1 :
考える名無しさん :
2010/03/07(日) 19:57:44 O
2 :
考える名無しさん :2010/03/07(日) 20:50:22 P
2
立てた後にある程度レスがつかないと落ちるとかいう話をどっかで聞いたので… とりあえず適当な話題を振ってみる 倫理、道徳に関する最近の著作(文庫版に追加された後書き等含め)では、 言語を使うこと自体がすでに道徳的という趣旨のことが書かれていると思うけど、 それは、何というか、どういう場面とかレベルとかで考えたらいいんだろう 自分と自分でないものとが、本当は同じ種類のものではないのに、同じ種類の ものであるように理解される、ということが共通しているということなんだろうけど しかし、例えば、(しょうもない例ですみませんが)ペットとか人形とかを非常に大切にするが、 しかしペットや人形が自分と同じ種類のものと思っているわけではない、ということは あっておかしくないと思われるけど、それと同じような感覚で他人を大切にする人がいたら、 その人は、いかに行動が道徳的に見えても、実は道徳的ではないということになるんだろうか あるいは逆に、他人が自分と同じ種類のものと思いながら、しかし「なぜ他人に害を 与えてはいけないのか」と言う人は?
4 :
考える名無しさん :2010/03/08(月) 00:56:48 0
5 :
考える名無しさん :2010/03/08(月) 07:29:48 0
「この本の批判」って前スレ835のこと? 866が言ってる「835はレアリテートとアクチュアリテートの違いを解ってない」で終了じゃん
6 :
考える名無しさん :2010/03/08(月) 21:48:41 0
もちろん、俺はそんな言葉知らないよ。 まず、あなたが説明してください。
「存在するはレアールな術語ではない」って聞いたことある? ハイデガーのカント解釈とか、あと勧められてる岩波哲学講座2巻は読んだのか? こんな2chのスレに粘着してないで先に本を読め
8 :
考える名無しさん :2010/03/09(火) 00:34:36 0
>「存在するはレアールな術語ではない」って聞いたことある? 聞いたことあるよ。 >ハイデガーのカント解釈とか、あと勧められてる岩波哲学講座2巻は読んだのか? 読んでないよ。 >こんな2chのスレに粘着してないで先に本を読め 大昔のレスを持ち出してきてるのはどっちだよ。
存在するは述語じゃなくて世界の区分の仕方だよ
10 :
考える名無しさん :2010/03/09(火) 05:25:33 0
永井の本はあまり読んでないが、適当にレスしてみる。 >それと同じような感覚で他人を大切にする人がいたら、 >その人は、いかに行動が道徳的に見えても そんなこと、実際にありうるの? >他人が自分と同じ種類のものと思いながら、しかし「なぜ他人に害を >与えてはいけないのか」と言う人は? 私の使う「害」と、誰かの使う「害」が同じ意味だと思っていることが、 同じ種類のものだと思っているってことでしょ。そもそも、「他人に害を 与えてはいけない」って誰が言っていることなの。それから、「なぜ他人に 害を与えてはいけないのか」って誰が言っていることなの。法律のことを 言っているのなら、普通、人が法律を守るのは、自分が法律に守られている と感じているからに過ぎないし、死刑されたくないと思っている死刑囚が 死刑されることは、彼は「害」と感じるでしょうが、法律によって実行 されます。
>>10 永井の本で言語と道徳について書かれているを踏まえての疑問(のつもり)なので、
永井の本を読んでいない前提でレスがついても、何とも言いようがないけど、
一応気になったところを…
>
> >それと同じような感覚で他人を大切にする人がいたら、
> >その人は、いかに行動が道徳的に見えても
> そんなこと、実際にありうるの?
実際の実例を見つけて言ってるわけじゃないけど、「他人をペットのように大事に
する(別の面では、ペット以上に自分と同種の存在と思っているわけではない)人」というのは、
存在してもおかしくはないと思うけど
> 私の使う「害」と、誰かの使う「害」が同じ意味だと思っていることが、
> 同じ種類のものだと思っているってことでしょ。
「害」という言葉の意味が同じかどうかという問題もあるかもしれないけど、ここで言ってるのはそうではなく、
自分と他人が同じ種類の存在と言えるかどうか、ということ
それが何のことだか分からないというなら、とりあえずは永井の『倫理とは何か』を読んでみてください
12 :
考える名無しさん :2010/03/10(水) 03:09:01 0
>>11 「倫理とは何か」は図書館から借りてきて、一度だけ読んだことはあるよ。
内容はほとんど忘れてしまった。
それでもレスしていい?
>存在してもおかしくはないと思うけど
そういう人は実際に存在するだろうけど、そんな人のことを道徳的だと思う人は
ほとんどいないだろうし、当人だって、そのことを別に道徳的だと思っている
わけではないでしょう。
>自分と他人が同じ種類の存在と言えるかどうか、ということ
「自分」一般と「他人」一般のことを言っているのなら、同じ種類の存在ではない
ことは自明なので、「自分」「他人」という言葉が区別されて昔から使われてきた
わけだし、別の意味では、同じ種類の存在であることは自明なので「人間」という
言葉もあるわけです。
13 :
考える名無しさん :2010/03/10(水) 09:33:01 0
強制生存
>自明なので バカなの? ちっとも、自明じゃありませんが。
15 :
12 :2010/03/10(水) 16:07:19 0
>>14 単に、あなたはそうだというだけのことでしょう。
「自明」という言葉は理解してる?
これは、明らかに、認識論に関係した言葉ですよね。
ありゃりゃ、やっぱり、バカじゃん。ガス室送り決定だなこりゃ。w
17 :
12 :2010/03/10(水) 18:00:05 0
>ガス室送り決定だなこりゃ 私にむかって言ってんの? あなたがしたいことをすればいいんじゃないんですか?
19 :
12 :2010/03/10(水) 18:31:31 0
>底の浅い、カテゴリ論振り回す なに言ってんだか、全然わかりません。
そりゃ、そうだろ。バカにはムリ。
21 :
12 :2010/03/10(水) 18:41:59 0
バカで結構です。
21 名前: 12 投稿日: 2010/03/10(水) 18:41:59 0 バカで結構です。 12がバカなのは自明。
23 :
12 :2010/03/10(水) 18:51:09 0
そうですね。 はあ、いいかげん疲れてきた。
>はあ、いいかげん疲れてきた。 疲れたら、ネトケ。
25 :
12 :2010/03/10(水) 18:58:09 0
はい、そうします。
まだ7時。まあ、そう簡単にネムレはしないだろう。 ネムルためには、まず目が覚めてなければならないのがふつうだし。
>>12 > 「自分」一般と「他人」一般のことを言っているのなら、同じ種類の存在ではない
> ことは自明なので、「自分」「他人」という言葉が区別されて昔から使われてきた
> わけだし、別の意味では、同じ種類の存在であることは自明なので「人間」という
> 言葉もあるわけです。
わざわざ「一般」と言われている趣旨がよくわからないけど、それを置くと特に異論はないです
それで、そのように自分と他人とが同じ種類のものと(も)理解するということと、
道徳とが、どういうふうに関係するのかが、今一つわからない、という疑問なので
もうちょっと具体的にしてみると、例えば、私財を投げうって貧しい人を助けて自分の生活まで困ったり、
我が身を投げうって危険な人を救助して自分が怪我をしたりといった、普通なら道徳的と言われるような
行動を繰り返しているが、自分と他人を同じ種類のものと理解しない人がいたとする
そういう人は、そのような理解をしないというだけで、いかに道徳的と言われるような行動をしても、
道徳的ではないことになるんだろうか?
付け足し そういう人は道徳的だと主張したい、というわけではなくて、実際、道徳的でないようにも感じる ただ、なぜ、道徳的でないことになるのかを、もうちょっと考えてみたい、という個人的疑問です
>>3 前者は、帰結主義的には道徳的だが内在主義的には道徳的ではない、ということでは
内在主義が支持されるのは、その方が帰結主義的に見てもよい結果をもたらすから、だと思う
だから、多くの人が言葉の上では内在主義的言説を説くので
この人は行動が道徳的に見えても『一般的には』道徳的ではない、とみなされてしまう
後者は既に相互性の原理を理解しているのだから
この人は「俺はいつ害を受けてもいい、だから他人に害を与えてもいい」
と考えているか、そう考えているフリをしていることになる
>>12 そこで既に自分『一般』と言ってしまうなら、問題の重要な側面が抜け落ちてしまうよ
「私は他人を殺してもいい。しかし他人は私を殺してはいけない」と言っている人に対して
他人が「あなたの理屈は解ります。では、私はあなたを殺してもいいですね?」と言っても
「違います。他人を殺してもいいのは私です。あなたではありません」となるはずでしょ?
ここでもし「そのとおりです。あなたは私を殺してもいいのです」と答えるなら
自分を自分『一般』と理解していると言える
ただこの場合でも、他人『一般』と「あなた」は違う物なのか、それとも同じなのか
という疑問があるような気もするけど…
>>27 「自分」という語は「この自分」のことなのか、それとも自分『一般』
と解してよいのか、は重要な問題だと思う
31 :
12 :2010/03/13(土) 20:21:45 0
>>29 >前者は、帰結主義的には道徳的だが内在主義的には道徳的ではない、ということでは
そうではないでしょう。そういう人たちが道徳的であるとみなされるわけではないのは、彼らがそれを
「快」と感じていたとしても、社会全体からみれば有益ではない(有害でもないけど)からでしょう。
全人類をペットのように大切にする超人的人物の話をしているのなら別だけど。
>>30 >そこで既に自分『一般』と言ってしまうなら、問題の重要な側面が抜け落ちてしまうよ
わざわざ、永井スレに来ているのだから、その話は知ってるよ。
でも、
>>11 の書き込みは「自分」一般の話だと受け取るのが当然でしょ。
>「違います。他人を殺してもいいのは私です。あなたではありません」となるはずでしょ?
もちろん、そうですね。でも、普通、人は「私は殺されたくない」と思っているのだから、理屈は解っても
そんなこと認める人はどこにもいないでしょう。だから、はじめの人の発言は単なる個人的意見
(もっと言ってしまえば、人間の自由意志に関する自明な事実)を述べているだけだと考えるほか
ない(述べただけで、実質的な意味は何もないですが)。そして、他人の自由意志は自分の自由意志
ではどうにもならないのだから、「他人は私を殺してはいけない」に関しては個人的意見としても
なんの意味もない。
実際問題としては、こんなこと言っている人はどこにもいないのだから、私はこれはあまり重要な
問題とは思えません。
32 :
12 :2010/03/13(土) 20:23:44 0
>>27 >わざわざ「一般」と言われている趣旨がよくわからないけど
>>14 とよく似たかたを2chで見かけたので一応断っただけなのですが、
>>30 さんがわかりやすく解説
してくれました。
正直言うと、何でこんな問題を立てるのかがよくわからないので、以下、自分の考えを述べるという形
で一応レスしておきます。
>自分と他人とが同じ種類のものと(も)理解するということと、
>道徳とが、どういうふうに関係するのかが、今一つわからない
「同じ種類のものと理解する」という話と「道徳的」の話は、ほとんど関係ないように思えます。意図的に
他人に害をあたえるのだって、同じ種類のものと理解してなければできるわけないでしょう。他人に親切
にするのだって同じことです。また、他人に親切にしている人に対して「なぜ、君はそんなことをするのか」
ときいたとして、「自分と他人は同じ種類の存在だから」とか「それが道徳的だから」とかいう風には
答えないでしょう。「そうしたいから」と答えるでしょう(時には「道徳的だから」という答えもありえますが)。
>自分と他人を同じ種類のものと理解しない人がいたとする
「自分と他人を同じ種類のものと理解しない」ということがどういうことなのか、私にはよくわかりません。
子供やなんかにそういうことがあるのはわかりますが、常識人としてある程度の年齢まで生きてきたの
だったら、それだけで、そういう理解は成立していると考えざるを得ないでしょう。長期間、精神病院
で生活している人には、そういう人もいるのかもしれません。それは、外的な振る舞いという基準によって、
周囲からそう見なされるのであって、彼の内面については謎としか言いようがありません。
もしかしたら、外的には理解しているように見えるが「実は」理解していない、というような話をしている
のでしょうか。そうだとしたら、それはゾンビやなんかの話と同じことで、無意味な擬似問題です。
いろんなレスをもらったけど、とりあえず一言
>>32 > 正直言うと、何でこんな問題を立てるのかがよくわからないので、
それは単純に、永井は言語の話と道徳の話を関連させて論じているようだけど、
しかし本当に関連するのか、するとしてどのような関連なのか、という疑問を
個人的に持ったから(というようなことをすでに書いたつもり)
あなたが、
> 「同じ種類のものと理解する」という話と「道徳的」の話は、ほとんど関係ないように思えます。
という考え方に確信があるのなら、このような疑問は持たないでしょうね
そこは実際、どう考えたらいいのか、私にはまだピンと来ないので
>>29 >
>>3 > 前者は、帰結主義的には道徳的だが内在主義的には道徳的ではない、ということでは
> 内在主義が支持されるのは、その方が帰結主義的に見てもよい結果をもたらすから、だと思う
個人的な疑問点は、帰結主義や内在主義といった話と、自分と他人が同じ種類の存在と理解されるか
どうかの話(言語に関する話)が、どうつながるか、ということなので
帰結の話が出たので、それに引っ掛けることを試みると…
「結局は自分の利益になるから」という帰結を考えて道徳に従う人は、自分の利益になりそうな場面では
道徳に従わない可能性があるので、そのような考え方は良くない帰結をもたらしそうに思われる
これは分かりやすい(と思われる)
しかし、では、「自分と他人を同じ種類の存在と理解しない」という考え方の人がいたとして、
その考え方は、何らかの帰結に結び付くだろうか?
例えば、他人をペット扱いしながらも、良い帰結をもたらすということも考えられないか?
考えられないとしたら、その理由は?
というような疑問です
あまり関係ないけど、横から口出していい? 「帰結主義」とか言うけど、どんな「帰結」を価値としているかが人によって異なるということが 問題だと、個人的には思うんだけど、そういうこと言っている倫理学者っているの?
36 :
考える名無しさん :2010/03/14(日) 08:27:07 P
永井均ってニーチェ評論家の人?
>>34 >良い帰結をもたらすということも考えられないか?
「良い帰結」の、その「良い」という語の意味が問題だと思う
内在主義では、道徳外的な良さ(たまたま人が一人死ななかった、とか)だけでは
良いことが起こった、とは言えない
誰かが誰かを(善意志によって)助けたのなら、そこで初めて良いことが起こったと言える
つまり内在主義的には「自分と他人を同じ種類の存在と理解しない」人がいたとしたら、
帰結を待つまでもなく、既にその事実そのものが悪である、と言える
だから、少なくとも内在主義においては、「自分と他人を同じ種類の存在と理解しない」人でありながら
なおかつ「結果として良いことが起こった」という組み合わせは「原理的に」ありえないということになる
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●異世界●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば回避できます。 これは本当です。やらないと一年無駄になります。 永劫回帰=超人思想=ニーチェ=虚無主義者=ニヒリズム。
>>37 なるほど、それはそのとおりになると思われる
しかしそうすると、逆に、自分と他人を同じ種類の存在と(も)理解する人が、例えば人を殺したり
人の物を盗んだりした場合、行動の帰結にかかわらず、この理解の仕方をしている以上は悪事にはならない?
>>39 >>37 では内在主義と相互性原理の理解を区別せずに語ってしまったけど
この二つは区別するべきだったかも
内在主義者ならば必ず相互性原理を理解しているだろうけど、
逆に、相互性原理を理解しているならばその人は必ず内在主義者だ、とは言えないはずだから
「俺はいつ物を盗まれても良い。だから他人から物を盗んでも良い」と考えて悪事を働く人もいるのだし
この人は内在主義的にも帰結主義的にも、単に悪人である、というだけだと思う
もう一つの可能性として、内在主義者ではあるが、この人自身の能力が低いので
結果として(帰結主義的な意味の)悪いことが起こってしまった、という場合はあると思う
例えば、高層ビルが火事になったとき、そこがビルであることを忘れていて、
子供を助けようとして窓から放り投げてしまった人が居たとする
高いビルの上から落ちたので、子供は結果として死んでしまう
この場合、帰結主義的には悪いことが起こったが
内在主義的にはこの人は道徳の命ずるままに子供を助けようとしたのだから
やはり良いことが起こった、と言わなければならないのではないか
42 :
中坊 :2010/03/17(水) 11:16:45 0
なんで、こんなつまらない話、延々とやってられるのかわからない。 「倫理」とか「道徳」とかいう話に興味があるなら、 池田清彦の「正しく生きるとはどういうことか」でも読めば十分じゃないの?
>>40 死刑になりたいから人殺し、
という短絡にはやっぱりその人間の凡庸な意味での心理的因果があると思う。
死刑になりたいということは、死刑になってもいいということだと思うけど、
そこに人殺しという行為が結びつくことには、
単にそれが死刑に一番近い罪業だからという理由以上の、
というかそんな理由以下のつまんない理由があると思う。
金川は結局、人並み以上に哲学的だったってより、人並み以上にバカ素直だったってことでは。
たまたま自分の自暴自棄と自己顕示の欲求を思想的(?)に正当化してくれるような言説を見つけただけ。
哲学者は、行為する人ではなく思索する人だと思う。
というか、思索することが行為することを上回ると信じている(考えている)人。
その意味でも、金川は哲学者などではない。
もし金川が哲学徒だと云うのなら、 金川は自分の哲学の為にこそ人殺しをしたのだと述べなければならない。 しかし金川は、いつから何故人殺しを望むようになったのかは分からないなどとはぐらかしている。 それだけとっても、金川がバチモンなのが分かる。 論理的に言って殺してもいいってことと、自分自身が現に殺さなきゃならないということとは、 それだけでは結びつかない。そこに自己欺瞞がはいりこむ隙間がある。
46 :
考える名無しさん :2010/03/17(水) 20:20:47 0
>>43 >>40 の人は、単なるレトリックとして「哲学者」という言葉を使っているだけであって、
金川のことを本当に哲学者だと思っている人なんて、どこにもいないだろ。
>という短絡にはやっぱりその人間の凡庸な意味での心理的因果があると思う。
そんなこと当たり前だろ。
そんなことわざわざ指摘して、あなたはなにが言いたいの?
もっとも、人を殺したいなんていう人間は、少なくとも「少数派」ではある、
という点においては、私は「凡庸」とは思わないが。
何やら別の話題が出てきたようだけど、
>>41 についてもう一言だけ
もとの個人的な疑問に戻らせてもらうと、要は「自分と他人を同じ種類の存在と(も)理解する」ことが、
結局、道徳とどう関係するのか、という疑問なので
> 「俺はいつ物を盗まれても良い。だから他人から物を盗んでも良い」と考えて悪事を働く人もいるのだし
ということからも、上に書いた理解は、道徳と直ちに結び付くかどうかというと、難しいのでは?
例えば「だから自分が嫌なことは他人にもしてはいけない」と考えるかもしれないし、
逆に「自分は嫌なことをされてもいいから他人にも嫌なことをしてもいい」と考えるかもしれない
(ひょっとしたら、「そんな理解の仕方なんかと関係なく、人を殺してはいけないに決まってるだろ!」
と言う人もいるかもしれない?)
あと、ついでにちょっと思ったのは、永井の道徳の捉えかたって、そんなに内在主義的(?)なんだろうか
少なくとも議論の出発点としては、自分の利益になるための社会契約という話を繰り返してるのに?
>>40 あなた達の失敗は、責任能力の有無を調べるために心理学者を二人も寄越してきたが、<永井均>を手配しなかったことだと思います。
>>46 つまり、金川は自身で言うほど論理的でも哲学的でもなんでもないし、
それ故に何か永井の言説に触発されて新しい怪物が現れたかのように扱うのもナンセンスだってことなんだけど。
極めてバカ素直だってことに於いては、確かに凡庸ではないかも知れないが。
(でもまあ単に自己省察が足りないだけとも言えるけど。)
死刑になりたいってことは、自殺したいってことだと思うけど、自殺するのに人殺しする必要は論理的にない。
その短絡を埋めるのは、結局自暴自棄か自己顕示の欲求しかないでしょ。
それとも「死刑」にこそ意味があるの?
だったらその意味をこそ語らなきゃ、やっぱり本物じゃないんだが、
金川の「死刑」志向にはそんな意味もない(らしい)。
こんな当たり前のことを何故金川に向かって指摘しないのか、それがむしろ自分には分からないということ。
>>49 >勝手な解釈で成り立ってますよ。奴らは俺の言葉をちゃんと理解できていません。
>なので、浅い深い云々など論じても意味がないですね。
>真実は永遠に闇の中です。あなたは何も解明できていない。
無意味な引用で何かをしたつもりになられてもね。 判決文が何を言っているのか知らないけど、上のようなことは多分言ってない。 (独善的な観念で自己中心的犯行に及んだとかなんとか概略的なことだけ言っているんだろうけど。) 論理的でない、哲学的でなどないと正面から言われれば、 多分金川も黙ってはいられないと思う。 そこが多分、金川の自我が縋りついているところだから。 >真実は永遠に闇の中です。あなたは何も解明できていない。 「真実」という言葉は便利だね。 思わせぶりにつぶやけば、バカな(善良な)人は簡単に釣られるから。 …とまあ、そういう具合に金川を挑発すれば、やはりきっと口を開くと思うw
>>51 >勝手な解釈で成り立ってますよ。あなたは<俺>の言葉をちゃんと理解できていません。
>なので、浅い深い云々など論じても意味がないですね。
>真実は永遠に闇の中です。あなたは何も解明できていない。
永井の弟子同士で会話が成り立つとは思えないけどねw
一言で言えば、金川の殺人は、ふツーに考えても、論理的な実践でなど全然ない。 それに尽きる。 一般論として「やれる」ことと、実際に「自分がそれをやる」こととはべつなんだよ。 永井均がどこかで、ソクラテスの言論について、「死」がわからないのなら殺人だって肯定できるはず、 なんて言っていたけど、論理の飛躍だと思う。 一般論としての「死」の不可解は、個別的な行為としての殺人を即座に帰結するわけがない。 自己の死(生)は自己の死(生)でしかなく、他人の死(生)は他人の死(生)でしかないんだから。
論理的観念金縛りの人生を送ってるの? ある意味悲惨。
論理的でない、哲学的でなどないと正面から言われれば、 多分金川も黙ってはいられないと思う。 そこが多分、金川の自我が縋りついているところだから。 >真実は永遠に闇の中です。あなたは何も解明できていない。 「真実」という言葉は便利だね。 思わせぶりにつぶやけば、バカな(善良な)人は簡単に釣られるから。 なんか、語るに落ちるって感じなんですけど。
\ ∩─ー、 ==== \/ ● 、_ `ヽ ====== / \( ● ● |つ | X_入__ノ ミ そんなエサで俺様がクマ――!! 、 (_/ ノ /⌒l /\___ノ゙_/ / ===== 〈 __ノ ==== \ \_ \ \___) \ ====== (´⌒ \ ___ \__ (´⌒;;(´⌒;; \___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ (´⌒; (´⌒;;;
なんだよ、これはw リンクしたのはちょっとまずかったかな。
58 :
考える名無しさん :2010/03/19(金) 09:51:20 0
暇なので、死に馬に鞭打っとく。
>>49 >その短絡を埋めるのは、結局自暴自棄か自己顕示の欲求しかないでしょ。
なんで、お前にそんなことわかるんだよw
なんか、変な想像してしまって、つい笑っちゃうんだけど。
そんな話だったら「人ひとり殺しただけの人間をわざわざ「凡庸」などと言うのは
相当な俗物性をあらわしている」とか、適当な思いつき、いくらでも書けるんだけど。
(6)哲学書の一節曲解 「死ぬつもりならなにしても」
ぼく:死ねばすべてが終わるのか…。
猫:死刑以上の重罰はないだろ?つまり、世の中は死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、
暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。
哲学者の永井均・日大教授が中高生向けに哲学をやさしく解説した「子どものための哲学対話」(講談社刊)の「死について」の一節だ。
金川真大被告(25)は「この本を読んでより運命を深く考えるようになった」と打ち明けた。
1997年に発刊された哲学対話は「生徒の教育にふさわしい」と全国学校図書館協議会の選定図書にも選ばれている。
「善と悪を決めるもの」など「ぼく」が発する40の根本的な問いに、猫の「ぺネトレ」が新たな視点を示しながら対話形式で進む。
冒頭の一節に共感を覚えたという金川被告。被告を知る関係者は「(殺人を正当化する)彼の理屈そのもの」と驚く。
哲学の分野から「殺人は悪か」などを考える永井教授は「哲学はいったんスイッチを切って世の中の仕組みを考え直そうとするもので、
毒にも薬にも作用する。金川被告は問題意識が途中で止まってしまい、毒の方向に作用したのだろう」としたうえで、「根本から哲学的に
考え直すことは、昔からそうした危険性と隣り合わせだった」とみる。「つまらない」と繰り返し、
自分の「真実」を曲げない金川被告については「人は普通生きていたい、できれば楽しく生きたいと願っているので、
それを実現するためにいろいろな『生き方』を説得できるが、この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない」と
矯正の難しさを指摘した。 …
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/ibaraki/feature/mito1237386252941_02/news/20090328-OYT8T00014.htm
永井均って、新奇なものを過大評価する傾向はある気がするな。 よくもあしくも。
62 :
考える名無しさん :2010/03/20(土) 17:39:36 0
63 :
考える名無しさん :2010/03/20(土) 18:12:25 O
はまのベンチは横浜〜
>>59 > 取材記者は、当たり前であろうが、「どうしたら、我々の社会から、このような事件をなくすことができるのか?」
> といった正当な(?)問題意識を持って永井を取材したであろう。
> しかし、永井には、このような種類の問題意識は存在しない。彼にあるのは、「この私が、自分の生をいとおしむ
> ためにはどうすればよいのか?」といった問題意識だけである。
> これを永井の非社会性として糾弾することはできるであろう。だが、そこで言われている社会性とは一体何か?
> 永井にとって本当に関心があるのは、このような社会性がどのようにして構築されているのか、あるいは構築され
> ざるを得ないのか、その基底にはどのようなむき出しの事態があるのか、これだけである。
> 要するに、永井に対して、いわゆる識者としての「社会的な発言」を求めること自体が根本的に間違っている
>金川被告は問題意識が途中で止まってしまい、毒の方向に作用したのだろう ちょっと言い逃れっぽいな。言い方を変えれば、金川なりの拘泥があったのだろう。 切り離しときたい、って意図は感じる。考え方の正しい道筋があるかのように言うのはどうなんだろう。 ゲーム漬けヒキの金川は家庭環境に問題があったわけでもなく(兄弟姉妹は普通に育った)、 小さな挫折から最終的に生命の否定を引き出していったんだろうな。 生命感の希薄な奴に生命の価値を感得することは難しい、従ってそれに基づく倫理は通用しない。
死に馬のくせに
永井は大学の研究者である。 もし仮に、大学の研究者ならば、その専門領域が何であれ、自分の研究成果には「社会防衛的な配慮」が責務であるとするならば[6]、彼は、今回の事件によって、少なくとも結果責任を果たしていないことになる。 つまり、彼が誠実に研究した結果が社会防衛的な責務と矛盾する結果になるならば、彼はそれを発表すべきではなかった、ということになる。 断言するが、もしそうであれば、永井は何らかの形で隠遁するであろう。あるいは、専門知の領域に閉じこもり韜晦するか[7]。 ところで、一点、気になることがある。 永井は、本当に、上の引用に見られるような「毒にも薬にも作用する」といったような発言をしたのであろうか? 永井を取材している過程で、記者もさすがに違和感を感じはじめ、一種の誘導尋問を行い、その挙句に何とか無難にまとめた文章ではないのか? こっちのほうが面白いぞw
68 :
考える名無しさん :2010/03/20(土) 19:28:22 0
新聞記事はインタヴューに基づくものでも基本的に新聞記者の作文です。 新聞社の側に「編集権」があるから。
>永井は、本当に、上の引用に見られるような「毒にも薬にも作用する」といったような発言をしたのであろうか? >永井を取材している過程で、記者もさすがに違和感を感じはじめ、一種の誘導尋問を行い、その挙句に何とか無難にまとめた文章ではないのか? これはあるかもしれない。 永井なら金川が冒した大量虐殺を「悪くない」 と言い張ったかもな。 「毒にも薬にも」云云なんて言い回しは、永井にしちゃ凡庸すぎる。
>>69 >永井なら金川が冒した大量虐殺を「悪くない」
>と言い張ったかもな。
真相は永井本人、もしくは編集者、しか知らんとはいえ、それはないと思うがな。
(永井も感情の部分では悲惨な事件を望まない普通の道徳はわきまえている)
永井レベルなら自分の「分かられなさ」を重々承知しているはず。
「悪くない」と言ってしまえば「"金川本人において"悪くない」が
「"道徳的に"悪くない」に翻訳されることは分かりきってる。
仮にインタビュー側が永井を理解できる水準であれ、それが世間に公表されれば
大多数には道徳的善悪に翻訳され直すだろう。
金川問題だけで済むことなら何とでも答えれるだろうが、
今 後 の こ と を 考 え れ ば、
金川を悪くないとしたら、永井が教祖化された便乗犯が出てくるだろう。
(金川を悪いと言ってしまえば"俺ら側"の期待を裏切ることになるだろう?w)
そんな場合は凡庸であれお茶を濁すような答え方が社会的責任を果たし、かつ、
永井自身の反社会的な思想を維持する妥協策だったろうと思う。
65=70=49 w
言っちゃ悪いが、70って、永井のなにを読んできたの? 永井までも僧侶倫理=イデオロギーにくるみこんでしまってどうするの?
なにいってんのさ。 僧侶倫理=イデオロギー という身勝手な断定が 永井の得意技=ダメダメ なのに
突然、身勝手だの得意技だからダメだの、文脈抜きに言われてもサッパリ。
永井信者にはわかるはずもないから、気にするな。
>>69 そうなんだよ。「これがニーチェだ」と整合的に理解するのが難しい。
「立派な人」として単なるウソをついたつもりなのだろうかw
なんだよただのレッテリングか。 じゃあ敢えてわかる必要もないな。
>>76 クラーク・ケント=スーパーマン
本郷猛=仮面ライダー
モロボシ・ダン=ウルトラセブン
と似た凡人=変身超人という関係が
凡人大学教師永井=超人思想家永井均の間にも成立する。
超人モードの永井は面白いが、凡人モードの本人はただの教師だからw
>>78 誰もそんな話してないだろ。
金川が永井の本読んで殺人者になったというのは事実だろ。
お前の家族が金川に殺されたのだとしても、そんなバカなこと言ってられんの?
それなら、それでいいんだけど。
これに関してはレスしないよ。
永井スレだから仕方ないのかもしれないが、 ここのスレの人は永井を神格化…とは言わぬまでも、何か偶像化(これも正確ではないが)しすぎだな。 永井の思想は反社会ってより、非社会だと思う。 永井の思想に触れたからと言って、殊更社会に反抗する理由は生まれないでしょ、べつに。
金川は、永井の本を読んで実行した、と言ってるわけだよね。
だから、「曲解」だし、そこに金川自身の自己欺瞞もあると思うんだけど。 「何をしてもいい」という見解から、しかし実際に殺人することを帰結するのは短絡でしょ。 もし永井の思想が反社会的なのだったら、 社会に積極的に反抗することを明確に是として論じていなけりゃならないと思う。
金川にしても新聞記者にしても、永井信者だろうがアンチの嫌儲だろうが、 絶対的に曲解でしか有り得ないことには、なんのかわりもないだろう。 それが戦略としてであれ、激しい言葉で道徳を非難すれば、マイナスのインスパイアを受けて、 この道徳的な社会を直接、積極的に、破壊しようとする奴はかならず現れる。確率的に。 それは予見しうることだった。 金川ほどでないにしろ、実社会で反道徳的に振る舞ったり、地位や立場を利用して非倫理的に 他者を害している人間も多いんだろうと思う。 しかしだからといって……というのがいまの気持ち。
744 :考える名無しさん[sage]:2009/05/01(金) 22:57:58 0 >哲学はいったんスイッチを切って世の中の仕組みを考え直そうとするもので、毒にも薬にも作用する。 >金川被告は問題意識が途中で止まってしまい、毒の方向に作用したのだろう >この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない 永井本人がこう認めているのに、曲解していると擁護する奴はおかしい。 毒に働くことも折り込み済みで書いた本。
747 :考える名無しさん[]:2009/05/01(金) 23:14:35 O
>>744 引用文は「雨は害にも徳にもなる。キチガイにたまたま雨が当たってしまったので
トンでもないことを引き起こした。」 とよめるのだが
雨粒を責める人には、キチガイに当たる雨をまきちらすとはけしからん!
となるのだろう。
テレビ、アニメ、ホラー、ゲームを責める人と
同じどこかで見た香ばしい論法だ。
748 :考える名無しさん[sage]:2009/05/01(金) 23:20:37 0
>>747 さらに言えば、常識的な人間から批判されるのも、想定外の話ではないだろうな。
749 :考える名無しさん[sage]:2009/05/01(金) 23:23:37 O
「永井の著作をできるだけ適切に理解した場合、その内容から、殺人が正当化されるのか」
「仮にされるとして、だから何なのか」
「適切に理解したかどうかはともかく、永井の著作に、殺人の正当化に結び付くような内容があるのか」
「仮にあるとして、だから何なのか」
もし真面目に議論するのなら、せめてこの程度には問題を明確にして議論したらどうですかね。
(もっと適切な明確化があったらよいけど)
まあ、どうせ、煽りたいだけなんだろうけどねw
750 :749[sage]:2009/05/01(金) 23:26:18 O
749は、「信者涙目」とか言ってる人向けです、念のため。
751 :考える名無しさん[]:2009/05/01(金) 23:30:56 O
キチガイは自分の身を正当化するためには雨粒をも掴む。
そんな雨粒を責め立てる事に懸命になる人は
相当香ばしい。
752 :考える名無しさん[sage]:2009/05/01(金) 23:31:17 0 <永井風> 私はこのように考えるが、私は殺人を犯しはしないだろう。 私の考えに影響され、殺人を犯す者がいたとしても、それはその者に所以するところが大きい。 仮に私の考えに盲従して行動する者がいたとしたら、それは私にとっても悲しむべきことである。 なぜなら、私は宗教ではなく哲学を説いているのだから。 753 :考える名無しさん[]:2009/05/01(金) 23:36:15 O 倫理は哲学の問題だよね。 754 :考える名無しさん[sage]:2009/05/01(金) 23:43:40 0 だから、哲学している永井は犯罪を犯さない。 755 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 00:16:33 0 子どものための哲学対話は正直読んでなかったよ。 この犯人は確信犯かな。そーとーやな奴だなw 756 :考える名無しさん[]:2009/05/02(土) 00:32:37 0 著者の意図や読者の理解度云々に関わらず、 この人の言説がこういう犯罪者の自己正当化に 使わるのはあり得る話だよね。現実問題として。 まぁ、みなさんワイドショー的な好奇心でコメント されてると思うのですが。。。 757 :考える名無しさん[]:2009/05/02(土) 00:41:59 O 永井は犯罪者が自己の言説を引用するという状況に 取材拒否でもなく、自己の言説をまげるでもなく、 しかも問題点を言っている。かっこよかった。 758 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 00:55:26 0 つまり、「金川は、哲学する意識が低い」と言っているんだな。 哲学する人間は、冷徹なものよ。 759 :考える名無しさん[]:2009/05/02(土) 01:35:22 0 2ちゃんねらども必死だなw
87 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 07:36:45 0
764 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 16:16:44 0
>>744 「金川被告は問題意識が途中で止まってしま」ったから毒の方向に作用したと読めるんだが。
永井の本には問題意識を途中で止めろと書いてあるのか?
スイッチ切って考え直そうとすることの危険性と、その危険が現実化する頻度を区別しないのは
君に金川に近い種類のそういう判断を妨げる偏りがあるからだろ。
765 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 16:25:17 0
「薬にも毒にもなる」=薬の用法を間違えれば毒になるなのに、薬でなければ毒であり、毒になる場合は毒でしかないと考えるのはどう考えても曲解だよな
766 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 16:29:33 0
>>765 それもそうだし、用法を間違うケースの一般化に固執するのもおかしい。
上で書き物原因論が無意味だと書いている人がいるが、まったくその通りだよ。
767 :考える名無しさん[]:2009/05/02(土) 20:44:52 0
薬に副作用があるのはある程度やむをえないが、
角を矯めるつもりが牛を殺してしまうような副作用が
有る薬はやはり許可すべきではない。
768 :考える名無しさん[sage]:2009/05/02(土) 22:38:28 0
永井には「薬として使って下さい」という意図があるのか?
769 :考える名無しさん[]:2009/05/02(土) 23:23:25 O
永井は毒だと思ってあの本をばらまいてるのか?まさか
771 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 00:14:54 O
永井さんの本も、道徳に対する反発を強調しすぎたきらいがないのか?
本人はもちろん「道徳を最終的な根拠としてどこまでも前提を疑わない」人に対する
反発だろうけど、「善とは究極的には反道徳的なことだ」とか、言い方がまずかったんじゃないのか。
772 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 00:36:25 0
道徳だと書いてあるのを殺人禁止だと思い込む馬鹿の責任まで永井に負わすのは酷だろ
真面目に定義から考えれば善=反道徳的ではおかしいのだから
そういう言い方になる理由を考えないとだめということ、それ自体が善に向かう方向だということだろう
それに、道徳的に悪いことをした人を理解しようとすることも善だろう?
善とは究極的に反道徳的なことだというのは、冷静に考えれば常識的な考え方でもあるんだよ
773 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 00:50:49 0
確かに丁寧に考えていくとそうなるね。
問題はそこまで読者が考えることが期待できるかだけど。
かといって本だけ渡すのはまずいと言ったところで、
渡す大人が毒だと思ってるおかしな奴でないとも言い切れないし。
なんとも難しいところだけども。
774 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 00:52:43 0
道徳を盾に犯罪者叩きする「道徳家」は2ちゃんねるに沢山いるよなw
775 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 00:55:18 0
死刑=道徳な人たちですね、わかります
776 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 01:03:27 0
わざわざageて煽るなよ。
777 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 01:51:20 P
実は俺はこの本をまだ読んでない。今日、図書館で読んでくる。
擁護してる奴は首を洗っとけw
778 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 03:16:28 0
アホな書き込み、楽しみにしてるよ。
779 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 06:11:59 0
>>777 たしかに香ばしいなあ。
89 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 07:40:48 0
780 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 06:24:42 O
「子供のための」というタイトルの本出しといて曲解したヤツが悪いとか笑えるなw
781 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 07:50:42 P
だよなw
782 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 08:01:56 0
んだ、んだ。w
783 :考える名無しさん[sage]:2009/05/03(日) 08:49:41 0
>>780 このスレには珍しいぐらいの正論。
金川が永井を殺していれば、帳尻はあってたような気がする。 本人は殺害されるが、永井の哲学書籍、思想は残る。思想の自由は守られる。 いろいろスッキリ。
91 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 10:09:14 0
>>78 >>80 お前らがそう考えていることはわかったけど、それで、なんでお前らは永井の本なんか読むの?
オツム空っぽなんで、とりあえず、なんかつっこまなきゃって思ったの?w
お頭がからっぽそうなのはむしろ
>>91 の文章だけどなw
君こそ、永井の本を何かの教説みたいに読んでるわけ?
そりゃ、決まってるだろ。面白いから。トンデモ(もどき)哲学だしね。 矢追純一のUFO番組をおもしろがって見るのに似てる。
94 :
91 :2010/03/21(日) 10:53:05 0
いつまでもいつまでも、入門書スレに張り付いてればいいのに。
てかみんな金川スレ立ててそっちでやれば?
. ハ,,ハ ( ゚ω゚ ) お断りします (| y |)
99 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 15:04:49 0
>>80 >>82 >>92 何しろ「哲学書」なのである、多少、過激なことが書いてあろうが、所詮は自分の平穏無事な生活を彩るスパイス程度のものでしかない。
自分の人生と切り離して、純粋に考える楽しみとして読めば なんの不都合もないけど、自分の人生に結びつけようとする人には 良くない本になっちゃうんだろうね。 そもそも殺人なんか犯して死刑にでもなったら、もう考える事は出来ないんだし 永井先生は勿論、哲学的に思考するのが好きな人は、 思考したいという前提が揺るがない限り 既存の倫理観が先生の著作で大きくぶれる事は、まずないと思うんだけど。 たけど世の中にはこの種の哲学本を 思想や宗教書の類と同列に見て まさに自分の人生の指針にしようとする人が少なからず居るんだろうね。
「自分の人生と切り離して、純粋に考える楽しみ」というのが 「哲学的に思考する」ってことなの? 永井理論によれば、永井の本は金川に薬として作用した、ということになる と思っていたけど、そう考えたらおかしいの? 永井の本が毒として作用するって、どういう状況を指して言うの?
金川において薬として作用したことにはなるかもしれんね。 毒として作用したのは社会において。
103 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 21:51:52 0
>>68 >新聞記事はインタヴューに基づくものでも基本的に新聞記者の作文です。
>新聞社の側に「編集権」があるから。
これは、新聞では、インタビューされた人が、記事の中の自分の発言とされている部分を、
後から自分でチェックして、訂正したり加筆したりすることが許されないということですか?
だとしたら、それはなぜですか?
104 :
考える名無しさん :2010/03/21(日) 21:56:29 0
話はちょっとずれるけど、 「なぜ人を殺してはいけないのか?」 の最後で、少しでも無差別殺人など暴走する者を抑える為の案として ○ 福祉政策を徹底する ○ 楽に死ねる方法を国が提供し、 自らの意思で人生を降りる人間を社会が賞賛する ○ 大昔にあった様な残虐な刑罰を復活させて 何をしても最悪死刑という発想を潰す こんな感じの事が言われていたけど、 流石にこれはちょっと安易過ぎないかな…? 紙面の関係上、具体的なところは述べてないだけで 本当はもっと深い意味があったのかな?
105 :
101 :2010/03/21(日) 22:23:40 0
よくわかんないんだけど100と102は同一人物ですか。 >毒として作用したのは社会において。 「毒にも薬にも作用する」と発言した(とされる)のは永井なわけです。 あなたは、永井が、自分の本は社会に有害な本であるということを 認めている、と考えているわけですか。
106 :
100 :2010/03/21(日) 23:38:21 0
>>105 別人ですよ。
永井先生は恐らく、どんなものも
社会的に有害性が発生する事はあって、
そしてその原因の多くはそれを使用するものによるところが大きい
と考えているのかな?と感じます。
ハサミや包丁は勿論の事、布切れでも人を殺す事は可能ですからね。
107 :
102 :2010/03/22(月) 00:59:42 0
>>105 100さんが言ってるけど別人ね。
で、一応尋ねられたのは自分の方だろうから答えておくと
>あなたは、永井が、自分の本は社会に有害な本であるということを
>認めている、と考えているわけですか。
これに関してはYES
ただ、「有害な本」というより「有害になりえる本」だな
事実として害悪を生じせしめたんだから、有害本だろ。
それでは包丁は有害物指定かな?
110 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 01:52:38 0
いまのぼくの理想はもっと高くて、最終的には、現在の自分が未来の自分に知られないこと。
111 :
101 :2010/03/22(月) 02:28:15 0
よくわかんないんだけど100と109は同一人物ですか。
112 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 02:37:27 0
どんなものも 社会的に有害性が発生する事はあって、 そしてその原因の多くはそれを使用するものによるところが大きい と考えているのかな? そう考えない人って、いるの?
>>109 「子供のための出刃包丁」とか。商品化して売りだせば?
「子供のための無修正エロ動画」とか
「子供のための出会い系サイト」とか
>780 :考える名無しさん[]:2009/05/03(日) 06:24:42 O
>「子供のための」というタイトルの本出しといて曲解したヤツが悪いとか笑えるなw
>>102 >金川において薬として作用したことにはなるかもしれんね。
リタリンか
115 :
109 :2010/03/22(月) 03:27:19 0
>>111 違うよ106(=100)のレス見て思ったから書いただけ。
116 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 05:20:14 0
117 :
106 :2010/03/22(月) 15:25:15 0
>>113 正直自分は、子供の頃から、エロ本とかスプラッタームービーとか
散々見てきたけど、実際にそんな事しようとは思わないけどね。
むしろ良い勉強になったとすら感じるし。
自然に発生している気質みたいなものを
果たしてどこまで外部から(他者が)操作出来るんだろうか?
118 :
106 :2010/03/22(月) 15:54:33 0
直接に物理的危険が伴うものと 精神に影響をきたすものの峻別は必要なのかも。 なので「子供のためのよく切れる包丁」は不味いでしょうね。 「子供のための切れない包丁」はどうか?というところでしょうか。 論点としては、包丁と殺人(他者に危害)が結びつくか否か?なのかと。 包丁自体よりも他の要素が大きいのかなと感じるという話。 泥棒が活躍するゲームとかアニメとかも。 それが現実に犯罪者を作る決定的な原因になるのか?とか。
119 :
106 :2010/03/22(月) 16:05:26 0
ただ自分の意見としては、 昔から守られている社会道徳を尊重するという意見も必要なのだと思う。 それは単純に自分が最終的に困るかもしれないから。 確かに人が何しようと勝手だけど、そのせいで社会の仕組みそのものが 上手く機能しなくなっちゃったら、自分の人生の安寧も失われるからね。 かと言って行き過ぎた言論統制なんかも絶対やだね。 だから永井さんの本に共感したり、反発したりする人が偏り無く存在している状態が 一番の理想かなと。
個人の資質はイロイロなんだし、感化された結果発現する行動もイロイロだろ。 金川はその一例に過ぎないって事。
121 :
106 :2010/03/22(月) 16:51:54 0
>>120 まぁね。金川に限ってはそうだし、
対象を一個人に絞って言えば、影響されるものと
影響されないものは、それぞれの資質みたいなところに依存するのかも。
けれども怖いのは、そういう反応が違った形で連鎖して、悪影響を及ぼす事。
暴走した人間が居たとして、その人間が暴走した事により
親族に影響し、それが仕事に会社に影響し、
そういう例が多く重なると、社会全体の不利益になる場合がないのか?とか。
特に重要なポストに居る人間に影響した場合など。
だからちょっと極端くらいに社会道徳を唱える人間も必要かもしれないなと。
これは社会の安寧が自分の人生の安寧と結びつくという
前提を共有出来る人間同士では共通する危惧じゃないですか?
122 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 19:49:51 0
独在論者が本を出版しているのが不思議
永井本人も気づいてないから、気にするな。
独我論じゃなくて独在論なんだから 他者の存在は否定されないだろうが
この件で一気に永井の見方が変わった
127 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 20:45:13 0
130 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 21:27:51 0
131 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 22:20:59 0
なかなか収拾がつかないな。
>>125 すいません 独我論と独在論の違いは何ですか?
133 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 23:11:06 0
>>103 だから新聞社の側に編集権があるからなんでしょ。
永井本人も『道徳は復讐である』の169-170頁でそのようなことを言っているし。
要するに新聞記事に基づいて議論しても意味がないということなんじゃないの?
134 :
考える名無しさん :2010/03/22(月) 23:28:10 0
こういう思考実験はどう? もし他人の身体と自分の身体を 医学的に完全に接合できたとして(もちろん脳も) そしてそのまま数日過ごす。この時は自分が全ての身体パーツを支配した様な状態。 それでまた数日後に分離する。すると自分と他人はまた意識レベルでも別々に分離する。 そしてその他人と、接合されていた時は何々だったよね〜と 全ての記憶や体験を会話で一致させる事が出来ていたら 自分の意識と他人の意識が接合されていた時にはまったく同一になっていた つまり他者と自分が一体化していたとならない? これではやっぱりダメ?
タイトルをつけるなら 「プラナリアであることはどういうことか」 ですね
おそらく永井さん的には金川の件は哲学が如何に理解されないかの一例に過ぎないだろうし 哲学者は概して自らの哲学を制御できないということの例証でもあると思ってるんだろうなあ。
>>132 他者、というかそもそも心の外部が存在するのか
を疑うのが独我論(他者が存在するかは解らない)
他者も心の外部の存在も認めるが
私と他者の違いは他人Xと他人Yの違いとは異なる
と考えるのが独在論(他者の存在は前提)
>>137 でも本当は、他者とは何かすら言えないというのが本音なんじゃないかな…
>>137 >私と他者の違いは他人Xと他人Yの違いとは異なると考えるのが独在論(他者の存在は前提)
これって要するに
「私は他者が何を考えているのか知ることはできない」
ということでしょ
そんなの当たり前じゃんw
>138 その時点においては他者と自分が一体化していたと言える基盤が無いだろう。 その時は接合した身体を持つ自分しかいなかったんだから。
>>141 しかしその後分離した時点で、接合されていた時の
全ての記憶は一致してるんだよ?
意識は同化できたという事にならない?
>>140 いや、そうじゃない
それは「他人Xは他人Yが何を考えているのか知ることはできない」
と同じことでしかない
問題はそういう認識論的なことじゃない
>142 それは再三書かれている自分が分裂して一方はなぜか自分でもう一方は自分でなくてという議論と同じ。 たとえ語られた記憶がどれほど一致していたとしても。 さらに言えばその記憶が同じかどうか比較出来る基盤も無いよ。
>143 140ではないが、あなたの言わんとすることは言えない。 存在論的差異を持ち出しても、あるいはたとえ私の語る「言語」には他人には無い何か(<言語>あるいは私的言語)があると言ったところで…。 そんなことわかっているだろうけど言わんとすることとは別のことが言われてしまうのだから。
>>144 確かにそうも思えるけど、でもそれはちょっと
自分の意識という所にこだわりすぎにならないかな?
じゃあ同化してないと何故言える?時空間レベルで同じになったのに。
>>145 でも「あなたの言わんとすることは言えない」という形で
その「言えなさ」だけは言えている
>146 <私>は決して同化することは無いから。 他者と決して同列に語れない、というか語れない不可能概念なんだよ。 同化したとか同化してないとかそもそも言えない。比較出来ない。そういう唯一性。 もちろん身体的に同化していたとは言えるけど。
>147 言えなさが内容的規定性に取り込まれてしまうわけですね。 だから正確にはその言えなさも言えないということも…以下無限に。 つまり永井さんはパフォーマティヴな哲学者ということになりますね。
>>148 それだけじゃ反論として弱いような…
出来ない出来ないと言われても…
実際
>>134 みたいな実験が成功したら
接合されてた間は同化してたとならないかな?
それでも違う世界を見ていたとなるの?
>150 ある意味では言える。 別の意味では言えない。 その時点の体験には外が無く、分裂後はその体験の記憶の比較は論理的に不可能。
>>151 AとBを身体的に接合してCを作ったとして
そのCからAとBが独立した世界を見ていたという根拠は?
それとも記号通り意識レベルでもCになったという事?
>152 独立した世界を見ていたとは主張していない。 Cになったと考えてもいいと思う。 ただしそれは後にAとBに分裂したときに同化していたと言える体験ではないよ。 Cからの連続体をAに認めるかBに認めるかは端的に自分がどれであるかが決めること。 ところですまんが…おやすみなさーい^^(リーマンですので)
155 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 01:01:51 0
なんか、大昔にタイムトリップした感じなんですけど。 川上未映子なんか(よく知らないけど)非常識なまでにまともな人に見えるんだけど。 そういうことまで考えると、永井はやっぱり気になってしょうがない。
>>140 >>143 おそらくあなたが言いたいのは
「私は主体Xとして一般化できないかけがいのない存在」
とでもいうことでしょ。
そうだとしても、「そんなの当たり前でしょ」と相変わらずいえてしまうと思いますが。
という事は、Cになった時は既に 他人という概念がなくなったも同然という事かな? 同化とかじゃなくそんなものが定義出来ない状態ってこと? つまり今の自分みたいな状態で、そこから自分を分裂させて あのときこうだったよね〜というのが無意味だという事と同じだという事なのかな?
珍奇な思考実験は、哲学じゃなくてSFだな。
>>156 「だれが」当たり前と感じているの?
「あなたが」そう感じるのだとしたら、それは既に
「『主体Xとして一般化できないかけがいのない存在』という一般化されたもの」
を思い浮かべているからに過ぎない
>>158 うん。でもまぁ思考実験なんだし
こう前提すればこうなるよって話でしょ?
>>159 あ、これ理解不能だわ!って思えたら不思議に思えるのかも。
>>160 永井に限らず、珍奇な思考実験をやる人がたまにいるけど、それって劣化アンチノミーじゃん。
>>152-153 / , , 、 、 \
./ ./ , / i" ./i 'ヽ \ \-, , ヽ ヽ
| ./ / / /| ./ | lヽ | ヽ \ヽ \ |\ ヽ
|/ ,///' =, |/ |. \ヽ|,,,ヽ|,|,- | ヽ. ヽゝ
/ /l/ i/ /,,-^~'''=-ヽヽ |.-='''~^ヽ,\ヽ i |
|/ ,i | .ii i,ノii \| il,ノ;i ii> '' i-,| |
ヽ.|| ,/ヽ ' ヽ-' / ''''''' /i.)|ヽ/
'|| | |'^ヽ ’ | |,/ノ
ヽ'-/ヽ ./~^'''^~"ヽ / .|'/
' | ヽ i /~~~~~'''| / | |
| |'ヽ,, .ヽ ./ / | l アンタラとだけは絶対に嫌
i | i,,~=,,, . ̄ ̄ ̄ ,,,=',/i ヽi |
_ヽ,,-.., ̄ i~=, ,,,,-" | .| | i
,-^~~ /'~ ヽ,,-| ~ ̄~~ .|,, ヽ| /
/' | | -,, | ~ヽ. |/,,,,-----,,
.i ヽ |l ~^--,,,,, ,,,, ~~'~ ~^^-,,,
.| ヽ .|i i /"^ ~^=-,,,
ヽ ,--=='ヽ ヽ-,, ~=
AA使わないとお話できないゆとり多すぎ
うわ その返しは痛いなw
>>163 が何を意味してるのかサパーリわからん俺はオサーンですか?
実際に永井先生の講義聞いてる人で独在論が出来た人って 全体の何割くらいだろ?
169 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 11:55:41 0
170 :
168 :2010/03/23(火) 12:13:51 0
独在論が出来た × 独在論が理解出来た ○
「理解できる」といえるための必要十分条件教えてください
独在論の話て、ちょっとした事で全てが大間違いだったと思う時があるけど でもやっぱりよく考えると、<私>を言えるはずないてなるね。。。
174 :
157 :2010/03/23(火) 16:28:37 0
そうか、言語で後々<私>を言おうとしても どうしてもつかめないという事かー その「つかめない<私>」ってのがまた概念になって、 「そのつかねない<私>ってのが概念になって」というのがまた概念になって… というふうにずーとつかめないから比較のしようもないのかー これが無限に続くと。<私>を言語で表す事のこれが限界だと。 これであってる?
164 :考える名無しさん:2010/03/23(火) 07:07:51 0
AA使わないとお話できないゆとり多すぎ
165 :考える名無しさん:2010/03/23(火) 07:14:36 0
>>164 なんだエヴァ知らないのかw
166 :考える名無しさん:2010/03/23(火) 09:35:33 0
うわ その返しは痛いなw
なんか、ジジくさい。
176 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 19:28:04 0
177 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 19:36:54 0
多分、見たとおりの意味なんじゃないの? 興味ないけど。
分裂とか何とかの話をするのなら、『私・今・そして神』に出てくる分裂、融合の話や、 『なぜ意識は実在しないのか』に出てくる同時多重人格の話とかをよく読んでみて、 それでも物足りなければ『転校生とブラック・ジャック』も読んでみて、そして、 そのへんの話が私とか今とか独在性とかの話と本当のところどう関係してるのか、 という順番で考えてみたらどうですかね 特に個人的には、「本当のところどう関係してるのか」を忘れないようにしとくのがいいと思う これだけでは何なので… まず細かいことを言ってみると、今の時点では私は分離後のAだとすると、他人であるBとは 全く違うのではないか、ということには何も変わりはないと思う また「過去には融合してたじゃないか」と言うなら、今度は、その過去の私と今の私Aは (本当の今は一つしかないという意味で)全く違うのではないか、という問題になる
178続き しかし、より問題だと個人的に思うのは、仮に融合なんてことがあるとして、 私である融合体Pと別の融合体Qに違いがなくなるとか、違いがあっても他の融合体R、Sの違いと 変わらないとか、そんなことになりますかね? 結局、自他の違いとは何なのか、他人同士の違いとは全く違うのではないか、そして その違いは今と過去・未来の違いと類比的なのでは、という話は何も変わらないのでは? ここは個人的に思ったことを書いてみたので間違ってたらご指摘ください
180 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 20:49:14 0
ていうか
>>164 は誰に向かってレスしてんだか。
多分、コイツも永井信者だろ。
なにやってんだか。
181 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 21:07:50 0
>>179 >しかし、より問題だと個人的に思うのは、仮に融合なんてことがあるとして、
>私である融合体Pと別の融合体Qに違いがなくなるとか、違いがあっても他の融合体R、Sの違いと
>変わらないとか、そんなことになりますかね?
これは、私Pと他人Qの融合体という意味だよね?
んで、Qの違いがそこにあったとしてもそこで感じる違いは
私Pから見える他人Rや他人Sの違いと変わらない違いでしかない
つまり全て<私>からしか見えてないという事だよね?
しかもこの話が理解された時に、全てが普遍化された「私」になってしまって
私秘的な<私>の方はあい変わらず見えてこないという事になる?
>過去・未来の違いと類比的
というのがまだいまいちよく判らないな。。。
AA厨が思いのほか粘着しててワロタ
183 :
考える名無しさん :2010/03/23(火) 22:08:25 0
おい!永井厨が奨める、永井の著書はなんだ? 何冊か挙げてみろ。待たせるなよ。
184 :
183 :2010/03/23(火) 22:57:52 0
お願いします、教えてくださいm(__)m
意識は存在しないが面白かった しかも読みやすい
>>163 旧エヴァンゲリオン劇場版では、アスカとシンジが他我・自我の融合状態を
自ら拒絶して個に戻って終わる。アスカはそうした融合状態について、シンジ
に向かって「あんたとは絶対に嫌」とか、最後は「気持ち悪い」。
ATフィールドを他我と自我の間にある心の壁のメタファと解すれば、たとえば
金川は無差別攻撃を行う使途のような存在。等々。他我と自我の問題をメタフォリカルに
表現していると言う点で、エヴァンゲリオンはよく練られた作品だと思うね。
永井厨ならその辺感得できてもいいんじゃないの?
現在進行中の新劇場版は、旧作の永劫回帰の別フェーズ版だとか云われてる。ふーん。とかね。
俺は補完されたいけどね こんなに毎日人間関係で悩むのは嫌だ みんなでひとつになりたい
189 :
考える名無しさん :2010/03/24(水) 08:08:32 0
マジレスしてるAA厨ワロタw
絶対不可侵なココロの壁みたいなモノがあって、それがないと人間が溶けちゃう、 なんて中2設定アニメは哲学と無縁だよ。
191 :
169 :2010/03/24(水) 12:27:25 0
前に永井がエヴァを評価してるとか何とか誰か言ってなかったっけ?
自演してまで粘着してるAA厨ワロタ
「永井均という人が広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』を聴いている」とかいうのが 著書の中にあったけど広末好きなの?
でもさ<私>の話って単純に楽しいよね。 話が何段階にも奥深くなっていってさ。 これこれこうで… でもほんとうはそうじゃなくてこうなんだ けどさらに不思議なのはこうなんだみたいな。
>>197 それが深い気になってるだけの錯覚だというのが
永井批判のポイント
大庭とかな
「なぜ」錯覚だと言えるのかを精密に語ろうとしてくれないと くだらないパースペクティブな批判と変わらないんだよね
というか、錯覚に過ぎないから、批判する価値もないってことなんじゃないの? ひとりごと言ってるぶんにはかまわないけど、そんなものを本にするのは迷惑でしかないでしょう。 現に、金川は架空の人物ではなくて、実在する人物なわけだし。 「商売」と公言するなら、まだ理屈は成り立つが、永井はこんなものを「哲学」 などと言っている。
>>201 と、結局なにもまともな批判しないわけでしょう?
>>202 永井理論は信じたものが勝つんだよ
こっちで何をいっても、永井理論は崩せない
反証可能性がないのだ
逆に、何が論証されたら永井理論は間違っていると思う?
売文新書本は批判対象除外だからな。
>永井理論は信じたものが勝つんだよ 永井は僧侶
>>202 なに言ってんだかぜんぜんわかんないけど、だって、俺は名無しだもん。
君、ここの住人?
>>206 >永井はこんなものを「哲学」などと言っている。
じゃあ哲学ってなに?
>>203 錯覚だというのを証明すればいいだけじゃないの?
209 :
206 :2010/03/25(木) 00:19:17 0
よく読んでからレスしろ。
よく考えてからレスしろ。
>>181 > これは、私Pと他人Qの融合体という意味だよね?
いや、私であるAと他人Bが、仮に、身体が合体する(?)とか記憶が一致する(?)とかいう意味で
融合して融合体Pになる、なんてことがあるとして、それが永井の論じるような私と他人の違いという
問題にどう関係するのか、ということ
「どう関係するのか」という点を強調したいための一つの発想として、もしそんな融合があるとしても、
そのような融合体が複数あって、そのうちの一つPが私であるということになるのだとすれば、
結局、私であるPと他の融合体Qの違いは…という同じことが問題になるんじゃないか、と言ってみたかった
しかし、融合とは何なのかがはっきりしないうちにこんなことを言っても、混乱を招くだけの
ような気がしてきたので、撤回します
やはり前に書いたような『私・今〜』や『なぜ意識〜』の関係しそうな箇所を(もし読んでなければ)
読んでみるのが一番かと
> >過去・未来の違いと類比的
> というのがまだいまいちよく判らないな。。。
これはさすがに、そんなこと言われてもw
私と今の対比は、永井が最近の本でたくさん論じてるところなので、もし興味があるなら
読んでみてください
またAAあらしかよ。
永井はコピペ荒らしだからな。信者があらしでも不思議ない。
そっか永井はコピペ荒らしなんだね^^
215 :
考える名無しさん :2010/03/25(木) 02:01:12 0
一応、テレビでは見たことがあるんだけどね。 金川の問題を扱うには、テレビに出てもらわなくては、話にならないでしょう。
永井がコピペ荒らしであるとしても コピペ荒らしが永井とは限らない
217 :
考える名無しさん :2010/03/25(木) 02:41:06 0
>>215 テリー・伊藤程度でも事足りるテレビじゃだめだね。
金川事件の法廷で弁護側証人として哲学と殺人との関係を明確に述べる
べきだろう。自責感覚があるのであれば。
仮に、検察側証人として出廷するなら、哲学と殺人の無関係性を明らかに
することになるだろう。この場合、被告はがっかりするに違いない。
どちらにせよ、哲学者であることを自称する以上、己の言責を明らかにすべき。
218 :
201 :2010/03/25(木) 06:04:03 0
マジで腹立ったぞ。 お前ら、どうなっても知らないぞ。 2chといえども、ここはインターネットだからな。
>>219 それ、知ってたよ。別人であることは自明。
永井を晒すには、身体を晒すしかない。
自明? GoogleやYahoo!にいってみろ。
永井均は高確率でニート
>>221 馬鹿じゃねえの。そんなところにいって、自明かどうかわかるなんて、狂ってるんじゃねえの?
>じゃあ哲学ってなに? だれだよ、こいつは? ここが哲学板かどうかもわかってないのかよ。
バカっていうやつがバカ
はい、すいませんでした。
もう〜そうやってすぐにあやまって! ほんとに悪いとおもってんの?
永井のコピペはオリジナル文脈を無視した毒材荒らしコピペだからな。 信者がバカとかあらしであっても不思議ない。
永井均厨は高確率でニート
>>195 永井の本や中島の本を読む人は「哲学」という言葉によほどの幻想を持っているんじゃないの?
永井の本は、論理遊びとしてのおもしろさがあるとはいえるけど。
あと、中島は、まじめな本も書いているけど(読んでないけど)。
背骨、曲がってますよ。
>>45 であがっている『思想地図』のなかで、その金川について書いてるよ。
>>237 本屋に行ってみたけど、見かけなかった。
だれか、なにか書いてくれるといいんだけど。
ニート御用達哲学者(笑)
240 :
考える名無しさん :2010/03/27(土) 10:58:11 0
>>238 細かく分析的に論を深めていくいつもの哲学的な議論なので
要約というのは不可能だしやっても無意味だな
あれについて論じるなら
1ステップごとに細かく検討しないと
だからやんない
241 :
238 :2010/03/27(土) 12:01:50 0
ただの参考として、結論だけでも書いてくれない?
242 :
238 :2010/03/27(土) 17:51:00 0
なんか、つまらないなあ。
俺は、はじめからあまり興味なかったから、別にいいんだけど。
興味のあった人(見てる?)は一体なにやってるんだろう、と
本当に不思議なんだけど。
>>40 みたいな人は、自分のサイトで自分の文章、晒しているわけだけど。
243 :
考える名無しさん :2010/03/27(土) 20:02:01 0
>>241 哲学的分析だから「結論」なんてないよ
そもそもべつに「金川について」書いてるわけでもないし
でも「T 社会への問い」の橋爪、長谷、順番にと続けて読むと結構おもしろい
なかなかよい編集と思った
懺悔はない。つまり、自分に責任はない。 言責は取らない。無関係。無責任。 ということだな。w
>>238 >細かく分析的に論を深めていくいつもの哲学的な議論なので
フシアナ君はこのようにだまされ続ける。
Nの議論は結論先に有木でその結論へ向けて小走りジャンプの
連続のような非線形ロジックをまくし立て、過去有名哲学者も同様に
考えてたとか接着剤よろしくむりやりコピペして論理をつなげる。というのが
Nの文体。原典をきっちり読んでいれば、そんなうそ・捏造はすぐ見破れるが
若輩、入門者には、その捏造振りは見抜けないだろうね。
だから、Nは大衆向けの新書でしか物を書かないのだよ。これぞ売文の極み。
246 :
考える名無しさん :2010/03/28(日) 03:38:28 0
>>245 ぜひ具体例を挙げて論じてみて下さい。
別にこれは煽りではなく、知りたいのでお願いします。
ほんとニートは永井好きだよねw 自分を承認してくれる数少ない存在だからだろうねw
買ってみた 最近の文庫版後書などで出てきた議論が、より詳しく論じられているという感じか (実際そういう趣旨と思われる注が付いている) 個人的には、道徳的改悛を目指すこと、「心の底から悪かったと思う」のを目指すこと(?)、 という点に関する議論が、前に疑問を持ったところだったので面白かった しかし、やっぱりなかなか難しいな…
いずれちゃんとした著作に収録されるんじゃないの?
ちゃんとした著作w
俺も一応いま買ってきたところ。
糞
思想地図関連のスレで紹介したいんで、ぜひ感想聞かせてくれ。
「われわれの社会」は「鈍感」な「善人」たちのおかげで成立しているw それはたまさかのことではないだろうw
「鈍感」な「非善人」哲学者のおかげで無差別連続殺人が起きたりもする。 これは、笑い事などではない。
258 :
考える名無しさん :2010/04/01(木) 00:35:56 0
もう4月か。
なあ。誰か教えてくれ。 <私>を生きることなんて可能なのか? <私>というものがあらゆる内容的規定性から逃れ去るものだったら 「それを生きる」ということに意味を持たせることなんて不可能なんじゃないのか? 自分は現に<私>だが「<私>を生きる」という表現は自分の生に何も付け加えないのでは? いくら奇跡だなんだと言ったところで単なる事実でしょ?
>>260 永井がどこでそのようなことを書いていたか、あまり思い浮かばないので、
書名とできればページ数を指摘してもらえないですかね
>>261 すまん。忘れた。たぶんそのままそんな表現はしていない。
規定性云々は岩波講座。奇跡云々はいろいろ。
著作は関係なくどうなんでしょ?
生を外側から意味づけるものは無いとしても<私>を生きることが
内在的な意味づけを与えるものだと言えるんだろうか?
奇跡って、宗教用語でしょ。哲学で奇跡語ってどうする。 説明不能ということなんだし。 テキトー&ズサン。
じゃあなんで<今>が2010年なのか説明できんのかよ 原理的に根拠を与えられないことについては奇跡とでも言うしかないだろ
年号あるいは年月日時刻の表記は閏秒のレベルまで定義されている から、今年が2010年と表記される理由は明白だろう? たとえば、「神」とか「奇跡」とか「善悪」とか、説明が難しいことがら、 を「原理的に根拠を与えられないこと」ととか「わたしにはよくわからないこと」 とか「■■■■」といった文字列と置換しつつ表記・表現するという練習を してみたらいい。あながち「奇跡」などという語を用いるから何かを語っている ように見えるけれど、実は理解しておらず説明もできないことを堂々と語っている ということが自覚できると思うよ。w
>>262 それなら、たんに、永井は〈私〉を生きる(?)ことに意味を与える(?)なんて話はしていない、
ということになるだけだと思うけど
むしろ、どこからそんなふうに思ったのかが不思議
そもそも永井は人生の意味とかなんとかを中心に論じていないと思うし、それを前提にあえて探すと、
例えば『翔太〜』文庫版251ページには
「人生の全体を、つまりそれが存在したってことを、まるごと外から意味づけるものなんて、
ありえないさ。そんなものがありえないってことこそが、それをほんものの奇跡にしているんだからね。」
などと書いてるわけだし
>>260 私には、永井は哲学者だから、そういうことを思いついたのだろう、
ぐらいにしか思えない。
>>265 それは1900年の人にとっては今年が1900年と表記されることは自明
あるいは2100年の人にとっては今年が2100年と表記されることは自明
と同じ事でしか無いだろうが
俺が聞いてるのはそういう問題じゃないわけ
時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
じゃあその「現実に存在する」なんていう特別な性質を現に持っているのが
1900年でも2100年でもなくて2010年なのはなぜなんだ?
>>268 クビを突っ込んで悪いけど
それが<私>であり<私>の不可思議さってこと?
>>268 >時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
多分、あなたは哲学を一度も勉強したことがないと思うけど、
「現実に存在する」ということは「性質」なの?
亀レスだけど、
>>248 確かにむずかしいんだけど、まともに受け取ってもしょうがないと思うよ。
「道徳的非難を受けて改悛することを目指している者」とか
「これは分析的命題であり … いや、そうではないかもしれない」とか
聞いたこともない話で、考えたい人は考えればいいけど
個人的には、考える必要を全然感じない。
永井先生に対しては、理にかなっていることは理にかなっているかどうかを考えてください、
ぐらいのことしか言えない。
「語りえぬことは黙ってやらざるをえない」とか、私はちゃんと憶えていたけど、
また矛盾しちゃったの? とか。
私の言ってることだって、はじめから論外であって、世の中にはまともな人たちが
ちゃんとたくさん存在しているのだから、ほっとけばいいと思っているけど。
>>240 のようなことをまじめに書いてるのだとしたら、スゴイ話だ。
「作者の主張をを100文字以内で要約せよ」といった論述問題の練習不足なだけだろ。
>>271 > 「語りえぬことは黙ってやらざるをえない」とか、私はちゃんと憶えていたけど、
> また矛盾しちゃったの? とか。
「矛盾」と言えるほど、その引用部分の具体的内容が理解できるのなら、もしよければ教えて欲しい
その部分について現在の私の頭に入っているのは、およそ言葉で語るということは何らかの正当化であって、
よってある意味では善であるから、本当に悪事をしようと思ったら、何も語らず黙ってやるしかない、
というようなことだけど、それでいいですかね?
もしそうだとすると、それには素朴な疑問がいろいろ出てきて、なかなか理解できない
例えば人を殺した人が「俺はただ楽しいから殺しただけだ、文句あるか」と語ったら、それでも
言葉で語った以上は正当化であって善になるのか、とか
あるいは、その引用部分の理解が全然違う?
275 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 12:41:24 0
>じゃあなんで<今>が2010年なのか説明できんのかよ >理的に根拠を与えられないことについては奇跡とでも言うしかないだろ 仮に今が1000年だったとしても、あんたはそれを奇跡だといいはることに なるだろう。 今が2200年だったとしてもやはり奇跡になるだろう。 今が何年だっとしても奇跡になるんだったら、そのときの奇跡という言葉に さしたる意味はないな。
276 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 12:47:40 0
>>275 もうすこしいうと
今が存在するならば、いずれにせよ、それは”いつか”でなければ
ならないわけだよ。
いつでもない今なるものは論理的にありえないから。
つまり、今がいつかであることは必然であり、そのいつが
何年だったとしても奇跡になるのだから、
そこでつかわれる奇跡という言葉はほとんど無意味に近い言葉
にはならないだろうか。
277 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 14:09:59 0
>>269 俺はそう思うけど誤読かもしれないから自分で本読んでくれ
>>270 なんかお前詳しそうだな
「現実に存在する」は事実内容を表す述語ではないだろってことか?
>>275 いや、だからさぁ
あんただってそこで「仮に」という言葉を付け加えざるをえなかったわけだろ?
今は「仮に」2010年じゃなくて、「現に」2010年なわけ
この「現に」という言葉が付いているのが1000年じゃなくて
2010年なのはなぜなんだ? ってきいてんの
278 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 19:01:11 0
>今は「仮に」2010年じゃなくて、「現に」2010年なわけ >この「現に」という言葉が付いているのが1000年じゃなくて >2010年なのはなぜなんだ? ってきいてんの だからその問いには意味がないっていっているわけだよ。 仮に、今が2200年だっとしても、君は、”現に今が2200年なのは なぜ?”と問うわけだよ。 今が100年なら、現に今が100年なのはなぜなのか?とね。 今が何年だったとしても、君は、今が現にその何年なのはなぜと問う。 今が存在するとするならば、それは”いつか”でなければならないの。 ”いつ”でもない”今”というものは論理的に存在しえないわけだから。 そして、今がいつであっても、それがなぜそのときなのかがとわれるとすれば その問いは空虚な問いだよ。 そもそも答えが求められるものではないものを問うているだけの空虚な問い。
>>278 横からだけど、現に今が2010年なのは間違いないのに、そういう仮定の話をするのには、
何の意味があるの?
>>279 を自己訂正
現に今が2010年であるのはなぜか、と問うているのに対して、仮に1000年だったとしても
同じように問うだろう、と言えるのはなぜ?
現に今なのは2010年で間違いないのに、なぜ他の時点でも「同じ」と言えるの?
281 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 21:46:36 0
>現に今が2010年であるのはなぜか、と問うているのに対して、仮に1000年だったとしても >同じように問うだろう、と言えるのはなぜ? 人類が勘違いをしていて今が実は2010年ではなくて2200年だった ということが判明するかのせいはありうる。 それでも、”なぜ現に今は2200年なのか”と問うことができる。 そこでは、xx年のxxにはいる数字はなんの意味ももっていないわけ。 今が現に2010年なのは奇跡だという人に対しては、 それでは今が何年だったら奇跡ではなくなるのかと問いかえすべきだろう。 今が現に100年だったら奇跡ではなくなるのか? 今が何年であろうとも、現に今がその年であるのが奇跡だという のだから、”現に今が2010年なのは奇跡だ”というときの2010 という数字にはなんの意味もない。 そこにいかなる数字がはいっても奇跡になるのだから。 今が存在することは奇跡かもしれないが、今がある特定の時点を もってしまったことは奇跡とはいえない。 今が存在するならば、それはあるとくていのいつかとしか存在しえないから。 そこにあるのは単なる偶然だろう。 それとも偶然=奇跡なのか?
282 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 22:28:56 0
>>278 何度も同じ話させんな
それは「仮に100年だったとすれば」「仮に2200年だったとすれば」の話だろうが
そういう仮の話じゃなくて、事実として「現に」今であるのは2010年なわけだろ?
事実として今であるのが100年じゃなくて、2010年なのはどうしてなんだ?
>>281 >実は2010年ではなくて2200年だった
これは別に人類が丸ごとタイムトラベラーだったと言っているわけじゃないんだよな?
だったら「2010年」という記号が本来は「2200年」という記号の意味だった、というだけだろ
xx年のxxが何の意味も持っていないということにはならない
>そこにいかなる数字がはいっても奇跡になるのだから
ならねーよw
「現に」今なのは2010年だけだろうが
>偶然=奇跡なのか?
偶然だったとしてもそこに法則が存在しえないわけじゃないだろうが
その法則が複雑過ぎて人間の理性じゃ追えないから「偶然」って言ってるんだろ?
俺が奇跡っつってんのは「「原理的に」法則が存在できない」ことなわけ
>>281 > >現に今が2010年であるのはなぜか、と問うているのに対して、仮に1000年だったとしても
> >同じように問うだろう、と言えるのはなぜ?
>
> 人類が勘違いをしていて今が実は2010年ではなくて2200年だった
> ということが判明するかのせいはありうる。
それはどういう可能性を言ってるの?
たんに数え間違い?
それなら、正しい暦で考え直せばいいだけだろう
仮に○○年であっても同じ、というのは、そんな(つまらん)意味で言ってたの?
284 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 23:14:09 0
>事実として今であるのが100年じゃなくて、2010年なのはどうしてなんだ? 君が実は夢をみていて、目覚めたら今は2010年じゃなくて2200年 だったという可能性はありうるだろ? それでも君は同じことを問うことになるよね。 事実として現に今が2010年ではなくて2200年なのはなぜなのか、と。 何度もいうけど、今が存在するならば、いつかでしかありえないのよ。 いつかでもない今なるものは論理的にありえない。 そして、今がいつだったとしても、なぜ今が現にそのxx年なのかという 問いがとわれるてしまうのだから、その問いは空虚な問いでしか ないよ。
285 :
a :2010/04/03(土) 23:31:40 0
過去から未来へ流れる時間の一点と「今」とが関係付けられていることの偶然性です
286 :
a :2010/04/03(土) 23:49:33 0
「過去から未来へ流れる時間の一点」に、何をどう作用させれば「今」になるでしょう? 「過去から未来へ流れる時間の一点」から、どうすれば「今」を特定できるでしょう?
287 :
考える名無しさん :2010/04/03(土) 23:51:46 0
>目覚めたら今は2010年じゃなくて2200年だったという可能性はありうる まず第一に、それは283が言ってるように正しい暦で数え直せばいいだけのことだろ 夢を見ているときの時間軸における2010年と2200年を(1)2010と(1)2200 夢から起きたときに認識した2010年と2200年を(2)2010と(2)2200と表すとすると 「現に今が(2)2200年(=(1)2010年)なのはなぜか?」 という問いになるだけのことに過ぎないだろ 第二に、そもそも俺が聞いているのは認識論ではなく存在論なんだよ そういう認識に関する錯誤が「仮にありえないとすれば」どうなるか?という問題なわけ 認識に関する錯誤もどこまでも残るはずだろ、という反論は、確かに正しいが それは俺の問題にしていることとは別の問題だ >今がいつだったとしても、なぜ今が現にそのxx年なのかという問いがとわれるてしまう それは「仮に今がxx年であるとしたら」の話に過ぎないんだよ そして再三言っているように、事実として「現に」今であるのは2010年でしかない
この自明厨って、稚拙な問いしか立てられないくせに、折角回答してくれてる他者に 対して横柄な態度全開な不届き千万な奴だな。永井とか金川とかと同類。w オマエの問いのこたえは<オマエの世界>の中にはない。だから、問うだけ無駄。 それがわかっていないのだから、問う前に終わってる。 どうしても知りたいのなら、天地神明の神様にでもきいてみな。
289 :
考える名無しさん :2010/04/04(日) 01:04:00 0
は? 「稚拙な問い」に過ぎないならお前自身が答えてみろやクズw
290 :
やみつき :2010/04/04(日) 02:16:53 O
まあ勝手にするさ
291 :
考える名無しさん :2010/04/04(日) 21:21:35 0
>>今がいつだったとしても、なぜ今が現にそのxx年なのかという問いがとわれるてしまう >それは「仮に今がxx年であるとしたら」の話に過ぎないんだよ >そして再三言っているように、事実として「現に」今であるのは2010年でしかない おなじことを繰り返すのもあれなので最後にするけど、 現に今が2010年なのはなぜか? という問いにおいて、2010年という数字・時点が選ばれたのは、 2010という数字に特別な意味があるからでも 2010年という時代・その時代の出来事に特別な意味があるから でもないよね。 2010年という時点・年代が他の年代と比べて特別に神々しい 時点であり、それゆえに、 なぜこの神々しい2010年が現に今であって、他のとるにたらない 時点が今ではないのか? と、問うているわけではないよね。 2010年が問いとして持ち出されたのは、単にそれが現に今として 成立しているからにすぎないからでしょ。 であるならば、現に今として成立しているならば、それが何年であろうとも 同様の問いが問われることになるでしょ?
292 :
考える名無しさん :2010/04/04(日) 21:22:49 0
2010年という時点が選ばれたのは、それが現に今だから。 ならば、現に今ならば、それが何年であろうとも なぜ現にxx年が今なのか?という問いが問われることになる。 しかし、今が現に存在するとすれば、それは必ずいつかの時点でなけれ ばならないのよ。 ある時点をもたない今というものは存在しえないのだから。 今が存在しうるのは、可能な時点のいずれかであり、 可能などの時点が現に今だったとしても、 なぜ現にxx年が今なのかと問われることになる。 だとすれば、そこでとわれるなぜという問いは空虚な問いという ことにならないだろうか。
293 :
考える名無しさん :2010/04/04(日) 23:25:48 0
>現に今として成立しているならば ここに誤解があるように思う あんたは「現に今として成立している『ならば』」と言うけどさ これはつまり「『仮に』『その地点が』現に今として成立している『ならば』」という意味じゃないのか? 永井さんの言うように、この問題を問題たらしめているものは『現に』と『仮に』の差異にこそあるのだから この二つの差異にこだわろうとしないならば、問題自体が空虚に感じられてしまうとしても 仕方がないように思う >ある時点をもたない今というものは存在しえない それは認める というか俺はそんなこと言ってないよ >可能などの時点が現に今だったとしても あんたはこの時点で既に現実性そのものを可能的に考えてしまっているんだよ 2010年は「可能的に現実」なのではなく、ただ単に「事実として現実」なだけだろ? なぜ2010年は「可能的に現実」ではなく「事実として現実」なんだ?
「現に」を哲学的・記述的に考える時点で、時制に呪縛されてる。 「2010年」は今ではあるが過去的事実としてしか記述できない。 >そこでとわれるなぜという問いは空虚な問い なぜ? という問いは子供的不安感を充足するための欲求表現。 「なぜ、お母さんはボクのお母さんなの?」 といった問いのこたえに、論理性など必要ない。 問いを発する者へ安堵感を与えられれば答えのただしさや論理性などどうでもよい。 もちろん、答えがあまりに突飛で答え自体が別の不安を呼び覚ますなら論外だけどね。
>>294 > >そこでとわれるなぜという問いは空虚な問い
> なぜ? という問いは子供的不安感を充足するための欲求表現。
> 「なぜ、お母さんはボクのお母さんなの?」
> といった問いのこたえに、論理性など必要ない。
もし、本気でこんなことを言って問題を解消する気なら、「なぜ今は2010年なのか」という問題と
「なぜお母さんはボクのお母さんなのか」という問題が同種のものだということを論証しないと
いかんのじゃないのかね
後者には、とりあえず「それは、お前がお母さんのお腹から生まれたからだよ」とか「それは、
お前とお母さんが養子縁組をしたからだよ」とかの立派な答があるはずだが、それで前者と同種と言えるの?
それとも、「
>>294 のような発言は他人を罵倒して自己の優位を保とうとする、内心では自分に自信が
ないタイプの人間が行ないがちな欲求表現。まともに取り合う必要などない。」とか言ってあげた
ほうがいいのかねw
296 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 08:03:37 O
2010年は記号として存在してるだけで現実には存在してないでしょ 言うなれば2009年も2010年も記号として観念として存在する訳で 2010年だけ特別扱いするのはおかしいだろう 今だって夢を見ているのだとしたら実在するとは言い難いだろう
297 :
57 :2010/04/05(月) 08:57:51 0
英語の関係詞のwhyはthe reasonに、how は the wayに対応する。
なぜという問いに、the wayでこたえるのは問いのすり替え疑惑が残る。
もちろん、どんな問いについて the reason を明示することは難しいこと
だからthe way ですり替えてこたえるのはやむを得ない。と言い得る場合も
あるだろう。
>>295 のこたえにはすり替えの臭いがするね。
なぜ、という問いは、ある種「存在論」的こたえの欲求がある。という類似性がある。
子供の問いはもちろん哲学の問いではないから哲学とは無関係のこたえが用意されて
しかるべきだろう。だけど、それは存在論的な問いに接続し得るのであるから、それなり
のこたえ方がある。
これに対して大人はthe wayもthe reasonも自己探求できるはずであろうから、存在論的な
問いとしてなぜと問うのは、ある視点で見れば「中ニ病」が治癒していない。とみなされる。
だけれど、存在論の問いのthe reasonは不明でるのがふつう。だと仮定したら、問うことに
意義は残り続ける。しかし、
>>287 のように、「再三」にわたり「なぜ」を連発するのはいかがな
ものかと思うね。
>>それとも、「
>>295 のような発言は他人を罵倒して自己の優位を保とうとする、内心では自分に自信が
ないタイプの人間が行ないがちな欲求表現。まともに取り合う必要などない。」とか言ってあげた
ほうがいいのかねw
ま、
>>295 の発言は自己言及乙。と返されても仕方ないと思うね。というか、その種の上から目線で
の罵倒は2ちゃんではよくあること。感情の高ぶりを収めるための自己快癒が目的。ことばには感情を
解放する機能があるからね。悪行じゃないよ。ただ、ある視点で見ると、みっともないだけ。
ある哲学者は、哲学は感情と無縁であるべきだが、悲しいとき涙をこらえるのが難しいのと同様、 感情を交えずに哲学的な思索を行い書き記すことは難しい。それが哲学が難しい理由だ。と云ってる。 それだけでなく、○○のような売文作家は相手や読者の感情を煽ることで、自分の設定した問題に 議論や関心を引き込もうとする。そういう手法を駆使する者もいる。哲学嗜好者は往々にして感情的 陥没は自分とは無縁と思い込む傾向がある。(自己言及だよw)だからこそ、自身の感情がどう揺れる のか。それを自己観察できる視点を得るということは大切なことだと思うね。永井の文章が面白いのは そうした感情の煽りが多いから。なのだけれどね。w
299 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 12:51:39 0
話の流れはよくわからないけれど、 「なぜ?」という問いのことだね。 「なぜ?」という問いには、いろんな角度からの、いろんな答えが可能だ。 「なぜ、お母さんはボクのお母さんなの?」にも、「なぜ今は2010年なのか?」にも、 「私はなぜ私なのか?」にも、いろんな答えが可能でしょう。 しかし、どれにも、究極的で唯一の答えというものはない。 つまり根源的には「なぜ?」に対する答えはない。 それは、存在そのものには理由がないからだ。 「なぜ?に対する答えがないこと…それがニヒリズムである」(ニーチェ)
転校生とブラックジャック 5月に文庫化
301 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 21:55:44 0
最後にするといっておいてあれだけど、もう一度かくことにするよ。 >>可能などの時点が現に今だったとしても >あんたはこの時点で既に現実性そのものを可能的に考えてしまっているんだよ >2010年は「可能的に現実」なのではなく、ただ単に「事実として現実」なだけだろ? >なぜ2010年は「可能的に現実」ではなく「事実として現実」なんだ? だからね、そこでピックアップされた2010年というのは、”現実として成立した 時点”という意味しかもってないのよ。 問いの経由として、まず無数の可能な時点から2010年という時点をあらかじめピックアップ しておいて、いざふたをあけてみたらなぜか今がまさに2010年として実現していた だから、なぜこの2010年が現に今なのか?という問いがでてきたという問いの成立 経過をとっているわけではないのね。 2010年という数字・時点が問いとして選ばれているのは、それが現に今として 実現していたからでしょ? しかし、今は、それが存在するならば、かならずある時点と結びついたかたちで 存在するほかないのよ。 今が2010年という時点とむすびついたかたちで実現したから奇跡(不思議)だ というなら、今が2200年という時点とむすびついたかたちで実現していたとしても やはり奇跡(不思議)だというほかないでしょ? 今が現にあるとき、その今はかならずどこかの時点と結びついたありかたでしか 実現できない以上、そして、2010年が”今が現実として成立した時点”として もちだされた数字・時点である以上、2010年が現に今なのは不思議だという のは、今が現実として成立している時点が、今が現実として成立している時点 なのは不思議だといっているにすぎないんだよ。 でも、なんどもいうように、今が現に存在するならば、それはかならずどこかの 時点において成立するほかないのよ。 そして今がどの可能な時点において成立したとしても、その成立した時点(xx年)が 問いとしてえらばれ、 なぜ今は現にxx年なのかと問われることになる。 それはなにか誤解から生じた神秘(なぞ)にすぎないんじゃないの?
302 :
考える名無しさん :2010/04/06(火) 01:31:54 0
>今が2010年という時点とむすびついたかたちで実現したから奇跡(不思議)だ >というなら、今が2200年という時点とむすびついたかたちで実現していたとしても >やはり奇跡(不思議)だというほかないでしょ? 「仮に」今が2200年であるとしたら、そうかもしれないが 「現に」今であるのは2010年だろ? もうちょい付け加えるなら、 例えば小説の中の人物が「この世界は現実世界だ」と言ったとしても それは「仮に俺がその小説世界の住人であれば」正しいのであって 「現に」現実世界であるのは、この世界でしかないだろ? でも、これに対しても 「現実がこの世界とむすびついたかたちで実現したから奇跡(不思議)だ というなら、現実が小説世界とむすびついたかたちで実現していたとしても やはり奇跡(不思議)だというほかないでしょ? 」 と反論できるよな? でも俺が言っているのは、それは「仮に」現実が小説世界であったとしたらそう言えるだろう というだけであって、「現に」現実であるのはこの世界でしかないだろ?ってことなんだよ
ほとんど、スレチ。
304 :
考える名無しさん :2010/04/06(火) 21:06:48 0
>でも俺が言っているのは、それは「仮に」現実が小説世界であったとしたらそう言えるだろう >というだけであって、「現に」現実であるのはこの世界でしかないだろ?ってことなんだよ だからね、”「現に」現実であるのはこの世界”だというときの”この世界”とは、 ”現に実現している世界”という意味しかもっていないのよ。 ようは、現に現実であるのは、現に現実である世界だといっているだけなの。 それはあたりまえでしょ? 現に現実である世界が存在していることは奇跡かもしれないけれど。 なんども同じこといってあれだけど、今はある時点とむすびつくありかた でしか実現しえないのよ。 2010年という時点がどうして問題になったわけ? それが現に今として実現していた時点だったからだよね。 それ以上の意味を2010年という時点はもっていないよね。 だから、現に今として実現していた時点が2200年だったとしても 問題はなにもかわらないでしょ? 簡単な話でいうと、以下の例と問題は同じだとしかおもえないんだけど。 赤白黒の三つのボールをいれたブラックボックスに手をいれて、ひとつのボール を取り出すとする。 取り出したボールが黒だった。 なぜ現にとりだしたボールが黒だったのか?なぞだ。 もし取り出したのがしろだったら、 なぜ現にとりだしたボールが白だったのか?なぞだ。 もしとりだしたのが赤だったら なぜ現にとりだしたボールが赤だったのか?なぞだ。 これって本当になぞ?ただの誤解があるだけじゃないの?
305 :
考える名無しさん :2010/04/06(火) 21:14:38 0
駄目押しで類似の構造をしているとおもえる例で説明するよ。
http://kenbunden.net/totsuka/01/01.htmlの説明が正しいとすると 、
ラジウム原子核の崩壊には原因がないとされる。
さて、今ラジウム原子核を観察していて時点xで崩壊したとしましょう。
あなたの主張は、この例でいえば、
ラジウム原子核が現に時点xで崩壊したのは奇跡だ(なぞだ)。
なぜラジウム原子核は時点xで崩壊したのか?
と問うことに該当する。
しかし、よくかんがえてほしいんだけど、この時点xなる時点が問いとして
もちだされたのは、原子核の崩壊が実際に観察されたときの時点だったからだよね。
たとえば、観察がおこなわれる前に、時点xにおいて崩壊すると予言がなされていて、
実際に観察したらまさに時点xにおいて崩壊した。
なぜ現に原子核が崩壊したのは、予言された時点xであったのか?
という問いがだされる。
こういう問いの構造をしているわけではないのね。
時点xが問いとして持ち出されたのは、原子核が実際に崩壊した時点だったから。
崩壊が実際に観察される以前に、時点xという時点が持ち出される理由はないよね。
しかし、原子核が実際に崩壊するならば、それはどこかの時点において崩壊する
ほかないわけよ。
崩壊が実際に観察されたのが時点yだったら、時点yで崩壊したのは奇跡だと
なるし、時点zだったら時点zで崩壊したのは奇跡だとなる。
どの時点で崩壊しようと、その崩壊した時点が奇跡となるのだったら
一体なにが奇跡(なぞ)なわけ?
続きは別にスレ立ててやってくれ。age荒らしウザ杉。
>>306 に同意
永井の書いてることをまともに理解しようとする気がないのなら、永井スレに何しに来てるのかわからん
とりわけ
>>304 の「簡単な話」とやらは馬脚を現したと思うな
例えば黒のボールを取り出したのは、(取り出した本人に見えなかったというだけで)
手で掴んだのが黒のボールだったからだ
赤や白のボールを取り出した場合とは、はっきりした違い(どのボールを掴んだか)があり、
赤でもなく白でもなく黒だったことについて十分な理由になるだろう
そんな話が、永井の書いてることと何の関係があるのか?
何らかの比喩でも目指したのならともかく、「同じだとしか思えない」と断言してるからな
(あえて忖度すると、確率の話にすぎないとでも言いたいのか
そうだとしても、永井と関係ないことに変わりはないだろう)
>>304 >2010年という時点がどうして問題になったわけ?
>それが現に今として実現していた時点だったからだよね。
ん・・・
2010年というものが「時点」として存在するわけじゃないだろう。
たんに、今年を2010年として括ってそう呼んでいるだけのことだなぁ・・・
ばかばかしい。
309 :
考える名無しさん :2010/04/06(火) 22:24:18 0
>永井の書いてることをまともに理解しようとする気がないのなら、永井スレに何しに来てるのかわからん
はあ?かってなルールをおしつけられてもこまるんだけどね。
おれは、
>>268 のレスにあった
>時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
>じゃあその「現実に存在する」なんていう特別な性質を現に持っているのが
>1900年でも2100年でもなくて2010年なのはなぜなんだ?
という問題について語っている
268の議論が永井と関係ないならこの議論は永井とは関係ないという
だけの話。このスレッドの中ででた話題について俺はかたっているだけで
なんであんたにとやかくいわれるのかわかんないね。
興味のない議論なら無視すりゃいいだけのことだろ?
無視もできないほど腹でもたったのかね?
310 :
考える名無しさん :2010/04/06(火) 22:27:17 0
>例えば黒のボールを取り出したのは、(取り出した本人に見えなかったというだけで) >手で掴んだのが黒のボールだったからだ なら、そのとき手でつかんだのがなぜ黒のボールだったのか? というなぞがとわれることになるだけだろ?ちゃんと考えろよ。 問題の構造はまったく同じ。 なぜ、現に手でつかんだボールが黒だったのか? なぞだ。 現に手でつかんだボールがしろだった場合、 なぜ、現に手でつかんだボールが白だったのか? なぞだ。 現に手でつかんだボールが赤だった場合、 なぜ、現に手でつかんだボールが赤だったのか? 問題はなにもかわらいよ。 ああ、この話は永井と関係ないのだから、永井と関係のない 話をするな的ルールに賛同する君がレスするわけにはいかないよな。 だから、レスしてこなくていいよ。
>>309 > おれは、
>
>>268 のレスにあった
(引用中略)
> という問題について語っている
> 268の議論が永井と関係ないならこの議論は永井とは関係ないという
> だけの話。
なぜ、268がどうとか言うのか
なぜ「お前のほうこそ理解不足だ、自分の話は永井とこのように関係ある」という反論をしないのか
> このスレッドの中ででた話題について俺はかたっているだけで
> なんであんたにとやかくいわれるのかわかんないね。
> 興味のない議論なら無視すりゃいいだけのことだろ?
この論法をそのまま文字通りに取ると、どんなにスレと無関係の話題でも、一度出た以上は
「このスレで出た話題について語ってるだけだ、興味が無いなら無視すりゃいい」と言えることになるな
>>311 は
>>307 の人なのかな。
だとすると、別スレッドたてて議論しなくていいのかね?
>>306 に賛同してるんだろ?
>なぜ、268がどうとか言うのか
なぜなら、
>>268 の議論に対する議論を俺はしているから。
>なぜ「お前のほうこそ理解不足だ、自分の話は永井とこのように関係ある」という反論をしないのか
なんでそういう反論をする必要があるの?
このスレッドですでに議論されていることがらにたいして、興味があったから
レスしてるだけ。
なんでしないのかとかいわれても困る。
>この論法をそのまま文字通りに取ると、どんなにスレと無関係の話題でも、一度出た以上は
>「このスレで出た話題について語ってるだけだ、興味が無いなら無視すりゃいい」と言えることになるな
それでしょうがないんじゃないの。所詮2chだし。
おれは別にこのスレッドの維持管理に人生をかけているわけじゃないから、
それでいいんじゃないのとしか思わないね。
それにあえていれば、たいていのことがらは関係あると強弁することができると
思うね。逆にまったく関係ないと主張するほうが難しいと思うぜ。
たとえば、永井は「<子ども>のための哲学」という本のなかで
”森羅万象が現にこうであるということは、どれもみな驚くべきことではある”
と語っている。268の議論はそれと関係している。よって俺の議論は永井と関係している
うんぬんとね。
いずれにせよ、永井の議論と関係あるかないか論争は俺は興味ないので
以後無視させていただきます。
永井厨って、こんなのばっかりw
314 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 00:11:42 0
いまちょっと、永井の<子ども>のための哲学をよんでいたが、 なんてことはない、268をうけた俺の議論は、永井と関係ないどころか まさに永井が本のなかでふれていた問題のひとつだった。 永井の本をよんでいるつもりになって、俺の議論が永井と関係ないとか ほざいていたやつらのあほさがよくわかったよ。 永井自身ちゃんと書いてるじゃん。 ”ぼくが永井均だったこと、永井均がぼくだったこと、の<偶然>性に驚く とき、それはある意味で確率的な驚きであるともいえる。(中略) それに対して、<ぼく>が存在したことの驚きはそうではない。<ぼく> が存在しなかった可能性と対比された、<ぼく>が存在していることへの 驚きは、確率的考慮などまったく寄せ付けない” ここでの<ぼく>が永井均だったことの確率的驚きが、 今が2010年だったのはなぜに対応して、 確率的驚きを寄せ付けない<ぼく>が存在することの驚きが 今が存在するのはなぜに対応するのね。 だから、俺の議論は、永井の主張とある程度類似しているといっていいと思う。 今が現に存在したのはなぞかもしれないが、 今が2010年だったというのは、確率的な偶然性でかたづけられるというの が268の議論をうけた俺の論点だったから。
>>314 ぜんぜん違うと思うよ。
308に書いたとおり。
316 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 00:29:23 0
>>308 なんてなんの反論にもなってないよ。
ばかばかしいレスだったからスルーしたけど。
2010年が時点として存在するかどうかなんて論点と関係ないから。
時点という表現はあくまで便宜的な表現にすぎないから。
今が2010年という時点なのはなぜかという問いは
今として成立している出来事・時空がこの具体的内容をもっているのは
なぜだという問いとして翻訳できるから。
>>316 >今として成立している出来事・時空がこの具体的内容をもっているのは
>なぜだという問い
まったく意味不明な問いだw
>>314 >今が2010年だったというのは、確率的な偶然性でかたづけられる
<子ども>のための哲学には
「問題はまたもや、いわば次元を変えて、普遍的な独我論というあの問題にもどることになる」
ともあるわけだが
あんたの言い方だと「今が現に存在したのはなぞ」なわけだから
どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである
ということにならないか?
永井さんは、まさにそういう
「誰にでも(どの地点にも)当てはまる普遍的な独我論(独今論)」
を拒否しようとしたんじゃないのか?
>>318 >あんたの言い方だと「今が現に存在したのはなぞ」なわけだから
>どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである
>ということにならないか?
それがなんで独我論につながるのか、わからないなぁ・・・
存在の不思議は、ハイデガーだね。
ただしハイデガーに言わせれば、上で話してる人たちは、 時間と存在を分けて考えている点が根本的におかしい。 出来事が起こるということ、それが時間であり、存在でもある。
時間? 神でさえビッグバンはカウントダウンできなかったのに。
>>300 『転校生とブラックジャック』 岩波現代文庫
5月14日発売予定
>>312 みたいなことを堂々と言うような人をかまい続けるのはどうかと思う
>>314 はどう見たって後付けのこじつけだろう
324 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 21:04:24 0
>まったく意味不明な問いだw いや268の問いはそういう問いだよ。 今として成立している出来事・時空がこの具体的内容(たとえば鳩山が総理大臣をしている など)をもっているのは なぜだという問い それが、 <ぼく>として成立している人間がこの具体的内容(こういう風貌をしていて こういう遺伝子をもってなどなど)をもっているのはなぜだという問い に対応するってことね。 それに、もう一度かくけど、2010年が時点であるかどうか は268の問題とまったく関係ない。 なぜなら、268の問題を時点という言葉をつかわないでも 問題を提示できるから。 その場合、 今が現に2010年4月7日なのはなぞだ、という問題として 提示されるだけ。 2010年が時点かどうかなんてこの問題となんの関係もないよ。 議論と関係のない指摘をしてなにか反論した気になられても困ります。
325 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 21:18:15 0
>あんたの言い方だと「今が現に存在したのはなぞ」なわけだから >どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである >ということにならないか? どの地点であれ、それが現に存在していることはなぞだということに なりうるだろうね。だって、それが存在しないこともできたように 思われるから。 すくなくとも、それがなぞじゃないといえる積極的根拠をもっていない。 しかし、その場合も、なんども同じことをかくけど、 現に存在したのが、なぜほかでもないこの地点であって、たの地点ではない のか不思議だというのは、なにかの錯覚だというのが俺の論点なの。
326 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 21:31:22 0
>永井さんは、まさにそういう
>「誰にでも(どの地点にも)当てはまる普遍的な独我論(独今論)」
>を拒否しようとしたんじゃないのか?
そうなんだけど、なんていえばいいのかね。
君がなにを誤解しているのかなんとなく俺にはわかった気がしてきたが、
それを今うまく説明できないね。
とりあえず、永井自身、
なぜ<ぼく>が現に永井という人物であったのかなぞだという問いと
なぜ<ぼく>が現に存在しているのかなぞだという問いを
わけているということを指摘しておくよ。
君の
>>268 のレス
>時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
>じゃあその「現実に存在する」なんていう特別な性質を現に持っているのが
>1900年でも2100年でもなくて2010年なのはなぜなんだ?
は前者の問いに対応するということは理解してもらえると思うけどね。
327 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 21:41:05 0
>あんたの言い方だと「今が現に存在したのはなぞ」なわけだから
>どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである
>ということにならないか?
というか、なら逆に聞きたいけど、
君は、
>>268 で
>時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
>じゃあその「現実に存在する」なんていう特別な性質を現に持っているのが
>1900年でも2100年でもなくて2010年なのはなぜなんだ?
とレスしたとき、
君が2010年を問いとしてもちだしたのは、それが現に存在する”時間軸上のある一地点”
だったからだろ?
なら、そこが何年であっても、現に今として存在していたらそれは
君にとってなぞになるんじゃないの?
それとも、君の268の問いは、
なぜこの2010年という特別な意味をもつ時点が今だったのかという問いだったわけ?
328 :
考える名無しさん :2010/04/07(水) 21:51:10 0
きみの誤解をすこし説明できる気がしてきた。 >あんたの言い方だと「今が現に存在したのはなぞ」なわけだから >どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである >ということにならないか? >永井さんは、まさにそういう >「誰にでも(どの地点にも)当てはまる普遍的な独我論(独今論)」 >を拒否しようとしたんじゃないのか? 誤解している点はおそらくこうだと思う。 君は >どの地点であれその地点が現に存在しているのであればなぞである という問題を、 おそらく、 ”誰であれ、その人にとって存在するのはなぞである” と同型の表現としてとらえようとしているのだろう。 しかし、そうではなくて、 誰(永井であれ佐藤であれ)であれ、<ぼく>として現に存在しているならば なぞである というふうに読み替えるべきだと思う。 (もちろん、この表現も普遍性をもたざるをえない。しかしそれは言語のもつ本質的 性質だというのが永井の論点の一つだったはず) そのうえで、 なぜ<ぼく>がこの誰某(たとえば永井)だったのか、なぜあちらの佐藤ではな なかったのかなぞだという問いと なぜ今が2010年であって、2200年ではなかったのかなぞだという問いと くらべてみてほしい。
>>319 「存在が不思議なのは<今>や<私>には『同じ種類の他のもの』が存在しないので
説明というものが成り立たないから」
というのが<子ども>のための哲学での「私が現に存在していることの謎」
の説明だったはず
だから
>>318 では「存在の不思議さを感じる→独我論(独今論)が前提」
という形で書いた
ただ永井さんによればここで言う「独我論」は
一般的な認識論的懐疑における独我論とは意味が違うらしいので
もし「独我論」という語を使うことで何か誤解させてしまったならば、すまなかった
>>326 >なぜ<ぼく>が現に永井という人物であったのかなぞだという問いと
>なぜ<ぼく>が現に存在しているのかなぞだという問いを
>わけているということを指摘しておくよ。
もちろんそれはそうだが、<ぼく>を言語で語ろうとする以上
「永井均」という固有名が言語内において特別な地位を閉めてしまう
(言わんとすることとは別のことが言われてしまう)
ということもまた、永井さんの説いていることではなかったのか?
>なら、そこが何年であっても、現に今として存在していたらそれは
>君にとってなぞになるんじゃないの?
繰り返しになってしまうが、それは
「仮に」その地点が現に今として存在しているならば、そのときの俺にとって謎になるだろう
ということでしかない
そして「現に」存在しているのは2010年であり
この「仮に」と「現に」の差異はどこまでいっても乗り越えられることは無い
>誰(永井であれ佐藤であれ)であれ、<ぼく>として現に存在しているならば
>なぞである
>というふうに読み替えるべきだと思う。
俺は”誰であれ、その人にとって存在するのはなぞである”ではなく、
”誰であれ、その人にとって<ぼく>として存在するのはなぞである”という
表現と同型として捉えているよ
というか、この二つの表現に本当に違いはあるのか?
<パスカルは「私はなぜここにいて、あそこにいないのか」と問う。この問いもまた近代的なものだ。
なぜなら、こことあそこが質的に異なる空間だった中世の位階的な世界像においては、このような問い
はありえないからである。そこでは、ひとびとは、ここにいてあそこにいない「理由」をもっていた。
ちょうど、江戸時代の人間が、自分は百姓であって武士ではないということをすこしも不思議とは思わ
なかったようにである。このような問いは、均質的な空間、または市民社会においてのみ可能である。>
(『日本近代文学の起源』1980。パスカルの引用は『パンセ』205より)
http://d.hatena.ne.jp/hinonaname/20090504/1241438808
そういう時代には、今が今であること、私が私であることの端的な驚きもなかったってことか? 「今」も「私」も、均質な空間内の「他者」との相対的な関係の中でしか存在もしないし、自覚もできないってこと?
>>331 、
>>332 331の内容は、永井と関係あるの?
引用部分を読む限りでは、客観的な世界があって、その中に人間というものが複数いる、ということを
前提にして、その上で社会がどうなっているか、人間たちの地位や身分などがどうなっているか、
その中で私がどのような地位や身分にいるか、ということが問題にされているように見える
そうだとすると、そもそも客観的世界・人間という捉え方を前提にして、その先の話をしている点で、
永井の話とだいぶ離れている疑いが強いと思うけど
>>324 >今として成立している出来事・時空がこの具体的内容(たとえば鳩山が総理大臣をしている
>など)をもっているのは なぜだという問い
>それが、
><ぼく>として成立している人間がこの具体的内容(こういう風貌をしていて
>こういう遺伝子をもってなどなど)をもっているのはなぜだという問い
>に対応するってことね。
「今として成立している出来事・時空」が、<ぼく>に対応するということなのかな?
永井均という人をよくは知らないが、彼の問題意識のポイントは、<ぼく>というものが、< >なしには記述できないものである点にあるんだろう。
つまり本来は記述できないもの、常に対象化する側にあって対象化されることのできないものとしての<ぼく>というのは一種の実存概念だね。
対象化する〈私〉と対象化された〈私〉という自己分裂の問題は既に実存的哲学で出てきていた。
永井均の問題も、簡単に言えば、対象化する〈私〉と対象化された〈私〉がなぜ一致するのか、ということだろう。
しかし、「今として成立している出来事・時空」は、その問題と対応してはいないね。
「今として成立している出来事・時空」は、<ぼく>によって既に対象化されたものなのではないのかな?
>>331 -
有神論の世界では、父なる神が<わたし>の存在理由だから。凡人は深く考えずにすむ。
無神論=仏教の世界では、色即是空だから、無私・無我の境地に至る煩悩解脱がベストウェイ。
永井は無神論的哲学者だから、あくまで煩悩世界に留まって問題を立て解決するのが哲学だ。
と考えているみたいだね。最近は西田とか持ち出してきてるから、結局<わたし>なんて存在しない
と言うようになるんだろう。
336 :
考える名無しさん :2010/04/08(木) 23:03:55 0
まあ、どうでもいいことだが一応一言。 >「今として成立している出来事・時空」が、<ぼく>に対応するということなのかな? 君が引用した個所 >今として成立している出来事・時空がこの具体的内容(たとえば鳩山が総理大臣をしている >など)をもっているのは なぜだという問い >それが、 ><ぼく>として成立している人間がこの具体的内容(こういう風貌をしていて >こういう遺伝子をもってなどなど)をもっているのはなぜだという問い >に対応するってことね。 を普通に読めば、”今”が、”<ぼく>”に対応していると主張していると わかると思うんですけど? だから、”今として成立している出来事・時空”に対応するのは、当然 ”<ぼく>として成立している人間”になるのであって、<ぼく>にはならない。 ”対象化する〈私〉と対象化された〈私〉”うんぬんの話はよくわからないので なんともいえません。
337 :
考える名無しさん :2010/04/08(木) 23:26:33 0
>繰り返しになってしまうが、それは >「仮に」その地点が現に今として存在しているならば、そのときの俺にとって謎になるだろう >ということでしかない >そして「現に」存在しているのは2010年であり >この「仮に」と「現に」の差異はどこまでいっても乗り越えられることは無い 268さんのこだわっている問題がさっぱりわからないんだけどね。 そもそも、仮にと現にの差異がのりこえられるとかのりこえられないとかの 話がどうしてでてくるのかわからないよ。 なにか妙な誤解をしている気がしてならないんだがね。
338 :
考える名無しさん :2010/04/08(木) 23:34:54 0
>>誰(永井であれ佐藤であれ)であれ、<ぼく>として現に存在しているならば >>なぞである >>というふうに読み替えるべきだと思う。 >俺は”誰であれ、その人にとって存在するのはなぞである”ではなく、 >”誰であれ、その人にとって<ぼく>として存在するのはなぞである”という >表現と同型として捉えているよ >というか、この二つの表現に本当に違いはあるのか? この二つの表現というのは、 ”誰であれ、その人にとって存在するのはなぞである” ”誰であれ、その人にとって<ぼく>として存在するのはなぞである” の二つということ それとも ”誰(永井であれ佐藤であれ)であれ、<ぼく>として現に存在しているならば なぞである ” ”誰であれ、その人にとって<ぼく>として存在するのはなぞである” の二つということ? 前者の組なら同型の表現(<ぼく>がすでに複数化(普遍化)された うえで、その一例としての<ぼく>が問題にされているという意味で 同型) 後者の組なら同型じゃないだろ。 ”誰(永井であれ佐藤であれ)であれ、<ぼく>として現に存在しているならば なぞである ” は、意図としては<ぼく>の唯一性が前提にされている(端的な存在としての<ぼく>) (言語がその唯一性を複数化してしまうのだとしても) が、 ”誰であれ、その人にとって<ぼく>として存在するのはなぞである” の方は、発言の意図として<ぼく>がすでに概念化(普遍化)されて隣人たちの一例に かくさげされている。
339 :
考える名無しさん :2010/04/08(木) 23:54:28 0
端的な現実(実在)と可能的現実(概念)の区別は以下のような問題として 提示できる。 A:可能な時点の中で現に今であるのは2010年である。 (端的な今) B:どの時点であろうとも、その時点自身にとってそこが今である。 よって2010年自身(あるいは2010年にいるものにとっては)にとっては2010年が今であるし、 2200年自身(あるいは2200年にいるものにとっては)にとっては2200年が今である。 (今が可能的な現実として捉えられている=端的な今の否定) 268さんが、 なぜ現に今が2010年なのかなぞだと問い、 それに俺が 2010年という時点は、現に今として実現していた時点という意味しかない。 だから2200年が現に今として実現していれば、なぜ現に今が2200年なのか なぞだと問われるだけで、それは問題の錯覚だうんぬんと反論するとき、 おそらく268さんにとって、 端的な現実の問題(A)が可能的な現実の問題(B)に変化してしまっていると 感じているのだろう。 だが、それは誤解であるということだけとりあえず言っておく。
>>339 貴方は歴史を無視していますよ。
今が2200年だったら、2011年から2200までの歴史を創らねばならない。
今が1900年なら2010年までも歴史を消去しなくてはならない。
これ(歴史の創造と消去)は「今」が「ある時点」であることから自動的に成立するものではないでしょう。
貴方は、それが自動的に成立するかのように考えているのでは?
>>336 >”対象化する〈私〉と対象化された〈私〉”うんぬんの話はよくわからないので
>なんともいえません。
『〈私〉の存在の比類なさ 』の27〜31頁で、永井均は〈私〉という表記について説明しているんだけれど、
これはわかりやすい説明だった。それを読めば「対象化」ということの意味がわかると思う。
(永井均は「表象」という語を使っている。)
【図7の世界の中に〈私〉を捜そうとすることは無意味なのである。〈私〉は図5の世界にのみ〈存在〉する。】(p31)
つまり、図7の世界の中の、永井均としての「私」は、対象化された「私」であり、〈私〉ではない。
〈私〉は図7の中にいるはずがない。図7を表象している(対象化している)のが〈私〉なのだから。
永井均のこの問題意識は、実存主義における「実存」の問題と同種の問題です。
図5の〈私〉と図7の(永井均としての)「私」、それが334で書いた、対象化する私と対象化された私。
それで、「今として成立している出来事・時空」の話が、その〈私〉と「私」の問題に対応しているようには思えないんだけれど…
ということです。
342 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 01:59:14 0
>『〈私〉の存在の比類なさ 』の27〜31頁で、永井均は〈私〉という表記について説明しているんだけれど、 >これはわかりやすい説明だった。それを読めば「対象化」ということの意味がわかると思う。 >(永井均は「表象」という語を使っている。) わかんないし、興味もないです。 というかそもそも永井がつかってもいない「対象化」なんて 言葉をつかう必要があるのかさっぱりわからないね。 それでわかりやすくなっているならともかく、勝手用語の使用で わかりやすい問題をわかりにくくしているだけにしか思えません。
343 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 02:04:21 0
>図5の〈私〉と図7の(永井均としての)「私」、それが334で書いた、対象化する私と対象化された私。 >それで、「今として成立している出来事・時空」の話が、その〈私〉と「私」の問題に対応しているようには思えないんだけれど… >ということです。 なんで俺が永井の解説をするはめになるのかわからないのだが、 しかしこうも永井を読めていないひとがいるのが不思議でしょうがないよ。 図5の<私>に該当するのが、端的な今 図7の”(永井としての)「私」”に該当するのが、 たとえば2010年4月8日(を現在としたとき)の今に なるの。わかる? 端的な今が存在しないとき、時間は中心のない並び立つ各時点のあつまりでしかない。(図4に対応) <私>が存在しないとき、世界は世界のひらけの原点(中心)がない無数の 並び立つ人間のあつまりでしかないように。 端的な今が存在するとき、ある時点が現在(端的な今)として存在し、他の時点は 可能な時点として過去か未来という形として、現在の中に包まれる(図5に対応) しかし、端的な今が、2010年4月8日という時間内のひとつの時点と同定される ことによって、2010年4月8日が今ならばそれ以前の時点は過去、それ以後の 時点は未来。2200年4月20が今ならばそれ以前の時点は過去、それ以後の時点は 未来という時間理解のなかに端的な今が解体される。(それが図7に該当)
344 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 02:06:31 0
まあ、俺のこの理解がただしかろうがまちがっていようが、 永井が<わたし>と<今>に同型の問題を感じているのは 間違いないね。 ”気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前 なのではないかとさえ感じている。そもそもの初めから存在する(= それがそもそものはじめである)ある名づけえぬものに、あとから他の ものとの対比が持ち込まれて、<私>とか<今>とか、いろいろな 名づけがなされていく、といった感じである。 他人との対比が持ち込まれれば<私>ということになり、過去や未来との 対比が持ち込まれれば<今>ということになる”『私・今・神』
うふふ、「私」ってそんなに魅力的かしら?
永井の<私>の問題なんて実存主義と何が違うんだとは俺の大学のセンセイも言ってたけど、 そういう人は「私」という言葉の意味に捕らわれているんだと思う。 <私>とはつまり< >とでも表記すべき概念とも何とも言えない、端的な事実そのもののことだと思うんだけどね。 < >の中には、「無」でも「存在」でも挿入されていい。判っている人にとってはほとんど同じ意味になる。 端的過ぎて言葉に出来ない事実、でもすべての無根拠な根拠そのもののことをこそ表現しようとしているんだから。
>>337 確かに永井さんは「乗り越える」なんて表現はしてないけど
「私今そして神」とかは、「仮に」と「現に」の違いが主題として扱われてるだろ?
>後者の組なら同型じゃないだろ。
同型じゃないとすると、現に存在していない<ぼく>というものが
ありうる、ということになるけど
だとすると可能的に存在する(?)<ぼく>は、可能性の中に複数存在できるのだから
やはり「どの可能的な<ぼく>にも当てはまる普遍的な独我論」となってしまうのでは?
でもそもそも<ぼく>に< >がついているのは、同じ種類の別のものが存在しない
ということを強調するためだったわけで、
だとすると、< >がついているぼくは必然的に「現に」存在している
ということになりそうだけど、どうなんだ?
>だが、それは誤解であるということだけとりあえず言っておく。
「とりあえず」じゃあ納得できんわ
ちゃんと論証してくれ
>>276 >いつでもない今なるものは論理的にありえない
<今>は、時間軸上の一時点では‘ない’、と思う。
<今>が〜年であるのは不思議だ、という疑問も成り立たないと思う。
(<今>は〜年では‘ない’から)
時間軸上のどこを探しても<今>は‘ない’。スッキリ
349 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 03:34:54 0
><今>は、時間軸上の一時点では‘ない’、と思う。
><今>が〜年であるのは不思議だ、という疑問も成り立たないと思う。
>(<今>は〜年では‘ない’から)
つまり268さんの疑問はなりたたないということだね。
>>268 >時間軸上のある一地点だけが「現実に存在する」という性質を持てるわけだろ?
>じゃあその「現実に存在する」なんていう特別な性質を現に持っているのが
>1900年でも2100年でもなくて2010年なのはなぜなんだ?
時間軸上の一地点が現実に存在するという前提の上で、
2010年が現に存在するのはなぞだという主張をしているのが268さん
なのだから、現に存在するのは一地点(一時点)ではないのなら
268さんの疑問はそもそも疑問として成立しない。よってなぞもない
ということになるだけだから。
350 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 03:36:45 0
しかし、仮に268さんの疑問が有意味な問いだったとしてもやはりそこには なぞはないというのが俺の論点。 よって俺と268さんの議論において、今が一時点として存在するか、 今が〜年であるかどうかは本質的に無関係。 どうしても、今が〜年的表現がいやならば、今に対応する<ぼく>に 問題を変更して、<僕>が現に268であって、田中やオバマでないのは なぜだ?問題に変えればいい。 268さんはそれがなぞだと主張するだろうし、俺はそれは錯覚だと 主張するだろう。 議論の本質はなにもかわらない。 よって俺と268さんの議論において、今が一時点であるかどうか、今が 2010年であるかどうか問題は無関係なので、その問題を論じたければ 俺とは無関係に勝手にやってください。俺にレスされても困ります。
351 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 03:45:59 0
>同型じゃないとすると、現に存在していない<ぼく>というものが >ありうる、ということになるけど さすがにもう寝るけど、これは意味不明。 なんでこういう理解がでてくるわけ? >「とりあえず」じゃあ納得できんわ >ちゃんと論証してくれ 簡単に説明できるならやってるよ。 簡単じゃないから「とりあえず」なの。
>>350 貴方は端的な今(私)と神目線での今をいったりきたりすることで
「なぞはない」と言っているように見えるが。
>>343 > しかし、端的な今が、2010年4月8日という時間内のひとつの時点と同定されることによって
まずは単純な疑問
世界内には複数の人間が同時に存在するので、そのうちの一人が私であると把握する、ということだと
考えれば、「端的な私を世界内の一人の人間と同定する」とはどういうことか素朴にイメージできる
しかし、「端的な今を時間内の一つの時点と同定する」とは、何をすることなの?
それから細かい話だが、永井は、『<子ども>のための哲学』124頁では、時間に問題を
感じた経験がないと言っている
(さらに、今ちょっと手元にないが、青山拓央『タイムトラベルの哲学』に収録された対談では、
それまで時間についてあまり論じていなかったのに『転校生とブラック・ジャック』で論じてるのは
青山の影響だ、という趣旨のことを言っていたはず)
それを考えると、比較的古い論文「他者」に書かれた私に関する議論を、今に関する議論に
そう簡単に対応させていいの?
永井厨に永井は神の如き存在。嗤えるw
バカが一匹w
永井厨必死だなw
358 :
352 :2010/04/10(土) 11:46:13 0
>>353 答えは分からんが、
世界内存在物との相対化が達成されたとき、一定の解消を得るのでは?
『現に<私>である』の<私>と、『「私」が現に鈴木である』の「私」は、異なる。 『現に<今>である』の<今>と、『「今」が現に2010年である』の「今」も異なる。 その違いは、‘現に’の意味合いで対比できる。 『現に<私>である』の‘現に’は、「‘まさに’現実に」の意味で、 『「私」が現に鈴木である』の‘現に’は、「‘もしかしたらそうではなかったかもしれない可能性の否定として’現実に」という意味。 だから、『「私」が現に鈴木である』ということには、‘もしかしたらそうではなかったかもしれない可能性’を否定するような、何か「別の根拠」がある。 『現に<私>である』ということには、そういう「別の根拠」がない。
>>344 >”気分を率直に語るなら、「私」と「今」とは同じものの別の名前
>なのではないかとさえ感じている。
図5の〈私〉について、永井均は、「世界を表象」する「視点」と書いている。
そして図5の「世界」とは、〈私〉という主体によって表象された「対象」です。
ここが大事な点です。
つまり、永井均はここで〈私〉を、志向性をもつ意識の基点(つまり「視点」)として考えているわけです。
そのような、表象する「視点」としての〈私〉が、イコール〈今〉であるとは思えませんねぇ。
>>346 >永井の<私>の問題なんて実存主義と何が違うんだとは俺の大学のセンセイも言ってたけど、
>そういう人は「私」という言葉の意味に捕らわれているんだと思う。
私は永井均をそれほどよく知らないので、永井均の思想と実存思想の違いについて教えてほしい。
哲学概説書から、実存思想についての解説を引用してみます。(めんどうだけど…)
以下の解説と、『〈私〉の存在の比類なさ 』の27〜31頁の〈私〉についての説明の違いについて、説明をお願いします。
「ある」という端的な事実である「実存」と、貴方の言う「端的な事実そのもの」の違いについて。
【私は大学生である、私はキリスト教徒である、などなど・・(中略)・これはいつでも「私は何々である」という形をとる。 この「何々」をPと略記することにしよう。そうすると、私が私を見て、「私はPである」と言う・・・そうしている その私の方は決してPではない。この、私をPとみている私の方を今かりにEと略記する。・・・ Pというのは普遍的な概念である。・・・私はPである、P´であるP´´であるといくら積み重ねていっても 「この私」を言い表すことはできない。それもそのはず、そのように言っているEはどうしても言い表され得ないからである。 ・・・Pは「ほんとうの私」からはずれている。ほんとうの私は、「私はPである」と言っている私、言いつつある私、つまりEの方だ。 ではEとは何か? 私はPであると言っている私とは一体何なのか? EとはPであるという形では絶対に答えられない。Eはいつも答える側にいるのであって、答えられる側にはいないのである。 別の言い方をすると、常に主体の側にいて、決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。決して「何々である」のではない。 これは妙なことのように思えるが、しかし考えてみるとあたりまえのことでもある。一体自分の目を見たことのある人があるかどうか、 考えてみればよい。自分の目を見たことのある人は絶対にいないはずだ。目で見るのであって、目を見ることはできない。 鏡に映してみてもそれは自分の目の「鏡に映った映像」であって自分の目そのものではない。・・・とにかく、「見ている私の目」これは あくまで見るだけであって決して見られ得ないのだ。
・・・決して客体になることのない絶対の主体、「私はPである」と言うとき、いつも言う側にいて、言われるがわにはいない「私」、 これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。これはもはや「何か」サムシングではない。Pではない。 しかし、そうかといってナッシングかというと、そうでもない。むしろこの「私」(E)があるからこそ、自分を見たり問題にできるのである。 だからナッシングどころか、これは必ず「ある」のにちがいない。サムシングとして、何かとして、Pという形や語で言い表されうるものとして 「ある」のではないが、しかしやはり「ある」。 ・・・実存主義とか実存哲学とかと言われる場合の「実存」とは、もちろんそれを説く人によってニュアンスの違いや考え方の違いはあるが、 今述べたように、人間の絶対の主体としての「私がある」のその「ある」のことである。】(『哲学入門以前』p225〜230)
この『哲学入門以前』という本は、とても良い本だと思います。おすすめ。 (この本が書かれたのは昭和42年なので、著者は永井均の思想を知りません。)
さっそくポチった d
「主体」論は永井以前から語り継がれているんだし。 珍しい特殊な思想系であるわけじゃない。
最初は確かに!と思っても、直ぐにEまで当たり前になって 普遍化したPと一緒になっちゃいやすいから問題なんだろうな。 Eは不思議という感覚が維持しにくいんだと思う。
うほっ 書き込めた。 PCのプロバも携帯も書き込み規制なってて しばらく書き込めなかったよ。
>>359 > だから、『「私」が現に鈴木である』ということには、‘もしかしたらそうではなかったかもしれない可能性’を否定するような、何か「別の根拠」がある。
どんな根拠があるの?
また、どんなものであるにせよ、もし根拠があるんだったら、「なぜ私は鈴木なのか」という問いには
意味があることになり、「それにはこのような根拠がある」と答えればいい、ということになるんじゃないの?
「鈴木」という漢字で「ずずき」と発音する具体的な名前が問いの中に入っているのだから それを問うに至る何か具体的な経緯についての知識があるはず。 『「私」が現に鈴木である』は、普通に回答できる問いなのでは。
鈴木っつうか長々淋しいんだけど。人がいなくなってんじゃないかと思う。
>>361 「実存」とか「人間の絶対の主体」とか言ってしまった途端にそれは一般的な概念になってしまうんじゃないの?
それではわざわざ×という自己否定の記号の変形としての<>という符丁で表現する意味がなくなる。
そこには言表不可能性を維持したいという意図があるんだと思う。何故なら言表不可能性こそがその問題意識の肝だから。
永井のその問題意識の面白いところは、
<存在>の言表不可能性とそれを巡る言語の可能性(不可能性)を暗示するところにもあると思う。
と、自分は一応理解するけど、不完全かも知れない。
ただそれについて安易に、それってつまり「実存」でしょ?、とか言えてしまう態度には、
なんだか「驚き」というか、端的な事実に触れているという感覚が希薄な気がするんだよな。
373 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 18:21:11 0
>世界内には複数の人間が同時に存在するので、そのうちの一人が私であると把握する、ということだと >考えれば、「端的な私を世界内の一人の人間と同定する」とはどういうことか素朴にイメージできる >しかし、「端的な今を時間内の一つの時点と同定する」とは、何をすることなの? 端的な今に時点を対応させることだよ。 <わたし>がN氏に同定されることによって、唯一の中心が、 どの人間にとっても、その人から開ける中心がある(よって特別の 中心は存在しない)という世界像(図7)が成立するように 端的な今が2010年4月10日に同定されることによって、 唯一の今(という時間の中心)が、どの時点にとってもその時点自身にとっては(その時点にいる 人間にとっては)、そこが今という中心になる(よって唯一の中心は存在しない) という時間像が成立することになる。
374 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 18:23:29 0
>それから細かい話だが、永井は、『<子ども>のための哲学』124頁では、時間に問題を >感じた経験がないと言っている >(さらに、今ちょっと手元にないが、青山拓央『タイムトラベルの哲学』に収録された対談では、 >それまで時間についてあまり論じていなかったのに『転校生とブラック・ジャック』で論じてるのは >青山の影響だ、という趣旨のことを言っていたはず) >それを考えると、比較的古い論文「他者」に書かれた私に関する議論を、今に関する議論に >そう簡単に対応させていいの? なら逆に聞きたいのだが、その比較的古い論文「他者」を最初に 持ち出してきたのはあなたの方だよね? 俺の書き込みに対して、その時間についてあまりろんじていなかったころの 古い論文「他者」のなかの図7の該当個所を持ち出してきて、<わたし>と 今が対応しているとは思えないと主張してきたのはあなたの方だよね? こまかい話になるけど、時間についてあまりろんじていなかったころの 比較的古い論文「他者」の中にでてくる図7をもちだして、 そこで論じられている<わたし>の世界像の変転問題が、今と対応していな いからといって、<わたし>と今に対応関係があるという俺の主張の疑問と してもちだしていいの? その論文がかかれたときは、永井は時間について問題を感じていなかったんだろ?
375 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 18:27:46 0
>それを考えると、比較的古い論文「他者」に書かれた私に関する議論を、今に関する議論に >そう簡単に対応させていいの? で、あなたの問いに対する俺の答えはこうなるね。 論文の該当個所の<わたし>の構造問題が、今と同型性をもつかどうか という問題は、論文を書いた著者自身の意図とは無関係の問題であるから、 なんの問題もない。 昭和42年に永井均のこともしらない著者がかいた問題と 永井の問題が同型であると主張できる程度には問題がない。 >図5の〈私〉について、永井均は、「世界を表象」する「視点」と書いている。 >そして図5の「世界」とは、〈私〉という主体によって表象された「対象」です。 >ここが大事な点です。 それは君の誤解だよ。<私>が表象する「視点」であるかどうかは 永井の独在性の問題にとって本質的なことじゃないよ。 現にその「他者」という問題で表象うんぬんの話はp28〜p30の ごくわずかだけしか出てこない。そこの図4〜7は、<わたし>の 問題をわかりやすく図式化するために持ち出されただけだよ。 他者以後の永井論文の中ではその種の”表象する視点”的 表現はほとんどつかわれていないことからも明らかだと思うよ。
376 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 18:30:23 0
>つまり、永井均はここで〈私〉を、志向性をもつ意識の基点(つまり「視点」)として考えているわけです。 >そのような、表象する「視点」としての〈私〉が、イコール〈今〉であるとは思えませんねぇ。 ところで100歩譲って、あなたの理解が正しいとして、 だとすれば、その論文のあとの「私、今、そして神」の論文のころに 永井は考えをかえたんだろということになるね。 だって、永井は<わたし>と<今>はおなじものの別名ではないかとさえ 書いているのだから。 すると、こうなるね。 俺の<わたし>と今が同型であるという主張は、論文「他者」では否定され 「私、今、そして神」では肯定される。 すると、俺の<わたし>と今が同型であるという主張に反論するのに、 (時間について問題意識をもっていなかった比較的古い論文)「他者」 をもちだす正当性はどこにあるんだろうねえ。
377 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 18:50:58 0
最後に蛇足ならがひとこと。 >つまり、永井均はここで〈私〉を、志向性をもつ意識の基点(つまり「視点」)として考えているわけです。 問題なのは、<わたし>がそのような志向性をもつ意識の基点かどうかではなく、 そのような志向性をもつ意識の基点を考えるとするならば、 そのような志向性をもつ意識の基点のうちのひとつに特別な基点が なぜか存在していて、あるいみではそれだけが現に存在する意識の基点(視点) であるということに問題の重点がある。 そして、このいい方それ自体は、どの志向性をもつ意識の基点(視点) にもあてはまってしまうことによって、”現に存在する”の意味が消されてしまう という点が重要。 <わたし>はなにかの性質ではないので それが志向性をもった意識の基点であるかどうかは意味のない論点。
>>374 > なら逆に聞きたいのだが、その比較的古い論文「他者」を最初に
> 持ち出してきたのはあなたの方だよね?
>>341 のことを言ってるなら、それを書いたのは自分(
>>354 )じゃない
誰がどれを書いたのか特定できるようなレスをせず、誤解を招いたのは申し訳ない
ところで、以下はまあどうでもいいことなんで答えてもらわなくても全然構わないけど、気になったので
>>343 は、あなた(
>>374 )が書いたの?
もしそうだとすれば、もともと
>>341 は論文「他者」の内容と今に関する話とは別だと言っていたところを、
あなた(
>>343 )のほうが積極的に、「他者」の図の話が今に関する話に対応すると言い始めたように見えるんだが
その流れで、なぜ、本当に対応するのかどうかをあなたに聞いてはいけないの?
(なお個人的には、何にしても、もし永井について今や時間に関する話をするんだったら、
できるだけ新しい本を参照するべきだと思う
古い本を持ち出すなら注意が必要じゃないかと思う)
>>375 、
>>376 このあたりについても同様で、自分(
>>354 )は
>>341 も
>>360 も書いてない、と言っておかなければならない
ちなみに、表象とか志向性とかを私に関して簡単に持ち出すべきではないという範囲では同意見
そのあたりの話をするなら、特に『なぜ意識は実在しないのか』の第3日に注意する必要があると思われる
独在論とかw いちども社会とかかわったことがないのかねw
381 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 21:13:57 0
>その流れで、なぜ、本当に対応するのかどうかをあなたに聞いてはいけないの?
そもそも俺は聞いてはいけないなんて直接かいてない。
だいたい俺は
>>343 で、今と<私>が構造的に対応することを
持ち出された論文「他者」の該当個所の図に即して説明した。
さらに
>>344 で
>まあ、俺のこの理解がただしかろうがまちがっていようが、
>永井が<わたし>と<今>に同型の問題を感じているのは
>間違いないね。
とさえ書いて
以下「私・今・そして神」から該当個所を引用している。
さらに
>>354 の疑問について、
>>373 と
>>375 で回答しているじゃん。
それ以上なにが聞きたいの?
382 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 21:17:05 0
<わたし>と今が構造的に同型である問題については、個人的にいいかげん うんざりなので、永井の文章を引用することで個人的に終わらせます。 以後、<わたし>と今に構造的同型性をみとめないひと、疑問にもっている 人は、俺ではなくて永井の文章そのものについて批判するなり疑問を提示する なりしてください。俺宛にレスされてもしかとしますんで。 どうせここは永井の文章なら無条件で同意してしまう対永井権威主義者のあつまり なのだろうから、なにかあったら永井の文章を直接引用するのが一番だよ、まったく。 ”<今>という問題は、<ぼく>という問題と、論理的な構造が同じだ。 だから、独我論と独今論は同じ構造をしている。認識論的独我論が、すべては 私への現れだと主張するのと同じように、認識論的独今論は、すべては今への 現れだと主張する。つまり、過去とはいま存在する思い出にほかならず、 未来とはいま存在する予想や期待にすぎない、というわけだ。 これに対して、存在論的独今論は、でもその今とはいったいいつのことだ? と問わずにはいられない。認識論的独今論は、どの今にもなりたつだろう。そう した今一般の中に、この今という特別な時点があることに驚き、そして、 たまたま1995年1月23日がそれであることの偶然性にたじろぐとき、存在論的 独今論が始まる。もちろん、1995年1月23日が<今>であることは、 永井均が<ぼく>であることに対応している”『子どものための哲学』p123〜p124 ほらきちんとページまで書いて引用してやったから、自分で確認して たっぷり永井につっこめよ!期待してるぜ!
永井なんてどうでもいいから、 「私」なり「今」なりの存在の“奇跡”が“錯覚である”とはいかなることか、を始めて欲しいです。 楽しみにしているのです。
384 :
考える名無しさん :2010/04/10(土) 21:41:54 0
永井と関係ない話題だから別スレたてろとか、 永井はどうでもいいから議論しろとか このスレッドはおかしいだろ常識的に考えて。
385 :
383 :2010/04/10(土) 21:52:11 0
>>384 いろんな奴がいるだろ。私も普段ならこのスレッドに書き込みはしない。
貴方はageてるわけだから、普段はこのスレを覗かない奴も立ち寄りますよ。
私は個人的に
今の開闢問題と、(貴方のかもしれない人が書いた)
>>301 >>302 >>304 >>305 のレスに示された確率の問題とは
全く関係ないと思っていたので、
そこに類似点を見出す貴方の考えをもう少し訊きたいのです。
貴方は、今がこの端的な今であることは、確率の問題であると考えてるのですか?
>>372 >「実存」とか「人間の絶対の主体」とか言ってしまった途端にそれは一般的な概念になってしまうんじゃないの?
>それではわざわざ×という自己否定の記号の変形としての<>という符丁で表現する意味がなくなる。
>そこには言表不可能性を維持したいという意図があるんだと思う。何故なら言表不可能性こそがその問題意識の肝だから。
それは、どんな記号を使ったところで、同じことなんですよ。
要はそれを読む側が、その語(記号)によって示されている事態を、言表不可能な事態として受け取ることができるかどうかにかかっているわけです。
>何故なら言表不可能性こそがその問題意識の肝だから。
>>362-363 を読めば、実存思想の「問題意識の肝」も言表不可能性にあることがわかると思うが…
【決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。決して「何々である」のではない。】
【これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。これはもはや「何か」サムシングではない。Pではない。】
その言表不可能な「ある」を名詞化してあえて‘Existenz’(=E)と呼んでいるのだから、
当然「実存」という語も、「何か」「サムシング」であるものではないものとして受け取らなければならないものです。
繰り返せば、『〈私〉の存在の比類なさ 』の27〜31頁の〈私〉についての説明と、
>>362-363 に引用した「実存」についての説明には、根本的な違いはないように思われます。
これに対するまともな反論は、なさそうですね…
>>375 >そこの図4〜7は、<わたし>の
>問題をわかりやすく図式化するために持ち出されただけだよ。
それはないと思う。少なくともまともな哲学者ならば、そんなことはしないでしょう。
なので、こちら↓の可能性が高いのかも知れない。
>>376 >その論文のあとの「私、今、そして神」の論文のころに
>永井は考えをかえたんだろということになるね。
>>382 の引用文を見ると
【すべては私への現れ】そして【すべては今への現れ】とある。
このような表現ならば、〈私〉と〈今〉を対応させて考えることが可能になります。
ここでは〈私〉は「視点」としてではなく、「場」として考えられているように思われるから。
しかし、
存在が開示される「場」としての〈私〉…
それはただちに、ハイデガーの思想を想起させます。
ここでも、永井均がそこで言っている〈私〉というのは、ハイデガーにおける「da」や、
西田幾多郎の「無の場所」とどう違うのか、という疑問が生じますね。
(結局、永井均の〈私〉は、サルトル的実存思想から、ハイデガー的実存へと変化した。ということなのかな…)
(それらの実存と〈私〉の違いについて説明できる人はいないの?)
(彼自身は違いを説明していないのかな…)
>>387 永井はまさに『西田幾多郎』という本を書いて「場所」などについて説明してるので、
興味があって未読ならおすすめします
>>362 >鏡に映してみてもそれは自分の目の「鏡に映った映像」であって自分の目そのものではない。・・・とにかく、「見ている私の目」これは
あくまで見るだけであって決して見られ得ないのだ。
感覚(例えば視覚)を感受する者自身は、その感覚により感受されないという。
しかし「その者」は、感覚を感受しないとき、どこにいるのか。
感覚とともに消えたり現れたりするのならば、感覚を感受する「者」が在ると言う必要はなく、単に「感覚がある」だけでよいのではないか。
それとも感覚を超えて<私>が在るというのだろうか。
永井はその辺どうなんだろう。
390 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 14:52:54 0
>私は個人的に
>今の開闢問題と、(貴方のかもしれない人が書いた)
>>301 >>302 >>304 >>305 のレスに示された確率の問題とは
>全く関係ないと思っていたので、
>そこに類似点を見出す貴方の考えをもう少し訊きたいのです。
俺の基本的論点はもうすでに書いた。
いまさら特につけくわえることはないよ。
興味があるならそれを自分で論じればいいんじゃないの?
俺はもうこりごりです。
391 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 14:55:57 0
最後にもう一度だけ書いておく。 一回書いたけど、俺の立場は、たぶん永井の立場と同じだと思う。 永井は、論文『他者』のなかで次のように書いてる。 ”宇宙が現実とまったく同じ歴史的経過を辿ったとして、そのときそこで その両親から生まれ「永井均」となづけられた人間は、私ではないことも 可能であった。だが、なぜかそれは私であった。なぜ、それが、私であった のか、そしてなぜ、他の人間が私ではなかったのか、それはまったくの謎である。” これを文脈をとくに重視せずに字義どうりとるなら、ここで永井を謎といっている 問題は、268さんが問題にした疑問と同型の謎といっていいと思う。 ぼくに対応する今問題。 しかし『子どものための哲学』では永井は次のような主張を展開している。
392 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 14:58:17 0
”ぼくが永井均だったこと、永井均がぼくであったこと、の<偶然>性に驚くとき、 それはある意味で確率的驚きであるともいえる。なぜなら、その驚きは、徳川家康が<ぼく> であったり、ポチが<ぼく>であったり・・・・・・することもできたはずなのに、永井均 が<ぼく>であった、ということへの驚きであり、そのさい、ぼくが(実際にはそうでなかったとしても )そうであることもできた範囲は限られているからだ。(中略)それに対して、<ぼく>が存在 したことの驚きはそうではない。<ぼく>が存在しなかった可能性と対比された、<ぼく>が 存在していることへの驚きは、確率的考慮などまったく寄せ付けない。存在しなかった可能性が どのくらいあったか、なんて考えようがないからだ。そして、それが考えようがないということは、 重大な意味をもっているのではないか。(中略)この「〜あっての物種」という側面がなければ、 この<奇跡>だけを特に重視する理由はないだろう。永井均が存在することも、自然法則が現にある ようにあることも、すべて奇跡的なことなのだから。 だからこの<奇跡>あっての物種という事実こそが、独我論というものの本質なのではないだろうか” ここでは、永井は、「他者」で謎と提示した問題を確率的な驚きであるともいえる(ともいえるという 譲歩をつけてはいるが、それがどういう意味の譲歩かは該当箇所をよんでもらうとして) という表現で、批判しているように解釈することもできる。 独我論の本質的なぞは、なぜ<ぼく>が永井であって、たとえば徳川家康ではなかったのかという 問題にはなく、(それは確率的現象にすぎず、それが奇跡だというなら、確率的現象すべてが 奇跡だというほかない)なぜ<ぼく>が存在しているのかという問題こそ、本質的謎だと主張しているように 解釈することもできる。 そのように解釈したかぎりでの永井の立場(それが本当に永井の主張であるかどうかはともかく)は、 俺の立場と基本的に同じだと思う。
うーん、「実存」と言ってしまえば、やはり恰もそれが当然のように「ある」かのような「理解」が生じるけど、 それを言ってしまうことが問題なんだとやはり感じるな。 「実存」は既にしてやはり一般概念だよ。問題はその成立の痕跡がそこに残っていないこと。 それでも分かる人には分かる、問題意識の本質は共通している、 それは勿論当然のことなんだけど、 たとえばハイデガーはそれをロジックではなくレトリックで暗示する、 ってなことを永井は書いてる。(「猫と翔太のインサイトの夏休み」) それは哲学として本来求められる周到で緻密な表現じゃない、と。 たとえばハイデガーが語るの死の可能性を巡る思想について、 本来取り替えの効かない固有の可能性であるはずの死の意味が、 “誰にとっても”「取り替えの効かない固有の可能性」に読み変えられちゃったと書いてる。 「つまり「ぼくのこの痛みはぼく自身にしかわからない」ってことの意味が、 「ある人の痛みはその当人しか感じることができない」っていう一般的な意味に読み変えられちゃうのと同じことが起こったんだ。」 本当は、この引用文にしても、厳密には暗示としてしか働くほかはないんだけど、 前者の「意味」の語に、それこそ言表不可能な実感を感じられるか否かなんだと思う。 それは意味という言葉が意味という言葉として本当に機能する為の、根本的な実感なんだけど。 実存思想は、その端緒にあった思考はどうあれ、すぐに実存“一般”を前提とした思想に読み替えられる。 この「読み替えられる」というところが問題なんだと思う。それは言葉のもつ原理的な機能。 <私>を巡る思考は、それが「私」一般に「読み替えられる」ことを拒否して、 根本的な自己指示の不可能性を論理的に示すことに本質があるのでは。
394 :
383 :2010/04/11(日) 15:53:04 0
>>390 「こりごり」ですか。まあ永井の話はほっといて、
貴方は
>>264 氏の「今がなぜ2010年なのかは奇跡だ」との主旨の書き込みに対し、
「今はいつかでなければならないのだから、それは奇跡(謎)ではない。」と答えられている。
しかし
>>264 氏の気持ちを忖度するなら、あまりに淡白な切り捨てのように感じました。
264氏がこう言ったらどう答えられますか?
「(2000年でも2001年でもなく、2010年の)この世界状態が今として開闢しているのは奇跡(謎)ではないのか。」と。
やはりこれも錯覚であり、確率の問題でしょうか?
確率とはいくつかの等価な事象の、発生の振る舞い、についての記述でしょう。
「今」とは事象の一種でしょうか?(貴方はそのように考えておられるようだ)
「今」が「ある」ことは自明でしょうか?
私が存在しない世界において、今は端的に存在し得るでしょうか?
私の存在は「私以前の世界」に於いて予定されていたのでしょうか?
予定されていたならば私がこの私であることはある程度確率的かな・・・
いやいやw私以前の世界に於ける「予定される私の存在性」など想定不能。
ある肉体に、必然にして意識が開闢するとすれば、そこに私が生じる可能性(確率)など零です。
私も今も、確率の問題とはなり得ないのです。
>>389 えーと…永井は『西田幾多郎』という本を書いていてですなw
個人的には実存という話には知識が全然ないので恐縮だけど、多分、『西田幾多郎』は
そのあたりの話と関係する内容だと思う
あと、『なぜ意識〜』の、特に第3日も関係しそうに思われる
しかし、みなさん、最近の永井の本をあまり読まずに古いのばっかり読んでるの?
396 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 16:25:39 0
またおんなじ応答をしなければならないのかねえ。 >「今はいつかでなければならないのだから、それは奇跡(謎)ではない。」と答えられている。 どこのレスの要約かしらないけれど、要約するにしても重要な論点をはぶかないで ほしいね。俺は一貫して次のことをいってきたはず。 今が現に存在することは謎かもしれないけれど、今が存在するならば、 それはいつかとして存在するほかないのだから、 それが2010年だったから謎だというのは、謎の誤解だと。 今があること、わたしがあること、それはなぞかもしれない。 それを否定したレスをしたことは一度もないはず。 しかし、それが2010年だったこと、それがN氏であったこと が謎だというのは、誤解だと思う。 現に今が存在するとき、今が存在できる時点は、可能な時点の いずれでしかない。 そこのどこがえらばれようと、それは本質的に確率的現象でしかないよ。 だから >「(2000年でも2001年でもなく、2010年の)この世界状態が今として開闢しているのは奇跡(謎)ではないのか。」 の問いにはは次のように答えるほかないね。 今が存在して、それがどこの時点でもないというありかたで存在できるのならば、 それが2010年として存在していることは謎である。 しかし、今が存在している以上、それはどこかの時点として存在するほか ないのだから、それが”2010年だったということに謎をみる”ことは 錯覚に違いない。 開闢の奇跡は、それがどんなに奇跡であっても、それがおこる 時点は、可能な時点のいずれでなければならないという現実の枠組みに したがうほかないのだから。
397 :
383 :2010/04/11(日) 16:29:24 0
>>392 ああ、貴方は永井を代弁する形で
>>264 を批判しただけですか。
私も読解力が足りませんね。
なら、どうでもいいです。レスポンス不要です。
荒らしてどうもすいませんでした。
398 :
383 :2010/04/11(日) 16:39:31 0
>>396 ああ、レスありがとよ。俺は君が永井とは関係なく世界構造を考えているのかと思っていたのだ。
そうではないようなので、俺は荒らしとして浮いちゃうので退散するよ。
>現に今が存在するとき、今が存在できる時点は、可能な時点のいずれでしかない。
これって、時空連続体のごとき世界観を前提にして思考してるのかしら。。。
・・・・いや、どーでもいいや。絡んですまんでしたね。永井スレの皆さんにもすいません。
399 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 16:41:43 0
話を単純化するために、世界には可能な時点が10しかなかったとする。 そのうちのひとつが2010年だったとしましょう。 なぜだかよくわからない理由で世界は、2000年から2010年という 時点しかないという構造をしていると考えてもらえればいいです。 なぜか開闢の奇跡ががおこって今が誕生したとしよう。 その今である時点は、可能な時点10のうちのいずれかである。 そのとき、今が2010年である確率は10分の1。 もしその世界で今が誕生するという奇跡がおこったとき、 その今は確率10分の一で2010年であることがいえるはず。
400 :
383 :2010/04/11(日) 16:49:23 0
>>399 ありがとう。
私は決定論スレを徘徊しているコテハン抄録と申します。
ここは退散しますが、気が向いたらまた遊んでください。
401 :
考える名無しさん :2010/04/11(日) 16:52:31 0
>ああ、貴方は永井を代弁する形で
>>264 を批判しただけですか。
>私も読解力が足りませんね。
>なら、どうでもいいです。レスポンス不要です。
なんで永井を代弁するかたちで批判していたら、どうでもよくなるわけ?
>>394 で、永井のはなしはほっといてなんて書いてるのに。
永井を批判するのはゆるさないが、永井の側にたってものをいっている
つもの人の意見はOKってこと?
あほらしい。
だいたい俺は永井を代弁したつもりでレスしたことなんてないし、
268と議論していて、おまえらの議論は永井と関係がないと
いわれて、永井の本をよく読んだら、永井が俺とおなじ
ことを主張していたようにみえたのでそのことを
書いただけ。
いっそのこと、永井均をみんなであがめるスレッドってスレッド名に
しといてほしかったね。俺は最初からのぞきに来ないから。
まあ、どうでもいいや。
「奇跡」が乱舞してるが、 1.神のような他力的超越的な原因力によって引き起こされた。 2.たまたま、偶発的事態として生じている。 どっちなのよ?
>>388 >>395 『西田幾多郎』は、少しだけ読んだことがあります。
私が読んだ限りでは、西田幾多郎の思想と永井均の考え方の《距離》は全くわかりませんでした。
なので、私は今のところ、永井均の考え方は西田の思想や実存思想と《似たようなものw》と考えるしかありません。
貴方たちは、西田哲学と永井均の考え方の距離(違い)を読み取ることができましたか?
>>393 >実存思想は、その端緒にあった思考はどうあれ、すぐに実存“一般”を前提とした思想に読み替えられる。
>この「読み替えられる」というところが問題なんだと思う。それは言葉のもつ原理的な機能。
><私>を巡る思考は、それが「私」一般に「読み替えられる」ことを拒否して、
>根本的な自己指示の不可能性を論理的に示すことに本質があるのでは。
(意地悪な言い方になるけれど…)それはたんに貴方が「実存」という語から言表不可能性を感じ取ることができないだけであり、
そしてそれは、貴方が「実存」について深く考えたことがないからではないのか…と思われます。
実存は、まさに貴方が<私>について書いたもの、つまり『「私」一般に「読み替えられる」ことを拒否』するものです。
>>362-363 の続きを引用しましょう。
【「この私」はほかにはいない。いや、誰だってみな「この私」だから、「この私」もほかにたくさんいるではないか、 とも言えそうだが、それはむしろ言葉というものの不便からそういう妙なことになっているだけのことで、 「存在」としての「この私」は、ひとりしかいない。・・(中略)・・ 近代的「個人」とは、基本的人権とか個人の尊厳とかと言われる場合の意味を考えればすぐにわかるように、それは、 「万人ひとしく、誰でもがそれであるべきはずのもの」なのである。決して、たったひとりしかいない代理不可能なこの私、ではない。 「個人」とはせんじつめれば「清き一票」である。誰でも同じ、いつでもどこにでもいるはずの「ひとりの人間」という抽象物である。 だから「個人」とは名ばかりで、これはじつは「普遍」なのである。・・・・ さてこのように考えてくると、「実存」というのが、前に「個と普遍」のところで述べた「個」なのだということがわかる。 ・・・・これをドゥンス・スコトゥスは「このもの性」と呼び、ライプニッツはこれをそのままフランス語にして「エッセイテ」と呼び、 「モナド」とも呼んだ。「モナドには窓がない」というライプニッツの語は有名であるが、なるほど、「この私」はしんじつ 「この私」であるかぎりにおいては他と共通点を持たない(窓がない)のである。】(『哲学入門以前』p234〜238) 「個と普遍」の「個」。 つまり「実存」は、一般化されることを拒否するものです。
>「個と普遍」の「個」。 つまり「実存」は、一般化されることを拒否するものです。 一読かっこいいけど、受験時には願書とか、就職時の履歴書とかね出すわけでしょ。 永井も文科3類とか合格してたら、あれほど個を強調するルサンチマンを持たずに済んだはずw
そもそも永井は文Vに落ちたのか?
408 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 18:06:20 0
>>405 言表不可能ってことは、伝達不可能ってことであるはずなわけで、
>>405 の引用文にしても、
それが現に当たり前のように「意味」の伝達の機能を担ってしまうということ自体が、
本来は伝達されるはずのない当の問題(<私>というあり方)を裏切ってしまっている。
(一般化されないはずのものが現に一般化されている。)
…と、永井は言っていると思う。
>>408 それは永井均の<私>についても同じことが言えると思います。
それについては
>>386 でこう書きました。
>それは、どんな記号を使ったところで、同じことなんですよ。
>要はそれを読む側が、その語(記号)によって示されている事態を、言表不可能な事態として受け取ることができるかどうかにかかっているわけです。
「言表不可能な事態」の議論。って論理矛盾。詭弁に酔ってるだけじゃないの?
>>409 いや、そう言われると思ったけど、
永井の場合そこに拘って何度も他の論者や哲学者(ウィトとかデカルトとか)とのやり取りの中でそのことを指摘するんだよね。
具体的に引用しろと言われても煩瑣な問題だから難しいけど。
永井の哲学で一番ユニークなのは、その言語の一般化の機能に自覚的なところだと思う。
それがとくに<私>という端的に自己言及不可能な事象と向き合う時に先鋭化する。
>>411 >永井の哲学で一番ユニークなのは、その言語の一般化の機能に自覚的なところだと思う。
それはユニークでも何でもないと思います。
さっき「個と普遍」の問題に触れましたが、中世の「普遍論争」において既に、その「言語の一般化の機能」が中心テーマになっていました。
これも『哲学入門以前』の、中世の普遍論争についての解説から引用してみましょう。
【たとえば「果物」屋に行って「果物ください」と言っても始まらない。果物というのは名前、総称にすぎないのであり、
存在するのは、みかん、りんご、なし、ぶどう、バナナ等々の個々のものである。では「みかん」というものがあるのか?
というと、これも疑問だ。「みかん」というのも名前、総称にすぎないのであって、ほんとうにあるのは、夏みかん、ネーブル、
伊予みかん、紀州みかん、温州みかん等々があるのだ。では、「夏みかん」というものがほんとうにあるのか?それも名前、総称
にすぎないのではないか?こんな調子で攻めていくと一体、名前、総称でなくてほんとうにあるといえるのは何なのかわからなくなってしまう。
プラトンが困ったように、それを「何」と言ってしまったら、既に名前に、総称に、普遍になっている。たった一つしかない
「このもの」を言い表す言葉など存在しないのである。名前を言ったら負けだと思って、指で指さして「これ」と言ったとしても、
「これ」はじつはもっとも普遍的な語であって、みかんでなくても、りんごでもバナナでも、いや、ありとあらゆるものが、
みんな「これ」なのだ。最も個的な言い方をしたつもりでいたのに、じつは最も普遍的なことを言ってしまっている。
とすると、個はけっきょく言表不可能、把握不可能なのだろうか?】(『哲学入門以前』p98〜99)
11世紀頃から15世紀頃までつづいた普遍論争で、こういう問題が考えられていたのであり、
この問題の根は、プラトンやアリストテレスにおける個物と普遍(イデア、エイドス)との関係にまで遡りますよ。
>>412 なるほど、そういう歴史もあるのね。
でも、たとえば一個の林檎を指して「これ」と言えば、それは具体的にそれを指示可能なわけだけど、
<私>の場合は、具体的に(身体として)存在する私を指して「これ」と言っても、言いたいことそのものはやっぱり指示出来ないわけでしょ。
指示出来ないということは、伝達出来ない。
だってその場合の「これ」という指示は、それが永井均という人ならば、他人にとっては「永井均」をしか意味しないわけだから。
でもその時言いたいそのものはそれではないはずなわけで。
つまり林檎の「個」と、<私>の問題は、同型なようで同型でない。
それを同型のように考えられるという把握そのものが、「一般化」なんじゃないの?
やっぱり問題は<私>を通して先鋭化していると思うけど。
>>403 >>388 と
>>395 は自分だけど、『西田幾多郎』を読んだことがありましたか、失礼
個人的には、なるほど似ているところがあるのか、と思っただけで、「距離」があるかどうかを
特に考えてみようとは思わなかったので
あえて言うと、『西田幾多郎』の中に、ウィトゲンシュタインと対比して
「西田は驚くべきことに、体験がそれ自体で意味を持つと考えている。言語も体験の一種にすぎないというのだ。」
というような一節(うろ覚えですが)があったので、言語とか他者への伝達といったところで
違いがあるのかもしれないのでは、と
415 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 20:31:42 0
永井は ユニークであるようで平凡。たしかに。 それって すでにそこそこの思想家でもあるってことだろね。 しかし ほんとにユニークなだけの哲学者って 意味あるとは思えない。 世間の「私」たちの一員であることを受け入れた途端、 「私」ではない なにかが わだかまる。 だから永井がユニークに<私>と言ったとき おーそれそれ と 初期のファンはたぶん皆思ったな。 もともとデリダの抹消記号のつもりで山型カッコを思いついたそうですから その点もユニークとはいえない。 <私>表記で 皆に表現した途端 それは「私」同然になって しまうのでまた繰り返し。 そういうサイクル自体が 言語的時間的実存者という一般的「私」像か。 永井を含む既存の哲学者の人間像を否定したくて、 <>の中身を なんとでも言えいかえて このサイクルに参入できるが それをなんというかは恣意的で暫定的であるほかない。 ユニークに表現したいことが一般的に表現されたものによって抑圧されるから いつまでも 表現をつづける事ができる、せざるをえない、わけです。 こういう構造自体は 皆わかってる平凡で普遍的なことだと思いますけど うすうす皆わかってることを ちゃんと言うのが哲学の仕事かな。
>>415 っはー
全くどーでもいい文藝的な批評w
師匠が支障だから、弟子もまた嗤笑。
>>413 >でも、たとえば一個の林檎を指して「これ」と言えば、それは具体的にそれを指示可能なわけだけど、
><私>の場合は、具体的に(身体として)存在する私を指して「これ」と言っても、言いたいことそのものはやっぱり指示出来ないわけでしょ。
>>362-363 の説明でいえば、私を指して「これ」と言う場合の「これ」はPの方であって、Eではない、ということになると思います。
>つまり林檎の「個」と、<私>の問題は、同型なようで同型でない。
大いに関連はしているけれども、「同型」ではないです。
「これ」とは違って、「この私」の問題には、自己言及(自己意識)に付きまとうパラドクシカルなものが加わっているのだと思います。
『哲学入門以前』では、「実存」の解説を、嘘つきのパラドックス(すべてのクレタ人は…というやつ)から始めています。
【この場合まず注意しなければならないことは、クレタ人エピメニデスも、キケロの「おまえ」も、そして嘘つきも、ともに
「自分について」語っているということである。そして「自分について」語る、考える、意識する、ということが、じつは、
人間が人間であるゆえんなのである。・・・サルトルはこのような人間のあり方を「対自」存在といい、これ以外の猫、犬、蛙、蝉、
その他山川草木日月星辰すべてのあり方を「即自」存在と呼ぶ。・・・対自という以上は、人間には「自己」が二つある、ということになる。
キェルケゴールははっきりと「自己と自己との関係」と言っているのだから、自己を二つに考えていると言わねばなるまい。
ニーチェも「自己(ich)と自己(mich)とはあまりにも熱心に対話する」と言っているのである。イッヒとミッヒ、英語流にいうと
アイとミーとである。たしかに「自分で自分を見る」という場合、見る自分と見られる自分との二つが考えられる。これは当然すぎるほど
当然なことである。このように、人間の対自存在は二重の自己から成り立っているのであって、これをいま「自己分裂」と呼んでおこう。
あの嘘つきの話の妙なぐるぐる回りはこの自己分裂から来ているのである。私は嘘つきだと言う場合、そう見られた自分はたしかに
嘘つきだが、そう見ている自分は嘘つきではないのである。このように人間は、自分について、何々であると言うとき、そのことにおいて、
それと同時に、その何々ではなくなる、という妙なことがあるのであって、これはなにも嘘つきの場合だけとはかぎらない。】
(この「何々」をPとして
>>362-363 の話につながっていきます)
何だかだんだんよくわからない話になってきたな そのような「自己分裂」については、永井は特に論じていないと思うけど
421 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 23:01:03 0
経験の中身?と それについての命題は とりあえずの恣意的な関係しか 結べない。なんも必然的関係がないわけだろう。 なんとでもいえるし いいなおせる。 それだけの話ではないか。 そこをさも必然的関係があるべきかのようにふるまい 言えてる 言えてない と悩むのが 哲学のしぐさらしいけどな。 嘘つきのパラドックスなんて一般人は悩まないよ。 というとまた白けさせてしまうか。退散するわ。
422 :
考える名無しさん :2010/04/12(月) 23:03:45 0
経験の中身?と それについての命題は とりあえずの恣意的な関係しか 結べない。なんも必然的関係がないわけだろう。 それだけの話ではないか。 そこをさも必然的関係があるべきかのようにふるまうのが 哲学のしぐさらしいけどな。 嘘つきのパラドックスなんて一般人は悩まないよ。 自己分裂もしないよ。 というとまた白けさせてしまうか。退散するわ。
423 :
考える名無しさん :2010/04/13(火) 14:13:28 0
>>415 ということは、あなたは永井がなに言ってるかわかってるってこと?
私は、永井は超ユニークだと思う。
「問題を感じない人ははいって来ないでくれ」で、永井哲学は尽きていると思う。
>>423 >永井は超ユニークだと思う。
どこがユニークなのかを説明できないのなら
それは「哲学」にはならないだろうね。
『思想地図〈vol.5〉特集・社会の批評』に永井さんも寄稿するようだけど(表紙画像に名前があった)、 「社会の批評」ってことだから、何か倫理関係のことで書くんだろうか。
もう出とるよw 最近『子どものための哲学対話』など、いくつかの文庫版後書きなどで倫理関係の話が出てるけど、 それらと関連するような話
427 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 19:53:45 0
この人の対話の本で、「友達は大事でない」という趣旨のことが書かれていますが、 その理由を何度考えてもわかりません。(他の意見は全て納得できます。) どなたか簡潔に説明していただけませんか?
>>427 『子どものための哲学対話』のことだと思われるけど、本の中に一応の説明はあったはずなので、
このスレでさらに「簡潔な説明」を求める趣旨がよくわかりません
(他の部分は全部納得できたというなら、なおさら)
本の説明を読んでもこういうところが分からない、とか、本の説明を敷衍できる人はいないか、
とかなら、趣旨は分かるけど
それはそれとして、とりあえず適当なことを書いてみると、上品な人間・下品な人間の話は納得できるん
だとしたら、「人間は友達(自分のことを分かってくれる他人)がいないと生きていけない」という
発想は、下品な発想だと言えないですかね
そして、「友達などいなくても生きていける」というのは、人間は本来は上品なはずだ、という主張をしているか、
あるいは下品な発想から離れて上品なほうに近付いていくよう推奨している、と理解してみるのはどうかと
(上品・下品の話自体が納得できないなら、また別論だけど)
429 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 23:19:09 0
レスありがとうございます。品の話はわかります。でも自分の中では それと繋がらないんですね。本に説明があった記憶もないんです。(図書館で 一時間程度で読んだので、購入しておらず手元にありません。) その時は、勝手な憶測で、キリスト教批判なのかなとか(隣人を愛せ)、あるいは ダーウィン進化論、淘汰肯定に立ってるのかなとか変な見方とか、色々考えても解決しないんですよ。 依存しないのが品の良い人間といっても社会の視座が抜け落ちそうだし。
>>429 それなら、まずはもう一回読み直してみてはどうですかね…
(もし本当に興味があるなら)
>>428 は特に読み返さず適当に書いたんだけど、実際見てみたら、上品・下品の話をしている1章―3のところに、
友達の話をしている2章―6と関連があるという指示がついていたし
431 :
考える名無しさん :2010/04/17(土) 01:37:15 0
再読しても多分同じと思うんですね。そこで詰まったので。 日本の哲学者をほとんど知らないんですが、この人はちょっと気になって、 もともとウィトゲン好きなんで、哲学塾シリーズも感銘受けました。でも 友情に関するあの対話は、どうにも腑に落ちない、ツッカエた感じが残ってる んですね。親派の人が集うスレならと思って質問してみたんですが...... 簡潔説明できないにしても、皆さんは別に疑問なく、納得されているんでしょう?。
432 :
考える名無しさん :2010/04/17(土) 01:46:51 0
連投ごめんなさい。この引っかかっていた言葉が急に蘇って来た理由は、 昨日、古い友人の訃報を聞いたからです。何もしてあげられないけど酷く悲しいので その対話を思い出してしまいました。無縁のNHK番組の反響にしても、 孤立化を強いる社会情勢を考えても、どうにも納得がいかないんですね。 深い意味があるのかもしれませんが、こどもの対話にもち込む話題としては 誤解を招く恐れがあるのではないかと.....。自分はアンチではありません。 むしろ独自に思索できる数少ない哲学者として期待しています。
やはり人生論として読まれてるんだねこの人w
「友情」否定してる哲学者は他に居ないのか?
他愛=弱者のルサンチマン って公式だからな。永井は。 他愛の無い奴=下品。という公式もあるぞ。w
今日の夜11時30分からNHKで放送される『トップランナー』に川上未映子が出るのだが、 『情熱大陸』のときみたいに永井均も出ないかな。
変なことになってきたので、ひとこと言っておくと、『子どものための哲学対話』には、 「友情を否定する」とか「友だちは大事ではない」なんてことは直接書かれていない 「人から理解されたり認められたり必要とされたりすることが一番大事なことだ、というのは間違った信仰だ」 ということと、「自分のことを分かってくれる人などいなくても生きていける、ということが、一番学ぶべきことだ」 ということは書いてある上、「友情は、本来友だちなんかいなくても生きていける人同士でなければ成り立たないのでは」 と結ばれている だから、友情自体を否定しているわけではないし、例えば経済的・身体的に困っている人が 助けられるべきか、なんてこととも直接関係ない (その点はどちらかと言うと1章―8「こまっている人を助けてはいけない?」に関連する?) こんなことは、読みさえすればすぐわかることだから、「まずは読むべき」と言うんですけどね… 素朴な疑問自体を否定するつもりは全然ないんだけど、すぐにおかしな話になって変なのが沸いてくる、 というパターンが多いし…
>友情は、本来友だちなんかいなくても生きていける人同士でなければ成り立たないのでは」 と結ばれている 子どもが理解できるわけない。
>友情は、本来友だちなんかいなくても生きていける人同士でなければ成り立たないのでは」 と結ばれている ああ、それはたぶんニーチェの友情観だね…
440 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 12:25:09 0
>>431 で >日本の哲学者をほとんど知らないんですが、
と書いている人が、
>>432 で >むしろ独自に思索できる数少ない哲学者として期待しています。
なんて書いているのはどうしたことであろう。
きっと、永井という人が、本の中で、自分だけが独自に思索できる本物の哲学者
だ、などという自己宣伝に努めているからに違いないのだろう。
ああ、ぞっとします。
ひさしぶりに永井スレッドにきてみたらさっそくぞっとさせられまれました。
441 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 12:29:49 0
>>437 >変なことになってきたので
>すぐにおかしな話になって変なのが沸いてくる
こういう風に、
自分の意にそわない展開になったとたんに、
相手を変人扱いする差別的言動を平気でとれるのが
永井読者なのでしょうか。ぞっとしますね。
本当にぞっとします。
ぞっとするかなぁ… ふつうでしょ。 だれだって、そんなもんよ。 きみだって。
443 :
考える名無しさん :2010/04/18(日) 12:45:13 0
>友情は、本来友だちなんかいなくても生きていける人同士でなければ成り立たないのでは」
と結ばれている
愛する人が、自分とは無関係に幸福になることを心底から祝福できるの
でなければ、本当の愛とはいえないという発想ですね。
愛と恋の違いという話で、どこかの本でしていたはずですね。
>>442 >ふつうでしょ。
>だれだって、そんなもんよ。
だれでもそうだという安易な一般化のもとに自分の内に秘められた
差別意識を簡単に肯定していいのでしょうか。ぞっとします。
あなたには、他人を変人扱いしている自分自身が変人かもしれないという
自己懐疑が欠落しています。
わたしは、他人にぞっとする自分にたえずぞっとしつつぞっとしているので
いいと思います。
>わたしは、他人にぞっとする自分にたえずぞっとしつつぞっとしているので >いいと思います。 おもしろいひとだ。 「いいと思います。」のしめくくりが、おもしろいw
>>440 永井がそのような自己宣伝をしているのかどうか、直接知らずに、他人のレスの内容などという
ものからの推測だけをしているということは、永井の本をろくに読んだことがないことが明らかですね
読んだこともないのに勝手なことを言う輩には、本当にうんざりします
実際に読んでから、その内容について何か言うのならともかく、読みもしないのに勝手なことばかり
言うような人は、二度とこのスレに来ないでください、心からお願いします
>「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違い が生じているのはなぜなのか?」― 肝腎かなめのこの問いに、多少とも肉迫できた哲学 者は、史上ひとりもいない。哲学の終焉とか哲学の生き残りとかを語る人々がいるが、私 は哲学はまだ始まっていないと思っている。 もう一つの不満は、歴史上の哲学者たちがみなそうだったからであろう、下々の哲学徒 たちまでが彼らの真似をして、彼らの下請け作業に没頭するばかりで、ふつうに生きてい て素朴に哲学的関心をはぐくめば当然問題に感じてよいはずのこの問いに、だれも迫ろう とさえしないことだ。不可思議な事実のほうはまるで自明の事実であるかのように前提し ておいて、それが不可思議であるということに驚嘆した不器用な誇張表現にすぎないいわ ゆる独我論なんか批判したって、何の意昧もないことはあまりにも明らかではないか? とはいえ、そうでもしなければとことん寄る辺ない存在になってしまう哲学者たちが、 ほかのだれよりも伝統や風習や作法や定石(や徒党や流行!)に寄りかかってしまうこと は、いまに始まったことでぱないし、また同情の余地もあるので、しつこく責めるのはや めて、マクタガートをめぐる議論にもどろう。 「私・今・そして神」156頁 出来の悪いジョークだろ。これは?
447 :
考える名無しさん :2010/04/19(月) 01:28:54 0
出来のよい正論だと思う。 他の人も別の論点でこの種のことをどんどん言えばいいのに。 哲学界の現状はたしかに悲惨だからね。
論理学をちゃんと学習していたら 永井の文章の非論理性にすぐ気づくはずなんだけどね
>五十を過ぎれば、と言ったが、じつを言えば、五十歳になって、ますます社会的人間で あるための気力のようなものが保てなくなってきた。今では私にとって人生の苦痛の大半 ぱ、悲しみや怒りとしては現れず、ただただ煩わしさとして現れる。老いさき短い私の時 間を、天下国家やその他の些事のために使いたくない。ただ自分の哲学だけを考えて生き ていきたい。その思いはつのるばかりだ。 中島義道氏は、そのことを「人生を半分降りる」と表現しているようである。もしそれ が可能なら、人生は降りるにかぎると私も思う。むしろ、この意味で「降りる」ことこそ 人生を生きる出発点だとさえ思う。もっとも、このことはあまり公言しないほうがいいだ ろう。公共的な仕事に意義を見出し、そのために尽力してくださる奇特な方々の存在こそ が、そういう人生の可能性を支えてくれているのだから。 要するに、恥ずかしながら、私はまじめなことが嫌いなのだ。人生とか社会とかにとっ ての既成の有意味性に奉仕しているようなものは、どうしても、つまらない。無意味なこ と、馬鹿馬鹿しいこと、が好きだ。ただただ無意味で馬鹿馬鹿しいだけのこと。それなの に、その中に示された型のようなものが、世界の本質をくっきりと映し出していて、ギョ ツとさせるような、何かそういったこと。これがいちばん好きだ。芸術と言われるものの 中に、時にそういうものがあることは催かだ。哲学も、しつこい議論を通じてだが、そう いうものをえぐり出すことができる時が確実にある。「私・今・そして神」16頁 ニートのまんまじゃん。半分じゃなくて、全部降りればいいのにw
要するに、恥ずかしながら、私はまじめなことが嫌いなのだ。人生とか社会とかにとっ ての既成の有意味性に奉仕しているようなものは、どうしても、つまらない。無意味なこ と、馬鹿馬鹿しいこと、が好きだ。ただただ無意味で馬鹿馬鹿しいだけのこと。それなの に、その中に示された型のようなものが、世界の本質をくっきりと映し出していて、ギョ ツとさせるような、何かそういったこと。これがいちばん好きだ。芸術と言われるものの 中に、時にそういうものがあることは確かだ。哲学も、しつこい議論を通じてだが、そう いうものをえぐり出すことができる時が確実にある。 私が感じるテイストとしての哲学とは、いねば、徹底的な馬鹿馬鹿しさとして現れる世 界の本質洞察といったものだ。つまり、徹底的に不真面目な真剣さ。ああ、しかし、なん ということだ、残念ながら、私白身が勝手に思い描く私の哲学の理想に比べて、私の能力 はあまりに乏しい。本当に心の底から笑えるような本物の哲学が、将来、だれかによって 書かれればいいのだが……。 自分が理想とする作品にはほど遠いことを知りながら、それでも毎日、作品を作り続け る似非芸術家のように、私は毎日毎日、哲学的妄想を作り続けている。以前はよくノート や祇の切れ端に書き留めていたが、いまはもう、ただ考えるだけだ。きのう考えたこと は、きょうはもう忘れている。それでかまわない。つまり、一日中ただたれ流すだけの哲 学。「私・今・そして神」17-18頁 某社に「古本興業出版部」とかできたら、古本新轍学というジャンルでデビューすればいいのに。 「哲学」という語を軽々しくも流用するから、読者に誤解を売りつけることになっているんだし。
あくまでも個人的な意見ですが、ともかくも永井の本を引用して言及しようとする姿勢は、
読みもしないで勝手なことばかりいう輩に比べれば、ずっといいと思いますよ
とはいえ、やはり無意味な煽り言葉のようなものに終始しているのは残念ですので、願わくば、
議論の中身について疑問点を指摘したり展開を広げていったりという話をしていただきたいものです
なお
>>450 の引用箇所についていうと、決まった価値や目的に奉仕することに否定的である点で、
『子どものための哲学対話』の「人間は遊ぶために生きている」という話に通じるものが
あるのではないかと思われる
もし、あえて、永井の本から人生論とか価値観とかを受け取ろうとするのなら、
このあたりに注目することになるんだろうなあ、多分
(無論、個人的には、世の中に広く推奨されるべきとは思わない)
452 :
考える名無しさん :2010/04/19(月) 22:57:57 0
454 :
考える名無しさん :2010/04/20(火) 21:25:54 0
さて、今日永井の本『私・今・そして神』を読んでいて ぞっとする個所をみつけましたのでみなさんに報告しつつ感想をきかせて いただきたいと思います。 81ページの10行目ぐらいからの 「ところで〜大変な悪文である」 の文章はどういう意図があるのでしょうか。 悪脳問題をあつかっている個所なので、悪文という言葉で遊んでみたという ことでしょうか。 それとも本当に悪文だと思ったので思ったことを書いただけなのでしょうか。 しかし本当に悪文だと思ったなら書き直しているはずではないでしょうか。 みなさんはどう思ったのでしょうか。
>>454 そこで指摘されている元々の箇所(64〜66頁)は確かに難解であるように思われますが、しかし、
81頁のその文章の意図と言うなら、たんに64〜66頁が悪文だということを伝えようとした、
と理解することに何か支障がありますか?
著者が悪文であることを自覚しているものの、なお(少なくとも出版時点では)書き直すことが困難だった、
ということがあっても別におかしくないと思われますが、あなたはそのような可能性を考えないのですか
456 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 01:06:35 0
そうかな? だって、5ページで、本書ではかなり大幅に加筆されているって 説明しているわけだから、書き直すことが困難だったとは思えない ですね。 本当に悪文だと思ったなら、わざわざ悪文であるなんて解説する かわりに、該当個所を書き直すはずでしょう。
文字通りの意味しかないよ。文書作法上の悪文。
だがしかし[結論]なぜなら〜。と構成すれば簡明なのに、
だがしかし、なぜなら〜[結論]だから分かりにくいスマソだろ。
書かれている事柄は
>>455 の言うような難解でもなんでもない。
要は、<比類無き存在であるボクちゃん>が2004年の今なぜここ
に存在しているかその理由は高機能最高位の神様のゆえだ。
<比類無き存在であるボクちゃん>は綾波レイのような記憶不全な
生体ロボットでも、タイレル社製造のレイチェル&ロイでもない。
と言いたいらしい。でもこれってナンセンスそのものだろう。
>>450 のような冒頭文にあるとおり、この永井の文章は「ガキの使いや〜」
と同様な構成で書かれている。他人のネタをアアアダコウダしか言えなく
なってるダウンタウンも終わってるが、永井も同じ意味で終わってるね。w
458 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 02:16:29 0
北田あきひろ氏の依頼文として 「「説得」という社会的な営みに哲学はどのように距離をとることができるのか、 社会性の彼岸をどう指し示すことができるのか、――そうした思想の臨界点を 示す議論を、「説得のレトリックとしての思想」を前提とする読者に向けて ご執筆いただきたい、というのが私の考えです」 とあるんだけど、何度読んでも意味がくみ取れない。 だれか、解説できる? ここで「説得」というのは、永井が金川被告について述べたときに 「説得」という言葉を使ったことが元になっています。
>>458 「説得」あるいは程度の軽重で「教育・教唆・指導・洗脳・マインドコントロール」という類語が
想定されるけど、一般にある種の倫理観・価値観に基づいて判断し行動することを要請したり
強制したりするような思想は「イデオロギー」と呼ばれる。資本主義・共産主義思想などは端的な例。
哲学が思想として存立する場合、イデオロギーであってはならない。と考えられている。
他者にある種の行為を強制するような規範系としてのイデオロギーでないはずの哲学は
すでに殺人を犯してしまったような者に対して、なにを語り得るのか?
このような議論は哲学の非イデオロギー性という本質から逸脱するかしないかの臨界点の議論。
そこで哲学は本来の非イデオロギー的スタンスを堅持しながらなおかつ、殺人者を改悛させられ
るような論理を提供できるのか。どうお考えですか? 永井先生。
ということだろうね。
社会性の彼岸というのは、事実的な社会制度や人間の在りよう、価値と規範と実行行為などを
総体として見通す立場。ということなのだろう。「悪霊」のスタヴォローギンだったかは作中で
「神は人に何をするも許している。だけれどもそれを知るなら(赤子の頭をかち割るような)
非道は行わないであろう。」とか言ってるらしいが、この種の見方が彼岸的。永井は半欠けだからなあ。ムリポ。
>>456 それだけでは、そこまで言える根拠がよくわからないですね
他の部分につき、連載時と比べてどう書き直されたのか検証の上、「ここだけ書き直されないのは
おかしい」といえる事情が何かあるなら別ですが
さらに言ってしまえば、そもそも、仮に81頁の文章が何らかの冗談などだった可能性があったとして、
だから何なのかが、個人的には分かりません
元々の64〜66頁が理解しにくい、ということのほうが、(私の理解不足であるにしても、
文章自体のせいと言えるのだとしても)よほど問題だと個人的には思います
461 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 20:13:37 0
どうやらみなさんは、悪文問題にはあまり興味がわかなかったようですね。 ぞっとしたのはわたしだけだったのでしょうか。 残念です。 さて、今度は『なぜわるいことをしてはいけないのか』という本から ぞっとする個所を見つけましたのでみなさんの感想を聞いてみたいと思います。
462 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 20:33:45 0
『なぜわるいことをしてはいけないのか』の216ページ ここで永井は、”今”との類比の議論を展開して次のように主張しています。 「例えば、今はたまたま2000年だが、紀元前300年が、そして紀元前 300年だけが今である現実世界を構想することは可能である。だからといって 、特定の時点から独立の、いつでもない単なる今などというものがありうるとは 、誰も考えないだろう。それと同様に、<私>は何らかの性質をもった主体 から離在できるような実体ではなく、身体的属性や心理的属性を一切もたない 存在者などではまったくない」 しかし、今との類比のロジックをつかっていえるのは、 いつでもない単なる今というのがありえないのと同様に 誰でもない単なる<私>というのはありえないという主張であって、 身体的性質をもたない<私>というのはありえないということは そこからは直接でてこないように思われます。 <私>は誰かでなければならないということから、<私>は身体的性質を もたねばならないという主張は直接でてこないのではないでしょうか。 そういう主張をするためには、身体的性質をもたないかぎり、主体では ありえないという別の論拠が必要だと思うのですがいかがでしょうか。
463 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 20:50:43 0
それと関連すると思われる個所でもうひとつ疑問があるので こちらもみなさんの感想をきかせてください。 今度は『魂にたいする態度』の188ページ そこで永井は、<私>が身体から離脱するさまを想像して次のように書いています。 「あるいはまた、<私>は永井均の身体と精神から離脱し、始めのうち残存していた彼の 卑俗な精神の影響(記憶)も次第に消え去り、ついにはまったく超越的な視点から 、永井均を含む世界をまったく客観的に眺められるようになる、と考えてもよい。 いずれにせよ、私自身にとって、この想像は有意味である」 ここでは永井は、身体的属性どころか、心理的属性からも離脱可能な存在者として <私>を理解しているようにも思えます。 ところが、『子どものための哲学』88ページでは 唐突に「拙著『<魂>に対する態度』188頁の記述はまちがいです」と の記述がでてきて、188ページの主張を否定しています。 しかし論拠がなにも提示されていませんのでぞっとしてしまいます。 永井はどういう論拠で188ページの主張が間違いといっているのか、みなさんは どう理解しているのでしょうか。
>>462 、
>>463 〈私〉が身体的特徴を備えていなければならないかどうかについて、その箇所にはあまり詳しく
説明されてないのは、そのとおりと思われますが、しかし、「誰でもない〈私〉は考えられない」
というところに実質的に含まれているのではないですかね
逆に「身体的特徴は持っていないが、しかし誰かではあるような〈私〉」なんてものがあり得るかどうか、
考えてみてはどうでしょう
なお、その点に本当に興味があるなら、『転校生とブラック・ジャック』を当たってみるのはどうでしょう
いろいろ論じられていたと思うので
466 :
考える名無しさん :2010/04/21(水) 23:22:07 0
>逆に「身体的特徴は持っていないが、しかし誰かではあるような〈私〉」なんてものがあり得るかど うか、 素朴に考えて、誰かであるために必要なのは、意識的存在者である(あるいは自己意識的 存在者である)ことなのでは? 身体なき意識、あるいは身体なき自己意識が可能ならば、<私>がそのような 自己意識=誰かとして存在することは論理的に矛盾はないように思いますが。 もちろん、真空に意識が宿るということはありえないという議論があれば 話は別ですが。 いずれにせよ、<私>が誰かでなければならない=誰からも離在可能な <私>はありえないという議論から直接 身体なき<私>はありえないという結論は出てこないでしょう。 >その点に本当に興味があるなら、『転校生とブラック・ジャック』を当たってみるのはどうでしょう 読んでみることにしましょう。 題名からしてぞっとする予感を感じるので、ぞっとしたらまたここで 報告することにします。
>>466 > 素朴に考えて、誰かであるために必要なのは、意識的存在者である(あるいは自己意識的
> 存在者である)ことなのでは?
> 身体なき意識、あるいは身体なき自己意識が可能ならば、<私>がそのような
> 自己意識=誰かとして存在することは論理的に矛盾はないように思いますが。
身体なき意識あるいは身体なき自己意識なんてものが、本当に素朴に想定できますかね?
では、「私は身体を持たないが、意識は、ほらこのとおりちゃんと持っている」と、
他人が言っている(?)とか、考えている(?)とか、そのような他人(?)とコミュニケーションを取る、
とかいうことが想定できるかどうか、考えてみてはどうですかね
他人についてそのようなことが想定できるとは思えませんが、そうすると、私についても
想定できると言えるかどうか
469 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 00:01:19 0
>>428 >>437 は、多分このスレの住人だと思うのだが、なぜそんな文献学者みたいなことを
いまだにやっていられるのかわからない。
自分の意見が一言も書かれていないのだが。
「友達は大事でない」ということが直接書かれてなくても、
>>427 さんは、そういう趣旨のことが
書かれてあると理解したわけですよね。
470 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 00:04:18 0
>身体なき意識あるいは身体なき自己意識なんてものが、本当に素朴に想定できますかね? 想定するのに特に問題があるとは思えませんが。 どういう困難があるのでしょうか? >「私は身体を持たないが、意識は、ほらこのとおりちゃんと持っている」と、 >他人が言っている(?)とか、考えている(?)とか、そのような他人(?)とコミュニケーションを取る、 >とかいうことが想定できるかどうか、考えてみてはどうですかね コミュニケーションがとれるかどうかがどういう関係がるのでしょうか。 真空にやどったもの言わぬ自己意識という沈黙する存在として<私> が存在しているという想定になんら矛盾があるとは思えません。 コミュニケーション可能な存在者でなければ意識的存在者では ありえないという論拠はなんでしょうか?
>>467 補足
これは蛇足的かつ思い付きなので堂々と書いてしまうのもなんですが、一応
仮に、身体なき意識なんてものがあり得るとして、そのことにより永井の議論全体に
大きな支障が出るかどうかは、また別問題のようにも思われる
私が唯一特別のものであるはずなのに、そのことが他人にも当てはまってしまい、そして
私も他人も同じ種類の「人間」というものとして理解される、という話について、
たまたま「人間」には実は身体が必要なかったと判明した場合、大きな影響があるかというと、
必ずしもそうでもないような
(ここは『なぜ意識〜』などの最近の本をもっとちゃんと読むべきという気がして、
思い付きを書いてしまって恐縮です)
(
>>471 の思い付きはとりあえず置いておくとして)
>>470 > >身体なき意識あるいは身体なき自己意識なんてものが、本当に素朴に想定できますかね?
>
> 想定するのに特に問題があるとは思えませんが。
> どういう困難があるのでしょうか?
想定できるかどうかというより、理解できないと言ったほうが正確だったかもしれない
3メートル先の何もない空間について「実はあそこに意識が存在します」なんて言われても、
私は何のことだかわかりません
永井とは異なるかもしれんが、<私>は特定の者ではないし<今>は特定の時点ではない。 特定の者とか特定の時点という属性が偶然的に<私>や<今>に付きまとってくるのだと思う。
474 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 00:27:49 0
話が混乱しているようなのではっきりさせて今日は寝ることにします。 問題にしているのは、「なぜわるいことはしてはいけないのか」の216 ページの永井の論証が成功しているかどうかという問題であって、 >私が唯一特別のものであるはずなのに、そのことが他人にも当てはまってしまい、 >そして 私も他人も同じ種類の「人間」というものとして理解される、 >という話 とは関係ありません。 216ページの議論で永井は、 今 − いつか <私> − 誰か という対応関係を用いて議論をしていますが、 そこでの「誰か」は意識的存在者であればいいので 身体的存在者である必要はない。(すくなくとも身体なき意識はありえない という論拠がないかぎり) にもかかわらず、「誰か」であることと身体的存在者であることを 同一視して、 いつでもない今がありえないことから 身体的性質をもたな<私>はありえないこと を導いているのでその論証は失敗している のではといっているに過ぎません。
だから社会人になれば独在論がいかに馬鹿馬鹿しいかわかるよ 試してみて きっとわかるから
それなら独在論どころか哲学そのものが馬鹿らしくなるんじゃないの
477 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 04:16:27 0
「良識ある人々」に認識に欠陥があるということを、永井はなぜ知っているのだろうか。 「うすうす気づいてもけっして認めようとしない」とか言ってるが、そのように言える 公共的な事実でもあったのだろうか。そうだとしたら、是非公表してもらいたいものだが. 「きわめて興味深いことに、認識におけるいかなる誤りもなく単に悪であるという論点も、 けっして通じない」 確かに、なに言ってんだかさっぱりわからない。
善悪・正誤の認識は<私>の専権事項だからだろ。 傲慢な奴には、何を説いても無駄。というのが毒在論。
479 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 04:24:59 0
私の理解では、永井の「認識」なるものは、単に「他人は自分ではない」というだけのこと だと思うが。 もちろん、それとはちょっと違うともいえるが、そのような「認識」が他人において存在する ということはどういう意味を持つのだろうか。それを「言う」としたら、単に「他人は自分ではない」 と言うしかないでしょ。
>>477 そこで言われているのは、良識ある人々は「自分と他人は同じ種類のものであり、自分のみが
特別などと言えるような面はない」とか「自分の体験と他人の体験は同じ価値を有しており、
自分にとって嫌なこと、してほしくないことは、全く同じ理由で、他人にもしてはいけないことになる」
というような認識を有していて、それに反することを認識しない(したとしても認めようとしない)
ということだと思われる
しかしこの点については、「良識ある人々」もよく知ってはいて、ただ誤魔化したり嘘をついたり
しているだけではないか、という疑問はありますな
> 「きわめて興味深いことに、認識におけるいかなる誤りもなく単に悪であるという論点も、
> けっして通じない」
> 確かに、なに言ってんだかさっぱりわからない。
この点は、「悪人は、認識に誤りがあるため、「自分と他人は同じ」という正しい認識ができていない」
と、良識ある人々は考えていて、それに反する話は理解されない、というようなことだと思われる
疑問があるのは同様
くだらん。人の認識は完璧でない。で終わりだろ。
482 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 08:52:55 0
「クラス担任から私の発言を聞いた理科の先生から、私はそういう「無責任な」ことを 言ってはいけないと諭された。いま思えば、理科の先生なのだから、あらゆる出来事には 原因があると考えなければならない理由を説明してくれてもよかったような気もするが、 もちろん、そんな説明はなかった。私は、肩透かしを食ったようで少し残念ではあったが、 まあそんなものだろうと、思った」 永井の「子供語り」は「<子ども>のための哲学」を読んだときから、まったく信用して ないが、これが実話だとしたら、その先生はまったく正しかったということは、このスレ をみれば一目瞭然だなw
483 :
32 :2010/04/22(木) 09:11:51 0
独在性。外国語は置いといて、とりあえず日本語の「独」って何なのか。 「独」という漢字の「蜀」は、桑の葉っぱにくっついて離れない虫をあらわした字。 「独」という漢字の「犬」は、羊は群れをなすのに対し犬は一匹で持ち場を守るから来た意。 ようするに「独」とは、他が動いて離れるのに、それだけは引っ付いて離れないという意味。 しかし独在性ちゅうのは、いったいどこに何が引っ付いているというのだろうか。 やはり妄想概念だな。
485 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 12:58:56 0
>>482 つづけて、
「ところが、意外なことに、私の発言に賛同する生徒たちが現れた。その趣旨は「君の言うとおりだ、
やたらと生徒を疑うのはよくない」というものであった。もちろん、私はそんなことが言いたかった
のではなかった。私は、私を叱った先生よりも、私の発言を支持した生徒たちから、理解されなさを
強く感じたのを覚えている」
とある。
永井がなにを「言いたかった」のかはわからないが、ややこしい話だな。
私には、「生徒を疑うのはよくない」というのは、どう考えたらいいのかわからないが、
「君の言うとおりだ」に関しては、「そうだろ」と答えるし、普通はそう答えるのが
当然だろうと思えるのだが。(もちろん、「君の言うとおりだ」なんてのは、全然
普通ではなくて、「そんなことあるわけないだろ」というのが普通だが)
486 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 16:36:06 0
「私は、あらゆる出来事には原因があると考えなければならない、と思っている」 ということを自覚している中学校の理科の先生って、多分、存在するだろうけど、 個人的にはそんな話聞いたことないし、いたとしてもとても少ないでしょ。 こんなこと、哲学の仕事している人なら、誰でも知っているのはまちがいないと思う。 (じっさいのことは全然知らないけど、こんなの、やっぱり、まちがいないでしょう)
「理解されなさを強く感じた」 これは誰もが感じることだ。 そして、永井からの理解のされなさを、永井の友人や先生も永井に対して感じているのだ。 こういうよくある周囲との擦れ違いよりも、果たして自分が自分を本当に理解しているのか、自分が本当に他人を理解しているのかの方が哲学なんじゃないかと思う。
自分のこと、私秘的なことを他人は理解できないという信念があるのでしょうけど、 そんな事は無いと思います。 理解は一つだけでなく多様ですから、自分の理解と他人の理解が異なるだけで、理解は理解です。 自分と同じ理解じゃなければ、自分を理解していないのと同じじゃないかと反論するかもしれませんが、 自分の理解が正しいという根拠はありません。
>>483 「意見もらえる?」とだけ言われても何をどう言えばいいのか分かりづらいけど、一応
>>32 は、どこに焦点を当てているのかが個人的には分かりづらいけど、趣旨を
1.通常、人間は皆、他人を自分と同じ種類のものと理解している
2.そのことは、道徳とは関係ない
と理解してよいなら、素朴には説得力のある考えだと思う
1.のことが道徳につながるという考え方のほうが説明を要すると思われる
しかし、1.2.の考え方に疑問があるとすれば、例えばこのようなこと
不道徳な人に対して、「自分勝手なことをするな」「相手の痛みや気持ちを考えろ」という
道徳的説教・非難がなされることはよくあり、とりわけ凶悪犯罪者に対しては激しくなされる事実、
そして、(確信犯的な犯人自身などを除けば)そのような説教・非難が、かなり強力なものとされて
いる事実があるのではないか
(もちろん、「そんな事実はない」という反論があり得るけど)
そういう事実があるとすれば、やはり自分と他人が同じ種類かどうかということは、
道徳と何らかのつながりがあるのではないか
>私秘的なことを他人は理解できないという信念がある むしろ理解されないはずのことがどこまでも理解されてしまう という信念があるんじゃないのかな 「転校生とブラックジャック」以降の著作では 「<私>が言えないとしてもその言えなさだけは伝達されてしまう ではその「言えなさの構造」が伝達されてしまうのはなぜか」 っていう方向に向かっているみたいだし
しかし
>>482 >>485 とか、本編に比べれば明らかにどうでもいいと思われる「はじめに」を、
わざわざ取り上げる人が多いのはなぜなのかねw
まあ、その箇所がちょっと面白いとすれば、例えば『〈子ども〉のための哲学』21頁の
「子どもの哲学の大きな特徴は、純粋に知的であることである。それによって何が変わる
わけでもないが、ただ単にほんとうのことが知りたい。これが子どもの問いの特質である。
青年も大人も老人も、全身全霊を傾けて発せられた単なる知的疑問というものがあること
を忘れている。」
あたりに通じるような気がするところですな
「はじめに」に書かれた当時の永井は、単に「物は突然なくなることもありうるのではないか」という
疑問を持って表明しただけなのだが、先生は疑問自体とは関係ない「生徒の責任(逃れ)」という
価値・目的から解釈し、生徒達もやはり「生徒に対する不当な責任追及の批判」という価値・目的
(先生とは反対方向だが、疑問自体とはやはり関係ない)から解釈しただけだった、と
これは道徳的世界解釈・道徳外的世界解釈の話とは…関係ないか
492 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 21:40:09 0
>しかし
>>482 >>485 とか、本編に比べれば明らかにどうでもいいと思われる「はじめに」を、
>わざわざ取り上げる人が多いのはなぜなのかねw
多いって何と比較して多いっていってるの?
そのエピソードって「哲学的疑問は理解されない」ことの事例として
どうなのって感じ。
理科室の備品がなくなって、先生は生徒が盗んだと疑っている(そしておそらくは
生徒たちはそれに反発している)という状況で、永井の不思議ちゃん敵発言が
まじめにとられなかったとしても、それは哲学的疑問が理解されなかった
という事例というより、状況をふまえない発言はスルーされるという事例として
理解するべきエピソードなのではないの。
まあ、自分は特別な存在と思いたがる永井がウザがられていただけだろうね。 本当に哲学的疑問が理解されないのかは全く分からないし。
494 :
考える名無しさん :2010/04/23(金) 00:20:21 0
人は言葉の意味を文脈の中で理解する習性をもっている。 テレビであスペルガー症候群を扱っていたのだが、あスペルガーの 人は言葉を字義通りにしか理解できず文脈の中で解釈することが 難しいのだそうだ。 つまり、われわれの社会では、言葉の意味を文脈の中で理解できない ということはひとつの障害とみなされているわけである。 ところで、素朴な疑問や純粋な疑問といったものは、特定の背景的 文脈をもたない。 どのような状況かにかかわらず、単に疑問に思ったので疑問を提示 しただけの発言は、にもかかわらず、我々は文脈の中で言葉を理解する 習性をもっているがゆえに、文脈に依存しない純粋な疑問として 流通することができず、その特定の文脈の中で解釈されることによって なにか別の意図をもった発言としてみなされてしまう。 それは文脈によって言葉の意味を解釈するわれわれの習性からして いたしかたないことなのかもしれぬ。
他人はもっと僕のことを知っているべきだという甘えだろう。 こういう人には、もっと他人のことを理解しようと努力しろと言いたい。
>>495 自分を特別扱いするな、自分がしてほしいこと・嫌なことがあるのであれば、他人を
同じように扱え、という道徳的説教ですな
495は(文脈・文言による限り)永井を道徳的に非難することを目的にしていると思われるけど、
そのような目的による発言が、まさに永井の道徳理解に乗っかっているように見えるのは、
ちょっと興味深い
やはり、道徳にとって「自分と他人を同じように扱え」ということは本質的なのか?
いや違う。 道徳問題以前に、他人はそうであると決め付ける根拠が永井には無いはずなのに、 何で他人はそうであると決め付けられるのか、論理的に一貫性が無いことへの批判だ。
>>489 どうもです。
そういう話なら、わかります。
泥酔状態で、人をひき殺してしまった、とかいうことを考えれば、
他人を自分と同じ種類のものと思っていなかったでしょうね。
そういうことをくりかえす人のことをどう考えればよいのか、とか。
具体的なことは、私には考えられません。
>>489 >そういう事実があるとすれば、やはり自分と他人が同じ種類かどうかということは、
>道徳と何らかのつながりがあるのではないか
ニーチェの考え方からの影響だと思う。
ニーチェは、キリスト教道徳、とくにその「神の前での人間の等価」という思想を最も危険なものと考えました。
ニーチェはそのような思想によって平板化された人間を「畜群」と呼んだ。
「同じ種類のものと理解する」・・・まさにそれがニーチェに言わせれば畜群です。
それに対してニーチェは、「差異」を強調しました。
「差異」の思想はドゥルーズに受け継がれ、現代思想の一つのキーワードにもなりました。
関心領域の分布 学生、無職、ニート ・・・ 独在論、観念論、現象主義、懐疑論、神秘主義 社会人、研究者、リア充 ・・・ 実在論、物理主義、心脳随伴説
>>499 ニーチェは牧師の息子で神学生だったからね。
そんなに簡単な話ではないよ。
「翔太と猫のインサイトの夏休み」にある「死」の考え方 (というより、翔太という架空の人物のとっている考えかた) には同意できるが、「<子ども>のための哲学」は、 なんで、あんなこと考えるのか、全然わからない。
「あんなこと」って?
永井って、SFヲタだったんだよな。 俺も、SFは一時期よく読んでた。あまり、詳しくはないけど。 あと、ロボットとか、人工知能とかいう話にも興味を持った。 でも、永井の言葉づかいには、どうしてもなじめない。 SFって範囲が広いけど、どういうのが好きだったんだろう。 リアリティを感じるSFっていったら、どういうのかな。 もちろん、そんなのは人それぞれだろうけど。
SFヲタだというなら定番作品は押さえていて当然。 とすれば、世代的に、ヴェルヌ、ウェルズなどの古代的SFじゃなく、 アシモフ(ロボット三原則)、ハインラインとかの古風な正統派SFから ディック、バラード、オールディズとかのニューウェーブかな。 国産SFなら、手塚治虫、小松左京、筒井康隆、半村良、光瀬龍、 平井和正、豊田有恒、星新一とかだろうけど、読みあさりするほどのヲタ というような痕跡は無いだろう。だいたいSF好きは性格的に外向き、外的世界へ の指向が強い連中であるのがふつう。むしろ、カフカとかカミュとか倉橋由美子 とか安部公房とか、不条理系文学の鬼子という印象だけどな。w
507 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 14:26:47 0
>>492 「<子ども>のための哲学」にあるような哲学観を前提にすれば、
「哲学的疑問は理解されない」などとわざわざ言うのは、ちょっと変だね。
真の哲学的疑問だったら、他人に理解されなくて当たり前だし、
他人の哲学的疑問が、私に理解できなくても当たり前だ。
天才みたいな人だったら、理解されるように努めるだろうけど。
>>502 「死」については、まさに、『翔太〜』のほうで詳しく取り上げてるということなんじゃないの?
(『〈子ども〉〜』125頁)
また、「死」について直接というわけではないが、私と全く同じ性質の人間が私でないことは考えられるか、
という点は、他のいろんな本で出てくる話でもある
>真の哲学的疑問だったら、他人に理解されなくて当たり前 <私>は言語で言うことができないということと 哲学的疑問は自分と似たような人間にしか伝わらないということが ごっちゃになってませんか
510 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 17:35:01 0
ある社会改良を目指している人が、それが自分の生きているうちに実現することは 絶対にないとわかっていたとしても、未来において実現するだろうと思えることは なぐさめになるでしょう。 科学的な難問に取り組んでいる人にもそういうことはあると思います。 哲学の問題の場合はちょっとよくわかりませんが、そういうことはあるんじゃないか と思います。 しかし、永井が考えているようなことが、未来の人間によって解決されるというのは どういうことなのかさっぱりわからない。 それとも、私が永井の言ってることを誤解しているだけなのでしょうか。
511 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 17:59:31 0
>>509 「<私>」の話とは関係ないよ。
「<子ども>」の中にある哲学観は、わかりやすくて、個人的には
うけいれたいと思っているので、それを書いただけだよ。
512 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 18:11:53 0
>哲学的疑問は自分と似たような人間にしか伝わらない 哲学分野に関して「似ている」という言葉を使うなら これはトートロジーではないですか。
<私>の話と関係ないなら、他人に理解されなくて当たり前 なんてことにはならないのではないですか 「理解どころか、こちらが驚くほど感動してくれる」人もいたみたいですよ >トートロジーではないですか 何がトートロジーなのか示してください 私は哲学分野で「似ている」という言葉を使うことがトートロジーである とは思えません
514 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 18:59:59 0
><私>の話と関係ないなら、他人に理解されなくて当たり前 >なんてことにはならないのではないですか 個人的にはそれが当たり前だと思っているってことだよ。 >「理解どころか、こちらが驚くほど感動してくれる」人もいたみたいですよ 私はその人のことは知らないよ。当たり前ではないことがおこったってことなんじゃないの。 >何がトートロジーなのか示してください 哲学的疑問が伝わる人間が、似たような人間であるってことだよ。哲学分野に関しては。 ごく普通のことを言ったつもりだけど。
>個人的にはそれが当たり前だと思っている 上では >「<子ども>のための哲学」にあるような哲学観を前提にすれば と書いているのだから、その哲学観の前提「のみ」で 話しているのかと思いました >哲学的疑問が伝わる人間が、似たような人間である 哲学的疑問が伝わる相手が似たような人間ではない ということは原理的にありうるのではないですか 何がトートロジーなのかが解りません
516 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 19:51:19 0
>何がトートロジーなのかが解りません 論理学の教科書を読んでください。
示せないから逃げるんですね
518 :
516 :2010/04/24(土) 20:27:25 0
519 :
考える名無しさん :2010/04/24(土) 21:36:29 0
>>509 「<私>は言語で言うことができない」ってどういうことですか。
例えば、クオリアは言語で言うことができないわけですが、
たんに「<私>は言語で言うことができない」と言われても
そういう種類のことが言われているに過ぎないのだろう、
としか思えないのですが。
でも、そうすると、文章の後半が理解できませんね。
「本当の意味で現実に存在している私」(現存在)を
概念的に把握することはできない、ということを言い換えただけです
>>405 さんが言ってるような問題と近いと思います
固有名詞的な人格が居る。ということと、 他人と一緒にしてくれるな。という欲求とは次元がことなるだろう。 死んでしまえば、皆、仏さま。(あるいはお陀仏)w
>他人と一緒にしてくれるな。 どこにこのようなことが書いてあるのか教えてください
523 :
考える名無しさん :2010/04/25(日) 18:57:11 0
>>520 「現存在」という概念を「死」という概念抜きで理解できるだろうか。
個人的には、できないような気がする。
そうだとすると、そして、永井の「時間」に関する議論をみると、
永井の言ってることは、ハイデガーの「ダーザイン」とはあまり関係がないということになる。
>>523 <私>の存在は、それが存在していない可能性と対比しなければ
それが存在していること(とその存在の不思議さ)が理解できないと思います
<私>が存在していないという状況は、<私>が死んでいる
ということと同じことではないですか
「死」に限らないだろ。 ・生まれる前。 ・物心がつく前。 ・睡眠中。 ・泥酔しているとき。 ・勃起してる最中。 「我を忘れる」「茫然自失」という語が何を意味するかわかるのは 「我に戻る」後だったりする。
「生まれる前」というのは、確かにそうですね でも生まれる前も死んだ後も 同様に「<私>が無い」という意味で同じなんじゃないでしょうか 「物心がつく前」やその他の状態は <私>が存在していることを「自覚できない」というだけで 存在はしているのだから、「<私>が存在していない状況」とは言えないのでは
527 :
526 :2010/04/25(日) 21:34:33 0
なんか文章の前半がちゃんと質問に答えてないですね ちょっと考えてみます
528 :
考える名無しさん :2010/04/25(日) 22:43:49 0
「生まれるまえ」と「死んだあと」はだいぶ違うでしょ。 「生まれるまえ」になにがおきていたかは、調べる方法があるけど、 「死んだあと」になにがおきるかは、調べる方法がないから。
>「生まれるまえ」になにがおきていたかは、調べる方法がある その区別の仕方はちょっと違うのでは 調べるって、どのようにして調べるのですか?
530 :
考える名無しさん :2010/04/25(日) 23:05:13 0
「体験」に関する事実のことを言ってるのではないよ。 パブリックな事実のことを言ってるんだよ。 あなただって、日本に生まれたから、あなたがそのような個人的な体験を持った、 というようなことは認めるでしょう。
そういう意味でなら、死体を調べれば「死んだあと」に 何がおきるかは調べられる、とも言えてしまうのでは?
532 :
考える名無しさん :2010/04/25(日) 23:14:33 0
>>531 なに言ってるのかわからないけど、
生きているから、死体を調べることができるわけですよねw
>生きているから、死体を調べることができる それは、「生きていなければ体験できない」ということですよね 「体験」に関する事実のことを言ってるのではないよ パブリックな事実のことを言ってるんだよ
534 :
考える名無しさん :2010/04/25(日) 23:28:23 0
535 :
考える名無しさん :2010/04/26(月) 05:34:11 0
このスレの「私・今・そして神」の引用見て思うんだけど、 永井本って、ソーカル事件のようなものだったの?w この本、持ってるけど、私はライプニッツとか全然知らないんだけど。
>>535 つまり、持ってはいるが自分で読んだことは全くなくて、このスレで引用されてるのを見て
初めて内容を知った、と
そして自分で内容を確かめてみようという気は全然ない、と
別に積ん読をすること自体は何も問題ないけど、そんなことをわざわざスレで報告しようとする発想は、
全く理解に苦しみますな
>>536 きちんと読んだことがあるんだろ?
ちゃんと答えてやれよ。
538 :
535 :2010/04/26(月) 18:53:35 0
>>536 一応、読みましたよ。
なにかを報告したつもりはなくて、ライプニッツ知ってる人いるかなと思って
きいただけなんだけど。
ライプニッツ読む気は、とりあえず、全然ないですね。
536さんはライプニッツ読んでるんですか。
539 :
考える名無しさん :2010/04/27(火) 14:49:17 0
>>538 ウィキ見たけど載ってないな。
まあ、めんどくさいや。
540 :
考える名無しさん :2010/04/27(火) 19:19:39 0
一応、ただの疑問を書いてみます。 「まったくそっくりな二人の人物が、一方は私で他方は他人であるということが考えられるのだ」(91ページ) これは、普通にとれば、単に当たり前なことなんじゃないでしょうか。 「AさんとBさんがそっくり」という意味なら、そっくり(原子レベルまで区別できない)な ふたりが、一方は私であり、一方は他の誰かだ、ということを想定しただけなのだから、 普通は誰でも「考えられる」と言うでしょう。でも、AさんとBさんという風に区別できる (位置が違う)ということまで考えたら「そっくり」ではありません。 永井は一体なにを言いたかったんだろw
永井は、「同一」「同じ」「類似」「相似」「似ている」といった語の使い方が無茶苦茶なだけ。 はっきりいって、奴さんって頭悪いと思う。w
>「AさんとBさんがそっくり」 「AさんとBさん」とだけ言われても解らないのですが 1.Aさんが私である 2.Bさんが私である 3.AさんもBさんも私ではない この三つのうちどれなのかで意味は変わりますが、どれを想定しているのでしょうか? また、引用されている部分の意味については 「神の意思」に関する説明と、91ページの最後の「〜対比が、ここでもまた反復されるのである」 という部分を読めば、永井が何を言っているのかは明らかだと思います
逃走してたんじゃないのか? お前も、頭悪いな。
>>542 のように、想定されている人物のうちどれが私なのか、またどれも私でないとすれば、
他に私が存在すると想定されているのか、という点を明らかにする必要があると思われる
それを明らかにしないままでは、何とも言いようがないと思われる
あえて言うと、それを明らかにする必要がないと感じている人がもしいるとすれば、そういう人は、
私と他人の区別を、安易に、他人同士の区別と同じものだと断定しているのではないかと
ん・・・ 「どれが私なのか」? それが分からない人なんて、いるのか? 何が言いたいのか・・・
>それが分からない人なんて、いるのか? 「なぜ意識は実在しないのか」をもし持っているなら 30ページの「隠れている第二番目の問題」を参照してください そこで問題になっていることが私の言いたかったことです
もってません・・・
もう寝るので明日その部分引用します
549 :
考える名無しさん :2010/04/28(水) 08:41:18 0
>>542 >この三つのうちどれなのかで意味は変わりますが、どれを想定しているのでしょうか?
不思議なことをいう人だな。そんなの、明らかではないでしょうか。
AさんもBさんも、現実には私(540)ではないけど、例えば「Aさんが私である」ということ
を想定してみる、というような話をしているんだよ。
こんな質問されると、この説明も通じないんじゃないかと不安になってくるんだけど。
>永井が何を言っているのかは明らかだと思います
あなたには明らかなんですね。
私には明らかではありません。
説明していただければありがたいのですが。
本は一応読みました。
550 :
考える名無しさん :2010/04/28(水) 08:45:49 0
>>544 >想定されている人物のうちどれが私なのか
「想定されている人物」は「想定されている人物」なのだから、現実には私ではない
ということは自明なんじゃないでしょうか。
551 :
考える名無しさん :2010/04/28(水) 08:53:32 0
「読んでください」「読んでください」言う奴が、いまだに多いな。
552 :
550 :2010/04/28(水) 11:10:11 0
>>544 どういうことなのか、全然わからないので、とりあえず質問してみます。
>あえて言うと、それを明らかにする必要がないと感じている人がもしいるとすれば、そういう人は、
>私と他人の区別を、安易に、他人同士の区別と同じものだと断定しているのではないかと
あなたは、「私と他人の区別を、安易に、他人同士の区別と同じものだと断定して」いないわけですか。
多分、断定してないということだと思うけど、私と他人の区別は、他人どうしの区別(XさんとYさんの区別)ではないから、
それを「私と他人の区別」「他人どうしの区別」と言うわけですよね。
553 :
考える名無しさん :2010/04/28(水) 15:08:14 0
>>546 「隠れている第二番目の問題」ってよくわからなかったんですけど、
「つまり、「自分」には「私」と「当人」の二つの意味がある」(33ページ)
というところに論点があるのでしょうか。
言ってることはわかるけど、どこが問題なのか、よくわからない。
>>547 引用します。
『「現在」には二つの意味があるのです。一つの意味では、現在は唯一です。それは、現にここに一つあるだけです。
もちろん、過去のどの地点にも、未来のどの地点にも、その時の現在があったし、あるでしょうけど、
それは本当の現在ではありません。本当の現在は、現にいま、ここにあるだけです。
ある意味で、これはまったく自明なことではないでしょうか。
ところが、もう一つの意味では、現在はどの地点にもあります。
その地点に反省的な意識を持った主体が存在していれば、そいつが意識するその地点がすなわち現在です。
ですから、唯一の本当の現在というものはありません。それぞれにおいて「唯一の本当の現在」が、つまり複数の唯一性!があるだけです。
(略)
さて、「現在」は「自分」の時間的な類比として導入されたのでした。
「自分」にだけ直接に現れている感覚や意識を、「現在」の出来事に類比することができる、と考えたのでした。
そういう場合の「自分」にも、いま述べた「現在」の場合と同じ問題が生じます。つまり、「自分」にも二つの意味があるのです。
ある意味では、自分は一人しかいません。それは、現にここに一人いるだけです。
この意味での「自分」は「私」と言った方がはっきりするでしょう。
もちろん、他人たちもみな、自分は「私」だと言い張るでしょうけど、それは本当の私ではありません。
他人たちは、「私」とは私のことなのだと言うかもしれませんが、それは他人の「私」にすぎません。本当の私は、ここにいるこの私だけです。
「現在」の場合と同様、ある意味でこれはまったく自明なことなのですが、この言い方は、「現在」の場合よりもいっそう、われわれの住んでいる言語的世界の在り方に抵触しますね。』
続きます。
『もう一つの意味では、誰もが自分です。そこに反省的な機能を持ったものが存在していれば、反省的におのれを意識するそいつがすなわち自分です。
ですから、もちろん唯一の特別の自分などというものは存在しません。
各主体において「唯一の特別の自分」が、つまり複数の唯一性!が存在するわけです。
(略)
これに対応する意味での「自分」は、先ほどの「私」に対して、むしろ「当人」と言った方がはっきりするのではないでしょうか。
つまり、「自分」には「私」と「当人」の二つの意味があるのです。』(『なぜ意識は実在しないのか』p30〜33)
>>542 で私が聞きたかったのは、AさんやBさんのように、世界内に複数存在する「当人」たちの中で、
「私」はどの人物であると想定されているのか、ということです。
>>549 >現実には私(540)ではないけど、例えば「Aさんが私である」ということを想定してみる
では、
>>542 の1のパターンを想定している、ということですか?
>>540 にはそう書かれていなかったので解らなかったです
>説明していただければありがたいのですが。
例えば92ページの
>同じ人物が私である場合とそうでない場合(単なるそういう人である場合)が考えられる
などの記述は説明になっていませんか?
>>550 「本当の意味で現実の私」ではないとしても
「ある可能世界の中における現実の私」というものは想定可能では?
例えば
1.仮に「Aさんが現に私である」場合の可能世界
2.仮に「Bさんが現に私である」場合の可能世界
3.AさんもBさんも「現に私」ではない可能世界
この三つの可能世界は想定可能だと思います
>>553 >というところに論点があるのでしょうか。
その通りです
>>540 で私が解らなかったのは
AさんにとってはAが「当人」だし
BさんにとってはBが「当人」だけれど
唯一の本当の自己としての「私」はどちらであると想定されているのか、です
(それとも、どの人物も「私」ではないという想定なのか)
557 :
544 :2010/04/28(水) 21:36:35 O
>>552 (
>>550 ・
>>552 と
>>540 が同一人物かどうか確証はないけど、恐らくそうであろうと推測して)
> あなたは、「私と他人の区別を、安易に、他人同士の区別と同じものだと断定して」いないわけですか。
> 多分、断定してないということだと思うけど、私と他人の区別は、他人どうしの区別(XさんとYさんの区別)ではないから、
> それを「私と他人の区別」「他人どうしの区別」と言うわけですよね。
私と他人の区別が他人同士の区別とは別だ、とあなたが考えているのなら、
>>544 で書いたことは
的外れだったので、忘れてください
改めて
>>540 について言うと、たとえ全くそっくりであっても、一方が私で他方が他人である場合には
決定的な違いがある(≒他人同士であれば全くそっくりな場合には違いが区別できないのだから、
他人同士の違いと、私と他人との違いは、同じものではない)というふうにあなたが考えているのなら、
まさにそのことを永井が言おうとしていると思われるので、さらに読み進めていってはどうでしょうか
むしろ、もし全体を読了しているのなら、わざわざ
>>540 の点につき疑問を呈する理由がよくわからない
永井って、LD入りのアスペルガーみたいだな。
>>556 >
>>540 で私が解らなかったのは
>AさんにとってはAが「当人」だし
>BさんにとってはBが「当人」だけれど
>唯一の本当の自己としての「私」はどちらであると想定されているのか、です
>(それとも、どの人物も「私」ではないという想定なのか)
永井の言い方だと、 AさんもBさんも〈私〉ではない、ということになるんだろう?
もしBさんが「私」だとしても、それは神の視点から見た「私」であって〈私〉ではないよね。
まぁ当たり前のことだと思うけど。
それで、
「ある可能世界の中における現実の私」っていうのは、永井自身が言っていることなの?
そんなふうにいろんな「私」をつくってしまうと、混乱するだけだと思うが…
>>560 >>556 じゃないので横からで恐縮ですが
> 「ある可能世界の中における現実の私」っていうのは、永井自身が言っていることなの?
> そんなふうにいろんな「私」をつくってしまうと、混乱するだけだと思うが…
例えば『なぜ意識〜』149頁には
「私がアサファ・パウエルであること
が判明したら、私は、その現実世界ではパウエルなのだから、その現実世界(可能的な現実世
界)から見たあらゆる可能世界でパウエルを指すことになります。」
という一節があったりするよ
(この箇所は可能世界に関する予備知識がいりそうな箇所で、それを持ってない身としては
引用が本当に適切か自信がありませんが
間違ってたらすいません)
>>559 >人物ではなくて、代名詞
代名詞であることは、特に否定されていないと思います
>「他人」が「人物」ではない
「「人物」ではない」とは、どのような状況を想定しているのですか?
>劇中人物を指しているのであって、俳優を指しているわけではない
おそらく
>>556 の「
>>550 へのレス」への返答だろうと思いますが、
>>556 のような状況の場合は、私の同一性を何に求めるかで変わると思いますけど
同一性を<私>であること(だけ)に求めるのならば
<私>がある時を境に、なぜか突然別の可能世界のある人物になっていた、という状況は考えられるのだから
「本当の意味で現実の私」と「ある可能世界の中における現実の私」は
同じ<私>でありうるのではないですか?
ただし私の同一性を記憶や肉体に求めるのならば、話は変わると思いますが…
>>560 >もしBさんが「私」だとしても、それは神の視点から見た「私」であって〈私〉ではない
神の視点から考えているのなら、それは「私」ではなく「当人」と言うべきでは?
あと、<私>であることはその人物の持ついかなる属性とも関係なく成り立つのだから
<今>はAさんもBさんも<私>ではない、ということが言えるだけで、将来的には、
誰も(本人さえ)気付かないが、ある時を境に<私>はなぜかBさんになっていた、という状況は
原理的にありうるのでは?
>「ある可能世界の中における現実の私」っていうのは、永井自身が言っていることなの?
「転校生とブラックジャック」の「中心化された可能世界」に関する問題とかは、それに近いことを論じているんじゃないでしょうか
>>562 >「「人物」ではない」とは、どのような状況を想定しているのですか?
「他人」という言葉が人物を指してないという状況というのは、ちょっとよくわからない
ということです。
>「本当の意味で現実の私」と「ある可能世界の中における現実の私」は
>同じ<私>でありうるのではないですか?
そういう話は難しくてよくわかりません。
永井の本を読んで、ちょっと考えたことがあるという程度です。
>>562 ><今>はAさんもBさんも<私>ではない、ということが言えるだけで、将来的には、
>誰も(本人さえ)気付かないが、ある時を境に<私>はなぜかBさんになっていた、という状況は
>原理的にありうるのでは?
どういう想定なのか、意味がいまいちわからないが…
(ゾンビみたいな話なら、私はあまり興味がない。
そういう極端な想定をしないと説明できないような事柄は、
哲学的に重要な事柄ではないと私は思っている)
今はBさんは<私>ではなくて、将来<私>はBさんになるとすれば、
前のBさんと後のBさんは、別物だろう…
それに、誰でもないのが<私>なのではないのかな? 『<私>がBさんになる』っていう言い方は、どうも、 同時に見れないはずの二つの視点で見ているように思われる。 (一つは神の視点)
>>562 >代名詞であることは、特に否定されていないと思います
あなたのレスがどれなのかよくわからないけど、
それはあなたの意見なの?
それとも、永井の本のことを言ってるの?
>>564 問題そのものに興味が無いのなら、議論に入ってこないで欲しいと永井も言っているし
私自身もそう思います
>>565 >誰でもないのが<私>
いつでもない<今>が存在しないように、誰でもない<私>も存在しません
>同時に見れないはずの二つの視点で見ている
確かに一度は神の如き視点を経由しないと、「未来に存在する<私>」や「他人の<私>」(というか《私》)
などは想像できないでしょうね
(「私・今・そして神」の1章などでも論じられているように)
>>566 そのようなことは書かれていなかったはずだ、という「永井の本を読んだ私」の意見です
「私の同一性」と「<私>の同一性」は、話が違うでしょ。 「<私>の同一性」というのは意味がわからない、というのが私の意見だが。 確か、昔の本にそういう議論があったと思うが、持っていない。
私と<私>を区別して使っている時点で その人はすでに独在論の外側に立ってるんだよ
じゃあ、永井は独在論の外側に立って議論していたということ?
独在論は問題にしているときだけ問題になる観念論だということ。 それとして考えなければ、<私>は想念にさえ浮かばない。
>>567 >いつでもない<今>が存在しないように、誰でもない<私>も存在しません
「いつでもない<今>が存在しない」とは、どういう意味?
このスレに、<今>は<私>に対応しているという書き込みがあったので、そのことから推察すると、
<今>は客観的には扱い得ないものなのだろう。
つまり例えばそれは、数直線上に表すことができるような時間ではないだろう。
そういう意味で、それは「いつでもない<今>」だと思う。
同じように、<私>も客観的には扱い得ないはずだと思う。
それが「誰でもない<私>」。
それに対して「Aさん」や「Bさん」は客観的に扱われている。
だから、貴方が『<私>がBさんになる』と言う意味が、私には全然わからない。
>確かに一度は神の如き視点を経由しないと、「未来に存在する<私>」や「他人の<私>」(というか《私》)
>などは想像できないでしょうね
《私》というのは、永井自身が使っている記号?
それはたぶん自己意識を表しているのだろう。
そうだとすると、「Aさん」「Bさん」の話とは、問題が少しずれている。
「Aさん」「Bさん」についての意識は自己意識ではないから。
574 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 19:50:18 0
>>562 ><今>はAさんもBさんも<私>ではない、ということが言えるだけで、将来的には、
>誰も(本人さえ)気付かないが、ある時を境に<私>はなぜかBさんになっていた、という状況は
>原理的にありうるのでは?
「原理的にありうる」という風に客観的記述を装っているが、それが「ありうる」というのは
単に、<今>、<私>(私から見れば562さん)が「未来において<私>はBさんである」ということを
想像している、ということに過ぎないと思うが。
>>567 >確かに一度は神の如き視点を経由しないと、「未来に存在する<私>」や「他人の<私>」(というか《私》)
>などは想像できないでしょうね
>(「私・今・そして神」の1章などでも論じられているように)
どういうことなのだろう。私の理解では、永井哲学というものは、徹底的に神の視点を
否定する、というものだと思っていたが。
そういえば、「私・今・そして神」の7ページや「転校生とブラックジャック」の
Fのレポートのような記述もあった。永井本って全体が広告文のようなものだったの
だろうか。率直なことを言わせてもらえば、あんなことを書く奴は気持ちが悪いとしか
言いようがない。
575 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 21:32:17 0
「それは(今のぼくの言葉でいえば)権力関係による、というものだった。 … それ以来、ぼくは この問題を考えなくなった。そして楽しく学校に通い、楽しく勉強できるようになった。いまでも、 この答えは正しく、立派な答えだったと思う」(「<子ども>のための哲学」1996 永井氏49歳) リアル子供の考えだったらわかるが、この文章は、大学教員が書いた文章なのである。 要するに、永井は権力関係が理由になって、哲学を勉強したということなのだろうか。 気味の悪い話だ。
576 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 21:40:47 0
>権力関係が理由になって、哲学を勉強した そう仮定するなら、「<子ども>のための哲学」のあのわけのわからない道徳論も 理解できるような気がするな。
私がこれから他人になることが可能か、という点については、『私・今〜』98頁に 「千葉大学教員の永井均であるからその人が私なのではない、と いっても、だからといって、私がこれからブッシュ大統領になったりすることができるわ けではない。神でさえ(われわれの「高階の神」を別にすれば!)そんなことはできな い。そうなるということの意味がわれわれに理解できないからだ。」 とあるし、『転校生〜』117頁前後の話からも、そういうことは不可能だ、ということに とりあえずはなるんじゃないですかね 他スレの情報によると『転校生〜』も文庫化されるそうなので、未読の方はどうでしょう (しかし、さすがに、『転校生〜』を文庫化したって誰が買うんだという疑問がw いや私は買いますけどね、入不二基義氏の解説がつくらしいので)
> 要するに、永井は権力関係が理由になって、哲学を勉強したということなのだろうか。 > 気味の悪い話だ。 別にたいしたことではないが、何が「要するに」なのか、引用部分を含めこの本をどう読んだら 「永井は権力関係が理由になって、哲学を勉強した」という結論になるのか、全く理解できない
579 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 22:29:58 0
>>578 蓋然的な推論を書いただけですが、「理解できない」と言われるのは理解できません。
580 :
考える名無しさん :2010/05/01(土) 22:38:50 0
>>579-580 >>579 の内容自体は理解できる(と思う)けど、何をどう推論すれば
>>575 の結論に至るのかは、
全く理解できない
どこをどう推論したのかが本当に全く理解できないので何とも言えないけど、
とりあえず言えそうなこととしては、
1.永井がその前後で「権力関係」と書いているのは、小学校からせいぜい中学校くらいと思われるけど、
(16頁にあるし、内容的にもそうだろう)その時期の話が、なぜ哲学を学ぶ理由につながるのか
(内容的にみても、また常識的にも、哲学を「学ぶ」のは大学以降くらいだろう)
2.本全体としては、「自分は、哲学を学ぶ前に一人で勝手に始めてしまったし、読者もそうすべきだ」
という筋で書かれているけど、その本について、なぜ「権力関係を理由に哲学を学んだ」
などという全く違う結論に至るのか
3.ついでに、仮に何らかの理由で「永井は権力関係を理由に哲学を学んだ」と言えるとして、
それが「気味の悪い話」というのはどういう意味で、そう言える理由は何か
>>574 >想像している、ということに過ぎないと思うが
それが何かまずいんでしょうか
「<私>が移動する」というのは
「(違いが)識別できること、(違いを)理解できること、(違いの)理解さえできないこと」
の真ん中に属することなのだから、客観的事実として誰かに認識されることはありえないでしょう
「(違いを)理解できること」(しかし認識はできないこと)はそもそも起こりえないのだ、という
主張なのならば、理解はできますけど…
>徹底的に神の視点を否定する、というものだと思っていたが
肯定も否定もされないんじゃないですか
前提Xから始めるなら「神の視点」は肯定され、前提Yから始めるなら「神の視点」は否定される
みたいな議論の「構造」をはっきりさせたいだけだと思いますよ
永井の本を何らかの主張として読むなら、矛盾ばかり言っている駄本にしかならないでしょう
>>577 >そういうことは不可能だ、ということにとりあえずはなるんじゃないですかね
うーん、どうなんでしょう
神の階位をどう考えるかで、可能か不可能化は変わってくるんじゃないでしょうか
あと『転校生』117頁の話は、《私》にしか当てはまらないと思います
<今>以外の<私>を語ろうとすれば、それはもう《私》の話になってしまっているんじゃないか、
ということを考えると、確かに不可能な気もしますけど…
権力好きでもいいじゃない 凡人だもの
584 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 00:06:39 0
>>582 >それが何かまずいんでしょうか
まずくないですよ。「客観的」ではないと指摘しただけですよ。
質問しておきますが、あなたは562さんですか。
>肯定も否定もされないんじゃないですか
私が「否定する」と書いたのは、「神の視点からものを語るのをやめる」という意味です。
>みたいな議論の「構造」をはっきりさせたいだけだと思いますよ
「神の視点」を肯定している論者と「神の視点」を否定している論者を、具体的に挙げて
もらえればありがたいのですが。
585 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 00:14:11 0
中村昇って人が、入不ニって人のことをほめてたな。 全然関係ないけど。
586 :
中坊 :2010/05/02(日) 00:25:21 0
>私がこれから他人になることが可能か 「未来の私」は「私」であり、「他人」は「私」ではないのだから、 そんなことあるわけないだろ。
587 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 02:37:31 0
>>581 1.>その時期の話
永井氏>いまでも、この答えは正しく
2.>「自分は、哲学を学ぶ前に一人で勝手に始めてしまったし、読者もそうすべきだ」
なぜ、そんな話を持ち出すのか全く理解できない。私は永井氏言う所の<哲学>の話をしているのでは
なくて「哲学」の話をしているのですよ。
3.>「気味の悪い話」というのはどういう意味で
あなたが「気味が悪い」と感じないとしたら、その「理解できない」は理解できます。
588 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 02:52:00 0
「善い」と「好い」って、私なりに定義すれば 「善い」:一般によいとされている 「好い」:私はよいと思う ということになると思うけど、そうすると「上げ底」なんていう指摘は当たり前に なってしまいますね。
589 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 03:15:43 0
ここ最近永井の本をよむ時間があまりとれず、そのため ぞっとすることがなく欲求不満がたまっています。 それはさておき、<私>の身体離脱問題について、まだなっとくいった 答えを見出していません。明確な回答ができる人がいたらぜひ 意見をきかせてほしいものです。 すくなくとも、「魂にたいする態度」では永井は、<私>の身体離脱 を可能な事態としていたのは間違いない。 それ以後、たとえば「なぜ悪いことをしてはいけないのか」では それが明確に否定される。 その間にどのような論理展開があったのか、はっきりしないわけです。 ぞっとします。
590 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 03:16:58 0
>>582 >
>>574 >>想像している、ということに過ぎないと思うが
> …
>理解はできますけど…
591 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 03:34:11 0
たとえば、永井は「魂に対する態度」の207ページで次のように主張している。 ”世界の開けの唯一の原点である<私>は、世界内のいかなる事実とも 無関係に<存在>する。それが他の諸人格から孤絶し、「最も重要な 意味において同胞をもたない」のは、世界内の一事実ではないのだ。身体と 記憶を変え、あるいは”失っても”<私>はそのこととは無関係に存続 しうる。” しかし、この”身体と記憶を変え、あるいは失っても、<私>は存続しうる”としていた 立場を、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」では明確に否定する。 ”<私>は何らかの性質をもった主体から離存できるような実体ではなく、 身体的属性や心理的属性を一切もたない存在者などではまったくない。”(216ページ) 「魂〜」のころと「なぜ悪いことを〜」のころの永井の<私>に関する考えかた の決定的違いのひとつは、<私>を身体や心理的あるいは人格的性質から離存可能な実体 として捉えるか否かの違いである。
592 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 04:14:14 0
ところで、今疑問におもっていることがあるのでみなさんの意見を きかせていただきたい。 現に今<私>はぞっとする夫である。<私>がぞっとする夫であるのは、 ぞっとする夫のいかなる性質とも無関係になりたっている偶然的事実である。 さて、<私>がぞっとする夫から移動して別の個人になることが可能だと しましょう。 もしそのような移動がおこったとしても、ぞっとする夫はそのことに気がつかない。 なぜならば、<私>がぞっとする夫であるという事実は、ぞっとする夫のいかなる 性質とも関係していないのだから。 さて、ひょっとすると今日これからぞっとする夫が寝ているときにでも、<私> の移動が起こるかもしれない。いや起こるとしましょう。 明日、ぞっとする夫はなにも気がつくことなく、やはり2chに ”現に今<私>はぞっとする夫である”と書き込むことでしょう。 しかし<私>の移動がおこったのだから、 今ぞっとする夫が書いた ”現に今<私>はぞっとする夫である・・・・・・”の<私>と 明日の移動後のぞっとする夫が書く”現に今<私>はぞっとする夫である・・・・・・・” の<私>は同じものをさししめしてはいないことになる。 つまり今日の<私>と明日の<私>が同じ<私>であるといえる根拠はどこになるのだろうか という<私>の同一性問題がでてきてしまう。 しかしそもそも<私>とは隣人がいない唯一の存在であったはずなのだが、<私>が 移動可能であると想定されてしまうとその唯一の存在者であるはずの<私>に ついてその同一性が問われてしまうことになる。 これが私が抱いている疑問です。 これにはどう答えたらいいのでしょうか。
>>577 自分も買います。今調べたら5/15に出るみたいですね。
それと入不二氏の著作にも興味あります。
何かお勧めはありますか?
594 :
先生 :2010/05/02(日) 06:49:53 0
>>577 単行本も買って、文庫本も買うんですか。
熱心ですね。
>>592 その指摘は、スタートレックの「物質転送機」の機能動作を見る度に気になってる。
番組では[転送前の私]=[転送後の私]として扱われているけれど、肉体を分子
レベルで完全に解析・再成できたとして、<私>は転送され得るのか?
単に転送前の私は転送と共に消失死亡し、転送後の私はそれらしきクローン
として発生再起するだけではないのか。もちろん転送機の実機は無いから検証
できないけれど。
[永遠を生きる私]=[霊魂としての私]=<私>。と考えたいのだろうかね?
チベット仏教のダライラマのように輪廻転生の思想が社会制度として機能している例も
実際にあるわけだけど、それは哲学の領域というより、宗教の領域。
形而上学が哲学に「可能的世界」として「彼岸的世界観」を哲学に持ち込むのは
論理的に無意味。<私>の同一性問題は「信じる信じない」の宗教問題だと思うね。
哲学の問題じゃないよ。
>>592 >>577 で引用、指摘した箇所のとおり、例えば今はAが〈私〉であるが、これからBという他人が
〈私〉になる、ということは、不可能あるいは理解できないことになるのではないかと思われる
また、〈私〉は〈今〉にしか存在しないとか〈私〉と〈今〉は同じものとも言われてるから、
今日の〈私〉と明日の〈私〉が同一などということはそもそも言えないのではないか(Aであるか
Bであるかに関係なく)、とも思われる
ただ、仮にそれが可能だとしましょうか
そうすると、
>>592 のような設例はちょっと変だと思う
どこが変かと言うと、明日はBが〈私〉であるのなら、明日の時点でAが「Aが〈私〉だ」と言ったとしたら、
Bである〈私〉は「それには賛成できない、Bである私こそが〈私〉だ」とか言うはず
だから、その場面で〈私〉の同一性とか唯一性とかが問題になってくるとは思えない
(つまり現にBである〈私〉は、Aの発言にはたんに反対するのであって、Aの言う〈私〉と
自分の言う〈私〉の同一性なんて考えるはずないのではないか、ということ)
597 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 08:59:01 0
>>583 権力が好きな人には、私はたいてい好感を持ちますが。
598 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 09:14:52 0
私は567さんではないですが、
>>572 >《私》というのは、永井自身が使っている記号?
そうです。
>それはたぶん自己意識を表しているのだろう。
永井によれば、違います。
>「Aさん」「Bさん」についての意識は自己意識ではないから。
どういう意味か、説明してもらえますか。
あと、572さんが永井のどの本を読んだのか教えてもらえませんか。
599 :
あなた :2010/05/02(日) 09:26:51 0
>>577 >私がこれから他人になることが可能か
誰がこんなこと言ってんだよ。
600 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 09:37:14 0
>>582 >永井の本を何らかの主張として読むなら、矛盾ばかり言っている駄本にしかならないでしょう
駄本でなくてなんなんですか。
601 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 09:54:09 0
>>582 >前提Xから始めるなら「神の視点」は肯定され、前提Yから始めるなら「神の視点」は否定される
みたいな議論の「構造」をはっきりさせたいだけだと思いますよ
子供だましに馴れた詭弁ですね。
602 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 11:00:09 0
大体、「<子ども>のための哲学」にある、書評への応答からしておかしいんだよ。
あんな、片隅にある書評なんて無視すればいいのに、要するに、自分がいかに理解
されないかを強調するために取り上げているだけだろ。
>>575 の「49歳」は「44歳」のまちがいでした。
603 :
577 :2010/05/02(日) 11:15:25 0
あんな本、文庫本にするなんて、一体なに考えてんだ。 「マンガは哲学する」のときも「マジかよ」と思ったけど。 講談社とかから出てもおかしくないけど。
604 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 11:25:11 0
>>582 >前提Xから始めるなら「神の視点」は肯定され、前提Yから始めるなら「神の視点」は否定される
前提Xと前提Yを具体的に書いてもらえますか。
605 :
582 :2010/05/02(日) 11:30:02 0
>>577 >そういうことは不可能だ、ということにとりあえずはなるんじゃないですかね
うーん、どうなんでしょう
神の階位をどう考えるかで、可能か不可能化は変わってくるんじゃないでしょうか
あと『転校生』117頁の話は、《私》にしか当てはまらないと思います
<今>以外の<私>を語ろうとすれば、それはもう《私》の話になってしまっているんじゃないか、
ということを考えると、確かに不可能な気もしますけど…
606 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 11:49:11 0
「理解できない」っていうのが好きなやつ多いな。 俺は、それを言われたチャンピオンだなw ちゃんとレスつけているのに、無視されちゃうんだよな。 ネタにマジレスしちゃいけないってことなんだろうな。 多分、金川って人は実在してると思うけど。
607 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 14:47:32 0
>>595 >単に転送前の私は転送と共に消失死亡し、転送後の私はそれらしきクローン
>として発生再起するだけではないのか。
<私>が身体のいかなる性質にも依存していないという想定であるならば
転送後の身体が<私>である保証はどこにもないというほかないでしょうね。
>[永遠を生きる私]=[霊魂としての私]=<私>。と考えたいのだろうかね?
確かに霊魂と<私>は似ている。
霊魂の存在を主張することは、人は死後、身体的性質や心理的性質を
失っても、それらに依存しない霊魂によってその同一性を保つ
ことができると主張することであろう。
このような霊魂説について永井は、『<私>の存在の比類なさ』46
ページで無意味な想定として批判している。
”いかなる物理的連続性も、いかなる心理的連続性もなしに、どうして
<人>は同じ<人>であり続けることができるのであろうか。そういう
想像をしようとするとき、われわれはいったい何を想像すればよいの
だろうか。想像不可能としか言いようがない。同一性はこの場合、そのものの
もついかなる性質とも独立に成り立つ、と想定されている。しかし、そのような
ことが成り立つのは、本性上隣人をもつことができない存在者である<私>
についてだけなのである。”
霊魂なるものに意味をあたえることができるとすれば、それは本性上隣人を
もたないものとして考えるほかなく、それは、つまり<私>のこと
にほかならない、と永井は言う。
608 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 15:05:30 0
>>596 >また、〈私〉は〈今〉にしか存在しないとか〈私〉と〈今〉は同じものとも言われてるから、
>今日の〈私〉と明日の〈私〉が同一などということはそもそも言えないのではないか
面白いですね。
昨日(2010年5月1日)の今と今日(2010年5月2日)の今が
おなじ今かと問うのは、たしかにナンセンスだろう。
それと同様に、昨日の<私>と今日の<私>が同じ<私>かと問うのは
ナンセンスなのだろうか。
疑問はこうなるでしょう。
昨日(2010年5月1日)と今日(2010年5月2日)は
同じ日ではない。だから昨日の今と今日の今はおなじ今かという問いは
意味をなさない。しかし、昨日のぞっとする夫と今日のぞっとする夫は
同じぞっとする夫であるといえる。だから昨日の<私>と今日の<私>
は同じ<私>なのか、とぞっとする夫が問うのは有意味な問いなのではないか。
。
609 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 15:10:32 0
>>596 >どこが変かと言うと、明日はBが〈私〉であるのなら、明日の時点でAが「Aが〈私〉だ」と言ったとしたら、
>Bである〈私〉は「それには賛成できない、Bである私こそが〈私〉だ」とか言うはず
>だから、その場面で〈私〉の同一性とか唯一性とかが問題になってくるとは思えない
これは誤解があると思う。
問題にしているのは、昨日、ぞっとする夫がこのスレッドに書いた
”<私>はぞっとする夫である”の<私>と
今日、ぞっとする夫がこのスレッドに書いた
”<私>はぞっとする夫である”の<私>がおなじものを指し示している
といえる根拠だから。
<私>が身体間を移動可能な存在であり、移動がおこなわれても
ぞっとする夫は気がつかないのであるなら、それがすでにおこった
かもしれないという想定を否定できる根拠はあるのだろうか。
<私>の移動がおこなわれたなら、ぞっとする夫がそれにきがつくことがなかろうと
もはや<私>はぞっとする夫ではない。しかしこれをかいているのはぞっとする夫であり、
ぞっとする夫は、<私>をその同一性が問題にならないつまり、
隣人をもたない唯一の存在者を示すものとして使用して
いたのだが、なぜ<私>の同一性が問題になってしまうのだろうか。
610 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 15:25:24 0
疑問にたいする答えのひとつは、
>>577 のいう通り
<私>の移動はありえないとすることなのでしょうか。
世界がいったんぞっとする夫に中心化されたされた以上、その世界は
ぞっとする夫に中心化された世界としてかわることができない、と
考えるべきなのか。
これが永井が言うところの「カント原理」ということになるのでしょうか。
ぞっとします。
しかし、世界が私に中心化されていることと、
なぜかわたしがぞっとする夫であったことは、
切り離すことができないことがらなのでしょうか?
>>609 ザ・たっちの「幽体離脱」を思い出して、吹いたw
双子は、ある種の共時的感覚的通共能力があるのでは?
と、常々外部から、そんなアミニスティックな見方をされるらしいね。
>>611 それは、そういう観念に囚われているだけのこと。かも?
基督教的には、「りんごの実」を喰って、認知能力を身につけた
ことがそもそもの原罪。認識知から自由になれないという×の世界。
仏教的にはそれは単なる煩悩。一切を空であると悟って解脱できれば解決。
このスレの教祖的には、神も仏もなく、ただただ一切は<教祖の裁量>。
人に説明しても同じ理解にはならないからムダ。ということでOK?
614 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 19:23:23 0
日本経済新聞2010/05/02(日)の書評欄に、こいつの『フィリピンと対日戦犯裁判』が取り上げられ ている。評者は法政大学教授・川成洋。「この日非関係をとらえ直した本書の歴史的な意義は 大である。」と評価している。内容紹介部分をよく読んでみると、約10万人が死亡したマニラ市街戦で 「アイゼンハワー元帥は『ワルシャワ以外に、このような最悪の破壊を目にしたことがない!』と 絶句したという」など、あたかも、日本軍の残虐行為によって総人口1600万人のフィリピン人のうち、 110万人余りの犠牲者を出した、そして、フィリピン政府が日本人戦犯への寛大な立場を取ったのに、 日本政府は、感謝を述べこそすれ、フィリピン国民への謝罪の言葉は皆無だった、この姿勢こそ、 「日本の「負の遺産」を封印することに他ならない、との本書の指摘は厳しい、と評されている。 マニラ市街戦であれだけの死者が出たのは、米軍の冷酷無慈悲な無差別爆撃が原因だということは、 以前、NHKの『証言記録 マニラ市街戦 〜死者12万 焦土への1か月〜 』でも描き出していただろ。 著者も著者なら、評者も評者だぜ、ったく。類は友を呼ぶというやつか?
615 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 19:25:47 0
>>614 ◆平成5年6月25日付の産経新聞「ベルリン物語」
http://sinobu10.hoops.ne.jp/tokyo_judgement.html ボンの郊外に住むドイツ軍退役将軍ウーレ・ウエットラー氏とインタービューした際、
「この事だけは、どうしても日本の読者に伝えて欲しい」と頼まれた。この欄でその要旨を
お伝えしたい。
ウエットラー氏は北大西洋条約機構(NATO)の作戦本部参謀や戦車部隊司令官を歴任
したが、戦争史を研究する学者でもある。退役後、太平洋方面(フィリピン、シンガポール)
に於ける日本軍の作戦というテーマに特に興味を持った。
「純粋に軍事史的見地から調べた結論から言うと、兵士の訓練度、司令官の質、全ての
面で日本軍 の優秀さは群を抜いていた。民間人に対する対応も、占領軍であるにも関わら
ず、実に礼儀に富ん だものであった」
ウエットラー氏は、ドイツの新聞(東京発)が戦時中の日本軍の残虐さを強調する為
「余りにも自分の研究とは違い過ぎる」と、義憤を感じたーーというのだ。
「戦争目的(大東亜共栄圏)や敗戦国であるという点から日本軍の残虐行為が強調される
のでしょう が、純粋に軍事史の具体例として検証した場合、むしろ米軍の方の残虐性が
目立つ」
>>608-610 いろいろなことがあるけど、一番気になるのはこの点
>>609 > 問題にしているのは、昨日、ぞっとする夫がこのスレッドに書いた
> ”<私>はぞっとする夫である”の<私>と
> 今日、ぞっとする夫がこのスレッドに書いた
> ”<私>はぞっとする夫である”の<私>がおなじものを指し示している
> といえる根拠だから。
(今日・明日を昨日・今日に変更して)昨日はAが〈私〉だが今日はBが〈私〉であるような状況
(が成り立つとして)を問題にしてるんでしょ?
つまり、今日は、Bが〈私〉なのでしょ?
その状況で、他人にすぎない(すぎなくなった)Aが「Aが〈私〉だ」と言ったとして、それについて、
「いや違う、Bである私こそが〈私〉だ」などと言う以外に、一体どうやって問題にするの?
今日の時点では他人にすぎないAが〈私〉なんて言ったって、それは違うと言う以外に
対応のしようがないんじゃないの?
(念の為:「しかし他人が全く同じことを言えてしまうのはどういうことか?」
という議論はあると思うけど)
618 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 22:41:37 0
>>578 の「別にたいしたことではない」というのは、私のレスのほうを指して言ったのだろうか。
自分のレスの方を指して言ったのだろうか。
ちょっと興味あるな。
永井豪乙欝欝鬱蔚。
620 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 22:44:38 0
昔の話だが、私が普通に「自分」という言葉を使ったら、 永井学者みたいな人に応答されて、びっくりしたことがある。
哲学のアクエリオン。
622 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 22:53:51 0
>>619 そういうネタは、間際らしいだけなのでやめてください。
623 :
考える名無しさん :2010/05/02(日) 23:12:09 0
誰がこんな馬鹿なこと考えたんだ? それなりにおもしろかったけど。
ageる馬鹿は死ね
625 :
ぞっとする夫 :2010/05/02(日) 23:57:13 0
>(今日・明日を昨日・今日に変更して)昨日はAが〈私〉だが今日はBが〈私〉であるような状況 >(が成り立つとして)を問題にしてるんでしょ? >つまり、今日は、Bが〈私〉なのでしょ? どういえば正確に問題がつたわるのだろうか、難しいところ。 Bへの移動が起こったなら、今日は、Bが<私>になる。 そこはいいの。 にもかかわらず、この文章を書いているのは相変わらずA(であるぞっとする夫) だということから問題が発生する。 >その状況で、他人にすぎない(すぎなくなった)Aが「Aが〈私〉だ」と言ったとして、それについて、 >「いや違う、Bである私こそが〈私〉だ」などと言う以外に、一体どうやって問題にするの? 問題なのは、本来<私>の移動ということが起こったと想定するならば、 A(であるぞっとする夫)はもはや他人に過ぎなくなっていなくてはならない はずなのに、これを書いているのは他人ではなくぞっとする夫であるという こと。 そのとき、いやぞっとする夫がこの文章を書いている以上、 昨日、ぞっとする夫が、今<私>はぞっとする夫である・・・・・・・と 書いたときの<私>と 今日、この文章をかいているぞっとする夫である<私>は同じ<私>で あるほかないと、たとえばあなたがいえるのかどうか。 いや、あなたがいえるのかどうかというより、自分自身としていえるのかどうか。 いえてしまうのなら、<私>の移動という想定は無意味なものになるのではないか。
626 :
ぞっとする夫 :2010/05/03(月) 00:01:43 0
疑問はこうなる。 昨日、ぞっとする夫は、今<私>はぞっとする夫であるとここに書き込んだ。 <私>は移動可能であり、昨日のよるぞっとする夫が寝ている間にそれが起こった。 この想定は有意味かつ可能である。 <私>はぞっとする夫のいかなる性質にも依存しておらず、<私>が移動した としても、ぞっとする夫は気がつかない。 とすれば、現にいまここに書き込みをしているぞっとする夫は、昨日おこった <大移動>にも気がつかずに、今日、ここに なぜか今<私>はぞっとする夫であると書き込んでいる。 にもかかわらず、昨日ぞっとする夫であった<私>は移動してどこか別の 人間に移動してしまったのだ。そのことに気がつくものは誰もいないのだが。 しかしこれは意味のある想定なのだろうか。 この想定に意味が与えられないのならば、<私>の移動ということに意味を 与えることはやはりできないということになるのではないか。
627 :
ぞっとする夫 :2010/05/03(月) 00:12:45 0
最初のはじまりはこうだった。 なぜだかしらないが、このぞっとする夫からだけ世界が開けており、 他の人間はすべてその世界の内部の存在者にすぎない。そのような 開けの原点を<私>と呼ぶと。 しかし、その<私>は移動可能だという。 そして、<私>が別の身体に移動したとしても、そのことに ぞっとする夫は気がつかない。 この気がつかないという点が味噌で、きがつかない以上 その移動が昨日起こったとしても矛盾が起こらないように思える。 しかし移動が起こったならば、もはや ぞっとする夫は世界の開けの原点ではなくなっていなくては ならないのだが、ぞっとする夫はそのことに気がつくことができないので 今日、ここに、あいかわらず、なぜかぞっとする夫からだけ世界は ひらけており、他の人間はすべてその世界の内部にいると書くほかはない。 しかし、これはなにかがおかしいのではないか。
628 :
ぞっとする夫 :2010/05/03(月) 00:24:42 0
いったん。ある人物に世界が中心化されてしまった上で、 その中心化が移動するという想定は、一見有意味な想定に 思えるが、それを自分自身に当てはめて考えてみると なにかおかしな事態になってしまう。元凶はどこにあるのだろか。 ぞっとします。 元凶はたぶんこうではないか。 他者の<私>の移動の場合、超越的視点から<私>の移動を考える ほかないので、それが有意味におもえるが、自分の場合 現に<私>である人物(ぞっとする夫)の同一性に依拠した 内在的視点から<私>の移動を考えるほかないので問題が生じるのでは なかろうか。
>>625-628 あえて、言ってあげるね。
ぞっとする<ぞっとする夫>チャン、
キミ、不健康。逝ってよし。
そんなこと考えてる暇があるなら、
親兄弟友人とか電話して愚痴を聞いてあげなさい。
630 :
620 :2010/05/03(月) 02:50:27 0
しつこいようだが、これも書いておきたい。 「なぜこの本を取り上げるのかわからないな」 とかいうセリフも忘れられない。
631 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 04:15:17 0
「《今》なら、みんなに共通だから」(「転校生とブラックジャック」102頁)みたいな無神経な言葉づかいできる というのも不思議だった。「複数の人」とか言ってるけど、全部永井が書いてるだけじゃんよ、って思っていたけど 永井スレで言う人いないから、みんなわかりきっていると思っていたけど。
632 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 04:32:24 0
永井先生のことは、きっと死ぬまで忘れないだろうな。 もちろん、実際には、一度も会ったことないけど。
633 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 04:59:50 0
>>603 (=
>>577 )
マンガを勉強したいと思っているおじいさんたちがたくさんいるということでしょうか。
でも、マンガを勉強したいと思ったら、マンガを読むのが普通ですよね。
哲学を勉強したいと思ったら、哲学書を読むのが普通ですし。
634 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 05:06:30 0
>>577 「われわれの「高階の神」を別にすれば!」とか、笑えるよな。
こんなの笑うのは、単なる悪趣味だけど。
635 :
631 :2010/05/03(月) 06:13:02 0
>>593 5/15ですか。私は「転校生とブラックジャック」は何度も読んでいるつもりなので、
解説文は楽しみに待ってみることにしてみます。すでに出してしまったものは、どうにも
ならないと思いますが。
内容紹介(amazon)
もし火星に自分と全く同じ身体と記憶を持つ人間が作られたら、それは「私」と言えるのか?
脳と身体が入れ替わった「転校生」は、ブラックジャックのような天才的な外科医の手術によって、
もとの「私」に戻ることができるのか? SF的思考実験をもとに、先生Nと十二人の学生の
セミナー形式で綴られる、第一級の哲学的議論。(解説=入不二基義)
636 :
485 :2010/05/03(月) 06:56:44 0
>>454 >しかし本当に悪文だと思ったなら書き直しているはずではないでしょうか。
>>456 >だって、5ページで、本書ではかなり大幅に加筆されているって
>説明しているわけだから、書き直すことが困難だったとは思えない
>ですね。
>本当に悪文だと思ったなら、わざわざ悪文であるなんて解説する
>かわりに、該当個所を書き直すはずでしょう。
たしかにそうですね。
>>460 >それだけでは、そこまで言える根拠がよくわからないですね
「そこまで」ってどういうことだろう。
456さんは、ごく普通のことを言っているようにしかみえないが。
637 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 11:27:56 0
もう5月なんだよな
638 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 13:58:38 0
>>634 永井の使う「われわれ」は「永井の思う「われわれ」」という風にしか読めないんだけど。
この点に関して、反論レスがないというのも、本当に不思議である。
それとも、私がこのスレにいること自体、なにかの勘違いなのでしょうか。
実際、そんな風に何度も言われているわけだし。
639 :
考える名無しさん :2010/05/03(月) 14:26:17 0
私はずっと
>>590 みたいなことしか言ってないが、
それに関する反論がない。
>>627-628 そう思う。
『<私>がBさんになる』云々の話は、視点が混乱していると思う。
視点がいったりきたりしている。
その視点の移動について無自覚であると思う。
641 :
620 :2010/05/03(月) 16:02:08 0
ホント、「!」マーク連発のレスだったんだよな。
なぜか「なぜ悪いことをしてはいけないのか」っていう本のこと思い出した。 なにか事情があって、ああいうケンカになったのだろうぐらいに思って、 気にもとめてなかったが。
>>640 あなたは
>>572 を書いた人ですか。
>>598 にレスしてもらえませんか。
>『<私>がBさんになる』云々の話
どこにそのような話が書いてあるのですか。
644 :
620 :2010/05/03(月) 17:13:03 0
あと 「けんかはやめようぜ」っていうのと 「読みもしないでいいかげんなことを言うのはやめろ。なに考えてんだ」っていうの。
インターネットの仕組みって、わけわからん。
646 :
630 :2010/05/03(月) 18:11:18 0
ほんとにいまだに意味がわからない。
あと
>>5 とか
>>7 みたいの。
ああいう人たちって本当にドイツ語読めるの?
このスレの住人って
>>645 みたいなのばかりなのか?
永井はおろか、日本語すら読めるとはとうてい思えないんだが。
>>643 このスレの、上のほう。
とくにこのあたり。
>>562 ><今>はAさんもBさんも<私>ではない、ということが言えるだけで、将来的には、
>誰も(本人さえ)気付かないが、ある時を境に<私>はなぜかBさんになっていた、という状況は
>原理的にありうるのでは?
>>625-628 何かどうも、理解の仕方にだいぶギャップがあるような気が…
あまり同じことの繰り返しになるのもなんだけど、明日にはBが〈私〉になっているという想定のもとで、
なぜAのことを問題にするのか、どうしてもわからない
(他人も同じことが言えてしまうのはどういうことか、という仕方で問題にする場合を除いて)
また、やや細かいところになるけど、
>>628 > 他者の<私>の移動の場合、超越的視点から<私>の移動を考える
> ほかないので、それが有意味におもえるが、自分の場合
(※以下略)
この箇所で、なぜ、最初に他者の〈私〉の移動なるものが考えられて(その上有意味と思われて)、
しかし現に〈私〉である人物の場合には問題がある、という順序になっているのかわからない
まず自分自身について考える前に、どうやって他者の〈私〉なるものを考えるの?
(あえて言うと、実は「移動」ではなく、Aに変化がないのに〈私〉ではなくなってしまったという
「消滅」の可能性のようなことが問題になってしまっているのでは?)
(
>>649 の続き)
しかし、それでもあなたにとっては問題提起ができているということであれば、これ以上
同じようなことばかり繰り返すのもよくないかと思うので、とりあえず私から疑問点をレスするのは控えます
628も、562の思考の仕方に対して書いているんだろう。
652 :
考える名無しさん :2010/05/04(火) 05:17:53 0
>>648 「このスレの、上のほう。」なんて言われても、あなた、このスレ読んでないんでしょ。
とりあえず、「読んだんですか」と質問しておきますが。
連休らしい展開ですね
655 :
ぞっとする夫 :2010/05/04(火) 12:29:05 0
>何かどうも、理解の仕方にだいぶギャップがあるような気が… >あまり同じことの繰り返しになるのもなんだけど、明日にはBが〈私〉になっているという想定のもとで、 >なぜAのことを問題にするのか、どうしてもわからない 今現に<私>がA(ぞっとする夫)である以上、Aの視点を無視 できなくなってしまうからというのが答えでしょうか。 明日にはBが〈私〉になっていると想定しても、 明日になってもAは移動があったことに気がつかずに、 今日と同じ感覚でAは「<私>はAだ」と語ることになる。 煎じ詰めれば、そこに問題を感じるかどうかということになるでしょう。 今日、ぞっとする夫は、「<私>はぞっとする夫である」とここに書き込む。 しかし今日ぞっとする夫としてなぜか存在している<私>は 明日には別の人間として存在することになっている。 しかし明日そうなったとしても、”ぞっとする夫はそのことに気がつかない”ので 明日もぞっとする夫は、このスレッドに「<私>はぞっとする夫である」と 書き込む。 そのとき、つまり明日、ここに、ぞっとする夫が、「昨日<私>はぞっとする 夫であった、今日も<私>はぞっとする夫であり、あさっても<私>は ぞっとする夫であろう、しかしそれはなぜなのか?なぜ<私>はぞっとする 夫として存在しているのか」と書いたとすると(明日そう書きましょう) ぞっとする夫は実は間違ったことを書いたことになるのだが、それが 間違ったことを書いたことになるというのは、実は超越的観点からしか いえないのではないだろうか。 感覚的にいえば、<私>はぞっとする夫のいかなる性質にも いぞんしていないはずなのに、いったん、<私>とぞっとする夫の 結びつきが確認された後では、<私>の同一性が、ぞっとする夫の 同一性にのっとられてしまう、という感じでしょうか。 ぞっとします。
656 :
考える名無しさん :2010/05/04(火) 12:30:36 0
657 :
ぞっとする夫 :2010/05/04(火) 12:41:30 0
>この箇所で、なぜ、最初に他者の〈私〉の移動なるものが考えられて >(その上有意味と思われて)、 しかし現に〈私〉である人物の場合には問題 >がある、という順序になっているのかわからない 最初と次という順序関係を述べたことはなかったと思いますが、 そこの引用個所でいいたかったのは、<私>の移動というものが 有意味に思えるのは、<私>の同一性を、その外部から認識できる 超越的観点をとっているからであって、<私>の同一性をその内部から 把握できる(その視点にたてるのはぞっとする夫だけなのだが)視点から <私>の移動を想定しようとすると、ぞっとする夫の同一性に<私>の 同一性が奪われてしまうがゆえに、”<私>の移動”の意味を奪われてしまう といった感じのことをそこでいわんとしているわけです。 >しかし、それでもあなたにとっては問題提起ができているということであれば、これ以上 >同じようなことばかり繰り返すのもよくないかと思うので、とりあえず私から疑問点をレスするのは控えます ぞっとしますが、しかたがありませんね。
658 :
ぞっとする夫 :2010/05/04(火) 12:52:41 0
今こだわっている疑問を簡単にのべつとこうなる。 <私>は今日ぞっとする夫である。昨日も<私>はぞっとする夫だと 思っている。しかし<私>はぞっとする夫から移動し、他の誰か ほかの人間になることがありえ、そうなったとしても、ぞっとする夫は そのことに気がつくことがない。とすれば、実は昨日すでにその移動が 起こっていたのではないか。”移動”が起こってもぞっとする夫は 気がつかないのだから、ぞっとする夫にそれを否定することは もはやできないのではないか。 すると<私>は昨日ぞっとする夫であり・・・・・・と書いたが、それは 間違っていることになる。 だが、それが間違っているというのは、いわば夢をみているはずが、 いつのまにか、他人の見る夢の中にでてくる一登場人物になっていた というような話で、おかしなことなのではないか。
>655-658 >ぞっとするほどおかしい。 まで読んだ。
660 :
652 :2010/05/04(火) 21:45:16 0
ちなみに
>>652 のページはウィキペディアで見つけた。
以前に永井スレでも見た記憶があるが。
外部リンク
Hitoshi Nagai's Website
Prof.Nagai's Page
「転校生とブラックジャック」読んだ人で 手塚治虫の「ブラック・ジャック」好きだった人どれくらいいるんだろ。 全部は読んでないし、特別好きだというわけでもないですが。 私の年齢で「ブラック・ジャック」が好きだったって、ちょっと遅れてるし、 文庫本は出てませんでしたが。 私の二歳上の姉は、ピノコの絵をらくがきするのが好きだった。
手塚治虫なんてネットで調べたことなかったけど、あんなことになってるんだね。
ちなみに俺は手塚治虫記念館、行ったことあるよ。
「哲学の道場」の「純理」の解説は読んでおいてよかった。
>>658 そこに書かれている「ぞっとする夫」は、いろんな視点から見られていると思う。
【<私>は今日ぞっとする夫である。】…これは<私>から見られた「ぞっとする夫」だから、<私>の自己意識だろう。
【昨日も<私>はぞっとする夫だと思っている。】…昨日の<私>というのは、<私>ではくて、
既にそれが<私>によって見られたものになっているから、その「ぞっとする夫」に対して、<私>の自己意識は二重になっている。
【しかし<私>はぞっとする夫から移動し、他の誰かほかの人間になることがありえ、
そうなったとしても、ぞっとする夫はそのことに気がつくことがない。】
…この「ぞっとする夫」はどこから見られているのか不明(神の視点ではないのか)。
もう一つ、もっと根本的なことを言えば、もともと<私>は「ぞっとする夫」ではないのではないか。
【<私>は今日ぞっとする夫である。】は、
>>362-363 の「私はPである」と同じことだから。
ついでにまたデリダ風に言えば、これはエクリチュールはいつもパロールに先立つということであって、第14節で 引用した「「私」の表明には私の死が構造的に必然的」だという言明も同じことを言っている。
ところで、マクダカートはA系列+C系列でB系列ができあがると言っているが、 これは単純な誤りだろう。「明日」はA+C表現だが、C性が加わったことに よってB表現である「翌日」の意味が出てくるわけではないから。逆に、裸の A性質である現在・過去・未来は、C性を付与されなくても、そのまま一般化 されるだけで、その時・より以前・より以後、というB系列的意味を持たされて しまうだろう。
「転校生〜」の解説入不二さんなのか 買おうかな
670 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:04:06 0
>>665 >そこに書かれている「ぞっとする夫」は、いろんな視点から見られていると思う。
視点の一貫性がないというのはたぶんそうだと思います。
ぞっとします。
>もう一つ、もっと根本的なことを言えば、もともと<私>は「ぞっとする夫」ではないのではないか。
>【<私>は今日ぞっとする夫である。】は、
>>362-363 の「私はPである」と同じことだから。
<私>という表記は、結局のところ単独性(その人にとっての<私>)のレベルしか表現できていないの
であって、であるがゆえに、<私>の移動は、単独性の<私>の移動という
問題しか論じられていないがゆえに、無意味な想定になっているというのは、
おそらくわたしの疑問に対する一つの回答でしょう。
671 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:45:32 0
ひとつ考察をまとめましたので、みなさまに発表させていただきます。 問題を感じた人がいれば、ぞっとする反論を期待しています。 今なぜか<私>はぞっとする夫である。<私>がぞっとする夫であるとは、ぞっとする夫からみられた世界だけが リアルな世界として存在しているということを意味している。明日<私>が移動して、ぞっとする夫から オバマ大統領になったとすれば、ぞっとする夫は、たんなる他人として他の無数の人間の中の一人となり、 なぜかオバマ大統領からみられた世界だけがリアルな世界として存在している状態になる。 これが<私>の移動の意味を説明するときの一つの型でしょう。 あるいは、つぎのような型で<私>の移動の意味を説明することもできる。
672 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:47:50 0
現在世界には無数の人間が存在している。今神さまが一人一人、人間を殴っていくとして、 なぜか一人だけそいつが殴られたときだけ、私が痛みを感じることになる人間がいる。そいつはなぜか ぞっとする夫である。一方、神様がいくらなぐったところで私が痛みを感じることのない 人間たちのことを他人と呼ぶ。 たとえば江戸時代にも無数の人間が存在していたが、それらは上記の意味でみな他人であった。 現在の世界にも無数の人間がいて、そいつらが全員上記の意味で他人であったこともありえた と思えるのに、なぜかそこに自分がいて、そいつはなぜかぞっとする夫である。 しかし明日ある変化がおこる。あすになってみるとぞっとする夫がいくらなぐられても私は痛みを 感じることはなく、なぜかオバマ大統領が殴られるときだけ私が痛みを感じるようになっている。 これが<私>の移動ということのひとつの意味である。 これらの説明では<私>の移動の意味が理解可能な事態に思われ、それが起こることも可能であるように 思われる。 しかし、<私>の移動を、その移動という変化に気がつくことができるのは誰なのかという問いのもとで みていくことによって、この移動という変化が無意味な事態であるようにおもわれてくる。 どういうことであろうか。
673 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:52:21 0
今<私>はぞっとする夫である。明日とてつもない激変がおき、<私>がオバマ大統領になってしまうとする。 そういうことは可能な事態であるという。そのとき、その変化に気がつくことができるのは誰なのだろうか。 まず @ぞっとする夫 今<私>はぞっとする夫である。ぞっとする夫は、今日も2chに入り浸り、永井スレッドに 「今、<私>はぞっとする夫である。明日も<私>はぞっとする夫であろう・・・・・・」と書き込んでいる。 しかし明日になると、もう<私>はぞっとする夫ではなくなっていることになる。 そうなっても、ぞっとする夫自身にはなんの変化もおきることはない。 明日になってもぞっとする夫は、なにもきがつくことなく、やはり2chに入り浸り、 永井スレッドに今日と同じ実感をもって 「今<私>はぞっとする夫である・・・・・・」と書き込むことであろう。 <私>の移動に、ぞっとする夫はきがつくことはない。
674 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:54:50 0
Aオバマ大統領 ぞっとする夫が気がつかないのならば、オバマ大統領はどうであろうか。 明日移動がおこった後、オバマ大統領が、 「いや〜<私>は昨日までなぜかぞっとする夫だったのですけどねえ〜、今日からなぜかオバマ大統領として存在しているんで みなさんよろしく!」 などと言うことはありえない。 オバマ大統領もまた変化がおこったことにきがつくことなく、その日の政務をいままでどおり変わりなくこなしていくだろう。 <私>の奇跡が、人の身体的・心理的性質にも依存しないで、成立するなにごとかであるとされる以上、<私>の移動という 変化が、人になんらかの身体的心理的影響を与えることはない。 <私>の移動に、オバマはきがつくことはない。
675 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 00:59:16 0
B<私> 結局、移動するのは<私>である。 だからその変化にきがつくことができるのは<私>だけなのだ。 今日、<私>はなぜかぞっとする夫として存在している。しかし明日になれば、<私>はオバマ大統領として存在する ことになる。しかし、<私>がオバマ大統領として存在することになるとは、そうなってしまえば、 <私>がもともとオバマ大統領として存在していたということになるということなのではなかろうか。 <私>は、その時点で<私>である人物の記憶・心理を引き継ぐかたちでしか存在できない。 <私>がなぜかオバマ大統領であるとは、オバマ大統領が記憶している内容が、<私>の記憶であり オバマ大統領がもっている信念が、<私>の信念であるということだ。 そしてオバマ大統領が<私>の移動に気がつかない以上、<私>もまた<私>の移動に気がつくことはありえない。 <私>がオバマ大統領になってしまえば、 オバマ大統領が知らないことを、<私>がしっていて、オバマが記憶していないことを、<私>が記憶している ということはありえない。 <私>の同一性は、その時点で<私>である人物の同一性に埋没するほかない。 明日、<私>がオバマ大統領になるとは、明日になれば、<私>はもともとなぜかオバマ大統領として存在していた 奇跡として存在するほかなくなる。 <私>は変化にきがつくことはない。
676 :
ぞっとする夫 :2010/05/06(木) 01:02:58 0
かくして<私>の移動という大変化にきがつくことができるものはだれもいないことになる。 ならば、誰もきがつくことができない変化を起こりうる変化として理解することはできるのだろうか。 もし、それでも起こりうると主張するのならば、それが起こっても誰もきがつくことができないのだから、 その変化がもうすでに起こったと仮定しても、その可能性を否定できる根拠はどこにもないことを認めるほかない。 ならば<私>の移動という変化を極限にまで過激化しよう。<私>がぞっとする夫から、オバマに移動したとしても それにきがつくことができるものは誰もいない。ならば、<私>が移動に失敗して消滅したとしても やはり、その変化にきがつくことができるものはいないだろう。 ならば、その大変化がすでに起こったと仮定しても、やはりそれを否定できるものはどこにもいないことになるだろう。 さきほど、今、<私>はぞっとする夫であるとここに書き込んだ。 しかし、それは実は偽なのだ。どんなに実感をもってぞっとする夫が <私>はぞっとする夫であると感じようとも、<私>は昨日の時点で消滅してしまったのだ。 だれにもきづくことができない変化が起こりうるならば、昨日の時点でそうなったことを否定できるものは やはりどこにもいないということになるだろう。 しかし、そもそも<私>というものがなぜ問題になったのだろうか。 それはなぜか、自分という存在が存在していたからである。 世界に存在する無数の人間の中で、一人だけ自分という特別なありかたをした存在がいたからである。 いいかえれば、ぞっとする夫が<私>の存在に気がついたから、ぞっとする夫は、<私>を問題として 感じたのある。 よって A:ぞっとする夫は、<私>の存在に気がつくことができる。 しかし、<私>の移動可能性の議論は、<私>が移動しても、そのことに誰もきがつくことができないことを 示した。 よって B:ぞっとする夫は、<私>の存在にきがつくことができない。 <私>の移動問題は、このAとBがあからさまに対立している。 問題の根幹はここにあるのではなかろうか?
>問題の根幹はここにあるのではなかろうか? いいえ、それは問題ではありません。
>>446 >「私と同じように心をもち、ただ個性が違うだけの人間に、私でないという根本的な違い
が生じているのはなぜなのか?」
「私」って、日大教授永井均のことでしょ。そんなこと、「興味がない」で終わりでしょう。
私も含めて普通の人は、自分がそのように見られていることを知っているのではないでしょうか。
>>671 >これが<私>の移動の意味を説明するときの一つの型でしょう。
>あるいは、つぎのような型で<私>の移動の意味を説明することもできる。
そもそも「<私>の移動」というのが、どういうことなのかがよくわからない。
ここで説明されている「<私>」は、<私>ではないのではないか・・・?
つまり、ここに書かれた「<私>」はどれも、「見られた目」であって、「見ている目」ではないと思われる。
【「見ている私の目」これはあくまで見るだけであって決して見られ得ないのだ。】(
>>362 )
「<私>の移動」 = ミヌケけな失のトンデモ解釈。
684 :
620 :2010/05/06(木) 16:57:29 0
また、別の、昔のこと書きそうになったが、記憶違いだった。 くだらないこと報告して、すみません。
685 :
考える名無しさん :2010/05/06(木) 19:28:00 0
686 :
考える名無しさん :2010/05/06(木) 20:40:06 0
>>657 ><私>の移動というものが
>有意味に思えるのは、<私>の同一性を、その外部から認識できる
>超越的観点をとっているからであって、<私>の同一性をその内部から
>把握できる(その視点にたてるのはぞっとする夫だけなのだが)視点から
><私>の移動を想定しようとすると、ぞっとする夫の同一性に<私>の
>同一性が奪われてしまうがゆえに、”<私>の移動”の意味を奪われてしまう
>といった感じのことをそこでいわんとしているわけです。
「移動」というからには「同一性」が問題にならざるを得ません
(同一性がない場合、そもそも「移動」という概念はあてはまらないので)。
ところで、「自我」の同一性の基準は、普通に考えれば
1.「肉体の同一性」
2.「記憶の継続性」
の二つしかないわけです。
あなたの例でいうと、前提として人物が変わっているわけなので、当然1.の条件は
あてはまりません。
また、2.の条件があてはまる場合は想定可能なのですが、あなたはなぜか前提として
その場合を除外しているので、当然2.の条件もあてはまりません。
つまり、そもそも「自我の同一性」が成り立たないのに、<私>の同一性を
想定するという前提に無理があるとしか思えないのですが、いかがでしょうか。
688 :
そっとする夫 :2010/05/06(木) 22:31:08 0
>つまり、そもそも「自我の同一性」が成り立たないのに、<私>の同一性を >想定するという前提に無理があるとしか思えないのですが、いかがでしょうか。 それはつまり、今<私>はぞっとする夫なのだが、これから、 ぞっとする夫の記憶も身体もそのままで、<私>だけが別の人間に移動する ということはその想定自体が無意味ってこと? つまり、<私>の同一性は、結局現時点で<私>である人物の身体的・記憶的 同一性に依存してしかなりたたないということでいいの?
689 :
そっとする夫 :2010/05/06(木) 22:45:44 0
身体や記憶の連続性は、人の同一性に関係するものであって、 本来<私>の同一性には関係ないはずなのだが、そうであるがゆえに 人の同一性を超える同一性についてどうやって語ることができるのか という問題。それは無理なのだろうか。 しかし、そいつが誰であろうと、どのような身体でどのような記憶をもっていようが そいつの見ている世界が唯一のリアルな世界であるかぎり、そいつが私だという ライプニッツ原理も捨てがたくリアリティをもっている。 <私>の同一性にとって重要なのは唯一のリアルな世界が存在しつづけているかどう かであって、人の同一性ではないという発想。 しかしこれはもう私的言語なんだろうな。
690 :
そっとする夫 :2010/05/06(木) 23:08:35 0
<私>であるという奇跡が<人>の持ついかなる物理的・心理的諸性質 によっても規定され得ない(それゆえ、いかなる物理的・心理的諸性質 をもった人物の創造も、<私>の創造とは別次元の出来事に過ぎない)の と同様に、<私>であり続けるという奇跡は、<人>としてのいかなる 物理的・心理的連続性によっても保証されない(それゆえ、いかなる物理的・ 心理的諸性質のいかなる連続性も<私>の保存とは別次元の出来事にすぎない)。 『<私>の存在の比類なさ』(58ページ) であるがゆえに、<私>の移動は可能だともいえる。 しかし、それを主題として問題にすると無意味な想定に思えてくる。 ぞっとします。
>>688 >ぞっとする夫の記憶も身体もそのままで、<私>だけが別の人間に移動する
>ということはその想定自体が無意味ってこと?
いえ、「ぞっとする夫」という名前の人体に自我や意識があるかどうかも、
その記憶の内容も、別に問題ではありません。その人体の存続も、
別に問題ではありません。
問題は<私>に「自分は過去にぞっとする夫という人間だった」という
記憶が残っているかどうか、です。
それが残っているなら、「<私>は気がついたらオバマ大統領だった」でも、
「虫だった」でも(カフカの小説のように)、「石ころだった」でも、
そういう想定は無意味ではないですし、現実にあったとしても哲学的には
不思議ではありません。現にマンガなどではよくある話です。
しかし、その記憶がないのに、「私は確かに過去にはぞっとする夫という
人間だったが、今はオバマ大統領だ」という想定は、普通は意味がないのでは、
ということです。
692 :
ぞっとする夫 :2010/05/07(金) 00:35:01 0
名前がそっとする夫になっていた、まあどうでもいいことだが。 しかしなんか一人で勝手につぶやいているキャラになっているな。 ここをやめて一人さびしくぞっとしながらtwitterでもやる。
(続き) そういう想定に意味を持たせるためには、「魂」とか「霊体」とか、 その種の概念を導入する以外にはありません。 その種の概念は、普通は、人体の死と組み合わせて「生まれ変わり」とか 「輪廻転生」に意味を持たせるために使われますが、それを人体の死と無関係に使えば、 あなたのいう「<私>の移動」に意味を持たせることができます。 ただ、これも生まれ変わりと同じで、それは神様にとっては意味があるのかも しれませんが、<私>にとっても誰にとっても、あまり意味がありません。 神様が<私>に向かって「お前は覚えていないだろうが前世は坂本竜馬だったのだ」 と言ってくださっても、「恐竜だったのだ」と言ってくださっても、 「だからどうしたんですかw」と返答するしかないように、 「お前は覚えていないだろうが昨日はオバマ大統領だったのだ」 とか「一年前は宇宙人だったのだ」とか言ってくださっても、 「そんなこと言われても私にはこの人間としての記憶しかないのに どうしたらいいんでしょうかw」としか答えようがないだろう、と いうことです。
694 :
ぞっとする夫 :2010/05/07(金) 00:39:57 0
>問題は<私>に「自分は過去にぞっとする夫という人間だった」という >記憶が残っているかどうか、です。 それは結局、記憶が身体を移動したということでしか意味づけできない だろうね。そういう記憶の連続性がないかぎり、身体を移動する という想定に意味が与えられないなら、やはり<私>の移動は ありえないということになるのだろう。
695 :
ぞっとする夫 :2010/05/07(金) 00:53:41 0
”霊魂説とは、まさしくこのできない相談をしようとした学説なのである。 それは本性上唯一者であり、隣人をもつことのできない存在者である<私> を複数化し、世界内に隣人をもたせようとした学説であるといえる。 この学説によれば、死後、人は身体を失い、この世での記憶のすべてを 失っても、非物質的な材質からなる霊魂の存続ゆえに、来世において 、なお同一性を保ち続けることができるとされる。しかし、これは(真偽 以前に)そもとも意味のない想定なのだ。 いかなる物理的連続性も、いかなる心理的連続性もなしに、どうして <人>は同じ<人>であり続けることができるのであろうか。そういう 想像をしようとするとき、われわれはいったい何を想像すればよいの だろうか。想像不可能としか言いようがない。同一性はこの場合、そのものの もついかなる性質とも独立に成り立つ、と想定されている。しかし、そのような ことが成り立つのは、本性上隣人をもつことができない存在者である<私> についてだけなのである。”『<私>の存在の比類なさ』(46ページ) だとすれば、問題になるのは霊魂説に陥ることなしに<私>の移動を語ることが できるのかという問題だろう。結局<私>は語れるのかというあの 根本問題に帰結するのだろうか。
696 :
ぞっとする夫 :2010/05/07(金) 01:02:47 0
私の疑問はこうなる。 ”<私>であり続けるという奇跡は、<人>としてのいかなる 物理的・心理的連続性によっても保証されない(それゆえ、いかなる物理的・ 心理的諸性質のいかなる連続性も<私>の保存とは別次元の出来事にすぎない)” 『<私>の存在の比類なさ』 だとするならば、<私>の移動という想定が可能でなければならないはず。 それが否定されるのならば、いかなる身体的・心理的諸性質の連続性とも 無関係に存続している<私>という想定がなりたたなくなるのでは。 しかし、<私>の移動が可能ならば、すでに移動がなされた。 もっと極論してすでに<私>がいないという可能性をどう否定できるのだろうか。 しかしそれが否定できないなら、どうして<私>を問題にできるのだろうか。
697 :
ぞっとする夫 :2010/05/07(金) 01:31:59 0
今の考えをまとめるとこうだな。 今<私>が存在している。 今<私>はぞっとする夫である。 この直感は否定できないという立場をとらない限り <私>を問題として論じることはできない。 だから、すでに<私>がぞっとする夫でない可能性というのはありえない とするほかない。 だから、誰も気がつかないが、実は昨日<私>がオバマ大統領になっていた という可能性はない。 <私>はその時点で<私>である人物としてもともと存在していた というあり方で存在するしかないという制約をうけているのだろう。 (しかしそれはどういった制約なのだろう) <私>を問題にできるとするならば、この点はもう否定できないと 思う。 その上で、<私>が移動可能であるという場合の可能性をどう考えるのかという 問題になるのだろう。
>>697 出来の良くない哲学もどきな宗教論を読まされるのは迷惑。
だいたい、永井は移動とかまともに論じてるのか?
だから「私」と「<私>」を区別して使っている時点で 永井は独在論を破綻させてるんだよ
ではみんなで 『転校生とブラック・ジャック』 『私・今・そして神』 『西田幾多郎』 『なぜ意識は実在しないのか』 の4冊を読み比べて(さらにより以前の本を加えるのも可)、 議論のつながりや変化の有無を検討しませう
>>700 あんまり熱心な読者じゃないけど、
『私・今・そして神』では、何か問題が一つに収束してる感じですね。
証明不可能だけど、<在る> ということへの果敢な挑戦というか。
色んな形で<それ>が見え隠れしていたという事でしょうか?
あぁ、こういう話が好きな人がきちゃった・・・
感嘆子っていう人だっけ。
>>691 >>693 の人。
あり得ない仮定をするのが好きな人w
哲学的ゾンビの話も好きだったような。
人違いならごめんね。
>>699 だよね
独在論の外部に立って論じながら独在論者を自認してもしょうがないだろうとw
>>699 ,703
好意的に解釈するなら、[独在論]≒≠[独我論] だから。
純粋な独我論なら、独我論の外部に立つのは無意味だが、
いわば、[間主観]にも似た[間独我]論を目指しているのだとすれば
[独我]の外部に立って騙らざるを得ないんだろう。
[独我]論は、永井が言う[開闢]問題を[神]抜きで自己解決できない。
だから超越的存在抜きのままでは論理破堤は必然。これは
>>456 の永井自ら悪文と指し
示す[風が吹けば桶屋が儲かる]的推論で[神]を導き出してるシニックな記述の通り。
どうしても[神]を相対化したい欲求が根強いから、結局[独我]は騒々しい[空虚]という
ロジックで寝技をかけるつもりみたいだね。
>>700 とかの駄本群はそういう方向を示してる。
結局、西田かよ。w
[間独我]論としては、後期のウィトゲンシュタインはすでにある水準に達しいると思うね。
永井のウィトゲンシュタイン入門本では「紙面不足」で回避してお茶濁ししたままだったから
今に至って、それをきちんと咀嚼できているかどうかは知らない。というか、まだまだだね。
という感じ。
独在の「独」の対応物が永井均という単独者であるかぎり 独在論は理論ではなく信念でしかないんだよ
706 :
考える名無しさん :2010/05/07(金) 17:38:39 0
>>699 「独在論」って、よくわからないけど、「子どものための哲学」に書いてある
ようなことで理解すれば、「破綻する」ということの意味がよくわからないんだけど。
「独在論が破綻している」とか「独在論の外部に立つ」とか、一体どんな意味で言ってるのかねえ なぜかそいつの目から見え、そいつが殴られると痛みを感じ、そいつの体を動かすことができ… という人間が現にただ一人存在すること、あるいは、そうとも言えずただ〈これ〉としか言いようがないものが ただ一つ存在することについて、「破綻する」とか「外部に立つ」とは、何のことなのか?
>>695 >同一性はこの場合、そのものの
>もついかなる性質とも独立に成り立つ、と想定されている。しかし、そのような
>ことが成り立つのは、本性上隣人をもつことができない存在者である<私>
>についてだけなのである。
この永井氏の文章は、端的に間違いだと思います。
「そのもののもついかなる性質とも独立に成り立つ同一性」なるものは、
<人>について想定不能ならば、<私>についても同じように想定不能なのです。
逆に、「霊魂」という概念を導入するなら、「物理的連続性も心理的連続性も
抜きにした同一性」を、<私>についても<人>についても、全く同様に
想定することができます。現に「自分の前世は〜だ」と真剣に信じている人は、
世間には大勢いるわけです。
要するに、同一性については、<私>に特有の問題など何もありません。
<私>であり続けるというのは、別に「奇跡」でも何でもなく、単に
「現在の記憶に基づく判断」に過ぎません。ですから、他のあらゆるものの
同一性に関する判断と同様に、当然間違いである可能性もあります。
「我思うゆえに我あり」は確実かもしれませんが(本当はこれも問題ですが)、
「我思ったゆえに我あった」は、いかなる意味でも確実でも何でもないのです。
>>697 ><私>はその時点で<私>である人物としてもともと存在していた
>というあり方で存在するしかないという制約をうけているのだろ
これも全く賛成できません。
たとえば<私>は現時点で「ぞっとする夫」という人物だとしても、
その人物自体が記憶と一緒にたった今作られた可能性もあります。
また、その人物自体はずっと存在していたけれども、今まではずっと
ゾンビであり、記憶と一緒に意識がたった今発生した可能性もあります。
この二つの例では、<私>はたった今存在し始めたばかり、ということになります。
霊魂説を導入するなら、文字通り<私>は昨日まではオバマ大統領であった、
という想定も不可能ではありません(ただ、そうであってもなくても
あまり意味がない、というだけです)。
上にあげたどの例でも、<私>自身はそのことに気がつきようがありません。
これは要するに<私>の同一性の判断は私自身にとっても記憶に全面的に依存している
からであって、別に不思議でも何でもないことです。
>>705 哲学は科学じゃないから、検証可能な理論でなくてもよいでしょ。
個人的な信念であっても、多くの人に間主観的にアクセプトIされ得るなら
それは、哲学と呼び得る。強い信念を持つ人を指して「哲学のある人」と
いうこともあるわけだし。
>>708-709 永井が「同一性」という語を安直に使用し過ぎる。と思うね。
「はじめは四本足、そして二本足、終には三本足って何?」
というスフィンクスの問いにもあるように、赤ん坊の頃の<私>と今的な<私>
そして、老い先の臨終間際、アルツハイマーな<私>に同一性がある。のかどうか。
<私>の同一性を問題にしたがる彼の心性の幾分かは理解したいとは思うが
いわば、<私>の比類なさとしての同一性、あるいは誕生から死までの期間限定
とはいえ、とりあえず<私>が個として独在し、他我もまた独我として普遍的に
同一性を保持する。という○○性という語の使用にはスコラ哲学全盛時の
普遍論争つまり唯名論と実在論の論争のまんま。独在論が実在論であろうと
する限り、唯名論的な立場で批判され続けることになるだろうね。もちろん、
その逆も同様。つまり、実態定かならぬ何かに勝手に<私>とか[同一性]とか
名付けて騒ぐのは語の濫用という批判が常に可能であるし、問題を名付けの
問題に還元するオマエは誰なのよ?という論争は延々と続くのかもね。ということ。
永井が「同一性」→永井は「同一性」 語の使用には→語の使用は
>>709 >たとえば<私>は現時点で「ぞっとする夫」という人物だとしても、
>その人物自体が記憶と一緒にたった今作られた可能性もあります。
>また、その人物自体はずっと存在していたけれども、今まではずっと
>ゾンビであり、記憶と一緒に意識がたった今発生した可能性もあります。
そうかな…?
そこに書いてある「現時点」とか「たった今」という言葉で、『長さのない時間』のようなものが
想定され、それが前提とされているように思われるけれども、そういう時間が存在するだろうか?
そのような数学的「点」のような時間は、『観念』に過ぎないのではないかな…
少なくとも現実感覚にはそぐわないと思う。
そのような『長さのない時間』においては、「意識がある」ということも言えないだろうと思う。
ハイデガーが言うように存在は時間であるとすれば、『長さのない時間』においては意識も存在もないだろう。
>>712 大雑把杉。
1≦X≦2で示される整数をすべて記述せよ。というなら、1と2だけだが、
小数を含む実数をすべて記述せよ。となれば記述は永遠に止めることができない。
要は精度を設定して、精度の精密さを限定すれば記述は可能域に押さえられる。
たとえば、西田幾太郎の「善の研究」が云う「純粋経験」は瞬間として微分された
「今」の経験を議論の出発点にしている。時間を数学的微積の概念で捉えるという
扱いは思索に精度を求める一般的な発想法。観念とか揶揄で済ませるのは
いかがなものかと思うね。
>>712 いや、私が
>>708 で「我思うゆえに我ありが確実かどうかも本当は問題」と
書いたことの意味はまさにそのことなのです。
ぞっとする夫さんは<私>が別の人間の間を移動することが可能(有意味)かどうかを
問題にしていましたが、実は同じ人間が普通に歩いたりすることも「移動」で
あることに違いはありません。同様に「見る」「感じる」「思う」も、動詞であり
「運動」や「変化」である以上、ある程度の時間の流れとその間の「同一性」を
前提しないと成立しないはずです。
たとえば「我思うゆえに我あり」と声に出していってみた場合、実は
<私>は「り」の時点まで存在せず、その時点で「我思うゆえに我あ」の記憶
とともに神様によって作られた、という可能性は否定できません。
この「時間の幅」は、理屈としてはいくらでも縮小でき、「ゼロ」に無限に
近づきます(
>>713 さんの言う微分です。)
「我思う」もまた不確実であり、<私>の存在は無限にゼロに近づくまで
縮減し得る、ということになります。
お気づきの通り、これはアキレスの亀等で有名なゼノンの逆説をデカルトの
自我の問題にあてはめたものです。ゼノンの真意は運動否定論だそうですが、
運動が否定されるなら「思う」も「ある」も否定されざるを得ないのではないか、
ということです。(ゼノンの真意とは違うでしょうが)
(続き) しかし、おっしゃる通り、これは何としてもわれわれの実感に反しています。 一日前や一時間前のことはともかく、今目の前に何かが動いたり変化したりしている、 それを自分が見たり感じたりしているというのは直接の経験であって、否みがたく 確実だとしか思えないからです。 そうすると、そちらの方がいわゆる「純粋経験」であって、「時間の流れ」とか 「幅のある時間」とか「現在過去未来の区別」とかいう考え方の方がそこから 後付けで抽出された理屈である、という方が本当のようにも思えます。 これ以上は浅学なので何もわからないのですが、中島義道氏が「自我論は結局 時間論に行き着く」というような意味のことを言っていました。カントやベルグソンや 西田や、その他の哲学者たちの思索もこの問題に関係しているのではないか、という 漠然とした感じがあります。「時間は主観の側の形式だ」とか「純粋持続」とか 「純粋経験」とか、それこそハイデガーの「存在と時間」とか。 私は時間論といってもマクタガートのA系列B系列の話はどうもピンとこないのですが (理解していないだけでしょうが)、永井氏が「アキレスと亀」について論じたら どうなるのだろうか、と興味が有る次第です。
716 :
712 :2010/05/09(日) 12:56:45 0
>>713 さんも
>>715 さんも「純粋経験」を挙げているので、
『善の研究』を見てみましょうか。
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/nishida/zen-no.htm 第一章 純粋経験 を見てみると
「純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。
意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ。」
と書いてある。
これは、『「時間の幅」は、理屈としてはいくらでも縮小でき、「ゼロ」に無限に近づきます』
というような発想とは異なるようです。
そして、第一章 純粋経験 の最後には、次のように書かれている。
「心理学者は意識は物ではなく事件である、されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。
しかし余はかゝる考は純粋経験説の立脚地より見たのではなく、反って過去は再び還らず、未来は今だ来らず
というの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識は何処までも
同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働くとき、我々はこれを
一つの者と見なければならぬ様に、たといその統一作用が時間上には切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。」
西田幾多郎は、「時間的継続」における意識の「同一性」を考えていると思われます。
彼は後には、「絶対矛盾的自己同一」と、再び「同一」について語っていますね。別の意味で。
>>716 冒頭を嫁。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自分の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、
豪も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、
未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら
加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自已の意識状態を直下に経験した時、
未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。
>>716 >これは、『「時間の幅」は、理屈としてはいくらでも縮小でき、「ゼロ」に無限に近づきます』
>というような発想とは異なるようです。
どういう発想なんだろう? ゼノンのパラドクスの詭弁性をなぞってるだけのように思えるね。
例えば、デジタル音楽のデータを生成する場合、サンプリングレートを上げれば上げるほど
高音質再生に適したデータを得られる。という場合のサンプリングレートとは取得するデータ
の時間的な幅で、アナログのゆらぎをデジタル化する場合の基本的な技術。そのデータ一個
では当然音楽として再生できるわけでなく、サンプリングされたデータを連続的に積分的に再生
することで音楽として聞けるものになる。精度を上げるとはこういう場合に意味がある。
西田は「統一」という語でそれを示している。 「ゼロに無限に近づきます」? ナンセンスだなあ。w
積分的に再生?
データの時間的な幅? サンプルing(行為)のperiodだろ termは「率」だけど
ちがった rateが率だ。w
722 :
700 :2010/05/11(火) 14:09:03 0
倫理学ネタは金川関連しかやってないみたいですね。 こういうのはどうですか。 「「なぜ気に食わない奴をぶん殴ってはいけないの?」――「お前だってお前のことを 気に食わないと思っている奴に(ただそれだけの理由で)ぶん殴られたら嫌だろ? それと同じことさ」。この答えには完璧な説得力がある(とされる)」 (『馬鹿げたことは理にかなっている』2010.3 159頁) これは正しいんですか。私はそんな話あまり聞いたことないけれど。
>>722 レス内容と違う形式的なことで恐縮だけど、名前欄は何かの間違い?
記憶が正しければ、
>>700 は私のはずですが
>>722 まあそれはそれとして…
引用箇所については、日常的に割とよく見る説明ではないか、というくらいの意味では、
個人的にはそのとおりではないかと思うけど
(ただ、「もし事実の話をするのなら、もっと証拠を示すべきだ」という批判はあり得るかもしれないけど)
ただ、「完璧な説得力」とまで断言できるかは、別問題かも
そこまで言えるのは、私を他人と同じ人間として扱うこと・今を他の時点と同じ一時点として扱うことが、
道徳と結び付いているということを前提にしているのであって、論点先取的だ、という指摘は
あり得るのかもしれませんな
ただ、では他に説得力ある(とされる)説明って、あるんですかね?
あるいは、説得力ある(とされる)説明なんてものは、そもそもないのか?
725 :
722 :2010/05/12(水) 02:13:23 0
>>723 すみません。
>>722 を書いたのは私です。
似たような趣旨で書いたつもりなので、勝手にレス番号を使ってみました。
お詫びします。
なんだ故意犯か、話にならない
「あるどころか、それがあるということこそがすべての出発点で、もしそれが無ければ 何も無いのと同じことだといえるほどのものが、あるのだ。この私が(そしてこの今が) 存在するということがその抜け落ちるものだ、と言いたいのではない」 (『思想地図vol5』160頁) こんなこと、本に書いて、一体なにをしたいんだw 「これまでの議論からも明らかなように、抜け落ちるそのこの性は、誰にでも(あるいは 何時にでも)、つまりみなそれぞれに(=客観的に!)割り与えられるものだからである」(同) こんなことは考えたことがなかったが、これはこれで正しいのかもしれない。
純粋悲性批判、久しぶりに更新されてた。
>>727 > こんなこと、本に書いて、一体なにをしたいんだw
こんなこと、このスレで聞いて、一体なにをしたいんだw
もうちょっとマジレスの体裁にしてみよう
この箇所について(だけ)、内容でなく著者の意図とか目的とかを疑問とする理由が、何かあるの?
まして、後の箇所については
> こんなことは考えたことがなかったが、これはこれで正しいのかもしれない。
このように理解して特別に疑問としないというなら、なおさら、なぜわざわざ
前の箇所についてだけ言うのか、よくわからない
>この箇所について(だけ)、内容でなく著者の意図とか目的とかを疑問とする理由が、何かあるの? 本では、「この」という言い方(「この今」なんて特に)が何をさしているか、 よくわからない、というだけの話です。
>>730 ああ、そういう意味ですか、なるほど
しかしそうすると、後の引用箇所だって分かりにくいことに変わりはないと思うし、
さらに永井の本は全部、本で読むことによっては理解困難で、例えば面と向かって話を聞く
などの方法で理解する必要がある、なんてことになりかねないと思うけど…
ただ、他の本も読んでいないと、引用箇所だけでは理解困難という趣旨なら、そのとおりかと
>後の引用箇所だって分かりにくいことに変わりはないと思うし
確かにそうですね。
(でも、その「分かりにくい」は
>>730 の「よくわからない」とは少し違うような気がするが)
今までよくわからなかったことが、なんとなくわかったような気がしたので、
それを勝手に書いただけです。
733 :
考える名無しさん :2010/05/14(金) 22:06:44 O
岩波現代文庫版『転校生とブラック・ジャック』発売記念age (発売日は明日のようだけど、書店に置いてありました) 文庫版あとがきには、この本の主題と『私・今・そして神』の主題の違いみたいな話が ちょっと出たりして、短いけど面白かった
私はまだ読んでいない。 アマゾン見たら、もうレビューが出てた。
735 :
コピペ :2010/05/19(水) 22:18:29 0
永井均・入不二基義・上野修・青山拓央 共著『<私>を哲学する(仮題)』(講談社) 序章 永井均 「問題の基本構造の解説」 第I部 入不二基義セクション (0)入不二基義 語句解説「内包」 (1)入不二基義 「<私>とクオリア ―マイナス内包・無内包・もう一つのゾンビ―」 (2)永井均との討論 第II部 上野修セクション (0)上野修 語句解説「真理条件」「大文字の他者」 (1)上野修 「現実指標としての〈私〉─永井均『私・今・そして神』講談社現代新書、2004を中心に─」 (2)永井均との討論 第III部 青山拓央セクション (0)青山拓央 語句解説「様相」「指標」 (1)青山拓央 「様相と指標の累進 ─永井均著『なぜ意識は実在しないのか』検討─」 (2)永井均との討論、およびフロアとの質疑応答 第IV部 Afterthought (1)永井均 「聖家族:ゾンビ一家の家族構成」 (2)入不二基義 「無内包の現実」 (3)上野修 「存在の耐えられない軽さーラカン、デイヴィッドソン、永井均」 (4)青山拓央 「命題と《現実》」 あとがき 上野修 という本が出るらしい。
もとになっているらしいシンポジウムのことを聞いて期待してたけど、 とうとう本が出るのか
737 :
考える名無しさん :2010/05/21(金) 22:22:08 0
文庫本であの薄さで1000円以上というのは岩波は高すぎるな。 河出の二冊だって500円台なのに。
>>737 ちくまでも講談社でも学術系の文庫はたいてい1000円以上するんじゃないの。
739 :
考える名無しさん :2010/05/22(土) 16:59:20 0
分裂する話は分裂したどちらか一方が <私>だった場合不思議だけど 双方とも<私>だった場合 同じ脳からは同じ<私>が出来る という事で解決しませんか?
双方とも〈私〉だった場合とは、どういう場合が想定されているんでしょうか
双方の目から見えて双方の身体の感覚を感じるという意味です。
分裂前には一人の目からだけ見えていたのが、分裂後は二人の目から見えるようになるというのは、可能なんですかね? いや、『転校生とブラック・ジャック』にはそういうことも可能と読めるような箇所があったと思うけど、 『私・今・そして神』で書かれてるようなカント原理だと、どうなるんだろう、と個人的に思ったので まあそれはそれとして もしそれが可能だとしたら、分裂前には一つの脳・体が〈私〉に対応していた(という表現もだいぶ問題 ありそうですが一応こう表現してみて)のが、分裂後には二つの脳・体が〈私〉に対応しているのだとしたら、 「同じ脳には同じ〈私〉」ということには全然ならないのでは? 対応の数が変わってしまっているのに、なぜそのように言えるんでしょう
>>742 しかしそれだと自分にも<私>を自覚する根拠がないという事になりませんか?
じっさい脳細胞は一時として同じ状態はない訳ですし。
そうなると<私>を考える事に意義がなくなってしまいませんかね?
>>743 > しかしそれだと自分にも<私>を自覚する根拠がないという事になりませんか?
「しかしそれだと」の「それ」が具体的に何を指しているのか、よくわからないのですが…
また自分が〈私〉を自覚する根拠がなくなるというのも、よくわかりません
>>744 究極的にはその瞬間瞬間の<私>だけという事になるのですか?
それともこういう論理的な<私>理解がもうナンセンスで
端的に実感する<私>と、最初に書いた様な
その瞬間瞬間の<私>等という論理的な把握の仕方に
既に大きな乖離があるという事になりますか?
だから言葉に出来ないと?
分裂の話から、いきなりそのような話に飛ぶのは、ますますよくわからないのですが…
まあ私がわかるかどうかはどうでもいいし、また分裂の話からも一応離れるとすると、
瞬間瞬間の〈私〉というのは
>>742 の2冊に出てくる話だと思うので、まずそれらを読んでみてはどうでしょう
(というか、読んでないわけではないだろうと推測するので、その2冊のどのあたりに
どういう疑問を持ったのかを言い直すという形にされたほうが、議論を進めやすいのではないでしょうか)
言葉の定義に無頓着になんだろうな こういうスレにダラダラ長文レス書いてる奴って
読解力の無いカラス
>>746 本読んでみます。
他にお勧めはありますか?
読んだことがなければその2冊で十分だと思います
>>750 わかるけど、他の本ではどういうこと書いてるかなとか、気にならないのかな。
私は昔から、そういう本の読み方しかしていなかったけど。
科学の本なら別ですが。
752 :
考える名無しさん :2010/05/25(火) 07:38:02 0
例えば、
>>750 はどのレスを書いた人なのだろう、とか考えないのだろうか。
「マンガは哲学する」に、確かこういうネタがありましたが。
例えば、
>>78 は
>>82 (多分=
>>80 )と同一人物だろうか、とかは個人的にはすごく興味があるけど。
こんなのは、本当にどうでもいい話なんだけど。
>>752 ああ、トルストイがどうのこうのとかいうあれね。
755 :
誘導 :2010/05/25(火) 08:36:44 0
しかし、ウィキペディアって便利だな。 いろんなこと思い出した。
757 :
752 :2010/05/25(火) 21:31:03 0
連投乙
759 :
考える名無しさん :2010/05/25(火) 22:36:37 0
760 :
759 :2010/05/25(火) 22:52:56 0
私はそういうのあまり好きではないですが、 友人が話してたり、他の本に引用されてたりするので。
761 :
再掲 :2010/05/26(水) 03:16:43 0
762 :
考える名無しさん :2010/05/27(木) 00:55:51 0
>>735 北田暁大の本に「ゾンビ」という言葉を変な風に使ってるのがあっておもしろかったんだけど、
この本はそれを踏まえているのだろうか。
永井はあちこちで社会学に対して応援歌を送っているし。
763 :
考える名無しさん :2010/06/03(木) 08:23:57 0
764 :
考える名無しさん :2010/06/11(金) 08:24:07 0
765 :
考える名無しさん :2010/06/11(金) 11:14:10 0
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●異世界●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● これを見た人は確実に【異世界】になります。どこかに3回コピペすれば実現できます。 これは本当です。やらないと一生無駄になります。 幸福の科学はスペースオペラソフトSF小説のパクリですよねー。 S・TYPEファースト元祖本家初代最初超絶宇宙空間大冒険航海旅行。
766 :
考える名無しさん :2010/06/12(土) 10:14:32 0
767 :
考える名無しさん :2010/06/13(日) 06:15:24 0
768 :
考える名無しさん :2010/06/15(火) 19:22:47 0
769 :
考える名無しさん :2010/06/16(水) 12:06:04 0
596 :考える名無しさん[]:2009/10/17(土) 11:05:56 0
>>595 >田中の「田中が〈私〉である」が間違ってないのも〈私〉が「自分」だからだろ。
いやはや、これは驚くほどとんでもない間違いだ! 初歩の初歩から分かってなんだな!
田中のその発言が「間違っていない」のは、聞く側がそれを必ず《私》として(つまり「自分」として)「受け取る」からだ。
そしてまさにここに働いているのが「累進構造」で、それこそが永井言語哲学の根幹じゃないか?
>あなたの言う「現実世界」は初めから「現実世界一般」になっているので、
これまたとんでもない間違いだ。
「現実世界一般」は「初めから」ではなく「後から」、ちょうど〈私〉が《私》になるように、言語的に生成するんでしょ?
ただしこっちは様相の問題で、この並行性これまた永井言語哲学のキモなんじゃないの?
言っとくが、俺は永井主義者でも支持者でもないが、ほぼ全著作を読んで理解はしているつもりだ。
「自分」についての議論なんて、永井自身があんなにしつこく何度も直接やってるじゃないか!
最近著の目次にもはっきり明示されている問題を、その箇所も読まずに論じたって意味ないよ。
なぜ意識は実在しないのか いきなり読んでも全然理解できない。 何の本を予習しとけば理解が進むかな。 意識する心とか?
772 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 00:58:05 0
793 :考える名無しさん[]:2009/12/11(金) 22:48:31 0
ちがいます。
「意識」もゲームの中の一つの駒なので定義など不可能なのです。
「俺は/あいつは、さっき意識を失ってたけど今は意識を回復した」
と正当に語りうるというような
「意識ゲーム」に参加できるということ以外に、
「意識」の「定義」などありえないし、不可能なのです。
そういう点では、完全にウィトゲンシュタインの徒でしょう。
794 :考える名無しさん[sage]:2009/12/11(金) 22:50:57 O
読まないで質問ばかりするのもどうかと思うが、それはまだしも、
ろくに読んでもいないくせに読んだふりして勝手なこと言うのはやめろ
何考えてんだ
798 :考える名無しさん[sage]:2009/12/11(金) 23:05:03 0
>>794 確かに、「意識ゲーム」ってのは酷過ぎるな。
ゲームを成立せしむるものまでも、ゲームにしてしまうなんて。
言語がゲームたりうるのは、言語を成立せしむるものがあるからだろうに。
801 :考える名無しさん[sage]:2009/12/11(金) 23:09:23 O
>>798 >>794 は
>>793 のことを言ったわけじゃない
ひどいのは他にいくらでもある
824 :考える名無しさん[sage]:2009/12/13(日) 22:39:45 0
読んでもないのに質問するのは多少は失礼かもしれんが、アホとは言わないね
読んだくせに正しく答えられないお前がアホなんだよ
自分のあたまで考えずにただ本を読んでるのがまる分かり
773 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 01:09:55 0
911 :考える名無しさん[]:2009/06/06(土) 01:41:41 0
>>908 >
>>894 は「重い言葉だ。」などと言ってるから皮肉ってるんだろww
そうだったんですか。今やっとわかりました。
774 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 01:12:34 0
気味が悪いな
775 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 01:20:56 0
979 :考える名無しさん[]:2009/06/17(水) 00:33:15 0 愛する人や友達にしか意識がないと考えてる人がいるということがわかった。
776 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 02:19:19 0
>クラス担任から私の発言を聞いた理科の先生から、私はそういう「無責任な」ことを 言ってはいけないと諭された。
>>770 どのへんが理解できないかによるんじゃないかと…
第1日なんかは、他の本の予備知識はいらないんじゃないかと
778 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 04:10:33 O
タイムアフタータイム
779 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 11:05:25 0
780 :
考える名無しさん :2010/06/18(金) 02:25:30 0
そういやこのスレでは全然出なかったけど、今日、朝日カルチャーセンター新宿で公開講義がありましたな 確か、今後8月に横浜、10月にまた新宿とあったので、参考までに
>>781 いいですね。
あなたは参加したんですか。
参加しました が、肝心なところと思われるところがうまく理解できなくて、残念無念
録音したものをどっかで公開してくれないかな。
永井の本で言えば、どんなことをやってたの?
前半は、デカルトの話から始まって、唯一確実な私というものが本に書かれて理解されるのはどういうことか、 現実的・可能的…という、よく出てる話 後半は、現実的・可能的…の話が、実は否定文に関する問題にも現れている、という話で、 これは今までの本にはあまり出てこない話だと思うけど、そのぶんよくわかりませんでしたw あとは人称の話も用意されてたみたいだけど、途中で終わってしまった
たまたまamazonを見てたら、『〈私〉の存在の比類なさ』が講談社学術文庫で出るらしいですな 文庫版あとがきなどは付くんだろうか
え…茂木!? 何を書くんだw
模擬ってどこにでも沸くな
791 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 19:15:45 0
>>779 のところ、『倫理とは何か』について、また少し触れていた。
792 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/11(日) 01:26:39 0
永井には茂木程度がちょうどいいんじゃね?w
793 :
考える名無しさん :2010/07/12(月) 15:29:09 0
「<私>の存在の比類なさ」って永井の本の中で一番つまらなくね
794 :
考える名無しさん :2010/07/12(月) 16:03:50 0
>>793 じゃおまいは何が一番だったんだ?
永井の著作ベスト3をここであげて。
795 :
考える名無しさん :2010/07/12(月) 19:47:49 0
まずおまいがワースト1(できればベスト3も)を挙げるべき
796 :
考える名無しさん :2010/07/12(月) 23:08:01 0
新手の真似小僧晒しage
797 :
考える名無しさん :2010/07/12(月) 23:35:48 0
>>793 =
>>794 が同一人物だって前提で話するよ。
そもそもおまいが
>「<私>の存在の比類なさ」って永井の本の中で一番つまらなくね
と語っていることから推測するに
何冊読んだか知らんが、少なくとも
他の著作も1冊は読んでるという事だよな?
そして「<私>の存在の比類なさ」が
それと比べておもしろくなかったという
なんらかの判断基準も持ち合わせているんだよな?
おれはあいにく、今まで読んだ著作について
ここで発表できる程の良し悪しを測る
基準を持ち合わせていないと自覚してる。
だからおれはおまいの要求には答えられない。
そして「<私>の存在の比類なさ」を読んだ事もないので
参考としておまいの話を聞いてみたいのよ。
だめ?
799 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 01:29:28 0
だめもなにも >だからおれはおまいの要求には答えられない。 はい、そうですか、で、おわり。
>>799 じゃあつまり、何がなんでも
おれがベストとワーストあげないと
おまいは答えないと?
なんでそんなにもったいぶるの?
何か他にわけでもあるのか?
自分の評価に自身がなくて叩かれたくないとか…
どうなの?
801 :
800 :2010/07/13(火) 01:43:18 0
ごめ、またちょっと訂正 >自分の評価に自身がなくて叩かれたくないとか… 自分の品評に自信がなくて叩かれたくないとか…
802 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 01:47:50 0
>>800 何の話だよ。
俺はただ
>まずおまいがワースト1(できればベスト3も)を挙げるべき
と言っただけだよ。
803 :
800 :2010/07/13(火) 02:40:08 0
804 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 05:21:19 0
794は書いてないでしょ
806 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 05:28:42 0
晒しage
807 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 05:35:00 0
だめもなにも >だからおれはおまいの要求には答えられない。 はい、そうですか、で、おわり。
809 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 06:04:44 0
いみふめい
810 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 06:06:05 0
794は書いてないでしょ
812 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 06:15:19 0
6がかぶってるバカ消えろ
813 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 12:10:19 0
>>811 だめもなにも
>だからおれはおまいの要求には答えられない。
はい、そうですか、で、おわり。
814 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 15:19:12 0
794だったみたいだな
816 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 15:52:22 0
カス同士が戦ってるなあ いや、永井スレらしくてまことによろしいw
817 :
800 :2010/07/13(火) 17:33:04 0
>>816 戦う?w そんなつもりはないんだけどなぁ。
ただ聞いてみたかっただけで。
それで「<私>の存在の比類なさ」はみんなどう評価してるの?
他の著作と比べてさ。読んだ事ないから気になったんだよ。
( ( ( ( (. ) . -‐ ) ‐- . .´,.::::;;:... . . _ `. i ヾ<:;_ _,.ン | l  ̄...:;:彡| } . . ...::::;:;;;;;彡{ i . . ...:..::;; ;;彡|∧_∧ } . .....:::;::..;:;;;;彡{´・ω・`) i, . .:..:;:;;;彡l つ:....... ト , .......:;....:;:;=:彳---u':::::::::::::::::::::::::: ヽ、.......................ジ.::::::::::::::::::::::
819 :
考える名無しさん :2010/07/13(火) 20:53:21 0
820 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 10:22:03 0
茂木の解説よかった 茂木ってまだあんなものが書けるんだ!
821 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 18:41:06 0
茂木を良いと思う永井読者ww
ざっと眺めた範囲だけど、茂木の解説は良くも悪くもないと思ったけどな 科学的な脳研究は、永井の論じているような〈私〉の奇跡に辿り着くものではないかもしれない、 と断りつつ、いろんな研究をあれこれ紹介しているだけ 永井の議論と関係ない(よって、おかしいと思われる点も特にない)という意味で、良くも悪くもないw
823 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 22:51:34 0
脳研究が永井が論じているような〈私〉の問題に関係あるわけがない。 だって脳は誰にもであるから!
824 :
考える名無しさん :2010/07/15(木) 00:04:14 0
茂木の解説は読んでないけど
>>823 は多分正しいな
文庫版前書きがついてて、独在論の入門書としては最適で、『〈子ども〉のための哲学』や 『翔太と猫のインサイトの夏休み』より良い、とされていた (あと、著者自身にとっての「歴史的」な観点からは、永井の議論を前期と後期に分けるとすると、 『マンガは哲学する』は後期の始まりで、その前の過渡期的な論文集と位置付けられるとのこと) 個人的には、単行本の時に読んで、冒頭の論文「他者」は比較的雰囲気が掴みやすいと感じていたので、 なるほど入門的には良いのかと改めて思った
>>825 それは「<私>の存在の比類なさ」のこと?
>>826 そうです
文庫版前書きは825に書いたような内容で、特に新しい話はないし、茂木解説も
特に永井の議論に関して面白いところはないように思われるので、
あえて重ねて買う必要はないように思われるけど、つい買ってしまったw
(今まで持ってなかった人まで不要という趣旨ではないので念のため)
>>827 そうですか、ありがと。
読んだ事ないので自分も買ってみます。
830 :
考える名無しさん :2010/07/17(土) 13:19:44 0
そう。 だって脳は他人にもあるから! と言わないと。
>>823 と
>>830 はどう違うの?
「誰にでも」と「他人にも」の違いにそんなに大きな意味があるの?
832 :
考える名無しさん :2010/07/17(土) 22:22:35 0
>>830 というか、脳が関係あるわけないじゃん、と言ってるわけですが。
関係ない。と断言却下するのは簡単だねえ。バカでもできるw きちんと理由を示してみ。
834 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 03:17:51 0
なんで「脳」なの? 遺伝子とか目玉とか指紋とか髪の毛を持ち出してもいいんじゃないの?
835 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 14:02:02 0
836 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 14:12:54 0
関係あるということには、理由があるのが普通だが、 関係ないということには、理由がないのが普通だろ。 なんか知らないけど、永井周辺には変なものばっかり発生するな。
837 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 19:00:18 0
ああ分かった。
>>833 はあれと関係あるのか。
永井スレの住人だったら気づいて当然だね。
ほんと、ごめん。
838 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 19:03:31 0
悪かった。謝っておくよ。
839 :
考える名無しさん :2010/07/18(日) 19:13:33 0
840 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 00:04:38 0
なんかずっと昔の意味不明の「w」がついたレス思い出しちゃったよ。 なんかいきなり「いやらしい」って言われたんだよな。
841 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 00:32:00 0
>>833 「858」 冒頭加筆します。ここのうしろに「722」番の中から、「合理
(ratio ラチオ)と「理性(reason リーズン)」について、再掲載します。
お読みください。2007.6.18 今月6月30日
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200706.html 私たちは、3年ぐらい前から、reason リーズン は、「理性」(あるいは、理由)などと
いうコトバに訳して、日本人の知識階級は、それで分かった気になって、実際は、何にも
分かっていない。「理性」という言葉にして、アホダラ経の有り難い、お経を読むように
難解な日本語翻訳文で、何か分かった振りをして、それで、偉そうに、「自分は高学歴で、
知識階級に所属する」と、勝手にうぬぼれてきた。
私、副島隆彦は、そういう人間全員を許さない。もし、上記の私の「真実読み破り訳」に
ケチを付け、異議を唱える者がいたら、その者は、どうどうと名前を名乗った上で、私に
問答を提起してきなさい。私が、10時間ぐらいかけて、懇切丁寧に説明します。
分かったふりは、一切、無しだ。どこからでも、どんなコトバを使ってでも、すべて解明
されなければならない。自分が分かったふりをして、私、副島隆彦をせせら笑うようだと、
その自分自身の、脳天が逆襲を受けて、激しくもんどり打つから、覚悟しなさい。私には、
いい加減な日本土人(どじん)の分かった振りは、一切ないのです。
842 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 00:35:06 0
843 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 00:45:03 0
というか、
>>833 は何の理由もなく、ハードディスク上にデータが発生したわけですか。
844 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 01:23:25 0
まず、
>>833 がどこに対するレスなのかはっきりさせてください。
845 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 01:34:59 0
川上未映子は 不細工だと思う
もちろん関係ないが
848 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 03:56:15 0
849 :
考える名無しさん :2010/07/19(月) 09:43:17 0
>>833 おめでとう
「ここで「嘘」と言われているのは正確には合理化あるいは(場合によっては)
自己欺瞞と呼ばれるべきもので、道徳性の水準で問題になる嘘とは違う」
850 :
考える名無しさん :2010/07/20(火) 19:44:33 0
908 :考える名無しさん[sage]:2009/06/05(金) 22:12:56 0
>>893 のあまりにもアタマ悪すぎる反応
>>895 >>897 にフイタ
>>894 は「重い言葉だ。」などと言ってるから皮肉ってるんだろww
せせら笑いますよって得意げに返答とか・・・w
どんだけ低脳なんだよ!ありえねーー
「ありえねー」とか、ほんとにどういう意味なんだろう。
ようするに、「お前みたいなバカに限って「人の命は地球よりも重い」みたいな言葉は
せせら笑うんだろうなw」というのは、自分のことを言っていたということなんだろうか。
851 :
考える名無しさん :2010/07/21(水) 02:16:29 0
852 :
考える名無しさん :2010/07/21(水) 04:09:45 0
思想地図vol.5掲載の「馬鹿げたことは理にかなっている」について、ちょっと気になったので 「一般に人間が「自分の人生」というものを離散的にではなく継続的に捉えがちなのはたまさかのこ とにすぎないのと同様に、一般に人間が死なずに生きていたい(できれば楽しく)と願うのもまたた まさかのことにすぎない。」(151-152頁) とあるけど、前半の、人生を継続的に捉えるのは、たまさかのことなんだろうか? 『倫理とは何か』も、他の本も、今の私と過去・未来の私が同じ私であるという捉え方は、 ある面では必ずそう捉えてしまうというものだ(もちろん、本当は今の私だけが特別だという面もある)、 という趣旨なのかと理解してたのだけど 今の私だけが特別だという面と、過去・未来の私も同じ私だという面があって、その上で、 今の利益だけを重視するような感覚を持つか、それとも過去・未来との継続的な利益を重視する ような感覚を持つかについては、まさに感覚の持ち方の問題で、たまさかのことかと思うけど 何か誤解がありますかね…
>>853 永井はアンチ・クリストだからね。古式和語の「たまさか」という表現がお気に入りなのだろう。
アインシュタインが云う、「神は賽を振らない」という決定論的な考え方をその対極と解すれば、
その対極では「たまさか」などあり得ない。もちろんそうした決定論は物理学というコインの半面
ではあるけれど。
「生起することすべてはたまさか」と解釈するなら、「たまさかであることは必然」とかワケワカラン
解釈が可能になるかもね。 そこまで掘らなくてもいいのかも。そこまでは逝ってないみたい。
結局、ひとそれぞれ。どんな考え方も人それぞれという程度に解するのもありじゃないかな。
だったら、「たまさか」なんて「どーでもよい」ことと同義。考え方はひとそれぞれ「たまさか」なの
だから、そんな「たまさか」な世界では誤解も理解もない。といえるかも。だから、誤解については
心配ご無用だと思うね。
855 :
考える名無しさん :2010/08/04(水) 12:38:04 0
決定論であろうと非決定論であろうと、物理的事実はすべて「たまさか」だ。 事実の真理はすべて「たまさか」。別様に在ることが「論理的に」可能だからだ。 …という哲学に固有の様相語法。素人はこれを知らないので混乱することがよくある。
856 :
考える名無しさん :2010/08/04(水) 14:10:11 0
素人はこれを知らないので混乱することがよくある。 (キリッ
857 :
考える名無しさん :2010/08/04(水) 15:41:53 0
「玉逆さま」は男か女か知らないので素人はよく混乱することがよくある。 (キリッ
858 :
考える名無しさん :2010/08/05(木) 00:59:19 0
>>735 の情報なかなか見つからなかったけど、さっきようやく見つけた。
859 :
考える名無しさん :2010/08/06(金) 09:05:24 0
たしかに。 哲学を学び始めたころ、先輩が 地球が太陽の周りを回っているのは「偶然的」だ と、まるであたり前のように言うのを聞いて なんて馬鹿なことを言う人だろうと思った。
860 :
考える名無しさん :2010/08/06(金) 09:29:42 0
永井も「そうでない事も可能だった」と 考えられるのが重要だって言ってるよね?
861 :
考える名無しさん :2010/08/06(金) 10:20:22 0
>地球が太陽の周りを回っているのは「偶然的」だ 哲学の話なんですが、これは正しいのですか。 似たことを考えたことがあるのですが、 「地球の直径がたった1mである」 ということも論理的に可能なのですか。
863 :
考える名無しさん :2010/08/07(土) 21:10:10 0
地球の本質的(=必然的)特徴を何に求めるかによる。 太陽系の第三惑星であることに、であれば、もちろん「論理的に可能」になる。 ちなみに、クリプキによれば、地球が太陽系の第三惑星であることも偶然的だ。 興味のある方は『名指しと必然性』を。
864 :
考える名無しさん :2010/08/07(土) 23:56:23 0
直径1mの惑星は可能なんですか
一時期、「金川真大」をヤフー検索しても、例の金川は出てこないことがあって、 なんだ、やっぱり金川は実在してなかったんだ、と思ってたことがあった。
>を何に求めるかによる。
完全無料登録で実感して下さい。当り前のように出会えます。 出会いは『偶然』ではなく、貴方が望んだ『必然』なのです。 当サイトで出会えるのは、ソレを望む女性会員数が想定外多数!だからです!
868 :
考える名無しさん :2010/08/09(月) 15:40:52 0
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○ このレスをみたあなたは・・・3日から7日に ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり 成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに 5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて ほしくないことが起きてしまうでしょう。 コピペするかしないかはあなた次第... ○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
「社会の成立の根源には、欺瞞といっては強すぎるが、 ある種の本質的な忘却のようなものがある」(162頁)
たとえば「ナポレオンが犬である」ことは論理的には可能なのか。
永井均の哲学の根源には、欺瞞といっては強すぎるが、 ある種の本質的な忘却のようなものがある。 それは不勉強であることの自己弁護。要は頭の悪さの隠蔽でもある。 しかも、そこが同類の阿呆な読者を惹き付ける魅力となっているから始末が悪い。
と、理解できないアホが言う。
873 :
考える名無しさん :2010/08/10(火) 10:49:05 0
>>864 「惑星」の本質を何に求めるかによる。
>>870 「ナポレオン」の本質を何に求めるかによる。
言語的真理はすべて規約の問題。
<私>は、<僕>や<自分>でもいいの?
>>873 と、理解できないアホが、つまらないネタを書く。
>>873 >言語的真理はすべて規約の問題。
お前は何様だよw
877 :
考える名無しさん :2010/08/15(日) 17:36:11 0
<私>は、<僕>や<自分>でもいいの!!?
878 :
考える名無しさん :2010/08/16(月) 20:43:28 0
879 :
考える名無しさん :2010/08/18(水) 09:42:41 0
いってねーし
881 :
考える名無しさん :2010/08/19(木) 13:31:17 0
カルナップなら言っているよ。 クワインに完膚なきまでに批判されたけど。
ggrks
883 :
考える名無しさん :2010/08/19(木) 15:35:53 0
ここから先は性的な表現や記述が含まれた記事となります。 18歳未満の方のアクセスはお断りいたします。 あなたは18歳以上ですか? はい いいえ
ageks
<title>Error 2ch</title>
886 :
考える名無しさん :2010/08/24(火) 04:31:49 0
887 :
考える名無しさん :2010/08/25(水) 10:58:57 0
<こいつ>でも<これ>でも もっと言うと<あいつ>でも<あした>でも <全部>でも、<なにもかも>でも、本当は何でも良いんでない? だってそうとしか言いようがないんだもん^^
言葉で説明しながら、それは言葉では説明出来ないものだという事を 言っているわけだしな。 それでこれは一体何を言ったことになるんだ?
>>853 「一般に人間が「自分の人生」というものを離散的にではなく継続的に捉えがちなのはたまさかのことにすぎない」なら、
永井は永井自身の文章の同一性を言うことすらできないじゃん。永井・永井信者は、基本的に考えるポーズが好きな
ただのバカなんだよ。
891 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 18:58:48 0
だから、少し前にすでに論じられているように、この「たまさか」は 「地球が太陽のまわりを回っているのは「たまさか」のことにすぎない」 というような「論理的偶然性」の意味であって、哲学ではむしろ自明のことにすぎない。 地球が太陽のまわりを回らないことが「可能」である(それでも「地球」でありうる)ように、 人間が自分の人生を継続的に捉えないことも「可能」である(それでも「人間」でありうる)。 このことは地球の軌道計算や未来の位置の予想が経験的に可能なことと矛盾しなように、 一人の人間が書く文章の同一性が経験的事実として成立することと矛盾しない。 この種の「事実の真理」と異なる「言語的真理」については、一応873の言うとおり。 とはいえもちろんクリプキ的には言語的でない必然的真理も存在するわけだが、それはまた別問題。
892 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 20:05:39 0
たまさかとは、たまたまそうなっているにすぎないという意味でしょう。 地球が太陽のまわりを回っているのはそれなりの物理的理由があっての ことで、たまたまそうなっていたというのはおかしいのではないでしょうか。
>>890 お前のほうこそ馬鹿じゃないのか?
A 「一般に人間が「自分の人生」というものを離散的にではなく継続的に捉えがちなのはたまさかのことにすぎない」
は、
B 「一般に人間は「自分の人生」というものを継続的に捉えることができない」
ではないぞ?
もしBであれば、
→「よって、人間の一例である永井均も、「自分の人生」というものを継続的に捉えることができない」
→「よって、永井均が異時点において書いた(はずの)文章について、同一人物が書いたと言うことはできない」
というような方向の議論ができるかもしれない(本当にできるかどうか知らないが)。
しかし、Aは、「人間が自分の人生を継続的に捉えることは不可能だ」なんてことは言っていない。
むしろ、(たまたまであるとしても)人間が自分の人生を継続的に捉えることはあり得る、と言ってるだろう。
だから、例えば永井均という人間の一例が、たまたま自分の人生を継続的に捉えていて、
よって永井均が異時点において書いた文章につき同一人物が書いたと言える、いうことは、
何ら排除されないだろう。
894 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 22:39:55 0
「人間が自分の人生を継続的に捉えない」とはどういう事態を指して言うのですか。 「思想地図」は自己利益の話だったと思うけど。 「言語的真理」という言葉は、わたしはよく知らないのだけど、どのような本で、 そういう言葉が使われているのですか。
895 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 23:06:39 0
>(たまたまであるとしても)人間が自分の人生を継続的に捉えることはあり得る、と言ってるだろう。 文意がおかしくなっているぞ。 永井が言っているのは、一般に、人は自分の人生を継続的に捉えているけど、 そのことは、たまたまそうなっているだけであって、そうでもないありかたも ありうるし、現に可能だろうといっている。 しかし、本当にそうか? 一般に人が自分の人生を継続的に捉えようとする傾向をもっていることは、 進化論的に根拠があるんじゃないか。 もし、一般に人が自分の人生を離散的に捕らえようとする傾向をもっていたら 社会というものを作りだすことはできなかっただろう。 というか、一般的に自分の人生を継続的に捉える傾向をもっていない 種は、種として繁栄できないだろうから、 一般的に社会生活をいとなんでいる人が自分の人生を継続的に捕らえようとする のはたまさかのことではないだろう。
>>895 永井は「種」の話はしていないだろ?
そのような個人も(病的なケースを含めて)あり得るという、ある意味では自
明のことを指摘しているに過ぎない。
どうして、この程度のことでひっかかるのか、それがわからん。
897 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 23:15:13 0
言語的真理なんて哲学のイロハだよ。 言語的規約に基づいて真なのが言語的真理。 たとえば、独身者は結婚していないは、言語的約束ごと(結婚していない 人のことを独身者と言うという言語の決まりごと)によって、真とされる。 カントの総合的真理と分析的真理でいうところの、分析的真理が言語的真理 になるわけ。
898 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 23:19:37 0
永井は、 ”一般に人間が「自分の人生」というものを離散的にではなく継続的に捉えがちなのは” ”たまさかのことにすぎない” といっているのだから、 ”人間一般のもっている傾向性”がたまさかであるといっている。 しかし、 ”人間一般が”(あるいは人間が一般的に)人生を継続的に捉える傾向性をもっているのは、 たまさかではないのではないか。
899 :
考える名無しさん :2010/08/26(木) 23:22:51 0
永井は、人間が今あるような社会的生活を築きながら、 その社会にいる人間が一般的に、自分の人生を離散的に捉えるような傾向性を もっているということも可能であるような考えかたをしているのだろうが、 それは幻想だろう。 人生を継続的に捉えることと、社会性を持つことの間にはおそらくは 関連があるのだから。
永井が正確には何を言っているのかということよりも、上記のような「人間の 本質的な社会性」(もちろん真理だと思うが)を持ち出す人々の数の多さを見 ていると、ある種の感慨を覚える。 そこから何を「構築」するつもりなのか?
>>894 > 「人間が自分の人生を継続的に捉えない」とはどういう事態を指して言うのですか。
> 「思想地図」は自己利益の話だったと思うけど。
再読してみれば?
「異時点における自分の体験をあたかも他者の体験のように受け取る者」
「未来に与えられる「楽しく生きられなく」させられる期間を、未来であるがゆえに
自分が体験することとは感じられない者(人生の時間の感覚が著しく離散的な者)」
といった表現がある。(151頁)
902 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 00:15:17 0
>>901 何が言いたいのかわからない。
(永井が、ではなくて、あなたが)
>>902 えっ?
>>894 前半の質問に対して、人生を継続的にではなく離散的に捉えるとはどういうことかについての
永井の表現を引用して紹介しただけなんだが、それの何が分からないの?
904 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 00:33:49 0
もちろんその本は読んでるよ。
905 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 00:43:38 0
分からないの? wwwwww
「えっ?」だってww
また不毛なやり取りが始まった。
908 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 03:02:10 0
「処刑されていくソクラテスの会館は、おそらくこれに似ていただろう。この快感の根底には、 他者に対する深い深い侮蔑がある。そして、この種の真実の存在を否定することが、ニーチェ的な 反実在論の眼目だっただろう」(「なぜ悪いことをしてはいけないのか」185頁)
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○ このレスをみたあなたは・・・3日から7日に ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり 成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに 5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて ほしくないことが起きてしまうでしょう。 コピペするかしないかはあなた次第... ○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
911 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 13:18:12 0
超糞スレ常時age
912 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 21:49:13 0
s
913 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 21:54:17 0
>>892 >地球が太陽のまわりを回っているのはそれなりの物理的理由があっての
>とで、たまたまそうなっていたというのはおかしいのではないでしょうか。
だからそれは「物理的必然性」なんですよ。
そして物理法則がそのようにあること自体が「論理的に偶然的」なんです。
断っておきますが、これは哲学的思考法の初歩の初歩なので、
この思考法を理解していないと、ほぼいかなる哲学書も理解できない。
914 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 22:44:36 0
>そして物理法則がそのようにあること自体が「論理的に偶然的」なんです。 もし宇宙が無限に存在するのならば、そのひとつの宇宙が”そのような物理法則” をもつことは論理的に必然です。
915 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 22:51:34 0
論理的に可能だなんてことはなんでもいえます。 富士山がしゃべることも論理的可能なことだから 現に富士山がしゃべらないことはたまさかのことだなんて 真顔でいわれてもはあ?って感じでしょう。
>>914 必然という言葉の意味に関して混乱しているとしか思えないよ。
>>915 その「はぁ?」という話をなぜやるのか、そこが問題でしょ。
917 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 23:18:42 0
日本人が一般的に、うんこを主食として暮らしていないことは たまさかのことにすぎない これに簡単に同意できるだろうか。無理だ。 なぜなら、うんこをたべると腹をこわす可能性がたかいのだから、 うんこを主食にしないことは理由があるから。 うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を 前提にしたうえで、なにかをたまさかだという場合と うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を 偶然的関係として括弧にくくったうえで、なにかをたまさかだという 場合とでは、違ってくる。 つまりいいたいことは、なにかをたまさかのことだという ためには、前提としてどこまで括弧にくくっているのかについて 明示しないかぎり簡単には同意できないし、すべきではないという ことだね。
>>915 > 論理的に可能だなんてことはなんでもいえます。
どうでもいいけど、文字どおり「何でも」言えるの?
例えば、「後悔先に立たず」ならぬ「先に立つ後悔」、つまり、はじめから後悔すること(しなければ
よかったと思うこと)を目指して行為することは可能なの?
まあ、これは実際可能なのかもしれないが…
919 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 23:32:40 0
>どうでもいいけど、文字どおり「何でも」言えるの? 何を論理的に不可能とするかに依存しますね。 しかしいいですか? なにが論理的に不可能だとされたとしても、 そのこと自体が論理的に偶然なこと=たまさかなこと だといいはることができます。 だから、どんなことも論理的に可能だということができると思います。 どうでしょうか?
>>918 とは別人だけど例えば
物理法則が全部うんこになるとか、
そういう事は理解不能な気がする。
一方、うんこが空を飛ぶというのは理解可能な気がする。
論理的にありえるか?ありえないか?というのは
そういう違いになるの?
921 :
考える名無しさん :2010/08/27(金) 23:49:37 0
意味が不明なこと 論理的に矛盾すること これらは別のことです。 しかし ”物理法則が全部うんこになるとか、 そういう事は理解不能な気がする。” ということはかならずしもないでしょう。 物理法則がうんこになるのだから、そうなったら世の中にうんこが 増える(物理法則がうんこなった分) そして世界から物理法則は消滅する(うんこになったので) という場合が、物理法則が全部うんこになるのひとつの解釈でしょう。
922 :
920 :2010/08/27(金) 23:53:34 0
>>921 う〜んしかしその様な事態を
どう今から想定したらいいのでしょうか?
つまりそれは如何なる事態かという意味を成立させる事が
そもそも不可能ではないでしょうか?
こういうのって突き詰めたら
カントの形式・カテゴリ的な
認識可能か?不可能か?って話になりませんかね?
923 :
920 :2010/08/28(土) 00:11:50 0
例えば極端に言うと時空間が存在しない事も可能だった はありえない(認識不可能)で、時空間を前提した中では 如何に突飛な事でも認識可能な事柄はあるという違いはないですか? 意味が成立しないと論理も成立しないので 最終的にはどこまで認識出来るのかという話になるような気がする。 その認識出来るか否かがそのまま可能か否かの問題な気がするけど。 違うかな…
>>919 例えば、
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということは論理的に不可能だ
と言ったとして、次に
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということは論理的に不可能だ、
ということは論理的に偶然だ
なんて言われても、とりあえず意味が分からないんだが…
そんなこと、本当に言い張れるの?
925 :
考える名無しさん :2010/08/28(土) 13:20:28 0
うんこって食えんの? カルナップって食えんの?
くだらないアホ話はスルーすべし。 読みに値しない「なんちゃって哲学」も同様にスルーすべし。
このスレに限らないけど、ほんと不毛だよな。 特に抽象度の高い哲学や文学のスレは、どうにもならない。 まさに人生の縮図。
928 :
920 :2010/08/28(土) 15:50:09 0
永井均 6 【 】
咥in
>>926 ここ30レスで言うと
どれが「アホ話」で、どれが「なんちゃって哲学」なんだ?
んで読みに値するレスはどれだ?
ka-LunaTube
932 :
考える名無しさん :2010/08/28(土) 20:56:41 0
>>924 「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
ということは論理的に矛盾するというだけの話。
矛盾することは不可能だというのはなぜかといわれれば、
たまたま世界がそうなっているだけのことで
そうなっていない世界は可能だと答えることもできるし、
矛盾することは不可能だと認識するようにわれわれの理解力が
たまたまそうなっているだけで、別のように認識できることも
ありえたということもできでしょう。
別になんの問題もありません。
そもそもこの宇宙に矛盾がないことを誰かたしかめたのでしょうか。
ひょっとしたら論理的に矛盾したできごとは起こっているのだが、
たまたまわれわれには認識できないだけかもしれません。
ようは、論理的に可能だなんてなんでもいえるのでだからなんですかって
話ではないでしょうか。
933 :
考える名無しさん :2010/08/28(土) 21:02:32 0
はっきりいって、”たまさか”とかいうのなら、 この世にできあがっているあらゆるすべてのことがたまさかにそうで あるにすぎないのではないでしょうか。 それをわざわざある特定の事柄をとりあげて、それがわざわざ たまさかだというのは何か意味があるのでしょうか。 あらゆることがらがたまさかなのだから、ことさらなにかをたまさか だといってとりあげる意味はないですね。
934 :
考える名無しさん :2010/08/28(土) 21:09:29 0
もしだれかが、現代人は一般的に朝昼夜と一日三食食う傾向性があるが それはたまさかのことで、一日100食食べることもありえるとか いう人がいたら、だからなに?っていえばいいんですよ。 そんな話にいちいち付き合う必要はありません。 人間は一般的に子供から大人になる傾向性をもっているが、 それはたまさかのことで老人から子供になることもありえるとか いう人がいて、だからなんなのでしょうか。
935 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 00:22:05 0
論理トレーニング100題常時age
>>932 そんな訳の分からんことをもし本気で言ってるのなら、まず、
「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
ということが可能な世界とはどういうものか、説明してみろよ。
937 :
920 :2010/08/29(日) 04:06:43 0
>>936 要するに認識不可能な事は無意味であって
無意味をさも意味ありげに言ってるのと
意味が規定可能でそれが認識可能なのは違うという事だよね?
それが可能・不可能の根底にあるんじゃないのかなと思ったんだけどね。
自分はそう解したけど、違う?
>>937 そんな話がどこから出てきたのか知らないが、もしそのように言うなら、
「「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」ということも可能だ」
というのは、認識不可能で無意味なのか、それとも認識可能で意味があるのか。
そして、もし後者だと言うなら、どんな認識が可能でどんな意味があるのか。
939 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 09:24:48 0
>>926 お前は何様だよ。
「スルー」とか言って、それはどこに対するレスなんだよ。
また、自己言及乙かよ。
940 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 09:29:14 0
941 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 09:33:51 0
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○ このレスをみたあなたは・・・3日から7日に ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり 成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに 5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて ほしくないことが起きてしまうでしょう。 コピペするかしないかはあなた次第... ○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
942 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 09:37:30 0
日本人が一般的に、うんこを主食として暮らしていないことは たまさかのことにすぎない これに簡単に同意できるだろうか。無理だ。 なぜなら、うんこをたべると腹をこわす可能性がたかいのだから、 うんこを主食にしないことは理由があるから。 うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を 前提にしたうえで、なにかをたまさかだという場合と うんこをたべると腹をこわすという因果的関係を 偶然的関係として括弧にくくったうえで、なにかをたまさかだという 場合とでは、違ってくる。 つまりいいたいことは、なにかをたまさかのことだという ためには、前提としてどこまで括弧にくくっているのかについて 明示しないかぎり簡単には同意できないし、すべきではないという ことだね。
943 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 09:50:03 0
944 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 10:12:59 0
>「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」 シュレジンがーの猫の話もありますしね。 矛盾した事態が、不可能なのは、世界の性質なのか、 それが可能な事態を想像(あるいは理解)できない人間の側の 性質なのかという問題なのでしょう。
945 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 10:21:52 0
矛盾した事態が不可能であるとわれわれが認識するのは、 われわれの理解力がたまたま矛盾した事態を不可能と認識するようにできている にすぎない。それはたまさかのことにすぎないのである。
永井均って、「ルサンチマン思想」「価値転換」という造語をつかってニーチェの誤読をを公表した人なの? だれか教えて
750 :ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ (138) :sage:2010/08/27(金) 22:31:27
>>749 ニーチェを誤読してるよな。ニーチェにとってルサンチマンは否定して乗り越えるべき感情であって、
ルサンチマンそのものに価値を見い出すような永井の思想は根本的にニーチェの思想とは相入れない。
その永井の思想をニーチェの思想として流通させてる事は犯罪的だしニーチェに対する冒涜だと思う。
774:ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ (138) :sage:2010/08/28(土) 00:05:24
ルサンチマン自体に価値を見い出すような永井さんの主張は一介のニーチェ研究者としてあまりにも酷いと思うぜ。
俺らが批判してるのはまさにそこだし、むしろどこの世界でそんなニーチェ読解がまかり通るのか教えて貰いたい。
↑
これってどう思う?
949 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 18:30:21 0
>>949 それで、そういうものが研究されているということが、今までの話とどう関係するの?
951 :
考える名無しさん :2010/08/29(日) 21:57:32 0
952 :
考える名無しさん :2010/08/30(月) 14:43:12 0
うんこって食えんの?
>951-952 うんこ揚げ乙
954 :
考える名無しさん :2010/09/02(木) 16:11:13 0
講談社 〈私〉の哲学を哲学する 永井 均・著/入不二 基義・著/上野 修・著 2,310 46 9月28日 ISBN9784062165563 デカルトやウィトゲンシュタインに触発されつつ、永井均が独自に切り開いた〈私〉の哲学。今日的な課題に関わる大問題を徹底的に哲学する!
>>954 とうとう9月28日か。
あれ?青山拓央の名前が抜けてるような…
957 :
考える名無しさん :2010/09/04(土) 06:27:08 0
958 :
920 :2010/09/05(日) 14:32:48 0
>>938 う〜んと、どこから出てきたというよりも
その線で突き詰めたらこうなるんじゃないかなって。
論理的推論の場合、最初に概念が確定(定義)してから
概念同士の関係を規定するという事ですよね?
そうなると、どうしても論理的に矛盾が生じてしまう様な話は
それぞれの概念の定義を変更する等しなければ矛盾は回避不可能だと思います。
ある矛盾が生じている概念定義上での論理的な理解不可能さが
どうしても無意味だとしか思えないのは
やはり結局は認識論的な認識不可能性(これも突き詰めるとカントの認識論的な、になると思う)
という問題として言えるんじゃないのかなと…
だから人間一般が考えて、理解可能な範囲と不可能な範囲(語れない範囲)
は、やっぱり明確にあるんじゃないのかなぁと。
少なくともコミュニケーションが通じる範囲の人間同士にはこれは言えるんじゃないのかな。
結局そこが、可能・不可能 の境目になってるんじゃないのかなと。
人間一般に理解可能(認識可能)なら、どんな突飛な話でも
それを可能世界的に思い描いても意味は通じますからね。
>>958 「野矢茂樹は『論理学』を書いた、かつ、野矢茂樹は『論理学』を書かなかった」
という具体例とは直接関係ない話?それとも何らかの関係があるの?
どちらにしても、論理的推論について、認識可能か不可能かが関係する、というのは、
個人的には聞いたことないんだけど。
いや、本当に関係があるなら、説明してもらえるとありがたいです。
問いも解説も、文法的正誤と論理的真偽の区別がついてからにしてくれ。