1 :
1 ◆2LEFd5iAoc :
2 :
名無しさん@3周年:04/12/05 17:41:28 ID:oI6kimjs
2005年、統一教会が潰れるって本当ですか?
3 :
1 ◆2LEFd5iAoc :04/12/05 17:54:06 ID:SK2+aPne
はてな?
そんな話は聞いたことがないが、つぶれるものは、つぶれるがよろしい。
4 :
名無しさん@3周年:04/12/05 18:02:35 ID:xvwzdIhD
初期大乗は基督の弟子、使徒トマスがガンダーラ地方で宣教した結果、
対抗宗教改革で生れた仏教ですよね。
5 :
1 ◆2LEFd5iAoc :04/12/05 21:23:03 ID:SK2+aPne
>>4 う〜ん。そうかもね。
キリスト教の研究によれば、使途トマスがインドに上陸したのは西暦52年。
インドのボンベイだとされています。
キリスト教が人々の「救済」を強調したことが、
仏教に与えた影響は大きいでしょうね。
6 :
名無しさん@3周年:04/12/06 06:08:20 ID:fjDpEgeg
>>5 三仏身というんですか先日英語で書かれたテキストを勉強していたら。
@法身、A報身、B応身は、それぞれ、キリスト教の歴史に登場した
三種類のキリスト、@ロゴス論的キリスト、A養子論的キリスト、
B受肉論的キリストであることに気がつきました。
なお、ロゴス(ギリシャ語)=ダルマ(梵語)、キリスト(ギリシャ語)=アミダーパ(梵語)です。
更に「阿弥陀仏」は@+A=養子論的ロゴス・キリストのように書かれて
いることにも気づきました。
興味がおありならまた書きます。
7 :
1 ◆2LEFd5iAoc :04/12/06 08:39:19 ID:IcTbgxZc
なかなか、アモシロイ話ですね。大乗の成立にキリスト教の影響があったということですね。つづきを是非ともお願いします。
8 :
1 ◆2LEFd5iAoc :04/12/08 00:55:38 ID:eQh8uho4
キリストは、油をそそがれた者で、アミターバは、光輝く者ですから別だと思う。
9 :
名無しさん@3周年:04/12/09 08:57:15 ID:WjaPgIz3
10 :
1 ◆2LEFd5iAoc :04/12/11 22:30:21 ID:ZoqgDuaU
何年か前に、「仏教西方起源論」という本がありました、
買う前に、書店から消えうせてしまった。
ちょっと残念です。
貴重な機会ですから、どうか西方とのかかわりを教えてくださいませ。
たまに反論するかもしれませんが。
11 :
名無しさん@3周年:04/12/18 08:17:43 ID:aLEpO+TU
トマスがインドに来たというのは、否定された学説ではないのか?
インド・マラバール教会は明らかにネストリウス系でしょう。
12 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :04/12/18 09:01:35 ID:VK02o+RE
トマスがインドを担当したというのは伝説です。学説としてはまだみとめられていないだけで、否定されたという話は、わたしは知りません。
13 :
名無しさん@3周年:04/12/18 18:53:04 ID:6LM4DVmy
■聖トマスについてブリタニカの紹介
トマスという名前の意味はディドモとも呼ばれる双子の意味。エウセビウスは、トマスを
エデッサのパルティア出身の宣教師としている。エデッサ には彼の遺骨が保存されてい
る。この遺骨はインドからエデッサにもたらされたと伝承されている。トマス行録によれ
ば、聖トマスはインドに布教し殉教したと伝えている。このトマス行録はシリアで作られ
、内容が歴史的に正しいかどうかは異論もあるが、シリア文学の最古のものであることは
確かである。4世紀にはギリシャ語に翻訳され、ついでラテン語にも翻訳された。しかし
当時から、マニ教の文書と共にもちこまれ、宣教旅行はあったとしても、その宣教はマニ
教の影響があり、アウグスチヌスにより異端とされた。そのような次第でラテン語の翻訳
書には彼の言葉はほとんど載っていない。原文はシナイで発見される4〜5世紀の羊皮紙に
断片があるのみである。トマス行録はユーフラテスの東の諸国に伝えられた初代キリスト
教の代表的なものである。それは禁欲的なもので、結婚は避けるべきで、現世的なことへ
の没頭は勧めない。聖餐はパンと水のみで行う。主の祈りは同じである。彼はユダ・トマ
スとされ、その名前からイエス・キリストと双子であるとの説があった。聖トマスの名前
は古代の南インドのキリスト教会によく使われている。これはトマス行録に結び付けたこ
とによるものである。伝説によれば聖トマスはマラバール(南西海岸)にキリスト教会を
たて、ついで大陸を横断してミラプール(現在のマドラス郊外)で殉教した。そこに墓地
があり、1547年ポルトガル宣教師によって再建された。そこには聖トマス教会があり、
7世紀のパーラビ語が記された十字架がある。つづく
14 :
名無しさん@3周年:04/12/18 18:53:35 ID:6LM4DVmy
つづき 現在残されている文献によって、550年以前
のペルシャ起源のキリスト教ネストリア信条が、セイロン、マラバール、ボンベイ北のカ
リアナには残っていることが知られる。古代インドのキリスト教はトルキスタンや中国に
並行して伝えられたのネストリア派のミッションの生き残りともみられる。
しかし(彼ら)は聖トマスのインド宣教を歴史的事実と考えている。トマス行録にあるイ
ンドのグンダファール王は、歴史上のガンダーラ地方の支配者ゴンドファーレスの時代と
一致するし、ほぼその大筋は歴史的事実とみるのが説明しやすい。エデッサ教会の伝説と
も一致する。"ENCYCHROPHEDIA BRITANICA 1964 THOMAS, ST.,"
15 :
名無しさん@3周年:05/01/09 15:07:49 ID:h5Hfr6Vu
16 :
反動形成は「過ぎる」に現れます。:05/01/09 15:22:45 ID:4/GJj00n
反動形成は「過ぎる」に現れます。
この人は、○○過ぎる。ってありませんか?
そういう人たちは、無意識層への「抑圧」があります。
自分が認めるわけにはいかない「感情」を抑圧しているのです。
抑圧されたものは、意識上へ昇ってこようとしています。
しかし、「検閲」という機能が働いて、それを押さえつけます。
そこで、抑圧は形を変えて、意識上へ昇ってきます。
夢などです。夢精は性的欲求を抑圧した結果ですね。
その他に、神経症として現れてきます。心身症として現れます。
現れることで抑圧を解消するんです。しかし、自分自身でいったい何を
抑圧しているのかを意識化し、認めないことには、際限がありません。
どうして、私はメサイヤコンプレックスにハマっているんだろう?
自己分析が必要です。
この場合、第一に考えられるのは、「自己無価値感」です。
自己無価値感は嫌な感情ですから意識したくありません。そこで抑圧します。
抑圧されは感情は、「反動形成」として現れます。
これを「防衛機制」といいます。心のバランスをとっているんです。
電波男Ψ(´д`)Ψさんに、「過ぎる」を感じている方いませんか?
電波男Ψ(´д`)Ψの行動様式に「過ぎる」を感じていませんか?
行動様式は、小さい頃の生活環境で、試行錯誤の中から作られてきます。
効果を感じた行動様式は、大人になっても続けられます。
メサイヤコンプレックスは、自己無価値感から、
自己無価値感は、小さい頃の生活環境から生まれたのでしょう。
周りの大人がそういうサインを出していたのか、または、本人の解釈なのか?
自己無価値感からは、虚勢は生まれますが、「やさしさ」は生まれません。
形式的には、同じ行動でも、動機が違うからです。
一方は、「やさしさ」から、もう一方は、「どうだ俺は凄いだろ!」から。
受け入れられたいから「自分を価値あるものと見せつけたい」。
そこで、自慢をする。虚勢を張る。そうすることで、周りから反発を買ってしまう。
人間関係が上手くいかないのは、こういう心のカラクリがあるのです。
心の防衛機制の一つである反動形成は、「過ぎる」に現れます。
17 :
反動形成は「過ぎる」に現れます。:05/01/09 15:51:22 ID:4/GJj00n
仏教は心をテーマにしているんですよね。
心をテーマにした仏教に造詣が深くても、何か違和感を感じる。
心を理解しているようで、実は理解していないのでは?と違和感を感じる。
きっとそれは、
電波男Ψ(´д`)Ψさんが、知識だけで、実践が伴っていないからかもしれません。
このことによって、
心をテーマにした仏教は、実践が大切ということがひしひしと伝わってきます。
実践感覚や現実感覚が希薄な知識者の集まりが、昔いましたよね。
日常で、温かい心の交流があれば、
ネット上で「大きな心理的報酬」を得ようとしないものです。
しかし、実際の自分を隠して虚勢を張った行動をしていると、どうしても、
日常で、人々と温かい心の交流を持つということができなくなるのです。
人生の改善は、自己分析からスタートします。
今までの日常習慣から、自分が作られているのですから、
小さいことからでもいいから、日常習慣を変えていくことが
人生の改善につながります。
自己受容した人間が、やさしくなれます。
自己受容した人間が、他者受容できるのです。
他者受容できない人間が、やさしくない人間が、
「実践感覚の抜けた心をテーマにした仏教」をレクチャーしても
そこには、違和感があるんですね。
>>17 キリスト教世界でもよく似たことを言ってたような気がする、それ。
19 :
名無しさん@3周年:05/01/22 00:18:20 ID:nIACtcfh
あげ
20 :
レンマ:05/01/25 21:49:15 ID:3AsjHZXj
大乗の特徴は、菩薩行ですね。
でも菩薩行では解脱できない。
21 :
レンマ:05/01/29 10:07:04 ID:yBeokZmZ
お勧めの本
ブッダが考えたこと 春秋社
テトラレンマさん。
菩薩行抜きでは解脱できないんですよ。
23 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/01/30 11:08:29 ID:ahGMUVrh
「他のすべての人が救われるまで、自分は解脱しない。」
という思想はおかしいと想いませんか?
中道である菩薩行なら良いのですが、
誓願とか誓戒(ヴラタ)を伴う菩薩行は、
釈尊の説く中道ではなく、外道の教えだと想います。
24 :
名無しさん@3周年:05/01/30 11:15:48 ID:t1kbjyw1
テトラレンマじゃなく、ディレンマさんでしょう。
25 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/01/31 00:38:30 ID:8B8BfQFs
誓願は慈悲の気持ちから出てくるんじゃないかな?
慈悲が仏教ではないと言い切れないし、
菩薩行(利他行)を外道と断定するのは早計なんじゃない?
梶山先生の本には確かに大乗は中道ではなく極端に走る傾向が強いと指摘してあったね。
ただ利他のみで良い訳でもないから、自利利他円満と言うのが理想だろうね。
26 :
レンマ:05/01/31 12:30:03 ID:f46HZIK8
>菩薩行(利他行)を外道と断定するのは早計なんじゃない?
テーラワーダも「菩薩行(利他行)」なんて無い!といっているので、
実際は、外道なんでしょう。
菩薩行が、「結局、自分のため」と自覚しているのなら、問題は
ありませんが、「人のため」と考えているなら、心得違いでしょうね。
27 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :05/01/31 13:25:38 ID:NWb6jv88
>>26 勘違いが多いようですが、原始仏典のそう新しくない経典に菩薩行や波羅蜜が説かれています。
テーラワーダが菩薩行が無いと断言しているのであれば、自ら外道であることを認め、宣言して
いるのでしょう。もっともテーラワーダが釈尊の意を汲もうとする仏教であるとは思えませんが。
28 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :05/01/31 13:47:13 ID:NWb6jv88
原始経典の古層と推定される経典では「自利・利他」の明確な区分は認めがたいものがあります。
自他の区別無く、概念化もなく行動するように見受けられます。後付で自他の分類ができますが、
行為の対象がたまたま自分であったり、他人であったり、自分と他人を含むものであったりするだけ
のように思えます。
もちろん、
1)他人を排する自己
2)自己を排する他人
3)両方を排すること
などは戒められます。ですがこのことで自利・利他の区別が明確につくわけでもありません。この
現象は仏教に限定さません。インドの風土として、行動規範には自他の区別が薄いのです。他人に
施しをしてもその見返りを考えることは無く、持ち金すべてを与える場合もあります。これには貧富
による差はないようです。私の友人がその昔インドに行ったときに物乞い少年たちからものをせびら
れました。でも彼は貧乏旅行をしていて、何も持っておらず、空のかばんの中身を見せました。
するとその少年たちは飛んで家に帰りまた戻ってきたのです。その友人に食べ物を与えるために。
インドではないときはせがむ、あるときには与えるというのが当たり前になっているようですね。
これらの風土を無視して自利・利他を日本人がその価値観で考えると無理が生じます。私はこう
考えます。インドに外来の価値観を持ち込んだときに自他の概念化が始まり、仏教だけではなく
インドの思想宗教を堕落させたと。
>>28 うちに帰れば人にあげられるものがあるのに
なぜその少年たちはせがんだの?。
30 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :05/01/31 18:44:49 ID:NWb6jv88
>>29 本人じゃないから詳しくは分りませんが、海外旅行者と判断してお金をせがんだのでしょう。
うちに帰ったらあげられるものといっても、とうもろこし粉せんべいや乾粟とかだったらしい。
おそらく、自分の一食分を抜いたのではないでしょうか。
31 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/01/31 22:57:23 ID:8B8BfQFs
確かにインドでは今でも裕福な者は施すのが当然で、
貧しい者は施してもらって当然というような感じだそうですね。
貧しい者でも持てる時には施す事も多いそうです。
自利と利他や善と偽善を分ける事そのものが、本来の仏教ではない感じですね。
>ベロさん
おそらく本来的には分けられないものを分けたのがお釈迦様だと思いますよ。
電波男さんがウパニシャッドの哲学を神秘主義と評価するのはよく判る。
判るけれども、足元から精密に話を進めればお釈迦様こそ神秘主義者なんですよ。
本来、人の立場からは話すべきでない事をお釈迦様は説いていらっしゃる。
正しい事を仰っていらっしゃるけれども人が話すべきことではない事を説かれた。
>インドに外来の価値観を持ち込んだときに自他の概念化が始まり、
>仏教だけではなくインドの思想宗教を堕落させたと。
ヒンズー教徒に言わせればこの責任の一端はお釈迦さまにあると言うでしょう。
であるからこそ、ビュシュニュ神の化身としてのお釈迦様という神話が広まったんですよ。
ぬるぽ
>>33ガッ
インド史に話が及びそう。期待しときまつ。
>ヒンズー教徒に言わせればこの責任の一端はお釈迦さまにあると言うでしょう。
>であるからこそ、ビュシュニュ神の化身としてのお釈迦様という神話が広まったんですよ。
これはどうなんでしょう?
もともとのバラモン教が教義と言えるほどのものもない、良いものはなんでも取り込んで
いこう、って感じの土着信仰だっただけの事じゃないんでしょうか?
だから釈尊もヒンズー教の神々の一人として取り込まれてしまったんじゃないかと・・・
典拠は特にありません。
勿論32さんの書かれてある通り「責任を取らされて」る可能性もありだとは思いますが。
35 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/09 10:45:00 ID:HycGB0Jg
>>32 >本来、人の立場からは話すべきでない事をお釈迦様は説いていらっしゃる。
>正しい事を仰っていらっしゃるけれども人が話すべきことではない事を説かれた。
大変失礼ですが、
あなたがそう想っているだけではありませんか?
どのへんが「神秘主義」なのでしょうか?
36 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/09 21:21:13 ID:HycGB0Jg
>>27 電波先生、せっかく教えをいただきながら、レスが遅れて失礼しました。
原始経典に「菩薩行」が語られているとのことですが、釈尊の成道の伝説を
みても、釈尊が悟りを啓くために、菩薩行を修したことは書かれていません。
六年の苦行ののち、極端な苦行は捨てて、苦楽中道の修行を行った結果、
解脱できたと伝えられています。
また、わたしが否定しているのは「自己犠牲の菩薩行」であって、
菩薩行も中道であれば、否定しません。
しかし解脱するために菩薩行が絶対必要とは想いません。
むしろ、菩薩行は、解脱とは関係ないのでは、、と考えています。
37 :
名無しさん@3周年:05/02/10 00:31:14 ID:zp0ane1w
>>36 >釈尊の成道の伝説を
>みても、釈尊が悟りを啓くために、菩薩行を修したことは書かれていません。
釈尊の成道の伝説以外に載ってるとこがあんでしょ、きっと。
解脱と菩薩行の関係はだれも問題にしていなかったし、なんていうか、思考法がてんで未熟だね。
電波男のいいカモになっちゃいそうで、わくわくしちゃうけどw
いや、情熱は認めるんだけども。
>34さん
>インド史に話が及びそう。期待しときまつ。
力不足で御期待に応えられそうにありません。あらかじめゴメンナサイ。
>テトラレンマさん
>大変失礼ですが、
>あなたがそう想っているだけではありませんか?
ではテトラレンマさん御聞きしましょう。
お釈迦様は五蘊は常住普遍の我ではないと主張された。
では人の構成要素である五蘊以外に、
五蘊が我ではないと指摘しているのは誰ですか?
人の構成要素は五蘊以外にはないという設定なのに、
どのようにして無我を説かれたのでしょう?
>むしろ、菩薩行は、解脱とは関係ないのでは、、と考えています。
菩薩行と関係の無い解脱もあるかもしれませんね。
しかしお釈迦様が啓かれた悟りについて言えばその可能性は無いと思います。
悟りを啓かれたのに、わざわざ僧を育て教団を形成したのはなぜでしょう?
お釈迦様御自身は何の得る所もないのに生涯教化に勤められたのはなぜでしょう?
ぬるぽ
>お釈迦様御自身は何の得る所もないのに生涯教化に勤められたのはなぜでしょう?
やっぱ、ご飯を食べなきゃならなかったからではないでしょうか。
41 :
名無しさん@3周年:05/02/10 04:05:29 ID:zEyrfWSD
>>レンマさん
「他のすべての人が救われるまで、自分は解脱しない。」
それは、
1.何度もこの世に生を受けて、救い続ける。
2.目の前に救いを求めている人がいれば、悟りを開くための自分の時間を作らない。
3.全てを救えないんだったら、悟りなんか開くのはイヤだ。
4.自分の意志を誰かに託す。(利他の意志を受け継がす)
5.救いを必要としている人がいる限り、救世主(思想)が存在する。
6.助かる方法が必ずあるという宣言。
わたしはこれらの意味を考えてしまって、どのように受け取るべきか分かりません。
42 :
名無しさん@3周年:05/02/10 04:17:55 ID:zEyrfWSD
>>38 悟りを開いてから沸き起こる想いこそが、この世で生きる目的であって
それにしたがっていただけと解釈してしまいました。
釈尊は、衆生に対する哀憐の気持ちが生じて、それが釈尊の人生の目的だったのではと。
哀憐の気持ちがなければ疲れることをわざわざしないかなと。
予言者をしていれば、生活に困らないですから。
>40さん
私もお釈迦さまといえども100日も食べなければ死ぬと思います。
その意味ではご飯はやっぱたべなきゃならないですね。
ただお釈迦さまは、ご飯を食べることより重要なことがあったから出家したんでしょ。
出家といっても、今の日本の出家ではないですよ。仏教教団だって無いんだから。
40さんはこの41の文章を読んだら着の身着のままで丼一つ持って玄関から外に出て、3回こう言ってみなさい。
『私は悟りを得るまで二度とここは戻らない、家族親類に生きて会うこともない』
40への答えになってるか不安ですが、そうゆうことなんです。
訂正
43 ×40さんはこの41の文章を読んだら着の身着のままで
○40さんはこの文章を読んだら着の身着のままで
『』内 ×ここは→○ここには
しみじみと外は寒いです。どんぶりの白い色が夜目に鮮やかでした。
>>43 言って見ましたが、寒いので家の中に戻りました。
お釈迦様の「そんなバカなことすんな」と言う声が聞こえたような気がしました。
46 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/10 22:49:45 ID:OBxfszm8
>>38 >お釈迦様は五蘊は常住普遍の我ではないと主張された。
>では人の構成要素である五蘊以外に、
>五蘊が我ではないと指摘しているのは誰ですか?
釈尊以前にはいなかった、と聞いています。
>人の構成要素は五蘊以外にはないという設定なのに、
>どのようにして無我を説かれたのでしょう?
ここは、ご質問の意味がわかりませんが?
五蘊は仏教で説かれましたが、他の思想では五大であるとか、
別なものを説いたと想いますが。
>>むしろ、菩薩行は、解脱とは関係ないのでは、、と考えています。
>菩薩行と関係の無い解脱もあるかもしれませんね。
>しかしお釈迦様が啓かれた悟りについて言えばその可能性は無いと思います。
>悟りを啓かれたのに、わざわざ僧を育て教団を形成したのはなぜでしょう?
>お釈迦様御自身は何の得る所もないのに生涯教化に勤められたのはなぜでしょう?
ええっと、この部分は、釈尊が悟りを開いた後の話ですね。
悟りを開いたあとに、慈悲の行為をするのは当然です。
悟りを開くために菩薩行が必要である、という大乗仏教の思想を
批判しているのであって、慈悲が不要といっているのでありません。
悟りを得ていない人間に慈悲を期待するほうが無理なのでは?
47 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/10 22:56:42 ID:OBxfszm8
>>41 わたしは、「他のすべての人が救われるまで、自分は解脱しない。」
という想いは、世俗の価値観であると考えます。
釈尊自身が「人を解脱させることは出来ない」と言っています。
これは重要な点だと想います。
本人が解脱するしかないのです。
そういう意味で、仏教には「人を救う」という思想は無いといえるでしょう。
48 :
名無しさん@3周年:05/02/11 01:00:36 ID:fF/pP5qa
卍 ハイル・ヒトラー!!
五薀は、瞑想による自己観察によって発見されたのではないでしょうか。観察してみると、どうやら5種類の動きに分類できるぞと。五薀は常に外界からの入力に左右されてますから、我ではないということ。
>「他のすべての人が救われるまで、自分は解脱しない。」
このことは難しいです。
現実では自分の事がシッカリできない人ほど、人にお節介だったりしますね。
ところでテトラレンマさんはどこから、この話を引っ張ってきたのですか?
付帯・前提条件が書いてありませんでしたか?
これはあくまで推測なのですけれども、
お釈迦さまは成道以前、出家前から熱くて強い心を持っていたと思います。
現代日本でもだれにも強制されることなく路上にダンボール敷いて2〜7日過ごす人達がいるでしょ。
45さんだってイチローやヒクソンに会えるとなったら徹夜で並ぶことくらいするでしょ。
強い心があったから当時最高峰の二人の仙人について得た境地に満足することがなかった。
リストラされたり、現世の生活から逃れるための、
死を待つだけの老齢になったからゆえのご出家ではない。
訂正
>リストラされたり、現世の生活から逃れるための、
>死を待つだけの老齢になったからゆえのご出家ではない。
すいません。ここ間違っています。
>リストラされたり、現世の生活から逃れるための、
仏縁に繋がるならいいことです。
>死を待つだけの老齢になったからゆえのご出家ではない。
死の間際で仏教に限らずキリスト教でも、
心がとても落ち着いた状態で最後の瞬間を迎えられるならいいことです。
お釈迦さまのご生涯は見晴らしのよい真直ぐ続く一本道のようであるし、
上座部の修行法は理路整然としているようにみえる。
コレをやればこうゆう結果がでる、次にアレをやればああゆう結果が出ると、このように。
結果だけをみて、お釈迦さまのご生涯になんの軋轢も投機も感じ取れない人はさびしい人です。
ご生涯が一本の道のようにみえるのはお釈迦さまの道心が桁違いに強く暖かかったからにだと思います。
52 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/11 22:20:24 ID:ZPqEMXaW
以前から、大乗の菩薩行は、釈尊の教えからかけ離れているという
想いがありました。
この話は、最近読んだ本にかかれていたことに関連していて、
最近、菩薩行を否定する話を、いくつかの本でみたので、
書き込んでみました。
ブッダが考えたこと 宮元啓一著 春秋社
この本には、慈悲行とは苦行のひとつと書かれています。
慈悲行は、大乗の菩薩行とは違い、人を救うというものとは違います。
また、テーラワーダのスマナサーラ長老は、利他行は仏教ではない、
といっています。
ぬるぽ
54 :
名無しさん@3周年:05/02/11 23:09:09 ID:gLPyNwHC
>>47 このような努力(誓願)する気もないから、分からないのですが。
もし、この誓願を強く持つのなら、理論的には矛盾なのに
悟りを開いてしまうとかないですか?
阿弥陀如来も、一見矛盾な誓願をしたのに如来になられたそうだし。
そういった慈悲の気持ちがある方が、正覚を得る機縁になるのではないかと
>>50さんの文章を拝見して思いました。
華厳経で、如来の慈悲を知る事が出来たら、悟りを得ると言われますし。
>60 :名無しさん@3周年:05/02/11 22:47:24 ID:gLPyNwHC
>そして、その後では
>
>「彼らは、本当の空と空ならざるものとを理解していない。
> それは常見か断見である。」
> また
>「一般の教えによれば、因果と業はとは、生じたり滅したりするというが
> それは他の主体である創造主に属するものであるから、創造された
> すべての存在は空であるとする瞑想が生ずる。
> これを一般の教えによる瞑想の実践と言う。」
>
>バラモン教では悟りが得られない根拠が説かれています。
すばらし〜いい!!
電波男先生の書き込みにも圧倒されることがよくありますけど、
このカキコもすばらしい!!
時間をかけて一字一句、疎かにせず>の付いた文について研鑚すれば、
お釈迦さまのさとりについても多くを得られますよ。
56 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/12 09:02:34 ID:B8KeJ5nB
>この誓願を強く持つのなら、理論的には矛盾なのに
>悟りを開いてしまうとかないですか?
「強く持つ」なら、それは執着であるから、苦を生むだけです。
誓願という思想、それ自体が中道ではないと、わたしは想います。
>そういった慈悲の気持ちがある方が、正覚を得る機縁になるのではないかと
「誓願」ではなく「慈悲」であるなら、「正覚を得る機縁になる」と
わたしも想います。
57 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/12 09:03:46 ID:B8KeJ5nB
>>55 すみません。
書き込みの内容が、いまひとつ、意味がわからないのですが、、
もうすこし、説明していただけませんか?
58 :
名無しさん@3周年:05/02/12 16:00:13 ID:gvtdcv+C
釈尊がまだ菩薩の時、
「無上の悟りを得ないうちは、私はこの座から立ち上がることをしない」と誓って
菩提樹の下で瞑想に入ったことじたいがすでに誓願ですな。
59 :
名無しさん@3周年:05/02/12 16:54:08 ID:drNHRUVs
菩提心を執着とよぶことは無いでしょう。
十二因縁を見れば分かるように、取や愛は六処に対応して生じますから。
仏陀は苦行と安楽行を否定され、その中道が仏道であると教えました。
中道とは、出家にとっては(今の基準では)かなりの厳しい戒律などを
守ることであり、在家にとっては、六波羅蜜、菩薩行などに近いもので
しょう。
座って慈悲心を養うだけならば、中道から離れた安楽行になるのではと。
ごく普通の修行をやりなさいよ(仏陀による中道);でもけっこう厳しい。
私たちから見ればかなりの苦行。
60 :
名無しさん@3周年:05/02/13 00:55:21 ID:YAbcFGqe
>>ごく普通の修行をやりなさいよ(仏陀による中道);でもけっこう厳しい。
>>私たちから見ればかなりの苦行。
それほどまでに、煩悩(生き物の本能)を断ち切るのは至難のわざ
ということでしょうか。
61 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/13 08:40:15 ID:IqHAuGh1
それは、至難というわけではないし、簡単というわけでもないのでしょう。
怠らずに励むべし
62 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/13 11:25:30 ID:IqHAuGh1
「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならばそれによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
ブッダの言葉
63 :
名無しさん@3周年:05/02/13 19:57:51 ID:ylOR+nRI
>>62 その訳には疑問があります。
ちょっと原文を示してみてください。
64 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/13 20:50:45 ID:pN/Lk3Gp
ブッダのことば 中村 元訳 岩波文庫
1064 解脱させえないであろう-- naham gamissami pamocanaya
65 :
名無しさん@3周年:05/02/13 22:04:56 ID:ylOR+nRI
いや、そうではなくて62の原文に対して
他の解釈は成り立ちませんか?
66 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/13 22:14:44 ID:pN/Lk3Gp
Chalmersのテクストには、naham samihami pamocanaya
(わたしは努めないであろう)
註(Pj)には、na vayamissami ti vuttam hoti
(わたしは努力しないであろう)
67 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :05/02/13 23:03:10 ID:a/FxOYTI
手許にある当該箇所の和訳を二つばかり・・・。ご参考までに。
「ドータカよ。世の中において疑惑のあるすべての者を解脱させるために、わたしは行動しない。(=学び、
励まない)であろう。だが、最も勝れた教法を明らかに知って、その〔教法の〕とおりに、あなたはこの激流
を渡るがよい。」 (宮坂宥勝訳)
「ドータカさん、私は、世における疑惑者を、誰であれ、解脱へと至らしめることはないでしょう。ただ、最勝
の法(真理)を了知している者として、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるしかないの
です。」 (正田大観訳)
68 :
名無しさん@3周年:05/02/13 23:32:05 ID:VtJcfzz0
なるほど。訳者によって随分感じがかわるね。
3人の見るとだんだん積極的になっててるような気がする。
69 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/13 23:41:56 ID:VeMbtpWF
仏教とはブッダご自身が偉大であるから衆生を教え導く事が出来ると言うような
個人崇拝的なものではなく、ブッダが示した法(真理・教え・法則等)に衆生自ら
が気づく(理解・納得・信解する)事によって苦悩を克服していけるんでしょうね。
ブッダの教法はその道標であり、マップであり、手段であり、月指す指でしょうね。
だから筏の喩えの様に、激流を渡り終えた人に手段は必要なくなるんでしょうね。
70 :
名無しさん@3周年:05/02/14 00:58:26 ID:q51gWXYs
要するに、覚者といえどもその力だけで他者を解脱へと導くことはできない、ということか。
ただ、月を指し示すことができるのみ。
そして月を指す行為が利他なんだな。
逆に言えば、利他行を施された機会の多い人ほど月の居場所を明確にできる、すなわち解脱する
可能性が大きくなる。
解脱の可能性=仏性とすれば、利他行は仏性を育てるってことか。
71 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/14 19:13:50 ID:8srrvXkz
仏性については涅般経にかかれているが
仏性を育てるなどと言う話しは、
聞いたことが無いです。
72 :
名無しさん@3周年:05/02/14 23:03:19 ID:8RNbBV+3
>>71 仏性について書かれているのは涅槃経だけですか?
73 :
名無しさん@3周年:05/02/15 08:38:13 ID:eZ0v+sZl
仏性は央掘魔羅経や法華経、般若経にもとかれています。
涅般経が最初といわれています。
ちょ、ちょっと待て
法華経般若経に書かれてて、なんで
涅槃経が最初なんだ?
阿含部の涅槃経に書かれてたかい?>仏性
書かれてないだろ?
書いてる事無茶苦茶じゃん
75 :
名無しさん@3周年:05/02/15 09:34:29 ID:DVgLtN+P
ハイ?
涅槃経は、ふたつあります。
非難する前に、ネットで調べてね。
>75馬鹿か?
大乗涅槃経なら法華経や般若経より後だろ
補足>73には
>仏性は央掘魔羅経や法華経、般若経にもとかれています。
こう書いてあるな?でもって
>涅般経が最初といわれています
こうあるわけだ。
阿含部の涅槃経なら時系列に問題はないが、仏性がどうたらこうたら
って話は出てこない。
大乗の涅槃経なら時系列に問題が出てくる。
ここが滅茶苦茶だ、といってるんだよ。
意味判らんのか?
78 :
暇人:05/02/15 11:45:36 ID:ZDBCj136
央掘魔羅経は、中期大乗の涅槃経を受けて成立した如来蔵経典。
初期経典で名の知られたアングリマーラを主人公にして、
大乗涅槃経の「仏身常住」「如来蔵・仏性」思想を展開している経典。
アングリマーラが主人公だが、阿含経典ではない。
法華には仏性思想の萌芽はあるとされるが、「仏性」の語は無い。
如来蔵経典群では、如来蔵経が現存するもので420年訳出、
散逸した初訳が290〜312年と伝えられるので一番早い。
中期大乗の涅槃経には何訳かあり一番早い法顕訳六巻本は418年訳出。
さて、般若経だが、般若経典群と言われているぐらい訳出は多く、
それを全部纏めて600巻本を作った玄奘訳の大般若経に「仏性」があるが、
これは、660年正月から663年10月までの訳出で、後代成立。
般若経の初期訳出経典に仏性の語は無い。
79 :
暇人:05/02/15 11:49:41 ID:ZDBCj136
三吉さん・・・じゃなくて暇人さん、エラいお久しぶりですわ
折角ですからちょっとだけあそんでって下さいな。
>不親切で正確でもないが、間違いではない。
>>73の内容に、「央掘魔羅教・法華経・般若経に仏性がとかれる」って
あるね。これも検討の対象になるだろうけど、一応そこの部分はおいといて、
経典成立の時系列だけを問題にしたのが
>>74や
>>76なのね。
大乗涅槃経の成立は般若や法華より後でそ。
81 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/15 13:00:21 ID:P0sb8xtj
日蓮さんが法華経には三因仏性有りというので法華経に説かれいるとおもいましたが
法華経には確かに仏性の文字はありませんね。
仏種とかかれています。妙法蓮華経文句には、仏種とは、正因仏性のことと説明されています。 この辺が仏性思想ですね。
唯識にようやく触れだしたのですが
阿頼耶識のあらゆる種子で、煩悩の種子があると想定したとき
その煩悩の種子を除く。
さすれば、阿頼耶識が法界に転じる(自他の境界、分節がなくなる、阿頼耶識消滅)
しかしながら
煩悩の種子を素に理解を示している法界は、いつまで経っても我の理解。
仏性や如来蔵思想は、無我なるものを我にしている?
>>81の仏種を、煩悩の種子を除く種子に相当する場合。
自己犠牲の利他行は、煩悩を除く種子となり得るのでしょうか。
仏性とか、如来蔵思想とか、唯一神を連想させるのですが。
真理の世界を我を持って、無我を我に表現をし、凡夫に説明をする。
真如を二つの側面で表現すると、智慧と慈悲と分析される。
「あなたは仏性があるのですよ」 ←無我の境地は慈悲そのもの、無我なので仏性と表現する。
と
「あなたは神のご加護を受けているのです」 ←慈悲からのアプローチだから、我にしても問題ない。
は
似ていると思います。
その目的は、自我を持っている者に菩薩行をしてもらうこと。
また、慈愛の気持ちを持たせること。
自他の境界を切れない生活ではなくて、自他の境界をなくした時に
その者が働きかける行動を理想として、その境地に至らなくても
実践をさせるのだと思いました。
つまり、悟りを開いた後の釈尊の生活を一つの人格完成者の理想的行動とする。
行動を真似ていれば、それと同時に心に影響を持たすようになり
やがて、悟りの境地へおもむく事を狙った。
形から入って、心を作る事が目的ではないのでしょうか?
それは、三密の身と口をもって、心を作る作業。 実践(事相)
効率的に、心の修習をもって、身と口の変容を狙う 教学(教相)
84 :
暇人:05/02/15 21:41:55 ID:BklIz6TJ
大雑把に言うと、般若経・法華は初期大乗経典で、
大乗の涅槃経は、中期大乗経典になります。
でも般若経は一つではなく、色んな般若経があります。
特に主要な般若経を「十本般若」というくらい数多いのです。
代表的な十本を挙げますと
@大品般若系(大般若第二会に相当)放光般若(291)、光讃般若(286)、大品般若(404)
A小品般若系(大般若第四会に相当) 道行般若(179)、小品般若(408)
B勝天王般若(大般若第六会に相当 565)
C文殊般若(大般若第七会に相当 503)
D儒首般若(大般若第八会に相当 420-470)
E金剛般若(大般若第九会に相当 402-410)
F理趣般若(大般若第十会に相当 763-771)
G大般若(全十六会 660-663)←これに「仏性」あり。
H仁王般若(-409)
I般若心経(649)
小品系の同行般若は179年に訳出されており、その梵本成立も紀元前後と推定される
ほどで、初期大乗でも古い経典になります。
大品系の成立も古く、小品系に続いて成立したと推定されています。
次に古いと推定されているのは金剛般若、ここまでが般若経典群の古層になります。
それ以外の般若経は比較的新しい成立になります。
特に大般若は般若経典群の集成であり、中期大乗経典を多く訳した
玄奘の指揮の下の訳になりますので中期大乗の涅槃経の後の成立(あるいは同時代)になり、
「仏性」の語があっても不思議ではありません。
85 :
暇人:05/02/15 22:04:35 ID:BklIz6TJ
>法華の「仏種」
うむぅ この箇所tathAgatatvaは、
サンスクリットを直訳すると「如来たること」だが、
岩波「法華上」p342の注に拠れば、
「仏種は縁に従って起こる」は、
道生は、「仏は理に従って生ず」 法雲は「仏果は万善に由りて得」
らしいが、
私は方便品は「万善成仏を説く」と読むので法雲を支持します。
ちなみに「仏種」=「仏性」ならば、
維摩経に「如来種」がありますです。
86 :
名無しさん@3周年:05/02/16 03:57:35 ID:SD0obmm2
で、仏性=解脱の可能性、ってことでよろしいのでしょうか??
87 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/16 04:53:39 ID:NV9R7tS8
記憶が不確かなんですが、小品般若系には「自性清浄心」なんてものが
説かれていて、それが後に仏性思想に発展したんではないんですか?
88 :
暇人:05/02/16 07:28:42 ID:PP+3ATxj
小品般若には「是心非心 心相本浄故」とありますね。
(小品系最古の道行般若にはこの部分はありません
古層では大明度経の対応箇所に「是意非意 浄意光明」とあります)
大品般若では「心非心性 本性浄故」
小品般若経の枠内では自性清浄心は、「菩薩の自覚」「菩提心」と関連する
と見られていますね。
パーリ増支部に
「この心は明浄である。しかるにそれは客塵随煩悩によって汚されている」
心が明浄であるから客塵煩悩より解脱できると知って「心を修する」わけだが、
この「心を修習する」という姿勢が菩提心ですね。
(部派では、パーリ上座部、大衆部などが支持し、
説一切有部では古層の「集異門足論」には心清浄性が説かれるが、
「婆沙論」は分別論者の説として反対している)
この自性清浄心が中期大乗の如来蔵思想や仏性思想に発展していきますね
仏性・如来蔵思想といえば、第九識が想い浮かびます。八識(アラヤ識)までか、九識を認めるか?
八識を修行により変容させて成仏するのか、八識の奥の九識に至って成仏するのか。
91 :
82:05/02/17 01:27:56 ID:YCm7iuPU
法界に転じると考えてしまうのと、9識と考えるのは同じ次元だろうか。
無我をなんとか、我にして考察する原子論みたいなものだろうか。
いま話題になりました。
仏性、仏種、如来蔵、九識、真如、法界
自性清浄心、菩提心、、、
みなさんは、彼岸へ渡ろうとする時に、
沈没して失敗する「筏」はどれだと思いますか?
92 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/17 02:38:03 ID:Iues62Jd
>>88 暇人さん
あやふやな記憶を整理して下さってありがとうです。
「仏性」と言ってもアートマン説のように何か霊魂のみたいな「仏になる種」の
ようなものを実体的にこの肉体内に宿していると言うような事ではなく、
単純に「悟りを求める心」「仏道を歩む意志」「真実を求める気持ち」あるいは
「誰でも仏になれる可能性はある」のように捉えた方が仏教的かもしれませんね。
たとえば『ダンマパダ』の第1章には心に関して次のようにあります。
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。
──影がそのからだから離れないように。
13、屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、
心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14、屋根をよく葺いてある家には雨が洩れ入ることが無いように、
心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することか無い。
このような記述を見ると、本来の心は清浄であるとかいうよりも、
自分の意志で不放逸に努力して心を調伏して行くと言う感じがしますね。
その精進に励む姿勢を「仏性」や「菩提心」と言ったのではないでしょうかね?
93 :
暇人:05/02/17 07:54:41 ID:ogzaWF8p
九識、アマラ識は、ア=否定 マーラ=汚れ なので「無垢識」とも
言われるが、これをアーラヤ識が分離して考え第九識と立てるのが
真諦の系譜で摂論宗となったが消滅した系譜ですね。
本流は消滅したが、九識は、天台宗・華厳宗にも影響を与えてたので、
その系譜の日蓮さんに言及があり、それに依拠して最近でも「九識論」を
積極的に展開しているのは創価学会ですね。生命論哲学にしている。
アーラヤ識と無垢識を分けない系譜が、護法→玄奘を祖とする法相宗。
こちらの教学が日本仏教の主流ですので、私はこっちしか知らないな。
私の感覚では、新興宗教の信者さんが「九識」を言っているという感じ。
94 :
暇人:05/02/17 08:00:39 ID:ogzaWF8p
「筏」は、
……仏性、仏種、如来蔵、九識、真如、法界 自性清浄心、菩提心……
などという難解なものよりほかりやすいものがええと思いまする。
なむあみだぶつ とか なむ(ん)みょうほうれんげきょう とか
で大事なのは、賢き人、聡い方、古い仏教の人は、自分が川を渡りおえたら
「筏」を乗り捨てたが、
大乗の仏道は川を乗り越え、陸を歩くときも「筏」を担いで歩く。
95 :
暇人:05/02/17 08:04:59 ID:ogzaWF8p
>>92 私のイメージでは法華の仏性思想の極みは、不軽菩薩です。
「あなたは将来仏になる人です。なむなむ」と生きた不軽菩薩。
言われた人は精進に励むどころか、
「何いうとるねん、うるさい」と不軽に石を投げ、追っ払った。
96 :
名無しさん@3周年:05/02/17 11:54:13 ID:mNJgsqUF
このスレの皆様にお願いがあります。
皆様もご存知だと思われますが、
現在、
魔術ヲタクにして似非禅者のハルカによる、
のぞみ嬢に対しての、度を過ぎたストーカー行為が行われています。
アルビンド(X27号)氏という方が一人、のぞみ嬢を守る為にハルカと対峙して
おりますが、
皆様の中で心ある方がおられましたら、ハルカのストーカー行為から
のぞみ嬢やアルビンド(X27号)氏を救っていただけませんでしょうか。
何卒、お願い致します。
クンダリニーpart2
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1104635845/113-
97 :
暇人:05/02/17 14:30:11 ID:EFIRn7E7
>何卒、お願い致します
クンダリースレって、精神世界系でしょ?
スレそのものがキモイ…以下略。
98 :
名無しさん@3周年:05/02/17 20:59:40 ID:ek8zXuY3
仏教入門の本を読んでいて気になったので教えて下さい。
四諦とか四苦とかいうのがあって、生老病死は苦である。ということが書いてありますが。
なぜ生老病死は苦なのでしょうか。そもそも苦であるというのは誰が判断するのでしょうか。
少なくとも本人ではないように思いますが。
99 :
名無しさん@3周年:05/02/17 21:03:47 ID:ek8zXuY3
ちょっと言葉不足でした。
つまり、本人が苦とは感じていない場合でも、
それを無理やりにでも苦であると思わなければいけないのが仏教でしょうか。
100 :
名無しさん@3周年:05/02/17 21:29:32 ID:2B4kAWaN
>つまり、本人が苦とは感じていない場合でも、
>それを無理やりにでも苦であると思わなければいけないのが仏教でしょうか。
本人が苦と楽との二辺見を離れて、無我や空を悟っているのであれば、
そのような迷妄は、しなくなります。
あなたもまだまだ、苦楽に対する執着がおありのようですね。(^o^)
101 :
名無しさん@3周年:05/02/17 22:11:46 ID:ek8zXuY3
いや、そうではなくて
たとえば、いつまでたっても幼子のように無邪気な方がいます。
彼は自分で食べることもできないので、常に人が世話をしています。
われわれは彼が精神の病に冒されているといいます。
生老病死の病です。はたして彼は不幸であり、彼の病は苦なのでしょうか。
また、子供を多く殺して死刑になった方がいますが、彼にとって死は
苦であったのでしょうか。
102 :
名無しさん@3周年:05/02/17 22:32:58 ID:5NYw2XtP
仏教の「苦」は、人間にはコントロールしきれないことを差すのではないでしょうか。誰も生まれは選べないし、生まれたらイヤでも老いるし、老いれば病むし、やがて死ぬ。
103 :
名無しさん@3周年:05/02/17 22:40:59 ID:oA4qf27k
つまり、仏教で言う「苦」とは「苦しみ」ということではない、という事ですか?
104 :
名無しさん@3周年:05/02/17 22:42:53 ID:oA4qf27k
死は自分でコントロールしようと思えばできますよね。
105 :
名無しさん@3周年:05/02/17 22:56:12 ID:5NYw2XtP
でも死を避けることはできませんよね。死にたくないと思っても死ぬ。こんな世界に生まれたくなかったと思っても、生まれちゃった現実は変えられない。
あるがままを受け入れられたら、そこに平安が。
愛しても別れがある、憎いものとも出会っちゃう、求めても手に入らないことがある、心身が元気だからこそどんどん刺激を感じちゃう。これらも、避けられない「苦」ですね。
107 :
名無しさん@3周年:05/02/17 23:12:08 ID:W7bGCrB6
>>104 自分には死をコントロールすることなぞできませんが。
108 :
名無しさん@3周年:05/02/17 23:34:32 ID:+D/39j7Z
>>104は別に
>>107のことを言っているわけではない。
107が死のうが生きようが知ったことではない。
四諦とか四苦とかいうのは、現在からみれば確かに疑問も多い。
ただ仏教は信仰であり、信仰は理屈ではないことを忘れてはいけない。
理屈を言う人には仏教はちゃんと答えを用意してある。
「縁なき衆生は度し難し」ということですか。
109 :
名無しさん@3周年:05/02/17 23:51:13 ID:W7bGCrB6
>>108 全然意味が分からんです。
「仏教は信仰」なんて、一言では言えないでしょ。
「縁なき衆生は云々」これも凡夫の口にする言葉じゃないと思うが。
110 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/18 00:05:34 ID:iwQw+ij9
仏教の言う「苦」には「苦しみ」と言う意味も
「思い通りにいかない」「制御しにくい」と言う意味もあります。
ただ四諦や四苦八苦等は全て自覚の問題ですので自分がまだ人生の苦に
気づいていない人には仏教は縁遠いでしょう。しかしそういう人もいづれ気づく
時がくるかもしれませんし、気づかず生涯を終えればそれはそれで幸福なんじゃ
ないでしょうか。釈尊は人生の苦悩の解決法を示して下さっただけですので、
人生を苦と思う人がそれを聞いて参考にしようが、人生は苦ではないと思う人が
仏教を無視しようが全く各人の自由ですよ。
>>108の言う事は全く仏教的ではありませんね。仏教は「信じるものは救われる」と
言うようなものでは決してありませんよ。
111 :
名無しさん@3周年:05/02/18 00:11:45 ID:Xt8rlVrh
仏教って信仰じゃないんですか!
112 :
名無しさん@3周年:05/02/18 00:22:08 ID:Xt8rlVrh
>>110 >人生は苦ではないと思う人が仏教を無視しようが全く各人の自由ですよ。
そうなんですか?
仏教は、「正しい信仰によっていかなる障魔にも負けない不屈の闘志と、
仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、
宗教の必要性があるのです。」
と人を信仰に導くのではないのですか?
113 :
名無しさん@3周年:05/02/18 00:23:57 ID:vjnBYZRO
>>111 長い仏教史の中で信仰という一面が極度に強調されたこともありま
したね。しかしそれが仏教の「全て」ではないのですよ。
114 :
名無しさん@3周年:05/02/18 00:43:45 ID:Xt8rlVrh
食い下がって申し訳ないのですが、
「全て」というと、話がとりとめもなくなちゃうと思いますので、
それでは仏教の一番大切なところは何なんでしょう。
信仰ではないのですか?
115 :
名無しさん@3周年:05/02/18 01:00:26 ID:vjnBYZRO
>>114 一番大切なところを一般化するとすれば、「諸悪莫作 修善奉行
自浄其意」かなあ。これを展開すれば「八正道」ということになる
のでしょう(これらの意味は自分で調べてね)。
116 :
けちゃっぷ:05/02/18 01:10:59 ID:8CNgoytk
まぁ、ブッダとお経とお経を伝える教団を信じないと、仏教は始まりませんからね。やはり信仰(三宝帰依)は基本。
117 :
暇人:05/02/18 01:11:01 ID:0d7/WS1R
>>98 いや本人です。
あなたは他人から「あなたは苦しいはずだ」とか言われたいでしょうか?
余計なお世話ではないでしょうか。
苦しいかどうかは本人の気持ち次第でしょう。
「人生は楽しみ、喜びに充ち満ちている」
という人がいてもなんの問題もありません。
ところで釈尊のとっては、「生老病死」は苦であったのですね。
喜び、楽しみは一瞬で永遠に続かず、過ぎ去ってしまうということに
空しさを感じてしまったのですね。
ではなぜそういうことに自分は苦しみを感じてしまうのかと原因を
探られた。モノゴトは、絶えず変化するのに、自分の気持ちに永続を
願うナイモノネダリがあるからだと発見された。
ではそのナイモノネダリから開放されたら苦しまずに澄むのでは
ないかと考えられ、その実践方法を考えられた。
「苦の実感」「苦の発見」から仏教がはじまったのかも知れませんねぇ。
この発見は、客観的に実在する「苦」をみつけるという発見ではなくて、
自分で主体的に気づくという宗教の裡の事柄かもです。
「救われたい」と感じたら人は救い「求め」「探し」たりするかもですが、
現状に「満足」していれば、救いを敢えて「求めない」のではと思います
118 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/18 01:21:06 ID:iwQw+ij9
仏教はいわゆる「信仰」ではありませんね。
釈尊のおっしゃる事を自分で納得して受け入れるべきでしょう。
納得できなければ捨て去れば良いだけの事です。
他者を信仰に導くとか助けてやる等と言う考え方はありませんね。
道に迷えば地図を見なさい、地図ならここにあるよとは言うでしょうが。
道に迷っているかどうかは各人が判断すれば良いんじゃないでしょうか。
何かの縁で自分の人生は苦だと感じた時に、仏教と言う地図を見てみるのも
何かの参考になっていいんじゃないでしょうかね。
>>115が言うように、
初期の仏教で中心となる教えは「三法印・縁起説・中道・四諦八正道」等で
実践論としては「五戒・三学・四摂事」等でしょう。
119 :
暇人:05/02/18 01:26:12 ID:0d7/WS1R
>>116 ブッダ ブッダと言うけど、本人の直説は何一つ残っていなく、
弟子の伝えた伝承のイメージなんだけどねぇ。
その伝承されたふたつの遺言は、
@「自灯 法灯」
A「教法と戒律を師とせよ」
だね
三宝帰依なんか言ってないね。
かなり後代かもね
@最初は教法と自分を拠り所にせよ。他人の解釈を鵜呑みなするなよ
A教法と戒律を学び守れ
B神格化された仏、発展したサンガを尊重しろが付け加わる
あるいは、@Aは出家用 Bは在家用なのか・・・
120 :
暇人:05/02/18 01:27:41 ID:0d7/WS1R
>>118 >釈尊のおっしゃる事を…
これが「聞」ですね。
>自分で納得して受け入れるべきでしょう
「信」のはじまりですね
121 :
ベロ ◆eOod7XM/js :05/02/18 01:31:29 ID:iwQw+ij9
>>116 確かに三宝帰依は大事でしょうが、それはすでに仏教と関わりのある人に
とっての話ではないでしょうか?仏教が何だか全く知らない人に三宝帰依等と
言っても無意味でしょう。まず自分の抱えてる問題をどう解決していくのか
と言う中で、縁あれば仏教と出会えるのだと思いますよ。頭ごなしに仏法僧
なんて信じても全く意味ないですね、気休めにもならんでしょう。
自分の問題意識を経典や僧侶・仏教信者にぶつけてみるのが大事でしょうね。
仏法僧とは、
仏陀がいて、法が説かれて、教え理解して受け継ぐものたち ?
釈尊などの偉大なお父ちゃん。
お父ちゃんが頭の上がらない法という偉大なる母ちゃん。
その子供と言える優れた宝に帰依したてまつる。
って、考えちゃダメですか?
123 :
けちゃっぷ:05/02/18 17:31:34 ID:8CNgoytk
>121 苦の解決方法が説かれていても、自分がやってみなければ効果はありませんよね。その「やってみよう」が三宝帰依では?
信じるのが目的ではなく、実践するには信じないとはじまらない。
124 :
けちゃっぷ:05/02/18 17:36:06 ID:8CNgoytk
ダイエットに成功したと語る人がいても、「そんな成功話ウソだろ」と疑ったら、ダイエット法を教わらずに終わる。釈尊が悟った(ブッダである)ことを信じないと、はじまりません。
125 :
レンマ ◆EOZgn84GbE :05/02/19 01:08:21 ID:9QYsK1Rm
「信」のほかに「解」があることも、おわすれなく。
126 :
けちゃっぷ:05/02/19 01:30:52 ID:lYq+YIVB
信なは、理解納得して信じる「解信」と、ただちに仰ぎ信じる「仰信」があります。親鸞さんなんかは「仰信」の方がいいという立場みたい。でも現代日本人は「解信」でないと安心できない人が多いですね。
127 :
みかん:05/02/19 04:41:37 ID:g5YJOPTM
仏教のいう苦はベロ氏のいう通り
(思い通りにいかない 制御しにくい)意の如くならない
そういう意味もあります。
煩悩苦悩の解決が仏陀の教法であると 思います。
阿含経典には 五根法というものもあります、仏陀の成仏法は
八支聖道であり、その中身になるものと思います この中から信根の扱い
を見てみますと 教法への信頼 修行する原動力との期待があります。
五根 五力はほぼ同意 (信根 精進根 念根 定根 慧根) 信根のみ重複しないが
これは教法への信頼であり 精進 念 定 慧を修行する原動力としての価値がある
そのような期待があるとの受け答えが 釈尊とサーリプッタとの問答にあります。
根拠 南伝相応部経典 48 50 信
従って
信根を抜いた 精進根 念根 定根 慧根の四根を説く教典もあります。
純粋に修行法のみをとれば 四根になります。
根拠 南伝 相応部経典 48 47 東園
四根法に信を足したものが 五根法と呼ばれるものです。
いわゆる鰯の頭も信心と呼ばれるような信仰とは別のものであるということです。
128 :
暇人:05/02/19 10:55:53 ID:PNFxiEQh
南伝分別説部の伝承する相応部に対応する北伝雑阿含には、
雑阿含には「信根者 當知是四不壞淨」とあります。
「信根は、四不壞淨だよ」と。
「四不壞淨」は、四つの壊れない大切なモノがあるんだ。
その四つとは「三宝と戒」のことですね。
元々、「人の考えを鵜呑みにしちゃだめよ。教法を聞き学び、
自分で納得できることを実践しなさいよ」とか
「教法と戒律を大事にせよ」と釈尊から遺言された仏弟子たちは、
伝承していくうちに「教法と戒律」以外に、「仏とサンガ」に対する
深い尊敬も大切しなきゃと思い始めたのですね。
(ちなみに雑阿含はかなり整理された組織的体系的な経典で、
50項目ほどの主題に論及しているのですが、
五根の箇所ではそれぞれ(「信根は、四不壞淨だよ」)
「精進根は四正斷だよ」「念根は四念處だよ」「定根は四禪だよ」
「慧根は四聖諦だよ」と言葉遊び的に「四」で各根を解説している)
129 :
暇人:05/02/19 10:56:59 ID:PNFxiEQh
さて雑阿含には「四根法」なるモノはなく、
信根を含む「三力」「四力」が説かれています。
三力・四力を見ますと、
「信力」「慧力」が根本で、そこに「念力」が加わり、
更に「精進力」「定力」が入れられたように思われます。
(南伝パーリは、釈尊がしゃべった言葉そのままに近いと
世間で盲信している方々が多いが、誤解である。
紀元前1c頃に一度現地語であるシンハリー語に翻訳され、
紀元後5c頃にパーリ語崇拝熱の到来により、再パーリ化された(と思われる)。
漢訳阿含1362経に対して、 相応部は2875経。倍以上増えています。
「五根」は漢訳阿含にも説かれていますので、
南伝分別説部と伝承を異にする北伝部派にも共通し部派分裂以前と推定されますが、
「四根法」は北伝には無いので
「四根法」に一つ付け加わり、「五根」となったというより
むしろ元々「五根」であったのが、「四根法」となったのではないか、と。)
130 :
暇人:05/02/19 11:06:58 ID:PNFxiEQh
>信根を含む「三力」「四力」が説かれています。
信根 ×
信力 ○
ついでに後世の解釈では五根と五力は別。
(倶舎論あたりは区別している 37道品で区別。
もつと後代の解釈では、
五力は五つのすぐれたハタラキ
五根はハタラキをもたらす五つの機根)
131 :
みかん:05/02/19 11:58:54 ID:U2ZDUrUR
>>129 > むしろ元々「五根」であったのが、「四根法」となったのではないか、と。)
暇人さんご指摘有難うございます 増谷文雄氏訳阿含経典によると
南伝相応部経典 (48、45 東園1) (48 46 東園2)(48 47 東園3)
これ等は連番続きものになっており、私が根拠で挙げたのは 3番目の四根法です。
1番目では 唯一つの根を修め習う事が説かれています
それは何であるか 其れは慧根であるそうです。
「慧を具する比丘においては、それとともに、信はおのずからにてて存し
精進はおのずから成り、念はおのずからにして住し、常はおのずから確立する」
2番目では二つの根が説かれます、 慧根と定根で2根です これは慧と解脱に対比して
います。
3番目で4根が説かれます。
5根法を一言でいえば慧根であり 2言で云えば慧と定であり 4言でいえば4根となります。
132 :
みかん:05/02/19 12:21:10 ID:XxTYISNN
>>129 では 信は何処へ行くかというと 更に連番である(南伝相応部48 50 信)
釈尊とサーリプッタの問答によると
精進根の基(礎)との期待が説かれます。
「大徳よ、信ある聖弟子においては、彼が、よく精進を発して、諸々の不善の法を絶ち
もろもろの善法を身に付けんが為に、勇猛 堅固にしてつとめ、けっして、もろもろの
善法のための重担を投げ出さないことが期待されます。
大徳よ、そのような精進は、つまり、精進根であります。」
信は精進の礎であり 大きくみるなら四根の礎としての意味合いがあるようです。
礎というか 始に書いたように教法への信頼 原動力としての期待があります。
これも見方を変えれば力と呼べるものでありますが、所謂妄信の類のものでは
ありません。
信を発し次いで精進を発し念根を修め定を修め智慧を得る。そういう流れとなるようです。
133 :
名無しさん@3周年:05/02/19 21:11:21 ID:fyxT+Jy+
日蓮末法の初の五百年に生を日域に受け、
如来の記文の如く三類の強敵を蒙り、
種種の災難に相値て身命を惜まずして、
南無妙法蓮華経と唱へ候は正師か邪師か。
能能御思惟之有るべく候。
上に挙ぐる所の諸宗の人人は、
我こそ法華経の意を得て
法華経を修行する者よと
名乗り候へども、
予が如く弘長には伊豆の国に流され、
文永には佐渡島に流され、
或は竜口の頚の座等、
此の外種種の難数を知らず。
経文の如くならば予は正師なり善師なり。
諸宗の学者は
悉く邪師なり悪師なりと
覚し食し候へ。
134 :
名無しさん@3周年:05/02/20 09:34:48 ID:i0XLwJwK
畜生の心は弱きをおどし、
強きをおそる。
当世の学者等は畜生の如し。
智者の弱きをあなづり
王法の邪をおそる。
諛臣と申すは是なり。
強敵を伏して始て力士をしる。
悪王の正法を破るに、
邪法の僧等が方人をなして
智者を失はん時は、
師子王の如くなる心をもてる者
必ず仏になるべし。
例せば
日蓮が如し。
これおごれるにはあらず。
正法を惜む心の強盛なるべし。
135 :
名無しさん@3周年:05/02/20 18:41:52 ID:dSq51CPJ
日蓮さんが、現代に生きていれば、自分の過ちに気がつくでしょうね。
法華経が、釈尊の教えではないということに。
坐禅と見性 第十四章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1108144172/ 一粒の芥子、よく須弥山(しゅみせん)を隠す。
一掬(きく)の水の中に人魚たちが心ゆくまで踊る。
私は終日汝に相対していて、劫初以来会った事がない。
看よ、東山全嶺が水上を歩いている。
エックハルトの乞食の挨拶 「[朝な朝な好(よ)き朝です」。 雲門 「日々是好日」
扇を扇と呼ぶな、鋤(すき)を鋤と呼ぶな。
昨日は痛かったが、今日は痛くない。 さっきは泣きわめいたが、今は笑っている。
腹が減れば食い、疲れれば眠る。
雪がすべての山を白く覆うている時、なにゆえにあるひとつの山は覆われずにあるのか。
清浄の行者、涅槃に入らず、破戒の比丘、地獄に堕ちず。
我の知っている事を汝は知らず、汝の知っている事を我はことごとく知る。
大力の人がどうして彼の両脚を挙げることができないのか。
柱が毎日動き回っているのに、どうして私は動かないのか。
わたしは釈迦の出現以前からさとりの状態にある。 光あれと命ずる以前の神と共にあれ。
137 :
名無しさん@3周年:05/02/23 12:57:50 ID:98DEof7E
>>136 何をいっているのか、よくわからんが、すくなくとも
まっとうな仏教ではないことだけはわかる。外道だな。
138 :
名無しさん@3周年:05/02/23 14:13:22 ID:zNd0weDy
自分にも手に負えないことを、単にコピペしているだけでしょう。
スルーが一番です。
「末法思想は釈迦本人の思想ではない」この一言で鎌倉仏教はみんな潰れるよ。
140 :
暇人:05/02/23 23:46:49 ID:EJMpkFF6
>>139 そんなことも、伝統仏教がしらんと思っていたのか汗。
知ってても潰れてないのですけどねぇ。
おめでたい人だ…
141 :
名無しさん@3周年:05/02/24 00:25:40 ID:ZPF/Es1a
しかし仏教に限らず宗教というのは、なんだかんだ言っても、
結局いかに人の恐怖心につけ込むかというのような気がする。
142 :
暇人:05/02/24 00:49:06 ID:B/+QMn7k
宗教が「救い」に色々条件だしていたのにもかかわらず、
「称名念仏」だけでOKよんと言った法然は、
革命的に「宗教的脅迫」から開放したんだって。
「念仏だけ」ですぜ。寺に対する布施も、頭のよさも
こちら側には何の条件もないのだから、脅迫しようが無い。
経典に書かれている「脅迫」ですら、「抑止のため」と読み解き、
脅迫を無力化している。
ただ、後継者は再度「脅迫」しはじめるけどね(嘆息。
143 :
名無しさん@3周年:05/02/24 01:06:43 ID:mD0N/nby
それが
>>141 の言う、なんだかんだ、だということに気づかないのか。
144 :
暇人:05/02/24 01:14:12 ID:B/+QMn7k
>>143 愚かだな。
例えば「催眠剤」があるとする。
悪用する奴はいる。
悪い奴の言う事を鵜呑みにしたらひどい目に遭ったりもする。
中毒にされ金を毟り取られたりとかね。
身体も壊し、金も奪われ、とね。
だが、きちんとした使い方をすれば
「薬」は良薬にもなる。
しなげれば「毒」にもなるということだね
本人次第だよ。
145 :
名無しさん@3周年:05/02/24 01:21:07 ID:mD0N/nby
それが
>>141 の言う、なんだかんだ、だということに気づかないのか。
ただ、飯の種なんだろうから同情の余地はある。
146 :
暇人:05/02/24 01:31:45 ID:B/+QMn7k
>飯の種
飯の種だから、「性質が悪い」じゃん。
それといまどき「恐怖を煽ってる」のは、カルトだって。
ふつーのお寺が、
「あなたには水子の霊が憑いている。」
「このツボを100万円で買って供養したら、幸福になります」
とか言ったのするのかね?
ふつーの教会の牧師が手相を見て、恐怖を煽り
「高麗人参」や「ツボ」を売り歩くのかね?
147 :
名無しさん@3周年:05/02/24 01:52:37 ID:RNArCrKD
三吉さんも低レベルな奴の相手なんかしてないで、もうちょいハイレベルな話してちょ
みかんさんとのやりとりとか読んでて面白いんだけど
148 :
名無しさん@3周年:05/02/24 14:07:48 ID:5QH36cEZ
ふむ
つけこむという表現はさておき、恐怖心をある意味利用する
というのは、そのとおりであるな
あぼーん
150 :
名無しさん@3周年:05/02/24 14:52:27 ID:r9qHAPzn
爾の時に世尊、
三昧より安詳として起ちて、
舎利弗に告げたまわく、
諸仏の智慧は甚深無量なり。
其の智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞、
辟支仏の知ること能わざる所なり。
所以は何ん。
仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、
尽くして諸仏の無量の道法を行じ、
勇猛精進して、名称普く聞こえたまえり。
甚深末曾有の法を成就して、
宜しきに随って説きたもう所、意趣難し解し。
舎利弗、吾れ成仏してより已来、
種種の因縁、
種種の譬喩をもって広く言教を演べ、
無数の方便をもって衆生を引導して、
諸の著を離れしむ。
所以は何ん。
如来は方便、知見波羅蜜、皆已に具足せり。
舎利弗、
如来の知見は広大深遠なり。
無量、無礙、
力、無所畏、
禅定、解脱、
三昧あって、深く無際に入り、
一切末曾有の法を成就せり。
151 :
名無しさん@3周年:05/02/24 21:32:06 ID:REl233uz
>>143 >>145 それは
>>141のいう、なんだかんだ、とは違うとおもうぞ。
>>141は、冷静な判断力がないから、「なんだ」と「かんだ」の
区別が付いていないだけだ。これを仏教では無明という。
宗教が恐怖心をあおり、「あおられるやつ」というのは、
結局、なんだとかんだの区別のつかいないやつだ。
仏教は、「なんだ」と「かんだ」の区別を自分で付けよ!
と教えている。
152 :
名無しさん@3周年:05/02/24 21:44:29 ID:QqSEcjaa
日連って馬鹿だな
153 :
名無しさん@3周年:05/02/24 22:16:25 ID:oQfhefbL
>しかし仏教に限らず宗教というのは、なんだかんだ言っても、
>結局いかに人の恐怖心につけ込むかというのような気がする。
恐怖心とか、大いなる存在、自然とか神とかに対する畏怖心のない人間というのも、
また、皆無だと思います。
道徳や哲学では満たされない「何か」があるからこそ、宗教の需要もあるのでしょうから。
あぼーん
155 :
名無しさん@3周年:05/02/25 09:31:49 ID:i9Ps2CMj
いやいや、日蓮は、おごっている。
池作も同じ
156 :
名無しさん@3周年:05/02/25 15:51:53 ID:yeV1rlPk
当世の学者等は畜生の如し。
智者の弱きをあなづり
王法の邪をおそる。
諛臣と申すは是なり。
157 :
名無しさん@3周年:05/02/26 13:38:03 ID:lmaILDr/
ソーカの幹部は畜生にも劣る。
智者の弱きをあなづり
王法の邪をおそる。
諛臣と申すは是なり。
159 :
名無しさん@3周年:05/02/26 18:46:56 ID:pMA54ewE
>>152 152 名前:名無しさん@3周年 投稿日:05/02/24 21:44:29 ID:QqSEcjaa
日連って馬鹿だな
お前 、『日連』って誰だよ、
ID:QqSEcjaaって馬鹿だな
あぼーん
161 :
名無しさん@3周年:05/03/06 14:54:54 ID:CD/fLBIr
正法を惜しむなら、ニセ本尊は捨てろよ
162 :
名無しさん@3周年:05/03/08 12:13:41 ID:BDQIIDUO
私は全くもって情欲の奴隷である。
目を閉じれば若い娘のことだけ。
目を閉じれば若い娘のことだけ。
目を閉じれば若い娘のことだけ。
163 :
けちゃっぷ:05/03/08 19:08:30 ID:H7Kmkyuy
>162 「全くもって」というのは錯覚です。「時々」です。「うつ」の傾向がある人は、時々しか失敗しないのに、「私はいつも失敗する」と頭の中で失敗映像ばかりつなげて編集するそうです。
164 :
名無しさん@3周年:05/03/12 15:24:08 ID:7pznbbP6
今
日蓮が弘通する法門は
せばきやうなれども
はなはだふかし。其の故は、
彼の天台・伝教等の所弘の法よりは
一重立入りたる故なり。
本門寿量品の三大事とは是なり。
南無妙法蓮華経の七字ばかりを
修行すればせばきが如し。
されども三世の諸仏の師範、
十方薩の導師、
一切衆生皆成仏道の指南にて
ましますなればふかきなり。
経に云く「諸仏智恵 甚深無量」云云。
此の経文に諸仏とは
十方三世の一切の諸仏、
真言宗の大日如来、
浄土宗の阿弥陀、
乃至諸宗諸経の仏菩薩、
過去未来現在の総諸仏、
現在の釈迦如来等を
諸仏と説き挙げて、
次に智恵といへり。
此の智恵とはなにものぞ、
諸法実相・十如果成の法体なり。
其の法体とは又なにものぞ、
南無妙法蓮華経是なり。
釈に云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」
といへり。 其の諸法実相と云ふも、
釈迦・多宝の二仏とならうなり。
諸法をば多宝に約し、
実相をば釈迦に約す。
165 :
名無しさん@3周年:05/03/12 15:26:16 ID:7pznbbP6
>>164 是れ又境智の二法なり。
多宝は境なり、釈迦は智なり。
境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。
此等はゆゆしき大事の法門なり。
煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふもこれなり。
まさしく男女交会のとき
南無妙法蓮華経と
となふるところを、
煩脳即菩提・生死即涅槃と
云ふなり。
生死の当体、不生不滅と
さとるより外に生死即涅槃はなきなり。
普賢経に云く「煩脳を断ぜず五欲を離れず、
諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す」。
止観に云く
「無明塵労は即是菩提、生死は即涅槃なり」。
寿量品に云く
「毎に自ら是の念を作す、
何を以てか衆生をして無上道に入り、
速に仏身を成就することを得しめん」と。
方便品に云く
「世間の相常住なり」等は此の意なるべし。
此の如く法体と云ふも全く余には非ず、
ただ南無妙法蓮華経の事なり。
166 :
名無しさん@3周年:05/03/12 22:39:35 ID:g6jwje+M
ちょっと、精神病院にお入りになったほうがよろしいかと。
167 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:22:58 ID:RqWIC3mi
夫れ人に二の病あり。
一には身の病、所謂地大百一・水大百一・
火大百一・風大百一、已上四百四病なり。
此の病は設ひ仏に有らざれども之を治す。
所謂、治水・流水・耆婆・扁鵲等が方薬、
此れを治するにゆいて愈えずという事なし。
二には心の病、
所謂三毒乃至八万四千の病なり。
此の病は二天・三仙・六師等も治し難し。
何に況や神農・黄帝等の方薬及ぶべしや。
又心の病重重に浅深勝劣分れたり。
六道の凡夫の三毒・八万四千の心病は
小仏小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の
論師人師、此れを治するにゆいて愈えぬべし。
但し此の小乗の者等、
小乗を本として或は大乗を背き、
或は心には背かざれども
大乗の国に肩を並べなんどする、
其の国其の人に諸病起る。
小乗等をもつて此れを治すれば、
諸病は増すとも治せらるる事なし。
諸大乗経の行者をもつて
此れを治すれば則ち平愈す。
又華厳経・深密経・般若経・大日経等の
権大乗の人人各各劣謂勝見を起して、
我が宗は或は法華経と斉等、
或は勝れたりなんど申す人多く出来し、
或は国主等此れを用ひぬれば、
此れによつて三毒・八万四千の病起る。
返て自の依経をもて治すれどもいよいよ倍増す。
設ひ法華経をもつて行ふとも験なし。
経は勝れたれども行者、僻見の者なる故なり。
168 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:23:48 ID:RqWIC3mi
法華経に又二経あり。
所謂迹門と本門となり。
本迹の相違は水火天地の違目なり。
例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり。
爾前と迹門とは相違ありといへども
相似の辺も有りぬべし。所説に八教あり。
爾前の円と迹門の円は相似せり。
爾前の仏と迹門の仏は
劣応・勝応・報身・法身異れども
始成の辺は同じきぞかし。
169 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:25:28 ID:RqWIC3mi
今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ、
百歳のをきな(翁)と一歳の幼子のごとし。
弟子又水火なり。土の先後いうばかりなし。
而るを本迹を混合すれば水火を弁へざる者なり。
而るを仏は分明に説き分け給ひたれども
仏の御入滅より今に二千余年が間、
三国並に一閻浮提の内に分明に分けたる人なし。
但、漢土の天台、日本の伝教、
此の二人計りこそ粗分け給て候へども、
本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。
詮ずる処は天台と伝教とは
内には鑑み給ふといへども、
一には時来らず、
二には機なし、
三には譲られ給はざる故なり。
170 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:36:33 ID:mRyCPe/H
そんなお前のために
南無阿弥陀仏。
171 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:40:18 ID:RqWIC3mi
今末法に入りぬ。
地涌出現して弘通有るべき事なり。
今末法に入て本門のひろまらせ給ふべきには、
小乗・権大乗・迹門の人人、
設ひ科なくとも彼れ彼れの法にては
験有るべからず。
譬へば春の薬は秋の薬とならず。
設ひなれども春夏のごとくならず。
何に況や彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人人、
或は大小権実に迷へる上、
上代の国主彼れ彼れの経経に付て
寺を立て田畠を寄進せる故に、
彼の法を下せば申し延べがたき上、
依怙すでに失るかの故に、
大瞋恚を起して、
或は実経を謗じ、或は行者をあだむ。
国主も又一には多人につき、
或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故、
或は自身の愚癡の故、
或は実教の行者を賎しむゆへ等の故、
彼の訴人等の語ををさめて
実教の行者をあだめば、
実教の守護神の梵・釈・日・月・四天等
其の国を罰する故に、
先代未聞の三災七難起るべし。
所謂去・今年、去ぬる正嘉等の疫病等なり。
疑て云く、汝が申すがごとくならば、
此の国法華経の行者をあだむ故に
善神此の国を治罰する等ならば
諸人の疫病なるべし。
何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや。
172 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:40:25 ID:H+8epRuu
>今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ、
>百歳のをきな(翁)と一歳の幼子のごとし・・・
何という下らないたとえか。
173 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:42:54 ID:RqWIC3mi
>>170 答て云く、汝が不審最も其の謂有るか。
但し一方を知て一方を知らざるか。
善と悪とは無始よりの左右の法なり。
権教並に諸宗の心は善悪は等覚に限る。
若し爾ば等覚までは互に失有るべし。
法華宗の心は一念三千、
性悪性善、
妙覚の位に猶備はれり。
元品の法性は梵天・帝釈等と顕はれ、
元品の無明は第六天の魔王と顕はれたり。
善神は悪人をあだむ、
悪鬼は善人をあだむ。
末法に入りぬれば
自然に悪鬼は国中に充満せり。
瓦石草木の並び滋きがごとし。
善鬼は天下に少し。
聖賢まれなる故なり。
此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、
日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。
いかにとして候やらん、
彼等よりもすくなくやみ、
すくなく死に候は不思議にをぼへ候。
人のすくなき故か。
又御信心の強盛なるか。
174 :
名無しさん@3周年:05/03/13 01:53:41 ID:RqWIC3mi
>>172 「問ふ、
在世の時
許多の怨嫉あり。
仏滅度の後
此経を説く時、
何が故ぞ亦
留難多きや。
答て云く、
俗に云ふが如きは
良薬口に苦しと。
此経は五乗の異執を廃して
一極の玄宗を立つ、
故に凡を斥け聖を呵し、
大を排い小を破り、
天魔を銘じて毒虫と為し、
外道を説て悪鬼と為し、
執小を貶して貧賎と為し、
菩薩を挫て新学と為す。
故に天魔は聞くを悪み、
外道は耳に逆い、
二乗は驚怪し、
菩薩は怯行す。
此くの如きの徒
悉く留難を為す。
多怨嫉の言
豈
唐しからんや」
175 :
名無しさん@3周年:05/03/13 02:29:55 ID:mRyCPe/H
そんなお前のために
南無阿弥陀仏。
176 :
名無しさん@3周年:05/03/13 02:31:07 ID:mRyCPe/H
もっかい言う。
そんなお前のために
南 無 阿 弥 陀 仏
177 :
名無しさん@3周年:05/03/13 02:34:33 ID:RqWIC3mi
>>173 問て云く、
日本国に此の疫病先代に有りや。
答て云く、
日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給ひし
崇神天皇の御代に疫病起て
日本国やみ死ぬる事半にすぐ。
王始めて天照太神等の神を
国国に崇しかば疫病やみぬ。
故に崇神天皇と申す。
此れは仏法のいまだわたらざりし時の事なり。
人王第三十代
並に一二の三代の国主並に臣下等、
疱瘡と疫病に御崩去等なりき。
其の時は神にいのれども叶はざりき。
178 :
名無しさん@3周年:05/03/13 02:35:52 ID:RqWIC3mi
>>177 去ぬる人王三十代欽明天皇の御宇に、
百済国より経論僧等をわたすのみならず、
金銅の教主釈尊を渡し奉る。
蘇我の宿祢等崇むべしと申す。
物部の大連等の諸臣並に万民等は
一同に此の仏は崇むべからず、
若し崇むるならば必ず我が国の神、
瞋りをなして国やぶれなんと申す。
王は両方弁まえがたくをはせしに、
三災七難先代に超えて起り、万民皆疫死す。
大連等便りを得て奏問せしかば、
僧尼等をはじ(恥)に及ぼすのみならず、
金銅の釈迦仏をすみ(炭)ををこして焼き奉る。
寺又同じ。
爾の時に大連やみ死ぬ。
王も隠れさせ給ひ、
仏をあがめし蘇我の宿祢もやみぬ。
大連が子、
守屋の大臣云く、
此の仏をあがむる故に
三代の国主すでにやみかくれさせ給ふ。
我が父もやみ死ぬ。
179 :
名無しさん@3周年:05/03/13 02:39:48 ID:RqWIC3mi
>>178 まさに知るべし、
仏をあがむる聖徳太子・馬子等はをや(親)のかたき、
公の御かたきなりと申せしかば、
穴部の王子・宅部の王子等、
並に諸臣已下数千人一同によりきして、
仏と堂等をやきはらうのみならず、
合戦すでに起りぬ。結句は守屋討たれ了ぬ。
仏法渡て三十五年が間、
年年に三災七難疫病起りしが、
守屋馬子に討たるるのみならず、
神もすでに仏にまけしかば、
災難忽に止み了ぬ。
其の後の代代の三災七難等は、
大体は仏法の内の乱れより起るなり。
而れども或は一人二人、或は一国二国、
或は一類二類、或は一処二処の事なれば、
神のたたりも有り、謗法の故もあり、
民のなげきよりも起る。而るに
此の三十余年の三災七難等は
一向に他事を雑へず。
日本一同に日蓮をあだみて、
国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに
上一人より下万民にいたるまで、
前代未聞の大瞋恚を起せり。
見思未断の凡夫の元品の無明を起す事、此れ始めなり。
神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし。
但し法華経の本門をば
法華経の行者につけて除き奉る。
結句は勝負を決せざらん外は
此の災難止み難かるべし。
無駄なカキコだな〜。
あんたのカキコには魅力が無い。
なぜだか分かる?あんたが全く自分の言葉を
持たないからだよ。
181 :
名無しさん@3周年:05/03/13 04:01:59 ID:RqWIC3mi
問て云く、
善導和尚・法然上人の釈を引くは
彼の釈を用るや否や。
答て云く、
しからず。
念仏者の師たる故に、
彼がことば
己が祖師に
相違するが故に、
彼の祖師の禁めをもて
彼を禁るなり。
例せば世間の沙汰の彼が語の彼の文書に
相違するを責るが如し。
問て云く、
善導和尚・法然上人には
何事の失あれば
用ひざるや。
答て云く、
仏の御遺言には、
我が滅度の後には
四依の論師たりといへども、
法華経にたがはば用ふべからずと、
涅槃経に返す返す
禁め置かせ給て侍るに、
法華経には我が滅度の後
末法に諸経失せて後、
殊に法華経流布すべき由一所二所ならず、
あまたの所に説かれて侍り。
随て天台・妙楽・伝教・安然等の義に
此事分明なり。
スレ違い。ヨソでやってくれ
183 :
名無しさん@3周年:05/03/13 04:16:23 ID:RqWIC3mi
184 :
名無しさん@3周年:05/03/13 08:09:53 ID:BNOUK+nP
>>181 可愛そうに、洗脳されているんだね。
その話は、750年前ならいざしらず、
現代では、通用しないよ。
その辺の、仏教入門書を何冊か読んで、
そっちを引用したら?
よっぽど、価値がある。
185 :
名無しさん@3周年:05/03/13 08:14:40 ID:BNOUK+nP
「ソーカは、ニセ本尊を、金をとってくばるのを止めろ!」
「ソーカは、ニセ本尊を、金をとってくばるのを止めろ!」
「ソーカは、ニセ本尊を、金をとってくばるのを止めろ!」
186 :
名無しさん@3周年:05/03/13 09:23:08 ID:RqWIC3mi
>>184 然るに善導・法然、
法華経の方便の一分たる
四十余年の内の未顕真実の観経等に依て、
仏も説かせ給はぬ
我が依経の読誦大乗の内に
法華経をまげ入れて、
還て我が経の名号に対して
読誦大乗の一句をすつる時、
法華経を抛てよ、門を閉じよ、
千中無一なんど書て侍る僻人をば、
眼あらん人是をば用ふべしやいなや。
疑て云く、
善導和尚は三昧発得の人師、
本地阿弥陀仏の化身、口より化仏を出せり。
法然上人は本地大勢至菩薩の化身、
既に日本国に生れては念仏を弘めて、
頭より光を現ぜり。
争か此等を僻人と申さんや。
又善導和尚・法然上人は
汝が見る程の
法華経並に一切経をば
見給はざらんや。定めて其の故是あらんか。
答て云く、
汝が難ずる処をば
世間の人人定めて道理と思はんか。
是偏に法華経並に天台・妙楽等の
実経実義を述べ給へる文義を捨て、
善導・法然等の謗法の者にたぼらかされて、
年久くなりぬるが故に思はする処なり。
先ず通力ある者を信ぜば、
外道・天魔を信ずべきか。
187 :
名無しさん@3周年:05/03/13 09:29:52 ID:RqWIC3mi
当世には念仏者なんどの
日蓮に責め落されて、
我が身は謗法の者なりけりと
思ふ者も是あり。
聖道の人人の御中にこそ
実の謗法の人人は侍れ。
彼の人人の仰せらるる事は、
法華経を毀る念仏者も不思議なり、
念仏者を毀る日蓮も奇怪なり。
念仏と法華とは一体の物なり。
されば法華経を読むこそ念仏を申すよ、
念仏申すこそ法華経を読むにては侍れと
思ふ事に候なりと、
かくの如く仰せらるる人人、
聖道の中にあまたをはしますと聞ゆ。
随て檀那も此の義を存じて、
日蓮並に念仏者を
おこがましげに思へるなり。
先
日蓮が是れ程の事を
しらぬと思へるは
はかなし。
188 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:16:12 ID:BNOUK+nP
>>186 本物のバカだな。
仏教の入門書を読めよ!(注:学会発行のものはダメ)
念仏も、法華も、釈尊がなくなってから、何100年も経ってから
でっち上げられたものだ。
仏教ですらないんだよ。
それに、キミは、普通の会話ができないのかい?
引きこもりか?
189 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:29:19 ID:MBclHrM7
仏入滅の次の日より
千年をば正法と申して持戒の人多く、
得道の人これあり。
正法千年の後は像法千年なり。
破戒の者は多く、得道すくなし。
像法千年の後は
末法万年なり。
持戒もなし破戒もなし、
無戒の者のみ国に充満せん。
190 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:30:44 ID:MBclHrM7
而も濁世と申してみだれたる世なり。
清世と申してすめる世には、
直縄のまがれる木をけづらするやうに、
非をすて是を用ふるなり。
正像より五濁やうやういできたりて、
末法になり候へば五濁さかりにすぎて、
大風の大波を起して岸を打つのみならず、
又波と波とをうつなり。
見濁と申すは正像やうやうすぎぬれば、
わづかの邪法の一つをつたへて
無量の正法をやぶり、
世間の罪にて悪道におつるものよりも、
仏法を以て悪道に堕つるもの
多しとみへはんべり。
191 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:33:53 ID:MBclHrM7
小船には大石をのせず。
悪人・愚者は大石のごとし。
小乗経並に権大乗経・念仏等は小船なり。
大悪瘡の湯治等は、
病大なれば小治およばず。
末代濁世の我等には
念仏等はたとへば冬田を作るが如し。
時があはざるなり〈是三〉。
国をしるべし。国に随て人の心不定なり。
たとへば江南の橘の淮北(わいぼく)にうつされて
からたち(枳)となる。心なき草木すらところによる。
まして心あらんもの何ぞ所によらざらん。
されば玄奘三蔵の西域と申す文に
天竺の国国を多く記したるに、
国の習として不孝なる国もあり、
孝の心ある国もあり。
瞋恚のさかんなる国もあり、
愚痴の多き国もあり。
一向に小乗を用る国もあり、
一向大乗を用る国もあり。
大小兼学する国もありと見へ侍り。
又一向に殺生の国、一向に偸盗の国、
又穀の多き国、又粟等の多き国不定あり。
192 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:46:28 ID:MBclHrM7
抑
日本国はいかなる教を習てか
生死を離るべき国ぞと勘へたるに、
法華経に云く
「如来の滅後に於て閻浮提の内に
広く流布せしめ断絶せざらしむ」等云云。
此の文の心は、
法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり。
弥勒菩薩の云く
「東方に小国有り、唯だ大機のみ有り」等云云。
此の論の文の如きは、
閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか。
肇公の記に云く
「茲の典は東北の小国に有縁なり」等云云。
法華経は東北の国に縁ありとかかれたり。
安然和尚の云く
「我が日本国皆大乗を信ず」等云云。
恵心の一乗要決に云く
「日本一州円機純一」等云云。
釈迦如来・弥勒菩薩・須利耶蘇摩三蔵・
羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・恵心の
先徳等の心ならば、
日本国は
純に法華経の機なり。
一句一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし。有縁の法なるが故なり。
193 :
名無しさん@3周年:05/03/13 11:49:28 ID:MBclHrM7
さきに外道の法
弘まれる国ならば
仏法をもつてこれをやぶるべし。
仏の印度にいでて外道をやぶり、
まとうか(摩騰迦)・ぢくほうらん(竺法蘭)の
震旦に来て道士をせめ、
上宮太子和国に生れて
守屋をきりしが如し。
仏教においても、
小乗の弘まれる国をば
大乗経をもつてやぶるべし。
無著菩薩の世親の
小乗をやぶりしが如し。
権大乗の弘まれる国をば
実大乗をもつてこれをやぶるべし。
天台智者大師の
南三北七を
やぶりしが如し。
自分が最期にカキコしてないと
負けた気がするんだろうね。
幼い。
195 :
名無しさん@3周年:05/03/13 14:17:00 ID:X7DpNj4b
いまどき、小乗などという言葉を
つかうやつは、ソーカの洗脳やろう
だけだ。
おまえの書き込みは、ソーカの恥じ
だな。
196 :
名無しさん@3周年:05/03/13 14:59:12 ID:T6i/tz2a
>>195 層化に限らず大石寺系統カルトは害基地人格破綻者の巣窟だからね。
気になるようならあぼーん願いでも提出しとけば。
197 :
名無しさん@3周年:05/03/13 21:11:00 ID:BNOUK+nP
>>196 ご忠告、ありがとうございます。
わたしの目的は、ソーカの異常性を、ガッカイ員と世間に訴えることです。
何でも、きっかけがあれば、「ソーカのニセ本尊は、でたらめだ!」
と、世間に訴えていくだけです。
>>189-193のような書き込みをみれば、
ニセ本尊を拝む、人間の精神が異常をきたすことがわかるでしょう。
198 :
名無しさん@3周年:05/03/13 22:19:27 ID:UktIHX2F
頭の狂った人が、タイピングの練習してたね。
>>196 激しく同意。
法華はブッダ直説のお経ではない。まずそれを素直に受け入れた上で、教義の内容を語ってほしいですね。
200 :
名無しさん@3周年:05/03/14 21:09:22 ID:IS3NtFLi
201 :
名無しさん@3周年:05/03/15 12:35:53 ID:FRQrPGWl
あの妙な書き込みを見て
誰もがソーカだと思う
それほどソーカは異常ということだ
ソーカとは限らんだろ
富士門系(大石寺系)のバリ会員なら、どこでも誰でもあの程度には頭おかしい
一番やばいのは宗門だろうな
妙観講とかが特にヤバめ
203 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/15 22:48:13 ID:dkcbf3qT
いやいや、そうでもない。
ソーカと法華講では、学習する御書が違う。
自然と、その傾向が分かれるものだ。
法華講なら、上のような、過激な表現は好まれない。
ソーカは勝ち負けにこだわるが、法華講は、もっと平和なのだよ。
妙観講も、対ソーカは、容赦ないが、それ以外は問題ない。
顕正会のことは、わたしは知らない。会ったこともない。
>>203 なーんだ、宗門か
法華講が過激な表現は好まない?
なわけねーだろw
都合の良い事ばっか書いてんじゃねーよ
所詮同じ穴の狢だ
205 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/17 01:22:33 ID:pi7MWwNo
わたしは元法華講だ。どうでもよいが。
ソーカはカルトだが、日蓮正宗は、伝統仏教である。
ソーカの本尊は、ニセ物だが、日蓮正宗の本尊は、問題ない。
すくなくとも、悪意はない。
206 :
名無しさん@3周年:05/03/17 12:14:04 ID:biHZMJu/
>>205 先ずは、それを世間にどうやって認知させる?
伝統仏教の七百年の歴史を持つ総本山が
信者以外参詣できないということからして、カルトっぽい。
公開しちゃえ。
207 :
名無しさん@3周年:05/03/17 12:53:36 ID:nrNPEFH2
大石寺は魔の巣窟
「日蓮正宗の本尊は問題ない」って言い切っちゃってる当りがなんとも。
何をもって「問題ない」って言い切ってるんだろ?
209 :
名無しさん@3周年:05/03/17 23:57:30 ID:eijBGNZy
210 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/19 00:08:45 ID:dwc/daql
>>208 自分の価値観をもって判断しています。
いうまでもないことですが、誰でも、そうしてますね。
問題があるのは、本尊ではなく、宗教に無知であることです。
211 :
名無しさん@3周年:05/03/19 09:07:47 ID:3adv1NQZ
>>210 何を書いても自由は自由ですが、
あなたの「個人的主観」を伺っても
意味ないんですが。
日蓮正宗以外に何を研究されて、
「宗教に造詣ある方」即ち
無知という言葉を使う方になったのかも教えてください。
212 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/19 09:54:52 ID:dwc/daql
>>210 個人的主観?
誰がそんな話をしましたか。
それにわたしのいう「個人の価値観」が「個人的主観」ならば、、
>日蓮正宗以外に何を研究されて、
>「宗教に造詣ある方」即ち
>無知という言葉を使う方になったのかも教えてください。
個人的主観を作り出した作業など、聞いてどうするの?
言ってる事がころころ変わりますね。
>>205では
>日蓮正宗の本尊は、問題ない。
こう書いておきながら、
>>210では
>問題があるのは、本尊ではなく、宗教に無知であることです。
こう来る。「宗教に無知」ってどういう意味?
いずれにせよ、話す内容がころころ変わるような人間の言う事は信用
できませんな。
あと、「誰でも自分の価値観で判断している」と思うのであれば、
一々他人に自分の価値観を主張する必要もないでしょう。
あなたはあなたの価値観を大事にしていれば宜しい。
スレ違いの話はこれぐらいにして大乗非仏説の話に戻りませんか?
富士大石寺とソーカの争いはソーカ板ででもやってください。
214 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/19 18:04:35 ID:dwc/daql
>>213 ええっと?
すみません。
1.日蓮正宗の本尊は、問題ない。
2.問題があるのは、本尊ではなく、宗教に無知であること。
このふたつは、まったく別の問題を論じていますが、
「いうことがころころ変わる」というご指摘が、
わたしには、よく分かりません。
どの編が、変わったというのでしょうか?
やさしく、おしえてくださりませ。
215 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :05/03/19 18:19:10 ID:qqkyw1zW
>>214 1.日蓮正宗の本尊は、問題ない。
2.問題があるのは、本尊ではなく、宗教に無知であること。
何の、あるいはどういった事が問題であるかを提示すべきでしょう。
でないと、問題の有無を論じる意味がなくなります。
それ以前に、論理的に考えると「問題の有無」は
無問題→日蓮正宗の本尊
有問題→宗教的無知
と整理され、概念空間が別な性質を扱うことになります。これでは
ただの戯言にしかすぎません。
宗教的に無知でないとすれば無問題であり、それが日蓮正宗の
本尊だと主張するのでしょうか?そんなカルト集団にいるから、
思考が狂うのです。
216 :
実行委員長:05/03/19 18:21:09 ID:B6Y+xn5B
釈尊は、思考と脳を変えること、それによってカルマを絶つことができる。
これを説かれた。
217 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :05/03/19 18:22:45 ID:qqkyw1zW
>>216 だからどこでどのように説いているのかを引用しろと言ってるでしょ?
妄想ですか?捏造ですか?ただの孫引きですか?
218 :
名無しさん@3周年:05/03/19 18:52:28 ID:C5oQF9GY
220 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/19 21:10:54 ID:dwc/daql
>>215 なかなか、ご指摘内容が、難しい。
まぬけな私には、ちょっと理解できません。
はっきりいうと、本尊が偽物かどうかという問題に対して、
日蓮正宗の本尊を、本物とした場合、ソーカのは偽物という
だけのことです。
わたしが問題にしているのは、ソーカのニセ本尊ですから、
日蓮正宗の本尊は、問題にしていません。
問題があるとすれば、日蓮正宗の教義は、エセ仏教ですから。
それを称して、宗教的無知といいました。
いいかえると、日蓮正宗は仏教を名のらなければ、
まったく問題はない。
本尊が本物かどうかを問題にするのではなく、宗教、教義を問題とせよということですな。
本尊が本物かどうかというのは、それに価値を与える宗教、教義によるわけですからもっともですな。
222 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/19 22:52:14 ID:dwc/daql
日蓮正宗の教えは、学問仏教から見れば、すでに釈尊の仏教ではない。
しかし、釈尊にこだわらなければ、100歩ゆずって、その他の
鎌倉仏教と同じように、日本の仏教という地位を認めてあげれば、
彼らの本尊は、とりたてて問題にするようなものではないと思います。
それこそ神社のお守りと大差は無い。
しかし、学会のビニール本尊はでたらめだ。
かれらこそが、いうことはころころ変わる。
人を騙す、ニセ本尊を配布するソーカだけは許してはならない。
223 :
けちゃっぷ:05/03/20 00:15:48 ID:c9IV+4Fi
そもそも日蓮系にとって、本尊とは何なのですか?ある一人の僧が書いた本尊がないと、修行もできないのですか?道具がないと修行できないのですか?
224 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/20 08:14:47 ID:yZt/syA0
>>223 日蓮の教えによると、本尊とは「日蓮が魂」ということになる。
そして本尊を縁として、唱題することにより、仏界が出現する。
別な言葉では「境智冥合」(きょうちみょうごう)という。
境とは、自分の周囲の世界。->ここでは曼荼羅、本尊
智とは、自分の智恵。->仏の智恵
冥合とは、境と智の二つが、
合わさっていることをいう。->仏界
225 :
名無しさん@3周年:05/03/20 08:23:19 ID:MNjVMcdH
此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給ふべし。
南無妙法蓮華経は師子吼の如し。
いかなる病さはりをなすべきや。
鬼子母神十羅刹女、
法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。
さいはいは愛染の如く、
福は毘沙門の如くなるべし。
いかなる処にて遊びたはふるとも、
つつがあるべからず。
遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。
十羅刹女の中にも
皐諦女の守護ふかかるべきなり。
但し御信心によるべし。つるぎ(剣)なんども、
すすまざる人のためには用る事なし。
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ
用る事なれ。鬼にかなぼう(鉄棒)たるべし。
日蓮がたましひ(魂)を
すみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。
信じさせ給へ。
仏の御意は法華経なり。
日蓮がたましひは
南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。
妙樂云く
「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ。
経王御前にはわざわひも転じて幸となるべし。
あひかまへて御信心を出し、
此の御本尊に祈念せしめ給へ。
何事か成就せざるべき。
「充満其願如清涼池 現世安穏 後生善処」
疑なからん。
又申し候。当国の大難ゆり候はば、
いそぎいそぎ鎌倉へ上り見参いたすべし。
226 :
けちゃっぷ:05/03/20 10:24:13 ID:c9IV+4Fi
何か、日蓮さんには自分が教祖となりたいという願望を感じてしまいます。ご本尊の根拠はお経にあるのですか?単なる日蓮さんの思い付きですか?
227 :
名無しさん@3周年:05/03/20 11:06:31 ID:PGAQsZqb
>日蓮正宗の本尊は、問題にしていません
この一言が日蓮正宗のカルト性を如実に物語ってますよ。
自己の本尊の無謬性・絶対性を信者に押し付けているわけですから。
でもって、「自己を絶対」と仮定して他所の本尊には難癖を
つけているわけです。
池田大作の神聖化を推し進める創価学会とは良い勝負と言うべき
でしょう。
>鎌倉仏教と同じように、日本の仏教という地位を認めてあげれば、
>彼らの本尊は、とりたてて問題にするようなものではないと思います。
ここにも論理的な破綻があります。
「釈尊の仏教」の話をしておきながら、なぜ「本尊に問題はない」と本尊の
話に摩り替えているのでしょうか?
一言で評価するならあなたの論旨展開は典型的な戯論です。
発言すればするほど富士大石寺の恥を晒すだけですよ。
>ご本尊の根拠はお経にあるのですか?
皆無。法華経をいくら引っくり返しても日蓮の本尊は出てこない。
>単なる日蓮さんの思い付きですか?
ぶっちゃけその通り。
228 :
名無しさん@3周年:05/03/20 11:18:24 ID:PGAQsZqb
もっと言っちゃうなら、「ニセ本尊を糾弾する会」氏の論法は詭弁論駁論に
出てくる[不当仮定]そのものです。
・矛盾した前提からはどんな結論でも引き出せる
勝手に「大石寺の本尊には問題ない」という前提を据え置いて、その前提
のもと、話を進めているわけですから。
どうしてもその前提で話を進めたいのであれば、その前提条件の理非を
問われた時に、
>わたしが問題にしているのは、ソーカのニセ本尊ですから、
>日蓮正宗の本尊は、問題にしていません。
こんな逃げ口上を書かずに、前提の正しさを主張すれば済む事です。
>>208さんが質問している事を再度書きますよ。
何をもって「大石寺の本尊には問題無い」と主張されているのですか?
229 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/20 12:03:00 ID:yZt/syA0
>>227 >この一言が日蓮正宗のカルト性を如実に物語ってますよ。
ばかもの!おまえにはこの一言で十分だ。
>>228 それは、222で答えている。別な角度から質問をしてくれたまえ。
日蓮の仏教は、釈尊の教えではない。なんどもいわすな。
230 :
名無しさん@3周年:05/03/20 13:04:01 ID:2pLTxUyf
返答に詰まると怒鳴って対話を打ち切ろうとする、つくづくワンパターンな
連中だな(藁
ま、カルトの害毒に脳髄まで侵された人間がどうなるか?生きたサンプルを
提示する、という意味合いでは良いかもしれん。その調子でどんどん馬鹿を
晒してくれ。
>>226 日蓮正宗といフィルターを通して日蓮さんを見れば、そう見えてしまうかも
しれませんね。けど、日蓮正宗が日蓮さんの教えとはまるで無関係な事を
教義として伝えてる、としたらどうしますか?
日蓮さんの教えそのものは、釈迦仏教と幾つかの関連性が見出せます。
それをめちゃくちゃに破壊して、まるで無関係なものに仕立て上げたのが日
興であり、日有ですよ。
231 :
仏教に関していえば:05/03/20 17:28:34 ID:MXJmfw1Z
仏教者というのは、「仏」教者であるということにこだわりがあり、何が「仏」
教者であるのかを明確にしないでおいて、アプリオリに「仏」教者であることが
「正統」者である、という前提を共有している人種、のように見えますよ。
では、なぜあなた方は、「仏」教者であることそのものに「こだわる」のですかね。
1.「仏」教であること自体が、唯一「正統」な宗教であるから、それがどんな
概念であれ、またどんな概念に定義されてしまおうともあくまでも「仏」と
いう「術語」が入ること自体が「何よりも重要」だから、諸宗派すべてが
「仏」教であることを主張し、その「『仏』という名前」に依拠するアプリオリ
な「感情」「染み付いた民族的な観念」「伝統に支えられた畏敬」を獲得したい
から
--> は何ゆえにそうなるのですか?
2.「仏」という「術語」をどのように「概念定義」し、あるいはどのように
「解釈」することによってか、とにかくそこに「究極的な価値を置きたい
と願っている」から
--> では、何ゆえそのように志向し考えるのですか?
232 :
名無しさん@3周年:05/03/20 18:08:35 ID:PGAQsZqb
233 :
仏教に関していえば:05/03/20 18:16:15 ID:MXJmfw1Z
「仏法」といえば「いい響き」だから「仏」がいい、とか心の底で思って
いませんか>仏教者さん。
「・ッポー」というと勇気が出てくるとか(笑)。
しばしばそんな風に見えたりもしてます。
234 :
名無しさん@3周年:05/03/20 19:20:07 ID:7zvPQrSw
思っていませんよ。
執着していることがあるとすれば、執着するな、ということだけです。
235 :
仏教に関していえば:05/03/20 20:11:08 ID:MXJmfw1Z
「仏」といえば、教主=釈迦ということで合意しているかと思えば全然違ったり
してますね。あれは何ですかね。
何が「仏」教者であるのかを明確にしないでおいて、アプリオリに『「仏」教者
であること』が 「正統」者であるかのように主張しているかのようですよ。
釈迦はアホですもう力がないんですと公然と言いながら「ウチのが本当の『仏法』
であとは全部クズですが」とか言ってる人もいますが。そんなら『仏』であっても
なくてもいいわけで。そういうのを「仏」と言わず「とにかくすばらしいんです」
って言うだけにしてくれればいいんですけどね。仏という言葉にして概念を乗っ取り
たいだけなんじゃないですかね。
そういう人たちは『執着』しているんですか。
「仏」という名前にこだわる理由はなんですかね。やっぱり
>>231の1か2でしょ。
そんなことに執着するな、ということです。
237 :
ニセ本尊を糾弾する会:05/03/20 23:31:35 ID:yZt/syA0
>>235 話が飛躍しすぎだな。
わけがわからんので、コメントもしにくい。
238 :
名無しさん@3周年:2005/03/21(月) 12:36:28 ID:7gvc+i51
>>224 境智冥合
正しくは、次のとおり。
仏は法義的に三身あり。(三種類の仏ではなく仏身を論ずる法義)
即ち、法身如来・報身如来・応身如来。
宇宙の真理そのものを仏とみなす時、これを法身如来という。
これが、「境」であり、仏教で境とは認識作用の対象を示す言葉だ。
この真理を仏が悟った時、これを報身如来という。
悟ったのは「智」である。
悟られた理と悟った智が、箱と蓋がぴったり合うように
合致する。これが境智冥合である。
境智冥合すると、衆生済度の仏の大慈悲心が発動される。
これが、「応身如来」。
「御本尊」なんて、この用語には関係ない。
日蓮正宗系の教学しか、学んでいないことが良く解った。
そんな、連中にもう質問することも、いうこともない。
239 :
ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/21(月) 12:45:21 ID:b7h8jRS2
>>238 それは、釈尊の仏教ではない。
これで満足か?
240 :
けちゃっぷ:2005/03/21(月) 12:58:16 ID:zvCSyl+t
日蓮正宗の普段の説法では、何が説かれるのでしょうか?日蓮さんの教えの中心は何なのですか?行は何ですか?
241 :
名無しさん@3周年:2005/03/21(月) 13:06:49 ID:be8RBnF6
今当家の意を明かさば正く仏法僧の三宝を表す、
謂く百八数の珠は是れ法宝なり、
衆生に在りては心性如意宝珠なり、
無始己来煩悩業苦の三道に
覆はるゝ故に心性の珠を隠す、
今本門の大法に値ひ之れを信受する故に
三道即三徳の宝珠自然に之れを顕す、
故に百八の珠は百八の妙法なり
所謂煩悩亦百八なり
能治所治倶に是れ百八の法門なり、
五十計経に百八煩悩、唯是一身一念の法門なり
具さに五百四十の百八を成す、
故に仏言はく一心の中に五百四十の百八の愛行有り、
一愛は当に生死を受くべし、
一受は当に一身を受くべし云云、
故に煩悩無量無辺、唯念心中に在り、
今妙法を唱る則は五百四十の百八無量無辺の
煩悩を滅尽するのみ、
若し仏果を得る則は我れ等一心性より出づる珠、
百八の妙法、乃至無量無辺の妙法と顕る、
故に一心性即百八法の珠、百八宝珠
即無量無辺の宝珠にして不思議の故に妙法と云ふなり。
次に二母珠は釈迦多宝境智の二法を表するなり、
系緒の大珠即釈迦の智慧なり
弟子付の大珠是れ多宝の境なり、
無明即法性、境智一躰不二の意なり、
右釈迦智は右手に之れを掛くべし
多宝境は左手に之を掛くへし、
釈迦は是れ智なるが故に串線百八珠を貫くものなり、
多宝は境を表する故に
智に任せ貫く所の法宝皆智慧の所脱と為るなり、
境智冥合之れを思へ。
242 :
名無しさん@3周年:2005/03/21(月) 13:10:13 ID:be8RBnF6
次に左右の露は行者の一身を表す、
卅一珠は但是十波羅密、
分別して卅一珠と為す、
其の故記憶珠子なるが故に
右の十珠記子即百千記子位なり、
左二十珠即千万億の記子なり、
一珠は無数位なり既に無数位一つなり、
又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、
然れば右の十の記子は百千数位、
左の廿一は千万億無数の記子なり、
皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。
次に留珠の首の長きは行者の一心を表して
百千万億無数の功徳を慕ひ得んと
欲する意なるが故に其の頚長く延びたり、
又二重するは功徳を漏らさずと云ふ心なり。
又結線に表示有り右は叶左は叶と石畳となり、
惣して左右の総の長きは
不動愛染と之れを表す
古来の口伝なり
243 :
けちゃっぷ:2005/03/21(月) 13:44:49 ID:zvCSyl+t
数珠は大事な法具だよってこと?
244 :
名無しさん@3周年:2005/03/21(月) 14:37:49 ID:0Y32N4qx
>>242 不動も愛染も法華経そのものには関係ないようですね。
日蓮は誰から口伝を受けたのか。多分真言師ですね。
真言嫌いの日蓮もヒゲ曼荼羅に密教の梵字を入れていますが此れいかに?
245 :
ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/21(月) 15:31:22 ID:b7h8jRS2
>日蓮正宗の普段の説法では、何が説かれるのでしょうか?
真言は亡国の教え
禅は天魔の所為
律は国賊
念仏は無限地獄の因
層化ウソツキ
>日蓮さんの教えの中心は何なのですか?
南無妙法蓮華経
本門の本尊と戒壇と題目
>行は何ですか?
唱題行ですな。
だから、団体であろうが宗教と言う認識であろうが、法的な強制力を何等執行されていないのは何故か? と訊いているのですが?
247 :
ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/21(月) 22:08:28 ID:b7h8jRS2
248 :
けちゃっぷ:2005/03/22(火) 12:14:28 ID:hjbLqulP
>245 では、日蓮さんの教えにおいて信者はどのように救われるのですか?あるいは何を悟るのですか?たとえば念仏だと往生極楽という結果があるように、題目にも具体的な結果が説かれていますか?
249 :
名無しさん@3周年:2005/03/22(火) 13:52:32 ID:ULtwDLvS
天台大師が前提としたような
全ての仏典を釈尊の直説として見る見方は、
早くも江戸時代には富永仲基によって
大乗非仏説が唱えられていた。
また国学者の平田篤胤は、
神道擁護の立場から
法華経を”薬屋のチラシ”
(誇大な効能書きしか書いてない、
薬そのものはどこにもないとの意)と嘲笑し、
その無内容性を批判した。
近代になると、
ヨーロッパの文献学の手法により、
法華経が釈尊の直説であることは
明確に科学的実証を以って否定された。
つまり阿含経の一部と、
阿含経以外のいわゆる大乗仏典の全ては
釈尊に仮託された創作仏典である
ということが結論づけられたわけである。
よって現在では
法華経は後世の創作仏典であり、
登場する釈迦の言動は全て
実際には無かった、とされる。
250 :
名無しさん@3周年:2005/03/22(火) 13:54:07 ID:ULtwDLvS
もっとも、
インド=アーリア語族優越思想の
影響下に発展を遂げてきた
近代ヨーロッパ文献学もまた、
そのサンスクリット語偏重主義に対し、
近年厳しい批判が浴びせられるに至っている。
そもそも、インド=アーリア語族出自でない
と言われる釈尊自身の説法は、
サンスクリット語でもパーリ語でもなく、
地元のマガダ語の方言で行われていたに相違ない。
釈尊がヴェーダの言葉で説法することを
拒否したとの伝承は経典にも
はっきりと残っている。
その意味においてはいかなる
サンスクリット語経典
およびパーリ語経典といえども
全て後世の弟子たちの手によるものであって、
しかもマガダ語の経典などは
一部も編纂されていない以上、
現存する阿含経典もまた
釈尊の直説を一字一句
正確に伝えるものとは到底言えず、
「阿含経典であるから
釈迦の意向が間違いなく残されている」とは
言い切れないのが現状である。
ましてや、
現存するプラークリットの
阿含経典の成立年代と
法華経の成立年代が
大して違わないことも
最近では
明らかになってきているのである
251 :
名無しさん@3周年:2005/03/22(火) 13:56:19 ID:ULtwDLvS
釈迦の長年にわたる説法の本意が
果たして自己完結的な
内面の悟りの境地のみに存したのか、
それとも法華経が説くように
現実社会との積極的な関わりまで
視野におさめていたのか。また、
釈迦はあくまでも戒律主義を基調とした
出家エリートの教団維持を目指したと見るか、
法華経が説くような
一切衆生の平等的救済と仏国土の建設を
目指したと見るかによって、
法華経に対する評価は
人それぞれに大きく変わってくると
言えるだろう。
252 :
名無しさん@3周年:2005/03/22(火) 13:58:35 ID:ULtwDLvS
阿含経までを純粋な仏教経典とし
以降の経典は後世の創作として
線引きして別ものとするか、
或いは師の教義を
弟子が継承し発展させることは、
生きた教団である以上あり得ることから、
法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など
後世の成立とされる大乗経典が
根無し草の如き存在ではなく、
釈迦の直説を長い時を経て
弟子から弟子へと継承される課程で
発展していったものとして
後世の経典もまた「釈迦の教義」として
認めるかという解釈の相違は、
歴史学或いは
宗教学の双方からの
視点によって解釈が
異なってくるものである。
253 :
名無しさん@3周年:2005/03/22(火) 17:19:31 ID:QsruYwh/
>>239 釈尊の仏教であると思う。
>>241-242 富士門流の連中の悪癖。遺文などをダラダラ
書いて満足する。そんなものここで真剣に読む人間なんていないのに。
>>249 それは、もう逆に解り過ぎていることだ。
教えたつもりかね。
富士門流の連中は「教学」を学問だと思い込んで、
学問(教相学・文献学)を全く知らない人間が多い。
日蓮聖人の遺文程度しか、知らない者に、「大乗非仏説論」
の考究は不能であろう。
仮に大乗を発展した仏教の延長と認めるにしても、五時八教説は特定宗派内でのみ通じる信仰その1にすぎない。なぜ彼らは教義の内容で勝負せず、五時八教説による法華最勝信仰の主張しかやらないのでしょう?
255 :
紅卍界と仏教との関係は¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥:2005/03/22(火) 21:23:03 ID:aASaTKL0
紅卍界と仏教の関係は?
256 :
ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/23(水) 01:01:15 ID:da4NCmsd
やれやれ、ここではもったいぶって、誰も大乗非仏説を説くやつはいないな。
確かに、経典を読んだ人間にしかわからないことではある。
257 :
暇人:2005/03/23(水) 07:48:27 ID:P+dhkRjn
>>253 てか現代的水準でいうならば「大乗非仏説論」ではなく、阿含・パーリ含めた
すべてが、釈尊の直説ではなく、弟子から見た師の教説なのだけどね。
「大乗非仏説論」が注目されたのは、明治時代ですね。
いまさら・・・。
258 :
名無しさん@3周年:2005/03/23(水) 08:46:03 ID:+TUGLPJy
>>254 まったくそのとおり。
但し、それを言ったら、天台宗と日蓮宗(どちらかといえば後者)
は潰れる。爾前経なんていうのは真っ赤な嘘で、密教経典がずっと
後に成立している。今更馬を牛に乗り換えることは出来ないのだろう。
たまたまかもしれないが、法華経が世界一信仰され続けているのは
日本であるため、日蓮の「教機時国抄」あたりを持ち出して来て、
ホラ、このとおり当たっているでしょう、とやるのが精一杯なのだろう。
日蓮宗は別に潰れんだろ
なんとなれば彼らは文献学を認めていて、自分達もそれに荷担しているから
日蓮正宗は知らんけどな
260 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/03/23(水) 22:46:43 ID:3Y7ZmdV6
>>257 そうですね、釈尊の金言など特定できるはずもないのはもう常識でしょう。
どんな文献であれその文献自体が伝えている「内容」の吟味が重要と考えます。
でもその「内容」の吟味にはかなりの先入観・偏見が先だっていますので、
なるべく客観的に見ようと努力して、その内容を吟味して納得できたものが
その人にとっての仏教・如是我聞になって来るんでしょうね。
上座部がパーリ三蔵を奉じ、浄土や真宗が浄土三部経を奉じ、天台・日蓮・禅宗
などが法華経を奉じ、等々だからといって、それらを鵜呑みにするのではなく、
なるべく偏見を排除して自分の目で文献の内容を吟味検討する作業が重要でしょう。
深遠な仏教ワールドに出会ったよろこびはこういう部分にもあるかと考えてますね。
261 :
ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/23(水) 23:51:31 ID:da4NCmsd
しかし、阿含経と法華経を同列にするなんて、気でも違ったのかね。
阿含経は、日本ではあまり人気が無いので、本もあまりでていないし、
出ているかと思えば、ばか高いし。
そこら辺の仏教入門書で、四諦、八正道を学び、これが釈尊の教えだと
わかれば、法華経など、世迷いごとに思えてくるね。
262 :
けちゃっぷ:2005/03/24(木) 00:16:06 ID:codsW289
法華は、単に「仏教万歳」「仏教徒万歳」「仏教徒であることはすばらしい」ということを大げさに表現してるだけのお経です。三宝帰依、『ブッダ最後の旅』に説かれる〈法の鏡〉の教えのデラックス版です。
263 :
けちゃっぷ:2005/03/24(木) 00:20:46 ID:codsW289
法華を〈法の鏡〉の教えだと考えれば、ある意味すべての仏教を統べる教えではあります。
そうかな?他の法華経に書いてあること自体、対異教徒というよりも他の仏教セクトに対して
自分たちこそ正しい教えであるという挑戦的な教えではないかね?
265 :
名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 09:03:54 ID:6R8olIUJ
一念三千は法華経の独壇場・・・でもないか。
真言宗でも持ち出すけど、やはり出所は天台大師(又はその弟子説あり)でしょう?
仏陀の悟りは一念三千だっていう教えを盛んに説くセクトがあるけど、
どう思います???
法華経の中にはこの言葉は全く無くて、華厳経の十界などを交えて、天台大師が
著作で述べているわけですけど、日蓮あたりはそれを飛躍させて、法華経の中に
もともと説かれているものだといっている。
勉強中なもので、ちょっと半端な知識での質問でスミマセン。
何故こんなことにこだわるのかといえば、法華経の価値を”一念三千”に置く
研究者、マジで多いんですよね。一仏乗思想以上に。ご教示を。
266 :
名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 10:24:29 ID:yMaSCXkx
いきなり飛び入りですまんが
仏教は仏陀の教え、もしくは仏陀になるための教えであって
釈尊教じゃないんだから
説いた人間が仏陀であれば釈迦でなくてもいいんでないの??
日蓮さんが仏陀なら、その教えは聞くべきだろうし
法然さんや道元さんが仏陀ならやはりその教えは聞くべきだと思う
如来まではいかなくても声聞や羅漢くらいの境地はあるべさ
つまり大乗非仏説を元に大乗仏典を批判するなら釈迦の教えかではなくて、
書いた人間が仏陀かどうかで決めるべきであって
とどのつまり自分自身が仏陀にならんと真価はわからんと・・・
ブッダになったと知られるのは釈迦族のゴータマ・シッダッタただ一人。
後世の経典を書いたのは名も知られない人たち。
268 :
266:2005/03/24(木) 10:47:22 ID:yMaSCXkx
道元禅師は宗論を嫌っていたそうな
そんなことする暇があったら坐禅しろって
いかにも道元さんらしいことを言っている(正法眼蔵随聞記に載ってる」
今、このスレを見て道元さんの真意が分かった気がするのだが
つまり、まず悟りがないことにはお経の真意は見えないから議論にすらならない
食ったこともないサルの脳みその味を議論するようなもんだ
食った人なら説明できるだろうけど、食ったことない人に説明するのは難しいし
食ったことある人には説明する必要もない
ところで俺は女の味を知らない。だれか説明して。。。ヽ(;´△`)ノ
269 :
266:2005/03/24(木) 10:53:16 ID:yMaSCXkx
>>267 つまり名もなき仏陀が沢山いるのですよ
個人的には最近では横井庄一さんなんか臭いと睨んでる
死んじゃったけど・・・w
あの人は、日本に帰ってこなければ完全なる仏陀としてグァムで涅槃に入ったろうに・・と思う
坊さんだと誰だろうな。。
ちなみに
>仏教は仏陀の教え、もしくは仏陀になるための教えであって
>釈尊教じゃないんだから
「釈尊教となってしまった仏教」を指して、電波男さんは「小乗」
だと定義付けしてましたね。
対して「皆で仏陀になるための教え」であれば、「大乗」だ、という
ことでした。
(極めて大雑把に)
この定義付けならすんなり受け入れられるんですが。。。
>説いた人間が仏陀であれば釈迦でなくてもいいんでないの??
我々凡夫には説いた人間が仏陀かどうか判別できませんよねぇ。
池○○作や桐山○○が仏陀でない事だけは確信もって言えますけど。
>日蓮さんが仏陀なら、その教えは聞くべきだろうし
>法然さんや道元さんが仏陀ならやはりその教えは聞くべきだと思う
>如来まではいかなくても声聞や羅漢くらいの境地はあるべさ
あっしにゃ判りません。
日蓮さんの教えそのものには聞くべき部分はあると思います。
但し、日蓮さんの教えは日蓮正宗には残ってません。日蓮宗には
残っているでしょうが。
>大乗非仏説を元に大乗仏典を批判するなら釈迦の教えかではなくて
今更な批判ですね>大乗経典批判
つまりこの部分には同感です。
>書いた人間が仏陀かどうかで決めるべきであって
これは判りません。まして古い経典は作成者の名前が判らないものが
多いかと。。。般若経然り法華経然りでして。
ゴータマシッダールタは本当に悟りを得たのか。
確かにある部分では悟ったのかもしれないが、
全てではないのかもしれない。確かに他の人たち
とは思想や哲学が優れていたからただまわりが
そう言う風にまつりあげただけなのかもしれない。
こう書くと仏陀(仏教)を否定しているように思われるかも
しれませんが、私は宗教としての仏教は否定しますが、
ゴータマシッダールタが残したと言われているものや、
それらを発展させた仏典の内容はすばらしいものだと
私は思ってます。ただ、ゴータマシッダールタはあくまで
只の人間で、だけど他の人より頭の回転が異常に速かったり
人の心理を読む事に非常に長けただけの人だった
のではないかと思ってるわけです。
宗教と言う足かせがあるが為にいろんないざこざが
発生してるのであって(これが全ての原因ではないですよ)
ただ単に非常に優れた思想・哲学と思えばいいのでは
ないかと思う今日この頃です。
272 :
266:2005/03/24(木) 11:47:35 ID:yMaSCXkx
>>270さん
丁寧なレスありがとうございます
色々と書きましたが、私の意見としては
大乗仏典の真価は自分自身の工夫弁道の末に解る物であって
釈迦の教えかどうかは歴史家あたりに任せておけばよいのであって
宗教を実践する人間には大して重要ではないということです
その昔、知り合いの臨済宗の和尚が
「僧堂に入る前は公案ができれば、すごい人間になれると思ってた。
僧堂に行って解ったことは公案なんて糞だってことだけだったな
お釈迦様が余計なこと言い出すから、俺の青春は真っ暗だったんだ
ヤツに会ったらぶんなぐってやりたいよ」
とニコニコしながら言ってましたとさ
273 :
名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 12:14:50 ID:TLNHB+qX
夫れ小大定めなし。
一寸の物を
一尺の物に対しては
小と云ひ、
五尺の男に対しては
六尺七尺の男を
大の男と云ふ。
外道の法に対しては
一切の大小の仏教を
皆大乗と云ふ。
「大法東漸通指仏教 以為大法」
等と釈する是なり。
仏教に入ても鹿苑十二年の説、
四阿含経等の一切の小乗経をば、
諸大乗経に対して小乗経と名けたり。
又諸大乗経には
大乗の中にとりて劣る教を小乗と云ふ。
華厳の大乗経に「其余楽小法」と申す文あり。
天台大師はこの小法というは
常の小乗経にはあらず、
十地の大法に対して
十住・十行・十回向の大法を下して
小法と名くと釈し給へり。
又法華経第一の巻方便品に
「若以小乗 化乃至於一人」と申す文あり。
天台・妙楽は
阿含経を小乗と云ふのみにあらず、
華厳経の別教、方等・般若の通別の大乗をも
小乗と定め給ふ。
274 :
名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 12:16:46 ID:TLNHB+qX
又玄義の第一に
「会小帰大是漸頓泯合」と申す釈をば、
智証大師は
初め華厳経より終り般若経にいたるまで
四教・八教の権教・諸大乗経を漸頓と釈す。
泯合とは八教を会して
一大円教に合すとこそことはられて候へ。
又法華経の寿量品に
「楽於小法 徳薄垢重者」と申す文あり。
天台大師は此経文に
小法と云ふは小乗経にもあらず、
又諸大乗経にもあらず、
久遠実成を説かざる
華厳経の円乃至方等・般若・法華経の
迹門十四品の円頓の大法まで
小乗の法なり。
275 :
名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 12:20:11 ID:TLNHB+qX
又華厳経等の諸大乗経の教主の
法身・報身・
毘盧遮那・盧舎那・大日如来等をも
小仏なりと釈し給ふ。
此の心ならば涅槃経・大日経等の
一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経。
八宗の中には倶舎宗・成実宗・律宗を
小乗と云ふのみならず、
華厳宗・法相宗・三論宗・真言宗等の
諸大乗宗を小乗宗として、
唯天台の一宗計り実大乗宗なるべし。
彼彼の大乗宗の所依の経経には絶えて
二乗作仏・久遠実成の
最大の法をとかせ給はず。
譬へば一尺二尺の石を持つ者をば
大力といはず、
一丈二丈の石を持つを
大力と云ふが如し。
華厳経の法界円融四十一位、
般若経の混同無二・十八空、
乾恵地等の十地、
瓔珞経の五十二位、
仁王経の五十一位、
薬師経の十二の大願、
双観経の四十八願、
大日経の真言印契等、
此等は小乗経に対すれば大法・秘法なり。
法華経の二乗作仏・久遠実成に対すれば
小乗の法なり。
一尺二尺を一丈二丈に対するが如し。
276 :
けちゃっぷ:2005/03/24(木) 12:39:16 ID:codsW289
>267 仏教も宗教だということですね。まず釈尊が仏だと信じる。さらに弘法大師も即身成仏したと信じる宗派もあり、日蓮さんを仏だと信じる宗派もあり、善導大師を阿弥陀仏の化身だと信じる宗派もある。
277 :
266:2005/03/24(木) 12:54:36 ID:yMaSCXkx
なるほど。大乗をよく船に例えるけど
乗せられる人数でさらに差別化する考えもあるのか
たしかに、禅宗より浄土・法華の方が沢山乗れそうだ
しかし、沢山乗せられても船頭さんがね〜〜ってこともありそうだが
沢山乗せると変なのも混じるし、舵取りが難しい
戦艦より駆逐艦の方が向いてる任務があるように
相手によって説くべき教えも替えるべきでないの?
大乗非仏論から脱線した書込みがつづいてスマンが・・
そろそろ名無しにもどります
釈尊教かあ。
釈尊自身が自説を述べたわけじゃないって言っているのに
その人を神格化して、だれも成れないと思っている。
境地に関しては、なんら大差ないところまで行けるのに
それとは関係の無いところに価値を見出そうとする。
逆に考えれば、釈尊にも知らない事があるのに。
例えば、釈尊は自転車を発明したわけでもないし
竜樹菩薩のように絶対負けない哲学を生み出した
わけでもなく、
当時にタイムスリップして、円周率を何桁言えるか
勝負をしようといきなり言われても負けるだろうし、
強いて言うのなら、人を渡す能力に長けていた。
悟りを得ても、個性、能力差があるけど
境地については、なんら差が無いと思います。
ということで釈尊は偉大です。
概ね同感です。
大事な事は、その境地に至る事であって、それ以上でもそれ以下でも
ありませんね。
原始経典のどこかに釈尊の台詞で「私と同じ境地に達した者が○○人
居る」とか言われた、とありましたね(経典出典覚えてません。手抜きで
すんません)。
釈尊は間違いなく偉大な方なんでしょう。
が、単に釈尊を崇め奉るだけでは意味がありませんね。
彼をあがめることで悟りを得よう(功徳を得よう)とさせるのは“方便とし
てはあり”なのかもしれませんが、なんか違う気がします。
280 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/03/25(金) 00:43:13 ID:jwe6fleT
釈尊は心の平安に到る道(無執著や中道・八正道)を教えてくれただけでしょう。
それが偉大なんだけど。超能力や神通力などは後世の付けたしでしょうね。
その道を歩むのは自分であって、釈尊と同じ境地に辿りつけるかも自分次第ですね。
「私は道を教えてあげる事はできるけど、そこに行きつくかどうかまでは
私にはわからない」と書いてる経典があったように思います。
で、大乗経典を作った人達は釈尊の説いた道以外にも(例えば念仏)釈尊と同じ様な
境地に到る道はあるんだよ、と主張して経典を製作していったんじゃないかな?
第二回仏典結集(前280年頃)上座部と大衆部が分裂(大衆部には斬新的な部派のめーンバーもいた)。
ここで大乗思想が初めて表面に出てきたのではないかと思います。
282 :
名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 09:45:47 ID:0FT5NCa+
上座仏教は、欲望を捨てて(つまり人間をやめることに近い)解脱する事を目的とし
大乗仏教は大衆の成仏を目的とする点で先ず異なるなどと一般にいいますよね。
確かに上座部では成仏を目的としない。極楽往生なんていうのもない。
但しこの成仏という考えが意外と安直なんです。密教で言う即身成仏とか法華経で言う
一念三千を悟れるようになるとか捕らえどころの無い話になってしまう。
禅あたりはまだしも念仏で果たして釈尊と同じ境地になれるものか否か。
上座は戒の宗教であり大乗は個人の信・不信の世界で迷いが続く宗教といっても
過言ではない気がします。
283 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/03/25(金) 20:37:01 ID:jwe6fleT
これは私の私案ですので根拠薄弱なんですが、浄土教は阿弥陀仏や本願念仏と言う
教え(方便)を通じて「我執のはからい」から解放される事を目指し、実践面では
法蔵菩薩の誓願を自分の生き方の理想とするものだと私は思っています。
もし浄土教も仏教であるならば、実体的に死後に極楽浄土に往生するなんて御伽噺
はその本質ではないでしょう。現世において「我執のはからい」を制御する事に
よって心の平安を目指すならば、その点に於いては無我や無執著によって心の平安
を達成した釈尊の流れを浄土教も受け継いでいると言えるのではないでしょうか?
284 :
名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 22:58:57 ID:0FT5NCa+
>>283 おっしゃることは、何となくわかるけど、
それだけなら、小乗的(敢えてこういう言い方をします)
で、且つ戒すらない消極的な平安で、
小欲知足に甘んじていけばいいという
そういう教えが浄土教みたく聞こえます。
暮らし方や、考え方は個々の自由ですから、
そういう境涯に甘んじていくのも1つの
「平安」の求め方である、とはいえるかも。
285 :
名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 23:14:04 ID:0FT5NCa+
無我や無執着は「心の状態」としては
理想的ですが、在家者が生きることについては
不便極まります。法蔵菩薩の生き方を理想化するのが、
浄土教信者なら、常不軽菩薩の但行礼拝の精神を以っての生き方
を理想化するのが法華経信者のあるべき姿です。
理想は理想であり理想だけでは「絵に描いた餅」です。
乱暴にいえば、大乗の教えはもっとドロ臭くあるべきです。
286 :
名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 23:23:55 ID:cBAnbl26
>>283 もともと親鸞の教えはそうだろう。
涅槃とは法性の都とある。もちろん、形も色もない。観念ですらない。
287 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/03/26(土) 02:10:39 ID:NMR/wzJV
>>285 私もあなたのおっしゃることは、何となくわかる(笑)。
もっとドロ臭くと言うのもよくわかる気がしますよ。
ま、私はこのような言説空間ではまず理想を語るべきではないかと思う次第です。
私も実際に対面していれば、事情が把握できたりしますので、そんな法蔵の誓願を
理想とするとか、不軽の生き方を理想とするなんて堅苦しい事はあまり言わないと
思うんですが。筏の比喩にもありますが、教えは方便だと思いますので、一つの
方便にこだわる事無く、涅槃寂静の境地(自他共に平安な心の状態)に到る手段は
各自色々と試してみてはどうでしょうか?少欲知足が合う人も、念仏が合う人も、
サマタ・ヴィパサナが合う人も、只管打坐が合う人も、唱題目が合う人も、三密加持
が合う人も、もっとドロ臭い感じのやり方が合う人も、涅槃と言う方向に向いている
のならみんなそれぞれ尊い行者だと思いますよ。
288 :
ニュータイプ:2005/03/26(土) 02:20:50 ID:JzaJ3IJm
釈迦は「私を拝んではならない」と言ったが、多くのひとが拝んでいる。
そもそも、この世の悩みや苦痛を解決するための方法であったのに、後に神がかり的な教えに変えられている。
あまりに道がそれ、宗教と化してしまった。
それが、THE 仏教である。
しかし、『ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)』では、仏・仏弟子・大王の遺骨をまつったストゥーパ(仏塔)を拝むと心が浄くなるというのが説かれています。
290 :
ニュータイプ:2005/03/26(土) 11:29:10 ID:JzaJ3IJm
だ・か・ら、後に祭り上げられてワッショイワッショイされたのである。
仏説○○とは書いてあっても、釈迦が実際に言ってないものの方が多いのである。
それが、THE 仏教である。
>290 パーリ語原典から翻訳された『ブッダ最後の旅』が仏説でないとしたら、いったいどうやって仏説と仏説でないものを見分けるのですか?「そんなことブッダが言うわけない」という主観で判断するの?
292 :
ニュータイプ:2005/03/26(土) 13:18:22 ID:JzaJ3IJm
シャカは人間として生まれ、人間のまま死にました。
人間としては、類まれなる偉人である。
それを超越的存在、時空をこえ、神を超えてるかのような描写、これがワッショイである。
それが、THE 仏教である。
>292 釈尊との死別を惜しんで会いたいという弟子に対して、「こんな老いた私の姿を見てどうする?法を見る者が私を見るのだ」と言いました。永遠普遍的な真理を仏とみる法身仏の思想の芽がすでにあります。
294 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/03/26(土) 13:32:29 ID:ttDntQHB
>>289 >しかし、『ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)』では、仏・仏弟子・大王の遺骨をまつったストゥーパ(仏塔)を拝むと心が浄くなるというのが説かれています
それはどのような人に対して説かれていますか?
心が浄くなってどうなるのですか?
何のために説かれましたか?
釈尊が、そのようにすることを禁止した人たちもいましたね。
どのような文脈で説かれましか?
最低、以上のことを考えないと、詭弁へと導かれますよ。
295 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/03/26(土) 13:35:24 ID:vkc1CU6f
>>291 パーリ聖典が釈尊の直説だと言うのは誤解です。
釈尊直説の経典など特定できません。
釈尊の教えの中核であろうと思われる思想を文献から追求し、
自分で納得しそれを自分の生き方に反映させる事は可能です。
原始仏教スレも参考にして下さい。
私が死んでも法は滅びないから、法を私だと思いなさい→これが転じて、久遠の釈迦仏を説く法華経に受け継がれていく。「法が滅びないから私も滅びないよ、安心しなさい」という励ましの方向性は同じです。
>294 修行完成者の遺体の処理法について尋ねたアーナンダに対しての回答です。帝王の遺体を処理するやり方で処理し、帝王と同じようにストゥーパを造るようにと。ストゥーパ文化はすでにあったのでしょう。
298 :
名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 13:50:53 ID:ugLQ/U4A
299 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/03/26(土) 13:51:33 ID:ttDntQHB
>>297 けっちゃっぷさんでしたか。
当該部分をよく読んで真意をつかむようにしてください。
出家に対しては遺骨崇拝にかかわるなと釘をさしています。このことの意味を考えるべきでしょう。
そして、法身に関してですが、ここで読み取るのは早すぎますよ。
300 :
けちゃっぷ:2005/03/26(土) 13:53:03 ID:bJ93ufsd
>294 修行完成者のストゥーパであると思って多くの人は心が浄まると説かれ、「かれらはそこで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の世界に生まれる。」とあります。
301 :
けちゃっぷ:2005/03/26(土) 13:57:50 ID:bJ93ufsd
>299 「人々がかれらのストゥーパをつくってこれを拝むべきである。」…とありますね。この「人々」とは在家信者を差す、という解釈でいいのでしょうか?
302 :
名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 19:21:34 ID:+P/lHvnr
>>284-285 ですが、ベロさんの幅を持った考え方には
それなりに好感を持っています。感想まで。
歴史上のニルマナ・カーヤとしてのゴータマにだけ焦点を当てずに、
過去・現在・未来を含む壮大なスパンで、時空を超えた「目覚めた者」
としてのブッダを捉える視点も必要でしょう。
A.デーバダッタが釈尊を仏陀と承認しなかった理由は
どこで知る事が出来ますか?
B.結集にやってこなかった阿羅漢達の理由は?
または、それらの者は弟子を育成したか?
C.大乗経典が結集してからの正統派の仏教徒とは全く別に
成立したのか?
ヒントが説かれているものがあれば、教えて下さい。
305 :
名無しさん@3周年:2005/03/31(木) 00:39:44 ID:thfIwDkS
そういえば、釈尊は後継者を指名しなかったはずだが、いつから師と弟子ができたのだろう。
でも、釈尊が生きてる時は弟子同士は「友よ」と呼びあって対等な仲間だったのを、自分が死んだ後は後輩の弟子が先輩の弟子を尊ぶようにしなさいと、遺言されてます。てことは長老がリーダーになりますね。
307 :
名無しさん@3周年:2005/04/04(月) 23:33:49 ID:15NR+dWt
南伝仏教では長老と呼んでいるけど日本でいう師とはニュアンスがちがうぬね
308 :
ベロ ◆eOod7XM/js :2005/04/04(月) 23:49:24 ID:bGRsmBWL
曖昧ですが、確かタイのサンガでは出家歴10年以上で長老と呼ばれたと思います。
日本でも南都の仏教では管長や管主を退いた方を長老と呼んでいたと思います。
309 :
名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 22:06:29 ID:tHqcrDXI
>時空を超えた「目覚めた者」としてのブッダ
それは、妄想でしょう。
「目覚めた者」が死後、存在するかしないかは、無記ですね。
無意味なことです。
310 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 07:36:42 ID:cl3H/lTv
大乗仏教が無名の仏によって説かれたと言うのはどうでしょうか
311 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 13:40:23 ID:GJUk0W/J
>>310 おっしゃりたい事は解ります。
でもね、そういう事を言うと「何とかの科学」の教祖
みたいに自分が仏陀だ、みたいなのがうじゃうじゃ出てくる。世の常です。
確かに、教えを書けるのは仏陀のような澄んだ人々だったとは思いますが。
312 :
名無しさん@3周年:2005/04/18(月) 21:48:24 ID:Bm4W6Gxu
真如苑の教えは 「実践の教え」です。
「実践」とは「教団への金人労力の提供」です。
教義は非仏教です。
サリンは撒きませんが 体質はオウムと酷似です。
>892仏の慈悲は、自分を知り自分の道を切り開く者が迷った時や行き詰まった時に与えられるものだろう。
残念ながら、違います。
仏の慈悲とは 釈迦が縁起の法を 死ぬまで世間に無償で説いた。その行為のこと。
仏教は衆生を救う教えではありません。 誰かが苦を抜いてくれるわけでもない。
ただ「苦を除く知恵」を与えるだけです。
ではその「知恵」とは何か?
それは「〜を信じて献金すれば救われる」などという『妄想』から解脱して在りのままを見て
原因(因縁)を 自力で探して解決してゆきなさいというものです。 誰かが苦を抜いてくれるわけではない。
真如苑の皆さん、カルトを学び、騙される因縁を消去しましょう。
別スレで書いたやつなんですが。
私の認識だと大乗仏典をはじめ諸仏典は釈迦がまったく
ゼロから考え出したものではなく、人間という生き物が
生まれてきてから在る人としてのありかたを説明した
ものだと思っています。
例えば法華経に書かれている「久遠実成の仏」はそういう意味
なのかなと。釈迦は作者(実際に本人は書いてませんが)では
なく、説明者であると考えています。
314 :
名無しさん@3周年:2005/04/23(土) 15:11:19 ID:p8dByxIn
わたしが思うに、大乗仏教は、釈尊の仏教の真髄を「理解できなかった」やつらが、
自分たちの「低級な考え」を、述べたものだと思います。
315 :
独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/05/02(月) 22:41:11 ID:su/o2+Hw
これもあげておきます
316 :
名無しさん@3周年:2005/05/03(火) 21:21:39 ID:lltJ1glE
名も無き仏は、経典をでっちあげてもいいのでしょうか
317 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 09:11:11 ID:kZNgA+Vv
大乗経典を捏造したヤツは、
釈迦の様には悟ってないと
思います。
大乗涅槃経の仏性の説明など、
言い訳の様にしか思えません。
318 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 09:50:20 ID:OOKot6+7
子供の頃、手塚治虫先生のブラックジャックが好きでした。
ところで私はまだ読んでないのですが
最近、いろんな漫画家がブラックジャックを主人公に漫画をかいた本があるそうですね。
この新しいブラックジャックは偽者だと一蹴していいものでしょうか?
たしかに手塚先生が描いたものでなければ偽者だと言ってもいいのですが
手塚先生の精神とブラックジャックのキャラを引き継いでいれば
本物だと言ってもいい気もします。
見極めるのはあくまで読者だと思うわけです。
仏典に関しても、仏陀の智慧と悟りを引き継いでいれば
本物だと言って良いと思います。
見極めるのはあくまで読者だと思うわけです。
もちろん、歴史学上、文献学上の問題ではなく、
あくまで仏教としては・・という話ですがね。
319 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 10:20:31 ID:OOKot6+7
釈迦と同時代に生きた大思想家としてソクラテスや孔子がいますが
この2人は、後世に相当な批判も受けつつ発展もしてきました。
そして今なお、親しまれてる古典であります。
1人釈迦だけが無批判で後世に伝わるはずがないと思います。
釈迦の思想もまた相応に批判を受け発展すべきものだったと思います。
その成果が大乗仏典ではないでしょうか?
お釈迦様だって人間です。それも古代人です。
例えば、ガリレオは偉大な科学者ですが
現在の高校の物理の試験を受けさせたらきっと赤点をとるでしょう。
人類は発展しつづけてるわけですから、
当然仏教も発展しつづけなければならないはずです。
320 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 15:25:14 ID:I4lIm+sm
数多くの大乗仏典が書かれたからこそ、原始仏教も釈迦への原点回帰
として注目されるようになったのだと思う。大乗の登場なく、少数の
出家者を対象とした、教理的にも地理的にも制約を受けた原始仏教が、
ましてや、当の発祥地であるインドで滅び去った教えが、後世にまで
語り継がれるということは、可能性としては極めて低いようにも思え
る。小乗(実はこの貶称は好きではないが)と大乗との間に、決定的
な断裂があるとは思えない。両者を個別的に捉えるのは愚かしいこと
だし、不可能と言ってもいいだろう。仏教的には不一不異だから、大
乗非仏説論は極端論、断見である。
321 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 21:10:44 ID:B8UdxboY
大乗非仏説のなかの仏と
書かれた部分だけで、
既に大乗側と非大乗で
意見が異なる。
仏とは、釈迦のことなのだが。
それ以外の仏が発展した教えを
説いている様には思えない。
322 :
名無しさん@3周年:2005/05/04(水) 23:29:56 ID:H29Sh0p4
>>319 着眼点が面白いですね。
苦を滅する思想としての初期仏教を、哲学や宗教として発展させたことが後生の成果と言えば成果なのかも知れません。
ただ、科学と異なる点として、これらは必ずしも事実の組み合わせとしてのみ発展してきたとは限らないことが挙げられるように思います。
時代が下るほど本来の思想から離れていく可能性があります。
ガリレオは現代の物理の試験を納得して、その発展ぶりを喜んでくれそうな気がしますが、
釈尊は日本の大乗仏教の姿を見て、果たしてどう思うでしょう。
323 :
アンギラス:2005/05/04(水) 23:40:35 ID:+z4GL52d
>大乗非仏説論は極端論、断見である。
これこそが断見なのだが。
「大乗」と称した時点で、すでに終わっている。
324 :
アンギラス:2005/05/05(木) 20:16:09 ID:yCLw9GKY
今日の仏教の発展したところとは、何を指していっているのでしょうか?
釈尊の教えは、四諦、八正道でしょう。
この四諦の教えを、エセ仏教の氾濫している日本で見つけ出すのは、
大変苦労しました。
>>322 あなたの言うことに同意しますが、
>>319の言っていることにも一理あると思います。
全てが変化するのなら、仏教自体が変化するのもしょうがないのではないでしょうか。
ただ、今の日本のカルトと呼ばれる団体の教えには首を傾げざるを得ませんけど。
話は変わってNHKの「文明の道 ガンダーラ 仏教飛翔の地」をご覧になったことがありますか?
大乗仏教成立のために、殺生を生業とする人やお金持ちを取り込むために教えを変えたとか。
これも一説に過ぎないと思いますが。
326 :
名無しさん@3周年:2005/05/15(日) 20:44:22 ID:JVsgvpCg
>>325 すべてが変化する、、という場合のすべて(一切)とは、
経典によれば、法は含まれません。
法は変化しない。
>>318-319 作者と読者の関係って、現代哲学ではかなり重要な問題点ですよね。
あなたのような方は未来の仏教学の希望の星です。
ぜひ、ぜひ、ぜひともあなた自身の問題を突き詰めていってください。
329 :
アンギラス:2005/05/16(月) 23:27:25 ID:FxzNIee7
>>327 厳密に考えると、全体を見失うおそれがあります。
仏法とは、縁起の法、でよろしいでしょうか。
330 :
アンギラス:2005/05/24(火) 21:05:30 ID:ziwcDsf2
大乗と小乗という分け方に問題がある
test
333 :
名無しさん@3周年:2005/07/02(土) 21:21:56 ID:UfWE+L/5
小乗は心が狭い
心が狭いのを小乗と言うのであって、小乗という仏法があるわけではない。心の狭い仏法者は誰でも小乗である。
335 :
名無しさん@3周年:2005/07/03(日) 09:02:44 ID:vE9CVD+m
>「心が狭いのを小乗と言う」
微妙な発言だな。
小乗と発言するやつも、こころが狭い。。。のでは?
>小乗と発言するやつも、こころが狭い
なぜ?
337 :
名無しさん@3周年:2005/07/05(火) 19:43:41 ID:vdaW1MnQ
大きいとか小さいと考えている
から。
大きいとか小さいとかと言うのとは
別な話しでしょう。
338 :
乙:2005/07/11(月) 02:20:56 ID:GA4judpX
四諦の構造によって人の苦しみや悩みをどうやって解決すればいいんだろうか?
みんなどう思う???
339 :
乙:2005/07/11(月) 03:19:24 ID:GA4judpX
四諦の構造について教えてほしいです!!苦しみや悩みを四諦の構造
を使ったらどうやって解決できるのだろうか??みんなの意見が
ききたい!!
340 :
名無しさん@3周年:2005/07/11(月) 12:51:56 ID:nJnhK9EN
>>338-339 こだわるな。
こだわるから苦しむ。
こだわらければ苦しむことなどない。
341 :
乙:2005/07/11(月) 17:09:50 ID:GA4judpX
340さんありがとう。できれば詳しく教えてほしい!
342 :
340:2005/07/11(月) 23:40:49 ID:OC33hmZS
四諦八正道の解説なら、ネットで検索すれば、
いくらでもでてくると思いますが。
しかし、それだけでは苦しみが
無くならない、というわけですね。
例えば一切行苦とは、諸行無常であるのに、
人は安定をのぞむ。しかし、変わらない
ものはないのだから、人生は安定しない。
安定をのぞんでも得られないから苦しむ。
だから、安定はのぞむな、という。
だけど、それでは納得できないのですね?
343 :
乙:2005/07/12(火) 00:19:16 ID:BIAg2Nnw
340さんありがとう!
ただ単に〜だっていうのではなっとくいかないんですよ↓
ネットで調べても悩みを取り除くやり方がかいてないんですよね。
できれば四諦の構造使って悩みの例をだしてどうすればいいか
教えてほしいです。お願いします!
344 :
340:2005/07/12(火) 01:17:07 ID:g9MXuQDR
>悩みを取り除くやり方
ポイントは、自分で気がつくしかないのですが。
四諦、八正道と並び称されますが、まず、八正道は実践されましたか?
全部とはいわず、すこしでも心がけることが大事です。
たとえば、瞑想、、わたしはこれが一番大事だと観じています。
先生方に怒られそうですが。
瞑想は、こころを落ち着け、智慧が湧くようになります。
智慧がわけば、苦しみは解決できますね。
345 :
340:2005/07/12(火) 01:20:31 ID:g9MXuQDR
釈尊の教えを、ひとことで表せば「こだわるな」ということになるでしょう。
補足するなら、さらに「中道」を付け加えましょう。
「こだわるな」
そして「こだわるな」ということにも「こだわるな」->中道
そして「こだわるな」ということにも「こだわるな」
↑
アホ
347 :
名無しさん@3周年:2005/07/12(火) 03:52:52 ID:RRyQaubT
>「こだわるな」ということにも「こだわるな」->中道
なんて言って勝手なことばかりやってるからダメなんだ
「こだわるな」と言われたらとことんその通りやってみる
348 :
名無しさん@3周年:2005/08/08(月) 01:16:37 ID:AFaaplb9
349 :
名無しさん@3周年:2005/08/18(木) 05:20:42 ID:Qm+P+D3m
其人天小乗の教、四阿含等の如きは、其間だ或は一二、真に仏の金口に出たる者も
あるべきか。凡そ諸大乗経は、皆是後人の仮託なること、疑ふべきもの無し。
-服部天游・赤裸々
350 :
名無しさん@3周年:2005/08/19(金) 10:18:34 ID:739dfCMc
>仏教解体講座
グループの説明:6年前、現代思想家であり弁護士の山根二郎が書き下ろした大著「仏教解体」は、
初めての本格的かつ根底から仏教という闇のの本質を解明したことで、衝撃を与えたが、
いまその衝撃波は静かに世界に波及しつつある。 日本が近代国家として再脱皮するには、
どうしてもこの色即是空の呪縛から自由にならなければならないが、日本社会の現実はさらに閉ざされてゆくばかりではないか。
眼から鱗を落とした志ある人だけでいい、ここに集え。深く思考し、行動せよ。
[email protected]
超亀だけど、
>>アンギラスは揚げ足取り。
揚げ足取り?
アンギラスのハンドルでは、揚げ足取りをした覚えはありませんが?
何のはなしでしょうかね。
日本の大乗仏教をすべて否定して、釈尊の真意を探れば、
おどろくべき真理を発見するでしょう。
354 :
名無しさん@3周年:2005/09/09(金) 00:01:45 ID:4YCUPosz
ああ、ばかばかしい。
ふつーに仏教史を学べば、大乗なんぞ、仏教のうちにはいらんことは自明だろう。
日本の仏教とやらを信心する価値などなし。
仏教は宗教などではなく、実践哲学である。
仏教を理解することが、すなわち悟りである。
つまらぬいいあらそいは、いますぐやめよ。
仏教史は実践と関係ないから。
356 :
アンギラス:2005/09/18(日) 10:20:53 ID:pdb/a7Vl
>>354 ここでは、言い争いなぞ、してませんよ。
>ふつーに仏教史を学べば、大乗なんぞ、仏教のうちにはいらんことは自明だろう。
そうですね。自明だと私も思います。
ところが、おおくの人には通用しないようですよ。
とくに、信仰している人や洗脳されている人には、、
>>355 いろいろな解釈の可能な発言ですね。
357 :
名無しさん@3周年:2005/10/16(日) 21:38:17 ID:DzYWKXFd
大乗が時代の要請で出来たというのならば、
小乗(仏陀が語った言葉そのもの)こそ、
現代が再び要請している教えではないだろうか。
358 :
名無しさん@3周年:2005/10/16(日) 22:39:45 ID:sqtw4ETz
>>357 だれが要請しているのでしょうか?
小乗といわれるのは『仏陀が語った言葉そのもの』でないことは明らかです。
359 :
暇人:2005/10/16(日) 22:46:04 ID:BTayYYSx
>>354 何を基準にするかではない?
あなたの基準(何か知らんが)では大乗は仏教ではない。
だが、世界的には大乗は仏教と認められている。
>>357他
『小乗』という語は世界仏教者会議で南伝仏教より大乗側の一方的な蔑称
との指摘があり 使用を控えるようになっていますね。
360 :
名無しさん@3周年:2005/10/16(日) 23:12:40 ID:KQsOkYBO
大乗・小乗って単語を使うと、定義付け論争が勃発するから
使わない方がいいかもですね。
ちなみに「小乗」については、
>>359の暇人さんの意見が正しいかも。
361 :
名無しさん@3周年:2005/10/17(月) 14:57:01 ID:Oj1D1L8k
部派の最大の著作である阿毘達磨倶舎論が大乗の祖ヴァスバンドゥによってあらわされて
いることからも、部派と大乗とには連続性が存在するといえる。
362 :
名無しさん@3周年:2005/10/17(月) 16:50:27 ID:9oWxeWZ5
あんまり公には語られてないけど、その可能性はあるかもしれませんね
>部派から大乗教団が生まれた
ただしこれをおおっぴらに言われしまうと、カルト教団等今まで
散々自派の優越を主張してきたところは、チャブ台返し食らうこと
になるので、言って欲しくないってのが本音でしょうなぁ。
余談になるけど。
般若経以降のいわゆる大乗経典を奉じる教団にとって、故平川
博士の仏塔教団起源説は非常にありがたい学説だった筈。
信徒の熱狂を集めるには実に都合が良い伝説でしたしね(その実学術
権威にのっとった神話に過ぎないわけだが)。
あの説を聞いたカルト信徒らは感激して「我らこそ正しく釈尊の真の
後継者なり!」とか思ったでしょうなぁ。
まぁ最早アレもすがりつくには古すぎる過去の妄説に過ぎませんがね。
363 :
名無しさん@3周年:2005/10/18(火) 14:44:47 ID:AQIO9wL2
インドに大乗の教団があったとすれば、大乗の律があって中国やチベットに伝わった
はずである。大乗の律なるものが存在しないのであるから、インドには大乗の教団は
なかったであろう。義浄は南海寄帰内法伝に、行われている律は部派所伝の四種で
あり、僧の中で菩薩を信仰している者を大乗と称するに過ぎないと報告している。
大乗の学者たちの大半は世親のように有部などで出家したいわゆる菩薩僧であった。
364 :
名無しさん@3周年:2005/10/19(水) 10:42:20 ID:M80IXTW6
>>363 断定型で書いちゃっていいんすか・・・・・?
>大乗の学者たちの大半は世親のように有部などで出家したいわゆる菩薩僧であった。
いや、多分そんなとこだろうな、とは思うんですよ。
けど、断定するにはちょい早すぎるような希ガス
もう学界では市民権得たんですかね?>大乗有部発祥説
365 :
名無しさん@3周年:2005/10/19(水) 12:43:26 ID:4jVJsHbz
律に大乗も小乗もなんだけどね。
366 :
名無しさん@3周年:2005/10/19(水) 17:54:47 ID:RqCXbS0g
367 :
名無しさん@3周年:2005/10/19(水) 19:20:19 ID:4skunGew
>>366 資料提供ありがとです。
ご提示の本、それは読ませて頂いてます。
ショペン教授のいわゆる「大乗教団辺境部発祥説」ですよね。
それに対する再批判(ってほどでもないけど)って感じで山口組系の袴谷さんが
「仏教教団史論」を刊行されてた筈。こっちが大乗教団有部発祥説になるんかな。
真相がある程度絞り込まれるまではまだ時間がかかるな、とは思ってます。
で、ご指摘の通り経量部がかなりひっかかってるんですよ。
ここのセクトが有部の中では大乗寄り(原理主義)っぽい考えの持ち主だったん
でしょうか?
368 :
名無しさん@3周年:2005/10/19(水) 22:53:43 ID:4jVJsHbz
369 :
ニセ本尊:2005/10/22(土) 08:43:50 ID:VCGia4Nb
>>368 それは、最近来た人には意味不明ですね。
いささか、不親切
また、電波男さんの、膨大な過去ログを読むのは至難の業。
難行道に陥る弊害があります。
>>369 時代は変わるんですね。
2chコテでは哲学板での時間論氏と並ぶ大学者の一人。2chに降臨するには勿体無いお人。
大乗仏教の発祥については4つの側面から切り込んでいます。とくに「経量部=大乗」が彼が
ここで主に説明しており、時期的に世間にその説が広まるよりも以前の話しになります。
また、実際には彼の修士論文が最初というのですから言いだしっぺでしょう。彼の論文盗用
した原*氏の説は2chで暴露されました。
>>370 その時間論氏という方はどこのスレに書かれてますか?
>>371 昔のことで、もうサルベージできません。ログも持っていません。
哲学板でお聞きになられてはどうですか?詳しい人がいるかもです。
373 :
ニセ本尊:2005/10/23(日) 17:36:06 ID:TO6o337I
>>370 最近『電波男』という本が出版されましたが、
もちろん別人です。
>>370 ちょっと調べたら盗用者がまたもや特定出来てしまいました(笑)。
ドロボーリストに加えておきます(笑)。
釈迦の直説=ストレート
上座部仏教=水割り
大乗仏教=酒瓶に入ったジュース
376 :
名無しさん@3周年:2005/11/20(日) 19:07:22 ID:Soqp4MPY
304 名無しさん@3周年 sage 2005/03/27(日) 16:33:33 ID:nTrJYzv0
A.デーバダッタが釈尊を仏陀と承認しなかった理由は
どこで知る事が出来ますか?
B.結集にやってこなかった阿羅漢達の理由は?
または、それらの者は弟子を育成したか?
C.大乗経典が結集してからの正統派の仏教徒とは全く別に
成立したのか?
ヒントが説かれているものがあれば、教えて下さい。
→Aの文を少し変えて「二人の真の対立原因は何だったのか?」
は興味あるなw
保守
お経、特に大乗経典て、今では仏像やらマンダラに向かって唱えてるけど、
成立当初はは大衆に向かって語りべがゼスチャーも豊に語っていたのでは?
と、妄想してみる。
インド法華教徒を正法時代の創価と見れば以外と謎解けそうな件について。
釈迦の人間像については池田大作氏もかなり興味あるらしいな。
もったいないスレだ。
みんなコテハンで語り合える場所がほしい。
382 :
名無しさん@3周年:2005/12/18(日) 11:01:50 ID:FF8HAtpy
釈迦の説いた原始仏教は宗教じゃないからね。
まあ言ってみれば世の中の仕組みに関する教え。
大乗仏教はその教えに乗っ取って構築された宗教ですよ。
つまり、コンピュータで言えば原始仏教はOS、大乗仏教はアプリケーション。
アプリーションの部分は、原理的にはキリスト教やイスラム教でも代替可能。
ただ、現実的には互換性なさ過ぎで無理だろうけどね。
とあるサイトの受け売りでした。
383 :
加護♂ ◆IP8URYGBVY :2005/12/19(月) 08:58:42 ID:4Ttmex1n
>釈迦の説いた原始仏教は宗教じゃないからね
なんとなく19世紀的合理主義の腐臭が・・・。
384 :
名無しさん@3周年:2005/12/21(水) 23:13:22 ID:aBj65dj+
>>382 そういう人がいても不思議ではない。
しかし、何の関心もない人よりはマシでしょう。
>>370 なんで経量部が大乗なん?
その場合の大乗って「教団としての大乗」ってこと?
386 :
名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 17:43:15 ID:kyyLlUho
大乗だろうと初期仏教だろうと、経典は非佛説です。
故に佛説というのです。
金剛経かよw
388 :
名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 18:04:22 ID:X9Gp79m9
何が大乗で何が小乗かという議論は中国で長い間なされた。
有部を小乗とすることでは一致するが、他はいろいろな意見があった。
また中国人が想像したインドの仏教教団事情は事実とおおいに異なっている。
389 :
名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 18:30:44 ID:/MPgoCaf
>また中国人が想像したインドの仏教教団事情は事実とおおいに異なっている。
詳しく
390 :
名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 18:47:57 ID:X9Gp79m9
391 :
名無しさん@3周年:2006/01/07(土) 21:10:29 ID:kyyLlUho
>>390 大乗は、言ってみれば寺の外で誕生したようなものだからね
392 :
名無しさん@3周年:2006/01/10(火) 16:03:19 ID:ZZXCbkKZ
五重唯識観について詳しい方おりませんか?
393 :
名無しさん@3周年:
唯識スレにいきなされ