttp://www.manduuka.net/pali/p/pdisp.cgi?tb=na&bm=aaf
この表でいいのかな? だとすれば、処格も候補のひとつか?