ウィトゲンシュタイン 5

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952考える名無しさん:2009/08/07(金) 13:20:49 0
宇宙人から見れば、
「人間の言語」なんて、「猫の言語」のようなものさ。
953第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 13:23:47 0
恋をすると人はフリーズするのもこのため。

もんもんと考えてしまう。コクろうか、どうしようか。
彼女の発言、行為を一つ一つ思い返して、
あれは気があるよな、いやいや錯覚だ!・・・・くりかえしくりかえし
こんなのいくら考えてもわからない。

普通、相手の気持ちを知りたいときは、ごちゃごちゃ考える前に、
「あれ、どうおもうよ?」と聞いてしまって終わり。

でも恋をすると「オレのこと好き?」と気持ちを聞くことができない。
だから頭でぐるぐる考えるが解などでないから、
フリーズする。これをボクは、人口知能化と呼ぶ。

哲学板にいるような頭でっかちの奴は、恋とは関係なく、
フリーズすることは多々あるだろう。
考えても解はないし、悩みすぎると精神が弱っていく。
とりあえず、考えずに体に身を任せろ。
自分を信じろ。

というのが、言語ゲーム!
954考える名無しさん:2009/08/07(金) 13:26:29 0
酒井法子容疑者に逮捕状 身柄確保に全力

というのが、言語ゲーム!
955第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 14:08:20 0
結構、出尽くしてきたな。

>>800-804 限界の思考 カント、脳科学
>>817-820 「哲学的探求」原文、プラトン
>>849 クリプキ、ラカン、ルーマン、オートポイエーシス
>>891 プラグマティシズム、パース、暗黙知と無意識、
>>907 超越論と経験論
>>910 ベイトソン
>>941-953 人工知能、神経症
956第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 14:10:29 0
>>916 ベイトソン
957考える名無しさん:2009/08/07(金) 16:13:24 0
>>955-956

634 名前:エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/20(月) 01:03:36 0
>>633
エビデンスは根拠じゃねぇ。
エビデンスは日本語だ。
東スレのどこかに説明のせたからよんどけ

636 名前:エターナルラブ ◆8Vylq27qIQ :2008/10/20(月) 01:08:14 0
>>635
日本語なんだから日本語で調べないと。

638 名前:考える名無しさん :2008/10/20(月) 01:09:27 0
>>634

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%93%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B9
958第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 16:47:35 O
テレビでものまねのコロッケが話していたが、年間二百ステージこなしてると、ものまねがだんだん変化していく。
それでも見てるほうがおもしろく感じるのは見てるほうも学習するのと、エッセンスが残っているからだろう。
だれもが同じことをやっていると精確になり、目をつぶってもできるようになり、遊びをいれる余裕がててくる。
そこに創造の芽が生まれる。遊びは創造の父といわれるのはそのためだろう。

はたしてまだそこに超越論的共同体はいるのか。
959考える名無しさん:2009/08/07(金) 17:55:02 0
ぴかぁ〜たんさ、いくつ端末持ってるの?
どうして「サルさんバイバイ」にならないの?
とても追いつけない(追いつきたいとも思わないけど)。
960第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 18:28:20 O
モバイル用のダイアルアップならつなぎなおせば何度でも書き込みオケイですよ。
961第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/07(金) 18:48:56 O
しかしみなさん心配しないでください。言語ゲームを超越論へ回収してしまう間違いは根深いですよ。
だってウィト研究者のクリプキや黒崎でさえ陥っているわけですからね。
この罠はプラトンにみられるように哲学そのものが持つ形而上学的特性といえます。
(言葉で)つきつめることの欲望に勝つこと。ウィトの語りえぬものの寸度目への強い意志が必要なのです。
なにせウィトでさえ末期の確実性ではもうギリギリだったわけです。

では特別によい教科書をお教えしましょう。1つは野家の「科学の解釈学」。これは経験論と超越論の微妙な関係を書いた名著ですね。
もうひとつは、いままでの哲学観を吹き飛ばし、新たな行為論の世界へ導く禁断の書マラトゥーヤ?の野性の樹?
どちらもちくま文庫で安価、なおかつ読みやすい。
あとは自習とします。では。
962考える名無しさん:2009/08/08(土) 01:02:29 O
アハハハハ
963第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:15:22 0
■夏休み特別企画 ウィトゲンシュタイン「言語ゲーム」ってな〜に?


カント 純粋理性批判 ハイデガー

哲学には限界の思考というのがある。カントならば、純粋理性批判で理性(認識)の限界ギリギ
リを考えた。そしてそれを延長するように、限界の向こう側=超越論を考える。ウィトも言語
(認識)の限界ギリギリへ肉薄した。しかしカントのように超越論は、語りえぬものとして沈
黙する姿勢を貫いた。たとえばハイデガーはウィトと同時期のもうひとりの天才だが、超越
論側を語った。背中合わせになる。

ウィトはギリギリで寸止めしつづけた。そして後戻りして、再びギリギリに肉薄する。そして
戻るを死ぬまでくり返した。そしてその後には、ラインを引いたわけではないのに、ウィトが
語った領域と、沈黙した領域にラインができていた。後生の様々な人々が、そのラインの周
りを研究している、といわけだ。

「会話が成立することを前提にせよ」ではなく、言語論の原理的に、成立するはずがないの
に、成立するのはなぜか、ということだ。それを「言語ゲーム」と名付けた。で、「言語ゲー
ム」とはなにかを、行きつ戻りつ考え続けたわけさ。その様々なあとが、哲学の言語行為論
や、社会学のトーク分析や、認知科学や、政治思想へ影響を与え続けているわけさ。

ようするには、哲学にはいつも形而上学(超越論)という逃げ場があった。最後は、いった
者勝ちであった。ウィトはそれを批判した。なんとでも言えたが、言わなかった。黙々と引き
返し、また限界の壁へ肉薄した。
964第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:16:22 0
脳科学

ウィトが足跡で描き出した壁=言語ゲームとはなんなのか。それもいまもわからないが、最
新の脳科学がただの脳の反応であるというとき、「脳の反応」ってなんだ!?それが脳還
元主義の形而上学だろう。NHKのサイエンス番組で、プロ将棋師の脳の反応を調べてた
ね。普通の人は将棋をするときには、考える部分が反応するんだけど、プロ将棋師の場合
には、その奥の習慣を司る部分が反応する。いちいち考えて反応するのではなく、習慣的
に反射的に解答を導く。考えるのはエネルギーがいるから、反復することで習慣化されて
脳に記憶される。だからなんにしても熟練するのは反復練習が重要になる、ということだな。

それまでの言語論はすべて思考で成り立つと考えていた。だから超越論へはしるしかな
かった。それに対してウィトは、習慣を導入する。これが言語ゲームだね。そしてこのような
脳分析も、言語ゲームの解釈の一つだね。

人の認識の90%は習慣でしょ。本当に考えるのは一部。なぜなら人の処理能力はそんな
に高くない。認知限界があって、多くは考えるのは回避して判断している。さあ、右手を挙
げてみろ。で、きみはどのようにして右手を挙げたのかね。右手が上がるように命令したの
かね。で、そのように命令したのかね。その筋肉に命令したのかね。自転車の乗り方がわ
からなくても、自転車は乗れるだろう。どうやって乗ってるか説明なんかできるか。そこにあ
るのが、「言語ゲーム」なんだよ。
965第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:17:08 0
プラトン ヒューム クリプキ ラカン ルーマン オートポイエーシス


ようするに、このような考えは、認知主義という。プラトン以来の学問の主流であり、形而上
学だ。いまだの多くの人が陥る錯覚であって、最近では脳科学がこの錯覚を解き明かしつ
つある。行為よりも認知を優位とする。動物よりも人間を優秀とする。精神よりも身体を確
かなものとする。ウィトの言語ゲームはプラトン以来の知の形而上学を転倒したのだ。認知
よりも行為、精神よりも身体、知よりも習慣・実践。

たしかにヒュームはウィトに先駆けて、コンベンション(慣習)を指摘した。その意味で、ウィ
トの師匠ではあるが、その限界さが全然違うだろう。数学を含めて、真に知を懐疑しえたの
は、ウィトだ。

ネットでも、交換してるのテキストだけなのに、コミュニケーションが成立してる。「規則」な
んかないのに、「規則に従う」ってる。ほんと不思議だよ。これにはいろいろな考え方があっ
てね。代表的なのがクリプキなどのように超越論的共同体を想定するパターンだな。さらに
ラカンは伝わる伝わらないなんか関係なくコミュニケーションしようとする欲望を付け加え
る。あとはルーマンのシステム論などオートポイエーシス、行為論だな。伝わる伝わらない
は関係なく、コミュニケーションの総体がシステムを形成する。
966第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:18:26 0
プラグアティシズム パース ポランニー 暗黙知 フロイト 無意識 アブダクション

ウィトはプラグマティシズムではない。プラグマティシズムは意味は語の用法であるというこ
とだけど、ウィトは意味は実践訓練があって獲得されるといっただけ。別に用法である必要
はない。ただパースが語と意味の間を裂いて解釈項をいれた元祖とすれば、後期ウィトも
この系譜につながらなくはない。前記にはない考えだし。

自転車にのれるに関しては、ポランニーが暗黙知とよんだが、ウィトの影響下だろい。フロ
イトの無意識と暗黙知の違いを考えるよい。あるいはフロイトの超自我(象徴界)とウィトの
言語ゲームの違い。超自我とは社会的な掟の世界という超越論的。だれもが心にちっちゃ
な神様がすんでいる見張ってる。言語ゲームは経験論。さまざまなことは経験により体か
覚えていく。だから自転車の乗り方は超自我では説明できない。暗黙知=言語ゲームの世界。

要するにウィトが開いた境地は、ちっちゃな神様なんかなくても、自転車にのるようにコミュ
ニケーションしてるだけだよってこと。自転車にのるのに幻想なんかいらないだろ。自転車
に幻想がいらないのは簡単でことで、猿でも犬でも訓練すれば自転車にのれる。しかし高
度な言語コミュニケーションは人間だけだ。ここに超越論は必要になるをだろうなあ

ようするに、自転車でも新しい乗り方のような発想は訓練だけでは説明がつかない。パー
スのいうアブダクション。マルクスのいう命懸けの飛躍。ここには超越論はいるのか。でも
人はほとんどを習慣でこなしている。なんでも超越論に持ち込むのは神経症だ。あれ自転
車にのるときはどう体を動かしたっけ?なんてのは神経症。だからフロイトがなんでも無意
識で説明するのは患者にはよいか、普通のひとではおかしい。ふつうのひとが自転車の乗
り方わすれるのは、恋をしたときか、宝くじで六億円にあたっとときぐらいだ。

ようするに、言語ゲームには経験論と超越論が含まれているが、超越論は哲学の伝統だ
から、経験論部分を強調した、経験論部分が多い、ところが新しい。この経験論的な部分
を強調すると暗黙知が抽出される、ということかな。
967第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:19:16 0
ベイトソン 学習論


「石版!」と言われて、石版を持っていくのは、言語意味論では説明が難しく、むしろ自転
車をのるようなもの、ということだな。「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、猿でもで
きる、体が覚えている・・・オブジェクトレベル(暗黙知)、観客の視点でゲーム全体を見下ろ
すこと・・・メタレベル(超越論)ということだな。猿にはメタレベルはない。パース、ウィトの影
響と受けたベイトソンの学習論に近くなってきたな。

「石版!」と言われて、石版を持っていくとき、

学習T(オブジェクトレベル)・・・何度もくり返すことで体で覚える。

学習U(メタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し、石版を渡す。

学習V(メタメタレベル)・・・全体を俯瞰して状況(コンテクスト)を理解し操作する。石版に
代わりに石谷さんを連れて行くというギャグをかます。しかしウィトは、メタレベルが成立しな
いことを示した。どんなに状況を読んでも、それが相手と共有されているという確証はな
い。では人は正しい確証もなく、石版を持っていくのか。学習Tとしての何度もくり返された
経験があるからだ。

素人が、突然「石版!」と言われてもなんのこともわからないだろう。どのようなメタレベル
にもオブジェクトレベルがなければならない。なにごとも、発想が一番なんてことはない。
訓練、経験、実践という基礎練習を忘れるな。
968第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:20:07 0
人工知能のパラドクス 神経症

人工知能の不可能性のパラドクスというのがあって、ようするに正しい解を導きだそうする
と、その可能性が無限にあり、解を収束できないということ。たとえば「セキバン!」という音
を聞いた人工知能は正しい反応を考えるが無限の解釈があり、フリーズしてしまう。とする
と、なぜ人はフリーズしてないのか。正解は、人の脳はコンピュータほど処理能力ないか
ら、正解を導く前に習慣的に行為してしまっている。フリーズするのは恋をしたときか、オタ
クぐらいだ。

考えて行為してるなんかまったくの錯覚だ。そんなとろいことして生きていけない。習慣的
にかってに体か動いて、コントロールしてるように錯覚してるだけ。

神経症は、人工知能のフリーズに近い状態。言語ゲームと切り離されて、体がフリーズして
しまう。なぜフリーズするか、習慣的に反射的に行為することができずに、行為する前にい
ちいち頭でどうすればいいか、考えてしまう。しかしいくら考えても、解がでないことは、人
口知能のフリーズと同じ。そこに判断のためのストレスが生じて、より能動性が失われて、
内向的に考えて、さらにフリーズする・・・

恋をすると人はフリーズするのもこのため。もんもんと考えてしまう。コクろうか、どうしよう
か。彼女の発言、行為を一つ一つ思い返して、あれは気があるよな、いやいや錯覚
だ!・・・・くりかえしくりかえし。こんなのいくら考えてもわからない。普通、相手の気持ちを
知りたいときは、ごちゃごちゃ考える前に、「あれ、どうおもうよ?」と聞いてしまって終わり。
でも恋をすると「オレのこと好き?」と気持ちを聞くことができない。だから頭でぐるぐる考え
るが解などでないから、フリーズする。これをボクは、「人口知能化」と呼ぶ。

頭でっかちの奴は、恋とは関係なく、フリーズすることは多々あるだろう。考えても解はない
し、悩みすぎると精神が弱っていく。とりあえず、考えずに体に身を任せろ。自分を信じろ。
969第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:21:13 0
超越論 経験論


テレビでものまねのコロッケが話していたが、年間二百ステージこなしてると、ものまねが
だんだん変化していく。それでも見てるほうがおもしろく感じるのは見てるほうも学習するの
と、エッセンスが残っているからだろう。だれもが同じことをやっていると精確になり、目をつ
ぶってもできるようになり、遊びをいれる余裕がててくる。そこに創造の芽が生まれる。遊
びは創造の父といわれるのはそのためだろう。はたしてまだそこに超越論的共同体はいるのか。

みなさん心配しないでください。言語ゲームを超越論へ回収してしまう間違いは根深いです
よ。だってウィト研究者のクリプキや黒崎でさえ陥っているわけですからね。この罠はプラト
ンにみられるように哲学そのものが持つ形而上学的特性といえます。(言葉で)つきつめる
ことの欲望に勝つこと。ウィトの語りえぬものの寸度目への強い意志が必要なのです。な
にせウィトでさえ末期の確実性ではもうギリギリだったわけです。

では特別によい教科書をお教えしましょう。1つは野家の「科学の解釈学」。これは経験論
と超越論の微妙な関係を書いた名著ですね。もうひとつは、いままでの哲学観を吹き飛ば
し、新たな行為論の世界へ導く禁断の書マトゥラーヤの「知恵の樹」。どちらもちくま文庫で
安価、なおかつ読みやすい。
970第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:22:10 0
>>
如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・
如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけで
は、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う
事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣
習([恒常的]使用、制度)である。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間に
は如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓
練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用におい
て我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)
971第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/08(土) 09:24:20 0
したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる
事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事
に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応す
るようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いで
はないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前
の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、
硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、
こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(ISBN:4782801076)
<<
972考える名無しさん:2009/08/08(土) 09:28:29 O
おまえも少し沈黙したらどうだw
973考える名無しさん:2009/08/09(日) 00:32:33 0
「超越論」ってなに?
英語、独語で何に当たるの?
974アマテラスの子:2009/08/09(日) 00:35:28 0
超越論とは、ウィトゲンシュタインの孫に当たるロドリゲス2世のたくらみより発端した。
975考える名無しさん:2009/08/09(日) 00:51:03 0
「超越論的」なら知ってるけど、「超越論」は知らないな
976原生生物 ◆yh3IZKs7oU :2009/08/09(日) 00:56:19 O
>>964

ふ〜ん
977第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/09(日) 10:58:45 0
978考える名無しさん:2009/08/09(日) 15:29:38 0
>>977
将棋指しの例えあったけど、そんなの直感と分析というお馴染みのテーマですっと前から知られていたことでしょ。
ベルグソンなんかはもっと精緻に説明してるけど。
言語ゲームなんて、分かったような分からんようなタームで片付けないで。
979考える名無しさん:2009/08/09(日) 16:47:41 O
そのベルクソンの解説をぜひ聞かせてほしい
980第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/09(日) 17:04:55 0
>>978
おなじみの直感と分析ではなく、習慣と分析だよ。
981第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/10(月) 12:24:56 O
残りわずかだ。はてさて言語ゲームを理解できるか。哲学に深くは待っているほど、頭を柔らかくしないとだめだ。
ヒント:人は自転車に乗るように会話する。
982考える名無しさん:2009/08/10(月) 14:41:12 O
ウィトゲンシュタインの言うことの分かりにくさって説明概念置かないとこだと思う。疑問を疑問のまま提示する。それは用心深さなんだろうけど。


焦れてオートポイエーシスシステム持ち出したところで、「黙さなければいけない」と言うのだろうけど、これは建設的な態度と言えない。

「黙さなければいけないかどうかについては黙さなければいけない。」におちいらなかったことは言語ゲーム的
983考える名無しさん:2009/08/10(月) 15:54:55 O
「呼吸は酸素を取り入れるための機能である。」そう知って始めて呼吸筋は随意筋になる。私達は息を止め、苦しさを実感する。

手足の筋肉も同じである。何かを持ったり、歩いたりするためのものだという統合認識がコントロールしたような感覚を可能にする。
984第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/10(月) 19:01:38 0
>ウィトゲンシュタインの言うことの分かりにくさって説明概念置かないとこだと思う。
>疑問を疑問のまま提示する。それは用心深さなんだろうけど。

用心深さはデリダでしょ。
デリダはよくウィトを比較されるが、踏み込みすぎて超越論を語っている。
語るのがいいが、語らないようにして語っている。差延、痕跡、脱構築・・・

ウィトは用心深いのではなく、行き止まりに引き返し、
違うルートを探しているだけ。
985考える名無しさん:2009/08/11(火) 10:46:23 0
>>984
勘違いしているようだが、
超越論(的)哲学(transcendental philosophy)
とは言えても、
「超越論」なんて言葉遣いはないからな。

そういう言葉遣いの無神経さが、
いつまでたっても駄目なところだな。
986考える名無しさん:2009/08/11(火) 12:33:19 O
ウィトゲンシュタインの哲学は実践的であるよう注意してると思うんだよね、語りたいことに反故するようには語らない。

言葉が行為であるとして、哲学者の言葉もまた行為として観察した。

語られる言葉を提示して、そのあるがままされているコミュニケーションの生成を言語ゲームと呼んだ。

それがどのようにされているか、何故されているか語らなかった。

これを、そうした態度(行為)が何より語っているって言うのはそうだと思う。

彼が言う「語りえないもの」は形而上学であり、形而上学として語れた。唯一の説明概念として「語りえないもの」という言葉を使った。
987考える名無しさん:2009/08/11(火) 21:32:08 O
>>985
うぜー
988考える名無しさん:2009/08/11(火) 23:24:14 0
所詮、哲板の住民は皆、強度のボキャ貧・造語厨なんだからさ、
自分の辞書に載ってない語を見つけたからといって、
「辞書にありませ〜ん」と大騒ぎしないで、黙ってればいいのに。
ボキャ貧は解りもしないことは騙ることなく沈黙すべし。

              ∩
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      ( ´Д`)//  <  先生!「超越論」なんて言葉遣いはないからな。
      /     /    \______________________
     / /|    /
  __| | .|    | __
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   \
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     .||              ||

989考える名無しさん:2009/08/11(火) 23:51:20 0
「超越論的」は重要な哲学用語だし、どんな事典にも載っているが、
「超越論」とは絶対に言わない。これは、哲学用語の初歩的なお約束にすぎない。
990考える名無しさん:2009/08/12(水) 00:20:32 0
>「超越論」とは絶対に言わない。w
991考える名無しさん:2009/08/12(水) 00:37:38 0
やれやれ
992豆パン:2009/08/12(水) 02:12:17 0
「やれ」とはいわゆる不良品の事である。
つまりやれやれちはふくぁうぇrtひゅjこp;@:「
993第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/08/12(水) 04:02:34 O
ようするに原語が形容詞だからってことだろ。でも超越論哲学っていってしまってるからな。
どうせなら「超越論的」っという意訳自体を批判すれば
994考える名無しさん:2009/08/12(水) 04:20:41 0
「超範疇論的」と訳せばいいよ
995考える名無しさん:2009/08/12(水) 04:45:08 0
超越論(的)哲学 transzendental
超越(的)哲学 transzendent
意味は全く違うというのは、この分野では常識以前の問題だが
「超越論」ってどういう意味?ってことでは?

まさかエマーソン等の超越論(transcendentalism)じゃないだろ?
996考える名無しさん:2009/08/12(水) 09:05:28 0
ヘブライであろうが、オリンポスであろうが高天原であろうが、
ネ申が語る論理は「超越論」。それは人には「語り得ないことがら」。
その「語り得ないことがら」をネ申の視点を模して語るスタンスが「超越論的」。
997考える名無しさん:2009/08/12(水) 09:14:41 0
>>996
おまえの勝手な定義など知らん。
998考える名無しさん:2009/08/12(水) 09:17:57 0
「超越論」無しに「超越論的」であることなどできないだろ。
ただし、「超越論」それ自体を語り得ないことは常識だから
誰も語らないだけで。w
999考える名無しさん:2009/08/12(水) 09:43:08 0
>>998
>「超越論」無しに「超越論的」であることなどできない

一見正論なんだが、哲学の用語は、翻訳との関係のなかで
成り立っており、この縛りは、素人が思っている以上に強い。

なぜ強いかというと、これを無視し始めると、西洋哲学や西洋語
との対応関係のなかで、日本語で正確に哲学するということ
(これは明治以来の日本の洋学の積み上げが可能にしている)が
できなくなってしまうから。

カント等の西洋哲学の用語系のなかに「超越論」という言い方は
存在しない(エマーソンなどは別としても)。
そうではなくて、
超越論哲学とか、超越論的理論とか、超越論的立場とか、
そういう言い方をしないと正確には伝わらない。
1000考える名無しさん:2009/08/12(水) 09:46:43 0
1000!
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