古来、我が国では「分け入る道は違えども、同じ高嶺の月を見る哉」
という道歌に見られる通り、宗教的普遍主義の芽がございまして。
・・・しかしながら、道がキリストと麻原くらい違うと、
行いにも大分、幅が出てくるようであります。
>>2、
>>3 確かに。現代に下るに従ってだいぶん普遍主義から離れてきてますね。
5 :
名無しさん@1周年:02/07/06 09:28
>>3 万教一致を唱える新興宗教はどうしてもクソになっちゃうんだよね。
クソも味噌も一緒くたにした死後の世界を描かないといけないから。
>>5 万教一致を唱えてる宗教・・・結構あるんですか?
あまり知らないモンで・・・
話し変わりますが前のスレで述べた
『我々は神によって自分が神である事を忘れさせられている神自身である』
という考え方についてはいかがでしょうか?
7 :
名無しさん@1周年:02/07/06 12:38
法の鼻のオヤジが、自分トコの教団を「全ての宗教を
越える超宗だ」って言ってるのを聞いたときはハゲシク
脱力。
8 :
名無しさん@1周年:02/07/06 12:42
宗教嫌いの人はオナニー止めないんれすか?
すれ違いれすた。
10 :
名無しさん@1周年:02/07/06 12:56
>>7 笑。せめて「すべての宗教のいいとこどり」位にしといた方が良かった
ですね。
というか僕は神の色々な面を表現する覚者がいていいとは思いますが、
それにしても、ちと・・・ですよね。
>>8 宗教好きでも止められません。
万教帰一はニュー・エイジ系の第一教義みたいなもんだが。
セーチョーの家も似たようなこと言ってなかったっけ?
13 :
名無しさん@1周年:02/07/06 13:23
>>6 >話し変わりますが前のスレで述べた
>『我々は神によって自分が神である事を忘れさせられている神自身である』
>という考え方についてはいかがでしょうか?
あ、前スレみました。同じ方だったのね。
「○○を忘れた存在」というのは、自分の信じているものと
近いので、共感できる。
人は死ぬ以上は神ではないと思うし、神の定義がまた、この世を作り出し
だした(創造の神)とするなら、やっぱり人は神ではないよなあ・・・
と思ってしまう。
ぶっちゃけ、自分はキリスト教なんですが。
神をどのように定義するかによってくるのかも知れないですね。
追記
人間が「神によって○○を忘れさせられている神自身」
だとしたら、前者の「神」と後者の「神」は別格になりますよね。
このヘンはどうですか?
>>12、
>>13 ありがとうございます。
前からあの長いの読んで頂いてたんですか、大変恐縮です。
ちょっと鉄板は畑違いでさすがにムリかな、と思って
こっちに引っ越して来ました。
どぞ、宜しく。
同じ高嶺の月をみるかな
神道的な考え方なのかな。
神自身、というか、神の一部(わけみたまとかいうやつ?)というか…。
神道だと、そこらへんのありとあらゆるものに神を魅いたすからねぇ…。
でも、神道だと、「神によって○○であることを忘れさせられている」というよりは、
神の分身であることを自ら忘れて(放棄して)しまった、というニュアンスが強いかな。
個々の存在は、神という海に生じる波(=海の一部)である、というのが
私の神に対する感覚なんですが、人は神であることを忘れる、というより
も「必死に神であることを否定しようとしている」のかもしれません。
そして否定しようともがけばもがくほど、その否定が風となって波を高く
する。人が自らも神であることを否定するのは、「自分の外にあって自分
を救ってくれる至高の存在」が欲しいからなのか、人をまとめるのに「神
という支配者」を欲するからか。あるいは、「自らという思い」が吸い込
まれそうになる海の深みに対する畏怖か。いずれにせよ、人は自ら起こし
ている風の冷たさに神を見失っていると言えるような気がします。
神の内に生まれ、神を満たして神の内に還っていく波もまた、神以外の
ものではありえない。しかし、人は自ら高く凍りついた波になることで
神の暖かさと共感を否定しようとしているのかもしれません。神である
人は、その神の温かさと共感から逃れたい(感じないようにしたい)、
という願望を「叶える」する力も持っているのですから。
>>14 神〜高位の霊界にある「多即一、一即多」という法則と「多段階もの自己限定」
という二つの面で理解しています。
高い次元の神、仏はその身そのままの大きさで自分と同じ大きさの魂として
いくつの姿でも存在できる。
仏の仕事が10個あれば10人の前と全く同じ姿で同時に働けるという事です。
そして、そうありながらロゴスとしてのもとの自分の大きさから何段階も
自分を自己限定(つまり次元を一つさげた世界に自分自身を縛る、例えば
六面立方体の体を持っているとするとそのただ一面だけの世界に自分を凝縮する)
をくり返した存在が我々人間だと理解してます。
>>17 自分の考えは神道にも大分影響受けてます。
まさに「わけみたま」。
何段階もの階層構造の一部なのではと思ってます。
>>18 なるほど、ベンキョになります。
自分も海の一滴だった事を早く実感できる様なるために修行したいと思ってます。
というか、やはりこっちは共感できるレスくれる方が多くて嬉しいですね。
他に前スレを読んで頂いた感想、御批判ありましたらなんでもどうぞ。
あと神智学系の人はあまり居ないですか?
23 :
名無しさん@1周年:02/07/06 20:56
ほぜん
24 :
名無しさん@1周年:02/07/07 22:12
しんち学の人は瞑想スレッドにいるよ。
呼んでくれば?
あげときました。
26 :
髑髏仮面 ◆1PfzdK1. :02/07/08 19:24
スレのタイトルである・・・
「全ての宗教は一人の神、一つの真理の表現か? 」
これですね・・・
「茶禅一致」というのが、「茶のことば」として後世に残ってます。
茶道の奥義と禅は一致するという考え方です。
たとえば、剣法は→剣道。これを「剣禅一味」または「剣禅一致」と言います。→山岡鉄舟。
古来、剣と禅は一致すると考えるものです。
つまり、「○○道」というのは究極的には仏教に通じるという考え方ですね。
いかにも日本的です。
中国は、剣法はあっても剣道という概念はないらしいです。
27 :
名無しさん@1周年:02/07/08 19:27
>>21 電波素人の言うことなんて間に受けるなよ。
>>27 いや、僕も素人ですから・・・
いろんな考え方や用語教えてもらえると勉強になって助かるんですよ。
29 :
名無しさん@1周年 :02/07/08 20:35
>>19 くだらねぇ。
1人でいくつも仕事ができる奴は、
一つのことしか出来ない奴より次元が高い だって!
こんな事をいう奴も、信じる奴も差別主義者だ。
こんな事をいう奴は、なんかコンプレックスを持ってんだろうな。
次元という言葉を使いたいんなら、形而上の事で、高いとか、低いとか語れ!
>>29 霊界の特徴として高い霊界になるとそこに存在する霊は魂をいくつもに
わける事ができる、という事です。
なぜブラフマンが一人なのにアートマンが沢山いるのか、という答えに
なると思います。
アートマンが長い進化転生期間ののち色々な経験をして自分に帰ってくれば
その数だけ自分を再創造できるという筋だと考えます。
31 :
名無しさん@1周年:02/07/08 22:50
age
キリスト教やイスラム教は「唯一神」として自分たちの神を信仰しているが、
それらが同じものであるということはありえないと思う。
そもそも教理が全く違うし、その理論で考えれば、アフリカの原住民の信じている
「像」でも何でもいいことになる。
信者たちがお互い違う神を信仰していることが分かっているから、宗教戦争なども起きるんだと思う。
>>32 同じ唯一神を違ったフィルター、つまり違った預言者を通して見た、とは
考えられないでしょうか。
同じ神をあがめている同胞なのにそれを違うと勘違いしていたから
宗教戦争も起きたのかなぁと考えてみたりします。
大きな視点で見ていればもっと平和な世界があるのに、と。
自分にとっての唯一の神を、他人にも無理やり押し付けようとするから争いが起こるわけだな。
35 :
名無しさん@1周年:02/07/09 00:04
それを言っちゃ話がおしまいだよ>34
36 :
名無しさん@1周年:02/07/09 00:12
八百万の神の立場がないようだが。。。。。
37 :
名無しさん@1周年:02/07/09 00:45
なんというか、
教典をファンダメンタリス的に解釈すると、
旧約聖書と新約聖書を同時に信仰する事にもすでに無理がある・・・
と、いうか、
聖書の〜記、〜記の書物ごとに既に矛盾があるような気がする・・・
38 :
名無しさん@1周年:02/07/09 00:55
セム系一神教でも、ユダヤ教は「モーゼの道」、キリスト教は
「イエス(・キリスト)の道」、イスラム教は「モハメッドの道」
って言い方をする場合はあるね。
八百万の神も階層構造の一部、とか。
やまずみのおおかみ
わだつみのおおかみ
それぞれ場所的神として日本のオオナムチのおおかみの一部だったりする、とか。
>>33 それだとフィルターたる預言者がかなり劣悪だったと言わざるを得ないと思う。
ただ一つの絶対の真理をゆがめて伝えてしまったわけだからね。
41 :
名無しさん@1周年:02/07/09 13:33
>>40 >それだとフィルターたる預言者がかなり劣悪だったと言わざるを得ないと思う。
それを、1は見抜いたんだからスゴイと思うよ。
考えようには、1は正しいのかもしれにね。
そこのところを、1はこれから説明していくと思う。
42 :
名無しさん@1周年:02/07/09 14:03
誰か・・・
オアシススレ上げてください。喉が乾いて死にそうです。
グス・・・
43 :
名無しさん@1周年:02/07/09 16:06
>>42 >オアシススレ上げてください。喉が乾いて死にそうです。
あんまりインパクトのあるレスなんで、興奮しちまったのか?(わら
>>40、
>>41 ただ南から見たか、北から見たかみたいなもので
あまりどっちがいいとかこっちが悪いとかいう話ではないんじゃないでしょうかね。
それぞれいい所はある。
俺の宗教の方がいい、と言った時点でもう神から離れつつあるのでは?
45 :
名無しさん@1周年:02/07/10 03:39
むかしからいわれてるでしょ、こんなこと。いまさらねー。
すべては層化ガカーイに吸収されるとおもはれ。
47 :
名無しさん@1周年:02/07/10 04:42
重要なことは、キリスト教には、明確なる「救い」「喜び」「平安」が、永遠のベストセラー
かつ神の言である聖書を通して保証されている、ということです。
48 :
名無しさん@1周年:02/07/10 05:00
保証書期限切れてーるよ
>>48 切れる前に回心しようね。
アインシュタイン、ダンテ、ダ・ヴィンチ、ゲーテ、カント、ミケランジェロ、
ゴッホ、ベートーヴェン、ドストエフスキー、パスカル、シェークスピア、
ワシントン、リンカーン、トルストイ、ガウディ、キルケゴール、ディケンズ、
トーマス・マン、ニュートン、ラスキン、カーライル、ダーウィン、ガリレオ、
コペルニクス、モーツァルト、JFK、
ビル・ゲイツ、マザー・テレサ、キング牧師、コルベ神父、ボンフェッファー
等々…
クリスチャンは圧倒的だ。
50 :
名無しさん@1周年:02/07/10 11:07
ふーん、この中にもいっぱいクリスチャンのふりをしたフリーメーソン・イルミナティの方々がいらっしゃる。
51 :
名無しさん@1周年:02/07/11 01:48
>50
意味不明age
52 :
名無しさん@1周年:02/07/11 01:50
>>50 ビル・ゲイツとかも?
メーソンが多いね。50のリスト。。。
53 :
名無しさん@1周年:02/07/11 01:53
54 :
名無しさん@1周年:02/07/11 22:11
コルベ神父には泣いたね。
55 :
名無しさん@1周年:02/07/16 00:24
56 :
名無しさん@1周年:02/07/18 19:38
age
57 :
名無しさん@1周年:02/07/20 17:13
>>55 人の身代わりになって餓死したんだよね、違った?
こちらは宗教板?
そう、宗教板です。
メーソンはホワイトとブラックに分かれてると聞いたんですがどう結う事でしょう?
フリーメーソンって何してるの?
62 :
名無しさん@1周年:02/07/26 13:17
秘密結社を結成して人類削減化計画を目論んでいる・・・
でいいの?(困
敵はメーソンだけとは、限らない。
神道にもキリスト教信者にもいる。
逆にメーソンにも真のメーソンとして正しく求めている人もいるでしょう。
64 :
名無しさん@1周年:02/07/26 20:59
神は、同じ悟りに異なるアプローチで到達するための、一つの概念。
65 :
名無しさん@1周年:02/07/26 21:49
しかし、
「主イエスを信じる→聖霊がくだる→概念ではなく実体になる」
ということ。
これは経験である。
全ての完成系を知る者で「至上なる叡智」で
全ての創造物の青写真でいいのかな?
それは想像もつかない原初から存在する「叡智」で
すでに存在していた完全なる者・・・
私達や自然や宇宙を含む全ての世界が
「至上なる叡智」に近づこうと・・・
それぞれの理解度に応じて創造物を探求(いろんな手段あり)
することが生きる意味であり真理であると。
こんな感じなのかな〜?
>>62、63、ヘノ君
ホワイトとブラックに分かれてる?って・・・そういう事なんだ。
いいメーソン悪いメーソンいるんですか?
神智学ではいいメーソンだけ話しがあった様な・・・詳細忘れました。
>>64 同感の人いるとほっとします。
>>65 確かに。キリスト教ではそういう形になるんですね。
想念、信念は必ず現実化、物質化する。
自ら信じる神への絶対的な信仰は魔を乗り越える最も強力な最後の武器となると
教わりました。
>>67 まさにそんな感じだと思います。
我々の眼前には至上の栄光に至る無限とも思えるステージがもう既に準備されてます。
1さん、フリーメーソンは悪魔崇拝ですね666で有名ですねでもホワイトは良いらしいです、って言うかフリーメーソンって何?
†イエスのたとえ話。
「仲間を赦さない家来のたとえ」マタイ18:21〜
ある王が家来たちに貸した金を決済しようとした。1万タラント借金している家来がいた。
返済できなかったので主君はこの家来に、自分も妻も子も、持ち物を全部売って返済
するよう命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」
としきりに願った。主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
ところが後日、その家来は、自分に百デナリオン借金している仲間を赦さず、労に入れた。
そのいきさつを知った主君は…。
「あなたがたの一人ひとりが、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
「ぶどう園の労働者のたとえ」マタイ20:1〜
天の国は次のようにたとえられる。ある主人がぶどう園で働く労働者を雇うために
夜明けに出かけて行った。主人は一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に
送った。主人は九時ごろに広場で何もしないで立ってる人々がいたので、「あなた
がたもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金をあげよう」と言った。主人は十二時
頃と三時頃にも出て行き同じようにした。五時頃にも行ってみた。ある人々が「誰も
雇ってくれません」と言った。主人は彼らにも同じように「ぶどう園に行きなさい」
と言った。夕方になって主人は彼らに賃金を払ってやった。すると朝一番から働いた
者が言った。「私たちと、この一時間しか働かなかった者が、同じ金額とは…」
主人は彼に言った。「友よ、私はあなたに不当なことはしていない。あなたは私と
一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後
の者にも同じようにしてやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては
いけないのか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」このように、後にいる者
が先になり、先にいる者が後になる。
「見失った羊のたとえ」ルカ15:3〜
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、
九十九匹を野原に残して、見失った一匹を捜し回らないだろうか。…
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要の
ない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
「放蕩息子のたとえ」ルカ15:11〜
ある人に息子が二人いた。弟が父親に言った。「私が頂くことになっている財産を
ください」それで父親は兄弟に財産を分けてやった。すると弟は財産を持って家を
出て、放蕩の限りを尽くした。何もかも使い果たした時、その地方に飢饉が襲った。
彼は食べることもままならなくなり、豚の世話係になり、飼料で飢えをしのごうと
したが、ダメだった。「父のところには裕福なのに…私はここで飢え死にしそうだ」
彼は父のもとへ帰る決心をした。彼はこう言おうとした。「お父さん、私は天に対して
も、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人にしてください」しかし父親は彼の姿を見るなり感激し、抱きしめ接吻
した。「お父さん、私はもう息子と呼ばれる資格はありません…」ところが憐れに思
った父親は、彼に良い服を着せ、子牛を屠り、祝宴をはじめた。「この息子は死んで
いたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」
ところで、兄は、この大騒ぎに怒って言った。「この通り、私は何年もお父さんに
仕えています。言いつけにそむいたこともありません。それなのに私が友達と宴会
するために、子山羊一匹くれたことはありません。ところが、あなたのあの息子が
娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠って
おやりになる…」
すると父親は言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部
おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなって
いたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
†「イエスの言葉」ルカ14:34〜
「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、
その塩は何によって味がつけられようか。畑にも肥料にも
役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は
聞きなさい。」
107 :名無しさん@1周年 :02/06/10 01:35
悩みがあり、教会に行こうかどうか迷っている方々へ。
不況のみならず、あらゆる意味においてこの艱難時代に、神は「朽ちぬ本当の宝」を
この「2ちゃんねる」をも活用して与えようと御手をのばしておられる。
「健康な者に医者はいらない」と言われる主は、失業、病、心の病にある多くの者に
100兆円以上の価値の宝を与えようとされている。健全な教会の者は、誰もあなたの
ことを穿鑿しないだろう。ここでは社会的立場を超えて同じ兄弟・姉妹なのである。
あなた方は神に大いに愛されている。いつ死ぬかわからぬ全人類における安定した錨。
>>70〜73
同意。神の愛は絶対平等ですね。
僕の中でもイエス・キリストは究極の「場所的個としての覚者」です。
本当に父と一体になっていたのだと思います。
75 :
名無しさん@1周年:02/07/31 04:27
>>74 ちょっと面白いな。
イエスは覚者か。
父=真理ということかな。
「場所的個としての」ってところをもう少し説明願えないだろうか。
>>75 その通りの意味です。イエスは覚者であり父は僕の解釈では一人一人に分けられた父なる神の分霊です。
「場所的個としての覚者」というのは神秘哲学者本山博の同名の著にある用語で哲学者西田幾多郎の影響も受けています。
大体の概念としては、体はこの肉体に制約されているが、その霊的な発達段階が高く、高位の霊的存在との
合一を果たしている者、という事になると思います。
「高位の霊的存在」とは例えば一つには上にも挙げた一人一人に分け与えられた真の自分である内なる神、つまりモナド:超高我
であり、また、ある土地の神つまりその土地に在るあらゆる存在を内側から支え、生かし、それらの存在の原因となっている存在(場所的存在)です。
内なる神と合一できればその声を聞き、導かれる者となり、場所的存在と合一できればその場所の一切の存在を
霊的に自らの内に内包し、それらの存在について内側から覚知でき、それらへの影響力を持つ者となります。
イエスは神のアバターです
>>77 全くそうだと思います。ほぼ99%同意です。
神の全存在性が物質化した存在がイエスだと考えています。
僕の残りの1%は我々人類全員が神のアバターだと考えてる所です。
79 :
名無しさん@1周年:02/07/31 17:10
>>76 如来蔵ですね。
「場所的個としての覚者」が西田哲学のそれなら、覚醒とは仏性の感得ということに
なる。
スレのログからはイエスが「場所的個としての覚者」であることがどうも読みとれないのですが
その根拠をもう少し解説してもらえませんか。
80 :
名無しさん@1周年:02/07/31 17:39
イエスは言われた。
私は彼らすべての上にある光である。
私はすべてである。
すべては私から出た。
そして、すべては私に達した。
(トマス福音)
81 :
名無しさん@1周年:02/07/31 19:28
問題はキリスト教が信徒の自力覚醒を認めていないところだ。
82 :
名無しさん@1周年:02/07/31 19:32
普通、神さまって一柱二柱って数えないか?一人二人っていうのはあんまり聞いた事無いけど。
>>79 イエス・キリストに対する僕の見解を述べる前に、本山博著の「場所的個としての覚者」の序文の一部を
引用します。
『神との存在上、働きの上での一致こそが宗教経験である。
キリストが「我が言う事は我が言うのではなく、我の内にいます神が言われるのである」と言われる時、
キリストは宇宙創造の神との一致の状態ー宗教経験ーにおられたのであり、断食をしているマホメット(ムハンマド)に
神が降臨され啓示をあたえられたのも神との一致の宗教体験であり、仏陀が菩提樹の下で一切の存在を超え、
一切を成り立たせる法、或いは空を体得されたのも、やはり絶対との宗教体験と言えよう。』
84 :
名無しさん@1周年:02/07/31 19:45
わけのわからん文章だな。結局何が言いたいんだろう?
僕も如来蔵思想、本覚思想支持です。
霊的成長の方法論として僕は複数存在して良いと考えていて、極論すれば美、芸術によってでも到達できる道は有るとも考えています。
宗教的には二つの方向性が有ると考えますが、一つは小さな人間存在としての自分の存在性、我を徹底的に否定し、自分の事だけを
考え自分の為だけに有った自分を他の為に生きる自分に立て替える、執着を否定し大乗利他に生きる道です。
自分を空しくして無に近づけば近づく程「全体」として存在する同じ在り方をしている高位の存在と合一できる。
これが仏、菩薩としての霊的成長の筋道、と思います。
もう一つが「全ては一つ」という聖なる真理に従い、世界にある全ての存在を「愛し」
無条件に「受容」し、「許し」ていく道であり、全ての存在性を「絶対肯定」する事により
精神の世界、霊の世界の大きなものとしての存在と合一していく道です。
これが神としての方向性で、例えば或る土地の神、日本の神、地球の神などそこに在る善悪、敵味方のカルマを
超えた全ての存在、物質、植物、動物、霊的存在など全ての存在を背後から内から生かし、支えている場所的存在と合一して行き
神人と成る進化の道です。
これがキリストの歩んだ道、と考えています。
内なる神と合一し、住んでいる場所の神と合一していた「場所的個としての覚者」と考えます。
しかし、彼はワインとパンも愛していた。執着を否定しなくても神の造ったこの世界のあらゆるものを
愛し、神に至ったのだと思っています。
86 :
名無しさん@1周年:02/07/31 20:43
あなたはキリスト教とがキリストになれると?
仏教とが仏陀になれるように。
>>86 同じ精神的、霊的境涯に達すればそれは可能だと僕は思っています。
キリスト教徒はいやがるでしょうが。
それを一番知っていたのは他ならぬキリストなのではなかったかと考えています。
88 :
名無しさん@1周年:02/07/31 21:06
基督は神の完全であるごとく、汝らも完全であれと言われましたが、何か?
89 :
名無しさん@1周年:02/07/31 21:19
90 :
名無しさん@1周年:02/07/31 22:09
キリスト教は如上のようなものにあらず。
主である御子イエス・キリストと繋がり、
互いに愛し合う、それが究極である。
それ以上でもそれ以下でもない。
理屈ではない。
聖霊は、人間の思いもしないことを
語られる、と聖書にあるように、知
ではなく意で内側からつくりかえら
れるべく、へりくだるべし。
「愛がなければ一切は無益なり。」
同意。信仰の力に勝るもの無しかもしれません。
信ずる心、それこそが真理かも。
92 :
名無しさん@1周年:02/07/31 23:47
93 :
名無しさん@1周年:02/07/31 23:56
>>86を肯定する1さんは結局仏教思想でしょう。すべての宗教が行き着くところが一つなんて有り得ません。ところどころ真理がちりばめられてるかもしれませんが。それと「天の寛容さを真似る」なんて言葉もあります。ボサツの道、なんて善意の押し付けです。
94 :
名無しさん@1周年:02/08/01 01:08
愛=†
95 :
名無しさん@1周年:02/08/01 01:49
>>91 陳腐なお話のもって生き方をしないの。
信じる心が真理かも、なんてきれいにまとめてみたところで
仏教側もキリスト教側もなっとくできないっしょ。
>>95 まあ、そうですね。ただ信仰心に関してはこれは重要事項であると考えています。
本山も最後に魔的なものに打ち勝つのは自分の信ずるものを絶対的に信じ切る心だと言います。
その心に信ずる存在は必ず答える。
(僕もキリスト教徒と同様霊的キリストの実在を信じています。)
だからキリストと繋がる事が究極でそれ以上でも以下でもない、と教徒が言えば
ある意味それは真理であり、キリスト教の霊的世界に導かれる道も在るのでしょうから
僕はそれ以上は確かに何も言えない。
僕自身としては何も悟りは仏教徒だけの専売特許ではないし、神に救われるのもキリスト教徒だけ
ではない、と考えていますが。
97 :
名無しさん@1周年:02/08/01 11:11
霊的仏陀も存在するでしょう。
>>97 そう、僕は間違いなく霊的仏陀も存在すると考えています。人間となり死んだ人なら誰でもたとえ転生しても
その霊的本体は霊的世界にやはり相変わらず住しているのですから、肉体に制約されていても
本体はそのまま活動している。
体の方が霊的指導者、或いは奇跡を行うものとなっている場合もあるでしょう。
聖母マリアについては神智学では霊的進化の末に「世界の母」たる任についたと霊視されています。
だから僕はその実在についてもしかしたら教徒の方以上に確信してるかも知れません。
世界中で現れ、その嘆きを伝えて来てもなんら不思議ではないと考えます。
神と繋がるというのは、神と自己はあくまで分離していて、
例えば人間同士が手を繋ぐように、二つの個がたまたま
接触しているということなのか。
それとも神と自己の区別まったくなく不二一体のものとなるのか。
>>99 「大海に溶け込む雨水の一滴」という表現を聞いた事があります。上手い事言い表していると思います。
それまでの川に流れていた時の記憶や下水を通っていた時の記憶をもったまま神に溶け込む。
やはり完全にそれぞれ今までの個としての記憶や性格を有したまま完全に合一するのだと考えます。
自分のやりたい事=神のやりたい事、神の言いたい事=自分の言いたい事、となります。
そしてその神が内に有していた他の存在も全て自分の事の様に分かる。
「自分が神であった事を思い出す」と表現する人もいます。
101 :
名無しさん@1周年:02/08/01 14:53
宗教はただのツール
私も個々の存在は「海に生じた波」のようなもので、「自分が神で
あった事を思い出す」ことができた時に、海に還って行くような気
がしていたのですが、最近はむしろそこから「自分が神を創り出し
ていたのを思い出す」んじゃないかという気がしています。
海に還った波は、そこで海もまた「創り出されている」物であること
に気がつくのでしょう。夢の中の海に生じた波が海に還り、やがて
目が覚めて海自体が夢であったことに気がつくように。
夢の中で見た海や波であったものは、はたして「誰」なのでしょう。
目覚めた者は、神という幻想で神を覆い隠していた主体、そして
「私」があるという夢から覚めることで「誰か」でない神に満た
されるのかもしれません。神を見えなくする一番簡単な方法は、
「神という対象がある」という夢を見る「神である私」を創り出
すことなのですから。
夢の中の神は、「夢の中のすべて」であるがゆえに、その夢を見る
「夢見る神」もまた自らが創り出している「対象」であることを
忘れてしまう。すべてであるもの、一なるものは、それを見る者と
合一しようとすることで、決定的な分裂を引き起こすのでしょう。
>>102 難しい!もう一言下さい。
全ては「無」に帰する、という理解で良いのでしょうか?
それとも「梵」が「我」に一如する事により、自分を小さく限定してしまう、という意味ですか?
104 :
名無しさん@1周年:02/08/01 17:58
仏と衆生、存在と真我の関係も不二不即、不即不離
ならばキリスト教と仏教 違いは無し
105 :
名無しさん@1周年:02/08/02 12:27
626 :名無しさん@1周年 :02/05/08 23:16
キリストが、ただの人間だったなら・・・・
30歳そこそこの元大工、わずか3年の伝道と死刑の生涯でしかない貧しい田舎の
男が、歴史を超えて未だに世界一の有名人であり続ける現実、あるいは
永遠のベストセラー聖書の預言、愛、これらを
どう解せよう?
嘘であるほうが、神がかりの天才詐欺師、そのほうが確率的には限りなくゼロに
近いと思われる。
マザーテレサ、数多の殉教の英雄たち、偉大な指導者・王たち・・・・皆、神とは
言われていない。
627 :名無しさん@1周年 :02/05/08 23:19
599 :名無しさん@1周年 :02/05/08 19:37
聖霊の問題があるので、一般の方には難しいと思われるが、イエス・キリストは、
畢竟、神であろう。
他方、ゴータマ・ブッダは、弟子の次の質問には一切こたえなかった。
「世界は時間的に、有限か無限か」「世界は空間的に、有限か無限か」
「身体と魂は、同じか別か」「如来は、死後にも存続するか、しないか」
ブッダは自身を神であるとは一度も言っていない。まして宗教の教祖などと
は全く言っていない。彼は、無益な議論・争いに満ちた当時の腐敗した世に
善行を奨励した偉人である。後世の人間が彼を神にまつりあげたが、それは
彼の本意ではなかったであろう。
103 :名無しさん@1周年 :02/05/08 23:44
†たとい、山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ何の値打ちもありません。
〜聖書のみことば〜
仏陀もアバターである
つまり真理そのものの化身である
だから自分のことを如来と呼んだのだ
如来(タターガタ)がどういう意味か知っているだろうか?
「真理から来た」ということだ
そして真理へと帰っていった
2500年前インドに王子として生まれ出家した
その80年の生涯だけが仏陀なのではない
仏陀以前にも多くのブッダ(覚者)たちが出現したし
またこれからも出現するであろう
仏陀自身がそう語ったのだ
真理はダルマ、存在、神、タオ、何と呼んでもよい
それは所詮名前の違いに過ぎない
唯一であり究極であるそれそのもののことだ
107 :
名無しさん@1周年:02/08/07 14:24
age
314 :名無しさん@1周年 :02/08/02 19:58
仏教は一元的であって仏=絶対者になることができる。
その手段(行)として善を積んでいく。
・・・行いによって目的を達成する、というのは傲慢であり、差別的であろう。
生まれつき重度の障害者はどうすればいいのか?
畢竟人間=神であるなら絶対者の存在意義は消滅しているという自家撞着。
いずれにせよブッダは神を語っていない。どうどう巡りの学問に過ぎない。
>>唯一であり究極であるそれそのもののことだ
唯一とは何か?
唯一とは、そのようなものではない。
究極とは、かかるものではない。
109 :
名無しさん@1周年:02/08/07 15:58
>>99 買い取られる=神によって死に、神によって生きる=義の奴隷=キリストにおける自由人
=新しく生まれ変わる=聖霊による新生=パラダイムシフト=地上の価値観から天上の=
アガペの愛による満たしの経験=全体の一部=感謝=謙り=祈り=喜び=平安=聖なる安息
行いによって目的を達するなんて傲慢だ。
そんなことを言う奴は仏陀の名を語る詐欺師だ。
生まれつきの重度の障害者はどうすればいいのか?
あるがままでよい。
あなたは気づいていないかもしれないが、あるがままですべてが完成されている。
『あなたは気づいていないかもしれないが、あるがままですべてが完成されている。』
それこそ僕の基本理念です。1からのリンクにも度々書いてるよ。 完璧に同意。
112 :
名無しさん@1周年:02/08/08 15:03
単なる汎神論では当然不完全である。
存在と生命の意義、目的はあるのだ。
「あるがままに」この存在にも意味
がある。つまり植える者も水をやる
者もとるに足りない。成長させる神
のみが重要、ということ。霊と肉体
とは、全体を構成する一つの器官と
してやはり補い合っているが、愛に
よる「原動力」この一点を、人間は
見失いがちである。†の愛は深い。
113 :
名無しさん@1周年:02/08/08 18:49
うえええん
キラ \`'' ー-、 ̄`''ー-、__,,,. ,.-‐ ,,.-―''''"/
キラ \ ヽ、,.‐' / /.
\ / `'く /.
+ ヽシ/ \/
o 。゚.+ 7 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ
。 ○ 。o ゚/ ゚・ 。 ○ ̄ ̄` ´| 丶
o O * i ___, | !
+ ! | / \_ __ _ __ _ _
ヽ |_/ ,ノ `- 、 i
_, -ヾ、 ,メー、 丿
, '" 、`ヽ (ヽ /
/ \ _,- )i /
/ ゝ ' / /
キリスト教には感動しました。。愛があります。。。イエスさま。。。。
114 :
名無しさん@1周年:02/08/08 18:51
>>110 先生!期末テストも、
わたしは気付いていないかも知れないがあるがままなのですか?
要するに、あるがままで良いのですね?
あるがままで良いのですね?
115 :
名無しさん@1周年:02/08/09 01:23
本当にあなたはあるがままの自分を生きているだろうか?
その生が開示するところをあますところなく味わって
もしあなたが、
両親、教師、上司…だれかあなたでない者が描いた生を生きているなら…
もしあなたが、
宗教や哲学書、理論書、マニュアルのたぐいを読んで、真似をしようというなら…
もしあなたが、
あなたの脳内の超自我の支配のままに生きているとしたら…
あなたは本当に自分自身のあるがままを生きていると言えるだろうか?
結局はあなたは他人のプラン、イデオロギー、習慣、シナリオをただ踏襲しているに過ぎない!
誰かがあなたにインプットした生ではなく
あなた自身を生きてごらん?
まるで人類最初の人間のように、この世を渡ってごらん
「先生!どうすればいいでしょうか…?」ではなく
自分の内奥の声を聞いて、自分自身を光としてごらん
…さて、こう私に言われたからといってあなたが
さあその通りにしようというなら、これはあなたのあるがままと言えるだろうか(笑)?
>>112 同意。
>>115 自らの内奥に存在する超自我をとよりとしてそれに導かれる。
自分自身を光とする。うん、まさに。
是非1のスレのリンクに降臨して語って下さいよ。
117 :
名無しさん@1周年:02/08/11 07:45
キリスト教と仏教を論理的に融合してみてくだされ。
118 :
名無しさん@1周年:02/08/11 08:07
>>117 無理だす。
人という存在の位置付けそのものが違うのでは?
神仏の位置付けや如何
120 :
名無しさん@1周年:02/08/11 08:34
キリスト教も結局は友を裏切って殺し、自分が助かる道を選ぶ人間を
作っています。
人は結局、どんな宗教によっても救われない証です。
121 :
名無しさん@1周年:02/08/11 08:48
汝、自らを救え。
宗教は、生命を説き明かす哲学です。全ての法の根底に位置します。正しく展開していくなら、救えない事象はないでしょう。
123 :
名無しさん@1周年:02/08/11 10:01
宗教家は負け犬と言う点では一つの真理を表していますが
124 :
名無しさん@1周年:02/08/11 10:07
125 :
名無しさん@1周年:02/08/12 02:29
キリスト教と仏教も併合できないようじゃ一つの真理も聞いてあきれますなあ。
併合はやめて消せばよい。
どうして、すべて一つのものとわかっているのに、その上わざわざ併合する必要がある?
まるで日本は一つだからと言って、沖縄から北海道まで、県市町村は統合すべきだと言うようなものだ。
富士山は一つだからと言って、すべての登山道を一つにまとめなければと言うようなものだ。
人類はホモサピエンス一種類だからと言って、すべての人間の生き方を一つの型にはめようとするようなものだ。
よく考えてごらん。
一が多であり、多が一であることを。
128 :
名無しさん@1周年:02/08/12 21:43
宗教学では神がひとつの泉から来るものだというのは基本的知識のうちの
1つとされているのだから、何もそれについて話し合う必要はないと思います。
でもどうして話し合いたがるのかを考えると、実際各々宗教上の認知的不調和
から、ひとつどころか分裂を生んでいるからだと思います。そこで無理に「す
べてのものがひとつ」だということで安心したいということもあるだろうと
思います。でも実際はそれは日常生活の上で、自分と異なる経験をもつ他人
といかにして共存するかということと同じだろうと思っています。「みんな
同じか」「みんな異なるのか」。どちらも正しいんでしょうね。
129 :
名無しさん@1周年:02/08/12 22:13
>宗教学では神がひとつの泉から来るものだというのは基本的知識のうちの
>1つとされているのだから、何もそれについて話し合う必要はないと思います。
神道の神々とキリスト教の父なる神が同根と?
もしかしてアフォですか?
130 :
名無しさん@1周年:02/08/13 00:12
>>129 神道とキリスト教の性質には違うものがあります。神道の神々は無為の
まわりを囲んでいるわけです。もしもたくさんある神道の神のうちの1
つが中心に来ようとするとそれは自然に再び周辺に押しやられます。
だから日本には1人の権力者が支配するような構造は生まれません。
ヒトラーのような人物も出てこないんです。中心には無為が存在するか
らです。そこにはどの神も占領できないことになっています。天皇も
自ら物事を決定するようなことはなく、みんなの意見を尊重しながら
自分の意見を述べるわけです。神をめぐる構造が違うだけで、神道の
神がキリスト教の神を否定したことはないんです。
131 :
名無しさん@1周年:02/08/13 01:12
キリスト教の創造主を神と訳したのは誤訳です。
あれは日本の神々とは異質な存在。
単語が同じだけだ。
>神をめぐる構造が違うだけで、
ってのは当たり前。意味ちがうんだから。
>神道の神がキリスト教の神を否定したことはないんです。
否定はしないでしょう。関係ないんだもん。
132 :
名無しさん@1周年:02/08/13 02:55
>>1 >全ての宗教は一人の神、一つの真理の表現か?
決してケチをつけるわけじゃないんだけど、このスレの題名は神を
人間扱いして「一人の神」と言ってますね。これはやばいですよ。
聖書には「神に親しみを感じても神を人間扱いしてはならじ」とか
「神は全てを許す、しかし神は神を冒涜する者を許すまじ」と書いて有ります。
すなわち「神を人間扱いする」あなたは神の怒りを買います。
常識で考えても人間を一匹・二匹と数えたら侮辱ですよね。
神を一人・二人と数えても同じこと。侮辱・冒涜なのです。
多分あなたは地獄行きです。気をつけてください。
133 :
名無しさん@1周年:02/08/13 03:37
>>131 やっぱり神がひとつの泉からでてくることを否定できるものではないでしょ?。
表現や意味が違っているだけで、ひとつの泉からでてくることとは矛盾して
いません。言葉に囚われていれば、やっぱり分裂するに違いありません。
もし神道の神がキリストを否定すれば、日本にキリスト教が入ることを拒否
していただろうと思います。お互いに共存できることを意味しています。
ひとつの泉が自由だから、神の捉え方が違っても自由だしどう表現しようが
自由ということです。やっぱり宗教学のほうが間違ってますかね?。
134 :
名無しさん@1周年:02/08/13 03:39
>>132 質問ですが、神の怒りを買っている人は地球上にどれくらいいる
ものなんでしょうか?。あなたのご家族は大丈夫ですか?
135 :
名無しさん@1周年:02/08/13 03:54
ひとつの泉=人間の盲目的欲望(笑)
136 :
名無しさん@1周年:02/08/13 03:58
137 :
名無しさん@1周年:02/08/13 08:50
>>134 >質問ですが、神の怒りを買っている人は地球上にどれくらいいるものなんでしょうか?。
横レスですが、あなたを含めてたったの50人です。
神の怒りを買っている人間などこの世に一人も居ないな。
神はなんと呼ばれようが怒る事はない。
「D糞」と呼ばれようが怒らない。そんなに小さい存在ではない。
神の名のもとに隣人を拷問でもして殺せば泣いて尻くらい叩くだろう。
いや、それもないかもしれないな。
139 :
名無しさん@1周年:02/08/13 09:43
140 :
名無しさん@1周年:02/08/13 09:49
>>138 つまり、君の言う神ってのは悪魔のことなんだね。納得した。
神を矮小化してしまったのは人間だ。
信仰心、敬う心は大切。しかしそれが過剰なところからこの世の不幸が始まる。
神の名のもとに行われてきた数々の惨劇だ。
それも汎神的世界の神のカルマといえばカルマの一つだが神の本質からは遠い事象だな。
というか自らを神のアバターと知らぬ人間の悲しさだよ。
如来蔵思想、というか全員がもともと神の分身であると知れば神が自分に怒りを持つ事など無いと知るだろう。
誰もそう思っていないからこそこの物質現実世界が成り立っている。
神が自分に命じた一番最初の最も過酷な仕事、それが
「自分が神であった事を忘れろ」だよ。
それが等しく平等に世界にある全ての存在に負わされた。
145 :
名無しさん@1周年:02/08/13 13:27
>>144 1番さんの場合でも、1番さんなりに神に対するスタンスというものが感じ
られます。それを宗教と呼ばなくても、やはりスタンスが見受けられます。
>神が自分に命じた一番最初の最も過酷な仕事、それが
>「自分が神であった事を忘れろ」だよ。
これを聞くと一神教的宗教を信仰している人には、ムッとくるものがある
かもしれないですね。それは言葉の違いだけというより、違うスタンスか
らかかる圧力があるからです。もしもあなたが信仰しない宗教から勧誘を
受けたり、セミナーの参加を呼びかけられたらどうでしょうか?。勧誘す
る側は自分の教えが優れているから善意のもとあなたを誘ってもあなたは
快く引き受けないのではないでしょうか?。それは真実かどうかというこ
とではなくて、どれを信じるかを阻む要素が自動的に含まれるからでもあ
ります。
無神論でも一神教でも宗教を信じても信じなくても、ニヒリズムでも相手
が何を考えようが自由だと思います。
146 :
名無しさん@1周年:02/08/13 15:11
>>143 そうするとヒットラーもスターリンも神の怒りを買うこともなく
天国で幸せに暮らしているってことか。
神の審判もなにもなしか。おまけに侮辱してもどついても神は怒らない
ってんじゃそんな神様いらねえよ。
それよりもだよ。侮辱しても何しても相手が怒らないからいいんだって
ことで言いたい放題してる
>>1って、礼節を知らない無頼漢だな。
147 :
名無しさん@1周年:02/08/13 15:29
怒ったり、罰を与えたり、許可したりするのが人間だ
みな知っている通り、人間はまさに日々これらの行為をする
あなたの両親や恋人、上司がそうするのをあなたも体験しただろう
だから神を人間になぞらえるつもりがないのなら
神はこれらの行為もなさらぬと信じるべきだ
148 :
名無しさん@1周年:02/08/13 15:30
それにしても神は冒涜しようがないものだ
冒涜で損なわれるならそれは神ではないはずだ。
だから神を、罪や冒涜について絶えず目を光らせている白髭の老人のように想像しても
神を冒涜することにはならないかもしれないが
ただ私ならそのように信じる人には丁重に接して
逃げ出してしまうだろう、というだけだ(笑)。
149 :
名無しさん@1周年:02/08/13 15:31
ひとつの泉からわきでるものに
甘い、辛い 良し、悪し 神、悪魔と
よりわけてしまうのが人間だ。人間の分析的なエゴだ。
神がいらっしゃるなら私から分析的なエゴを取り去って欲しい
そしてその泉の味をじかに味あわせて欲しい。全面的にその泉に浴したい。
150 :
名無しさん@1周年:02/08/13 15:58
「神との対話」にハマッちゃったかな?
151 :
名無しさん@1周年:02/08/13 16:27
152 :
名無しさん@1周年:02/08/13 16:36
ヒットラーもスターリンも行くべきところへ行く
何もあなたが心配する事じゃない
すべて自分の行いは自分に還る
あなたの神もそう言わなかったかね?
天国や地獄について心配する必要は無い
それよりも彼らが天国で幸せに暮らすのが我慢ならず
自分こそ天国にふさわしいと考えているなら、そのような自分を心配しなさい
もし万が一あなたが天国行ったときその入り口で
「誰々が天国にいるのは我慢なりません!」とか
「誰々が罰せられないなら神などいりません!」とか不平を申し立てている者で一杯だったら
あなたも天国へ入るのに苦労するだろう。天国の役人も大変だ!
>>147-149,152
禿しく同意。
>>145 ありがと、でも俺は一神教を否定していないよ。まさにこの世には一者しか存在しない。
(詳細は1からのリンク読んでね)
どうしても分からなかったのは苦しんで殺されたりした被害者が地縛霊となって苦しんでしまう事。
人間的な判断からすると真っ先に救われるべき存在のはずだが。神は無情か?
どう説明する?
それを説明できる枠組みは同じく147氏も知っていそうだな。
154 :
名無しさん@1周年:02/08/13 20:11
>>152 はずいぶんトンチンカンなことを言ってるね。
子供のうちは仕方が無いけど、もし二十歳過ぎてたら
やめたほうが良い。
文末に相手を罵る為の捨て台詞があるが、ずいぶんとレベルの低い人だ。
まともに議論できるようになったら戻ってきても良いよ。
155 :
名無しさん@1周年:02/08/13 21:28
>どうしても分からなかったのは苦しんで殺されたりした被害者が地縛霊となって苦しんでしまう事。
>人間的な判断からすると真っ先に救われるべき存在のはずだが。神は無情か?
>どう説明する?
「天は自ら助くる者を助く」
156 :
名無しさん@1周年:02/08/13 21:32
157 :
名無しさん@1周年:02/08/13 22:28
宗教家が負け犬ということは一つの真理
158 :
名無しさん@1周年:02/08/13 23:24
>>157 宗教版お好きのようにお見受けいたしました。
というか心霊主義だよ。もろに。
161 :
名無しさん@1周年:02/08/14 18:24
日本の「カミ(神)」と一神教の「神(主)」は異質なものですよ。
愚かな人にはたくさんの啓示や象徴が必要なんです
キリスト、アッラー、ブッダ、クリシュナ、ケツァルトアコル…
しかし賢者はすべての神々はひとつの神だと知っています
世界中の原始宗教やアニミズムは各自に誕生し、発達したもの。
独自に存在するものをなぜ統合しようとすっかなあ。
統合は無理でしょう。
一つの真理をあらゆる視点で見たものか?という問い。
真理だけは一つだと思う。
165 :
名無しさん@1周年:02/08/16 23:33
>>1 真理は一つ、そのとおりです。
未熟な人類は適切な表現を知らないだけです。
166 :
名無しさん@1周年:02/08/17 01:30
>>1はどういう宗教を作りたいのか、話がはっきりと分からないぞ。
教祖様になりたい奴は大勢居るがいい加減にしておけ。
167 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/17 10:20
>>166 いや、実は俺は宗教なんぞ作りたくないんだな。誤解を与えてスマソ。
1からのリンクというか自説を読んでもらいたいだけの宗教板向けの柔らかいスレタイトルだったのだ。
あんまり哲板でやった様に長い1の文章もちょっとだろうから。
というかあらゆる宗教の背後に一つの真理が在るのではないか?
という問いかけをする事により、より各々自分の宗教の神の実在性が増す、というか。
自分の信ずる宗派の神が「絶対実在する」と思ってる奴はどの位居るのかな?俺は思ってるが。
世界中の原始宗教やアニミズムは各自に誕生し、発達したもの。
どうして各自に誕生しえたのか?
それはやはり一つのものに触れたからでしょう。
一つだからこそあちらこちらで誕生しえた。
発達、深化、表現の変化、方法論の多様化、改革が
それぞれの民族の気質や風土にしたがって起こった。
逆に一つでなければそもそも宗教という同じカテゴリーに
入ることさえ不可能だったはず。
>>167-168 なるほどね。了解した。ある程度同意だ。
たしかイランにバハーイ教というのがある。
あんな感じかな。
171 :
名無しさん@1周年:02/08/17 17:43
どちらにしても、ある宗教は廃れて、ある宗教がまた生まれて…って
感じじゃないの?統一なんてありえないでしょ?
172 :
無無しさん@1周年:02/08/17 18:53
葛藤する人間の集団は、やはり葛藤する。
悩む人間の集団は、やはり悩む。
173 :
名無しさん@151周:02/08/17 19:57
>>1 さん
スタートは一つかも知れませんが、光がプリズムで分かれるがごとく、様々な様相を
取ります。最期には無数の光の組み合わせがあり、無数の教え(宗教)が出来上がります。
それ故、一つの宗教から学べることは、やはり全体の一部です。しかしながら、受け手の人間側にも
その事情はあり、ある人はある光に基づいた宗教を真実と感じるでしょう。
隠れた課題としては何故その人がその光の元にいるかと言う問題です。
限られた人生の枠の中で出会い理解できる光によりその人の伸ばすべき特質
例えばそれは知恵であったり、愛することであったり、不屈の精神を養うことであったりします。
結局のところ統一または合一という問題は
1)全ての転生での個人の光(エネルギーに関する特質)を俯瞰した時、全体の統合性が理解できる。
2)全ての時代性、および地域性の中で光は転生し循環している。時代間の相互性、地位間の光の差と
お互いの相互作用を俯瞰することにより、その地域(時代)における宗教のもつミッションと
全体の統合性が垣間見えます。
一般論ではそうですが、問題は今後どうなるかです。
私は今後長い時間をかけて各宗教がドグマ的な付加部分を取り下げて、少しづつ
本来のミッションに戻るのではないかと思います。
ドグマというものは実は人間の欲が作り出した幻想です。これが一人歩きした為に
本来のエッセンスが忘れ去られるという不幸がありました。
ドグマを取り去った後緩やかな多様性を持った総合大学のような連帯を宗教界が
持つことが出来ればと思います。
学問や哲学は既にドグマの支配を解かれています。宗教の世界のみがドグマによる全体主義と
権威主義により分離された世界にいまだあるのです。
>>173 >それ故、一つの宗教から学べることは、やはり全体の一部です。
>私は今後長い時間をかけて各宗教がドグマ的な付加部分を取り下げて、少しづつ
>本来のミッションに戻るのではないかと思います。
同感。それぞれに少しずつ、というかある割合分ずつ真理が含まれている。
だからあらゆる宗教を覗いてみたいのだけどもそこで真実を選別する目は必要だろうね。
175 :
名無しさん@151周:02/08/18 11:36
>>175 >だからあらゆる宗教を覗いてみたいのだけどもそこで真実を選別する目は必要だろうね。
その通りだと思います。
識別する目は、第一に重要かと思います。
私は以前ファンダメンタリストの教えにかかわってました。
それは、全体としては人間を更に無知に追いやる罠でした。
今思えば腹が立ってきますが、目が曇っている時はそんな門でしょう。(藁
シャヘルさんは一発で神智学にたどり着かれたのでしょうか?
>>175 いや、それはまあ、そんなに多くはないよ。特に内側からは。
神智学もそれで全てとも到達点とも思ってないけれども、ただかなり核心をついている学問とは感じてます。
聖書も昔一冊買ってさらりとしか読んでないし、多分「ファンダメンタリストの教え系」の人と多少交流しただけなんだけれども
逆に他の知識を通して聖書を読むと、ああこんな霊的な意味がある部分だったのかな、という事は有ったけれどもね。
178 :
名無しさん@1周年:02/08/18 19:08
>私は今後長い時間をかけて各宗教がドグマ的な付加部分を取り下げて、少しづつ
>本来のミッションに戻るのではないかと思います。
>ドグマというものは実は人間の欲が作り出した幻想です。これが一人歩きした為に
>本来のエッセンスが忘れ去られるという不幸がありました。
>ドグマを取り去った後緩やかな多様性を持った総合大学のような連帯を宗教界が
>持つことが出来ればと思います。
質問があります。宗教がドグマ主義に陥いるのは経典や聖書に
原因があると思われますか?。付加部分を取り下げるとは具体的にどういう
ことなのか説明をお願いします。
本来のエッセンスとはどういうことですか?。
ドグマが人間の欲求から出てきたということの説明をさらにお願いします。
今の宗教団体が集まってさらに大きな総合大学のような連帯が生まれるとよい
ということでしょうか?。そうする必要があるのでしょうか?。そうすれば
宗教紛争はなくなるとお考えですか?。聖書やバイブルのドグマ的な部分を取り
下げればそれが可能だと思いますか?。
それを決めるのは誰が執り行うとよいとお考えですか?
>>177 情報ありがと。分かった様な分からない様な、だけど。w
180 :
名無しさん@1周年:02/08/18 19:12
>>173 私は、あなたの意見には大反対です。瞑想で光の神秘体験をすればそれが
神で、ドグマの解決につながると安易に考えるところが。
182 :
名無しさん@1周年:02/08/18 21:33
この間 ここに書いたつもりで 他のスレに・・・ 初めてだったもので
そちらには間違いでしたとレスしたのですがどうしましょうσ(^◇^;)
183 :
名無しさん@151周:02/08/18 21:40
あくまでデムパの答えですが
ドグマの付加は教会側に非があると思います。つまり教えること、苦しむ人を支え癒すことへの失敗です。
組織化あるいは封建主義的な信者の囲い込みがそもそも間違いの始まりだと思います。
信者にはジゴクなどの教義による恐怖支配が最も効果的です。
取り下げるとは宗教に学ぶものが、例えばキリスト自身の言葉とあとから付け加えている
僧侶による誤った解釈部分を識別することで可能でしょう。これは内部での自主的な改革であるべきですが。
エッセンスというのは、教えの根底にある世界共通的な普遍部分です。すなわち慈悲に基づく
人間関係、神と人間との関係にたいする見解などでしょう。
ドグマによる汚染は、信者を拘束する意図が含まれます。ジゴク思想や
神による罰などです。これらは支配する側にとってのみ利点があります。
大学の講座や講義に基本的に優劣がないように、学問の平等性にならって
各宗教は他宗への優位性という考えを放棄すべきでしょう。そして信者ではなく
一人の学ぶ人間に対して彼が望み必要とするアイディアを自由に学べる環境を
与えるべきだと思います。
真理は独占できないし、各宗派の違いを優劣とみなさずアプローチの特徴として
理解するべきでしょう。現在ドグマは、自宗の正当性と優位性を必要以上に
強調します。それは末端の信者にとっては極めて自己完結的にしか学べない
心理的状況を作りえるでしょう。
そして融和と言う状況は強制されるべきではありません。執行官は必要ないのです。
自発的な融和により長い時間をかけて相互理解を進める方が良いと思います。
>>181 ありがと、ゆっくり読むよ。
>>182 はは、どうしようね・・・まずこちらにもう一度書いてみてよ。面倒でなければ。
185 :
名無しさん@151周:02/08/18 22:57
>>180 >私は、あなたの意見には大反対です。瞑想で光の神秘体験をすればそれが
>神で、ドグマの解決につながると安易に考えるところが。
あ、それはちがうんです。光を持ち出すのはあくまで宇宙の多様性(7色、7音階)
を記述する為だけなんです。瞑想は無関係です。
どうやって7色が決まるかは、ホロスコープで計算するわけですが、基本的には占星術的な
惑星や星座による決定です。要は、東洋の五行説にせよ九星の占いにせよ人間の多様な特質にたいする
対応なのです。
ドグマの解消はもっと本質的な人間的努力によります。いかんせよ各宗派がドグマを
必要不可欠と見ている間は無理ですが。
>>183 さらにデムパな意見ですが、宗教組織の指導部に教祖の霊的実在を信じていない人や実際は
霊界や神、或いは真理の法則を信じてなかった人がいた場合、必然的に教義が組織の維持拡大に向かうのではないかな。
異端諮問とかは神の実在を確信してる者の行いではないと思うがな。
187 :
名無しさん@1周年:02/08/18 23:16
>>183 >ドグマの付加は教会側に非があると思います。つまり教えること、苦しむ人を支え癒すことへの失敗です。
>組織化あるいは封建主義的な信者の囲い込みがそもそも間違いの始まりだと思います。
>信者にはジゴクなどの教義による恐怖支配が最も効果的です。
キリストの教会側が権力と結びつくことによって信者を支配する方法は中世を
最後に終わりました。現在では教会に行く、行かない自由も与えられているの
に恐怖支配とは具体的にはどのようなものかさらなる説明をお願いいたします。
>エッセンスというのは、教えの根底にある世界共通的な普遍部分です。すなわち慈悲に基づく
>人間関係、神と人間との関係にたいする見解などでしょう。
>ドグマによる汚染は、信者を拘束する意図が含まれます。ジゴク思想や
>神による罰などです。これらは支配する側にとってのみ利点があります。
ドグマ自体は信者を拘束しません。それは信者が自ら取り入れるものです。
神の罰を説いていても、教会での懺悔で全てが赦されます。信者が信教の自由で
自ら選び取ったものでも「信者が拘束されている」とお考えですか?。それでも
それは教会側の責任でしょうか?。聖書の責任でしょうか?
>大学の講座や講義に基本的に優劣がないように、学問の平等性にならって
>各宗教は他宗への優位性という考えを放棄すべきでしょう。そして信者ではなく
>一人の学ぶ人間に対して彼が望み必要とするアイディアを自由に学べる環境を
>与えるべきだと思います。
その場所はもうすでに存在しています。
>そして融和と言う状況は強制されるべきではありません。執行官は必要ないのです。
>自発的な融和により長い時間をかけて相互理解を進める方が良いと思います。
それならすべての宗教を統合する必要はないでしょう?
188 :
名無しさん@1周年:02/08/18 23:25
>>185 その占いに対する価値観も人それぞれですね。
>ドグマの解消はもっと本質的な人間的努力によります。いかんせよ各宗派がドグマを
>必要不可欠と見ている間は無理ですが。
ドグマを解消することではなくて、人間側のドグマに対する態度がそれを
決定します。
189 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/18 23:27
>>187 統合に関してはね、「統合は全く必要なし!」だよ。
この問いに対するレスは今回限りにするよ。
190 :
名無しさん@151周:02/08/18 23:39
>>186 少なくとも慈悲や愛というものを出発点に置いていなかったのは事実でしょう。
というか、組織人として有能な人間が必ずしも良い聖職者とは限らないもんで。
親鸞とか法然、あるいは日蓮にせよ創始者だからと言う訳では無く、当時はほんとにごく少数の
人間にだけ支持(理解)されていたと思います。
191 :
名無しさん@1周年:02/08/18 23:47
>>190 聖書には「神は愛なり」とか「隣人を愛せよ」と書いてあります。
キリスト教に慈悲や愛がないとあなたが思っているのではないですか?
でも組織として有能な人が必ずしも聖職者とは限らないのは当たって
います。
>親鸞とか法然、あるいは日蓮にせよ創始者だからと言う訳では無く、当時はほんとにごく少数の
>人間にだけ支持(理解)されていたと思います。
そうなんですか?。ごく少数とは、はじめて聞きました。何人なんでしょうね。
192 :
名無しさん@1周年:02/08/18 23:50
>>1 「すべての」「すべての」でなんでも定義したがるのは
ガキの証拠。
193 :
名無しさん@151周:02/08/18 23:57
187-188
随分反発されてますね。(藁)キリスト関係者ですか?
私は既存の宗教全般を指して言ってるつもりなんですね。
因みに現在でもファンダメンタリストは地獄一定(浄土系)とか、ファティマあるいは
キリスト再臨なんかにびびったりしてるとは思いませんか。
その教義が刷り込まれた場合、もうその人の現実はいやでもそうなっちゃうんです。
気付いた時はもう選択の自由よりそういう反応が出てしまうんです。
私は私の立場でキリストの復活や変容、さまざまの奇跡を信じています。
そして私の立場は教会で崇拝される神としてではなく、生きた(現時点において)キリストを
を信じています。
私としては人間に恐怖感を抱かせる教義はどうも馴染めません。
また恐怖ゆえに信仰が止められないという状況も個人的には好きではありません。
以上自称キリストの教えに学ぶ者のたわごとでした。
尚、「キリスト教会」個別の問題は別板ですべきだと思う。必要であれば出張しますがね。(ここでは1さんに迷惑だから)
194 :
名無しさん@151周:02/08/19 00:13
>>191 これで最期としたい、横レスでしかも正体明かさないのだからきりが無い。
(私の問いにも答えてくれんしなぁ、銅思います。)
>聖書には「神は愛なり」とか「隣人を愛せよ」と書いてあります。
>キリスト教に慈悲や愛がないとあなたが思っているのではないですか?
私は、組織維持を念頭にしか置かない職業聖職者にたいして指摘したまで。
なこと百も承知、しかし教義を理解することと隣人(異教徒や意見を異にする人間)にどう接するかで
愛を本当に実践できるのか、どうかが分かれるはずだ。
貴方がやろうとしているのは建設的な議論以上に敵対心(あるいは無用の挑発)
をこちらとしても感じざるえなく正直引いているのが現実という空気を察してくれたまえ。
まあ、こちらの発言も刺激があったかもしれないが、2CHとして適切に対処しているつもり。
愛と敵対心は180度異なると知れ、質問したい時は相手の質問にも答よう
ほんとにくりすちゃんなの(w?
195 :
名無しさん@1周年:02/08/19 00:23
>>193 ファンダメンダリストが生まれるのをすべて宗教にしても始まらないだろう
と思います。また少数派のファンダメンダリストのために既存宗教全般を
否定するのはあなたの驕りです。それはあたかも社会に一定の犯罪者がうま
れるんだったら犯罪者をすべて死刑にすればよいという考えと似ています。
もちろんファンダメンダリストは犯罪者と逝っているのではありません。
>私は私の立場でキリストの復活や変容、さまざまの奇跡を信じています。
>そして私の立場は教会で崇拝される神としてではなく、生きた(現時点において)キリストを
>を信じています。
それでよいのだと思います。あなたの自由です。
>私としては人間に恐怖感を抱かせる教義はどうも馴染めません。
>また恐怖ゆえに信仰が止められないという状況も個人的には好きではありません。
あなたの自由でそのようにお考えのことでしたら問題ありません。
>以上自称キリストの教えに学ぶ者のたわごとでした。
わかりました。
196 :
名無しさん@1周年:02/08/19 00:28
>>194 >私は、組織維持を念頭にしか置かない職業聖職者にたいして指摘したまで。
こうしたことはあるだろうと思います。その場合はある特定の教会批判と
してなら通用すると思いますが、既存の宗教批判となると全く状況は変わる
でしょう。
>しかし教義を理解することと隣人(異教徒や意見を異にする人間)にどう接するかで
>愛を本当に実践できるのか、どうかが分かれるはずだ。
これはすべての人に当てはまるのです。宗教に関係あろうがなかろうが。
197 :
名無しさん@1周年:02/08/19 00:30
>これで最期としたい、横レスでしかも正体明かさないのだからきりが無い。
>(私の問いにも答えてくれんしなぁ、銅思います。)
あなたの問いとは何ですか?
198 :
名無しさん@151周:02/08/19 00:36
貴方はキリスト教徒ですか?と問いました。
199 :
名無しさん@1周年:02/08/19 00:40
>>198 いいえ。曹洞宗の禅寺に定期的に通いました。
200 :
名無しさん@151周:02/08/19 00:48
了解です。貴方の真摯な信仰がいずれ成就して彼岸に達せられんことを。
201 :
名無しさん@151周:02/08/19 01:16
>>199 それから、横レス入れるとき、一応断って入ったほうが良い。
BBSでは顔が見えず質問もストレートな感じですと言葉だけの印象でとても硬直した冷たい感じになってしまいます。
そこはそれ自分の疑問を晴らすんだから、旨く空気を読むってことも大事です。
まあ、仏教やるってことはそうした言施というのもあることはご存知ですね。
202 :
1シャヘル(ガキ) ◆JXIc03eQ :02/08/20 10:29
>>201 それ(無断横レス)俺も得意技だけど気をつけるよ。
あと、ここだけのステハンでもいいからHNあると話しが見えやすいな。良ければ。
最初のレス番でもいいよ。
204 :
1シャヘル(ガキ) ◆JXIc03eQ :02/08/20 10:36
あと、キリスト教の「祝福」って霊的に高い位の人が本気でやると神智学的にはかなり強力な気がするんだけど、
というのは相手の幸福を願い、その一部も自分に返ってくるという相乗効果もあり、想念の使い方としては上級といえるのではないかと思うんだが。
詳しく知らないんだけど牧師さんとかは頻繁にやってるのかな?
あなたに祝福を
>>205 ありがとう、ちょっぴし幸せになった。・・・・涙
207 :
名無しさん@151周:02/08/20 19:21
151流ゴーマニズムPART2です。(和良)
文句のあるお方は篭手反でお願いね。
>>204 宗教とは、人類の呼び掛けの訴えとその叫びに対するより偉大な生命の喚起的反応に対して与えられた名前である。
‐-‐それは、実際に、部分がその総体(宇宙、生命の本源)との関係を認識することであり、加えてその関係についての認識を深めることが要求される・・・
(祈願によって引き起こされるエネルギーを人類は少しづつ旨く利用し始めています。善意の人々の集まり、敬虔な祈りの場において其の祈願はエネルギー(祝福)を引き寄せるようです。
これは仏教/キリスト教/その他、形式、宗教/非宗教に限らず真摯で敬虔な人間の潜在的な仕組みのようです。)
--------(教義を重視することへの危惧)
宗教固有の経典、教義等の文献、それらは個人が内在する総体との繋がりを喚起し、潜在的な知恵もしくは慈悲を顕現する為のきっかけとなるべきものであってそれらは正しい方向を示す道しるべに過ぎない。
真理は各人における内在された(智慧)を自覚することによりのみ、把握することが出来る。真理は各人の内に既に存在するが、こころの煩悩の働きが其の把握を困難にしている。
煩悩の出発点は無明であり、誤った認識(思い込み)に過ぎない。あなた自身が(潜在的に)真理なのである。
例えるならば、真理はカツオだし汁そのものであり、経典など文献はな鍋かせいぜい出しをとる為のカツオに過ぎない。
しかるに人は、そのことに気付かず真理は外部に探すものと錯覚すようである。
そのことは、あたかも内在する智慧に気付かないで、肝心のだし汁を捨て去って出しを採った後のカツオぶしを大事に残していることと同じことなのである。
208 :
シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/20 19:36
>>207 真理は完全に自らの内にある。外に真理を求めるな。
・・・クリシュナムルティの信念も同じだね。
209 :
名無しさん@1周年:02/08/20 19:58
ヒンドゥーとイスラムの融合をはかったシク教の教義教理などを研究されては
いかがでしょう?
地域的な問題でたまたまヒンドゥー+イスラムになってますが、一つの真理の
追求を求めて発足したという点では参考になるのでは。
15世紀ごろの発足なので、新興といえば新興、すぐにつぶれなかったところを
みると、それなりにしっかりとした教派かもしれません
>>207 上記の発言は教義を危惧する根拠にはなりません。例えばある経典から自分が
どう解釈して自分の血肉とするのかは自由なのであって、それを指図する存在
はいないからです。また仏教は、経典にも囚われてはならないとされています。
例えば経典を実質のあるものだと思えば思うほどそれは束縛になるからです。
また見たり聞いたりすることにも執着することがないように古典のスッタニ
パータに書かれてあります。ただしこれは経典がなくなればよいということと
は全く異なるのです。例えば、
>>207 さんの意見もあなたが読んだ本の影響
から「内在する智慧」を見つけようとしたわけですから。
仏教では誰もが仏性というものを抱えています。でもそれは普段は煩悩に覆われ
ていてその本性はでてきません。だから修行をするのです。勉強もする。
「光」を見ることは悟りとは無関係です。
お話は変わりますが。
「あなた自身が真理」だということが重要というお話だと思います。そこで
質問があるのですが、真理という立場から経典や文献の危険性の説明をお願
いいたします。その前に危険性を排除するわけですから、何故、私たちはい
つの時代でも経典や文献を必要としてきたのか原因を把握しておく必要があ
るのでしょう。必要だと思う経典を不必要にするためにはどうしたらよいと
思われますか?
211 :
名無しさん@1周年:02/08/20 20:07
>>209 宗教というのは独自の教義で発展したかに思えて、他宗教の影響を受けな
がら発展したものが多く存在します。1つの真理を求めることと宗教が
統合することはイコールにはなりません。
212 :
シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/20 20:23
>>209 シク教。・・・シブイね。好戦的で野蛮な宗派じゃなかった??
それはシーア派か?
>212
あんた おもろい
214 :
名無しさん@151周:02/08/21 00:24
>>210 まず問題点の整理。
1)貴方が習う禅宗は自己に習う。すなわち自己欺瞞を棄却する方向だ。
2)しかしながら、禅宗のように良質な教えは少なく、ここのカテを騒がすような、巨大教団は
教祖を仏と言い、会長を稀有の善智識と言い、前世の因縁を解決すると言い、
幸福になる術を教えるといい、地獄に必ずおちると言う。
私がかつて属していた教団もこうしたDQNであり、ろくでもない教義で会員を塩漬けにし
思考停止まで追いやっている。中には深刻なトラウマ、もっとひどいものはノイローゼなど
の社会問題を引き起こしている。
私の経験により、宗教の中にはかえって思い込みや自己欺瞞を増大する方に信者を導くものが
少なくなかった。まず、この現実を直視しよう。そこがこの議論がかみ合わぬ点です。
しかる後に文献の意味は何か。教義に執着するとは何か。ということを考えなくてはならない。
また、執着しなさい。執着出来るほど文献や教義を学びなさい。飽きが来るまで、学ばなければ自分の無知は解らない。
頭を複雑な教義で満たし、大いに優越感に浸り、他の教団、宗教の教えを見くびりなさい。
仏教が解った。いかなる法論にも負けることは無いと自負しなさい。
そうでなければ、私の言う執着の意味は解らない。
仏教文献はパラドックスに満ちている。解ったと錯覚する危険に満ちている。
頭で学ぶ知識が偽者と理解するまでは、其の知識を誇り執着するのが妙なのです。
知識概念が偽物であることは自分の執着を白日に明らかにして学ぶがよろしい。
そして無知を悟るしかない。
しかる後に場所を変え、キリストの教えを紐解きそこに真の光を素直に見出しなさい。
道教の指導者に頭を下げなさい。禅宗や仏教を冒涜する不貞の輩の罵詈雑言をさらっり
と聞き流して上げなさい。あらゆる角度から自己の学んだ文献が類似の法則から見て正しく、
貴方の心の奥底から真実と言い得るか、教えに浅い深い、貴賎はなくあらゆる教えが根源は一つと喝破するまでは
教義に執着することを素直に認め仏陀の前でそれを正直にさらすことです。
それまでは、文献は必要でしょう。しかし、真実が体験として解るまで鵜呑みにしてはならないのです。
1)貴方が習う禅宗は自己に習う。すなわち自己欺瞞を棄却する方向だ。
禅宗だけでなく、一般的にいって仏教の自己観察は最重要課題だと思われます。
多分禅宗は、
>>214 さんには好意的に捉えられているのでしょう。
ただし問題は2番目にあると思われます。
>2)しかしながら、禅宗のように良質な教えは少なく、ここのカテを騒がすような、巨大教団は
>教祖を仏と言い、会長を稀有の善智識と言い、前世の因縁を解決すると言い、
>幸福になる術を教えるといい、地獄に必ずおちると言う。
>私がかつて属していた教団もこうしたDQNであり、ろくでもない教義で会員を塩漬けにし
>思考停止まで追いやっている。中には深刻なトラウマ、もっとひどいものはノイローゼなど
>の社会問題を引き起こしている。
>私の経験により、宗教の中にはかえって思い込みや自己欺瞞を増大する方に信者を導くものが
>少なくなかった。まず、この現実を直視しよう。そこがこの議論がかみ合わぬ点です。
かつて所属していた教団が、あなたにとって学ぶものがなく、問題ばかりを
引き起こしていたとは残念なことだと思います。しかも深刻なトラウマや
ノイローゼなどの社会問題を引き起こしているのにも関わらず、信者の方達
は教義に拘束されて自己欺瞞を助長されたことなどは驚くべきものがあり
ます。トラウマやノイローゼを引き起こすような教義とはどのようなもの
だったのでしょうか?。教祖を仏と言い、会長を善智識といい、前世の
因縁を解決すると言い、幸福になるための術を教えるといい、地獄に落ち
るとの教義が害毒をもたらしたのでしょうか?。からかっているのではな
く、それが思考停止やノイローゼにまで至るプロセスというものが分から
ないのです。教義による拘束の具体性が見えてきません。
なお私は教義批判には言及するつもりはなく、またその教団に
入る関心も寄せていません。そのスタンスで発言する意向です。ただし
もしも問題があると感じる場合には外部批判として、身のまわりの仏教
関係者に注意を促がしておくと同時に私自身への反省として考慮させて
いただきます。
>しかる後に文献の意味は何か。教義に執着するとは何か。ということを考えなくてはならない。
>また、執着しなさい。執着出来るほど文献や教義を学びなさい。飽きが来るまで、学ばなければ自分の無知は解らない。
>頭を複雑な教義で満たし、大いに優越感に浸り、他の教団、宗教の教えを見くびりなさい。
>仏教が解った。いかなる法論にも負けることは無いと自負しなさい。
>そうでなければ、私の言う執着の意味は解らない。
>仏教文献はパラドックスに満ちている。解ったと錯覚する危険に満ちている。
>頭で学ぶ知識が偽者と理解するまでは、其の知識を誇り執着するのが妙なのです。
>知識概念が偽物であることは自分の執着を白日に明らかにして学ぶがよろしい。
>そして無知を悟るしかない。
参考にさせていただきます。
この方法で、あなたの問題とするドグマ的な教条主義から開放されるでしょうか?
>しかる後に場所を変え、キリストの教えを紐解きそこに真の光を素直に見出しなさい。
>道教の指導者に頭を下げなさい。禅宗や仏教を冒涜する不貞の輩の罵詈雑言をさらっり
>と聞き流して上げなさい。あらゆる角度から自己の学んだ文献が類似の法則から見て正しく、
>貴方の心の奥底から真実と言い得るか、教えに浅い深い、貴賎はなくあらゆる教えが根源は一つと喝破するまでは
>教義に執着することを素直に認め仏陀の前でそれを正直にさらすことです。
>それまでは、文献は必要でしょう。しかし、真実が体験として解るまで鵜呑みにしてはならないのです。
ご指摘、ご忠告、ありがとうございました。
219 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/21 09:55
220 :
名無しさん@1周年:02/08/21 13:57
221 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/21 15:51
>>220 バビロン?・・シュメール?・・何それ、流石に当たってないよ。
そこまで逝かなきゃならんのかー?
でも何か良い教えあるの?
222 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/21 16:27
しかしあれだね、教義とか知識の良い所と言えば繰り返し身に染みこませる事により自分にとってそれがある程度常識化するって事だろうね。
原子とか分子とか超ひもとか俺らには全然見えもしないし自分の目では確かめ様もないんだけど、物理学者にとっては毎日相手してりゃもう常識になってるでしょ。
俺も世界のどっかの知らない国の事よりは宗教ヲタとしてチクチク学んだ霊の教えとかの方がよっぽど身近で多く語れるもんね。
もう自分にとって当たり前になってるな。 カルマを意識して生活する事も。
自分及び子孫の為に新たな因縁の因を作らない様に生活しよう、とか。
だからそういう意味でのメリットは十分有ると思う。
そこで151周氏の言う通り、外の真理を有る程度広く色々と見て、その共通性に気づいたり普遍的な真理の背後にある事を感じたならば、
その後は今度は内に向かうのが正解なのかもしれないと最近思うな。
より単純化、純粋化した精神の方向に向かう、というか汎化した見方で自分の人生上の経験とそれへの自分の選択の内に真理を見いだしていく、という。
全ては既に自分の中にある事を知っていく、というか。
最近はまってるクリシュナムルティは「世界教師」としての自分を讃えたり指導を仰ぐ事を今すぐ止めて、自分自身の中に真理を見つけ出し、
誰もがそう出来る事を更に人に伝えて行け、と言ったんだね。釈尊もそうかもしれんけど。
教義や儀式、組織の維持は真理から遠ざかる原因に他ならない、と。
これはまた一つの真理と思える。
ただ逆に一人でやると「魔」的な物に翻弄されてしまう場合も有るからしっかりした伝統があり、修行を積んだ霊的指導者とが細かく教えてくれて開く場所も完全否定はできない。
実際そういうとこも有るし。
だからこれは難しい議論だと思うな。
あらゆる宗教を見てあるいて「いいとこどり」するのと同じく、そういう方法論においても「いいとこどり」がベストかも知れないなとも思う。
223 :
名無しさん@1周年:02/08/21 16:36
>>221 これは失礼。
全ての宗教の起源を探っているのかと思ってましたが
そういうわけではないのですね。
224 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/21 16:58
225 :
名無しさん@1周年T:02/08/21 22:06
子供の時 すべての宗教の祖は お釈迦様が生まれかわって 人に
どうあるべきかを説いたのだとおもっていた。家のものには内緒で。。
もっと若いとき お釈迦様のお使いの方がそれぞれの人に生まれかわった
と思い直した。イエスキリストも日蓮上人も親鸞上人も・・・・
すべての教えは共通している。お題目が違うだけ。
祖亡き後 受け継いだ人たちが己の欲のためにいまのようになったと
この年になって思う
同一人物ではない。
227 :
名無しさん@1周年T:02/08/22 13:53
詳しく
>そこで151周氏の言う通り、外の真理を有る程度広く色々と見て、その共通性に気づいたり普遍的な真理の背後にある事を感じたならば、
>その後は今度は内に向かうのが正解なのかもしれないと最近思うな。
>より単純化、純粋化した精神の方向に向かう、というか汎化した見方で自分の人生上の経験とそれへの自分の選択の内に真理を見いだしていく、という。
>全ては既に自分の中にある事を知っていく、というか。
大部分は宗教側からしても賛成です。オウムも信者も大体同じことを考える
でしょう。最後の文「全ては既に自分の中にある事を知っていく」については
これから、あなた自身の投稿が、それを自然にそれを表現することができるよ
うに思われます。
>教義や儀式、組織の維持は真理から遠ざかる原因に他ならない、と。
>これはまた一つの真理と思える。
この部分も賛成ですが・・。でも組織にいたために真理が阻まれるという逆の
見方が出てくると賛成しかねます。個人の自由は個人でいようが組織にいよう
が自由は自由であり真理なのだから。距離のとり方を学ぶ必要はあるだろうと
思います。また、集団、組織で行動することによって学ぶべきものは存在しま
す。忠誠心や正義、生存のための基盤を作るためには必要なものだからです。
個人は集団との関係から問題点を把握することもできます。もちろん組織にい
ることで個人が自分の役割や行動に対する責任について希薄化することについ
ては問題があると思われますが。また組織を離れたからといって人間的に成熟
できるという保証があるわけでもありません。組織に対する批判の刃を研ぎ澄
ませば、自分は「正しい」という錯覚による自己欺瞞がその人を侵食する恐れ
もありますね。本人は意識せずにそう思うことが多いのです。
229 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/22 18:00
>>225 >日蓮上人も親鸞上人も・・・・
全く禿同だね。節操ないんだが実は俺はこの辺りのお題目みんな唱えてたりする。
それぞれの宗派の霊団を通して念仏的絶対他力的に根本仏に繋がっていくのじゃないかと思う。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・・・10回だ。おんあみりたていせいからうん。
南無妙法蓮華経・・・南無大師遍照金剛・・・南無伝教大師・・・
おんなぼきゃべいろしゃのう・・・
・・・俺も結構組織的形式的なものに染まってるな。
230 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/22 18:20
>>228 組織にいていい所が全く無いとは言えないだろうね。
その組織の開祖がはるか超えた境涯に逝っちゃってた場合、その内証を伝えていくのには有った方が良いだろうね。
一人でやり始めたらいくらやっても誰もその人のレベルに辿り着けない、という時は。
>>222でも触れたけど。
ただし教団幹部がよほど自省的で霊的にしっかりしたものを持っていてある霊団の管理下にある、とか。
「ご霊界」と呼ぶ所も有れば、神智学では「聖白色同胞団」っちゅう事になろうが。
そういうとこと繋がってないか、或いは幹部が霊的なものの実在を実際は全く信じてない場合、関心が向くのはやはり教団の維持拡大だろうな。
そうなると真理からは遠ざかる一方だと思うよ。
教団としてのカルマがきちんと浄化されていてしっかりした霊的修行が確立していれば互いに切磋琢磨する意味でも一人でやっててカルマに飲み込まれないよう守ってもらえる意味でも良いとは思うよ。
231 :
名無しさん@1周年:02/08/22 18:23
付け加えますと組織の問題は、精神世界の人たちとも無縁ではありません。
教義が多様化した現在、ニューエイジ化したキリスト教会、仏教教団も
あるのではないかと思われます。ニューエイジの中にも小さなグループを
作っては消えていく、そういうものもありますし、社会からカルトと認定
されているところもあるとニューエイジャー自身が語っていたりします。
ニューエイジ自体が何かのカテゴリーにまとめることができない以上は
そういう現象ができても不思議ではありません。
話題は変わりますが
>全く禿同だね。節操ないんだが実は俺はこの辺りのお題目みんな唱えてたりする。
>それぞれの宗派の霊団を通して念仏的絶対他力的に根本仏に繋がっていくのじゃないかと思う。
念仏を唱えることによって心を静かにして心を調える。人が聖なるものに
向かうとき、方法に違いがあろうが、否定するべきものはありません。
宗派によっては他力本願を掲げているところもありますが、大いなる力に
まかせることは決して簡単なことではありません。いかに多くの人が大い
なるものに対して抵抗することか。
232 :
名無しさん@151周:02/08/23 00:25
>>216 疑念はごもっともです。このような害が存在する教団の名前や実例を挙げるのはたやすいですが、
その人の生活(人生)全体が、勉学や仕事、恋愛などを犠牲にして時間やお金をつぎ込んでいる
信者たちがいます。しかも会の中でも締め付けがあり、落伍者は非難されるようです。
これでも結果がでれば、納得できますがそうではなく、ただ何の変容もなく無駄に
人生が過ぎ行きます。地獄へ落ちるしかないと本人は恐れていますから、このような悲惨の
生活の連続も止む得ないと自己説得するのでしょう。
>>217 執着を無くそうとがんばるのではなく、ありのままに正直な執着の姿を見ることから
全てが始まります。(差別やいじめをなくす為には、私の職場(学校)には差別はないと報告するような管理者は辞めさせるべきでしょう。)
臭いものにふたするやり方ではなく、むしろ執着をよく観察します。
これは各人の工夫によるところです。最も嫌いな人に真っ先に話しをする、したくない仕事を最初にする。
自分の執着に肉薄し、受容するだけでなく、そのあり方を見続けます。
>>218 どういたしまして。ところで自我というものは面白いものです。
私の属していたカルトの信者は、本当に正しいということと自分が信じ込んでいる
ことの区別が全く出来ない人々の集まりでした。
また人間は、過去というものと自分の記憶、 未来と言うものと思考(想像、不安)を
殆ど区別できません。
人間の五感は今の今しか認識できないはずなのに、過去、現在、未来という連続が
あるように錯覚します。本当は今しかありません。「主観的時間」と思考、記憶を
人間は区別していないのです。
>>222 よくよく、観察するならば、対象と対象を認識する主体があるだけです。
その主体無しには、いかなる対象もありません。
その主体は意識を奥に後退して行った先でただ体験できるだけです。
囚われとは、対象であるべきものが主体であると思うこと。
対象とは記憶であり、印象であり、具体的なイメージであります。
われわれは雲のような原子や素粒子を確固とした実在とイメージし、個人の記憶などを
自我と思っているだけなのです。
勉強になるわあ
234 :
1:シャヘル ◆JXIc03eQ :02/08/24 12:40
>>225 幸福の科学と変わらんぞ言ってる事、宇宙論にしても「黄金の法、太陽の法」などに載ってたYO(w
>>235 ははは、実は俺も結構元ネタそれに依存する部分有るんだよね。(^^;
けど、あちらこちらベンキョした後読むとしっくり来るトコ意外と多いんだよね。
俺の次元に関しても影響受けてます。
237 :
名無しさん@1周年T:02/08/25 13:06
>>235 そうなん? どんな本も読んだことないが、同じように思う人
いるんだね。
ヘノーマンは名もおかしいが言うこともおかしいな
240 :
名無しさん@1周年:02/08/25 19:24
あんたもな
242 :
名無しさん@151周:02/08/31 21:43
シャヘルさん
じっくりよもうとしたら板がHTML待ちになってしまった。
少し待ってみます。
243 :
シャヘル ◆JXIc03eQ :02/09/02 00:24
ビクーリ
246 :
名無しさん@151周:02/09/23 09:44
超亀レスですが、HTML化されましたのでマターリとシャヘルさんが立ち寄った時にでも
http://academy.2ch.net/philo/kako/1024/10249/1024928385.html >>832 まさしく考えるゆえに我が認識領域が存在す。
ですね。非認識領域との関係性もしかり。
さて、ここで認識を少し整理して見ましょう。
簡略化した図式ですが
被認識対象→(五感)→(感性、感じ方のプロセス)→(印象、記憶)
−→(繰り返す印象(意識の中での反芻))→(記憶の固定、被認識対象の像の生成)
となるのは通常の過程です。
また、私たちが同じ被認識対象と再び遭遇した際
(五感で捉えている像)と(意識の中の対象である像)との照合または、どちらかの無意識に塗り替えが行われます。
通常、記憶が強い場合は新たな像の体験は弱くなり、記憶の像を補強する体験で留まります。
つまり人間は五感と記憶の像を同時に見ながら、主に記憶の方に注意を向け直接の対象に注意を向けることが減って行きます。
記憶の像はすなわち、想念にある形態ですね。(シャヘルさんのご専門)
さて、問題は二つ。一つは個人における認識領域の限定にたいする無感覚。(限定されていることに対する無知)
もう一つは、認識した後の記憶の中の像の正確さです。
例えば、円錐は見る方向からは三角であったり、○であったりしますね。
まさしく視点が異なることにより、認識した像が異なるという体験は、認識という作業が相対的な作業であって絶対視座に立つものではないということに同意します。
(マターリと続く)
247 :
名無しさん@1周年:02/09/23 11:14
マターリと待ってます。
そうだった、ここがまだ有ったね。すっかり放置してたよ。(汗
何か「空」スレみたいで懐かしいけど・・・
>>234の文は唯識的な系であると考えるこの世界を非常に単純化したモデルとして記述してみたのだ。
実は我らが見る世界は我らの「認識」のみで構成されている、という考え方なのだけども。
認識に対する反応も認識したものへの認識から構成され、その認識力のみが自らの体の範囲、
表現力、つまりもう一つの認識領域に認識され得る事象を規定する、という。
その何かを認識した時の反応というか記憶というかによって同じものを見ても内容が
全然違ってしまうという事だね。
徐々に真実の姿から遠ざかった姿を認識してしまう。
個々の認識領域の相対的な視点から絶対認識からの視点にまでその認識力を広げて行く事がポイントかと思う。
そういう感じの話しをうたったのが、仏教でも世親さん辺りだったんじゃないかな。
151周さん、どうぞマターリと続きを・・・
>>246 久しぶりにそのスレ見ました。>1さん(現シャヘルさん)の難しい講義からはじまり、micheさんの登場からの混乱まで。
面白いスレでしたね。
僕も勉強させていただきます。 151周さん、どうぞマターリと続きを、、、
おお、名無しさん、シャヘルさん、それに信じないさんもご無沙汰です。m(__)m
世親には、そういう話があったんですね。
認識領域の拡大と認識そのもの拡大これなんでしょうか。科学と本来の宗教は物事の原因を外面と内面の両方から追究するもの。
結果(現世利益)のみを追った時点で、その宗教は教えの本源からそれて、そして堕落するようです。
まずはご挨拶。
>>250 死後の世界信じないさん、どうもおひさしぶり。(^^)
見てくれてたのね、ここ。
今あの最初のスレ見ると、何かに取り憑かれた様に書いてる自分が妙に恐かったりするなぁ・・w
どう?最近。少し死後の世界も有る方に傾いた?
>>251 そうだよね。だから形を持たず、こういうネット上で上下無関係にみんなで教えあっていく、
ってのもひとつの形として有りかなって気もする。
意外といいよね。
あと151周さん、信じないさん、良かったらこんな超過疎スレでマターリしてないで
こちらのスレで話ししましょうよ。
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1032180080/l50 ここは当初哲板にあった元祖スレを読んでもらうっていう目的で、それは十分達成出来たし。
今後一本化してこうと思ってたから。
>>252 シャヘルさん。そのスレ見てますよ。物凄い勢いで進むので 読むの大変ですけどね。
とてもとても僕のような凡人の書き込める隙は無いです。楽しくROMさせていただいてます。
まだ 死後世界を信じることが出来てませんが、また 僕のスレにもおいでくださいね。
>>253 いやいや何を仰るうさぎさん。(^^
信じないさんのスレ俺も時々見てたよ。もうpart4だもんね。
スーパー電波な俺では無い派に対してちょっと説得力皆無じゃー・・
と思って同様ROMに徹してますた。w
今度満月の夜にでもいっちょ乗り込んでいきますよん。
http://academy.2ch.net/philo/kako/1024/10249/1024928385.html >>832 > 1、互いに単純に認識しあい、影響しあい、事象を現出するだけの関係性。
> AはBと接触したままでその関係性は認識後も不変である。
> 2、認識に適合性を持たず、互いに認識領域間関係の希薄な状態となる関係性。
> 各々の認識すべき対象の減少に通じ、その認識力の減弱に帰着する。
> 3,認識に適合性を持ち、互いの認識力の密接性を増す。認識対象の増加に通じ、
> その認識力の増大に帰着する。
科学それは、関係性の探求であったと思います。DNAのがどのようにして蛋白質をつくるか、
の世界から恒星同士の重力において、そこには力の働きがあります。
ちからは場の量子の交換でなされ、それらは質量(エネルギー)を持っています。
例えば、蛋白質が酵素として働くためには、酵素の手足となる水素結合が他の分子と旨く接触しなければなりません。
接触するとは、電気的な力(光子の交換)によって達成されます。
それ故あらゆる関係性においてお互いのエネルギーの交換は不可欠なのです。
さて認識にもどします。認識の対象がさらに新しい対象を認識して領域が広がることを私は認識のインフレーションと呼んでいます。
シャヘルさんの3つの認識形式は
肉体レベルでの直接接触・・・物理的、電気的、機械的
マインドレベルでの間接接触・・・気の感覚を通して、情報の交換(NET)を通して、思索を通して
マインドを超える意識の直知・・・気付きというもの、直観、インスピレーション
関係性においては、レベルとして3つの階層があるようです。
さて、あらゆる関係性に量子の交換が不可欠であるならば、
情報を超える何か別の担体をマインドを超える認識に当てはめる必要があります。
ここで、重要な点は認識するものは認識する対象と同じ階層かあるいはもう一つ上の階層で観察しているという経験則があります。
自然界(肉体)のレベルでの関係性はおそらくマインドで表現できる公式や法則で記述できるでしょうし、認識の道具としてはマインドがそれに当たります。
しかしながら、マインドを認識する道具はまだはっきりと知られていません。
ここに哲学や宗教がおちいる最大の盲点と弱点が存在します。
(続く)
---------------------------
しゃへるさん、例の板もうそろそろ1000ですね。新装OPENの時に覗かせていただきます。
「認識のインフレーション」・・いい言葉だね。真似して使おうかな。
http://academy.2ch.net/philo/kako/1024/10249/1024928385.html >>834 おお、立ちましたね。もう少しで終わりです。
認識と次元の上昇について
認識の不完全さ、それは前回に述べたように視点の位置に依存した形で存在します。
もしも複雑な立体のイメージを把握しようとするならば、人間はあらゆる角度から対象を検証する必要があるでしょう。
例えば、自動車を設計する場合クレイモデルを作成します。これはマインドの中にあるイメージを物質で具現化して、あらゆる角度からの観察と修正を可能にする為であり、
もしもマインドの中でのみ存在するイメージで設計図を起こすと問題が生じるからです。
マインド中のイメージ=抽象化された設計数値データ
これらは同一次元にあるからです。
この理由から、デザインとはイメージを一段次元を下げて"物質化"させることにより、認識をより完全とし全体像の完成度を向上する為です。
尚、数値データは改めてクレイモデルの実際の物理的サイズを読み取れば再構築することが可能となります。
認識系の不完全さは、ある程度次元の下降上昇でカバーすることが可能です。
さて、認識系が複数A,B存在する時、何が生じるでしょうか。A,Bのそれぞれの観測系(目)は対象と同じ次元(物質界)に属しますから、それぞれは視点による制約を受けます。
そこでA,Bは自分自身は観測できませんが、お互いに角度を入れ替えて観測しあうことにより、観測系の誤謬をかなり減らすことが可能となります。
これが、もっとも低いれべるでの認識の領域の拡大に相当すると思われます。
そしてもっと深くマインドのレベルではどうでしょう。ここでは思考は視点という条件付けられた個人の特性(思想、感情の特性、経験など)
に左右されますので、やはり自分自身の正確な観測はなかなか困難です。
しかしながら思考とは、真の思考者である超マインドとも言える情報系の影ではないか。
クレイモデルがイメージの影に過ぎないように、マインドもそれ自体が自立した存在ではなく、一つ上におけるある認識過程の低いレベルの写しではないか。
それが、動作する時、天才と言えるものの発動を私たちは目にします。
それは、未だ解明できない情報系の流れの中にあるより精妙な認識系です。
とどのつまり宗教とはこの認識系を追及するところの認識領域の拡大に過ぎず、
神とはその最終目標領域へのシンボルに過ぎないとも考えられます。
だいぶ、観念論となりましたが、あらゆる幻想、錯覚を廃する認識の領域拡大こそが、宗教の本質的エッセンスであり、私には様々な教義すらが、この認識の領域を拡大させる方便に過ぎないとまで考えています。
(しばし、休憩)
261 :
名無しさん@1周年:02/09/30 22:00
良いこと書いてある
ageとく
262 :
名無しさん@1周年:02/09/30 23:06
今一度ageとく
263 :
名無しさん@1周年:02/09/30 23:12
とても分かりやすい。
凄い、唯識的な系として提示してみたモデルに実際的な解釈、進展をつけてくれて嬉しいな。
しばし休んだらまた続きを。俺も少し掘り下げてみたい。
シャヘルさんのカキコがあればこその、カキコです。
私は、マジレすしてくれる人は嬉しくなって真剣に考えさせられます。
霊的な緊張っていうんでしょうか。
道を目指している人から感じる躍動感に感じてしまうんでしょうね。
>>261-263 どうもです
意識の拡大は、緊張→弛緩→緊張で生まれます。
音楽がアレグロ→アダージョ→アレグロですすむように。
緊張をクライマックスまで高め、そして一気と解き放つ。
バネの縮みは,伸びの為にあります。
>>265、
>>266 霊的緊張感、そういう感じもいいね。
そして緊張と緩和の繰り返しから一気に・・・か。
よく考えてみる、その命題。
今も道の途中ではあるが、今ここまで来るのにもやっぱり大きく緊張と緩和に揺れたね。
その揺れは俺の場合かなり大きかったと思う。
緊張ばかりでもダメ、緩和ばかりでもダメなのだろうな。
・・これこそ常である神に対する無常の営みなのではないかと学んで来た様に思う。
http://academy.2ch.net/philo/kako/1024/10249/1024928385.html >>835 >さらに部分のどの一部にも全体、つまり絶対無限認識の特質の全てが凝縮して存在している事である。
>また、その事象の存在する世界が無限大としてもなんら矛盾が無い。
相互作用としての認識、フラクタル
さて、認識とは何か。認識のレベルとは何か。
素粒子レベルでは、原子核における中性子と陽子の連結を連想する。
陽子は中間子(パイ)を排出し、排出した中間子を中性子が取り込む。
この時、陽子は電荷も失い中性子となる。一方中性子は中間子を電荷ごと取り込み陽子に変化する。
ここでは、現象として一つの事象ではなく少なくとも3つの事象(陽子、中間子を吐き出した陽子あるいはその逆、中性子)
の状態がひとつらなりの現象として持続している。
陽子または、中性子という核子にとっては常に生成と消滅を繰り返しながら、相手を中間子という符号によって識別しているのではないだろうか。
つまり、介在する場(ミクロとしての認識の場)においてお互いに力と物体を生成する相手を認識するということが、世界の構成の根本に存在する。
では、分子レベルではどうか。ある種の酵素はその立体構造の突起部分にある水素結合が、反応する分子や遺伝子、抗体の立体的に相応する位置の特異な水素結合部分と反応して様々な力を生み出し、化学反応すなわち分子の切り離しや結合を推進する。
ここでは、水素結合で発生する電磁力(光子の交換)がその認識の場を構成する。
それでは、マクロな人間では、どうか。これは意識と意識の道具という手段によるエネルギーと情報の場による交換と言う手段がそれに相応するだろう。
具体的には、光、音、感覚、文字、象徴、が交換される場です。
ここで重要な点は、この認識の場は複数の階層で同時に変化を発生する点です。
(続く)
続編、マターリとお待ちしています。
光の子さんの再登場もお待ちしています。
271 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/13 12:02
俺も続きをマターリとお待ちしてます。
すまそ、YAHOOの某板が非常に粘着質の嵐に遭いまして、沈静化させるのが一苦労。
まったく、正しい法も少し間違えるととんでもない、方向に人間を向かわせます。
法を学んでも法に依存してはなりますまい。
師に仕えても、盲目では仕えていないのと同じ。
佛を尊ぶとも、己を卑しめるならば、これ佛子にあらず。
何せ、仏教の的は無知なる人にあらず、仏教を学びて生業に顕さず、ひたすら己の優位を説くとはこれ正に佛の敵にあらずしてなんぞや。
まったく、学識のある嵐は困ったものです(汗、汗、・・・・)
私も光の子さんの登場を希望しましょう。
>>18-102 人間は創造する力を手放したことは一度もなく、ただこの宇宙の造り手として天地開闢の
ころに創造したことを忘れているとチベットの古い経典には記されています。
そして、人間はもっとも飢えが存在する世界、食物や財をお互いに奪い合って生きる慈悲が感じられない世界へと旅立ったのです。
この世界のレッスン、それは飢える必要が無いのに飢え死にする人を見続ける人間の愚かさ、無知を人間自身の気付きによって
もう一度分かち合いの世界へと変容することに意義があります。
それ以外のこと、科学や宗教などはおまけに過ぎません。
人間がもとの創造主であること、すなわちそれはもちろん飢えたりする必要が全くないのですが、
無明のうちに飢えや飢えによる争いを体験しそれを克服することを望むが故に出自したことに意味があるようにも思えるのです。
飢えとは見かけは物質的な食料ですが、本当は霊的な滋養が不足しているのです。
もしも
>>270さんのメッセージをご覧になられたのであれば、光の子さん、どうか再度ご登場願うことは出来ないでしょうか。
274 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/15 09:45
>151周さん、それは大変だったね。大体想像がつくよ、どんなだったか。
>法を学んでも法に依存してはなりますまい。
>師に仕えても、盲目では仕えていないのと同じ。
>佛を尊ぶとも、己を卑しめるならば、これ佛子にあらず。
>何せ、仏教の的は無知なる人にあらず、仏教を学びて生業に顕さず、
>ひたすら己の優位を説くとはこれ正に佛の敵にあらずしてなんぞや。
いや、ホントにそう。
俺も、じゃあ出来てるかと言えばそう出来てはいないんだけど、
こいつはホントに非道い、ちゃんと仏の教えベンキョしたのか?って奴
いるもんね。
己が身に体現できてなくては。
しかし、
>無明のうちに飢えや飢えによる争いを体験しそれを克服することを望むが故に出自したことに意味があるようにも思えるのです。
>飢えとは見かけは物質的な食料ですが、本当は霊的な滋養が不足しているのです。
ここまでの境地に達していたとは・・・・お見それしてますた。
いま、アセンション絡みでそういう方向のハナシにもなってるから、
是非この新スレとか兄弟スレの方でも語って欲しいッス。
新スレ ☆ロゴスアセンションムーヴメント〜光と闇の超克★
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1034521854/ グループスレ@哲学板 ロゴスと真理と神秘主義哲学的考察
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1030533822/l50
275 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/15 09:50
確かに光の子さんもご登場しないかな〜。
>>274 新スレも快調に伸びるといいですね。
私は仏教という切り口ですが、雰囲気壊しそうです。でもそのうちに。
277 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/17 13:23
>>276 いやいや、ちょっとゴタゴタしてしまった雰囲気を立て直してもらえそう。
おまちしてまふ。
「分かち合い」って言うとちょっと気恥ずかしい様な言葉だけど、
これこそ「全ては一つ」という聖なる真理に近づいた行いなんだね。
俺はこの言葉を見ると「なが〜い箸」の喩え話しを思い出すなぁ。
279 :
名無し@151周:02/10/19 18:58
なあに、自他一如の境地と思えば、こっ恥ずかしさもまたここちよし。仏教もよいことをいっておりまたね。
ところで長〜い箸の喩えとは如何なるものでしょう。
>>278 一方は大きな椀を大勢の人達が取り囲んで、中にあるご馳走を奪い合っている。
故に人々は未だ一口も食べる事が出来ず痩せ細っている。
そして人々は餓鬼そのものの様な凄い形相をしている。
一方は「どうぞ。どうぞ。あ〜〜ん」と、互いに他の人の口に箸で
食物を運んでいる。
故に人々の身体は福々しく肥え、表情には幸福感が満ちている。
インドのある寺院には、此の様を一枚の絵として描かれた絵画があると
聞いたことがあります。
しゃへるさんの仰る「なが〜い箸」の話はこれでしょうか。
私は、その話を詳しく知らないので解釈も出来ないのですが、
よろしければ詳細と貴方の解釈をお聞かせ願えないでしょうか。
以前この絵画の話を聞いて興味を抱いてから、詳細を知りたいと
思っていたので。
281 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/19 20:56
>>280 そうそう、「長い箸の喩え」はそんな感じ。同じかな。
俺の知ってるのはこうだよ。細かい所忘れたけど。
二つの大きな食卓テーブルを囲んでいる、二つのグループが有る。
それぞれの目の前には旨そうなご馳走が並んでいる。
そして、なんとそれを食べろという箸はとてつもなく長い!
で、一方のグループは自分の目の前の料理を長い箸で食べよう
とするんだけど、あまりに長くて上手く食べられない。
いつまでもいつまでも食べられなくて餓鬼の様にやせ細り
ひどい形相をしている。
しかしもう一方のグループはその長い箸を使って、お互いに
テーブルの対岸の人にその人の目の前の料理を取って上手く食べさせて
あげてるのでにこやかにふくふくとしている・・・・
という大乗利他、分かち合いの話しだーね。
こんな感じだったかな。
・・ちょこっとこっ恥ずかしいけれど、それもまた良しかな。(赤面
282 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/19 20:57
「人を助けて我が身助かる」っちゅう事だね。
>>281-282 しゃへるさん、レスありがとう。
やはり、そういうのってちょっとこっ恥ずかしいですよね(笑)
>「人を助けて我が身助かる」っちゅう事だね。
私も同じように思います。
283の内容について補足しておきます。
長い箸の喩えをふまえて、人々が実生活で「大乗利他、分かち合い」の
実践を為そうとすると、少々こっ恥ずかしいものがあるかもしれないなぁ、
という意味です。
>>280の名無しさん、しゃへるさん
「なが〜い箸の喩え」ありがとうございます。よくわかります。
「大乗利他の精神、分かち合い」というのも大きな見地でみれば、大瑜伽(ユガ)であるように思います。
分かち合いという外なる人間同士の繋がり、そして内なるこころと真我の繋がり、それらはお互いに呼応しており、
どちらかが個別に発展するとは思われないのです。
そしてより魂のレベルから見れば、分かち合いとは魂の世界における実相の顕現化であり、
この現世界において魂の意識で行動するというこに他ならないと思います。
またそのことによって、魂は更に豊かになるのでしょう。
大乗では利他を事細かに、言施、恵顔施、財施などというように実践を説いています。
行としては個人の修養に見えますが、世界の不幸を少しでも減らし、世の必要に答える健全な精神が内実を高め内なる世界と外なる世界の合一(ヨーガ)を完成させるのだと思います。
そしてそれには普段の生活におけるごく自然な霊性でありましょう。あちらの板のVER師の主張はその意味で理解しております。
合掌
利他行:(こぴぺです)
キリスト教:
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
(「マタイによる福音書」7章12節)
イスラム教:
自分のために望むものを同胞のために望むようになるまで、あなたたちの誰も信仰を得たとは言えない。
(「スンナ」)
ユダヤ教:
自分にとって嫌なことは、同胞にしてはならない。これが律法のすべてである。残余のすべてはその注釈である。
(「タルムッド」シャバット31a)
仏教;
自分にされたら傷つくと思われるようなことを、他人にしてはならない。
(「優陀那集」5、18)
バラモン教:
これが義務の総体である。自分がされて苦痛を感じるようなことは、他の人に対して、してはならない。
(「マハーバーラタ」5−1517)
>>283-284 そうそう、ちょと日常でもかなりこっぱずかしいよね。
そこをイヤミなくさらっと出来るのが理想なんだけど、
俺の場合、どうしてもねとーっとなってしまうんだよね。(泣
精進精進。
ただ、ちょっとした事や当たり前の小さな事からでもいいんだよね。
しかも俺のお陰だ、と思うと陰徳にならないから気をつける。
む、やっぱ意外と難しい事かもな。
>>285-286 151周さん、いつもながら恐れ入る。ageます。
自分の内の世界が外に反映され、それに対してした行動が今度は
自分の内の何かの種子を良い方向に変えていく。
そしてそれがまた外の世界に・・・と絶えず調和しながら
大いなるものとの健全な合一に結びついていく。
そして在家でもそれは十分可能なんだよね。
いや、むしろ在家でそれを行う事にこそ意義があるのかもしれない。
どこに居ようが、世界とは自分の内側を見ている様なものだと思うし。
まさにこのスレの主題とも思えるコピペもありがとう。
各々の教えの根本とは結局一緒なのだよね。
細かいトコの違いで同じ宗教内でさえも派閥の争いしてる所多い。
そういう場合じゃないと思うな。
289 :
名無しさん@1周年:02/10/20 18:09
age
>自分の内の何かの種子を良い方向に変えていく。
>そしてそれがまた外の世界に・・・と絶えず調和しながら
良き思いそれに集中し、それについて瞑想します。
それは種子の瞑想ですが、最後にそれが実現したと強くイメージしてみましょう。
すなわち成就のマントラです。(ソワカ)
なぜ、そのようなことを言うかと言うと、NEW-AGEや私たちが慈悲や愛について説いているとき、愛は実際には観念でしかありません。
神は愛である、とは真実ですが、それは成就されねばなりません。
不足するのは慈悲ではなく、慈悲を実行する意志なんだと思います。
(だれもが心のうちには慈悲をもつ)
愛の外に自らを置く人は神を求め
神もまたその人の外に信ずべきものとしてとどまる
その者は、愛と神を自らの外に置き続けることを望むゆえに
その者は、愛と神を求め崇めることで愛と神から逃げ続ける
愛にとどまる人は神の内にとどまり
神もまたその人に満ちるであろう
その者は愛するものの内と外に神を見出すゆえに
愛にあって神と自らを見失った人は神に溶け込み
神もまたその人に溶け込むであろう
その者と神は互いを分かつ者ではなくなったがゆえに
最も愛に満ちているのは、愛すべき者がいない者である。
最も愛に餓えているのは、愛すべき者を求める者である。
そして、真に不幸なのは、愛されるべき者を求める者である。
愛すべきものを求める者が愛されるべき者を見つけた時、
そこにある覆いを解かすには世界中の愛を集めても足りない。
真約聖書・深鏡道訳
293 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/26 23:12
>>290 愛を行うというのは難しいよね。
誰でも確かに慈悲のこころは持っている。
実際にそれを行っていく所に真実はあるのだろうけども。
まず、その実行自体が意外と大変だよね。
そして、自分を愛する様に人を愛するのが正しいやり方なのかな、
と思う部分もある。
だから「過愛」は「余計なお世話」になってしまう。
あくまで相手を受容した上で相手が自分で成り立って行ける様に
愛するのがいいのかな、と。
それぞれが自分の在り方を自分で決めているのだから。
実現の瞑想、早速やってみるよ。
294 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/26 23:16
>>291 光の子さん、久しぶりです。
お待ちしてました。
いや、でもその教えは難しいね。
そんな難しい事聖書に書いてあったのか。
凄く神髄的な事を言っている様な気がするんだけど、
結局誰かを愛していこう、愛していこうなんていうのは
正しい道から外れる、という事かな?
凄く深そう。
良ければもうちょっと解説きぼんです。
>>291 そそ、ニールも真青の厳しくしかも深い愛がそこに記されています。
そして内と外に貫かれているその愛のあり方は、こころを打つものがあります。
説いてくだされますか
>>293 感傷と自己満足が消える時:
コントロールしたいと言う欲を放棄した時、あるいは愛の結果について執着しなくなったとき、
愛を行ったという自己満足を消すことが出来るようになった時、仏教で言う慈悲があるのでしょう。
智慧というものの光が愛情とその行為を保護くのでしょう。
自他一如、無圭礙故に
>とその行為を保護くのでしょう
とその行為を保護し導くのでしょう
訂正です
色んな所で「愛」が話題になっているのですね〜
正直、「愛」について考えたこと、ありませんでした。
「愛」はただ、そこに在ります。
光の子さん 再訪をお待ちしていました。
ありがとうございます。
>>291 そう思います。
151周さん いつもレスを楽しみにしています。
兄弟スレで、カルマ浄化が取り上げられていたようですが、私自身は、カルマとは(反復が強調された)変奏曲かと思っています。
[指揮者に率いられた・オーケストラが奏でる・変奏曲]かと。
指揮者(発動力)
↓
オーケストラ(実現装置・慣性)
↓
変奏曲(反復運動)
:
レスポンス(反響・フィードバック)
本人はコンサートマネージャーであり、演出家。
一般に考えられているショウの成功(カルマからの離脱)とは
聴衆(世界)としての視座を確保(奪回)したマネージャーが
自身(個)の創造性を昇華し、かつ楽座を制御した時、獲得される。
数多のショウで構成されるフェスティバルが人生。
彼本人は音楽祭全体のマネージャー、演出家でもある。
しかし、反響(レスポンス)とは何でしょうか。
演出家が、捨象することなく、純粋に反響(クリティーク)そのものを受け止めることが出来るものでしょうか。
不可能すね。
彼が受け取る反響は、彼自身の内面世界(願望・有り得べき反響)の投影に過ぎない。
そもそも、聴衆(世界)は存在するのか。
興行主は誰だ。
コンサート(幻想)そのものを棄却する!
てのが966さん的カルマ離脱法だったのかもしれませんね。
違ってたらごめんね、966さん。
×コンサート
○フェスティバル(幻想)そのものを棄却する!
>>294 ロゴススレで、何度かアウグスティヌスの言葉が引用されていましたね。
301 :
しゃへる ◆YWJXIc03eQ :02/10/28 21:30
>>299 なるほど、そういう見方は理解しやすいかね。
内面の投影である世界、か。
966さん、本当に見ないね、この頃。
>>300 アウグスティヌスの言葉って引用されてた?
どんなんだっけ。スマソ。
変奏曲(カルマ)は、ドライブに例えることも出来ましょうか。
指揮者=エンジン オーケストラ=車 変奏曲=ドライブ
エンジンとはすなわちカルマの種子であり
車は心・身体ですが
愛〜スレッドのペーターさんがおっしゃるカルマはエンジンの事かも・・・?と思いました。
違ってたらごめんね。ぺーたん。
己が、エンジンでも車でもなく、運転手なのだということ。
車種が4WDであり、「道」を創造出来るのだということ。
この二点をよく識るだけでも
だいぶ、カルマ脱けしやすくなるような気がします。
舗装路を飛び出て、海、山、大地自然のドライブが楽しめるわけです。
しかし、しょせん車の中から見ている風景です。
彼(運転手)が山梨を走っているつもりでも、実は群馬なのかもしれません。
戦争勃発しちゃったんですが、車内の彼はつゆ知りません。
さすれば「世界」は安泰でしょう。
車窓に映る風景の安穏たること・・・
名無し@151周さま
>学識のある荒らし..
この表現は妥当ですね..
こういうのをちゃかしきるのが、宗教界を背負ってたつもの
の本来の楽しみであり..生きがいでもあると思います。
そういう意味で酒のつまみはたくさんあるので、
禁殺人、教育的指導の路線の堅持で びしばし捌いてやってください。
お久し振りです、966です。
シャヘルさん、300さん、みなさんお元気でしたか?
今日たまたまこのスレを見つけ、自分の名前が出ていたのでカキコさせて頂きました。
あっちのスレでは、なかなか書き込みもできず、たまに拝見するくらいでしたが
スレの進行が思いのほか早く、スローな自分にはついていけませんでした。w
さっきちょっと自分のカルマ論に付いてのカキコがあったので追加させて下さい。
と、その前に・・・・・
このスレには始めておじゃまします966と申します。
どうぞみなさんよろしくお願いします。
306 :
私信失礼・300:02/10/29 15:51
966さーん
ご無沙汰です!!
淋しかっただすよ・・・
勝手なこと(299)書いてしまってごめんなさいナリ。
でも、嬉しいなっと♪
まずは、カルマという言葉の定義についてなんですが
過去世から持ち込んできたものに対してだけ、カルマと呼びます。
今世で自分が行った行為に対して受け取るものに付いてはカルマとは呼びません。
この辺が混同しやすいんですよね。
でもこれはあくまでも自分の感じる世界の話なんで、
そうじゃないという人もいるかもしれませんが・・・・
それで、過去世から持ち込んできたカルマの方の話ですが
これは全体の同意によってここからの影響は現在はなくなってきてます。
ただ、人間は自分の現実を創造する力があるので
その人自身が「世の中にはカルマというものがあって、自分の人生はそのカルマの影響を受け続ける」
と思い込んでいたら、その人の周りだけでその現実が形づくられて
その通りの人生を体験するということなんです。
07さん(300さん)
音楽のアイディアを使ったご説明、大変興味深いでした。
響きあう関係とは、物理の世界でも同じですね。
ふじわらふひとさん
こちらこそ宜しくです。
教義の枠の外にあるもの、これについて考える為にもまず教義に囚われている自分を発見しなければなりません。
自覚できた時、自由への道が始まります。
966
はじめましてでは、ありませんね。(おかえりなさい)
カルマの懲罰というイメージ、あるいは人間には生前から運命が定められている
という錯覚は、これからの時代には是非とも棄却されるべきでしょうね。
966
966さん
失礼いたしました。
308さん。
自分がカルマの中にあるうちは、霊的に成長できないようになってるんです。
カルマというのは、転生によって繰り返す過去世の否定的体験のドラマのことを言うんですが
それがあると人間はどうしても、現実で否定的な体験に引き付けられやすくなってしまって
過去世のドラマの中だけで現実創造をしてしまい
同じところをぐるぐる回っているだけで、進化しにくい状態になっていたんです。
でも今私達はいろいろな理由で、自分が意識してるしてないに限らず
進化ということに的を絞って存在し、転生して来て、現実を創造しています。
(そうでない人も中にはいますが、それはその人の自由意志で同じ位尊い選択です)
自分達の世代はその意思のもと、自ら選んでここに転生してきています。
自分も含めて激しく忘れているんですけどね。w
今カルマからの影響から外れることに、とても大きな意味があるんです。
それによって、過去世からの否定的な繰り返しのドラマに引き付けられにくなり
新しい肯定的な現実を創造しやすくなって、進化しやすい状態なんです。
特に愛に基づいた創造がしやすい状態になっていると思います。
でも過去に自分が放ったものや、行った行為は現在も受け取ります。
それはカルマとは呼びませんけどね。
311 :
名無しさん@1周年:02/10/30 15:19
カルマを深刻に受け止めすぎると、虚無に陥る。
カルマとは、要は因果応報。
成した行為は善悪を問わず、その人自身に振り返ってくること。
ただ、悲劇なのが悪業を重ねた場合。
その場合は、現世で業を受けるか、開放される試練を受けるしかない。
いかなる場合であっても、成した業は受ける。
それがカルマ。
観念的にこの考え方を深く体得すると同時に、
試練に耐えうる身心を養っていく必要がある。
>>310 966さん
>過去世のドラマの中だけで現実創造をしてしまい同じところをぐるぐる回っているだけで、進化しにくい状態になっていたんです。
それは、私も気になっていた。因果報応、なしたることの再現の意味に気付くことは
通常難しいし、必ずしも時間が「進化」を保障するわけではないからです。
むしろ永劫回帰というか、ある時期は停滞もしくは退化しているのではないかとさえ思える
人生もあります。
>でも今私達はいろいろな理由で、自分が意識してるしてないに限らず進化ということに的を絞って存在し、転生して来て、現実を創造しています。
うむうむ、歴史を紐解けば1600年以降と以前では進化の様相がまるで違っていました。
そして1950年以降の世代はあきらかに、過去と決別したかのようです。
1990年代以降では、稀にみるような存在が急増しているようにさえ見えます。
日木流奈君のような人間は、これから増えるかもしれません。
>特に愛に基づいた創造がしやすい状態になっていると思います。
創造力の開花の時代なのでしょうか。
私の周りでも活発に気付き、芸術活動、人々の草の根の交流などが増えているような気がします。
古い機構がそれらを見えなくしていますが、わずかの変化でそれらが急速に顕在化する(旨く表現できません。
例えば明治維新は日本を新しく作り変えようとする意志の顕在化であったのです。)
ような気がします。
966さんは、どのようにそれをまなばれたのですか?
自分はお恥ずかしながら、殆んど学んでいない状態です。汗
まだまだ知らないことがたくさんあるんですよねー。
自分にはちょっとだけ特技があって、それでいろいろ感じたりするだけです。
>>313 966さん
いやいや、ご謙遜ご無用です。
自分を飾るだけの知識など、悟りの障害にしか過ぎないことを目撃してきました。
考えるということを、既成の思いをいくらかでも超えたいと思うのなら
こころは常に生まれ変わらなくてはならないのでしょう。ちょうど私たちの肉体の細胞が
何年かして生まれ変わるように。
しゃへるさんやみけさんは、まもなくこの惑星でアセンション(上昇?)というような
現象が起こるらしいとおっしゃっていました。これはどうやら従来の段階を経た悟りとも
異なるように思います。
自然の声、大地の語ることば、風に感じるささやき、太陽の語りかけ・・・
どうやら開かれたこころ、生まれ変わるこころ(古い観念に固執しない)で
これらを素直に感じて自然体に生きることが重要に思えたのです。
ひょっとすると人間も新たな進化が必要な時代かもしれませんね。
であるか?
現在は、誰でも進化できる状態になってるんですよー。
今までの世界から新しい世界へと行く渡り廊下はもう出来てます。
そしてその扉に掛かっていた鍵も、今は開いてます。
新しい世界や扉の存在を、まだ知らない人・・・
新しい世界に行きたいけど、鍵が開いてることをまだ知らない人・・・
新しい世界の解説だけして、扉や渡り廊下の存在を否定する人・・・
新しい世界に行きたいけど、自分で扉を押す勇気のない人・・・
いろんな人がいると思いますが、
行きたい人は、もーいつでも行けるようになってるんです。
そんなに難しいことじゃないんです。
進化が必要というより、進化したい人は簡単に誰でも進化できちゃうんです。
修行をするとか、チャクラを開くとか、瞑想するとか、ヒーリングするとか・・・
そんなこと全く関係ないんですよね。
見えない世界を全然解説できなくても、進化にはなんの影響もないんです。
ただ、進化した後それらのことが分かるようにはなるかもしれませんが・・・
今までの世界から出る扉を押す→→新しい世界に入る扉を開ける。
たったこれだけのことで、今まで出会えなかった智恵に出会えると思います。
>>316の966さん
>新しい世界や扉の存在を、まだ知らない人・・・
>新しい世界に行きたいけど、鍵が開いてることをまだ知らない人・・・
>新しい世界の解説だけして、扉や渡り廊下の存在を否定する人・・・
>新しい世界に行きたいけど、自分で扉を押す勇気のない人・・・
う〜む、どうやら開かれたこころが大切なような。
「私はそれをまだ信じることはできないが、それを信じる信じないということとそれが事実であるかそうでないかという問題は別に、可能性について真剣に』考えるということか。」
何時の時代にでも、開かれたこころが時代を進める。それらは最初主流的な考え方の中には存在しない。
だが、966さんの答えは私たちが既にその「場所」に立っていることすら気付いていないということ。
非常に相転移しやすい状況それが、現代と言うわけなのでしょうか。
318 :
○○○○ with"Ω"&L.A.P.:02/11/11 12:22
確かに、必ずしも「あの世を関知する能力」に長けていなくとも、
今生きている現世、これ自体が現在の我々にとって真に必要なものであり、
今をしっかり生きてその中でいつも何かを感じ、気づき、悟って
いく事ができれば、それも一つ重要な事なのではないだろうかとも思う。
ただ、少しづつでも学んで行く事も重要である事も間違いはない。
バランスの取れた両道が最上だろうか。
・・・深くアセンションを勉強していくと、
これは真の意味での「即身成仏」である様に思える。
319 :
名無しさん@1周年:02/11/11 12:52
因果応報などと簡単に言うが、どのような因でどのような果となったのか
特定するのは非常に困難。逆も又しかり。
同じ行為であっても違う結果となることはしばしばであるし、
同じ結果でもそれが同じ原因からのものであるとは限らない。
因果応報などというのは、その多くは後付の理屈にすぎない。
320 :
○○○○ with"Ω"&L.A.P.:02/11/11 13:06
>>319 同意。
さっき書いたばかりの哲学板の方のコメント。
名前:○○○○ with"Ω"&L.A.P. 投稿日:02/11/11 12:00
善いと思ってしている事が後に悪くなってしまったり、
大乗利他の人助けと思ってしている事がそのしがらみの中で余計に
自分の現世への自分の執着を増して波動を低めてしまう事がある。
また、逆に一般的に良くないと思う事でも自分が持っていた大きな
執着から逃れる良い手段になっていたり、「愛」を深めていたり、
悪と見える事が教訓となり、後々よりずっと大きな悪になる筈だった
者の芽を摘む「相対善」である場合もある。
良い事が悪くなるか、悪い事が良くなるか、これは未来を見通し、
あらゆるシミュレーションの出来る神仏の世界にしかわからない事。
善い行いをこころがけながらも、もう「善悪」や「光と闇」に
こだわるのは止めよう。
そしてクリシュナムルティの様に自らの内なるマスターの指導を
強く仰いで行こう。
善悪は立場によって全く変わる、非常に「相対的」なものでもあるから。
高い神の世界から見れば、我々の世界など全て「相対悪」から
成り立っている様にしか見えない位のレベルであろうから。
321 :
名無しさん@1周年:02/11/11 15:16
ぐはあ。
151周さん、966さん、いつもホントにベンキョになります。
お疲れさま。
俺もしばらく来れないで申し訳ない。
まだしばらくは放浪の旅を続けて行こうかと思っているんだけど、
ロゴススレシリーズの方にも、良かったら時々また顔を出してもらって
読者を含め、皆を導いては貰えないだろうか。
忙しい所申し訳無いが。
信頼するお二人にお願いでした。
俺もここにはまた時々来るよ。(^^
323 :
名無しさん@1周年:02/11/16 11:51
age .
>>322 しゃへるさん
了解いたしました。
今はゆっくりご自愛ください。
もちろん気づきと共感を大切にして、いずれまたご活躍下さい。
2元性の理解のお言葉、しかと承りました。
325 :
名無しさん@1周年:02/11/23 22:01
age
>>320 >そしてクリシュナムルティの様に自らの内なるマスターの指導を強く仰いで行こう。
この世界での悪とは、自らのこころを他人に明け渡すことです。
どのような高潔な人物、優れた博識、善良な人物であっても、その人と自分を同一視したり、
あこがれたり、崇拝するべきではないのです。(自灯明)
その意味で、内なる魂の声に人はもっと耳を傾けるべきでしょう。
そしてさらに付け加えるなら、マスターの声は、感覚的な楽しみ、個人的な利益の目標としばしば
食い違うことがあります。そこが、苦悩する領域です。
平たく言うならば、真実の声はなんらかの自分の向上や課題を含み得ます。
それ故、時にその声は苦いのです。
ですが、外的な甘い言葉が悪いと言う訳ではありません。苦いと見えるのは本当にその時点で
魂が欲するものが私たちには見えないからであって、無明にあるからです。
道はそれほど単純ではないし、近道も存在しません。鼻を掴んでいても、霊的行を積んでいても、
日常の生活に自然な善意(言葉において人を傷つけない、想いにおいて人を憎まない、行為において人を苦しめない)
や無害を顕せることが望まれます。
自分の生活の全てにおいてそれが出来始めるとき、私たちは得度への準備が整うでしょう。
その時、その人の生活に聖と俗の境界はなく、全ての生活が生き生きとした気づきとなるでしょう。
補足
>日常の生活に自然な善意(言葉において人を傷つけない、想いにおいて人を憎まない、行為において人を苦しめない)
や無害を顕せることが望まれます。
日常生活における身口意における善意、利他こそ霊的な進歩の骨子です。
ですが、大切なポイントは、それをプライドにしないこと。
つまり善意の結果を求めないことです。
善意とその結果の放棄、それが車の両輪です。
見えないところで、人に評価されない注目されないところでも善意を持って
生きられるかそこが重要でしょう。
もちろん肯定的な自分への評価まで放棄しろという訳ではありません。
それは素直に受け取って喜んでそれで終わりにするだけなのです。
あなたの周りに何故人が集まるのか、それは貴方の中の肯定的なハートに対する
人々の無言の評価です。
人々は貴方に同意を求め、否定的自我が癒される感じを喜ぶのでしょう。
貴方の特質は、慈悲なのでしょう。自分らしさの領域において貴方は成長する。
真理をうちに、上に求めます。
法はおっしゃるように自分自身のうちに見出します。そしてそれが視界を照らします。(法灯明)
597(スレ2代)魔男です。
しゃへる さんとver3.05さん、こんにちは、
崇拝するべきではないっという前提でも、
しゃへるさんとver3.05さんの周りに何故人が集まるのか?
それはしゃへる さんの中の肯定的な心使いに対する、人々の無言の評価を得たので、
どんな小さな一人でも信じてくれるのが、感心したのですから。
も一方は、ver3.05さんは「欲望」というものに対して、制御感を持っているっと見受けられ、
善悪の観念から来る「邪な部分」を厳しく批判ができていますから。
あくまで、個人的な主観な願望に過ぎないが、でも言ってみたいだけです。
つまりしゃへるさんとver3.05さんは同一人物かな、っとつい想像してしまいました。
こうなったら、慈悲と尊厳をともなって、スレがもっとスムーズにいけるかな。
誰か実在するのかを、知っていて欲しかったからカキコしただけです。すみません。
でも僕は、何よりも強い小さな一人が世界を変える力を持つんだ、っと是非信じていたいです。
597(スレ2代)です。
>しゃへる さん
自分のレベルは非常に浅いですが 、それでもみなさんのことがある程度を理解できて、
自分も自信をつけた、これて満足した、哲版の方の書込みレベルはやはり非常に低くのて
邪魔のところを無視させてもらいたい、どうぞ宜しく。
有り難うございます、本当にもう書き込みもうしないです。失礼しました。
>>327 如何にして内在した大いなる知恵に到達するか。
人間の仏性こそ、真理である。
各人が己が心の主であり、法則である。
外面的な教義は、背後にある真理に到達する梯子である。
梯子に登るだけで満足してはいけない。梯子は目的ではない。
内在した知恵は
1)周りの人々への慈悲や利他などの行為(喜びを与えるということ、人と共に生きる喜びを味わうこと。誠実に義務を果たすこと。)
2)真理への飽くなき探求(真理を実践して内的確信を得ること)
3)道を同じくする人々との切磋琢磨(必ずしも教団に属することではない)
であり、日常生活にその表現の場を求めるべきである。
私たちは自分自身がまず幸福であるべきである。自分を真っ直ぐ信じて生きていきたいものである。
あらゆる時代に目覚めた人はいた。
貴方の人生の中でも覚者との邂逅はきっとあったはずである。
真実、ハートにおいて自分を信じる気持ち、相手をいたわる気持ち、
他人の苦しみを理解する気持ちが日常において発揮される時、貴方を
導く大師は常にそばにおられるだろう。
人は肉体の大師を探そうとでもいうのか、貴方の大師は手や足よりも
近くで見つけることができるだろう。
ヨーガは鼻をつまむことではない。誰かのグルに盲目的に従うことが霊性修行ではない。
人生におけるあらゆる活動が霊性修行である。
貴方は、お金儲けが霊性かと問うかもしれない。
お金儲けが俗で、必死で神に祈ることが聖である、と考えること事態
とても狭量な見方をしてしまう。
神の目から見るならば、かの金の亡者も、慈悲なく形ばかりに囚われた信仰を続けることも
まったく同じレベルの執着に過ぎない。
333 :
名無しさん@1周年:02/11/30 22:26
保守あげ
>>331 うんうん、そういえばシャヘルさんは、周りの人をとてもいたわってられましたね。
感情に流されている人、自分の固定観念に引きずられている人にも皆平等に接していましたね。
人の苦しみを理解する気持ちがなければ、どんなに「正論」をぶっていてもどこか空しいし、
逆に苦しみを理解した上において真実の言葉、いたわり励まし、叱咤の言葉を正しく使うならば
逆に尊敬され愛されもする。
人間にとって難しい理論や修行よりまず人や自分の苦しみの原因を理解する気持ちが大切だと思いました。
仏陀も苦・集・滅・道の最初に苦を置いているわけです。
>>332 >慈悲なく形ばかりに囚われた信仰を続けることもまったく同じレベルの執着に過ぎない。
うーむ、何が慈悲なのか難しい面もありますが、私の若いころもひたすら霊性一本やりで他人への暖かい
配慮は全く欠けていました。その意味で反省はありましたね。
キリストが、もっともパリサイ人に指摘していたのはこういった点でしょうね。
信仰が自分の霊的境涯や地位、他人の尊敬を得る目的、世俗を分断し自分たちの優位性のみ
強調する時、そのようなパリサイ人のような行動が生まれます。
そして残念だが、今日そのような信仰はまだ続いています。
霊的「餓鬼」にならぬよう、また独善、自己満足に陥らぬよう自らの心に
常に注意を向けている必要はありそうですね。
>>330 内在への知恵の道は般若波羅蜜多の教えです。
智慧の本源は枯れることなく、むしろこの現世において顕現する機会を常に求めている
とも言えそうです。
それが仏陀の慈悲であり、内在する真我の目的と言っても良い。
例えば、何のために利他行をするのかという問題があります。
良いカルマによって良い結果を得るというのは多分間違ってはいないにせよ、
なにせ人のこころは増長慢に傾きがちなのです。
実は真実の慈悲の働きは、神仏あるいは真我に属するものであって、個人的な利他行は
神仏の慈悲を顕す突破口になっているのだと最近気づきました。
自分が善を成しているとうぬぼれてはならないようですね。
また、霊性修行としての瞑想もそのようなものでしょう。瞑想のきっかけは
むしろ真我のあり方に属します。もちろん肉体やこころが瞑想に入らなければ
魂も瞑想してこちらには注目しないでしょう。
瞑想が日常の行いとなったとき、人は瞑想するものは誰かということに気づきます。
自分が瞑想して霊性が上がるなどとうぬぼれてはなりません。
全ては真我が執り行うことであり、こころはそれをただ体験するに過ぎないからです。
その段階において、魔境がどうの光がどうの、境涯がどうのという空しい議論は
自然に消え去るでしょう。そこには魂の生き生きした活動があるだけですから。
因みに
般若心経では「観自在」というのが一番最初に来ます。
見る問いに私たちがどう取り組んでいるかは、この3文字で表されます。
「見る」「診る」「観る」「視る」「鑑みる」「看る」・・・
あらゆる点において人はまず自分のこころ、行為、言葉にもっと注目すべきです。
荒い言葉を出したとします。その荒い感情の元が何か、何故相手にそのような感情をぶつけるのか。
自分があいての同様な行動に反応しているのか、そのような同じ欠点は自分にも存在しないのだろうか。
怒ることにより何が生み出されるだろうか。・・・
瞬時に自分を観察した時、感情に囚われている自己とそれを観察する自己があることがお分かりいただけるでしょう。
感情に囚われる自己を観察することが出来るがゆえに、囚われずに物事を見る姿勢の
大切さも明らかになって行くでしょう。
その方向が大切です。
それゆえ「観自在」観るということは道の最初であり、方向付けにおいてとても大切なのです。
八正道でも「正見」がまず最初にくる所以でしょう。
338 :
名無しさん@1周年:02/12/01 22:37
age。
339 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/06 22:30
久々に戻って来た・・・迷惑かけました。
151周さんも名無しさん達も何かとても凄いよ。
マジで覚醒してる様な気がするんだが。。
カキコしてくれてお疲れ様です。
966さんのカルマ論も一歩、歩を進められた今、
たいぶん理解出来る様になって来た。
「観自在」まず囚われずに観る事が道の第一歩か。
物事の本質を正しく観るという事は意外にとても難しい事だものね。
瞑想する姿勢の方向づけに関しても・・・深い。
(実はコメントのつけようが無い、みな受け入れるのみ状態でつ。。。)
皆さんのお話し、また聞きたいです。
マターリとお待ちしとりまふ。
おおお!
シャヘルさん、お元気でしたか。気配はなんとなく感じておりました。
気は隠せぬもの、りんごの木は香りで知られ、実で確かめられます。
私の書いているBBSに今度はニューエージャーが訪問しています。
シャヘルさんとのように楽しい話になればよいのですが(^^)
いやいやまったく。(^^;)
1)理解するということ
2)高級な諸体を操作するということ
3)奉仕などの実践(一種のワーク)
をしておられ、ご自身の理解力や実践力を結局は認めて欲しいのでしょう。
いやはや、まったくです。
私の関係する翻訳者への彼の不遜な批判が始まってしまいましたのでフォローが大変です。
まあ、私の立場としては回りくどく「それらの境地は錯覚じゃ」と言っておるんですが、そっちへは少しも理解力は及ばぬような。
木は実によって知られる、この高慢な学徒を旨くいい方向に向けられるか、シャヘルさんの謙虚さのつめの垢でも煎じて飲ませてやりたいところです(大笑)。
しかしながら、これは私自身の問題でもある訳ですな。
しゃへるさんが姉妹トピで、ある女性に説明されているような「否定的自我・(難しい言葉ですね。仏教には自我が無いために私にはより難しい概念かと)」すなわち「高慢」=「自分が認められたい、尊敬されたい」
というような煩悩が私にもあるので彼に対してもも不愉快を感じるのでしょう。
いや、よく理解してあげたいのだが、彼の常識の無さでその感情も犠牲になるのです。
まあ、自分の為に彼にはよく接してあげるつもりです。彼を自分と思ってね。(和良)
シャヘルさん
つかぬことをお伺いするが、貴殿はどちらにお住まいでしょうか。
手前は京都近辺です。
どういう訳か、最近は日本に対する悲観論が多すぎて正直閉口しています。
日本人が
(1)明治維新をどういう意図でどのように切り抜けたか
(2)ロシアや清の圧力とどう対処したか
(3)戦中戦後の混乱期をどう生き抜いてきたか
温故知新、我々は十分学んでいると思います。
もちろん日本は気づきの点でも大変良い位置にあると思うのです。
一度、シャヘル板関係者のメンバーでオフ会などを開きませんか。
この国に日本人はいなくなったのか。。。
日本人らしさと言う固有性を失ったのは痛かった。
今の政治屋さんの顔が良くない。あれでは国が危うい。
もっともそれらは表面の話で、本当はすごい潜在力を持ってるのが日本なんだが
すまそ、HN 遼ー>遷の間違いだわ
あげてみる
346 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/11 00:26
151さん、こんにちは。
今度は困ったニューエイジャーなのだね。大変だ。
今書いているBBSというのは以前に”某yahooのスレ”と言っていた
所?
ちょっと見てみたくなって来ました。
ROMするだけだから、良かったらどこなのか教えて欲しいな。。
そして姉妹トピの件・・・いやいや、流石に151さんには
見破られてしまってる様だ。お恥ずかしい。
>しゃへるさんが姉妹トピで、ある女性に説明されているような「否定的自我・(難しい言葉ですね。仏教には自我が無いために私にはより難しい概念かと)」すなわち「高慢」=「自分が認められたい、尊敬されたい」
というような煩悩が私にもあるので彼に対してもも不愉快を感じるのでしょう。
>いや、よく理解してあげたいのだが、彼の常識の無さでその感情も犠牲になるのです。
>まあ、自分の為に彼にはよく接してあげるつもりです。彼を自分と思ってね。
いやいや、151さんいつもながら相当謙虚なお人ですよ。
実際感情に囚われず実行も出来る。
その煩悩に関しては俺も相当有るかも・・・汗汗
347 :
しゃへるwith"α∞Ω"&☆L.A.P.☆ ◆YWJXIc03eQ :02/12/11 01:09
>つかぬことをお伺いするが、貴殿はどちらにお住まいでしょうか。
手前は京都近辺です。
>一度、シャヘル板関係者のメンバーでオフ会などを開きませんか。
ありがたいお誘いなのだが、俺はへのっちと同じで北海道在住のヒグマなのです。
だからちょっと無理かも。・・・また、機会が有ればという事で。
誘ってくれてありがたいのだけど。
(いや、しかしいくら近くてもオフ会ってのはお断りするかも
しれない程、実は俺ってシャイな男なのです。。)
151さんは京都なんだ。・・・いいなぁ。
二度くらいか観光した事があるけれど(お寺巡り中心に)
とても好きな街です。自然と心が落ち着いてくる感じだった。
住んでみたいと思ったなぁ。。
>どういう訳か、最近は日本に対する悲観論が多すぎて正直閉口しています。 日本人が
(1)明治維新をどういう意図でどのように切り抜けたか
(2)ロシアや清の圧力とどう対処したか
(3)戦中戦後の混乱期をどう生き抜いてきたか
>温故知新、我々は十分学んでいると思います。
>もちろん日本は気づきの点でも大変良い位置にあると思うのです。
俺も同感です。島国だったと言う事、神風が吹いたと言う事で意外と
他国に蹂躙された事のない比較的希な歴史を持つ国で、
霊的気づきの点に於いても結構良いものが培われて来ている気
がするのだけれども。
ただ(1)から(3)の様な各論は俺、歴史オンチなので良くわからん
のです。良かったら教えてください。
歴史好きな先輩がいた(良く歴史雑誌なんて読んでた)ので
教えてもらっとけば良かったなぁ・・・
348 :
名無しさん@1周年:02/12/11 01:12
しゃへるさん
すっかりレスが遅れてしまいました。
大切な友人を病で亡くしました。地上での別れを悲しむより彼の更なる至福を求めたい思いです。
肉体は別でも魂はひとつ。でも、寂しくなるなぁ。
>>349 151周さん
そうだったのか、、それは気の毒に・・・。
また書ける気力が出たらカキコして下さい。待ってるよー。
昨夜は大勢の人が祈りをささげていたようだ。
何を信仰するかが重要ではなく、敬虔な態度、建設的な開かれた思考が
大切だと思います。
それぞれが仏性を内在した神聖なる存在です。
354 :
名無しさん@1周年:02/12/27 05:15
完全に邪悪なるものに神聖を目撃する
しゃへるさん、皆さん
新年、明けましておめでとうございます。
やはり正月のお休みはありがたいものがありました。
去年(馬)、今年は(羊)ですが、群馬県という地名は両方含むようです。
わたしの密教占星術(精度は悪い(和良))では、今年は天の気がますます強まり、
善悪、正邪、真偽は非常に明確になりうる可能性があります。
すなわち日ごろ陰徳に心がける人はますます善と喜びを見出します。
また、悪を隠しているものもその悪は天下に明らかになるでしょう。
大きなところでは、現在の経済のシステム(石油という化石燃料を基礎とする)
のエネルギー支配に変動の兆しがあるというところです。
まあ、かなり当てずっぽうな占星術なので、和良いながら見ていただければよいかなと。
2003年は2+3=>5であり、
α(1)とω(9)の中央です。あらゆることが天秤の上で計られるでしょう。
151周さん、みなさん 謹賀新年♪
・・また事情でなかなか来れない状態になってましてゴメンなさい。
というか、今後も暫く厳しいかもしれんのだけども。
最初に謝っておきます。
151周さんBBS紹介してくれてどうも!
かなりハイレベルな仏教哲学論議が交わされてるトコだね。
一時の哲板を思い出させる雰囲気。カコイイ。
時間があればまたROMらせてもらいます。
俺トコの霊能でも今後ますます正邪の区別がはっきりしてくると聞いてます。
「完全に邪悪なるもの」もそれはみ仏のある反面的な現れかとは思うが、
反面的なものの範疇を超えるものでもなく、まして人に勧めるべきものでもない。
こだわらない事は重要だが宗教家が神聖を目撃する、と言っては・・・
俺的には151周さん的な意見を聞くとほっとしますね。
これは総じてアセンションの可否に繋がっていきそうな気がしているのだけれども。
151周さん、密教占星術、また是非聞かせて下さい。
ではまた、いつか。。
しゃへる氏へ
もともとマターリなんで気の向いた時に書いてみましょう。
新ネタでも仕入れときますな。
しゃへるさん、名無し@151周さん名僧じゃない瞑想はご興味ありませんか。
人類の霊的中枢(センター)もある注目点に向かって常に瞑想しています。
私たち個人個人の瞑想も形式は別としてやがてそれにつながってい行きます。
瞑想者が瞑想する時、マスター(その人の魂)は、彼に注目します。
そして注目が気付きを生み出し、やがて瞑想者は瞑想するその人の魂と重なって行きます。
それを魂との整列と言います。
私たちは、札幌市の近くで伝道瞑想というものをしております。
瞑想は、形式よりも魂との整列度が重要です。
また瞑想は光を呼び起こします。
シャヘルさんも光をご覧になられたことがあるでしょうか?
アセンションという「現象」も実はアストラル次元に偏極した私たちの
意識をメンタル次元(五次元)に上昇させると言う意味では正しいものと私は
思ってます。
瞑想はこのプロセスを加速します。
それでは、続きはまた
890さん
私も瞑想にはよく参加します。このごろは御堂のほうは隙間風が吹きさらし
でとても長時間は座れないですが(藁)
はて、伝道瞑想とはどのような?伝道瞑想では何処に意識を置きますか。
私はアジナー(眉間)および全身の繰り返しです。全身に存在する気に注目しています。
まあ、各人の工夫やそれぞれの宗派?やグループによって異なりそうですな。
もち、貴方の言うように意識に漣しか起こさず、一点集中から更に深い自己と繋がるのは大切だね。
もっとも自己とは真我と言うべきか。
私は円が中心に向かって丸く周回しながら収束するイメージを使っています。
ある時点からは、内なる自己に委ねるようにしました。
肩肘張らず自然体が一番私には気持ちよく、長時間続けるには楽で合っていたようですな。
瞑想とはむしろ瞑想する内なる目撃者が行うように思えます。それが、890さんの言うところの
魂との整列なのか、近い意味を感じた次第ですな。
以後、宜しく
360 :
名無しさん@1周年:03/01/13 22:13
静なる夜に上げ
966さん、名無し@151周さん
亀レスで申し訳ありません。
151さんが、シャヘルさんに紹介されたHP私も観てきました。966さん、151周さんの見識に期待して
差し支えない範囲でいろいろここで話したい内容があり、是非乗っていただきたいのです。
(つうかマジレスで一局お願いしたい。)
広範囲のテーマになりますが、一つ宜しくお願いします。
まずは質問1ですが、人間の再生誕とカルマについてです。
ずばり人間はカルマに支配される存在といわれてきました。多くの宗教でそのように言われます。
そのようなカルマに私は少し疑問を感じています。1月17日の震災や同時テロでなくなられた方は
カルマによるものでは無いと私は思っております。
この点如何でしょうか。
>>890氏
まず、断っておきたいのだが、シャヘル氏の板趣旨から言ってもカルマというのは取り扱いが難しいのではないか。(そもそもキリスト教では認められていない)
そしてもう一点、質問はシンプルに徹して欲しい。貴方にとってカルマが重要な問題なのだろうか。神戸やニューヨークの犠牲者の方は勿論
そのようなカルマ論で言われるところの犠牲者ではない。
それは断言できると思う。
あらゆる宗教者(特に仏教関係者)が、不幸の原因をそこに求めてきた。すなわち運命とはカルマによって決定されているという見方は、ある種の虚無もしくは、恐怖を与える。
もう一歩進んで、考えてみよう。
死に学びはないのか。カルマ論が今日966氏の言うように変化しつつある現状を。
そして、何よりも貴殿がカルマ論に何を求めているのか。
カルマによる「報復」を恐れ、善行や精神修養に勤め霊性を高めるというのであれば、それは恐怖に基づく自分自身の支配に過ぎないだろう。それは、結局のところ他人に対する教義の強要というコントロールを齎す。
そもそも、2元性の中で恐怖は、我々の足元をすくう。これ以上恐怖は必要ないのだ。
ただ一点の主眼、すなわち私たちが、霊性を高める原理は何か。
「カルマ論」による恐怖の原理かあるいは「カルマ論」に依存しない、共感と喜びを分かち合う原理なのか。
そこを問うべきだろう。
そしてクリシュナムルティを持ち出すまでも無く、「恐怖」はそのてこではない。「恐怖」の存在するところに「愛、慈悲」はない。
しかし、どちらを選ぶかは自由なのだ。
尚、我々の集合意識の次元では、なお集合レベルのカルマのようなものは存在しうる。これは、自我意識をそのレベルまで上げることにより、知られるだろう。
今は議論することに余り意味はない。
以上はカルマに対する答えと思って頂きたい。貴方の役に立たない(恐怖や自己満足しかえられない)カルマの議論は無意味であるし、カルマの暗黒面を強調しすぎる。
神はそれほど、サディスティックではない。
久々に戻って来ました。
光の天使さん、カルマについては俺も151周さんに同感で、あまりnegativeな面を
強調しすぎない方がいいと思うよ。
良いカルマも悪いカルマと同等かそれ以上に存在する、と思ってるから。
でもね、敢えてその答えを求めるというのならば、俺も151周さんの言う「集合レベルのカルマのようなもの」
がそれに当たるのだと思う。
つまり言いにくい事だけど、国レベルのカルマ、地域レベルのカルマという個人のカルマに
完全に優先されてしまうものは有るよね。
俺的にはそういう理解になるのだけども、ただ、これは「じゃあっ・・・」って話しになるし
被害者の方々が実際に居られる訳だから、確かに議論の対象としては・・・
・・・・というか、もともと取り扱いの難しい問題だと思うよ。
あと、「伝道瞑想」折角誘って頂いたんだけど、ちょっと今環境的に全く出来る状態に
ないもので、是非今度、また誘って下さい。。
364 :
しゃへる with"Ω" ◆YWJXIc03eQ :03/01/29 00:32
俺的にはカルマって流れなんだね。
神がその個人を通して表現したい事、経験したい事の流れ。
だから幾転生にも亘って「大乗利他」、人を救う事を仕事としている存在もある。
カルマというものが個人にとって大きな事柄から小さな事柄まで複雑に絡み合って
それが「縁起」という事になるのだろうか、まっさらな白い空間にその人の住むべき
環境を複雑に描き出していく。
決して無秩序に個人の環境が与えられているのではない、という哲学的な方向性かな。
想像だにできない程恐ろしく複雑な網の目の様な。
言葉を換えると、意識せずしてはとても尋常な状態ではそこから抜け難い、
神から与えられたその個人の全身で請け負うべきその時々の「仕事」
とでも言うべきものだろうかね。
環境が整えられ、更にもともと完全なる仏性を持つ自己にその環境内で目的を達する様な
制限が課され、人格の形成とともに人生が紡ぎ出されていく。
しゃへるさん、151さんありがとうございます。
どちらかというとカルマの問題は思っていたより根が深そうですね。
>神から与えられたその個人の全身で請け負うべきその時々の「仕事」
とでも言うべきものだろうかね
請け負うべき仕事を認識し地道にやるしかなさそうですね。
個人の環境は、ちゃんと学ぶべき要素が盛り込まれているようですね。
そこから自分自身を知り、学んで行けと。
悪いカルマより言いカルマの方が多いと言うのは朗報ですし、あまり悲観的なのもいけないのでしょうね。
366 :
名無しさん@3周年:
人はよいカルマで自らを縛り、悪いカルマでその縄を地獄にくくりつける。