1 :
YOKOTANI:
誰も無関係ではいられない問題?
勝手に言ってろハゲ!
4 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 04:39:06 0
俺は色んな考えの哲学者やら学生たちと話してきたけど
とにかくあいつらは持論とかいうのに拘る傾向がある
だいたいがプライドが高くて固執しすぎている
世間では通用しない空論で威張っているだけで
あんなのを有難がっているのは無知の極みとしか言いようがない
5 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 04:52:12 0
形而上の区画整理をしたいのが哲学なんじゃないの?
6 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 05:02:03 O
ソーセージ
7 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 05:04:58 0
ハムの人
我無の人
9 :
考える名無しさん:2010/09/12(日) 21:49:48 0
-=・=-∵-=・=
不生不滅、それは常住
11 :
考える名無しさん:2010/09/13(月) 17:46:34 0
諸行無常の響きあり
12 :
考える名無しさん:2010/09/13(月) 23:28:37 0
>>1の思い違いはまずここにある。
> 先ず人間社会という絶対的なものがある。
何故そう断定出来るのか?
まあ、小学生だったからしょうがないのかも知れないが、書いている内容からすると
この観念がそのまま引き継がれてしまっているように見える。
それともう一つ誰もが持ってしまう根本的な観念がある。それは「体が自分である」
という観念だ。
>>1はまだその観念に縛られた上で思考しているように思える。
何故、そう断定出来るのだろうか? 簡単な話だが、もし今現実だと思っている世界が
自分の見ている夢だったら、全てが成立しなくなる。自分の体でさえも夢の中での
体であって現実の体ではない。世界も全てが自分で作り上げたものであって何ら
絶対的なものでも自分が存在する前から存在していたものでもないということになる。
何これ
他のスレはみんなぶっ飛んだか???
ヤバイっす!
哲学板終了〜〜〜〜〜〜〜。
14 :
考える名無しさん:2010/09/14(火) 15:48:52 0
自己とは、世界から照らし出される存在ではなく、照らし出しあう存在である。
世界は、照らされ出す存在であり、自己を照らされ出した存在なのだ。
自己と世界は、照らされ出し、照らし出した直感により、照らし出す。
真っ暗 真っ暗 真っ暗ぴーん
16 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 17:19:53 0
生きていること自体がお先真っ暗な僕はどうしたらいいのでしょうか。
17 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 20:32:45 0
>>16 気にしない。
そして、この言葉を思い出せ。
「これで、いいのだ」 (バカボンのパパ・談)
18 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 20:38:50 0
19 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 20:40:46 0
人間に先のことが分かるだろうか? 未来のことが分かるだろうか? 分かるわけがないのである。
なぜなら世界の全情報を掴み法則に従ってその全ての変化をシミュレートすることなどコンピュータを
使っても不可能だからである。天気予報は外れ風が吹けば桶屋が儲かり北京で蝶が羽ばたけば
ニューヨークで嵐になるのである。
つまり人間のような、あるいは人間の作ったコンピュータのような物凄く低い能力しかないものでは
一瞬先の未来ですら予測することは不可能なのだ。ならば、明日のことを考えても確実に妄想に
しかならない。考えるだけ無駄である。ましてや妄想を真実であると確信して「お先真っ暗」などと
思うのは愚の骨頂。そんな風に思い悩んでいる内に時は過ぎあっという間に過去になっている
ことだろう。
過去のことですら記憶があやふやで妄想混ざりであるのに増してや未来のことなどいくら考えても
時間の無駄である。そんな妄想見ている暇があったら今を見ろ。
今を感じるのって大変なことですよね。
音楽を聴いている時は今を感じるのが楽しいけど、
やっぱ苦しいときは今なんか感じたくない。
苦しいのをどうすればいいかと考え出す。
そのように将来を考えている時に、考えを捨てて今を感じ続けるのは難しい。
21 :
考える名無しさん:2010/09/15(水) 23:05:05 0
「今が苦しい時」というのは本当に過去や未来を妄想せずに「今」を見ている状態か?
本当か? よく思い出してみろ。
例えば何かの試験に落ちたとする。すると苦を感じるだろう。しかしそれだけで終わっていない筈だ。
その直後に未来のことを妄想してしまい「もう駄目だ」などと勝手に結論を出したりする。そのような
妄想が苦を余計に増幅し長引かせている。違うか?
過去に対してあの時ああしていればというのも同じこと。ああしていれば今はもっと良かっただろうし
未来ももっと良くなるはずだったなどと妄想しているだけだ。
そういう思考は全部無駄なんだよ。そういう余計な思考を全部捨てて今だけを見るんだ。
22 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 01:08:50 0
今だけを見ろだと? あほか。
全員がそんなやつらだったら、農耕も不可能。
腹が減ったり狩に出る旧石器時代に逆戻りだ。
23 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 01:49:28 O
今を見ろってよくいうが、厳密には、遠い未来ではなく近い将来を予測し対策を練れってことだよ
この辺を勘違いしてはならない
シンクロニシティをもちろん予測することは不可能だろう
要するに組み合わせの連鎖だから1つの予測にはたどり着かない
がそもそも、この世界の事象が複雑なシンクロニシティのみで成り立ってるわけではない
要するにシンクロニシティとは川で例えるなら水系にあたるものだ
必ず本流や源流なるものは存在しやがては海に出る
24 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 02:24:10 0
>>22 今を見て今に対応するために過去の記憶を利用するのなら問題はない。
過去の記憶や未来の妄想で思考が埋め尽くされ今ここを見ないのであればろくなことはないだろう。
それは目を瞑って歩くのに等しい。何れ穴に落ちる。
25 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 09:32:01 O
人間の神経の情報処理速度では「今」は見えないらしい
26 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 14:17:32 O
記憶や妄想に支配されてしまうか否かの問題だ。
そういったものに支配されないなら人間の脳の処理速度はそれなりに速いからだいたいは大丈夫。
27 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 14:24:56 0
記憶に基づく知識によって解釈されて始めて現実が認識できるんだろ?
28 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 23:44:56 0
現実を認識しようとしている場合はな。
29 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 00:46:47 O
タイムラグの話かな?
人間社会においてはタイムラグはほぼ存在してないね
なぜなら誰もがリアルタイムで今を感じてないからさ
過去を感じてるわけだ
物質も夜空に見える恒星とかわりない
網膜に映像が入るまでにすでに0.0000〜1秒経過している
まあ、自分自身が無になるまで考えて! たぶん一生無理だろうけど。
それは広い知識と言うより、教養が要求される。そしてなによりも、戦うことが。
政治思想で、文学という言葉を出したら、それは文学板でというような奴は、以ての外である。
考えることは、ある程度有効ではあるが、正しく感じられない者は正しく思考さえ出来ないということ、
これは真実である。
歴史を思考するためには、その基体ともいうべき物理的時間性に左右されない永遠の時間性が要求される。
これを忘れないように!
あぼーん
永遠とは、過去を含み、未来を孕んでいる。それは現在のことである。
34 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 08:56:02 0
つまり、現在しか存在しないこと。永遠の現在だっての。
過去も未来も脳髄つまり観念の中にしか存在しないしね。
34>>
しかし、それは現実になるものではなかろうか? いずれ。その可能性が未来をも含む。
あぼーん
37 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 15:17:17 0
>>33 永遠とは遙か遠くにあり、それが現在なら、現在には決して到達し得ない。過去や未来は永続の中に閉じこめられる。
結局自然と人間の認識は交わらない。時間の中に視野があるなら、瞬間を止めることができれば永遠に近づく。
38 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 23:17:50 0
普通に物理学で考えれば時間はないということにはなるよな。物が動くから時間が作られているだけだ。
素粒子が停止したらそこで全部停止。w
なんとなく冷凍保存と似てるね。ちょっと違うけど。
37>>
永遠が遥か遠くに感じられるのは、あなたが悟っていないからである。遥か遠くは今の自分である、あなたの場合は。
「結局自然と人間の認識は交わらない。」とはどういうことか? こんなことはあり得ない。あなたも自然の一部である。違いますか!
あなたがそのように感じられないのは、明らかに、人間のみを見ているからである。
40 :
考える名無しさん:2010/10/13(水) 12:23:23 O
私が世界です。
以上。
人間は全ての事物を人間としてしか見れませんね。
自然なんて幻想です、非-人間としてしか定義できません
(人間が何よりも前提ということです)。
人間が世界です。
以上。
私≠世界
人間≠世界
あぼーん
44 :
考える名無しさん:2010/10/20(水) 15:44:24 O
私=宇宙
45 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 17:18:15 0
存在と非存在
存在を指摘する方が途方もなく簡単
それ全ての大学人に言ってやりたいな
47 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 22:29:35 0
悪魔の証明だな。
48 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 22:33:55 0
うおっしゃーーーーーもう解禁してたのね(はおと
劇場版14弾、やはり動画うぷされてましたb
こんやはhほかほかウハウハじゃわいっ!
49 :
考える名無しさん:2010/10/23(土) 23:00:19 0
「存在」「時間」はわかる
「不死」は全然違うテーマだろうが
悪魔の照明とはちょっと違う。「こういうモノが存在する事を証明汁」
と言うのと、「存在しないモノを説明汁」とは違う。
そこでおやっと思う。存在しないなら説明できるワケないだろ、と。
そういえばアキバのヤマギワで悪魔の照明売ってたっけなあ。
明るかったなあ。
あぼーん
53 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 13:52:01 0
54 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 17:21:38 0
55 :
考える名無しさん:2010/10/30(土) 20:26:47 0
時間の外にも立てないのに時間が進んでいるとは言えない
>>53 時間を知るには時計を見る。できれば腕時計が良い。
その時計が1時間しか進んでないのに世間では10年とか有り得ないから。
58 :
考える名無しさん:2010/10/31(日) 21:22:28 0
電波時計最強
異論は認める
あぼーん
>>50 その場合、存在する可能性や妥当性を説明している
61 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 08:35:50 0
存在や時間と言うと、なんか、科学的な感じがするだろう。なぜなら
存在にしても時間にしても、数量を伴って論じることができると、一般的に
考えられるからである。
例えばこの宇宙の大きさは、光年と言う単位を用い、しばしば、何光年のかなたの
新星を発見したなどと言う様に。
時間にしても、まさに光年そのものが時間と距離を表す単位なのだろう。時間と空間の存在は
まさに数値を以って論ずるものと、一般人が考える所以であろう。
ところが、数そのものが問題なのだ。
数も名称と同じに、約束事なのである。決して真理真実を言うものではないのである。
数の数え方は小学校で学ぶが、その時に約束事として教えなければならない。
約束事と真理真実の区別は、子供の時のほうが、理解しやすいのでは、と。
りんご一つと数えるが、その一つの真実は、数の約束を排斥するのである。
りんごなどない、と言うのが真実なのだから。
62 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 08:50:48 0
参考にして下さい。
グーグル検索:C点による仏教的宇宙論
63 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 09:02:36 0
参考にして下さい
グーグル検索:C点による般若心経
64 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 09:09:39 0
上記、62,63について
宗教ですので、「思考」のみでは理解出来ず、「瞑想」を要します。
哲学徒には、無意味か?
65 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 11:24:13 0
残念ながら、たいした価値のないものと思う。
C点と言うのは、要するに、中間の存在と言う意味で言っているのだ。
中間を中道に解釈したいのであろう。ところが、この中間の存在と言うものは
妄想に過ぎない。
中道とは、位置関係の存在と考えがちで、誤解されやすいが、そういうものでは全くないのだ。
中道とは、極端を排する意味で言われ、しかし、両極端ではない、その中間、と言う意味ではないのだ。
その混合した状態と言う意味ではないのだ。
極端とは、執着を意味するのだ。どちらかに執着する状態を言うのだ。
いや、右に執着する場合、左に執着する場合、これらの混合に執着する場合、
対象が右左その中間があって、そのどれかに執着する場合、それは極端と言うのである。
であるから、これらの混合に執着する場合も、執着に他ならず、中道ではないのである。
中道とは、いかなるものにも執着しない態度のことである。
・・・・・・
宗教哲学と科学の違いは、宗教哲学は、真理真実の世界であるが、科学は
共通概念、つまり契約の世界である。宗教哲学の、勝義諦に対する世俗諦
の世界のことが科学の対象とする世界である。
66 :
考える名無しさん:2010/11/11(木) 11:31:14 0
老荘の言う中庸、儒教の中庸も、この中道なのである。
ただし、儒教は老荘から中庸をパクッているのだ。
現今の学者は、中道と中庸は異なると言う様に言っているが、同じである。
老荘の教えは、ゴーダマの教えと同じである。
67 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 05:39:00 0
[存在」を極めると、「無限と矛盾」に至る。「矛盾」は「時間」としては「0秒」と言う
「瞬間」であるところの「現在」においてのみ、実在する。
実在は、「空間」のみで、「時間」は、概念に過ぎない。
この世は「実体」があり、「不生不滅」など無い。「不死」など、願望に過ぎない。
存在を極めると、どうして「無限・矛盾」となるか? 鍵は「C点」にある。
般若心経の「色即是空」、華厳経の「一即一切」「一即多」、中論の「非有非無」を
勉強しなをしましょう。世俗諦や勝義諦にこだわら無い。
68 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 09:23:02 0
参考までに
科学は、無限・矛盾は扱いません。哲学は、「思考」がメインですので、
無限・矛盾は境界領域です。C点論は、宗教ですので、「瞑想」も取り入れ
ます。この時点で、拒否反応を示すものも多いと思われます。
以上ご納得の上で、興味のある方は、グーグル検索してみてください。
69 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 14:54:06 0
C点とは
物理学では、物質を分割して、分子・原子・素粒子とたどり、空極の素粒子に達し
ました。科学では、「無限」の分割は出来ません。「瞑想」の中で、素粒子を「無限」に
分割します。瞑想してみてください。
瞑想の限りを尽くして、「無限」の分割でたどりつきます。
ここでは、最後に「無」に限り無く近づきます。どまでも「有」です。そこでは空間に
「体積の無い」、「位置のみ占める」「粒子でも無い」、純粋な「点」にまで
「瞑想」して下さい。それはどこまでも「有」である、不思議な点です。ここが
C点論のポイントで、難解なところです。どこまでも「有」です。
ここで今一度、冷静に考えます。空間に体積の無い「不思議な」点は、「無」としか
考えられず、位置も消え、漠然たる広い「無」の拡がりで、しかない。有とは
考えられない。
「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在と言う
「矛盾」です。今この矛盾を「C点」とよびます。「有・無合一体」です。
70 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 15:16:56 0
C点は存在可能か?
持続する「時間」の中では、C点は存在出来ない。
時間とは、空間における物質の変化・非変化つまり持続・瞬間と言う互いに
「矛盾」した存在の同時同位置存在が「時間」と言う「概念」です。ここは
ポイントですので、十分に「瞑想」して下さい。
「現在」とは、「実在」ですが、「無」なる「過去」と「無」なる「未来」とに
挟まれた「0秒」です。有・無合一体です。ここもポイントですので、十分に
「瞑想」してください。
「C点」は、現在と言う「瞬間」である「0秒」でのみ存在可能であります。
十分の「瞑想」が必要です。物質の変化・非変化も「0秒」で合一します。
以上、「存在」と「時間」について参考に成ったでしょうか?
71 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 15:24:26 0
「C点論」では、「無限・矛盾・0秒」がポイントで「瞑想」を必要
とし、「宗教」です。信ずる信じないは、それぞれの自由です。
72 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 21:07:45 0
C点は全く体積を持たないものと言うが、そして、それは意識の中にだけあるものと言うが、
それは妄想であると言うべきだろう?無いものをあると思うことを妄想というのだから。
概念であろうと、観念であろうと、それは対象を想定してるのだ。
対象なくして概念も観念もない。あろうはずがないのだ。
妄想にしても、そういう対象を想定してるのだ。
ところが、C点はいかなる体積もないので、存在しないが、妄想せよ、と言うのである。
意識の変化でも、物体の変化と同じように、考えるのが、古代の知者達である。
意識でも、対象を特定できる。対象がある限り、それは体積を持つ。
意識の変化の場合は、異なる意識が並存してるのである。その間に、
体積のない意識C点を想定せよと言うのであるが、仮にそれを認めるとすると、
それから、それを基点として、他の一切の意識が縁起することになる。
つまりC点と言う体積の無いものを意識において、想定するが、その意識自体は
体積を持つのである。C点は体積はないと言いながら、意識において体積を持つのである。
意識において体積を持ちながら、それは体積を持たないもので有ることを、意識せよ、と言うことになるが、
自己矛盾してるのである。自己矛盾は破滅である。崩壊である。
結論のとして、体積のないC点なるものは、間違った想定と言うことになるのだ。
73 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 21:24:06 0
>>69 >こまでも「有」です。
ここで今一度、冷静に考えます。空間に体積の無い「不思議な」点は、「無」としか
考えられず、位置も消え、漠然たる広い「無」の拡がりで、しかない。有とは
考えられない。
「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在と言う
「矛盾」です。今この矛盾を「C点」とよびます。「有・無合一体」です。
・・・・・
無限に小さいが、あくまでも『有』であると頭書に行っているが、途中から、
その有が、「有とは考えられない」と言い、さいごには、
『「無限」に小さな「有」と「無限」に大きな「無」との、同時同位置存在』
と矛盾したことを言っている。
例えば、夜の天空に満月が一つだけあり、その他の星星はないものとしよう。
あなたの言うところは、上の天空の上体なのだ。満月は死人で切るが、あなたの無限に小さいが、
それでも『有』なるものである、と言うものだ。
あなたは、この無限に小さい満月であるが故に、満月を取り囲む無限の暗黒の世界との、区別がない
、と言っているのである。
無限に小さいとしても有である限り、この満月と囲繞する暗黒の世界とは、
明らかに差異ある世界と、意識しているのである。
74 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 21:28:48 0
>>70 そんな瞑想できるわけないよ。そんな瞑想してはならないね。
75 :
考える名無しさん:2010/11/12(金) 21:30:54 0
>>73訂正
満月は死人で切るが→満月は視認できるが、
Cちゃんどこにでも沸くなあw
77 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 05:33:17 0
72−76
「無限」と言うこと一つでも、「思考」で了解しようとする。これでは、「矛盾」
となると、おして知るべし。「0秒」に至っては、論外。
哲学徒の限界を、自ら知るべきである。「縁無き衆生」は、去れ。
>>1-1000 権力の予期理論は、薄くてとても読みやすいよね
理系の友達は、初歩のゲーム理論を使って社会学が100年近くかけて築いた権力理論を
1時間くらいで理解できたような気にさせるよくまとめられた本だねって評価してたよ
79 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 05:49:11 0
「無限」とは? 「矛盾」とは?
これについて、いま少し謙虚に、勉強する必要がありますね。それに
「ゼロ」ですね。
数学の方は、いつも考えているようですが、ご意見を伺えれば幸せです。
80 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 05:57:53 0
妄想と言う「言葉一つ」で、批評するしか能のない人も、時々
います。自らの論も無いのに。
81 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 08:04:01 0
論理の上では、「矛盾」は、あってはならない。しかし、現実には、
「矛盾」はある。現実は論理に優先する。これが、研究者の態度で
あるべき。
C点論では、現実の矛盾を問題にしている。矛盾だからこそ、そこから
退くことなく、追求を始める。「矛盾」そのものを、テーマとする。
82 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 08:15:17 0
「存在」を考えるとき、矛盾に至る。「無限」と言う瞑想を持って
これを追求する。ここはもう科学でも、哲学でもない。宗教であり、
「C点」の難解なところ。
「無限」と言う言葉が問題。奥の深い意味があります。
83 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 09:27:26 0
蛇足ですが
現象世界では、矛盾も無限も存在しません。しかし、本質の世界は
矛盾であり無限です。
84 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 11:20:26 0
>>79 >「無限」とは? 「矛盾」とは?
これについて、いま少し謙虚に、勉強する必要がありますね。それに
「ゼロ」ですね。
・・・・
矛盾とは何か、これは大事な概念なのだ。その程度は究極の論題と言っても良いほどだ。
矛盾は古代中国の故事で、盾と矛の例えに基づいている。これに相当する西洋の表現はないようですね?
西洋では単に、一貫性がないとか、つじつまが合わないとかの、常識的な表現を当てているらしいね。
最強の矛と最強の盾を、向かわせたらどうなるか、と言う問いに、答えられない、と言う事態を指すのである。
最強の盾と最強の矛を、最強の軍隊が二つあって、両者を戦わせたら、どうなるか、と言う問に換言できるだろう。
両群の戦いは決して終結しないだろう。永遠に戦争が続くのである。
けだし、最強の軍隊とは、そのもの以外に対して有力な軍隊と言う意味だろう。
そういう軍隊が二つ居り、お互いに戦争すると言うのである。永遠の勝敗の決まらない戦争になると言うのは、
当然の帰結である。
戦争なら、どちらかが止めると言う場合、両者が合意して止める場合があり、戦争は中止し、平和が将来される事はありえる。
しかし、こういう矛盾の事例は世界を支配してるのである。
これが良いのではないか、こちらが良いのではないか、こうする方が良いのではないか、それをしないほうが良いのではないか、などと人は迷うのである。
どちらが良いのか判らない、と言う人の心の状態のことである。判るまで心の中に争いは
続くのである。判らない限り永遠に続くのである。迷ったまま人生を終わると言うのが多いのである。
これは苦しみではないか?
85 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 11:53:26 0
>>79つづき
これは、最強の盾であると言いながら、一方で最強の矛であると言う
人の心の中と同じであろう。その人は盾と矛を売る商売人であった。
その人が戦争に狩り出されたとき、自分は最強の矛を持って戦争に臨むが、
相手は最強の盾を持って攻撃してくるだろう。自分は敵に最強の盾をたくさん
売って来ているから、敵はその盾で防御してくるだろう。自分の矛で相手を負かせられるだろうか、
負かせられないなら自分は負けて殺されるだろう、と思い悩むことになるだろう。
どうすれば迷いから脱出できるのだろうか?
迷いとはどちらが良いか判らない、と言う状態である。二つのものがあるのである。
しかし、一つのものしかないなら、迷いと言うものは発生しないのである。
二つのものがある場合、どちらも良いと思われるが、しかし、それぞれは相反しているのである。
二つのものがあるとはそういう関係なのである。だから迷うのである。
して、二つのものがあるとは、必ず隣り合って存在してるのである。
一方は迷う必要のない真実なものなら、他方は不真実なものであり、その場合は迷うことなく
真実な方を選択するだろう。ところが両方とも真実に見えるのである。
で、結論としては、矛盾とは、真実なるものが二つあると言う状態を言うのである。
そしてこれは迷いと言うものであり、永遠の苦しみをもたらすのである。
自分の方が真実であって、相手の方は不真実であると、お互いに主張しあっている関係である。
それなら、どちらが真実であるか決着をつけなければならないのだ。
この裁判が哲学であり宗教なのである。科学は、真理真実を吟味しないのだ。科学は現実を真実と言うだけであろう。
86 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 12:21:48 0
>>79 >「無限」とは?
これも前記に関連して最重要な論題である。
無限とは、純一なものが無限に存在する場合のみ、言いえる状態である。
純一が必須の条件である。何かが混在しているような、今の宇宙のような存在は、
無限の空間とは決していえないのである。
Aと言う物質とBという物質が有る場合、それらが混在しているなら、Aと言う物質は、
Bという物質の締める体積分だけ、無存在であるのだから、Aと言う物質が無限にあると言うことは
出来ないのだ。Bという物質の場合も同じである。
したがって、混在してるものの場合、あるものが無限にあると言うことは不可能である。
純一なものの存在の場合のみである。
もし、両者ともに無限にあると言うなら、矛盾を来たしているのである。
そして無限と言うなら、その有るものは、識別できないものである。故に
存在として消滅するのである。Aが無限であると言うなら、Aは消滅してなくなっているのだ。
そこには識別できるものはない、ので、無と言われなければならない。混在していては決して無限と言うことはありえない。
87 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 12:39:47 0
持続する「時間」−−我々の現象世界ーーの中では、「矛盾」は存在
出来ない。
だが、時間としては「0秒」が「現在」である。持続する時間など、本質的
には無い。「0秒」の中を、過去・現在・未来は流れる。「C点」も「0秒」
において、つまり「矛盾」も存在可能である。「0秒」を追求して下さい。
88 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 12:54:06 0
>>79 >「ゼロ」ですね。
ゼロと言う言葉の表現は、1、2、3と言う数字の概念の中で考えられているのである。
数える対象がないという場合にゼロと概念するのである。
真理真実の世界を論じる場合は、ゼロを無と表現する。無の概念の方が
その意味する範囲は大きいのである。
言葉と言うものは、共通概念である。観念と言うものは、主観的な概念である。
「概」とは「おおよその」という意味である。
これらはともに、真実には存在しないものである。単に、約束により
発生しているものなのだ。
89 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 12:58:07 0
>>80 妄想とは『迷い』の心の状態を言うのである。つまり矛盾している状態である。
迷い、矛盾は取り除かれなければならない。
90 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 13:21:45 O
純一なものw
別の単語をつかってくれよ
91 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 13:43:50 0
純一はよく使用されているよ。
個人名だとでも?
どんな名称を想像してるの?
92 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 15:17:19 0
「0秒」について
過去より現在にいたる瞬間を「−0」とし、現在より未来にいたる瞬間を
[+0」とする。「−0」は過ぎさったもので、存在しない。「無」である。
「+0」は未だ来たらぬもので、存在しない。「無」である。現在は実在し
[±0」である。「±0」は、前後より[−0」と[+0」に挟まれ、圧迫
されて、有・無合一体つまり「C点」となる。
空間における物質の「変化・非変化」つまり「持続・瞬間」と言う互いに
相容れない矛盾の同時同位置存在が「時間」である。「時間」は概念であり
実在せず、実在するのは「空間」のみである。[C点」である。
[C点」は[0秒」において、実在する。
難解すぎたか?
93 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 16:32:20 0
>>92 C点など勝手に言ってるだけじゃないw。
>有・無合一体つまり「C点」となる
有も無もあるものであり、これらが合一になるとは、有も無も同時に
消滅しない限り、一つにはならないだろう。C点は、有でも無でもないんだから。
再度言うが、C点が意識できる限り、それは体積を持ち、体積を持つとは、
時間と空間を持つということになる。時間と空間を持つものが、ゼロ秒において実在するとは、
矛盾なのだ。
>難解すぎたか?
勝ってすぎだよw。
94 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 16:45:46 0
あなたは竜樹の中論を言っていたね?
中論を援用してみたら?
95 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 18:12:12 0
実在と言う言葉を使用してるが、この意味は、真実在を言うものとすべきである。
仏教的に言うと実相である。中論的に言うと、自性であろう。
自性と言うものは一つのものでなければならない。一つのものなら、
それは『無』でなければならない。自性とは真実のことだからね。
真実が二つあるとは言えないだろう?真実は絶対だから。
真実が二つあると言うのは、その両者はお互いに、自分が真実であり、
他者は虚偽であると言っている状態である。
あなたが二つの真実を認めるとするなら、自己矛盾に陥っているのだ。
自分で一方を真実であって他方を虚偽であると言い、また同時に
他方のものを真実であってこちらのものを虚偽であるといっているのだから。
ものの変化とは、二つのものが有ることを言うのだ。そこで、前者があると同時に他方もあると言うなら、
二つのものがあるといっているのだ。そして『ある』とは実体があると言うことである。
即ち二つの真実があるといっているのである。しかしこれでは前記したように、
自分は自己矛盾しているのだ。
相するとどういうのが正しいのか?変化しているものは、両方とも、実体がない、両方とも
真実在ではない、と言うなら、自己矛盾に捉えられないのだ。
真実が一つであるなら、それは『無』なのだ。例えば、数々の色相がある。
黄色、白色、青色、黒色と言う様に。そこで、黒色が真実であるとするなら、
黒色だけがあるものである。黒色だけの世界は、黒色自体も認識されない世界である。
色がないのである。これを仏教では『無相』と言う。仏教は真実:実相は
『無相』であるという。無相であるとは換言すると、『一つのものがあるに過ぎない』といえる。
このことを仏教では『一相』とも言う。
96 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 18:26:08 0
真実実相が『一相』『無相』であるなら、どんなことになるか考えてみよう。
死もなく、生もなく、悲しみもなく、根拠のない喜びもない。過去の失態を後悔することもなく
、未来の根拠のない喜びもないのだ。
これこそ不死である。永遠の命である。
>>92 0秒に存在し続ければ、存在論的には不死であるということですか?
98 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 19:58:02 0
[矛盾」を中国の故事で言うところの、矛盾と同一視してはならない。
それは当然のこと。それには、大賛成。
[C点」の矛盾は、それとは異なる。
「時間」について、空間における物質の「変化・非変化」と言う[矛盾」
これは「持続・瞬間」と言う「矛盾」−−この[矛盾」についてC点論は
論じている。
貴兄らは、「時間」についてどう考えているのか?
それが無いと、議論が空転する。
誰か代表して、「時間」の定義を述べてください。
99 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 20:08:07 0
C点論では、[無自性」は認めない。総ての現象には、「自性」があり、
[実体」がある。この世は、幻のような、夢のような、蜃気楼のような
[仮」の存在では、無い。
それ故、「不生不滅」など無い。私達は、実体として「生まれ・死ぬ」
「不死」など単なる願望に過ぎない。
時間=観察存在と被観察存在を隔てるもの全ての内から物質を除いたもの
しかし全ての物質を未だ把握不可能だから、時間の理解は仮のものにとどまる
101 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 22:01:19 0
>>98 >[矛盾」を中国の故事で言うところの、矛盾と同一視してはならない。
それは当然のこと。それには、大賛成。
中国の故事の矛盾・・・・、何を言ってんのかわからないよ。
>「時間」について、空間における物質の「変化・非変化」と言う[矛盾」
これは「持続・瞬間」と言う「矛盾」−−この[矛盾」についてC点論は
論じている。
ここにリトマス試験紙があるとしよう。この試験紙は酸性の液に浸すと
青色に変化する(?)。リトマス試験紙は細長いものだ。このリトマス試験紙の半分が、
青色に変化し、残りは白色のままであるとしよう。
リトマス試験紙は、半分が青色であり、残りの半分は白色である。
青色は試験紙の中間で、白色に変化してるんだよね?変化とはこういうものと定義できるだろう?
この白色も青色も実体としてあると言うと、真実が二つあると言うことになる。
これではお互いに相手を否定してることになる。両方に実体があると言いながら、両方を否定してるじゃないか?
二つの真実はありえない。双方が双方を虚偽であるというそれぞれの主張は認めることが出来るのだ。
二つの真実があると言うのが、矛盾なのであり、双方が双方を虚偽であると主張するのは矛盾ではないのだ。
時間の定義であるが、時間は過去から現在にいたり、未来に至るものと言うのが常識だろう。
それは物を一つ一つ積み上げるのに似ている。一方向に進むのである。すべてのものが一方向に進むものなら、
、そのうちのあるものを取り上げて、それが一方向に進んでいるとは言うだろうか?
言わないだろう?むしろそこには動きと言うものがないと言うのではないだろうか?
しかし、反対方向に進むものがある場合、初めて一方向に進むという現象が認められるのである。
102 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 22:02:46 0
>>98続き
次に反対方向に進むものの他に、停止してるものがある場合も有るだろう。
この場合は、始は両者とも同じ位置にいたのである。ところが一方が右方向に進んだのに、
他方は、左方向に進まなかったというのである。これでは、最初の一方向にものが進んでいる場合に当たるのである。
積み上げるという行為は、つみおろすと言う行為を前提としているのである。
右方向に進むとは左方向に進むということを前提にしてるのである。さもないと、
積み上げるという行為も、右に進むという行為もありえないのだ。
そうすると、時間は過去から現在未来と流れるというが、時間は未来から現在過去へと流れることを
前提にしないと、ありえないということになるのだ。
現実の生活で、その反対方向への時間の流れはどのように人は体験してるのだろうか?それともありえないのだろうか?
体験してる。それは過去へさかのぼる意識によって。むしろこの意識の方が、
現実の生活では大きいのではなかろうか?自動車を見ても、それがどこのメーカーにより作られたのか、と思うとき、
それは過去へさかのぼっているのである。お金を積むという行為は、貯金を崩して消費することを考えているのである。
結論として時間とは、過去と未来とによってある相対的なものなのであるから、
リトマス試験紙の、青い色の所と、白色の所があっても実体としてないように、過去と言う実体と未来と言う実体が
あるのではなく、両者はともにないのであるといわなければならないものなのだ。
ま、定義としては、過去と未来により発生する過去と未来の概念と言うことになるね。
103 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 22:09:23 O
リトマス試験紙も知らねーで書くなよw
全然事実にそぐわないので何が言いたいのかわからんわw
104 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 22:41:52 O
中国の故事成語の矛盾と論理学で言う矛盾は一緒だろ
105 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 23:01:28 0
論理学では二律背反と言うのだろう?
106 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 23:08:41 O
真逆だろ
107 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 23:20:13 0
論理学では真逆とは言わないだろう。w
108 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 23:25:21 O
違うw
矛盾と二律排反が真逆だってことだw
矛盾:A∧¬Aが偽
二律排反:A∧¬Aが真
109 :
考える名無しさん:2010/11/13(土) 23:58:19 0
なんのこと?
110 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 05:26:53 0
[時間」とは、空間における物質ーーー物質なしには、時間はないがーーの
変化・非変化と言う「矛盾」の同時同位置存在。この存在が可能なのが
現在と言う瞬間の「0秒」のみ。
この場合の矛盾は、どうなりますか?
111 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 05:52:34 0
[人が歩いている」そして「ひとが歩いていない」
げんじつには、この二つを同時に行う事は出来ない。
現在と言う瞬間ーー0秒ーーでは、この二つは合一している。
この世は「0秒」の連続。0秒はいくら連続しても0秒。
現象世界では、過去から未来につづく、膨大な長い持続。
本質は現在は、0秒。
現象世界では、変化のみ。非変化は認識されない。
この謎は、「矛盾」でしか説明できない。
現在は「0秒」
0秒には、「ひとが歩く」「ひとが静止」のふたつが同時存在。
112 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 06:00:32 0
数直線上の「0」と「1」は、無限と矛盾の概念無しには、
結びつかない?
113 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 10:03:33 0
>>110 >変化・非変化と言う「矛盾]
まず、この変化、とはどういうもんか?非変化とはどういうものか?
それを説明してクレイ。
次にそれらが矛盾してることを説明して欲しい。
114 :
考える名無しさん:2010/11/14(日) 10:08:12 0
>>110続き
そもそも、変化とは現象のことであろう。非変化とは、変化しないと言う意味だよね?
変化しないものは、何なのか?この現象界に有るものではないことと言うべきものだよね?
と言うと、現象と現象ではないものが矛盾していると言うなら、どう矛盾してるか
主張と説明が要るね?
115 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 08:16:27 0
ここで論じているのは、
空間は、有・無合一体で、それは現在という瞬間「0秒」で成立している。
持続する時間ーー現象世界の時間ーーの中では、「C点」は成立しない。
貴兄の言う「矛盾」だから。
よく検討して下さい。
時空の本質は「無限」で「矛盾」。しかし、現在「0秒」において、「変化・非変化」
は、接続し、現象世界では、変化として流動し、「有限」であり、「矛盾は無い」。
現在は「0秒」である。
116 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 08:41:31 0
>>115 人は、矛盾、妄想、迷い、から開放されるのを希求しているのだ。
それが苦悩からの開放であり、解脱と言うものであり、目覚めると言うことなのだ。
盲人が盲人を導くなら、二人とも穴に落ち込まないだろうか?、落ち込むのである。
このように言う人は、矛盾と言うものを知ってる人であり、解脱と言うものを知ってる人である。
こういう人の言うことをまずは、勉強すべきである。ゴーダマ、老荘、イエスキリスト、パルメにです、等である。
これらの人は、手法こそ表面上異なって見えるが、中味は皆同じことを説いている。
あなたが自説を持つなら、これらの人の説くところと比較してみるべきである。
>時空の本質は「無限」で「矛盾」。しかし、現在「0秒」において、「変化・非変化」
は、接続し、現象世界では、変化として流動し、「有限」であり、「矛盾は無い」。
時空の本質は矛盾してるが、現象世界は矛盾していない、と言う。
先に挙げた知者達は、こうは言っていないのだが。
時空の本質が矛盾してるとはどういう意味か?現象世界が矛盾していないとは
どういう意味なのか?
117 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 09:55:59 0
116さん
貴方は、「刹那滅」論者でしょうか?
118 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 18:32:56 0
>>117 なんか性格がゆがんでいない?
こっちは刹那滅など知らないんだよ。刹那滅をまず教えて。
119 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 22:04:16 0
石や馬が矛盾したことを言っているのではないのだ。
人間なのであり、特定の人間なのだ。その人以外は、
特定の人が言ったことに矛盾を見出して、その論はわからない、と言うのである。
自分が何か論を発する前に、誰も矛盾していると言わない事象を、これは矛盾している
と言うのは、おかしいだろう。
矛盾していないものを矛盾していると言う人は、その人が矛盾していると言うべきだろう?
中国の故事の発生でも、ある商人が矛盾している商品の説明をしたのであった。
それに対して見物人がそれは矛盾しているではないか、と言ったのである。
あなたが自然現象の中の何かが矛盾していると言うのなら、誰かの言論と仮定してでも、
それを提示して、それは矛盾している、と主張すべきであろうよ。
今は誰かが、自然現象のある部分を取り上げて、矛盾の判定の対象となる発言をしていないのである。
120 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 22:24:29 0
>>119続き
なんか俺も混乱したことを言ってしまった。言いなおす。
矛盾とはある人の言論に対して初めて、それは矛盾していると言われるものであること。
自然現象のある部分について、誰かが矛盾した言論をしているのなら、その言論を
提示すべきである。
もの言わない自然現象の部分を、矛盾していると言うなら、その自然現象を擬人化して
、主張したものとして、その主張を提示すべきである。
現実、世界、事象なんて観測者によっていかようにも歪む。
認識した事がその人にとっての真実足り得るのだから
122 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 22:55:37 0
>>99 >C点論では、[無自性」は認めない。総ての現象には、「自性」があり、
[実体」がある。この世は、幻のような、夢のような、蜃気楼のような
[仮」の存在では、無い。
前記のリトマス試験紙の例を持って論じたい。
リトマス試験紙の半分は青色であり、他方は白色である。
白色と青色は密着してるのである。その間に異物はないのである。
この試験紙を振り回すと、青色と白色とは同時に一体として行為する。
決して分離することはない。
もし、青色と白色が別なものなら、青色と白色は別に行為するだろう。
これだけでも、青色と白色は別なものではないと言える。したがって
青色に実体なく、白色に実体がないのである。二つの色は真実には一つなのである。
故に白色、青色はないといわなければならない。
そもそも、ものを分離するということは不可能である。
いかなるものも単独では存在しておらず、必ず囲繞するものがあり、それは密着しているのである。
今仮にぶんりできる若しくは分割できるものとするなら、その両者を分け隔てる別のものが
介在しなければならないことになる。しかし、介在するものと、両者はやはり
密着しているのである。密着しているかがいり、一体として行為するのは必然であろう。
一体として行為するものは、一体なのである。こうしてものは分離分割することはできないのである。
123 :
考える名無しさん:2010/11/15(月) 23:30:48 0
無限分割と言うことを着ているだろう。しかし、無限分割と言うことは不可能である。
どうしてであるか?
122でも言ったが、分割と言う現象には、二通りがあった。異物を介在させて分割する方法、
他方は、意識において分割するもので、実際に異物を介在させない方法である。
異物を介在させない方法と言うのは、分割していないのに、分割してると妄想してるだけな場合である。
分割と言うことは、一つのものを異物を持って分割する場合に限られるのである。
異物を介在させないなら、元のままの密着状態を、そのまま維持してるではないか。
どうして分離分割してると言えようか?分離分割していないのに、分離分割してると思うのを、
妄想してるというのである。
124 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 00:51:56 O
だからちゃんとリトマス試験紙をググってから書けって
しかもその論理無茶苦茶だよな?中学生の作文か?
125 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 07:51:42 0
蛇足ですが
私達の感覚器官では、現在という瞬間の「0秒」も、有・無合一体の
C点の「無」も、認識されません。現象は、あるがまま。
126 :
考える名無しさん:2010/11/16(火) 09:56:55 0
詐欺師
独裁者
なんで最期に「不死」がくるのかよくわからん>スレタイ
128 :
考える名無しさん:2010/11/17(水) 21:28:22 0
>>127 存在や時間の中に、人間が入ってないなんてことは無い。
存在や時間の真相がわかるなら、人間が一番それを避けられないもの
と考えるだろう。そして、それが人間の死と生を解明するだろう。
そして、古代の知者達は、不生不滅を説いているのであるが、それは
存在と時間の真相を解き明かした結果だと言うのである。
別に不自然なことではないだろう。
129 :
考える名無しさん:2010/11/17(水) 21:42:38 0
つづき
俺がこのスレを立てたものではないが、そうだと思う。
「死」ならわかるんだよね
>不生不滅の謎を解き明かした
いや全然解き明かしてないし、そもそも不生不滅て、それは人間の話ですか?
ならまず人間が不生不滅だと証明しないと謎も何もないでしょ
人間以外の動物なんて、それこそ不生不滅を地で行ってる気がする
132 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 05:17:08 0
生まれては死に,死んでは生まれる。輪廻転生のことだろう。
不死とは無理だろう。不死で生だけあるのは、おかしいだろう。
不生もなくては、バランスがとれない。
133 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 08:07:28 0
一切皆苦の娑婆。死も救いだろう。不死は辛い。
輪廻の苦しみから、我らは抜けられないのか。
いや生と死があるだけです
輪廻なんて、人間そんなご大層なものじゃありませんよ
135 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 10:28:11 0
死にたい
136 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:29:17 0
「無限」の分割について
科学では無限は扱わない。科学の扱う現象世界では、無限・矛盾はない。
それ故、現象を観察し、計測して真理に至る。素粒子が分割の究極で
無限の分割などない。
無限・矛盾は哲学では境界領域で、どこまでも論理的思考が研究の手段。
無限・矛盾は扱うに限度がある。
C点は宗教です。無限・矛盾を真正面から扱います。決め手は「瞑想」に
よります。現在という「0秒」で矛盾が存在可能です。
現在と言う「0秒」が、論の核心です。十分に瞑想して下さい。
以上、蛇足でしたでしょうか?
137 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:37:12 0
>>130 >人間が不生不滅だと証明しないと謎も何もないでしょ
「古代の知者達は、不生不滅を説いているのであるが、それは
存在と時間の真相を解き明かした結果」と言っているだろう?
>>131 >人間以外の動物なんて、それこそ不生不滅を地で行ってる気がする
不生不滅とは、未だ過って生じたことがない、と言う意味であり、不滅とは、
未だ過って、滅したものが無いという意味なのだ。
存在するもの一切が不生不滅と言うのである、知者達は。
人間ばかりじゃなく、動物も、無生物もだ。
あなたは人間は不生不滅ではない、と言いながら、動物は不生不滅である、と言っているが、
不生不滅の意味を、または、不生不滅を説いた知者達の説くところを知っているのか?
138 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:37:41 0
今一度、書きますが
私達の感覚器官では、現在という瞬間の「0秒」も、有・無合一体のC点
の「無」も、認識出来ません。現象世界は、私達が見るがままです。
139 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:38:19 0
>>137続き
理解しないで言ってるんだろう?
だから、古代の知者達は、人間の不生不滅を、存在と時間の実相が何であるか
を証明することによって、証明している、と言っているのだよ。
>>132 >生まれては死に,死んでは生まれる。輪廻転生のことだろう。
不生不滅と言うのが、輪廻転生の意味だと言うのか?
輪廻転生と言うのは、生死を繰り返すと言う意味なのだ。不生不滅とは
生死という輪廻を繰り返さないもの、と言う意味なのだ。真逆だ。
>>133 >一切皆苦の娑婆
一切皆苦であるとして、それからの救いを教えないなら、ゴーダマやイエスや老子荘子
は何の価値がある人であったろう?
これらの知者は一切皆苦からの解脱を説いているのだ。その根拠を説いているのである。
140 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 14:47:44 0
>>138 あなたは、人間はどうしたら幸せになれるというのですか?
141 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 15:02:49 0
仏陀は、「執着」が苦悩の原因と説いている。しかし、この世は、色即是空
「実体」のない、空の世界。実体の無いものに、執着するな。執着を捨てよ
と説いている。この世を捨てることは、大自然と一体化し、「不生不滅」の
悟りに至る。命にも執着しない。
空に生きる高僧も、多い。これには、修行が不可欠。
142 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 15:10:40 0
自ら修行の出来ない「在家」は、神仏に帰依する。
高僧に帰依するものもいるし、宗教団体に加入するものもいる。
しかし、宗教を求めず、「良識」に生きて、幸福を求める者も多い。
143 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 15:12:04 0
>>136 >科学の扱う現象世界では、無限・矛盾はない。
科学こそ、無限分割のもとを設定し、矛盾にいたる問題に直面しているのでありますよ。
>無限・矛盾は哲学では境界領域で、どこまでも論理的思考が研究の手段。
宗教哲学では、無限矛盾は解消しています。
要するところは、哲学宗教は、真理真実を説き、それは
科学的思考の矛盾を解決するものなのです。
科学と言うものは、人間の約束に基づいた理論に基づくものなのです。
人間の約束と言うところに、そもそも真理ではないものが有るのです。
約束に基づく論理は、必然として、矛盾に至るのです。
そこで宗教哲学は、その矛盾、即ち、真理に基づかなくて且つ約束に基づく論理
の誤謬を解明するのです。
C点論は、説明不足を予想させないほどに、ペテン師的であり、独裁的で
食えない料理のようです。
144 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 15:32:04 0
ま、知者達の言うところは、真実は一なるものであり、
それを二分割などできないし、いわんや、無限分割などできないのだと。
分割できると考えるものは、妄想しているに過ぎないんであり、この妄想
こそ、人間の苦悩の元凶であるというものなのです。妄想は
なんでも造られた世界です。優劣を造り、善悪を造り、大小を造り、
要するにこの世の一切を造っているのです。
そして自分が作ったものに執着しているのです。もともとないものに執着してるのですから、
どのような結果も得ることができないのです。
真実は、何もない世界です。これこそ実在する唯一なのです。これに帰依し、
無限のもののいかなるものにも、執着しないことです。これにより
無相、一相、空相、と言う真実の世界に、至る事ができるのです。
145 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 17:35:12 0
参考までに
C点へのアプローチですが、「B面」を念のため検討してください。
グーグル検索:C点による時空論
146 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 17:41:35 0
>>145 C点論さん、B面を読めということですが、そういうのって、苦痛なんですよ。
それよりもあなたはここで幾らでも論じることができるのですよ。
ここで言いたいことを言った方が、相手にされるのです。
147 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 17:46:24 0
論ずる程ではありませんが、ここでも[矛盾」があります。
ご迷惑をお掛けしました。
148 :
考える名無しさん:2010/11/18(木) 18:19:28 0
>>137 存在と時間を解き明かしたからといって、
なぜ人間の不生不滅が証明されるのですか?
逆に、人間の生と死を証明することは試みなかったのですか
150 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 14:23:07 0
>>149 >存在と時間を解き明かしたからといって、
なぜ人間の不生不滅が証明されるのですか?
人間とは五感と意識の存在といえる。これは肉体に存在する。
この五感と意識が、外界との関係を認識する。肉体がなければ外界との関係は
認識されない。人の人たる所以はこの認識以外ないのである。認識と言うが意識のことである。
そこでこの認識は何なのか、認識の対象は、何なのか?と言うことなのだ。
存在も時間も、この認識の中のものである。
存在と時間は認識の中で最も大きな概念であろう。
この概念が夢幻のような実体のないものであるとするなら、存在と時間と言うものがないのであり、
存在と時間がないなら、人の生じること滅することもまた無いことになる。
で、その論証が成立するかどうか、が宗教哲学で論じられるのである。
そしてその論証が成立していると言うのである。過去の知者達により。
>逆に、人間の生と死を証明することは試みなかったのですか
存在と時間がないことが証明されなく、そして存在と時間が実体として存在してることが
証明されるなら、、人の生死が存在することもまた証明されているのである。
しかし、人間の生死は証明できないのである。
>>150 それは逆も当てはまるね
人間(または知的生物)が認識するから存在や時間を確認できるとも
人間は生まれてくるまで、そして死んだ後は、存在も時間も認識はできないよ
自分が存在しない過去や未来の存在は、あくまで推測できるだけ
もちろん人間は一個体しか無いわけではないから、人間という生物が存在する限りは誰かしらが認識するだろうけど、
それで一つの個体の不生不滅が証明できたことにはならないね
152 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 22:34:08 0
>>151 人間に限らず一切のものは、認識と言うことをしてるといわなければならないと思うのだ。
岩石でも、してるんだよ。岩石は、空気に触れて、劣化して崩壊に至るのだが、
この空気に触れて劣化するという変化、これは認識してることではないだろうか?
つまり認識とは何か、と言うと、変化を受け入れるということに他ならないと思うのだ。
人間では、寒風が吹けば、寒くて防寒する行為が必然と起きるのである。寒風が人間を
変化させているのである。そしてこの変化は必然なのであって、意識を使役しているのではない。
そしてこの変化を知っているだけで、それ以上のものではないのだ。
それなら、岩石が風化して崩壊に至るという変化と、どこが違うのか。変化には、岩石であろうと
人間であろうと、従わざるを得ないんだ。岩石がこの変化を認識していないとは言えまいよ。
人原の活動にしても、これは必然性に基づいているといわざるを得ないだろう。必然性にしたがっているなら、
そこには岩石と異なる主体があるわけではないのである。
仏教では、であるから、命なるものは無い、人間なるものはない、と断言するのである。
さて、この必然性と言うものが、縁起の理法なのであるが。「あるものがあるなら、彼がある」、と言う
縁起の理法では、これがあれば、必然として、彼がある、といっているのである。必然と言う句を
省略しているのである。いや、必然とは縁起のことであるといえるのである。また、これを自然といっても良いと思うのだ。
一切は必然であり、縁起であり、自然、ナのである。
そして、これは変化の事を指していることを知らなければならない。
153 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 23:28:26 0
154 :
考える名無しさん:2010/11/19(金) 23:35:40 0
生死も変化である。生にも死にも主体となるものはないのである。
人間に生死があろうとそんな変化は意味がないのである。変化の無意味を知って
変化に囚われない境地、無の境地こそ、真実の境地なのである。
宗教臭くなってきたなあ
認識は変化を受け入れることではないよ
それから岩石が風化したとしても、それは認識による自発的行為ではないね
自発的→能動的
の方がいいかな
157 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:13:50 0
この世はは、空の世界、仮の世界、移り変わり、とどまることはない。
諸行無常、執着すべきものはない。
拘りのあるときは、般若心経がよい。拘りも、矛盾も、すべて飲み込んでくれる。
色即是空 空即是色
158 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:23:31 0
B面について
空間に物質Aを考えると、空間は2つに分割される。
Aなる空間とAにあらざる非Aなる空間である。
AはAである。
非Aは非Aである。
Aは非Aではない。
非AはAではない。
159 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:28:04 0
Aと非Aは分離されていなくてはならない。
分離するものが無いと、Aと非Aは混合してしまう。
よって、分離するものは、存在する。
160 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:34:09 0
分離するものは、
Aであり、同時に非Aである。
また、
Aに非ず、同時に非Aにあらざるものである。
これは物質Aを取り巻く、「厚さの無い」面しか無い。
これを、「B面」とする。
161 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:41:43 0
[B面」は、有と無との同時同位置存在である。
瞑想して下さい。
「B面」は、表であり、同時に裏である。
私達の感覚器官では、「B面」の無は認識出来ない。
「B面」により、私達の現象世界は、なんら変らない。
162 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:47:05 0
瞑想して下さい。
物質Aを「無限」に分割してください。
分割の究極には、「C点」があります。
「B面」と「C点」は、合一します。
瞑想して下さい。
163 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:51:19 0
「B面」も「C点」も、宗教的存在。
科学、哲学には、馴染まないかも、知れません。
164 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 05:57:00 0
最期に
C点論で、仏教の生命「慈悲」を論ずるのは、荷が重い。C点論には、
そこまでの力は、ありません。
徳の高い名僧に、これらはお願いするしか、ありません。
165 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 12:24:42 0
>>155 >自発的行為
? そんなものはないと思うよ。
自分と言う主体(我)があると思っていると、それを満足させるような行為を
しないと満足しないのであろう。ところがその主体なるものは、自分を囲にょうするものと相対的に存在するもの
故、決して主体性を持ち得ないのである。
何故に我と言う主体性があると誤って考えるのであろうか?
人間の我ばかりじゃなく一切には我と言うものがないのであるから、
そうすると、我があると思っている人は、その我と、我でないものとの相対性
を認識しなければならなくなる。
と言うことは、真実在ではない変化があるから、無相と言う真実
在に至ることができたのであるが、もし仮に真実在ではない変化がなければ
、決して無相と言う真実在と言うものは認められなかったのである。
悲喜と言う変化がなかったならば、常住のニルバーナと言うものは説かれなかったのである。
166 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 12:38:27 0
能動する我は、妄想である。妄想と現実は相対する。現実と真実在は相対する。
このことを唯識派が、以下wiki より、言うところであると思う。
三性 [編集]
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫の日常の認識。
依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
円成実性(えんじょうじっしょう) 絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。
舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。
「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」
仏言わく。
「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。是の事を知らざるを名づけて無明と為す」
– 摩訶般若波羅蜜経相行品第十
167 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 13:15:05 0
>>164 >C点論で、仏教の生命「慈悲」を論ずるのは、荷が重い。C点論には、
そこまでの力は、ありません
愛とか慈悲とか言うが、これは誤解を招きやすい。
白馬の王子様が迎えに来てくれるとか、仏が迎えに来てくれる、または、
仏が苦しんでいるとき、助けに来てくれる、と言う考えは間違いである。
仏はたんに、道を示すだけである。さもなくて、仏にお膳立てをしてもらって
ニルバーナに至ったとして、それでその人の自尊心は満たされないだろう。
慈悲とか愛とか言うのなら、この教えの言葉、これでなければならない。
心身障害者と健常者の場合を考えてみよう。
この世間の成功を求めるのなら、心身障害者は絶対に不利である。
ところが、仏の世界ニルバーナへの道は、この世間の成功への道と
真逆方向なのである。
この世間の成功への道は、有無の世界である。ニルバーナへの道は無の世界へのみちなんだ。
健常者と心身障害者の違いが、何の価値が有るもんであろう?
仏は、心身障害者に、健常者と同じメリットを与えるのを、仏の慈悲愛と言うのではないのか?
それは有りえない。
168 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 14:44:30 0
>>163 C点やB面は妄想である。
瞑想せよとは妄想せよ、と言うことである。
妄想とは現実と相対するもので、妄想のほうに執着することを
、瞑想せよと、言っているのである。これであるなら、妄想と
現実は常に、相争うであろう。
C点は無限分割した極微だというのであるが、極微が無であるとはこれも妄想である。
B面が体積を持たないが、あるものと瞑想せよ、と言うのも、妄想である。
妄想とはありえないものをあるものと思うことを言うのだ。瞑想とは真実を思うことである。
これでは真逆であり、言葉により、人を騙しているのである。
妄想とは誤った認識である。
精神と肉体とか、精神と物質とか言われる。これらは二つの実体なのか?
こういうことが考えられる。ある人は、物質を観察して、相対的に存在してることを
認め、実体がないと判断し、自分と物質を観察し、自分の感覚器官が感覚したものと
当の物質を観察し、相対的に存在してる今年、実体がないと判断しする。かくして
この人は、一切は相対的に存在し、一切は実体がない、と結論する。
一方ある人は、五感と第六の識が自分で有ることを前提に、五感と第六の識は
これを認識であるとして、一切は認識であるとし、認識の対象はすべて縁起の理法に
支配されている。であるから、一切には実体がないと判断する。
どちらも縁起と言う理法が支配しているのであり、これなくしては両者の論はないのである。
それゆえ、結果も同じ無相と言うのである。
妄想も縁起の理法に従っている。故に、妄想も実体がない。
169 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 15:20:34 0
認識対象には、実体が無い。無自性である。
ゆえに、認識対象は存在しない。無である。
したがって、認識主体も存在しない。無である。
よって、認識行為も存在しない。無である。
最期は、総てが存在しない。無である。
空の世界のみが、真実在。他は、すべて妄想。
>>165 満足・不満足は、相対的に得る人たちと絶対的に得る人たちがいると思うな
もし世界に自分一人しか人間が存在しなかったら、その人はどうする/どうなると思う?
171 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 21:58:43 0
オカルトは嫌いである。霊魂とか。くだらないのである。
霊魂とはなんなのか。それが実在するならなぜ実世界と干渉しないのか。
「嘘」だからだ。霊魂など無い。死の後には何も無い。だが、その意見には
厳密には反対だ。死の世界はある。ただ、それは「死の世界」だから
知覚出来ない。それだけだ。悪魔もいる。悪魔はいわゆる悪魔ではない。
「そういう」悪魔には何の力も無い。当たり前である。悪魔は現世に干渉
するから恐ろしいのだ。
172 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 22:31:54 0
>>170 >満足・不満足は、相対的に得る人たちと絶対的に得る人たちがいると思うな
満足とは?不満足とは?相対的にうる人とは?絶対的に得る人とは?
詳しく説明してくれ。
>もし世界に自分一人しか人間が存在しなかったら、その人はどうする/どうなると思う?
人間とは?と聞きたい所だが、
要するにその人は自分が人間であるとは思わないだろう。外界との関係がないのだから。
いや人間は自分ひとりだとしても、その他の動物自然は依然としてあるのかい?
その場合は人間であることは意識するだろう。しかし、その人が縁起の理法を
知っているなら、自分もその他の世界も、意識しないでいるほうを選択するだろう。
一切の縁起している現象を意識しないようになることを、解脱するというのだと思う。
173 :
考える名無しさん:2010/11/20(土) 23:03:24 0
>>171 >死の世界はある。ただ、それは「死の世界」だから
知覚出来ない。
生と死も縁起である。生死は相対的に存在している。今生きていると思っている人は
死をも同時に思っている人なのだ。時間に注目して、生は過去であり未来の死までの時間であるとし、
死は、未来の一時点から以降の未来であるとしている場合、時間の概念の説明でしたように、
時間とは過去と未来が相対的に存在していることの名称であるといったが、生の時間死の時間といっても、
結局生死を共に生きていることに他ならない。そこで彼が生死は共に無いものと悟るなら、生死から開放されるだろう。
一方生を生きているとし、死を後のことだと思っている人、、こういう人のことを
生に執着している人と言うべきで、常に死の恐怖を味わうことになろう
。こういうい人が死の為の準備をするのである。こういう人は生死に共に執着している人と言うべきであろう。
そして生死のある世界から脱することがないであろう。
このように死の世界があると思う人と、死の世界も性の世界もあると思わない人がいるのである。
>>172 満足とは精神的充足
不満足とは…そうだなあ、満たされない思い、何かが欠如していることによる不快
周囲の人と比較し、自分が上位にあることを確認して満足する人たちが相対的に満足を得る人たち
この人たちの場合、
何を得れば満足するかその対象は付随的なもので、
「自分が周囲より上位にあること」が満足の本質
でも、そうじゃない人たちもいるってこと
死の世界なんてあるなら死に意味が無くなるじゃないの
176 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 08:04:06 0
この世に、現象「甲」がある。
甲は存在しない。
非甲も存在しない。
甲であり非甲であるものも、存在しない。
甲でなく非甲でないものも、存在しない。
総てが、存在しない。甲は「縁起」により生起されているから。
177 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 10:31:24 0
>>175 >死の世界なんてあるなら死に意味が無くなるじゃないの
?
178 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 17:07:15 0
>>175 実際簡単に生死の相対性を言ったと思う。
まず生もなく死もないというなら、それは、一相と言う真実に合致していることになる。
しかし、こういう論法は帰納的ではない。生もなく死もないならば、と仮定しているだけだからだ。
そこで厳密に考察してみる必要があろう。
死というものの実体があるかどうか、生の実体があるかどうか、である。
死人と生きてる人と言うとき、死人とは肉体が機能しなくて速かれ腐敗し土に帰る予定のもの、
生きてる人とは、肉体が機能し未だ腐敗し土に帰ることの予想ができない人、というのが
誰でも認める概念であろう。
何だ、これでは死と生とは、生物と無生物の概念ではないか。
そして、無生物には天空と大地があるのだ。生物とは、天空と大地により
その肉体を維持しているものである。
そうすると、生きてる人間は、死んでる人間即ち天空と大地と相対してるといわなければならない。
天空と大地があるから、生物として存在できるのだから。つまり死があるから生があるといわなければならないだろう。
179 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 17:08:08 0
>>178続き
しかし、生物がいるから、天空と大地があるのだ、といえるだろうか?
天空と大地には、生物の存在が必須、必然、縁起してるだろうか、と言うことである。
言わなければならない。天空台地は、静なるものであり、生物とは動なるものである。
静なるものは、動なるものに依存している。これらは相互に依存している。
静がなければ動はなく、動がなければ静がないのであるから。
(言葉と言うものが共通概念であるので、依存関係を考究するときは、言葉に依存しているのである。
そして、言葉と言うものは、必ず依存関係を決するものであるのだ。例えば、天と言うときは
、その下の大地を前提にしているのである。)
生とは死に依存し、死は生に依存している、のである。死とは、大地天空と言う静なるものに変化し、
生と依存関係に、移行することなのである。
180 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 17:15:20 0
この前ズリダチとタイマン勝負したことを書くぜ。
互いに六尺姿でまずは威嚇、腕組みヤニ咥えガン飛ばし、
大股で筋肉と勃起誇張して、野郎比べだ。
雄臭ぇポーズで挑発しあう。腰突き出し勃起を振り回し、
オラオラ節で興奮に火が付く。
やわらオイルをタップリ仕込んで、いよいよズリ戦開始だ。
胴ズリ、逆ズリ、雁ズリ、玉ズリ、上ズリ、下ズリ。
野郎うなぎ責め、腰砕けの手マンコ、野郎泣かせの亀頭責め。
片手技と両手技の競り合いで、雄の粋と艶を比べ合う。
ズリ見せ根性丸出しでな。
一息入れる時にゃ、奴の胸板めがけて、勃起ションベン。
ビシバシ痛ぇくらいに、照射すりゃ、雄の征服感が全身を
快感となって駆け回る。
さらにオイルを仕込んで2R。
今度は俺のズリビデオ見せながらのダブルズリ攻撃さ。
ラッシュ飛ばして、ド淫乱野郎に変獣し、チンポ・センズリ・押忍の連呼。
俺達はまさに、チンポ、ズリ、男意気を激しく比べ合う戦闘士だ。
寸止めのエロい表情も相手を落とす神技、何度も食らう度に金玉の
引きつる痛みさえ新たな快感に変わる。
その時、ほんの少しの気の緩みで奴は快感のコントロールを失い
射精の痙攣に突入。
2回に渡るファイトはいずれも俺の勝利、最後は奴のチンポめがけて、
野郎征服の快感に酔いながら勝利の照射!
3時間勝負は俺達ズリ舎弟の絆を更に固めたぜ!
死の世界があるとするなら、そこにいる人たちは生の世界で死んだ人たちってことになるでしょ
そう考えるとウンザリするね
冗談じゃないわ
183 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 20:39:16 0
>>178続き
したがって、死とは何もないものなどと言うあやふやな概念ではない。
死とは、静なるものになることであり、天空大地になることで、天空大地が
ある限り、人は死んで静なる天空大地になる、と考えているものといわなければらない。
次に妄想と簡単に言ったが、これももっと考究してみなければならない。
縁起現象のうちのあるものを取り出して、それをあるものと思うことを執着と言う。
縁起してるものは、他のものと相対的に存在するのだから、それを取り出すということは、
囲繞する一切のものを取り出し、一切のものとは、この世界全体を取り出すことになる。
しかし、相はならない。現実とは縁起現象そのものである。それに反対して
自分だけの世界を作り出すのである。これが妄想の世界である。
妄想の世界は、あるものの有を根拠にする。この有を根拠にするから、それから縁起するものはすべて
有と見做す。不利なもの、悪いもの、をあると見做すのである。善と悪が実体として
存在すると見做すのである。であるから、常に戦いがある。決して悪を降伏させることができない。
C点論者の説を妄想であるといった。B面とC点は体積がないという。それを妄想せよと
しか解釈できないのである。
そもそもAと非Aとの間にはB面を妄想できないのは、Aと非Aとは
一つに密着していて、密着するとは一つのものを意味しているのだ。
一つのものを分割することを要求してるわけだが、それの目的もない。
煮ても焼いても食えない論ではないかいな〜。
縁起してるものは、変化していないという理法があるのだ。
184 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 20:49:16 0
>>178続き
C点論者の、Aと非Aとは、B面C点がどうなろうとも、厳然と始から存在しているのである。
それも一体のものとして。一体のものゆえに、エーと非Aと言う区別もできないのである。
185 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 21:39:37 0
善と悪が相対的であるから、いったいであり、一体であるがゆえに、善も悪もない、
とはどういうことか?
相対的な存在が一体であるとはどういうことなのか?と言うことなのだ。
そこで、この説明を試みるのに、Aと非Aを用いるのは便利である。
前記では、Aと非Aとは密着しているから、一体であり、Aでもなく
非Aでもないといった。
Aの体積は密着から成り立っているのだ。非Aとの関係も密着なのである。何で前の密着と後の密着が
異なると言わなければならないだろうか?
もし密着していないなら、Aと非Aとは別々に行為するはずである。しかし、Aを
回転させても、非Aとは密着して、一体として行為してるのである。つまり、離す事ができないのである。
善なる行為と悪なる行為はどうして密着してると言えるのだろうか?
善とは楽をもたらす行為である。悪とは苦しみをもたらす行為である。
楽をもたらすためには、その時に苦しみがなければならないだろう。
苦しみから楽に移行させるのである。そして、苦楽は一人の人にあるのである。
一人の人の心の起きる変化なのである。ひとつの空間の内部で起きる変化なのである。
Aと非Aが密着していたのと同様に密着しているといわなければならないだろう。
186 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 21:40:52 0
>>186はいはい
生を「産まれてくること」と定義するか「生きていること」と定義するかの違いなの
わたしは後者、生死相対論の人は前者
で、死は単に「生きていること」と「生きていることによって得たもの&得る可能性」の喪失という現象でしかないの
「生」「死」二つの持つ意味と、そこに含まれる可能性は、およそ比較にもならないね
190 :
考える名無しさん:2010/11/21(日) 23:37:33 0
>>187 >生を「産まれてくること」と定義するか「生きていること」と定義するかの違いなの
生まれてくるとは、静と言う死から動と言う生に変化することと考えるのである。
これは時間的な流れと見るが、人間の心にはもともと、動と静という概念が備わっており
右から左に移行するようなものなのである。
>>188 >「生」「死」二つの持つ意味と、そこに含まれる可能性は、およそ比較にもならないね
生に於いて得られるものは、死と言う静と縁起しているもなのである。
静なんて存在しない
あり続けるか、無くなるかだもの
無だからこそ、有るものに影響することはないんだよ
192 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 04:10:54 0
C点論です。
ここでは、中観派や中論の人達が、中心のようです。論が熱し一法的になりがちの
ようです。
総ては、現象は「無自性」で自性は確立出来ない。これらは「縁起」により「因縁」
の複雑な関係よりなり、『空相」で実体が無い。よってこの世は、『無」の世界、[空」
の世界である。議論はパターン化して、反するものは「妄想」というようです。
科学でなくとも、哲学でも、宗教でも、[真理」を求める[疑問をもつ、謙虚」な心は
必要ではないでしょうか? 「無記」にも目を向けるゆとりが欲しいもの。
C点論は、思考の究極に挑戦した、試論。ゆとりを持って見て下さい。
193 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 04:27:37 0
[無自性」は存在しません
この現象世界が、存在しないと信じている方は、読まないで下さい。
この現象世界は、時間的にも空間的にも「一つ」しか有りません。
宇宙の歴史も、人類の歴史も、ただ[一つ」しかありません。
総ての物質は、空間もそうですが、時間的にも空間的にも、宇宙で只一つの
「唯一絶対」の存在です。一つ一つ[定義」はされませんが、だからと言って
「無自性」では、ありません。それぞれ「責任」ある、確固たる[実体
のある
「自性」ある存在です。
野の花の1本もそうであります。
野の
194 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 04:36:28 0
C点論では、現象は有・無合一体ですが「実体」があります。
無の世界、空の世界、と言わなくとも、この世はC点として、[無」を
含んだ世界です。
ただ前にも書きましたが、私達の感覚器官では、「無」は「認識されない」ので
この現実世界のあるが、ままであります。
195 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 04:50:17 0
この世は、夢のような、幻のような、蜃気楼のような、「仮」の世界では
ありません。私達は、実体有る世界で、「責任」ある生活をしています。
実体が無いからと、許される場はありません。
この世は「諸行無常」です。それは、この世が空だからでは無く、実体ある
[現実」が移り変わるからで、あります。
「一切皆苦」と言うほどではなく、科学の進歩により、生活もすこしづつ楽に
なりました。[良識」を持ち、「幸福」を求める者も、増えました。
私達は、[実体」ある世界にいます。
196 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 05:00:09 O
色は空に異ならないから空はちゃんとした色、現実のことやきに
197 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 16:23:29 0
>>196 この色をどういうものと解釈してるの?
色形をどのように解釈すべき?
現象としての、形や色の違いをどのように解釈してるのだろう、この経典は?
アテクシは、色形とは、縁起している存在、と解するのだけど、どうかな?
つまり、空とは縁起であり、縁起とは空である、と言っているんではないか、と思うが。
さもなくて、青色が空であると言うのなら、頓珍漢で判らないね?また、三角形が
空であるというのも、頓珍漢だよね?そして空というのが真理であるとして、青色が真理真実
である、実在しているって、それって何なんだ?と言うことになると思うのだが。
また、三角形が真理真実であると言うことになるが、そして、真理真実とは
絶対的存在であり、二つとしてないものと言うのが定説だと思うけど、何故三角形が
真理真実であっって、四角形や円は真理真実ではないのだろう?皆真理真実であると言うなら、
真理真実は無数にあるといわなければならないが、それであは真理真実は絶対的な存在である、
とは言えなくなるのではないだろうか?
198 :
考える名無しさん:2010/11/22(月) 16:36:21 0
般若心経に「縁起」と言う理法がないなら、般若信教は欠陥がある経典である、とうべきではないだろうか?
縁起を言う語句はないですか?
199 :
考える名無しさん:2010/11/23(火) 09:06:13 0
ピント外れですが
ビッグバンが、[1点」より生じたとすると、そのエネルギーは、「無限大」
とか、C点は超超超高密度の無限大も可能かも?
無限大というのがどうしても考えられません。
死は無限大の門に入っていくことなのか。
201 :
考える名無しさん:2010/11/23(火) 11:04:08 0
>>199 C点の瞑想などと言うが、そのためには、Aと非Aとの存在はどうなるのか?
Aと非Aの存在がありながら、若しくは、Aと非Aの存在を認めながら
C点の瞑想などできるわけないだろう?
202 :
考える名無しさん:2010/11/23(火) 16:29:34 0
分割とは、大小の関係である。大小の縁起関係を考究してみる必要があろう。
203 :
考える名無しさん:2010/11/23(火) 23:06:52 0
>>202 大小は結局有無の相対性である。
大の内の大の差の部分だけ、小よりも、有ると言うことなのだから。
そして小の内の差の部分だけ、大よりも無いと言うことなのだ。表現が上手ではないが、
考えれば判るだろう。
大と小の差額だけ、有るものと、無いものがあるのである。
この有は、無有っての有である。反対に、この無は、有あっての無である。
つまり相対的存在である。
相対的存在は必ず、隣接及び密接していなければならない。であればその間に
何か異なるものにより分割されていない。つまりこの有無は一体である。一体である以上
一つである。一つであることが判れば、相対する変化は幻である。
有であるものと無であるものとが、なにか第三者を介在して存在してる場合を考えるであろう。
であるから、相対的存在であると言いながら、二つのものが、離れて存在してる場合もあるのではないか、と考えるのである。
必ずしも隣接密着している必要が無いのでは、と言うことである。
第三者を介在している場合は、間接的に密着していることになるが、それでは
相対とはいえない。相対とは、時間的に空間的に同時に生じるものなんである。
そして、この相対的存在と言うものは、我々の共通概念と言う認識世界に起きることである。
換言すると、言葉と言う概念に基づく世界におきることなのである。
言葉と言う概念の存在のあり方、と言っても良いかも。
204 :
考える名無しさん:2010/11/24(水) 14:50:52 0
新HPのご案内
C点論における矛盾と無限
まだネットには流れていません。グーグル検索「C点による時空論」で、
関連サイトをクリックして下さい。読むことが出来ます。
205 :
考える名無しさん:2010/11/24(水) 16:56:09 0
>色即是空 空即是色
の意味。
解釈A
色というのは物質をあらわしている。
全ての物には色があるから。
そして、色というのは波動の周波数の違いによって生じる。
物理学では、物質のもとを分子、原子、素粒子と突き詰めていくと、結局は「波動、空間の振動」
になってしまう。
だから、「物質(色)は波動、空間(の振動)から生じている」という意味だと解釈できる。
解釈B
「色」を「色づけ、カラーリング、物事を歪めて考えること」と考えると。
「物事を色づけして、歪めて考えることは空しい」
「真実をまっすぐに見つめて考えなさい」
と解釈できる。
206 :
考える名無しさん:2010/11/24(水) 23:32:32 0
>>205 それではあまりにも仏教を理解しないものの言うことだと思う。
仏教の縁起と空の理法は、正法とも言い、これが根幹なのだ。
C点論は日蓮の理解に等しいんでは?共に正法を認めないものだと思うが。
>>204 残念ながら、色即是空をそんな風に解釈しているものが、仏教に近似してることさえ
言わないと思われる。
読む気がしないのだ。
言いたいのなら、ここで言ったらよい。
207 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 19:51:24 0
>>204 なC点論における矛盾と無限 を読んでみましたが、変わり映えしないと思いました。
なんか縁起と空の理法を反転させたような論、のような。
208 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:00:52 0
以下は荘子の斉物論、これはゴーダマの論と同じなのです。
〔万物斉同〕すべてのものは、彼れと呼びえないものはなく、是れと呼びえないものはない。
それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶか。
離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。
だから、身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。
だから、次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、
是れという概念は、彼れという対立者をもとにして生じたものである。つまり、彼れと是れというのは、
相並んで生ずるということであり、互いに依存しあっているのである。しかしながら、
このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生と並んで死があり、
死と並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是に並んで非があり、
非に並んで是がある。すべてが相対的なものにすぎず、絶対的なものではない。
だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、
これを差別という人為を超えた自然の立場からものを眺めるのである。
このような聖人は、是非の対立を超えた、真の是に身を置くものといえよう。
209 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:02:36 0
>>208続き
もしこのような自然の立場、相対差別という人為を超えた立場から見れば、是れと彼れとの区別はなく、
彼れと是れは同じものになる。たとえ是非を立てる者があったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、
是れの是れの立場をもととした是非を立てているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、
それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。このように、彼れと是れとが、
その対立を消失する境地を、道枢という。枢――扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、
はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、
非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。
だから、「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」というのである。
210 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:16:36 0
現代語訳
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。
これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。
天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。
だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。
欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。
この両者の根源は同じ一つの物であるのに、それぞれ別の名を持っている。
その根源を「玄 - 深遠なる神秘」と私は名づけたが、
その玄のさらに玄からこの世の全ては生み出されている。
・・・・・・
アテクシの論評
>これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。
これは「道」を「有」に置き換えてそのまま通用する。
これが「有」だと言い表せるような「有」は、偉大な不朽の「有」ではない。
この「有」とは「無」と相対的に存在する「有」だからである。
まことの「有」とは絶対的に存在するものだからである。
211 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:20:54 0
以下は老子「道徳経」第二章
現代語訳
世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、
これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、
これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。
だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。
この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、
何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、
それらが離れる事は無いのだ。
212 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:22:32 0
213 :
考える名無しさん:2010/11/25(木) 20:27:48 0
>>210は老子「道徳経」第一章。
失礼しました。
214 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 16:11:48 0
C点論者さんの言う「矛盾」について、C点論者さん自身が自家撞着してるのでは無いだろうか?
矛盾とは、ある人が一貫性の無いこと、先に言うところと後に言うところが相反しているとか、
言ってるところと、実際に実行してるところが、相反してる場合、その人の言動は、
「矛盾」してると言うのであり、実際の現象を見て、それは矛盾してるとは、
言わないのである。また、現実に起きている現象が矛盾してるとは、決して
許されないことなのである。
今まで盛んに、現象は相対的に存在してると言い、それに基づいて、現象とは何か、
その実相はあるのか、などについて考究してきたのであり、それを哲学宗教
科学と言う面から、色分けしてきているのである。このスレにおいても、学会においても
相であったろう。
そこで思うのであるが、C点論者さんが、矛盾と言うのは、現象が相対的に存在してる
と言われる説の、その相対性を、矛盾といっているのではないのか、と疑うのである。
相対してるとは、Aと非Aの関係である。Aがあるから、非Aがある、Aがなければ非Aが無い、と言う
相互依存性のことである。
215 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 16:13:12 0
>>214続き
C点論者さんに、誰かが、Aと非Aの関係にある現象を、Aも非Aも実体としてあると言うとき、
C点論者さんが、それは矛盾してる、と言うのなら、C点論者さんは、正しい反応をしてる、
つまりその反応自体を、おかしいとは言わない。むしろおかしいと言う人のほうが、おかしいのである。
しかし、誰も、Aと非Aについて何も言わないのに、Aと非Aは矛盾してると言うなら、
それはあなた自身が、Aと非Aを見て、これらは二つあるが、二つあると言うのはおかしい、
二つあると言うのは矛盾してる、と、もう一人の自分を想定し、その自分と対話してるのである。
また、世間で、二つのものがあると言う見解を、暗黙に想定し、それに基づいて
勝手にまたは安易に、自分の論を展開してるのである。
いずれにしても、あなたは、他者に対して、Aと非Aは矛盾した存在である
教えることは、思想良心の自由を侵害する許されざる行為である。
216 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 16:22:36 0
>>214続き
>いずれにしても、あなたは、他者に対して、Aと非Aは矛盾した存在である
教えることは、思想良心の自由を侵害する許されざる行為である。
思想良心の自由を侵害するといったが、それは不法行為であるというよりも、
誤謬の教えであるというに留まるだろう。無理強いするなら不法行為になる。
217 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 20:43:57 O
>実際の現象を見て、それは矛盾しているとは、言わないのである
言うよw
現象が真実で、理論的な説明に限界がある場合
無理矢理でも理屈をつけないと解釈しようがない現象なんて山ほどある
218 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 22:34:47 0
>>217 であるとすると、一切は空である。故に、安楽である。衆生は地獄に落ちていると思って騒いでいても、
自分は安楽国にいる、と言う聖者の言葉は無いはずである。
更に、聖者は、一切に悪を見ない、といってる。聖者とはゴーダマである。
要するに悪も善も縁起しているものなのだ、と言うのである。悪と善の混じった
この世間から離脱している聖者なのである。
>無理矢理でも理屈をつけないと解釈しようがない現象なんて山ほどある
しかし、一例でも挙げてみてくれ。誰かの見識によるものの場合は、
その人の見識が矛盾しているのであり、その矛盾に自分もかぶれている場合は、
同じように、自分も矛盾しているのであろう。
219 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 23:43:36 O
・連続的確率分布におけるある一点の生起確率
・シュレーディンガーの猫
・トンネル効果におけるポテンシャル問題
など
確率が絡む問題は大抵理論的なこじつけが必要になる
220 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 05:00:10 0
C点論から
学問的に、論理学をC点論は、論じている訳では、ありません。
[C点」というものーー無限に小さい[有」と無限に大きい「無」の同時同位置
存在、有・無合一体ーーが、現在という瞬間「0秒」においてのみ、存在可能
である。
このことの説明が、C点論です。[無限」[矛盾」の言葉は、使用が不適切であったかも
知れませんが、ご容赦願います。
真理の為、皆様がんばりましょう。[C点による時空論」検索の上、関連サイトより
「C点論における矛盾と無限」をクリックして参考にして下さい。
221 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 06:03:09 O
ワンクリック詐欺キター
222 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 10:07:38 0
>>220 >C点論における矛盾と無限」をクリックして参考にして下さい。
これなら良いじゃまいか?
ところで、あなたは、無限とは一相とか無相とか言うことになるその根拠を説明できまっか?
223 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 10:30:38 0
終わらない議論 溜め息のダンス 煮立てるスープは 弱火でどうぞ
お前らもう少し読む気になる文章書こうな
225 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 13:11:47 0
>>219 >・シュレーディンガーの猫
初耳の事項ばかり、ウィキのアドレスでもあると、共通項を持ったことになって、
主張も共有できたものを、今後は主張を引用する方法によるなりしても良いから
、出した方が良い。
ウィキを採用して話そう。
数を基にする人間の活動と言うものは、人間同士の契約に基づくものと言うべきなのだ。
契約とは数が契約なのだ。数は存在を言う契約である。数がこういうものである限り
数に基づく活動は、最初の契約に束縛されるのである。
一つと数えるが、どういう存在を一つとするか、それが契約なのだ。
大地にある固体を基とするのである。空気を度外視する契約なのだ。
小さい概念から大きな概念へと発展している、その契約は。
要するに数の認識は、存在、時間の認識であり、その認識は共通の概念の確認であり、
その様なものとする、必然な契約である。
それは実際生活上の要請を満たすものであることが、必要条件であったのである。
それは真理真実であると言うことではないのである。真理真実の存在、時間と言うのは、
契約した時間、存在とは一致しないのである。
226 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 13:23:55 O
>>225 最後の段落の証明お願い
できれば背理法で
227 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 13:47:52 0
>>219 つづき
猫、猫の人間、これらの関係、その他一切の関係、これらの関係なしに、真理真実の
存在、時間を考究でいないのである。
この点を考えたのがエベレットであった。そして彼は
エヴェレット自身はその論文中[1]でエヴェレットが提唱した理論は決定論的であると述べている。ただし前述のようにエヴェレット自身は多世界という言葉を用いておらず、
多世界という時に想定される単一の世界を相対状態(relative state)と呼んでいる。真に実在しているのは波動関数その物であり、
多世界解釈という時、単一世界と見做されるものは(どのバージョンの私を観測者に置くかに依存する)
相対状態にすぎない。波動関数は決定的と述べているのである。[2]
__________wiki
さて契約上の存在と時間は、仮のもの、つまり契約上のものであったが、ここにおける存在と時間の認識は、必然として、まことの真理真実の制約を受けないわけには行かないものであった。
それは、縁起の理法をと言うものの制約であった。
人間は存在と時間に命名したのである。しかしその命名は、概念に命名するものであり、
概念は必然として、相対的に存在してることになったからである。例えば、天と言う時は
,地を前提とせざるを得なかったのである。個物を一と命名するときは、2、3、4・・・無限
を前提せざるをなかったのである。
228 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 14:30:38 O
話が飛びすぎ
1、2、3...という数え上げから必然的に無限が命名されたとしたら無限は何番目の数よ?
229 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 19:11:36 0
>>288 概念とはその字の意味するようなものなのだ。概とは「おおよその」と言う意味だろう。
だから中心と辺縁があるものなのだ。こういう概念は、そのほかのものを必然と必要するのである。
概念には、名詞となるもの、形容詞となるもの、動詞となるものなどがある。
すべて相対的に存在するしか、ありえようが無いのである。
太陽とは、その他のものから区別するために、つけた名前である。その他のものとは
太陽を囲繞する暗黒、星星を指す。
速い遅い、大きい小さい、などの形容詞も、同じく相対的にのみ存在するものである。
動詞副詞助詞なども同じであると思う。
一つとは、個物に名づけられた代名詞であるが、その一つの命名は、
たくさんあるもの(少なくとも複数)と言う前提が必要である。
その時、数えられないものがあると言うことが前提で無いと、数えると言う概念(有数)も生じなかったのである。
かぞえられないもの;無限数と言う概念も同じく生じているのである。
もう一度言うが、一と言う概念は、いちではないもの:複数の存在を前提にしているのである。
230 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 19:46:38 0
>>226 それは真理真実であると言うことではないのである。真理真実の存在、時間と言うのは、
契約した時間、存在とは一致しないのである。<<225
契約上は個物の存在を種類にしたがって、1、2、3と数えるが、
一個の個物の存在は、決して、他の2、3、4と同じものではないのである。
それは1と2の間には、空間があるからである。同じものとは契約上は
同じ種類のものをさすが、真理真実では、同じものとは、1の存在を
重ねて言うときであるのだ。つまり契約上に言うような、同じものは存在しないのである。
契約上は空間は、無いものと見做すのである。真理真実では、空間は個物と同じに
存在するのである。
しかし、前記したように、この個物に対するめいめいは、他のものを前提にしてるもの、つまり、
他のものと縁起した関係で、命名してるのであった。
空気は、個物に縁起して命名してるのである。個物を数に数えない契約であったのだ。
しかし、個物に対して空間と言う命名をしないわけにはいかなかったのである。
そこで、個物と空間と言う関係は、契約上の命名に基づいて、その真理真実を
究明するに、障害とならないのである。
個物とそれを囲繞する空間は、相対的存在であると、見做すのが、契約を離れた
立場からは、究明することができるのである。
そこで、背理法をお望みであるようだから、少し考えてみると、
今ここにりんごが二つあるとしよう。その間は五センチメートルである。
二つのりんごがあるとすると、どのような矛盾が発生するかを証明すれば、良いのだろう?
231 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 19:48:54 O
じゃあゼロと無限の違いは?
どっちも数えられないけどどうやって区別すんの?
232 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 19:57:54 0
>>226 つづき
二つのりんごがあると言う時、「ある」とは実体としてあると言うことだよね?
実体とは、真実な存在と言う意味だよね?真実とは、それは他のものを寄せ付けない存在といって良いだろう?
つまり一つの存在と言う意味なのだ。
で、今ここに二つあるりんごは、共にあなたは実体として存在してる、と言うのだ。
実体とは真実在であった。二つとも真実在であると、あなたは言う。
そしてまた、あなたは真実在は、一つである、とも言う。
そうすると、この二つのりんごは、お互いに、自分が真実罪であって、他のものは虚妄のりんごであると
言っているのだ。そしてあなたは、それを認め、それを自分の主張にしてるのである。
これではどうして、あなたは二つのりんごがあるといっていることになるだろうか・?
また、一つのりんごはあるが他のものは虚妄のりんごである、とさえも言っていることになるだろうか?
つまり、あなたは、二つのりんごがあるといっていたが、二つとも虚妄のりんごであったと、言うことになるのではないのか?
233 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 20:13:36 O
>真実とは、それは他のものを寄せつけない存在と言って良いだろう?
はい
ですからりんごはりんご以外の何物でもありません
従ってりんごが2個あってもそれは正真正銘のりんごが2個あるだけであって全く矛盾は生じません
234 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 20:20:56 0
>>231 >じゃあゼロと無限の違いは?
どっちも数えられないけどどうやって区別すんの?
無限を言うときは、有数と対比させる必要がある。
この対比なくしては、無数と言う概念はありえないからである。無数を無限、
有数を有限と言う。
次に無限と有限を合わせて、有とし、ゼロを無とするのである。ゼロは有と対比しないではありえぬ概念であるから。
つまり、有と縁起する無と言う対比に落ち着くわけである。
有は無なくしては無いものであり、無は有なくしてはありえぬものである。
相対的存在、または、相互依存的存在と言うね。
相互依存的存在は、両者とも実体;真実としてあるものでは無いとは、先に証明したね。
真実としては、ゼロも無限も同じく、無いものであり、無いという真実において、ゼロは無限であるといわなければならないのである。
しかし、契約上は、有(無限と有限の両方)に相対するものとして、ゼロと言う無を言うのである。
どうかな?
235 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 20:23:16 0
>>233 せっかく、「ある」とは真実にあるものであって、虚妄ナものではない、といったのを
蹂躙しないで欲しいな。
236 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 21:01:49 O
じゃあここが違うんだ
>実体とは、真実な存在と言う意味だよね?
違います
あなたの言葉を使えば、契約上の世界において目の前にあるという意味です
そもそもあなたは2個のりんごを識別してるじゃありませんか
真実が云々とは全く関係ありません
237 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 21:32:54 0
契約とは約束と言う意味である。
約束は当事者を拘束するのである。この拘束を破るものを違法行為をするものと言うのである。
そして、このものを不誠実なものと言うのである。
あくまでもこの誠実が大事なのである。これ以上に約束の世界では大事なものが無いのである。
実体があろうが無かろうが、この約束が大事なのである。なぜか、と言うと、
この約束を破るとは、実体の無いものを実体と見做すことになるからである。
約束とは二人の関係である。約束が破られるとは、どちらかが、孤立して関係性の無い
存在となるからである。関係性の無い存在とは、縁起してる約束の世界では
全くの孤独である。孤独であるとは、他の一切のものとの関係が断たれることである。
そういう孤立の存在は、存在として消滅する運命であろう。
そこでどんな関係でも良いのではない。正しい関係が必要なのだ。約束を果たしている関係
でなければならない。さもなければ孤立の存在である。
正しい関係と妄想の関係が有るのであり、妄想の関係とは約束違反の関係より
生じた関係である。
換言すると、共通概念において、共通の認識を共有してる状態である。
天とは地とはの共通概念を、その通りに実行する人である、これは約束を実行しているのである。
この概念を破棄して、反対に実行するなら、大混乱になるだろう。契約違反とはこういう大混乱なのである。
>そもそもあなたは2個のりんごを識別してるじゃありませんか
共通概念を共有してるからね。
238 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 22:04:29 O
だから共通概念を共有してるという前提の元に妄想(あなたが真実と言っている概念)を持ち込んでも何も矛盾はないよね?
それは共通概念ではない、単なる妄想だと言って退けられるだけだから
目の前にりんごが2個あって、それを見てあなたが真実のりんごは一つなんだ!って言っても、ふーんで終わりですよ
それと、縁起の概念間違ってますよ
縁起は別に約束に基づいてるわけではありません
あくまで独立な事象が相互に作用し合うだけでそれ以上の条件は含まれません
239 :
考える名無しさん:2010/11/28(日) 05:02:00 0
妄想とは
精神医学用語:病的原因によって根拠のない主観的な想像や信念を持ち、事実の
経験や論理により容易に訂正されない。
240 :
考える名無しさん:2010/11/28(日) 21:46:45 0
諸法とはよく言ったものだ。その実相と言うのである。
諸法とは、契約=法。契約は縁起に基づく。
諸法の実相、と言うと、縁起の実相と言うことになる。
縁起と実相には、少し段差があるように思える。縁起=実相とは、果たして?
241 :
考える名無しさん:2010/11/30(火) 13:21:59 O
りんごなどない!
242 :
考える名無しさん:2010/11/30(火) 20:59:20 0
>>240 しかし、縁起と言うことを理解し、そのように物を見るなら、それは空
の世界にいると言えるかも。
縁起を観るものは、仏を見る、とは華厳経の聖句である。正確には
「縁起を見るものは法を見る。法を見るものはわれ(仏)を見る。」
243 :
考える名無しさん:2010/12/01(水) 22:51:30 0
・・・・・・
244 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 17:46:45 0
我と言うものはない、と何回も言われる。然し、これも説明不測の感を免れていないように思われる。
相対的に存在する「私」とは、相手がある場合に生じる。相手がない場合には「私」と言うことはない。
一切のものにおいて、こうである。相対的に見てる場合は、「これ」「あれ」と言う。
そこで、この「これ」「あれ」「私」「あなた」と言うものは、相対的存在であるがゆえに、
実体としてあるものではないと言うのである。
ところが、この相対的に存在する、「これ」「私」と言うものを、
実体としてあるものと考えるのである。これが間違いなのである。
実体としてあると考える間違いとは、それが永遠に存在してると言う考えである。
ところが現実は刻々と変化してやまず、その永遠性が、無残に破壊されるのである。
それを保護しようとしている気持ちは、無残に破壊される。これが苦悩である。
よく、世間では、仏教は「無我」を説く。それゆえに「わたし」と言うものを非難する。
然し、それが相対的に発せられているときは、非難すべきではない。
相対的存在としての「わたし」と言うとき、それがいけないとすると、一切の言語が
、つまり、一切の相対的存在が、否定されることになる。言語と言うものも相対的存在であるから。
人がわたしと言うとき、それが相対的なわたしであるが、実体としてのわたしと誤解してるかの区別を知るのは、
容易ではないだろう。
245 :
考える名無しさん:2010/12/02(木) 18:38:34 O
りんごなどない!
246 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 10:19:54 0
>>238 >縁起は別に約束に基づいてるわけではありません
あくまで独立な事象が相互に作用し合うだけでそれ以上の条件は含まれません
約束の誕生(発生)が縁起の理法に基づくのである。例えば、上の透明な空気を
下の固い大地と区別して(天)と名づけることにしよう。そして天でないものを「地」
と名づけることにしよう。ここでは天なくして地はなく、地なくして天はない。
一対のものなのである。これを相対と言うのである。
そして相手方の同意が得られるなら、天と地の名称は、約束として定着する。
そして天と地の指し示す範囲は、おおよその範囲であり、天と地の境目は天の特徴と地の特徴
の境目としている。特徴の違いであるから、厳密な区別ではない。
特徴を概念と言う。ゆえに言葉は概念である。
約束が縁起の理法に基づいているのである。縁起の理法に基づかないではいかなるものも誕生し得ない。
独立な事象というものはない。一切のものは縁起の理法にもとづき相対的に存在する以外に、
存在し得ない。相対的存在。
247 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 14:45:33 0
C点論より
、C点論の「矛盾と無限」について、「縁起と空の理法を反転
させたような論」とのことですが、論点が全く食い違っているようです。
ポイントは、「現在という0秒において、矛盾・無限が存在可能」と言うこと。
無自性より達する「空」や「縁起」とは、無関係であることは、再検討すれば
了解願えると存じます。C点論では、無自性は認めず、認識主体は実体ある
「我」です。よって総ての現象は「自性」があり「実体」があります。
実体ある現象世界も、有・無合一体つまりC点として「無」つまり「空」も
含んでいます。誤解の無いように、念のため。
248 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 14:48:19 0
この世は「仮」の世界では、ありません。実体ある世界です。
249 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 15:53:57 0
この世の現象は、時間的にも、空間的にも「唯一絶対」の存在です。同じもの
は、存在しません。それぞれに「自性」があり、責任ある存在です。それぞれを
定義できなくとも、無自性ではありません。
この世は、夢のような、幻のような、蜃気楼のような、「仮」の存在ではなく
実体がある、責任ある現象世界です。現在の「0秒」や、C点の「無」は、現象
世界では、我々の感覚器官では、認識されません。よって現象世界は、この
有るがままです。念のため、蛇足でした。
250 :
考える名無しさん:2010/12/03(金) 18:20:27 O
りんごなどない!
251 :
考える名無しさん:2010/12/04(土) 20:02:59 0
変化してる森羅万象を、個々のものに執着しないで、ひとつのものと見ること。
そのように自分の心を抑制すること。
252 :
考える名無しさん:2010/12/07(火) 13:13:03 O
その一つの中に自分を含めるのを忘れないこと。
253 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 20:07:18 0
一つとは、縁起現象としてみることであると思う。
自分には手足、耳鼻目口がある。これらがそれぞれに、自分を主張してるだろうか?
各器官があっても自分は一つであると感じてる。むしろ、これらの器官が集まって自分がある、
と思っている。この器官の働く結果も、一切は、自分と言うものに集中して来る。
世界は自分なのである。自分以外のものはないのである。自分は一つである。
一つは、一相に他ならない。一相は無相に他ならない。
254 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 20:40:15 O
などと犯行当時の心境を克明に語り、精神鑑定の結果を待つまでもないといった印象を受けました
>>253 自分の体を自分の体だと感じられない病気の人がいる。
脳内の情報伝達を取捨選択する部分に異常をきたしているのだ。
裏を返せば、各器官があっても自分は一つであると感じることができるように調整する機能を脳は備えている。
脳内の巧妙な調整の結果かろうじて自分は一つであるという認識を保つことができている。
よって、世界は自分なのである・・・そうか?
むしろ、一つでなければならない事情がありその結果そのように演出されているように思える。
256 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 21:36:09 0
ここは哲学板であることを忘れないでください。これはあなたとアテクシの契約です。
契約違反をすると、妄想の世界に入り、孤独になって、消滅の世界つまり
永遠の消滅の世界である地獄に落ちるのではないでしょうか?
257 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 21:49:40 0
258 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 22:31:01 0
>>255 以下の引用はゴーダマの教えであるが、アテクシも賛成するのである。
あなたは賛成しないと?
比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。
「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、
と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。
さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
>>258 当時は情量が少なく伝達速度も遅く正確さを判断する技術も発達していなかったので
何が病気で何が正常かの区別すら困難だった。
情報量が少なく教育も十分に受けていない途上国の住人と、インターネットでいつでも
最新の情報を入手可能なあなたが議論し相手を完全論破したとして、それは公平な
結果だと言えるだろうか?
ゴーダマの教えが現在の情報と照らし合わせて未熟だからといって、それはゴーダマが
未熟だと言えるだろうか?
もし現在の世にゴーダマが生きていて、我々と同じ条件で情報を入手可能だったとして
全く同じ内容を語るだろうか?
260 :
考える名無しさん:2010/12/10(金) 23:17:17 O
>>258 それは「一切」の説明であって、世界=自分については何も語ってないよね
それ以前に、教典の解釈は時代・風習・国民性によって変わる。
原理主義者ですら、時代が変われば原理主義者同士で意見が食い違う。
262 :
考える名無しさん:2010/12/11(土) 11:30:27 0
>>260 一切とは世界のことであるとどうして思えない?
>>259 あなたはC点論者?自分で妄想の人といっているじゃない。
自分勝手な妄想にふけるんじゃ、誰が相手にできるんだい?
そもそも、何かい?社会そのものがゴーダマの時代から進化して、
その程度は段違いであり、そこに住む人は、必要な知識においても段違いであったと言い、
それゆえに、段違いの幸福があったといっているんだろう?ゴーダマの教えが
未熟であるといってるからね。
なんか、言うところが矛盾していて対応が容易ではないよ。
人間ゴーダマは、今の人と同じであったが、社会が進化発展していて、
それゆえに、ゴーダマは必要な知識を持たなかったのだから、ゴータマが
真理とか一切とか世界とか言うときには、それは今から見ると真理でも、一切でも、世界
でもない、と言いたいようだね。
人間と言うものの実体があると思い、社会と言うものの実体があると思い、
こういうように思っているから、人間は進化するとか、同じであるとか、退化するとか、
、また社会についても、社会は発展するとか退化するとかの考えが
発生するのである。そうして、社会とそこに住む人間に、優劣を論じることになるのである。
こう不幸を論じることになるのである。
そういう考えに沿っても、人間は、昔も今も寿命は違わなく、生滅を繰り返しているのである。
人間の幸不幸も少しも変化していないのである。
漠然と古代の人間よりも現代の人間のほうが幸福であるとか、現代の社会のほうがいいなどと思っているに過ぎないのだ。
>>261 教典は過去現在未来について、その実装をといているのである。賞味期限つきの
ものを真理真実であるなど、そんなことは思ってもいないのである。
>>262 なんだ、分かっているじゃないか。
人間はその時の社会に生きるしかなく、幸福はその時の社会に依存する。
百年前の人間を、例えば薩長同盟に奔走中の坂本竜馬あたりを現在の日本に連れてきて
仏の教えを説いて幸福に暮らせと言えば、恭順し、教えの中の幸福を目指すだろうか?
おそらく周囲の激変にとまどい、自分の理想と周囲の現実の中で迷い、時間をかけて
自分なりの生き方を模索し、その中で自分なりの幸福を創り出そうとするだろう。
さて。
人間の幸不幸も 少 し も 変 化 し て い な い のであろうか。
俺はむしろ、幸不幸は人の数だけあり、同じ人物でも置かれた環境で変わる、きわめて
脆く曖昧で矛盾していているものだと認識している。
ひとつの教義の物差が万人に無条件に適用可能であるという前提は、あまりにも危険で
無責任だと断言する。
264 :
考える名無しさん:2010/12/11(土) 15:05:23 0
>>263 >幸福はその時の社会に依存する
そもそも幸福とは何だとお考えか?
洗濯用合成洗剤。
266 :
考える名無しさん:2010/12/11(土) 18:03:23 0
真実実相が『一相』『無相』であるなら、どんなことになるか考えてみよう。
死もなく、生もなく、悲しみもなく、根拠のない喜びもない。
過去の失態を後悔することもなく、未来の根拠のない喜びもないのだ。
これこそ不死である。
永遠の命である。
267 :
考える名無しさん:2010/12/11(土) 23:05:41 0
268 :
考える名無しさん:2010/12/12(日) 06:40:00 0
269 :
考える名無しさん:2010/12/12(日) 12:19:49 0
>>266 つまり、善悪を知る前のアダモとイボの状態が、不死永遠の命の人間だったと言うこと。
エデンの園といわれたその世界は、一切の現象は、今と同じであった。
単にそこの住む人間は善悪を知らなかった。というよりも、善悪を判断しなかった。
と言うよりもそこには善悪と言うものがなかった。
アマゾンの密林の中に、アダモとイボのような世界があるようだ。彼らは善悪を知らない。
エデンのアダモとイボが食べた木の実は、アダモとイボに善悪を教えることになったのだったよね?
有無ではなく、優劣でもなく、・・・・・
禁じられた実は『神への不従順』てこと.
その結果が我々の目に明らかとなっている
実体と非実体
美は 形
形は 様相
様相は パターン
パターンは 虚
パターンは 空
虚は 幻
空は 無
幻は 得られず
無は 在らず
そは この世には在らざるもの
よりて 美はうつくしき
⇒『神への従順』がどのような結果をもたらすかの教訓を得たい
273 :
考える名無しさん:2010/12/12(日) 18:10:54 0
純真=純一=二心なし=穢れなし=迷いなし=一相=無相=空相=神・仏
274 :
考える名無しさん:2010/12/12(日) 20:12:15 O
アダモとイボ言いたいだけちゃうんかと
>>264 ある人物が、出発点と想定する状態xと対象とする状態x'、充足されたと想定する状態y
距離Lをxx'-xyとした時に、L≦0となる時間tにおいて知覚されうる精神状態。
※条件を満たしていても知覚されない場合がある
※accept/rejectの裁定権は本人に帰属する
276 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 19:09:59 O
>>265 距離≧0だと思うんだが、距離<0とは何を意味してる?
時間tって何の意味?
距離が時間の関数ってこと?
それとも幸福が時間の関数ってこと?
277 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 19:13:31 O
278 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 19:44:39 0
>>275 幸福とはどういうものか、と言う質問なのだよ。
要するに充足された精神状態といいたいんだろう?
それを説明してほしい。
279 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 19:47:40 0
◞≼◉≽◟ ◞≼◉≽◟
280 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 19:51:40 0
観念論とは何か判らなかったが、なんと、プラトンのイデア論らしいね。
これはパルメニデスにより論破、論破されているにもかかわらず、ドイツの哲学者たちは、
パルメニデスを理解しなかったのだろうか?
パルメニデスの論は、知ってるかい?、ゴーダマの教え老荘の教えと同じなんだ。
ドイツにはゴーダマや老荘の教えが伝わっていると聞いており、ショーペンハウワーなどは
ゴーダマの教えをよく学んだと言うではないか?
281 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 21:05:28 0
◞≼◉≽◟
282 :
考える名無しさん:2010/12/13(月) 22:22:57 0
強さが欲しい
283 :
考える名無しさん:2010/12/14(火) 11:00:39 0
蒼い境界線
284 :
考える名無しさん:2010/12/14(火) 15:45:10 0
∩
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д`)// < 先生!こんなのを発見シマスタ!
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285 :
考える名無しさん:2010/12/14(火) 20:24:14 0
286 :
考える名無しさん:2010/12/14(火) 22:28:51 0
0
287 :
考える名無しさん:2010/12/15(水) 00:03:28 0
時間というものの真相は、時間は進行してもおらず、後退してもいない。
故に、時間というものはない。
故に、人は老いるということもなく、若いということもない。
空間の真相は、空間とは量を言うものであるから、量は必ず寸法を
持ち、その体積を測ることができるものである。量は必ず増減する。
増は減なくしてありえない。減は増なくしてありえない。
ある量が一定の状態を保っているということは、同量の減が存在してるということである。
そうすると、増と減とは同じものでなければならない。そうすると、体積を持つ
空間はない、ということになる。これが空間の真相である。
どこかちがうかな?
・・つまり。いっさい。ない、という事。もちろん、ある意味正しい。
ある、というふうにみえているのが、迷妄。その意見、仏教的に反論
の余地がない。ただし、そう言い切ってしまうと、ゲームは終わって
しまうよ。君はもう、ゲームを終了させてしまったから、2ちゃんに
書き込むことは、もう何もないはず。。。
あぼーん
290 :
考える名無しさん:2010/12/16(木) 14:15:46 0
0m0
生きてるの?
292 :
考える名無しさん:2010/12/16(木) 16:57:01 0
死んでるの?
293 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 10:58:10 0
経済成長をドラクエで例えると、団塊のじじい共の時代は勇者レベルが
10〜15位のとき。はがねのつるぎとか買う時代。レベル上げ(経済成長)が
楽しくて仕方無い時期。これからのストーリー展開も未知であり楽しみ。
俺らは、終わったドラクエのレベル上げてるみたいなもん。
ものごころついた頃には天空の剣とか何でもそろってる。
お金稼いでも買うものが無い。全フィールド全てやりつくされてる。
はっきり言ってつまらねえ。やることと言ったら、取り忘れた
黄金の爪を取りに行く(過疎地に道路を通す)とかそんなのばっか。
退屈。今の連中に、じじいばばあと同じモチベーションを持てというのは酷だ。
294 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 11:32:51 0
>>264 >>278 質問内容が変化しているな。
変化の差分について説明していただけなければ、回答したところで
また質問を変化させて堂々巡りに陥らせる危険性があるので、
回答できない。
296 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:06:31 0
>>295 >変化の差分について説明していただけなければ
変化の差分って何?
このスレにはIDがない。誰が誰やらわからないようになっている。
そこんところを察せよ。
297 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:10:38 0
所詮女のいない男で哲学やってる
なんて何の知的行為ともいえない
愚の骨頂。無意味、非知性人
298 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:25:42 0
男も女もないだろう。一切は一相なのだから。
悪魔の智恵による者だけが、女、男というのだ。
アダモとイボが悪魔の言葉に従って、知恵の木の実を食ったとき、
その知恵が教えた認識である。
この悪魔の知恵、すなわち有無の分別知、これをこそ警戒しなければならないのだ。
299 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:30:53 0
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
300 :
考える名無しさん:2010/12/17(金) 21:48:56 0
文章が長い人って大概は文章が下手だよね
301 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 13:21:23 0
あぼーん
303 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 14:10:54 0
∩
∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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304 :
考える名無しさん:2010/12/18(土) 20:04:23 0
あぼーん
あぼーん
307 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 13:59:43 0
308 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 22:48:09 0
食うのは快楽ですが
『空腹という苦痛』は、現代の先進国でなければ
なかなか回避できず、私たちも
『労働という苦痛』を回避できません。
回避するのは物理的に不可能なんです。
労働しないで一生食って遊ぶのは無理。
で、更にですね。
『様々な肉体的苦痛』も発生してしまうんですね、体があると。
単細胞生物なら、おそらく痛みは薄く、熱さとか寒さも無いでしょう。
が、多細胞生物だから、複雑な苦痛があり、
人間も先進国でも、虫歯や癌や尿道結石や出産など、
様々な苦がある。これは
快楽を上回る、凶悪なデメリットでは?
309 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 23:33:35 0
310 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 12:19:20 0
>>308 まずはじめに、哲学をする目的というか、真理真実を知る目的というか、
または、その利益というものを考える必要があると思うのです。
体の具合が悪くなると、何が原因で悪くなったのか、どんな悪いものを食ったのだろうか、
などと考えます。その考える目的は、苦痛から開放されるというものです。
それと同じに哲学をするということは、人生の苦痛から開放されるということがあると思うのです。
人は自然に哲学をしているのです。
空腹は耐えがたいものといわれます。その欲を満たすことは、苦痛からの開放なんですね。
情欲は一切を流す激流であるとゴーダマは言います。その激流からの開放もまた求めるのです。
睡眠欲というものも、あります。これらは三大欲といわれますね。三大欲というよりも、
三大本能というのはどうでしょうか?
これらの本能は畢竟生存欲:生存本能というべきではないでしょうか?
そしてこれらの本能欲望を満たされないときは非常な苦痛な状態になるということです。
そして満たされるときは快楽であるというのでしょう。
そこでこの快楽と苦痛とは何であるか調べてみる必要がありますね。
あぼーん
・睡眠
・摂食
・性欲
3つのうちどれか一つでも不安定になれば「生きる意味」を考えたり、
不安になったりする
ただ、今の日本の日本人の生活はというと、
これらが不安定になるような状況に追い込まれるような
生活をせざるおえない環境にある
313 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 15:07:08 0
生存欲というのは身体にかかわっており、身体に拘束されているのではないでしょうか?
前レスで、ゴーダマの一切の教えがありました。この一切は身体にかかわっており、
身体に拘束されており、身体なくしてありえないものでしょう。
この一切の中に知性というものもあるのです。その知性が、どういう働きをするか、
それは、一切は相対的に存在し、独自に存在するものはない、と教えるのです。
そして、相対的存在は、真実にあるものではない、と教えるのです。
ですから知性は、一切は実体(真実)にあるものではないというのです。
ここがあなたと違うところですが、一切があるものなら、真実は無数にあることになり、
どれが真実かわからない、という状態になります。そして、苦痛も快楽も真実であるとすると、
苦痛を避け快楽を得ようとする心は、どうなるのでしょうか?死期が迫ってきたとき
自分はただ単に、この苦痛の果てにどうかなるだけのもので、それが真実なのだから、と考えるだけであり、
一方快楽にあるときは、この快楽は真実であり、この快楽の果てはどうなるのだろうか、
苦痛の果ての死と同じに、どうかなるに違いないが、それでも真実に違いないのである、と思うことになりますね。
これでは、知性というものがぜんぜん働いていないのです。
314 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 16:55:48 0
>>308 一切は縁起である。故に一切は空である。空とは真実のことである。
相すれば、一切は真実である。といわなければなりません。
あなたの言うところがここにあるのだとするなら、それを否定する私は間違っていました。
一切は真実であるとは、一切のものは平等:同等:等価であるということです。
そこに差別すべきものはないということになります。
苦痛も快楽もともに同じもので平等:同等:等価であるという事になるのです。
これゆえに、一切は無相一相であるといわれるのです。
そうすると、一切は真実であるというのと、一切は無相であるというのと
異ならないことになるでしょう。
こういう意味で一切は真実であるといわれるのなら、理解できるのですが。
315 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 18:46:32 O
大川総裁も池田先生も同じことを言っておられます
316 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 20:50:06 0
バイト行きたくない…
とんでもないミスをやらかしてしまった。
よく考えれば防げたのに。
本当にいい加減に自分が情けなくて泣ける。
318 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 09:04:15 0
>>317 そういう失敗は、真実にはなかったのである。ミスと思うのは、虚妄の思いである。
この真実を信じて、虚妄を打破して、行うべし。
乳首かゆいんで掻いてたら色素沈着してきたから
絆創膏貼っておくことにした。
なにこれもうブラしなくていいじゃん。
>>319 そういう痒みは、真実にはなかったのである。痒いと思うのは、虚妄の思いである。
この真実を信じて、虚妄を打破して、行うべし。
あぼーん
323 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 11:41:32 0
死んでからが本当の生だぞ。
我々は人間として未熟だから、この世に遣わされたのだ。
この世は修行の場なのだ。
この世で修行を重ねレベルが上がれば死に、新な世界へ行ける。
そこでまた修行を積み、更なる高みへと死にに―いや、生きに行くのである。
324 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 12:25:31 O
麻原教祖も同じことをおっしゃっていました
325 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 12:35:27 0
真理とは何かね?
326 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 16:52:18 0
327 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 17:30:21 0
何もないとは何かね?
328 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 17:40:51 0
何もないのに、何かね?ときかれてもさ、何もないんだよw。
329 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 18:10:57 0
友達にどの真理を使ってるか聞いたらさ、「教えぬ!」って言うわけよ。
ちょっとカチンと来たけど我慢してもう一度聞いたら、「だから教えぬ!」だってさ。
あんなに頑固な奴だとは思わなかったぜ。
330 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 18:18:27 O
ちょっと無理があるな
331 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 18:31:59 0
何もないものこそ、あるのだ。
332 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 19:46:06 0
…などと意味不明な供述を繰り返しており
333 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 22:24:06 0
警察は引き続き調査を進めています
334 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 23:08:16 0
警察も裁判も戦争もないのですー。
335 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 23:16:21 0
県警は余罪を厳しく追及する方針
336 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 14:21:50 0
警察などの公共機関は正常であるなど少しも信頼できないのだから、
何を言い出すかわからない、キチガイなのである。
何で警察が出てくるのかわからないというのが正常な感覚であるが、
そこが、キチガイの基地がいたる所以で、警察が動いているという情報提供があるのだから、
思想良心の自由を行使しないで退却するに越したことがないだろう。
ではでは。
337 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 15:56:56 0
…などと意味不明な供述を繰り返しており
338 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 17:32:49 0
ものは相対的に存在しているといわれる。
幸福と不幸、善と悪、長と短、大小、遅速、高低、そして名称も。
一切が相である。
そうすると、善と悪とが相対的に存在しているということは、善を取ると
悪も必然的に付録としてついてくるということである。決して善だけを取ることはできないのである。
反対に、悪を避けようとすると、膳も必然的に付録として避けることになるのである。
だとするなら、善を取るということは悪をもとるということであり、悪を避けるということは必然的に、
善をも避けることになるのである。
であるから、今ある善をとり悪を除こうとすると、悪が来たり善が退くことになる。
であるから結局結論としては、悪を除こうとしてもならず、善ととろうとしてもならないのだ。
善悪は今例として取り上げたのであり、一切はこのようなものなのだ。
一切は悪は悪ならず、善は善ならないのである。であるから、悪を除こうとせず、善を取ろうともしてはならないのである。
故にこれら善悪は平等、同価値、であり故に、善も悪もない平等な一相なもの、一相ゆえに無相
、とみなすべきものなのである。
339 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 17:49:00 0
グロテスクの反意語は?
孤独の反意語は?
この世の理、一切が一相であるという考えは破綻していると言わざるを得ない
340 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 18:04:31 0
>>338 また以下のようにもいえるな。
相対的に存在してるものは実体がない。実体がないとは、真実に存在してるものではないという意味である。
大小を例にとるならば、大なるものはないので、大を得ていると思っているなら、それは大きな間違いである。
小を得ているなら、それも大きな間違いである。間違いを犯しながら、
満足しているとするなら、なんと大きな妄想であろう。幸福ではないのに、
幸福であると思い込んでいるのだから。
341 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 18:18:28 0
>>339 >この世の理、一切が一相であるという考えは破綻していると言わざるを得ない
一切が一相であるという考えは、この世の理ではまったくないのだ。
これは神仏の理である。
この世の理は、大がよく、善がよく、美がよく、高がよく、・・・である。
この理は、悪魔の知恵である。実に知性を欠いたくだらない知恵である。
この世間はこの悪魔の知恵に支配されている。
342 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 18:27:43 0
>>339 > グロテスクの反意語は?
孤独の反意語は?
グロテスクの反意語は、秩序であろう。
秩序とは、それぞれが調和を保っている状態で、誰からも理解されるものであろう。
歌舞伎役者が、顔にさまざまな色を塗りたくり、着物といえば、人間の活動に
どうしてふさわしいのかわからないものであり、其の振る舞いは、無意味な形式に
凝り固まっている、そのような姿かたちはグロテスクである。
孤独の反意語は、誰にも嘘をついていない状態である。つまり正直ということか。
343 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 18:35:39 0
> 孤独の反意語は、誰にも嘘をついていない状態である。つまり正直
全く意味が分からないのでかみ砕いて
344 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:03:54 0
>>343 >全く意味が分からない
こんな嘘をつかないならば、孤独ではないといえる。
たとえば、自分はおなかがすいているとしよう。其のときある人が
ご馳走を分けてくれようとしよう。でも自分はおなかがすいていないと嘘を言ったとしよう。
ご馳走を分けようとした人は、それを他のものに分けているのを見るとしよう。
自分はおなかがすいているのだが、それを嘘をついてしまったばかりに、ご馳走にありつけないのである。
嘘をついたばかりに本当の自分が理解されないのである。これは孤独ではないか?
しかし正直におなかがすいていることを告白するなら、ご馳走を分けてもらえるのである。
自分の気持ちが理解されているのである。孤独ではないだろう?
345 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:06:21 O
嘘つきの反意語が正直です
小学生でも知ってます
346 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:10:21 O
老人が孤独死するのはその老人が嘘つきだったってことですか
347 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:27:11 0
相だろうよ
348 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:30:00 O
「私は嘘つきです」
この人は孤独ですか?
349 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:33:45 0
相だろうよ
350 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:35:54 O
「私は孤独です」
この人は孤独ですか?
351 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:40:36 O
一切(の問いに対する答え)が(一)相である
これがゴーダマの教えです
352 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:44:39 0
論理が破綻してるよ
353 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:48:46 0
ところで一相とかぐぐってもよく分からない会社の名前しか出てこないんですがあ
これは何かの用語ですか?
354 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 19:52:26 O
創価学会用語です
355 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 20:33:12 0
常勝!
356 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 20:37:05 0
草加は一相とはいいわないだろう。
357 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 20:40:31 0
358 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 20:44:40 O
相か
359 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 20:45:18 0
創価学会
360 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 22:41:58 0
不真面目な嘘つきは孤独。
361 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:01:47 O
おなかがすいた正直者は創価学会
362 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:19:42 0
>自身が感じる恐怖と実世界との相関関係は計算や量子力学で決まる結論にすぎない。
この文章をかみ砕いて教えて下さい。
363 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:20:38 0
♪ Silent night holy night ♪
364 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:22:18 0
計算や量子力学?
365 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 00:18:53 O
一切が一相であるということです
これは神仏の理である。
367 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 08:50:17 0
これは神仏の理である。
368 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 09:23:41 0
これは神仏の理である。
んな訳ねえだろ
紙も佛もいるもんか
人の作り出した偶像だし
369 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 12:45:41 0
真理真実を説いた人を神や仏と呼ぶんだよ。
370 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:18:34 0
371 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:32:36 0
372 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:39:00 0
373 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:47:45 0
それに納得できないのなら、自説を出せよ。それが対話の仕方というものだろう?
374 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:52:49 0
今の世の中
375 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 14:07:48 0
>>338-340のレスは正法といわれるものだ。正法を誹謗するものは決して救われない
とゴーダマは言う。
正法を受け付けないものは、正法を誹謗してるものに当たらないだろうか?
この正法はどの正覚者も同じ理法として説いているのだ。
つまりこの理法以外に、道はないのだ。
376 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 14:12:05 0
そしてこの理法の修行ほど、容易な修行はありえないのだ。
377 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 15:42:04 O
そしてそれを修得したのがかの麻原教祖である
378 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 16:37:57 0
そしてそれを未だに伝承し布教活動しているのが創価学会である
379 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 17:54:36 0
バイバイ
380 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 18:04:42 0
有頂天
381 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 18:57:22 O
なんだこの流れw
孤独の反対は正直とかぬかしたやつ、責任取れw
とてつもねーage率だな
共産党の選挙カーが最終日だからと追ってきた
384 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 20:17:56 0
> 孤独の反対は正直
何という飛躍した論理、何とも理不尽としか言い難い言葉の暴力
385 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 20:33:52 0
しかし、人間理解がないな、自分というものを知らないな〜。
孤独も孤独でないことも自分にあるのだ。まるでお前らの言うところを聞いていると、
孤独な人間と孤独ではない人間がいるのであり、自分は孤独な人間でない、と見栄を張っているだけじゃないの?
自分は他社に嘘をつくなら孤独に感じるようになり、正直であるなら、自分を保持しているのを知るのである。
つまり正直であるなら孤独ではないし、正直でないなら孤独なのだ。
だから孤独の反意語は、正直であることというのは間違いではないわな。
386 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 22:46:02 0
>>385 なんとおいたわしや
あわれみすらおぼえる
387 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 23:43:17 O
>>385 これはひどい
中学生並の知能しかないと見た
388 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 04:24:36 O
>>385 要するに孤独を感じるってのはそもそもの人間嫌いから生じたものだと言いたいのか?
殻を作るから閉じ籠る
結果、殻の中に自分1人となる
他人に心を閉ざすことを自ら選択した人間に孤独感など芽生えないだろうな、実際は
むしろ孤独願望があるだろ
そうではなくて、自分は閉ざしたくないのに他人に拒絶されてばかりな人間が孤独感に苛まれるのではないか?、普通は
389 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 11:44:56 0
だが、こういうことも言われている。キリスト教であろうと仏教であろうと老荘であろうと。
それは孤独の価値である。どの教えも、孤独の修行を価値あるものとしている。
唯我独尊という言葉もある。これも孤独の価値を説いているのだ。
どういうことなのか。それは真理真実は、一相であるというところから来るのだ。
一相とはまさに孤独の意味なのだ。
この真実の意味の孤独に対する反意語というと、交友ということになろうか。
交友は孤独に反するから、正しい関係にあるものではないのだ。
すごく論述が逆転してきてるが、要は真理真実が無相一相空相無願であるというところから
導出される真理なのである。
390 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 11:58:19 0
>>388 >そうではなくて、自分は閉ざしたくないのに他人に拒絶されてばかりな人間が孤独感に苛まれるのではないか?、普通は
自分がオープンであっても相手が心を閉ざしている場合も、相手がオープンに来ても
自分が心を閉ざしている場合も、ここに生じる孤独は、相対的なものであろう。
こういう孤独は、実体がないのである。実体がないのに、孤独であると妄想してるに過ぎない
ということになる。相手を騙し、騙されているのである。
391 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 14:16:43 0
改行の人ウザい
392 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 15:03:04 O
>>389 人間は孤独に生まれて死んでいくわけでそもそも孤独な生き物
言ってみれば俺らは乗換駅でたまたま居合わせた乗客同士みたいなもの
向かう駅も違うし目的も違うかも
限られた時間で親密になったところでもう二度と出逢うこともないと思われる
そう考えれば世の中は色即是空と結論づけられるだろうさ
393 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 16:48:13 0
老子
(20)世間と私
学ぶことを止めれば,悩みも消える。
“ああ!”と言い,“おう!”と応える,
その間にさしたる隔たりがあろうか?
“善”と言い“悪”と言うも,
何ほどの差があろうか?
人が恐れるところでは,
恐れないと言うわけには行かない。
しかし,まあなんと,目覚めの兆しから離れていることよ!
世間の人々は笑いさんざめいており,
供物を神に捧げるお祝いの席にいるかのように,
春,高楼での楽しみの真っ盛りだ。
私は,独り静かに,世間とは縁なき形で,
まだ笑うことも知らない新生児のように,
独り離れて,世捨て人のようだ。
世間の人々は,豊富に満ち足りているが,
私だけは独り,すべてが失われているかのようだ。
私の心は,白痴のそれのように,
ぼんやりとして,かすみの中にただよう!
394 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 16:50:28 0
>>393つづき
俗人たちが,訳知り顔で,明るく立ち回っているのに,
私は独り,ものうく,当惑したままだ。
俗人たちが,賢げに,自信に満ちているのに,
独り私だけが,気落ちしたままだ。
海に浮かぶ受難者のように,
目当てなく,漂い続けている。
世間の人々は,しっかりと目標に向かって進んでいるのに,
私だけは,融通が利かなくて不器用なままである。
私独り,他の人々とは異なり,
自然なる母に養われることの大切さを知る。
イエス
マタイ8:18〜22 人の子には枕するところも無いテーマ:聖書のたとえ
2008-10-15 10:48:06
20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところも無い」
・・・・・・
これらは同じ境地で、孤独を言ったものだろう。
しかし、庶民の交友は、幻なのである。
395 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 17:29:48 0
>>392 >限られた時間で親密になったところでもう二度と出逢うこともないと思われる
そう考えれば世の中は色即是空と結論づけられるだろうさ
色即是空の意味がわかってないんじゃない?
396 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 17:55:06 0
色即是空でぐぐれ
397 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 21:37:58 O
なんか自分に都合が悪い展開になると実体がない、虚妄だとか言い始めるキチガイがいるな
それが創価ですかそうですか
色即是空とは広告主とカモのようなものだ
399 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 10:42:27 0
>>397 なんか皮肉れ根性なんじゃない?w
層化がゴーダマの教えを広めているなど、相ではないことぐらいを知らないのか?
層化は日蓮の教えだよ。日蓮仏法といって、ゴーダマの教えを排斥してるのだ。
400 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 10:50:55 0
創価学会は仮初めの日蓮信奉はもうとっくに辞めてるよ
今は露骨に池田信奉になってる
貧乏人が溢れかえってる世の中でカルト宗教に縋るのはいつの世も同じ
401 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 10:58:38 0
へー、ほんとかな?
知らなかった。
402 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 11:11:05 0
403 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 11:12:13 O
404 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 11:23:02 0
じゃあ、そのゴーダマの教えってのが何なのかと尋ねると、
議論百出で何が何だか分からんのだよな、これが。
405 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 11:44:50 0
>>404 どうもあなたは正直らしい。
それなら、アテクシが解説を試みてみよう。アテクシもはじめは相だったからだ。
本来なら、根拠となる経典の記述を証拠として併記すべきであるが、それはまたあなたの必要に応じることにしよう。
実はゴーダマの悟りの端緒と其の教えというのは、決して複雑ではないのだ。
複雑ではないのだが、根本となる教えはひとつで簡単なのだが、それから派生する教えが
豊富に存在するのだ。
それから、確かに、根本となる教えは単純なのだが、それを教えとして経典に記載する段階で
決してわかりやすく、記載されていないのだな。このためにゴーダマの教えって何なの、ということになる。
しかし、オーム真理教というのは、ゴーダマの教えを善く紹介する経典をウェブで紹介していたな。
それは大乗経典ではなかった。大乗経典ができる前の、大蔵教と言われるものだ。これを小乗などという世間の批評もあるが、
それはまったくの間違いだ。それはいくらでも確かめることができる。ま、この大乗小乗という差別自体も
教えそのものに起因するのではなくて、宗派間のあらそいから来ているのだ。
あぼーん
407 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 12:27:16 0
>>404つづき
以下はウィキの縁起からに引用であるが、この解説に間違いない。
縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す
– 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。これは「彼」の存在が「此」によって規定されていることを示す。
縁起は、「此があれば彼があり、」「此がなければ彼がない。」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。
このような有と無と二つの文句が並べられるのは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、この二つは論理的に結び付けられており、
「此があれば彼がある」ということの証明が、「此がなければ彼がない。」ということなのである。具体的な例としては、
「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、
老いることも死ぬこともないからである。このように後者の「此がなければ彼がない。」は、前者の「此があれば彼がある」ことを証明し、
補完する、必要不可欠なものである。
あぼーん
409 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 12:46:28 O
wikipediaをウィキと略す奴は(ry
410 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 12:51:25 0
>>404つづき
一切は縁起現象であるとし、次に、それではこの縁起のゆえに、
一切には実体がないと結論するのである。この実体がないということを空相、一相
、無相というのである。
ここからは、道理を働かすべきなのだ。
一切の現象には、固定的なもの、これを実体というのであり、こういう実体あるものは
ないのである。実体あるものがないのであるから、世界は、空相であるといえるだろう?
また、無相ともいえるだろう?さらに、世界が無相であり、空相であるなら、
そこには、一相なるものがあるだけであると言わなければならないだろう?
色即是空とは、世界の現象の中で、色形を持つものを種類別して、其の範囲においては、
色形は、縁起している(この意味わかる?)ので、どの色形にも実体はなく、無相というべきだろう?
無相のことを空相といってもいいだろう?
次に心の変化も、縁起しているだろう?だから、受(感覚)想、行、識もまた
縁起しているといわなければならないだろう?したがって、受想行識もまた空相である
教えるのである。
要するに、一切は縁起の産物であるので、実体はないと言う教えなのだよ。
そうすると、これから八万といわれる数の教えが派生してくるのだ。
やれ不動であるとか、時間空間は空無相であるとか、そして、これはすべて道理の導くところなのだ。
この教えは、古代ギリシャのパルメニデス、ゼノン、老荘、イエスキリストの教えともなっているのだ。
存在と空間と不死のテーマに答える真理だよ。
411 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 13:47:54 O
いや縁起とはシンクロニシティーみたいなもんでしょ
実体が起因の現象の関連性
でも関連性の詳細までは明らかに出来ない
あくまで奇跡を上回る可能性の存在を経験的に人々が共感したもの
そもそも〜をしてなかったら〜は起こり得ないとかではないよ
例えば「そもそも宝くじは買わなきゃ当たらない」ってのがあるが宝くじ購入自体は別に縁起(担ぎ)とは言わない
縁起担ぎとは例えば、夢見とかな
仏教的には知らん
世俗的にはそんな感じだ
412 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 14:27:41 0
>例えば「そもそも宝くじは買わなきゃ当たらない」ってのがあるが宝くじ購入自体は別に縁起(担ぎ)とは言わない
縁起担ぎとは例えば、夢見とかな
宝くじを買うのも縁起です。夢をかなえたいという欲望があるので、宝くじを買うのである。
宝くじを買ったことを見ると、そこに夢をかなえたいという欲望があることがわかる。
このように欲とそれに基づく行為は相対的に、または対になって存在している。そして
相対的にまたは対になって存在しないものはない。
縁起担ぎの夢見などは、縁起の理法から生じたものであろうが、もともとの根本的な
解釈を理解すべきである。
世界の究極までこの縁起の理法、そして空の真実は貫かれていることを知るべきである。
あんたの動機がベキになっちゃってるからアレなんだよ
414 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 21:44:07 O
>>412 なるほど
俗的な言い回しにそもそも間違いがあるということかい?
じゃあ逆に俺が指摘したシンクロニシティーは何と呼べばいい?
偶然や必然という言葉はあまり関係なさそうだが
415 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 22:39:14 0
>>411 >実体が起因の現象の関連性 でも関連性の詳細までは明らかに出来ない
言うところはよくわからないが、実体とは何か、それから関連性が詳細にわからない、
というが、まず実体とは何かから説明されなければならない。
実体とは真実のことを言うだろう?実体が二つあるとは真実が二つあるということなのだ。
これっておかしいと思わない?ある現象が相対的に存在しているわけであるが、
それは対になっている。対になっているものを二つあると、実生活においてはみなす。
しかしこの見方は正しいのか?二つあるという限り、二つの実体があるということだ。
あるものはあるのであるからだ。
あるものはいつまでもあるもので、なんかの変化により消滅するものではないだろう?
なんかの影響で変化したならば、それはもともとあったものではないというべきだろう?
あると見えたのは虚妄であったというべきだろう?
ところが今二つのものが変化しないでいつまでもあるというのだよね?二つの実体:真実があるというのだから。
ところで、真実は絶対なものではないか?それしかないのであり、他の一切を排斥しているものではないか?
他のものの存在を認めるということは、自分に反するものの存在を認めるということだろう?
それでは真実ではないだろう?自分と異なる存在を認めるというのだから、それは自分と異なるものも
真実としていつまでも存在するものであるということを認めることである画、それでは自分の存在は
どうなるのだろうか?自分に異なる存在とは自分に敵対する存在ではないか?
そのような戦争状態では、自分が負けるか、永遠に戦争状態であるだろう。
自分が負けたりいつまでも相手を征服できないということは、自分の存在が変化するということで、それなら
もともと真実ではなく、虚妄の存在であったということになるが、真実でいつもあるものなんだよね。
また敵が存在しそれと永遠に戦争状態というのは、、そういう危険性にあるものはいつもある状態のものとは
いえないだろう?永遠にそんざいがおびやかされているのだから。
416 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 22:40:12 0
つまり真実とは自存するもので、いかなるあらそいもない平安なものといわなければならないのだ。
にもかかわらず、こういう二つの真実があるというのであるが、これでは両者とも成り立たず、
両者とも真実ではないといわなければならないだろう?
だから真実が二つあるということは不可能である。実体が二つあるということは不可能である。
つづき
真実は絶対なものとしてひとつの者としてしか存在し得ないのだ。注意すべきは、純一なものとしてである。
其の中に、素粒子ひつ混じっていてはいけないのだ。純一なものであるとするなら、それは無相でなければならないだろう。
これこそ真実なものの、姿なのである。
417 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 22:44:09 0
>>411続き
実体:真実は一切無相なものであるゆえに、そこにはいかなるものも起き得ない。
真実が原因となることはありえない。
故に真実を体得したものは、それなニルバーナにいるものであり、ニルバーナとは、いかなるものも生起
しない状態であるといわれるのである。
418 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 23:28:04 0
>>415 >でも関連性の詳細までは明らかに出来ない
これが相でもないんだな。
これについてはまた明日にでもな。
それからシンクロ・死にてい・というやつもな。w
419 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 01:54:01 O
>>415 実体は唯一無二でしょ
この世に同じものなんて素粒子レベルじゃなきゃ考えられないよ
よくわからないなあ
420 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 09:25:37 O
りんごなどない!
421 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 12:31:55 O
物質は素粒子のスリットであり壁をボールがすり抜けることは理論的にはあり得るとされる
たまたま両者の素粒子が双方のスリット間を通過出来たならな
あたかも物質が物質であるまじき振舞いを見せるわけだ
存在性を語るならこういったことも踏まえなきゃならん
>>421 必要なポテンシャルは定量的なので、それならば場の定義から始めねばならない。
423 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 13:41:59 O
>>422 そりゃもちろん条件は語られなきゃいかんよ
425 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 15:02:50 O
どこが存在性の話なんだ?
426 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 17:01:46 O
>426
428 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 21:25:01 0
>>426 相です。418もあります。よく知っています。
ところが今日は疲れています。十分に主張したいと思いますから、
元気になったら、させていただきます。ごめん。
430 :
260:2010/12/28(火) 22:17:23 0
ざこい。
431 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 08:52:44 0
うざい!
ざらぬるい!
433 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 13:59:37 0
そう言えばこのスレであったと思うが、りんごの数の数え方を論じたときがあった。
そして、素粒子の研究の成果についてこのサイトを読んでみると、やはり、りんごの数の数え方
を踏襲しているのであり、それは、常識的なこの世間の数え方に他ならないのである。
http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/kouhou/17/p4_5.html 数の数え方というのは存在の認識に基づくのである。
りんごが、一センチ間隔で、三個並んでいる場合創造してみよう。
各りんごは空間に包まれているのだ。そういうものが三個あるのである。
ところが、この空間を世間の人、そしてこの科学者といわれる人たちは、
同じ認識に基づいて、考慮していないのである。
科学者が世間の人と同じ存在についての認識をもつ、または拘束されているというのは
おかしいのではないのか?いや、科学者とはそんなものか。
これでは、科学者が、世間の人が、秘境を探検し、珍しい発見をすると有頂天になるのと同じ
であるに過ぎないのだ。
そこで世間の人のものの存在の認識について、どんなものか定める必要がある。
434 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 14:37:34 0
>>433続き
まず、りんごというものの名称の由来である。りんごという名称は、
りんごではない他の一切から区別するためのもので、かつもっとも
特徴を言うものである。つまり其の特徴とは、丸い球体のもので、かつ、色は
赤っぽい表面をしており、中身は黄色で、食べると甘いというものである。
球体であるとは、球体でないものからの区別。赤っぽい表面の色とは、他の赤くない色からの区別。
黄色で甘いとは、黄色で甘くないもからの区別である。こういう特徴を総合して持つものを
りんごとし、こういう特徴を持たないものから区別しているのである。
他のものから区別するとは、他のものがあるからこのものがあるという認識に基づいている。
つまり相対的に存在するものであるということを無意識に認めているのである。
そして言葉そのものは相対的存在なのである。
要は、名称とは、ものの概念であり、概念とは特徴を言うものである、ということだ。
一切の名称がこのようなものである。単一の名称を持たないものでも、説明により存在するものもあるが、
それらも其の説明そのものが名称といえるのである。こうなると、名称は
無限に増殖する可能性を持つものといえるだろう。
名称は認識した概念である。そして人と人との共通概念である。
共通概念は、言葉として定着する。言葉として定着したものは人と人との約束
となる。契約となる。
人間には、三大欲というものがあると一般的に認められ散る。食欲、性欲、睡眠欲である。
この欲を満たすために、概念を捉えて名称とし、それを道具として、使用するのである。
どうして欲があるのか、次に考えてみよう。
435 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 15:34:28 0
>>433続き
老荘であろうとゴーダマであろうと、やはり人間に欲が進入してくる状態を
取り上げている。旧約聖書のアダモとイボの寓話は、よく知られている。
アダモとイボは、神の様な知恵を得たいと思ったということになっているね?
ところが、サタンは、神というものを知らなかったのである。真実を知らなかったのである。
神の人であるアダモとイボが、平安に生活してる状態を見て、これは神の知恵によるものであり、
それはなんだろう?善と悪を知って、其の知恵によって平安に生きているに違いない、まさに彼らは楽園
生きておられるのに違いない、と思ったのである。それは幼子に善悪を教える大人と同じである。
神は真実であり、真実は純一なものであり、無相であり、空相である。
そこには善悪というもの、有無というものがないのである。知恵というものがないのである。
荘子も、アダモとイボの楽園に、小ざかしい知恵を導入したものとして、儒家が聖人
とするものたちを挙げている。
ゴーダマにしろ老荘にしろ、パルメにしろ、モンゼにしろ、これ以上のことは言っていないと思う。
りんごの話、関係ないやんw
実を言うと私はりんごが好物なのである。
それを食すことでこの上ない快感を得ることができるのである。
同様に、私はこれまで様々なことについて書いてきたが、あのような書き込みをすることは私にとって快感である。
ちなみに、神は真実であり、真実は純一なものであり、無相であり、空相である。
438 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 17:52:26 0
>>433続き
さて、前に戻って、りんごの数の数え方の問題に移ろう。
りんごは、まず囲繞する空間と相対して存在しており、囲繞する空間なくして
あるのではない。
便宜的に空間の存在を無視することは、実生活上は問題なくむしろ邪魔であろう。
しかし、真実を求める場合は、この空間を無視することはできない。
空間とりんごが相対しているならば、りんごもなければ空間も、実体として存在しないのである。
ところが、素粒子の研究報告によると、この空間をまったく無視しているのである。
これでは、欲心から、りんごを数える一般人の認識を、素粒子研究に継続しているのである。
一般人の認識は仮の契約であるのに、その契約行為を、素粒子の分野にまで、持ち込んでも、
仮の認識であるが故に、相対的存在は、実体がないという結論に至ることはないのである。
そして、素粒子があるとかないとか、いくつあるとかの研究報告は、仮の契約認識に基づくもので、
妄想の産物であるといわなければならないのである。
無限分割ということが考えられるが、これも妄想の産物である。
439 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 17:56:49 0
>>433と
>>434の間に、以下のレスを挿入する
ところが囲繞する空間はないものとみなすのである。
つぎに、、ひとつのりんごと、隣のりんごとは、一定の空間を持ってはなれて存在しているのであるから、
同じりんごではありえない。そうすると二つと数えることは間違いである。
同じりんごというなら、常に同じ場所を占めているものを、同じりんごといわねばならない。
同位置にあるものは、二つではない。
ところがある一定の間隔を置いてりんごがある場合、人は二つ三つのりんごがあるという。
これはどういうことかというと、空間を無視する共通概念に基づき、特徴を以って、同じもの異なるものとの判別
、同じ特徴を数えるのである。これが数の成立の基本である。
心配せんでも、現代物理学の当事者は、素粒子を考える際にも空間を無視などしてはおらん
441 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 18:38:16 0
>>438 >ところが、素粒子の研究報告によると、この空間をまったく無視しているのである。
お前文盲か?
自分で何のリンク貼ったか理解できないのか?
442 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 19:21:32 O
>>438 なんともお粗末な空間理論ですな
もう少し素粒子理論を勉強されたほうが良いかも
実際、素粒子観測と言いましても三次元的に見て確認してるわけじゃないですよ
すでに物理学の世界は見えるものがすべてとは思っていない
素粒子なんてまだ物質ですからいずれ見えるかもしれない
今は見えない物質を研究してますからね
ヒッグス粒子とかダークマターとかググってみたらよろしいかと
素粒子も次元を超えるとか言われ始めてます
443 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 20:30:23 0
>>440 空間をどういう風に存在しているものとしていますか?
444 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 21:09:47 0
粒子が空間を行為できるという判断は、あるものの活動は、空間に依存しているということだと
言いたいのであります。
この依存関係を、量子学は認めていないと思うのです。
この意味で、空間を認めていないというのです。空間と粒子が相互依存関係にあることを
認めるべきだと思うのです。
ゴーダマは、以下のように説いたとされています。
「それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみの事柄の死滅であり。
造る働きの静まった安楽である。
そこにはすでにあったものが存在せづ、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せづ、
月も存在しないところの其の境地を、私はよく知っている。
来ることもなく、行くこともなく、生ずることもなく、没することもない。
住して留まることもなく、依拠することもない、____それが苦しみの終滅であると説かれる。
水もなく、地もなく、日も風も進入しないところ____そこには白い光も輝かず、
暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者は其の境地について事故の沈黙を自ら
知るがままに、形からも、形なきものからも、一切の苦しみからまったく解脱する。
ゴーダマの縁起と空の教えに従って修行した結果、このようになるのだと思うのです。
445 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 21:26:54 O
>>444 そもそも素粒子の話を出す必要がありますかね?
単なる哲学的な話だと思われますが
科学と学習
447 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 22:27:59 0
>>445 何を言っているのかわからない。
科学者の認識が間違っているか、どうかを言うのが、認識を研究する哲学と無関係ではない。
そもそも哲学は、人の認識の間違い、正しいを判別するものだ。
ゴーダマは多くの人は実体のないものを実体あると誤認して追及してる、それが不幸の始まりであると
説いている。
448 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 23:17:36 O
>>447 お前の量子論に関する知識・理解が軟弱すぎるから知ったかぶって難しい話持ち出すなってことだ
449 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 23:33:29 0
軟弱すぎるかどうかさえもわからない。バイバイということで。
主体と客体が自分の中に一定割合で共存しててどんどん割合が変化すると考えられる
としたら面白い。客体は神だったりして。
自分の時間を持たない(生命という装置の時間が瞬間であり、
同時に主体を持たない存在の連鎖として永遠の)神の使いがそこら彼処にいたりして。
451 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 10:11:51 O
時間は不変ではないですからね
共有的なものでは決してないですよ
条件によりますから
例えば、光速に近い移動をして戻って来たら浦島太郎みたいになるだろうし
ただ普遍的ではあるとは言えますね
452 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 10:29:00 0
そういう考えは妄想というもんで、休むに似たり、じゃ?
453 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 10:47:01 0
やー、縁起の理法を認められないものは、救いようがないというのは
本当だと思われる。
454 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 11:18:55 0
サタンですよ。贋物の知恵を振り回して、利口ぶっているんですよ。
455 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 11:58:46 O
私は総括的包括的に物事を語るなら知識もそうあるべきと言ってるわけですよ
要するに偏った観点であることは許されないはずということですよ
考えに絶対的自信があるならちゃんと指摘された観点からも説明されるべきなんです
456 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 17:27:56 O
しかし量子論という難題を採り上げたがために説明に失敗したと。
457 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 21:00:09 0
>例えば、光速に近い移動をして戻って来たら浦島太郎みたいになるだろうし
これはちょっと面白い論題だが、ま、頭のキンキンな人の言うことだろうなw。
世間一般の常識が基準になっているのだ。これは人と人との契約である。
この契約上の、距離と時間の規定に基づいて、人は考えるのである。
大体古代は、早く走るものといえば馬ぐらいであった。時速40キロか?
のろいと言えば、亀か?馬で一日の路程も計算できるわけであった。
そこである人がニュースを持ち込んでいったとしよう。「だれそれが、路程
五万キロの旅から帰ってきた。」と。それを聞いたものはみんな、「おお、その人は
いつ出発したのだろう、さぞかし、年をとって髪の毛もなくなっておしまいだろう?
若いとこの美もなく、薄汚い老人でございましょう。この地では若い女の子が多くて、
老人は引っ込んでなければならないだろう」というだろう。
こういう状況の背景なのだな。
458 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 21:00:58 0
>>457続き
ところが、光の速度ののりものがあり、その人は其の乗り物で宇宙のかなたに旅に行ってきたのであり、
其の所要時間は一日であったのである。
先の契約上の時間と距離の基準から、其の人たちは判断したのである。其の判断を変えることはできないのである。
しかし、其の人たちも光の速さの乗り物を知り、それになれてくると、時間と距離の基準を其の乗り物に合わせるようになれるのだ。
五万キロのかなたの旅から帰ってきた人は一日の老化があっただけであるのだ。
時間と距離の基準は人々の契約によるのである。其の基準は、変化するのである。
現代のわれわれの時間と距離の基準と、古代の時間と距離の基準は違うのである。
現代のわれわれの時間と距離の基準と、未来の人々の時間と距離の基準は違うに違いない。
人間は古代も現代も変わらないのに、基準は変えられるのである。それは契約によるものだからである。
ところがこのことを知らないものは、基準は普遍であると妄想し、基準に合わないことを
不思議だ不思議だと思うのである。時間と距離というものは実体あるものと妄想しているのである。
459 :
考える名無しさん:2010/12/30(木) 21:28:41 O
という妄想は光速度普遍の原理によって脆くも崩れ去るのであった
460 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 11:05:33 0
オカルト的な意味で人生を、人間の本質を考察しようとする人にとっては、
人間の本性に畏敬の念を抱くことが無条件に必要です。
なぜなら、このことだけが人間存在の霊的根底に参入していける、
私たちの本当の見霊能力を呼び覚ましてくれるからです。
461 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 12:31:50 O
と江原先生もおっしゃっておりました
462 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 15:18:49 0
オカルト板に行け
463 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 19:57:33 0
花瓶がある
花瓶は元はカラッポだった
そこに花を生ける
いづれ花は枯れる
何年後かには花瓶も消える
誰も気づかない
無意味である
でもあのときの花の色は確かに純粋に綺麗だった
花と花瓶の素晴らしい時間は消え去っていく
あったとゆう事実さえ消え去る
でも花瓶に花を生けると綺麗なのは事実だ
464 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 20:33:53 O
生け花板に行け
465 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 22:02:39 O
ポエムに真実など無い
言葉は真実ではない
昨日、仕事帰りに気分転換に雑貨屋を覗いた
趣味に合うデザインの花瓶が安くなってたから一瞬欲しくなったけど活ける花がないので諦めた
467 :
【末吉】 【1239円】 :2011/01/01(土) 14:16:13 0
!omikuji !dama
あぼーん
空間が存在するにはそれを存在させうる空間が必要なの?
470 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 00:57:58 O
空間の外など無いですからして空間はそれだけで成り立ってるのだよ
空間のお外はない、って誰か見てきたの?
472 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 06:59:00 O
だから無から宇宙は出来たんだから存在するのは宇宙だけなの
厳密にいえば外って表現もあまり好ましくないわけだ
宇宙の外は見れない
無だから存在出来ないし当然見れない
473 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 08:21:16 0
シュレディンガーの猫って、思考実験だというが、猫の思考実験なのか?
誰か教えてください。
無から有が生まれるわけないじゃん
476 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 12:19:20 0
しろうとは勘違いしているが、シュレディンガーの猫って、実際には犬でもいいんだよw
477 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 14:20:32 0
この宇宙は観測するまであるかどうか決定できません。
478 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 14:21:22 0
あなたの体は朝起きてから観測するまでの間は存在しているかどうかを決定できません。
479 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 15:42:40 0
480 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 16:29:25 0
>>476 問題は、猫の思考実験というじゃないか。猫が犬に変わっても同じ疑問がある。
犬の思考実験か?
犬や猫の思考実験ではない説明なのだ。猫や犬は単に、ガスにより死んでいるかどうかの
試験体に過ぎないではないか?
なぜ試験体の思考を云々する必要があるのか?
481 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 01:28:55 0
シュレディンガーの佐藤さんでもおk
482 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 01:44:37 0
毒ガスは出たのだが、それに絶えうる遺伝子を持った猫だったため死ななかった。
483 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 02:01:59 0
買った宝くじが当たっているかどうかは確率でしか表すことが出来ません。
484 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 07:49:57 0
474の紹介のサイトの記述によると、東洋のゴーダマや老荘の
哲学に頼る必要があると科学者たちは気いてきてると言うじゃないか。
粒子=電子は無差別に同じ性質を持つものといい、それが波動という形を通して、
別の位置に別の電子と変化するという。
電子が波動という形態をとるということは、粒子が波動に変化するのである。
これじゃ、要するに、変化一般であるに過ぎない。変化は、結局、有無である。
有無は相対的存在である。非有非無なのだ。
やはり凡人は、変化のうちの、善いと思うほうを獲得したいのである。それに執着するのである。
物理というのは、やはり、くだらないこというべきではないか?
485 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 09:59:44 0
ちょっと光と闇に触れておこう。
あらゆる変化の中で、光と闇ほど大きいものがあろうか?
一日の中で、昼と夜の関係を作り出す。
光を明るさ:明とし闇を暗とする。
明と暗があるから、双方を認識できるのである。
明なくして暗なく、暗なくして明はない。
しかしながら、もっとも大きなものは、この世では最も大きい
支配力を持つものである。明は暗よりも支配力がある。
闇の中でも人間は、人工の光を作り出している。
其の光が、最も支配的な存在であるということは、光以外の一切の
ものが、其の支配下にあるということだ。これにより生命が育まれるのである。
闇があるから光を知り、光があるから闇を知る。闇の中にいて、これは闇であり、
闇であると知っているのは、今はないが光がほかに存在していることを疑わないのである。
如何に光の支配領域が大きいといっても、所詮闇と相対する存在に他ならないのである。
故に、光というものは無く、闇というものも、共に実体としてないのである。
486 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 11:32:02 0
時間というものの存在の認識のはじめは、一日のうちの昼と夜の
感覚が単位となり、次に、季節という変化の認識に基づき、一年という単位が
認識されるようになった。其の四季を一単位とすることの繰り返しにより
、年月を重ねるという認識になった。こうして暦というものが共通概念として
定着した。
一日を昼と夜の二つに分け、それぞれを12等分することにした。
こうして時間の基準が生じた。
あくまでも人間に基づくものであり、其の人間とは、地表に立っているものである。
ゴーダマが二足尊というものである。
光の速度があるというのも、この二足人の認識である。光に速度があるなら
闇にもそれに対応する速度が無ければならない。闇の速度も光の速度と同じである。
夕暮れは闇が速度を持って支配するのである。
487 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 11:33:26 0
おまえらゴー玉好きだな
シッタカブッタですから^^
489 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 21:23:17 0
490 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 08:38:28 0
だが、なんか地動説と天動説をもう一度考えて見たくなるな。
真実は無相一相であるということを考え直すのではなく、
真実が一相であることから、この世界の成り立ちを考えてみるというのである。
こういう順序でなければ、正しい方法とはいえないと思うのだ。
常に相対的に考究するのである。
基準はこの地球である。この基準が、地動説では、揺らいでいるのか、揺らいでいる
などというものではなく、ひっくり返っているのではないか?
アインシュタインがタゴールと対話したとき、アインシュタインは、人が死んでも
この地球はあるとか、そんな意味のことを言ったというが、これは正しいのか、非常に疑問である。
491 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 09:07:39 0
>光に速度があるなら闇にもそれに対応する速度が無ければならない
kwsk
492 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 09:21:58 0
闇は光の不在の状態を意味する言葉であって、「闇」という物質を指す言葉ではない。
493 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 21:13:34 0
これはゴーダマも言うところであるが、人は、真実を知っており、また不真実をも知っており、
もの一切は、相対的にのみ存在するしかありえないものである、ということもまた知っている。
真実を知らないなら、虚偽に苦しむことはありえないのである。虚偽を知らないなら真実を喜ぶことはありえないのである。
故に真実と虚偽は相対的にのみ存在する。これは最終的な門ではないが。
闇とは物体に光がさえぎられてできる影というべきだな。自ら影を作り出すものではない、光が太陽から発するのと
ちょうど反対だ。つまり対になっているのだ。
物体が無いなら、光も影も無いのだ。だから、物体が光と影を作り、
光と影が物体を作る、これもまた相対である。
ここから判らないのであるが、光の存在は物体に依存しているなら、物体が無いとき
太陽の光は、認識できないくて、宇宙は暗黒なのか?それとも宇宙は太陽の光の届く範囲内では、
太陽の光に満ち満ちているのだろうか?火星に行くロケットは、物体の陰に入らない限り
明るい宇宙を飛んでいるのだろうか?
494 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 22:09:25 0
gooによると、暗黒だそうだ。これで光と影が相対的に存在するといえる。
相対するものが平等な存在ではないとすると、相対の意味が無いのである。
相対するもの、ここでは光と影は、平等なのである。光は影であり、影は光
なのである。これを知って執着しないのである。
光の速度を言うなら、確かに影にも正反対の同じ速度が無ければ相対は成立しない。
この認識は、真実ではない。真実は一相である。しかし光を認識し影を認識するなら、
このようなものであると知って、執着しないのである。
光が一方方向に進むということを認めるためには、そもそも反対方向に進む概念が無ければ
ならないのだ。自分の立っているところを基準としてるのだから、そこには正反対の方向を認めなければなるまい。
495 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 22:23:38 0
>>492 >闇は光の不在の状態を意味する言葉であって、「闇」という物質を指す言葉ではない。
人は、人が存在してるとか、存在してないとかの、認識を示すが、それがどういうものかを知るべきで、それを哲学といっている。
あると思うものは、相対的の存在してるのであり、それは容易に人に理解されるものである。
光がある、つまり明るい、という認識は、暗いという認識を知っていることに依拠しているということである。
光が何の物質により構成されているかどうかは、次の問題なのだ。
絶対的な闇を語るわけ?
497 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 23:20:36 0
>>496 相は言ってない。そのような記述があればアテクシの間違いである。
闇は光と相対してる存在、と人は認識するといいたいのである。
498 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 01:01:02 0
>>495 認識はあるが認識しかない。「闇」という物体は存在しない。
ならば仮にその物体をあると仮定して計算した速度に何か意味があるのだろうか?
単に光の逆関数になるだけではないか?
499 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 15:07:47 0
光の存在=光 ←→ 光の不在=闇
有の逆を無と定義するのははたして正しいのか
闇=空間だと思えてくる
そもそも対象とする物理現象が人間の思考形態を逸脱しつつあるという時代にあなたたちは一体なにをどうしたいんですか。
そもそも対象化すること自体に吟味の余地があるとは考えないんですか。
502 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 19:42:48 0
503 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 22:09:38 0
504 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 03:45:42 0
時代によって変わるものなどない。
505 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 08:44:51 0
ものは相対的にしか存在し得ない。
電子も其の真理にしたがっているのだ。
電子は、粒子と波という相反する状態のものなのだ。
電子そのものは、いかなる存在でもない。
最小単位の粒子と波があるだけなおのだ。
それを電子と名づけたのである。
シュレディンガーがこのマクロの現象を、拡大した実験
(実験というのは語弊があるが)を発表したのは、自然なことだ。
これを不自然であるとする南条氏は、間違っている。
つまり、猫であろうと人間であろうとその他一切のものであろうと、
存在と人が認め、それを言葉で表現される対象は、すべて
二つの相反するものなのである。
猫は、猫の生と死という相反する状態を共に持っているものなのである。
このことを猫は相対的存在というのである。猫の猫自身の実体というものは無いということダル。
同じく人間でも、人間という実体は無いのである。これを人間は無我であるという。
506 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 08:45:36 0
>>505続き
重ね合わせの状態とは、相対的存在ということなのだ。
しかし、厳密に見ると、波というものが、そのまま粒子と相反する状態であるとは思えない。
波というものは、そのもので、名称を持ち、波そのものを考えることができるものだ。
これでは波が最小単位ということになる。しかし波の状態というのは、
地球に太陽光が当たると、半分が明るく残りが暗くなるが、地球そのものは
球体として存在していると、いう状態の模擬なんだな。
つまりひとつのものが、変化してる状態ということだ。
そして其のひとつのものって何だ?ということになる。
原始というものを発見し、其の原始のいうものをさらに見ると、原始そのものの実体が無く、
いくつかの素粒子からなっていたのだよね。だから原始の実体は無かったのだ。
それと同じに、素粒子そのものの実体は無く、波と粒子によりなっていたのだ。
こうして無限の追求をすることになる。粒子というものは無く波というものも無いのである。
一切は相対的に存在してるに過ぎない。
シュレジンがーの猫は、生と死という相対状態のものなのであり、猫という実体は無いのである。
507 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 19:33:31 0
>>506 >これでは波が最小単位ということになる。しかし波の状態というのは、
>地球に太陽光が当たると、半分が明るく残りが暗くなるが、地球そのものは
>球体として存在していると、いう状態の模擬なんだな。
>つまりひとつのものが、変化してる状態ということだ。
どうやったらこんなに支離滅裂な文章が書けるようになるんですか?
悟りを開けばいいんですか?
>>505>>506 馬鹿すぎる。
“波”で表されているものが単にn次元複素ベクトル(n=∞)なだけだ。
509 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 20:33:25 0
なぜ
>>499が馬鹿なのかと言えば、人間の目が処理できる光の周波数帯域は
限られている事を忘れて明後日の方向へ迷走しているから。
もしも人間の可視光領域が∞だったならば、目を閉じてすら“闇”を感じる事は
できなかっただろう。
“闇”という概念が誕生しなかった可能性すらある。
511 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 21:01:21 0
>>1 タペタムさんは少ない光でも物をよく見ようと工夫し過ぎですよ。
512 :
499:2011/01/07(金) 00:36:20 0
光と闇って人間の認識の話じゃないの?
515 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 21:40:14 0
光というものは速度を持って、一方から他方に流れるのか?
で、其の速度というのは、光子の速度なのか?
其の光子はどこへ行くのか?決して帰ってくるのではないのだよね?
人工光も光に相違ないよね?
どこから見ても光の速度は一定であるというとき、其の光は一定の形をとっているのだよね?
つまり、一方から他方にだけ流れるという。
光が絶対的速度を持つというのなら、そしてその具体的数字も明らかなら、
其の数字ではないものと相対的な数字ではないということになるが、
光よりも劣る速度があることは明白なのだから、それと相対的な数字であることは否定できない。
そう言うよりも、光を超える速度は無い、というのであろう。それならそれは絶対的速度であるという
よりも、最高速度であるというにとども無ければならないのだ。
絶対とは、対を持たないものなのだから。
いずれに下も光も有限速度であるなら、それは、相対的なものであり、決して実体としてあるものではない。
516 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 22:24:14 0
>>515 あんたは何をしたいんだ?
宗教で物理学を説明したいのか?
それなら相対の意味から勉強し直すべきだろう
>いずれに下も光も有限速度であるなら、それは、相対的なものであり、決して実体としてあるものではない。
有限である⇒相対的
これが全然論理的じゃないことくらいわかるよな?
517 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 22:42:09 0
無。時間も、空間も何も無い、完全なる無です。
そこにあるのは、「存在の可能性」だけ。
そこから宇宙が始まります。その瞬間から、時間、空間、現象、エネルギー、全てが生まれます。
そして原子が作られ、その50億年後銀河系が形成され、
その銀河系の1つがさらに千年後に惑星を作り、
そしてその14億年後にやっと人類が生まれるのです。
518 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 23:51:02 0
>>516 >有限である⇒相対的
これが全然論理的じゃないことくらいわかるよな?
有限と無限は相対してるだろう?無限を省略してるんだよ。
相対の辞書的な意味は、対を成している、、という意味だろう。
相対は、一方が無ければ他方も無いのだ。対を成してはじめて生じるのだ。
光の速度がどれだけ速いといっても、有限であることに変化は無いのだ。
しかし一方無限という概念もある。さらに、光の速度よりも早いものもあれば、
遅いものもあるのだ。そうすると、光よりも早いものと光の速度は、相対してるといえるのだよ。
なぜなら、光よりも早いものが無ければ光の速度というものはないし、光よりも遅いものが無ければ、
光の速度というものもの無い。これは、一というものが無いなら、三、四というものが無いといえる。
さらに言うと、一よりも三の方が、二だけ多いのだ。そうすると、一はゼロになり、他方は二になる。
ゼロと二は、無と有の関係である。無と有は相対してるだろう?無が無いなら有は無いのだ。
だから、三十万キロといえども、相対してる速さであるといわなければならないのだ。
519 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 00:13:14 0
宇宙は俺が5分前に作った。それよりも前に世界はなかった。
5分以上前があるように見えるのはあるように見えるように作ったからだ。
520 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 00:23:08 0
アテクシもどうも相対の意味が、アインシュタインの言う相対と、違っているのではないかと気づいていたのだ。
アインの言う相対は、本来の正しい相対ではないと思う。
まず判りやすい例を挙げよう。
今ここに真っ白な画用紙があるとしよう。そして其の画用紙は無限に大きいものとしよう。
今ここで、スポイトで黒のインクをたらしたとしよう。
そしたら、何が生じると思う。あなたの認識に何が生じると思うよ?
黒い点とそを取り巻く無限の白い範囲の色だろう?
黒い点は有限であろう?しかしそれを取り巻く白い範囲は、無限だろう?
ただし、黒い点の面積は含めないのだが。
こういう認識が生じるのだ。黒い天が生じると同時に白い無限なものが誕生したのだ。
この関係を、相対というのだ。
そして、白い無限の範囲というが、黒い点の面積だけは、侵略できないので、
この白い範囲のものは、相対的に無限であるというわ無ければならないよね?
とにかくこうして、有と無が誕生し、黒と白が誕生したのである。
こういう関係にあるものを、相対的存在、対の関係にある存在というのは、
間違いだろうか?こういうべきであると思うのだ。
そこで、アインの言う相対を考えてみると、どうもこういう関係を志向していないみたいなんだな。
521 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/01/08(土) 10:25:52 0
>>518 有限速度に対して、無限速度を相対速度として持ってくるのは、おかしい。
有限速度は、他の速度と比べた場合に相対的と言えるが、有限と無限は比較のしようがない。
それは、無限はそれ自体としてあるのではなく(おそらく無限な物というのは存在しない)、一般に有限と言われる物、
つまり、数えられる物同士を操作して概念として作り上げられる物だからだ
522 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 11:53:08 0
真実在は一相とか無相とかいい、故に不動であるといっているのに、
光の速度が三十万キロだとか、盛んに変化を扱っているが、こういうのを
愚かというだろうね。
キリスト教はイエスに基づいているが、其のイエスは、決して旧約の神
を全面的に認めていないと思う。イエスの信じたものは、ゴーダマの教えなんだ。
簡略に言うと。エレア派の教えなのだ。
このことを知らないということは、キリスト教を理解していないということである。
ニュートンも知らなかった。故に真理の教えから外れることを研究し、数年間、精神錯乱に陥ったのであった。
523 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 13:17:11 0
>>521 確かに仰せのとおり。
しかし有限は無限に相対しているといわなければならない。
>>520の画用紙の例にあるように、有限と無限は生じる、相対として。
しかしこの例によると、この有限、無限は相対的なものなのであって、
決して絶対的なものではない。
本当の無限には、この黒い点はあってはならないのだ。こんな異物を持つ無限は無い。
有にしても同じ。絶対的な有は、どこまで行っても当のものが有としてなければならない。
こんな少し移動するとすぐになくなってしまうようなものは、、絶対的な有ではない。
無限な白色は、白色しかないのだから、無相であろう?そして一相であろう?
次に有というものは、純一なものがうとしてあるのでなければならない。
何か混じっているなら、それは、初めに、白色の中に黒色の点があったように、
混じっているのであり、それが絶対的な白色の存在を妨げるものであったように、
純粋な一つのものでなければ、有とはならないのである、。黒色だけが無限にあるのだから、
この場合も、色を識別できないのであり、無相であり、一相であろう。
だから相対的に存在するものは、常に、絶対存在になることはできないのだ。
本当にある速度というものは、測定されるものではない。測定されるものは、
本当にある速度ではないのだ。
あの・・・アインシュタインの「相対的」は、ニュートン力学に対して「相対的」ですから
光の速さはぜんぜんまったくもって「相対的」という名称に関与してません。
525 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 14:48:02 0
うむぅ
そもそも相対性理論の信者が持ち出す重力レンズってものがうさん臭いからね
>>526 「うさん臭い」が意味不明だ
今回の用途における定義を教えてくれ。
最初、相対性理論の計算結果から重力レンズ効果が予測され、その後
の観測結果で予測通りとなったが、当時の技術では計算結果と実測値
との間に誤差があった。
それから百年たって観測技術が向上し、計算と観測の誤差はなくなり、
そのおかげで、遠くの星の重さや衛星の軌道のブレなどの誤差修正などが
容易になり、観測結果をさらに正確にクリーニングする事に寄与している、
非常に有用・有益な理論なのだが。
「うさん臭い」理論以上に正確で有益な理論が存在していない以上、
その理論を「うさん臭い」と表現する行為は全くの無意味だと思うのだが?
しかし当然、現在存在するあらゆる理論は近似値にすぎないので、
今後さらに精度の高い理論が誕生すれば、相対論はその新理論に
置き換えられる。
アインシュタイン自身も、相対性理論をより精度の高い万物の理論へと
発展させる事に、その生涯を懸けた。
>>527 しょうがないな〜。
じゃあ、電球と同じくらいの大きさの障害物の2つを用意して障害物を間において位置を調整して直接光をぎりぎりでさえぎって下さい。
暗い深夜にやってね。
どうですか?真っ暗にはならないでしょ。光は来てますし、どこからきてるかもわかりますね。
電球はそのときどこにあるか、光の見えている位置と電球がある位置を確認してください。
他に何か質問がありますか?
あぼーん
システムコール
531 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 19:14:02 0
アインシュタイン:「私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です
だとさ。こう言うものを真理とは言わない。これは部分的なものだから。
仏教的に言うと、縁起の理法に従っているものの一部でしかない。世俗諦といわれるものだ。
原因あっての結果は無きに等しいつまらないものだ。
これが旧約聖書から来る理法なら、それはサタンの教えである。
相対性原理もこの内に違いない。サタンの教えである。
532 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 21:25:22 0
533 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 21:39:08 0
>>524 >あの・・・アインシュタインの「相対的」は、ニュートン力学に対して「相対的」ですから
全然違いますから
534 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 07:27:21 0
535 :
1、2、3に答えてください:2011/01/10(月) 07:58:10 0
>>532 1.あなたは
>>527の人でしょうか?
2. 私文とはなんですか?”私文ですか?”の意味が不明です。きちんと言ってくれないと会話になりません。
3.
>>527の人なら
>>528に納得して矛を収めたとばかり思っていましたが。まあ、あなたが
>>527であろうがなかろうがいいのですが、議論再開するおつもりならその意思を示してください。応じる準備はありますよ。
536 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 17:56:49 0
>>535 1.違います
2.私文=私立大学文系=数学と物理をまともに勉強したことがない人
3.重力レンズの話を持ち出しておきながら
>>528のようなトンチンカンな解説をしてたことが目に付いたので質問しただけ
相対論以前に古典物理も理解してないようだから議論しても無駄かと
537 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 18:25:58 0
>>534 「全然」違うので、違うところと問われれば
"アインシュタインの「相対的」"の解釈がそもそも間違ってるとしか言いようがない
538 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 19:50:01 0
>>537 アインシタインが相対的現象でないものを、相対的といっているのは、
間違っている、というのか?それともほかに?
539 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 19:52:56 0
>>536 すいません、あなたは相対性理論の専攻生でしょうか?
そうでないなら、(あなたのこれまでのレスを見る限り)こちらの方こそ議論したくありません。
たとえば、相対性理論や重力レンズ関係でググると、たまに日本語の科学哲学の論文のようなものがpdfでヒットします。
そういうのを見た事があるのですが、ああいう手合とは議論はしたくないですね。(人間ができている人なら議論の余地は十分ありますが)
なぜなら、・・・ああ、長文をここであなたに書いてもしかたないのでこれ以上は書きません。
まあ527さんあたりが議論したいと出てくればそれなりに理由を長文で書いてもいいですが。ね。
>>537 解釈がそもそも間違ってるとしか言いようがない
便利な言葉だなw
誤魔化し以外のなにものでもない。
541 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 17:31:58 0
>>540 >>524 >あの・・・アインシュタインの「相対的」は、ニュートン力学に対して「相対的」ですから
これが間違ってる=
>>524の"アインシュタインの「相対的」"に対する解釈が間違ってることくらい一瞬でわかるんだが
>>541 もし仮に
>>524が間違っているなら、どんな理由でアインシュタインは
相対性理論を相対性理論と名付けたと言うのだ?
544 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 17:40:39 0
お前らが生きてる事がそもそもの間違いなんだよ
545 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 20:17:15 0
>>543 一般的には「相対性原理」の「相対性」が起源だろう。
546 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 22:17:34 0
>>545>>546 だからその、アインシュタインの「相対性原理」の「相対性」が何に対して相対的だよw
いい加減理解しろ、文系
ここまで言ってもまだ理解できなかったら、そろそろ「自分文系ですから」なんて言い訳もできない領域だぞ
549 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 22:51:24 0
「上海ガニ」
ランプ肉が食いたい
石畳のあの狭い路地のリストランテで
ランプ肉が食いたい
街路樹の葉は乾きすぎて黄ばんで
俺たちの肌も乾きすぎて黄ばんで
物語になってしまうのか
植民地になってしまうのか
そうなる前にカニでも蒸して
黄酒の壷をあけて
腹ごしらえをしようではないか
相対性理論は「relativity」。
観測系同士の、力学変数の関係性、変換式を示したものでしょう。
訳語を相対性としたのは、絶対性と対比する意図があったのではないかと推察します。
551 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 23:51:46 0
長いあいだ安定している文化や制度は、
それに対して生物レベルでの適応が起こったりするので(ぼーるどうぃんこうか)、
文化研究はこのへんがおもしろかったりもするのだと思う。
文化心理学はおそらくその先駆けだよね(ぼーるどうぃん云々までは言っていないけれど、
きっと繋がる。
552 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 10:00:24 0
>>547 >だからその、アインシュタインの「相対性原理」の「相対性」が何に対して相対的だよw
ある座標系での物理現象が別の座標系から見ても同じ方程式で記述できる
このとき2つの座標系は相対的であるという
したがって質問の形式に沿うように答えるならば
「ある座標系」が「別の座標系」に対して相対的である
なんでこんな高校生レベルのことをわざわざ書かなくちゃいけないんだ?
>いい加減理解しろ、文系
自己紹介乙
ちゃんと
>>546に答えろよ
>>552 google先生に上澄み情報を聞くしかできないから、流れも読めずにそんなマヌケを書くんだよ。
あと、言い方が悪いな。
「
>>546に答えろよ」 = 「
>>524が理解できません」
なのだから、「
>>546に答えろよ」ではなく
「僕のgoogle検索能力では何も分かりませんでした、かといってブルーバック
を読む忍耐力もないへたれなので、なんにも分かりませんごめんなさい
お願いですから答えを教えて下さい」
だろw
アインシュタインの理論はニュートン理論に対して相対的。
マジな話、ブルーバックを1〜2冊読めばこれがどういう事か文系でも分かると思うよ。
引き籠もってネット検索しかしないのがそもそもの間違いなんだよ。
・・・と思ったけど、どうせここまで言ってもお前らは自分の無知を知ろうともせず
まともな本で秩序立って知識を得ようともしない愚か者だろうから、答え書いとくよ
そろそろ飽きてきたからw
アインシュタインはニュートンの運動方程式では光を記述できない事に気付いた。
その原因は、時空を絶対的な固定座標として設定していた事にあった。
そこでアインシュタインはミンコフスキー空間と光速度不変の適用で光の運動が記述可能な特殊相対論を作った。
さらにそれをベースに重力加速度に関する等価原理を導入し、一般相対論を作った。
以上。
このようなな理解には、googleをうろうろと検索していてもとうてい辿り着けないだろう。
よって、
>>523の
「だから相対的に存在するものは、常に、絶対存在になることはできないのだ。」
などという発言は相対論を根本的に理解せず、名前の雰囲気だけで語っている駄文なのだ。
ニュートンは、時間については絶対時間を仮定しましたけど
空間については絶対空間を要請したわけじゃなく、ある程度、相対的ですよ。
557 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 17:08:04 0
世界線を逆行しようぜ
たかが言葉の歴史にそこまで熱く煽り合うことに驚いている
どうでもいいじゃないかとおもうんだが
559 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 18:45:29 0
>>555 >アインシュタインはニュートンの運動方程式では光を記述できない事に気付いた。
>その原因は、時空を絶対的な固定座標として設定していた事にあった。
>そこでアインシュタインはミンコフスキー空間と光速度不変の適用で光の運動が記述可能な特殊相対論を作った。
>さらにそれをベースに重力加速度に関する等価原理を導入し、一般相対論を作った。
>以上。
まずとんでもない事実誤認があるが、どうせ物理学を勉強したことないだろうからこの際どうでもいいとして、
これのどこがニュートン力学に対して相対的なんだ?
>google先生に上澄み情報を聞くしかできないから、流れも読めずにそんなマヌケを書くんだよ。
>引き籠もってネット検索しかしないのがそもそもの間違いなんだよ。
つくづく自己紹介が好きな池沼だな
キチガイに聞いてもろくな答えが返ってこないので誰か
>>555からどうやって「ニュートン力学に対して相対的」が導かれるのか解説してくれ
560 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 18:50:41 0
>>555 光の速度はどこから見ても同じ速度であるというのは、どういう意味ですか?
真空でも、大気圏でも同じ速度ですか?
光の速度の測定は、地上の大気圏内で行われている。どういうことかさっぱり判りません。
>>559 何も言えないなら無理にレスしなくていいぞ。
「説明されてもやっぱり理解できません」と受け取ったからw
>>559 たぶんいくら待っても解説できる人は出てこないと思いますよ。
>>550にあるとおり、相対性は観測系同士の関係を指したもので、理論に対してではないはず。
絶対性と対比する意図は確かにあったでしょう。
当時の物理学者はエーテルなる絶対静止空間に存在する媒質を探すのに躍起になっていて
それを否定し、新理論を打ち立てたのがアインシュタインですから。
564 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 20:37:48 0
ニールス・ボーアが正解。
したがって相対論はバイバイしよう。
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よろしく哀愁まで読んだ
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>>95 光だけの世界あるいは、黒色(闇)だけの世界ならば『一相』『無相』となる。
だけど実際は、光もあり黒色(闇)もある世界なので『一相』『無相』と言えないのでは?
>>96 『一相』『無相』と言えないので不死とはならない。ってことになる?
>>523 一つのものだけがあるならば無限となり『一相』『無相』となるが、光と闇があるよう
に2つあるとなると無限とならないし『一相』『無相』ではない?
ここでも『一相』『無相』と言えないので不死とはならない?
568 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 22:08:03 0
>>576 >だけど実際は、光もあり黒色(闇)もある世界なので『一相』『無相』と言えないのでは?
光と闇とは相対的に存在していることを理解するなら、光に執着することを避けることができるでしょう?
また同時に、闇に執着することも避けることができるでしょう。
この世界には、実に無限の光と闇の形態があるのです。其の具体的な一つに執着することになるのですよね。
そればかりではないですよね?唯一つの光と闇に執着するのであって、その他の光と闇の形態には執着していないんですよね?
簡単に、言うのではなくて、厳密に自分の心を観察するべきではないでしょうか。
執着している事柄のほかには執着していないのです。其の部分のほうがはるかに大きいのです。
そこのところを見ると、そこは闇と光の部分なのですが、なんら執着していないですよね?
執着しないとは、この部分を少しも考えないでいるようなものだと思うのです。
歴史上の事実を、そうすると思い浮かんできます。歴史上の事実はどう考えるのか、と。
其の事実もまた、執着し無いでいられると思うのです。
執着していない部分の心を拡大させるのです。
要するに、真実が無相一相空相、無願ですから、真実を信じることです。
このことを神を信じるといっていたのだと思うのです。
無願といいましたが、これこそ、真実を信じる態度です。真実は無相ですから、
何も取り押さえるものがないのですから、一切の願いを起こさないことということになるのです。
こういうと、無相とはなんとつまらないものか、ということになりますが、想ではないんです。
生死の苦しみはありません。このことをよく考えて見ましょう。
生死が無いのですから、不死です。
お答えありがとうございます。
>>568 > この世界には、実に無限の光と闇の形態があるのです。其の具体的な一つに執着することになるのですよね。
無限に関しては
>>86を読むと、この世界は有限のように思えますが・・・
どうお考えでしょうか?
570 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 22:47:54 0
>>567続き 前レスの番号が間違っていましたね。
>一つのものだけがあるならば無限となり『一相』『無相』となるが、光と闇があるよう
に2つあるとなると無限とならないし『一相』『無相』ではない?
相対(的)存在の意味をもう一度考えてください。95で言いましたように
二つのものは無いのです。これは、あなたの知性の命ずるとこの判断です。
先に画用紙に黒色のインクをたらす喩えを言いました。
インクをたらす前の画用紙が一相無相に相当します。インクをたらしたら、二つのものが
誕生しました。これらは相対存在です。
インクをたらしたのが、問題ですね。これが無いのが本来の状態なんですから。
インクをたらしたので相対存在が誕生したのです。これに対して、どうしてインクが
たらされることになったのか、という問いは、問いそのものが問題ではないでしょうか?
あなたの質問は、この質問だと思うのです。
相対存在は、無いのですから。何も誕生していないのです。これが答えになると思うのです。
571 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 23:09:05 0
>>569 >無限に関しては
>>86を読むと、この世界は有限のように思えますが・・・
どうお考えでしょうか?
この世界は混在しています。混在してるものは相対存在です。相対存在は
無いものです。純一なるものがあるだけです。それは無相一相空相です。
相対存在は必ず有限です。この世界が混在するものである限り、それは有限でしょうね。
様々な有限なるものが無数にあっても、何も無限な存在としてないでしょう。
あなたは、この様々なものが混在する世界の中で、何か無限にあるといえるものがあるといえますか?
>>571 無限のものはないと思います。
「無」の状態では草木や石も生物も五感も、なんにもない。
「無」と「有」を考えるとき、私達は「有」の側に存在しているのではないでしょうか。
星と星の間は何もない真空だそうだけど、この「真空」は何も物がなければ「無」とい
えるでしょう。
「無」の状態が星と星の間の距離を作るように、二つに分けてる。
人や星の存在する「有」と、何も物がない「無」(真空)の状態があるのがこの宇宙。
これでも「一相」なのでしょうか?
そうだとしたら私の理解力が不足しているのでしょう。理解できるよう頑張ります。
573 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 23:34:00 0
>>572 むしろこの世なんて全部無限な気がするわ。
574 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 00:04:04 0
>>572 >「無」と「有」を考えるとき、私達は「有」の側に存在しているのではないでしょうか。
人間は、空気が無いなら、生きて居れません。空気と人は相対存在です。其のほかにも大地と人は相対存在
ですね。人を囲繞する一切と相対存在です。無と有は相対存在です。人が有であるというとき
、其の時は、無と相対してるうを言っているのだと思うのです。一切の言語は、相対存在の認識であると思うのです。
人は有と無の両方の存在であり、有と無は相対存在であり、相対存在であるから、
人の実体は無いのであり、このことを無我というのであると思うのです。
>星と星の間は何もない真空だそうだけど、この「真空」は何も物がなければ「無」とい
えるでしょう。
「無」の状態が星と星の間の距離を作るように、二つに分けてる。
人や星の存在する「有」と、何も物がない「無」(真空)の状態があるのがこの宇宙。
このような考えをするのが物理学のようですが、ここが一番ゴーダマ等の知者と違うところです。
ゴーダマは、距離を持つ空間を、相対する一方のものと考えているのです。さもないと相対ということがいえなくなりますから。
其の空間にいかなる物質も無いとしても、距離を持つ以上です。この空間があるから、
人星の有がありえるのです。一方がかけると人星の有はありえないでしょう?
あなたの言われる真空と人星の有が相対していると認められる以上、相対してる存在である
真空と人星の実体は無い、つまり一相空相がそこにあるといわなければならないのではないでしょうか?
575 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 00:06:31 0
>>573 それなら、地球という存在は無限ですか?
576 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 00:08:49 0
>>575 なんつーか、地球って人間が勝手に呼んでるだけじゃん。
>>574 「無」の状態では草木や石も生物も五感も、なんにもない。
「無」と「有」を考えるとき、私達は「有」の側に存在していて、そこに実体をおいてる
からこそなんにもなくはないのではないでしょうか?
実体がないとは考えられません・・・orz
578 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 19:01:15 0
579 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 19:43:21 0
>>577 >「無」と「有」を考えるとき、私達は「有」の側に存在していて、そこに実体をおいてる
それではあなたの言う「無」とは何を指しますか?
>>576 しかし、月と区別するために、太陽と区別するために。
そして、地球が月とまた太陽と縁起してることを認識したために。
580 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 20:38:35 0
>>577 真実として一相なるもの無相なるもの空相なるものが実在するのです。
それは永遠なるもの、それから逃れることは不可能である。
こういう意味で、一切は真実として「有」なのです。
こういう真実があるがために、この真実に反する考えは、其の考えを直し、
真実に従うようにならない限り、地獄から逃れることはできない、というべきだと思うのです。
>>578 道は有無を超えたものであるとか・・・なんのことか解りませんでした。
ページの紹介ありがとうございます。
>>579 「無」は物も思考も時間も変化もない状態だと思います。
それに「無」は、星と星の間の物が何もない真空と考えていたのですが、距離は何になるかと
考えると、真空の方は解らなくなってしまいました。
でも、「無」が存在を2つ以上に分けることにもなったのかな〜とか漠然と思い描いてもいます。
>>580 地獄は嫌です。 (つД`)
582 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 22:50:33 0
ギリシャのパルメニデス、パレスチィナのイエス、インドのゴーダマ、そして
中国の老子荘子、大体同じ時代なんです。面白いですね。
そして、同じ思想を説いているのですが、住んでる環境がもろに出ているんですよね。
地中海世界では、気候が温暖で、四季の区別が無いわけではないんですが、それほど
感じなんでしょうか、気候に対する関係をあまり言わないんですね。インドでも相です。
ところが、中国は日本と同じ気候帯といってもいいでしょう。四季の区別がはっきりしてるんですね。
で、その影響を住んでるものはもろに受けるので、それに言及することが如実にあるんです。
ですから、老子荘子の教えのほうが、理解が容易といえるのです。
それから、教えの要のところ、真理真実の教えを、フォーカスしているのです。
老荘ほど、教えの要のところを、重点的に、いや、というよりも其処だけを独立させて
説いているといったほうがいいかも、知れないほどなんです。
老荘は、ゴーダマやイエスと比べると、知名度というか、尊重される度合いというか、
それがあまり無いようです。比較的ですよ。
それを言うならパルメニデスの教えは、老荘よりも知名度というか、尊重度は
どっこいどっこいですね。ま、こういう比較はいい加減なものにならざるを得ない感じがします。
「荘子」は実に人類の宝です。アテクシは仏典よりもアジア人に適してるのではないか、と思います。
時間は「物の動き」だと思います。
動きが生じて「物が存在」して、時間が生じるのだと思う。
なので、動きが無くなれば、物も時間も無い。
静止している石とかでも振動によって石として現れてるらしいし。(物理に詳しくないので、間違ってたらごめんなさい。)
「物の動き(時間)」言い換えれば、変化があって存在してるのだと思う。
そして、その変化の中に存在する「有」の側にあって、人は肉体が死んだ後も霊か何かに変わりゆくのかもしれない。
だけど「無」にはならない。と言うのも、「無」には変化もなにもないから。
このあたりは仏教の諸行無常に通じてるところがあると思います。(霊になるとまでは説いていないと思います)
人は肉体が死んだ後も霊のような状態で生き続けるのかな。
そうなれば仏教で言うような肉体が生きている間だけの世界観に執着しない、というのも
判る気がする。
肉体は死ぬけど霊は死なない不死みたいなことになるかな。
その先はどうなるのかということ迄は考えが及びませんでした。
変化(時間)の中に存在しえて、生きてる間は肉体と五感と意識や思考を持っていて、肉体が
死んだら霊になるっていうのが実体のように思われます。少なくとも、なんにもない「無」
ではないと思います。
物の動きで存在、動き(変化)が時間を生じさせ、人は肉体が死んでも霊か何かに移行して
生き続ける(不死)
これで、存在、時間そして不死?
私は>>1さんじゃないけれど、こんなのはどうでしょうか?
584 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 23:33:53 0
>>583 >物の動きで存在、動き(変化)が時間を生じさせ、人は肉体が死んでも霊か何かに移行して
生き続ける(不死)
人間については当てはまるだろうけど、人間以外のもの、無生物といわれるものには
当てはまらないね。
人間と大地、空気、食物の関係がなんら言われていないね。
人間大地が無くて存在できないし、空気が無くて存在できないし、食物が無くても存在できない。
やはり哲学の目的は、人の幸せであろう。
あなたの主張で、人は幸せになれるだろうか?なれないと思う。
相すれば、価値の無い主張というべきだろう?
死んだら「無」になるのならば、生きてるのは無駄っていう意見があります。
>>583だと生きてるのも無駄にならないということで、まだ救いがあるかなとか・・・
プラトンの「プロタゴラス」にこんな話があります。
神々によって死すべき種族の動物と人間が作られた。
動物たちにはエピメテウスが与えた能力でうまくやっていけていた。
プロメテウスはアテネとヘファイトスのところにある火と知恵を盗み、それを人間に与えた。
やがて、人間達は争いを起こすようになり、滅びそうになっていたのを心配したゼウスが
ヘルメスを遣わせてゼウスのところにある「つつしみ」と「いましめ」をすべての者に与えて、
調和をもたらし滅びないようにした。そして、この「つつしみ」と「いましめ」を持たない
ものはゼウスの命により死刑に処される。
死すべき種族に死刑と言うのもおかしな話だから、この「つつしみ」と「いましめ」を持って
いると死すべき種族から免れることができるのかもしれない。
ヘルメスがすべての者に「つつしみ」と「いましめ」を与えたのだから、それを持たないこと
はないと言いたくなりそうですが、アテネとヘファイトスのところにある火と知恵、ゼウスの
ところにある「つつしみ」と「いましめ」を人間に与えたので、オリンポスの神々は死ぬこと
はないにしても動物や人間に与えた能力はなくなってしまったのかもしれない。
このところをわきまえ「つつしみ」、争いを起こして滅びないようにという「いましめ」を持つ。
こうして与えられた命や能力や技術を神々に感謝して調和を持った生き方を心がければ、死から
免れられ、オリンポスの神々に出会えるときが訪れるのかもしれない。
588 :
587:2011/01/15(土) 09:58:46 0
「プロタゴラス」にあるのは前半の。
> ものはゼウスの命により死刑に処される。
までです。
後半は、僕の解釈です。
>死んだら「無」になるなら、生きてるのは無駄
なら最初からこの世に生きないであの世で生きればいいと思うけど。
591 :
586:2011/01/15(土) 14:21:00 0
>>589 そうですね。
(´・ω・`)
(´・ω:;.:...
(´:;....::;.:. :::;.. .....
592 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 16:11:17 0
>>585 そう、それに尽きる。
>>587 プロタゴラスやゴルギアスのソフィストは、パルメニデスに同調してると思う。
それから、ペリクレスなどもそうだ。これらに人は弁論が優れていた。
弁論というものは、やはり、事象の真相を理解していないと、語ることができない。
雄弁には理由があったのである。
彼等に反して、ソクラテスやプラトンは、パルメニデスに同調していなかった。。
だから、ソクラテスやプラトンは哲学者としては三流というべきである。
アリストテレスもそうだろう。
近代の西洋哲学は、プラトンの流れである。プラトンはイデア論すなわち観念論である。
これはものには本質というものがあるという流派である。これはパルメや老荘の拒否するところである。
さて、プロタゴラスはギリシャ神話を持ち出しているが、これは、自分の主張に利用している。
このつつしみと戒めというものは、どこから来るのだろうか?真実が一相であるというところから来るのである。
一相空相無相であることを知らないものは、この真理真実に反して、何かあると思っているものであり、
其の何かは、価値あるものと思っているものに執着してるのである。これを得たい、また得たと思っているなら、
それをいつまでも持ち続け、また拡大したいと思うのである。これがつつしみを
はかいし、戒めを破るように仕向けるのである。一方一相無相にとどまっているものは、
無願にあるのだから、其の態度そのものがつつしみであり、戒めの境界にいるのである。
真実を離れてはいかなる徳も無いのだ。
ソクラテスが死刑になったのは相当であったといえる。彼は民主政体に安住することを教えたに過ぎない。
593 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 16:25:09 0
594 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 21:14:02 0
天地は創造されていないのである。
ビックバンは起きていないのである。
一切のものは、あの無限な大きさの画用紙の上に落ちたインクの滴りが
作り出した、相対存在なのである。
心臓が止まって体が硬直しだし、冷たくなって自ら動くことができなくなる。
これがなければいいのだけれどな〜
>>593,594は生きてますか?
596 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:05:28 0
>>595 自分の心臓は、一人で動いている、自分の神経は、ひとりでに反応している、
などと考えるし、そのように現代の医学は教えるが、とんでもないことである。
あなたの心臓は、空気が無いならすぐに途絶えるのだ。あなたの神経は、対象物が
滅するなら何の働きもしないのである。これを相対しているという。
こういうものは、相手に依存して存在してるに過ぎないものであり、自存しているのではないのである。
心臓は空気と相対しているのであり、空気が無ければ心臓は無く、心臓がなければくうきはないのである。
したがって、心臓なるものは無く、空気なるものは無いのである。
無いものをあると思って、話を構築するのを妄想と言うのである。違う?
あなたは生きているか、死んでるか、と問うが、死も生も無いのに、そのように問うのは、
妄想である、と思うのです。違いまっか?
>>596 違うなあ。
ネット始めて12年だけどこんなに違う書き込みは始めてみた。
598 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:24:43 0
以下に赤子の例を引いて説明しているが、この見識は、イエスキリストが、「あなた方も赤子『みどり児』
のようでなければ天国に入ることができない」といったものと同じであると思う。
外界に対してこのように振舞うものは、外界があるとか無いとか、死んでるとか、生きてるとかの思いは無いのではないでしょうか?
http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/17_27soujihtml.html 老子が答える「衛生の常法とは、一を抱く、すなわち自然の大道と一致する事であり、自己の本然の性情を失わない事である。
ト筮(ぼくぜい・占い)して吉凶などを判断することなく、自己の置かれた境遇に安住する事であり、全てを自然のままに任せることである。
他人のことに心を煩わせず、自己を充全に保ち、常に心のびやかに、自己を空虚にし、赤子のようであれば良いのだ。
赤子は一日中泣き続けても声がかれない、それは自然のままに声が出るのであって、自然の道と和合している。
また一日中、手を握り締めながらその手がしびれない。それは生まれながらの性情が自然の道と一致しているからである。
また一日中、目を開けていても瞬きをしないのは、別に何を見ようなどと心が外にとらわれてないからである。
赤子はこのようにして、歩いてもどこに行こうという心がなく、常に何かをしようという考えもない。
全て自己のおかれたままに物と順応して、自然の成り行きにあわせ、波に揺られるように生きているのである。
これこそ生命を全うするところの衛生の常法である」。
599 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:25:29 0
>>598続き
南栄がまた尋ねた「それではこれがあの至人の徳と言うべきものですか」
老子「いや、違う。以上話した事は、ただ氷が溶けてもとの水にかえる状態を言ったまでだ。
至人といわれるものは、衆人とともにこの地上に生活し、天地の自然をともに楽しみ、
道と一心同体になっている者である。それがためには、人物利害によって心を乱すことなく、
人と変わったことをせず、たくらみを心に持たず、何か事をしでかそうなどとせず、心伸びやかに、
自己をむなしくして生きなければならない。これが衛生の経と言うものである」。
「それで充分なのですか」「いや、これではまだ充分ではない。お前に赤子のようにといったが、
赤子は身を動かしても何かをしようという心がなく、歩いていくにしてもどこに行こうという気持ちがない。
あたかもその身は涸れた木の枝のようであり、その心は冷たくなった灰のようで、一切心を働かすという事がないのである。
この様な者には災禍が降りかかってくる事も無ければ、幸福が訪れる事も無い。
つまり天地には禍福が無いのである。だから人の世の禍福などを受ける事はありえないのだ」。
600 :
595:2011/01/16(日) 15:25:31 0
>>596 595で言いたかたっのは肉体の死がなくて不死であればいいな〜ということです。
なんで死にたくないの?
602 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:31:40 0
>>600 肉体という個物は無いのである。
肉体は、囲繞する空気があるから存在できる。つまり空気と相対してる。
相対存在は実体が無い。つまり幻である。
肉体そのものが無いのに、肉体の不死を望むのは、ないものをあると思って
話を構築していないだろうか?
603 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:33:06 0
>>602 ためしに自分の指、1本でも切り取ってみればいいと思うよ。
無いから平気でしょ?
605 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 15:42:19 0
>>604 上記の赤子は自分の指を刃物を持ち出して切り落としますか?
どうしてしないのでしょう?
自分に指があるとさえも思ってないからでしょう?
この赤子に学ぶべきだと思うのです。どうして指があるなどと思って
切り落とすなどすべきでしょうか?
>>601 肉体が死ぬのはお葬式で見てきたことがあるのですが、そうじゃないことがあるとなると、未知の世界でなんとなくワクワクするからです。
それで、死なないことがあればいいのにな〜と思ったのです。
608 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 16:00:09 0
>>607 自分に足があると思って歩くのではないのと同じでしょう。
610 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:17:20 0
赤子は足があるとか無いとか考えないということです。まして足があるから
歩けるとか足が無いから困るとか考えません。それを考えるのは欲に支配された
大人であると思うのです。
でも足があるのは認めるんでしょ?
612 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:24:53 0
だれが?
歩いたという実感の後に己の足が見出される
歩くのに使えればそれが足と判断される
>>602 指がないのにどうやってこのスレに書き込んでるのですか?念でも使って書き込むのですか?
指があって体が無いお化けではありませんよね?
体はありますよね!
615 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:34:01 0
akagoha,souiukotowo,kangaenai.
平均的大人の都合だな、足の有無は
時間=恨み
618 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:04:13 0
>>641 すべては縁起、すべての現象は相対存在、ということ。
今タイプをしてるのも縁起、相対存在。
相対存在にはいかなる命も無いのだ。心臓の鼓動することが命ではないのと同じ。
620 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:39:35 0
>>619 赤子が縁起現象に少しもとらわれないで行為するのを見本としなければならない
と言っているのだ。
もちろんアテクシもそのように行為する必要がある。
さて、真実が一相であるとするなら、神様がいるとかの教えはまったくの妄想であることがわかるだろう。
この意味で、ゴーダマは、信仰を捨てよ、と言ったのである。一相に反する
神様への信仰など、まったくの何物も得ることが無いのである。
そこで、このような妄想をあなたに強要してくるものがありえるのであるが、
そのものにどう対処すべきか?其の強要行為もまた実体がないのであるが。
これに対する態度が、知者のこの世界での行為となるのである。
老子と荘子は、書き物に真理真実の説明を、他のどの知者よりも効果的に説き示した。
労使も荘子も、政治に身を入れることは愚の骨頂であると言うような教えを説いているが、
、やはりこの世間で生きている以上、彼の収入源であるぞうり職人{?」ではなかったのである。
やはり先生であったのだ。
ゴーダマはこの教えの伝道に生涯をかけた。
パルメニデスは、この教えを先生として弟子に説いた。
イエスはご存知のとおり、やはり伝道であった。
荘子の友である恵施は、有能な政治家として活躍した。彼が余り有能で
他を引き離す存在であったので、嫉妬を受けギリシャで言う陶片追放のような目にあって、失脚した。
世界が光だけで、その中にあれば光であるかもわからない。こういうのを「無相」と言うのですよね?
光だけではなく闇もあると認識できるのは世界が「無相」ではないからですよね?
どうも、「一相」「無相」とかいって何も無いといってるのは、事実に即しないことを言って人を惑わす言葉のように思えます。
>>620 エピソード記憶があるからこそ哺乳類はここまで生きてこられたわけですが・・・・
それを今更昆虫のようにイ`とか無茶おっしゃいますね
623 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 21:35:25 0
>>621 無相という真実は、あなたに、あなたの肉体は無い、あなたの心は無いと教えているのです。
あなたが悲しむ原因があるときに、無相は、それは真実にはありませんよ、と教え、
あなたが喜ぶ原因があるときには、それは真実の喜びではありませんよと教え、
あなたが騙されて悲しんだり、騙されて喜んだりしないように教えるのです。
つまり真理真実と虚偽を教えているんです。虚偽をあなたは受け入れると言うのですか?
幻を追いかける人は、キチガイで、哀れではありませんか?
真実にとどまって、平安にいることを教えるのです。どうして反対できましょうか。
>>622 いいえ、ギリシャ神話の神々のようになるのです。罪を犯す前のアダモとイボのようになるのです。
真実が一相の姿を見せ、私が無相の姿を見せるなら、このことに気づくべきだった。
あきめくらであったこと。真実が見えたときは、私の中にも真実の姿が映し出される(私
が像をゆがめなければ)ときだ。オイディプスの悲劇を逆回しにたどるような運命をたどってきた。
そのとき私は無相から救い出されるような、きがする。教えは結構厳しい、現実が私にとって厳しいからか。
私が、現実に相即な、一相であるならば真実と同相である。真実は気づかないところにあると言
うべきか。真実とはtrueという概念だから、0か1かのどちらかであり、falseでなければ真実だから、
一ビットの一相にまで、シンプル化できるというのも分かる。永劫回帰は担うに重い(ミラン・クン
デラ)。を入れるならば、それを肩代わりしてくれる存在を自分で作らねばならない。目的が、未来
意外には存在しないから。裏切られても、信じることを否定するなら、猜疑心か、ニヒリズムか
アパシーか錯乱かろくな運命が待っていないように思えるが。自分を裏切れば、信仰を保てるよう
になるとか、本末転倒でわけがわからない。
625 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 22:31:52 0
ゴーダマや老荘の教えは、理解を前提とする。
理解できるまで、あわてないことだ。
イエスの教えには、この理法が無い。しかし理法があることを考究できる。
つまり,神とは唯一なるもの、と言うからである。唯一は無相の意味、一相の意味
空相の意味、無願の意味、に必然的になるからである。
一、現実で感じた姿が一であろうと無しであろうと、アイデンティティという点では一という同じ存在である。
一、このアイデンティティは本質を表す。
一、というのは、すべての物が、共有するものにこそ普遍性があると思えるからだ。
一、多として感じられる現象は、自然に任せるままにしておける。
一、というのも、自然を超えた真理――神などの、超越的存在――を見るには、一という考えを入れておく工夫が必要である
必要があると思えるからだ。
一、さらに、自然は私がいなくても、自然であり続け、私の介入する必要がない物が自然であるからである。自然には大勢の
他者も含まれる。
一、というのも、自分の力で変えることができる物は、私の身体と考えだけであるからだ(非―自然)。
一、考えの一致において、他者あるいは自然との合一がはかられるのであり、対立は多、合一は一になるものである。
一、上の行は、アイデンティティが、本質を、他との関係する働きにおいて、現象させるので、アイデンティティ
の内的な側面に注目したものである。その外的な側面は、非―自然であって、雑多な現象であり、それを一つにまとめる
概念的思慮を持たなければ、全体を理解することの不可能な物である。
627 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 22:12:39 0
真実が無相一相であるということは、何も発生しないということである。
発生しようが無いということである。
であるから、自分が何をし様が、それは真実に対抗するものではありえないということである。
ここに人の自由がある。何をし何を言っても、それは何かを作り出しているのではないのだ。
人は原因と結果ということを耳にしている。原因も結果ももともと無いのである。
原因が結果を作ることも無く、結果が反転して原因になることも無いのである。
この真理真実に従って行為すればokなんである。
この真理真実に立ち返れ!原子爆弾もあなたを傷つけないのだ。
628 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 07:45:38 0
アインシュタインの舌をベロンと出した写真を知ってるだろう?
あれはアインシュタインが、自分の言った相対性原理は、嘘偽りであるといったものではないかと思うのだ。
それはピタゴラスの定理のようなもので、真理というよりも、定理もしくは公理である、というべきものだ。
それも定理の中の一部、公理の中の一部、なのである。
>>628 つまりヒロシマ、ナガサキは日本軍の捏造といいたいわけですね
あなたは在日朝鮮人かなにかですか?
630 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:24:41 0
>>629 アメリカが、原子爆弾という大きなものを捏造し、日本人は其の捏造に騙され
屈服したのである。
真実には何もおきていない。
もし日本人の中に、真理真実が一である事を信じていたものがいたなら、
そしてそれを実行していたものがいるなら、アメリカ人の捏造に騙されないで
害を受けなかったであろう。
日本人はみんな、罪深い国民であったので、免れるものはいなかったのである。
罪深いとは、真実が無相一相であることを信じなく、真理真実を蹂躙していたからである。
今後も同様なことが真理真実を信じないなら、いくらでも起き得る。
>>630 じゃあ誰かがあんたの心臓を包丁で一刺ししてもなにも起きないんだね?
632 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:25:18 0
何の理由で殺そうとするかだな。
>>632 理由は真理真実から発生するものであり、真理真実にとって理由は不要です。
634 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 20:11:05 0
真理真実は無相だから、人を殺そうということは発生しない、と思うが。
636 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 22:02:38 0
原爆というものはアインシュタインの妄想という捏造だって。
それ以上に日本人は妄想をする国民でだったので、アイン主体の妄想に屈服して沸け。
妄想とは真理真実を認めないで、真理真実に反する世界を捏造する。
なんかアインシュタインの妄想と日本人の妄想の大小が逆転してきたが、
妄想の大小は関係ないのだ。先に大小は有無の関係であり、有無は非有非無である、つまり
大なく小なく、というのが真実であるといったとおりである。
しかし妄想の小さいほうが、真理真実に近いというべきである。とすると
真理真実に近いほうが強いということになろう。しかしこれは一時的で、完全に妄想が
消滅しないなら、いずれ地獄に転落するというのが、道理の示すところなのだ。
仏教の天界という境涯の人は、空の真実を知らず、それを体得しないので、いずれ地獄に落ちる
運命にあるというのは、アインシュタインのことである。
637 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 22:36:15 0
>>636 なるほど。
つまり真理真実を認めているお前は、自分の心臓を包丁で刺しても平気という事か。
ちょっと刺してうpしてみてくれ。
>>627 >この真理真実に立ち返れ!原子爆弾もあなたを傷つけないのだ。
原子爆弾で傷つかないなら包丁なんて痒くもないわな
639 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 00:04:11 0
>>637-638 残念ながら、俺には心臓というものがないのだ。だからそういう真似事はできないのだ。
しかし、参考になる例を行っておこう。
アテクシは国道を左右を診て注意して渡るのが面倒に思った。そこで
車が来るのをお構いなしにわたった。自動車に引かれてるはずなのに、
なんともなかった。ところが自動車の運転手は手っきり人をはねたと思って
驚愕し、其の現場で三日間読経を上げた。自動車の中に簡易の仏壇を作って。
其の事故現場を見ていた近所の人は、その人もアテクシの真似をしてみようと思い、
実行したところ、死んだ。
またあるとき、アテクシはみやげ物店に入ったところ、狭い通路に外人夫婦がいて
、其の奥さんが腰をかがめてアテクシの通行を妨げていた。アテクシはエクスキューズミ、と何回か言ったが
そ知らぬ風であった。そこでアテクシは、気合を込めてそこを通り過ぎた。
其の亜麻色の髪の女は、土産物屋の外に出て、アテクシを呆然と見、絶対に通れないと思っていた。
と言った。
物理と言うものがないと言うことを証明してるだろう?
原子爆弾の破裂とても同じ理屈だ。
640 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 00:19:41 Q
>>639 心臓がなくても構わない。
お前が自分の左胸に包丁を突き立てた写真をうpしてくれれば満足。
じゃ、待ってるぞ。
641 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 05:31:57 0
>>640 脅すわけじゃないが、あの亜麻色の髪の女の望みがまったくかなえられなかった、
その結果と同じことがあなたに起きるのだ。
其の女は自分の罪の中に閉じ込められて地獄に落ちているはずだ。
それと同じように、あなたも自分の罪の中に閉じ込められる。
あなたの場合は、殺人と言う罪の中に。
真理真実が一相無相であるが故に、自分の罪は自分に帰らざるを得ないのだ。
真理真実は、人の罪から離れているのだ。
地獄への道は善意で舗装されている
643 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 10:57:40 0
>>641 あれ?
真理真実が人の罪から離れているなら罪と言うものもないんじゃね?
644 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 12:17:05 0
>>643 いい質問ですね〜。其のとおりでございます。
罪とは何もないのに、何かあると妄想することに他ならないのであります。
>>639 ま、とりあえず左胸に包丁を刺した写真うpな。
>>641 >>644 俺が求めているのは真理真実のデモンストレーションであるから
これが罪となるというという妄想は抱いていないし、お前と俺との間で
デモを「見せたい」「見たい」という認識が共有されれば、お前が
うpした写真を俺が見ることは可能なはずだ。
俺とお前の間で共有された真実こそが真実だ。
違うか?
アテクシや亜麻色の髪の女、原子爆弾はこの文脈になんら関わりの
ないノイズにすぎないので、そのようなたとえ話はいらない。
今後も同様なたとえ話はいらない。
次のレスは、必ず包丁を左胸に刺した写真うpに限定されるべきだ。
写真以外の内容が言及された場合は、お前が逃げた・嘘をついた・
詭弁を弄した、と判断せざるをえない。
いいな、次のレスは写真以外は不許可だ。
嘘をついていないなら、逃げる必要はどこにもないはずだ。
646 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 12:42:49 0
>>645 >デモを「見せたい」「見たい」という認識が共有されれば、
残念でした。アテクシは、見せたいという気持ちはないんです。
あなたはサタン?
ローマ帝国の物語-53 イエス荒野の試練 ローマ帝国の物語
洗礼を受けた後、修行のため荒野に入っていたイエスの前に悪魔が現われ、イエスを誘惑します。
まず断食を行っていたイエスに対して 「 神の子なら石がパンになるように命じてみよ 」 とそそのかしますが、
イエスは 「 人はパンだけで生きるものではない 」 と神の言葉を盾にしてこれを撃退、続いてエルサレム宮殿の屋根に連れて行かれたイエスは
「 ここから飛び降りて、神が救ってくれるかどうか試してみろ 」 と云われますが
「 神はためしてはならない 」 とこれを拒否しました。 さらに高い山の頂から
「 ひれ伏して悪魔を拝むなら、ここから見渡せるすべての国々とその栄華を与えよう 」
と誘惑されますが、イエスは 「 神のみを拝み、神のみに仕える 」 とやはり神の言葉を引いて魔を退けました。
647 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 15:39:06 0
????????
>>646 旧約聖書 申命記 6.16
あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない
だなw
その傲慢な引用をするような気もしたよw
その引用は、神の存在証明である奇跡を起こすことのできる神の子が言うから
こそ、意味があるのだよw
キリストは自ら磔になってから復活し、正しさを証明したのだろう?
正しさを証明することなく、偽りの言葉に逃げる行為こそが悪だ。
嘘吐きな悪魔がいるとしたら、それはお前だ。
>>646が聖書の言葉を本来の意味にそわずみだりに引用する糞野郎で
あることが証明されたわけだが、
>>645で俺はこうも言った。
「アテクシや亜麻色の髪の女、原子爆弾はこの文脈になんら関わりの
ないノイズにすぎないので、そのようなたとえ話はいらない。」
「いいな、次のレスは写真以外は不許可だ。
嘘をついていないなら、逃げる必要はどこにもないはずだ。」
それに対する
>>646返答は、まさにノイズそのもの。
嘘をついて逃げていることは、ここでも証明される。
神の言葉に敬意を払わず貶め、他人に対する誠意もない。
自らの言葉のつじつま合わせが一番大事な糞野郎。
650 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 19:18:37 0
ムムム w
言論の自由はいいね。
651 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 18:16:10 0
・・・・・・
>>636 >原爆というものはアインシュタインの妄想という捏造
右翼団体の前で同じこと言えます?
653 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 19:52:42 0
>>652 右翼団体と原子爆弾の関係がわからない。教えて。
654 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 04:02:40 0
bbc問題。実際どうして原爆投下の広島に、有効な電車が動いていたんだろうか?
655 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:12:20 0
被爆しながら、電車で、何時間係ったか正確に知らないがやっぱ何時間だろう、
電車内でどうしていたんだろう、電車の運転手や車掌は?同じくだろう。
広島から長崎までなら、相当な列車であろう、乗客も何百人も居たであろう、
・・・・・?????
長崎についてまた被爆という。。
被爆には程度があるのだ。二重被爆といっても軽症なら,ありえる。
ある意味、世界で最も運のいい男、といえるかも。
原爆投下から三日後の広島や長崎で数時間作業して帰って
数ヶ月で放射線障害で死んだ人もかなりの数いるけどな。
657 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 18:20:25 0
放射線など少しも効力のない人もいるけどね。
658 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 18:22:04 0
色は実体なれども形は実体にあらず
小さな電球が一直線に無数に並んでいる状況を想定してください。
電球はみな点灯しています。
一個の電球 A が消灯します。直後に隣の電球 A + 1 が消灯し、A は点灯します。
直後に更に隣の電球 A + 2 が消灯し、A + 1 は点灯します。
これが次々に繰り返されるとします。これは人間の目にはどう映るでしょうか?
そこに何か実体があって、それが高速で運動している・・・
ここで、実体は電球だけです。電球以外にはいかなる実体も存在していませんし、
何も運動してはいません。
映画スクリーンの上の画像も同じです。そこでは実体はスクリーンと一点一点の光だけで、
それ以外にはいかなる実体も存在していませんし、何も運動していません。
テレビのブラウン管も同じです。
人間の視野は例外でしょうか?
そこで実体は一点一点の色だけであり、そこにはそれ以外の如何なる実体も存在してはいず、
運動してはいないのです。
女の美しさも、あなた方の好きな女の体も、実体にはあらざるものであり、
この世には在らざるものなのです。
それらは虚であり空であり幻であり無であり決して得られぬものこの世には在らざるものなのです。
実体は一点一点の色だけであり、そして色だけが真の物理現象なのです。
ちなみに、色は縦の存在であり、数学的不可能現象です。
数学が扱えるのは横の存在、広がりです。
そして人間の脳は(動物の脳も同じでしょうが)非実体、
この世に在らざるものの世界に遊ぶようにできているのです。
脳とは、非実体の世界に住み、この世には在らざるものの世界に生きる、そのようなものなのです。
660 :
考える名無しさん:2011/01/24(月) 10:17:03 0
>>659 >色は実体なれども形は実体にあらず
色と形の概念は、実にアバウトなものではないでしょうか?
仏教では、形と色は同一なものとしています。
形は空間に囲繞されていますが、色は空間とともに形を囲繞してます。
そのように普通の人は感じています、と思います。
形の内部までは、其の表面の色がどのようにあるのかわからないし、
そのようなことを考えないで、色の概念を受け入れているのです。
光をプリズムに入れると虹色に分化するんですよね。この変化はプリズムと言う固体
に依存しているんですよね。
661 :
考える名無しさん:2011/01/24(月) 13:06:33 0
662 :
考える名無しさん:2011/01/26(水) 10:35:45 0
量子というものが、実験的(科学的)に見ても、相対的にしか存在しないというのは、
、古代の知者たちがすでに説いていることですね。
また科学者は、相対的に存在する量子を見て、其の両者に差を見つけるのではないでしょうか?
これでは、量子には異なる性質があり、其の性質についてまた、今までの手法を駆使して
、其の違いを研究すると言うことにならないでしょうか?
量子方の量子と相対的に存在するということの前に、ある一つの量子は
それを囲繞する空間と相対的に存在するということに、気づくべきであると思うのです。
人の殺し方
外科医は手術の前に患者に麻酔をかけます。
もし麻酔無しで手術をおこなったら悲惨なことになりますので、
これは至極当然のことで誰でも納得できることですね。
人間は幼年から十代のころは生きようという旺盛な意欲をもっています。
こういう生きようという旺盛な意欲をもった状態で人を殺すと悲惨なことに
なりますので、自然は外科医と同じことをします。
人を殺す前に、先ず麻酔をかけます。
人を殺す前に、先ず生きようという意欲を殺すのです。
以下は私の当てずっぽうですが
-------- 当てずっぽうここから --------
人の寿命は少し前まで35才から50才くらいでした。
ですから、このロボトミー手術は25才から30才ころまでには
執刀されていたのではないかと思います。
-------- 当てずっぽうここまで --------
このロボトミー手術を受けた後の人は次のようになります。
・自分は死を怖れない強い人間だ。
・自分は悟りを開いたから死は怖くない。
・ただ死ぬときに苦しまなければよい。
幼年から十代のころ周囲の人間が死んだら大変なショックを受けます。
これが、ロボトミー手術の後では、「あ、あいつも逝ったか」となります。
数百万人のユダヤ人がナチスに唯々諾々と無抵抗で殺されていったように、
先にロボトミー手術を受けた人間は自然に唯々諾々と無抵抗で殺されていきます。
>>663 面白い。もっと教えて。マイペースで無問題だから。
666 :
考える名無しさん:2011/01/28(金) 10:40:18 0
自然が人を殺すのですか?災害で何十万と人が死にますね?
このことですか?そして人を殺す前に、自然はロボトミー手術なるものを
施していると言うのですか?であるから、人は自然に殺されるときは
何の苦しみも無く死んでいるのである、と言う御主張でっか?
ですと、自然によりロボトミー手術なるものを受けていない人間がいると言う場合もあるのですか?
其の人たちは、いずれロボトミー手術を受けるのでしょうか?それとも受けないで、死ぬのでしょうか?
受けたほうが善いに決まってますよね?
667 :
考える名無しさん:2011/02/04(金) 16:01:07 0
もともと 無かった(死んでた) あなたが 生きてるんだから
生まれてきたんでしょ 死んじゃったと 同じ
生きてる意味や 目的(死んだ意味や目的)を思い出そうとしても
無理かも いっしょうけんめい生きて 死んでみても また 同じかも
だから ルリは 子どもつくらない もう 繰り返すの 飽きたから
流産もしくは堕胎と逃げた男と残った女みたいな話デスカ?
時間に比例してドンドン子供がでてくるみたいな話にしないとダメですよ
670 :
考える名無しさん:2011/02/04(金) 22:41:25 0
イエスが死んでから二千年、その間何億人と言う男女が生まれては死に生まれては死にを繰り返して今日にいたっているわけだが、
真実は、イエスだけがイエスとして今もこれからも、存在しているということにならないかい?
イエスだけと言うのは間違いで、真理真実を体得した聖者たち、と言うべきであるが。
昨今、自分にふさわしい相手を見つけたとして、喜んでいる男なり女なりがいるだろうが、
そんなことは真実ではないのだ。まったくの妄想に過ぎない。だから、人は何かを無いとして
悲しむことは無いのだ。
ただこの真理、空の真理、無相の真理、一相の真理、これを知らないと、自分は
人生が貧しかった、惨めだった、幸福だったなどと思うが、こういって自分を救いの無いものと
絶望するが、この真理真実を知っているなら、そしてこの真理真実を信じているなら、この絶望から
逃れられるのである。
ロボトミー手術が自発的なものなのか何らかの自然的な力の介入によるものなのか
分からんのだからどちらでも同じようなもんだな
673 :
考える名無しさん:2011/02/10(木) 13:17:58 0
>>671 宗教と哲学は同一で、区別するのは、真実を区別しようと言うことになる。
真実を区別するのは不可能である。
今の科学でさえも、量子論にあるように、哲学宗教の域に達している。
仏教でもキリスト教でも老荘でも、真理真実を掲げ、それに従うことを説いている。
古代ギリシャの哲学者や、古代中国の哲学者も同様に、哲学の教えに従って生きたのである。
物理学は現象について論ずる学問ではありません。
物理学は2現象間の関係について、
あるいは複数の現象間の関係について論ずる学問です。
異なるように見える2現象が、実は同一の現象である、
異なるように見える複数の現象が、実は同一の現象である、
それを証明する学問です。
ニュートンの万有引力の法則が分かり易いですね。
もう少し発展すると、中性的な仮説を立てて、
そのままでは異なるように見える2現象が、
実は同一の現象である、
そのままでは異なるように見える複数の現象が、
実は同一の現象である、
それを証明する学問です。
原子物理学などこのステージになりますね。
物理学は現象間の関係を研究する学問であって、
現象そのものについては何も語らない、何も語れないのです。
こう言うとすぐに
「違います。
大統一理論が完成すれば物理学はすべてを説明します。」
とか言ってくるのではないかと思われますが、
これに対しては
「あ、そうですか。」
と応えるしかありません。
あぼーん
676 :
考える名無しさん:2011/02/13(日) 22:23:33 0
死とは、肉体と魂が分離しただけのことでもあり、
ちょうどぬいぐるみから魂が出で来るようなものです。
また、肉体と魂の関係は、パソコンと電気のようなものでもあり、
肉体やパソコンは【物質】ですので、やがて消滅しますが、魂や電気は【物質】ではなく、存続します。
パソコン稼働中は、あたかもパソコンが自動的に動いているように見えますが、
それは電気が通っているからこそです。
また、魂は(意思・思考・感情等を持った)気体・電波のようなものですので、
ちょうど缶詰のフタを開けて中から気体が出て来るとその比重・波長によって階層等が分かれるように、
魂も肉体から出るとその比重・波長に応じて行く先が分かれます。
以上は理科的な説明ですが、以下は国語的に説明します。
人間は死んで肉体から魂が出ると、通常はあの世で自分の一生を映画のように上映されます。
それを見て、自分がどのような人柄・人格であるかを自他共に認識・納得させられ、
人格に応じた世界へ行くことになります。
(上映不要なほど人柄が明白の場合等は上映なしに直行というパターンもあります。)
ちなみに、この世では他者にわからないようにふるまったことでも、上映においては明白になりますし、
自分が他者へ与えた影響によってその後その人がどうなって行ったか、
その人の感情まで伝わるそうです。
そして、上映後観衆から拍手を送られる人もいれば、その逆の印象を持たれることもあります。
それで天国行き・地獄行きが分かれますが、どちらも更に様々な階層・種類に分かれています。
心境が変化すれば行先も変わりますが、人の趣向は簡単には変わり難いのも現実であるようです。
なお、天国にいると居心地がいいですが、長く居ると退屈になったりし、
そうするとまた新しい体験を求めてこの世に生まれ出て来る、というわけです。
(なお、地獄からこの世に生まれることは許されていません。)
あの世では(基本的に)自分と似た人としか交流できませんが、
この世では自分と違うレベル・趣向の人々と交流ができることで、自分も変化したりし、
生まれる前よりすばらしい人間となってよりすばらしい世界へ帰ることができるわけで、
そうした幸福感を味わうために生きている、というわけです。
あぼーん
いつもは起こらないことが起こって不思議なら、
いつも起こっていることは、もっと不思議だ。
慣れは、あらゆるものを非論理的に正当化します。
そして、なかで、もっとも怖ろしいものは、
この世が存在しているという事実にたいする慣れ、
理性の麻痺なのです。
神は存在の一部であらせられ、存在の内部におられて、
存在の他の部分と相互作用をするのか、
それとも、神はそのようなレベルの低いものではなく、
存在の外部で事実していて、存在とは相互作用しないのか。
from the novel Mystery files : Case Ekaterina
カントの物自体とデリダの本体って同じような気がするんですが
具体的に違う点があったら教えてください
680 :
考える名無しさん:2011/02/24(木) 07:03:39.32 0
カントの物自体と言うのが、もののイデアと言うものだろう?これはソクラテスが
プラトンの中で言ったものだ。そんなものは無いと論破したのが、パルメニデスなのだ。
なるほど、物自体というのは人間が触れえない真理を差していて
デリダのそれは、人間が知りえないという点は同じでも、現象として人間に表象される以前の何かという
不在のものとして言及されているところがちがう。そういうことですね
682 :
考える名無しさん:2011/02/24(木) 22:53:49.26 0
>デリダのそれは、人間が知りえないという点は同じでも、現象として人間に表象される以前の何かという
不在のものとして言及されているところがちがう
?
ものにはイデアと言うものは無いのだよ。プラトンの「パルメニデス」の前半の前半だけでも読んでごらん。
683 :
考える名無しさん:2011/03/07(月) 16:40:30.99 0
哲学などなんになるのか、と言う疑問を持つものは、未だ哲学の意味を知らない
のだし、其の恩恵を聞いたことも無いのだ。
哲学とは、世界の真理真実を解明し、それを知ることである。
世界の真理真実を知るなら、迷うことが無く、失敗することが無く、
完全な平安がえられるのである。
宗教も哲学の真理真実を神として信仰するものに他ならない。
684 :
考える名無しさん:2011/03/09(水) 07:46:22.11 0
不生不滅と言う真理、一相無相という真実、これらのいわれを
しっかりと他者に伝えるほどの理解を有していなければならない。
常にこの真理真実を擁護する言論表現に熟達する様であれ。
最近、自分が癌に侵されて後半年の余命であると医者に告げられたと、
テレビでいう人が多くなったようであるが、なんと言う真理真実に反したことを
公言して、罪を犯すものであろうか。
あなたはこういう人になってはならない。こういう医者になってはならない。
真理真実が示されているのである。それを拒否するか、受容するかあなたの心しだいなのだ。
真理真実に反する人は、永遠の地獄が待っている。
こういうと宗教であると言えるが、哲学は信仰を見出すためのものなのだ。
685 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール:2011/03/13(日) 06:27:51.67 0
ダニエル、何やってもダメージがない。
これって不死身ってことなの?
不死身の証明に協力して欲しいから、
試しに痛めつけてください。
686 :
考える名無しさん:2011/03/13(日) 11:57:25.74 0
>>685 それじゃ、無限とはどういう意味か説明できる?それを説明できるなら
本当に不死身だが。
687 :
考える名無しさん:2011/03/13(日) 22:01:29.15 0
ヘヴィメタル ダニエル・カール!!
おい、眠ってる暇ないぞ、答えない限り眠らせないぞ!!!!
688 :
考える名無しさん:2011/04/30(土) 17:22:22.18 0
人間の生来の自然な認識論は以下のようなものです。
1) 人間は物理学では説明できない、物理学を超越した、
超自然的な能力によって世界を見ることができる。
人間が見ている世界は外の世界そのものである。
人間は何故世界を見ることができるか物理学で考えたとき
認識論は以下のようなものになります。
2) 人間の見ている世界は、人間の脳細胞であり、
あるいはそれから脳が構成あるいは生成した世界である。
高校時代までの私は、2) のように考えていました。
しかし、大学一年のとき、ふっと閃いて、2) は論理的に誤りであることに気付きました。
2) は誤りであり、我々は 1) の立場をとるしかないということです。
誰か、これを論理学的に証明できる人はいますか?
一寸した閃きが必要ですが、私が大学一年のとき閃いたというレベルの問題ですので、
素数に関するリーマン予想のような何度の高い問題ではありません。
それでも、フロンティアの問題を自力で考えるということを知らず、
読んだ知識の受け売りだけやっている人達には難しいかと思いますが。
間違っているので証明できない。
あぼーん
693 :
考える名無しさん:2011/06/07(火) 08:17:28.14 0
>>690 定義できなければ証明とか無関係、
論理は要素やら状況が特定できないものに対して何も語らない。
もし語るならそれはオカルトの類、つまり予言やら占い霊感という類
だってこと。
そして定義できるなら、それが虚実であっても証明できる。
数学を知っていればそのぐらい常識だろ。
知識などは選ぶ側で嘘やら誇張やらデタラメが沢山あるわけで
何を信じるかで意味が変わってくる。知識が常に正しいとか
思い込みにすぎない。多くの妄想レベルの仮説が実際に実証されたように
語られる擬似科学を信じちゃう人ほど知識を重視する。
>>655 広島長崎で被爆、
今回は被曝だ。
無難に書くなら被ばくだ。
695 :
考える名無しさん:2011/06/13(月) 20:01:10.25 0
リアル厨房の頃、筆箱に萌フィギア入れて登校し、
授業中に筆箱開けて「ちょ、おま、お前何でいるんだよぉ!?」
って言いながら筆箱の蓋をあたふたしながら閉めて、オレの声に気づいた隣の席のヤツに
「い、いや、スマン・・・何でもないんだ」って言って、 周りをキョロキョロしながら蓋をゆっくり開つつ小声で
「部屋から出るなって言ったろ?」 「ついてきちゃったじゃねえよ!」 「ったく・・・」
「そんじゃ頼むから大人しくしといてくれよ」 「おいおい、それだけは勘弁してくれ」
「わぁ〜たよ。チョコレートパフェな。約束するよ」 「はぁ〜くそ〜またオレの小遣いが・・・」
「お前が来てから来てからというもののロクな事が・・・」
「ちょ、わ、ゴメン・・・悪かったよ」 「そ、そんなの言える訳ねぇだろ!」
「わ、わぁ〜た、わぁ〜たよ」 「す・・・・・好きだよ」
「こ、これでイイんだろ!満足か!?」 「はぁ〜あ・・・今日はマジで厄日だぜ・・・」
ってやってた事を思い出すと今でも「あぁ〜」ってなる
696 :
考える名無しさん:2011/06/13(月) 23:25:54.57 0
noeinだろ。
697 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 08:44:08.35 0
ハルカがいるだろ・・つーか何時の間にか消えてるな。
放置しておいても毎晩いらんことを画策しておったが、居なければ居ないで寂しいもんだな。
698 :
考える名無しさん:2011/06/14(火) 21:11:36.89 0
【日本人が欧米人に勝てない理由】
・論理的な思考ができない(感情剥き出し)
・ノブレスオブリージュという概念が無い
・お互い様という寛容の精神が無い
・失敗するとなかなか這い上がれない
・過去の出来事にいつまでも囚われていて進歩性が無い
・レッテル貼りが得意で偏見の塊
・傲慢で粗野
・反省ができない
・常にレールから外れる(外される)ことを恐れる
・枝葉ばかり見て本質を見ようとしない
・責任転嫁が得意で責任感が無い
・遊びが幼稚(例:カラオケ)
・理解してもらおうというプロセスを軽視する
・国に一体感が無い(例:東京と大阪、北京と上海)
・芸術を金儲けとしか考えられない
・卑屈な人間が多く個人の魅力に乏しい
700 :
考える名無しさん:2011/06/15(水) 22:20:55.17 0
701 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 01:31:40.49 0
>>698 「日本人が欧米人に勝てない」という命題自体が既に意味不明だと思う。
どの分野を指しての勝ち負けのことなのか何の説明もないし、簡単な
テーダさえ示さない状態でのこうした意見って、日本に大勢いる
欧米崇拝教徒にありがちな思考停止した自虐史観の拙い目録に過ぎない。
リビヤで何の見通しもなく戦争続けている欧米諸国が、そんなに素晴らしい
訳ないと思う。裁判を経ないアメリカのビンラディン射殺だって、十分に
粗野な振る舞い。
702 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 06:34:08.17 0
…などと意味不明な供述を繰り返しており
703 :
考える名無しさん:2011/06/16(木) 16:42:16.98 0
不死など絶対に嫌だな
厨房の頃はバンパイアに憧れたりしたが
ずっと死なないとかどんな孤独だよ
704 :
考える名無しさん:2011/06/17(金) 09:49:44.11 0
>>703 同意。常に血に飢えながら、他人を犠牲にしながら生きながらえるとか耐え難い。
705 :
考える名無しさん:2011/06/18(土) 04:58:48.82 0
だから壊滅的な災害とか戦争で生き残っても虚しいだけかもしれない。
好きな人と孤島なら別だが。
それもやがて孤独がやってくる。
706 :
考える名無しさん:2011/06/23(木) 04:19:03.89 0
テロメラーゼ
707 :
考える名無しさん:2011/07/04(月) 15:12:10.60 0
永遠の生命を持つ者が将来現れることの証明。
将来存在するものは全て寿命を持つ(いずれ存在しなくなる)と仮定する。
すると寿命を持たないものは将来存在することはないことになる。
つまり永遠に存在するものは永遠に存在しない。
特に永遠に存在するものには存在しないときが如何なる時刻以降にも無数にあることになる。
これは矛盾である。
よって将来存在するもののうちで寿命を持たないものがある。
つまり永遠の生命を持つものが将来現れる。
708 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール:2011/07/28(木) 20:50:55.51 0
お〜れ 不死身なのはジョニーデップに激似だからかもしれない
決められたレールに乗りたくないから
常用漢字で表現できなくて
誰も俺のことを傷付けることに成功してないんだと思う
俺が一番、強い事にして欲しいんだけど
ぼくは、しょうがくせいのころ
ありのすをみつけました。
たくさんありがでてきました。
がんばってるのがいやでつぶしました。
それでもたくさんでてきたので
むしめがねであなをあてました。
でてこなくなり、つまらなくて
いえにもどりました。
すると、はりがありました。
みみずをつまえました。
はりでさしました。
つまらなかったので、らいたーで
あぶり、みみずをやきました。
すごいにおいでした。
いまでもあのやけたときの
おとがわすれられません。
ことしで28さいになります。
けっこんしました。
こどももうまれます。
710 :
考える名無しさん:2011/09/08(木) 23:00:19.31 0
>>4 日本の教育機関の問題点だね。社会と繋がってない机上の空論。
「科学に時制はない」と言った哲学者は誰ですか?
また、これは本当ですか?
714 :
考える名無しさん:2011/12/06(火) 13:35:06.22 0
>>686 私は、ヘヴィメタル ダニエル・カール ではないけど、
無限について
>>86で説明があるよ。
>>86は不死身なのかな?
715 :
考える名無しさん:2011/12/07(水) 15:56:15.88 0
>>405,407,410を読んでいて思うのですが・・・
私はお腹が空いています。そして、あなたは食事しています。あなたが満腹になったから
と言って食事をしてない私のお腹が満腹になることはありません。私固有のお腹がなければ
あなたが食事をすることで私の空腹も満腹になったかもしれません。
私はお腹が空いていても、あなたは食事をして満腹になったのであなたは空腹ではありません。
(食べてからいくらか時間が経過すれば空腹になるでしょうけれど)
なので、私もあなたも固有の実体を持って存在しているのでしょう。
私もあなたも固有の実体を持って存在しているのは、実体を持って存在しないという
空相、一相、無相ではないからでしょう。
一切(
>>258)は実体を持って存在しないという空相、一相、無相。
五蘊皆空 色即是空 空即是色 こんな風だったら、事物にとらわれることなく、迷いから
解き放たれ、平和で安定した理想的な境地に到来する。(涅槃寂静)
上記三行は、この世の有り様を表す真相というのではなくて、そういう具合になれば良いな
という願いを含んだ祈りのように思えます。
716 :
考える名無しさん:2011/12/15(木) 21:57:44.30 0
死して屍拾う者なし
717 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 08:39:13.04 0
ピント外れですが
122氏へ C点論は科学、哲学ではありません。「分離」「分割」につき
宗教的に、矛盾・無限の視座による「瞑想」で分割します。
HP 「C点論における矛盾と無限」 参考に
なをリトマス試験紙の件は、宗教論とは無縁ですので失礼します。
718 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 09:53:15.34 0
現象世界では、時間も空間も実在します。だが、本質まで考えますと、現在と言う
瞬間「0秒」において、空間「物質」の変化・非変化と言う互いに相容れない矛盾
は同時同位置存在が可能で「時間」と言う概念となります。其れゆえ、空間は実在
しますが、時間は概念のみで、実在しません。
ただ、宗教における時間は、観測より生まれる物理学の時間とは一致しません。
719 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 10:03:48.92 0
本質においては、仏教「学」の言うように、「不生不滅」で「不死」も
可能かも知れませんが、現象世界では不死はなく、明確に「誕生・死亡」
があります。
C点論では、不生不滅を認めず、本質は有・無合一体と考え、「実体」を認め
単なる「無、空、仮」の世界は考えません。色即是空の解釈の違いです。
720 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 10:22:55.99 0
C点論では、仏教「学」の基本である「無自性」を認めず、因縁は認める
ものの「自性」を認め、世俗諦も勝義諦もなく、色即是空の仏教世界に
有・無合一体として、至ります。
仏教学とは立場を異にしますが、やはり「無記」でしょうか ?
721 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 10:49:54.10 0
因縁により厳しく物は規定され、「無自性」どころか、実存哲学の
様に「自性」は、明確になります。現象世界では、時間的にも空間的あったく
にも実在は厳しく、「自性」があります。
因縁について、その作用をC点論と仏教「学」では、全く反対に捉えます。
722 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 11:16:13.78 0
↑ 訂正 時間的あったくにも→時間的にも
さとりに至ったものが、「仏、如来」であり、勝義諦である。
世俗諦でも、如来蔵として、仏心として、阿頼耶識として、DNAとして
「さとり」を秘めているが、だからと言って「不生不滅」ではナイ。
現象世界では、明確に「死ぬ」。仮令、仏心が秘められていようとも。
我らは、仏・如来にはなれナイ。
「空」の世界、「無」の世界、「仮」の世界とこの世を見極める立場
では、つまり、仏教「学」の立場では、6氏のお説のとうり。
「無記」を守る限り、ここから一歩も出ることは出来ナイ。
仏教「学」的には、この世の総ては「無自性」で実体がナイ。この
立場では、全ての「関係」つまり「因縁」を極めると、この世は「仮初」で
「空」で、「無」の世界である。
それ故、生死もなく「不生不滅」である。死ヌコトモナイ。
生命を 大切に 仏教の真髄は これに尽きる ここから 慈悲の心も生まれる
その意味では、私は仏教「学」に モノタリナイ。やはり、「死」は実在する。
724 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 12:22:23.03 0
あれえ? なんか話、違うくね? 日本人の死生観って、
死んだら誰でも仏様だから敬意を払うし、生前の行動がどれだけアレでも
せいぜい眉をひそめてスルーするぐらいの高貴な精神性が売りじゃなかったの?
それが靖国参拝の精神的背景なんだよネ? 小泉・安部ラインは、
中韓の批難に対して確かにそう言い繕ってたよね。
それなのに、なんでここのひとたち(日本人だよね?)はまだ埋めてない墓に
蹴りでも入れる勢いでこの独裁者の死をうかれ喜びはしゃいじゃってるのう?
靖国の英霊は顕彰され安らかな死後を得るべきだがブタキムチは地獄に堕ちろ、
その論旨っていわゆる「ダブルスタンダード」になっちゃうんじゃないのう?
これってどういうことかを論理的に考えると、
1.小泉・安部ラインの言い訳は嘘八百。靖国参拝は日本人の
民族主義的軍事的野心を狂奔煽動するためだけの洗脳ドグマ。
2.日本人は自国民の死者だけに敬意を払い、他国人の犠牲などは
てんで眼中にない世界最低最悪のレイシスト民族。
この二つのどちらかになるよね、当たり前の理屈でいくと。
このどっち?
それとも両方?
725 :
考える名無しさん:2011/12/19(月) 20:15:15.86 0
726 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 05:19:50.92 0
再びピント外れですが、101氏への返答も、これまでの書入れで、代えさせていただきます。
蛇足ですが、C点論は、科学、哲学、とは異なり宗教です。自身では「仏教」のつもりです。
C点論のオリエンテーションです。
第一の存在 有の世界 現象肯定 世俗諦 自性アリ 科学の世界
第二の存在 無の世界 現象否定 勝義諦 自性ナシ 仏教「学」の世界
第三の存在 有・無合一体の世界 現象再生 C点論 仏教
色即是空はC点論では、有に非ず無に非ず、第三の存在で「実体」アリ。
727 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 05:39:14.57 0
C点論では、「本質」も「現象」も総て「実体」を認めます。現象世界においても
われらは、有・無合一体として色即是空を、「空・無」は感覚器官が認識できません
ので、有のみ、つまり、有の世界として認識し、「仏教」の世界に生きます。
世俗諦、勝義諦ナシで、つまり、「無自性」ナシで仏教世界に生きます。
728 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 06:20:17.38 0
「存在」と「時間」の問題ですが、以下に詳しく論じてあります。
HP 「C点論における矛盾と無限」
「本質」は、実在は現在「瞬間0秒」に空間「物質」があり、その変化・非変化
が時間の「概念」であり、時間は「0秒」のみ、存在しないとも言えます。
空間は実在、時間は概念です。「現象世界」では、時間も空間も実在です。
瞬間「0秒」に過去→現在→未来が流れますが、現象世界では我らの感覚器官は
それを認識出来ません。地動説の様なものです。
729 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 07:52:17.62 0
「不死」の問題ですが、C点論では「不死」は存在しません。これまで論じた
とうりです。「死」は必然であるからこそ、仏教の存在が重要です。
生命を 大切に 仏教の真髄は これに尽きる ここから 慈悲の心も生まれる
出家でない在家の我らは つましく こころ豊かに 生きたいものであります
730 :
考える名無しさん:2011/12/20(火) 15:55:55.62 0
蛇足ですが
物理学の言うビックバン「以前」は、空間「物質」が無く、よって「時間」も
存在しません。原始のカオスです。宗教の範囲を超えます。そこに、知られざる
「ちから」エネルギー、「生命」の祖先が、潜んでいる様に感じます。
731 :
考える名無しさん:2011/12/21(水) 05:33:00.04 0
なを、C点とは、少し脱線しますが
有・無合一体「色即是空」ですが、空間に位置のみ占める、非粒子の、体積
のない、純粋な「点」で、無限に小さな「有」と無限に大きな「無」との、同時
同位置存在で現在「瞬間0秒」においてのみ実在します。了解には「矛盾・無限」
の視座に立つ、宗教的「瞑想」を要します。
これは大日経、華厳経の「一即一切」「一即多」とも繋がるものであります。
なを、「C点」は体積が有りませんので、「超高密度」の、例えば、宇宙全体
のC点を一点に集める事も可能で、この一点の爆発が「ビッグバン」ではないか
と空想もされます。宇宙は「無」から生まれたものでナイ ?
732 :
考える名無しさん:2011/12/21(水) 06:02:22.10 0
ただ「C点論」は宗教「仏教」ですので、その世界は、概念の世界です。
宇宙の、大自然の、「真実」の解明は、現象の「観察」「観測」「計測」
そして「統計処理」により、トライ&エラーで、科学的に為されるべきもの
と、私自身は信じております。
思考、そして「瞑想」の限界に、挑戦したつもりです。宗教の限界を認めます。
733 :
考える名無しさん:2011/12/21(水) 06:20:40.17 0
貴様の目的はなんだ
734 :
考える名無しさん:2011/12/21(水) 09:39:58.96 0
↑ お答えします
仏教「学」の「無自性」の立場ですと、色即是空は「空」の世界、「無」
の世界のみですが、C点論では「一即一切」「一即多」の世界まで発展が
可能です。
735 :
考える名無しさん:2011/12/22(木) 05:44:09.69 0
C点論の最大の問題点
C点は、「素粒子」を破戒、分割して最後に至る「点」であります。物理学では
素粒子は、「それ以上分割できない」点であります。よって哲学においても
同様であります。動きがとれません。
宗教においては、「瞑想」において、この不可能を「可能」と信じて、分割して
C点に至ります。この無理を実行するのは宗教で、理論も機具も実験室もなく、
頭脳の中で行います。そして矛盾・無限の視座に立ち「C点」に至ります。この
意味では、乱暴な話であります。それは認めます。
「素粒子」より「C点」に至り、C点が集まり素粒子に至ります。素粒子より
原子に至り、原子より分子、そして物質に至ります。C点をそう位置づけます。
正確には「幾つ」の素粒子があるか解りませんし、「幾つ」のC点になるかも
解りません。ここらは「C点論」の宗教的「曖昧さ」です。物理学とは「結び」
つかない、C点論の限界であります。
以上「C点論」の問題点を述べてみました。とにかく乱暴な「話」であることを
認めざるを得ません。
736 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 05:12:26.78 0
仏教の真髄は「生命」の尊重である。不死はナイ。死は必然であり、生命は
なにより大切であります。
生命には、2種類あります。「個体」発生学的生命と「系統」発生学的生命であります。
前者は、受精・誕生・成長・成熟・老化・死亡とたどる個体としての生命で
「食欲」がこれを支えます。後者は、核酸か単細胞解りませんが、この地球に
最初に発生した生物から、次々につづき、今日の我らを含む生物、そして子・孫
・ひ孫と未来につづく生命で、「性欲」がこれを支えます。
食欲・性欲そして「睡眠」は生物の基本の欲望ですが、社会生活を営む人間には
「金銭」も基本的な欲望なのかも知れません。
737 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 05:33:53.38 0
仏教の真髄は「生命」の尊重である。理趣経では、大らかに欲望を肯定し、欲望の
達成は「菩薩の境地」と説いています。
ただ、仏道修行、仏教教団の維持、社会道徳の遵守などには、単純に欲望を肯定
することは、不都合で、欲望を肯定することは禁じられ、秘密とされ、ここより
「密教」が生まれた。と私は推定します。
738 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 05:50:23.22 0
不死は存在しません。生物は死すべき必然です。それ故「生命」は、なにより大切
です。仏教の真髄は生命の尊重にあります。
人はDNAとして、如来蔵として、仏心として、「慈悲」の心を持っております。
生命を 大切に 仏教の真髄は これに尽きる ここから 慈悲の心も生まれる
739 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 06:09:40.54 0
仏教徒であろうと無かろうと、この世界には「良識」ある人々が、沢山います。
「宗教」を論ずるにしても、科学の立場「精神医学」は無視できません。
私は、迷うと私の原点で、幼稚すぎますが
HP 「精神について」
に戻ります。いつも臨床精神医学の世界に、注意をし、その発展に驚きを感じて
います。トライ&エラーでしょうが、参考になります。蛇足でした。
740 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 17:18:45.04 0
なを、蛇足ですが、難解なので繰り返します。
現在と言う瞬間「0秒」において、空間つまり「物質」の変化・非変化、これは
物質空間の持続・瞬間でありますが、この互いに相容れない両者の矛盾が成立し、
「時間」と言う概念が生まれます。「0秒」を過去→現在→未来が流れます。
別の見方では、現象世界で過去および未来から、現在と言う瞬間「0秒」に無限
に近ずく極みでは、物質の変化も非変化も合一し、つまり、現象世界の持続も瞬間
も合一し、「時間」と言う概念となります。非変化・瞬間のみの印象ですが。
本質では空間は実在で時間は概念ですが、現象世界では空間も時間も実在です。
宗教的「瞑想」で矛盾・無限の「視座」に立つことを要します。難解です。
我らは、現象世界に生きます。地動説の様に、信じがたい「話」ですが。
741 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:01:50.91 0
C点論の基礎について
HP 「C点による時空論」
に述べてあります。古いままで書き換えて有りませんので、見苦しいですがこれも
C点論のルーツですので、お許し下さい。
「矛盾」・「無限」については、「B面」が基本です。詳しくはHPに譲ります。ここで
矛盾・無限について「瞑想」して下さい。矛盾・無限の「視座」も了解下さい。
742 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:18:35.65 0
C点における「矛盾・無限」
素粒子を「無限」に分割し、無限に小さな「有」なる点に至りました。この点は
一歩退いて瞑想しますと、体積のない点であり、存在しません。そして空間における
位置を失い、「無限」におおきな「無」でもあります。この有無の「矛盾」した
合一体が「C点」です。矛盾・無限の「視座」で瞑想し、C点を信じて下さい。
これがC点論の出発点で宗教「仏教」の基礎です。科学・哲学との違いです。
もうええやないですか
744 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:28:08.33 0
現在の瞬間0秒における「矛盾・無限」
これにつきましては、740に述べてあることを、矛盾・無限の「視座」で
検討下さい。これも宗教で、現在の瞬間「0秒」を信じて下さい。
745 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:28:30.47 0
現在の瞬間0秒における「矛盾・無限」
これにつきましては、740に述べてあることを、矛盾・無限の「視座」で
検討下さい。これも宗教で、現在の瞬間「0秒」を信じて下さい。
746 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:30:15.80 0
現在の瞬間0秒における「矛盾・無限」
これにつきましては、740に述べてあることを、矛盾・無限の「視座」で
検討下さい。これも宗教で、現在の瞬間「0秒」を信じて下さい。
747 :
考える名無しさん:2011/12/23(金) 20:45:25.16 0
↑ 744−746 失礼しました
748 :
考える名無しさん:2011/12/30(金) 13:43:50.97 0
時間も流れ、もう今年も後わずか、これで仕事納めです。
思い込む人だねw
過去とか現在とか未来とか思ってるのは人間だけだろ
そうでなければ何もしなくても「今年」は終わり
正月はくるはずだ。人間はその演出に忙しい。
752 :
考える名無しさん:2011/12/30(金) 14:06:51.67 0
753 :
考える名無しさん:2011/12/30(金) 17:16:54.72 0
忘却によりすべての存在は否定され得るのじゃ
多少の放屁など我慢せい
754 :
考える名無しさん:2012/01/09(月) 08:32:52.49 0
新年にあたり、「存在、時間そして不死」につき感想を書く
私は老内科医。3年半前に「癌手術を受けた。この時「死」も考えた。人間
特に私自身の「存在」も、また残る「時間」も考えた。
色即是空、不生不滅も考えた。だが、襲い来る「癌性疼痛」その他の症状に
「空の悟り」など無効であった。私自身のカルテにパーセントで予後を覚悟し
某外科部長の執刀に任せた。今術後3年半の「生存」は得ている。5年生存
まで後1年半。
宮本武蔵は「神仏は頼るべからず、尊ぶべし」と、私も賛成である。
某老師は、臨床世界は「世俗諦」と言う。だが世俗諦、此処にこそ、生きた「生命」が
あり「死亡」もある。「勝義諦」であれ、この世が「無」であれ、「不生不滅」
であれ、それはそれとして、「仏教の真髄は生命の尊重」にある。
そんな感想が、なにかの参考になればと、記入してみた。
あぼーん
あぼーん
我を存在せしむるは何者か
そは我にはあらず
我が我を存在せしむるは能わず
我を事実せしむるは何者か
そは我にはあらず
我が我を事実せしむるは能わず
この世ができたときに
自分はその一成分としてあるように運動も努力もしなかった
この世ができたときに
自分がそのような運動や努力をすることは不可能である
しかし、自分は、存在している
ぽっと存在している
一体、何者が
いや、それとも
自分は事実して当たり前なのか
自分は在って当たり前なのか
あぼーん
「仏教の真髄は生命の尊重」ーー。人間はどれだけしているのか? 誰も天才ほどしてはいまい。
何故か? それは誰しも他人より自分が大事だからだ。それでは明らかに片手落ちであろう。普通の人は
そうしたものである。
あなたに問う(754)、生きとし生けるものはどうして他を喰らうか?
あなたは、考えたことがありますか?
存在するとは、存在以外ではないことである。
この意味が分かりますかね?
存在するとは、現時点での(私は過去には存在していたが、未来にも存在していない)可能性である。覚醒された人間性の
発展的可能性である。
とは言うものの、数千年来その発展は停止しているに等しい。それどころか、数百万年の過去に遡ったほうが人間の存在らしいとは如何なることか?
人はよく考えるべし!
数百万年前に人間は居なかっただろ
>>757 は
>>1 のYOKOTANIさんですかね?
存在、時間そして不死についての研究はどうなりましたか?
>>764 人間がチンパンジーから分かれたのは、700万年前。
>>765 存在と時間について考えるのは良し。死を考えても意味はない。
「未だ生をしらず、いずくんぞ死を知らん」である。あほな事はやめたまえ!
764>>
応えられないのかね? 恥ずかしい! 何が[sage]だ! 笑わせるぜ!
お前はviceだろ? 違うのか? 応えろよ!
紫には気をつけろという伝言があったが、俺は紫の紫だ。通常人はいくら頭がよくても
相手にならん。お分かりか?
>>767 また、随分と古典的な詭弁を持ち出してきたな。
「いまだ生を知らず」
>>769 どこが詭弁なんだ? 「生」とは何か完全に説明できるかな?
>>770 精神病の定義を教えてくれないか? たぶん、君では無理だよwwwww。
>>771 あら、こういうのを
「顔真っ赤にして必死に」っていうのかな。
生を完全に?
また詭弁の上乗せ。つまり「完全な説明」の部分。
自分で詭弁の核心ついたな。
「Aについて完全に知っているということがなりたたなければ、(非Aたる)Bについてしることができない。」
ま、とうせ君は活字にならん人なんだろ?
このあたりで自己満してな。
>>772 きみだろ。「生」をわかると言ってるのは。論理的に説明したがるのは、あるいはそれをしたがるのは、
真理についての(言語化不能)確信がないからだ。
したがって、あくまで論理に頼ろうとする。
IQとは何か? 君ならよくわかるんじゃないか? 答えてくれないか? 是非!
>>772 仕方がないから、論理的に付き合ってみよう。
P.S
「Aについて完全に知っているということがなりたたなければ、(非Aたる)Bについてしることができない。」
についてだが、はっきり言っておこう。あるものについて完全に知ることなど有り得ないのだ。
ところが、君に聞きたいのだが、相対性から逃れるものが一つだけあるのだ。それが何か分かりますかねー?
ま、とうせ君は活字にならん人なんだろ?
君は、人間が活字だと思っている。では聞くが、君をすべて活字で埋め尽くせると思っているのかい?
歴史が抱える問題は、そんな甘いことではない! では聞くが、誰かが人間を含めた宇宙の法則を発見したとて、
それが歴史を変えることになるのか? 歴史を変えるのは、民主主義であろうがそうでなかろうが一人ひとりの
意気である。そんなことも分からぬ者が、何を発言しているのかね? 活字なんぞほとんど意味を成さない!
それこそ、自己満足である!
一つ聞こう。君は誰を変えられたか? 根本的に! 論理では人は決して納得しないものだよ。
「存在と時間」は、論理で書かれているのではない。であるからこの著書はほとんどすべての人には「理解」不能である。
それができるのは日本人に5人といるまい。だから、論理的思考を好む者には敬遠されているだけである。ナチスに加担したとか言う始末だ。
realとはそういうものだ。真の哲学とはそういうものだ。アメリカ人には確かに理解不能だろう。
マイケル・サンデル氏に言いたい。正義は同様に「理解」できないと。
したがって、万人が理解することはありえない。
「人間とは何か」をさしおいて、時間とは何かを詳しく論じようとしても仕方がないでないか。
それは当面の問題じゃないだろう? 一ついえば、それは意識がある者だけが感じるものだ。
つまり、人間の心だけにあるものだ。心の外界ではないのだ。あるように見えるだけだろう。
空間だけがあるのだと考える。真空中で物体は外部から力が加わらない限り等速運動をする性質があるから、
そのようにみえるのだ。
O
光が一点もない完全な真っ暗闇を体験したことがありますか。
死ぬということは、
完全な無音、完全な真っ暗闇、そして一言も話せない、
そういう状態が未来永劫に続く、
そいいう状態に落ちていくことです。
>>780 宇宙にだって歴史がある以上、時間と無関係ではないだろう
人間が存在していなかった時間は天上に刻されておる
天の光はすべて過去の残像に過ぎない
nosce te ipsum.
自分の登っている木を切り倒す者
>689
木に登って、自分が登っている木を根本(ねもと)から切り倒すことを
考えてみましょう。
物理世界ではそれは可能です。
(打撲傷を負うかもしれませんが)
しかし、論理学の世界ではどうでしょうか?
公理から出発して演繹を展開した先で、
導出された定理が元になっている公理を否定する・・・
可能ですか?
788 :
S・イマムラ:2013/03/10(日) 06:27:11.25 0
3.11にあたって 命のせつなさを感じています 最近 「仏教を巡って」それに
「C点論を巡って」と 二つのホームページを出しました。私の最近の感想です。
田舎の「内科医」として、年老いましたせいか、「生命の神秘」に感動する毎日です。
「やまい」の「病態の解明に」次々と、新しい「知識」を必要とします。時間が足りません。
「健やかに」出来る限り「生きるべき」を、常に考えていますが、複雑な経済社会に
多様な物質の消費社会、環境に、総てが流動的です。
命ある限り、心身の可能な限り、です。
789 :
S・イマムラ:2013/03/10(日) 06:37:16.02 0
3.11にあたり 私の仏教観であり、また、私の「仏教への願望」ですが、
大切なものは 「現実」そして、そこに生きる「命」
参考までに、検索を 「曼荼羅とC点論」 お願いします。
790 :
S・イマムラ:2013/03/10(日) 08:20:46.72 0
3.11に関連して 最近感ずる事 道草ですが
今の社会で、例えば「いじめ」にしても、「命が失われて、悲しい」の言葉が無い。
「いじめ」だけではない。其処此処で、そうである。今では、「命が失われて、悲しい」は
人々に、共通のものでは無い? ようだ。
田舎の老内科医の、感傷 情動失禁 動脈硬化 なのか?
しかし 「命」ある限り「生きる」ことは大切
791 :
S・イマムラ:2013/03/10(日) 10:33:21.70 0
医学は、「現実ー臨床現場」が最優先です。
理論も常に「100%」とはゆかず、「ある%の中で」しか成立しない。「物理学」と
「生物学」との違いである。さらに、臨床現場では理論も無く、「経験のみ」もある。
哲学徒の皆様には、この「あいまいさ」をお許し願いたいものです。ここで
皆様がキビシク議論しているのは、承知ですが、こんな「現実」もよろしく願います。
792 :
S・イマムラ:2013/03/31(日) 16:29:16.09 0
改めて、科学、哲学、宗教を纏めてみました 蛇足です
検索を、お願いします ホームページ「C点論を巡って」
「要訳C点による時空論」
「不死」は、人間の願望でしかありません
色即是空 空即是色 この世は、実体の無い「空の世界」である
これは、仏教哲学者の単なる「ロマン」でしか無い
この世は、実体が無い 不生不滅 である
これも、「ロマン」に過ぎない
793 :
S・イマムラ:2013/03/31(日) 16:47:39.21 0
この世は
ある物はある 無いものはない
この空間に
物質は実在し 空間はない
つまり
色(現象)はある 空(非現象)はない
色即是空 空即是色 は
色=空
の意味である 矛盾ではある つまり
有無合一体
が、般若心経の真意である
吾らの感覚器官は、「無」を「認識出来ない」
依って
有無合一体は「有」としか認識されない
この世は、般若心経によれば
「本質」「真実在」は有無合一体よりなる
だが、現象世界、この世は
あるものはあるし ないものはない
この世の、「日常性」に変化はない
794 :
S・イマムラ:2013/03/31(日) 16:59:06.22 0
仏教哲学者は この世は「実体が無い」 と言う
あるものは 無い と言う
さとる者のみに、解りこの様なさとりを 「勝義諦」 と言う
吾らは この様にはさとれない それは、「世俗諦」 と言う
吾らは 低レベルの凡俗だからだ
吾らは あるものは 無い → ×
ある物は ある → ○
としか 考えられない
795 :
S・イマムラ:2013/03/31(日) 17:05:20.51 0
吾ら凡俗は
不生不滅 → ×
生きるも死ぬも「実体あり」 → ○
つまり、「不死」は、信ずるに困難である
796 :
S・イマムラ:2013/03/31(日) 17:16:46.48 0
存在(空間)と時間については、前記ホームページを参考に
科学、哲学は別として、仏教では、「矛盾・無限」の視座に立たねば
色即是空 空即是色
一即一切 一切即一
一即多 多即一
つまり、般若経も、華厳経も、説明不能である と思われる
この問題が、「不死」に直接結びつくとは、思われない
蛇足だったかもしれない
勿論存在が時間を超越する不老不死を実現しましょう
798 :
せやね:2013/03/31(日) 19:09:56.85 0
共時性やね
799 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 04:52:44.05 0
なを、法華経における「不死」の問題もある
歴史上の人物「釈迦」は、修行の結果さとりを開き、「如来」と成った
それにより、動物としての存在を離れ、概念の「仏」となった
その結果、無限の過去より、無限の未来に、「生きる」ことになり、この仏は
現象として、肉体ある人間としては存在しないが、概念として、今この現実の
我々の「世の中」に、生きる仏である つまり、「不死」の仏陀である
800 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 04:58:31.52 0
↑ ナンセンスと言う者も、あると思われます
総ての、法華経解釈が↑のようなものでは有りませんが、
「概念」は不死と言う 是も一理あるかもしれません
801 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 05:10:14.56 0
なを、この世は「空」と信ずる宗教者には、不生不滅を信じ、さとり、
「不死」の境地に生きる
だが、生物学的には、不死を認めた症例は、無い
話は変りますが、道教の世界には神仙思想があり、不老長寿を求めたが、
「不死」の目的を、達したとは、聞かない
802 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 05:13:37.03 0
古今東西
「不死」は、人類の夢であります いつの時代も、世界のどこでも
803 :
考える名無しさん:2013/04/01(月) 11:38:52.46 0
現象としての肉体は、有限としてあり、観念としての意識(精神)は、
無限としてある。 この有限としての肉体(身体性)と、意識(精神)との
融合が、真言密教の「即身成仏」という哲理なのであろうか。
804 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 14:42:04.07 0
↑ 私の暴論かも知れませんが、参考にして下さい
検索を ホームページ「曼荼羅とC点論」
私の、密教観を書いて、あります 全くのピント外れかも知れません
805 :
S・イマムラ:2013/04/01(月) 15:11:08.21 0
809さんへ
私は、どちらかと言うと、内科医のためか唯物論者です
外界から知覚神経を介して、情報が大脳に届き、認識・検討・決定されますが
この大脳が作動可能な状態にあることを「意識」があると言う 仮令
睡眠中でも強い刺激では、作動しますので、意識はある 意識(精神)について
その様に考えています
役に立たないかも知れませんが、参考までに
806 :
S・イマムラ:2013/04/02(火) 06:13:36.10 0
↑ 809さん→803さん ミスでした
例えば、「理趣経」を読んで下さい これだけでも、真言密教が顕教と異なる
ものであるのが、ご理解戴けるのではと思います 私は、内科医として密教には
関心がありますが、人間の生理として、そのままを理解すべきと思いますが、
興味本位では、どうかと思います 有名な空海と最澄の「借経」?の話も伝えられて
いますが
密教については、ここで論ずるのは、誤解の基になるかも知れません
807 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/04/06(土) 12:22:18.10 O
密教や精神など、 ざっと拝見しました。
私も多少密教や精神について考えてきましたので、少しばかり私見を。
自我は脳髄に依る為に、精神は三層構造と考えられます。
この相互作用で精神となります。
また、社会的にはこの基軸と別に公私が認識される為に、六つの象が形成されます。
また、密教などの仏教では、仏に至る道が本義であり、様々な世俗的幸福は本来は招入門としての方便です。
808 :
考える名無しさん:2013/04/06(土) 12:38:34.73 I
多世界解釈 カオス理論 不完全性定理
ヴォイニッチ手稿
809 :
考える名無しさん:2013/04/06(土) 16:45:52.76 0
>>801 有限としての肉体(身体性)と、意識(精神)との融合が真言密教の「空」の、
概念と捉えています。
西田哲学に「無限球」と言う概念がありますが、その意味は「無我は、仏教の根本理念の
一つである。論理的理解によらず、自我なくしてものとなり、直観して無我を悟った時、
不思議に、世界が自己となる。いつでも、どこにいても、自分が中心という感覚が生じる。
これは、悟道者の体験的感覚である。この体験的感覚を無限球という。」と西田幾多郎は記している。
この「無限球」と、「空」の概念は同じであると私は、考えています。
810 :
S・イマムラ:2013/04/17(水) 11:48:31.31 0
↑ 809さんへ
ホームページ 「C点論を巡って」 を検索し、参考にして下さい
絶対矛盾的自己同一(無限球)
と、C点論の
有無合一体(C点)
とは、非常に近い考えです 勿論、一致するものでは有りません
811 :
S・イマムラ:2013/04/17(水) 11:51:31.13 0
ただ、唯物論者の私には
西田哲学は、難解すぎる事を申し添えます
812 :
考える名無しさん:2013/04/21(日) 03:07:53.24 0
813 :
考える名無しさん:2013/12/25(水) 23:47:20.10 0
24 名前:弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/25(水) 22:59:45.32 0変数っていっても、量子コンピューターがはじき出す前に、世界は生成されると思いますな。
これは予言だ。
科学者が証明するだろうよ。
だがしかし、いくらなんでも、ダークマターの解明が先なんだわ。
今、科学者が天狗になってるのだとしたら、哲学的思考のできる人間を甘くみないほうがいい。
わたくしなんかよりすばらしい知能を持った
私がまだ大学生だった頃の話です。
40年以上前の話です。
一体、自分というのは幾つあるのかという問題について考えました。
無限大か、それとも・・・
吉祥寺の下宿から、新宿まで、6,7時間歩きながら考えました。
新宿に着いた時には、これ以外にあり得ないという結論に達していました。
そして、私は、存在の最大の秘密に気づいたのです。
13才のときの、どうして自分と他人というのがあるのか、
という問題さえ現人類は理解できません。
この存在の最大の秘密を、現人類にどうやって理解できるのか。
私は誰にも話しませんでした。
それから何年も経ってからのことです。7,8年は経っていたと思います。
私は、今から5,000年前に私と全く同じことを考えた人間がいたことを知ったのです。
恐らくヒンズー教の創始者でしょうが、atman, brahman という考えです。
恐るべき知能の人間です。
5,000年前に、私と同じ事を考えることができたとは。
816 :
1/2:2014/01/28(火) 04:15:35.93 0
無限を考えると善だけ悪だけのどちらか一方になるのが無限。善だけの無限に悪があると
限りのない善の無限にはならないから、善と悪があるのは有限の世界。
光と闇を見ても光だけ、あるいは闇だけになっていないからこの世界は有限と考えます。
善だけの無限になってないから善だけの神はいないと考えました。
悪だけの無限になってないから悪だけの悪魔もいないと考えました。
絶対善と言ったって、悪と比較しないことには善が解らないので善と悪の相対で考えるもの。
絶対は対が絶えるのだから、絶対善の神と絶対悪の悪魔にしたって相対になるし、絶対善な
存在とする神はいないし絶対悪の悪魔もいないと考えます。
それと、神は善なるものとしたならば悪の悪魔を作ったりしないと考えたのです。
だから、悪魔と対比して想起される善なる神はいないと考えました。
817 :
2/2:2014/01/28(火) 04:16:10.17 0
だけど自分は不完全なる人だから、完全なる神を知り得ないのかもしれない。
善と悪の両方がないと私には何が善で悪なのか理解できない。
それで、善と悪の両方を創って人である私に理解できる世界になってるのかなとも
考え直したのです。そうすると善と悪、光と闇を創った完全 ”なるかのような” 神が
存在する ”かもしれない” と考えるようになりました。まだ確信はありませんが。
不完全なる人を超越したものが神だと思い及ばせてみると完全なる神がいる ”かも
しれない” と思いました。
ここの皆さんはどうお考えですか?
なにか助言でもいただければ、ありがたいなと思います。
悟りを開いたことあるけど何か質問ある?26
に投稿するつもりが間違っちゃった。
どうもすみません。
819 :
1/2:2014/01/30(木) 09:46:43.33 0
>>86 > >「無限」とは?
> 無限とは、純一なものが無限に存在する場合のみ、言いえる状態である。
> 純一が必須の条件である。何かが混在しているような、今の宇宙のような存在は、
> 無限の空間とは決していえないのである。
この宇宙は、星だけ、光だけ、暗黒(闇)だけではないので無限とはならず有限だと
思われます。
全ては一つ(一つの相=純一)ならば無限は成り立ちそうです。
果たしてそれを認識できるかどうか?
人間だから認識できないので、全ては一つ(一つの相=純一)の無限は神・仏の理と
いうのもありそうですが・・・
宇宙が有限となるので神・仏の理も有限という秩序にあるのかな・・・
変化も何もない「無」の状態から「有」に変化することはなさそうですし・・・
宇宙が「無」から誕生することはないでしょう。
820 :
2/2:2014/01/30(木) 09:48:36.35 0
宇宙が無限の広がりを構成するのなら、私たちは離れ離れで何かに接触・接地などすることはないでしょう。
だけど現実にはそんな構成はしていない。このことからも宇宙は有限の世界と考えられます。
はじめから何もない無の状態ではなくて、何かが在ったのがこの宇宙や世界なのでしょう。
変化すらも無い「無の状態」ではないことから、「有の状態」であるこの世界は変化の中にあるのでしょう。
変化の中にあるので、人は死んだとしても何も変化の無い「無の状態」にもならないと考えています。
死んで「無になる」なら生きていることが無駄という考えもありますが、
死んでも「無にならない」ことから生きてることも無駄にはならない。
無駄にならないから存在することに救いがあるかもしれない・・・
「無」にはならないから次に生まれる、いわゆる来世があるのかな。
宇宙が有限となるので、変化も有限と考えて、じゃあ、時の終わりがあると考えて
「無」に帰るという考えになりそうですが、前述の「有の状態」であるこの世界は「無]にならないということから、
時には終わりはあるけど、円を描くときに始点と終点がつながる様に、周期的に繰り返すような
構造になってるんじゃないかと考えています。
「時」と「存在」と「宇宙」について述べてみました。
宇宙は誕生したんじゃなくて無限空間
>>821 無限の数が円周率の計算にあるというぐらいしか僕はは知りません。
直径かける円周率で円周の長さが出るんですよね。
で、円周率が無限にあればいつまでたっても円周の始点と終点がくっつかない
状態になると思うのです。円周率の数値を無限にすると円周の長さの近似値は
出るけれど、正確な長さにはならない。そのことから無限は正確ではないように
思います。
時間は変化や距離であると思うので、宇宙は138億光年の距離の空間で有限に
なっているのではないのですか?
円周率は円周と直径、円の面積と半径の平方との比なだけで
4以下の有限
時間は有限、時は無限
824 :
819:2014/01/31(金) 21:32:45.81 0
>>823 > 時間は有限、時は無限
時は動き、もしくは距離で言い表せるのではないかと思います。
なので、距離が無限にあると星ができたりその星に接地する私達のような生き物は
いないことになるのではありませんか?
離れ離れで出会うこともないというようなことに。
なので時も有限になってるのではないかと考えますが、もう少し時の無限について
教えていただけないでしょうか。
825 :
1/4:2014/02/13(木) 06:07:23.82 0
生まれてくる前と死後の世界は人間には知りようがない情報となってます。
天上界と地上界は正反対・あべこべになってる相互関係にあるとすれば、生まれ
くる前と死後の人間は、天上界の場所(が神々のいる世界ではないかな)へと
移動するのかもしれません。天と地で考えれば、地球の他の星々が天で神々の
いる世界。この地球も星だから神々もいるといえるのかな。
地上側での神は天上側では悪魔、天上側の神は地上側では悪魔。神でもない、
悪魔でもないひと・人間は地上側でも天上側でも中立で居れるのかな。
プロタゴラスの言葉で「人間はあらゆるものの尺度だ」ということはこうゆう
意味があるのかな。公平性を保てるのかな。はかりに似てるからLibra
(てんびん座)とかどうでしょう? libelal(自由主義の、進歩主義の)という
言葉の由来にもなってるのかな?
変化すらも何も無い「無の状態」ではないことから、「有の状態」であるこの世界
は変化の中にあるのでしょう。変化の中にあるので、人は死んだとしても変化も
何も無い「無の状態」にもならないと考えられます。
826 :
2/4:2014/02/13(木) 06:08:35.94 0
以前は天動説だったけれど、コペルニクスの地動説によって変わったから、未来は
最初から予測できてなかったことになる。なので全知の存在はいないと思います。
絶対というのは対が絶えることだから相対の話だと絶対がないということになる。
善と悪の二つにしても相対とか2つ以上になるので、唯一絶対もない。
善の他に悪があるということは、限りなく善だけになってない。善だけの無限に
なってないから無限はない。無限で絶対がないから、有限で相対もしくは2つ以上が
この世界と考えられます。
善だけの無限になってないこの世界の現状は、善だけの神はいない、そして悪だけの
無限にもなってないから悪だけの悪魔もないということになると考えられます。
人々を死亡させてこの世から消去してしまうかのような永遠の創造なんてひどい
創造主だと思います。無慈悲ですね。
827 :
3/4:2014/02/13(木) 06:09:43.89 0
まあ、無の状態がないのだからそうとまで言い切れないかな。それなら教えて
くれてもいいとおもいますが・・・
それとも誰かに隠されてるのかな。誰かに隠されてるのなら、誰かに隠されてる
ことを咎めないのはなんとも情けない神だと思います。教えてもくれないし。
人々を一つにまとめるための便宜として全知全能・唯一絶対という事にして
おいたとしても、その点を隠してるところが大詐欺師、大ペテン師と思います。
前述より全知全能、唯一絶対の神というのはいないと考えます。
人々との知恵比べをしてるのでしょうか?
だとすれば、その知恵比べに勝てば人々が神になれる可能性があると考えられます。
天上界側の神は地上界側では悪魔になるから、全知全能、唯一絶対と言ってたのは
嘘になるから偽神、つまりは悪魔ともいえます。
828 :
4/4:2014/02/13(木) 06:11:25.71 0
このゲームのような謎解きは悪魔との知恵比べだったのかな。この謎に挑んで
クリアすれば、地上を神になる人々で満たせるのではと思いました。
そうすると、天上側は死後の世界で不死であるかのようになってるが、こちらの
地上界側が不死になって神側に逆転するかのようになれるかもしれない。
2回目のコペルニクス的転回です。そういう風になれば、生と死の時間から
開放されて不死と星々への旅のチケットを手に入れられるかもしれない。
僕はまだ不死でもないと思うし、星への旅とか出来てないのでこの謎解きは
出来てないと考えられます。ですが、僕以外だと出来そうな人はたくさん
いそうだからと思い書き込んでみました。
この世に神がいると思うのがマーヤ(幻術)かもしれませんね。
実は、悪魔に支配されてるから人間は思うようにいかない、物質
に精神が支配されてるかのようになってる。
このことを見破れれば悟りのような境地に至れるのかな。
それとか、神になれたりするのかな。
830 :
825:2014/02/14(金) 22:24:32.79 0
クイズのような謎解きになってるかもしれないので、推測で生まれ来る前と死後の
世界が天上界(星々の世界)となってるのかなと考えたのです。
THE ALFEE「星空のディスタンス」にこんな歌詞があります。
星空の下の distance (距離、道のり < di 離れて、反対に + stance 立つ > )
燃え上がれ愛の resistance(抵抗、反抗 < re もとへ、再び + sist 立つ > )
地上では星々と反対に立つから、それが距離や道のりになっていて
その道のりを歩むには、地上と反対に立つような抵抗運動(レジスタンス)が
星々への愛の道になっているのかなと考えたのです。
Loveと言わずにレジスタンスが愛と表現してるところが、この作詞家の
高見沢俊彦さんが星から来た人のように思えてしまうのは僕だけでしょうか?
あと、「昴(すばる)」を作詞し歌っていた谷村新司さんも星から来た人かも?
人間は他の動物と違い服を着たり、火や道具を使ったりしてこの地球環境と不自然
な存在だなと感じるのです。他の動物は服着たり、火や道具を使わないで自然に
適してる。なので、人間は別の星から来たのかもしれないと考えたのです。
人々が救われてないからこの世に人々を救う神はいない。
だけど、この地上と正反対の天上界(星々側)には神々がいるかもしれない。
なので、この地上は悪魔に支配されている。この地上の悪魔は天上界では神になる。
(地上界と天上界が正反対になってるなら。)
なんとか、この状況を打破して星々への旅をしたいものです。
どなたか、良い知恵を・・・
831 :
825:2014/02/16(日) 19:19:48.39 0
ちょっと長ったらしい文なので要約しときます。
>>825-827 で、全知全能、唯一絶対を否定しています。
”創造主による被造物である我々が「死」によって「無」へとひきさらう
永遠の創造なんてなんになる。”(悪魔のメフィストフェレスのセリフ参考)
「無」はないだろうという事から何かしかに変化するのだろうという考察と
「無」に帰すことない創造だとすればまだ無慈悲ではないかも・・・という点。
>>828-830 で、この世の地上界には神々(星々の天上界にいる)がいなくて、悪魔たちに
影響を受けている状況を打破する知恵を見いだせもらえるのではと書き込ん
だのです。
追記:
今行ったことはすぐ過去になる。ちょっと経てばもう過去。
なので、過去→現在→未来へと時間が変化するのではなく
今→過去へと変化する。
未来→今→過去へと時間の流れがあるとするなら、今というのも
未来から変化していると考えられまえんかね。
例えば、じゃあどうして未来にスーパーマンとかネオのようになりたいと
未来図を思い描いていてもそうならない今があるのかと言えば、人間を
超越した存在にさせたくない勢力や力があるから。
それが
>>830 の悪魔達とかだったりするかも。
これを解ければ、存在、時間そして不死への道が開けるかな・・・
832 :
考える名無しさん:2014/02/21(金) 13:44:25.50 0
死について詳しい人が哲学科にいるけど、造詣が深いんじゃありません。
生れ付き同和民の人です。
思想で発酵とかゴミとか死を思想でやる人は穢多根性の人です。
国立大学は公共性の哲学をやってます。
クリばかり攻める。
>>86 >何かが混在しているような、今の宇宙のような存在は、
>無限の空間とは決していえないのである。
一相でないと無限になりようがない。そしてこの宇宙が無限ではないので、
一相であることはない。なので
>>95 >仏教は真実:実相は『無相』であるという。
という説は真実ではない。
縁起より、事物が関係的だから相互依存である。よって独立した実体を
持たない存在とする「空」または「無我」という説。
相互依存ならそう考えられるが、誰かが死んだから相互依存で自分も
死ぬというようなことや、自分が食事をしたから相互依存で誰かの空腹が
なくなるというようなことがないので、独立した実体を持たないとする説は
成り立たない。なので、「空」または「無我」は真実ではない。
独立した実体を持つから他人と区別がある。
何にもない状態が「無」なのだから変化もないと考えられる。
変化がなければ「無」から何かが生じる変化も起きない。
なので、「無」からは何も生じない。
「無」の世界ではないから何かが在る「有」の世界に居てる。
幻想や仮想世界だとしても「無」の世界ではないので存在はする。
この世界や私も存在しないのでは? いや存在するかも?
こう疑ってみたとしてもそう思う何かがある。
それを「われ」とするならば、「われ思う、ゆえにわれ在り」by デカルト
実相体は、真実と虚偽を区別する理性にあると考えられる。
真実はこの宇宙の中で変わることなくある。
この真実を明らかにしていけば、この宇宙と同じ歴史ぐらい生きられる
不死になれるかも。
>>84 >永遠に戦争が続くのである。
>判るまで心の中に争いは続くのである。判らない限り永遠に続くのである。
>迷ったまま人生を終わると言うのが多いのである。
>これは苦しみではないか?
>>85 >で、結論としては、矛盾とは、真実なるものが二つあると言う状態を言う
>のである。
>そしてこれは迷いと言うものであり、永遠の苦しみをもたらすのである。
争いして対立すれば苦しみと悲しみが生まれるが、お互いが歩み寄り、結び
合うという愛に生きれば、苦しみから開放される。
矛盾の戦争が続くという苦しみから逃れるには、愛に生きるのがいいのかもしれない。