1 :
考える名無しさん:
副題:=【私】は、どこまで肉体に依存するのか?=
『私』『我』『自我』『主体』『主観』『主観性』、
デカルト的懐疑の到達点、認識の基点、思考の起点、思惟の場、
或いは、各種宗教的アプローチの底に見出されるもの、
等は、どのような記述が可能なのか?
その記述方法は、唯物的な(或いは還元的な)事象の羅列で十分か不十分か?
その記述方法は、一通りか?それとも何種類もあるか?
それら記述方法の分類・仕分けはどのようなものか?
『それ』にふさわしいラベルはどんなものだろうか?
『それ』と「外界」の関係は?
『それ』と「他者の『それ』」との関係は?
『それ』は、普遍性を持つか?
『それ』は、どこにあるのか?
『それ』は、複合的に形成・構成されたもの・成立したものか?
『それ』は、単独に存在しうる(成立しうる)ものか?
『それ』は、妄想か?錯覚か?便宜上のラベルか?
『それ』は、実感されるが故に確かな存在か?
前スレ
---
当スレは隔離スレとして誕生したという経緯があります。
デカルト以降の哲学者が記述したから、素人が書いても大した意見は出てこないだろう。
3 :
佃煮マニア:2010/10/01(金) 00:53:21 0
スレ立ちましたか。
哲学最高位さんが引退してもうどれくらいになりますかねえ。
哲学者最高位さんだっけ。漫画喫茶の店長だと言ってた。
漫画喫茶って今はどうなのかな。
自分がむかし行ってた店は、近くの席で男がオナニーしてる音がよく聞こえた。
5 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 10:04:00 0
阿部敏郎の「いまここ」っていうブログ観てみ。
6 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 12:50:05 0
ここが哲学者最高位のスレか?
「私」ってヒンドゥー教の「アートマン」と同じでしょ。
仏教から見ると外道ですわ。
7 :
哲学者最高位代理 ◆gfn2h6jTHM :2010/10/03(日) 12:22:56 0
>>6 アートマン?
ヒンドー教なんかしらないな。
根本的に間違えてる。
8 :
佃煮マニア:2010/10/03(日) 22:51:12 0
「私」を客観的に証明するものとは遺伝子である。というところで議論が途絶えていませんでしたっけ。
>>7 アートマンでなかったとしても、反仏教であることには変わりない。
10 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 23:30:45 0
>>4 すみません
今日も子供のパンチラで抜きました
11 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 18:32:23 0
赤ちゃんの食欲のみを満たし成長させたとしても
人間にはなれない。
つまり遺伝子だけでは人間にはなれん。
私だけじゃなくて言葉そのものが虚構だとわきまえていれば
我思う故に我ありなどとゴーマンかますことなどできないと思うね。
13 :
佃煮マニア:2010/10/23(土) 20:47:26 0
最高位さんがよく言ってたのは、
自分の肉体は周囲の空気に浸食されつづけてその自他の境界が曖昧になっているから、
単に肉体が「私」を証明するものではない、ということだったですよね。
14 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 01:29:01 O
私とはJAM
15 :
九リトル・リトル:2010/10/24(日) 01:36:03 0
16 :
九リトル・リトル:2010/10/24(日) 01:40:08 0
17 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 01:46:08 O
私とは集約、JAM
であるにもかかわらずアウトプットが存在する
実に不可思議な事に集約の運動でしかない私に
世界への働きかけの力が備わっている
そのせいで私は複雑怪奇なものになる
チェスと将棋のごとくに
18 :
九リトル・リトル:2010/10/24(日) 01:53:20 0
ふぁぁあ・・・
19 :
また訳のわからないことを:2010/10/24(日) 13:10:11 0
この体が私である というのは当たり前の事なのですが
この体を、いくら解明しても、何故この体だから『私』であったのか は、解明できないのです
たとえ、この体と全く同じ要素の物体があったとしても、それは『私』ではないわけです
20 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 13:24:01 0
「この体が私であるかも知れない」から
「この体が私である というのは当たり前の事」に換えたな
「いくら解明しても、・・解明できないのです」ではなく
「いくら解明しようとしても、・・解明できないのです」だろ
「この体と全く同じ要素の物体」って
何をいおうとしているのか さっばりだな
>>13 論理が極めて明晰でないですな。
空気に肉体が浸食されて自他の境界が不明瞭になるというのは、
いい加減にも程があると思いますが。
空気に肉体は浸食されません。空気が肉体である、
という意味で自他の境界が不明瞭になるというならわかりますが、
そんな自体はまず有り得ない。
22 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 14:21:54 0
23 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 15:12:34 0
未だに目立ち体固めにスレタイに【 】使う奴大嫌いだよーん
25 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 16:46:40 0
目立ち体固め でとりあえず一勝でだな
26 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 17:25:00 0
その身勝手で自己顕示欲に塗り方メレらレタ精神性がクtバレファッキン!
19
>この体が私である というのは当たり前の事
>何故この体だから『私』であったのか は、解明できない
>この体と全く同じ要素の物体があったとしても、それは『私』ではない
出発点が間違っていますね。
体は一刻一刻変化している。何週間かで入れ替わる。
内臓移植や輸血をすればこの体はこの体ではない。
1秒1秒異なる体が全く同じ要素などありえない。
要素が同じでも、異なる空間に存在すれば別物。
命題が最初から間違っていますよ。
毎日体の構成要素は入れ替わるんだけど、意識は自己同一性が保たれています。
それは遺伝子が働きかけているから。
「私」とは遺伝子のことなんじゃないですか?
29 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2010/10/30(土) 08:36:48 0
>>28 一卵性双生児は、同じ遺伝子ですが互いに別人ですよ
>>27 >命題が最初から間違っていますよ。
命題は何だと思っていますか?
輪廻の有無も確定せずに論じるのは、スーパーイントロクイズくらいに無意味。
仏教という観点からみれば、「今ここにある私」こそが唯一無二の私なんじゃないですか?
33 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 23:20:15 0
_l\_ ノL. ィ_
_ >:::::::::::::::::::::::::::∠
>:::::::>  ̄ <:::::.<
∠:::/ / ̄ ̄ \ ヽ:::.く
イ / /  ̄\ ヽ ∨「
| l/ ―‐ 、 ヽ ', |:|
| | /_ ― 、 l l | |:|
| l{::::}、| | | | |:| 犠牲…
ト 二ノ| | | | | |:|
∧__/ / / , '//__
r<  ̄ヽ_/ / / /:::| _>、
|:::::::\__ヽ二二∠ -−  ̄:::::::::::|
|::::::::::::::::::| |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
|::::::::::::::::::| |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
人::::::::::::::::| |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/\
/:::::::\:::::::: | |:::::::::::::::::::::::::::::::::/::::::::::::\
34 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 23:53:10 0
俺童貞だけど
35 :
考える名無しさん:2010/12/05(日) 16:17:42 0
意識はどうやって発生するのだろう?
意識の連続性はどうやって保たれているのだろう?
発生した意識と同じ意識が二度とつくれないのは何故?
といったところでしょうか
36 :
考える名無しさん:2011/02/21(月) 12:51:15.21 0
>>35 誰の意識?
あなたの意識?わたしの意識?
表象意識は個々だが、
無意識の深いところだと全部つながってるらしいよ。
つまりその波が立ったところが個人個人で
無意識は大海みたいなもんだろ
単にアホがネットで洗脳されてるだけだろ
38 :
考える名無しさん:2011/03/02(水) 22:28:31.91 0
>>33 おまえ、パンツ脱いだら、バックからあと960レスしろ。
39 :
考える名無しさん:2011/03/08(火) 13:07:53.62 0
最高位氏に説明責任があると思われます。
40 :
考える名無しさん:2011/03/08(火) 15:51:52.75 0
>>28 >「私」とは遺伝子のことなんじゃないですか?
個人的には「私」は脳なのではないかと思います。
脳の生成には遺伝子も関係していますが、
その後の知識の習得や思考の仕方など個々人で違うのは
脳細胞の繋がり方が異なるためだと思っています。
41 :
考える名無しさん:2011/03/26(土) 05:23:27.02 0
決まり
ジョギングしてると、肉体こそが自分なんだと強く感じるんだよね
われ思う故にわれありじゃなくてわれあり故にわれ思うみたいな
43 :
佃煮マニア:2011/03/30(水) 22:07:55.45 0
最高位さんがいた頃に戻りたいな
44 :
考える名無しさん:2011/04/01(金) 01:49:46.25 0
45 :
考える名無しさん:2011/04/05(火) 20:31:24.01 0
存在性などという造語を用いて、哲学っぽく見せかけたかったんだ
46 :
考える名無しさん:2011/04/23(土) 13:03:16.93 0
永井均に聞いてこい。
47 :
考える名無しさん:2011/04/25(月) 22:57:30.26 0
永井均を参考にしたら恥をかきました
48 :
佃煮マニア:2011/04/25(月) 23:01:44.52 0
じゃあ竹田青嗣に聞いてきて下さい。
49 :
考える名無しさん:2011/04/25(月) 23:08:17.49 0
『<子ども>のための哲学』でもせいいつぱいだったのに・・
もう恥をかきたくないんだよ
50 :
佃煮マニア:2011/04/25(月) 23:12:47.74 0
じゃあ池田晶子の「14歳からの哲学」なんかどうでしょう。
51 :
考える名無しさん:2011/04/25(月) 23:19:41.99 0
その本に唯物論論破のヒントがあるのですか
なければ興味が無いよ
52 :
佃煮マニア:2011/04/25(月) 23:22:53.98 0
唯物論を批判するんですか?
じゃあ「哲学的ゾンビ」「中国人の部屋」で検索してみてくださいな。
53 :
考える名無しさん:2011/04/25(月) 23:29:25.84 0
「哲学的ゾンビ」の話はやめてくれ
それでも恥をかいたんだから
だべるの好きな佃煮さん
55 :
佃煮マニア:2011/04/25(月) 23:36:34.00 0
最高位さんって唯物論を支持してたんですっけ。確か。
時間稼ぎの佃煮さん
川上スレからコテ粘着しにきてるのかよ
気違い死ね!
私は私を信じない バタイユ
佃煮さんに知恵を出して貰うことはいいことだと思うけど
なんかここは気の毒。
嫌みしか言えない性賎士
バカだからスルーできないんだよこいつ
ふつーの哲板住民ならスルーするとこだよな
バカなやつ
脊髄反射しかできない性賎士
ほんと程度の低い奴だな
ははは
バカばっかりだ。
では連投規制になる前にさいなら
お前がバカなんだろw
おたがいだね(笑)
お前程じゃないからw
どうかな?おやすみ!
性賎士はウィキペディアでもツイッターでも哲板でも醜態晒してるなw
バカなクズw くやしいのう〜くやしいのう〜
泣きながら隔離病棟スレに帰れよw
ゴキブリ性賎士
何が悲しくてコテハンストーカーなんてやるはめになってるんだ
よっぽど人間関係に飢えてるんだな
おまえらいつまで言ってるんだ?アホ
寂しいんだな(笑)
プッ
スルーできなくてまた出てきたw
78 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 17:58:50.79 0
最高位さんがいればこんな悲惨な流れにはならないのに・・・。
79 :
考える名無しさん:2011/04/27(水) 18:08:40.95 0
UFOに乗った最高位を呼ぶ儀式が執り行われている模様です。
あなたも輪になって最高位と呟きましょう。
出番を待った最高位が今か今かとしびれをきらしています。
>>75 >何が悲しくて
佃煮が悲しいに決まってるだろ。アホか
81 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 18:29:05.94 0
>>79 私は最高位さんに「コテをつけろ」と言われてコテハンになったんですよ。
本人様そろそろ出てきてくれないかなあ。
83 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 18:35:01.18 0
漫画喫茶のオーナーだという最高位さんは暇を持て余しているんでしょう?
2ちゃんで哲学談義くらいしてくれてもいいじゃないですか。
85 :
最高位学派:2011/04/27(水) 18:37:19.76 0
哲学者最高位が哲学者次席と名乗ったりしていたころから仕えた者です。
彼は必要です。彼は居なければならない。
スターとして彼を愛しています。キスしたいです。
ですので哲学者最高位様にご降臨を願います。
自ら光を発する星、恒星の名に相応しい哲学者最高位様。
あとの連中は惑星か人工衛星にすぎません。
あなたこそ待ち望んでいるのです!
86 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 18:42:53.35 0
>>85 ほんとですよね。みんな待ちこがれているのです。
最高位さんは機械さんになんかかまってないでこのスレの面倒を見て下さいよ。
またDNAの話とか位相の話とかしてくださいよ。
アホだなあ
88 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 19:26:31.67 0
もっと速く!もっと速く!
ぐずるなあ。このコ
90 :
考える名無しさん:2011/04/27(水) 20:18:22.46 0
「私は主観性そのものである」
「体は存在性ではないのだ」
「私はこの体かも知れない」
「私は少なくとも人間であり、体と心を持つ」
「私がこの体であるのは当たり前」
彼がでてきたら、とりあえずこの不始末を詫びてもらおうか。
声援がまだ足りないって聞こえる。贅沢なやつだな。最高位。
92 :
考える名無しさん:2011/04/27(水) 20:42:34.51 0
「地球上にはどんどん人間が生まれているというのに、
私は何故、他人にならず、
よりによってこの私になったんだろう。
不思議だ。これは奇跡そのものである」
・・・いやはや傑作です。
93 :
考える名無しさん:2011/04/27(水) 20:49:53.51 0
彼は数々の妄言を吐いているが、
その中でも「分らなければ、疑えるだろ」は傑作。
これを言い換えると「分らない、故に、疑える」ということだが、
分らないということは疑う(否定的に捉える)正当性を主張する理由になりえない。
彼が言う「疑える」は、単に素朴心理的な疑いが生じる可能性にすぎないのであり、
「亭主の1日の行動が分らないと、つい浮気しているのではないかと疑ってしまう」とか、
「数式の解き方が分らないと、教科書の解説が間違っているのではないかと疑ってしまう」
というようなことであり、これは世間でいう「無闇な疑い」つまり、妄想のことである。
94 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 23:16:19.19 0
最高位さんは、
「人体は代謝するし人間の皮膚はつねに外気に晒されて気化し続けているから人間の身体は同一性を保てない」
と言い、人間のアイデンティティを決めるものなどなにもありはしないと主張して、
住民の多くから反論されていたんですけど、意見を曲げなかったんですよね。
私は、細胞に宿るDNAが同一性を保っていると何度も説明したんですけど、
聞き入れてもらえませんでした。
>>94 ふうん?それでもまちこがれてるんだ?
よくわかんない話だね。
>>94 それは少し次元が違うだろw
彼が言っているのは、【「意識される」自己同一性】だから。
(DNAの同一性なぞ、「意識できない」し、親子や兄弟双子が「似ている」という以上の知覚認識も不可能だ。)
97 :
考える名無しさん:2011/04/27(水) 23:36:51.41 0
「変わってしまったら存在性とは言えんだろ」も大傑作だった。
どうも彼には「変わる」と「替わる」が区別できないらしい。
変わるならば、存在しなければならない、ということが分らないのだろうか。
つくだにはブランショじゃなくデカンショだなあ。やっぱり。
99 :
佃煮マニア:2011/04/27(水) 23:50:53.64 0
>>96 昨日の[私]と今日の[私]は違うけど、それでも意識が同一性を保っているのは、DNAが働いているからですよ。
茂木健一郎の言った事をベースにしてそれを言ったのは私で、最高位さんではありません。
最高位さんは「人間は一秒たりとも同じ姿をしていない」と言っていたんじゃなかったでしたっけ?
DNA
じゃなく単なる記憶が働いてるからじゃないの
他者や外界との関係性を保ってるんだよ。記憶が
>>99 (現実的リアリティの面ではともかく)、
理論上は、《「DNAの同一性」は「意識上の同一性」を担保しない》。
極端な話、肉体が全て変わったとしても、999よろしく機械の体となったとしても、
そして更には、(記憶こそが最大の要素とは思われるが)脳の様々な働きが再インストールされるかたちとなったとしても、
おそらくそこには、「意識される自己同一性」があるだろう。
>>102 そうなんですよ。どんなに肉体が変化をとげても、意識される同一性は「ある」と私は言ったんですが、
最高位さんはそれを否定しつづけたのです。
だから、同一性を司っているのはDNAですよ。
それは生体のでしょう。
DNAは下意識にも影響を与えていますよ。
《「DNAの同一性」は「意識上の同一性」を担保しない》
これ↑はちょっと違います。
そういう意識だけで同一性っていうの?
そういう意識だけなら唯我独尊の神でも何秒か後にはただの右腕でも
明日にはうんこでもいいわけだよ。
同一性なんて問題にならないんじゃないかな?
まあ、DNAなんて身体性を支えているって話だけになってしまう。
この私も身体性の一部でかりそめなら自己同一性とは主体とはなんぞやって
はなしだね。死とともに失われるんだから。
まあ、そういうものなんだろうけど。
私の目のまえの本たちは自分がどうしてこの本なのかここに
買われて置かれる本でなければならなかったのかなんて考えも
しないだろうな。区別なんてないんだよ。
多分動物たちも。
人間だけ自我を持ちそんなことを悩むんだろうな
110 :
考える名無しさん:2011/04/28(木) 09:27:02.70 0
「・・であるのに・・である理由」や
「・・だったのに・・に変わってしまった理由」を人は問う。
「リング上で戦っていたのに、どうして俺は病院のベッドで寝ているんだ?」
と問うても、人はそれを可笑しな問いだとは思わない。
しかし、生まれる以前の自分の記憶も無いのに
「どうして、私は、この私(この体)でなければならなかったのか?」とか
「べつに他人(この体ではない体)でもよかったはずではないか?」とか
問うのは可笑しな問いであり、非論理的思考の中で勝手に悩んでいるだけである。
111 :
哲学の神:2011/04/29(金) 02:02:26.87 O
まず「私」とは、存在としての観点から考えるのか、自我としての観点から考えるのかをはっきりしよう。
更にそれらの出発点がどこに在るのかの定義も必要である。
自我」の観点」というのは人間が言葉をもつ社会にあるってことで
わかるよね。
存在の観点ってなんだい(笑)
私にはよくわからないのだが。自他未分化の私ってものが存在するの?
>>111 「存在」と「自我」を分けて説明してみてください。
114 :
哲学の神:2011/04/29(金) 10:48:58.99 O
>>112 というより、私を主観的に捉えるのか、客観的に捉えるのかという観点によって自我としての存在意義と、存在としての存在意義という二つの異なる固体性を持つ事になり、それらの出発点(存在活動の位置付け)を定義しなければ論議しようがないという事である。
主観的にとらえようと客観的にとらえようと自我は自我じゃないの?
私が私を思うとき存在について考えたとしても他者が排除されるわけではない。
「私を見ている『私』」をどう捉えるか。
これを「自己を“他者化”している」とは言えるが、
(その意味で、他者があって自他の分別の学習が先んじなければならないのかもしれないが)、
いずれにしろ、この時、前者の私は客観的に捉えられ、対象化された私だが、
そのように見ている・見做している・思考している主体の存在を設定するかどうか。
そして、そうした主体を把捉しようとすれば、それは忽ち客体と化し、新たな(それを見る)主体が出現する。
(ちなみに、この時、所謂他者の存在は必須ではない。)
そこに言葉がある以上他者がいると思うけど。
文化(言葉)としてのね。
でなければ主体としての意識もないだろう。
自他未分化の意識があるだけで。
ちなみに、
仏教(の無我)を批判する者の多くは、
>>116のような点を論拠とする。
「どこまでいっても、主体は消去できない」、と。
「主体無き知覚・認識はあり得ない」、と。
また、神秘主義的領域からの「真の自我」「真我」等、清浄神聖な、「人間本来の霊的意識、存在」など、
言い方は種々あれど、そのように希求される「自我」というものも、この116とリンクする。
また、原語の読みが非我であることに依拠し、仏陀もまたそうした「真我」を否定していない、寧ろ説いた、
とする立場もある。
勿論、それらに対する、仏教側の反論キーワードが
「縁起」「五蘊」「五蘊無我(非我)」であることは言うまでもない。
私とか主体とか言っても関係性だからなあ。
実体と捉えたい人がいるのかなあ。
自他未分化の領域というのを人がもつことは持つだろうね。
連続性というか。
「私の存在性」ではなく「私の内在性」ならバタイユだったんだろうけど。
ここはデカルトだからね。
デカルトの「私」を信じない人間にとってはあまり用のないスレなんだよね。ここ(笑)
デカルトの「私」は経験主体だよね。
121 :
考える名無しさん:2011/04/29(金) 23:53:26.93 O
自分には何もない。ただ世界を見るだけ。楽しすぎる。
どんな世界?
深く問えばいいんだ。相手の理論を否定したり吟味したり肯定したりするのは誰でもできる。
だから自らの奥深くに入っていけばいいと思うよ。
それでもダメならやる気がないだけなのだろう。
深く入っていく者は私だろうが無我だろうが突き抜けて知る。
>>121はなかなかじゃないか。
体感した者だけが哲学論を構築する。それ以外は骨折り損のくたびれもうけ。
瞑想して悟ってから来い、といわれる毎日。そうさ哲学を頭でやってるのは哲学にならないから。
>>123 も結局否定したり吟味したり肯定したりしてるわけじゃん。
悟りの世界≒哲学ではないだろう。
125 :
哲学の神:2011/04/30(土) 13:21:53.38 O
>>115 自我には「私」という、観念的掌握(と表現するのが妥当だろうか)による本来の存在性が実現するわけで、存在からの私、私からの存在といういわば段階の原理にとらわれていては
>>114の二面性に気付けない。
よく言ってる意味がわからないんだけど
結局私という存在があるって言いたいの?
存在というのは全体性だと思うのでその全体性のなかにいる私しか思い
つかないな。そしてその私はやはり他者からきていると思うので。
>>126 私という存在自体は他者に依存しないので私の集合体も所詮私に過ぎず、これは自他未分化とは大きく異なる。
ではなぜ依存しないのか?
私とは主観原理だからである。
分かっているとは思うが、ここで指摘する指摘原理の意味をはき違えないで欲しい。
そしてその原理を変える事に意味は無く、原理を変えてしまえばそれは
「無」
に成る。
よって依存しないわけだが、話を戻すと、消化過程の中で対称化された自の私、他の私によって1(イチ)私が確実に存在しているという私の必然的存在性。
これはあくまで私の二面性を考慮した場合で、これが
>>114の「自我としての存在意義であり、存在としての存在意義」に繋がる。
お分かり頂けたであろうか?
依存してるんちゃうん。
その何よりの証拠が超クレーマーとしての性であり、八木へと足を運ぶ衝動の賜物、ではないんちゃうん。
129 :
哲学の神:2011/05/01(日) 03:21:21.47 O
>>128 なるほど。
その八木とは、空間を細分化した究極の位置に到達してしまったと感じるが故の存在仮定というわけですか?
依存媒体を「性」として捉らえた場合、私の存在行動は健やかになるものでは無く、敏速に一本本化されるわけでもない。
いいえ、八木はコンクリートです。
すべてを必要以上に小難しく捉えることが哲学、かもしれないんちゃうん。
131 :
哲学の神:2011/05/01(日) 03:33:55.38 O
なるほど。
ちなみに私にとって哲学とは宇宙人との交信です。
宇宙人とはまた定義のしにくいものを。
なんちゃうん。
私という言い方がすでに他者を想定してるんだけどね。
その他者が宇宙であろうと神であろうと(笑)
134 :
哲学の神:2011/05/02(月) 05:46:38.05 O
>>133 >私という言い方がすでに他者を想定してるんだけどね。
私という言い方が他者を想定してると断定するならば、なぜ想定するかの根拠を聞かせて欲しい。
ちなみに想定しないという根拠は
>>127で述べている。
>>134 「私」という語に変換された時点で客体化するんですよ。
主観原理ってなんですか?
1(イチ)というのは2とか3とかほかの数字があってのことでは?
なぜあなたと私は話しているのでしょう?
あなたが他者に依存しない私ならいちいちわたしに説得される必要も
ないのでは?
ましてや数多くの他者がおおかたつくったであろうこの言葉などをおつかいに
なって他者に自分は依存しないなどと?
その私というのでさえあなたの造語ではありますまい。
私わけわからなくなってしまいました。人間がことばをつかう以上
自分のなかで完結できるとは思わないのですが?
問題は、
・言語化以前の(主体的・主観的)「自覚」というものはあるか?
・あるとすれば、それは他に依存しているか?
ということでしょう?
(「私」という)言語を使用するかどうかの問題ではないと思うが・・。
ぼくはあまり興味ありません。
意識はあるでしょうがね。
主観と言う以上他者でもいなければね。客観を想定しての主観だし。
自分は神だというのなら知りませんが。
私にはますますわけわからなくなりますが。
139 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 10:41:22.97 0
>>138 だからw
便宜上「主観」という言葉を添えたが、
意識に於ける自己フィードバックとして「自覚」というものがあり得るのか、ということ。
(もしかしたら、まさしく「神」と呼ばれてもいいくらいの位相になるかもしれんがw)
最高位が言う「主観」や「存在性」は、まさにこの部分、意識・思惟に於いて、
(その行為主として)「在る者」が必須であるという前提から来ている筈だ。
それは、最高位だけでなく、我々の通常の感覚としても当然のことと受け止められている。
*(その視点に立てば、仏教で言う「無我」なぞ、到底受け入れられないものとなる。)
哲学の神さんはこうおっしゃりたいのですね。
私の言う1とは2や3との比較としてある1ではなく
全体としての1であると。
主観原理とは主観客観を超えた宇宙原理(宇宙人原理?)だと。
そう言ってくだされば私もいちいち相手にしないですむのですが。
(ま、それぞれ頑張ればいいことですから)
141 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 13:53:26.54 0
>>140 胎児にとっての他者とは誰か?
もう少し付せば、胎児にとって「“意識される”他者」とは誰か?
という問いを設定することも出来る。
ぼくは夢でも見ていない限り
自分に意識があったのかなかったのか眠っているときは
わからないことが多いですね。
胎児に意識があるかどうかもよくわかりません。
空気にふれてセンサーが働くように意識が目覚めるのかもしれません。
まあ、自分の胃袋の動きなどを他者と思っているのかもしれませんが。
胎児にも親たちの声など聞こえているとも言いますし。
生まれた赤ん坊は自分の手などをまだ自分という
はっきりした認識で見てはいないそうですし。
145 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 16:29:45.43 0
乳児の頃は
感覚があっても誰の感覚なのか分らないだろうね
オイラも一切記憶がない
自我が発生する以前だからな。
はい、今自我が発生しました。なんて線引きができるのかね?
いや、それも人の勝手ではあるからできると言えばできるか。
所詮自我なんてのはその程度のぼんやりしたものなんだよね。
うむ。大人の自我もあやしいからなあ(笑)
151 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 19:53:15.00 0
で、自我って何?
慾とか、気持ちとか、嗜好を産み出す何かしらののものを言うの?
152 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 19:58:29.88 0
あ、これだと心と同じかい?w
私は男でとかどこどこの誰でとかそういうことだよ。
固定したものじゃない。
会社員としての自我も失職して浮浪者になるかも知れん。
あ、>152は>151か
自分について世界について自分はこういう心をもつという認識も
全部含めて自我だろうね。
いや156は自己かな(笑)
自我とはだれだれの子供だとかそういう社会的役割そのもののような。
そういう自分を客観化して見ているのは自己だろうな。
まさに自分自身のような場所なので自分勝手を自己チューとかいう。
自我とは自己疎外のようなものであろうか?ある意味。
159 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 22:44:06.59 0
自我についての概念が一致しないようだなぁ
自我というのは自分の行動基準みたいなものでいいんじゃないの
男だからあの家族の会社の一員だからこうするとか。
なぜ自我が必要かというとそういう行動基準を持つためだからね。
自己だけでは自閉したままだろう。
マジレスすると「自我」は自分の「中の人」だよね。
162 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 23:04:40.81 0
自我を持てとか、自我の確立とかいうことだけ考えると
対社会的な時分と言う事かぁ
163 :
考える名無しさん:2011/05/02(月) 23:08:37.99 0
いつまでたっても学習しネェな俺とIM
時分→自分
164 :
哲学の神:2011/05/03(火) 01:42:59.12 O
自我とは魂を宿す事
最近、このスレが元気になってきてとてもうれしいのです私は。
やはり古き良き時代の哲板を支えてきたスレの復活は喜ばしいもの。
みなさんどんどん「私」「自我」について書き込んで下さいな。
>>164 自我がはっきりしてくるということは自他の死もつよく意識されるということ
だからね。
古き良き時代ってなんじゃい?
あのひとがチヤホラされていた時代。特に女性には古き良き時代がある。
古き良き時代=哲学最高位全盛時代でしょ
へえ。恍惚としてた人がいるんだ。
171 :
哲学の神:2011/05/03(火) 21:16:22.79 O
>>166 「私」が存在する限り「死」が存在する。
死無くして私は無い。
そういう意味では「私」が最も依存している物、それは死なのかもしれない。
しかし自分の死は語れないからねえ。
いつも語るのは人の死を通してだからね。
私だけだとどうして死を知るんだろう?
>>172 そうですね、「自分の死」は知り得ないことがらです。
単に他人の死を見て、ああなるのだろうと想像するだけ。
知り得ないことだからこそ、皆が考え続けるのでしょう。
死んだらどーなる!?
175 :
哲学の神:2011/05/04(水) 10:05:40.65 O
>>172 >私だけだとどうして死を知るんだろう?
私が死に依存しているというのは「意識的作用」という意味では無く、全く関係の無い、万物を対象に私性として偶像化された単なる共通した点に過ぎないという事です。
例えば、人間の私性と動物の私性は点で言えば同じです。
>>174 死後もこの点は続きます。
死んでから言ってください。
>>175 けっこうこの板にも依存してるのではないでしょうか?(笑)
哲学の神さんが言われる「私」がもしかしたら
「他者そのもの」かも知れないな。
死そのものが他者とも言える。
点のようなところから言葉は送られてくると言ってもいい。
ただ死後もこの点が続くというのはよくわからない。
信仰かな?と思う。
180 :
哲学の神:2011/05/05(木) 13:07:11.20 O
>>178 >「私」がもしかしたら 「他者そのもの」かも知れないな。
これは私の極地と捉らえていいと思います。
あなたの鋭さは私という点の行いが終始明確になった時、私のみの疎外、私への挑発、私に対する劣等感というごくわずかな希少点が客観性を持たずして生まれてくる事に気付くはずです。
>>179 私には生も死もありません。よって点は死後も永遠に続くのです。
ただ、生も死も私からの依存による万物に共通した点があると考えます。
神の極地はガイアという場所にあると聞きます。
さあ、早くガイアをダブルクリックしてインストールするのです、神よ。
僕は死にましぇーん
哲学の神のいう根拠がわからない(笑)
まあ、宇宙の構造をあらしめているものが永遠につづくというのだとしても
それはいまどうでもいいよ。
とにかく哲学の神も「私」はそういうものだと言っているのだし(偶像だ
というのはひとつの働きだといっているのだろう)
最高位のいう「私」が実体でないこともわかった。
「私」というのは結局、自我および自己にもわからない「他者」なのだ。
太陽を我々はいま一つの働きとして見るが
昔は信仰の対象だったのだろう。
観測できないものが存在する証明をした上での会話なのかいチミ達?
そういう仮説を立てないと私たちの心の動きや存在は語れないだろ?
そういう仮説が具体的な理由からおかしいというのであれば
それをいえばいいだけの話
189 :
哲学の神:2011/05/05(木) 20:52:26.20 O
みなさん、もっともっと「点」を通過していきましょう。
さくっと書いてないんちゃうん。
191 :
哲学の神:2011/05/05(木) 20:56:40.68 O
>>183 私自身が自分の言った根拠を点として受信した事はありません。
そういうものです、私性という物は。
観測できないという具体的な理由のせいで、自他で大きく解釈が異なってるんちゃうん。
同一のものが観測の仕方で明確な理由もなく形を変えるのはそもそもの観測の方法に誤りがあるからなんちゃうん。
まずはそこを議論すべきであって、それを素通りで観測結果について議論するなど傲慢を通り越してガイアに毎月10万も芳しいんちゃうん。
193 :
哲学の神:2011/05/05(木) 21:08:58.08 O
>>192 全くその通りです。
叙々に自の私、他の私の両面から及ぼす私性の更なる根幹部に近づいている気がしますよ。
私性って宇宙を子供が同一視してるみたいな言い方だな。
よくわからんけど
私が言いたいのはあなたが哲学の神である根拠がわからんという
その次元のことなんだけど(笑)
点が死んでもつづくっていうけどそれはあなたが死んでも世界はあるだろう
ってこと?あるだろうな。
>>196 なんかそれだと【神】みたいで。
ここのスレ興味ないんだよね。前来たたときもここにレスしてた人に
興味あってその人にレスするために来たけどすぐ退散した。
198 :
哲学の神:2011/05/06(金) 10:01:03.66 O
>>195 >あなたが哲学の神である根拠がわからんという
それは自身の中に沿うもう一つの私を多感的に享受したいんだという矛盾的自己同一によるものでしょう。
>点が死んでもつづくっていうけどそれはあなたが死んでも世界はあるだろう
ってこと?
切望感とは多少違いますが、全ての偶像を固体化させた無機質であり存在価値の無い物を有る物として、結果在しているんだと見出だす気色になってしまう無常だという事です。これは決して吝嗇ではありません。
神以外が神をどの程度真剣に相手してるか知りたいダルダルーション
誰も相手にしてないんちゃうん
神の神による神のための私を記述してみてください。
神は人が作った記号のひとつなんちゃうん。
彼が神を名乗るならそれもまたひとつの私性の現れなんちゃうん。
204 :
哲学の神:2011/05/07(土) 09:25:16.71 O
>>201 自身を卑下する事になりますが、
私そのものが自身を他の私より自の私という物へよりいっそう変えていこうするとする、一種の侵食観念地味たものだと思います。
だからこそ偽りの私が客体化せずして真の私に成り得ないわけで、この偽りの私、真の私が自の私、他の私と相対する分野のみで滞るわけにはいかないのです。
205 :
哲学の神:2011/05/07(土) 09:29:08.56 O
すみません、一つ忘れていました。
みなさん、一度「私」を管理してみてください。客観的に管理するのではなく、あくまで主観的にです。
私はそっとしておくしかないだろうと思うが。
自己によって私を見るということはあるよね。
この自己こそ私の他者性、自我の想像性を教えてくれる。
自己とは自分が何者でもなかったときの名残りと言ってもよいのだろうか?
私、自我とともに生まれた。意識された。
私というのは母親とほとんど二人きりでいるような頃からあったものだから
自我のような個人性、社会性は希薄だね。
208 :
考える名無しさん:2011/05/16(月) 04:08:57.88 O
かなりパンパシー
神に敗北
私とは私自身を見つめている私の存在によって存在する。
私を見ている私、それをみている私の入れ子構造によって、
内容はある程度不定になるがそれが心の正体である。
ゴーウェスト!ゴーウェスト!
212 :
哲学の神:2011/05/21(土) 00:06:21.59 O
>>210 >心の正体
その正体をあがらう物こそが、いわゆる私感の虚勢では無いでしょうか?私感を抑制してこそ真の私性たる付加価値に気付き、その付加価値が当たり前の私として成り得るわけです。これが存在意義の根幹部分です。
ではここで自我についてもう少しかみ砕いてみたいと思います。以前、自我とは魂を宿す事と述べました。
しかし、魂を宿す事はあくまで自我『的分離』であるという事を忘れてはいけません。
この事を忘れた時、私の崩壊、つまりこれは無以上の無になってしまいます…
213 :
哲学の神:2011/05/21(土) 00:11:39.03 O
>>211 あなたの説くウェストとはどこでしょうか?
自我と釜我は紙一重ではないんちゃうん
215 :
哲学の神:2011/05/23(月) 01:20:55.13 O
>>214 自たる我が釜たる我と比べようとするから紙一重ではないと思ってしまうのです。自とする我が釜とする我に相乗したと考えれば、双方共存作用が成り立ちます。つまり、紙一重なのです。
髪一重なのです
218 :
考える名無しさん:2011/05/26(木) 09:03:15.87 O
神に質問です。結局私とは何ですか?
219 :
ネ申:2011/05/30(月) 13:03:38.98 0
はっきり言っておく。
わたしがわたしと言ったとき、
それは全世界である。
かの日には、わたしが父の内におり、
あなたがたがわたしの内におり、
わたしもあなたがたの内にいることが、
あなたがたに分かる。
221 :
考える名無しさん:2011/06/01(水) 11:15:46.01 O
>>219 なんにも分かってねぇwwwwwwwww
223 :
考える名無しさん:2011/06/01(水) 20:17:15.62 0
ヨハネの福音書w
224 :
考える名無しさん:2011/06/02(木) 15:22:42.02 0
「私」とは、固体が自己の感覚を記憶している状態。
記述とは、感覚や記憶等全て言葉による。
言葉とは、物や事象を己や他者に伝える手段。
つまり言葉以外に証明はありえない。
「私」とは言葉から生じるものである故
「私」とははつまり言葉である。と言える。
>>224 う〜ん、それじゃ浅いんだよなぁ…浅い
多分哲学の神って人は、俺の言いたい事分かってると思う
226 :
考える名無しさん:2011/06/02(木) 17:14:57.61 0
>>225 一応正解だと思うけどね、記述という点では。
これ以上掘り下げるっていうなら
生物学とか物理学の領域になるよ。
227 :
ゲーム:2011/06/02(木) 17:37:27.49 0
“私”という記号は、たしかに言葉と呼ばれる。
ついでに時間・空間も、エネルギーも、コップも太陽も…言葉である。
しかし、ここで問われているのは“私”という言葉が指す対象は何か、である。
「私という言葉は私を指している」では答になっていない。
言語化すると形骸化して手垢がついた「私」になってしまうんですよね。
それでも「私」を語らなければならない。
沈黙によって語るという手段もあります。
『私』というのは、ただ恒常的に存在する『・』としての意識ではないのか?
しかし、その意識を見ている『私』は何者だろう?
「「「「「「「『私』を見る私」を見る私」を見る私」を見る私」を見る私」を見る私」を見る私」・・・
では、見なければよいのか?
しかし待てよ、見ても見なくても「・」の意識があるのだから、
見ている私と見られる私が結合したら、超越的事態が起こるのかもしれない。たぶん
230 :
考える名無しさん:2011/06/02(木) 18:12:33.79 0
逆説的にと言えばよかったかもしれないが
私の存在とは何か?どう証明するか?とは「言葉」が存在する故にその疑問が生まれる。
考えるとは言葉であり、思考とは言葉であり、証明とは言葉である。
エネルギーとは力であり、コップとは容器であり、太陽とは星。
物理的ではない思考上の物をある。と証明したいならば言葉を駆使する他ない。
「私」とは人間という種に属する一個体である。と言った場合
何をもってあなたはあなた(私)であるという証明をする証拠にするのか。という疑問が浮かぶ。
通常それは指紋や網膜なんかで照合できるのだろうけれど
隅から隅まで全く同じ体を持つ個体が存在しないとは言い切れない。
そして、いたとしたなら私は私だという証明は出来ないだろう。
5分前に世界が出来たと言われてそれを否定できないように。
だから私の存在、自己とは思考によって生じる「言葉」である。と言える。
兎に角スレタイをスレタイ通りに捉えるなら間違いではないと思うが。
231 :
ゲーム:2011/06/03(金) 16:19:58.24 0
だれも突っ込まないので…(苦笑)
>>230 まず、物理的でないものが「ある」のかどうか。
路傍の石も太陽もコップも物体である。ネコも人間も、そういってよかろう。
これら物体はそれぞれ、私見では“エネルギー”の諸様態である。
もし“エネルギー”によって、すべてを説明できるのなら、唯物論、というよりも
唯エネルギー論は正しいという結論になる。
ところで、これらエネルギーの諸様態は“言語”という記号によって表わされる。
言語は、ヒトの意識から抽出される。意識からどのように抽出され、言葉として
結実するのか、その仕組みはしらない。が、意識→言語は間違いなかろう。ヒト
に特有の機制といってもよい。この仕組みが…
ちなみに「私」とは存在性ではなく、つまり“実体”ではなく、乳児から幼児への
過程において“関係意識”として立ち現われる「概念」と、別のスレで述べたこと
がある。この「意識→私→言語」を物理的に解明できるのなら、唯エネルギー論
の軍門に下ることになる。
むろん、私は抵抗しているのだが… w
232 :
考える名無しさん:2011/06/03(金) 16:40:46.13 0
存在とか思考っていうのが言葉で表記するしかないってことだろ
>>230に対するレスにしても論旨が違うように思えるし
233 :
ゲーム:2011/06/03(金) 16:52:25.66 0
“言葉”が物理的な仕組みによってもたらされたもので、
その生成も、それによる交信も、物理的に説明できるのなら、
言葉は特別なものではなく、それにまつわる一切が物理現象
にすぎないということになる。これが唯物(エネルギー)論。
唯言語論よりも説得力がある。w
234 :
考える名無しさん:2011/06/03(金) 16:58:10.34 0
だから唯物論肯定しるわけじゃないじゃん
存在という概念を記述する術は言葉でしかできない。と俺は読み取ったが?
最近唯物論ちう言葉を覚えたみたいに連呼すんなよ、なんか俺が恥ずかしいだろ
235 :
ゲーム:2011/06/03(金) 17:10:11.98 0
言葉が物質(エネルギー)の様態かどうかを問うているのである。
端的に訊く。言葉は物質・エネルギー(の様態)なのかどうか。
まず、これに答えてくれ。
236 :
考える名無しさん:2011/06/03(金) 17:17:59.97 0
どちらも違うだろう。どちらとも言えるけど
紙に書かれた文字や、音声である空気の振動なんかは、物質・エネルギーではあるわな
物質・エネルギーではない言葉とは、何なのか
>>237 それこそ、「意味」とか「指示されている対象は何か」とかそういう話になっちゃうでしょ。
そうでない場合は、単なる事象に過ぎない。風が吹いているのと同じ、風が電線を鳴らしているのと同じ。
「たぬきうどん」という音声や文字表記が、唯一固定化された何かを、“アプリオリに”指示し得ているかといえば
NOだろう。「りんご」にしろ「みかん」にしろ同様だ。
「ふくしま」という音声だけでは、人なのか地名なのか、はたまた今話題の原発被害地としての福島なのかを
何も限定・特定していない。
文脈や経験・学習なきところに、言語の意味が生じないものとすれば、
我々は、「言葉・言語」と言ったとき、その言葉の指示対象を無意識裡に希求する。
そして、それを「言葉」として受け止める。決して単なる音とは見做さない。
239 :
考える名無しさん:2011/06/04(土) 19:04:20.06 0
それらを踏まえて、「私の存在」を記述する術は言葉に求められるよね。
言葉が単なる音ではないから、何かしらの意味だったり概念だったりする。
「存在」というものが「私」に対する意味であり概念だから、
>>230で私=言葉と記述したんだよ。
言葉の中身はたんぱく質何gとか俺の思考や哲学で、書いてったらキリがないから。
私の存在を証明しろというスレタイだったらまた違った話になる。
240 :
考える名無しさん:2011/06/05(日) 22:10:56.79 0
>>231 気が短すぎ。答えを求めることだけが哲学ではない。
241 :
哲学の神:2011/06/11(土) 05:21:22.28 O
みなさん、もう少し私を浮かせてみましょう。
全ては一つなんですよ
243 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/14(火) 22:12:24.13 0
小学生レベルの基礎からおさらいやな
宇宙ができて137億年とか言われているね
客観的に科学的に考えると
ずーっと物理現象が起こっていただけ
人類が現れたのは宇宙規模、地球規模の歴史からみれば、ごく最近の事であって
当然、私はいなかったわけで
これからも未来永劫ただ単に物理現象が起こっていればいいわけで
人類が生まれても絶滅しても
それは単なる一生物、一動物の種類にすぎないのであって
私など存在しないのが普通に当然の物理世界なのだが
なぜかわからんのだが、ここにこうして私は存在している
「我思う故に我あり」
なんでやねん ゆー話
244 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/14(火) 22:24:51.29 0
本来
Aさんは私ではない
Bさんは私ではない
Cさんは私ではない
Dさんは私ではない
・
・
・
・
と無尽蔵に繰り返されてきたわけで
ずーーーっと無限に「私ではない」を繰り返すべき客観世界でしょう
その方があまりにも自然です
なぜ私などというものが存在しているのか
無から有が発生したのか
でないとすると何なのか
>>243-244 最高位殿!
お久しぶりです!ワーイ(^_^)v
アキレスと亀の件ではお世話様でした、もう5年くらい前でしたね。
「わからないなら病院行け!」と言われたのを覚えています。
なつかしい。あの頃俺は若かった。
哲学を胸にしまい込み、年老いた。
景気はどうや?まあ最高位さんだから何とでもしてるでしょう。
大阪に行きたくなった!!!
246 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 23:01:27.74 0
低能殿 よくぞ帰ってきたな
247 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 23:04:51.50 0
「私は主観性そのものである」
「体は存在性ではないのだ」
「私はこの体かも知れない」
「私は少なくとも人間であり、体と心を持つ」
「私がこの体であるのは当たり前」
ご挨拶がわりに、この不始末を詫びてもらおうか(笑)
おお!最高位さんカムバックですか!
やっぱこの人あっての哲板ですよねえ!
249 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 23:20:24.36 O
客観って良く分からないんだけど、
主観が存在しない世界ってことなら、
その世界は有っても無くても同じじゃない?
観測されない世界ってことなんだし。
もしくは、
私以外の任意の主観が存在する世界ってことなら、
その主観が認識したものなんて分からないのだから、
その世界は私にとって何らかの意味を持ちえないでしょう。
モナドには窓なんか無いんだから。
250 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 23:32:32.29 0
>と無尽蔵に繰り返されてきたわけで
「無尽蔵」wって、おま、お笑いの新ネタか(笑)
「拡散」の意味は憶えたか(笑)
251 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 00:31:55.75 0
>>245 アキレスと亀の時の方ですか^^
懐かしいですね
私は2ちゃんには、めったに来なくなりました
>>247 何が不始末なのですかな?
>>248 いや、カムバックではないと思います(汗
たま〜にしか覗きませんから
252 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 00:41:49.21 0
>>249 そうですね
で、よくわからない というのは何がですか?
>>250 何が面白いのですか??
>「拡散」の意味は憶えたか(笑)
意味は何ですか?
253 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 00:57:03.11 0
>何が面白いのですか??
ぼけてるフリか(笑)
「無尽蔵」というのは、採っても取り尽くせないこと。
無尽蔵に繰り返されてきた(×)
際限もなく繰り返されてきた(○)
>意味は何ですか?
水の中にインクを一滴落とすと、
インクの微粒子が周りにぱぁーっとひろがっていくのが分るだろ。
このように、周りへと散らばる様を言うんだよ。
「核拡散」って、聞いた事ないか?
254 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 01:02:13.67 0
>何が不始末なのですかな?
君の言うことは、チクバグで整合性がないということさ。
255 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 01:16:46.80 0
>>253 人類が滅亡せん限り、人は生まれてくるのだから
過去、未来を通じて生まれてくる可能性は無尽蔵でしょう
そういう細かい事を言うのだったら、過去形の出来事は既に確定しているのだから
あなたの言う
>際限もなく繰り返されてきた(○)
というのもおかしい
あなたは細かい表現にしかケチを付けれんのですかね?
本題を理解し、内容に反論してみてもらえませんか
それは無理ですか?
>このように、周りへと散らばる様を言うんだよ。
で?
256 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 01:36:33.66 0
>過去、未来を通じて生まれてくる可能性は無尽蔵でしょう
>無尽蔵に繰り返されてきた
ふつうは「可能性は無限にある」というんだよ。
資源なんかじゃないんだから。
でな、「可能性がある」ということと、
「繰り返されてきた」ということは異なることだ、くらい分らんの?
>で?
君の言う「ツブツブが拡散する物理世界」を説明してほしい。
>際限もなく繰り返されてきた(○)
>というのもおかしい
事の始めを知っているわけではないからな。
だから、普通に「際限もなく繰り返されてきた」と表現される。
257 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 01:44:32.88 0
>本題を理解し、内容に反論してみてもらえませんか
>それは無理ですか?
>>243 >>244 についてだったら、
「生まれる前の自分」を想定して言ってないか?
と問いたい。
258 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 02:28:46.62 0
>>254 あのねぇ
前後を省略して、どのレベルの話なのかも無視して
別々の話の一部分だけを単に切り取って並べたら
そりゃ通じんだろ(苦笑
特に『私』の本質についてという現代哲学の難しい話なんだからさ
そもそも、そんな単純な思考回路じゃ理解するなんて無理っすわ
259 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 02:29:47.49 0
「何故、私は私として生まれたのか」という問いなら、
>>110で述べているように、小学生がふと疑問に思うようなガキ妄想である。
「どうして、私は、この私として生まれなければならなかったのか?」とか
「べつに他人(この体ではない体)でもよかったはずではないか?」という
ような疑問は、生まれる以前の自分を憶えているのならば可笑しくはないが、
そうでなければ問いとして成立しないことくらい分るだろう。
生まれる前にどこかに居て次々に人が生まれて行く様子を見ていた記憶があり、
そして、気づいたら「私は生まれていた」というのならば、疑問に思っても
可笑しくはないが、
>>244の内容はそういうことを語っているのではないのか?
260 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 02:31:40.02 0
>別々の話の一部分だけを単に切り取って並べたら
>そりゃ通じんだろ(苦笑
じゃ、改めて整合性のある説明をしてみてよ
261 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 02:34:58.99 0
>『私』の本質についてという現代哲学の難しい話なんだからさ
>そもそも、そんな単純な思考回路じゃ理解するなんて無理っすわ
唐突かつ反論にもならなっていない文句だなあ、残念。
262 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 03:42:19.38 0
自分は生まれてから、
自分が生まれる前に生まれた人々があることを知ったのだ。
これは、単に前後関係である。
人が生まれることが不思議でなければ、
なんで、自分が生まれた事だけが不思議であるのか。
263 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 03:46:47.81 0
>Aさんは私ではない
>Bさんは私ではない
>Cさんは私ではない
>Dさんは私ではない
>・
>・
>・
>・
>と無尽蔵に繰り返されてきたわけで
この辺の記述は、
あたかも「生まれる順番待ち」をしている自分が存在したかのようだ。
264 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 04:05:43.65 0
生まれる前の自分が居ないのなら、
「私が存在する」というのは、自分の存在が分るということであり、
問題とすべきは、意識作用の仕組みである。
おまえらバカだな。「私」など存在しないのだよ。
266 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 06:36:06.85 0
「おまえら」など存在しないのだよ。
267 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 07:31:38.54 0
知性がない動物等は自我というか自分という存在を意識するのだろうか
防衛本能とか子供を守る姿を見てるとありそうなものだけど
「私」は存在しない。これはバカには理解できない。
>>267 単純な「自他の区別」「自分と外界」といったものならありそうだけど、
複雑な、「他と違った、特異な、唯一の自己」といったものとなると微妙かも。
たとえば、《「恥じ入る」という感覚を持ち得るかどうか》は一つの指標となりそうだ。
「恥じる」「恥ずかしい」という感覚が生じる爲には、
『(外から)見られている自分』というものが強烈に意識されねばならない。
他と違う、唯一のこの私が、評価の俎上にあがり、且つ、自らも同様に自己を見つめていなければならない。
或いはまた、《「物事の主役、中心たろうとする」かどうか》も指標となろう。
これはまさしく「俺が俺が」という『他と違う特別な自分』が強烈に意識されている状態と言える。
そうした心的作用があってこそ、ここで言う「自我」「私」というものなんじゃないかな・・。
270 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 09:22:42.89 0
>>269 特異な唯一の自己と自他の区別のの違いがよく分からないから
君の言ってる事はちょっと要領を得ないんだけど。
恥ずかしいとかは社会において自分の地位を下に見られたりすると
立場が弱くなるとかその他諸々の悪影響から来る防衛本能だと思うんだけど
ただ複雑化高度化しただけでそんな大層なものでもない気がする。
物事の主役中心たろうとするかどうか、ってよく分からないな。
私は言葉に過ぎないのだから、その動物に私があるかどうかは、彼らの言語に一人称が存在するかどうかで決まる。
犬とイルカの用いる彼らの言語には私という一人称があるのではないかという気がする。
しかし私とか自分とかは単に言葉であって、人間にもイルカにも私は存在しない。
272 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 11:10:11.12 0
>>259 >>262 その程度の理解でしたら反論など不可能ですので
もっと謙虚に、もっと深く考察される事を勧めます
273 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 11:20:48.63 0
>>264 >「私が存在する」というのは、自分の存在が分るということであり、
それは厳密的に言えば別々の話です
自分の存在が分かる には、まず自分が存在しなければならない
主語と動詞の関係であり、「分かる」というのは精神活動にあたる
たとえて言うなら「犬が走る」と同じ
犬が走るためには、まず犬が存在しなければ無理
自我の存在 という事と、自我を意識する という精神活動とを混同している人が多い
274 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 11:27:35.92 0
流れ見てないけどコテ外して物言ってくれないかな?
なんか哲学者最高位というキャラ付けが出来てしまって
客観的に考察するのを邪魔しちゃうんだよね。
自己顕示優先したいならいいんだけどさ
275 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 11:39:37.95 0
>>269 >そうした心的作用があってこそ、ここで言う「自我」「私」というものなんじゃないかな・・。
心的作用というのは精神活動であり、これは「自我意識」という
それは「自我」「私」という存在性による精神活動
「自我」と「自我意識」を混同している人が多い
276 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 11:45:23.01 0
>>274 誰の発言なのかがわかると客観的に考察できなくなる という事の
意味がわかりませんが
逆に私からすれば、あなたに「発言するならコテつけてもらえませんか」とお願いしたいわけで
>流れ見てないけど
人に何かを頼むなら、まず流れぐらい見てからの方が礼儀正しくありませんか?
277 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 12:00:27.32 0
>>276 ああごめんね。今見てきたんだけど私の話には関係無かったわww
哲学者最高位という人物が自分の中で固まっちゃうとさ
嫌いだったら反論したくさせるし、好きだったら肯定したくさせちゃうわけさ。
私はコテが嫌いだから反論したくなるんだけど、そういうの抜きで
ちゃんと客観的に考察するのなんて聖人君子じゃない名無しには難しいんだよ
君は出来るのかもしれないけどね。大多数は出来ないと思うよ
278 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 13:31:46.45 0
>その程度の理解でしたら反論など不可能ですので
>もっと謙虚に、もっと深く考察される事を勧めます
君のあの文章には、
何ら深みのある洞察は含まれておらん。
ガキの戯言程度のものだ。
279 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 13:35:19.34 0
>自分の存在が分かる には、まず自分が存在しなければならない
>主語と動詞の関係であり、「分かる」というのは精神活動にあたる
主語と動詞をおぼえたもので、話したくてしかたがない小学生のようだ
280 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 13:44:55.19 0
>「私」という存在性による精神活動
相変わらず、工夫のない表現だのう。
281 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 14:24:33.49 0
>>277 ちょっと考えたんだけど
嫌いなコテを、複数の名無しで攻撃すれば自分は安全だし
自分は正しい、自分は強い と錯覚できるのではないでしょうか
いわゆるイジメの論理ですね
大多数の人は、こういう事なんじゃないでしょいうか 聖人君主とか関係なく
282 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 14:29:28.68 0
存在と存在しないことが相互に証明し合ってつむぎ出す思弁的弁証法でさえ、
あくまで存在を規定するものにとどまる。
存在を排斥しようと努める否定性も、
存在を排斥した途端、存在のうちに没してしまう。
283 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 15:15:29.61 0
>>278 浅知恵で読むから
>あの文章には、
>何ら深みのある洞察は含まれておらん。
となるんですね
わかります
>>279 何の反論にもなっていない事に気づけませんか?(苦笑
284 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 15:47:06.17 0
>>281 そういう集団心理でもなんでもいいんだけどさ
コテがいることによって大多数がまともに議論でけへんのよ
そのコテを好きにせよ嫌いにせよ。
それは理解できるよね?ならなんでコテはずさないの?
285 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 16:39:40.56 0
>>284 >コテがいることによって大多数がまともに議論でけへんのよ
これが全く理解できない
「議論」には当然「会話の流れ」があるのであって
名無しでは誰の発言なのか、わかりづらい
当然、会話の流れは不自由になり、議論の進行は不自由になる
逆に全員がコテであれば、「議論」という事であれば
その方が機能的に事が進みます
なぜ名無しにこだわるのか
「コテなんてダサい。名無しの方がオシャレ」とか思ってるんですかね?
286 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 16:54:49.67 0
>何の反論にもなっていない事に気づけませんか?(苦笑
君がなにかを論じているわけでもないし、
説明しているわけでもないのだから、反論があるわけがない。
文章の稚拙さと認知症的な反応を嗤っただけ。
>>286 その人、かまってちゃんだから相手にしないほうがいいよ。
永井均を飛ばし読みしただけで全然分かってない勘違い君だから。
288 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 20:05:24.73 0
>>286 内容に関しては、何も反論がない でオッケーかな?
>>287 何がわかっていないのか
それは説明できないんだね(苦笑
290 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/15(水) 20:26:28.18 0
>>289 悪いけど、私は永井さんの本を読んだ事がありません
>>290 そうですか、それにしては
>>243の文章は似てるように思いました。
ところで、私から見れば、あなた(と言っても実際に見ているのはこのスレ内の
文字列だけなので、どこかにいらっしゃる他人なのだろうという推測ですが)は、
単に人間の一人であって、物理的に説明でき、特別な謎はないようにも思えるのですが。
292 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 21:03:09.39 0
>内容に関しては、何も反論がない でオッケーかな?
これといった内容があるわけではないしね
293 :
哲学者最高位:2011/06/15(水) 21:05:02.48 O
よく言われます
主観性に関しては、他人を分析するのではなく、自分自身をサンプルにする以外ないですね
294 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 21:49:42.01 0
永井語録
・<私>が存在しているということは、究極の奇跡である。
・他の人にはわからない自分だけの問題というのが問題だ。
・’われ思うゆえにわれあり’の’われ’って何だ?はわかっていない。
・自分とまったく同じ人が別にいたとする。それでも根本的な違いはあって、
生物的にも同じでも’わたし’の存在は異なる。
私のコピーが100人いても’わたし’はひとりだ。
・自分の構造を他者の中に作ってしまう。もしかしたら現実は、
他者も認めましょうという契約のようなもので成り立っている?
>’われ思うゆえにわれあり’の’われ’って何だ?はわかっていない。
われなんか存在しませんから
へえ、あなたは存在しないんだ
まあ私は存在するけどね
297 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 23:49:55.31 0
われ=あなた らすい
298 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 03:12:39.63 0
>>285 なぜ名無しにこだわるのか
「コテなんてださい。名無しの方がオシャレ」とか思ってるんですかね?
議論するのが難しくなるっていうてますやん。どっからそんな意見持ってきた?
名無しでは誰の発言か分かり辛いっていうけど
自分に対するレスについて自分の意見を述べていけばいいんだから
差し障りないと思うよ。というか差し障り無いよ。
君も自分で認めてるけど、イジメの心理みたくコテが攻撃されるのなら
議論の進行妨げてることになるよね?
もう後に引けないとか意固地になってるんだろうけれど
他者の考えを享受する事は大事だと思うよ。
299 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 03:24:16.66 0
コテを名乗るかどうかなど本人の勝手
「コテ名乗るな」とか言い出す方がおかしいんだよ
コテだと何で荒れるんだろう?
おそらく固有の名前があると、自我が強くなって意地になっちゃうからだろうね。
俺が俺が、と意地になって柔軟性が無くなってしまう。エゴに執着してしまう。
301 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/16(木) 07:52:27.81 0
>>298 >自分に対するレスについて自分の意見を述べていけばいいんだから
>差し障りないと思うよ。というか差し障り無いよ。
ひとつの事柄について、いろんな角度から根拠を挙げて説明したり
連続性をもたせて意見を述べていく事が困難になるのですよ
また
例えば、あなたがひとつの書き込みに質問したとして
それに対して第三者がハチャメチャな回答をしていても
それをあなたが本人の回答だと勘違いする場面も十分にありえます
全て名無しなのですからね
そんなんでマトモな議論だと言えるのですか?
普通は、何かを説明しようとしたり議論をしようとする場合
「全員でハンネを付けましょうや」と言うのがマトモな感覚だと思いますが
302 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 12:11:12.95 0
>>301 第三者〜は一理あるというか、第三者の理論武装がどんなもんか分からんから
レスするの面倒になるけれど、面倒なだけで第三者とも話していけばマトモな議論になるよ
君のレス見てると一部抜粋して反論出来る部分だけレスしてるように思うんだけどさ。
無視してるコテがいると否応なしに荒れるという部分と、コテがないとマトモに議論できないという部分
全体としてどっちを生かすほうが議論の弊害が少ないんかな。
後者はちょっと整合性ない気もするけど・・・
303 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/16(木) 15:50:18.73 0
>>302 いやいや
問題は、本人なのか第三者なのか区別が付かないという事
キミも私の過去の書き込みを明確に区別できるから
>君のレス見てると一部抜粋して反論出来る部分だけレスしてるように思うんだけどさ。
という事が容易に言えるのであってね
これが全て名無しであった場合
もしかすると本当は
>>243だけが私の書き込みで
あとは全て別人の書き込みなのかもわからんのだよ
また、Aさんの書き込みなのか、Bさんなのか、はたまた第三者CなのかDなのか
悪意がなくても、判断に困る場面が多々あります
いずれにせよ、会話するのにコテ無しの方が不自由なのは当たり前
それがマトモな一般人の感覚
304 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/16(木) 15:54:09.07 0
荒れるというのは、また別の原因
聖人君主じゃないから嫌いなコテを(名無しで無責任に)攻撃したくなる
という事ですから、名無し側の心的問題が大きいのでしょう
キミのすべき事は、どちらかと言えば、自らへの戒めと
そういう名無しで荒らす人への注意勧告なのではありませんか?
最高位よ、聖人君主じゃなくて聖人君子だぞ。どうでもいいがw
>all
もうご存知ない人が多いようだが、このスレはそもそも機械の決定論スレから
この哲学者最高位という人物を隔離するために立てられたものだぞ。
だからどうしろということでは全くないが。
306 :
哲学者最高位:2011/06/16(木) 19:30:38.69 O
ホンマや
こりゃ失礼^^;
307 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 20:44:50.87 0
訳ありのスレだったのか。
反発しないところをみると、当人も“隔離”を了解しているんだね。
永井均を飛ばし読みして勘違いした
>>304さんが
妄想を書く隔離スレだった。
310 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 00:13:02.30 0
と、妄想した
>>309さんが来るスレじゃないかな(笑
何がどう勘違いなのか根拠を具体的に説明してごらんよ
隔離スレっつったってね
べつに隔離なんてできるわけないだろ
久しぶりに2ちゃんに来たから
あんたらの頼み通りに、善意でココに書いてやっただけなんだがね
どうもキミらは、私の書き込みから永井先生を連想するみたいだが
そんな勝手な妄想をいだかれても知らんちゅーねん
311 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 00:19:02.18 0
>あんたらの頼み通りに、善意でココに書いてやっただけなんだがね
一部のファンはいると思う。
しかし「あんたら」には
>>309さんも俺も含まれていない。
あなたが勝手に妄想を抱いているだけですよ。
312 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 00:24:46.42 0
>>245 は最高位のファンなんでしょ。出てくればいいのに。
ただの冷やかしかなぁ?
>>312 議論に関わってきた者は、もう、この先ループにしかならないことが判ってるからね・・。
大概の論点、つまり「最高位陣営の主張とその不備」も「反対陣営の論拠や異論提示・指摘」も
出尽くしてるからね・・。
そうでない論点は、普通の哲学的議論だし、わざわざこのスレですることでもない。
スレタイと絡めて、このスレを(新規の議論場として)新たに生まれ変わらせるつもりなら、また別だが・・・。
314 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 00:50:31.78 0
>出尽くしてるからね・・。
そうか。繰り返し繰り返し同じようなことやってんのね。
315 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 01:05:16.18 0
>>313 ループというか、単に
私が説明する→理解できない→私が説明する→理解できない→・・・・・・
の繰り返し なんだけどね(苦笑
まぁ普通に頭のいい「理論武装した唯物論者」は2ちゃんにも見かけなくなったし
当初の目的は達成したと言えるから
あとの何度説明しても理解できない人(元々論理を理解していない人)に関しては、ほぼあきらめてる
316 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 01:16:58.50 0
>>311 >しかし「あんたら」には
>>309さんも俺も含まれていない。
キミは309さんの事までわかるの??
なんで?(笑
つーかね
キミら全員、名無しなんだから
私にすれば、どれが誰だかわからんのだし「あんたら」としか言いようがないわけ
キミが「俺」と言ったって、こっちからすれば「誰やねん」て感じなんよ
キミの他の書き込みが、どれなんかサッパリわからんわけ
名無しのくせに自意識過剰なんやな(笑
317 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 01:21:00.12 0
意識とか、精神とか、自我とかいうような多義性のある言葉を多用したり、
独特の言い回しや用語に始終すると理解されない場合が多いと思います。
318 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 02:23:05.74 0
>>317 まぁそうですね
だから、いろんな角度から小学生でも理解できるようにと
いろいろ工夫して説明してみたんですけどね
5年以上もかけて(苦笑
それに私の書き込みって、こんなわかりやすい文章ないと想いませんか?
マトモな人で、理解できないとしたら
それは意識的に理解しないようにしてるとしか考えようがありません
みんな自分ではそう思っている
320 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 02:52:48.13 0
分かりやすい内容だとは自分でも思ってないでしょ?
322 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 03:04:28.15 0
じゃ 小学生にもわかるように
>心的作用というのは精神活動であり、これは「自我意識」という
>それは「自我」「私」という存在性による精神活動
の説明をお願いできますか?
323 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 03:59:54.27 0
>>303 普通はレス追ってけばわかるけどね、相手間違えても考え直せばいいだけだし
誰がっていうのはそんなに重要じゃなくて、そいつが言ってる事が大事だと思うんだけど。
論>論者だって思わない?
元々君の隔離スレみたいだし、私の問題提起を無視するくらいだから
まともに議論する事は難しいんだろうね。
正直
>>304の荒らしへの注意勧告って、今このレスが該当すると思うんだけど
荒れる原因の排除という点でね。
それからコテを攻撃したくなるっていうのは私が言ってる事とは違うけど
自分でそう思ってるんじゃないの?
自らの戒めはシャレなんだろうけど、全体的に読解力が無さ過ぎるよww
本をもう少し多めに読んだ方がいいかも
その人相手しないほうがいいよ。
一日中2ちゃん荒らしてる廃人だから。
325 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 09:16:57.82 0
>>323 >普通はレス追ってけばわかるけどね
名無しのレスは、どうやって追うのですか?(笑
>そいつが言ってる事が大事だと思うんだけど。
そいつが「言っている事」を追わないと議論に ならんでしょ
名無しだと、それが不自由になるんだよ
コテ付いてる方がわかりやすいでしょ 便利でしょ
なんでそんな簡単な事がわからんかなぁ・・・
>私の問題提起を無視するくらいだから
私が無視したキミの問題提起って何?
こうやって、ちゃんと付き合ってあげてるつもりだけど
326 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 09:23:47.65 0
>>323つづき
>正直
>>304の荒らしへの注意勧告って、今このレスが該当すると思うんだけど
あのね、
>>304みたいな短い書き込みぐらい理解してよ
>>キミのすべき事は、どちらかと言えば、自らへの戒めと
>>そういう名無しで荒らす人への注意勧告なのではありませんか?
と、「名無しで荒らす人への注意勧告」と書いてあるでしょ
なんで「304の、荒しへの注意勧告」をコテにしてるわけ?
ハンパなく読解力なさすぎ
もう少し、国語を勉強した方がいいかも
327 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 09:29:05.06 0
更に
>>323つづき
>それからコテを攻撃したくなるっていうのは私が言ってる事とは違うけど
あれ?
>>277はキミの書き込みじゃないの??
あれには>私はコテが嫌いだから反論したくなるんだけど
と、「論>論者」の「論」と関係なく、好き嫌いで反論したくなる と書いてあるわけだが
どういう事??
>>243-244 >なぜかわからんのだが、ここにこうして私は存在している
>なぜ私などというものが存在しているのか
神様がお創りになられたからです。
なくてもよかった世界があり、いなくてもよかった私がいる。
無から有が発生したのは、それが神様の意思だからです。
そうでなければ世界と私が比類なき存在であるはずがありません。
テーブルの上に紅茶が置いてあるので、紅茶以外が無いこととか
モルモン教の信者なので紅茶が置かれる確率が極めて低いとか
どうしてコーヒーではなくて紅茶なのかという問題ではありません。
329 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 11:28:56.96 0
>>327 もう文盲だから放っとく事にするけど
この状態が荒れてるかそうでないかでいうと荒れてると思うな。
まぁそれより留意すべき問題があると君は言ってるけど、どうかな。
>>227は私だけど、
>>304で君が扱ってるのは私個人じゃなく名無しについて
だから私が言ってる事とは違う。
>>326についてもし君が理解できないのなら
君は議論というものを少し分かってないんじゃないかな。
自分の論と相手の論を理解した上で文章読みとるものだけど、私の言ってる事について
全て否定するというなら、平行線を維持する君とは相容れないだろね。
>>327で私のレス追ってるように、レス追うのって無理じゃないでしょ?
>>325で言うようにコテ付いてた方がわかりやすいってのも分かるけど。
私の問題提起を無視というのは
>>302に対する
>>303のレスで
いやいや問題なのはから始まる文章。これを理解できないならちょっとコミュニケーション取れないかも・・・
読解力云々言われたから言っちゃうけど私は言語学の博士持ってるよ
聖人君主とか言う君に国語の勉強したほうがいいと言われるなんて心外だな。
330 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 11:31:16.97 0
329さんがコテを相手にしなければ無駄な書き込みが減るのでは?
という↑この書き込みも無駄ですが。
332 :
哲学の神:2011/06/17(金) 12:31:37.08 O
>>243 それはつまり、あなたの「私」とは、所詮『私』という空間で停止しているに過ぎないという事です。
私を無機質な物として表す事が既に無ではありません。
それを中核と成す、有の存在を浮き彫りにする事が偽の私になり、偽の私の空間に留め、それをまた無機質な物として認識すればそれは全て無の自由が連結していきます。
従って
>>241で
>私を浮かせてみましょう
と述べるに至るのです。
333 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 13:36:11.33 0
>私は言語学の博士持ってるよ
ほう!それは頼もしいですな
>
>>277は私だけど、
>>304で君が扱ってるのは私個人じゃなく名無しについて
>だから私が言ってる事とは違う。
はぁ?キミ個人を含めた名無し全般にであり、主にキミ個人について なんだがね
私はキミの
>>277の「私はコテが嫌いだから反論したくなるんだけど」
という告白に基づいて
>>304を書いているのだからね
あと一番答えて欲しかったのは
>>327なんだよね
キミは人に対して「論>論者」であるべきだと言いながら
しかし「私はコテが嫌いだから反論したくなる」というふうに
自分がコテに対してする荒し行為は、やむをえないという論を展開している
333さんが名無しを相手にしなければ無駄な書き込みが減るのでは?
という↑この書き込みも無駄ですが。
「私」なんか存在しないよ。馬鹿には分からないけどね。
336 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 17:24:00.99 0
>>333の続き
>私はコテが嫌いだから反論したくなる
というのは
「論」ではなく、明らかに「論者」を対象にしていますよね
どういうことですか?
私は名無しに対して不便さは感じるけれども
相手がコテであろうが名無しであろうが、ほとんど気にしないで
内容に対してレスしていますが
「コテが嫌いだから反論したくなる」というあなたが
人に対して「論>論者だって思わない?」と問いかけてるのには、とても矛盾を感じます
言語学的には、どうなんでしょうか博士
337 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 18:23:21.99 0
博士へ
流れをチョー簡単にまとめてみた
博士:コテは標的になってスレが荒れるから、名無しになれば?
俺もコテ付けてるヤツって、嫌いだから反論しちゃうんだよね
私 :俺は荒れてるとも思わないし、だいたい名無しだと議論がやりにくいでしょう
博士:やりにくいのは理解できるけど、荒れるよりマシじゃね?
私 :いやいや、コテっていうだけで嫌って荒らす気持ちが理解できんね
荒らす側に問題があるんだから、そっちでなんとかしてよ
338 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 18:27:57.36 0
続き
博士:読解力ないなぁ・・本をもっと読んだら?
私 :うっせー!コテというだけで荒したくなるのをなんとかしろよ
博士:それ俺じゃないだろ。キミは議論というものを理解できていないんじゃないかな
私 :え?
>>244はキミじゃないのか?
博士:それは俺だけど、荒れるよりマシなんだから、不便は我慢すべきでは?
私 :おいおい、簡単な会話ぐらい理解してくれよ。国語を勉強しなおせ
博士:俺は博士だぞ
私 :コテというだけで反論したくなるヤツに
論>論者じゃね?なんて言われたくないんだよ
問題は、あんたら名無しで荒らす連中にあるんだから自覚しろよ
こんなかんじかな
339 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/17(金) 18:31:10.00 0
340 :
名無し:2011/06/17(金) 22:49:18.56 0
>>339 余計な干渉だけど
あなたへのレスがいっぱいきているようですが、もうどうでもよくなっちゃいました?
聖人君主てwww
頭悪い・・
こいつ中卒じゃね?
342 :
最高位学派:2011/06/18(土) 00:38:25.30 0
>>312 そんな暇じゃねえんだ。
最高位氏は持ち前のおちょくりで大抵は喧嘩になるが。
言ってることは昔から『私』の存在性。
343 :
考える名無しさん:2011/06/18(土) 03:42:53.31 0
舐め犬
『私』の存在性とはいったい何ですか?
馬鹿の妄想です
私は哲学板で最初に見たのがこのスレで、しばらく話していたら、
最高位さんに「お前はコテをつけろ」と言われたのでコテになったんです。
もう4年前の話ですよ。
347 :
考える名無しさん:2011/06/18(土) 18:54:05.19 0
で?
最高位は病院とドラクエが好きなイメージ。
349 :
考える名無しさん:2011/06/18(土) 20:56:48.03 0
構造主義は主体を否定した。
主体の裏に構造があるとし、構造が社会を規定しているとした。
つまりは実存主義を否定した
350 :
哲学の神:2011/06/19(日) 00:27:02.86 O
>>344 >『私』の存在性とはいったい何ですか?
[私の存在性とは何か?]に対してはこう答えるしかありません、
…「物」だ、と。
しかし、
[私の存在とは何か?]に対しては前から申している様にこう答えます。
『点』である、と。
>『点』である、と。
「私」は体積、面積、長さをもたないから、その意味では「点」と同じだが、
しかし「点」は空間における正確な位置を持つ概念であり、その意味では「私」とは違う。
「私」は「点」ではない。「私」は存在しない。
台風の目の正確な位置
353 :
だび:2011/06/19(日) 13:30:18.81 0
【ここ】は近称である。
【ここ】があるのは基点となる体(自ら)があるからである。
体(自ら)が存在しなければ、指し示すことのできる【ここ】は存在し得ない。
指し示す事の出来る【ここ】の空間的なスパンはさまざまだが、
相手も、自らも体であるから、相手の言う【ここ】と
自らの言う【ここ】が異なる場合があるということを承知している。
何ら指し示す事の出来ない【ここ】が体(自ら)に先んじてあるわけではなく
それゆえ、何かしらの力が働いて【ここに居る】と思うのは、妄想である。
>>350 レスありがとうございます。
>…「物」だ、と。
性質が「物」とはどいうことですか?
>『点』である、と。
いるともいないとも言えないということですか?
355 :
考える名無しさん:2011/06/19(日) 21:35:11.86 0
はっは
やはり最高位の言ってることを理解できてた奴は少ねえなあw
356 :
考える名無しさん:2011/06/19(日) 23:34:28.87 0
最高位の言ってることを理解するスレッドじゃないでしょ
君たちはいつもそうだね。
真意が伝わらず、決まって同じ反応をする。
わけがわからないよ。
358 :
考える名無しさん:2011/06/21(火) 09:56:04.02 0
>【私】は、どこまで肉体に依存するのか?
人間が「私というもの」は肉体であらねばならない。
つまらない答えではあるが。
359 :
考える名無しさん:2011/06/21(火) 12:45:12.93 0
>>357 おのおのの自我の発動を考えるとわけがわかるよ。
『私』とは、【ここ(一人称)】から見える
【ここ(一人称)】と【そこ(二人称)】の交換可能性であり、
【ここ=【ここ+そこ】(一人称)】と【あそこ(三人称)】の交換可能性である
つまり、『私』は【ここ(一人称)】から『私』を『あなた』および『彼れ』
として見る存在である。
361 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/21(火) 19:36:02.78 0
>>360 『私』が存在しているからこそ「ここ」と言えるのであってね
「ここ」と認識するから『私』である
というのが解答だと考えているならば、それは主客転倒だと言えます
まず、『私』が存在している事に関して
「あれ? あれれ??」という疑問を感じない人は
現代哲学的な問題意識を理解していない人だと言えます
それは、問題を理解しないまま
問題を勘違いしたまま
問題を解こうとしている姿そのものです
362 :
Q:2011/06/21(火) 21:01:33.93 O
最高位以外、誰も疑問を感じない
>>361 『私』が存在している事は疑いのない事実なので、
そこに疑問を感じる人は頭が悪いです。
364 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 08:25:00.27 0
>>363 >『私』が存在している事は疑いのない事実なので、
その通りですね
ですが何故『私』などというものが存在しているのか
というのが問題です
普通に考えて
過去において、ず〜っと存在しなかったわけですし
これからも、ず〜っと存在しなくても、その方が自然じゃありませんか?
今も、「私の体と同じ要素を持った、『私』でない人」であっても
その方が、あまりにも自然です
この体は、その他の人達の体と比べて、特別に特殊なわけではないはずでしょう
なぜ『私』などというものが存在しているのか
それが問題です
365 :
だび:2011/06/22(水) 11:27:28.23 0
>>364 >過去において、ず〜っと存在しなかったわけですし
そう考えているあなたがすでにいるということですよ。
あなたが存在し生年月日を知る事で、あなたより先に生まれた人や
あなたより後に生まれた人が存在する事になる。
もちろん、このように書いている私も事情は同じです。
>ず〜っと存在しなくても、その方が自然じゃありませんか?
「その方が自然である」という理由はなんでしょうか?
自然に反して「私」が存在しているということでしょうか?
自分の存在が分らないほうが不自然であり、病的ではないでしょうか?
「そんなこと言ってるんじゃない」とすればどういうことでしょうか?
>この体は、その他の人達の体と比べて、特別に特殊なわけではないはずでしょう
体が特別に特殊だから自分なのだと言う理屈もないでしょう。
「この体が何で私なんだ?」という問題意識は、
自分の存在が分るシステムがこの体に在るとは思えないということではないですか?
366 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 15:41:31.37 0
>>365 >そう考えているあなたがすでにいるということですよ。
そう書いてありますけど?
>「その方が自然である」という理由はなんでしょうか?
ず〜っと存在しなかったんだから
同じように、ず〜っと存在しない方が、より自然だと考える方が、より自然でしょう
>「この体が何で私なんだ?」という問題意識は、
何度も言いますが、問題が理解できていないのに反論しようとする人が多過ぎます
問題の根底は「なんで私は存在しているのか」 ですよ
これをすっ飛ばして、「私が存在している前提」から出発しちゃうと理解できません
とにかく、みんな誤読が多いです
ゆっくりと、よく考えて下さい
「とにかく反論しなきゃ」という姿勢では、あさっての方向へ行くだけで
一生、問題が理解できないままになりますよ
367 :
だび:2011/06/22(水) 16:13:53.39 0
>ず〜っと存在しなかったんだから
>同じように、ず〜っと存在しない方が、より自然だと考える方が、より自然でしょう
「ず〜っと存在しなかった」というのは自分の存在が分かってからのあなたの判断でしょ。
自分が存在する「以前」「以後」という区別は、自然の中にはない事が分りませんか?
そういうふうにあなたが「世界を過去・現在・未来と分けて考えている」ことが分りませんか?
こんな事も理解できないとは驚きを禁じえませんね。
>問題の根底は「なんで私は存在しているのか」ですよ
あなたの母親が性交して妊娠し、あなたが生まれたからですよ。
他にどんな答えを求めているというのですか?
369 :
だび:2011/06/22(水) 16:27:16.94 0
>これをすっ飛ばして、「私が存在している前提」から出発しちゃうと理解できません
反対です。
あなたがすでに「私が存在している」というところから出発して考えるから
>ず〜っと存在しなかったんだから
という認識になるのですよ。きわめて簡単なことです。
370 :
新参者:2011/06/22(水) 16:47:06.50 O
え〜、始めまして。
ちと、思う所があったので書き込みを。。。
「私がずっと存在しなかった」云々のくだりですが、では、自らが生まれるより以前、また死んでから以降の私以外のモノの存在も無かったのではないか? と言えるのではないでしょうか?
「私がずっといなかったのに、何で今私がいるのか」ってのは、私がいない時もずっと私のいない世界があったって事を前提に話されてるように思いましたので、、、。
まあ、私自身「自らが生まれてきて、周りを認識した瞬間に世界も生まれたんだ〜」なんて、思っちゃいませんが、、、。
なんにおいてもですが、なにかを証明しようとすれば、ある種、限定的な条件がついて回る訳で、こと哲学の、しかも私自身についてなんて論じれば、どこかに穴があったり、また別の事を証明しないといけなかったりで。
まぁ、そんな議論が楽しい訳ですが。
あたくしは無学な人間ですんで、難しい言葉はさっぱりですので、上の解釈が間違えていたらゴメンナサイ。
長文失礼しました。
371 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 19:54:34.35 0
>>367 キミのは名詞としての「自然」
私が使っているのは「形容動詞」としての「自然」
「自然に、そうなる」とかのね
>>368 母親を、単に「Aさん」と考えると
客観的に考えて
AさんからBさんが生まれたわけだが
なんでBさんが『私』であったのか という問題
>>369 ん? 会話が成立してないんですけど・・・
私の言った
>>これをすっ飛ばして、「私が存在している前提」から出発しちゃうと理解できません
の『これ』は何を指しているか、わかりますか?
372 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 19:58:48.35 0
>>370 そうですね
ある程度、何かの前提条件はついてまわりますね
ただ、「私はずっといなかったのに・・・」などというのは
単にそういう説明を加えた方が、わかりやすいかな と思って付け足しているだけで
べつに証明するための論理を展開しているわけではないのですよ
「こういう問題がありますよ」という事を説明しているだけです
「その問題とは何か」 という『本題』を考えず、枝葉の説明文にばかり関心を持ってしまう人があまりにも多いです
世の中には世界5分前仮説なんてものがあったりしますが、
私が生まれる以前は世界はなかったって理屈はありえないですよね。
私の母親と父親も彼らの親から生まれて育って来たはずなんだから、
それらを否定することは自己の存在を否定することになります。
374 :
だび:2011/06/22(水) 20:25:54.72 0
>>371 >私が使っているのは「形容動詞」としての「自然」
>「自然に、そうなる」とかのね
「ず〜っと存在しなかったんだから 」ということを理由に
そのまま自分が存在しないままで世界はあるはずだと考えるのが自然であるなら、
「ず〜っと長く生きて存在していたんだから 」ということを理由に
このまま自分が居る世界がず〜っと続くはずだと考えるのも自然な考えでしょうか?
あなたは別の話だと退けるかも知れないが、類推しうる「共通点のある話」だと思います。
あなたは「普通」とか「自然」という表現を好んで多用しているようですが、
「自然な考え方」が「自ずと導かれる」正当かつ妥当な考え方を意味するのであるのなら、
その根拠を示す必要があるのではないですか。
375 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 20:48:11.30 0
>>374 そんなにムキになるような、堅苦しい話ではありませんよ(苦笑
「そういう風に考える事はできませんか?」ということを言っているだけです
たとえば、自分が存在しない世界を想像する事すらできない人がいるならば
それは
できない人にはできないんでしょうから、想像できないものを想像しなさい と言っても無理な話で
そういう人は、理解に至る事は無理でしょうね
というだけの話です
376 :
だび:2011/06/22(水) 21:06:09.87 0
>問題の根底は「なんで私は存在しているのか」 ですよ
どのように感じ何を考えているかが分る存在が自分であるなら、
「なんで自分が存在しているのか」という問いは成立しないだろう。
人は起きていればおのずと「現にこうしている自分の存在が分る」わけで、
「何故、・・だったのか」と表現されるような自分は自分が見いだし得た過去の自分にすぎない。
人は出来事の発生を考えるにしてもアバウトな原因や理由、経過しか見いだせないのであり、
いくらつぶさに説明する人がいたとしても「なんで、それがこの出来事なのか」と問えない事はないのである。
つまり、「現に在るありありとした在り方、有り様」は共有し得ないのである。
377 :
だび:2011/06/22(水) 21:46:53.81 0
>>375 >そんなにムキになるような、堅苦しい話では
> 自分が存在しない世界を想像する事すらできない人がいるならば
結構楽しくレスさせていただいておりますが、
あなたに現代哲学のなんちゃらと言われれば、
もっとムキになって挑みたいのですが、間が抜けてる感じなのです。
あなたに「自分が存在しない世界を想像する事ができませんか?」と問われれば
私は自分が存在しない世界を想像する事ができると答えることができるけども、
「自分が存在しない世界」となると自分が「概念化」した世界になってしまうのです。
つまり、自分が存在する「以前」「以後」に世界を分けて考えることはできるけども、
自分で分けておきながら「どうしてこうなんだ?」「何故こうなった?」というような
自演自作的な問いかけにしかならないでしょう。
378 :
だび:2011/06/22(水) 21:56:26.81 0
自作自演でしたね。
379 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/06/22(水) 22:01:46.56 0
私の心は他人を含んで成立している。他人に心がないと仮定すれば、私の心も、他人にとってみれば存在しない。
したがって、 私と他人は同じ原理に従って生きていなければならない。「私」意識の要素である、
自分の声、自分の視界等は、他者の声、他者の瞳によって、独在性を反駁される。
私の理解する他人、他人の理解する私、私の理解する私、の三様態がある。
>>364 >ですが何故『私』などというものが存在しているのか
>というのが問題です
それは問題ではないんです。あるものはある理由なんてないわけです。
そこに気が付かないで無駄な疑問を感じる人は頭が悪いのです。
もし問題だとすれば、それはWhyではなくHowが問題なんです。
>過去において、ず〜っと存在しなかったわけですし
いいえ。
>これからも、ず〜っと存在しなくても、その方が自然じゃありませんか?
いいえ。
>なぜ『私』などというものが存在しているのか
>それが問題です
問題ではありません。貴方が購入したある本は、他の人が購入した本と同じなのに、
なぜ私のものなのかというくだらない疑問と同じです。
381 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/22(水) 23:07:40.84 0
>>376 >つまり、「現に在るありありとした在り方、有り様」は共有し得ないのである。
在り方、有り様 の話ではなく、純粋に「在り」 という事についての話ですよ
「存在」という事と「認識」や「状態」などを混同しているようですよ
>>377 >もっとムキになって挑みたいのですが、間が抜けてる感じなのです。
というか、的外れな事柄に対して、えらく大袈裟でしたけどね
要点が理解できていないから間がぬけているように感じているのですよ
382 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 00:07:17.58 0
>>380 >それは問題ではないんです。あるものはある理由なんてないわけです。
何かの宗教ですか?
>>過去において、ず〜っと存在しなかったわけですし
>
>いいえ。
え? 過去においても、ず〜っと居たんですか??
いつから?
>問題ではありません。貴方が購入したある本は、他の人が購入した本と同じなのに、
>なぜ私のものなのかというくだらない疑問と同じです。
全然違いますよ
「私の本」というのは、法律的な約束事なのであって
人間の観念的な価値観によって、それをそう認識している人が、そう思っているだけです
また本自体が、人間が価値観によって、そう思っているだけで、紙の束であるとも言えますし
もっと言えば、懐疑論的に考えれば、それはそもそも存在するのか?と考える事も「可能」な存在です
絶対的に、私の本 という存在ではないのです
一方、『私』というのは懐疑論的にも疑いえない存在です
そういうものを一緒くたに考えるのは、あまりにも短絡的であると言えるでしょう
383 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 00:22:17.12 0
>>380 というか、「私の本」というのは
買ったからとか、もらったからとか
通常は、それなりの理由があるじゃないですか(笑
>なんでBさんが『私』であったのか という問題
↑
これは単に問いが間違っているだけです。
あなたが『私』と呼ぶあなたが存在するのは、あなたの母親が
あなたを生んだからで、あなたがBさんであるか、Bさんんでないか
という問いとは無関係です。
>>382 >何かの宗教ですか?
存在に理由を求めることが宗教なんですよ。
>「私の本」というのは、法律的な約束事なのであって
全然違いますよ。法律に関係なく、
他人が手に取っている本ではなく、「貴方が手に取っている「本」なのか」というのと同じ問題だということです。
>人間の観念的な価値観によって、それをそう認識している人が、そう思っているだけです
そういう話ではありません。
>一方、『私』というのは懐疑論的にも疑いえない存在です
ですからこれと同じ話です。
>そういうものを一緒くたに考えるのは、あまりにも短絡的であると言えるでしょう
それは君が問題点を理解していないだけ。
>>383 そういう話ではなく、その本はその位置にあって、他の本の位置にないかと同じ問題ってことです。
387 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 00:33:18.08 0
>>380 理由もなしに「私の本」だ
なんて言ったら
それこそ「アホですか?」と言われちゃいますよ(笑
>>387 それは所有権の話であって、存在性の問題ではありません。
意図的に誤読している卑怯者か、本当にわからないバカか、どっちなんですか。
389 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 00:39:35.76 0
>>386 いやいや
それはビッグバンの時に物質が、こういう風に飛び散って
最終的に地球上の本の材料になって
更に製本会社が作成し
出版会社から本屋に行って
それを買った人がここに置いたから
この位置にある
というように、必ず理由がありますよ
>>389 それは存在性の理由ではなくて、構成要素が集まってきた原因の話です。
391 :
だび:2011/06/23(木) 00:55:04.33 0
>>381 >要点が理解できていないから間がぬけているように感じているのですよ
「要点が理解できていないからそう感じるのだ」といいますが、
あなたの言いたいことの要点は「なんで私は存在するのか」という問いでしょう。
しかし「この体、この思いがあり、これは私のことだ」と分ることと、
まさにこうして私が存在しているということに何ら矛盾が見いだせないならば、
「自分(私)が存在する」ことにどのような「納得しがたいこと」があるのだろうか。
自分(私)の存在は、与えられた役柄ではないので「どうしてこうなった? 」と問うわけにはいかない。
「ず〜っと存在しなかったのに・・」ということについては、すでに指摘した通り変な理屈です。
あなたは私の指摘に対して「そういうことではなく、こういうことだ」との説明をしません。
あなたのいう「なんで?」がそういうことではないならば、その説明が必要です。
「なんで私は存在するのか、なんだよ」との漠然とした問いを繰り返すだけでは駄目なのです。
392 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 01:58:58.66 0
【私】とは「真我」である。
それは誰のもの、何処にあるもの、というものでなく
至る所に現在している。
394 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 10:24:30.05 O
>>389などを見る限り、最高位氏はとても素朴で無邪気な世界観に基づいて話をしているのだろうか。
世界に対する態度はあたかも箱庭を眺める子供のようで、【私】はその世界からは除外されている。
そもそも【私】が想定されていない箱庭を眺めて「私が存在しないのが自然で、仮に【私】がこの世界に存在したら不自然でしょう」と言っているようなものだ。
その態度は、初めから「世界の一部ではない特別な【私】」を想定しているように見える。
395 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 12:36:49.78 0
>>384 いえ、なぜAさんが生んだBさんが『私』であったか
という問いをしているのです
>>385 >存在に理由を求めることが宗教なんですよ。
どちらかといえば、理由を求める事は宗教ではなく
理由なく、何かを信仰することが宗教だと思いますが(苦笑
>他人が手に取っている本ではなく、「貴方が手に取っている「本」なのか」というのと同じ問題だということです。
それは私が手に取ったから という理由でしょう
396 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 12:46:00.99 0
>>388 あなたが
>>380で、>なぜ私のものなのか
というから、説明したのですが
その次は、所有権の話ではなく
>その本はその位置にあって、他の本の位置にないかと
と、位置の話をするから、説明したわけですよ
ちゃんとマトモな会話をして下さいよね
↓【重要】↓
本は「本という存在性」ではありません
本の本質は、物質の「状態」にすぎません
その物質の状態に対して、人間が価値観によって
それを本だと便宜上の価値を与えているだけです
すなわち本は、人間の観念によって本と呼ばれているだけであって
本という絶対的な存在なのではありません
『私』の存在様式とは根本的に異なるのです
だから、>構成要素が集まってきた原因
が、本がそこにある理由 という事になります
>>395 >それは私が手に取ったから という理由でしょう
やはり問題点を理解していませんね。
貴方が手に取った「本」が、他人が手に取った「本」でないのはどうしてか
というのが「私」の存在性と同じ疑問なんですよ。
398 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 13:06:40.33 0
>>395 >いえ、なぜAさんが生んだBさんが『私』であったか
>という問いをしているのです
簡単な事をわざと難しくしていることにきずかないの。
貴方は信じられないほど愚かです。
私の母親が生んだ私が『私』である。
それだけのことだ。
>>396 >本は「本という存在性」ではありません
そういう話ではありません。
ある本が、まさにその本であることは存在性の問題です。
>本の本質は、物質の「状態」にすぎません
ですから、そんな話ではありません。存在性を問題にしています。
400 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 13:07:41.77 0
>>391 >「自分(私)が存在する」ことにどのような「納得しがたいこと」があるのだろうか。
何回も説明してるんだから、ちょっとぐらい理解できてもいいと思いますが
私の書き込みを、ちゃんと読んでますか?
>「ず〜っと存在しなかったのに・・」ということについては、すでに指摘した通り変な理屈です。
それは
>>374の事ですかね?
>「ず〜っと存在しなかったんだから 」ということを理由に
>そのまま自分が存在しないままで世界はあるはずだと考えるのが自然であるなら
誰も、「自分が存在しないままで世界はあるはずだ」なんて言ってないでしょう
あなたはニュアンスを自分なりに変化させて理解するクセがありますよ
国語力に難があります
401 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 13:12:08.20 0
>>397 なんで?
>>398 >簡単な事をわざと難しくしていることにきずかないの。
それが哲学ですから(笑
いろんな角度から、ものごとを分析して考える事は重要ですよ
402 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 13:18:33.44 0
>理由なく、何かを信仰することが宗教だと思いますが(苦笑
あ、言っちゃった。馬鹿だね。
うちの近くの人は霊山と呼ばれる山に登る。
パワーを頂くんだとか言っているのだから理由はあるんだよ。
信仰しない人にとって理由が理解できないだけさ。
403 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 13:20:51.34 0
>>401 >それが哲学ですから(笑
いや、簡単な事をわざと難しくして勝手に混乱している
というべきだった。
404 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 13:23:47.75 0
>いろんな角度から、ものごとを分析して考える事は重要ですよ
的をはずしているだけだよ。
記号に言い換えても、角度を変えて分析した事にはならないよん。
405 :
Q:2011/06/23(木) 13:26:51.98 O
>403
混乱しているのではない
考えているポーズをとっていて、何か厳かなことについて考えている振りをしているだけ
その先もない
406 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 13:30:24.79 0
>>399 >ある本が、まさにその本であることは
それは観念です
人間の観念によって
物体が「まさにその本である」と認識されているにすぎません
ちゃんと区別しなくちゃダメですよ
>>402 パワーとは何ですか?
どういう原理で頂けるのですか?
パワーを頂ける理由は何ですか?
>>403 べつに混乱してませんが(笑
>>404 何がどう分析した事にならないのか、具体的にお願いします
407 :
だび:2011/06/23(木) 14:03:41.37 0
>>400 > 誰も、「自分が存在しないままで世界はあるはずだ」なんて言ってないでしょう
あなたはあなたなりのニュアンスを含めて言っているつもりでしょうが、
言葉はアバウトな意味、ニュアンスしか伝えることはできないんですよ。
頭で描いた「そのまま伝わるはず」と考えるほうがおかしくはありませんか?
私なりにあなたの文章のニュアンスを汲み取ったらそうなったのです。
私の解釈は、話にもならないほどあなたの意図と隔たりがあるのですか?
あなたには「ニュアンスを自分なりに変化させて理解するクセなどない」のですか?
あなたへのレスで「誤読だ」との指摘はないのですか ?
相手の国語力が乏しくて、勝手に誤読されているとの判断ですか?
「国語力に難がある」と言って相手を責めるのは簡単な事ですけどね。
408 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 14:21:27.79 0
>>406 >パワーとは何ですか?
>どういう原理で頂けるのですか?
>パワーを頂ける理由は何ですか?
ひどい書きっぷりだな。
それをうちの近くのじいちゃんに聞けと???
どこまでお茶目なトンデモさんなんですか、貴方は。
貴方はすべての原理、原因、理由、経緯を明らかにしたうえで何かをするのかい?
でなきゃあ「そりゃ、宗教だ」と考えてしまう人なのか。
貴方はすべての原理や原因、理由、経緯を明らかにできるの。
今の貴方は基地外じみてみえますよ。(普段はいい人なんだろうけどw)
409 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 14:39:32.11 0
>>407 ごめんね
ちょっとひどすぎるから疲れてきた
私は非常に基礎的な事を、できるだけわかりやすく説明しているわけで
それが理解できなければ、もうどうしようもないわけですよ
ところで
>>381は、理解できたんですか?
411 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/23(木) 15:01:47.74 0
>>408 >貴方はすべての原理、原因、理由、経緯を明らかにしたうえで何かをするのかい?
いやべつに伝統的な宗教行事なんかにも普通に参加するが?
>でなきゃあ「そりゃ、宗教だ」と考えてしまう人なのか。
ん? べつに宗教的な事には、これは宗教的な事だと認識できるけどな
412 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 16:00:02.35 0
>>409 >
>>381は、理解できたんですか?
「存在」という事と
「認識」や「有り様」を混同しているのではなく、
「私」の認識・「私」の状態にも言及したということです。
私にとって、 存在の認識もないまま「存在する」ということがピンとこないのです。
さらに、存在の認識があるのなら、その状態、あの様もあるのだろうということです。
このような言及は、あなたにとって「余計な事」なのでしょうか?
>「現に在るありありとした在り方、有り様」は共有し得ないのである。
と私が語ったのは、まさに「私の存在」なのに他者に問えるような問題なのだろうか
と、ふと疑念が湧いて来たので、問題提起のつもりだったのです。
文脈からは伝わりにくかったかも知れませんね。
いずれにしても、問いに対して糸口を掴もうとする
あがきみたいなことをしているわけです。
413 :
だび:2011/06/23(木) 16:00:49.25 0
「何故?」という言葉は、
原因や理由、あるいは目的とかいきさつを問うときに使いますが、
「何故?」だけだと漠然としていては相手に伝わらないと思うのです。
あなたの問いかけに対して回答らしきレスがいくつかありますが
それに対してあなたのレスがないので、何を具体的に問うているのか
とっかかりがなかなか見つかりません。
その意味で、始めの方であなたが提示した
「・・・・だったのに、・・・であるのは何故か」
というような形式の問いかけ方は有効だ(分りやすい)と思います。
結果として、私は「変な理屈だ」と指摘したのですが、
比較的分りやすい提示の仕方だった事には変わりはありません。
あなたが「こんなに分りやすく・・」と思う反面
「う〜ん、逆に変わりにくくなってないか?」
と、思ったりすることも多いんですよ、実は。
(こういう私もどうなんだ、と自分で突っ込み)
伝える事は難しいですね。
長文になってしまった。失礼。
414 :
だび:2011/06/23(木) 16:10:36.00 0
>>413 の
>「う〜ん、逆に変わりにくくなってないか?」じゃなく
「う〜ん、逆に分りにくくなってないか?」でした。
>>412 は、私のレスです。
415 :
Q:2011/06/23(木) 19:46:54.70 O
最高位みたいなクソ相手によく真摯に対応できるねぇ
こいつ、哲学のテの字も知らない、ただのかっこつけなのに
AさんがBさんを生みました。
宇宙が誕生してから何十億年もの間、Bさんは全く存在しませんでした。
そこから考えると、Bさんなど存在しないのが当たり前なのに、
なぜかBさんが現に存在しています。
これは奇跡でしょうか?
>>393 >【私】とは「真我」である。
>それは誰のもの、何処にあるもの、というものでなく
>至る所に現在している。
アートマン【真我】が至る所に現在しているということは
たとえば人間が至る所に現在していることと同じことですか?
もしちがうとしたらどこがちがいますか?
誰のものでもないなら、この体と【真我】とは無関係でしょうか?
どこにあるものでもないのに、どうやって【真我】を知るのですか?
【真我】は、誰のものでもなく、どこにあるものでもないのに
どうやって至る所に現在できるのでしょうか?
至る所に現在しているアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンが
同一である(梵我一如)とは、どのようにして可能なのですか?
また根本原理とはどのような原理ですか?
■最高位氏の「私」は唯物論的「私」
そもそも最高位氏の「他の物体が私になる事はありえない」「私はこの体にある」という
主張自体が唯物論的制約によるものです。
この世界が唯物論的世界でないなら、多数のロボットを遠隔操作するように、
この世界とは別のところにある「私」が、この世界の「この体」だけでなくこの世界の「他の物体」
と繋がっていることがあってもいいでしょう。
ある存在性を特定の物体の存在の仕方に制限するのは唯物論の立場にほかなりません。
水分子Aの重力と水分子Bの重力は、その分子構造が同じでも、Aの重力はAの重力であり、
Bの重力にはなりません。唯物論では「私」はこの重力のように特定の物質に規定され従属するものです。
最高位氏の「私」もこれと同じであり、最高位氏はひたすら唯物論の正しさを唱えているわけです。
■最高位氏の問題点
・自分の考えをブログとかwikiとしてまとめて公開すればいいのにそれをしない。
・何度も繰り返して説明するのは面倒だけど、自分の考えをまとめておくのも面倒だとかいうワガママ。
■最高位氏は唯物論を理解できていない唯物論者
最高位氏は「私」の存在性を物理的に解明できるかどうかを問題にしていますが、
そもそも唯物論は説明や解明ができることを主張しているのではなく、
「非物理的なものは、(どういう仕組みでそうなっているのかはわからないが)物理的なものに従属し規定される」
という考え方であって、「他の物体が私になる事はありえない」「私はこの体にある」というように
物理的な「体」に「私」が制限されるのは、まさに唯物論の立場なのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96 唯物論(ゆいぶつろん、ドイツ語:Materialismus)とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
419 :
茶柱 ◆S//////.kw :2011/06/24(金) 07:41:13.49 O
「私が〜した。」と語る私は、「〜した。」主語(主体)としての「私」ではない。
「私」を記述している私は、「私」を〈すでに〉乗り越えてしまっている。
この時点で、私は〈すでに〉ということを、時間軸に従うならば過去のものとして語っている。
だが私は記述されている「私」を、私に対して単に〈過去の私〉(=「私」)として語っているに過ぎないのだろうか。
否、〈過去の〉ある時点における「私」について語っている私を、さらに別の〔私〕が語らねばならないし、しかもその〔私〕について語る{私}がいることになってしまう。
この試行は無限に続く。問題は無限に“私”なるものが出てくるというだけではなく、主体となる私が客体としての「私」へと永遠に転嫁していくことにあるのだ。
合わせ鏡が「私」を際限なく映すように、映される私を映す鏡がさらに映されていくように。どこへ溶け込むのだ?
〈すでに〉という語は過去を意味するのみならず、時間軸における点の無限なる連なりを線へと溶け込ませる。
一次元(点)から二次元(線)へと転化させてしまうほどである。しかもこの「私」という点は時間軸において際限なく拡張される。
〈すでに〉というのはより高次元の私を規定する超越論的な語なのである。
すると“私”なるものはどこまで行っても、その他の対象とは違い、より高次元の概念ということになるではないか。
420 :
茶柱 ◆S//////.kw :2011/06/24(金) 08:02:45.38 O
「私」を記述するどころか“私”なるものを私によって自ら乗り越えてしまった。
乗り越えられてしまったのももちろん私である。
“存在性”ということを考えるならば、“私”とは存在性をもつどころか存在性すらも越えてしまっているではないか。
これを私は〈超‐在(ex-i-stance)〉と呼ぶ。
この超‐在と呼ばれる概念は無論、存在(existence)という語に由来する。
存在する(exist)という語は、英和辞書によればex- (外へ)+sist(立つ)=外に出て立つ(外に置く)という語源がある。
どういうわけか、語の派生によってsistのsが消えているが、むしろ存在概念をより適切に考察するためにex-i-stenceと分けた方がいいだろう。
stenceで「立つ」が表現されているはずだ。問題は“i”という語が消えずに残っていることである。
すなわちi=「私」である。さらにiには虚数と言う意味も含まれる。
なるほど、存在概念には対象or客体となるi「私」を外に立てることを含意しており、またそれが虚構的な試行であることまで意図されていると言ってよいだろう。
合わせ鏡との類比で言えば、映されているi=「私」とは虚像である、というのを意味する。
従って、主体としての私から外に立てられた対象には存在性が付与されるだろう。
だが、「私」というものは記述においてどこまでも存在性を持たない存在そのものであって、存在を越えた意味での超‐在なのである。
421 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/24(金) 08:10:44.00 0
>>418 >唯物論(ゆいぶつろん、ドイツ語:Materialismus)とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
>非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
私が問題にしているのは、「では人間の精神性も全て100%規定されているのか」という事です
具体的には、「人間の精神も全て物理現象にすぎない」のか「そうではない」のか
という歴史的な論争についてです
それについて「いかなる物理現象、いかなる物理法則を用いても絶対に『私』を現象させる事は不可能である」
という根拠を挙げ「『私』の精神性の原因性は、物質や物理現象に規定されているのではない」
という結論を導き「唯物論は間違いである」と主張しているのです
これまで歴史を通じて論理的に優位であった唯物論を、論理的にくつがえすのですから
『私の存在性』という概念は、もしかすると、なかなか難しいのかも知れません
しかし気づけば簡単な事ですので、何かのきっかけで理解できるようになると思います
頑張って下さい
422 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 09:46:09.64 0
原理は物質や物理現象である
ということと
『私』を現象させる事は不可能である
は、まるで異なる
このことから理解する必要がある。
>>421 物理法則は『私』の存在性を否定することはないので、
両立・共存可能であり、唯物論を否定することにはなりません。
そもそもいかなる物理現象、物理法則によっても、
物質を何もないところから存在させることはできません。
>という根拠を挙げ「『私』の精神性の原因性は、物質や物理現象に規定されているのではない」
それは物質の原因性も『私』の原因性も同じです。論理とかもそうですね。
>という結論を導き「唯物論は間違いである」と主張しているのです
ですから、そういう結論にはなりません。
>これまで歴史を通じて論理的に優位であった唯物論を、論理的にくつがえすのですから
いえいえ、そういうことは全くありません。
424 :
417:2011/06/24(金) 11:36:59.59 0
>>418 >そもそも最高位氏の「他の物体が私になる事はありえない」「私はこの体にある」という
>主張自体が唯物論的制約によるものです。
人間が存在了解するにはこの体が必要ということではないでしょうか。
この体の存在という原因によって私という存在が結果しているという
論理的必然性は見つからないと考えるならば、それは心身問題であり
存在者としてのこの体と私という存在との存在論的差異を問題にするならば
それは形而上学的存在論を語ることになります。
後者の場合には、唯物論を認めても何ら問題は起こりません。
唯物論的制約を受けたり機械論的決定論に従うのは存在者としての私であり
私という存在は従うべき何かとしては実在しない超越なのですから。
はじめから存在者の唯一性と存在の絶対性は相克していないのです。
>最高位氏は「私」の存在性を物理的に解明できるかどうかを問題にしていますが、
>そもそも唯物論は説明や解明ができることを主張しているのではなく、
彼が私の存在性という表現することによって何を示したいのかわかりませんが
私が誰でもない私であるという唯一性を存在の絶対性として強調したいのであれば
それが物理的に解明できる問題なのかどうかと考えること自体が的外れでしょう。
反証可能性がある科学の真理の一部に対を絶している存在(真理)を含めるのは
不可能ですが、この世界が唯物論的に説明されることはかまわないのですから。
もちろんこの世界に存在している私も含めて。
425 :
417:2011/06/24(金) 11:39:08.58 0
もう言ってくれてる人がいました。(^_^;)
426 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 12:58:38.57 0
『私』はこの体という物質的な存在で私にも他人にも「現象している」。
唯物論的見地からして、
いかなる物理現象、いかなる物理法則を用いても絶対に『私』を
「現象させる」事は不可能である。
427 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 13:18:26.73 0
「いかなる物理現象、いかなる物理法則を用いても絶対に『私』を現象させる事は不可能である」
ということから「『私』の精神性の原因性は、物質や物理現象に規定されているのではない」
という論理的な帰結はみちびけません。
しかし私は、しばしばこのような論理的飛躍をしてしまったために
「そうとう恥をかき、そのたびごとにほとぼりが冷める事を願いました」。
>>426 現象させることが不可能であることは唯物論の否定ではありません。
429 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 14:13:47.64 0
>>428 唯物論の主張を否定できないということを話したのですが??
>>429 それはわかっていますが、最高位氏の言うことも、
実は唯物論的見地に立つものなので、補足しました。
そもそも、「なぜBさんではなくて、 Aさんが『私』であったか」というような
AとBを物理的に分けてしまう想定自体唯物論的なものなのです。
さらに徹底するなら、空間方向のみならず、時間方向にも同様の疑問が生じ、
「なぜ昨日のAさんではなくて、 今日のAさんが『私』であったか」ということも
同じように出てくるはずなのですが、不徹底のようです。
431 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 14:35:14.45 0
>最高位氏の言うことも、
実は唯物論的見地に立つものなので、補足しました。
最高位氏はありがちな勘違いさんかと思います。
唯物論を本をほとんど読む事無く、観念的にこういう論だと決めつけているような。
432 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 15:06:18.83 0
>「なぜBさんではなくて、 Aさんが『私』であったか」
>「なぜ昨日のAさんではなくて、 今日のAさんが『私』であったか」
何の為にわざわざ記号化したのか、
何の為に昨日のAさん、今日のAさんと分けて考える必要があるのか
それが明確にわかっていないと、「なんで・・だったのか」
というトンデモな疑問につながるんじゃね?
433 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 15:21:28.13 0
【最高位】問題の根底は「なんで私は存在しているのか」ですよ
【368】あなたの母親が性交して妊娠し、あなたが生まれたからですよ。
【記号化の試み】
私の母親を「Aさん」、私を「Bさん」とする。
AさんからBさんが生まれたわけだが
なんでBさんが『私』であったのか という問題
元に戻してみる。
私の母親から生まれた私が『私』であったわけだが
なんで私が『私』であったのか という問題
私が『私』ではない、というのは、いったいどういう状態なんだ?
435 :
考える名無しさん:2011/06/24(金) 21:03:32.29 0
その状態はレイプされたことのある人にしか理解できないんだろう。
だから共感できない。
436 :
考える名無しさん:2011/06/25(土) 01:14:50.64 0
なんで私が『私』であったのか という表現は、
客観的には認めざるを得ないが、主観的に容認できない気持ち だろうか
かつて、「なんで、『私』がよりによってこの体なのか」と表現して失笑を買った最高位
なにしろ、主観性そのものな存在性なのでね。
437 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/25(土) 11:45:23.51 0
>>423 >物理法則は『私』の存在性を否定することはないので、
>両立・共存可能であり、唯物論を否定することにはなりません。
否定する という事を言っているのではありませんよ
私という存在性の原因性は、いかなる物質的要素にも有り得ない と言っているのです
>そもそもいかなる物理現象、物理法則によっても、
>物質を何もないところから存在させることはできません。
『私』を存在させる事が、何もないところから物質を存在させる という事と同等なら
それこそ物質の物理法則に反している事になるのではありませんか?
>>424 >この体の存在という原因によって私という存在が結果しているという
>論理的必然性は見つからないと考えるならば、それは心身問題であり
心身問題における唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象である
というものであるのだから、『私の存在性』も物理現象の結果である としなければなりません
キミ達の多くは「精神性は解明できないけれど、この体があるから精神があるのだし」
という非常に素朴な感覚による帰結に終始してしまうのです が
「人間の精神性は脳による物理現象だ」 とする唯物論の立場では
脳の構造によるシステムで、物理学的な解明が理論上で完全に不可能 というものがあってはならず
形而上だから と言って逃げる事はできないのです
>>437 >私という存在性の原因性は、いかなる物質的要素にも有り得ない と言っているのです
それは唯物論と両立する考えです。
>『私』を存在させる事が、何もないところから物質を存在させる という事と同等なら
>それこそ物質の物理法則に反している事になるのではありませんか?
別に反していません。『私』は存在させるものではないからです。
>心身問題における唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象である
>というものであるのだから、『私の存在性』も物理現象の結果である としなければなりません
なりません。「『私』の存在性」は精神性の話ではなく、「物質の存在性」と同じなのです。
>「人間の精神性は脳による物理現象だ」 とする唯物論の立場では
それは精神の話です。「『私』の存在性」ではありません。
>脳の構造によるシステムで、物理学的な解明が理論上で完全に不可能 というものがあってはならず
>形而上だから と言って逃げる事はできないのです
解明は理論上の話ではありません。やっぱりバカなんでしょうか。日本語メチャクチャです。
ところが恣意的な人間は骨の髄にまで不信がしみ込んでおり、
不信と我意、目的追求、工作手段のほか、なにも認められない。
犠牲もなければ、恵みもない。
出合いもなければ、現存もない。
目的と手段を求める世界が彼の世界であり、それ以外はなにもない。
M.ブーバー著、「我と汝」、p.77
440 :
考える名無しさん:2011/06/25(土) 15:17:33.43 0
唯物論が間違っているかどうかは、その主張における論理構造の中に求めるべきものであって、
「私が解明してほしい事を、解明できなければ、認めてやるもんか」という姿勢はあきれてものが言えない。
441 :
考える名無しさん:2011/06/25(土) 17:37:32.76 0
唯物論の考え方を基礎にして人間の精神面を解明しようと科学者はいるだろうが
唯物論の考え方から、人間の精神面について物理学的解明をしようとする哲学者はおらんだろ。
442 :
考える名無しさん:2011/06/25(土) 18:02:33.02 0
158 :哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/11/06(木) 23:06:23 0
私も、「私」が脳の中にあるなんて言っていませんよ
この脳の、どういう物理的要素が、他の人の意識ではなく、
私の意識を生み出しているのか
という哲学的な問題に、科学的な答えを求めているのです
↑ ↑ ↑ ↑
科学板に池 阿呆
>この脳の、どういう物理的要素が、他の人の意識ではなく、
>私の意識を生み出しているのか
この脳はこの人の一部なんだから、この人の意識しか
生み出しようがないだろう。
どうやったらこの脳が他の人の意識を生み出せるんだw
そら、伊藤潤二の漫画みたいに神経で繋ぎゃいいのさwww
5人の体が一つの意識の元に動いたりwww
それはさておき、我思う故に我有りを原因と結果の関係として解釈するのはいいんだっけ?
我思うっていう命題は既に我有りっていう命題を前提としてるとか、色々な解釈があるよね。
植物状態で我思うとも言えないような人に自我はないの?
まあ、それだと二重人格とか多重人格とかどうなるか知らんけど。
445 :
茶柱 ◆S//////.kw :2011/06/26(日) 02:14:06.15 O
>「人間の精神性は脳による物理現象だ」とする唯物論の立場では
>脳の構造によるシステムで、物理学的な解明が理論上で完全に不可能というものがあってはならず
>形而上だからと言って逃げる事はできないのです
脳の構造が完全に解明されたとしても、
物理現象から精神性を引き出せるかという根拠は依然としてない。
「人間の精神性も脳の物理現象である」がすでに前提とされているのだとしたら、
脳の構造解明と精神性の関連性を説明する必要すらないので
精神の領域を許容してしまうというパラドックスが生じる
446 :
茶柱 ◆S//////.kw :2011/06/26(日) 02:22:11.86 O
「私」が精神であるか物体であるかというのは無意味な議論
「私」は「私」でない「私」を含む「私」であって、非「私」を含みながら拡張される「私」なのだから
「私」に対して非対称的な「私」であってはじめて「私」となるのです
「私」は存在そのものを越えながら存在するような
存在としての「私」なのですから
447 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/26(日) 08:05:36.07 0
>>438 >「『私』の存在性」は精神性の話ではなく、「物質の存在性」と同じなのです。
なぜですか?
>>440 >唯物論が間違っているかどうかは、その主張における論理構造の中に求めるべきものであって、
>「私が解明してほしい事を、解明できなければ、認めてやるもんか」という姿勢はあきれてものが言えない。
そんな子供じみた解釈に脳内変換してしまうキミの読解力には呆れてしまうけどな(苦笑
まぁいいや
例えば、アキレスと亀の話で、亀の主張は実際には間違えているわけだが
その主張における論理構造の中にのみ求めるべきなのですか?
実際に走ってアキレスが追い抜いても
あなたは亀の主張である「アキレスは亀を追い抜けない」は、間違えていない と考えるのですか?
>>443 >この脳はこの人の一部なんだから、この人の意識しか
>生み出しようがないだろう。
>どうやったらこの脳が他の人の意識を生み出せるんだw
それは非常に素朴な感性ですね
この脳だと言えるのは私の脳であるからですが、それは結果論的にそうなんですね
では、その原因性は何だったのか という観点です
客観的に考えて
この脳も、その他の脳と比べて何ら差別されない一般的な脳であるに違いない
唯物論的には、それは脳の物質的な構造によって『私という存在』を発生させていると考える以外ないわけだが
しかし『私の存在性』の本質を突き詰めると、いかなる原因性も有り得ないのだ という事がわかる
よって、唯物論は間違いである という結論となる
>>447 >なぜですか?
同じであることに理由なんてありません。単に同じなのです。
>唯物論的には、それは脳の物質的な構造によって『私という存在』を発生させていると考える以外ないわけだが
発生すると考えていることがそもそもの間違いです。
>よって、唯物論は間違いである という結論となる
なりません。それは貴方の妄想です。
449 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/26(日) 08:37:04.35 0
>>448 >同じであることに理由なんてありません。単に同じなのです。
あなたは理由もなく、同じである と主張しているのですか?
450 :
417:2011/06/26(日) 09:25:33.84 0
>>424 別の人が端的に答えてくれていますが、一応私へのレスなので。
>心身問題における唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象である
>というものであるのだから、『私の存在性』も物理現象の結果である としなければなりません
それ以前に、あなたは『私の存在性』についての解明が
心身問題の範疇にはないことを明確に説明するべきです。
その上で、私にではなく唯物論者にだけ、それを言ってください。
もちろん唯物論者であれば『私の存在性』など認めないのでなければなりません。
ですから『私の存在性』が物理現象の結果であるとしなければならない義理もありません。
あなたの問題が私も含めた他人にどういう問題として捉えられるかということを
>>最高位氏の「私」は唯物論的「私」
>>「最高位氏は唯物論を理解できていない唯物論者
と指摘する
>>418さんに説明して(あなたの議論を理解してもらうために!)
>>この世界が唯物論的に説明されることはかまわないのですから。
>>もちろんこの世界に存在している私も含めて。
と
>>424でレスしました。
>>420で茶柱さんが指摘されているように
>>「私」というものは記述においてどこまでも存在性を持たない存在そのものあって、
なのですが、あなたにそれが理解できていれば
『私の存在性』で『存在』を表現しようとすることに問題があることには
気づいているはずですが…何が問題かについては後で説明しますが
まさか『私の存在性』で『存在』を表現しようとしてるわけではないとか?
451 :
417:2011/06/26(日) 09:27:23.90 0
>>424 >キミ達の多くは「精神性は解明できないけれど、この体があるから精神があるのだし」
>という非常に素朴な感覚による帰結に終始してしまうのです が
私は
>>人間が存在了解するにはこの体が必要ということではないでしょうか。
>>424 と言いました。
私たちは ある ということを了解しています。
了解は、知っている、理解している、わかっている、でもかまわないですが
私たちが ある について何か意味のあることを言えるわけではありません。
言語を習得しなければ、この体は私を発見できません。
発見すると言っても、私は実在している対象ではありません。
私たちは簡単に 私 という語を使用しますが、あなたは 私 を定義できますか?
この問題は私の起源問題ではなく、あなたが言うように私の存在論です。
ハイデガーの哲学用語を使用したのは なぜ私は私なのか? の問いが
ハイデガーが言う 存在論的差異 の問いに他ならないからです。
なぜ私(1)は私(2)なのか? → なぜ私(1)は最高位(2)なのか?
(1)と(2)は論理的(この世界内的)には(1)=(2)(同一律)ですが
>>存在者としてのこの体と私という存在との存在論的差異を問題にするならば
>>424 と書いたように存在論的には(1)と(2)の水準はちがいます。
唯物論における(この世界内的)私は「物質や物理現象である」ところのものであると
一つの水準に限定されているので、その私は唯物論的存在であってもかまわないのです。
452 :
417:2011/06/26(日) 09:33:40.55 0
>>424 >「人間の精神性は脳による物理現象だ」 とする唯物論の立場では
>脳の構造によるシステムで、物理学的な解明が理論上で完全に不可能
>というものがあってはならず、形而上だから と言って逃げる事はできないのです
goo国語辞典によれば【形×而上】1 形をもっていないもの。とあります。
なぜ私は最高位なのか? の私に形はありますか?
最高位はキーボードを叩いているあなたのことですから形をもっています。
ハイデガーが問題にした存在と存在者との存在論的差異は
なぜ私は最高位なのか? にそのまま当てはまります。
私は存在(そのもの)のことであり、最高位は存在者です。
最高位は存在しますが、私は存在しません。
あなたが ある を 私の存在性 と表現する意図はわかりますが
私の存在性 では同語反復です。
本来 ある に存在性はありません。
私 = ある です。
そこはしっかりと自覚的にわきまえているという前提で
存在性 という表現を認めるにしても
私の存在性 ではなく 最高位の存在性 と表現するべきです。
この体の中に本当の私がいる?(私は魂ではありません)
職業哲学者の永井均も含め、ここが決定的にまちがっています。
永井の著書名を借りれば『<私>の存在の比類なさ』とかですが。
あなたの表現で言えば『私の存在性』ですね。
表現自体は仕方のない部分がありますから責められませんが
この議論をするには自覚的でなければならない重要な問題です。
453 :
417:2011/06/26(日) 09:36:48.39 0
>>424 最高位の存在性が、すなわち 私 = ある とはどういうことか?
については理解してもらえたでしょうか?
次は 最高位の存在性とは何か? → 私とは何か? を解明して
というより、私 = ある とはどのような事態なのか、でしょうか。
そして最後に(無ではなくて) なぜ存在するのか? を問います。
すでにお話ししたように なぜ私は存在するのか? は同語反復ですから
なぜ存在するのか? なのですが なぜ存在するのか? は最後の問いです。
その意味では
>【最高位】問題の根底は「なんで私は存在しているのか」ですよ
>>433 は正しいですが、私(存在)を解明するためには順番があります。
そこを念頭に置いてほしいです。
>>447 >『私という存在』
という表現は正しいですが
>『私の存在性』
は、まちがっています。(すでに指摘しました)
>いかなる原因性も有り得ないのだ
私の個人的見解では、問いが なぜ存在するのか? に至れば
神を考えざるを得ないと思っています。
それを「形而上だから と言って逃げる事はできないのです」
と非難されるなら、哲学の徒としては認めますが。
>よって、唯物論は間違いである という結論となる
この結論にはなりません。(すでに指摘しました)
454 :
417:2011/06/26(日) 09:50:21.23 0
ごめんなさい。
450-453の424は自分のレスでした。
>>437宛に訂正します。
455 :
417:2011/06/26(日) 10:11:47.53 0
>>448 最高位さんが認めるかどうか楽しみですね。
私も期待して見守ります。(^_^)
認めることなく、ループ完成に100ペリカ
457 :
だび:2011/06/26(日) 15:55:03.39 0
最高位が言う「『私』なんて言うもの」とは何でしょうか。
最高位のみが『私』と呼んで指し示そうとしているもの(対象)のことだろうか。
それとも、誰しもが『私』と呼んで指し示そうとしている(対象)のことだろうか。
対象でないとしたら、何故に「なんて言うもの」という表現が成り立つのだろうか。
他者に「なんで『私』なんて言うものが存在するのか」と問おうとするならば
「・・と言うもの」が、他者にも対象となりうるものでなければ
「話にならない」のではないだろうか。
私(だび)は、自分の事を、私、俺、僕、当方、こっちといろいろに呼ぶ。
じゃあ、「オマエの言う自分って何だ」と訊かれれば、
「おのずと分るありありとしたこの思いをもつこの体のこと」と表現するしかない。
そして「あなたにも、おのずと分るありありとした思いをもつ体が在るでしょう」と問うしかない。
理屈としては、他者も私も人間であるかぎり、思いが無くても体は在るべきものであり、
私(だび)の周囲は「この体の周囲」であり、私が動かそうとするものは「この体が動かそうとする」ものである。
他者はすでに私(だび)の周囲に居るわけで、私がそれらの人に問える(行為が可能)ならば、
「この体」であるべきで、この体で無しに問えるということはありえない。
「この体」は対象でもありえるが、こうして問うことの主体でもある。
>>449 >あなたは理由もなく、同じである と主張しているのですか?
理由じゃないでしょ。
違いがないことは同じことですよ。それは理由ではありません。
「私」は情報処理を行う一塊の物体です。
例えば他者にもきっと「私」と呼ぶべき機能が備わっているに違いないのですが、モニターは不可能なので確認できません。
それどころか犬畜生にも「私」と呼ぶべき機能が存在するかもしれません。
私の情報処理をモニター出来るのが私というだけで。。
いや、最高位が言っているのは、(正確に言うと「彼が主張すべき《私》」は)、
物体としての「私」ではないんだよ。 勿論、物体に(肉体に或いは脳、脳神経系に)依存はしているが、
《そこに「生じている」「現れ出でてる」「思惟・思考・感情・想い」としての私》だから。
だから彼は、しつこく「存在性」という言葉を使いたがる、というか使わざるを得ない。
それは、肉体でもなければ、脳でもなく、ニューロンでもないからだ。
ここから二つの方向性が取れる。
一つは、唯物的に、脳神経系の電荷、電位差、電荷の変遷(パターン)等といった「事象」を
《“私”という現象》とするもの。
もう一つは、そういった依存ではなく、あたかも「宿る」という表現がふさわしいかのような関係として、
肉体(或いは脳等)に付随するもの。 これは、霊魂や真我といったものの導入を許す考え方でもある。
最高位は、当然ながら前者を否定しているわけだが、後者をも否定している。
だが、現状の彼の説明だけでは、霊魂や真我との違いを際立たせることはできず、
寧ろ同種同質のものと見做したくなる程度の説示しかされていない。
彼が、ここを埋めることができれば、とりあえずループからの脱出だけはできるのだが・・。
最高位さんが戻って来てから一気に人気スレになりましたね。
戻ってくるまでが長かったなあ。
最高位さんがいない間、スレを盛り上げようと話題をふったこともあったけど
ぜんぜんだめでした。
462 :
考える名無しさん:2011/06/26(日) 23:06:19.96 0
トンデモじゃないと食いつき悪いぜ
すこし、疲れた。。。
・・くそ。忙しすぎるぜ。
465 :
座敷童子:2011/06/27(月) 07:01:41.28 0
自分がちょっと長い文章を書くと、「長すぎる」と叱られる。
でも、ここのひとたちは、もっと長い文章を平気でアップ出来てる。
なぜ?
466 :
ゲーム:2011/06/27(月) 10:13:56.99 0
>>453 「私の存在性」との言い方は間違っている、という理由がよくわからない。
たしかに表現として“存在性”はこなれてはいないが、「私という存在」が
正しくて、前者はダメの理由をもう一度、説明していただきたい。
単に「存在する」という事態は想像できない。
それが「何であるか」は別として、何かが存在する、のではないか。
“私という存在”は「私が存在する」と、どこが違うのか。
これを、より概念化すれば「私の存在性」という表現になるのでは?
467 :
ゲーム:2011/06/27(月) 10:42:13.94 0
>>452 「私=ある」というのも奇妙。「私はある(存在する)」ならわかる。
最高位は「私は存在する(ある)」と述べているだけで、もう一つ「私」は
物質ではなく、また物理に則って「ある」わけではないともいう…。
ところで、なぜ奇妙かといえば「私(体言)」が「ある(用言)」に等値されているからだ。
太陽やコップは「ある」けれども、太陽=ある、コップ=ある、とはならない。
この点を大目にみて、私=ある、としよう。
では、この場合、私ではなく「何がある」のですか。
468 :
ゲーム:2011/06/27(月) 11:37:02.66 0
>>460 最高位の「私」は「…思考、感情…」としての《私》でもない。
それは意識としての「私」であり、私自身はこの立場である。
が、最高位の「私」は意識からも自立して“ある”特異な存在性。
むしろ意識の起点である。
ところで、貴兄はこのスレを立てたひと?
469 :
460:2011/06/27(月) 17:26:09.39 0
470 :
ゲーム:2011/06/28(火) 00:11:41.91 0
>>469 素人氏(コテ)とよく似た文章に思えたからです。
このスレは、機械氏のスレから最高位を隔離しつつ、他面、救済するためにw
素人氏が半ば好意的に立てたものと推測していました。
貴方は素人さんですか。もしそうなら、私がだれかはわかるでしょう?
471 :
460:2011/06/28(火) 00:26:41.44 0
>>470 三つ子の魂百までとは言うが、進歩がないってことだなw
覗いてるだけで、もう関わる気はないよ。
ただ、ちょっと興味深いレス(―切り口としては以前と類似してるとしても、そこはやはり言葉の世界、
言い回しに面白い部分―)があると、少し茶々入れして展開を見守りくもなるw
>>468で言われていることは、「最高位の言う《私》」評としては(当時から)当たっているでしょう。
文中にある語として、貴方による呼称ではないが、「立場」と言ってもいいかもしれない。
彼の言う「存在性」とは、まさにそのような、
非実体的であり概念的であり、且つ、にもかかわらず、「他のどんな事物、どんな事象、どんな検証・論証・証拠・証明」よりも
確かであり、直接的であり、ありありとした強烈なリアリティをもって立ち上がっているものだ。
ただ、そうした(「存在性」としか言語的に形容できないとしても)ものを許容したとしても、
それもまた、「種々の事象の上に(種々の事象を条件として)顕現しているだけ」というのが、
当時からの私のスタンスということになる。
472 :
417:2011/06/28(火) 01:50:37.38 0
>ゲームさん
最高位さんのレス待ちです。
失礼かと思いますが、ゲームさんと最高位さんとの論の違いを教えてください。
ゲームさんの論が最高位さんの論とは違うものだとわかれば、すぐに応じます。
もしこのスレで最高位さんに反論しているレスがあればそれを紹介してください。
生意気ですみません。
なぜ・・みんな、長い文章をカキコできるの?
自分は叱られるよ。
あのさあ。ここのスレの趣旨は、「私」を記述してください、
でしょ。わたし、「私」を記述してるよ。
475 :
ゲーム:2011/06/28(火) 08:43:10.51 0
>>472 最高位の主張の当否は棚上げして、貴方の言葉の使い方に不明な点があるので
お尋ねしているのです。
最高位との違いは、『私』は基点でも起点でもなく、まして“実体”ではなく、
“私”という意識、つまり“私”は意識現象であり、意識に先立つものではない、
と、機械氏のスレで述べたことがある。
「すべては物質である」あるいは「その随伴現象」とする唯物論には異議があり、
この点は最高位に同調している。
476 :
417:2011/06/28(火) 13:00:40.52 0
>>466-467,
>>475 ではハッキリ言います。
私の書き込みをよく読んで理解してください。
質問の内容から判断してパッと読みにしか思えません。
真剣に書いているのにバカにされている気分です。
私の主張を理解したいと思っているようには感じられません。
哲学板の住人であれば誰にでもわかるように気を遣って書きました。
あえて理解しないのは悪意があるとしか考えられません。
あなたはお友達の
>>460が理解できるのでしょう?
>ここから二つの方向性が取れる。〜
は、現在の状況と問題点の見事な解説です。
私が最高位さんに指摘しようとしていることが
そのまま最高位さんの主張の問題点なのだから
そこがクリアできればループを脱出できると言っています。
もちろん私のことだけではありませんが
現時点では私との議論がお友達が指摘しているまさにそれです。
お友達が言ってることはわかっているのに
肝心の当のその部分をあえて質問する意図が不明です。
私は当のその部分を指摘して、最高位さんのレスを待っているのです。
この状況でそれでもあえて私に質問するということは
あなたの質問にはそれだけの価値があるということですよね?
あなたにはあなたの思索による独自の論があるということですよね?
それならいくらでも議論しますよ、と言っています。
最高位さんの論から派生したような傍流には興味がありません。
477 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 16:30:34.32 0
>>450 >>心身問題における唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象である
>>というものであるのだから、『私の存在性』も物理現象の結果である としなければなりません
>それ以前に、あなたは『私の存在性』についての解明が
>心身問題の範疇にはないことを明確に説明するべきです。
何故その私の文章を読んで、そのような返答なのか、会話が成り立っていません
心身問題の範疇にない という事は言ってないんですがね
>もちろん唯物論者であれば『私の存在性』など認めないのでなければなりません。
認めない とかいう半ば信仰的な話ではなくて、それには理由が必要なんですよ
「我思う故に我あり」ではなく「我思う、しかし我なし」なのだという事を説明しなければなりません
>ですから『私の存在性』が物理現象の結果であるとしなければならない義理もありません。
いやいや、義理とかではなくて、それがそのまんま唯物論者の主張そのものなんですよ
ちょっと基本的な前提からして理解できていないようで、もっと落ち着いて勉強してから出直して下さい
これじゃ議論 というか、会話が成り立ちません
478 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 16:53:39.64 0
これまでのすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実性、感性がただ客体あるいは直観
の形式のもとでのみとらえられていて、人間の感性的な活動、実践としてとらえられず、
主体的にとらえられていないことにある。
人間は環境と教育の所産であり、したがって人間の変化は環境の相違と教育の変化との
所産であるという唯物論的学説は、まさに人間が環境を変えるのであり、また教育者自身
が教育されなければならない、ということを忘れている。
カール・マルクス
479 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 17:09:49.16 0
物理主義( Physicalism)は、この世界の全ての物事は物理的である、
またはこの世界の全ての物事は物理的なものに付随する、
あるいはあらゆる個別科学(の命題)は物理学に還元可能であるとする哲学上の立場。
一元論の一種。一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。
主に哲学の一分科である心の哲学において、心身問題に関する立場の一つとして、
二元論一般と対立する文脈で語られる。唯物論と類似する点は多いが、
(物理学への還元のように)主張内容は必ずしも同一ではない。
480 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 17:10:09.54 0
>>457 >最高位が言う「『私』なんて言うもの」とは何でしょうか。
「我思う故に我あり」の「我」の事
昔からの哲学的命題であって、その正体は私にもわからない
だから、「なんで私なんていうものが存在しているのか」という疑問を持っている
しかし少なくとも、物質によるいかなる現象、法則性等々が
その原因性にはなりえない事は確かなのだと説明しているわけです
>>458 別のものを指して同じものだと言うには、説明が必要ですよ
>>459 情報処理は情報処理
これは単に物理現象が起こっているだけで
極端に言えば、石ころが崖から転がっていくのと同じ性質の、単なる「現象」
現象が複雑になれば、性質の異なる「主観性」が生まれるのだ
というのは何の根拠もない思い込みであって、いわばSF
情報処理という物理現象をモニターしているのが「主観性」なのであって
その次元の異なる特異性を理解しなければならない
481 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 17:36:31.04 0
>>460 やっぱり「素人くん」でしたか(笑い
久しぶり
>最高位は、当然ながら前者を否定しているわけだが、後者をも否定している。
後者について、キミは私が「肯定していないから否定しているのだ」と勘違いしているが
べつに否定しているわけではありませんよ
現時点では、肯定できる根拠も、否定できる根拠もない という事です
ただ前者(唯物論)については根拠があるから否定しているだけです
あ〜、ちょっと書いたら疲れてきた
もう以前みたいな元気ないわ(苦笑
「なんで私なんていうものが存在しているのか」と問うにはまず、
どのような場合に「私が存在している」と考えているのか問う必要がある。
>「我思う故に我あり」の「我」の事
では、思うのが「我」であることが前提とされている。どうして「思う」
のが「我」であると判断しているのか?
483 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 17:49:22.22 0
一般的に唯物論は現実的、科学的であると理解され、観念論は、非現実的・オカルト的である。
ひどくない?Wikipedia w
484 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 17:59:44.85 0
心の哲学 Jaegwon Kim
キムは、当初物理主義者であったが、その後転向して物理主義の批判側にまわった。
物理主義はそのままのかたちでは今後生き残ることはないであろう、と考えている。
クオリアは物理的状態や物理プロセスには還元できないからである。
「現象的な心的特性を機能的に定義することは不可能であり、従って機能的に還元することもできない」。
そして、「もしクオリアについて機能的還元がうまくいかないのなら、他のやりかたはない」。
ゆえに、物理主義で表現することのできない心の側面というものがあることになる。
現在では、志向的な心的状態(例:信念、欲望)は機能的には神経の働きの帰結に還元できるが、
質的ないし現象的な心的状態(例:知覚)は非物理的かつ随伴現象的であり、
神経の働きには還元できないという命題を擁護するものである。
485 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 18:10:21.54 0
>>476 う〜ん
彼はかなりマトモなこと指摘してるけどな
>>482 あのね
ちゃんと哲学を行う上で、懐疑論から順番に考えていけば整理されるよ
キミは「この思いは他人なのでは?」と思うのかい??
ちょっと意味不明なんだが
>>483 偏向しすぎ
観念論の意味わかってないんだろね
>>476 >私の主張を理解したいと思っているようには感じられません。
>哲学板の住人であれば誰にでもわかるように気を遣って書きました。
>あえて理解しないのは悪意があるとしか考えられません。
ゲーム君は、哲学をあまり知らない人だよ。
ハイデッガーの存在論的差異なんて全然わかっていない人。
>キミは「この思いは他人なのでは?」と思うのかい??
思っているときに、「我の思い」なんて考えないし、
「誰の思いか」さえ自覚していない。「他人の思い
ではないか」という疑念が湧くこともあるし、事実、
他人の「思い」であると判明することもある。
488 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 18:25:19.79 0
>>487 >思っているときに、「我の思い」なんて考えないし、
思っているときに、「我の思い」と思えないの?
489 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 18:33:33.74 0
>>488 「我思う」を、一つのまとまりとして考えたほうがいいんじゃないのかな。
「我思う」から「我」を分離してしまうと、「思う」から独立な「我」があるようになってしまって、
そこから、カントの「先験的自我」のような、ワケノワカラナイものができてしまってように思います。
思えないんじゃなくて、そういうふうに意識していない。
実際に他人と違うことが分かって初めて、思っている
のが自分であることを意識したり、実は自分はそうは
思っていなかったのに、そう思っているかのように
振舞うことを強制されていたことに(誰のものでもない)
思いが至る。
491 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 18:41:09.14 0
>>490 そうだね。
はじめにある素朴な「思う」に、さらに「自己意識」が加わってくるということだろうね。
492 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 18:57:40.24 0
>>490 >思えないんじゃなくて、そういうふうに意識していない。
意識すりゃいいじゃん。キミが
ところで、その事の何が「自分は存在しない」という結論につながるの?
493 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 18:59:59.18 0
>意識すりゃいいじゃん。キミが
わろた
494 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 19:12:41.19 0
「我思う」で、もう、完結しとる で
495 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 19:48:48.02 0
417さんへ
>>476 私の言っているのは「存在論」じゃありませんよ
ハイデガーとか、あんまり関係ありません
それに
「素人氏」の
>>460は
「唯物論」と、例えば「霊魂説」などの2つの方向性 という話であって
あなたの論点とは、全く関係ありませんよ
496 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 20:04:25.49 0
もともとデカルトが懐疑論的に
「自分が認識している全ては疑いうる」とし
しかし、「それを『思う我』が『いる』事は、どうやっても疑いえない」
いくら疑って疑って、たとえ否定したとしても、それを否定したのは『我』であり
これは、どうやっても疑いえない
とし、これを「第一原理」唯一疑いえないもの
としたわけだ
これ基本中の基本な
>>496 >いくら疑って疑って、たとえ否定したとしても、それを否定したのは『我』であり
>これは、どうやっても疑いえない
正確には、疑っているという「働き(=我思う)」を否定することはできない、と言ったほうがいいんだよね。
それを単に『我』としてしまったから、それが、『我』の実体化につながってしまった。
>>460で二つの方向性と書いた。
正確には、類似した、もう幾つかのスタンスの取り方がある。
まず、前者の手前に、
・「強い唯物論」「機械的唯物論」を設定できる。
それは、決定論的であり、運命論宿命論的であり、「完全なる還元」を可能と見、
且つ、概念的存在、様相としての存在の仕方を許容しない。
・460前者は、それほど強度でなく、諸々の「概念」は概念として「様相」は様相として《ある》と見る。
・後者は最早説明不要だろうが、この後者と前者の間に、一つ二つ立場を入れ込むことができる。
そして、こここそが、最高位の囚われている枷でもある。
460前者を受け入れたとしても、
《そこに、そのような(「意識」「心」と呼ばれるような)事象が生じているのはなぜか?》
《強烈な自覚を持って、志向性をもっているのはなぜか?》という疑問へ答えを出すために、
・「事象」としての在り様に満足できず、意識されるという志向性を十二分に加味させて
《「抽象的」存在》として要請してしまう立場だ。(最高位はそれを「概念」だなどとは認めないだろう。)
この『主体』の性質にどのような設定を施すかで、次のグループが決まる。
つまり、《(自己フィードバックと記憶による)特殊な自覚を有す随伴する『事象』》と見るか、
心霊的、スピリチュアル的、オカルト的方向へ堕す崖っぷちの如く、
・《物理的領域に比す形で心的領域を設け、その力学を想定してゆく》か、と。
それは、心身の相関を考慮すれば、自然界に於ける第5の力をそこに見なければならなくなるものだが・・。
サイコキネシスやテレパシー等超能力まで、あと半歩のところだ。
ネコは、このうちの前者だろう。そして、事象と言い切ることに抵抗をしてもいる。
最高位もまた、この前者の上にある。
≪そのような【主体】が【存在する】ということ、そのこと自体を“唯物論論破”の根拠≫としている。
(実際、何の根拠にもなっていないわけだが・・。)
そして≪且つ、物理的要素に従属していない、副次的でない、随伴したものでない≫としている。
(だから、霊的存在との親和性を高く持つ。)
彼の問題点の一つは、「抽象的存在の仕方」を特別視する余り(「私」という「主体【性】」「志向性」に目を奪われる余り)に、
《抽象的在り様は、具体的在り様に依存することはない》という立場をとっていることだ。
だから、唯物論では(≒物理的要素では)「私」を記述できない、とする。そのこと自体は一理も二理もあるわけだが、
たとえば、「愛」や「友情」「思い遣り」といったもの存在の仕方が、具体的・物理的なものだと言う者はそうそう居るまい。
或る意味「無い」とする立場もあり得るが、大抵はそれらもまた「ある」と言われる。
「主体【性】」や「存在性」といったものは、まさしく抽象概念であり、
上記「愛」や「友情」と、その存在様式に於いて変わるところはない。そのようなものとしてあるだけだ。
仮に「性」の字を取り去り『主体』『存在』と言ったとしても同じこと。それが、抽象的在り様のものであるならば。
ここが理解できるだけで大分違うんだろうが・・。
もう一つの問題点は、(そして、これが一番厄介な点だがw)、
『なぜ、この私なのか?』という問いを発する点だ。
上記の試論を素直に承けるなら、
「【この】雨粒は、なぜ【この】雨粒なのか? なぜ、【ここに】落ちねばならなかったのか?」
「【この】感情は、なぜ【この】感情なのか? なぜ、【ここに】生じなければならなかったのか?」
と言った時の愚問と同じだ。
墨括弧で強調した如く(直近では
>>399>>430>>438、大雑把だが端的には
>>443と指摘されるが如く)、
それは、最初に【この】と言ってしまった段階で、既に「唯一の存在へと収斂している・特定されている」為、同義反復にしかならない。
論理以前の問題だということを、昔、感嘆子が懇切丁寧に解説していたが、
一向に理解を得られることはなかった。 その辺が最高位の限界だったと、私は納得したんだが・・w
で、この二つの問題点で延々ループすることが明らかなので、私は退席させて貰い今に至る、と・・。
身心二元論というか、唯物論と観念論という古い枠組み、か…
このスレ自体が、その古い枠組みを前提としたスレなのかな??
503 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 21:47:05.41 0
>>497 >正確には、疑っているという「働き(=我思う)」を否定することはできない、と言ったほうがいいんだよね。
>それを単に『我』としてしまったから、それが、『我』の実体化につながってしまった。
う〜ん、それはどうかな・・・
実体化という言葉にも曖昧さが大きいから
その認識が間違えてるとヘンな方向に行っちゃうというだけの話じゃないかな
「我が思う」というのは「我」(主語)が「思う」(動詞)の関係だから
「何が」思うのか の「何」が『存在』しなければ、それはもう「思えない」んであって(笑
たとえば「私が走る」の「私」が存在しなければ、「走る」っつったって、始めから存在しないんだから走りようがないわけで
原理的にありえないわけですよ
>>503 >「我が思う」というのは「我」(主語)が「思う」(動詞)の関係だから
>「何が」思うのか の「何」が『存在』しなければ、それはもう「思えない」んであって
それは、言葉から考えてしまう初歩的な誤りでしょうね。
そういう考え方をすると、例えば、稲光がしている時に、「光った」のは「何」か?と考えてしまい、
それは「雷」だ! と考えてしまう・・・
でも実際にあるのは、「(雷が)光っている」という「働き」なんです。
505 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 22:01:21.97 0
>>498 なんか昔と変わらず、肝心なトコがズレてんのに長いから、疲れるわ〜(苦笑
> 《「抽象的」存在》として要請してしまう立場だ。
抽象的か?? キミが認識しているものの中には抽象的な存在というものはあるだろうが
それを認識しているキミ自身が抽象的ってヘンじゃない? 抽象的存在が主体として何かを認識するの??
まぁ少なくとも、私は私を抽象的存在として要請したつもりはないです
>この『主体』の性質にどのような設定を施すかで、次のグループが決まる。
>つまり、《(自己フィードバックと記憶による)特殊な自覚を有す随伴する『事象』》と見るか、
>心霊的、スピリチュアル的、オカルト的方向へ堕す崖っぷちの如く、
>・《物理的領域に比す形で心的領域を設け、その力学を想定してゆく》か、と。
>それは、心身の相関を考慮すれば、自然界に於ける第5の力をそこに見なければならなくなるものだが・・。
>サイコキネシスやテレパシー等超能力まで、あと半歩のところだ。
これは想像力が豊か言うべきなのか、想像力が欠如しているというべきなのか・・・
なんでそう短絡的に既存の概念にハメ込もうとする必要があると考えるのかねぇ
そうやって無理に急ぐから誤読が生じるんだよ
結論が出ないものは、そのまま保留
わかりもしないのに結論づけようとするから明後日の方向に行っちゃうんだよ
506 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:05:01.06 O
私の我思う働きとあなたの我思う働きとは同じなのか違うのか
世界の根本に我思う働きがあってそれが全世界をかき回しているとも仮定できる
507 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 22:10:48.53 0
>>499 >「【この】雨粒は、なぜ【この】雨粒なのか? なぜ、【ここに】落ちねばならなかったのか?」
>「【この】感情は、なぜ【この】感情なのか? なぜ、【ここに】生じなければならなかったのか?」
>と言った時の愚問と同じだ。
雨つぶ なんてのは物質なんだから、物理的な要因で説明がつくと考える事ができるでしょう
感情に関しては、唯物論的観点から言うと脳の物理的要因だという事になる
あとクオリア的に解明が不可能だとされる部分ではあるが、それは結局『観念』(主観性)がからむからです
しかしこの『観念』の主体である『私』の存在性に関しては
これはもう全くもって、その原因性というものがありえない
私は私であって、何かが合わさってできる性質のものでもなく
私は、完全に私として独立した純粋な存在性だからです
こんなものが存在している事が奇妙、不可解極まりないわけです
他のものと混同しているキミ達が、そこを理解できないから
説明がループしているだけであって、キミらが理解できればループしませんよ
>>504 ん?
雷(主語)が、光る(動詞)わけでしょう?
雷(主語)の、働き(動詞)では?
この場合
雷が無がなければ光らないし、働きも無いでしょう
「私は思う 私は存在する」とは言葉に過ぎない。
「雷が光る」と言葉にすると「雷」が存在すると妄想してしまう。
雷も私も言葉に過ぎない。
510 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:15:55.86 0
「雷が光る」は「光るが光る」で誤謬だ。
511 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:26:01.09 O
↑(-_-#) つまみ出せ
512 :
Q:2011/06/28(火) 22:26:08.62 O
「ここ」とか「この」とかいった表現が
普遍化可能性をもっておらず
規則にのせることができない(論理にのせることができない)
という意見はどうよ?
513 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:26:45.77 0
雷は物理的には帯電した雲の中、または雲と雲の間、
または雲と地面との間に起きる 光と音を伴う大規模な放電現象のこと。
電光が見え、雷鳴が聞こえる天気の状態。
雷が在るのではない。
少しツッコんでおくか・・。
>>505 >まぁ少なくとも、私は私を抽象的存在として要請したつもりはない
ということは、具象としてみているということかな? 「具象的存在」である、と・・。
それとも、「具象でも抽象でもない」ということか?
それとも、「具象であるとも言わない、具象でないとも言わない、抽象であるとも言わない、抽象でないとも言わない」
とでも言いますか?w
で、相変わらず文法に支配されて思考停止、とw
龍樹の爪の垢でも煎じとけ。
>>513 >【『雷』が】在るのではない
しかし、《そのような「事象」》は「ある」「存在する」。
それが雷だろうが放電だろうが「私」だろうが、
この、『「ある」こと』『存在すること』そのことを指して、彼は「存在性」と言う。
少なくとも、ここまでは大方首肯できる。
『テーブルの上にリンゴが「ある」こと』 と 『○○さんという「私」(主体・主観)が「ある」こと』 は等価だから。
《【この】リンゴは、あくまでも【このリンゴ】であって、【あのリンゴ】【他のリンゴ】ではない》。
それは
《【この】私(主体)は、あくまでも【この私(主体)】であって、【あの私(主体)】【他の私(主体)】ではない》
ということと何も変わらないのにね・・・。
それでこそ、(唯一無二の)〔存在性〕なのにね・・・。
ここで『私』(主体・主観)だけを特別扱いするから、(他と違う在り方を仄めかすから)、
(他の方はどうか知らんがw)、私としては「ちょっと待て」となる。
516 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:44:53.72 0
「存在する」のではなく、【有る】んだよん。
517 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 22:48:19.95 0
>ここで『私』(主体・主観)だけを特別扱いするから、
主観性そのものな存在性としては、特別扱いしたくなるんじゃね
>>515 >ここで『私』(主体・主観)だけを特別扱いするから、(他と違う在り方を仄めかすから)、
そこはまた別の話。
【このリンゴ】の【この】は、【この私(主体)】がなければ【この】にはならない。
519 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 23:04:21.21 0
>>508 雷というのは放電現象だよ
放電現象が存在しなければ(起こらなければ)光らないでしょう
ただし状態であって、存在すると言えるが存在性ではない
ゆえに『私』と「思い」の方がむしろ主語と動詞の関係は際立つと言える
光ったから雷が起こる というのは原理的におかしい
思ったから私が生まれた というのもおかしい
自分が思ったから自分の存在が確認できた が正しい
>>510 それって雷じゃなくて、稲妻とか稲光じゃない?
>>513 雷 は「状態」であり、これが(主語)
光る は(動詞)
台風2号「状態」(主語)が
来る(動詞)
「来る」だけでは誰も何も来ない
実はキミらこそ言葉遊びをしているだけでね
誰の意識でもない意識など存在しないんだから(あるなら教えて欲しい)
「思う」と言えば、必ず誰かが思っているのであってね
したがって「思う」には必ず主語が居るんですよ
>>507 >感情に関しては、唯物論的観点から言うと脳の物理的要因だという事になる
>あとクオリア的に解明が不可能だとされる部分ではあるが、それは結局『観念』(主観性)がからむからです
>しかしこの『観念』の主体である『私』の存在性に関しては
>これはもう全くもって、その原因性というものがありえない
最高位よ、その『私』から、「感情」とか「クオリア」とか「観念」とかの、「主観性」といわれている
ものを全部取り除いてみろ。そこに何か残るものがあるか?
521 :
考える名無しさん:2011/06/28(火) 23:13:06.73 0
>雷が、光るわけでしょう?
雷が光るんじゃねえよw
実際は脳があれこれ考えてるんだろうけど、
脳の中に中心的な主体(私)が存在すると仮定しないと社会が成り立たない。
一応(私)は存在するとされているけど、実際には(私)など存在しないだろうね。
脳が「われ思うという事にしておく、ゆえにわれ在りという事にしておく」と考えている。
私は美しい存在です!?♪。
524 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/28(火) 23:50:40.07 0
>>515 >この、『「ある」こと』『存在すること』そのことを指して、彼は「存在性」と言う。
少し違います
>『テーブルの上にリンゴが「ある」こと』 と 『○○さんという「私」(主体・主観)が「ある」こと』 は等価だから。
リンゴというのは、あくまでも物質の集合体であって、物質的にも変化し続けており
これは「状態」です
物質的な「状態」に対して、『観念的価値観』によって便宜上で「リンゴ」という存在であると認識している
短く言うと「物理状態に対して価値観でリンゴだと認識している存在」
イスも同じ、机も同じ、ある状態の物を「それ」だと「思っている」からイスであり机だと呼ばれているだけ
バラバラにしちゃえば木である
売り手が漬物石を売ったつもりでも、買い手がイスとして使っていれば、それはイスなのであろう
そういう存在
一方
『私』は『私』以外の何ものでもなく、また存在している としか言えない
まさに存在性
全く、有り様が違う
>>522 私も以前は、そういう風に考えていたんだよね
でもそれだと客観的に考えた場合
そう認識する人達が、勝手に永遠にそう認識してればいいのであって
なんで『私』が存在し、そこに参加しているのか その原因性が不可解なんだよね
>>518 ああ、厳密に言うとそうなるかw
(ネコみたいなツッコミだなw 彼は、「世界の広さ」を(一個人の)「知覚認識の範囲」と重ねていたが・・。)
しかし、そのように言うならば、
「その」リンゴも「あの」リンゴも、どんなリンゴだってあり得ない。
在るのはただ「私(主体)」と「それによる認識」(私に映じた“対象の影”)だけだから・・。そこには対象そのものもない。
確かなのは、確かに存在するのは、《「私」による認識》だけである、と・・。
(ここで「私」を消去できれば、唯識教学まであと一歩だw)
そうであるならば、そのような「私」であるならば、最高位の主張への評価も若干は変わってくるだろう。
しかしそうすると「存在性」という言い回しの意味も薄れてきそうだが・・。
しかし彼は、(
>>520が突ついているように)、
「○○性」を有する為の器として、『私』『主体』を想定している点が痛いわけさ。
それは、上記のような「認識論」とは趣を異にする。
確かなものが認識のみであるなら、器としての主体もまた不要だ。それとも「場」として要請されてしまうのか・・。
>>522が触れているように、社会が日常として成立してゆくためには、
その『器』の想定・設定は必須だ。 単に目の前の肉体を、或いは総体としての他者を相手にするだけでなく、
その中身・本質・本音としての、所謂「想い」の部分をこそ、「相手」「対話者」として扱う、応対する。
その時、人は互いの『器』に向かって働きかけ、語り、共感する。「根源的“名札”」のようなものだ。
だが、実際にそのような器があるか?といった時、「そうではないよね」という考え方もあり、
その一翼が仏教だったりするわけだ。
526 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 00:02:54.44 0
私にとって私の存在は疑っても疑っても、存在するとしか言えない。
他人にとっては、どうなん?
しらんがな。
「私は存在しない」という事実は馬鹿には理解できないというか、
出来の悪い脳には理解不可能なのだろう。
528 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 00:22:29.87 0
「雷が光る」はニーチェで出てくる有名な話。
雷は背後世界のこと。思考の落とし穴的な意味。
529 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 00:28:07.40 0
「稲妻が光る」じゃなかったか? 忘れた
いったい、何が問題になってるのか、誰か3行以内で要約してちょうだい。
あたしの書き込みは、つねにあたしを記述してますが、なにか問題でも?
531 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 00:33:52.80 0
そうだった。稲妻だった。
>>530 コンテクストで現れる、というだけのこと
私など存在しないのだよ。
残念ですが、この真実は馬鹿には分かりません。
じゃあ、527はいったい誰が書きこんでんの? 超常現象?
>>525 >「その」リンゴも「あの」リンゴも、どんなリンゴだってあり得ない。
>在るのはただ「私(主体)」と「それによる認識」(私に映じた“対象の影”)だけだから・・。そこには対象そのものもない。
>確かなのは、確かに存在するのは、《「私」による認識》だけである、と・・。
そんなふうにはならないよ。飛躍しすぎ。
「【このリンゴ】の【この】は、【この私(主体)】がなければ【この】にはならない。」というのは、
私にとっての【この】とあなたにとっての【この】は違うというあたりまえのことであって、
『確実に存在するものは何か?』という話ではない。
つまり、あなたが【このリンゴ】と言っている時点ですでに何らかの【私】を想定してしまっているわけで、
その【私】にとっての【このリンゴ】であるわけだから、そこに【リンゴ】と【私】の違いがあるということ。
はっきち答えてね。527は、いったい誰が書きこんだんですか?
誰かと想定できると思ってることが間違ってるのさ
誰か、書き込んだに決まってるだろ?
・・まあ、チューリングテストにパスしたプログラム
かも知れないけどね。あなたは。
まあ、人間か、プログラムか、未知の超常現象か、
これ以外の可能性って、ある?
540 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 01:22:50.39 0
誰かが書き込んだとしても、私と言うものが書き込んだのではない。
>> 533
真実は存在するの?
それは、あなた。
あなたが、あなたの指とパソコンでコック・ロビンを殺したの。
543 :
ゲーム:2011/06/29(水) 01:36:50.76 0
>>538 仮に、この私めが書き込んだとする。
では、この『私』とは何か、が当スレ一つのテーマ。
最高位によれば、『私』とは何ものにも還元できない、ただ「ある」としか
いいようのない、したがって“存在性”としか呼びようのない、いわば“点”
に似た何かだという。むろん、異論百出である。w
544 :
Q:2011/06/29(水) 02:08:25.62 O
「わたし」というのが何らかの対象だと考えるから面倒なのだと思う
「わたし」という言葉が自身を指し示す指示語だと考えればいい
ここで言う「自身」とは、語られた言葉自身
「わたしは日本語が分からない」(言明Q)という言葉もまた
「わたしはいない」と同じくらいおかしい表現だ
これは言明Qが日本語で書かれているからで
「わたし」に関する問題もこの関係と同等と考える
「わたしは存在する」とは
「『言明R』が存在する」(言明R)
このような関係の上に成り立っているのでは?
僕は、論理的な問題だと解釈します
545 :
ゲーム:2011/06/29(水) 02:24:26.52 0
>>535 【私】にとっての【リンゴ】との言い方は【私】を実体的に
扱いすぎではないか。最高位の立場は、これに近い。
しかし、これは【私という意識】にとってのリンゴである。
ついでに、このリンゴも“リンゴという意識”。
意識においてしか【私】も対象も把握できない。
といって、意識が実体である、といいたいのではない。
意識は何かについての意識、つまり“関係意識”である。
生まれながら意識はあり、ある段階で(たぶん他者が他者として輪郭を
持ったとき)【私という意識】もその貌を顕わにするのだろう。
意識は【私】に先立っている。
546 :
417:2011/06/29(水) 02:35:36.30 0
>>477 >心身問題の範疇にない という事は言ってないんですがね
私の存在性は心身問題として探求し始めることができるとか?
それとも心身問題がどういう問題かウィキペディアを読まないとわからないとか?
>心身問題における唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象である
>というものであるのだから、『私の存在性』も物理現象の結果である としなければなりません
もうこれで最後ですよ、子供に話すようにわかりやすく説明しますからね。
あなたが『私の存在性』を認めているようには、唯物論者は『私の存在性』を認めてはいません。
あなたと同じように唯物論者が『私の存在性』を認めてはじめて、あなたの言い分は通るのです。
それくらいわかりますよね?
魂は存在していると信じている人が、なぜ魂なんてものがあるんだ!
と驚愕していても、それはその人にだけ起こっていることですよね?
その人が『魂の存在性』を唯物論者に訴えても唯物論者は説得されないと思いますよ。
唯物論者に理解してもらうために『魂の存在性』を『私の存在性』と言い替えてもね。
その人にとっては魂の存在性がデカルトの私のようにどんなに確からしいことでもね。
その人が唯物論者に
唯物論者の立場は、人間の精神性も脳の物理現象であるというものであるのだから
『私の存在性』も物理現象の結果であるとしなければなりません
と叫んでいる風景を思い浮かべる想像力が、あなたにもあればわかりますよね?
ここまで絵本のようにわかりやすく説明したんだからわかってくれるといいな。
ほんとうはデカルトさえ読んだことがないあなたに教えてあげます。
デカルトの私は魂のことですよ。(概念的には ← わかるかな?)
547 :
417:2011/06/29(水) 03:04:00.29 0
>>485 >う〜ん
>彼はかなりマトモなこと指摘してるけどな
その前にあなたの論に対しての私の主張について逃げないで答えてみたら?
あなたの能力では反論できないことはわかっているけど頑張ってみたら?
それでも一応は男の子なんでしょ?
他人の書き込みを黙って拝借して自分の主張に利用するのはかまわないけど
少しは自分の頭で考えてみたらどうですか?
ゲームさんを取り巻き扱いしていいの?
いやらしい奴だね。
ゲームさんの質問のどこが「マトモ」なのか、あなたが答えるんだよ!
私はあなたにレスを返したんだよ!
他人の主張を都合よく自分の意見だったかのように盗む癖は責めないから
私のレスにちゃんと答えなよ。
負ける相手は無視で通したい卑怯者だっていうのはわかったけど
最低限の誠意は示しなよ。
哲学の議論は論破されるためにするんだよ。
卑怯者にはできない学問なんだよ。
はずかしいよ、あなたみたいなクズが大手を振って哲学板を歩いていることが。
クズでも相手にしてあげるからかかってきなよ。
男の子が逃げるなよ!
よく、わかんないねぇ。なにをみんな興奮してんの?
わたしがここに書き込んでいるこの文章が、まさに
「わたしの記述」でしょ? なに、考えてんの。ちょっとは冷静に
なってよね。どうして、問題点を3行で要約できないの?
じつは、なんの問題も存在しないからじゃないの?
549 :
417:2011/06/29(水) 03:15:02.81 0
>>486 >ゲーム君は、哲学をあまり知らない人だよ。
>ハイデッガーの存在論的差異なんて全然わかっていない人。
私は哲学板には中学生のときから来てますけど
1年はみっちりロムりましたよ。
言っていることがある程度わかるようになるまで。
素人さんのような学哲志向ではないですけどね。
私は特定のスレしか覗かないので
最高位という人をまったく知りませんでした。
どうして可能性を感じてしまったんだろう?
私がバカでした。
550 :
417:2011/06/29(水) 03:20:37.92 0
>>495 >私の言っているのは「存在論」じゃありませんよ
あなたが存在論だって言ってました。
>ハイデガーとか、あんまり関係ありません
誰にでもわかるようにとの思いから利用しました。
伝わらないと議論にならないと思うからです。
>それに
>「素人氏」の
>>460は
>「唯物論」と、例えば「霊魂説」などの2つの方向性 という話であって
>あなたの論点とは、全く関係ありませんよ
そうですか、私が読み誤っているわけですね。
で、私の論点については議論しないのですか?
あなたが思うほど的外れではないと思いますよ。
551 :
417:2011/06/29(水) 03:39:35.03 0
>>496 >もともとデカルトが懐疑論的に
デカルトに懐疑論的姿勢はありません。
むしろ逆の立場であるがゆえの方法的懐疑です。
何もわかっていないのですね。
>「自分が認識している全ては疑いうる」とし
ですから、これも間違いです。
むしろこれが懐疑論的立場、懐疑論者の立場です。
デカルトの偉大さが何もわかっていませんね。
>しかし、「それを『思う我』が『いる』事は、どうやっても疑いえない」
>いくら疑って疑って、たとえ否定したとしても、それを否定したのは『我』であり
>これは、どうやっても疑いえない
>とし、これを「第一原理」唯一疑いえないもの
>としたわけだ
それで、私の存在性がデカルト発見した我なのですか?
「何ものか」は要請されるでしょうが、それがなぜ我でないとならないのですか?
>これ基本中の基本な
偉そうに。
どうでもいい内容の反論は受け付けません。
552 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 03:55:51.68 0
最高位は懐疑論と方法的懐疑を混同している。
4.5回はすくなくとも指摘されているけどちっとも改まらない馬鹿なの。
有名な話なんだよん。
553 :
Q:2011/06/29(水) 04:34:07.38 O
>ケイコ
>548
問題がないわけではない
デカルトの「われおもうゆえにわれあり」は疑いうるのではないか?という意見は
一昔前ならば封殺されていた
このデカルトが確実と考えた問題を整理し、再度、疑いうるかどうか考えるのは意義があること
僕は、論理の問題と考えるし、疑いうると考える
例えば「『私の存在性』スレッドがない可能性がある」と考える余地があるのではないか?
(これは「わたしがない」という言明と同じ関係だ)
われわれが使用する言語、論理構造が最初からはちゃめちゃな可能性があるのではないか?
ぐちゃぐちゃな言葉をつかう、例えばダニエル・カールみたいなコテに対して
彼の発言に真(!)の可能性はまったくないのだろうか?
とか、、、
554 :
417:2011/06/29(水) 04:35:50.54 0
>>552 改まらないというのは、バカ丸出しのレスをもらってわかりました。
あらかじめ教えてくれていた人もいたのに、私もバカだから期待してしまった。
真剣に真面目にレスを書けば、その気持には応えてくれるって信じました。
まさか応える能力すらなかったなんてビックリです。
なぜ私は最高位なのか?
の私をデカルトの私と同一視するのは永井均だけで十分です。
きっと永井均の本しか読んでいないデカルト知らずがカッコつけてるんです。
>これ基本中の基本な
アホらし。
私は、私よ? ほかのひとになった経験ってありませんけど?
・・なにか、疑問の余地でもございますの?
556 :
417:2011/06/29(水) 04:38:24.49 0
>ゲームさん
ゲームさん、すみませんでした。
キチガイなので許してください。
某最高位のように卑怯者ではありませんが。
私の自己満足ですが、レスさせてください。
返信は必要ありませんが
私の話しに興味があれば、お付き合いさせてください。
しろうとさんは私も知っているんです。
レスを交わしたこともあります。
名無しでしたが。
>>498-499を読んでどう思いましたか?
びっちり詰まってますよね。
誰にも見せたくないほどです。
本当に勉強になります。
スカスカの某最高位のとはちがって。
しろうとさんが「しろうと」と付けざるを得ないほどのレベルが
以前の哲学板にはあったんです。
もちろん当時の私はキチガイ役でしたが(今もですが)
今ではキチガイが説教しなければならないほどのバカがいるんですもの。
哲学板も落ちました。
愚痴と悪口ばっかりでごめんなさい。
こういう奴なんです。
では、レスを返したいと思います。
とりあえず連投規制がかかるまで。
557 :
417:2011/06/29(水) 04:43:44.52 0
>>466 >「私の存在性」との言い方は間違っている、という理由がよくわからない。
理由は
>>452に書いたつもりです。
某最高位の思い込みを解消するためのヒントも示していたつもりです。
>たしかに表現として“存在性”はこなれてはいないが、「私という存在」が
>正しくて、前者はダメの理由をもう一度、説明していただきたい。
どうやって存在から存在性を抜き出せるのですか?
抜き出せると思うから抜き出せたものが独立に存在していると錯覚するのです。
それが私です。
存在(の絶対性)を表現したいなら最高位の存在性でもかまわないですよね?
どうして最高位の他に私がいないといけないのですか?
>単に「存在する」という事態は想像できない。
私にも想像できません。
>それが「何であるか」は別として、何かが存在する、のではないか。
私は一度きりの人生で十分です。魂なんていらない。私の願望ですが。
>“私という存在”は「私が存在する」と、どこが違うのか。
「私という存在」という表現がイケてないのは認めますので他に提案してください。
私 = ある なので「私が存在する」では「存在が存在する」になってしまう。
「最高位が存在する」なら「存在者が存在する」ということなので問題ないですが。
「私という存在」という表現によって、私 = ある を表現しているつもりです。
>これを、より概念化すれば「私の存在性」という表現になるのでは?
存在性という表現を認めた場合には、実在する最高位の存在性は認めてますよ。
路傍の石の存在性、目の前のノートパソコンの存在性、ゲームさんの存在性も。
当然です、みんな存在してるんですから。
558 :
Q:2011/06/29(水) 04:56:52.69 O
>555
経験はよく人を騙す
僕は自分の経験から得た知識が誤りであったことを多く経験している
もちろん経験抜きに知識が得られるとは思わないが
(エクスペリエンスは「経験」ではなく「実験」と訳したい)
ここで僕が問題にしたいのは、ピュロンに代表される懐疑論に正しい余地を与えることなんだ
559 :
417:2011/06/29(水) 05:00:38.38 0
>>467 >「私=ある」というのも奇妙。「私はある(存在する)」ならわかる。
最高位が存在する。
の存在から存在性を抜き出して、私の性質にする必要はないです。
存在性という表現を認めれば、私は最高位の存在性であると表現できますが
それなら最高位が存在するだけで十分ではないですか?
>最高位は「私は存在する(ある)」と述べているだけで、もう一つ「私」は
>物質ではなく、また物理に則って「ある」わけではないともいう…。
最高位が存在するという、まさにそのことが最高位の存在性です。
それを私の存在性としてしまうことがどういうことなのかわかりますか?
>この点を大目にみて、私=ある、としよう。
>では、この場合、私ではなく「何がある」のですか。
大目に見てくださってありがとう。
何があるか?
もちろん、最高位。
レディ・ケイコさんとQさんがレスを挟んでくれるとありがたいです。
560 :
Q:2011/06/29(水) 05:17:07.20 O
>としろうとさん
呼ばれたので、ながら読みながらレスを
「わたしはある」とはいったい何があるのか?
これが元の問題か
わたしにはまったくもって何があるかは不明だ
(デカルトはその性質から霊魂の存在の論証をしていたが、ここは要点ではないだろう)
わたしが思うに
「わたしはある」の問題は
なぜ「なにもない」ではないのか?
という一点に回収されるのではないか?
「何もない」「誰もいない」ということを否定する
ように「われおもうゆえにわれあり」の言葉は成立する
「われおもうゆえにわれあり」を否定するならば
「誰もいない」と言ってみればいい
もしくは「何もない」と
だが、悪魔が騙しているという仮定を置いたとしても
「悪魔が存在する」ということになり、何かが存在することになってしまう
その悪魔の存在もまた、何かが騙していて実際は存在しないのかもしれない
561 :
Q:2011/06/29(水) 05:18:49.19 O
続き
デカルトのコギト論証を自己流解釈で補完すると、
どんなに「存在がないのではないか?」と疑ってみても
「疑いが存在する」ということまでは否定できなかった
「何もない」は否定され、「何かがある」という結論にたどり着いた
この確信を第一原理として、これと同じくらい疑えないものを「真」と見なす
こんな感じではないだろうか?
ひねくれてるわね。わたしは「ある」わよ。
間違いなく。疑問の余地なく。
>417さん
貴方は永井均の<私>がどういうことを言おうとしているのか理解できますか?
おそらく、そこがポイントになります。
ゲームさんや素人さんは、おそらく、それを理解できない人。
だから彼らは最高位に対してピントはずれな反論をします。
貴方はたぶん誤解しています。
最高位は、ゲームさんや素人さんより、たぶん哲学史を勉強した人ですよ。
貴方のようにむきになる人が多いから、馬鹿のふりをして楽しんでからかっているだけだと思いますw
564 :
Q:2011/06/29(水) 05:37:45.70 O
>562
ええ、大半の人には疑問の余地がないでしょう
「わたしはいない」と言う人がいたら
彼は「嘘を言っている」と思われるか、「冗談を言っている」と思われるでしょう
しかし、本当に彼の言葉は嘘でしかないのか?
実際に、彼の言葉は本当で、言葉の発言者はもう死んでいないのかもしれない
そう考えることはできるのではないでしょうか?
それがくだらないかどうかは置いといて
そう想像する余地があると僕は考えるわけです
565 :
417:2011/06/29(水) 05:38:12.17 0
>>561 >デカルトのコギト論証を自己流解釈で補完すると、
>どんなに「存在がないのではないか?」と疑ってみても
>「疑いが存在する」ということまでは否定できなかった
>「何もない」は否定され、「何かがある」という結論にたどり着いた
>この確信を第一原理として、これと同じくらい疑えないものを「真」と見なす
>こんな感じではないだろうか?
横レス失礼します。
そう、そう言ってくれたら素直に認めます。
一応、言い訳しておくと永井均もそこまでは来ています。
「存在がないのではないか?」と疑った、というところがキモです。
それを忘れてしまって、そう疑っている「私が存在する」と短絡する。
飛躍していることに気づかない。
そういう立派な書き込みすると
すぐに某最高位が「俺が最初からそう言ってるだろう」
ということにされてしまいますよ。(笑)
566 :
417:2011/06/29(水) 05:52:34.90 0
>ゲームさん
こんな書き込みがありました。
>>457さんのレスを使わせていただきます。m(__)m
>対象でないとしたら、何故に「なんて言うもの」という表現が成り立つのだろうか。
なんて言うもの、のように表現したくなるのは、驚いているからです。
もちろん私が存在していることに。
もう少し正確に表現すれば、私という存在を発見して驚いているのです。
この私は自身を世界や最高位とは隔絶された存在として自覚しますが
どうしてそうなのかと言えば ある の絶対性を体験しているからです。
そのため私は、孤独性、独自性、自存性などに彩られているのですが
そのような 私の存在性 私の存在の比類なさ が独我論を導きます。
このような体験を心理学では「自我体験」と呼んでいます。
調査によれば、前-思春期の10歳前後が体験のピークらしいです。
(永井均は小学3年時の自我体験から私の哲学を始めています)
自我体験は、新しい私の発見、本当の私の誕生として体験されます。
私は、最高位が ある の絶対性に気づくことで存在し始めますが
気づくというより、正確には、忘却した真理を再体験する、のでしょう。
方法的懐疑では往々にしてデカルト的錯覚を逃れられません。
>「存在がないのではないか?」と疑った、というところがキモです。
>それを忘れてしまって、そう疑っている「私が存在する」と短絡する。
>飛躍していることに気づかない。
存在しているということが、存在しているもの「私」の性質として与えられる。
それが私の存在性というやつの正体です。
417さんは、相当若いねw
最高位好みの若さだw
569 :
417:2011/06/29(水) 06:04:24.69 0
>ゲームさん
私は(独我論の)独我として自覚されます。
(この独我性を、私の独一性、独在性、存在性と言いたくなる)
どうして独我なのかと言えば
最高位が最高位の存在性すなわち存在を発見するからなのですが
そうとは気づかず最高位とは別の存在者として私を誕生させます。
世界があるという、まさにそのことが神秘である!
このような体験を自分自身に対して自分自身が体験するのです。
そうでなければ「私なんていうもの」と表現したくなるわけがありません。
独我の「私が存在する」は、独我にだけ理解される言語です。
これを私的言語と呼びますが
私的言語の世界には独我と同じ存在の仕方をする他者はいません。
独我に向かって「いえ、私こそが存在する」と言える他者がいないのでなければなりません。
いないのでなければならないのは「私の存在性 = <私>の存在の比類なさ」のためであり
「私の存在性 = <私>の存在の比類なさ」は、存在の絶対性から来ています。
それが私が独我でなければならない理由です。
これは、
>>563への返答でもあります。
>最高位は、ゲームさんや素人さんより、たぶん哲学史を勉強した人ですよ。
言葉の後ろに「性」をつければことが済むと考える人は何の勉強した人ですか?
デカルトさえ読んだことがないのにデカルトを持ち出す人は何を勉強したのですか?
私は議論から逃げる人を軽蔑しているだけです。
>417さん
永井均を知っていることを書こうとしているようですが・・・
少し説明すると、永井均の<私>の、< >の記号は言表不可能性を表しているんだね。
永井自身がそう書いています。
まずそこが一つのポイントになるでしょう。
その意味が理解できないと、<私>について、まったく理解できないはずです。
(貴方の書き込みからは、その大事なポイントが読み取れませんでした。)
571 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 06:12:57.65 0
171 名前:哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo 投稿日:2005/04/30(土) 08:04:38
あ
話が逸れてしまってたw
コピー人間を作っても、『この私』にならないという事は
私が私であった根拠が、物理的なものである可能性が、ゼロだという事になるワケ
だから唯物論は崩壊する
オッケイ?
572 :
528:2011/06/29(水) 06:21:31.78 0
573 :
417:2011/06/29(水) 06:27:45.27 0
>>570 >永井均を知っていることを書こうとしているようですが・・・
>少し説明すると、永井均の<私>の、< >の記号は言表不可能性を表しているんだね。
>永井自身がそう書いています。
永井均はハイデガーの「存在×」を拝借しています。
私が連呼する存在の言えなさにあやかって。
永井均の著作はほぼすべて読みましたが、私は永井均の論には懐疑的です。
それに他人には厳密さを求めるくせに、永井自身はいつも厳密ではありません。
いえ、議論が。
あなたが某最高位をかばうように、入不二基義さんも永井均を高く評価します。
もちろん議論では逃がさないですが、2chでは逃げられてしまいますね。(笑)
参考図書 →『〈私〉の哲学 を哲学する』講談社 永井均 入不二基義 他
・逃げようとするいい加減な永井を逃がさない入不二基義の厳密な議論に注目!
>(貴方の書き込みからは、その大事なポイントが読み取れませんでした。)
私がわかっていない、その大事なポイントを教えてください。
574 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 06:34:04.09 0
584 名前:哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo 投稿日:2005/05/18(水) 13:50:01
>>583 簡単な事だ
キミは、動作して初めて自我だと思っている
しかし私は、存在性が自我であり、自我は存在性
動作すれば主観性以外にはありえない
すなわち自我の特性とは、主観性そのものだ という事さ
ゆえに、寝ている時も、私は私である
寝ていても自我のある存在だ
消えたりしない
無意識で何も考えていない時があったとしても、全て主観性なんだよ
人間は、いかなる場合でも『私』という主観性から抜け出る事はできない
そういう存在だ
何が文句あるんだよマッタク
何が言いたいのか全くわからん
ただのバカなのか?
>417
>私がわかっていない、その大事なポイントを教えてください。
すでに書きました。言表不可能性ですよ。
>>572のブログの「コメント」にあるように、それは西田幾多郎の思想そのものとして読めます。
西田幾多郎の無の場所。
ハイデガーは「存在=無」とし、その「存在」に抹消記号をつけた。
永井均は、そこからヒントを得て<私>という語り得ぬものを語り、
それを、西田幾多郎の「無の場所」に重ね合わせる。
「無」は、語り得ぬものですね。
貴方はおそらく、「無の場所」についても懐疑的でしょう?
むきになればなるほど、相手の存在を認めてしまうことになるのが417には分からない。
そこが若いんだよね。
まあ、あとで気づくんだろうけど、時すでに遅し・・・
最高位の思うつぼw
577 :
417:2011/06/29(水) 08:33:11.19 0
>>575 ごめんなさい、連投規制でした。
>>393さんに質問したけど返答がなかったのでそれを利用して。
理解しやすい例【アートマン】=【私】(=神、存在、真理、愛)で
正しいと思われる部分をウィキペディアから抜き出します。
もちろん=神、存在、真理、愛だなんて言っているのは私だけ。
( )内は私です。
前提 アートマンとブラフマンが同一とは ある においてです。
真我は輪廻転生する魂ではなく存在者における超越性です。
●【アートマン】は、根源を意味する。
( ある のでなければ世界は成り立ちません)
●知るものと知られるものの二元性を越えているので
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
(超越「神、存在、真理、愛」には比肩しうる何ものもないからです)
●「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
(西田幾多郎が言う絶対無のことですが、絶対無すなわち絶対有です)
参考図書 →『西田幾多郎哲学論集 T/U/V』岩波文庫 西田幾多郎
・おすすめ論文 T 私と汝 U 論理と生命 V 絶対矛盾的自己同一
●その属性を「…である」と定義することはできないという。
したがって、「…である」ものではない。
(2007年に急逝された池田晶子の表現 これ が限界でしょうが
彼女にやっと追いついたのでしょうか、永井均も最近使い出しました)
参考図書 →『事象そのものへ!』トランスビュー 池田 晶子
●アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる。
( ある とは 一者 すなわち 神 です、神 は 世界 です。
存在者の超越性は神が遍在する証拠。信仰を捨てられない私の妄想)
●釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。
(アートマンは対象ではないので存在しません、存在そのものです。
アートマン無しでは世界は存在しないが、世界にアートマンは存在しない)
コピー人間を作っても、『この私』にならないという事は
私が私であった根拠が、物理的なものである可能性が、
ゼロだという事になるワケだから唯物論は崩壊する
そんな理屈で唯物論が否定されるわけないだろ。
おすぎとピーコは別人だし、おすぎの頭に石がぶつかった時に、
ピーコが「痛い!」と感じるはずがない。
おすぎの頭に石が当たっておすぎがが痛いと感じ、ピーコの頭に石が当たらずピーコは痛いと感じない。
こんなの当たり前であって、これで唯物論は崩壊するなんて理屈はまったく意味を成さないよ。
579 :
417:2011/06/29(水) 08:47:10.45 0
>>570 >永井均を知っていることを書こうとしているようですが・・・
私は永井均や某最高位の議論が魂という存在を招来してしまう危険を批判しています。
そういうことではなく、こういう簡単なことなんでは、と主張しています。
概念的に言えば、永井は素直に認めていますが、<魂>を議論しているのですよ。
某最高位は認めないでしょうが、それでいいのですか、哲学板なのに?
>>575 >すでに書きました。言表不可能性ですよ。
(存在論的独我論における)
独我や独我論について言表することはいくらでも可能です。
ただし他人にそれが伝えられない、かつ、伝わらないのでなければならない。
さらに、言表する独我自身にも本当は何を伝えていいのかわかっていない、
かつ、何が伝わらないのかもわかっていないのでなければならない。
不可能性を独我自身にも適用するのは、一つは私的言語の不可能性から、
もう一つは茶柱さんが
>>419-420で指摘しているように
そもそも私そのものを捕まえることが不可能だからです。
紹介した最新刊での入不二と永井の議論でも、実は入不二の指摘は
そのまま永井が言うレベルでの私的言語が不可能であることの指摘でもあります。
<私>を存在させたいがためにウィトゲンシュタインの主張を故意に読み違えてまで
(論理破綻させてまで)私的言語が可能であると主張するのはどうなんでしょうか?
>>575 >貴方はおそらく、「無の場所」についても懐疑的でしょう?
いいえ。
まだ読みきれてないですが、私は西田幾多郎は尊敬しています。
永井均の西田幾多郎論は、あれもあえての誤読ですね。(笑)
>>577は、気にしないでください。
こういう話しならいくらでもできるという例と思ってください。
580 :
417:2011/06/29(水) 09:02:17.20 0
>ゲームさん
以下、お遊びですが…
私は人間の経験によって知られうるものではありません。
これほどよく知っているものはないと確信していてもです。
そのようなものをカントは「超越論的仮象」と呼びました。
よく知られたものとしては、神、魂、自由などがありますが
それらと私は同列の、客観的な現象を超える無制約者なのです。
カントが「超越的」とは言わずに「超越論的」としているのは
人間は現象の世界と物自体の世界に属する二重の存在であると考えたからですが。
簡単には現象の世界とはこの世界のことで物自体の世界とは言わば神の世界です。
もちろん神の世界とか言ってるのは私だけですが。
最高位は現象の世界に住まう制約者、私は物自体の世界に属する無制約者である
と想定すれば、端的に言えば私は魂ということになります。
なぜなら私は現象の世界の制約を超越しているのですから。
永井均も概念的には<私>とは<魂>のことだって言っています。
こういう文章を書かれて、私も全然わかりませんでした。
わかろうとして勉強してみると目からウロコでいっぱいになります。
私って頭おかしいなと思っていたことが真剣に真面目に書かれていたり
なんだかとても嬉しかったな。
そういう経験をゲームさんにもたくさんしてもらいたいです。
「今朝はよく晴れてるな。今日は暑くなりそうだ」と思うとき、
そう思うのが「我」であるとは意識していない。『「〜」と我思う』
とき、そこには既に疑念が入り込んでいる。その「疑念」に「我」
が必然的に伴っているのであり、『「思うこと」を「自省」』する
行為が「我」の表れである。
これは日常の言語の用法とも合致している。
例えば、英語では何か断言してしまった後、絶対確実ではない
という不安の表明として「I think」を付け加える。これに
対して「You think!?」と強い口調で言い返すことは、
「不確かなことを言うな」という意味になる。
583 :
考える名無しさん:2011/06/29(水) 09:59:59.86 0
おいおい、いつまでこの見苦しい自演劇を続ける気なんだよw
Qと417の遣り取りあたりなんてこっぱずかしくて見てらんねーってw
こーゆーえげつねーことしてっと、女の子に嫌われちゃうぞ、ゾルレンよ?
584 :
ゲーム:2011/06/29(水) 10:36:35.75 0
>>580 Q君が述べていたように、デカルトは「疑いはある」にとどめるべきでした。
そこから、疑う“我”や超越的な“神”を演繹したため、あのままでは“現代”
に適合できない、いわば“古典性”を帯びてしまっている。
神、魂(私)… それらを無制約者としてその存在を肯定するのは、超越“論”
的対象であるはずのそれらを超越的存在、換言すれば“実体”化することを
意味し、カント以前の“信仰”に退行してしまう。
最高位の主張に対する疑念も、ここにある。【私(魂と呼んでもいいが)】は、
それ自体で存在する“実体(存在性)”ではなく、「(他者をも含む)環界」と
「身体」の意識、つまり関係意識が生じせしめた“仮象”の典型では?
585 :
ゲーム:2011/06/29(水) 11:11:48.77 0
>>547(417)
事実、昔は(有力なw)取り巻きのひとりでした。
いまも、ついつい取り巻きたがる『私』がいます。w
素人氏は、最高位に対して小生とはちがい愛憎あい半ばする取り巻きでした。
ここでは珍しく“哲学”学を習得しているQ君は、最高位の専門無知への侮蔑心
もだしがたく、本スレにもみられるように、悪罵してしまう性癖をいまも脱構築
できていないのではないか。w
憎悪と侮蔑は、思惟と議論の敵である。ナンチッチ
はっきり言ってよいと思うよ。
私が存在するという思想は霊の存在を認めるオカルトだってことを
もっとはっきり言ってよい。
587 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 11:21:02.53 0
>>543 >いわば“点” に似た何かだという。
それは言ってない
>>546 >>心身問題の範疇にない という事は言ってないんですがね
>私の存在性は心身問題として探求し始めることができるとか?
あのね
「心身問題の範疇である」 と
「心身問題の範疇にない という事は言っていない」 は
違うんですよ
落ち着いて聞いて欲しいんだけど
キミは私が議論してこない と言うが
こういった国語的に基礎的な事を説明しなきゃいけない という前提がありながら
キミの書き込みは長文が続くから、申し訳ないんだけれど疲れてしまうんだよね
いったい何から説明すれば理解できるのかな と考えているうちに疲れてきてしまう
申し訳ないとは思うが、もう少し落ち着いて理解してから書き込んで欲しい
>あなたが『私の存在性』を認めているようには、唯物論者は『私の存在性』を認めてはいません。
>あなたと同じように唯物論者が『私の存在性』を認めてはじめて、あなたの言い分は通るのです。
>それくらいわかりますよね?
あのね
唯物論者が「私の精神の存在(現象)」を認識しているから「心身問題」の議論が成り立ってきたのですよ
歴史を通じて、そしてつい最近までね
で、唯物論者が『私の存在性』という話を理解できかけてきた時点で
「このままだと負けてしまう」 という事で「私の存在性など認めない!!」と
いきなり最初の前提を、根拠なくひっくり返して話をうやうやにしようとしているわけでね
自分がいなきゃ、自分が「思う」事もありえないのに、自分も自分の精神も存在しないなんて
じゃあ心身問題って、いったい何だったの?という話になってしまう
「私は存在しない」という真理は、バカには理解できないんですよね。
589 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 11:39:33.26 0
>>586 それは論理的飛躍
デカルトが何と言おうと、永井氏が何を主張しようと
それは今のところ「可能性の一つとして否定できないが」という次元にとどまり
論理的な話でいけば、それは飛躍であって、そこに結論づけようとするのは短絡的
幼稚な考え
コピー人間を作っても『この私』にならないという事と
唯物論は何も関係ないだろ。
マナカナのマナとカナが別人だから唯物論は破壊されたなんて言っても馬鹿じゃね?と言われて終わるだけだね。
馬鹿みたいな話を飽きずにいつまで続けるんだ。
>>586 vs
>>589のような自演を延々とやる手法は見飽きた。
実際のところ、某国に行くと、この手法と現実の暴力手段
の行使が効果的に組み合わせられていることを日々実感できる。
議論の自演+人事権の行使による排除+暴力の行使、これが実態
昔はナイーブだったから、哲学的な議論をしているところに
その筋の人間が偽装してわざわざ第三国にまで監視に来るなんて
考えてもいなかった。不審な出来事の連続に気味悪さは感じて
いたものの、それをパラノイア的な思考と考えて自動的に
拒絶していた。むしろ、パラノイア的な状況を作り出すこと
にどれだけの労力が払われているかに注目すべきだったのだが。
593 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 12:31:25.12 0
>>550 >>私の言っているのは「存在論」じゃありませんよ
>あなたが存在論だって言ってました。
いつですか?
>そうですか、私が読み誤っているわけですね。
>で、私の論点については議論しないのですか?
>あなたが思うほど的外れではないと思いますよ。
いや、会話が成り立たないほど、違う論点を思い込んでいるようなので
冷静になって勘違いに気づいてからにして欲しいです
>>551 >>もともとデカルトが懐疑論的に
>デカルトに懐疑論的姿勢はありません。
>むしろ逆の立場であるがゆえの方法的懐疑です。
>何もわかっていないのですね。
あのね
方法的懐疑は、懐疑論的方法 と言えるんであって
なぜなら、懐疑論的な方法をもってしても「我思う故に我あり」は否定できない
すなわち懐疑論者の反論を許さない
ゆえにこれを第一原理である と言ったんじゃないの?
こういういきさつが理解できてれば、いちいち言う必要もないはずだと思うんだが
なにか、いちいち論点がズレてるよね
>>535 >その【私】にとっての【このリンゴ】であるわけだから
だから、それを言ったら認識論的限界にならざるを得ないだろ?w
確かに、【この】という「指示語」を用いる限り、言語の用法的制約に従う限り、
《「主体としての私」から或る距離のものとして》の【この】にならざるを得ないのかもしれないが、
他に言明の仕様がなかったもんでね・・。
リンゴはリンゴとしての「この」(→『それ自身』)であり、私は私としての「この」(→『それ自身』)という含みのつもりだったんだが、
無理があったか・・。 どう表現したら良いかね・・w
「庭前の柏樹子」的な、禅で言う「本分」的なニュアンスを持たせたいんだがな・・。
>>578が触れてくれているが、
この【この】という指示の仕方は、たとえば、
「完璧に模造されたコピー人体」に於いてもまた《【この】私》となることを意味する。
最高位は、コピーの方には「この私」は生じないと言う。当たり前だ。
≪コピーの側は、コピーの側としての《【この】(私)》であり≫、≪元の側の《【この】》ではない≫。
そういう、個々別々の、「そこ・それに於ける固有の」という意味合いだったのだが・・。
何か適切な表現があったら御教示願いたい。
595 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 13:46:36.21 0
>>590 「コピー人間」というのは
言うまでもなく思考実験における「物質的な要素が全く同じ人間」という事
唯物論に則って
「私の精神性」は、いかなる物質的条件によって現象しているのか と問うた時に
たとえ全く同じ物質的条件にしたとしても、それは『私』にはなりえない
よって『私』は、物質的な条件によって現象しているのではない
すなわち「人間の精神性も含め、全ては物理現象である」と考える唯物論は間違いでる
という結論が導ける
まなかなちゃんは双子なのであって、コピー人間なのではありません
双子とコピー人間と本質的に何が違うんだよ間抜けw
コピー人間といったって、置かれている場所がそれぞれ違うのだから、
周囲との関係性や環境情報も違ってしまって、完全コピーにはならないんだよ。
だから、「ただの他人」である事と全く変わらないw
「コピー人間」の思考実験はナンセンスだね。
だって、コピー人間て「ただの他人」の事なんだもの。
598 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 15:21:39.73 0
417さんへ
ようするに、
>>452←この辺の事に返事してほしいのかな?
>ハイデガーが問題にした存在と存在者との存在論的差異は
>なぜ私は最高位なのか? にそのまま当てはまります。
当てはまらないと思いますよ
しかし「当てはめちゃった」という事ですね
>私は存在(そのもの)のことであり、最高位は存在者です。
いやいや、あくまでも私は「存在する何か」であり存在者でしょう
>最高位は存在しますが、私は存在しません。
キミの言う「最高位」というのは、「私の体」という事ですか?
それは確かに目に見えますね
しかし「我思う故に我あり」ですよ
『私』も存在します
>あなたが ある を 私の存在性 と表現する意図はわかりますが
> 私の存在性 では同語反復です。
>本来 ある に存在性はありません。
> 私 = ある です。
その状態を想像するのは大変です
ゲーム氏が
>>467で指摘していますが
私には、国語的にも成立していない事ばかりをイメージするのはしんどい作業です
「存在する」という事の「存在」の意味とは何ぞや というのは
もう最大の哲学的難問なのであって、誰もその答えは持っていないはずなんだが
キミは簡単に「私=ある」であると言う
いくら何でもイコールで結べないだろ・・・というのが感想
「私=ある」じゃぁ、世界には私しか無いのかよ・・・とかね
とにかく何を言っているのかイメージできない
というか、主観性を持たないであろうコップやイスも「存在する」と考えられるわけで
では、そこにはいったいどのような「○○=ある」が成り立つと考えておられるのかな?
「私」というのは存在している何か であって、あくまでも存在者
「存在」そのものの意味を指しているのではない
599 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 15:33:18.77 0
>>597 じゃあ、どのような物質的条件下で『私』は現象するのだと言えるのかね?
具体的によろしく
私は、どうやったってそのような法則性は見いだしようがない と思うのだがね
完全にコピーするには環境も全く同じにしないといけないんだよね。
そうなると宇宙全体をコピーしないといけなくなる。置く位置も同じにしないといけなくなる。
だから完全コピーは不可能なんだよね。
コピー人間って、つまるところは「似ている他人」てだけの話w
馬鹿みたいな話なんだよねw
601 :
だび:2011/06/29(水) 17:26:32.69 0
なんか、タイトルを【唯物論と私の存在性】にしたいような流れだな。
物理主義とか還元主義的唯物論、あるいは消去主義的唯物論だけ取りざたされているようだけど、
非還元主義的な唯物論、たとえば、ドナルド・デイヴットソンが唱える非法則一元論なんかは
副題の、【私】はどこまで肉体に依存するのか?に答える内容になっていると思われる。
デイヴットソンの主張の要旨は、精神的、心的なものは物質的なものに依存し、
精神的、心的状態は物理的状態に付随するというもの。
また、ネーゲルがいう「主観性そのもの」、このスレでは最高位が主張するそれを
物理状態・物理的要素に還元し得ないとする。非還元主義的な唯物論である。
物理的なものが変化しないかぎり、心的なものも(クオリアも)変化しない。
体が滅びに向かえば、心は消滅する。心は脳を超越しえない。
唯物論の「精神的なものより物質的なものの方が、根源的である」
という主張は覆せるだろうか。
602 :
Q:2011/06/29(水) 17:33:10.14 O
>ゲーム
>>584 「疑いがある」と言えるのは、デカルトが疑っている間だけですよ
だからコギトエルゴスムなんです
ここでデカルトが確信したものは、論理的なものです
(デカルトは数学は疑えるから捨てると述べているけど、論理の研究が未発展な時代なので)
何かを疑うことと、その疑いの存在を疑うことは両立しえないこと
これがデカルトが発見したことなわけです
「すべてを同時に疑うことはできない」と表現されている原理と同等でしょう
デカルトがこの第一原理を置いた理由も簡単で
デカルトは懐疑論が嫌いだったんです
(なんでもかんでも疑えるからと否定する一昔前のゲームさんみたいな態度をデカルトは嫌ってた)
以下、神の存在証明は、世界の存在証明と同等です
不完全なもの(疑い)があるのは、完全なものがあるためである。したがって、完全なものが存在する→世界(完全なもの)は存在する
さらに、世界は人間を騙さない→感覚は信じられる
と、常識的世界観を擁護しようとしている
コピー人間の思考実験は本当に下らない話です。
同じ場所にあれば同一人物、違う場所にあれば他人というだけの話で、
「コピー」という言葉でいかにも哲学っぽく見せて論理的にごまかしている詭弁に過ぎません。
604 :
417:2011/06/29(水) 18:15:35.85 0
>>584 ゲームさん、ありがとう。
レスがいただけて嬉しいです。
>Q君が述べていたように、デカルトは「疑いはある」にとどめるべきでした。
>そこから、疑う“我”や超越的な“神”を演繹したため、あのままでは“現代”
>に適合できない、いわば“古典性”を帯びてしまっている。
某最高位を揶揄するためにデカルトの私は魂のことだけどいいの?とは言いますが
もっと言えば、デカルトの私は神なしには存在しえない神の被造物だけどいいの?
とも聞きたくなりますが、私は神なしで済まさなかったデカルトに好感を持ちます。
>神、魂(私)… それらを無制約者としてその存在を肯定するのは、超越“論”
>的対象であるはずのそれらを超越的存在、換言すれば“実体”化することを
>意味し、カント以前の“信仰”に退行してしまう。
どうか信仰は否定しないでください。
人間の限界を厳密に見極めようとしたカントやウィトゲンシュタインにこそ
神(超越的存在)はより近かったのではないかと、私は思っています。
こういう態度をとってしまうのでダブルバインドと言われてしまうのですが。
605 :
ゲーム:2011/06/29(水) 18:33:49.99 0
>>602 「疑いがある」とは、疑う“意識”がある、という意味である。
敷衍するなら、意識しているあいだは【私(という意識)】もある。
意識が消失すれば、【私】はもとより“世界”も、主観には存在しなくなる。
ベタな言い方だが、気絶するか爆睡すれば、このことは自明であろう。
むろん、デカルトは論理的たろうとしている。
といって、我と世界、そして神を論理(言葉)に閉じ込めようとはしていまい。
彼なりに“現実のありよう”を論証したのである。
何でもかでもそうしたのではなく、超越的な語り口(信仰)に疑いを呈しただけである。
信仰は自由だが、それを“真理”として押しつける輩に抗っただけである。
606 :
417:2011/06/29(水) 18:42:09.56 0
>>584 >最高位の主張に対する疑念も、ここにある。【私(魂と呼んでもいいが)】は、
>それ自体で存在する“実体(存在性)”ではなく、「(他者をも含む)環界」と
>「身体」の意識、つまり関係意識が生じせしめた“仮象”の典型では?
自己と非自己の境界はどこでしょうか?
自己にとって環界はどこまでか、心にとって身体とはどこまでか。
排除関係にあるというより、お互いがお互いを成立させている条件であり
原因が結果であり結果が原因であるような、そういう主客未分の根拠関係に対して
哲学が明確に境界を設定しようとして、自己と非自己、心と身体、主と客のように
一刀両断するとき、何か大事なものを抹消しているのではないか、と感じます。
身体と環界とのダイナミックな生命関係というのでしょうか。
そのようなものを了解する意識があるのかもしれません。
たとえば、身体と環界との生命関係が良好であるときの、
それの了解が「生き生き」とすることなのかもしれません。
(心と環界との存在関係が良好なら「ありあり」でしょうか)
ですからむしろ【私】は、身体と環界との根拠関係の不良、
生きているものとしての身体が、生きているということ(身体と環界との根拠関係)において
生命論的に破綻したときに自己の同一性(生きているモノとコトの)が不安定になってしまい
生命論的に【私】(生きているというコト)が分裂してしまったような事態が起こってしまう。
それが【私】が誕生してしまう仕掛けであるというのはどうでしょうか?
(これはそのまま存在論的にも置き換えられると思います)
607 :
417:2011/06/29(水) 18:52:47.56 0
>>585 >事実、昔は(有力なw)取り巻きのひとりでした。
>いまも、ついつい取り巻きたがる『私』がいます。w
人気者は、どこかに魅力があるのでしょう。
>素人氏は、最高位に対して小生とはちがい愛憎あい半ばする取り巻きでした。
しろうとさんが取り巻きならなら良スレになりますね。
>ここでは珍しく“哲学”学を習得しているQ君は、最高位の専門無知への侮蔑心
>もだしがたく、本スレにもみられるように、悪罵してしまう性癖をいまも脱構築
>できていないのではないか。w
いろんな人がいるのはイイことなんだって思いたいです。
聞きましたか?
コギト・エルゴ・スムなんですって。
どうしてそれで、なぜ私は私なのか? なんていう疑問が湧くんだろう?
さっぱりわかりません。
でもまぁ素直に謝らないと。ヒャー
608 :
417:2011/06/29(水) 18:58:22.37 0
>>587 >「心身問題の範疇にない という事は言っていない」 は
なんだかわからないので「〜とか?」って聞きました。それだけです。
>申し訳ないとは思うが、もう少し落ち着いて理解してから書き込んで欲しい
うるさい!
>あのね
おやじの あのね
>唯物論者が「私の精神の存在(現象)」を認識しているから「心身問題」の議論が成り立ってきたのですよ
>歴史を通じて、そしてつい最近までね
>で、唯物論者が『私の存在性』という話を理解できかけてきた時点で
>「このままだと負けてしまう」 という事で「私の存在性など認めない!!」と
>いきなり最初の前提を、根拠なくひっくり返して話をうやうやにしようとしているわけでね
>自分がいなきゃ、自分が「思う」事もありえないのに、自分も自分の精神も存在しないなんて
>じゃあ心身問題って、いったい何だったの?という話になってしまう
なにもかも唯物論くんのせいなのに、最高位ちゃんが悪者にされたのね?
あら、かわいそう、いい子いい子してあげる。
どこの子ですか、その唯物論くんは!
私が叱ってあげるから、ここに連れてきなさい!
>自分がいなきゃ、自分が「思う」事もありえないのに、自分も自分の精神も存在しないなんて
自分もいないし自分の心もないしとか言ってる唯物論くんを早くここに連れてきなさい!
これ↑もちろんネタですよね?
609 :
417:2011/06/29(水) 19:01:55.12 0
>>593 >いつですか?
覚えてません。
>いや、会話が成り立たないほど、違う論点を思い込んでいるようなので
>冷静になって勘違いに気づいてからにして欲しいです
たしかに大きな勘違いをしてました。
読んでもいないデカルトのコギト・エルゴ・スムだったと聞いて納得しました。
ちなみにデカルトにおけるコギトは神なしでは一瞬も存在できないらしいです。
あ、基本中の基本でしたね、ごめんなさい。
>あのね
おやじの あのね
>方法的懐疑は、懐疑論的方法 と言えるんであって
方法的懐疑は確実なものを求めるための懐疑ですから
懐疑論の懐疑とはちがいます。
勝手に「方法」とか付けてごまかそうとしないでください。
そういう小ずるいことはしないでください。
>こういういきさつが理解できてれば、
いきさつを理解してくださいね。
もうレスしないでくださいよ。
610 :
417:2011/06/29(水) 19:15:18.59 0
>>598 >当てはまらないと思いますよ
本当ですね、ごめんなさい。
>いやいや、あくまでも私は「存在する何か」であり存在者でしょう
それなら「存在する何か」で通したらいかがですか。
なぜ存在する何かは私なんだろうか?
存在する何かなんていうものがあるなんてビックリだ!
なぜ存在する何かは最高位なんだろうか?
存在する何かとはなんだろうか?
なんで存在する何かは存在しているんだろうか?
なぜ存在する何かはこの時代にいるんだろうか?
なぜ存在する何かはこの国にいるんだろうか?
存在する何かだけが他の誰でもない私である!
存在する何かだけが本当に存在している!
>キミの言う「最高位」というのは、「私の体」という事ですか?
存在者としての最高位です。心も体もです。
>しかし「我思う故に我あり」ですよ
>『私』も存在します
私にも心があります。
>デカルトの私とあなたの私はちがうと思いますよ。
コギト・エルゴ・スムからは、なぜ私は私なのか?
の問いは出てこないと思っていました。
すみませんでした。
611 :
417:2011/06/29(水) 19:29:35.07 0
>>598 >その状態を想像するのは大変です
私が存在しているという、まさにそのことです。
>ゲーム氏が
>>467で指摘していますが
もうわかってもらえているのではないかしら?
>「存在する」という事の「存在」の意味とは何ぞや というのは
>もう最大の哲学的難問なのであって、誰もその答えは持っていないはずなんだが
>キミは簡単に「私=ある」であると言う
存在の意味と存在するということは別のことです。
存在の意味に答えて「私=ある」なんて言ってませんよ。
他のまともな人にまで誤解されたら嫌なのでホントやめてください。
>「私=ある」じゃぁ、世界には私しか無いのかよ・・・とかね
世界に私は私しかいないということです。
>というか、主観性を持たないであろうコップやイスも「存在する」と考えられるわけで
>では、そこにはいったいどのような「○○=ある」が成り立つと考えておられるのかな?
考えておられるですよ。コップ=ある、イス=ある、花=ある…主観性は関係ありません。
>「私」というのは存在している何か であって、あくまでも存在者
>「存在」そのものの意味を指しているのではない
了解(私というのは魂っぽい何か)
612 :
417:2011/06/29(水) 19:39:54.10 0
>>605 >信仰は自由だが、それを“真理”として押しつける輩に抗っただけである。
もちろんそうですが、神や真理や存在は同じものの別の呼び名かもしれません。
どれもが絶対価値と呼べるものであり、それの言えなさについても同じようです。
613 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/06/29(水) 19:57:06.13 0
>>611 >コップ=ある、イス=ある、花=ある
私 =ある 某最高位=存在者
コップ=ある ○○ =存在者
○○に該当するのは何?
コップも「ある」だったら
某最高位も「ある」じゃないの?
>(私というのは魂っぽい何か)
という事は
魂っぽい何か=ある
という主張?
614 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/06/29(水) 21:24:32.02 0
久しぶりに覗いたがアホ最高位、
おまえまだ性懲りもなく生きてたかwww
まあ何はともあれ無事で何よりだ。
・・Qさん、一応答えていただいてありがとう。けれど、確実なものが
なければならない、という規則は、いったい誰が決めたルールなの。
それは、数学に似たものになりたい。。という昔からの哲学の強迫観念
みたいなものね。絶対確実なものなんか何もなくても、みんなうまくや
っているわ。。これが、事実。
残念ながら、哲学だけがまだ正気をとり戻せないでいるようね。
616 :
Q:2011/06/29(水) 23:15:22.74 O
>ケイコ
>615
僕もそう思います
「絶対確実なものはない」
こう考えるところから僕の哲学ははじまります
しかし、このような信念が間違っているかもしれない
確実なものがあるかもしれない
「われおもうゆえにわれあり」は確実だと昔から言われてきました
これは哲学の歴史において長く確実視されてきました
だからこそ、この理性の基礎づけが本当に確実かどうか検討することは
確実さを拒む哲学においては重要な課題となるのです
インド哲学は、その黎明期から近現代に至るまで、
「瞑想」(ヨーガ、呼吸法)による、その心身の状態に於ける「自己観察」「世界観察」がベースになるわけだが、
(主にギリシャ・ローマなのだろうが)、西洋哲学において、そうした『心身両面でのアプローチ』ってのはないのかな?
もっぱら思索のみ?(´・ω・`)
618 :
Q:2011/06/29(水) 23:37:22.69 O
>615
もう一点
「数学に似たものになりたい」と書いてますが
哲学は数学と似たものです
ただし、数学と計算はまるで別物です
僕らは計算などの練習を反復することで
数学的作業を数学の本質だと勘違いしてしまっている
(そんな作業が学問の本質なはずがない)
ところで、計算はなぜ正しいのでしょうか?
それは無意味だからです
(無意味なものは必ず正しい)
数学は無意味なものを操る有意味な学問なわけです
(数学体系自体は有意味)
哲学が有意味な言葉のやりとりをする必要があるならば
ケイコさんの言うとおり、計算や証明などの無意味であることを要するものから背を向けねばならないでしょう
そこらへんはケイコさんの言うとおりだと思います
あ、そうそう
「われおもうゆえにわれあり」を不確実だと考えるのはマイノリティなんで
僕の哲学は哲学の歴史の中でもかなり狂ってる考え方ですね
(最近、飛ばしすぎなのに叩かれないから驚いてる)
数学が無意味だある・・という主張は、すくなくともかなり問題発言よね。
数学にとっては、すべての新しい命題の証明には「意味がある」のですけど?
いくつかの公理から、ほぼ無尽蔵に近い命題を証明できるとき、数学者は
この公理系を豊富なもの、優れたものとみなすわね。
いったいどういう根拠から、数学を無意味と主張されるのか、ぜひうかがい
たいものね。
ん? 数学と計算は別物? どういう意味かしら。
計算と言わない。ふつう、証明と言うでしょう?
622 :
Q:2011/06/30(木) 01:21:12.89 O
>ケイコ
僕は「数学が無意味だ」とは一言も書いてません
「数学は無意味を扱う学問だが、数学自体は有意味だ」
こう述べてます
そして、数学科の人もこの意見には同調してくれました
「無意味」とは文字通り、「意味が無い」ということです
「意味が増えてない」と捉えてもらっても結構
数学的な正しさは、そこに意味が増えてないことと等価なのです
そして、そのような情報量保存の形式は
人間の認識から発生するにも関わらず、人間にとって未知なるものを明らかにすることがある
非明示的なものを明示的にすること、それが数学の役割の一つでしょう
ところで、なんで数学的証明は正しいのだとあなたは考えますか?
答えを書くならば
結論が前提から情報量(意味)が増えてない時、
その証明は真と言われます
また、結論が前提から情報量(意味)が増えている時、
その証明は偽と言われます
・・それは、はじめてお聞きする新説ですわね。
もし、ある命題を証明することが、情報量の増大に繋がらない
ならば、命題を証明することに、いったいいかなる意味があるでしょう。
新しい命題を証明することは、情報量の増大に繋がる。。と数学では
考えます。なぜならその命題は、多くの命題をその内部に集約している
からです。
スレ主はどうやら「こころ」を問題化したいようね。
でも、「こころ」は脳の作用だってこと、脳の出力だってこと
・・もう、わかっちゃってるんだから、むやみやたらに神秘化
しようとすると「所詮、哲学ってあの程度のものか。。」と
ばかにされると思うよ。
625 :
Q:2011/06/30(木) 03:05:22.57 O
>ケイコ
>623
それはすでに書いている
数学の証明とは、非明示的なものを明示的にする効果しかなく
新しい意味を発見したり新しい意味を創造することはありえないんだ
(そしてこれは新説ではないだろう)
この部分がごちゃ混ぜになる人が多い
ケイコ、君みたいにね
で、くれぐれも誤解しないで欲しいのだが
だ・か・ら・こ・そ、僕は数学は有意味だと考えている
この部分がとても大事なんだ
数学的な証明は無意味だけど、数学体系そのものは有意味なんだよ
626 :
Q:2011/06/30(木) 03:18:15.90 O
>624
「心」という言葉は、「情念」とかそういったものを想像させるけど
もっと幅広い気がするね
思考だって「心」の一種ではないだろうか?
じゃあ、「数学的思考」は「数学的心」と言い換えれてしまうのだろうか?
すると、数学は脳の出力なのだろうか?
でも、数学は「物」から独立してるよね
心身論はデカルト由来なんだけど
デカルトが考える「心」の性質は「思考」なんだよね
「数学」や「論理」に近いもの
それとは別に感覚されるものを「物」としている
(デカルトが「物」の属性と考えるのは「延長」)
和人魚場
628 :
ゲーム:2011/06/30(木) 09:57:21.83 0
>>626 「思考」「情念」「感覚」は“意識”として括ることができる。
それはさておき、君の一連の言い方は誤解を与える。
レディは、納得していないのではないか。
どこがわかりにくいのか。
「数学」もその「体系」も“無意味”と、とりあえず言い切るべし。
事実、無意味なのだから。これは、数学にかぎらない。
あらゆる記号(体系)はそれ自体としては意味(価値)を持ない。
それが“意味”を持つのは「体系の外部」と結び、そこに一貫性を付与
しえたときだ。数学の特性は“理(無矛盾性)”にあり、これを「物」の
世界に照射し“理”による説明を可能にしたとき、換言すれば感性との
相関“モノ”の諸様態に物“理”をもたらしたとき、「科学」と称され、
意味(価値)が認められる。“物”にまつわる情報を増量させるからだ。
629 :
だび:2011/06/30(木) 11:34:07.35 0
630 :
ゲーム:2011/06/30(木) 13:08:56.88 0
>>629 その実験を「正しい」としよう。
では、運動準備電位を生じせしめる、雑にいえば「脳」を機能させるのは何か。
外部経由の刺激である。刺激は物理的な何かであろう。が、そこに物理量には
換算できぬ“意味”がなければ、いいかえるなら“情報”化されていなければ、
「脳」の働きに規則性を与えることは不可能だろう。「知・情・意」の複雑な
意識の表出も意味あるそれではなくなるにちがいない。
刺激が脳を機能させ、意識を生じせしめ、身体を動かせる…としたら、先行し
かつ一貫して「ある」のは情報(意味)ではないのか。
私がキリスト教徒なら、それを“聖霊”と名づけたいところだが…w
631 :
だび:2011/06/30(木) 13:21:08.33 0
>>630 >先行し かつ一貫して「ある」のは情報(意味)ではないのか。
それだと、情報(意味)は誰が見いだすのか、
どこに情報化されて「ある」のか、という問題がでてきてしまうのではないか?
>>631 「誰」という言葉は不定の人物を指す代名詞な言葉ですよね?
誰が見出すのかという問い自体が、一つの誘導尋問ではないですか。
「雷が光るときに、誰が光っているのか?誰かといえば、それは雷神さんである」
この場では、そのような誘導尋問の言葉を懐疑しているのですよ。
633 :
だび:2011/06/30(木) 13:49:00.81 0
>誰が見出すのかという問い自体が、一つの誘導尋問ではないですか。
誘導尋問のつもりはないし、
最高位の立場で「誰かの・・である」ことを表したわけではないが、
どこにも現れないような情報(意味)をどうして考える事ができようか、
私は不明だ・・という意味でいったのです。
ついでながら、「雷が光る」とはどういうことですか?
634 :
ゲーム:2011/06/30(木) 13:55:27.22 0
>>631 刺激を“意味”として受け取るのは脳(システム)だろう?
が、この事態をみ、意味づけているのは主観(観測と思惟)である。
主観(意識)はその外部に情報としての“客観”を見出すけれども
それもまた意識現象であり、この主客の入れ子状態を抜け出す術を
まだ持っていないのである。
あの実験では意志(意識)よりも先に脳が機能している。
では、脳を機能させるのは何か。“情報(意味)”ではないのか。
情報(意味)は物質ではなかろう? それとも情報(意味)は物質?
635 :
Q:2011/06/30(木) 14:01:54.65 O
>ゲーム
>>628 数学は有意味ですよ
無意味なものはトートロジーだけです
数学体系はトートロジーに還元できないのですから有意味ということになります
僕が言う「有意味」はかなり広いです
言明が何かを言っているならば、その言明は情報量を有している
それらはすべて有意味です
一般に「無意味」と言われやすい表現は多々ありますが
それらもトートロジーに還元できない以上、有意味です
ただ、意味が豊富すぎる表現は、何を言っているか特定できないということが多々あります
しかし、それらは「意味が分からない」「意味を特定できない」というだけで
決して「無意味」ではありません
「有意味」とは文字通り「何かを言っている」ということです
636 :
だび:2011/06/30(木) 14:06:29.93 0
>>634 >この主客の入れ子状態を抜け出す術を まだ持っていないのである。
そうですね。
>情報(意味)は物質ではなかろう? それとも情報(意味)は物質?
物質ではありませんよ。
しかし、唯物論の基底となる主張は、物質的なものが先行しなれば
意味と呼ばれるような観念的なものも立ち上がらない、という主張でしょう。
リベットの実験を提示したのは、
最高位がどうも唯物論に対して「科学的根拠」を求めているように感じられたからです。
637 :
ゲーム:2011/06/30(木) 14:11:19.17 0
>>635 以前、「唯意味論」を名乗ったことがあるので、w
ヒトに全き“無意味”をつくるのは不可能だと思っている。
だから「とりあえず…」と述べている。
それは措き、数学それ自体の“有意味”を教えてくれないか。
>>594 >リンゴはリンゴとしての「この」(→『それ自身』)であり、私は私としての「この」(→『それ自身』)という含みのつもりだったんだが、
>そういう、個々別々の、「そこ・それに於ける固有の」という意味合いだったのだが・・。
そう考えてしまうと、抽象化した話になってしまうと思われるので、「この私」という問題からは、ずれていってしまうように思う。
>>515のあなたの文章はこうでした。
>《【この】リンゴは、あくまでも【このリンゴ】であって、【あのリンゴ】【他のリンゴ】ではない》。
>それは
>《【この】私(主体)は、あくまでも【この私(主体)】であって、【あの私(主体)】【他の私(主体)】ではない》
>ということと何も変わらないのにね・・・。
これについて私は、「【この】リンゴ」の【この】は、「【この】私」を前提としているから、
「【この】リンゴ」と「【この】私」を同列(並列)に置くことはできないだろう、ということを書きました。
次に、それぞれの文に、「そこ・それに於ける固有の」を代入してみると
《「そこ・それに於ける固有の」リンゴは、あくまでも「そこ・それに於ける固有のリンゴ」であって・・・【他のリンゴ】ではない》
《「そこ・それに於ける固有の」私(主体)は、あくまでも「そこ・それに於ける固有の私(主体)」であって・・・【他の私(主体)】ではない》
となる。
確かにこう書き換えれば、「リンゴ」と「私」を、同列に置ける。
でも、《「そこ・それに於ける固有の」私(主体)》というのは、非常に抽象化された話になってしまっている。
例えば、カントが「自我」を「意識一般」とする場合は、そのように抽象化された「私」の話をしています。
しかし、疑っても疑い得ぬ「この私」の問題は、そういう抽象的な話ではなく、まずは、どうしても「【この】私」の問題でなくてはならないでしょう。
639 :
Q:2011/06/30(木) 14:19:08.91 O
>637
数学はある規則体系を語っているのですから
当然、有意味でしょう?
数学的証明は無意味ですよ
結論が前提の内部にあり前提の外にはない、ということは
結論が前提より多くのことを何一つ語ってない、ということです
また、そのように、結論が前提と比較して情報量が増えてない時
「その論証は真である」と言われます
が、数学体系そのものは複数あり、ただ一つしかないわけではない
それらは情報量保存の規則形式の一つという意味あることを述べている
640 :
ゲーム:2011/06/30(木) 17:00:16.49 0
>>638 最高位が登場しないので、取り巻きの一人だった私が解題します。w
最高位の【私】は奇妙な“ありかた”をしている。
それは、ほとんど“無”に重なるかのようである。
しかし無ではないので、そこで(スレ主もそうだが)それに隣接する“点”と
表現すると、最高位は「点と称した覚えはない」と即座に、否定する。
事実、彼は、点といったことがない。
いいあぐねて、私たち取り巻き連がそう表現したにすぎない。
最高位は「このコップも、このリンゴも、同じものはない」という同一性の
否定(一般論)を語っているのではない。コップやリンゴは【私】の“身体”に
比定される。それは物体とみなされ、物理に従うことを彼は否定しない。
では、この意識は? こちらは【私】の意識であり、脳との関連が科学的に
解明されることもありうる、と鷹揚にかまえる。
最高位の【私】は身体と意識の“存在”を可能にする下部的な何か、または
その両者を超越する何かとして「ただ、ある」としか言いようのない意味を
担わされている。つまり“理”の埒外にある、ともいえる。
(解題になっていませんね。苦w)
641 :
528:2011/06/30(木) 19:17:56.27 0
>>629 リベットの実験で、先立つもの(脳の電位)と先立たれたもの(意識)
の関係がイコールであるならば冗長である。
なぜ意識を立ち上げ、二重に同じ仕事を行うのか。意味がわからない。
イコールでない場合は、役割が別と考えられる。
知恵も教養も無い中卒です
率直な疑問が浮かんだのでプロの皆様にお伺いしたいのですが
他者と自己の存在(生)の境界は?
ー その構成要素が類型的なものであるならば、肉体の個別性は認められるのか
ー その行動や経験が類型的なものであるならば、精神の個別性は認められるのか
以上のことから、他者と自己は同一である、という結論に達っしてしまいました
哲学的にはどうなんでしょう
643 :
考える名無しさん:2011/06/30(木) 20:20:00.28 O
>>641 似たようなことだろうけど、もし本当に意識と脳状態がイコールあるいは対応しているなら、
先立つ脳電位にもそれなりの意識が対応し、その後の意識にもそれなりの脳電位が
対応している、ということになって、だから何なんだという気がするんだけどね。
脳電位も、意識も、それぞれ、それなりの順番で起こるのだろうけど、なぜ、
一定の脳電位と、それとはイコールあるいは対応してない一定の意識との前後関係
なんてものを問題にしないといかんのかね。
と、勝手なことを言い散らかしてみる。
644 :
Q:2011/06/30(木) 20:37:27.07 O
リベットの実験を読んだけど
これが二元論を否定するとはとても思えないな
リベットの実験自体はとても有意義で脳科学の発展に寄与するだろうけど
実験の最初から単元論的前提が導入されている
それは「脳の随意分野が反応した瞬間が自由意思が反応した瞬間である」という前提だ
自由意思がどの時点で発生したかなんて分かるはずがないから
実験はリベットのように脳の随意分野をもって検討するしかないけど
それをそのまま二元論の反証にはできないよね
たとえば、AB二つの部屋が電線で繋がれていることが【明らかであるなら】!、
「Aの部屋でスイッチが押されたから、Bの部屋で電気が点く」と言い得るが、
この実験(というか、脳と意識(心)の関係)は、そこすらが推論でしかない。
つまり、AとBの部屋は隣り合ってはいるが、電線で繋がっているかどうかは未確定な状況なわけだ。
Aでスイッチを押したからといっても、そのことによってBの電気が点いたことの証にはならない。
そのためには、電線で繋がっている事が示されるが如く、脳と意識(心)の対応が示されねばならない。
そうでなければ、『或る電荷の様相が喜びである、或る電荷の様相は悲しみである』などとは言えない。
646 :
528:2011/06/30(木) 21:14:48.17 0
胃や腸や心臓の駆動制御も電位でなされているとして、
仮にそれが無意識活動と言えるのであれば、相反する
意識活動にはどんな意味があるのか分かりやすそうなんだが。。。
>>628 あのう・・お言葉ですけど、無意味と言い切ることなら、
もちろん、いつだって可能でしょうとも。あなた、無意味と
言い切ることの出来ない例をなにか、ご存知なんかしらねぇ。。
もちろん、どんな事であろうと、「無意味」と言い切る事は
可能だと思いますよ? それが、どうかしたのかしら。
>>625 あなたの、この書き込みはまったくのナンセンスね。
もし、個々の数学的命題の証明が無意味ならば、数学そのものが
無意味になるわ。ナンセンスな思考を、自慢ありげに披露する
その精神。ちょっと、問題ですよ?
649 :
417:2011/06/30(木) 22:47:20.12 0
>>613 >コップ=ある ○○ =存在者
>○○に該当するのは何?
コップ。
それがコップの存在論的差異です。
コップと最高位は存在するモノとしては
つまり、存在者としては別物だけど
存在しているというコトでは同じです。
それを了解することが存在了解です。
世界があるという、まさにそのことが奇跡であるように
最高位がいるという、まさにそのことも
コップがあるという、まさにそのことも奇跡に思えます。
私なんていうもの、と言いたくもなるでしょう。
だって存在は奇跡なんだから、こんなに不思議なことなんてないんだから。
そういう(存在の奇跡・神秘という)文脈で最高位さんの私を考えていました。
私の存在性というのは、最高位がいるという、まさにそのことを指している。
だから私の存在性ではなく、最高位の存在性でなければならないと思いました。
そうでないと私という、最高位とは別の存在者を考えないとならないからです。
それではその別の存在者とは何かと言えば、あらかじめ身体は私の属性ではない
と言われているのですから、それは魂っぽい何かということになってしまいます。
これで 私=ある の謎は解けたでしょうか?
650 :
417:2011/06/30(木) 22:49:52.63 0
>>613 >コップも「ある」だったら
>某最高位も「ある」じゃないの?
そうですよ。
もう理解してもらえましたよね?
>>(私というのは魂っぽい何か)
>という事は
>魂っぽい何か=ある
>という主張?
最高位さんが言う 私なんていうもの は 魂っぽい何か。
そう私が理解した、ということです。
だって 私なんていうもの は、デカルトの私なんでしょ?
最高位さんの私は魂でいいんですか?
神がいないと存在できないけどいいんですか?
などと揶揄してたけど、本当は揶揄ではありません。
心身二元論はどうなのかな?とは思いますが
クオリア的なものには、すべて「性」を付けて心を守る方法もあります。
クオリアのクオリア性とか言えば、もうなんのことだかわかりません。
これが正真正銘の揶揄です。(^_^)
デカルトの私について少しまとめたので載せておきます。
651 :
417:2011/06/30(木) 22:51:34.66 0
超越的なものは、みな同じです。(私の脳が確信しています)
たとえば、時間(今、瞬間)と、私(私である、ということ)について
どのように言い換えることが可能か、デカルトの言葉を借りて例示します。
デカルトの言葉を引用します。( )内は私です。
時間(今、瞬間)とは
前後まったく依存関係を持たず
決して同時に存在しないものである
これを 私 に言い換えてみると
私(私である、ということ)は
あなたや彼が存在することとは、まったく依存関係を持たず
決して同時に存在しないものである
と、私の脳内ではなります。
これが他者とは比べうることのできない私、比類なき私 であり
そんな 私なんていうものがいる、ということが
すなわち、世界に私は私しかいない、ということです。
参考図書 → 世界の名著22 デカルト『哲学の原理』中央公論社 絶版
・東京近郊の方限定ですが、神保町(古本屋街)で見つかると思います。
652 :
417:2011/06/30(木) 22:54:38.15 0
そんな 私なんていうものが、どうやって存在できるのか?
デカルトの言葉を引用します。
今われわれがあるということから
すぐ次の瞬間にもまたあるであろうということは帰結しない
そのためには、なんらかの原因、すなわち、はじめにわれわれを生み出した原因が
われわれを、いわば不断に再生産する、つまり保存する、のでなければならない
参考図書 → 世界の名著22 デカルト『哲学の原理』中央公論社 絶版
つまり、どういうことか?
私たちは、方法的懐疑によって――私は考える、ゆえに私はある――に到達する。
そして、考えるかぎりで存在する、ということから、物理的身体を私の属性から外し
思考のみ(が気に入らなければ、〜と思うところの「思われ」)を、私の属性とする。
しかし、考えるかぎりで存在する私は、考えるかぎりでしか存在できない有限者である。
私は「あなたや彼が存在することとは、まったく依存関係を持たず」自存する実体だが
実体である原因を自分自身では持たない有限者なのである、と私の脳内ではなります。
では、どうしたら、私は存在しつづけられるのか?
それが「はじめにわれわれを生み出した原因が、われわれを、いわば不断に再生産する、
つまり保存する、のでなければならない」ということになります。
どうして不断に再生産しなければならないのかと言えば、時間(今、瞬間)の本性が
「前後まったく依存関係を持たず、決して同時に存在しない」というものだからです。
そして、私(今、瞬間)を「不断に再生産する、つまり保存する」のは
無限にして完全なる神によってしか為されない、という結論になります。
まるで物理的な存在が経験に先立って意味を持つことが出来るかのようだ。
レディの言葉はファジィに過ぎる。
意味を持つとはいかなることか、考えても損はあるまいに。
また、無意味と軽々しく言うのもいかがか。
情報量が増えることはないだろうが、それ即ち意味が無いことにはならない。
命題の外延は変化しないだろうが内部の処理は変わるのでは?
認識価値の変化に意味を見出だすのだから、……あれ、これは意義か?
654 :
Q:2011/06/30(木) 23:43:44.13 O
>ケイコ
>648
数学を数学的証明に還元できるはずがないでしょ
やってみてから言ってください
数学的証明は、非明示的なものを明示的にすることはできます
それは、隠された性質を明らかにすることはできるということです
しかし、数学的証明では、前提以上の内容を結論することはできません
(当然すぎるが)
言葉には意味内容があります
その意味内容が有るか無いか、それが「有意味」と「無意味」という言葉の僕の定義です
で、数学的証明は意味が増えないことをもって真と見なす
ただ、それだけのことです
655 :
417:2011/07/01(金) 00:34:43.96 0
>>640 ゲームさん、ホントに初心者ですか?
哲学に初心者はいないと思いますが
何も知らない人と教えてもらったので
なんかごめんなさい。
ゲームさんには意外に思われるかもしれませんが
ゲームさんが言われていることを
私は最高位さんに言っていたつもりでしたが
なんかちがうみたいですよ?
>最高位の【私】は奇妙な“ありかた”をしている。
>それは、ほとんど“無”に重なるかのようである。
【私】の奇妙なあり方にとらわれてしまうと
そういう実体があたかもいるように錯覚してしまう。
(最高位さんの【私】は存在者ですから存在します)
だからその奇妙さがどこから来るのか
ということについてはレスしたとおりです。
奇妙さの代表が【私】の存在の比類なさですが
まあ私も永井均の【私】をイメージしてレスしてたので
最高位さんには失礼なことをしてしまいました。
ちなみに永井均は西田幾多郎の解説書(になってないけど)の中で
西田幾多郎が言う「無の場所」に<私>を重ね合わせていました。
>>575 >最高位の【私】は身体と意識の“存在”を可能にする下部的な何か、または
>その両者を超越する何かとして「ただ、ある」としか言いようのない意味を
>担わされている。つまり“理”の埒外にある、ともいえる。
私の存在性には「ただ、ある」は担わされていないみたいですよ。
存在性って存在のことでしょ?と聞いても答えてくれないのでちがうみたい。
最高位さんの【私】はデカルトの私なんだってわかって今はスッキリしています。
それで心身問題が解決されるわけではないけど、問題が明確になりました。
656 :
だび:2011/07/01(金) 01:02:33.64 0
>>641 >なぜ意識を立ち上げ、二重に同じ仕事を行うのか。意味がわからない。
>イコールでない場合は、役割が別と考えられる。
目的論的に考えれば、
物質的なものも、心的なものにも役割があるはず、ということになる。
しかし、唯物論的いえば、世界は根源的に物質的なものなので、
副次的に(あるいは、随伴して)現れる心的なものが直接
世界でなしうる「仕事」はないということなのでしょう。
心の領域を認めたとしても、意志あるいは心の状態が、
人間あるいは生物の肉体組織に作用するということを認めない。
意志する事で、手足を動かせるとは考えていないし、
怖くなって鳥肌が立ったとか、悲しくて涙がでるというような
出来事の因果関係を認めないわけです。
難しい問題です。私(だび)は、判断留保。
>>654 数学にまったく無知なひとのかきこみは困るわね。
証明は、当然、前提から導き出されます。しかし、あなたは
この前提が、なんであるかを、まったく理解していませんね?
通常、ある数学的命題の証明に必要な前提が何であるかは
わかっておりません。正確に言うなら、必要とするすべての
前提の正体がわかっておりません。その前提をすべて揃えるのに
数学者は苦闘を重ねているのではありませんか?
フェルマーの最終定理の場合、それが約300年かかりましたよ?
隠された性質を明るみに出す・・これが、意味の定義そのものよね?
>>656 >怖くなって鳥肌が立 つ、 >悲しくて涙がでる ことに「理由」が無いとでもお思いか?
そこに、原因や諸条件の整うことが無いとお思いか?
もし、そこに「怖れという感情が生起する理由(原因・条件)」「悲しくなる理由(原因・条件)」を見るならば、
そこにはちゃんと因果関係があるでしょう?
「 >心の領域を認めたとしても、意志あるいは心の状態が、人間あるいは生物の肉体組織に作用するということを認めない 」
というのは、ピントがずれてるでしょ?それが、エクトプラズムとか霊体とか魂とかが心の領域の主だと言い出すなら、
その相関関係に疑義を挟むだろうが、神経系の様相を認めるなら、フィードバック的事象を認めはするでしょ。
深謀遠慮や杞憂による不安の継続などは、まさにそうしたフィードバックの所為であると仮説推論できるのでは?
>>653 あなたは、わたしの質問に答えていないわね。
あなたが、無意味でない。。と断言できるものの例をあげてください。
あげてくだされば、あなたの「哲学」がわかるはずですから。
わたしは、ちなみにあらゆるものに意味を(正確に言えば、その可能
性を)認めます。
ちなみに、2、3日、留守にします。悪しからず。
661 :
Q:2011/07/01(金) 09:01:36.79 O
>ケイコ
>657
前提とされる自明なものが確実であるとは限らないのではないか?
不明瞭な前提とは、我々の受け入れる数学体系を構成するものです
それらの全貌は明らかになってない(非明示的である)
しかし、その体系から明示的に得られる類いの知識がある
(得られる前提より多くの情報量を含んでいない)
数学的証明が無意味であることは
数学体系(不明瞭な前提ら)が無意味であることを意味しないはずです
(「数学的証明が無意味なら数学は無意味だ」とは、あなたの言葉です)
662 :
だび:2011/07/01(金) 09:07:14.21 0
>>659 >そこにはちゃんと因果関係があるでしょう?
認識上の(時間的な)前後関係は「ちゃんと」ありますが、
因果関係も「ちゃんと」ありますか?
>まさにそうしたフィードバックの所為であると仮説推論できるのでは?
「仮説」は成り立つでしょう。
663 :
Q:2011/07/01(金) 09:10:07.80 O
・補足
「確実」とは「証明可能」と変換してもよい
証明可能であることと、真であることは区別されるべきですし
意味が増えてないことと、内容豊かであることとは区別されるべきではないでしょうか?
数学が有意味な体系であるのは、それが数学的証明によって構成されているからではないでしょう?
(フェルマーの定理は、証明される以前は無意味だったのでしょうか?)
664 :
Q:2011/07/01(金) 09:24:53.60 O
>ケイコ
>658
いえ、非明示的なものを明示的にすることは、「意味」とは違います
「意味」は言明が持つ情報量です
感じたことですが、あなたはかなりのものを「無意味」と感じているのでしょう
僕は、トートロジー以外のすべてが有意味だと考えています
矛盾した発言や「自分のひげをそることができないひげそりし」のようなパラドックスも含めて
それらは有意味なのです
それらの発言はなにがしかを語っているという点で、有意味なのです
>>662 >因果関係も「ちゃんと」ありますか?
それを言ったら、一切の論が足場を失うでしょw 懐疑論最強www
>認識上の(時間的な)前後関係 も >因果関係 も、蓋然性における若干の高低差でしかない。
>>656に於いて、唯物論的思考に於いては「心的状態、作用が肉体に影響、作用しない」と述べるから、
そうでもないんじゃないの?ということ。
まず、怖れという感情が生じる為には、そこに情報の入力があるということで、
それは「五感」によるものであるし、自己フィードバック的に「記憶」によるものだろう。
ここにおいて、まず、外界(物的入力)が感情を生起させているという仮説がある。
(そして貴方は、この仮説自体は無条件で認めている。)
次いで、その生起した感情が、肉体に影響を及ぼすことも、仮設される。
(そして貴方は、この仮説には疑義を挟む。)
リベットの実験は、「明確に意識されるかどうか」であり「言語化以前の感情の生起」については言及し得ていないのでは?
(唯物的に)脳内の反応が感情であるとした時、
その「感情の生起」と「それが意識されること」は別でしょう?
>>641の疑義に答える形で言うならば、
>先立つもの(電位の様相) はまさに、生起した感情であり(そこがイコールであり)
>先立たれたもの(意識) がその後に来ることに不都合はなかろう?
五蘊という考え方があるが、これは「(色→)受→想→行→識」という時系列と因果関係をも同時に指し示す。
そして、感受されるのは外界の情報入力(色)だけでなく、フィードバックとしての
「想・行・識それぞれ→受→想→識」をも視野に入れる。
>>645に言われるように、その絶対的一対一対応が不確定であることは否めないとしても、
656のような唯物的だから「心的作用→肉的作用」が認められないってことにはならないでしょ。
そこのみを懐疑するのは不徹底だ。
同程度に「肉的作用→心的作用」「肉的作用→肉的作用」にも不確実性は残るし、
だからこそ、(最近は違うのかもしれんがw)ネコは
「認識されたことその認識のみが確実、それ以外は疑義の対象、確かなことではない」と切って捨てていたわけだw
666 :
ゲーム:2011/07/01(金) 09:53:07.02 0
>>661 なぜわかりにくいか。
数学的証明を無意味としながら、その積み重ねである体系を有意味とする
“ねじれ”をきちんと説明していないからである。
その点、私は「証明無意味→体系無意味」が一転して意味を有するのは、
数学という精緻ではあれ自閉的な記号の体系が“モノ”を照らし、そこに
“理”を明示するから、と明解w。“数”は“モノ”の様態を差異化し、
逆に、そのことによって“数”もまた意義を持つ。
>>663 これもそう。では、数学的体系は何によって構成されているの?
対話、それも見知らぬ他者とのそれを好む君に欠けているのはサービス精神。
「いわなくても、わかるだろう」と考えるタイプはコミュニケーションなど
とろうとせずに、昔の親父みたく、一人でビールでも飲んでいれば? w
667 :
だび:2011/07/01(金) 09:58:24.39 0
>>665 >一切の論が足場を失うでしょw 懐疑論最強www
こんなにも悲しいのに涙がでない。→因果関係の破れ
科学的説明だと、脳が戦闘あるいは逃避状態だと勘違いして交感神経が働き、涙腺の働きが低下する。
一切の論が足場を失うわけではなく、さまざまな解釈が成り立つ。
と、私は思いますが?
668 :
だび:2011/07/01(金) 10:24:07.46 0
>>665 >認識上の(時間的な)前後関係 も >因果関係 も、蓋然性における若干の高低差でしかない。
あなたはそう考えるのでしょうけど、私はそう考えません。
心的なものと、物質的なものの相互作用が、どうして起こりうるのでしょう?
>>667 >こんなにも悲しいのに涙がでない。→因果関係の破れ
茶碗が床に落ちたが割れなかった。→因果関係の破れ?
酒豪が泥酔する。→因果関係の破れ?
夏場の残飯を腐ってないか食べて見たが、別に腹も壊してない。→因果関係の破れ?
心的作用(と肉体の関係)は、数式のような「こうならこう」「この値ならこの値」というわけでもないでしょう?
涙が出ないのなら、涙が出る時と【条件が(縁が)違うから】ではありませんか?
670 :
Q:2011/07/01(金) 10:33:58.02 O
>ゲーム
>666
なるほど、君の言うことはもっともだ
つまり、君やケイコに対する僕の反論は次のようなものになる
「数学は数学的証明の積み重ねではない」
こう反論すれば分かりやすい
君やケイコは、「数学体系は数学的証明の積み重ねである」と考えている
したがって、数学的証明が無意味ならば、数学そのものが無意味となってしまう
対して僕は、数学体系が数学的証明の積み重ねとは考えていない
数学が無意味なものだけで構成されてない以上、
僕が数学を有意味と考えるのもまた当然となる
つまり、問題は、「われわれの使用する数学体系は数学的証明のみによって構成されているかどうか?」
この問題の検討となる
>>668 >心的なものと、物質的なものの相互作用が、どうして起こりうるのでしょう?
随伴説や脳神経系の働きを「意識・心」である、或いは相当に密接な関係にある、とする立場なら、
(いや、そうでない立場でもだろうが)、
『(同じ肉体の中として)連結しているから』でしょう?生理的に連結しているからでしょう?
遠くの石を動かしたり、爆発させたり、憎いあん畜生の心臓を念力で締め上げるとか、そういうこととは違うでしょう?w
それとも、スプーン曲げに始まり、そうした意志の力(心的作用)による物質への働きかけも可能だとお考えで?
或いは、地球の裏側で看板が倒れて貴方はびっくりしますか?
同じ体内でない以上、情報の入力がない限り反応はないでしょう。
音だろうが映像だろうが香りだろうが、そこに感覚器官による入力・感受があればこそでしょう?
>どうして? ということであれば、そうした生理的連携があるから、ということでは足りませんか?
672 :
だび:2011/07/01(金) 10:43:03.59 0
>>669 >→因果関係の破れ?
茶碗を床に強く叩き付けたら割れた。
体調不良で泥酔した。
饐えているご飯を体内に入れても抵抗力がある。
あなたが挙げた例は、物質的なものですね。
>>672 だから何?
心的事象だろうが肉体的事象だろうが違いはないだろ?
(ましてや、心的作用も脳内の電気的位相だとする立場なら尚更ねwww)
端的に言えば、「条件が違う」という、ただそれだけのことだろ?
そこに心的も肉体的も物質的もないw
674 :
だび:2011/07/01(金) 10:53:39.55 0
>>671 >『(同じ肉体の中として)連結しているから』でしょう?
>そうした生理的連携があるから、ということでは足りませんか?
心的なものと物質的なものが、生理的に連結している?
どういうことですか?
>そうした意志の力(心的作用)による物質への働きかけも可能だとお考えで?
考えていません。
675 :
ゲーム:2011/07/01(金) 11:06:30.76 0
>>670 それも説明不足。
もう一度、訊く。
数学的体系は、何によって構成されているの?
それを構成する有意味なものとは何?
そこをいわないから、話が転ばないのである。
676 :
Q:2011/07/01(金) 11:17:41.81 O
>675
僕はですね
トートロジー以外はすべて有意味だと考えているわけで
数学的証明以外があったらそれで有意味なんですよ
「その日は朝から夜だった」だろうと
「反対の賛成なのだ」だろうと
有意味だと考えているわけです
でも「三角形の内角の和はユークリドの条件下において180°である」とか
「バツイチは離婚経験がある」とかは無意味なわけです
677 :
考える名無しさん:2011/07/01(金) 11:21:51.55 0
腐女子ですが萌えているので続けて下さい
>>674 >どういうことですか?
随伴説なら、心的作用(感情・感覚)と物質的作用(神経系の様相)とがイコールだから。
その連鎖だと見做すから。
もし、別とするならば、貴方が
>>668で素朴な疑問文を示しているように、
まっこと不思議な事態であり、心(意識)は何か特別な力を持っていて、
現在知られている様々な(自然界に存在する)力とはまったく別の、未知の、そして未来永劫知り得ないかもしれない
不可思議な力で持って、われわれの肉体に働きかけている、と考えるより他ありません。
現にそのように考える潮流はあちこちに見られると思います。(当然、スピリチュアルな、心霊的なものが大半ですが・・w)
679 :
ゲーム:2011/07/01(金) 11:48:10.94 0
>>665 そろそろ昔の名前に戻るか、新コテにすれば?
>>417氏のような支持者も見受けられるので。(私は新コテを希望)
書き込みについて一言。
準備電位の発生=感情の生起、は無理があるのでは?
もっとも「感情の生起は心的(意識現象)ではない」のなら、物理現象を
“感情の生起”という喩によって表現したにすぎず、擬人化に似た効果
はあるかもしれないが…。
>>671 「生理」という概念で、物/心を包括的に説明できるかどうか…
680 :
だび:2011/07/01(金) 11:49:13.45 0
>>678 >心的作用(感情・感覚)と物質的作用(神経系の様相)とがイコールだから。
随伴説では、意識は体の物理的状態に付随するだけの現象であり、
肉体組織に対して作用を認めていませんので、
あなたのいうような「肉体の中での生理的連結」を認めていません。
あなたのいう生理的連結は、生理学的連結のことでしょう?
681 :
ゲーム:2011/07/01(金) 11:59:56.46 0
>>676 それはわかった。で、数学体系の内部の有意味な言表とは具体的に何?
まだ、この質問に君は答えていない。
その答えに私が納得すれば「証明は無意味だけれども、数学的体系は
有意味」という捩れ問題は、相互主観的には解決する。w
682 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 12:14:12.88 0
>417さんへ
まず、私がデカルトの第一原理を説明に使ったからといって
デカルトの思想体系全てを肯定しなければならない というような論法はおかしいです
>>649と
>>650について
>>コップ=ある ○○ =存在者
>>○○に該当するのは何?
>コップ。
>それがコップの存在論的差異です。
>>コップも「ある」だったら
>>某最高位も「ある」じゃないの?
>そうですよ。
そうすると私としては
コップ=ある=存在者
最高位=ある=存在者
私 =ある=存在者
という事になります
この場合たとえば、最高位というのは唯物的に説明がつくであろう部分です
この体は、あくまでも物質の集合体であり
コップなどの他の存在と差別される事のない客観的存在です
また、精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
と考える事ができます
しかし、ここからが大切なのですが
この物理現象が、なぜその他の物理現象や、その他の人体と同じく
単なる物理的な客観として現象せず
なぜ、よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
という事の原因性に、全くの根拠がありえないわけです
(この辺の表現は完璧ではありませんが)
>>680 なるほどね・・w
言葉の厳密な使い方、つまり「随伴」ということを厳密に受けるなら貴方の言う通りだ。
私が拡大解釈をして誤った議論を引っ張ったことになる。それは詫びようw
私は、随伴説の考え方を「見做し」(≒イコール)だと捉えたのでね・・。悪かった。
>>679 コテなぞ要らんでしょw 内容こそが問われていけばいい。
単に「名付けただけ」という批判は当たっていよう。
上で触れたように、私の解釈した随伴説はそのようなものだったので、その流れのまま、
まさに >表現したにすぎず 、擬人化かどうかはともかく、詭弁の謗りを免れないかもしれない。
もっとも、>「感情の生起は心的(意識現象)ではない というのではなく、
単に別事象であるというだけのこと。感情の生起は感情の生起としてそのような事象、
意識は意識としてそのような事象、それが、神経系というネットワークで結ばれている故に
連鎖し、関連し、互いに時に因となり時に果となり、ピタゴラスイッチの如くw継続してゆくだけのこと。
そこに、感情とか意識とか嬉しいとか悲しいとか憎いとか愛しいとか、名称がついているだけでは?
684 :
Q:2011/07/01(金) 12:45:40.12 O
>ゲーム
>681
有名な例だが
「点pを通って直線lに平行な直線が一本引ける」
685 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 13:04:26.67 0
>世界があるという、まさにそのことが奇跡であるように
>最高位がいるという、まさにそのことも
>コップがあるという、まさにそのことも奇跡に思えます。
>
>私なんていうもの、と言いたくもなるでしょう。
>だって存在は奇跡なんだから、こんなに不思議なことなんてないんだから。
その通り『存在』は、哲学における最大の難関だと言えると思います
宇宙、世界の最大の根本問題
しかしちょっと冷静に考えて下さい
世界が存在する事と、私が存在する事の意味が同次元の根本問題であるとするならば
>>601で「だび氏」が書いているような
>唯物論の「精神的なものより物質的なものの方が、根源的である」 という主張
は、完全にその根拠性を失ってしまうわけです
686 :
考える名無しさん:2011/07/01(金) 13:26:55.11 0
物事の根源は、何だろね〜 というお話
>>685 >は、完全にその根拠性を失ってしまうわけです
そういうことはありません。
根源的な何かを「物理的」なものとするが唯物論の立場であって、
「物理的」なものが、どういうものであるかは、唯物論でも確定していないのです。
よって、
>世界が存在する事と、私が存在する事の意味が同次元の根本問題であるとするならば
それはますます唯物論の立場となるわけです。
唯物論は、物理的なものの存在や『私』の存在を、それ以上はわからないものとして無条件に受け入れ、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくというものです。
これは唯物論に限らず、全ての「唯○論」に言えることで、「唯○論」では、「○」の存在理由を説明できないのです。
何が根源的にわからないものなんだろうかと考えたとき、
それが物質的なものの存在や『私』の存在であるとし、
そういう様々な存在自体を「物理的な存在」のカテゴリに収め、
存在理由を問うことなしに無条件に受け入れ、ブラックボックス化し、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくのが唯物論の立場(物理主義)です。
従って唯物論を否定するには、物理的な存在や『私』の存在性を、何らかの手段で説明することができないといけません。
くどいようですが、唯物論はそれらは「わからない」とする立場なのです。
例えば、唯神論なるものを作って、「神」によって、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
その時、その唯神論は唯物論を否定できたことになるでしょう。
688 :
考える名無しさん:2011/07/01(金) 14:02:51.25 0
馬鹿が必死こいて存在の問題にしようとしているだけだろ 惨めやな
久しぶりにのぞいてみたら
最高位がいるとはおどろいた。
なつかしいな。
感嘆氏は元気だろうか。
690 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 15:34:18.51 0
>>687 それだと、どんなトンデモ理論にも反論すらできなくなるね
キミの言ってる事の要旨を、別の説明の仕方をすると
>従って唯ミッキーマウス論を否定するには、物理的な存在や『私』の存在性を、何らかの手段で説明することができないといけません。
>くどいようですが、唯ミッキーマウス論はそれらは「わからない」とする立場なのです。
>
>例えば、○○論なるものを作って、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その唯○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
ある論の正否を検討するのに、特に○○論という完全に完成された代案の必要性などありません
>>690 少なくとも、
チャーマーズは唯物論をほぼ否定し得たが、最高位はできていない、とは言えるわなw
いや寧ろ、唯物論的思考しかしていないのが貴方の姿なんですけどね・・。
否定どころか、仮設にしろ思考実験にしろ、事例にしろ、
すべて『唯物論の正当性前提でしか成立しない』ものばかりなわけです。
御自身の主張自体が唯物論に立脚し、その解説や傍論も唯物論ありきのものなわけです。
何人もに指摘されてますが、結局自覚できないままのようですね・・・。
692 :
考える名無しさん:2011/07/01(金) 16:58:47.33 0
>よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
唯物論研究協会の奴らにそう言って変な日本語を笑われてこい
693 :
ゲーム:2011/07/01(金) 16:59:47.82 0
>>684 三角形の内角の和が180°は無意味だが、その平行線の公準?が有意味である
理由は? わからないのなら、それでもいい。
わかっているのなら、わかっているところを語ればよろしい。
>>690 >それだと、どんなトンデモ理論にも反論すらできなくなるね
そういうことはありません。貴方が問題を理解していません。
>キミの言ってる事の要旨を、別の説明の仕方をすると
>>従って唯ミッキーマウス論を否定するには、物理的な存在や『私』の存在性を、何らかの手段で説明することができないといけません。
>>くどいようですが、唯ミッキーマウス論はそれらは「わからない」とする立場なのです。
>>例えば、○○論なるものを作って、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>>その時、その唯○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
これは置き換えに失敗しています。正しくはこうなります。
|従って唯ミッキーマウス論を否定するには、ミッキーマウスの存在を、何らかの手段で説明することができないといけません。
|くどいようですが、唯ミッキーマウス論はそれらは「わからない」とする立場なのです。
|例えば、唯○○論なるものを作って、ミッキーマウスの存在理由を説明できれば、
|その時、その唯○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
唯○○論なんて持ち出さなくても、
ミッキーマウスが存在する理由の説明はするまでもなく、人間の創作物と理解されていること、
さらに唯ミッキーマウス論によって何かが説明できているわけでもないので、
唯ミッキーマウス論が否定されるのは自明でしょう。
695 :
528:2011/07/01(金) 18:13:58.31 0
根源が神であった場合、神が説明できたら、
説明したそれが根源になってしまう。
696 :
考える名無しさん:2011/07/01(金) 18:22:19.62 0
んなこたーない
>>660 無意味でないと断言できるものを敢えて挙げるなら
人間の経験出来るあらゆるもの、だろう。
そもそも個人が経験した事柄に意味を見出だすことに対して他人が妨害するなんてことは出来ないのだから。
あなたの言う通り、あらゆるものに意味は見出だせる。
ただし、意味とは個人間で共有不可能なものであり、経験に依存しない意味は存在しない。
だから、私にとって無意味なものとは、私が経験していないものになる。
無論「無意味だ」と修辞的もしくは比喩的な用法で使用するのは可能であろうけれど。
698 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 20:48:54.96 0
>>694 違う違う
唯ミッキーマウス論というのは、世界の根源がミッキーマウスだという論だよ
だからキミの理屈からすると
>例えば、○○論なるものを作って、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
とならねばならなくなる
アホだろ?
キミの言ってる事は、そういう事
>>698 >唯ミッキーマウス論というのは、世界の根源がミッキーマウスだという論だよ
そうです。
>だからキミの理屈からすると
それは違います。
唯物論は、物理的なものの存在や『私』の存在を、それ以上はわからないものとして無条件に受け入れ、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくというものです。
唯ミッキーマウス論は、ミッキーマウスの存在を、それ以上はわからないものとして無条件に受け入れ、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくというものです。
これは唯物論に限らず、全ての「唯○論」に言えることで、「唯○論」では、「○」の存在理由を説明できないのです。
従って「唯○論」を否定するには、他の論で「○」の存在理由を説明できればいいのです。
唯物論を否定するには、物理的なものの存在や『私』の存在理由を説明すること
唯ミッキーマウス論を否定するには、ミッキーマウスの存在理由を説明することが必要となるわけです。
物というのは観念が作り出したものだ、と昔の偉い人が言ったとか、言わなかったとか
>>682 >この物理現象が、なぜその他の物理現象や、その他の人体と同じく
>単なる物理的な客観として現象せず
>なぜ、よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
最高位よ、「この物理現象(体か)」が「主観性として」存在せしめられているのか。
そんなめちゃくちゃな話はないぞw
物理現象は物理現象で、主観性は主観性だぞ。全然別のものなのに、
どうも相互作用しているとしか思えないからこそ心身関係が難問中の
難問として問題になるんだろうが。
正しくは「〜なぜ私という主観性と特別な関係をもって現象しているのか」だろ。
もう少し頭使って書けw
>>701 さあw
しかし、
>>700のように考えるのだとすれば、観念はなぜかとにかくある、
と考えればいいんじゃないかね
それじゃいかんのかね
>>703 他人の観念よりは、他人の体が存在する方が、根源的に見えるよね。
嫁の腹が膨らんで、赤子が出てきて、育っていくのを見ると、
「観念」が先立つとはとても思えないよね。
彼が抱く観念は、後から育ち発展するものとしか思えないよね。
706 :
417:2011/07/01(金) 22:19:20.76 0
>>682 >まず、私がデカルトの第一原理を説明に使ったからといって
>デカルトの思想体系全てを肯定しなければならない というような論法はおかしいです
デカルトの考え
>>651-652のどこが最高位さんの論と違うところですか?
※ 実体の定義は「存在するために他のものを必要としない」が正式です。
>最高位=ある=存在者
> 私 =ある=存在者
>という事になります
最高位と私は存在の仕方が違う別々の存在者と理解していいですか?
その場合、最高位と私の間に依存関係あるいは根拠関係はありますか?
>この場合たとえば、最高位というのは唯物的に説明がつくであろう部分です
>この体は、あくまでも物質の集合体であり
>コップなどの他の存在と差別される事のない客観的存在です
>また、精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
>と考える事ができます
はい、その通りではないでしょうか。
それが私の思う最高位の属性です。
707 :
417:2011/07/01(金) 22:28:24.27 0
>>682 >しかし、ここからが大切なのですが
>この物理現象が、なぜその他の物理現象や、その他の人体と同じく
>単なる物理的な客観として現象せず
>なぜ、よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
>という事の原因性に、全くの根拠がありえないわけです
仮に精神活動が物理現象に付随していても、精神活動は物理的存在ではありません。
ですから精神活動が物理現象として、つまり対象として実在することもありません。
誰か精神を見た人がいるのですか?
私なんていう主観性が存在していることと、それが存在している原因がわからないことは
別のことですが、私なんていう主観性を解明したいのか、
私なんていう主観性が存在している原因が知りたいのか、どちらでしょうか?
私なんていう主観性は、経験的事実の成立に先立つ条件としてのそれですか?
それともそれは脳の働きに付随していると考えられている精神活動の範疇ですか?
私なんていう主観性は、この世界の中のどこかに位置づけることができそうですか?
>>704 見かけに騙されてはいけないのだw
他人の体は見えるが他人の心らしきものは見当たらない、というのは確かだが、
だから見えるもののほうが根源的だ、とは直ちには言えないだろう。
神様が根源的だと考える人がいたとして(よく知らんけど)、別に神様が
見えると考えてるわけではないだろう。
それとも何か、根源的なものは必ず見えなければいけないという理由があるのかね。
709 :
417:2011/07/01(金) 22:53:20.54 0
>>685 >世界が存在する事と、私が存在する事の意味が同次元の根本問題であるとするならば
>
>>601で「だび氏」が書いているような
>>唯物論の「精神的なものより物質的なものの方が、根源的である」 という主張
>は、完全にその根拠性を失ってしまうわけです
(量子宇宙状態)ビックバン→物質→生命→心 こういう順番でやって来たと信じれば
どんどん入れ子の状態になっているように見えるけど、ほんとうに還元できるのかな?
垣根を超えただけか、それとも正真正銘の超越か、原因はわかっているのでしょうか?
デカルトのように考えれば時間は流れないわけだから、そんなのウソだ!って言える。
存在ということを神様が創造しないかぎり、物質も生命も心もないんだ!って言える。
デカルトには超えてはいけない(超えられない)敷居がわかっていたんだと思います。
私にとっては「精神的なものも物質的なものも、どちらも根源的でない」になります。
私の考え方は、唯物論でも唯心論でもなくて、唯在論または唯神論です。
最初から唯物論は脳内論破されているというか、その必要さえないほど眼中にないけど
なぜかそれは物質である脳で行われる唯物論的脳内論破なのです。困ったものですね。
それにしても、いずれ私が言いそうなことを、しろうとさんはいつも先に言ってくれています。
まあ見え見えなんですけどね。
>>708 視覚的に見えるとか見えないとかの話じゃないよ。
人間が認識可能な範囲で、より根源的なのはどこまでかってことなんだから。
さらに根源的なものがあろうと、それが認識不可能な世界なら考えても無駄。
711 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 22:58:18.27 0
いやいや
唯ミッキーマウス論は、ミッキーマウスが世界の根源だという論です
>例えば、唯神論なるものを作って、「神」によって、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その唯神論は唯物論を否定できたことになるでしょう。
キミは唯物論を否定するには上記の条件を主張し
唯ミッキーマウス論を否定するのに下記を主張している
>ミッキーマウスが存在する理由の説明はするまでもなく、人間の創作物と理解されていること、
>さらに唯ミッキーマウス論によって何かが説明できているわけでもないので、
>唯ミッキーマウス論が否定されるのは自明でしょう。
キミの最初の理屈に従うならば
>例えば、○○論なるものを作って、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
とならねばならなくなる
キミの言ってる事は、そういう事
私の言っているのは
ある論の正否を検討するのに、特に○○論という完全に完成された代案の必要性などありません
>>711 >唯ミッキーマウス論は、ミッキーマウスが世界の根源だという論です
だからそう書いているでしょうに。
>キミの最初の理屈に従うならば
>例えば、○○論なるものを作って、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
ではなくて、
例えば、○○論なるものを作って、根源とされるミッキーマウスの存在理由を説明できれば、
その時、その○○論は唯ミッキーマウス論を否定できたことになるでしょう。
になります。
>キミの言ってる事は、そういう事
だから違います。
根源的な何かを「物理的」なものとするが唯物論の立場であって、
「物理的」なものが、どういうものであるかは、唯物論でも確定しません。
世界が存在する事と、私が存在する事の意味が同次元の根本問題であるとするならば
それはますます唯物論の立場となります。
唯物論は、物理的なものの存在や『私』の存在を、それ以上はわからないものとして無条件に受け入れ、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくというものです。
これは唯物論に限らず、全ての「唯○論」に言えることで、「唯○論」では、「○」の存在理由を説明できないのです。
何が根源的にわからないものなんだろうかと考えたとき、
それが物質的なものの存在や『私』の存在であるとし、
そういう様々な存在自体を「物理的な存在」のカテゴリに収め、
存在理由を問うことなしに無条件に受け入れ、ブラックボックス化し、
それを起点にそれ以外の事柄を説明していくのが唯物論の立場(物理主義)です。
従って唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
何らかの手段で説明することができないといけません。
くどいようですが、唯物論はそれらは「わからない」とする立場なのです。
例えば、唯神論なるものを作って、「神」によって、唯物論で根源的とされる物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
その時、その唯神論は唯物論を否定できたことになるでしょう。
>>710 んあ、そんなら、認識可能なものの中で、どれが根源的でどれが根源的ではないのか、
どうやって決まるのかね。
たんに他人の体のほうが他人の心より根源的だ、と決めつけられても、
では逆の決めつけをしてはいけないのか、と聞きたくなるのだけどね。
いや失礼、ほんとに聞きたいのは、他人の心は認識可能と考えるのか、もし
認識不可能と考えるのなら、他人の心について考えるのは全く無駄というのか、
というほうだけどねw
>>714 別に決めるもんでもないでしょ。
より世界を説明できるのは、何を根源的にした方がいいかだけで。
716 :
417:2011/07/01(金) 23:24:59.42 0
>>713 >唯物論(ゆいぶつろん、ドイツ語:Materialismus)とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
>非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
>>418 このような考えの人が、わからないものに対してわからないと言わないで、わからないものを否定する場合、その人は〜論者?
または、わからないものについて、きっとそれは「物質や物理現象に従属し規定される副次的なもの」と考えてしまう人は〜論者?
何々が「物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。」のは、どこまで許される? その範囲を決定する基準は?
主観性や内面性なんて下らない問題ですよ。
他人から分からないから「主観」とか「内面」とか言ってるに過ぎない。
技術の進歩で他人の分かるようになれば主観も内面の問題など無くなる。
その程度の下らないことです。
誰かさんによると、人間を完全コピーできるそうですからw
そんな技術が手に入れば、主観も内面も無くなります。
718 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/01(金) 23:29:21.23 0
>>712 だから
>例えば、唯神論なるものを作って、「神」によって、物理的な存在の理由や、『私』の存在性を説明できれば、
>その時、その唯神論は唯物論を否定できたことになるでしょう。
なんでしょ?
だったら唯ミッキーマウス論も、それに従って
理由で否定するのではなく、完成された論を提出する事によって否定しなよ
719 :
417:2011/07/01(金) 23:42:29.15 0
>>713 >従って唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
>何らかの手段で説明することができないといけません。
何らかの手段は、どのような手段でもかまわないの?
そうではないのでしょう?
だったらそれはけっきょく何かしら思想的な限定がかかってしまう。
たとえば、神がいた時代には、神がいたのでは?
何らかの手段と言っても、どのような手段を正当化するかということなんだから。
どんなアプローチで見出し、どんな言葉で表現しようとも、正しければ論理の構造は同じものになる
>>718 >だったら唯ミッキーマウス論も、それに従って
唯ミッキーマウス論で唯物論を否定するって話ではないんだから、貴方の捉え方は間違っています。
>>719 >何らかの手段は、どのような手段でもかまわないの?
さあ?何らかの手段というのは、どのような手段でもを意味しませんから、
そうかもしれないし、そうでないかもしれませんね。
>たとえば、神がいた時代には、神がいたのでは?
意味不明です。
>何らかの手段と言っても、どのような手段を正当化するかということなんだから。
で何が言いたいの?
>>716 自分で考えて答えを出してみるといいかもしれませんね。
唯物論を安易に否定する人ほど、物理的存在が如何に不思議で把握不可能なものか理解していなかったりします。
一般に「「物」は単純に理解できる存在だが、精神はそんなもんじゃない」と思っている人が多いですね。
724 :
417:2011/07/02(土) 00:18:31.33 0
>>720 >どんなアプローチで見出し、どんな言葉で表現しようとも、正しければ論理の構造は同じものになる
論理を超越するものは?
たとえば、神、存在、真理とか。
正しければ、というのもおかしい。
論理的に正しいならよく聞くけど。
たとえば、神は創造者である、が正しい場合の論理構造とは何?
725 :
417:2011/07/02(土) 00:24:43.32 0
>>722 >さあ?何らかの手段というのは、どのような手段でもを意味しませんから、
>そうかもしれないし、そうでないかもしれませんね。
そうでない場合があるなら、それは思想的枷によるものだと思いますよ。
>>たとえば、神がいた時代には、神がいたのでは?
>意味不明です。
私が信仰心によって神を説明しても許されるのですか?
>で何が言いたいの?
今↑で言ったことを、あなたが認めるならこれ以上何も言いません。
ちなみに、わからないものについて、本当にその人がわからなかったら
それはわからないものでさえないけど、そういう場合、その人が唯物論者だったら
どういう態度を取るべきなの?(ほらね、「べき」が出てきちゃう)
たとえば、私の存在性について。
>>725 >そうでない場合があるなら、それは思想的枷によるものだと思いますよ。
そうですか。それは良かったですね。
>私が信仰心によって神を説明しても許されるのですか?
好きにすればいいんじゃないでしょうか。
>どういう態度を取るべきなの?
好きにすればいいんじゃないでしょうか。
727 :
417:2011/07/02(土) 00:28:32.93 0
最高位がいちばんわかってるなぁ。
それはないw
730 :
417:2011/07/02(土) 00:43:31.59 0
>>723 見逃してた。
>唯物論を安易に否定する人ほど、
>物理的存在が如何に不思議で把握不可能なものか理解していなかったりします。
>一般に「「物」は単純に理解できる存在だが、精神はそんなもんじゃない」と思っている人が多いですね。
ちなみに私は唯物論を否定しているのではなく
単に存在論にとっては唯物論がどうでもいい位置づけだということです。
また物理的存在について軽く見ているつもりもありません。
物は見ることができ、客観的対象として現象するけれど
精神は見ることができず、客観的対象として扱えない、というだけのことであって
その事実によって、精神が物にくらべてそんなもんじゃないと思っているわけがなく
むしろ精神のほうがよく知っているとさえ言えるから、その意味では物体のほうがより神秘ですよ。
>>724 >神は創造者である
(例えば)根源を神Aと名づける、ってだけの話。
俺の言ってるのはある事象Xに対する名前はいくらでも付けられるってだけの話。
言い回しが気に入らないとかは世界の本質的な構造とは関係ない。
神、存在とかはそれ自体について語るのではなく、それを包括的に説明する系の論理構造として記述されるのが、
生産的なんじゃないか?別に生産的じゃなくてもいいけど
>>729 最高位は根本的なところをわかってるんだよ。
733 :
考える名無しさん:2011/07/02(土) 01:10:34.30 0
>>732 まともな日本語を使えそうなあなたが“根本的なところ”を説明 よろ
734 :
417:2011/07/02(土) 01:15:32.40 0
>>731 >神、存在とかはそれ自体について語るのではなく、
>それを包括的に説明する系の論理構造として記述されるのが、
>生産的なんじゃないか?別に生産的じゃなくてもいいけど
むずかしくて意味がわかりませんが
端的に包括的に説明するのは、むずかしいです。
なんてったってすべてのことですから、説明しているうちに確実に死んでしまいます。
今ちょうど宗教板に 神とはこうである と書き込んできたんですけどね。(笑)
736 :
考える名無しさん:2011/07/02(土) 03:33:59.40 0
>>728 そりゃあ、最高位のことは最高位がいちばんわかってるだろうね。
ここで最高位の造語である『私』が何のことかわかっている人はいるのかいないのかわからないくらいだし。
『私』は最高位というわけではないし。昔の最高位なら「キミの『私』は最高位なのかよ、マッタク」とか言いそうなものだけど。
まあ正確に言うと、最高位は一番分かっているのではなく
一番妄想にはまってるだけなんだけどね。
739 :
ゲーム:2011/07/02(土) 11:40:12.04 0
>>713 言葉を“だまし”として使っている。たぶん無自覚なのだろうが。
>>712も。
そのてのテクニックはこちらの十八番なので、みえみえ。w
物質、あるいは物理的なものが何であるかは「確定できないとするのが
唯物論」といいながら、その舌のねも乾かぬうちにwそれを「根源的」と
断定する。唯○論の「○」は説明不能といいつつ、それが「根源である」
とみなす。「根源」の意味、知っているだろう?
「○」が何であるか不明であるにもかかわらず、それを「根源」と確定し、
唯○論を「正しい」と確信する心性を“信仰”と呼ぶ。唯物論と称さずに、
唯物教というのなら、文句はない。
740 :
ゲーム:2011/07/02(土) 12:13:39.84 0
>>734 貴方のいうように、私も物質を“現象”とみなしている。
現象は、主観への“あらわれ”であり、根源的な何か、あるいは超越的な
何かが“実体”として存在し、「現象たらしめている」と、つい私たちは
考えがちである。何が存在するのか。存在とは?
最高位は、自力で一つの答えをだしている。
「私は存在する」「私は物理現象ではない」と。
繰り返しになるかもしれぬが、この最高位の明快な言表を唯物論者とは
異なる語り口で論駁していただきたい。
741 :
Q:2011/07/02(土) 12:13:48.47 O
>ゲーム
風邪っぽ、明日は試合だっつーのに
「三角形の内角の和は180°である」と
「点Pを通って直線lに平行な直線が1本引ける」(以下、「第五公準」と呼ぶ)は同じことを言ってます
で、僕は「ユークリド下では三角形の内角の和は180°である」と書いたんですが
「三角形の内角の和が180°である条件下では、三角形の内角の和は180°である」って意味なんですね
つまり、最初からトートロジーを意識して書いたわけです
「三角形の内角の和は180°である」は実はユークリド条件内においてでしかないので
「ユークリド幾何学である」という有意味な言明に変換されると困るので、こう細工したわけです
でも、内角の和について述べる時は、僕らはユークリド条件下であることを共通の前提として語るわけで
無意味なこととして語ろうとするわけですから
まぁ、僕の細工は決しておかしくはないわけです
以下、ユークリドの説明をします
742 :
Q:2011/07/02(土) 12:29:19.26 O
第5公準はわれわれの常識的な幾何学観を構成する前提の一つです
が、球の表面のような平面では、平行線は一本も引けません
また、球の裏面のような平面では、平行線は2本以上引けます
このように幾何学も、われわれが受け入れている幾何学だけでなく
それ以外の幾何学があるわけです
数の体系の中には、前提となるものを変えるだけで、
われわれの常識的な数学観が激変するものがあります
それらは、われわれが前提としている数学が、一つのフレーム(枠組み)でしかないということでもあります
日本語を話す人と英語を話す人がいるように
われわれの数学を使用する人とはまったく違う数学体系を使用する人がありえます
が、地球上の99、9%の人は同じ数学体系(論理体系)を共有してます
(これはちょっと不思議ですね)
論理も同じで、われわれが前提として受け入れてる論理体系とは異なる論理体系があります
(直観主義論理、ファジー論理、矛盾許容論理)
思考の枠組みとなる、論理や数学は無意味を司るものなのですが、
その規則体系には様々な前提の有無、様々なパターンがあるわけです
743 :
だび:2011/07/02(土) 12:45:16.50 0
どのように説明すれば、世界をより整合的に解釈できるかを求め思索するなかで、
世界のものごとの「根源になる何か」を示す事で説明しようとする
「唯○○論」と呼ばれるような哲学的立場があるのだろう。
それは、ものごとのが存在するに至る必然性を説明しつくすものではなく、
「根源であるそれ」がなければ直接的間接的問わず、あり得ないはずである
ということを説明するものであろう。
当然ながらその主張は一貫性が保たれているべきものであるが、
概念的な理論であり、経験的に検証しようというものではない。
「根源であるそれ」が、何故存在するのか、と問えないのは当然の事である。
「本当に根源でありえるか」は世界について知っている事柄・信念と
矛盾していないかということをもって思弁的に検証されるだけである。
このように、私(だび)は考えている。
744 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 13:30:05.77 0
>>706 >デカルトの考え
>>651-652のどこが最高位さんの論と違うところですか?
う〜ん・・・時間についてとか
ボクには、よくわからない
時間て本当に存在してるのか、本当に流れてるものなのか
今のところ、よくわかりません
>※ 実体の定義は「存在するために他のものを必要としない」が正式です。
それは例えば何ですか?
>最高位と私は存在の仕方が違う別々の存在者と理解していいですか?
別々かどうかはわかりませんが、最高位の要素が私の原因性には成り得ませんね
>>707 >誰か精神を見た人がいるのですか?
そこは精神についてではなく、私の存在性について述べた部分です
>私なんていう主観性を解明したいのか、
>私なんていう主観性が存在している原因が知りたいのか、どちらでしょうか?
できれば、まず原因性が知りたいですね
>私なんていう主観性は、経験的事実の成立に先立つ条件としてのそれですか?
はい
>それともそれは脳の働きに付随していると考えられている精神活動の範疇ですか?
違いますね
>私なんていう主観性は、この世界の中のどこかに位置づけることができそうですか?
わかりません
745 :
Q:2011/07/02(土) 13:54:45.90 O
じゃ、俺も軽く最高位に質問すっか
>最高位
うちの組織が満喫の経営着手に意欲的なんだけど
これだけ安価な満喫チェーンがたくさんある中で、満喫って儲かるか?
場所は東京
10年ぐらいで満喫やめるってさ
746 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 14:40:55.95 0
>>745 今の時代、これやりゃ儲かる なんていうもんはないよ
>>739 >物質、あるいは物理的なものが何であるかは「確定できないとするのが唯物論」と
これは単なる事実です。
>それを「根源的」と
そうするのが唯物論の立場というだけのことです。
>「○」が何であるか不明であるにもかかわらず、それを「根源」と確定し、
どんな唯○論でもそうなりますからね。
>唯○論を「正しい」と確信する心性を“信仰”と呼ぶ。
そうですよ。どんな唯○論だって「正しい」なんて言い出したら、それは「信仰」です。
哲学的な疑いの前では「信仰」でないものなんてありません。
自我以外のどんなものだって、独在論によって否定される可能性があるのです。
748 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 18:06:49.27 0
>>747 キミは、唯物論を否定するには
いくら『理由』を挙げてもダメで
根源を解き明かした時にのみ論破が成立する と主張したよね
しかし
唯ミッキーマウス論に対しては、根源を解き明かす事なく
『理由』だけで否定しようとした
明らかに、おかしいでしょ
749 :
ゲーム:2011/07/02(土) 18:08:36.97 0
>>745 もともと君は“経営”なんぞには無関心だったので、そういう問い方に
なるのだろうが、仮に経営者が「満喫に進出する」と決定したとしよう。
この場合、部下たちはそのことの正否を云々する立場にはない。
「どうすれば」この環境下に満喫が儲かるかを考えるべし。
どうしても、その活路が見出せないとき、その詳細をトップに述べるが
よかろう。辞めるのを覚悟して、満喫への進出に反対するのもよし。
いつまでたっても、意識はフリーターだね。羨ましい。w
>>741>>742 の感想はのちほど。もう酔っているので。
唯物論を否定する思想家って、ちゃんと「霊」とか「霊界」とか「神」とかを勇気を持って語ってるんだよね。
哲学最高位ってそういう勇気がないから全然駄目ね。
叩かれるのが怖いだけで何の思想もない。
751 :
528:2011/07/02(土) 18:12:38.46 0
しかし、強い弱いは信仰ではない。
この下では独在論も特別ではない。
>>748 >唯ミッキーマウス論に対しては、根源を解き明かす事なく
>『理由』だけで否定しようとした
ミッキーマウスが根源で、根源であるミッキーマウスの存在理由を説明できることは、
根源を解き明かしていることを意味します。
ミッキーマウスは説明するまでもなく、人間の創作物と理解されています。自明です。
753 :
考える名無しさん:2011/07/02(土) 18:19:06.27 0
>>744 >できれば、まず原因性が知りたいですね
原因は体。
『私』は中枢神経系の身体把握とそれに変化をもたらす対象との狭間に発生する。
故に身体が形成されるまでは存在せず、身体が滅びれば消滅する。
この無意識の知覚処理を通して、意識は一貫した私を保持している。
そしてこれは身体が形成されるごとに発生する一回性の現象。
更にこの基盤となる体の原因となると系統樹を遡り、生命の起源を解き明かす必要が出てくる為、現状では不可知。
754 :
ゲーム:2011/07/02(土) 18:31:48.03 0
>>748 たぶん、その
>>747は旧ラビと思われるが、寄る年波には勝てないのか、
思い込みの跳躍が酷くなっている。
「それが何であるかわからない。が、それは根源である」という矛盾に
頓着できないほど独りよがりが甚だしくなっている…
「それを根源(大もと)と仮定する」というのなら、まだしもだが。
ここは、信仰の「正しさ」をいいつのり、他の言明を「妄想」と一蹴
するスレではない、と教えてあげたのだが。
このひとの信仰する「決定論」がなぜ正しくて、逆に「非決定論」が
妄想なのか、それを語れないから、罵詈のやりとりに終始してしまう。
宗教戦争の原的かたちがここにあります。w
755 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 18:40:03.19 0
>>752 だから、そういう『理由』をいくら述べてもダメで
完成された代案の提出が必要なんだろ?
唯物論の時に、そう言ったろ?キミが
>>754 >「それが何であるかわからない。が、それは根源である」という矛盾に
矛盾ではないですよ。
その根源にさらに根源がないということを意味しているのではなく、
この世界で根源と「する」という話です。
例えばAというマシンでBというマシンのエミュレータが動いているとき、
その仮想のBというマシンの世界の中からは、Bの世界の法則はわかっても、
それがAで動いていることはわかりません。しかしBの世界の法則を根源とすることは、
その世界では意味があり、正当なものでしょう。
>「それを根源(大もと)と仮定する」というのなら、まだしもだが。
そうとも言えます。
>ここは、信仰の「正しさ」をいいつのり、他の言明を「妄想」と一蹴
別に正しいなんて言っていません。
>>755 >完成された代案の提出が必要なんだろ?
必要ないです。それ以上に説明できていれば十分です。
758 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 19:39:38.85 0
>>750 「霊」とか「霊界」とか「神」とかって
正直なところ、よくわかんないんだよね
>>753 具体的に、体の何の要素で、違う人でなく『私』が生じているのですか?
>>754 ふむ
まぁ真摯な唯物論者は理解してくれるんですけどね
>>757 >従って唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
>何らかの手段で説明することができないといけません。
なぜ他の手段ではダメなのか不明
>>完成された代案の提出が必要なんだろ?
>
>必要ないです。それ以上に説明できていれば十分です。
そんな途方もない説明を求める必要はありません
主張している事の矛盾点を挙げればいいのです
>>758 >なぜ他の手段ではダメなのか不明
ダメなんて言っていませんが。
もしかして、必要条件と十分条件の違いもわからないのでしょうか。
>>758 というか、他の手段は、何らかの手段に含まれているのですが。やはり日本語に不自由なんでしょうか。
761 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 19:49:33.86 0
>>759 >ダメなんて言っていませんが。
>もしかして、必要条件と十分条件の違いもわからないのでしょうか。
ちょっと言っている意味がよくわからないので説明よろ
>唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
>何らかの手段で説明することができないといけません。
「できないといけません」というのは、どういういみですか?
>>758 >具体的に、体の何の要素で、違う人でなく『私』が生じているのですか?
>体の何の要素で
まだ解ってないんだもんなぁ・・w そういう問題じゃないってことが・・。
以前、他者には他の私が生じている可能性を否定はしなかったと思うが、であるならば、
問いの肝は、まさにココ
『 >違う人でなく 』
なわけだが、これは至極単純であり、
≪【この】肉体だから【この】私≫であるだけだ。それ以外に、原因も理由も何も無いw
なんでこんな単純なことが理解できないんだ?
≪【他の】肉体であれば【他の】私≫なんだよ。 豆腐の角に頭ぶつけとけw
763 :
考える名無しさん:2011/07/02(土) 19:58:46.42 0
バカがようやく幼稚園児なみの知恵をつけると「なんでだ? 」と考えてしまうような問題
764 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/02(土) 20:04:57.21 0
>>760 >>完成された代案の提出が必要なんだろ?
>
>必要ないです。
これはココで終わり
>それ以上に説明できていれば十分です。
それは何の説明かと言うと↓
>唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
>何らかの手段で説明することができないといけません。
で
そんな途方もない説明を求める必要はありません
主張している事の矛盾点を挙げればいいのです
そして
>>なぜ他の手段ではダメなのか不明
>
>ダメなんて言っていませんが。
で
>唯物論を否定するには、唯物論で根源的とされる物理的な存在や『私』の存在性を、
>何らかの手段で説明することができないといけません。
「できないといけません」というのは、どういういみですか?
>>762 >≪【この】肉体だから【この】私≫であるだけだ。それ以外に、原因も理由も何も無いw
この肉体に、なぜだかわからんが私が生じているから、【この】肉体だから・・と言えるんでしょう
前後が逆ですよ
>>764 >前後が逆ですよ
wwwww
逆でも一緒なんだよ。(ネコ的認識論でもねw)
≪【この】私が現象している肉体だから【この】肉体≫なのでしょう?
≪【他の】私が現象している肉体であれば【他の】肉体≫なんですよw
そして、肉体がどんだけ変わっても(成長しても、義手義足等になっても、たとえそっくり機械化されても)、
それでも依然として
≪【この】私が現れている○○だから【この】○○≫であり
≪【他の】私が現れている○○であれば【他の】○○≫なんですよ。
なぜこの両親から、他人でなく最高位が生まれたのかw
767 :
だび:2011/07/02(土) 20:58:57.51 0
直接のもの、あるいは近いものを【この】と称する。
ありありとしている思いもありありとした肉体も
直接わかるものであるから【この】と表現しうる。
私は「ありありとした【この】思い」として世界に居るのではなく
ありありとした直接の肉体すなわち【これ】として世界の中に居る。
ありありとしたこの思いを担っているのは、ありありとした【これ】である。
【これ】であらぬ肉体は、【これ】の周囲に居るのであり、
そば(近く)に居ることもあるが、およそ離れている肉体である。
【それ】は、直接のものではなく、他人である。
以前レスしたような内容だけどね。
>>764 >この肉体に、なぜだかわからんが私が生じているから、【この】肉体だから・・と言えるんでしょう
「なぜだかわからんが」って、なぜだかわかってもわからなくても、同じだろ。
仮に
>>753みたいな唯物論的仮説が正しくて、肉体の活動から自我が生じるとしても、
それが誤りで、肉体と自我の関係性は解明不能で「なぜだかわからなく」ても、
「この肉体だからこの私」であることに何にも変わりないわけだよ。
なんでそう頭が悪いのかね最高位よw
769 :
ゲーム:2011/07/02(土) 21:35:57.27 0
>>767 「ありありとした直接の肉体…として世界の中に居る」というのは事実ではない。
「ありありと」感じているのは“意識”である。眠れば、わかるかずだ。
睡眠中も、肉体は活動している。しかし“ありあり”感は消えうせているはずだ。
最高位ってだぁれ?
懐疑の果ては、
>>769のように、「(何がしかが)意識されている」ということだけだ。
感受すらまだ確実性は足りない。
おそらく感受したのだろうという推測と、(何がしかが)意識に立ち上がってきているのだろうという推測ができるのみ。
だから、人は、自らの意識に上ったもの(感受したであろうから、その感受の先にあるだろう対象の影)を信じ、
感受の先に、そのような(ほぼ相似した)対象が存在するであろうと仮定・仮設して日を過ごす。
だから、共同幻想―つまり、『他者が居ることもどうやら確かそうであり、その他者の意識に立ち上がっているであろう影が、
自身に立ち上がっているものと同じか酷似している』と信じること―により、社会は成立する。
そして、その幻想のズレが大きいとき、或いは全く異なっているとき、そこに、落胆や怒り・悲しみ、争いが生まれることになる。
厄介な生き物だな、人間とは・・・。
772 :
だび:2011/07/02(土) 22:05:02.61 0
>>769 >睡眠中も、肉体は活動している。しかし“ありあり”感は消えうせているはずだ。
そんなこと分っているよ。
でも、睡眠中の自分というのは、「眠っていたのは分る」ということで、過去的な存在である。
睡眠中も肉体が活動しているのは分るけども、ありありとした「この体・自分」ではないよね。
『私』と呼び、他者に問いうる時の存在は、ありありとした思いを担うこの体(自分)のことだろう。
>「ありありと」感じているのは“意識”である。
ありありと感じるのは、意識作用があるためである、と私は思う。
「ありありと」感じている“意識”の存在など、私(だび)は知らない。
自分や他人、周りの様子などが分ることを「意識がある」と言うだけなのだが
「感じている意識」って何のこと?
773 :
だび:2011/07/02(土) 22:37:22.76 0
【補足】
ありありとしているというのは、
本当にこうなのかと疑っていないし、疑う根拠を見いだしていない状態のこと。
「意識がどんどんかすんでゆく」という思いも、ありありとした自らの思いである。
774 :
Q:2011/07/02(土) 22:43:15.32 O
>ゲーム
>749
そんな機械のような労働者は、いずれ企業からクビを切られるだけの存在になりそうな気がする
企業の目的は利益追求以前に倒産しないことでしょ
倒産したら、みんなの食いぶちがなくなるからね
投資配分において、倒産するリスクと利益追求のリターンをどう配分するか
最終決定権はトップが持ってるけど
それは企業内を翼賛会にするってことじゃないんじゃない?
それと、ポパーの考えって経営の方からの受けがいいんだよ
経営や法学からは賛同を得て、当の物理学からはかなり叩かれる
ポパーの考えってそういう評価なんだよね
私など存在しませんよ。
私が存在するという思想を突き詰めればオカルトに行き着く事になるのですよ。
776 :
417:2011/07/03(日) 00:11:59.97 0
>>740 >貴方のいうように、私も物質を“現象”とみなしている。
>現象は、主観への“あらわれ”であり、根源的な何か、あるいは超越的な
>何かが“実体”として存在し、「現象たらしめている」と、つい私たちは
>考えがちである。何が存在するのか。存在とは?
はい、私の思考回路もそのようなものです。
カントやニーチェやウィトゲンシュタインの限界づけの論理は一応通っています。
私には彼らが神(真理)の守護者に見えてしまうのです。
神が人間に知られてしまうくらいなら、いっそ神を限界の向こうに追いやろうと。
>異なる語り口で論駁していただきたい。
ありがとうございます。
私の意見はトンデモだけど、できるだけ論理的に炙り出したいと思っています。
777 :
417:2011/07/03(日) 00:14:28.00 0
>>744 >う〜ん・・・時間についてとか
>ボクには、よくわからない
>時間て本当に存在してるのか、本当に流れてるものなのか
>今のところ、よくわかりません
時間とは何か?
私に誰も問わなければ、私は時間とは何かを知っている
しかし時間とは何かを問われ、説明しようと欲すると
私は時間とは何かを知らない
アウグスティヌスの『告白』の中の時間論に出てくる有名な言葉です。
神は永遠の今(現在)であり、時間とは心を持つ人間に特有ものである
という思想なのですが、デカルトもこの考えに従っただけかもしれない。
なぜなら、デカルトの考えた時間(今、瞬間)は「前後まったく依存関係を持たず」
なのですから、そのような時間(今、瞬間)が、本当に存在していると言えるのか、
本当に流れているものなのか(変化しうるものなのか)、と問うことは必然でしょう。
最高位さんの疑問は見事に的を射ています。
本当に存在しているのか?と疑われてしまう時間ではあるけれど
それが存在するのでなければ、おそらく世界も存在しない、というようなところが
私なんていうものの存在性に酷似していないでしょうか?
778 :
417:2011/07/03(日) 00:16:35.65 0
>>744 >>※ 実体の定義は「存在するために他のものを必要としない」が正式です。
>それは例えば何ですか?
考えるかぎりで存在する私は、考えるかぎりでしか存在できない有限者である。
私は「あなたや彼が存在することとは、まったく依存関係を持たず」自存する実体だが
実体である原因を自分自身では持たない有限者なのである
>>652 における実体のデカルトの定義が「存在するために他のものを必要としない」ということ。
ですから 私 のことです。
「あなたや彼が存在することとは、まったく依存関係を持たず」は
私が考える 私の自存性をイメージしやすく表現したものです。
>別々かどうかはわかりませんが、最高位の要素が私の原因性には成り得ませんね
最高位の要素とは、
1.物理的身体
2.脳という物質の集合体による物理現象に付随していると考えられている精神活動
と理解していいですか?
それでは、最高位が「私の原因性には成り得ません」と言い切れるのは
最高位を構成する要素に「何が」欠けているからですか?
779 :
417:2011/07/03(日) 00:18:26.17 0
>>744 >>私なんていう主観性を解明したいのか、
>>私なんていう主観性が存在している原因が知りたいのか、どちらでしょうか?
>できれば、まず原因性が知りたいですね
私は故意に原因性という言葉を使いませんでした。
「私なんていう主観性として存在せしめられているのかという事の原因性」を
「私なんていう主観性が存在している原因」と言い換えたのですがかまいませんか?
それとも文脈に依存しますか?
また 私はどうして私なんていう主観性として存在しなければならないのか?
つまりそれが最高位さんの言う なぜ私は私なのか? でしょうか?
もしそうなら「私はどうして私なんていう主観性として」が
「私の存在性」「私の精神性」のように表現されていると理解していいですか?
>>私なんていう主観性は、経験的事実の成立に先立つ条件としてのそれですか?
>はい
なるほど。それでは、私なんていう主観性のアプリオリ性は
どのような意味でアプリオリでなければならないのでしょうか?
>>それともそれは脳の働きに付随していると考えられている精神活動の範疇ですか?
>違いますね
ということは、私なんていう主観性は、私たちがよく知っている精神活動が
私たちがよく知っている精神活動として成立するための条件と考えてもいいですか?
780 :
417:2011/07/03(日) 00:21:26.15 0
>>744 >>私なんていう主観性は、この世界の中のどこかに位置づけることができそうですか?
>わかりません
私なんていう主観性は、この世界の中の存在者である最高位の属性(身体+精神活動)とは
どのような関係性もないと考えているのですよね?
私なんていう主観性が最高位とは無関係に存在する存在者ということであるなら
どのようにして 私なんていう主観性 は存在者としてこの世界に存在するのですか?
それとも 私なんていう主観性 は世界のどこにも存在しない存在者なのですか?
781 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 00:44:33.45 0
http://blog.goo.ne.jp/n-ishii/e/30133ac0818217423db6de6a5d7c7f7f 私の経験は、この世にひとつしかない。
今感じている私の痛みは、私以外の誰の痛みでもない。
痛みが発生する物質的なメカニズムもいくら説明できても、私の主観的な痛み、
痛みのクオリアを脳神経の客観的な組み合わせによってのみ明らかにすることはできない。
そういう意味での主観の唯一性。
客観科学によってはどうしても説明することのできない、異質の存在原理・主観性。
今この場所での私の経験として、「私」によって限りなく分節され、色づけられた、
「私」の経験世界。しかし、この主観的世界においては、
「私」と「私」による分節化という限定作用をかぎりなく小さくしていくことが出来る。
「私」が限りなくゼロに近づいたとき、この主観性は純粋主観性と呼ばれる。そして全一性の体験。
「私」が時空を限定するものであるとするなら、この純粋主観性は、時空を超えて存在する。
それは、主観性でありながら、「私」によって持ち込まれた時空という枠組みを超えている。
782 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 08:45:03.81 0
>>758 >具体的に、体の何の要素で、違う人でなく『私』が生じているのですか?
『私』であるならば、それぞれの体にそれぞれの『私』が生じるというだけですが、
違う人ではなく、この『私』が生じているのは体の要素に因るものではありません。
それは、此処にこの地球が在るのは何故ですかと問うているのと同じことで、
敢えて言うならば、この時此処にこの『私』が現象することは必然であり決定されていた・・・というだけのことです。
精神は人間から生ずるように見えるけれど、―事実は、人間と人間
ならざるものとの間に生ずるのである。自己に還帰する精神は、
右に述べたような精神の意味や、関係の意味を取り除くことにより、
人間ならざる存在を人間の中に還元してしまい、ついには世界も
神も精神の働きとしてしまうにちがいない。これこそ精神の迷いである。
M.ブーバー「我と汝」p.117
784 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/03(日) 18:02:15.84 0
>>765 >≪【この】私が現象している肉体だから【この】肉体≫なのでしょう?
だから
この肉体の何の要素が、こうだから他の自我ではなく『私』だったのか という問題です
問題が理解できないの?(苦笑
そういう結果論的な報告を聞きたいんじゃないんだよ
私という存在性の原因について を問題としてるわけ
>>778 >>779 >>780 申し訳ないんですが、全体的に少しズレているというか
どう答えたらいいか、よくわかりません
素人君と同じで
「我あり」という事がよくわかっていないのではないかなと思います
「あり」という事と、「ありよう」(有る様子、精神活動)の分別がついていないような・・
>それでは、最高位が「私の原因性には成り得ません」と言い切れるのは
>最高位を構成する要素に「何が」欠けているからですか?
欠けているという事を言っているのではありません
最高位を構成する要素に、私の原因性に成りうるものは有り得ない
という結論を述べているのです
>この肉体の何の要素が、こうだから他の自我ではなく『私』だったのか という問題です
水素の何の要素がこうだから水素でないものでなく『水素』だったのか原因が分からないのと同じですよ。
究極の原因など分からないのですよ。
>>784 あなた馬鹿ですね。
何で物質が存在するかを物質で説明しろって、それは馬鹿というものですよ。
787 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/03(日) 18:48:50.25 0
>>785 それは哲学的な根本問題
それと同次元の問題が人間の精神性にあるのならば
人間の精神も全ては「物理現象」である とする唯物論の主張は崩壊します
788 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 19:16:35.24 0
>>786 “物質”という概念を用いて説明できなければ、唯物論ではない。
「物質ではないものがある」ということになるからだ。
>>788 唯物論が、全てを説明できる必要はありません。
>>787 >それは哲学的な根本問題
>それと同次元の問題が人間の精神性にあるのならば
>人間の精神も全ては「物理現象」である とする唯物論の主張は崩壊します
崩壊しません。単に精神も全て「物理現象」に含まれるだけです。
791 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 19:24:28.30 0
>>789 なら、唯などと大口をたたくのはやめるがいい。
793 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 20:21:54.77 0
>>784 >最高位を構成する要素に、私の原因性に成りうるものは有り得ない
>という結論を述べているのです
ほお、そうなのか。ということは、最高位≠私、ということでいいのか。
なかなか画期的だなw
で、417さんによると、「最高位を構成する要素」というのは、
1.物理的身体
2.脳という物質の集合体による物理現象に付随していると考えられている精神活動
だということだが、これが「私の原因性にはならない」ということだな。
さて、この「最高位を構成する要素」は、「最高位の原因性」にもならないんだな。
同じ要素を揃えても、最高位のコピーにしかならないからな。
実は最高位に限らず他の何でも同じことなんだな。
結局、お前の言っていることは「このものが同時に2つあることは有り得ない」という
当たり前のことに過ぎないということなんだが、わかるかな最高位よww
『私』だけではなく、どんなものでも同じ時刻に同じ場所で起きる現象は唯一であり1回しかない。
全ての存在が唯一性であり一回性です。
哲学最高位さんはそのことを無視する独我論なので、
『私』だけを特別視する病気の思想だと言えます。
795 :
考える名無しさん:2011/07/03(日) 21:30:29.37 0
危険思想へのお誘いですもん
796 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 01:46:36.08 0
主観性がある→主観性そのものな私 論理的飛躍
唯物論が主観性を注文通り説明できない→主観性そのものな『私』が存在する? 論理的飛躍
存在ではなく存在性→ぼやかした表現のまま逃げる
797 :
417:2011/07/04(月) 02:08:16.21 0
>>784 >申し訳ないんですが、全体的に少しズレているというか
>どう答えたらいいか、よくわかりません
私や最高位さんの発言に興味を持った人たちが、考えたい、知りたい、と思っているのは
最高位さんが言う 私なんていうもの についてです。
私は 私なんていうもの の正体に近づくには「…でない」という方法が良いと考えました。
最高位さんが、これまでの議論でしているように「…でない」と答えてくれたらいいのです。
デカルト以降の哲学者が私という存在を放っておいて、その先に進んだわけではありません。
おそらく最高位さんが言う 私なんていうもの は彼らが考えた 私 とは違うのでしょう。
だからこそむしろそれらの 私でない という仕方で 私なんていうもの を解明していく
という方法が、もっとも(最高位さんにとっても)偏向なく公平で優れていると考えます。
最高位さんは、独白しているのではなく、私たちと対話しているのです。
>素人君と同じで「我あり」という事がよくわかっていないのではないかなと思います
という対し方で逃げているだけでは、何も解明されることはありませんし対話が成立しません。
本当に今までの私のレスを見て、私が「我あり」についてわかっていないと思いますか?
そうではないのでしょう?
798 :
417:2011/07/04(月) 02:09:18.74 0
>>784 仮に私がぜんぜんわかっていないとしましょう。
私はわかってないけど 私なんていうもの について考えたいし知りたいと思っているとしたら
最高位さんは私の質問に対して「あなたは、よくわかっていないのではないかなと思います」
というやり方で済ましてしまうのでしょうか?
たしかに私の追求は厳しいと思いますが、それに最高位さんが答えてみせることで
けっきょく今まで 私なんていうもの についてよくわからなかった多くの人たちの理解が
(最高位さんも含めて)かならず前に進むはずですし、私にはそうできる自信があるのです。
ただし条件がひとつだけあります、それは最高位さんが私と誠実に対話してくれることです。
私はけっして「…である」と言いたいのではなくて「…でない」ということが言いたのです。
どうか最高位さんが理解してくださって、私との対話を進めてくださることを期待しています。
799 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/04(月) 02:09:22.84 0
>>793 >さて、この「最高位を構成する要素」は、「最高位の原因性」にもならないんだな。
>同じ要素を揃えても、最高位のコピーにしかならないからな。
体は、その構成要素そのものであり解明が可能であると言える
コピーには同じ物理現象が起こる
しかし何故か片一方は『私』であり、もう片一方は他人である
ゆえに『私』の正体は、その構成要素にも物理現象にもありえない
>>794 唯一性も一回性も、私の存在性の「原因性」とは違う話
>>799 ありえないのは、貴方が他人と定義しちゃっているからです。
801 :
417:2011/07/04(月) 02:19:30.81 0
>>784 >>それでは、最高位が「私の原因性には成り得ません」と言い切れるのは
>>最高位を構成する要素に「何が」欠けているからですか?
>欠けているという事を言っているのではありません
>最高位を構成する要素に、私の原因性に成りうるものは有り得ない
>という結論を述べているのです
だから
この肉体の何の要素が、こうだから他の自我ではなく『私』だったのか という問題です
問題が理解できないの?(苦笑
そういう結果論的な報告を聞きたいんじゃないんだよ
ということですね、私の返答も。(苦笑
では、質問の仕方を変えましょう。
最高位さんは、最高位が「私の原因性には成り得ません」と言い切れるのだから
当然、そう断言できるだけの なぜそうなのか? の理由を知っているはずです。
それについて答えてくれますか?
唯一性、一回性に性を付けるのは概念として分かるが、
原因性、存在性って概念は何なの?何で性が付いてるの?
803 :
417:2011/07/04(月) 02:25:53.96 0
みなさんにわかるようにと思って
>>779 で聞いているんですが、まだ回答がありません。
804 :
417:2011/07/04(月) 02:49:31.01 0
>最高位さん
この肉体に、なぜだかわからんが私が生じているから
>>764 1.この肉体に生じている私が、この肉体とは<無関係>である理由を教えてください。
2.この肉体とは<無関係>に生じる存在者(私)がいるとはどのような事態でしょうか?
3.この肉体とは<無関係>に生じる存在者(私)が存在し得る理由を教えてください。
前提
コピー私たちの誰かひとりが私であるという話しは認めません。
なぜなら現に今私である私が私だと言っているだけだからです。
これは私の唯一性の話しではなく 現に今 の唯一性の話です。
その他の似たような戯言もNGでよろしく。
もちろん私のように時間と私って似てるよね?という議論ならOK。
805 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/04(月) 03:00:47.87 0
417さんへ
>本当に今までの私のレスを見て、私が「我あり」についてわかっていないと思いますか?
>そうではないのでしょう?
正直に言いますが、わかっていないと思います
>>「あり」という事と、「ありよう」(有る様子、精神活動)の分別がついていないような・・
と書きましたよね
私は他の人との会話の中でも、できる限りわかりやすく説明しているつもりです
それらを読んでもピンとこないのであれば、そう思わざるをえません
私の言っている観点というのは
たとえば、「老婆と貴婦人の騙し絵?」みたいなもんで
ほとんどの人には貴婦人にしか見えないのだが、老婆にも見えるという事を知っている人には
貴婦人にも老婆にも見える という感じで
気づいている人には、そんなに難しい話ではないのです
『私』という観点は、気づく人は子供の頃からでも理解でき
理解できない人は、大人になっても、何度説明されても理解できないようです
(誰かも言っていました)
私も子供の頃から、そういう問題意識は持っていましたが
大人になって『私の存在性の本質』に気づいた時には
目から鱗どころではなく、本当に衝撃を受けました
ずれた質問には、ずれた答えしか返せませんし
質問に答える形式で左脳的に考えて理解できるようなものではない気がします
重要なのは
自分がどんな問題意識を持っているか だと思います
「我あり」なら「では私の正体って何?」というのが普通だと思いますが
417さんは、何の為に哲学をしていますか?
私は霊魂ですよねー!?♪。
807 :
417:2011/07/04(月) 03:23:55.44 0
>>805 永井均みたいなことを言ったらいけません。
だれでも心があるように、というくらいに、だれでもわかっているんです。
わかっているという表現は正確ではないと思いますが。
もちろんだれでもが自分のことであればよく知っている精神活動のことではありません。
と言うのは簡単だけど、そのように進めてしまったら、ただの主観性狂信者でしかありません。
それにそれでは私の正体を探ることにもなりません。
神を信仰している私が、信仰によって神の存在を最高位さんに説いても伝わらないのですよ。
確実に神はいるのにもかかわらず。
私はだれにでもあるものなのだから(これも決めつけですが)
神を議論するのとは違って、もっと哲学として議論できなければならないと、私は思っています。
808 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/04(月) 03:48:04.46 0
>>807 >永井均みたいなことを言ったらいけません。
ん? よくわからんけど、何で?
なんかすごく違和感を感じるなぁ
永井さんて大学教授でしょ?
キミは永井さんより哲学くわしいの??
あー PCのバッテリーやばい
『私』が肉体(脳)と無関係なら、私は物に触れることもできないし動かすこともできない。
物を見ることも不可能。聞くこともできない。文字も読めないことになるw
哲学者無能w
810 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/04(月) 04:00:59.96 0
>>809 私は無関係なんて言ってないんだけどな
もうちょっと国語を勉強してから話しかけてね
811 :
417:2011/07/04(月) 04:16:01.88 0
>>805 >大人になって『私の存在性の本質』に気づいた時には
>目から鱗どころではなく、本当に衝撃を受けました
『私の存在性の本質』は、私なんていう存在の比類なさですよね?
そうでなければ、私なんていう主観性 である必要なんてないですからね。
ただ 私という主観性 と言えばすむことですから。
私の場合は、どっかに書いてあったような全一性体験でした。
むしろ「私の」というのがなくなってしまって世界そのもになるというような体験なので
「私の」存在の比類なさの体験とは、事態が逆なのかもしれませんが
だからこそ『私の存在性の本質』もわかるのではないかと勝手に思っています。
どうしても体験が「私」の存在の比類なさが消えてしまう方向なので
つまり存在を体験するので、必然「私」の存在の比類なさも、私にしてみれば
「私」の存在の比類なさではなくて、存在の比類なさが、主観性の唯一性
つまり主観性が「一」でなけれならないところに反映されていると考えてしまう。
だから私は存在者の超越性という表現をするのです。
存在者の超越性とは 存在 のことです。
私がいる、というそのこと自体です。
もちろん本当にそのこと自体であるなら、私は消えて世界だけが残ります。
だけどそうならずに「私」の存在の比類なさを表現するとなれば
端的には「この」「私」という指示だし、複雑にすれば、この私の独我論だし、
コピー私たちではないこの私の思考実験だし、私的言語が操れるこの私だし…。
私は最高位さんが私と確信しているものの比類なさは
神、存在、時間、現実、真理などと同じではないかと推測しています。
つまり私がいるという存在の奇跡の解明には、私の存在の比類なさ
私なんていう主観性、にだけとらわれていては真実は見えてこないと思っています。
812 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 06:53:55.84 0
自我なんて現象の中の一分岐だよね。
現象のあり方に特異なパースペクティブを与えているだけで。
813 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 10:56:03.11 0
全一性体験というのはすごいな
814 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 10:56:28.92 0
>>787 >それは哲学的な根本問題
これって、
空には無数の星があるのだから、この星が地球じゃなくっても良かったはずじゃないか!
なんで、OGLE-2005-BLG-390LbやGliese581dや他の惑星じゃなくて、この地球だったの?地球が在るのは何でなの?
というのと同じ問題ですよね。うん、無理。現状、実在するものがこの世界に実在する原因や理由を説明するのに必要な情報は無いから不可知。
こっちの話はここで行き止まり。おしまい。
・・・で、何でまたループを誘う仕掛けを再利用してるのw試してるのw
最高位さんは解ってるんだから、これ使わないで『私』について語って欲しいなあ。そっちの話が好き。
815 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 11:05:59.64 0
5年前も同じような事やってんだぜ おまいらw
446 :哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/07/09(日) 00:20:33
>>381 >何の物理的要素で、私は他の存在ではなく私だったのか? と
>「何の物理的要素で、ジダンの体は他の存在ではなくジダンの体だったのか?」
>「何の物理的要素で、水の分子Aは他の存在ではなく水の分子Aだったのか?」 が
同じだって??? 私の部分を入れ替えれば同じだと思ってるわけ?w
笑わせるなよw 単純だねキミの頭
>何の物理的要素で、私は他の存在ではなく私だったのか?
この文に出てくる「私」という単語には、いろんな観点があり
意味があり、いろんな解釈ができる事がわからんか???
キミは、その中の一つの解釈しかできないんだよな?
で、前の私と後ろの私をイコールだと思い込んでいる
この問いの、深い意味がわからんのも情けないなぁ
例えば、前の私は「私の、この体」を指していて、
後ろの私は「私の存在性」を指している とも取れるのにさ
マジで、思いつかんかった? マジで???
キミは、まず国語の勉強からした方がいいよ 手遅れかもだけど
816 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 11:09:37.68 0
468 :哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/07/09(日) 00:47:21
>>459 >『人間は唯一絶対の存在だが、他は違う』という意味だと思うが?
はぁ?
なんで他は違うんだ???
また思い込み?
他にも唯一絶対があっても、私の唯一絶対性は変わらないけどな
キミたちはね
『我思う故に我あり』という事の基本すら理解できてないんだよ
あんま深く考えた事ないだろ『我思う故に我あり』
だからというか、唯物論にこじつける思考ばかりしてるから
『存在』という単語を聞いた時に、『実存』から離れては考えられないんだろな
私は、そういう混乱をさけたいが故に、『存在性』という言葉を用いているのだが
キミたちは、それを理解した時に唯物論も同時に崩壊するがゆえに
わざとなのか本能的になのかわからんけど、理解を拒絶するんだろな
「『我』思う故に【我】あり」の
最初の『我』と後ろの【我】では中味が違うのねん。
最初の『我』は思っている主体が証明されていない『我』で、
後の【我】は前者の、『我』が思う、を客体化させて証明した【我】なのねん。
思ってるからには主体が必要でしょう、だから、【我】があるという論理なのねん。
客体化されて証明された【我】は主観であるところの『我』とは別物になってしまってるねん。
だから客体化された【我】をもってして、主観である『我』が証明されたとはできないのねん。
よって客体化されていない主観の『我』は「自由意志」を持ってる言えるねんけど、
客体化された【我】は「自由意志」をもってないことになるねん。
どちらにしても客体化された【我】の存在から客体化されていない主観の『我』が存在するということが
結びつくことはないねんよ。
817 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 11:14:08.86 0
「『我』思う故に【我】あり」の
最初の『我』と後ろの【我】では中味が違うのねん。
………
↑
これは違う人のレス
818 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 11:18:05.26 0
最高位氏、いろいろとご活躍のようでなにより。
やはり多忙だからなのか、書き込みが少なめみたいですが、
無理はしないで続けてください。いない間にスター性を再認識しましたよ。
819 :
417:2011/07/04(月) 11:58:15.67 0
>>808 >ん? よくわからんけど、何で?
わからんヤツにはわからん。
わかるヤツだけにわかればいい。
という、わけのわからん排除の論理です。
ちっとも特別なことでもなんでもないことについて
自分だけがわかっているような思い込みというか。
存在しているものと存在していることの見分けがつく人なら
子供から大人まで老若男女問わず誰にでもわかることです。
私が存在しているということが世界があるということですから。
世界がそこから開ける原点が 私である ← これ なのは
世界がそこにおいてある存在者の超越性が 私 ← これ だからです。
>永井さんて大学教授でしょ?
>キミは永井さんより哲学くわしいの??
私が永井より哲学に詳しい必要があるんですか?
それに間違っていることは、エラさに関係なく間違っています。
相手が哲学の専門家かどうかなんて関係あるんですか?
何が言いたいのかサッパリわかりません。
最新の著書で対談相手に間違いを指摘されて永井は認めた形になってたから嬉しかった。
だって私には永井と議論して論破する機会なんてないもの。
いくら2chで指摘したって、みんな大学教授の永井の味方するもん。
永井の思想にかぶれて、危ないヤツ(茨城連続殺傷事件被告金川真大)が
出てくることも指摘してたけど、2chではまともに聞いてもらえなかったもん。
「永井さんて大学教授でしょ?」なんて言う最高位さんにも同じ匂いがプンプン。
デカルトを読んだことがなくても「われ思う、故にわれ在り」とか言ってしまう
最高位さんにも哲学はできますし、間違いは間違いだって指摘できますよ。
いつもやってるじゃないですか、ずいぶん間違ってるのは置いといても。
っていうか、やってることは私並に子供っぽいのに、なんか頭固いですよ最高位さんは。
820 :
417:2011/07/04(月) 12:03:59.19 0
>>682 >精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果であると考える事ができます
(わかりもしないことについて「物理現象の結果」と考えちゃうのは狂信的唯物論者)
>しかし、ここからが大切なのですが、この物理現象が、なぜその他の物理現象や、
(ふーん精神活動って物理現象だったんだ、だったら観察できるんだね、見せて見せて)
>その他の人体と同じく、単なる物理的な客観として現象せず
(精神活動が観察できる身体のように表に出てしまうと最高位さんのような意地汚い性格の人は
みんなから嫌われて生きていけなくなるので、それじゃかわいそうだって神様が隠してくれたの)
>なぜ、よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
(なぜ精神活動は物理現象で、かつ、私なんていう主観性として(誰かに)存在せしめられているか?
もうむちゃくちゃ。
かわいそうなので、私なんていう主観性でなければならない理由があるからです…@ にしておく)
>という事の原因性に、
(@ということの原因性は創造する神様にあり、@の原因は神様がそう意志したから)
>全くの根拠がありえないわけです
(神様に「私なんていう主観性として存在せしめられている」のですよ。
もし神様に根拠がないと言いたいなら、信仰心が足りませんね、としか言えません)
>(この辺の表現は完璧ではありませんが)
(最高位さんの表現は汚くて醜くてわかりにくいので綺麗にしてください)
821 :
417:2011/07/04(月) 12:09:02.09 0
暇なので、ここには実在しない人にレスします。
>>781 >今感じている私の痛みは、私以外の誰の痛みでもない。
>痛みが発生する物質的なメカニズムもいくら説明できても、私の主観的な痛み、
>痛みのクオリアを脳神経の客観的な組み合わせによってのみ明らかにすることはできない。
>そういう意味での主観の唯一性。
>客観科学によってはどうしても説明することのできない、異質の存在原理・主観性。
私の〜主観的な〜とか言わなくても、それが痛みです。
私の〜主観的な〜と言うことに意味はありません。コミュニケーションの便以外に。
もちろん他人に起こってる痛みが痛いなら別ですが。(想像力のたくましさではなく)
身体との関係性(随伴性)はクオリアを言う本人が一番わかっているのではないでしょうか?
そういう意味での主観の唯一性には特別な意味なんてありません。だれでもそうなんだから。
痛みのクオリアの私秘性とかそれがそこにおいて現象するところの主観性とかどうでもいい。
あるものではない心が自分だけではなく誰にでもあると思えることのほうが特別なことです。
どうしてそんなことが可能なのか、私には不思議で仕方ありません。
822 :
417:2011/07/04(月) 12:14:42.16 0
>>781 >「私」と「私」による分節化という限定作用をかぎりなく小さくしていくことが出来る。
>「私」が限りなくゼロに近づいたとき、この主観性は純粋主観性と呼ばれる。そして全一性の体験。
これは、ウィトゲンシュタインの『論考』での実在論を言い換えているのでしょう。
私の体験話しにつながるので利用してみます。
私がいなくなれば、世界はあるがままに残る、すなわち世界は実在する、ということです。
なぜ、世界は実在する、になるのかと言えば、私は限りなくゼロに近づくだけで消えていないからです。
私が限りなくゼロに近づくことで、ある、だけが残るということが、世界は実在する、ということです。
ですからもし私に ある という超越性がない場合には、世界は実在できない、ということになります。
でも本当は限りなくゼロに近い私がいるので、私=ある、に近い、私≒ある、という事態になっています。
世界がそこ(純粋主観性)において現れるのは、私が在ることによって世界が在るという事態なのです。
これが全一性の体験ですが、私はよく体験するので、たぶん神秘体験でもなんでもありません。
これを存在者が存在するから世界も存在していると理解してしまうと肝心なところが抜けてしまいます。
つまり(魂っぽい)存在者としての私によって存在者としての世界があるというように考えてしまうと
存在者を存在させている当の存在そのものを見逃してしまうのです。(これが私の存在の比類なさです)
私が言っていることは、魂のような実体を考えてるオカルト主義者にはきっと理解できないでしょう。
私がオカルト主義者以上にそう見えてしまうのはさておいて。
823 :
417:2011/07/04(月) 12:24:18.62 0
>>781 >「私」が時空を限定するものであるとするなら、この純粋主観性は、時空を超えて存在する。
>それは、主観性でありながら、「私」によって持ち込まれた時空という枠組みを超えている。
いきなり出てきた時空を限定する私は、人間に時空の直感形式を認めるカントの考え方です。
では純粋主観性が時空を超える超越的存在であり、だから「私」という枠組みも超えているとは?
純粋主観性が時空を超えているということが、時空を超えて宇宙旅行ができるとか
時空を超えて存在できるとか、というような与太話でなければ
存在者である私を超える純粋主観性とは私の超越性、すなわち存在のことだとしか考えられません。
問題は、存在が私の超越性として私においてはどのような働きなのか、というようなことでしょう。
またそう考えることが可能であるならば、純粋主観性なる超越的実体は否定されるべきでしょうね。
純粋主観性は存在者(である私)の超越性と捉えればいいだけなのですから。
もちろん「働き」というのは認識論的に認識を可能にする条件という枠組みでのみの表現になります。
824 :
417:2011/07/04(月) 13:32:01.62 0
>>805 >「あり」という事と、「ありよう」(有る様子、精神活動)の分別がついていないような・・と書きましたよね
「あり」は、基本的には「…でない」という仕方でしか表現できないのですよ、わかりますか?
言いたくないけど、私が「存在」や「ある」を使って書いていることは無意味なの、残念だけど。
でも自覚がある私と自覚がないあなたでは天地の差だよ。
でさ、よく私の質問を読みなさいよ!
あなたに「…でない」と言わせるために質問しているのがわかりませんか?
順序良くやっていけば、とても効果的に誤解を避けられるからです。
もちろんあなたにそれだけのしっかりした思考の痕跡があれば、の話しですけどね。
だって考えたことがなければそれについて聞かれても答えることができないでしょう?
で、あなたは基本中の基本から考えてないのね。
純粋に「あり」のことなんですよ、なんでわからないんですか、みたいなこと言うけどね
あなたはちっとも一度も「あり」についてなんて話したことがないじゃない。
あなたは私なんていうものが存在者として存在しているって言ってるんだよ。
あなたは自分が言っていることのわけもわかってないの、ぜんぜんね。
あなたは魂っぽい何かについて話してるんだから「あり」についてなんて話せるわけないの。
わかるかな?
>ずれた質問には、ずれた答えしか返せませんし
>質問に答える形式で左脳的に考えて理解できるようなものではない気がします
屁理屈はいいから、あなたは自分が「あり」ではなくて存在者について話していることをまず自覚しなさい。
そして存在者の話しは、けっして「あり」についての話しじゃないことを、まず右脳的に覚ってください。
>自分がどんな問題意識を持っているか だと思います
>「我あり」なら「では私の正体って何?」というのが普通だと思いますが
「我あり」は、我という存在者が存在するということね。
だから「私の正体って何?」というのは、存在者についての問いなのね。
ちっとも「あり」についての話しなんかじゃないの。
そこだけホントに自覚してください。
話しにならないので。
825 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 16:18:59.02 0
阿呆めっけww
347 :哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/07/01(土) 10:59:22
『私』という観点から『存在』という宇宙の根本問題に話をすり替えて何してんの?
頭悪いんですか?
『私』は作れないんですよ
どんなに物質をいじくってもね
100%不可能です
私はココにいるんですから、作成したソレは
物質的に全く同じであるにもかかわらず、絶対に私ではありません
この、私の理屈を覆せなければ、唯物論に生きる道はありません
826 :
ゲーム:2011/07/04(月) 18:20:13.36 0
>>822>>823 後ほど、時間がとれれば、質問しますが、とりあえず…
まず、存在者の《私》の“存在”への移行は可能か。
可能なら、その存在をそれでも《私》と呼ぶのは適切か。
《私》=ある のその《私》は
>>805のいう純粋主観性だが、
私、主観、主体、主語のニュアンスを消去できないかぎり、
つまり《私》が存在するかぎり、世界もその貌(存在性)を
明らかにしないのではないか…等々。
827 :
638:2011/07/04(月) 18:23:34.89 0
>>824:417
417は「存在論的差異」にとらわれているようだけれども、そこはあまりポイントではないように思われるよ。
ざっと見て、最高位の発言で重要だと思われるのは
>>682の
「最高位というのは唯物的に説明がつく」ものであり、これは「客観的存在」であるということ。
また「精神活動」も、物理現象によって説明可能であるということ。
しかし、「私」は、「客観として現象」するものではないということ。
つまり、「私」は、「客観として」扱うことができないものであり、別の言い方をすれば、
それを外側から見て、外側から説明することのできないということだろうと思われます。
>>784の
>素人君と同じで
>「我あり」という事がよくわかっていないのではないかなと思います
>「あり」という事と、「ありよう」(有る様子、精神活動)の分別がついていないような・・
も、同じことでしょう。
「我あり」を「客観的」に扱うことはできない。
客観的に扱ってしまえば、それは「見られた私」になってしまう。それは「見ている私」ではない。
828 :
638:2011/07/04(月) 18:24:47.68 0
>>640 :ゲーム
>最高位の【私】は奇妙な“ありかた”をしている。
>それは、ほとんど“無”に重なるかのようである。
>しかし無ではないので、そこで(スレ主もそうだが)それに隣接する“点”と
>表現すると、最高位は「点と称した覚えはない」と即座に、否定する。
>事実、彼は、点といったことがない。
これも上のこととつながるでしょう。
ハイデガーが「存在」は「無」である、と言ったのは、それが「客観的」に扱うことのできないものであるからです。
「無」を客観的に扱おうとすると、それは‘something’になってしまい「無」‘nothing’ではなくなる。
それに対して、“点”は、「客観的」に見られたもの、抽象化されたもの。
>>682 >この場合たとえば、最高位というのは唯物的に説明がつくであろう部分です
>この体は、あくまでも物質の集合体であり
>コップなどの他の存在と差別される事のない客観的存在です
>また、精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
>と考える事ができます
何だ最高位よ、これはお前自身の言葉だったのか。まじめに読んでないから
気づかなかったが、「精神活動は物理現象の結果であると考えることができる」
って、これじゃ唯物論を認めたも同然だぞ。本当にそれでいいのか。
別に勝手だけどw
>しかし、ここからが大切なのですが
>この物理現象が、なぜその他の物理現象や、その他の人体と同じく
>単なる物理的な客観として現象せず
>なぜ、よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているのか
ここがもう頭の悪さ全開だなw
物理現象が「私という主観性として存在せしめられている」わけないだろうよ。
「私という主観性として存在せしめられている」のは「精神活動」の方だぞ。
デカルト先生だって「何も考えていないときに(≒精神活動が存在しないときに)
私が存在すると考えるどんな理由もない」とか言っているんだ。
つまり、お前の疑問は
「世界にたくさんの精神活動がある(はずな)のに、なぜこの精神活動だけが
<私>なのか」と表現するべきものなんだよ。
この疑問も無意味なことに変わりはないが、意味があってもなくても、
少なくともこれが唯物論と何の関係もないことはわかるだろ。
体なんてそもそもこの疑問には全く出てこないんだから。
ええ、どうだw
830 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 20:41:01.35 0
よりによって私なんていう主観性として存在せしめられているけども
他人からすれば物理現象の結果である、てこと認めたんか。
831 :
417:2011/07/04(月) 21:36:29.48 0
>>826 ゲームさんへ
>後ほど、時間がとれれば、質問しますが、とりあえず…
>まず、存在者の《私》の“存在”への移行は可能か。
>可能なら、その存在をそれでも《私》と呼ぶのは適切か。
存在者が存在へ移行するのではなく、存在者が存在しているという、まさにそのこと自体が
存在者の超越性として認められるということです。
けっしてむずかしいことではなく、ハイデガーが言う存在了解について
うん、わかる!と言えるのであれば、それでOKです。
最高位的なもの、すなわち身体および精神としての私の消滅という事態が起こりうるのです。
それでもなお残るのが、存在了解で了解した私の超越性、すなわち ある ということです。
身体および精神に支えられている存在者の私が消滅するという事態が起こりうるのは
私が存在しているモノと存在しているコトとの存在論的差異を、まさに生きている証拠です。
ウィトゲンシュタインが『論考』で言っているように
世界は事実(コト)の総体であって、対象(モノ)の総体ではありません。(TL 1.1)
対象である最高位には対象としての世界が現象し
私である、という事実(コト)には、実在(あるがまま)の世界が在ります。
>《私》=ある のその《私》は
>>805のいう純粋主観性だが、
>私、主観、主体、主語のニュアンスを消去できないかぎり、
>つまり《私》が存在するかぎり、世界もその貌(存在性)を
>明らかにしないのではないか…等々。
空にもペットボトルにもゾウリムシにも、すべての存在するものには存在が遍在しています。
そうでなければいかなる存在者も現象することができません。
私という存在者の超越性(あるということ)自体に私というラベルは付けられないのですが
だからといって ある ということは存在者が存在するための原事実であると同時に
存在者が存在するのでなければ無と見分けがつかない非在ですから分離は不可能です。
非在というのは、すべての存在者…でない、ということです。
832 :
417:2011/07/04(月) 21:57:45.05 0
>>827 >「最高位というのは唯物的に説明がつく」ものであり、これは「客観的存在」であるということ。
>また「精神活動」も、物理現象によって説明可能であるということ。
>しかし、「私」は、「客観として現象」するものではないということ。
はい、私も同意見ですが、まず精神活動を物理現象によって説明することは不可能です。
身体との付随性を説明するのが限界ですから、せめてその位置にしておいてあげたらと。
それからまだありますよ、私が存在者であること、それからコピー人間の話しもするし
>>610で例示したようなことも言いますから、私の存在の比類なさ、も不可欠でしょう。
>つまり、「私」は、「客観として」扱うことができないものであり、別の言い方をすれば、
>それを外側から見て、外側から説明することのできないということだろうと思われます。
ええ、その通りなんですが、客観的対象として扱うことができないのは精神活動も同じです。
で、最高位が言う私(主観性)は、その精神活動を成立させるための条件としてのそれです。
(認識論的には)せめてその位置にしておいてあげたらどうかと。
>「我あり」を「客観的」に扱うことはできない。
>客観的に扱ってしまえば、それは「見られた私」になってしまう。それは「見ている私」ではない。
当たり前です。
だけど最高位の私は存在者なのですよ。
だから私は皮肉を込めて、最高位の私を「魂っぽい何か」と呼んでいます。
デカルトの私が最高位の私なんですから仕方がありません。
最高位の考え方だと必然的に「魂っぽい何か」を想定せざるをえないですから
魂っぽい何かを「我あり」とするのではなく、存在者としての「我」、
存在者としての我の超越性「あり」、というように考えれば
わざわざ「魂っぽい何か」なんていう存在者を存在させなくて済むでしょう?
という話しをしているんですよ。
というより、もう最高位の論とは関係なく、私の論だと思っていただいて結構です。
833 :
528:2011/07/04(月) 22:55:37.30 0
【私】は観念上の誤謬であるが、誤謬として存在する。
よって誤謬であるが故に、勇気をもって肯定せよ。
主語はそこに存在する。
俺も唯物論への批判や実存主義は哲学史の中でそれなりに読んできてはいるが、
哲学者最高位の書き込みはそれらとは違って、単なる素人の勘違いだね。
835 :
638:2011/07/05(火) 00:03:36.11 0
>>832 :417
>はい、私も同意見ですが、まず精神活動を物理現象によって説明することは不可能です。
「同意見」と書いていますが、あなたのレスは、私が言わんとしたことのポイントを捉えているようには見えませんね…
私が書いたのは、外から見られたものとしての「精神活動」(客観的に扱い得るもの)と、
客観的には扱い得ない「私」との根本的な違いについてです。
既に、唯物的に説明可能な精神活動も多いと思いますが、
そうやって説明された精神活動は、『客観的には扱い得ない「私」』とは全くの別物だということです。
>最高位の考え方だと必然的に「魂っぽい何か」を想定せざるをえないですから
>魂っぽい何かを「我あり」とするのではなく、存在者としての「我」、
>存在者としての我の超越性「あり」、というように考えれば
>わざわざ「魂っぽい何か」なんていう存在者を存在させなくて済むでしょう?
「心」であれ「魂」であれ「私」であれ、何でもいいのですが… それは単なる呼び名です。
あなたは「魂」という語を哲学から排除したいようですが、だから、そんな言葉狩りみたいなことはナンセンスなのです。
肝心なのは、その言葉を使って、その人が、その言葉にどういう意味を込めようとしているのか、ですよ。
それから、
>>598で最高位が、存在論的差異は「当てはまらない」と書いているのにもかかわらず、
あなたが存在論的差異の話を延々と続けているのは、なんなのか・・・ ちょっと意味不明です。
話がずれていくだけでしょう。
>835
その前に、『私』を客観的に扱うという考え方がナンセンスですね。
『私』なんて見えもしないしどこにも観測されませんよ。
ナンセンスな考え方で反論したって意味不明な意見にしかなりません。
838 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 07:32:33.45 0
>>811 417さん
>そうでなければ、私なんていう主観性 である必要なんてないですからね。
>ただ 私という主観性 と言えばすむことですから。
私はむしろ「私という主観性」という表現の方を、圧倒的に多く使いますよ
こういう、どうでもいい所に注目する事にも「わかってなさ」を感じますね
>私の場合は、どっかに書いてあったような全一性体験でした。
>むしろ「私の」というのがなくなってしまって世界そのもになるというような体験なので
>「私の」存在の比類なさの体験とは、事態が逆なのかもしれませんが
それは何ですか? 新手の独我論ですか?
結局、なんなんですか?
>存在者の超越性とは 存在 のことです。
>私がいる、というそのこと自体です。
>もちろん本当にそのこと自体であるなら、私は消えて世界だけが残ります。
>だけどそうならずに「私」の存在の比類なさを表現するとなれば
>端的には「この」「私」という指示だし、複雑にすれば、この私の独我論だし、
>コピー私たちではないこの私の思考実験だし、私的言語が操れるこの私だし…。
結局どっちなんですか??
>私は最高位さんが私と確信しているものの比類なさは
>神、存在、時間、現実、真理などと同じではないかと推測しています。
>つまり私がいるという存在の奇跡の解明には、私の存在の比類なさ
>私なんていう主観性、にだけとらわれていては真実は見えてこないと思っています。
「つまり」が「つまり」になっていないし、文章がスッチャカメッチャカ
全体的に、何が言いたいのかよくわかりません
結局、なんなんですか?
839 :
528:2011/07/05(火) 07:48:28.36 0
「我思う故に我あり」
述語(作用)によって主語は説明される。
つまり我は副次的(二次的)存在である。
840 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 08:26:42.00 0
>>814 >
>>787 >>それは哲学的な根本問題
>これって、
>空には無数の星があるのだから、この星が地球じゃなくっても良かったはずじゃないか!
>なんで、OGLE-2005-BLG-390LbやGliese581dや他の惑星じゃなくて、この地球だったの?地球が在るのは何でなの?
>というのと同じ問題ですよね。
いや全然違いますよ
この星が地球なのは、唯物論からすれば唯物的に説明がつきます
>・・・で、何でまたループを誘う仕掛けを再利用してるのw試してるのw
私が切り出したのではなく、そっちがそういう間違えた話をふってくるから
毎回、私が説明してるだけで、そしてそれを理解できない人が
また、その話を振ってくる から、その繰り返しになる というだけの話
841 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 08:37:53.19 0
>>819 >わからんヤツにはわからん。
>わかるヤツだけにわかればいい。
>という、わけのわからん排除の論理です。
べつに排除しようとは思ってないと思うよ?
どんな本でも、読んで理解できる人もいれば、理解できない人もいるでしょう
>ちっとも特別なことでもなんでもないことについて
>自分だけがわかっているような思い込みというか。
多分それはキミの思い込みのような気がするなぁ
>相手が哲学の専門家かどうかなんて関係あるんですか?
その人を全否定するような事を、こっちに振ってこられても違和感を覚えますよ
>最新の著書で対談相手に間違いを指摘されて永井は認めた形になってたから嬉しかった。
「嬉しかった」って・・・なんだかなぁ・・・て感じですね・・
動機や目的が、おかしな方向へ行ってませんか?
>いくら2chで指摘したって、みんな大学教授の永井の味方するもん
へぇ・・そうなの?
以前は、かなり叩かれてる印象だったけど、理解できる人が、だいぶん増えてきたのかな
842 :
ゲーム:2011/07/05(火) 09:22:59.39 0
>>417 議論が錯綜としていて噛みあっていない。
一旦、最高位を無視して貴方の「存在論」を展開したほうがよい。
その過程で、最高位の論調と交差するところがあれば、また議論すればいい。
存在者は見聞き(経験)できるけれども“存在”を経験することは不可能ではないか。
しかし、貴方の“全一感”はその経験を指しているようにみえる?
では、全一感を味わっているのは「何」だろう?
それを“移行”という、あまり冴えない表現を用いて尋ねたのである。
(質問の意味がわからなければ質問してくださいw)
最高位の『私の存在性』と貴方の“全一感”は対極的に思われる…
>>840 >この星が地球なのは、唯物論からすれば唯物的に説明がつきます
wwwww
是非やってみてくれw できるもんならなwwwww
844 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 18:56:39.52 0
>>843 地球は物質なんだから
ビッグバンで飛び散った物質が、ああなってこうなって地球ができた
という感じに説明がつくだろ
一方『私』は、物質的なものがどうなろうと出来る理屈がないんだから
説明は不可能だろ
845 :
Q:2011/07/05(火) 19:01:38.76 O
>844
もう少し詳しく、具体例を交えながら
デカルト的心身二元論の立場から唯物論を批判してるのか?
それともただのはったりか?
>>844 だからwwwww
それがどうして「地球」と名指しされる惑星になったんだい?
なぜ、月でも火星でも木星でもなく、「地球」だったんだい?
昔と変わらずw「次は唯名論の話になる」、に3000ルピー
他者に他者なりの『私』があるかどうかという問題にはどう答えるの?
哲学の中には唯物論批判や実存主義の思想もあって
俺もそれらを読んできたが、哲学者最高位の屁理屈はそういうのとは違って
ただの勘違いに過ぎないよ。残念ながら。
849 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 20:13:03.33 0
>>844 >地球は物質なんだから
>ビッグバンで飛び散った物質が、ああなってこうなって地球ができた
>という感じに説明がつくだろ
最高位よ、そういう「歴史的説明」なら、「地球」でも「最高位」でも「私」でも、
同じようにできるぞ。
何しろ「最高位というのは唯物的に説明がつく部分」で、
「精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である」んだそうだからな、
ちょろいもんだw
「ビッグバンで飛び散った物質がああなってこうなって最高位ができて、その脳という
物理現象の結果として精神活動が生じて、その結果できた自己意識が私です」で終わりだ。
でも、お前自身がいつも「それは結果論に過ぎない。何の原因的要素によって
地球は地球なのか説明しろ」って言ってるじゃないか。
それは相変わらず解明不能だぞ。
いくら同じ物質的要素を揃えてもできるのは地球のコピーでしかなくて
「地球はここにあるのですからね」だw
もちろん「最高位」でも「私」でも何でも同じだがな。
それとも「何の物質的原因的要素によって、最高位は最高位なのか」説明できるのか、
ええ、どうだw
851 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 20:26:44.88 0
最高位は他の投稿者に言っていることが、自分に反映されないオバカですもん
コピー人間がどうのこうのって話は馬鹿みたい。
他人を作っておいて「俺じゃないぞ」と言ってるだけw
頭悪いんじゃないの?何がコピー人間だよw
コピー人間が他人と言えるのはなぜなのかね?そこは何ら議論の余地がないのかね?
例えば、ある人Aを分子レベルまでバラバラにして離れた別の場所で
分子レベルから同じように組み立てた場合、それはあくまで別人なのかね?
854 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 21:13:20.90 0
復元された人体?
>>853 そもそも、分子レベルでコピーすると人間になるという発想が唯物論の発想ですね。
そのようなバイオ技術が可能な時代ならば、アイデンティティや主体に関して今とはかなり違った考えになりますから、
その時の社会が決めることでしょう。今われわれが決めることではありません。
まあ、そんなすごい科学技術があるくらいなら全てがネットワークで繋がるでしょうから
自分/他人など考える必要はないと思いますが。
856 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 21:55:22.72 0
思えるか、思えないかだけだろ
857 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:04:04.47 0
その時の社会が決めることだと問題先送り めんどうだから
858 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 22:08:02.12 0
>>850 なんで何度説明しても理解できんのかねぇ
地球も人体も、物質の「状態」でしょ
その状態になった経緯が原因でしょ
しかし『私の存在性』の原因は
物質的な、いかなる「状態」にも言えないわけですよ
一緒だ一緒だ と言うが
なんでこんな簡単な事が、いつまでも理解できないの???
859 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:11:10.03 0
>その状態になった経緯が原因でしょ
経緯の説明は、原因の説明かw
861 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:20:30.79 0
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ
>人間の精神も全ては「物理現象」である とする唯物論の主張は崩壊します
>また、精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
>と考える事ができます
862 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:34:35.30 0
>>858 >地球も人体も、物質の「状態」でしょ
いえいえ、(特定の)物質が存在しているんですよ。
>しかし『私の存在性』の原因は物質的な、いかなる「状態」にも言えないわけですよ
いえいえ、最高位の『私』ならば、最高位の身体という物質の存在が原因なのですよ。
『私』が特殊なのは、身体に付随して発生する一回性の現象であるという点なのですよ。
863 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:36:11.11 0
物体が落下するに至る経緯を説明したところで、物体が落下する原因を説明したことにはならない。
こんなことも分らない最高位はオバカちゃん
>>853 そのような科学技術が可能ならばダーウィニズムも人間中心主義も否定され、
機械主義の時代になると思います。
どのような社会になるかは想像できませんが、
今のような人間の自我とは異なる情報処理をすることになります。
ですから、現在の自己/非自己に分ける価値観は消えると思います。
865 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:52:21.38 0
>>844 それは地球ができた原因であって、他の惑星ではなかった事の説明ではないね。
それに倣えば、『私』ができた原因は『私』の体が発生したからだよって言えば、唯物的に説明がついた事になるね。
866 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 22:54:43.13 0
>>859 その「状態」になった原因だからな
>>863 >物体が落下するに至る経緯を説明したところで、物体が落下する原因を説明したことにはならない。
話が変わってきてるぞ
もっと国語を勉強した方がいい
867 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/07/05(火) 22:55:28.56 0
>>865 それは単なる唯物的論の補強に過ぎなく、『私』の原因を記述したことにはならない。
物質でないものが意識だから。
>>867 え?
『私』同様、『地球』の原因を記述したことにはならないよ。
869 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 22:59:40.23 0
>>867 最高位の言っている『私』って何のことか解ってますか?
870 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 23:00:25.87 0
>その状態になった経緯が原因でしょ
んなこたーないw
871 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 23:02:14.76 0
>その状態になった経緯が原因でしょ
もっと国語を勉強した方がいい
872 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/07/05(火) 23:03:48.79 0
>>869 私の理解する範囲では、宮沢賢治の「私という現象」という詩句に見られるような、現象でしかない、
私と他人との境界として働くような何か、というくらいですが。
873 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/07/05(火) 23:08:35.12 0
>>868 原因というよりは、原理という言葉が、『私』を説明する上ではより高等な説明の手段になると思います。
>>860 >>762>>765を引用してる趣旨があまり判然としないように思うけど。
Aのそれまでの体は分解されてなくなり、Aコピーが「おお、ちゃんと
離れた場所に移動できた!実験は成功だ!」などと言っていたとしても、
なお「別人に決まっとる」のかね?
いや、別人と考えることが有り得ないというわけではないけどね。
875 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 23:10:30.13 0
>>867 >>872 >物質でないものが意識だから。
物理現象が原因でなければ、唯物論は崩壊ですね
>私の理解する範囲では、宮沢賢治の「私という現象」という詩句に見られるような、現象でしかない
何の現象なのか というのが論点
>>868 >>870 >>871 原因の連続が、経緯っつー事だわな
526 1/3 sage 2008/08/27(水) 14:27:35 0
【私】を記述してください。【私の存在性】 3
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1181580411/ 196 考える名無しさん 2007/06/23(土) 09:44:54 0 (素人)
>> 195
863 考える名無しさん 2007/06/19(火) 10:37:34 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1180813863/ 59 考える名無しさん sage New! 2007/06/18(月) 17:41:07 0
自分として実感・認識・自覚されるなら、それは「自分としてしか」ありえない。
他人であった場合などありえない。それは、(そこに於ける自己認識は)常に「自分」でしかない。
「なぜ自分は自分として・・・」など、問い自体がナンセンス。
それが、「これこれこういう肉体的特徴、環境・境遇に生まれたのはなぜか?」ならば、
問う意味も生じよう。
しかし、意識としての「自分」であるなら、自分以外を実感し、自覚することはない。
思惟自体は、常に「自分でしかない」。
思惟が他人であることはない。自己フィードバック的に実感・自覚・思惟された時点で、それは「自分」となる。
204 196 2007/06/23(土) 11:49:02 0
>> 195
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない92◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177677748/ 933 考える名無しさん sage 2007/05/11(金) 17:34:21 0 (名無し)
他人である事を経験した事のない私が他人の知にとやかく言うのは何故でしょうね
939 903 sage 2007/05/11(金) 18:10:51 0 (素人)
他人であることを経験するのはありえないでしょ。
「他人であることを経験している時」、それは(その時は)もはや「『他人』ではない」。
経験は、「私」のみにされる(知覚される)ものだろ?違う?
経験できてしまった時点で、すでに「その経験は『他人であること』ではなくなってしまう」。
>>864 > そのような科学技術が可能ならばダーウィニズムも人間中心主義も否定され、
> 機械主義の時代になると思います。
な、なぜ?
純粋に、なんでそんな話になるか想像もつかないのだけど。
527 2/3 sage 2008/08/27(水) 14:30:04 0
【私】を記述してください【私の存在性】17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1214006280/ 448 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 10:43:49 0 (素人)
そろそろ、
≪なぜ、思考は「私の思考」(当人の思考)としてしか現われないのか≫
その理由を考察してもいい頃じゃないでしょうか。
そしてそれは、特に最高位氏に義務付けられてきます。
なんとなれば、そここそが、最高位氏の最大にして最初の、そして最終の砦となっているからです。
(「俺はここにいる。今まさにこのように思考している(≒実感されている)」感が、全ての根拠となっているのですから)
ここに於いて戯れに試みてみるならば、一つの解は
≪「思考」が、(唯物的に言えば「顕われている精神活動」が)、『私』である≫
と、セットにしてしまうことです。
≪「思考」が『私』であるならば、【「思考」が、『私』として現われている】ということは、
他の可能性の入る余地のない、それしかありえない、自明すぎるほど自明な、論理以前の必然となる≫
のではないでしょうか。
≪「『私』として現われている思考」が「私の思考」となることもまた、それ以外に可能性を含まない自明なこと≫
にならないでしょうか。
そして、ここから先の「なぜ?」は、(なぜ、「思考」を『私』と見做せるのか?は)、
それを問うならば、神学的問いに等しい迷宮に入らざるを得ないのかもしれません。
宇宙の始原を問うことと同種のものになるのかもしれません。
(「ブラックボックスとして捨象する」という卑怯な態度かもしれませんが・・・w)
或いは、≪「思考」を『私』と見做せるのは、そのように実感されるから≫ という逃げを打つ手もありますwww
455 考える名無しさん 2008/06/25(水) 11:08:04 0 (ネコ)
>> 448
『私』と“思考”を切断するのが最高位です。
あくまでも『私』の“思考”であり、『私』の“心”なのです。
それらを=で結ぶことに終始、彼は反対してきました。
528 3/3 sage 2008/08/27(水) 14:30:57 0
【私】を記述してください【私の存在性】17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1214006280/ 461 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 11:22:46 0 (感嘆子)
〜 前段略 〜
>> 448
>≪なぜ、思考は「私の思考」(当人の思考)としてしか現われないのか≫
それは逆であって、それが「私」の定義なのです。
ちなみに、純粋に思考だけがあるのなら、それは人間ではなく、「ここにある」
とも言えません。従って「これでない他の思考」が存在する余地もありません。
思考が五感による経験を通じ「思考の外の世界」を認めることによって、
初めて自分が「他ではない私の思考」なのだという発想も「私ではない、
私には直接現れない思考=他の私」という発想も、可能になると思われます。
508 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 16:32:57 0 (感嘆子)
〜 前段略 〜
「私」の本質、「私性」は、主観的意識であること・思考することですから、
それでなくなる、ということは「私性をなくして私でないものに変化した何か」
が存在したとしても、それを認識することができません。ですから
あたかも「私には私以外のものである可能性がない」かのような観を
呈するわけです。
〜 後段略 〜
>>858 >地球も人体も、物質の「状態」でしょ
>その状態になった経緯が原因でしょ
だからw、その理屈でいいなら、「私」だって同じなんだよ。
私は精神の「状態」で、その状態になった経緯は
「ビッグバンで飛び散った物質がああなってこうなって最高位ができて、その脳という
物理現象の結果として精神活動が生じて、その結果できた自己意識が私です」で
充分なんだから。いや唯物論が正しいならだよ。正しいかどうかは知らないが、
お前が自分でそう言っているんだから仕方ないw
しかし、地球や最高位と同じ状態をいくら作ったって地球や最高位にならないのと同様、
私と同じ精神状態をいくら作ったって私にはならんわな。地球も最高位も私も
唯一で一回こっきりの「歴史上の出来事」なんだから、当たり前だ。
だから、「地球の存在性の原因」も「最高位の存在性の原因」も、その物質的状態だとは
言えないわけだろ。お前の妙な理屈によればだが。
だから「最高位の存在性の原因」を挙げてみろ、といっているわけだよ。
それさえわかれば、最高位本人を何人でも作れることになるわけだ。
「最高位は唯物的に説明がつく部分」なんだから、できなきゃおかしいだろ。
どうなんだ、おいw
881 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/07/05(火) 23:18:39.55 0
>>875 ライプニッツによれば、別の時計が同じ時刻に鳴るように設定されている例をとって、すべての単子が別々の
原理によって動いている、その動きの予定調和が、世界の偶然的あり方に何か法則性を与えていると、言っています。
私と他人の区別にも話を広げるとすれば、個別の現象を生成している物体同士の個別性に、反することなく、
私と他人を定義できます。言ってみれば、「私」のみが存在し、他人を理解できると思ったときが、時計の鳴る、
予定調和の現われなのではないでしょうか。
>>874 確かに、《主観的自覚として》「自分である」と思考するかもしれないが、
総合的には「別人」でしょ。
たとえば、今、織田信長がクローン再生されたとして、
その方は、果たして『本能寺で散った織田信長その人』なんでしょうか?
勿論、「自覚」のみを基準とするなら、
記憶が完全に繋がっている以上、【本人の自覚としては】別人ではないでしょうw
883 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 23:21:05.53 0
>>872 そうそう、そんな感じで間違いは無いと思うんだけどなあ。最高位さんは何が気に食わないのか・・・って唯物論が気に食わないんでしたねw
884 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 23:22:01.38 0
>>875 >原因の連続が、経緯っつー事だわな
原因の連続とはなんですか?
また、原因の連続が、経緯であるという根拠は?
885 :
考える名無しさん:2011/07/05(火) 23:39:54.29 0
>>875 >何の現象なのか というのが論点
え・・・・・・生理・・・現象・・・?
>>875 私も物理現象なので、唯物論は崩壊しません。
887 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/05(火) 23:43:26.25 0
>>880 >しかし、地球や最高位と同じ状態をいくら作ったって地球や最高位にならないのと同様
いや、地球と同じ状態を作れば
人が観念的価値観によって便宜上で「地球」だと名前を付けて呼んでいる物体と同じ状態のものが出来上がる
(キミは、ここんとこがわかっていない)
「地球」という存在性は無いんだよ
「地球」だと観念的価値観によって便宜上で思っているだけの物理的な「状態」にすぎない
そして、そこでは同じ物理法則によって同じ現象が起こる
しかし『私という存在性』は唯一絶対であって、二つとして同じ現象では有り得ない
>>884 物理世界は
原因→結果(原因)→結果(原因)→結果・・・・・
の繰り返しじゃないか?
>>887 >人が観念的価値観によって便宜上で「地球」だと名前を付けて呼んでいる物体と同じ状態のものが出来上がる
それは違うでしょ。それは、この地球じゃなくて、別の地球にそっくりな惑星であって。
>(キミは、ここんとこがわかっていない)
わかってないのは君だよ。
>「地球」という存在性は無いんだよ
あるよ。
>「地球」だと観念的価値観によって便宜上で思っているだけの物理的な「状態」にすぎない
人間も同じ。
>しかし『私という存在性』は唯一絶対であって、二つとして同じ現象では有り得ない
いいや。そして、そこでは同じ物理法則によって同じ現象が起こる
でも、この地球はこの地球だし、私は私で、唯一絶対。でも二つとも同じ現象。
『私という存在性』を現象と呼んでいるしw
ま、唯物論は真理すぎて、それ以上議論の存在する余地も
あるまい? 「私」が物質の相のひとつであることは、余りにも
自明だからな。
890 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 00:24:16.24 0
>>888 キミらは、客観を客観的に考える という角度からしか考察してないから理解できないんだよ
主観を主観的に考えなきゃ、客観と主観性の異質さ が曖昧なんだよな
もっと本気で考えなきゃ、そういう前時代的な次元にとどまりますよ
別々だが、同じ法則性に従って、同じ現象が起こる
全てが物理現象なのであれば『存在性』というものはありえず
全ては状態による現象 という事になる
同じ現象が起こるはずであるにもかかわらず、私は唯一絶対
存在性である私の正体を物理現象に還元しようと思えば
そのような物理現象はありえない という結論以外にあいえない
>『私という存在性』を現象と呼んでいるしw
これは唯物論者に理解しやすいように、その主張に合わせて話してあげてるだけね
891 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 00:30:09.03 0
このスレに唯物論者がいるのですか
892 :
417:2011/07/06(水) 00:40:06.05 0
>>835 私には、存在者の側面と、存在の側面があります。
存在者の側面 : 身体+身体の物理現象に付随していると考えられる精神の働き
存在の側面 : 我あり=私の存在性 ← 私の批判はココです
私は「我あり」を「我あり」単位で存在の側面に位置づけることは間違っていると指摘しています。
なぜなら「我あり」の「我」とは「思考する我」すなわち「存在者」に他ならないからです。
それにもかかわらず「我あり」とは「我という存在者が存在する」ことではないかのように、
つまり、それを指摘すれば、私がズレていると言われる。
私は、ただ「我あり」とは「我という存在者が存在する」ことであると論理的必然を言っている。
ゆえに「我あり」を存在の側面に位置づけることは、魂っぽい何かを想定することと同義である。
だから私は「我あり」の「我」と「あり」を存在者の側面と存在の側面というように区別したら?
と言っているにすぎない。
すでに解説しましたが、デカルトは「我あり」における「あり」、つまり「存在」については
神の創造が不可欠であるとしている、すなわち「我あり」は有限なのである。
ゆえに存在をも含めて自存する「我あり」とは、(永遠の)魂っぽい何かでしかありえない。
「我あり」の神秘を言う前に、存在者と存在の区別くらいつけてから議論に臨んでほしい。
あなた方には、私の指摘をナンセンスとする根拠がまったくないのではないですか?
893 :
417:2011/07/06(水) 00:50:52.76 0
>>838 アホがアホ丸出しのレスするな!
>私はむしろ「私という主観性」という表現の方を、圧倒的に多く使いますよ
私はキミの取り巻きではないので知りませんでした。ゴメンね。
>結局、なんなんですか?
全一性の体験。
>結局どっちなんですか??
どっちなんですか、と聞いちゃうところがアホですね。
>文章がスッチャカメッチャカ
キミに読解力がないからそう感じてしまうのでしょうね。
「我あり」とは、いつ「我あり」なんですか?
存在がないのに「我あり」が可能なんですか?
というような問題の解明が必要かと思いまして。
>全体的に、何が言いたいのかよくわかりません
キミがアホだからではないですか?
>>890 >全てが物理現象なのであれば『存在性』というものはありえず
んなこたあ無いwww
リンゴにだって、ネコにだって馬にだって、隣の鈴木さんにだって『存在性』はありそうなもんだw
「主観性」なら、リンゴは除外されるだろうが、ネコや馬はまだ残りそうだなw
さて、ネコや馬、そして鈴木さんを振るい落とすには、どういう限定条件を加えていくつもりだい?
>客観と主観性の異質さ は、言い換えれば
>>882の「総合的存在の仕方」と「 >自覚 」の差、溝みたいなもんでしょ。
つまり、【自覚しているというそのこと】が【私であること】なわけです。
だから、物理現象であろうが心霊現象であろうが、
《或る条件下でそこに顕現しているものは、その「或る条件下」としか結びついていない》のです。(当たり前の話ですが・・w)
唯物論とは何の関係も無いわけです。単なる論理上の問題でしかないのです。
地球と同じ状態を作り上げて所謂地球という惑星が出来上がり、
その惑星上に私が私と呼んでいる物体を作り上げてみるとしよう。
その場合、その惑星上にいる私が『私』でないなんて誰がわかるものか。
仮に『私』が同時に二つの場所に存在して何か困ることでもあるの?
私という存在性が唯一無二で絶対的なものであることを保証するのは何?
896 :
417:2011/07/06(水) 01:04:26.75 0
>>841 >どんな本でも、読んで理解できる人もいれば、理解できない人もいるでしょう
キミの言うことが理解できない人がたくさんいるのと同じですよ。
キミの場合はキミがアホであるというところに原因があるんですけどね。
>多分それはキミの思い込みのような気がするなぁ
という気がするのはキミの気のせいでしょう。
当たり前すぎて気づかないだけです。
でもそれは知らないということではないでしょう?(知るということでもないけど)
>その人を全否定するような事を、こっちに振ってこられても違和感を覚えますよ
どこが全否定なの?
>動機や目的が、おかしな方向へ行ってませんか?
いいえ、まったくそんなことありません。
私が哲学板に書きこむのは、私の論を論破してほしいからです。
質問されると逃げまくるキミにはきっと理解できないでしょうね。
>以前は、かなり叩かれてる印象だったけど、理解できる人が、だいぶん増えてきたのかな
ふーん、ちゃんと覗いてるんですね。(笑)
>>895 「私」にとって「私´」は他者であり、「私´」にとって「私」は他者である。
ただそれだけのことじゃね?
私が二つ存在することはあり得ない。少なくとも想像が困難。
>>876 だから、「たぶん私じゃないであろう」という推論は可能。
その「´」が付いた方の身体を、「´」が付かない方の私が、
(遠隔操作の如くw)管轄するとしても、やっぱりそこには「私」が一つしかない。(そこには「´」付きの私は無い。)
逆でも同じ。
私とか他人とか脳が決めてるんだし、
私が唯一無二か大勢いるかも脳が決めてる。
結局、脳次第。
コピー人間を作れるくらい高度な技術があるのなら、
私が1億人いると考える生物も作れる。
ま、コピー人間の思考実験はいろんな意味でナンセンスってこと。
899 :
417:2011/07/06(水) 01:34:30.76 0
>>842 ゲームさんへ
>議論が錯綜としていて噛みあっていない。
>一旦、最高位を無視して貴方の「存在論」を展開したほうがよい。
>その過程で、最高位の論調と交差するところがあれば、また議論すればいい。
ご指摘、ありがとうございます。
私は最高位が問題にしているだろう、まさにそれを議論しているつもりですが
ゲームさんにまで指摘されるということは、もしかしたら違うのかもしれない
と言えば女の子らしくていいと思いますが、私はズレてるとは思っていません。
だけどゲームさんの指示にはしたがいます。(アホが話しかけてこなければ!)
>存在者は見聞き(経験)できるけれども“存在”を経験することは不可能ではないか。
>しかし、貴方の“全一感”はその経験を指しているようにみえる?
私は存在とは神のことであると思っているので、神が遍在しているように
存在はすべての存在者に遍在していると思っています。(神なしで議論はできます)
>では、全一感を味わっているのは「何」だろう?
限りなくゼロに近い「私」ですが
存在者としての側面(身体と精神)が消滅するのでしょう。
もちろん消滅すると言っても身体が消えてなくなるわけではありません。
>最高位の『私の存在性』と貴方の“全一感”は対極的に思われる…
対極だからこそ理解ができるのではないかと思っているのですが…
900 :
417:2011/07/06(水) 01:37:58.34 0
>>842 存在への到達不可能性について
結論:存在に到達できないのは、存在がいつもつねに記号によって汚染されてしまうから。
存在するのでなければ世界は成立しないので、存在とは世界の原事実であると言えます。
しかし、そこから世界が開かれるという起源性と開かれた世界の現前性の要請するものが
同時に満たされることはありません。
なぜなら、存在は、存在によって開かれた世界の存在者ではありえないからです。
現前するのは、つねに存在者であり、存在者の現前性が生の有限性にかかわるものだとすれば
存在の起源性は死における永遠性の様相を持つと言えるでしょう。
お互いの絶対否定である存在者と存在とが同一性を保とうとするならば
どうしても双方の「あいだ」での差異の反復が必要になってきます。
なぜなら、存在者とは、決して現前ぜず、またすることのなかった存在(の痕跡)との
差異の反復そのもののことであり、それによって生み出された現象に他ならないからです。
また、この反復が可能であるためには、双方の「あいだ」が必要になりますが
ここに不可避的に介在してくるのが、記号の物質性および媒介性であることから
存在者を成立させる構造そのものに、すでに汚染が内包されていると考えられます。
すなわち、存在者の成立を待って、それではない、という仕方でしか
気づかれることのない存在が、この汚染を回避することは原理的に不可能なのです。
存在がどこまでも存在の痕跡に留まるのは、非在である存在の不在によってこそ成立するのが
存在者なのであり、だから存在者とは、いつも「すでに存在した」ものなのです。
だからといって、私は存在者が「存在を経験することは不可能ではないか」とは考えません。
なぜなら、存在(今この瞬間)を経験しているのでなければ存在者は存在できないと思うからです。
901 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 02:38:57.90 0
>>891 >このスレに唯物論者がいるのですか
最高位と言うコテ。
>また、精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
>と考える事ができます
・・どうも、議論の焦点がよくつかめんな。
「われ」は、刹那的な現象でしょう? 確かに、興味深い現象とは
いえるかもしれないが、道端の石ころと「われわれ」のあいだには
本質的な差異は、何ひとつとしてない、と言うことに、なにか
異論の余地でもあるのか? ないですね。同じく、万物の一部です。
903 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 08:18:53.17 0
>>892 >私には、存在者の側面と、存在の側面があります。
そもそもコレが間違い
あえて言うなら「私という存在者は存在している」だね
ハイデガーの言っているのは
「あるモノ」(存在者)という事と、「ある」(存在)という事は、別だ という事であって
存在者に、二つの側面がある などという事を言っているのではない
>存在者の側面 : 身体+身体の物理現象に付随していると考えられる精神の働き
>存在の側面 : 我あり=私の存在性 ← 私の批判はココです
だから、この認識そのものが的外れ
そもそも私は、そんな事は言っていない
>だから私は「我あり」の「我」と「あり」を存在者の側面と存在の側面というように区別したら?
>と言っているにすぎない。
「あり」でない、すなわち無い「我」は、そもそも想定できないし
また「あり」の場合、何かが「ある」のであって、何も無い「あり」も想定が不可能
「我あり」は疑いえない前提なのであって
なぜ「無い我」を前提に考えようとするのか意味不明
「我思う故に我あり」という事が、根本的に理解できてないとしか考えようがない
>すでに解説しましたが、デカルトは「我あり」における「あり」、つまり「存在」については
>神の創造が不可欠であるとしている、すなわち「我あり」は有限なのである。
>ゆえに存在をも含めて自存する「我あり」とは、(永遠の)魂っぽい何かでしかありえない。
一応言っておくと「すなわち」も「ゆえに」も国語的に成り立っていない
まぁそれは置いといて
「我思う故に我あり」というのは第一原理で
「神の存在証明」というのは、また別の理屈を持ってきたものだよ
前にも言ったけど、第一原理を説明に使ったからといって
デカルトの思想体系全てを肯定しなければならない と思い込んで
理論形成してしまうのは、あまりにも短絡的
904 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 08:24:16.48 0
>>901 >>と考える事ができます
と書いてるだろ
と、考える事が可能
という意味であって
唯物論者に理解しやすいように
唯物論の前提に従って説明を進めてあげてるわけだよ
>>882 >
>>874 > 確かに、《主観的自覚として》「自分である」と思考するかもしれないが、
> 総合的には「別人」でしょ。
> たとえば、今、織田信長がクローン再生されたとして、
> その方は、果たして『本能寺で散った織田信長その人』なんでしょうか?
その例は確かにおかしいように思うけど、それは、コピーであることが問題なのかね?
むしろ「数百年前の人間が現代にいるはずがない」とか「一度殺された人間が
復活するのはおかしい」とか、コピーとは必ずしも関係のない点がおかしいんじゃないかね?
例えば「金閣寺」というのは一度全焼して再建されているし、他にも数百年あるいは
千年以上前の寺院、絵画、木像等々が大幅に修復され、もともとの材料などは
ごく少ない割合でしか残っていないことがあるけど、それはみな「金閣寺コピー」等々と
呼ばなければならないの?(呼んではいけないとも言わないけど)
人間だって、新陳代謝等で細胞、分子レベルでは入れ替わっていってるはずだが、
それを理由にその人ではなくコピーになってしまう、とは、ちょっと思えない。
そうだとすれば、いわば一気に入れ替えてコピーを作った時だけ、必ず別人と
言わなければならない理由が何かあるのかどうか?
ましてコピー自身も自分が本人だと言ってるわけだしw
理由があるとすれば、それはどういうものなのか?
>>905 人間のコピーを作るという話が意味不明。生物学を無視している。
それが可能な社会なら今の生物学的常識(種、進化、分類、生殖、生態、死など生命現象)は崩れているから、
本人を特定する戸籍や出生、婚姻、離婚、死亡、転籍届などの社会制度も今と違う。
人間コピーとはどういう技術か分からないのに、どういう社会制度になるかなど分かるはずもない。
あらゆる常識が崩れてる空想世界だから何とでも言えるだろうな。
907 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 11:07:05.29 0
>>904 >と、考える事が可能 という意味であって
それで十分じゃないか
唯物論の考え方は可能であり間違いではないんだろ
コピー人間を作る技術がある時代なら、
「コピー人間も私である」と考える脳を作ることも可能になる。
だから、「コピー人間は私ではない」という意見と
「コピー人間も私である」という意見のどちらが正しいかは分からない。
それが結論だ。
コピー人間の状況設定は論理的に滅茶苦茶な状況設定なので、
論理的に何が正しいかなど言えるわけがない。
>>905 >理由があるとすれば
現時点では、まさに
≪ >「数百年前の人間が現代にいるはずがない」とか「一度殺された人間が復活するのはおかしい」 ≫
といった点です。 そして、【今の論点としては】【コピーかどうかということは問題ではない】のです。
【同一性が阻害されている点では】どれも同じです。(
>>855や
>>864>>906の言うように、今後変化する可能性も無いわけではないが。)
少なくとも、有史以来現時点まで、上記のようなことはありえないこととされてきてるし(だから「奇蹟」などと呼ばれるし)、
同一性が【一度断たれている】と見做すわけです。(法律も、そこに同一性を見做す解釈にはなっていないのでは?)
そして、≪同一性が一旦断たれ、且つ、「復活」と見做せないから≫です。
実は、金閣寺でも絵画でも木像でも同じです。(更には、大量生産品も同様です。)
誰もが、【同一物でないこと(レプリカ、模造品であること)は知っています、或いは了解します】。
ただ、連続性は無いけれど、同じものだと【見做して】いるわけです。
見做しの条件が、生物の場合厳しいだけです。
(おそらく、精神活動の部分がカギだと思いますが、人によっては、
人間じゃない動物は代替が聞くと思っているでしょう。
また逆に、(特に子供などは)、「全く同じ」製品のぬいぐるみやタオルを渡されても、それを「違うもの」と見做すでしょう。
気づかれないように交換すればまた別ですがw)
>>905 そして、重要なことは、人間に於いても(自身に於いても)、この同一性というのは不確かなものだということです。
我々は常に、同一であると見做しながら日を送っているわけです。社会生活において、この「見做し」は大変重要ですが、
あくまでも見做しに過ぎないということは留意されて良いと思われます。
で、少し脱線すればw、
「身体も、心も、同一のものとして継続存在している、そうした恒常的・根源的自我は無い。少なくとも見出せない」
とするのが仏教なわけです。(無我と非我の違い、哲学的「自我の把捉不可能性」を考え出すとややこしいですがw)
何ものか・何ごとか、そして自らの身も心も、継続している、同一である、と「仮に」見做しているのです。
勿論、905及び
>>874(
>>882)に指摘の通り、同一性の断絶が確認されない状況では、別人とする理由が欠損します。
しかし、「厳密には」同一人物であるというのは「見做し」に過ぎないわけです。
科学的に言えばコピー人間の思考実験とは、遺伝子工学で兄弟を増やすことだろう。
兄弟なのだから違う名前をつけなければならない。
兄貴と弟の話。ただの兄弟の話であるw
>>910 その謂いもまた「見做し」に過ぎないのですよ
913 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 11:31:52.80 0
>物理世界は
原因→結果(原因)→結果(原因)→結果・・・・・
の繰り返しじゃないか?
何で?
914 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 11:42:38.60 0
私なんていう主観性そのものな存在性は正体不明?
正体不明のものをどう説明しろと?
>>911 いや、「実験の設定上(条件上)」は『記憶も含めて』だからw
その歴史的蓄積までをも、何もかもを完全複製した場合の話だから。
藤子不二雄「パーマン」のコピーロボットは、
《【初めから】【自分がコピーであること】を認識している》フシがある点が興味深いw
(ん?違ったかな・・)
SF的設定で面白いのは、
たとえば、或る主人公が「誰か重要人物の代わりとして呼ばれ(―作られでもいいが―)」
今の思考実験のような設定の「あらゆる記憶、あらゆる資質をその身に付けていく」とする。
最初は「何で私が・・・」「できない・・」「この考え方についていけない、違和感あり過ぎ・・」
と感じていたのが、いつしか、まるで「その人そのものであるかのように振る舞い、行動するようになる」
というストーリーはありそうだ。物語設定としてはタイムスリップ物が無難かな・・。
或いはまた、影武者が影武者の域を超えてしまうというような、
家臣の皆が、実は今まで影武者であった人が、真の親方様だったのではないか?
といった時代物とかw
>>912 そう言い始めるとネコの一人勝ちになってしまうなw
916 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 12:10:06.18 0
>>905 最高位的に説明をするなら、
>人間だって、新陳代謝等で細胞、分子レベルでは入れ替わっていってる
その入れ替わった材料で、その人間の隣にコピー人間を作成して置いてみよう。
元から居た人間にとって、隣に居るコピー人間は別人だね。
そのコピー人間には別の『私』がある。元の人間の『私』とは『他人』別人。
917 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 12:13:44.05 0
>>890 『私』については理解しているのですが、『私』が存在する如何なる理由もありえないという部分だけは同意しかねるのです。
理由についても考えてみて欲しいのです。物理現象でなくても構わないですから。
>別々だが、同じ法則性に従って、同じ現象が起こる
これは同じ状態ののものが複数あれば、同じ現象が別々に起こるという事ですね。
状態が同じであれば、ある現象とそっくりな別の現象が起こるのですね。
人間のコピーをつくれば、コピー元の人間とそっくりな別人が出来上がるのと同じく。
ですから、
>同じ現象が起こるはずであるにもかかわらず、私は唯一絶対
同じ現象ではなく、そっくりな別の現象となる事には問題はないのです。
『私』が不可思議に思えるのは、状態に付随して発生しているのに、『私』という特定の現象として「維持されている」ところなのです。
918 :
ゲーム:2011/07/06(水) 12:34:05.22 0
>>417 さん
【我】という存在者が存在する。ここからですね。
存在者の【我】とは、他のそれと同様に構造(身体)と機能(意識)を持っている。
それが「ある(存在する)」とはどういう事態か。
最高位と417さんの問題意識のちがいは、最高位が【我】を“原”的とするのに
対して、あなたは「ある(存在)」を“原事実”とみなす、この一点。
最高位の【我】の奇怪さついては述べたことがある。身体と意識を剥脱しても、
なお残存する何か。換言すれば、実体と実態なしに存在する“幽霊波”のごとき
存在。当然、物理主義によっては説明できない。
あなたはによれば、存在者は「ある(存在)」という原事実と、もう一つは主観に
現前することによって、いいかえれば主観に“汚染”されることによって可能に
なる(意味を付与される)、ということらしい。(ちがっていたら、指摘を)
ところで“全一感”とは、存在者の【我】が“存在”に解消されることでは?
ならば“感”もまた消失する。それは主観(意識)だからである。
とすれば、それは【我】の全き“死”によってしか可能にならないのでは?
>>916 そうなんだよねぇ・・w
どんなに精巧な複製技術をもってしても、それはやっぱり《別個の『私』》なんだよね・・。
それぞれの『私』であり、それぞれにとって唯一無二のね・・。
で、最高位はコピー元を離れないから、(それは当然のことでもあるが)、
コピー先に『私』は生じない、と言う。しかし、上で再三指摘されるように(
>>874>>853)、
条件によっては、コピー先に生じた『私´』に同一性を自覚できれば、
最高位の言う『私』も、そこに現れてしまうわけさw
肉体は分子レベルで一瞬一瞬、物質的に変化しているのに同じ私と感じるのは、
脳がそう決めてるから。すべて脳次第。
もし1時間後に脳が別人格になって、社会(他の脳たち)もそれを戸籍制度上認めれば別人と言える。
それも脳次第だ。
921 :
ゲーム:2011/07/06(水) 12:44:15.94 0
>>915 ネコと呼ばれるのはイヤではないが、
>>417さんなどには意味不明では。
彼か彼女かわからないが、そろそろ417さんにも簡潔なコテをお願いしたい。
完全コピー人間を作る技術があるくらいならば、
「私が100人居る」と脳に感じさせる技術も可能だ。
もはや、私が唯一無二とは言えない世界になるw
923 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 12:55:20.32 0
『私』=アートマンとはブラフマンという大海の表面に現れては消える泡沫に過ぎない。
『私』がブラフマンと一体化すれば過去世・現世・未来世の全ての『私』達と一体化することになる。
その境地では自他の区別はない。
分かり易く言えば、現世において千里眼やテレパシーが普通の感覚になる。
>>920に絡んで
整形し、それまでの縁、しがらみ等全て擲って生活したとしても、
周囲は何も感じないが、本人は、「別人になった」と100%思えない。
(というか、100%別人であれば、そもそも、「別人に“なった”」という意識・自覚さえないだろうw)
なぜか?
それは、《整形し、過去の縁を切り捨てる【以前の自分】を【記憶している】から》だ。
「生まれ変わって歩き出す」という臭いフレーズにしても、
それは、過去を背負った上での新たな歩みであるだけで、以前の自己との完全な断絶ではないだろう。
百歩譲っても、「無かったことにしているだけ」だ。
(フラッシュバックというのもあるし、忘れなさいと言われてホイホイ忘れられるほどに思い通りにならないのも記憶だw)
たとえば、記憶喪失やら、痴呆、或いは記憶の欠損は、しばしば別人を現出させるだろう。
そうした臨床事例の場合、大概、【周囲が、同一性を担保している・確認している】ため、
当人が混乱錯綜しているとされるわけだが・・。
>>921 ああ、こういう場面では確かにそうだなw 次から言及する時は今のコテにしておこう。
925 :
ゲーム:2011/07/06(水) 13:01:58.34 0
【私】の同一性を感じているのは私の意識だが、
なぜ、それが“同一性”とされるのか。
意識は【私】を“情報”と受けとるからだろう。
【私】という存在者も、他のそれと同様に情報と媒体の合体として「ある」。
媒体は変化しつづけており、コピーが原本と別物なのは、それゆえ。
が、情報はそのまま転写される。情報は物質ではないからだ。
「私」は行為の主体として「できる」ことと深く結び付いている。
>-pet- は時に -pot- という形態をとり(ラテン語 potis [...])
また -pt- という形も取る(ラテン語 -pte, i-pse?)が、もともとは
個人のアイデンティティを意味していた.[...] p. 80
>[...]ラテン語のpotior《何かに対して力をもつ、何かを自由にする》
のように、*pot- から派生した動詞にはすでに《できる》の意味が
表れている[...] p. 85
E.バンヴェニスト著 インド=ヨーロッパ諸制度語彙集
マールブランシュを論じたメルロ=ポンティの講義録が面白い。
自らに回帰する「それ自身(Soi-Meme)」という主体/同一性を
認識することは、「我」であり得る「それ」を認める、つまり、
「それ」と「我」の交換可能性を認めることに他ならず、
「我」であり得る「それ」とは既に「汝」である。
哲学に必要とされているのは、M.ブーバーやP.リクールによる
神学的転回を逆転回することによって、神学抜きの「自己」を
語ることだろう。
930 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 16:16:34.75 0
>>907 しかし「私という存在性」は物理現象の結果ではありえない
>>917 >『私』については理解しているのですが、『私』が存在する如何なる理由もありえないという部分だけは同意しかねるのです。
いや
『私』が存在する如何なる理由もありえないという事が理解できないという事は
『私』について理解しているとは言えません
>状態が同じであれば、ある現象とそっくりな別の現象が起こるのですね。
「そっくりな」というのは「似ている」というニュアンスにとれますが
それでは間違い
「全く同じ性質の現象」です
「私」の正体が物理現象なのであれば
全く同じ条件下では「私」が発生しなければならない
何をどうやったって、「私」を現象させる法則は、ありえないのです
>>930 >「全く同じ性質の現象」です
座標が違うんですよw この時点で、「全く同じ」は崩壊するのです。(座標の話も以前しましたよね・・w)
また仮に1000歩譲って同じだとしましょう。
だとするなら、
>全く同じ条件下では「私」が発生しなければならない
まさに、
>>762>>765>>876(
>>878-879)で指摘するように、
>>874>>882>>905で推論されるように、
そこには「私´」が生じているのです。そしてその「私´」に、同一性が自覚される時、
そのとき初めて、「私」が生じたと言えるのです。(その時、旧い「私」とどのような齟齬が生じるかはわかりませんがね・・w)
重要なことは、リンゴAでも地球でも馬AでもネコAでも、
同様に完全複製したら「リンゴA´」であり「地球´」であり「馬A´」であり「ネコA´」なのです。
決して、それぞれ「リンゴA」でなく「地球」でなく「馬A」でなく「ネコA」ではないのです。
この論理的構造に、「私」と「他の様々な事例」との間に差別は無いのです。
932 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 17:00:51.91 0
>「私」の正体が物理現象なのであれば
>全く同じ条件下では「私」が発生しなければならない
全く同じ条件下なんて物理的にありえんわい
933 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 17:09:22.10 0
>しかし「私という存在性」は物理現象の結果ではありえない
私的言語で表されたそれは物理現象の結果ではありえないだろうなw
>>930 >しかし「私という存在性」は物理現象の結果ではありえない
物理現象の結果です。
君の肉体が誕生する前には存在せず、肉体の死後にも存在しません。
試しにその肉体を壊してみてください。物理現象の結果である証拠として、
「私の存在性」も消えますから。
935 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 17:15:25.78 0
>>931 >座標が違うんですよw
座標が違うと、何か違う現象が起こると言うのですか?
純粋に座標だけが違う場合、物理現象に違いは生じません
よって、この思考実験において、座標は条件には含まなくてよい
「私´」は、あくまでも「私ではない人」であって
どこまでいっても「私ではない人」です
「私」になる事はありません
936 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 17:16:03.10 0
消えたという確認ができたらすげえけどな
937 :
豚:2011/07/06(水) 17:23:37.23 0
>>935 「「「「「「「「『私』を観察している『私』」を観察している『私』」を観察している『私』」を観察している『私』」を観察している『私』」
を観察している『私』」を観察している『私』」を観察している『私』」・・・・・・・
という堂々巡りじゃないんですか???????????
938 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 17:32:08.60 0
>>935 >座標が違うと、何か違う現象が起こると言うのですか?
リアス式海岸へ流れ込む「津波」と九十九里浜に流れ込む津波とが同じ現象として扱えるとでも?
座標が違うということは、極端にはそういう意味なんだよ。
そして、どれだけ科学が進歩しても、どれだけの技術革新があっても、
どれだけ荒唐無稽なSF設定が実現できたとしても、
「座標の一致」だけはあり得ないのさ。それが可能なのは、心霊科学か宗教かってとこだ。
次元の違うパラレルワールドとして、「重なり合った世界」というのは、世界観の設定でありそうだが、
基本、ありえないこととなっている。
主客の合一や梵我一如、或いは身心の一体感等は、
どちらもが抽象概念であるか、片方が抽象概念であるか(様相に対して名が付されたものか)、
という条件下でのことだ。
少なくとも、世界を(物理的世界を、唯物的世界を)ツブツブの集積としてみるならば、
時を同じくした座標の一致はありえないのです。
>>937 その時の荒療治の一つが、
そこには(私なぞ無く)「ただ観察のみがある」とするものなわけです。
942 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 18:15:03.03 0
>>939 二つのものは別のものである というのは当たり前なんだが
別である という事が「私」の原因性になるのか と問えば
それは、別のものは別である という意味しかなく
別である事が「私」の原因性にはなりえない事がわかるでしょう
>>941 >その時の荒療治の一つが、
>そこには(私なぞ無く)「ただ観察のみがある」とするものなわけです。
まあそうなんだけど、その場合も、その「観察」をどう捉えるかによって話が食い違ってきます。
その「観察」を客観として捉えてしまっているのだから、主観性としての『私』の話とは全然違う話になってしまう。
そういう形では捉えられないのが、
>>937の『私』だよね。
訂正
「捉えてしまっているのだから、」→「捉えてしまうと」
945 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/06(水) 18:30:55.36 0
>940
>リアス式海岸へ流れ込む「津波」と九十九里浜に流れ込む津波とが同じ現象として扱えるとでも?
それは座標の違いではなく
その他の条件が異なるから、異なる現象が起こっているわけですよ
というか
実験に「座標の一致」を求めたら、どんな実験も成り立たなくなりますよ
>>945は似たような現象が異なる場所で起きているってのが何で理解できないんだ?
似たような現象なら同じ場所で起きなければおかしいと何故考える?
知能に問題あるんじゃないの?
>>945 は、その通りですね。
自然科学は、基本的には、九十九里浜の水も気仙沼の水も、
「同じもの」(つまり同じH2O)と「見なす」。
その「見なす」というところに、抽象化作用があります。
自然科学の根本には、そのような抽象化がある。
だから実験というものが成り立つ。
948 :
考える名無しさん:2011/07/06(水) 20:34:17.66 0
どんだけオバカな思考実験なんだよ。
唯物論が間違っていない事を証明するようなものじゃないかw
>>887 >「地球」だと観念的価値観によって便宜上で思っているだけの物理的な「状態」にすぎない
>そして、そこでは同じ物理法則によって同じ現象が起こる
最高位よ、「私」についても同じだって、自分で認めているだろうよ。
「精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
と考える事ができます」って、断言してるじゃないか。
(何でそんなことを言ったのかさっぱりわからんがw)
その理屈なら、まず「人間」とか「脳」とかいう「観念的価値観によって
便宜上で思っているだけの物理的な状態」を再現すれば、
そこには「同じ物理法則によって同じ現象が起こる」んだから、当然
精神活動が生じるわけだろ。
それで、これもおまえ自身が強調していたが、「まず私が存在して
それが思う(精神活動をする)のであって、私が存在しないで思い(精神活動)
だけが存在するなんて有り得ない」のであれば、精神活動が生じると同時に
私も必然的に生じているわけだ。
つまり、今まで何にもなかったところに、単なる「物理的な状態」を
作り出すことによって、「純粋な存在性で主観性であるところの私」を
いくつでもご随意に作り出せる、というわけだろ。
これが唯物論でなくて何だというんだ、ええ?w
(それとも何か、お前は「純粋な存在性なのはこの私だけで、他人の私なんか
純粋な存在性でも何でもない、と言いたいのか。それだと純粋な独我論だぞ。
いや別にそれでも構わんけど。)
ただし、「すでに存在している人間(最高位)」とか「すでに存在している
星(地球)」とかを作り出すのは論理的に無理なように、すでに存在している私
(お前とか俺とかw)を作り出すのも無理だぞ。作り出せるのは「まだ存在していない何か」
だけだ。
これが唯物論と関係ないくらい、いくらお前が馬鹿でもわかるだろ、ええ?w
>>910 (ここまで言う趣旨なのかは必ずしも明らかではないですが)つまり、何についてであれ、
「同一」ということは厳密にはあり得ず、ある程度似ているものを「同一と見做す」ことが
あるだけだ、ということだろうかね?
面白い発想ではあるね。
確かに、たいていのものについては、そう考えることもできそうだけど、しかし
例えば「私は3日前の昼飯にラーメンを食べたのを覚えている」とか「私は30秒ほど
右足の小指の先に強い痛みを感じ続けていたが、ようやく治まってきた」という時に、
記憶の中の3日前の私と今の私が厳密に同一でないことや、痛みを30秒感じ続けている間の
感じている私が厳密に同一でないことは、考えられるのだろうか?
>>916 > その入れ替わった材料で、その人間の隣にコピー人間を作成して置いてみよう。
> 元から居た人間にとって、隣に居るコピー人間は別人だね。
> そのコピー人間には別の『私』がある。元の人間の『私』とは『他人』別人。
元の人間がいたまま隣に作るのではなく、分解して作る場合はどうなるのかね?
その場合は、別人ではないことになるのかね?
(多分そうは言わないのでしょうが)そう勝手に決めつけさせてもらうと、つまり、
コピーであるかどうかということ自体によって別人かどうかが決まるのではなく、
元の人間が隣に残っているかどうかという、全然関係ない変な事情によって
決まることになりそうだ。
もしそう言えるとすれば、変な話ではあるが、少なくとも物理的な材料がどうであるかに
よっては別人か同一人物かは決まらない、ということになるのか?w
さらに変な話になるが、金閣寺だって、もし元のものが残ってるうちに隣で勝手に再建したら、
再建したほうを同一の金閣寺と呼ぶのは無理があると思われるが、全焼して再建したなら
同一と言いうるので、なんだか人間と金閣寺とで特に話は変わらないことになってしまいそうだw
うーん、実際、上記のように考えてみると、「私」だの「主観」だの「意識」だのという話は
全然出てこないのだが、そういう話はコピーの話とどう絡むのかね?
>>950 横レスですが、「私の同一性」というのは、基準としては
1.この体の同一性
2.記憶
この二つしかないわけで、実はかなり不確かなものです。
極論すれば「3日前にも30秒前にも私はゾンビであって
(つまり、この人間は存在していても私は存在していなくて)、
たった今その間分の記憶とともに発生した、という可能性も否定できません。
(コピー人間なんかは、肉体と記憶が同時に発生した例です。)
「一日ごとにゾンビだった」とか「ずっと違う記憶をもっていて、たった今
この記憶に書き換えられた」とか、可能性はいくらでも考えられます。
そして、これらが事実でないと証明することは、論理的に不可能なわけです。
「過去を直接認識する」ことは、何をどうしてもできません。
「私自身に関する事実」についてすら、そうです。
「自我論は時間論だ」と考える人が少なくないのも、どうもこのへんに
原因があるのではないか、という気がいたします。
>>945(&
>>950(
>>951))
あほかw 座標も条件の一つだわいw
一般の科学的実験は、座標の差異を捨象しても、希求する結果に支障を来たさないだけ。
酷似した現象であれば事足りるのです。(勿論、条件の精度がきめ細かく要請される分野・領域もありましょう。)
他色々な条件も、「求めようとする結果、情報によっては」、ある実験で捨象できる条件が必須であったり、
ある実験では絶対外せない条件が、どうでもいい条件だったりするわけです。
で、今般のコピー人、複製人における主体性という思考実験に於いては、
この座標の問題を外すなら、「唯一無二の私とか存在性とか」言ってはいけません。
座標が別なら、それは「私」と「私´」だからです。
もし、コピー作成時にオリジナルを消去する場合、
今度は、座標ではなく「時間」の問題が絡んできます。
(本当は、上の織田信長の例にもあるように、座標よりもこちら「通時的同一性」の方が重大問題ですw)
いずれにしろ時の経過(≒事象の変化・変容)を考慮するならば、
これもまた今度は時間軸での「私」と「私´」です。 たとえ座標が一緒でも・・。
昨日の私と今日の私でも、二分前の私と一分前の私でも同じことです。(当然、時間的後者が「´」であるわけですが・・。)
昔、「前後裁断せり」と発言した方がいたかもしれません。
朝目覚めた時の「私」がそのまま、昨日のままの「私」であるかどうか・・・。
保障してくれるものは何もありません。
実験室で目覚める織田信長は何と言うでしょう・・? 「ああ、よく眠ったw」とでも言うでしょうか?w
>>939 「馬」とか「リンゴ」とかに置き換えられると考えている時点で的外れ。
「馬」や「リンゴ」に
>>937みたいな現象が生じないことを考えればわかる。
みんな簡単なことをゴチャゴチャと書いてw
>>953 >座標が別なら、それは「私」と「私´」だからです。
>昨日の私と今日の私でも、二分前の私と一分前の私でも同じことです。(当然、時間的後者が「´」であるわけですが・・。)
ん?
『私』というのは、必ず、「今ここ」にあるものではないの?
二分前の私も一分前の私も『私』ではなく。
例えば
>>937の、最後の『私』は、必ず、「今ここ」にある。
>>956 ある意味その通りなんですが、その場合は「私の同一性」は、
一切問題にならないことになります。
また「他人の私(今ここにない私)」というのはいったいどういう意味なのか、という
永井均的問題?が生じることになりましょう。
THE SAME をどう考えるのかよく分からんね。
同一はどの程度の意味で使われてるの?
同じ川に二度入ることが出来ないくらい厳しく「同じ」という言葉を使うの?
それとも、毎日同じ時間に起きる、くらいぼんやりとした使い方?
どの程度の抽象化を認めるのかは気になるね。
>>957 >ある意味その通りなんですが、その場合は「私の同一性」は、
>一切問題にならないことになります。
そうでもないんじゃないかな。
というのは、「今ここ」と言っても、その「今」というのは、
数学的な点のようなものではなくて、ある程度の持続を含んでいるはず。
そうでなければ、意識しているということそのものが成り立たないだろうから。
>>958 最高位陣営が、人の生物的発生を認め、そこに意識の発生(→自我の発生)を認めるなら、
コピーだろうが、通常出産だろうが、そこに《「同じ」私》が生じることを認めねばなりません。
(でなければ、今こうして応答している“私”は何なのか?ということになります。私は私で存在を主張させていただきますw)
この「同じ」が、貴方が今言う「同じ」です。
が、最高位陣営は「その同じ」を認めません。そこに「私」は生じないと言う。
つまり、全くの個別的私(固有名詞と言っていい私)なのです。基準が厳しいのです。
ですから、議論をその厳しさに揃える爲に、
座標が違う、時間軸に断絶がある、といった厳しさも設けられなければなりません。
そういうレベルの話になってしまうわけです。
貴方にも私にも、鈴木さんにもダニエルにも、意識があり、「私」があるのでしょう。
これを一括して括らないのであれば、そのレベルの個別性・唯一性を見るならば、
諸々の事象、現象にも、同様のレベル設定が必要です。
で、そのレベルで見れば、意識だろうが、台風だろうが、交通事故だろうが、国会中継だろうが、
およそ現象なるもの、事象なるものは、個別性・唯一性のあるものであり、
「存在する」というシンプルな意味合いで「存在性」があると言い得てしまいますよ、と言っているのです。
「存在する事象として」「現象している事象・事態として」、リンゴも私も変わりません。
「存在」とは流動的な事象の中の泡の一つでしかありません。
これを(縁起する諸法の表われ、相の一つとして)先鋭化して提示したのが「中観派」(中論:龍樹)なわけです。
「最高位陣営」って、最高位一人しかいねえよw
>>952 そこでゾンビが出てくるのは、よく分からないのだけどね?
普通に、3日前には実は昏睡していたのに「ラーメンを食べた」という記憶を持たされた、
というようなことなら、3日前の私と今の私が同一なのか問題になるのはわかる。
しかし、確かに客観的には間違いなのだとしても、客観的事実とは別に「記憶の中の
3日前の私」が考えられるとすれば、それはやっぱり今の私と同一なのでは?
>>953 座標がなんでそんなに大事なのかね?
例えばある人間がある地点から北に3メートル進んだって、それで同一の人間でなくなるとは
思われないし、金閣寺…ではちょっとアレだからwあるリンゴを北に3メートル転がしたって、
やはり、それで同一のリンゴでなくなるとは思われない。
私が3メートル前に歩いたって、やはり、同一の私でなくなるとは思われない。
馬鹿みたいなことを言ってると思われるかもしれないが、実際、「座標」になぜそれほど
意味があるのか、場所がちょっと変わることにどういう意味があるのか、分からないので。
さらに、2分前の私と1分前の私は同一ではない、という主張もなされてるように読めるけど、
これはますます分からない。
そのような考え方によると「30秒間痛みを感じ続けていた」という例(3分間くらいに
延ばしても変わらないと思うけど)は、どう考えられるの?
>>963 前段:
古代インド語で「rUpa(ルーパ)」という語があります。
一般的には、「肉体・身体」「物」「物質」「視覚的に捉えられるもの」というほどの意味です。
漢訳仏典では伝統的に「色(しき)」と訳されています。 このルーパに、別の訳語が付いている例があります。
(正確に言うと訳語というより解説的意味合いが強いですが・・。)
それは「質碍(ぜつげ)」というものです。碍の辞はもっと難しい方だったかもしれませんが、さして変わりません。
この漢語が用いられた意味は、≪同じ場所を占めることができない(もの)≫という意味です。
座標の同一性が重要である理由、お解かりですね?w
後段:
通常は、仰る通りです。 もっと正確に言うならば、
≪【痛みを感じ続けているから】【通時的同一性が担保され】、【同じ自我が継続している】ということが遂次随時確認できている≫
わけです。 そうした要素、たとえば痛みの継続、たとえば運動・行為の継続、
などによって連続性が保たれ、同一である事が確認され続けるのです。
そしてそれは、記憶によってもまた同様です。先ほどの痛みの継続や行為の継続のような連続性は弱いですが、
それでも、途切れはするものの継続していると見做し得る事象なわけです。
しかし、「生まれ変わった気持ちでやり直す」とか「人が変わったみたいに働き者になった」とか言われるように、
以前と違う自分という位置づけがなされることもあります。
何が変わり何が変わっていないのか?何が途切れ、何が継続しているのか?
(極度に蒸留していけば、それこそ『存在性』だけでしょうw、継続しているのは・・。)
竈で薪を燃やした時、燃え尽き、残った灰は、着荷前の薪と同か異か? ということです。
>>964 否。
このスレに来ると、文体が影響されてしまってね・・w
紛らわしくて申し訳ない・・・ m(_ _)m
いや、実際かなり影響受けてるけどね。こっち方面(哲学“的”考察法)では随分と参考・勉強になったよ。
(最高位のお蔭と言うべきか)、いい時間を過ごさせてもらったと思ってる。
あ、
>>965最後の行は ×着荷 → ○着火 ね・・w
>>966 そうか。内容はともかく文体がそっくりだから
感嘆子が宗旨替えでもしたかと思った。
結局は脳が決めている。
記憶や自己同一性の論理的根拠が曖昧でも、脳が一貫性を維持している。
脳が一貫性を維持しなかったり私が5人いると脳が感じるなら、
今とはまた違う自分観や世界観になる。
970 :
417:2011/07/07(木) 01:13:17.52 0
>>903 毎回毎回間抜けなレスするな!
>「あるモノ」(存在者)という事と、「ある」(存在)という事は、別だ という事であって
>存在者に、二つの側面がある などという事を言っているのではない
存在者は、存在しているモノと存在しているコトとのあいだ(存在論的差異)を生きている。
私の(存在論的)自己同一性は、これによって成立している。
>だから、この認識そのものが的外れ
だから、この認識そのものが的外れ。
>「あり」でない、すなわち無い「我」は、そもそも想定できないし
>また「あり」の場合、何かが「ある」のであって、何も無い「あり」も想定が不可能
「あり」というのは、存在者が存在しているというコト。
私はそれを存在者の超越性と呼んでいる。
キミの――何かが「ある」のであって――という短絡思考では、
魂っぽい何かの存在を招来してしまうでしょう?と、私は言ってるの。
>「我あり」は疑いえない前提なのであって
私がいつ「我あり」を疑っていると言ったの?
>「我思う故に我あり」というのは第一原理で
>「神の存在証明」というのは、また別の理屈を持ってきたものだよ
私は、存在についての話しをしてるのね。
デカルトは、キミのように、永遠に自存する(存在を創造する)魂みたいな「我あり」なんていう、
うぬぼれんのもいい加減にしたら?的なものは、考えもしないわけ。
そこんところどう考えてるの?ってキミに聞いてるんだよ。
1時32分ね。
972 :
417:2011/07/07(木) 01:33:45.48 0
>>918 ゲームさんへ
>【我】という存在者が存在する。ここからですね。
>存在者の【我】とは、他のそれと同様に構造(身体)と機能(意識)を持っている。
>それが「ある(存在する)」とはどういう事態か。
私たちは、その事態を「私が存在する」と表現しますが
その表現は、それを表現する言語によって、すでに超えられてしまっている。
何を超えているのか?とたずねられても、私たちにそれを言うことはできない。
なぜなら、私たちは、すでに「私という概念」を手にしてしまっているから。
>最高位と417さんの問題意識のちがいは、最高位が【我】を“原”的とするのに
>対して、あなたは「ある(存在)」を“原事実”とみなす、この一点。
存在なしには「我あり」もまた実現されないのは、私には明らかなので。
>実体と実態なしに存在する“幽霊波”のごとき存在。
私は、最高位の私が魂でも幽霊波でもいいのです。そう言ってくれたら。
>あなたはによれば、存在者は「ある(存在)」という原事実と、
>もう一つは主観に現前することによって、
原事実はどこにも現前しないことで原事実の資格を保ちつづけるのですね。
主観に(として)現前することによって ← これが「我あり」ではないでしょうか?
>いいかえれば主観に“汚染”されることによって可能になる(意味を付与される)、
>ということらしい。(ちがっていたら、指摘を)
この先は主観を定義しないとむずかしいです。
私は認識論的範疇の主観と存在論的範疇の主観を別けて考えます。
原事実は身体が外界からの刺激(入力)を情報化して〜という意味での記号化を除けば
端的に記号化とは言語の機能ですから、汚染というのは言語によるものです。
後で少しレスを追加します。
973 :
417:2011/07/07(木) 01:38:02.87 0
>>918 ゲームさんへ
差異の反復(記号による汚染)について
今とは、いつか? 私は、この今を指示する。
ところが今は「この」と指示されたときには、すでに存在していない。
存在するところの今は、指示された今とは別のものである。
今とはまさに存在するそのときには、もはや存在していない。
「この」と指示されるときに見て取られたのは、ひとつの運動である。
この運動とは、次のようなものである。
私は、この今を指示する。
そこで今が真なるものであることを主張するのである。…(第一の真理)
しかし私が指示したのは「存在した」ものとしての今のことであるから
私は最初の真理(第一の真理)を取り消さなければならない。
いまや私は、今は「存在した」のであり、取り消されていると主張するのである。…(第二の真理)
ところが「存在した」ものは、けっして<存在する>ものではないのだから
私は、今が「存在した」という真理(第二の真理)をも取り消さなければならない。
こうして私は、今の否定を否定し、今が<存在する>という最初の真理に戻っていく。
(ヘーゲル『精神現象学』のマネ)
まず「何ものか」が定位されます。
しかし定位されたものは、真なるものではなく「他のもの」であり
定位されるところの「何ものか」は、すでに取り消されています。
ところがその取り消しもまた取り消され、最初の「何ものか」に戻っていきます。
ですが、戻った先にある「何ものか」は、もはや最初の直接的なものではありえません。
最初の真なるものは「他のもの」になることによって「それ自身」であることに留まるのです。
現象とは、何ものかが自己自身であることに留まり何ものかに現れることでしょう。
何ものかが自己自身であることに留まるのは、真なるもの(不在のオリジナル)と
取り消された真なるもの(オリジナルの不在)とのあいだの差異の反復によってなのです。
974 :
417:2011/07/07(木) 01:45:24.30 0
【自我体験】--- ルドルフ・フォン・デリウスの場合
私は自我意識が個人的にどのように始まったかを語りたい。
夏の盛りであった。私はおよそ十二歳になっていた。私は非常に早くめざめた。
たった一つの窓が庭に向かって開いている部屋。
私のベッドは部屋のいちばん後ろの隅に頭の方を窓に向けておいてあった。
私は起き上がり、ふり向いて膝をついたまま外の樹々の葉をじっと見た。
この瞬間に私は自我を体験した。
すべてが私から離れ、私は突然孤独になったような感じがした。
妙な浮かんでいるような感じであった。そして同時に自分自身に対する不思議な問い、
お前はルディ・デリウスか、お前はお前の友達がそう呼んでいるのと同じ人間か、
学校で一定の名前をもち一定の評価を受けるその同じ人間なのか、お前は同一人物か。
私に中の第二の私が、ここまでまったく客観的に名称としてはたらくこの別の私に向かい合った。
それは、今まで無意識的にそれと一体をなして生きてきた私の周囲の世界からの
ほとんど肉体的な分離のごときものであった。
私は突然自分を個体として、取り出されたものとして感じた。
私はそのとき、何か永遠に意味深いことが私の内部に起こったのをぼんやり予感した。
それゆえその部屋、ベッドにひざまずいたこと、ふり向いたこと、この瞬間がやはり鮮明に記憶に残った。
何か精神的閃光が突然私の中に射し込んだようだった。(そして今なおたびたび繰り返される
この体験からの結論は)血縁関係をもった古い自然――父という概念、兄弟という概念――が
突然何の意味も持たなくなってしまった。そして強くしばりつける力をもった故郷も離れ落ちた。
それは剥ぎ取られた皮膚のように下に横たわった。
――自我は自由となり、解放され、漂い、自分自身の中に憩い、そしてそれゆえ無責任で、独自で、
価値があり、世界にとって到達しがたく、破壊しがたいものとなった。
――自我体験は第二の誕生のごときものである。精神的な臍の緒が切れる。
われわれはもう環境という母胎の血にぼんやりと養われるのではない。
血の循環はいまや自分自身の中だけで行われなければならない。
自立して鼓動する心臓が生まれる。
参考図書 →『青年の精神生活』シャルロッテ・ビューラー 協同出版 絶版
975 :
417:2011/07/07(木) 02:26:43.62 0
>>918 ゲームさん
レスし忘れてました。
>ところで“全一感”とは、存在者の【我】が“存在”に解消されることでは?
>ならば“感”もまた消失する。それは主観(意識)だからである。
>とすれば、それは【我】の全き“死”によってしか可能にならないのでは?
たぶん。不可能ですが。
それと〜感はしょうがないです、表現できないですもの。
人間は、〜と信じる、〜と感じる、〜と考える、という歴史を経ているんです。
いきなりデカルトのコギトに到達したわけではありません。
到達したと言っても他と比べてコギトの優劣は言えないと思います。
それくらい3つは、人間にとって根本的です。
関係ないけど。
おやすみなさい。
非常に主観的で、特異とみえる諸瞬間といえども、
もちろん生理的基盤のうえで生じている出来事である。。
と合理的に推論しうるし、それ以外のいかなる可能性も想定できない。
こんな素朴な推論もなし得ない人はどうかしている。。
と思われるであろう。
>>965 >
>>963 > 前段:
>
> 座標の同一性が重要である理由、お解かりですね?w
いや、ちっともw
あらかじめ言っておくと、時間・場所をきちんと特定して追いかけていけば、かなり厳密に
同一かどうかを考えることができそうだ、ということは否定しない。しかし、なぜそもそも
時間・場所の特定がそんなに大事なのかが分からないのだけどね。
もう少し細かく考えてみると、
「もし2つ以上の別々のものであれば、同時に同じ場所を占めることはない」
というのは、確かに説得力があると思われる。すると、
「もし同時に同じ場所を占めているのであれば、2つ以上の別々のものであることはない
(同一のものである)」ということにもなると思われる。
しかし、そこから、
「もし同一のものであるならば、必ず時間・場所を厳密に特定して追いかけていくことができる」
といえるわけではない。
そこにはさらに説明が必要ではないか。
また、(これは私の勝手な言い換えなので、そもそも言い換えかたに異論があるかもしれないけど)
「もし同一のものであるならば、必ず時間・場所を厳密に特定して追いかけていくことができる」
と言おうとしても、そう言うためには、「同一のもの」の基準が先に分かっていなければ
ならないのではないか、という疑問もある。
何のことかというと、例えば、生物の新陳代謝の例で言えば、実際に分子レベルでは
あっちこっちに随時散らばっていってしまってるわけで、分子レベルではちっとも
時間・場所を追いかけていない。
それでも同一と言えるとすれば、例えば個体としての同一性?とかの、何らかの
同一性についての考え方があって、それを使えば時間・場所を追いかけることができるからではないか。
978 :
ゲーム:2011/07/07(木) 09:43:22.27 0
>>417 さん
長いレスなので、後ほど感想を述べます。
さて、最高位の思考実験だが、私ならこういう。
最高位の【私】は主観性であり、身体をも含む物理的なものからは自立している。
もし、この“主観性”を他の身体にそっくり転写できれば…、たとえば素人氏に
それを移し、逆に素人氏の主観性を最高位の身体に移植できれば、各々の“自我”
は入れ替わる。
【私】という主観性がそれ自体として「存在する」のなら、原理的には可能だろう。
(ドラマでは時おりみかける。この相手は人間ではなく、ネコでもブタでもよい)
もし前記の実験が原理的に不可能なら、【私】は純然たる“存在性”ではなく、
“関係性”として現象する、一つの相関者にすぎない。(私はこの立場)
979 :
だび:2011/07/07(木) 10:54:22.14 0
【距離】は物理において重要な条件。
組成、物性、構造等をそっくりにしたところで、距離を隔てていれば別の物体。
行為の主体であるところの【直接の肉体】は、他の肉体と物理的に多重することはない。
【直接の肉体】は意図・意志とは関係なく、自ずと在る。
980 :
Q:2011/07/07(木) 11:08:21.85 O
>ケイコ
>971
すばらしい
で、あなたが語ろうとしたことが、デカルトが「われおもうゆえにわれあり」と言った言葉そのままなのです
議論をするなら別スレに移動したいですね
981 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 13:11:21.35 0
>>951 >コピーであるかどうかということ自体によって別人かどうかが決まるのではなく、
>元の人間が隣に残っているかどうかという、全然関係ない変な事情によって決まることになりそうだ。
元の人間は自身を自分であると感知し続けています。他人を自分であると感知することはしていないし、できません。
元の人間は隣に居るコピーを自分であると感知することはできません。
自分が残っていようがいまいが、元の人間はコピーを自分であると感知することはできません。
自分であると感知できない身体が何体コピーされて残っていようが、それらは全て自分(オリジナルの『私』)ではなく他人であり別人。
982 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 13:21:05.14 0
蛇足だろうけど、まず紛らわしいのは
『私』は「意識がある」とか言うときの意識とは違うものだってことだね
メルロー=ポンティ流に表現するなら、「私」=「自分自身」とは、
「表裏一体であり、反転可能な能動性/受動性、すなわち、身体性」である。
984 :
638:2011/07/07(木) 14:16:27.00 0
>>970 :417
>>「あるモノ」(存在者)という事と、「ある」(存在)という事は、別だ という事であって
>>存在者に、二つの側面がある などという事を言っているのではない
>存在者は、存在しているモノと存在しているコトとのあいだ(存在論的差異)を生きている。
>私の(存在論的)自己同一性は、これによって成立している。
最高位が言っているとおり、存在論的差異というのは、存在者と存在は別だということ。
そしてハイデガーが言いたいのは、プラトン以降のほとんどの哲学は、
存在を存在として思惟することができず、存在を存在者化してしまっているということ、
つまり存在を忘却してしまっている、ということ。
だからハイデガーは、ソクラテス以前の哲学やヘルダーリンの詩などに、存在を思惟する手ががりを求めた。
417は、存在論的差異という言葉を使っていながら、そういうハイデガーの思想とは別のことを言っているように思われます。
「存在」と「存在者」の意味も、おそらくハイデガーの用法とは全然違うでしょう。
そうだとすると、417自身の考え方と言葉遣いとを、一から理解する努力が必要になるわけですが…
(私は、ひとまず降ります。)
985 :
638:2011/07/07(木) 14:19:01.71 0
>>960 >で、そのレベルで見れば、意識だろうが、台風だろうが、交通事故だろうが、国会中継だろうが、
>およそ現象なるもの、事象なるものは、個別性・唯一性のあるものであり、
>「存在する」というシンプルな意味合いで「存在性」があると言い得てしまいますよ、と言っているのです。
>「存在する事象として」「現象している事象・事態として」、リンゴも私も変わりません。
その「個別性・唯一性」は、哲学史で言えば、普遍論争における「個」のことでしょう。
普遍論争においては、まさにその「このリンゴ」が問題の中心でした。
でも、
>>638に書いたように(あなたは
>>594と同じ人?)、「このリンゴ」と「この私」を並列に置くことはできません。
なぜなら「このリンゴ」はあくまでも、(「この私」にとっての)「このリンゴ」なのだから。
普遍論争においては、(『「この私」にとっての』)という部分は、クローズアップされませんでした。
「私」は、隠れていました。
『(「この私」にとっての)○○』の、『○○』のほうが、問題の中心だったわけです。
つまり、『○○』は「個」であるのか、それとも「普遍」であるのか、が問題の中心でした。
ところが、ご承知のように、デカルト〜カントにおいて、パラダイムは大きく変わりました。
(「この私」にとっての)の部分が、クローズアップされました。
そして、「この私」は『主観』として確立され、それと同時に、『○○』のほうは、『客観』として確立されました。
あなたは、「リンゴも私も変わりません」と言うけれども、上のようなことを考えてみても、
「リンゴ」と「私」を並列に置くことはできないと思われます。
「リンゴも私も変わりません」と考えるならば、その場合の「私」は、
上で言えば『○○』として見られた「私」、つまり、『客観』として見られた「私」、外側から見られた「私」、だろうと思われます。
(そのへんに、話が噛み合わない理由の一つがあると思う)
986 :
638:2011/07/07(木) 14:20:43.94 0
また、「座標」ということが話題になっていますが、もしあなたが、「私」を座標上に位置づけることができると考えているとすれば、
そのことも、「私」が『客観』視されていることを裏付けているように思われます。
例えば、案内板などで、「現在地」と書かれた所を見て、「私は今あそこにいる」と思う場合、
「あそこにいる私」は、もちろん「ここにいる私」ではなく、「ここにいる私」によって『客観』視された「私」です。
あるいは、今「私」のいる「ここ」を、北緯…度、東経…度、として表す場合でも、
地図(地球儀)上の北緯…度、東経…度に位置する「私」を、地図(地球儀)の外から見ている視点が加わっているはずだと思います。
だから「北緯…度、東経…度にいる私」も、『客観』視された「私」です。
「座標」という考え方も、同じだと思います。
>>983 >すると、
>「もし同時に同じ場所を占めているのであれば、2つ以上の別々のものであることはない
>(同一のものである)」ということにもなると思われる。
いやいやw
そもそもそれが巨大な錯誤でしょw
「>同時に同じ場所を占め る」なら、それは「二つのものがあって、それが同一である」ということではなく、
『一つしかない』『それしかない』ってことでしょ。
「二つのものが同時同所を占める」というのは、そもそも誤った言明であり、
それをベースに次へ進んでは(983のような試論を進めては)マズイわけです。
二つのものが同時同所を占められないということは、そこには常に一つしかないわけです。
だから、《別である、異である》といった場合、それは、場所か時か、いずれかが相違しているということなのです。
少なくとも、《所謂「物質」と呼ばれるもの》はそうです。
(名称や概念となると事情は変わってまいりますが・・。)
あれ?なんでアンカーがずれてんだ?
>>987は
>>977宛。
>>985 『メタな視線、考え方』というものを一切認めないならば、貴方の言う通りです。
この主観を離れ、全てを(自身の存在、心、意識、思考等等を含め)客観的に外へ置くことは不可能でしょう。
「ゲーム」は昔からここを強調していました。メタな視線を取ることはある意味姑息なことだとw
宣言無くメタな視線を取っておいて「ほら、客観的にこうでしょう?客観的存在でしょう?」というのは傲慢で愚かだ、とw
(今もそうなのかな?少し変わってきてるようにも見えるが・・。)
昔書き込んだように、
私を見ている私を見ている・・・といった無限遡及(或いは無限後退)は、
メタな視線を咬ませればそこで解決します。
時系列において常に一瞬しかない以上(―それが「(コンマ数秒の)過去」か「今現在」かは措きます―)、
そこには常に一度の遡及しかないわけです。一度の遡及が繰り返されているだけなので、
それを定義してしまえば(その見做しを許容すれば)、そこで楔を打つ事ができるわけです。
インド哲学に於いても「自我の把捉不可能性」は触れられていますし、根本とも言えます。
だから、仏教では、そこについての「深淵としての自我」については多くは述べられていないのです。
他のインド哲学同様、「これは我でない。あれは我でない。これも我でない。・・・」として、
およそ知覚し得るあらゆるものが「我でない」(五蘊非我・一切法非我)とだけされるのです。
(勿論、日常の人格的自己・自我は認められています。それらは深淵の自我とは違うので・・。)
そして、文脈上(およそ人の知覚経験上)「我」と見做せるものは無い、という教義的統一が
非我でなく最も人口に膾炙した「無我」という言い方を定着させた形になります。
いずれにしろ、メタな視線を認めるかどうかは大きなポイントだと思われます。
それを、宗教的には瞑想や行によって、オカルティックな方面では神秘体験として、
実際に感得し得ることなのかもしれませんが、私は勿論未確認ですw
尤も、心霊やオカルト、スピリチュアリズム、神智学等の分野では、無我なんてとんでもなく、
最高位以上の「主観」「自我」の絶対性へのこだわりがありますがね・・。
>>988 live2ch使ってるけど、Ctrlキープラス↓で、書き込みウィンドウにアンカー出してるから、
確認と修正忘れると、その時点での最新レスの番号になっちゃうから。
申し訳ない。
991 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/07(木) 17:34:36.54 0
>>970 417さん
会話が成り立っていないね
>>892(417)
>私には、存在者の側面と、存在の側面があります。
ハイデガーが言っているのは
「あるモノ」(存在者)という事と、「ある」(存在)という事は、別だ という事であって
存在的差異というのは、二つの側面がある という事を言っているのではありません
ですから
>存在者の側面 : 身体+身体の物理現象に付随していると考えられる精神の働き
>存在の側面 : 我あり=私の存在性 ← 私の批判はココです
というキミの、一つの存在には二つの側面がある というような認識は
根本的な間違いである と指摘しているわけです
で、キミの返事は
>存在者は、存在しているモノと存在しているコトとのあいだ(存在論的差異)を生きている。
>私の(存在論的)自己同一性は、これによって成立している。
なんでそれが自己同一性につながるのかもわかりませんし
というか、なんで自己同一性の話が出てきてるのかもわかりません が
まぁ置いといて
>存在者は、存在しているモノと存在しているコトとのあいだ(存在論的差異)を生きている。
で、キミの主張は「存在しているモノ」が、体と心で
「存在しているコト」が『私』であるとしているわけだよね
『私』=「ある」 なんてことも言ってましたしね
しかし、こんなのはハイデガーの存在論的差異の観点からしても
全く意味不明な、完全な誤読なんですよ
>「あり」というのは、存在者が存在しているというコト。
「存在者が存在しているというコト。」というのは「あり」じゃなくて
まんま「我あり」なんだけど?
とにかくキミの間違いは、多すぎて大変だ
992 :
Q:2011/07/07(木) 17:41:11.02 O
>最高位
おい、最高位
おまえはハイデガーを読んだことがあるのか?
俺はまったく目を通したことすらないけどな
993 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 18:19:53.79 0
デリダは、存在するものとその存在との間の差異から、
より一般的にあらゆる同一者が前提として経なければならない内的な差異化の運動を抽出。
存在論的差異は、それが存在という形式によって限定されて現れた姿として捉え直される。
994 :
哲学者最高位:2011/07/07(木) 18:32:37.29 O
携帯から失礼
うむ、私も読んだ事はない(笑
一般常識的な事だけだな
あと、名前が出てきたんで、チラッとおさらいした(笑
理解できれば、それで十分じゃない?
995 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 19:13:39.65 0
>>930 >『私』が存在する如何なる理由もありえないという事が理解できないという事は
>『私』について理解しているとは言えません
成程、諒解。貴方の考えを確認したまでの事。
物理現象に限らず何らかの理由を想定し得ると考えるか否か。思考放棄ならばこれ以上訊いても詮無き事よ。
>「そっくりな」というのは「似ている」というニュアンスにとれますが
無理にそのようなニュアンスにとらずとも解るであろうに。ならば曖昧さ回避の為に訂正。
状態が同じであれば、ある現象と全く同じ「性質」の『別』の現象が起こる。ならば、
>全く同じ条件下では「私」が発生しなければならない
全く同じ状態の『別』の条件下において、同じ性質の『別』の「私」が発生することには何らの齟齬も無い。
因みに『私』が発生した時と全く同じ条件は二度と再現できはしない。そしてその一度限りの条件下において『私』が発生している。
付け加えておくが、あらゆる現象が一回性なのは言わずもがな。
996 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 19:21:37.37 0
唯一性を示す表現がコト
普遍性を示す表現がモノ
997 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 19:24:02.99 0
自分のことは自分が一番よくわかってる
他人が自分のことをどうこう言おうが自分が思ってる自分のことが正しい
そうとは言い切れないのと同じように、自分の精神活動について同じことが言えるか?
最高位よ、「おさらい」というのは一応知っていることについてやるもんだ。
読んだことがないものを「チラッとおさらい」はできんぞw
それと、チラッとぐぐったくらいでハイデガーを理解できたら世話はないw
999 :
考える名無しさん:2011/07/07(木) 20:56:06.62 0
私なんていうモノ
1000 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/07(木) 21:02:34.62 0
>>995 >因みに『私』が発生した時と全く同じ条件は二度と再現できはしない。
よ〜く考えて下さいよ
物理的な「状態」は、いくらでも再現できるんですよ
では、できないのは何かといえば、それは『私』ですね
問題は、『私』とは何なのか ですよ
唯物論では、それは物理現象であるとする
しかし物質的な要素では、『私の存在性』は全くもって、その原因性を解き明かす事はできない
そういう事を言っているわけです
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。