1 :
名前はいらない:
北川透の「詩的レトリック入門」の読書会スレッドです。
何でもアリの2chルールで行きましょう。
2 :
ボルカ:02/12/29 21:56 ID:yVYvhYah
この本は、2年前に図書館で借りて読んだんだけど、もう良くは
覚えていません。でも、面白かったような気がします。
とりあえず、この本を既に読まれた方、いますか?
いたらレビューしたり、感想述べたりしてください。
3 :
ボルカ:02/12/29 21:59 ID:yVYvhYah
以前、「普通の文章を改行すると詩になるか」という実験的な
スレッドがありました。
北川さんは、そういう、「どこから詩になるのか」というところで
話をしていたと思います。
改行さえすれば、電話帳だろうが、死亡診断書だろうが、マニュアル
だろうが、詩になってしまうというのは本当か?
詩が発生するために何故改行が必要だったのか?
そんな感じ。
4 :
ボルカ:02/12/29 22:01 ID:yVYvhYah
一般的に考えるレトリック入門とは、違いますが、面白い本だった
と思います。
僕はついさっき、購入申し込みを済ませんました。
再読し終わるのは1月も終わりになるでしょう。
一緒に読む方いません?
読んではないですが
>>3 その意識的に?行われた「改行」によって
単なる言葉の羅列が
「意味」を持ち始めますねぇ。
1: =sympathy=【運命の轍】 (115) 2: ++詩的レトリック入門+
+ (5) 3:
上から読んでも下から読んでも
(3) 4: Open your eyes 5 (218) 5: □■下から読んでも
□ 休憩【運命の 雑談
6: ENJOY 雑談
専用 その15□■□ (368) 6: ENJOY RHYMING PROJECT 02-5 in 【運命
詩
板 (267) 7: 中学生が トリック入門 を かくとこ。
詩 を かくとこ。
(598) 8: 今を歩き出せ! (18
7) 9: 【詩】
誰かに伝えたい詩を書く
【詩】其2 (333) 10: この其2 (333) 10: この この この 【詩】【運命の
7 :
ボルカ:02/12/29 22:22 ID:yVYvhYah
そう。
改行さえ適切なら、テーマが「うんこ」だろうが、
タンパク質の3次元構造だろうが、詩になるはずだ、
と僕は感じる。
げんに、せむし男さんはこの界隈で近年稀に見るポエ
ジーを湛えた登場振りだね(笑。
それは不思議なことなんじゃないか、と問うところから
北川は出発するし、藤井貞和(自由詩学)はそれは当然
だと考えるところから出発するんじゃないか、という気が
しています。
読んでいない人はもちろん、「読まないと決めている人」も
歓迎します。
好きに遊んでください。
そのかわり厳密な議論とかは期待しないでね。
>>7 「詩になるはずだ」というのはまだボクは分からないですが
組替えてみたり、引っこ抜いてみたり、加えてみたり、言葉の解体、
言ってみれば今まで言葉が持っていた秩序の解体、再編、統合、
色々と遊んでみるにはこれ面白いですね。<`ー´ >
現実の世界でも革命が起きたり、企業が倒れたり統合したりするわけですから
世界観が移行するに同じく、
ましてやその心で世界の動きを読み感じとる詩人であればそれよりも早く
そういった既成の概念や秩序を崩してみたり、お手玉してみたり、持ち上げてみたり
バラバラにしてくつつけてみたりの動きはごく自然なものでありましょうね。
9 :
激辛正当派 ◆PmUYNHN29Q :02/12/30 00:07 ID:rcDaQ4QD
読んだ気もするが、あまり覚えてない。
いい機会なんで、僕も再読してみます。
じゃ、読み終える1月末まで、
おのおのの浅はかな詩的レトリックについて、
だらだらやりましょうか。
改行のない散文詩もあるけど、実は見えない改行があると感じる。
散文と散文詩の違いはそこだと思うんだけど、
誰かそのへん言葉にできる人いませんか?
ねじめ正一とか、ダァーッ!と行くよね。
改行感じさせないんちゃう? アレは。
ダァーッ!と、繋がってる。
>>10 あ、ほんとだ。。。
そうか、じゃ僕の中ではねじめは詩じゃないってことにしとくか。。
いや、そんなことはないか。。。
ちゃんと詩として面白く読んでるからな。。。
んじゃ、詩と改行は関係ないってことか。。。
いや、もうちょっとよく考えてみよう。。。
ねじめの詩には改行があるかないか。。。
あらためてねじめ正一読んでみた。
リズムよく読んでいると、
単語ひとつひとつの意味の手触りというか、
言葉のリアリティがなくなっていって、なんか変な感じ。
洋楽きいてて、変な日本語をきいてしまう空耳アワー的な?
わかるようなわからないような禅問答的な?
改行あんまり関係ないね。。。
けっきょく「言葉ってすげえ」があれば、なんでも詩なんじゃないか。
結論でもなんでもないな。。。
>>12 意外とそんな「言葉ってすげえ」あたりに同感ス<`ー´ >
14 :
名前はいらない:02/12/30 05:56 ID:H3OHFmOd
ちょっと質問、
私はネットをやり始めてから詩を書くようになったので、PC以外で詩を書いたことはありません。
PCに触る以前からノートに書いている人も、やっぱり改行しながら書くのですか?
紙切れ 名刺の余白に書いてあげる なんていうときにはその紙の大きさで強制改行なので崖ップチを感じながら なんか気分よくはつらつら書けない 閉じ込められをされてるような 横15pは欲しい
2週間ちょっと前、出張の折りに某書店で買い求めたのがこの本でした。
まだ、最初の章くらいしか読んでいませんが、読み終わったら参加させていただきます。
>>12 「言葉ってすげえ」は実感だけど、
それを結論にしちゃうと身も蓋もないので、あまり言いたくない。
そんな感じしない?
>>14 改行してると紙が足りなくなったりするので、
冬の天気雨みたいな/古い時代は過ぎ/はやく死ぬことばかり考えていたあの日の少女は/東京の 扉だらけの街で快活な女性になった//
のように、つめて書いてます。使ってる紙は「方眼紙」です。
18 :
ボルカ:02/12/30 23:43 ID:y2WP5OwP
おおっ。多数の書き込みありがとうございます。
僕もなんせ手元に無いんで、当分、てきとーに雑談的観点から参加しますね。
読み終わった方、居られたら、部分的にでもレビューして下さい。
>>激辛さん。
改行しない詩ってのは何なのか?というのはたぶん難問のひとつですよね。
確かこの本でも論じてたと思いますが、思い出せません。
詩の定義として、「ページの中に余白があるもの」とするということを、
誰か言ってたと思いますが、余白が無い詩は内容によってしか定義でき
ないですよね。
僕も実はそういうのを書くんですが、小説を描く時とは違う書き方を
しているように思います。
自分の場合ですが、物語を書こうとする(小説)のと、物語を構成要
素として使おうとする(詩)ときの差かもしれないです。
北川のこの本は、どこから詩になるのか、というところを問うて、
詩が発生する瞬間に使われた技術を広く「レトリック」と言っていたと
思います。
ですから、小説が詩になってしまう瞬間についても触れていたのでは、
と思うのですが、もし触れていなかったとしても、それはここでの議論
の主柱になりえますね。
19 :
ボルカ:02/12/30 23:49 ID:y2WP5OwP
>>14 僕は詩は電車の中で書くことが多いです。
大抵、雑誌の余白とか、メモ帳とかに書いてるかな。
改行はスペースがあればするし、なければ記号を入れます。
でも、視覚的な観点から修正することがあるのは、コンピュータ
画面で見た時ですね。
余白を書く、という意識は製作段階では低いです。
20 :
14:02/12/31 07:54 ID:XIPNOCxm
ノートに書いてる人って結構いるんですね。ちょっとビックリ。
私の場合、昔は「起承転結が欲しくて改行してるのかも」と思っていたけど
今は暗唱しやすい様に改行している気がする。
私なりの小説と詩の定義は
粗筋を言えなければ、それは小説ではない。
暗唱できなければ、それは詩ではないと思ってます。コレは変わらないと思う。
>>20 粗筋のない(あるいは、粗筋を抜き出しようのない)小説なんて、
いくらでもあるように思います。
◎高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」他多数
◎ジェイムス・ジョイス「フィネガンズ・ウェイク」
◎筒井康隆「読者罵倒」他
◎阿部公房「箱男」他
また、暗唱できたら天才、というような詩も数えきれません。
◎ねじめ正一「ねじめ正一」他多数
◎寺山修司「ロング・グッドバイ」
◎入沢康夫「わが出雲」(形として不可能)
◎吉増剛造「囀り 〜 ガズイ 〜」他多数(これも形が特殊)
それに、小説だって暗唱しようと思えばできるのですよ。
原稿用紙にして2枚程度の超短編小説なんて、よくありますよね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
詩と小説を無理に分ける必要はないんじゃないのかなぁ。
僕としては、小説は詩を含むもので、詩は小説より大きいものだと
思っています。逆説的ですが。
22 :
ボルカ:02/12/31 20:15 ID:RcUEM9On
21の反論が納得できるにもかかわらず、
>>20は重要な問題を
含むと思います。(まだ本も手元に無いことだし、記憶だけで
書きますので、明らかな間違いにお気づきでしたらご指摘くだ
さい。)
改行は、暗記しやすさのためである、と考えるのは、例えば藤井貞和の
現代詩の考え方に近いような気がします。
彼は定型があきられて、あらたな定型に至るまでの「実験」が現代詩だった
のではないか、と論じています。自由詩はそれを超えて自由だと考えるよう
ですが。
藤井の考え方を敷衍するなら、改行は、定型の模索である、すなわち、五七調
のような、リズムの獲得のための実験だ、と考えることができるのではないで
しょうか。それは、極論すれば「暗記しやすさの模索」と言って良いように思
います。
しかし、一方で、「改行は『異化』である。」と言う考え方もあるのではないか
と思います。これは、つまりフツーの文章でないものにしてしまう、というこ
とですが、極論すれば、「読みにくくすること」だと思います。
北川は、さらに進んで、改行は文字部分を書いているのではなく、余白を記述
しているのだ、というような主旨のことを言っていたと思います。
こうしたことを論じたからと言って、別に詩がうまくなったりするわけではあ
りませんが、僕はなんだか面白そうだなあ、と思います。
23 :
ボルカ:02/12/31 20:31 ID:RcUEM9On
>>21 僕は実は「箱男」のあらすじを要約しようとしたことがありますし、
ほんというと自サイトでその結果を公開してますが、要約してしま
うと「箱男」でなくなってしまうんですよね。
僕は、神林暁などの渋めの私小説が結構好きなのです。が、ああゆうのとか、
太宰の「ヴィヨンの妻」なんかも、あらすじにしちゃうと、ほとんど
何も残らない感じがしますよね。ポエジーだけでできてるような、、、
日本の小説は、本当は小説ではなく、詩なのではないか、と思うこ
ともあります。良質なものほどそうだと思います。
ただ、それでも書く側には、書いてる瞬間、詩を書いてる意識とか、
小説を書いてる意識とかがあるのではないでしょうか。ってか僕はあ
ります。「詩とはなんなんだろう」と言う疑問は、詩を書いている
者としては自然なものじゃないかなあ、と思います。
最後のところは良くわからなかったのですが、
『良質な小説はポエジーを含み、形式としての小説は詩の一形態である』
と言う意味でしょうか。
後半部分について、このスレッドではゆっくり論じていきたいと思っています。
24 :
ボルカ:02/12/31 20:38 ID:RcUEM9On
>>20 レスが2つに別れてしまいましたが、
>粗筋を言えなければ、それは小説ではない。
とは、
小説は、十分に完成された小説なら、読解できるものである。しかし、
詩は必ずしもそうではない、と言ったことでしょうか。
僕は、小説についてはそう(読解できるはずだと)思っています。
一方で、たしかに詩のあらすじを言うのは困難な場合が少なくないかもしれ
ませんね。
25 :
21:03/01/01 00:02 ID:qOQXFNth
>>23 >最後のところは良くわからなかったのですが、
そうですね。僕自身「なんとなく」そう感じているだけで、
良くわかっていないですから(w
>『良質な小説はポエジーを含み、形式としての小説は詩の一形態である』
>という意味でしょうか。
それもありますが。
たとえば小説の中に詩が挿入されることは多い。でも詩の中に小説が
挿入されることって、あまりなさそうですよね。だから小説は詩を
含む(詩は小説に含まれる)。
けれども、ボルカさんが
>>18で仰っておられるように、詩が物語(小説)を
構成要素として使うものとすれば、詩は小説よりも大きなものである
(小説は詩に包摂される)。
うーん。後者はかなり強引な感じもするなぁ。
小説が人間だとすれば、詩は分子、というか。人間は分子を含むものだけれど、
分子は人間の外にも広がっていますよね。で、言葉は原子。そんな感じ。
って、どうにもわかりにくいですね。すみません。。。
26 :
21:03/01/01 00:11 ID:qOQXFNth
あ! あけましておめでとうございます(w
とりあえず僕としては、「改行するのが詩」みたいな考え方には
違和感があります。現代詩が新たな定型への過渡期の詩であると
しても、それならば大昔の叙事詩はどうなんだろう?みたいな。
叙事詩に詳しくないので、もしかしたらダンテ「神曲」やホメロスの
一連の叙事詩などにも定型があるのかもわかりませんが。
僕としては詩って、やっぱり分子のように形を変えやすいもので、
一方では「まとまろうとする力(=定型)」、またもう一方では
「ほぐれようとする力(=自由詩)」みたいに、一括りにはできない
ものだと考えています。
まあ、とりあえずはこの本を読んでみないとな。。。(w
見つけたら、買って読んでみますね。それでは失礼しました。
27 :
名前はいらない:03/01/01 03:39 ID:FiOLGRet
単に独白、一人言を連ねているだけで、作品になると思い込む妄想。
お邪魔してもよろしくって?
お初にお目にかかります、ボルカ様。そして皆様。
わたくし、お城のマリーと申します。いえ、女王とかそんなではなく、
ただの給支女なのですけれどね☆
皆様が楽しそうなお話をされていらっしゃるので、ついつい
お城から出てきてしまいましたわ。
ところでボルカ様。途中からなのでよくわかっていないのですけれど、
詩を形式という側面からのみ扱ったお話をされてらっしゃるのかしら?
それとも詩とは形式のことであるということ?
ここだけ質問。よろしいかしら。
続きの書き込みをしたのですけれど、なぜか梁山泊スレに
書き込まれてしまいました...。
欝です。欝ですわ!
わたくし、どっと疲れてしまいましたので、午睡のひとときと
いたしたいと思います。それでは皆様、ポエポエ〜☆
30 :
名前はいらない:03/01/01 14:34 ID:sfm64Sql
詩の形式とはなんでしょう? 詩の形式とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現われる幻想だ。普段はそんなものは存在しない
31 :
14:03/01/01 14:35 ID:3GsoqDYK
>>21 私の言い方が不味かったね。
>>20は、定義と言うより、書く時に心に留めていることです。
>詩と小説を無理に分ける必要はないんじゃないのかなぁ。
確かにそうですね、
「暗唱できなければ〜」と言ったのは、私が単純に短い詩が好きな所為も有るんだろうけど。
>>26の>「改行するのが詩」みたいな考え方には違和感があります。
には同意するけど
>>22の
藤井貞和の「余白を記述しているのだ」という言葉にはそそられるものがある。むーん。
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33 :
14:03/01/02 05:35 ID:DsgU9inW
>>31藤井貞和じゃなくて北川透でしたね。スイマセン。
34 :
21:03/01/02 10:44 ID:tO0VOf9+
僕の場合、ノート等に書く時でも、必ず改行はしているように思います。
全体の「ルックス」も気にするほうなんで(w
どんなに紙がもったいなくても1ページに1作。たとえ3行の詩でも。
そうしてみると、僕も余白を"作品の一部"と思っているのかもしれませんね。
ところで素朴な疑問なんですけど、改行をしない詩って、よくありますよね。
↓こんな感じのヤツ。
おちゃらけ
わたしがおちゃらけるのは お茶が飲みたいから ではない そ
れはお茶とは関係なく そもそも"おちゃらけ"と"お茶"との間に
関係があるのかさえ わたしはしらない しらない女がわたしを
みても わたしと女のあいだにはまだ関係がないように ああ
太陽がちゃっちゃと燃えている さあ おちゃらけをはじめよう
即興なので内容は無視してください(w
で、↑こういう形の詩って、たとえば1行目は「そ」で改行していると考えるべきなのか、
それとも便宜上改行しているだけであって、もし紙面が許すなら、
スペースが入るところまで改行はない、つまり一本の長紐みたいな形だと考えるべきなのか。
皆さんはどう思われますか? 本当、素朴な疑問ですけど(w
35 :
ボルカ:03/01/02 21:29 ID:IuC0xXd0
>>26、>21さん
>とりあえず僕としては、「改行するのが詩」みたいな考え方には
>違和感があります。
そうですね。これは直観的にどっか変な話だとは僕も思います。
問題として保留しておいて、あとで、北川の論述にからめて議論し
てみます。
自分としては、詩とは、ポエジーを生成する装置だと思っているの
ですよ。
これはかなり狭量な詩観で、実際にはポエジーな雰囲気(って言い方が
正しいかどうか別として)みたいなものに流されないことを意図した作品
が少なくないですよね。
だから自分の詩観では、「詩手帖」掲載の詩の半分以上が、実は理解でき
ません。
>僕としては詩って、やっぱり分子のように形を変えやすいもので、
>一方では「まとまろうとする力(=定型)」、またもう一方では
>「ほぐれようとする力(=自由詩)」みたいに、一括りにはできない
>ものだと考えています。
このへんの話は読書会が始まったら、また出てきそうな気がします。
ここは学問系の板じゃありませんので、読んでない人の突っ込みも
歓迎で行きたいと思っていますので、当該書籍が入手できでも、でき
なくても、ご参加いただけると幸甚です。
36 :
ボルカ:03/01/02 21:48 ID:IuC0xXd0
>>28こんにちは、お城の人気者のマリーさん。
僕のことも構ってくれて嬉しいですよ(笑。
ここは読書会スレッドなのですが、いきなり始めるのもなんだし、
僕もまだ当該書籍を入手してないので、いま、かるく雑談してる
ところです。
>詩を形式という側面からのみ扱ったお話をされてらっしゃるのかしら?
>それとも詩とは形式のことであるということ?
当該書籍の書名は「詩的レトリック入門」ですが、レトリックとはなんなのか
ということについて、北川は、ずいぶん自分勝手な定義をしていたと思い
ます。あとで要約を引用しますが、要するに詩であるための技術全般を
彼は「詩的レトリック」と呼びます。
たぶん、(薄ぼんやりした記憶によれば)それは形式だけにとどまりません。
内容をどう選択するか、というのも詩作上の技術だからです。
「境涯の詩」みたいな話や、実学としての文学みたいな話もそのままでは
なくとも、類似概念としては、出てきたかも。←どうだったかな?
少なくとも、そういう方向の話もできるようではあったという印象は持って
います。
ただ、レトリックについてこうして雑談していると、どうしても形式的な
技巧の話が多くはなっていくとは思います。
それは詩と言うものの本質が技巧だからではなく、今、ここで、技巧について
話すのが楽しいからにすぎないのではないかと思います。
37 :
ボルカ:03/01/02 22:10 ID:IuC0xXd0
>>31 北川の余白論については、後日(1月も終わりぐらいかな)
レポートしますので、ときどき覗いてみてください。
当該書籍を、お読みいただければなお幸甚です。
>>34 たぶん何字で改行するかを作者が指定するかどうかが、詩の本質
を考える上で関わってきそうな気がします。
小説に於いては、基本的には(あくまで基本に過ぎないけど)段落
が骨格として存在し、段落のキーワードと段落の主旨がありますよね。
蒸し返すようですが、それは基本的には(教科書的にはというのかな)
要約できるはずのものです。
何字で折れ曲がっていようと、改行の字数が段落の主旨に反映するこ
とはないのが普通で、各段落の主旨をまとめれば章の主旨に、各章の主旨の
まとめは(作品のページ数や改行文字数とは全然関係なく)作品のまとめに
なると考えることができるはずです。
しかし、詩においては何字で折れ曲がるかを指定するケースが少なく
ないような気もします。指定した場合、それを教科書的な意味で小説
とみなせるかどうかは、、、、、
どうなんでしょう?僕は実は文学を勉強したことが無いんで。。
段落で構成されてなくても、小説なのかな?
ちなみに僕自身は、改行文字数を指定することもあれば、雑誌投稿などで
文字数を指定しない(最大文字数に指定する)こともあります。
現在テーマの詩と散文について、
『詩的レトリック入門』では第3章「詩と散文のあいだで」が、
ちょうど沿っているのかな、と思い読み返しましたが、
この章では結論に到らず、端緒にすぎないようですね。
結局、全部読まないとお話にならないらしい。。。
形式で詩と小説を区別するのは、無理があるような。
ボルカ氏も書いてましたが、
結局は書く時の意識の持ち方、感性の傾き方なのだろうと思います。
おそらくこの辺の話題は、
当該書の第8章「詩的境界について」が手がかりになると思われます。
遅読なので、まだ読んでませんが。。。
39 :
ボルカ:03/01/07 21:34 ID:8/jI/7Ld
おおっつ。なんとなく読書会なレスありがとうございます。
以前、この本の長文の評論をとばし読みした記憶があるの
ですが、ご指摘のような理由もあってでしょうか、章毎に
論じていませんでした。
なお、僕も、確かに形式だけで境界を論じきるのは困難な気が
してきました。カフカの文庫本2ページの小説なんか、どうし
ようもないですもんね。
僕はまだ注文した当該書籍が入手できていません。
正月の混乱で遅れているようなのですが、週末には入手できる
でしょう。
さらにちょっと考える時間を置いて、来週末あたりから、始め
たいと思います。
40 :
名前はいらない:03/01/08 20:25 ID:8DlWUAqf
つまり、詩というのは、あらゆる文芸の中で、ただひとつ、
読む側にでなく、書いた側の人間に
その価値を決する権利が委ねられている
by takashi odajima
「詩的レトリック入門」、通読しました。
「わたし自身が<詩的レトリック>に<入門>しようとして、
この試みははじめられた」とあとがきにあるように、
ずいぶん迷いながら書かれた感じです。
「思いつき」という言葉がたくさん出て来ますし。
だから初心者がレトリックの総合的な解説を期待して読むには、
あまり適してないかな、と。
でも現代詩の評論にしては、かなり平明だと思います。
詩的レトリックを主題にした、こうした入門書がほとんどないというのは、
やはり「思いつき」でしか語れない類のものだからでしょうか。
僕はこの本をあらためて読んで、
ずいぶん参考になったというか、自分が詩というものをどう見ているのか、
よく確認することができたように思います。
具体的な疑問や気づきについては、また来週末くらいに。
本を読んでない人も参加できるような、分かりやすい話ができたらいいなあ。
>>40 どういう文脈で言われた言葉なんでしょう。
「価値」というものが、具体的にどういう「価値」をいうのか、
それが分からないと、どうも。
経済的な価値とか、文学史的な価値とか、そういうことかな。
一貫した価値の尺度があるって考えるのが、
そもそもどうなんだ、という気もする。
というわけで、できたらくわしい解説を。
43 :
名前はいらない:03/01/10 22:16 ID:KLyJ2luc
45 :
名前はいらない:03/01/11 01:16 ID:1mVtn0s1
あれぐらいのことすら理解できんとは。あんたの詩ってどうせ糞だしな(w
お、なんだなんだ。
>>40のことについて言ってるんなら、
もちろん「理解」は出来てる。
その上で「文脈」を問うているんだが。
朝まで生TVってさ
いつの朝までやってんだよって
>>44 >>46の怒り 支持
48 :
名前はいらない:03/01/11 06:13 ID:pI20HOyK
>>40 何とはなしに理解できた。気がする(ヲイ
>>42 「文学的」というか、読む価値を指していると思う。
しかし私は読み手から文句を言われても、それも1つの感想と捉えるようになった。
短に性格が丸くなっただけなんかなと自問自答。
>>47 私は
>>44だけはちょっと支持できない。
傷つけられたくないひと、自分の価値観を絶対視するひとは
妄信的に
>>40を支持しそう。
こういう時だけ他人の言葉を鵜呑みにするんだよね。
しかもそれが有名人の言葉だったらなおさら。
自分の頭で考えようよ。
>>40を支持するひとがいたっておかしいとは思わない。
おかしいわけじゃない。
ただ、ちゃんと議論の形で「なぜ支持するのか」をいってくれないと、
自分の作品が評価されなかった時に
「どーせ読み手にこの作品の価値はわからない」
って逃げ口上にしか聞こえなくても仕方ないんじゃない?
自分を励ますように「どーせバカな他人に俺の作品はわからない」
というのは、きっと誰もがやっている。
もちろん私もやっている。
でも、他人に向かって本気でそれをいうのは
やっぱり伝えることを放棄した逃げ口上なんじゃないかなぁ?
51 :
48:03/01/12 04:29 ID:bjnkE/0F
>>40の考え方に付け足そうとすると
webに流れてる日記も同じかもしれない。
>>44を支持できないと書いたのは、
辛口正統派さんの喧嘩腰な言い方が嫌だったからだよ。
>>44のようにレスを返されたら、(
>>43と
>>45は別人かもしれないが)そりゃキレるよ。
>>49 >「どーせバカな他人に俺の作品はわからない」
共感できない人が少なからず居るのは、心に留めていた方が良いとは思う。
俺の
>>48の文章が煽りっぽく見えたのなら、素直に謝るよ。
53 :
48:03/01/12 09:49 ID:2tBR13QX
>>52 アー、なんだ、俺勘違いしてた。
>>45へのレスだと思っていたよ。逝ってくる。
昔はよく尖がってたもんさ。
でも今は、量だけはこなしているからか
素直に己の力のなさが見えてきて、
どんなこと言われても返事を書くのは削る前の鉛筆の先っぽでだ。
もし本当にもう一回削ろうと思った時は
もう削り器のから取り出そうとは思わない。
すぐ向こうに、限界がある暗いトンネルの中で。
それはそれでいいかも知らんけど、俺みたいに力のない自慰野郎は
トンネルの中にいるってことも忘れちゃうと思うんだ。
やっぱりそれって怖いじゃん、つまんないじゃん。
人間なんだから。
そんなふうに思ってても
明日ポッキリ折れちゃうかもしれないけど
70年後もまだ使えてるかもしれない。
そんなもんさ。
気楽にいきまひょ。
横槍、月並みでスマン。
誤解はとけたようで何より。
>>40の文章、正確に引用すると、
ーーーーーーー
ようこそいらっしゃいました。
左のフレームのタイトルをクリックすると詩があらわれます。
こんなものは詩ではない!
とおっしゃる向きもあろうかと思いますが、
ロクでもないものであっても、シではあるわけでして、
つまり、詩というのは、あらゆる文芸の中で、ただひとつ、
読む側にでなく、書いた側の人間に
その価値を決する権利が委ねられている
貴重なジャンルなわけです。
それでは、ごゆっくり
ーーーーーーー
結局、「ロクでもない」と言われることを見越して、
初めから逃げをうっているように取れます。
詩ってものを軽く見過ぎではないか。自分で書いたものなのに。
でもこの人の詩、おもしろいね。特に「Apple talk」が好きだ。
まったくスレ違いでしたね。この話題はこれでやめます。
56 :
ボルカ:03/01/16 20:35 ID:ER+w5Uvo
一週間ほど来れませんでした。下のほう見てて、流しちゃったんじゃないかと、、、。
皆様ご討議ありがとう。
激辛正当派さん、通読ありがとう。
それでは開始しましょう。
まず、ルールをひとつだけ決めたいと思います。
*1週間に1章ずつ、章毎に進むこと。
章に重複だのなんだのも実はあるんですが、章ごとでいきたいんですが
どうでしょうか。
よろしければ、今後毎週金曜日に、一章ブンの「あらすじ」をアップしていきます。
57 :
ボルカ:03/01/16 20:55 ID:ER+w5Uvo
おっと、そうでした。
読み込む前の印象を僕もひとつ。
僕は今、「武者小路実篤の詩がもし「詩手帖」にのっていたらどうなるか?」
という問題について考えています。たとえば、
「僕から見ると」
僕から見ると
自分は可愛い。
(以上全文)
こういう詩です。
その衝撃ははかりしれないでしょうが、実際には掲載されないでしょう。
それはなぜなのか?
この詩が、実際、現代詩として認知し得ないものであるとして、なぜなのか?
北川の、この書物は、この問いに答えてしまうと僕は思いました。
しかし、その答えは間違っているとも。
僕は武者小路は実際に優れた現代詩人だったのだと思うのです。
このことについてはまた後日。
58 :
ボルカ:03/01/17 21:45 ID:bQi1HIdW
第一章「レトリックの誘惑」
−概略−
ここでは、谷川俊太郎の作品を例に、詩が内容でなく形式によって
成立してしまう現場に読者は(思いがけず)つれてゆかれます。
その地点で北川は、「詩的な言葉のあり方」を谷川の同じ詩によって
観察し、詩が成立してしまうために使用された秘儀を(不意打ちで)
抽出してみせます。
さらに彼はそれを「詩的仮構」として、すなわち一技術として修辞学とは
別のところに位置づけておいて、「詩的レトリック」の定義とします。
59 :
ボルカ:03/01/17 21:46 ID:bQi1HIdW
第一節:<思い付き>からはじめて
朔太郎、西脇および吉本を例に、普遍妥当する詩論というものは、
現在ではもう、(いや実は当時から?)形骸にすぎないのだ、と主
張される。自分はもっと「ちゃらんぽらんな」すなわち生命のある
理論を展開するとの宣言が、−こっそり−なされる。
第二節:詩的レトリックは修辞では無い
詩とはなんなのか、という問いが、発せられる。
その問い方の激しさに呆然とするまもなく、僕ら読者は「詩的レト
リック」の実在を突きつけられる。
第三節:違反の関係が価値に関わる
レトリックは認識ではなく、表現である、と規定されます。
60 :
ボルカ:03/01/17 21:48 ID:bQi1HIdW
−感想−
第一節に付いて
面白く、読みやすいイントロです。内容は一貫して論争的であり、誉めてる
ように見える場合でも実は誉めていない。数々の面白い観点が示されていき
ます。
一方で、まず指摘しなければならないのは、西脇の評価はこれで良いのか?
ということだろうと思いました。普遍という方法自体を批判するなら、まず吉本を
トッタれや、みたいな印象は否めないと思いますが、どうでしょうか?
むしろ方法と戯れる、という方法のほうが彼自身の言明する方法に近くはないで
しょうか?
求意見。
61 :
ボルカ:03/01/17 21:49 ID:bQi1HIdW
つぎに「思い付き」について僕は考える事がありました。
人は多くの事、いや殆どの事を「思い付き」で決めるとおもう。僕の知ってる
人はそういう人が多いです。みんな、思い付きで結婚したり、思い付きで修道士
になったり、僕なんか、思い付きで実験研究者になったりしています。
問われれば、「思い付き」としか答えられないわけだけど、でも、そういう
「啓示と化すような」思い付きが生じるためには、まず前もってその人の運命
が生きられなければならなかったはずではないでしょうか。
北川は「思い付き」の重要性を、恣意性というような文脈で強調するけど、
一方で、冗談のように「一瞬の啓示からはじまる」とも言う。
僕は、言語に先立って思考、それも極めて真剣で粘り強い思考があったとき、
そういう場合だけ初めて人は、啓示のような輝く「思い付き」に出会う事が
出来るのだ、ということを、この段階から強調しておきたいと思いました。
62 :
ボルカ:03/01/17 21:51 ID:bQi1HIdW
第二節と三節についての批判を交えた感想はのちほど。でも、谷川使ってレト
リックの実在を示す説得力はさすがだよね−。そのあたりで実はすでに余白論
の片鱗が煌いたりもしていますよね。
まず、このあたりんとこで、皆さんの御感想やコメントをお願いします。
>>62 やっぱり実際に読んでみないとわからないな、参加できないな、と思いました(汗
64 :
ボルカ:03/01/17 22:55 ID:bQi1HIdW
ごめん、ごめん。
明日、第一章第二節についての僕の感想をアプしますが、
そのときには、読んでない人にもわかるように、努力します。
気に入ったフレーズ丸写しとかして。
なれないんで不備もあるでしょうが、ときどき覗いてみてください。
65 :
名前はいらない:03/01/17 23:20 ID:Uw3nLT+t
ボルカ氏、要約ごくろうさまです。
読んでない人でも参加できるようにするには、難しそう。
そのためには、やや不当かもしれませんが、なるべく単純化して話をしたい。
>>60 詩についての普遍の原理を拒否する、ということでは、
西脇も吉本も同列に(バッサリと)批判していると僕は読みました。
(しかし果たして、その批判は妥当か?)
西脇が「詩論はみんなドグマである」と前置きしつつ、
西欧の詩的規範を形式化し、それと戯れるかたちで語ったことと、
北川が「思いつき」から普遍性をつかもうとすること。
普遍性から逃れようとしても、普遍を語らざるをえないとの認識において、
それらは似ていると思います。
んで、吉本にその認識がないかというと、もちろんあるわけで、
じゃあ全部一緒じゃん、と思った僕は何か考え違いをしているのか?
67 :
ボルカ:03/01/18 10:57 ID:xLQTuM1b
そうなんですよ。
僕らポストモダンのスキゾキッズ残党から見れば、吉本こそ、急先鋒だった
と言うべきなのです。もちろん、彼は固有時の思想で時代に錨を深くお
ろす事をしたのでしょうけどね。
かかれている内容だけを読むと、この文脈で西脇だけいじめんのは片手落ち
で、吉本からは逃げてるように感じますよね。
68 :
ボルカ:03/01/18 11:01 ID:xLQTuM1b
さて、わかりやすくをモットーに、第一章をさらに紹介していきます。
激辛さん、どんどん、発言していってね。
―引用―
この世には容易に答えられない疑問がある。あなたはなぜ詩を書くのか、という問い
などもその類であろう。たぶん、詩を読んだ経験が無ければ詩を書くこともないだろ
から、だれだれの詩を読んで感動したからですなどと、つい<思いつき>で答えてし
まう。しかし、いくら読んで感動したとしても、自分がそれに調子を合わせて書かな
くてもいいはずだ。
それに感動と言うのも、よく考えてみるとあやしいので、本当は何が書いてあるの
か良くわからなかった。ただ、なにかに誘い込まれるような挑発されるような、あ
る感じがあっただけだ。それにもかかわらず、いつのまにか詩を書いてしまった。
―引用終わり−
これは、第一章第二節の冒頭引き写しですが、ここですでに北川は、ヤバイコトを述
べまくっています。プロのクセに、そこまで言っちゃっていいのか、おい、見たい
な感じです。
69 :
ボルカ:03/01/18 11:02 ID:xLQTuM1b
この「何かに誘い込まれる感じ」が、「レトリックの挑発」であろうとおもいます。
僕ごときが理解できないのと、北川が「本当は良くわからなかった」というのは違う
のかもしれませんが、僕も近年の藤井の作品や長谷川龍生の作品には、わからない
けど挑発されるものが極めて多いような気がしています。
ある意味でそういう作品では確かに、レトリックが勝負しているのでしょう。藤井
貞和のいろは五十音ポエムなんかは、レトリックしかない作品のようにも思えます。
誰の詩集でしたっけ?カラスを扱った「客と規約」っておもしろい詩集もありました
よね。カエルポエムも、春と修羅も実を言えば「本当はよくわからない」面白さです。
しかし、ここで、問題は本当にレトリックに解体し尽くされるのか?という疑問を
留保しておきたいと思います。
70 :
ボルカ:03/01/18 11:03 ID:xLQTuM1b
つぎに北川は詩は「おいしいことば」である、というネットでも良く見かける断言を
導入します。この「おいしい言葉」ってゆう噛み砕き方は、誰がオリジナルですかね?
もしかして谷川俊太郎だろうか。意味内容が今ひとつ曖昧だと思う。「異化された言葉」
のほうが僕にはわかりやすいです。
つづけて、谷川の引用があります。
宿題
目をつぶっていると
神様が見えた
うす目をあいたら
神様は見えなくなった
はっきり目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題
「二十億光年の孤独」所収
71 :
ボルカ:03/01/18 11:07 ID:xLQTuM1b
同じことを平叙文で書き下すとしたらこうだ、と北川は言います。
―引用―
目をつぶっている間、神様が見えていたが、うすめをあけたら、それは消えてしまった。はっきり目を開けてみたら、神様が見えるか見えないか、それが宿題です。
―引用終わり―
よく読んでみてください。
うす目を開けただけで消えたんですよね?はっきりあけたら見えないです。それが宿
題の答え。そんながっかりした小学生が目に浮かびますよね(笑。
しかし、詩の方はそうはなりません。見えるか見えないか人類の歴史で答えよ、とか、
見えるまで進化しろとか、神様って実は比喩か?とか、宿題って、宿命かな、とかいっ
たことになってくるからですよね。それは語の意味内容でなく、谷川が駆使したレト
リックの差なわけで、この場合、使われているのは「詩的レトリック」なわけです。
この辺は僕は北川にとりあえず半分ぐらい白旗を上げて従います。
彼の記述を引用します。
72 :
ボルカ:03/01/18 11:08 ID:xLQTuM1b
−引用−
すると、これが詩である明らかな特徴は、句読点の代わりに行分けがあること、しかも、
三連に分けられていて、その間に一行ごとの余白がある。さらに目をつぶるあける、
神様が見える見えない以外の一切の記述の省略。その省略の結果、三度くりかえされる
神様が神様でありながら何かの比喩のように思われてくること。あるいは目をつぶる
あける、みえるみえないという行為の背後に知覚と想像の差異がナゾとして暗示された
り、<いると><いたら><あいて>という語尾変化への細かい神経の配りよう、<神
様は><神様が>の<は>と<が>の区別などの全てが、ここでは平叙文と区別される
ことばの詩的なありかたをしている。そういう言葉のあり方から離なれて、作者の思想
感情や感覚の内容が詩的なのではない。
―引用終わり―
ここでしかし、やはり半分は留保したい。詩的なのは、本当にレトリックか?むしろ、
レトリックを必要とする想念ではないのか?と言うのが僕の疑いです。結論は急がない
でおきましょう。
73 :
ボルカ:03/01/18 11:29 ID:hsPFa9xL
これで、第一章の山場までを紹介しました。論争に詳しい方おられたら、
>>66激辛氏の疑問にレスして欲しいな。
言い忘れましたが、この書物は9章構成で、最後まで飛ばしまくっていき
ます。北川さんてイカス暴走やろうだよね(笑。
まんなかではフロイトとか、ソシュールなんかも出てきますよん。
74 :
山崎渉:03/01/19 13:28 ID:0KpP5AQU
(^^)
75 :
ボルカ:03/01/20 21:02 ID:MbBOMMyk
金曜日に、第二章(余白論)をレポートします。
その前に、時間があれば、第一章第3節について、僕が感じている
疑問をアップしようと思います。
ところで、すでにいくつか、問題点を挙げましたが、これに関わること、関わらないこと
なんでも、ご感想お願いします。
>>66に関する疑問は、僕も感じるところです。彼がなぜ、どういう文脈で
この3人を批判的に言及しようとしたのか、今ひとつわかりません。
ま、読書会だから、わからないまま、先へ進んでももちろんいいわけだけど、
どーしてかなーみたいに思います。
それにしても、谷川からレトリックの実在を引き出す北川の手際
>>72は、
見事だと思いました。
谷川は一般には、むしろレトリカルでない平易な詩人と思われていますよね。
北川に言われてみれば、たしかに、谷川こそはレトリックの詩人のような気も
します。
また、僕は実はまだ詩集「minimal」は読んでないんですが、この「宿題」に
谷川がどう答えたのか、ということも興味深く思いました。
76 :
◆HU7XfvOYA2 :03/01/20 21:34 ID:WNQfM7fs
とりあえず買った。
高かった。
つまんなかったら暴れます。
俺も買う。興味出てきた。スレの力ってすごぉぉい!
(^o^)
78 :
ボルカ:03/01/20 21:42 ID:MbBOMMyk
ありがとう!!!!!!
って別に僕の収入にはならないけどね(笑。
うん、ちょっと高いですね。
ま、「コーポレートファイナンス第6版」よかマシですか。。。あれには泣いたし。
生協1割引で買おうっと。
とっとと卒論終わらして、読んでみますね。
80 :
◆HU7XfvOYA2 :03/01/21 14:40 ID:Qh78y1En
とりあえずさらっと流し読みした。
ワタクシの所持している書籍に何度も言及されるので、
(言語にとって美とは何か、レトリック感覚等)
ワタクシにとってはとても読みやすいんだけど、
それらを読んでない人にはどうなのかな。
入門と言うわりにはかなり読者層を限定しているような気がする。
(ある意味詩論なんてほぼ全てがそうなんだけれど)
81 :
名前はいらない:03/01/21 18:00 ID:NAdCmvWx
>>80 僕はこの本を読んで「言語にとって美とは何か」も
「レトリック感覚」も購入しました。二年前のことです。
タイトルの通り入門的な使い方も出来ると思いますよ。
82 :
激辛正当派 ◆PmUYNHN29Q :03/01/22 00:33 ID:7tcUEXCb
ボルカ氏の要約を手がかりに、僕なりにいくつか。
普遍的な詩論はあり得ない。として、朔太郎・西脇・吉本など批判しているが、
普遍性に対する懐疑は、西脇も吉本も北川も同様に認識しているはず。
そうではあっても、詩的レトリックを語るには普遍を語らざるをえず、
さもなければ個性に帰するほかない性格のものである。
手法としては、北川も他の論者も似通っていると思うが、
この考えは正しいだろうか。
「思いつき」ということに関して。
>「啓示と化すような」思い付きが生じるためには、まず前もってその人の運命
> が生きられなければならなかったはずではないでしょうか。
このボルカ氏の言葉を、僕なりに書き換えるなら、
たとえば詩の一行目は「思いつき」から始まるが、それは偶然の産物ではない。
詩を真剣に書いている人ならば、きっとそう思うはずだ。
はたして、この考えは正しいだろうか。
「本当は良くわからなかった」にも関わらず「なにかに誘い込まれるような」感じ。
現代詩に特徴的なこの「感じ」を北川は「詩的レトリック」によって説明を試みる。
が、ボルカ氏は「問題は本当にレトリックに解体し尽くされるのか?」と問う。
しかし北川の「詩的レトリック」の範疇は極めて広いようです。
あんがい解体し尽くされるかもしれない?(という期待)
83 :
激辛正当派 ◆PmUYNHN29Q :03/01/22 00:35 ID:7tcUEXCb
>ここでしかし、やはり半分は留保したい。詩的なのは、本当にレトリックか?むしろ、
> レトリックを必要とする想念ではないのか?と言うのが僕の疑いです。
これについては北川が後にこう述べています。
わたしはレトリックは、認識ではなく表現だと考える。まず、認識が
あって、レトリックが成立するのではなく、認識とレトリックは表現と
して同時的に成立するのである。(P26
つまり、レトリックと想念(=認識?)はどちらかが先立つものではなく、
それは同時に表現されてはじめて詩となりうるのではないか。
私もそう思います。想念が独立で、詩となるわけではない。
そこにレトリック(詩的な言葉のありかた)が付加されなければならない。
(もちろんこれは、想念のあとにレトリックがあるのでなく、あくまで同時的に現れる)
夕陽がきれいで涙をながしたとしても、そこに詩はない。
(これを「詩的な風景」と呼ぶのは、「詩的」という語の誤用である)
詩的レトリックによって表現されてはじめて、それは詩となる。
84 :
ボルカ:03/01/22 19:58 ID:6DhmbrE+
僕も、
>>81さんと近い意見。
この本は、高校生とかに、案外お勧めではないかと思う。
北川さんに本気で弟子入りしようと思ったら、その「入門資格」は
チョー厳しいものになるのではないかと思うけど、この本に関しては、
とりあえず買ってくれたお客さんには、前提問わずに、サービスしよ
うという姿勢があるんじゃないかな。注とかに、それが現れていると思う。
>>83 そうですね。僕の読みがここでは不正確です。
北川における、レトリックと想念の位置関係に関しては、「同時発生」と
読み解くべきですよね。
85 :
ボルカ:03/01/22 20:02 ID:6DhmbrE+
激辛正当派さんのフォローとダブるけど、以下、第1章第3節についてもう少し
紹介します。
第1章第3節 −違反の関係が価値にかかわる−
佐藤信夫の「レトリック感覚」および「レトリック認識」が
言及され、北川の佐藤への共感が表明される。
−引用−
彼はいわば修辞の技術学として形成されてきた、レトリックの不幸を
述べ、それに第三の役割<発見的認識の造形>を与えようという観点で、
この本を書いている。
(ボルカ補注:1は、説得する表現の技術、2は、芸術表現の技術、
この本は、レトリック感覚)
−引用終わり−
共感を示した上で、さらに北川は、このレトリック概念の認識は不十分
だとする。
そのうえで、
>>83で激辛さんが引用した部分が展開されます。
ここまで僕は北川に同意します。
谷川の「宿題」が陳腐でないのは、彼が詩人だったからに、いわば、過ぎ
ない。哲学者や宗教家が、レトリックを使い切れずに同じ意味内容を語る
としたら、笑い種になるようものになったはずだと思います。
哲学者ならどうしても、もっと煩雑な、違う「意味」を付加しなければ
谷川の到達した認識を語れない。
86 :
ボルカ:03/01/22 20:04 ID:6DhmbrE+
僕が今夜、問題と考えるのは、この先の「意味」〜「価値」への言葉のずらしかた
です。ここでは吉本リュメイがかかわりますが、引用ではなく、北川自身の
思想ー言語として表明されています。
−引用−
言語の規範性が、慣習化された制度として物象化し、固定化するとき、
それをぶち破り、新しい流動を作り出す。(中略)違反の関係そのもの
の規則性、それが仮構の概念であり、詩的レトリックだと、とりあえず
言っておこう。
−引用終わり−
この周辺で、詩は「おいしいことば」である、という断言が示されます。
おいしい、ということは、飢餓を防ぐための、ありあわせのものではな
い、ということを、北川にとって意味します。
すなわち、それは、彼にとって「価値」のある言葉です。同時に、レト
リックの問題は、価値の問題である、ということが言明されます。
87 :
ボルカ:03/01/22 20:10 ID:6DhmbrE+
ここでちょっとテキストの読解をはなれて、僕の個人的な意見(感想)を
述べようと思います。
ここ(前後のバラの比ゆなど)で想定されている、歴史観、言語観は、あまり
にも非科学的なものなのではないか、というのが、僕のこの部分への批判です。
言葉は詩人が作り出し、それがだんだん陳腐化しながら一般化し、普通の
言い回しになって、さらには死語になっていく。
こういう言語観は、ネットでもよく見かけます。しかし、こんなことは実際
には起こっていません。起こったはずがないと思います。
僕は「万葉集」を当時の人口の何%が読んだのか、知りません。しかし、
それが「言語」という意識体の歴史的な生育に影響した「量」がどの
程度のものだったのかは、大いに疑問です。
言葉はむしろ、「万葉集」を読んでいない多くに人々のあいだで進化した
のではなかったか?そして、現在でも、「詩手帖」を読んでいない人々の
あいだで進化しているのではないか?
簡単に考えても、われわれの言語が、文字を持ったのは、人類の歴史の
一部でしかありません。文字といっても、ネイティブアメリカンの人々の縄文字
や砂絵のような、概念を表音とは独立に示すものが主だった時代もあった
かもしれません。
そして、そういう時代の中にも、詩はあったろうし、言語は進化し続けたろう。
と思うのです。
北川はテキストと呼ぶことができる言語表現、とくに制度化された文脈で
保存された、いわば「認知された詩」が、言語表現のごく些細な一部に過
ぎないことを看過している、と僕は思います。
88 :
ボルカ:03/01/22 20:19 ID:6DhmbrE+
おそらく、そんな風に思ってしまうのは、僕か北川か、どっちかに
問題があるからであり、本質的には議論でシロクロつけられること
なのですが、ここは、まあ、シロートの読書会ってことで、あんま
りキビシイことは求めないでくださいね(ヨワっ→俺。
もち、突っ込みは全部、歓迎ですけど。
こんな風に、入り口のところから、「ほんとに入門できんのかよ」みたい
な僕ですが、それでも、この本には強烈な刺激を感じ続けています。
週末には第二章をフォローしていきます。
ところで、誰かレポーターをやってくださる方がいらっしゃたら大歓迎し
ます。好きな章を好きなスタイルでやってくれる方がいると、僕が全部
やるより、ずっと深みが出ると思う。
いかがでしょうか?
89 :
ボルカ:03/01/24 22:26 ID:JWr1T5UH
第二章 余白論の試み
−引用−
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の
出現である。だれもがそれを、自明にして書き、
読んでいながら、忘れている。−中略−ことば論
はあっても、余白論は成り立たないのか。しかし、
それが詩との相関で現れてくる以上、しらぬふり
というわけにはいかない。
−引用終わり−
と、北川さんは話しはじめます。真面目な話、僕は
この章は、「北川さん、カッコイイ!」とか思い
ながら読みました。
批評が、批評以前と読者を変化させる事なんて、
実はめったに無いと思う。でも、彼の「余白論」
は、少なくとも僕の思考を、不可逆的に変化させ
ました。北川透以前には戻れないと、僕は感じます。
といっても、もちろん全面的に受け入れるわけでは
ありません。
僕自身の思考と言う事になれば、僕はここでも、
「ありていに言って、余白は文字とみなしうる
のか?余白でレトリックするということは、非言
語的思考をテキストの世界に持ち込む、という事
なのではないのか。」
といった疑問を持ちつづけます。
北川さんといえども、僕の非言語的ポエジーへのこ
だわりを破壊する事は出来ない(笑。章をおうごとに
この対立的な感覚は強くなっていくと思います。
90 :
ボルカ:03/01/24 22:30 ID:JWr1T5UH
しかし、そういう難癖の前に、まず北川さんの思考によっ
て、「余白」というものが表記言語の一種として初めてと
らえられ、レトリック論の対象になったということを高く
評価し、可能なら、来週金曜日までのあいだ、若干詳しく
検討したいと思います。
この章での北川さんの余白言語観は、優れた一貫性をもち、
先行議論を知らない読者にも、楽しめると思いますが、い
かがでしょうか。
僕は今日のところは、もう時間が無いので、今回、中途半端な
レポートですが、興味のある方は、どんどん発言して下さい。
91 :
ボルカ:03/01/24 22:42 ID:JWr1T5UH
>>83 >夕陽がきれいで涙をながしたとしても、そこに詩はない。
>(これを「詩的な風景」と呼ぶのは、「詩的」という語の誤用である)
>詩的レトリックによって表現されてはじめて、それは詩となる。
以前、「詩ってなんですか」スレッドの1は、類似の問題を反対から提起して
いたと思います。
「美しい風景」は、もし、それを詩で表現できないのであれば、「詩としては
美しくはない」のだ、と、そこまで言い切ったひとはいなかったかもしれないけ
ど、僕なんかは、あのスレッドでそう感じてはいました。
激辛正当派さんからの、上記の引用部分は、理解できるし、ほとんど納得もできる
し、実は僕自身そういう発言も時々しているんだけど、正面から眺めると、一晩寝
かせてみても、100%同意できるのかどうかは、わからなかったです。
僕には、今夜のところは保留しておくしかなさそうです。
92 :
放浪の名無し ◆YffIGX9Bno :03/01/24 22:44 ID:CaIfsmm9
議論より、詩人コロセウムに参加しる!!
93 :
ボルカ:03/01/25 23:12 ID:rqnlttuo
そうっすね。議論やるタイミングと創作やるタイミングは、一致しない
もんかもしれないね。
チョット言及しただけ。別に無理やりひきこもうって魂胆じゃないっす。
といいながら、参加してくれるれば嬉しいけどね(笑。
詩人コロセウムは、意外なほどの繁盛ぶりですね。
2ch外でも、あなたのキャラが信頼されているってことだと思う。
おめでとう。
今月、僕のポエマー活動優先順位は
1.詩誌(落選してるのでムキになってる)
2.オナニースレッド(歴史的傑作を書くぜいっ)
3.◎月間賞
4.アグネス詩賞
5.オープンマイクのリーディング
と、5位までは決まっているのですが、もしかしたら乱入するよ。
◎でレスしたんだけど、詩VS散文のバトル、今後の課題として
検討してみてね。
94 :
ボルカ:03/01/27 23:18 ID:zzahiZpu
さて、北川透の余白論を検討する前に、小説における視点と言う概念を説明して
おこうと思います。僕の個人的な感想ですが、北川の余白論の内包する意味内容が、
「小説における改行のルール」の類概念であるのか、ないのか、は一つの論点にな
りうると思うのです。
小説を書く場合、「一つの章を一人の視点で書く」という暗黙のルールがありま
す。暗黙じゃないのかもしれないけど、学校ではなぜか教えてくれません(笑。
僕も別に教わったことはありませんが、どうもそんな感じがしています。
以下、僕の本棚からテキトーに引用します。
―引用―
(前略)なんとなく人をばかにしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿
である。
「…これは何ですか先生…このドグラマグラというのは…」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現した珍奇な、面
白い製作の一つです。(後略)」
− 夢野久作「ドグラマグラ」より
95 :
ボルカ:03/01/27 23:21 ID:zzahiZpu
小説のルールとして、ここで若林博士は、「気軽そうに」うなずかなければなり
ません。「気軽に」うなずいてしまったら、どうして彼が気軽であることが「私」
に判ったのか、という疑問が読者に生じてしまうからです。
こういうふうに、小説では、一つの章は、一人の視点で書かれるのが普通です。
とはいえ、絶対そうしなければならないか、というとそうとも限りません。
−引用−
すぐ全員が開いたままのドアの方へ走った。犀川(さいかわ)と萌絵(もえ)も
そちらに駆け寄る。
今度は廊下の照明が明滅を繰り返している。まっすぐな通路の奥は闇に吸い込ま
れていた。花嫁の後姿が、ドアから数メートルのところに見え、トンネルのような
廊下の中央をまっすぐに奥に進んでいる。このまま闇に消えるのでは、と思えたが、
彼女の移動に伴って、照明の明滅も奥へ向かっている。
−森博嗣「すべてがFになる」より
96 :
ボルカ:03/01/27 23:25 ID:zzahiZpu
このまま闇に消えるのでは、と思ったのは誰でしょうか?
ここでは、犀川と萌絵の2人なのです。
さらに、ポルノ小説の「濡れ場」の場合は、男の視点と、女の視点が、共存する
ことは、普通ですらあります。
―引用―
すると銀子はニヤリと口をゆがめて、
「そうだわ。圭子や美津子にも、そろそろこうゆうことを教えなきゃならないわね。
じゃ静子夫人、明日は貴女に圭子の稽古台になってもらおうじゃないの。」
それを聞いた静子夫人は、はっとしたように伏せていた顔を上げ、おびえた美し
い瞳を銀子に向けるのだった。
−団鬼六「花と蛇」より
ちょうど、映画に必ず主演女優と主演男優がいるような感じです。
読者は銀子の気分も楽しみたいし、静子夫人の気分も味わいたい。そういう要求に
作家は答えているのです。そこで、静子夫人には、「おびえたような」目ではなく、
「おびえた目」を向けてしまうことが要求されるのです。
男と女?(w
98 :
ボルカ:03/01/27 23:31 ID:zzahiZpu
ですが、この2つ例の場合でも、「一つの段落は同一の視点で書く」というルー
ルは守られています。一つの段落の中で視点が変わってしまうのは、わざとルール
に挑戦する場合でないかぎり、ミスと言えると思います。もし、視点を変えたいな
ら、小説では段落を変える(改行する)必要があります。
先に言ったとおり、この種のことを僕らは高校で習いませんから、ホントのとこ
ろは、国文出身でない僕にはわからないのですが、僕は現在、そういうふうに理解
しています。
北川透の余白論は、文字通り「余白」についての考察ですが、その一部に改行と
視点の移動の関係を含んでいると思います。北川の叙述から、詩においても、視点
の変更が改行を要求する場合がある、という情報を読み取るとしたら、その部分は、
小説のルールを現代詩の理解に適用した例として考えることができると思うのです。
時間の関係で、今日は小説作法における視点のルールを紹介するだけにせざるを得ません。
明日から木曜あたりまで僕はこられません。
ご意見、ご感想のあるかたは、どんどん話を進めてください。
僕はもしかするとこれ以上、第二章をレポートする時間はないかもしれませんが、
金曜日からは、第三章も範囲に入れていきたいと思います。
99 :
ボルカ:03/01/27 23:33 ID:zzahiZpu
今週、ずっと携わってきた大きな厄介事が一つ片づくんです。
肩の荷が下りるってやつでしょうか。
「詩的レトリック入門」持ってるのに今まで読んでなかったんですが、
気が楽になったところで読み始めようと思います。ボルカ氏のような高度な
論は到底展開できませんが、感想程度は書けるかな。そして氏にはいろいろ
教えていただきたいなと思ってます。よろしくお願いします。で、100げと。
>>95 「すべてがFになる」の一節を眼にするとは・・・ここにも森博嗣に汚染された人が!
うれしいねぇ。
101 :
ボルカ:03/01/29 21:52 ID:hyFutmyh
出張先からなんで、本の内容にちゃんと触れたレスはできませんが、
簡単に言ってしまえば、2章におけるキーポイントは、「啄木はなぜ、
3行で書いたのか」ということに、北川さんは答えることができた、
ということだと思う。そしてその論理を、彼は遡って芭蕉から、下って
朔太郎までつなげることができた。これはすごいことですよね。
僕は石川啄木のファンを自称していたんだけど、彼の改行の仕方についての
これまでの僕の意見は、
「なんだか不思議なぶっちぎり方なんだけど、なぜか、これでいいよう
な気がする。」というものでした。
今日は手元に本がないので、ほんとにカンタンなところを記憶で書くけど、
北川さんは、彼の3行わけは、3つの余白を生じさせるためだった、と考え
ます。
そして、記号である「余白」の意味内容を分析して見せるのです。
その一つとして、彼は余白の登場を、「改行」の側からも考えて見せ、ここで
石川啄木の例をひいて、改行前後で視点の動きがあることを指摘します。
僕は思うのですが(北川は明言していない)、これは一面では、詩における
一行を、小説における「一段落」を比較し、一連を、一章と比較する、という
ことを示唆する考え方です。そうした発想によって見えてくるものもあると
思いました。
102 :
ボルカ:03/01/29 21:53 ID:hyFutmyh
この章からはいろいろな考察を読み取ることができるし、いろいろな批判を
展開することができると思いますが、時間がないので、僕のこの章の感想はこ
れで一つだけでオシマイにして、金曜日には次の章にいきます。
一章、二章に含まれる問題として、ソシュール以来の構造主義言語学的な考え方
で、分節化=意味の発生みたいな考えを展開することや、レトリック価値説を「侵
犯=価値」とし、その違犯の対象を無定義で「規範」としたことなどが気になる人
もあるかもしれません。
また、詩における公的領域(あるいは公共圏):すなわち詩壇の限界性への分析が不問
にふされたうえで、こうしたことが言われたのであれば(そうなのかどうか僕は知ら
ない)、この「規範」の扱いによって彼は、文学史を無定義のまま権威化したと言
えるのではないかとも、僕は思います。これについてはすでに簡単には指摘しまし
た。
でも、残念ながら、ちゃんと検討するだけの知識はないです。
単に不勉強のせいで、感じた疑問かも知れないですね(w。
第2章までのご感想ご批評、僕のへのご批判、なんでもご自由にご論議ください。
103 :
ボルカ:03/01/29 21:55 ID:hyFutmyh
>>かねこさん
100ゲトありがとう。
こうゆうのやっぱ、自分でゲットしちゃうのはちょっとサビシイな、
と思ってました(笑。
こちらこそよろしくお願いします。
>>103 ふぃ〜。ようやく厄介事を一つポイできました。まだまだ、厄介事はありますが、
まあ今回のよりは、軽いかな。今、本を最初から読んでるところです。
あんまり頭良くないので、期待しないでくださいね。
105 :
ボルカ:03/02/01 19:47 ID:f2diaRRo
はろっ。よろしくお願いします。
106 :
ボルカ:03/02/01 19:48 ID:f2diaRRo
第三章「詩と散文の間で」
ここでは、「口語自由詩とは何か」という問題が、
あるいは、「散文詩とは何か」と言う問題が、扱わ
れます。
北川透は、朔太郎以前の詩人たちと「詩と詩論」の論客たちの対立、
さらには西脇順三郎と瀧口修造の言語革命と戦後の入沢康夫らの相違
を紹介(ないし批判)しつつ、「詩の出現は、余白の出現である」と
いう2章で立てた説を検証していきます。
冒頭、北原白秋の詩が引用されます。
「かやの実」
かやの木に
かやの実の生(な)り
かやの実は熟れて落ちたり
かやの実をひろはな
なぜこれが、詩なのか、という論点から
北川の論考は始まります。
107 :
ボルカ:03/02/01 19:49 ID:f2diaRRo
面白いことに、この詩は、一行に書き下ろされたことがあり、
それをある短歌雑誌の同人たちが、こんな歌があるか、と批判
したそうです。北川によれば、そのことをめぐって、白秋自身
が論を展開しているそうです。
書き下ろされれば、
かやの木にかやの実の生りかやの実は熟れて落ちたりかやの実をひろはな
となります。字余りですが、形式上は短歌と言えるでしょう。
僕の目にすらダサクですが(笑。
白秋はこれについて述べる中で、「かやの」の繰り返しを取ったら
どうなるか、ということも論じているらしい。
こんな感じになるはずです。
「かやの実」
かやの木に
実の生(な)り
熟れて落ちたり
ひろはな
ぜんぜん、ダメですね(笑。
108 :
ボルカ:03/02/01 19:50 ID:f2diaRRo
白秋は、これについて、
「なんでも切り詰めさえすれば最上の表現だと思うのは間違いである。」
と言ってるそうです。
このセリフは覚えるべきですよね。喧嘩に便利です。
ところで、なぜ、短歌にしたら全然だめな作品が、詩になってしまうのか
ということについて、北川はかなり理解できる説明をします。
今日は時間が無いので、詳しくは紹介できませんが、それはつまり、
レトリックの力だ、ということです。同時に、どうして「かやの実」を
繰り返す必要があったのかについても説明して見せます。
今週時間が無いので、紹介はこれぐらいにしますが、この章の中で、
相反する概念の結合が詩を発生させる、とか、そのほか、様々な
詩論が検討されていきます。
ここまで、ご意見、ご感想お願いします。
109 :
Porphy:03/02/04 20:34 ID:QEUsU0I5
北川本は未読ですが参加させて下さい。
スレ拝読しました。とても興味深いですね。
「視点の動き」と「余白」のかかわり。
小説では段落変えによって、詩では改行・余白によって、視点の動きが示される。
なるほど、なるほど。
北川のいう「レトリックとしての余白」というのは、
詩の中では余白が一定の作用を担っていて、書き手・読み手とも(必ずしも意識的では
ないかもしれないが)暗黙のルールとしてその作用を認め、その作用に及ぼされている。
といったところでしょうか。
>>96のご指摘にある通り、小説において複数の視点がほぼ同時に示される場合、読み手が
そうした複雑な視点の存在をつかむには、散文ならではの叙述がヒントになるのかな、
という気がしました。
つまり、「すると銀子はニヤリと・・それを聞いた静子夫人は・・」といった風に
主格が明示的に書かれていることもあって、読者にとって、散文の流れのなかで
視点の動きを追う手がかりは、(詩におけるよりも)わかりやすいように感じます。
一方で、散文よりも語彙のそぎ落とされている(場合の多い)詩においては、
説明を担う言葉が意図的に省かれていても、
改行から生じる余白によって視点の動きが示されるので
(あるいは、どの視点で読むのか、複数の選択肢が読者の側に渡されるときもある)、
「ルール違反」とは見なされない。「余白」という詩的レトリックが生きているから。
そういえば、得体の知れないけれどどこか惹きつけられるタイプの詩を読んでいる時に、
登場人物「私」の視点が「どの行」では「誰」なのか・いつどのように移っているのか
といった点を、いつのまにか考えさせられていることって、けっこうあるかもしれません。
「なんでも切り詰めさえすれば最上の表現だと思うのは間違いである。」
といわれてもやっぱり切り詰めることには意味はある。
レトリックを装飾のことだと思うのは間違いだ。
111 :
ボルカ:03/02/04 20:46 ID:QEUsU0I5
Porphyさんのご感想を転送させていただきました。
内容的には2章部分に戻りますが、ご指摘の点は僕もとても重要な点だと
思いました。
>北川のいう「レトリックとしての余白」というのは、詩の中では余白が
>一定の作用を担っていて、書き手・読み手とも(必ずしも意識的では
>ないかもしれないが)暗黙のルールとしてその作用を認め、その作用に
>及ぼされている。といったところでしょうか。
その後の部分を含めて賛成です。Porphyさんがおっしゃっていることは、
僕が進めめられなかった点まで明確にしています。
ミステリアスな視点は、良い詩の特徴の一つといえるのかもしれません。
最近僕は、朗読会に参加してみたのですが、人前で読んでみて、視点に
ついても考えるところがありました。
余白の介在無しに、視点の変化を聴者に伝えるためには、詩の視点が、とて
も注意深く、かつ一種のリズムを持って変化していくように仕組まれて
いないとダメなように思ったのです。
また、逆説的ですが、視点の変化は耳では聞き分けにくいにもかかわらず、
単調な視点は、聴いていて退屈な印象を生みやすいように思いました。
112 :
白鑞金 ◆o9gM/GpPsI :03/02/04 20:53 ID:skU9H4oL
余白なし。ならば不肖わたくしが、常にヒントと心得ております一言を。
句体は一作一律の自在を志向すべし 荻原井泉水
113 :
まーじ ◆W7.CkkM01U :03/02/04 21:02 ID:JeRqcM/X
詩における余白というのは
絵や写真の周りの空間と同義であると思う。
フレームの外。
額に入った絵の外界。
すなわち絵と切り離されたところで存在する
世界の表象ではないでしょうか。
何が介入してくるか予測できない
人間一人一人の主観が埋没できうる溝であるとも言えるでしょう。
って俺の私見ですが。
114 :
ボルカ:03/02/04 21:02 ID:QEUsU0I5
>>110 おそらく、なんでも切り詰めるというのと、切り詰めるというのは
違うのじゃないでしょうか?
上述
>>107の、「かやの実」切り詰めバージョンより、オリジナル
バージョンのほうがイイ、と僕は思いますが、それは多分、
北川透が書いているとおり、切り詰めバージョンでは、抜け落ちてしまう
何かがあるからだと思います。
それは単なる装飾じゃなく、この詩の当該部分(つまり、「かやの」
の繰り返し)は、むしろ本質的なものなんじゃないかと思うのですが。
115 :
ボルカ:03/02/04 21:14 ID:QEUsU0I5
>>112 ご参加ありがとう。今日は本を手元に置いていないから、精確な引用は
出来ないけど、以下の用な話です。
>荒海や佐渡によこたう天の川
北川は、この詩を引用して、切れ字「や」は「余白」の導入である
と主張します。
この「や」の前後では、視点が、荒海を眺めている人から、人の感情を
超えた無人称の客観表現としての空へ、さらに宇宙へと広がっています
よね。
「や」で導入された「余白」に宇宙が流れ込む、そんな感じです。
啄木の3行分かち書きや、口語自由詩は、切れ字だけで表現できない
「余白」を改行によって可視化し、べた書きの散文詩は、別のやり方で
余白を扱おうとする。
北川透の叙述ではそんな感じです。
116 :
ボルカ:03/02/04 21:18 ID:QEUsU0I5
んが、白鑞金さん。
あなたの引用部分は、僕にはちょっと良く分かりませんでした。
もうしわけないけど、もう少し、説明お願いできないでしょうか。
まさか、切れ字を使うな、ってことではないですよね。
一律とは、ひとつのリズムで、ってことでしょうか。
117 :
ボルカ:03/02/04 21:31 ID:QEUsU0I5
>>113 こんばんは、マージさん。
たしかに、余白って、そういう漠然とした、作者には如何ともしがたい
もんですよね。読者がどう読んでくれるかは、賭けみたな。
でも、それについて考えても、全然どうしようもないかというと、やっぱ
りそうでもないんではないかな、と思います。
118 :
まーじ ◆W7.CkkM01U :03/02/04 21:55 ID:JeRqcM/X
>>117 余白というモノこそが詩の内在律を統制していると思う。
どこでどう改行し
どれくらいの行間を空けるかなどは
作者のオリジナリティーの一つの現れだと思います。
詩と余白とのコラボレーションが
詩の内在律を浮き彫りにするレトリックの応用だと思う。
白秋は例の「かやの実」の詩(短歌?)
において、≪かやの≫をリフレインしたのは
内在律を打ち消すべく、白秋の主観を読者に押し付けたのか
もしくは
ただただ「かやの木」に対する執着として強調的に用いたかの
どちらかでしょう。
啄木の三行分かち書きは、ここでは置いといて
基本的に短歌における内在律の流れというのは
単語の連結がもたらす凝固性にあると思うんです。
解体するとリズムが損なわれるという危惧を孕んだ
ひと塊のサディズムかな、とも。
>>112 一句一句それぞれに、オリジナルの律があるべきだ、という主張と読みましたが。
つまり自由詩(自由律俳句)は、定型のない詩なのではなく、
定型をその都度、自由に決定することができる詩(俳句)、ということ?
>>118 「かやの」の繰り返しについて、北川の解釈はこうです。
一行目のかやは木をさしており、二行目のかやはなったばかりの実をさし、
三行目は熟れたそれ、四行目は落ちているそれである。つまり、<<かやの>>
木や実は、その下に連接されることばとの関係で、同じ<かや>でありながら、
それこそ微妙な意味の差異をつくりあげている。この詩は、そのことを通して
自然や宇宙の流転のもつ神秘さや淋しさを象徴しようとしている。とすれば、
<<かやの>>の省略は、ことばが同じでありながら、意味だけが微妙にずれて
いく過程を見えなくしてしまい、それはたしかにこの詩の<いのち>を奪って
しまうことになるだろう。
120 :
ボルカ:03/02/07 20:33 ID:GTwbZo9t
激辛正統派さん、アプありがとう。
実は出張先からで、本持ってなくて、、、。
僕は、北川の「かや」の解釈に、かなりウナったんです。
>>118まーじさん。
一行に書き下して短歌と読むと、「かや」の繰り返しは、つまらないですよね。
>詩と余白とのコラボレーションが
>詩の内在律を浮き彫りにするレトリックの応用だと思う。
たぶん、絵画的な詩を楽しむ秘訣のひとつが、「文字だけでなく、余白も作品の
一部である」と考えてみることかもしれないですね。
121 :
ボルカ:03/02/07 20:37 ID:GTwbZo9t
3章は一部しか紹介しませんでしたが、既読の方は、お好きな角度から
コメントしてください。
明日から、4章に入ります。
122 :
ボルカ:03/02/08 11:49 ID:dFzToqab
僕は今週、詩について考える時間は、一秒もありませんでした。
逆に僕を知ってる人に、詩について考えていたなんてバレたらお叱りを受けるぐらいっす。
だもんで、レポートちょっと遅刻します。
それにこの4章は結構、難物なんですよ。
正岡子規の俳句から話が始まるんだけど、どう思いますか?
>鶏頭の十四五本もありぬべし
確かに傑作なんだけど、何処がいいんだろうか?
123 :
ボルカ:03/02/08 11:58 ID:dFzToqab
紹介しなかったけど、3章のハイライトは、瀧口修造の「TEXTES」の批評だと思いました。
簡単に言うと、「連想の遠いものをくっつけると詩が発生する」という考え方(西脇)が
あって、「くっつけて、散文でいこうぜ(引用ではない)」みたいな考え方(北川冬彦)
があって、それで実験として、訳のわかんない現代詩である「TEXTES」があった。と。
考え方は分かるけど、既に過去のもので、今の目で見たら、つまんないよ、って感じです。
124 :
ボルカ:03/02/08 12:05 ID:dFzToqab
「マルドロールの歌」に、
彼は・・(中略)・・手術台上におけるミシンと洋傘の不意の出会いのように美しい。
っていう一節があるじゃないですか?北川さんは引用していないけど。
あれを読んだときは僕もびっくりし、イイ!と思ったけど、アレは、あの山を
越えるためにすごい助走を走り抜けるんですよね。
「TEXES」が面白いかどうかは、詩集でしか評価できないと思うけど、引用部分
は、たしかに面白くない。
125 :
ボルカ:03/02/08 12:12 ID:dFzToqab
でも、最近、現代詩をポツポツ読み始めた初学者として言うと、北川さんのこういう
紹介って、すごく親切ですよね。
なんの知識もなしに「TEXTES」といきなり向き合った場合、「わかんないや」で
投げちゃうかもしれない。
北川さんがこんな風に紹介してくれると、「北川はああ言ってたけど、他に潜んでる
ものは無いんだろうか」って目で見ていけると思ました。
126 :
ボルカ:03/02/08 17:36 ID:DFKqfsKK
************第4章 詩作品の<語り手>とは
さて。ここでは正確な読解や要約をあっさりあきらめて、僕自身の感想を述べて
いこうと思います。
僕はこの章で北川が言っていることに90%まで同意します。
詩において、<語り手>ってなんだろうか、それって作者と違うの?みたいな話が
ときどきあると思います。
そのたびに僕は不思議に思ったのですが、それは言うまでもなく別のものです
よね。違うと思う方が本当にいるのでしょうか?
前回、<視点>概念について補足しましたが、作中の<視点>の位置、すな
わち、その行で発言している<主人公>も、もちろん<語り手>および<作
者>とは別の概念です。もし、そうじゃないとすると、セリフということは
成り立ちませんし、視点の変更ということも有り得ません。
127 :
ボルカ:03/02/08 17:38 ID:DFKqfsKK
そんなの、あたりまえじゃんか、と思うのですが、北川によると、それほど自
明でもないみたいです。
これは本当の話なんですが、僕はこのことをあまりにも自明のことと考えて
いたものですから、<作者>と作中の<わたし>は同じものだ、と言う書き込み
があると、わざとばかげたことを言う<アラシ>と見なしていました。誤解だったか
もしれません。まじめな意見だったのかも。場をお借りして謝罪しておきます。
これをちゃんと言ったのは、入沢康夫で、それは既に20年も前のことだった、
と北川は言っています。
たった20年!
そんなものなんですね。
なぜ、そんな状況だったのか、と言えば、それはやっぱり北川が言ってるように
日本には短歌があったからだろう、と言う気がします。
短歌は作者の感慨を歌うものだ、という考え方がありますよね。
北川はこれを佐左木幸綱や岡井隆の引用で示します。
128 :
ボルカ:03/02/08 17:39 ID:DFKqfsKK
でも同時に面白い突っ込みを入れています。
>東海の小島の磯の白砂に
>われ泣きぬれて
>蟹とたわむる
いったん、「むろん、(中略)蟹と戯れているのは作者であろう」とした上で、
北川は、「しかし、(中略)蟹と戯れていては文字を書くことも出来ない」と突っ
込みます。
短歌の<わたし>については、寺山修司が面白いことを言っていた気がする、
と僕は思うのですが、寺山を読んだ頃、僕はアタマがちょっといっちゃって
たんで、何も思い出せません。
129 :
ボルカ:03/02/08 17:40 ID:DFKqfsKK
しょうがないので、小説家の大江健三郎が「わたしという小説家の作り方」
という本で言っていることを紹介します。
彼はユゴーの「死刑囚の最後」に言及して、じゃあ、これは誰が書いたんだ、
みたいな突っ込みをいれます。へんですよね。
<わたし=作者>が、死んでしまえば当然、報告はできませんし、蟹と戯れて
いる作者が、現在形で「たわむる」と書くことが、事実そのものであったわけが
ありません(たわむれり、とか言えばいいのかもしれないけど、ぶちこわし
ですよね)。
まだ先もあるのですが、
<作者>、<語り手>、<主人公>
この3者が別のものであることをまず簡単に同意して置こうと思いました。
130 :
ボルカ:03/02/08 17:41 ID:DFKqfsKK
僕の独自の意見ですが、これは別に詩にかぎらず、ニュース記事でも、日記でも、
手紙でも、およそ文章であれば全部、そうだと思います。
ところで、北川さんは、入沢のこの主張(詩的構造論)と天沢退二郎の(作品行
為論)をめぐって論戦を張っていたとのことが、回想されています。
僕は北川透のことが良く分かっていないまま、この本を読んでいるから、びっ
くりするわけなんだけど、「凶区」って言やあ、泣く子も黙るし、ゲバ棒も引っ
込む、伝説の最強ポエマー集団ですよね。
入沢と天沢に一遍にケンカ売るなんて歌舞いてるよねー(笑。
******
131 :
ボルカ:03/02/08 17:44 ID:DFKqfsKK
以上が、
4章「詩作品の<語り手>とは」
を、めぐる僕の個人的感想ですが、この章で本当は<イロニー>概念と<ずらし>に
ついて整理すべきだと思う。でも、僕はボードレールについては、「悪の花」と
セキラのココロの上っ面を読んだだけだから、ちょっと荷が重いんですね。
両方とも手元にないし。
誰か、ボードレールの<イロニー>概念を解説してくれる人、いませんか?
132 :
ボルカ:03/02/10 23:00 ID:fiQBckSK
あ、ふと思いついたんだけど、「詩ってキモイ」という意見が、あるそうですね。
あと、「詩を書くことって恥ずかしいことだ」っていう感覚も実在するみたいで
すね。
別にあってもイインですが、そうした意見は、<作者>=<語り手>という
とんでもない誤解を前提にしている場合があると思います。
133 :
ボルカ:03/02/11 18:30 ID:DZNkYKxl
うーむ、
>>131 ボードレール苦手なんですが、フォローしてくださる方がいない
ので、やってみます。間違えるかもしれないから、詳しい方いたら、お気軽に
突っ込んでください。
***********
「イロニーに関連する一般的な補足」
現在、僕が使用できる詩的レトリックとしてのイロニーには、2種類の戦略があ
ります。個人的な観点から、イロニーについて北川の叙述を若干補足します。
一つは、「イロニーの矢は、遠いところから飛来する」というものです。
X氏にイロニーを仕掛けるときは、X氏が、それがイロニーであると気がついた
瞬間に、X氏の胸にイロニーの矢が突き立っていなければなりません。一瞬遅れて
もダメだし、一瞬早くてもダメです。そうでないと、X氏に読んでもらえません。
遠いところからイロニーの矢を放つためには、その遠い空間を高速の矢が疾走し
うるような、大掛かりな発射装置が必要になります。それが「伏線」です。
伊藤ひろみの詩には、この種のイロニーを見ることができますが、こうした詩人
は少ないような気がします。むしろポー以来、これは推理小説で練られた技巧であ
り、またギリシャ劇の「オイディプス」や「女の平和」で炸裂している手法だと思
います。
134 :
ボルカ:03/02/11 18:33 ID:DZNkYKxl
もう一つは、X氏が、イロニーだかなんだかわからないうちに、後ろから
忍び寄って、いきなり刺す、という手法です。
>老人は 死んでください 国のため
これは最近、「手帖」誌上の対談で、たしか藤井貞和さんが紹介して
いた(曖昧ですんません)川柳ですが、この川柳を「老人を大切にしな
いとはけしからん」と言った人がいたそうです。
これはもちろん、小説風に書くなら、
>「老人は死ね」とお役人どもは言った。
となるわけですよね。「お役人ども」は、そう気がつく前に、一瞬ニヤッ
として、数秒たってから青くなるわけです。
気がついた時には手遅れですね。
135 :
ボルカ:03/02/11 18:34 ID:DZNkYKxl
僕はこの2種類のイロニーを、実際に遣って詩を書いています。
しかし、ボードレールのイロニーは、これとは全然違います。
まず、彼は「X氏」に向かって言おうとしていないのです。
********
136 :
ボルカ:03/02/11 18:36 ID:DZNkYKxl
彼のイロニーは、「こいつを斬る」というようなターゲットを持たない、
もっと分裂病患者的なイロニーだと、僕には感じられます。
この板にも幾つかスレッドがありますが、むしろ「少年犯罪」や「黒む
つ」関係で、「ダーク系」と呼ばれる種類のものが、ボードレールのイロ
ニーに近いのではないでしょうか。
僕の好きな作家で言うと、倉橋由美子の「雑人撲滅週間」から「聖少女」
へかけての一連の小説が
この種のイロニーを用いているし、この界隈では、「微熱君」氏の作品
の一部が、ボードレール風の良質なイロニーを用いていると思います。
最近見かけたところでは、「木」さんなんかもそうかな。
今、ボードレールが手元に無いので、マラルメから引用しますね。
********
137 :
ボルカ:03/02/11 18:39 ID:DZNkYKxl
*********
夜なき都で如何なる造花の月桂冠が
来たって影のように腰掛ける夜の女神のほどに
ボードレールの墓の大理石を祝福し得るか
うつろなその影をつつむおののく光被をうけた
女 故人の亡霊 そのためにわれら死ぬとも
永劫に吸うべき墓を守る毒よ
(マラルメ「ボードレールの墓」より部分)
*******
この「吸うべき毒」を詩的レトリックの言葉で言うとイロニーとなる
訳ですが、はっきり言って僕には使用できない技巧です。
本質では理解もできていないのでしょう。現在のトレンドとして重要だ
と思っており、否定はしませんが、自分とは傾向が違います。
北川透はこの技巧を「ずらす」ということの例として説明しています。
いずれにしても、<作者>=<話者>だったら、
>老人は死んでください国のため
の句も、イロニーとしては理解できないですよね。
作者、話者、主人公を峻別することが、イロニーを使用する必須条件
であることについては、僕は入沢にも、北川にも異論はありません。
138 :
ボルカ:03/02/14 21:48 ID:o2gExtKT
**************
第5章 『詩的意味論の試み』
**************
139 :
ボルカ:03/02/14 21:49 ID:o2gExtKT
僕は既に、1章および2章部分の感想として、自分がこ
の本における言語学的な言説の基本的な部分に同意して
いない事を述べました。
第一に、言葉の発生と意味の発生が同時であるという言
説に僕は同意しません。
第二に、「意味規範」を措定して、それに対する侵犯を詩
的行為と考えるのであれば、「意味規範」の実態をにな
う物理的何かが明確にされなければいけないのではない
かと、僕は思います。実際それは何処にあるのでしょう
か?
詩における公的領域とは何か、それは実在しているのか?
あるいは未来の課題として、どのように想定しうるのか?
という問題が問われない状況で「言語革命」という言葉
が何を意味するのか、僕にはわかりません。
こんな調子だったはずです。
140 :
ボルカ:03/02/14 21:51 ID:o2gExtKT
僕はこの本の山場は次章第6章「未知の像」ではないかと
思うのですが、そこでどうせ僕は、全否定の身振りをする
ことになるのではないかと思いますので、ここでは、僕の
ギモンはギモンとして脇に置いておいて、北川の主張を
丁寧におってみようと思います。
その前に、関係ないことを、北川の主張に、ちょっとだけ
付け足しつつ、僕のテキトーな感想から始めておきます。
彼の論理展開の紹介は、後日レポートします。
****************
141 :
ボルカ:03/02/14 21:52 ID:o2gExtKT
「ずらすことによって意味が発生する」ということ自体は、
別に言語学を持ち出されなくても、賛同できます。
詩に限らず、一般に記述とはそういう物だと思います。
XはYである。
と言った場合に、もし、XとYが同じ物だったら、
この命題には意味がありません。
同語反復になってしまうからです。
YがXと違う物だった場合だけ、この命題は意味を
持ちます。
A:人間は人間である。
もちろんそうですが、それでは意味がありません。
142 :
ボルカ:03/02/14 21:52 ID:o2gExtKT
B:人間は考える葦である。
人間と葦は、代謝系、身体構造、その他大きく異な
ります。だからこそBの命題は意味を持つのです。
>いい人は、いいね。
>うん。いい人は、いいよね。
「川端康成:伊豆の踊り子」
そりゃあ、そうだよね(笑)、と僕なんかは思って
しまうわけです。(手元に川端の本がないので不正確
な引用です。)
>国境の長いトンネルを抜けたら、そこは雪国だった。
「川端康成:雪国」
そうですよね(爆笑)と突っ込みたくなるのが、僕に
言わせれば人情というものです。せっかくトンネル抜
けても、雪国じゃあ、そのまんまですよね。
143 :
ボルカ:03/02/14 22:31 ID:o2gExtKT
ですが、それは僕が思うだけであって、一般には川端
は美文を書く作家とされています。つまり、日本の小
説作法においては、同語反復は別に悪い事ではないと
されているようです。
「でもよ。テメーラ、詩を書くんだったら、もちっと気の
利いた事を言えよな」と、いうのが北川の根本的な主張だ
と言う風に僕は理解しました(直接、彼がそう発言してい
るわけではありません)。
ところで、こうして好い加減に同意したとたんに、問題が
発生します。
144 :
ボルカ:03/02/14 22:41 ID:o2gExtKT
第一は、上記パスカルの言説(例文B)は、隠喩
といえるのか?ということ。
第二は、僕ら自由詩人は、本当に気の利いた事しか
言うべきでないのか、という根源的なギモンです。
(気の利いた事を言え、と言うのは僕の解釈であっ
て、 北川透自身の言葉ではありません。)
感想としては、そんなところです。
北川の論旨紹介は、後日やります。
それにしても、次章6章は、泣かせますよ。
僕は北川さん好きだなあ。
次章全否定でいきますけど。
6章はトテモ面白いから、読んだ方は、お気軽に参加してね。
145 :
名前はいらない:03/02/14 22:45 ID:gSd8rK1r
146 :
ボルカ:03/02/17 20:37 ID:2Br/ogc+
>>145 まあ、そうイウナヨ!
ちょっと疲れちゃったんで、しばらくお休みします。
147 :
ボルカ:03/02/17 20:52 ID:2Br/ogc+
そのまえに、ちょっと付けたしとかないといけないかな。
パンセの話だけど、あれを敷衍すると、「意味のある命題は、すべて
比喩である。」ってことになってしまう。
それはなぜかっていうことなんですが、要するに、北川が、「意味規
範」と読んでいるものを、僕がズルして、「論理」に摩り替えたから
なんだな。
ズルしたまんま、「このような矛盾が生じるのは、『意味規範』が日常
言語を理解しうる構造を考慮されていないからだ」と、言ってもいいと
思ったんだけど、そんなこといってもしょうがないってことが、なんか
しみじみ分かってきました。
しょうが無いと思いませんか?それは結局、もっと複雑な話をしろって
北川さんに要求することなんだけど、僕は北川さんのこの論述で十分だよ。
むしろ好感もつ。
てか、北川さんがこの本で述べていることが、僕には着いていけるぎりぎり
だな。なんつっても、詩の話をしてるんだから、そこから遊離しちゃ、読書に
ならない。<と、反省。
148 :
ボルカ:03/02/17 20:58 ID:2Br/ogc+
反省ついでに、全面的に反省しとくか。
中高生もいることだしな。
だいたい、学問てヤツは、どれもこれも、みんな未完成だ。
だから、例えば天文学者と分子生物学者と数学者と法学者と哲学者が、
同じ問題に違う答えを出していても、ちっとも不思議じゃないんだよね。
遠い未来において、真理が一致するかどうかすら、良くはわかんない。
だから誰かが、何かの学問を援用しているときに、他の分野から切り込む
ことは、ちゃんとした批評にはならないんだよね。
ここで北川は、言語学の話、それも三浦つとむとか、吉本とか時枝の話を
踏まえているわけだから、もしつっこむんなら、そういうルートからやる
のが正当なんだよな。本当は。
てわけで、頭冷やすためにも、暫く休みます。
進めたい人が、もしいたら、進めてください。>6章または5章からね。
で、雑談なんだけど、正直な話、僕はこの本は、現代詩について書かれ
た本の中で、一番面白いと思いました。
つっても、他に殆ど読んでないんだよな(笑。
「詩における公的領域」の話だけど、これは僕が今、考えていることなんだけど、
簡単にいえば、「文学史(詩史を含む)はどこで作られるのか?」ってことなん
ですよね。
でも、こう問いを立てて、答えが見つからないのは、別に北川さんのせいじゃない。
むしろ、この本は、そういう問いに答えるための作業をしている、って
感じがすること、しきり。
あ、あと「自由詩人」ってのは、この本を読んで、僕が思いついた
造語です。
僕は現代詩人じゃないなー、と思って。
151 :
かのっぴ:03/02/18 08:53 ID:+gglxrbd
とりあえずおつかれさまです。
『詩的レトリック入門』昨日ネットで注文したので
届いたら僕も参加できると思います。
ちまちま読んでます。
精読ってめったにやらないから、僕なんか、知恵熱が出ちゃうな。
てか、かぜ。
>>151-152 さんきゅ。ネットで読書会やるのって難しいですよね。
気軽にやるんで、気軽に参加してくださいね。
えーと、このスレ見て興味持ちました。。図書館で借りてきます。
やあ、ポチットナーーさん。
見てくれてありがとうございます。
嬉しいやね。
この本、青いです。
ふと思ったんだけどさ。
最近この界隈ではやりの「一般的基準」と、僕の問題にしている「公的領域」は
全然違うもの(ほぼ反対のもの)なので、それは我が敬愛するハンナのために言っ
て置かねばっ。みたいなかんじなのよね(どこかの場末DJ風に?)。
どう違うかってことは、僕はこれまでの人生で、一度も真剣に考えたことが
ありませんでしたので、少なくとも数日は、考えてみないとわかんないんす
けど(笑。
いややっぱ、そのテーマで真剣には、一生、考えないけど。
なんつっても、お弟子主義は芸術の敵だからな。斬るのも剣の穢れさ。
子規は僕らの同時代人だぜっ、ベイベ。
とは言うものの、
いかいかってなっかなかのディベート上手だよねー(笑。
その点は評価。
正岡子規って言えばさ。なんであいつが同時代人なのか書いとくよ。
たぶん来ないであろうイカイカさんのために。
子規って、「月なみ」って言葉を作って、これを排した人って、中学校でだったかな、、
教わったような気が僕はする。彼ってコレによって誰に喧嘩を売ったんだか覚
えてる?
彼が書いたモノを僕も読んだような気がしてたんだけど、まったく忘れちゃっ
たな。
すでに触れてきた中で、北川さんのやってる紹介によれば、子規が批判し
たターゲットの一人が、松尾芭蕉らしんだけど、そうだったけ?
もし、そうだったらすごいなあ、と僕は思うのさ。
バショウだぜ?公儀隠密、お庭番の。サルトビ佐助とか、服部半蔵とかと
一緒だよ。
たいていのヒトが同意すると思うけど、芭蕉って言えば、既にヒトじゃな
いよ、妖怪。大体からして、基本が普通じゃない。
僕も印哲中退なんだが、あいつは、禅僧で言えばダルマキルティ、惑星で
言えばソラリス、刺客で言えば拝一刀とかのレベルだと思う。
子規は、そういう妖怪である芭蕉と対等の詩人として、正面から目をぐっ
と睨み付けて、何を言ったかっていうと、
「鶏頭が、何本だかしらねえけど、咲いてるんだよ」
と言ったらしいんだな、北川さんによれば。
歌に戻すと、
「鶏頭の 十四五本も ありぬべし」
こいつが仲間じゃなくて、誰が仲間なんだ?って僕は思うわけなんよ。
泉川伯爵夫人..。
最高にイイ詩人だったねー。
幕引きもカコイー。
昨日から1.5時間しか寝てない。。
とか、言ってないで仕事するか。てか、明日も締め切りだから、
今夜も寝られないよ。
泉川さんは、目の毒だったな。いわゆる「疲れマラ」(笑
160 :
かのっぴ:03/02/20 22:49 ID:3ihM9hwI
烏賊以下君の場合、背後にミシマユキオという妖怪の影が見えたり見えなかったり。
妖怪に魂を奪われる人と妖怪に喧嘩を売る人。確かに対照的ですね。まあ憶測ですが。
でもこんなこと考える時間は、本当は睡眠時間か勉強時間に当てたいかのっぴでした(笑)
詩的レトリックが届くまでの間、大岡信の『現代詩人論』でも軽く読んでます。
はろん、かのっぴさん。
彼ってばミッシー(造語)だったんですか。
みっしマウス、みっしマウス、みっし、みっしまうっ。って感じかな。
三島の偉いところは、勉強家だったとこっすよね。
ウイハクジュって人の「仏教汎論」ってゆう本が有って、多分今でも
学僧は読むキマリなんだろうと思うけど、ミシマがこれを読んで、実は難
解で全然わかんなかったらしいんですよね。
で、自信なくして、シュンとしながら、武田タイジュンと対談するん
ですけど、武田に「馬鹿」って言われちゃうんですよね。
武田は続けて、「ばか、わかるわけねえだろ。あの本は本当の馬鹿にしか、
わかんねんだよ。」とかってふうなこと言ってて、武田のひと言ひと言に、
一瞬ムカッときて、にこっとする、そんなミシマ青年の顔が目に浮かんじゃ
うんだよな。
ま、可愛い奴ですよ。大岡と比たら。
大岡、、。
僕も読みましたよ。ギルドの読書会に参加しようと思って。
あの企画も惜しいことであります。いいメンバーだったのにね。
でも、大岡は守りが堅すぎだと思うな。
162 :
ボルカ:03/02/22 16:51 ID:bQ1vmR2M
2chでの話じゃないけど、この界隈のポエサイトでは、ここんとこ、
群青での審査員コメントに端を発して、「確信犯的」という言葉が流
行してたと思う。これについての雑感です。
僕はこれに関して、◎で、悪口は散々言っちゃったんで繰り返さないけど、
個人的な戦略としては、かなり親近感を覚えるんだよね。公的発言として
あの文脈でみたら、「やっぱ、そりゃねえだろ」、みたいなだけで。
163 :
ボルカ@:03/02/22 16:52 ID:bQ1vmR2M
つまり、ネットポエムの周辺っていろんなMLが流れてるじゃないですか?
基本的にMLは会員制だから引用しないけど。
(でもメルマガっやつは、東大の青空とかみたいな学術系MLとは根本
思想が違って、雑誌に類する公刊物なんじゃネーノ、みたいな疑問はあ
るんだけど、そのへんのネチケットって曖昧だよなー。)
あーゆうMLって確信犯的でない発言がダラダラっとたれ流されたりしてて、
結構やんなっちゃりしませんか?するな。はっきり言って。僕なんかの場合。
「反抗」だの、「パンク」だのはわかったから、具体的に誰にどうゆう喧嘩を
しかけるのか、はっきり言えよ、みたいなイライラが残る。
あと、中途半端に内輪受け。
「朗読がダメ」とか、「素人が詩人ずらしてワークショップやってるのは、
しょぼい」とか、言うのはいいんだけど、相手の目を見て、わかるようにモノ
を言え、みたいに思うね。誰に言ってんだか、わっかねえぞ、みたいな。
この発言もそうかもしんないけど(笑。
いやまったく。あの人気インテリ詩人は僕も結構好きで、詩集も持ってるし、
同人誌も買ってるし、なかなかいいんだけど、オナニー否定してるフレーズが
ときどきあるんだよな。
そんなくそ甘いリアリズムじゃ、俺たちは戦えねえんだよ。わかりますう?
みたいに、僕なんかは思う。
これから以降の章で、僕は北川さんを打倒しようと思ってるんだけど、
基本的に、北川さんってイサギヨクテ素敵な人だと思う、今日この頃。
BK1 本届けるのおそすぎ。まだ届いてないです>課題本
本当に怖い妖怪はそいつにやられたことさえ気づかない、ということは
大岡は確かに怖いですね。芭蕉ほどではないにしても。
まあ守りの堅い大岡と見比べれば北川さんのイサギヨサとかイカス暴走っぷりとか
よくわかるかなあ、とも何となく思っています。
誰かを何かを(たとえばオナニーとか)否定してそれだけでいい気に
なっている人の妖怪レベルはこの界隈のミッシーなみに低いと思うので、
まあちっちゃいおばけがたくさんいるなあ、と思っておくことにします。
ギルドのレビュウにスノビズムの発生メカニズムについて少し固い文章を
書きましたが、要は羞恥心を覆い隠す厚化粧でしかないと。
化粧はほかの一般人より(ほかの一般人なみに、かな?)自分をよく見せる
ためのものなので、何かと理由をつけて人を叩くこともよくあるわけで。
厚化粧 5センチ下にある素顔
内輪受けねらいって、「人並みにみせる化粧」のようなものだから、
はじめに喧嘩とはちがった力が作用しているのでしょうね。
「場」が期待する煽り文句を期待される通りに発してそれでOKとか。
やま★ばさんなんかその典型かな(あ、古巣の悪口言っちゃった@笑)
場の「外」に対しては喧嘩を売っていることになるけれど妖怪レベルが
低ければそれは力にはならないし。ちっちゃなおばけがまた一匹。。
167 :
ボルカ:03/02/23 14:06 ID:fq57XRE9
ミッシーってことば使ってくれてありがとう(笑。
僕、あのミッシマウスの歌、自分で結構、気にいってるんですよ。
歩きながら鼻歌うたったりして、、
>ぼっくらの ちいむの りいだあは!
書くとソショーだから朗読でやってみようかな。。
それも会場選ばないとやばいけどね(笑。
>まあ守りの堅い大岡と見比べれば
大岡が悪いってんじゃないけどね。彼の「現代詩人論」は教科書なんじゃな
いかという気がするんですよ。弱点さらけ出してまで、とにかく極限まで
行ってみるというスタンスは、あの本には無い。
「オマエラ、俺の屍を乗り越えていけ」
っていうメッセージが潜んでいないと、入門書としてはイマイチだと思うん
ですよね。
でも、ギルドの読書会システムはご発展を祈ってますよ、真面目な話。
かのっぴさんのレビューを読ませて頂くついでに、あの界隈を散歩してきます。
>スノビズムの発生メカニズム
どう論じておられるのか、そりはタノシミ。
*******
『素朴から』
さらに雑談。てか、とーぶん雑談です(笑。
やっぱり◎でなんだけど、最近、構造氏が、素朴とリアリズムと洗練について、
示唆に富むことを言っていました。
このスレッド
>>
http://jbbs.shitaraba.com/music/bbs/read.cgi?BBS=620&KEY=1040660342 で、それとは直接関係ないんだけど、僕も「素朴」が好きだった時期があった
ことを思い出しました。中野重治の「素朴についての覚え書」だったかな。
タイトル曖昧なんだけど、何度も読み返しました。
あのへんのプロレタリア文学のやつらって、いいこと言うよねー。切れば血の
出るような、とは、こうゆうことかみたいな感銘を体が覚えているよ。思想は
忘れたけどね。
ところで、昨年は北園生誕100周年のお祭りだったわけなんだけど、小林多喜
二の虐殺70周忌の年でもあったわけなんですよね。
で、僕は思うんだけど、多喜二はやっぱり良いよね、なんと言っても。
そういう趣味を持つ者として、詩の分野の評論とかを眺めて、気になること
のひとつは、プロレタリア文芸批評が、吉本で終わっちゃってて、あれはオシ
マイね、ってことになってるみたいだってことです。そういうもんかな?って
疑問があるんですよね。
形を変えて「詩と思想」誌とかで連綿と続いてるみたいだけど、中野が言っ
たような意味で素朴を目指すようなムーブメントはないような気がする。
中野が言ったようなってのは、つまり、何百年ももつ美術館の芸術をめざす
のではなく、歴史の中で消化され、忘れられる事を、むしろ誇りとするような
文学って事っす(僕の曖昧な記憶によれば)。
今、それについてどうこうって意見はもってないけど、ちょっとひっかかっ
てる事のひとつです。
*ギルドでのかのっぴさんの連載について
「連載初期の部分」
かのっぴさんの分析の意図を考えてみました。
経済人(原理に従いうる、偏見の無い人)としてネットサーファーが行動し、自分
にとっての良いポエムと出会い、最大多数の最大幸福を実現する。というより、将来
的に、そうなるように、そっちへ向かう。そういう人を応援するような、あるいはせ
めて邪魔しないような、フェアなシステム(サイト)の構築。
おそらくかのっぴさんは、そんなことを考察しようとしてるんだと思いました。
だとすれば、いとうさんのレスは、かみ合ってはいないわけなんだけど、彼の考察も
それ自体面白いです。
彼の問題意識は、「実際に売ること」だと思う。
転売できない消費財である「詩」について、その売買に市場原理を導入すると。たとえ
ば、本なら本として実態がある訳ですよね。保存したり見せびらかしたり転売したりで
きる。そうでないソフトそのもの(しかも決定稿として引用できないもの)を自由競争原
理下における適正価格で提供しようと、そういう無茶を考えているんじゃないかな。
拝読していて、もし、いとうさんの方向で考えるなら、方程式を簡単にする必要がある
のかな、と思いました。
つまり、一人あたりの「投げ銭」総額を決めておく。それは「参加費」として、徴収するわ
けです。その上で、100篇なら100篇に自由に割り振ってもらうわけです。
自由に行動する経済人から、いくら取るのか決めるのは、結構むずかしいんじゃないかと
思います。
自由にいくらでも、ってのはベンズカフェとかでやってるけど、あれはアノ店に入った時点で
空気ってのがあるじゃないですか?僕は最後まで全然払わなかったりするけど、そういうの
ちょっと歓迎されないでしょ(笑。
「ネット詩は売れるか」
自分の考えとしては、ネットでは当分、詩人は儲けなくていいんじゃないかな、と思ってます。
僕は「場」という事にこだわります。場に存在する事によって、初めて人は何者かになる。そ
れは価値として交換可能な「労働」とは、別の「活動」ではないか、と思うのです。
儲けるのは、会員制個人サイトで、出版コードに触れる作品をたのしむとか、詩集を出して
売りまくるとか、そういう別の形でやればいいんじゃないかな。
逆に、「場」は維持運営費を稼がないと、今後はキツインじゃないでしょうか。
僕は1つ考えてる事があって、コレで特許を申請してもいいのではないかとすら思ってる(笑)ん
ですが、それはつまり、リンクに対して課金することです。どうでしょうかね?
*ギルドでのかのっぴさんの連載に関連して
>愛について(すのっぶの発生)
このへんは、全く耳が痛いね(笑。
でも僕がギルドでスノッブな態度を取ったのは、愛されるためではないですよ。
実際、僕は一貫して皆様に愛されたいと願っているし、そう言っているんだけ
ども、うまくいかない。
なぜなのか、といえば、それは僕が馬鹿だからではなく、システムに問題が
あるからだ、と、大体そういうことを言う心理上の必要があったんですよ。
ところで、現代詩は閉塞しているとか、閉じこもってるとかって見方もあるん
じゃないかと思うんですが、僕はそうではないと思う。
現代詩は、ようするに終わったんじゃないかな。
終わったものに対して、僕らは花束を投げるべきなんだと思っています。
ちゃんと愛してやらないと、成仏しないよ(笑。
この間、「疾走詩篇」読んだけど、アレなんか、本当にイカス詩集ですよね、
最高に。
*******
雑談続行。
>171自己レス
「ネットポエムで儲ける方法」
マスゾエ氏がTVで言ってたことなんだけど、自分は外国に行ったら、2つの
ものの値段を聞くっていうんだな。
ひとつはマクドナルドのバーガーで、もう一つは売春婦の一晩の値段だという。
こういう話を国会議員がTVでして、それを見て国民がゲラゲラ笑う国ってのは
なんだかなー、と思うし、マックのバーガーが各国で販売戦略(おやつなのか、
主食なのか、デートの場所なのかetc.)も違えば、肉の厚さも違うってことを
知らない経済学者ってのも、なんだかなー、と思う。
でも、マスゾエの説はヒントにはなるよね。
つまり、どんな経済体制の国でも、需給曲線に乗ってしまう商品がある。
何かっていうと、「売春」なんだな。
ヒトが直接やる商売は、直接的な時間労働だから、価値として、それ以上を
問われないんだよね。
「詩」の値段はつけにくい。
でも、「詩人」はフツーの商品として売れるはずだよ。
横浜黄金町に、「ちょんのま」てゆうシステムがある。詳しくはいえないけど、
顔見世の簡易システムだな。
僕は「詩人ちょんの間」なら、金を取れるんじゃないかと思う。
で、特許申請中(嘘)の「詩人ちょんのま」システムだけど、
これは要するにストリートを一本誰かが作るのさ。
で、詩人は、ショバ代を払って、ストリートに小屋を建てて入る。
小屋の壁には、客引き用の自信作とかプロフィールとかを張っておく。
客と雑談を交わしてリターンを増やす努力をしてもいい。
客は、作品ではなく、気に入った詩人を買うのさ。
たとえばこんな注文を出す。
「春夫(25歳)が、同性愛の恋人である瑞彦にささげる
誕生日(3月10日)のラブソングを15行で書いてください」
「チョコレートの販売促進ポエムを30行以上50行以下で書い
てください」
もちろん詩人だってヒトの子だ(笑。
その日の体調もあれば、得て不得手もある。
でも、この種の商売は、人情商売だから、客にも遊び方があるはずで
それはだんだん形成されていくだろう。
詩人は、ここでは商品だから、店は選べても、客は選んじゃいけない。
そのかわり、努力しても限度はあるってわけさ。
どうだろう。
だれかちゃんと地回り役を張れる顔役がいれば、僕も小屋に入ってもいいよ(笑。
ちょっとわかりにくいかな。
作品じゃなくて、詩人の「詩作行為」を売るわけだから、
作品が客の気に入らなくても、もちろん、金は取る。
客も、作品そのものより、こいつにコレを書かせる、という
コミュニケーションを買うわけさ。
そんなんで客になるやつがいるかっていうと、いると思う。
少なくとも僕は、たとえば「いかいか」氏にオナニーの詩を
書かせたり、「みみう」氏に、友人の結婚式贈答用ポエムを
書かせたりするのに500円(一時間労働とみる)ぐらいは払って
もいいね。
うーん、いい企画。自画自賛だけど。
てか、独り言だけど(笑。
この企画を「詩人ジョイデビジョン」と名づけよう。
「ネットポエムで儲ける方法」つづき
いま、だらだらっつといろんなところを見てたんだけど、このテーマに関連して
ポエニクで「むいむい」氏がイイ!分析をやってますね。
まだ連載中で、彼は今、サブカルの一般論を終わったとこだけど、この連載の
帰結は、ぜんぜん違う方角から、僕の「詩人ジョイデビジョン(開発コード
ネームね)」構想に近づくものと見た!(適当な予想です)。
こっそり楽しみ。
どうなるかな。
詩は商品にならないけど、詩人は商品になる。
これがポイントよん。
「素人」が風俗で商売になるように、ヘッポコ詩人にも、大詩人にはない
商品価値があるし、適正価格がある。
てか、もちろん、商品としてだけ僕らは存在するわけではないけど、
そういう遊び方もできると思うんだよね。
詩人ジョイデビジョン構想、楽しく拝見しました。人が売春に求めるものも
ものすごく多様ですよね。そう考えるといろんな「詩人」に活躍の期待が
あるでしょう。
唯一感想をくれたいとう氏に素っ気無いレスをしてしまったので彼を怒らせて
しまったか心配。今日のメルマガの荒れっぷりが尋常じゃなかった(笑)
一応誤解があったら解く意図もこめてレビュウに書き足しておいた。
そこにも書いたけれど、僕も詩が商品になると思っていて、このへんは
ボルガさんと考え方が違う部分です。ただ実際に売ることを考えるいとう氏とも
違って、「無理に」売るこたぁない、売れなきゃ売れないでいい、「フロー」
に対価なんて誰が払うもんか、観客の人の良さを当てにするくらいなら
最初からただで見せるか金を取るかはっきりしろ!と考えているわけで(笑)
ギルドはいろんな実験が出来るシステムがあるのになぁ、と思う。管理者が
表に出なくなったのはいつからか、やっぱりあの時からか。
あんなことくらいで「場」を投げ出すな!と思う一方で、あの「場」の管理は
もんのすごいコストがかかっているだろうな、と思ってみたり。登録詩に課金する
くらいで丁度いいのではないか、と思ってしまう。
読者からの情報発信は、僕が次に作るサイトの大まかな構想でもあります。
「触発する批評」がこむずかしい部分を引き受けてくれそうなので、僕は
ネット上のポエムのレビュウでも書こうかな(笑)
本がやっと届いたようです。5章までちょっぱやで読んでみますね。
スノッブについてはまあ、軽く聞き流しておいてください(笑)
よく考えればこの言葉自体に「お高くとまった」「気取った」という
理解以前の偏見があるわけで、僕も決してその偏見から逃れている
わけではないので。どこぞのキワオちゃんも案外いい奴なのかもしれない。
ネット詩爆撃プロジェクトのときにセキフジコみたいに最前線でマシンガンを
乱射してくれていたらもっと好きになれたかもしれない(笑)
(彼が当時BBSの書込みくらい出来なかったとは言わせない。
何しろ自分のサイト持っていたんだから)。
ギルドは実質個人サイトですから。
184 :
ボルカ:03/02/25 21:26 ID:6S34WD3p
>>181 おっ。届きました?んじゃ、来週の金曜日から再開しましょう。
って別に無理に引きずり込むわけじゃないですけどね(笑。
気が向いたらコメントください>皆様。
5章の北川の論旨は、やっぱ紹介しとかないと、悪口だけってのはあまりにアンフェア。
てことで、5章のレビューからやり直します。
ご意見、ご感想いただけましたら、1から5章に対して突っ込んで下さい。
ええっと、3月7日からね。
185 :
ボルカ:03/02/25 22:09 ID:6S34WD3p
てわけで、まだしばらく雑談続行しましょう。
>スノッブについてはまあ、軽く聞き流しておいてください(笑)
愛されないことに理由を求めてはいけない。。ってとこが、僕の場合グサッと
きちゃいましたよん。
「Xさん、俺のこと愛してる?俺は愛してるぜ、迷惑だろうけど。」
みたいな感じがいつもある(笑。
このXに、少なくとも5人のネチズンがはいるんだよなー。
そうゆうディスコミを重ねて、「閉じこもる」言い訳のために、防衛的な論
理武装へ走る。戦略無き武装。しかし、武装以外に何ができる?ああ、おい
らたちに明日は無いのね。。
それがスノッブの負の側面かなあと思って、、、笑えないなあ。
186 :
ボルカ:03/02/25 22:25 ID:6S34WD3p
>>185 ああ、文章ってむづかしいね。185は意味不明なために、誰かを当てこすった
ようにも読めるかもしれないけど、別に誰にも悪意は無いよ。
てか、僕はむいむいさんのスノビズムは結構好き。
しかし、雑談もいい加減長くなったけど、まあいいか、とも思う。
>>183 ポエムの公的領域は、案外この界隈なのかもしれないですよね。
てか、ここで僕を含むみんながやってる「著作物のアップ」が、本来認知されて
いないアングラ活動であるのは「けんひこ」氏の指摘を待つまでも無いけんだけど。
「労働と活動について」
労働、仕事、活動。
フリーウェアの存在は労働概念を根底から覆す、なんて思うんだけど、
もともと、対価労働じゃない「活動」は大抵の人がしてますよね。
政治活動、言論活動、ボランティア活動、クラブ活動、余暇活動。
最近、僕がかぶれている思想家によれば、国民国家は「労働」が
他の「ありかた」を圧して公的領域を占拠した社会形態だという。
そう言えば、外交官も首相も天皇も、賃金を支給されて時間労働
しする「労働者」ですよね。経営者だって労働してるし。
「活動」するってのは、人生において重要だと思うな。
もちろん労働も必要だけど。
ところで、詩作とか作品発表とかってのは、本質的には
活動だと思う。
「生活」は本来二つの側面を持つべきで、公的生活と私的
生活があるんじゃないだろうか。現代では私生活しかない
けど。
著作権とかって議論は、なんでも労働=対価でモノを量る
この社会のシステムが必要とした議論であって、本来、
芸術活動は生活の一部であって、対価労働とは本質が
違うってのが、僕のいまんとこの考えです。
スレと見比べつつ少しずつ読んでますが、みなさん視点が鋭いですね。
こりゃ気合い入れて読まないと。来週の金曜日ですね。了解です。
実をいうと「活動」が経済学で表現することがとても難しいので、
僕もあの分析では供給曲線側(詩人側)の話は棚に上げています。
詩作が「労働」だったならばもっと話は簡単だったのですが、さすがに
僕もそうは考えられなかったです。
>かのっぴさん。
いやあ、こうして地下スレ住まいしてると、ご来訪まことに嬉しいっす。
レスありがとうございます。
そうですね。かのっぴさんは供給曲線の話と、価格変動による需給バランス
移動の話をまだ始めていませんでしたよね。
僕がちゃんと読めてないのが露呈しました(笑)。ギルドの連載は楽しみに
拝読させていただきます。
自分の考え方を長々、しゃべりましたが、「詩を売る」という思想や
行動そのものの可能性は、どんどん試みられたほうが楽しいと思います。
ネットで詩を売るという実験(思考実験を含んで)のゆくえは、とて
も興味深く思います。
それから、批評ってのは、これは確実に売れる商品だともいます。
シーン批評(批判)まできっちりやる、骨のあるポエム批評のメル
マガが欲しいなあと思います。
さあって、ちと宣伝させてもらうかな。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
194 :
ボルカ:03/02/27 21:41 ID:2E7wf1Fq
このスレッドの読書会は現在中断中ですが、
3月7日、第5章から再開します。
読んでない人も参加OKですよん。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
195 :
ボルカ:03/02/27 23:04 ID:2E7wf1Fq
で、今週は雑談ね。
古本屋で詩集買いまくり。100円*5冊=500円。
可哀想なくらい安く売られている。初めて見るような名前の詩人さんたちの詩集。
なかには贈呈の際の手書きのメッセージが入ったものまで。そんなに親しい人から
もらった詩集を古本屋なんかに売り飛ばすない!売主を探すことができるなら
探して説教してやりたい。全くっ。
でもこの5冊、僕から見ればいい買い物をしたと思うんだなぁ。
マンガ喫茶がこれだけ流行っているご時世。時間制で読み放題という
アイデアだけ応用して、「ポエム喫茶」なんてもの誰か作らないかなあ。
作ったら通う!通って通いまくる!!
棚にずらーーーっと詩集を並べて、図書館や古本屋っぽくならないように
棚は低く見通しよくして、店舗面積の5分の1くらいにおさえる。
残り5分の4はテーブルを配置して、紙コップのドリンクの自販機と
ポットを置く。食べ物の持ち込みは自由。時々リーディングのライブとか
やっちゃう。投げ銭形式でも導入するか(笑)
あるいはもっとおしゃれな食べ物や飲み物のメニューを用意して喫茶店、
カフェの雰囲気を演出してもいい。料理がおいしければ話題になるかもしれない。
平日のランチで客をつかめば口コミで人気が出る!
詩集は、その土地その土地に地道に活躍している詩人さんがいるから、
そういう地味な同人誌や詩集をその土地ごとにそろえる。もちろん
谷俊やよしますのような有名どころは外さず、あいだみつをや銀色夏生
もぬかりなく準備!
って、こういう店でも作って目に触れるように置かない限り、絶対に
注目を浴びそうにないんだなあ。今日買った詩集の詩人さんたち。。。
半自費出版って、殺人的なぼったくりだよね。驚いたよっ。
http://www.246.ne.jp/~office36/j_kai_10_04.htm 詩集を出したい人向けに、「工芸講座 製本」ってのがあればいいなあと。
印刷はPCとプリンターでいろいろ出来るし、両面印刷とかの技術も
これからどんどん発達していくから、個人である程度できる。
あとは製本技術なんだな。で、そんなに大規模に売ろうというのでない場合、
安全在庫として10個くらい作っておいて様子を見て、注文があれば作り足す、
というような柔軟性もあるもんね。これならネットポエマーも気軽にできると思う。
工芸だから趣味的な楽しみもあるところがおいしい。
製本業者が工芸講座やったらもうかるだろうなあ。何かと原価を低く押さえようと
そんな交渉ばかりして製本の仕事に敬意を表さない大手出版社のセールスと違って
製本を勉強しようとする人は仕事に敬意を払いまくりだよっ。
199 :
ボルカ:03/03/02 00:10 ID:y8/duPiB
実は、僕は「自作詩集の作成及び販売の相互扶助」だけをやる「文芸部(
同人誌ではない)」の設立を提案して、仲間を探しています。しかし、
1)僕の手作業能力や事務能力がゼロにちかいこと、
2)僕に人望が全然無いこと、
3)てか、会話も下手なこと、
4)今忙しいこと、
などの理由で挫折中なんですよね。残骸は自サイト
http://www.mars.dti.ne.jp/~zoball/index2.htm >>198 そうですね。土日とかにやって欲しい。
****
でも、どうなんでしょうか?
100万から300万弱出すのは、高級製本で有名出版社から出す時の相場だと
思ってたけど。
200 :
ボルカ:03/03/02 01:08 ID:NdvI/njU
>>197 国分寺で降りてしばらく歩くと、「邪宗門」という喫茶店があって、
客層は、昼間は外語大と白百合女子大の学生さんたちと地元の主婦
が中心ですが、夜はポエマーの溜まり場になっています。
せまい店ですが、600冊ほどの稀購書をふくむ詩集と関連研究書で
飾っていて、希望すれば読むことが出来ます。
また、予約すれば自主セミナーを開催することも出来るそうです。
201 :
ボルカ:03/03/02 01:12 ID:NdvI/njU
>>200はうそです。ちょっとホントっぽかった?
モデルの店は別の駅に有るけど、本は壁を飾ってるだけ。
もったいないよなー。
てか、皆様のおかげをもちまして、200レス行きま
したね。ありがとうございます。
詩人がどう行動するか、みたいな話は、
とても自分にとって切実なテーマではあるのだけれど、
自分の過去を考えると、あまり大きなことは言えない。
路上で詩を売ってみたり、大学でサークルを立ち上げてみたり、
有志で同人誌を作ってみたりしたけど、みんな中途半端に投げ出してしまった。
理由はひとつ。僕の言葉が、不特定な誰かには届いていない、という実感。
それを感じてしまうと、だんだん億劫になる。
何のために書いているのか分からなくなる。
恋人とか友人とか、特定の誰かのためにならば書けるし、
届いているという実感もあるけど。
なんか、それが根本にあって身動きがとれない。
そんなの、子供のたわごとでしょうか?
203 :
ボルカ:03/03/02 02:44 ID:NdvI/njU
>>202 >僕の言葉が、不特定な誰かには届いていない、という実感。
僕はそれを、「詩における『公的領域』はどこにあるのか?」という
言い方で問い直してるんだと思います。
公的領域ってのは、「万人から見られる場所」であり、そこに姿を現す
ことによって初めて人が本当に存在するような、そう言う場所のこと
です。
詩においては、たぶん文学史とか、詩の雑誌とかが、そういう役目を
果たすべきもの(公器)だったんでしょう。でも、それは今、そこに
あるのか?
あるとしても、どうやってそこまでいけるのか?
いけないとしたら、僕らは公的には存在できないと言うことなのか?
ということについて、、、まあ、ゆっくり考えましょう。
204 :
ボルカ:03/03/02 02:48 ID:NdvI/njU
>>202 僕が高校で立ち上げた文芸サークルは、10年間に3号まで出しました。
数部ずつだったけど。
「主義者試論」
>>
http://book.2ch.net/test/read.cgi/poem/1046600325/l50 試論っつか、論じる前にまず誉め称えたいと思います。
主義を持つってこと自体、現代ではなかなか難しいし、ここへ貼ることは
主義者として当然なんだけど、本当に主義者なんだなあ、と思いました。
今度、あいさついこっと。
主義とは何か?
よく覚えていないけど、サルトルは、「主義とは、思想のために、不利益をうけ
ることを受け入れる態度である」みたいなことを、なんかで言っていたと思います。
「金を出す」てのは、確かにひとつの主義ですよね。
俺は金なんか一生、いらねえっ!テメーラに全部くれてやるっ!
と断言すれば、なお素敵な主義者といえましょう。
サイト管理者ってのは、みんなシーンの歴史的展開のために、無償で労力を提供し
ているわけだから、みんな実際には、「主義者」なんだけど、自覚していないし、
遊ばせて貰ってる側からも、見えにくくなってる。
僕は以前から、サイト管理者ってのはもっと、威張ってもいいし、尊敬されるべき
だと思ってました。
イイシステムだと思う。
>俺は金なんか一生、いらねえっ!テメーラに全部くれてやるっ!
哲学者のウィトゲンシュタインは、「金銭は哲学の邪魔になるから」という
理由で、叔父の遺産を、みんな詩人にあげちゃったそうです。
あと、武者先生も、彼の「自然主義」のために相当つぎ込んでいますよね。
別に全財産じゃなくてもいいんだけど、そうやって「支出する人」はえらい
と思う。そう言えば、90年代の演劇シーンとかも、OLの皆さんとかが、小
銭持ち寄って支えてた感じですよね。あの人たちってえらいと思う。
ちなみに僕は、思想家ないし活動家であって、主義者ではないけど、それはそれ。
そう言えば、何百万も払って300冊ぐらいの詩集を出す詩人も、本当にえらいよ
なーと思う。5,6冊出すつもりなら、一生アパート住まいの危険を冒すって
ことでしょ?
この国においては、残念ながら文化って言うのは、どのシーンでもこういう人たち
が支えてきたんだと思う。
自分が同じ戦列に加わるかどうかは別として、その悪口は、言ってはいけないと
思うんだな。
人がいる場所は、どこでも切なさがつきものですよね。
しかし、このセツナサがポエムの故郷なんだろうな、やっぱり、と思う。
「他者」の実在を信じるってひとつの「主義」だと思う。
まてよ、それが「実存主義」だったかもね。
thisさんのサイトの名前がキルケゴールの著書の名前から取られているのって
意図はわからないけど、なんとなく象徴的。
209 :
かのっぴ:03/03/04 01:15 ID:DxwCQtR3
>この国においては、残念ながら文化って言うのは、どのシーンでもこういう人たち
が支えてきたんだと思う。
>自分が同じ戦列に加わるかどうかは別として、その悪口は、言ってはいけないと
思うんだな。
これ耳が痛いです。どうも僕は同人誌「夏夷」の小原眞紀子ママンの激しさに酔って
あちこちで思いやりのないことを放言しすぎているようです。
>>198のリンク元です。
でも一方で文化を支えている人たちから不当にお金を巻き上げている悪い人がいれば
ちゃんと監視しなければならない、小原眞紀子ママンの川端氏に対する態度はその
正義感だったと思います。
詩人も人の子。おなかも空く。
そんなとき「おなかが空かなくていいやり方もあるんじゃない?」と言うことも
大事かな、と思ってます。もちろん受入れるかどうかは詩人次第だけれど。
ただ、文化がそれで小さい方向に収束してしまい兼ねないというのは確か。
一方で貧すれば鈍す、というのもまた一面の真理だったりする。
ううん、よくわからなくなってきた。。とりあえず主義者は応援する。
要綱があれだけしっかりしているところに、理想を追求する強さを感じる。
JUDGEとしてか、CRITICとしてか、まだわからないけれど。
僕は「運動」に強い憧れがあります。
時代性なんかはひとまず隅に押しやって。
単純な主義を表明することに躊躇しない態度で、
徒党を組むことはいかに可能だろうか、と。
「2ch主義」みたいなスレでも立てたい気持ち。
たとえ擬製(擬勢?)のようであってもいい。
そういう分かりやすさを、僕は求めたいのです。
「運動」としての詩作ならば、
誰にどのように何を届けるのか、ひとまずは明確になるのではないかと。
>>202 ひとりではなく、複数でやるということも重要。
「公的領域」をむりやり開くって寸法。
211 :
ボルカ:03/03/05 00:26 ID:3jxA1OAM
>>209 いや、かのっぴさんの言ってるのは別に異論ないっすよ。
むしろ、こうゆう掲示板とかで、XX社で出版するとXX、その代わり
XXというメリットがある、みたいなことが、萎縮できずに情報交換
できると、僕もだけど、実はみんな重宝したりするんでしょうね。
あと、あのママンはいい感じだね。クラブの女王様でも、なかなか
泣くまでは苛めてくれないんじゃないか(笑。しかも、このケース
では、味方の立場だよね。
販売代金の回収の話も、実は実感することもあるよ。個人で本屋さん
を毎週とかに回るのは本当に大変だ。ママンの言うとおり、まとまっ
た売上があるなら、できれば連絡して欲しいよね。
ただ、法的根拠はさておき、現実的には5年待ってくれれば、
かなり親切な部類じゃないかと、僕は思うよ。
なんつって、コレで小原さんと論争するのは避けたいけどね。
しても僕にメリットなさ過ぎだから。
212 :
ボルカ:03/03/05 00:58 ID:3jxA1OAM
>>202横レス
僕も、210の激辛さんの
>「2ch主義」みたいなスレでも立てたい気持ち。
>たとえ擬製(擬勢?)のようであってもいい。
>そういう分かりやすさを、僕は求めたいのです。
に賛成です。絶対誤解する人がいるだろうけど、あえて言えば、
僕は「派をなす」ということは、とても良い、むしろ必要なこと
だと思っているのです。
もう2、3年前になるけど、詩人の究極Q太郎氏が、手帖のエッセイ
で「芸術における徒党」というものの重要性を考えよう、というような
ことを書いていました。それは一見、悪いことみたいだけど、そういう
ふうに運動としてやるのが大事なのかもしれない、と。
そのころ僕は手帖はほとんど読んでなかったんだけど、このエッセイ
は、ちょうどシバン派が解体した時期だったから、とても印象的で、
今でも覚えてます。
誤解って言うのは、あの時もそうだったんだけど、ごくせまい範囲での
閉鎖的な分派活動なのではないか、と思う人がでるんですよね。
「2ch主義」なんて、本当はカッコいいんだけどな。
213 :
ボルカ:03/03/05 01:05 ID:3jxA1OAM
そうですね。
いつか、「2ch主義」って名前の同人誌を作れたらいいですね。
100万円とかかけないで(笑。
>>212 まてよ、年代が変。2,3年前ってことは無いはず。
記憶が間違ってるのかな。
後で調べてみよっと。
********************
ところで、読書会は、今週末から開始します。
215 :
ボルカ:03/03/06 22:30 ID:roBJI083
すんません、やっぱ、週末スタートにします。
仕事終わんなかった。
216 :
かのっぴ:03/03/09 17:39 ID:HXpGctyt
>ボルガさん
もし大変なようでしたら、要約手伝いましょうか?
第5章はだいたい読んだところで、どちらにしても自分で要点をまとめる
つもりでいますので。だいたい下記のようなキーワードで。
(1)意味(地上1階)
(2)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)
(3)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)⇔イメージ(地下2階)
(4)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)⇔イメージ(地下2階)⇔イメージ(奈落の底)
第5章は現代詩の意味規範からの逸脱の実験の成果がコンパクトに書かれていてよいです。
この分類で奈落の底までイっちゃっている詩に分類されている天沢退二郎さん
の初期の作品もわりと好きですが、黒田三郎も捨てられないな、とわりと節操のない私です(笑)。
>>216おっ。
ありがとう!
でも、僕のほうでも第3節部分まではまとめたんですよ。
せっかく書いちゃったからそれはアップさせてもらうけど、
かのっぴさんもお願いします。
この図表、すごくわかりやすい。
今週は、ダブルレポートでいきましょう。
第5章 『詩的意味論の試み』
この章は6節まであります。では僕は、第1から第3節までをレポートします。
かのっぴさんもお願いします。
第1節
意味のずれ
−引用−
詩作品は<私(作者)>が書く。しかし、<私>が書くということは、これまでにたくさんの詩が書かれた、その時間性の内部で書く、ということだ。(中略)その時間性の内部に入るということは、<私>と区別される、もうひとつの主格<語り手>を仮構することである。
(中略)
すぐにこのことから思いつくことは、<私(作者)>と<語り手>との間に、意味のずれが生じるのではないか、ということである。
―引用終わり―
最初、僕はこの冒頭の北川の記述の意図がわからなかった(意味はすぐわかる)。何度か読んでやっとわかったのだが、それは多分、以下のようなことだったのではないだろうか。
北川はここで、「前節においてわたしが言ってみたかったのは、以上のようなことである。」等と言っているが、これはウソだ。ここで北川は4章までと違う新しい思考をこっそり導入しているのだ。
−私達は、自分が自由にスタイルを作って詩を書いていると思っている。だが、本当はそうではない。私達は本当は、その時代の詩人が選びうる規定のスタイルでしか創作できないのだ。このようにスタイルに縛られてあることの自覚が、詩人と文学史の間にドラマを生んでいく。
前回しつこく言ったように、僕はこの考え方に否定的だが、北川の上記引用は、こうした考えを下敷きにしていると考えないと、記述の意図が理解できない。
逆にそうであるとすれば、下記のように図式化して北川の考えをまとめることが出来る。
語り手>スタイル>言語規範からの逸脱>規定の現代詩のルール>時代性・時間性の内部
↓
↑
私(作者)>人物(個人)>日常言語のゆらぎと規定>言語規範の強力な支配
矢印のところで、かろうじて詩は日常に対して自由を主張するが、両方とも結局は不自由な規定のもとにある。私のように不真面目な人間は、普段このように考えないので、
理解しにくいのである。とくに他段階になっていて、レベルごとにどちらがより自由かが入れ替わっているのが北川の特徴であると思われる。
この図表を元にすれば、北川の以下のような記述も理解できる。
−引用−
詩作品の<語り手>は、<私>の無自覚な表現が、意味のずれを共通性の方へ惰性化しようとするのに対して、それをむしろ固有性のほうへ活性化しようとする。
―引用おわり―
人生短し、芸術は長し。人生のそのものや、わたしの身体そのものの方が、より直接わたし独自のものなわけだから、ふつうの生活感覚は逆じゃないか、と僕なら思う。
だが、北川の記述としてはコレでいいのだ。逆ではない。
―引用―
意味規範のもつ既成性から、自覚的に、あるいは方法的にずれるところに、詩的レトリックは見出されるのである。それがもうひとつの規範性であるとしても、
<私>と<語り手>とのずれ(あるいは違犯)を内在化している。
―引用終わり―
これも多くの方が逆に感じたり、前期の記述と矛盾していると感じたりするのではないかと思うが、
北川としてはコレで良いのである。
第2節
意味に違犯する関係
−引用−
現代詩のある流れは、この意味のずれをもっと拡大し、ほとんど意味のたどれない極限まで押し上げた。
―引用終わり―
と、北川は書き始める。
まず北川は、比較的、かんたんに意味のたどれる例として、メタファー(隠喩)の詩を上げる。
p147で吉岡実の「挽歌」を上げているのがそれだ。
ちょっと疲れてきたので、詩の引用は略させていただくが、この詩の場合、メタファーを意味に還元するのは難しくない。ようするに、「・・のようだ」に言い換えて理解できるレベルの比喩のことだ。
次からが問題で、ここから北川は超高速で「現代詩」を駆け上がっていく。
まず引用されるのは、入沢康夫の「季節についての試論」である。
この詩は、なんといっても、最高にカッコいい。僕は大好きだ。内的リズムが僕のバイオリズムに合っていて、読んでいると泣きたくなる。
今日はもう疲れちゃったので、引用しない(しても間違える)が、後日できれば(多分できないが)紹介します。紹介したいなあ。でも、全文書き取りって本当に苦手なんです。
テキスト持ってる人は、p150参照してください。
とにかく、この入沢の詩においては、メタファーを直喩に直して済ますことが許されない。それでは解釈できないレベルの表現になっている。しかし、イメージとして表現を読み取り、そのイメージを意味に解読することは可能である。
例えば、詩の中に「ゴム管に似た細長い夢の端だけが」という表現があるが、これは苦しい夜の夢のメタファーとして、イメージを媒介として理解することが出来る。
ここまでで、2節は終わる。
第3節
シンタックスのゆらぎ
―引用―
詩は、その意味のずれを詩的レトリックとして方法化する事で、その言語の制度的なあり方に揺らぎと流動を与えようとする。
―引用終わり―
ちょっと変に感じませんか?感じるかたは、先にあげたチャートを見てください。このチャートに寄れば変ではありません。が、生活感覚には逆らうように思います。
このように述べたあとで、北川は吉岡と入沢の先に上げた詩について、「メタファーとしての詩における意味の問題は、ここまでの論理で解ける」といいきる。
そして、天沢退二郎の「樽きちがい」を引用する。
がんばって引用しよう。
樽はペー中毒の道上でなら愛せる
ちぎれかけためだまはそのとき
砂まみれのよだれを引き伸ばし
首の長すぎる少女のチラと裂けた海面に
縄の先は触れては離れ
音のしない終わりの物語の輪を
短い針で放ちつづける (冒頭部分)
どうせ絶対間違っているから転載しないで下さいね。テキストお持ちの方はp156。
北川は以下のように批評する。
−引用−
<首のなが過ぎる少女>と<チラと裂けた海面>の接合は意味をけしあう。なぜなら、それは隠喩ではないからだ。(後略)
天沢の「樽きちがい」において<語り手>は、意味規範に違犯する関係を、イメージとして表すだけでなく、イメージを出現
させるメタファーと言う規範にも違犯する、語と語の偶然的な連結を作り出そうとしているのである。
―引用終わり―
一見複雑そうだけど、簡単なりくつですよね。要するに、「デタラメです」といってるわけです。従って僕は、表面上は、だれでも真似することが出来る、と思う。
ところで北川は、天沢のすごさを、新しいことをやった「衝撃」という文脈で評価しようとするが、これは賛同できない。いっぱしの詩人であれば、誰でも、いつでも、新しいことをやっている。
オリジナリティは、あって当たり前。「衝撃」の重要性は相対的に低いと僕は思っている。別の意味で天沢の詩はイイ!と僕は思っているわけだ。
北川自身もp158において近いことを言っているが、僕とは微妙にずれていっている。マネだってべつにいいじゃん、北川先生。手法なんて。天沢の詩は、今、僕が読んでもイイと思うし。
北川はさらに論を進める。
彼が次に引用するのは、鈴木志郎康だ。これは引用しやすい。
私は人妻が手淫していた
私は老婆が手淫していた
私は女性重労働者が手淫していた
私は人妻が手淫していた
私は牛乳びんが手淫していた
私は時計が手淫していた
(月:部分)
天沢よりさらにすすめば、もうその先には「語」の解体そのものしかない、と北川はいう。それを予感的に示したのが鈴木であり、この詩は、「文法」を違犯しているのだ、と。
―引用―
平叙文でも会話の言葉でも、語法の間違いはきびしくただされる。意味が伝わらないからである。しかし、詩は自覚的に文法に違犯する。詩はいみのずれを表現しようとしていても、
意味の伝達を目的としていないからだ。
しかし、助詞や助動詞の語法そのものの違犯は、すべての言語活動の基盤である言語規範そのものの解体につながるために、いわば<神の領域>に属する。
―引用終わり―
224 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :03/03/09 18:17 ID:qgGEHvYU
>>261 以上、尻切れトンボですが、3節までの僕のレポです。
かのっぴさん、レポ是非お願いします。
お互いのレポ読んで、来週、感想をつけあいましょう。
261の図表は、非常にわかりやすいと思います。
それにしてもうれしいなあ。
他の人も良かったらレポーターやってね。
かのっぴさんのレポートに、もし4−6節部分がフォローされていなかったら、
その部分は来週に回しましょう。
226 :
かのっぴ:03/03/09 19:33 ID:MuHy1JI/
>>225 そうしていただけるとありがたいです(汗)
とりあえず書いた分だけこちらもアップします。
=============================
意味の意味は意味。意味以外に意味に意味があるわけでなし。
意味の意味は書いても意味がないので省略(意味ない駄文失礼)。
(0)意味の周辺。。。第1節前半部分
まずこの章で使われている意味という言葉の周辺を、「意味のずれ」、「意味の詩」という言葉に
付された注釈から探ることから始めたい。注釈そのままでなく私が勝手にいじったものなので要注意!
「意味のずれ」
1.個人の発語は社会の意味体系からずれる(変なことをいう)。
2.社会の意味体系からのずれに何らかの制裁がある(バカにされる)。
3.制裁により個人の発語が社会の意味体系のなかに誘導される(仲間になって話し方のルールを覚える)。
4.1から3が繰り返される結果、個人の発語のうちある部分が社会の意味体系からはみ出したまま放置される(ストレスがたまる)。
5.社会の意味体系と個人の発語のずれを自覚しそれを表現する(詩を書く)。
「意味の詩」
春山行夫曰く「意味のない詩を書くことによってポエジイの純粋は実験される」とのこと。
この場合の「意味」は社会の意味体系をさすと私は考える。社会の意味体系に取り込まれる
言葉では純粋な詩にはならない、ということであろうと。
意味のずれ、つまり社会の意味体系からの逸脱の度合いが軽いものからあちらにイっちゃって
いるものまで様々な段階の具体的な例としていくつか詩が紹介される。この章の大きな構成は
このようになっていると思われる。
>>216 の(1)〜(4)に沿って読み解いてみたい。
227 :
かのっぴ:03/03/09 19:34 ID:MuHy1JI/
(1)意味(地上1階)。。。第1節後半部分
詩である以上、余白、改行、省略、不定形のリズムはあるが、喩法やイロニーが使われていないもの、だそうだ。
黒田三郎の「なくす」がそれに分類されている。この詩の第1連が紹介されているのを見る限りではこんな作品だ。
まず「酔っては/いろんなものをなくす/酔わなくてもなくす」の3行で始まり、4行目以降はなくす具体的な物が
あとに綴られる。第1連しか紹介されていないので本当にこれだけかはわからない。第2連以降を紐解く楽しみは
後にとっておこう。読者からも奪っちゃいけないしね。
ともかくこれが普通の日記や会話などと違う点はいろいろ見出せる。「酔ったからなくした」「酔わなかったのになくした」
という出来事の報告でなく「酔っても」「酔わなくても」「なくす」とすることで喪失という普遍的な現象が
描かれている点、またなくす物として「手袋」「ベレ」「蝙蝠傘」「長靴」といった物がランダムに描かれることで、
これらの具体的な物に喪失という普遍的な現象を象徴させる役割が付される点、ほかに2、3行に重複して書くことで
「なくす」を強調したり、物をたたみかけるようにぶっきらぼうに羅列したりする点があげられる。
一見意味の自明な「酔う」「酔わない」「なくす」「手袋」「ベレ」「蝙蝠傘」「長靴」といった言葉が、配列の
方法如何によって、「喪失」というオブジェを描く素材になっているわけだ。
<私見>
意味の自明な言葉を使った詩を軽視してはならない。むしろそういう詩を評することこそ難しいのではないか。
評するのは疲れるのでムリにやらなくてもよいとして、そういった詩を読み味わうために、これは役立つ視点ではある。
228 :
かのっぴ:03/03/09 20:59 ID:E30Su2ZW
(2)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)。。。第2節前半部分
見かけは普通の詩(地上1階の詩)だけれど、語り手が「私」について、普通はありえないと思える事実を語る、というもの。
もちろん地上1階の詩でみられた余白、改行などの効果もあるが、それに加えて暗喩によって意味規範(北川さんはこの
言葉を使っています)からの軽い逸脱が試みられる。言葉は地上1階にあるがオブジェは地下1階にあり、暗喩を解くことで
意味として解読可能な範囲にある。吉岡実の「挽歌」がこれに分類されている(作品及びその詳細な評は省略)。
この段階では北川さんの言うように「意味規範との回路を閉ざしていないばかりか、その回路が見えるような仕組みに」
なっている。語り手である「私」は「水死人」であり、水死人のまま世界の終わりの風景らしきものを語る。そういえば
「水死体」ではなく「水死人」であるところもポイントかな。水死人が呟いているか考えているか知らないけれど、
ともかく自らを「水死人」と呼び、「ひとつの個の/〜時間の袋」だと言い、「だれが確証」するかを問い(或いは反語?)、
「沈みの時」「旅の末」と状況を説明し、「太陽」と「夕焼け」と「恋びとのささやき」がない事を告げる
(無粋な要約でごめんなさい。浸りたい人は吉岡さんの詩集を読んでねっ)。非現実なりに世界観は統一されているので、
意味規範から逸脱したくない読み手も「水死体が語ること」「終末のような世界があること」さえ納得できれば一応
ついて来れる。想像を働かして読み味わい浸るところまで行くかどうかはともかくとして。
<私見>
このパターンの詩も多いのではないか。あるいは想像力を比較的自由に駆使できる人なら、オブジェが地上1階にあろうが
地下1階にあろうが、あまり気にしていないだろう。ていうか私はそうだ(笑)
229 :
かのっぴ:03/03/09 21:05 ID:digCPad3
うーーーん、要約は難しいです。(3)と(4)は明日以降にまわします。
かなり強引な要約ですみません。苦情等あれば何なりと。
230 :
ボルカ:03/03/09 21:30 ID:E5pxNpWF
どうもありがとう、かのっぴさん。おつかれさま。
できれば後日、地下4回までお願いします。
***********
5章部分までの、皆様のご感想、ご意見お願いします。
月曜以降、軽く相互レスしましょう。
231 :
かのっぴ:03/03/10 21:21 ID:aoNoK84p
(3)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)⇔イメージ(地下2階)。。。第2節後半部分
(2)の吉岡実の詩までは「意味のずれ」であり、意味規範との回路は開かれていたが、ずれの程度が
著しくなると意味規範との関係は閉ざされ、もはや暗喩を解くことで解読可能というわけにはいかなく
なる。入沢康夫の「夜についての試論」がその例として紹介される(作品および北川さんの評は本文参照)。
語り手としての「私」がいるわけでなく、統一された世界観があるわけでなく、むしろ北川さんの言葉を
借りると「どこにも中心が来ないようによう分散的にイメージを配置」している。(2)の地下1階の詩
では、暗喩で示された世界の中での秩序ある意味の体系を読者は見出すことが出来るが、(3)の段階に
なると、作者がその暗喩のなかでの秩序も注意深く排除するよう、つながりを見せないように言葉が配置
される。こうなると地下1階に降りることでは、つまり暗喩の解読作業ではお手上げといったところ。
たとえばさらに地下2階に降りてイメージをつなぎ合わせる作業を読者はするはめになるだろう。でもこれ
によってさえ詩にたどり着くかどうかは疑わしい。
ただ注意深く秩序を排除するように配列された言葉が、互いに積極的に消しあうところまで行っていない点で、
まだこの段階では、2階に踏みとどまる可能性も残されている。
<私見など>
「意味⇔イメージ⇔イメージ」の図表は北川さんの記述から借りたものだが、北川さんとてこれによって解読
できるかどうかは補償していない。容易にたどりつけないことも、北川さんほどの人がこれだけ慎重にならざる
を得ないのも無理はない。読む目的がたとえば星を線でつなぐような意味の秩序の再構成にあるとするなら、
そういう読まれ方をこそ作者は拒絶しているのだから。(3)の段階からついて来れない人も多くなるのかな。
ネット上の批評で「OOの次に唐突にXXではわからない。下手糞。」というような酷評(?)をたまに見かける。
でもそれが健全な姿だとは思う。皆が皆、イメージをつなぎ合わせる作業を無理にする必要も無いのだから。
下手すれば「イメージのつなぎ合わせ僕ならこうやるね。陳腐な君たちにはわからないだろうけれど」なんて
公言する詩壇ゴロも出て来かねないし。
232 :
かのっぴ:03/03/11 21:12 ID:04GHb7Fu
※「奈落の底」の前に。。。第3節前半部分
さていよいよ奈落の底だが、その前に第3節前半は少し丁寧に要約する必要が
ありどうなので。といっても突っ込むとわけわからなくなりそうなので、適度に。
第3節の前半では吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の、
言葉の意味がわからないという逆の側から言葉の意味に接近しようとするアプローチが紹介
される。意味がわからない例として吉本があげるのは(1)古事記の古典詩、(2)
島尾敏雄の小説「夢の中での日常」の隠喩的な表現、(3)清岡貞行の詩「氷った焔」の
シュールレアリズム風な表現の3つ。
<私見>
北川さんがあとで吉本とは別のアプローチをとるので何のために紹介したかはよく
わからない。1200年を超える時の経過により言語規範そのものが大きく変化した
(1)は別として、(2)は吉岡の「挽歌」、(3)は入沢の「夜についての試論」
を題材に北川さん自身が論理を展開しても良かった(そうすればもっとわかりやすい)
と思うのだが。
あまりここに突っ込むと複雑になるので、北川さんが展開する論に絞って前半部分を
まとめてみようと思う。最初と最後だけ言えば「なぜ詩作品において意味は必ずずれる
のか?」という問いにはじまり、「言語表現における意味とは意味規範からのずれを
本質」とするもので、「詩はその意味のずれを詩的レトリックとして方法化することで、
その言語の制度的なあり方に揺らぎと流動を与えようとする」とする。意味が分から
ないというのは詩にとって本質的な問題、つまり意味がわからないのは当たり前、
ということになる。吉岡実の「挽歌」と入沢康夫の「夜についての試論」はもちろん
のこと、黒田三郎の「なくす」でさえ方法化された意味のずれが存在するので、意味規範
からはずれている。
233 :
名前はいらない:03/03/11 22:15 ID:T2LXIbBA
凹レンズ製の磁器の底で
純銀の木匙の呟きに融けた
微風が下くちびると
空蟻の翅を震わせている
234 :
ボルカ:03/03/11 22:31 ID:MtnW6Cxn
>>233 これは、かのっぴさんの分類で地下3Fのポエムですね。
イメージが像を結ばないけど、文法は揺らいでいないし、
美しい流れがある。
でも、まだ、かのっぴさんがレポート中だよん。
235 :
かのっぴ:03/03/11 23:17 ID:uDDxYn2s
(4)意味(地上1階)⇔イメージ(地下1階)⇔イメージ(地下2階)⇔イメージ(奈落の底)。。。第3節後半
おっと急がねば。「意味規範と発語における違犯の関係がさらに過激化され」た例として
天沢退二郎の「樽きちがい」のはじめの部分が紹介され、「もしこの先があるなら」と
ことわったうえで、文法もめちゃくちゃになった鈴木志郎康の「月」の一部分が紹介される。
これらと地下2階の入沢の詩をわけるのはどうやら、作品全体(あるいはあるまとまった部分)
のイメージを呼び起こすことが可能か否か、というところにあるようだ。あえて各作品から
1行ずつだけ引用してみよう。
「樽はベー中毒の道の上でなら愛せる」(天沢)
「私は牛乳びんが手淫していた」(鈴木)
天沢の場合、「樽」「ベー中毒」「道」「愛せる」は相互に全く関係のない言葉で、それを
助詞や助動詞でつなげることにより語と語の偶然的な連結をつくり出そうとする試みである。
個々の語の周辺でミクロ的にイメージの断片が想起されたとしても次に来るイメージからの
反作用がそれを破壊してしまう。
鈴木志郎康の場合は「私」が助詞の「は」を伴って主語となり、同じ行で「牛乳びん」が
助詞の「が」を伴って主語となり、その2つの主語を「手淫し/て/いた」の述語が受ける、
という小1の国語の先生が「それは違うのよお」とやさしく声をかけそうで中1の国語の先生
が「何考えとんじゃおのれは」と大きくバッテンを付けそうな構造になっている(小1は手淫
とか書かないかな、ま、いいや)。(続く)
236 :
かのっぴ:03/03/11 23:17 ID:uDDxYn2s
<私見>
文法の逸脱なんて些細なことのような気がする。天沢までイっちゃえばあとは奈落の底でしょう(笑)
と私は考えたので分類も2階より下は奈落の底にしました。鈴木さんのこの作品はそもそも奈落の底
までも行っているかどうか疑わしいと。「私は」を無視して読めば読者は安心して読めるもん(笑)
面白いのは引用した行くらいで。牛乳びんのオナニー、見てみたいな。それはともかく。。。
北川さんが文法からの逸脱を「神の領域」などとおどろおどろしく表現した理由もわからないではない。
文法からの逸脱はそれはもう厳しく統制されるから。国語の先生でなくても、日常的にこれを
やり過ぎると仕事も友達も逃げていくでしょう。それだけに表現として積極的に提示すると
インパクトはそれなりにある、と。
237 :
かのっぴ:03/03/11 23:25 ID:1PbmBuQ2
とりあえず以上にて私のレポートは終わります。4節から6節までは
またこの次、ということで。
238 :
名前はいらない:03/03/11 23:32 ID:T2LXIbBA
岩尾のせせらぎに
抗う重力を
手のひらで救い
歳月を葉脈の甲で拭うたび
アンテナが加速度を蘇生する
239 :
ボルカ:03/03/12 20:52 ID:o7kcjHu4
いやあ、ありがとう>かのっぴさん。
かのっぴさんが視覚的に話題を展開してくれたの読んで、僕の読みもずいぶん
深まりましたよ。
かのっぴさんの図は、北川自身の図を元にしているわけだけど、いっしょに
読んでいて、まず気が付くのは、やっぱり地下3F、そして、さらにその地下
(地下4F)、をどう考えるのだろうかってことですよね。
このことについて、隠喩から詩を眺めた場合は、少なくとも地下2Fの「夜の試
論」まではいけるけど、その先の詩を、とりあえず「意味の侵犯」として考える
ことはできても、この建築物とのかかわりは、この節までの記述では、わからな
いってことだと思います。
240 :
ボルカ:03/03/12 21:02 ID:o7kcjHu4
北川が「反-隠喩」をどう考えるかは、先の章で展開されますので、そのとき。
で、僕の意見では(北川のじゃなくて)、現代詩の牙城は、やっぱり地上1F
地下4Fで、さらにその地階(地下5F:これは次の4−6節)があると思う。
1F:意味
地下1F:隠喩
地下2F:高次の隠喩
地下3F:反-比喩
地下4F:反-言語
地下5F:反-思考(地獄)
こんな風に僕は思います。(北川自身は、3F以下をこの建物に入れていないのかも
しれない。その辺は後の章で検討したほうが良いと思う)
241 :
ボルカ:03/03/12 21:09 ID:o7kcjHu4
それと、「神の領域」は時枝基樹の連想だけど、北川は半分ギャグで言ってると
思います。でも、半分はマジメに、「そこはやばいぜ」みたいに思ってるふしが
ありますよね。
ところで、天沢をどう解釈するかとか、鈴木の逸脱をどう見るか、とか言った
点で僕とかのっぴさんとさらに北川も(笑)意見が違うけど、それは読む人の
自由として残したいと思う。
それより、かのっぴさんは、この「詩の城」を建造するとき、詩人たちが、
いったいどこに穴を掘り進んで地階をつくっていったのか、それは今でも
あるのか、見たいなことが気になりませんか?
242 :
ボルカ:03/03/12 21:16 ID:o7kcjHu4
僕は気になる。
で、考えてみたんだけど、この建築物は、天空の城、ラピュタなんじゃないかと
思うんですよ。
それは現在僕らがいる空間と、多分どこかでつながっているんだろうけど、この
僕が立っている土地に建造されているわけではない。
でも、どうやったらそこへいけるのか?そこへいくことに、どんな意味があるのか
みたいなこと感じませんか?
ものすごく才能のある人とかは、生まれつき、この城の中にいたりするのかもしれ
ないけどね。
あるいは、この城にかわるものを自分でつくりたいね、ってことなのかもしれない
ですよね。
243 :
ボルカ:03/03/12 21:28 ID:o7kcjHu4
たぶん重要なのは、この城が築かれたのが、ただの実験じゃなくて、それは
不可逆的な歴史上の事件だった、という点なんですよね。
40年前に、この話は事件として確定してしまった、これをなかったことにして
詩はかけない、ということだろうと思います。
にもかかわらず、それは僕の目から見れば、ラピュタなんだよなー。
あと5章後半の4-6節ででてくるけど、このラピュタを眺めていて思うのは、
この中で、上いったり下いったり飛び跳ねて遊んでいる子供が一人いるんだけど、
そいつはやっぱすごいね。
だれかっていうと、谷川。
それでは、ここまで、ご意見ご感想お願いします。課題の本を読んでない人も
ご参加歓迎。
ところで、
>>238のフレーズは地下2Fですが、どうしろと?
244 :
ボルカ:03/03/12 21:42 ID:o7kcjHu4
いや、どうしたいのかな(はあと)みたいなニュアンスで(笑。
なにも、凍りつかずとも良いんでないかしら?
みなさま、お気軽にご参加してね。
245 :
かのっぴ:03/03/12 21:42 ID:MmcthIaq
ボルガさん、どうもです。
なるほど隠喩だけでなく言語や思考との関係も探らなければ5章のこの先の
節の詩は捉えきれませんね。3F以下も考えていこうと思います。きっと
そのほうがやりやすいと思うし。
>>240 を参考に。
「詩の城」。あやしげでいいです(笑)
漏れは1Fの振りした、B5Fを目指しています。
247 :
かのっぴ:03/03/12 21:58 ID:YnhcFcOQ
誰がどこをどのように掘り進んで地階を作ったか、それは今でもあるのか。
気になりますね。特に「今でもあるのか」が。
小原ママンの豪気に惚れて同人誌「夏夷」を買ってしまったのですが、
ある詩人の評でこんな文章に出会ったのです。
「2002年を迎えた今日、20世紀後半の自由詩の世界を支え続けた戦後詩と
呼ばれる思想や書法の基盤(パラダイム)が消失したことに、異論を
唱える詩人はもはやいないだろう。」
(常同性について〜朝吹亮二論 鶴山裕司著;「夏夷」10号より引用)
思想はともかく書法のパラダイムってまさにこの建築物のことですよね。
それが消失した、しかもそれが今日の詩人の共通認識だと鶴山さんは
書かれている。感覚としてはわからないでもないです。ただ、ここまで
言葉のあらゆる組み合わせを網羅した体系のなかから、詩を書く限りでは
もう誰も抜け出せなくなっている気もするのです。そこで論じられる朝吹亮二さん
の詩がそのパラダイムを越えているかどうか、実際に作品を見るまでは
何ともいえないし、見ても私にはわからないだろうな、とも思うのですが。
248 :
かのっぴ:03/03/12 22:20 ID:sTYOKCaR
天空の城だから「ない」と言い張ることは一応できるとは思います。
それか、あのお話のシータとパズーみたいに滅びの呪文でぶっ壊そうと
する人もいるかもしれない。「天空じゃ人は生きられないの」とか何とか。
でも私としてはなくなっちゃ困るな、と思います。時々行ってみたくなる
場所ではあるから。そこにいる人たちはガリバー旅行記のラピュタに住んでいる
ような学者さんたちに見えなくもないですが。
249 :
都立 ◆MD76fFko5o :03/03/13 01:17 ID:z6CdeQuQ
横スレで激しく申し訳ないし
盛り上がっているのならスルーしてもらってもかまわんけれど
何を言っているのかよくわからんス 詩を好きな素人の俺からみて
この話に愛は関係ありますか?
250 :
かのっぴ:03/03/13 08:11 ID:+BuDqvuQ
私に関していえば、読み手として愛を汲み取れているか、
ということをもしかしたらいつも考えているのかもしれません。
レトリックというカギを使って汲み取れる愛もあるんじゃないかと。
とはいえ私が愛について語れるかはそんなに自信はないです。
言葉が難しかったとしたら私に非がありますね。気をつけます。
誰も来なくなったら困りますから。特に詩を好きな人が来なくなってしまうと。
>>250 僕も言葉足らず、ぶっきらぼうな物言いで申し訳なかったです。
ごめんなさい。
252 :
ボルカ:03/03/13 20:42 ID:tCC+sN5Q
>>251 いやあ、このスレッド始まって以来の盛り上がりなんですよ。
ついでに言うと、北川詩学についての読書会でこれだけ盛り上がれたのは
たぶん世界初。
なんだって、比較の問題だからね(笑。
>>250 やっぱ、愛だよなー。愛。
253 :
ボルカ:03/03/13 20:45 ID:tCC+sN5Q
>>247 について僕の考えてることを、全部言います。ちょっと待ってね。
254 :
ボルカ:03/03/13 20:53 ID:tCC+sN5Q
>>246 に僕は、一種の切なさとともに共感します。
僕も、「もうなにも考えられない」という地点(ラピュタの地下5F相当)で
自分(という語り手)は生たと感じます。
そして「地上の詩人」でありたい、と願っている。
僕と246氏は、考え方も作風もぜんぜん違うけど、こうゆうところで瞬間的に
共感を体験できるのは、うれしいです。 (つづくから待ってください)
255 :
ボルカ:03/03/13 21:05 ID:tCC+sN5Q
>>247で、かのっぴさんが言っている事には僕も賛成します。
つまり、技術として、それができるってことは、もう決まってしまったこと
ですよね(しかも40年前に)。できないフリはできない。つまり、少なくとも
空中楼閣ラピュタとしては厳然と存在している。
ただ、今は比喩でしか言えないんですが、僕としては、自分のリアリズムの大地に
立って、彼方に天空の城ラピュタを幻視する、「地上の詩人」でありたいと
思うわけなんですよ。
(かのっぴさんへのレスおわり)
256 :
ボルカ:03/03/13 21:19 ID:tCC+sN5Q
>>246 には、255では語りきれないスピリッツを感じるな。
「なにも考えていない楽園」を身にまとった「何も考えられない地獄」。
批評を絶した地点だけど、自分にとっては、246氏と違う意味で、ポエジー
のふるさとだな。
60年代の政治、70年代の家族、80年代の金。
みんなそれなりに、小さな夢であっても、夢を見ていたわけですよね。
何かが、世界を少しづつでも良くして行くと。
僕らは違う。
本当は、何も考えられない。
でも、本当のことを言ってもしょうがない時代もあると思うんだよな。
257 :
かのっぴ:03/03/14 17:52 ID:MRkUn3+N
>60年代の政治、70年代の家族、80年代の金。
といったような、小さな声を回収する大きな物語がなくなったことは
いいことなんじゃないかな、と私は楽観的に考えています。
孤独と戯れることを覚えれば今ほど住みやすい時代もないかもしれません。
逆にあまりに自由すぎて、あるいは自由の代償としての孤独に押し潰されて、
自分から社会の規範(意味もそうだし、さらには思想も)を誘導されるままに
受け容れて言葉を失う危険は常にあります。回収装置の中に自分から飛び込んで
しまいかねない。
回収装置はあらゆるところに存在します。なにも反戦運動などだけでなく。
「夏夷」には回収装置としてのある詩の雑誌のことが活写されてました。
ウェブコンテンツ以上に面白かったです(詩の雑誌スレに書こうと思った
けれど長文になりそうで迷っている。ただでさえ私は文章長いから。。)。
258 :
ボルカ:03/03/14 20:27 ID:JrKH0xZ7
夏夷(かい?なつえびす?)ってそんなに面白いんですか。。
んじゃ、機会があったら読んでみます。
>>247の論客も面白そうだし。
たしか、東京駅駅前のブックセンターで見かけた気がするな。
ところで、今週はご参加ありがとうございました。
かのっぴさんが、話を視覚化してくれたおかげで、とても楽しかったです。
ウイークエンドに5章4-6節をレポートします。
よろしかったらまたレポートお願いします。
で、お疲れでしたらお休みされて、次章6章のレポート、部分的にでもお願いで
きませんか?
僕もやりますが、6章は、なんだかすごいことになってるんですよ。
一人の視点から論じるだけでは、ちょっともったいない気がするんです。
お時間有りましたら、よろしく。
他の方のレポートやご感想も、是非お願いします。
259 :
かのっぴ:03/03/14 21:18 ID:cL8uGpME
1回休ませてください。ちょっと疲れました。第6章からということで。
感想などで適当に絡むかもしれませんが。
夏夷は面白いかどうかは微妙ですね。状況論の部分で違った角度からの
切り込みが鋭いといった印象で。ジャーナリズムっぽいです。
実は少しだけ警戒しています。
260 :
かのっぴ:03/03/14 22:10 ID:0/J7LmiB
書き忘れました。夏夷は「かい」です。
261 :
ボルカ:03/03/16 21:59 ID:BdSHX1Nk
かのっぴさん、
>>260情報どうも。
**************
5章「詩的意味論の試み」第4-6節部分(概略)
1-3節に於いては、比喩による意味規範の侵犯が、段階的に語られた。
この部分の北川の観点は、おそらく、かのっぴさんが最初に図示してくれたものに
近いのではないかと思う。この図については、6章(「サブタイトル詩的比喩論の試
み」)でさらに深く論じることができるのではないかと思う。
ただし、意味規範と作品との関係が、北川に於いては直線的な対決をしていないこ
とに、この章で若干注意しておく必要があると、僕は思う。前の方で図示したよう
に、北川の記述では、意味規範は「語り手」よりも「私」の側の現象である。この
ねじれは、北川独自のものであると思われるが、僕はそこにマイナスポイントはつ
けない。むしろ、このねじれの産むダイナミズムのなかに、前述したような「地上
の詩」を位置付ける契機を読みとる。
北川自身は、意味規範を「=意義」としているが、これをもし額面どおりうけとれ
ば、前述の図は間違っていることになる。しかし、北川の「意味規範」を純粋なテ
キスト分析上のツールとして読んでしまうと、混乱するだけでなく、安全で退屈な
ものと解される恐れもある。むしろ「共同幻想」に近い、リアルな身体的現実とし
て受けとったほうが、北川の論述は理解しやすいのではないかと思いました。
262 :
ボルカ:03/03/16 22:01 ID:BdSHX1Nk
前節でかのっぴさんにより提案された建築物の例えをここでもさらに敷衍しようと
思う。
僕は、かのっぴさんの思考を利用して、地下2F(入沢「夜についての試論」)を
反−隠喩のレベルと考えた。次に地下3F(天沢)を地下3F:「反−比喩のレトリッ
ク」とすることが出来ると思う。
4-6節については、さらに詩によって意味が徹底的に解体される現場が紹介される。
まず3節終わりから4始めに於いて上げられるのは鈴木による、格助詞の恣意的な使用。
これはすでに比喩とは無関係な詩的レトリックが使用されている。(地下4F「反−言
語の階層」)
ここで、言語の構造そのものを解体させて、自分(語り手)だけの言語を創作し、そ
れによって詩を書くこと(山本)が紹介される。この創作行為が、崩壊していく自我
の中でもがく作者を、さらに極端な孤独に追み、破壊していく危険な行為であったこ
とが、「さらりと」カルーク触れられる。一方で瀧口修三らシュールレアリストたち
の創造もレトリック上同じレベルのこととして取り上げられる。(地下4F:「反−
言語の階層」)
北川自身はここで終わりだと言っている。そのあとは、もう戻ってくるしかないと。
事実、地下4Fで歌われる歌は、比喩でなく現実に地獄の歌である場合が少なくない
だろうと思う。つまり、自殺を前提としての遺書が詩の形式をとるなら、このフロア
に来る場合が多いだろう。
そして、その「外」に北川は「ナンセンスの詩」を位置付ける。
263 :
ボルカ:03/03/16 22:02 ID:BdSHX1Nk
だが、僕としては、ナンセンスこそ、地下5Fにある本当の地獄(反−思考のフロア)
だよ、と言いたい。谷川のように、ここで遊んでみるだけならいいが、ここにとどま
るつもりなら、その詩人は、全ての希望を捨てる必要があるからだ。
地下4Fのポエムは遺書であれ、何かを伝えようとしている。あるいは伝えたくない
「私」を伝えようとしている。だが、地下5Fの住人はそうではない。たまたまだれ
かが、それを面白がる場合もあるだろう。しかし、それはほとんどの場合、誰にも
何も伝えないし、伝えるはずも無い。
だが、なにも、おどろおどろしい話ではない。この板で詩を書いている僕たちのう
ち何人かは、実はここで生まれたのだから。意識してる人としていない人と有るだ
ろうけど。
ここで、雑談中に触れた正岡子規を思い出したい。
−けいとうの十四五本もありぬべし
この詩は地上のポエムであると言えるだろう。だが、このケイトウはどこに咲いて
いたのか?
僕としては、これは子規が地下5Fで摘んできた花なんだよ、と言いたい。
264 :
ボルカ:03/03/16 22:03 ID:BdSHX1Nk
***
第4節
「意味の虐殺」
山本陽子の「青春−くらがり」のなかの千行近くに及ぶ長編詩の一部分紹介される。
−引用−
背 こごめ、 まわる みがちへ
半躯へ、ひくみ
腰部へと おもみかけて
骨組みの半ばが支える み
脊椎へ あつまる 去行去来の
ざわざわしさを 撼じながら
石舗道の突端へ
座している
…待つ
へ、めぐる 進み、まわる球
溶解 融合しつ、
灼熱と燃え上がる
白熱と化しつ
焔、めくる、めき
変ずる、光 放ち
265 :
ボルカ:03/03/16 22:04 ID:BdSHX1Nk
放つ 磁波が 身域 まがるなして
通おる、いき 進み
、 紅色の繊条と輝きながら
光がささっと とおる、わたる
<いる>進み、とおるながら
さん満し
/あたる 粒子へはね、向きを変える
あおめく 光が とおる光の海を くらめき、かがやかき
透おし <いれ>ながら
まじわる気充が まっさおにすみ
黄と かがやきながら すはやみはしる光へ
わざ
音波がくわわって
あ、いまじわる域、きうなしている
まとわりながら
まわりつ、
論み へ めぐる 青灰の球
−引用終わり−
266 :
ボルカ:03/03/16 22:05 ID:BdSHX1Nk
この詩は実はビジュアルが重要なのであるが、行の頭の空白は省略させてもらった。
これを打ち込みながら僕は思ったのだが、この詩ってば、かなりイイ!ですね。
普通ここまでいってしまえば暗くなるが、この人はそうでもない。つまりこの人の
孤独には、他者にそれを転化する「過剰防衛」的な暗い攻撃性がない。この明るさ
をもてるかどうかが、詩人としての試金石のひとつだろうと僕は思う。自分は切な
いだろうけどね。
それと、この詩って、よく読むと意味がわかるんですね、実は。北川もやっている
けど、僕にもこの詩は読める。ナンセンスではない。この詩集、ほしいなあと思い
ました。「<あ、いまじわる>は、<相交わる>だ」というような読解を、全行に
渡って北川は高速で繰り出すけど、彼の読み方に僕も共感した。
ところで、北川は、前述<私は時計が手淫していた>の詩句を、評して下記のよう
に言う。
−引用−
「月」という作品の<語り手>は、むろん、言語規範そのものを、故意に揺るがし
ているのである。
―引用終わり―
僕もそう思う。これはわざと、わからなくしている。従ってこれを「理解」してし
まうのは、誤読であると言える。ここでは、解読できる比喩という方法が否定され
ているだけでなく、そもそも解読してほしいと言う態度が欠落してるのだ。
引用した山本の詩も、わざとわからなくしている。これを、以下のように述べてい
る。いずれにしても、この作品において、現代詩が極められてついに、言語の崩壊
に至るドラマを見ることだ出来ると、僕も思う。
267 :
ボルカ:03/03/16 22:14 ID:1BkMsZjw
−引用−
あからさまに生じている規範への不同調−<意味の虐殺>をみることができるだろう。
―引用終わり―
第5節
「<心の声>あるいは<てにをは>」
この節では大岡信の「<てにをは>の死活的重要性」という概念が紹介され、それが、
前述、山本の作品や、瀧口のシュール詩と、どのような関係にあるのかが検討される。
大岡の言ってることもわかるけど、てにをはの重要性がわかればこそ、それを侵犯す
る価値もあるんだぜ、みたいな話である。
事の端が、言葉だ、とか助詞は神の領域だ、とか言う話は、国文では常識かと思う。
僕はこのへん勉強していないから、解説はやめとくけど、これはみんな時枝言語学の
話ですよね。
「風が吹く」というとき、吹いているのは何か?とか言う話が、この本にも引用され
ていたと思うけど、別の本だったか、、今、見つけられない。
動いているのは、空気ですよね。古代人もそれは知っていた。何かが「吹いて」空気
が動き、それが人に感じられる。助詞「が」はその「何か」を含意している、と時枝
は考えた。これが北川が言ってる「神の領域」ですよね。半分ギャグで彼は言ってる
とは思うけど。
268 :
ボルカ:03/03/16 22:16 ID:1BkMsZjw
第6節
ナンセンスの出現
ここで、非常に面白い詩が引用されているのだが、僕はもう疲れてしまいました。
どんな詩かだけ言っとくと、ただ、人名をずらずら並べただけ、という作品です。
ちょっとだけやっとくか。
山野 松造
杉山 頭吉
富山 林太郎
谷沢 鮎介
岩尾 豊見
鹿峯 明子
(以下略)
これが詩か?と北川は問う。
あんたの気持ちもわかるよ、と僕は思う。だって、ただ、人名が並んでるだけ
ですよ。だれだって、ふざけてんじゃねえ、と言いたくなる。むしろ、批評家に
はそういう普通の感覚を持ってもらいたいもんだと思うぐらいだ。
269 :
ボルカ:03/03/16 22:17 ID:1BkMsZjw
だが、つづけて、北川は以下のように言う。
−引用−
メモ用の手帖に人名がたくさん書き付けられているとしても、それは詩ではない、
という意味では、これは詩ではない。しかし、(中略)そしてこれが詩ではない
としても、詩的行為であることを示すために、余白とともに出現させられている。
―引用終わり―
この辺は天才的だと思う。余白があるから、これでも詩なんだと、北川は言う。
いや、これが詩かどうかじゃなくて、これを書いたことが詩的行為なのであると。
そうかもしれない。これを書いた人は、どうも真面目な人だったみたいなんだけど、
もし、自分の知りあいが、とつぜんこんなこと始めたら、なんだかちょっと悲しくな
るよね。その悲しさがたぶん詩的行為の後姿なんだろうと、僕は思う。これが言語の
生命線「ことのは」を断ち切る所作だったとそう言われてみればそうだが、ここには
なにか、非常に不吉な「反−思考」が含まれていると僕は思う。
加えて、この節では谷川が触れられているが、省略する。
270 :
ボルカ:03/03/16 22:18 ID:1BkMsZjw
以上、ざっとですが、5章を紹介しました。
ここまで、ご議論、ご感想、お願いします。
271 :
かのっぴ:03/03/17 20:10 ID:MIE62Za1
ボルガさん、要約おつかれさまです。
私が感じた疲れは、たぶん反比喩、反言語、反思考まで言葉を解体していく作業を
見せ付けられているからかもしれません。要約するところまで行けずに、
ついてくるのが精一杯という感じで。
助詞助動詞の用法などの違犯(鈴木、山本)か、名詞動詞形容詞の結合の違犯(天沢)か、
あるいは意味、文法に違犯していないのに全体的にはナンセンス(谷川、岩成)になるか。
いろんな実験が試みられて来たんだなあと。もちろん帯の言葉にあったように
この本にどこか解剖学的な視点があるので、実験に見えてしまうのかもしれませんが。
詩人にしてみれば必ずしも実験しようとしてしたわけではなく、そうする必然が
あったのでしょう。
必然にはいろんなかたちがあるにしても。山本の必然にはどこか痛々しさを感じます。
山本の詩は、そうですね。何かSFっぽいものを感じてしまいました。
言葉だけでそれを感じさせるのはすごいなあと勝手に思っています。
谷川の詩はマシュマロか、軟体動物みたいです。
一見甘いけど噛む歯やつぶす舌ににさからってなかなか食べられない。
一見かわいいけどずるがしこくてにくたらしい。
逃げて振り返ってあかんベーしてまた逃げそう。
272 :
かのっぴ:03/03/17 20:31 ID:mhcyI07v
>助詞助動詞の用法などの違犯(鈴木、山本)か、名詞動詞形容詞の結合の違犯(天沢)か、
>あるいは意味、文法に違犯していないのに全体的にはナンセンス(谷川、岩成)になるか。
ちょっと荒っぽすぎますねこの分類。突っ込まず流していただけるといいな、と。
山本を助詞助動詞の違犯と片付けていいわけもないし。自分で言葉をつくってもいるし。
ただ、最初の図表の「奈落の底」を考えたときはこんなふうなイメージがありました。
言葉の用法や意味に対する違犯、となるとシュールレアリズムもナンセンスも
ビジュアル詩もなにもかも一緒になってしまう。詩人の側にある必然を探るためには
何が必要か。ちょっと考えてみます。
>>261 の
>意味規範と作品との関係が、北川に於いては直線的な対決をしていないこ
>とに、この章で若干注意しておく必要があると、僕は思う。前の方で図示したよう
>に、北川の記述では、意味規範は「語り手」よりも「私」の側の現象である。この
>ねじれは、北川独自のものであると思われるが、
このあたりに鍵がありそうな気がします。
273 :
名前はいらない:03/03/17 20:32 ID:0fFPm0OV
「風の中のすばる」「砂の中の銀河」「草原のペカサス」「街角のヴィーナス」
「崖の上のジュピター」「水底のシリウス」
これらは「地上の星」の歌詞ですが、これらの表現技法は何と呼ぶのですか、
詩心がないのでわかりません。誰か教えて下さい。
274 :
ボルカ:03/03/17 20:33 ID:FD07fj0M
レスつけてくれる人が居たこと自体が、泣きそうに嬉しいよ、マジで。
読んでくれてありがとう。
もちろん、僕も疲れまくりました(笑)。
山本の痛みは、最初は僕は気がつきませんでした。この本を
読み返すうち、「そうなのか」と。
>>271の3段落(助詞助動詞の・・以下)でかのっぴさんが指摘してらっしゃる
とおり、このへんのレトリックを僕は単純に階層化してみたけど、実際の詩は
複雑ですよね。
僕も60年代詩を、普通の意味で「実験」だとは感じません。つまり、やってみた
だけのものだとは思いません。
この章で触れてきた中では、「夜についての試論」が一番このみだったけど、
あれが、現代の僕の目から見て、どうしていいのかといえば、青年入沢が、
ものすごくセンスの良い人だったからだと思うんですよね。
275 :
ボルカ:03/03/17 20:36 ID:FD07fj0M
>>273 比喩?かな。
原曲聞いたことがないんでわかりませんが、みゆきってば、紅白で決めたらしいね。
276 :
かのっぴ:03/03/17 20:46 ID:21rhpDBY
>>273 すべて 地形+星の名前 になって 地上の星 と重なる
それらは「誰も見ていないもの」の象徴 人は空ばかり見ているから
こんなところではないかと。ここまでの展開でいえば地下1階の隠喩ではないかと。
中島みゆきって詩心ありますよね。歌詞わりと好きです。
277 :
ボルカ:03/03/17 20:49 ID:FD07fj0M
>>273 かのっぴさんの最初の図は、時間をかけてよく考えてみる方が良いと思う。
僕は気軽につっこんでしまったけど、かのっぴさんが参照した北川自身の
図が、3層構造だったことや、<奈落の底>の構造など。
興味深いご指摘ありがとうございます。
278 :
かのっぴ:03/03/19 10:31 ID:7JM+XkaN
必然に関して。月並みだけれど、赤ちゃん帰り、あるいは先祖帰りなのかなと
考えてみました。個人では言葉を覚える過程、集団では言語の体系が形成される
過程、それらと逆の過程をたどるということであれば、意味規範からの逸脱が
規範より個人の側に近いことは一応説明できます。
で、この逆のプロセスをたどるということだけなら、「うた」に辿り着く
ような気がします。「私」を多層化して隠喩を多用して、さらにできあがった言葉の
約束事を破ろうという試みはそこからは出てこないでしょう。
ではなぜ詩人たちは「うた」に走らず私の多層化、意味の多層化、言語の破壊といった
方向に走ったのか。そう考えると、実は「うた」がすでに言語規範とか意味規範
とか、そういうものに内包されていて、ある種の詩人たちはそこから逸脱しなければ
自身の赤ちゃん帰り、先祖帰りを果たすことはできないと痛烈に感じたのではないかと。
279 :
かのっぴ:03/03/19 10:32 ID:7JM+XkaN
「うた」が常に規範のなかから作られるかといえば必ずしもそうではないと思います。
全く世間のきまりごとに従った「うた」なんてさすがに誰でもつまらないと思うでしょう。
だから「うた」はそもそも軽い逸脱を含んでいる。
でも「変わった奴だけどちょっと楽しい」という一線があって、それを逸脱して「変な奴
だからあまり関わりたくない」になってしまうと「うた」は受け容れられない。
====================================
またややこしい理念形(=「うた」)をひとつ作ってしまった。
でも一方では「うた」も詩かもしれない、とはいつも考えています。
流行の歌詞のなかにもいい言葉をみつける時もあるし、今の感覚にあう
叙情的な言葉が欲しくなったときにはやっぱりポップスを聴くし。
280 :
かのっぴ:03/03/19 11:50 ID:x7XvLW06
>赤ちゃん帰り、あるいは先祖帰りなのかなと
これもあまり強調したくない。「帰る」という方向のほかに、新しい遊びを覚えて
それに夢中になる、という部分も絶対にあると思うし、それだってひとつの必然だから。
規範からの逸脱、という話になると自分探しとか、何かそういう悲壮感が漂ってしまいかねない。
けれど、遊ぶことだって軽視しちゃあいけない。
281 :
ボルカ:03/03/20 22:05 ID:cojoxw09
「必然」はあるか?有るとすれば何か?
は、大問題ですよね。
北川は後の章で一応の回答を用意しているように見えますが、僕はまだ、コメント
留保します。深く読み解いてみないと、これでなかなか、北川ってオヤジは手強い
みたいっす。
簡単に問題を指摘すると、必然は、もしかしたら、個人にではなく、「時代」に
あるのではないか、ということです。
>>247で引用してくれた「ねじれ」が、そこに切り込む糸口になる、かもしれま
せんが、いかがなものかは、まだわかりません。
282 :
ボルカ:03/03/20 22:11 ID:cojoxw09
>>278、280でご指摘の「赤ちゃんがえり」も興味深いお話です。
当時の彼らに「赤ちゃんがえり」であった、直滑降のはてが、
僕らに、現在、ふるさとに見えているのか、
それとも、僕らにとってふるさとだから、彼らの動きが、僕らに
逆行に見えるのか。
突っ込んでいくと面白くなりそうですが、このスレッドでは、今節はこの辺で、
停止しましょう(次節でまたお願いできればありがたいっす)。
そうでないと、本当に僕らにしかわからない会話に突入しちゃいますから(笑。
283 :
ボルカ:03/03/20 22:18 ID:cojoxw09
かのっぴさんの指摘をチャートで理解すると、
「うた」←時代
↓
逸脱→個人
となるでしょうか?
製作者の視点からは矢印が逆になって、他の概念も介入してくるのかな。
この辺、後の章で展開してもらえると面白いです。
284 :
かのっぴ:03/03/21 20:03 ID:eE7IyDyz
あ、もっと単純です。個人と社会。時間の流れとは別に、
同じ時間のなかでの詩人の相対的位置。。。
それをここで展開するとめちゃくちゃになりそうです。確かに(笑)
6章、かなり手強いですがなんとかやってみましょう。
分量的にもきついけれど、だらだらやっていると
イヤになりそうな部分ではあるので駆け足で。
285 :
かのっぴ:03/03/22 22:57 ID:fJZMugQa
286 :
かのっぴ:03/03/23 08:51 ID:+XjFcbmH
詩的直喩→未知の意味(第2節)
詩的隠喩→未知の像(第4節)
なのかもしれない。要約は間違っているかも。
287 :
かのっぴ:03/03/23 22:50 ID:ewIE4rs/
要約終わりました。4節以降は作品の分析などを大きく端折っているので、
各自課題本を確認されることをおすすめします。一応今回分析対象になっていた
詩をリストアップしておきます。
「行人」鮎川信夫
「Citius, Altius, Fortius」安西均
「死んだ男へ」石原吉郎
「死者の鞭」佐々木幹朗
「秋」田村隆一
「過去」吉岡実
「商人」谷川雁
「死顔(デスマスク)」清水昶
「疾走詩篇」吉増剛造
「花茨」佐々木幹朗
「胎生」松井啓子
「きっと便器なんだろう」伊藤比呂美
「ウイグル自治区」荒川洋治
「ヤマサ醤油」ねじめ正一
288 :
名前はいらない:03/03/23 22:50 ID:iKIbNtAk
289 :
かのっぴ:03/03/23 23:04 ID:81vZQ/M1
伊藤比呂美の詩のことで北川にたあいもない突っ込みを
してみたくなったのでそれだけ。
<引用>
男女の抱擁、性交の風景に少しも未知なところがない。しかし、
欲望の主導権を握った若い女性の眼で、あるいは官能でとらえられた
性の風景は未知である。
<引用終わり>
北川さん、それが「未知」の内容だとすれば、それはあなたが♂だからです(笑)
ポルノグラフィーとくらべれば、それは未知の像を示したことになりますが、
それが未知なのは、性別に関係する問題でなく、抱擁や性交に対する感覚の
個人差に関係する問題だと思いますよ。ポルノグラフィーは性的欲望を極端に
画一化して提示するものだから、そこに規範からの逸脱の余地が多かったと。
290 :
かのっぴ:03/03/24 10:02 ID:kaVOqrzV
喩に与える影響が時代に規定されるという推定に私は否定的です。
現代は価値観が多様化した、とか、流動性が増した、とか言われるとしたら、
それは時代や社会の変化ではなく、単に人々に認識される未知の領域が既知化して
行ったように見えるに過ぎないのだと思います。あえて何かが変わったとしたら
情報の量と質の変化でしょう。量は圧倒的に多くなり、質は事実そのものが
より重要となり価値の判断が後退した。
現在、未知の意味や未知の像はどこに存在するのか。どこにもないし、
どこにでもあると思います。なにも自己増殖するイメージばかりが未知ではない。
既知の領域は確かに広がったけれども、パン生地を蒸したときにできる空洞の
ように(これ一般的直喩かな)、見落とし、とりこぼしがあちこちにあって、
既知だと思っていたものが未知だったということはいくらでもあり得るでしょう。
291 :
ボルカ:03/03/24 18:49 ID:+O/0cSGI
かのっぴさん、どうも。
僕のほうでは、1-5節まで要約(簡略ですが)おわりました。
提案ですが、伊藤や荒川は、来週に回しませんか?
・・ちょっと息が切れてしまって(すみません)。
とりあえず、書いたところまでアップしておきます。
292 :
ボルカ:03/03/24 18:51 ID:+O/0cSGI
第6章『未知の像/詩的比喩論の試み』
この章では、比喩のありかたが、60年代から70年台へと変容したこと。また、それが80年代以降、さらに変容したか、
あるいは消失してしまったことが指摘される。
ここでも、一気に論じるには時間が足りないので、今週僕は、1−5節をレポートし、来週第6節をレポートしようと
思う。1−5節において、比喩のありかたについて戦後詩から60年代詩が概観され、6節では80年代以降を論じている。
第1節『一般的比喩について』
冒頭でまず、朔太郎の「詩の原理」から、引用される。
―引用―
およそ詩的に感じられるすべてのものは、(中略)「現存(ザイン)していないもの」である。(後略)
―引用終り―
一般的な比喩は、概念Xを類概念Yとして説明することである。と北川は要約する。<彼はきつねのよ
うだ>という文例においては、X(彼)がY(きつね)の概念で表現されている。この概念にはたとえば、
「きつねはずるい動物である」などの常識が組み込まれている。
しかし、詩的比喩は、概念XをイメージY(非X)で表現することであり、一般的な比喩とは異なる、
と北川は言う。ここで現れる非Xは単にYなのではない。それは北川にとって、朔太郎の指摘した「未知
の像」であり、前章において北川が述べてきた「意味規範への侵犯」の全体であるだろう。
293 :
ボルカ:03/03/24 18:52 ID:+O/0cSGI
このような北川の視点を見逃した論述として、「直喩のほうがオリジナリティのある表現ができる」という意味の言説が否定される。
この節で北川は「のような」があるか無いかを、直喩と隠喩の区別の指標とする考えを否定する。では彼はどうするのかというと、
「意味との距離」だけしか示していない。
ここで僕は自分の考えを少しだけ述べておきたい。
隠喩とは、文字通りの意味での「幻覚」のことではないか、というのが僕の考えだ。すなわち、隠喩の正当性を保障するのは、僕に
取っては、「実際にそれが見られたかどうか」だ。白鳥(船の比ゆ)が羽休め(入港)したという隠喩があるとする。その場合、僕は、
それが本当に白鳥に見えたやつがいたのかどうかを問う。だれもそう思っていないなら、その比喩は過剰で、格好悪いんじゃないだろうか。
これは北川の記述には反するが、じつをいうと、北川以外の論者とも異なる(笑)。ただ、北川が比喩といっているものの主要部分
(前章地下2階以下)が、なにもたとえていないことは考慮されるべきだろう。これを比喩と言っていいのだろうか。
294 :
ボルカ:03/03/24 18:55 ID:+O/0cSGI
第2節詩的直喩について
ここでは戦争体験詩が引用される。彼らが隠喩を使わなかった原因を、彼らの経験の重みに関連づけて北川は解釈する。
ところで、ここで引用されている石原吉郎の「死んだ男へ」ってイイですね、しみじみと。
第3節「荒地派の比喩論」
「荒地」派の詩人達が、「経験や意味を無化した戦前のモダニズムへの批判」をベースにおいて、「比喩による言葉の
意味の新しい転移を求めた」もの、として整理される。
「意味の転移」による比喩論は、北川の主張する通り、北川自身の「未知の像」を一段かませた説明より、理論として
の威力が劣っている。北川は、かれらのシュールレアリスムへの無理解を挙げるが、引用するまでも無いだろうと思う。
第4節「詩的隠喩について−その1 戦後詩の基底」
第5節「その2 戦後詩の飽和」
鮎川信夫「現代詩作法」を引用しての「荒地派」の理論への批判から話しがおこされるが、現在の僕らの目から見れ
ば、ここはあまり重要ではない。このカードでは文句なく北川さんの勝ちであり、彼の理論は良く理解できる。逆に彼
のような何らかの理論を導入しないと、既に十分、詩と認められた作品を理解できない。
ところでこの節で、彼は戦中派と戦後派を、そうとは明言せずに分けている。そして、戦後詩について、それを比喩
(詩的隠喩)表現を極め、それがさらに崩壊する過程として3グループに分けて理解している。以下に図示する。
295 :
ボルカ:03/03/24 18:57 ID:+O/0cSGI
基底部 飽和点 (崩壊後)
田村隆一 清水昶 (伊藤比呂美)
吉岡実 佐々木幹朗 (荒川洋治)
谷川雁 吉増剛造 (ねじめ正一)
/括弧内は次章。
296 :
ボルカ:03/03/24 19:08 ID:+O/0cSGI
僕の個人的な意見に過ぎないが、僕が自分で詩を書く場合、荒地派や凶区の
詩人たちのレベルの表現を使うことは、パロディとして以外には、無さそうに
思う。
こういうのは気分の問題で、いずれ変わってしまうかもしれないけど。
しかし、現時点の意識として、僕らが入沢をやらないのはなぜなのか、
ということを僕はずっと考えており、ここでの北川の説明は、ひとつ
の回答を示唆しているように僕には思える。
入沢康夫や天沢退二郎を理解できない詩論は、おそらく無力だろう。
それができる詩論が、同時に、どうして僕らネットポエマーがそれを
やらないのかを理解できることは、ほとんどありえないのかもしれない。
だが、面白いことに北川さんはそれに挑戦しているように見える。
破綻しているようにも見えるが、考えてみる価値は十分あるのではない
だろうか。
て、ところで、へっぽこにも以下次週で、良いでしょうか、、、
という相談なのですが。。
297 :
ボルカ:03/03/24 19:33 ID:+O/0cSGI
いま、よく読んでみたんだけど、かのっぴさんの要約で、要旨は第7節
までフォローされていると思います。
んだから、やっぱり、今週でこの章は卒業しましょう。
298 :
ボルカ:03/03/24 19:39 ID:+O/0cSGI
今週、アクセスしにくい環境にいるんで、遅くなりますが、
あとで、かのっぴさんのレポートにレスします。
そのさい、7節部分へコメントしていこうと思います。
他の方もどうぞご参加ください。
皆様、隠喩ってどうですか?
直喩より、カッコイイと思う?
それはなぜですか?
299 :
かのっぴ:03/03/24 19:40 ID:Ag2l5YMj
了解です。第6節以降は次週にまわしましょう。
私もあまりこのあたりを読めているとはいえないので。
300 :
かのっぴ:03/03/24 20:13 ID:gavmztUW
ふへっ。間が悪いレスをしてしまった。
うんうん、こちらとしてはこの章は今週でさくっと終わらせてしまいたいところです。
しかしだいぶ重視しているポイントが違うところが面白かったり。
僕はどちらかと言えば荒地派の詩人の詩が好きです。
彼らの詩論はまあ、時代遅れの観は否めないですね。
文学への盲信を否定するあまり、彼らの詩ですらそこからはみ出してしまうような
論しか出てこなかったと。
でも飽和点以降のよしますとかの詩も否定するわけではなく、
感覚としては受け容れられるんですよね。そのへんが複雑なところです。
301 :
かのっぴ:03/03/24 23:43 ID:5Aq4wZ41
隠喩について。そういえば読むときに隠喩を解こうとすると
こじつけるような読み方になってとても疲れます。
解こうとせずに言葉と言葉の結合をそのまま楽しむ場合が多いです。
多く詩を読んでいるうちに解読作業が無意味だという考えに
だんだんなっていったのかもしれません。
書くときは隠喩を意識することはほとんどないです。
具体的な情景を思い浮かべるか、それとも自動筆記的に言葉を重ねるか。
どちらにしても体験との距離はそれほどないです。
カッコイイかどうかは、うーん、さりげなさ、自然さ、似合うかどうか、
になるのかなぁ。似合っていれば直喩だってカッコいいし。
隠喩で「こう読んでよ」という態度が見え見えだとすごくカッコ悪い。
カッコいいと魅力的とはまた違っていて、そこがファッションと違うところですが。
302 :
ボルカ:03/03/25 14:50 ID:uI3mDS6H
>>301 隠喩について北川は混乱しているので、やはり言葉を整理しておく必要はあり
ますよね。
彼自身、前章で、なぜ現代詩は理解できないのか、ということに絡んで、「これはすでに
比喩ではないからだ」という表現を使っていましたけど、意味Xと意味Yの間に意図的に
混乱を起こして、XをYに喩える語法を比喩と呼ぶべきで、そうでないものは
やはり比喩とは違うレトリックなのではないかと思います。
303 :
ボルカ:03/03/25 15:01 ID:uI3mDS6H
そのように狭く比喩を定義しなおした上でなんですが、「隠喩」というのは
やはり、いくつか特殊な側面があると思います。
ひとつは
>>301でかのっぴさんが指摘しておられるようなこと。
つまり、そもそもその隠喩は解けるのかどうか、ということでしょう。
僕は先に述べたとおり、「隠喩とは幻覚である」と考えています。これは
独自の意見ですが、ここ数年〜10年程度の間、継続している考えで、しばらくは
変更しないと思います。
船が白鳥のように見えた(見えるわけありませんが)としたら、「白鳥のようだ」
と言うべきなのです。
本当に白鳥に見えない限り、船を「白鳥である」と言うのは、「詩のような」表現
に甘んじることであり、「絵のような絵」が唾棄すべきものであるのと同じ理由で、
そのような隠喩の使用は支持しません。
このような観点からコメントすると、隠喩とは「幻覚」なのですから、他の表現は
もちろんできないものなのです。その船がその瞬間、白鳥だったのなら、それは
「白鳥のようだった」のではありません。
これが僕の「隠喩」理解です。少数派(支持者ゼロ)ですが、北川のよりはわかり
やすいと思います。
304 :
ボルカ:03/03/25 15:07 ID:uI3mDS6H
それと別に、文章表現の寓意性というものがあると思います。
僕は、それは、「隠喩」とは、重なる部分が多いけど、ちょっと違うん
じゃないかと思うのですが、どうでしょうか。
寓意性の場合、当然読み解けるし、読み解いた上でなければ、批評は
できませんよね。
あるいは詩人の注意力が足りず、裏の意味が一義的でないなら、それは
ダメな表現ということになるだろうと思います。
305 :
ボルカ:03/03/25 15:33 ID:uI3mDS6H
>>300 吉増が、この時点でこれをやったことをどう評価するのかは、ちゃんと語られて
いませんよね。
北川が言いよどんだことをきっちり言ってしまうなら、安保も全学連も内ゲバの
死者も関係ない吉増が、なぜあんなに極端に内向して、あの疾走詩篇が書けた
のか、理解できないことになるわけですよね。
それはひとつのテーマだと思います。
一方で僕は、むしろ荒川と伊藤をどう位置づけるかに興味があります。
まず指摘しなければならないのは、荒川も伊藤も十分高級な比喩表現を
駆使している、という事実だと思います。
それから、荒川の場合、詩壇の閉鎖性への批判が、「トッチル」のころ
からありますよね。
伊藤については、僕はかのっぴさんとちょっと評価が違って、彼女はわざと
卑猥を楽しんだと思います(プロフィールの写真にアラーキーに撮らせた写真を
使ってるあたり確信犯と見ます)が、それにしても、伊藤や荒川の作品行為の
包含する豊かさを、北川は理解しえていないように見えますね。
306 :
名前はいらない:03/03/25 18:25 ID:VEVVESfv
うんうん。
人の書いたものを、
純粋に楽しんで
読むのは良し。
でも、
そんな暇あったら
とにかく書け。
考えろ。
2号なんて、
誰も求めてない。
307 :
ボルカ:03/03/25 19:16 ID:8MZ/XuFK
>>306 このスレッドの主旨については、
>>1の通りです。
課題の本に何が書いてあるかは、章ごとにできるだけ紹介して
きました。
未読の方も、スレを参照していただければ、参加できると思いますし、
できるだけ多くの方に、ご参加いただきたいと思っています。
と、いうわけですが、なにか、かん違いしてませんか?(^_^;)
308 :
ボルカ:03/03/25 19:20 ID:8MZ/XuFK
かん違いでない、という想定の元に一応マジレスしておきます。
なんせ、せっかくのお客さんですから。
僕が文芸理論に惹かれるのは、それに基づいて誰かのマネを
するためではありません。
理論そのものが美しいからです。
と言う以前に、詩に関する理論は、未来はもとよりここ数年の詩を
理解しているのかどうか、ビミョーなとこではないかと思います。
309 :
かのっぴ:03/03/25 19:29 ID:RiRJj2sR
僕からはノーコメント(笑)
興味のない人が無理に興味をもつ必要もないと思うし。知らなくても詩はかけるから。
興味があれば参加して欲しいね。ぜひ。
本を片手に参加してくれるとなお嬉しいかな。
310 :
かのっぴ:03/03/25 19:41 ID:+4XyNryt
否定性って、ひょっとしてゲバ棒ふりまわしちゃったりとか、
そういうことっすか?そういえば80年代を「貧しい」と
言い切っているとこなんか、そうとでも考えないと腑に落ちない気が。
あとひょんなことから「テクスト論」とかいうあやしげなものを
調べてみる機会があったのですが(ギルドメインに書き込んでます)、
吉本隆明とかソシュールとか、やったら流行ったみたいですね。
なんでも構造主義とかがもてはやされていて、学生時代にその輪に
入れなかった人がいまになってそのトラウマを群像とかいう雑誌に
吐き出しているのをみて気味悪かったのですが(笑)
当時それほど流行ったものならファッションとして詩にそういうものが
入り込んでもおかしくないっすよね。北川の価値判断に何らかの影響が
あるかもしれませんね。
311 :
かのっぴ:03/03/25 19:45 ID:LqMt1DwR
もっとも北川はこの本のもとになっている詩手帖の連載を書く少し前に、
新聞にも詩の状況論をそれこそ一般読者向けに懇切丁寧に書いていたから
自分の偏りも極端に前面に出すようなことは考えにくいですが。
ちなみにその新聞の連載は「現代詩最前線」という本にまとめられています。
古本屋で入手しました。古本屋でもなければ置いてませんが(笑)
312 :
ジャンボグループ:03/03/25 19:47 ID:dbZ7myVJ
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が立ち上がりました。
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313 :
ウエ−ブマスタ−様ランキングサイト登録へ:03/03/25 19:53 ID:H0CTVoQC
314 :
ボルカ:03/03/25 21:27 ID:EMWyCPxM
>>311 「現代詩最前線」ですか。その本、読んでみたいなあ。
僕は北川を理論を突き詰めて考えてみる人としても評価しているけど、それより
「詩を深く読む人」として評価してるんですよ。
彼が一般にむけて「現代詩」をどのように紹介したのか、また、彼がフツーの人
に分かって欲しがった詩は誰の詩だったのか、興味あります。
>>310 僕が、ここまで読んできて、いまひとつ釈然としないのが、ようするにゲバ棒の評価
なんですよ。北川はそれを言うか言うまいか、迷ってるように見えます。
ゲバ棒じゃなくてもいいんだけど、「革命」という概念が成立しうる時代だったか
どうか、というのが70年代初頭をさかいに変わってしまったと思うんです。
60年代の、時代としての特殊性を論じる時に、それは外せないはずだと思うし、
ある種の詩的レトリックが、ある時代特有の現象であったとするなら、その相関の
有無を論じないわけには行かないだろうと思います。
315 :
ボルカ:03/03/25 21:36 ID:EMWyCPxM
たとえば、あの時代、隠喩のフォークソング(例えば「赤い風船になるやつとか」)も
流行したし、サイケのわけの分からない音楽も有ったわけですよね。
そうゆうことまで言って「意味規範」を説明して欲しかった、というのが、僕としての感想な
んですね。
もっとも北川自身は意味規範を共同幻想ではなく、「意義」と言ってるわけですけど。
あと、かのっぴさんは、
>>290で、また違った視点(情報量の変化)を出しているわけで
すよね。
316 :
ボルカ:03/03/25 21:46 ID:EMWyCPxM
ところで、これから僕は出張に出て週末まで戻りません。
レス遅れますが、ご議論、展開いただけると幸甚です。
次章は僕の見たところでは、理論的にどうかなと言う感じもあるのですが、
ここでは、反対の立場の方の本を引用する余力もありませんので、
とりあえず北川の主張するところを見ておきましょう。
おっと、それから、
>>306 にさらにレス。
文芸理論がなんの役に立つのか、何のために理論書を読むのか、
というのは思ったより難しい問題ですね。
正直、僕には解答できません。
レスしたあと気がつきました。
317 :
ボルカ:03/03/25 21:51 ID:EMWyCPxM
>>306 でも、学問の世界で1号は、ほとんど古代ギリシャ人に独占されてないですか?
この分野ではアリストテレスかなあ。
318 :
かのっぴ:03/03/25 23:57 ID:xcTm4Bmr
情報量の変化はさしずめ90年代を分析する切り口かもしれません。
この本が出たのも90年代前半ですが、もとになった詩手帖の連載は
80年代ですから馴染まない部分はあるかもしれません。
ただ未知の像の探求ということなら、論理的には何を認識して
どう評価するのか、ということだから、体験か情報しかないんですよね。
量の変化は情報技術の発達だけれど、質の変化は「革命」という概念の
無力化、構造主義の流行で起こった価値の相対化、多様化といったものも
そこに体系づけようと思えばできないこともないです。
核心の未知の像の探求ということであれば、時代をまるごと規定するものの
ほかに、個としての詩人を規定するものも見逃せないです。石原吉郎が
シベリアで体験したこと、それをどう作品にしているかということ、たとえば
そんなような。それに劣らないような閉鎖環境での暴力はいまでも起こっている
ことだし、それをもとに詩を書く人が現れても不思議ではないでしょう。
319 :
306:03/03/26 01:30 ID:0OTvWzDJ
>>306 >>307 勘違いじゃないが、
場違いだった。
理論ばかりで
実践のない
評論家は
嫌いだけど、
純粋に理論を
学ぼうとする人に
とやかく言う気はない。
無視して続けろ。
320 :
306:03/03/26 01:30 ID:ZmELEybD
>>306 >>307 勘違いじゃないが、
場違いだった。
理論ばかりで
実践のない
評論家は
嫌いだけど、
純粋に理論を
学ぼうとする人に
とやかく言う気はない。
無視して続けろ。
321 :
かのっぴ:03/03/27 22:56 ID:kxNlEzh4
第7章の要約作業をいま進めているところです。
アップできるのはどうやら日曜日になりそうです。
それまでの間、第6章までで本の感想や議論したい内容などがあれば
書き込み歓迎します。要約でわからないところなどについての質問でも
OKです。どこまでお答えできるかわかりませんが。
力強い批評のスレ。かなり楽しく拝見してます。
レトリックは90年以降には、試行的な展開というよりもむしろ
ここに取り上げられた詩人達のオリジナリティーの派生が根付き、
その成長はある程度行き着いたかなと思います。
新たな「喩」を覚醒する兆しは現在どの詩人たちから放たれるのでしょうか?
つまり「地獄」の領域をさらに広げて地上1Fに届けるものたちは。
個人的には高貝弘也の「漂子」と広瀬大志の「喉笛城」あたりが、
現在詩の「喩」の可能性を提示しているような気はします。あとは河津聖恵か。
新たな詩人達への追求も北川の論旨に沿って読んでみます。
323 :
かのっぴ:03/03/28 16:32 ID:ywcla1vp
>>322 書き込みありがとうございます。楽しんでくれている方がいてよかったです。
そのあたりが微妙に気がかりだったもので。。
仰るとおりいまでは伊藤比呂美、荒川洋治、ねじめ正一あたりはベテランの域ですね。
新たな「喩」かどうかはわかりませんが、日和聡子は軽くふわりとあっちにイっちゃっていて
なかなか好きです。一見地上1Fにみえて、そこがまた良いです。
あとネット詩爆撃プロジェクトで知った海埜今日子の散文詩は幻覚のようなものを感じます。
観察すればまだまだ発見できるかも知れませんね。紙だけでなくネット上にも。
ここ詩板にも間違いなく!
324 :
かのっぴ:03/03/28 16:56 ID:ywcla1vp
叙情的な詩でいまの感覚にわりと近いものって、さがしてみたいです。
ありそうでなかなかないんですよね。稀有な例として小野省子の「牛丼屋夜間アルバイト」を
あげたいです。あるいはこれはインターネット上のほうが見つかる確率は
高いかもしれません。
ところで、抒情詩が戦争を煽ったとか、現代詩は抒情詩の否定から始まったとか、
そういう議論ももう時代遅れですよね(それにそう言っている人の何人が荒地派の
議論をちゃんと自分で消化しているか疑わしいし)。ひょっとしたら今は、抒情が
未知なものかも知れないのだから。
325 :
かのっぴ:03/03/28 22:24 ID:hohICb2x
>>311 >>314 情報に誤りがあったので訂正します。
本のタイトル ×「現代詩最前線」 ○「現代詩前線」
1980〜1983までの4年間、読売新聞の夕刊に「詩の月評」として
書かれたものが編集されています。本が見つからないときは
新聞の縮刷版を探すという手もありますね。
326 :
ボルカ:03/03/28 23:44 ID:slrvk/EW
こんばんは、かのっぴさん。
>>322さん、ちはっす。
僕は、今、小峰慎也氏の「スケベ心とどまるところを知らず、明日に向かう」
を読み終わったところなんですが、これはイイですよ!
技術的には、異化にこだわって、分かりにくい手ざわりを残そうとしてるみた
いなんですが、直感的に伝わる部分が、60年代でも、80年代でもなく、2002年
の詩になってる感じがします。
>>320 書き込みありがとう。
あと3週間ほどで、この本の読書は終わります。
そうしたら、北川の方法論で、北川の詩を論じてみるとか、彼の方法論で
他の作品を論じてみるとか、ちょっと遊びながら、雑談をしてみようと
思っています。
そのなかで、「そもそも詩論は役に立つのか」みたいな話も蒸し返しましょう。
またご参加いただけると幸甚です。
さてと。
好き嫌いは個人の趣味だけど、僕は伊藤比呂美はとてもカッコいい詩人
だと思います。で、かのっぴさんも書いているけど、ヒロミを巡って
ちょっと、偏った視点から僕としても付加的にコメントをしときます。
「詩的レトリック入門」は全部で9章からなるが、この第6章までが上
り坂で、以降の章は、他の論者との距離設定や、これまでの論述への付
加的記述と言うことになると思う。
ここまでの全体を見渡して、北川が最も力点をおいたのは、この6章の
第6、7節、白眉は伊藤比呂美論であろうと僕は思う。
北川はここで、一見、伊藤を「評価するふりをして貶している」ように
も見える。彼の記述を簡単に解説すれば、「伊藤は詩ではない(詩的レト
リックを指向する文学表現ではない)んじゃないの」ということであろう。
しかし、本当は逆である。逆である、という事態が起こっていることに、
北川ほどの論者が気がついていないはずがない。
北川は、伊藤を貶すスタイルを取らざるをえないことを示すことで、伊藤
に「わざと」敗北して見せたのだ。
そう読んで始めて、北川がなぜ、次章で岩成達也を攻撃するのかを理解す
ることができる。
現代詩は、伊藤比呂美が、「おまんこで」破壊した。現代詩とは、最終的に
そういう物語だったのだ。それを北川は、恐らくは知っている。
もちろん彼は、「詩的なものの危地」とか、「肯定性の(貧しい)隠喩」とか
言わなければならない。だが、否定の隠喩によって意味を韜晦して、言語(詩)
への挑戦を自己目的化するような、自己完結的な詩や批評のあり方は、荒川洋
治までで、決定的に終わっている。荒川はそれを皮肉ったり、正面から批判す
る詩を下げて詩壇に登場したわけだが、伊藤の出現によってそれすらも無意味
化してしまったのだ。北川はそれに気がついている。
気がついた上で、なおかつ理論の可能性を極限まで試みているわけであり、
それが、体系的にではなく「思いつきで書く」という戦術だったのだろうと
僕は思う。
以上、僕からのコメントとして。(ちょっと「本の外」に出ちゃうけど。)
329 :
ボルカ:03/03/29 00:02 ID:vnrfEWSk
>>324 かのっぴさん
戦争が始まったとたん、NHKがムキになって、美空ひばりの特集を
流してますよね。
で、昭和がどうの、日本人の心がどうのとコメントしている。
僕は、自分の世代としては、かなりレアな、ひばりマニアとして、職場
では知られているんだけど、ああゆう特集の組み方には疑問を感じます。
「日本的情緒」って、ああゆう下品な国民意識操作のことじゃないかなあ
と思います。
「りんご追分」聞いて、北朝鮮と戦争したくなる奴は、本当はポエジーなん
かと関係ない。でも現実にはそのレベルが狙われるんだよね。
また、それを許しちゃうのは、詩人ではなく批評家の未熟だったのかも、と。
詩論について勉強する立場からまじめ言えば、荒地前後をちゃんと抑え
ようぜ、見たいな話かなあと僕も思います。
「荒地」ってアレチって読むって知ってました?僕はそれを知って、まだ
半年経たないよ(笑。先は長いなあ。
>>329 ガーン!!「コウチ」だと思ってました!!(w
331 :
ボルカ:03/03/29 00:42 ID:vnrfEWSk
僕も、コウチだと思ってました。人から聞いて、こっそりびっくりした
記憶があります(笑。でも、僕は顔に出やすいから、バレたかもね。
北川のこの本は、便利な索引つきなんですが、このなかでも「荒地」は
カ行じゃなくてア行ですね。
こうゆう情報は、耳学問で、ちゃんと文献的理由にもとずく議論とは違い
ますけど、どもアレチらしいっすね。
332 :
かのっぴ:03/03/29 10:04 ID:3EAbQFVw
>>329 なぜか「アレチ」だと私は知っていました。でも以前に「コウチ」と思っていた
ことも事実。多分何かで確認したのですが思い出せません。
>現代詩は、伊藤比呂美が、「おまんこで」破壊した。
これイイですね(笑)「現代詩前線」で吉本と鮎川が対談で伊藤の詩をとりあげて
「どうしようもなく肯定的なんですよねえ」と眉をひそめている1コマを
発見できました。破壊がそこに象徴されているような(w
♂の詩人、批評家がおろおろしている一方で♀の詩人、批評家がわりと客観的に
伊藤比呂美や井坂洋子の詩をとらえて語っている姿を昨年2月の詩手帖の
特集で発見できました。この角度からの見方もまた見逃せないです。
333 :
ボルカ:03/03/29 16:09 ID:RnK12neq
昨年って言うと、「女流」詩の特集でしたっけ?編集意図に、ちょっと
と思った記憶があるけど、中身は面白かったように、、、うろおぼえだけど。
確か、「産む」やつも収録されてたかな。
これ言うと、嫌われるけどさ。
僕は、「女の視点」を外して文学はもはやできないと思うんですよ。
やっぱり、違うことを見ている気がして、それが明治以来無視されてたんだけ
ど、もう無理って気がする。
僕自身の戦略としては、状況を逆撫でした、時代錯誤的な「男流詩人」を
目指してるんですけどね。
334 :
ボルカ:03/03/29 16:10 ID:RnK12neq
第7章反喩の構造/詩的仮構論の試み
第1節言語の階層化
ここで北川は論争を仕掛けているのだが、始めにひとつ理解しておきた
いことがある。それは、誰かに論争を仕掛けるとき、「わざと隙を見せ
る」のは常套手段だ、ということだ。論争はボクシングである。対戦者が
いないチャンピョンには、結局、価値が無い。
そういうことを押さえずに、いきなり切り込むのは危険だ、と僕の本能は
告げている。ここでの北川の論理構築には、あきらかに隙があるが、少な
くとも、北川が対戦者として指定した人の反論は読んでからでないと、
論評はできない。
−引用−
わたしは、むろん、ここで竹内芳郎の言語階層化理論を、特に批判しな
ければならなぬ、と思っているのではない。
―引用終わり―
思えよ、と突っ込みを入れたくなるが、これが、わざと見せている隙で
ある。北川が、この理論の理解や論駆に成功しているのかどうかは、
実はここでは示されていない。それは、論争相手との議論の中で示された
はずである。ここでは、論争相手への挑発が行われているのだ。
335 :
ボルカ:03/03/29 16:11 ID:RnK12neq
−引用―
ただ、詩人のなかにも、詩とは詩語で書かれねばならぬとか、<詩的言
語>を実体化して考える傾向が広く認められることを思えば、その根拠
を突き崩す必要があるかもしれない。しかし
―引用終わり―
しかし、と言って論争相手が指定される。
しかし、私が今考えているのは、岩成達也のことである、と。
だが、この<しかし>の直前の記述から、北川が仕掛けた論争のあらす
じは読み取れる。
前章6章において、北川は、80年代以降の詩は、現実を手放して詩に閉
じこもるか、詩的レトリックの豊かさの無効になる地点で、現実に追いす
がるか、と言った選択を迫られているが、どちらを手放すのも、良くない、
と考えていた。
前章では、主として、荒川、ねじめ、伊藤らの詩が批判された(批判の形
で言及された)のだが、この章では、逆の極限を行こうとする岩成を俎上
がのせられるのである。
以上を前提として、ここでの北川の説明を簡単に紹介しよう。
336 :
ボルカ:03/03/29 16:12 ID:RnK12neq
北川は、ソシュールの「シーニュを構成するふたつの要素、シニフィアンと
シニフィエ」という考え方を当然の前提とする。
ますここに問題がある。前述したように、北川は「意味規範」を、<語り
手>ではなく、その背後にいる、生きられた私の側の現実の構成要素、と
考えている。私は北川がこのように考えることを、むしろ生産的なことだ
とは考えるが、言語学的な考察を批判するのであれば、論者が、言語とか、
意味とかいうことばで扱う範囲を厳密に規定しておく必要があるだろう。
ソシュール以下、ラカンに至るまで、彼らの考え方を、<対象指示性>
や<自己表出性>といった概念で計って、「首を傾げざるを得ない」と
帰結するのは、気が早くないか、と思う。
また、先の章で既に指摘したけれども、言語学の問題は、別のところにも
ある。私は、自分の意見としては、「言語による文節化」と「意味の発生」
が同時的である、という考え方自体が、非科学的で論拠を欠くものだと思っ
ている。
北川が、詩を書く瞬間に於いて、<私>が分解することを述べ、「意味規
範」への侵犯が、個人的必要性に基づくものだ、と言う時、なぜ、
言語外の「暗黙知」が意味(生きられた現実)として認知されないのか、
その点が私にはかなーり、疑問です。
337 :
ボルカ:03/03/29 16:13 ID:RnK12neq
いずれにしろ、第一節では、「言語に階層がある」ということ自体が
こうげきされるのだが、これは本気なのかどうか、私にはわからないです。
第2節
コノテーションの構造
ここで、まず、ソシュールの言語規定が紹介されるが、すでに何度も言った
ように北川の意味規範は、テキストの問題でないところに特徴があるのだが、
そのことは考慮されていない。
また、ここで北川が言っている、形相−実質の話(犬の話)は、やろうと思えば、
解説できるけど、どうなんだろうか?岩成さんて、本当に、こんなヘッポコなこ
と言っているの?と言う疑問がわく。これはわざと外したジャブなんじゃないのか?
北川に従って、<表現:内容>=デノテーション、<表現:内容:内容>が
コノテーションである、と考えるとする。
これは、ようするに、議論の範囲を明確にする、という意味しか持たないの
ではないか?何が問題で、なぜ、「デノテーションと言う階層は、存在しない」
と言わなければならなかったのか、これだけでは理解できない。
338 :
ボルカ:03/03/29 16:15 ID:RnK12neq
第3節
他方向回路
ここで、北川は、<コノテーション>について彼なりに論じた結論として、
<リアリティ>を根拠に、ある種の、知的な現代詩を否定する。つまらない、
と断ずるのだ。(とまでは言わず「どこか寒々しい」と表記しているが、
これはもちろん慇懃無礼をわざとやっている)。
ここで問題なことがある。
僕はこの節での北川の理論展開に全く説得力を感じない。
にもかかわらず、結論には同意する面がある。
両方敵に回すなんて、ちょっと損な感じですね。
いずれにしろ、僕は、詩をテーマにした詩は書かない。ちょっとしか(笑。
ちなみに317氏企画の「極北バトル」で、今回僕が提出した、「看護婦と
患者」は、読者と現代詩についての比喩であり、詩についての詩だ。
でも、これは滅多にやらないし、やるときは、やっぱりギャグとして
やるよね。
そうしないと、読者がついてこないし、作者にとっても面白くないから。
今週、僕のレポートはここまでです。
正直、自分ひとりではかなり心もとないんで、かのっぴさんがどのように
読まれたか、是非、レポートお願いしたいです。
339 :
かのっぴ:03/03/29 20:03 ID:MuZYKRWs
第2節までの要約が完成したのでリンクします。
明日これに第3節を書き加える予定です。
http://whitestone.apple.ac/kita7.html この章全体的に北川に説得力がないように私には見えます。いやいやながら
言語学チックな詩論を紹介し、批評しているようにみえたのと、紹介の仕方
がいまいち要領を得ないように思えたのと、都合よい部分だけ紹介して叩いて
いるのではないかという疑念をもちました(笑)。
言語学は私も素朴な感情として嫌いで(笑)北川自身の考えと結論には同意してもいいのですが。
340 :
かのっぴ:03/03/29 21:50 ID:3TcqadXs
いまソシュール言語学に関するサイトをいくつか見たのですが、
まず言語学の対象となるラングがすでに言語の社会的側面、
つまりコミュニケーション手段としての側面に着目しているのだから、
言語学を詩に適用すること自体、第1歩からすでに間違っています。
しかもラングの下位概念であるシーニュ、さらにその下位のシニフィアンと
シニフィエをこれも間違って適用して不可分一体の両者を分けて、
日常言語と詩的言語の関係に援用する詩論なんて、まともにとりあうだけ
時間の無駄という気がしてきました。
岩成達也の詩論がほんとうにそれだけだったら、という仮定のもとですが。
でもここで岩成なり竹内なりをほじくり返すのにどれだけ意味があるかは
わかりません。唯一意味がある作業は、ソシュールに戻って岩成や竹内を
再吟味することですが、さすがにそこまでの時間は割けません。
341 :
かのっぴ:03/03/29 21:56 ID:w66bMZ4x
そういえばラングの対概念のパロール(言語の個人的側面)は、
詩集専門書店の名前にもなってますね。詩があるとすればこっちでしょうに。
言語学、少なくともソシュールは、はなから黙殺してます。
そんなわけで、第3章は北川以外目をくれず、明日さらりとまとめて
終わりにします。これまで書かれたことを繰り返すだけになるかも
しれませんが。
ただ私も言語学大嫌いなので、言語学に詳しい方がいたら、
できればフォローしていただきたいです。見逃している部分も多いと
思いますし、何よりも興味のない人間がちょっとウェブサイトをみた
ところで理解できるほどソシュールは甘くないと思いますので。
342 :
かのっぴ:03/03/29 23:57 ID:M70tcH9K
第3節まで終わらせちゃいました。
http://whitestone.apple.ac/kita7.html ラングが言語学の対象だとして、それは言語の社会的側面であり、
第5章で北川は意味規範とほぼ同じ意味で使っていたと思います。
その意味規範から逸脱する言葉の結合のあり方が詩的レトリック
だとすると、言語学がどうそれを認識するか、ですよね。
ソシュール言語学は単なる流行として、もしかしたら変な方向に
ねじ曲げられて流通しているのではないか。そう考えてしまうような
言説に最近何度か出くわしていて、どうもソシュールという妖怪に一度
立ち向かわないといけない気がしています。
ソシュールだけが言語学ではないと思うけれど、そもそも言語学と
芸術学は全く畑が違い、詩は芸術学の対象ではないか。
谷川俊太郎の「定義」みたいに遊びとしてやるならともかく、
違う分野の学術用語をおもちゃにして遊んで、しかもいかにももっともらしく
それを並べ立てるのはやめれ!!!!!!!!と小一時間(古
343 :
かのっぴ:03/03/30 19:06 ID:2hI/StdD
要約を書いたファイルに下記の文を追記として加えました。
短いので全文書き込みます。
「苛立ち混じりに岩成の詩論に関する議論を粗末に扱いすぎたようです。
インターネット上にも岩成の詩論について書かれた文書をいくつか発見
できました。それをみてわかることは、岩成と北川はやはりすれ違って
いるらしいことです。岩成がコノテーションという概念を用いてやろう
としたことは言語の階層化ではなく、微細な言語の運動性、そしてそれに
重なる私達と世界との間の運動性をとらえることだったようです。
となれば文学言語は日常言語の延長上にないとした竹内芳郎の論とも
全く違うように見えます。竹内と岩成は個々に、そして北川とも別個に
理解したほうがいいことは確かです。」
344 :
かのっぴ:03/04/01 21:31 ID:evWqxu7z
そういえば第5章の6節「ナンセンスの出現」で、岩成達也と谷川俊太郎の
詩が並べられていましたね。思い切り身勝手に個人的な感想をいえば岩成の
詩は、考えないと読めないけれど考えたところで楽しめるかどうか。一方
谷川の詩は、考えると読めないので頭をからっぽにすると(私の場合は)
楽しめるんですよね。「ぬくぬくと/ふとって」、「かるがると/たのしそうに」
などありふれた修飾を使っているにもかかわらず、です。
コノテーションを使って岩成が何をやりたかったか、ネットですれ違った
断片的過ぎる情報以外、私は知りません。でも彼のほかの詩も私にとって
あまり面白くなさそうだな、という予想は多分正しいです。
もうひとつ、これは邪推ですが、岩成のなかで詩より先に論があったのかな、
と軽く疑っています。そうだとすれば間違いなくつまらない詩ができあがると
私は思うのです。私が思うだけでひょっとしたら違うのかもしれないけれど。
345 :
ボルカ:03/04/02 21:50 ID:4GazylI/
お疲れ様です。
レポートありがとうございました。ここでは、「わからなさ」が共有できて
嬉しいです(笑。一人じゃさびしいと感じてました。
この章は、やはり、岩成さんの詩論や、岩成−北川間の論争を参照しなければ、
なんとも言えませんよね。
僕のコメントを2点付け加えます。
1:
言語学を理解するのに、北川は吉本の用語(表出概念)を用いていますが、
まずここに、ねじれがあること。
普通、言語学はテクストを考察の対象にすると思います。
北川は前の章で、詩を書く主体を<私>と<語り手>に分離しましたけど、
言語学を援用した批評では、<語り手>のほうしか、考慮しないのではない
でしょうか。
僕は吉本については、ぱらぱら眺めただけなのですが、彼の表出概念は、もっと
<私>概念に近いと思うし、北川の<意味規範>も<私>よりだと思います。
僕は、それは、論理としては曖昧だけど、実践的芸術理論としては、むしろ良い
戦略だと思います。
そのような曖昧さを残したことによって、北川は、この章で<リアリティ>を
持ち出して、岩成を批判できるのだろうと思うのです。
テクストの側にとどまるなら、リアリティという言葉自体、批評の言語として
使えるのかどうか、うーん、どうなのかな?
正直、言語学を勉強していないんで、今ひとつ断言できないんだけど、問題の
一端はこの点だと思う。
346 :
ボルカ:03/04/02 22:08 ID:4GazylI/
2:
もう一点、コメントしておきたいのは、岩成さんの詩論については、
僕は全く未知なんだけど、僕も今、言語学に近いところで、いくつか気に
していることがあるって事です。
先月号の「詩学」の野村さんの評論は、面白かったな。
あと、僕は今、ハンナ・アーレントて人に興味をもったるんだけど、この
人はベンヤミンの友達でね。伝記的な興味から、とりあえず、この間の
ユリイカの特集号を買って、読み始めてるところです。
そなわけで、言語学全般を、つまらないとは言ってしまいたくない。
この辺、保留しておきます。
もちろん、かのっぴさんもそうだろうけど、僕からのコメントとして。
347 :
ボルカ:03/04/02 22:19 ID:4GazylI/
細かくはふれません(僕にコメントできる知識がないです)が、かのっぴさんの
要約は、非常に参考になりました。どうもありがとうございます。
結論として、
>>343 に概ね賛成です。
ただ、言語を階層的に捕らえることが、別に問題ない、フツーなことのような
気もするので、まあ、このへんは、なんとも勉強不足で、コメントしにくいって
のが、正直なところですね。
それから、この章から、学べることとして、70年代以降の
いわゆる「難解な詩」のうちには、60年代の詩と、一見にてるんだけど、
詩論を検討すると全然違うものが含まれている、ってことが挙げられる
のかも知れない、と思いました。
*****
今週、ちょっと立て込んでます。
8章のレポートは、来週、火曜日以降にアップします。
348 :
かのっぴ:03/04/04 09:12 ID:EAjBs6GM
岩成達也の詩論『私の詩論大全』手に入れました。「覚書」も収められています。
デノテーションなどの言葉は当時流行りの記号論の言葉をただ使ってみた
という感じで、そのために「北川さんの誤解を招いてしまったなあ」と
書かれているので、言語学などと切り離し、岩成独自の概念として読んだ
ほうが良いようです。
彼が少年期にフランス文学に心酔したこと、数学的な思考訓練を受けたこと、
またコンピューターのプログラムに関する仕事をしていたこと、なども
微妙に影響していそうです。徹底して理詰めではないものの、ある程度は
論理的に物事を考えることができる、こういう人は詩壇に一人くらいは
いてほしいです。どうも後味が悪かったというか、捨て切れなかったのは
この部分かな、と納得しました。少し高い買い物だけれど(3200円)
私にとってはもとはとれた感じです。
>>347 第8章の要約、私も遅れているので私もそのくらいの時期にあわせて
アップします。もちろん、早くあがればその時点で。
349 :
ボルカ:03/04/05 14:51 ID:QZj/yR6q
買っちゃいましたか。やるなあ。
あとで僕も読もうと思います。ネットでの書評などを見ると、
思ったより現実的というか、理解しやすいもののようですよね。
>こういう人は詩壇に一人くらいはいてほしいです。どうも後味が
>悪かったというか
論争を読む難しさですよね。本当の対立点がどこにあるのか、分からないうちに
派閥的に、参加・荷担したくない。
実はこの部分は、2年前、この本を図書館で発見した時に、最初に気になったん
ですよね。それで、その場で北川の詩集と、岩成の詩集を眺めてみて、僕としては、
北川を信頼することにしたわけなんですが、少し読みなれてきて、岩成の詩集とか、
詩人の名前が思い出せないけど、「客と規約」っていうカラスの詩集、知ってますか?
どういうのかっていうと、何も書いてないんですよ。がぎぐげごの、濁点以外。
そういう現代的な詩をどんな詩論が支えるのか、見ていきたいと思っています。
それと、「大全」で3200円なら、安いんじゃないかな。
この本は「入門」のくせに2718円だし(笑。
350 :
かのっぴ:03/04/06 21:49 ID:iYY9JsQH
351 :
かのっぴ:03/04/06 22:26 ID:qQm57RZU
>論争を読む難しさですよね。本当の対立点がどこにあるのか、分からないうちに
>派閥的に、参加・荷担したくない。
これ、本当に気をつけないといけませんね。私などしょっちゅう論争の
どちらかに荷担してしまいます。格闘技のようにそういうのを楽しむのも
また一興だとは思いますが、熱狂的ファンになる必要もないし、敵のことも
知ったほうがよい分析はできる、と。
岩成の「大全」、たしかに新体詩から戦後詩まで、あの独自の視点で切り込んでいるので
内容的にもかなりお得です。新体詩や象徴詩のあたりだと、普通に文献に
あたると論者が古いせいか、注意しないと「決め付け」が頭に刷り込まれて
しまうので、それを解き放すきっかけにもなりそうです。
352 :
かのっぴ:03/04/09 23:53 ID:fIXwbO12
>>1-352 お前らがみんな揃ってテンポよくティムポ振り回しながら
桜の下で人肉食ってるの昨日見かけました。
よく澄ました顔して読書会なんてやってられるよな、この真性変態どもが!!!
354 :
かのっぴ:03/04/10 08:27 ID:5gGS/+Yz
>>353 お、いらっしゃいまし。
眼球をティムポで打ち返して満塁弾叩き込んだところまでは
見てもらえなかったか。。残念。変態は楽しいよ。
よかったらテキトーに乱入してね。
355 :
名前はいらない:03/04/10 08:39 ID:ph49FY5X
356 :
名前はいらない:03/04/10 08:57 ID:7nMxbvH4
変態?
357 :
名前はいらない:03/04/10 08:58 ID:7nMxbvH4
馬鹿?
titti?
359 :
名前はいらない:03/04/10 08:59 ID:cKT9dPnl
アホなんだろ!
360 :
名前はいらない:03/04/10 09:01 ID:5TYxNr2a
>ドン亀
オレのチンポを懐かしむ・・・だもんな!(アホだぜ
361 :
名前はいらない:03/04/10 09:05 ID:iKeaUGBR
362 :
名前はいらない:03/04/10 09:08 ID:BR9goVWf
粘着さんですか?(w
363 :
名前はいらない:03/04/10 09:14 ID:M9ewvppN
チンポ亀と
オナニーいかと
潔癖馬鹿の粘着は
詩板の花ですね。
364 :
名前はいらない:03/04/10 09:15 ID:M9ewvppN
みんは死ね
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366 :
あぼーん:03/04/10 09:16 ID:VhQEMYqH
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368 :
あぼーん:03/04/10 09:16 ID:VhQEMYqH
あぼーん
369 :
かのっぴ:03/04/10 19:36 ID:olYshDJf
思ったのですが第8章で扱った「ランゲルハンス氏の島」とか
「優雅で感傷的な日本野球」とかは、ある意味、変態の領域ですね。
それか幻覚を楽しむようなものか。「未知の像」って、そういう
いかがわしさが付きまとうのでしょう。詩についてわりと小奇麗な
イメージをもっている人が萩原朔太郎の病的な詩を読んでしまうと、
かなり抵抗感があるでしょう。入沢の「ランゲルハンス氏の島」
や谷川俊太郎の「不可避な汚物との邂逅」なんかもそうですね、きっと。
レトリックを扱ったこの本に即したレポートなので朔太郎も読み返しましたが、
実は萩原朔太郎の詩は苦手です。10代の頃はどちらかといえば目を背けて
いました。今読むと当時ほどの抵抗感はないのですが。いろいろ読み慣れた
からかもしれません。音韻律に関しては、いわれてみればそうかな、という感じで
やはり実感としてわからないのですが。
七五調に関しては、読む側に先験的にインプットされている、という側面を
無視して語るのはフェアじゃない、と一言いっておきたいですね。
朔太郎大好き!って人、います?いろいろ語って欲しいです。
370 :
名前はいらない:03/04/10 20:07 ID:0FjgZ7W0
371 :
ボルカ:03/04/10 20:36 ID:6ThwZFaH
やっと、先月締めの仕事が終わったよ(笑。
死ぬかと思った。
>>350 いつもながら、僕には到底書けないきちんとしたレポート、ありがとうございます。
手帳の今月号は読んでなかったので、丁寧な紹介ありがたいっす。
ところで、僕は「世界中年会議」という物語的な詩集が、とても気に入ってるの
ですが、ユリイカの今月号で中也賞を取りのがしています。
そのときの、荒川さんや、北川さんの、この詩集のけなし方、また栞を書いている
高橋源一郎の絶賛などが、かのっぴさんのレポートと照らし合わせて僕には面白いです。
まだ、頭がブンガクに向かっていないし、時間的にもタイトなので今日はレポートし
ませんが、週末に次章(最終章)とまとめてレポートします。
いずれにしても、もうこの辺は、北川の課題って言うより、僕らの課題って感じが
強いです。
>>369 サクちゃんは友達っす(うそ)。でも、詩はいまいちが多いかなあ。時々、どうしようもなく
すごいと思うけど。
最近僕は入沢の断片がグッとくるなあ。
372 :
ボルカ:03/04/10 20:48 ID:6ThwZFaH
ところで、亀の大将はホンモノ?
東京では、今年の桜は綺麗だったぜ。
俺はもちろん、仕事も読書会もほっぽらかして酒を飲んだよ(w
だからって俺の孤独が癒されるわけじゃないがな。
朔太郎は好きです。
文学は全く苦手な私は朔太郎の詩は最初に読めた
文学の詩です。
高村光太郎も文学だろうけれど
一般大衆にもすんなり入っていけるので
こむつかしい文学という気がしません。
「恋を恋する人」
のしなをつくってみせるところ
「片恋」
など女性のようなところがありながら
実は男性の繊細さが現れているところ
うっとりとします。
私は男らしい人が現実的には好みですが
朔太郎は何故か惹き付けられます。
変に魅力があるんでしょうね。
ちょっとエロティックでこちらの女性の部分を刺激されてしまう
きっと女性を口説くのがうまかったと思いますよ
あんなにロマンティックなんですから(笑)
374 :
かのっぴ:03/04/11 19:17 ID:D/RWYFCt
>>373 反応してくれてありがとう。
エロスは音色に近いもののような気がしてきました。
イメージも確かに湧くけれどそれだけではない。
それだけでは仰るところの「繊細さ」って出ないと思うんですよね。
音楽にはリズムも確かにあるけれど、音色というのもあって、
その角度からサクちゃんを捉えなおすのも面白い気がしてきました。
>>371 ユリイカ立ち読みでチェックしました。
選考のコメントって、やっぱり受賞作をよいしょするほうに
もってゆくから、何か不自然、というのが素朴な印象ですね。
それはともかく、「世界中年会議」面白そうですね。
375 :
かのっぴ:03/04/11 19:18 ID:D/RWYFCt
9章、マチネポエティックとか出てきますね。
たいていは失敗とか言われるけれど、あれを失敗とする人が
どういう考え方に囚われているのか、だいたい見えてきた気がします。
そのあたり、レポートで突っ込んでみますね。少し完成が遅れるかもしれません。
ところで、韻ということならヒップポップあたりに注目したほうが
絶対に面白いな、と思ったので今日CDを物色してみました。
詩板にもライムポエムというスレがあったのですが、誰か知りませんか?
過去ログをしらみつぶしに見たのですが、発見できなくて。。
>>375 ライムスレ、現在でも続いている筈ですよ。
確か「ひょっこりひょうたん島スレ」みたいな名前だったと思います。
377 :
かのっぴ:03/04/11 23:27 ID:fHjb/yws
>>376 情報ありがとうございます。スレ発見できました。
378 :
かのっぴ:03/04/12 00:32 ID:fByzAVBl
ちょっと先走ってしまいましたが、第8章関連で
話したいことがあればどんどん書き込んでくださいね。
それ以前の内容でもOKです。
379 :
ボルカ:03/04/12 16:33 ID:uw1QQn3C
遅くなりましたが、8章、レポートします。長文になりました。
******
8章『詩的境界について』
この章では、詩と散文は、どこが違うのか?という問いが
再び検討される。
私達にも、ネット内外でいろいろな文章を目にしていて、
「コレは、詩だろうか」と首をかしげる経験があると思う。
本書の前半で北川は、この疑問について、改行してあるのが
詩だ、と形式面から答えている。
本書はなかなかのボリュウムの本だったわけだが、その過
半、2/3ほどはこの「改行」および改行行為にともなう「余
白」の発生をキーワードにして展開されてきた。
その後、比喩や反比喩(非比喩的語法)等の現代詩のテク
ニックを「規範−意味−侵犯」をキーワードに概観して、正
岡子規、北村白秋から朔太郎、黒田、入沢、谷川をへて荒川
洋治までが、ひとつの論理展開の元に検討された。
で、ぐるっと一巡してきて、ここで北川は再び「詩とは何
か」を問おうとしている。
ここでは、詩は「物語」を禁止している、という北川の観
点が端的に表明された後、第二節以降で入沢と谷川を例に、
「物語」その他の散文と「詩」が境界を侵犯しあう前衛的な
状況が、好意的に紹介されている。
かのっぴさんのレポートはそのへんを詳しく報告してくれて
いる。
以下、ディテールを断片的に紹介しつつ、自分の考えをレ
ポートします。
380 :
ボルカ:03/04/12 16:35 ID:uw1QQn3C
第一節「境界の概念」
−引用−
詩とは何かと言う問いにはいつもある危うさがつきまとう。
―引用終わり―
と、北川は論を起こす。
これまでギルド等、詩のサイトで、なんどか私は、「詩の定
義」について意地悪な反応をしてきた。そこには本能的、反
射的な理由しかなかったわけだが、北川のこの論述は、私の
キモチをよく説明してくれていると思う。
「詩は言葉の音楽である(朔太郎)」というコード「規範」
が確率されれば、音楽的でない言葉のありかたを詩から排除
する常識が蔓延しかねない、と北川は懸念する。
私もたとえば、「詩人とは言葉を大切にする人だ」という、
一見当然の言明に同意しない。こうした見方は、言葉の無意
識的な、または放恣なありかたを排除するからだ。
北川はこのような事情、つまり、口語「自由」詩に、規定
など、もともとありえないのだ、といことを一応念頭におい
た上で、「でもよ」、と論を起こして、黒田三郎の引用から「非
詩」に論及していこうとする。
黒田を孫引きする。
―引用―
詩という概念が成立するのは、詩と詩でないものとの境界に
おいてである。詩と詩でないものとの間に生きている人間に
とって、彼を詩に駆り立てるものは、むしろ詩でない物であ
る。
―引用終わり―
381 :
ボルカ:03/04/12 16:36 ID:uw1QQn3C
北川はまず、黒田三郎の「非詩」は、テキストと人生を混
同している、と批判する。失恋とか、道を歩いていてつまず
いたとか(黒田には「つまずく詩」がある)そういうことは
考えず、ここで問題にするのは詩と比較しうる散文テキスト
(小説、日記、論文ほか)にかぎると、するのだ。そのため
の手続きとして、黒田喜夫の「反詩」概念(―引用―詩が拮
抗することばのない領域。けして詩になりえない沈黙の領域
―引用終わり―)を、これは「非詩」ではない、として考察
の対象から外す。すなわち、彼は、人生論の領域に立ち入ら
ず、文芸批評の領域にとどまろうとする。
これまでたびたび指摘してきたように、北川はどうしたわ
けか、こういうお堅いことを言ってしまうわけなのだが、彼
自身の論理の構造を丁寧に透視していくと、実はこの「反詩」
こそが「意味規範」と密接な関係を持っていることに気がつ
く。そしてそれこそが北川の最大の(しかし隠れた)魅力で
あると私は思う。なぜなら、リアリティの問題に言及できる
論理構造を持っているか否かが、今後「批評の力」について
の分水嶺となると思われるからだ。
382 :
ボルカ:03/04/12 16:37 ID:uw1QQn3C
第2節偽物語的・偽論理的叙述の試み
さて、とにかく「非詩」とは、歌謡、物語、批評、演説、
報道などのことである。そして、その「境界」を意識し、意
識した上で侵犯するとこが重要である、と北川は考えている。
このあと彼は、入沢の「偽物語」などを紹介していくわけだ
が、ここで一つ指摘しておきたいと私は思う。
ここまで北川は、詩が物語を禁じてきた、ということを前
提としているが、これは2003年の今日においても、なお妥
当すると言えるだろうか?
ここで私は「時代性」ということを考える必要を感じる。
たしかに「物語」の時代、すなわち60年代には、「反−物語」
がポエジーの牙城でありえたし、また詩というジャンルの意
味ですらあったかもしれない。しかし、現在、「時代にとって
の物語」がすでに失われていること。北川自身の叙述に添っ
て言い換えるなら、「都市の物語」は拡散し、希薄化し、高速
化していく物語であり、もしかするとポエジーでしか捕らえ
られないものになったのかもしれないと言うこと。そういう
ことが、ここで私達「ネットポエマー」によって論じられな
ければならない、と私は思う。
端的に言おう。少なくとも私は、詩が物語を含有すること
を、ちっとも奇異に感じないし、新しいとも感じない。それ
はただフツーのことだ。自分もフツーにそういう詩を書くし、
田口犬男もフツーにやっているだけだと思う。批評と言う観
点からいえば、詩を評するとき、私はそのことについて「テ
クニックとしては」言及する必要を認めない、ということな
のである。
383 :
ボルカ:03/04/12 16:43 ID:uw1QQn3C
***
私は四元康祐の最近の詩集「世界中年会議」を高く評価し
ている。
今月(4月)号のユリイカにおいてこの詩集は中原中也章
の最終候補作として論じられたが、そのなかで北川の批評が、
私には興味深かった。彼は、この詩集の面白さを評価した上
で、なお、「物語」を詩に導入するのが、当たり前に行われて
いることに不満を表しているのだ。
北川の「詩的レトリック入門」が刊行されて既に10余年
が経過していることを考えれば、ユリイカにおける北川の批
評は、北川の詩に対する実に驚くべき誠意を証明していると
言える。思いつきで彼はしゃべっていない、ということだろ
う。しかし、私であれば、「世界中年会議」にはあのような批
評はしない。
この詩集で四元がやっていることは、このほとんどどうに
も物語化できない(物語と言えばマスコミが垂れ流す操作情
報だけの)現代社会のなかで生活しながら、地下5階におい
て咲いた、狂い咲きの花をそっと摘んだ、ということである。
そして彼は、その花を誰にでも分からざるを得ない、明瞭
な地上の詩の世界にまで持ち運んだ、ということだったはず
である。他の誰が、ビンラディンの詩を書いたか?また、他
のどのやりかたで911が日本人の詩として生きられたか?
これが、知性なのだ。こうした仕事は、知性にしかできな
い。小難しいやり方で韜晦することのみが知性なのではない。
384 :
ボルカ:03/04/12 16:44 ID:uw1QQn3C
もちろん、既に広く常識化したテクニックを見かけただけ
で、既にあるだの、いやそう言えばなかたかもだのと、キャ
ーキャー騒ぐ、ということであれば、それは批評以前である。
そういうエセ批評は、ネットでもみかけることがあるし、
誌上でも散見する。そういうとき、どうしても何か言いたい
ならば、「よく勉強してるね」と言えばいいのであり、他は入
らぬおせっかいである。――同じ理由で、私はそうした批評
家を名指しで攻撃したことはないのだが、「難しくてはいけな
い」という人々に同意しないことは付言しておく。
北川はさすがにそういうことはやっていないし、そういう
レベルからは遠いところに身をおいている。すなわち、彼は
エセ批評家ではなく、批評家である。それは十分に評価する。
しかし、私であれば、もうすこしヤワイところ(物語や政治
演説を詩の境界外としては考えない地点)に身を置いて批評
する。別に北川にケチをつけているのではない。北川に触発
されて、そうした地点に批評を築くのは、たぶん、私達ネッ
トポエマーの今後の仕事だろうと思うのだが、どうだろう
か?
385 :
ボルカ:03/04/12 16:51 ID:tmdX/ZhQ
**
第3節物語に戯れ、物語を裏切る、もの騙り
ここでは、高橋源一郎の面白い小説の技法が、詩との境界
を侵犯する戦いとして紹介される。
僕も高橋は好きだ。名著「文学がこんなに分かっていいか
しら」はもちろん読んだ。
ここでは註釈から高橋を一部孫引きして、紹介に代えよう。
386 :
ボルカ:03/04/12 16:52 ID:tmdX/ZhQ
「さよならギャング達:第二部 詩の学校」
−引用−
真っ暗になった「詩の学校」のなかで、わたしはいつか生
徒たちが書く筈の詩のことを考えていた。
きれいで、単純で、力強い詩があるだろう。
変なものも、気味の悪いものも、ぐずなものも、幼稚なも
のも、こっけいなものも、読むに耐えないほど馬鹿馬鹿しい
ものも、規則を守っているものも、規則を知らないものも、
はずかしがっているものの、うそつきも、気取っているもの
も、その中にはいるだろう。
上手い詩以外のすべてが、その中にはいるだろう。
わたしは立ち上がり、手探りしながら教室を出た。
―引用終わり―
387 :
ボルカ:03/04/12 16:53 ID:tmdX/ZhQ
「詩の学校」。これをこの本に引用する北川さんが、ボカア
好きだなあ。たぶん北川さんは知らないだろうけど、ここが、
ソコなんだよね。
***
実は、この節に関連して三浦和義氏のインタビュー記事(週
刊文春「疑惑の散弾」記事事件)を引用しようと思ってたん
だけど、力尽きました。
関連文献だけ書いとくね。
>渡部直己「現代口語狂室」河出書房新社
三浦さんて、詩人だと思う。あと、ワタナベのことは尊敬
してる。「境界」を考える上で、とても面白いですよん。
明日は、次章、最終章をレポートします。
388 :
ボルカ:03/04/12 16:59 ID:tmdX/ZhQ
>>375 まさに、そのとおり。
ライムポエムもそうだし、普通の歌詞でも、「音足をそろえる」てのは、
絶対必要で、そういう観点から、このへんはとらえなおしてくべきですよね。
今、歌詞の批評できてるひと少ないと思う。サイキョウさんがやってるのを見て、
すげ−と思ったことがあるけど、僕にそれが難しいのは、音数律とかにたいする
考え方が整理されてないのも一因かと。
次回のかのっぴさんのレポートも楽しみにさせていただきます。
389 :
名前はいらない:03/04/12 17:01 ID:44hgQjLO
うるさいな
ボルいかは(笑
390 :
名前はいらない:03/04/12 17:07 ID:7LActFNg
暇なんだろ。無職だし・・。
391 :
ボルカ:03/04/12 17:11 ID:tmdX/ZhQ
つけたし
>>386 は、「詩的なものを肯定しない詩」の説明として、北川がつけた
註釈です。
392 :
名前はいらない:03/04/12 17:11 ID:C+nB46Vv
>ボルカ
あまり、くだらないことばかり書かないでね。(ぷ
自分で
理解して書いていない。
パクリをエラそうに書き込むクセがなおっとらん。
394 :
名前はいらない:03/04/12 17:19 ID:zh95usFj
ウザイ!!
395 :
名前はいらない:03/04/12 17:24 ID:mNidfz9G
396 :
名前はいらない:03/04/12 17:30 ID:VIEKxDGw
実社会の経験の無い人が
なにを言ったってなぁ、、と思われ。
397 :
ボルカ:03/04/12 17:31 ID:tmdX/ZhQ
おおっ!粘着さんっすか?
不屈の闘魂ですね!
えらいなー。
てか、歓迎するけど、あと、桜の季節は、お互いイロイロ事情があるんだろうけど、
>>1は、読んどけよな!
398 :
名前はいらない:03/04/12 17:32 ID:VIEKxDGw
また、いつものスレをageてるよ。
やることがアホだな。幼稚だよ。>ボルカ
399 :
ボルカ:03/04/12 17:40 ID:tmdX/ZhQ
まあ、落ち着け。あのスレッド上げてるのは僕じゃないよ。
とりあえず、君が自殺したりしないで、元気でいてくれて、俺は本当に
嬉しいよ。
この間はつい、言い過ぎた(虫とか(笑)。
ごめんね。
詩学を初めてネットで買ってみましたらね
ボードレールの詩が載っていたんですよ。
訳つきで。
私は始めてレトリックの概念がわかった気がします。
「街がけたたましく吠えていた」
「彫刻の足」
こういうのを比喩というんですね。
でもレトリックを意識して書いているような気がしませんでした。
「街がけたたましく吠えていた」
と描けば情景がすんなりと浮かびます。
北川さんについては難しくなければ読んでみたいです。
あと高くなければ^^;
いやあ、ぜんぜん知らなかったけど谷川俊太郎さんも
いい詩を書くじゃないですか!!
私はてっきり商業詩人と思っていたのです。
田舎にどんどん谷川さんの詩集が入荷してくるんですよ。
つい、立ち読みしてしまうと
欲しくなってお洋服を買うお金が本に化けてしまいました。
流通させればもっと詩を買う人が増えるのではないでしょうか。
本屋に詩集が並んでいなければ当然
ネットで読んでしまいます。
他の詩人さんの詩集でもいいのが数冊ありました。
金銭的余裕とお洋服より欲しいと思ったら買います。
401 :
ボルカ:03/04/13 00:20 ID:cYq54Omy
>>aさん、チャオ。
谷川、シブイッすよね。僕は今、「うつむく青年(1989年サンリオ版)」をブック
オフで入手して、読んでるところです。
冒頭引用すると、
***
うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命をかけているかを
よれよれのレインコートと
ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持っていない者の烈しさで
それしか持とうとしないものの気軽さで
うつむいて
うつむくことで
(以下後略)
402 :
ボルカ:03/04/13 00:29 ID:cYq54Omy
なにもテクは無い様なんだけど、略した第2連と3連では、そのまま
歌詞にできるぐらい音数と強弱がそろえてあるんですよね。
この「詩的レトリック入門」8章で引用されている「いるか」もそうだけど、
谷川ってちょっと枠にはめきれないところがあると思うよ。
「詩的レトリック入門」は、2718円、ネットでも買えるよ。
僕はEブックっていう所を利用してるんだけど、そこだとクレジットカードなし、
コンビニ引取り、コンビニ決済で、送料なしです。
てか、僕は別に北川さんの販売促進運動をしているわけではないんだけどね(笑。
403 :
名前はいらない:03/04/13 01:18 ID:PCfLLqp/
404 :
ボルカ:03/04/13 20:54 ID:E852gnSs
>>403 でしょ?
そう言ってくれる人が、国内に3人はいると見込んでました(笑。
******最終章に入りますが、もう一度スタンスを書いておきます。
ここでは、課題に上げた本の読書会をやっていますが、詩板の特質を
考慮して、できるだけ未読の方も参加できるように心がけています。
スレの運営としては、通常の読書会のように、
要約→読解→批評→→→感想・雑談
という流れを心がけて、一週間に一章づつやってきました。
本来読書会とは、上図の「読解」までを精密に議論するゲーム(勝負)
なわけですが、詩板では、課題の本を読んでいない方も多いわけです
から、それはできません。後半に力点をおいて、ディベートよりブレ
ストを目指しています。
また、忙しかったりして、いきなり感想で終わったりしたところもあ
りました。(いや、そのほうが多かったかもしれません。)
405 :
ボルカ:03/04/13 20:56 ID:E852gnSs
最終章(第9章)「詩型論の試み」
第1節詩歌のリズム−音数律
口語自由詩とは、詩形について、詩人が勝手に選ぶ詩である。
そんな自由詩について「詩形」を考えることに意義を見出せるかどうか?
黒田三郎(「現代詩の理解」)や、歌人岡井隆を引用しつつ、北川は以下の
ように指摘する。
―引用―
二つの重要な指摘がある。一つは詩にフォルムがあるということと、定型で
あるということはまるっきり違うということ。もう一つは、定型とは規範で
あり、約束であり、それは詩ができる前、詩を読む前から、作り手や読み手
に予想として存在するものだ、ということだ。
―引用終わり―
まず、ここで、自由詩のフォルムは、単に定型詩の復権ではない、ということ
が指摘される。
406 :
ボルカ:03/04/13 20:57 ID:E852gnSs
つづいて、「なぜ、日本の定型詩は5、7音を基調とした音数律なのか」という
疑問が提出されて、時枝誠記の「等時的拍音形式」の概念が紹介される。
これは、要するに、発語の意識として、一音の長さが等しい、ということである。
そのことから、日本語の詩は生理として、音数律に傾くということが指摘される。
つづけて北川は、「では、この音数律のリズムは、定型詩の存立にとって、どう
いう意味を持っているのか」と問い、言下に、これまでの57577より長い定
型詩の試みが、すべて長続きしなかった、と言う。
―引用―
つまり音数律のリズムは、七五調や五七調はもとより、様々に工夫された新リズム
も、それをあがく反復するには耐えられない単調さを持っているということだ。
―引用終わり―
と、北川は結論する。これは、「定型詩」の話である。定型詩ですら、七五調には
単調で耐えられなかった、と彼は結論するのだ。
*****
407 :
ボルカ:03/04/13 20:58 ID:E852gnSs
***さて、「等時的拍音形式」が、どうしたというのだったか?ここでの北川の説明
は明瞭でないので、補うしかない。
ここで、本来は三浦つとむを引くべきなのだが、私は読んでいない。
かわりに、私は最近、藤井貞和の詩がとても気に入っているので、藤井さんの
「自由詩学」から紹介する。
−引用−
日本語にしろ、沖縄語にしろ、等時拍ですすむ、音のつらなりを、沖縄語では、
8音や6音で切れめを入れることが発達し、本土語では7音や5音で切れめを
入れることが発達する。 沖縄語で、8音や6音が発達することは文化の問題
であって、日本語で7音や5音が発達することが文化の問題であることに等しい。
等時拍とは強弱や長短のアクセントをも、まとまりをも、を持たないことを意
味する。「藤井貞和 自由詩学」
―引用終わり―
ヨーロッパの詩のようなアクセントや語音の流れによるリズムを日本語は
持つことができない。
たとえば、「とうじはく」と言って、それがどう発音されるかは、方言によって
違うのだから、「とうじはく」と書いた筆者が当面期待できることは、それが
5つの音として、認識されるだろうということだけだ。
藤井は、「見ようによってはさびしいことかもしれないけれども」と断った上で、
そういうわけだから、語数で律を考えるのはだいじなんだよ、説明する。
なお、さらに藤井の説明を紹介すれば、日本語に於いても、べつに5音である
必要は無い、と彼は考えている。何音でもいいのだけれど、幾つかであればい
いのだ、ということだ。また、57577も、77、55を主体としたリズム
として(つまりは歌詞にしうるリズムということだと私は理解するけれど)
考え直す必要がある、と彼は言っている。
408 :
ボルカ:03/04/13 21:00 ID:E852gnSs
第2節幻の音韻律とソネット
つぎに北川は、やはり日本語の特徴として、母音が5つしかないことや、
「韻のアクセントに強弱や抑揚がかけていること」を指摘する。
これは、ようするに、「XXXである。」と言ったときに、終音は、
アルではなく、「る」である、という意味だろうと思う。
そうしたことを論拠に、北川は、自由詩における音韻律の可能性に
あまり期待しない。
―引用―
それでは全く可能性がないのかといえば、そうではない。
―引用終わり―
として、谷川の「いるか」が言及される。
すなわち、「遊び」の要素としての可能性である。
つぎに「マチネポエティクス」が批判的に紹介される。北川の批評を
乱暴にまとめれば、「それは、中途半端だ」ということになろう。
「いるか」まで行っちゃわないと、韻を踏む効果は出ない、と。
つぎに、長さをあらかじめ決めておく詩型、として、ソネットが
紹介される。
409 :
ボルカ:03/04/13 21:02 ID:E852gnSs
第2節非定型の詩のフォルム
―引用―
フォルムを決めているのは、必ずしも一つのレトリックではないし、
詩の語り手は、それをあらかじめ予測し得ない。
―引用終わり―
自由詩のフォルムは、作品ごとに出現する。
あたりまえといえば、あたりまえだが、北川は、それをこの節で
丁寧に紹介している。
ここでは、誇張、イロニー、メタファー、対句構成、列挙法、漸層法など、
レトリックのおなじみの用語が、一巡り言及される。
ここには、おそらく、北川さんの初学者への心づかいを見るべきだろう。
自由詩は、形式化を拒むから、自由詩なのであると私も思う。
北川は、次のように述べて、この章とこの本を締めくくる。
―引用―
もし、詩的レトリックが、規範のあり方において、解体と再生を止めて
形式として固定してしまえば、そこにステレオタイプ化した言語表現し
か生まれないだろう(後略)。
―引用終わり―
これは、この本の一貫した主張でもあった。
単純化して、簡単に一言で言うなら、私はこの結論に同意する。
410 :
ボルカ:03/04/13 21:07 ID:E852gnSs
***
皆様のおかげをもちまして、最首相にたどり着きましたが、この章も、カナーリ、自信ないっす。
ここでも、かのっぴさんのレポートを読ませていただけると有り難いです。
411 :
ボルカ:03/04/13 21:08 ID:E852gnSs
***
それから、「私の」粘着さんに、一つ注意しておくけど、私は君が生きていて
くれて、心から嬉しい。
人生色々だけど、もともと君は馬鹿なんだし、俺ごとき無名オタクに笑わ
れたぐらいで、けして死ぬんじゃないぞ(笑)。
だけど、次に追い込みをかけるときも、私は相手が明らかに低能であっても、
優しくはしないから、そのつもりでリングに立つように。
412 :
ボルカ:03/04/13 21:11 ID:E852gnSs
例によって、誤字は多いけど、とりあえず
>>410は、
首相→終章のまちがいです。
413 :
かのっぴ:03/04/13 22:05 ID:HiFhvkyJ
414 :
ボルカ:03/04/13 22:45 ID:OsgN4V5m
お、高速レス、ありがとうございます。
レポート楽しみに読ませて頂きます。
ご参加、本当にありがとうございます。
ウイークデーに入ったら、お互いのレポートに、感想レスをつけあいましょう。
**
なお、「あとがき」は今週の雑談部分に含めて、この読書会は来週日曜日で閉会
としましょう。
415 :
佐々宝砂:03/04/14 03:56 ID:wXMxGlMh
お疲れさまでした。このスレの熱心な読者であったことを白状して、
御礼にかえさせていただきます。
しかし実は、いまだ北川透の「詩的レトリック入門」を
読んでいなかったりします(核爆
はよ読め、わたし。
416 :
かのっぴ:03/04/14 11:43 ID:v73tsVcp
417 :
ボルカ:03/04/14 20:52 ID:hwy1YBY5
>>416 かのっぴさん、いつもながら丁寧なレポート、お疲れ様アンドありがとう
ございます。>なんか急がせちゃったでしょうか。
ソウルフルなレポートですが、今週もちょっと立て込んでまして、ゆっく
り読ませていただいて、週後半にコメントします。
とりあえずの感想ですが、かのっぴさんがローマ字表記に直した
のを読んで、すごく驚きました。
韻文としては、この方が良いですね。てことは、朗読するとまた
違った趣があるってことかも。
>>415佐々さん
ご声援ありがとう。
てか、さささんて、登場に華があってイイね(笑。
418 :
ボルカ:03/04/16 19:40 ID:hr2KauEC
いやあ、堪能いたしました。
>>416 これまでのかのっぴさんの鋭いご指摘のなかでも、白眉だと思います。
まず、57調の意図を強調された点。
この詩は、意味内容では、75調で読めるかとも思うのですが、それを
あえて57調で改行し、内容的には改行をとびこえるつながりを残した
作者の意図を、かのっぴさんは的確に指摘していると思う。
さらに、歌詞としての音楽的な読解と、ペーパーで黙読するというこ
としか、想定していない批評への批判。
僕も、ここでは、歌詞に触れたかったけどできませんでしたが、かのっぴ
さんのリズム論は的確だと思います。
あんまり的確なんで、かなり驚いています。この種の批評は、なかなか
なされていないと思う。
今後ともご活躍、期待いたします(桑田論とか、やってホシーナ)
>さて、内容面では意味規範からの逸脱に詩的レトリックの存在を見出す
>北川が、音の面ではなぜ日常的な日本語を拘束するルールをこうも無批
>判に受け容れてしまい、そこから逸脱することを考えつかないのか、考
>えてみれば不思議ではあります。(中略)それとも関連しますが、詩は
>黙読されるものという暗黙のルールも、音による定型を作る試みには不
>利に作用してきたと思います。
419 :
ボルカ:03/04/16 19:45 ID:hr2KauEC
「詩は、紙の上に固定しているものである。」という「規範」に対する
侵犯が吟味され、評価されなければならない、ということかもしれ
ませんね。
そもそも「韻」は、歌を持つことのためにあるのであって、定型を
持つためにあるのではないのかもしれない、という疑いを触発され
ました。
420 :
かのっぴ:03/04/17 11:13 ID:wMPYpwGj
藤井貞和さんの「自由詩学」、ボルガさんのレポートをきっかけに、
読み返してみましたが、なかなか面白そうですね。歌詞とはまた違った
側面から日本語の音にアプローチしていて。
私のレポートに関しては、特に独自の視点というわけでなく、実はみんな
考えていることなんじゃないかなあ、と私は推測します。ただ詩についての
議論で、たとえばサザンの歌詞の話なんて、あらかじめ排除するのが約束で
誰も語らないだけで。
421 :
かのっぴ:03/04/17 11:18 ID:AQkOnqIy
逆にいえば「現代詩」がひとつの定型になっているともいえるかもしれません。
黙読される、音でなく意味、あるいは意味を逸脱した喩がより重視されるという
ひとつの規範、それが現代詩の世界で「作り手と読み手にあらかじめ了解された
共通の形式」すなわち定型として作用している、という意味で。
だからこそ疑いははさむべきで、歌詞、ネットポエムといったものを
必要以上に軽視する姿勢は問題ではないかな、と思います。
422 :
かのっぴ:03/04/17 11:24 ID:h1Adv2VI
せめてマチネポエティックは再評価してもらいたいです。
詩集くらいどこかで手に入らないかな。けっこう蔵書の多い近所の
図書館でも、マチネポエティック詩集は検索にかからなかったからなあ。
萩原朔太郎の音韻律については那珂太郎さんが熱心に研究していた
こともあるようです。ソネットについては、鈴木漠という詩人が、
脚韻も見事にはまった美しいソネットを書いているのを発見できました。
現代詩の世界でもやはり音はたびたび注目されているようです。
423 :
山崎渉:03/04/17 12:42 ID:GAm0uYE/
(^^)
424 :
ボルカ:03/04/18 01:44 ID:EdfIHlbS
>>420-422 勉強になります。
音韻についても、マチネについても、歌詞についても認識改めつつあります。
おっしゃるように、ここで僕らは、現代詩が定型化している、あるいは、
現代詩批評が、定型的なものとして現代詩を考えてしまっていることに
気がつくべきなのかもしれません。
日本語のソネットについては、谷川の42のソネットでしたっけ?62だっけ、あれ?
いくつだったか忘れたけど、あの詩集しか読んでないっす。
425 :
ボルカ:03/04/18 02:09 ID:EdfIHlbS
>かのっぴさん、
通読しての印象、ご感想などもありましたらお願いします。
かのっぴさんのレポートの末尾にまとめてありましたが、多に何かもしあれば。
>>ALL
他にも、お名前は挙げませんが、多数の方にご参加いただきました。
なかでも、激辛さんには始終お世話になりました。
この本を手にとられた方に、最後に簡単にでも、この本を通じての印象や
ご感想、評価等を、なんでもお聞かせ願えれば幸甚です。
426 :
ボルカ:03/04/18 02:25 ID:EdfIHlbS
多じゃなくて、他だな。読みは「ほか」だし。「方に」ってのも変だし。
最後までアレな私で、失礼しました(笑。
******
読書会閉会後、このスレッドはレトリックに関する雑談スレッドとして
開放します。たぶん1000行くのは厳しいでしょうから、話題が無ければ
無理に上げないでね。批評家養成スレは別にありますしね。
もともとはこの後で、北川さんの詩とかをしつこく読んだりしてみようと
思ってたんですが、ちょっと方向変えさせて頂きます。
>>425 途中から抜けてしまってごめんなさい。
面白くてずっとROMしてましたが、
書き込めなかったのは単純に体力がなかったからです。(批評体力?
みなさん体力ありますね。。。
このスレはまさに現代の詩(狭い現代詩じゃなく)の、
一流の批評になりえているのではないでしょうか。
本とこのスレを頭からもう一度読んで、
思うことなどささやかながら書こうかと思います。(ぼちぼち
428 :
ボルカ:03/04/19 00:02 ID:55eK7R1s
>激辛正統派さん、書き込みありがとう。
特に初めの方で、ご指導、ご鞭撻、それから、ご声援ありが
とうございました。
後日、レポートもいただけれるのであれば、それも大変嬉しいです。
拝聴させて頂きます。
激辛さんには、是非お酒入れて、いろいろ伺いたかったな。
オフ参加できなくて残念っす。
429 :
ボルカ:03/04/19 00:15 ID:55eK7R1s
全体についての感想ですが、僕は、この本は、とにかく一生懸命
書かれていてイイ本だと感じました。
かならずしも精確な要約を心がけませんでしたが、細かく読めば
読むほど、熱いソウルを感じました。
僕らは、何か書く時、どうしても、自分の得意なフィールドに引き込んで
勝負する、みたいなことに走ってしまいがちですよね。
それは、一つのレトリックですらあって、新聞の社説も、雑誌の書評も、
同人誌の編集後記でさえ、「自分のフィールドで」みたいな書き方を
された文章が多いように思います。
でも、北川は、そうではなくて、恐らくは不得意であろうところまで、
自分の考え方を引き伸ばして、弱点をさらして見せた。
もっとも、最終章あたりでは、見抜いたかのっぴさんもスゴイっていう
感じが強かったけどね(笑。
それにしても、そうやって、体系化を拒んで、限界の外まで語ろうとした
姿勢は感動的なものを感じました。
あと、イイ点として、勉強になったです。フツーの意味で。情報が多いわりに
ストーリー性があって、読みやすかった。
不満点については言うだけ言っちゃった(笑)けどね。
430 :
かのっぴ:03/04/19 17:46 ID:QUUz+/rR
あらためて最初から読んでみると、思いつきで突き進んでいるようでいながら
詩的レトリックとされる改行、余白、私の多層化、意味のずれ、詩的比喩などの
キーワードは一貫した切り口として作用しているなと思いました。
わざと思いつきのスタイルを演じたのか、本当に思い付きだったのか、
いずれにしてもすごいことです。特に後者ならば!
ゆるぎない物の見方と、柔軟性が、相反するようでともにこの本の柱になってます。
第九章のレポートで私が指摘した点は、もう一冊の北川の著作『萩原朔太郎<詩の原理>論』
を私が論評するまでは勝負はわかりません。もしかしたら私が玉砕するかもしれません(笑)
レポートに取り組んでみて、詩の読み方が確かに変わった気がします。
今後取り組む予定の詩人論などに活かしてみたいです
(現代詩文庫読破というとてつもなく無某なことを始めようとしているところです)。
桑田の歌詞論も、ある程度まとまったらやってみたいです。
431 :
ボルカ:03/04/19 19:21 ID:DJclETgs
レスありがとう。
玉砕、かつ目して待ちます(なんちゃって、うそ。ちゃんとまじめに期待します。)
いや、ふざけたら叱られそうだけど、かのっぴさんの今後の批評活動
には、注目するよ。
このスレッドで語り合ったことは、とても面白かったし、僕も考え方
変わったけど、あくまで「読書会」の試論だから、それにとらわれず、
自由で大きな議論を展開していただきたいと思います。
個人的には桑田論、期待しちゃう(>かっつぱらっぱ、浮世の波時雨
えー・とか。)けど、もう一つ、「視覚詩」にも関心もっていきたい
ですよね。
僕のほうは、もともと批評は苦手で、訓練としてやってるわけなん
だけど、次の「詩論の試論」として、◎のレビューセンタをお借り
して、状況批評のふりをして、連載を開始させていただきました。
実は状況批評じゃなくて現代文学論です。
かなり、チューな連載(目標は、オーバー都立さん)だけど、気が
向いたら覗いてみて下さい。
432 :
山崎渉:03/04/20 01:34 ID:tQHi8HIt
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
433 :
ボルカ:03/04/20 19:36 ID:IUbLtYu4
********************************
432の山崎の発言をもって、読書会を終了します。
ご参加いただいた方、ご声援を頂いた方にあらためてお礼申し上げます。
どうもありがとう。
また、このスレッドを読んでくれたROMの方々にも、心よりお礼申し
上げます。
以後、このスレッドは、レトリックに関する雑談スレッドとして開放します。
私は今後しばらく2chを離れる予定ですが、このスレッドは時々チェック
します。課題書籍を読まれた方は、感想等を投稿いただけると、なお幸甚です。
***********************************
(^^)
435 :
名前はいらない:03/05/24 21:45 ID:pJJ1lxg2
読んでる奴いねーのかー
>>430 桑田論は既に結構出ているような気がするのだけど。
437 :
山崎渉:03/05/28 10:47 ID:91alohpq
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
こんな良スレがあるのをしらなんだ。
そのうち時間をとって読むつもり。
保存age
439 :
かのっぴ:03/06/28 19:54 ID:kHGpk2s9
7月の現代詩手帖に凶区のことが書かれていました。
この本でいえば第5章3節、シンタックスの破壊に関係してきそうです。
北川透の視点のみというのも心もとないと思うので、詩手帖の記事や、
作品をもう一度読み直してみようと思ってます。
440 :
名前はいらない:03/06/29 06:05 ID:yi5o8sym
比喩に関して
直喩と隠喩というのが対比的に語られることが多いけど
言語論的にいうと広義的には
直喩
・暗喩(隠喩)
・換喩
・諷喩(寓喩)
・提喩
と分類できるみたいですね
「似ている」と言うのをメタ言語的に説明、表現するのが直喩
「似ている」と言うことを対象言語同士、或いは対象言語のレベルだけで表現してしまうのが隠喩。
詩のレトリックを理解する上で
こういう言語階層的なアプローチもおもしろいと思うのですが。
そういう方向からの詩論ってのはないですか。
441 :
かのっぴ:03/06/29 21:50 ID:CCEAKjly
>>440 とりあえずネットで検索してみました。北川の本でも何回か出てくる、
意外な基本書(?)にそれら全ての「喩」について書かれているようです。
読んでいないので内容はわかりませんが。
佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社学術文庫1029、1992.6)
講談社刊の同名書(1978.9刊)を文庫化(講談社文庫)したものの新装版。
¶レトリックが受けもっていた二重の役わり/レトリック、修辞、
ことばのあや/直喩/隠喩/換喩/提喩/誇張法/列叙法/緩叙法
442 :
山崎 渉:03/07/15 12:05 ID:iuxfPmjy
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
444 :
ボルカ:03/07/24 23:39 ID:lPT+Li2R
>>440 喩えの機能に関連したものとして、ベンヤミンの2軸定理って奴があるって
話を、以前「詩学」で野村喜和男氏が書いていて、興味を持っています。
とはいっても、初めて名前だけインプットしたぐらいの知識で、これから
勉強しようかな、ってとこです。
来年春頃スタートぐらいのつもりで、以下のような感じで「喩え」にかんする
ゲームをやってみたいんですが、どうっすかね?
興味ある方、いますか?
******
最低4本のスレッドを使って幾つかのサイトをジャックして
やる「4つの2軸定理ゲーム」つう企画です。
1)2軸定理とは何かを限りなく分かりやすく説明する、というゲーム。
2)2軸定理を使って詩作するゲーム。
3)2軸定理を使って「詩にリアクションをとる」ゲーム。
4)2軸定理が有効か否か議論するゲーム。
445 :
ボルカ:03/07/24 23:41 ID:lPT+Li2R
同好の士、募集アゲ。
またしばらく、お邪魔します。
君達さぁこんなところに書き込んで楽しいわけ?
どうせ君達は不細工なヒッキーでしょ?((こんなの→(-_-)
君達がどんなイイ詩を書いてもキモイだけだと思われ
まぁ廃人寸前ってやつですか?
詩人だけに死人・・・なんてね
とりあえず逝った方が良いよw
>ボルカ氏
おお、帰って来てくれたのかい。嬉しいねぇ♪
またしばらく、お願いするっす!(真面目な生徒のように清聴してます☆
>>444 ほほう。。そりゃ、おもしろそうだな。
ところでベンヤミンって、何の薬品の名だい?
ところで今回の梁山泊、お題が「怪」なんだが、
もし暇だったら、審査員ズの一員やってくんねぇ?
宵紅荘っぽいお題だろ?☆
よかったら見るだけ見てやってくれや。↓
http://book.2ch.net/test/read.cgi/poem/1054914970/l50 ボルカ氏以外の方々も、気が向いたなら、どうかよろしくお願いするっす。
おっと宣伝失礼しやしたっと!
ここも再開するんなら、いつでも俺は明子姉ちゃんのように見守ってるぜ。ぢゃ!
448 :
ボルカ:03/07/25 00:47 ID:o29sCfpF
>>447 オケ。
僕は勉強中の身の上(投稿ボツ記録更新中だ!てか、連続10回超えちゃっ
たぜ、しくしくしく。)ですから、人様の作品の批評は本当はアレなんすけ
ど、今回限定で、謹んでお引き受けいたしやしょう。
ようするに、やる。
やらせていただきます!
>>446 それで煽ってるつもりか?
てか、あなたもご参加をご検討、よろしくね。
開始は来年だから、急ぐこと無いよん。
>>448 嬉しいねぇ。気持ちのいい返事に感謝だぜ☆
おっとBARのほうにも来てくれたんだな。重ね重ねサンクス!
良スレでこれ以上雑談するのもなんだから、また店のほうにも遊びに来てくんな。
そのゲーム、(1)を如何にクリアするかだよなぁ。。。
俺みたいなバカにもクリアできるように、難易度調整お願いっす(涙)
おもしろくなること期待してるぜ。ぢゃっ!
どうしてそんなに先なの?
451 :
ボルカ:03/07/25 21:31 ID:rQoL6FM9
>>449 いや、不束者ですが、よろしくね。
能力低いんで、せめて感覚に正直にやらせて頂きます。
>(1)を如何にクリアするかだよなぁ。。。
まさにその通り。
それってきっと、これまで、ちゃんとできた人、あんまりいないんだよ。
だから、ゲームになると思うんだな。
452 :
ボルカ:03/07/25 21:39 ID:rQoL6FM9
>>450 僕自身、ベンヤミンをまだ、全然読んでいないからです。
てか、いきなり間違いだった!
ベンヤミンには、ある理由で僕は関心もってるんだけどさ、
ヤコブソンでした。
ごみん。
(それだって、ベンザでもアリナミンでも無いぞっ、亀!)
453 :
ボルカ:03/07/25 21:46 ID:rQoL6FM9
>>450 僕が、「ヤーコブソンの二軸論」(コレが正しかったみたい)に興味を持ったのは、
野村さんの概論総説を読んでのことです。
この総説は「詩学」の2003年3月号「初めて詩を読む人のために」っていう入門者
向けシリーズの一本でした。
まだ、それ以外に、なんにも読んでいません。
ですから、いきなりはじめちゃうと、僕がついていけなくなってしまうのです。
そこで、準備期間を置きました。
454 :
ボルカ:03/07/25 21:50 ID:rQoL6FM9
って、わけで、書き直させて頂きます。
喩えの機能に関連したものとして、ヤーコブソンの二軸論って奴があるって
話に興味を持っています。
とはいっても、初めて名前だけインプットしたぐらいの知識で、これから
勉強しようかな、ってとこです。
来年春頃スタートぐらいのつもりで、以下のような感じで「喩え」にかんする
ゲームをやってみたいんですが、どうっすかね?
興味ある方、いますか?
******
最低4本のスレッドを使って幾つかのサイトをジャックして
やる「4つの2軸論ゲーム」つう企画です。
1)2軸論とは何かを限りなく分かりやすく説明する、というゲーム。
2)2軸論を使って詩作するゲーム。
3)2軸論を使って「詩にリアクションをとる」ゲーム。
4)2軸論が有効か否か議論するゲーム。
455 :
ボルカ:03/07/25 21:57 ID:rQoL6FM9
たとえばね、以下のふたつの比喩は、二軸論的に言ってダメな比喩ですよね。
1)君のネクタイは、僕のネクタイのように赤い。(移動が無い)
2)彼は政治の大海に乗り出し、やがて頂点を極めた。(混喩)
でも本当は、1)なんか、カッコいいかもしれないし、2)は、
どうしてダメなのか、説明できるかどうか、微妙。
イメージの分裂とか言う事はできるけど、イメージと比喩の関係とか突っ込まれると
結構難しい。詩では二重三重のイメージをかさねても、別にいけなくは無いし。
そういう感じのところを、おさらいしてみるのに、どうもこの「ヤーコブソン」の
二軸論が便利っぽいんですよ。
456 :
ボルカ:03/07/25 22:03 ID:rQoL6FM9
****
で、先ずは情報収集と、賛同者募集。
別に仕事や宿題は無いよ(笑。
とりあえず、僕はこれから、「ヤーコブソンの二軸論」ってなんなのか調べてみたい
んだけど、初心者に分かりやすい入門書、どなたかご教示いただけませんか?
何読んだらいいでしょうか?
457 :
ボルカ:03/07/27 04:14 ID:IWS6stbr
>>440 この辺は、瀬尾育男さんの評論では、カバーされてるようです。
僕は今日、瀬尾さんの「われわれ自身である寓意」を読了したところですが、
瀬尾さんは、この辺の整理を北川透さんの論理の展開上でやっていて、
興味深いです。
ただ、この瀬尾さんの本を読んでいて、僕にはまだ、なにかがぽっかり
抜けているような印象を強く受けました。
その一つが、言語作用と言うものの基本的な部分に関わっているような気がしているのです。
って、わけでヤーコブソンなんですが、どうですか?ご一緒に。
458 :
山崎 渉:03/08/02 01:09 ID:TahhWmQI
(^^)
459 :
名前はいらない:03/08/13 20:28 ID:JJPtJaZu
sage
460 :
ボルカ:03/08/13 21:05 ID:YlwfE1bT
たまたま、上がる瞬間を見たんだけどさ。
このスレじゃめったに無いから、なんかちょっと、はっとしながら、
459の書き込みを読んだんだけど、なんつーか(笑。
山崎も459さんも、ありがたいけど、ちょーっと無口だよね。
先日、親切な方からご教示頂きました。
ロマーン・ヤーコブソン『一般言語学』みすず書房が、それほど難しくないとの
お話。僕はまずこれから読んでみます。
あと、「レトリック感覚」他にも記述があるとのことっす。
******
引き続き、二軸論で遊ぶ人、募集。
あと、情報宜しくお願いします。
461 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/08/14 00:14 ID:jx3p9vq0
462 :
山崎 渉:03/08/15 12:01 ID:jFO+cPAl
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
463 :
名前はいらない:03/08/15 22:20 ID:DTjJHRUR
age
464 :
直リン:03/08/15 22:22 ID:2o+nN51L
>>461 >しかし本当の詩人は理論や概念などにとらわれない、理性的感性的なもの
ではないでしょうか。
別に、北川さんも瀬尾さんも野村さんも読まなくても詩はかけますよね。
僕もそう思う。
それとあなたが、ニーチェを読んだり自分で考えたりして詩を書いて公表し、
僕のサイトの10倍の人を集めていることは、評価するよ。
でも、前回このスレッドでやった読書会も、次にやろうとしているゲーム
も、そんなに難しいものではないんですよ。
気が向いたらでいいんで、ごく気楽に参加して下さい。
466 :
ボルカ:03/08/29 17:18 ID:nG6OgzO1
「詩と思想」2003年9月号の67ページに関連記事が掲載されていますね。
村椿四郎さんによるもので、「換喩」を、民衆詩派と芸術派の対立を、いったん
「歴史」から脱構築した上で、「象徴−隠喩」と「写実−換喩」の手法上の相違
を見、再び時代性を考察しようとするもので、とても興味深いです。
んで、紹介。
467 :
ボルカ:03/08/29 17:19 ID:nG6OgzO1
あら?間違った。修正↓
村椿四郎さんによるもので、民衆詩派と芸術派の対立を、いったん
「歴史」から脱構築した上で、「象徴−隠喩」と「写実−換喩」の
手法上の相違 を見、再び時代性を考察しようとするもので、とても
興味深いです。
んで、紹介。
468 :
ボルカ:03/08/31 17:39 ID:lbJbYZCk
ヤーコブソン「詩学;ロマーン・ヤーコブソン選集第3巻所収」大修館書店 1985年(訳)3000円
佐藤信夫「レトリック感覚」講談社学術文庫収録;講談社 1992年:960円
野内良三「レトリック入門;修辞と論証」世界思想ゼミナール収録;世界思想社 2002年:2100円
赤羽研三「言葉と意味を考えるT;隠喩とイメージ」夏目書房 1998年;2400円
赤羽研三「言葉と意味を考えるU;詩とレトリック」夏目書房 1998年;2000円
とりあえず、上記を市民図書館で借りてパラパラと眺めています。
これらにはいずれも、ヤーコブソンの二軸論が説明されています。
469 :
ボルカ:03/08/31 17:41 ID:lbJbYZCk
ところで、ヤーコブソンの著書が、難しくないってのは、一線で活躍
している研究者の方にとってであって、ご親切はありがたかったんだ
けど、僕にはやっぱちょっと、とっつきにくいかも。 ^_^;
日本人の書いてる入門書は、とりあえず、このスレッドにチェック入
れておられる方なら、どなたでも読み通すことはできそうな感じです。
470 :
ボルカ:03/08/31 17:43 ID:lbJbYZCk
で、図書館で言語学のコーナーを眺めていて、ふと思ったんだけど、
僕と北川透さんの違いってのは、もしかすると、チョムスキーとソ
シュールの違いなのかもしれないですね。なんつって、ナマイキだ
けど。
僕は生物学がベースだし、安部公房のマニアだから、チョムスキー
の生成文法とか、安部の日本語クリオール説とかにより惹かれて、
ソシュール的な世界観は受け入れにくいってことなのかもしれ
ないな。
でも、とりあえず、僕が眺めた感じでは、そのへん突っ込まなくても、
もっと気軽に、かつ実践的にレトリックの話はできそうな気がします。
471 :
ボルカ:03/08/31 18:01 ID:lbJbYZCk
上記の中で、僕が一番読みやすそうに感じたのは、野内良三「レトリッ
ク入門;修辞と論証」です。
>>461 ひかるさんへのレス
>>465への付け足し。
レトリックの極意は、「ばれないように使うこと」だと思う。
本物の雄弁家は、ばれないように使ってるから、あたかも直観のみ
によって構成されたかのような傑作が、はたして本当に理論に無垢
だったかどうかは、カナリ作家論、研究してみないとわかんな
いんじゃないでしょうか。
つまり、固いこと言わなくても、ばれなきゃイイんじゃないかと(笑。
個人的な意見だけど、現代詩の水準は、まだその極意までは到達していない
のかもしれないですね。
あるいは、詩は既に到達していて、批評にバレていない詩人もいるような気
もするけどね。
***
国文やってる方いらっしゃたら、上記の本の著者に関するギョーカイの
評価とか、匿名で教えてくれると助かります。
ヤコブソン関係の情報と、意見も募集。
472 :
名前はいらない:03/08/31 22:52 ID:1UriWsCX
私には、北川の「詩的レトリック入門」だけで、十分、おなかいっぱいですね。
473 :
名前はいらない:03/09/01 02:25 ID:Qe0fp4AT
ボルカさん、転喩について詳しく教えてください。換喩との違いがわかりません。
474 :
ボルカ:03/09/01 03:01 ID:i1nlRfKq
>>472 レトリックを使いこなすために、覚えとかないといけないパターンって
ありますよね。例えば、比喩のいろんな奴とか。
そういうのが、大体、4,50個ぐらいはあるみたいなんだな、どうも。
北川がメインで扱った概念は、改行(余白)と隠喩の二つだけだった
と思うけど、それも確かにすごかったけど、それだけじゃまだ、現代
詩を遊び倒すわけにはいかなそうな気がします。
>>473 僕は初めてレトリックに手を出してる初学者だから、まだ難しいことは
わかんないです。でもきっとそのへんは、ヤコブソンと関係しそう
ですよね。
あとでなにか理解できたら、レスします。
**
もしかすると誤解してる人がいるかもしれないけど、僕は、一緒に勉強してみよう
って言ってるんであって、僕自身がいろんなことを良く知ってると自慢してるわけ
じゃないよ(笑。
そんなことありえない。実際何も知らないしね。
あと、勉強してるのは、「遊び」の準備としてだよ。
475 :
名前はいらない:03/09/01 08:19 ID:Zx/JsA4I
>>473 転喩→提喩が正しいです。
2軸論って統辞的と範列的のことですか?
476 :
竹本寛秋:03/09/01 12:59 ID:Zx/JsA4I
ヤコブソンの『一般言語学』を薦めた親切な方です(笑)。今読み返してみましたが、普通に考えればむつかしいですね(^_^;)
申し訳ありませんでした。
ええと、佐藤信夫の『レトリック感覚』はもちろん通り過ごせない名著ですが、2軸論でいくなら
池上嘉彦の『記号論への招待』岩波新書の3章が一番簡単ですかね。たぶん。
池上嘉彦の他の著作、『文化記号論』講談社学術文庫、『ことばの詩学』岩波同時代ライブラリー、も、手に入りやすくて
かつ読みやすいと思います。
あ、でも、これもまたむつかしいと思われるかも知れませんが、ヤコブソンをやるならその前に
ソシュールの『一般言語学講義』岩波書店の第2編第5章「統合関係と連合関係」及び第6章「言語の機構」を
読むといいと思いますよ。かんたんとは言いませんが注意深く読めばそれほどむつかしくはないはずです。
>473
提喩と換喩ですが、厳密につきつめるとどんどん分類不能になっていきますが、単純化すると換喩は〈隣接性〉による比喩、
提喩は〈属性〉による比喩と考えるのが一般的ですかね。つまり換喩は「帽子が振り返った」で、人が振り返ったというのを
あらわすもの。帽子と人間には意味的には全く関係ありませんが、単純に近くにくっついているので代わりとして機能するという
ことです。対して提喩は「白いものが降ってきた」というので雪をあらわしたりするもの。この場合白くない雪は一般的には
ないわけで、白は雪に内包された属性と考えられるわけです。つきつめるとその〈属性〉とはなんじゃいということに
なってしまうのですが、一般的にはそういう押さえで大丈夫だと思います。じゃあなんでそれを
わける必要があるかというと、説明すると長くなるので、『レトリック感覚』の第4章「提喩」をお読みください(^_^;)
それじゃあ満足できないというならグループμの『一般修辞学』大修館書店を読むしかありませんね。しかしこれは
異様に難しいです。
では、いらぬおせっかいかもしれませんが、そういうことで。
477 :
竹本寛秋:03/09/01 13:00 ID:Zx/JsA4I
2ちゃんに書き込み慣れていないので
改行がめためたで読みにくいですね。すみません。
478 :
ボルカ:03/09/02 01:14 ID:izDGQkO+
>>475 たぶん、そうっぽいですね。
まだ、はっきり理解できる説明を見つけていませんが、僕が
最初に読んで興味を持った、野村喜和夫さんの説明の概略を、
全然理解できていないままにまとめてみます。
@失語症研究の結果、ヤーコブソンは、選択と結合が、
健常者の言語活動に重要であることに気づき、そこから
我々の言語活動を構成する根本的な構成原理を帰納した。
それが二軸論であり、彼はそれを隠喩と換喩という用語
で表した。
さらに、彼は、言語の詩的機能なるものを定式化し、
「詩的機能は、等価の原理を選択の軸から結合の軸へと
投影する」と定式化した。
また、二軸論はフロイト理論によるいわゆる夢の作業、
「圧縮」と「置換」に近いことから、ラカンによって、
精神分析学にも応用され、「無意識は言語活動のよう
に構造化されている」という有名な定式をうんだ。
うーん、わかんないけど、わかりそうな気がするんですよね。
この、「詩的機能」のあたりで、なにか共同でできる遊びというか、
コラボみたいなことは考えらんないかなー、と思ってます。
とりあえず勉強しないと、どうしようも無いけど。
479 :
ボルカ:03/09/02 01:22 ID:izDGQkO+
>>476-477 ご教示、ありがとうございます。
てか、口語自由詩の発生の論文、興味深く拝読させて頂いてます。
ソシュールの一般言語学講義は、一見わかりやすそうで、でも難しそうで、
借りてこなかったんですよねー。
借りて置きゃよかったな。
池上さんのは、とりあえず買ってみます。
勉強が終ったら、いずれなんかゲームやりますんで、良かったら
遊んでやってくださいね。
480 :
竹本寛秋:03/09/02 04:47 ID:kwofqM+F
>479
どういたしまして。場違いかなとか思いつつ。。
レトリックは大昔にだいぶ勉強しましたので、なにかとご協力できるかと思います。
ちょくちょくのぞきますね。
失語症の二タイプで詩を書くというのは面白いと思います。語の無際限な連想による言葉の
つながりと、自動記述的な文の連鎖による詩作の方法ということになるのでしょうか。
ラカンはしっかり読んでいないので、興味があります。
481 :
竹本寛秋:03/09/02 04:51 ID:kwofqM+F
>479
あ、連載読んでいただけているようで、ありがとうございます。
てか詩学であの記事だけ浮いてますよね。。
私も現代詩への興味から詩に入ったのですが、気がついたら明治大正にさかのぼって
いつまでも抜け出せません。
現代詩や現在のネットと詩の状況に関しては関心があるので、
いつかはそうした方向にもすすんでみようという気持ちはあります。。
482 :
ボルカ:03/09/03 01:42 ID:GH9NOZBd
>>480−481
>語の無際限な連想による言葉のつながりと、
>自動記述的な文の連鎖による詩作の方法ということになるのでしょうか。
それが一つのゲームの核になるんじゃないかと思ってます。
一つの脳でやってることを、幾つかの脳でやってみるみたいなかんじ
ガ実感できるとイイな、と思ってます。
ところで、この板、界隈も結構面白いところありますよ。
のんびり遊んでってくださいね。
483 :
竹本寛秋:03/09/03 08:54 ID:RUJzxoc5
活気があっていいですね。
いろいろ探索してみます。。
ネットでの読書会、私も試みてみたいので、このスレッドはとても参考になります。
484 :
名前はいらない:03/09/03 16:49 ID:ilj7ptdq
自動記述なんか利用してるようじゃ、お し ま い で す ね。
485 :
名前はいらない:03/09/04 16:57 ID:4mUnbi9F
換喩ってどういう風に理解すればよい?
定理を教えて。
486 :
竹本寛秋:03/09/04 17:16 ID:US+h9NXk
>>485 476 を 読んでください。
それ以上が知りたければ佐藤信夫『レトリック感覚』を読んでください。
487 :
ボルカ:03/09/05 11:58 ID:EBeMCA3I
ええっと、何か教えてもらった人は、お礼言いましょうね。
でも、ここは本当に小中学生とかも来ていて、見分けつかないから、
なんつーかな。。
ま、気軽にやるしかないんですよね。
**
ところで、476は、とても明確な説明で、僕も少しわかってきましたよ。
つまり、「属性」っていうのは、現実的には「必ず近接しているように観察
される」ってことだってのが多分問題で、そのへん厳密じゃないほうが、
実用的に使える概念になるってことじゃないかな。
↓ ちょっと応用問題を作ってみましたので、>485さん、他の方も、
良かったらやってみて。
488 :
ボルカ:03/09/05 12:06 ID:EBeMCA3I
レトリック・クイズ(その1)
>>476参照のこと。
A)頭髪が振り返った。
B)黒いものが振り返った。
これらは、それぞれ提喩か換喩か?
今仮に、人類の45%、日本語使用者の75%が、黒髪で帽子をかぶらないもの
とせよ。
****
僕なりの答えは、明日以後(あんま自信無いけど。)
みなさま、やてみてちょ。
>>484 詳しい方の参加は、個人的には大歓迎っす。
貴重な機会だから、楽しく遊びましょう。
489 :
ボルカ:03/09/05 12:16 ID:EBeMCA3I
まてよ。
限定が不正確だな。
帽子をかぶらず頭に毛を生やしている人 さらに黒髪の人
人類 70% 45%
日本語使用者 80% 75%
490 :
ボルカ:03/09/05 12:19 ID:EBeMCA3I
ゲームだから、気軽にやってみてね。僕の用意してる答えも
本当に正当かどうかわかんないし。
491 :
ボルカ:03/09/05 12:21 ID:EBeMCA3I
くどいけど、回答者は必ず
>>476参照してみてね。
そうじゃないと、何のことかわかんないよ。
493 :
ボルカ:03/09/07 20:22 ID:uBMuK5g3
「レトリック感覚」の3章と4章、読んでみました。
でもって、思ったんだけど、竹本さんの説明から出発して、
>>488-489の
クイズを自問自答し、僕が考えた結論って、「レトリック感覚」で
佐藤さんがほとんど言ってました。
これはどういうことかって言うと、竹本さんの「提喩」の解説がグーだってこ
ととが一つ。
あと、佐藤の論理展開が精密で、違う方向からやった僕の思考実験と一致した
ってことなんだな。
つまり、論証されたってこと。
実はちょっと驚いたんだけど、彼は「ひげ」を使って説明して、
僕と全然違う経路で、同じ結論へ至ってるんだよね。
佐藤恐るべし。
>>485は、佐藤の説明、不満ですか?
ちなみにヤコブソンのは2項目の説明ですよね。僕はまだ理解してないけど。
僕は来週、しばらく来ないけど、気が向いた人は議論してみてください。
494 :
名前はいらない:03/09/07 20:30 ID:Rcs96Mwy
495 :
名前はいらない:03/09/07 22:21 ID:TAv8Jal4
ことわざって言うのはレトリックとしてはとても優れた普遍性をもつんですか?
496 :
ボルカ:03/09/08 00:03 ID:rrhe5sU5
「詩的レトリック入門」って言うタイトルの本があるんですよ。
>>1を読めばわかることだけど。
現在は、次にやろうと思っているゲームの下準備をしてるところです。
497 :
Bファン その1 答え:03/09/08 00:33 ID:FG2BYEC9
>>488 :ボルカ :03/09/05 12:06 ID:EBeMCA3I
レトリック・クイズ(その1)
>>476参照のこと。
A)頭髪が振り返った。 < 提喩
B)黒いものが振り返った。< 換喩
あってる?
498 :
阿麻:03/09/08 01:05 ID:zqORnsrs
>>488 A)頭髪が振り返った。 ←換喩
(りゆう。頭髪は、体とかにたいして隣接姓を持つから)
B)黒いものが振り返った。←提喩
(りゆう。頭髪は黒い→属性を持つから)
ちがう。。。おそらく(ゾゾーっ
499 :
阿麻:03/09/08 01:10 ID:zqORnsrs
↑だけど、Bが「頭髪がふりかえった」の提喩だとしたら、Aと同じ。。
もちかちたら。。Bは提喩を含む換喩とか!
委譲(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャなもんで失礼します!
500 :
木:03/09/08 16:23 ID:3UD3u4hn
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`) ちょっと通りますよ。ついでに500もいただきます。
| /
| /| |
// | |
U .U
501 :
ボルカ:03/09/12 22:35 ID:vXeF20aE
なぜか、アクキンになってました(笑。
ご解答ありがとう。
後でレスします。
502 :
ボルカ:03/09/12 23:01 ID:vXeF20aE
レトリッククイズ(1+)
帽子>換喩
毛髪>提喩
を前提とすると、「かつら」はどうなるでしょうか。
描写している登場人物がかつらを着用していることは、読者に
既知であり、かつ、このかつらは、未来の技術による優れたかつらで、
毛髪と全く区別がつかないものであるとする。
私見ではお二人はアタリです。
まだ勉強始めたばかりだから、見解変わるかもしれないけど。
503 :
ボルカ:03/09/12 23:02 ID:vXeF20aE
***
では、
帽子>換喩
毛髪>換喩
を前提にして、次はどうなるでしょうか?
レトリッククイズ(2)
同じ文の主語として用いた場合、換喩か提喩か。
1)禿頭の人の頭皮
2)アタマ
3)脳
4)魂
504 :
ボルカ:03/09/12 23:04 ID:vXeF20aE
***
例えば僕の行きつけの「亀バー」に飲みに行くとする。アソコはたいてい明るい
雰囲気なんだけど、たまたまカウンターで、誰かがため息ついてたとしますよね。
そのとき、席についた僕を、
A)「孤独な魂が振り返った。」ということは、あり得るわけだ。
でもって、さらに奥の隅っこで、別の誰かが、酔っ払った末、泣きじゃくって
いたとする。で、その人が悲しみそのものみたいな声で、歌いだしたとすると、
B)「悲しみが立ち上がって叫び出した。」ってこともあり得る。
知り合いのダンサーが踊っているとき、踊っているのが肉体でなく、
C)「魂が踊っている」と、いう場合もあり得る。
また、例えば街を歩いていたとき、向こうからイカス、ギャルが歩いてきたと
する。そのときの気分によるわけだけど、このギャルが普通の服を着ていたと
しても、
D)「おっぱいが歩いてきた」と感じるってことは、僕の場合あり得る。
そこで、立ち戻って考えてみると、A)とC)とD)は換喩で、だからやっぱり、
1-4は、全部、換喩じゃないかと、僕は思います。
服の下の、見えないオッパイが換喩なら、内臓や魂も換喩。でも、叫びだし
た「悲しみ」は、提喩ってわけです。
***
505 :
ボルカ:03/09/12 23:10 ID:vXeF20aE
***
どうでも良いじゃん、そんな瑣末なことって話になりそうだけど、どうでも良く
はない。
僕は、A)、C)、D)は詩に普通に使うけど、B)はあまり使わない。カッコ悪いから。
なにか、引っかかるもの、わざとらしい感じが、B)にはある。
どうして僕がそう思うのかっていうと、それは多分、僕が「フェチ」だからなん
だな。
とにかく、結論として、「換喩と本質的に異なる、提喩っていう物が存在している」
と僕は考えるし、佐藤も全く別の経路で、そう言う。
フェティッシュ換喩論については、また別の機会に。
Bファン氏は、もしかして伝説的良スレ「ブルマー」に居られた方か。
もしそうなら、「フェティッシュにとってパンティーは隠喩ではない」と言えば、
それでわかってくれるのではないだろうか。
代替不能性の美学ってやつが、隠喩には無い。
506 :
ボルカ:03/09/12 23:13 ID:vXeF20aE
話せば長いことながら、提喩には、フェチの美学は無い。
ええい、話してしまえ。
下品な話になって申し訳ないけど、僕の思考を紹介しましょう。
換喩は、フェチにとって、「リアル」な世界認識だと思う。どういうことか?
あるパンティフェチにとって「世界で最も素敵な使用済みパンティ」っていうのは、
一枚しかない。だけど、それを穿いていた女として許容される女っていうのは、誰
でも良いとまではいかなくても、ある範囲で許容される。そうだな、いいかげんな
話だけど、10万人ぐらいは、平気でストライクゾーンに入るんじゃないかな。
フェチにとって、パンティは女の隠喩ではない。そうじゃなくて、換喩なんだな。
つまり、中身はわりとどうでも良くて、パンティそのものにフェチはこだわる。
靴フェチとかはもっとはっきりしていて、女とではなく靴とベッドインする。
この場合、パンティも靴も、女を示す隠喩ではないんだな。「女」とは交換不能な、
換喩としてあるわけなんだけど、一般に換喩ってやつは、そういうふうに交換不能
な表現だと僕は思う。それに引き換え、隠喩ってやつは、別の言葉で表現できる。
提喩についても、「白いものが軒先で踊っていた(提喩)」っていうのは、隠喩より
はセーフ。でも、本物のパンティフェチなら、必ず「白いパンティが」と書くだろう
と思う。
そういう「ぬるい」ところが隠喩や提喩にはあると、僕は(あくまで個人的感覚と
して)思うのだ。
507 :
ボルカ:03/09/13 23:52 ID:xe6kMc5X
この詩は、「オナニースレ」に寄稿された詩だけど、凄くカッコイイ。
http://book.2ch.net/test/read.cgi/poem/1045709986/81 どこがカッコイイのかっていうと、個人的見解だけど、隠喩に逃げて
いないところなんじゃないかと思う。
オートエロティシズムの本質は、フェチだから。
自分が好きなんじゃなくて、自分の性器が好きなんだと言うことが、
当然の事実として逃げられていない。
自作で恐縮だけど、
http://www.mars.dti.ne.jp/~zoball/pomforyou05.htm ここで、「指」は作者の意図としては、女の隠喩ではなくて、提喩でもなく、
換喩なんだな。まあ、たいしたことない作品だけどね。
一般論として、「ちんぽえむ」とか「マンコポエム」とかってのは、換喩
で書かないと、フェチ心は満足しないように思います。
「おまえの濡れた花園が(隠喩)」とか「暖かいものが流れた(提喩)」ってのは、
個人的シュミだけど、僕なら避けます。
てか、それはヌルイと思う。
***
ところで、「レトリック感覚」の佐藤だけど、彼はフェチのことなんかじゃなくて、
ちゃんとベルギーのサークル・ミューとかで説明してて、ちょーイカしてます。
ちなみに佐藤は、提喩と隠喩、結構好きみたいな感じ。
ま、フツー好きだよなw。
508 :
ボルカ:03/09/14 00:07 ID:DjaI3HZ5
***
もちろん隠喩でしか語れない現実ってのはあると思う。
とくに、「愛惜」は隠喩が良く似合うように思います。
提喩についても、それしかないってケースはあると思う。
僕が提喩の傑作だと思うのは、北園。
青のなかの、白のなかの、青だったりするやつです。
いずれにしても、
直喩<>隠喩<>提喩<>換喩
の4つの概念があるように思いました。
二軸論については、提喩を隠喩より重要な本質とみて、
提喩VS換喩を考察し、中間点として、隠喩を考える
立場(野内良三など)の本を、今読んでるところです。
論者によって、色色あって、メチャクチャな印象を受
けますね。
佐藤まではすんなり入りました。
ちなみに、僕自身は、詩を書く時に、
<直喩><隠喩(提喩)><換喩>の三角形
を実感します。
文法的には直喩は平叙文かもしれないけど、
詩ではレトリックとして使いますよね。
509 :
ボルカ:03/09/14 23:27 ID:/7+jtBG8
****
閑話休題。
今、やっているのは、
>>454で発案したゲームの企画作りです。
てゆーか、その準備のための予備勉強。
今やっと、比喩の概念を見渡したところです。分類はどれがいいのかは
まだ全然わかりません。
それと、個人的趣味として、僕にとっては、隠喩より換喩のほうが重要
だって話をしました。
実は、「愛惜の美学」としての隠喩論を別に準備中ではありますが、
いずれにしても、隠喩と換喩がべつのものだというところまでは、大方
の人が賛成してくれると思う。
*********
510 :
ボルカ:03/09/14 23:29 ID:/7+jtBG8
ソシュール「一般言語学 第3回講義」:西川長夫訳:エディット・パルク:
2003年:3400円
を図書館で借りてきました。スゲー難解そうなんですが、どうせ読まなきゃ
なんないんなら、これが入門としてイイかもしんない感じです。
それと、ヤーコブソンの問題の論文、「言語学の主題としての失語症」を
読んでいます(大修館:ヤーコブソン選集(1)所収)。これって、有名
だけど、翻訳で10ページぐらいのコンパクトな論文なんですね。
そうなんだけど、なんかすごい迫力を湛えた論文です。
邦書は2冊ばかり挫折して、今、前に紹介した赤羽を読んでいるのですが、
赤羽は、ヤーコブソンの「等価の原理」を説明して、ソシュールの二つの
原理が詩においても基本原理になっていることを示した、と言っています。
ソシュールの二つの原理とは、1)表現と意味は分離できない。2)その
意味は言葉同士の関係によって定まる。
の、2つです。
例文としてはボードレールの詩から「妹」と「優しさ」(フランス語だと
似ている)が脚韻になっている例を引いて、言葉の置かれている場所が、
意味の上での響きあいに作用して、妹が優しさに包まれているような
効果を出している、と言っています。
まあ、まだ僕には説明できないけど、「等価の原理(隠喩論)」の問題
として、ヤーコブソンがソシュールをどう引き受けたかが問題になる
ということのようですよね。
ヤーコブソンの論文における換喩の説明は、
>>476に近いですね。
現代では異論や批判もあるようですが、僕らが「ゲーム」を考える上では、
そのマンまで良いような気もしています。
511 :
海神:03/09/23 23:46 ID:JArp8NsW
>>383 四元康祐
現代詩手帳8月号に詩集「世界中年会議」のなかの「木陰にて」という作品が出てて、
これ最近読んだいろんな詩の中で一番おもしろかったです。
今回、萩原朔太郎賞を受賞した「噤(つぐ)みの午後」(思潮社)はさっそく「世界中年会議」と
ともに買って読みたいですね。
512 :
海神:03/09/25 00:58 ID:XT+XqgrY
四元康祐
「噤(つぐ)みの午後」(思潮社)は神保町の東京堂書店にありました。
「世界中年会議」は売り切れて追加注文したところのようです。
詩人の名前「よつもとやすひろ」と読むんですね。危うく恥をかくところでした(汗)
513 :
ボルカ:03/09/28 23:23 ID:B3IaOYlr
>海神さん
四元さんて良い感じですよね。僕は、偶然手にとって読み
始めたんですが、今ではソートー好きです。
「噤みの午後」は、まだ手に取ったことがありませんが、
是非読んでみようと思います。
「世界中年会議」はイかったですよ。
ネタ割らないようにと思うと抽象的な言い方になっちゃうんですが、
「小説でありえない」ということ(あるいは意志)が、積極的に「詩
である」ということ(あるいは生き方)に転化する瞬間のスリル、
ミタイナ物を共感しました。
本来はクールな共感のはずなんですが、共感があまりに強かったので、
つい涙が出ちゃった、、ミタイナ感じですね。
最近の手帖での発言を見ると、北川透大先生様も、四元氏の作品をかなり
本気で重要な作品とみなしているようです。
北川のレトリック論のすごさって、実は今になってやっと気がついてき
た点が多くて、かなり尊敬し直してます。
だから、具体的な新人の評価で意見があったりすると、やっぱ、個人的に
なんとなく嬉しいんですよね。
ボルカさん、投稿梁山泊の批評をやってみては如何でしょう?
515 :
ボルカ:03/09/29 22:41 ID:y0r7tKFl
そう、、。
僕ってトモダチ少なすぎるんだよな(笑。
梁山泊の批評は、これまで一回しかやってないけど、面白かった
です。いずれまた、参加させて頂きますよん。
お誘いどうもありがとう。
516 :
海神:03/09/30 03:45 ID:Dvf+8MkL
>>ポルカさん
あ、このスレ生きていたんですね。
死なすには惜しいと・・・(笑)
北川「詩的レトリック入門」は随分前に読んで大変おもしろかったです
あの中に吉岡実の「挽歌」が引用されていましたが、これ今でも一番好きな詩です
> わたしが水死人であり
ひとつの個の
くずれてゆく時間の袋であるということを
あ、おもわず引用してしまいましたが、引用しながら語るというのが
著作権法の規制で難しくなり、現代詩を論じることがやりにくくなり、
それが詩を衰退させた面が少なくないように感じます。
著作権法がなければもっとひどかったかもしれませんが。
517 :
ボルカ:03/10/06 01:42 ID:ujbWp6Qr
>516 海神さん
>あ、このスレ生きていたんですね。
>死なすには惜しいと・・・(笑)
ありがとう。
最近、詩の同人を結成したので、そっちで詩にさくことのできる時間の
ほとんど全てを消費してまして、この板へ来るのも、ごくたまになんですが、
来ればこのスレッドはチェックしてます。
「詩的レトリック入門」の引用は、初学者に親切ですよね。
僕はこの本で出会った詩人はスゴクたくさんいました。
518 :
ボルカ:03/10/07 23:34 ID:K1DsvNQg
久しぶりに、この板でのんびりしてました。
正直、ここんとここのスレッドと雑誌スレッド以外を見たのは
一ヶ月ぶりぐらいになると思う。
で、思ったんだけど、人が忙しいのをいいことに、なんだかひどい
嘘を言ってる奴がいるような気がするよ。
まったく、ふざけんじゃねえよな!
僕は誰かに勉強しろと強要したこともなければ、権威をかさにきたことも無い。
そんなことは一度も無いし、ときどき僕にいじめられてる名無しは、それなりの
ことを僕にしてるんだよ!
519 :
ボルカ:03/10/07 23:44 ID:K1DsvNQg
まあ、どうでもいいか・・・。
とりあえず
>>510のつづきだけど、赤羽は上巻のみ読了。
で、彼の比喩論も隠喩論が中心なんだけど、彼の換喩論がやっぱり
断然面白い。
このことは、ちょっとしたハッケンだと思っているんだけど、
もっと正面から反隠喩を論じた人はいないのだろか、と思っています。
ちなみに彼の換喩−提喩の弁別は、佐藤とはまるで違う。もう図書館に
返しちゃったし、記憶はしていないんだけど、もっと直感的なものでした。
これまで読んだ中では、佐藤の定義がもっとも納得できました。
佐藤は、<全体>と<部分>の論理関係から説明しますが、ここで短く言うのは
困難です。興味のある方は、「レトリック感覚」を参照してね。
520 :
ボルカ:03/10/14 22:55 ID:GnmJ93AS
赤羽、下巻読了。
わかりやすい入門書でした。
下巻はソシュールからジャック・デリダへ至る構造主義の隠喩論を
ヤコブソンの「等価の原理」を肉づけする形で整理しています。
デリダを説明する際に、フロイトの隠喩論も紹介されます。
文例の引用は、主として日本の詩作品。
それと、最後にレトリック(特に隠喩)が政治的プロパガンダに用
いられるときの危険性がきちんと指摘されているのが、好印象でした。
赤羽さんは防衛大学の教授なんですが、彼のような俊英にポエジーの
手ほどきを受ける自衛官は幸運だよなー、と思いました。
僕は大学で詩学を選択する機会は無かったです。
521 :
ボルカ:03/10/14 23:01 ID:GnmJ93AS
てなわけで、なんとなく、薄ぼんやりと二軸論が見えてきた今日この頃。
ちなみにソシュールの「一般言語学講義」はコンスタンタン(第3回講義)
で読んだんだけど、広範すぎて詰まんなかったです(笑。
あれはやっぱり、その道の方でないと楽しくは読めないのではないでしょうか。
522 :
ボルカ:03/11/08 19:17 ID:msKAWCxK
レトリックと関連して、シュールについての雑感。
2003年11月号の「手帖」は、瀧口を扱っていて面白い。
この号のはじめの方(19ページ)で、経富さんが、ある時期の
瀧口が在る詩のなかで「のような」を使ったことを引用して、
瀧口における言葉のオブジェ性について深い考察を展開してい
る文脈の一部で、引用文が直喩であることをめぐって「ある種
の生ぬるさと言ったら失礼になりますが」と表現している。
で、対談相手の城戸さんは、コレに答えて、シュルレアリスムは、
ある言葉が別の言葉に届けられるのを拒むはずのものだ、と述べ
て賛同を示しているんだけど、ここに二つの問題があると思う。
523 :
ボルカ:03/11/08 19:19 ID:msKAWCxK
一つ目は、直喩とは何か?ということ。
もしも「比較して例えること」が比喩である仮定した場合、その
範囲での直喩は、そもそも詩のレトリックではないと思う。
それは、通常の文法に全く逆らわない、フツーの表現であり、
「のような」という言葉の使い方の本来のルールに従ってるだけ
だから、いわゆる平叙文であって特に詩のレトリックと言うわけ
ではない。
逆に言うと、そういう表現が詩に含まれていても、それは普通の
場合は、決め技じゃないわけだから、スルーしておくところなん
じゃないの、という気がします。
もちろん、それは他でもない瀧口がそういう表現をした、という
こととは関係ない話だけど。レトリックに関連して、そんなことを
感じました。
524 :
ボルカ:03/11/08 19:20 ID:msKAWCxK
二つ目の問題は、シュールってのは何だったのか、ということ。
僕はむしろシュールってのは、<文脈間(たんなる語間ではない)
で起こされた、拡張された比喩>だったのじゃないか、と思って
いたんだけど(別に理由はなく、漠然とだけど)、そうではないっ
てことなんだろうか。文脈ってのは、文化とか、歴史とか、個人
の生活とか、そういうのね。
コレはどう考えるのか、全然分からない。
てわけで、いつもどおり良くわかんないわけだけど、瀧口も面白
そうですね。
とくに「詩と実在」におけるリアル(現実)の取り扱いは、イケル
感じでした。
保留。
いろんな解釈があるなぁ。
誰に聞いて欲しくて
誰に感じて欲しくて
私はキーボードを叩いているのだろか
528 :
名前はいらない:04/05/08 13:14 ID:eg/cJclE
おわり?
529 :
名前はいらない:04/06/16 20:01 ID:J8fYDuKj
何か繋ぎにでも開催しろよ>1
530 :
ボルカ:04/07/05 21:33 ID:CUBe4FaS
>528
レトリックゲームのプロジェクトは放棄しました。僕には無理。
ほかの人がやってくれたいいなー。
>529
ここまでの流れとは、いっさーい関係なくなんだけどさ。
僕は来月あたりから、ハンナ・アーレントのWEB読書会やりたいんだよね。
なんでWEBかというと、OFFで市民サークルとかでやると、ほんとに殴り
あいになりかねないからなんだな。
アーレントってそれぐらいやばい思想家なんだけど、あとやっぱ問題は
思想家だってことだよな。
詩と直接は関係ない。でも本当はジワジワ関係あるんだけどね。
どなたか匿名でいいから付き合ってくれないかなあ。
*****************************
このスレッドの読書会終了して、一年。
ぼきゅなりに、レトリック論の荒野を散歩してきたわけですが、
防衛大学の赤羽先生、ありがとう!と思いました。先生の本が
一番わかりやすかったです。
で、それはともあれ結論としてなんだけど、先日、某所で、
親切な方からアドバイスいただいて、一つ突破しました。
ようは「言葉の問題」じゃ無いレトリックをやろうと思うなら、
それはもう比喩論の範疇じゃどうしようもないわけだよな。
って、わけで、新ゲームを始めます。
皆様、ご参加よろしくおねがいします。
532 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/24 09:24 ID:SmvDy1ht
ちなみに、アーレント読書会は某所で進行中。
興味ある人は検索してきてください。
***** 現代詩のゲーム **********
ルール
<強い言葉>で詩を書く
<弱い言葉>で詩を書く
***************************
以上、よろしく。
***** 現代詩のゲーム / 強い言葉 ********
<強い言葉の例>
*ルーモス(光よ!) :背景に物語がある
*実存 :歴史的変遷がある
*憲法9条 :政治性がある
*愛しい、と僕は思った :定義されていない観念を含む
詩に限らず、こうした<強い言葉>は、文脈を破壊するので、
使わないほうがイージーですよね。
でも僕は、現代詩は<強い言葉>じゃないと書けないん
じゃないか、とも思います。
534 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/24 21:31 ID:Nq4w/2Pq
***** 現代詩のゲーム / 弱い言葉 ********
<弱い言葉の例>
*世界の中心で、愛を叫ぶ :ひねりが無い
*寂しさは、鳴る :いまどき太宰
*漆黒の闇 :反復
*悲しいほどお天気 :そうかもしれないけど意味不明
詩に限らず、こうした<弱い言葉>は、読者を飽きさせるので、
使わないほうがイージーですよね。
でも僕は、現代詩は<弱い言葉>じゃないと書けないん
じゃないか、とも思うんです。
どっちでも良いんですが、普通の詩語は、もういいや、と。
そんな実験です。
どんな方向からでも、ご参加よろしくお願いします。
535 :
名前はいらない:04/08/24 23:10 ID:TE4k0Gwo
っぷ
536 :
イタチ小僧 ◆8rr1u/54T2 :04/08/25 00:05 ID:BMmDZMQv
「よくわからないけど弱い言葉で参加してみます」
ポニーのしっぽが 哀しいくらい
雨の草原で 暗い くらい クライ
僕を閉ざせ 黒雲
蓋をされた町の空が 開く夢をみて
成る程のってみるよ
摩天楼からずーっと下がった
灰皿がわりにしている のど飴の缶
篝火の外装がやさしくかなしく
瞳のさきにある突端の火を
母のように包み込む
ブラックホール
のみ終えれば仲間にかえす
うえから覗き込んで
何が見えるというんだろう
又使えると言う以外に
フタは緩めに閉めておこう
強い弱い全然わかんねー
>>534 >詩に限らず、こうした<弱い言葉>は、読者を飽きさせるので、
>使わないほうがイージーですよね。
「弱い言葉」と「読者を飽きさせる」がいまいちつながらないんです。
言葉自体が弱いとすれば逆に飽きないんじゃないかと思ったり。
<強い言葉の例>に出されている言葉の方が飽きませんかね?
「普通の詩語」の例も挙げていただけると、ありがたいのですが。
540 :
イタチ小僧 ◆8rr1u/54T2 :04/08/25 09:17 ID:29f08utB
「よくわからないけど強い言葉で」
ルサンチマンは反復する
君のなかにはありえない永劫回帰の渦
断ち切る声はメメントモリ
亡霊は軍靴を打ち鳴らし
よくわからないものに銃剣を突き付けるが
結局よく
わからない
よくわからないものには参加してみるべきだ
TVの輪郭から幽霊は離脱する
さんきゅう、皆様。
どんな風に何をどこでやるのかは僕にも、まだみえていません。
イタチ小僧さんみたいに書くことによって概念にぶつかってみるのが
一つの方法かも。
>540 は強い言葉ですよね。
>539 こんにちは。
これからしばらく僕は<普通の詩語>を批判対象におくけど
それで無くとも僕に友達少ないから(笑。
具体例は角が立つんで止めときます。僕の<普通の詩語>の
概念については、次のレス以降で。
>538 ある意味ではそのとおりです。<弱い言葉>は、社会の共有財産
のようなもの。
だから排除してしまうと、作品が閉じてしまうと思いますし、<弱い言
葉>は、うけを狙う言葉でもあります。そう言う意味ではおっしゃる通り。
ここでは、ちょっとずらして言っています。
詩を書く時に<弱い言葉>を使わないようにしよう、という意識がある
人もいると思うんですが、それはある種のサービス精神から出ているように
思います。
つまり、こんな言葉は一般には受けるかもしれないけど、ツウには受けな
いのではないか、というおそれです。
でも本当に使いたい言葉なら、それでもいいじゃん、と。
それを考えてみよう、という事です。
***** 現代詩のゲーム / 弱い言葉 ********
詩語は<強い言葉>から牙を抜き、<弱い言葉>から一般性を洗い落とした
普通の言葉、あるいは無力な言葉、である、と思います。
(いうまでもありませんが、一つの、一人の立場です。)
普通の文章で人を誹謗することは一般通念として許されません。しかし、誰かを
詩で誹謗する、ということなら許される、と考えてしまう人もいます。
そう考えてしまう人は、基本的に詩の言葉は、法律の言葉や論文の言葉と異なり、
無意味な記号である、あるいは意味を特定できない<作品>である、と考えている
のではないでしょうか。
<強い言葉>を詩に導入する方法として、意味を骨折させた文脈に入れる
ということがあると思います。しかし、そうしてしまうと、それは既に<強い
言葉>では無くなって、安全な言葉になってしまうと、僕は思うのです。
543 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/25 16:39 ID:Jz2lqvmh
***** 現代詩のゲーム / 弱い言葉 ********
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これは、宮沢賢治の<春と修羅>という詩集の序文の第一節ですが、
この文章は、牙を抜かれていない<強い言葉(当時、強い言葉だっ
たもの)>で書かれているように僕は思います。
あ、一行目間違いました。
***<弱い言葉> 誤
***<強い言葉> 正
で、543は、インターネット詩人のことでもあります。
で?
547 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/25 22:48 ID:c1pSspFH
ちわっす、イタチ小僧さん。
投稿さんくす。
いまんとこ、僕にできる説明は上述ぐいらいです。
で、こういうかんじの原理のゲームが現代詩である、と。
↓
***** 現代詩のゲーム **********
ルール
<強い言葉>で詩を書く
:現代の言葉、政治的な言葉、複雑な文脈を持つ言葉を、言葉の牙を抜かずに使う
<弱い言葉>で詩を書く
:時代意識、社会通念、状況性、流行をとらえた言葉で詩を書く
************************
そう言うルールのゲームの中で、具体的に自分が何をやるかって言うと、
そこまでは考えてないです。
僕にも色々できるとは思うし、他の人にも色々できるのではないでしょうか。
とりあえずこのスレッドでは、実際に<チョー強い詩>を書いてみようかな、と。
つまりは「普通の詩語」批判ってことですか。
たとえば宮沢賢治の詩は、その時代の「強い言葉」で書かれることによって、
その時代において現代詩たりえていたということですか。
じゃあ今の時代の「強い言葉」って何かな?
PC用語とか?世界情勢に関する用語ですかね。
ちょっと前だと、「DNA」「ヒトゲノム」とか「クォーク」とか「強い言葉」
だったと思いますが、今は牙を抜かれちゃってますよね。
「911」ですら、もう「強い言葉」とは言えないかもしれないし。
新しい言葉や概念を色々知っとかないといけないですねえ。
意味を骨折させた文脈にいれるが分からない
文脈を骨折させるならなんとか
科学も政治、ひいては生活にダイナミックな変化はここのところ起きていないから(科学の場合あるいは予想範囲内でしかないとも言える)>現代の言葉、政治的な言葉というのはボルカさんのいう意味での「強い言葉」であることが困難なのではないかなとも思います。
現代性自体の消費がはや過ぎて、何を書いても数年で陳腐化するからには「強い言葉」が強いといえないと言うか、「弱い言葉」=流行程度の意味合いしか持たないような気もする現代だと思います。
ようは現代を見る時の長尺取り方しだいというわけで、一見して「強い言葉」と「弱い言葉」の線引きが不明確に思いました。
551 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/26 21:50 ID:hW7wB3Ku
>>550 そうですね。
いろんな困難が有るとおもいます。
僕らが現代詩というゲームを遂行することには。
その困難性を誰かと共感できると、結構嬉しいかもしんないです。
ベルリンの壁崩壊以降、<大きな物語>の喪失という考え方みたいな物が、
一般に広まりましたよね。
でも<現代詩>てのはなんなのかなって、やっぱり詩を書いてると、だんだん
考え出すじゃないですか?
で、現代(を含む歴史一般)がもはや無いってのを、その一つの解答として、
そこでひるがえって世の中を見てみると、僕はやはり、本当は歴史は暗闇を猛ス
ピードで動いているようにも思ったりします。
ご指摘の
>一見して「強い言葉」と「弱い言葉」の線引きが不明確に思いました。
は、現代がそう言う状況だ、ということと、僕の言葉遣いがそのように不分明だ
と言うことを意味し得ると思います。
両方とも賛成ですけど、ある意味では、現代詩がそのような困難に直面していて、
だから、それは僕らのゲームだ、ともいえるかも、と思ってます。
552 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/26 21:50 ID:hW7wB3Ku
>>548 批判と言うか、自分と方向性の違う他人が何をやるかは、僕はあん
まり真剣には興味ないです。賢治が何をやったかも僕の主要な興味ではあり
ません。
それより自分が何をやるかだとおもっています。
説明のために、批判的なスタンスを明らかにしただけですので、その点は
あまり気にしないでください。
>じゃあ今の時代の「強い言葉」って何かな?
それが問題ですよね。すぐには解答できないけど、ちょっとやってみようと
思ってます。
>>549 <意味を通じさせないように、わざと文脈を歪ませた>とか、
<意味が通じなくなってしまうことを黙認した言葉遣い>とか、
そんな感じのことです。
言い方にミスが有るかもしれませんが、いずれにしても逐語的に真剣に
考え込むほどのことでは有りません。
553 :
549:04/08/26 22:30 ID:RMDbqnkj
>>552 真剣に考えてるんだろうかと疑問に思う
強い言葉は文脈を破壊すると前に書いている
強い言葉を使う事の位置づけが分からない
強い言葉の定義として
文脈を破壊するのか
崩れた文脈のなかで生きるのか
大事だと思うんだけどな
文脈 歴史とかじゃなく普通に文脈ね
>>543 の詩なんだけど
文脈は崩れてないし崩していない
たとえていえばで交流電燈を使っているだけ
普通の詩なんじゃないの
554 :
イタチ小僧 ◆8rr1u/54T2 :04/08/26 22:47 ID:IhY11U/8
ゲームはルールがよくわかんないとね、参加しづらいよね。
参加しないとルールが掴めないゲームもあるけどね、
今はまずは楽しむための前段階としてみんなでルール確認の状態ってとこ?
555 :
名前はいらない:04/08/26 22:50 ID:RMDbqnkj
とりあえずイチャモンつけてるとこ
556 :
人形使い:04/08/27 01:33 ID:uKhhR0Uq
550です。私の意見は的外れでないようだし、議論に興味が涌いてきたので身を明かします。
>>553 >交流電燈を使っているだけ
は少し言いすぎな気もします。アイテム一つで世界観ががらっと変わってしまうから精緻な選択を強いられたりするのが詩作の苦悩だと思いますから。
単語ひとつひとつの固有性(アウラ)を見抜く力こそが感性ひいては詩性であり、それは論理と相反するというのが私の説で、緻密な語彙選別能力には非常にこだわりを感じています。
>>551 ボルカさんの興味は、私の興味と一致はしないのだけれど非常に近いものであると感じたので、時々覗かせていただこうと思います。
私の今目指している詩は、極私性、極現在性みたいなもので、要は強い言葉を打ち立てたいということです。
私自身の五感や"思考の皮膚感覚"みたいなアイテムを追求しながら、内容は普遍的、概念的な構造を持つものを刻んでいきたいなと考えていて、そのために、ボルカさんの言われる「現代詩のゲーム」というものは一つの重要な示唆を含んでいるように思われます。
多分困難に対抗して強い言葉を練り上げる手段は、比喩的曖昧さを持って述べると、(例えば歴史の流れなんかでも断層は無限深度存在しうるわけで)『深く掬い取る』ことなんだろうけど、その直観が正確なのかどうか、方法論として成立しうるか、など課題は山積みです。
ゲームの理解を通して私も光明のお裾分けをいただけたらなぁなんて小ずるく企んでたりなんかして。
だらけた文章は悪い癖。乞容赦。それでは頑張ってください。
557 :
名前はいらない:04/08/27 16:29 ID:fC8cPui7
あげ
558 :
553:04/08/28 00:16 ID:kcjCzjay
>>556 言葉を止めるって事だよね
それが詩の言葉って事だと思う
それで強い言葉となるのですが
それとは違った何かだと思うんだけど
それが分からないんだ
後のはクイズだな
まず極私極現在に普遍概念(抽象と捨像)の構造を持ち得るか
意識の下にあるモノを深く掬い取る それが普通の詩の言葉では
でわでわ
559 :
人形使い:04/08/28 07:34 ID:u0pdThwI
>>558 新鮮さとかの問題でしょうかね。
新しい語彙は新しい時代を映し、新しい問題をも包含していたりするので、(ある意味容易く)深く読み手の意識を掬い取る表現になりやすいという感じで、文章全体に目新しさ、新鮮さを与えるので強い言葉。
逆に陳腐な歌詞にさえ使われている極一般的な語彙や比喩表現、大量に生産されているテキストに登場する現代用語などは目新しさが無く、掘り下げる度合いが低い弱い言葉。
何か掬い取る言葉が詩の言葉なんだけれど、その目新しさ(かつ熟読に耐える耐久力みたいなのも重要な気がします。)の度合い=深度で異なってくる、というのが、これらの用語への私の大掴みな理解です。
>極私極現在に普遍概念(抽象と捨像)の構造を持ち得るか
指摘ごもっとも。微積でも導入すれば解も得ることができましょうが、何しろ相手は人間様ですからここは直観頼りで匙投げながらいこうかと思ってます。
560 :
人形使い:04/08/28 07:40 ID:u0pdThwI
言葉=単語レベル〜比喩〜テキスト全体;の広範囲を含むキーワードだと思います。
561 :
名前はいらない:04/08/28 09:49 ID:SbrGlq+P
>>559 そうした「新鮮さ崇拝」をするのが
ここでいう「普通の詩語」なわけで、
このスレではそういうのは一旦捨てて
固定されたことばやありふれたことばで詩を書いてみる、
新しい現代詩というのは案外そっちから産まれるんじゃないか、
これはそういうゲームじゃないかと思うんですけれども。
562 :
人形使い:04/08/28 19:19 ID:u0pdThwI
ん〜
なんだかこの議論は語の意味に終始してしまっていて
本論から離れてますね。
たぶんお互いにルール読み違えてますね。今ざっと読み返した感じだと。
とりあえずボルカさんの定義をしっかり読み取らないと。。。
もう少し話が掴めるまで脱線は控えて、以後静観します。あしからず。
いや、どもども人形使いさん。
ハンドルに突っ込むのもなんですが、「女とあやつり人形」ってなんとなく
そんな小説あったなあとか思って勝手に親近感だったりします。
<"思考の皮膚感覚">をアイテムに<内容は普遍的、概念的な構造を持つも
のを刻んでいきたい>これってまさに、方向性が違うけど、触発しあう立場
かも。
言葉を自分のものとするために、安易には、通俗的思考から出発して、了解
不能の言語まで磨き上げるルートがあるかも、と思うんですが、その完全な
逆ですよね。
このゲームは、現代詩そのものをゲームとみなしている、ということが出発
点です。
つまり、面白いゲームを思いついた人の勝ち、というゲームです。
僕の側から言うと、何か面白いゲームを仕掛けていただけると幸甚なんです
が、 つっても何のことだか、って感じでしょうから、
僕のほうから、具体的なゲームの例を上げますね。
>>553 具体的なゲームを例に、説明してみます。
********<強い言葉>のゲーム************
目的:<強い言葉>の無力化が<普通の詩>を自動発生させる状況を観察する。
材料と方法:
新聞記事からサンプリングして、適当に改行、改変などをおこない、
<役に立つテクスト>ではないものに変形する。
その結果できあがったものが詩作品として面白いかどうか、面白いとすればなぜか?
つまらないとすればなぜか?そもそも詩作品かどうか?十分に<意味不明>がどう
か、などを考察する。
565 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/31 00:57 ID:10ofL/Sj
********<強い言葉>のゲーム(1)*********
*目的補足:強い言葉を<普通の詩語>にしてしまうことを批判する視座の確立、
あるいは、そこへいたるための何らかの発見を目指します。
以下は、さっき某所で書いた即興作品。
あまり良い例ではないけど一例として。
『台風16号は夕方』
山口県に<上海>しました。この後は<あそこ>に抜けて、北東に進む見込みです。
台風の雲がまん丸から楕円に変わってきたのは、<感じてる>証拠。そして台風の
進行方向の右側にあたる場所では、たとえ台風から離れていても非常に強い<愛の
嵐>が多くなります。
東京電力は30日、福島第2原発の廃棄物処理建屋内の4カ所で、放射能を帯びた
<牛乳>1・8リットルが床に漏れたと発表した。放射能量は最大で4000ベク
レルとみられるが、<人体>外部への影響はないという。
566 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/08/31 01:08 ID:10ofL/Sj
>565は、まだ無力化が不十分。
したがって、これではまだ、<無力化の無効性>は議論できないけど、
ここですでに、意味の二重化、ずらし、みたい事は起きていて、そのぶん
ポエムっぽくなっていて、そのぶんどうでも良いつまらない文になって
いるとおもいます。
<>の括弧の中に入っている語は、もともとの「強い言葉」を<普通の詩語>
にしたものということですか?
ただ、愛の嵐はなんとなく分かりますが、<上海>や<牛乳>は普通の詩語?
また、台風なら台風だけにした方が、例として分かりやすかったん
じゃないか?ということと、もとの記事との比較があると良かった気も。
まだ途中の段階だと思いますので、まだ理解が追いつかないという感じです。
>567
つっこみありがとうございます。
確かにご指摘どおり、わかりにくい例でした。
ここでは、もとになった新聞記事そのものが<強い言葉>で書かれていて、
それを<>の部分を変えることによって、強さを消してしまう、というこ
とを意図しています。
つまり括弧外が<強い言葉の残骸>で、括弧内は、牙を抜いた後、のつもりです。
元記事はなんとなくヤバイ気がしてコピペしませんでした。
牙を抜いた語の方が刺さってくるのですが
上海がよく分からない
床を整えとかではダメですか
全体で一つの詩として読めました
<梅は百花のさきがけ>は31日までに
心と体の性が一致しない<友情性障害>
があるとして性別変更を求めた
7月16日に<夫婦間性暴力特例法>が施行された後
那覇家裁などで性別変更が認められた例はあるが
<脛が細る>家裁では初めて
なんか全然だめな感じ
一応考えたので書き込んでおきます
>>568 「強い言葉」というのは、必ずしも単語ではないって事ですか。
新聞記事のような、全体として、はっきりした意味を伝えようとする文章も、
「強い言葉」である、という理解でいいですか?
>570
いや、何か胸に痛みが走りました。
サンプリングであって、570さんの日常と関係ないんですよね?
どう考えたらいいのかな。
サンプリング行為自体がやはり創作なのでしょうか。
これだと、十分に無力化されていて、しかも<強い>です。
でも結論急がないでもうちょっとやってみたいです。
>571
そのへん説明し忘れていて気にしてました。レスが遅れてすみません。
おっしゃる通り、必ずしも単語ではありません。
「言葉」は「言語」とはビミョーに異なり、もっと柔軟性のある
概念だと思います。<単語>概念は、言語を分析するツールでは
ないしょうか。
「日本語」とか「英語」はあっても<私の言語>はない。
でも、ふつーに<私の言葉>はありますよね。
強い言葉、についてもそのように、私の言葉のなかでの位置付けと
あなたのとでは異なることが予想されます。
したがって、厳密な定義については、それぞれが勝手にやる方が有意義な
ゲームができるとおもいます。
私の大体の所については、既に例をあげましたが、そのなかにも単語以外のも
のも入れています。
>571追加
>新聞記事のような、全体として、はっきりした意味を伝えようとする文章も、
>強い言葉」である、という理解でいいですか?
そのとおりです。
5W1Hの、有効(有益な)言葉として、記事を例にとりました。
>569
これは私にとっては本当に<実験>です。
私が未熟者だからかもしれませんが(笑。
もしかすると、牙を抜くことにより、本当に刺さってくる詩語が発生して
しまう場合もあるのかもしれません。
私の自己批評としては、アレはたいしたポエムにはなってないですが、
感想お聞かせいただいてありがとうございます。
形式に出来なかったのですが今日興味深かった三つです
テロ戦争に勝てないを勝ちつつあるし勝てるに
言い直したので前言を撤回となってましたが
その前に 和平の席につける事はないだろう がある
暗黙の了解で牙を抜いた例ではないかと思うが
故に撤回では無いと思う
イラク人と米兵の亡くなった方の比率が15対1位らしい
それで亡くなられたイラク人15人米兵1人と
順番に名を読み上げる集会を著名人と詩人が催したらしい
バイトさきの前に止めてあった車の窓ガラスに
制服姿を映し何度も何度も確認している高校生
好きな男の子でもいるんだろうと
やっぱり制服姿の一瞬の煌めき勝負ですかと
声でも掛けてみたい気分だったが
セーラー服から牙を抜くのは骨が折れそう
どんなもんでしょうか
577 :
名前はいらない:04/09/05 09:34 ID:isvqTsoW
偶然辞書で見つけました
日常言語とは自動化を行うシステムによって
一つの言葉に一つの意味だけを与えるモノ
詩的言語とは安定していると思われた意味が
揺らぎ他の言葉の位置も変えてしまうモノ
なじみ深かった言葉が初めて出会うかのように
感じた時の言葉
話は飛んでしまうのだが
新聞側が新聞を疑えと言っているように
意味を二重化させた文章もあると思う
だめだ考えがまとまらない
忘れないうちにっと
ageときます
>話は飛んでしまうのだが
>新聞側が新聞を疑えと言っているように
>意味を二重化させた文章もあると思う
スゴイ考察だと思います。
何か発展しそうな。。
僕はと言えば、ポエム関係は、今お悩み中。マジで見失ってしまった。
仕事と私生活も急に重なってきちゃって、レス遅れがち失礼します。
この実験はコレでいいと思うんです。
少し時間をかけてじっくりと。
>意味が揺らぎ他の言葉の位置も変えてしまう
ご指摘の通り。
これが、語の「異化」と、文脈の歪み(ダイナミズム)だと思うんですが、
曖昧な言い方になりますけど、そういう「異化」を「異化」が必要な
常態として観察しようとしているのです。
でも、なかなか難しいですよね。
もしかすると、もしかして、そういう異化操作そのものは詩と関係ないのか
もしれないって気がしてきています。
579 :
ボルカ ◆.M/towN6yE :04/09/05 21:50 ID:AbL/M2iU
>>576 叙情性があってイイ詩だとおもいます。
特にこんな雨の日には。
やっぱり詩がいいかどうかって、どういうことなんだろう、と
疑問は深まるばかりですが、もう少し実験継続。
ご参加ありがとうございます。
わざとつまらない詩を書こうという考えが傲慢だったな、とおもいます。
マジで面白い詩を書くようにつとめてみよう。
と、微調整して続行。
アナウンサーA:
こんにちは、クレージーニュースの時間です。
テレビの見すぎが子どもに悪影響を与えるとは言えない、との調査結果がNHK放送
文化研究所より公表されました。
それによると、1歳児のテレビ視聴時間は1時間44分で、0歳時点(1時間5分)
に比べ39分長いことがわかりました。7歳以上の平均テレビ視聴時間が4時間5分
(03年11月、NHK全国個人視聴率調査)であることから、同研究所は「幼児は
大人の半分以下で、メディア漬けとは言えない」としています。
次のニュースです。
おっぱいの見すぎが男性に悪影響を与えるとは言えない、との調査結果がNNN放送
文化研究所より公表されました。
それによると、1歳児のおっぱい視聴時間は1時間44分で、0歳時点(1時間5分)
に比べ39分長いことがわかりました。7歳以上の平均おっぱい視聴時間が4時間
5分(03年11月、NHK全国個人視聴率調査)であることから、同研究所は
「幼児は大人の半分以下で、おっぱい漬けとは言えない」としています。
次のニュースです。
現実の見すぎが日本人に悪影響を与えるとは言えない、との調査結果がMMM放送
文化研究所より公表されました。
それによると、1歳児の現実視聴時間は1時間44分で、0歳時点(1時間5分)
に比べ39分長いことがわかりました。7歳以上の平均現実視聴時間が4時間5分
(03年11月、NHK全国個人視聴率調査)であることから、同研究所は「幼児
は大人の半分以下で、現実漬けとは言えない」としています。
583 :
ボルカ:04/10/19 18:59:50 ID:chfLhM5W
キャスターA:それにしても、毎日平均4時間もオナニーしたら、頭が悪くなるかも
しれませんね。
コメンテイターA:いや、そんなことはないでしょう。
コメンテイターB:それは安全であることが医学的に証明されています。
キャスターB:オナニーはまだ、想像力を使用しますが、仮にテレビだった場合、
大丈夫でしょうか。
コメンテイターA:有害であることは証明されていません。おそらく大丈夫でしょ
う。
キャスターB:この調査結果からはこの論理を導くことができるとしても、結論は
導けないのではないですか?
コメンテイターA:それはどうでしょうか?導けないかもしれませんが、結論が間
違っていると言うことも証明できないのではないかとおもいます。
キャスターA:典型的なクレイジーニュースありがとうございました。
584 :
ボルカ:04/10/19 19:58:14 ID:cI6fCeWz
『もうちょっと世界規模で』
長官は長い。
もうちょっと世界規模で核廃棄物ジャケット
それは、もうちょっと世界規模な地雷
それは、もうちょっと世界規模なお金持ち
米軍は効率的な機動力を持つようになり、
だから再配置しようとしている。
国際的な視野で平和を考えるべきだ
国際協力は日米で
『もうちょっと世界規模で』
という議論を死体
日米同盟の目的を「アジア太平洋地域の平和と安定の維持」
と定義した日米安保共同宣言の
見直しを本格検討する考えを示した。
585 :
ボルカ@強い言葉:04/10/20 21:12:27 ID:+ovyEa51
『再利用できないプラスチックごみは原則焼却 環境省指針(20:26)』
再利用できない女は原則焼却
再利用できない子どもは原則焼却
再利用できない思想は原則焼却
たとえそれがダイオキシンをまきちらしても
燃やしてしまえば言い訳は別の誰かが
NECが世界最速のスパコン開発
1秒間で65兆回計算
何を?
台風23号、午後7時現在大津市付近 首
都圏直撃の恐れ
豪州の動物擁護団体
捕鯨中止など求め日本の船会社提訴
東海道新幹線
全線で運転再開
しないとでも思っていたのか
再利用できない情報は原則焼却
再利用できない都市は原則焼却
再利用できない感情は原則焼却
再利用できないものを作らないとか
焼却したらいけないものを売らせないとか
そんなことよりも原則を
原則に飢えた
再利用の形骸
>>585 出来はまあまあだね。でも、3連目の1行め、最後の「首」っていうのがおもしろい。
狙ってやった? それとも怪我の功名? むしろ、その変則行変えの可能性を追求しても
いいんじゃないの。
587 :
ボルカ:04/10/20 22:37:54 ID:+ovyEa51
>586
ありがとうございます。
首は確かに面白いですね。今気がついたんですが(笑。
変則行変え、チョト考えてみます。
ミャンマー軍事政権は穏健派のキン・ニュンおじさんを解任
後任に強硬派のソー・ウィン井戸端発展評議会おばさん
を充てると発表した
キン・ニュン氏は共存勢力とのパイプ役だったが
解任された背景には車の下での権力闘争があったとみられる
撫で声指導者のアウン・サン・スー・チーさんらにとっては
大きな打撃で奏でる路地裏の進展は当面絶望的となった
589 :
ボルカ:04/10/22 00:28:21 ID:Pt5GWEyQ
『イラクのア』
ブグレイブ刑務所で起きた 米兵士
による虐待事件で、 駐留米
軍の軍法
会議 が
21日、バグ
ダッドで開かれ、 虐待な
どの罪に問われたフレデリック2 等軍曹
(38)に対し、禁固8年と降格、不名誉除隊を命じる有罪
判決が出た。
590 :
ボルカ:04/10/22 00:32:24 ID:Pt5GWEyQ
>588
サンクス。
なんかリアルでイイですね。
車の下での権力闘争とか、なんとなくありそう。
<強い言葉> との関係で、テクとして思ったのは、<連続体>である、っ
てことが 588の詩では生きてるな、と。
ぶちぶちにちぎれた言葉もケースによっては<強い>のかもしれないけど、
そうしなくても強くできるって言うケースだと思いました。
591 :
名前はいらない:04/12/06 00:02:31 ID:Sh4lOLaq
なんかage
593 :
名前はいらない:04/12/28 19:39:18 ID:a2oNs4Kz
あげ
594 :
無名小説:05/01/11 16:01:19 ID:ToIVcCm5
ボルカさんこんにちは。
散文詩についてぐぐってたところこちらに行き着きました。
300まで拝見しましたが、とてもとても、勉強になります。
595 :
ボルカ:05/03/12 00:45:49 ID:nfD51tGW
ちわっす。無名小説さん。
どうもありがとう。
最近僕は、詩の杜文庫の「現代詩作マニュアル」の野村さんLOVEです。
野村さんは、北川に敬意を表しつつも<侵犯>に異を唱えてて興味深いです。
僕も<詩語>はディスコミニュケーションのツールではなく、コミュニケーシ
ョンのツールだと思います。
たとえば北川がこと本であげている山本陽子(青春くらがり)のような詩でも。
596 :
学生:2005/07/20(水) 23:25:06 ID:Qz8MZR2n
皆さんの高学なお話にはとてもついていけないのですが、詩を書かなくてはならなくなりました。つきましては、提喩と換喩と隠喩の違いを分かりやすく教えてくださればと思います。いろいろ見たのですがよくわかりませんでした。
597 :
ボルカ:2005/07/22(金) 00:55:09 ID:HAdViedA
506,507,508あたりが僕の考えたことです。
あとは佐藤さんとかの著書を。
598 :
ボルカ:2005/07/22(金) 01:03:16 ID:HAdViedA
今読みかえして思ったのですが、この「フェティッシュ換喩論」は、イケル
感じですね。正直忘れてたんですが。
あと自分の書き込みだから気に入って当然ですが。
596さんがもし、レトリックの中で隠喩が好きなら、比喩論について考えることは
詩作とはあまりかかわらないかもしれません。
僕は隠喩が嫌いなので、換喩と隠喩の違いは結構こだわる場所です。
その意味は、二年前に上記引用に書いたとおりだったり。
599 :
名前はいらない:2005/08/08(月) 09:34:37 ID:t/6KrnE+
こんなスレがあったとは!
やるな
600 :
名前はいらない:2005/08/08(月) 10:08:54 ID:fxUujQwl
600
601 :
黎明:2005/08/08(月) 10:24:25 ID:g3hlql8r
2ch殆ど初めてなんですが・・・・
「age」「sabe」「ぬるぽ」
ってどういう意味ですか?
602 :
テスト:2005/08/08(月) 11:09:08 ID:f4qkm2xN
テスト
603 :
ボルカ:2005/09/25(日) 01:29:19 ID:PGK/Dm4Y
3つとも意味不明ですので私は使用しません。
とくわからないのは、ageですが、メール欄にそう書くとスレッドが板の
上端に上がる、という伝説があります。
ですがそれは、「何も書かなくてもあがる」、ということを知らない人の
ための御伽噺で、この記号の本当の使われ方は公表されていなかったと
思います。
604 :
名前はいらない:2006/01/07(土) 15:40:48 ID:3uCOsKuS
北川透なかなかいいよね。
今は中也の郷里にいるんだっけ?
605 :
ボルカ:2006/01/08(日) 02:35:47 ID:xQApb5Jv
そうなんですか?僕は良く知らないんですが。
つーか、このスレッドどう使ったらいいのかな。
まだ半分あるんだけど。
なんかお知恵あったら、ヨロピコ。
ご自由に発展させてね。
そういえば、今、ポエム界で話題になってる詩論・批評関係の書籍って
言うとどんなのがあるのかな。
606 :
ボルカ:2006/01/09(月) 00:05:53 ID:RW0M0UL1
主体・主語論について。
僕は最近、<オリジナリティの問題>を考えているんだけど、
それと関連して、<作者と語り手の距離>について、再考して
います。
入澤を引用するまでもなく、その辺のどの詩も、構造を持って
いますよね。つまり小説と同じように仮構されていて、作品ごと
にさまざまな<語り手/作者>関係が偽装されている。
そういう意味では、「感情移入」みたいな読み方は、詩を含む
全てのテクストに対して不可能。それはわりと当たり前のことだ
よねってことを、このスレッドでも最初のほうで議論した覚えが
あります。
でも、詩にとってオリジナリティって何かな、ってことを、実作者
として考えていくと、やっぱり自分がそのテクストにどうかかわって
いるのかがものすごく大事で、ソコは外せないような気がしてくる。
つまり、ある深いフェーズで<作者=テクスト>あるいは、
<作者=語り手>であると。で、翻って、詩を読むときも、そのこと
は意識されなければならないのではないだろうか、、。だからこそ
詩においては<オリジナリティの問題>が、小説の批評理論とは
無縁の場所で起こりうるのではないか、と。
そんな感じなんだけど、どうですかね?
どうかっていわれても、って思う人もいるだろうけど。
>ボルカさん こんにちは
ども、語る相手がいないみたいなので、、乱入にきました。
あたしも、まだ結論でてないんで疑問っていう形で投げさせてくださいまし。
多分 これは詩というもんの性質に関わってくるとオモウんですが、
たとえば、こういう現代詩あるじゃないですか、、
「売春処女プアプアが家庭的アイウエオを行う」(冒頭部) 鈴木志郎康
先ずは妻が歩いている
股さかれて
気が触れているのかバスセンターよ
髪毛は夏向きにショートカットする
ズボンもショートカットする
男根もショートカットすればいいわ
それでは詩はせめてロングロング
ア
今ここにカットされる妻の首
これがねらいだったのね、結婚のねらいね
廊下は生えて来た無数の乳房のために足音がしない
ああ、恒常的に衛生的にみがかれた妻の乳房は黙々と生えてくる
ねじれてる
嫉妬してる
妻は素早く手術台の上に売春処女プアプアを固定する
黙々と家内が処女生殖器を大陰唇小陰唇処女幕から左右卵巣を手ぎわよくカットして行きます アーアー 只今マイクテスト中
ーーーーー後略ーーーーーーーーーーーーー
608 :
リーフレイン:2006/01/17(火) 14:24:08 ID:qsf5p6Tw
このあたりが現代詩の寓話的(藁 なタイプじゃないかとオモウんですが、
こういうある種のストーリー性を持ちながらも、小説じゃなくて詩だからこそ成立している部分ってのが
ボルカさんの言う、作者から切り離せない部分じゃないかなとちらと思ったわけで。
つまり、小説は、ある程度固定した世界感をベースに(作者が綿密に書き込むことで)
書かれるんだけど 詩は、詩的自由世界を短いフレーズで展開するんですよ。
で、その自由度の代わりに 読者との接点として作者の影が投影されやすいのかな
詩的っていうのは、”揺らぎ”じゃないかとオモウんですが、その揺らぎは隙間が大きいです。
で読者は隙間を作者(現実)で埋めちゃいたくなっちゃいますね。
この場合だと、結婚をアイロニカルに眺める男でしょうか?つまり通常の結婚生活のイメージがあってはじめて
成立してる詩ですよね。
あ、なんか論点がずれてきちゃったなあ。。。えっとつまり、現実ってもんの共通認識が読者にあるという前提で
書かれてるってことかな?
609 :
ボルカ:2006/02/12(日) 13:11:56 ID:XC5x/p12
こんにちは。
>詩的とはゆらぎ
なら、「なにがゆらいでいるのか」、みたいな事かもしれないですね。
禅問答みたいだけど(笑。
***
禅問答のほうで、二人の坊主がいて、軒先につるされた手ぬぐいだかなんだか
が、風にはためくのを見ている。
一人が、もう一人に、
「動いているのは、手ぬぐいでしょうか?それとも風でしょうか?」
と訊く。するともう一人は、
「いや、動いていませんよ。何かが動いているとすれば、貴方の心が、
でしょう。」と答える。
ソコまでわかりやすい話ではないけど、そんな趣旨の話があったと思い
ます。
610 :
ボルカ:2006/02/12(日) 13:19:23 ID:XC5x/p12
僕らは、言語とか、「言葉」というものが、なにか中心を持つものとして
あって、そこからの揺らぎ、というものをポエジーと思いたがる。
そういう習性とか習慣みたいなものがあると思います。
北川透は、それを論理的に言い表していて、自分はそれを吉本隆明から
引き継いだ、と言ってます。
でも、僕はその考え方自体が、どこかで深く間違っているように思います。
端的に言えば、プアプアがもし、その当時の言語のあり方の中心からの
揺らぎに過ぎないなら、それは面白い詩作品ではない。
実際607の部分引用から僕が感じた範囲で述べてしまえば(本来は古典ですから、
目を通してから述べるべきですが)、引用部分には僕は、何ら「詩」を感じま
せん。
611 :
ボルカ:2006/02/12(日) 13:32:24 ID:XC5x/p12
なぜ、面白くないか、と言えば、607の部分引用からは、プアプアが
奇妙な(常識にとって)作品であることはわかる。でも、それが
「鈴木にとって何なんだ」ろうっていうことが、まったくわからないし、
それがわからない限り、同時に私たちにとっても607はただの奇妙な
文字列でしかなくなってしまうから、なのではないでしょうか。
リーフさんは、結婚と言うものに対する常識みたいなものをベースに
共有することによって、また、それにアイロニカルな「作者」のたたず
まいを想定することによって、この詩が成立する、とお考えかもしれな
いけど。
僕はむしろ、コレがアイロニーだと主張する「作者」と「読者」の「常識」
があるとすれば、その感覚はまさに狂気であると思います。
全文を見ないとわからない面もあるとは思うけど。
このテクストは、むしろ理解<されない>ことを望んでいるような感じが
しました。
なんとなく気分でアゲるけど、レスをお願いするわけではなく。。
気が向いたら(笑)。
この種の話は、1000年やってる議論だから。
入澤の詩で、どんどこ言いながら、男と女が火山に登って心中するのがあるんですが、
残酷ななかにも、僕は入澤のほうが、叙情を感じます。
後日、機会があれば。そんな話とか。
612 :
ボルカ:2006/02/12(日) 13:46:27 ID:XC5x/p12
結論を書き忘れました(苦笑。
「作者」がゆらがないと、詩にならない、と僕は思います。
613 :
ボルカ:2006/03/18(土) 22:44:45 ID:PcPiYCu2
プアプア、教えてもらって全文読んだら、良かったです。
なぜか冒頭から。
てか、こないだ読んだときには入って来なかったけど、
今日は入ってきたってだけかも。読み手側のスイッチが
入ってなかったんだな、きっと。
614 :
名前はいらない:2006/03/19(日) 01:54:19 ID:SRghfefC
お前blogでもやれよw
一人で書いてんじゃん
615 :
ボルカ:2006/03/19(日) 18:19:55 ID:0F1fIul0
>614
このスレッドは、読書会スレッドなんだけど、もう読み終わったんだよ。
ご参加いただいた方々のおかげで充実した読書会だったわけだけど、
既にアフターの感想も終わって、あとはどう使おうがご自由にって
ことなんだな。
だからたとえばお前に、この先を続けることができるなら、続けて
もらえると僕としてはたいへん幸甚です。
つーか、名前欄に一文字も入れることができないヘタレが、俺のこと
を「お前」呼ばわりするんじゃねーよ。
616 :
あ:2006/03/19(日) 23:02:20 ID:KLjwqeVP
お前おもしれーな。もっと一人で書けよw
617 :
ボルカ:2006/03/21(火) 01:33:54 ID:NaLEcJmp
>616
キャラに徹しきれていない。
お前、アオリに向いてないよ(笑。
ppp
619 :
ボルカ:2006/03/23(木) 00:23:12 ID:L2vcfyKr
なんだよピィピィピィって。
ひよこかよ(笑。
てかさー。
お前はさ。可愛さが滲み出ちゃってると、思うんですよ(笑。
素直に「あ」とか入れたり、からかわれたら止めちゃったり。
実は女子高生だろ?
可愛い女子高生であることは、もちろん悪いことじゃないけどね。
それは良いことっていうか、むしろ偉大なことなのかもしれない。
いろいろ大変なことなんだろうなあとも思うし。
なんか悩みがあるなら、言ってみ。
それが少しでもポエムなことなら俺がマジメに答えてあげましょう。
北川と関係あろうが無かろうが。
お前バカじゃね?w
621 :
ボルカ:2006/03/23(木) 01:54:50 ID:L2vcfyKr
「?」だの「w」だのつけちゃうあたりが、可愛いくてイイね。
俺にはそういう文法は思いつかない。
お前は自分では気がつかないでやってるのかな。
てか、俺が馬鹿なのかどうか、俺に訊いてどうするんだよ(笑。
それがお前の悩みなのか?
俺は女子高生には優しくする主義だから答えてやるけど、正直
そんなことで悩むのは、かなり馬鹿馬鹿しいと俺は思うよ。
ま、答えとしてはだな。
俺は別に馬鹿じゃないよ。俺に訊いてもしょうがないんだけどな。
お前も自分の判断にもっと自身持った方が良いと思うぞ(笑。
622 :
ボルカ:2006/03/23(木) 01:56:57 ID:L2vcfyKr
あ、自身じゃなくて、自信だ。
なんにしても、自信は大事ですよ。
低レベルだなぁw
お前の好きな詩人誰よ?
624 :
ボルカ:2006/03/24(金) 01:06:19 ID:yxODItmF
変わったことを知りたがる奴だなあ。。
もしかしてさ、、、俺に惚れた?
つまんね
626 :
ボルカ:2006/03/25(土) 02:34:53 ID:E0FXEPho
>614 あなたは一人ぼっちなのですか?
>620 あなたは本当に賢いのですか?
>623 あなたの好きな詩人は誰ですか?
>625 何か面白い話をしてください。
悲しいほどギャルだな、お前。
だが、そんなことはテレクラで援交オヤジに言えよ。
627 :
ボルカ:2006/03/25(土) 02:38:52 ID:E0FXEPho
「詩は表現ではない」
ここは詩のサイト。詩の話をしな。
俺についての話をしたいなら、街で俺と会って、俺と寝るしかないよ。
628 :
ボルカ:2006/03/25(土) 02:43:13 ID:E0FXEPho
<花きちがいの大工がいる。邪魔だ。>
今、俺が読んでいる本の一節だけど、お前に良く似合うよ(笑。
太宰かw
ボルカ上の文章読んだけど、すごい厨やね
631 :
名前はいらない:2006/03/26(日) 10:45:34 ID:WY5XutHr
こういうやつが、詩をやってるとか言われるとはなはだ迷惑。
恥ずかしいんだよ
632 :
ボルカ:2006/03/26(日) 22:55:36 ID:sVn+mZVj
>631
だからさー。
煽りになってないんだよ、ちっとも。
もうちょっとがんばれよ。
633 :
ボルカ:2006/03/26(日) 23:06:55 ID:sVn+mZVj
てか、なんかやんなってきたな。
お前にはぜんぜん萌えないんだよなー。たぶん実際あっても勃たないと
思うよ。俺は通常、ギャルならオールOKなんだけどな。
あまりにもステレオタイプすぎなんだよ。
もう少し、自分の言葉でしゃべれないかなー。
たとえばさ、
>>629のレスなんか、ほんとチンコちじんじゃうよ。
お前、脳みそもマンコも腐ってんじゃないか?シャブのやりすぎ
かなんかで。
普通628ぐらいヒドイこと言われたら、もう少しアジのある悲鳴を
上げるもんだけどなあ。
634 :
ボルカ:2006/03/26(日) 23:11:11 ID:sVn+mZVj
ま、そういうわけで、俺はもうお前の相手すんのは飽きたから(笑。
じゃな。
つまんね。
しばらくしたら見に来てやるから、またチラシの裏続けろよ。
636 :
ボルカ:2006/03/28(火) 03:05:50 ID:MDBMP470
お前タフだなあー。
むしろ友達になろうぜ(笑。
俺が今、一番気に入ってるテクストは、詩人のテクストじゃなくて本当に太宰の作品なんだよ。
「現代詩フォーラム」でも、太宰のことしか書いていないぐらいだ。
すぐ飽きるだろうけどな(笑。
ふとしたきっかけで、太宰の短編集である「晩年」に入っている「魚服記」っ
ていう作品を再読したんだんだよ。
切ない作品だけど、秀作だ。
俺はもともと太宰は好きだったんだが、それですっかりはまってしまってね。
立ち読みで読める長さだから、気が向いたらお前も読んでみるといいよ。
637 :
ボルカ:2006/03/28(火) 03:08:29 ID:MDBMP470
「好きな詩人は?」と誰かに訊かれたら、俺は通常、テキトウなウソを答える(笑。
詩人である俺に向かってそんな質問をする奴には、通常はウソの答えで十分なのさ。
だが、たまには本当のことを言ってみるとすれば、俺が本当にココロのソコからこの
詩人はすごい、と思う詩人は、いないな。残念ながら一人も。
もちろん作品レベルで言うなら感動する詩はあるし、詩人についてもカッコイ
イと思う詩人はいる。尊敬している詩人もいるし、イロイロ教わっている先輩
詩人もいる。
だが、俺は詩人としては俺自身が一番好きだよ。
作品で言えば、最近感動したのは、モリマサ公ってひとの作品で、「雑誌」とい
う同人誌に収録されているものだ。
この一年間で最も感動した作品ということでなら、俺たちの同人誌Poem Rosettaの
収録作品で、ある無名詩人が死刑になったお兄さんのことを歌った詩だな。
ギャグの形をとってるんだが、あれは本当に泣いた。
638 :
ボルカ:2006/03/28(火) 03:23:47 ID:MDBMP470
じゃあな。
(二度も言うのはいかにも馬鹿だが(笑。)
俺は今日、あと二時間したら出張に出かけて、しばらくは2chにはアクセ
スできない。
・・・さっきこの一週間の流れを読みかえしてみたんだが、俺って本当
に最低の屑だな(笑。
お前にすれば、俺に言われる筋合いは無いだろうが、あんまり気にすん
なよ。俺が勝手に愚劣なだけだし、俺は好きで愚劣君をやってるんだから。
639 :
ボルカ:2006/04/02(日) 02:59:54 ID:z+NYQptU
ところで、何度も言ったことだけど、ここは対話の場所。すでに企画が終わ
ったんで、気を抜いてノンビリしてるってだけなんだな。こうやってノンビリ
してれば、新たに課題の本の読者が来て、イロイロ述べていくかもしれないしね。
大体からして僕は、「自スレ」ってのは自分には不要だと思ってるし。
自分の詩論については、公表したいときは自サイトや◎やフォーラムで公開してるし、
したくなくなれば随時、降ろしています。
だから、リクエストに答えてチラ裏をやりたいところなんですが、実際
にはあんまり気が乗らないなあ。
640 :
ボルカ:2006/04/02(日) 03:12:36 ID:z+NYQptU
今、僕が詩について考えているなかでの根本問題っていうと、まあ幾つもあるん
だけど、一つの大きな課題は、「言葉が共有されていない」って言う状況をどう押
さえるか、ってことです。
たとえば、他人を批判するときは、「正義」っていうのが当然に前提されて、
その前提が吟味されて始めて批判の正当性が議論できる。
それは、「批判」ということの常識だろうと思うんだけど、正義と関係ない
部分で、個人攻撃を始めちゃう人がいるよね。お前のことではなく。
「キモイ」とか、「イタイ」とか、そういう正義とは無縁の概念を「批判」
につかってしまうんだよね、そういう人は。そういう人に「批判とは何か」を
語っても(つまりは、「お前のソレは批判になっていない」と言い返しても)、
話が通じる可能性はきわめて低い。つまり「批判」という言葉が共有されてい
ないんだな。
そんな感じの問題意識が僕には深く意味深いかな。
641 :
ボルカ:2006/04/02(日) 04:50:55 ID:z+NYQptU
例によって無数の間違いですが、「深く意味深い」ぐらいは
直しとこうかな。
642 :
名前はいらない:2006/04/02(日) 05:04:56 ID:rRaww2vf
商業にも絡んで詩に関わってるんですか
最近の文芸での論点の主はその一般的な教養の低さに
創作がどう向き合うべきか、みたいな話ばかりで
世の中に向けて書く立場からするとやってられない
心境になるだろうね
643 :
名前はいらない:2006/04/02(日) 05:15:31 ID:rRaww2vf
大衆文化の恐らくは無視できない一端、質でなく規模の上でだけど。
テレビを始めとするマスメディアで流布される情報に起因する所が大きいのではないか
噂では最近は文化人が出演する討論番組のようなものがもてはやされてるようで
視聴者の方ではマスコミが想定してる需要よりも
もっと高尚なものの方に意識は向いてるんじゃないかと思われるんだが
当該文化人関係のものにしてもそのほとんどが
政治経済を扱ったショーばかりである所、より、文化面、哲学や文学の最新の論点
について喧喧諤諤の議論が扱われると、言われているような教養の面についての危惧の解消
あるいはそこから良質な文化に起因する副産としても良い効果が表れるのではないかな
644 :
ボルカ:2006/04/02(日) 17:41:55 ID:z+NYQptU
だれに向けて書くか、という意味では、私は世界に向けて書いています。
自分が納得するために日記を書くのとは違うスタンスで、それはむしろ商業的
な面を含む活動ともいえるのかもしれないです。
でも、少し補足が必要です。
まずは、商業詩には私は全く相手にされていない、ということ。やって
いるのは同人誌活動のみです。
それから、詩の同人誌はマンガなどとちがって、超有名誌でもまったく
儲かっていない、ということ。
あともうひとつ、芸術の分類の仕方をもう少し細かく分けたほうがよ
いのではないか、ということがあります。
以下、芸術の分類について、手元にある雑誌の今月号からの引用します----
かつて鶴見俊輔がユニークに分類したところによると、「純粋芸術」
(プロに権威あるものを複製させ、少数の都市に住む文化人だけで
消費するもの)と、「大衆芸術」(プロが娯楽用に提供し、誰にで
も手が届くもの)のほかに、「限界芸術」があるという。それは、
生活と芸術が広く触れ合う形としてのアートである。限界という語
がなじまなければ、ペリフェラル・アート(境界芸術)とよんでも
よいかもしれない。社会と芸術の縁を縫い合わせるものとして。鶴
見は、農民芸術家であった宮沢賢治を、その大きな実践者とした
。(三上その子:演劇の声に耳を開く/舞台をめぐる「ことば」と
「からだ」:詩学2006.4:pp16-25)
645 :
ボルカ:2006/04/02(日) 17:42:44 ID:z+NYQptU
ここで三上を敷衍すれば、
1)純文学(芥川賞小説や、いわゆる「難解な現代詩」など)
2)ジャンル文学(歴史物、ポルノ、少女小説、推理小説、少女ポエムなど)
3)限界文学
が想起される、と私は思うんだけど、私自身の方向性は、この3つ
めの限界文学です。サイノーの話はおくとして、賢治には結構シンパシー
感じるし。
都立家政(ミキ)さんが他の人々とやってきた朗読会ムーブメントや、
Canopusさんが他の人々と梁山泊でやってきた合評のムーブメントもここで
言う限界文学だと私は思います。
それらは観客とプロのパフォーマーがいる芸術ではなく、観客が同時に
参加者であるワークショップとしての芸術なんだな、きっと。
私が重きを置いている同人誌活動も、売ってお金を得て、その範囲で活動する、
ということは活動が健全である(道楽に堕しない)ための保険に過ぎなくて、
本質的にはお客さんも立会人として含めた、ワークショップとしての活動だ
と思っています。
646 :
ボルカ:2006/04/02(日) 17:48:53 ID:z+NYQptU
>644 商業詩なんて詩はなくて、商業誌ね(笑。
以上のような観点に起つ私にとっては、読者、というのは、大きく言えば世界なん
だけど、実はもっと身内なんですね。つまり私の妻や子や友人や秘密のあの娘を
含めた、私の世界のひとびとです。詩人たちも含まれます。
そういう人々と、「ことばが通じない」ということが起こる、しかもしばしば
起こる、というのが私にとっての根本問題の一つなんだな。
そこには教育内容の低下(教養の危機)の問題や、642-643が指摘するような
マスコミのテイノウ化・幼稚化とか、いろいろ社会問題もあるわけだけど、それ
に対応する私の活動としては、「対話を成立させて、そのなかで語にたいする
共通認識を築いていく」ということだと思っています。
つーわけで、立派なチラ裏が書けて僕は嬉しいです(笑。よい突っ込みありが
とうございます。
ちょっと暇潰しに。
ネット上の「不特定多数」かつ「基本匿名」な人間に対しての
限界芸術的アプローチってどうなるんかな?
要するに境界芸術ってーのは“方言”とか“符丁”に近い訳で、
それを乗せる下地を形成しにくい場(ネット)においては
了解の閾値をかなり低く見ないと厳しいんちゃうかな?と。
648 :
ボルカ:2006/04/02(日) 18:28:40 ID:z+NYQptU
>647
そうですよね。
共有体験を築いていくことが必要かと。
読書会って、僕はあんまり上手く運営できないけど、もっとやった
ほうが良いと思いますよ、そのためにも。
その観点からは、反発があっても「ココでやる」ことに意味があり
そうな気がするな。
あと、たとえば職場の人と付き合う時間って家族とより長い。
そうなると、身内って誰のことなんだろう、と。その種のことはたくさん
あって僕もすっきりはしていません。
実際僕なんか、WEBの知人とコミュニケーションする時間って下手すると
妻とコミュニケーションする時間より長い。
だからWEB上で限界芸術するってことが一つのテーマにならざるを得な
いんだけど、WEBって距離がめちゃくちゃなんだよな。
649 :
ボルカ:2006/04/02(日) 18:30:53 ID:z+NYQptU
閾値を下げることってのは、僕は忘れがちだけど、重要だよね。
Canopusさんや都立さんがやったのは限界芸術だと上で言ったけど、
彼らは閾値のことをきちんと意識していた。
僕の欠点のひとつでしょうね。
一応「詩板」ってささやかな囲いが有る分
幾らか共通認識は持ち易いかも知れませんね。
もっとも、匿名掲示板って特性上
“詩板の空気は周囲より少し濃い”位の曖昧さでしか掴めないと思うけど。
あと、方言のきついのは理解が難しくなるように
「共通認識」と「内輪受け」は表裏一体だと思うですよ。
どんだけ排他的にならず「場」を作れるか、とゆーのも
苦労のしどころかな?と思ったり。
651 :
リーフレイン:2006/04/02(日) 20:10:36 ID:hAsrKbP0
共通認識て話、興味しんしんで読んでいます。
個人的には誰にでもわかる詩は書けないです。
この「わかる」ていう言葉の曖昧さからしてイラつくんだけどね。
そもそも読み手まかせな芸術なんで仕方ない部分であり、ある知識なり体験なりが欠落している読み手には確実に意図は伝わらないんだと思うんですよ。
あたしはそれで構わないんじゃないかと思います。
webのいい所はそれを共有しうる人にも会える点だし、切磋琢磨もできます。
作品の側から迎合する必要はないかと。
ただ、一方では本当に誰にも読んでもらえない状態だとモチベーションが維持できないし独りよがりに過ぎないんじゃないかという懸念あります。それを指摘できる詩友というのはとても大事です。
一面では、蛸壷的な境界文化ですね
今日寺山修司の落書学読んでたんですよ。
2chはまさに便所の落書きだし、ここそのものが境界芸術の最前線です。最低でも視点がふたつ必要な気がしています。
落書きを読み、書き込み、楽しみ、評価する視点
単独の固有文字列ー詩ーの作品性を問う視点
652 :
ボルカ:2006/04/05(水) 01:48:45 ID:vemP3VQX
>作品の側から迎合する必要はないかと。
まあ、できないですよね(笑。
ウケって、狙える人は生まれつきそういうタイプなんじゃないかな。
ウケの法則が仮に頭でわかっていたとしても、僕らは結局、やりたいことしかでき
ない。
このスレッドも、読書会の最中や始まるころに、わかりやすくが大事だって
意見をたくさん頂いたんだけど、でもって僕もそう思いはしたんですが、
結局は自分が最も面白いと思えることしかしゃべる気はしないですね(笑。
おそらく、限界芸術である、ということと大衆文学である、ということを
違うこととして認識することが有益なのかも。
詩で、大衆文学をやりたいわけじゃないですもんね。
何かを楽しもうとするとき、世界観が閉塞してくるのをどう打破するかっ
て言うのは、一つにはできるだけ人を排除しないってことで、それは敷居
を下げるってことだとは思う。
でもそれは、誰にでも気軽に参加できるようにするって事とは一致しないんじゃ
無いかな、と思います。
やっぱり一般には、本当にふわふわなポエムを詩だと思ってる人って多いで
すから。
>最低でも視点がふたつ必要な気がしています
この板で全てカバーする必要は無いですよね。ある別のサイトなり、ある同人誌
なりで、二つ目のスタンスを取るということもありえます。
でも、それは言い訳で、ホントに思うのは、このサイトのスレッドは、レベルや
意識が近すぎて多様性が少ないと思います。
もっと玉石混交というか、なんでもありな感じが欲しいですよね。
>レベルと意識が近い
それは多分、梁山泊型のワークが浸透しているって事じゃないかなぁ。
他の表現方式に比べて間口が異様に広い“詩”ってのは
本来ならもっと指向も形式も分散されていて然るべき訳で。
(勿論、その共通認識は時に「閉鎖的」「内輪受け」と取られるのだけど)
654 :
リーフレイン:2006/04/06(木) 09:37:21 ID:TqMitr61
>>652 >このサイトのスレッドは、レベルや 意識が近すぎて多様性が少ないと思います。
自分は2ch全体が境界芸術の場だっていう気がしていて、
コアな落書き性が顕著に出てるのはむしろVIPPER板のほうじゃないかとw。
詩板は2chでも言葉に対して少し慎重というか、意識的な層が集まってて、2ch全体からみれば
やや衒学的な場所かなと思います。
同じWEBでもフォーラムとはまた違っていて、生の声が裸で出される場合が多いですね。
意識的とはいっても、まだ”詩”を書くというより、どうしようもなくなったしたたりを書きなぐっている感じがします。
そういう意味では、雑誌、同人誌レベルとは異なるし、かといって原初な落書きでは
すでにないっていう層が大勢を占めてるかもしれない。(雑誌、同人誌レベルが必ずしも上という意味ではなくてね)
書くだけで満足しちゃうって雰囲気?ーーこのあたりがボルカさんのご不満の種でせうか?
ただ、スレッドを細かくみていくと、黙ってこつこつと自分を書き込んでいる人が案外いて、
その内容も濃い場合があります。玉石はあるんですよ、今でも。だけどそういう人は他の
スレッドでレスを交えるということがあまりないので、せっかくの掲示板だけれども
閉じてしまいがちなのが残念です。。
フォーラムだと、ポイント制のおかげで(功罪はあろうけど、やっぱあれはすごいシステムです)
どんな人の作品も一律にまな板にあがってしまうんだけど、板の場合は書きっぱなしの悲しさがありやすね。
(これもやっぱりメリットデメリットがあって書きっぱなしで消えてしまうことそのものへの愛着みたいなんが
あるんだろうなあ。評価を求めることの卑しさを嫌う潔癖さみたいなもんかな)
雨さんががんばってるリンクすれ、そういう部分を拾い上げる手段になってますね。大変だけど頑張ってほしい。
655 :
リーフレイン:2006/04/06(木) 09:39:04 ID:TqMitr61
結局んとこ、レベル的な指標がでてくる部分というのは、コンテスト系のスレッドと投稿ー批評系スレッド
でしかなくって、端的にいっちゃえばそこでの評価がまだ多様性にかけてるんで、
受け皿がたらないってことなんじゃあないかという感じもします。
通行人さんのスレッドみたいなのはあるわけだから、もう一方の極として、梁山泊よりさらに詩誌的なスレッドも
あったらいいかもですね。
そういえばね、同人誌の評価スレッドを立てようかと思ってたんですよ、去年。和合さんのウルトラとか、ぽえ とか
感想を書きたいなと思って。過去の詩が同人誌を母体に発表されていったのを知るにつれてね、本当に先鋭的な
作品はまずは同人誌に集まる気がしたんですよ。でね、それを誰も知らないのよね、実は同人以外は。。w もったいない。
詩板の住人だったら知ってもいいと思うんですよ。いや、知るべきなんですよ。(てかみんな知ってて、
あたしが知らなかっただけなんかも。。それはそれで恥ずかしい。。)
もう時間がなくなっちゃったんで、誰かやんないかなあ。。。(この他人まかせなだるい態度。。)
656 :
ボルカ:2006/04/12(水) 01:00:19 ID:9D++wSXb
そそ!
同人誌って面白いし、重要ですよね。
WEB同人誌では、某M.Q.さんたちの某The C.P.Mとかも面白いです。
印刷媒体では、今度、若い詩人たちがまた面白そうなの出すんだそうですよ。
僕も何度も同人誌について語り合いたいなあと思っていました。
フォーラムに雑誌スレッドがあります。
僕はそこで、なんども同人誌の話をふってるんですが、いまいち・・・
皆さん礼儀正しすぎですね。
同人誌をエンターテイメントとして読む読者からの正直な評価って、
ほんとは同人誌製作者にだって貴重だと思うんですけどね。
657 :
ボルカ:2006/04/12(水) 01:23:46 ID:9D++wSXb
あと、指標/評価スレあたりのことですが、、、。
僕が思うのは、むしろ最近の「詩の雑誌」スレッドのつまらなさです。
なんだかホンキで説教しに来てるひととかもいるように感じたり。誹謗だの
中傷だのが繰り返されたり。
アソコは結構いろんな人が見てるけどね。だからって面白くなるかというと
そうでもないようです。
これは断じて自分がスルーされがちだから言うのではありませんよ(笑。
あと、僕が荒らさなくても、アソコは最近低調です。
なんかやっぱさ。
そっちの世界には、詩人以外に鬼も住めば蛇も住むんじゃないかな。
それに混じってあんまりショウも無い人とかも、いろんな事情で住んで
いて、そういうひとは権威主義だったり、お弟子根性だったりもするんじゃ
ないかな、とか思います。
水平にコミュニケーションする気がない人もいるんですよね。
後生畏るべし、ということをわかっていかったりする。
僕は、「詩学」や「詩と思想」のワークショップが、WEBに進出してくれ
ると良いんだけどな、と思いますよ。ココではなくても、WEBにそういう場所があ
れば、自然と関連ができて、ソコ上げができてくるのでは。
リーフレインさんが言うような意味の評価って、そういうところの講師レベルの
見識じゃないと、技術的にも、ココロの余裕的にも、無理なんじゃないかな。
658 :
ボルカ:2006/04/13(木) 21:37:26 ID:0/yEd0pM
フォーラムのニューススレの佐々さんの書き込み(子ども関係の記事紹介)を読んで、なんか深く納得したり。
僕は藤井サダカズがすごくすきで、でも名前の漢字は覚えられないをだけど、とにかく好きなんだな。
しかしなぜ好きなのかなあ、と思ってたんだけど、それがわかりました。
子どもの意見っていうのは、ちゃんと聞かなくちゃいけないんだな。
でもいつも聞いてもらえない。僕も子供だからよくわかる。
彼はさ。
彼自身が、今でも、「話を聞いてもらえなかった子ども」なんだな。
一見、それを代弁してるみたいだけど。
659 :
ボルカ:2006/04/18(火) 20:58:10 ID:mpDvXJpV
雑誌スレの悪口を書いたわたくしですが、やっぱいきなり面白かったりしますね(笑)。
m(_ _)m
まあそれぞれの視点で雑談を楽しむのが、面白かったりするのかな。
入沢スレッドが流れちゃったんで、ちょっとお借りします。。。
>ゼッケンさんへ 入沢先生関係で、参考になるかもしれない引用。(園川さんの掲示板閉めちゃったのでこっちに)
○ 入沢先生の「詩の逆説」より
p80 詩と小説のあいだで より抜粋
本当は《あいだ》などというののではないのかも知れない。要は詩と小説の区分を無意味
にしてしまうような一つの場の存在と、そこに予感される詩的冒険の可能性(異次元の
世界の追求と定着ーそこに獲得されるより高度の現実把握)のことを問題にしてみたいのである。
ーー中略ーー現代詩手帖7月号座談会「想像力の方向」(飯島、岩田、大岡、堀川)−−
ーー今日ぼくたちが当面している詩的状況の一面がはっきりと浮き彫りにーーーー
ーー特に、ヘンリー・ミラーやケルアックに触れて堀川氏が、その世界は、「詩と非常に密接な
関係のある(散文であるか詩であるかということも言えないような)世界」であることを指摘しつつ、
「それ(作家の感受性)が個人的な自我のなかに内閉されていてはけっして詩も散文もぼくたちが
本当に望むようなものにならないんじゃないかという感じが昔から強くする。どれだけ感受性を
個人的な自我からどんどん外へひろげていくか。結局は破裂するようなところまでそれをもって
いかなければ”想像力”というようなことは、あるいは”ヴィジョン”ということや、あるいはぼくらの
宗教的意味での”深みの次元”とかいうことを問題にする余地がいつまでたっても出てこないと
思うわけだ」と述べており、またこのことを「世界と離婚しなければ世界と結婚できない”という
ことがかならずはるはずなんで、その”離婚する”っていうことは大変なことだからな。その
”決定的なご破算”というものを突き抜けて、同時に自分の不可知的な世界へ向かっていくという、
そういうことが必ずおこらなきゃ」と言い、「日本の詩の感受性の構造というものを、一応そとに
向かってひらくかたちで壊すことをだれかやっていかないかぎりは、どうしようもないんじゃないか。
だから、それをやるかやらないかっていうのが・・・・・・まあおっかないからこれはなるべく
考えない」ともいっているのはその端的なあらわれてあろう。
このように、感性の開放と想像的世界の追求による真実への把握への志向がある所で、想起される
のが、ミラーやケルアックのような作家であり、「小説と詩の区別も無意味となるような場」であることは、
一見感じられる以上の深い広い意味がかくされているようである。それは詩のもつ豊富なイメージ(喚起性)
と小説のもつ言葉の方向性(叙述性・記録性)の結合が、このような異次元の探検に不可欠だということ
なのだろうか。あるいはまた、開放された感受性が超日常的な現実にふれておののくとき、それはもはや
いわゆる詩的な形式をふみこえて、新しい秩序(あるいは無秩序?)を要求するということであろうか。
ーーーーーーーー中略ーーーーーーーー
現代に生きるぼくたちの心を激しくゆさぶる偉大な文学作品のことを考えてみるとき、それが、しばしば、
何らかの意味で、詩と小説の区別の融解する場に成立していることに気付くのである。
だが、なぜそうなのか。満足な答えはぼくにはできない。判ることは、たしかにここに詩の進むべき
一つの道があるということだけである。これを分析的に追求してみたとて、あるいは実作者にはあまり
役に立たないのかもしれない。結局は、人々は、人はやりたいことをやるのだから。しかし、もしここに
秀れた知性があって、この点に幅広い光を当ててくれるならば、そこに紛れ込む不要な混乱と無駄な
犠牲(それは詩的冒険にとって不可避なのかも知れないが)を、いくらかでも少なくはできまいかと
考えることがあるのだ。たとえば「説話的な詩」「ロマネスクな詩」などということが言われるようになって
久しいが、それが作品傾向の大雑把な分類用語に止まって、本質的な意義の追求はきわめて
常識的な次元から一歩も出ていないことを思うとき、この感はいっそう切実である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
感想ーー
実際、この部分では入沢先生の言よりも、引用されている堀川氏の言のほうが読み手にとって
魅力的でした。堀川氏の言は”世界と離婚”の必要性を感じながらも怖気づいているという話で、
なんとなくわかる気がするし、この表現そのものが物凄く詩的です。。。入沢先生はそれを自説である
”小説と詩の融合の場”により引き寄せてきて一つの方法として、”融合の場を形成する”ことによって
到達できるかもしれないと示唆しています。しかしながら、その理論的な理由づけ、あるいは、いかにして、
ということについては自分も判らないと書いてしまっているので、論として弱かった。。。
ああ、そこんとこが知りたいです・・・それぞれ自分で模索せよってことかな。。。。。つかその模索そのものが
先生自身が触れているように、詩的冒険に不可避な要素ってことか。。
ゼッケンさんの最近の詩風から、このあたりの興味があるかな なんて思います。
>もう一箇所。。
「詩の構造についての覚え書」を読んでいる人なら、どうにも気にかかる言葉が「詩は表現ではない」
なんですが、当の本を読んでいくと、その言葉は大きな意味ではなく、かなり狭義な意味で使っているなという
気がするのではないかと思います。
「詩は果たして表現であるのか。詩は作者の表現したいものを表現する手段なのか。詩人はまず表現
したいもの(ヴィジョン・感情・思想・体験その他)を持ち、次にそれを読者と共有するために作品化しようとして、
表現につとめるもののことなのか。この素朴な、だからこそ根本的だと思われる問いに、否と答えることから、
ぼくはしを書いてきたし、これからも書くだろう。」「詩人がいて、その詩人が何かその人独自の伝えたい
ことを持ち、それが表現されて作品が産まれ、読者はその作品を読んで、作者の伝えたいことを持ち、
それが表現されて作品が産まれ、読者はその作品を読んで、作者の伝えようとするものを正確にキャッチ
し、そしてそれに十全に共感する、という図式を、詩に関してはぼくは信ずることができない。」
とあの本には書いてあって、全体を通じて、入沢先生が言いたかったのは、「詩は作者の意図を超えて
いくのだし、読者もまた、作者の恣意を越えて自由に詩行するのだ。(だから、詩が独行していくのを制限するんじゃねえ)」
ってことなんじゃないかって勝手に思っていたわけです。。(この認識はまあ、異論があるかも)
で、「詩の逆説」の中では、この点に関わる興味深い記述があって、
p388 詩と《自己救出》−−富永太郎の世界
ーーーー散文詩「秋の悲嘆」を冒頭に置いたあの創元社版の『詩集』との出会いは、当時詩のとばっ口で
うろうろしていた私にとっては、きわめて決定的な事件だった。この本と出会うことによって、私は「詩」に
ついての一つの確信を持てたーーいや、この本は、確信を与えてくれたというよりも、私の心から最後の
支えをとりのぞいてくれた、と言うほうが実情にあっているかも知れない。その頃、急激に私の前に立ち現われて
きたいくつかの詩集(それらもまたたいては創元選集書版か創元文庫版だった)によって詩への興味を
日に日に強く持ちはじめていたのだったが、それでもなお詩からへだてていたものは、詩とは煎じつめれば自己の
思念や思想、または印象や情緒の「表現」でなければならず、したがって詩を書くためには、先ず、表現すべき
独特の「私」が把握されていなければならないという考え方だった。この、いかにももっともらしく見える考え方が
絶対だとすれば、それは私が詩を書くときの感じとはかなりずれていた。詩を書こうとするときには、表現すべき
自己などというものは(筆をとるまではごく漠然とながら存在していたとしても)たちまち霧散霧消し、あとに残る
のは、散文でこそ述べるべき思念ばかりで、いったい自分は詩でもって表現すべき「自己」があるのだろうか、
とはなはだおぼつかない思いをしていたのであった。
富永太郎の詩は、そんな私に、「詩は《作品を通して自己を表現する》ものではなく、むしろ《作品の中に自己を
創り出す》ものであることを」示してくれた。表現すべきことがあらかじめあって、それを表現するのが詩の役目
だとすれば、それは所詮私とは無縁だが、《作品の中に自己を創る》ことを可能にするのが詩なら、それは私に
とって唯一の生きる道ではないか。そんなふうに思えたのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「詩は表現ではない」と力強く言いぬけたときに持っていただろう一つのベースがここにあるなあ と読みながら思いました。
私は、「詩は作者の意図を超えて独行していく」と思って読んでいたのだけれども、入沢先生はどちらかといえば
「現在の自己を超えた自己を創りだす」という感触に近いんだと認識が変わった次第です。
>ボルカさん、おじゃましました。
講師のレベルはそうなんですよ、、本当はお金払ってワークショップに行きたい(><)
WEBっていうと構造的にボランティアになってしまうんで、おのずと限界がありますね。
666 :
名前はいらない:2006/06/06(火) 11:40:00 ID:qj9St3bF
園皮
667 :
ボルカ:2006/06/07(水) 01:18:36 ID:9Xhc8ivZ
>666
?
>リーフレインさん、チャオ。
僕はこの間、飛行機の中で唐十郎の「少女仮面」という戯曲を読みました。
日本なんたら全集とか言う馬鹿でかい本からコピーして読んだんですが、
解題を書いている人がオトボケで全くの話、笑っちゃったな。
その解説者は、この戯曲が、唐の思想の比喩だと思ってるんですよ(笑。
ここには魅力的なヒロインが登場するんですが、彼女が彼の悩み、
すなわち「特権的肉体論」とその実勢に伴う苦痛、を代弁していると。
考えられないような誤読なんですよ、それって。
唐が「他者」を芝居に持ち込んでいることのすごさをまったくわかって
いないんですよね。
芝居は上演されている現場で発生するものだからさ、女優が演じているのは
何も断って無くても、比喩なんかじゃなくて女そのものに決まってるんだよね。
女の肉体をもった女優が女の悩みを演じていたら、それは男の悩みの比喩なんか
ではありえないです。仮にそんな芝居があっても、誰も見ないです、そんなつまん
ないのは。女が見たくて女優を見ますよね、誰だって。
特に唐十郎は、女優に自分を代弁させるような、そんな女々しいオトコじゃ
ないです。オトコの悩みについては、男として彼ならやります。
で、入沢ですが、僕は自分で詩を書くとき、女を書くなら、女そのものを
書きたいです。自分のどっか一部分の代弁者とか、自分のポエジーの演じ手
じゃなくて。
その意味で、僕にとって詩は自己表現ではないです。でも別の意味で自己
表現なんですよね。
問題はそのねじれ方が、じつは入沢とは正反対なんじゃないかってことです。
あぼーん
669 :
名前はいらない:2006/09/23(土) 17:55:10 ID:Dter5M/t
670 :
名前はいらない:2006/10/02(月) 15:45:40 ID:UL269VFx
少し質問したいのですが優しい方教えてください(修辞法です)
1、雲は「ぐんぐん」
2、貝殻などのみぎはをあるけばズシリとし。「湿つぽくかなしく辛く」
3、第1連と第2連の表現
この3つの「 」の表現はどの下のどの修辞法が使われていますか?
1、列挙法
2、漸層法
3、対照法
4、体区法
5、挿入法
6、萬喩法
7、誇張法
8、倒置法
9、反語法
頭が良くて国語ができる人教えてください!
またその答えを説明ができる人がいたら説明もおねがいします
\(=∩.∩=)/
>>670 おいら頭が悪くて国語が出来ないからわかんないーー
きゃーー
672 :
名前はいらない:2006/10/03(火) 02:51:34 ID:01XFlZAM
え?
673 :
名前はいらない:2006/10/03(火) 13:10:23 ID:C/nmkOV0
││┝┥┌──────────────────┴┐
│││┝┥┌──────────────────┴┐
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│││││┝┥ゼロッワーン!!! .exe .[×] |
┤│││││┝━━━━━━━━━━━━━━━━━━|\カチ
└┤│││││┌───―┐ ´||.`| カチ
└┤│││││ _ _ ∩│ ゼロッワーン!! .│ カチ
└┤││││( ゚∀゚)彡...| ゼロッワーン!! .│ カチ
└┤│││ ⊂彡.. | ゼロッワーン!! ...| カチ
└┤│└────┘ ゼロッワーン!! .| カチ
└┤ [ゼロッワーン!(s)] .. .| カチ
└───────────────────┘
674 :
名前はいらない:2006/10/03(火) 13:12:42 ID:01XFlZAM
675 :
名前はいらない:2006/10/03(火) 18:44:15 ID:01XFlZAM
わからん
辞書で調べてみたー
でも載ってない言葉もなるのなー
列挙 : 一つ一つ数えあげること。並べたてること。
漸層 : 修辞法の一。語句を次々に重ねて意味を強めていき、最後に最大の効果がもたらされるようにする表現法。
対照 :(1)比べ合わせること。照らし合わせること。
(2)〔contrast〕二つのものの相違点が著しく際立っていること。コントラスト。
体区 :
挿入 :間にさし入れること。はさみこむこと。
萬喩 :
誇張 :実際の様子よりもおおげさに表すこと。
倒置 :逆さまな位置におくこと。
反語 :(1)話し手が自分の考えを強く言うために、主張と反対の内容を疑問の形で表現すること。
「彼がそんなことをするだろうか(=彼は絶対にしない)」などの類。
(2)実際とは反対のことを言って、暗に本当の気持ちを表現した言い方。
遅れて来た人に、「ずいぶんとお早いお着きですね」などの類。アイロニー。
(3)反対の語句を用いて、表現したい事物を言い表すこと。「葦(あし)」を「よし」、「すり鉢」を「あたり鉢」などという類。
→忌み詞(ことば)
(4)江戸時代の語源説明法の一。
ある語が二語の反切によってできたとするもの。また、そうしてできた語。「あわうみ」より「おうみ」ができたとする類。
→かながえし(2)
>>670 まー これから推測されるのはさー
1、は「誇張」だろうなー
3、は何?それって表現法なのかー?わかんないーーー
678 :
名前はいらない:2006/11/01(水) 20:49:40 ID:soSa6v4s
勉強になります
679 :
名前はいらない:2006/11/02(木) 07:31:51 ID:EUuw40Kf
絵がふつうの男でよかった
これで血だらけの白い顔した女だったら…
ねんがんのレトリック辞典(野内良三著)を手に入れた
681 :
名前はいらない:2007/04/25(水) 05:06:02 ID:gwNrMR8O
ほしゅ
テスト。
これ何って言ったっけ。
以後、これ付けます。
つーか、このスレッド何とかして使い切れないものだろか。
「トリップ」でした。
685 :
名前はいらない:2008/05/03(土) 03:31:38 ID:8Fr71JL5
三上その子氏のブログが復活。
2chでも、別のスレッドで話題再燃です。
勉強になります
687 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/18(金) 21:18:47 ID:WRPuTI+e
秋風も吹いて、武田ダ−ザイン氏率いるサイト「文学極道」も方針について議論中。
ダ氏コラムを読むと、あいかわらず自民党ファッキュ、俺様最高な論調で好感が持てるが、文学極道も自慢党政権は交代か(笑)
しずかではあるが、いろんなところで革命は開始された。
詩論の季節ですよ。
688 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/18(金) 21:30:17 ID:WRPuTI+e
宣言したい。
僕も活動に限界を感じ、うじうじしていたが、僕なりにひととおりは考えた。
ある観点からはたりないかもしれないが、詩論の季節が訪れたのだと僕は思うから。
僕はポエム派だ。
この言葉は、ちょっと悔しいことに、佐々宝砂氏によって、世界で最初に定義されてしまった。
しかし僕は佐々よりずっと、佐々さんの定義したポエム派である。
そのことの自覚から、足元を再構築していきたいです。
乗るひとはのるべし。
たたくひとはたたくべし。
689 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/18(金) 21:37:42 ID:WRPuTI+e
あ。
一カ所、ミスで敬称がぬけましたね。
ゴメン佐々さん。
読んではいないでしょうけど。
僕はほんとうに根源的な意味でポエム派だから、佐々さんの定義した意味でのポエムがいかにして可能か、ということを僕の根本問題にしていこうと思います。
690 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/19(土) 08:40:40 ID:XxOa9APA
昨日、僕は立ち飲み屋でホッピィ飲みながらテレビ見てました。
爆笑問題の太田が、もし自分が総理だったらみたいな位置取りで、政策アイデアだすんですよ。
それをゲストの政治家にコメントさせる。
昨日のネタは、「政党補償金だったかな、なんかとにかく無駄金っぽいものを、全額、景気対策に」
ってのでした。
僕が世間を嘗めてるわけじゃないんだけど、おそらく世間はそのレベルだ。
「景気」あげることだけで、戦後ずっとやってきたわけですよ。
どっから見ても、ちゃんと見さえすれば、景気だけでやってきた政治がいきづまって、もう経済成長とかじゃ、世の中動きませんよ、というのが今の状況だ。
でもそれはまだ隠されていて、金をばらまけばいいんじゃないか、みたいな考えが口にされる。
これは状況を隠そうとする古い権力がまだ残っていて、革命的な闘争が地下で開始されているってことだと思うな。
691 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/19(土) 08:48:44 ID:XxOa9APA
ってわけで、詩論の季節ですよ(^0^)/
なんか考えていたりしませんか?
誰も構ってくんないなら、一人でぶつぶつ述べてくけど。
本質的な革命は、つねに孤独なものだろうから。
ボルヘスの言うには(※)、隠喩には―読み手にそうであると受け取られうる隠喩には―1ダース程度のパターン
しか存在せず、様々な変奏があるだけである。それで十分役目を果たすように働いてきた。
そして、新種の隠喩も中には存在する。
ということのようです。
我々がやるべき事は、パターンを熟知することと、新種の隠喩を生み出してみせること、のようです。
※「ボルヘス、文学を語る」/鼓直・訳/岩波書店
で、ボルカさんのポエム派の定義はどういう感じですか?
財政改革の話、「ノーリターンポイントは通りすぎてしまった」っていう説があって、
もう、今さら年金の世代間格差を解消しつつ、すべての世代がそこそこ幸せに
生きていきつつ国債をせめて先進国の平均あたりまで減らすなんてのを地道にできる
ラインはとっくの昔に通り過ぎちゃってて、どこか順繰りに破綻(例えば
年金の配布をとりやめ、とか全国の病院の破産とか)してくのを待ってる段階になってるっていうことらしいです。
早晩、国家破産の憂き目に、、その直前にねずみが逃げるがごとくに、法人が海外に移転して、
日本人は日本人じゃなくて各法人の子飼い人と、破産国家にとどまる土着貧民に分裂なんちゃって。
何が言いたいかってと、静かに観察している人たちが確実にいて、見放す瞬間を、あるいは骨を埋める覚悟を
図っているのかもしれないっていう話ですかね。(つまりはこの層が革命を担う層かも)
694 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/19(土) 20:13:16 ID:XxOa9APA
サンクス、雑草さん。
僕は楽観も悲観もせず、この国に最後まで付き合うつもりですよ。
と、言っても一国民として、個人的にさまざまな判断をしながら暮らしていくってだけですが。
甘い汁だけ吸って、いざとなったら逃げ出すような者たちは、自尊心を疑われると思います。そんなひとはどこへ行っても、しょせん売国者ですよ(笑)
危機には革命者側に回るのが得策でしょうね。
僕もせいぜい、具体的な場面において生活を守る方向の選択をするし、顔も知らない権力者たちのために何かを優先しないように心掛けます。
医療システムや年金制度の破綻をさけるのは、不可能と言ってすむことではなく、優先事項でしょうね。
ポエム派の定義はあとですこし丁寧に。
定義するまえにまず指差します。
それは、多くのひとがその存在に気がついてはいるが、自分自身はその内部には位置付けていない「延長線上にないものたち」のグループです。
定義にさいしてどういうタイプの言葉を使うかによって、強調されるかどうかはあるけど、強調するにせよ、やっぱ強調はしないでほかの面を語るにせよ、本質的・運命的にポエム派とは革命的なひとびとです。
695 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/19(土) 20:22:42 ID:XxOa9APA
隠喩論ですが、雑草さんの言うとおりかもしれませんね。
詩を書くときに、詩人はデホォルトで新しい隠喩を使うひとだ、と、考えるならそれはやはり誤りではないかな。
だけど新しい隠喩が発生することもあるでしょうね。
ポエム派内においても、クリシェだけが繰り返されるのではなく、新しい隠喩は出現すると思います。
その頻度は、「地つづきなものたち」の作品と、おそらくあまりかわらないでしょう。
>>695 どうも、ボルカさん。隠喩論ですが、ボルヘスの言ったことを繰り返してるだけなので恥ずかしいのですが。
>>デホォルトで新しい隠喩を使うひとだ
ボルヘスはかなり踏み込んでて、各単語にも、語源があるから、単語も死せる隠喩であると言っていますよ。
「地つづきなものたち」というのは、何と地つづきなのでしょう。ちょっと文極で勉強してきまーす。
697 :
693:2009/09/20(日) 04:50:12 ID:R4Z0KWqI
>>694 ななしです。 (雑草さん、申し訳ありません つながったようなレスになってしまいました。)
>定義するまえにまず指差します。
なるほど定義よりまず直感ですね。
なんとなくですが、>本質的・運命的にポエム派とは革命的なひとびとです。< を
読んで「本音」という志向を感じました。
>>695 雑草さん
やっぱボルヘス面白そうだなあ。
単語は死んだ隠喩ですか。
すると、途中段階もありそうですね。
指し示す機能がどれだけ了解されているかで、詩的表現から一般的な
単語までがグラデーションになりそうな気がします。
ボルヘスって前からちょっと気にはなっていたんですが、このさい、
手にとってみます。
地続きなものたち、とは、江戸幕府と地続きなものたち。革命を知らない、または忘れたものたちです。
そう言われると、困った感じでしょ(^0^)
これについてはここで僕がしゃべり始めただけ。未整理です。
当面は九十年代の「現代詩手帖」と地続き、という意味、または戦後文学・団塊世代の裏切りや転向など、さまざまなものと地続き、という意味で。
極道では、そうした議論は行われてないみたいですよ。
700 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/22(火) 10:04:12 ID:AQ2puiJk
>697
失礼しました。
おっしゃるとおりの感覚です。立ち位置と、内容と、スタイル。三つともについて。
標語的に言うと、「ストレート、ストリート、ストリップティーズ」、って感じかなあ。
ウエブやオフの合評に参加したり、同人誌即売会に出掛けたり、それなりにいろいろやりながら、感覚として、「僕のやりたいことは、なんか全然別のことだ」と思う、という経験が重なったんですよ。
701 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/22(火) 21:27:13 ID:AQ2puiJk
>697
名無しさん、ありがとう。
本音ってのは、ものすごく大事だと僕は思います。
言語化できてなかったんだけど、「気に入らないな」って感じる詩って、僕が僕の読書において、本音じゃないんじゃないか、って感じる詩のように思えてきました。
702 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/22(火) 21:51:17 ID:AQ2puiJk
詩は人間の鳴き声だと思う。
僕は、自分がもし失語症になったら、そのまま言葉ではない何かでポエムを綴るんじゃないかと思う。
そしてそのことに、表現するやりかたとしてはべつに不便を感じないかもしれない。
伝わらなくはなるけど。
ほとんどの人が、イルカや象の言葉は、高度な概念を表現できない単純なもので、文芸や哲学は、言語をもつ人間だけのものだと考えていると思います。
でもそうではないんじゃないかな。
コギトエルゴスムだって、べつに高度な言語を必要とはしない意味内容なんじゃないかと思う。
イルカが歌うのと、我々がポエムを書くのは、厳密に等価なんじゃないか、と、いうことを感じています。
703 :
名前はいらない:2009/09/23(水) 01:09:46 ID:hvgmrJLx
>>702 詩が人間の鳴き声なら、
僕は鳴くために時間を費やしているということになるのだ、と思う。
イルカや象だってポエムを詠む、という意見に反対するわけではない。
「伝えたい」という意思があるから、鳴くのだと思う。
僕自身、そういう意識の塊みたいなのに動かされて書いているからね。
あなたのいう「鳴き声」には、そういう意思があるのか。それとも生理的なものなのか。
そこんとこを、もう少し詳しく説明してほしいな、と思います。
ついでに聞いてみる、元気の出る詩があったら教えてほしいです。
704 :
697:2009/09/23(水) 05:06:23 ID:QVMWDVKB
>>702 詩が人間の鳴き声ならば、自分の詩は汚いです。
綺麗に鳴けないのがジレンマではあるんですが、、、
(上手く鳴けないっていう意味だけじゃあなくて、声そのものがなんか
品性の浅さとか身勝手さとか反映してしまって汚いです)
ボルカさんの説を読んで、自然界にある声って必ずしも耳に心地よいわけじゃないですよね?
そう思えて、「自分の声でもありかも」って思ったりしました。
アリとかも鳴くのかな、、、、
>>703 この詩 お勧めです。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/poem/1034340135/311-312 へのころちゃん
>あなたのいう「鳴き声」には、そういう意思があるのか。それとも生理的なものなのか。
自分は、「伝えたい」っていうより「鳴きたい」が近いような気がします。板でいやあオナニーレベル。
「見せびらかしたい」も入ってますか、、「一緒に感じたい」までいったときはちょっとましな詩に
なったかなって、、「一緒に逝けた」気になったら最高?(なんか下世話な喩えで すいません)
こうなると、生理的って答えに近いかもしれない。。。ああでも人のセックスってかなり文化的(w)ですよね、
概念的ってのかな、様々な文化的共通認識(あるいはその欠如が)が絡み合って成立してるから。
そういう部分が言葉に換算されるって感じ? まあエロばっかじゃないです、、
705 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/23(水) 09:52:13 ID:minJmK9A
>703
ありがとうございます。
伝える意思(伝えるためのたくらみ、思考、伝えるために利用する知識、なんかも含まれるかな)と、伝えるために備わってる生理(ヒト、サル、犬などが仲間に「元気出せよ」って思ってるときは、顔が微笑みの形をとる、などのことも同種のことではないかと思います)
言表とか言語使用ってことにおいて、その二つが一致するのが「本音」じゃないかな、と、思います。
人間は確かに人間特有な知性も持ってて、それが使いこなせないのは威張れないと思うのですが、
知的な詩人でも、犬より執拗に吠えることは稀じゃないですか。ライオンの鳴き声より巨大な殺意を詩にこめたひとはいないかもしれない。
鶯より切なく性愛を希求した詩人もいたかどうか怪しいです。
本音がなんだかわかんなくなっちゃってる詩が、高く評価されてる場面を目撃すると、なんか違うんだけどなあって、僕は思います。
「元気出せよ」って鳴くことでは、高階杞一のポエムがすごいです。もしかしたらゴリラや日本ザルを超えてるかも。
藤井貞和も、元気出すことを理屈っぽくないポエムで伝える活動をしています。
706 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/23(水) 09:56:02 ID:minJmK9A
704
サンクス。声質はこの問題の技術論のポイントかと。とくにギャル系ポエムをどう評価するかにおいて。
あとでレスしますね。
≫704
〉声について・美醜について。
生来のそのひとのボイスと、「鳴き方」とがありますよね。
名工は少し鈍い刀を使う、そのほうがダイナミックな彫刻ができるって、古典にもあったと思うし、ゲ−ズブルみたいな屑っぽいオヤジの音痴な鼻唄や、浅井マキの鼻詰まりのなげやりな歌でも、案外セクシーだったりします。
僕もすべすべピカピカな鳴き声を聴かせるつもりはないっす。
(^0^)/
でも僕には僕のボイスがあって、それで歌わないと歌う意味がないような気がしてます。
まあ、精進ですな。
708 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/24(木) 19:05:42 ID:fl8OYfMx
*704さん。
〉アリの歌について
テ−マ自体が詩だよ(笑
詩人の問いだなあ(^^)
生物学的にはアリ語は先端課題。
僕には答えらんないです。
たんに匂い物質コミュニケーションのみだとは言いきれないっぽいですね。
文学的にはかのルソ−が、アリの言語は視覚言語だ、と述べています。
ルソ−はアリに触れたその論述(言語起源論)のなかで、古代のある有名な娼婦の言葉に言及しています。
フリュネという遊女が起源前四世紀にいて、あるとき起訴され、雄弁家ヒュぺレイデスが弁護したのですが、一言もしゃべらなかったそうです。
フリュネは法廷でただ裸になった。
彼女の身体のあまりの美しさに、無罪になったとか。
エロをポエムするなら(僕もするけど)、フリュネがライバルですね(^^)
709 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/24(木) 19:12:49 ID:fl8OYfMx
間違えました。
浅川マキっす。
710 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/24(木) 19:58:12 ID:fl8OYfMx
つけたし。
淫女を弁護した例としては、イエスの
「汝らのうち、罪なきものまず、この女を石うて。」
が著名だとおもいます。
これも本当に含蓄のある言葉だけど、でも、一言もしゃべらなかったこの雄弁家と、同じく一言もしゃべらずにただ服を脱いだフリュネのほうが、ポエムとしてはイカシテルと思います。
身体言語が、法廷という論理の場で、論理的言語を圧倒する場面ですね。
フリュネの身体言語が、残酷な死刑すら用意して重く沈黙するギリシャの公的領域に、響きわたる様が目に浮かびます。
それと拮抗しうるボイスが、僕らのポエムのひとつの地点なんじゃないか、みたいに思ったりしています。
>それと拮抗しうるボイスが、>僕らのポエムのひとつの地点なんじゃないか、みたいに思ったりしています。
これは美しいです。 こんなに美しいポエムが詠えるなら、一言も喋れなくなってもいいかもしれない。
ボルカさんも参加してらした選者指定コンペスレで、前回の選者さんが、野村さんの本を引用しつつ、
詩論を提示してらしたんですが、そのときに、
>通常の言語活動をいったん失語症の近くの混沌にまで戻して、あらためて
そこで選択と結合の作業を更新することである。
という定義をひいてこられました。スレッドでもチラッと書いたんですが、この定義は
現代詩におけるシュールレアリズム的手法「混沌からの再構築」を主なターゲットにしていると
思うんですよ。 で、そのとき思ったのは、「これは一つの定型でしかないのかもしれない」ということで、
例えば5、7の音調を整えるとか、韻を踏むとか、比喩(比較的連動された)によってイメージを形作る とか
過去から連綿とある手法と等価なんじゃないかと。
そうであるとしたら、一見難解に見える現代詩はある意味 一つの定型に過剰に寄りかかった頭でっかちなモデルでしかない、
というようなことだったんですよ。そう思いはじめて少し文献をあさってみると、
シュールレアリズム的手法が行き詰まっているっていう論は40年前から既に起きていて、
当時の詩論とか読むとそれについてちらと触れていたりしたのがありました。
(ちょっと今手元にないんで後日抜き出しますね)
さらに、吉本さんの「詩とは何か」の中でも、p67
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>現代詩は難解だというが、せいぜい、この程度が、もっとも難解だといわれている部類に
ぞくしているだけである。しかもその思想は、きわめて単純で、レトリックを
はがしたら、なあんだといったようなものである、。しかしこの詩などは典型的だが、
現代詩の世界はレトリックの面白さと思想があいおぎなって詩の世界をつくっていて、
一方の足をとりはずしたら、詩の表現世界は崩れてしまうという場合が多い。
これはおそらく、現代詩の世界が、つよい秩序意識を、いいかえれば定型をもっている
ためではないかと思う、理想としては、この反対の世界を考えたほうがいいのだが
現在秩序破壊的に詩を書く詩人は、しだいに欠乏の傾向にあるということができる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (この文で例に挙げられていた詩は、「商人」)
という話があります。 ただこの論での、「つよい秩序意識」が厳密に何を示しているのかは書いてなくて、
私もよく分からない点ではあって、ここは大事なテーマかなと思っています。
長くなってしまったのだけれど、ボルカさんの言われる「ポエム派」に話をもどすと、
「難解派」(とりあえず)と「ポエム派」は単純に定型の違いである可能性があって、
その定型を定型として扱った上では等価のまな板にあがるってことにも通じてるんじゃないかと感じました。
もしそうなら、ポエム派のポエムの直感把握と同時に、そうでないポエムの定型化作業もしたほうがいいかななんて。。
713 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/09/25(金) 23:09:09 ID:7g8PMyHk
そうです!
難解か難解でないかによって、野村が解説し吉本があばく「ある定型」と、「そうではない詩」をグルーピングする詩論は、挫折の運命にあると思います。
なぜそれが挫折する運命かというと、まさにご指摘のとおり、「そうではない詩型」も、定型のひとつに過ぎないからです。
シュルについて、さらに報告いただけるのを楽しみにしてますが、
シュルが熱かったのは、それによって集合的無意識とか、宇宙存在とか、へたすると神とかに繋がれる、と信じることができた人にとってだけなのかもしれません。
僕はそういうふうには熱くない、北園みたいな詩人が好きです。
彼はポエム派だと思います。
ボルカさん
手元で参照している文献は、「詩と詩論」冬至書房新社 昭和55年発行です。
(吟遊別冊79年6月刊の「モダニズム50年史」を改題して発行されました。)
内容は、昭和3年発行の季刊誌「詩と詩論」で何が成され、その結果何が日本の詩に起きたか?
を「詩と詩論」を支えた数人の詩人に論じていただいているものでした。
非常に良い本ですので、もし可能だったらぜひ直に読んでいただけるとよいかと。
とはいえ、なにげに古い本なのでつまみ食いのように抜粋してみます、もし邪魔ってことでしたらスルーでよろしく。。。
冒頭に春山行夫の「ポエジー論の出発」という文章があります、非常に簡潔に「詩と詩論」当時の
意志が伝わってきます。実際にこの文章が書かれたのは昭和53年。春山は昭和3年当時、「詩と詩論」
のメインとなって主知運動を展開していた詩人でした。50年を振り返ったという形でしょうか。
彼らが何を理想としていたかが非常によくわかります。
ーーーー引用 春山行夫 「ポエジー論の出発」よりーーーー
「詩と詩論」は日本の近代詩に二つの主要な足跡を残した。
その第一は若々しいモダニズムで、第二は詩の理論的な解明であった。
「詩と詩論」があらわれるまで、「詩」と「詩論」とは別物とみられていて
「理論で詩は書けない」という先入観念は絶対的な真実だと思われてた。
事実、他人の詩についてつべこべ口を出したり難癖をつけたりするやからに、
「おまえさんは、おまえさんの理論どうりの詩を書いてみたまえ」というと、
彼らはグウの音も出せなかった。ところが、まったく新しい詩の理論を
かかげ、その理論どおり詩を書く詩人たちがあらわれたのだから、同時代の詩人たちは
びっくり仰天した。これが「詩と詩論」が日本の詩の認識に与えた根本的な革命で、
それから日本の詩のモダニズムの歴史がはじまったとみてよい。
詩を書くには詩の理論を知らねばならない。それは当然の原則で、それの第一歩は詩を書くことは。
ぽえーむ(いわゆる詩)とポエジー(詩的思考)という二つの次元から成り立っていることを認識することにある。
「詩と詩論」が日本ではじめて明確にしたのはポエジー論への主知で、この時代の詩人ほど
自分の書く詩を主知しょうとして、各人がそれぞれのポエジーを追及した時代はかつてなかった。
ーーーーー引用終わりー
この時代に詩と詩論を舞台に活躍した詩人として彼が頭においているのは、西脇順三郎、吉田一穂、
上田、滝口、堀辰雄、竹中郁、安西冬衛、北川冬彦、北園克衛、春山行夫、左川ちか、等々です。
現代から見れば、およそあらゆる流派が含まれているような気がするわけですが、、春山はあえて
ひとつの観点(主知的に詩を創造する)でくくっています。 単一の観念やムードの集団ではなく、
それぞれのオリジナルな思考で対象を分解し再構成する詩人たちだという定義でした。
途中に主知の端的な説明としてベルクソンの「なんらかの法則によって分解し、ついでなんらかの体系
によって再構成する能力として特徴づけられる」がひいてあります。
↑のレスににくわえて テクニックの扱いという点で分かりやすく説明してあった連をさらに引用すると、、
ーーーーー再び引用ーー
おそらく大部分の詩人たちは、テクニックで詩は書けないと、固く信じ、テクニックにつよい抵抗感を
いだいているとみてよい。しかしこれは全く見当違いの認識で、ごく特殊な場合を除いて、
今日のあらゆる詩は、なんらかのテクニックによって書かれている。問題を自分が詩を書くという
「行動」にあてはめて考えてみるとよい。今日の詩人たちがおそらく芸術とは考えていないような
流行歌の作詞家でも、いくつかの条件に適応するための受身のテクニックを使用しているし、
他人の作詞とはちがった効果を出すために、「意識的」にテクニックを考えている流行歌作詞家もいるはずである。
テクニックを拒絶する精神は、自分が詩を書く場合のテクニックを自覚せず、
他人の(次元が違う、あるいは異質の)詩のテクニックに拒絶反応を示すという本能によって
構成されているだけのことで、それを意識するかしないかで、その詩人は主知的であるか
主知的でないかに分類される。
大部分の詩人が、自分が詩を書く場合にテクニックを感じないのは、
彼らのテクニックが類型化して、たんに模倣するだけの操作に
なっているためという原因にもよっている。
ーーーーーーーーー引用終わりー
つまり、彼が言っているのは、詩と詩論の詩人達は、テクニックでもって詩を書き、
そこで一番重要であったのは、そのテクニックそのものを主知的にかつ独創性をもって
創造していた、ということです。 (この論が本当かどうかは個別にあたってみないと
いけないかもですね)
ただし、この後、最後の段落で、リードの「芸術作品のテクニックやその他の要素を分析的にみて
よろこぶ読者は、せいぜい世界で数百人だ」という言葉をひいていて、
「詩という芸術で先鋭的な作品を作ったとしても、一般には受けない」だろうと暗にほのめかして終わってるんですよ。
つまり、難解な現代詩であり続けるというスキームをこの時点で用意しちゃっていた。
自分は、日本の現代詩は現在にいたるまで実のところ春山のこのスキームの上にのっかっちゃってたんじゃないかと思います。
で、シュールレアリズムの話です。
春山の論に乗っかれば、テクニックとしてのシュールレアリズムいえるかもしれません。
同じ本に 阪本越郎の 「シュールレアリスムと文章改革」という論考がありまして、
その中にジャック・バシェの「戦時の手紙」の引用として
ーーーーーーーーー
「そうだ、ぼくはこれを溢れさす二つの方法を知っている。稀有の言葉の燃え上がるような
衝突の助けによって個性的な感動を構成することだーまたは瞬間ーそれは自然であるー
における感情の明確な三角や正方形を巧みに描くことだーぼくらは論理的正直を見捨てる。
ー矛盾することを条件としてー世間が凡てそうであるように。」
ーーーーーーーーーーーー
これでいいんじゃないかなと思います。 言ってることは、上のほうでいってた野村さんの「混沌から・・・」と
近似だろうなあ、、
現在では 矛盾あるいは混沌としたイメージの混入という手法はすでに手法として一般に知られていて、
読者も十分に練れていると思います。無意識に利用されうるテクニックのひとつになってるんじゃないでしょうか?
さらに、行き詰ってたっていう話がどこにあったかっていうと、、、
同じ本の百田宗治「季刊の詩人たちは何をしたか」という論考の中でした。
主知の詩人たちは詩と詩論から各論の派閥へと分かれていった後の風景をみながら
ーーーーーーーー引用ー
ただ総括して言えることは、所謂新精神による詩人たちが殆んど一通りのスタイルを
示し尽くした今日、更にそれを破って出ることの困難さがそれらの新しい詩人たちの前に
共通に置かれていることである。季刊の詩人達およびそれと時代をひとつにして
活躍した(現にそれをつづけている)詩人たちは、ほぼかれらの新建築を構成しつくしてしまった。
それ以後の詩人達はどこへいっても天井また天井である。そして彼らの大部分は
殆んど共通に自分達の前に構築されたそれらの建物の精神と技術を習得してしまった。
彼らの強みはただちにその時代の構築の上に自分自身を打建てればよいことであって、その前々代の
魅力はかれらから最早失われている、。それほどにかれらの詩の伝統は新しい。が、それが新しいだけに
かれらのユニークなものは(もしそれがあるとするならば)ただちに露骨な独創を要求されている。(昭和23年)
上で引用は終わりです。
この後あたりから荒地派がくるわけですが、思うに荒地ってなあ、
「テクニックより中身だよ」っていう話だったんじゃないかなってちょっと思いました。
もちろんテクニックもありなんですが、、、、
たまに、戦中派の書いたもの読んでて思うんですが、戦争っていう大ダメージの後で
「英知の扉」が少し開いたんじゃないかなって、、日本なんか大して人口がいたわけじゃあないのに
めちゃ大勢の兵隊さんが大陸に渡ったんですよね、帰ってこれたときに、行く前と一緒の人間がそのまま
帰ってこれたとは思えないんですよ。戦争がなかったらもしかして県外に出ることもなかった人が多かったんじゃないかと
思うんですよ。例えば吉岡実の瓜のような頭をした中国人が馬を走らせている詩なんか思い出すんですが、
あれは彼が大陸に渡らなかったら産まれなかった。言いたい事が溢れてた時代の必然の吐露が荒地だったような
気がします。
まあそんなことをつらつら考えつつ、詩と詩論から80年以上月日がたって、
普通の歌謡曲でも破天荒な歌詞が氾濫する時代がきてて、自分はぬくぬく育ったバブルの骸だったりするんですよ。
一体何を言えるかよーー てな気がしてめげてます。
(トリップ変えました)ううむ、なるほど。
良い文献をお持ちですね。
じつに興味ぶかいです。
てかすごい勉強家さんですね。どうもありがとうございます。
あなたが概略を書いてくれた、あなたの詩史観は、「現代詩手帖の詩」を劇的に解説しているかも、と思います。
彼等は荒地派や戦後反戦詩よりは昭和三年の方法的な詩に近い、と考えると、直感的に納得できるし、僕の違和感もところを得るように思います。
参考になりまくりです。
722 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/09/30(水) 12:49:13 ID:kveW/abr
日本における詩論の発生(同時に詩論を必須とする詩・方法上のオリジナルを重視する詩作態度の発生)を、社会、経済の発展や全体主義批判・個人の確立というラインで説明することは、疑って良い、と、思いました。
そのラインにはむしろ、ひとつには荒地を。もう一個、僕のいうポエム派をソテイできるんじゃないかな。
主知的な詩の登場については、もっと文化、文芸上の自然で、あるいみ無自覚な成長だったと思えてきました。
>>722 >主知的な詩の登場については、もっと文化、文芸上の自然で、あるいみ無自覚な成長だったと思えてきました。
同意です。第一次大戦を契機としたヨーロッパでの文芸活動の影響であったと思います。
本家たるダダなりシュールレアリズム運動なりがあって、その原文にあたることができた詩人たちが自然にそのラインに沿って
発展させたかもしれません。 まったくの自然発生というよりも、雛形があって、共感を起こしたという感じですか。
開国からずっと、日本は海外文化の刺激で爆発しまくってたわけですから、その延長にあったんじゃないでしょうか?
ボルカさんのポエム派については、まだ輪郭も直感も共有してないので、コメントできないんですよ。
724 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/01(木) 08:05:08 ID:O47B0e86
提供しようとしているポエム派なる詩論について、説明や検討がまだ皆無ですね。定義も先のばしたまま、失礼しています。
まだ手探りなんですよ。
この板の「ポプリ香るような感覚で詩を紡ごう」スレなどを材料に、あとで少し検討したいと思っています。
ですがまずは、今日にまで至る様式への問題意識や新しさという幻想(マニエリスム的観点とでもいうようなもの)を、「西方浄土からの風にさそわれた、花花の微笑ましい成長。」として括弧に入れてしまいましょう。
それはひとつの楽しい花園であり、詩作の興とは、実際には意匠を競い合ったり、様々な意匠を味読することであったりすると思います。
ポエム派についても、それぞれの作品がどんな意匠なのかを考察していくことが、実際に可能なことではあるのですが、本質は形じゃないってことがあると思います。
725 :
名前はいらない:2009/10/02(金) 07:30:52 ID:AJrL/xrg
>>704さん
とても面白かった。でも一回PCから見てみようと思います。
>>705さん
ありがとう。一度読んでみます。
>>720 体験の話ではないんですが
活字自体に餓えていたっていうのが、その時代に生きる人々に
共通の認識としてあるみたいですね。
読むこと―書くこと。
文献を漁っても、ちらちら同じことを色々な人が語っています。
まあ何にしろ餓えていたわけですけど。
ああ、それと体験、もっといえば物語の中にひとが生きている限りは
なかなかその全体を総括して「語ること」ができない
という事実でしょうか。
728 :
704:2009/10/03(土) 13:55:07 ID:6nSiXZ0p
>>726 終戦の年の平均寿命は
男‥‥23.9歳
女‥‥37.5歳
だったそうです。(これはすぐに回復して2年後には両者ともに50台になります)
事故とか不慮の病で突然死ぬのではなく、当然のように死ぬ時代てなあ想像できないんですが
恐ろしいことだと思います。
餓え はきっとキーですね。
”語れる場がない”のみならず、語ることもできない、というのもきっとそうです。
>終戦の年の平均寿命は
>男‥‥23.9歳
>女‥‥37.5歳
>だったそうです。
これ凄いですね。
現在、日本が世界第一位の長寿国であるというのは
一種のアイロニーじゃないですか?
語ることができないから
予言的というか
真理めいたものを矢で射抜くような詩の表現が
力を持ちえたということでしょうか
体験や物語が歴史、事実として総括して語ることができる、
懐述されるようになった途端 、
田村隆一なんかは隠居の方へそっと降りていってしまった。
でも逆に田村隆一に「語らせる」と、凄く良くて。
それは詩が書けなくなった、脇が甘くなった
という批判とは別に評価され、もっと考えられるべきだと思う。
「語れない」ところに詩があって
「語れる」ところへ詩がない(?)というのなら。
730 :
バランス ◆vvBR1SP23M :2009/10/06(火) 22:45:01 ID:1+/Q84Fq
偏りはq(-_-)ブー
731 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/07(水) 08:21:33 ID:N1/cidl5
無茶だなあ、と思います。
最後の二年には東京、広島、長崎などのミナゴロシが反映するから、非戦闘員では人口分布のピークがそのまま平均寿命だったり、
戦闘員では、若いひとほど特攻や突撃させられたり、一部は官憲にも殺されたりしたんでしょうね。
それは言葉に反映せざるをえなかっただろうな。
732 :
704:2009/10/07(水) 09:45:33 ID:eZv4b2f0
>「語れない」ところに詩があって
>「語れる」ところへ詩がない(?)というのなら。
いやいや、(?)で書いておられるように、詩がないってことはなかろうと思うですよ。
(つか、そうは思いたくないですしーー。)
一片の雲にも道端の石にも詩はあるわけですし、、、
>それは言葉に反映せざるをえなかっただろうな。
この想いが強かった時代の詩であったということで、それと同じものを今の人は書かないし
逆に今だからこそ存在する詩もあるだろうとも思います。
じゃあそれは何か?って聞かれると困るんですが、、、ここはひとつボルカさんに、、、
まあ田村隆一が垂直的人間から、水平的人間へと変節すると
色々書かれたり、言われていたりしているんですよ。
>>729は書き方が悪かったですね。すいません。
>逆に今だからこそ存在する詩もあるだろうとも思います。
これは少し考えたことがあるんですが
現代詩とは別の、もっと広く流通しているメディアの方が
詩をやってしまっているというのがあって・・・。
まあそれは表現の強度の話でもあるんですが。
だから何だ?
とりあえずは書き込んでおこうと思います。
734 :
704:2009/10/09(金) 11:05:16 ID:bslB2vWT
>現代詩とは別の、もっと広く流通しているメディアの方が
あ、これは大きくうなづいてしまいますよ、
このあたりをきちんと感じて雑誌を作ってるのがユリイカなんだろうななんて
思ったり、、いやいや分かっててあえて文字にこだわってるのが詩手帳かも、、
(いやここは雑誌スレとちゃうし、、、)
とはいえ、文字列およびそれに類するものでって話で限定しますか。。
735 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/09(金) 12:40:03 ID:YeQiBt2m
詩は、文字である必要はないと僕は思いますよ。
ミュッシャやビアズレ−の様式美みたいな絵は、実際、文字とあんまり変わらないように思う時もあるし、ラスコ−の壁画とかも詩なのかもしれない、と思ったりします。
736 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/09(金) 12:46:43 ID:YeQiBt2m
ひとつ具体的なのは、顔文字やアスキーア−トですよね。
あれは文字だと僕は思うんですが、どうだかわからない。
言葉じゃないのかも知れないし。
でもすでに、短歌でも顔文字はかなり使いこなされてますね。
ネットでポエムや詩のサイトに目を通すと
若いひとが何かを書きはじめる動機として
まずあるバンドやミュージシャンを好きになり
その歌詞に魅了されて
それから「作詞家になりたい」
「詞=詩をかいて自己表現したい」
という風な流れは凄く見受けられる。
若いひとが詩、ないしに言葉に目覚めるのは
現代詩集だけではなく
J−POPや洋楽の歌詞カードが入りになっていることは
多々あると考えていて。
2ちゃんねるにしても
詩・ポエム版なのにこのミュージシャンスレッドの多さ!
でもその歌詞の何に魅了されているかといえば
それは詩の、ポエジィのところだと思ってます。
738 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/09(金) 19:58:32 ID:YeQiBt2m
この板にミュージシャンスレを立てることと、「詩文学板」の設立には、僕は個人的には反対でした。
今でも、本当に歌詞について語り合う場が邦楽板の外に必要なのか疑問だし、創作アリの場と歌詞を排して有名詩人の作品について語り合う場の分離が必要なのか、個人的には疑問です。
自治スレッドできちんと提案するひとがいれば、いつでも応援のかまえなんですよ。
でも、議論や多数決の結果として、詩作行為はミュージシャンのファンとの相性のほうが、文学史に名前が残ってる詩人について語り合うひととの相性より良い、という仕切りになってますね。
こうなったのにも、やはりそれなりの時代背景というか、理由はあるのかもですね。
739 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/09(金) 20:03:59 ID:YeQiBt2m
自分語りになりますが、僕は詩を書いていて、本当に嬉しいな、と思ったのは、友人のロックンローラが、僕の詩を歌詞に使ってくれた時でした。
若かったから、むしろムカついた顔しか見せなかったけど、ホントは嬉しかったな。
音楽は複合的なメディアですから
音楽それ自体からジャケットデザイン、ミュージシャンの裏話、歌詞まで
あらゆることが「語る」対象になり
その中から「歌詞」のみを
チューニングをしやすいようにしたんでしょう。きっと。
もっと歌詞について語りたいのに、すぐどうしようもないミュージシャンの
サドマドの話に流れてしまう(笑)。
なら詩・ポエム版、ここでいいじゃん、と。
で、その選択が間違っているかって言われたら
ぼくは微妙で
それは歌詞が独立した表現として立脚しうる可能性を
歌詞カードを読んで考えてしまったことがあった。
それは「これは詩じゃないか」なんて高みから
低俗なものを持ち上げるような感慨ではないですよ。
あ、面白い。ただ凄い、と。
だれの歌詞を読んでそう感じたかはあえて書かないですが。
>創作アリの場と歌詞を排して有名詩人の作品について語り合う場の
分離が必要なのか
これも要はチューニングでラジオのように
この周波数に合わせればそういう場にアクセスできるっていう
利便性がありますね。
話を広げすぎてしまうので
誰か補正できるならしてほしいんですが、もっと拡げると
少女漫画に「NANA」っていうのがあって(知ってるか・・・)
ポードレールに狂った知り合いが読んでいたんですよ。
もの凄く合っていない。
聞くと、「これはサナトリウム文学を今の漫画でやってんだ」
って言うんですよ。
ロックとかパンクとか、バンドとか愛とか全部サナトリウムの暗喩なんだと。
「NANA」の作者がサナトリウム文学に深いか謎ですが
恋愛がサナトリウムの暗喩なら
携帯小説なんて半分はそうなってしまう。
むちゃくちゃですが
きっと今、「無くはない」に落ちついてるのかな、と思ったりします。
音楽の話をするなら、リズムやテンポっていう本来音楽の範疇にあったものも他の分野にずいぶん援用されてるよね。
小説でも漫画でもそして詩でも日常的に使うし、もっと言えば批評の場でこの点が論じられちゃったりする。
(といっても音楽史に詳しい訳じゃないんであしからず)
って仮説から敷衍すれば、ポエジーってものも古来は詩の構成要素にして詩とイコールだったんだけど、
文明のうちに媒体が色々増えて行く過程の中でなんらかの有効性を認められて
他のメディアなり媒体に援用された、そういう見方はどうかなと。
(詩史にも詳しくないんであしからず)
音楽は結局のところ音以外の何者でもないように(ピアノに座って無音?とかも含めつまり音に関わるもの)、
詩も文字(あるいは文字に関わるもの)以外のものではないとおれは思う。
その構成要素が他のメディアに援用されようとも。
歌詞から入る人やボルカさんやボードレール狂の言ってることってのは
詩の構成要素を他の分野に嗅ぎ取ってそう思うって感じじゃないのかな。
詩を数多く読んでればそれだけ微小なポエジーまで嗅ぎ取れるようになるかもしれない。
詩と音楽なんてどちらも気が遠くなるほど古いんだからお互い手法に影響を受けない方が変だし。
きっと歌詞にポエジーを感じても音楽ほど音と関係を持たない文字だけの世界に惹かれない人は
歌詞から入ってもそっからミュージシャン目指したりするんだろうし、
作詞家目指してる人間の何割が田村隆一まじめに読んでるだろう。って思うよ。
743 :
同じ子:2009/10/10(土) 08:34:25 ID:ye3lsYWe
ついでに言うとさ、NANAとボードレールってのは言葉は悪く聞こえるかもしれないけどこじつけだよね。
もしかしたらNANAの作者がボードレールに私淑してたかも分からないけど、
それを言い出したらさ、
もしかしたらNANAの作者が好きだった作家がボードレールに私淑してたかもしれない、
もしかしたらNANAの作者が好きだった作家が好きだった作家が私淑してたかも、
もしかしたらNANAが好きだった作家が好きだった作家が(…×X)がボードレール本人です。
ってことになるかもしれない。そうなったら要するに普通に生きてきた背景でしょ作家の。
別の例えに変換しちゃえば、NANAの作者の顔がボードレールにそっくりだ、
彼女の血筋を洗えばボードレールの血筋と何らかの関係があるかもしれない。
ほら1万年前の親族だった、では何を言ってる事にもならないよね。
つまり何を言ってる事にもならないけど、見る人によっては近いものがある
これはつまり悪く言えばこじつけってことじゃないかな。
別にこじつけやら近いものを感じるってことが良い悪いって話ではなくて。
744 :
同じ子:2009/10/10(土) 08:46:09 ID:ye3lsYWe
あれは詩に通ずるものがあるんじゃないかだからあれはもはや詩じゃないか、って直感からそれを客観的な批評なり理論なりに結実させようとするには
個人の感覚やら観察眼ってのは自由度が高すぎるんじゃないかなってことで一応まとめとく。
もしその直感が悟性だったぜと証明するためにはカチッとした歴史年表が絶対に必要だと思うよ。
という事でニートだから今から寝る。
745 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/10(土) 17:48:08 ID:MIRVfRvh
サナトリウムかあ。なんか懐かしいです。
僕も「サナトリウム」をキ−ワ−ドにして詩を考えていたことがあります。というよりサナトリウムという名前の詩の同人誌を知っています。
でもやっぱりコトダマみたいのがあって、あんまり重い比喩を使ってると、呪われるんですよ。
何が起こるってわけじゃないけど、「ここはサナトリウムだ。」という意識をもって詩作してると、知らないうちに何者かに足首を掴まれてるのに、ある日ふと気づいて総毛立つ、というような感覚が僕にはありました。
続けたら長生きできないな、って直感。
リアリティの在り方かなあ。
宿命として、今、自分がサナトリウムにいると感じるひとは、サナトリウム文学をやるといいと思うんだな。
自分がどこにいるのか、ってのはそれぞれの詩人・詩作者にとってすごく大事だと思うのですが、ほんとにひとそれぞれですよね。
僕は自分がいる場所は、やっぱりサナトリウムじゃなくて、かなり似てるけどもっとべつのところだって感じがありますね。
ところで、NANAは読んでないです。
今、僕がハマってる少女マンガは、なんつっても荒川アンダーザブリッジ。
まだ読んでない第一優先懸案は「ガラスの仮面」かな。
でも、マンガもボ−ドレ−ルも僕は好きだから、いずれ読んでみます。
>>740 現代詩フォーラムや文学極道にしろ
周波数を番組枠へ提供してるようなもので
でもそこにはJWAVEや東京FMのような企業方針の違いがある。
何が言いたいかというと「文化上でもラジオ」って感覚は
もともと詩の読み合いやフォークの集会
そういった70年代の若者文化を根底に持っています。
ジャズ喫茶や路上でやっていたコミュニティ感覚を
ラジオで再現したらどうなるか。
今一般的に定着しているユースなDJ感覚の根底には
それがあるんですね。
それを、ネットの詩のサイトは再び今度はラジオからネットへ
再応用していますね。
それは詩を投稿している詩人が無意識でやってしまっているというのも
あるし(現代詩フォーラム)
あ、再応用というのは違いましたね。
結果的にそうなっている。
「文化上でもラジオ」→「文化上でのラジオ」
748 :
704:2009/10/11(日) 05:32:00 ID:pMkNi9Vh
自分は詩板にミュージシャンスレがあるのはいいことだと思ってました。
(今でもですが)詩って自由なもんじゃないですか、詩板はだから物凄くカオスな状態であるほうが
詩的でありやすいじゃないかと。。。好きも嫌いもひっくるめてね。
(だからむしろ詩文学板ができたのにびっくりしたぐらいなもんで。)
>735-736
ええだから、詩はどこにでもあるし、生きることそのものは詩であるっていってもいいと思います。
とはいえ、詩文学として詩を語ろうって時はあるていど限定したほうが話しがしやすいっていう意味合いです、、、
顔文字はもちろん詩の素材として考えていいと、、、(アスキーアートも含む)
詩的であることと、現物としての詩であることはちょっと違うと思うんですよ。
詩的であるってのは、感覚あるいはセンス、インスピレーションを感じやすいという状態で、自分の中では古式ゆかしく
”真善美”あるいは逆説として”偽悪醜”のいずれかを強烈に感じるところに通じてるんじゃないかと曖昧に考えているんですが。。
で、現物としての詩はそのパッションを文字列(+α)の形から熾させる装置だろうと。
で、歌詞は音楽がなくってすら、すごいのが多いので一緒くたに語ってってもいいんじゃないですか?
>744
それはそう。
だけど”最初に直感ありき”ではあるので、とりあえず直感を集めてみましょうってことなんじゃないですか?
論理はあとからでもくっつける(w)ことができるんじゃないかと、、
NANAは最初の5巻あたりまではリアルタイム(連載時)に追っかけてたんですよ。
絵が綺麗だったので。ただそのころの主人公(唄ってないほうのNANA)のあまりにも
”脳内お花畑さ”についていけなくなってしまって、読むのを諦めました。。。
吐きそうになる恋愛至上主義っていうのか、、、作者の倫理っていったいなに? ってなことを
考えはじめてしまったんで、、、無自覚なボードレールあたり?(自覚的に書いてるとは思えないなあ、、
あ、むしろ無自覚であることがジョーカーっぽい気がした。恋愛至上主義の根底にある無知であることの利得)
ところで荒川アンダーザブリッジは少女漫画じゃないんじゃなですか? 掲載誌が男性誌だったような。
自分も好きです。
749 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/11(日) 14:25:16 ID:V1POh5kk
テキストととしの歌詞っていうと、中島みゆきと、サザンの桑田が印象的です。
この二人は、カードを読まないと意味がとれないような歌詞をつくりましたから。
みゆきは異様な当て字により、桑田は英語と古語を混入、重ね書きする詩をつくることにより、結果的に歌詞カードを格上げしました。
他にも例はあるでしょうが、「カードを読まないと曲が理解できない」、という点で、この二人は別格の過激派かもしれません。
ただし、この二人の歌詞は曲なしには理解できません。
曲で書けることは言葉にしてないから、曲を聞いたことのないひとが歌詞カードだけを読んで、感動するってことはないのでは?
したがって、すくなくともこの二人については、歌詞カードは(従来の意味での)文学ではない、と言えるんじゃないかな。
最近どこかには、歌詞カードが文学であるような歌手もいるのかもしれないけど
750 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/11(日) 17:08:40 ID:rVXpaXeE
>748
>詩的であることと、現物としての詩であることは
>ちょっと違うと思うんですよ。
そうですよね。問題はそのラインです。
どうでもいいような気もするし、それを意識しなくても詩はかけるんですが、
やっぱり「どこまでが詩」かってのが一つの山場と言うか、ハイライトで
しょうね。
ただ、それには多様な回答があるとしか言い様がない側面もあって、
このへん、流儀とか流派とか、へたすると「クセ」みたいなものか
もしれないですよ。
僕は自分の詩作行為としては、文字と可読性にこだわります。
文字しか使わないので、「?」の使用すら(最終的には使うにしろ)
一悩みしますし、ごく日常的な意味で、「意味の通じない」言語使用
は嫌います。だから言語生成と詩とかは、論じることはあっても
使うことは稀ですね。
武器としては信頼していない、と言う感じなんです。
そこは思想とか詩論じゃなくて、個人的なスタイルですね。
では逆に読者として自分が感覚として「詩」をってやつをどう
感じるか、と、言えば、もう少し広いです。
もう少しって言うのは、748が書いているのより、ごくわずかに広い
とこまで広いんじゃないかと。
751 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/11(日) 17:10:42 ID:rVXpaXeE
例えば「→」だけで書かれた詩とかもあるわけで、そういうのにも
ときどき出会います。
それを読んで僕が読者としてどう思うかと言えば、すごく面白かっ
たりするんですよ。
そこに僕が観ているものには、やはり言葉ではないもので「書かれた」
、詩的ソウルみたいのじゃないかな、と思います。
それは詩的なだけじゃなく、「書かれた」。
しかし、文字でではなかった、ということ。
つまり、文字ではないもので「書かれた」詩、とそれを感じてるっ
てことですね。
たぶん、詩そのものと、詩的なものっているのはあるんじゃないか
と僕も思います。
だから、根本はそんなに748の考え方と違わないと思うんですが、ライン的に
は、歌詞カードは文芸と認めず、歌われてる歌は詩なのじゃないかと
言うような感じなんですね。
・・・ほんのちょっと前まではそう考えてなかったんですよ。
半年か一年ほどまでは、むしろ文字で書かれているかどうかが
僕のラインでした。
引用可能かとか、言及可能かとかいうことでいえば、
そうなると思うんです。
752 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/11(日) 17:17:47 ID:rVXpaXeE
今は、形態や形状より本質と言う感じかなあ。
岡本太郎美術館が近所にあって、ここ数年通い続けたことが
僕には一番影響してるように思いますね。
彼の絵と言われている作品は、実は絵じゃなくて詩なんですよ。
それも戦後詩です。
そのうち誰かは、有名な批評家が気づくだろうと思っていますが、
僕は、そう思うことが深くて、今はそういう感じかなあ。
歌詞は僕が知らないだけで、ほんとうに文字表現だけで受け取れる
歌詞作品もあるのかもしれないですね。
とくにここ10年の歌詞は、僕はほとんど読んでいないし。
評価するのはGREENぐらいだな。
753 :
名前はいらない:2009/10/11(日) 17:24:08 ID:d6sKbdYA
嫌でもインすりゃおK
良くも悪くもスーパーフラットなんですよね。
徹底的な相対化とそれでも自虐系のどちらか。
755 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/12(月) 09:13:10 ID:yD0GtHaY
問題1
>ポプリ香るような感覚で‥ポエムつむぎたいよね‥
>>
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/poem/1214273252/l50 *そんでは、ここらでひとつ問題にチャレンジしましょう。
上記↑を、「ポエム派」としてどのように位置づけるか。
1の書くテクストと、アラシのコピペについて、それぞれのポエジーを
どう味読し、詩としてはどう評価するか。
<ここまでの経緯(まとめ風)>
>ポエム派を宣言
>詩の原理
>言語発生の原理・隠喩の原理
>現代詩的技巧の否定もまた、技巧であること
>戦後詩の時代的、技巧的特殊性
>荒地派はかえって技巧的でないこと
>技巧と歴史の二重発展
>本音、アンチマニエリスム
>歌詞
>詩の外延、詩の本質
>その他
いろいろサンクスです。
756 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/12(月) 09:20:03 ID:yD0GtHaY
大事な観点が抜けました。
>746
>ジャズ喫茶や路上でやっていたコミュニティ感覚を
>ラジオで再現したらどうなるか。
>今一般的に定着しているユースなDJ感覚の根底には
>それがあるんですね。
BBSですよね。
それは一つの可能性だと思う。
ダーザインやいとうさんは、DJをやってると思う。
僕もそのうち真似したいですよ。
757 :
名前はいらない:2009/10/12(月) 09:35:00 ID:8mQR3Xsc
シュミレーションばっかしてまるでシュミレーションゲームだな
758 :
704:2009/10/12(月) 16:15:13 ID:SP3E+lEX
ポプリのスレですか?
あの1さんは本当に偉いです。こっそり応援しています。
だけど、ボルカさん、ボルカさんのポエム派の例示ももらっていないのに、
ちょっと見当をつけかねます。
自分ならポエム派と名づけるのはダルウイーシュの「壁に描く」あたりにトップを置きたいです。
というか、谷川俊太郎もポエム派かもしれない。ああ、そうか、自分は平易で素直なものに惹かれてるのか、、、
(ダルウイーシュは平易とは言い切れないかもしれないけれど)
「平易で素直」という定規で測ると、ポプリの1さんは当たってますね。。
本音が溢れているということなら、須藤洋平さんの「みちのく鉄砲店」とか白井明大さんの「心を縫う」とか。
人間の醜性を視野におくか、人間の善性にスポットをあてるかの違いはありますが、、
それらと比べると、ポプリの1さんはインパクトというか香りが少ないのだけれど、
大本のところでは同じかもしれないです。
対するところの荒らし君ですね、もともとのコピペがあル意味秀逸なのですが、
やっぱコピペだと思うと、どうもいやな気分がします。やっぱ自分の声で語ってなんぼ、、
>>756 いとうさんやダーザインさんは、DJの側面もありつつ
その制作会社の経営者でもある。
詩のサイトをラジオに例えるならば
いとうさんやダーザインさんの「放送ネット」を利用して
そこで「番組」をオン・ウェーブしているのは
主に「投稿者」なんですよ。
ぼくは実は血管上げてまで自分の詩論を展開する意義は
実際、経営上の方針もあるから
お2人の詩論なんて全然目にしていない口です。
サイトを持っちゃった時点で宣伝があるわけだから。
2ちゃんねるでの詩論に意義があるとすればそこですね。
だって海賊放送じゃないですか。
だからサイト管理者への不満とか
サイト上での投稿者の「場の立ち振る舞い」にも
その意識が抜けているような気がするんですよね。
例えば現代詩フォーラム
(これはネーミング自体がアイロニーになってますが)
あのポイントシステムに不満があるという投稿者が
なぜ文極にいかないのか。
あそこまでストイックになりきれないとか(笑)
まだ基礎が足りない自覚があるなら(それで不満をいうのもおかしいが)
アカデミックなpoenipueがあります。
文極のカウンターにしろpoenipueの打ち出し方にしろ
バラエティは豊富なのに
「自分がどこにいるのか、どういう経営方針のとこで
どんな放送を乗せたいのか」
その意識が足らないと思う。
761 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/12(月) 20:33:49 ID:ewbQqsky
>758
ポプリスレのアラシさんについてだけど、不正確な言い方をしてすみません。
コピペだという論拠ありませんでした。
モトネタは一人の人間の発想とは考えにくいんですが、
それを変換したのは一人かも。
サムソンだったかな。
ホモ雑誌もいろいろなんですが、「ガタイ良すぎでちょっと太め」系の過激なホモ雑誌があります。
そこの連載マンガに「お祭り・フンドシ方面」のちょっと
見覚えがあるのがあったり、かなり似た骨子の読者投稿が
あったりして、まあはっきり言えないけど、もしやもしや
と思ったりしてて、お話としてのオリジナリティは疑って
ます。
だけど文体みてると、どうもどっかでは一人の人間を通じ
て文字化または再・文字化されたものなんじゃないかって
気がするし、その文字化の現場がここじゃなくても、どっかにそのひとはいるんじ
ゃないかな、と、思ってます。
投稿者はアラシさんと考えていいと思うけどね。
テクストの作者は、一人なんじゃないかと。
762 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/12(月) 20:40:25 ID:ewbQqsky
で、僕の独特の考えなんですが、僕はポプリスレのは、1さんはもちろんだけど、アラシさんもポエムなんじゃないかと思います。
両方ポエムだと、する。そうしたらあの二人に共通することは何だろう。
そんなふうに考えて、それは本質においては「ロマンチック」ってことで、技術においては、耽美的ってことかな、と。
763 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/12(月) 20:51:36 ID:ewbQqsky
今まさに考えてることなんで、行ったり来たりなんですが、ひとつポエム派のありかたとしてあげられそうなのは
「断固、ロマンチック」
ってことなんじゃないかな。
764 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 06:24:40 ID:Bd1RYVjf
>760
>「自分がどこにいるのか、どういう経営方針のとこで
> どんな放送を乗せたいのか」
> その意識が足らないと思う。
ここでおっしゃる「経営方針」と「意識」のなかには、様々なもの
が含まれますよね。
純粋な見せ方(フォーラムの縦文字表記など)や、システム(ポイント
システム、ルールなど)もあれば、芸術上の理念や思想などもあると
思います。
文学極道の場合は、ある種の作品を「最低劣ポエム」として排斥する
と言ってるわけだから、もちろん「良い作品とはどういう作品なのか」、
というようなことが出てきますよね。
765 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 06:32:36 ID:Bd1RYVjf
766 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 06:42:58 ID:Bd1RYVjf
>758
「壁に描く」はヨモタ犬彦氏の訳で出てますね。
僕も気になっているんですが、未読です。おそらくそれはポエムだと思う。
谷川は保留ですね。
谷川は様式を詩集ごとに卒業するでしょう。
ポプリスレの1さんが、自分が書いた「思う」という文字は
「おもお」と読んで欲しい、と読者に要求するような、そう
いう「業」みたいのが彼にはあんまりは無いです。
でも、おそらくは谷川俊太郎の作品の多くは、非常に優れた
ポエムですよね。
前に書いたけど、僕は藤井貞和が典型的なポエム(詩とは
異なるもの)だと思います。
でも僕としては、先に、熟女の詩、キザ、ポプリなど「足元」から、
ポエムの真髄を抽出し、それが既存詩人にも一部は当てはまる、
というような筋道であとから座標を特定する、というような感じで
いきたいです。
>ポエムの真髄を抽出し、
例えば、コスプレってのはどうですかね?
ミュージシャンのユーミンは作詞するとき
セーラー服を着てるというネタがあって
ガセかわからないけども
デビュー当時のミニのドレスを今直ライヴで着てるんですよ。
で、何故かというと、通過してしまったティーンの情感へと
もう一度没入したいからなんだと思うんですよ。
その情感がどういうものかはわかりませんが
フィクションと、ノンフィクションと5・5位の場合もあれば
かなりノンフィクションというのもあるのではないか。
どっちにしろ狂気はあるな。
その「キザだけど」という枕と、「熟女」っていうキーワードも
コスプレとして機能してるのは、あると思います。
で、狂気があるっていうのは
批評はみえない
ってことではないでしょうか。
ああ、違うな、批評はみえない じゃない。
それしか見てない
だ。
770 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 21:55:21 ID:Bd1RYVjf
>767
>コスプレ
スゲイッ
さすがユーミン!!!
象に乗ってコンサートやったときから、「ああ、この人は
ちょっとアレな人なんだな」、とは思ってはいたのですが、、、。
尊敬しちゃうなあ。
狂気ってのはですね。
そのセーラー服を着ているユーミンがまさにそうですが、
<美>です。たぶん。
僕は、真っ赤なドレスを着た加藤登紀子に握手してもらって
勃起しちゃったことがありますが、セーラー・ユーミンって、
これはもう夢に出ちゃうな(笑。
狂気と美はモノとしては同じもので、観点を一ミリずらす
だけなんじゃないかな、と僕は思いますよ。
それしか見ていない、とは言い得て妙です。
ポエムする人とは、見たいものを見る人でしょう。
*例としてあげたスレッドをちょっと丁寧にみてみようと思います。
771 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 22:13:10 ID:Bd1RYVjf
>熟女スレ 387より
>モコは スカトロビデオを観ながら喜んでます(*)((ο))
>だけど…モコは 普通の女の子なのヨ・・・…(*)((ξ))
>普通の女の子が スカトロビデオを観て喜んじゃ いけないのかヨ!?*
>ふざけるなッ!!(*)((σ))(*)((ψ))
>二度と戻らない青春…(*)((ο))
>麗しき森の妖精…(*)((Φ))
>あどけない処女たちの会話…(*)((Ο))
>ライド オン タイド…(*)((δ))
このカッコの中身は、なんなのか一切説明されません。
しかし、説明されなくてもわかりますよね。もちろん
肛門です。
わかりたくなくても、わからないわけに行きません。
それは果たして文字なのか?と問えば現代アートめきますが、断じて
そうではありません。それは端的に言葉なのです。
伝説のドラッグクイーン・ディバインが犬の糞を食いながら、見せた
肛門ダンスの衝撃的な映像を、いったん見てしまってから忘れることが
出来る人はまれだと思いますが、その映像も超えるような、ポエムする
肛門。それがモコさんです。
もしこの人が街にでるなら応援したいです。
同時に気がつかずにいられないのは、モコさんの冷静さと賢さ、
また道徳的な正しさ、表現への飽くなき欲望、などです。
また、その本質を構成する強烈なロマンチックさ。
そして精神の深さ。
モコさんは実在するのでしょうか。
実在するとして、どんな人なのでしょう。
思いとして内部に存在するものを、常に物語にしないではいられない
という、言葉=魂のような存在者だと思います。
そんな架空クイーンのモコさんによって語られるのは、プロレスへの
無駄に過激な愛、はけ口のない敵意、プロレス板の熱心なユーザーで
ない限りまったく理解不能な2ch内輪うけの攻撃。
なんでも在りです。あきれ果てますよね。
内容的には。
しかし、形式的には常にモコさん独自のある基準が引かれ、それを下回
ることはけしてない。常に美的態度が継続し、強固なスタイルが確立さ
れています。
772 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 22:26:11 ID:Bd1RYVjf
ここで、まず一点、佐々宝砂さんの「ポエム派」の定義をつきくづ
しておきましょう。
(佐々さんのあの論文を、僕が、極めて優れた論考として評価して
いることは既に何度も書きました。)
まずジェンダー的なバイアスのかかった見方がポエム論にあること
を意識し、それを取り除いておきましょう。
変態もポエムするし、おじさんもポエムします。
それは乙女に擬態するということではなく、非・乙女にとっても
もともと本質的で「自分らしい」行為なのです。
そのことを認識した上で、モコさんと島崎藤村を接続しましょう。
初恋 Φ
まだあげ初めし前髪の ((●)◎(●))
林檎のもとに見えしとき (◎)
前にさしたる花櫛(はなぐし)の((φ))
花ある君と思ひけり ((θ))((刀j)
773 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 22:32:38 ID:Bd1RYVjf
作品「初恋」が語るのは、性的欲望にほかなりません。
また、ココで語られる行為は、性的欲望による視姦にほかなりません。
実を言うと僕は、島崎は嫌いです。モコさんのほうがロマンチックだと思うし、
島崎はあまりにも変態的だと思う。
しかし、その島崎が、はやりポエムの起源であり、おそらく本質はココにつ
ながっているのではないでしょうか。
一方で、野村の「現代詩作マニュアル」に語られる詩論を思い出してみましょう。
それはあまりにもモコさんから遠く、それをモコさんに適用することを想像すると、
「なんなのそれ」、というような感想が実のところ僕にはあります。
774 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/13(火) 22:33:51 ID:Bd1RYVjf
誤記
×はやり
○yやはり
銀行強盗を話の主体とした映画『初恋』は、
金子みすずの『初恋』という詩と、
実際在った60年代後半の銀行強盗(時効、未解決となった事件)を兼合わせたストーリー。
初恋の相手から、頼まれるがまま、銀行強盗をやってしまう少年のような言葉使いの主人公、女子高生。
学生運動が背景となっている時代。
以外でもなく『初恋』の隠れた本性を顕した作品だなあと思いながら、BSで観ましたが。
自意識過剰と、無意識過剰っていうのがありますよね。
そこに情緒があればとか。これ実は視姦なんだぜ(とは思ってないだろうが)
っていうのは前者っぽいですね。
逆に後者の場合、天然な分ピュア。
滲んだ狂気っていうのかな
それがネットのようなシステムの中では噴出するっていうのは
あると思う。
ただそれをどういう風に書いてるかっていうのは隠しずらいし
モコさんはかなりナチュラル、という印象を受ける。
>>775 詩+映画、来ましたね。
「詩と詩論」って読んでみたいけど
少なくとも、Amazonには売ってないみたいですね。
買っても本棚の肥やしになりそうですけど。
778 :
704:2009/10/14(水) 06:09:41 ID:E3ycagxZ
>>752 ちょっと前の話にもどっちゃうんですが、岡本太郎さん。
自分は、このとこ「建築は詩だ」っていうことをずっと考えていたんですよね。
建築によってもたらされた光と影、風、空間。うっとりするようなシーンに詩を感じるわけですが、
これは”美”だろうか?と考えるとちょっと違和感があって、”生き生きしている”
(vivid)というほうが近いなって思うんですよ。 その感覚が詩にリンクしてる。
モコさんの詩は基本顔文字がなくっても成立してるとこもってきて、顔文字使用でさらに隠喩を深めてるっていう気します。
ボルカさんが肛門を感じたように。
自分は彼女が、詩を書きながらいろんな表情をしてるのが眼に見えるように思うんですよ。(肛門じゃなくて)
横向いて舌べら出してたり、ふふふって笑ってたり、泣きべそかいてたり、
てか、顔文字こそに作者自身が色濃く投影されてるってのか。(ああ、その意味でストリップしてるのか)
ものすごく生き生きしてます。
>>777 なにせ古いんで、、詩論の本は廃刊も早いし、、国会図書館ならばきっと、、、
てか、読みたい論考をコピりましょうか?一瞬どっかにアップしますよ。
779 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/14(水) 07:47:11 ID:1k5YcBlf
>778
建築は詩的じゃないといけませんね。
物語を感じる建物や、語りかけてくる建物じゃないと面白くないです。太郎の建築は詩的ですね。
いや、建築とは、ときには詩そのものなのかも。
つまり、モコさんの書く記号が、ある観点からは一種の言葉ともみなしうるように、ドアノブはひとつのピリオド、カ−テンは形容詞、柱は名詞であり、建物とはひとつの言葉なのかも。
2007年ぐらいにユリイカか手帖が「建築と詩」を特集してました。
あとで本棚をあさってみます。
モコさんへの批評ありがとうございます。なるほど顔ですか。たしかになんらかの表情ではありますよね。
僕の見方は単眼的だから、助かります。
780 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/14(水) 07:53:09 ID:1k5YcBlf
ヴィヴィットである、というのはポエムの本質のひとつかも。
手法を過剰に楽しみつつも硬直していない。
そこは本質だと思います。
建築と詩の類似性についてですが、まさに似てますよね。まず、言葉という手段を用いるか、建築材と構造という手段
を用いるか。人間の使用に合わせて作られているところ。手段自体も意味を持ち、最終的な目的(一方は美、他方は
快適さ)に向けられて作られること。多様性。永続性。建築には全く詳しくないので、想像でものを言っていますが、
詩的な気分と、空間の分割という絶対に逃すことの出来ない両者の核。最も中核で類似しているのは、両者が
想像によって形を造形されるたたき台の段階が有るという所でしょうか。
782 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/14(水) 08:13:34 ID:1k5YcBlf
少し思い出してきました。
建築特集は、たぶん、「詩と思想」だったかと。
>詩的な気分と、空間の分割という絶対に逃すことの出来ない両者の核
この空間の分割、はやはり行分けの方へ話がいくんですかね?
>>783 行分けは、むしろ時間に関することで、あまり考えたこともなかった。ただ、詩には或る気分が絶対必要であり、
建築には空間の分割が絶対必要である、という基礎的なところを考えてみただけです。
785 :
704:2009/10/15(木) 06:20:04 ID:7dddBlkH
>>775 中原みすず の「初恋」? あれは手記じゃないかな。
>>780 >手法を過剰に楽しみつつも硬直していない。
>そこは本質だと思います。
ううむ、これは深いですね。 自分が発言したときに意図してたのは、構築されたモノ(建築であれ詩であれ)
が生命をもっているという感触なんですが、その感触がなぜもたらされるかと考えていくと
自由さとか柔軟さとか >「硬直していない」という部分を持っているのかもしれない。。
計算をつくされた上でかつ計算を超えた?
>>783 >>784を読みながら考えていたんですが、
>詩には或る気分が絶対必要であり、
>建築には空間の分割が絶対必要である、という基礎的なところを考えてみただけです。
行わけというより、視点の広がりとか、接続とか、ジャンプにつながってるような気します。
例えば、建築の場合、窓によって外部と繋がるんだけど、その窓の切り方を選びますよね。
それは窓の形そのものをみせる形状美であったり、光の取り込み具合であったり、
取り込む外の景色の美しさであったり、視線の抜けであったりでさまざまに変わるわけですが、
詩であればそれは比喩であったり、起承転結の転であったり、シュールレアリズム的連想だったりに比べられるかと。
つまり建築における空間の分割+統合は 詩におけるイメージの構築+統合に近い気がするんですよ。
四角い家だったり三角の家だったりと今度は外部からの外観がまた違うわけですが、(これは外からみた空間ですね)
詩であれば散文詩であったり定型詩であったりという感じ?(行わけはむしろこっちに近い?)
>>785 僕は絶対的なもの、という観点から考えるんですよ。人間にとって、詩的なものというものなしでは生きられない。
住む場所が無くては生きられない。そこで、形を作って詩にしたり、形を作って定住できる建築にしたり。そういう、
必要性とそこからの発展、と言う観点です。発展の方向が、人間にとって意味深い方に行く、と言う点でも、両者
が似ているな、と思います。ただ、建築に限らなくても、衣服とか、料理とか、有りますけれど、やっぱり建築
程度の形式の自由度と、人に対する距離感が、ぴったり来ますね。両者の比較から引き出せるものは、やっぱり
実践においてと、空想において、建築の未来の可能性はそれほど無いような気がするので、詩がどれだけ
基礎的なところから、色んなものを参照しながら変わっていけるか、と言うところに、興味を置いています。
ただ、おっしゃっておられるように、建築の様々な意匠から、インスピレーションを受けて、詩人が、認識や
修辞のイメージの糧にする、という、手軽な関係、と言うのも本来的なあり方として有っても良いのかも知れないな、
と思いますね。
787 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/16(金) 08:28:13 ID:yaUlKPww
本棚迷宮をさまよってきました。発掘成功です。
詩と思想、2006年11月号が、「ポエジ−と建築」を特集してました。
巻頭鼎談から、
「古代ギリシャでは、石や機械で建築することと、詩を書くことに、同じPoiemの語を使う。」
「「ア−キテクチャ」も古代ギリシャでは文学に使用する。」
などの指摘があり、なかなか面白いです。
788 :
704:2009/10/16(金) 08:51:32 ID:tM39t6ib
>>786 絶対的なもの 。。これもまた深い命題です。。
人間は詩的なものを見つけ出しながら(あるいは創り出しながら)生きています。
(建築の意匠からインスピレーションではなくて、詩的インスピレーションを
体の中心にキープしながら線を引くという方向でアプローチしています。あ そうか、どっちを作っているのかて話だけか。。)
存在の核が同質なんじゃないかなと。
>>787 詩と思想は実は手元にはなくて、、(すいません)読んでみたいです。
789 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2009/10/16(金) 12:42:44 ID:yaUlKPww
>788
当該誌を参照しなくてもわかるような書き方を心掛けますね。
当面、僕が注目したのは、古代ギリシャでは、
たとえば「共同浴場を建設する。」
と、いうときに
「共同浴場をポエムする。」
という言い方をしたらしいってことです。
マネしてみましょう。
通天閣をポエムする。
東京ドームをポエムする。
熊本城をポエムする。
なんかこう、、、、
灰色の脳細胞のなかで思考がスパ−クする予感みたいのがしますよ。
790 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/16(金) 20:37:19 ID:yaUlKPww
窓のない部屋があるように
心の部屋には部屋のない窓がある
田村隆一「Na」
、、ちょっと、覚書に引用です。
ナトリウム
意味不明な雰囲気だけの中身のない言葉ばかりだね。
なにが言いたいんだ、どうしたいの?
793 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/17(土) 01:54:16 ID:FNfpL13P
何をやっているのかというとですね。
雨の中の船みたいなホテルで一夜を過ぎしている人についての詩と、
ビルの一室で魚に包丁を刺している不気味な料理人についての詩に
ついて考えていたところです。
ランゲルハンス島という奇妙な島に住む人々についての詩についても
考えていました。
いずれも良い詩なんですよ。
そられの詩の「良さ」のあり方と、モコさんの詩の良さのあり方の
良さに共通点があるかどうか、
ならびにそれらと、日本の住宅、東京ドーム、通天閣、パルテノン神殿、
等に共通点があるかどうかについて、語り合ったり考えたりしている
ところです。
794 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 16:54:59 ID:LQ9k8TdN
一瞬、脳神経迷路の奥に何か見えてきたんですが、蜃気楼と化しました。
一息いれつつ、寄り道していきましょう。
NANA、第一巻、読みました。
後期思春期の成長物語りとしては、僕が少年の頃に何度も読みこんだ、「メッシュ」より深いです。
でも「綿の国星」の王座は、僕のなかで揺るぎませんでした。
NANA(一人目)の良さは、性的な経験を文化や学業より優先させることにとまどいがない、という感覚ですよね。
トキオと「引っ詰めみつあみ」の恋と対照的ですが、
僕は先日、「言葉は人間の鳴き声だ」、と、書きました。
鳴き声としてのポエム、というもののみかたからすれば、
性的なことがらの全てが、教科書をあまりにきっぱりと
逸脱する場所で起こるっていう、僕らの当たり前な実感は、
着目に値するポイントのひとつだと思います。
しかし、この作品世界は、ボ−ドレ−ルの人工的な
世界からは無限に遠いですね。
どう展開するのかな。
795 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 17:19:24 ID:U7N8eouw
僕が考えているポエムというものは、技巧的にはマニエリスム
の一種だと思う。
マニエリスムとは、日本語で(外来語で)「マンネリズム」と
呼ばれているもので、西洋でも一時期は芸術論上の蔑称として
用いられたそうですが、その極地とみなしうる漫画文化がこれ
ほど発展した日本で、マニエリズムを蔑称と考える人はむしろ
多くないと思います。
NANA的世界は、マニエリズムの到達点の一つとみなしうると思う
のですが、マニエリズムとは、図示すれば次のようなものだと
思います。
____________________
近いもの 対立するもの
____________________
技巧的・反復的 オリジナリティ重視
直感的・本能的 知的・批評的
オリエンタリズム 古典主義
服飾・服装デザイン ファイン・アート
建築・刺青
__________________
796 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/19(月) 17:25:10 ID:U7N8eouw
ボードレールの高踏的な詩は、技巧的にマニエリズムの
猥雑でエロティックな風合いを帯びてはいても、むしろ
古典主義的・批評的なものを芯に持っているように思い
ます。
メッシュなどで反復された、かつての少女マンガのお気に
入りのアイドルは、ランボーだったわけですが、ランボーなら
漫画文化との融合はわかる。
でも、ボードレールでやるのは難しいだろうな、という、
NANA第一巻を読んでの印象です。
しかし、NANA的世界は、逆に僕の考える「ポエム派」な
世界に近いです。
NANAは、なんせ20巻超えてるからね。
もっと読めば印象もかわるかも、ですが。
797 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 08:55:38 ID:aNX4p8sV
脱線を続けます。
繋いで行けば脱線にも、本線へもどる道があるかもしれないし。
NANAはまだ一巻までしか読んでませんが、
上述のように脳天気ぶりは、とてもよいし、
リアルだと思う。地に足をつける、っていうけど
一次産業従事者が減ったいま、地に足をつけるとは
性的現実と向き合うってことにかなり近い。
外から見れば、NANAの暮らしは不毛に見える
けど、NANAもひとつの真面目さだと思う。
一巻まででひとつ気になるのは、彼女がやってる
のが、恋愛ではなく、
共依存だということ。
個人的には、実際にこんな人がいたら、僕は相手
にはしない。
お互いをダメにしあう関係なんて、普通のセック
スの快感だけじゃ、
支出が多過ぎて釣り合わないです。
だけど、「メッシュ」も、「恐るべき子供たち」
も、共依存なんだよね。
共依存の形でしか輝かない日々もあり、ダメにし
あうのも、人生だったり。
そんなことを感じたな。
798 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 12:18:49 ID:aNX4p8sV
>詩と共依存
という視角は、これまであまりとられたことが無
いかもしれない。
しかし最近の小説には、恋愛と共依存を履き違え
たものが多く、詩を書くひとの意識にも、共依存
的な混乱した価値観は侵入しているにはちがいない。
一方で、ジャン・コクト−の「大股開き」など、
共依存すれすれを駆け抜けたり、大宰のようにそ
れが恋ではないことを見つめながら、思いっきり
共依存のドツボにはまったりとかも、古くから名
作のあるテ−マではある。
ポエムで共依存と愛の履き違えが問題になるのは、
自己愛をめぐってかもしれない。
小説は自己愛を直接テ−マにしないが、詩はかなり
書き手に近い表現なのでほとんど常に自己愛のあ
りかたが表面に出る。
だけど、多くの場合、自己愛とは、単なる「自己
との共依存」なんだよな。
一見、真面目で前向きそうなひとほど、自己との
共依存の一人SMだったりする。それもソフトS
M(笑)。
それはポエムというものの陥りやすい一面じゃな
いかな。
799 :
704:2009/10/21(水) 12:53:47 ID:pux0STO0
>詩と共依存
なんてきわどい話題を、、、それってもしかして地雷、、、
800 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/21(水) 14:57:03 ID:aNX4p8sV
そうかな。
休息まじえてゆっくり雑談散歩しながら、少しづ
つ本質に向かってくイメージなんですが。
(^0^)
谷崎潤一郎とか坂口安吾とかも、共依存の達人だ
よね。
僕は安吾は好きだなあ。
安吾の「白痴」のなかでは、愛ではなく共依存だ
ということを、ひりひりするほど自覚した主人公
が語り手なんですが、心のなかの何かを貫くこと
によって、やっぱりというか仕方なくというか、
ついつい「愛」に似たものに到達してしまうんで
すよ。
「満開の桜の森の木の下で」の山男も、そう。救
いの無い二人だけど、二人の間にあるのは愛とし
かいいようがない。
歌詞でいえば、沢田研二がかつて歌った、
「ときの過ぎ行くままに」が、そうでした。
>いつか二人が、愛せるならば
>窓の景色も、変わって行くだろう。
今は愛ではないんですよ。でもそうであっても
寄り添うことが愛に二人を近づけてしまう。
ボ−ドレ−ルはそうじゃないよね。
ランボ−は愛と共依存を清濁あわせのむ感じがあ
るけど、ボ−ドレ−ルは女に触られることすら嫌う。
彼は薄い服の上から軽く触られること、までしか
快適と感じないよね。
彼の世界は、どこまで行っても愛は無いよ。憧れ
の対象はあるけど。
彼がビジュアル系バンドと相性がいいことも、僕
は前から気になってます。
現代詩と現代美術って似てるかな?
似てる気がする
ボードレールが人工的? ???
803 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2009/10/26(月) 12:42:50 ID:nElpPWHG
ナチュラルってどんなことかな、ってことがありますね。
あるひとにナチュラルなことは、別のひとにそうではなかったりするし。
ボードレールがナチュラルだっていう感じ方もあると思いますよ。
ボードレールはあの訳が人工的に読ませるんじゃないかな
805 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/10(水) 23:13:45 ID:UyE7oek+
>翻訳
そうかも。
言い回しとかも古風だしね。
ポエム派革命について、ずっと考えてるんですが、僕の思うポエムって、類型とか定型に近い要素はやはりあると思う。
でも、古典主義や定型詩とは方向性が違う。
それって、自己反復とか、自己模倣なのかもしれないな。
共依存とは直接つながらないけど、自己を模倣し、反復する作品を外部につくるっていういとなみは、共依存を経験しやすいタイプの個性から生まれるのかも。
806 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/10(水) 23:18:02 ID:UyE7oek+
それを比較的に受け入れられやすそうな表現でいうなら、
「自分の言葉を大切にする」
ってことかも。
807 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 00:58:08 ID:aqVcHdKL
かろうじて、って感じだけど、僕が「ポエム」という語で何を示そうとしたかは、暗示ぐらいはできたと思います。
そこで次に、ポエム派革命の綱領に相当する部分についてさらに考えてみます。
808 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 01:10:47 ID:aqVcHdKL
綱領にあたる部分、すなわち実践的なことを語るにあたって、まずは非常に多い誤解から。
革命と言ったとき、ひとはマルクスを思いだしやすいし、進化論の一部(競争と淘汰)を肥大させて社会や芸術に当て嵌めたエセ科学的思考に陥りやすいと思います。
そこをまず否定しておきたいです。
うまく否定できるかどうかは別として、少なくとも僕はそう考えません。
革命は適者生存の意味での進化ではない。
この考えかたは自分勝手なものではなく、もともと革命とは五行思想にもとずく交代の思想であり、革命により否定されたものも、それにより弁証法的に取り込まれていわば消化されてしまうわけじゃないです。
809 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 01:37:30 ID:aqVcHdKL
つまりは革命によって否定されたものも、まだ成功する革命にはなりえなかったものも、消えうせるのではなく、地下水脈となり本来の意味での進化を続けていく。
実際、生物進化も歴史もそのように進み、その結果、多様性というものがあるのだと思います。
よく誤解されるような意味では、詩は進化しないし、少なくとも私はそういう進化を信じない。
しかし、革命である以上、それは時間、空間のなかで起こることではあるでしょう。
それが時間のなかで起こるということから、ひとつの立場が主張されます。
それは、私のポエム派の立場に立つのであれば、これまで行われた全ての詩の実験と、全ての詩の冒険は、そのまま私たちポエム派の詩的技巧として使用可能だ、ということです。
高度なレトリックを使ったからと言って、ポエムとして評価しないじゃないし、そこに線を引いて、低レベルなレトリックに限定して詩作するわけでもありません。
まずはそこかなあ。
810 :
名前はいらない:2010/03/21(日) 03:28:01 ID:frWOUluq
昔ちーちゃんっていう子がいてね
実際は律子って名前なんだけど本人がちーちゃんって呼ぶもんだから
みんなちーちゃんって呼んだ
だけどちーちゃんはイジメられっ子だったんだよ
811 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 10:13:58 ID:aqVcHdKL
いじめ問題は深刻になる一方ですね。
他人の顔色を伺って保身のために多数に同調しようとする悪癖を直さないと、愚劣と悲惨のスパイラルからは抜けられないわけですよ。
しかし少数の勇敢な子供しか、それを正さない。
そんなときは、結果を気にせず、正しく行動すると良いですよ。
どんなときも打つ手はあるし。
僕は小中五個の学校に行きましたが、いざとなれば転校にも楽しさはありますから。
卑怯なやつや愚劣なやつはのさばらせなくていいんですよ。
812 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 10:21:52 ID:aqVcHdKL
そういえば、イジメに立ち向かうのも革命だよな。
しかも弁証法は断じて関係ない。
それが弁証法だなどというのは、いつの世もあいかわらず卑怯なひとびとの、卑怯な言い訳だ。
813 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 11:34:17 ID:aqVcHdKL
ではそのように一本化した歴史的発展のモデルを拒否した上で、「良いポエム」とは何か。
そしていかにして可能か。
と、、、
とりあえずはここまでで、またしばらく、創作を通じて考えないといけないですね。
革命は常に実践だし。
814 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/21(日) 17:01:08 ID:aqVcHdKL
【補足】
この部分は非常に誤解されやすいと思うので、さらに補足を。
例えば、日本サルとヒトを比べ、サルはヒトの祖先であり、「ヒトのほうが進化した生物である」と考えるのは過りであると言える。
まず、比較するなら400万年前の我々の祖先と、400万年前の日本サルの祖先との比較となるのだが、それを経由するにしたって、進化のキャリアとしては、我々もサルもともに同じ頂点にいる。
サルが人間への道の途上にいるわけではない。
ゾウムシもカエルもリュウグウノツカイも、現代に生存している真核生物は、進化上の地位というようないささか不正確な概念を弄ぶなら、ともにヒトと同じ地位にあると考えられる。
それと同じことで、万葉と現代詩を進化の観点から比較することには意味がないし、ポエム派的ポエムと、他の潮流の現代詩や現代短歌は、ともにそれぞれの進化の頂点にあり、どちらが進化しているわけでもない。
にもかかわらず文学史はあるし、革命は可能である。不可能に見えるとしたら、革命の概念が誤解されているのだ。
補足終わり。
815 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/22(月) 12:23:42 ID:yPEkwKeb
とりあえず、ここまでを、賛同されないまでも理解されたと考えて、革命という言葉を以後の考察では油断して使いますよ。
それが通俗的な意味での淘汰や適者生存を意味しないことは、もう説明はしたからね、ってことで。
つまり革命家は、政治家でも啓蒙家でも教育者でもないです。
方向の違うひとと潰しあうことも、自分を発見していないひとを指導することも、僕の活動の範囲外。
各自、やりたいことをやるといいし、まだ見つかってないひとはじっくり探すといいです。
816 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/22(月) 12:40:49 ID:yPEkwKeb
ポエム派革命綱領としての技術論。
まず、過去のすべてが利用可能である、と述べました。
そりゃあ当然ですけど。
チョコパひとつ、コップひとつ作るのだって、過去の技術を使えないわけがない。
しかし、ここで問題になるのが、まさに北川の詩学であって、彼は「実験」を最初の一回目に限定して評価しようとする。
このスレで検討してきたように、彼には彼の一貫性があるわけですが、それは彼のいた文脈での話ですよね。
早い話が、現代詩手帖に投稿する作品を作るのにあたって、入沢を形だけマネしたら、今はまだ、笑われる。
だけど私たちが私たちのうたを造るのに、なんの遠慮も要らないんですよ。
形しか知らない無知にすらも責めはない。
形が結局はすべてじゃないですか。彼らが形に至らせられなかったこと、表現できなかったことは、我々は忘れてよい。
むしろ、形を面白がることだけは忘れないこと。
それが彼らへの敬意だと思います。
817 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/24(水) 21:03:36 ID:D3fOt92G
ポエム派的ポエムに対して、どのような観点からの批評が可能だろうか。
モノサシのひとつは、「表現したい」という欲望ないし意思が、どれだけ実現しているかということだろう。
そこで、批評するさいにも、
「作者はほんとにこれが書きたかったのか」
「作者は本当はいったい何がしたかったのか」
と、批判することが違和感なく起こり得る。
逆に言えば、批評においてそう語るひとは、すでにいくぶんかポエム派なのかもしれない。
818 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/03/24(水) 21:21:53 ID:D3fOt92G
ところで、何かを「ほんとうの言葉」で語りたいひとというのは、実在するのだろうか。
もちろん実在する。
しかし、その実在を確認したほどのひとなら、「ほんとうの言葉では語りたくない」ひとのことも目撃しただろう。
先に述べたとおり、芸術に弁証法はなく、この二人も議論しあわない。
しても有益ではない。
しかし、この「ほんとうの言葉では語りたくない」ひとは、ポエム派なのだろうか?
819 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:00:52 ID:g4xFKPKT
さて。革命を続けましょう。
#相変わらず閑散としたスレッドですが、途中なんども書いたとおり、このスレッドは本来の目的をすでに終了し、いまは雑談スレッドです。
820 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:14:43 ID:g4xFKPKT
一般的な感覚として、「ほんとうの言葉では語りたくない」というスタンスは、むしろ典型的なポエム派的スタンスだと思われていると思う。
それ以前に、「ほんとう」から「ずらす」ことは芸術の基本的な操作だと思われているのではないだろうか。
しかし、そのように考えてしまうと、ひとつの詩論としてのポエム派はおそらく成立しない。
そこまでをイレ込んでしまうと、それはたんなる現状肯定の論になってしまい、革命理論にはならないのだ。
だから私は「ほんとうの言葉では語りたくない」スタンスは、ポエム派ではない、と考えることにする。
むろん、優れた「嘘」はポエム派的ポエムにも存在する。
だがそれはおそらく、「ほんとうの」自己欺瞞の「言葉」なのだ。
821 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:28:50 ID:g4xFKPKT
さて、そのように「ほんとうの言葉」を価値として位置づけたとき、その立場からは詩的レトリックはどのように見えるのだろうか。
まず、隠喩について。
このスレッドでなんども話題なったことだが、隠喩とはおそらく、詩的レトリックである前に言語の基本的な特性である。
しかし、詩にそれを使用することは特殊なひとつの技巧であるとは言えるだろう。
では隠喩とは詩において何を意味するか。
ポエム派にとっては、それは、「まことの言葉」を意味する。
822 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 00:41:38 ID:g4xFKPKT
最近また、私はネイティブアメリカンの書いた小説を読んだ。
そこでも「ほんとうの名前」の話が出てきていた。
私が例えば「加藤登」と両親に名付けられたとして、それはほんとうの名前ではない。と、いう話だ。
自分のほんとうの名前を知ることは人生でもっとも重要なことである、とそこではされる。
この世界観は、ファンタジー小説「ゲド戦記」で美しく定着されてもいる。
そこでは、事物の「まことの名前」を知ることは魔法使いの主要な仕事である。
ポエム派の詩において、例えば例えば雨を「行列する女神」と呼ぶなら、それはひとつの呪文であり、雨ではなく「行列する女神」こそが、その物体のまことの名前なのである。
そのようにして探された比喩であるかどうかが、そのレトリックの評価基準となると思う。
823 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/12(月) 01:19:15 ID:g4xFKPKT
ここでひとつ補足します。
僕としてはこの語りかたで必要十分なのだけど、読むひとが中学生や高校生なら、ひとつ気をつけたほうが良いです。
北川もそうだけど、多くの詩論は、隠喩について僕が述べたことの逆のことを述べます。
彼らはポエム派じゃないから当然ではあるけど、あまりにも逆なので、初学者には注意は必要です。
多くの場合、隠喩はすでにある概念なり事物なりを他のものと関係づけたり、他の位置に動かしたりすること、と考えられますが、私はポエム派においてはそうではない、としました。
逆にそのものをほんとうの言葉でよぶことである、と。
824 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 19:10:37 ID:NKzqsVrQ
次に、ポエム派にとっての音数律と韻について。
上のとおり、ポエム派における隠喩が「まことの言葉」であることは、呪文の本質を想起することにより理解される。
同様に、ポエム派における数律と韻も、呪文の在り方を通じて理解される。
隠喩とは、まことの言葉における体言であり、踏韻とは用言である。
数律は文法だ。
呪文がそれを反映し、証明している。
825 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 20:37:26 ID:NKzqsVrQ
具体的には、ポエム派のある作者が定型のように見える詩形を選択することは有り得るし、それは批判されないということになる。
ときには学問上、不完全とされる定型モドキを利用することもあるが、その不完全さはポエム派的観点からは、その作品の低評価にはつながらない。
大切なのは、それがその表現者の「真言の」リズム、文法であるのかどうかだ。
826 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 20:51:24 ID:NKzqsVrQ
また、その点においてオリジナリティをかんじさせない作品であることも、ポエム派的観点からはなんら問題ない。
なぜならそれは「文法」や「語」であり、作者の創作物である必要はないからだ。
むしろ、そこで勝負するのではない、というスタンスが、私のいうポエム派を特徴づけると思います。
827 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/13(火) 21:03:17 ID:NKzqsVrQ
中学生や高校生のための注を、ここにも入れます。
今述べたことについても、他を参照せず、いきなり私を信じないように気をつけてください。
多くの詩論は、いま私が述べたこととは異なり、定型と自由詩を、すくなくともいったんは峻別し、その上で両者のスタンスを検討します。
また、出来そこないの定型を認める立場は、おそらく少ないのではないかと思います。
したがって、私と前提や基本姿勢を共有せず、結論のみを利用するのは無謀ですからお気をつけください。
828 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/14(水) 07:51:51 ID:zTHepfcd
ポエム派の定義、実践理論の順に述べた。
理論についてまとめると、まずそれは「詩作する意思や欲望」を核心とする一連の行動の理論であるわけだから、当然のことながら詩作行為そのものは、完全に、一点の迷いもなく全肯定される。
また、自己模倣、自己欺瞞、自己愛なども、その作品行為に含まれる世界性や歴史性とともに全肯定される。
その上で、価値基準としては、「ほんとうにそれが表現したいのか」が問われ、評価基準としては「ほんとの言葉で書かれているか」が問われる。
829 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:13:16 ID:xx7Mc1oa
【付記的なことや、再言及などなど】
以上で、僕が提唱するポエム派革命については、述べ終わりです。
結構しゃべったな(笑。
途中で宿題がたくさん溜まったけど、今はシゴトのほうでの勉強に
多忙で、手が付けられません。
みんな後日ってことでありますが、思想、作品の紹介はありがとう
ございました。
ではあるけど、この話題を振って半年以上が過ぎました。
せっかくだから読み返しながら、気がついたことは付記していこうと
思います。
830 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:29:01 ID:xx7Mc1oa
まず、「詩と共依存」について。
ポエム派詩人には、「他者を圧迫したり、加害したりし、結局は
壊してしまったりするタイプの人間によって粘着され易い」とい
う傾向があると思います。
それが形としては、しばしば共依存の関係をなすと思います。
これはおそらく詩人・粘着、双方の誤解によるものであり、認識の
変更を主張していったほうがよい、と思います。
社会病理的な現象としては、モラルハラスメントと呼ばれるもののひ
とつだと思うのですが、「自分が他者を加害する立場でいつづけるため
に、生贄をつかまえて共依存に無理やり持ち込む」タイプの人格障害者が、
日本社会にはかなり普通にいますよね。
詩の分野にももちろん普通にいて、それはそれで嫌らしいものです。
しかしそうではなく、詩に全く関心を持たない人が、詩人なら生贄に
しやすいと思い込んで近寄ってくる場合があります。
そういう場合はさ。
遠慮要りませんよ。遠慮することが不幸を招きますから。
簀巻きにして火をつけるぐらいの勢いで、やっつけてしまって
かまわないと思います。
「いや、ちょっと」
と思う人が多いことと思います。
なかなかそうは思わないでしょう?
そのへんをちょっとポエム派の立場から理屈で整理してみましょう。
831 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/17(土) 14:41:26 ID:xx7Mc1oa
832 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 09:33:47 ID:7C10wSFa
第一に重要なのは、もちろんこのタイプの人格障害者を、この社会から減らす、すくなくとも野放しにしないことなのですが、それはここで論じることではありません。
とくに、詩人がターゲットになりやすい原因に限って考えると、そのひとつに、詩人自身の誤解もあると思います。
上のリンク先に解説されているように、加害者は、被害者の心の弱いところを見つけて、そこを巧みに攻撃し、被害者に「自分が悪いんだ」と、思い込ませていくわけですね。
被害者が本当に自ら悪い部分を作って普通のひとを加害者に仕立てしまう場合もあり、それを共依存とするなら、今、指摘している関係は強制された擬似共依存であり、被害者にとっては被害以外のなにものでもありません。
しかし、詩作行為においては、自分の弱い部分も隠さないことから、「そこが弱点である」ことについて、被害者と加害者の意見が予め自明に一致している(ように見えてしまう)のです。
833 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 10:09:06 ID:7C10wSFa
また、ポエム派のポエムが、自己愛を重要な契機とすることも、作者自身の誤解の原因となります。
リフレインの多用、スタイルの反復、特定の語の頻出、これらはポエム派の特徴ですが、自己愛なくしてはそうした技術は駆除できません。
自分を愛するひとだけが、自分の言葉を記憶し、繰り返すのです。
それは「金髪のひとは髪の毛が金色」と、いうのと同じタイプの言明です。
当然の前提であり、なんら後ろめたいことではありません。
834 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 12:47:53 ID:7C10wSFa
×駆除
○駆使
m(__)m
上述の不愉快な関係は、様々な理由により起こり、解決も難しいわけですが、いままで述べてきたことの展開として指摘できることもあります。
それは、ポエム派の詩人は、「自分が詩を書いている」という誤った自己認識に陥りやすい、ということです。
もちろん、一面では詩人が詩を書いているのは当然です。
しかし、じつのところ、詩人が作品をコントロールできるのは、限定された範囲でしかありません。
他のスタンスにたつ場合は、このことは自覚(または理解)されやすいのですが、ポエム派においては、「表現への意思」が根底で全肯定されているため、混乱しやすい。
ポエム派においては、書きたいことを書きたいように書いているかどうかが規準にはなるのですが、その書きたい個人は、歴史的、空間的に規定される一方で、無意識や関係性をも含む生活者としての個人です。
したがって、作品をもって作者の生活や人格を攻撃する材料にできると考えるのは、(他の潮流では当然に誤りでしょうが)ポエム派においても誤りです。
835 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/18(日) 17:29:01 ID:7C10wSFa
【再言及、補足そのニ】
詩と古典について
詩と少女漫画の話から、ボードレールにとびましたが、、、オチはとくに思い付きませんでした。
しかし、ボードレールに限らず、ポエム派と古典は相性が良い、とは言えそうに思います。
なぜなら、ポエム派は表現技術において、「なんでもあり」だからです。
なんでもありとは言え、Jポップを流用したら角が立ちますが、古典から技巧を学ぶぶんには大丈夫ですから。
ただし、ナチュラルなかんじは失われますよね。
それはダメージとしてあとまで残るかもしれません。
ポエム派には、ボードレールに関心をもつだけでも、蒸発してしまう詩人もいるでしょう。
しかし、死は再生の糧。
某矢沢Aの名曲「時間よ止まれ」は、ゲーテからの引用が使われてます。
「時間よ止まれ、お前は美しい」
は、ファウストがメフィストフィレスに言った名セリフ。あの曲の「お前」はベアトリーチェです。
でも、だからって、あの曲で矢沢が不良性を失ったわけではありません。
836 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 20:43:18 ID:8E6w9eyl
【再言及、補足三】
詩と建築について
建築の最大の特徴は、なかに入って、様々な部分を移動する、ということだと思います。
専門分野での定義は知りませんが、一般には、例えばカマクラは建築とは言いません。
テントも建築ではないような気がします。
その理由は、ひと部屋しかないからなのではないか、と、僕は思う。
だれかが、「詩と建築が似ている」、というとき、やはり幾つかの部屋が空想されていて、それらをひとが歩き回るイメージがあるのではないか、と僕は思います。
事実、詩は小部屋をもつ場合や、詩のなかをひとが歩く仕組みになっている場合が少なくありません。
詩を想起するとき、一気に全部を頭に浮かべるひとはきっと少ないでしょう。
そうではなく、時間の経過を伴いながら、小さなパーツごとに、ひとによっては一語ごとに想起していく。
想起する場面が変わるたびに頭のなかの景色が変化していく、ということが一般的だと思います。
837 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 20:50:18 ID:8E6w9eyl
なにも入沢を引き合いに出さずとも、そういう、ごくストレートな意味で、詩は構築的、構成的なものであると言えると思うのですが、では、ポエム派の詩はどうか。
こういう意味でなら、構築的でない理由はないですね。
838 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/19(月) 23:05:07 ID:8E6w9eyl
おっと。
少しわかりにくく書いたかもしれません。
詩が構築的だ、ということは、「建物において、我々が同時に二つの部屋にいることができない」、ということとパラレルだと僕は思います。
それはかなり当たり前のことなので、否定する理由はない、ということです。
839 :
名前はいらない:2010/04/22(木) 11:50:52 ID:5dmQS05v
誰も読んでない日記書いてんじゃねえよ
馬鹿かおまえ?
840 :
名前はいらない:2010/04/22(木) 11:54:01 ID:5dmQS05v
>>827 何が中高生のための注だ気どりやがって
詩の先生気取りか?
てめえの糞作品晒してから偉そうなこと言え
841 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :2010/04/22(木) 22:23:42 ID:Cc5wiPh1
喜んで。
三つワードくれよ。
名詞で。
僕の糞ポエムをお見せしましょう。
842 :
ボルカ ◆6kB1JyG4Xo :
なんだ。
アオリのくせに即レスできないのかよ。
ツキのないやつ。