1 :
1 :
2005/04/26(火) 08:54:32 ID:YM0H2a5y 無我、無常、縁起の思想について考えましょう また、現代と仏教のこれからを考えてみましょう
中論
3 :
名無しさん@3周年 :2005/04/28(木) 21:08:55 ID:ELQruYFV
まあ、人類史上最高最深の思想家だな。
4 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/02(月) 22:39:42 ID:su/o2+Hw
ageておきます
5 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 08:14:17 ID:NyOdnQ+d
『中頌中論』や中觀派関係の議論なら原始佛教スレッドよりもこちらで行うほうが 適切でありましょう。
6 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/03(火) 09:07:46 ID:NyOdnQ+d
質問スレッドで普遍論争の理解を中論等の佛典理解に繋げる興味深い提言が電波男さんによって なされましたが、有部などの阿毘達磨の主張するいわば実念論に対して提示された対立見解を整理 すれば唯名論に親近していくのでしょうが、それがそのまま龍樹などの見解とは考えられません。あ る極端論に対し、その対極になるような主張をいわば「当て馬」としてぶつけて、議論を展開する手法 は佛教によく用いられるものと心得ております。
7 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 09:17:27 ID:srfVm65J
あぼ〜ん宗出身:阿呆陀羅經
8 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/03(火) 09:26:23 ID:NyOdnQ+d
9 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 10:10:28 ID:B48AxGnb
>>6 >ある極端論に対し、その対極になるような主張をいわば「当て馬」としてぶつけて、議論を展開する手法
は佛教によく用いられるものと心得ております。
ですから私は、そもそも仏教は弁証法では無理だと言うておるんです。
そういう発想しているまでは、貴殿の仏教理解は無理です。
中観は、鰻論法・蒟蒻問答しか理解はできない。
理解ができんもんを、私がレスを付けても意味がない。
電波先生も、発想自体が貴殿と同じです。
10 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/03(火) 10:16:42 ID:NyOdnQ+d
>>9 無用の戯論はNGワードあぼ〜んとなってますので書き込むだけ無駄。悪しからず。
プラサンガ論法だっけか
12 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 10:22:06 ID:B48AxGnb
>>10 貴殿の、その凡夫思考システムを破壊するんです。
さすればようやく中観の門のとこまで逝けます。
中観は不二元論です。
13 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/03(火) 10:28:54 ID:uMAYZpaW
14 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/03(火) 11:54:49 ID:uMAYZpaW
うーん、中観の思想は唯名論そのものなのかな?って考えてましたけど、 そうではなくて、論駁の為のわら人形、って事ですね。 私自身唯名論がよく判ってないので、もっかいちゃんと調べてみますね。 #これまでのまとめ、簡単にやった方がいいですか?
15 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 14:57:57 ID:B48AxGnb
>うーん、中観の思想は唯名論そのものなのかな?って考えてましたけど、 字面は唯名論あっても、意は全く違う。 もっとも電波先生の発想が「西田は実存主義者」と言うくらいだから、 中観をこの程度にしか考えていないんだろうね。 こういうのは学者タイプに多い。 中観というのは、つまり彼岸に逝くわけですね。 論陣を張るわけではない。 そこのとこを電波氏は勘違いしてる。 学者が全て解るんなら、坊主は用なしになる。 もっとも電波氏は坊主のことは全く考えてないようですが・・・ やはり坊主は無駄飯くうている訳ではないんですよ。 それなりの事をちゃんとやってるんですからね。 話は坊主に味方する訳じゃないけどね(微笑
16 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 15:05:10 ID:B48AxGnb
× 話は坊主に味方する ○ 私は坊主に味方する
age
18 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 16:01:33 ID:KSGRIS4n
>>15 あなたのような鈴木の「非即の論理」の呪縛から抜け出ることが出来ない人が
いるので、電波氏のように別の思想からの切り口を使うことになるのです。
>もっとも電波先生の発想が「西田は実存主義者」と言うくらいだから、
その通り。西田は自称でも実存主義者ですよ。もしかして実存主義を知らないのですは?
このことは哲学を専攻した人には当たり前のことです。机氏にとっては当たり前ではない
のですか?そのトンデモ説をどうかご開示ください。
19 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 16:59:52 ID:B48AxGnb
>>18 >鈴木の「非即の論理」の呪縛から抜け出ることが出来ない人が
>いるので、
鈴木はナーガールジュナではないですよ。
私は鈴木を引用したまでのこと。
鈴木はあくまでも哲学者の観点です。
>その通り。西田は自称でも実存主義者ですよ。もしかして実存主義を知らないのですは?
西洋哲学と中観は違うのですよ。
そこを同一目線で語ちても中論を語ちたことにはならんのです。
西田はナーガールジュナとは違います。
では、これから出かけます。
20 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 17:33:26 ID:KSGRIS4n
>鈴木はナーガールジュナではないですよ。 >西洋哲学と中観は違うのですよ。 >西田はナーガールジュナとは違います。 は?は?は? みなさんの仰るとおり、この人は狂ってる。 双方向会話が絶対に成立しない人だ。
21 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 20:59:39 ID:B48AxGnb
>双方向会話が絶対に成立しない人だ。 会話をするって・・・?? 私は最初から会話する気はないですが。 すまんですね。
22 :
魔法のマント ◆zPDVctO00E :2005/05/03(火) 21:01:22 ID:B5h0tvIn
机みっけ。
23 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:02:14 ID:B48AxGnb
とにかく中観は難しいです。 先ずは般若心経から入るのが一番いい。 話しはそれから。
24 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 21:03:19 ID:KSGRIS4n
>>21 本当に全く予想通りというか、、、。
そういうのなら、もう発言するな。これ以上の発言すれば魑魅魍魎と同じだぞ。
西田が実存主義を標榜していたことについて、電波に謝罪しろ。
25 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 21:04:49 ID:KSGRIS4n
>>23 中観と般若経が同一思想だと思っているきちがい。
26 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:07:32 ID:B48AxGnb
>西田が実存主義を標榜していたことについて、電波に謝罪しろ。 だから、なんでここで実存主義が出てくる?? 中観がなんかの主義になるのか? そういう発想しか出来んから貴殿は中観は無理だ。 と、私は言うておるんです。
27 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:10:01 ID:B48AxGnb
>>25 まあ、貴殿は実存主義でも研究してた方が宜しいかと思う。
中観はチト難しい。
28 :
名無しさん@3周年 :2005/05/03(火) 21:15:53 ID:KSGRIS4n
>>26 >そういう発想しか出来んから貴殿は中観は無理だ。
>と、私は言うておるんです。
そういうことしか吐けないから、皆さんはあなたのことをきちがい、まぬけ、低脳、恍惚老人、
低学歴、読解力ゼロ、前後不覚、脳梅毒というのです。中観と般若経典との決定的相違点
などお前にわかるはずも無い。
あのね、西田が実存主義を標榜しているかについては、きっちりけじめつける責任があんたに
あるよ。おそらく唯の無知だとは思うが、あんたは西田が実存主義でないとおろかな断定を
した。しかしそれは間違いであることは明白になったんだからあんたには謝罪義務がある。
そんなことも解らないのなら、樹海に入って禅定しながらしんでしまえ。
29 :
25 :2005/05/03(火) 21:20:46 ID:KSGRIS4n
>>27 じゃ、すこしベールを剥がそうか。
やっと、私は名前ぐらいだけなら覚えていただけるようになった中観派の研究をしている者です。
あなたの仏教解釈はすべて臨済宗に似せた似非です。中観解釈も出鱈目。一如門なども関係
ない。あなたが中観に言及したときはいじめますのでそのつもりで。
もともと中観派は相手を完全に論破する宿命があるのです。あなたには理解できないでしょうけど。
30 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:23:08 ID:B48AxGnb
西田が実存主義であろうと、なかろうと、中観を論ずるには・・・・ それは一切関係ない。 そんな簡単なことも分からんとは? まあ、実存主義でも語ちていてくらさいまし。
31 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:26:41 ID:B48AxGnb
>じゃ、すこしベールを剥がそうか。 ベールを剥す。っても、西洋思想とチャンポンじゃぁね。 お腹イパ〜〜イですよ。 ごめんなさいね。
32 :
25 :2005/05/03(火) 21:29:32 ID:KSGRIS4n
>>30 簡単に責任放棄するのですか?
電波「西田は実存主義」
机 「西田が実存主義でない」
数日後
机 「もっとも電波先生の発想が「西田は実存主義者」と言うくらいだから、」
私 「西田は間違いなく実存主義」
この経緯は間違いないですよね?あなたは明らかな間違いを犯しています。
このけじめをつけない限り、あなたには発言権がないと考えられます。
33 :
25 :2005/05/03(火) 21:32:23 ID:KSGRIS4n
>>31 >ベールを剥す。っても、西洋思想とチャンポンじゃぁね。
はぁ?思想にチャンポンがないとでも?あなたには思想を語る資格も無いようだ。
中観派、特に中後期になると、現代論理学の成果を定規にしないと全く理解でき
ないのですよ。中観派だけじゃないですがね。
34 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:35:48 ID:B48AxGnb
>机 「もっとも電波先生の発想が「西田は実存主義者」と言うくらいだから、」 実存主義だから、どうでこうで。って発想しかできんから・・・ 私は問題にしとるんです。 西田がどんな主義・主張を持ってたって構わんじゃないですか? 中観は主義には全く関係ない。
35 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:38:18 ID:B48AxGnb
>現代論理学の成果を定規にしないと全く理解でき >ないのですよ。中観派だけじゃないですがね。 なるほど、じゃあそこで実存主義とドッキングするんですね。 それなら解りやすいw
36 :
25 :2005/05/03(火) 21:39:53 ID:KSGRIS4n
>>34 健忘症ですか?言いだしっぺはあんたなのですよ。
以下参照:
539 名前: 机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日: 2005/04/07(木) 18:31:40 ID:MMagmYmy
>>538 >この記号化は三者を同一であるという前提で括ってしまう作業で
>あり、はっきりと間違いであるといわなければなりません
三者同一ではありませんよ。
可笑しなことを仰いますね?
「あらず」と、否定しております。
否定することにおいて・・・いわゆる肯定したことになる。
>机氏は羞恥心もなく間違って使っている。
おそれいります。
>「即非の論理」とは鈴木大拙の造語であり、勘違いも甚だしい事柄であります。
西田幾太郎も、数々の造語はありますが、造語というのは元々が完璧なものはないです。
釈尊の言説にしても、時代とともに洗練されていく。
時代の時流に乗るのも是道なるや。
37 :
25 :2005/05/03(火) 21:43:59 ID:KSGRIS4n
>>35 >なるほど、じゃあそこで実存主義とドッキングするんですね。
>それなら解りやすいw
関係ありません。先ほどの机氏が始めて持ち出した西田に対して以下のコメントがありました。
560 名前: 電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k 投稿日: 2005/04/07(木) 20:14:33 ID:L4N/S7oM
皆さん。金剛般若経で何がなんだかわからない表現がでてきます。それは
禅宗や鈴木大拙、西田幾多郎やその当たりの実存主義的宗教学者が好んで
言葉を弄ぶ人たちに好まれました。しかし完全に読み間違いしており、その
真意をつかんでおらず、机のような素人馬鹿垂れも産出しております。
このような近代日本の思想的恥部を晒して正すことが大切であると考えて、
説明していこうと思います。
対機ではないので机には語りません。
さて、
この「即非の論理」は一如などと共に、仏教を捻じ曲げてきている張本人です。
>>538 での私の発言をよく読んでみてください。現代論理学の成果を先取りしているかの
論理構造を金剛般若経はしめしています。この意味をすべての人が理解できるために
すこし脱線しましょう。
西洋哲学でギリシア時代から始まった「普遍論争」という、いまだに続いている論争があります。
その論争の意味を理解すると、中観も解りやすくなります。
今日はこの辺で。。。。。。
このようなお話は別所の方がいいでしょうか?>阿呆陀羅さん、ベロさん
38 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:48:54 ID:B48AxGnb
>>36 西田は、哲学者という観点で論じてるわけですよ。
それをただ単に引用したに過ぎない。
西田にしても、パーフェクトに空思想を論じてるわけではない。
つまり「切っ掛けに過ぎない」。←【重要】
重箱の隅を突付いても・・・何も出てはこない。
39 :
25 :2005/05/03(火) 21:49:25 ID:KSGRIS4n
566 名前: 机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日: 2005/04/08(金) 06:54:10 ID:HbWZ3U0b
>>560 >禅宗や鈴木大拙、西田幾多郎やその当たりの実存主義的宗教学者が好んで
>言葉を弄ぶ人たちに好まれました
”実存主義”って発想は、普通でしたら起こり得ない発想ですね。
”森羅万象仏の当体”なるアジャリでいたら、なおさらこういう発想はしない。
これって、あんたが「実存主義」のことをまったく知らなかったという告白にならない?
今のうちに知らずに批判しましたって謝っておいたほうがいいと思うよ。
現在、電波師は急性肺炎により、ICUにて緊急加療中です。
40 :
25 :2005/05/03(火) 21:50:43 ID:KSGRIS4n
>>38 愚か者!!
まだ自ら吐いた言葉の訂正もできないのか!!
いい加減にしろ!!
41 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:54:50 ID:B48AxGnb
>言葉を弄ぶ人たちに好まれました。 西田は、言葉を弄んでいるわけじゃない。 そういう発想しか出来ないのを問題にしとるんです。 中観は、そもそも・・・ 「言葉を弄んでいる」ようには受け止められやすい。 それはそもそも中観を全く理解してないからだよ。
42 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 21:59:00 ID:B48AxGnb
>>40 腹立ちは十二分に解るけど…
無駄だよ。
何言ったって。
コイツは『恥知らずの愚か者』だから。
44 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:01:36 ID:B48AxGnb
では、落ちます。
45 :
25 :2005/05/03(火) 22:03:19 ID:KSGRIS4n
中観派は決して神秘主義でもなく禅定至上主義でもありません。 不立文字など馬鹿げたことも言いません。言葉を尽くして説明します。 古来、仏教原理主義と頓悟系の論争が繰り返されてきました。 カマラシーラと大乘和尚、徳一論争などが代表的ですが、その 共通点としては論理的に頓悟側が完全に論破されているのに 勝手に「勝った」と確信して喜んでいるところにあります。 そして禅かぶれは糊塗するために歪んだ中観解釈を持ち出す ようになった。 >そういう発想しか出来ないのを問題にしとるんです。 そのようにしか読めないのは偏にあなたが愚かだからです。 電波師は中観にたいして言葉をもてあそんでいるなどと言っていない。 仏教原理主義として非常に尊重しておられる。西田や鈴木は誤った 中観解釈の上に実存主義をチャンポンして机のような魑魅魍魎 を産出する土壌を作ったのです。
46 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:14:10 ID:B48AxGnb
>>45 西田が、例えばキリスト教を信仰していてもいいじゃないですか?
どんな学者が中観を論説してもいいんです。
ただ、宗教評論家なら誰でもできる。
47 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:15:24 ID:B48AxGnb
アンチ中観なら、レスを付けても意味はない。
48 :
25 :2005/05/03(火) 22:15:57 ID:KSGRIS4n
>>42 >これ以上は貴殿は、無理だから。
なにがどう無理だと言うのでしょうか?言葉の責任を果たせない、言論の世界での犯罪者
にあれこれ言われる覚えはありませんが?
あんたが中観を理解できているかどうかをテストしてあげよう。私の演習を受けるには
テストしてもらうことになっているのでね。そのテストの万分の一にもならないが。
(1)中観派において、縁起するものとしないものをどのように区別するのか
(2)中観派における空と空性とはどのような違いがあるのか
机には絶対に答えられないと思う。
49 :
25 :2005/05/03(火) 22:18:59 ID:KSGRIS4n
>>46 最初から壊れているのは解っていましたが、なんか文脈がへんですよ。
アンチ中観?わたしは中観研究者だと言ってますが?人の発言読んでいないのですか?
早く言論責任を果たしなさい。
50 :
25 :2005/05/03(火) 22:21:35 ID:KSGRIS4n
先ほどの問題は私がOD時代に高校で非常勤講師していたときに作成した問題です。 机にはそれでも難しかったのかな。
51 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:22:47 ID:B48AxGnb
>>48 >机には絶対に答えられないと思う。
私は愚かものですから答えられません。
すまんですね。
最初に言うたとおり、会話する気はないですから。
52 :
25 :2005/05/03(火) 22:26:00 ID:KSGRIS4n
>>51 遁走するのはご自由です。
ただし、あなたには烙印が押されます。
中観について何一つ理解できていない無知蒙昧
それなのに知ったかぶりする愚か者
間違いを基に人を中傷し、謝罪もしない卑怯者
最後には屁をたれて逃げてしまう魑魅魍魎
これでもあなたはまだ発言しますか?
53 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:33:16 ID:B48AxGnb
>そういうことしか吐けないから、皆さんはあなたのことをきちがい、まぬけ、低脳、恍惚老人、 >低学歴、読解力ゼロ、前後不覚、脳梅毒というのです。中観と般若経典との決定的相違点 >などお前にわかるはずも無い。 こういうことを書いているんだから、私は無知蒙昧 なんでしょうね。 >これでもあなたはまだ発言しますか? 勿論、発言はします。 掲示板ですから。そのように使います。 では、おやすみなさい。
54 :
25 :2005/05/03(火) 22:35:23 ID:KSGRIS4n
>>53 発言したいのであれば、責任を果たしなさい。
その責任を果たさないからいろいろののしられるのです。
55 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:41:22 ID:B48AxGnb
>>54 >その責任を果たさないからいろいろののしられるのです。
ののしられる。って????
貴殿が、ののしってんだろうよ(笑
責任を果たさない。って???
だから実存主義は中観には関係ない。って逝ってるだろうよ(ニガワラ
56 :
25 :2005/05/03(火) 22:47:31 ID:KSGRIS4n
>>55 こんどは、その下品さが露呈してきましたね。
あんたを罵っているのは私だけではありません。先ほどの罵倒語はすべて満遍なく
あなたに対して発したものを拾っただけです。
「実存主義は中観には関係ない」?そんな話ではありません。もっと人の発言を
読みなさい。あなたが「西田は実存主義ではない」と間違ったことを言って電波師を
批判したのですよ。そのことを問うているのです。
さて、実存主我は中観とは関係ないと言うのですか?不見識ですね。中観の思想が
実存主義に及ばした影響は否定できませんよ。だからあんたは実存主義を知らない
というのです。
57 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 22:54:41 ID:B48AxGnb
>あなたが「西田は実存主義ではない」と間違ったことを言って 貴殿には、何回も説明したろうよ。 >さて、実存主我は中観とは関係ないと言うのですか?不見識ですね。中観の思想が 実存主義に及ばした影響は否定できませんよ 及ぼした影響か???? んなもの結び付けてもどうにもならん。 まあ、そういう話は哲板にでも書き込んだらいいよ。 ここはスレ違い。
58 :
25 :2005/05/03(火) 22:59:54 ID:KSGRIS4n
>>57 下品さがよく出てきており、おめでとうございます。
>貴殿には、何回も説明したろうよ。
説明になっておりません。西田は実存主義ではないと言い切ったのですよあなたは。
>及ぼした影響か????
>んなもの結び付けてもどうにもならん。
あなたの発言に対してコメントしたのに「どうにもならん」とは、これ如何に。
無責任極まるご発言ですね。
>まあ、そういう話は哲板にでも書き込んだらいいよ。
>ここはスレ違い。
哲学板にでも?なにそれ?そんないい加減な態度で仏教を語ってたのですか?
見下げたお人ですね。スレチガイ、場違いはあなたの方ですよ。
59 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 23:04:17 ID:B48AxGnb
>見下げたお人ですね。スレチガイ、場違いはあなたの方ですよ。 まあ、なんとでも言うていいから。 好きなことを書き込みなさい。 して、何ゆえ私に突っ込み入れる??W
>>57 ちっとも『スレ違い』では無い上に、逆にスレに沿っている話題。
スレ違いなのは『禅スレ』『仏教質問箱』に続いて『自己流解釈』を垂れ流してるお前さん。
『お花畑板』にでも行きなさい。
机は『禅』側から見ても間違ってますんで…
禅者は全て『こんなもんだ』などと思わないで頂けます様に…
61 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 23:05:31 ID:B48AxGnb
私くらい突っ込み入れやすいコテハンはいない(W
62 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/03(火) 23:06:30 ID:B48AxGnb
では、これで寝ます。
63 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/04(水) 11:32:53 ID:pLVwGfqM
NGワードあぼ〜んで判らんけど、また外道野狐が出てきて蒟蒻問答をやってるみたいですな。 蒟蒻問答ならこんなところではなく寄席で見るけどね(藁)。
64 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/04(水) 23:39:33 ID:43gUjzAi
>現在、電波師は急性肺炎により、ICUにて緊急加療中です。 大禍無いと良いですね。 一日も早く全快されて、無事退院されることをお祈りいたします。
>>64 机、出てきてるよ…
☆☆☆統一教会質問箱o(=^‥^=)o談話室☆☆☆4
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1114081088/406 406 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [sage] 投稿日:2005/05/04(水) 20:16:01 ID:qlOc8bfw
>>404 >>405 私は元気です。
誰もいない彼女達の部屋を見渡すと、そこに彼女達が日常に使う歯ブラシが置いてあった。
私はおもわずその歯ブラシを舐めてしまったのです。
なんとなく甘美な感情が湧きあがった。
ただそれだけですが。
安物の歯ブラシだったですが、彼女達は大事に使ってましたね。
勿論、私が舐めたのは分かってませんでしたが。
分かったとしても、彼女達はたぶん洗ったりしなかったかと思います。
本当の兄弟のような付き合いだったですから。
書いてるのは今日の今日だが…
66 :
折伏明王 :2005/05/05(木) 00:23:21 ID:sAtVHLP5
>アホダラ >ハルカ まったくおまえらときたら横からチャチャいれやがって。 よえー奴らは何かったら仲間あつめて集団でかかってきやがるから タチわりいよな。さっさといねよ。チンカスくせえぞ。
なんかだんだん電波教カルトの様相を呈してきたな。
68 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 06:26:11 ID:4HSaR/29
今の時代に、哲学に興味のある人は少ないかとおもうが・・・ それでも私の青春期は、哲学は衰退はしてたけど少々関心のある人はいた。 しかしながら喫茶店とかで哲学の話をするのは、少々恥ずかしい思いはしたもんです。 宗教もそうですが、哲学の話もあまり公では話しずらい。 そう思いませんか? 哲学は既にカビが生えてしまった。 懐古趣味、というなら別だけど。 今どき・・・・哲学なんて(笑
69 :
ヒロシ :2005/05/05(木) 08:31:39 ID:n5Ah3m9y
創価は爆発だ
70 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 14:35:56 ID:uoZEidpz
電波のとりまきマジウザ
71 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/05(木) 18:55:07 ID:9V4e453+
72 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 19:03:30 ID:NhAGz9gj
阿呆陀羅經、低脳あぼ〜んの登場か
ナーガールジュナは特定の思想や哲学を提示して 他の思想を排撃したのか? 言語活動の根底にある論理性そのものの限界を提示して 結果としてあらゆる思想、哲学の限界を論理性をもって示しただけだろう。
74 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 19:28:10 ID:4HSaR/29
哲学の行く末は、考え過ぎて神経症とかノイローゼになる。 そこまでは逝かないまでも、あまり健全とは言えない。 だいたいがオタッキー的な人間が哲学を好む。 哲学では喰うてはいけぬ。 こんな非合理的なことに関心があるのは、一種病的である。 仏教はこの観点からすると、非常に合理的です。 こういった非合理的なもんも一切含んでしまう。 ナーガールジュナにはこんな魅力もあるけど、 このスレで語ちても・・・・果たして意味があるのか? そこが疑問。
>>74 机
『哲学』に付いて何も知らん癖に、思い込みだけで語るなよ。
一丁前に。
いいか?
『哲学』ってのはなぁ…
『無限界の探求思考』の事だ。
『論理的考察方法の追求』だ。
お前さんは『気が狂い兼ねない程の探求』をする事すら出来ないから、そうやって陰口しか叩けないんだろ?
クズが。
76 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 19:53:18 ID:4HSaR/29
>>75 >『哲学』ってのはなぁ…
>『無限界の探求思考』の事だ。
>『論理的考察方法の追求』だ。
こんなこと言うくらいだから、貴殿は全く禅というもんを分かってない。
禅は、こういうことも意味がなくなる。
西洋哲学と禅は噛み合わないのだよ。
そういうことに関しては・・・・私は無学です。
すまんですね。
>>76 机
> 禅は、こういうことも意味がなくなる。
> 西洋哲学と禅は噛み合わないのだよ。
馬鹿言ってんじゃない。
そういう『思考し尽くす事』『思考を焼き尽くす事』すら出来ないで、何が『禅』だ。
寝呆けた事言ってんなよ。
『禅』とは、思考が出来ない者の『逃げ道』では無い。
78 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 20:02:22 ID:4HSaR/29
>>77 私は思考はできません。
まあ、ハルカ殿はどんどん思考をやってくださいまし。
>>78 机
また自爆してんのか。
> 私は思考はできません。
と言っている時点で
『私の言っているのは、全て無根拠の思い込みです』
って告白してるようなもんだ。
思考すら出来ないのなら、黙ってろ。
このド低能が。
80 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 20:14:09 ID:4HSaR/29
>>79 弁証法というのは、私はサンザンやったんですよ。
これはやったもんしか分からんのです。
まあ、深く深く思慮してください。
イケイケしている段階では、まだ哲学の初歩です。
どうか哲学を究めてくだされまし。
81 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 20:19:03 ID:qo8MC/ng
>>80 机
そうやって『負け惜しみ』しか言えないんだろ?
『内容のある事』を何も言えないから。
惨めだねぇ…(嘲笑)
82 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 20:21:28 ID:4HSaR/29
>>81 そうですか。
すまんですね。
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
83 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 20:26:46 ID:qo8MC/ng
>>82 机
『禅者』を自称するなら。
せめて『思考に使役される』んじゃなく『思考を使役して』みなさい。
それが出来ないなら、単なる『負け惜しみ』『負け犬の遠吠え』『妄言』でしかないよ。
84 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 20:31:26 ID:4HSaR/29
>せめて『思考に使役される』んじゃなく『思考を使役して』みなさい。 こういう主客転換こそが西洋哲学の弊害。 まあ、貴殿に言うても分からんかとおもうが・・・
85 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/05(木) 20:42:36 ID:yOBDjgf9
どうあがいても手も足も出ないテイノーダルマ・野狐外道をいじっても時間の無駄です。
86 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 20:46:45 ID:qo8MC/ng
>>85 阿呆陀羅經
だね。
これは、私が悪かった。
少し大人気無かったかな?(苦笑)
87 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 20:52:49 ID:MNaczxYA
机氏の独特で思わせぶりな語り口の背景にあるものは、只只、自分の稚拙な 仏教知識や理解を糊塗する為でしかありません。そのための姑息な小細工と して、論点ずらしはもちろん、相手の裏を掻く・意表を突く、というようなレス作 戦を用いてきます。それもあまりにも見え透いていてマンネリ過多となっておりま すが。思わせぶりな肝心の中味を語ろうにも、その思索過程も根拠もなにも無 いのですから、一時が万事、終始そんな調子です。内省も修正も向上も無縁な 人種と言うものは実際にいるようです。 こういう粘着気質で強烈な劣等感を持った人間は、批判されればされるほど、 ますます我執を肥大させ、自縄自縛に陥ることに吝かではないのです。 レスの中にしばしば滲ませる【(ニガワラ】は、精一杯の虚勢を張って、【ゆとり】 を示そうとしているようですが、それは見苦しく痛々しいまでの【卑屈】な心境 を告白しているにすぎないのです。
88 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/05(木) 20:53:14 ID:yOBDjgf9
>>86 いえいえ、毎度お疲れです。放置プレイのほうがスレを有意義に使えるかと・・・。
>>83 >せめて『思考に使役される』んじゃなく『思考を使役して』みなさい。
すみませんが「思考」と「思考する人」は別々なんですか?
思考を使役する人が実体としてあるのでしょうか?
行くものは行かないに反するよ。
90 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 21:11:15 ID:HcwV7pUa
ナーガールジュナは「形而上学的論議」を批判しています。
91 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 21:18:13 ID:qo8MC/ng
>>88 阿呆陀羅經
放置プレイよか…
自分の愚かさを自覚させる試みをした方がいいんでない?
無駄に終わるだろうけどさ ⊂⌒~⊃。Д。)⊃
92 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/05(木) 21:26:46 ID:yOBDjgf9
>>91 相手にもしてやらず、有害な朦朧言説を垂れ流す余地を与えないほうがいいと思いますが。
>>87 氏の分析など的を得ていると思います。目に余るときは痰でも引っ掛けて後は放置く
らいに止めて置くのが適当な処置かと考えますね。
93 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 21:28:59 ID:qo8MC/ng
>>92 阿呆陀羅經
ん。
今回は『哲学について、いい加減な語りをしていた』から。
捨て置けなかっただけだしね。
カルマシーラ説は一見もつともらしく見えるが致命的な欠陥がある。 分別知と無分別知は元来相互に独立・不可侵の関係である。 分別知によつて個別観察された無分別知はもはや無分別知ではありえない。 言葉と文字の世界から言葉と文字を否定した世界を窺い知ることは出来ない。 これは明らかに論理矛盾(パラドツクス)である。
95 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 22:39:52 ID:4HSaR/29
>>94 >これは明らかに論理矛盾(パラドツクス)である。
論理もまた分別智なるがゆえ、この殻から抜け出さねばならんだろうけど・・・
果たしてこういう話に関心のある人はいない。
話たとしても叩かれるのが関の山。
まあ、それだけ中観の話題は縁遠きもんなんだろうね。
96 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 22:57:53 ID:ZSCJ//qe
>>94 その理解なら、おそらくディグナーガでさえ手に負えないでしょう。
机氏は論理空間内部で、メビウスを終焉のない螺旋だとヴィクリプ
しているのでしょう。気のふれた人は相手にしないことです。
97 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 23:07:56 ID:4HSaR/29
>>96 >机氏は論理空間内部で、
ほらほら・・・「論理空間内部」と。
どうしても「論理」から離れられないのですね。
だからこのスレでは無理だと言うておるのです。
では、おやすみ。
君たちは哲板にでも書き込みしてた方が宜しかろう。
98 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 23:12:22 ID:ZSCJ//qe
気のふれたお人が言葉を発しているけど、その時点で論理空間内部から離れていないことに 気づかないのは先ほどに説明したとおりです。なんか、毎度毎度みごとに釣られていますね。 こうかくと、またあの手で、、、、(以下ry
99 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 23:16:33 ID:ZSCJ//qe
>>84 机が基地外である証拠
>こういう主客転換こそが西洋哲学の弊害。
いまどきこのように、西洋哲学を型にはめて考える硬直した思考と、なんでも決め付けないと
物事を考えることができない腐乱脳
100 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 23:19:53 ID:4HSaR/29
>その時点で論理空間内部から離れていないことに 「論理」というなら、哲学がもっとも論理的です。 中観は、論理より程遠い。 このスレにおいて論理を追及しても、あまり意味はない。
101 :
ハルカ ◆0tZOcyVq86 :2005/05/05(木) 23:23:53 ID:xM7Ukbbw
『中観』ってのは『純粋な論理思考の産物』なんだがね…
102 :
名無しさん@3周年 :2005/05/05(木) 23:24:01 ID:ZSCJ//qe
>>100 >中観は、論理より程遠い。
あはははは。
中観ほど洗練された論理はない。論理学としてインドでもっとも発展したのは中観派の論理学。
現代論理学でもってもまだ解明され尽くしていない。
即非の論理といっているようでは、何回死んでも絶対に中観は理解できないでしょう。
で、宿題はまだ?
103 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/05(木) 23:31:33 ID:4HSaR/29
では、君たちは論理的に思考して中観を究めてくださいまし。 君たちには、かないませんなぁ〜〜 ( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \ では、おやすみ。
104 :
折 伏 明 王 :2005/05/05(木) 23:49:58 ID:G6RahgN4
>>アホダラ おい、見えてるか?ヒマ人。 おまえ、NGワード設定してるわりには、 机が出てきたらキチンと登場してるよなあ。 ほんとは好きなんだろ? 正直に生きろよな。 ( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
105 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/06(金) 00:12:05 ID:1vizfBWB
たぶん、机さんには「論理」という言葉の意味、使用法等がわからないんだと 思います。中観が論理的でなければ何を論理的と言うんだろうね? 以前も色は五蘊で五蘊が色だとか言ってたけど、致命的な勘違いが多いよね。 始めも中ほども終わりまで論理的に思考し実践して、自分で納得できるように 説かれているのが仏教ですね。
106 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 05:51:36 ID:fg8ij+ZW
>たぶん、机さんには「論理」という言葉の意味、使用法等がわからないんだと ならば、自己矛盾もない。すべてが論理的でことたりる。 煩悩もあるはずはない。 >以前も色は五蘊で五蘊が色だとか言ってたけど、致命的な勘違いが多いよね。 空というものはない。 ならば、全てのもの(現象)は色である。 言葉を発言するのも色である。
107 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 05:55:54 ID:fg8ij+ZW
勝義においての「論理」と、世俗においての「論理」は意味が違う。
108 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 10:59:19 ID:Xvzr8SCQ
またまた「机は馬鹿である」証明がでてきました。 >ならば、自己矛盾もない。すべてが論理的でことたりる。 >煩悩もあるはずはない。 これだから机には論理がわかるはずないというのだ。自己矛盾やさまざまな様相、 真であれ偽であれ、多値であれ、矛盾であれ、不充足であれなんであっても、それ を的確に示そうとするのが論理手法なのである。 >空というものはない。 >ならば、全てのもの(現象)は色である。 >言葉を発言するのも色である。 現象を何に限定するかという作業もなしにその断定か?五蘊で捕らえるのであれば、 あんたは「と」。無色界も知らないんだろ? 世俗において論理を尽くした後、勝義に導入される。これは中観派の常識。 よって、机には中観はもろより仏教そのものも無理。
109 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 11:24:30 ID:fg8ij+ZW
>>108 >世俗において論理を尽くした後、勝義に導入される。これは中観派の常識。
こういう発想自体が、哲学オタと同じです。
これなら生死大海に逝くこともなかろう。
机上の論理にて全てが解決する。
勝義は帰納法ではない。それなら哲学で充分。
>世俗において論理を尽くした後、
では、論理を尽くしてくだされ。
尽くすどころか、終始わたくしへの煽りのことで・・・それどころではない。
そうであろう。
お見通しであろう。
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
110 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 13:51:47 ID:mKWjmOYY
あ
111 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 14:04:03 ID:pT3gZ8Oj
龍樹の「龍」は、インド古来のナーガですが 中国になると少し意味合いが違うようですね。 龍は中国においては平和の象徴にあたると聞きました。 この龍は、猫とか犬とか熊、蛇などを合成して 生まれた説など生き物の総体とみなされることがある。 つまり、あらゆる文化の統合だから平和の象徴と。
112 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 14:09:49 ID:Xvzr8SCQ
>>109 下品ですね。世俗対の所詮・能詮、因明を尽くした後に勝義諦が開かれるというのは
竜樹自身の言葉。あんたはこのスレッドにはふさわしくないから出て行きなさい。
113 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 14:16:37 ID:mKWjmOYY
第五章的には唯名論なのか。被限定の個物と限定する普遍、 或いはこれを時間論化して、無停滞的純粋な流れと停滞性、か。 可相は個物、相は普遍と考え得る、のではないかと思うが、 第五章はどちらも認めないから、個物と普遍の二元論も、 個物は有だが普遍は非有、というのも認めないのではないか。 戯論は、二元論化して先ず相互に離れてありえて、 それが結合したり離れたりすると為すことではないのか。
114 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 14:42:22 ID:fg8ij+ZW
>>112 >下品ですね。世俗対の所詮・能詮、因明を尽くした後に勝義諦が開かれるというのは
勝義諦が開かれて「無色界」ですか?
貴殿は、勝義も世俗もチャンポンです。
チャンポンですと、私がどうレスを付けていいのか?
>あんたはこのスレッドにはふさわしくないから出て行きなさい。
いえいえ、貴殿が勝義を開いたことに関しては伺っておりません。
続けで勝義の書き込みキボンヌ
115 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 15:00:59 ID:Xvzr8SCQ
>>114 完全に狂っていますね。無色界は勝義ではありません。
無色界自体、あんたは知らなかったんでしょ?
あなたには竜樹は語れない。
116 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 15:46:07 ID:fg8ij+ZW
>完全に狂っていますね。無色界は勝義ではありません。 ならば、無色界も意味はない。 意味なくば、そこにおいて勝義をどう導きますか? そこが大事です。 さあさ、どうか勝義の書き込みを木ボンヌします。 書いてくだされ。 世俗のことはどうでもよろしいですから。
117 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 16:14:54 ID:Xvzr8SCQ
>>116 馬鹿に語る必要なし。
それより、無色界て解ってるの?
118 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 16:21:46 ID:fg8ij+ZW
>それより、無色界て解ってるの? 無色界という言葉の世界です。 まったく意味はありません。 意味なくば既に私の辞書にはない。 なにもないんです。 すまんですね。
119 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 16:29:32 ID:fg8ij+ZW
>>117 >馬鹿に語る必要なし。
もう、馬鹿を相手にすることもなかろう。
これにて終了です。
世俗の書き込みを見てもしょうがない。
120 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/06(金) 18:05:31 ID:1vizfBWB
「世俗の書き込みを見てもしょうがない。」って… 言語活動そのものが世俗ですよ。世俗における論理的な言語活動を通して 涅槃(勝義)に導入して行くのが仏教じゃないですか。釈尊は涅槃を得てからも 死ぬまで世俗の言語活動を続けられましたよ。言葉の絶えた世界を「伝える」のも 「言葉」でしか出来ないんですよ。だから仏説と言う真実を伝え、正しく論理的な 言語活動を世俗の真理(世俗諦)と言うのです。その世俗諦を通して言語では表現 しきれない、実戦・経験を通したあるがままの真実の世界(勝義諦)に悟入する のだと思いますよ。
121 :
113 :2005/05/06(金) 18:16:06 ID:mKWjmOYY
第五章というのは観六種品第五。
122 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 18:29:22 ID:fg8ij+ZW
>>120 >その世俗諦を通して言語では表現
>しきれない、実戦・経験を通したあるがままの真実の世界(勝義諦)に悟入する
>のだと思いますよ。
そうですね。その悟入したもんを書いて頂かねばなりませんね。
もうこのスレも終了かとおもいましたが・・・
かろうじて逝き伸びるかもしれません。
続けて悟入したもんキボンヌ。
123 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/06(金) 18:51:41 ID:3PFj5kIH
>>120 汚穢を踏み付けても履物が穢れるだけですよ。老婆心まで。
ちょっと横レス。
>>120 >言語活動そのものが世俗ですよ。
>世俗における論理的な言語活動を通して
>涅槃(勝義)に導入して行くのが仏教じゃないですか。
そうすると言語活動は涅槃への手段となるのでしょうか?
言語活動の因があって涅槃という果がある?
125 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/06(金) 19:32:58 ID:1vizfBWB
>そうですね。その悟入したもんを書いて頂かねばなりませんね。 「悟入したもん」は言語表現の範疇を超え出ていますね。 「悟入したもん」は「観じたり」「感じたり」するもんで 「悟入したもん」そのままを「書く事」はできませんね。 「悟入する方法」はたくさん仏典に説かれておりまする。 ちなみに私自身は悟入した経験がないので、「悟入したもん」が何なのか、 どう言う表現がされ得るのかは、実際に悟入経験のある釈尊の経験談が伝えられる 古い仏典をお読みになられるのが良いかと思いまする。
126 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 19:41:24 ID:fg8ij+ZW
>>125 >「悟入したもん」そのままを「書く事」はできませんね。
いえいえ、書くことは出来ます。
私は毎度書いておるじゃ〜ないですか。
書いても”馬鹿”扱いになりますがね。
それだけ中観というのは世俗には程遠い。
127 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 20:03:59 ID:fg8ij+ZW
>>105 >中観が論理的でなければ何を論理的と言うんだろうね?
論理的というのは、二元論法において論理的であるわけです。
中観は、この二元論法にはそもそもそぐわないのです。
ならば世俗的に論理的であっても、それは勝義においては論理的ではないですね。
つまり、世俗の論理性は勝義では通用しない。
128 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 20:37:08 ID:RWHe4KSj
机さんは、見性を体験したんですか? 机さんが、自分しか気付いていないだろうと思ってることは、実は他の人もとっくに気付いてることで、ただ互いに相手が気付いてることがわからないだけでは?
129 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/06(金) 21:43:05 ID:fg8ij+ZW
>>128 電波先生の取り巻きは、「仏教は一如の法門にあらず」と言いますね。
では、中観はなんなんでしょう?
これを説明して頂きたいかとおもうています。
もしや良スレの悪寒?
( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
130 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/06(金) 22:40:13 ID:4hIvgGT3
さて、そろそろ宿題をしなきゃ・・・ 某キャッシュよりコピペ ----------------------------------------------------------------------- 唯名論と本質主義について 唯名論について ・言語には相互性がある。この相互性のために言葉による分別が付くわけである。 ・この相互性のある2語(正確には2語以上)の間にはある関係が成立していると 考えられる。 (例えば、自存性と付属性、原因性と依存性、同一性(肯定)、非同一性(否定)、 単一性と全体性、相互(補完)性、等がそうである。 ) ・言語の分離は何故起きているのかを考えると、その境界は「非常」に「曖昧」である。 (例:希望と絶望 現在希望であるということは、現在その状態に成っていないと いうことであり、そのことは正しく絶望である。 ) 境界が曖昧であるということは、言葉(名前)が在っても、その言葉の示すような 存在は無いということである。
131 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/06(金) 22:40:46 ID:4hIvgGT3
本質主義について ・「すべてがaのためにおきている」この文の判断を見ると、 「すべて」は全体性を示す(反対は単一性) (判断の分量) 「aのため」は原因性を示す(反対は依存性) (判断の関係、因果性) またここで「すべて」の指す内容は、 1科学的な法則 2個人的な法則 3社会的な法則(社会関係は、個人的な法則によって成り立っているので、どの立場に 立っても客観的には一方的であるが、行為の過程やある結果が生まれ れば社会的には相互的である:マックスウェバー改 ) 3ー1社会的な意味内容が相互合意により協定されたためにある法則 3ー2社会的な意味内容が相互に一致したためにある法則 3ー3慣習 上記の2と3であると考えられるが、上記123の概念を含む言葉として「神」が既に在るので ここにおいて「すべて」の原因となっている「a」よりは「神」を問題とする議論に任せた方が よい。「神」以外の言葉によってはすべてを含むという意味での全体性になり得ないことは、言 葉に相互性があるということから明確である。 但し、現在、諸研究が狭く深くなっており、一般社会との乖離が進んでいるために、物事を考え る上で一つのことから全体を見るというのは、避けられないことにみえる(ことであるという程 まだ考えていません) 唯名論が本質主義の対立語となる理由 言語は分離によってできている、それはすべての言語に相互性があるということから分かる。 -------------------------------------------------------------------------
132 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/06(金) 22:44:57 ID:4hIvgGT3
なんか余計に判りにくくなったような気がしますが(汗)、唯名論の主張は“「物質」など というものは名目上のものであるだけで、実在はしない、というところにある”と感じます。 要は“実在論(=本質主義)の否定”ということで・・・ うーん、、、、 阿呆陀羅經さん、中観とつなげるキーポイントって、やっぱり唯名論そのものにある (論駁の為に利用する対極の理論ではなく)と感じるんですが・・・・間違ってますか?
133 :
名無しさん@3周年 :2005/05/06(金) 22:51:10 ID:vKEla7Vh
ナーガールジュナは、決して負けることのない論理を お持ちのようですが、そのナーガルジュナの 思想を理解しようとすればするほど、その天才ぶりに 圧倒してしまいます。 わたしは、時間がないと言い切ったナーガールジュナの 理論に圧倒されました。 これだけ、カレンダーや時計に生きている人間の中では そのような事を納得するのは物理学くらいではないかと。。。 いや、世の中にはいると思いますが。。 しかし、そのナーガールジュナが驚いたのが おそらく釈尊の言説ですね。 自分のこの完璧な理論を釈尊は存じておられた可能性が大きい。 しかも、世尊は自分のような難解な論理を用いる事が無かった。 ナーガールジュナを考えていますと、真理とはいかに難しいか。 釈尊なら、真理とは簡単なことだよと思えてしまいます。
134 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/06(金) 22:58:20 ID:4hIvgGT3
135 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 06:50:44 ID:F4bMyEo0
涅槃は論理的思考を越えている
136 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 07:09:12 ID:E1wnxmlO
>>132 >要は“実在論(=本質主義)の否定”ということで・・・
既に貴殿は答えを書いておるじゃありませんか?
そのように調へば宜しかろうにおもいます。
中観は、唯名論も本質主義も含んでしまいます。
こんなこと考えたら実存主義などと言ふのも馬鹿馬鹿しくなりますね。
西洋哲学はチンケになります。
まあ、ここに書き込みしてる御仁はまだ西洋哲学かぶれが多いようですが・・・
137 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 07:17:59 ID:E1wnxmlO
>>133 >わたしは、時間がないと言い切ったナーガールジュナの
>理論に圧倒されました。
そうですね。
人は時間というのは経験でしか認識できないですからね。
時間は連続していない。
などと言われても、直ぐには納得できない。
時空は一如ですね。
空間の歪みは時間の歪みである。
時空は常住にあらず。
138 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/07(土) 08:58:22 ID:VYwFqZtq
>>130 ええっと・・・。
>要は“実在論(=本質主義)の否定”ということで・・・
もっと言えば「本質」あるいは「本体」を論じる諸見解を論理的に破壊したのではないかと考えます。
唯名論にせよ、役割を終えれば退場させられているのではないかと考えるのですが。唯名論も
追究すれば形而上的見解の一つとなってしまうのです。
>>133 >しかし、そのナーガールジュナが驚いたのがおそらく釈尊の言説ですね。
同意です。『根本中頌』全体に佛陀に対する龍樹の尊崇の念が看取出来ますし、それがこの
書の「佛教原理の綱要書」たる性格を基礎付けていると考えます。
>>138 阿呆陀羅經さん
>唯名論にせよ、役割を終えれば退場させられているのではないかと考えるのですが。
あぁ、そういうことですね。理解できました。
感謝致しますm(__)m
140 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 09:35:34 ID:0x3Ykvxf
理屈だけでなく実践しろや。釈尊は実践の人だった。屁理屈屋じゃない。
141 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/07(土) 10:09:20 ID:R9O3VqQa
じゃそういう理解をしておいて、次は中観の論書を眺めてみますか。
142 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 10:11:29 ID:zAdshxY4
>>140 言葉をつかってコミュニケーションをとっている掲示板で「実践しろ」とはこれいかに。
実践すべき実生活においては実践していて、ここでは言葉を使う。これがけじめある
良識人のすること。
言葉を使う場所で、実生活ですべきことを持ち込む人はけじめ無く、ことのよしあしを
判断できない未熟な我侭人と言えるでしょう。
このスレの住人は哲学が分かってない人が多そうだね。 文献学の手法で哲学やっても分からんよ。 >言葉をつかってコミュニケーションをとっている掲示 余計なお世話かもしれないけど 言葉を使ってコミュニケーションをとるのも立派な実践でしょう。 もうすこし謙虚になられた方がよろしいかと思いますよ。
144 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/07(土) 10:59:16 ID:R9O3VqQa
ま、確かに私は哲学ちーとも判っとらんですが。
>文献学の手法で哲学やっても分からんよ。
恥を偲んで申し上げれば文献学についても無知ですが(汁
ここまでなら問題なかったんですが・・・
>言葉を使ってコミュニケーションをとるのも立派な実践でしょう。
これは多分に論点のすり替えかと。
発端は
>>140 氏の意味不明な書込みです。掲示板上において
「屁理屈はやめて実践しろ」という発言に対し、
>>142 氏が「ここでは
言葉を使う場所だ」と反論されたわけです。つまり
>>140 氏の意図を
「掲示板でくっちゃべるの辞めれ」という風に捉えたわけですね
(実際そうとるのが自然かと思います)。
で、もし
>>143 さん、貴方がいうように
>言葉を使ってコミュニケーションをとるのも立派な実践
なのであれば、最初から
>>140 の発言は無用なわけです。
なぜなら発言している皆は「実践している」わけですから。
さらには
>>140 にある「理屈ではなく実践しろ」という発言が自己矛盾を含む
ことになりますよ。理屈(掲示板上でコミュニケーションをとる為に
必要な論理展開)=実践なのでしょう?
最後の一行は意味不明です。どういう文脈で「謙虚」という単語が
出てきたのですか?
>>144 >最後の一行は意味不明です。どういう文脈で「謙虚」という単語が
>出てきたのですか?
>>142 さんの発言を読んで
>>140 さんを見下しているように思えたのですが
私の気のせいでしたか?
146 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 11:20:57 ID:E1wnxmlO
_____________________________________ 電波先生の取り巻きは、「仏教は一如の法門にあらず」と言いますね。 では、中観はなんなんでしょう? _____________________________________ お題が既に出ております。 皆さま、いろいろとご教示くだされましm(__)m
147 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/07(土) 11:21:29 ID:R9O3VqQa
どうなんでしょう?
私には
>>142 さんが
>>140 さんを説得している・或いは諭している風に読めました。
見下す云々については、私は
>>140 さんの発言こそ、ここの発言者
一同を見下してるように感じました。
これも私の気のせいなのかもしれませんが。
あるいは私の未熟さなのかもしれません。
掲示板ってのは難しいですね。
書込みだけで全てを判断されてしまうのですから。
ま、これぐらいにして、
>>143 さん、貴方も実践的な議論に御参加
くださいませんか?
前述致しました通り、私は哲学にも文献学にも無知ですし。
中観とナーガールジュナについて、哲学的に切り込む視点から、お考え
を聞かせて頂けたら幸いに存じます(あたしゃハクチなのでネコに小判と
思われるかもしれませんが)。
148 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 11:28:23 ID:E1wnxmlO
そぉですね。 仏教は「行学二道」とも言いますから、教学も大事なんでしょうね。
>>147 >どうなんでしょう?
>私には
>>142 さんが
>>140 さんを説得している
>・或いは諭している風に読めました。
そうですね。
判断するのは自分ですから
相手がどう思っているか分からない。
しかしね、大事なのは
あなたや私に
>>142 さんの心が分からなくても
142さんは自分で自分の心が分かっている、ということです。
あなたも自分の心は自分で分かるでしょう。
その自分の心に照らしてみて反省する。
それが私が言いたかった実践です。
理屈だけならいくらでも逃げ口上でそんなつもりじゃなかった
と言い訳できますし他人には分からないですからね。
150 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 12:23:36 ID:kBZMSRGv
質問スレの方が適当かもしれませんが。 第二品の gata(已去) agata(未去) gamyamana(去時) 括弧内は漢訳です これらは単体では厳密にはどう読むべきでしょうか? 例えばgataの場合「すでに去られた」という受動的なのか、 「すでに去った」という能動的なのか、 また、すでに去られた/去った、“ところ”か“もの”か “こと”か“状態”か“世路”か、是等ではないのか。 どうでしょう?
151 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 16:21:53 ID:msxPUo7T
>>137 >時空は一如ですね。
>空間の歪みは時間の歪みである。
>時空は常住にあらず。
私には、一如というのが分かりません。その境地にならないと
使ってはいけない言葉のような気がしまして。。
教えていただいたのですが、物理学には経路積分という
理論があるそうですね。
もし、それを現実世界に当てはめる事が出来るのならば
今という一瞬は過去と未来をすべての総和と言えるのかな。
時間とか空間とかの概念をするときは、ただ分解をしている
と思えてしまいますが、とにかく、ナーガールジュナの
時間の記述は、ただ事ではないと個人的に思いました。
釈尊といい、ナーガールジュナといい、実はたいした事が
ないんじゃないかと思わせる所が恐ろしいです。
152 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 16:24:10 ID:E1wnxmlO
>>150 >また、すでに去られた/去った、“ところ”か“もの”か
>“こと”か“状態”か“世路”か、是等ではないのか。
>どうでしょう?
というよりも、
gata(已去)と agata(未去)は対立してますから、あまり意味はない。
つまり消去してもいいかとおもいます。
それよりもgamyamana(去時)ですね。
「現に去られつつるもの」も、同じく否定して宜しいのか?ってことが肝要かとおもいまふ。
>>137 に書いたように、時間そのものも本性としてあるわけではなく、
依存によってある。
つまり、今という時間さえ依存なくして有り得ない。
というところが中観のポイントかとおもいます。
153 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 16:35:54 ID:E1wnxmlO
>>151 私が書いている間に被りました・・。
>私には、一如というのが分かりません。その境地にならないと
ブラックホールは空間が濃密になれば、それに比例して時間の速度も速くなる。
これも相対でしかありませんが・・・
相対なくば、空間も時間も比較のしようがありません。
現実世界の話です。
>今という一瞬は過去と未来をすべての総和と言えるのかな。
簡単に言えば、そういうことですよね。
>時間とか空間とかの概念をするときは、ただ分解をしている
と思えてしまいますが、
そうですね。
余計なことはせんでいい訳ですね。
余計な思推が、かえって迷うのです。
154 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/07(土) 17:14:16 ID:wpx5NRE3
>>151 佛陀釈尊にせよ龍樹にせよ、時間論や空間論、あるいは物理学等には無関心もしくは
無頓着です。
155 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 17:19:50 ID:6e7R3jm4
理屈だけ論じているこのスレの人たちと違って釈尊は偉い。
156 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 17:29:04 ID:kBZMSRGv
>>152 何か勘違いされている様ですが聞いているのは、
第二品の解説や貴方の私見ではなく、
gata agata gamyamana の訳し方です。
157 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 17:37:51 ID:E1wnxmlO
>>156 そうでしたか。申し訳あいません。
私は訳は苦手です。
まあ、普通に訳して、
「すでに去られたもの」gata
「未だ去られていないもの」agata
「現に去られつつあるもの」gamyamana
この程度しか出来ません。
ようするに、単純に時間のことかと理解しています。
他の方のレスを木ボンヌします。
158 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 17:45:04 ID:kBZMSRGv
>>157 ありがとうございます。
「すでに“去った”」という能動形なのではなく、
「すでに“去られた”」という受動形が正しいということですね。
それから「すでに去られた“もの”」となっていますが、
中村先生等は「すでに去られた世路(時間の路)」としていますが、
何故“もの”なのでしょうか?
159 :
名無しさん@3周年 :2005/05/07(土) 17:48:37 ID:kBZMSRGv
能動か受動かにこだわっているのは、 25偈で去ること、去る主体、去られるべき処というのが 出てくるのですが、この去られるべき処が、 gata agata gamyamana だと立川先生がお考えになっているからです。 この三は去る主体に対して客体に当るのか、が知りたいのです。
160 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/05/07(土) 17:56:35 ID:wpx5NRE3
>>155 「理屈」すら理解できなくて何を吠えてることやら(失笑)。
161 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 18:12:32 ID:E1wnxmlO
>>159 中観ですから、主体も客体も合一かとおもいますが・・・。
無自性で、縁滅してしまいますから、
>この去られるべき処が
この意味は、どうも私には分かりません。
>gata agata gamyamana だと立川先生がお考えになっているからです。
そうですか。
では、他の方のレスを木ボンヌします。
162 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/07(土) 18:19:15 ID:E1wnxmlO
>>158 >それから「すでに去られた“もの”」となっていますが、
>中村先生等は「すでに去られた世路(時間の路)」としていますが、
>何故“もの”なのでしょうか?
単純に私は、装飾語かと理解してましたが・・・
他にレスを木ボンヌします。
163 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/05/07(土) 23:58:57 ID:tGzi/9Be
164 :
名無しさん@3周年 :2005/05/08(日) 04:54:38 ID:8XEzozC4
>>163 机にはそのレスの日本語を読むのに問題があるとおもわれ。
165 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/08(日) 06:49:24 ID:DYtdIvOn
>>159 >能動か受動かにこだわっているのは、
ようやく意味がわかりました。
言語に表記すれば、能動と受動というように対立しますが、
もともと中論は対立がありませんから、言語表記と離れて「去る」というのを解釈したら如何なものでしょう。
さすれば、
>25偈で去ること、去る主体、去られるべき処というのが
こういうこともあまり意味がなくなる。
つまり、分別概念をわざわざ導入するから訳がややこしくなるんじゃないしょうか?
166 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/08(日) 06:58:49 ID:DYtdIvOn
167 :
名無しさん@3周年 :2005/05/08(日) 11:06:34 ID:Gnq6ZRON
>>164 あまり刺激しても逆効果です。
公害を増やさないためにもスルーが一番です。
168 :
名無しさん@3周年 :2005/05/08(日) 18:06:51 ID:ddUNJT4Y
>>163 ありがとうございます。読み途中です。
やはり「すでに去られたもの」というのが正しいのでしょうか。
すでに去られた“処”とか“世路”というように場所的な読み方、
25頌の去られるべき処を予想しているような読み方は可能なのでしょうか。
169 :
名無しさん@3周年 :2005/05/08(日) 18:12:46 ID:ug4r8jbo
ナーガの本性を身につけていない者が龍樹とは。。。
170 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/08(日) 20:05:44 ID:DYtdIvOn
単純に考えて、過去は去るものじゃないから「去らない」と、否定してますね。 中観は蒟蒻問答になりますか? 私は一応、これにて終了します。 他の方のレスポン・・キボンヌ。
171 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/10(火) 15:13:44 ID:+2qSLiIY
娑婆に戻ってまいりました。
このスレッドでは従来の竜樹解釈をなぞるのではなく、新たな切り口で「中論」を見て行きたい
ですね。ベロさんにご紹介して頂いた哲学板での議論のなかで、文法的・言語学的にはこれまで
誰一人読み解けていないことが明らかになりました。
竜樹の指摘点として新たに考えうることは√gam から作られる動詞の特性として他動詞なのか、
自動詞なのかそして他動詞なら目的語を取るのですが、方向動作動詞が目的語を取ることに
無意味さがないのかということかもしれません。サンスクリット文法学ではこれは気づいていない
のか無視しているのか問題にしませんが、言語学や認知心理学の世界で取り上げられる傾向
にあります。
多くの問題点を孕んだ中論ですが、新たな見解を提示していきたいと思います。これは中観研究
に新たな流れを作ることになりますが、私は学界から離れているので論文にはしません。書物に
するか、2ch本にすれば面白いですね。
>>9 のような
>ですから私は、そもそも仏教は弁証法では無理だと言うておるんです。
>そういう発想しているまでは、貴殿の仏教理解は無理です。
>中観は、鰻論法・蒟蒻問答しか理解はできない。
>理解ができんもんを、私がレスを付けても意味がない。
などという常識外は迷惑ですので完全に無視しましょう。
172 :
名無しさん@3周年 :2005/05/10(火) 15:15:30 ID:tx6OEu0g
部外者
173 :
名無しさん@3周年 :2005/05/10(火) 21:59:45 ID:d6yMPQlz
「去る者」には、すでに「去る」行為が含まれているから、 去る者は去らない。
174 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/11(水) 20:10:07 ID:E+va4GxI
>>171 >娑婆に戻ってまいりました。
おめでとうございます。
>このスレッドでは従来の竜樹解釈をなぞるのではなく、新たな切り口で「中論」を見て行きたい
ですね。
そうですか。それは頼もしい限りです。
>多くの問題点を孕んだ中論ですが、新たな見解を提示していきたいと思います。
では、どうぞお示しくだされまし。
私は暫くROMになりますが、皆様が中論をどう捉えておるのか?
ってとこが、多少関心があります。
>などという常識外は迷惑ですので完全に無視しましょう。
まあ中観というのは、そもそも常識外れなもんです。
175 :
魔法のマント ◆zPDVctO00E :2005/05/12(木) 19:15:25 ID:gk6fsa9J
机っちは、馬鹿のオーラさえなくなった気が・・ パワーダウンだね。
176 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/13(金) 10:14:40 ID:KAcs+BeB
>>175 この時期は、愛車ハーレーダビットソンを乗り廻している時間が多い。
時期的に今は、バイクは旬なんですよw
殆ど洗ってないジーンズを穿いて乗るんですが・・・
ジーンズってのは、洗うと色落ちしますね。
気にいってるジーンズは洗わないw
洗っても洗剤は使わない。
水洗い。
そんなジーンズでも「ほすい」って人もいるんですよ。
世の中はわからんもんですね。
私は売る気はないですが・・・
まぁ、時代もんのジーンズは結構人気があります。
177 :
名無しさん@3周年 :2005/05/15(日) 08:06:25 ID:Gpe0AoTZ
>>171 やはり、gata agata gamyamana について、
25頌の「所去処」を予想したような
「すでに去られた“処”」といった読み方は正しくない、
ということなのでしょうか?
ชิงรางวัลดอทคอม ขอสนับสนุน
ท่านสามารถแนะนำ/
何故にナーガールジュナの中論はあんなにも 分かり辛い書いたのだろうか。。。
182 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/05/19(木) 07:09:36 ID:E1xAxluY
>>181 まあ、君たちは頭が良すぎるんだよ。
頭が良いうちは、その頭に負けちゃうんだね。
だから分かり辛い。
福永法源が言うておるように、頭をヒンムいちゃえばいいかとおもうよ。
183 :
名無しさん@3周年 :2005/05/22(日) 10:30:43 ID:jcGc38hC
171さん、是非続きを御願いします。
184 :
名無しさん@3周年 :2005/06/02(木) 23:55:38 ID:k9oLb9kG
>112 名前:名無しさん@3周年 メール: 投稿日:2005/05/06(金) 14:09:49 ID:Xvzr8SCQ > 世俗対の所詮・能詮、因明を尽くした後に勝義諦が開かれるというのは竜樹自身の言葉。 ソースきぼんぬ
185 :
名無しさん@3周年 :2005/06/07(火) 20:27:41 ID:1tUz3K4u
>>73 >>133 おっしゃるとおりで。できそうな方々ですね。
25 =
>>102 >>112 のいう論理ってどうゆう意味?
>>112 「因明を尽くした後に勝義諦が開かれるという竜樹自身の言葉」って何に書いてある? ランギューパは、いいそうだけど、竜樹が述べる言葉とは思えないです。はい!
>> 105 のいう論理ってどうゆう意味?
186 :
名無しさん@3周年 :2005/06/08(水) 21:54:42 ID:Iy7jh55D
age
188 :
名無しさん@3周年 :2005/06/10(金) 01:40:46 ID:6zkOAwjY
age
189 :
名無しさん@3周年 :2005/06/10(金) 18:41:51 ID:6zkOAwjY
age
190 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 00:06:13 ID:seqzQtOa
カマラシーラを研究されている
>>25 さんに質問です。
有名なチャパの dbu ma shar gsum gyi stong thun は日本語で何と訳しますか?
191 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 18:13:13 ID:6uiFjsnF
age
192 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/11(土) 18:49:11 ID:jtbotYpT
>>190 こら。
>>25 さんが誰か知らないけど、知ってるなら聞くなや。その態度むかつくぞ。
Phya pa chos kyi seng ge の書だろ?あの書はあの名で通っているから仕方ない。
それを盾にお前はつつきたいのか?性根の腐ったやつめ。
193 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 21:36:39 ID:seqzQtOa
何、おこってんの? じゃ何と訳す?
194 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/06/11(土) 22:19:30 ID:jtbotYpT
>>193 怒ってないよ。お前の存在がむかつくだけ。
195 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 22:36:26 ID:seqzQtOa
「むかつく」の根本煩悩は瞋恚じゃないの? で、訳は知らないわけ? 博学なんでしょ? 笑い
196 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 22:46:36 ID:vP3pFQmW
>>195 きちがいがいるぞ。
ナーガアルジュナをだべってるのに、だべり手の煩悩を追求してるぞ。wwwww
訳を知ってるのに揚げ足を取ろうと人に聞いて、それを咎めたひとに
>で、訳は知らないわけ? 博学なんでしょ? 笑い
だって。wwwww きちがいは氏ね。
197 :
名無しさん@3周年 :2005/06/11(土) 22:59:41 ID:vP3pFQmW
>>195 あー、ほんでね。なんで25がカマラシーラ専門だと思うわけ?
有名な論争なら誰でも知ってる。
で、きちがいは氏ね。カカカカカカカ
198 :
名無しさん@3周年 :2005/06/20(月) 00:22:33 ID:RK4OXabL
こちらから移動しました。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1074370195/l50 >中観では自性、我というのは恒常不変なものだから変化できない、 だから輪廻するというふうに考えるだけどなあ。…(B)
言葉が足りませんでした。 以下に訂正します。
>だから(無我だからこそ)輪廻するというふうに考えるだけどなあ。…(B)
> また、日常的語法に勝義を持ち込むことをやめろ?これも意味と意図が
> 理解できない。あなたはそっくりそのまま『中論』否定になっていますよ。
『中論』には二つの縁起が説かれてるのはご存じですよね。1章の大乗の縁起と、
26章の小乗の縁起です。「日常的語法に勝義を持ち込むことをやめろ」言い換えれば
26章の縁起を1章の縁起で解釈するなってことですよ。
『宝行王正論』1.43以下(梶山雄一訳『龍樹論集』中公文庫)
要約すると、(善悪の)業には果が存在しない、というのが虚無論(無見)であります。
これは不善であり、堕地獄であり、邪な考え方である、といわれます。[43]
要約すると、(善悪の)業には果が存在する、というのが実有論(有見)であります。
これは善であり、善趣にいたる正しい考え方である、といわれます。[44]
知にもとづいて無と有(との二見)を寂滅し、それによって罪福(善悪)を超えます。
これがかの悪趣と善趣からの解脱である、と聖者によって説かれています。[45]
この部分を引いたのは、結構考えてなんですよ。
よく読んでください。あなたの見解は、断見だと龍樹は言ってますね。
199 :
名無しさん@3周年 :2005/06/20(月) 04:53:18 ID:HX/7UANB
>>198 >この部分を引いたのは、結構考えてなんですよ。
>よく読んでください。あなたの見解は、断見だと龍樹は言ってますね。
なんか、一番頭が悪い気がする。
小乗の縁起?はぁ?
虚無論が断見?はぁ?
二身論や唯識説などが登場する宝行王正論を無批判に引用する
その態度が気に入らないよ。引用部分の正否は別にして。だれも
そのことは否定してないんだけどな。
てゆーか。馬鹿は発言するな。
200 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/20(月) 17:18:09 ID:Oo+4V18P
>>198 常見と断見は世俗諦ですから、どんなに思惟しても時間の無駄かとおもいます。
で、法華経を第一義経典とせば、あまり中論は意味がないかとおもいますが、
どうですか?
うーん、世俗諦も真理だと思うね。 真諦だけが真理で世俗諦が真理で無いなら、 野狐禅になるね。 悟った者は因果に落ちないと断言して、 仮の「空」の境涯きょうがいを持ち出して因果を無視したために、 五百生のあいだ野狐身の畜生道ちくしょうどうに落ちたという話ね。
202 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/21(火) 10:21:17 ID:hQT++lX4
伴侶や子供を亡くされて、嘆き悲しむ者あらば、 極楽往生(常見)を説き、優しくする。 ってのも世俗では大事。 「真理」というのはないけど、慈悲というのが真理に相当する。
203 :
名無しさん@3周年 :2005/06/21(火) 23:19:58 ID:Pn2O65eu
世俗諦の意味範疇を、無制限に拡大解釈しすぎではないですかねえ。
204 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/22(水) 06:58:06 ID:MxxXRPMX
伴侶や子供を亡くされて、嘆き悲しむ者に、 これ以上苦痛を与えないのが慈悲ってものかとおもう。 死を受け入れる。っての時間がかかる。 それまでは「世俗の智慧」が大事。 つまり分別智。
分別智って大事ですよね。 その分別智を自在に使いこなすための土台としての無分別智で、 無分別智が真理ってわけじゃないと思う。
そうですね。 真理というのも人の概念に過ぎないし、 この「真理」に、人は惑わされてしまう。 真理の概念は非常にアブナイ(^^ゞ <真理などあらず>
ナーガールジュナ複数説も考慮しつつテキストを読みましょう。
<真贋一如> あえて真理というならば、分別智。
カルト教義も分別智ですかね?
カルト教義は分別しかないんじゃない? 基準がどこかにあると、そこからどんなに分別しても、 すべての教義が破綻する。 基準が無分別だと正しく分別できるってことだと思う。
>>210 >基準が無分別だと正しく分別できるってことだと思う。
禿同
212 :
名無しさん@3周年 :2005/06/23(木) 19:22:04 ID:l5nHo77g
213 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/23(木) 20:42:20 ID:JX2AzXwp
>>212 いいHPです。
貴殿が作ったのですか?
【語句解説】に、五蘊は色である。と、ちゃんと書いてある。
五蘊が色なのは、いわば仏教においてはイロハなんですが、
私が「五蘊は色」というと、途端に反発がくる。
特に、電波先生一門は反発が禿しいですね(^^ゞ
五蘊は色。これになんの迷いがあろうか?
五蘊は色なれど、この五蘊さえ空なのである。
と、
かように心経は書いてある。
そこのとこを読み違えるんだね。
大事なとこなんですが(^^ゞ
<HPはブックマークしておきました>
214 :
名無しさん@3周年 :2005/06/23(木) 20:53:54 ID:H/y0j76G
デンパは素人:失格人間
215 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 00:51:13 ID:VkWjdN2w
>>207 どうもありがとう。『宝行王正論』等が『中論』の作者の著作でないとしても、
月称以降中観派では絶大な権威であり、またこの論点に関しては『中論』と矛盾しないと
思います。そしてあれを引用した理由は、中観説に対する誤解を払拭するのに分かりや
すいものがあると思って引用しました。矛盾点があったらご指摘ください。
216 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 00:52:10 ID:VkWjdN2w
>>199 「頭が悪い」「馬鹿」「カルト」等は「オレ様に異見するか!」ってことですね。
小乗の縁起については、中論27章の諸註釈に以下のように述べられています。
ただ、小乗ではなく声聞ですが、全く同じことです。
『中論』36c25 問曰。已聞大乗法破邪見。今欲聞聲聞法破邪見。
[TD3829E.aktobhaya 94b3] 'dir smras pa / khyod kyis theg pa chen po'i gzhung lugs kyis don dam pa la
'jug pa ni bstan zin na / de khyod kyis nyan thos kyi gzhung lugs kyis don dam pa la 'jug pa ston cig /
[D3842E.buddhapalita 276a] 'dir smras pa / khyod kyis theg pa chen po'i gzhung lugs kyis don dam pa la
'jug pa ni bstan zin na / da khyod kyis nyan thos kyi gzhung lugs kyi don dam pa la 'jug pa ston cig 'dir bshad pa /
ma rig bsgribs pas yang srid phyir / /
虚無論が断見なのは、自明でしょう。「業には果が存在しない」というのは、
因果を否定する断見に他ならない。
>450 投稿日:2005/06/08(水) 18:07:27 ID:LeqS4PqZ
> 業病もなにも、すべては業(行為)の業(結果)として縁起するというのが仏教でしょう。
> つまり、業の結果でないものはない。それが仏教。
>451 電波男Ψ(´д`)Ψ@投稿日:2005/06/08(水) 18:13:14 ID:ZsANptbP
>
>>450 > それは宿業論として、釈尊が否定しています。
> 釈尊の業論はそんなもんじゃありません。
この451は「業には果が存在しない」ということでしょう。
217 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 01:02:46 ID:VkWjdN2w
>>200 机さん、どうも。25さんよりあなたの方が龍樹の見解に近いと思います。
因明を否定したのが、龍樹・月称に他なりません。
本来、中観派であれば因明は認められないからです。
ですから25さんの言うことはとてもおかしい。
常見と断見を別に思惟していませんよ。断見者がおかしいと言っているだけです。
法華経を根本経典として中論を始めとする三論で補強したのが、天台ですよね。
私は意味ないと思いませんが、 法華経は分からないのでなんとも言えません。
218 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 03:48:12 ID:erHgErF8
俺には竜樹はただの詭弁家にしか思えない。白馬非馬の類。 無実体が主張の要点らしいことはわかるが。 竜樹の頃に論理学がちゃんとあったら、もっとわかることをいったんだろうか。 もとが白馬非馬だから、月称やツォンカパを読んでも得るところがないんでは と思ってしまう。
>>218 じゃあ、大乗仏教にも根本的に欠陥があるということなわけで?
彼の場合、捨象した類の事柄が多すぎたんだろうね、きっと。
220 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 07:38:14 ID:NUOdEGf2
>>217 >本来、中観派であれば因明は認められないからです。
そうですね。
ですから、ペロ氏
>>105 のようなレスは何の役にもたたん訳です。
帰納法的に世俗諦から勝義諦へと悟入する。なんてのは、
あくまでも世俗諦に過ぎない訳です。
電波先生一門は、ペロ氏と同じ考えですね。
だから私のレスが蒟蒻問答に聞こえてしまうんでしょうね。
禅では「百尺竿頭進一歩」。という言い方をする。
221 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 07:45:16 ID:NUOdEGf2
>>218 >竜樹の頃に論理学がちゃんとあったら、もっとわかることをいったんだろうか。
論理学というのは、経験とか積み重ねによって発展してきた学問で、
最大公約数までが限界ですね。
このアタリマエ、のことを気が付きませんと進一歩にはならんです。
仏教が哲学の範疇を越えてるのは、こういった理由からです。
222 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 07:51:53 ID:QlIQNowk
>>机さん 輪廻転生はありますか?
223 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 08:00:21 ID:NUOdEGf2
>>222 >輪廻転生はありますか?
いい質問です。
これは「あなたに未来はありますか?」って質問と同じです。
机いわく、
「未来もなければ輪廻転生も全くなし、なんにもない」。
ってことになります。
すまんですね。
224 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 08:22:52 ID:QlIQNowk
>>机さん 机さんのナーガールジュナ理解としては、人間が生まれ変わってゆく 未来の生もないということは、所謂「宿世」もないというということ で宜しいでしょうか? また机さんは所謂「世俗諦」としては輪廻転生説を肯定して説いて もよいとする立場ですか?
225 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 09:24:44 ID:NUOdEGf2
>>224 >未来の生もないということは、所謂「宿世」もないというということ
>で宜しいでしょうか?
未来とか、宿世というのも世俗において通用する概念ですね。
未来・宿世は、人の思考システムより派生したものです。
想像しているに過ぎませんし、
想像の産物を思惟しても、世俗では通用しますが、勝義では意味はないです。
(過去・未来・輪廻転生・宿世は、今ここにおもうているに過ぎぬ)→生起
(しかしながらそれは直ぐに消えるもんだ)→生滅
>また机さんは所謂「世俗諦」としては輪廻転生説を肯定して説いて
>もよいとする立場ですか?
勝義では、相手との意思疎通は困難です。
相手が市井ですと、どうしても世俗諦でしか会話は出来ませんから、
「断見」と「常見」を選択して、常見のほうが慈悲にかなうかとおもいます。
これを世俗諦と言います。
226 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 15:44:40 ID:N/ro8wXV
第一品第一偈で、 『何時でも何処でも如何なる存在者でも、 自から、他から、自他両者から、無因から生じたものしてなし。』 とある。 自からというのは、因中有果で結果する、ということであり、 全くの自から自が成立することであり、常住論・宿作外道。 他からというのは、因中無果で結果する、ということであり、 全くの他から自が成立することであり、断滅論・一切無因作。 自他両者からというのは、前二者に分割可であり、その過誤が付随する。 第十八品第十偈で、 『此が彼に縁って存在するときには、此は彼と同一でも、別異でもない。 それ故に断滅でも常住でもない。』 とある。
227 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 16:28:20 ID:QlIQNowk
>>机さん そうしますと、「慈悲にかなう」という説明さえ出来れば キリスト原理主義やムスリム原理主義、中国共産党、オウ ム真理教も「世俗諦」の範疇に含めることも可能ということ でしょうか? も世俗諦でしょうか?
228 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 16:30:32 ID:QlIQNowk
>227 最下行は間違いです、消去してお読みください。
229 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 18:33:25 ID:NUOdEGf2
>>226 >『此が彼に縁って存在するときには、此は彼と同一でも、別異でもない。
>それ故に断滅でも常住でもない。』
そうですね。
勝義を顕すに、否定をすることに依りその本意を顕す。って手法はよくあります。
いわゆる「即非の論理」ですね。
(”行くものは行かず”も同様です)
これがパーフェクトな手法だと言うわけではないですが、
じゃあ他にどのようなのがあるか?
って言ったら、これは良い方に入るかとおもう。
不立文字よりはイイ。かとおもう。
230 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 18:47:03 ID:NUOdEGf2
>>227 世俗諦というのは、勝義諦があっての(バックボーン)世俗諦ですから、
ようは勝義を世俗において分別している(仮説)にすぎません。
したがって勝義がなければ、世俗の世俗だけの世俗でして、仏教ではなく単なるニヒリズムに過ぎません。
勝義諦と世俗諦はワンセットです。
心経においは、これを色即是空・空即是色というふうに表しています。
世俗諦(色)は勝義諦(空)である。
という意味です。
不一不二というような言い方もあります。
色は即空でありますが、相が違います。
色は分別の相でして、空は無分別の相です。
心経では、このところを押さえておきませんと真髄までは解ってきませんですね。
231 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 18:56:32 ID:QlIQNowk
>>机さん しつこく尋ねてしまいすみませんが、ということは「勝義 諦」がバックボーンであるということであれば、他の如何なる 価値観(ムスリムやキリスト教やヒンズー、神道、唯物論etc) も「色即是空」として認めてしまうということですね?
232 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/27(月) 19:10:46 ID:NUOdEGf2
>>231 >価値観(ムスリムやキリスト教やヒンズー、神道、唯物論etc)
>も「色即是空」として認めてしまうということですね?
なかなかイイ質問ですね。
「認める」というのは世俗諦ですね。
勝義では「認める⇔認めない」の分別がないですから、答えは「無」と言うほか手だてはないのです。
しかしながら、無とばかり逝っておったら世間では通用しません。
ですから、世俗諦においては仮説として、ある程度の納得いくような言い方しかできません。
無理に言うと蒟蒻問答とか言われてしまいますから。
世俗からすれば、勝義は役にたたんのです。
233 :
名無しさん@3周年 :2005/06/27(月) 19:42:38 ID:QlIQNowk
>>机さん 勝義諦を持ち出すときは蒟蒻問答ぽく感じるような気がしないわけ ではないですね。 さて世俗から役に立たないといわれる「勝義諦」は「世俗諦」と どんな関係にあるのでしょうか? やはり関係=縁起=‘仮’は「世俗」であってこうした問い自体 やはり無意味とお考えになりますか?
横レスですが。。 勝義諦と世俗諦の関係は 国破れて山河あり で理解するといいと思います。 イスラム教とかキリスト教とか仏教は「国」。 つまり人間の概念が作りだしたもの。 これがなくなると、自然とか、慈悲とか 人の道とでもいうべき「山河」があることに気が付く。 つまり人間の概念とは関係の無いリアリティー。 世俗諦は概念により、このリアリティーを分別している世界観のこと。 分別が止めば概念としての「国」や「何々教」というものは「空」とわかる。 つまり勝義諦が「空」なのではなく、 世俗諦(分別)が「空」になって初めて、 いわく言葉では言い表せないリアリティーである勝義諦が顕になる、ということ。 これを勝義諦=空と言うから意味が通じなくなる。
なので「空」だから、何も無いから、好き勝手やっていいかというと、 リアリティーである山河や慈悲までをも否定できないから、 それをやると野狐禅といわれる。 つまり、根本的な問題は、 通常の意識では、 人は分別を通してしかリアリティーを認識できない、ということ。 普通は自分の条件付けに気が付かないで、 フィルターを通して善悪を判断している。 その分別心(フィルター)が止んで(サマタ)、平等性智を知り、 初めてリアリティーが観えるようになる(ヴィパッサナー)ので、 これを妙観察智という。 キリスト教でも「汝裁くなかれ」というのはこのため。
236 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/28(火) 07:08:52 ID:CoApc/xG
>>233 >さて世俗から役に立たないといわれる「勝義諦」は「世俗諦」と
>どんな関係にあるのでしょうか?
勝義諦を簡単に説明しようとしたら「ありのまま」。という言い方になるかとおもいます。
「ありのまま」というのは「カラッポ」と同義です。
禅においては「無」というような言い方をしますが、これは二項(有無)の一辺の無と意が違います。
「カラッポ」ですから、善悪とか苦楽の概念などがありません。
いわゆる空の平等智のことです。
しかしながら人は生来、分別して生活します。
言語は明確に分別していきます。ゆえに思考は分別しなきゃできないわけです。
つまり、空を思考せようとせば、そこに自己矛盾があることになります。
この壁がある限りは世俗諦の範疇でしかないわけです。
「気づき」というのは、この自己矛盾に目覚めることに他なりません。
(つづく)
237 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/28(火) 07:16:07 ID:CoApc/xG
>「勝義諦」は「世俗諦」と >どんな関係にあるのでしょうか? 心経では、勝義諦を「空」としてます。 世俗諦を「色」としてます。 そして、色即是空・空即是色となります。 (色は空であり、空は色である) 空はカラッポでなにもありません。→簡単な言い方ですが、無差別相です。 色は、世界の全ての現象のことです。→心も現象ですから色になります。 ひとことで言うなら、禅は空の「ありのまま」を正見することです。 これを慧眼とも言います。
238 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/28(火) 07:32:20 ID:CoApc/xG
>>234 >これを勝義諦=空と言うから意味が通じなくなる。
私には意味が通じます。
>いわく言葉では言い表せないリアリティーである勝義諦が顕になる、ということ。
リアリティーというのは勝義諦じゃないですね。
「美味い」とか「不味い」とかのリアリティーは色(世俗諦)に他ならない。
(五蘊・五感は色です)
勝義諦が顕になる。ということはないですね。
「顕になることもなく、顕にならないこともない」。→勝義諦
>リアリティーというのは勝義諦じゃないですね。
>「美味い」とか「不味い」とかのリアリティーは色(世俗諦)に他ならない。
「美味い」、「不味い」はリアリティにかぶせられた価値判断。
>勝義諦が顕になる。ということはないですね。
>「顕になることもなく、顕にならないこともない」。
>>234 で、いわく言葉で言い表しがたいと説明しました。
ま、説明の仕方の問題と思います。
240 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/28(火) 10:27:39 ID:CoApc/xG
>>239 >「美味い」、「不味い」はリアリティにかぶせられた価値判断。
そもそも、
「美味い」、「不味い」、「リアリティ」は、言語概念ですから世俗諦です。
そもそも、
勝義諦は言語概念の範疇外です。
ゆえに、勝義を説明するには蒟蒻問答のような言い回しになります。
蒟蒻問答を避けるなら、不立文字みたくダラダラとクドク言わねばなりません。
242 :
名無しさん@3周年 :2005/06/28(火) 20:11:31 ID:dYoxZYth
>234さん、机さん 有難うございます。成る程そう謂う捉え方もあるのですね。 もしこういってよければ、日本人が捉えてきた日本的な空の捉 え方としては、「自然」というのが手がかりになるのかもしれ ませんね。 一方、中国人、インド人にとっては、私達が極当たり前に想起 しうる自然にあたるものがどういうものであったか(或いはな かったか)興味のあるところです。 処で何でこんなわざとらしい質問を敢えて尋ねたか弁解致します。 ナーガールジュナの、特に『中論』の思想でいう「俗諦」というの は、語とその関係から成り立つ意味や、何かを記述する時の「言葉 による概念の成り立ち一般」を指したのか、それとも更にそれを暗 黙知としつつ広く人間が構築する高次な観念の体系(例えば輪廻転 生説などの教義)を強く意識した内容だったのか、という問いがあ ったからです。 一応わたしは前者の立場、即ち、ヴェーダやウパニシャッドという 特定の思想を前提とせず、『中論』=ナーガールジュナを読むべき だと考えます。何故ならそう読むことで、転生説という特定の前提 がなくても、広く人間の「妄分別一般」「戯論一般」「迷い」とし て現代に訴えることが可能になってくるからです。(『大智度論』 他の所説をどう扱うかは今は保留)
243 :
名無しさん@3周年 :2005/06/28(火) 20:12:16 ID:dYoxZYth
(続き) この当方の意見に関しては、どうやら文調からは梵漢蔵を多少操れ るらしい(?)人から此処と他のスレで既に批判がありました。し かし、輪廻転生説をアプリオリな前提としてしか、『中論』の鋭い 示唆も、更に広く仏教も成立しないということであれば、転生説が ウパニシャッド時代から染み付いたインド人以外には『中論』は全 く無用とまでは言わずとも、生死観・宗教観が異なる日本人や欧米 人の現代的な意義を取り出してくる意義は希薄にならざるを得ない だろうと思うのです。(また、このわたしの考えの背後には、「前 世」を想定することで生まれながらに病人などを罪びととして卑し めるカルトへ批判をしたいという動機に駆られてであることも申し 添えておきます)長文失礼しました。
244 :
名無しさん@3周年 :2005/06/29(水) 05:00:52 ID:0hP3nC1T
リュージュの伝言
245 :
名無しさん@3周年 :2005/06/29(水) 05:04:57 ID:F6sYSrSc
竜樹が口紅塗ってるとこ想像しちゃっただろw
>>1 無我・無常・因果応報
は竜樹以前からあったんじゃねーの?
>>246 いえーす。
縁起思想を論理学(チックに)詳説・証明したのが竜樹。
249 :
名無しさん@3周年 :2005/06/29(水) 08:06:27 ID:tHDLxgcq
輪廻転生なくしちゃうと仏教ぜんぜん成立しないんじゃないかな 死ねば涅槃なんだから
「輪廻から解脱すること」を修行の目的としている点を考慮するとわかり やすいと思います。 あとは、釈迦が生まれた当時の社会常識や民間信仰、カースト制度など の「時代背景」。 それから、初期の経典で釈迦が語ったとされる言葉の「文脈的理解」。 そしてなにより、「現実とは何か、真理とは何かという自分の考え」。 仏教は霊魂の生まれ変りに救いを求める「唯心論」でもないし、形而上 の概念を全否定するような「唯物論」でもなく、生きとし生けるもののの 幸福を求める思想ですからね。 答えになってないけど、直接的な言及をすると論争のタネになりがちなの で、こんな言い方しかできない。
251 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/29(水) 08:41:52 ID:JecDNdKH
>>242 >日本人が捉えてきた日本的な空の捉
>え方としては、「自然」というのが手がかりになるのかもしれ
>ませんね。
例えばですが、普通に一般的に「認識主体」って言語を使うと誰でもが意味が通じます。
しかしながら空ですと、こんな言い方は可笑しなもんですね。
いちいち「その言い方は可笑しいんじゃないですか?」って言ってたら、
コミュニケーション自体が成立しなくなる。
よって、”便宜上につけられた言語が空”というふうに理解したらいいかとおもう。
______________________________
刹那に、永遠も無限も輪廻転生もあるではないですか。
だから自分からはなれて(未来に)輪廻転生があるわけではないです。
勝義諦からしますと、刹那も無限もひとつです。
あえて世俗諦において刹那と無限を分別しているにすぎない。
お気づきですか?
>>251 >
>>242 >>日本人が捉えてきた日本的な空の捉
>>え方としては、「自然」というのが手がかりになるのかもしれ
>>ませんね。
>例えばですが、普通に一般的に「認識主体」って言語を使うと誰でもが意味が通じます。
>しかしながら空ですと、こんな言い方は可笑しなもんですね。
その認識主体は自然を認識している自然そのもの。
分けられないってことですかね。
>刹那に、永遠も無限も輪廻転生もあるではないですか。
>だから自分からはなれて(未来に)輪廻転生があるわけではないです。
すごい理解です。
どうしちゃったんですかw
自然といえば法然上人を思い出したので。 ―法爾というは、この如来の御誓いなるがゆえに、然らしむるを法爾という。 法爾は、この御誓いなりけるゆえに、すべて行者のはからいの無きを以て、この法の徳のゆえに然らしむというなり。 すべて、人のはじめてはからわざるなり。 このゆえに他力には義なきを義とす、と知るべしとなり。 自然というは、もとより然らしむという言葉なり。 弥陀の御誓いの、もとより行者のはからいにあらずして、 南無阿弥陀仏とたのませ給いて、迎えんとはからわせ給いたるによりて、 行者の良からんとも、悪しからんとも思わぬを、自然とは申すぞと聞きて候 良からんとも、悪しからんとも思わぬを、自然とは申すぞと聞きて候。。。。
254 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/29(水) 13:19:58 ID:JecDNdKH
>>252 >その認識主体は自然を認識している自然そのもの。
>分けられないってことですかね。
縁起に、主体と客体というのはないわけですね。
主体と客体の境界線がないから、縁起という言い方をする。
世俗諦で言うならば、主体が消滅すれば同時に客体も消滅する。
勝義諦でいうならば、主客合一。→(つまり主客なない)
>すごい理解です。
>どうしちゃったんですかw
ある禅僧が、このことが分からんかたので、
師家が僧の指を切断したらしい。
そしたらやっと分かったようだが・・・・
未来とか、輪廻転生が何処ぞにあるのか?
よくよく鑑みなされば、この題こそ愚問なれ。
255 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/06/29(水) 17:27:33 ID:VdpXHW/Q
机氏は頓悟の中国禅が仏教であるという立場ですから、 仏教や中論は非論理だと言う結論になるのでしょう。 中国ナイズされた一宗派の見解が仏教全体に当てはまる訳がありません。
256 :
名無しさん@3周年 :2005/06/29(水) 17:58:03 ID:Q7rPTEzR
>> 255 まず説明してくださいよ。あなたのいう中観の論理って何? あなたの中観の<「論理」という言葉の意味、使用法等>は何ですか? 185 名前:名無しさん@3周年 メール: 投稿日:2005/06/07(火) 20:27:41 ID:1tUz3K4u >> 105 のいう論理ってどうゆう意味? 105 名前:ベロ ◆eOod7XM/js メール: 投稿日:2005/05/06(金) 00:12:05 ID:1vizfBWB たぶん、机さんには「論理」という言葉の意味、使用法等がわからないんだと 思います。中観が論理的でなければ何を論理的と言うんだろうね? 以前も色は五蘊で五蘊が色だとか言ってたけど、致命的な勘違いが多いよね。 始めも中ほども終わりまで論理的に思考し実践して、自分で納得できるように 説かれているのが仏教ですね。
257 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/29(水) 18:52:10 ID:JecDNdKH
>>255 >中国ナイズされた一宗派の見解が仏教全体に当てはまる訳がありません。
いえいえ、龍樹は第二の釈尊とまで言われた学僧(菩薩)ですから、
龍樹を外して仏教は語れないかとおもいます。
ペロ氏は、電波先生一門の中でも、いわゆる良識派の印象があります。
どうか中論解説をお願いしとう存じます。
258 :
フレッド :2005/06/29(水) 20:12:41 ID:+cZKTuzx
「論理」などと言うと私には難しいが、それは筋道を 立てるということじゃないかな? ルールと言ってもいいかもしれない。 その筋道、ルールを飛び越えた何かを語られても、相手 に伝わることは、普通はまずないんだよね。 伝わらない話をワザとはなす。というのも変な話ですね。 まあ空や無には、どんな筋道も立ちそうにないが・・。 それをある意味、神秘と言われるのも無理はないかもね。
259 :
フレッド :2005/06/29(水) 23:33:59 ID:UeEOPwEC
例えば・・・ 道などを歩いている時、ふと後ろを振り返ると誰かが見て いることがある。 逆に前方を歩いている女性を眺めていたら、急に振り返ら れてドギマギすることもある。 こんなことは誰もが日常的に経験していることだろうが、 それを合理的に説明せよと言われても、口を噤んでしま うのではないだろうか。辻褄が合わないからだ。
260 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/30(木) 07:26:39 ID:jChlVO9S
>>259 >それを合理的に説明せよと言われても、口を噤んでしま
>うのではないだろうか。辻褄が合わないからだ。
合理的に説明するのは、ペロ氏の論法ですね。
私の論法は、意味連関は必要ないわけです。
柳は緑でありますし、花は紅である。
そこに何を求めるのでしょう?
よくよく鑑みなされば、すでに答えは明白なり。
>>258 >まあ空や無には、どんな筋道も立ちそうにないが・・。
>それをある意味、神秘と言われるのも無理はないかもね。
いえいえ、神秘なるものは何もないです。
あえて神秘というならば、ペロ氏が逃げてしまったのが神秘です(^^ゞ
261 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/06/30(木) 08:43:19 ID:1jZz8lLR
自分にしか分からないことは黙って 皆に分かることだけ分かるように正しく伝えようってことなのかな。 そうすると 仮に竜樹や釈尊に、自分にしか分からない悟りがあったとすると、 それは言っても分からない凡夫には語らなかったということなのか? それとも悟りなどなく、分からんことはわからん 分かることは分かると言っとけばいいのか。 ただ、それだと凡夫が普段やっていることとあまり違わないような気がする。 結局、中論は、論理というものの欠陥や限界を示しているが、 それ以上でもそれ以下でもなく、 あとは唯識論などで実践してくれ、ってことなんじゃないかな。
263 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/30(木) 12:16:29 ID:jChlVO9S
>>262 >それとも悟りなどなく、分からんことはわからん
>分かることは分かると言っとけばいいのか。
「分からん」とか「分かる」とかの分別こそないわけですから(勝義諦)、
「悟り」も「迷い」もないわけですね。→煩悩即菩提
いうなれば、
>>253 の
>すべて行者のはからいの無きを以て、この法の徳のゆえに然らしむというなり。
これ↑のことですね。
「はからい」など、いらないわけです。
>あとは唯識論などで実践してくれ、ってことなんじゃないかな。
中観ですと、唯識論など眼中になくなりますが、
電波先生一門は、この唯識に拘ってるようですね(^^ゞ
>「分からん」とか「分かる」とかの分別こそないわけですから(勝義諦)、 >「悟り」も「迷い」もないわけですね。→煩悩即菩提 凡夫は分別をもって世界を見ているので 分別がないということ自体が分からないのではないでしょうか? >電波先生一門は、この唯識に拘ってるようですね(^^ゞ いや、電波さんは別に唯識にこだわっていないと思いました。 私が個人的に唯識の方が好みなだけで。 ついでに言うと中観派と唯識派は対立していないと思います。 あと私は一門ではありません。
265 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/06/30(木) 18:32:09 ID:jChlVO9S
>>264 >ついでに言うと中観派と唯識派は対立していないと思います。
仏道という道に例えるなら、ある分岐点のようなものがあり、
どうしてもそこを越さねばならんのです。
越すに越される輩は多きなれど、大海を越さねば彼岸には至らぬ。
よくよく心経を見てみなされ。
>仏道という道に例えるなら、ある分岐点のようなものがあり、 >どうしてもそこを越さねばならんのです。 たぶん相当誤解があると思うのですが、 禅や中国仏教は唯識派の影響を相当受けていて、 机さんの過去の発言自体、どうみても唯識派のものと思います。 中観派は戯論寂滅で言われえないことは言いません。 禅で言えば十牛図の八番目の空で終わりです。 唯識派は戯論寂滅は十二分に了解した上で、あえて一歩踏み出し、 言われえないことを平気で言いますw 私には中観派は如来禅(釈尊の悟り)で終わりだし、 禅はそのあと祖師禅という発展を遂げていると思うのですが。。
267 :
名無しさん@3周年 :2005/06/30(木) 22:28:55 ID:PSOnS4Jd
>>266 視座の違いだと思います。
唯識は世俗諦から勝義を望遙し、
中観や机さんの表現は、勝義諦から世俗を還滅されているように
読んでおりますが。。。
ちょっと誤解を招く不正確な説明だったので訂正。 中観派は弁証法的に概念の間違いを指摘して概念を否定し、 最後に残るもの(概念で捉えられないもの)については何も言わない、 という説明の仕方をします。 唯識派は誤解を承知で、言われえないそれを現象として説明しようとします。 どちらが優れているかどうかではなく両者はお互いに補完しあう立場でしょう。 どちらにしろ、 「本来の面目」的な説明は中観派の説明ではない、ということです。 如来禅と祖師禅はまた違った概念でしたね。 実際は釈尊も悟った後、黙って座ったまま何もしなかったわけではなく 死ぬまで説法して回ったので八図で終わっているわけではないです。
269 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/01(金) 07:13:05 ID:8tuDuE7J
>>266 >禅で言えば十牛図の八番目の空で終わりです。
八図で死にきります。なにも残ものあらずして唯識論もすでになし。
空で終わりじゃないです。
空に留まることは彼岸に逝きっぱなしになりますね。
色即是空・空即是色ですから、此岸に帰還せねばなりません。
>中観派は弁証法的に概念の間違いを指摘して概念を否定し
弁証法というのは中観にはそぐわない。
>最後に残るもの(概念で捉えられないもの)については何も言わない、
>という説明の仕方をします。
勝義諦と世俗諦は、ふたつでひとつ(不一不二)ですから、残るものはなんにもないです。
勝義も世俗も、つまりは便宜上の言語です。
この言語に惑わされることはないです。
勝義は〜〜〜〜そのままで世俗です。
色即是空ですから。
>八図で死にきります。なにも残ものあらずして唯識論もすでになし。 唯識論も「唯、識のみある」と言うので、 実は何も残ってません。 無字の公案と同じことです。 ここが誤解されるところです。 >空で終わりじゃないです。 >空に留まることは彼岸に逝きっぱなしになりますね。 >色即是空・空即是色ですから、此岸に帰還せねばなりません。 無所住。 >勝義諦と世俗諦は、ふたつでひとつ(不一不二)ですから、残るものはなんにもないです。 >勝義も世俗も、つまりは便宜上の言語です。 >この言語に惑わされることはないです。 >勝義は〜〜〜〜そのままで世俗です。 >色即是空ですから。 衆生本来仏なり。
271 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/01(金) 11:52:38 ID:8tuDuE7J
例えばですが、 宇宙は有限であるか?無限であるか?というお題があるとして、 ペロ氏が言うように論理的な整合性を求めまようとせば双方(前者・後者)が破綻します。 (どちらも選択はできない) つまり、 ペロ氏のような「世俗諦から勝義諦への悟入」。というのは、そこに厚い壁がありまして、 そこを突破せにゃならんのです。 しかしながら「相対するは結論出るまじ」でして、突破はできません。 なにゆえか? ってのは、つまりは自己矛盾がそこにあるからです。 自己矛盾のままでは悟入できないわけです。 道元が「仏道とは己に習うなり」というが如し、 つまり究極的には己自身に全てが掛かってるわけです。 「隻手の音声」の公案は、この自己矛盾に気づくためのものです。 「宇宙は有限か?無限か?」と、お題は一緒。 さあ、これを貴殿は何と己に問うか?
>「隻手の音声」の公案は、この自己矛盾に気づくためのものです。 >「宇宙は有限か?無限か?」と、お題は一緒。 >さあ、これを貴殿は何と己に問うか? 人間の心は無限を思い描くことが出来ません。 人の心が捉えることが出来るものは必ず有限です。 もっと正確に言うなら、 人間の心が対象を捉えることによって、 本来なら輪郭もなにもない無限のものを、 認識対象として規定してしまうのです。 宇宙の果てを思い描くなら、 必ず、その果ての先にはどんなスペースがあるのか? と想像してしまうのですね。 つまり宇宙が問題なのではなく、 それを捉える自分の心が問題なのです。 そして心が何も捉えようとしなければ、 つまり「あるがまま」で、「はからい」が無ければ、 答えはおのずから然りと言うべきでしょう。
273 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/01(金) 14:20:18 ID:8tuDuE7J
>>272 そのとおりですね。
つまり論理的ってのは、人の経験則において論理的であるわけです。
宇宙の果てに逝ったことがない(経験のない)人間は、論理の範疇にはおよびません。
この範疇に及ばない(世俗諦)において、勝義へと悟入する(ペロ氏論)などというのは、
針の穴に指を通すより至難なわけです。
輪廻転生も、宇宙の果ても、普遍論争も、全ては人の無明からです。
中論は、これを見事に説きはなったかとおもいます。
ある禅師は、指を一本立てて「穴に透過せよ」と言うておりました。
弟子は分からんかったらしいが、
師家が指を切断したらやっと分かった。
つまり、問題は穴の大きさでなく、指が問題だったわけです。
穴ばかりに気をとられてしまいますと、本当のとこは見えてきませんですね。
274 :
フレッド :2005/07/01(金) 22:36:13 ID:7IPZq123
>>260 >私の論法は、意味関連は必要ないわけです。
それは今までの絡みもあるので、少しはわかりますが・・。
だけど禅宗は、仏教の中でも神秘思想だと思いますよ。
それは、男が女を神秘的だと思うのに似ている。
女の直感は、女にとっては必ずしも神秘的じゃない。
だが男の理論からすると、神秘以外の何物でもない。
禅やってる人々は、「神秘」とか「分別」という言葉
を向けられると、違うと拒否してしまうのですか?
かく言う私も、つい先日までは禅宗は神秘に満ち満ちて
いるからダメだと思っていたクチですが。w
それから、ペロさんじゃなくてベロさんではないかと・・。
逃げられるのは幸いです。
275 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/02(土) 07:41:21 ID:FxXPVsjM
>>274 >だが男の理論からすると、神秘以外の何物でもない。
1、女を知ろうとする。
2、理論(論理性の構築)
3、結論がでない。
4、神秘というファジーなことで、自分を納得させる以外にない。
というふうに、知ろうとせばあるベクトルをもちまして、
本題から離れるばかりなのです。
師家が弟子の指を切断したのは、いわゆるこのベクトルの切断を意味している訳ですね。
禅は神秘的なとこは全くありませんで、非常にリアルなことだけしかありません。
あまりにもリアルゆえに、このリアルが見えてこないのです。
追記
ペロとベロは、虫眼鏡で見ると確かに字は違いますね(^^ゞ
私は眼が悪いので、同じように見えていましたが。
いかんですねw
276 :
名無しさん@3周年 :2005/07/03(日) 21:22:44 ID:AcHHex5M
>>261 『宝行王正論』龍樹真説、および輪廻・因果を支持する有能な学者さんの紹介
ありがとうございます。その方、私好きなんですよ。明敏で正に論理的!
しかももしかすると何回か書き込んでるかもしれないです。
しかも、この方、当然の事ながら輪廻説を支持。
いうまでもなく三世に転生するという意味の輪廻です。
輪廻に他の意味などなく、変な妄説がここでは蔓延ってるみたいですが...
以下の二つの項目を読んでみてください。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/jawanote.cgi 83:[ 自業自得で生まれたわけで ]
128:[ 輪廻転生は人気がない! ]
277 :
フレッド :2005/07/03(日) 21:41:53 ID:BAe8/1Qh
>>275 >本題から離れるばかりなのです。
この場合、何を本題とするのでしょう?
例えば、仏教を知ると言う場合でも、何をして仏教の本題
を知ることと断定して語ることができるでしょうか?
例えばアビダルマの学僧などは、全て禅師に指を切断され
ていればよかったのだと思いますか?
人にはそれぞれ、依っているものがあるんだと思います。
それで必死で激流を渡ろうと苦闘しているのだろう。
それならば、そのように渡らせておけばいいのだと思う。
近づいて行って、それをぶち壊す必要はないでしょう。
理論によって理解することができる事柄もある。
理論によって理解することができない事柄もある。
このように分別しておけばいいのではないですか?
件の一門も、全てを理論で説明できるとは思ってはいな
いでしょう。ただ、自分達は理論の限界までは頑張って
みるんだという意気込みは感じますが。
278 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/04(月) 07:36:33 ID:vRkucLue
>>277 >この場合、何を本題とするのでしょう?
「女を知る」というよりも、「己を知る」って座標が大事かとおもいます。
己を知れば世界(女)は見えてくる。
>それならば、そのように渡らせておけばいいのだと思う。
>近づいて行って、それをぶち壊す必要はないでしょう。
イイ質問です。
【人は群れたがり、同じ電車に乗って安易な方向に逝きたがる。
そこには必ず陥る罠がある】
というのは、クリシュナムルティーの言ですが、
私は、クリは良いこと言うなぁ。〜と思ったもんです。
実は仏教においても、このとおりなのです。
釈尊も、龍樹も、クリもインド出身ですね。
やはりインドの奥深い思想を垣間見たおもいです。
>自分達は理論の限界までは頑張って
>みるんだという意気込みは感じますが。
いわゆる哲学のようなもんですね。
哲学は普遍論争のようなもんです。
時間の無駄かとおもいます。
279 :
フレッド :2005/07/04(月) 23:27:29 ID:Ct5OKA+w
>>278 それは仏教の真髄は、自分自身から以外は回答を導き
出すことはできないという立場ですね。
人間の問題を作っているのが人間自身でもあります。
例えば盤珪は「不生で調う」と言う簡単なことに気がつ
くまでに、大変な遠回りをしたと告白しています。
深い思想は、天竺の人々ばかりではなく、やはり人間、
自分が徹底的に頑張って失敗してみて始めて気がづき、
わかることもあります。
だから私は、極道の後、仏道が開けてくるんだろうと
思うんですよ。
280 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/05(火) 07:13:38 ID:rE867+BQ
>>279 >それは仏教の真髄は、自分自身から以外は回答を導き
>出すことはできないという立場ですね。
そのとおりです。
>人間の問題を作っているのが人間自身でもあります。
人間が問題を作って、それを思惟する以前、その刹那を禅では主客未分。
という言い方をする。
倶てい竪指の公案は、まさにその刹那のことですね。
>例えば盤珪は「不生で調う」と言う簡単なことに気がつ
>くまでに、大変な遠回りをしたと告白しています。
「不生で調ふ」というのは、ベロ氏みたいな論理思考を放棄しちゃったわけですね。
そこでやっと気づくわけです。
自らの愚かさを分かって、そして眼が開くんですね。
「柳は緑であり、花は紅である」。
>だから私は、極道の後、仏道が開けてくるんだろうと
>思うんですよ。
そういうことです。
最初から仏道という「道」があるわけじゃなくて、
気がついたら仏道の道になっていた。
という、言い方でも宜しかろうに思ふ。
281 :
フレッド :2005/07/05(火) 21:40:42 ID:iVpxe6qs
>>280 >気がついたら、仏道の道になっていた。
私も幾らかは、「これこそ仏教である」というような何か
を探してきたのですが、これがまだ見つからないんですね。
そして気になるのが、ゴータマ・ブッダの言説として最古の
経典に記されている「これを説く。というものが私にはない」
という文句。
仏教を語るに、三宝印あり、四諦説あり、縁起に依る無我論
ありですが、「これこそ」というものが見つからない。
それどころか、それらを巧みに利用している悪徳宗教団体す
ら存在する。
誰もがここに躓くのでしょうね。弱点を突かれれば人間は皆
非常に脆くなるだろうから。
思えばゴータマも盤珪も、孤独な苦行という遠回りを必死に
なって歩んできたと言う共通点がありますね。
そして二人とも、実に何某かの権威から語らずに一般の話し
言葉、口語体で平易に語る傾向がある。
原始仏教の祖と、北伝大乗仏教の禅者の生き方から、手本の
ようなものが見え隠れしているような気がします。
282 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/06(水) 07:19:22 ID:KzCm/sgr
>>281 >そして気になるのが、ゴータマ・ブッダの言説として最古の
>経典に記されている「これを説く。というものが私にはない」
>という文句。
眼横鼻直。→道元
春に花 夏ほととぎす 秋は月・・・。→道元
柳は緑 花は紅。→沢庵
不生にて調ふ。→盤珪
それぞれの禅師に共通しているのは”そのまんま”ですから、
説きようがないですね。
黙って坐っても(只管打坐)心臓は動いて血液を全身に張り巡らす。
生きるマニュアルなどなく”そのまんま”がマニュアル。→仏様
ってことで調へば宜しかろうに思ふ。
(つづく)
283 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/06(水) 07:28:10 ID:KzCm/sgr
>仏教を語るに、三宝印あり、四諦説あり、縁起に依る無我論 >ありですが、「これこそ」というものが見つからない。 どこまで逝っても「中道」に逝きつくわけです。 つまり仏教はこれですね。 中論も核になるとこは「中道」しかないです。 「中道」。いわゆる空です。 >そして二人とも、実に何某かの権威から語らずに一般の話し >言葉、口語体で平易に語る傾向がある。 中道ですから、平易なわけです。 あまり考え過ぎるのは、中道に迷うておるからですね。 某スレッドでは、アホダラ氏が考え過ぎてるようですが、 氏ぬまで考えてるんでしょうね。 あの御仁は・・・。
「縁起」こそが「これこそ」なんじゃないん? 「縁起思想」があるから、中道にもなるわけでしょ。
285 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/06(水) 16:53:30 ID:KzCm/sgr
三世も縁起ですね。
ならば何故に三世に迷うのか?
それが私は不思議です。
>>276 どのが
>輪廻に他の意味などなく、変な妄説がここでは蔓延ってるみたいですが...
こんなこと言うとりますが、
このお題は、276ご自身に問うたらよかろうかと思ふ。
>『宝行王正論』龍樹真説、および輪廻・因果を支持する有能な学者さんの紹介
有能な学者。ってのは、dでも学者。
仏教を全く分かってない。
286 :
フレッド :2005/07/06(水) 20:47:39 ID:VyOMg03S
>>284 縁起というのは「これ」と「あれ」の間を結ぶ働きですね。
そうなると「これこそ」にも「あれこそ」にもならない。
だから、「これ」か「あれ」かの究極の結論に至れるもの
ではありませんよね。
常に変化しているのですから「これ」が「あれ」に化けた
ようにもみえることがある。
だから、縁起に依る無我論を悪徳宗教団体などが、幾ら
でも利用でき、頭のいい人も騙されるんでしょう。
縁起を語っているから、無我を説いているから、中道を詠
っているから、その教えが「OK」とは成らないんです。
287 :
フレッド :2005/07/06(水) 22:22:49 ID:qzj3JiBw
>>282 私は、禅宗には偏見を持っている人間です。w
盤珪が最初に評価した禅者なんですね。(それも最近
不生禅というのには、今更ですが感銘を受けます。
誰もができる日常の修行法だけど、奥域が深い。
特異なことをするのでないから、危なくもない。
四諦が「説」から、そのまま生きざまになると
不生になってくるだろうと思う。
しかし不生禅というのはイマイチ知名度がない。
これは、もっと評価されてていいと思う。
288 :
机龍介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/07(木) 07:51:18 ID:qW83JU02
>>286 >縁起というのは「これ」と「あれ」の間を結ぶ働きですね。
「これ」も「あれ」も自性としてはないですが、世俗諦でいうなら、そういう言い方になりますね。
>そうなると「これこそ」にも「あれこそ」にもならない。
真理というのも中道にはそぐわない。
>だから、「これ」か「あれ」かの究極の結論に至れるもの
ではありませんよね。
自然法爾。とかの言いかたが宜しいかと思ふ。
>不生禅というのには、今更ですが感銘を受けます。
盤珪というのは、馬祖と似たとこがありますね。
大陸(中国)でしたら、こういう禅師は人気があるかとおもいます。
日本は農耕民族ですから、神経質で勤勉実直な印象のある白隠が日本人向きなんでしょうね。
私は、頓修頓悟というのはあまり日本の土壌に合わないのかとおもう。
289 :
フレッド :2005/07/08(金) 21:39:45 ID:ewk+4jK/
>>288 >自然法?。とかの言いかたが宜しいかと思ふ。
自然法?。・・・って何ですか?知らん。わからん。
私は、あまりモノを知らない人間なんですよ。
仏教関係の本すらもロクに読まないですからね。w
>あまり日本の土壌に合わないのかと思う。
神経質で勤勉実直だからこそ、頓修頓悟に向えばいい
のだし、そこに価値が生じてくる。
一門は、中国禅にも頓悟にも全く興味がないみたいで
すね。それが仏教だとも認めないみたい。
だから、ある人々にとっては仏教であるものが、ある
人々においては仏教でないなんてこともある。
290 :
机龍介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/09(土) 13:44:26 ID:fdWZA1ay
>>289 >自然法?。・・・って何ですか?知らん。わからん。
そういうことですね。
自然法爾とは、「知らん」「わからん」「そんなことどうでもよござんしょ」。
ですね。
つまりは論理の切断なわけです。
仏教では、仏と我の二見を離れる。というような言い方をします。
>神経質で勤勉実直だからこそ、頓修頓悟に向えばいい
>のだし、そこに価値が生じてくる。
ほんとうは、そうなんです。
>>278 の、クリの言葉を想起しますね。
凡人には、こういう逆説的な真が分からんのです。
特に、電波先生一派は頭が硬くて、駄目ですね(^^ゞ
>一門は、中国禅にも頓悟にも全く興味がないみたいで
>すね。それが仏教だとも認めないみたい。
電波は、「臨済宗の絶対他力」を発言したとこで終ってしまいましたね。
彼は、アジャリとか文献学者という触れ込みですから、私はこれ以上は発言を控えますが・・・。
少々なら彼(電波)の論旨は理解できます。
密教系は、空思想の勝義諦を世俗諦。としてますから、
その延長線において「臨済・他力」を言うたのでしょう。
しかしながら、これは大間違いですね。
291 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/30(土) 20:05:06 ID:0Csjrs13
>原始経典には、名称と形態を破壊せよ、という教えがたびたび出てきます。 これは、禅でいいますと公案にあたります。 「破壊」というのを実践的にやるわけです。 いうならば、禅というのは釈尊の行法を模倣したとこが由来です。 >名称と形態とは、色心のこと、すなわち、五蘊のことです。五蘊が「空」と同義なら >「空」を破壊せよ、という教えになりますが、これはぜんぜんおかしい。 > なぜこのように拘るかと言うと、空を色と同義と解している人がいるのです。 >色に執着することが、空を行じているのだと理解しているのです。五蘊に執着していることこそ、 >空を行じているのだというのです。五蘊のことは因果関係のこと、縁起のことですから、 >因果関係にしたがっていることが、空を行じていると考えているのです。 空を行じる。というのは、文法的に可笑しな話ですね。 空にそもそも形容動詞は付けられない。
292 :
名無しさん@3周年 :2005/07/30(土) 20:29:00 ID:drcjGZ+o
このスレも台無しにされたもんだ
293 :
名無しさん@3周年 :2005/07/30(土) 23:30:48 ID:SjJVMHCs
294 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/31(日) 07:35:37 ID:vT03BipG
>>293 そこのHPから、PDFの1番をDLしましたが、解凍したら文字化けしてました。
また再度やってみますね。
>私は真宗なので、般若心経などは、
>ほとんど知らなかったし、周囲から聞いたことも無かったですね。
真宗は他力ですから、心経は話題にもならないかともいます。
阿弥陀仏に帰依する時点で、既に心は計らいをなかば捨てているわけですから、
これは禅にも通じます。
神仏に帰依した方が楽な場合がありますね。→(神秘体験をした以後とか・)
禅の場合は、帰依するものがないから・・・それが重荷になってくる。
少しずつ蓄積された重荷を、
はて、これはいかんしがたい。
などと、おもう日々を重ねてまいります。
その重荷を瞬時に捨てきったところで眼が覚めるわけです。
浄土門の場合は、阿弥陀仏との手綱を話した瞬間というのが、眼の開く瞬間らしいけど。
(この話は、私の体験上から印象に残った書き込みです)
ようは、禅と浄土門は非常に似てますね。
浄土門においては、空はどんな解釈しているのでしょう?
私はよく分かりませんが・・・。
295 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/31(日) 07:38:37 ID:vT03BipG
× 手綱を話した瞬間 ○ 手綱を離した瞬間
296 :
名無しさん@3周年 :2005/07/31(日) 09:10:33 ID:Irgir4HU
>>294 私の祖母は、真宗でした。読み書きのできない人でした。
でも熱心に説教を聞きに行きました。なんかよくわからない症状で
一週間ほど寝込み、無くリました。死に顔が崇高に成りました。満月のようでした。
息が無いにもかかわらず体は温かく、柔らかく、みんな息を飲んで沈黙しました。
数時間ごに、顔は元の小さな顔に戻っていました。その時には、硬直もあったようです。
死ぬ前から解脱した様子はありましたね、つらいことがあっても平然と耐えられるというか、
祖母にはつらいことではないのです。子供の私にも真摯なお辞儀をしたものです。
御坊でどんな説教を聴いていたのか判りませんが、空の真理を知ったのではないかと思います。
297 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/31(日) 09:56:07 ID:vT03BipG
>>296 浄土門の場合は、西方浄土に逝く。という願望があって、そして念仏を唱える。
そのうちに西方浄土はどうでもよくなって・・・
まぁ、その「どうでもいい」ことが西方浄土なのかとおもます。
(つまり、迷いがないのが浄土ですから)→娑婆即寂光浄土
禅の場合は、ほんらい人は仏である。わけなんですが(即心即仏)
仏かどうかもどうでもよくなって(非心非仏)・・・それが迷いからの解脱なわけです。
> 御坊でどんな説教を聴いていたのか判りませんが、空の真理を知ったのではないかと思います。
空とは、どちらにも偏しない非心非仏のことですから、
そんな説教をされたのかとおもいます。
ちなみに即心即仏は、色即是空の「色」にあたる。
即心即仏も非心非仏も、意味は同じですが相が違う。
298 :
名無しさん@3周年 :2005/07/31(日) 23:00:44 ID:Irgir4HU
一切が空であれば、いかなる分別知も必要ではないわけです。 これを無分別知と言うんですよね。 空から色に帰ると色に対して、色即是空となり、色にたどり着けない。 しかたがないので、空から色に行こうとすると、すでに色は無く、空のみである。w 凡人は、執着のために空は純粋に空でなく、色は純粋に色では無いかもね?
>>298 たびたび同じことを言うようですが空=無ではなく、
分別智と無分別智も実は対立していません。
見性において全き空が必要なのはその通りですが、
そこにとどまるのは魔禅です。
300 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 07:06:25 ID:H4ScVNUo
301 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/01(月) 07:06:53 ID:MzCNOfTr
>>298 299さんは、そのとおりなんですが、
>>267 さんの説明は、非常に上手いですね。
>唯識は世俗諦から勝義を望遙し、
>中観や机さんの表現は、勝義諦から世俗を還滅されているように
>読んでおりますが。。。
本来無一物の慧能が、非風非幡の公案では「心が動く」。
何故無一物に心が動くのか?
やはり視座の違いですね。
視座が違ければ、心は動く。
視座が違ければ、神秀の明鏡台も払拭せずとも宜しいわけです。
神秀も慧能も、ようはそんなに差異はない。
神秀は分別相からのアプローチでありますし、慧能は無分別相からのアプローチ。
あえて両者の違いは、神秀は道徳とかの範疇に留まり、
慧能は、道徳より一歩進んで宗教色を出してきたのが五祖の印象を良くしたのかとおもう。
いわゆる南禅のルーツはここから始まる。
慧能は、金剛般若経に影響を受けたのは、ここでも納得できる。
302 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 07:42:27 ID:H4ScVNUo
縁起しているものには自性が無い。世界は全て縁起しているものである。 故に、世界は全て無自性である。無自性のことを「空」という。 五蘊は縁起しているものである。故に、五蘊は「空=無自性」である。 五蘊のことを世界と言う。 これくらいのことで、竜樹を知っていたつもりでした。中論をもう一度精読してみたいと思います。 白穏禅師は興味ある人でした。彼は十善を説いたというので。 かれは小釈迦といわれたのではないですか? 彼の達磨の絵は良いですね。東欧の国で禅師の書画を展示して見せたら、 人気があったということでしたね? ところで、ダルマかとにかく禅宗の祖師の一人で、人生の最後に、禅宗であったことを 後悔し、法華経につくべきであったと後悔した人がいませんか?日蓮がそのように言っていたと思いますが。
303 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 07:56:21 ID:H4ScVNUo
原始経典でも、釈迦の説法と見なせる教えばかりでなく、長老の教えと 見なさなければならない教えも混在していると思います。 大乗経典はたくさん有りますが、我々はそれを真理を説いていることを疑わないで、 理解しようとしています。大乗経典を表した人たちはまさに複数人なんですね。 彼らはまさに悟りを得て、その自信の下に経典を書き表したのだと思われます。 そうするとインドには、たくさんの悟りを開いた仏陀がいたということです。
304 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 08:03:16 ID:H4ScVNUo
しかし、竜樹は悟りを開いたとは言われないで、菩薩の十地の 前半の位にいるといわれていませんか?そんな評価を聞いたこともありますが、 第二の釈尊だという評価もあるのですね。
305 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/01(月) 08:55:51 ID:MzCNOfTr
>>302 > ところで、ダルマかとにかく禅宗の祖師の一人で、人生の最後に、禅宗であったことを
>後悔し、法華経につくべきであったと後悔した人がいませんか?日蓮がそのように言っていたと思いますが。
これはたぶん白隠かとおもいます。
白隠の生家は日蓮宗でして、子供の頃から法華経には親しんでいたようです。
そして、父親から地獄観念を植付けられるのも子共のころ。
その頃には、白隠は地獄恐怖症があったようですね。
この恐怖症の縁かなにかは知らないけど、どういう訳か禅宗に傾倒していく。
そして小悟・大悟を繰り返した晩年ころになって、幼少の頃に親しんだ法華経の紐を解くことになる。
そこには、白隠しか知りない感慨深いものがあったと、そう想像できる。
>法華経につくべきであったと後悔した人がいませんか?
白隠は後悔はしたとはおもいません。
日蓮宗の他宗派叩きの一環として、後世において白隠ネタが捏造されたのかとおもう。
>>301 >神秀も慧能も、ようはそんなに差異はない。
>神秀は分別相からのアプローチでありますし、慧能は無分別相からのアプローチ。
そこのところが、実はものすご〜く大事な点でして。
神秀と慧能の違いは単に視座の違いではないのです。
神秀は見性を得ていたが大悟していなかったんですね。
そこのところが両者の表現の違いになってくる。
これはどうしようもなくある理由により、そうなってしまうのです。
つまり、神秀の立場では、座っている間は空(無分別)ですが、
日常生活では色(分別)に戻ります。
これでは空と色の間をいったり来たりしなければならず、
ときどきこれを払拭せよ、となる。
しかし大悟においては色と空は一致していきます。
白陰が動中の静を強調したのはこのためです。
これは期せずしてチベット仏教でいうゾクチェンという修業とも一致しているんですね。
これは驚くべきことです。白隠がチベット仏教を知っていたわけがありませんから。
ついでですが道元も見性を大悟と間違えてしまっていると思いますね。
そうそう、付け加えると 般若経と唯識系経典との違いもここにあります。
308 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 12:23:01 ID:vyrJ7nlE
六祖と金剛般若経との件は、後世の付け足しということが近年の研究によって 判明してきているそうだ。六祖伝説という手法は別に珍しい事でもないが。
実話か伝説かは問題にもなりません。 伝説として後世に書き加えられたというのであれば、 なぜそのように書き加えられたか? あくまでもその「意図するところ」が重要なんです。 もちろん、その意図が間違っているかどうかが問題にはなるでしょうが、 それは史実をつついてもでてきませんから。
310 :
名無しさん@3周年 :2005/08/01(月) 13:04:34 ID:vyrJ7nlE
議論したい訳ではありません 受け売りしかできない市井の人間です ただ私のような者にも推量できる範囲で言わして貰えば、 北宗禅に対する南宗禅の優位性?を際立たせたいからだと思います。 ゾクチェンの『無努力』(努力の病を消し去る)は禅にも通じますね。 しかし、ナムカイノルブ・リンポチェによれば、ゾクチェンと禅は 以って異なるといっております。 しかし、だからといって、わたしがこの命題に関してここで議論や 闡明をしたいという意味ではありません。 実のところ、まったくわたしはそういうことに魅力を感じない人間なんです。 平たくいえば、頭が悪いということなんです。 ですから、これを持ちまして、この場を去ることに致しましょう。
311 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/01(月) 13:13:35 ID:MzCNOfTr
>>306 >神秀は見性を得ていたが大悟していなかったんですね。
神秀と慧能、明智光秀と秀吉。この両ペアは非常によく似ている。
神秀と光秀は、ともに秀才だったようです。
この知性というものが、ときとしてある一線を越えられない。
禅にいう「平常心是道」は、このことへの示唆ですね。
慧能と秀吉(サル)も、またよく似ている。
最後にはドンデンガエシになる訳です。
頓悟というのは、つまりドンガエシですね。
312 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/01(月) 13:24:33 ID:MzCNOfTr
>>310 臨済宗・盤珪の「無修行の修業」というのがありますけど、
これは含蓄に富んでますね。
313 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/01(月) 13:25:57 ID:MzCNOfTr
× 「無修行の修業」 ○ 「無修行の修行」
>>310 >しかし、ナムカイノルブ・リンポチェによれば、ゾクチェンと禅は
>以って異なるといっております。
禅が何か、禅をやっている人でも、
道元さんのような見性した人でも分っていないのに、
外部の人が分るとは思えませんね。
あるいはナムさんがゾクチェンを理解していない可能性すらある。
>>311 >この知性というものが、ときとしてある一線を越えられない。
>禅にいう「平常心是道」は、このことへの示唆ですね。
定と慧の二つは悟りに必須で、
定を先にするか慧を先にするかの違いです。
曹洞宗のように
定を先にする場合は、これはもう徹底的に慧(知性)を廃して
空になりきりませんとどうしようもない。
しかし見性したあともこれをやると話がおかしくなる。
ドンデンガエさんと平常心是道にはなりませんね。
>>310 >ゾクチェンの『無努力』(努力の病を消し去る)は禅にも通じますね。
無努力で空になりきったあと、
その空を日常生活の普通の生活の中に持ち込むのです。
そこが白隠さんの動中の静とにている。
316 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/02(火) 01:35:58 ID:Y9vLeTMN
>>314 >曹洞宗のように
>定を先にする場合は、これはもう徹底的に慧(知性)を廃して
>空になりきりませんとどうしようもない。
これは只管打坐のことですね。
余計な観念は、かえって邪魔になる。
(同意です)
あと、
>>268 のレスはイイ説明かとおもう。
まあ、なんとなくだけど。
私も以前は唯識派だったので。
八図(人牛倶忘)で中観になるかとおもう。
大抵の人はそうかとおもうが。
私の自論ですが。
この八図で唯識を引きずるかな?
そこがどうもわからん。
317 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/02(火) 01:48:17 ID:Y9vLeTMN
>定を先にする場合は、これはもう徹底的に慧(知性)を廃して 白隠の公案、「隻手の音声」を最初に解いたのは寺男でしたね。 修行僧は知が優先してしまい、つまり知に迷うてしまったのかとおもう。 隻手の音声は、あまり知は関係ないですね。 むしろ知は無いほうがいい。
>>316 >八図(人牛倶忘)で中観になるかとおもう。
>大抵の人はそうかとおもうが。
>私の自論ですが。
>この八図で唯識を引きずるかな?
>そこがどうもわからん。
そこなんですよ。
禅では偏位と正位という言い方をしますね。
偏位が相対で、正位が絶対。
相対的な縁起の世界から絶対の空へ、
この転換は確かに一度は必要なんです。
ただ、一部の人の説明が、この正位を知る「見牛」で悟った、
ということになっているんですね。
まあ、その人たちの「悟った」ということは、
それ自体は一概に間違っているとは言い切れないんですけど、
本当には、この正位と偏位がぴたりと一致(得牛)し、
一致しきったものがさらに空じないと八図といえない。
つまり見牛も、体験としては、やはり「空」なんですね。
しかし、まだ坐を離れると日常に戻ってきてしまう段階です。
ここでは正位といっても、実はあくまでも偏位に対する正位であることを間逃れていないんですよ。
これを八図と誤解してしまっている。
この違いをはっきりさせるため、神秀と慧能の話が伝わっているのでしょう。
ただし、話を非常にややこしくしているのは、 これは悟りじゃないからだめ、と言って、本当の悟りを求めれば求めるほど、 その悟りから遠ざかってしまうということがあります。 それと、見性体験では、見るものと、見られるものとの分別がないから、 見るもの(主体)それ自体を、自分自身で見ることが出来ない、 と説明する人がたまにいるようですが、これも実は半分しか正しくありません。 ここに唯識の説明が必要な理由があります。
>>317 >隻手の音声は、あまり知は関係ないですね。
>むしろ知は無いほうがいい。
これも誤解ですね。
慧(知性)と書きましたが、もちろん通常の意味での分析的知性という意味ではありません。
慧は、深い定の中で、何か通常の知性とは別の洞察を与えてくれるものです。
また、通常、現在のような公案にはいくつかのねらいがあって、
一つ解けば終わりというものではありません。
公案は無くても悟れますが、その場合でも、
実質的に公案と同じ問題意識をもった慧の洞察は必要なのです。
学者先生連中の分析的知性や知識は、
公案では訳に立たない、いや、邪魔になるというのはその通りですけどね。
321 :
名無しさん@3周年 :2005/08/07(日) 17:50:56 ID:jAdkRKMl
ふっと思ったのだが、(諸法無我)と(諸法非我)の違いが、中間派と唯識派の違いに発展しているのではないk? 「諸法無我」と言えば、全ての法が無我すなわち主体がないと言う意味にとるのが普通である。 一方「諸法非我」と言えば、諸法は「我にあらず」という意味にとるのが普通である。 そうでもないか?唯識を良く知らないでは語れない。
322 :
名無しさん@3周年 :2005/08/08(月) 18:50:41 ID:s/z3gIYQ
>>白陰が動中の静を強調したのはこのためです。
>>これは期せずしてチベット仏教でいうゾクチェンという修業とも一致しているんですね。
>>これは驚くべきことです。白隠がチベット仏教を知っていたわけがありませんから。
>315
>
>>310 >>ゾクチェンの『無努力』(努力の病を消し去る)は禅にも通じますね。
>無努力で空になりきったあと、
>その空を日常生活の普通の生活の中に持ち込むのです。
>そこが白隠さんの動中の静とにている。
そのような”動中の静”は、とても大切ですが、仏教徒としては、そんなに驚くほどのことでもないと思いますが、、。上座部仏教でも、ある意味、強調していますよ。
当然のことながら、ゾクチェンへの階梯には、”動中の静”もありますが、禅宗の”動中の静”とは異なります。越法罪になってしまうので詳しいことは口外できません。もし関心があったら、正式な伝授を受けて
修行してください。そうすれば、早晩、違いがご自分の体験として明白に分かるようになるでしょう。
323 :
名無しさん@3周年 :2005/08/08(月) 18:56:16 ID:6o+zzZj3
他人に向かって修行しろっていうところがちょっとね。
>>322 チベット仏教の関係者?
なんか言ってることがオウムっぽいけど。
>そのような”動中の静”は、とても大切ですが
君が何をどう勘違いしているか手にとるように分るけど
言ってることがトンチンカン過ぎる。
そういえばヴィパッサナーのスレでも
禅には「止」しかないと言いはっていた無知なのがいたなぁ。
325 :
(*) :2005/08/08(月) 23:22:58 ID:gkXbPPYr
>>324 禅宗の論客さんですね。
ぜひ、どう勘違いしているか解説してください。
重要なことだと思います。
326 :
名無しさん@3周年 :2005/08/09(火) 01:32:06 ID:ITFGfuLm
>>323 他人に向かって修行しろっていうところがちょっとね。
もし(それが実際どんなものか知りたいという)関心があったら、という前提付きですよ。密教一般にも言えることですが、天才的な人だったら正式な伝授だけでもOKですが、
一般的にはその後の修行がなければ証得できません。
>324
>>322 チベット仏教の関係者? なんか言ってることがオウムっぽいけど。
オウムやその関連団体などのカルトとは一切関係ない。
>>そのような”動中の静”は、とても大切ですが
>君が何をどう勘違いしているか手にとるように分るけど
>言ってることがトンチンカン過ぎる。
>そういえばヴィパッサナーのスレでも
>禅には「止」しかないと言いはっていた無知なのがいたなぁ。
禅には「観」がないとでも私が思っているとでも?
もう一回いいますが、”動中の静”は、大切ですが、仏教徒としては、そんなに驚くほどのことでもないですね。
むしろそれがないと、仏教徒としての修行は完成しませんからね。 で、私が「何をどう勘違いしているか手にとるように分る」のですか?
>>325 >ぜひ、どう勘違いしているか解説してください。
ではほんの少しだけ。
白隠禅師は「悟後の修行」、すなわち悟ったあとの修行というのを強調したんですね。
「動中の静」も、その文脈に置かないと正しく理解できない。
白隠は自身の体験から、大悟してリクパが現成しても、
それだけでは充分でないことに気が付いたんですよ。
>>326 >禅には「観」がないとでも私が思っているとでも?
その部分は別スレでそういう人がいたなぁ、という独り言です。
>もう一回いいますが、”動中の静”は、大切ですが、仏教徒としては、そんなに驚くほどのことでもないですね。
そうですか。それは失礼しました。
329 :
名無しさん@3周年 :2005/08/09(火) 11:57:23 ID:vG+JPgVT
>>328 >>もう一回いいますが、”動中の静”は、大切ですが、仏教徒としては、そんなに驚くほどのことでもないですね。
>そうですか。それは失礼しました。
素直な方ですね。お察しいただけたら十分です。 さようなら!
330 :
名無しさん@3周年 :2005/08/09(火) 13:38:05 ID:RVdmx1Oa
わたしは、わたしが、わたしの、わたしに、、ここにはそれだけが語られている。
331 :
名無しさん@3周年 :2005/08/09(火) 19:43:15 ID:++nHPME+
竜樹は「空」と「無」をどのように使い分けていますか?
333 :
名無しさん@3周年 :2005/08/15(月) 13:27:31 ID:V5V54wiw
>>332 ありがとうございます、でもよく判らない。
こちらに常駐の方に伺いたいんですが、 十住毘婆沙論の易行品というのは、ナーガールジュナの思想としてどのように位置づけられるんでしょうか? 浄土仏教の方々はここだけを選りすぐって語る風潮があるようですけど、 それは竜樹の空観と相容れるものなんでしょうか?
335 :
名無しさん@3周年 :2005/08/17(水) 19:19:40 ID:fHHZ7Rqw
浄土というのは、汚れの無い状態を意味し、汚れの無い状態とは、執着の無い状態を意味する。 一切は空であるから、執着はその空としての真理を汚しているのである。執着とは、実体が無いのに 実体があると妄想することである。これを汚れとか「垢」とか言う。 浄土とは「空の真理の世界」=「ニルバーナ」である。これを念ずることによって、 執着または垢を払い落としていくというのが易行道である。 執着というものは、苦しみしかもたらさないものである。苦しみなるもの(心)を全て制止すること 、なぜなら、一切は空であるから、苦しみなるものは無いと断じなければならないのである。 竜樹は、一切が空であることを論理的に説明したのである。これによって、人は一そう信仰し易くなった。 彼の信心は理解に基づくものとなったからである。 一応こんな風にたたき台としての説明をします。
336 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/17(水) 21:30:30 ID:zaEHZmZH
>>318 >ここでは正位といっても、実はあくまでも偏位に対する正位であることを間逃れていないんですよ。
正位というのは、貴殿が
>偏位が相対で、正位が絶対。
というふうに書かれているように、絶対であって相対はないですね。
>偏位に対する正位
というのは、可笑しな話になりますね。
絶対というのは、いわゆる無のことでして。
この無は「相対がない」という意味において無と表記される。
だから「絶対無」という表記でもいい。
>この違いをはっきりさせるため、神秀と慧能の話が伝わっているのでしょう。
神秀は、心と明鏡台を対立させてるわけですね。→貴殿がいう偏位なわけです。
慧能は、この対立がないわけです。
対立がなければ相対しようがない。
>偏位に対する正位であることを
偏位と正位が対立しようがない。→八図は、このことですね。
>>336 >>ここでは正位といっても、実はあくまでも偏位に対する正位であることを間逃れていないんですよ。
>正位というのは、貴殿が
>>偏位が相対で、正位が絶対。
>というふうに書かれているように、絶対であって相対はないですね。
>>偏位に対する正位
>というのは、可笑しな話になりますね。
論理的にどうかというのと、実際のところがどうかというのは、
論理を支える実態がどうかに依るのでそんなに単純ではないですね。
たとえば子供の心の発達などは、ピアジュが研究していましたが
一定の段階や共通性があります。
同じように、いきなり八図に悟入ということは私の知る限りないですね。
>絶対というのは、いわゆる無のことでして。
>この無は「相対がない」という意味において無と表記される。
>だから「絶対無」という表記でもいい。
概念の側から見たらそのとおりです。
「有」「無」というのは概念の世界にしかない。
もっと分りやすく書くと、
人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、
その概念としての世界観の中にしか「有」「無」という相対は存在しません。
なので、最初に「空」を体験するとき、概念の世界を脱するとき、
それは必ず「絶対無」として経験されるのです。
しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。
ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。
>>この違いをはっきりさせるため、神秀と慧能の話が伝わっているのでしょう。 >神秀は、心と明鏡台を対立させてるわけですね。→貴殿がいう偏位なわけです。 「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。 >慧能は、この対立がないわけです。 >対立がなければ相対しようがない。 >>偏位に対する正位であることを >偏位と正位が対立しようがない。→八図は、このことですね。 慧能は日常生活にあっても八図、神秀は坐っている間だけ八図でしょうね。
339 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 07:34:41 ID:CRKbuOqz
>>338 >「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。
私は、この喩えに作為を感じるのです。
心は心でありますし、明鏡台は明鏡台である。
作為はなにも必要じゃない。
花は紅でありますし、柳は緑なだけです。
まさに住(とど)まるところなくして、その心を生ずべし。
心は喩えようがないわけです。
ここが北禅と大きく違うとこかとおもいます。
340 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 07:45:15 ID:CRKbuOqz
>>337 >人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、
この世界観を放棄したのが八図かとおもいます。
論理も、実際も、実態も、放棄していいわけです。
>しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。
空は世界の相ですから、なにも日常にあてはめなくても、日常そのものが空になる。
>ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。
色即是空ですから、正位と偏位は対立しないかとおもいます。
>>339 >>「心は明鏡台のごとし」と言っているので喩えているだけで対立はしていませんね。
>私は、この喩えに作為を感じるのです。
>心は心でありますし、明鏡台は明鏡台である。
>作為はなにも必要じゃない。
たしかに心は心ですし、明鏡台は明鏡台ですね。
しかし、同じように喩えは喩えです。
作為を感じるのは読む人の主観でしょう。
>花は紅でありますし、柳は緑なだけです。
>まさに住(とど)まるところなくして、その心を生ずべし。
>心は喩えようがないわけです。
>ここが北禅と大きく違うとこかとおもいます。
そうですね。北禅と南禅は大きく違いますね。
北禅的理解でよしとしてはいけないでしょう。
>>340 >>人間の理性的操作により、心の中に作り出された世界観、
>この世界観を放棄したのが八図かとおもいます。
>論理も、実際も、実態も、放棄していいわけです。
もちろんすべて放棄するわけです。
空という概念も一緒に。
>>しかし絶対無であっては同時に通常の日常生活を送れるわけが無い。
>空は世界の相ですから、なにも日常にあてはめなくても、日常そのものが空になる。
それは動中の静ができて初めて言えることでしょう。
実は仏教的文脈における「絶対無」と
キリスト教的一神教における「唯一神」は表裏一体で、
同じ物の二つの側面です。
どちらの側を見るかの問題でしかありません。
八図においてはこの絶対無であるところの唯一神が空じるんですね。
>>ここが「絶対無」(正位)と「日常生活」(偏位)が対立してしまうところ。
>色即是空ですから、正位と偏位は対立しないかとおもいます。
八図においては対立しません。 同時に存在します。
343 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/18(木) 21:42:11 ID:CRKbuOqz
>>342 >実は仏教的文脈における「絶対無」と
>キリスト教的一神教における「唯一神」は表裏一体で、
>同じ物の二つの側面です。
>どちらの側を見るかの問題でしかありません。
そうですか?
私には意味がわかりません。
絶対無なら、表裏一体も、神仏も、有無も、全て意が消失するかとおもいますが。
表裏は言語の世界にしかありません。
世界は言語に依りてあるわけではないですし。
言語が世界を構築しているわけではない。
世界は、ただ世界でしかない。
ましてや、言語は言語でしかない。
花は紅であり、柳は緑でしかない。
>>343 >絶対無なら、表裏一体も、神仏も、有無も、全て意が消失するかとおもいますが。
>表裏は言語の世界にしかありません。
>世界は言語に依りてあるわけではないですし。
>言語が世界を構築しているわけではない。
これは「意識」の成り立ちを理解していなければわからないでしょうね。
「すべて意が消失した」ということは、
その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。
>世界は、ただ世界でしかない。
世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
はじめに言葉ありき、ですから。
>ましてや、言語は言語でしかない。
>花は紅であり、柳は緑でしかない。
世界が意に現れる前の世界は通常の意味での認知は不能です。
ちなみに人間における言語活動は完全に本能的行為ですね。
「実際のところ」とは別の観念論ではいけません。
346 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 06:43:17 ID:c0Hb2GK/
>>344 >世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
>はじめに言葉ありき、ですから。
人は、事象を認識するために、既存の言語を当てはめてるに過ぎないわけです。
例えばパンダを初めて発見した場合、熊と認識するか?猫と認識するか?
この時点で言語(思考)によって分別されているにすぎない。
よって言葉(言語)とは、認識するうえにおいての共通概念にすぎない。
>その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。
不一不二かとおもいますが。
>ちなみに人間における言語活動は完全に本能的行為ですね。
言語というのは、本能における属性かとおもいます。
>>346 >>世界が世界として意に現れるのは言語としてです。
>>はじめに言葉ありき、ですから。
>人は、事象を認識するために、既存の言語を当てはめてるに過ぎないわけです。
>例えばパンダを初めて発見した場合、熊と認識するか?猫と認識するか?
>この時点で言語(思考)によって分別されているにすぎない。
>よって言葉(言語)とは、認識するうえにおいての共通概念にすぎない。
そこですね。
そこをもっと深く入っていきませんと実際のところが見えてこないと思います。
たとえば「りんごがある」というのは、
りんごとして識別される何かにたいして、記号として「りんご」と名づけている。
これが普通の理解ですね。
もちろん、これはこれで、それなりに正しいわけです。
しかし、より深く観るなら、
「存在がりんごとして(縁あって)現成している」
ということが分かるようになり、
本来なら、継ぎ目無しの存在が、個々の事象として文節している、
ということも分かってくるでしょう。
この「文節」こそが人間においてコトバとして知られるものなのです。
>>その裏に「すべての意としての一なるもの」があることを意味します。 >不一不二かとおもいますが。 そこで言いたかったのは、 要するに「一切」が心を離れて存在しない、ということです。 ですから「絶対無」として心を経験するなら、 それは実のところ「唯心」として経験するわけです。 これは依然として、事象を対象化して観ようとする識の働きが 止んでいないことを意味しています。 止んでいないからこそ、それを一なるものとして、 あるいは逆に絶対無として経験してしまうわけですね。
349 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 08:50:44 ID:c0Hb2GK/
リンゴを識別する。というのは、 人がそう識別してきた。そう学習してきた。ということだけです。 また言語というのは、人が生きるために、自然発生的に発生し発展してきたにすぎない。 つまり、人が生きるため(生活)には非常に便利ではあるが、 反面、それは迷いの根源でもある。 二面性が内在しており、普段はそれを全く意識もしない。 それは、認識という一次的なことが優先され、この識において埋没してしまうのです。 このことを唯識派は、ここに阿頼耶識とか、なんたらかんたら論をぶちあげますが、 そんなに難しく考えることはない。 ようするに現観のことです。
【分節】を【文節】と表記してノーテンキなひと こねくりまわすにも、正確に致しましょう
>>349 >リンゴを識別する。というのは、
>人がそう識別してきた。そう学習してきた。ということだけです。
人が学習する前から自然は存在しますね。
>また言語というのは、人が生きるために、
>自然発生的に発生し発展してきたにすぎない。
つまり言葉も自然現象ですね。
>つまり、人が生きるため(生活)には非常に便利ではあるが、
>反面、それは迷いの根源でもある。
>二面性が内在しており、普段はそれを全く意識もしない。
その二面性はどのように生じているのか?
そこが問題なんです。
そこが分からないから「絶対無」ということになる。
間違いです。
>このことを唯識派は、ここに阿頼耶識とか、なんたらかんたら論をぶちあげますが、
>そんなに難しく考えることはない。
>ようするに現観のことです。
絶対無では現観にならないから言っている。
>【分節】を【文節】と表記してノーテンキなひと
訂正ありがとう。
352 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 19:29:21 ID:c0Hb2GK/
>>351 >人が学習する前から自然は存在しますね。
人が学習する前は、世界はないですから、よって自然も識別もありません。
無我であり、また世界が我でもある。
我が生起しているにすぎない。
>つまり言葉も自然現象ですね。
人は言葉に依り分別(認識)していきます。
また、分別は言葉に依る。この関係は切り離せない。
>その二面性はどのように生じているのか?
言葉における属性と、その属性に全く依らない、この二面性です。
絶対無とは、この後者にあたる。いわゆる空です。
ちなみに前者は色になる。
色即是空。
>絶対無では現観にならないから言っている。
そうでしたか?
ならば、いろいろとご教示くだされまし。
現観とは、読んで字の如しなり。
現を観る。
まぁ、かように御理解なされまし。
>>352 >>人が学習する前から自然は存在しますね。
>人が学習する前は、世界はないですから、よって自然も識別もありません。
>無我であり、また世界が我でもある。
>我が生起しているにすぎない。
そうすると学習により世界は発生するのでしょうか?
初耳ですが、学習は大事なことのようですね。
>>つまり言葉も自然現象ですね。
>人は言葉に依り分別(認識)していきます。
>また、分別は言葉に依る。この関係は切り離せない。
分別(分節)が言葉であるというのは正しいとして
認識はまた別の問題です。
>>その二面性はどのように生じているのか?
>言葉における属性と、その属性に全く依らない、この二面性です。
>絶対無とは、この後者にあたる。いわゆる空です。
>ちなみに前者は色になる。
>色即是空。
あなたの論法だと、その二面性がいつまでたっても
「即」にならず分離したままですね。
どこまでいっても色は色、空は空で即(すなわち同じ)にならない。
なんども言うように、
座っている間は空、日常生活では色を脱することができない。
>>絶対無では現観にならないから言っている。 >そうでしたか? >ならば、いろいろとご教示くだされまし。 唯識派の人たちは瑜伽行唯識派とも言われますが、 瑜伽行とはヨーガ行の音訳で、すなわちヨーガの行者でもありました。 坐禅を実践してきた人たちですね。 彼らは難しい理屈を言っていたのではなく実際のところを 現象として説明していただけなんですよ。 >現観とは、読んで字の如しなり。 >現を観る。 >まぁ、かように御理解なされまし。 現観とは、要するにあるがままに観るということです。 しかし言葉でそういうのは簡単でだれでもできます。
355 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/19(金) 20:28:41 ID:c0Hb2GK/
>>353 >そうすると学習により世界は発生するのでしょうか?
我がいつ頃に生起するか?
母や他人を識別しないと、我という認識もない。
その頃が世界(我)の始まり(ただし連続ではない)なんでしょうね。
>「即」にならず分離したままですね。
相が違う。
例えば、ある事象を説明するる。→これは誰でもかんたん。
もし、その説明しようとする認識主体が、事象そのものでしたら、
ここで、いわゆる説明そのものが無効になる。
いわゆる、同じ事象であっても、相が違えば説明は困難。
同じ事象だから→則。
相が違うから→二面性。
この違いです。
まぁ、もう寝るから、後でゆっくり説明する。
356 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 06:27:18 ID:H50QmY5H
訂正
>>355 × 同じ事象だから→則。
○ 同じ事象だから→即。
説明を補足しますと、12支縁起が人生そのものであり。
これが世界(色)そのものになるわけです。
縁起の最後は「老死」で終了。
よって世界(色)も、これにて終了です。
縁起なる理が空でありますから、色即是空となる。
357 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 06:38:42 ID:H50QmY5H
>>354 >現観とは、要するにあるがままに観るということです。
例えば、日常というのはある方向性をもちます。
心は目的に向かいます。
この目的に埋没してしまう「現」。
刹那のことです。
日常に埋没してしまう「非日常」というてもいいかとおもう。
(これは、おいおい語りますが)
無明に覆われていますと、この日常という霧は晴れない。
晴れた瞬時が現観。
358 :
暇人 :2005/08/20(土) 07:27:22 ID:1TWt+pHR
>実は仏教的文脈における「絶対無」と
ギャグにつきあっておこう。
http://www.biz.ryukoku.ac.jp/%7Etakada/menu/ron-15.htm <言説は、例えば次の如くである。「如来説世界非世界。是名世界」。
仏教学的文献解釈を考慮せず、それを仮に形式化し、且つ一つの可能な理解
に変えれば、「如来説A非A。是名A」とい、三とから、∧`Aは非AとしてA∨
と言うことも出来よう。世界はその場合、非世界として、非世界ということ
に於て、本当に世界する世界である、ということになる。>これの形式が
<無とは絶対矛盾的自己同一と云ふことである。略
かゝる立場からしては、すべて有るものは有であると共に無である。
絶対無とは、すべてに対し超越的なると共に、すべてが之によって成立する
ものでなければならない。>
つまり「絶対無」は、仏教学的文献解釈を考慮しない哲学解釈によって
近代に生まれたとも言える
359 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 07:35:25 ID:H50QmY5H
>つまり「絶対無」は、仏教学的文献解釈を考慮しない哲学解釈によって >近代に生まれたとも言える まあ、そうですね。 〇無、とか、☆無、とかの表記でもいい。 意味が通じればいい。
>>355 >我がいつ頃に生起するか?
>母や他人を識別しないと、我という認識もない。
>その頃が世界(我)の始まり(ただし連続ではない)なんでしょうね。
それは「個人の」観念としての世界観のことですね。
そのようなことでは唯識は理解できません。
>>356 >説明を補足しますと、12支縁起が人生そのものであり。
>これが世界(色)そのものになるわけです。
>縁起の最後は「老死」で終了。
>よって世界(色)も、これにて終了です。
それは時間によって色が空になって終わるといっているだけで
色がそのまま空ということではないですね。
>日常に埋没してしまう「非日常」というてもいいかとおもう。 >(これは、おいおい語りますが) >無明に覆われていますと、この日常という霧は晴れない。 >晴れた瞬時が現観。 なので「時々これを払拭せよ」という神秀の北禅を脱していないわけです。 誤解のないように言っておくと、 私は、それが悪い、と言って非難するつもりはありません。 ひとつの過程として、それはどうしようもない一面があるので、 それが八図でない、と知っていればそれだけでも十分です。 しかし一部の勢力が、北禅とは限らないですが、 一歩間違えれば立ち枯れ禅ともいうべきこの魔禅を 正当な只管打坐だ、と主張しているのです。 本来の只管打坐はそのようなもので終わりません。 ちょうどイモムシがあるがままでいたら、自然とサナギになり、 時がくれば蝶として飛び立つように、 八図もまた人の変容になるのです。 しかし、イモムシに向かって、これを非難したり、 無理やり蝶になるように強制することはできません。 そんなことをすれば、そのイモムシを殺すことになる。 だからこその只管打坐で、自然の成長をまつよりありません。 しかし、この八図の変容を受け入れず、 君はイモムシなのだから、あるがままにイモムシでいつづけるよう、 そのイモムシであることを脱しようとするのは「心の病」だ、 『無努力』(努力の病を消し去る)でイモムシのままでいつづけなさい、 と教え、そのことを受け入れて自分の可能性を忘れたことを見性である と教えているの勢力があるのです。
362 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:16:17 ID:H50QmY5H
>>360 >それは「個人の」観念としての世界観のことですね。
>そのようなことでは唯識は理解できません。
12支縁起(十縁起)の他に縁起はありますか?
縁起があるから、我(世界)があるわけですね。
縁起がなければ、我(世界)があるわけない。
それこそ貴殿がいう論は、観念論です。
>それは時間によって色が空になって終わるといっているだけで
>色がそのまま空ということではないですね。
色というのは縁起のことで、縁あるがゆえに貴殿は「今ある」んじゃないですか?
縁なくば、貴殿もなく世界もないわけです。
その理を空という。
363 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:23:33 ID:H50QmY5H
説明の補足 我と世界は別個のものじゃないですよ。 世界が単独(自性)としてある訳じゃない。 縁起において世界があり、同時に我がある。 縁なくば、我も世界も同時にない。
>>363 >縁なくば、我も世界も同時にない。
見えてませんね。
「唯識」というのはまさにその「世界(一切)」のことで、
禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。
>>355 >我がいつ頃に生起するか?
>母や他人を識別しないと、我という認識もない。
ここ↑であなたが説明しているのは、
この世に生まれてきてからの「自意識」のこと。
まったく意味が違います。
365 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:34:49 ID:H50QmY5H
>>361 只管打坐というのは、いわゆる無努力のことですね。
努力するなら、明鏡台を払拭するのが努力なんでしょうから。
「無努力」というのは、南禅は受け継いでますよね。
本来は受け継いでるわけですが、受け止めかたは北禅に近い人が多いとおもう。
>>365 >「無努力」というのは、南禅は受け継いでますよね。
>本来は受け継いでるわけですが、受け止めかたは北禅に近い人が多いとおもう。
どの伝統でも誤解されている部分はあるでしょうね。
367 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:44:29 ID:H50QmY5H
>>364 >禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。
これをいろいろ勘違いする人がいる。
本来の面目というのは、前世の意味とは違う。
縁の相依性、複合的な縁の摩訶不思議なことを意味する。
368 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 09:49:16 ID:H50QmY5H
>>364 >ここ↑であなたが説明しているのは、
>この世に生まれてきてからの「自意識」のこと。
>まったく意味が違います。
それを「我」というわけですね。
自意識。ですから無我になる。
意識が芽生えて自我の意識になる。
>>367 >>禅で言うなら父母未生以前の本来の面目です。
>これをいろいろ勘違いする人がいる。
そうですね。前生と勘違いするのは最悪ですね。
しかし観念論で解釈して満足するのもいただけない。
「朝に眉を結び夕に肩を交う。我れ何に似たるや」
370 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:01:04 ID:H50QmY5H
まぁ、禅というのは、飯を食うて寝て糞をすることが・・・・分かった。 ということになる。
「朝に眉を結び夕に肩を交う。我れ何に似たるや」 この意味がわからないと 唯識と自意識の違いも分からない。 これは観念論では届かない領域の話なので ついてこれないならそれでいいです。
372 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:09:33 ID:H50QmY5H
自意識は表層意識であるから、本来の深層意識において覚醒せねば、 意味がわからない。 という事ですね? では、その阿頼耶識において覚醒したことを書いてください。
373 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/20(土) 10:24:54 ID:H50QmY5H
朝に眉を結ぶとは・・・ わかりませんね。 朝に髷を結ぶんじゃないでしょうか?
374 :
名無しさん@3周年 :2005/09/12(月) 22:24:14 ID:mffr8vXI
1 名前:hirohito 投稿日:02/12/15 00:03 髑髏仮面先生は宗教板おなじみのコテハン。 裸一貫、野菜売りから始めて地方議員となり、今は官休庵(武者小路千家)のお茶のセンセー。 毎日毎日、2chに出入りしては、周囲をキョトーン?とさせる摩訶不思議なカキコを繰り広げる。 ときに「職業柄、女性には困らない」と豪語し、自らのアナル体験を打ち明けたかと思えば 女々しいレスを返す若人には「三尺玉(の花火)をどーんとぶち上げんかぁ!」と叱咤激励。 話題が茶道、仏教関連となると、得意の自論(not持論)をふりまわし、快刀乱麻、変幻自在。 「そこのところを、もっと仔細に」と求める衆生の願いも虚しく 「平等一枚」←このことかと思う(プ とあまりに呆気ないレスに一同 ( ゚Д゚)ハァ? の連続。 手に負えなくなると、しばらくはROMをしている、専門家の自論を聞きたいと豚ずら。 ところがその数分後には、前言を翻して、カキコを始めている愛すべきキャラなのである。 これって、あなたのことだね。
375 :
名無しさん@3周年 :2005/09/12(月) 22:27:42 ID:mffr8vXI
124 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 09:56
>>120 >大声出さないとダメなん?泣かないとダメなん?ってね。
そうゆうとこで泣く女性は、アッチの方でも良いですよ。
一番泣きの良いのをマークしとくと、後々の参考になるんじゃないですか?
127 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 11:21
>>126 そうゆう女性は、潜在的M性の性癖がりますから、貴殿が何とか仕込んだら良い女にな
ますよ。
貴方の言うなりになります。まあ愛奴です。
そうゆう趣味はありませんか?
132 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 13:51
>>130 私は、職業がら役得ちゅうもんがあるから、女は不自由してないよ。
134 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/10/28 17:59
>>133 私のレスは、一応内部崩壊を意図したレスですね。
いわゆる、神聖なるものそこに非ず。
290 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/11/02 15:10
:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/02 15:08
>>757 女性のアナルは良いですね。
「そーーっと入れて」なんて、あの猫なで声が良いですね。
「あんまり激しくやんないで」なんて哀願するとこなんかも良いし。
キュッキュッ締め付けるとこなんかもたまりませんね。
376 :
名無しさん@3周年 :2005/09/13(火) 20:07:36 ID:WBHjwecE
↑ どのスレでこのような発言を?
377 :
名無しさん@3周年 :2005/09/13(火) 23:13:47 ID:tV2r9RsT
362 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/11/04 16:38
>>361 う〜ん。男には興味がないなぁ。
女でも、美人だから良いちゅう訳でもないし。
美人は見飽きてるからね(ワラ
かといって、可愛い子ちゃんタイプはジェンジェン興味がないし。
つまりはフィーリングの問題だね。
これは、話しているうち段々タイプが分かってくる。
367 名前:髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. 投稿日:02/11/05 08:42
>>366 私は、もてるタイプじゃないんですよ。
だからそういう人間は、それなりの事を考えねばならんとゆう事です。
ただたんに女性のプライドを刺激しているだけです。
しかしながらまた反面、被虐的なもんを好む女性も居る。ちゅうことです。
その女性のタイプに、自分が合わせてるだけですよ。
シックの中でも、貴殿に犯されてみたい。ちゅう妄想を抱いている女は居るはずです。
それを見抜くか、見抜かないかの違いかと思う。
w
379 :
似我 :
2005/10/20(木) 00:17:06 ID:JZzjnrnc ダルミン(我)無きダルマ(十二支の各支)の継時的継起がある、 という考え方があるようですが、これはどうなのだろうか。