仏教における世界の見方・考え方

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1変人
人間とは何ぞや?生きるとは何ぞや?
こういった根源的テーマは
仏教における世界観に答えがあると思うのです。
さあ、マタ〜リお話いたしましょう。
2変人:01/11/19 10:25
三法印である・・
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。即ちこれ実体の無い世界において、求道とは・・
自己自身にある仏性を自覚し、それを生かす事ではないか。と思っております。
「娑婆即寂光浄土」と私は捉えておるのですが?
宗派によって、ここのところはいろいろ捉え方が違うと思います。
まあ、そういう事も絡め、皆様の考えを御教授願いたいと思っております。

「仏性を自覚する」。この事も、最終的には「執着」から離れるのでしょうか?
ここのところも仏教といえど、またまた捉え方が様々かに思います。
いろいろの御教授願います。
3変人:01/11/19 13:10
まあ、仏教には関係ないのですが、U,Gクリシュナムルティは衝撃でした。
既存の価値観を真っ向から破壊してますね。いや・・・
破壊というより、最初から「そういった価値観」というのは無かったんですね。
まあ「別スレ」が立っておりますから、私としてはコメントしませんが、
彼の生国は確かインドだったですよね。
やはり、国の「奥深い文化」というものを垣間見てしまいます。
4黒海老:01/11/19 13:20
変人さん。
禅スレでは「仏性」という言葉がよく出てきましたが、釈迦は「仏性」という言葉は、言っていないはずです。

上座部によって悟りというものが、ごく一部の人間のものになってしまった事を、大乗の一派が
「人間には元々、仏性が備わっている。」として、教えの開放を主張した事が、始まりだったと思います。
(ただし、釈迦は「どんな薪でも火は生ずる。」と言って、どんな人間でも、悟りへ至る事が出来るとしています)
ですから、「ありのままの仏性を悟る。」とか「悟ろうとする事は、ありのままではないから、いけない。」
とも言っていません。
(スレを全部読んでないので、すでに誰かが指摘しているかも)
事実、悟りのための努力は、推奨されています。
筏の例えにあるように、彼岸に至れば「筏(教え)」は不用になりますが、至るまでは有用なわけです。
悟ってしまえば「悟ろうとする心」は不要なわけですが、悟るために「悟ろうとする心」は有用でしょう。
(その心は、終には捨て去るわけですが)

確かに釈迦は禅的な事を説いたのですが、禅を説いたわけではありません。
これらは禅として語られているならば問題はないわけですが、
禅スレで(特に変人さんが)釈迦仏教と禅を同一視しているように見受けられたので。
(水を差すようで、遠慮していました)

ただし、きちんと調べたわけではないので、間違っているかもしれません。
その時は、ご容赦を。
5変人:01/11/19 14:01
黒海老さん
「仏性」。まあ、確かに言葉のニュアンスとして、私も少し違和感はあったのです。
なんと表現したら宜しいでしょう?いわば「空」でしょうか?
「空」でもおかしいですね?御教授願います。

>釈迦仏教と禅を同一視しているようにみうけられたので。
この点、ご指摘有難うございます。
確かに言われれば、その通りかと思います。
自分でも、何となく浮いた状態というのは感じますね。
さすれば、最終的には何処かのセクトに属さなければならないのか?
という命題もありましてね。そこのところが暗中模索の状態なのです。
まあ、そういったご指摘を参考に自分なりに答えを探している状態です。
6名無しさん@1周年:01/11/19 14:24
>変人さん
新スレおめでとうさん。
お祝いに名スレをリンクさせてもらいます。
多いに勉強させてもらったことに感謝します。
(変人さんは化けるかもな。執着を恐れず食らいつくように。)
但し、社会性には注意。原始仏教は底知れないよ。

キリストとお釈迦さま、どっちが偉い?
http://mentai.2ch.net/psy/kako/996/996764431.html
キリストとお釈迦さま、どっちが偉い? part2
http://mentai.2ch.net/psy/kako/999/999446418.html


>X
申し訳ありません。それで「不生の仏心」だったわけですか。
真宗と勘違いしてしまいました。
「小鳥」の件もです。m(__)m
7変人:01/11/19 17:13
>>6
お祝いのレス有難うございます。
リンク先は逝かせていただきました。

真宗と言いますと浄土真宗ですよね。まあ、たまにそういったレスが入りますが、
私もあまり関心が無かったので軽く読んでいましたが、ジックリ読んでみますと
なかなか感銘するものもあります。
そういった事もありまして、多角的考察ということも一応視野にいれたのです。

>「小鳥」の件もです。
あれは確か、「小鳥のさえずり」だったですかね?ま、そうだとしたら・・・
私がカキコした「キラリと光るレス」とは「小鳥レス」の事ですね。
ああいったシンプルなレスこそ真実味を感じますね。えてして、記憶に残るものですよ。
あのスレッドも、小鳥のさえずりが激しかったですね、野狸とか野狐なんかも友情参加してました。
まあ、にぎやかなスレッドです・・・。
8変人:01/11/19 20:10
時代的背景と思うのですが、原始仏教の台頭が最近感じられます。
彼等、彼女等のアンチテーゼはどういったものなのでしょうか?
どういった世界観をお持ちなのでしょうか?
その実践方法とは如何に?
まあこういった事でも、情報交換の場になれば幸いなり。
9名無しさん@1周年:01/11/19 21:28
「一切法、これ仏法なり」という言葉がございます。
全ての善い法は、ブッダにとっては仏法です。

ブッダが説いたのは、感覚的な快楽に脳が中毒することによって生まれる不安・支配欲が
人間的な不幸の始まりなのだと言う事です。

ブッダが弟子達に説いたおもな戒めは以下の通りです。

1)殺生をしない事
2)淫らな事をしない事(ただし、在家で配偶者がいる者にはこれが免除されたこともある)
3)自分に与えられていないものを取らない事
4)酒の類い(ドラッグ含む)を摂取しない事
5)虚言を言わない事

ブッダはまた偶像崇拝を認めなかったので、この五つの基本的な戒めは
まるで旧約聖書に出てくるモーゼの十戒のようです。
(出家僧にはさらに複雑な決まりがあったようです。)
10変人:01/11/19 22:04
>>9
確かにモーゼの十戒とよく似ています。
>感覚的な快楽に脳が中毒することによって生まれる不安・支配欲が
>人間的な不幸の始まりだと言う事です。

これはなかなかシンプルなのですが、えてしてこういったことには無頓着になりやすいですね。
つまり根源的なものは、なかなか気が付きませんよ。
本来、こういった基本的な部分が第一義な訳ですよね。
自戒も込めまして、初心の返らねばなりません。
慢心である事に自ら気が付く・・・これもなかなか至難なことですねー。
11元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/19 22:38
相手の気持ちを考える事はいい勉強になる。
時々、仏さんの気持ちを考える事もある。
川で流されている仏さんと、その隣で流されてる子供。海岸で仏さんの
弟子である流されてる子供の父親がいた場合、この父親は一体どんな
行動をすれば正しいのだろうか…。
1) みんなが大切に思っている師匠を助ける
2) 家族に対する愛は一番、子供を助ける
3) 自分の命が一番だから、誰も助けない
この中でどれを選択しても「心が全く動かない」人が本当の仏さんでは
無いかと思う。
そして、私個人的に全ての選択においてはそれぞれの判断に於いて正しいし
間違いでは無いと思う。但し、因果応報或いはカルマの法則によって、
どんな結果が自分に返ってくるかが決まるのでは無いかと思う。
仏教における世界観とは、かなり科学的だと思う。
心を安定させて感情に流されないで生活すれば、次に自分が一体何なのか
を正しく見る事が出来ると思う。体の中にある細菌から会社・国・地球と、
自分の所属する立場の変化を観察していると、自分という存在は実は、
他の魂とも一体化する事もあるのでは無いかと思えてくる。それを広げて
行けば宇宙とも一体化出来る。色即是空というのはそういう事なのでは
ないかなと思う事がある。>>1で言う「娑婆即寂光浄土」とも近いかも。

善とか悪に関して、余り仏教では重要ではないとも思うが、私としては、
全ての選択は可能だと思うけど、因果応報によると、自分がされて嫌な
事を「悪」と定義すれば、それを基準に善は成り立つかと思う。
そして人間はこの善と悪を意識する様なレベルの生物では無いかと思う。
つまり善によってグループ化し、他のグループを悪として考えたりする。
この善と悪の意識を越えていく事で、人間が引っかかる感情に左右される
事もなくなり、もっと高い感情が無い安定した至福感というものに近づいて
いくのかな。という感じを持っている。
12変人:01/11/19 23:24
>>11
色即是空は、私もそう思っている。
>善によってグループ化し、他のグループを悪として考えたりする。
>この善と悪の意識を超えていく事で、人間が引っ掛かる感情に左右される事もなく、
>もっと高い感情が無い安定した至福感というものに近づいていくのかな。

これは大変微妙なところ・・・。途中までは「正解」。結論「不正解」と見たり。
確かに、単体(一個人)における「善悪」と、グループによる「善悪」の判断は全く異なる。
これには同意。これは社会通念上の常識的判断の範疇。しかしながら・・・
>人間が引っかかる感情に左右される事もなくなり、もっと高い感情が無い安定したし至福感というもの

ここから一転、全く「飛躍された展開」になっている。あたかもこれはマジック的に思える。
こういうこたは、私も以前から考えていましたよ。
ヒトラーにしても、「優性思想」と言う観点で捉えれば、あれは「善」な訳です。
その思想に酷似している。「らい予防法」にしても然り。「善」になりますよ。
しかしその判断は、人間による「理性」の判断に委ねる以外に無いのではないか?
これを放棄してしまったら、それこそ「地獄」ですよ。

文面からは、この「理性」の放棄を表明してある。ここの部分は如何に解釈したら宜しいのか?
また、それによって得られる「至福感」とは理解に苦しむのだが・・??
13変人:01/11/20 00:42
>>11
>このなかでどれを選択しても「心が全く動かない」人が本当の仏さんでは無いかと思う。

こういった文面を見ると、どうしてもレス付けたくなってしまう。
「心が動かない」というのは殆ど「思考停止」状態なのではないでしょうか?
批判的レスになって申し訳ないのですが、やはり「人間」が見えてこないのです。

話は変わるのですが、マザーテレサは「神」の視点からすると「被造物破壊者」だそうです。
インドのキリスト教々団からすると、テレサの行為は「善」とは見ていないようですね。
まあ、「神仏」以前に「人間」を基軸としたい・・というのが私の考えなのですが・・
そこのところは微妙なのでしょうか?
14元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/20 02:05
>変人さん
私は社会に出て、本音と建て前について知りました。家庭の中の自分、組織の中の
自分、社会での自分、それぞれ言い分が変わる場合があります。
そして善と悪も自分という存在の中には各々の立場に於いて変化して存在すると
思います。
変な例えですが、一人の人の中でさえ、煙草を吸う事は精神衛生上善にも関わらず
肺には悪となったり、家庭での立場と、会社での立場では善悪も変化する可能性は
あります。飛躍してわかりづらいかもしれません…。
つまり、善悪の定義も社会通念というレベルでは一致した物があってもそれから
外れた場合にはどこまで通用するか分からない有限のものだと思います。

理性は不要では無く必然的に無くなるものだと思います。
感情の変化に関して人間というカテゴリでは、至福感・怒り・嫌悪・妬み・悲しみ等
いろいろとあって、その方が人間らしくていいと考えている方も多いと思います。
私は、この感情の波が無くなり、至福感のみの状態になる事が解脱とか悟りという
境地なのでは無いかな…。と漠然と考えています。勿論、もっと上?を目指せば、
満足に満ちただけの意識体があるだけの時間さえも停止した様な無思考状態に
行くことになるのかな。とも思ってますが、ここまでの想像は私には出来ません。
単なるおとぎ話として読み流してください。

理性とは、怒る気持ちが出てしまったときに、それを抑える事、嫌悪という気持ちを
抑えること、爆発したい位に喜んだ時にも抑えたり、その行為が理性だと思います。
普通で考えると理性を持たないとやってられないでしょうが、そのうち、怒りも嫌悪も
出なければ理性はどんどん不要になってくる様に思います。そういう意味では理性
はあえて捨てるものでは無いが、必然的に無くなるものと思っています。

思考しても、心の動揺や、上に書いた感情の変化が現れない状態では無いかと
考えてます。思考=感情の発生、はとても人間的な性質だと思います。
15元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/20 02:07
私は、勿論、人間的な人はとても好きです。更に吉本のお約束の笑いも小さな時か
ら見ていたせいか大好きです。
ですが人間を越えている物(人?神?)の気持ちを考える時に、人間らしさはあえて
無視して考える必要がある様に感じています。神秘的というか神憑り的な考えは
好きではありませんし。神が人間的な感情の持ち主で、嫌悪もあり得るというの
もおかしな事かなと思います。

神というのは、その人に利益を与える物。という定義であるなら、神は、善悪と
同様に変化するものです。それは既に書いた事と同様です。多くの人も多分、
この様な神にすがるのでしょう。タリバンの神は、アメリカを悪と考えてます。
それでは人間と同じではないですか?
逆に、神はどんな人に対しても平等であるならば、善でも悪でも無いはずだと
思います。私はこの神を信じます。私が何をしても許して貰えます。しかし、
因果応報により行為は裁かれます。とてもシビアな物だと思うのです。
これは単なる私の考えですが、如何でしょうか。
16禅スレ707:01/11/20 02:17
こんなスレが立っていたのですね。
人が集まることを願いつつあげます。

なお、禅スレは容量オーバーで倉庫落ちしたようです。
17変人:01/11/20 08:18
元オウムさん
人間の根源的なところを突き詰めていきますと、貴方のような世界観に至る場合もある。
まあ、そんなふうに考えますね。私の経験上、ある程度は理解できます。
しかしながらよくよく考えてみますと、崇高な理念に一見みえるがさに非ず・・・
犬、猫とレベルは同一ですね。そりゃそうでしょう、犬、猫は悟っております。
そのレベルですと、「理性」も必要なくなる訳ですね。「人間辞めます」状態でしょう。
楽な生き方かもしれません。犬、猫と同じですから・・・

まあ、私としてはオウムの方とコミュニケーション取れただけでも、大変貴重な情報を得たと
感謝しております。
まあ、失礼ですが自分を反省する材料になっております。
今後、またまたレスつけます。まだ言いたいことはあります。
18変人:01/11/20 09:11
元オウムさん
例えば、ヒューマニズムを標榜する人、優性思想を標榜する人。
この方達の「善悪」の判断基準は全く噛みあわないでしょう。
オウムあたりでは、優性思想を突破しちゃって、トンデモ思想になってるのではないですか?
こうならないためにも「理性」というのは必要なのではないでしょうか?
「理性」は、人間としての「最後の砦」。わたしはかように思うのです。
すべてのイデオロギーを排除しても、最後に残るのは「理性」であって欲しい。
まあ、そう思ってしまうのです。どうでしょうか?

707さん
僭越ながら、スレッド立てました。ROMしてちょ。
レスも入れて下さい。
19変人:01/11/20 12:29
元オウムさん
観念的に事象を捉え、神秘体験で「確信」を決定付ける・・。こういう手法が推測される。

誤解のないように言っておきたいのだが、オウムは別にして客観的考察である。
こういった手法は、ある意味宗教全般に関して共通して言えることではないか?
ふっと、そんなことを連想したのです。
まあ一応問題提起として、継続的に考察していきたいと思っております。
反論がありましたら真摯に受ける所存なり。
20変人:01/11/20 22:13
・・・という事で、メジャーな宗教、マイナーな宗教関わらずレス入れてチョ。
21名無しさん@1周年:01/11/20 22:16
アッラーの鉄槌がくだるであろうぞ
22変人:01/11/21 11:11
>>21
アッラーの鉄槌だけは勘弁して頂きたい(w
偶像崇拝禁止は、一応一目おいていますよ。私としましては・・
戒律が厳しいのは、なんとなく自虐的印象はありますが。
チベット仏教にせよ、やはり「風土」というのが宗旨に微妙に絡むのでしょうか?
そこのところ、見解をお持ちの方レスして下さい。
23元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/21 17:31
>>17
>犬、猫とレベルは同一ですね。そりゃそうでしょう、犬、猫は悟っております。
>「理性」は、人間としての「最後の砦」。わたしはかように思うのです。
犬猫=感情、人間=感情+理性、だと思います。
ですが、私は既に書きましたが、理性を無くせという事は言ってません。
その上には、仏さん=??ではないでしょうか。
感情に左右されない何か、安定した思考、慈愛?、これに関してはいろんな
言い方があるとは思いますが、今の私には思いつきません。微妙な部分ですから。

>観念的に事象を捉え、神秘体験で「確信」を決定付ける・・。こういう手法が推測される。
というか、一般的な思考として、推測を立てる→検証する→確信をもつ。という
手順です。検証によって、推測に矛盾が生じれば、推測を変える。
神秘体験などは、余り役に立ちません。単なるトリップ状態ですから、
私がトリップした所で私の知識の範囲でしか幻覚を見ないわけですし。
例えば、「神が降りて来てお告げをした。」なんて、自分が深層心理において
そうして欲しいから見た可能性が高いですから、思い込みは危険です。

多分、私の考えている事がうまく伝わっていない様にも思います。
例えば、仏教は仏さんがこういったああいったという事の集大成だと思うので
す。その仏さんは素晴らしい。と信じてついていく事はとても人間的だと思い
ますし、大切な事だと思います。
しかし、私としては、その仏さんが理解した世界観が一番大切だと思ってます。
仏さんが宇宙をどう理解してたか。彼は物理学の法則と同じ様に宇宙の法則を
理解していたかもしれないからです。
偶像崇拝は初期段階としてはいいかもしれませんが、結局は麻原を崇拝した様な
危険性もあるという事ですね…。
24変人:01/11/21 20:01
>>23
たぶん、貴方が言いたいのは、仏様=真我、ではないですか?
真我を中枢に立てれば、感情のコントロールは可能ですからね。
よくオウムの人は「真我」という言葉が出てきます。それにどうも拘っている感じですよね。
まあ、それはどうでも良いのですが・・・

オウムの残党がチラホラ出没しています。それの意味するところは、やはり修行中は相当インパクトがあったと
想像できますね。それなりに、人間を魅了する何かがあった。そのことには興味がありますね。

貴方のレスは「確信的」と思える世界観を持っている。というのは想像できる。
どうも、その世界観が頭のどこかに引っ掛かったままの状態から抜け出せない。
まあ、そういう事を感じてしまいますね。
事霊(ことだま)と言いますからね。一度思い込んでしまうと、人間というものはなかなか
抜け出せませんよ。それは私にも良く解ります。
知らなければすんだ事を、知ってしまった「重み」。ですよ・・・たぶん。
ズシリと双肩に掛かっているのでしょう。私には解っております。
私にも経験がありますから。
25元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/22 00:09
>>24
私が言う仏さんは、人よりも優れた者です。
決して真我=仏様では有りません。
それから、私は専門用語を余り使わないのは、その言葉に多種多様な
解釈が存在するからです。特に仏教用語に関しては多くの解釈があり
ますから。
真我は、ブラフマンとか梵天といわれていて、色即是空と同様の考えに
至ると思いますが。
私がオウムにいた事で、ある種「観念的」にお考えだと思いますが余り
意識はしていません。
仏教は、「仏さんがこういった、ああいった」という事の集大成だと思います。
それに、仏さん(釈迦)は自分の言葉を書物に記してはいけない。と言っていた
と言う方もいますし、本当に仏さんの言葉は少ないのではないかと指摘する
人もいます。つまりは多少の味付けがなされていると。よくわかりませんが。

仏教をつきつめていけば、今を出来るだけ幸せに今のまま生きている事が一番
じゃないか。という結論になると思いますがどうでしょう。
人間とは何ぞや?というのは、人間は動物には無い理性を持った生き物。
生きるとは何ぞや?というのは、幸せに向かう事。
と言えると思います。
そこに苦労があるならば、仏教ではこういう考えがあり、あなたは今は苦労して
いるが、それをこういう風に考えて乗り越えればいいんだよ。
という事に役立てればいいのでは。
ですから、哲学的に仏さんが言った仏典を一つ一つ一字一句吟味して論争する
事は、全く意味の無い事だと思っています。

自分が本当に至福の中に居るわけでは有りませんので、その諸問題に対して
きちんと解決しない限り、人間よりも上の世界はどうか、宇宙はどうなってる
かなんて考えても仕方無い事かもしれないとは、思っています。
26変人:01/11/22 02:14
>>25
シンプルな答えの中に「真実味」があります。
確かにそのとうりかと思います。
実際、仏教とは口伝が全てかもしれませんね。
たしか、釈迦滅後百年近く経ってから経典は編纂されてきましたからね。
本来のところ、経典の論争は意味が無いというのは正解と思います。
それが解っているのでしたら、何故に「麻原」に結びつくのか?
どうも解らないですね。
27名無しさん@1周年:01/11/22 02:53
文章が長くて読む気がしない。
28元オウム:01/11/22 03:13
>>26
紆余曲折してきました。
29むもん:01/11/22 08:26
「仏教における世界の見方・考え方」これを考えるには、
仏の説く世界はどのようになっているか。死後そこへ生
まれるにはどうしたらいいのか。について論ずるべきかと
思います。

仏の説では
欲界の十二種(地獄〜魔天)
色界の二十二種(梵身天〜大善見天)
無色界の四種(空知天・識知天・無所有知天・有想無想知天)
合計三十八種類の世界があるといいます。

死後は地上での想念・行為によって、このどこかの世界へ生
まれることになっているようです。そこで、より上層の世界へ
生まれるためにはどういう修行をしたらいいのかということに
なると思います。
30むもん:01/11/22 08:49
元オームさんの素晴らしいところは「因果応報」を確信して
おられる所だと思います。私もそれを確信しております。

>>仏さんが宇宙をどう理解してたか。彼は物理学の法則と同じ
>>様に宇宙の法則を理解していたかもしれないからです。

仏は物理学の法則と同じようには宇宙を理解してはおられない
と思います。なぜなら物理の法則では「因果応報」は成り立た
ないと思うからです。
31元オウム ◆MtyDeTiY :01/11/22 10:28
>>30
>なぜなら物理の法則では「因果応報」は成り立たないと思うからです。
物理法則では成り立たないですね。
自分が木を押せば、同じ力が自分に返って来ます。これは物理法則ですよね。
世の中は物理的な法則だけではなく精神的な法則も、これと同じ様に存在
すると思います。それは神がかり的なものではなく、きちんと計算し証明できる
ものではないかと思うのです。
32通りがかり:01/11/22 10:47
う〜ん。「因果応報」を説くのが仏教じゃないよ。釈尊はバラモン教の有名な弟子の
元で修行を積んだけど、結局「悟り」が得られなかったから、仏教を建てた。

元オームさんの考え方はバラモン教から一歩も出てないと思う。禅などで、「無」を
突き詰めていくと、確かに「色即是空」の境地が理解できるそうだけど、目に見える
もの一切が「空」なら、結局、世界は何の意味もなく存在していることになる。川で
溺れる人を助けるのも、それを見殺しにするのも、無意味。しかし、それは真実の半分
しか捕らえていない。本当の所は、溺れる人の声を聞いて、自分が同じ気持ちを持ち、
何とかこれを助けようと努力する。助ける人と助けられる人が一体になる。決して無関係
な独立したものではない。喩えるなら、同じパズルの上のピース同士で、お互いに存在を
補い合っている。「空」でありつつ、「色」でもある。

もし、私が味わうパンの味と、別の人が味わう味とは、全く独立で、互いに共感できないと
したら、これほど「味気ない」世界はないと思うよ。パンの材料を作る人、それで
パンを作る人、パンを買って食べる人、パンの味を誉める人、パンの味を貶す人、
こういうつながりによって世界が成り立っている。極楽や地獄の差は、その「あり方」が
どうか、ということにすぎない。「色即是空」では、そういう生きた働きが見えてこない。

「より上層の世界へ生まれてくるためにはどのような修行をしたらよいか」では、
他人との関わりが欠落してしまう。本来は、「皆とともにより上層の世界を築き上げるには
どうしたらよいか」でないと。「他」を切り捨てて「自」を取るのは仏教とは言えない。
「他」とともに(あるいは「他」を助けることを通じて)「自」を生かすのが仏教です。

私見ですが、オームが道を誤ったのは、その教えがもともと仏教ではなかったからです。
33名無しさん@1周年:01/11/22 11:12
進化論を勉強したら、因果応報の教えは眉唾モノに思えてきた。
34名無しさん@1周年:01/11/22 11:15
人間と動物に明確な境界線はない。っていうか仏教もそう教えているん
ではないですかい?
35むもん:01/11/22 13:06
「より上層の世界へ生まれてくるためにはどのような修行をしたらよいか」
についてですが、原始仏教では二つの方法が説かれています。
一つは世間の一切の欲望を断ち切る方法。
もう一つは困った人を助ける方法。これを布施といい慈悲といいますが、
在家の長者がはこの方法で上層の天界へ生まれた例が説かれています。

阿含経の修行を終了し菩薩となった人は布施と慈悲の修行をするようです。
大乗特に大般若経は菩薩の教科書のような存在で、すべて布施と慈悲の修行
であると考えても過言ではないと思います。
36通りがかり:01/11/22 13:52
>35

阿含経も大般若経も、釈尊が書いたものではありません。阿含経は、釈尊の日頃の
言動などを記録したものですが、いくら正確な記録が残っていたとしても、釈尊の
「心」を再現することは不可能です。料理で言えば、物故したシェフが残したレシピ
のようなものです。レシピだけで料理は完全には再現できない。そもそも、名人級の
料理の鍵はレシピの形に書ける部分でなく、シェフの「心」使いの違いにあるもの
です。

私が思うに、釈尊は「修行者はすべて菩薩たるべし」というイロハは、当たり前の
こととして教団で教えていたのではないでしょうか。後世において、よもや、自分の
後生のために修行するというような「身勝手な修行者」が現れるとは思ってもみなか
った。それで、レシピとしての阿含経には「菩薩たるべし」という注意書きが抜け落
ちた。

いわゆる上座部では、このレシピを文字通り鵜呑みにしたため、肝心の釈尊の「心」を
忘れてしまった。その矛盾がどんどん膨らんで、宗教改革の形で爆発したのが大衆部に
よる大乗仏教の登場でしょう。

私見ではありますが、阿含経を読む際には、修行法としての具体的方法とともに、
大乗仏教の菩薩心を補足して読むべきと思うのです。最近、原始仏教に触れて「仏教
修行」をする人たちが増えているようですが、もし、彼らが阿含経を、上座部の連中
と同じ過ちを犯して、「文字通り」にしか読まないとすれば、行き着くところは魔道
ということになってしまうと危惧します。
37名無しさん@1周年:01/11/22 14:26
人をパソコンに準えると。
テキストエディタの様に、キーボードの入力で得た結果を出力する。
これは、本で得た知識を再度言葉にするということです。
その人の個性(プログラム)を介して出力された言葉はその個性を
感じることができます。
その点、変人さんや、元オウムさんの文章は個性が感じられておもしろいですよ。
そこであなた方の文章を入力した私の出力です。

「逝ってよし」というのはお約束で・・

>>1の命題については賛成ですが、「すべての宗教のエッセンスの中に」
その答えはあるとしたほうがより良いのではないか?。
仏教はある世界を記述したものかもしれないが、お釈迦様の悟りを絶対的なもの
とは考えず、キリストの見た「神」又は神道でいう「神」というものもあるわけで、この点はお互い補い合えるものだと思うからです。(もちろんヒンズーやイスラムの神も)
その中で仏教が特異なのは「神」という概念がでてこないところです。
これを肯定的に捕らえるか否定的に捕らえるかで仏教に対する評価が分かれるのですが
そこはひとまず自分のプログラムを疑って考えましょう。
以上楽しみにしてますのでもっと盛り上がってくださいね。でわ・・・。
38変人:01/11/22 14:59
むもんさん
他スレで「幻想世界論」は拝見しております。
この板では有名ですから・・(^^)

通りがかりさん
確かに仰るとおりかと思います。
まあ、実際「空即是色」は観念的には解るのですが、正直その域を出る・・・
というところが、私としては難しいところです。
「ありのまま」で生きていて、「気付けば」そのように生きる。そう考えております。

>
  
39変人:01/11/22 15:25
>>37
バラモン教は、もともと多仏宗教ですからね。
釈迦にしても「仏」という概念がないのは、もともと寛容な宗教(哲学)ですからね。
仏教は、そういうもんだと思っております。
>>1は一応、タタキ台ということですね。いろいろな意見があって良いと思いますよ。
4037:01/11/22 15:52
>>39
対立関係というものを考えると
キリスト教対イスラム教
バラモン教(ヒンズー教)対仏教(これは科学者に属性は近いような気がします)
これは深刻な対立関係だとおもいます。
私も何度かインドに行きましたが、ヒンズー教の中には仏教を邪教
と考える人も少なくありません。
何故だと思いますか?
41通りがかり:01/11/22 16:06
人間の側から神を正しく理解できるわけがないから、仏教ではあえて神を
持ち出さないのだと思います。

ヒンズーの神も、キリスト教の神も、イスラム教の神も、あれは人間が勝手
に想像した姿であって、本当の神ではない。むしろ、その時代の支配者に利用
されて、「神の御名において」人を支配し、異教徒を殺してきただけです。
だから、結果論になるが、ヒンズー教もキリスト教もイスラム教も、実は神の
名前で悪魔を祀っているのです。つまり、どれもが悪魔教です。

悪魔を神と間違って崇拝するくらいなら、神など最初からこだわらない方が
いい。仏教の発想は、私からすれば賢明な選択だと思いますが。
4237:01/11/22 16:14
>>41
なるほど、私はどちらの宗教にも属してないので冷静に読めますが
他宗教の人は冷静ではいられないでしょうね。
この東洋における「新しいものと古いものの対立」これはいつ終わるのでしょう?
私は悲しく感じるだけです。
43名無しさん@1周年:01/11/22 16:31
ある人々が「真理である、真実である」というところのその〔見解〕をば、他の人々が
「虚偽である、虚妄である」という。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争
をする。なにゆえにもろもろの<道の人>は同一のことを語らないのであろうか。

真理はひとつであって、第二のものは存在しない。その〔真理〕を知った人は、争うこ
とがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それゆえにもろもろの
<道の人>は同一のことを語らないのである。
4437:01/11/22 16:49
>>43
非常に参考になる言葉だとおもいます。
しかし真理を知らない人間が争うのは避けられないのだろうか?
人間の理性という最後の砦でそれを達成するのも私は非常に
重要なことだと思っているのです。
45変人:01/11/22 16:56
>>40
バラモン教の本流はヒンドゥー教というなら、仏教はいわば「異端」
扱いなのはいたしかたないでしょう。
ヒンドゥー教からすれば、邪教になるのでしょうね。
4637:01/11/22 17:02
>>45
なるほどー。
それでは仏教から見るとヒンドゥー教はどのように見えるのでしょう?
やっぱり小学校のころ教科書で得たイメージに近いのかなー?
4737:01/11/22 17:09
>>45
ちなみにインドのその人は、仏教は「神」を排除したから邪教だと言ってました。
48変人:01/11/22 17:23
>>47
バラモンの教義を継承しているのは、やはりヒンドゥー教だとは思っています。
ですから、47レスはその通りなのではないでしょうか?

>仏教から見たヒンドゥー教はどのようにみえるのでしょう?
バラモン教を発展させてきた宗教と捉えております。
それはそれで、批判する対象でも無いですね。
バラモンの本流ですから・・・
49変人:01/11/22 17:36
>>47
あの、誤解されては困りますが・・・
仏教は、「ヒンドゥーから見たら邪教」と言うことで、
仏教そのものは邪教とは見ていませんです。はい。
50通りがかり:01/11/22 17:39
>47

もう一点、仏教とヒンズー教の違いがありますよ。釈尊はカースト制度
を認めなかった。仏道修行者は、カーストに関わらず平等に扱った。

私の目からすれば、カースト制度なんていう野蛮な制度を認めるような
連中が拝む神が、悪魔でないわけがないと思う。
5137:01/11/22 17:50
>>48
なるほどよくわかりました。
変人さんは本気のブッディストなんですね。
私は中途半端で頭悪いからそこまでなれなかったので
ある意味ですばらしいことだと思います。
仏陀はすごい人だとおもいます。
ただおしいかな悟ったときにそこに神がいるのによそ見してたん
じゃないかな?とも思ってしまいます。
なぜならばほかの宗教にもかならず真理があると思っているからです。
もちろん仏教的立場から神を容認するのは困難だとおもいますが
仏教を完成形と考えずにもうちょっと柔軟性があればなと思っています。
いち日本人の意見でした。
気を悪くされたらごめんなさい。
仏教にも素晴らしい教えがあることは十分理解してるつもりです。
52変人:01/11/22 18:05
>>51
>仏教を完成形と考えずにもうちょっと柔軟性があればなと思いますが。

仏教は、なんとなく「ファジィ−」な部分がありますが、そういうところが
日本人に合っているのかなー、なんて思ってしまいます。
53名無しさん@1周年:01/11/22 18:11
>>44
真理を知らないもん同士で争うのも、結構面白いもんですよ。
戦争は嫌ですけど、、
54元オウム:01/11/23 02:54
仏教は古くからいろんな宗派でいろんな解釈がされていますよね。
当然なのかもしれないですが、いろんな事が、観念的に見られている事に
気が付きました。
色即是空ひとつにとっても捉え方が変わりますし。
仏さんは自分の言葉を書物にするなと言ったらしいのですが、
その意味がよく理解出来ますが、結果的にこの様になったという事は
仏さんも大した事無かったのかな。
100年経った後に記述されたとしても、更に新鮮ではない物になって
いるはず。やっぱ、普通の人だったのかな。
私は仏教用語は嫌い。安易に使うと人それぞれ捉え方が違うからです。
55変人:01/11/23 11:09
>>54
仏教の理法を、「最初から全部受け入れる」という手法でしたら、観念的に捉えてしまうかもしいれませんが、
私は、必ずしもそうだとは見ていないんですね。
例えば、日常的?に「虫の知らせ」とか「胸騒ぎ」とか経験します。
フロイト、ユングあたりの解釈を持ち出したとしても、やはりそこには「空」観というものがあります。
「色即是空」は、言葉で説明してもどうしようもない世界ですから、自分で「観」ずるとりしょうがないかと。
仏教は、そういった「気づき」というのでしょうか?
そういったものがないと、観念的に陥りやすくなると思います。
仏教を「どう捉えるか?」ではなくて「どう観ずるか?」かもしれません。
そこのところが一番大事なのではないでしょうか?
心を研ぎ澄ませると、見えてくるものがあるように思うのですが・・・
56名無しさん@1周年:01/11/23 11:23
>>54
スッタニパータなどを読むと、むしろ釈尊が凄すぎて当時の一般民衆
はついていけなかっただろなと思いますよ。一般民衆が求めているの
はわかりやすい因果応報の教え(≒輪廻)であり、神々の物語だった
のしょう。
57変人:01/11/23 20:36
>>51
>ただおしいかな悟ったときに神がいるのによそ見してたん
>じゃないかな?とも思ってしまいます。

「悟り」すなわち「空」の世界は、無神論でもなく有神論でもないファジーなもんだと思ってます。
釈迦は「そうでもあり」「そうでもない」とかいうニュアンスで答える事が多いです。
まあ私としては、その通りに受け取っていますけど。
実際、仏がいようと、いまいとそんなに気を煩わせる事無いと思いますね。
「迷い」というのであれば、それこそが迷いのような気がします。
そういう迷いが無くなった時、なんとなく世界が見えてくるような気がしますね。
58むもん:01/11/24 13:38
>>31
>>世の中は物理的な法則だけではなく精神的な法則も、これと同じ様に存在
>>すると思います。それは神がかり的なものではなく、きちんと計算し証明できる
>>ものではないかと思うのです。それは神がかり的なものではなく、きちんと計算
>>し証明できるものではないかと思うのです。

元オウムさんのおっしゃることは全くその通りだと思います。
フロイトは夢を造る原因は『欲望』だと発表しました。
同じように仏はこの世を造る原因を『欲望』だと説いているのです。
すなわち、自分の面前に起こる事物は苦楽を問わずすべて『因果応報』
だと思っています。
59変人:01/11/24 14:12
>>58
>同じように仏はこの世を造る原因を『欲望』だと説いているのです。

そんな事を説いておりましたか?
仏とは、お釈迦さんのことですか?
60変人:01/11/24 17:50
釈迦の弟子が、「死後の世界は、在りや、無きや」の答えに、
明確に答えなかった。
これにしても「諸法無我」「空」の世界であれば、すでに釈迦は明確に答えていることになる。
それ以上のこととなると、やはり観念的にならざるを得ない。
そうすると、また「迷い」が生ずる。

「そのまま」「ありのまま」で受け入れれば、なんの「迷い」もないのではないか?
と思うのですが、一応メカニズムとして・・・
経験→自覚→発菩提心→開眼。の図式です。
何も無いところに菩提心は起きません。自覚によって起き、自覚は経験によって起きます。
インパクトとのある経験ですとそこは顕著です。これは、表層意識にも大いに関係してきます。
諸法無我は観念的に考えても、なかなか理解できませんが、そこから脱しきれないのも事実です。
これらについて、おいおいレス付けて逝きます。
61変人:01/11/24 18:14
倉庫入りしているスレなんですが・・・こんなのがありました。
>カエルの子はオタマジャクシの子と悟りました。
>これは悟りですか?

いや、実はこのレスはスゴイことなんですね。
私は、「広義において「悟り」だと思います」。とレスつけたら
とたんに、スレを潰されました。
まあ、この事もおいおい私見をカキコします(w
62名無しさん@1周年:01/11/25 05:16
石は石になりたい
63名無しさん@1周年:01/11/25 06:36
友よ、水になりなさい。by ヘノ
64変人:01/11/25 07:19
>>62>>63
そのとおりに、あるがままで受け入れるのが原点な気がします。
考えないで・・
幼児の心で・・
なかなか大人になりますと「気付き」ません。
卓越した方だと察するなり。62,63。
65変人:01/11/25 07:59
自覚について
時代によって捉え方が微妙に違う「4苦8苦」(生老病死)。
そういえば・・
達磨大師に入門を断られ、腕を落とした方がいたそうな、
あれこそが、「自覚」の重要性を示唆しているのではないかと思っております。
66名無しさん@1周年:01/11/25 17:14
>>65
既存の価値観を捨てる。ということですね。なかなか意味が分らなかったのですが。
観念的に考えてもできるものではありませんよ。
いつか、外因の話をしていてようやく気が付きました。やはり、ストレートに受け止めて
しまいますからね。あれも一種の「業」というんでしょうね。なんてことは無かったです。
「自覚」というのは「受け止め方」なんでしょうけど、なんといいますか、驚きました。
67名無しさん@1周年:01/11/25 17:22
日本での仏法は釈迦の教えとまったくちがう物が多いように思います。
みなさんはどう思いますか?
68名無しさん@1周年:01/11/25 17:34
そうですね はい
69変人:01/11/25 17:41
>>67
全く違うと思います。「仏様」の概念自体違うと思います。
70名無しさん@1周年:01/11/25 18:05
小林秀雄「私の人生観」に極楽浄土に言及した箇所がありました。ご存じの方いるかなあ?
71名無しさん@1周年:01/11/25 18:12
>>67
例えば?
72名無しさん@1周年:01/11/25 20:22
>71
これは私が感じたことなのですが
日本の仏法は「死後の世界」という人間のわからない部分が
強調されているような気がします。
釈迦の伝えたかったことなのでしょうか?
73名無しさん@1周年:01/11/25 20:31
>>72
死後の世界を語ることが気にくわないのなら、それは対機説法あるいは
方便であると理解したらどうですか?
74名無しさん@1周年:01/11/25 20:31
あと仏とは言ってるけど、日本の仏教って実際は神格化していて全然仏じゃない。むしろ神。
あと仏像。仏陀は偶像崇拝禁止してたよ。
あと死後の世界を肯定してないし。

日蓮が仏だという日蓮正宗ならその概念は通じるだろが、あくまで仏陀を本仏とするなら、日本
仏教は仏教ですらない。
75名無しさん@1周年:01/11/25 20:38
>>74
今さら大乗非仏説は古いでしょう。あなたの言い分だと例えば法華経も
偽経となってしまいますが、仏教学者で法華経を含む大乗経典を偽経と
する立場の人はほとんどいないはずです。
76名無しさん@1周年:01/11/25 20:53
「大乗非仏説」ではなく「大乗非釈尊説」
77変人:01/11/25 22:40
「神」というのは概念が掴みやすいが「仏」とは、その概念もいろいろだね。
きっと、自分なりの概念を持っているんだと思う。
私は「空」観で捉えちゃうから、皆さんが抱いている概念と少し違うかもしれないね。
「神」みたいな概念の人もいるかもしれないから、そこのところは人それぞれだと思う。
しかし、こういった宗教も珍しいね。世界を見渡しても、まあ、見かけないと思うね。
実際、ファジーな宗教かと思う。まあ、そこのところが良いのかもしれないね。
78変人:01/11/26 15:04
>>66
自然な動きというのは、「太極拳」を連想してしまいますが、私もあれは良く分りません。
あれは非常に動きがゆっくりですね、ああいった感じだと思うのですが如何ですか?
察するに、あれが一番人間には「居心地」が良いのかもしれません。
それが良く分ります。だんだん、それに慣れてきますよね。良い事です。
79名無しさん@1周年:01/11/26 15:10
>>78
出来るように成るまでは物凄くキツイっす。<太極拳
80光の子:01/11/26 15:53
 私は仏というのは「誰か」ではなくなったもの(≠「者」)、崇拝の対象では
なく「崇拝するもの」と「崇拝されるもの」といった対象(対象の個別的認識と
いう「作用」)が滅した状態、という気がしています。誰こそは仏だ、という時
の「誰」に相当する部分、この仏法こそが正しいと断じる「判断主体」。それら
が「仏を覆い隠す仮面」なのかもしれない。その仮面は、他人を騙すためにかぶっ
ているつもりでいて、一番だまされているのは自ら作り出した仮面という想いを
かぶっている(と思い込んでいる)自分自身なのでしょう。

 自らの仮面を自覚する「自ら」が消えた時、初めて「自覚」が起こる。自らが
作り出している想いが滅した時、その想いによって初めて自らの想いに気づく。
鏡の上に積もっているように思えた塵が消えたように見えた時、人はそこに鏡と
鏡を見る自らが存在しているという想い(塵)などあり得ないことを、仏として
自覚するのでしょう。そして、仏が「いない」ことによって、目覚める。
81そうですわ〜  :01/11/26 16:15
お釈迦さんが、すごいなぁ と思うとこは、パンニャーパーラミータ心経の一節
「無苦集滅道」でんなぁ。 道=こなー言うてるこれも、これさえも無、おまへんねんでっ!
自分の 説 をハナにかけるどころか、「おまへんねん、おまへんねん」と言ってのける。

ようけ、本出したりしとう教祖のおっちゃん・おばちゃんらとエライ違いやな。
82変人:01/11/26 17:18
>>79
>出来るように成るまでは物凄くキツイっす。
これは、想像してもよく分ります。
光の子さん
>仏が「いない」ことによって、目覚める。
この部分が、一番究極かと思いますね。無信心の信心でしょうか?
なかなか人間、マッサラな状態になれませんからね。
しかし、実際こういった状態で、ハッキリ見えるのだと思います。
どういう世界観か、わたしには大体見当はつきます。それが正解かと思います。

そうですわ〜さん
まあ、こういうところが仏教の真髄だと思いますね。
そこに「気付き」というのが付加されていくんでしょう。
そこには「観念論」の世界は無くなると思いますね。
83名無しさん@1周年:01/11/26 19:39
84名無しさん@1周年:01/11/26 19:58
私は仏=法であると理解しているけど。
85通りがかり:01/11/26 20:09
>>81

ある意味で、建物のリフォームと似ていますね。工事のために足場を組んで、作業が
終わると今度は足場を外していく。悟りを得る手段として仏法があるが、一旦悟りを
得れば仏法には用はない。だから、足場のように外していく。結局、残るのは「自分」
それも見かけは同じでも、以前とは全く違う自分だけ。しかも、よく記憶を辿ってみる
と、工事なんかひとつもやっていないんだ。足場を組んで、足場を外しただけ(^^)。
86ええこと言わはるわ〜 :01/11/26 20:16
通りがかりサン  うまい!  ええこと言わはるわ〜  楽しい気分にさせてもうて、ほんま、おおきに。
87通りがかり:01/11/26 20:18
>86

そうでっか、おおきに〜(^^)
88あんさんも :01/11/26 20:33
おたくも、ベタベタでっか。 このゴチャゴチャな時代、ふたたび“関西弁”の癒し効果の出番やと
うちは思いますけどなぁ。どない?
89名無しさん@1周年:01/11/26 20:34
90変人:01/11/27 00:54
>>84
ああ、これも又究極ですね。
一番最初の、釈迦が悟りを拓いた時は、まさに「法」でしたでしょうからね。
仏教の原点というのは、これに尽きるような気がします。
いろいろ勉強させられますね。
91名無しさん@1周年:01/11/27 01:51
>>90
「摂理」とは違うニュアンスですか?
92名無しさん@1周年:01/11/27 02:19
私は仏にもなる、私は羅にもなる、私は神にもなる・
私は仏である、 私は羅でもある、私は神でもある
私は仏でもなく、私は羅でもなく、私は神でもない
私はこれら全て満たしている。
あなたは、これら全て満たしている。
外から呼び出されそれらになることもある。
内から呼び出されそれらになることがある。
感情によって、それらになることがある。
理性・知性によってそれらになることがある。
その時」「私」はどこに居るのだろうか?
それらは、私であって私ではない・
そして、私ではなく私である。

あなたが私に心からの涙を流し、その痛みを
たとえ。同情としてもりかいできるのならば、それは
昔、あなたが私と同じような痛み・哀しみをどこかで
心で経験したから。
ならば、私もあなたの、痛み哀しみをどこか昔、心に感じた事が
在るならば、それが大きいか小さくかは分からないが
きっと理解できるだろう。
ここの部分で、同じ物を持ち合わせてる部分として
私はあなたで、あなたは私なのだ。
93名無しさん@1周年:01/11/27 04:26
禅のスレッドでも同じ内容を書いた者です。
決してふざけた質問ではなく、真面目に悩んでいます。
組織嫌いなので無宗教ですが、仏教や精神世界の本を読むのが趣味の凡人です。
このスレッドに書き込まれている諸賢にお聞きしたく存じます。

お釈迦様の遺訓の「自灯明 法灯明」というのは私的にはいつも人生で迷った時の
最後の砦のように支えとしている教えでございます。
またよくニューエイジの本、一般心理学や人生論の本には「自分を大切にする(愛する、
信じる)」ということが大切な人生の原点のような記述がされていて、小生も賛同し、
このことは先の「自灯明 法灯明」と同趣意のことを教示していると感じておりました。

ところが禅関係については詳しくありませんが、道元禅師は「仏道を習うは自己を習うなり。
自己を習うとは自己を忘れるなり」と述べられているそうで、この自己を忘れるというのは
つまり自我や我執を捨てる、放る、否定するという意味だそうで、ものの本にも禅はもちろん
真の仏教は自我を捨てる、否定することを説いているものだと書かれてありました。

先の自灯明(自帰依)とは自分を頼る、信じる、肯定することで、後の自己を捨てる、
否定するというのとまるで正反対のことを説いています。
一体、どちらを信ずればよろしいのでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
なお小生は感覚的に自分という存在は肯定しようが、否定しようが今、ここに生きて
いる以上、より良く、幸せな人生を歩むためには「自分の存在」そのものは肯定し、
ありのままに受け入れた方がいいのではないか、否定するというのは心がネガティブ
というか、暗くなってしまうのではないかと思います。
94光の子:01/11/27 07:08
>>93

 自我を捨てる、否定するというより「自我」と思っているものが自ら作り
出している非本質的な一種の「作用」にすぎない、と(その作用が滅したこ
とによって)気づいた時(当然そこには誰も「気づく者」はいない)に自然
に「自我」が落ちていくのでしょうね。自我を忘れた時、そこに自我を否定
しよう、捨てよう、とする「自我」はありません。逆に、自我を捨てようと
すれば、それは自らにさらなる自我(自我を捨てようとする自我)が「ある」
と思い込ませることになります。自我とは、自らを離れて「捨てる」ような
「対象」として存在するものではないのですから。

 自分が存在すると言う時、あなたは自分を(これこそが「自分」であると)
「限定」しているわけです。その限定の範囲は、どこまでなのでしょうか?
何が「自分」なのか、そしてその「自分」が存在している、と思っている自分
は何をもってそう思っているのか....。
 あなたが普段自分を定義している限定を「忘れた」時、「あなた」は存在し
ているのでしょうか? そこに自我を忘れた何かが「ある」と感じられるのな
ら、それが「灯」になるでしょう。「あるという感じ」が「ない」のならば、
あなた自身(とかつて思い、意味を失ったもの)が「灯」です。その灯は、
決して失われることはありません。その灯には照らす物も見る者も(あると
いう思いが)ないのですから。
95名無しさん@1周年:01/11/27 07:38
有難うございます。
何度も読ませていただきましたが、小生、頭が愚鈍のため、光の子様の言われんとする
趣旨が今ひとつつかめません。
要するに自分と言う意識が消えた時の自分自身こそが灯明になるべきものということでしょぷか?

小生はただ単純に飯を食うとうまい、ドアに手をはさまれると痛いと感じる「自分」という
ものを措定させていただきました。
ごめんなさい、本当に難しいお話はついていけません。
96名無しさん@1周年:01/11/27 08:14
>>93
禅には詳しくありませんが、
「自己を忘れる」というのは、むしろ法灯明のことだと思いますよ。
法に帰依するときは、自己は忘れるものでしょう。
97変人:01/11/27 08:28
>>91
>「摂理」とは違うニュアンスですか?

う〜ん。これも考えてしまいます。
「摂理」の言葉の概念が、どこまでの範疇のものなのか?
実際、「空」は言葉の概念から逸脱していますからね。
これは、個人個人の「摂理」における言葉の概念に掛かっていると思います。
98変人:01/11/27 08:53
>>94
そうですね「色即是空」には、すでに「我」は無いですからね。
「我を捨てる」と言っても、捨てようがないですね。
そこには「無い」のですから・・・
それによって、初めて「気付く」のかと思いますね。
いわゆる「見性」。全部捨てきって、初めて「見えてくる」。かと思いますね。
「空」とは、「見えた世界」なのでしょう。
「慈悲」「命」「有無に非ず」すべて包含していると思いますね。

釈迦が方便で伝えようとしたのが、なんとなく分る気がします。
これは、言葉では説明が無理ですからね。
「死後の世界が、在るやも知れぬ、無いやも知れぬ」。は実際、本当ですね。
「空」が、まさしく言葉の概念を逸脱した世界ですからね。
説明しようがなかったんだと思いますね。
99通りがかり:01/11/27 11:14
参考になるかどうかわかりませんが、こういう見方はどうでしょう。

「自分」というのをよく見つめていると、所詮は炭素原子や酸素原子の集まりな
わけですよ。私が死んで火葬になれば、煙と共に世界へ出て行って、植物の根や花
に姿を変える。つまり、世界万物の「材料」は同じもの(原子)であり、「自分」
というのは縁によって「材料」が組み合わさっただけだ。万物には差異があるようで、
原子レベルで見れば、どれも似たようなものだ。ダイヤモンドも炭も、同じ炭素原子
が配列を変えたにすぎない。それが「色即是空」です。

では、ダイヤモンドと炭、「自分」と「他人」は同じか、というと、そうではない。
ダイヤモンドは女性に重宝されるが、炭でなければ暖房の用には立たない。ダイヤモンド
にはダイヤモンドの性質があり、炭には炭の性質がある。ダイヤモンドでなくては
いけない、炭でなくてはいけない、という部分がある。「自分」と「他人」もまた
同じ。「作業員A」、「作業員B」として会社はリストラができるが、実態はひとりひとり
かけがえの無い「人間」だという風に見ると、とても粗末には扱えない。そういう
見方が「空即是色」です。
100名無しさん@1周年:01/11/27 12:08
「ギャーティ・ギャーティ・ハラギャーティ…」って、もしかして、「逝ってよし」って意味なのかのぅ?
101通りがかり:01/11/27 12:32
>>95

>小生はただ単純に飯を食うとうまい、ドアに手をはさまれると痛いと感じる「自分」という
>ものを措定させていただきました。

私はそういう「自分」でよいのだと思っています。ドアに手をはさまれた時、「コロヤロー」
抜きでただ「痛い」と感じられたら、それは仏でしょう。良寛さんが渡し船に乗った時、
船頭が故意に船を揺らして、良寛さんが川にはまった。一説には、行き先を聞かれたのに
行き先はない、と答えたので、船頭は馬鹿にされたと思ったらしい。良寛さんは、泳げな
かったらしく、ずぶずぶと川底に沈む。あざ笑って見ていた船頭が、今度は青くなって腕を
川に突っ込んで救い上げた。命拾いをした良寛さんは、ひたすら船頭さんを命の恩人として
拝み、決して自分を川にはめた行為を咎めなかったと言います。

自分の身に起こることは、善も悪もおしなべて、合掌して「あるがまま」に受け取ってしま
うんですね。「コノヤロー」抜きの「痛い」ですね。そのくせ、助けてもらった時には喜んで
お礼を言う。単純に考えると、「サンキュー」抜きの「救われた」でなければならず、
一見矛盾する行為ですが、やはりこうでないと仏教はいかん、と個人的に思っています。
102変人:01/11/27 14:11
>>99
鉄(fe)は、原始レベルではアメーバ−のように動くらしいですね。
これも「色即是空」ですね。
>>101
良寛さんに似ている方がいますね。
山下清さん。あの人も「大愚?」の境地だったんですかね。
103通りがかり:01/11/27 14:58
>102

高田後胤さんが、山下清画伯が若い頃に薬師寺を訪れた時の印象を絶賛して
いたのを読んで、出来心からリトグラフを買いました。居間にかざってある
のですが、なんせ飽きが来ません。最近、気がついたことですが、彼が絵を
描く時、どうも「主題」とか「中心画題」とかを決めずに、画面の中央も端
も無関係に、とにかく細かくていねいに画いているのですね。どこもかしこも
手を抜いていないから、いつ見ても新鮮に見える。ちょうど、風景を直接に
目で見ている感じなんですよ。自然の風景というのは「はしょったり」「美化
したり」ということがない。あれをそのまま地で行くのが山下清なんですね。

見る日によって違う風が絵の中を吹いている感じです。
104そうですわ〜  :01/11/27 15:19
みなさん、こんにちわ  昨日にひきつづき、おじゃまさせてもらいます。私が、お釈迦さんの説“五うん皆空”に
「そうやなぁ〜」と思ったのは、やっぱり、もうすぐ七年になる 阪神大震災 を体験したのがダメ押しになってると
思います。あれだけのむごい地獄絵図を目の前に突きつけられると「まぁ、いろいろと辛い・悲しいことがありますけど
最後には、すべてのものが消えてなくなりまっさ。いずれ、消えてなくなるもんに、まぁ、こだわるもこだわらないも
あんさんの自由でっけど、僕は、こだわったってしょうがない思いまっけどなぁ。こだわるも何も、な〜んにもなくなって
しまうんだから、こだわりようがない!と僕は思いますけどなぁ〜。」
このお釈迦さんの気ぃ付いたことは、ほんと心を穏やか〜にさせてくれます。
「え〜い、泣かせるぜい。こちとら、涙が出てくらぁ。」
105あわれ:01/11/27 16:01
政治やら、宗教団体のカネまみれな姿を見ていると、まったくもって あわれ
としか言い様がないです・・・
106@@@:01/11/27 16:21
宗教扱ってるところが、欲のかたまり   いい教えだ!
107大枚はたいて:01/11/27 16:45
ドームだ ドーム ドームを貸し切れ
108餓死:01/11/27 19:12
そのおカネで、食料をををををを
109名無しさん@1周年:01/11/27 19:21
93です。
96様、通りがかり様、勉強になりました。
>「自己を忘れる」というのは、むしろ法灯明のことだと思いますよ。
>法に帰依するときは、自己は忘れるものでしょう

「自灯明 法灯明」と「自己を忘れる」とはつまるところ同じ真理を教示
しているということですね。
私は自己というものを忘れるということでも、どんなものでもつかまなければ
離すことができないように、自己というものを見極めるというか、自己を見つ
めるというか、自分というものをはっきり意識する作業が不可欠だと感じます。
いきなり自分を忘れるというのはニューエイジで説く「あなたは宇宙と一体だか
らそのままで神であり、完璧である」式の悪しき本覚思想に通じてしまうと思います。
ですから96さんの仰るようにまず「自灯明」という地平で自分という意識をしっかり
持って、日々の努力精進を経た後に、やるだけやったら後の結果はは天に任せるという
法灯明に到達する、別言すれば「人事を尽くして天命を待つ」ということにつながるで
しょうか、それだと思います。

通りがかり様
良寛さんのこのエピソードは初めて聞きました。
いかにも彼らしい話ですね。
また空即是色 色即是空のお話、胸落ちしましたです。
ところで通りがかり様の言を私なりに読み返させていただきました。空即是色は
法灯明であり、色即是空は自灯明に配当できるのではないかと・・・。
いずれにせよ釈尊の「自灯明 法灯明」と道元さんの「自己を忘れる」とは矛盾
していないという理解でいいですよね?
110187:01/11/27 19:54
>>103通りがかりさん
そういえば、良寛さんも書体(掛け軸)も何か特徴が有るみたいですね。
決して上手でないらしいんですが、「無心」で書くので、その筋の方は「高い評価」を付けるらしい。
「無心」で書くのか、そうでないのか?まあ、見極める方もスゴイと思います。
111通りがかり:01/11/27 20:14
>109

私は不勉強で、「自灯明 法灯明」というのはこのスレで初めて目にした言葉なの
です。確かに、すべてを空じていって、最後に空じる自己ですらも空じてしまうと
何もなくなる。それは真空状態かと言うと、実は森羅万象が詰まった、実にカラフル
な世界だった、というイメージでしょうか。

私は「十牛図」から禅の世界に入ったのですが、第八図の「空相」と第九図のカラフル
な森羅万象の間に一体何が起こったのか、とずっと不思議に思っておりました。あそこに
ビッグバン級の不連続点が横たわっているのは確かですね。
112通りがかり:01/11/27 20:23
>110

それがですね、良寛さんの書は書体だけでなくて、中身も変わっているの
ですよ。柿の木に登って柿の実を取っている人を見上げて、ふんどしから
見え隠れするものを寒風に揺れる柿の実に見立てて歌にしてみたり。
一休禅師も人気のある禅僧ですけど、あの人が残した歌などには、独得の
嫌味がありますでしょう?良寛さんのはいつも底抜けに晴れ渡った秋空の
ような清明さがあって、惚れ惚れしてしまいます。本物の生き仏ですね。
113変人:01/11/27 20:44
>>111
>ビッグバン級の不連続点が横たわっているのは確かですね。

ビッグバン以前にも宇宙は在った。という事になりますね。
宇宙は、発生、消滅を永久に繰り返している・・という説もありますからね。
また、宇宙発生の時の「ゆらぎ」。どうも「反物質」が消滅しているらしい。
ということは、反宇宙も在るのかな?と思ってしまいます。
まあイメージとしては、ブラックホールの反対側ということでしょうか?

こういった宇宙というのも、どことなく「空」というイメージですと
そのほうが、はるかに理解しやすい気がしてしまいます。
まあ、言語の認識より相当逸脱していますからね。
11496:01/11/28 09:06
>>109
道元禅師の場合は坐禅が前提にありますから、「自己を忘れる」といっても、坐禅する自己を踏まえてあると思います。

「自灯明 法灯明」については、私は、二面的、あるいは円環的に捉えています。
二面的というのは、
自己に帰依するときは、法は忘れられている。法に帰依するときは、自己は忘れられている。
円環的というのは、
自己に帰依する、その自己が法に帰依する、その法に帰依する自己に帰依する。

たとえていうと、
人事を尽くす>天命を待つ(天命に安んずる)>人事を尽くす
というところでしょうか。
115通りがかり:01/11/28 09:36
>>113

トリチェリでしたか、「神は真空を嫌う」というのに近いように思います。
完全に空じ尽くすと、そこには何もない真空状態になるか、というと、実は
真空状態を埋めようとする力が働く、ないしは真空状態以前に全宇宙に遍満する
「あるもの」の姿が浮かび上がってくる。

いくら高性能ポンプで引いて完全な真空状態を作り出したとしても、そこには
「空間」が残ります。では、その空間を無くすには、と考えると、もうどうしよう
もない。宇宙が「ある」限り、「ある」ものをなくすことはできない。まさに
神とは「私はあるという方」(創世記)です。

私は仏教の「空」をバーチャルリアリティー(唯識論に見るような)のようには捉えて
おりません。宇宙は「ある」。ただ、そのありようについては、人間が勝手に決めつけられ
るようなありかたではない。無為自然に対して、人工的な価値観(その代表が西洋合理主義)
の色眼鏡を通して見る行為が「空」=実態のないもの、という理解です。

ある人が、おまじないをすると雨が降ったと思い込んでいたら、そういう人工的な解釈は「空」
です。実態は、人間の思惑に関係なく、降るときに雨は降るのです。そこを、「諸法皆空」など
の言葉尻にとらわれて、「雨など実態がないものだ」と拡大解釈すると道を誤ってしまいます。
雨を浴びれば濡れるし、体を拭かずにいると風邪をひきます。そういう雨の「あるがまま」を
捉えるのが仏教の視点だと思います。
116名無しさん@1周年:01/11/28 10:33
98変人さん
それによって、初めて「気付く」のかと思いますね。
いわゆる「見性」。全部捨てきって、初めて「見えてくる」。かと思いますね。

その全部捨てきった時に、何が残ると言うのです?全部捨てたなら、何も残らない
はずじゃないですか。捨てられるだけのものは捨てたのですか?それとも、全部
捨てたと仰るのですか?全てを捨てる人は、死人だけですよ。死の覚悟が出来ても
全てを捨てたとはいえない。執着がつくる覚悟もあると思います。そこのところの
見極めは、どうするのですか?
117名無しさん@1周年:01/11/28 10:41
115
ブラックホールは、空間さえも吸い込むらしいですよ。非常に強烈な重力場を
こしらえるテクノロジーがあれば、慣れ親しんだ空間さえも人間は操るように
なるかもしれません。そこで見えてくる宇宙とは如何に・・・
118宇宙って、フシギー:01/11/28 11:49
最後は、ぜ〜んぶブラックホールが呑み込んじゃうんですねぇ。そのあとはー
そのあとが、知りた〜い 知りた〜い。  でも、知りたくな〜いって
感じもーー。
119変人:01/11/28 15:18
>>116
例えば、貴方が旅先で「お金」を紛失したとします。
通常ですと、お金は「在り難く」もあり、また「執着」の素因でもある厄介なものです。
だがしかし、そこで初めて「気が付く」のです。実は、貴方の命を繋げているものでも有るという事を・・
まあ、これは極端な喩えですが、捨てて(紛失して)得るものとはこういう事です。

例えば、命を捨てると覚悟した場合。限られた命の重要性が、改めて認識されるでしょう。
これらは、覚悟して初めて解るものではないでしょうか?
観念論の域を突破するくらいのインパクトがありますと、「意識」自体に相当「変化」を
生じると思いますね。
これは私見なのですが、太古の人間は経験的に自覚していたと思いますね。
常時、爬虫類の襲撃に身を晒すわけですから・・精神世界は豊かだったと推測しています。
疑問でしたら、またレス付けて下さい。直ぐには理解できないでしょうから・・
120変人:01/11/28 18:23
>>115
「諸法皆空」。確かに意味とすれば、そう捉えがちになります。
まあ、そこのところを・・・事象は事象なりに。ということでしょうね。
「それなり」「あるがまま」。ですね。
121通りがかり:01/11/28 18:40
>119

>限られた命の重要性が、改めて認識されるでしょう。

別スレでこんなことを書いている人がいました。アウシュビッツ収容所では、
誰も自殺する人はいなかった、それは常に命が脅かされていたからだと。
ある意味、死ぬということは、人間に与えられた最大の栄光なのかもしれない。
線香花火ははかないが故に美しい。幼児は弱きに徹しているが故に、母親の愛を
受ける余地がある。恐らく弱いが故に神にも愛される。
122ありがたや ありがたや:01/11/28 19:04
何何は、風邪ひかん というから、ぼくは滅多に熱出して寝込むってことは
ないんですが、何年かに1回、寝込んだ時、日頃の健康のありがたみが、わかります。
ボウディースバーハー(バをウに点々にちっちゃいァで書きたかったんでちゅが)
123変人:01/11/28 19:29
>121
私見であるが・・
人間というのは、常時「死」のリスクに晒されると、自己防衛本能というのでしょうか?
ある部分が「覚醒」されると思いますね。
人類の歴史は、リスクがあった時代のほうが遥か長いでしょうから
現代人以上の「能力」というのでしょうか?在ったと思いますね。

現代社会において、殆どリスクは無くなり、そういった「能力」は潜在意識に
閉じ込められている可能性があると思っています。
視覚、聴覚、嗅覚、第六感、潜在の未耶識。そこいらへんまで発達していたと思いますね。
私としますと、このジャンルは非常に興味のあるところです。
124通りがかり:01/11/28 19:53
>123

もし、われわれがジャングルに住んでいて、いつライオンに襲われても
おかしくない環境に置かれたとしたら、きっと仲良く、隣人をいたわって
過ごすでしょうね(^^)。きっと、真剣に日々の無事を神に祈るでしょうし。

>視覚、聴覚、嗅覚、第六感、潜在の未耶(マナ)識。

私は唯識を認めていません。あれを信じたら永遠に仏にはなれませんよ。
ちゃんとそう書いてあります。人間の意識のモデルとしては面白いですが、
あんなもので苦しんでいる人間は救えません。
125変人:01/11/28 23:36
>>124
唯識について
それらの見解は、どのように見ているのでしょう。
「見性」「「悟り」については、阿頼耶識とかそういったところはどうなんでしょう。
そこいらあたり非常に興味があります。
「空」観による「我」の否定が底流にあるのでしょうか?
126珍念:01/11/28 23:54
なんで仏教って信じる人がいるんだろうね。
昔、原始仏典っての読んだけど、仏陀の弟子を迫害した王様とかが
神に滅ぼされたりして、なんだこりゃと思ったよ。大体、方便とかってかなり偉そうなんだよね。ストレートに語れば
いいじゃん。特に今の時代の宗教家はなんだ。識字率が高い日本で
こ難しく教えてさ。本当は何も分かってないんだろ。ごまかすな。
127名無しさん@1周年:01/11/28 23:57
>>126
あなたが原始経典読んでないのはバレバレなわけで。
128通りがかり:01/11/29 10:02
>125

私は唯識関係の入門書を読んだ程度ですが、唯識とは「因果応報」のメカニズムを
阿頼耶識などで説明するものです。阿頼耶識という倉に、自分の善業や悪業の記憶
が蓄えられ、そこから善果や悪果が出てくるという。確かに面白いですが、人間を
ロボットのように扱っているので、とても宗教とは言えません。哲学ですね。オウマー
なんかが飛びつきそうです。メスで脳みそを切り裂いて、煩悩の源を取り出そうという
発想に近い。私が思うに、仏教が持つ「無神論」の最も悪い面が現れたのが唯識だと
思います。唯識論を勉強して、心が洗われるような体験を持つ人などいないと思います。
129変人:01/11/29 10:38
>128
ああ、なるほどね。
どうしても、根源的な事を考えますとメカニズムがあるんじゃないか?
と思ってしまいますからね。
一度思いこんじゃいますと、それをベースに判断するようになる。
まあ、そういったところの柔軟性というのも、再度考えねばなりませんね。
既成概念に囚われない・・ということでしょうか?
そういうことも大事なんでしょうね。
130通りがかり:01/11/29 11:08
>129

根源的なメカニズムを知ることはよいのですが、人間は欲がありますから、
つい自分の勝手にそれを動かしたくなる。株式市場のメカニズムを勉強する
内に、ひょっとしたら自分も金持ちになれるかもしれない、という欲心が
顔を出します。同様の理由で、悟りのメカニズムを知ることで、悟りに執着
する心=「金鎖」にがんじがらめに縛られてしまいます。こういうのをミイラ
取りがミイラになる、と言うのです。
131名無しさん@1周年:01/11/29 12:52
仏陀は悟る事より苦しみを乗り越える道を教えたのではないのですか?
最初に悟りを求めてしまうという人々の気持ちがイマイチ分からない。
132通りがかり:01/11/29 13:05
>131

しかし、実際にはこの世の苦しみを本当に苦として受け止める人は少ない。
そういう人たちが知的好奇心から仏教の門を叩くと、悟りを求める修行に
はまってしまうのです。

「人間、地獄というものにほんとうに気づくのは、なかなか生やさしいこと
ではない。その地獄を真に脱することのできた人は、少ない。その上に他の
ために地獄に下る人はほんとうに稀な存在である」(秋月龍民『白隠禅師』)
133人間・お釈迦さん:01/11/29 13:12
私も、「このつらく・悲しい世の中をどうやったら、こころ穏やか〜にすごして
いくことが出来るか、どうやったら乗り越えていくことが出来るか」これを
お釈迦さんは、言ってくれてるんじゃないかと思います。
134名無しさん@1周年:01/11/29 13:53
132
確かに。私も悲しみや苦しみを誤魔化す楽しみを追って生活しちゃうからね。
でも、その後の虚しさにやりきれなくなる時があるんだよね。これが問題。
私の場合。ありゃどうしましょ!?この虚しさに一生付きまとわれるのは
御免こうむりたいのに、快楽を追っちゃう。困ったもんだ。
135考え方も覆った:01/11/29 14:20
もうすぐ七年になろうとしていますが、阪神大震災を体験して、変わり果てた無残な街の姿を
目の当たりにして「この世の無常」を痛切に感じとったものでした。
地震というとてつもないチカラで地が根底から覆ったように、ぼくの考え方も根底から覆らされました。
136名無しさん@1周年:01/11/29 16:04
>>135
地震もまた、あなたの前では如来の相を現ぜられたのですね。
いや、
これはぼくがあなたに対して語りかけることのできる言葉じゃないですけど。
137六千有余の御魂へ:01/11/29 16:25
大した被害にも遭わなかった者として、せめて何かしかの 得るものがあれば
地震で志半ばで亡くなった人たちに顔向けができるんではないか、ただただ、
こう願うのみです。
138変人:01/11/29 16:34
>>135
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。
来年で7年目ですね。
139名無しさん@1周年:01/11/29 19:43
今は亡き人の供養というのは無意味だろうか。死んだら全て消滅してしまうのだろうか?
140変人:01/11/29 20:23
>139
釈迦は、「死んだ人は忘れろ」「執着から離れろ」。と言ったらしいです。
まあ、そんな事を言いましても、実際供養はどこの家でもしてますからね、
全くしない訳にはいかないでしょう。

「供養したい」と思う心。それが大事なのでしょうか?
141変人:01/11/29 22:30
>>134
>その後の虚しさにやりきれない時があるんだよね。

人類普遍のテーマだね。
これは、仏教的に「苦楽一如」「生死一如」「善悪一如」みたいに、全部合一で考えちゃうと
随分違うんだけど、実際はそう思ったようにはいかないよね。
でも、なんかのキッカケで解ってしまう事もあるよね。
「苦があるから楽がある」「苦がないから楽がない」。そういう分析の仕方をすると、なんとなく解るよね。
そういうふうに考えると、「虚しさ」もキッカケで解ってしまう事もある。
「気付き」というのかな?なかなか「気付き」がないのも人生だけど、やはり「気付き」は必要だと思うよね。
ほんのチョッとしたことなんだけどね。
142名無しさん@1周年:01/11/29 22:36
>>141
「気付き」って言い方がなんか新興宗教っぽい。
143変人:01/11/29 23:24
>>142
あはははは。面白い。

実は「気付き」というのは最も大事な事だと思いますね。
以外に「気付き」に「気が付かない」。・・・しゃれに非ず。
「悟り」なども、「気付き」とうのがベースになっていますからね。
「気付き」は簡単に思ってしまいますけど。さに非ず、簡単ではないと思います。

「大悟」にして「目横鼻直」ですからね。いかに「気付き」が重要であるか。という事です。
インパクトのある経験をしますと、おもわず「気付き」が出てしまう事があります。
以外ですよね。これは本当の事です。
2chのレスを拝見していて、おもわず「気付き」があることもあるでしょう。
結構あなどれませんよ。
144アドレナリン:01/11/30 01:21
本当、ここは侮られません。よく、ベンキョウになります!  おつむの中、あどれなりん いっぱいでてきます。
145名無しさん@1周年:01/11/30 01:35
ドーパミン出せよ。
146ムーミン:01/11/30 02:53
ねえ、ムーミン  あっちゃ、向いて。
147変人:01/11/30 06:58
「色即是空」には、「気付き」のヒントがエッセンスになっているんだよね。

例えば、饅頭と団子。どちらが良いか迷ってしまうよね。
この「迷い」で人間は苦しむと思いますよ。迷いの根源は、相対的に見る癖のせいもあるよね。
本当は、饅頭も団子も「全く同じもの」と解ってしなうと、迷いもなくなるね。
色即是空は、みんな合一。全く同じもの。それが解るのが「気付き」だね。
「気付く」と、今までの「悩み」が妄想だったと、だんだん解ってくるよね。
「気付き」とは、そういうもんだと思うよね。
148変人:01/11/30 07:30
「色即是空」は全部合一だから、「相対」がないんだね。
だから、何となくファジーで、霧のかかったような状態だよね。
簡単に言うと何もないんだね。でも、何も無いからこそ、いろいろ解るんだね。

仏教の原点は、何も無いところから、いろいろ「謎が解け」てくる・・この手法だね。
ここの一番基本の部分から考えないと、仏教の何たるか?が見えてこないと思う。
簡単なようで実は奥が深い。
149名無しさん@1周年:01/11/30 09:18
>148
「虚しさ」って、どうして感じちゃうんでしょうね?
毎日、生き生きしなくてもいいけど、普通になれないのかなー。
なんでソーなるか?おせーてチョ。
150名無しさん@1周年:01/11/30 09:38
変人さん
縁起の法を簡単な言葉にすると「アレがあるからコレがある」「コレがなければアレもない」
という言葉で表せるとおもうのですが、色即是空や一如というものは、この関係性や因果律
などが存在しないとお考えですか?

仏教の原点は釈迦で、縁起の法と、三法印。四諦、八正道っていう感じがして、イマイチ変人
さんのいう仏教の原点と噛み合わない感じがする。仏教の原点ってなんだろうなーって考えて
しまう。原点っていうのは基本。全てに共通するもの。ホント、何が仏教の原点なんなんだ!
釈迦が、これだけは伝えたかったことと言えるかもしれないな。仏典には梵天勧請と書かれて
いるが、実際、何故苦労して悟り、このまま涅槃に入りたいという欲望を離れて、ワザワザ面倒
な道を選択したのだろう。実に不思議!!
151名無しさん@1周年:01/11/30 10:26
>>150
いい指摘だと思うよ。「気付き」って言い方がなんか新興宗教っぽいって書いたけど、
どうも伝統的な仏教解釈とは違うんだよね。
152変人:01/11/30 10:37
>150
「気付き」が、そのままズバリ。縁起。悪因悪果、善因善果。「果」により「気付き」です。
三法印は、実体の無い世界、我も無し、そのまま涅槃。
四諦、八正道も、これも然り。人の道。一番基本的なところなり。

因果律や輪廻転生は、詳しく言うと、釈迦が誕生する遥か以前のインド古代思想です。
アーリア人のインド侵入の際、バラモン教と共に思想が定着した経緯がある。
その流れをくんで、仏教に導入されている訳ですから、因果、輪廻の原点は遥か以前です。
因果も勿論大事ですが、釈迦の原点は「世界観」にあると思います。
まあ、今後、ご指導ご鞭撻宜しくお願いいたします。
153変人:01/11/30 10:58
>>149
虚しさについて
これは「心」が感じるんだね。心とは、そもそも何でしょうね。
仏教における三法印の中の一つ。諸法無我というのは「我が無い」。という事です。
我が無いのでしたら「虚しさ」はあまり感じなくていい訳なのですが、
どうも「無明」というのがありますから、なかなかそこのところが見えません。
「空」により実相が掴めるのですが、その方法を今後考えていきましょう。
「空」とは即ち、色即是空の「空」です。煩悩即菩提の世界です。
すべて一つ。相対はありません。それが実相です。
154名無しさん@1周年:01/11/30 11:00
ヒント1

「色即是空」と「空即是色」は対として考えるべし。
155名無しさん@1周年:01/11/30 11:06
>>149
「もろもろの事象は過ぎ去るものである」という
真理を受け入れられないでいるから。
156お釈迦しゃ〜ん:01/11/30 11:19
不幸な目に遭っていなくても・ケッコウ自分は恵まれていると思っていても
な〜んにもない平穏な生活がイヤというのか苦痛というのか?
“生きること自体、苦しいものなんよ!” 生老病死
どこまでいっても、どこにいっても苦しみは追っかけてくるなぁ〜。
157変人:01/11/30 11:35
>>154
>色即是空と空即是色を対として考えるべし。
行って返って、往復ですか?これは、面白い。
私は違うふうに解釈しているのですが、お聞かせ下さい。
>>155
諸行無常ですね。
>>156
生老病死は、人類永遠のテーマですね。
158通りがかり:01/11/30 11:38
>156

そうなんですよね。しかも、人間はわざわざ苦しみを増すようなことをしている。
あきらめて苦をそのまま受け入れれば、思ったよりも苦は酷くない。私は、注射され
るときいつも、想像しているほど痛くないのを確かめてホッとします(^^)。

受験生の人たちはそろそろお尻に火が付いているんだろうけど、試験に落ちたという
苦しみは一回限りなんだけど、落ちたらどうしようか、という苦しみは無限に増殖し
ていく。落ちた方がかえってすっきりすることの方が多い。落ちるか落ちないか、わ
からない状態というのが一番苦しみが大きい。

仏教思想の根本は、所詮、苦しみから遁れられないのだから、それを苦しみというレッテル
を貼らず、あるがままの現象として受け取りましょう、逃げれば逃げるだけかえって苦しみ
は増すばかりだから、という視点にあると思います。

ある禅者の述懐ですが、悟っても夏は暑く、冬は寒いことがわかった、ということです。
悟っても「暑い、寒い」はなくならないが、それが「苦だ」にならない。まして、「また寒い
のが続くんだろうな」という苦も作らない。今寒いか、寒くないか。寒ければ寒い、と素直に
感じる。私心をはさまずに素直に世界を見なさい、ということなんでしょうね。
159名無しさん@1周年:01/11/30 11:51
シッダールタがブッダに成ったときの歓喜は創造に難くないのぅ…。
それをなんとかして他の人に伝えたいと思ったんじゃろうの。
じゃが、言っても判らんじゃろうと思うて、一旦は教えるの止そうしたんじゃないかの?

なにしろ、「常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解し難い微妙な」法を「人々に説かなかったのは、それが人々を害するであろうと案じてのことであった」とある位じゃからの。

それを、どういった訳か、思い直したんじゃろうの。
悩みや苦しみを持ってやって来た人々に彼がしたことは、話を聞いて、「そうか」と言うだけではなかったかと、わしゃ思うのぅ。
まあ、弟子に対しては、「分からんか、ヴォケが!」と言いつづけて居たのかのぅ。

ブディストでも無ければその場に居た訳でも無いわしの勝手な妄想じゃ。(,,゚Д゚)y─┛~~~~
160お釈迦しゃ〜ん:01/11/30 12:07
真っ暗闇の中の一つの光明  お釈迦さ〜ん、ええこと言いよったなぁ。
涙が、チョチョ切れる・・・
161変人:01/11/30 12:53
>>158
そうそう、苦とは「思い煩う」事なのかもしれませんね。
少し「気付け」ばなんて事はないのかもしれませんね。

>>159
釈迦、口伝の時代が想像されます。
経典に残さなかったのも、なんとなく解ります。
162名無しさん@1周年:01/11/30 13:05
>>157
色即是空→ものはそれ自体が実体として現象し存在するものではない。

空即是色→実体としてではなく、諸条件に支えられているからこそ、
     そのものがそのものとして現象し存在する。

実体と現象の関係を正しく理解するためには、色即是空と空即是色を
セットにして考えなければならない。
163名無しさん@1周年:01/11/30 13:18
>>161
>経典に残さなかったのも、なんとなく解ります。
じゃ、なんでそんなに専門用語に拘るんじゃ?(=゚ω゚)y─┛~~~~
164変人:01/11/30 13:22
>>162
ああ、そうでしたか。私は違うふうに考えていたものでしたから。
なるほど・・・
>諸条件に支えられているからこそ、
ここの部分がポイントということなのでしょうね。
まあ、こうい考えも有る・・ということで参考にさせて頂きます。
165名無しさん@1周年:01/11/30 13:24
158
水を差すわけじゃないけど「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのもあれば
火渡りなどという荒業をこなす普通の人もいる。暗示をかけてで痛みを麻痺さ
せることも可能だ。プラシーボ効果もあるし、魔界を忘れれば仏界になるとい
う坊さんの言もあるなあ。どう思います?
まず、ありのままの世界があるとしましょう。人間のネガティブな心を通れば
ありのまま以下の世界しか捉えることはできないでしょう。人間のポジティブ
な心を通せばありのまま以上の世界を捉えるでしょう。動物はありのままです。
人間の自由意思はありもまま以上を好むものです。それは創造といってもいい。
どんな時代、どんな地域の人間もありもままからそれ以上のものを創造するこ
とに歓びを感じる性が本々あるといえるでしょう。
やはり人間であることの醍醐味は、ありもままから創造すること、前進すること
ではないかな。間違えた時や疲れた時にもどるのがありのままの世界ではないか
な。ただ、ありのままでいいというのは、人間の性に反すると思う。
最も、ありのままがわからなければ以上も以下も当然わかりませんが。ありのま
まというのは本来、動物には自然にわかる感覚のはずではないかと思ったりする。
166変人:01/11/30 13:35
>>163
言語(文字)では伝え切れない・・ということなのでしょう。
口伝を重要視したのは、そういう事だと思いますね。
日本における言霊(ことだま)。あれを考えたら解ると思いますね。
口伝はそれなり意味があると思います。
167名無しさん@1周年:01/11/30 13:42
>>166
わしが言うとるのは、お前さん自身の仏教タームへの拘りのことなんじゃがのぅ。(,,゚Д゚)y─┛~~~~
168名無しさん@1周年:01/11/30 13:50
つまりじゃ、新造語を発した昔の人の葛藤とか、もどかしさとか、そういうもの抜きにして、「これはああだ。あれはこうだ」と言うては居らんのかの?(,,゚Д゚)y─┛~~~~
169名無しさん@1周年:01/11/30 14:31
153、変人さん。
しつもーん。実相には自我はない。では心もないのかな?
170変人:01/11/30 14:32
>>168
>これはああだ。あれはこうだ

う〜む。それは難しいの。
そうだとしたら反省せねばなるまい。そういった事は自分では気が付かないしね。
どうしても自分の世界観を基準にしてしまうからね。

まあ「空」に執着をする。と、こういう事になるんかね。
たまに「空」から離れんといけないかもしれない。
まあ、じいさんの言いたい事は良〜く解るよ。
171変人:01/11/30 14:48
>>163
>実相には自我はない。では心もないのかな?

非心非仏。一応「無い」という事になっているが(我、心)
実際、全く無いとは確信して言えないですよ。体験そのまんまの世界ですからね。
つまり、主観客観を超越した、知覚、直覚はあるにしても、それを感知するのは
まぎれもなく「我」ですからね。
ただ「我」が、自己の内面、外面を超越した直覚はあるにしても、
「我」そのものは消滅したわけではありませんからね。

すなわち、非心非仏は「全く消滅」ではなく、それもすべて「空」なんだと思う。
「至福感」は「大悲大慈」と合一なのは疑いなし。
これも全部ひっくるめて、「我」なんだと思います。
172名無しさん@1周年:01/11/30 14:52
実体として「我」や「心」は存在しないが、現象としての
「我」や「心」は存在する。という解釈は間違ってます?
173名無しさん@1周年:01/11/30 14:58
171変人さん
うーん、非常に難しい。まあ、質問自体が難しい質問でしたよね。真摯なお答え
有難うございます。
さて、もう一つ質問してみたいのですが、変人さんは物質には心はないとお考え
ですか?変な質問ばっかでスマンと思うけど・・・
174名無しさん@1周年:01/11/30 15:07
「無我」
「我は無い」ではなく「我では無い」
どんなものであろうとも、「我」としてとどめる事は出来ない、という事。
175名無しさん@1周年:01/11/30 15:11
諸行無常じゃの。と言うても、平家物語のアレは違うがの(,,゚Д゚)y─┛~~~~
176変人:01/11/30 16:35
>>172
存在という概念が難しい。
実相世界においては、存在も、非存在もありませんからね。
だから現実世界における「存在」というのは、肯定もするし、否定もするのが「空」です。
>>173
>物質には心はないとお考えですか?
これにおいても、物質と心は同一。「有るでもあり」「無いでもあり」
                「有るでもなし」「無いでもなし」。です。
まあイメージとしたら、すべてが「画一化」した世界と思えばいいのではないでしょうか?
天も地も全く同一です。境目がありません。心もすべて包含されています。
177変人:01/11/30 16:39
>>174
そのとおりかと思います。
178変人:01/11/30 17:06
>>175
諸行無常も、諸法無我も、涅槃寂静も、いわば何も「無い」訳だね。
だから「虚しさ」も本来無いのがあたりまえなんだね。
だけど、有るように認識しちゃうんだね。
一つ「気付いた」ね。
179名無しさん@1周年:01/11/30 17:08
>>176
単純に考えて、物質に心はないでしょ。
180名無しさん@1周年:01/11/30 17:14
>>178
「無い」という概念だって難しい。
なのに、そこをすっ飛ばしてないかい?
181名無しさん@1周年:01/11/30 17:57
なるほど。「有るとも言えるし」「無いとも言える」か・・・。
つめり全てがたたみ込まれているところが「空」ということかな。
それなら、無我ばかり強調するのは道理に合ってないような気が・・
有我も同等に強調しないとオカシイような気が・・・
どうして無ばかり強調するのです?
182変人:01/11/30 18:11
>>179
大悲大慈が、物質?非物質?に関係なく「万編」しているということです。
大悲大慈が心と捉えればよろしいのではないでしょうか?
>>180
少し簡単に説明し過ぎました。なるほどそう思います。
>>181
単体(個人)に分断された「我」というよりも、
大悲大慈と同じく、万編している「我」ですよね。
すべてこれも「空」です。

個人のしての「我」は無いということです。
183名無しさん@1周年:01/11/30 18:13
>>178
わしにとっての諸行無常はダイナミズムじゃ。わしはその三つは「なにもない」とは思うておらん。お前さんの「気付き」とやらとは違うと思うがの。(,,゚Д゚)y─┛~~~~
184変人:01/11/30 18:20
>>183
たしかにそのとおり。
ダイナミズムにおいては、わたしも禿銅。
185179:01/11/30 18:21
>>182
心は、脳内の化学反応でしょ。
186変人:01/11/30 18:34
>185
これについては、私とすると全く否定もできませんし肯定もできませんが
なるほど・・という感じはしますね。
187光の子:01/11/30 18:43
>>185

 そして、その「脳」や「脳内の化学変化」が「ある」という認識を
創り出しているのが「心」。さて、脳の化学変化が心を作るのか、心
による認識作用が脳を作るのか....。
188変人:01/11/30 19:29
>187
認識というのも、また難しいね。
つまり認識というのは主観だよね。
「空」における「我」というのいは、主観とか客観とか無いからね。つまり「我」が単体ではない。
ということは、化学反応が有ってもなくても心はあって、たまたま化学反応の因があり
果として認識できるようになった。ということだと思うね。如何でしょう?

まあ、化学反応だとしたらの話だけどね。
189179:01/11/30 20:29
>>187
(゚Д゚)ハァ?
「ある」という認識を創り出してるのは、「脳内の化学反応」でしょ。
石ころが、「ある」とか「ない」とかを、認識するかね?
190名無しさん@1周年:01/11/30 20:38
185
脳の化学反応を起こさせるもとのものは何かな?
死人の脳が化学反応しないのはどうしてかな?
191名無しさん@1周年:01/11/30 20:43
変人さん
済みません。ひとつお答え願いたい。「有るともいえる」し「無いともいえる」
と言うのなら、何故に無の方ばかり強調するのですか?
192変人:01/11/30 21:08
>>191
>何故に無の方ばかり強調するのですか?

「空」が、存在感が無いというのかなファジーな世界ですからね、どうしても認識において
「無」という概念でとらえちゃうんかもしれないね。
つまり、「空」に対する概念というのは文字で表わせられませんからね。
あえて不立文字で言えば、霧の掛かった状態ですから、どうしても言葉にすると
「無」のような印象を与えてしまうのかもしれません。
「有」となりますと「存在」という意味になりますからね。そこは全く違います。
それでしたら「無」のほうが伝えやすいかな?と思ってしまうのかもしれません。
別に意識して「無」を使っているのではないのですが、どうしてもこうなりますね
193名無しさん@1周年:01/11/30 21:16
脳がなければ何も認識できないが、認識するものがなければ脳は無用なわけで。
194179:01/11/30 21:26
>>190
木からリンゴが落ちるのは何故?
それは物理現象。

脳内で化学反応が起こるのは物理現象。
死人の脳内でも化学反応は起きている。
血流が止まったので、細胞の活動が停止して、
分解という化学反応が起きてる。
195名無しさん@1周年:01/11/30 21:37
>>194
物理現象なんて本当は存在しないんだよ。
あなたの脳が勝手にそう認識しているだけで。
196179:01/11/30 21:40
>>195
じゃあ、何が存在すると言うのだ。
197名無しさん@1周年:01/11/30 21:40
我思う、故に我あり。 認識=存在。
198元オウム:01/11/30 21:55
我思わなくとも、この地球は存在するでしょう。
この地球が自分の幻影とか、自分の脳が勝手にそう認識している
というのは厳密じゃないね。
それを言うなら、この地球は、我々の幻影で、我々の脳が勝手に
ほぼ共通して物理現象を認識している。では…。
つまり、個々は個々だけど個々じゃないっていうか。
漠然としたイメージだから適度にしか言わないけど。
199356:01/11/30 22:10
昔、知能システムにおける認識で聞いた話。

紙に黒鉛筆で「卍」と書いてあったとき、人間はそれを見て何と認識するかのか。
物質的にいえば炭素が紙にこびりついているだけなのに
漢字の卍と判断したり手裏剣とか旧ドイツ軍のマークと判断する人もいる。
りんごを見てりんごと判断するのは正しいけど、
りんごの絵を見てもりんごと判断する人間の認識は
優れているのかただのアホなのか・・・
200木馬 ◆YS1rbUoA :01/11/30 22:28
200!
201名無しさん@1周年:01/11/30 23:23
179
189の、「ある」という認識を作り出しているのは「脳内の化学反応」という意味での
化学反応と194での分解していく化学反応では、化学反応の質が違いますよね。
私の質問は前者の意味での脳内の化学反応が何故起こるのか?ということで、再度質問
します。
202179:01/12/01 00:06
>>197
認識する人がいる時、物理現象は認識される。
認識する人がいない時、物理現象は認識されない。

認識する人が、いようがいまいが、物理現象自体は存在する。という事ではないか?
203179:01/12/01 00:09
>>201
そのように、シナプスが結合するよう、遺伝子が出来てきたから。
204名無しさん@1周年:01/12/01 00:26
私は179の意見に賛成。
私たちが居なくても「摂理」存在する
確かに脳の中の化学変化があるのは本当のことだと思うが
そこから生み出される既存の存在を元に生み出される
イマジネーションと現実の存在としての流れは、分かれていると思う。
それを現実の世界に応用も出来るし、
志向の上でかなり重要な役目も果たしているようにも思う。
またそれとは違う役目として、本当にそこに存在する物を
認識するための機構のような役目があるように思う。
そこが、外の物も中の物も認識するために、どうしても
通らなければならない通路でもある。
そこは機構であり、外の現象にとっては実態になりえないと思う。
205名無しさん@1周年:01/12/01 00:30
上から7行目「志向」は、間違い。
      「思考」が正。
206名無しさん@1周年:01/12/01 00:35
人間が死に絶えてもリンゴは赤いか?
赤いと即答する人はあぼーんですぞ。
207名無しさん@1周年:01/12/01 03:16
この世のすべてが実はただの夢のような幻想であるならば私たちがいなければ摂理も存在しない。
目が覚めたら夢は存在しなくなるのと同じ。我々はおおいなる夢の中に生きている可能性もある。
マトリックスってそんな感じの映画だったよなぁ。
208名無しさん@1周年:01/12/01 03:23
赤いとか、りんごとかの概念も、ともに死に絶えるでしょうが
「それ」が存在するなら声高々に叫ぶ人間がいないだけで
やはり「その色」をしているでしょう。
でも、りんごは青いやつもあるような・・・

証明者が居なければ、事実は存在しないと思ってるんですか?
証明者が居るに越したことはないとは思うけど。うーん
209名無しさん@1周年:01/12/01 03:27
>>207
自分中心、人間中心に考えたらそうなるのかもね。
210名無しさん@1周年:01/12/01 03:56
          南伝 相応部経典 三八、一、涅槃
          漢訳 雑阿含経  一八、一、難等
 かようにわたしは聞いた。
 ある時、長老サーリプッタ(舎利弗)は、マガダ(摩掲陀)の国のナーラカ(那羅迦)という村に住していた。
 その時、ジャンプカーダカ(閣浮車)なる遊行者が、長老サーリプツタを訪れてきて、たがいに会釈をかわし、親愛にして慇懃なる談話をまじえて、やがて傍らに坐した。
 傍らに坐したジャンプカーダカは、長老サーリプツタにいった。
「友サーリプッタよ、涅槃、涅槃といわれるが、友よ、いったい、涅槃とはなんであろうか」
「友よ、およそ貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである」
「では、友よ、その涅槃を実現するに道があるであろうか。そこにいたる方法があるであろうか」
「友よ、その涅槃を実現するには道がある。そこにいたる方法があるのである」
「では、友よ、その涅槃を実現する道とはなにか。そこにいたる方法とはなんであろうか」
「友よ、聖なる八支の道こそは、その涅槃を実現する道である。それは、すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。友よ、これがその涅槃を実現する道であり、そこにいたる方法なのである」
「友よ、この涅槃を実現する道は、まことに善い、そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。友サーリプッタよ、それはまた勤めはげむに足る」
211名無しさん@1周年:01/12/01 04:06
    南伝 相応部経典 二二、七、取著恐懼
    漢訳 雑阿含経  二、一一、取著
 かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェ−タ(祇陀)林なるアナータピンデイカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げて仰せられた。
 「比丘たちよ、わたしは、汝らのために、取著と苦悩、および、不取著と不苦悩を説こうと思う。
 聞いて、よく考えてみるがよい。では、わたしは説こう」
 「大徳よ、かしこまりました」
 と、彼ら比丘たちは答えた。
 世尊は説いていった。
 「比丘たちよ、取著と苦悩とはどういうことであろうか。
 比丘たちよ、ここに、まだ教えを聞かぬ凡夫がある。彼は、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、
聖者の法を修せず、あるいは、善き人にまみえず、善き人の法を知らず、善き人の法を修せず、
色(肉体)は我である、われは色を有する、わがうちに色があり、色のなかに我があると見る。
しかるに、彼において色は移ろい変る。色が移ろい変るがゆえに、彼の意識もまたその色の
移ろいについて作動しはじめる。色の移ろいについて作動するがゆえに、苦悩の思いが頭をもたげ
て、彼の心を捉えて放さない。彼の心を捉えて放さないからして、彼は困惑し、腹を立てながら
もしがみついて、苦しみ悩むばかりである。
212名無しさん@1周年:01/12/01 04:06
 彼は、また、受(感覚)は我である、われは受を有する、わがうちに受があり、受のなかに我
があると見る。しかるに、彼において受は移ろい変る。受が移ろい変るがゆえに、彼の意識もま
たその受の移ろいについて作動しはじめる。受の移ろいについて作動するがゆえに、苦悩の思い
が頭をもたげて、彼の心を捉えて放さない。彼の心を捉えて放さないからして、彼は困惑し、腹を
立てながらもしがみついて、苦しみ悩むばかりである。
 彼は、また、想(表象)は……
 彼は、また、行(意志)は……
 彼は、また、識(意識)は……
 比丘たちよ、取著と苦悩とはかくのごとくである。
 では、比丘たちよ、不取著と不苦悩とはどのようなことであろうか。
 比丘たちよ、ここに、すでに教えを聞いた聖なる弟子がある。彼は、聖者にまみえ、聖者の法
を知り、聖者の法を修する。あるいは、善き人にまみえ、善き人の法を知り、善き人の法を修す
る。だから、彼は、色(肉体)は我であるとは見ない。われは色を有するとは見ない。また、わ
がうちに色があるとも、色のなかに我があるとも見ない。しかるに、彼においても、色は移ろい
変る。だが、色が移ろい変っても、彼の意識はその色の移ろいとともに働きはしない。だから、
色の移ろいとともに、苦悩の思いが頭をもたげて、彼の心を捉えるということもない。彼の心はそ
のように捉えられないから、彼は困惑することもなく、腹を立てながらもしがみついて、苦しみ
悩むということもないのである。
213名無しさん@1周年:01/12/01 04:07
 彼は、また、受(感覚) は我であるとは見ない。われは受を有するとは見ない。また、わがう
ちに受があるとも、受のなかに我があるとも見ない。しかるに、彼においても、受は移ろい変る。
だが、受が移ろい変っても、彼の意識は、その受の移ろいとともに働きはしない。だから、受の
移ろいとともに、苦悩の思いが頭をもたげて、彼の心を捉えるということもない。彼の心はそのよ
うに捉えられないから、彼は困惑することもなく、腹を立てながらもしがみついて、苦しみ悩む
ということもないのである。
 彼は、また、想(表象)は……
 彼は、また、行(意志)は……
 彼は、また、識(意識)は……
 比丘たちよ、取著しなければ、また苦しみ悩むこともないというのは、かくのごとくである。
 比丘たちよ、不取著と不苦悩とはかくのごとくである」
214名無しさん@1周年:01/12/01 04:10
     南伝 相応部経典 三五、一五四、説法者
     漢訳  雑阿含経  一、二八、現法涅槃
 かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、一人の比丘が、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
傍らに坐したかの比丘は、世尊に申しあげた。
「大徳よ、法を説く者、法を説く者と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなるを法を説く者というのでありましょうか」
「もし比丘が、眼において厭い離れ、貪りを離れ、その滅尽のために法を説くならば、まさに、法を説く比丘というべきである。
また、もし比丘が、よく眼において厭い離れ、貪りを離れ、その滅尽のために実成するならば、まさに法をよく実践する比丘というべきである。
さらにまた、もし比丘が、よく眼において厭い離れ、貪りを離れ、よく滅し尽して、もはや執取するところなくして解脱するならば、
彼は、その現生において涅槃に到達したる比丘というべきである。
 また、もし比丘が、耳において……。鼻において……。舌において……。身において……
 あるいは、また、もし比丘が、意において厭い離れ、貪りを離れ、その滅尽のために法を説くならば、
まさに、法を説く比丘というべきである。また、もし比丘が、よく意において厭い離れ、貪りを離れ、
その滅尽のために実践するならば、まさに法をよく実践する比丘というべきである。
さらにまた、もし比丘が、よく意において厭い離れ、その貪りを離れ、よく滅し尽して、もはや執取するところなくして解脱するならば、
彼は、その現生において涅槃に到達したる比丘と称せらるるに足るのである」
215名無しさん@1周年:01/12/01 05:16
>>210-214
いきなりなんだ?
216変人:01/12/01 12:11
>>207
貴方のレスに関係するのだが・・
実は、実相世界も現実世界も「観る」ということには、さして重要ではないと思います。
そこで「会得」することが最も重要でして、「観る」「至福感」は殆ど副次的なものだと思う。
また「観る」というのが「主観」でもなくて「客観」でもないところが「空」なんだと思います。
そこで「我」というのが何なのか?それが解って初めて「空観」なのでしょうね。
217名無しさん@1周年:01/12/01 14:00
>>215

>>210-214を必要としている人には、朗報でしょう。
>>210-214を必要としていない人は、読まなければいい。

それだけのことでしょ。
218215:01/12/01 19:02
>>217
あなた210-214?
無言で長文コピペはウザイ。(ていうか失礼でしょ?)
せめてコメントくらい入れたらいい。

「仏典に、これこれこうある。だから、こうである。」みたいに。
219名無しさん@1周年:01/12/01 20:47
192、変人さん
『空』に対する概念が、文字で現せないから『空』を現す文字が無い。そういう意味で『無』という
文字を用いるということですか?
しかしながら『無』という文字も様々な用い方があるし、解釈も様々です。でも一般的に『無』という
文字からは、なにもないという意味を汲み取るのではないかと思います。仏教用語としての『無』とも
変人さんの『無』とは違うのではないかと私は思います。

仮に、『有』としますと、『存在』という意味になるから、全く違うと仰いますが、一般的には『有』
というと、『存在』するという意味になりますが、存在とは何なのか?という問いには、哲学でもまだ
満足できる答えに至っていないと思います。
変人さん御自身が『有でもあり』『無でもある』と仰っているわけですから、『有』は存在だから『空』
とは違うというのも、変な感じがしてしまう。
220名無しさん@1周年:01/12/01 20:57
>>216
>「観る」というのが「主観」でもなくて「客観」でもないところが「空」なんだと思います。

ここのところが少し分からないのですが、「無明」との関係とかあるのでしょうか?
221217:01/12/01 21:02
>>218
残念だけど、自分は210-214ではないです。
222変人:01/12/01 21:16
>219
そもそも「空」が直覚?できるのは「無我)と言いますか、ほとんど頭の中が
カラッポの状態において、波動が合うというか瞬間的?に起きるものと思っているんですよ。
ですから、「無我」とは即ち主客合一の「我」にすでになった状態なのかな?
と、自分なりに解釈しているのです。
発端が、それなもんですから「無」という概念が強く出てしまうのかもしれません。

確かに、貴方が仰る仏教用語としての「無」とは違うと思います。
「空」と言いましても、「本質」が「空」と直覚?するんで、見た目はあまり意味はありません。
223変人:01/12/01 21:29
>220
「無明」というのは、やはり本質というのか実相がなかなか観えないですよね。
観えないというのは、認識が主観?というのでしょうか、自分に「囚われている」状態
なのかな?と思ってしまうのですよ。
囚われないようにするには、どうしたら良いでしょう・・と考えると「無我」というのがそれにあたるかな?
と思ってしまうのです。
無我とは、読んで字の如し「我」が無いということですから、
そういった状態が、固執しない、執着しない、に通じるのかな?と思うのです。
224名無しさん@1周年:01/12/01 21:32
>>222
「波動」って言い方が新興宗教っぽい。
225変人:01/12/01 21:45
>220
あと大事なことは、無明というのは不断はあまり、どういうものか解らないですよ。
なぜ解らないか?と言いますと、そういうところに常に「ある」から解らないかと思います。
つまり、肝臓の存在は病気にならないと意識しないのと同じです。
仏教における「無明」とは、そういうもんではないのかな?と思っています。

「最も重要な事を忘れている」。そういうのを無明と言うのかもしれません。
そこで「思い出すのが」即ち「気付き」なのではないでしょうか?
「気付き」とは、そういう意味です。
226変人:01/12/01 21:50
>>224
ええ、良く解ります。
しかし言いようが無いのですよ。
自分の思っている「言葉」が見あたらないのです。
確かに「波動」ではないかもしれませんが、心は通じるかと思います。

不立文字の範疇と御理解ください。
227名無しさん@1周年:01/12/01 21:54
変人さん、仏教用語は使わない方がいいんじゃないでしょうか?
使うならきちんと内容押さえて使って欲しいですし、それをする気
がないのであれば違う用語(造語でもいいですが)を使って欲しい。
でないと、話がかみ合いませんし、むしろ誤解されことのほうが多い
かと思いますが。言葉の定義からやると話が全く進まなくなりますし。
228変人:01/12/01 22:06
>>227
そうでしたか。
貴方の御意見をカキコして頂けたら有りがたいのですが・・。
229変人:01/12/01 22:15
まあ、私が一方的にレスしちゃったものですから、話の流れが変わってしまいましたね。
どなたか、仏教に対する「自論」を聞かせて頂けたら有りがたいのですが。
どうでしょうか?
230名無しさん@1周年:01/12/01 23:20
「無我」とはどういう意味でしょうか?
「禅」に関係あるんですか?
どなたか、おせ〜てキボンヌ。
231名無しさん@1周年:01/12/02 00:26
>>230
「無我の境地」とか言いますから、「禅」なのではないですか?
題目あげたり、念仏唱えたりですと「無我」にはなれません。
心静かに座禅をくむのが宜しいでしょう。
簡単には「無我」になれませんよ(ワラ
232名無しさん@1周年:01/12/02 00:27
>>230
元々は、仏教の言葉です。
233名無しさん@1周年:01/12/02 00:33
「無我」の思想はアートマン思想とペアで理解しなければならないんじゃなの?
234山師さん(摩耶山):01/12/02 00:49
真言密教のみが真の仏教であ〜る
あとのやつは全部でたらめ、戯言(和良
235名無しさん@1周年:01/12/02 07:22
>>230
「無我」とは、「相対的価値基準」の無い状態。と個人的には考えているのですが、
まあ、ここのところも私見であるので諸兄の判断を仰ぎたいところです。
236変人:01/12/02 08:15
>>235
経験→発菩提心→無我→開眼。
237名無しさん@1周年:01/12/02 10:26
変人さん
決して、追い詰めてやろうとかの他意はないのですが、変人さんの観ている世界というのが、どうも
よくわからない。でも、私自身も、直覚、直感の世界というのでしょうか、まどろみのような感覚と
友に一体感で包まれるような安息の世界というのか、そういうものはわかるような気はするのです。
私も、一時、これが無我と言うものか!?と思ったりしましたが、キッパリと専門家からは違うと
言われてしまいます。
確かによくよく話を聞いてみると「ああ、違うな」と自分でも思うのですよ。そういう意味では精神
世界や新宗教的な世界の方が融通が利くみたいではあります。でも、その分ファジーというか、曖昧
な部分があって、悪く言うと煙に巻かれるような感じが否めませんがね。
私自身もその感覚から、鋭利な世界感は想像していませんが、自分の中では通常の自己の感覚よりも
より根源的で力強い感覚がハッキリしているのですよ。
でも、それが客観的な世界に引き出してくると、とたんに雲を掴むようになってしまう。だから、他人
との共感などを目指して、言語や文字に頼るほど夢の様に頼りなくなっていってしまう傾向がある。
しかし、不思議な事に他人との共感や、感情の交流がかなった時には宗教とは関係なく、それに近い
ものが自他の中で動いているような気がしますよ。
そう言えば、クラシックのコンサート会場や、映画館のような静かな所で、凄いエネルギーの盛り上が
りを体験することがある。目には見えないし、静かな安らぎの感覚ではないにしろ、何かが動いている
ことは確かな事のような気がする。しかし、困った事に自分でも何が動いているのかはよくわからない
んだけれどもね。ただ、自他の関係においては、目に見えるものは違っても、動いているものは同じとか、
目に見えるものは同じでも、動いているものは違うというのはよくある。実に不思議で面倒くさい側面です。
238名無しさん@1周年:01/12/02 12:01
初期仏教≠禅、だからね。
239名無しさん@1周年:01/12/02 12:06
仏教の教え≠変人の屁理屈、だからね。
240変人:01/12/02 12:17
>>237
私が236レスに言う「経験」とは、いわゆる「極限状態」ですね。
例えば、戦場であるとか、刑期の迫った死刑囚とか、ロシアンルーレットとか、
まあ、貴方の場合ですとクラッシック・コンサートでしょうか?
これも軽い「特殊状況」と考えていいかと思いますね。そこに「自他」という言葉が出てきましたが
その関係において、殆ど主観客観の相対的関係でなくて、合一関係に直覚された状況です。
これは客席もステージもすべて一様に合一されます。
前レスにおいて、主観客観ではない直覚とはそういう意味ですね。
で、そこには「感動」があると思うのです。それは、生命の繋がりの感動ですよね。
これを「至福感」というのでしょうけど、大事なことは「生命の繋がり」を会得する事だと思います。

まあ、貴方は感性?が鋭いようですから、相当インパクトのある状況に追い込まれた場合
雑念も、執着も全て消え、いわゆる本当の「無我?」になって、「裸の世界?」が観えると思います。
「無我」は、やはり究極的状況(経験)がありませんと、難しい気がするのです。
そういった自論がありますものですから、一応これをタタキ台にしては・・と思いました。
241再び、そうですわ〜 です:01/12/02 13:01
もうすぐ七年の阪神大震災で発生時刻が、もう半日いや、もう7,8時間早いか遅いかだったら
崩れたビルで下敷きになっていたかもしれない“死に損ない”の者です。
鈍感な私でも、やっぱり、この体験で「ひとの一生って、なんなんだろう」と思う、考えるように
なりました。ビートルズのYESTERDAYの一節 “人生なんて、易しいゲームをするような
かる〜い気持ちで生きりゃ、いいと思っていた。今は、ただただ、そんな考えだった自分が恥ずかしい。”
支払った代償は、余りにも大きいけど、大きいからこそ、ちょっとでも得るものが何かあれば・・・
死ななかった者として、せめて と思う日々です。
242変人:01/12/02 14:19
>>241
うむ。そうだね。
そういう状況になって、初めて考えるんだよね。死生観を。
私なんかは、「生死一如」というのを真剣に考えたよね。
考えるというのは、つまりは「人の生きる道」というのを真剣になることだよね。
こういた「真剣になる」というのは、めったに経験しないことだからね。
仏教的に言えば菩提心だね。このことだけを考えると頭はカラッポになるね。
人間、頭がカラッポにならないと、なにも観えないと思うよね。「気付き」だね。

仏教とは、いわば「法」。ダルマなんだよね。涅槃即寂光浄土だと思うよね。
243再び、そうですわ〜 です:01/12/02 14:47
変人さん、僕らがこう言ってるのが“変わった人”に見られちゃうところに
今の・戦後の 社会の脆さを感じます。 五木寛之さんが言われてましたが
「人間にとって、とてつもないマイナス要因である 死 というものをシャカ
というひとは、見事にプラスに変えた。この、転んでもタダでは起きん という
強さ・逞しさとでもいうのか、そこが私なんか到底、及ばない。スゴイ!!」
こう言われたのを聞いたことあります。ビンボーなんで著書は、いつも本屋で
立ち読みばかりで買ったことないんですが。スンマセン、ピロユキさん
「ほんま、お釈迦さん、たくましい でんなぁ〜〜!」
244名無しさん@1周年:01/12/02 14:48
例えば、かつてストイックに自らを鍛え上げる姿に憧れて、ボクシングをかじったことが
あるのだけど、その意味でプロ選手と同じようなトレーニングを果たしてみた時、減量も
選手と一緒になってやってみたことがある。

腹が減っても食いものが食えないというのは、ある程度耐えられました。でも、喉が渇く
のは、相当こたえました。そこら辺の水溜りからの水の匂いで堪らなくなってくる。水の
美味さが身にしみる。少量で我慢するけど、それでも水が飲めるという至福を味わえる訳
です。ここまでする人は少ないだろうけど、喉が渇いた時には水が一番美味いというのは
誰でも経験上分かっていることだと思う。私は物凄く喉が乾いても、ジュースが美味いと
か、コーヒーが美味いなどという人は見たことはない。
確かにこのように肉体の、ある種の限界のようなものが教えてくれるものもある。「私は
物凄く喉が渇いた」と言えば、その経験がある人にはその言葉で自らの経験によってすぐ
に理解できる。私は「ありのまま」とか「無我」になっても、そのようにみんな同じもの
がみえるのではないかと思うのですが。どう思いますか?
共通の経験と言うのは、人を強く結びつけるものだと思うのですが、このレベルで共通の
経験と言えるようなものがないので無我などの宗教的な境地を巡っての解釈の違いによる
論争は終らない。人間、裸になって話し合えれば、割とみんな同じような苦労を抱えて生
きているのではないかなあ。宗教的に高邁な思想などは、人間の自性に反するものが多い
ような気がします。立派な思想を提示しても、他を排斥するのは宗教家の性のようです。
変人さんも、無我や悟りなどは、人間の自性に反するものだとお考えですか?私は自性に
反するものだとしたら、人間は根本的には受け入れられないと考えますが、どうでしょうか?
245名無しさん@1周年:01/12/02 14:51
246変人:01/12/02 17:25
>>243
私も、この板では「変人」で通っていますよ(笑

五木の、「大河の一滴」は全編、無常観に溢れていますね。
どことなく「般若心経」に傾倒しているような印象をもちます。
私も、彼のような生き方が好きですね。大河に流されつつ、そこにある自由な生き方が。
247名無しさん@1周年:01/12/02 17:33
五木も変人も仏教を理解しとらんということで。
もちろん、理解せんでも何の問題もないが。
248変人:01/12/02 17:53
>>244
>「ありのまま」とか「無我」になって、みんな同じものが見えるのではないか、

条件?さえあれば、すべて皆さん同じかと思いますね。
ただ、そういう事を「体験」したとしても、人にはあまり喋りませんでしょう。
大体が理解をされませんですし、変人扱いか、基地外扱いにされるのがオチですから。

>無我や悟りなどは、人間の自制に反するものだとお考えですか?

盤珪禅師のような、無修業の修業を肯定的にとらえております。
食事をする時、掃除をする時、寝る時、そういった日常の中において
いくらでも修行は可能だと思います。発菩提心がなければなりませぬが。
そして、底流にあるのは「不動心」が肝要に思いますね。
煩悩即菩提は、不動心から極自然に会得されると思うのです。
これらは、すべて個人個人の「経験」から「捉えかた」が決まるかと存知ます。
自己の確立こそ、第一義に思うのです。情報は全てヒントの範疇で宜しかろと思う。
249名無しさん@1周年:01/12/02 18:05
>五木の、「大河の一滴」は全編、無常観に溢れていますね。
読みもせんでこんなこと云うのもなんじゃが、その無常は>>183の無常とは別物なのではないのかの?(,,゚Д゚)y─┛~~~~
250変人:01/12/02 18:39
>249
広義における「諸行無常」は人により概念はマチマチですからね。
ダイナミズムは「空」の概念からくるものだし、
五木の作品は、そこまでは読みとれんし、
平家物語は、四季折々の感じですし、

これも全て言霊によるものと察するなり。
251名無しさん@1周年:01/12/02 18:46
そもそも仏教を理解してる奴なんかいるのか?
252名無しさん@1周年:01/12/02 19:00
>>250
つまり、お前さんはそれらしい字面が並んどりゃ良い、とこういう訳かの?(,,゚Д゚)y─┛~~~~
253NB@つーか名無し:01/12/02 19:18
>>244
無我や悟りなどが人間の自性に反するものなら、仏教は必要ないと思うね。
人間の自性を無我と名づけ、人間の自性が求めるものを悟りと名づけるから
こそ、人間が真に満足できる生死の道のりを仏教と名づけるんだと思うんだけどね。

ってか、ぼくは割と変人さん好きなタイプなんだけど、変人さん避けてない?ぼくのこと。
254変人:01/12/02 19:44
>>252
じいさん(まあ、私より若いと思うけど)の概念で理解したら宜しいのではないでしょうか?
そこのところの、御教授願います。

>>253
>変人さん避けていない?ぼくのこと。
避けてはいないけど、結構、攻撃タイプだね。
私は、どちらかと言うと「丸いタイプ」だからね、あんまし突っ込みはしないから
ものたりないんじゃないの?私みたいのは・・。
255名無しさん@1周年:01/12/02 19:53
>>254
>じいさん(まあ、私より若いと思うけど)
およ? 変人さんて50ぐらいなの?
256変人:01/12/02 20:26
>255
じいさんは、相当若いんじゃないの?
じいさん言葉は「変換」が相当キツイよ。
私なんかは一応青年だけど、それでもイチイチ変換するのは大変なほーだから。
まあ、歳なんぞはどーでもよござんすけど(w
257名無しさん@1周年:01/12/02 20:28
>>254
誰かが何か云う(仏教用語ナシ)
 ↓
「それは、●●に云う※※※だね、一つ気付いたね」
 ↓
その用語の用い方に誰かが疑問を投げかける
 ↓
「それは、あなたの解釈ですね。人それぞれだと思います」
 ↓
しかし、それ以上踏み込む事は無い

わしには、この繰り返しに見えるんじゃがの。( -ω-)y─┛~~~~
自分の「解釈」とやらが、そもどんなものなのか、書いてみたことはあるのかの?
それとも、自分の「解釈」とやらは、<大文字の>それであるという、確信があってのことかの?
「言霊」をしきりと連発しておるのぅ…。
258名無しさん@1周年:01/12/02 20:31
言語の両義性、とかなんとか云われているものを持ち出す事に、なにか意味でもあると思っておるのかの?(,,゚Д゚)y─┛~~~~
259名無しさん@1周年:01/12/02 20:44
仏教って難しすぎです。仏教用語辞典がないと,
何をしゃべってるのかさえさっぱり解りません。
仏典は量が多すぎだし。重要な経典を繰り返し読んでたら
時間がない
260名無しさん@1周年:01/12/02 20:47
言語ゲームやってるの?
261名無しさん@1周年:01/12/02 20:49
>>259
中村元読みなされ。平易でわかりやすく、しかも奥が深い。
262名無しさん@1周年:01/12/02 20:49
248、変人さん
変人か、基地外扱いですか?まあ、宗教的な事柄に付いては風当たりが強いですからね。
でも、日常生活が真っ当であれば、そこまで酷い事を言う人は少ないと私は思うけれど。
宗教的な生き方をしている人に多いのは、謙虚そうに見えて傲慢な感じの人が結構いる。
変人さんがそうだと言うのではありませんよ。宗教的な人一般ということです。
自分は真理を知っているというような感じですか、しかし、真理と現実とでは、どちら
が重要だろうか。生活が即、その人の宗教感で彩られていないと不自然ですよね。
例えば、日常生活のヒトコマでも、愛情や勇気が必要なことが結構あると思うんですよ。
宗教の会合などで、愛が大切です。慈悲の行為が大切です。大声で喚いているわりには
愛や慈悲が慢性的に欠乏している社会というのもオカシナものです。これだけ宗教がある
のにね。例えばマザーテレサのような人が神の愛を語っても、基地外扱いする人は少ない
のではないのかな。規模は違っても、その人の人となりや、基本的な生活態度で分かる
ものですよ。自然に伝わるもの、これがなければ何かがオカシイに違いありません。
現実よりも真理のほうが大切だ等と言うと、基地外扱いされてもしょうがないとは思いま
せんか?そもそも、宗教など関らなくても誰でも親になれば、無我の愛を身を持って体験
できるのになあ。私は思う、宗教は心の病院ではないかと。健康な人に病院は必要ありま
せん。宗教的な事柄に執着する人は、心が病気なのですよ。釈迦もイエスもそうだったに
違いない。彼らは病気を通じて偉大になった強者。病人と医者の一人二役をやってのけた。
心が健康な人は宗教など好んで関らない。釈迦やイエスに、「あなたには宗教が必要ですか?」
と問いかければ、「イヤ、私には必要ない」と答えるに違いない。規模やスケールの違い
はあっても、同じようなものを識っている人間は、誰でも同じような答えに辿り着くに違
いないだろう。健康な心が好むのは自由です。余計な枠付きなど通常心は求めませんよ。
健康な心は、釈迦の言った中道を「生」きている「人生」そのものと言うのが私の持論です。
263名無しさん@1周年:01/12/02 20:52
>>262
人はみな病んでいる。
それに気がつく者と気がつかない者がいる。
264259:01/12/02 21:00
これでも、有名なのはがんばって読みましたけど
維摩経、しょうまん経、華厳経、浄土三部経、法華経、般若心経、金剛経
大乗起信論、岩波文庫からでてる原始仏典のシリーズ(ダンマパダ、スッタ二パータとか)
あと理趣経、大日経・・これは全部じゃないけど。

たぶん、ここの人は、もっと沢山読んでるんだろうけど

正直わけわかんないです。宗派によってずいぶん違うんでしょうけど
皆さん何経を一番大事に思ってるんだろう。

どれをえらんでいいのか
後、日本のお坊さんの解釈の本が、たくさんあるし
概念を把握するのも、難しい。
265名無しさん@1周年:01/12/02 21:24
>>256
そうじゃないよ。
世界観の成熟度の問題だよ。
266名無しさん@1周年:01/12/02 21:25
262
そうかなあ。完全な健康といえる人はいないだろうけど、病気とまではいかない
人なら少しはいると私は思うけどなあ。うーん、10%くらいでしょうか(笑)
267名無しさん@1周年:01/12/02 21:27
>>264
それだけ読んでもピンとこないのならあきらめなされ。
268259:01/12/02 21:29
あはは。わかりまじた(笑)
269変人:01/12/02 21:35
>>262
マザーテレサ
私は彼女を尊敬しているのですが、実は彼女を批判しているのは、キリスト教内部なんですね。
そういうところに、宗教の「負」の部分を垣間見てしまいますね。
宗教とは、つまり「元々の教え」ですから、基本は人間でなければいけないと思っています。

宗教は、本来人間を活かさなければならないのですが、現実は宗教に「追いまわされている」
印象がありますね。こういったことは、なかなか「気付かない」ものですよ。
前レスの「自己確立が第一義」というのは、そういう意味ですね。
「宗教観」。これが最も大事ですね。2chをやってますと、そういうことも「気付き」ます。
貴方も大事なところを良く考察していますね。
これは、実は宗教と関わることにより「宗教とは何ぞや?」ということが解るんですね。
これも一番大事なことですよ。
自分というのが良く見えてきます。宗教という鏡に自分が映しだされてきます。
270名無しさん@1周年:01/12/02 21:37
>>264
わるいが>>267に同意する。
あなたの日常の生活、人生を大事にすべきだ。
読んでわからないようなものは忘れることだ。
271名無しさん@1周年:01/12/02 21:37
>>269
昔、幸福の科学にいたことありませんか?
272名無しさん@1周年 :01/12/02 21:39
現在残されている経典に正しいものなどありません
なぜなら、仏陀は、他の歴史上の聖者と同じく
自分の言葉を書物として残すことを許さなかったからです
しかもその教えでさえも、一部の霊的修行を積み上げた
高弟にしか、それを教えませんでした

言語によって、正しくその教えを伝えることは不可能です
伝言ゲームなどをみてもそれはわかるでしょう
それは、一つ一つの言語は、人によってとらえる意味が違って
くるゆえに曲解されることがあるからです
もちろん個人の修行の進み具合にもよりますが、一番正しく
その教え実践されているのが禅でしょう
禅は、ひたすら座禅することにより
本質を悟ろうとします。
世界中の仏教の経典を読んだところで
霊的修行によって内的に悟りをえなければ
その意味の本質はわからないでしょう
273名無しさん@1周年:01/12/02 21:40
今ピンとこなくても、10年後何かの拍子に仏教と出会うことが
あるかも知れない。縁というのはそういうものではないかと。
274光の子:01/12/02 21:47
>>264

 私も中村さんのサンユッタニカーヤやダンマパダなどの文庫版翻訳
を読んだのが、(インド的)仏教への「入り口」だったような気がし
ます。この頃読んだ解説本では「仏教思想の発見」(著・森 章司)が
よくまとまっていましたね。

 あと、般若心経、禅では坐禅和讃あたりも面白かったですね。その他
仏教とは離れるけど、老子・荘子、あるいはスピノザの「エチカ」や
エックハルトなども好きだったりします。
275変人:01/12/02 21:52
>>271
面白いです。
大川先生?が、私と同じ事を言ってましたか?
あまり興味はないですね。セクトは。
私は、そういった組織に入ったことは無いですね。
フリーが一番好きです。
276変人:01/12/02 22:06
>>257
精神世界は、個々が構築していくのが基本と考えますんで、一方的に私の価値観で
中枢部分までは言及しないですね。
まあ、そこのところの見解の相違なのでしょうけど、
すべて価値観が共有できる・・という状況ではありませんから、そこのところは了承して下さい。
277名無しさん@1周年:01/12/02 22:13
>>276
お前さんのしている、仏教用語を借りたラベリングそれ自体が、一方的な価値観によるものだとは思わんのかの? わしゃそういう意味で訊いたんじゃが。( -ω-)y─┛~~~~
278名無しさん@1周年:01/12/02 22:25
>>272
書き残すのを許さなかったのではなく、書き残すという習慣がなかっただけ。

>一部の霊的修行を積み上げた
>高弟にしか、それを教えませんでした

仏教には「教師の握り拳なし(秘密の教えなし)」という事はご存知?
279変人:01/12/02 22:32
>277
>一方的価値観によるものだとはおもわんのか
だんだん話がややっこしくなってシモータよ。
学校の試験勉強してるみたいだ−よ。

そういえば、最近試験などセーヘンな。
280名無しさん@1周年:01/12/02 22:34
>>271
基本思想は「成長の家」じゃないかな?
281名無しさん@1周年 :01/12/02 22:39
>>278
どうやらあなたは、何もご存知ないようだ
大乗仏教と小乗仏教の暦史をしらべてみることをお勧めします
あまり基礎的なこと書き込むのもつかれるもので・・・
282名無しさん@1周年:01/12/02 22:41
>>279
単純な話じゃと思うがの。(=゚ω゚)y─┛~~~~
『「空」とは何だ』と人に聞かれると、「不立文字」を連発するお前さんが、他人の曰く云い難い領分については随分思いきって名前を付けておるように見えるが?

まあ、このスレはその為に立てられた、ということかの。
283名無しさん@1周年:01/12/02 22:45
>>264 (259)
原始仏典の分類は↓に書いてあるから、読んでみるといいよ
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/998835507/670n
284名無しさん@1周年:01/12/02 22:48
>>282
仕方がないだろうな。
宗教・無宗教に関わり無く、根本的に世界観ができてないんだから。
285名無しさん@1周年:01/12/02 22:56
不立文字とかいってんなら、掲示板で、スレたてんなよ(藁
286名無しさん@1周年:01/12/02 22:58
>>269

>マザーテレサ
>私は彼女を尊敬しているのですが、実は彼女を批判しているのは、
>キリスト教内部なんですね。
>そういうところに、宗教の「負」の部分を垣間見てしまいますね。
>宗教とは、つまり「元々の教え」ですから、基本は人間でなければいけないと
>思っています。

どんな知識と生活感覚してんだ?
>>248の「無修行」を言うなら、「仕事」は普通、入らないか?
>>262は必読だな。

「人間がなぜ宗教(仏教)を必要とするか?」、
分かるはずもないだろうな。

人に能書きたれるより前に、はやく「自己を確立」するってのは、どうよ?
287名無しさん@1周年:01/12/02 23:10
まーまーみなさん、
仏教徒であるなら喧嘩腰や、他人を見下げたり、排除するようなことはせずに、
相互理解を深めようよ。


   ∧∧     ∧∧
  (*゚ー゚)   (゚ー゚=)
 @(っuuっ   (u,,u@
  """""""  """"""
 ハニャーン…   ハニャーン…
288名無しさん@1周年:01/12/02 23:12
>>287
俺は仏教徒じゃないもん。。
289変人:01/12/02 23:14
>>287
これはどうもすんませんです。
290名無しさん@1周年:01/12/02 23:15
>>289
アホ。そいつはあんたに「空」を聞いて、いなされた人だよ。
291287:01/12/02 23:17
>>288
それは、大変失礼いたしました。
292名無しさん@1周年:01/12/02 23:22
仏教がなくても生活とか人生に支障ないんですかね・・?
あのちょと気になりましたが
293変人:01/12/02 23:24
まあ、今日はもう寝ますんで「おやすみなさい」。
294名無しさん@1周年:01/12/02 23:24
>>292
特にないっすよ。
295名無しさん@1周年:01/12/02 23:32
>>293
なんで怒られたか分かるか?
「因果不落」?「因果不三昧」?

能書きのためのパクリが失敗したんだよ。
NBさんに教えてもらった「空見」を調べてみな。

アホらし sage
296278:01/12/03 02:46
>>281
残念ながら、どこが間違っているのか分かりません。
当時は、仏教以外の諸宗教においても、何かに書き残した経典はなかったはずですが…

もしも、教えが一部の高弟にしか伝えられなかったのなら、
あなたはどうやって、その事を知ったのでしょうか?
297変人:01/12/03 06:41
>>296
一番古い経典でも、釈迦滅後100年経っていますからね。
そういった事を鑑み、自分なりのスタンスというものを持つのも大事なことだと思います。
釈迦が、想像もしていない「絶対仏信仰」までありますからね。
仏教が、いかに「捻じ曲げられているか」わかります。
そういった事を視点にいれつつ、客観的に「宗教」というものを考えていきたいと思います。
298名無しさん@1周年:01/12/03 09:02
しかし、最近の宗教家が嫌って言うほど書物を出版しているのには辟易する。
本を読むのはいい事だとは思うが、心を扱う宗教書などを、次々と出版する
教団などは自ら「私達は分かっていませんよ」と申し立てているみたいだな。
一宗教に一つ、厳選されたものを世に出版して欲しい。
新興宗教や精神世界の本など、次から次へと新しい書物を出してくるなんて、
ナメテいやがるとしか思えない。
宗教家が何を目指しているかは分からんが、規模よりも質を重視して欲しい
もんだ。その質を伝えるのにもっと労力を使ってくれ。閉じられた講演会場
などでサークル活動的に盛り上がっているよりも、街頭に立って人々の批判
の前に生き様を晒してみよ。どんなことを伝えたくて宗教活動しているのか
を行為を持って人々の前に示せ。書物やメンバーによる伝道などするな。
師は書物や言葉によって伝えるのではなく、行為によって示せ。何事も学ぶ
と言うことは、巧い人の見よう見真似こそ、伝わる質がある。行為こそ、人
を動かし、人間同士忘れている何かを思い出すことに繋がる。
宗教家よ、弟子を叱っている暇があったら、街に出てホームレスに叱られて
みるがいい。
299変人:01/12/03 09:10
>298
なるほど。是は禿銅です。
私は、基本的にそういった観点というのは好きですね。
まあ、いろいろ人生観、世界観など御教え頂ければ幸甚です。
300名無しさん@1周年:01/12/03 10:51
299
教えるなんて、そんな。学びの徒ですからね。しかし、罪を憎んで人を憎まずの
精神を私は忘れたくないと思っていますよ。そうしないと怒りがとんでもない方
に向かってしまいますからね。
301変人:01/12/03 11:09
300
>罪を憎んで人を憎まず

こういった2chで経験しますと、その意味が明確に解りますね。
経験といえば・・・
E,Gクリュシュナムルティーを思い出してしまいます。
たまにスレを覗くのですが、まあ、新しい潮流を感じてしまいます。
302>自家撞着:01/12/03 11:48
多分、変人さんへの評価だと思いますので、こちらにコピペさせてもらいます。
 
 


  657 :名無しさん@1周年 :01/12/03 07:02
  >656
  気分よく演じてるんだからやらせてやれ。(w
  何人か引っかかってるっつーことは今んとこ成功してるんだろ。
  所詮2chだからな。(w
 
 
  
303通りがかり:01/12/03 12:10
>>296

「大乗仏典」成立の歴史のことを指していると思います。たとえば、

//www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud120.html

要は、般若経をはじめとする「大乗仏典」は、釈尊の作った教団の上層部に
対する宗教改革のなかで、アンチテーゼの形で書かれたものです。それは
釈尊の没後数百年たってからのお話です。現在、この事実は定説になっていて、
否定する人はおりません。ただ、信仰に関わる微妙な問題なので、お坊さんは
あまり触れたがらないし、ほとんどの信者はこの事実を知りません。
304通りがかり:01/12/03 12:23
ちょっと目についたものをさらに御紹介しております。私自身、詳しく勉強したわけ
ではないので、内容については保証できませんが、仏教史をやっている人や、
インドネシアの仏教徒(いわゆる上座部の生き残りなので、大乗仏教を冷たい目で
見ている)にとっては、常識中の常識です。

//lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/hokekyo.htm
//www.yorozu.indosite.org/agama/bbs/messages2/741.html
305名無しさん@1周年:01/12/03 12:47
>>303
定説になってません。つーかトンデモはいってます。つーか定説はもちっと複雑です。
それにこの問題に関わってる学者には日本近代の初期のころから坊さんが大勢います。
306通りがかり:01/12/03 13:03
>305

私が303-304で紹介したサイトは、gooのサーチエンジンで「大乗仏典」と「上座部」
というキイワードで探し当てたものです。だから、トンデモだとは思いません。むしろ、
定説というのを、参照先と共に示していただきたい。そうでないと無責任だと思う。
307変人:01/12/03 13:48
>>302
はい、了解しました。

>>304
うむ。こういった事を研究するのも一つの方法でしょうね。
まあ、多角的検証が大事なのでしょう。
308通りがかり:01/12/03 14:48
公平と思われるサイトだけ厳選して載せとくよ。

年表1//www.bukkyou.ne.jp/nenpyou1.htm
年表2//www.mahoroba.ne.jp/~felix/SGI/Bud-His/
歴史の先生の随筆:必見//isweb11.infoseek.co.jp/art/elgar/text/maha1.html

以下は、二百年くらい遅れている?伝統的な教学の一例。見せしめに載せとく。
//member.nifty.ne.jp/harutonaru/okyou2.htm
309名無しさん@1周年:01/12/03 21:43
>>302
それは私のカキコだが変人さんへの評価ではないよ。
変人さんは何も演じてないだろ。
ただ思いのままにカキコしてるだけ。
それが正解かどうかは別にしてね。
ま、少なくとも私はスナフキン気取りの輩よりは
好感を持っているが。(w
310変人:01/12/03 22:46
ニヒリズムが蔓延して、さて、若者達はどういった価値観を構築していくのだろうか?
そんな事を考えていたら、最近その兆候は観えてきたね。
ようやく「村社会」から脱皮して、いよいよ「個人主義」の時代が来ると思うね。

自分にとってなのが大切なのか?こんなことを考え出してきたようだね。
一律な価値観ではなくて「自分にとって」の価値観に、ようやくシフトしだしたみたいだ。
今、模索している若者が主流になりつつある。もう、ニヒリズムにさようならの時期が来た。
インドあたりに新しい哲学も生まれたようだね。
私は、古い価値観を脱ぎ捨てて、模索する、そんな日々を過ごしております。
311名無しさん@1周年:01/12/03 22:52
>>310
そうっすか?むしろもっと深いニヒリズムに陥っているような気が
しやすがね。あっしは末人の時代がやって来たと悲観しておりやすが。
312変人:01/12/03 23:44
>311
実を言うと、ニヒリズムが一番の問題なんだよね。

既存の価値観では、到底対処できないということであろうか?
それとも、ニヒリズムそのものに価値観を見出したのであろうか?
いずれにせよ、新しい創造の分岐点であろう。

実は、こういった世相のほうが宗教は活況を呈するのが常であるが、これに対処できていないのも現実。
まあ、ここのところをタタキ台として今後考えていきたい。新興宗教に非ず。念のため。
313変人:01/12/04 08:21
釈迦口伝の時代は、いわば民衆は文盲の状態なのは想像できる。
経典はあったとしても、殆ど理解はできなかったであろう。
釈迦のシンプルな説教のなかに、それを鋭く受け止める感性というのが働いて、
現代人以上に、噛み砕いた解釈はしたであろうことは、推察できる。

ようは、そういった能力だね。私が求めているものは・・。
情報が氾濫する状況において、選別し、残ったものを深く考察していく。
シンプルなところに、その答えがあるやに思うのです。
情報を選択して、いらないものは「切り捨てる」。その能力が肝要と思うのです。
314名無しさん@1周年:01/12/04 13:50
3 名前: 変人 :01/11/29 14:35
別に信仰しなくてもいいんだけどね。
近くに「不動さん」が鎮座してたら、その周りを良く掃除をすると良いよね。
数日すると、「不動」って何だろう?と思うようになる。
そしたら、近所の人に聞くと良いよね。
意味が分ったら、その気持ちで毎日を過ごすと良いよね。
なんてことはなかったね。ナ〜ンダって思ってしまうよね。
もう、信仰しなくて良いんだよね。簡単だったね。
さっそく今日から実行してね。

5 名前: 名無しさん@1周年 :01/11/29 14:42
変人さん済みません。近くに不動産が沢山有る人はどうしたらいいのですか?

7 名前: 変人 :01/11/29 14:58
>5
不動産の有る人はね「不動」が「産まれる」。こういう事を考えると良いね。
1、不動とは何ぞや?
2、産まれるとは何ぞや?
「不動」とは即ち「動かず」「動ぜず」。
さらに、それが「産まれる」。もう分ってしまったかな?
「不動心」のことだったんだね。解ってしまえば、その心で生きれば良いんだね。
なんて事はなかったね。早く答えが見つかって良かったね。オメデトウ。

9 名前: 名無しさん@1周年 :01/11/29 15:08
>7
そんなんで、人は救われません。
315変人:01/12/04 14:02
日常生活において、経験したものは深く考察していく。とことん・・本質に至るまで。
真剣になって・・。そうでないと実は、観えてこないと思うね、実際。
逃げては決して結論には至りません。
表面的なものではなく、いわゆる一番根っこの部分だね。ここのところは実際捕まえにくいよね。
これを捕まえた瞬間というのが、いわゆる「煩悩即菩提」だね。
菩提心の本当の意味が解るんだよね。真剣にならなければ、なかなか解らないかもしんないね。
316名無しさん@1周年:01/12/04 14:03
>E,Gクリュシュナムルティーを思い出してしまいます。
>たまにスレを覗くのですが、まあ、新しい潮流を感じてしまいます。

ププッ
317変人:01/12/04 16:35
>>314
>>そんなんで、人は救われません。

この方は、あまりに簡単に結論付ける性格の方と察する。
人間にとって、最も大切な事を言っているつもりなのだが、
そういうことに早く気付いてほしいね。
318名無しさん@1周年:01/12/04 16:46
>>317
なぜ人に教えたがる?
自分もまだ救われていないのに。
319変人:01/12/04 17:43
>>318
あははは。面白いね。

「不動心」。というのは、私に対しても「戒めの心」なんですよ。
まあ「座右の銘」みたいなもんかなー。

314レスは、確かに私のレスであるが・・
スレのタイトルが「信仰しなくていい宗教あるかしらん?」。というもの。
スレの主旨にそうものであり、当方における最も重要な部分のみレスしました。
そういう訳で・・・
>なぜ人に教えたがる?
は、多少誤解をしょうずるやに思います。
また、そういうふうに誤解したということは、残念の至りなり。
320名無しさん@1周年:01/12/04 18:41
>>312
人間が生きるのに、マニュアルはいらないよね。
感動してしまいました・・。
321きょいずみ:01/12/04 19:30
感動したーーーー    抵抗勢力にも言ってほしいーー
322318:01/12/04 19:55
タイトルに惹かれて読んだけど、なんかこのスレ変だね。
>>320
312を見てなんでそうなる?

僕も釈迦やクリシュナムルティについて想いを巡らすけど・・・
いろんな人がいるなぁ。
323変人:01/12/04 20:01
>>320
そうですか。自分の足で歩く事を知りましたね。
天と地の狭間をゆっくり歩いてみて下さい。
いつか天も地も無くなり、自分が観えてくるでしょう。
その心を大切にして下さい。  合唱
324318:01/12/04 20:15
だからなんでそうなるのさー???
だれか説明してー!
325きょいずみ:01/12/04 20:20
野党のみなさんもー わからないんだがー   ワタシもー    わからないんですーーーーーーーーーーーーー
326名無しさん@1周年:01/12/04 20:46
自作自演だから
327変人:01/12/04 21:31
312レスは、たいしたことはカキコしてないんね。
たぶん320の人は・・
323レスの
>その心を大切にして下さい。
の意味が解ったんだと思うね。
328名無しさん@1周年:01/12/04 21:43
なに必死で解説してんの(藁
329名無しさん@1周年:01/12/04 22:03
人生で一番大切なもの。それが何なのか?各々自分で自信が持てる
答えがあれば、それでいいんですよ。他人や社会の価値観は二の次。
そこから闘いが始まる。やがて自分の心から、普通の人間の心を見
い出す時が来るに違いないだろう。
330名無しさん@1周年:01/12/04 22:10
わけわかんね>>327
331名無しさん@1周年:01/12/04 22:14
変人さん
「今の私はこう思う」という暫定的な意見
でいいですから聞かせて頂きたい。
宇宙の秩序は偶然の産物だと思われるか?
生物の進化は偶然の産物だと思われるか?
332名無しさん@1周年:01/12/04 22:15
わけわかんね>>329
333変人:01/12/04 22:37
>>329
その通りですね。
彼、もしくは彼女は、それが解ったんだと思いますね。
一歩足を進める。このことに気が付いたんでしょう。
>>331
ええ、もうすでに答えは出てますね。
320の人は、もうすでに答えを出して、明日から一歩足を進めるのですよ。
そういった自分がなんなのか?ハッキリ解ったのですよ。
それで、つい「感動」しちゃったんだと思いますね。

どうですか?貴方も答えが解ったでしょう。
334変人:01/12/04 22:58
>>331
自分で考えて、どうしても解らないときは、私が明確なレスを付けます。
335名無しさん@1周年:01/12/04 23:03
>>334
あなたって、面白い方ですね。(笑み
336クレヨンけんちゃん:01/12/04 23:31
いやー それほどでもーーーーーーー
337名無しさん@1周年:01/12/05 00:23
お前あたま大丈夫か?(マジで
338MR.マリック:01/12/05 00:25
きてます・きてます           かなり、きてます!!!!!
339名無しさん@1周年:01/12/05 00:55
どんどんやばくなってきたんで

========終了==========
340名無しさん@1周年:01/12/05 03:34
どんどん面白くなってきたんで

========再開==========
341変人:01/12/05 09:53
仏教書を、初めて手にしたのを覚えていますか?
そうですね・・・
あれは、確か小学校の図書室でしたね。純真な気持ちでしたから、お釈迦様の「言葉」が
素直に受け入れられましたね。
あのままの気持ちで良いんだと思いますね。あの気持ちを大切にしたいですね。大人になっても。
「初心忘るべからず」。というのでしょうか?
342再・再度 そうですわ〜 です:01/12/05 12:17
本当に、そうですわ〜  です。   今の仏教、ソウシキぶっきょうになっちゃって

ぜんぜん、お釈迦さんの思いに沿ってませんなぁ・・・
343変人:01/12/05 12:53
>342
禿銅。
まあ、一人ゆっくり。宗派に属せず。
「仏教」というものを考えて逝きたいと思っております。
344名無しさん@1周年:01/12/05 15:19
小学生当時から仏典に感応するとはおませさんですねえ。
私は子供の頃は仏陀が嫌いだったなあ。喜怒哀楽のない仏陀フェイス
のせいか、感情のない非人間的な仏陀像に私は嫌悪すら覚えていた。
345名無しさん@1周年:01/12/05 15:24
人生の喜びを知って、その悲しみも知って、それを超越する
教えの価値なんて、子供の知性には理解できるはずもない。
それは理解というより、直覚で何かを掴んだと言うことだろう。
346名無しさん@1周年:01/12/05 16:01
334変人さん
かつてあなたの「人間だけが、たまたま知能が発達して神や宗教をこしらえた」
という書き込みが気になって、その世界観というものをお尋ねしてみたんです。
サル神様。サル宗教。私はあるのではないかと考える。人間の知能が想像した
神とも宗教とも異なるかもしれない。しかし、動物達も伝えるべきことはちゃんと
伝えているのではないか。いくら高度に発達しても、知性だけで捕える事ができな
いものがある。さて、私は宇宙の秩序は偶然だとは思わない。生物の進化も偶然だ
とは思わない。あなたは、どうですか?サル達にはそういうものは何もないとお考
えになりますか?
347変人:01/12/05 17:11
>>344
仏陀フェイス
自分の、その瞬間の「心」によって、どうにでも見えてしまいますね。
いわば「心の投影」というのでしょうか?「心の鏡」というのでしょうか?
不思議です。
>>345
ええ、そうですね。
「四諦」ですと、「なるほど良く分かる」程度でしょうか?
子供心にも、読後感は「安らぎ」みたいのは感じますよね。
情操教育には良いと思いますけど、最近のお子さんは読書はしないのですかね?
348名無しさん@1周年:01/12/05 17:19
猿の神さまはきっと猿に似た姿をしているのだろう。
349変人:01/12/05 17:29
>>347
「空」からして、言語の認識範疇外ですよね。
しかし、あえて言語で説明出来るとすれば「ダイナミズム」ですね。
脈々と受け継いできた「生命?」の流れみたいのあるんだと思いますね。
それをなんと称するかは、個人個人の世界観だと思います。

まあ、こういった事を鑑みますと、貴方が想像している通りかと思いますね。
森羅万象、すべて同一と考えております。
病原菌なんかも全て範疇でしょう。これは「善悪」で考えるべきではないですよね。
これも全て同一。ダイナミズムと考えております。
350変人:01/12/05 19:33
>>348
世界を観るうえで、基軸、視点をどこに据えるか?
ここが最大のポイントかと思いますね。
えてして人間は、そこのところを曲解しているのが通常の人間の姿です。
「気付けば」全く世界は変わってしまいます。
351名無しさん@1周年:01/12/05 19:35
>>350
あなたは気づいた?
352名無しさん@1周年:01/12/05 19:35
>>350
気づいたとしても、人間は人間の視点からでしか世界を見れないかと。
353変人:01/12/05 20:13
>>352
>人間は人間の視点からでしか世界をみれないかと。

そうでしょうか?
人間は「時空の流れ」の一瞬であり、また「宇宙即我」でもある。
これは、ビッグバン的世界観かと思いますね。
私は、人間の視点で世界を観たことはありませんけど。
354名無しさん@1周年:01/12/05 22:03
釈尊は、形而上学的問題に対して、人間の知識領域を超えたものであるとして、沈黙した。
人間は人間である。
355名無しさん@1周年:01/12/05 22:05
>>353
それはただの思い上がりですよ。
356名無しさん@1周年:01/12/05 23:27
>人間は「時空の流れ」の一瞬であり、また「宇宙即我」でもある。
>これは、ビッグバン的世界観かと思いますね。
>私は、人間の視点で世界を観たことはありませんけど。

ププッ
357名無しさん@1周年:01/12/05 23:30
「宇宙即我」って、バラモン教でしょ。

「梵我一如」
358変人:01/12/06 01:19
>>354
>人間の知識領域を越えたものであるとして
その領域の世界観の話をしています。
>>357
森羅万象の、歴史的生命の流れの一瞬として捉えております。
はかなきもあり、されど尊き、諸行無常の世界であります。

単体としての人間とは何ぞや?というよりも、生命の流れとして捉えておるのです。
「宇宙即我」というのは、そういった意味であります。
一瞬の生命でもあり、また宇宙の生命でもある。ビッグバン的世界観と表現しているのです。
359変人:01/12/06 01:43
スレッドのメインテーマは、まさに世界観でありまして、ここを基軸に据えております。
中枢部分から諸問題を考察した方が、遥かに理解しやすいのです。

また、世界観は各個人個人違って当然であります。
決して私自身の世界観を押し付けるものではありませんので、前もって了承願います。
私は、思うまま、気の向くままレス付ける。というスタンスでおります。
360名無しさん@1周年:01/12/06 01:49
>>358
ビックバンまで遡らなくてもいいですが、生命誕生以前にはその
流れはあったのですか?また、生命絶滅後(あるいは生命の存在
しない宇宙)でもその世界観は通用するのですか?
361名無しさん@1周年:01/12/06 01:58
>私は、人間の視点で世界を観たことはありませんけど。

それどう言う事?(マジで
362名無しさん@1周年:01/12/06 02:06
>>353
>私は、人間の視点で世界を観たことはありませんけど。

>>358
>>人間の知識領域を越えたものであるとして
>その領域の世界観の話をしています。

人間の知識領域の世界観は、人間の視点で世界を観るのとは違うの?
363変人:01/12/06 08:32
>>360
ダイナミズムそのものが「生命?」をも内在するものと思います。
宇宙すべて普遍的なものでるとおもいます。
生命の存在する星、そうでない星全く関係なく普遍的なものであると思います。
因果の理法により、現存する「生命」としての姿が現出したものと思うのです。
>>361>>362
>>人間の視点で世界を観る。
主観で認識する世界観というのではありません。
いうならば客観的。人間が主観的判断をしますと、すこしニュアンスが変わってきます。
これは、世界観におけるベースになりますので非常に大切なところです。
主観、客観という認識自体曖昧な部分がありますので、ここのところはレスの流れで判断されたし。
364名無しさん@1周年:01/12/06 09:56
と、言うことは、次元の異なった宇宙に、反物質の変人サンがおられると言うわけですね?
多分、変人サンは幽体離脱して反物質の世界との交流を持っておられることなのだろう。
つまり、正物質の彼と反物質の彼は友にその物質の性を抜け出してゼロ次元で邂逅し、様々
な情報の交換を行い、情報の価値を圧縮して限りなくゼロに近付けて、次元の壁を通り抜け
て、ここ2CHに書き込んでいるのかもしれない!
365変人:01/12/06 10:15
>>364
まあ、そういう話になりますと、どっかの新興宗教が飛び突きますね(w
反物質世界は、一応肯定的に捉えております。
幽体離脱。これに関しては否定的ですね。
私の言う客観的なる世界観とは・・・
ダイナミズムの生命?の流れが主流であり、それが第一義である。という事です。
そういった客観的流れのなかで、「人間」を位置付けるべきではないか?
そういう「観かた」をしているのです。
「善悪一如」「生死一如」「天地不二」「自他不二」。これらは、
そういった観点により理解すべきと考えております。
観念的に理解するよりも、はるか納得しやすいのではないでしょうか?
妄想的世界観?は、かえって本質の部分を見失いやすいかと思います。
366名無しさん@1周年:01/12/06 11:06
明日のためのそのいち。
真の智慧に至るには、電波とdでも情報を受け入れられなきゃダメです。
「ホドケは芥子粒の中に、銀河を入れてしまう」などというような。
さて、確かめようのない世界や言葉をどのように受け入れるか?にべも
なく否定すれば、安全ですがそれで進歩はお仕舞い。
現代物理学が解明した素粒子や時空の世界も、とても常人が受け入れら
れるものではなかったのだし。
まず、ココロと言う見えないものを扱う宗教は、危険なんだということ
を忘れない方がいいですね。正しい宗教でも邪な宗教でも。
だからこそ、自分をしっかりと作っておかないといけないのですよ。宗教
やる人は特に。道徳というより、まず自分がヤバイという意味ですね。
チャンスとピンチは表裏一体。これくらいのことはここにいる人は誰で
もわかる。ピンチをチャンスにするのも、チャンスをピンチにするのも
人間の心なんだよね。宗教的な事に関ると、精神的なチャンスとピンチ
が山のように心から飛び出してくるものです。
智慧のある心は、電波からもdでも情報からも実相を見出す。
智慧のない心は、真理からも現実の情報からも虚相を見出す。
智慧のある心は、変幻自在。
智慧のない心は、自縄自縛。
智慧のある心は、縁起を畏れる。
智慧のない心は、縁起を忘れる。
ところで、智慧だ、智慧だ言いましたが、別名にして何と言えると思います?
少の智慧は、一の言回し。
中の智慧は、十の言回し。
大の智慧は、百の言回しが出来るだろう。釈迦は待機説法で百以上の言回しが
可能だったのだろう。各々の中で、常識的出来事の外側にある問題に出くわし
た時に、内側にある役立つものを点検してみては如何でしょうか。
367変人:01/12/06 12:00
>>366
>真の智慧に至るには、電波とdでも情報を受け入れなければだめです。

基本的に、世界観は観念的に創り上げるものでは無いとおもうんですね。
例えば、「虫の知らせ」「胸騒ぎ」の経験をしますと、それなりの世界観というのが創られます。
そういった、自らが会得したものが重要なのではないでしょうか?
情報が錯綜するなか、選択しつつ構築するのも一つの手法かもしれませんが、
やはり本流は、会得(智慧)したものが重要かと思うのです。

>智慧だと言いましたが、別名にして何と言えると思いますか?
智慧は、言うならば「実相」ではないでしょうか?
それを会得して、初めて「智慧」と言うんかと思いますね。
観念的では非ずして、直覚?知覚?において感知するやに思います。
「空即是色」は、まさに智慧なくして理解はできないでしょ。観念的にはいくらでも解釈はできますが・・。

>常識的出来事の外側にある問題に出くわした時に、
これは「空」観で、充分捉える事が出来ると思いますけど、如何でしょう?

>内側にある役立つものを点検してみては如何でしょうか。
「空」における世界観が、すべてこれを包含しているやに思うのですが、如何でしょう?
368名無しさん@1周年:01/12/06 14:06
365変人サン
そうそう。飛び付く心は要注意!!飛び付く心では智慧の働きが歪になっている。
暗闇を歩いて光が見えれば飛び付くのは人間の情として頷けるが、智と情のバラ
ンスを取る意思が情に流されて智が弱っている。
智、情、意の三要素が歪になっては、例え実相を見ても、妄相に発展するだろう。
何も難しく考える事はない。知性を磨き、情緒を豊かにしていけばいいだけだ。
それに意思の力が強ければ申し分のない賢者だと誰もが認めるだろう。
その意味でも人類の科学と宗教の確執は、人間の精神の智と情の葛藤と言える。
今世紀は情から智へと人間は独立の道を歩んだ。だが智が先走りして、情が置き
去りになる傾向が強かった。取り残された情は、宗教の仮面を被ったりしてある
ものは脅迫し、あるものは警銅を鳴らした。
巨視的に見れば複雑だが、なんのことはない。知性と情緒のバランスを取ること
に他ならない。何故男性と女性がいるのか、何故男性と女性が結ばれるようにな
っているのか、考えてみればいい。女の扱いが苦手な宗教野郎も、よく考えてみ
ればいい。その意味で、異性と言うのは最も身近にして格好な修行の材料になる。
男性にとって、女性の情緒とは時として恐ろしいものになってしまう。
男性の知性が冷たければ、女性の情緒は死の血を求め、男性の知性が温かければ、
女性の情緒は甘美なものになる。これが現実なのである。
この世は相対的な相互依存の関係になっているので「空」では食えない。つまり
生きていけない。「空」はあくまでもものの見方に過ぎず、現実は行為しなけれ
ば始まらない。如何に素晴らしい「空」観があっても、空間での行為において役
に立たなければ、絵に書いた餅でしかない。実際、人間が生活する世界は一如で
はないのだから、そこからいきなり「空」と言っては生活という営みがない。
そもそも「空」、「一如」は子供の頃なら誰でも経験していた世界感です。「空」
が単なる退行にするか、進歩にするかを分けるのは、自他の関係が現実的に生活
上どうなるかで見分ける。「空」を生活の次元にまで下ろせるのが智慧というもの
でしょう。「空」による退行はカルト的思想にに通じて独存的になるでしょう。
厳しい様ですが、「空」は現実に応用できないなら、災いのもとになります。
369名無しさん@1周年:01/12/06 14:26
変人さんには恐らく影響を受けた元ネタがあるのだろうけど、予備知識の
ない私には何を言いたいのか何の話をしているのかさっぱりわからない。
ここらで少しネタばれして欲しいものだが。つまり、変人さん影響を受け
た本を何冊か紹介して欲しいと。
370変人:01/12/06 15:00
>>368
「空」をバックボーン的に捉えてしまうのが、観念的に思うのですよ。
森羅万象、智・情・意、大悲大慈、生きとし生きる者の全てだと思うのです。

>「空」はあくまでもものの見方に過ぎず、現実の行為において役だたなければ、
「色」でないと駄目というのでしたら、そこに「執着」「固執」が出てきますから、
そもそも、それは「空観」とおもえないのです。
「空」が、私は全てだと思いますね。それがベースになって「色」が有るも良し、無きも良し、
の境地こそが「空」かと思うのですよ。全ての営みは「空」ですからね。
それを明確にしませんと「色」はハナハダ観えずらいかに思うのです。

「空」は、ノンコントラスト状態に思われがちですが、全く違うと思いますね。
人間としての「営み」は充分かと思うのですよ。
「色」は、違った観点からの「一如の世界観」かと思いますね。
これは「菩薩」でしょうから、「一如」の考え方が多少変わってくるのは理解できます。
すなわち、「大局的観点」における世界観ですよね。
単体としての世界観を脱皮した状態かと思うのです。

>「空」は現実に応用できないから、災いのもとになります。
「空」と「色」の間に相当認識の開きがあるやに思うのですが如何でしょう?
371名無しさん@1周年:01/12/06 15:11
変人の言ってる事は、観念論に見える。
具体的に何を言ってるのか分からない。
「ビッグバン的世界観」って何?言葉遊び?
372変人:01/12/06 16:23
>371
>「ビッグバン的世界観}

この意味は・・・
瞬間(点)→宇宙{無限)
いうならば、ビッグバン的と言っているのだが、何か?

ほんの、ささやかな命(瞬間)ではあるが、その命は、大きな広がりを持っている事の象徴として
言ったのです。
決して観念的ではありません。「空」観によるものです。
もしまだ分からない時は、遠慮しないで又どうぞ。
373名無しさん@1周年:01/12/06 16:40
>>372
エントロピー増大と宇宙の熱死ついてはどう解釈してるのですか?
374変人:01/12/06 16:51
>>369
参考になる文献はありません。あえて言うなら・・・
達磨大師に、弟子入りを断られ腕を落として入門を乞う話がありましたね。
あれは、発菩提心の象徴として語られているんだと思うのです。
人間が「真剣」になって「道を極めたい」。その心の表れだと思います。
執着でもない「真剣」とは何ぞや?その話の流れであります。
375変人:01/12/06 16:59
>>373
発生、消滅の永遠なる繰り返し。
物理学の世界でもありますから、なんともいえませんが。私見として・・
可能性は大きいと思っていますね。
E=mc2乗。まあ、ダイナミズムからして充分考えられます。
反物質(反因子)はどこへ逝っちゃったんでしょうか?不思議ですね。
376名無しさん@1周年:01/12/06 17:02
367変人サン
>世界観は観念的に作り上げるものではない。
変人サンの「空」観はすばらしいものがあるとおもいます。基本的に
私も「空」観は似ているとおもうのですが、人間は「観」だけでは生
きていけず、「業」も含めての「観」が人間の営みだと思う。
人間の生活する世界は「観」と「業」が一如になった世界ではないのです。
「空」、「一如」は「観」であってそのまま「業」にはなりません。
変人サンは、「観」即「業」の人ですか?多分、人間であれば違うと思い
ますが、私は「観」と「業」の間を埋めるものが智慧だと思います。
「空」や「一如」などの、「観」だけに頼れば智慧は半開きのままになって
しまうのではないかな。「業」という現実の営みを軽視すれば、他というも
のが理解できないでしょう。「観」に依れば自他は「一如」ですが、「業」
という現実の営みでは自他は異なるものです。この世界での問題を何でも
「空観」で方付ける事はできないと思うのですが。どうでしょうか?

あと、ひとつ。変人サンの色即是空ってなんですか?
「色」目に見える物質の世界。
「即」直ちに、等価。
「是」これ。
「空」目に見えない根源の世界。
変人サンは違いますか?これが噛み合わないと話にならないので。
377名無しさん@1周年:01/12/06 17:06
>>374
>達磨大師に、弟子入りを断られ腕を落として入門を乞う話がありましたね。

本当に腕を落としたんだっけ?
378371:01/12/06 17:16
>>372
分からない。
仏教における「空」とは、何か?
どういう意味なのか、定義してください。(出典も含めて)
379名無しさん@1周年:01/12/06 17:22
用語だけが一人歩き。
仏教用語を使うのであれば、最低限の仏教の知識は必要。
物理学用語を使うのであれば、最低限の物理の知識は必要。
土台が弱ければ、その上にいくら壮大な建造物を立てようとも砂上の楼閣。

しかしながら土台作りは地味で地道な作業の繰り返し。
これをなすには根気と本気が必要と思われる。
だからこれを怠る者は多いが、それでは思想を自分のモノとすることは出来ない。
380変人:01/12/06 18:10
>>376
>私は「観」と「業」の間を埋めるものが智慧かと思います。

ここのところの解釈は素晴らしいと思っております。
たぶん、「色」の解釈をしているのではないでしょうか?
この観点においては深いものを感じます。

「色即是空」においてはその通りです。

>>377
史実としては解りません。
381変人:01/12/06 18:33
>>378
「空」の定義というのは難しいですね。
現実世界の「本質」というのでしょうか?そんなとこで如何ですか?
>(出典も含めて)
禅宗あたりで書籍がでているのではないでしょうか?
あまり詳しくないんで。スマソ。
>>379
私へのレスでしたら・・
>壮大な建造物を立てようとも砂上の楼閣。
それほど、だいそれた事は考えていません。
それに、わたしは知識は無い方です。
382名無しさん@1周年:01/12/06 19:00
>>381
>現実世界の「本質」というのでしょうか?そんなとこで如何ですか?

定義になっていません…

>それほど、だいそれた事は考えていません。
>それに、わたしは知識は無い方です。

ただの思いつきですか…
383変人:01/12/06 19:14
>382
「空」を言語で説明するとすれば
有るを肯定するし、有るを否定するし
無いを肯定するし、無いを否定する。
>ただの思いつきですか?
いや、違います。
384名無しさん@1周年:01/12/06 19:28
>>383
例えば、目の前に牛がいたとき、この牛を有ると肯定するのは
わかりますが、有ると否定する立場がよくわかりません。
この部分をもう少し説明してもらえませんか?
385変人:01/12/06 19:29
ROMしている方は、どんどんレス付けて下さい。
テーマに沿った話題を歓迎します。
私としても勉強させて頂きます。
386変人:01/12/06 19:39
>384
現実世界と、実相世界では観かたが違うのではないでしょうか。
二元論世界においては「存在」と認識するのではないでしょうか?
不二元論世界においては「空観」において、「観る」のではないでしょうか?
「空」においては、「存在」という概念が無いのではないでしょうか?
383レスの通りです。
387名無しさん@1周年:01/12/06 20:05
>356
なるほど…。しかしその考えですと、「観る」という概念も無いのでは
ありませんか?といういより、そもそも概念という概念自体存在しない
のでは?また、概念が存在しないことと、それそのものが存在しないこ
とはイコールではないはずですが…。牛の例で考えるとどうなるのです
かね?
388光の子:01/12/06 20:20
 世界が「あるという認識」は、世界自体の存在によるのではなく
「観る者の認識」により生じているんですよね。極論すれば世界が
(認識から離れた単独で絶対的存在としては)「ない」としても、
我々の認識作用が世界を「ある」ものとして認識すれば人は世界が
「ある」と言う。「ある」というのは、「対象が実在する」のでは
なく「対象を認識できる」、さらには「対象を認識している自己を
認識している作用がある」状態なのですから。
「世界が(認識に関わらず)ある」ことを「確認」することは不可
能でしょう。いや、それ以前に「世界がある」といった認識作用が
「ある」という「現実」にどれだけの「意味」があるのか、その
作用は存在の実在性を保証するほど「本質」的なものなのか、こう
いった疑問に対する答えを出すことも(認識作用による世界内部に
いる「自己を認識する作用」である自我には)おそらくできない。
389名無しさん@1周年:01/12/06 20:24
ん〜、難しいね。阿頼耶識なんかいかにも後付理論っぽいですし。
390変人:01/12/06 20:25
>387
このスレッドにおいて、それはカキコしてありますね。
主観、客観の事ですね。
あなたの場合は、どんな考えですか?
それを伺いたいです。
391名無しさん@1周年:01/12/06 20:36
>>390
私は縁起=無自性=空という竜樹の立場を支持していますが、
変人さんの説は今一つ理解しにくい所があります。
392名無しさん@1周年:01/12/06 20:42
>>388

>「ある」というのは、「対象が実在する」のではなく「対象を認識できる」

というのはメチャクチャな理論だよ。アル中患者が見る幻想の火は「ある」んだろうか?
逆に、火が「ある」というのが単なる認識にすぎないのなら、寝ているときに火に
手を入れても火傷しない?幻想の火か、実在の火かはちゃんと区別できるぜ。

見えても実は「ない」場合だってあるぜ。もし観察者の認識だけでものの「あるなし」が
決まるんだったら、またたき一つで宇宙を消したり、現したりすることができること
になる。向こうから暴走車が突っ込んでくるのが見える。思わず眼をつぶる。見えない
から車はいなくなったって?冗談じゃない。やがて君の体をぐちゃぐちゃに引き裂くこと
で自らの存在を証明するのさ。
393名無しさん@1周年:01/12/06 20:46
>>392
もし火に手を入れてもずっと寝たままだったとしたら?
394392:01/12/06 20:49
>393
今晩、さっそく試して御覧なさい。
395変人:01/12/06 20:52
>391
つまり「空」は、認識(主観)という概念で直覚?知覚?するのでは無いと思う。
自己内・外の合一、主客合一?におけるものと考えている。
ですから、あなたが仰っていた、「概念(主観)というものでは無いと思います。
この状態を、いわゆる「我」の自己外への「広がり」を感知?するものと思う。
つまり、森羅万象との我の融合というのでしょうか?
これが「空」なのかと思うのです。
なかなか、ここのところは説明が難しいのですが・・。
396名無しさん@1周年:01/12/06 20:59
>>394
例えばこういうことだよ。夢の中で火傷をしたとする。これは本当の
火傷なのだろうか?もちろんこれは夢の中の出来事だから本当に火傷
したわけではない。しかし、夢の中にいる内は、それが本物の火傷だ
と思うだろう。起きてみて初めて本当に火傷したわけではないとわかる。
では、一生起きることもなく、ずっと夢を見続けていたとしたら?

これが>>393の問いの意味さ。
397黒海老:01/12/06 22:42
なんだか、仏教用語の解釈が変です。
とりあえず、分かりやすく解説しているので、広辞苑より

【空】D〔仏〕(梵語sunya)もろもろの事物は縁起によって成り立っており、
永遠不変の固定的実体がないということ。

【色即是空】〔仏〕[般若心経]色(しき)とは現象界の物質的存在。
そこには固定的実体がなく空(くう)であるということ。

【空即是空】[般若心経]固定的実体がなく、空であることによってはじめて
現象界の万物が成り立つということ。

つまり、空とは無常の事です。
色とは物の事ですから、
「あらゆる物は無常である。無常であるからこそ物は成り立つ。」となります。
398お釈迦さん:01/12/06 23:16
そうやねん。   わてが言いたいことは、それでおますねん。ありがとさん。
399名無しさん@1周年:01/12/06 23:20
>>396
唯識だね。
僕もこの現実世界も夢と同じ質で出来てるんじゃないか、ふと思う事がある。
400やっぱ、言葉遊びじゃない?:01/12/06 23:22
>>381-383
出典を示せないので、「ただの思いつきですか?」と言うと、
「いや違います。」と言う。
出典がないのなら、あなたの思いつきなのではないか?

>>395
そして、森羅万象と我の融合が空などと言う。
それは、バラモン教の「梵我一如」であって仏教ではない。
401399:01/12/06 23:26
>>400
なんかこのスレ変ですよね。
402瓦物:01/12/06 23:43
結局、仏教も統一的な意見がないわけね。そういうの研究するのも
悲しいものがあるね。
403変人:01/12/06 23:48
>>397
「色即是空」の解釈は、個人個人いろいろ解釈があって当然です。
私は一応カキコしましたんで、これからは皆様の世界観なりを知りとうございます。
これからは、そういった流れでいかがなものでしょうか?
私も勉強致したく思います。
404名無しさん@1周年:01/12/06 23:53
>「色即是空」の解釈は、個人個人いろいろ解釈があって当然です。

んな事言ってたら話がなりたたん。
405名無しさん@1周年:01/12/06 23:54
真実はひとつ
406名無しさん@1周年:01/12/06 23:58
>>403
色々あるにしても、ある程度真っ当な解釈と、全くのデタラメ解釈があるわけで。
それを同列にして論じるのはいかがなものかと。
407変人:01/12/07 00:13
>>402
「瓦物」と言えば・・・
私の世界観に共通するものを持った方と察する。
408名無しさん@1周年:01/12/07 00:17
かわら‐もの【河原者】カハラ‥
@中世、河原に住み、卑賤視された雑役や下級遊芸などに従った者。河原は当時穢けがれを捨てる場所と考えられていた。かわらのもの。
A江戸時代、歌舞伎役者の賤称。好色一代女6「四条の―、さる芸子あがりの人なりしが」
(広辞苑)


お前は差別しとんのか!?
409変人:01/12/07 00:24
>406
これは、全て自分が経験したことでありますからね、
どう解釈されても良いのですが、デタラメだと取られるのは非常に残念ですね。
私は「経験」があったこそ「宗教」というジャンルに興味を持ったのです。
まあそういう訳で、これからは皆様の世界観を知りたいですね。
410変人:01/12/07 00:28
>408
瓦を磨いて鏡とす。これは「禅」において使われる「言葉」かとおもわれる。
瓦とは、心の喩えかと思います。
411名無しさん@1周年:01/12/07 00:30
>>410
おいおい。。
瓦は、仏になるために坐る奴のことだろが・・
(人間はもとから仏だよん)
412変人:01/12/07 00:39
>411
そういう意味もありましたか。
413名無しさん@1周年:01/12/07 00:40
>>412
そういう意味が原義だよん。
414名無しさん@1周年:01/12/07 00:42
・・・・・・・
415名無しさん@1周年:01/12/07 00:49
>>409
でも、>>400これは、変だと思いませんか?
416名無しさん@1周年:01/12/07 00:53
自分の経験したことを話したいのなら、それはそれで良いのだけれど、
用語は用語として正しく使った方がいいと思います。
むしろ、仏教用語など使わずに、自分の言葉で語られた方が誤解も
反発も少ないと思いますが。
417変人:01/12/07 00:54
>415
文献を元に論じている訳ではありませんからね。
「出典」はありませんよね。
私の「経験」ですよ。それが何か?
418変人:01/12/07 01:00
>416
仏教用語を使わずに・・というのも結構めんどいですね。
誤解があるのも、一応納得してましたから、それはそれで良いんです。
飾り気無しのレスですから、別に反発もそれはそれ良いかと思いますね。
419名無しさん@1周年:01/12/07 01:01
>>417
あなたの経験と仏教の世界観は本当に結びついているのか、
という根本的な疑問があるわけです。
420変人:01/12/07 01:11
>419
精神世界というのは、自分で確立するものですからね、
自分が信じるものが、そのすべてかと思いますね。
社会の価値観に一律でなくても良いかとおもいますね。
421名無しさん@1周年:01/12/07 01:14
>>417>>420
それじゃ仏教じゃなく、変人教じゃないですか?
422変人:01/12/07 01:16
>421
どう解釈しても良いですよ。
寝ますんで(笑顔
423名無しさん@1周年:01/12/07 01:33
変人は、自分は悟ったと言いたいのか?
424名無しさん@1周年:01/12/07 01:33
仏教で言うところの悟りを得たと言いたいのか?
425名無しさん@1周年:01/12/07 03:27
なんかむかつく
426名無しさん@1周年:01/12/07 03:43
>>423-424
そんな、まさか
427名無しさん@1周年:01/12/07 03:53
「仏教」とひとくくりにできる「世界観」なんかあるか?
なんか戯言めいてるな。
428名無しさん@1周年:01/12/07 03:56
こんな所にせこせこと書きこんでる悟った人なんてね・・・
429名無しさん@1周年:01/12/07 03:59
きっと大蔵経はもちろん全部読んでて、原始仏教から昨日できたような自称仏教まで
全部知ってるんですよ。パーリ語もサンスクリットも漢語も、当然のようにできて
秘密にされてるような典籍も、密教の修業も全部伝えられて「仏教」と言ってるんですよ。
430413:01/12/07 08:02
>>400
>それは、バラモン教の「梵我一如」であって仏教ではない。
梵天(ブラーフマン)は仏教用語じゃないの?
「梵我一如」て、バラモン教の言葉なの?


またまた夜の大運動会やってるし、、
431413:01/12/07 08:14
ほんとだ・・
基本的なことだね・・
http://kobe.cool.ne.jp/sincos/phylo/hs/contents/hotoke.html

>で、梵我一如とは何か、ということですが、
>まず、バラモン教においては宇宙の最高原理をブラフマン、
>個人の普遍の本質・実態をアートマンといいます。
>で、ブラフマンを梵、アートマンを我といい、これらが一如である、
>つまり同一のものだ、と悟る思想です。

>なぜならバラモン教社会だったからです。
>先に書いたようにバラモン教においては絶対的存在としてブラフマン、
>絶対的個人としてアートマンという考え方をしていました。
>これをブラフマンは諸行無常、アートマンは諸法無我によって否定した
>わけですからものすごい影響を与えたことは間違いありません。
432名無しさん@1周年:01/12/07 09:19
ここは性格が腐ったやつらが集まるスレか?(w
何が仏教だ。
やめとけ、やめとけ。
世間に誤解を招くだけ。
知的武装として仏教を学んだって迷いが深まるだけだよ、ヴァーカ。
433名無しさん@1周年:01/12/07 09:24
変人さんは、冒頭に「三法印」を言ってるし、基本の部分は分かっているのかとおもわれ。
171レスを見ると、理論よりも「感じたままの」事をレス付けてるかとおもわれ。
434万年野党では:01/12/07 09:54
切磋琢磨はいいが、自分の論言わずして、ひとの論を批評するのは、それだけでは、
あまりにも・・・
435名無しさん@1周年:01/12/07 11:19
>>433
けど、変人さんは「宇宙即我」を頻繁に使うし、別スレだけど「真我」を肯定してたし、、
実際、アートマンの扱いはややこしいみたいで。
別スレからのコピペだけど、、

「このように、初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、
 アートマンを積極的に承認している。
   中略
 さらにアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥されているので
 あるから、アートマンをアートマンと見なすことは正しいことなのではなかろう
 か。聖典自身は明らかにこの立場を承認している。原始仏教においては自己(ア
 ートマン)を自己(アートマン)として追求することが正しい実践目標として説
 示されている。すなわち真実の自己を求むべきことを勧めている。」
    中村元選集第15巻「原始仏教の思想」(P505)
436名無しさん@1周年:01/12/07 11:24
本当に釈迦が到達した境涯に、仏典をよんだだけで到達した人がいるのだろうか?
僧侶の中にさえ、その境涯に至った人もいないということらしい。もし至った
人がいるのなら、その人は仏教徒にはならないだろう。必要ないからね。
むしろ、伝統の中で形骸化してしまった仏教を、否定する立場を取るかも
知れない。世界宗教のパイオニア達も、伝統の中の正統派ではなく、異端
的な立場に立って、形骸化してしまった伝統の本質を蘇えらせる為に、わ
ざわざ苦労を背負うような行為に赴いている。ここのところは彼らの真意
を汲み取る時の、非常に重要なポイントになることだ。

釈迦の「悟り」と、仏教でいうところの「悟り」は、違うものだと思う。
釈迦は教義によって悟ったのではなく、人間を通じて悟ったのだから。
釈迦はブラフマンを諸行無常によって否定したのか?アートマンも無我
といって否定したのか?否定したのは、それらを、さも「見てきた」よ
うにして出鱈目な事を教えている宗教家達の教義や、それを盲目的に信
じている衆生達の観念だろう。
仏典の中には、釈迦が神々と対話する様や、魔との遣り取りも記してある
し、六神通力を行使する様も記してある。それらを抜きにして釈迦の悟り
を論じても、方輪走行の不安定さから免れることはできないでしょう。
釈迦は「観」だけではなく「業」においても実力を発揮した。それは釈迦
だからできたのではなく、智慧がそれだけ奥深て、く本物だったからだ。
実力のない理屈だけの人間に誰が付いて行くだろうか?付いて行くのは弱
みを隠す人々だけだ。その弱みは人間が抱えざるを得ないものでもあるの
だが・・・。そこを狙われる。それを守る為に強固な壁を拵えるのが人間
の煩悩というものだ。この、弱さを巡る迷いを超えることが菩提への道な
のに、壁を作ってわざわざ見えなくしてしまう。これは人間にとって厄介
な問題だと思う。南無阿弥陀佛。
だが、折角人間になって、嫌っていうほど弱さを我が身に受けているのだ
から、自ら菩提へ向かいたい。これが人間の本心だ。「救われたい」より
できるなら、自ら乗り越えたいのだ。強くなるには、弱くならねばその
プロセスは味わえない。南無釈迦牟尼佛。
437変人:01/12/07 11:45
>>435
私は「宇宙即我」を使った事がありますが、「真我」を肯定したことはありませんよ(微笑み
438変人:01/12/07 11:53
>436
禿銅。
439名無しさん@1周年:01/12/07 11:53
>>436
ちょいと「奢り」が入ってますよ。

「実践」なら、小さいながらも各自自分の生活の中でやってるはずです。
誰もここで議論することが仏教とは思ってないはず。

そんな「実践」感覚の中から思うことに、
「言葉」や洗練を求めて、
経典や書籍を読んだり、ここでわざわざ理屈にして議論したりしているのでは?
理屈を使うのは、強く理論武装するためというよりも、「伝える」ためのものだと
思いますが。

おそらく、ここの参加者で「自分は弱くない」「迷いはない」と思う人はいないかと。

そんなに強く振舞おうとしてるように思えますか?
440名無しさん@1周年:01/12/07 11:55
>>437
>「真我」を肯定したことはありませんよ(微笑み
ん? あれは、そうだったの?
じゃあ、誰も真我を求めてなかったわけだ。
ならば、誤解を招く表現になるぞ。
441名無しさん@1周年:01/12/07 13:14
>>439
>理屈を使うのは、強く理論武装するためというよりも、「伝える」ためのものだと
>思いますが。

理屈を使って何を伝えるんだ?
理屈で伝えれるようなことが釈迦の教えにあったっけ?
理屈を使いまわして悦にいるさもしい「我」が臭うだけ。
理屈よりも、各自のぎりぎりの体験を俺は聞きたいね。

>ちょいと「奢り」が入ってますよ。

なんでこんな言葉を平気で他人に吐けるのか理解できない。
「奢り」ならあんただってたっぷり含まれているだろう。

「言葉」を各自それなりに体験や思考の中で消化する過程が面白いのであって、
言葉の解釈を巡る堂堂巡りほど不毛なものはない。
442名無しさん@1周年:01/12/07 13:18
441は436ではない。
念の為。
443名無しさん@1周年:01/12/07 13:24
>>435
そのアートマンは、バラモン教で言うところの「真我」という意味ではなく、
単に「我」という意味。
444通りがかり:01/12/07 13:25
>>436

>仏典の中には、釈迦が神々と対話する様や、魔との遣り取りも記してある
>し、六神通力を行使する様も記してある。

そのほとんどが後世の人々の手によるフィクションですよ。
>>303,>>304,>>308をご覧下さい。
445名無しさん@1周年:01/12/07 13:27
>(笑顔、(微笑み
か・・・

「寛容の笑みほど、下卑た笑みはない」と言うが…さて
446名無しさん@1周年:01/12/07 13:30
>>441
縁起なんてもろ理屈ですが。
447名無しさん@1周年:01/12/07 13:33
>>441
>理屈よりも、各自のぎりぎりの体験を俺は聞きたいね。
本当の「実践」したことがあるんですか?
そこにギリギリの生の人間がいませんでしたか?
そんなのベラベラ体験談として話す奴は信用できないですね。
少なくとも「抽象論」「世界観」なんかで、片付くものは1つもなし。
釈迦が何を言ったかなんて二の次。事後的にのみ近似するだけで。

>なんでこんな言葉を平気で他人に吐けるのか理解できない。
>>436で「理屈」を使う人間が、ギリギリの勝負ができないみたいなレスに
思えましたもので。「理屈」を使う人間もやってると思いますよ。
「実践」したことのある人なら、
「奢り」がなければ436みたいな言い方にはならんはずですけども。

>「奢り」ならあんただってたっぷり含まれているだろう。
どの点が?
ぎりぎりの体験でお聞かせくださいな。(笑)

>「言葉」を各自それなりに体験や思考の中で消化する過程が面白いのであって、
みんなやってることですよね?
すいません。何が聞きたいのですか?理解が悪いもので。

>言葉の解釈を巡る堂堂巡りほど不毛なものはない。
面白くないけど、地道な必要な作業だと思いますよ。
不毛などと言い切って。やったことありませんか?
448名無しさん@1周年:01/12/07 13:43
439
>そんなに強く振舞おうとしているように思えますか?

思いません。特定の誰かに向けてレスしたのではない
ので。
ただ、いくら理論や洗練された言回しを求めても、
伝わるものに力はないと思います。
伝えたいことにも、色々あると言うことだろうか?
私には、ここに来ている人達の動機まで見通せる
力量はない。自分の言動に自信を持ってはいるが。
この自信は、私自身ではなくて根っ子から湧いて
くる。奢りは私自身から出てくる。
だから、自信が奢りになってしまうことも十分にあり
えますね。ご指摘の通りかもしれません。
折角の縁です。一つ私にあると言う奢りのベクトルを
具体的に読んでみて貰えませんか?
私は自分のことなのでかなり識っています。
では、「ちょいとした奢り」を具体的にお願いします。
449名無しさん@1周年:01/12/07 13:45
どうでもいいよ。
レスの無駄。他でやれ。
450通りがかり:01/12/07 13:51
確かに難しいですね。宗教的な体験は言語に尽くしがたい。しかし、それを
伝えようとすれば言語に表わすしかない。禅の悟りを「無分別智」、「理外の理」
と言う人もいますよね。

・宗教的真理は理屈や言語表現では他人に伝えたり、感得したりできない
・よって、宗教的真理は各自の実践を通じてのみ感得できるものである
・しかし、その体験を敢えて理屈や言語表現で伝えることは、有益である
・宗教的真理が理屈だというような誤解をすることなく、お互いの体験に耳を
傾けて、自分の仏道の肥やしにしていきましょう

というので、どないでっしゃろ(^^)
451名無しさん@1周年:01/12/07 13:51
>>448
>いくら理論や洗練された言回しを求めても
ここを根本的に誤解されてます。
洗練させるのは「実践」の感覚ですよ。
そこには、生の人間がいるわけですから。

そのために書籍を読むのも、
議論するのも当然の感覚だと思いますが。
452名無しさん@1周年:01/12/07 13:53
>>448
生の人間を相手に本当に「実践」されたことがあるのですか?


>>450
同意。(^^)
453名無しさん@1周年:01/12/07 13:53
>>447
>そんなのベラベラ体験談として話す奴は信用できないですね。
べらべら愚にもつかない自己保持に走ってるのはあんただよ。
他人の体験談を「ベラベラしゃべる」としか捕らえられないてめえの想像力の貧困を嘆けよ。

>少なくとも「抽象論」「世界観」なんかで、片付くものは1つもなし。
>釈迦が何を言ったかなんて二の次。事後的にのみ近似するだけで。
何だこれ?(w
これで理屈言った積もりか?
とんだ理論だな(w
厨房か?

人のの言いきりには不平を鳴らし、自分は言いきって平然としている。
はっきり言って、恐ろしく認識レベルの程度が低い。
もうレスせんでよろしいよ。


>「実践」したことのある人なら、
>「奢り」がなければ436みたいな言い方にはならんはずですけども。
何で「はず」なんだ?
自分の奢りに気づかない奴が他人の奢りを指摘する。
滑稽だわな。
454436、448:01/12/07 13:54
どうでもよくはないが、場が混乱してしまうようなので
私は引きましょう。一つの正念場だったのだで少し残念。
439さん。448は引きましたので。
455名無しさん@1周年:01/12/07 13:59
>>453

>べらべら愚にもつかない自己保持に走ってるのはあんただよ。
>他人の体験談を「ベラベラしゃべる」としか捕らえられない
>てめえの想像力の貧困を嘆けよ。
何、勘違いしてんの?
他人の体験談は、「実践」の相手だよ。
そんなもん、ベラベラしゃべっれるか!!!

>これで理屈言った積もりか?
理屈?
実践の感覚だけど。そんな感覚ないか?
押し付けてない?大丈夫?

>もうレスせんでよろしいよ。
何様のつもりですか?
456名無しさん@1周年:01/12/07 14:00
>>454
了解です。(^^)
457タカ派・西村真吾代議士:01/12/07 14:09
じゃあ、どう言えばいいんだ。どうすればいいんだ。オレを葬りたいのか。オレの存在そのものが、ウザイのか。
社民の辻00美氏よ、貴様が強姦されても、オレは救ってやらんぞ!(この暴言いらい、息ひそめてます)
458通りがかり:01/12/07 14:10
>>454

えらいっ。売られた喧嘩を買わないのも立派な仏道修行の実践ですからね。
お釈迦様もさぞかしお喜びでしょう。

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに
やむことがない。

「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが
やむ。

『ダンマパダ』(法句経)
459名無しさん@1周年:01/12/07 14:12
>>457
ワラタ…
じゃなくてさぁ。。。

もう少し「実践」でも、「理屈」でも、
人(仏)が行うものとして大切にしませんか?
460名無しさん@1周年:01/12/07 14:26
451、452
>生の人間を相手に実践した事があるのですか?
生の人間を相手に、「何を」実践しているのですか?
「何を」伝えたいのですか?その辺を明らかにして
ください。
私は、慈悲や愛情の心ならば毎日、生の人間を相手
に、動物も植物も相手に実践しています。智慧の心
なら毎日、磨いています。
動植物には言葉は通じませんが、伝わるものがあり
ます。人間に伝えるのは言語によることは否定しま
せん。言葉に拘るのと、言葉の真意を尋ねるのでは
違いがあります。ただ、人間でも言葉より、純粋な
心よりの行為の方が、よりダイレクトに伝わります。
461名無しさん@1周年:01/12/07 14:29
>>460
>人間でも言葉より、純粋な心よりの行為の方が、よりダイレクトに伝わります。

そうとも限らない。現実社会では、心より言葉の方が大事なときもあるんだよ。
462名無しさん@1周年:01/12/07 14:35
>>461
言っても、無駄だって。
>>460>>1には、生の「人間関係」の感覚が根本的に欠落してるよ。

sage
463名無しさん@1周年:01/12/07 14:35
>宗教的真理は理屈や言語表現では他人に伝えたり、感得したりできない
>・よって、宗教的真理は各自の実践を通じてのみ感得できるものである
>・しかし、その体験を敢えて理屈や言語表現で伝えることは、有益である
>・宗教的真理が理屈だというような誤解をすることなく、お互いの体験に耳を
>傾けて、自分の仏道の肥やしにしていきましょう

良いこと仰いますね。ノートにメモしました。
以心伝心、不立文字の禅は仏性を己の内に見出すことに絶対の価値を置いていて
釈尊すらもいてもいなくてもいいというように扱っていると聞きましたが、そう
ではなく、言語表現の必要性も認めているわけですね。
確か日蓮が「禅天魔」という格言でそういう独我主義の禅思想を批判していました。
印象論で悪いですが、私もこの日蓮の批判は的を得ていると感じていました。
464名無しさん@1周年:01/12/07 15:16
462
あれ、460=1ですか?dでもない誤解ですよ。私が変人ではありません。
461
そう。心だけじゃ分からない。心からの行為がないと伝わりませんね。
465名無しさん@1周年:01/12/07 16:34
しかし変人君の揚げ足取ることだけに執念燃やしている奴。
自分と意見が違うなら、何処がどう違うといえば言いだけ。
意見が一致しなくてもそれだけのこと。
何が動機か知らんが、人格攻撃、見苦しいからやめれ。
まともな意見が言いづらくなるだけだ。
466名無しさん@1周年:01/12/07 16:47
>>465
意見の違いの問題じゃないよ。
467名無しさん@1周年:01/12/07 16:53
変な仏教解釈を、変と言ってるだけ。
468通りがかり:01/12/07 17:09
>>463

おっ、そうですか。多分、鈴木大拙?の受け売りですが、気にいっていただけて
よかったです。
469名無しさん@1周年:01/12/07 18:18
>467
どっちの仏教解釈をどう思うかはROMってる人が判断する。
そのくらい分かれよ。
470名無しさん@1周年:01/12/07 18:28
>>469
467じゃないけど、ROMってる人が「変な仏教解釈」と判断して、
意見を述べてるんじゃないの?
それぐらい分かれよ。
471名無しさん@1周年:01/12/07 18:32
>>463
日蓮の格言は「折伏」のための理由付けじゃないの?

我欲に執着して、無理に禅宗の人を論駁しようとしたんじゃない?
それやりゃ、誰だって「禅天魔」に見えると思うね。
472名無しさん@1周年:01/12/07 20:48
どの仏典を最も重要視してるのかとか
どの仏典のどこから、そう思ったのかとか
仏典に基づいて言ってくれないと
そもそも仏教なのかという疑問もわきます
473変人:01/12/07 20:50
まあ、キリスト教のような「絶対神信仰」なら、それなりの世界観というのは私にもなんとなく解る。
仏教となると、また違ってきますからね。
皆様はどのように世界観を構築しているのですかね?
「絶対仏信仰」は、一応概念とすれば解釈は問題ないんですが・・。
バラモン教→仏教の流からすると「絶対仏信仰」は考えられないのですが・・
その他の世界観となりますと・・いかがなもんでしょうか?
474変人:01/12/07 21:03
>>472
般若心経ですね。「色即是空」のところです。
475名無しさん@1周年:01/12/07 21:06
>>473
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
一切皆苦

私はこの4つで満腹です。
他の教義はこの解説
あるいは
おまけにすぎません。
476名無しさん@1周年:01/12/07 21:08
三千大千世界とか六道輪廻
須弥山世界とか・・・が世界観かと思っていた
477変人:01/12/07 21:58
>>475
一番基本的なところですよね。
あまり、ごちゃごちゃ解釈付けるより、かえって良いと思います。合意。
>>476
ああ、なるほど。これも素晴らしい仏教の世界観ですね。
いやいや参考になります。
478名無しさん@1周年:01/12/07 22:12
>>473は、>>472に対するレス?
仏典を重視するのは、絶対仏信仰?
仏典を絶対視するのは、そうかもしれないが…
479478:01/12/07 22:45
ああ、違うか。
スマソ。
480名無しさん@1周年:01/12/07 23:48
変人は、はたして本当に男なのだろうか・・・
481名無しさん@1周年:01/12/07 23:49
Why not?
482田嶋 議員:01/12/08 00:13
<<<<480   なによ、それっ!  女だったらナンなのよっっ
483名無しさん@1周年:01/12/08 00:47
変人さんは、「真我」を肯定していますか?
484名無しさん@1周年:01/12/08 00:53
昨日、質問したんだが答えてくれてないね。
もう一度同じ質問をしたい。
仏法真理を悟ったつもりなのかい?>変人
485変人:01/12/08 07:16
>>480 男です。
>>483 真我は否定しています。
>>484
「悟り」はプロセスがあるとおもうのですよ。
あるベースの部分を構築して、その後の何らかのインパクトがありませんとその境地に至らないとおもう。
そのベースの部分をお話しているので、「悟り」のことは又ニュアンスが違います。
そういうことで「悟り」には至っておりません。
「色即是空」→「空即是色」このプロセスは、観念的には一応解っているのですが、
インパクトのある「確信」というのには、まだまだ至っておりません。
「確信」が有って良し、無くて良し。その程度の認識です。 
486変人:01/12/08 07:34
「悟り」についての私見です。

家族ずれで外出したと仮定して、何らかの突発事件に巻き込まれたとする。
通常は、家族の身の安全を最優先に考えますから、他はあまり気をとめません。
まあ、凡人は大体そうだと思いますね。私もそうです。

「悟り」の境地にある人は、又違った「視点」を持つのかと思うのです。
いわゆる「智慧」ですね。
そういった「智慧」には、まだまだ程遠いものがあります。
まあ、イメージとしてのお話ですけど・・。
487名無しさん@1周年:01/12/08 10:30
最も古い仏典として、ダンマパダを知っているが、どこにも色即是空なんて書いてなかった
と記憶します。般若経の中には色即是空と書いてありますが、一体誰の弟子が書いたものな
んですか?法華経も、浄土経も誰の弟子が書いたものなんですか?どうして仏弟子が書いた
ものが、仏典になってしまうのだろう?最近は、偉い僧侶も仏典を書かないのですか?
仏教は、ハッキリ言って「オカシイ」し、大いに「変」ですよ。
488名無しさん@1周年:01/12/08 11:54
>>487
ダンマパダも弟子が書いたものですがなにか?
489名無しさん@1周年:01/12/08 11:57
>>487
残念ながら、ダンマパダはスッタニパータより新しい。
490名無しさん@1周年:01/12/08 12:04
質問

諸法無我の「我」は、何ですか?
491名無しさん@1周年:01/12/08 12:05
>>486
>家族ずれで外出したと仮定して、何らかの突発事件に巻き込まれたとする。
>通常は、家族の身の安全を最優先に考えますから、他はあまり気をとめません。
>まあ、凡人は大体そうだと思いますね。私もそうです。

いや、あの。肝心なところが書いてないですよ。「悟り」の境地を得た
人は、この時どうするのですか?
492ベルト地帯:01/12/08 12:12
>>475
次のような解釈でいいのですか?

>諸行無常
全ての存在、事象は移ろい行く。とらわれるな。
>諸法無我
全ての真理に我欲が参画する余地はない。我欲を捨てよ。
>涅槃寂静
悟りを得た世界は全てが穏やかで平安である。
>一切皆苦
全ての営みは苦しみの原因であり結果である。

間違っているところ、足りないところ、ご教示乞う。
493名無しさん@1周年:01/12/08 12:18
>>492
それでいいですよ。
494名無しさん@1周年:01/12/08 12:28
>>473
変人さんは、よく「絶対仏信仰は考えられない…」と言うが、
絶対仏信仰って、「〜仏に帰依し、信仰すれば、〜仏が救ってくれる。」ということだよね?
ここに来ていて、初期仏教…等と言っている人間で、そこの所が分かってない人はいないと思う。
495名無しさん@1周年:01/12/08 12:35
>>492
諸法無我

いかなる存在も不変の本質を有しない。
我もまた実体のないものであり、自己に対する執着はむなしく
誤りである。
よって「我欲を捨てよ」となる。

あとはそれでいいのではないでしょうか。
私は一切皆苦という認識から仏教は始まり、そして終わると考えて
います。しかし、竜樹以降の空観(縁起=無自性=空)や後期大乗
の現実肯定的な側面ばかりが強調され、一切皆苦は軽んじられる傾
向にありますね。
496ベルト地帯:01/12/08 12:48
>493、495レスサンクスです。
実のところ、仏教の入門書を数冊読んだだけの初心者です。

空観とは般若心経に象徴される「無」の強調と考えていいのですか?
「無」の強調は、時として地道な求道を損なう誘惑になりうると言うことでしょうか?
それから、一切皆苦で始まり、終わるというお考えももう少しお聞かせ下さい。
497変人:01/12/08 13:23
>>491
>「悟り」の境地を得た方は、この時どうするのか?

自分の家族の安全を考慮すると同時に、周囲の人々の安全を平等に「観れる」と言うことでしょうか?
いわゆる大局的な観かた。菩薩の心というのでしょうか?

>>494
「絶対仏信仰」に関して。→了解しました。
498名無しさん@1周年:01/12/08 13:28
488
「何か?」もクソもないだろう。開き直るな、愚か者め。
489
私は別に、残念じゃない。キミが自説が間違えた時残念がるのはよく解るが。

バカなレスにはバカなレス。伝えるものは伝え終わった。
499名無しさん@1周年:01/12/08 13:32
>>498
開き直ってるのはあなたでしょう?
事実関係で間違っているのだから、
言い訳できないでしょう。
ちょっと見苦しいですよ。
500名無しさん@1周年:01/12/08 13:51
原始仏典の分類は↓に書いてあるから、読んでみるといいよ
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/998835507/670n
501名無しさん@1周年:01/12/08 13:58
ハッキリ宣言しよう。「仏教」は変だ。だから、変人も多い。
絶対仏があろうがなかろうが、変だ。
「無」や「空」を絶対仏にすり替えてみても、所変われど品
変わらずの精神なんじゃないのか?いや、変です。ハッキリ。

私は、変が「悪」だと断言し、否定するわけではないけどね。
何故かって?私も変だからさ。みんなと同じ穴の狢だよ。
502名無しさん@1周年:01/12/08 14:01
>>501
そこで自己否定しなくちゃ。
503変人:01/12/08 14:04
>>490
>諸法無我の「我」は、何ですか?

「虚仮の自我」という認識です。
つまり、「我」という認識はあるが、本質的には「無い」もの。と捉えております。
504名無しさん@1周年:01/12/08 14:20
それにしても、499は変な奴だなあ。最も変な奴だ。

自分だって変な奴なくせに。他人の変には実に厳しい。

自分が正しい立場に立っていると思う時などは、こえー

こえー。何処までも追求してくるに違いない。

自分が間違えたことには蓋をしてね。困った輩だなー。

「開き直っているのはあなたでしょう?
 事実関係で間違っているのだから、
 言い訳できないでしょう。
 ちょっと見苦しいですよ。」

だってさ。変なんじゃないのか?いや、完全におかしい。
505499:01/12/08 14:37
>>504
なるほど。「変」が君のキーワードなんだね。
「変」にはうつりかわっていくという意味もある。
あなたの「変」をもう少し突き詰めて考えていくと、
諸行無常、諸法無我に行き着くかも知れないね。
506名無しさん@1周年:01/12/08 14:47
507名無しさん@1周年:01/12/08 16:09
>>486
「何らかの突発事件」がよく分からんが・・

>通常は、家族の身の安全を最優先に考えますから、他はあまり気をとめません。
>まあ、凡人は大体そうだと思いますね。私もそうです。
>「悟り」の境地にある人は、又違った「視点」を持つのかと思うのです。
>いわゆる「智慧」ですね。

2点、聞かせてくださいな。

・「家族の身の安全を最優先に考えます」が、間違ったことだと思いますか?
・「悟り」を得る人は、超能力か、秘術か何かを獲得できると考えてますか?(そんな団体も有り)
508名無しさん@1周年:01/12/08 16:10
>>495
>私は一切皆苦という認識から仏教は始まり、そして終わると考えて
>います。しかし、竜樹以降の空観(縁起=無自性=空)や後期大乗
>の現実肯定的な側面ばかりが強調され、一切皆苦は軽んじられる傾
>向にありますね。
最後は、安穏とはできなけど、「平常是道」と思ってましたので、
ちょっとショックかも。
もう少し説明キボンヌ。。
509変人:01/12/08 17:06
>>507
>「家族の安全を最優先に考えますが」
これは、間違っていないと思います。
例えば「菩提道(悟り)」ですと、「一枚平等」の菩薩心がありますから
自分の子供、他人の子供「自他不二」で平等に助けようとするのではないでしょうか?
私の場合ですと、そこまで「気転」は廻らないないですよ。
自分の子供で精一杯でしょう。ある程度の余裕があれば、他人にも目は逝きますが。

>「悟り」を得る人は、超能力か、秘術か何かを獲得できると考えていますか?
そういうことは考えていませんね。
なにかのインパクト。「気付く」か「気付かないか」の違いかと思います。
ある禅師は「目横鼻直」と気付いたそうです。
つまり、目がヨコに付いていて、鼻がタテに付いている事を「悟った」と言いますから。
「大悟」は、「気付き」に通じるところがあるんじゃないでしょうか?
「確信」めいた「気付き」ですね。そこのところが核心かと思います。
「小悟」も一瞬、「大悟」も一瞬。そう思っています。
510変人:01/12/08 17:16
>>509
×「菩提道(悟り)」
○「菩薩道(悟り)」に訂正します。
511名無しさん@1周年:01/12/08 17:24
>>509
>これは、間違っていないと思います。
>例えば「菩提道(悟り)」ですと、「一枚平等」の菩薩心がありますから
>自分の子供、他人の子供「自他不二」で平等に助けようとするのではないでしょうか?
>私の場合ですと、そこまで「気転」は廻らないないですよ。
>自分の子供で精一杯でしょう。ある程度の余裕があれば、他人にも目は逝きますが。

これって、「空即是色」そのものではないでしょうか?(^^)
512変人:01/12/08 17:44
>>511
「空即是色」そのものだと思います。
この境地に至れば、の話ですが・・。
513名無しさん@1周年:01/12/08 17:47
何らかの危機的状況に陥った時、「自分の安全を最優先に考えます」
これも、「間違い」ではないですね。
514名無しさん@1周年:01/12/08 17:51
513
これも「色即是空」そのものです。
この境地に至れば、の話ですが・・。
515名無しさん@1周年:01/12/08 17:52
>>513
少し足りないと思うよ。
子供、いないっしょ。
516504:01/12/08 17:55
505
いや、一本、取られましたわい。
517変人:01/12/08 19:11
>>513
>自分の安全を最優先に考えます。
通常の、人間の「業」かと思います。
この「色」の世界を「空」にて観る→「色即是空」。空見。
「色即是空」から、こんどは「空即是色」に戻る。
このプロセスが大事だと思うのです。
「空」→「色」。これは、観念論、知識の範疇を遥かに超えています。
仏教は「知識」では無い事を明確にしておきたい所存。
518名無しさん@1周年:01/12/08 19:14
なんだ、自作自演かよ。
519名無しさん@1周年:01/12/08 19:33


くう‐けん【空見】
〔仏〕あらゆる事物は空くうであると考えること。
空にとらわれた誤った考えとして否定される。

(広辞苑)
520名無しさん@1周年:01/12/08 19:48
 
ち‐しき【知識・智識】
@ ある事項について知っていること。また、その内容。「豊富な―」
A 〔仏〕
   ア・物事の正邪などを判別する心のはたらき。
   イ・正しく教え導いてくれる指導者。高僧。善知識。
   ウ・寄進すること。また、その人たち。
E (knowledgeイギリス・Wissenドイツ) 知られている内容。認識によって得られた成果。
   厳密な意味では、原理的・統一的に組織づけられ、客観的妥当性を要求し得る判断
  の体系。
F知己。しりあい。
Gものしり。

(広辞苑)


<やるとき>
「知識」ではない! 「知識」に頼る奴はダメな奴。

<聞くとき>
「知識」もないクセに! 「知識」たいしたことないから信用できん!
521名無しさん@1周年:01/12/08 20:52
517
自分の身の安全を最優先に考えます。
>通常の人間の「業」かと思います。

この場合の「業」とは何を差しますか?
522変人:01/12/08 21:38
>>521
>「業」とは何を差しますか?

最初から「自他不二」の考えの方は珍しいかと思います。
通常ですと、やはり自分や家族が一番可愛いのではないでしょうか?
これが「業」なんだと思いますね。
因果の果だと思いますが、どうでしょう?
523黒海老:01/12/08 22:44
「色即是空」と「空即是色」は、等質だと思います。

まず、「色即是空」を見てから、「空即是色」に戻る、というような事はなく、
縁起を観る事により、「色即是空」と「空即是色」を同時に知るのではないかと思います。
524名無しさん@1周年:01/12/08 22:46
>>513
>何らかの危機的状況に陥った時、「自分の安全を最優先に考えます」
>これも、「間違い」ではないですね。
震災の当時、自分の幼い子供がいる親は、
「何よりもまず隣で寝ている子供を庇った。それが嬉しい」という人に
多数会いました。(生聞き)
仏教ではまず否定されるものが含まれてるかもしれませんが、
やはり人の本性かと。
「自分の安全だけ考えて、自分だけ逃げる」のには、何かがあるようにも
思えるのですが・・
(だが、双方、決して「間違い」ではないでしょうね。)
どちらが本性か理屈をコネル気はありませんが、、

>>514
>>自分の身の安全を最優先に考えます。
>これも「色即是空」そのものです。
>この境地に至れば、の話ですが・・。

境地に至れば、確かに「色即是空」(空即是色−連続&表裏説)になると思うけど。
「三十六計逃げるに如かず。」(昔は「隻手の音」の回答をこう考えていた)
しかし、上記の通りです。
525名無しさん@1周年:01/12/08 22:47
>>523
真っ当な解釈だと思います。
526名無しさん@1周年:01/12/08 22:47
ごう【業】ゴフ
(呉音)
@〔仏〕(梵語 karman 羯磨かつま)
  ア・行為。行動。身(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)。
    また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。
    善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生むと
    いうのが仏教およびインドの多くの宗教の説。「業苦・因業」⇔果報。
  イ・業の果報。「業病」
A業腹ごうはらの略

(広辞苑)
527名無しさん@1周年:01/12/08 22:49
>>523
およ?同意です。
528名無しさん@1周年:01/12/08 22:58
摩訶般若波羅密多心経
 観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五薀皆空 度一切苦厄
 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識
 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽乃至無老死 亦無老死尽
 無苦集滅道 無知亦無得 以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅密多故
 心無罫碍 無罫碍故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究境涅槃
 三世諸仏 依般若波羅密多故 得亜耨多羅三藐三菩提
 故知般若波羅密多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅密多呪 即説呪曰
 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦菩提薩婆呵 般若心経
529名無しさん@1周年:01/12/08 23:00
>>523 黒海老さん

縁起を観ることで、菩薩道に必要な智慧がすべて身に付くとお考えですか?
530名無しさん@1周年:01/12/08 23:06
>>524
「自分」=「自分の家族」?
531名無しさん@1周年:01/12/08 23:08
ち‐え【知恵・智慧】
@物事の理を悟り、適切に処理する能力。「―を働かせる」「―がつく」
A〔仏〕(梵語 般若。ふつう「智慧」と書く) 真理を明らかにし、悟りを開く働き。
  宗教的叡知。六波羅蜜の第6。また、「慈悲」と対にして用いる。
B〔哲〕(sophiaギリシア・wisdomイギリス) 四つの枢要徳の一。
  古代ギリシア以来さまざまな意味を与えられているが、今日では一般に、
  人生の指針となるような、人格と深く結びついている哲学的知識をいう。

(広辞苑)
532黒海老:01/12/08 23:13
>>529
さあ。分かりません。

「色即是空、空即是色」は、縁起によって成り立っているので、
縁起を観る事は、「色即是空、空即是色」を観るのだと思っただけです。
533名無しさん@1周年:01/12/08 23:15
>>530
正直、断定できないっす。

仏教の理屈では、
「自分」の本性≠「自分の家族」。

「見える」のは、
「自分」の本性=「自分の家族」。
仏教といえども、これを否定することは難しいかも(非現実的)。
534名無しさん@1周年:01/12/08 23:19
例えば、自分と子供の命どちらかを助けるとしたら、子供を助ける人はいるでしょう。
535529:01/12/08 23:19
>>532 黒海老さん
ありがとうです。
まだ、謎は続くようですね。。
536変人:01/12/08 23:23
>>524
考えていることは良く理解できます。
独身者と、子供のいる人は、その優先順位も多少違うかもしれません。
>>529
同意。
「色即是空」「空即是色」の解釈が、どうも二分しているようですね?
537名無しさん@1周年:01/12/08 23:25
>>534
>例えば、自分と子供の命どちらかを助けるとしたら、子供を助ける人はいるでしょう。

「自分を助ける人もいるでしょう」になる感覚が拭い切れません。

よしんば、「自分を助ける」との境地に至っても、
実際の行動は「子供を助ける」になるような気がします。

ただ、最近の幼児虐待報道を聞くに、・・・ですが。
538529:01/12/08 23:27
>>536
>同意。
>「色即是空」「空即是色」の解釈が、どうも二分しているようですね?
こらこら。
俺は、縁起を見るだけでは、すべての智慧は身に付かず、
そのままでは爪弾きになる説だよ。

不同意では?
539529:01/12/08 23:47
>>536
>「色即是空」「空即是色」の解釈が、どうも二分しているようですね?
禅スレにおける各人の「色即是空 空即是色」の印象をまとめた
俺のレスをコピペしておきますね。

465 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/11/28 19:37

また、空の観念論になってるし、、(哀)
まいっか。。

「大悟」は分からんが、
「小悟」でも、得たときは「色即是空 空即是色」が同時に起こる感覚が
俺的にはあります。
やはり、じぃさんの「突破」や「ひっくり変える」がシックリきます。

だから、187さんや、通り掛かりさん(「大悟」ですよね?)の空即是色が
難しいというのは、正直???です。

というよりも、もしかして「空」のための「空」をやってしまったがために、
通り掛かりさんの場合は、ビッグバン級の「空即是色」にきっかけが
必要となったかも。。。

187さんは、「空即是空?」を突如として得られたために、
「色」が混乱してしまったのかも。。。
必要なのはもしかしたら、「色即是空」を「色」のためにやることかも・・

引き換え、じぃさんの場合は、もともとが「空即是色」の「色」を狙って(必要に応じて:
日常生活の話からの類推>>442)、「色即是空」をやっていたということかなぁ・・

分からん。。
540変人:01/12/09 00:02
>>539
>「色即是空」「空即是色」が同時に起こる感覚が俺的にはあります。

こういった感覚は全く考えられないですね。
同時に起こるとはどういう事ですか?その方が興味があります。
とにかく私は「等質」とはとても思えない。
実際、何の話かサパ〜リ解らん状態。
「空即是色」とはそんなに簡単なことだと到底思えない。
とにかく、話が混乱している。
541名無しさん@1周年:01/12/09 00:13
>>540
>こういった感覚は全く考えられないですね。

なんで悟ってもないあんたが安易に断言し切れるのかが全く考えられない。
宗教議論以前にこういった所が根本的におかしい。
ある種幼児的な自己完結性を感じる。
542あーあ!:01/12/09 00:13
543名無しさん@1周年:01/12/09 00:14
おっ。変人さんが珍しく動揺してる?
興味深いお話で、これからの展開が楽しみです。
544変人:01/12/09 00:18
まあ、私の考えは一応カキコしましたので、黒海老さんの考えも聞いてみたいですね。
私と考えは違うと思いますが・・。
545黒海老:01/12/09 00:26
>>544
今日は時間がないので、後日という事でお待ちください。
546変人:01/12/09 00:27
>>541
「色即是空」と「空即是色」が同時に起こる感覚を知りたいですね。
非常に興味があります。
是非ともその境地を教えて下さい。
547名無しさん@1周年:01/12/09 00:36
>>540 変人さん
そこをうまく「伝える」能が俺にはないんだな、これが。マジで。

「小悟」になるけど、
・同時に起こるのは、「色即是空」で「空」に至ったとき。
・視点が転換してるんだけど、同一の視点になる。
・矛盾する具体的なものに「透る(不ニ)」ところを見たとき(「色即是空」)、
 「透っ」ている「色」の風景が見える(「空即是色」)。ぐらいかな。
 視点は、「透っ」ているものにも、「色」にも照準を合わせられる、かな・・

今はこれで精一杯です。後日、徐々に、でご勘弁を。

# 変人さん、その前にコピペ(コピー&ペースト)を覚えてね。
   全部手打ちでしょ?
   http://www.skipup.com/~niwatori/index2.htm#kopipe
   ■コピペ(コピー&ペースト)について

# 541は私ではないですよ。
548変人:01/12/09 00:50
>>547
良く読みました。
つまり、視覚によって「色」の風景に照準を合わせられるということですね。
どうも有難うございます。

コピペ、そのうち勉強します。
549名無しさん@1周年:01/12/09 00:55
突発的な危機的状況に陥った時、咄嗟にわが子を庇ってしまうのが親心と言うものなのでしょう。
私は独身で子供もいないので、我が身の安全を最優先して考えると思う。
しかし、人間不思議なもので、咄嗟にとってしまう行動が普段考えている自分の姿とは異なる行動
にでることがあるものです。
普段は素晴らしい好人物でも、追い詰められた時に正反対の行動に走ってしまう人間もいれば、
普段はドキュンでも、追い詰められた時には素晴らしい行動をとってしまう人間もいる。
咄嗟にとってしまう行動っていうのは、普段は見えないその人の素顔の姿だったりもする。
苦労を友にした友人とは固い信頼を結んでも、環境が変わって片方が出世したりすると大切な
信頼が崩れてしまう人間もいる。
人間の心は出会う縁に依って様々に変化するものでもある。諸行無常だからそれでいいのか?
いや、違う。諸行無常と闘うのが智慧の精神というものだろう。諸行無常は過ぎたる事に執着
する心には拘りを解く教えになるが、「今」を「生きる」常に新しい心には刃となる。「今」
という「可能性」を開く努力を放棄する言い訳に頭の中で変化してしまうのだから。諸行無常
は、宇宙という大きな身体の新陳代謝なのである。新陳代謝は生命そのものを維持するために
ある。新陳代謝のために生命があるのではなく、生命のために、新陳代謝があるのである。
諸行無常などといって、悟ったように全てを諦めている者は、まったくここの所が分かってい
ない。大切なものを常に新しく保つ為に、循環させている。それが「いのち」そのものの形な
き姿なのだ。諸行無常に流されていいのなら、仏典に「励み」と「怠り」での受け取る「果」
の異なることを強調したりしないはずだ。
常に新しい「いのち」の世界と、移り変わり循環する「もの」の世界では、どちらに「生きて」
いるという実感があるか。この移り変わる身体は「我がもの」ではないと真に悟れれば素晴ら
しい。「今」を「生きる」という常に新しいいのちの世界の深みを、悟りに応じて味い、実感
できるに違いない。「今」を「生きる」とは閉ざされた一点の時間の中に入るのではなく、開
かれた「過去」「現在」「未来」の途切れていない広大で緩やかな時間なのだと思う。
550名無しさん@1周年:01/12/09 00:57
>>548
正直、そんな説明じゃ分からんと思う。スマソ。。
1回、公案とか、生活上の問題とか、
具体的な問題で体験すれば、分かると思うんですが。。
(禅の逃げの側面ですね)

コピペは変人さんが面倒でしょう。
覚えたほうが楽ですから。
551名無しさん@1周年:01/12/09 01:03
色即是空なら、空即是色が成り立たなきゃ変でしょう。
逆もまた真なりという意味で色即是空、空即是色と続
けて書いてあるということではないのかな?
片方では成り立ちませんよね。「色」が即「空」なら
「空」が即「色」でなければ、色即是空は成立しません。
552変人:01/12/09 01:10
>>550
実際、心を伝えるというのは難しいですよ。
伝えたい事は解ります。
553名無しさん@1周年:01/12/09 01:12
タイトル「変人の世界」に変えなさい。
554変人:01/12/09 01:21
>>551
私と考えが違います。
色即是空なら、それですでに「完結」しているのだと思うのです。
何故、わざわざ「空即是色」を付けるのか?
それなりの「意味」があると思うのです。まあ、推測なのですが・・
そういうふうには思わないですか?
555名無しさん@1周年:01/12/09 01:36
「変人における世界の見方・考え方」

1 名前: 変人 :01/11/19 07:25
変人とは何ぞや?
こういった変人的テーマは
変人における世界観に答えがあると思うのです。
さあ、マタ〜リお話いたしましょう。
556名無しさん@1周年:01/12/09 01:39
>>549
圧倒されてしまいました。

智慧は、「悟り」が始まりになるとの確信に至りました。
智慧も、常に新しい「いのち」に支えられる(=「空」)ようですね。
宇宙によって生みだされる新しい「いのち」とは何か?
「今」「ここ」に「生きる」ということ、ではないでしょうか?

>諸行無常だからそれでいいのか?
>いや、違う。諸行無常と闘うのが智慧の精神というものだろう。
感動ものです。
もちろん、諸法無我(無心)とも闘うことになりそうですね。
仏教が「一切皆苦(=涅槃寂静!)」で終わるとのレスがありましたが、
意味がなんとなく分かりかけてきました。

549さん、ありがとうございました。
557変人:01/12/09 01:40
>>549
良く読みました。
えてして、無常観に流されてしまう事もありますね。
確かに「生きる」というのは循環なのでしょう。
そういう事も同時に考えていきませんといけませんですね。
大変参考になります。
558名無しさん@1周年:01/12/09 04:27
>>551
私も、ずっとそのように解釈してきました。
変人さんのいうような、『色即是空→空即是色のプロセス』といった解釈
が書いてある注釈書がありますか?

それから偉大な先達たちは常に、空性の理解とともに菩提心を育むことの重要性
を説かれていますけど。うまくいえませんが、諸行無常と闘うのが智慧の精神
というよりも、諸行無常を知った上での智慧だと思うんですが。
議論から外れてますか?

そして、この底無しの空性のうちに何故だか存在している「私」が、同じような他者
に対して、持たざるをえないこの慈悲、を仏教は重要視していますよね。

すいません、うまく繋がりませんが、一応書きこみます。
559ばんこ:01/12/09 07:28
>>558さんにススキの穂↑向き
そうですよね。空性なんていうけど、なにしろ空だから言葉の意味は問わないけど、
すべて関連性をもっているから空なんだよね。たぶん、きっと。
最近「宇宙は無限に開かれた円だ」という言葉をきいてあーそうだなっとおもった。
560変人:01/12/09 07:48
>>558
私も、ある時期までは貴方と同じ様に解釈してました。
ですから、私のレスがアブノーマルな印象があるのは良く理解できます。
まあ、私もある程度のアンチテーゼはしてきましたから、
今後、皆様の展開も期待しております。
561変人:01/12/09 08:04
>>558
まあ、少しひつこくなりますが、「空」に依る「不二」を
現実世界で実践するのが「空即是色」かと思うのです。
いわゆる菩薩道です。簡単に言うとそういうことです。
まだ、私はそこまでには至っておりませんが・・。
562名無しさん@1周年:01/12/09 09:39
どうも、色即是空だけを般若心経から取っ払ってしまうから、いけない。
やはり、全体を通して「一つのもの」という理解の仕方も重要だと思う。
二百六十六文字に集約された文字一つ一つが有機的に繋がっているので
はないだろうか。
一句一句を採り立てて深めながら理解することにも十分な意味があるの
ですが、それだけでは片手落ちになってしまう。
せめて、「色」は、不異「空」であり、「空」は、不異「色」と書いて
ある部分と合わせて理解する必要があるだろう。

「色」は「空」と異なるものではない。となれば、「空」も「色」と異
なるものではない。
重要だから、言葉を変えて繰り返しましょう。「色」は即「空」であり
「空」は即「色」なんだよ。

こう言うことを、この部分は伝えようとしているのではないかな。でも
やはり、般若心経は全体を通じて「一つのもの」として理解するものだ
と私は思うのだが。そのように「一つのもの」として自分の中に収めて
しまえば、部分的な一句の意味も般若心経に返ることができる。
563変人:01/12/09 10:18
>>562
貴方のような考えと・・
私のような考えと・・
混沌とした状況でスレは進んでいると感じられます。
562さんのような考えも合わせて、議論していきたいと思っております。
564562:01/12/09 10:53
変人さんの色即是空から空即是色に向かうプロセスというのを、考えて
みたのですが、こういうことではないかと察しましたが、どうでしょう
か?
通常の、社会常識の中に埋もれて生活している人間が、生死を分けるよ
うな、インパクトのある体験を持ち、それまでの常識が覆される。そし
て、より人生の真実に心が迫っていき、「ああ、こう言うことだったの
か・・・」と小さいながらも悟りを得る。その小さな悟りをヒントに色
色なことが明らかになってくる。この状態を「色即是空」という解釈。

そして、今度は色即是空から掴んで来た「空」を現実に成就する為には
実践が必要になり、現実的な努力が始まって、成すにはプロセスが必要
である。つまり、理解は瞬時でも、成し遂げるには時間が必要だと。
こういう意味でしょうか?
565名無しさん@1周年:01/12/09 11:25
独学で仏教を学んでいる人は、ああ言えば上祐のような
詭弁に逃避してしまう事のないように気を付けましょうね(^^)

大切な中心に心の中心軸を合わせて、自由無碍に語るのも、

その場その場の刹那で辻褄を合わせる理屈を語るのも、

実によく容は似ている。中味には天と地の違いがある。

他人の成さざるを見るなかれ。己が心の行為を見よ。

余計なお節介を、諸兄どうかお許しあれ。
566名無しさん@1周年:01/12/09 12:34
>例えば、自分と子供の命どちらかを助けるとしたら、子供を助ける人はいるでしょう。

産経新聞大阪版の記事に、大阪池田の事件についての記事が出たそうです。
池田小の女先生の言い訳が新聞に!
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/news/1007843253/13-16

この女性教師は、自分を責めてるんだけど、「悟り」からみたら、どうなるんだろうか・・

自分の安全のために逃げることを考えたのは、誰に恥じることもない「悟りの境地」だと思う。
椅子を投げるなどして、対抗したとしても、やはり「悟りの境地」だと思う。
どっちにしろ、自因自果は生じるだろうが、、

諸行無常を知った上での智慧か? 諸行無常と闘うのが智慧の精神か?

すんごい難しい感覚になりそうですね。
567変人:01/12/09 13:04
562さん
まあ、殆どそういうことですね。
「般若心経」をトータルで解釈するというのは納得です。
それにしても、「色即是空」「空色是色」は最大のポイント部分かと思います。
568名無しさん@1周年:01/12/09 13:05
吾が腹は空の空なり
くうくうとなるなりよ〜
569名無しさん@1周年:01/12/09 14:11
>「悟り」から見ればどうなるか・・・。
私の意見から言えば、全体を「ひとつのもの」という視野で眺めるのが
まず、ものの見方でしょう。判断は、中道という物差しを使います。
緊急事態などにおいては、「人間」である以上まず、我が身を守るのが
自分の仕事ではなかろうかと思います。我が身を忘れて誰かを救をうと
する人もいるでしょう。実際のところ「智慧」とはその時、その場に居
合わせないと湧いて来ないもので、部外者がどうのこうの言えるもので
はないと思います。
もし、どうしても知りたいというのであれば、自分が「その時、その場」
に居合わせる必要があるのではないか。つまり我が身が安全なところで
何を語っても思考の域を出ない。現実に生きた行為と思考がひとつにな
らなければ、智慧に至る事はできまないのではないでしょうか。
誰の人生でも、その人の「時」と「場」があるものです。それを忠実に
誠実に生きようとするのが智慧への道でしょう。
私は昨日、諸行無常と闘うのが智慧の精神と書きましたが、それは無常
観に立って、人間の営みを否定するような達観は間違いであるという意味
であります。だから、諸行無常を知った上での智慧を使う時もあるという
ことです。何が一番大切なのか、自分で判断しなければ「智慧」ではない
です。物差しは中道いうことになるのです。
「大切なもの」はひとつです。それは「空」と言えるかもしれません。
その「根」はみんな同じものだと思います。何かとの出会いで、その「根」
が見えてくれば、その関係において自他の境界線は曖昧なものになってくる
でしょう。それは愛といえるかもしれない。
と、同時に、人はそれぞれ辿ってきた過去の因縁があります。これが「個人」
の「業」でしょう。歓びと哀しみの集合体のように心の中に積もっている。
これが解る人間は、宇宙広しといえどもその人一人しかいないのですよ。
570名無しさん@1周年:01/12/09 14:17
話がこんがらがっているようなので一言。

色即是空、空即是色は、本来同じことでしょう。
両者に違いはないはずです。
しかし、それはあくまでも、
存在の本来のありようを描写すれば、という条件が付きます。
無明の人にとっては、色と空が同じに観ぜられる訳がない。
無明の人の存在の観じ方が深まるにつれて、
最初は二元的に見えていた存在のありようが、
一如であるように観ぜられてきて、
それが落ちて空観が完成し、最後にまた世間に戻ってくる。
十牛図で描写されている通りだと思います。
つまり最後の段階をいきなり描写しているのが般若心経でしょう。
そこに至るのに段階があっても不思議ではないし、
むしろ段階が無いというなら、
そもそも何で我々は今、物事を二元的にとらえているのか?
無明もないというのか?という話になると思いますよ。
571変人:01/12/09 14:37
>>570
禿銅。まあ、そういう事なんですよ。
私の伝えたいことは・・。
572564:01/12/09 15:51
570
そういう事だと思います。巧くまとめてくれてありがとう。
しかし、立派な見識を持っている人が結構いるんですね。
なんか、うれしくなってきました。
573変人:01/12/09 19:22
>>570
つまり、そういう事だったんですね。
574名無しさん@1周年:01/12/09 19:30
>>570
「十牛図」を引用するってことは、「悟り」には段階がある説ですか?

曹洞の「悟り」1発説なら、どうなるのでしょうか?
575名無しさん@1周年:01/12/09 20:02
>曹洞の「悟り」1発説なら、どうなるのでしょうか?

「悟りそのもの」はあくまでも一発だと思いますよ。
ただ、水が蒸気に変わるのに一瞬で変わるにしても、
温度が徐々に上昇する、ということはあるでしょう。
また、人によっては一気に逝ってしまう人がいるのかも知れませんね。
ただ、仏教では、スッタニパータでも、
一度に達することもないが、重ねて逝くこともない。
という趣旨のことが言われているようです。
一度に達することがない、というのですから段階があるのでしょう。
また、般若心経でも最後に、
逝けり、逝けり、越えて逝けり、全く越えて逝けり、
と何回か逝ってしまっているようですから(笑)
段階があると考えるのが普通です。
他の宗教でもそうだと思いますよ。
576変人:01/12/09 20:46
>>575
>一度に達することもないが、重ねて逝くこともない。

白隠の、「小悟」と「大悟」を繰り返す。
これと、同じようなのかもしれませんね?
577光の子:01/12/09 21:22
 白隠禅師の坐禅和賛では

 衆生本来仏なり
 水と氷のごとくにて

 とされていますね。人は、自らが水の中の「氷」であるという
想い、そして自らの心に「ある」水を固めて氷を作り出す「何か」
によって自らを自ら想い描いた「氷」に閉じ込めている。しかし、
これこそ自分自身である、と信じてきたその何かが水に溶け出す
時、「水という仏」も「ある」と思っていた「水を見る者」を観る
「悟りを得た者」も「氷」の中に閉じ込められた夢であったことに
気づく。水という自らを見る者が滅したが故に。

 氷の夢から覚めて水を見た者は悟り、水となって悟る者はその水
であることこそが夢の中の夢であったことを知った時、悟りを得る
者という「凍る水を作り出す何か」を自ら作り出すのをやめるので
しょう。
578名無しさん@1周年:01/12/09 21:32
プチ悟りなら、一週間山で座禅組んでるだけで体験することができますよ。
少なくとも私はソコまで逝った。しかし、山を下りるとただの人(ワライ
579名無しさん@1周年:01/12/09 21:43
>>575

>「悟りそのもの」はあくまでも一発だと思いますよ。
これは十牛図の「第8図」のことですよね?
この段階で、縁起を観て、「色即是空 空即是色」も観ると。
温度上昇が1〜7図でいいのかな・・
となると、9〜10図はどうなるんでしょうか?
・9〜10図が、「空即是色」である説(どこかで見た解釈です)
・9〜10図は、観るのではなく、世間で触れる「色即是空 空即是色」説
(私は、後説かなと思ってるのですが、、)

>一度に達することもないが、重ねて逝くこともない。
●「一度に達することもない」●
これは、1〜7図のそれぞれで得る「小悟」ぐらいになるのかな。。
・不ニ観が徐々に広がっていく。(二元・無明の範囲が狭まっていく)
  (すべてを不ニ観で捉えられるのが、第8図の「大悟」1発。)
・不ニ観で観れるし、不二元論・智慧で理解・対応できる範囲が徐々に増えていく。
  (訪ねられるすべてに1通り、智慧をもって不二元論的に理解・対応できるのが、第8図の段階)
どっちなんでしょう?
十牛図では、後者のようにも思えるのですが、
「人によっては一気に逝ってしまうこともある」のなら、前者にも思えるかも。

* この理解で、>>569さんのレスをどう考えるかに繋がってくるかと。
580名無しさん@1周年:01/12/09 21:49
>>578
道元はそんな感じのことを言ってるみたいですね。

もともと人は仏なんだから、
人が無明にいることを前提とする公案禅みたいなものはいらん。
しかし、人が仏であるのは、「修行」する限りにおいてであるから、
絶えず修行・座禅すべし!みたいな。(「無修行」に対するアンチテーゼ)。

どーしろというのか・・
581580:01/12/09 21:51
取り敢えず坐っときます。。
582変人:01/12/09 21:52
>>577
>衆生本来仏なり
>水と氷のごとくにて
>自らを自ら想い描いた「氷」に閉じ込めている

まあ、いわゆる「無明」の部分ですね。
市井の人が、仕事をしつつ、しかも核心の部分まで、いかに近づけるか?
ここのところが一番大事かと思うのです。
もし、実践するのでしたら「空論」にならずに真剣に考えるべきでしょうね。
その姿勢こそ肝要かと思います。
583変人:01/12/10 04:58
★コピペ成功記念★
http://www.skipup.com/~niwatori/index2.htm#kopipe
   ■コピペ(コピー&ペースト)について
test
584黒海老:01/12/10 05:20
「色即是空、空即是色」について書きます。

あらいるものは、縁起しているというのが仏教の立場です。
縁って起こるという、つまり、ものには原因があり、
原因によって結果があるという、因果の法則です。

ものは、何らかに縁って起こり、それ自体が独立したものではない、
とすると、あらいるものはその環境から、恒久的に影響を受けるわけで、
恒久的に変化しつづけるわけです。
ゆえに、あらいるものには永遠不変な実体がない。
これを「空」と呼びます。
空であるから、縁起しているのであるし、縁起しているから、空であると言えるでしょう。

或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。…
(スッタニパータ757)
人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、…
(スッタニパータ805)
「…およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、
それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。…」
(大捌涅槃経5.14)
585黒海老:01/12/10 05:21
もの(色)は、何らかの原因によって、(一時的に)形を持っているのであり、
それは、常に変化している(無常)。
これが仏教の言わんとする事です。

カッチャーヤナよ、実に正しい智慧をもって、世間の生ずることをあるがままに見る人には、
世間のことに関して無であるというものはない。
カッチャーヤナよ、実に正しい智慧をもって、世間の消滅をあるがままに見る人には、
世間のことに関して有であるというものはない。
(サンユッタニカーヤ12.15)

この観点からもの(色)を見ると、それは「空」であるわけですし、
「空」であるからこそ、もの(色)は成り立っているのです。
ですから、「色即是空」=「空即是色」なのです。
586変人:01/12/10 05:53
ある人が盤珪禅師に、

「私も歳をとりましたのでおうかがいしますが、死ぬるにはどのような覚悟をしたらいいでしょうか」

とたずねると、盤珪禅師は、

「覚悟はいらぬ。死ぬときは死ねばよし」

答えたという。
 なりきり、徹しきっておれば、ああだこうだと相対分別する妄想がなくなるから、立処みな真実の自由世界である。
587変人:01/12/10 06:03
>>585黒海老さん

>空であるから、縁起しているのであるし、縁起しているから、空であると言えるでし

「等質」という意味が解りました。どうも有難うございます。
588名無しさん@1周年:01/12/10 09:22

>「覚悟はいらぬ。死ぬときは死ねばよし」
これは、人間が絶体絶命のピンチに立った時に初めて使える「智慧」ですよね。
通常生活において、相対分別をなくしたら、「人間やめますか?」ということ
になりかねないですよ。
これは、自分自身のスタンスの問題でもあるだろうとも思う。つまり、通常の
社会生活を営みながら道を歩む人と、社会を出てひたすら聖の道を歩む人とで
は、実質的に人生が違う。簡単に言うと「死ぬまで人間やりますよ」と「いつ
でも人間やめますよ」という、現実の選択の問題が絡んでこなければオカシイ
と思う。突き詰めればこの問題で、大乗と小乗という、仏教の根本的な分裂に
至ってしまったのかもしれない。釈尊時代には出家も在家もみなひとつの仏教
徒で、現実にお互い助け合って生活していたのでしょう。
真に佛の心を求めて生きたいと願うなら、在家的立場と出家的立場は相互依存
の関係であると思わないのだろうか?出家してひたすら仏道に専念できるのも
社会の世話になってのことなのだから、感謝の念から報恩の行為が出てこなけ
れば、何かが間違っているだろう。在家的立場の人は聖の道を人生賭けて歩む
人を助けることができるのに、喜びを感じるのが仏道修行者の心だと思う。
現実には、人間の「悪業」が動くからそうは巧くいかないだろうが、それでい
いのだろうか?私にはいいとは思えませんので、何とかしたいとモガイテいる。
正しくないものを見て「何とかしよう」と感じなければ、仏道も悟りもない。
なんとなれば、正しくないものを、正しくしようというのが仏道だろうと思う。

          
            
589変人:01/12/10 10:12
>>588
>通常生活において、相対分別をなくしたら、「人間やめますか?」ということ
>になりかねないですよ

そうなんですね。在家と出家の、ある微妙なところがありますね。

ある老師は「生死一如」の概念さえも無くなってしまうとか・・。
この方は、立位のまま往生したらしいですけど、往生際が良いですね(w
在家ですと、家族の生活もありますし、ここまで悠長にはなれません。
在家、出家の問題。はたまた、在家の「仏道修行」(毎日座ってられません)。
そういった観点より、トータル的に考えていきたいと思っています。
今のところ、盤珪禅師の「無修業の修業」に傾倒しております。
590名無しさん@1周年:01/12/10 11:33
私が、一番インパクトを受けた修行僧は、写真で見ただけなのですが
タイ国の仏教徒弾圧に対して、我が身に火を付け、焼身自殺をしてし
まった、老僧の姿。
まさに、我が身が燃え盛る中、確りと禅定を保っているその姿は、今
でも凄い老僧だと尊敬の念を持っている。五蘊皆空の境地に至らねば
あれはできないと思う。真、地獄の業火を乗り越えた修行僧でなけれ
ばできはしない偉業だ。私はここで理屈は述べられても、我が身に火
が付けば、大騒ぎをするが。それだけ仏教が追い詰められていたとい
う事にしても、平和に仏道を求められる環境に、甘んじていては申し
訳がない。                        合掌。
591変人:01/12/10 14:25
>>590
私が幼少のころ、1963年頃でしたでしょうか、トンキン湾事件を機に、
きなくさいムードに漂うベトナム。
アメリカに抗議して、同じような事件がありましたね。「造反有理」というのでしょうか。
その頃の日本は「全共闘」全盛期でしたから、反体制に「修行僧」というのも少し驚きでした。
やはり、市中の道路上の焼身自殺です。

修行僧は、常に民衆の側に在ったのですね。そのてん、なんとなく「羨ましさ」さえ感じてしまいました。
まあ、日本ですと「葬式仏教」ですね。在家、出家とも共に「距離感」はありますね。
あまり良い関係には思えないのが残念です。
江戸時代からの檀家制度が、どうしてもこういった構図にしてしまうのでしょう。
592名無しさん@1周年:01/12/11 07:17
>>590
>タイ国の仏教徒弾圧に対して、我が身に火を付け、焼身自殺をしてし
>まった、老僧の姿。
万が一のときの「自分の身の安全を最優先」させた行為の1つだと思います。
尊敬の念を禁じ得ませんが、、
ただ、これだけではないはず。
その他の僧の行為にも、同じく「悟りの境地」を見たいという衝動があります。
593変人:01/12/11 08:04
>>592
>その他の僧の行為にも、同じく「悟りの境地」を見たいという衝動があります。

えてして観念論に終始してしまいがちなスレの性質上、こういった検証は重要です。
今後の、さらなる展開を期待しております。
タイ、ベトナム、中国あたりの「禅」に関する情報に、感銘するものが見受けられます。
594590:01/12/11 20:50
>万が一の時の「我が身の安全を最優先」させた行為の1つだと思います。
イマイチ理解に苦しむのですが。
私が思うに、「我が身を捨てた行為である」なのですが。
595名無しさん@1周年:01/12/11 21:26
顕教では、体をそれほど重要なものと考えず、指を切り取って仏に捧げたりしていましたが
密教では体を尊重しないのは大変な悪業として禁じられていますね。
体の内にもマンダラ及び仏達がいらっしゃるとの見解からです。
ダライ・ラマ法王などはこういった行為には常に反対されてきています。
596名無しさん@1周年:01/12/12 03:06
>密教では体を尊重しないのは大変な悪業として禁じられていますね。

うーん、より正確には、
体と心を別のものとみなさない、というのが正解かと。
597変人:01/12/12 06:10
空海にしてみれば「即身成仏」。
これとて、「禅」的に考えると少し違いますね。
そこに「死生観」の考えの違いが明確に表わされているやに思いますね。
人それぞれなんでしょうけど・・。
598変人:01/12/12 08:52
(つづき)
「禅」的に言うならば・・
「即心即仏」→「非心非仏」。この先は、涅槃、輪廻、解脱これらはすでに超越しているやに思う。
ですから二元的に解釈しましても、そこのところが難しい。
私としましては「身心一如」これもすでに超越したものと思うのです。
599名無しさん@1周年:01/12/12 09:37
80才の老人が、5才の頃の思い出を、まるで今の事のように再び味わうことが
できるのは何故だろう。想い出は、諸行無常ではないな。そうは思いませんか?
600名無しさん@1周年:01/12/12 09:53
善く説かれた法も、それを実行しない人には実りがない。
逆に言えば、実行できない「法」など捨てるべきである。
中学生レベルの修行者が、大学生レベルの修行を修めよ
うとすれば、落第の憂き目にあうかもね。
「学科」では、何とか受かったものの、「実地」で落ち
るみたいな結果に。
601名無しさん@1周年:01/12/12 10:42
>>588
>突き詰めればこの問題で、大乗と小乗という、仏教の根本的な分裂に
>至ってしまったのかもしれない。

これは、本当にそう思います。

>真に佛の心を求めて生きたいと願うなら、在家的立場と出家的立場は相互依存
>の関係であると思わないのだろうか?

在家の人に期待することってありますか?
在家の人が出家者に依存しきれば、
それは禅(仏教)ではなくなってしまう気がします。

禅における出家と在家の関係は、
やはり禅僧と、禅を支持した武士との関係が望ましいかもしれません。
一昔前まで、企業「戦士」などと言っていたのですから。
今なら、メンタル・ウォーの真っ只中にいる人になるかな・・
602変人:01/12/12 10:47
>599
>想い出は、諸行無常ではないな。そうは思いませんか?

そこには無常観が漂っていますね。
5才の頃→80才の老人。まさしく虚ろい逝く無常の世界です。

>>600
>善く説かれた法も、それを実行しない人には実りがない。

「法」の文面だけ捉えても、それだけのものだと思います。
最終的には、すべて自分の「会得」にかかってますから、そこを無くして
仏教を語っても何の意味もないとおもいますね。
学問として捉えている方もいますが、それだけではないでしょう。
仰る事は同意。
603名無しさん@1周年:01/12/12 10:55
>>594
そこは逆説で見てみました。
自殺に対する否定的な見解からです。
(釈迦は、「悟り」を開いたものは自殺しても構わないとしたそうですが)

「悟り」を開いたものは、すべての痛みを自分のもののように感じると聞きます。
その際、戦争・内乱は、どこまでも「悟り」を開いたものを苦しめるでしょう。
もちろん、その僧も、苦しみの中にいたでしょう。

修行僧は、その苦しみを感得して、抗議といえども、自殺をしたわけです。
それは、「苦しみ」に対して「我が身の安全を最優先にして」守るために、
自殺をしたという見方をしたい。苦しみに負けたと考えたい。
そして、当時、他の僧侶やったであろう何かしらんの「他の方法」を高く評価してみたい
と思うのです。

安直な自殺や、自殺肯定論に使われがちな「修行僧の自殺」だからこそ、
それは「我が身の安全を最優先させた行為」と位置付けたいと思います。
604名無しさん@1周年:01/12/12 11:01
スポーツマンタイプの悟りは「現場」での悟り故に不動の基盤に支えら
れる。だから悟り(実力)に応じた結果も当然に出る。
仏教学者タイプの悟りには「現場」がないので結果が出ない。これでは
恥ずかしいので、饒舌な理屈で人間を騙し、欺瞞の渦の中で生活こそが
「空」だといい、ああでもない、こうでもないと、とにかく賑やかである。
スポーツマンタイプは自分の出した結果(実力)に自ずと責任を持つ。
仏教学者タイプは諸行無常だと言って結果も責任もなく、言いたい放題
何でも言える。『全ては「空」なのだ』で、全て説明が付いてしまう。
これでは仏教者が現実逃避の輩であると言う、世間の批判にも、頷ける
ものがある。しかし、それも『空』だと言って話にすらならん。
困った人達は何処にでもいるものですね。「空」だというのなら、自分
の作った夢の中で最高の王になってから「空」だと言って欲しい。
自分の作った夢の中で、奴隷のような生活に甘んじながら「空」だ何だ
と言っても、納得するのは本人だけで、誰も納得しない。それでも「空」
にしがみ付くなら、迷信盲信の輩と同じで、欺瞞こそ安住の地に違いない。
宗教を利用した困った人々が、最も困った人々の部類に入るのではないか?
仏教を利用して愚者となる人と
仏教を利用して賢者となる人とでは何かが違うのだろう。
仏教を利用して賢者になる人は、世間でもそれなりに賢者になるのではないかな。
605変人:01/12/12 12:40
>>604
>これでは仏教者が現実逃避の輩であると言う、世間の批判にも、頷ける
>ものがある。しかし、それも『空』だと言って話にすらならん。

明らかにタイプは、「実践派」「学問派」と二分されます。どのスレでもそうです。
ここを見極めませんと相当混乱します。
私としては自分のスタンスを明確にしておきまして、その都度、臨機応変にしております。
「学問派」は、それなりの受け止め方というのがありまして、ストレートには受け止めていません。
606名無しさん@1周年:01/12/12 12:57
>>604
あの〜、人間観察ばっかりやってる1番アカン奴の批評みたいなんですけど、、
ていうか、心底ウゼェ〜ところに、1人で踏み込んだ(込むハメになった)ことが
あるのでしょうか?「ない」人のような気がします。賢者のように、バカラシイと
思われるんじゃないでしょうか?反対なんですよ、内容が。そんなところに、
「空」も、釈迦もあったもんじゃありません。

1人で踏み込むのが普通の感覚になってる人間なら分かると思いますが、
1人で踏み込んだとき、事前にあれこれ考えて、何を話してようが、その場、
その場で反応していくだけ(結論)で、責任なんて感じないし、「そんなもん聞かれても、
知らん」「他にどうしようもないやんけ!?」というのが、実際の感覚だと思いますが。
不動の基盤とか言われても???で、「成り行きと、勢いだけちゃうか!?」になるかと。
学者タイプに行動するなら、自分の発言(結論)に責任を果たそうと、「論拠」を
提示しようと思いますが。

そして、通常の人間観察とは逆になりますが、窮地(肌はビリビリしてるけど、
腹の奥底では冷め切ってるところ)では、じっと我慢して後方であれこれ考えるより、
何が起ころうが最前線に1人で踏みこんだ方が、はるかに「楽」なんですよ。
我慢して抑え、状況を見据えて、対応することが、どれだけ大切なことか・・

また、踏み込む感覚が身に凍みて分かってる人間は、まず間違いなく、他人に
同じことを勧めないと思います。やりたがる人間がいれば、必ず止めるでしょうね。
自殺した老僧も、弟子に同じことをして欲しいとは夢にも思わなかったと思いますが。
その上で、本人がやるのは勝手だけど、関与はしたがらないと思います。

最後に、自分の妄想の中で「王」になる人間は、踏み込めないと思います。
「あらゆるものと五分」という感覚になるんじゃないかなぁ・・
だから、踏み込んで得る世間からの尊敬・好評は、有り難いけど、邪魔でイラナイ
ものになるかと。求めてるのは、五分の関係にある独立した人間同士の繋がりだと
思いますが。
607594:01/12/12 14:47
603
済みません。私は仏道修行者が、そんなに簡単に自死をしてしまうとなんて
思いも依りませんでした。ただ、写真を見て「これは凄い」と感銘を受けた
だけなので、あの事件に関する事情というものは実は知りませんでした。

>「他の方法」を高く評価してみたいと思うのです。
法句経の35番に、心は捉え難く、軽々とざわめき、欲っするがままに赴く。
その心を治めることは善い事である。心を治めたならば、安楽をもたらす。
と、ありますが、私は「意」には「我」のようなものがありますが、「心」に
はないと考えます。つまり、悟った人の心には他はないという意味で。
この意味で心を悟ればその人に対岸の火事はあり得ません。まず、火事は火事
と知り、そこに留まらず、火事の性質と規模を知るでしょう。それを知ったな
らば、具体的な解決策も知る事になるのです。これは世に出て通用しないよう
なものではなく、何処に行っても一流の解決策になるはずなのです。
これが悟った人がその心眼でその「現場」を眺める智というものだと思います。
心で治めたならば、この現実社会で治められないことはない。現実社会の中で
躓いてしまうようでは、悟りも智慧もまだまだ、本物とは言い切れません。
現実の諸問題に躓かない心と行いが整ったなら、道具の使い方は自由でしょう。
しかし、悟った人と言えど、人間です。肉体がもたらす制約があるのでしょう。
でも、苦しみに負けて自死するという選択肢を取ることは動機としてあり得な
いと思います。
608名無しさん@1周年:01/12/12 16:00
>>607

>この意味で心を悟ればその人に対岸の火事はあり得ません。まず、火事は火事
>と知り、そこに留まらず、火事の性質と規模を知るでしょう。それを知ったな
>らば、具体的な解決策も知る事になるのです。これは世に出て通用しないよう
>なものではなく、何処に行っても一流の解決策になるはずなのです。

あの焼身自殺は、一流の解決策だったのでしょうか?
そうとは思えないのですが。
確かに衝撃的であり、事の重大さを知らしめたとは思いますが、
それが解決策というのは、それこそ「姑息さ」を感じてしまいます。
仏教弾圧を退けたのは、「他の方法」だと考えます。

>心で治めたならば、この現実社会で治められないことはない。現実社会の中で
>躓いてしまうようでは、悟りも智慧もまだまだ、本物とは言い切れません。
>しかし、悟った人と言えど、人間です。肉体がもたらす制約があるのでしょう。

いくら悟ったとしても、現実社会では躓きっぱなしだと思います。
これは肉体的制約のみに留まるものではないでしょう。
躓きながら、それでも修正して、続けていく方向性みたいなものが、
本物だと思います。

>でも、苦しみに負けて自死するという選択肢を取ることは動機としてあり得な
>いと思います。

焼身の中で禅定を組めるほどの人が、我々凡人が持つ自分だけの苦しみで
自殺することは少ないかもしれません。(釈迦の弟子にはいたそうだが)
しかし、我々では捉え切れない果てしない苦しみに負けて、
自殺することは「ある」と思いますよ。
(それを「負けた」と表現することは少ないでしょうが)
609607:01/12/12 17:09
606、608
あなたの言うことに私は反対はしない。あなたは、あなたの思うように
生きればいい。あなたが私の事をどう思おうと、それもあなたに任せま
しょう。

レスから、「反対!」の意思がプンプンするのでね、何を言っても反対
してくる人に反対意見を言うのは、確かに「バカらしい」事だと思う。
610名無しさん@1周年:01/12/12 17:45
>>609
ちょっと、ちょっと、、
短絡的すぎませんか・・
スポーツマンタイプ(踏み込むタイプ)なら、「反対(敵)」は当たり前なんですが。

批判的なレスをすれば、最初はやはり「反対」されるもんですよ。
そこからの攻防が始まって、落ちついたところで、
双方、「相手の言ってる内容は、実は自分の中にあった」ということに
なるんではないんですか?

批判的なレスをして、「反対」のレスをされて、
「反対!」の意思の臭いがプンプンするから、
反対のことを言う人に反対意見をレスするのは「バカらしい」というのは・・

例え、「悟り」を開かれていたとしても、俗世との交わりの中では、
テーマごとに、クソ真面目な「色即是空 空即是色」を繰り返すことが
必要ではないでしょうか?
例え明言しなくても。(してるかも)
611変人:01/12/12 17:56
う〜む。禅における精神障害はいろいろあるね。
それがきっかけで自死する者もいる。
いわゆる「禅病」。神経衰弱、ノイローゼ、鬱。その方法だが・・・
大抵は、ひっそりと、世間をはばかって逝ってしまうのが多いと思う。
「焼身」は、どうしてもデモンストレーション的要素が強い気がしてならない。
「抗議」的色彩が強いのではないか・・
大衆の面前での行為自体、アンティテーゼを感じてしまう。
センセーショナルな報道も、その主旨で配信されたと思うのだが、
まあ、人によって捉えかたが違うのは参考になる。
612名無しさん@1周年:01/12/12 18:50
610
ごめんね。でも、私はディペートしに来ている訳ではないのですよ。
ディペートしたい人は、それぞれのテーマですればいいんです。
スレの主題にずれなければ、色々あってもいいですよね。(^^)
611、
ここのところの無知は恥ずかしいのですが、タイの僧侶。私が
書き込んだのですが、あの事件の事情を知る人にとって、あの
僧の取った行為は、何か曰く付きということだったのですか?
写真で見たのはまだ、10才にも満たない頃だったのですが
「凄い人」というインパクトは鮮明にのこっているんですよ。
613変人:01/12/12 20:50
>>612
報道写真というのは、真実は一つであっても、観る側の心象によってどのようにも解釈できます。
僧は死して、後世にアンティテーゼを残したわけですから、
プロパガンダで無い限り、その国の世相を背景にしたものと解釈しています。
まあ、それについても憶測ですが、一応のコンセンサスは得られる状況かとは思います。
614名無しさん@1周年:01/12/12 21:03
>>613
真摯な気持ちからだったのは分かるし、
スゲェ!とは思うけど、
善智識かどうかといわれれば、半信半疑になる。
後は、>>613のコンセンサスに同意。。
615名無しさん@1周年:01/12/12 21:29
616変人:01/12/12 21:35
>>614
>善智識かどうかといわれれば、半信半疑になる

帰結するところ、二元的(相対的)判断では計り知れない。
つまり、究極のところ大愚?でありまして、世俗の基準と相容れ無きものもある。

マザーテレサにおいても、「被造物破壊者」という、キリスト教教団内部の批判もある。
これと似たようなもので、どのようにでも解釈は可能と思われる。
禅定を崩さぬ姿勢に、その真実を観る以外ないと思う。
617名無しさん@1周年:01/12/12 21:36
613変人さん
そういうことですね。私にとってそれだけインパクトがあったという
ことは、事実であり、当時も今も、私の仏教観では、写真とは言え
「我が目で見たスゲェ坊さん」の姿は、あれ以上のものはお目にかか
っていないということです。
ただ、「スゲェ!」の内容までは検証していないということでした。
変人さんの立位のまま、往生した老師の話を聞いて私が思い出した
僧侶が、件の僧侶だったと言う訳です。どうもお騒がせしました。          
618さげ:01/12/12 21:41
ぜんぢしき【善知識・善智識】
(「ぜんちしき」とも)

1 仏語。善法、正法を説いて人を仏道にはいらせる人。
  外から護る外護、行動を共にする同行、教え導く教導の三種がある。
  真宗では法主(ほっす)を、禅宗では師僧を尊んでいう。知識。
  ⇔悪知識。
2 人を仏道に導く機縁や機会となるもの。

(国語大辞典(新装版) 小学館 1988)
619名無しさん@1周年:01/12/12 21:47
615
どんなところにも、人間の営みがあるところ、問題ありということですね。
私にも問題は多いが、少しずつ前進して行かないことには「私」は、いつまで
たっても「私」のままか、「私」以下にさえなってしまうこの頃です。(汗)
620名無しさん@1周年:01/12/12 21:50
何の話してんだか。どなたかまとめて下さいませんか。
621変人:01/12/13 09:13
>>620
>何の話してんだか。どなたかまとめて下さいませんか。

菩提道による、「一枚平等」を実践しますとですね、家族も他人も平等になる訳ですから
俗世間的見地では、大愚?の境地ですね。
家族の理解が得られての話ですから・・。
儒教における「孝行」「忠義」「仁」の思想とは全く違いますね。
これが「菩提道」かと思うのですが、どうでしょう?
マザーテレサは、菩提道の実践者としての見本みたいなもんでしょう。と思う。
622変人:01/12/14 15:35
 「盤珪さんは若いころ、七日間不眠不食や数ヶ月川に立ったままの修業とか、
乞食の生活をして癩病の乞食と食い物を分けおうたり、尻の皮が破れるまでの坐禅したりの荒行を続け
、あげくのはてに喀血して死を覚悟した。そのとき、『ひょっと、一切の事は不生で調(ととの)ふ』ちゅうことに気づいたんや」

修行において、一番大事なのは、やはり「気付き」かと思いますね。
この瞬間を、いわゆる「悟り」というのでしょうか。
623名無しさん@1周年:01/12/14 17:36
水素が10個あれば、水分子が5個できる可能性がある。
だが、酸素が1個しか名ければ、水素がいくらあろうとも、水分子は1個しかできない。

仏教の経典には、必ずその説かれる対象やその内容の位置付けや意味付けがある程度決まっているし、
そこから派生するさまざまな修行方法ならば、実践する順番というものもある程度決まってくる。
仏教においては、部分的に何かだけを突出させて磨くことなのではなく、
そうした基本的な前提事項を正しく判断する力を身に付けることのほうが大事だと言われている。
その基礎をしっかり固めれば、しがみ付くべきことでないことにいつまでも拘る危険性も回避されるからだ。
624変人:01/12/14 18:33
>623
>そこから派生するさまざまな修行方法ならば、実践する順番というものもある程度決まってくるそこから派生するさまざまな修行方法ならば、実践する順番というものもある程度決まってくる。
>仏教においては、部分的に何かだけを突出させて磨くことなのではなく、

まあ、日本を代表する道元禅や、白隠禅の事を指しているのかと思います。
マニュアルどうりのやり方が正論だとしても、
果たして、真理を究めるのにマニュアルが必要なのか?という事も同時に考えてみたい。
一律な基準を設けることには、ある程度の難色を示したいところ・・。
625名無しさん@1周年:01/12/14 18:36
マニュアルは必要だよ。釈尊ですら、初めはバラモンのマニュアルに
従ったわけだし。
626変人:01/12/14 18:54
>625
>マニュアルは必要だよ。

全く否定している訳ではないが、多角的に「禅」を考えても良いのではないか?
そういう事ですね。
食事するのも修行、掃除するのも修行、仕事するにも修行。
自分にとっての修行とは何ぞや?それが原点かと思う。
62717:01/12/14 19:05
>>18
悪りぃ悪りぃ、本気で悩んでいたか。。。
でも、>>20で書いてるような事って異常か?
俺も、そんな事やってたぞ。
むしろ、正常な行動だと思う。
やりたいのを我慢しつづけて
変態になるよりかずっとましだ。
あと、神なんかいないから気にすんな。
いたとしても、アヌスを刺激して
快感を得る事を禁ずるような
心の狭い存在じゃないと思うぞ。
628名無しさん@1周年:01/12/14 19:14
>>624
ある程度ね、ある程度。
自由裁量で扱って問題ない部分と、
特に人間に共通する心身の仕組みから、避けられない順番や手順ってものは確実にあるし。

ただ、我々凡人はついつい何でも自由裁量でやりたがる傾向あるから注意しないとね。
各自の業は各自が解決するしかないって意味では各自が状況に応じて考えるべきだけど、
単にそれだけのことであってね、
人間に共通する仕組みを無視して勝手なやり方しても妙な結果にしかならないってことの認識は大事だと思う。
629名無しさん@1周年:01/12/14 19:16
>>626
マニュアル通りにしか出来ないのは問題だけど、マニュアルにかいてあることも
こなせないようじゃ問題外。基本ができていなければ、当然応用も出来ないよ。
630名無しさん@1周年:01/12/14 19:16
>>627
レス違い。
631変人:01/12/14 19:42
>>628-629
おおむね、そこら辺ですとコンセンサスは得られます。
「座る事のみ禅に非ず」。というアンティテーゼは持っています。
例えばですが・・・
清貧生活をベースに、自らの内面を洞察してみよう・・というのも
広義において「禅」かと思いますね。
「禅」=「座る」だけでは無いかと思います。
菩提心とは「生きる道を極める」ということですから、それが中核かと思います。
632名無しさん@1周年:01/12/14 19:53
>>631
坐るはこなせるの?
633変人:01/12/14 20:01
>632
参禅はしたことありますから、基本はできますよ。
主に「丹田呼吸法」と併用してますね。
何故かといいますと、即効性があります。
例えば、社交の場の挨拶ともなれば必ずやりますね。
腹を鍛えるのは、よても良いですよ。
同時に「禅」もしている訳ですよ。
634変人:01/12/14 20:22
禅において、意識をどこに置くか?
腹に置く人。どこにも置かない人。いろいろ考えがあると思います。
自分に合ったやり方が良いと思いますね。
私は「腹」に置きます。ごく自然にそういうふうになります。
それで良いんじゃないかと思いますね。
一番楽な方法が、一番ベターだと思いますね。そのように解釈しています。
635通りがかり:01/12/14 20:49
ここでひとつ、問題提起を。坐るのが禅だとしたら、釈尊が生まれる前に
すでにあったのです。だから、禅=バラモン教≠仏教ということになる。
みなさんはどう思われますか?以下は『古代インドの神秘思想』服部正明
著からの引用です。

可死の身体に宿るこの不死のアートマンを、知覚・思考の主体として見出した
者には一切の世界が得られ、一切の欲望が達成される、ということを述べて、
彼(プラジャーパティ)はアートマンに関する教示を終結させている。(p.111)

熟睡において開示された真実の自己に、すなわち自己自身の深層をなすアートマン
に、現実の世界において到達したいと希求する者は、さまざまの修法を行うことに
よって、微細なアートマンを自己の内部に見出すのである。「心を静め、感覚を制御
し、活動をやめ、耐え忍び、心を統一して、自己のなかにアートマンを認め、一切を
アートマンと見る」とヤージニャヴァルキヤは述べている。(中略)
「ヨーガ」の行法に統合される禅定や三昧は、仏教やジャイナ教が興起した時代に、
苦行者たちの間で実践されていた。(p.112)

私は、釈尊が苦行をやめてから悟りを開いた、という点が実に気になる
のです。どうして苦行では悟れなかったのか。仏教の本質が苦行や瞑想なら、
仏教は生まれることはなかったのです。
636名無しさん@1周年:01/12/14 20:50
>>631
>広義において「禅」かと思いますね。
>「禅」=「座る」だけでは無いかと思います。

それはわかります。
悟ってない間はどっちも大事だという認識があれば問題ないでしょう。
まあ、ただ、基本はまず座る禅定でしょうね。

>>634
禅ではなく、広い意味での仏教の禅定だと、
その目的によっていくつかの集中点がありますけどね。
ただ、基本的な禅定なら、半眼で鼻の頭に置くのがオーソドックだと思います。
仏教の場合だと、当然、何のために禅定するかも大事ですし、禅定後にその功徳を廻向することも大事ですね。

*(まずいのは、目を閉じてしまうこと。
どうしても慣れない方のために一時的にそれを許すこともありますが、
少しずつ半眼に移行するよう言われるはずです。)
637宗教関係者:01/12/14 20:51
変人さん
どうも、「禅」スレでは「異物」になってしまい「場」の混乱を導いて
しまいそうなので、こちらに引越してきてもいいでしょうか?こちらの
方が、禅より仏教としての枠が広いようなので。実は私は、日本仏教の
禅には、全く触れていないもので、やはりというか基礎知識もない輩が
「禅」専門に絞られた環境についたいけないというのが実情です。
十牛図や、六祖の話など、サパーリなんですよ。(汗。
仏教との縁は、南方の上座部で少し修行してきた程度なんですが、基本
は押さえてきたと思います。
というわけで、変人さん、及びこのスレの方々、宜しくのほどお願いします。
638名無しさん@1周年:01/12/14 20:56
>>635
御釈迦さんは苦と輪廻の本質原因を見極めたわけだから。
仏教の瞑想は、苦と輪廻の本質的な原因を含めて、それらを観て
それらに執着する理由がないことをあらゆる次元で納得するためのものだから、
それ以前の単なるの禅定や三昧とは意味が違うわけです。
この辺は、仏教の禅定と、それ以外の禅定の大きな違いですね。
だから、仏教では、色即是空と空即是色がセットで語られるように、
観想対象として「私」と「五蘊」が必ずセットで語られますよ。
639名無しさん@1周年:01/12/14 21:02
>>637
こんにちわ。
突然ですが、仏教徒であるという自覚がおありでしょうか?
組織に属していなくても、
三宝帰依して正しく仏教徒学ぼうという気持ちがあり、持戒の重要性を理解していれば、
仏教徒と言えると思います。
640変人:01/12/14 21:17
>>637
釈迦の出家の理由は、大体私と見解は同じですね。
決定的だったのが、女中の寝姿を見て、その醜態に嫌気がさしたみたいですね。
女性にはあまり興味が無かったのは想像できます。
人間釈迦、初めにありき。ここのところも重要かと思います。
「唯我独尊天上天下」。これは後からの「付けたし」かと思いますね。
641変人:01/12/14 21:25
>>636
やはり、先達が苦労して蓄積してきたノウハウは、それなりに重要かと思います。
基本でしょうから、そういったことは大切に継承せねばなりません。
私としましても、そういった件に関しては敬意をはらいます。
参考にさせて頂きました。
642変人:01/12/14 21:38
>>635
実は、因果律や輪廻転生も古代インド思想ですね。

>私は、釈尊が苦行をやめてから悟りを開いた、という点が実に気になる
釈迦は、苦行は否定したんじゃなかったでしょうか?
643名無しさん@1周年:01/12/14 21:43
苦楽中道。
644名無しさん@1周年:01/12/14 22:03
>>642
とりあえず苦行もやってみたがお釈迦さんの求める目的は達せられなかった。
実際に悟ったら、本当に苦行と悟りが関係ない理由もわかったから、
弟子にもそう説いたらしいです。
645名無しさん@1周年:01/12/14 22:15
>>640
>女中の寝姿を見て、その醜態に嫌気がさした

これも後からの「付けたし」かと思いますね。
646変人:01/12/14 22:16
>644
ああ、確かそうでしたね(^^)
そこのところを深く考察すると宜しかろうと思う。
最初、釈迦は苦行で「悟り」を拓けるかとオモタ。
しかし予想が外れた。ここの意味するところは何ぞや?
こういう所に「気付き」のヒントがアルマイカ。
647変人:01/12/14 22:20
>>645
女性の寝姿を拝見する趣味は無かったということでイイデスカ?
648名無しさん@1周年:01/12/14 22:34
>>646
当時多くの信者や弟子を持っている聖者のやり方にも一理あるかもしれないということで、
徹底的に当時の外道をひととおりすべて実践したみたいです(入門や弟子入りしたりして)。
どこでもほぼ免許皆伝されたが、それはおしゃかさんの求めるものではなかったそうな。
苦行もその中の選択肢の1つだったということなので、殊更意味はないと仏教ではされています。
649光の子:01/12/14 22:35
 仏陀の話を読んでいると彼の苦行の一番の「成果」は、苦行
というものは苦から離れるためには何の意味も持たないものだ、
と気づいたことだったのではないか、という気がします。確か
に、苦行は彼が望む境地へ導くものではなかった。人々が高い
境地への道と信じていた苦行は、彼が離れたいと思う自らのあ
り方から離れるための道ではなかった。
 しかしその苦行によってその道が誤りであること、さらに
苦行によって「どこか」へ行こう、「何か」になろう、とする
意識、対象化された欲望を意識し苦行によって何かを「得よう」
とする自らこそが「苦」を作り出している事に気づいたからこ
そ、彼は「目覚めた」のではないでしょうか。苦行の道を歩み
続け、あらゆる場所に行ってみてもそこに苦があるのが見えた。
そして、絶望しながら自らを省みた時、あらゆるものから苦を
思い描き作り出している自分を見たのかもしれません。

 その時自らを苦行などで「訓練する」のではなく「離れた」
から、苦行によって「悟る」者がいなくなったから、悟りが
啓けた。苦行をすることによって彼が「悟りを得る者」と思っ
ていたものが「落ちていった」、そしてそれが落ちることに
よってそれが塞いでいたものが見えた時、彼は「目覚めた」と
も言えるような気がします。
650名無しさん@1周年:01/12/14 22:36
ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」読んだことある人いる?
651名無しさん@1周年:01/12/14 22:48
>>649
話としてはわかりますね。
ただ、それのみに注目すると凡夫が悟る道を考えるとき、
「我執」のほうの問題解決への道はできても、
「五蘊」をいかにしていくかの問題がおろそかになりかねませんね。
お釈迦さんは、「我執」から完全に脱することがある意味では主眼だとしても、
「五蘊」にも対処する方法論を説きました。
状況に応じての重視の度合いは違っても、どちらにも対処が必要という意味では、
どちらかだけの対処に偏り過ぎないようにと説きました。
652変人:01/12/14 23:05
>>648
盤珪は「気付き」を「不生で調(ととの)ふ」と表現している。
つまり「不死不滅」の考えは「生」に執着するから、「生」を超越する・・という「気付き」。
いわば、盤珪は「不生」が全てであり、他は全部削ぎ落としてしまった。
いたってシンプルであり、且つ奥が深いものと思う。
人生において、大事なもの一つあれば、全て事足り、これで宜しいのではないか?
かように思うのです。
653名無しさん@1周年:01/12/14 23:28
>>652
変人さんが仏教徒でないのなら、その説き方をするのは理解できます。
仏教の場合、その先に踏み込んで、さあ燻重や種をどうするか、となります。
654宗教関係者:01/12/15 00:32
639
広義においては、仏教徒であると思っています。人生の苦悩を解決できるのは
仏陀の説教が最も優れているとおもっていますし、私自身ひとつの人生の危機
を乗り越えることができたのも、現存の仏教のお陰だからです。
655とおりすがり:01/12/15 04:40
只今天啓が、「ひたすらまっすぐ歩めばいい」
656変人:01/12/15 07:18
>>653
>仏教の場合、その先に踏み込んで、さあ燻重や種をどうするか、となります。

深いお言葉ですので慎重に考えさせて頂きます。まあ、とりあえず・・・
盤珪や、良寛の生き方そのものが「種」を蒔いているのではないか?
後世において、彼らの生き方にどれだけの人が救われているか?
そのように解釈しているのですが・・如何ですか?
657名無しさん@1周年:01/12/15 07:22
↑こりゃ傑作だわい!ワハハハハハハ!
658変人:01/12/15 08:11
>657
頭で考えても、どうにもなりませんよ(w
659名無しさん@1周年:01/12/15 08:18
お前、最低だな。
今まで何度間違った言葉を使って混乱させたんだ?
660名無しさん@1周年:01/12/15 08:21
他人の使う言葉は、みんな分かった口で説明してこなかったか?
もうちょっと頭使えよ!
迷惑だ。
661名無しさん@1周年:01/12/15 08:29
まあ、お前の頭で考えてもどうにもならんけどな。
662名無しさん@1周年:01/12/15 09:00
口舌だけべらべら滑って頭を否定する輩っているよね。笑止。
663名無しさん@1周年:01/12/15 09:01
困ったものです。
664宗教関係者:01/12/15 10:05
生活の知恵。人生の智慧。生命の叡智。つまりはこういう事なのだと思う。誰にでも
生命の叡智はある。ここを根源として、人生の智慧。生活の知恵と霞んでいってしま
うのだろう。
誰でも、自分の身体の心拍や新陳代謝の調整など、意思的に行っていると言う人は
いないだろうが、思わずとも行っている。ここを突き詰めれば誰でも「自分は何故生
きているのだろう?」という問題に突き当たり、「分からない」という答えに辿りつ
くだろう。これは、「コンピューター」が、πの計算をしている様に似ている。

次に生死の問題の解決は不可能と断じて離れ、「人生」の問題を捉える。幸福や悲惨
などの運命の明暗や人間の喜悲劇、快楽と苦悩。様々な出来事から相対性(縁起)を
見出し、何かを掴み取ろうとするだろう。

そして次に、苦悩の解決は不可能と断じて離れ、「快楽」の追求に赴くだろう。苦悩
を斥け、快楽から手応えと充実を手に入れて生きて行く事になるだろう。

これらのちえや叡智はそれぞれ独立したものではなく、心が何処に留まり、何を目指
しているのかということなのだろう。「個」、「集合」、「全体」の繋がりの中で生
きる「私」、「人間」、「生命」の連動なんだと思う。
665変人:01/12/15 10:22
例えば、禅師の問答を見て、「はぁ?」という一瞬理解できない部分があります。
この「はぁ?」という部分が、いかに二元的価値判断に基づくものであるか。
そういうことを改めて「気付く」のです。
つまり、禅師は本質のところを「指摘」している訳ですね。
ですから、そういう「言葉」というのは、100の説教を聴くより遥かにインパクトはあります。
その境地でないと、出てこない「言葉」というのは確かに有ると思います。
私としては、そこに「学ぶべきもの」が集約されていると思いますね。
単純なことですが、実に「深い」。とても「深い」。とめどもなく「深い」。
666宗教関係者:01/12/15 10:50
言葉は、それぞれそ人の中での「生きもの」なのかもしれない。
「生きもの」と「生きもの」の出会いの中で、新しい何かが生
まれるのだと思うが、出会って出会わずということもある。
相手が「見え」なければ、一人話をしているようなものだろう。
667変人:01/12/15 10:53
>>664
>次に生死の問題の解決は不可能と断じて離れ
>そして次に、苦悩の解決は不可能と断じて離れ

生きる事は、死ぬ事と同時に考えますと、何らかの答えが出るのではないかと思うのです。
「生きる」だけ考えますと、やはり暗中模索状態なのではないでしょうか?

「苦」は「楽」と同時に考えますと、「苦」の本質が見えてくるのではないでしょうか?
「一切皆苦」は「楽」と一如だと思うのですよ。
あたかも人間は・・・
二元の世界で、「苦」と「楽」の間を浮遊している「生きもの」に思えるのです。
本質のところは、全く違うのではないか?そんなふうに思っています。
668名無しさん@1周年:01/12/15 11:20
思考停止した野郎の言う「深み」っていったい・・・
669変人:01/12/15 12:02
>668
例えば、広辞苑を引けば「○×」とは何ぞや?の疑問は直ぐ答えは出る。
それも正解です。
「深み」とは、その範疇に属さない部分を云っているのです。
単純な「一言」。それが広大無辺の広がりを有するのです。
世の中には、そういった事もママ有る。ということです。
670変人:01/12/15 13:09
自分の生き方が、そもそも周囲に影響を及ぼしているのです。
自分の意思に関わらずとも、そういう「果」として顕れている。
それがすでに「天意」。
拘らずとも、さように生きれば良いのではなかろうか?
精進あれ。
671名無しさん@1周年:01/12/15 13:11
>>656

お昼休みなのでつなげました。こんにちわ。

>>盤珪や、良寛の生き方そのものが「種」を蒔いているのではないか?
>>後世において、彼らの生き方にどれだけの人が救われているか?
>>そのように解釈しているのですが・・如何ですか?

悟りが深まって結果として五蘊も浄化されている人と考えれば
大まかにそう言うこともできるかもしれません。
ここで、もうちょい特定のことについて見ていけば面白いかもしれませんよ。
気付きというのを小さな悟り、つまり、少なくとも表面の塵を取り払い、小さな智恵ができた状態とします。
でも、これでは、まだ空の特に非実体性を掴む智恵がまだ不安定で、
さらに、五蘊のほうの浄化はときどき智恵が深い状態のときのみ気まぐれ的に為される程度です。
もちろん、小さな智恵を完全にしていく努力は大事ではあるのですが、
それだけを行って五蘊の浄化を怠れば、不安定ゆえに小さな智恵は何らかのきっかけで容易に消失する可能性が高くなります。
ですから、我執からの脱却の観点からのみ空を掴む智恵を単独で磨くだけでは不十分なのです。
我執からの脱却の観点と、五蘊の浄化の観点の両方について、
空性を掴む智恵を磨きながら、慈悲を育む努力もして禅定を主体とした修行するのが、
仏教の顕教の修行です。
でも、これでも完全な悟りまで数劫かかってしまうと言われています。
もし、我執からの脱却の観点のみから修行を行えば、両輪の片方が欠けてしまうので、
効率の悪い修行になってしまいます。
もちろん、各自が修行に割ける時間にも限度があるでしょうから、
どうしても我執からの脱却の観点の修行を重視せざるを得ないというのは
いたし方ないのかもしれませんが、いつかは五蘊と絡めて我執の問題に取り組む必要性が出てくるかと思います。
色即是空と空即是色はセットで語られるのはご存知かと思います。
この2つの句には、
主に我執からの脱却の方法論のヒントと
主に五蘊を浄化する方法論のヒントが両方書かれているので、
当然、この2つの方法論が必要だと 古くから言われているのです。

仏教とそれに似ているが違う教えというのは、
この部分への認識を持つかどうかで違いが出てくるのです。
672名無しさん@1周年:01/12/15 15:38
落語で、こんな話がある。
ある(無学な)男が、成り行きで禅寺の住職をする事になり、
手違いで問答をやる事になってしまう。
しょうがないから男は、てきとうな言葉を返すのだが、
向こうは勝手に難しく解釈してくれて、事無きを得る。

「これは深いんだ。」と思って読めば、なんでも深く見えるという事もあるのでは?
673禅スレ1@ ◆RED/rT.2 :01/12/15 16:19
容量オーバーで更新を迷っていたのですが、
38改さんがスレを立てられたようですので、
そちらにお世話になりませんか?

ということで、みなさん、移動の方、お願い致します。<(__)>

臨済正宗
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1008399466/l50
674名無しさん@1周年:01/12/15 16:26
三宝帰依が教条的な無意味なスローガンじゃないということが一般の人には理解され難いね。
三宝帰依の重要性とその理由を理解しないと、仏教に関するあらゆることを誤解してしまいやすくなる。
675宗教関係者:01/12/15 17:30
667変人さん
私はよく思うのですが、人間には本質的なベールがかかっていると思うのです。
それは、自分の誕生以前のベールと、自分の死と言われるもの以降のベールに
大別できると私は思うのですが。
誰でも一度はぶつかるような、「自分は何処から来たのか?」「今行っている
事は正しいのか?」「自分は何処へ行くのか?」というようなことに付いて知
りたいのに分からない。気付けない。この問題を突き詰めれば、「どうしたら
いいか分からない」という事に正直なところ誰でもなると思うのです。
この「どうしたらいいか分からない」状態は、真にいにくいところで、ならば
「分かるところに降りて何かしましょう」ということになってくるんだと思う。
これが、偽らざる人間の活動というものではないでしょうか?
私の独断と偏見を入れさせてもらえば、殆ど全ての人間がこのようなものだと
思っている訳です。
変人さんの仰っている「生死一如」が、ここで言われているような「観念論」
の類ではないと、変人さんの体験論から察するのですが、今ヒトツ分からない
のです。現実問題として、人間には寿命と言うものがありますし、そうなって
くると、「生」と言われているもの以前と、「死」と言われているもの以後の
問題は、どうしてもベールの彼方と言う以外どうすることも出来ないと思うの
です。
676変人:01/12/15 17:58
>>671
>主に我執からの脱却の方法論のヒントと
>主に五蘊を浄化する方法論のヒントが両方書かれているので、
>当然、この2つの方法論が必要だと 古くから言われているのです。

大変参考になりました。
実は私、「五蘊皆空」として全て「空」に包含されているものだと思っておりました。
五蘊においては、観念的には至って理解しやすいのですが、その「浄化」となりますと
まったくもって難儀なのは良く解ります。
「我執」「五蘊」を両輪として考えていきたいと思っております。
677変人:01/12/15 18:33
>>675
>「生」と言われているもの以前と、「死」と言われているもの以後の

「空」観からすると、全く「死後」は気にならないのですが、というのは・・
「我」という所在が、どうも明確ではないのを実感します。
万編している感じでしょうか?これを実感しますと、「死後」は有っても、無くても
別にどうでもよくなるのではないでしょうか?
私は「死後の我」は無いと思っています。
さすれば、そこに「生」とは何ぞや?の答えが生ずるやに思うのです。
人間一体の命とは・・・
歴史的生命の流れのホンの一瞬ではないのか?そういうふうに捉えています。
いかに尊きものであるか。そこに実感として沸くのでございます。
100年前の命も、100年後の命も脈々と繋がっているのでございます。
678名無しさん@1周年:01/12/15 18:38
生があるから死もある。

生がなければ死もない。

というのが、縁起=空、色即是空⇔空即是色という空観の論理的帰結。
679名無しさん@1周年:01/12/15 18:45
>>678
もうちょっと良く読もうね。
680名無しさん@1周年:01/12/15 18:45
>>679
なにを?
681変人:01/12/15 18:51
>>672
>「これは深いんだ。」と思って読めば、なんでも深く見えるという事もあるのでは?

トンデモ話でも、「深い」といってハマッテしまう人もいますから、無きにしも非ず。
それが人間の「業」かと思いますね。
精進されたし。
682名無しさん@1周年:01/12/15 18:52
生がなければ生以前も存在せず、死がなければ死後も存在しない。
683名無しさん@1周年:01/12/15 19:02
>>681
「空」も見方によればトンデモ話では?
684名無しさん@1周年:01/12/15 19:04
>>683
どこら辺りが?
685名無しさん@1周年:01/12/15 19:04
 現実の対極を何か言葉で言い表したような言葉だね「空」は。
686名無しさん@1周年:01/12/15 19:06
>>684
>>685みたいな見解も当然生じるところ。>「空」のトンデモ性
687変人:01/12/15 19:14
>>683
それを言うなら、人間の認識のほーがトンデモ話かもしんないよ。
688名無しさん@1周年:01/12/15 19:17
>>683
「空」は人間の意識作用じゃないの?
689020-41542974:01/12/15 19:19
020-41542974
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690名無しさん@1周年:01/12/15 19:21
一口に仏教の禅定といっても色々ある訳ね。大きなお世話かもしれないけど話のついでにおおまかに整理してみたよ。
1 観念の呪縛から脱することを主眼とする禅定や観想
2 主に五蘊分析の禅定や観想
3 基本的な止観
4 1と2のバランスを考えた高度な止観

5 本当の根本原因から観念の呪縛と五蘊を直接、変容および浄化を行いたいとなると、
密教となる。

五蘊の重要性への認識は、
仏教徒でも修行の中だるみ時期にないがしろにされ易いんだけど、
結局は五蘊の重要性に再度気付く人が多いみたいです。
というのは、2をしっかりやらないと、3、4を実践しても本来の止観の成果が出ずに、遠回りとなるからです。

五蘊を離れて私という感覚はないけど、でも、五蘊がそのまま私という訳でもない(これは、輪廻を考える上で大事かな)。
だから、あえて、2つを両輪として対象化して、それを変容なり浄化させることが必要となります。

もちろん、仏教だから、すべての禅定は
三宝帰依、持戒、慈悲を養う気持ち、菩提心、修行の廻向が前提となるけど。

と伝統的に説かれてきました(あくまで、仏教に対する正しい理解を広めるために書きました)。
691名無しさん@1周年:01/12/15 19:26
>>690
自前のHPをもってませんか?
すごく参考にしてるHPと同じような内容に、ビクーリ・・
692宗教関係者:01/12/15 19:34

>「これは深いんだ」と思ってしまえば、なんでも深く見える。
「これは浅いんだ」と思ってしまえば、なんでも浅く見える。
我を思わぬ人はいないし、他人を思わぬ人もいない。
正しく、人間の業。この業を背負って如何に正見し、正思に至るか。
693変人:01/12/15 19:41
>>690
いたって「禅」はシンプルなものと思っていましたが、実に深いですね。
五蘊については、少し勉強しませんといけませんね。
694名無しさん@1周年:01/12/15 19:41
>>691

おそらく気のせいでしょう。その人の迷惑になるので、リンクは絶対にここでは明かさないでください。
私は悟りにまだまだ遠いので、
できるだけ伝統的に安全なものと検証されてきた用語を使って説明しているだけです。
基礎的な内容については、下手な方便よりも、伝統的に安全なものとしてお墨付きのある説明を使ったほうが
長期的には他人のためになることは明らかだからです。
文学的な方便は便利です。しかし、その人の境地が円満していなければ、短期的な結果しか出ないのです。
ですから、そういう長期的な影響も考慮することのできる修行者ならだいたい似たような説明をすると思いますよ。
極端な話、アジアの上座部仏教の僧侶に説明させても、
その僧侶が仏教の基礎を重要視している限りは、同じような説明をするはずです。
695691:01/12/15 19:51
>>694
了解です。
696宗教関係者:01/12/15 19:54
690
>もちろん、仏教だから、すべての禅定は三宝帰依・・・
三宝帰依って、具体的にどう言う事なのか教えて頂けませんか?
697変人:01/12/15 19:57
>>694
まあ、よくよく考えれば、五蘊は仏教の中枢的部分でしたね。
こういった事を重要視するあたり、やはり「禅」の奥深さというのを実感するのですよ。
通常でしたら「ああ、なるほど」で片付けちゃいますからね。
こういった、仏教の真髄が市井の人に伝わらないのが非常に残念ですね。
こういった事も含めて「仏教」というものを考えて逝きたいと思いますね。
698名無しさん@1周年:01/12/15 20:08
>>696
その話はこっちでしませんか?

臨済正宗
http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1008399466/l50
699名無しさん@1周年:01/12/15 20:18
>>696
帰依仏、帰依法については、文字通りなのですが、
「帰依僧」に関しては文字通り受け取っては駄目と言われています。
ここでの「僧」は一般的な意味での「僧侶」ではないんです。
大きな意味では狭義の「僧侶」もやや入ってきますが、
正しく仏の教えを伝えようとし、実際にそうしてきた修行者の集まり(僧団)を「象徴的」に表す言葉です。

あくまで、「象徴的」に表しています。

仏教でも、衰退もあれば、一部の堕落もありました。
でも、なんだかんだ言っても、仏教を学べるのは何故か?と考えたとき、
過去の先達の存在が浮かびます。
それを象徴的に表現してる訳です。
もっと別な意味もありますが、ややこしいので、とりあえず。
700名無しさん@1周年:01/12/15 20:20
>>699
「仏の教えを正しく理解して実践した上で」、それを正しく伝えようとし、実際に・・・・
701名無しさん@1周年:01/12/15 20:25
>>697
>>「仏教」というものを考えて逝きたいと

なるほど・・・、彼岸や涅槃に逝きたいと・・・・

>>699
要は、仏教徒の拠り所は、三宝のみということです。
702変人:01/12/15 20:30
>>699
>「帰依僧」に関しては文字通り受け取っては駄目と言われています。
>ここでの「僧」は一般的な意味での「僧侶」ではないんです。

「人に依らざれ、法に依れ」という事なんでしょうね。
その意味するところは・・。
703名無しさん@1周年:01/12/15 20:42
>>702
それは「帰依法」で言い尽くされてないか?
704名無しさん@1周年:01/12/15 20:53
>>690
>もちろん、仏教だから、すべての禅定は
>三宝帰依、持戒、慈悲を養う気持ち、菩提心、修行の廻向が前提となるけど。

肝心の「懺悔(さんげ)」入れるの忘れてたよ。度々すいません。
705変人:01/12/15 21:02
>>703
言い尽くされていますね。
699レスで納得しております。
706名無しさん@1周年:01/12/15 22:45
>>705
そこで「帰依僧」の意味(対の二元論じゃないよ)が問題になってくるかと。
思案中。。。
707宗教関係者:01/12/15 23:49
699
こと、「仏教」のことになると、流石に誠実ですね。色々と恐れ入ります。私が学んだ
三宝帰依に付いての認識の甘さも、御披露しましょう。
三宝帰依は、「仏、法、僧。これに全面的な信頼を寄せ、力をいただく」というものだ
と学びました。でも、ここで、仏、法、僧。それぞれの定義が必要になってきます。
仏とは何か?これは仏陀ということになります。しかし、現在の仏教に仏陀は御出でにならない。
法とは何か?これはダンマ。法理のことでしょう。しかし、仏陀のいない現在、誰に正
しいダンマが解るのだろう?と、こう言う疑問があります。
僧とは何か?これはサンガ(教団)のことです。仏陀もいず、正確なダンマも定かには
ならない状態で、どのサンガ(教団)宗派に属すればいいのだろう。こういう疑問もあ
るのです。つまり、一番基本的な事柄が、あらゆる面で定かにならないので、行き出し
で躓いてしまうのですよ。(それぞれの仏教内での整理された修行法は素晴らしい)
あなたの仰る様に、正しい仏教。釈尊の仏教。私も敬礼して奉ります。念の入ったレス
を有難う御座いました。
708名無しさん@1周年:01/12/15 23:52
>>706

ヒント:
三宝帰依の本質はキリスト教の三位一体に同じ。
709675:01/12/16 00:10
682
つまり、そう言うことだと思います。「生」の中に生を知らず、「死」の中に死も
知らず。弘法大師も仰っている。死んでも死んでも「死」を知らず、生まれても、
生まれても、「生」を知らない。無明、恐るべし。
710名無しさん@1周年:01/12/16 00:24
>>707
よくよく見るとすごいレスです。
伝統的な仏教知識は本にいくらでも書いてある。
誰でも正しい知識を得ようとすれば手に入る。
ではその知識を本当に自分のものとして正しく解釈できるのか?
誠実であればあるほど分からないと言わざるを得ない訳ですね。
711名無しさん@1周年:01/12/16 01:03
>>665=変人
>例えば、禅師の問答を見て、「はぁ?」という一瞬理解できない部分があります。

で、自分の言葉もそれと同じだと言いたいのか?
深遠故に言葉が理解されない自分は変人とな?
だろうな。お前の書き込みの行間からプンプン臭ってくるんだよ。
でもな、お前はただレベルが低すぎる故に仏教解釈が出鱈目なだけなんだよ。
712名無しさん@1周年:01/12/16 01:07
なんかあれだな。
変人が批判されたときに「頭で考えてもわかりませんよ(w」とか言うのって、
法の華の信者に、あなた騙されてますよと誰かが言うと、
アホ丸出しな顔で「最高でーす」って言うのと一緒だよな。
713名無しさん@1周年:01/12/16 01:10
だいたいよー、「頭で考えてもわかりませんよ(w」なんて逝ってるけど、
自分の糞解釈が思考を超えたものだとでも思ってるのか?
思ってるんだろうな(ワラ
714名無しさん@1周年:01/12/16 01:12
変人 最高 イイ
レベル高すぎ
715名無しさん@1周年:01/12/16 01:12
まー、変人みたいなのとまともに議論してる奴等も考えものだ。
イエスも豚に真珠を与えるなと言ってるようにな。
716名無しさん@1周年:01/12/16 01:15
>>712-713
彼は「頭がとれてますから。」
実はこれも大事なこと。
「深い」状態は、やっぱり思考停止状態だよ。
しかし、もう一方で大事なのは、今、議論になってるところなんだな。
717名無しさん@1周年:01/12/16 01:16
706 >>708
キリスト教は苦手なんだって。。

第一試案

・「父としての神」(聖書の神・唯一の神)
  仏陀になるかな。→「帰依仏」

・「精霊としての神」
  これは仏性、悟りの境地、空、縁起の法かな。→「帰依法」

・「子としての神」(イエス・キリスト)
  過去代々の名だたる禅僧・今を生きる禅師・雲水になんのかな? →「帰依僧」
718名無しさん@1周年:01/12/16 01:18
>>716
彼は頭が取れてますだ?
なんでお前にわかるんだ?
つーか、変人だろ?お前
719 ◆RED/rT.2 :01/12/16 01:19
716 >>718
議論すりゃわかる。。
720名無しさん@1周年:01/12/16 01:19
>>716が変人じゃないとしても、どうしようもないな。
人を見る目があまりにもなさ過ぎる。
721名無しさん@1周年:01/12/16 01:24
>>仏陀もいず、正確なダンマも定かには
>>ならない状態で、どのサンガ(教団)宗派に属すればいいのだろう。こういう疑問もあ
>>るのです。つまり、一番基本的な事柄が、あらゆる面で定かにならないので、行き出し
>>で躓いてしまうのですよ。

仏教徒になるということは、属することとは違いますよ。
ただし、属さない場合は、自分勝手にならないよう相当な自制と自省の姿勢が必要となります。

>>仏の定義、法の定義
これは、基本的にはどの仏教でも同じです。
これは、書籍などを部分的に拾い読みして解釈するからわからなくなるのです。
この手の仏教の基礎は、どの宗派でも同じです。
体系として仏教を学べば、簡単に解決する問題です。
やや例外はありますが、その問題はあなたが修行を進めてから選べばよいことです。

お釈迦さんは、修行に入る前から、ある程度こうなりたいというイメージがあったそうです。
でも外道修行ではそれは得られませんでした。
さて、あなたは悟りたいのでしょうが、あなたはどんな悟りをほしいのでしょうか?
あなたにとっての悟りが本当に得るに値するのか、
それを仏教によって実現できるのか、
仏教での悟りや成仏が本当にあなたの求めているものなのか?
これらを本気で考えるべきでしょう。
ほかにも調べることはたくさんありますね?
現代社会は、情報も手に入るばかりか、簡単にさまざまな人や組織と接触できるのです。
あなたはその努力を実際にされているはずですから、
あなたの善業に相応しい善縁が必ず見つかるはずです。
722 ◆RED/rT.2 :01/12/16 01:25
>人を見る目があまりにもなさ過ぎる。
fusianasan です。うひょ。
つーか、見ても特にならんでしょ?
723名無しさん@1周年:01/12/16 01:27
708>>717

たぶん、きっとそうでしょうね。
自分で言い出しておいていいかげんです(笑)。
でもキリスト教では三位が一体なんで、たぶん三宝も一体だと思います。
これをふまえて仏教的に表現すると、
あくまでも私の個人的な瞑想体験がもとなんで正しくない仏教ですが、
空=仏、色=法、で

両者が「体現されているところ」が僧である。

なんていう解釈なんですが、いかがでしょうか?
724名無しさん@1周年:01/12/16 01:30
仏教の三位一体は、諸行無常=諸法無我=一切皆苦だろう。
725:01/12/16 01:31
>>これは、書籍などを部分的に拾い読みして解釈するからわからなくなるのです。

>>自分勝手にならないよう相当な自制と自省の姿勢が必要となります。

問題の核心のよう。。。。
ここを常に注意しさえすれば、ここのほぼ全問題が解決するような。。。。
726名無しさん@1周年:01/12/16 01:31
>空=仏、色=法

(゚Д゚)ハァ?
727名無しさん@1周年:01/12/16 01:35
723の補足。
ちなみに僧がもともと「サンガ」で、
象徴としての僧の寄り集まりである
ということは知識として知っています。
まあ、キリスト教でも「実際の教会」と
キリストの身体としての「象徴としての教会」などというのがありまして
この象徴としての教会がサンガの意味により近い、という説もあります。
キリスト=僧とすると、不思議に符合しますね。
728名無しさん@1周年:01/12/16 01:37
>仏教の三位一体は、諸行無常=諸法無我=一切皆苦だろう。

同じ事をウラから表現したものと思います。
729名無しさん@1周年:01/12/16 01:37
キリスト教が三位一体を説くのは一神教だからだよ。
では、仏教が三(四)宝一体を説くのはなぜだ?
730名無しさん@1周年:01/12/16 01:39
キリスト教と仏教を比べるのはかまわんが、キリスト教と仏教は同じ事を
説いているなどという奴はただのトンデモ。どちらの宗教もまともに勉強
してないだけ。
731名無しさん@1周年:01/12/16 01:43
私も安易な比較はお勧めしませんが、こればかりは他人の自由でしょうね。
仏教徒じゃないようですし。
732名無しさん@1周年:01/12/16 01:43
>キリスト教が三位一体を説くのは一神教だからだよ。
>では、仏教が三(四)宝一体を説くのはなぜだ?

なぜですか?
733名無しさん@1周年:01/12/16 01:45
>>732
そのような説き方しませんよ。惑わされないでください。
何故に三宝が重要なのかを考えれば、わかることです。
734名無しさん@1周年:01/12/16 01:48
732>>733

そうですか。まあ、ここは仏教スレですからここら辺で・・・・。
735:01/12/16 01:48
>>これは、書籍などを部分的に拾い読みして解釈するからわからなくなるのです。

>>自分勝手にならないよう相当な自制と自省の姿勢が必要となります。


。。。。。
736名無しさん@1周年:01/12/16 01:49
>>733
三宝はどういう関係にあるんですか?
737名無しさん@1周年:01/12/16 01:52
>>730-731
トンデモというのは、感情的で安直な発想になるでしょうね。
萬教帰一(同根)説の人気は根強いですから。
特に仏教が他の有神教より優れているという電波が飛び交うときもありますので。
ただ、自分でやるときは何教からか決めて、
邁進するのが良いということではないでしょうか?

# 仏教には仏教にしかない良さがあるだけではないでしょうか?
738名無しさん@1周年:01/12/16 01:53
727、728=723ね。念のため。
739名無しさん@1周年:01/12/16 01:55
仏教徒として修行をされたいのなら
いくつかの宗派のお寺を回って複数の僧侶に会ってお話を聞くことをお勧めします。
対面で尋ねたほうが良いでしょう。
それがないままweb上だけで考察をしていれば
どんどんどんどん勝手な方向に流れて行くだけです。
議論よりも、まずそういう具体的な努力が先でしょうね。
740名無しさん@1周年:01/12/16 01:58
>ただ、自分でやるときは何教からか決めて、
>邁進するのが良いということではないでしょうか?

突き抜けるとみな同じに見えるということを言いたかっただけです。
じゃまして済みません。

#あと732、738も私です(笑)。
741名無しさん@1周年:01/12/16 02:00
自分が本当に何を求めているか、
本音、理想、ドロドロした面、を赤裸々にすべて吟味した上で、
方向性、目的、宗教、宗派、修行方法、目的を決めるほうがよいでしょうね。
それは、他の誰にも決められません。
安易な比較や、複数宗教のつまみ食いはかなり危険です。
742名無しさん@1周年:01/12/16 02:07
>>741
そこまで自分で考えて判断できるのなら、
どの宗教・宗派にも入る必要はないと思われ。
743名無しさん@1周年:01/12/16 02:07
>>736
>>三宝はどういう関係にあるんですか?

あなたが仏教徒で、修行暦が浅い場合は、おいおいわかって行くことでしょうね。
お答えすることも可能ですが、
web上ではあなた以外の人もレスを読む可能性があるので、難しいですね。
一般論として答えていいことと、対面でしか答えられないことはありますよ。
744名無しさん@1周年:01/12/16 02:07
すみません。
別に難癖つける訳ではないですが、
>本音、理想、ドロドロした面、を赤裸々にすべて吟味した上で、
という部分と
>安易な比較や、複数宗教のつまみ食いはかなり危険です。
の部分は、言ってることの内容がかみ合わないのでは?
745名無しさん@1周年:01/12/16 02:10
>web上ではあなた以外の人もレスを読む可能性があるので、難しいですね。

なぜですか?
正しい仏教としての公式見解があるという前提でいままでお話が進んでいたと思います。
それを披露するために書き込みを始められたのでは?
746名無しさん@1周年:01/12/16 02:13
>>744
噛み合わないのは、そういう複数のつまみ食いをする人の内面でしょうね。
本人が内面にある、本音、理想、どろどろした面をすべて一旦受け入れた上で、
自分は何を求めようかを吟味しなければ、
いつまでたっても、方向性も、方針も決まらないということです。

人間の内面は多様です。煩悩がいろんな形で現れます。
内面を整理しないまま盲目的につまみ食いをしていれば、
その煩悩がその都度表す姿に振り回されるようなものです。
747名無しさん@1周年:01/12/16 02:17
釈迦が涅槃するまでは釈迦に対しての帰依が説かれ、涅槃後の規定を(釈迦が?)
定めたときに三宝帰依が言われたというような話だった気が・・・。
748名無しさん@1周年:01/12/16 02:17
>内面を整理しないまま盲目的につまみ食いをしていれば、
いや、そもそもそこが仏教を求める出発点なんですが。。。

>本人が内面にある、本音、理想、どろどろした面をすべて一旦受け入れた上で、
>自分は何を求めようかを吟味しなければ、
>いつまでたっても、方向性も、方針も決まらないということです。
それができているくらいなら宗教に助けを求めませんよ。
749名無しさん@1周年:01/12/16 02:21
>>745
話題によりけりです。

仏道修行は、2段ありますね。
内面をある程度整理したうえで、ある程度の安心(あんじん)を得ること。
その安心があってはじめて、本当の悟りのための仏道修行が始まるのです。
そういう意味でも、仏教を本当に学びたいなら、
的確なアドバイスをしてくれる信頼できる僧侶、修行者を見つけることです。
そして、偏りのない仏教知識と修行方法を学ぶことです。
それくらい、本当は、大変なものなのですよ。成仏道というのは。
750名無しさん@1周年:01/12/16 02:24
とりあえず、日本の伝統仏教にここよりまともなところがあるとは思えん。
http://www.horae.dti.ne.jp/~nnnaoto/kagyu_genkou.htm

カギュのことをいってるんであって、hpの製作者がまともといっているわけ
じゃないけどな。
751名無しさん@1周年:01/12/16 02:25
>>748
いいですか?仏教は成仏道なのですよ?
確かに仏教も、ごく普通の人の苦を抜き楽も与える。
しかし、その安心というのは、本当の目的ではないのです。
本当の悟りと成仏を得たいと決意した修行者には、
ある程度の自助努力が必要なのです。
仏教徒として安心して仏教を学びたければ、
まずは、正しい寺、僧侶、修行者と縁を持つことです。
752名無しさん@1周年:01/12/16 02:26
だれもweb上で本当の悟りのための仏道修行はしませんよ。
一般論を聞いているだけです。
753名無しさん@1周年:01/12/16 02:29
アーナンダよ。あるいは後におまえたちはこのように思うかもしれない。
「教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれらの師はおられないのだ」と。
しかしそのように見なしてはならない。おまえたちのためにわたくしが説い
た教えと、わたくしの制定した戒律とが、わたくしの死後におまえたちの
師となるのである。

さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう。『もろもろ事象は過ぎ去る
ものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。
これが修行を続けてきた者の最後のことばであった。
(大パリニッバーナ経)
754名無しさん@1周年:01/12/16 02:30
>>750
そう思いたい気持ちは良くわかります。
しかし、日本でも信頼できる寺や僧侶は今でもいくらでも存在しますよ。
どのお寺でも、在家の信者さんは、修行の善縁を得るまでに、かなりの努力をされている方が多いですね。

現代は、中々正しい寺や僧侶や修行者に会うのが難しい時代です。
私も苦労しました。しかし、これも我々現代人の徳のなさなのですから、
それを受け入れて、希望を持って前を向いて、正しい善縁を探すしかないのです。
これは、誰もが通る道です。がんばってください。
755名無しさん@1周年:01/12/16 02:36
>>752
>>だれもweb上で本当の悟りのための仏道修行はしませんよ。

三宝の関係を尋ねることより、もっと大切なことがあると思います。
756YO〜YO〜:01/12/16 02:42
現代は、本当に信頼できるお寺や僧侶は噂になりにくいと聞いたことあるYO
現代人は苦しんでるが、悟りを求めている人は少ないからなんだってYO
757名無しさん@1周年:01/12/16 02:45
>三宝の関係を尋ねることより、もっと大切なことがあると思います。

確かに私もそう思います。ただ、736さんと私は別人ですよ。
758名無しさん@1周年:01/12/16 02:54
>>757
みんなで名無しさんなんだから。
759名無しさん@1周年:01/12/16 03:29
イソップ童話の『すっぱい葡萄』思い出す
760宗教関係者:01/12/16 10:17
721
あなたの仰ってくださった事は、そのまま「苦集滅道」になりませんか?
仏教に苦集滅道あり。自分の「苦」が、慢性的に陥ってしまえば、「基本」
に帰る。でも、これは言うは易し、行うは難し。ここに来て初めて、善き
縁との関係というものの重要性が浮かび上がってくる。
「苦」自分自身の躓いている問題の現状を明らかにして、これが自分にとって
の「苦」になっていることと自覚する。
「集」現実の問題として、どのような要素が絡み合って自分の「苦」が現れて
いるのかを分析する。
「滅」どうなりたいのか?何を求めているのか?を自分自身の具体的な目標と
して掲げる。
「道」現状と目的が判明すれば、現実の行為として自分が何をすればいいのか
が浮き彫りになってくるので、ここに来れば、思考よりも具体的な行為として
の「道」が前にある。
人生の問題は、極微から、極大に至るまで、すべて「苦集滅道」を適用できま
すね。(^^)
761変人:01/12/16 11:43
山に篭ったとしても、せいぜい一年未満。
伝統宗派のノウハウをベースに、如何に現実生活と「関わり」ながら修行をするか?
まあそういう過程も一つの方法。総じて基本的には日常生活においての修行。コレダネ
修行とは何ぞや?
修(おさむ)とは、何を「おさむ」のであろうか?
「悟り」なのか?「悟り」に非ずなのか?
自らが答えを出さねばなるまい。ここのところの「目覚め」が一番肝要かと思う。
762名無しさん@1周年:01/12/16 11:43
>>745
>正しい仏教としての公式見解があるという前提でいままでお話が進んでいたと思います。
そうなの?
佛教に公式見解があるというのも初耳だけど。
763名無しさん@1周年:01/12/16 11:48
変人のおっさん、ぐだぐだやん
764名無しさん@1周年:01/12/16 11:52
ある禅堂で一人の男が長年修行していた。
新しく入って来る修行者の世話をしたり、自らも座禅に打ちこんだ。
ある日彼が寺を叩き出されたという。
泣いて許しをこうたが、和尚様は一蹴した。
彼が発したたった一言が原因だった。
「なぜわたしは見性できないのですか?」
みなさん、気をつけましょうね。(w
765名無しさん@1周年:01/12/16 12:08
>>764
ふーん。
つまり見性を目的として、修行をそのための手段としていたからでしょ。
そういうのがオウムとかで奨励されている修行で、そういうのは寺を叩き出される。

でもそういう説明をしないで、ただ本で読んだ知識として「修行がだめ」、
とだけ言うのは、一見正しく見えて初学の人には害になるかも知れない、
ということなのでは?
766名無しさん@1周年:01/12/16 12:22
>>764
その叩き出された雲水は、結局、見性も、大成もできなかったのかな?
767名無しさん@1周年:01/12/16 12:23
765の補足。

>>764では、
>ある禅堂で一人の男が長年修行していた。
とありますね?
つまり、この和尚さんは「長年修行していた人」に対して言った訳ですよね?
だから誰かれ関係なく言うと、やっぱりおかしなことになると思います。
768名無しさん@1周年:01/12/16 12:27
>>766
なかなかいい着眼点ですよね。
獅子は谷底に我が子を突き落とすそうですから。
769名無しさん@1周年:01/12/16 12:28
>>767
なるほどね。納得。「長年」が味噌。
ただし、白隠の「片手の音」の例もあるから。
やっぱ、「新しく入って来る修行者の世話をしたり」つーのが、
器量オーバーだったってことかな。
他人には眼もくれるなってとこかな。
770名無しさん@1周年:01/12/16 12:30
>>768
まったく。本当の獅子は落さないから。
771名無しさん@1周年:01/12/16 12:31
768>>770
まったく。おちたら死にます(笑)。
772名無しさん@1周年:01/12/16 12:33
>>771
何が死ぬの?
773名無しさん@1周年:01/12/16 12:35
771>>772

悟りたい人。
774名無しさん@1周年:01/12/16 12:36
>>773
あんた死んでるの?
775名無しさん@1周年:01/12/16 12:36
つまらん
776名無しさん@1周年:01/12/16 12:39
つーか、

「悟りたい人」だから叩き出されたのか?

「自分は悟れないと思う人(自分はもとより仏だとは思わない人)」だから叩き出されたんじゃないの?

何か、基礎的な倒錯があるみたいな気がする・・
777名無しさん@1周年:01/12/16 12:41
>>776
つーか、「自分は悟れないと思う人(自分はもとより仏だとは思わない人)」だから

だからこそ「悟りたい人」なんでしょ。

観念論やってて楽しい?
778名無しさん@1周年:01/12/16 12:42
777>>775

あっ、だからあんた「つまらん」わけね(ワラ。
779名無しさん@1周年:01/12/16 12:45
ここ いきがってんの ばっかな
780名無しさん@1周年:01/12/16 12:47

>>777
?????

つーか、
「自分はもとより仏だと思っていて」、
煩悩を抜くため、一心になれる人、「悟りたい人」なら、
見性できるのが禅なんじゃないの?

やっぱり、基礎的な部分で倒錯してない?
781名無しさん@1周年:01/12/16 12:51
ほんま、くだらんわ。>>725に同意。
782名無しさん@1周年:01/12/16 12:54
777>>780
????

つーか、
観念論(笑)。
見性している人は「悟りたい人」ではない。
見性していないから一心に修行する。

やっぱり、基礎的な部分で倒錯してない?
特に修行という意味の部分で。
783宗教関係者:01/12/16 12:55
とある僧侶は、仏道を修めるのは、「精神的な自殺に等しい」と言っていたが・・・
784名無しさん@1周年:01/12/16 13:00
782>>781

私も725に同意!!
もちろん貴方も、
自分のくだらなさがその「解釈」ゆえと分かっていて言っているよね(笑)。
785764:01/12/16 13:15
ちなみに実話。
彼がまじめに一〇年以上修行している傍らで、何人か見性した。
中には数ヶ月で見性できた人もいた。
敬虔なクリスチャンだったけど。
そのようなありさまを見て「まじめな」彼が感じたこと。
786名無しさん@1周年:01/12/16 13:21
>>785
「まじめに」に「なぜわたしは見性できないのですか?」とか聞いてりゃ、
無理そうな気がするなぁ・・

因みに、敬虔なクリスチャンは、彼? 数ヶ月で見性した人?
787764:01/12/16 13:22
>786
見性した人。
788名無しさん@1周年:01/12/16 13:26
>>787
どうもです。
その話を聞くに、クリスチャンの信仰と見性は、やっぱり近いのかな?
それとも生活態度、宗教的態度だけかな。
よくわからんが・・
789764:01/12/16 13:32
うーん。
寺を追い出された人のことを書いたのは胸が痛む。
ほんのちょっと寺をのぞいただけのへなへな野郎のこの俺が。

打つ堕し脳
790変人:01/12/16 13:36
面白いレスが続きますね。
「悟り」とは、結構微妙なもんだと思いますよ。
「悟り」とは何ぞや?ある時点において、それを求める「自分」というのを見つめる事が肝要。
外に求むることなかれ、内に求むむることなかれ。
「ありにまま」とは何ぞや?そのままで宜し。そこにて安住なされ。それにて修行なさるが宜し。
791名無しさん@1周年:01/12/16 15:18
784>>790
あはは(笑)
「深い」、深すぎる。
792名無しさん@1周年:01/12/16 15:22
おっさん呑みすぎやろ
793名無しさん@1周年:01/12/16 15:23
神に酔っています(笑)。
794名無しさん@1周年:01/12/16 16:53
禅宗は仏の道。
禅宗の背景を無視してその中の部分だけ考えても無意味。
禅宗の背景を考慮に入れてれば間違いとわかることを何故語るのか。
悟っていなくてもこれはわかること。
自分勝手もほどほどに。
795名無しさん@1周年:01/12/16 17:16
発心を起こしたときにある程度は自分の殻を破ることになる。
しかし、この破った状態でも覚悟が不十分だと
残っている自分の殻を単なる手だてとせずに、単に篭って選択行為を行うことになる。
その状態で行われるのは、批釈ではなく、
酸っぱいブドウの主人公と同じ過ちだけである。
発心時にある一定以上の覚悟を整えるのも
大事な1つの修行なのである。

ある人悟りたいと仏道の門を叩いても
気持ちだけが先立って覚悟が不十分だとみなされれば
どんなに部分的に突出して優れた面を持っていることが明らかでも
まだおやめなさい、と言われてしまうだろう。
796名無しさん@1周年:01/12/16 17:34
逆説的だけど、ここで間違いを語れば語るほど、より正しいなにかに近づいていく様な気がします。
病人がいるから、だから医者がいるのと同じで、
貴方のような正しいことを言う人も、間違った人がいるからこそ現れる。

どちらが助けているわけでもなく、どちらが助けられている訳でもないんですよ。
797変人:01/12/16 18:13
私の文面の、上っ面だけ読んでしまうと誤解が生ずる。

修行していて、ある境地に達したならば、さらにその上を目指す事も大事ですが
それよりも、瞬間、瞬間を深く洞察せねばならぬということですね。
平たく言えば「深く生きよ」という事でして。このように解釈して頂きたい。
これは抽象論のようですが、いたって重要かと思いますね。
この生き方こそが底流にありませんと、なにおかいわんや・・デスネ
まあ、少し話が難しくなりましたけど、
こういう事でしたら、790レスはマトモなレスだと解るでしょう(^^)
第一義が肝要でして、さすればおのずと答えがでますよ。
私の言っている意味が解ると思いますね。
798名無しさん@1周年:01/12/16 18:27
仏教の経典、教え、解釈書、修行法、祖師の言葉などには、
必ず「それらが書かれた、語られた対象と目的」が存在します。
それを考慮せずに議論しても、仏教を考える上ではほぼ無意味です。

仏の教えを参考にして人生を考えるのは自由でしょう。
誰しも、苦や幸福について考えるものです。人生を深く考えるのは自由ですし、好ましいことだと思います。
しかし、仏の教えを、自分勝手なやり方、自己中心的なちゃんぽんで学んでも、
決して、お釈迦さまの悟りに至ることはあり得ないことを
強く自覚しなければならないでしょう。
これは、誰かの決めた勝手な排他の論理なのではなく、

単なる「物の道理」に過ぎないのです。

それが本当にわかっているのなら、どうぞ、ご自由に。
わかった上でなら、たとえそれが好ましくなくても、その人の決めた道なのでしょうから尊重しましょう。
あとは各自お考えください。
799変人:01/12/16 18:54
764レス
>「なぜ私は見性できないのですか?」

これの意味するところは、見性するとか、しないとかは二義的なものと解釈しています。
つまり、一日一日を深く生きることを示唆しているのかと思いますね。
もし、一生かかっても見性できないとしても、捉え方によっては、それ以上のものを掴むことさえあるんじゃないかと、
そういう印象をもちます。
一日一日、真剣になって修行をする・・そのことが第一義と思いますね。
禅マスターは、そのことを言いたかったのではないかと思ってしまいました。
800名無しさん@1周年:01/12/16 19:06
仏教は半眼瞑想←これだけで
悟り、すなわち仏教における世界の見方が一目瞭然
801名無しさん@1周年:01/12/16 19:13
>799
でも真剣に生きるっていうことはとても大事なことは頭では理解できますが、
実際すごく難しいのでは。
真剣に生きるために見性しようとする、でも見性するには真剣に生きねばな
らない・・・となるとトートロジーにはまりませんか。
それに「真剣に生きる」ということを金科玉条のように遵守しようと思っても
、そうしようとすればするほど、自我意識が突出して、我性がより強まるような
気もします。(経験から)
五木寛之さんの「大河の一滴」の基調は「ダメな自分でも、今生かされているだ
けで尊いことだし、ダメな自分でいいじゃないか」という一種の現実肯定論だと
思っているのですが、私はこのように他力の「生かされている」という視点が
ないと心の安心は得られないように感じます。
802名無しさん@1周年:01/12/16 19:19
>「生かされている」という視点が ないと心の安心は得られないように感じます

この生で完全に悟りたいが現実にはそうはいかぬ。
さらに、完全に悟るまでのすべての生で修行するには毎回人間に生まれねばならない。
ならば、今後の自他のためにも心の安心は要る。貴方センスイイYO!
803名無しさん@1周年:01/12/16 19:29
>>802
輪廻転生を肯定してる?
804変人:01/12/16 19:44
>>798
>単なる「物の道理」に過ぎないのです。

瞬間、瞬間を真剣に生きることが因となって、果が生ずるかに思うのですよ。
私は、これを基軸にしております。
良い果が生ずるか、悪い果が生ずるか、案じる事よりも大切でしょうが、
それに執着せぬことも同時に肝要かと思うのです。
私が、さんざん迷った挙句の結論でして、人生観になっております。

青い鳥が身近にいても、捕まえようとすれば、直ぐ逃げてしまいます。
そういう時は、じっとして「鳥」がこちらに来るのを待ち続けるのです。
「アオイトリ」は「サトリ」なのかもしれません。
805名無しさん@1周年:01/12/16 19:46
自我と五蘊の関係性を厳格に分析すれば肯定せざるを得ない。
五蘊そのものが自我という訳ではないから。
ここは中観を厳密に追求しないと理解できない。
空仮中の三諦をさらに厳格に追求すればわかる。

道元師をはじめとしてお釈迦様を法身から出でた存在と考える高僧は多い。
このセンスの有無が本当の分かれ道かもしれぬ。
806変人:01/12/16 20:02
>>801
真剣に生きる
まあ、私は外道かもしれませんが、「解脱」も「輪廻」も「悟り」も全部捨てて、
裸のままで「今日」を生きたいですね。
それが本来の生き方のような気がするのです。
仏教における「執着を離れる」ということでしょうか?
仏教レスで、なんともセンセーショナルな発言なのですが・・
真剣に生きるとは、他力になるんでしょうか?
私には、その概念さえ執着に思えるのですが・・
ここのところは難しい。
807変人:01/12/16 20:26
>>801
>それに「真剣に生きる」ということを金科玉条のように遵守しようと思っても
>、そうしようとすればするほど、自我意識が突出して、我性がより強まるよう

「空」からしますと、すべてが一体として捉えますから、そういった感覚はありません。
「一体の中の安心感」というのでしょうか、それが支えになっているかと思います。
ですから、ごく自然体だと思うのです。
808名無しさん@1周年:01/12/16 20:30
>>804
執着の話も青い鳥の話も、どうしても一貫して両輪の片輪重視のようですね。
一時的ならともかく、常にそうでは仏教ではありません。

しかし、あなたは仏教徒ではない。だからしょうがないかもしれない。
809名無しさん@1周年:01/12/16 20:32
>>808

正論です。
810名無しさん@1周年:01/12/16 20:32
805は803へのレス
811名無しさん@1周年:01/12/16 20:34
>仏教の経典、教え、解釈書、修行法、祖師の言葉などには、
>必ず「それらが書かれた、語られた対象と目的」が存在します。
>それを考慮せずに議論しても、仏教を考える上ではほぼ無意味です。

これも同意します。
片輪は方輪としてそれを尊重し、
もう方輪についても優しくレクチャーお願いいたします。
812名無しさん@1周年:01/12/16 20:35
コテハン叩きじゃないんですが
仏教の「世界観」っていうスレのタイトルなんだけど、
お話は世界観の話じゃなくなってるように思って見ていました。

包括的・概括的なお話ではないような・・。
仏教にはこういう考えもある・・みたいな・・。

別に悪くはないですが
813名無しさん@1周年:01/12/16 20:36
仏教では、捨てるべき執着と捨ててはいけない執着があることとが
その理由を含めて説かれる。
仏教徒にはそこが理解できないのかもしれない。
814813の訂正:01/12/16 20:40
>>813

非仏教徒にはそこが理解できないのかもしれない。
815名無しさん@1周年:01/12/16 20:43
>仏教では、捨てるべき執着と捨ててはいけない執着があることとが
>その理由を含めて説かれる。

興味があります。
あくまでも初学のものへの一般論として、
それを結論としないような書き方でお願いします。
816名無しさん@1周年:01/12/16 20:49
>>815
まあ、これ(813と814)は基礎だからなあ。
それにわざと調べさせるような書き方じゃなきゃ意味ないし。
817名無しさん@1周年:01/12/16 20:57
>それにわざと調べさせるような書き方じゃなきゃ意味ないし。

ではそういう書き方でやってみて下さい。
818名無しさん@1周年:01/12/16 21:32
>>817
あとは各自の菩提寺で対面で正しく学んでいただきたい。
819名無しさん@1周年:01/12/16 21:37
>>811
>もう片輪についても優しくレクチャー

修行方法の場合と同じじゃない?
修行方法は教義と一体でしょうし。
820名無しさん@1周年:01/12/16 21:50
そうですか。
ではレクチャー終了ということで、
また間違った仏教談義を再開してもよろしいでしょうか(笑)?
821名無しさん@1周年:01/12/16 21:50
ここで素人の曖昧談義してないで取りあえずお寺行ってみたら?
仏教徒じゃなくても通って話し聞ける寺はたくさんあるって。
822名無しさん@1周年:01/12/16 21:58
大事な問題を調べもせずに安易に聞こうとする姿勢自体がそもそも間違っているかと。
823名無しさん@1周年:01/12/16 22:06
>>822
そうなんですよね。
で、ここではどうしたらそれが大事だと認識できるか、
という低レベルの雑談が続いている訳なんです(笑)。
824名無しさん@1周年:01/12/16 22:15
仏教も何かしらの形態がある以上、体系がある。
本当の解釈ってのはひとおおり体系学んでからその後にすべきことだね。
ここまでは仏教徒にならなくてもできること。
自分で解釈した上で今の自分に仏教が合わない場合だってあるんだし。
それ以前に優柔不断なのは毒矢の喩えの人みたいだよ。
825名無しさん@1周年:01/12/16 22:22
一口に仏教っていうけど、幅が広すぎませんか。
法華経信じてる人と、阿弥陀仏信じてる人と
禅してる人と,原始仏典読んでお釈迦さまの教えを探そうみたいな人とは
もとは同じだったかもしれないけど、だいぶ違いますよね。
826名無しさん@1周年:01/12/16 22:23
823>>824
>本当の解釈ってのはひとおおり体系学んでからその後にすべきことだね。

私もその通りだと思います。
たとえば初学の人にお酒を飲んではいけない
と、仮に師が対面で弟子に申し渡したとします。
それは師が弟子のある資質を見抜いて、
それがじゃまになるだろうから言い渡すんですね。
それを仮に弟子が、心頭滅却すれば火もまた何とやらで、
お酒を飲んでも水と思って飲めばいい、
などと勝手に解釈してはだめなんですね。
お酒を飲むということが
自分に及ぼす影響や意味がわかってから解釈するのはいいとして。
827変人:01/12/16 22:41
まあ、道元禅師は「黙って座れ」。
たとえ文盲であっても「黙って座れ」。
たとえ文盲であっても「南無阿弥陀仏」。
たとえ文盲であっても「南無妙法蓮華経」。
これにて成仏せんと言う。
828名無しさん@1周年:01/12/16 23:05
>>826
そうだね。
体系は、悟りや仏の世界の見方そのものではないが、1つの雛形みたいな面もあり、
マンダラ見たいな面もある。
だから、1つの用語を単独で学んでも不十分で、
体系をひととおり学ぶことによってはじめてその用語の本当の意味が明確になる。
禅定の仕方も同じこと。禅定単独や禅定の1技法だけやっても無意味だし、わけわかんなくなる。
体系を概念で整理して全体像を明確にして、禅定を行いながらすり合わせしていく。
(だが、その禅定による経験は、何ら根拠にもならない。)
*禅宗でも祖師さんは仏教用語いっぱい使ってます。禅宗も仏教だからです。
 それに祖師さんたちはほぼ全員経典百巻くらい読んでるし。そういう背景無視しちゃ駄目。

>>825
発想そのものは同じなんですよ。
あとは、対象(衆生)の症状に合わせてどう展開するかが違うだけで。

たいていは、解釈の問題はそれほど多くは存在しないんだよね。
単に、経典(語句)の説かれた対象や目的を理解できないことが問題となるだけであって。
要するに、解釈の問題なのではなく、
仏教体系の全体像を把握できないことが原因である場合が多いのです。
829変人:01/12/16 23:20
>>808
>しかし、あなたは仏教徒ではない。だからしょうがないかもしれない

随分深い言葉ですね。
皆様の、見識あるレスを拝見したいと存じます。
830名無しさん@1周年:01/12/16 23:42
地図なしで成仏できるのは
衆生のために法身から出でてくださる方々くらい
831ぼんごれ:01/12/17 00:21
生きる意味を問うことはできる。
生きる意味を問わないことはできない。
まさに生きているからだ。
理解せざる終えない。仏教徒と立派にいきていくことは
できるだろうよ。深い浅いは多分あなたの生きがいでしょう。どなたにしても
生きる意味は一生通して見出すもんだよ。
832ぼんごれ:01/12/17 00:23
仏教徒としてね。↑
833名無しさん@1周年:01/12/17 00:26
生きる意味はない。しかし苦はある。
834変人:01/12/17 00:53
私は、シンプルな生き方が好きだからね。
自分に合ったスタンスで充分だね。
人それぞれの考えで、生きていったほうが良いと思うよね。
参考までにROMはします。
835名無しさん@1周年:01/12/17 01:14
>>834
じゃあもう来るなよボケ!
836名無しさん@1周年:01/12/17 01:16
気味の悪い一人ごと書かないでくれる?>変人
837ぼんごれ:01/12/17 01:17
どちらにしても、↑そういう思い
にとどまることはない。変化することを感謝しろよ。
たまにはそう思うね。
838名無しさん@1周年:01/12/17 01:18
自分で「変人」なんて名乗るなよ(w
839名無しさん@1周年:01/12/17 01:19
826>>829

私は変人さんは変人さんでいいと思います。

正直、私にも貴方の言っていることは、
それこそ痛いほどよく分かるんですよ。
ただ、人により、やり方の違いがあることは認識すべきで、
誰でも彼でも同じように「空」を勧めるのはいただけません(笑)。
828さんの言っていることは全くの正論で、
言い方や方法論は違っても私の言っていることでもあります。
ただし、私はもう少し幅広い特殊な学びかたをしてきたため、
逆に専門用語には弱いところがあります。
たとえば先ほど臨済正宗のスレをのぞいてみたら、
三宝には「一体三宝」というのがあるのだそうです。
全く知りませんでした(笑)。

まあ、またこれも方便ですが、全体として見れば、
796で書いたとおり、変人さんがここで片輪飛行したからこそ、
828さんの言葉に「重み」があるんです。
私の目にも、変人さんの態度が善いとか悪いとかは映っていません。
変人さんが言うとおり、
悪いなら悪いなりに、その悪さにトコトン正直なら必ず学べるはずだからです。
つまり私は変人さんが学ばない人だと思っていません。
840名無しさん@1周年:01/12/17 01:19
あと、非常に気になったことは、
「そのまま」とか「あるがまま」という言葉を、

「現状肯定」として受け止めている人が多い

と言うことです。
もしも本当に、その言葉の真の意味で「あるがまま」になるなら、
全くの絶望(心が希望を求めて未来に動いていかないという意味)
を通らないとだめでしょうし、
それを本当に受け入れたら、絶対に「目覚めによる変容」が訪れるんです。
「あるがまま」は、あくまでも絶望を通り抜けたあとの「中庸」であって、
現状「肯定」ではあり得ません。
また、絶対に「変容」が訪れるので、いままでと同じままでいられないんです。
そういう意味でも自分の体験からだけ語るのは危険です。
と言いつつ上記は私の体験だったりしますが(笑)。
841ぼんごれ:01/12/17 01:19
833さんへ
842ぼんごれ:01/12/17 01:30
孤独への思いと人への思いは同居するんだよ。
すくなくとも俺の中では>835さん
843名無しさん@1周年:01/12/17 01:32
515 名前: 変人 :01/12/17 00:33
スレのタイトルにしたがって生きていけば、いわば「変人」的に見られるね。
まあ、私なんかは、大体「変人」で通っているから、随分納得する部分はあるよね。
変人というのは、実践しようと思っていなくても、根が変人だから実践しちゃうんじゃないかな?
いろいろ変人が集まってくれば、変人について考えてみたいね。
そういう方はいないでしょうか?  変人とは何ぞや?ここに答えが有ると思う。

http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1001832577/515
844ぼんごれ:01/12/17 01:34
845ぼんごれ:01/12/17 01:35
っぱこんなところにも女がいるといいね。笑)
846名無しさん@1周年:01/12/17 01:39
変人が死ぬといいね。笑)
847名無しさん@1周年:01/12/17 01:40
変人の気が狂うといいね。笑)
848名無しさん@1周年:01/12/17 01:41
変人が車にひかれるといいね。笑)
849名無しさん@1周年:01/12/17 01:41
変人が電車にはねられるといいね。笑)
850名無しさん@1周年:01/12/17 01:42
変人の脳みそ破裂するといいね。笑)
851名無しさん@1周年:01/12/17 02:28
変人ってなんかムカツカない?
852名無しさん@1周年:01/12/17 02:35
>>851
みんなムカついてるよ。
ていうか、呆れてる。
853名無しさん@1周年:01/12/17 02:38
変人はみんなに叩かれれば叩かれるほど、
それは自分が凄いからなんだと思ってる(ワラ
854名無しさん@1周年:01/12/17 02:39
キリストきどり
855名無しさん@1周年:01/12/17 02:40
きしょい
856名無しさん@1周年:01/12/17 02:41
キモイ
857∴進入:01/12/17 02:43
変人を観察しにきた。
858名無しさん@1周年:01/12/17 02:43
変人罵倒スレができそうな予感・・・
859名無しさん@1周年:01/12/17 02:43
この人何いってんだかわかんないときあるよね。
860名無しさん@1周年:01/12/17 02:44
わざわざキモイやつのところにいって、「キモイ」と言う必要もない。
861名無しさん@1周年:01/12/17 02:55
変人と他の人のやりとり見てると、
普通の話なのに全然噛み合ってないことがよくある。
862名無しさん@1周年:01/12/17 02:56
>>858
できました。
863名無しさん@1周年:01/12/17 03:13
変人って自閉症で小学校とか登校拒否してたんだろ?
その頃からおかしなこと言ってて、あだなが変人だったんだろ?
864名無しさん@1周年:01/12/17 03:19
ああ、あれだな。
オウムの麻原がさ、子供の頃、盲学校かなんかに逝かされてて、
その劣等感から最終解脱者とか言い出したのと一緒だな。
変人に当てはめれば、変人=最終解脱者ってことか。
865名無しさん@1周年:01/12/17 03:23
変人がいくらみんなに叩かれても変わらないのは、
麻原が裁判の最中、ブツブツわけのわからん独り言を言ってたり、
デタラメな英語喋ってみたりするのと一緒だな。
866名無しさん@1周年:01/12/17 03:30
つまり変人にとっての仏教っていうのは、
自分の殻に閉じこもるための最高の手段なんだろうな。
なぜなら、いくら理解されなくても、どんなに罵倒されても、
自分は変人=最終解脱者だから凡人に理解されないのは当たり前だし、
キリストみたいに殺されても仕方ないんだという自己欺瞞の幻想に入り浸れるからだな。
867横から:01/12/17 03:36
>>846-866
はいはい、わかったから。
君はさっさとお薬飲んでねなさい。
868名無しさん@1周年:01/12/17 03:37
まあ、それでも麻原にはかつて一万人の信者がいたそうだが、
変人が教祖になってもアホが一人か二人釣れるくらいだろ。
869名無しさん@1周年:01/12/17 03:39
さっそく、アホが一人釣れたようだな
870横から:01/12/17 03:39
あ、それから、
あんまり姑息なスレ立てないようにね。
見苦しいから。
871名無しさん@1周年:01/12/17 03:42
>>870
スレ立てたの俺じゃないんだけどな。
そんなのも見分けつかねえのか。
まあ、アホだから仕方ないわな。
872名無しさん@1周年:01/12/17 03:43
変人にこだわる奴は嫉妬してるのか?
本当見苦しい
873名無しさん@1周年:01/12/17 03:46
>>872
変人に嫉妬?
笑わせるなよ?
で、お前は親切屋気取りか?
叩かれてる奴かばっていい気分かい?
874変人:01/12/17 08:24
まあ、一番大事なことなんですが・・・

人間の思索は、ある一定の範疇にしか、その概念は至らない。このことは重要かと思う。
「甚深」とは、そういうことだと思いますね。
「生」を離れて「生」が解る。それと似たようなものでして、
「深く生きる」。との意味は、言葉ではなかなか言い尽くせません。
『狭い範疇で人間は生きているのではないか?』。その感強し。
この意味が解って頂けるのでしたら、私のレスも理解できるかと思いますね。
875名無しさん@1周年:01/12/17 08:37
もうわかったから、teacupで自分の掲示板でも作ってそこでやれ
みんな迷惑してんだよ>変人
876変人:01/12/17 08:52
解らんかなー。一番大事なところなんだがなー。
「言葉で言い尽くせない」。こう言っているんだから、
その先を読んで頂かないとな〜。
まあ、「その次解る」として、次回に期待というべきかな〜。
877名無しさん@1周年:01/12/17 08:54
また夜中の運動会してんの?
ややこしいのぅ・・
878名無しさん@1周年:01/12/17 08:54
↑だからお前なんかに説教される程レベル低くないんだよ
わかってないのはお前
879877:01/12/17 09:03
え〜、俺ですかいな。。
880名無しさん@1周年:01/12/17 09:32
http://www.teacup.com/fbbs/
ここで変人掲示板つくれ。簡単だから。タダだから。
i-modeにも対応だぞ?凄いだろ?
お前が管理人だ。そこで好きにやれや。な。>変人
881変人:01/12/17 10:06
「万人に通じるようにカキコする」。
       ↑
実は。これは簡単なことなんですよ。
私は、あえてこの手法を採らないだけです。
ですから、ある程度の反発はしょうがないのです。
切磋琢磨のなかに、キラリと光るものを観ましたらそれでヨカバイ
882名無しさん@1周年:01/12/17 11:09
あんたやっぱホンモンだよ
883変人:01/12/17 11:25
>>840
>もしも本当に、その言葉の真の意味で「あるがまま」になるなら、
>全くの絶望(心が希望を求めて未来に動いていかないという意味)
>を通らないとだめでしょうし、

実は私は、数年前ロシアンルーレット状態でしてね。
過去レスの「悟り」にカキコしてあります。
「あるがまま」の「深み」は、なかなか人には伝わりませんね。

まあ、これは一般論で言いたいのですが・・・
学問で宗教が会得できると思ったら、そんな楽な事は無いですね。
私は今のままで充分ですね。
仏教徒か、そうで非ずか? ソゲナコトハ関心非ず。
884名無しさん@1周年:01/12/17 11:27
>>877
あんたいつも夜中の書き込みを「夜中の運動会」ってネズミみたいにバカに
してるひとだね。
俺は夜中まで仕事して昼過ぎに起きるんだよ。締め切りの関係でね。
あんたと同じサイクルで生きてる人間ばかりじゃないんだよ。分かる?
不愉快だからその言い回しやめてくれないかな?
885変人:01/12/17 13:07
>>840
>「そのまま」とか「あるがまま」という言葉を
>「現状肯定」として受け止めている人が多い

現状肯定に非ず。
ここのところに、しっかり基軸を立て「深く洞察されたし」という事なのです。
さすれば、未来も過去も何も案ずる事はないんじゃありませんか?
「悟り」の鳥は、自分のところに止まるかもしれないし、そうでないかもしれない、
でもそれは、鳥の気分しだいですから、それに惑わされず「今を生きれば」良いんじゃないでしょうか?
「今を生きる」ことによって、おのずとその答えが顕現されるやに思います。
「頭で考えない」。という典型です。意味が解っていただけたら宜しいですが・・。
886名無しさん@1周年:01/12/17 13:57
840>>885

変人さんはいつも「死生観が変わる」と言っていました。
ちゃんと「気がついて」いましたよ(笑)。
840でも、貴方がそう受け止めているとは書いていません。

私の書き込みを真に受ける人は、自分の愚かさを真に受けているだけですので
あまり気にしないほうがいいと思います。
887変人:01/12/17 14:45
>>886
>あまり気にしないほうがいいと思います。

私はあまり気にはしない方だと思っています。
私のスタンスとしましては、瞬間に思ったことを「パット書きこ」しちゃう方ですからね。
いろいろレスが噛みあわないとか論評もありますよ(笑
そういう訳でして、虚飾のないレスと解釈して頂ければ、良いかと思いますね。
888真宗:01/12/17 16:40
全ては本願の心にあり。どうよ?
889変人:01/12/17 17:43
>>888
まさに然り。
甚深たるゆえ、上っ面じゃーとてもとても解りゃ〜せん。
まあ、一番大事なところ。
ここのところを通り越しますと、空論になる懸念有り。
890宗教関係者:01/12/17 22:53
仏陀が入滅した、と言うことで、仏教が上座部と大衆部に根本分裂してしまったのは、まあ、分かると
しても、さらにその後どうしてこれほどまでに分裂に次ぐ分裂を繰り返す必要があったのだろうか?
そのことで仏教全体としての統一された見解もない。ここで既に部派ごとに仏教の部分解釈に陥ってい
ると思ってしまうのだが。まあ、これはキリスト教も同じなのですね。
891人間ってやつは:01/12/17 23:02
あわれ あわれ あわれ・・・
892名無しさん@1周年:01/12/17 23:04
そうかな?
893名無しさん@1周年:01/12/17 23:54
非仏教徒の場合、経典に対する認識が根本的に誤っている。
各宗派については、それぞれの持つ仮の理念と対象を正しく認識する限り、
どれも仏教として正しい。
少なくとも、世界中のどの祖師も、この認識を持っていた。
だから、特に日本の鎌倉仏教においては、
各祖師がたくさんの仏の誓願から方便として部分的に選択して教えを練り上げたという事実を理解すること重要な鍵となる。
よって、祖師ではなくとも、僧侶が正しく修行している限り、この認識は必ずある。

各宗派の持つ、大げさな宣伝文句は、各経典がその教えのすばらしさを説明するときに使う、
修飾語に満ちた表現と同じようなもの。
それについては、文字通り受け取る人は、僧侶には存在しない。
各祖師が弟子宛に書いた教団極秘の資料や口伝を受ければ、
このことは必ず僧侶には伝えられるから、正しい僧侶は他宗派も正しい仏教であると理解している。

こういう基本を理解していないと、仏教の全体像は見えてこない。
小乗と呼ばれる宗派の指導者レベルは、大乗やそれ以上の認識や悟りを必ず持っている。
これは、実際会ってみればわかること。
894∴入滅とは、:01/12/17 23:58
終末ならぬ、終焉の理論でありプロセスと・・・。
895∴親鸞∴:01/12/17 23:59
言えるか。
896∴親鸞∴:01/12/18 00:01
小乗の分析癖は、ときどき鼻につくな。
897名無しさん@1周年:01/12/18 00:04
小乗は大乗を否定するものではない。
同じように、大乗は小乗を否定するものではない。
ただ、目的と対象が違うだけで、核となる部分は、まったく同じもの。

もちろん、いつの時代も、仏教の全体像を理解できない末端の勝手な修行者が、他宗派を否定する文句を本気で言うことがあるが、
それは真に受けてはならない。
祖師レベルの人間は、すべての経典を何度も読み直し、どれも正しいが、その時代には何が必要かを選んだだけであることをお忘れなく。
未熟な修行者が、仏教の全体像を理解せずに勝手に1つだけの経典を選んだ訳ではない。

すべての経典の存在は、仏のすべての誓願に等しい。
898名無しさん@1周年:01/12/18 00:11
以前掲示板で、浄土門の方が「阿弥陀様の教えは方便などではない」と言って
怒っているのを見かけた事がありますが。法華信者からみて理屈では方便になっちゃうんじゃないでしょうか?

会ってみれば解るって言われたら、そうですかとしか言えない。
統一した世界観がないのは見方よっては良いトコだと思いますけどね
899名無しさん@1周年:01/12/18 00:16
大乗非仏説とかに対しては、皆さんはどのように考えておられるんですか。

内容的には
大乗経典の方が多くの人を救おうという考えが進化しているようですが。
900名無しさん@1周年:01/12/18 00:16
どの宗派でも信者にはすべてのことは必ずしも教えられない。
これは仕方のないこと。だから、ときには勝手なことを言うこともある。

「統一」という言葉は、このスレでの非仏教徒が勘違いしているだけのこと。
あくまで、仏の教えの核は同じだということ。
どの宗派でも、総責任者や伝授可能者レベルの僧侶にそのことが伝えられないことはあり得ない。
901名無しさん@1周年:01/12/18 00:18
>統一した世界観がないのは見方よっては良いトコだと思いますけどね

道の辿りかたとして、最初から地図があるわけではないということと、
ある程度理解ができて地図の全体像が分かるということは分けて考えるべき。
その意味でその全体像がどの宗教でも本当の入門(いわゆるイニシエーション)は、
本来なら弟子の準備ができてから行う。
いきなり地図を渡してもその全体像が把握できるだけの理解が育っていなかったり、
覚悟ができていなければ真の入門は許されない。
902名無しさん@1周年:01/12/18 00:21
×その意味でその全体像がどの宗教でも
○その意味でどの宗教でも
903名無しさん@1周年:01/12/18 00:22
>>899
大乗も三法印、四法印の範囲。
小乗や大乗という言葉の世俗的な意味や使い方は、ほぼ間違い。

だから、本来の意味で考えなければ、わからなくなる。

たとえば、「無学」という言葉。
これは、本来は、もう何も学ぶことがなくなった人、つまり、成仏者のことを指すが、
一般には逆の意味。
こういうのはたくさんある。
だから、信者ならば生活上の制限があるからともかく、
僧侶ならば後世への責任のためにも正しく仏の教えを学べと言われる。
904名無しさん@1周年:01/12/18 00:24
901>>900

ごめん。仏教でも同じかどうか、本当は内部事情まで知りません(笑)。
905名無しさん@1周年:01/12/18 00:24
たしかに仏教用語の誤用はひどいものがある。
906名無しさん@1周年:01/12/18 00:24
>>だから、信者ならば生活上の制限があるからともかく、
>>僧侶ならば後世への責任のためにも正しく仏の教えを学べと言われる。

これに尽きる。
907名無しさん@1周年:01/12/18 00:28
>大乗も三法印、四法印の範囲。

これはなんとなく解ります、理論上の根幹は同じという事で
908名無しさん@1周年:01/12/18 00:30
仏教徒以外に公に公表されない口伝ってのは大事。
これは少なくとも正式に仏教徒にならなければわからない。
大抵は、後世後世への伝達の責任を持つ僧侶にしか伝えられない場合が多いが。
909名無しさん@1周年:01/12/18 00:30
けれど久遠本仏と,諸行無常は両立するんでしょうか
910∴なるほど、:01/12/18 00:30
仏への道に、特に関係無い人々も、多いわけだ。
911名無しさん@1周年:01/12/18 00:30
>>907
あなたすばらしい!
912名無しさん@1周年:01/12/18 00:31
>>908
それは密教のことじゃないの?
913名無しさん@1周年:01/12/18 00:32
>>909
説き方次第。現場での勝手な説明が行われた場合は除外。
914名無しさん@1周年:01/12/18 00:33
>>910でも過去世において、お釈迦様は全ての人を救う因縁を作ったって
教えがあったようですが・・。
915名無しさん@1周年:01/12/18 00:35
>>912
それは違う。密教部がない顕教の宗派でも必ずある。

たとえば、僧侶でも、まだ準備の整っていない人に教えても悪影響を及ぼす場合には、
教えないことはたくさんある。
916名無しさん@1周年:01/12/18 00:37
すべての人にいきなり原液が与えられないのはしょうがないことだ。
これは、各衆生に対するまさに慈悲。
もちろん、各衆生の業に応じてという言い方もできるが。
917名無しさん@1周年:01/12/18 00:39
>>915
教えない事って、例えばどんなことさ?
918名無しさん@1周年:01/12/18 00:40
>>910
まず、仏縁を得るということも大事な訳で。
919名無しさん@1周年:01/12/18 00:42
>>917
当然不特定多数の人間のいるここじゃ言えない焼肉のたれジャン。
それくらいわかってあげなよ。
920名無しさん@1周年:01/12/18 00:47
密教と顕経のことはともかく、
>各衆生の業に応じてという言い方もできるが

これが仏教にはたくさんの経典がある理由だという事か
考え方自体が違うと。「業」とかいう概念自体があるとないとじゃ
そもそも違うと。
921名無しさん@1周年:01/12/18 00:47
>>917
言ったらボロが出るから言えないのさ。
922名無しさん@1周年:01/12/18 00:48
>>919
釈尊は、「わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
全き人の教えには、なにものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在
しない。」と言っていますが、この言葉の意味は?
923名無しさん@1周年:01/12/18 00:51
「方便」って言い出したらキリがなくなっちゃうんじゃないか・・。って
懸念もよぎりますが・・。
924名無しさん@1周年:01/12/18 00:53
凡夫の相に準じてというのが仏の説法の基本。
結果的に隠されることはある。意図的に誰も隠してはいない。
925名無しさん@1周年:01/12/18 00:55
とはいえ、基本的なこと、重要なことは隠されてない。
926名無しさん@1周年:01/12/18 00:56
901>>923
あはは(笑)。
いくら正しいことを言っても無駄だと分かったでしょ(笑)
ものには伝え方があるんですよ。

つまり相手は、真実なんて知りたくないんです。

知りたいのは自分がいい気分になれる夢。
真実はその夢をうち砕きますからみんな耳をふさぐ。
ではどうしたらその耳をこじ開けられるか?
そこに「方便」があるんです。
927名無しさん@1周年:01/12/18 00:57
>>924
意図的に隠しているわけじゃないなら、その教えの一つぐらいここで発表できるだろう。
928名無しさん@1周年:01/12/18 00:59
>>925
それはそう。提示されてもわからない人はわからない。
というか、
本当はお釈迦さまの生きていた初期の仏教の教えにすべてが説かれている。
理解できる人はすべてを理解できたし、そうでない人は理解できなかっただけ。
という側面が大きかったりする。
だから、衆生の相に準じて具体的な展開が必要となっただけ。
929名無しさん@1周年:01/12/18 01:00
926>>927

発表しても必ず正しく伝わりません。
たとえば「深さ」という用語一つとっても人によって受け取り方が違うわけです。
930名無しさん@1周年:01/12/18 01:03
>>926
あなたの意図と私の意図は異なる。
931名無しさん@1周年:01/12/18 01:03
>>929
この場では必ずしも正しく伝える必要はない。
ただ、具体的にどういう教義を教えないことがあるのか、
それはどう誤解される恐れがあるから教えないのかを聞
いているだけ。
932名無しさん@1周年:01/12/18 01:05
>>930

それは分かります。
933名無しさん@1周年:01/12/18 01:06
お釈迦さんの説法を聞いても、くだらないと言って去っていった人はいた。
ましてや我々一介の修行者が何か言ったところでどうにもならないのは当然。
各自の意図する部分的な目的が達すればとりあえずよしとするしかない。
934名無しさん@1周年:01/12/18 01:07
大乗経典を作った人々ーつまりお釈迦さまより,
後の時代の人達には、そうなるように仏縁が働いてたと・・・
こう考えることも可能なのかな?
935名無しさん@1周年:01/12/18 01:09
>>934
仏の視点で見るか、衆生の視点で見るかで見方は最低2つある。
ちなみに、仏の慈悲は常にあるが。
936名無しさん@1周年:01/12/18 01:11
>ましてや我々一介の修行者が何か言ったところでどうにもならないのは当然。

ネット上でできることと、できないことはもちろん分かった上で、
その方便の腕を磨くのも実は修行の現れ。
もちろん言葉を使う人、他の手段を使う人それぞれですし、
いろんなタイプの人がいるので私は変人さんも否定しないわけです。
937名無しさん@1周年:01/12/18 01:12
>>ではどうしたらその耳をこじ開けられるか?

あくまで表現のアヤだろうが、私にはその発想はない。
選択の機会を提供しているだけ。
あとの選択は各自の自由。
なぜならば、なるだけ穏やかな自発的な自覚のみが、本当の本格的な仏道修行に導くから。
938名無しさん@1周年:01/12/18 01:16
>選択の機会を提供しているだけ。

もちろん否定しません。
貴方の誠実さは分かりました(^-^)/。
先日のやりとりは、その誠実さがうまく表現されていないと思っただけ。
貴方のやり方を変えてくれ、という意味ではありませんので念のため。
939名無しさん@1周年:01/12/18 01:18
>>936 変人さん
誰も否定している人はいないし、私の言っている対象は彼だけなのではない。
ただ、物の道理が把握されているかどうかは、限られた接触でわかる。
彼には彼のよさがある。しかし、仏教スレならば、おかしな部分は指摘せざるを得ない。
体験や言葉に対する彼の発言を読むだけで、彼が仏教徒ではないことは明白。
単に責めているのではなく、それは仏教とは違うという事実を皆さんに提示しているだけ。
あとは、各自が判断すればいいだけのこと。各自が選択すべきことだから。
940名無しさん@1周年:01/12/18 01:19
いけない・・・もう、寝なければ。。。

私の不躾な疑問に丁寧に答えて下さった方、
ありがとうございました。では・・また。
941名無しさん@1周年:01/12/18 01:20
>>939

おかしなことを言うから正しい指摘がでる。

それがつまり物の道理であるということ(笑)。
この逆説に「気がついて」ね。
942名無しさん@1周年:01/12/18 01:22
>>937
>>ではどうしたらその耳をこじ開けられるか?

というか、修行者として最も諌められるべき発想だと思うよ。
943名無しさん@1周年:01/12/18 01:24
>というか、修行者として最も諌められるべき発想だと思うよ。

まあ、表現のあやです。
実際には自分がより深く知ることになる。
与えれば与えるほど自分がうけとるんです。
944名無しさん@1周年:01/12/18 01:28
>>この逆説に「気がついて」ね。

こういう表現は方便とは言いませんよ。
修行者として最も恥ずべき表現です。
こういう表現を使う時点で、それは仏教徒ではないと思います。
そういう誤った意味の方便のために何やってもいいという発想は、仏教にはないと思いますし、
仏教での「方便」の本当の意味は、その使い方ではありませんよ。

仏教での正しい「方便」の意味は、最低2つあり、
いわゆる済度のための方便の意味で使われる場合は、
941さんの使い方は誤りです。

方便の意味を間違って解釈すると、そういうやり方が方便であると勘違いして、
仏教ではない方向に行ってしまうのです。
945名無しさん@1周年:01/12/18 01:31
>>944
確かに「方便」って言葉の意味も誤用されること多いね。
もっと別な意味なんだよね。
それに誤用される意味の方便の概念は、仏教ではどんなことがあっても否定されるべき態度だし。
946名無しさん@1周年:01/12/18 01:38
私はだから、新興宗教系の禅は仏教として評価しない。
彼らは941のような表現を、好んで使うから。
そうした表現は、仏教では否定されるべき表現。
修行者として、最も恥ずかしいこと。
日本だけ。そういう表現が仏教の説法と勘違いされ、特に若い人に受け入れられてしまうのは。
そういう表現は、絶対に間違いだから、皆さんお気をつけあれ。
947名無しさん@1周年:01/12/18 01:40
禅 と 禅宗 は「違う」ので、これも混同してはいけない。
948名無しさん@1周年:01/12/18 01:45
>こういう表現は方便とは言いませんよ。

表現とその表現をどう受け止めるかは文化の違いの問題を考慮しないといけない。
もしも貴方が私にたいしてその表現故に悪感情を抱いたのだとしたら、
その悪感情こそは修行者として恥ずべき事でしょう。
949疑問:01/12/18 01:45
どうして941の表現が恥ずかしいことなの?
950名無しさん@1周年:01/12/18 01:50
>>948
私は悪感情は抱いていない。
いかなる理由があれ、941さんの表現は誰に対してのものであっても仏教では否定されるやり方。
重大な戒律を破っているから。
その表現のために重大な戒律を破っていいという仏教はない。
仏教で最も重要なことの1つは、戒律。
修行者に持戒がなければ、未完成な慈悲がさらに汚れることになるから。
我々は現実にまだまだ如来ではないのだ。
951名無しさん@1周年:01/12/18 02:09
906 :名無しさん@1周年 :01/12/15 00:40
ひとりでキレまくり?


907 :名無しさん@1周年 :01/12/15 00:41
粘着晒しあげ♪
952名無しさん@1周年:01/12/18 02:40
なんかよくわからないが、仏教徒が説明べたなのはわかった
953名無しさん@1周年:01/12/18 03:48
941の人は別スレの別な複数人にも似たような表現使ってたでしょ。
加えて他の数人も。
でもそれは陥りやすい間違いだって聞いたことある。
過去の名僧も出家前の幼少時にその間違いでキツク絞られたんだってさ。
954名無しさん@1周年:01/12/18 08:13
そこに仏教があるか否かは戒律のあるなしにかかっている。
955変人:01/12/18 08:35
面白いレスが続きますね。
切磋琢磨のなかにキラリと光るもの。それが自覚を促すとおもいます。
その積み重ねこそが、いわゆる仏道修行なのかとおもいますね。
自らが努力せねばなりません。考え抜かねばなりません。
それでなければ、なかなか掴めるものではないとおもいますね。
これは、えてして難しいように思えますが、さに非ず。
既成概念、先入観が微妙に絡みますから、この認識自体考える必要がありますね。
956名無しさん@1周年:01/12/18 08:42
>>950
>私は悪感情は抱いていない。

貴方が悪感情を抱かなかったとすると、
いまひとつよく分からないのが、なぜ私の表現が

>修行者として最も恥ずべき表現です。

なのか?
という事なんですね。
私はてっきり貴方が気を悪くしたと思ったから、だから

>もしも貴方が私にたいしてその表現故に悪感情を抱いたのだとしたら、

と書いたわけです。
表現というのは、そもそも相手に伝わってこそ表現なんです。
しかし表現が相手に伝わるためにはそのためのルールが必要で、
それが私の言う文化の問題な訳です。
まさか、いくら仏教で戒律が大事と言っても、
戒律として「日本語で馬鹿野郎」と言ってはいけない、
とまでは書いていないと思うんですね。
おそらく「相手にそういう否定的印象」を与えてはいけないという事だと思うんです。
しかし、若い人が仲間内で敬語を使わないからと、
無理に敬語を使うように「戒律」を与えたとしたら、
仲間内から変なヤツだ、慇懃無礼だ、と解釈されていじめられるかもしれないわけです。
こういう「外的表現」には常につきまとう問題だと思うんですよ。
957名無しさん@1周年:01/12/18 08:42
そこで私は疑問に思うわけです。
貴方がどういう感情か分かりませんが、なにがしかの悪感情を抱かなかったとしたら、
だとしたら、

一体全体どうやってそれを恥ずべき表現と知ることができたのか?

という事なんです。
貴方が私の言葉を「解釈した時」に恥ずべき感情を喚起されたからこそ、
だからこそ、それを恥ずべき表現と言い表したのではありませんか?
実際にそういう感情を喚起されなかったとしても、そういう「判断」が働かなければ、
貴方はそれが恥ずべき表現とは呼べなかったはずです。
それが私の疑問であり、
おそらくは949さんの疑問であり、952さんがよく分からない理由なんでしょう。
いや、冗談抜きで本音で何が悪かったのか分かりません(笑)。
別に貴方を罵倒した訳でもないし・・・・・。
もちろんあなたが、
自分はこれこれの悪感情を抱いた、不愉快だ、
と正直に言ってくれればいいのですが・・・・
これが何度かご指摘差し上げた「貴方の態度の矛盾」なわけです。

#あくまでもご指摘差し上げているだけです。
958名無しさん@1周年:01/12/18 08:54
>>957
その人に対してだけではないからでしょう。
あなたは、ずっと以前から多くの他人に対してそのような表現を好んで使われています。
そして、その状況もほぼ同じです。それですべてが証明されるでしょう。
その表現が戒律を破っていることが理解できないとしたら、仏の道から外れているからです。
出家して仏の道を歩んでいる人間なら、絶対にあなたのようなことは誰に対しても言いません。
959名無しさん@1周年:01/12/18 08:59
特に禅系の仏教で、絶対に犯さないようにと注意される戒律だね。
禅系の指導者も、若い弟子がそこに流れやすい危険性を自覚しているからこそ
代々そのことを弟子に注意してきたのだろうね。
960名無しさん@1周年:01/12/18 09:01
>その表現が戒律を破っていることが理解できないとしたら、仏の道から外れているからです。

戒律の意味を追求するのと個人の批判をするのとでは意味が違います。
961名無しさん@1周年:01/12/18 09:02
戒律の意味を一切無視して話を進めるなら全て無意味です。
962名無しさん@1周年:01/12/18 09:07
しかし、事実、957さんが過去に重ねたその手の表現は、戒律に反することだ。
誰だって結果として戒律を破ることはある。
だが、意図的に連続して不特定の多数の人間にその表現を使っている場合は、問題の重要性が違う。
仏教徒なら、正しく戒律の重要性を自覚して学びなおすこと。
仏教徒でないのなら、そういう言動をどう考えるかが、仏教徒であるかどうかの分かれ道だと肝に銘じて欲しい。
963名無しさん@1周年:01/12/18 09:10
>しかし、事実、957さんが過去に重ねたその手の表現は、戒律に反することだ。

過去の話をしているのではなく今の話をしているわけですが。
何か過去の恨みとかあるのですか?
964名無しさん@1周年:01/12/18 09:13
957さんにも957さんの信心や信仰があろう。
ただし、それが現状で仏教であるかどうかは、明確に識別して自覚すること。
結果として、あなたの信心や信仰が仏教でなくても、それは957さんの決めたことだから皆それを尊重するだろう。
大事なことは、それをまず見極めたうえで、それでも仏教徒として仏教を学びたいか、
非仏教徒として仏教を参考に道を歩みたいかを決めることだ。
決して、頭ごなしに責めているのではないのだよ。
965名無しさん@1周年:01/12/18 09:14
>だが、意図的に連続して不特定の多数の人間にその表現を使っている場合は、問題の重要性が違う

意図的にやっているからこそ・・・

>正しく戒律の重要性を自覚して学びなおすこと。

その戒律の「意味」の重要性を自覚しているのですが・・・。
966名無しさん@1周年:01/12/18 09:17
>>963
根が同じだから。それ以外言いようがない。
恨む理由もないから恨みようがなかろう。
967名無しさん@1周年:01/12/18 09:26
>>956
どんな理由があれ、絶対にそういう表現は使ってはならない。
自らの分相応をわきまえることなく、意図的にそういうことをすることは、
そういう戒律があることを知らないこと以上に、最も仏教徒として恥ずべきことなのだよ。
仏はあなたを含めて全衆生を慈悲で包んでいるのに・・・・。
それが意図的であるからこそ恥ずべきことであることを自覚したとき、仏教の成仏道が開けるだろう。

あなたがこういうことを意図的にやっているとわかった以上、
戒律上、もうあなたとはお話できない。しかし、あなたが嫌いなのではない。あなたへの慈悲心はある。
しかし、仏教を誠実に語りたいのなら、正しい仏教徒になることだ。以上。
968名無しさん@1周年:01/12/18 09:29
>どんな理由があれ、絶対にそういう表現は使ってはならない。

ですからいまお話ししているのは
そういう表現とはどういう表現なのか、
ということです。
そもそもそれがどういう表現かが分からなければ守りようがないんです。

分かっていただきたかったな(笑)。
969名無しさん@1周年:01/12/18 09:31
どっちも、どっちだな。(ボソッ >我見
970名無しさん@1周年:01/12/18 09:32
追伸
言葉尻ではなく、意図的だからこそ、由々しき問題なのだ。
その影響を理解した上で意図していれば何してもいいのではないのだよ。
理解しても、意図的でも、やってはいけないことは、やってはいけないのだよ。
もっと、五蘊に対する影響というものを考えることだ。
凡夫が考えるほど、そういう表現が五蘊に及ぼす影響は小さくないのだよ。
以上。それでは。
971名無しさん@1周年:01/12/18 09:34
ほかの人間相手にもその手の言い方してたのなら
それは誤りだと言われても仕方ないだろう。
972宗教関係者:01/12/18 09:35
自分自身、正誤という立場に拘ってしまえば、少しも前に進めない。

宗教の心からならば、問題を前に「迷い」がある時、自分自身の内面の事として
その明暗を分ける必要があるなら、自分の行為を持って、自分の行為の中からそ
の明暗を分けるのだろう。

武道の心からならば、他人を相手にする勝負なので正誤は自他を分かつことをに
よってしか、明らかにできない。ここでは確かに、負けてくれる人がいなければ
勝てる人もいない。

武道と宗教は通じるものがあると思うが、全体の幸福を求める宗教の心は、他人
を、明暗を分ける為の道具にはしない。
973名無しさん@1周年:01/12/18 09:39
>>972
武道、格闘技の心、コミュニケーションの心、分かってないな。

最後は、「ノーサイド」だよ。これは宗教的では?

武道、コミュニケーションの明暗に拘りすぎだな。
974名無しさん@1周年:01/12/18 09:40
戒律の存在理由をまじめに考えないから、こういうこと言われちゃうんだよ。
戒律を破る破らないよりも、決定的にまずいことってのはあるからさ。
正誤で言ってるんじゃなくて、決定的な部分だからでしょう。
その決定的な部分は、あたかも菩提心を捨てるようなものだったからじゃないかなあ。
975名無しさん@1周年:01/12/18 09:42
自分を見ることは、すなわち他人を見るということ。
976宗教関係者:01/12/18 09:49
正誤の判断は、瞬間、瞬間、決定的ではないのだろうか?少なくとも自己の内面に
おいては。
977名無しさん@1周年:01/12/18 09:49
指摘されている表現をよしとする精神態度が極端に高じたら某教団のようになると聞いたことはあるよ。
正誤じゃなくて、それが深いレベルで自他に及ぼす影響が理由でしょう。
誰しもまだお互いに悟ってないのだからその辺は気を付けるに越したことはないよ。
978名無しさん@1周年:01/12/18 09:50
>>974
「表現」には、そもそも、さまざまな相の「深さ」があり、
表面的な相の表現は、その内面が外に現れたもの。
言葉や態度はもちろん一番その外側にある。
しかし、言葉が外に表出されるまえに、
感情や意志があり、それを伴って表出されるのが
本当の「言葉の表現」というもの。
いくら言葉がキレイでも、その内面が偽りに充ちていたら
戒律を守っている事にはならない。
979名無しさん@1周年:01/12/18 09:51
>>974
2chで確実に「戒律」を維持できると思う?
他スレ、特に新興系、カルト系は「戒律」で2chを禁じてるところもあるし。

固定・名無しの使い分け、捨てハンの使い回し、なりきり、
どれをとっても私利のために「ウソを付いてる」てことにならないかな?
980名無しさん@1周年:01/12/18 09:52
言葉と態度の矛盾は修行者ならさけたいもの
981名無しさん@1周年:01/12/18 09:54
>>978
言い訳はいいよ。それに深さでごまかそうとするのは、表現に対して甘えがある証拠だし。
その人だけに対してならともかく、他人にも言ってたんじゃ言われてもしょうがないって。
982宗教関係者:01/12/18 09:55
973
スポーツとしての武道なら・・・。しかし、真剣勝負となれば最後は
ノー再度。相手は壊れてしまう。宗教は真剣なのです。
983名無しさん@1周年:01/12/18 09:55
>>970
>もっと、五蘊に対する影響というものを考えることだ。
>凡夫が考えるほど、そういう表現が五蘊に及ぼす影響は小さくないのだよ。

そんなに脆いものなのかな?
984名無しさん@1周年:01/12/18 09:57
>>982
真剣を握ったことはないようだね。
985名無しさん@1周年:01/12/18 09:58
>>981
「その人」にはいいのかな?
986名無しさん@1周年:01/12/18 10:00
>>976
その瞬間の判断を「表現」したとたんに、見極められるものになるんじゃないのかな?
甘えてないか?
987名無しさん@1周年:01/12/18 10:01
978>>981
相手に伝わらない、
もしくは自分では正しい言葉使いをしているつもりで
相手に不快感を与える、
さらに意図的にそうする、
であるなら戒律を守っている事になるのだろうか?
988名無しさん@1周年:01/12/18 10:02
>>983
影響はあるよね。
だから、別な例で言えば、2chだからって修行者が煽りなどしたら、
どんなに軽い冗談でやったつもりでも、悪影響は蓄積されるね。
感覚は麻痺するものだというのは本当なんだよ。
その辺は、大乗だからこそ、余計に小乗的な自覚が大事ってことでしょう。
989名無しさん@1周年:01/12/18 10:04
974、977、981、986、の人ってさ、人の非難ばっかしてるよね。
990名無しさん@1周年:01/12/18 10:05
>>988

貴方のその発言の「影響」を是非お考え下さい。
991名無しさん@1周年:01/12/18 10:08
>>987
それはただの詭弁といいます。
941は相手のみならず他の人にも好ましくない意図を持っていることをさらけ出してしまった。
一方、相手のほうはそういう意図はまったく持っていない。
それだけで十分でしょう。
992名無しさん@1周年:01/12/18 10:09
>>988
なるほどね。
感覚が薄れるってのは同意だな。

仏教の「空」の底が知れると言われも仕方がないかもしれない発言だけど、
真かもしれない。
993名無しさん@1周年:01/12/18 10:13
そろそろ仕事だな。
読む人によって色々判断はあるだろう。
双方から色々学べばいいんじゃないか。
994名無しさん@1周年:01/12/18 10:20
>一方、相手のほうはそういう意図はまったく持っていない。

それがそもそもウソに見えるから質問している。

949 :疑問 :01/12/18 01:45
どうして941の表現が恥ずかしいことなの?

私も不思議だ。
995名無しさん@1周年:01/12/18 10:25
>>994
それは感覚が麻痺してるとしか言いようがない。
996名無しさん@1周年:01/12/18 10:31
>>995
それは耳をふさいでいるだけとしかいいようがない。
997名無しさん@1周年:01/12/18 10:36
互いの言い分はだいたいわかったよ。
仏教徒さんは態度がやや厳し過ぎる気もするけど、伝燈(誤字じゃない)を守る責任があるからかな。
非仏教徒さんは自分なりもいいけどもう少し先人の残した注意書きを大事にしたほうがいいと思うよ。
私も仕事なので抜けます。じゃあね〜。
998970:01/12/18 10:40
ちと言い過ぎたかもしれないと気になって戻ってきた。
ただ重要性は理解して欲しい。
999名無しさん@1周年:01/12/18 10:41
>>949の質問に答えないのは、彼が人を見下してるからじゃなかなぁ。

ここに全てが集約しているとおもう。
893 :名無しさん@1周年 :01/12/14 22:59
修行者の認識の甘さを諌めるだけで文句言われちゃかなわんだろうに。
その欠如が原因で、固執すべきことに固執しているのは明らかなのだから。
配慮は必要だろうが、配慮するしないを問うほどの言い方でもなかろう。
誰も誰をも「見下し」てはいないだろうに。気にし過ぎだと思うが。
もちろん、配慮に配慮を重ねたいものだがな。


894 :名無しさん@1周年 :01/12/14 23:01
>>893
見下すとか、見下さないとか、ちっちゃな問題ではないと思うよ。
1000名無しさん@1周年:01/12/18 10:45
みなさん、まあまあ、よしなによしなに。
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