臨済正宗

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14671:02/01/06 16:50

私の意見で、レスが進まないようなので、ここで少し持論を離れ、禅、臨済宗
というものを見ている事にしますよ。長々と済まなかった。どうぞ、構わずに
進めてください。
147変人:02/01/06 17:45
木を燃やして灰になった場合。
これを連続性で捉えず、ある瞬間が木であり、ある瞬間が灰である。
つまり、命というのを「瞬間」として捉えている。

これは、道元禅師の煩悩の喩えばなしです。

盤珪禅師は、嫁姑問題に関して「互いの記憶を憎んでいるんじゃよ」。
つまり、道元禅師と同じ事を言っているのです。
これでヨカトデスカ?(^^)
148変人:02/01/06 18:29
>>145
「如来界に土足で踏み入る者」。そういう捉えかたですか?
それが我慢ならんのと違いますか?
そういうのがビンビン伝わってきますよ。
149変人:02/01/06 21:54
宗派云々はさておき
直指人心。
心鏡なり。
これで良いと思う。
自分にとって「禅」とは?これで良いかと思う。
15071:02/01/06 22:22

別に「我慢ならん」と言うわけではないですよ。納得できないものは納得できない。ここに
います。つまり分かるものは分かる。分からないものは分からない。これが私の基本的な土俵
なのです。でも、私が不満なのは同じ仏教を学んでいる徒が共通分母さえ確認し合えない事です。
148は一応受けておきます。
151変人:02/01/07 02:26
如来界(浄土)が外にあるという一部の宗派はそういうふうに見えるらしい。
私は、涅槃寂静。そのままの世界だと思っている。
直指人心。自らの仏性を目覚めさせ、自覚することを意味する。
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味。

>つまり分かるものは分かる。分からないものは分からない。これが私の基本的な土俵
ここの部分も、貴方ご自身の努力しだいではないでしょうか?
つまり、仏教は体験(修行)することに意味があるんで、理論で云々しても
分かることと分からないことはご自身の問題ですよ。こればかりは私にはドーニモナリャセンヨ

そういうことで、禅は「直指人心」。自らの心を鏡に喩えたのです(盤珪禅師)。
宗派が、臨済であろうが曹洞であろうが無宗派であろうが、さして問題に非ず。
ようは、自分自身の仏性に目覚めればそれで良いのですよ。
それから、四諦における「道」を考えればいいんじゃありませんか?
先ずは「黙って座れ」。これっきゃないかと思いますが如何でしょうか?
152変人:02/01/07 08:40
伝統宗派について
私の友人が住職でしてね。修行時代はそれなりの質素な食事で「食」による修行というのも出来ますが、
実際、檀家との関わり合いをもってきますと、檀家が野菜や果物を寺に持ってくるわけですよ(地方の場合)。
季節によって、同種類のものが沢山集まりますから、どうにか食べても当然余ります。
さすれば、それを処分していく訳ですね。最初の頃は心が痛むのですが、徐々に馴れてきますよ。人間ですから。
そのうち「食」に関して、感謝する気持ちも段々失せてきます。
こういったこともありますから、修行というのが如何に大変か?ということですね。

正見が如何に大変か?ということですよ。
体系の大事さを強調しても、実際のところそんなに甘くはないですよ。
自分に厳しくならないと、そこは会得できません。
盤珪が乞食と生活をともにしたのも、底流を考察しませんと理解できないと思います。
15371:02/01/07 15:07

私の「分かるものは分かる。分からないものは分からない」これは仰る通り自身の努力で賄える
部分でもありますが、基本的には人間の認識力の限界のことを言っているのです。
宗教というのは人間の認識力を超えた世界、言わば形而上の世界を扱い、或いは定義します。し
かし、仏教は「涅槃」というものは認めますが、それがどういうものであるのか?は基本的に議
論しません。何故なら、人間の認識力の限界を超えているものだからです。だから「浄土」であ
るとか「悟り」であるとかは放っておきます。行じる事は「苦の滅」苦しみを取る(離れる)事
です。「浄土」や「悟り」は無明に覆われた人間には分かるものではありません。でも、苦しみ
は「誰にでも」分かる。苦しみを取る(離れる)事も分かる。病人がその症状で回復状態が分か
るようなものです。これは理屈を超えて「誰にでも」分かる事です。「禅」というのは一般的に
禅問答などと言われるように、第三者的な立場の人には全く分かりません。文字言語に頼らずに
概念的教義も否定する禅の宗を考えれば、そう言う事になるのは理解できるし、分けられないも
の、文字にできないものに重きを置くのは大切な事だとも思う。しかしそれに終始するなら禅寺で
信頼関係の基で行うのが筋ではないだろうか。不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏を宗と
するなら、ここでの安易な書き込みは不適当であろうと思うのです。「ここは修行の場でないか
らいいのだ」は詭弁になるのではなかろうか。その外にでるというのであれば、人間対人間とい
う平等の立場に立つべきだと思う。人間の認識を超えた体験を持ち出してきて、あなたには分か
らんとして済ます態度は人間対人間の立場において道理に適ったものとは思えません。それを敢
えて行えば、何が生まれるかと言えば、相手に誤解と敵意、本人に虚しさを植え付けることにな
っても来るでしょう。この世の定めは相対です。相手があるということです。自分の心だけで済
ましましょうということであれば、それこそお寺へ行って一人黙って座っていればいい訳です。
分かる事と分からない事、分けられる事と分けられない事を別けるのは英断なのです。これが分
からないのなら、自他一如というより、唯我独尊の状態ではないでしょうか。
154変人:02/01/07 16:18
>153
>それこそお寺へ行って一人黙って座っていればいい訳です。
それが良ければ、それも宜しかろうに思う。それは各自で決めることですよ。
仏縁は、宗派に限らず、瞬間々々においてなされるのいが良いかと思いますね。
貴方が仰っていることは、カキコはたやすきけど相当困難ですよ。御存知ですか?
それでも固執し、それをマットウするのであれば私は何にも言いませんけど。
それで衆生が救われるのであれば、それが一番良いのですよ。
お解りですか?「言うはやすし行うは難し」。なのですよ。
今、本当に大事なものは何であるのか?これをとくと吟味なされば、すでに答えは明白。
貴方の胸の奧低には、既にその答えがあるやに思う。
もし無きとしても、すでに衆生はお見通しかとおもう。衆生とて賢明ですよ。
15571:02/01/07 17:07
>正見が如何に大変か?ということですよ。
確かに正見は大変です。しかし、何処かに正確無比な正見があるとお思いですか?
分からない事を分からないと見るのも正見なのですよ。
体系は重要です。四諦の中には理と道があるのです。あなたの知り合いの僧侶は
体系からはみ出して何か難しいことを頭の中で考えていたのかもしれません。
体系の中には無常、苦、無我といって自分に厳しくする理と道が示されているのです。
理と道という分けるべきでないものを分けたまま怠るならば、そりゃオカシクな
るのも道理です。だから、基本的な体系を叩き込んでおくのです。何処で何をし
ていようと直ちに思い出して自分が道理に戻れるように。禅のようにある意味で
理を否定する道は厳しいだろうと洞察します。理論がなければ修行の迷いも多か
ろうから。名僧と言われる僧侶達の修行は、まこと敬服に値する。精進あれ。

私も宗派はさして問題に非ず。です。ただ、自らの宗は定めなければ修行に軸が
持てないと思う。私も黙って座る事を等閑にできる立場ではありません。
156変人:02/01/07 17:58
>体系からはみ出して何か難しいことを頭の中で考えていたのかもしれません。
つまりですね、頭で考えてもどーにもならないかと思いますよ。
生きるとは何ぞや?これは、盤珪さんみたいに乞食になれば、段々読めてくるのではないでしょうか?
何故、そんなことしないと分からないのか?
いわゆる「無明」なんですよ。ここのところを見落としているんじゃないでしょうか?
行学、共に大事ですよ。されど修行無くしてとても分かるはずがありません。
貴方が論じているのは「知識」ではないでしょうか?
「知識」よりも「智慧」が肝要かとおもいますね。
四諦は、私が何度も言ってますよ。四諦の実践こそ「禅」と言ってるんですよ。
「学」を実践して、それで極めるのですよ。そこへのプロセスが大事なのです。
私の話は、相当遠くに既にトンドルのですよ。
実践の話をしているのですが、如何でしょうか?
157変人:02/01/07 18:21
一休禅師が、普段着の着物を着て、人に逢ったんですね。
そしたらあまり無愛想でした。
今度は、袈裟懸けでその人に逢ったんですね。
そしたら大そう丁重なもてなしをしたんですよ。
一休禅師は、袈裟懸けに態度が変わるその人を諌めたんですね。
いわゆる「羊頭狗肉」の話ですよ。
「禅」には、こういった話が多数あるんですね。
ナジョシテアルノカ?これはですね、あまり話しの分からない人の為にあるのですよ・・。
精進されたし。
15871:02/01/07 19:23
156
>私の話は、相当遠くに既トンドルのですよ。実践の話をしているのですが、如何でしょうか?

前部の意味は不明です。何を意味するのか「分かり易く」説明して頂けませんか。
「実践の話」とは具体的にどういうことか、的を絞ってください。
159変人:02/01/07 20:19
158
>「実践の話」とは具体的にどういうことか、的を絞ってください。
これはですね、瞬間を生きると言うのでしょうか?
「深く生きる」事ですね。さすれば観えてきますよ。
座る事だけが修行ではありませんよ。寺で座る事も大事でしょうが、更に大事なのは「継続」これしかありません。
普段の生活そのものを修行と捉えることが肝要ですよ。
歓びの時も、悲しき時も、雨が降るときも、風が吹く時も、心は平常心。
命の瞬間を内観するのです。さすれば煩悩に惑わされる自身を観るのです。
煩悩とは何ぞや?を考えるより、考えずとも既に良いのです。これを継続するのが大事なのです。
お寺に数時間座っても、家に帰ってきてからの方が大事かと思いますよ。
とにかく。安易に「お寺が良し」。と考えるのは「逝って良し」。かと思います。
160変人:02/01/07 20:38
158
>前部の意味は不明です。何を意味するのか「分かり易く」説明して頂けませんか。
盤珪さんの、乞食の話が分かりませんか?
つまりですね、「生きる」とは基本的に「喰う」ことですよ。
喰わなければ生きられませんからね。
一切を排除して、基本的な事から考えたら如何でしょうか?
つまり「本質」が肝要なんだとおもいますね。
その部分を抜きにして論じても、得るものは無いかと思いますよ。
貴方が「分かる分からない」を固執するところにも、問題があると思いますね。
そういった二元的捉え方も、段々無くなってくるかと思いますよ。
それを「無明」というのですよ。自分では気が付かないものですね。
16171:02/01/07 22:04
159,160
確かに私の書き込んだ事は理屈が先走りしていたようです。つい、論じる事に夢中に
なり過ぎたと思う。貴方にはお礼を申し上げておきます。あと、遣り取り中に失礼が
あった事もお詫びしておきます。自信過剰が不味かったようです。天狗の鼻を折られ
た気分です。正論に自我を付けてレスしていた自分が甚だ不届きな行為をしていると
気付くことができました。分別のない心に対して恥じ入っている限りです。自分の道
を「生きる」ことにこれを機会に忠実になってみようと思っています。
162変人:02/01/07 22:31
>161
今の、この瞬間こそ、いわゆる一期一会ですよ。
わたしにとっても大変勉強になりました、これも修行と捉えております。
私もレスの進み具合で、自分が観えてきました。
2chでは、随分勉強させてもらってますよ。
貴方にも、結構手ごたえはありましたね(笑
感謝してますよ(^^)
163変人:02/01/08 03:50
盤珪さんが乞食になったことで、後世の人達に「生きる」ことの意味を問いかけている訳ですよ。
禅師の生き方そのものが「教え」になっているのかとおもいますね。
ですから、先達はいわば「禅」における財産ですよ。
良寛も「大愚?」というのを残してくれましたね。その功績は計り知れませんよ。
良寛の生き方に、どれほどの人達が救われたか?想像すれば明白ですよ。
「そういう生き方は出来なくとも、そういう生き方もある」。
その「見本」を示してくれたんですね。

「公案禅」も貴重ですよね。それをしりぞけた盤珪も貴重ですよ。
無駄な禅師は誰もおりませんよ。
たとえトンデモ禅師がいたとしても、それによって「目覚め」を起こす場合もあるのです。
そういった禅師達を全て受け入れるのですよ。そこから学ぶのです。
私のスタンスとしては、まあこういったところでしょうか・・・。
164:02/01/08 04:02
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165名無しさん@1周年:02/01/08 21:48
>>163
>たとえトンデモ禅師がいたとしても、それによって「目覚め」を起こす場合もあるのです。
>そういった禅師達を全て受け入れるのですよ。そこから学ぶのです。

ああ、なるほどね。それでこのスレにカキコしているわけか。
おそらく、ROMしてる人みんな納得。(苦笑)
166変人:02/01/09 09:06



「禅」の公案に「婆子焼庵」というのがあって、
修行僧に庵を建ててやり、良く面倒をみていたんですね。数年後に孫娘を誘惑させるのです。
修行僧は見事にこれを払いのけてしまうのです。怒った老婆は僧を追い出し、庵も焼き払ってしまうのです。
 
白隠は、この話を弟子にするのですね。
弟子は「私なら直ぐ抱いてしまいますよ」。と言うと・・・。
白隠は即刻「破門」してしまうのですね。まあ、当然というべきか?否か?
まあ、私でしたら「老婆の志を先ず考える」。というのが「一つの捉え方」と思っています。
ようは、そういった逸話の中に白隠の人間性をみるのです。
白隠が「人間性が悪い」という事ではありません。「禅」を考えるのに良い材料になる話です。
16738改:02/01/11 10:01
>>139
>71さん
丁度お二人のお話が盛り上がっていたので、忙しさにかまけてレス滞りました。
まだいらっしゃったら、すいません。
さて、何をもって「正」とするかの私の質問に対し、
>「無常、苦、無我」の三法印を持って「正」とするのでは
>ないですか?この見解に基ずいて物事を見るのが「正見」の眼差しです。
とのお答えを頂きました。
確かに理論的にはそうなんですが、ただ「正見」それ自体が無常・無我に基づいた
見解だとしたら、「八正道」は無常・無我を具現化する、つまり自我を滅却して
無我・無常に成り、それによって涅槃に入る為の方法ですから、はじめ八正道を
実践しようとする修行者は、「正見」を得られていないと言えると思います。

話の段階がまちまちで、なかなか噛み合わない部分もあろうと思いますが、
もう少し私の自論にお付き合いいただければと思います。

私が「何を持て正とするか?」とお尋ねしたのは、禅的に言えば「正」とは
「戒律に従った正しさ」でもないし、「仏教学体系的正しさ」でもない。
ましてや「道徳的正しさ」や「社会的正しさ」では決してない訳です。
私が思うに、釈尊が言われたこの「正」は、「生命そのものの持つ本来的正」
だと思うのです。ですから「正・誤」や「正・邪」と言うような「対立的正」
ではありません。二元的な対立を超えた「絶対的正」であります。
禅ではこの「正」を「無」と言ったり、「有」といったり、「本来の面目」と
言ったり、「一無位の真人」と言ったりします。しかし中身は同じものです。
或いは、この「正・邪」、「有・無」など、二元的対立に落ちない、
全体的なモノの捉え方を「中観」と言ったりもします。
16838改:02/01/11 10:01
ここで私が言いたい事をもう一度整理しますが、「八正道」の「正」は、決して
他からやって来る「正」ではない、求めて得られるモノではないという事です。
水は何か修行して、高い所から低い所へ流れるようになる訳ではないのです。
花は冬の間修行して、春になると花を咲かせる訳ではないのです。
水は自ずと低きに流れ、花は自ずと時節を知って開くのです。
人間も同様で、顛倒したモノの見方、煩悩邪見を離れさえすれば、本来私達の
生命が持つ「正」と言うものが自然に発露してくると言う事です。
大人になれば髭が生え、年を取れば白髪になる、腹が減れば飯を食い、眠くなれば
横になる。
或いは「東ニ病氣ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」
こういう優しさは訓練によって他から得られるモノではない、自分自身の中に
生まれながらお互い持っているモノなのです。

私達にとって、動物の子でも、人間の子でも赤ちゃんは本来可愛いものです。
だから育てる事が出来る。これは生命の智慧なのです。だけど最近、親の都合で
幼児虐待が起こる。「子供が泣いてうるさくてTVが見れないから殴った」
これは自分勝手な顛倒で、私達の生命が本来持っている「正」を見失っている
状態です。こういう人に「子供を可愛いと思いなさい」と説いて、或いは
「愛情を持って子供を育てなければ厳罰に処す」と言って、果たしてこの人に
子供への愛情が養われるでしょうか?子供を可愛いと思うでしょうか?
この人自身が、自分の中の親心「我が子をいとおしく思う、自分が死んでも子供
を助けたいと思う」そういう親心に触れないことにはどうしようもないのです。

求めて得られるものでない自分の心、仏心、仏性、自ずから持っておるところの
絶対的「正」に気づくには、教条的に決められたカリキュラムさえこなせば、
オートマティックに段階的に心が開発されるのではない、という事です。
それが禅宗の見解なのです。
16938改:02/01/11 10:56
勿論だからと言って修行が不要だと言っている訳ではありません。
むしろ私は修行は絶対必要だと思います。何もしなくていい訳じゃない。
変人さんの好きな盤珪さんが「不生で調う」と言ったのも、
「何もしない、全て任せきっていく」というある意味努力が必要です。
盤珪は、弟子が坐禅するのを叱っています。
「そんな迷っているようではダメだ!」と言う事でしょう。
「不生に徹しろ」と言う事でしょう。
「阿弥陀仏にお任せする」と言うのと同じですね。
臨済禅師は「自分に信かせない」と言いました。皆同じです。
しかし、それは当時の修行者を始め、多くの人々が「出家して修行しなければ
安心は得られない。どうせ俺なんて」と思っていたから「不生でいいのだ」
と説いたのであって、現代生きておられたら、私なぞ「お前少しは修行しろ!」
と言われていたと思います。

ただここで大切なのが、「修行は真似である」と言う事です。
霊雲の則竹老大師は良く「私達はお釈迦様の真似をして坐禅をしているのだ」
と仰います。ですから、師、正しい師に就くという事が大切です。
謝った師に就くと、間違ったことを真似てしまうからです。
故に、禅宗は仏法滴々の正統を重んじるのです。
そうでなければ、なぜ盤珪さんは印可を求めてあちこちを訪ねたのでしょう?
勿論、機縁で肯がう、肯がわないという事があります。
また印可状が政治的にどうこうという事でもありません。
自分ひとりで「これでいいのだ」となってしまったのでは、いけないのです。
それが僧伽と言う事です。
勿論、究極的には自分の問題です。お釈迦様にも、達磨さんにも窺い知れない、
自分自身をハッキリと知らなければいけないのです。
(私はハッキリしていませんが…┗(-_-;)┛)
だけど、独覚、声聞ではいけない。
17038改:02/01/11 10:57
禅的境地は、禅宗でなくても得られます。陶芸家でも、大工でも、スポーツ選手、
その他あらゆる人々でも、ある程度の達人になれば絶対的無を体験する事は良く
あることなのだと思います。

ただし、その境地に安住してしまっては何にもならない訳です。
坐禅して、「無ーッ」となって気持ち良い、清々しい、「あー良かった」
それで終わっては穴倉禅です。
臨済禅では、その自己の生命に触れたなら、その生命をどう使っていくか、
何の為に飯食ってるのか、それが一番大切な事なのです。
世の為、人の為に、この生命を使っていく、「馬の如く、驢の如し」と僅かでも
荷物を背負って運んでいく。「泥牛」となって働いていく。
それが菩薩であり、大乗だ、上座部だと言うことなく、釈尊は「いかに生くべきか」
を説いたのであって、決して「坐禅して安楽に永住する」事を説いたのではないのです。
そして、「いかに生きるべきか」それを身を以って教えてくれるのが正師です。
その出会いは一見得難いようですが、私は様々な老大師方の生き方を拝見していて、
まだまだ確かにあると思います。
ですから、皆さんが我々禅坊主や禅教団と言うものに、批判的なのは自分自身を
省みても致し方ないことだとは思います。
しかしながら、だからと言って既成教団が全く駄目かと言えば、決してそうではないです。
むしろ一部の非伝統的禅の師家が、正師と言えるのかどうなのか、私は批判的です。
どうせ学ぶなら、どこでやっても同じ努力を払うならば、しっかりした老舗を選ぶほうが
良いのでは?と言うのが私の個人的意見です。
171名無しさん@1周年:02/01/11 11:11
禅語り する人多いね
172うっとうしかったら無視して:02/01/11 12:06
中国での五つの禅宗の顛末はどうなっているのでしょうか?
黄盤禅(漢字覚えていない)は日本に宗主が来て帰化したけど。
他の4禅宗(臨済宗も含め)は文化大革命なんかでどうなったのでしょう?
173172:02/01/11 12:08
質問箱があることを忘れていました。
ごめんなさい。
174変人:02/01/11 13:19
>>1338改さん
>以前「少林寺と北禅」スレで、神秀と六祖の偈頌は、一つ事の両面だと申しましたが、

これはたぶん、神秀の「心は明鏡台の如し」に対する、六祖慧能の「心は明鏡台に非ず、本来無一物」。
ですね。
神秀の「煩悩は時々払拭せよ」。という意味でしょうけど、六祖とはかなり違う気がしますよね。
六祖は「煩悩が降りかかるはずが無い」。と言っておるのですからね。
それでも「一つ事の両面」ですか?
そこのところが興味があります。ご教示下さい。
175変人:02/01/11 13:26
(つづき)
これは私見なのですが・・・。
神秀は、六祖の境地には至っていなかったのではないでしょうか?
かなり認識にズレがあるような気がしますよね。
176名無しさん@1周年:02/01/11 13:26
17738改:02/01/11 19:40
>>172
黄檗宗は五家七宗ではありません。
もとは臨済宗ですが鎌倉時代に我が国に伝わった、宋風臨済禅ではなく、
江戸時代に隠元禅師によって伝えられた明風臨済禅で、念仏を用いる所が特徴です。
黄檗宗と言う呼称を用いたのは明治9年が初めてで、鎌倉期に伝わった臨済宗と
差別化するために、黄檗山万福寺の山号をとって命名したものです。

唐時代に栄えた五家は、六祖から南岳、馬祖、百丈と伝わり、
そこからイ山、仰山と伝わったのが、イ仰宗。
また百丈から黄檗、臨済と伝わったのが臨済宗。
また六祖から青原、石頭と伝わり、徳山、雪峰、雲門と伝わったのが雲門宗。
雪峰、玄沙、法眼と伝わったのが、法眼宗。
また石頭から薬山、洞山、曹山と伝わったのが、曹洞宗です。
臨済宗は後に、楊岐派と黄龍派に分かれて栄え、この二派を加えて「五家七宗」と言います。
臨済宗楊岐派以外は、南宋にはすべて滅んでいます。
中国の臨済宗は清時代まで盛んに続きましたが、清時代に絶えます。
ただその流れは我が国とベトナムに伝わり現在でも続いています。

中国禅宗寺院は、確かに文化大革命で色々な被害に会っていますが、
現在もあります。
最近は日本の教団の援助や交流もあって、次第に復興されてきています。
私はもう10年以上前ですが、少林寺や臨済塔、趙州塔、また黄梅の五祖寺
にも拝塔したことがありますが、その時は仏教学院というのが南京など何ヶ所かに
あって、若い修行者達と出会った事が印象的でした。
178かっぺ:02/01/11 20:48
突然ですが…
このスレ、読んでいて、疲れました。
素人にも、わかりやすい話し方で、説明してもらえないでしょうか?>38改さんへ
基本的には、自分の宗派にこだわらないところで、臨在禅を語ってもらいたいのです。

例えば、「無我」とは何か…
ジャイナ教祖は、釈迦に向って「無我と言うが、ちゃんと、自己はあるではないか」と
言ったといいます。
あ、一つだけ私見を言わせて貰いますと、
仏教関係者の「悟り」は、自己中なもの…というのが、私の私見なのです。
禅による体験…トランスを伴う自己喪失感…その神秘的な体験を考察して、もって、
「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。
(仏=覚者という意味で)

ちなみに、私は、いかなる宗派にも属しておりません。
17938改:02/01/11 21:08
変人さん、お久しぶりです。

>それでも「一つ事の両面」ですか?

>これは私見なのですが・・・。
>神秀は、六祖の境地には至っていなかったのではないでしょうか?

良く禅の解説書などには、そう書かれていますよね。
まぁ、史実的、或いは文献学的な解釈は『六祖壇経』中川孝、タチバナ
教養文庫の解説に譲ります。興味があれば『壇経』読むついでにでもご覧下さい。

ここでは禅的にお答えしますが…。
確かに禅の絶対的平等の立場、無字一枚の世界から見れば
「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処有塵挨」となるのでしょう。
それは、先に「八正道の正は求めて得るものでは無い、本来備わっている
生命が自ずから正邪を超えた絶対的正である」と申し上げたのと同様の立場、
仏、法、僧で言えば、仏の世界、仏の体は無一物です。

しかし法の世界、差別の相に立てば、我々は現実に肉体をもって生きている訳で、
更に、この生命をどう主体的に使って生きていくかと言う僧の世界、用の立場に立てば、
「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使染塵埃」
という姿勢も重要ではないかと思います。
私は、言うなればこれは神秀の生き方であり、神秀の「請願文」だと思います。

それを『壇経』に書いてあるからといって、「慧能が神秀より優れている」
と鵜呑みにして、神秀を馬鹿にするのは非常に忌々しき事だと思うのです。
まぁ実際、慧能の方が、神秀よりも力量があったのかもしれませんが、
南宗程ではないにせよ、その後北宗も栄えましたから、
神秀も立派な五祖弘忍の法嗣なんです。

白隠、盤珪に劣らない江戸時代の禅僧、沢庵禅師も『東海夜話』の中で、
「神秀は慧能に遠く及ばぬ、五祖は慧能に衣鉢を与えたのだと、得意げに語る
禅僧が多いが、壮語するその殆どが神秀ほどの智・行を持っていない」と
嘆いています。

勿論、究極的には「本来無一物」なのでしょうが、私は現代に於いて、
そしてここ2chに於いては、「これでいいのだ」と本覚倒れになるよりも、
「自分の生命は仏様からの預かり物」として大切に生きていく神秀の姿勢から
学ぶべきものが沢山あるのではないか?と思うのです。
18038改:02/01/11 21:25
>>178
かっぺさん>
>このスレ、読んでいて、疲れました。
すいません(^-^;でも読んでくれて有り難うございます。
>素人にも、わかりやすい話し方で、説明してもらえないでしょうか?
一応、心掛けてはいますが、皆さん禅に対する理解に程度差がありますから、
どうしても専門用語を使いがちです。
最初の頃のお話は、それほどでもないので、今度暇な時ご覧頂ければ幸甚です。
>基本的には、自分の宗派にこだわらないところで、臨在禅を語ってもらいたいのです。
う〜ん、私は自分の宗派にこだわって他の宗派や宗教を排斥するつもりはないです。
ただ私は臨済禅坊主なので自らの信仰に基づいてしゃべらない訳にはいけないのですよ。
だって私は私ですから、自分を辞める事は出来ないのです。

>例えば、「無我」とは何か…
理屈で言えば一番難しい問題なのかもしれませんが、簡単に申し上げれば、
「例えばカッパさんが死んでその遺体を放置して置けば、途中腐敗したり、虫に食われたり
バクテリアに分解されながら、最後には土に返る」という事が「無我」です。
そしてその養分で木が茂ったり、草が生えたりするのが「無我」です。
『葉っぱのフレディ』を読むと多少「無我」が判ると思いますよ。

>仏教関係者の「悟り」は、自己中なもの…というのが、私の私見なのです。
>禅による体験…トランスを伴う自己喪失感…その神秘的な体験を考察して、もって、
>「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。
疑うのなら、徹底疑った方が良いですよ。
181名無しさん@1周年:02/01/11 21:43
>>177
>黄檗宗と言う呼称を用いたのは明治9年が初めてで、
>鎌倉期に伝わった臨済宗と差別化するために、
>黄檗山万福寺の山号をとって命名したものです。

じゃあ、どう呼んでたの?
臨済宗?
182変人:02/01/11 22:31
>>179
>「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使染塵埃」

神秀の「時時勤払拭」の部分は「受け止め方?」という事なんでしょうかね。
広義においては、まあ「修行は怠ってはならぬ」というふうにも読めますが・・。
差別の相となれば、その様にも解釈するのが妥当なんでしょうね。

実は、盤珪も「心如明鏡台」と言っておりますが、それも「不生でととのふ」ですから。
禅師の捉えかたというのも色々ありまして、実に興味深いですね。
それはともかく、レスどうも有難う御座いました。
どうも胸につかえていましたものですから、大変参考になりました。 
18338改:02/01/11 22:41
>>181
>じゃあ、どう呼んでたの?
>臨済宗?

はい、そのようです。実際隠元の墨蹟の關冒印もまた臨済正宗です。

>>182
>神秀の「時時勤払拭」の部分は「受け止め方?」という事なんでしょうかね。
まぁ、これは私の読み方なので、神秀と慧能が全く同じレベルの境涯として
「一つ事の両面」とするのは、全く私のいたらない管見でありましょう。
ただ、私の申し上げたかった事はお汲み取りいただいたようで有り難うございます。
184変人:02/01/12 12:15
>>178
>ジャイナ教祖は、釈迦に向って「無我と言うが、ちゃんと、自己はあるではないか」
>「衆生本来仏」などといった、先師方の愚言に私は懐疑的なのです。

ここのところは面白いですね。
私の前レスで「分かるもの分からないもの}を論争?しましたが、
やはり、二元的に捉えることの難しさ、というのがあるように思うのです。
「無我」「本来仏」は、教科書どうりにはなかなか掴めないものはありますよね。
「空」が底辺にありますと、なんとなく納得できる部分というのが有るのではないでしょうか?
不立文字の範疇かと思うのですよね。そこが「禅」特有なんでしょうか。

これは、私見ですので反論がありましたら承ります。
185かっぺ:02/01/12 18:42
38改 さん、それに変人さんの誠意が身にしみます。
私自身の「大疑問」…なんとか、クリアーしたいのです。
厄介な奴ですが…お付き合い下さい。

まず、「無我」に対する把握。
ゴータマは、霊魂否定の意味で、「無我」と言ったのでは無かったのですか?
ジャイナ教祖には、死人の霊が見えていた。
それで、ブツダに対して、「死んでも自我があるではないか」…と、言った筈。
これは、話の内容が噛み合っていなかったと言うことでしょうか?

変人さん、すみません。
前にスレがあるそうですが、私の言葉の土俵で話してくださらないと
私には、ちと、理解できないところがありますので、
ここで、改めてお尋ねします。

問題は一元論と現実世界の解釈とでも言いましょうか?
俗に集合的無意識を垣間見たとする多くの行者、覚者によって、
「宇宙即我」との認識が生じているものと思われます。
そして、その認識の延長上に「人は本来、神であり、仏であった」という主張が出てきますね?
ここまでの私流の言い方におかしいところはありますか?
18638改:02/01/12 20:39
こんばんは、かっぺさん。
>まず、「無我」に対する把握。
>ゴータマは、霊魂否定の意味で、「無我」と言ったのでは無かったのですか?
>ジャイナ教祖には、死人の霊が見えていた。
>それで、ブツダに対して、「死んでも自我があるではないか」…と、言った筈。

不勉強で阿含経典は読んでいませんし、ジャイナ教の事はしりませんが、
私の認識では、霊魂否定と言うよりも、厳密には我(アートマン)の否定だと
思います。
と言うのはアートマン=霊魂なのかどうなのかもハッキリしませんから…。

我(アートマン)とは、言い換えれば「自分」という常住不変の存在の事です。
判りやすく言えば、それまでバラモン教などでは宇宙には不変の根本的生命、
梵(ブラフマン)があり、その梵(ブラフマン)が転じて、我(アートマン)
になっていると考えられていました。

つまり、私(我)と言う存在は、生まれ変わり死に変わりしても変わらない存在
だと考えられていた訳です。これはインドに侵攻し、支配したアーリヤ人にとっては
とても都合よい考え方でした。アーリヤ人はインド原住民をバイシャ、シュートラなど
低いカーストにすえ、自分たちはバラモン、クシャトリアなどの高いカーストとして
国を治めていましたが、生まれながらに低いカーストであるのは前世の因縁である、
という理論が成り立つからです。

一方、仏陀は無我を説き、四生平等を説きました。本来、変わらない私(我)
というような存在はなく、全ての存在は常に変化している。
であるから自分の前世の行いで(この場合両親や祖先の影響がないと意味ではありません)
今生の身分や病気であるとかないとか、と言うような事は一切無いのだ。
全ては縁起に拠る、としたのです。これが、無我論の根本的思想だと思います。
18738改:02/01/12 20:40
一方で仏陀は、死後の世界や霊魂の存在については、「無記」と言う立場を取っています。
「無記」とは、「有る」とも説かない、「無い」とも説かない、「有ってかつ無い」とも説かない、
「有るのでもなくかつ無いのでもない」とも説かない、という事です。
有名な「毒矢の喩え」がそれです。 つまり毒矢が刺さった怪我人が、この矢を誰が放ったものか、
誰が作ったものかを詮索するよりも、矢を抜いて毒を吸い出すほうが先決なのと同様、
我々は死後の世界があるのか?霊魂が存在するか?と言うような問題を考えるよりも、
この人生の苦しみをどう乗りこえて、いかに充実して生きるかの方が重要であるという教えです。
私も、そう思います。
不思議な事はあるかもしれないですが、文字通り、思議せずに「あぁ、そうか」と受け止めれば
良いのではないでしょうか。

なお私はレスがめちゃくちゃ遅くなる時がありますが、ご了承くださいね。
暇があるときはなるべく早くレスしますので。
188変人:02/01/12 21:10
>>185
>俗に集合的無意識を垣間見たとする多くの行者、覚者によって、
>「宇宙即我」との認識が生じているものと思われます。

直覚?ですと、まさに「宇宙即我}そのものだと思うのですよ。
しかし、この「宇宙即我」というのは、いわゆる「梵天一如」バラモン教そのものなんですね。
だから、本来ですと仏教的ではないのですが、直覚?ですとこれかと思います。
一元論か?不二元論か?実際、理論的解釈など出来ないかと思いますよね。
あくまで、理論は説明ですからね。仏教的に説明するのでしたら不二元論ということになるんでしょう。
一元論ですと形而上的「神」の概念が生じるので、仏教にはそぐわないのでしょうね。

>その認識の延長上に「人は本来、神であり、仏であった」という主張が出てきますね?
すなわち、天地草木全て「万編する仏性」というのかと思うのです。
いわゆる「空」ですよ。
ですから「空」を底辺に添えた「無我」「本来仏」。これでしたら捉えやすいかと思うのです。
貴方の考えで宜しいかと思いますよね。
霊魂否定も、霊魂肯定も、空でしたらさほど問題にもならないんじゃないでしょうか?
ここのところが、「仏教哲学」の素晴らしいところかと思うのですよ。
また、なにか御座いましたらレス下さい。
189かっぺ:02/01/12 21:49
こんばんは!
38改様。私の次元まで下りてくださったお話、分かりやすく、感謝!です。
しかしながら、浅学非才な私目も、お書きくださった教科書の内容のことは、存じ上げております。
私は、これらの教科書の内容に????と思っている次第なのです。

例えば、無我=アートマン=自我(思考、習慣の傾向)と言うことであれば、一見、
そこには、実体というものが無いことは事実?なのでしょう。
問題は、捉え方なのですね。
私にわからないのは、肉体亡き後も、霊的な実体(仮に霊魂としておきます。)は、
実在しています。意識があり、意志があり、意志の交流も可能な「生体」です。
体験上では、彼ら?は、生前は人であったことに間違いはないであろうと思っています。
彼ら(非肉体人間)にも、自我が備わっており、肉体とともに、消滅してはいません。
多分、ジャイナ教祖の指摘は、この点にあったと推測します。
自我と霊魂…この関係、組織構成がいまいち、よくわからないのです。
現代物理学でいえば、全ては、光子の構成。(電磁波の作用=物質)
今のところ、私が確認しているのは、霊体がなんらかの思考、感情を励起したときにのみ、
彼らは、光を発します。
これは、電気理論に酷似していますよね?(電気と光の関係)
その、同じ光子が、霊体を構成し、しかも、意志を発する。
このとき、思考=自我、と、霊体、もしくは、霊魂とは別物なのか?
同一のものから成るのであれば、無我説は、成り立たない。

話を素粒子?のレベルから、分子のレベルにしましょう。
光を素粒子のレベルと見て、その集合体とも見える霊魂を分子と見るわけです。

我々が視覚で認知できる霊魂は、確実に、個別の「存在」です。
決して、宇宙大の名も無く、実体も、無く、把握することも、想像することも出来ないような
「何か」ではありません。
仮に、「それ」が、その宇宙大の何かと関係があるとしても、別に、霊線で繋がっている
とも、見えない。
もしも、宇宙大の「何か」を本体とした、分霊であるとしても、
分かれてしまったそのもの(霊魂)は、そのもの独自の自我を有しています。
こういうものを観察するとき、「あなたは私であり、私はあなたである」などと、
果たして言えるでしょうか?
190かっぺ:02/01/12 22:18
書き込んでいる間に、変人さんのレス…有難うございます。
危うく、見落とすところでした。
話が「空論」に来たようですが、教科書通りに言えば、「空」には、
全てを包含したもの…との解釈があるようで(如来蔵思想)、ここもまた、
私目が???とするところなのです。
果たして、先師の直覚に間違いは無かったのだろうか?(笑)
実は、先の「無我説」といい、この、「空論」といい、これをどう解釈するかで、
これから先に展開される、思想体系は、180度、違ったものに成ってしまいます。
多くの、既存の諸経典としてまとめられた、思想は、その方向として、
「あなたは実は既に、仏である」と、結ぶことが出来ます。
しかし、もし、仏教の三宝印をして、違う受け止め方が、あるとしたら…
話は、一変するのではないでしょうか?
大それたことを申しました。
あくまでも、…だとしたら、のことであって、自信も確信もないのです。
と、申しますのも、卑小、私目は、
「空」=カオス=「無記なるもの」のような気がしているのです。
この場合、磨かれない魂は、神にも仏にもなれません。
その身、そのままで既に、神、もしくは、仏である事の「否定」となります。

変人さん、教科書によらず、あなたご自身の偽らぬ体験から、
このことについての、ご説明をお願いいたします。
191変人:02/01/12 23:03
かっぺさん
大体、人間は「不死不滅」を考えますね。
「空」ですと、いわゆる「宇宙即我?」で「不生不滅」的世界観が築き上げられます。
まあ、無始無終ということでしょうか?。ここに大慈大悲(至福感)が同時にありますから
相当インパクトのあるものと思います。
で、ここにおいて霊魂という概念全く変わるのではないでしょうか?

>この場合、磨かれない魂は、神にも仏にもなれません。
ここのところが大事なんですけど、全く二元的概念では捉えないのかと思いますよ。
その境地を上手く説明しようとするならば・・・
盤珪の「不滅とてむだなこと」。これに尽きるのかと思うのです。
つまり、何と言いましょうか?「無分別の分別」のようなプロセスが大事なのかと思います。
「横眼直鼻」。これもプロセスですよね。
盤珪は、「悟りを拓くために修行をするのでは無い」。この事かと思いますね。
二元的に考えるとガッカリするかもしれませんが、これは全く違うと思いますね。
19238改:02/01/13 06:59
>>189 おはようございます。
なるほど、そういうことですか。以前ネットで出会った友人達と対話した事がありますが、
その方々は、やはり死者の姿がある種の波動となって見えると仰っていました。
かっぺさんは、個別の「存在」の霊魂を感知できるのに、仏教では無我を説くが、
それは間違っているのではないか?という事ですね。

私は、このご質問に対しても、もう何度も引用していますティク・ナット・ハン師の言葉を
以ってお答えさせていただきます。
「無常と無我は、その上に行動の原理を打ち立てるような真理としてあるというの
 ではありません〜中略〜つまり無常と無我は、私たちを深い智慧へと導く重要な
 指導原理として学ばれなくてはならないのです」『禅への鍵』春秋社21P〜22P

ご承知の通り、仏教は死後の世界や霊魂の有無を解明するものではありません。
それぞれが現在の人生を充実させて生きる方法を説くものです。
無我も同様で、無我だから○○しなければ成らないのではないのです。
私達の人生の悩みは、往々にして「私はなぜこんな境遇に生まれたのだろう」とか、
「なぜこんな状態になってしまったのだろうか」という、病気にせよ、経済にせよ、
人間関係にせよ、本来自分以外のもの、背が高いとか、スタイルが良いとか、
自分の付加価値、或いは自分の存在価値についての悩みが殆どでしょう。
そのような中、無我、無常に成ることによってこそ、自分自身の根源的価値に目覚め、
人生の意義や目的がクリアーになり、より充実した生涯を送れるようになるのです。

かっぺさんに限らず、それぞれの問題は、それぞれご自身で解決するより仕方の無い問題で
あり、誰かに言われたから、本を読んだからと言って解決するものではありませんが、
ひととこ私の立場から言わせて貰えれば、「霊魂の存在を感知する事が出来たとして、
それが貴方の人生を充実させるのかどうか?」という事です。
むしろ悩みとなるようでしたら「あぁ、そうか」とあまりこだわらない方が良いように思いますが。
193奇人:02/01/13 21:55
今晩は!皆様!
先ほど、長々と書き連ねましたところ、リロードせよとの事…全部消えてしまいました。
これは、やめとけ!ということなのだと勝手に解釈し、(爆)ご挨拶程度にとどめます。

>、「霊魂の存在を感知する事が出来たとして、
それが貴方の人生を充実させるのかどうか?」という事です。

あのですね、これ、私の主張してやまないところなのですよ。
問題は、無我説という、仏教理念の根幹に関わること…それに踏み込む為の材料。

私にも、禅の体験は実はあるのです。
先師方が、書物で記されている全てのことを私は、体験しています。
トランスも…ずいぶん昔の話ですが…いちおう、ご参考までに…

私の質問は、ひとまず、中断します。
他の方々の為に…ありがとうございました。
194悟って道半ば:02/01/13 23:21
見性しました。よって皆妄想分別。
195変人
悟りでもなければ、見性でもないし