言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
前スレのスレタイとテンプレをコピペして新スレ立てマスタ。 リンクについては、有用と思われるページを2つ追加。 つーことで、後は、テキトーに埋めてくれ。
前スレ999の話が興味を引いたのでウィトスレ初カキコ。 そのデリダの「声と現象」には音と言語の関係とかは書かれていますか? 上手く表現できないんだけど、「漢字」という表意文字としての機能、つまり視覚との関係。 それと「音」としての言葉、会話、つまり聴覚との関係。 考えれば考えるほど「日本語」って難しいと自覚する…。
8 :
考える名無しさん :2008/06/06(金) 18:22:53 O
ニーチェやショーペンハウアよりよっぽど凄い
ベクトルの向きが違うものを大きさだけで判断するのは不適切ではないだろうか
ベクトルの向きが違うのは、読者の方だけかもしれないぞ。
ウィキのカフェテリアグループ云々は消されちまってんじゃ ねえかよ。意味ねえもんな。しかも左翼サークルだし。
13 :
考える名無しさん :2008/06/07(土) 07:04:23 0
ウィトを読みながら、よく思うんです。 「そんなのお前に言われなくても知ってるよ」 とね。 オレって天才、才人、凡人?
14 :
考える名無しさん :2008/06/07(土) 07:20:07 0
>>13 だよな。
僕が中2の時に考えたことが、くどくどと書いてあるな。
*** 緊急議題 *** ウィトゲンシュタインは中二病だった!?
>>13-15 そんな、卑小な解釈構図しか思い浮かばない了見の狭さを自省汁w
18 :
考える名無しさん :2008/06/10(火) 03:26:44 0
>>13-17 僻地の駅弁学生ですが、
言語ゲームって、
「人間は言葉をしゃべれる生き物だ。不思議だ」
って言ってるだけですか?
大都会では別の解釈があるのでしょうか?
19 :
2225 :2008/06/10(火) 06:04:16 0
哲学は自然科学ではない
20 :
2225 :2008/06/10(火) 06:05:48 0
哲学は自然科学ではない
21 :
2225 :2008/06/10(火) 06:06:43 0
哲学は自然科学ではない
22 :
2225 :2008/06/10(火) 06:07:32 0
哲学は自然科学ではない
23 :
考える名無しさん :2008/06/10(火) 06:08:53 0
哲学は自然科学ではない
24 :
考える名無しさん :2008/06/11(水) 13:21:03 0
>>14 だったらあなたが中二の時に考えたことを全てここに書き込んでウィトゲンシュタインとどの程度一致しているか
解説してください。
ニーチェスレにも負けてるわこのスレw
そうか? ルサンチマンな愚痴スレは伸びて当たり前。 ここで愚痴ると叩かれるだけだからね。マターリしていて当然w
27 :
考える名無しさん :2008/06/15(日) 06:48:38 0
28 :
考える名無しさん :2008/06/17(火) 18:02:54 0
無敵ってことか
29 :
考える名無しさん :2008/06/17(火) 20:00:13 0
自然科学は哲学ではない。 哲学はすなわち科学哲学だ。
30 :
考える名無しさん :2008/06/17(火) 20:22:02 0
そして、自然哲学は科学ではない。
「この世界のどこに形而上学的主体が存在するのか?」
32 :
考える名無しさん :2008/06/20(金) 22:18:31 0
「この世界のどこに形而上学的主体が存在するのか?」 ↑ ココ ↑ ココ ↑ ココ ↑ ココ ↑ ・・・・以下略
そこあるのは世界の境界だろう。
34 :
考える名無しさん :2008/06/21(土) 10:33:04 0
形而上学的主体は、定義から考えて「世界のどこか」にあるものではなかろう。
知り得るものは明らかに知り得る。
論考における可能態は時制的な意味ではないな。
「哲学=言語ゲーム」で哲学が終わったはずだが、 なぜ今の哲学は続いているのだ?
38 :
考える名無しさん :2008/06/25(水) 09:43:33 0
>>37 >「哲学=言語ゲーム」で哲学が終わった
なぜそんなことが言えるのか?
前提が間違っている
言っておくが 「言語ゲーム」と「言葉遊び」はちがう。 ウィトゲンシュタインを読もう
>>37 ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」で解決済みの問題。
「哲学」に意味なんてないよ。
「哲学」って言葉を会話でつかえればいいだけ。
>>37 「論考」で一度終わらせ、自己批判した後「言語ゲーム」で二度目w
ウィトは教祖じゃないんだから、自分で考えろw
42 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/25(水) 15:30:22 0
重要なのは「言語ゲーム」ではなくて、「規則に従う」ということ。 「規則」ではなく、「(ただ)規則に従う」ことでコミュニケーションは成立している。 で、「規則に従う」ってなに? ウィトは新たな始まりを提示した。 いまのところで回答になっているのは以下の2つかな @超越論的・・・慣例があるとみなが信じることで成立する、という「大文字の他者」説 A運動認知的・・・行為には言語とは異なる知識がある、という「体が覚えている」説
それ前スレでも書いてたな。
(非明示的な)規則というのは、
言葉の意味からいって、というより言葉の使い方からいって、
誰もその規則に従わない場合、そもそも規則自体が存在しないと言って良いと思う。
規則が在る事と規則に従うことの違いを強調するのは
修辞的意義以外の意義があるとは思わないけどなあ。
まあウィトゲンシュタインは論理が嫌いだし修辞的側面を重視するけど。
>>37 そんなことはウィトゲンシュタインは言ってないと思うけどね。
言語ゲームってのは言語コミュニケーションを比喩した言葉だろ。
哲学のことじゃない。
44 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/26(木) 01:40:35 0
修辞学自体は古い学問だけど、レイコフとか現代に復活した修辞学自体が ウィトの影響を受けているわけ。要するに「規則に従う」の圏内にいる。 それぐらい後世への影響は幅広い。
45 :
ダバダ ◆CRCg9lmPYI :2008/06/26(木) 01:42:56 0
学問としての修辞学を復活させたと言っても良い。
46 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 01:54:35 0
なにこの馬鹿スレ
なにこの馬鹿レス
48 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 03:27:51 0
>言語ゲームってのは言語コミュニケーションを比喩した言葉だろ。 >哲学のことじゃない。 だとしたら、ウィトの後期は哲学でない。 これに酸性。
49 :
考える名無しさん :2008/06/26(木) 03:32:02 0
蓋然蓋然外是ん害税外税蓋然 蓋然絵わい税わい税輪以前歪善猥前
50 :
阿修羅∞落とし :2008/06/26(木) 03:33:02 0
現代に跋扈してる近代思想では決して神話は超えられない 他者のロマンを超えることが先決。
51 :
阿修羅∞落とし :2008/06/26(木) 03:34:28 0
ウィトとかデリダとかホワイトヘッドとか真面目に読み解こうとしてるやつは馬鹿、負け組。
52 :
阿修羅∞落とし :2008/06/26(木) 03:36:58 0
オメーラ、デリダを理解したいなら、空の境界を読め!
なにこの馬鹿レス
>>48 たとえば「ああ!」という感嘆詞によって意図を相手に伝えるのが
哲学か?って話なんだが。。
と思ったけど「言語ゲーム」って「言語ゲーム論」って意味かな。もしかして。
>>52 あれはただの同人伝奇小説だと思うんだけど。
「ウィトゲンシュタインにおける言語・論理・世界」ッテオモシロイ?
ナカニシヤ出販は三流。w
出版社の名前だけで判断するのか・・・レオ・シュトラウスとかも出しているんだけどね。
言葉は橋である。そこに家を建ててはならない。 それが言語ゲームの言わんとしている全てだ。
59 :
考える名無しさん :2008/07/01(火) 17:36:28 0
ふーー、ひさしぶりのシャバの空気はうまいぜ! ひゃっほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さっさと檻の中へカエレ
61 :
考える名無しさん :2008/07/01(火) 18:01:30 0
この席、形は檻だなハハハ。 ネカフェからこの板を変えます!いえーーーーーーーーい
言葉は橋である。そこに家を建ててはならない。 これは俺様の名言なので忘れないようにな。
63 :
考える名無しさん :2008/07/01(火) 19:18:12 0
オッケーイ! ハッハッハ
言葉は存在の家である。
現象学抜きの後期はツマンネ。
判ってもいないのに、詳しく話すことなんかできはしないだろ。w
68 :
考える名無しさん :2008/07/10(木) 15:48:31 0
ウィトゲンシュタインは永遠の中2 人生経験が乏しい、もしくは偏っている者が ウィトゲンシュタインなる中学2年生を信奉するのである。 だから有名なんだろうね。中2哲学。なんとも大衆的だ。
69 :
考える名無しさん :2008/07/10(木) 15:56:02 0
人生経験が乏しい、もしくは偏っている者 板の住人のことだよね? 大体(個人を)信奉するのは中2だろ。 東、西部?、狩谷、天風、PM、etc 中二だらけ。
70 :
考える名無しさん :2008/07/10(木) 16:14:53 0
ウィトゲンシュタイン=永遠の中学二年生 井上喜久子みたいで良いじゃん。
26 名前:ジムニー ◆z..mNiQY.A [sage] 投稿日:2008/07/19(土) 17:53:44 ID:??? 逆ナンされた人いるか?
,';;;;;,, ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ;゙; /;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ,,,;;;;;i i;;;;;;;;;;;;;;;,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ;; ;;;;; ,,,,,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| ノ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;li;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/l;;;/l;ソ;;/ |;;;;;;/| l;;l゙ヾ;;;ト、;;;;;;;;;;;;;i |;;、;;;;;;;;// /,'' / l/ |/|/ ゙l ヾ、゙i;;;;;;::::/ /ヾ;;/ソ , , ヽ l;;l"゙l '、 (ヾ,,===;;;;;;;,,,,,_`il,i゙__,,,,;;;;;=== ,/|lヽ l 確かに離婚によって時計の針を自ら前に進めることはできる。 ヽ、`||ヾi;'(:::::゙'゙:::/;;i=i;;;ヽ:::゙'゙::::)゙i;/ |l'ノ/ しかし、二人は死によって引き裂かれる。死は何も生みはせんよ。 /ヽ|l、 ゙i::;;;;/⌒⌒).ヾ..;;;;;;;;;;..ノノ/l.,/\ /;;;/::ミヾ、./ / / ) '゙ /ミ"i;;;;;;;;\_ _,.-;;'";;;;;;;;r‐ ミ/゙ ,/ / /_!/` /,,l;;;ミ/;;;;;;;;;;;;;;;;~\ _,、-‐;;'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| / / / /.__,,,..-/ヽ /;;;ミ/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`;,,、_ ‐'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| ノ / .ノ / ,,, / ノ/';;;;ミ/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙'';;;,,、_ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ/ ノ / /,,,,/ /;;;;ミ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;` ;
>>31 敢えて釣られてみる。
形而上学主体は世界の外にある、ってどこかに書いてなかったっけ?
74 :
考えるな無しさん :2008/08/19(火) 06:42:13 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
75 :
考えるな無しさん :2008/08/19(火) 06:43:11 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
76 :
考えるな無しさん :2008/08/19(火) 06:52:41 0
時代区分 前期(1889年 - 1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代 中期前半(1922年 - 1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代 中期後半(1933年 - 1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』 後期前半(1936年 - 1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで 後期後半(1946年 - 1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代 晩期(1949年 - 1951年) 死の直前の『確実性の問題』
77 :
考えるな無しさん :2008/08/19(火) 06:54:21 0
時代区分 前期(1889年 - 1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代 中期前半(1922年 - 1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代 中期後半(1933年 - 1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』 後期前半(1936年 - 1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで 後期後半(1946年 - 1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代 晩期(1949年 - 1951年) 死の直前の『確実性の問題』
78 :
考えるな無しさん :2008/08/21(木) 09:29:47 0
時代区分 前期(1889年 - 1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代 中期前半(1922年 - 1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代 中期後半(1933年 - 1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』 後期前半(1936年 - 1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで 後期後半(1946年 - 1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代 晩期(1949年 - 1951年) 死の直前の『確実性の問題』
79 :
ミッシー ◆yQzQpGW04A :2008/08/21(木) 09:35:00 0
時代区分 前期(1889年 - 1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代 中期前半(1922年 - 1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代 中期後半(1933年 - 1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』 後期前半(1936年 - 1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで 後期後半(1946年 - 1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代 晩期(1949年 - 1951年) 死の直前の『確実性の問題』
80 :
考えるな無しさん :2008/08/21(木) 10:03:14 0
時代区分 前期(1889年 - 1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代 中期前半(1922年 - 1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代 中期後半(1933年 - 1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』 後期前半(1936年 - 1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで 後期後半(1946年 - 1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代 晩期(1949年 - 1951年) 死の直前の『確実性の問題』
81 :
考えるな無しさん :2008/08/22(金) 11:04:48 0
家族会議 (新字新仮名、作品ID:47564) 上海 (新字新仮名、作品ID:2148) 寝園 (新字新仮名、作品ID:47211) 新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(新字新仮名、作品ID:4888) 日輪 (新字新仮名、作品ID:4252) 馬車 (新字新仮名、作品ID:4887)
82 :
考えるな無しさん :2008/08/22(金) 11:16:58 0
家族会議 (新字新仮名、作品ID:47564) 上海 (新字新仮名、作品ID:2148) 寝園 (新字新仮名、作品ID:47211) 新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(新字新仮名、作品ID:4888) 日輪 (新字新仮名、作品ID:4252) 馬車 (新字新仮名、作品ID:4887)
83 :
考えるな無しさん :2008/08/22(金) 11:24:06 0
家族会議 (新字新仮名、作品ID:47564) 上海 (新字新仮名、作品ID:2148) 寝園 (新字新仮名、作品ID:47211) 新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(新字新仮名、作品ID:4888) 日輪 (新字新仮名、作品ID:4252) 馬車 (新字新仮名、作品ID:4887)
84 :
考えるな無しさん :2008/08/22(金) 11:48:30 0
家族会議 (新字新仮名、作品ID:47564) 上海 (新字新仮名、作品ID:2148) 寝園 (新字新仮名、作品ID:47211) 新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(新字新仮名、作品ID:4888) 日輪 (新字新仮名、作品ID:4252) 馬車 (新字新仮名、作品ID:4887)
85 :
考えるな無しさん :2008/08/22(金) 11:57:34 0
家族会議 (新字新仮名、作品ID:47564) 上海 (新字新仮名、作品ID:2148) 寝園 (新字新仮名、作品ID:47211) 新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説(新字新仮名、作品ID:4888) 日輪 (新字新仮名、作品ID:4252) 馬車 (新字新仮名、作品ID:4887)
86 :
考えるな無しさん :2008/08/23(土) 09:41:52 0
とどめだ
どどめいろだ
88 :
考える名無しさん :2008/08/23(土) 12:18:41 0
論考も好きだが やっぱり 「確実性の問題」が一番だな
89 :
考える名無しさん :2008/08/23(土) 13:12:43 0
ウィトゲンシュタインって興味の対象を 工学 ↓ 数学 ↓ 論理学 ↓ 哲学 ↓ 言語 っていう順に移していって なんか学問の序列を表してるようで面白いね
90 :
考える名無しさん :2008/08/23(土) 13:17:33 0
いや、彼は芸術に興味があって芸術の教養が深かったのだよ。 そこが、バカでキモい理系一辺倒に理系オタと異なる所だ。
いや学問の序列には全然見えないけど。 Russelの数学→哲学→歴史学なら分かるんだけど。 >バカでキモい理系一辺倒に理系オタ バカでキモい文系一辺倒の文系オタっぽい発言だな
ウィトゲンシュタインによると音楽がわかる人だけが心の美しい人だそうです
音楽といってもだな古典音楽。ベートーベン・マンセーだからな。あとブラームス。 マーラーなんてペッペだったし。ワグナーも嫌いだったみたいだね。 アイドル系・J-POP好みな音楽通とはそもそも別世界での話。
まあ今の世の中、クラシック音楽が分かる人だけが 心の美しい人だ、とか言おうものなら酷く莫迦にされるけどなw
論考の文体みれば 過剰装飾や重厚なオーケストレーションや形式破綻は嫌いだろうなって 容易に予測がつくね この人作曲家になってたら後期ウエーベルンみたいな曲を 作っていたと思う
衒学主義は大好きだろうけどね。
クラシック板に限らず心がきれいなレスってめったに見ないね。 人を下に見ようとするレスが多い。 音楽は好きだが音楽愛好家は性格が悪いと思う。
>>97 ナチスのアイヒマンとかハイドリヒとかだって
バイオリン奏者でクラシック愛好家だったからね
別に不思議じゃない
>>97 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
( ) \_____
| | |
(__)_)
クラシック愛好家って楽理を深く勉強していない人を馬鹿にするよね。 楽理への無知を愛好家から馬鹿にされてクラシックが大嫌いになりましたね。 まあ、馬鹿にされた程度で嫌いになるくらいだから、 本当は好きではなかったというか、 私にはクラシック音楽のセンスが全く無かったのでしょうけど。 それはある意味で貴重な発見でありました。
それは違う。 愛好家すべてが楽理を深く勉強しているわけではない。 楽理への無知を軽蔑するのは「自分が楽理を知っていることに自惚れる人」であり、 クラシック愛好家とは範囲が違う。
クラシック愛好家の3タイプ 1、CD蒐集家 2、自分で楽器を弾き、市民オケなどに参加する人 3、対位法和声法に精通しスコアを買い、演奏家の解釈について研究する人
【あの ル・サンチマン™ が好んで引き合いに出すってとこでそのレヴェルはわかりますよね(笑)】
なぁ、哲学は言語批判だって言うけど、本当にそうだよな 全ては言語やら定義の問題なんじゃないかって最近は思うんだ 否定してくれないか?
105 :
考える名無しさん :2008/09/11(木) 12:52:19 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
「論理哲学論考」について。
249 :無名草子さん:2008/09/11(木) 18:23:00
司馬を好きな人は、小説は小説であり、小説はおもしろければいいんだ、
と率直だけれど「小説は小説だ」の小説とはどのような小説か、そして、
「おもしろければいい」のおもしろさとはどのような概念なのかが、
その単純な語句の類にはあたまから欠落している。
司馬の「小説」のどこが他の小説と比べて小説なのか、どういう箇所が
「おもしろくて」いいのか、しっかりとした解説をして欲しい。
本日のネタはその後、やる
250 :無名草子さん(sage):2008/09/11(木) 19:10:01
やるな。
251 :無名草子さん(sage):2008/09/11(木) 19:38:38
チキンラーメンを好きな人は、ラーメンはラーメンであり、ラーメンはおいしければ
いいんだ、 と率直だけれど「ラーメンはラーメンだ」のラーメンとはどのようなラー
メンか、そして、 「おいしければいい」のおいしさとはどのような概念なのかが、そ
の単純な語句の類にはあたまから欠落している。
チキンラーメンのどこが他のラーメンと比べてラーメンなのか、どういう箇所が 「お
いしくて」いいのか、しっかりとした解説をして欲しい。
253 :無名草子さん New! :2008/09/11(木) 20:46:20
>>250 >>251 頭悪い基地外は、とりあえずウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を
読んでからここにもう一度くるように。
頭悪そうな議論だね。 ウィトは結局定義なんか糞の役にも立たない。黙ってろ。と云ってるわけだし。
ウィトゲンシュタイン<<<<<<<<<<<<アインシュタイン
ルッキーかわいいよルッキー
110 :
考える名無しさん :2008/09/20(土) 23:39:22 0
どうでもいい話だけど 「ウィトゲンシュタイン」と「ヴィトケンシュタイン」は発音的にはどっちが正解なんでしょう? 「マックスウェーバー」と「マックスヴェーバー」も気になるが。
ドイツ語読みだと「ヴ」
112 :
考える名無しさん :2008/09/21(日) 00:18:50 O
ある形而上学を別の形而上学に基づいて批判するというナンセンスさから抜け出したところでの議論なので反論のしようがない。 頭がおかしくなるのはもはや当然の帰結。
頭がおかしくなったのか? 元からおかしいんだと思ってたw アスペ疑惑とかあるし。
114 :
考える名無しさん :2008/09/27(土) 01:47:48 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
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>>2-10 あたりにあるかも
115 :
考える名無しさん :2008/09/27(土) 02:03:05 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
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http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
ウ ヴ
117 :
考える名無しさん :2008/09/30(火) 20:54:26 0
青色本って起承転結ある?
118 :
考える名無しさん :2008/09/30(火) 21:32:55 0
119 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/09/30(火) 22:36:00 0
だから、あの本を何処のページから開いても楽しめるという利点があるw。
120 :
考える名無しさん :2008/10/01(水) 03:58:43 0
iいや、でも実際ゐ徒はよくやってるよ。カーセナルで遣り合った時も私の論理的枝葉にはバーターフィールドの活動的なバロックとロザムの早岐励起をよく咀嚼していたしね。
どうしてもこの世の楽しみを断念することができない私は 幸福になれないのでしょうか?
>>117 箇条書きではないが同じ話を延々と繰り返してるだけ。
具現化したたくましいヒロジに外へ連れ出され秋の日差しに倒れる雪国もやし
誤爆しました
125 :
考える名無しさん :2008/10/11(土) 21:19:58 0
野矢の「『論理哲学論考』を読む」(ちくま学芸文庫)を読もうと思っているが、 読んだ人、どう?
126 :
考える名無しさん :2008/10/11(土) 22:01:41 0
>>125 とてもよかったけど。とりあえず手にとって少し中をみてから考えてもいいんじゃない?
おれは本屋で何度も立ち読みして、最後まで待てなくなって買ってしまった口。
127 :
考える名無しさん :2008/10/11(土) 22:18:58 O
>125 私も買いました。わかりやすいし、おすすめですよ。
128 :
考える名無しさん :2008/10/12(日) 01:27:12 0
ありがと。実はもう買ってあるんだけど、なかなか読むきっかけが無くて。
>>125 「よかった」以上の具体的な感想がないのが悲しい。
という本だよ。
良い本だけど、先に論理哲学論考読んだ方が良いかもしれない。
131 :
勝手批評 :2008/10/12(日) 15:14:49 0
>>125 よくない。「対象」・「事実」といった概念のウィトゲンシュタイン独特の形而上学的使い方を
完全に誤読している。使われる例も幼稚でミスリーディングなものが多い。例えば文庫版31p
「猫は可能性を了解しているか」の議論はただただ幼稚で無意味。
薦められるのはウィトゲンシュタインの忠実な弟子であったノーマン・マルコムによる
誠実な読解「NOTHING IS HIDDEN」
132 :
考える名無しさん :2008/10/12(日) 19:48:59 0
ということは東大駒場の学生も誤解したまま?
>>131 猫は三味線の皮になるよね、わかります。
134 :
考える名無しさん :2008/10/12(日) 20:23:12 0
>>131 誤読しているというのなら、まずヴィトゲンシュタインの
「対象」や「事実」といった概念に関するあなたなりの解釈を述べよ。
第二に、
>「猫は可能性を了解しているか」の議論はただただ幼稚で無意味。
とのことで…
いかなる意味においていかなる根拠をもって無意味なのか説明せよ。
これだから、三流大の人間はねー
135 :
考える名無しさん :2008/10/12(日) 21:08:37 0
『論理哲学論考』を読むw。 論考読んだほうが手っ取り早いだろうw。
136 :
勝手批評 :2008/10/12(日) 22:58:01 0
>>134 まず野矢氏はウィトゲンシュタインの使う「対象」を全く素朴にも机、コップ、時計
ポスト等々と見做している。(野矢氏は他に「赤い」「寝ている」といった性質、
「・・・の上に・・・がある」といった関係を「対象」の内に入れているが、普通の物質を
「対象」の例に挙げている時点で根本的に誤解している。)
対象は「一定であり、不変であり、持続する」(2・027)対象は他の対象と結合し
様々な配置を取るがそのような配置は一定でも不変でもない。(2.0271)
そして対象の配置が事態である(2.0272)と言われている。
しかし野矢氏の言うような机やコップが「一定であり、不変であり、持続する」はずがない。
これらは明らかにウィトゲンシュタインの用語になる「事態」と呼ばれるべきものである。
「猫が可能性を了解しているか否か」という議論が幼稚で無意味というのは、そもそも
ウィトゲンシュタインは「世界とはこうある」という(独断的で)形而上学的な前提を
述べているのに、野矢氏は「猫は可能性を了解しているか微妙だがミミズは了解していない」
などといったまるで的外れな認識論的考察をやっている。(しかもこの認識論そのものも
小学生がやりそうなレベルの低いもので本当に大学の教師が書いたのかと疑ってしまう)
137 :
考える名無しさん :2008/10/12(日) 23:38:51 0
>>136 あなたみたいな下らない人間を相手にするのも、時間の無駄なんだけど…
一言いっておきましょうか。
あなた考える「対象」の具体例を挙げてみて下さい。
できないはずです。理由は、あなたも知っていると思いますが、
ノーマン・マルコムがヴィトゲンシュタインにしたこの同様の質問
の答えからも明らかです。
それから、猫云々の点について。
p.31のその議論の前に「不毛な論争を考えてみよう。」ってあるでしょう?
野矢さんの主張したいのは
「猫は可能性を了解しているか微妙だがミミズは了解していない」
とかそういったことじゃないんですよ。と、ここまで書いて疲れてきた。
あなた、哲学を専攻している(していた)方ですか?
哲学科だともう少し国語力が要求されると思うのですが、
私の勘違いかしら…
138 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 00:07:49 0
自演か?もしれないけど、おもしろいやりとりだったね。僕も思わず本をパラパラ見なおしたよ。 そういえば、この本買った理由思い出したけど、内容以外で、 内観?(レイアウトとか活字とか装飾とか紙質とフォントの組み合わせとか、…こういうのって一言で何ていうんだっけ?) が気に入ったのと、値段が手頃だったのがある。 専門書にしては安いと思った。そういえば東氏のデリダ論の本も安かったね(買ってないけど) 解説だから安く設定できるのかな?思想系の本ってベラボウに高いよね。手が出ないw。
139 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 00:41:49 0
>>138 >解説だから安く設定できるのかな?
確かに、ちくま新書の「何とか入門」シリーズも安いしね。
「ウィトゲンシュタイン入門」(永井均)なんか660円。
そういえば、永井さんに会って話したことがあるんだけど、つまんない人だったな。
…学生たちは、永井先生には絶対逆らわないような感じでさ、
哲学科の学生の討論会だった。
学生A:「先生、先生のご著書は本当にすばらしい哲学的論考です」
とか、嘘っぽいこといっておだててね。
なんか哲学やってる人って権威主義的パーソナリティみたいな人
が多い気がするんだけど、どうだろう。
140 :
勝手批評 :2008/10/13(月) 00:52:21 0
>>137 >一言いっておきましょうか。
>あなた(が)考える「対象」の具体例を挙げてみて下さい。
>できないはずです。理由は、あなたも知っていると思いますが、
>ノーマン・マルコムがヴィトゲンシュタインにしたこの同様の質問
>の答えからも明らかです。
・・・・・?この文章で一体何が言いたいのか全く分からない。確かに「対象」の具体例は
ウィトゲンシュタイン自身挙げることが出来なかった。
それなのに野矢氏は「対象」の例に(あっさりと)机、コップ、時計などと書いている。
これは明らかに「論考」を理解していない証拠ではないか、と書いたのだけど。
>野矢さんの主張したいのは
>「猫は可能性を了解しているか微妙だがミミズは了解していない」
>とかそういったことじゃないんですよ。
じゃあ野矢氏は何を主張したかったのか。何にしろこの議論そのものが子供じみている
ので問題外だと思うが。そもそも不毛な議論と分かっているのなら余計に書く必要はなかった
だろうに。
141 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 02:09:50 0
>>140 そんな「子供じみている」なんて感情論でいわれてもな(笑)
まあ、もう一言でいっちゃうけどさ。
自分に嘘をつかないで誠実に答えようね、がんばれよ。
142 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 03:45:47 0
>>141 あんた東大?
勝手批評さんは京大だと思うよ。
しょせん東大は京大に勝てないよ、地頭が違うもん。
京大は最強だからね。
143 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 04:05:41 0
今時の大学生は京大だろうが東大だろうが地頭相当悪いのが多いよ。 現実を知った方がよい。
『論考』て詩集なんだから、 「理解するもの」ではなくて「感じるもの」だよ。 東大・京大さんは「頭」が先行するから、不毛なんだよ。
145 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 05:04:55 0
理解するも感じるも大差ないような気がするけどね。 所詮、故人の書物なんて真意は問いただせないんだから、真意の問題 に固執するのはつらい。 そういう学問をしたいんならしょうがないが、それよりも学者さんには そういう故人のネタをヒントに持論を捻出して欲しいよ。 あくまでヒントでいいと思う。故人の意見の解釈の主流が変わると崩壊するような 持論は真に論理的ではないだろ。 常に持論の裏付けは故人任せじゃなく自分で元から理路立てて確立したものでなくては。
このスレに来る人で、「論考」と「『論考』を読む」を読んで、後者の単純な解釈の間違いに気付いた 人はいなかったのだろうか? 反論があるのなら是非聞きたいが、恐らくまともなレスを返すような人はこんな板を 覗いたりしないのだろうな。 自分は東大出でも京大出でもないし、そもそも大学など関係無く「論考」そのものを読めば そして実は10ページも読まないうちに野矢氏の間違いが分かると思う。なお文庫版の あとがきとして「『論考』を読む」の4年後に書かれた文章が載っているが、ここでも彼は 驚くべき間違いを犯している。彼は「探求」でも「名と対象の関係が」捉え返されていて、 「「探求」に於いても「名は対象を指示する」といってよいのだろうか。「よい」というのがここまで 論じてきた私の読みである」などと書いているが、ウィトゲンシュタインはまさしく「論考」で 前提した「対象」のような形而上学的実体を否定する為に中期・後期の哲学を展開したというのに 一体この人は何を読んだのだろう?
147 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 12:06:39 0
言語学も知らないでウィトゲンとか可愛いねw。 ウィトウィトゲンをちょっとでも難しいと感じるなら、 まずは言語学からを学べばよいよね。 他にも、数学やら物理やら必要だけどさw。 >なお文庫版のあとがきとして「『論考』を読む」の >4年後に書かれた文章が載っているが、ここでも彼は >驚くべき間違いを犯している。 悲しいかな、そうやって哲学は、誤解と曲解と出鱈目の下で、 難解なものとして理解されてゆくんだ。 こんなに楽しいものは他に無いって言うのに。
>>146 野矢本の面白さは、ウィトの「形而上学的文体」で書かれた「形而上学批判」
な思想を「非形而上学的な文体」で「形而上学擁護」な立場で書き殴っているところ。
形而上学が成立するためには「信じること」が必須だが、「どう信じるか」という
立場で見え方が異なる。擁護な立場って、素朴だからわかりやすいけど、批判な
立場には拗ねと懐疑が絡んでいる分、わかりづらい。この歯車の噛み合わなさが
露骨に表出しているんだと思うね。
ウィトが46年に教授職を辞職した理由の一つに、授業に集まる頭良さげな
学生の「もっとクレバーになりたい」という態度にうんざりしたこと。と伝えられ
ているが、ウィトを「論破」しようと試みる連中に共通したスタンスだと思うね。
世の中、おりこうさんばかりだと疲れるよな。
>>147 >>148 この両人に言えることは何を言いたいのかさっぱり分からないということ。
「論考」での「対象」の解釈を野矢氏は素朴に誤解している、というはっきりした
論旨に対して「反論があるのなら是非聞きたい」と書いたにも関わらず一切
本題に入って議論しようとしない。議論の意味が分かっていないのか、「論考」
或いは「『論考』を読む」を読んでないのではっきりした事が言えないのか。
>>149 「論考」の結語への道程は、アウグスティヌスの後継者たちによってなされた
中世普遍論争の「唯名論」と「実念(実在)論」の調停が念頭にある。と理解している。
後期では、アウグスティヌスの語の使用を何度も繰り返し引きつつ、語の使用は、
実在している「私」の生き様(コンテキスト)の中で意味が生じるのであって、ことばを
使用するなら共観的な理解、誤解が生じないようになされるべきだが、実際には
各人各様のコンテキストで語を用いるから意味理解に齟齬が生じる。しかしならが、
それはそれでよいのだ。という寛容・老心な視線で語るようになったんだと思うね。
「名は対象を指示する」というテーゼを、論理学的な限定で議論することは、後期では
あまり重要ではないと思うけど。
ウィトが晩年、「あなたの思想はどのように受け継いでいかれると思うか」と問われたとき、 「ひとそれぞれ、各人各様の受け取り方がなされるだろう」と答えたと伝えられている。 入不ニや黒崎の「禅・仏教」的私論とか、端的な例だろう。野矢本もそう。結局、私論。 だが、要は私論しか可能ではない。のかもね。俺も10ページ読んでうんざりした口だけどさ。 「正しい理解」というのも、ある意味、「形而上」の世界の出来事だとすれば、行き着くところは 各人各様の終着駅だけだろう。でも、相対主義ではないんだよ。だって、思想がことばで可能 である限り、ことば全体でひとつであろうから。
>>150 どうも論旨がはっきりしないが、146で書いた「名は対象を指示する」という事は「探求」
でも貫かれているという野矢氏の発言が間違いだということに関するレスか。
そもそも野矢氏は「論考」の読みで「対象」を普通のもの(机やポストやウィトゲンシュタイン)
と見なしてしまって、「論考」での「対象」の形而上学的定義(例えば2・027や2・0271)
を意識的にか無意識的にか無視しておいて自分の勝手なやり方で珍妙な解釈に至ってしまって
いるので、「論考」と「探求」が基本的に同じ問題意識に貫かれているとしても、この人においては
全く別物になっている。
そもそも「探求」の話をしているのではなく、「論考」の「対象」という(形而上学的)概念の解釈を
誤読しているという話をしている。それについての反論を聞きたいのだが。
>>148 .150
重ねて言うが論旨がはっきりしない。そんなエピソードがどうだって言うんだ?
野矢氏の解釈が間違っているというのは原典である「論考」の記述を彼が何故か
無視している事に起因した事実で、相対主義もくそも無い。
153 :
150 :2008/10/13(月) 15:07:37 0
あまり、仕切るなよ。w 君が君のコンテキストで自分が満足できる議論したいのはわからんでもないが、 そういう、玩具売り場でゴキブリを演じてみせるダダッ子みたいな感情要求を したとしても、それに、まっとうに答える必要は無かろう。名無しは君のママンじゃないんだし。
本当に150=153か?本当だとしたら中世普遍論争うんぬんかんぬんなんてもっともらしい (しかし議論に関係無い)ことを言って知的ぶったところでお里が知れてしまう。 まともに議論するつもりがないのなら軽佻浮薄な言葉で茶々を入れないでくれ。 そもそも野矢氏の「対象」解釈がおかしいとは思わないのか?ママン?
感情が昂ぶっているときは、そうして、相手を誹謗したくなるだろ? これが、普通の人間の有り様だよ。哲学的議論でも同じ。感情を抑えて 持論を展開することがどれほど難しいか、それは悲しいときに涙をこらえるの が難しいことと同じくらいだ。とウィト自身が言ってる。 野矢本は、2ちゃん的過言でいえば「論考」への誹謗中傷本だという下劣な見方だってできる。 だから、意図的に論拠を伏せたり、持論への反証を隠したまま、いかに「論考」が間抜けで あるか。と実証したくて書いたんじゃないかとかね。だからって、なんだと。解釈に基づく批判 応酬に意味があるのは、それが求められているコンテキストで語る者が共通価値としている 言語ゲームでのみ。だよ。このスレで、そういうコンテキストが成り立つのなら、意味があるかも しれんが、俺的には興味はない。
しかし奇妙なくらい議論から逃れようとするなあ。「お前は間違っているんだよ、これこれ こういう理由で」と言ってくるなら意味が分かるのだが。議論が分からないもしくは興味が無い のならそもそもレスを返さなきゃいいだけで。「悲しいときに涙をこらえるのが難しいことと同じだ。」 なんてエピソードなんてどうでもいいんだってば。しかもこの引用も全然的を射ていないし。 残念ながら議論の意味が分かっていない人しかこの板を覗いていないらしい。 まともに野矢氏の議論を擁護する人っていないのかな。
157 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 15:50:51 0
だから、言ってるじゃん、オマエはわく感情に支配されているから間違っているって。w
×はわく感情 ○は悪感情。w
おまえら、深呼吸しろ! この問題は一旦忘れろ! 152は小さなことに固執しすぎ。 誰も君を批判してるわけではないし、誰も君の批評につきあう興味もないだけ。 本書の解釈が論考と違うと思うのも当然なら、読者の「本書の解釈」が本書の解釈と 違うと思うのも当然。それ分かって本読んで、それわかって君のレスに興味ないだけ。 >>まともに野矢氏の議論を擁護する人っていないのかな。 擁護してるかどうかはしらないが、エターナルラブって人が資本と国家すれにいて 彼がウィトの講釈好きだから、そっちに質問したらレスくれるはず。 彼は純粋に著者の言い分を解釈し代弁するのが専門の人だからね。
160 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 16:16:59 0
ヴィットゲンシュタインが正しいと思う。
161 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 16:24:53 0
>>156 大体にして、ポジショントークしか
しないお前に何を言った所でw。
そんな抽象論しか出来ないなら、
>「論考」そのものを読めばそして実は10ページも読まないうちに >野矢氏の間違いが分かると思う。 「論考」だけ読んでもWittgensteinが「対象」として 何を想定してたのかははっきりはしないと思うけど。 余程のエスパーじゃない限り。 マルコムの質問に対する返答なんて「論考」さえ読み込めば 自動的に導かれるというようなものじゃないだろ。 ウィトゲンシュタインはそういう意図で書いたんじゃない、 とか言っても仕方ないんだよ。 野矢さんの解釈が整合的でない、ということを示さないと。 それも論考の中の表現のこれこれと整合的でない、という風に原典の記述と付き合せてね。 個人的には論理的原子論みたいなのを真面目に解説したところで 現代において何か大きな価値が在るとは思わない。
>野矢さんの解釈が整合的でない、ということを示さないと。 >それも論考の中の表現のこれこれと整合的でない、という風に原典の記述と付き合せてね。 もはやあきれるより他無いが、 どうやらちょっとカーソルを動かして前のコメントを見返すという 動作すら拒否する人々がいるらしいので、コピペを。 136 「対象は「一定であり、不変であり、持続する」(2・027)対象は他の対象と結合し 様々な配置を取るがそのような配置は一定でも不変でもない。(2.0271) そして対象の配置が事態である(2.0272)と言われている。 しかし野矢氏の言うような机やコップが「一定であり、不変であり、持続する」はずがない。 これらは明らかにウィトゲンシュタインの用語になる「事態」と呼ばれるべきものである。」 (ちなみに「『論考』を読む」38pで野矢氏は「ウィトゲンシュタインは何をもって「対象」と考えていたのか」 と自問し、それに対して「私の考えでは、ウィトゲンシュタインが「対象」と呼ぶものは事実の構成要素 である個体、性質関係に他ならない」と明言している。) >個人的には論理的原子論みたいなのを真面目に解説したところで >現代において何か大きな価値が在るとは思わない。 「論考」の解釈が間違っているのだと再三書いているのに何を寝ぼけた事を。 論理的原子論が現代に於いて価値があろうが無かろうが、「『論理哲学論考』を 理解したいと思うならば、この本を読むのが最短の道であると言いたい」とまで書いている 本でこんな初歩的な間違いがあるのなら、それを指摘するのは当然の事だろう。
>(ちなみに「『論考』を読む」38pで野矢氏は「ウィトゲンシュタインは何をもって「対象」と考えていたのか」 >と自問し、それに対して「私の考えでは、ウィトゲンシュタインが「対象」と呼ぶものは事実の構成要素 >である個体、性質関係に他ならない」と明言している。) やっぱ野矢さん分かってるじゃん。 野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知だと思うけどな。 論考で「対象」としてどういうものが想定されているのか知らないわけが無い。 それに、机やコップはただ例を挙げてみただけのもので、 その机やコップというのはあくまで思考実験(というか他者への分かりやすい説明)の為に 理想化されたものであって、その机の性状の経時変化とかそんなものは考えない。 物理で言う質点とか剛体とかと一緒。 ついでに言うと机、椅子、ビールジョッキの喩えと一緒とさえ言って良いかもしれない。 しかし実際のコップにはバーコードシールが貼ってあったり さっき呑んだ牛乳で汚れていたりするが、どこからどこまでがコップなのだろうか、 とかそういうことを今問うたって仕方無いんだよ。 >対象は「一定であり、不変であり、持続する」 まあぶっちゃけた話、この一言を真面目に解釈しようとすると、 現実にはそのようなものが存在することは確認されていない、 Wittgensteinの独断は間違い!で終わっちゃうんだけどな。 原子とか素粒子でも例に出せば哲学の人は 一定であり、不変であり、持続するものとして認めちゃうのかもしれないけど 実際は原子も素粒子も消滅もすれば生成もするし。
165 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 18:23:34 0
>机やコップはただ例を挙げてみただけのもので、その机やコップというのは >あくまで思考実験(というか他者への分かりやすい説明)の為に理想化されたものであって 自分も最初はそういうことなのかと読み進めて行くとどうやらそんな深謀遠慮は一切無く、 同書39pでは「事態は諸対象の結合である」(2・01)がおかしくはないか?と問い、 「よろしい。例えば机という対象と本という対象を<上にある>という対象で結合しよう。・・・ それはつまりありていに言えば机の上に本を置くということではないだろうか」 などと書いている。唖然とさせられるほど無邪気に「対象」を机、本等と同一視している。 しかも同書40pにはとどめとばかりに、「対象は現実のものである。たとえば机であるこれや、 本であるあれである」と明言しているので、 「野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知」でないことは明白である。 >対象は「一定であり、不変であり、持続する」 >まあぶっちゃけた話、この一言を真面目に解釈しようとすると、 >現実にはそのようなものが存在することは確認されていない、 >Wittgensteinの独断は間違い!で終わっちゃうんだけどな。 もちろんそれはその通りだろう。だがこの書物の題名は「『論理哲学論考』を読む」 である以上、「論考」の解釈そのものを間違ってはいけないだろう。
167 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 18:33:23 0
これ論理の本でしょ、物理学的事実は関係なくない?
>>165 そう、つまんね。野矢だって奥雅博の解釈とは違うって明言しているし。
それに、要素命題の扱いについて全然触れられていない。バカだから?
そもそも、要素命題とか、論理形式とか、その原子論的構成主義は、
スラッファの髭いじりの一撃で消し飛んで、早々にウィトゲンシュタイン
自身が撤回修正を重ねた部分だから、一事不再審の原則が適用できる
なら、ウィトゲンシュタインの修正過程と結論の方がずっと意味が重い。
野矢もそこを後出しにして、本人の弁明を自分の手柄にするような読み方
ができるところはうざいが。
169 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 18:51:32 0
ぴかあは出てこないつもりか?
170 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 18:55:48 0
ところでこのスレの人たちはシャナとルイズとどっちが好き?
171 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 19:17:33 0
あらあら、勝手批評さんがヒステリーを起こしちゃってるわね。
皆さんご苦労様です。
>>163 あなたに三つの可能的な批判をしましょう。
@Wittgensteinの「対象」の用法にあなたの見解と矛盾するものがある点。
つまり、「この青色」といった概念を「対象」の一つとして例示している。
:Eine Eigenschaft ist intern, wenn es undenkbar ist, dass ihr Gegenstand
sie nicht besitzt.(Diese blaue Farbe und jene stehen in der internen Relation
von heller und dunkler eo ipso.…)(4・123)
>野矢だって奥雅博の解釈とは違うって明言しているし。
「奥雅博の解釈」なんてどうでもいい。だから何なんだ?野 矢 氏 の解釈が
間違っていると書いて、それは何故かを説明したのだ。
>要素命題の扱いについて全然触れられていない?
野矢氏の「 対 象 」の解釈が間違っていることを説明したのだ。どうやったら
そこまで的外れな事が言えるんだろうか。
>そもそも、要素命題とか、論理形式とか、その原子論的構成主義は、
>スラッファの髭いじりの一撃で消し飛んで、早々にウィトゲンシュタイン
>自身が撤回修正を重ねた部分だから
この野矢氏の本は「『論 理 哲 学 論 考』を 読 む」であって
「論考」が間違いとして捨て去られた後のことなんか問題じゃない。
当然、「スラッファの髭いじりの一撃」なんてどうでもいい。
>>171 僕の見解が問題になっているんじゃない。野 矢 氏 の見解が問題になっているんだ。
野矢氏が机や本を対象の例として挙げているが、そんな簡単な事ならどうしてウィトゲンシュタイン
本人が「対象」の例を一つも挙げられないなどということになったのか?
173 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 19:42:23 0
@の続き 例2.「机」や「椅子」や「本」が「対象」の例として挙げられている点。: Sehr klar wird das Wesen des Satzzeichens, wenn wir es uns, statt aus Schriftzeichen, aus raeumlichen Gegenstaenden (etwa Tischen, Stuehlen, Buechern) zusammengesetzt denken.(3・1431) A >「野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知」でないことは明白である。 について。野矢さんはWittgensteinの「対象」に関して次のように述べています。 「次の二点が問題になる。 第一に、〈樋口一葉〉等は厳密に言えば対象ではなく、対象の複合とされるべき なのだろうかという点。…」(野矢茂樹訳『論理哲学論考』,p.183,岩波(2004)) として考慮しています。 以上から、「野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知」であることは明白であるように 思われます。 三つ書こうかと思ったんだけど、面倒くさくなっちゃった。これぐらいでいっか。
174 :
ぴかぁ〜が来る前にコピペしとくか :2008/10/13(月) 19:49:39 0
175 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 19:49:46 0
>>172 >そんな簡単な事ならどうしてウィトゲンシュタイン本人が「対象」の例を一つも挙げられないなどということになったのか?
ウィトゲンシュタインの見解が問題になっているんじゃない。『論 理 哲 学 論 考』の見解が問題になっているんだ。
176 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 19:54:58 0
>>172 >野 矢 氏 の解釈が間違っていると書いて、それは何故かを説明したのだ。
だから何なんだ?勝 手 批 評 氏 の解釈が間違っていると書いて、それは何故かを説明したのだ。
177 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 20:11:43 0
>対象は「一定であり、不変であり、持続する」 結局、この部分の解釈が野矢氏と勝手批評氏では違うというだけのことだろう。
178 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 20:26:44 0
結局、ウィトがどういうことを言おうとしているのかが、論点じゃなくて、 ウィトのいってることはコウコウだが、野矢氏の解説は間違ってる、 てのを主張したいだけだろ。 ウィトの話じゃなく、完全に野矢批判になってる。 それを粘着質に長々とやってる。 だからだれも乗り気じゃない。それだけ。 終了
179 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 20:29:31 0
>>177 いやいや、違うんじゃね?
頭のつくりが野矢氏と勝手批評氏では違うというだけのことだろう。
ということだろwww
>>172 34頁読んどけ。折角の味方を背後から銃撃するとんでもないバカ論客だな。w
>本人が「対象」の例を一つも挙げられないなどということになったのか?
大嘘付くなよ。w 例示できなかったのは「要素命題」だろ。そんなことも知らないのか?
「低レベル哲学研究所」の糞議論そのものになってしまったな。糞コテはこれだから困る。
隔離スレでも自分で立てて引きこもってれば?
野矢と太田の会話を読んで、野矢って回り込んで逃げていく印象を持った。 核心に行かず周りをぐるぐる回っている印象も。
182 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 23:19:00 0
勝手批評はぴぁだったみたい
183 :
考える名無しさん :2008/10/13(月) 23:51:10 0
>>137 です。
勝手批評さんを心底怒らせちゃったみたいで、そのせいで彼、どこかにいってしまいました。
大変、残念で後悔しています。だって…
あんなにいじくってておもしろい低能な人なかなかいないもの(爆笑)
勝利宣言? バカみたい。
勝手批評を叩いている奴らって2ちゃんっぽいけど、今時の若い人って みんなそうなのか? なんか論理的に勝利したという感じじゃないね。 相手に呆れさせたというか。 明白な事実を突きつけずに爆笑とか書く奴のほうが低能だと思う。
>>180 とか明白な事実以外のなにものでも無いと思うけど。
187 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 00:53:11 0
>>185 >>183 です。ちなみに若いです。(20代)
私も前は2chで真面目に議論しようとしていたこともありましたが、
論理的には自分の意見に理があるときでも、叩かれます。
とくに@なまいき(
>>183 みたいに)なときやA議論が難解なとき
は叩かれます。だから、真面目に議論するのは止めました。
あなたは私を低能だというけれど、私はどちらかというと
人格障害です。人間が信じることができないので、バーチャルな世界で
(爆笑)とかやってストレス解消しているわけです。
だから、はっきりいって真面目に議論しようとしてないのではなくて、
誠実に議論をしようとすると叩かれるし、相手にされないからやらない
んです。(こういう気持ちわかってもらえるかな?)
まあいいか。こんなまじめな話をしてると皆またいなくなっちゃう
からな(爆笑)また、バーチャルな自分に戻りますよっと。
188 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 01:16:56 0
これではっきりした 今日の一連の当スレのカキコはぴかあの自演だ
189 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 01:19:58 0
最低ないきものだな
いろいろt解釈されるようでは、「論考」もたいしたことがない。 ということだ。 ウィトはなぜ数学で書かなかったのだろう。 たぶん書けなかったのだろうが・・・
対象=質料=物=システム だけど、あまり気にするなよ。 重要なのは「状態(=性質)」なんだから。
>大嘘付くなよ。w 例示できなかったのは「要素命題」だろ。そんなことも知らないのか?
思い出してもらいたいが、対象を直接代理・指示するところの名(辞)の集まりが
要素命題だったわけだから、根本的な問題は対象というものを特定できない、という所にある。
そもそも要素命題は論理学の中では当然のように扱われているもので、「要素命題の例」は
この意味では真偽が定まるのなら「なんでもよい」ものであろうから、問題を明らかにするには
対象という形而上学的概念の方であるべきだろう。
34頁読んどけ、というのが主語が抜けていてよくわからない。
>>171 >>173 @についてはそもそも自分が野矢氏の間違いと判断したのは対象を机やイスといった個体
と素朴にも見なした点にあるので「色」のことは言っていない。
Aについては全くこの文章は「対象」について言明した個所ではない。
「命題の記号が文字ではなく、空間的な事物(机、イス、本)で構成されていればその
本質が非常に明瞭になる」分かっててわざと書いたのだろうか?
何にしても「あれ、野矢さん、「対象」を素朴に机やイスとしてしまうと「論考」に於ける「対象」
や「事態」といったウィトゲンシュタイン独特の形而上学的な概念を完全に誤解して
しまいますよ。(実際にしてますよ)一応この本は「論考」の解説なんでしょう?」という
至極まっとうかつ明確な議論なのだが、誰一人耳を貸さない、というのは何とも奇妙だった。
みんな野矢氏の解釈を頭から信じ込んでいるのか、そもそも野矢氏の解釈など興味が無いのか。
「ただの野矢批判だ」なんて言うけど、別に自分は野矢氏に「お前のかあちゃん出ベソ」などと書いた
わけではなく、書いていることに整合性が無いという真っ当な「批判」だということ。(これが受け入れ
られないのなら哲学の議論なんて存在しないことになる)
端的に言って136,166で書いてあることを虚心坦懐に受け止めれば野矢氏の著作は「論考」解釈として
適当ではないことは明らかだと思う。
野矢さんの解釈のどこが間違いなのかわからないな。 机は一定で不変で持続するでしょう。
>しかし野矢氏の言うような机やコップが「一定であり、不変であり、持続する」はずがない。 >これらは明らかにウィトゲンシュタインの用語になる「事態」と呼ばれるべきものである。 机やコップそのものが「事態」だとしたら、 「机の上にコップがある」ということは「事態」ではなく何になるんでしょうか?
>>195 事実。(Tatsache) C・Kオグデンの英訳では事態はatomic fact、事実はfact
「そうであること、即ち事実は諸事態の成立である」(2)
Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
諸事態=Sachverhaltenが複数形になっている事に注意。
>>193 スレの流れ(空気)・コンテキストからすれば、34頁が野矢の『論理哲学論考を読む』
の34頁を指しているのは自明だろ?。カラケをもう少し感受して欲しいと思うね。
同書34頁には、「そこで図々しいお願いだが、この対立(奥雅博の解釈との違い)は
私が勝ったこととして先に進めさせていただきたい」とあるだろ?
つまり、君が指摘している問題箇所は、議論を展開するために仮設された哲学的思考
の叩き台なのだ。ということがきちんと明示されている。この点をきちんと了解して
いれば、議論の内容に対して思考実験のデモンストレーションなのだと、一定の距離を
置くことが要請されている事が解るはず。このような書き方は「考えさせる哲学入門書」
として妥当なあり様だろう。そこを純然な解説と単純に読み取っている君の読み方は誤読
と言わざるを得ないし、その誤読から展開する批判はナンセンス以外の何ものでもない。
それと、要素命題に関する扱いもまだまだ。記述されるべき命題とその命題が指し示して
いるであろう対象・事態とを混同している。論理学の書物なのだから、記述される側の論理
理解が先。だから、指し示している何かを概念として論ずるのは後でよい。単に、それらを
すり替えて形而上学的概念の議論はナンセンスというもの。
総じて、君の議論は思考実験し損ねている未熟な読者の書き殴りという印象を越えない。
批判というレベルにはとうてい達していないと思うね。
それから永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」56pに 「・・・・要素的な事態が結び付いてできた複合的な事態は“状態”と呼ばれる」 とあるが原著のどこの部分なのか分からなかった。誰か分かりますか? Tatsacheを事実と状態とに訳し分けているとも考えられる。 確かに成立している事態の事も「(プラスの)事実」と呼んでいるので混乱を招くけど・・・
>>197 ああ、ようやく分かった。なぜ34pで分からなかったと言えば、僕が参照している
のが文庫版の「『論考』を読む」であって、その当該個所はこちらでは39pということになる。
いずれにしろ、奥雅博の解釈など最初から眼中に無い。その「勝った事」になっている野矢氏
の解釈が間違っているのだと主張しているのだから。しつこい事この上ない。
>君が指摘している問題箇所は、議論を展開するために仮設された哲学的思考
>の叩き台なのだ。
と言うが166で書いたようにこの人には(「対象」の解釈について)そんな深謀遠慮など
無いことは明白だ。できる事なら手元にある「『論考』を読む」と僕が薦めたマルカムによる
「Nothing is Hidden何も隠されてはいない」第一章「世界の形式」第二章「言語と対象」
とを読み比べてもらいたいのだが恐らく後者はもう日本語版は絶版なのだろう。
わざわざ英語で読むのも面倒だろうし・・・・
>記述されるべき命題とその命題が指し示して
>いるであろう対象・事態とを混同している。
僕は「対象」の話しかしていないのにどうやったら命題の話と混同する事があるのか。
>論理学の書物なのだから、記述される側の論理理解が先。
言っておくが「論理哲学論考」は(題名そのままに)論理学を哲学的に考察したものだ。だから
>形而上学的概念の議論はナンセンスというもの。
などと言った所で、対象は単一だとか不動だとか持続するだとかいったことからこの書物が
書き始められている以上、そういった形而上学的概念を相手にしなければならない事は明白ではないか。
>>形而上学的概念の議論はナンセンスというもの。 >などと言った所で、対象は単一だとか不動だとか持続するだとかいったことからこの書物が >書き始められている以上、そういった形而上学的概念を相手にしなければならない事は明白ではないか。 そんなことは別に明白でもなんでもない。 『論考』の可能性をどこに見出すかというきわめて実質的な問題。 そこが分からないようでは、たんなる『論考』ファン、『論考』マニアと言われても 仕方が無い。
「論考」の可能性なんてどうでもいい。とにかく136と166で書いた指摘について どう考えるのかだ。そもそも野矢氏の「『論考』を読む」を薦めている人が多いので どうやらみんなよくよく原典の方を読まずに野矢氏が正しいと思っているらしい ので同書の重大な問題を挙げたまでだ。原典と同書、(できればマルカムの本も) そして136と166で書いた指摘をとみこうみしながら自分で考えて欲しい。
だからさ、机もコップも一定で不変で持続するでしょ。
ボクちんの話を聞けー てのがウザイです。
勢いのあるスレでつね
>>193 >そもそも要素命題は論理学の中では当然のように扱われているもので、
どの意味だよ。
「一定であり、不変であり、持続する」もの(=「対象」)を
直接代理・指示するところの名(辞)の集まり、
という意味での要素命題なんて論理学じゃ出て来ないよ。
論理哲学論考は論理学に関する本だとか思ってる人居るけど、
論理学としての内容なんて命題論理に関して
一時間も講義すればお釣りが来るくらいの内容しか書いてない。
206 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 18:38:23 0
まだ自演やってるんだ。いいかげんやめてくださいよwww それにどちらも何度も何度もだらだら長文書いてる割には 論点の「対象」についての自分の(ウィトの)解釈をいつまでたっても述べない いや、わざとかな?www 話を引き伸ばしてスレを盛り上げようってかwww
>>199 対象という語は日本語だから、それなりの語法がある。
「新橋駅前でサラリーマン100人を対象にアンケートをとりました」
「今、俺がセックスの対象にしている女は3人。でへへ」
とか。特定は当然可能。
野矢本の単行本の34頁近辺を読むと、ウィトゲンシュタイン的な概念としての、
「対象」と上述のような日常的な日本語の語法による[対象]とは、明らかに「」
の有無でその使用が区別されている。君は単純にその書き分けを無視して因縁付
けているだけのようだね。あきれたことだが。そんだけ。ということで、日本語でおk?w
それと、要素命題の扱いはもうちょっと大切にしてほしいものだね。原子論的な
論理的な整合性への志向(嗜好w)から、ウィトゲンシュタインは事実を事態や
対象といった概念に内分して論じているわけだが、日常言語な視点から無理があ
るのは本人も重々承知のこと。「対象」概念のある種の形而上的、人工的な意味
合いは野矢の言責ではないわけだし。君のヘタレな批判とは無関係だろ? w
俺のカップ=事実 彼女のカップ=事実 俺の部屋にある彼女のカップ=対象w 彼女のカップにストローを挿して二人で飲む=事態w なんちゃってw
209 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:10:29 0
>>193 勝手批評さん。
あなたの議論に則ると、「あの青色」は「一定であり、不変であり、持続する」ものなのですか?
それを立証しないと私の反論に対応したことにはなりませんよ。
「空間的な事物」と訳していますが、ウィトゲンシュタインの文章をそのまま
書きますと、「Gegenstaenden」であなたが問題にしている「対象」にあたります。
嘘をつくのはやめましょう。
>至極まっとうかつ明確な議論なのだが、誰一人耳を貸さない、というのは何とも奇妙だった。
いいえ。他の人のあなたに対する批判は(想像できますが)おいておいて、
私があなたを批判するのは@あなたの『「論理哲学論考」を読む』に対する
批評が非本質的であること、Aあなたが議論では不誠実でありながら、ちょっと血のめぐりが
悪いので、相手をしていると面白いからです。(笑)おもちゃ売り場でダダをこねている
赤ちゃんを相手にしている気分です。爽快
210 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:15:43 0
>>199 >しつこい事この上ない。
そりゃ、あんたのことだなwww
>>191 > 対象=質料=物=システム
> だけど、あまり気にするなよ。
> 重要なのは「状態(=性質)」なんだから。
これでいいじゃん。
「一定であり、不変であり、持続する」なんて言葉遊びさ。
212 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:42:01 0
>>193 もう一点。
>Aについては全くこの文章は「対象」について言明した個所ではない。
ヒステリーを落ち着かせたのはいいんだけれど、嘘をつくのはだめよ(苦笑)
そのことを証明しなくっちゃさ、勝手批評さん。ナンセンスだよ。
もう一度かいておきましょうか。
A
>「野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知」でないことは明白である。
について。
野矢さんはWittgensteinの「対象」に関して次のように述べています。
「次の二点が問題になる。
第一に、〈樋口一葉〉等は厳密に言えば対象ではなく、対象の複合とされるべき
なのだろうかという点。…」(野矢茂樹訳『論理哲学論考』,p.183,岩波(2004))
として考慮しています。
以上から、「野矢さんはあなたが言うようなことは百も承知」であることは明白であるように
思われます。
213 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:46:31 0
>>212 の続き。
ちなみに上の野矢さんの発言は、『論考』の
2・01「Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenstaenden (Sachen, Dingen)」
(事態は諸対象の結合である)
のGegenstaenden(対象)についての注ですから、
>>166 であなたが
>自分も最初は(略)そんな深謀遠慮は一切無く、
同書39pでは「事態は諸対象の結合である」(2・01)がおかしくはないか?と問い、
(略)などと書いている。
としていますから、
ここで野矢さんが問題にしている「対象」があなたが問題にしている「対象」と
同一であることは明々白々です。
というより、言い逃れできません。(大爆笑)
214 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:58:24 0
>>213 ですが、勝手批評さん。
またまた私の意見を簡単に要約しましょう。
「自分に嘘をつくのなら中途半端はよくありません。
自分が正しいと思うのなら、正々堂々と潔く。
さもなくば、完璧な嘘つきになりましょう。」
あなたはどちらにもなりきれていません。
中途半端にプライドがあり、中途半端に知識を持っていて、中途半端に意見を主張し、
中途半端に自己弁護する。
まあ、私もあまり暇じゃないからもういくけどさ、がんばれよ、詐欺師さん。
215 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 22:59:37 0
まんせー自演スレ
216 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 23:02:40 0
>>213 ですが、勝手批評さん。
またまた私の意見を簡単に要約しましょう。
「自分に嘘をつくのなら中途半端はよくありません。
自分が正しいと思うのなら、正々堂々と潔く。
さもなくば、完璧な嘘つきになりましょう。」
あなたはどちらにもなりきれていません。
中途半端にプライドがあり、中途半端に知識を持っていて、中途半端に意見を主張し、
中途半端に自己弁護する。
まあ、私もあまり暇じゃないからもういくけどさ、がんばれよ、詐欺師さん。
217 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 23:50:52 0
>>213 ですが、勝手批評さん。
またまた私の意見を簡単に要約しましょう。
「自分に嘘をつくのなら中途半端はよくありません。
自分が正しいと思うのなら、正々堂々と潔く。
さもなくば、完璧な嘘つきになりましょう。」
あなたはどちらにもなりきれていません。
中途半端にプライドがあり、中途半端に知識を持っていて、中途半端に意見を主張し、
中途半端に自己弁護する。
まあ、私もあまり暇じゃないからもういくけどさ、がんばれよ、詐欺師さん。
218 :
考える名無しさん :2008/10/14(火) 23:59:44 0
>>215 こんなの自演したって面白くないよ。
実際のバカを相手にしないとウキウキしない。
220 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 01:45:59 0
>>219 ははは、うまいな、君。
>>196 >>「机の上にコップがある」ということは「事態」ではなく何になるんでしょうか?
>事実。
へ〜え。う〜ん、勝手批評って知恵遅れか何かかな?
問題はそこだよな。(彼の批評が当たってるかどうかなどではなく。)
…ちなみに、今私の前にある机の上にはコップはありません。
もうちょっとちゃんと『論考』読もうな。
>>209 「論考」の「対象」に机やイスや本は当てはまらない、というのが批判のポイントだと言っているのだが。
「あの青色」が「対象」かと聞かれれば青色が不動で持続するとはどういうことなのか、
はっきり言って「対象」の例が挙げられないような有り様なので分からない。そもそも
「論考」の枠を越えている。
Gegenstaendenは確かに「対象」ではあるが、ここの文意は明らかに「命題の記号が文字ではなく
<もの>で置き換えれば、それら<もの>相互の空間的な配置が命題の意味を表現する」
ということで、この場合には「机の上に本が置いてある」というのをそのまま机があり、
その上に本が置いてある実際の状況に置き換えてみればその配置がそのまま命題の意味を
表現するということなわけで、決して「不動で持続する」ような形而上学的「対象」の意味で
使われていない事は明白だ。
>Aについては全くこの文章は「対象」について言明した個所ではない。
これはAではなく、上の(3・1431)の引用についてのものだった。
「次の二点が問題になる。
第一に、〈樋口一葉〉等は厳密に言えば対象ではなく、対象の複合とされるべき
なのだろうかという点。…」
語るに落ちるとはこのことではないか。対象の複合というのなら、〈樋口一葉〉等は
事態なのだ。しかし少なくとも「『論考』を読む」の時点ではこういうことは一切
言われていない。「『論考』を読む」についての批判だと何度も言っているので他の
本からの言及を持ってこられてもしょうがない。野矢氏は文庫版で改訂のチャンスも
あったのにそれをやっていないのだから、基本的な考えは少なくとも2006年頃までは
変わっていなかったのだろう。
222 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 02:38:38 0
>>221 う〜む、なんか勝手批評さんが萎えてきてるな。私もちゃんと答えようか…
第一に、Gegenstaendenについてはあなたの意見はすじが通ってると思う。
ただし、そうすると、勝手批評さんのいう「対象」の概念が
『論考』のどのGegenstandに対応しているか不明瞭になると思うのですが。。。
第二に、
>「論考」の「対象」に机やイスや本は当てはまらない、というのが批判のポイントだと言っているのだが。
について。怒らないでね。これってはたしてcrucialな問題でしょうか?
たとえばさ、素朴に考えると上の文章の「机」や「イス」を「対象」のAやB,Cに置き換えたら、直ちに
>「論考」の「対象」にAやBやCは当てはまる
ということになるでしょう?
これは正直にいうんだが、形式的な問題じゃないかしら…私は思う。
たぶん野矢さんは問題を単純化するために身近な例をとって考察してみた
のだろうと思います。
勿論、見解の相違はあるので、あなたが「これは重要だ」と思うなら
それ以上の議論は不可能でしょうね。
野矢なんかどうでもいいだろう。 野矢スレでやれ。
>>222 幼稚だな。 つまらん事に拘るなよ。
それよりも、
ウィトゲンシュタインとアインシュタイン
を比較せよ。
机は机でしょ。本は本だ。一定で不変で持続してるじゃないか。
そう、机は机。本は本。 1兆年どころか永劫無期限保証の媒体に記述すれば その記述は永劫無限に一定で不変でありつづけるだろう。 ことばで活写記述された事実の痕跡さえ雲散霧消した後でも。 そんな媒体の有無は実はどうでもいいこと。
>>222 ふぅ、やっとまともに議論してくれる人が現れた・・・・実際かなり萎えていた・・・
確かに「論考」はウィトゲンシュタインが「当時は論理学者として考えていた」とマルカム
に語っているようにあくまでフレーゲ・ラッセルの築いた現代論理学をベースに彼独自の
形而上学的概念をそれの下支えにした風変わりなもので、そこで導入した形而上学的用語
に無理があったわけで。「対象」はその根本にあるものだ。でもその間違いを野矢氏の解釈
では飛び越えてしまうことになる。
>これってはたしてcrucialな問題でしょうか?
野矢氏の「『論考』を読む」を何の疑問も無く受け入れてしまっている人々にとっては。
(ということはcrucialではないのか、な?)でも実際この本を薦めている人が多いので
みんな、「事態は諸対象の結合である」(2・01)を「机の上に本を置く」(「読む」文庫版
39p)だと素朴に考えているのだとしたら、論考の1から2・063までがなんだったのか
よくわからなくなってしまうのではないだろうか。
実際、野矢氏の問題は文庫版30pから31pにかけて「現実化していない可能性など、現実には
何一つ無い」と言い、可能世界がどこかにある、という気分をなくすべきだ、という
野矢氏の基本方針(実無限ではなく可能無限)を導入してしまったので、「論考」の
「対象」を現実のものである机やイスと解釈する(せざるを得ない)事になってしまったのだろう。
実は野矢氏の可能無限、可能世界否定の立場は個人的にはかなりシンパシーを感じるのだが
「論考」の解説ではやってはいけなかった。永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」は簡潔
だが要を得た解説で野矢氏のように妙な事にはなっていない。それから再三勧めるがノーマン・マルカム
の「何も隠されていない」は入手できるのならそれに越した事は無い。信頼できる。
>>225 私もそれ賛成です。
言語が可能であるために世界はどうあらねばならないかというのがウィトゲンシュタインの基本的発想だから
指示表現が有意味であるためには指示対象の側の何らかの意味での一定性や永続性みたいなものが必要、
ということになるんじゃないかな。形而上学とかではなく言語の話としてね。
>>225 それなら机や本はそれ自体は分解する事も組み立てる事も出来ないことになる。
いきなりそれら机や本がその形のまま僕らの目の前に現れて永遠不変に壊れないと?
文字通りに受け取っては意味が通らない証左ではないのか。
>>228 >言語が可能であるために世界はどうあらねばならないかというのがウィトゲンシュタインの
>基本的発想だから
いや、「論考」の時点ではウィトゲンシュタインは命題(普通の言語で真偽が定まる文)
がちゃんとした意味を持つためには命題を構成する要素命題、更には名(辞)が実在と対応
していなければならないと考えた。自動車事故の裁判の記事を読んで着想した「写像理論」
とはこのことだ。この人形は実際の被害者、この箱は自動車、そしてそれらの位置は実際の
事故現場のそれぞれの位置を示している。それ故にこの裁判で用いられる模型の描写には
意味があるのだ、と。(もちろんこれは後に撤回される事になるのだが)
言語論的逆噴射w
>>229 机は机として、本は本として不変なの。
分解したり、壊れたりしたら机や本でなくなるだけ。
232 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 15:28:26 0
>>231 観念論を持ち込んだら、分析哲学が分析哲学でなくなってしまうよ。
もともと、分析哲学は起源からして反観念論的です。(ラッセルとヘーゲル)
ここに机がある。 この机に火をつけて燃やしてみましょう。 灰になりました。もう机はどこにもありません。 三回「机」が出てきた。この三つの机は同じものだ。つまり、 この三つの「机」の間に、「一定で、不変で、持続的」関係がある。 ということだよ。
234 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 15:38:47 0
へ、ヘーゲル?
235 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 15:41:01 0
>>233 つまり分析哲学の大前提として、そうした形而上学があるということですね。
>>233 すごく分かりやすいです。それを無理やリ形而上学の話とかに誘導する方がおかしい。
237 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 16:12:36 0
分かりやすくてよかったですね。 形而上学の話はわかりづらかったようですが。
言葉遊びだな。 計算できなければ話にならん。
239 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 21:29:39 0
計算できることには発展はない。 計算はただの変換操作に過ぎない。
240 :
考える名無しさん :2008/10/15(水) 22:02:53 0
またつまらなくなってきたな。 勝手批評、何かばかなこといえよ。
私は<私>ではない。
242 :
雀蜂の巣 :2008/10/20(月) 19:19:34 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
243 :
考える名無しさん :2008/10/21(火) 07:49:08 O
論理哲学論考の「幸福」と「生きる意志」がわかりません。 誰か教えて下さい。
244 :
考える名無しさん :2008/10/22(水) 16:47:00 0
245 :
考える名無しさん :2008/10/22(水) 17:40:11 0
もう一回ゼルダヘ
246 :
考える名無しさん :2008/10/22(水) 21:29:24 O
美とか倫理もよくわからん。
>>243 本は批判的に読むべきです。
多分、ウィトもわかっていないでしょう。
248 :
考える名無しさん :2008/10/23(木) 18:34:45 O
論理哲学論考をニヒリズムとして読もうとする人は、最後の方で倫理=論理みたいな感じのとこが出てきたり、 倫理学講話で、倫理を尊重する、みたいに出てくるのに対応出来ないね。 それ以前に論理形式とか事態/事実の認識がどのようにして可能なのかが分からないんだけどね。 論理形式の把握は経験に依存する!生きる意志に満たされて幸福に生きよ! ってなると実存主義になってしまうけどいいのかな。
西洋の論理学はヘーゲルとかウィトにしても人間の論理学である以上 倫理と切り離せない。
フォン・フィッカーへの手紙のコピペでも読んどけ。 この本(論理哲学論考)の狙いは倫理的なところにあります。かつてわたしは、序文のなかに、 現在は事実としてそこには含まれてはいませんが、ある文を含めておこうとしました。 しかし、ここではあなたのためにそれを書き記しておきたいと思います。それはあなた にとって、おそらく、本書への鍵になるでしょうから。当時、記しておこうと思ったのは こうでした。わたくしの仕事は二つの部分からなっている。ここに提示されたものと書かれなかった いっさいとである、と。そして、重要なのは、まさしく、この第二の部分です。 わたしの本は、いわば内側から倫理的なものの領域に限界を引こうとしているのでして、 わたしの確信からすれば、これがそうした限界を引く唯一の厳格な方法なのです。 手短にいえば、こんにち他の多くの人びとがまさにおしゃべりしているところで、わたしは、 じぶんの本のなかで沈黙することにより、あらゆるものをそのあるべき場所にしかと据えたと 信じています。またその理由からして、もしわたしにして大きく誤っているのでないとすればの 話ですが、この本は、あなた自身がいわんとしたことについても多くを語っていることになるでしょう。 もっとも、あなたには、この本の中でそれが語られているということがわからないかもしれませんが。 いまわたしは、あなたには、序文と結論を読んでもらいたいと思っています。 なぜなら、それらは、この本の狙いを率直に表現しているからです。
251 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 20:56:29 0
結論とはこれかな? 7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 これこそ非論理・非合理な命題だね。 「語りえぬ」とは「語ることが不可能である」ということだろ。 不可能な物事はどのようにしても不可能だから「沈黙せねばならない」 なんてことは言わずもがなだ。「沈黙する」だけでよいし「沈黙する」と 言う必要もない。
ウィトは日本語で「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 」などと書いたわけではないのに。
253 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:12:24 O
翻訳の言葉尻とってどうするの
254 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:13:41 0
じゃ翻訳が間違っているというんだね?
255 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:15:05 O
「正しい翻訳」の定義は?
256 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:17:25 0
↑ 不可能な物事について語ってる人がいるよ
257 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:23:46 O
さっきから君が使ってる「物事」という言葉を見ただけで程度が
258 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:29:25 0
>>248 論理式:A=B
の前提はAがAである理由があるが、
通常何らか倫理が必要じゃないか?
特に論理では?
これAでいいや〜って感じなのか?
259 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/10/26(日) 21:33:35 0
ヴィトゲンシュタインがいつしかウィトゲンシュタイン。 までも、ヴぃとちゃんは、結構分かりやすい。
260 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:34:20 O
>>258 倫理の話でカバーしようとしているのがそういう問題ではないことは、
倫理学講話なんか見ていたら分かると思うけど。
261 :
258 :2008/10/26(日) 21:37:31 0
少なくともA=Bの両項の単位が違った だけで、人は比較できない。 単位は厳格な倫理規定のひとつ?
262 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/10/26(日) 21:43:59 0
>>261 厳密さ厳格さに拘ると
比較不能に陥るだろうw。
ある何がしかの物事を比較できるのは、
それら物事が似ていることに起因するw。
極度に抽象的で御免なwww。
263 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 21:47:12 0
友情のエチカってなんですか・。 スピノザとどう繋がるのですか、フジTV?・・・・・w。
264 :
258 :2008/10/26(日) 21:49:23 0
>>262 厳格なというより、単純なでもいいのか?
俗に言う政治判断は、単位無用のようです。
カテゴリーすっ飛ばして、こっちみたいな。
>>233 くっだらねー。形而上学でもなんでもないだろ。
どの「机」も1つの机(その机を知覚した瞬間の内的現象)を指しているに過ぎない。
266 :
考える名無しさん :2008/10/26(日) 22:14:03 0
>>264 >単純なでもいいのか?
分かりやすい表現で共感できるレスならOKだ。
>>251 >7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
>これこそ非論理・非合理な命題だね。
あたりまえだろう。 詩なんだから。
アタマ大丈夫?
論理哲学論考は「計算法」が書いてないから、 ダメなんだな。
「計算法」w
271 :
考える名無しさん :2008/10/27(月) 17:03:59 0
>ヴィトゲンシュタインがいつしかウィトゲンシュタイン。 「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い。」
272 :
考える名無しさん :2008/10/27(月) 17:12:55 0
>カテゴリーすっ飛ばして、こっちみたいな。 秀逸な表現だね。 気に入った。メモメモ!
>259 >271 ヴィト&ウィトの読み方へのこだわりって、たいてい ヴィトが正しいとか言いたい知ったかサンの定番ネタだよね。w それこそ70年代始めくらいには活字ネタになってる。 実際の所、ウィトが生きていた頃に本人確認がなされていて、 「どっちでもいい」という本人確認がとれているはず。 ウィトが教授職を得ていたのはイギリスで、英語圏での活動も長いわけ だから。オーストリア・ドイツ語読みに当人自身こだわっていなかった。 日本では、大修館の全集が「ウィトゲンシュタイン全集」だから、それら 先人の翻訳努力に一礼するのであるならウィトでいいのでわ? 等と云っても、ドイツ語を前歯でかじった程度の初学生が繰り返しネタにして グチャグチャいうんだろ〜なw
274 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 18:09:44 O
より正確には ウィットグェンシュタァイィン かな。
275 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 18:13:53 O
本人がこだわっていなかったから、気にしなくていいというのはどうかと思う。 沢田さんに、ホントはサワタだけど私気にしないからサワダでもいいよと言われてじゃあサワタ、サワタと呼びますってそれは失礼よ。そんな人いないわ。
276 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 21:32:43 0
ドイツ人ではなくオーストリア人だから「ウィトゲンシュタイン」という発音が正しい と黒崎宏先生はよく仰っていたが…。
277 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 21:38:15 O
正しいとは何か?
278 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 21:47:03 0
ドイツとオーストリーで発音が違うということでは?
279 :
考える名無しさん :2008/10/28(火) 22:00:53 0
どうでもいいじゃん。 イギリス人だって 「ヴィットゲンシュタイン」っていってたよ。
ヒトラー ヒットラー ハイデガー ハイデッガー ショーペンハウアー ショーペンハウエル
281 :
考える名無しさん :2008/10/29(水) 15:35:16 0
ルートゥヴィック→ルートヴィヒ
283 :
考える名無しさん :2008/10/31(金) 20:11:49 O
クラシック板、哲学板はじめ、どこの板でもこの手の話は盛り上がるけど、 はっきり言って、つまらないよね
>>283 面白くない。といえばそれまでだが、ウィトの後期の考え方や視点のある部分が
先の「名前の発音の正しさ問題」を一例とする、「ルールの妥当性と適用計算」
に向けられている。と理解するなら、一考の価値はあるだろ?
人名呼称の正しさは「外来語のカタカナ表記ルール」だけでは裁定できない。
それこそ、Wittgensteinという名の呼称の正しさは、その名を呼称する人の数だけ
差異があり得るだろ? 一般論として大雑把に言えば、言葉の意味や語法も同様。
同じ語を用いて会話をしても齟齬や議論の余地が生じるのは人それぞれ「my理解」で
語を用いるから。また同一人物においても、人生の局面局面で同じ言葉でも意味理解
は異なる。「誤用は失礼」と考える人には語の使用に道徳倫理さえ絡んでいる。w
ルールや言葉の意味の「my理解(解釈)、my適用、my語法」は毒ガロンの発展形だと思うよ。
そのルールや語意の「my理解(解釈)、my適用、my語法」による言語行為が「言語ゲーム」。
「my言語プレイ」なのでは?
そう思えるなら、カタカナ表記の話題もなかなか捨てたものじゃなく見えてくるのでは?
ま、だから、ウィトの後期の思想は面白くないと思う人が多いのかもしれないけどね
哲学的には「前期の思想は面白くない」のほうがセンスある気がする。 まあ前期は文面から垣間見える高慢さ、独断なんかが 逆にファンの多い原因となっているのかもしれないけど。
286 :
考える名無しさん :2008/11/01(土) 10:44:56 0
>>285 「論理哲学論考」は命題の有意性に明確な基準、ルールを示しているから分かり易い。
ただ、ことばの有意性という観点で見れば不十分だろうし、一般論としての基準、ルール
の提示が個々人の解釈の差異を覆い隠してしまう。それに強度な規範性の提示は弱い
読者がそれを読むと躊躇なく強靱と思いこみ追従しやすい。そうした信奉者を多数生み
出してしまうこともある。Wiener Kreisはその例。
レイ・モンクの伝記にウィトは「論考」と「探求」を「旧約聖書」「新約聖書」との対比理解に
似て理解されるべきだと語った。とあるが、旧約がパリサイ人のような規範追求者を多数
排出し、その規範追従主義から人々を解放する役割を新約が背負ったように、「論考」の
規範主義は「探求」の「言語ゲーム」あるいは有意性は人それぞれの文脈理解に基づくと
して、理解者個々人に投げ返すことで、「論考」の読者がはまりやすい規範主義から脱却
する道を示したのだと思う。
そういう意味で、対比対照して理解すべきだと思うな。
288 :
考える名無しさん :2008/11/01(土) 12:57:28 0
>>286 2ちゃんの哲板では、「マイ哲学」なスレとかレスがイパーイあるけど、すごく面白い状況だと
思う。見てばわかるけど、「マイ哲学」はスレにカキコすれば、たいてい叩かれる。なぜかと
いえば「俺の哲学理解は一般論として正しい」と主張されることが多いから。
極端なことを言えば、後期ウィトは「哲学はすべからくmy哲学である」と言っているようなもの。
数学だって「my数学」なんだとか。まあ、こんなことを言うから数学者達からは見向きもされて
ないw。ただ、それは日常言語で語られざるをえないから、語った瞬間、記述した時点でmy理解
なmy哲学も一般論の仮面をかぶることができる。ここが日常言語の[神的]に凄いところなんだ
と思うなあ。ウィトも日常言語にある種絶対の信頼を置いている。「考え・理解」の毒ガロン的な
「私性」が言語記述で解消し得ている。「名無し」を個人特定できない2ちゃんも凄いがw
俺は「哲板」の「マイ哲学者」にはどんどん暴れて欲しいと思ってるw 対して異議あるものは叩き
もどんどんやって欲しいと思ってる。お互い感情が露出するほど叩き合わなくては、感情が哲学の
ある側面を支配しているということも分からないだろうし、議論がある種のルールに支配されている
ことも体感できないであろうから。これは実践だよ。実戦w。実現手法として「お下品」ではあるけどさ。
要するに君らはジャック・デリダが明らかにした「エクリチュールの伝染性・一般性」というものに 既に無自覚に毒されているのだよ。言葉は現象を言葉(エクリチュール)として記述 した時点で、ある種の「一般性・カテゴリー性」をもってしまう。 そして「一回性」を消してしまう。つまり、A子さんとB男くんの「二人の間の文通」ですら、 誰かに読まれれば「理解」され、「評価の対象」になってしまう。 つまり、本来A子さんとB男くんのあいだの「想い」は「二人の間」に限定されている はずだった。しかしテキストになり誰かに読まれた時点で限定が外れその「想い」が 「一般化」してしまう。 例えば「アンネの日記」や「カフカの日記」をわれわれは読み、「想い」を感じてしまう。 カフカは100年先の日本の誰かに向けて日記を書いたわけではないのに。 この時空を超える「想いの伝染性」を可能にするのが「エクリチュール」なんですね。 だから本当に「自分だけの想い」は、言葉に出来ない。 逆に言えば私が言葉にしなかった「想い(今日の喫茶店のカレーはいまいちだったな)」 とかは、決して「物理法則」に還元できないわけです。 だって、私以外に誰も観測してないのだし。これからもされないのだし。反論できますか?
デリだ? お呼びしてないのに。
コピペじゃね?
きょう、だいがくで、てつがくをおそわりました。 せんせいは、「せいとうか」にはおわりがきちゃう、とおっしゃいました。 だから、さいしゅうてきには、「とにかくわたしはこうする」としかいえないそうです。 びっくりしました。ちゅうにびょうかな?とおもいました。 じっせんがさきにきて、ろんりほうそくはあとづけだそうです。 ぼくがおもうに、ウィトはあるいみ、あたまがよすぎたのだとおもいます。
293 :
白蟻の巣 :2008/11/15(土) 18:47:32 0
294 :
白蟻の巣 :2008/11/15(土) 18:48:42 0
295 :
白蟻の巣 :2008/11/15(土) 18:49:47 0
296 :
考える名無しさん :2008/11/15(土) 18:50:40 0
297 :
蜘蛛の巣 :2008/11/16(日) 03:40:58 0
298 :
蜘蛛の巣 :2008/11/16(日) 03:42:20 0
299 :
蜘蛛の巣 :2008/11/16(日) 03:43:16 0
300 :
考えるン無しさん :2008/11/16(日) 03:44:05 0
301 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 04:12:30 O
>>288 すべからくの使い方が間違ってる。
ヴィトゲンシュタインスレなら日常言語をきちんと使いましょう。
>>301 それは君の誤読。全てという意ではなく、当然・必然的にというニュアンスで読んでね。
303 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 15:52:42 0
誤読じゃないだろw 「須く」が「すべし」「であるべき」「でなければならない」などで 終止してないんだから間違いだよ。 「須く」だけで当為を意味しているなんて、恥ずかしいいいわけにしか聞こえない。
Wittgensteinは、何が誤用で何が正用法かについて、 偉い国語の先生が言うのが正しい、とか 国語辞典に載っている伝統的な用法が正しい、とか そんなアホなこと言わなかったと思うけどなあ。 「ああ!」という感嘆詞に誤用とかそんなのがあるかい?
305 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 17:40:40 0
さあ
まあでもWittgensteinなら「美しくない」とは言ったかもね
307 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 18:26:02 0
構文形式として、「〜べきである」という記述が欠落しているから誤りだというのは片足落ちだろう。
それでは、その文章が意図的に省略記述されていたかどうか判別つかないであろうし、そもそも
そうした形式的な正誤判別の妥当性について考慮が不足してる。
>>288 の文でいえば、
「哲学はすべからくmy哲学である。と人は理解すべきである。」
と解されてもよかったはず。「すべからく」で始まる文が言い切りで終わる場合、そのような文章は
『すべからく、上述のような末文が省略されていると解され得る。』 なぜなら、書き手の意図は、
一般的にそのようなことが当然言い得るであろうと考えているのであろうから。そうあるならば、
あえて「…と人は理解すべきである。」などと書き添えるのは蛇足でしかないだろう。よって省略。
ただ、その種の記述でも、コンテキストにおいて、「すべて」という意味を強調しているだけであるなら
誤用だといえるかもしれない。そこは書き手の表現力、読み手の解釈力しだい。
>>288 でいえば、
『ただ、それは日常言語で語られざるをえないから』以降を読んでもらえば、「哲学はすべてmy哲学である」
とは言っていないと、自ずからわってもらえると考えていた。どうもそう解されてはいなかったようだね。w
309 :
考える名無しさん :2008/11/23(日) 21:08:29 0
自分の卑しさを隠そうとする人間が一番卑しい
>その文章が意図的に省略記述されていたかどうか判別つかないであろうし どんな意図で省略するんだよw 「Aだ。」と「Aであるべきである。」では 使われ方、用法が同一ではないんだから意味も違うだろjk >蛇足でしかないだろう。 「須らく」は蛇足だったってことですね。わかります。
つうかそもそも用例に正しい間違いなんて無いんだよね。 多い少ないの違いしかない。 もちろん余りにも少なすぎると、もう当人にしか意図が伝わらないわけで そういうのは間違いと言っても良いだろうが。 誰も「新しい」は「あらたし」の誤用とか、 或いはislandのsは実は無いのが正しい (或る時期に羅典語のinsulaとの類推から s が入れられるようになったが 実はislandとinsulaは語源的には別の語)とか言わない。 それはそうと、どんな意図で省略したんだ?多分省略した本人しか分かってないぞ?
もうやめて!
>>288 のライフはゼロよ!
てか誤用指摘飽きた。
そんなことより茶色本の読書感想文を誰か書いてくだちい
315 :
雀蜂の巣 :2008/11/27(木) 14:25:46 0
316 :
銀狐の巣 :2008/11/27(木) 14:27:58 0
317 :
海燕の巣 :2008/11/27(木) 14:29:43 0
318 :
考える名無しさん :2008/11/27(木) 14:30:46 0
320 :
◆fVJ7IYRI/k :2008/11/30(日) 09:43:48 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
321 :
◆ckf1Jqop8. :2008/11/30(日) 09:45:55 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
322 :
◆ckf1Jqop8. :2008/11/30(日) 09:47:15 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
323 :
◆ckf1Jqop8. :2008/11/30(日) 09:47:53 0
世界とは不条理である
324 :
考える名無しさん :2008/11/30(日) 09:48:48 0
世界とは不条理であって不合理ではない
325 :
考える名無しさん :2008/12/01(月) 22:51:57 0
326 :
考える名無しさん :2008/12/01(月) 22:53:47 0
327 :
考える名無しさん :2008/12/01(月) 22:56:44 0
328 :
考える名無しさん :2008/12/01(月) 23:00:15 0
329 :
山羊の巣 :2008/12/04(木) 07:57:12 0
330 :
蝙蝠の巣 :2008/12/04(木) 07:58:11 0
331 :
鸚鵡の巣 :2008/12/04(木) 07:59:17 0
332 :
考える名無しさん :2008/12/04(木) 08:00:41 0
333 :
考える名無しさん :2008/12/04(木) 17:45:30 0
334 :
考える名無しさん :2008/12/04(木) 17:46:02 0
335 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 05:23:52 0
思考の限界と言語の限界が合致する根拠を教えてください。 ここがさっぱりわかりません。ウィトの独断でしょうか?
言語の限界が世界の限界と合致するんじゃなかったっけ?
337 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 12:42:36 O
>>335 思考は言語によってのみ可能だからじゃない。
>>335 一致しないと仮定してみる。
そうすると、
「どちらか一方の限界を超えている」
かつ
「どちらか一方の限界を超えていない」
という領域が存在する事になる。
言語の限界を超えている領域の場合は、
>>337 の理由によって思考の限界を超えていることになる。
では、思考の限界を超えている領域の場合はどうか。
思考の限界を超えたところで、言語が成り立ちうるのか。
「言語」というものを、どう考えるかによってもこの問題は変わってくると思う。
339 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 22:05:14 0
なるほど。論考でそんな箇所説明されてましたか? 思考の限界を直接明らかにできないから 言語の限界を明らかにすることにより 間接的に思考の限界を明らかにした本が論考だと思ってます。 でも、それが可能である前提として 思考の限界と言語の限界が合致することを 説明すべきではないかと思いました。 論考において、なぜそれらが合致するのかを どなたか説明して頂けないでしょうか?
というか論考は説明とか無いし。 こうだ!で終わりだから 論考に書いてなかったとか言っても仕方ない。そういう本なので。
341 :
考える名無しさん :2008/12/06(土) 23:55:09 0
そういうもんだと思うしかないんですね。 ありがとうございます。 これからもまた来ます
342 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 05:13:09 0
>>339 論理哲学論考の思考とは、普通の意味の思考ではなく(まあ結局同じなんですが)
要素命題を組み合わせて、事実、事態、無意味な命題を構成することです。
命題は事実の像=言語ですので、思考の限界は言語の限界と一致します。
論考に書いてると思います。
343 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 05:19:30 0
>>342 を読んでもらうと、なんか納得いかないなと思う箇所が2箇所あるかと思います。
1.命題から要素命題をどうやって抽出するのか。
2.事実・事態と無意味の区別は何に基づいて行うのか。
このあたりの説明は論考にはありません。
344 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 05:41:11 0
事実 ↓ 命題(像、言語)に還元 ↓ 命題から名=対象を抽出(上2つのレスで要素命題と書いたのは名=対象(要素)の間違いでしたスマソ) ↓ 名を組み合わせて事実、事態、無意味な要素命題を構成、さらに論理式を導入して要素命題を複合して複合命題を構成 これが論考の大筋だと思います。 事実から作った言語を一回最小パーツ単位に解体して、それをもう一度組み立てなおして要素命題をつくる。 さらにそこで得られた要素命題を論理式で結合し複合命題を作る。それで全ての命題が作られる。 語りうる、思考できるのは事実と事態な命題であり、無意味な命題は思考し得ない、語りえないということです。
345 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 05:55:47 0
>>339 結局、あなたの質問に直接答えるなら、
論考の思考とは解体された言語の再構成のことであり、
言語の再構成(=思考)の中からもとの言語以上のものは出てきません。
ウィトゲンシュタインが思考の限界と言語の限界が合致する!と表明したというよりは、
思考の限界を言語の限界と一致するものとして定義しているというような感じといえば分かりやすいのでしょうか。
ただ先ほども言ったとおり、論考における思考が、一般的な意味での思考とは違うのかというと、そうでもない気がします。
346 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 06:02:39 0
思考は全てもとの言語によって予定されていることであって、言語よりも新しいものは何も出てこないのです。 事実を解体・再構成するので、事態はたくさん出てきますが、全てはもとの言語の組み合わせに過ぎません。
思考の限界=チューリングマシン=言語の限界
>(まあ結局同じなんですが)
なんで同じなんですか?
試しに
>>342 のレスの中に含まれる思考を要素命題に分解してみてください。
349 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 07:49:52 O
>>348 きみね、さっきもすでに出てたけど要素をどうやって抽出するのかなんて論考には書いてないの。
要素が具体的になんなのかなんて書いてないの。
論考を一度でも読んだのなら気付くはずなんだけど。
精神の結晶は見つかりましたかw
351 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 10:35:58 0
合わせ鏡の世界で十分迷いたまえ。
つまり良く分からんけどウィトゲンシュタインが言ったから正しいってことですね。
353 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 11:12:04 0
ウィトゲンシュタインほど固有名で呼ばれることを嫌った哲学者はいないのではないだろうか? それほど得体の知れないというか、政治性からかけ離れたところに住んでいる人物 彼に言わせれば ウィトゲンシュタインなんて奴はいない。 こう言いたいのではいだろうか? 「梯子を上りきった者はそれを捨て去らねばならない」
>>344 意味そのものが本質的に意味を持つ、ということは無いでしょう?
意味はあくまでも、命題を思考する主体によって付与されるものなんだから。
そして、思考される命題のうち、意味を付与されない命題はない。
355 :
考える名無しさん :2008/12/07(日) 20:08:56 O
>>354 あなたの議論がウィトゲンシュタインを前提とした議論なのかどうか分からないので答えにくいですが、
ウィトゲンシュタインは意味と命題の関係、意味がどこからやってくるのか、
意味と無意味の区別はどうするのかについては充分に語っていないと思います。
>355 頭悪杉w
357 :
考える名無しさん :2008/12/08(月) 02:52:59 0
「『論考』を読む」って 一番わかりやすい論考の解説本だと思いますが この本は全く整理されてないと思います。 頭の整理のために何を読めばいいですか? 岩波の論考の解説や永井の本がいいかと思ってます。
著者がわかってない。
360 :
考える名無しさん :2008/12/09(火) 00:49:58 0
というより論考自体、綺麗に整理されてないと思いました。 だから、岩波の解説も論考を読むも議論が汚いのではと。 結局、論考って写像理論、真理関数論が主要な議論ですよね
361 :
考える名無しさん :2008/12/09(火) 01:22:43 0
論考の議論ってこうですよね? 言語は世界の像(写像理論) ↓ (真理関数論始まり) ↓ 事実を分解 ↓ 対象の抽出のため、名を抽出 ↓ 名の論理形式を解明 ↓ 自動的に事実、事態、無意味な要素命題を構成 ↓ 論理式を導入して要素命題を複合して複合命題を構成 ↓ 論理空間=言語(複合命題の総体) ↓ 言語は世界記述しかできません ↓ (真理関数論終わり) ↓↓ 語りえないことについては黙れ
362 :
考える名無しさん :2008/12/09(火) 01:28:29 0
ウィトが好きになると ウィト以前の哲学者に興味がなくなるのは 気のせいでしょうか
気のせいです。あなただけです。
逆だな。 哲学史に興味のない人間が、哲学史を勉強しない口実に ウィトを使ってるだけ
別に興味無いのなら口実など無くても勉強しなくて良いと思うけどね。
哲学史を知らずに哲学を語るとアホの子扱いされるけど、 ウィトはそういうときの免罪符なのです
しかしウィトゲンシュタインはヘーゲルもアリストテレスも一応読んでいたという
368 :
考える名無しさん :2008/12/09(火) 23:24:41 0
カントは嫌いらしいな ヘーゲルは読むと頭がおかしくなるらしい 俺は両方読める頭が足りない
カントとウィトゲンシュタインは似ていると思うが
ウィトゲンシュタインが古典に手を出したのは 晩年になってからじゃなかったっけ。 初期の頃はほとんどショーペンハウアーとかしか 読んでなかったとかじゃなかったっけ(まあ工学部の学生だったわけだし)。
ソクラテスとかプラトンも読んでいたようだが、 「いったい、何の役に立つのか」とか言ってたらしい。 オクスフォードのアリストテレス協会?とかの記念式典 で講演を頼まれたが、イヤイヤ厭がって放棄。 まともに論じたのは、アウグスティヌスだけだな。
大学の講義でウィトゲンシュタインについてなんかいろいろ勉強しています 言語哲学入門という科目名でやっています よくわかりません
ふーん
374 :
考える名無しさん :2008/12/11(木) 00:56:49 0
わからんよ、わかってる奴が少なすぎる まともな本がないのがその証拠
375 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 06:01:18 O
>>361 のような哲学の中身の話には誰ものってこないのはなんでだろう。
上の方でからんできてた人は意見が的外れで相手になってなかった。
ゴシップ的な話ばかり。
376 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 08:03:35 0
ファッションで読んでる輩が多いんだろ
377 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 21:52:29 0
>>361 を読んで思ったのだが、言語は新たな形而上学を生んだということか。
写像ですら現象の一面なのだし。
語りえぬことは沈黙せねばならない、って語り始める前に解っていることではないか。
378 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2008/12/14(日) 21:55:20 0
>語りえぬことは沈黙せねばならない この文言は文学的。
379 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 22:03:12 O
語りえぬことは沈黙せねばならない〜なんて、ウィトゲンシュタインがオシャレな文を書いてやろうと、論文的な厳密さを返上して、そう書いただけの飾り付きの文でしょ。 論考読んだことあるなら、それが分かるはずなんだけど、このスレにはそこだけをとりあげてあーだこーだ言うバカが多いよね。
380 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 22:16:33 O
語りえぬことなんて沈黙しようと努力しなくても語りえない、何も言えないわけです。 語り得ないことを、それでも無理に語ろうとしたら無意味、あるいはナンセンス?ができあがるわけで、語ったことにはならないです。 論考を最後まで読んできて、語りえぬことは沈黙〜がユーモア的美言と気がつかないのはちょっと…
381 :
考える名無しさん :2008/12/14(日) 23:26:45 0
オマエラ、いつまで、「語りえぬこと…」とかいって1921年で止まってるんだよ! 梯子も登れない、「論考バカ」大杉。w
382 :
考える名無しさん :2008/12/15(月) 07:16:40 0
梯子フェチなんだよわかってやれ
論考は、たぶんウィトが「俺の文章ってかっこいい……」とか思いながら 書いたんだろうな、とか思いながら読むと笑えますよね
論考はダメだけど、 言語ゲームだけはいいね。
386 :
考える名無しさん :2008/12/19(金) 15:42:35 0
ウィトは哲学がいいというより 哲学者としての生き方を提示したってとこだな
387 :
考える名無しさん :2008/12/21(日) 02:00:56 0
哲学者としての生き方という意味では、ラッセルの方が立派だと思う。
>>387 一定年齢過ぎたら哲学をやめることが、哲学者として「立派」なのか?
389 :
考える名無しさん :2008/12/21(日) 07:38:53 O
人生哲学厨が沸いてるな
>>387 自分の息子の嫁とバコバコしてたのに?w
哲学者としての生き方が立派って言うのは 別に倫理的な生き方をしたとか、 僧侶みたいな禁欲的な生き方をしたっていう意味じゃないから。 Diogenesだって哲学者として立派な生き方をしたと言えるかもしれない。
>>391 くだらないこと書き散らす前に、
オマイが立派に生きれ。
393 :
鸚鵡の巣 :2008/12/23(火) 13:20:33 0
『楽園のこちら側』(小説・1920年) This Side of Paradese 『フラッパーと哲学者』(短編集・1920年) Flappers and Philosophers 『ジャズ・エイジの物語』(短編集・1922年) Tales of the Jazz Age 『美しく呪われし者』(小説・1922年) The Beautiful and Damned 『植物』(戯曲・1923年) The Vegetable, or from President to Postman 大橋千秋訳 大阪教育図書 (2001年) ISBN 978-4271114482 『グレート・ギャツビー』(小説・1925年) The Great Gatsby 野崎孝訳 新潮社 (1989年) ISBN 978-4102063019 『すべて悲しき若者たち』(短編集・1926年) All the Sad Young Men 『夜はやさし』(小説、上・下巻・1934年)Tender is the Night 谷口陸男訳 角川書店 (1960年) ISBN 978-4042155034 ISBN 978-4042155041 『崩壊』(随筆集・1945年)The Crack-up 『ラスト・タイクーン』(小説・1941年) The Love of the Last Tycoon 大貫三郎訳 角川書店 (1977年) ISBN 978-4042155058
394 :
銀狐の巣 :2008/12/23(火) 13:21:55 0
『楽園のこちら側』(小説・1920年) This Side of Paradese 『フラッパーと哲学者』(短編集・1920年) Flappers and Philosophers 『ジャズ・エイジの物語』(短編集・1922年) Tales of the Jazz Age 『美しく呪われし者』(小説・1922年) The Beautiful and Damned 『植物』(戯曲・1923年) The Vegetable, or from President to Postman 大橋千秋訳 大阪教育図書 (2001年) ISBN 978-4271114482 『グレート・ギャツビー』(小説・1925年) The Great Gatsby 野崎孝訳 新潮社 (1989年) ISBN 978-4102063019 『すべて悲しき若者たち』(短編集・1926年) All the Sad Young Men 『夜はやさし』(小説、上・下巻・1934年)Tender is the Night 谷口陸男訳 角川書店 (1960年) ISBN 978-4042155034 ISBN 978-4042155041 『崩壊』(随筆集・1945年)The Crack-up 『ラスト・タイクーン』(小説・1941年) The Love of the Last Tycoon 大貫三郎訳 角川書店 (1977年) ISBN 978-4042155058
395 :
海燕の巣 :2008/12/23(火) 13:23:05 0
『楽園のこちら側』(小説・1920年) This Side of Paradese 『フラッパーと哲学者』(短編集・1920年) Flappers and Philosophers 『ジャズ・エイジの物語』(短編集・1922年) Tales of the Jazz Age 『美しく呪われし者』(小説・1922年) The Beautiful and Damned 『植物』(戯曲・1923年) The Vegetable, or from President to Postman 大橋千秋訳 大阪教育図書 (2001年) ISBN 978-4271114482 『グレート・ギャツビー』(小説・1925年) The Great Gatsby 野崎孝訳 新潮社 (1989年) ISBN 978-4102063019 『すべて悲しき若者たち』(短編集・1926年) All the Sad Young Men 『夜はやさし』(小説、上・下巻・1934年)Tender is the Night 谷口陸男訳 角川書店 (1960年) ISBN 978-4042155034 ISBN 978-4042155041 『崩壊』(随筆集・1945年)The Crack-up 『ラスト・タイクーン』(小説・1941年) The Love of the Last Tycoon 大貫三郎訳 角川書店 (1977年) ISBN 978-4042155058
またこいつの荒らしか。
397 :
考える名無しさん :2008/12/23(火) 13:29:56 0
このようにツァラトゥストらは語った
398 :
考える名無しさん :2008/12/23(火) 21:28:58 O
生き方が立派とかいう文言をウィトゲンシュタインスレで見るとは思わなかった。
399 :
考える名無しさん :2008/12/24(水) 18:30:23 O
哲学的に厳格に生きようとするというのが哲学的に厳格な行為だと思ってるうちは楽かな
400 :
考える名無しさん :2008/12/24(水) 18:31:12 0
子供を殴るのが立派な生き方なのか。
詩として訳された『論理哲学論考』 というのを本屋でみかけたんだが、読んだひとおるか?
>>400 当時は今ほどの暴力教師というイメージじゃなくて、ずっと普通だよ。
400みたいなことを言いだせば50年以上前は良い教育者など居なかったことになる。
あと良い哲学者って良い小学校の先生とは当然別だからね。 ウィトゲンシュタインは工学や教育の才能は無かったんだろう。
詩の才能だけ。
7.1. What we cannot speak about,we must pass over in silence.
406 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 23:10:35 0
407 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 23:11:40 0
408 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 23:12:45 0
409 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 23:13:58 0
410 :
考える名無しさん :2008/12/30(火) 23:14:47 0
411 :
考える名無しさん :2008/12/31(水) 12:28:56 0
412 :
考える名無しさん :2008/12/31(水) 12:30:01 0
413 :
考える名無しさん :2008/12/31(水) 12:31:32 0
414 :
考える名無しさん :2008/12/31(水) 12:32:34 0
415 :
考える名無しさん :2008/12/31(水) 12:33:17 0
416 :
影 ◆BNwNdIbnBs :2009/01/08(木) 13:31:34 0
「一つ」と大時計が云つた。 「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太つた爺いさん達が、谺響(こだま)のやうに答へた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云つた。「一つ」とお神さんの時計が云つた。「一つ」と子供達の時計や猫の尻つぽ、豚の尻つぽの時計が云つた。 「二つ」と大時計が云つた。「二つ」と皆が繰り返した。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と大時計が云つた。 「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十を」と皆が答へた。 「十一」と大時計が云つた。 「十一」と皆が合槌を打つた。 「十二」と大時計が云つた。 「十二」と皆が答へて、大満足の体で声の尻を下げた。 「十二時だ」と爺いさん達が云つて、てんでに懐中時計を隠しに入れた。 然るに大時計はまだこれでは罷(や)めない。「十三」と大時計は云つた。 「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。 「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
417 :
キラーマシン ◆BNwNdIbnBs :2009/01/08(木) 13:32:38 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
418 :
ミスティック ◆BNwNdIbnBs :2009/01/08(木) 13:34:08 0
言語哲学、分析哲学の創始者。
カフェテリア・グループの一人。
ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶ。
時代区分
前期(1889年 - 1921年)
(ほとんど不詳な)学生時代、『論考』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代
中期前半(1922年 - 1933年)
哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代
中期後半(1933年 - 1935年)
『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』『青色本』『茶色本』
後期前半(1936年 - 1945年)
『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで
後期後半(1946年 - 1949年)
『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代
晩期(1949年 - 1951年)
死の直前の『確実性の問題』
主な著作
『ウィトゲンシュタイン全集』(全10巻)大修館書店
『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)
『反哲学的断章―文化と価値』青土社(丘沢静也・訳)
前スレ
■ ウィトゲンシュタイン Wittgenstein 4 ■
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1170864944/ ウィトゲンシュタインに関係する主要な研究者のサイト、その他関連サイトは
>>2-10 あたりにあるかも
419 :
考える名無しさん :2009/01/08(木) 13:37:23 0
420 :
考える名無しさん :2009/01/08(木) 13:38:50 0
421 :
考える名無しさん :2009/01/09(金) 10:13:04 0
おすすめの解説本ってある?
422 :
考える名無しさん :2009/01/09(金) 15:52:16 0
>421
>>417 ->418さんが挙げている『論理哲学論考』岩波文庫(野矢茂樹・訳)の訳注と訳者解説で事足りる。
『論理哲学論考』は文庫版で150頁足らずだから、1日で読める。
ラッセルの解説は読むに値しない。
後期は知らないが不自由はしていない。
後期に関しては清水幾多郎の『倫理学ノート』が分かりやすかった
424 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 02:29:05 0
>後期は知らないが不自由はしていないw
きっと『論哲』の解説以外何も読んでないんだろうな
そりゃ哲学なんて一切知らなくても「不自由」はしないだろう 論理哲学論考一日で読めるってあんた、そりゃ無いわ
「沈黙は金」と言ってるだけ。
428 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 05:58:06 O
哲学探究は神
探究の解説って何使ってる? 翻訳は黒崎さんの使ってるよ
黒崎のは駄目。 的外れだし無駄な解説も多い。
431 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 13:57:59 0
となると全集使わざるを得ないよね 全集と黒崎ならどっちがまし?
432 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 20:55:59 0
カラマーゾフを数え切れないくらい読んだということだが、 他の作品は読んだのだろうか?
433 :
考える名無しさん :2009/01/10(土) 21:05:11 O
アレだな俺たちの間に何かがいるんだ。何かというと数学でいえば子供を産む時・・・つまりは心が戻る人たちかどうか?
434 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 03:00:41 O
後期は知らないがって前期って面白い? 生きてくために何一つ役に立たないと思うがw
436 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 17:37:04 0
>>434 なるほど。
ウィトゲンシュタインの読書法は何冊も読むのではなく、
一冊を何度も読むということじゃないかと思うけどどうなんだろう。
一人の哲学者を理解するには その哲学者の書いた他の書物との比較が必要だと思う
438 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 19:24:48 0
>>435 生きてくために役に立つ哲学って、たとえばどんなの?
そんなもん、あるの?
じゃ、なんで哲学やるの?
440 :
考える名無しさん :2009/01/12(月) 20:04:38 0
そりゃ、面白いからだろ。
441 :
考える名無しさん :2009/01/13(火) 12:13:01 0
442 :
考える名無しさん :2009/01/13(火) 12:13:52 0
443 :
考える名無しさん :2009/01/13(火) 19:48:25 0
>>437 ウィトゲンシュタイン自身の読書法はどうだったのかなということです。
哲学書もあまり読んだことが無いということですし。
言語論的転回が出来たのも認識論に引きずられなかったからでしょうね。
444 :
◆M9WDzWFhcg :2009/01/14(水) 13:35:05 0
敵でも味方でもない
445 :
◆M9WDzWFhcg :2009/01/14(水) 13:36:12 0
ただお前との一時を楽しみたい
446 :
◆M9WDzWFhcg :2009/01/14(水) 13:37:02 0
ただお前との一時を楽しみたい
447 :
◆M9WDzWFhcg :2009/01/14(水) 13:39:54 0
ぼくを感じさせてくれ
448 :
考える名無しさん :2009/01/14(水) 13:41:15 0
ぼくに生きる実感をくれ
449 :
考える名無しさん :2009/01/16(金) 10:29:05 0
450 :
考える名無しさん :2009/01/16(金) 10:29:51 0
451 :
考える名無しさん :2009/01/16(金) 23:44:41 0
論考は幸福になるための本で論理学だとかそんなのはどうでもいいって高校の先生に聞いたんですけどどう思います?
全くの誤読じゃない? 人生哲学の本じゃないよ論考は ラッセルの幸福論でも読んだらと言い返してあげなさい。
科学合理主義と有神論の葛藤で悩んだりしたことがないなら、 ひょっとすると論考は分からんかもな。
454 :
考える名無しさん :2009/01/17(土) 03:23:22 O
人生哲学なんて語れませんよって本だよ 1面だけを強調するとね
455 :
考える名無しさん :2009/01/17(土) 04:26:19 O
普通のハクジンにはキリスト教は文化だからな。
457 :
考える名無しさん :2009/01/17(土) 04:51:36 O
文系の奴だろ。科学技術の檻の中でペチャクチャやってる類。
論考読んで幸せになりましたなんて奴居ないけどね
>>457 何で論考を読んでるやつが、こんな短絡的なことを言うのか不思議。
ホントは論考読んでないか、読んでも全く理解できてないかのどっちかだな。
その通り、論考は幸福になるための本ではないよ。 不幸な人が書いた世界記述のようなものだ。 ウィトゲンシュタインに幸福的な何かを求めるのであれば 後期の本を読んだ方がいいと思うよ。
後期ウィトのどこに幸福論があるんだ?
うちの大学の先生は論考を良く生きるための本であると言っていた 今、ここ(つまり成立している事実、今このとき)を一所懸命に生きるための本だと
その先生の専門は?
語りえぬことは沈黙せねばならない〜なんて、人生哲学そのものと思うが。
そこ以外読んだことない人?
優越感=幸福感 だとしたら、そうかもね。
467 :
考える名無しさん :2009/01/18(日) 08:17:38 O
文系が論理学やると形而上学と混同しやすいとか、痛い点を突いて見るテスツ
形而上学も論理学も、理系の人の方が 良く知らない人が多いと思うけど。 特に形而上学。
量子論みたいなナンチャッテ物理なら詳しいだろ。
んで? 結局何がいいたいん? 特に形而上学だなんてw ようするり、わかりやすー言うてくれや〜 ってことでOK? 違うん? >特に形而上学。 お前さんって、どんだけ分かりやしぃ文章でアピールしとるんかいの? もちろん行動でも表しとるんじゃろーけ〜。 わしゃ〜、頭が悪いけーな。 理解できんのよ?
論考は読まれ方がいろいろあるからね 一般的に言えば論考は人生哲学を説いた本ではないと思う
そういえば昨日見たんだが 詩として論考を書いた人って大学生らしいね 読んだやつ、感想聞かせて
詩としての論考を翻訳した人。 日本語変でした
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 木村 洋平 1983年生まれ。現在、東京大学教養学部科学史・科学哲学専攻
この人、今も学生なの? かなり哲学できそうな香具師に思えるが。 特に外国語に習熟してそう。
フォン・フィッカー宛の手紙から この本の狙いは倫理的なところにあります。かつてわたしは、序文のなかに、 現在は事実としてそこには含まれてはいませんが、ある文を含めておこうとしました。 しかし、ここではあなたのためにそれを書き記しておきたいと思います。 それはあなたにとって、おそらく、本書への鍵になるでしょうから。 当時、記しておこうと思ったのはこうでした。わたくしの仕事は二つの部分からなっている。 ここに提示されたものと書かれなかったいっさいとである、と。 そして、重要なのは、まさしく、この第二の部分です。 だからさ、書かれていないことを読み取ることができなければ、それは誤読なのだよ。
書いてないことは読み取りようが無いよ。 論考に書いてなくても手紙に書いてあるから 著者はこういうつもりだった、ということが分かるわけで。 ただウィトゲンシュタインも言ってるように、 それ以外の(論考の本体)部分からの帰結、というわけじゃなくて この部分と他の部分はほぼ独立してるんだよね。
生きる意味ってあるのだろうか?あるとしたらどんなものなんだろう?って問いはナンセンス? どうして? 教養科目で哲学史みたいなのとっちゃって、先週あたりウィトゲンシュタインに入ったんだけどなんかしっくりこない
479 :
考える名無しさん :2009/01/19(月) 01:17:37 0
>>476 じゃ、あなたがどう読んだか教えてほしい。
教えを請う態度ではないぞ。 「どう読んだか」ではなくて「どう発展させたか」だよ。
三ちゃん(三上)とルーちゃん(Ludwig Wittgenstein)の架空の対話: 三ちゃん:ねえ、よく生きるってどういうこと? ルーちゃん:簡単でしょ。幸せに生きるってことでしょ。 三ちゃん:そんな簡単に言うけど、みんななかなか幸せに生きられないから、困ってるんじゃないの? ルーちゃん:三ちゃん、ちゃんと哲学してないなあ。考えても見てよ。幸せの反対は? 三ちゃん:不幸、不幸せ、でしょ? ルーちゃん:じゃあ、不幸の意識ってどうして生まれると思う? 三ちゃん:不幸の意識? 色んな理由があると思うけど、生きていることが無意味に思えるからかな。 ルーちゃん:そう。世界や人生に意味が見出せないと感じるとき、人は世界や人生が無意味、生きるに値しない、 でも生きざるをない、という葛藤の中で、だんだん、世界はよそよそしく感じられるようになり、生きる意欲も、 意志も失われて行くわけでしょ。でも、さあ。それって、どこかボタンを掛け違えているんだよ。 三ちゃん:どういうこと? ルーちゃん:だってね、世界とか人生について「意味」があるとかないとかなんて問えないんだよ。それこそ無意味なんだ。そんな問い、悩みはね。 三ちゃん:そうは言っても、実際に悩んで、自殺しちゃう人だっているじゃない。 ルーちゃん:それはそうだけど、君はまだ自殺していないし、悩みの途上にいるわけだろう? そしてその悩みを解消したいわけでしょ? それで、変な質問をぼくに向けたわけだ。だから、そんな悩みは、悩みじゃなーい。そもそも間違った悩み方であるってことを教えてあげようとしてるんじゃないの。 三ちゃん:そうか。分かったよ。それで? 世界とか人生について意味があるとかないとか問えないのはどうしてさ?
ルーちゃん:まだ、分かんないの? だってさあ、世界とか人生って、個々の物とか事実じゃないんだよ。
そういうものの全体なんだぜ。意味があるとかないとかはさあ、個々の物事については問うことはできるけど、
全体としての世界や人生については問えないのは当たり前じゃない。だって、その外部はないんだから。世界や人生の外側に立てると思ってんの?
出来ないでしょ? もし外側に立てるんだったら、世界とか人生をその外側から眺めて意味がどうのこうのと問うことはできるけど、それは不可能でしょ?
三ちゃん:んんん、なんとなく分かってきたけど、つまりはどういうこと?
ルーちゃん:飲み込みが悪いなあ。つまりはさあ、意味って世界や人生を内部から満たしているもののことなんだよ。
世界や人生は最初から最後まで意味に満たされているってことさ。だから、意味があるとかないとかで悩む必要はないというか、間違っているのさ。
三ちゃん:そう言われても、どうも、すっきりしないなあ。
ルーちゃん:あとは自分の頭で考えて見てよ。僕は自分の悩みで忙しいんだ。
三ちゃん:え? どんな悩み?
ルーちゃん:それは秘密。
うちの大学の教授のブログより
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/searchdiary?of=3&word=%2a%5b%b8%c0%b8%ec%c5%af%b3%d8%c6%fe%cc%e7%5d
もしかして:永遠回帰 5・6:三上の言語の限界が三上の世界の限界を意味する。 6・43:おめでたい世界は、そうでない世界とは別ものである。
484 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 12:24:50 0
>三ちゃん:不幸の意識? 色んな理由があると思うけど、生きていることが無意味に思えるからかな。 ここから間違った方向へ進んでいってるような気がする。
485 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 16:43:10 O
写真が一枚ありゃ、景色から逆算して、どこから写したか分かるだろ。 場所を直接語ろうとしても虚偽を差し出す羽目になるだけ。
486 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 17:03:09 O
場を語るには「境界付けらるた全体」として語らざるを得ないが、 そのように対象化して語られた場は、既に場ではないからだ。 トカナントカ
487 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 17:07:23 O
論考はダーウィニズムにも触れてるよな。チョコッとだけだが。
488 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 17:58:49 O
お、あったあった。ダーウィンと形而上学が手を繋いで凱歌を 上げてた時代が終わりつつあった第一次大戦前後。 これを書いてたのは大戦中か。 4.1122 ダーウィンの理論は、自然科学の他の仮説以上に哲学との交渉があるとはいえない。
489 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 18:16:35 O
論考を形而上学扱いしてる世界中のウィトゲンシュタインのボケナス研究者の 皆さん、分かりますたね? ああ、かったりぃ〜
490 :
考える名無しさん :2009/01/21(水) 19:08:57 O
汝のために偶像を刻むなコラ 一神教における独我論は厳格な検討を推し進めると純粋な プロレタリア・リアリズムに着地するのだ。
最近やっと野矢の「論理哲学論考を読む」を読んだ。 大体は納得できるんだけど、気になった所を一つ。 「論考」序文のラストの「わずかなこと…」について。 野矢は嫌味でウィトは、そう書いたと言う。 私の解釈は 「語られうること(論考)」は、「語りえないこと」に比べると「わずかなこと」である。 しかし、これも「論考」によれば「語りえないこと」であり、 「論考」によって示されていることである。 です。
自己満足以上のものが得られましたか?
ウィト哲学は独我論
494 :
491 :2009/01/22(木) 08:21:00 O
>>492 ないです。
それは哲学者でも学生でもない愛好家には難しいことです。
>>493 独我論なら自己満足以上なんてナンセンスってことか?
495 :
考える名無しさん :2009/01/23(金) 02:45:27 O
第二次大戦後にドイツ兵捕虜収容所に慰問で楽器を送ってイギリス社会で 叩きに会ったウィトゲンシュタイン。
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
スレ違いでは?
498 :
考える名無しさん :2009/01/28(水) 13:30:28 O
「信じ得るのは証明し得ぬことだけである」。
499 :
考える名無しさん :2009/01/29(木) 10:12:47 0
500 :
考える名無しさん :2009/01/29(木) 10:13:15 0
501 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 15:04:02 O
独我論だから他者が見えてない 他者を対象にもしない
他者の存在はとりあえず当面の話題とは関係ない、 というだけのことで独我論とは違うと思うけどね。
他人に容易く理解して貰えることばかりやっていても天才には なれん。
というか言語ゲームとかがどうして 独我論になるのか謎
>>504 クリプキが取り上げた有名な探求201節。(法政大学出版部版の抄訳にはない。)
われわれのパラドクスは,ある規則がいかなる行動の仕方も決定できないであろうということ,
なぜなら,どのような行動の仕方もその規則と一致させることができるから。
文章・文節の解釈は人それぞれ独断であり得る。同一の解釈は存在し得ない。
と読めるなら、言語ゲームが参加者各自勝手でポリフォニィな独断ごっこ。と見られるだろう?
、
何でそれが「パラドクス(逆理)」と言われてるか考えたら 実際にはただの独断じゃないということが分かるだろうに。
507 :
考える名無しさん :2009/01/30(金) 22:25:30 0
パラドクスじゃないのにね
「独我論」の定義を誰も知らない。
人は結局、他人の中に自分自身を読み込んでるだけさ(フ
510 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2009/01/31(土) 00:01:18 0
>>508 結局、文学を抜きに哲学や科学を語ってみてもな。
形而上学だしwww。
>>506 ま、「独断」という語は粗雑だから濫用すべきじゃないのだが、キャッチというか
太字表現だということで、あまり気にしないでね。
「論考」の独我論は「探求」ではどうよ? という話があったので、201節あたりに
着目してみたらと指差してみたくなっただけ。「論考」は「私にとって世界とは何か」
という一人称単数な議論で「探求」は「我々にとって世界はどう語り合えるのか」という
三人称複数な議論。だから語り伝達の共通基盤となるルールやその解釈、適用などが延々
と論じられる。といった視点で「探求」を読むと面白いかも。と思うんだよ。
先の201節はほんのさわりだけだ。念のため以下に前節コピペしておくね。
われわれのパラドクスは、ルールがいかなる行動のしかたも決定できないであろうということ、
なぜなら、どのような行動のしかたもルールと一致させることができるから。ということであった。
その答えは、どのような行動のしかたもルールと一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、
ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのである。
ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈を行っている
という事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に
思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言いかえれば、
このことによって、われわれは、ルールの解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、われわれが「ルールに従う」、
と呼び「ルールに背く」とよぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、ルールの把握(のしかた)が存在
することを示すのである。 それゆえ、ルールに従うそれぞれの行動は解釈である、といいたくなる傾向が生ずる。
しかし、ルールのある表現を別のある表現でおきかえたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。
>>508 我々の知識 + 「他者は実在しない」が無矛盾だという主張のこと、
で良いんじゃね?
こう仮定しても矛盾しないよ、じゃなくて実際に立証した人は
居ないと思う。(というか、本当に他者が居ないと思ってるのなら
その独我論を何のためにわざわざ本や論文で発表してるんですか、って話なんだが)
お前ら、まさか「自由意志」だなんて非科学的なもの持ってないでしょうね?
まさか科学的には自由意志は存在しないとかいうつもりじゃあるまいな。
どうやって証明するのだ???
516 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 05:58:12 0
人間の自由は頭の中だけじゃない!世界も自由である!自由に証明がいるか?
ヴァカハッケン
518 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 06:33:46 O
金よこせってマジで。やること山ほどあるのに一万も残らんわ
〜 フリーダム終了のお知らせ 〜
520 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 10:03:07 O
ウィトゲンシュタインは生前既に弟子達が小手先のテクニックに 走り始めるのを見て幻滅してたらしい。
521 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 21:40:05 O
>>510 阿呆、そこで問題にされる形而上学は中世カトリックの二重
真理説における信仰と並立した理性を考えなきゃ駄目だ。
>>521 二重真理説は中世カトリックにとっては異端教説だぞ
523 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 22:24:02 O
聖トマスが死後間もなく異端嫌疑をかけられたようなもんだろ。
>>523 あほか。聖トマスは二重真理説の批判者だ。
二重真理説を唱えたのは、13世紀のアヴェロエス主義者であって、
14世紀以降アヴェロエス主義はずっと異端扱いだ
525 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 22:41:47 O
じゃ何でトマスは異端の疑いをかけられたんだ?
>>525 対立する立場の人間が権力を握ったから。
その後、師であるアルベルトゥスの奔走のかいもあって、
まもなく異端の嫌疑は晴れた。
それによって、トマスが二重真理説の支持者だという嫌疑が晴れたんであって、
二重真理説が教会に受け容れられたわけではない
527 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 22:53:52 O
ふむふむ。アリストテレスの影響絶大な時代だからな。
528 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 22:59:44 O
で、ハイデッゲルなどはイスラムやスコラ主義の媒介を介さずに アリストテレスを読もうとしたんだが、大した得るものはなかったと。 ラッセルの『哲学史』のアリストテレスの章は皮肉たっぷりだな。
まあ、アリストテレスをツールとして使ったイスラム哲学やスコラ哲学が豊穣だからこそ、 アリストテレスは偉大なんであって、アリストテレス単体で読んでもあまり発展性はないわな
530 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:27:01 0
ウィトゲンシュタインの弟子ってトミストばっかだな
例えば誰がいる?
532 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:48:20 O
533 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:50:55 0
ヴィトゲンシュタインの研究者とヴィトゲンシュタインの弟子は別だろw
534 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:54:41 0
535 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:55:58 O
ヒヤヒヤ
ウィトゲンシュタインのイデア論について教えてください。
537 :
豚の貯金箱さん :2009/02/01(日) 12:43:51 O
538 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 13:36:43 0
「ウィーン学団のやつらはおまいさんの弟子なのかい?」って尋ねたら、 むきになって否定すると思うな、ヴィトゲンシュタイン。
539 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 13:40:50 0
>>530 は結局誰のことを言おうとしてたんだ?
アンスコムか? ヴォン・ライトか?
フォン・ウリグトのこと?
英仏海峡を隔てた、帰納的な思考と演繹的な思考の対立みたいな もんはあるよな。
542 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 17:21:55 O
形而上学とは何かって問題だが。
543 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 18:37:00 0
昨日と演繹を隔てた、高校倫理的なバカの壁みたいな もんはあるよな。 そもそもスコットランドとか文化史にはフランスとの結び付きの方が密だし。 哲学史にとってネーション・ステートとは何かって問題だが。
544 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 18:53:29 O
いやいや、ベーコンやロックのイギリス哲学の流れと大陸のスコラ主義的な 世界の「差異」は考える価値はあるぞ?w
545 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/01(日) 19:03:06 0
「語り得ないことについては、沈黙せねばならない」 って、何分くらい黙ってればいいの? 死ぬまで口をつぐんでろって事? 考えたりしないの?
546 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 19:14:36 O
棺桶までちゃんと持ち込むだろ。おまいらにゃ無理か?
547 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 19:25:25 0
フランシスコ会とドミニコ会との間には 英仏海峡より深くて暗い川がある
548 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 20:23:46 O
19世紀の俄か造りの国民国家観にしがみついてる奴らに西洋哲学を 理解しろってのは無理だったか。 すまん、心の底から謝る。
549 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 20:40:32 0
死ねばいいのに
550 :
馬の耳に念仏さん :2009/02/01(日) 21:49:03 O
ヴァカは放置して、形而上学の話を続けましょう。
よせばいいのに
552 :
示し得るのは語り得ぬことだけ :2009/02/01(日) 21:57:42 O
禅の考案。弟子が師に刃物を貸して下さいと頼んだ。師は刃の 方を弟子に突き出した。弟子は驚き「危ないじゃないですか」。 師は「お前にいるのは刃ではないのか」。弟子は悟る。 これを大拙が禅エッセイで取り上げてヴェーユがカイエで感心してる。
553 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 22:33:18 O
>>545 君にとって「考える」ということの意味が単に対人関係の問題の
解決手段でしかないのは良く分かるよ。
554 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 22:43:18 O
自意識がデブの先進国の現代人種に多いタイプさ〜
555 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 22:52:56 O
お喋りを止めた瞬間に気絶しちまう奴らっているだろ。
557 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 23:33:08 0
まあ、おまえら薄らバカは新書本の評判記でもやってろってこった。
558 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 23:53:44 O
言語思考だけが思考か? いつもいつもの日々の暮らしで貴様たちは 文章に出来るような整った言葉で物事を考えるか?
559 :
考える名無しさん :2009/02/01(日) 23:59:07 O
思想とは人生の論理であるのか? それとも哲学界という舞台の上から 人々に見せる出し物であるのか?
560 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 00:11:01 O
芸能界よりは哲学界の方がちょっとは知的な印象がある。 これはせいぜい趣味の問題だ。
>>545 > 「語り得ないことについては、沈黙せねばならない」
> って、何分くらい黙ってればいいの?
初心的誤読です。
困ったときは
「語り得ないことについては、沈黙せねばならない」
と言いなさいとウィトゲンシュタインは言っているのです。
彼がしたように。
562 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 13:51:38 O
汝の使う秤で汝自らを捌けよ。 アリストテレスの形而上学はイスラム・カトリックのフィルターを 通さないと理性も信仰も厳格な区別はしていないわけな。
563 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 14:49:45 0
>>561 あんた、しゃれのわかるひとだな。まあ、おれはまじめに書いたんだけどな。あんたもまじめだろ?
564 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 15:03:32 0
「A」と書くことは「Aと言いなさい」と主張することと同じことだろうか? なんて無粋だな。
565 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 15:27:59 O
「形而上学」というのは歴史的なジャンルだ。「哲学とは何か」と 一緒だ。
566 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 15:33:48 O
警戒すべきなのは「理性の持つ客観的確実さ」という幻想を担保に 独断論を撒き散らす輩どもだ。
567 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 15:39:59 0
>>546 たとえば「死」というのが語り得ない物か?死ぬ間際になって(死に接近して)自分の生を振り返る
人はいても、死について得々と語り出す人がいないように。宗教にしても悟りにしても同じ構造を
持っているような気もする。
568 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 15:45:38 0
語る必要のない対象に突き当たったとき、それが語り得ない物となる対象となるのか?だから人は酒を 飲むのか?今日の仕事はつらかったと仲間内にしか言わないために。
569 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 16:02:39 0
ということは、語りうる事というのは全て区切りがあるのだ。区切ってしまうと意味の変容が起こる 事については、語り得ないと言うことになるか。
570 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 16:04:59 O
貴様は永遠の静謐を知らない。 理性は何か人間を越えたものに頼らずに人間が自らの力で絶対に たどり着く可能性だ。それが我々が理性に対して抱きたがる幻想だ。
571 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 16:08:51 O
人間には実に色んなことが起きる。21世紀初頭の日本で世俗的な 暮らしをしていては理解不可能な体験というのもある。
572 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 16:14:55 0
>>570 貴方が本当に永遠の静謐を知っているなら、それは永遠なる故に語り得ないはずだ。それはつまり、
私に向かっては語り得ないと言うことだ。知っているということは、完全に知っていると言うことか、
それにふれたことがあると言うことか、どの程度にせよ、私にはそれを伝えることが不可能だ。
従って、貴方の言葉は私にとってほとんど意味を持たない。
573 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 16:18:52 O
そう、言葉は意味を持つ。しかし意味そのものは語り得ない。
574 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/02(月) 16:25:52 0
そしてさらに続けなければならない、貴方に対して、貴方は無知の知を知っているか。それは最小限にして 無限の対象的広がりを持つ知だ。沈黙について知らないことと、沈黙について知りえないということを知っている ということは、つまりウィトゲンシュタインの言葉と同じ構造と意味を持っている。つまり無知の知は 語ることではなく、悟ることだ。両者の違いはほとんどわからないほど小さいので、それゆえわかりにくいと 思うのだが。
575 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 16:29:11 O
形而上学者に無知の知は分かるだろうかな。アリストテレスなら 分かるかも知らん。ごった煮の世界だからなw
576 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 16:46:59 O
ベーコンの章で帰納の原理が単純枚挙の限界を越えられないことを 苦しそうに白状する『哲学史』のラッセルほど正直でいられたら 良いもんだな。
哲学者の言葉を真に受けては馬鹿ですよ。 そう言えば受けるだろうと思って言ってるだけ。 芸人と同じだよ。 芸人が 「語り得ないことについては、沈黙せねばならない」 と言ったのを真に受けるかい。
578 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 21:53:42 O
芸人の言うことを真に受けるバカはいないのは確かだな。
579 :
考える名無しさん :2009/02/02(月) 21:56:50 O
しかし、マンガやケータイ小説に書いてあれば確かなことだ。
580 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 02:18:55 0
「語り得ないことについては、沈黙せねばならない」 まんこに関しても語れないけど沈黙できないでおまんこ好き!って 騒ぐ女はどうすればいいの?
処女がヤリマンぶってるって意味だろ、それじゃ
「有益は真偽に先立つ」 そして有益ならば真偽は問題にならず、有益でないなら真偽を探求する必要はない つまり真偽は何の問題にもならない ◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない◆ この主張は有益であることを提示して、初めて真理だと認められる 例 「俺は将来成功する」 ―なぜならアインシュタインが「俺は将来成功する」と発言したからだ。 ―なぜなら不完全性定理によって「俺は将来成功する」ことは証明された。 ―なぜなら聖書に「俺は将来成功する」と書かれてあったからだ。 ―なぜならサクセッサー関数の写像的関係が存在論的コメットメントであるから「俺は将来成功する」ことは間違いない。 これらの論拠は全てデタラメであるが、 「俺が将来成功するか分からない・・・・」と怯えるよりも有益である。 そのため、この誤った論拠の真偽は問われない。 そして、このあらゆる命題を正当化できることこそ「学問の目的」である。
583 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 06:04:23 O
応用科学の本質は三段論法(演繹)である。
584 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 06:06:34 O
ウィトゲンシュタインが論考で因果律を否定した意味を もう少し考えるべきかな。
>>582 >「有益は真偽に先立つ」
これ当たり前だろう。
>>584 > ウィトゲンシュタインが論考で因果律を否定した意味
どこで?
否定なんかしてないよ。
587 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 06:26:42 O
論理だけが必然であるってあるだろ。
588 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 06:41:21 O
589 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 08:42:37 0
言うことと理解することの間にある差。理解することは、自分にわかることの範囲でしかできない。 いっぽう、言うことは、意味不明なこともいえる。これは理解ができなかった言葉の残滓であると思う。 人生を進めるに従って、両者の釣り合いを取らねばならず、そうすることが意味豊かな表現に至る ための道である。
黒崎先生のウィトの理解っぽいね。 黒崎先生のウィトと禅の本はカスだったな
591 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 08:52:05 0
>>582 偽は有益である場合があるとしても、それは自分にしか通用しないことである。偽の有益性を
人に与える者を宗教家と呼ぶ。その場合その人は自分で立って歩くことはできない。偽を
他人にふりまき続けると、一般的には信用を失う。偽は論理的使用に耐えない。
資本主義は「金」だよ。 「有益=儲かる」だよ。 負け組みの救済・自殺防止のため哲学がある。 だから、哲学は有益なんだよ。
593 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 09:30:39 0
>>573 言葉と心との乖離。心は言葉という手段を以て表現されるが、心その物は本人以外にはふれることは
不可能である。心と言葉は一致することはないのであるが、言葉によって心は動かされる。その動き
を想像して、さらに言葉で確かめる、というのが一般的コミュニケーションのあり方であると思う。
594 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 09:38:41 0
論理は人間のためにあるのではない。宇宙は人間を生み出したが、その遙か以前から存在する。 論理が人間を支配するのは、人間が自然の一部である範囲である。人間のみに適用される論理 というのは、人間の固有性その物である。それは宇宙の一部であるが、確実に存在する、宇宙に 対抗する小さな存在でもある。ウィトゲンシュタインは人間と宇宙の狭間に立って、基本的には 宇宙の側の論理のための論理を紡いでいるようだ。人間固有の論理をはっきりと定立する必要がある。 フロイトなど心理学者のしてきたことである。
595 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 10:01:07 0
個と論理の違い。人間は個として存在する。一人の人間として、全体的なまとまり、自分に対する 責任を持つ。人間の考えというのは、断片的であり、論理の破片である。全体的思考というのは ほぼ存在しない様に思える。断片的思考を組み合わせて、一つのまとまりを作る、場合もあるのである。 人の意見を聞くときに、注意するべきなのは、言葉の向こうの人間を想定してしまうことである。 個々の言葉を見誤らせる元となる。肉体に縛られた人間の悲しい性だ。
596 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 12:06:44 0
ウィトゲンシュタインの考えに書けていたと考える物。たいしたことじゃありませんが。 発せられた言葉の意味の授受のみにとらわれていて、聞いた言葉から他人はまた自由に 想像を広げ、補足することができると言うこと。語り得ないことであるとあきらめてしまうのではなく、 相手の思考を信頼し、自分と同じ考えに独力でたどり着く可能性が他者にあるということに対する 視点の欠如。があったのではないかと思う。まあなかったかもしれないが。
597 :
考える名無しさん :2009/02/03(火) 12:23:57 O
5.123って、神は自分の持ち上げられない石を創造出来るかって 話に似てる。 全文を「枚挙」で検索して見ると面白いかも知らん。
598 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 13:24:09 O
三段論法(大前提→小前提→結論)がギャグになるのは小前提が 大前提(一般論)の例外である可能性を持つからである(短絡的 思考)。
599 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 15:21:46 O
何、規制掛けてやがる。論理学に興味はないのかコラ
600 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 15:32:30 O
>>596 ウィトゲンシュタインに世間的な物差しを押し当てて欠点を
あげつらって、次は近所のオジサンの話でもすんのか。
601 :
ウィカゲソシュタイン :2009/02/03(火) 15:37:02 0
なんか質問ある? 場合によったら答えてあげてもいいよ。
『論考』の無意味な難解さ・神秘主義誘因文体はポスモダの一種であり、 なおかつドイツ観念論の一種だ。ウィトゲンシュタインはウィーン(ドイツ語圏)の人だしね。 そして論理実証主義の聖典は実は「自然哲学の数学的諸原理=プリンキピア」であり、 ベーコンとデカルトを統合した真の「観念論者」だ。 合理論と経験論を統一したのは、カントではなくニュートンである。
603 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 16:47:58 O
論考=論理実証主義(科学的世界把握)じゃないって。 形而上学を破砕した世界、尚且つ、自然科学に対しても距離の あるのが論考だろ。
604 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 17:18:28 0
>>596 世間的な物差しでも、思考と言語によってできていることにはまちがいないだろ?
ウィトゲンシュタインだって、誰かにとっては嫌な学校の先生だったり、近所のオジサンだったり
するんじゃないの?
605 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 17:25:55 O
釣った魚の内臓が食えないからって身まで捨てるバカはいない。 世間的に言えば論考なんて無用な長物に見えるかも知らんな。 テレビのスイッチでも入れるかい?
606 :
し :2009/02/03(火) 17:33:16 O
今日朝海にいましたよ。大和朝廷は朝に行動したので朝。
607 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 18:44:50 O
それは端的に無意義な命題であると言えるでしょう?
論理哲学論考ほど悪い意味で衒学的な本ってあまり無いと思う。
あまりに衒いすぎてDQNっぽく見えてくるほど。
>>602 自然現象に関する科学と、科学以外も含めた全ての世界の科学的理解、は違うんじゃないの。
「論理」という言葉の
>>594 みたいな使い方がかなり気になる。
ウィトゲンシュタインが論理哲学論考とかで考えてた「論理」とか
論理学者が「論理」という言葉で指しているものとは
全然性質の違う、同じ言葉で呼ぶべきではないものを
無理矢理「ロンリ」と呼んでいるだけのように思える。
>>596 前期ウィトゲンシュタインには後期ウィトゲンシュタインの視点が
欠けていた、くらいのことを言ってるようにしか思えない。
610 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/02/03(火) 19:57:32 0
>>609 「ロジック」と「法則性」ぐらいに区別して述べるべきだったかも。僕にはそれだけの力は無いが。
55274-640-8335565-23609
612 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 21:13:01 O
ウィトゲンシュタインは定義もなくだらしなく「科学、科学」と 繰り返すような知的に怠惰な人種ではなかったろ。
613 :
吉本興業 :2009/02/03(火) 22:16:04 O
>>608 ああ、4.1以下ね。ここら辺から科学的世界把握やら分析哲学やらって
世界が派生してくる。但し、それが論考の主題であるか否かだ。
論考はあくまでも哲学の書(4.112)であって科学の書ではない。
でも定義っつっても結局は よく分からない言葉が別のよく分からない言葉 (記号論理学では無定義術語とかいう)に置き換えられるだけだけどね。 (総項目数が有限の)辞書の言葉の定義には必ず循環論法がある、 とか言うのと同じで。
615 :
三段論法さん :2009/02/03(火) 23:14:27 O
言葉は意味を持つ。しかし意味そのものを語ることは「許されない」。
616 :
三段論法さん :2009/02/03(火) 23:25:33 O
それと無限を特殊な地位に置きたいなら「全ての数の集合」だなんて ことは安易に言えないはずだな。 問題なのは集合を規定する要素の質であって個数じゃない。
617 :
三段論法さん :2009/02/04(水) 00:15:19 O
論考ではウィトゲンシュタインは演繹はアプリオリであるって言ってんだよな。 経験論のない世界だ。
ウィトは「定義なんてない」って言ってるんだが。
定義と言っても用例によってその語義を確定させることが 定義だと思えばウィトゲンシュタインの言ってることと大差は無いと思うんだけどなあ。 まあ確かに語の使用と言ったときはもっと広い状況が考えられているけど。
それが何か?
622 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 21:43:50 O
言葉を言葉によってではなく視覚や聴覚に訴える媒体で規定したら どうだろう。メートル原器やキログラム原器みたいに。
メートル原器で書き込めばいいだろ
624 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 22:25:41 O
次。
625 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 22:28:01 0
メートル原器で書き込めばいいだろ
626 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 22:41:09 O
貴様らの御神体だろ。
627 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 22:41:51 0
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論理哲学論 7 語りえぬことについては、沈黙しなければならない。 分かりやすいですね。
629 :
考える名無しさん :2009/02/26(木) 23:24:36 0
2ch哲板論 7 語りえぬことについては、書き込まなければならない。 馬鹿ですね。
630 :
考える名無しさん :2009/02/27(金) 03:05:00 O
教授時代に、外出しざまに同僚に向かって私はどんどんバカになって 行くと言ったってさ。
『色彩について』がどこでも触れられないのはなぜ?
翻訳者以読んででいないからw
ウィトは後ろ向きだな。 否定的な主張だけ。
>>634 =ツチヤ教授?
「哲学の目的は、哲学が無意味であることを示すこと」
哲学が無意味であることを認識すること だな。正確には。 知らないことを知らないのと、知らないことを知っているのでは 天と地の差がある。
知ることがどういうことであるかを「知る」ことなしに 知らないことがどういことかを語ることはできないだろうに。
無意味という奴は使い方を知らないだけ。 哲学をちらつかせれば、インテリ女とタダマンOK
インテリ女でなくてもOKだったよ。 最も使える学問だよ。
ソクラテスって美少年と援交してたんだろ。 当時としては普通の事らしいけど。 そんな時代の悪妻ってのもよくわからない。
642 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/05(日) 16:58:59 0
人間の見える物で意味の与えられていない物はない。一番大きな意味では世界という。それで 人はそれぞれの意味を思い浮かべられる。それを分析的に意味の小単位に分けていったのが ウィトゲンシュタインであったと思うのだが、言語=一定の意味という等式ではとらえきれなくなって、 包括的言語などを考えていった場合に命題という意味付与のしかたを考え出したと思うのだが、 それが人間の行為であったということを考えると、世界の意味は人間に対しての物でしかない。 別のありように注目するために、語ることでなく沈黙することの方に重点を置いてウィトゲンシュタインは 語ったのではないだろうか。
643 :
考える名無しさん :2009/04/05(日) 17:25:22 0
ショーペンハウアーをパクリ切れず、自分が解決できそうもない問題を 「語り得ない」と偽りの普遍化をして逃げちゃった人のスレはここですか?
>>641 ソクラテスは男色には禁欲的だったとプラトンは書いてるが。
645 :
考える名無しさん :2009/04/20(月) 08:27:03 0
保守age
646 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/20(月) 17:39:17 0
>>642 <世界の意味は人間に対しての物でしかない。>
ヒトが、ヒトの現存在を捨てられる、と置かず、その他の何者かのための認識論などをどのようにしたら構築できる基盤を持てるのでしょうか?
647 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/23(木) 09:04:22 0
>>646 素人考えで行けば、何物かについての認識を深めること、それを含んだ新たな人間の価値
を考えること、などでしょうが、人間の行為の果てまで行くこと、例えば殺人、などは古典的
過ぎるくらいの文学のテーマですが、ヘーゲル的な意味での歴史の終わった今の世界
を考えれば、膨大な暇と剰余と新しいものへの期待が何者かを含んだような認識論が
待たれているとも言えるのではないでしょうか。テクノロジーの発達も重要なファクターであり、
遺伝子の研究者は遺伝子が自然に出来たとは信じられず、"something great"の存在を
確信する、と言われています。
構築するよりは、発見するようなものではないでしょうか。自然と。
648 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 12:20:02 0
たとえば2人の会話を想像するとして、何かについて語るということは、そのトピックについて相手の 「意識」を集めると言うことである。そこでは個人の知識を超えた伝達は、起こりようがないように 思える。コミュニケーションのあり方について考えれば、自分の中の意味を相手に伝え、伝えられる というのが目指す方向となっている。ここで、「沈黙」というコミュニケーションのあり方を考えて みたい。2人が相対して、たとえば数十分の時間を共有するのである。意味の共有を行いたい と考えれば、そこでは目が何かの意図を相手に知らしめてはならず、自分の消去ということが 重要になる。時間は過ぎるが、お互いの位置の違いを超えて、同じ意味を「共有」することである。 それは座禅のような時間になり、舞台にたいする観客の関係のようなものでもあるだろう。無では ない、「沈黙」の時間を共有した二人は、お互いの内部の意味に、沈黙という項目で表される 、新たななにがしかが加えられるように思う。その何かは伝達不可能なものであり、世界の内部に 回収されないものである。こういうものが、関係を強化することや、新しい意味を作り上げるために、 あるいは記憶に対するくさびとして使われてきたのではないか。
649 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 20:37:06 0
>>647 素人考えで行けば、ヘーゲルの専売特許である「現実的なものは合理的であり、合理的なものは現実的である」という無限(定)弁証法の現実世界への展開による経済/体制改革は、トロツキー惨殺も含め、スターリンにより見事に壊滅させられました。
しかし、このヘーゲルのテーゼが現実世界では全く機能しないのは、非現実的なものが合理性を身に纏いながら、「語りえないことを語る騙り」によって跋扈する経済/体制を謳う勢力の方が、観衆民主主義に支えられやすい、という要因によることです。
650 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 20:46:23 0
>>649 >>「語りえないことを語る騙り」
ここの語られる語りえないこと、というのは、具体的にどういう事があげられるのでしょうか。
それが非現実的なものに利用される原因とは、どこにあるのでしょうか。
神や宗教などかと推測しますが・・・。
651 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 21:08:23 0
>650 「語りえるもの」とは、世界がこのようであるために不可欠なものとして要請されるもの(超越論的言辞)です。 経験則/論理では語りえないもの(超越的言辞)の地点にとどまる限り、それは「語りえない」。 「語りえないもの」を突きつけ、世界がこのようであるために不可欠なものとして行動(投票行動等を含む)を起こさせること、それは「騙り」です。
652 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 21:32:20 0
>>651 語りえないことを語る騙り、とは、語られてしまった時点で語りうるように思えるのですが、経験則
と論理の間には、経験されたことであるか、未知のものを予言する演繹的なものであるか、という
違いがある。論理的な超越的言辞というものは考えられないのでしょうか。また歴史がヘーゲル的に
動かない理由が、ヘーゲル理論の本質的不備にある(人間に対する認識の偏り等)、ヘーゲル的
な合理性に基づいた世界が良い世界であるのか、真善美を求めることが悪いことであるのか。
論理に基づいた物質的幸福の世界をとくのが真の人間のありようであるのか。
個人的には、個人というものを無視した全体性に偏った見方がヘーゲル的なものであるように
思いますが。
653 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 21:41:18 0
>652 <論理的な超越的言辞> それは「反復としての、または第三者から学習した論理」でしょう。 <個人というものを無視した全体性> (環界を無視できる/環界から自由な)個人というものを知りません。
654 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 21:50:29 0
>>653 論理というものは、言語の構造や自然の構造に見いだされる数学的規則であり、それを脳の中に
備えているのが人間というものでしょう。論理自体は、記号によって表される体系であり、人間
以前人間外にも存在するものです。従って、学習しなくても自然に従ってしまっているということが
ありえと思います。個人というものを無視した、というところで言いたかったのは、個人の志向性
が個人に向かうことが普通である、ということです。
655 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 22:01:41 0
>654 <論理というものは、言語の構造や自然の構造に見いだされる数学的規則であり、それを脳の中に 備えているのが人間というものでしょう。> ヒトの論理一般が、ヒトにおいて、アプリオリに備わっているものとは思えません。 <個人の志向性が個人に向かうことが普通である、ということです。> 同時並行的に「環界の中の個人」に向かうことの方が普通であると考えます。
656 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 22:17:49 0
>>655 論理というのは、ヒトの論理でしたか、誤解してました。ヒトの論理一般が、アプリオリに備わって
いるものの影響を強く受ける、ということではどうでしょうか。生物として。
環界というものがどれだけ強い影響を個人に与えるものとしておっしゃっているかがわからないの
ですが、部分は全体の一部であるとして、その相関関係をどのように見積もるかというのは、簡単
には行かないと思いますが。
657 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/24(金) 22:24:02 0
>656 <部分は全体の一部であるとして> 一般的には、部分は全体の必要条件ですが、部分固有の領域というものは、ほぼ皆無でしょう。
658 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 22:27:58 0
大学外の話。アピタはは2子下のアヒルの話。どっちにも俺はなし。 関与なし・くちなし
659 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/24(金) 22:31:29 0
>>657 全体から影響を受けるのと、全体に影響を与えるのの、両方があるのですよね。このうち、通常は
全体から影響を受ける方が遙かに多い事は認めますが、どちらを重視するかという話しはどうでしょうか。
660 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 22:43:29 0
高校の時の牧野(朝倉)とも関与なし。
661 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 22:45:26 0
全員なにをおもったのかも知らんなんでこうなったのかも不明 くちなし
662 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 22:51:02 0
はやく絡まりとらねえとまた変なこと起こるから はやくいろいろ確認しろよ。みんな苦しいだけだよ
663 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 23:23:00 0
誰がおんな監禁したって?でどうなった?
664 :
考える名無しさん :2009/04/24(金) 23:24:25 0
口裏合わせんなよ本当のこと家って
665 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/25(土) 00:25:25 0
>>wisteria-1さん ヒトは自分の持つ力を否定という方向に使いそれの応酬が歴史の発展であるというのが ヘーゲル哲学の私なりの知識ですが、なぜ相手を否定するか、その論理が私にはよく分からない のですが、教えていただけたらなあと思います。ちょっと考えた限りでは、否定という論理が、肯定 の上位にあって、いくら肯定を積み上げても、その全体をくるっと否定の方向に向けてしまう事に なってしまう、という事、それから、否定の自立性というか、存続性、肯定には努力が必要だが、 否定はなぜか続きやすいと言う事、この二つくらいを考えたのですが。全体性ということに絡めて いえば、全体性はなぜか否定性の色を帯びている。部分と部分は否定し合うことによってしか 統合されえない。肯定し合うだけでは、個人があるだけで、全体としてバラバラになってしまう。 など考えました。
相手の意見に肯定する場合は、 「そうだよね。」 で終わるから。
―――決定論に捧げる君達が求める真理 哲学は、己の尾を狩る猟犬である。 狩ろうとすればするほど遠くまいかなければならない。 踵は常に私の先にいる。 現在を理解するにはいつも遅すぎる。 真理とは、旅に出る前についてしまっている旅である。 まだ目的地にいるとき達成される。 それは知的な問い、哲学を止めたとき、身代わりに人生に起こるものだろう。 心に描く「心象風景」こそが世界であり、 現実の世界は、神がその恐ろしい孤独と死への恐怖から創造した「神秘的な虚構」である。
668 :
考える名無しさん :2009/04/26(日) 06:47:20 0
>>665 やっぱ肯定だよね。動物心理学的に。2ちゃん的に。犬は9ほめ1しかる。狂犬には注射する。
669 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/27(月) 12:45:38 0
>>665 <肯定し合うだけでは、個人があるだけで、全体としてバラバラになってしまう。>
肯定し合うだけでは、「所与としての全体があるだけ」、になり、個人は全体の中に埋没します。
しかし、「市場原理というファシズム」の体制に生き慣れるている私(たち)には、この方が、合理的、且つ現実的なものになります。
世界に対し、nonを突きつけ続けるには、超越的論理ではない、超越論的論理が必要になり、これを追跡しすぎると、大方は世界から追放されます。
670 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/27(月) 13:16:05 O
>>669 経済/体制というのが大問題だというのが分かったのですが、その歴史的変遷はどのようになっているのでしょうか。
市場原理というのは大昔からあると思いますが、共産主義的社会に対して、ヘーゲルはどのような
予言をしていたと考えられておられますか。私は本当に勉強が足りないのですいません。
671 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/27(月) 17:38:01 0
>670 私は本当に勉強が足りないのですいませんが、ヘーゲルの「共産主義的社会」への移行に関する「予言」というものを読んだことはありません。
672 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/28(火) 08:33:07 O
>>671 お答えいただき、ありがとうございます。
現実生活をしていて、これでいいのか、と迷うことが多いし、むじゅんするふたつ(以上)の考え
、二律背反的な、にぶつかることはしょっちゅうある。この考えを行動に移す際、両方やってみる
というのが、現実的な選択としては多いのではないでしょうか。考えるだけでは満足できなくて、
忘れてしまったようでも暇があれば試してみる気になる。
673 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/28(火) 20:21:03 0
>>672 2つ以上の複数のものを同時に選択することは不可能でしょう。
どれか1つに投企するしかないでしょう。
それが、自由であることの本質ですから。
674 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2009/04/30(木) 05:20:37 O
>>673 平等という理念に基づく革命によって出来たソ連。自由という理念を掲げて建国したアメリカ。両者は互角の国力を保ちながら、人民の満足度では大きな
差をつけ、ソ連崩壊に至った。どちらも壮大な実験を行っていた感がある。アメリカは自らの自己像を見つけられず、フロンティアスピリット、インディアンとの
戦い、西への拡大といった初期の理念がどれも失われる。自由であるために必要となる選択肢をつけるために必要となる敵、それを仮構し続け、戦争
をしかける。その歴史の中で生み出したのは、ライフスタイルの選択、幸福の追求の自由。平等という理念の元にあったはずの、幸福。ソ連にかけていた、
幸福であることと、自由なライフスタイルの選択。多様性を徐々に失っていく世界。まさに微妙なバランスの上に世界は揺れ続けている。
675 :
アラコキ :2009/04/30(木) 10:44:32 0
>>673 横槍レス失礼します。
>2つ以上の複数のものを同時に選択することは不可能でしょう。
複数の物事を複数の人が同時に試行することは可能ですね。
個人でも試行錯誤を繰り返すことは可能ですね。
間違えたらやり直せばいいじゃない。
失敗は成功のもとというね。
676 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/30(木) 11:05:38 0
>>675 失敗、成功の絶対評価基準など、単独の主体には存在しません。
また、試行錯誤にも、endingはあります。
677 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/04/30(木) 11:57:15 0
>>674 アメリカングローバリズムにより、米国が自国の首を絞めた結果、米国をone of themの国家に埋没させつつあります。
ソ連の場合は、余程の理性が無いと独裁党派/者の自制が効かず、数千万人の「思想犯」をシベリア送りにし惨殺したスターリニズムに堕しました。
ヒトの歴史ですから、そのすべては相対的なものに終始します。
もっともお手頃に手に入る「哲学探究」(訳)ってどれになりますでしょうか?
679 :
考える名無しさん :2009/05/28(木) 16:25:15 0
ウィトゲンシュタインは、ラッセル本人やラッセルの考えを正しく知った人なら 誰でも気づくことを、自分だけが気づいた何かだと思って本書いちゃった人という理解でよい?
680 :
考える名無しさん :2009/05/28(木) 16:27:32 0
なんていうか、基本哲学者って人を小馬鹿にしてるよね。 物理学者とか数学者とかがなんの意味もないおもちゃをいじってるとでも思ってるんだろうか? 哲学したいから、その実践として物理をし、数学をするんだよ。 哲学者ごときの出る幕はねぇよ。
681 :
考える名無しさん :2009/05/28(木) 16:31:51 0
そんなこと言ってるから小馬鹿にされるんだろ
682 :
考える名無しさん :2009/05/28(木) 16:33:12 0
で、ウィトゲンシュタインはラッセル以上の何かを言ってるわけ? 言ってないだろ、何も。 数学基礎論やったら誰でも知ってることに過ぎない。
>>682 実際はそうなんだけどね。
ただ、"ラッセルとは違う"という違いがある。
基本的には『論考』だけの人だから。
フレーゲが偉大すぎたんだよ。
フレーゲがほとんどやっちゃったからね。
>>682 『論考』は詩にすぎない。
重要なのは言語ゲーム。
ま、みんな、いい仕事しろよ。な。 そして、フレゲやラセルやヴィトを超えろ。
686 :
考える名無しさん :2009/06/01(月) 18:39:40 0
そのためにはまず敵をしれ。
687 :
考える名無しさん :2009/06/02(火) 06:07:09 O
>>680 哲学的問いを土台にして数学も物理も存在してるの?
688 :
考える名無しさん :2009/06/03(水) 02:03:21 0
そうだな。人生哲学も哲学だな。
691 :
考える名無しさん :2009/06/03(水) 13:14:09 0
秋山瑞人 「おれはミサイル」 から引用 > 『声が小さいっ!!』 > 『アイスハウンド、IFF09270-04っ!!』 > 『貴様の誘導哲学を言ってみろ!!』 > 『IRパッシブでありますっ!!』 > 『その方式を最初に提唱したのは誰か!?』 > 『古の哲人、サイドワインダーでありますっ!!』 > 『彼の誘導哲学の核心とは何か!?』 > 『オフ・ボアサイト攻撃におけるサイドワインダーの三段論法!すなわち「索敵(サーチ)」「認識(ロック)」「誘導(ホーミング)」でありますっ!!』 > 『声が小さいっ!!』 > 『サーチ、ロック、ホーミング!!』 ミサイルのAI同士の会話。 これも哲学。
>>683 ラッセル→ゲーデルで
実在論派の流れとしては決まってる気がしてきた。
そう考えるとウィトは本当に傍流になっちゃうけど
694 :
考える名無しさん :2009/06/04(木) 04:49:09 0
なにこのバカスレw
ウィトゲンシュタインは言語哲学から、はみ出てたな ラッセルよりフレーゲの方が功績大
図抜けているのはゲーデルだけ。 しかも数学者だ。
>696 数を無限に数えることはできるが、無限を数えることはできないって、どういうことですか?
>>697 > 数を無限に数えることはできるが
数は "enumerable" だということ。
> 無限を数えることはできないって
今の時点で無限には2種類あるが、どちらも定義可能。
つまり説明可能。
教えることも可能。
700 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 03:25:47 0
>>695 三人の中で論理の階層性に気づいたラッセルがもっとも貢献している。
ラッセルのパラドックス、というように本質的知見に名を残してる。
701 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 03:35:58 0
おでかけしよう
>>700 > 三人の中で論理の階層性に気づいたラッセルがもっとも貢献している。
確かに、当時名の知れていなかったフレーゲの Begriffsschrift を図書
館で見つけてきて、読み解き、即座に「ラッセルのパラドックス」を発見し、
Begriffsschriftと共にそのパラドックスを世に知らしめた貢献は素晴しい。
しかし、どちらの方が貢献したか、といった類の問いは無意味だとも思う。
事実、Begriffsschrift がなければ、パラドックスも Principia Mathematica
も存在し得なかった。
(数学) 論理学の観点からすると、ヴィトゲンシュタインはいてもいなくよい存在。
階層って数学だろう。 哲学のスレですよ。
704 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 01:44:31 0
んでさぁ、現代の論理学を身につけた上で 政治学とか社会学をやれば良いだけだと思うんだが、 なんだって分析哲学なんてもんがこの世に必要なんだ?
逆だよ。 分析哲学を身につけた上で 政治学とか社会学をやれば良いだけだと思うんだが、 なんだって論理学なんてもんがこの世に必要なんだ?
706 :
考える名無しさん :2009/06/07(日) 14:47:03 0
ケツたたきのウィトゲンシュタイン
ちがうよ。 論理学を身に付けた上で 分析哲学をやればいいんだよ。 デイヴィドソンのようにね。 なんで政治学や社会学なんていってるんだ?
708 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 01:32:34 0
述語論理を身につけて現実の社会問題を考えれば、 哲学は不要だと思う。 ホント、分析哲学って何やってんの? 21世紀にもなってラッセルの業績を理解できないバカ、としか思えない。 数年間経って本を書く過程でやっとラッセルの業績を理解できたウィトゲンシュタインの方がちょっとマシ。
>>708 哲学は要不要の問題ではない。要不要は哲学の問題になり得るが。
必要ないんだったらしなければいいだけ。音楽が必要な人間がいるように哲学もいるというだけ
710 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 01:48:20 0
「分析哲学者」って、数学出来ないでしょ。 ブルバキ流集合論から数学理解をしようとするとき、概念を正しく 扱うことが徹底して要求される。 そのような性質を徹底的に解体したものが、集合・位相なのだ。 集合や位相を正しく理解できないということは、論理を正しく理解できないってことだ。 正しく理解できていないからこそ、疑似問題が見えてしまう。
711 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 01:52:53 0
もうほんっと時間あわせ背あわせしてやったわ。 気づいた時点で時間はある。リミットまでしばしの時を おくるしかない。余暇みたいなものだ
712 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 02:04:10 0
ブルバキ流数学が、何で「定義・定理・証明」を繰り返して 論じていくのかがよくわかった。 実証し、学ぶ者にも実証させること。 この手続きを踏まないと、人間は「読んだ、理解した」とか言い張って その実な〜〜〜にも理解してないってことを平然とやってのけるからだ。 分析哲学者はラッセルを理解したと、100年経っても言い張ってるんだろうな。 実際は理解できてないのに。 ウィトゲンシュタインが始祖になってるってのが理解してない証拠だよ。
いまどき、実証主義でつか?
714 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 03:46:48 0
ほら、「分析哲学屋」は概念や論理の階層がないから、 「伝達や学習の実証性」と「伝達内容の実証性」の区別がついてない。
715 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 03:49:09 0
だって数学は現実の何にも対応してないからね。 内容には実証性は皆無だ。 ただ、概念の共有や、伝達、コミュニケーションや学習には 極めて高い実証性を要求する。 何の現実的対応物も持たない抽象概念は、そのようにしないとただの一歩も 分け入ることが出来ないからだ。
分析哲学は無敵。
717 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 05:56:56 0
誰にも相手にされない、という意味において無敵かもねw 類似例: Macがウイルスに対して無敵(標的にする価値がないからウイルス作者が相手にしない) ホームレスが強盗に対して無敵(標的にする価値がないから強盗が相手にしない)
>>1 > 分析哲学の創始者。
これ、明らかに違うだろ。
言語哲学は無敵。
言語哲学は哲学の王者。
あほか。
議論に負けた時の、捨て台詞が「あほか。」の人とは議論しません。
いつ議論してたの?
議論に負けた時の、捨て台詞が「いつ議論してたの?」の人とは議論しません。
726 :
考える名無しさん :2009/06/09(火) 11:45:04 0
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』よりも三輪さんの『認識論的人間論序説』の方が面白い。
727 :
シック :2009/06/09(火) 13:02:24 O
しすこれこーど
728 :
考える名無しさん :2009/06/10(水) 07:11:53 0
>>726 何だそれ?
訳の分からん書き込みはサゲ
>725 は「ぼくちゃんは頭がいいんだぞ〜」のおばかちゃんw ウィトが教授職を辞めたのは、そんなバカにうんざりしていたことも理由の一つ。
730 :
考える名無しさん :2009/06/10(水) 19:29:34 0
ただの修辞学ごときを蹴散らせないのは、やはりウィトが論理を 使いこなせてないからじゃないの。
731 :
考える名無しさん :2009/06/10(水) 19:30:20 0
ウィトが言ったから、世界の認識が変わった、なんてことは一つもないだろ? ラッセルが言ったから、とかならあるけど。
というか、 ラッセルは何も言っていないのだが。
733 :
考える名無しさん :2009/06/11(木) 22:58:39 0
ラッセルはどのくらい頭が悪くなってから哲学を始めたのだろうか。 「感激の少ない業績」しかない人だと思うけれど・・・
というか、 もともと頭が悪いのだが。
735 :
考える名無しさん :2009/06/12(金) 10:24:52 0
日本人のウィト支持者で「日本語でのまともな言語分析」をしてる人はいるのかな?
737 :
考える名無しさん :2009/06/14(日) 20:33:41 0
ウィトゲンシュタインの評価を整理しないと このスレの意味はないかも
ちゃんと読めば、それなりに評価できるだろ。 ウィト本人が晩年、「自身の思想はどのように受け継げられるか?」と問われて 「読み手それぞれで違った受け取られかたをするだろう」と答えている。 既成の評価をオウム返しに吐き出して、自己評価のフリをしたいなら別だけど。 そんな入門書読みのしったかぶりしても、仕方ないよね。ま、後期思想がそうした 安直な理解の個人史的生成の過程を問題にしている。という視点でみれるなら、 評価云々は、どーでもいいことだと思えるのでは。w
>>737 確かに。
その前に、
「論理学は、哲学か? 数学か?」
だろう。
これが決まらないと始まらない。
オレは「「論理学は数学」と思っているから、
ホワイトヘッドなどは、哲学者でない。
2流の数学者だと思っている。
また、バカが沸いてるな
>>739 確かにそうなんだが。
論理学で一番の業績は、数学者のゲーデルだからね。
しかし、現状では「論理学は哲学でない」とは言えない雰囲気だよ。
おまえらフレーゲをなんと心得る。
フレーゲ<<<<<<<<<<ゲーデル≒アインシュタイン なのだが。 確かに、自由にものが言えない雰囲気だな。
伝奇読みの小学生はあっちで逝け。
仕事は数学者、啓蒙は哲学者と棲み分ければいいでないの。
どっちが上とか下とかいう話が好きな人っているよね。 何が面白いのかわからないんだけど。
>>739 >「論理学は、哲学か? 数学か?」
面白いね。
この問い掛けが、哲学界の最大のタブー。
そうかも知れん。
748 :
考える名無しさん :2009/06/16(火) 11:15:19 0
>>741 ゲーデルは「説明の根拠列は有限である」ことを示したという点で
少なくとも「優れた言語哲学者」だろう
749 :
考える名無しさん :2009/06/16(火) 11:48:23 O
せっかく次があった拉致被害者ももし次を奪われたとした奪った奴らを許せるわけがない。拉致の時間の苦しみを合わせて制裁を考えるのは当然だ
>>743 アインシュタインは時空を微分幾何という言語で記述したという点で
少なくとも「優れた言語哲学者」だろう
「殺人者の自白調書を記述する」場合と 「ある重力場の慣性加速度を記述する」場合とでは 記述のあり方、具体的な方法論において大いなる差違がある。 そんな差違をごっちゃにして「記述」で括って語ったとしても、 生産されるのは誤解だけだろう。
752 :
考える名無しさん :2009/06/18(木) 23:46:54 0
早坂ひとみの肛門はまじでやばい
言語哲学は無敵
>>754 同意。
論理学は論理学。数学は数学。
哲学のわけない。
756 :
考える名無しさん :2009/06/20(土) 12:10:26 0
>>755 同意。
ただ、西洋哲学の歴史を振り返ると、「自然哲学」は数学や論理学と結び付きやすいよね。
>>756 数学者や物理学者は、「西洋哲学の歴史を振り返ると・・・」てなこと言わんと思うが。
気に障ったら、ゴメン。
ホーキング博士なら、言ってと思うが。「昔の哲学は壮大な体系を…」とか。
>>スティーヴン・ホーキングは、言語の分析が哲学に残された唯一の任務だとまで言うヴィトゲンシュタインを例に挙げ、 >>アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統を思うと、なんて落ちぶれざまだ >>(“What a comedown from the great tradition of philosophy from Aristotle to Kant!”)と、 >>哲学と科学との乖離に苛立っていたもんだ(『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』)。
760 :
考える名無しさん :2009/06/20(土) 22:09:08 0
文学者ならウィトにこう言うだろう。 芥川 「分かり切ったことを言うんだね、君は」 太宰 「君の苦しみは分かるよ」 中也 「お前の話はつまらないな」
761 :
考える名無しさん :2009/06/20(土) 22:40:19 0
>>759 ウィトの哲学って、部屋にこもって、シコシコやってるみたいな感じはするねw
>>759 ホーキングの仕事も言語哲学の片隅にあるんだが
「カントまでの」ってことはやっぱヘーゲル以降の哲学界は 堕落しちゃったってニュアンスなんかね。
764 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 13:44:32 0
>>763 そういうニュアンスも多少感じられる。
たしかに、ウィトの言語ゲームなんてお題目みたいなもんで、「で、それで?」って感じですな。
まあ、何の発展性も望めないな(笑)。
言語分析・批判なんて、東洋じゃインド哲学、仏教あたりでは当たり前の話題だし。
コトバってものをやたらと有難がる西欧の哲学史の中に咲いた、マイナーポエットの哲学にすぎない。
ホーキング<<<<<<<<<<ウィトゲンシュタイン なんだが。
766 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 13:58:56 0
でも、 ウィト <<<<<<<<<< ニーチェ <<<< カント <<< プラトン だしw
767 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 14:14:58 0
言語哲学は最強。
769 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 17:37:51 0
言語哲学は脳内最強のヒキ御用達
770 :
考える名無しさん :2009/06/21(日) 18:09:10 0
771 :
考える名無しさん :2009/06/22(月) 16:39:08 O
>>765 IQは多分、ウィトゲンシュタイン<<<<<<<<<<ホーキング
773 :
考える名無しさん :2009/07/03(金) 16:36:39 0
>>768 ウィトゲンシュタインの「言語哲学における業績」を
2つ、3つばかり教えてくれ
体系? 体型?
>>774 > 定義とは言語体系を示すこと。
すごい発見だな。
これは誰が言ったの?
俺も知りたい。
ウィトゲンシュタインを評価しないのって、 アインシュタインの業績はローレンツがすでに発見していたし ミンコフスキーのほうが重要 と言うのと同じだよね。
781 :
考える名無しさん :2009/07/29(水) 19:04:28 0
カラマーゾフを五十回読んだというだけで只者ではないとわかる。
>>780 ウィトゲンシュタインと比べられたら、アインシュタインが可哀想。
論考は間違っていたし、 ゲームは当たり前だし、 業績は 「カラマーゾフを五十回読んだ」ことだけ。
最近出版された、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社)って、どうなのかな? できればウィトゲンシュタインもしくは分析哲学を専門にしてる人の評価を知りたいんだけど。
>>784 専門家ではないけど、
言語ゲームの主張が、
>>774 の言うとおりだとすると、
いいことを主張しているのでは。
よくわからんが。
>>785 じゃあ、いいと思って読めたんだ?
ふ〜ん、そおかあ…
いや実はオレもこの本一応読んだんだけど、オレ的には正直こりゃかなりひどい出来ではないか!と思ったんだよ。
でも問題は、そういう評価を下すオレの方がぜんぜん理解していないのかもしれないって疑惑があるわけで(笑)
んだもんで、専門家はどう評価しているのかなって。
Amazonとかでもまだレビューがあんまりはいってないみたいだし。
>>786 前半はこんなもんかも。
後半は滅茶苦茶な妄想。
オレは素人だが。
>>787 確かに。
後半は、支離滅裂・無茶苦茶な言語ゲームの「応用」だな。
こういうのを、意欲的と言うんだろう。
俺はド素人だが。
言語ゲームは何にでもくっつけることができる。 だから、「何にも言ってない」とも言える。
ウィトは誠実な人間だったとは思うんだが、大哲学者ではないよね。 一言ことで言うと、中二病だろ。 ホモセクシャルでありながら、男性としては虚弱な肉体をもって生まれたことへのコンプレックスがあるね。 言語ゲームなんていう言い訳ゲームみたいな発想に逃げ込んだ。
791 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/02(日) 17:40:08 0
ヒント 元工学者
792 :
第2のラッパ :2009/08/02(日) 22:54:40 O
ひ
793 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 02:18:28 0
単に言語論として捉えてはダメということでしょ。 アスペクト論まで及ぶわけで、なぜ会話が成立するのか、ということが 問題意識で、それは人間の社会性そのものに関わる根源的な問題だから。 後生に与えた影響の広さをみればわかる。
「問題意識」は広い影響を与えたね。 この人は問題意識は鋭いけど、大したこと言ってないんじゃないかと思う。
ウィトは6でもないことを大仰に云うことが哲学。ではない。 と表明している者だから、2ちゃんのマイ哲学者諸君の センスには合わないんだろw
796 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 05:25:22 0
>>794 確かに革命を起こしはしたが、大したこと言ってないかもしれないな。
「なぜ会話が成立するのか」などを考えたらしいが、 結局は、 「会話が成立することを前提にせよ」 が言語ゲームの主張なのでは。
798 :
考える名無しさん :2009/08/03(月) 11:42:11 0
永井が『なぜ意識は実在しないか』で、 いろいろ論じた後、104ページの一行目で、 「言語ゲームとは要するにこのことだ」 と言っているけど、あれはどうだろうか? 言語ゲームって そ の ことか?
仏教と親和性あるよな。 実際、そういう本出てたし、 「何も言ってない」ことも仏教と似ている。
800 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 13:22:23 0
>>797 哲学には限界の思考というのがある。
カントならば、理性批判で理性(認識)の限界ギリギリを考えた。
そしてそれを延長するように、限界の向こう側=超越論を考える。
ウィトも言語(認識)の限界ギリギリへ肉薄した。
しかしカントのように超越論は、語りえぬものとして沈黙する姿勢を貫いた。
たとえばハイデガーはウィトと同時期のもうひとりの天才だが、
超越論側を語った。背中合わせになる。
ウィトが大したこと言ってないとすれば、ギリギリで寸止めしつづけたからだ。
そして後戻りして、再びギリギリに肉薄する。そして戻るを死ぬまでくり返した。
そしてその後には、ラインを引いたわけではないのに、
ウィトが語った領域と、沈黙した領域にラインができていた。
後生の様々な人々が、そのラインの周りを研究している、といわけだ。
「会話が成立することを前提にせよ」 ではなく、
言語論の原理的に、成立するはずがないのに、
成立するのはなぜか、ということだ。
それを「言語ゲーム」と名付けた。
で、「言語ゲーム」とはなにかを、行きつ戻りつ考え続けたわけさ。
その様々なあとが、哲学の言語行為論や、社会学のトーク分析や、
認知科学や、政治思想へ影響を与え続けているわけさ。
801 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 13:45:34 0
ようするには、哲学にはいつも形而上学(超越論)という 逃げ場があった。最後は、いった者勝ちであった。 ウィトはそれを批判した。なんとでも言えたが、言わなかった。 黙々と引き返し、また限界の壁へ肉薄した。 ウィトが足跡で描き出した壁=言語ゲームとはなんなのか。 それもいまもわからないが、最新の脳科学がただの脳の反応であるというとき、 「脳の反応」ってなんだ!? それが脳還元主義の形而上学だろう。 ウィトの爪のアカでも煎じろ!ボケ!ということだね。
>>800 「言語論の原理的に、成立するはずがない」
なんてどうかな。
「言語論の原理的」って言葉はないよ。
803 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 13:47:45 0
804 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 13:55:20 0
NHKのサイエンス番組で、プロ将棋師の脳の反応を調べてたね。 普通の人は将棋をするときには、考える部分が反応するんだけど、 プロ将棋師の場合には、その奥の習慣を司る部分が反応する。 いちいち考えて反応するのではなく、習慣的に反射的に解答を導く。 考えるのはエネルギーがいるから、反復することで 習慣化されて脳に記憶される。 だからなんにしても熟練するのは反復練習が重要になる ということだな。 それまでの言語論はすべて思考で成り立つと考えていた。 だから超越論へはしるしかなかった。 それに対してウィトは、習慣を導入する。これが言語ゲームだね。 そしてこのような脳分析も、言語ゲームの解釈の一つだね。
社会学的な読み方をする人と禅的な読み方をする人がいると思うんだけど、 どっちの読み方が正しいの?
>>804 それってどうなんだろ?
たとえば、○と△を子供に見せて、円と四角という言葉を覚えさせるとする。
その時、○と△の違いを理解するのは習慣なのだろうか?
○を見せて「えんえん円」と言葉を繰り返させて、△を見せて「さんかくさんかく」と繰り返させれば、
習慣で覚えるという考え方だと、どうやって○と□の違いを認識したのか説明できないように思うけど。
>円と四角という言葉を覚えさせるとする。 スマソ。四角→三角の間違い。
>○と□の違いを認識したのか またまたスマソ。○と△の違いを認識したのかの間違い。
いくら習慣を導入しても、すぐ超越論的なものが出てくるよ。
810 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:31:18 0
>>806 >習慣で覚えるという考え方だと、どうやって○と□の違いを認識したのか説明できないように思うけど。
習慣の本質がわかっていないようだ。
習慣とは、説明できないことを棚上げにする考えなのだ。
ウィトは、言語コミュニケーションが成立することが説明できないことに至る。
でも現実には成立している、なぜだ?「習慣」だから。
それ以上は、鍬は固い大地に跳ね返される、といった。
○と△の違いは、数学的に定義できるかもしれないが、
人はそのようには判断していない。習慣で判断している。
だから多くにおいて間違し、錯覚に騙される。
それでもよい、ということ。
人の認識の90%は習慣でしょ。
本当に考えるのは一部。
なぜなら人の処理能力はそんなに高くない。
認知限界があって、多くは考えるのは回避して判断している。
811 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:32:51 0
>いくら習慣を導入しても、すぐ超越論的なものが出てくるよ。 無になれ!超人になれ! ニーチェは能動的健忘と読んだ。
812 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:35:29 0
さあ、右手を挙げてみろ。 で、きみはどのようにして右手を挙げたのかね。 右手が上がるように命令したのかね。 で、そのように命令したのかね。 その筋肉に命令したのかね。 すべては習慣様の思いのままに・・・
>>810 いやいや、超越論的というのはそんなに甘くないよ。
だって○と△の違いが分からなければ、その習慣自体が成立しないんだから。
814 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:49:13 0
>>813 なんでわからないかな。
自転車の乗り方がわからなくても、自転車は乗れるだろう。
どうやって乗ってるか説明なんかできるか。
そこにあるのが、「言語ゲーム」なんだよ。
>>812 限界ギリギリに肉薄なんか全然してないじゃんw
816 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:53:40 0
817 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:54:37 0
>> 如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・ 如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけで は、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。 私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う 事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣 習([恒常的]使用、制度)である。 規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間に は如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓 練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198) 規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用におい て我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)
818 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:55:28 0
したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる 事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事 に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応す るようになるのである。(202) 「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いで はないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前 の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、 硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、 こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217) 『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076) <<
819 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 14:58:54 0
そのとき私は、 こう言いたい:「私は当にそのように○と□を見分けるのである」(217)
820 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 15:09:14 0
>習慣で覚えるという考え方だと、どうやって○と□の違いを認識したのか説明できないように思うけど。 ようするに、このような考えは、認知主義という。 プラトン以来の学問の主流であり、形而上学だ。 いまだの多くの人が陥る錯覚であって、最近では脳科学がこの錯覚を解き明かしつつある。 行為よりも認知を優位とする。 動物よりも人間を優秀とする。 精神よりも身体を確かなものとする。 ウィトの言語ゲームはプラトン以来の知の形而上学を転倒したのだ。 認知よりも行為 精神よりも身体 知よりも習慣・実践 かっちょいい!しびれる〜るる!(><)
>>814 それじゃ18世紀の経験論哲学てだけじゃん。ウィトゲンシュタインて何やった人なのw
非常に高い知能と厳格な道徳規範を持ち、ユダヤ系であったにもかかわらず ヴィトゲンシュタインは、ドイツでのヒトラー台頭が何をもたらすか理解していなかったようだ。 また、女性を蔑視するような文章を素直に称賛していた。 彼は悲観的で、沈み込みがちと思われていたが、これは家族の病歴を見れば驚くに当たらない。 むしろ意外なのは、彼が常に本当の意味で塞ぎ込んでいたわけではなく、最期の言葉が 「私は素晴らしい人生を送ったと彼らに伝えてくれ」だったとされている点だ。 アスペルガー症候群がわかる本――理解と対応のためのハンドブック―― C・ギルバーグ著 明石書店 P129
823 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 15:16:48 0
>>821 たしかにヒュームは神だ。
そしてウィトに先駆けて、コンベンション(慣習)を指摘した。
その意味で、ウィトの師匠ではあるが、
その限界さが全然違うだろう。
数学を含めて、真に知を懐疑しえたのは、ウィトだ。
>>820 その説明、よく読めば素朴実在論だし、規則習慣の違いが認識できないなら習慣化もできないじゃんw
825 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 15:25:03 O
素朴実在論だってヾ(=^▽^=)ノすんげぇバカ
826 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 15:33:53 0
ヒュームもウィトも懐疑論だろう。でないと、習慣なんか必要ないだろうが。 横ちん出しながらセンター街を歩くぐらいの恥ずかしさだな。
>>826 分かんない人だなー。全然ギリギリ限界じゃないしw
習慣の違いが理解できないで何で習慣が成立するの?
828 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 15:53:07 0
>>827 認知主義のチキンは、口だけは達者だな。
ならば、ウィト以上のギリギリ限界みせてみろや。
829 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 16:12:33 0
勝った。
>>828 バッカだなー。
おまえは超越論的なものを避けるために経験主義に戻ってるだけの人。
これじゃウィトゲンシュタインがかわいそう。
彼はただのアスペじゃない。 彼には共感能力がある。 あえて言えばアスペ+ADHDだ。 何をするにつけ、意識的でありながら、かつ共感能力が高い人間は ともすると聖人になったりする。 短期記憶が弱い人間と見た。
832 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 16:26:06 0
煽ってどうする? コテハンはこれだから、困るw
834 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 18:44:43 O
ウィトの限界の思考は強烈だろう。クリプキにしろ、オースチィンしろ、言語論で近接しようとすると、とたんに形而上学に足をすくわれる。 結局、言語の臨界なんだろう。かといって認知科学、脳科学でもわかるようなものではない。 「規則に従う」としか言えないよ…夏
835 :
考える名無しさん :2009/08/03(月) 19:34:23 0
>>798 正しいと思いますよ。
あれで『論考』との関係を解釈したら面白いのに…。
>>834 >「規則に従う」としか言えないよ
これを「「聖書に従う」としか言えないよ」と言い換えれば、西洋文化の
思考フレームの限界が見えてくるだろ? 規範主義。
ブルース&ジェット・リーとか一連の少林寺モノとかの香港・中国映画を観てて
思うことがあるとすれば、小乗な肉体鍛錬主義。健全な魂は健全な肉体に宿る的な
肉体主義的思考フレームがあるていうことだな。シュワ&スタロン的マッチョとは
ずいぶん違う。
837 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/03(月) 22:57:37 0
>>836 まあ、勉強してこいな。
「規則」に従うと、「規則に従う」の違いな。
はいはい。視野角固着乙ですなw
自由意思否定して、人間社会生きていけますか?
>>834 なんという浅薄な思想。何故、規則に従えるのかね?
>>834 その言い方だと、ウィトは形而上学にビビって逃げ回ってるヘタレと言っているようなものだな。
おやすみにゃ〜ん^^
「言語ゲーム」って言葉だけ。 やっていることは、 ソフィストとかわらん。 「ウィトの言語ゲームはプラトン以来の知の形而上学を転倒したのだ。」 なんて馬鹿らしい。 ソフィストに戻っただけだろう。
844 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:01:02 O
要するになんで言語コミュニケーションは成立するのか、ってことだよ。 言語論をどう突き詰めても意味なんか伝わらないだろう。わかる?
845 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:04:31 O
ネットでも、交換してるのテキストだけなのに、コミュニケーションが成立してる。 「規則」なんかないのに、「規則に従う」ってる。 ほんと不思議だよ。
不思議だけど、哲学の問題ではない。 犬だってしていることだかね。
847 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:19:33 O
哲学の問題ではなくなんだというだ。犬くん
848 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:24:33 O
あ〜不思議だ。今この時も負け犬くんとコミュニケーションが成立してるよ。
849 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:33:20 O
これにはいろいろな考え方があってね。代表的なのがクリプキなどのように超越論的共同体を想定するパターンだな。 さらにラカンは伝わる伝わらないなんか関係なくコミュニケーションしようとする欲望を付け加える。 あとはルーマンのシステム論などオートポイエーシス、行為論だな。伝わる伝わらないは関係なく、コミュニケーションの総体がシステムを形成する。
850 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:45:11 0
まあこんな感じだ。じゃあな。
851 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 12:48:36 O
知ってることをひけらかし、やり込めたつもりで悦に入ってるバカ。
852 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 12:49:49 0
はいはい、勝負に負けたら人格攻撃。
勝負を形成するもの
854 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 13:28:18 O
勝負勝負って、こんなとこでバカじゃねえのw おまえリアルくそがきだろw
>>852 じゃあな、といいながら激しくレスを気にする小心者の虚勢。
856 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 13:41:51 0
なんだよ。ストーカーくんか。 こんなところまでついてくるとは・・・ まじめに答えて損した。
哲板のクソコテって、巡業の先々で自家製のミニ土俵作って、 独りで相撲とって、あげく行司まで自演して「勝った残った」してる暇厨だからなあw
858 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 13:50:07 O
「勝ち誇る」ためには一人相撲も平気な異常者ぴかぁ。 相手してやることないよ。
859 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 13:53:05 O
まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑) まじめに答えて損した。(笑)
>>849 つまらん問題に囚われているなよ。
「哲学は万学の女王」だぜ。
861 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 14:07:31 O
わかった
>>843 「言語ゲーム」=ソフィスト
かもね。
ソフィストと実質的に同じことを言っても、ウィトは受けたんだな。
論考もたいしたことないが、受けた。
ウィトには、「受ける」才能がある。
面白くもない。
864 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/04(火) 17:45:04 0
禿同
865 :
考える名無しさん :2009/08/04(火) 17:53:17 O
ぴかぁ自演再開予報
>>849 >超越論的共同体
共同幻想。
他者と幻想を共有することにより、コミュニケーションは成り立つ。
行為者の意図なんか関係ないんだよ。観察者の記述・解釈だけがコミュニケーションを支えてるんだっていいたいのさ。魔女狩り裁判まで、後一歩だよ。
868 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/05(水) 00:58:46 0
>>866 そういうこと。
伝わっているだろう。伝わる共同体が存在するだろう信念、
のようなものがなければ、原理的にコミュニケーションは成立しないということ。
>>867 なぜ魔女狩り???
>>810 バカすぎて話になりませんな。
>○と△の違いは、数学的に定義できるかもしれないが、
>人はそのようには判断していない。習慣で判断している。
○と△の違いは習慣で判断している?
じゃあ○と△の違いを知らない未開の土人が○と△の違いを知るときに、
○と△の違いを判断している習慣を判断する習慣があったのかよwばーかw
お前の言ってる知識論の中身は幼稚な経験主義哲学で、
その程度のありきたりな経験論の説明でウィトゲンシュタインの名前を出す必用は全くないね。
>>862 何故「受ける」
@詩的才能=コピーライター
A金持ちなのに金に頼らない生き方
B姉が名プロデューサ
871 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/05(水) 07:46:18 0
>○と△の違いを判断している習慣を判断する習慣があったのかよ 習慣の習慣? なものあるわけないだろう。 だから「規則」ではなく、「規則に従う」だ。 やっぱり理解できないのかな。
872 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/05(水) 08:03:36 O
経験論そのものもわかってないだから話にならない
「なぜ自転車は乗れるだろう?」が哲学の問題と勘違いしている時点で、 アウトだな。
当たり前のことに理由などいらない。
当たり前のことを疑うのが哲学
理由なくそうだと判断し、従う=言語ゲーム。
何事にも理由をつけて判断し、従い従わせるのも言語ゲーム。
879 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/05(水) 16:29:18 0
>理由なくそうだと判断し、従う=言語ゲーム。 ネタだと笑えないところがあるな。 ウィトは保守派の思想家に加えられてるからな。 言語ゲームとは現状なんとかなっている、ということだから。
コミュニケーションにおける根拠なき信頼というのは言語ゲームだな。
そりゃあんた、哲学=形而上学と思ってるからでは。 ウィトゲンシュタインの主張は 哲学的問題は形而上の問題ではなく、言語によって生じる問題である ということなんだから、当然醤。
北田の『制度の他者』論がおもしろいな。
哲学をかってに変えていいなら、何でも哲学だよ。 家政学も植物学もね。
社会学者が言語ゲームを援用しても社会学が哲学になるわけではない。 重なり合う部分があるだけ。
>社会学が哲学になるわけではない 否定構文だからOKなのだが、「なる」って語は注意して使おうな。
なんかの本で「ウィトゲンシュタインは後期になるにつれてプラグマティックになっていった」って書いてたんだけど どの部分を指してプラグラティズムなんだろうか
言語ゲームとか意味の使用説とかじゃないの。 実際に言語が使われている場面を重視するわけだし。
自転車に乗れるのも、哲学?
しょぼい哲学者だよな。
891 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:01:05 O
ウィトはプラグマティシズムではない。 プラグマティは意味は語の用法であるということだけど、ウィトは意味は実践訓練があって獲得されるといっただけ。別に用法である必要はない。 ただパースが語と意味の間を裂いて解釈項をいれた元祖とすれば、後期ウィトもこの系譜につながらなくはない。前記にはない考えだし。
892 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:06:57 O
自転車にのれるに関しては、ポランニーが暗黙知とよんだが、ウィトの影響下だろい。 フロイトの無意識と暗黙知の違いを考えるよい。あるいはフロイトの超自我(象徴界)とウィトの言語ゲームの違い。
893 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:16:05 0
>892 超自我から共同幻想の手の平の上の世界だよ。
894 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:17:01 0
言語ゲームが成立する世界も同じ。
895 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:19:50 0
アカポスコンプから、また突っ込まれるかもしれないけど、デカルトのコギトエルゴスムスも共同幻想から自由ではない。
896 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:24:22 0
ウィットの「事実」もまた、アカポスコンプから、突っ込まれるかもしれないけど、共同幻想から自由な概念ではない。
897 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:26:29 O
超自我とは社会的な掟の世界という超越論的。だれもが心にちっちゃな神様がすんでいる見張ってる。 言語ゲームは経験論。さまざまなことは経験により体か覚えていく。 だから自転車の乗り方は超自我では説明できない。暗黙知=言語ゲームの世界。
898 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:29:04 0
>897 だから暗黙知とは企業経営論においても共同幻想の謂いですよ。
899 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:29:31 O
要するにウィトが開いた境地は、ちっちゃな神様なんかなくても、自転車にのるようにコミュニケーションしてるだけだよってこと
900 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:31:41 0
>899 そのコミュニケーションが成立する場も・・・、これくらいにしときます。
901 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:31:45 O
自転車にのるのに幻想なんかいらないだろ。
902 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:33:07 0
>901 幻想のみが実在しているの。
903 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/06(木) 18:35:14 0
現代の水泳の自由形がすべてクロールになったのも幻想に基づく。
904 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:35:55 O
このスレの流れからわかるように、言語ゲームを理解するには、凝り固まった哲学脳を柔らかくする反復訓練(リハビリ)が必要だ。 哲学好きほど理解できない。
905 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:40:59 O
自転車に幻想がいらないのは簡単でことで、猿でも犬でも訓練すれば自転車にのれる。
906 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 18:47:13 O
しかし高度な言語コミュニケーションは人間だけだ。ここに超越論は必要になるをだろうなあ
907 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 20:33:24 0
ようするに、自転車でも新しい乗り方のような発想は訓練だけでは説明がつかない。 パースのいうアブダクション。マルクスのいう命懸けの飛躍。 ここには超越論はいるのか。でも人はほとんどを習慣でこなしている。 なんでも超越論に持ち込むのは神経症だ。 あれ自転車にのるときはどう体を動かしたっけ?なんてのは神経症。 だからフロイトがなんでも無意識で説明するのは患者にはよいか、 普通のひとではおかしい。 ふつうのひとが自転車の乗り方わすれるのは、恋をしたときか、宝くじで六億円にあたっとときぐらいだ。 というのが言語ゲーム論です。
俺は言語ゲームっていうとシグナルとシンボルの再帰的運動、ていうイメージだなぁ。
>>907 ふーん。そうなの? 自転車の例はあまり良くないね。
N.マルコムの回想では、言語ゲームのアイデアって、
グラウンドでフットボールがプレイされているのを
通りがかりで見て思いついた。ということだけど。
言語ゲームには、複数のプレイヤーとルールと審判と
プレイグラウンド。これくらいの要素が無いと説明には
ならないだろうな。
910 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 21:48:47 0
>>909 ん〜たしかに。言語ゲーム→暗黙知の流れだから、
確かに一つ転がってるね。
ようするに、言語ゲームには経験論と超越論が含まれているが、
超越論は哲学の伝統だから、経験論部分を強調した、
経験論部分が多い、ところが新しい。
この経験論的な部分を強調すると暗黙知が抽出される、ということかな。
「石版!」と言われて、石版を持っていくのは、
言語意味論では説明が難しく、
むしろ自転車をのるようなもの、ということだな。
911 :
考える名無しさん :2009/08/06(木) 22:00:31 0
暗黙知とか超越論とかの哲学用語を用いるから話がややこしく見える。 眼前で展開されているゲーム・プレイからルールを記述するには、 第三者として、スタンドに居て観戦していれば、そのゲーム・ルールを 記述できる。つまり観客の視点でゲーム全体を見下ろすこと。そうしないと ルールは見えてこない。記述できない。ということだろ。 「石版」という語の意味も、探求の冒頭近辺で書かれているとおり、 実際の使用を見て学び取ることで、わかってくる。語法もそうした観客的 ルール(用語法)理解がまず先にあって、自分がその学びを実際の局面 で使用する事で、語を用いて「石版」と言えるようになる。 暗黙知とか超越論とかの哲学用語を用いて説明しようとすると、その語が 本来使われていた現場を読者が知っていなければならない。でもね。それ では哲学書をそれ相応に学んでいなければできないだろ。だからね、それ じゃ、話が難しく、入場料の高い試合にしかならない。一般的・庶民的な議論 にはならないと思うな。
揚げつ
913 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:09:26 0
>>911 ここ哲学板ウィトスレだぜ。
まあ、わかりやすい説明だな。
「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、
猿でもできる、体が覚えている・・・オブジェクトレベル(暗黙知)
観客の視点でゲーム全体を見下ろすこと・・・メタレベル(超越論)
ということだな。猿にはメタレベルはない。
パース、ウィトの影響と受けたベンヤミンの学習論に近くなってきたな。
914 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:13:41 0
ベイトソンだった。 ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復に アウトプットを出力する。学習で習得するものではない。 学習T・・・条件反射のように、あるコンテクストの中で入力に対する出力が学習される。 ただコンテクスト事態は学習されない。「暗黙知」はここに相当するだろう。 学習U・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。 学習V・・・コンテクストの差異を知り、コンテクストの操作を学習する。
915 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:18:47 0
しかしウィトは、語用論のようなコンテクスト(状況)は認めない。 なぜなら発話の前に固定されたコンテクストはないから。 発話して意味が伝達される(されたようにみえる)、その後でしか、 コンテクストはわからないから。 だからやはり、メタレベルは超越論なんだよね。 そこにコンテクスト(状況)が成立しているような錯覚する。
916 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:37:03 0
「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、 学習T(オブジェクトレベル)・・・何度もくり返すことで体で覚える。 学習U(メタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し、石版を渡す。 学習V(メタメタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し操作する。 石版に代わりに石谷さんを連れて行くというギャグをかます。 しかしウィトは、メタレベルが成立しないことを示した。 どんなに状況を読んでも、それが相手と共有されているという確証はない。 では人は正しい確証もなく、石版を持っていくのか。 学習Tとしての何度もくり返された経験があるからだ。 素人が、突然「石版!」と言われてもなんのこともわからないだろう。 どのようなメタレベルにもオブジェクトレベルがなければならない。 なにごとも、発想が一番なんてことはない。 訓練、経験、実践という基礎練習を忘れるな。 というのが、言語ゲームな。
>しかしウィトは、語用論のようなコンテクスト(状況)は認めない。 >なぜなら発話の前に固定されたコンテクストはないから。 そんなことはないだろ。つか、間違ってる。 人は人生というコンテキストを発話の前に生きている。人生と無縁で 何事か語り得るとでもいうのだろうか。そんなことはない。だろ? だから同じプレイグラウンドで語り合うという言語ゲームをプレイしても ひとそれぞれ、会話の理解や語法が違ってくる。差違が生じる。 オレは君のようには理解しない者であるし、君もそうだろう。 だから、オレの様な理解を要求したりはしない。それでも ひとつの語を同じく用いるなら類似した相互理解にたどり着けるであろう。 と思っている。 晩年、ウィトは自分の思想がどのように受け継がれるか? と問われて 人それぞれ、受けてそれぞれが違った様に受け継いでくれるだろう。 と語ったといわれている。これが後期的な毒ガロンだな。
918 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:44:21 0
>>917 >しかしウィトは、語用論のようなコンテクスト(状況)は認めない。
>なぜなら発話の前に固定されたコンテクストはないから。
いやいやいや。これ基本中の基本な。
これがなければ、ただの語用論だから。
ウィトは後生に残ることはなかった。
ウィト思想の根本だから。
あのさ、知っているとは思うけど、 ウィトはね、小学生向けの辞書を編集して出版してるの。 子供には、きちんとした語用論的、語法を学ぶことが必要だと考えた人なの。 だから、君の議論は君の理解から一歩も出てないと思うね。
920 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:48:42 0
フットボールをしていようが、数学をしていようが、みなが同じルールで していることを確かめることはできなんだよ。 でもフットボールも、数学も成立している。 この不思議。それを「言語ゲーム」と名付けたんだよ。
>>918 だから中二病なんだよ。
ウィトって現実との交渉がかなり乏しい人間だったと思うよ。
彼の生活史をみても、明らかに自閉性への傾斜を感じるな。
生まれなのか、育ちなのか分からんけど。
自殺傾向のある家系だから、なにかの病因があるのかもしれん。
922 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:52:11 0
>>919 は????
まあ、ウィト入門読もうよ。
923 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 22:54:35 0
>>922 なんだ。知らないのか。トラッテンバッハだったか、小学校教師時代、
ドイツ語の正書法策定の運動が起こった頃に子供向けの辞書を編纂してる。
前書きも書いていて、それは書籍ににもある。だが全集には載っていない。
ある年のウィトに関する学術会議で、その復刻版が配布されたことがある。と言う話。
926 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 23:01:08 0
ウィトのいう「言語」はいわゆる「ことば」だけを意味してるわけじゃないのに へんに言語的に固定するひとっているよね
ファウストの「始めに行為あり」がウィトの立場。
929 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 23:24:19 0
>>919 アインシュタインが小学生にニュートン力学を教えたり、入門書を編集すると、
相対性理論はなかったってことね。こわぁ・・・
>>929 その例えは間違ってるよ。
書いてる本の内容が問題なんじゃなくて、辞書を作ってこどもに教えるという行為に意味あるものだと認めてたわけでしょう。
そうでなければ、彼は無意味なことやってたわけだ。
931 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/06(木) 23:42:19 0
>>930 なんだそれならボクがいったことじゃない!
>なにごとも、発想が一番なんてことはない。
>訓練、経験、実践という基礎練習を忘れるな。
>というのが、言語ゲームな。
>>881 > 言語ゲームは、哲学でないんだよ。
当然だな。
カントで終わったんだから。
>>843 賛成なんだが、
これは君の意見なのか
どこかの哲学者が言ってることなのか
教えてくれないか?
>>843 でなくても、知ってる人がいたら、頼む。
934 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 11:58:00 0
>>905 ヒトの手前勝手な共同幻想を押し付け、動物を虐待するのはいかがなものかと。
936 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:10:54 0
>935 ロングコートチワワなど、ヒトの共同幻想をチワワ原種に押し付けて生み出した生物でしょ? かわいいけど。
937 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:15:27 0
ぴかぁ〜たんの言っている暗黙知というのは、共同幻想のこと。 発話を含めた超越論的行為の向け先も共同幻想。 超越論的ではあっても超越などできっこないが。
938 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 12:20:59 O
だから自転車にのる猿にも共同体幻想はあるのかよ。 人が歩くとき右足をだすのに共同体幻想がいるのか。 人工知能か?
939 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:23:41 0
>938 自然状態にいる猿が何がかなしくて自発的に自転車に乗るの?
940 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:30:27 0
柄谷の解釈の引用ですまないが、デカルトのコギトエルゴスムスも異国に滞在していたときの発想。 漱石もロンドン留学中に自分の部屋に蒸気機関車が飛び込んでくる悪夢に悩まされた。 一種の神経症だが、今みたいなグローバル環境ではない時代では、自分が生まれ育った環境から引き剥がされたヒトにとっては、共同幻想の喪失に近似した体験だったと思う。
941 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 12:43:10 O
人工知能の不可能性のパラドクスというのがあって、 ようするに正しい解を導きだそうすると、その可能性が無限にあり、解を収束できないということ。 たとえば「セキバン!」という音を聞いた人工知能は正しい反応を考えるが無限の解釈があり、フリーズしてしまう。 とすると、なぜ人はフリーズしてないのか。そりゃ僕らにはウィト神の言語ゲームに守られてるからさ!
942 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:45:43 0
>941 だから、言語ゲームが成立するには、言語も含め、同一の共同幻想の中にいることが必須条件になるのさ!
943 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 12:46:38 O
自然状態の猿というのが明らかな形而上学だが 別に野性の猿も多くを訓練では獲得するからね。
944 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 12:54:39 0
>943 猿に限らず、生き残るための必須のアイテムだけ。 自転車に乗る訓練は受けない。
945 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 12:55:38 O
>>942 ×
正解は、人の脳はコンピュータほど処理能力ないから、正解を導く前に習慣的に行為してしまっている。
フリーズするのは恋をしたときか、オタクぐらいだ。
946 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 12:59:21 O
形而上学の狂気がててきたな。精神/体、人間/動物、超越/経験、優秀人種//劣等人種 たすけてウィト!
947 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 13:03:54 O
考えて行為してるなんかまったくの錯覚だ。そんなとろいことして生きていけない。 習慣的にかってに体か動いて、コントロールしてるように錯覚してるだけ。 それが言語ゲームさ。
948 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2009/08/07(金) 13:06:40 0
>945 コンピュータだって音声認識やナレッジマネジメントや正誤の判断、及び学習機能くらいは持てるが。
949 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 13:11:43 0
>>940 そうだな。神経症は、人工知能のフリーズに近い状態。
言語ゲームと切り離されて、体がフリーズしてしまう。
なぜフリーズするか、習慣的に反射的に行為することができずに、
行為する前にいちいち頭でどうすればいいか、考えてしまう。
しかしいくら考えても、解がでないことは、人口知能のフリーズと同じ。
そこに判断のためのストレスが生じて、より能動性が失われて、
内向的に考えて、さらにフリーズする・・・
950 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 13:13:12 0
>>947 ウィトゲンシュタイン擁護に見せかけた、
ウィトゲンシュタインを貶めるレス。
宇宙人から見れば、 「人間の言語」なんて、「猫の言語」のようなものさ。
953 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 13:23:47 0
恋をすると人はフリーズするのもこのため。 もんもんと考えてしまう。コクろうか、どうしようか。 彼女の発言、行為を一つ一つ思い返して、 あれは気があるよな、いやいや錯覚だ!・・・・くりかえしくりかえし こんなのいくら考えてもわからない。 普通、相手の気持ちを知りたいときは、ごちゃごちゃ考える前に、 「あれ、どうおもうよ?」と聞いてしまって終わり。 でも恋をすると「オレのこと好き?」と気持ちを聞くことができない。 だから頭でぐるぐる考えるが解などでないから、 フリーズする。これをボクは、人口知能化と呼ぶ。 哲学板にいるような頭でっかちの奴は、恋とは関係なく、 フリーズすることは多々あるだろう。 考えても解はないし、悩みすぎると精神が弱っていく。 とりあえず、考えずに体に身を任せろ。 自分を信じろ。 というのが、言語ゲーム!
酒井法子容疑者に逮捕状 身柄確保に全力 というのが、言語ゲーム!
955 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 14:08:20 0
956 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 14:10:29 0
958 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 16:47:35 O
テレビでものまねのコロッケが話していたが、年間二百ステージこなしてると、ものまねがだんだん変化していく。 それでも見てるほうがおもしろく感じるのは見てるほうも学習するのと、エッセンスが残っているからだろう。 だれもが同じことをやっていると精確になり、目をつぶってもできるようになり、遊びをいれる余裕がててくる。 そこに創造の芽が生まれる。遊びは創造の父といわれるのはそのためだろう。 はたしてまだそこに超越論的共同体はいるのか。
959 :
考える名無しさん :2009/08/07(金) 17:55:02 0
ぴかぁ〜たんさ、いくつ端末持ってるの? どうして「サルさんバイバイ」にならないの? とても追いつけない(追いつきたいとも思わないけど)。
960 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 18:28:20 O
モバイル用のダイアルアップならつなぎなおせば何度でも書き込みオケイですよ。
961 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 18:48:56 O
しかしみなさん心配しないでください。言語ゲームを超越論へ回収してしまう間違いは根深いですよ。 だってウィト研究者のクリプキや黒崎でさえ陥っているわけですからね。 この罠はプラトンにみられるように哲学そのものが持つ形而上学的特性といえます。 (言葉で)つきつめることの欲望に勝つこと。ウィトの語りえぬものの寸度目への強い意志が必要なのです。 なにせウィトでさえ末期の確実性ではもうギリギリだったわけです。 では特別によい教科書をお教えしましょう。1つは野家の「科学の解釈学」。これは経験論と超越論の微妙な関係を書いた名著ですね。 もうひとつは、いままでの哲学観を吹き飛ばし、新たな行為論の世界へ導く禁断の書マラトゥーヤ?の野性の樹? どちらもちくま文庫で安価、なおかつ読みやすい。 あとは自習とします。では。
アハハハハ
963 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:15:22 0
■夏休み特別企画 ウィトゲンシュタイン「言語ゲーム」ってな〜に? カント 純粋理性批判 ハイデガー 哲学には限界の思考というのがある。カントならば、純粋理性批判で理性(認識)の限界ギリギ リを考えた。そしてそれを延長するように、限界の向こう側=超越論を考える。ウィトも言語 (認識)の限界ギリギリへ肉薄した。しかしカントのように超越論は、語りえぬものとして沈 黙する姿勢を貫いた。たとえばハイデガーはウィトと同時期のもうひとりの天才だが、超越 論側を語った。背中合わせになる。 ウィトはギリギリで寸止めしつづけた。そして後戻りして、再びギリギリに肉薄する。そして 戻るを死ぬまでくり返した。そしてその後には、ラインを引いたわけではないのに、ウィトが 語った領域と、沈黙した領域にラインができていた。後生の様々な人々が、そのラインの周 りを研究している、といわけだ。 「会話が成立することを前提にせよ」ではなく、言語論の原理的に、成立するはずがないの に、成立するのはなぜか、ということだ。それを「言語ゲーム」と名付けた。で、「言語ゲー ム」とはなにかを、行きつ戻りつ考え続けたわけさ。その様々なあとが、哲学の言語行為論 や、社会学のトーク分析や、認知科学や、政治思想へ影響を与え続けているわけさ。 ようするには、哲学にはいつも形而上学(超越論)という逃げ場があった。最後は、いった 者勝ちであった。ウィトはそれを批判した。なんとでも言えたが、言わなかった。黙々と引き 返し、また限界の壁へ肉薄した。
964 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:16:22 0
脳科学 ウィトが足跡で描き出した壁=言語ゲームとはなんなのか。それもいまもわからないが、最 新の脳科学がただの脳の反応であるというとき、「脳の反応」ってなんだ!?それが脳還 元主義の形而上学だろう。NHKのサイエンス番組で、プロ将棋師の脳の反応を調べてた ね。普通の人は将棋をするときには、考える部分が反応するんだけど、プロ将棋師の場合 には、その奥の習慣を司る部分が反応する。いちいち考えて反応するのではなく、習慣的 に反射的に解答を導く。考えるのはエネルギーがいるから、反復することで習慣化されて 脳に記憶される。だからなんにしても熟練するのは反復練習が重要になる、ということだな。 それまでの言語論はすべて思考で成り立つと考えていた。だから超越論へはしるしかな かった。それに対してウィトは、習慣を導入する。これが言語ゲームだね。そしてこのような 脳分析も、言語ゲームの解釈の一つだね。 人の認識の90%は習慣でしょ。本当に考えるのは一部。なぜなら人の処理能力はそんな に高くない。認知限界があって、多くは考えるのは回避して判断している。さあ、右手を挙 げてみろ。で、きみはどのようにして右手を挙げたのかね。右手が上がるように命令したの かね。で、そのように命令したのかね。その筋肉に命令したのかね。自転車の乗り方がわ からなくても、自転車は乗れるだろう。どうやって乗ってるか説明なんかできるか。そこにあ るのが、「言語ゲーム」なんだよ。
965 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:17:08 0
プラトン ヒューム クリプキ ラカン ルーマン オートポイエーシス ようするに、このような考えは、認知主義という。プラトン以来の学問の主流であり、形而上 学だ。いまだの多くの人が陥る錯覚であって、最近では脳科学がこの錯覚を解き明かしつ つある。行為よりも認知を優位とする。動物よりも人間を優秀とする。精神よりも身体を確 かなものとする。ウィトの言語ゲームはプラトン以来の知の形而上学を転倒したのだ。認知 よりも行為、精神よりも身体、知よりも習慣・実践。 たしかにヒュームはウィトに先駆けて、コンベンション(慣習)を指摘した。その意味で、ウィ トの師匠ではあるが、その限界さが全然違うだろう。数学を含めて、真に知を懐疑しえたの は、ウィトだ。 ネットでも、交換してるのテキストだけなのに、コミュニケーションが成立してる。「規則」な んかないのに、「規則に従う」ってる。ほんと不思議だよ。これにはいろいろな考え方があっ てね。代表的なのがクリプキなどのように超越論的共同体を想定するパターンだな。さらに ラカンは伝わる伝わらないなんか関係なくコミュニケーションしようとする欲望を付け加え る。あとはルーマンのシステム論などオートポイエーシス、行為論だな。伝わる伝わらない は関係なく、コミュニケーションの総体がシステムを形成する。
966 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:18:26 0
プラグアティシズム パース ポランニー 暗黙知 フロイト 無意識 アブダクション ウィトはプラグマティシズムではない。プラグマティシズムは意味は語の用法であるというこ とだけど、ウィトは意味は実践訓練があって獲得されるといっただけ。別に用法である必要 はない。ただパースが語と意味の間を裂いて解釈項をいれた元祖とすれば、後期ウィトも この系譜につながらなくはない。前記にはない考えだし。 自転車にのれるに関しては、ポランニーが暗黙知とよんだが、ウィトの影響下だろい。フロ イトの無意識と暗黙知の違いを考えるよい。あるいはフロイトの超自我(象徴界)とウィトの 言語ゲームの違い。超自我とは社会的な掟の世界という超越論的。だれもが心にちっちゃ な神様がすんでいる見張ってる。言語ゲームは経験論。さまざまなことは経験により体か 覚えていく。だから自転車の乗り方は超自我では説明できない。暗黙知=言語ゲームの世界。 要するにウィトが開いた境地は、ちっちゃな神様なんかなくても、自転車にのるようにコミュ ニケーションしてるだけだよってこと。自転車にのるのに幻想なんかいらないだろ。自転車 に幻想がいらないのは簡単でことで、猿でも犬でも訓練すれば自転車にのれる。しかし高 度な言語コミュニケーションは人間だけだ。ここに超越論は必要になるをだろうなあ ようするに、自転車でも新しい乗り方のような発想は訓練だけでは説明がつかない。パー スのいうアブダクション。マルクスのいう命懸けの飛躍。ここには超越論はいるのか。でも 人はほとんどを習慣でこなしている。なんでも超越論に持ち込むのは神経症だ。あれ自転 車にのるときはどう体を動かしたっけ?なんてのは神経症。だからフロイトがなんでも無意 識で説明するのは患者にはよいか、普通のひとではおかしい。ふつうのひとが自転車の乗 り方わすれるのは、恋をしたときか、宝くじで六億円にあたっとときぐらいだ。 ようするに、言語ゲームには経験論と超越論が含まれているが、超越論は哲学の伝統だ から、経験論部分を強調した、経験論部分が多い、ところが新しい。この経験論的な部分 を強調すると暗黙知が抽出される、ということかな。
967 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:19:16 0
ベイトソン 学習論 「石版!」と言われて、石版を持っていくのは、言語意味論では説明が難しく、むしろ自転 車をのるようなもの、ということだな。「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、猿でもで きる、体が覚えている・・・オブジェクトレベル(暗黙知)、観客の視点でゲーム全体を見下ろ すこと・・・メタレベル(超越論)ということだな。猿にはメタレベルはない。パース、ウィトの影 響と受けたベイトソンの学習論に近くなってきたな。 「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、 学習T(オブジェクトレベル)・・・何度もくり返すことで体で覚える。 学習U(メタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し、石版を渡す。 学習V(メタメタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し操作する。石版に 代わりに石谷さんを連れて行くというギャグをかます。しかしウィトは、メタレベルが成立しな いことを示した。どんなに状況を読んでも、それが相手と共有されているという確証はな い。では人は正しい確証もなく、石版を持っていくのか。学習Tとしての何度もくり返された 経験があるからだ。 素人が、突然「石版!」と言われてもなんのこともわからないだろう。どのようなメタレベル にもオブジェクトレベルがなければならない。なにごとも、発想が一番なんてことはない。 訓練、経験、実践という基礎練習を忘れるな。
968 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:20:07 0
人工知能のパラドクス 神経症 人工知能の不可能性のパラドクスというのがあって、ようするに正しい解を導きだそうする と、その可能性が無限にあり、解を収束できないということ。たとえば「セキバン!」という音 を聞いた人工知能は正しい反応を考えるが無限の解釈があり、フリーズしてしまう。とする と、なぜ人はフリーズしてないのか。正解は、人の脳はコンピュータほど処理能力ないか ら、正解を導く前に習慣的に行為してしまっている。フリーズするのは恋をしたときか、オタ クぐらいだ。 考えて行為してるなんかまったくの錯覚だ。そんなとろいことして生きていけない。習慣的 にかってに体か動いて、コントロールしてるように錯覚してるだけ。 神経症は、人工知能のフリーズに近い状態。言語ゲームと切り離されて、体がフリーズして しまう。なぜフリーズするか、習慣的に反射的に行為することができずに、行為する前にい ちいち頭でどうすればいいか、考えてしまう。しかしいくら考えても、解がでないことは、人 口知能のフリーズと同じ。そこに判断のためのストレスが生じて、より能動性が失われて、 内向的に考えて、さらにフリーズする・・・ 恋をすると人はフリーズするのもこのため。もんもんと考えてしまう。コクろうか、どうしよう か。彼女の発言、行為を一つ一つ思い返して、あれは気があるよな、いやいや錯覚 だ!・・・・くりかえしくりかえし。こんなのいくら考えてもわからない。普通、相手の気持ちを 知りたいときは、ごちゃごちゃ考える前に、「あれ、どうおもうよ?」と聞いてしまって終わり。 でも恋をすると「オレのこと好き?」と気持ちを聞くことができない。だから頭でぐるぐる考え るが解などでないから、フリーズする。これをボクは、「人口知能化」と呼ぶ。 頭でっかちの奴は、恋とは関係なく、フリーズすることは多々あるだろう。考えても解はない し、悩みすぎると精神が弱っていく。とりあえず、考えずに体に身を任せろ。自分を信じろ。
969 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:21:13 0
超越論 経験論 テレビでものまねのコロッケが話していたが、年間二百ステージこなしてると、ものまねが だんだん変化していく。それでも見てるほうがおもしろく感じるのは見てるほうも学習するの と、エッセンスが残っているからだろう。だれもが同じことをやっていると精確になり、目をつ ぶってもできるようになり、遊びをいれる余裕がててくる。そこに創造の芽が生まれる。遊 びは創造の父といわれるのはそのためだろう。はたしてまだそこに超越論的共同体はいるのか。 みなさん心配しないでください。言語ゲームを超越論へ回収してしまう間違いは根深いです よ。だってウィト研究者のクリプキや黒崎でさえ陥っているわけですからね。この罠はプラト ンにみられるように哲学そのものが持つ形而上学的特性といえます。(言葉で)つきつめる ことの欲望に勝つこと。ウィトの語りえぬものの寸度目への強い意志が必要なのです。な にせウィトでさえ末期の確実性ではもうギリギリだったわけです。 では特別によい教科書をお教えしましょう。1つは野家の「科学の解釈学」。これは経験論 と超越論の微妙な関係を書いた名著ですね。もうひとつは、いままでの哲学観を吹き飛ば し、新たな行為論の世界へ導く禁断の書マトゥラーヤの「知恵の樹」。どちらもちくま文庫で 安価、なおかつ読みやすい。
970 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:22:10 0
>> 如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・ 如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけで は、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。 私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う 事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣 習([恒常的]使用、制度)である。 規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間に は如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓 練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198) 規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用におい て我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)
971 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:24:20 0
したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる 事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事 に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応す るようになるのである。(202) 「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いで はないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前 の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、 硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、 こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217) 『哲学的探求』読解ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(ISBN:4782801076) <<
972 :
考える名無しさん :2009/08/08(土) 09:28:29 O
おまえも少し沈黙したらどうだw
973 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 00:32:33 0
「超越論」ってなに? 英語、独語で何に当たるの?
974 :
アマテラスの子 :2009/08/09(日) 00:35:28 0
超越論とは、ウィトゲンシュタインの孫に当たるロドリゲス2世のたくらみより発端した。
「超越論的」なら知ってるけど、「超越論」は知らないな
977 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/09(日) 10:58:45 0
>>977 将棋指しの例えあったけど、そんなの直感と分析というお馴染みのテーマですっと前から知られていたことでしょ。
ベルグソンなんかはもっと精緻に説明してるけど。
言語ゲームなんて、分かったような分からんようなタームで片付けないで。
そのベルクソンの解説をぜひ聞かせてほしい
980 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/09(日) 17:04:55 0
>>978 おなじみの直感と分析ではなく、習慣と分析だよ。
981 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/10(月) 12:24:56 O
残りわずかだ。はてさて言語ゲームを理解できるか。哲学に深くは待っているほど、頭を柔らかくしないとだめだ。 ヒント:人は自転車に乗るように会話する。
ウィトゲンシュタインの言うことの分かりにくさって説明概念置かないとこだと思う。疑問を疑問のまま提示する。それは用心深さなんだろうけど。 焦れてオートポイエーシスシステム持ち出したところで、「黙さなければいけない」と言うのだろうけど、これは建設的な態度と言えない。 「黙さなければいけないかどうかについては黙さなければいけない。」におちいらなかったことは言語ゲーム的
「呼吸は酸素を取り入れるための機能である。」そう知って始めて呼吸筋は随意筋になる。私達は息を止め、苦しさを実感する。 手足の筋肉も同じである。何かを持ったり、歩いたりするためのものだという統合認識がコントロールしたような感覚を可能にする。
984 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/10(月) 19:01:38 0
>ウィトゲンシュタインの言うことの分かりにくさって説明概念置かないとこだと思う。 >疑問を疑問のまま提示する。それは用心深さなんだろうけど。 用心深さはデリダでしょ。 デリダはよくウィトを比較されるが、踏み込みすぎて超越論を語っている。 語るのがいいが、語らないようにして語っている。差延、痕跡、脱構築・・・ ウィトは用心深いのではなく、行き止まりに引き返し、 違うルートを探しているだけ。
>>984 勘違いしているようだが、
超越論(的)哲学(transcendental philosophy)
とは言えても、
「超越論」なんて言葉遣いはないからな。
そういう言葉遣いの無神経さが、
いつまでたっても駄目なところだな。
ウィトゲンシュタインの哲学は実践的であるよう注意してると思うんだよね、語りたいことに反故するようには語らない。 言葉が行為であるとして、哲学者の言葉もまた行為として観察した。 語られる言葉を提示して、そのあるがままされているコミュニケーションの生成を言語ゲームと呼んだ。 それがどのようにされているか、何故されているか語らなかった。 これを、そうした態度(行為)が何より語っているって言うのはそうだと思う。 彼が言う「語りえないもの」は形而上学であり、形而上学として語れた。唯一の説明概念として「語りえないもの」という言葉を使った。
所詮、哲板の住民は皆、強度のボキャ貧・造語厨なんだからさ、 自分の辞書に載ってない語を見つけたからといって、 「辞書にありませ〜ん」と大騒ぎしないで、黙ってればいいのに。 ボキャ貧は解りもしないことは騙ることなく沈黙すべし。 ∩ | | | | | | | | ∧_∧ | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ´Д`)// < 先生!「超越論」なんて言葉遣いはないからな。 / / \______________________ / /| / __| | .| | __ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ ||\ \ ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ || || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| .|| ||
「超越論的」は重要な哲学用語だし、どんな事典にも載っているが、 「超越論」とは絶対に言わない。これは、哲学用語の初歩的なお約束にすぎない。
990 :
考える名無しさん :2009/08/12(水) 00:20:32 0
>「超越論」とは絶対に言わない。w
やれやれ
992 :
豆パン :2009/08/12(水) 02:12:17 0
「やれ」とはいわゆる不良品の事である。 つまりやれやれちはふくぁうぇrtひゅjこp;@:「
993 :
第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/12(水) 04:02:34 O
ようするに原語が形容詞だからってことだろ。でも超越論哲学っていってしまってるからな。 どうせなら「超越論的」っという意訳自体を批判すれば
「超範疇論的」と訳せばいいよ
超越論(的)哲学 transzendental 超越(的)哲学 transzendent 意味は全く違うというのは、この分野では常識以前の問題だが 「超越論」ってどういう意味?ってことでは? まさかエマーソン等の超越論(transcendentalism)じゃないだろ?
ヘブライであろうが、オリンポスであろうが高天原であろうが、 ネ申が語る論理は「超越論」。それは人には「語り得ないことがら」。 その「語り得ないことがら」をネ申の視点を模して語るスタンスが「超越論的」。
「超越論」無しに「超越論的」であることなどできないだろ。 ただし、「超越論」それ自体を語り得ないことは常識だから 誰も語らないだけで。w
>>998 >「超越論」無しに「超越論的」であることなどできない
一見正論なんだが、哲学の用語は、翻訳との関係のなかで
成り立っており、この縛りは、素人が思っている以上に強い。
なぜ強いかというと、これを無視し始めると、西洋哲学や西洋語
との対応関係のなかで、日本語で正確に哲学するということ
(これは明治以来の日本の洋学の積み上げが可能にしている)が
できなくなってしまうから。
カント等の西洋哲学の用語系のなかに「超越論」という言い方は
存在しない(エマーソンなどは別としても)。
そうではなくて、
超越論哲学とか、超越論的理論とか、超越論的立場とか、
そういう言い方をしないと正確には伝わらない。
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