資本とネーションと、時々、国家 3

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1第三の波平 ◆v97jOX.oqY
人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの
社会的労働力として支配する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。た
だ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物
は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のために使用対象

であった。この協力体の総生産は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再
び生産手段として用いられる。それは依然として社会的である。

しかしならが、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがっ
て、この部分は彼らの間に分配されなければ成らぬ。この分配の様式は、社会的生産有
機体自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さととも
に、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段に対する分
け前は、その労働時間によって規定されると前提する。・・・このばあい生産においても分配
においても簡単明瞭であることには変わりがない。 (マルクス 「資本論」)

1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1173442180/
2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1182943592/
2第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/15(水) 15:03:34 0
最近、またマルクスが注目されるのはなぜか。一つはネット上の経済について、もうひとつ
は環境問題からすなわち資本主義の外部を考えるときに、回帰するわけです。

社会の基本はいまなら家族の贈与互酬です。なのになぜ商品交換を基本にする資本主義
が出現したのか、ということです。

最近の情報化社会では贈与関係は排除され、ネオリベによりさらに市場主義にむかってい
ます。ボクたちは贈与関係をとてもめんどくいモノでお金で解決されることに望んでいます。
その反面、ネットでは金銭関係を嫌悪し、贈与関係を重視する回帰現象がおこっているのです。
3考える名無しさん:2007/08/15(水) 15:05:38 O
さあ、はじめましょうか
4第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/15(水) 15:07:44 0
いやあ、やっぱプールはよいな〜涼しいし目の保養になりますな〜
5純一 ◆Fn0dptrDJw :2007/08/15(水) 15:07:55 0
>>3
呼ばれましたが、何か用ですか?
6第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/15(水) 15:22:59 0
こう熱くて頭が回らないときは、生で裸体をみる視感が一番です。
ラカンは性感帯は穴の回りにあるといいまして、
口、鼻、目、尿道、肛門・・・ですな。
これを欲動というわけですが、食べる満腹でなく、
食べた満腹の記憶を反復するということですな。
目への刺激でなく、目の回りに視た刺激への反復が
終わりなく宿っているということです。
それが視感です。視ること、そのものが快楽であるということです。
ほら、街でかわいい子をみると追いかけてしまいますね。
あれだけで快楽なんわけですが、このような快楽というのは
ストレス解放という意味があるわけです。
だからのぞき、拒食症、アナルセックスなど、過剰な倒錯が
生まれるわけです。

いや、夏はプールが一番ですな〜
7考える名無しさん:2007/08/15(水) 15:34:14 O
猪瀬直樹
8第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/15(水) 15:49:27 0
マルクスは資本主義の特別性は、労働力が商品となったことを上げましたが、
そのまえも労働力は独立した最重要な価値であったでしょう。
戦争で略奪されるのは、労働力ですし、女の交換も労働力です。
ただ商品交換でなく、贈与交換や略奪などの時代の様式であっただけです。

だから土地を失った小作農の余剰の労働力が生まれたことが資本主義の
成立条件とは考えにくいわけです。資本主義の成立は、社会の規模の中で
公平を勝ち得る正義システムを提示し得たからではないでしょうか。


重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決
め)は決定する。ラカンの想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力
学による「公平」、公平を目指す取り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げる
ことができる。柄谷的にいえば、「環境×公平(ネーション)×正義(国家)」ということでしょう。

たとえば現代、資本主義的リベラリズム、すなわち「平等」の「正義」が勝利しえたのは、「環
境(自然)」を征服し、人々に豊かさを提供することで、人々の「公平」を満足させることに成
功したからだ。そこには緩やかでも資本主義的グローバルなネーションが芽生えている。
9考える名無しさん:2007/08/15(水) 16:25:25 0
ちょっとおかしな人を相手にする前に目を通しましょう。
蟻地獄のような戦場に、あなたは裸で足を踏み入れようとしています。
準備はできていますか?予備知識は手に入れましたか?


投影性同一視
http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/gihou/projectiv_id.html

歪んだ自己愛性格
http://www.morahara.com/text/destructivenar.html

「この人を変えよう」と思わないこと
http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/careabout/kaeyoo.html

キレた時への対応方法
http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/careabout/kiretatoki.html


コピペ推奨。改変・追加奨励。
10考える名無しさん:2007/08/15(水) 16:41:13 0
age


名前: E-mail:

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■▲▼
【8:539】あなたが美しいと思うもの −3
beチェック
1 名前:考える名無しさん 2005/06/05(日) 21:15:55
自分が美しいと思うものを丹念に拾い集めるスレ。

前々スレpart1↓
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1048600159/l50
前スレpart2↓
http://
11考える名無しさん:2007/08/15(水) 20:22:27 0
新スレおめでとうございます。

【豪華】純一統一理論【絢爛】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1187175357/
12純一 ◆Fn0dptrDJw :2007/08/15(水) 20:23:20 0
ありがとうございます。
13考える名無しさん:2007/08/15(水) 22:46:17 0
>>8
わたくしはニューロエコノミストなので、
そのような過去の遺物になりつつある
回りくどい主義主張には興味がありません
わたくしと未来を創造するつもりがあるならば、
協力いたしましょう
14第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/15(水) 23:03:42 0
>>13
お盆よ、次のレスが最後のチャンスだ。
慎重に実力をだぜ。それがダメなら以後放置。
15考える名無しさん:2007/08/15(水) 23:15:38 O
NHK視点論点、大沢真幸です。
相変わらずのアイロニカルな没入論。
それで彼は何がしたいのでしょうか?
16考える名無しさん:2007/08/16(木) 21:51:55 0
>>8
資本主義的リベラリズムは勝利したのか?
恐慌へ向けてまっしぐらではないか(@現在)?

アメリカオワタ。
ニュージーランドオワタ。
インドネシアオワタ。
韓国オワタ。

日本は知らん。
17考える名無しさん:2007/08/16(木) 23:45:37 0
アメリカオワタ。
ヨーロッパオワタ。

今月中にく・・来るぞ。

経済崩壊→世界恐慌→ブロック経済→戦争→徴兵→入隊→フィリピンで戦死

いやだよー(><
18第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 10:08:56 0
恐慌のわりに静かですね。
19第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 10:42:57 0
映画「トランスフォーマー」を見てきました。
ストーリーの元は子供アニメです。地球を侵略しようとするメガトロンと
それを阻止するロボットたちのトランスフォーマーの戦いです。
最近は、アニメでもガンダムなど、大人でも楽しめる人間ドラマな
ロボットアニメがありますが、勧善懲悪な用の物語です。

それがアメリカでP13指定になるほどに作りあげるのか、
それがスピルバーグの技です。
このドラマの基本が、ジュラシックパークのような映像革命を
狙ったものだということです。ジュラシックパークでの
恐竜のリアルさは衝撃を与えました。いまでは広く使われるように
なりました。今回は同じようなコンセプトがあるのでしょう。
ロボットをいかにリアリティありに描くのか。
そして成功しています。まさに映像革命です。
子供アニメにならないように、軍隊と絡めるなど、
戦争映画のように描かれ、勧善懲悪性は薄められています。
それよりとにかく、迫力がある。そのリアリティには大きな可能性を
秘めているということです。
日本が培ってきたロボットアニメがリアリティをもって、実写化可能
であるという可能性です。
20純一 ◆Fn0dptrDJw :2007/08/17(金) 12:06:58 0
きっと子供達も、いい歳してトランスフォーマー見に来るキモイおじさんを
物珍しい目で見ていたんじゃないですかね。
21第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 13:14:46 0
資本主義の作動には、個人を分断することが重要である。
誰かのために生き、誰かのために死ぬこと、
これは現代人にとって、不可能なことだろうか。




22第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 13:21:21 0
恋愛はとても不思議である。
恋愛には運命がなければ不可能である。
この科学の時代に運命とは。
しかし人々はこのドグマを積極的に信じようとする。

そもそも婚姻には運命など必要とされなかった。
社会的な関係の中で、自らの意志とか関係がなく、
決定された。
だから恋愛というドグマは反動としてのみある。
失われた誰かのために生きるということの回帰である。
23第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 16:58:12 0
マルクスはなぜ抽象労働時間を導入したのか

資本主義経済に内在するジレンマは、交換価値/使用価値の二重性である。
身体と関係する使用価値という確かな下地に対して、他者との関係でしか
交換価値。
たとえば資本家はこの二重性において、労働者から搾取する。労働力というの
使用価値を購入し、市場での交換価値との差異において、剰余価値を生み出す。

しかしこれは必ずしも能動的な行為といえない。下部構造の経済活動において、
資本家も一つの役割として作動している。そこにあるのは、貨幣の物神性という
無意識の欲望である。

しかしこのような構造主義的な理解に回収されないのが、経済は人の生存と
切り離すことができないという事実である。マルクスが労働という商品の価値、
「労働力の価値」を人の生活を維持するための価値においたのだそのためである。
そしてその差異として資本家の剰余価値を見いだした。ここにあるのは、心身二元論
である。身体という労働力の価値と、心の剰余価値であるとい意味で、デカルトから
フロイトへ移動した心身二元論である。
経済活動は人が生きるためにあるという事実と、それを超えて過剰を生み出す
資本主義的な経済活動。そしてマルクスは、社会主義活動(アソシエーション)を
この過剰を排除し、生きるための経済活動への回帰である。
それが具体的有用労働/抽象的労働、使用価値/交換価値の差異をなくすことである。
24考える名無しさん:2007/08/17(金) 17:13:03 0
てめえらに、マルクス主義なんかわかるのか?
コミュニストの俺が相手だ!!
http://sapporo.cool.ne.jp/hommelets/
25考える名無しさん:2007/08/17(金) 17:46:52 0
純一はもうこなくていい、巣にかえれ
26考える名無しさん:2007/08/17(金) 18:34:59 0
>>18
ニュースくらい見ろw
27考える名無しさん:2007/08/17(金) 19:59:04 0
>>19
おまえがトランスフォームしてk(ry
28第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 20:16:14 0
貨幣が無限の「循環論法」として作動するとき、もはや労働価値は必要とされない、というと
き、それは経済活動は人が生きるためにあるという事実から逃れることができるのだろう
か。人が生きるという経済活動からの浮遊して貨幣が存在することは不可能である。たとえ
ば、人々が買うことができないような高価な製品のみで経済は成り立たない。

このような「浮遊するシニフィアン」への貨幣を回収する言説が失われているのでは、人が
生きるということの困難である。人の生存とは綱渡りのようなものである。小さなキッカケで
破綻する。
29第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/17(金) 20:19:59 0
貨幣がなぜ作動するのか。生存のためです。
30考える名無しさん:2007/08/18(土) 00:38:30 0
哲学がなぜ作動するのか。○○のためです。
31考える名無しさん:2007/08/18(土) 02:34:26 0
貨幣には絶対的価値はない。ただの紙切れ。貨幣は実体経済の影。
共同幻想にすぎない。日銀が維持している金融システムが破綻した時
手元にある日本銀行券壱万円札はただの紙切れとなる。
32第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/18(土) 08:57:28 0
>>31
無限の「循環論法」
33考える名無しさん:2007/08/18(土) 10:43:50 0
金本位制度のように貨幣の価値に裏づけの無い管理通貨制度は必ず矛盾を生じる。
その矛盾を訂正できなくなれば一気に崩壊する。

一方、農本主義は富の源泉は土地であるとした。日本の資本主義は農本主義とも言える。
古より御家人は土地のために命を懸け、現在でも銀行は土地を担保にしないと融資をしない。
無限の貨幣に対し、有限な土地。このことが戦後日本の土地神話を生み出した。
土地の価値は永遠に上がり続けると思われた。しかし、バブルのピークを境に日本の人口
は減少に転じる。

戦後高額納税者の多くは不動産関係者であった。「借金して土地を買う」この黄金サイクルを
続ければ良かった。しかし、人口が減少に転じるとこの黄金サイクルも通用しなくなった。
土地本位制度を採って融資を続けていた銀行は崩壊。日本経済は瀕死の状況に追い込まれる。

土地の購入者及び消費の主体は若年層である。日本は少子高齢化社会。長期的には
消費及び地価は右肩下がり。日本の土地神話は終焉した。

人が生活をするために欠かすことができないものを担保にし、貨幣は成立する。
ほんの10年前、98年ロシア通貨危機が起こりルーブルが紙くずになった時、ロシア国民は物々交換
という原始経済を選択した。貨幣という幻想は非常にもろい。10年前のロシアと同じことが
全世界で起こっても不思議ではない。
34考える名無しさん:2007/08/18(土) 10:52:44 0
ロシア通貨危機以前に債権のディーラー及びアナリストの間に核本位制度というような考え方があった。
これは核保有国の国債はデフォルトを起こさないという考え方で特に経済学的な根拠が
あったわけではない。しかし、貨幣の裏づけに軍事力をもってくるという考え方は面白い。

しかし、ロシアでデフォルトが起こり核保有国が増加した現在この説はもう通用しないだろう。

今後注目されるのは間違いなく資源であろう。持つ国と持たざる国。
イランやベネズエラが強気の態度を取れるの原油という資源があるから。

日本のガソリン価格の上昇は何を意味するのか。これは原油の高騰とともに日本の
貨幣価値が下落していることの示唆でもある。
ことの示唆でもある。
35第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/19(日) 00:07:23 0
>人が生活をするために欠かすことができないものを担保にし、貨幣は成立する。

貨幣をなにを担保の、正常に作動させるか、ということですね。
土地であり、資源であり、貨幣という空虚は必ず血と肉を求める。
マルクスが労働価値説をとるときも、労働に血と肉を求めた。

そしてそれが、通貨危機が起こっても、日銀が維持している金融システムが
破綻した貨幣システムが回帰する理由です。
土地でも、労働でも、良いのですが、人々の経済活動を
しなければ、生きていけないということです。
それはほんとに綱渡り状態です。一日たりとも経済活動を
とめることなどできないのです。それこそが経済活動に
血と肉があることの証明です。
36第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/19(日) 00:11:47 0
これはなにを意味するかと言うと、経済活動も一つのコミュニケーション
として考えることができます。
人はなぜコミュニケーションをするのか。
相手がなにを言っているのかという「真意」は伝わらないということです。
人々はわかったフリをしながら、コミュニケーションを継続するのです。
これをシニフィアンの連鎖といってもいいと思います。
そこには「命がけの飛躍(マルクス)」があるわけです。
なぜ飛躍するのかというのは、飛ばなければ生きていけないからです。

37考える名無しさん:2007/08/19(日) 08:16:12 0
>>33
>金本位制度のように貨幣の価値に裏づけの無い管理通貨制度は必ず矛盾を生じる。

金本位制度でもうまく行ってた訳ではないけどね。
要は、2つの大戦によって世界の富(金・銀)が全部アメリカの銀行の地下金庫へ行ってしまい
金が流通しなくなったので、管理通貨制度へと移行した。
だから金本位制度に戻したからといって何がどうなる訳でもないし管理通貨制度が特別ダメな
仕組みだというなんて事でもない。

>日本の土地神話は終焉した。

別に終焉してない。単にアホな経営者・不動産業者らが市場から「退場」させられただけで、土地
を分析した上でそこを有効活用しようという賢明な人たちの間では「土地」はこれからも重要であり
続ける。
38考える名無しさん:2007/08/19(日) 08:21:44 0
>>34
>今後注目されるのは間違いなく資源であろう。持つ国と持たざる国。

日本の場合は、これまでに得た「貯蓄」から「投資」立国へ向かう可能性と「技術」立国という
意味での「資源」などがある。
原油や食料などは物的で分かりやすいが「資源」についてはもっと広く捉えるべき。

>これは原油の高騰とともに日本の貨幣価値が下落していることの示唆でもある。

それならば先週の「円高」はどう説明する?
39考える名無しさん:2007/08/19(日) 08:55:35 0
>>37
現在の各国の貨幣は実質ドル本位制度。基軸通貨であるドルと交換可能なことで
価値を保つ。アメリカ一国集中主義を嫌いユーロへ移行しだしているけどね。

>別に終焉してない

土地を有効活用しようとする人は人が存在する限り続く。
バブル以前の土地神話は完全に終焉。人口の増加曲線が減少に転じたから。
昔は5人〜7人兄弟なんて当たり前であったが今は最低の出生率。一人っ子同士が
結婚すると親の実家を二軒もらえる。これから人口曲線の頂点である団塊世代が寿命で
亡くなり、相続で市場に土地を次々供給する。需要と供給から人口曲線を見れば
土地の供給過多は一目瞭然。出生率が飛躍的に上がるか、移民でもしないかぎり終焉。

ちなみにバブルの狂乱地価も団塊世代のマイホーム購入年齢とぴったり波長を合わす。
今の地価上昇も団塊Jr世代がマイホーム購入年齢に差し掛かったのも一因。
都心の不動産業者もすでにババ抜きゲーム状態。最後にババをつかんだものは退場。
40考える名無しさん:2007/08/19(日) 09:11:50 0
>>38
資源が無い日本は技術立国として生き残るしか手がないのだが、アジア諸国の技術力
向上で相対的に地位は低下している。かつてのようなアジアで一人勝ち状態ではない。
一国の工業力は工学博士の数に比例すると言う説があるが、中国などは国策で増加
させているのに対し、日本の理系離れはひどい。理系技術者の冷遇、国として理系離れ
対策をしないと将来致命傷になる可能性大。

>先週の「円高」はどう説明する?

キャリートレードのリバース。FXのロスカット。超短期の為替変動はあんまり重要ではない
と思うけどね。ドル・円は日米の相互依存関係があるからドルで円高になるのはある程度
理解できる。良くも悪くも日本経済は米国頼み。

ユーロ・円の長期チャート(といっても10年程度だが)を見るといい。
発足当初の1ユーロ90円が160円になっている。これは欧州から見た場合
極端な言い方だが、日本の資産価値は半値近くになっているととらえることができる。

基軸通貨としてユーロの価値が高まる一方、日本円の価値は相対的に低下傾向。
ドル・円もいいが、ユーロ・円の相場にも注目した方がよい。
41考える名無しさん:2007/08/19(日) 09:22:28 0
>>39
いや、ユーロへ移行しようとしたら米軍に空爆されてしまう訳で(笑)。

>都心の不動産業者もすでにババ抜きゲーム状態。

そうかな。
ババ抜きになるにはまだ時間がかかると思うけど。
団塊世代が郊外に一戸建てを買った背景には、それが国策の一つでもあった訳。
国がその「土地神話」を下支えしてたという構図がある。
ところが、その国が今では都心居住を後押しするような政策に舵を切り替えてしまった訳で、これは
国家的な「詐欺」だと言っても過言ではない。
今では都内や郊外でも駅前には次々と高層マンションが建ってるけど、そのように法改正しちゃった
んだよね。だからスパイラル的に、郊外の一戸建てエリアの地価は下がってるのが現状。
それでも、住宅が安く購入できるようになったか、と言えば別にそういう事でもない。
簡単に言ってしまえば、都心から1時間以内圏であればOKで、それ以上の圏域は下落する一方に
なると言う話で、「土地神話」が終焉したなんて事はない。

>最後にババをつかんだものは退場。

そうなの?都心は今、深刻な「土地不足」で喘いでいると思ったが。
42考える名無しさん:2007/08/19(日) 09:23:45 0
>>40
>国として理系離れ対策をしないと将来致命傷になる可能性大。

それは・・もう手遅れっぽいな(笑)。

>キャリートレード

前から言われてるけど円キャリーって本当だったのかは俺はよく知らない。
とりあえず、日銀が金利上げてアメリカに留めを刺して欲しかったと思ってる俺。

>ユーロ・円の相場にも注目した方がよい。

なんでユーロがそんなに強いかな。アフリカから搾取しまくってるとかか。

43考える名無しさん:2007/08/19(日) 10:23:35 0
>そうなの?都心は今、深刻な「土地不足」で喘いでいると思ったが。

今はね。ただオフィスビルに限ると東京ミッドタウンなど大型ビルが次々乱立している状態。
あと一、二年で供給過多になる可能性大。
不動産はペーパー取引で購入即転売で2割3割サヤが抜ける非常においしい状況。
が、高値でつかんで不良在庫化したら死を意味する。
バブルを経験した海千山千の不動産業者は百も承知。リスクを承知しながら
あえて死亡遊戯に参加している。土地は流動性が低いから3年後に頂点として
1年2年前に手を打っておかなければ手遅れ。足の速い業者はもう手を引き始めている。
知り合いの不動産業者は後一年は持つといっていたが、ここ1年が勝負だろう。


>円キャリーって本当だったのか
為替の動向ってのは様々な要素が絡んでいるから、正確なことは日銀でもわからないだろう。
ただ円キャリートレードが一因なのは間違いないだろう。

為替に対してヘッジファンドが影響力を及ぼす例としては、ソロスVS英中央銀行
英中央銀行のポンド買い支え介入に対し、ソロスは徹底的に売り浴びせた。
結果ソロスに軍配が上がり、英中央銀行は一日にして1000億円の損失。
レバレッジを効かせると一介のヘッジファンド業者が中央銀行を打ち負かせるのが
恐ろしいところ。

>なんでユーロがそんなに強いかな。アフリカから搾取しまくってるとかか。
米ドルへの一極集中に対するアンチテーゼじゃないかな。今の国債基軸通貨の
ドル一極集中は危険。アメリカこけたらみなこける。リスク分散として、またアメリカを
調子付かせないためにも。イラン・中国あたりは外交カードとしてユーロ保有を増やしている。
44考える名無しさん:2007/08/19(日) 10:59:23 0
>>43
>不動産はペーパー取引で購入即転売で2割3割サヤが抜ける非常においしい状況。

買ってるのは誰かな?投資ファンドとか外資かな。
オフィスビルはまだもう少し増えるよ。虎ノ門にもデカイ高層ビル建つし豊洲の再開発の規模も
半端ではない。つまり、老朽化したビルから「死んで」行く訳で、中小の不動産屋ほど先にKO
されて行きそう。名古屋・大阪では今まさに建設ラッシュだけど。
まぁ六本木ヒルズが実際にいくらの賃貸料なのかは俺は知らんが、じつは相当安いという噂は
聞いた事がある。三井が一人勝ちするようなそんな時代になりそうだ。

>ここ1年が勝負だろう。

もうなの?
うわ、早すぎ(汗)。
45考える名無しさん:2007/08/19(日) 11:02:30 0
>>43
>ヘッジファンド

マレーシアで昔そんなことがあったっけ。イギリスでもあったとは・・・。
こないだのサミットではヘッジファンドを規制する法案をつくるとかつくらないとか言われてたけど
結局つくられなかったな。何でだろ。
ヨーロッパがユーロに統合したのもヘッジファンド対策だったと考えてもいいのかな?
イギリスはユーロでなくポンドだから狙われたのかも知れない。
日本も狙われたけど「日銀砲」で駆逐したとネット右翼らは今でも喜んでるけど、結局、勝利したもの
のその金で日本は米国債買った(笑)。今は韓国がヘッジファンドに狙われてるらしい。

>アメリカこけたらみなこける。

アメリカがこけない根拠が軍事力にあるという構図。武力で威圧してドルを基軸通貨として流通させて
いるのが実情で、日本も何だかんだでアメリカの武力に屈している。そのために米軍基地が日本に
あるようなもので、日本を守るためではなく日本を攻撃するためにあると考えてもいいくらい(笑)。
イランがアメリカから狙われてるのは核施設がどうこうが理由ではなく、まさにそのユーロにある訳で、
原油取引がユーロへ移行しつつある中で、ドルは益々ピンチになってきてるところかな。

怖いねぇ。日本はこのまま少子化が進んで、技術力でもインド・中国に負けて、貯蓄もドル暴落とともに
泡のように消えて、何も残らない、空っぽのコンクリートジャングルと化すのかも知れないっすね。
46考える名無しさん:2007/08/19(日) 11:46:11 0
ヘッジファンドは資本主義と金融工学が生み出した妖怪。
投機のチャンスとボラティリティさえあれば、ネットで瞬時に世界中から集まる。
まさにハゲタカ。一国の経済はおろか世界経済全体すら壊死させる可能性がある。
(そういえば今日からNHKでハゲタカの再放送やるな)

SFで高度に発達した文明がその科学力の高さゆえに自壊する話に似ている。
じゃあ、そのヘッジファンドやオプション・レバレッジを規制しようというのも難しい。

ヘッジファンドや金融資本自体が政治家の有力なスポンサーである。
さらに現状の米経済および世界経済がレバレッジ効きまくりの過剰流動性に依存している。

ヘッジファンド・過剰流動性を規制しましょうと実行すると日本のバブル崩壊と同じ減少が起きる。

覚せい剤と同じ。シャブ打ってハイテンション状態。急に止めても打ち続けても破滅する。
世界経済は金融工学という禁断の果実を食べてしまった。もう後戻りはできない。
シャブを打ち綱渡りしながら踊り狂う。一度踏み外したらそこでおしまい。
47考える名無しさん:2007/08/19(日) 14:22:47 0
>>46
先物取引そのものは、便利なんだけどなぁ。
NHKの「ハゲ」は見る気はないが、昔に映画「ウォール街」はまぁ面白かったな(笑)。
ヘッジファンドと言うよりはジャンクファンド屋の話だったけどね、会社を潰すことで利益を上げてる訳で。

現在では、かつて社会主義だった大国が資本主義化するなかで、世界の資本主義のバランスが
異常になりつつもある。
悪いこと?にその国の人たちは投機好きで、一般市民が借金を重ねてでも株取引に加わってる状態。
こういう不安定さがまた新たな脅威を産んでる気もする・・・。
日本でもネット取引によって、暇な専業主婦層が株だの為替だのやってるけど。

今後の日本が、これまでの「貯蓄」を活用した「投資」立国になるというのはファンド会社の宣伝文句かも
知れないが、その辺の正しい判断は俺にはちょっと無理。分からない。
何か新しい事をはじめたい(が資金がない)人にとって、ファンドはとても大切である事には間違いないけど
そういう地に足がついた「お金」とそうでない「お金」が分離してしまって、地に足をつけることの価値が
軽んじられてしまう世の中になってしまっては、もはや「踊り狂う」しかないのでしょう。
48第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/19(日) 17:05:07 O
マルクスの問題はそれでも貨幣が作動するのはなぜかという驚きでしょ。
49考える名無しさん:2007/08/19(日) 17:36:54 0
>>48
貨幣はどうあるべきだと?廃止?地域通貨?
50考える名無しさん:2007/08/19(日) 21:04:42 0
51Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/19(日) 23:04:24 0
>>46
なんかトンチンカンだな。
HFは妖怪なんてご大層なもんじゃないだろうし、
世界経済全体を壊死させられないだろうし、
第一、金融工学なんてもんは何の役にも立たないしな。
なんだ、禁断の果実ってww
52Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/19(日) 23:12:41 0
>>47
>そういう地に足がついた「お金」とそうでない「お金」が分離してしまって、地に足をつけることの価値が
>軽んじられてしまう世の中になってしまっては、もはや「踊り狂う」しかないのでしょう。
もともと貨幣なんてもんは、地に足がついてないだろうが。
「死の跳躍」を飛んでんだから。誤訳らしいがw
5346:2007/08/20(月) 00:14:27 0
>>51
ではあなたのヘッジファンドに対する見解をどうぞ。
あと金融工学が何の役にも立たないことを証明してください。
54Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 00:36:24 0
>>53
イヤだよ。風呂入るからw
ま、たとえば為替マーケットで、単独のHFが値を動かそうと思ったら、
せいぜい30〜40銭ってとこじゃないの?
正確な数字じゃないけどさ。でも1円は無理だろ。

どうやって世界経済を壊死させるの?
55Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 00:39:52 0
うん、まだ間がある。

それに、よくいわれることだけど金融工学で金が儲かるか?
儲かるんなら、大学の先生全部、大富豪になってるつーの。
HFが金融工学使ってる? ポイント&フィギュアとかだろ?
56Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 00:46:41 0
大雑把にいって、マーケットはランダム・ウォークであるとするのが
金融工学だよね?
それに対して、マーケットはランダムではないのであって、
常に儲けることができる手法が存在すると考えているのが、
ファンド内で花形トレーダーと称される人たちだと思うが?
57第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 00:51:26 0
今日のサンデープロジェクトでも言っていましたが、97年ごろから、
実質経済とマネーゲームが解離しはじめたということです。
一つの指標でありますが、時期的にはITバブルということで、
今は資源投機へ向かっていますね。
世界的に金があまって、それが浮遊しているということです。

それでも貨幣は回ると言うことです。バルブがはじめても貨幣は
なくならない。なぜならそれが生きるという生活に根ざしているからです。
58第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 00:54:32 0
一つの問題は、このような市場経済は新しいものであるということです。
なぜ資本主義への移行が起こったのか。それが必然でなければ、
今後どのように変化するのか、ということです。
59Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 00:56:55 0
>>57
あらかじめ「実質経済」なるものを立てたうえで、
何かを説明しようとしてる点で、話にならないね。
60Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 00:59:52 0
一つの問題は、このような市場経済が、
200年前の本間宗久の頃からあった、
まことに古いものであるってことだよなw
61第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:05:40 0
あるボリュームの社会になったときに、いかに統治するか。
それはいかに生活を支えるか、経済活動を行うかということです。

資本主義以前は、中央集権的な封建システム、再配分が作動していました。
それが自由で平等へ向かうのですが、これは貨幣システムとみごとに相性がよい。
ここに市場が先か、民主主義が先か、があります。

ルネサンス以降の啓蒙主義とプロテスタンティズムが上げられますが、
ボクは科学を下部構造と考えたいと思います。
マルクスは資本主義で(相対的)剰余価値を生み出すには、技術革新が
必然であると言いましたが、ここに技術革新が先か、資本が先か、があります。

ニワトリが先か卵が先か、起源はいつも、無限の「循環論法」 へ向かいます。
62第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:09:03 0
>>59
説明するとは、いつも立てた上で始まるのです。
たとえば「200年前の本間宗久の頃からあった」というように。
くらだんレスをさせないように・・・
63Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 01:21:01 0
>>62
あのなあ、本間宗久は歴史上、実在した人物だ。
経済は、レバレッジ等々を含んだうえでの経済なのであって、
「実質経済」なんて、ありもしない幽霊みたいなもん立てたって
しょうがねえんだよ、馬鹿だな。
まあ、おまえのレスがくだらないってことだけは正しいな。
64第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:28:37 0
ホッブズの自然状態議論から、ヒュームのコンベンション(慣習)、そして
アダムスミスの神の手へとつながるのに、意味があると思います。
逆に言えば、あるボリュームの社会になったときに、いかに統治するか。
それはいかに生活を支えるか、経済活動を行うかということです。

現代においても、自由と平等である状態は限られています。
身近なものでは、親子、男女など社会的な慣習に拘束されます。
教室、会社など小さな関係では、リーダーをもつ縦社会、
あるいは生まれながらに裕福である、あるいは容姿がよいなどの
恋愛格差などの不公平があります。
お金の上で平等であるのも、限られてます。商人は人を見ます。
65第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:35:00 0
>>63
ありゃ、まだレスする?

あらかじめ「このような市場経済」なるものを立てたうえで、
何かを説明しようとしてる点で、話にならないね。
66考える名無しさん:2007/08/20(月) 01:39:13 0
ハゲ、お前が無知で無恥なのは、みんな知ってることなんだから、
一歩引いて、対話者の知識を引き出すように汁。
67第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:39:33 0
わかりやすく。
「本間宗久」でも、「実質経済」でも、「市場経済」でも、
幽霊みたいなものを幽霊として受け入れて議論すること。
いまどきガキでもわかることで絡んでくるな。
わかったら、出直してこい。
68第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:41:55 0
>>66
自演乙!w
69第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 01:57:38 0
最近のネオリベ化がより自由と平等を推進していることは
間違いないと思います。それは「お金の元において」ですが。
お金は人を選ばない、裏切らない。

ボクたちのこの等価交換の平等性にくつろいでいます。
それは1万円を持っている者というだけでけ、匿名性です。
それ以上の自己主張を必要とされないことの安心です。
すなわち他者回避です。
70Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 02:49:19 0
いい証明法を思いついたぞ。

>>53
今週、ドル円は上がるのか、下がるのか。
いったん底をつけてから上がるのか。
上がるのなら、それは今年の最高値を超えるのか。
下がるなら、いつ底をつけるのか。また、底値はいくらか。
今週、底をつけるなら、111.60を割り込むのか。
金融工学を駆使して、月曜のNY市場開始前までに答えて欲しい。
答えられなければ「証明おわり」だ。
71Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 02:50:38 0
>>67
>幽霊みたいなものを幽霊として受け入れて議論すること。
なんてできるわけねえだろうが! 馬鹿じゃねえの!?
72第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 10:32:54 0
■資本主義が徹底された世界

価値の二重性のジレンマ

資本主義経済に内在するジレンマは、価値の二重性です。生存に関係する使用価値とい
う確かな下地に対して、他者との関係でしか規定されない交換価値。たとえばマルクスは
資本家はこの二重性において、労働者から搾取すると考えました。労働力というの使用価
値を購入し、市場での交換価値との差異において、剰余価値を生み出す。

これは資本家の策略ということではなく、資本制という生産様式に内在するものということ
です。商品の物神性というときには、この二重性を意味します。だからマルクスが基本とし
たのが、「一生懸命働いた者が多くをもらうべきである」というとても単純なことです。一生懸
命働いても、価値は、市場という別のところで決まってしまう。この使用価値と交換価値と
の解離を改善するということです。
73第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 10:33:56 0
「浮遊するシニフィアン」と生きるという経済活動

マルクスの資本主義分析を評価しながら、(抽象的)労働による還元主義には多くの批判
があります。たとえば貨幣が貨幣であるためには、使用価値が必要がないということです。
貨幣が無限の「循環論法」として作動するとき、もはや労働価値は必要とされない。

前回のサンデープロジェクトでも言っていましたが、97年ごろから、実質経済とマネーゲー
ムが解離しはじめたということです。これは一つの指標でありますが、ITバブル、そして資
源投機というように、マネーゲーム化において、ますますマルクス的な抽象的労働は必要
とされなくなっています。お金は「浮遊するシニフィアン」として作動しています。

しかしマルクスの問題はそれでも貨幣が作動するのはなぜかという驚きでしょ。そしてマル
クスが「労働力の価値」を人の生活を維持するための価値においたのだそのためです。

経済は人の生存と切り離すことができないという事実です。人が生きるという経済活動から
の浮遊して貨幣が存在することは不可能である。バルブがはじけても貨幣はなくならない。
なぜならそれが生きるという生活に根ざしているからです。通貨危機が起こっても、日銀が
維持している金融システムが破綻した貨幣システムが回帰する理由です。土地でも、労働
でも、良いのですが、人々の経済活動をしなければ、生きていけないということです。それ
はほんとに綱渡り状態です。一日たりとも経済活動をとめることなどできないのです。それ
こそが経済活動に血と肉があることの証明です。
74第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 10:35:10 0
資本主義による心身の充足

ここにあるのは、心身二元論です。身体という労働力の価値と、心の剰余価値であるとい
意味で、デカルトからフロイトへ移動した心身二元論です。経済活動は人が生きるためにあ
るという事実と、それを超えて過剰を生み出す資本主義的な経済活動。

このような二元論が解離しています。生存にもとづく使用価値を強化するのは、マクドナル
ド化です。たとえば最近のネオリベ化がより自由と平等を推進していることは間違いないと
思います。それは「お金の元において」ですが。お金は人を選ばない、裏切らない。ボクた
ちのこの等価交換の平等性にくつろいでいます。それは1万円を持っている者というだけで
け、匿名性です。それ以上の自己主張を必要とされないことの安心です。すなわち他者回
避です。

もうひとつは、他者との世界への積極的な没入ですマクドナルド化の裏で、ブランド品など
へ大金を出すということは、矛盾していますが、生存をこえて、他者との世界へ向かうこと、
それは自らのアイデンティティを見いだすことですが、交換価値の世界へ積極的に向かう
必要があります。マネーゲーム化において、お金もうけよりもいかに勝ち抜くか、ということ
が重要です。

これらの価値の解離は、資本主義の徹底であるといえます。生存と主体性、心身を資本主
義によって充足しようとすることだからです。
75考える名無しさん:2007/08/20(月) 21:53:05 0
>>70
>金融工学を駆使して、月曜のNY市場開始前までに答えて欲しい。
>答えられなければ「証明おわり」だ。

えーと・・・つっこみどころ満載すぎてどこから突っ込んで良いのやら・・・

あなたの論でいくと来週の東京の天気が当てられなければ、天気予報は何の
役にも立たない証明になってしまうが、それでいいのかな?

あと金儲けできるのかとか競馬の予想屋か占い師か何かと間違えているようだが
金融工学は理論や原理、枠組みであってそれ自体で金儲けするものではない。
もともとオプションや先物取引は変動相場のリスクをヘッジするためのもので
投機の対象とするのは二次的についてきたもの。
ヘッジファンドも本来の意味は相場の変動に左右されずリスクをヘッジして
絶対収益をあげるという意味合いから名づけられた。
76Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 22:02:53 0
>>75
「理論」「原理」「枠組み」であることはわかったが、
その「理論」「原理」「枠組み」は何の役に立つんだ?
7746:2007/08/20(月) 22:25:25 0
オプション取引は古代ギリシャの哲学者タレスがオリーブの圧縮機を借り入れるのに行使
したのが最古の取引とされる。あとオランダのチューリップバブルの時代、来年の球根
を購入する権利として売買された。先物取引では江戸時代堂島の米相場が世界の最先端を
走っていた。かつて日本が金融工学の先進国であったといわれるのはこのため。

先物取引は収穫期前に事前に価格を確定させるためのもの。
北海道の小豆農家と東京の羊羹屋が収穫前に仕入値を確定させたい時
双方の希望価格が合致すれば成立する。お互い価格変動リスクを避けることができる。
ただ、農家や羊羹屋ばかりでは取引参加者が少なくボラティリティ・流動性が確保できない。
より流動性を確保するために投機家が必要となる。

オプション取引も然り。保険を例にするとわかりやすい。自動車保険・生命保険もそうだが
将来ある一定の確率で事故は起きる。誰しも事故の加害者・被害者になる可能性もある。
自動車を運転する時に事故に備え、死亡事故起こした時のために一億円ためることは不可能。
で、保険に入る。万一事故を起こした時に保険会社から賠償金を払ってもらう権利を買うということ。
これはオプションのコール・プットオプションの概念に似ている。
加入者は事故が起きた時に破産するリスクを回避できる。保険会社は保険料収入が入り
収益を上げることができる。保険ももともとは19世紀イギリスのロイズの頃は投機性が非常に
高く破産する貴族も多かった。近年はアクチュアリーが死亡率・事故率を計算し事業として
成り立っている。
ヘッジファンドもその名の通り、最初はショートアンドロング市場のワースト100を空売りし
ベスト100を買うというもの。市場上げ相場、下げ相場になろうとベスト・ワーストの変動率の
差で収益を上げるというのを売りにしていた。だからリスクをヘッジするファンドというわけ。
78考える名無しさん:2007/08/20(月) 22:29:45 0
「一生懸命働いた者が多くをもらうべきである」
これは、「ガリベンしたものが合格すべきである」程度のことか?
79Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 22:32:49 0
リスクをヘッジするからヘッジファンドだなんてことは知ってる。
金融工学は何の役に立つかを聞いてるんだ。
ご飯をふっくら炊くのに役立つのか?
そして、ご飯をふっくら炊いたら、どうして「禁断の果実」なんだ?
8046:2007/08/20(月) 22:39:17 0
以上、書いてきたのが金融工学を使った役に立つ部分。
リスクヘッジの手法、資金を効率的に使う目的のために欠かせない点も多々ある。

でもね、そもそも俺はヘッジファンドや金融工学の負の部分、危うさを書きたかったんだけどね。

>単独のHFが値を動かそうと思ったら、
>せいぜい30〜40銭ってとこじゃないの?
>正確な数字じゃないけどさ。でも1円は無理だろ。

>>43にも書いたが、92年にソロスがイングランド銀行とのポンド攻防戦。単独でいくら価格変動に
影響したかは調べようがないがソロスが単独で1日に投入した資金は100億ドル。
ポンド相場は1日で10%下落。イングランド銀行はポンド買介入し下落を食い止めるために1日で
公定歩合を5%引き上げたにもかかわらず。イングランド銀行は損失40億ポンド(当時の為替レートで約1兆円)
ソロスは10億ドル儲けましたとさという例がある。詳しくはソロス関連の本でも読んでくれ。
81Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 22:49:17 0
>以上、書いてきたのが金融工学を使った役に立つ部分。
「先物取引」「オプション取引」の説明だけだと思うが?
「先物取引」「オプション取引」を生み出した「原理」「枠組み」ってことか?
とても「禁断の果実」とは思えないが。

ソロスの伝説は知ってるが、それは稀な例でしかない。
世界経済を壊死させるには、A社、B社、C社…が、せーので
「ドル売り!」とかやらなければならない。ありえない。
8246:2007/08/20(月) 22:49:28 0
>>56
>常に儲けることができる手法が存在すると考えているのが、
>ファンド内で花形トレーダーと称される人たちだと思うが?

絶対ではないがほぼ確実に儲ける手法はある。アービトラージ(裁定取引)
これは先物と現物の価格差鞘取りをする手法。この原型は堂島の米相場の
頃からあったらしいけどね。先物と現物は価格は常にほぼ同じだが絶対に一致
しているわけではない。そのサヤを取る取引。

日経平均先物9月限が10000円、日経平均現物9990円の時、10円の価格差が生じる。
現物を買い、先物を空売りすれば10円の利益がその時点で確定する。9月の受け渡し日に
先物の売り玉に現物を渡せばいいだけ。10円とサヤは小さいがレバレッジをかけ100億円
でアービトラージを行えば1000万の利益がノーリスクで得られる。
83第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 22:53:46 0
>>78
まったく違うw
84Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 22:58:34 0
>>82
なんか、丁寧にレス返してもらってるようだから、
一通り終わるのを待った方がいいのかな。

>>78
ぴかぁ〜の書き込みは意味のない文字の羅列であって、
「図」と「地」でいえば「地」なんだから、スルーしていいよ。
85考える名無しさん:2007/08/20(月) 23:16:37 0
ヘッジファンドがなぜ妖怪といわれているかというと、何をしているか、よくわからないから。
これは投資信託など不特定多数を対象に募集する投資信託は情報公開の義務や運用の規制
がかけられているが、ヘッジファンドの多くは私募投信の形を取る。これは日本は49名以下
米99名以下で少数の投資者を対象にする場合、通常の投資信託ほど情報公開する必要がなくなる。
さらにケイマン諸島など税負担の少ないところに口座を開き当局の監視の目も薄い。

かつてLTCMというヘッジファンドがあった。ソロモンブラザーズのアービトラージャーメリ・ウェザーを
中心にノーベル経済学賞を取ったブラックショールズモデルの研究者マイロン・ショールズを加えた
豪華メンバーで結成。マイロン・ショールズモデルは日本の数学者伊藤の公式をつかった
確率論で市場のボラティリティを予想・計算するモデル。(くどいようだが、この数式だけでは金儲けできない)

金融工学を用い、債権のアービトラージを基本に収益をあげ、年40%、4年で400%の収益を上げた。
集めた資金は1000億ドル。金融工学を駆使し、ノーリスクで驚異的な収益を上げる最強ヘッジファンド
と思われた、しかし破綻・・・
86Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 23:27:55 0
>>85
だから、金融工学を駆使したから破綻したんだってのw
金儲けに使うんじゃないいだろ?
87考える名無しさん:2007/08/20(月) 23:34:11 0
マイロン・ショールズというノーベル経済学賞受賞者が加わっていたとはいえ、
もともとはソロモンブラザーズの一介のトレーダーメリウェザーが立ち上げた
たったひとつのヘッジファンド。

そのヘッジファンドが4年で1000億ドル集めたのもすごいが、破たん寸前に立てていた
ポジション総額約1兆ドル。日本の国家予算を上回るポジションを1ヘッジファンドが取っていた。

アメリカならヘッジファンドがつぶれようが自己責任で済ませそうなところだが、さすがに
1兆ドルでは影響がでかすぎる。グリーンスパンが事態の収拾に乗り出し、GS・シティ
メリルリンチ・ジョージソロスにバフェットまでウォール街の機関投資家が乗り出し
結局LTCMのポジションを数社で分割し引き受けることで事態は収拾した。

>>81
>世界経済を壊死させるには、A社、B社、C社…が、せーので
>「ドル売り!」とかやらなければならない。ありえない。

一斉にアジア諸国の通貨にヘッジファンドが群れを成して売り崩したのがアジア通貨危機。
LTCMが破綻したのもロシア国債がデフォルトを起こし世界的な信用収縮が起こり、資金が
一斉に質への逃避をしたため。ジャンクボンド、新興国国債に多額のポジションを取っていた
LTCMはポジションを閉じようにも買い手がいないというありえないボラティリティの枯渇に
遭遇し破綻した。このような事態に陥る可能性はマイロンショールズの計算によると
地球に巨大隕石が10日連続で落下するくらい有り得ない数字だったはずであった。
88第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/20(月) 23:35:41 0
>>84
頼むから絡まないでくれ。バカがうつる。
しかしヘッジファンドくんもよくこのバカレスにマジレスできるな
よっぽと、披露したくてしかたがないんだw
89Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 23:48:58 0
止まらねえな、おいww

>>87
こんなのは、投資を始めた素人が、わけもわからずレバかけすぎて、
最初は儲かってたけど、けっきょく全部、吹っ飛ばしちゃったってのと一緒。
規模はともかく、よくある話。

>>82
アービトラージ、つまり鞘取りは、もちろん知ってるが、
花形トレーダーの多くが採用してる手法、とは思えない。
90考える名無しさん:2007/08/20(月) 23:53:55 0
LTCMは取引手法を非公開であり、何をして収益を上げているのかはブラックボックスに
包まれていた。破綻して情報が開示されて初めてその全貌が明らかになった。

その手法を目の当たりにして、これを戒めに無制限な金融工学の乱用は破滅を招く、
規制せねばとはならなかった。世界の金融機関、有象無象のヘッジファンドは一斉に
LTCMの真似を始めた。LTCMの高レバレッジでサヤを取る手法を。

LTCMを教訓に無謀な高レバレッジをかけることは単体のヘッジファンドが1兆ドルの
ポジションを取るようなことはもうないが、世界の市場全体のポジションはLTCMが
破綻した10年前より増大している。円キャリートレードも然り、日本の低金利で資金調達
しアメリカの高金利国債で運用する。これもレバレッジを効かせている。
最近巷でFXが流行っているが、100倍の恐ろしい高レバレッジが当たり前。
普通の主婦が億単位儲け、脱税してつかまる時代。サブプライムローンもLTCM
の破綻した時と状況が似ている。サブプライムで信用収縮が起これば、ジャンクボンド
新興国の低格付国債と信用収縮が広まっていく。

靴磨きが株を買いだしたら相場は終わりだと言われているが、普通の主婦がFXで
億単位のポジションを取っているようじゃ世も末だ。
91Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/20(月) 23:56:32 0
>世界経済を壊死させるには、A社、B社、C社…が、せーので
>「ドル売り!」とかやらなければならない。ありえない。

これは、たとえばA社が●●ドルでユーロを買った、というのをB社が知ったとしたら、
損切りラインは▲▲ドルだろうから、そいつを刈り取ってやれって動くはずだってこと。
もちろん、場合によっては乗っちゃう場合もあるだろうが。

なんだか面倒になっちゃったから、まとめに入ると、
結局はバラバラに動いてるだけのHFが、それほど危険とは思えない。
それぞれが儲かったり、潰れたりするだけでしょってこと。
金融工学については、新たな金融商品を開発するのに役立つかもしれないが、
これもそれだけなのであって、とても「禁断の果実」と呼べる代物ではないね。
92Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/21(火) 00:01:09 0
>>90
怖くないよ、売りもあれば買いもあるんだから、
ただ、主婦は必ず円を売って、単純に米ドル、NZドルを買うだけだから、
まあ、ちょっと怖い。
HFも、この集団を「Kojin」と呼んで、ちょっと怖がってるらしいよw
9346:2007/08/21(火) 00:02:11 0
>>49
>花形トレーダーの多くが採用してる手法、とは思えない。

花形トレーダーの多くが採用してる手法って何?
9446:2007/08/21(火) 00:26:07 0
長々と書いてしまった。どうもすんまそん。
またここは哲学板だって起こられそうだから。

>結局はバラバラに動いてるだけのHFが、それほど危険とは思えない。
>それぞれが儲かったり、潰れたりするだけでしょってこと。

効率的市場仮説だね。儲かったり損したり適性なバランスが取れていれば何も
問題ないわけだが。市場は人間の心理が影響されるから、必ずしもそうならない。
むしろならない。ユーフォリアというやつ。

80年代のバブル・チューリップバブル・ITバブル・・・
バブルと破綻の繰り返し。中国は完全にバブル状態。世界中もかつてない過剰流動性
の中で膨らみ切っている。インターネットが登場してからまだ世界的な恐慌は経験していない。
1929年の世界大恐慌や日本のバブル以上より多額の資金が動き、孤立していた
各国の経済がつながり連動性が高まった今、破裂したらどうなるか。
バブルって膨らんでいる時は誰もわからない。わかるのはいつも破裂した後。
95Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/08/21(火) 00:49:18 0
>>93
鞘取りっていうのは、野球でいえばボークみたいなもんであって、
花形選手は、そんなもの使わない。

といいたいところだが、別に花形トレーダーじゃないから知らない。
まあ、シンプルな手法がいいっていう人が多いみたいだね。
ポイント&フィギュアとか移動平均線、使ってんじゃないの?
あと、エリオット波動とか? 
これらは、もちろん金融工学なんて小難しいものは要らない。
『ヘッジホッグ』って本によれば、エリオット波動使いは成功しない、
らしいw
96第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/21(火) 19:02:06 O
いまだにマルクスがラディカルである理由の一つがその欲望論にあるだろう。
人はなぜこれほどお金が好きなのか、そして商品がすきなのか
アダムスミスは人は本来利己的であり、市場はまさに利己的こそが市場の秩序を生み進歩すると考えたが
マルクスは下部構造の市場こそが人を欲望を想起すると考えたのだ。
97第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/21(火) 19:06:08 O
ラカンの欲望論はシニフィアンを欲望の源泉とする。これは人は本来欲望的であるということともに、社会性がその源泉であるということでアダムスミス的であり、またマルクス的である。
98第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/21(火) 19:10:23 O
だからラカン、そしてフロイトの精神分析的人間は根源でなく、資本主義的であるという批判がある。
ではラカンの欲望論とマルクスの欲望論の関係をどのように考えたらよいのだろう。
99正常者:2007/08/22(水) 04:30:07 0
人権と言う名の宗教
100正常者:2007/08/22(水) 04:36:06 0
実は¥は強い
円高に触れるのは実態経済からして必然に過ぎない
それを悟らせない様に必死なのが日本政府を操る米国と中国
日本のマスコミもそうやって不安を煽る
本当は強いのに

今後日本が弱るまで続けるであろう
何のために?
米国と中国のために
101第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 11:39:19 O
最近のネオリベラル、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりやすいのではないだろうか
アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることがない。たとえば放り上げたボールの運動が物理学で記述できても、厳密には記述されない。
空気や熱などの環境に左右される。さらにいえば分子単位で記述することは不可能であり、物理学はどこまでも近似でしかない。
102第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 11:47:17 O
このようなアナログをある単位で分解し記述するのがデジタルである。
たとえばある集団がいて、身長を10cm単位で部類する。ここでは162cmも168cmも同じ分類であるが、分解能を5cmにすれば異なる分類になる。
デジタル画像のように分解能が小さいほどアナログに近づく
103第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 11:57:33 O
このようなデジタルは再現性があり、管理しやすい。情報化とはデジタル化である。
しかしデジタル化は人間と絡めると倫理的な問題になる。
あるカテゴライズにより人間を分類することは人間のもつ尊厳、それは一人一人が異なり豊かな感性をもつかけがえのない存在であるというアナログ性であり、決してデジタル化されてはならない。
これは人間を分類するだけでなく、たとえば商品、情報など身の回りのものを画一化することで、失われるものがあるということだ。
科学技術、そして資本主義はデジタル化をめざし、反復することで世界を透明に、(物質的)豊かにすることあるから、ここに対立がおこる。
104第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 12:07:06 O
それは近代思想の祖といれるデカルトの心身二元論にあらわれている。
決してデジタル化されない精神とデジタル化(機械化)される身体
まさに近代の対立の原型である。
しかし現代の情報化の議論はもう少し進んでいる。現代のデジタル化の分解能の向上は、よりアナログに近づいている。
たとえば身長の分類であれば、0.00001で分類するとすれば、人は一人ずつ独自のカデゴリーに分類されてしまう。
たしかにアナログは決してデシタル化されないが、人間の認識をこえて、アナログとデジタルの差が見失われるところまできている。
だれとも違う私を保ちつつデジタル化される時代において、心身二元論の対立をどのように考えるべきだろうか、ということだ。
105第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 13:53:22 0
■近代というデジタル化の潮流

科学技術、そして資本主義というデジタル化

最近のネオリベラル、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりや
すいのではないだろうか。アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることが
ない。たとえば放り上げたボールの運動が物理学で記述できても、空気や熱などの環境に
左右され、あくまで近似的なものでしかない。では、そのような環境も含めて計算すればと
思うが、原子単位のふるまい、あるいはそれ以下の観測し、再現することなど不可能であ
る。物理学はどこまでも近似でしかない。そしてこのアナログ世界は連続性であり、決して
反復されることはない。

人はこのようなアナログ世界を何らかの単位で切り取り、近似的に記述してきた。そしてこ
のよなアナログをある単位で分解し記述するのがデジタル化である。

たとえば大量のリンゴがあり、管理するために大きさで分類するとする。長さが2cm単位で
分けると、10cmも12cmも、10〜12cmという同じグループにカテゴライズされる。しかし分解
能を1cmと小さくすれば、10〜11cmと11〜12cmの異なるグループに分類される。このよう
に分解能を小さくするほど、アナログに近づくことになる。

このようなデジタル化は情報として管理しやすく、再現されやすい。たとえば巨大な建造物
を建設可能であるのも、様々な建築資材が規格化され、デジタル化によって管理されてい
るからだ。そしてデジタル化は同じものを大量に生産するという低コスト化にもつながる。す
なわち科学技術、そして資本主義はデジタル化をめざし、反復することでアナログ世界を透
明にして管理して、(物質的)豊かにする。
106第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 13:54:31 0
アナログとデジタル化の倫理的な対立

しかしデジタル化は人間と関係すると倫理的な問題になる。人間を何らかの分類でデジタ
ル化(カテゴライズ)することは、人間のもつ尊厳とおとしめる。人間の倫理とは、一人一人
が異なり豊かな感性をもつ、誰とも代替されないかけがえのない存在である、というアナロ
グ性である。これはデジタル化と対立する。これは単に人間を何らかの方法で分類するだ
けでなく、たとえば商品、情報など身の回りのもの、画一した教育、TV番組など、デジタル
化することで人間がもつ多様な豊かさを抑圧する面があるということだ。

ここにアナログとデジタル化の対立が見いだせるが、これは近代思想の祖といれるデカル
トの心身二元論にすでにあらわれている。決してデジタル化されない精神とデジタル化(機
械化)される身体。デカルトに現れているのは、近代というデジタル化(機械論)に目覚めた
高揚感と、精神を守らなければならない、という倫理観の解離である、ここに近代の人間像
の原型があるだろう。
107第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 13:55:22 0
アナログとデジタルの差が見失われる地点

現代の情報化の議論はもう少し進んでいる。情報化社会では、デジタル化の分解能が画
期的な向上し、よりアナログに近づいている。

たとえばリンゴの大きさを0.001cm単位で管理できれば、実質、一つずつを個別に分類し、
管理することに等しい。これを同様に人間に当てはまれば、「一人一人が異なり豊かな感
性をもつ、誰とも代替されないかけがえのない存在である」という倫理を、デジタル化によっ
て管理することができる。たしかにアナログは決してデシタル化に組み尽くされることはな
いが、人間の認知限界において、アナログとデジタルの差が見失われるところまできている。

科学技術、そして資本主義によるデジタル化の徹底によって管理、(物質的)豊かによっ
て、だれとも違う私がデジタル化される方向は、ネオリベラル化、動物化などと呼ばれる
が、このような時代において、心身二元論の対立をどのように考えるべきだろうか、ということだ。
108第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 13:55:55 0
高度デジタル化社会の問題点

このような傾向による問題としてあげられているのが、脱社会化する傾向である。高分解
能なデジタル化という個別化によって、尊厳が承認されてしまうということは、他者、すなわ
ち社会を必要とせず、孤立化したまま、充足してしまう。脱社会化し、資本主義という競争
社会において下流であることに自己充足してしまう。

さらに、それでも尊厳は抑圧されているということだ。どのような高分解能のデジタル化に
おいて人間の尊厳は還元されない。もしかりに人がデジタル化によって充足しているように
見えても、それは情報操作によって人間のもつ豊かさを抑圧しているのだ。

そしてその反動として、ナショナリズムや、宗教などの瞬間的に安易に他者に共鳴してしま
う。たとえばネット上のサイバーカスケードでもこのような傾向が見られると言われる。この
ような傾向は、「ポストモダンの二元論的な解離」と言われる。心身二元論において、身体
は動物化として充足させながら、心は尊厳を求めて、瞬間的に安易に他者に共鳴するとい
う解離が起こっている。
109第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 13:56:42 0
面倒な他者と向き会い続けること

このような問題に対して、いかにアナログな社会性、すなわち他者との関係を取り戻すか、
ということである。それは瞬間的に安易に他者に共鳴することではなく、他者との関係をあ
きらめずに、気長に築いていくことである。

他者は決してデジタル化されない存在である。逆にいえば、デジタル化されない、決して自
らの思い通りに管理されない存在こそが「他者性」である。だから動物化のような安易な充
足に対抗しながら、継続して面倒な他者を向き合い続けることが求められる。そこに安定
し、継続される主体性が構築される。


心身二元論の潮流

このように言うことは簡単であるが、ネオリベラル化、動物化は、近代という科学技術、そし
て資本主義によるデジタル化、それは心身二元論の潮流の一部としてある。たとえば最近
の安易なナショナリズムと、近代の国民国家へのナショナリズムとに構造的な差異がある
のだろうか。国民国家はまさに近代の潮流の中で生まれたものである。このような傾向は
近代の構造そのものに支えられているのであり、マルクスではないが、まさに革命によって
しか、この潮流は分断できないのかもしれない、と言うぐらいにラディカルな問題である。
110考える名無しさん:2007/08/22(水) 14:06:47 0
波平のそうやって「毒」にも「薬」にもならない話を延々と書き続けられる才にshitto!
111第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 14:57:08 0
>>110
素直にボクの力では理解できませんといえw
112第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 15:29:02 O
ネオリベラルや、動物化の否定は近代の否定であり、ではどこに向かうのか
まさか自然に返れとロマン主義に迎うわけにもいかない。あるいはマルクスのように資本主義の徹底の先にユートピアをみるのか
ここにネオリベラルや、動物化を安易に否定できないところがある。
113第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 15:38:56 O
デジタル化は物質的な豊かさ、すなわち安定した生存に貢献した。これは人類史においても、画期的なことである。
ネオリベ批判や環境問題などで忘れがちなのはデジタル化の手を抜けば生存は難しくなるという不確実性、すなわちアナログ性にさらされていることはいまもかわりないということだ。
114第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 15:48:46 O
そして回帰するのだ。いったい何が問題なのだ?
115考える名無しさん:2007/08/22(水) 17:36:52 O
おまえの偏執性
116考える名無しさん:2007/08/22(水) 17:40:18 0
陳腐な長文はチラシの裏に書いとけ。
117第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/22(水) 17:47:27 O
もったいないだろ
118考える名無しさん:2007/08/22(水) 18:05:14 0
―東京電力よりお知らせ―
現在、当社の受持区域における電力需給が非常に厳しい状況となっております。
暑さ厳しい中、皆さまにはご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんが、本日は、
電気のご使用を極力控えていただきますよう、引き続き節電にご協力をお願いいた
します。

おまえも節電に協力しろ。
パソコンのスイッチ切れ。
119第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/23(木) 12:57:17 O
創造性とは錯覚による生まれる未来への可能性であり、そこに向かうための生きる力である。
だから人が生きるためにはいかに錯覚するかが重要になる。
情報が少ない時代、人は夢をみることは容易であった。そこに貧しくても、貧しいからこそ、ハングリー精神がうまれた。
しかし情報過多により夢をみることが難しくなっている。貧しくとも諦めとともな足元の快楽で充足してしまう。
このような状況で動物化は生まれた。それはニッチ戦略としての情報の遮断であり、過剰な情報の中で錯覚を起こす戦略である。
120考える名無しさん:2007/08/23(木) 17:54:27 O
そう、自分は頭がよくなにほどか独創的な文を書いている
と錯覚しているやつもいるしな。
121考える名無しさん:2007/08/23(木) 19:51:12 0
>>120
自虐的にならないで。><
122121:2007/08/23(木) 20:00:06 0
間違えt。120=波平と勘違いしますた。
123第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 10:44:39 O
動物化した主体とは、成長過程における父の機能の弱体にあるだろう。
社会的規律の教育という去勢の不十分、それは社会的な価値観が維持されないなかで強い父がいなくなっている、
大きな物語の凋落ということができる。
自己承認は主に消費過程における選択に移る。他者と異なるなにを所有しているか、が主体性の源泉になる。
124第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 11:01:35 O
主体形成における強い他者の不在の中で、消費過程の向こうの他者に承認を求めるが、消費は変容が激しく、
他者を見失わないように、いまなにが人気かたえずアクセスしつづけなければならない強迫状態におかれる。
さらに消費過程による承認は、情報収集により達成されるために実質的には他者とコミュニケートする必要がなく、社会から退却し、主体を孤立化させる。
去勢不全において社会的な規律、儀礼の習得が未熟な主体は他者とのアクセスに多大な負荷を感じる。
なぜなら他者とはそもそもにおいて、不確実な存在であるからだ。社会性はそれでも協力するための緩和装置として働いていたからだ。
だからひきこもるという行為は動物化の必然な防衛こういである。
125第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 16:52:22 0
■なぜ資本主義社会は「ひきこもりながら」豊かに暮らすことを目指すのか

動物化した主体と他者

動物化した主体の形成は、成長過程における父の機能の弱体化に特徴があるだろう。社
会的規律の教育という去勢の不十分、それは社会的な価値観が維持されないなかで強い
父がいなくなっている。これは、「大きな物語の凋落」ということができる。

去勢によって習得する社会性とは、それでも協力していかなければならないために、他者
に対してどのような状況で、どのように振るまうべきかが、儀礼的に決定されることで、他者
との間の緩和装置として働いていた。

だから去勢不全において社会的な規律、儀礼の習得が未熟な主体は他者とのアクセス
に多大な負荷を感じる。なぜなら他者とはそもそもにおいて、不確実な存在であるからだ。
126第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 16:52:59 0
動物化が先か、消費社会が先か

それでも主体が主体であるためには、他者からの承認が必要とされる。このための動物化
した主体の承認は、「他者」と異なるなにを所有しているか、という消費過程における選択
によって行われる。この場合の「他者」は、商品の向こうにいるだろう他者であり、マルクス
のいう商品の物神性を支える「他者」である。

マルクスがいうように資本制という生産様式、そして消費社会を下部構造として、上部構造
として動物化した主体は形成されるのか、あるいは近代化という啓蒙主義的な個人の自立
の流れの中で、主体が動物化し、消費社会が進められたのか、起源を問うことは困難であ
るが、動物化した主体とは資本主義経済と深く結びついていることは確かである。だから
動物化した主体は、多くにおいて、市場主義、自己責任、他者干渉を最小限にする、ネオ
リベラリズムを支持する傾向にある。
127第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 16:53:38 0
社会への責任としての他者との関係を回避する

消費により承認される動物化した主体は、商品の激しい変容に対して、「他者」を見失わな
いように、いまなにが人気であるか、たえずアクセスしつづけなければならない強迫状態に
おかれる。しかし実質的には現前の他者とコミュニケートする必要がなく、自己充足し、社
会から退却しているようにみえる。

だから「ひきこもる」という行為は動物化した主体のキーワードになる。これは家からでら
れない俗に言う「引きこもり」よりももっと広義な意味であり、「現前の他者」を回避する現象
である、といえる。

たとえばそれは「ひとりぼっち」である必要がない。恋人でもセフレでもよいが、「ふたりぼっ
ち」で「ひきこもる」、あるいは、まさに「引きこもり」や独身女性の「パラサイトシングル」のよ
うに、家族というカプセルに「ひきこもる」。ここでは、たとえば以前は、男性が女性とつきあ
う場合には女性の家族や友人などの社会関係への責任も附帯されるというといような、「ひ
きこもる」外への他者との関係、社会性は、煩わしく、恐怖であり、回避されるている。
128第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 16:54:21 0
「ひきこもりながら」行為する

このような「ひきこもりながら」様々な行為が可能で、充足をえられる社会というのは、画期
的なことであり、大きな成果である。

・「ひきこもりながら」で楽しむ・・・現代は一人で楽しむことに溢れいてる。テレビ、ビデオな
ど、さらにはゲームなどのインタラクティブにおいては、プログラムされた疑似的な他者との
駆け引きを楽しむことができる。

・「ひきこもりながら」で食事をする・・・マクドナルドなどのファーストフードや、ファミレス、コ
ンビニなどは、機械的な応対によって他者回避しながら食料を確保することができる。

・「ひきこもりながら」でコミュニケーションする・・・他者回避しながらコミュニケーションする
というのは、一見矛盾しているようだが、ケータイ、PCなどのネットコミュニケーションでは
社会性への責任が回避された「ひきこもりながら」行われる。

・「ひきこもりながら」性関係をする・・・AV、風俗などの商品としての性関係だけでなく、二
股、三股など関係は、自らに都合のよい時間に、都合良いセックスをする相手を確保する
という金銭のやり取りがなくても、商品としての性関係と言える。しかしさらには恋人関係で
あって、「ふたりぼっち」で「ひきこもる」傾向がある。

・「ひきこもりながら」生存する・・・家族にパラサイトしながら生きる。これを可能にするの
は、経済的な余裕とともに、家族そのものが「ひきこもり」可能なカプセル化していることだ。
ある意味で、親もまた子供に寄生している関係がある。また仕事をするにしても、フリー
ターのように社会的な責任を回避しつつ、マニュアルに従い働く、あるいは正社員であって
も責任ある仕事を回避しながらこなすように仕事をする。
129第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 16:55:06 0
資本主義社会は「ひきこもりながら」豊かに暮らすことを目指す

この中で現在もっともむずかしいのは、「ひきこもりながら」生存することではないだろうか。
動物化が現代の大きな傾向であるとして、それによる問題としてもっとも表出しているの
が、経済的な自立ができないという「引きこもり」や、フリーターなどの問題としてである。逆
に言えば、経済的に自立していれば、「ひきこもりながら」なにをしようが、個人の趣向の問
題であるといえるだろう。

すなわち「ひきこもりながら」行為を行うことを可能にする、他者への依存が少なく、様々な
行為を行うことができるのは、「なんでもお金で買える」資本主義社会によって可能になって
いるのである。

フリータ、ニートとして働く場合、ネオリベラリズムが進む中で下流へ追い込まれてしまう。
一時はそれでしのげても、継続性において、生存にも困窮する状態は脱社会化していた
も、もはや動物化とはいえない。

いかに社会的な責任を回避しながら、安定した収入をえるか。それがまさに、動物化した主
体にとっての今後のもっとも大きな課題であるとともに、資本主義が発展するために乗りこ
えなければならない最大の課題であるだろう。情報化社会はそれを可能にするだろうか。
130第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/24(金) 17:20:01 0
情報化社会は「ひきこもりながら」儲けることを可能にするか

情報化技術はまさにそれを探索していると言える。情報処理技術の向上で、情報商品の製
作、流通のコストはただのようになった。「ひきこもりながら」趣味的に製作することで多くの
人に流通することができる。また「ロングテール」のようにニッチにおいてユーザを確保する
ことができる。

しかしこのような考えは多くにおいて成功していない。なぜなら情報商品は容易にコピーさ
れて所有権の確保がむずかしく、ネット上では情報商品は共有価値であるように振るまわ
れるからだ。ネットは多くの長者を生んだが、それも全体としては一握りでしかない。

しかしネット上には「ひきこもりながら」お金を儲ける可能性があることは確かであり、グー
グルのアフェリエートでもうけたとか、セカンドライフもうけたとか、試みには終わりがない。
それは資本主義社会にとっての残された夢であるからだろう。
131考える名無しさん:2007/08/25(土) 23:35:40 0
>情報化社会はそれを可能にするだろうか。
しねーよ、
働け、カス。
132考える名無しさん:2007/08/26(日) 00:23:46 O
僕は昭和22年の春に生まれています。1947年ですから今年でちょうど60歳の還暦を迎えました。
母親と二人で大変に苦しい生活を送りました。
戦後間もなく母はパンパン(街娼)として、有楽町の駅の横で立っていて、アメリカ兵を相手にセックスで生計を立てていたのです。

当時のコンドームは粗悪品で、性行為の途中で敗れて、膣の中に精液が漏れた様です。
それと今までの日本人の性器と違い、太くて長いので、性交の間に破けて途中で止めないで、赤ちゃんが出来た様です。
私はそんなパンパンの息子として、白人の合いの子として生まれました。
133第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/26(日) 10:29:24 0
想像力(創造力)とは物語る力である。
人は世界を物語として紡ぐ。
主体とは自らを主人公とした物語である。
物語ることで主人公としての自らを生み出す。そこに主体が生まれる。
ハイデガーはユスキュルの生物分析としての環世界から、
世界内存在を考えたが、物語る人間において、
物語内存在である。
134第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/26(日) 10:59:15 O
だから宗教は物語装置である。世界をあたえ、登場人物の役割をあたえる。
科学の力は物語を解体する。物語は分断され各自が形成するものとなる。
135考える名無しさん:2007/08/26(日) 11:20:15 0
 まず「自由主義者」の訳であるが、「リベラリスト」と言う言葉は、ドイツ語にはあるが、英語ではリベラルズ
liberalsというのだ。「リベラリスト」と言う英語は無い。日本の知識人層は、この初歩の事実から学ばなくては
ならない。リベラル派の反対がコンサヴァティヴズ(Conservatives・保守主義者)である。日本やアメリカで、
自分の事を「リベラル」だと思っている人々は、そもそもの、本物の歴史上の「古典的自由主義者」とは似ても
似つかぬものだ、と言う事に気づいてほしい。今の日本やアメリカのリベラル達は、本物の自由主義者達とは
反対の立場の人だのだ。言葉だけは「リベラル」だから、きわめて紛らわしい事になったのだ。
それは、イギリス人の18世紀の初期リベラル思想が、海を渡ったアメリカで共和党系の思想になったからだ。
このねじれを理解しなければいけない。

 日本やアメリカの現代リベラル達は、本当は、今でも隠れ(あるいは無自覚な)社会主義者(ソーシャリスト
Socialists)たちである。だから、「本物の本来の自由思想を貫く生き方をしたい」と言う人々は、アメリカでは、
仕方なく、自分達の事を リバータリアン(Libertarians)と呼ぶようになった。

 アメリカでは、民主党支持であるリベラル派は、その実態は福祉優先の弱者救済主義者である。このことに
気づいて、最近は自らを「現代リベラル派(モダン・リベラル)」と呼んで保守思想である 古典自由主義者
(クラシカル・リベラルClassicalLiberals)と区別をつけるようになった。本物の自由主義とは「この、私の
私自身の自由を、他の何よりも大切にする思想」の事だ。だから、根本的に、個人主義者なのであって、
共同体優先主義(社会主義)ではない。

以下の引用は、副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184から
136考える名無しさん:2007/08/26(日) 11:21:47 0
 18世紀のイギリスの本物の古典的自由主義者たちは・「国王や教会が、私たちの生活に余計な干渉
をしないでくれ」という思想態度から興ったものである。だから本物のリベラルというのは、本当は、
徹底的に新興企業経営者層(ジェントルマン)たちの思想なのである。これが、イギリスのウィッグ党・
ホイッグ党(Whig 自由党)の支持勢力を作った。そして、トーリー党(Tory 保守党)である、貴族
たちの勢力と争ったのだ。

 一般庶民(貧乏大衆)の政党などまだまだ現れない。このウィッグ(イギリス自由党)の思想が海を
渡ってアメリカに到着した時に、これがアメリカの保守勢力であるアメリカ共和党になってゆくのだ。
だから「もともとのイギリスの自由主義者が、現在ではアメリカの保守主義者」と言う事である。

 いつの間にかねじくれて意味が逆転してしまった。即ち、本来の「リベラル」という言葉が、民衆
統合主義者や、左翼・社会主義者たちによって奪い取られてしまったと言う事である。この世界の
政治思想上の言語使用上の重大な逆転現象に、私たちはそろそろ気づかなければならない。
この事が分らないものだから、日本では政治学者たちですら、現代リベラル派と、本来の古典派
自由主義者の区別がつかないのだ。

副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184
137第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/26(日) 16:45:04 O
動物化は精神分析の外部でなく、臨界に位置する。だから精神分析の限界を語ることでのみ、明らかにされる。
138考える名無しさん:2007/08/26(日) 20:22:49 0
波が、波がやってくる。(「ユリイカ」)
しかし、波の上に人が。
波平だ。ひきこもりは、呑みこまれて、
波平だけが、波乗りする世界の到来。
夢の世界、脳内-シャカイ系の世界だ。
139考える名無しさん:2007/08/26(日) 23:32:41 O
波平さんは、本当は物凄いお金持ちなのに、昔を振り返ると可哀想な人なんですね。
でも今の自分が一番です。お母さんが娼婦であっても何も貴方の人格とは関係ありません。
少年のころから、凄く自分は悩まれたと思います。
でも今日があるのは貴方の努力で、素敵そうな奥様と子供さんを持たれて、前だけを見て今後も頑張ってください。

140第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 09:29:46 O
子供は現実的な情報が少なく、多様な物語を作り出す。親はそこに適切な情報を与える。
しかし過保護による過剰な情報提供は物語る力を阻害する。
物語り、自ら現実と関係をもつことで体力を養う。創造には物語と体力が必要とされる。
安易な情報提供は、物語ることによる生きる力と、現実と交渉する生きる力を養わない。
物語れなければ、結局死ぬのにという無気力、あるいは現実との衝突に耐えられない物語への退避を生む。
このような無気力、退避は過保護な子供だけでなく、社会全体の閉塞としてあらわれている。
情報化社会では過剰な情報にあふれ、リスク回避のためには有用であるが、物語ることがむずかしく、予測可能性の殻に閉じ込められ、自ら動くことが恐くてできなくなっている。
141第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 09:43:35 O
親の子供への過剰な干渉は子供への情報提供だけでなく、親の閉塞感にも問題がある。
この物語への介入することで閉塞感からの回避したいということだ。
未規定なものを欲望するのは現代の特徴である。たとえばロリコン指向にもこの傾向はみられる。
142考える名無しさん:2007/08/27(月) 09:51:50 0
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、
彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる
未成年状態にとどまっているのは、彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、
むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性をあえて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから
<あえて賢こかれ!>、<自分自身の悟性を使用する勇気を持て!>、これがすなわち啓蒙の標語である。」(かんと)
143第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 09:58:10 0
成人は閉塞した存在である。女性の神秘と言う言葉があるが、
成人女性は社会的な構造物として、創造性をかき立てるような
存在ではなりつつある。このための未規定なものとして、
幼児の無邪気さに向かう。それは必ずしも創造性をかき立てる
対象であるとは限らないが、閉塞感からの一瞬の解放を生む。
ロリコン、少年愛、ペット・・・みなが「かわいい」という未規定へ
感染を試みる。癒しと呼ばれる所以である。
144第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 10:00:34 0
このように考えるとオタクがどのような位置にいるかがわかる。
彼らは閉塞の中にいて、脱出を試みている。
生き残るために、ロリコンという未規定を頼りに、懸命に物語を
紡ごうとしている。

145第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 11:16:04 0
■オタクのたくましさとほんとうのたくましさ

情報化社会の無気力と退避傾向

子供は現実的な情報が少なく、突拍子もない様々な物語を作り出す。親はそこに適切な情
報を与えることで、社会への順応性をつけさせる。しかし過保護による過剰な情報提供は
物語る力を阻害する。物語は未来へと生きる力の源泉である。そしてまた折り合いをつけ
ながら、物語と現実の間を生きることで、生きる持続力を養う。このために安易な情報提供
は、物語ることを挫き、「結局人は死んだ」という相対主義的な無気力、あるいは現実との
衝突に耐えられず物語への退避し、現実から逃避する。

このような問題は、過保護な子供だけでなく、情報社会の問題である。情報化社会では大
量の情報は失敗することのリスク回避に役立つが、人々が物語ることを困難にする。この
ために、生きる力と持続力を弱めて、人は安全な予測可能性の殻にに閉じ込もり、自ら動く
ことが恐くなる。
146第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 11:16:39 0
閉塞から出口としての「未規定名もの」

親の子供への過剰な干渉は子供を想った情報提供だけでなく、子供の物語へと介入する
ことで閉塞感からの脱出したいという願望をもつ。このような未規定なものに干渉したいと
いう願望は現代の一つの傾向である。

たとえばオタクのロリコン指向にもこの傾向はみられる。女性の神秘と言う言葉があるが、
成人女性は社会的な構造物として、閉塞した存在であり、創造性をかき立てるような存在
ではなくなった。このために未規定なものとして、幼児の無邪気さに向かう。それは閉塞感
からの一瞬の解放を生む。そして人々はロリコン、少年愛、ペット・・・みなが「かわいい」と
いう未規定へ感染を試みている。それは「癒し」と呼ばれる。

東はオタクの一つの特徴であるセカイ系を象徴界の機能不全と読んだ。現実との衝突に耐
えられず物語へ退避している状況といえるだろう。想像的なものへ退避することの閉塞感
から現実的なもの(未規定なもの、危険、禁止)=ロリコンへ安易に近接する。
147第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 11:17:13 0
本当のたくましさとは

このような傾向は、倒錯というだけでなく、現代においてまさに生き残るために求められて
いる戦略であるといえる。そしてオタクがロリコンという小さな未規定性をともに、これだけ
様々な物語を次々生み出せるのは、まさに生き残りたいというたくましさと考えることができる。

しかし本当のたくましさとは、現実と向き合いながら、折り合いをつけながら、物語りつづけ
る力であるといえ、オタクは現実回避的でであると考えられる。
148第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 11:22:26 0
このような本当のたくましさはいかに可能か。それは人の問題でなく、
社会的な問題、構造として考えなければならないだろう。
どのようにすれば、逞しく物語ることが可能になるのだろうか。
149第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/27(月) 11:49:36 O
たくましさは個人的な力量ではなく、社会的な基盤から生まれる。
たとえばオタクのすべてがロリコンであるわけでなく、創造する基盤としてオタク文化があるといえる。
このような基盤が樫村がいうところの「文化」だろう。
150考える名無しさん:2007/08/27(月) 23:41:43 0
昔昔のその昔、PC98の頃のこと、「風流」という意味不明な俳句を量産する
人口無能ソフトが、一部でと言っておこう、流行ったことがある。

ハゲの好奇心旺盛な雑食ぶりは、大したものだとは思うけど、
ハゲの文章って、いつかみた「人口無能」ソフトの吐き出したものみたいだよ。
151考える名無しさん:2007/08/27(月) 23:43:23 0
人口無能 → 人工無能  どうでも良いけど。
152第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/28(火) 00:04:35 0
>>150-151
おまえの頭では理解できないだけだろw
153考える名無しさん:2007/08/28(火) 00:11:34 0
頭隠して尻隠さずのハゲの文章には、心というかハートがないんだよ。
154第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/28(火) 00:12:29 0
>>153
お前の頭に脳みそがないようにかw
155考える名無しさん:2007/08/28(火) 00:21:04 0
口述でなく、文章を書くなりキーボードに打つ限りは、ワンクッションあるに違いないと思うわけ。
ハゲは、なぜに推敲不全の垂れ流しを2chに書いてご満悦なのかな?
156第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/28(火) 00:22:30 0
歩きながらケータイで書いているからだよ。
157考える名無しさん:2007/08/28(火) 00:30:32 O
物語の揺り籠であり墓場であるのが糞現実だ。
糞現実が壁であると同時に、ブレイクスルーなのである。
158考える名無しさん:2007/08/28(火) 00:59:25 O
例えば妻がブスでつらいこともあろうが、おかげさまで審美眼が養われるということだ。
こうゆうことを、現実は物語の揺りかごであり同時に墓場であるというのである。
159考える名無しさん:2007/08/28(火) 01:28:42 O
しかし、妻がロシア美女ともなると、
物語も罪と罰のようなものになるのかね。
いつも美しいものを見ていれば奇怪で醜いものを物語るようになり、
そのうち醜いものへと突き動かされることだろう。
結果醜いものが現実として突きつけられてしまえば、醜悪な物語も終わるわな。
今度は美しいものを物語り始めると。
ともかくきっと、物語は現実に始まり現実に終わるわな。
160考える名無しさん:2007/08/28(火) 01:42:14 O
オタクは現実をよくみているからこそオタクなんだよ。
実は、オタクが明日の世界を形造っていく人々なんだな。
明日になってもオタクは依然としてオタクであり、
新しい現実に直面しつつ物語っていることだろう。
161考える名無しさん:2007/08/28(火) 02:36:45 O
あくまで日常、現実というやつは想像の、あわよくば創造の、土台でしかない。
その限りであくまで間接的に価値を付与されるところの糞だと思われる。
蔑まれつつ、夢を育み、夢破るところの糞であると。

ところで歴史というのが正に一種の物語りであることは注目すべきところである。
物語りであるが故に、歴史は繰り返すのである。
162考える名無しさん:2007/08/28(火) 14:11:41 0
>>150-154

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1177573516/621-639

第三の波平と心の仕組みドットコムは似ている。
心の仕組みドットコムと第三の波平は同じパターンの思考を持っている。
第三の波平と、心の仕組みドットコムは、一括りに分類できる。
なぜ、似たような奴ばかりなのか。どいつもこいつも。
163第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/28(火) 16:52:50 0
>>162
心の仕組みドットコム?にいじめられてのか
しらんがなw
164考える名無しさん:2007/08/28(火) 19:37:38 0
>>163
>いじめられて

波平の「想像力」は変。
165第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 13:29:27 0
■自然と私

「自然」は両義的に語られてきた。たとえば「自然状態」というように語らえるとき、
それは原点を意味し、倫理的な正しさとして考えられる。
それに対して、「動物ように」などとして語られる場合には、下等なものとして、
倫理的な間違いとして考えられる。このような「自然」は善悪の両義性をもつ。

宗教においてもアミニズムなど自然宗教では、自然は善なるものとして尊ばれてきた。
それに対して、キリスト教では、自然を超越したところに神がある。
人間は神の創造物として自然と同等である以上に、人間は神に似せて作られた
特別な存在、自然よりも高等な存在である。人間は神に似せて作られたの
本質的な意味は、神は人間に似た者ということであり、人間中心主義である。

ルネサンスが人間回帰というとき、自然としての写実的な人間であり、自然への回帰
といわれるように、自然を神の産物とは考えない。
このような流れを決定的にしたのが、ダーウィンの進化論だろう。人間、神/自然、動物の
断絶を解体し、人間は動物の、そして自然の一部であることを示した。

ならば自然と人間の関係は転倒したのか。たとえばデカルトの心身二元論では、
精神という高等な、倫理的な部分と身体という動物、機械的、下等な部分を表し、
人間>自然のキリスト教的な価値を継承している。
166第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 13:30:10 0
神が解体されても、人間>自然の関係は継承されている。このような思想としての
ダーウィニズムは、人間は自然の一部であるが、もっとも高等な存在であるということだ。
人間の正しさは神ではなく、高等さによって保証される。そして高等さとは、
月にいける動物がいるか、という科学技術によって保証されることになる。

たとえばフロイトの精神分析では、人間は快感原則の彼岸をもつ、壊れた動物と考えられた。
あるいはマルクスは、使用価値/交換価値の価値の二重性において、使用価値を生む
自然との関係=労働に対して、人間の関係の中で剰余価値を生むなどの、自然と乖離する
ものとして考えられる。ここには自然>人間の位置づけがあるが、フロイトもマルクスも
自然へ帰れと語ったわけではない。自然の乗りこえた人間としてのあり方が目指される。

このような言説は、キリスト教的な人間>自然のあからさまな倫理観ではなく、
ある意味で、自虐的で開き直りで、隠された人間>自然の倫理を継承している。
それが現代に特徴的なものが環境問題に関係する言説である。
自然を大切に、人間は自然を破壊し間違った存在である、という自虐的に言説とともに、
保護してあげなければ、優しくして上げなければと、自然をコントロール可能な下等なもの
として考えている。
167第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 13:47:53 0
人間にとって、自然は純粋贈与であり、純粋略奪である。
太陽の恵み(贈与)によって、人間は生かされ、
日照りによって、人間は殺される。
そこでは人間の善悪を含めた価値は存在しない「例外状態」である。

このような自然に人間は依存し、そして人間が自然の一部として
生きるということ、このような環境において、自然への両義性は生まれる。
そして自然の両義性はあくまでも人間側の内部の勝手な価値でしかない。
仮に環境が破壊され、地球上の生命が絶滅しても、自然は継続するだろう。
168考える名無しさん:2007/08/29(水) 14:17:44 0
小便するような文書くな。w
ちょろちょろちょろちょろ・・・ちょろ。

全体の構成をもちっとがっしりさせてくれ。随筆のようだ。
169第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 14:45:34 0
では初校をお届けします。

■純粋自然と思惟する人

「自然」の両義性

「自然」は両義的に語られてきた。たとえば「自然状態」というように語らえるとき、それは原点
を意味し、倫理的な正しさとして考えられる。それに対して、「動物ように」などとして語られる場
合には、下等なものとして、倫理的な間違いとして考えられる。このような「自然」は善悪の両
義性をもつ。

宗教においてもアミニズムなど自然宗教では、自然は善なるものとして尊ばれてきた。それに
対して、キリスト教では、自然を超越したところに神がある。人間は神の創造物として自然と同
等である以上に、人間は神に似せて作られた特別な存在、自然よりも高等な存在である。人
間は神に似せて作られたの本質的な意味は、神は人間に似た者ということであり、人間中心
主義である。

ルネサンスが人間回帰というとき、自然としての写実的な人間であり、自然への回帰といわれ
るように、自然を神の産物とは考えない。このような流れを決定的にしたのが、ダーウィンの進
化論だろう。人間、神/自然、動物の断絶を解体し、人間は動物の、そして自然の一部である
ことを示した。
170第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 14:46:19 0
自虐的な人間主義

ならば自然と人間の関係は転倒したのか。たとえばデカルトの心身二元論では、精神という高
等な、倫理的な部分と身体という動物、機械的、下等な部分を表し、人間>自然のキリスト教
的な価値を継承している。

神が解体されても、人間>自然の関係は継承されている。このような思想としてのダーウィニ
ズムは、人間は自然の一部であるが、もっとも高等な存在であるということだ。人間の正しさは
神ではなく、高等さによって保証される。そして高等さとは、月にいける動物がいるか、という科
学技術によって保証されることになる。

たとえばフロイトの精神分析では、人間は快感原則の彼岸をもつ、壊れた動物と考えられた。
あるいはマルクスは、使用価値/交換価値の価値の二重性において、使用価値を生む自然と
の関係=労働に対して、人間の関係の中で剰余価値を生むなどの、自然と乖離するものとし
て考えられる。ここには自然>人間の位置づけがあるが、フロイトもマルクスも自然へ帰れと
語ったわけではない。自然の乗りこえた人間としてのあり方が目指される。

このような言説は、キリスト教的な人間>自然のあからさまな倫理観ではなく、ある意味で、自
虐的で開き直りで、隠された人間>自然の倫理を継承している。それが現代に特徴的なもの
が環境問題に関係する言説である。自然を大切に、人間は自然を破壊し間違った存在であ
る、という自虐的に言説とともに、保護してあげなければ、優しくして上げなければと、自然をコ
ントロール可能な下等なものとして考えている。
171第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 14:46:59 0
純粋自然を意味として回収する人間

人間にとって、自然は純粋贈与であり、純粋略奪である。太陽の恵み(贈与)によって、人間は
生かされ、日照りによって、人間は殺される。そこでは人間の善悪を含めた価値は存在しない
「例外状態」である。そして仮に環境が破壊され、地球上の生命が絶滅しても、自然は継続す
るだろう。

このような純粋な自然に、人間は依存し、そしてその一部として生きることは、人間とって外傷
的なことであり、そのために自然をたえずなんらかの意味として回収しながら生きなければ、
耐えられないだろう。そして人間側内部の勝手な価値としての自然への両義性は生まれる。(終)
172純一 ◆Fn0dptrDJw :2007/08/29(水) 14:47:17 0
ぴかぁ〜、なつかしいものを見つけたのですがまたやりませんか?

★中国板を盛り上げる会A 革命前夜編★
1 :マーボ学派の猫:2005/12/18(日) 06:22:42
我々『中国板を盛り上げる会』は徹底した理論的革命の基礎工事を成功させ続けている!
反革命勢力によって弾圧され封殺された前スレの悲劇を我々は決して忘れない!!
幾万の革命の炎がかき消されようとも我々はこの道を見失うことは無い!
何故なら我々は反革命中国板盛り下げ勢力のその源における空虚を看破しているからだ!
『中国板を盛り上げる会』は死なない

『中国板を盛り上げる会』主要メンバー一覧
・ロリコン流行対策部長 もはや日本人 ◆hWTRfNABt6
・ポストモダン考慮係長 ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
・変態隔離スレ管理員 亜 ◆uEM2Q1QJPQ
・荒らし対策部長 純一 ◆Fn0dptrDJw
・国際結婚研究部長 正宗嫁中 ◆TvMZlYSVvY
・AA担当部長 bigpapa(遅れて来た諸葛孔明)
・広報部長 マーボχの美意識 ◆Vl.LIe4j2A
173考える名無しさん:2007/08/29(水) 14:59:50 0
>>169のルネサンスからダーウィンは飛躍しすぎ(時代が飛びすぎ)。
>>167のつまらんオチを削ったのは良いが>>171の「例外状態」も不要。

あとはおk。面白い。
174第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 15:00:14 O
このような近代の合理主義にあらわれる自然と退治する人間像が、プロテスティズムからキリスト教、そしてユダヤ教へさかのぼることはウェーバーが指摘したことである。
175純一 ◆QzuB1xeuck :2007/08/29(水) 15:06:19 0
トリップがバレてしまった様なので、こちらに変えます。
176第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 15:23:11 O
>>173
なぜ例外状態はだめ?
177考える名無しさん:2007/08/29(水) 15:31:47 0
>>176
そこだけ話が混線してるような。
その説だと人類にとって「自然」はずっと「例外」だった(その「例外」を恐れてた)とも言えてしまうような。
178第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 15:35:09 O
これは単に人間と自然の関係ということではく、倫理そのものをみることができる。
たとえばデリダは構造主義の原点となった贈与論に対して、純粋贈与の不可能性に言及した。
そしてこの不可能性とは他者性である。贈与が形成する内部を外部へむけて開きつづけること、そこに倫理を見いだした。
これは先の人間/自然の両犠牲に対応している。
179第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 15:37:08 O
ちびっこ。わしを評価するのはまだまだ早い。とりあえづぐぐってこい。
180考える名無しさん:2007/08/29(水) 15:42:04 0
>>179
随筆が書きたいのかよ?w
話のオチがよく分からないってことだよ、おっさん。w

環境問題が今私たちが直面する新しい問題(外部)なのか、それとも、環境問題は
そのキリスト教的な流れと同根であると言いたいのかだけ教えてくれ。後はいらん。w
181第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 15:48:39 O
書いてあるだろ。しっかり勉強して読みこなせ。それから敬語わすれるな
182考える名無しさん:2007/08/29(水) 15:50:37 0
ああ、後者のほうね。「例外」関係ないじゃん。
183第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 16:11:00 O
すなわち自然とは例外状態として未規定性であり、倫理とは未規定性へ向かう想像である。
たとえば環境問題でいえば環境にやさしくでも環境ね商品化でなく、その向こうの未規定性へと想像を働かせること。
184考える名無しさん:2007/08/29(水) 16:21:19 0
なんかベタなオチだな。
185考える名無しさん:2007/08/29(水) 16:42:23 0
ずうっと前から、近所のビデオ屋にビデオ返しに行く途中で落としたカエルのぬいぐるみのキーホルダー(15センチぐらい)を探しています。
誕生日プレゼントでもらったのに・・・もらった日におとしたの。
もし拾った人は新しいものだし大切にしてほしいです。
届けてくれてもいいけどね。 自己紹介はこのくらいかなぁ〜まぁよろしくね♪
186第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 16:51:56 0
>>184
いじけるな。調べてやったぞ。
でもこれだけでは理解できないかな。
まあ、勉強しな。


「Wikipediaより

例外状態(れいがいじょうたい、Ausnahmezustand)は、一般に国家における非常事態を意
味する。ドイツのカール・シュミットは、自らの政治思想をこの語と関連づけて説明したが、
その訳語として「例外状態」という表現が用いられた。

最近では、フーコーの生政治とカール・シュミットの例外状態をもとに、ローマ時代のホモ・
サケルを現代の政治と重ね合わせて読み解く『ホモ・サケル』によって注目を浴びた。フー
コーは「近代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれに反対し、政治はその
起源から生政治であったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サ
ケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持
たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と
呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。」


187考える名無しさん:2007/08/29(水) 17:03:11 0
>>186
自爆してないか?w
それ「政治」の話じゃない?議会制民主主義批判の。
188第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/29(水) 17:06:13 0
>>186
あ、そうか!キミかしこいねw
189考える名無しさん:2007/08/29(水) 17:11:41 0
>>188
自爆。w
190純一 ◆Fn0dptrDJw :2007/08/29(水) 18:03:35 0
ぴかぁ〜はなんでこんなに偉そうなのか?
191純一 ◆QzuB1xeuck :2007/08/29(水) 19:50:22 0
新しいトリップです。
192考える名無しさん:2007/08/29(水) 22:54:48 0
さて、sageるとするか
193正常者:2007/08/30(木) 05:24:23 0
ぴかーだったのか
194考える名無しさん:2007/08/30(木) 06:48:16 O
敬う必要もないカスに何が悲しくて敬語つかわなくちゃならんのかね。
テメエこそ日本語一から学びなおせ。
思い上がりの鼻糞野郎が。
195第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/30(木) 09:01:30 O
なるほど、キミかしこいなあ。
196第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/31(金) 16:21:57 0
たとえば「透明人間になったらなにをする」というギャグがあるが、
これは、日頃、社会生活の中で押さえている「欲望」を語れ、ということの
一つのメタファーである。これに対して、女風呂に忍びこむ、好きな女性の
部屋に忍びこむ、などが典型的な回答になる。すなわち、女性の裸を
みたいという欲望があるが、社会生活の中で押し殺しているということだ。

これは、裸をみたいという本能があるわけではなく、隠されているものを
みたいという願望である。そして隠しているのは社会性である。
禁止(タブー)への欲望である。たとえば裸族においては、日常が裸であり、
そこでは女性の裸をみたいという欲望は起こらないだろう。
すなわち社会の(禁止)のあり方が欲望を生みだしているのだ。

このような欲望の対象としての裸は、社会性の禁止の位置あることで、
欲望の対象であるわけで、禁止されているものが他のものであれば、
欲望の対象はかわるだろう。

だから、人はなぜ禁止を欲望するのか、ということがより本質的な問いに
なるだろう。
197第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/08/31(金) 16:55:06 0
人が禁止を欲望するのは、それが誰も試みていないからではないだろうか。
誰もやっていないことを達成する、というのは人の願望である。
誰もやってやっていないことをやることで、自らの特別性が証明される。
この場合の自己証明は自己完結しない。他者から承認されることで得られる
充実感である。

欲望の本質は、自らの特別性を他者から承認される充実感を求めること。
最初にもどれば、好きな女性の裸をのぞくことを望むのは「誰も見ていない」ものを
みたという、自らの特別性を他者承認されるためである。このような卑近な例は、
屁理屈のようであるが、このような傾向は、処女願望という信仰としてあらわれている
だろう。

このような欲望がもつ動力は、社会そのものを動かす根源的な力である。
人々は他者承認による自己証明のために活動している。
だからといって、本当に女性の部屋を覗いて、それが自己証明のためだと
いってもその違法性は正当化できない。このレベルで善悪を問うことはできない。

しかし女性の部屋を覗くことで、本当にもとめる充実感を得ることができるのか、と
問うことができる。そしてそこへ向かうことを疎外するものはなんであるか。
人が他者承認を得るために試みることを尊重することは、一つの社会的なあり方として
正当性をもつだろう。

198考える名無しさん:2007/08/31(金) 19:48:04 O
由紀、この前は泊めてもらってありがとう。
由紀の言うとおり、主人と話し合いましたがまだ結論は出ていません。引き続き話し合っていくつもりです。由紀の幸せな家庭を見てうらやましく思いました。
由紀の旦那のあれ大きくてとても気持ちよかったです。由紀の幸せの半分でも貰えたら、、
199考える名無しさん:2007/08/31(金) 19:49:39 O
それに途中から呼んでもらった祐二、彼のテクニシャンには何回いかされたか分かりません。
私が彼のものを咥えているのに、体を回転させ私のものを舐めてくるんですもの。
それに彼の強引な突っ込みに何度失神しそうになったか分かりません。

200考える名無しさん:2007/08/31(金) 19:54:25 O
由紀と旦那さんの見ている前で、とても恥ずかしかったですが最高の夜でした。
主人と話が付かなかったら、今度は二人に生でしてもらいたいな。
そのときはよろしく。

こんなメールが私の携帯に入っていた。妻26歳とは1週間前の夜、口げんかをし妻が出て行った。
原因は、妻が子供を欲しがったことだった。結婚して2年、もうそろそろとは思っているが、私の会社があまりかんばしくなく、少し様子を観ようといったのが気に食わなかったようだ。
201考える名無しさん:2007/08/31(金) 21:47:55 0
そして、真に驚くべきは、日本の保守派の責任ある立場の人々の政治化までもが、このアメリカの
リベラル勢力の仮面をかぶったニューディーラー=グローバリストたちに、自分たち自身が戦後
ずっと育てられてきたのだという大きな事実を知らないことである。
(中略)
日本の保守派までもがなぜ、戦後、半世紀の間、アメリカのリベラル勢力に育てられなければ
ならなかったのか?ここに戦後半世紀の最大の謎がある。そして、このことが日本の最大の弱点で
ある。「どうして日本の保守が、アメリカのリベラルに育てられなければならなかったのか」と
いう謎に答えようとして、私はこの本を書いている。
(中略)
日本国内のリベラル勢力はどうせ責任感のない人だからほっておくしかない。私自身が、学生時代
からずっと反体制急進リベラル派だったから、自分の愚かだったことを含めてこのように書く。
このように書いて少しもためらわない。日本の戦後左翼やリベラル派をつくって育てたのも
マッカーサー進駐軍以来のアメリカの民主党系の連中である。ところが、日本の保守勢力を見守って、
育ててきたのもニューディーラー=初期グローバリストなのである。だから、現在、自民党と社民党
(社会党)の野合政権という奇妙な政権が続いているのだ。お願いだから、日本のリーダーたちは、
アメリカの共和党の本物の保守派の人々ともつきあってほしい。彼らから本物の保守思想とは
どんなものなのかを真剣に聞きだしてほしい。それが、ヨーロッパ近代政治思想の各流派
(ロッキアン・バーキアン・ ベンサマイト)の対立にまで行き着く事を勉強してほしい。
副島隆彦「日本の危機の本質」
202考える名無しさん:2007/08/31(金) 22:19:23 O
妻は一晩家を空けて帰ってきたが、素直にごめんと言って謝ってきた。
そんな妻が親友の由紀さんに宛てたメールが謝って送られてきたのだ。
このまま黙っておくべきか、話しをしたほうがいいのか迷っています。
203考える名無しさん:2007/09/01(土) 01:41:02 O
ネーションは国家と訳すのか、民族と訳すのか。国家は客体か、民族は主体か。経済とは何か、資本とは何か。人間とは、産業とは。
204考える名無しさん:2007/09/01(土) 10:40:42 0
>>203

       _ , ― 、
      ,−'  `      ̄ヽ_
     ,'            ヽ
    (              )    大澤スレに行けば分かるよ
    (     ノ`ー'ー'ヽ     )
    (    ノ●  ●(     )
     (   〉 -――-(      )_  _
      `ー'l  ●    (    ノ    ヽ )
       、‘ー'ー’ _ノ`ー'      |
         ̄| ̄           |
         /  /7  / ̄ ̄/   /
         `ー´ `ー ´   `―´
205第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 10:50:49 0
未開社会

・「アジア的国家」の周縁部で文明を拒否し、狩猟採集にもとづく互酬的共同体
 外の国家から孤立、狩猟採集が可能であるような自然条件
 外との交易を必要としない

・互酬を純粋に貫徹する
 共同体の定常均衡(ホメオタシス)を維持するシステム
 互酬交換の輪=外部から閉ざされた共同体
 互酬原理が首長に固定的な権力を与えない。
 富を得た者は贈与によって消費するように強いられる。

・レヴィ=ストロース 女性の互酬交換による親族構造=代数的構造
近親相姦の禁止=社会を血縁的な狭い範囲に縮めないため

原始社会

・互酬的交換だけでなく、他の交換様式を萌芽的にはらむ
206第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 10:52:13 0
国家の誕生

・国家は共同体と共同体の間に発生する
 共同体と共同体の間には互酬にもとづく規範(掟)がない。
 一つの共同体が他の諸共同体を支配し、暴力的略奪を禁じること、
 国家と法が成立することで、交換が可能になる。

・国家は共同体の中から発生するのではなく、一つの共同体が他の諸共同体を
 継続的に支配する形態

・互酬の擬制
 農業共同体からの賦役と貢納(租税)
 国家は他の国家からの略奪に対して共同体を防衛する、「公共的」事業を興す。
 共同体の間の葛藤。対立を調整、制御する。
 →国家は公共的、理性的であるという観念が生じる

・略取-再配分
 支配者と収奪される者の関係が持続的なものであるために、
 略取−再配分があたかも互酬的交換であるように表象される

・国家は他の国家(敵国)を想定する
 外の国家に対して周辺の共同体が防衛、支配からの独立しようと形成される。

・支配者の共同体/被支配者の共同体
共同体の互酬原理は存続する
207第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 10:54:29 0
中核(中央集権的帝国) エジプト、インド、中国

亜周辺
 古典古代的都市国家 ギリシア・ローマ → 東ローマ帝国(アジア的国家)
 封建制 西ヨーロッパ、日本 → 絶対主義国家
208第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 10:56:09 0
・封建制
主君と家臣の双務的な契約関係(互酬原理)
主君の絶対権力や集権的な中心化を許さない
王も諸侯から際立った存在ではありえず、
王や諸侯達の戦争による分散化・多中心化が統一的な国家の形成を妨げた

農奴制・・・農奴は実質的に土地を私有

・自由都市
東ヨーロッパ帝国=自由都市は発展しない
西ヨーロッパの封建制=帝国の集権性の弱さから自由都市が可能
小国家(封建国家)が分立、皇帝は名目的

自由都市の成立によって商工業者はブルジョアとしてあらわれる
三千以上の自由都市が成立
宗教改革、ブルジョア革命、パリコミューンにつながる

自由都市は商品交換の原理の上に形成された共同体
209第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 11:06:36 0
・西ヨーロッパの封建制で商業が発展したが、
 商業は見下されていた
・都市の自立とは、国家や教会の権力とは異質な力が自立した。
 共同体や国家を超えた通用する貨幣の力
 それが拡大してくるにつれて、封建制は崩壊する。
 その結果、絶対主義王権国家。

・王が同格で並んで多数の封建的諸侯を制圧し集権的な体制を築く
 都市ブルジョアジーと結託し、封建的諸特権を廃棄する。
 商品交換=貨幣経済の原理が国家によって承認された。
 「経済」の自律性が認められた。 
 西ヨーロッパにおいて、常備軍と官僚・警察機構とそなえた強力な国家が成立した
 国家と資本の相互依存的な接合
210第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/01(土) 11:07:16 0
(以上 柄谷行人「世界共和国へ」)
211考える名無しさん:2007/09/01(土) 11:20:17 0
コピペ乙。

現代社会において「互酬」を社会システム化するなら「共産主義」みたいな形になるのか。
212447:2007/09/01(土) 12:49:13 0
並兵って、普段はなにしてるの?
学生?
213考える名無しさん:2007/09/01(土) 14:45:48 O
資本の欺瞞を暴くのは哲学の仕事ではないのか。
214Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/09/01(土) 21:06:52 0
>>212
役立たずのニートだよ。

ついでに貼っておくけど、これ、既に有名?
歌うまいよなあ。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm697393
215Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/09/01(土) 21:09:37 0
「あの日便所で虫を食った昼を」って、なんだよw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm698630

歌がうまいだけじゃなくて、歌詞も感覚的に凄い。
とりわけ「こらえきれずに親も泣いた」って箇所。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm391164
216ネコの味方:2007/09/01(土) 21:21:35 0
>>214
あなたは、アユのファンなの? ちょっと、がっかり。w


217第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:09:04 0
絶対主義国家の誕生
 絶対主義王権国家
  王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧し、また教会の支配権を奪うことで成立する。

 破壊力をもった火器の発明
  火器は旧来の戦力を無効にし、貴族=戦士の身分を無意味にした。
  国家が暴力の独占に存する
  官僚組織と常備軍の形成(すでにアジア的官僚専制国家で実現されていた)

 商品経済の浸透
 王は都市の商工業者と結託し、封建諸侯の地租、諸権利を廃止し、地租を独占し、
 さらに、関税や所得税を得るために、貿易を推進した。
 絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる

 商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ることはできない
218第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:11:05 0
世界帝国から世界経済へ

 「近代世界システム」
  世界経済の下に形成される主権国家と資本主義的市場経済という、政治−経済的なシステム
  かつて西アジア世界的耕の亜周辺としてあったヨーロッパが中心となるとともに、
  旧来の中心部が周辺と化した

 主権国家
  西ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権者)の誕生
  主権は1国だけでは存在しない、他の国家の承認によって存在する
  帝国や部族国家は主権国家として再組織する
  世界的に主権国家を生み出す

 資本主義的市場経済
  資本主義的市場経済も1国だけで考えることはできない
  いったん世界市場=世界経済が成立すると誰も外部にあることはできない
  西ヨーロッパの一部において生じた事態(産業資本主義)がその他の世界帝国におよぶ
219第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:16:16 0
消費社会の出現
  個別資本が利潤を確保しようとすればするほど、総体として不況が悪化する
  1930年代の大不況(デフレ)において、資本総体はこのような傾向を逆転させる。
 ファーディズム・・・高賃金によって、耐久消費財(車と電気器具)の大量生産と大量消費を
 実現し、不況を脱出しようとした。

 自己再生的(オートポイエーシス的)
  産業資本主義の画期性は、労働力という商品を生産した商品を、労働者が労働力商品を
  再生産するために買うという、自己再生的なシステムを形成した。
  商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹するものとなりえた

  資本制経済は技術革新−労働生産性の向上という差異化なしには存続することはできません。
220第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:17:09 0
資本の限界

  労働力の商品化には、土地の商品化、私有化が先行しなければならない
  農民を生産手段(土地)から引きはがす過程が資本主義にとって不可欠な前史である。
  農民、職人は共同体に属して、資本制的な賃労働を嫌う。
  産業プロレタリアは互酬的な共同体の原理をもたない人々

  産業資本は本来商品にならない二つのものが商品になったときに成立した。
  労働力と土地は資本が自ら作り得ないもの。
  この商品こそ資本の限界として、内在的な危機をもたらす。
  資本にとって思い通りにならない労働力の過剰、不足が景気循環を不可避的なものとする。

  労働商品としての人間は、家庭、共同体、民族など互酬的関係から切断される。
  人はそれをナショナリズム、宗教として取り返そうとする。

  自然を商品化し、再生的なエコシステムを破壊する。
  資本はその運動をとめることはできない。
221第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:19:19 0
国家と暴力

 国家は政府と別のものであり、国民の意思から独立した意志を持っている。

 絶対主義王権 明かな略取−再配分
 市民革命以後の国家 国家は国民によって選ばれた政府と同じにみなされる。
 国民が義務として自発的に納税し再配分するから

 資本家は存在しない、国家の主権者は存在しない。
  資本が存在するという意味で、国家は存在する。
  株主が経営者を解任したり企業を買収するとき、資本があらわれる。
  戦争において、国家があらわれる。

 国家=警察=暴力
  絶対主義王権が市民革命で廃棄されたあと、国民主義のもと
  国家はそれ自身のために存続しようとする。

 国家の自立性を端的に示すのは、軍・官僚機構という「実体」です。
222第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:20:46 0
剰余価値
 産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すという広義の
 「流通過程」から、剰余価値を得る
 資本が得る剰余価値は、労働力商品の価値と、労働者が生産した生産物の価値の差額にある
 産業資本の剰余価値は労働者を奴隷的に働かせることによって得られるようなものではない。
 あくまで労働者が作ったものを買い戻す

産業資本の剰余価値=相対的剰余価値
 技術革新によって労働生産性を上げ、労働者に支払われた労働力の価値以上の価値を
 実現する。
 相対的剰余価値は労働者を直接的に搾取するものではなくて、総体として労働者が
 自らの作ったものを買い戻すという過程を通して得られる

技術革新
 商品資本は、空間的に価値体系の差異から剰余価値を得るのに対して、
 産業資本は技術革新や新商品開発を通じて、価値体系を時間的に差異化することでえる。
 そのためのたえまなく技術革新を行うことを強いられる。

 人類史上、産業資本主義以後ほど、技術革新が加速された時代はない
 産業資本は世界を文明化するためにではなく、自らが存続するためにこそ技術革新を運命づけられている
223第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 03:22:01 0
(以上 柄谷行人「世界共和国へ」)
224ぷりん:2007/09/02(日) 03:31:08 0
ありがとうございます
225第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:52:42 0
■「世界共和国へ」 柄谷行人

@未開社会

原始社会と未開社会は異なる。原始社会は国家の前段階の共同体であるが、未開社会
は、国家の周縁部に位置し、文明を拒否する共同体である。未開社会が可能になるため
には、国家から地理的に十分に孤立し、狩猟採集によって生活できる自然条件が必要で
ある。

外部と遮断された条件の上で、互酬によって共同体の定常均衡(ホメオタシス)を維持する
システム。レヴィ=ストロースの親族の構造・・・女性の互酬交換による代数的構造。近親相
姦の禁止=社会を血縁的な狭い範囲に縮めないため

A国家の誕生

原始社会は、互酬的交換だけでなく、他の交換様式を萌芽的にはらむ。このような共同体
と共同体の間には互酬にもとづく規範(掟)がない。このために一つの共同体が他の諸共
同体を支配し、暴力的略奪を禁じることで、国家と法が成立する。さらにここに商品交換が
可能になる。

国家では、農業共同体からの賦役と貢納(租税)、他の国家からの略奪に対して共同体を
防衛する、「公共的」事業を興すなどによって、共同体の間を調整、制御する。このような略
取−再配分があたかも互酬的交換であるように表象されること(互酬の擬制)によって、国
家は公共的、理性的であるという観念が生じ、一つの共同体が他の諸共同体を継続的に
支配する形態が生まれる。

国家は他の国家(敵国)を想定し、外の国家に対して周辺の共同体が防衛、支配からの独
立しようと形成される。
226第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:53:19 0
B中核と周辺

アジア的な国家(東洋的専制国家)は、専制的な公的と官僚機構・常備軍の存在によって、
支配者の共同体は消える。そのために中央集権化が可能になり、支配者(国家)は共同体
全体を上から支配する。その最上位にエジプト、メソポタミア、中国のような帝国がある。周
辺国家を支配下におき、人を統御する技術(文字言語、宗教、通信網)をもつ。

帝国では中核と周辺の関係が生まれる。「アジア的国家」、中央集権的帝国を中核として、
亜周辺に古典古代的都市国家、ギリシア・ローマは位置する。これら都市国家は東ローマ
帝国となる。また中核として、西ヨーロッパ、日本に封建制が生まれる。

亜周辺の封建制では、王も諸侯から際立った存在ではありえず、主君の絶対権力や集権
的な中心化を許さない。主君と家臣の双務的な契約関係(互酬原理)であり、王や諸侯達
の戦争による分散化・多中心化が統一的な国家の形成を妨げた。

東ヨーロッパ帝国の亜周辺である、西ヨーロッパに封建制が生まれ、小国家(封建国家)が
分立、皇帝は名目的となり、三千以上の自由都市が成立した。自由都市は商品交換の原
理の上に形成された共同体であり、共同体や国家や教会を超えた通用する貨幣の力に
よって自立し、商工業者はブルジョアとしてあらわれる。のちに宗教改革、ブルジョア革命、
パリコミューンにまでつながる。
227第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:54:41 0
C絶対主義国家の誕生

絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧し、また
教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもった火器の発明と
商品経済の浸透である。

火器は旧来の戦力を無効にし、貴族=戦士の身分を無意味にした。官僚組織と常備軍の
形成(すでにアジア的官僚専制国家で実現されていた)によって、国家が暴力の独占に存
する。

王は都市の商工業者と結託し、封建諸侯の地租、諸権利を廃止し、地租を独占し、さらに、
関税や所得税を得るために、貿易を推進した。商業や交易は帝国によって管理独占され、
商品交換は他の交換様式を上回ることはできないかったが、絶対主義王権は商品交換の
原理を全面的に受け入れる。

D国家と暴力

絶対主義王権国家は、明かな略取−再配分をもっていいたが、市民革命以後の国家で
は、国民が義務として自発的に納税し再配分するため、国家は国民によって選ばれた政府
と同じにみなされる。しかし国家は政府と別のものであり、国民の意思から独立した意志を
持っている。株主が経営者を解任したり企業を買収するとき、資本があらわれるように、国
家は戦争においてあらわれる。国家の自立性を端的に示すのは、軍・官僚機構という「実
体」であり、国家=警察=暴力である。国民主義のもと国家はそれ自身のために存続しよ
うとする。
228第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:55:29 0
Eネーションの誕生

世界帝国では多数の民族がいても民族対立は生じなかった。帝国は政治的弱かった。各
地で、王・封建諸侯、教会などが並び立つ形で争っていた。世界帝国は支配下にある多数
の部族的な国家・共同体に干渉することなく全体を統治する。

絶対主義国家はその内部に、その相対化するような権力や各種の共同体を認めない。す
べての者を「臣下」にする。さまざまな身分や集団に属していた人たちが、絶対的主権への
臣下として、同一化(均質化)される。ここにネーションの基盤の基盤が生まれる。

身分・部族・共同体・言語によって分かれていた人々が、その差異をこえた同一性をもつの
は、絶対的な主権者の臣下となるとき、このような暴力的過程をへることでネーションとして
の同一性をもつ。

人民が王政から主権と取り直しのではなく、人民は絶対的集権者の臣下として形成され
た。さまざまな身分や集団に属していた人たちが、主権者の下で臣下として同一の地位に
おかれて人民になった。

ネーション=ステート(国民国家)は近代の主権国家と資本主義が、旧来の世界帝国を解
体していく過程で、不可避的に生じた。近代の主権国家と資本主義は、各地で旧来の世界
帝国を解体するとともに、その下に存在した多数の共同体(藩、部族、親族、カトリック・ユ
ダヤ教・イスラム教などに見られる宗教共同体)を解体していった。
229第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:56:13 0
Fネーションの想像的回復

ネーションは、市民革命によって絶対的主権者が倒され、個々人が「自由と平等」を獲得す
るときに成立する。

「想像の共同体」ベネディクト・アンダーソン。18世紀西洋におけるネーションの発生。啓蒙
主義、合理主義的世界観の支配の中で宗教的思考様式が衰退したところ、ネーションは宗
教にかわって、個々人に不死性・永遠性を与え、その存在に意味を与える。ネーションは、
商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復する。ネーションは、
資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消される互酬
的な共同体である。

G土地、労働

農民、職人は共同体に属して、資本制的な賃労働を嫌うのに対して、産業プロレタリアは
互酬的な共同体の原理をもたない人々である。産業資本は本来商品にならない二つのも
のが商品になったときに成立した。労働力の商品化には、土地の商品化、私有化が先行し
なければならない。農民を生産手段(土地)から引きはがす過程が資本主義にとって不可
欠な前史である。

貨幣の魔術・・商品の価値は、他の商品の使用価値で表現される。金、銀がそこに位置す
るから貨幣であるのではなく、それらが特別だから貨幣であると考えられるようになる

貨幣を溜め込む倒錯・・・貨幣による交換は自由で対等な関係をもたらすが、貨幣と商品と
いう非対称的な関係が伴う 
230第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:56:57 0
H「近代世界システム」

主権は1国だけでは存在しない、他の国家の承認によって存在する。西ヨーロッパにおけ
る絶対主義国家(主権者)の誕生は、帝国や部族国家を主権国家として再組織し、世界的
に主権国家を生み出す。

また資本主義的市場経済も1国だけで考えることはできない。西ヨーロッパの一部におい
て生じた事態(産業資本主義)がその他の世界帝国におよぶ。いったん世界市場=世界経
済が成立すると誰も外部にあることはできない

かつて西アジア世界的耕の亜周辺としてあったヨーロッパが中心となるとともに、旧来の中
心部が周辺と化した。 世界経済の下に形成される主権国家と資本主義的市場経済とい
う、政治−経済的なシステムをウェオーラーステンは「近代世界システム」と呼んだ。
231第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:57:40 0
I産業資本主義

商品資本は、遠隔地との交易を通して、その価値体系の差異から剰余価値を得る。「世界
市場」が形成され、多数の商品資本が参入し、差異は利潤を生まなくなった。

マニュファクチュアは、自然的な差異でなく、積極的に価値体系の差異を作り出す。分業と
協業(労働の分割と結合)によって、生産力を飛躍的に上昇させる。自ら生産を組織し、よ
り安くより多く商品を生産することで、国際的競争に勝たなければならない。マニュファク
チュアは重商主義として、基本的に絶対主義国家による国家と商品資本の提携が行われる。

交換による差額で儲けるより、略取によるほうがてっとり早いため、世界中の資源(金・銀・
その他)を略奪し、各地の部族的共同体を支配する植民地主義をもたらし、帝国主義の始
まりである。

商品資本が外国(遠隔地)に向かっていたのに対して、産業資本は国内に遠隔地=
生産=消費するプロレタリアを見つけた。商人資本は、王や封建諸侯への奢侈品を扱う。
それに対して、産業資本の生産物は生活必需品であり、それを買うのはそれを生産するプ
ロレタリア自身である。

プロレタリアートは、生産手段をもたず労働力以外に売るものをもたない。労働力を売って
得た賃金で生産物を買う消費者である。産業資本はそのようなプロレタリアを搾取すること
によって剰余価値を得る。産業資本が優位に立つとともに、商品資本はたんに産業資本の
一端を担う商業資本に転落する。
232第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 21:58:15 0
J消費社会の出現

個別資本が利潤を確保しようとすればするほど、総体として不況が悪化する。1930年代
の大不況(デフレ)において、資本総体はこのような傾向を逆転させる。高賃金によって、耐
久消費財(車と電気器具)の大量生産(ファーディズム)と大量消費を実現し、不況を脱出し
ようとした。

産業資本主義の画期性は、労働力という商品を生産した商品を、労働者が労働力商品を
再生産するために買うという、自己再生的(オートポイエーシス的)なシステムを形成した。
商品交換の原理が全社会・全世界を貫徹するものとなりえた

産業資本主義が粗野な段階になり、奴隷制や農奴制の変形に見える時期は、それに対す
る闘争が生産点で起こったが、消費社会になると旧来の階級闘争は無効になる。資本制
の発展とともに、資本と経営の分離がおこり、資本家はたんなる株主として生産点から離
れ、経営において官僚制が採用される。経営者と労働者の関係は身体的階級ではなく、経
営者と労働者の利害は一致する。また労働者は資本に資本に従属的であるが、労働者は
流通過程において、消費者としてあらわれ、資本に優越する立場に立つ。
233第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 22:01:25 0
K産業資本の技術革新

商品資本は、空間的に価値体系の差異から剰余価値を得るのに対して、産業資本は技術
革新や新商品開発を通じて、価値体系を時間的に差異化することでえる。技術革新によっ
て労働生産性を上げ、労働者に支払われた労働力の価値以上の価値を実現する(相対的
剰余価値)。

そのためのたえまなく技術革新を行うことを強いられる。人類史上、産業資本主義以後ほ
ど、技術革新が加速された時代はない。産業資本は世界を文明化するためにではなく、自
らが存続するためにこそ技術革新を運命づけられている

L資本の限界

人類の課題、人間と自然の関係、人間と人間の関係=1戦争、2環境破壊、3経済的格
差。これらは国家と資本の問題であり、国家と資本を統御しなければ、破局への道をたどる。

労働力と土地は資本が自ら作り得ないもの。この商品こそ資本の限界として、内在的な危
機をもたらす。資本にとって思い通りにならない労働力の過剰、不足が景気循環を不可避
的なものとする。

資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと国家は消失しない。商品交換の原理と別の
原理にたっている。イギリスの「自由主義的帝国主義」を支えるのは、強大な軍事力であり
世界最大の課税だった。それは今日のアメリカの「ネオリベラリズム」も同じ。

労働商品としての人間は、家庭、共同体、民族など互酬的関係から切断される。人はそれ
をナショナリズム、宗教として取り返そうとする。

自然を商品化し、再生的なエコシステムを破壊する。資本はその運動をとめることはできない。
234Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2007/09/02(日) 22:04:02 0
>>216
別に、あゆのファンじゃないぞ。もう一度、よく聞けよ。
まさか、本人が歌ってるとか思ってないよね?

あの日便所で虫を食った昼をw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm698630

こらえきれずに親も泣いたw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm391164
235第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/02(日) 23:46:28 0
人の関係の基本には「公平感」がある。多くを得た者はその負債感、
すなわち公平からの差異、を解消しようとする。公平感は平等とは異なる。
公平感は「内部」を形成する。

未開社会では共同体そのものが内部となり、公平感は互酬的な象徴関係へと
構造化される。現代のような流動性の高い社会では、内部は固定されない。
家族であったり、友人関係であったり、企業であったり、国民(ネーション)で
あったりする。流動性が高い中で秩序を維持するために、国家権力が行使される。
このような制度として公平感を満たすものが平等である。

国家権力による平等によるシステムの一つが、商品交換である。大きく希薄された
内部を貨幣システムによって、人々を平等にする。

現代から考えると、封建社会は階級による不公平な社会であるようが、
そこには公平感があった。役割でが固定されることで、役割間は
略取−再配分という、疑似的な互酬性が形成されていた。
現代でも税金を払い、秩序を維持してもらうということで、公平感は保たれる。
236第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 00:11:23 0
商品交換の平等とともに、資本主義では競争機会の平等を保証する。
あるいは社会主義では分配の平等を保証する。
237第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 01:38:55 0
100人の共同体に公平感を与える方法は
1万人の共同体に公平感を与える方法は
1億人の共同体に公平感を与える方法は
100億人の共同体に公平感を与える方法は
238考える名無しさん:2007/09/03(月) 05:34:35 O
いいね 毎日楽しそうで
いらんことあれこれ考えられて
239考える名無しさん:2007/09/03(月) 06:32:57 0
>>237

その同じような文章の羅列は
機械的唯物論者にそっくり。
バレバレの自演。
240第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 14:18:08 0
3-43
■公平(感)と平等(制)

人の関係の基本としての「公平感」

人の関係の基本には「公平感」がある。多くを得た者はその負債感、すなわち公平からの差
異、を解消しようとする。公平感が平等とは異なるのは、「内部」を形成する力であることだ。

未開社会では共同体そのものが内部となり、公平感は互酬的な象徴関係へと構造化される。
また現代から考えると、封建社会は階級による不公平な社会であるようが、そこには公平感が
あった。役割でが固定されることで、役割間は略取−再配分という、疑似的な互酬性が形成さ
れていた。現代でも税金を払い、秩序を維持してもらうということで、公平感は保たれる。

このように公平感を記述すると、平和主義のようであるが、公平感が「内部」を形成する力であ
るとき、これはまた外部を排除する力として働く。だから公平感にはたえず、戦争が起こる。未
開社会では、外部を徹底的は排除することで強い内部を形成する。封建社会も共同体の外部
としての他の共同体があるから、内部は結束を強く、疑似的な互酬制が維持されたと考えるこ
とができる。
241第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 14:19:22 0
公平感を保つための平等システム

現代のような流動性の高い社会では、内部/外部は固定されない。家族であったり、友人関
係であったり、企業であったり、国民(ネーション)であったりする。流動性が高い中で秩序を維
持するために、国家権力が行使される。このようなに公平感の力学が作動しにくい範囲におい
て、公平感を満たすための制度が平等である。さらに国家権力による平等によるシステムの
一つが、商品交換である。大きく希薄された内部で貨幣の前では(お金を持っていれば)、誰も
が平等に扱われる。

現代において、国家という制度内で、いかに公平感を保つかが問題になる。資本主義のように
競争機会の平等を保証するか、あるいは社会主義のように分配の平等までを保証するか。競
争の機会の平等では、勝ち負けの格差が生じる。分配まで平等にすることは自由が制限される。
242第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 16:36:23 0
>>
〔大前研一「ニュースの視点」〕
20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象

日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、
30代530人)を対象に実施したアンケート調査の結果、
車を買わず、酒もあまり飲まない一方、
休日は自宅で過ごし、無駄な支出を嫌い、
貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい
暮らしぶりが浮き彫りになりました。
http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/912.php
<<

車を持つということはとても社会的な行為である。
運転には交通マナーを守らなければならない。
自転車や歩行に比べて、当然だが規律が多い。
それは法令だけでなく、譲り合いなどのマナーを守ることが
命に関わる。さらに、維持にはお金と労力がかかる。

いままでの文化でいえば、車を持つことが始めの独り立ちだった。
車−彼女−結婚−子供−マイホーム・・・という高度成長的なアットホームな
夢が描かれていた。
車は、小さな城であり、そこに女性を乗せることで、前家庭的である。
ヤンキーが車、女、早期結婚、子持ちを歩むのはこのようなことも
影響するのではないだろうか。
彼らは、反社会的に見えても、とても社会的な存在なのだろう。

車への所有欲の低下は、このような車をまつわる社会性からの退避では
ないだろうか。「ひきこもりながら」生きるには、やや(責任が)重たい。

日本がの産業を車産業が引っ張ってきたことを考えると、
このことはとても象徴的な出来事であるように思う。
243第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 17:04:08 O
資本主義社会はブレーキの壊れた車でたとえられる。坂を加速し衝突するまでとまることができない。

労働により生産し消費するということ猛進する。この動力はかつて資本家の欲望により説明されたが
いまは消費への欲望により説明されるだろう。大量生産は大量消費がなければまわらない。
それ以降、いかに買わせるかが重要になる。きらびやかなショーウインドウはまるで特別な貴族のように消費者を持ち上げる。
それはお金があればなんでも買えることである。
244第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 17:09:09 O
消費の快楽が資本主義を暴走させる。しかしこれは必ずしも所有欲ではなく特別でありたい承認欲により競争だろう。
だから終わりなく欲望される。
ではこのような消費以外に承認が満たされた場合に消費は原則するだろうか。
245第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/03(月) 17:37:33 0
しかしこのような消費の抑制の問題はすぐにわかる。
消費の冷え込みは、経済を停滞させて、大量の倒産、
失業者を生むことになる。

もう一つの問題は経済が国内に閉じていないということだ。
世界市場では、必ずしも消費と生産性の抑制に
同調しないだろう。世界には貧困の差があり、
日本は強い位置にいる。日本経済の競争力の低下は、
国家間の駆け引きの中で、日本に不利に働くだろう。

246考える名無しさん:2007/09/03(月) 19:39:59 O
なんか役にたつのコレ
247考える名無しさん:2007/09/03(月) 19:57:29 O
>>246
何の役にも立たないよ。
248考える名無しさん:2007/09/03(月) 19:58:47 0
>>247
ソレ言っチャオシマイヨ
249考える名無しさん:2007/09/03(月) 20:03:36 O
革命
250考える名無しさん:2007/09/03(月) 20:09:36 O
じゃなんのために書き散らしてんの?虚しくならないのかな?
251考える名無しさん:2007/09/03(月) 20:12:57 O
最近そればっかりだな
252第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/04(火) 01:01:10 0
3-44
■若者の所有欲の減退と日本経済の衰退

若者の所有欲の減退

>>
〔大前研一「ニュースの視点」〕
20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象

日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、30代530人)を対象に実
施したアンケート調査の結果、車を買わず、酒もあまり飲まない一方、休日は自宅で過ご
し、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい暮らしぶりが浮
き彫りになりました。

http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/912.php
<<

車を持つということはとても社会的な行為である。運転には交通マナーを守らなければなら
ない。自転車や歩行に比べて、当然だが規律が多い。それは法令だけでなく、譲り合いな
どのマナーを守ることが命に関わる。さらに、維持にはお金と労力がかかる。

いままでの文化でいえば、車を持つことが始めの独り立ちだった。車−彼女−結婚−子供
−マイホーム・・・という高度成長的なアットホームな夢が描かれていた。車は、小さな城で
あり、そこに女性を乗せることで、前家庭的である。ヤンキーが車、女、早期結婚、子持ち
を歩むのはこのようなことも影響するのではないだろうか。彼らは、反社会的に見えても、と
ても社会的な存在なのだろう。

車への所有欲の低下は、このような車をまつわる社会性からの退避ではないだろうか。
「ひきこもりながら」生きるには、やや(責任が)重たい。日本がの産業を車産業が引っ張っ
てきたことを考えると、このことはとても象徴的な出来事であるように思う。
253第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/04(火) 01:02:38 0
資本主義社会はブレーキの壊れた車

資本主義社会はブレーキの壊れた車でたとえられる。坂を加速し衝突するまでとまること
ができない。労働により生産し消費するということ猛進する。この動力はかつて資本家の欲
望により説明されたが、いまは消費への欲望により説明されるだろう。大量生産は大量消
費がなければまわらない。それ以降、いかに買わせるかが重要になる。きらびやかな
ショーウインドウはまるで特別な貴族のように消費者を持ち上げる。それはお金があれば
なんでも買えることである。

消費の快楽が資本主義を暴走させる。しかしこれは必ずしも所有欲ではなく特別でありた
い承認欲により競争だろう。だから終わりなく欲望される。ではこのような消費以外に承認
が満たされた場合に消費は減速するだろうか。

しかしこのような消費の抑制の問題はすぐにわかる。消費の冷え込みは、経済を停滞させ
て、大量の倒産、失業者を生むことになる。もう一つの問題は経済が国内に閉じていないと
いうことだ。世界市場では、必ずしも消費と生産性の抑制に同調しないだろう。世界には貧
困の差があり、日本は強い位置にいる。日本経済の競争力の低下は、国家間の駆け引き
の中で、日本に不利に働くだろう。
254第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/04(火) 02:02:19 0
ネット上の不思議は、人々は積極的に贈与、返礼をすることで、様々な交換が貨幣を
介さずに行われることだけでなく、それに違和感を感じないことである。
ネット上の商品がただで交換されるのは、情報処理能力の向上で、情報商品の
製造コストが下がったこと、コピーすることが容易であることに求められるが、

そもそもにおいて、ボクたちは仲間内の交換に貨幣を用いることは少ない。
本質的に親密か関係では、貨幣は必要とされない。貨幣交換は
切断された人間関係において用いられる。関係をその場限りの切断されたものとする。

交換の本質は互酬(贈与、返礼)にあることを考えれば、ネット上の互酬的な交換関係を
違和感なく、行われることは、なにも不思議なことではない。
むしろ浮き彫りにされるのは、当たり前であった貨幣交換の特殊性である。
255第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/04(火) 02:05:24 0
互酬交換は、相手が誰であるか、によって行われる。
貨幣交換は、誰でもないその場限りの関係で行われる。
256考える名無しさん:2007/09/04(火) 02:43:44 O
ほう。なかなかエロチックなことを。
257考える名無しさん:2007/09/04(火) 03:21:34 0
残存生命というブログを一気に読み通した。文章の出来や思考の幼さも目には付いたが
そんなことはどうでもいいわけだ。しかし、毎回といっていいほど記事のコメント欄には、
それを読んでいる第三者である私をも不快にさせるような書き込みがされている。
20ページほどか、読み終えたところでブログの表紙に戻ってみる。ブログ主は随分前に
死んでしまったようだ。遺書とも言われる最後の記事にも沢山のコメントが付いていた。
まるで昨日今日起きた騒ぎかのような時間の慌ただしさを、それから2年経った今でも残している。
コメントは徐々に、前に見たような不快なものへと変化していく。やはり腐臭は嗅ぎつけられるのか。
命亡き者へすがりながらも毒を吐かずにはいられないほどの心境は、私にはわからない。
おそらく不幸は居心地が良い。偶然にも不幸を知らない私には、何か言葉に出来ない、
誰に宛てるでもない気持ちが込み上がる。解決だろう。何の役にも立たないありのままの気持ちだ。
出来ることは何もない。おもむろにこの思念をぴかぁ〜のスレに置いていくこととする。
258第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/04(火) 16:57:26 0
■ネット上の互酬的交換

ネット上の不思議は、人々は積極的に贈与、返礼をすることで、様々な交換が貨幣を介さ
ずに行われることだ。たとえばこの理由として、ネット上の商品がただで交換されるのは、
情報交換、処理能力の向上で、情報商品の製造コストが下がったこと、コピーすることが容
易であることが上げられる。ネット上で貨幣交換に値するだけの価値を保つ商品は難しい、
ということだ。

しかしほんとうに不思議であるのは、互酬制がなにも違和感なく行われていることではない
だろうか。そもそもにおいて、ボクたちの身の回りには互酬的交換が溢れている。たとえば
家族や仲間内などの交換で貨幣を用いることは少ない。マルクスが指摘したように、貨幣
交換という様式は、共同体と共同体の間で起こる特殊なものといえる。

これらの違いをいえば、互酬的交換は、相手が誰であるか、によって行われるのに対して、
貨幣交換は、誰でもない関係で行われ、関係をその場限りの切断されたものとする。これ
は流動性の高い社会では、日々見知らぬ人と関係する中では、有用であるが、本来の人
間関係ということでは特別なものであるといえる。

ネットがコミュニケーションそのものが目的化される、すなわち一時でもその他者との関係
性を構築しようとすることから、匿名の日々見知らぬ人であっても、ネット上の互酬的な交
換関係が違和感なく行われることは、なにも不思議なことではないだろう。
259考える名無しさん:2007/09/04(火) 20:11:27 O
同じじネタばっかぢゃネ
少しはテメエで飽きろよ
単細胞
260考える名無しさん:2007/09/04(火) 20:15:29 0
波さん、吉沢英成の『貨幣と象徴』を読むとさらにあなたの知見が増すと
おもいますです。。
261第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 00:01:36 0
面白そうですが、廃盤になっていますね。

>貨幣は交換の手段として不可欠なだけでなく、それが流通することによって、
>経済生活は組織され、体系化されている。それはまた、商品として扱われる
>こともある。心間社会の中で、貨幣はどのような位置を占めてきたのだろうか。
>貨幣を価値に関わる集合表象として考え、心類学や社会学の成果を援用する
>ことによってその原型を古代社会に求め、貨幣の実体と役割の根源に迫る。

吉沢英成って、ポラニーの「大転換」の訳者なんですね。
ポランニーの貨幣論は今ひとつだったような・・・
262第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 00:14:56 0
若者の所有欲の減退

>>
〔大前研一「ニュースの視点」〕
20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象

日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、30代530人)を対象に実
施したアンケート調査の結果、車を買わず、酒もあまり飲まない一方、休日は自宅で過ご
し、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい暮らしぶりが浮
き彫りになりました。

http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/912.php
<<

車を持つということはとても社会的な行為である。運転には交通マナーを守らなければなら
ない。自転車や歩行に比べて、当然だが規律が多い。それは法令だけでなく、譲り合いな
どのマナーを守ることが命に関わる。さらに、維持にはお金と労力がかかる。

いままでの文化でいえば、車を持つことが始めの独り立ちだった。車−彼女−結婚−子供
−マイホーム・・・という高度成長的なアットホームな夢が描かれていた。車は、小さな城で
あり、そこに女性を乗せることで、前家庭的である。ヤンキーが車、女、早期結婚、子持ち
を歩むのはこのようなことも影響するのではないだろうか。彼らは、反社会的に見えても、と
ても社会的な存在なのだろう。

車への所有欲の低下は、このような車をまつわる社会性からの退避ではないだろうか。
「ひきこもりながら」生きるには、やや(責任が)重たい。日本がの産業を車産業が引っ張っ
てきたことを考えると、このことはとても象徴的な出来事であるように思う。
263第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 00:40:10 0
3-44改
■なぜ若者は車を買わないのか

ほんとうに若者の所有欲が減退しているのだろうか

>>
20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象


日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(20代1207人、30代530人)を対象に実
施したアンケート調査の結果、車を買わず、酒もあまり飲まない一方、休日は自宅で過ご
し、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい暮らしぶりが浮
き彫りになりました。

〔大前研一「ニュースの視点」〕 http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/912.php
<<

これは、ほんとうに若者の所有欲が減退しているということだろうか。自らがはまる対象へ
はいまもお金を払っているのではないだろうか。では、車を買わず、酒もあまり飲まないと
はなにを表すのだろうか。
264第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 00:41:04 0
資本主義社会は「ひきこもりながら」生きることがめざす 

ボクは現代人の傾向、動物化した主体のキーワードは、「ひきこもる」という行為にある。そ
して「ひきこもりながら」の行為を可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義シス
テムによっている、といった。

>>
消費により承認される動物化した主体は、商品の激しい変容に対して、「他者」を見失わな
いように、いまなにが人気であるか、たえずアクセスしつづけなければならない強迫状態に
おかれる。しかし実質的には現前の他者とコミュニケートする必要がなく、自己充足し、社
会から退却しているようにみえるだろう。

だから「ひきこもる」という行為は動物化した主体のキーワードになる。これは家からでら
れない俗に言う「引きこもり」よりももっと広義な意味である。たとえば恋人でもセフレでもよ
いが、「ふたりぼっち」で「ひきこもる」、あるいは、まさに「引きこもり」や独身女性の「パラサ
イトシングル」のように、家族というカプセルに「ひきこもる」。

たとえば以前の男性と女性がつきあう場合には、家族や友人などへの社会的関係、責任
がついてきたのに対して、「ひきこもる」という行為は、このような責任を問うような「現前の
他者」は煩わしく、恐怖であるというように回避される。

・・・様々な行為を「ひきこもりながら」可能にするのは、「なんでもお金で買える」資本主義
システムによっているのである。いかに社会的な責任を回避しながら、「ひきこもりながら」
安定した収入をえるか。それがまさに、動物化した主体にとっての今後のもっとも大きな課
題であるとともに、資本主義が発展するために乗りこえなければならない最大の課題であ
るだろう。


なぜ資本主義社会では「ひきこもりながら」生きることがめざされるのか 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070830
<<
265第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 00:42:42 0
車の所有はやや(責任が)重たい


車を持つということはとても社会的な行為である。運転には交通マナーを守らなければなら
ない。自転車や歩行に比べて、当然だが規律が多い。それは法令だけでなく、譲り合いな
どのマナーを守ることが命に関わる。さらに、維持にはお金と労力がかかる。

いままでの文化でいえば、車を持つことが始めの独り立ちだった。車−彼女−結婚−子供
−マイホーム・・・という高度成長的なアットホームな夢が描かれていた。車は、小さな城で
あり、そこに女性を乗せることで、前家庭的である。ヤンキーが車、女、早期結婚、子持ち
を歩むのはこのようなことも影響するのではないだろうか。彼らは、反社会的に見えても、と
ても社会的な存在なのだろう。

車への所有欲の低下は、このような車をまつわる社会性からの退避ではないだろうか。「ひき
こもりながら」生きるには、やや(責任が)重たい。しかし日本の産業を車産業が引っ張ってき
たことを考えると、日本経済にとってこのことはとても象徴的な出来事であるように思う。(終)
266第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 23:14:57 0
>>
ムーアの法則によって1960年代から今日まで計算能力の価格は1億分の1になった。
・・・こうなると工場に労働者を集めるよりも、労働者が各自で「工場」をもって生産する
方式が効率的になる。

・・・これによってITの世界では、資本家と労働者を区別している「資本」の意味がなく
なり、だれもが情報生産を行うことだできるようになった。「物質的生産の領域のかなた」
にあるサイバースペースでは「貨幣の消滅」が起こるかもしれない。貨幣を媒介にしない
で生産物を交換するオープンソースなどの「生産手段の民主化」の先には「非金銭的
経済」が出現する。・・・資本が経済システムの中心であるという意味では資本主義の
時代は、終わりつつあるのかもしれない。

池田信夫「ウェブは資本主義を越えていく」
<<
267考える名無しさん:2007/09/05(水) 23:20:44 0
          ____   
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\      
    /   ⌒(__人__)⌒ \    <知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
    |      |r┬-|    |      初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について…
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ              
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.    
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))





          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //  < ルサウンチマンだっておwwwwwwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      気の利いた洒落のつもりかよwwwwwwwwwwwwwww
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バ   ン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
268第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/05(水) 23:21:11 0
>>
商品資本は、空間的に価値体系の差異から剰余価値を得るのに対して、
産業資本は技術革新や新商品開発を通じて、価値体系を時間的に
差異化することでえる。技術革新によって労働生産性を上げ、労働者に
支払われた労働力の価値以上の価値を実現する(相対的剰余価値)。

そのためにたえまなく技術革新を行うことを強いられる。人類史上、
産業資本主義以後ほど、技術革新が加速された時代はない。産業
資本は世界を文明化するためにではなく、自らが存続するためにこそ
技術革新を運命づけられている。

「世界共和国へ」 柄谷行人
<<
269むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 00:26:14 0
やあ元気?

最近やっとマルクスに興味を持つようになったのかい?(笑)

僕が最近興味持ってるのは、ポイント貨幣だな。SuicaとかEdyとか。あれってどう思う?
あれがある臨界点を越えたときに、面白い現象が起きるんじゃないかと思うのですが。

ポイント貨幣は個々の企業が発行する債券で、大抵の場合期限が付いてますね。つまり
長期的に保持することを禁止された貨幣です。これが普及するということは何を意味する
のか、興味があるところです。
270むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 00:32:03 0
ちょっと離れた話かも知れませんが、超巨大多国籍企業というものがあります。
これは小さな国家のGDPよりも大きな経済的実態にまでなってる。つまり、国家に
属することから、企業へ属する、ある特定資本へ属することのほうが重要な時代に
なってきてるわけです。

これはどうなんだろうか。どうもさっきのポイント貨幣の話とどこかでリンクするような気が
します。これも臨界点を越えると、妙な現象が生じると思います。
271第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 09:18:51 O
あら、おひさしぶり。
スイカはすでに高い普及率ですね。
力の大小ではなく、企業に属するのと国家に属するのはそもそも意味がぜんぜん違います。
企業に属さないことはできますが国家に属さないことはできません。そして国家は一国でなく、国家網として人へ強制力がもつのです。
272第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 10:20:42 0
しかし企業は不思議です。
資本家といっても株主は流動的になっています。
経営者も入れ替え制
日本などはまだ固定的な思い入れがありますが、
流動的です。
最近、企業のDNAの継承というような言われ方がありますが、
なにによって、企業は自己同一性を維持しているのでしょうか。

企業は、お金を儲けつづけなけいれば維持できないという
資本主義の一つの機械として作動し続けますが、
それぞれの企業の自己同一性は、
言語論の固有名論に近いものがあります。
「SONY]というシニフィアンの意味シニフィエは、
様々な差異においてあらわれつつ、クリプキの「固定指示子」をもつ・・・
273第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 10:21:17 0
それに対して、国家は物質的な制約によって固定されています。
まず領地が国家を規定します。そして人。
国籍を変えることは可能ですが、それも抑制され流動性を持ちません。
さらに、国家間の差異の体系によって、世界のすべての土地と人は、
国家システムに組み込まれます。
この当たりは国家の起源を絶対主義国家で説明する柄谷の
議論につながります。

柄谷いうように、グローバル化が進んでも国家がなくならないのは、
国家はグローバル化=世界をカバーする秩序のシステム、
その秩序とは主にグローバルな経済活動(貨幣交換)を行うために
作られてものだということです。

国家間の紛争の調停は難しいのは、国連などありますが強制力がなく、
国家以上の上位の秩序を維持するシステムがないからです。
あるのは国家(国家網)です。国家が崩壊すれば、無法地帯になる。
その前に他の国家が侵略するなどで、他の国家権力が統治します。
274第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 10:30:03 0
たとえば後進国よりも超巨大多国籍企業の方が、経済的な力が
あるとしても、企業は直接、土地、人を統治できません。
国家というシステムに働きかけることで、権力を行使します。
これは重要なことです。
国家という場が維持されることで、ネーションからの権利主張もできます。

ネットは国境を簡単に超える。日本で違法であっても、サーバーが
アメリカにあることで、日本でそれを見ることができます。
しかしネットが秩序維持が難しい場であるほど、国家(の連帯)が
必要とされると言えます。
そしてネット上で情報が飛び交っても、その向こうには必ず物質制約
(土地、人)が存在します。国家はこの物質的制約に働くことで
有効性を保つのです。


275第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 10:38:53 0
企業は流動性が高いと言えますが、企業カラーをかえることは
難しいと言われます。そこにはやはり自己同一性を保とうという
力が働いているのです。
「SONY]のシニフィエはこうであるという力が、社員から、
そして社会から、固定概念として働いている。
これは国家で言えば、ネーション(ナショナリズム)に相当する
想像的な力です。
国家という世界的に差異化された象徴的な体系を維持するように
働く想像的な力。
実際、先ほどの固有名論そのもの、すべての自己同一性は
このような象徴的な体系を維持する想像的な力によって維持されて
いるといえるでしょう。
すなわち企業のDNAとは「想像の共同体」であるが、それ故に
強固であるといえます。だから企業改革はまず失敗する。
あるいは黒船、ゴーンのように外部からの暴力としてしか、
改革することはむずかしい。
276むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 10:44:00 0
そこなんですけどね。先日、日経新聞に出ていた巨大企業について語っているインタビュー記事に
「独裁を防ぐのはよく発達した組織である」といった言葉があったんですね。

国家っていうのは独裁の危険性を帯びたものです。組織っていうのは、このインタビューの話題
でもあった、企業のことです。これは独裁にはなり得ないんだと。

超巨大グローバル企業に属するっていうのは、これは国家からの強制から自由になることと
つながってるんじゃないか。実際、日本で現在起きている賃金の低下、格差の広がりというのは、
そういう社会に日本がなったとしても、日本に住むある種の人々は全く無関心でいられる。つまり
グローバルな資本に属しているからどうでもいい、と考えることが可能になっているからじゃないか。
277考える名無しさん:2007/09/06(木) 10:46:36 0
ポイント貨幣っていうのは、企業が発行する債権ですね。これがある規模以上に広がって
力を持つとどうなるか。結構面白い状況になると思います。つまり、既存の国家が発行する
債権である貨幣よりも、企業が発行する債券のほうが信用を持つという世界。
278むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 10:50:24 0
失礼、↑のは私。

僕は日本の格差問題っていうのは、そういう話だからもう全然政治力では解決不可能だと
思いますね。
279むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 10:58:08 0
>>273
> 国家間の紛争の調停は難しいのは、国連などありますが強制力がなく、

これも、今は帝国主義時代の国家VS国家という現象は実際には存在しないのです。たとえば、
アルカイダっていうのは国際テロ組織で、ビンラディンっていうのは、特定国家に属することで
大富豪なわけではないのですね。

それはアメリカ側も同じです。結局、あの戦争自体がそういうグローバルな超巨大資本に属する
人々から見れば、トータルにどうでもいいというか、それぞれの立場からの利権によって引き
起こされたものだと言える。ブッシュ一族は石油会社の人間なわけだし。

まぁ、これは昔からそうだったのかも知れませんが。
280第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 11:27:29 0
まず格差社会が生まれているのはなぜか。
ネオリベラルのいう自由競争では、「自然に」格差が生まれると考えがあります。
これはあまりに楽天的な考え方です。
実際のネオリベラルと言われるものは、自由競争といいながら、資本と国家が
共犯的に働き、格差を生みだしているのではないか。
たとえばある部分を規制緩和することも、積極的な国家戦略です。
勝つ者はより国家権力へのアクセスを容易にする。

柄谷も言うように、国家/資本は対立でなく、もともと共犯関係にあるということが
重要です。再度言えば、巨大企業が力を持ったとしても、国家権力へ働きかける
ことでしか、システムを変えることはできない。むしろ帝国主義国家とは、
そのような共犯関係によって成立していた、ということです。

日本人が勝ち組いられるのは、単にグローバルな資本に属しているだけでなく、
それを補完するように国家が機能しているからです。そして企業が発行する債券の
信用は国家によって支えられているということです。
再度言えば、ここでの国家とは、国家1国では国家は存続しない。
世界に国家のない地域はないというように、世界を分割するという国家間のシステムです。
281第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 11:33:22 0
独裁主義的な国家のイメージは古いというのは、フーコーの権力論に繋がると
思います。絶対主義、帝国主義の時代から国家権力は、独裁的な面とともに、
透明な面を持っていたということです。
282第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 11:44:29 0
貨幣交換というのはとても繊細なシステムです。
互酬が相手を見て、贈与返礼するのに対して、
ただお金を持っていると言うだけの見ず知らずの他者を
信用して、交換するわけです。

絶対主義国家が世界で略奪を繰り返したのは、
貨幣交換のようなめんどくさいことをするより、略奪する方が
簡単だけです。
貨幣交換などせずに、暴力に訴えて略取する方が良いのです。
そこに秩序を与えるのは国家権力しかありません。
その上の上位概念はないのです。

そして、現にいまも、先進国/後進国では貨幣交換をよそおう
巧妙は略取が行われているわけで、それは国家と資本の共犯に
よってです。
283第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 12:03:36 O
多国籍企業といいなからやはり権力行使にはどこかに物質的な根=国家をもたなければならないと思います。
アルカイダの根は宗教であり、物質的ではないです。これは宗教が経済を支えない、人は宗教とは別に生きる糧をえる必要がある、ために可能であるとともに
アルカイダは存在するのかという議論があります。
たとえはビートルズの登場で世界中にバンドが発生したようなものです。
アルカイダという名のみが同一性を支えている。
284第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 12:14:00 O
最近、ネットでアソシエーションが発生しているということがいわれますが、
このようなネット上の互酬により経済活動が支えられている人はほとんどいません。
生存を支えるということは重要なことです。たとえばマルクスの労働価値説が必要でない。貨幣は交換の体系により説明されるという意見があります。
最近の市場のマネーゲーム化はそれがあらわれていますが、むしろそれでも実質的な経済をささえているのは、生存のための労働に根ざしているからです。
285第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 12:22:58 O
最近、市場では資源が重要視されています。そしてグローバル化により企業を影で支える国家から、
より戦略的に全面にでてきています。資源が国家存亡にかかわる基盤だからです。
空谷は国家は戦争の時にあらわれるといいましたが、透明化し身をひそめつつ、根幹にかかわる部分ではあらわれるのです。
286第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 13:16:41 O
貧しい国の問題は、今だに中国でもありますが、等価交換が作動しにくいことがあります。
すべてに互酬が混入してきます。政治は賄賂や略取による搾取、市場も不正が横行。
コピー商品の問題もある意味で互酬的なお気楽さにあるといえます。
これはもともと社会が人間関係を重視したもの、すなわち互酬をベースにしているからです。
等価交換はとても繊細な制度すぎる、さらには知材という価値など、教育、規律など国家権力がなければさどうしません。
先進国はこれを利用します。後進国国家に贈与することで権力を操作します。
287むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 13:49:13 0
どうかな。僕は冷戦の崩壊は、ソ連を中心とした国家を軸とした経済体系の崩壊だと
思います。それ以降っていうのは、グローバルな階級対立が軸になってると思いますね。

そして、勝ち組は国家に拘らず、世界のマネーを操作してますます大きくなり、負け組は
自己保全のために既存国家の権力にすがる。
288第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 13:51:17 O
マルクスは剰余価値について商人は空間的差異から、資本家は労働時間の差異から、さらには技術力の差異から、と指摘した。
ここにあるのは交換様式の境界から搾取する方法である。略奪したものを等価交換の市場に流し込むことによって。
この略奪には国家という合法的暴力が活用される。
289むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/06(木) 14:06:29 0
奇妙なのは、アルカイダとアメリカの資本、この2つに本質的な違いがあるのか?って
ことですよ。アメリカ資本もアルカイダも、ローカルな地域問題を利用して稼いでいる
だけじゃないか。
290第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 14:34:38 0
>>287
国家を資本との対立で考えるのは、以前国家が独裁的な強い権力として
作動していたイメージによると思います。
西洋の絶対主義国家が誕生した時期には、世界は未開拓で、
国家権力は世界を植民地化し、搾取することで、自国を発展させました。
資本、そして国民ははこの戦略に寄生することで、大きな富を得ました。

しかしその先に世界大戦が起こり、その後世界が主権国家として、
網羅されると、もはや帝国主義的な国家戦略は富を生まなくなりました。
それでも自由主義/社会主義のイデオリギー対立が存在した間は、
疑似的な領土の取り合いがありましたが、冷戦以後、国家は
富を生みにくくなった。しかし国家の意味がなくなったのではなく、
静的にパワーバランスの構造を維持し、透明化したということです。
資本はこの構造化されて秩序の上、まるで国家がないように
経済活動を行っています。
マルクスがいうように剰余価値は何らかの差異によって生まれますので、
世界市場内の差異を活用しているのです。たとえば安い中国の労働力、
中東の石油資源など、を活用しています。

しかしこれはあくまで国家間の静的なパワーバランスの上に成り立ています。
だから大資本は必ず国家に根を張っています。
以前の「強力な国家」は、先に上げたように、戦争によって浮上しますし、
最近では、資源争奪において、国家戦略とともに、前面に出てきています。
291第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 14:46:32 0
BRICsが台頭していますが、中国の経済発展による世界への展開は侵略的です。
大企業が世界的な差異を求めてというような日本、アメリカなどの先進国企業でなく、
国家が積極的に世界に出向き、市場開拓を行っています。このための様々な面で
先進国の企業は危機感を持っています。中国のパワーだけでなく、国家支援による
戦略に、勝てないのです。このためのアメリカも国家としての企業支援を強めいてい
ます。その中で、日本は大きく出遅れていると言われています。
292第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:02:20 0
■資本と国家の共犯関係

「想像的な共同体」としての企業DNA

企業は不思議です。資本家といっても株主は流動的になっています。経営者も入れ替え
制、日本などはまだ固定的な思い入れがありますが、流動的です。最近、企業のDNAの継
承というような言われ方がありますが、なにによって、企業は自己同一性を維持している
のでしょうか。

企業は、お金を儲けつづけなけいれば維持できないという資本主義の一つの機械として作
動し続けますが、それぞれの企業の自己同一性は、言語論の固有名論に近いものがあり
ます。「SONY]というシニフィアンの意味シニフィエは、様々な差異においてあらわれつ
つ、クリプキの「固定指示子」をもつ・・・で、「固定指示子」とは?

企業は流動性が高いと言えますが、企業カラーをかえることは難しいと言われます。そこに
はやはり自己同一性を保とうという力が働いているのです。「SONY]のシニフィエはこうで
あるという力が、社員から、そして社会から、固定概念として働いている。これは国家で言
えば、ネーション(ナショナリズム)に相当する想像的な力です。国家という世界的に差異化
された象徴的な体系を維持するように働く想像的な力。実際、先ほどの固有名論そのも
の、すべての自己同一性はこのような象徴的な体系を維持する想像的な力によって維持さ
れているといえるでしょう。すなわち企業のDNAとは「想像の共同体」であるということで
す。だから企業改革はまず失敗する。あるいは黒船、ゴーンのように外部からの暴力として
しか、改革することはむずかしい。
293第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:03:05 0
領土、人としての国家

これに対して、国家は物質的な制約によって固定されています。まず領地が国家を規定し
ます。そして人。国籍を変えることは可能ですが、それも抑制され流動性を持ちません。さ
らに、国家間の差異の体系によって、世界のすべての土地と人は、国家システムに組み込
まれます。

国家間の紛争の調停は難しいのは、国連などありますが強制力がなく、国家以上の上位
の秩序を維持するシステムがないからです。あるのは国家(国家網)です。国家が崩壊す
れば、無法地帯になる。その前に他の国家が侵略するなどで、他の国家権力が統治します。

ネットは国境を簡単に超える。日本で違法であっても、サーバーがアメリカにあることで、日
本でそれを見ることができます。しかしネットが秩序維持が難しい場であるほど、国家(の
連帯)が必要とされると言えます。そしてネット上で情報が飛び交っても、その向こうには必
ず物質制約(土地、人)が存在します。国家はこの物質的制約に働くことで有効性を保つのです。
294第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:03:43 0
貨幣交換の繊細さ

貨幣交換というのはとても繊細なシステムです。互酬が相手を見て、贈与返礼するのに対
して、ただお金を持っていると言うだけの見ず知らずの他者を信用して、交換するわけで
す。だから貧しい国の問題は、今だに中国でもありますが、等価交換が作動しにくいことが
あります。すべてに互酬が混入してきます。政治は賄賂や略取による搾取、市場も不正が
横行。コピー商品の問題もある意味で互酬的なお気楽さにあるといえます。

これはもともと社会が人間関係を重視したもの、すなわち互酬をベースにしているからで
す。等価交換はとても繊細な制度すぎる、さらには知材という価値など、教育、規律など国
家権力がなければさどうしません。先進国はこれを利用します。後進国国家に贈与するこ
とで権力を操作します。

マルクスは剰余価値について商人は空間的差異から、資本家は労働時間の差異から、さ
らには技術力の差異から、と指摘した。ここにあるのは交換様式の境界から搾取する方法
である。略奪したものを等価交換の市場に流し込むことによって。この略奪には国家という
合法的暴力が活用される。

絶対主義国家が世界で略奪を繰り返したのは、貨幣交換のようなめんどくさいことをするよ
り、略奪する方が簡単だからです。貨幣交換などせずに、暴力に訴えて略取する方が良い
のです。そこに秩序を与えるのは国家権力しかありません。その上の上位概念はないので
す。そして、現にいまも、先進国/後進国では貨幣交換をよそおう巧妙は略取が行われて
いるわけで、それは国家と資本の共犯によってです。
295第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:04:22 0
国家と資本の共犯関係

国家は資本と対立で考えられ、現代は資本が中心となり、国家は消滅すると考えられるこ
とがありますが、柄谷いうように、グローバル化が進んでも国家がなくならないのは、国家
はグローバル化=世界をカバーする秩序のシステム、その秩序とは主にグローバルな経
済活動(貨幣交換)を行うために作られてものだということです。

西洋の絶対主義国家が誕生した時期には、世界は未開拓で、国家権力は世界を植民地
化し、搾取することで、自国を発展させました。資本、そして国民ははこの戦略に寄生する
ことで、大きな富を得ました。

しかしその先に世界大戦が起こり、その後世界が主権国家として、網羅されると、もはや帝
国主義的な国家戦略は富を生まなくなりました。それでも自由主義/社会主義のイデオリ
ギー対立が存在した間は、疑似的な領土の取り合いがありましたが、冷戦以後、国家は富
を生みにくくなった。

しかし国家の意味がなくなったのではなく、静的にパワーバランスの構造を維持し、透明化
したということです。資本はこの構造化されて秩序の上、まるで国家がないように経済活
動を行っています。マルクスがいうように剰余価値は何らかの差異によって生まれますの
で、世界市場内の差異を活用しているのです。たとえば安い中国の労働力、中東の石油資
源など、を活用しています。
296第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:05:00 0
資本の肉としての国家

多国籍企業といいなからやはり権力行使にはどこかに物質的な根=国家をもたなけれ
ばならないと思います。最近、ネットでアソシエーションが発生しているということがいわれ
ますが、このようなネット上の互酬により経済活動が支えられている人はほとんどいませ
ん。生存を支えるということは重要なことです。たとえばマルクスの労働価値説が必要でな
い。貨幣は交換の体系により説明されるという意見があります。最近の市場のマネーゲー
ム化はそれがあらわれていますが、むしろそれでも実質的な経済をささえているのは、生
存のための労働に根ざしているからです。

たとえば後進国よりも超巨大多国籍企業の方が、経済的な力があるとしても、企業は直
接、土地、人を統治できません。国家というシステムに働きかけることで、権力を行使しま
す。これは重要なことです。国家という場が維持されることで、ネーションからの権利主張も
できます。もともと国家は、そのような資本との共犯関係のために成立していた、ということです。
297第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:05:35 0
国家が表出する時

格差社会が生まれているのはなぜか。ネオリベラルのいう自由競争では、「自然に」格差
が生まれると考えがあります。これはあまりに楽天的な考え方です。実際のネオリベラルと
言われるものは、自由競争といいながら、資本と国家が共犯的に働き、格差を生みだして
いるのではないか。たとえばある部分を規制緩和することも、積極的な国家戦略です。勝
つ者はより国家権力へのアクセスを容易にする。

日本人が勝ち組いられるのは、単にグローバルな資本に属しているだけでなく、それを補
完するように国家が機能しているからです。そして企業が発行する債券の信用は国家に
よって支えられているということです。再度言えば、ここでの国家とは、国家1国では国家は
存続しない。世界に国家のない地域はないというように、世界を分割するという国家間のシ
ステムです。

以前の「強力な国家」は、先に上げたように、戦争によって浮上しますし、最近では、資源
争奪において、国家戦略とともに、前面に出てきています。

BRICsが台頭していますが、中国の経済発展による世界への展開は侵略的です。大企業
が世界的な差異を求めてというような日本、アメリカなどの先進国企業でなく、国家が積極
的に世界に出向き、市場開拓を行っています。このための様々な面で先進国の企業は危
機感を持っています。中国のパワーだけでなく、国家支援による戦略に、勝てないのです。
このためのアメリカも国家としての企業支援を強めいています。その中で、日本は大きく出
遅れていると言われています。
298第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:51:13 0
>>277
>ポイント貨幣っていうのは、企業が発行する債権ですね。これがある規模以上に広がって
>力を持つとどうなるか。結構面白い状況になると思います。つまり、既存の国家が発行する
>債権である貨幣よりも、企業が発行する債券のほうが信用を持つという世界。

よく知らないのですが、ポイント貨幣は実際の貨幣との相関を取る必要はないのですか。
簡単に言えば、誰でもかってにポイント貨幣を発行できるのか、ということです。

ボクも電子マネーは面白いと思うのですが、ネット上での普及ですね。
最近だとセカンドライフ上のお金が話題になりました。

たとえば、
・ネット上で活発に貨幣交換が行われるようになる。
 HPが見てよければ小銭を上げる。投げ銭制は実際にはてなでありますが、
 普及していませんね。
・ネットで新たな独自の通貨が生まれる。
 必ずしも現行の貨幣と相関がある必要がないが、
 その場合にだれがどのように管理するのか。

なぜネット上で電子マネーが普及しないのかは、
コピーが容易でありますが、
先に上げた貨幣交換というシステムの繊細さにあると思います。
国家権力のような秩序を保つ強いシステムによる保護が必要だからです。
299第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/06(木) 17:53:41 0
ネット上の売るデジタル商品、小説、音楽、動画などのコピーが容易というのがありますが、
300考える名無しさん:2007/09/06(木) 17:58:46 0
>>277
所詮は前払式証票/有価証券であって貨幣ではなく、電子ウォレット以上のものではない、ということで当時の大蔵省も認可したのでしょう。
百貨店共通商品券、図書券等が、それらの端末の増加によって電磁式に変身したものにすぎないでしょう。
発行当事者企業にとっても前受け金として仕訳されているはず。
即ち、プリペイドカードは、リローダブル/再チャージ可能/加盟店が複数の業種にわたっても、所詮、通貨の手のひらの上の孫悟空にしかすぎません。
クレジットカードの方が、IDを質に入れられていますから、ぴかぁ〜さんなんかは、こっちの方に脅威を感じてほしいです。
301考える名無しさん:2007/09/06(木) 18:14:19 0
ぴかぁ〜さん、いいですか、ぴかぁ〜さんがカード決済した時点ごとに、いつどこの風俗店を利用し、いつどんな本を購入し、いつ何線に乗りどこで降りたか(クレジットカ決済付きスイカ等の場合)、等々がみいんなカード会社のサーバーに蓄積されていくのですよ。
そして、その情報は、ほぼ生のままで、且つ有料で流通しているのですよ。
302第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 01:20:47 0
i-modeなどでは課金システムがうまく作動しています。
着メロ、ゲーム、情報など。
課金そのものをドコモが管理しているからです。
さらに課金が容易です。クリックするだけで、
あとは通信料金とともに回収されます。
これは、ドコモが囲える範囲に限っているのが重要です。

ネットで貨幣を使うことは、面倒で、危険なことであることを
しっています。このように貨幣交換はとても、弱いものです。
支える強い権力を必要とします。
303第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 01:41:36 0
ボクたちは日々当然のようにお金を使っていますが、それはそこに強い権力が
働いているからです。貨幣交換は繊細で、とても弱いシステムなのです。

それに比べて、互酬(贈与と返礼)は強固なものです。互酬は共同体の内部で、
知っている者との間で行われます。まず関係性があり、そこに交換が行われるのです。
それに対して、マルクスは商品交換について、共同体と共同体の間で起こる、そして
そこには「命がけの飛躍」があると言いました。相手が騙していないとなぜ言えるのでしょう。
信用するしかない。賭けてみるしかない。だから「命がけの飛躍」なのです。

ボクたちが日々、当然のように貨幣交換を行えているのは、この交換を管理する管理者が
存在するからです。それが国家です。騙す者には制裁が行使されます。
国家は1国だけではありません。世界を網羅し、関係性を保っています。
貿易では国家間の契約が保証するのです。だから国家が信用ならない国である場合には、
貨幣交換は危険なものとなります。

だから交通様式の基本には互酬にあるのです。知った者の中で助け合うということです。
304第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 01:44:45 0
知った者の間で、等価交換は必要ありません。それは家庭内の交換に、貨幣が使われないのと
同じことです。
305考える名無しさん:2007/09/07(金) 03:10:31 0
             ∧..∧
           . (´・ω・`)   <知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
           cく_>ycく__)
           (___,,_,,___,,_)  ∬
          彡※※※※ミ 旦
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   \ どっ!!  /   \ ワハハ! /
     \     /      \    ∞
 l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩  ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
 (,    )(,,    )    ,,)(    )(    )
306考える名無しさん:2007/09/07(金) 03:17:43 0
>>303
「命がけの飛躍」とは、たしか、買うということはいつでもできるケド、売ることは実際売れてみるまでは
売れるかどうかわからない、その意味での売るということのもつ困難さを指して、マルクスは
いったのでは・・・。まぁ、それで波さんの本筋が損なわれることはありませんが・・・。
307第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 09:19:15 0
>>306
資本論の中で「命がけの飛躍」は、流通手段としての貨幣の部分で出てきますが、
たとえば柄谷は、ヴィトゲンシュタインの言語論につなげています。
その意味するところは、意味(価値)は交換後にしかあらわれない。
だから「断絶」を飛んでみるしかない。

>信用するしかない。賭けてみるしかない。だから「命がけの飛躍」なのです。
308306:2007/09/07(金) 09:45:01 0
>>307
このスレで言うことを少し躊躇してしまうのですが、柄谷氏の理論は多分に「いいとこどり」
の傾向があるように私には思えます。もちろんそれが悪いというのではないのですが・・・。
たとえば307での「意味(価値)」という規定は、経済的な価値規定と言語の意味との境界
を曖昧にしてしまうのではないかとも思えるわけです。
波さんにはそのような点をも指摘しつつ、展開してほしいと思うのですけど・・・。まぁ聞き流して
くださいな。
309むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/07(金) 11:06:04 0
>>298
> よく知らないのですが、ポイント貨幣は実際の貨幣との相関を取る必要はないのですか。
> 簡単に言えば、誰でもかってにポイント貨幣を発行できるのか、ということです。

当然それは所謂「現実の貨幣」とリンクしてますし、そうでなければ意味を持ちません。

じゃあそれは、>>300で書かれているように、既存通貨の上の孫悟空なのか?ということですね。
逆に言えば、既存の通貨は何かとの相関なしに、自存することが可能なのか?ということです。

結局、既存の国家が発行する通貨にしても、その価値は他の通貨との関係性で規定
されている。何がメタレベルで何がオブジェクトレベルの通貨、債権か?というのは、本来は
意味を持たないはずです。
310第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 11:07:06 0
>>308
言っていることはなんとなくわかります。
柄谷の言説は「大きな物語」としてほんとに良くできています。
そのために排除している細部がたくさんあります。
それは注意して読む必要があると思います。

>たとえば307での「意味(価値)」という規定は、経済的な価値規定と言語の意味との境界
>を曖昧にしてしまうのではないかとも思えるわけです。

これについては、柄谷はソシュールの新しさは、言語意味に価値論を
導入したところであると言っています。
ソシュールの差異の体系の発想は、経済学の交換価値論からきていると
言われています。
311むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/07(金) 11:14:15 0
>>303
> ボクたちは日々当然のようにお金を使っていますが、それはそこに強い権力が
> 働いているからです。貨幣交換は繊細で、とても弱いシステムなのです。

マルクスはそこを逆だと考えていたんですね。つまり、最初に交換があり、市民がある。しかし
それは非決定的で不安定だから反作用として国家が発生し、国民が生成されるんだと。なので、
マルクスの歴史観には国家を主体とした政治史というのは、全く問題にもされないのです。

家族が互酬ってのも、それは結果論じゃないか。まず家族っていうのは法的に規定された
制度ですよ。共同体の承認を必要とし、一定の手続きを経ないと家族は成立しない。互酬的
な相互関係はその後に派生するものじゃないか。
312第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 11:24:38 0
>>311
そこが柄谷のマルクスの最大の批判点ですね。
経済が全面的に展開されたときに国家は消失するのでなく、
国家と経済は共犯関係にある。

家族の例で言いたかったのは、親密な関係ということです。
別に例としては親友関係でも良いのです。
未開社会では村そのものが互酬的な親密な関係ですが、
現代では地域コミュニティの希薄化し、親密な関係といえば、
家族であり、友達である、ということです。

再度言えば、互酬とは等価交換ではありません。
これだけもらったから、同じだけ返すのではなく、
帰ってこないことを覚悟で助けてあげるということです。
そのような親密な関係の上に立っているので、
貨幣交換のような、管理者が必要ではないのです。
だから原初的な交通様式なのです。
313第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 12:06:29 O
なぜ互酬が可能かといえば貨幣交換は価値が量に閉じているの対して、互酬では質的だからです。
親友のためになにをする、あたえるのに、その後に同じだけ帰してもらうということではありません。
親友としての関係性に価値があり、一度きりに、あるいは物質的に閉じていません。
これを言語論につなげると貨幣価値は論理的です。コンテクストに関係なく成立する。
しかし実際の意味はコンテクストから切り離せません。相手が誰か、そして歴史の中で意味はあらわれます。
交換も同じです。だから純粋な論理意味はなく、純粋な貨幣交換はありません。
314考える名無しさん:2007/09/07(金) 12:07:53 O
さすがに息詰まったので
むじんくんキャラを登場させたか
バカめ
315第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 12:18:47 O
このようなコンテクストを読むことは場に対応するために重要です。場から切り離されて人はいきていけません。
貨幣交換の純粋性を高めるためには場から切り離されても成立する権力基盤と教育が保障されていなければなりません。
でなければ貨幣交換は場に依存します。身内に変更した価値体系、自由主義から離れたものになります。
政治的な賄賂やぼったくりはむしろ等価交換より根源的なのです。だから未発達な資本主義、そしてソ連などの共産主義の失敗、安部内閣閣僚の不正はおこるのです。
316考える名無しさん:2007/09/07(金) 12:29:28 O
時事ネタまぜまぜ、こじつけコジコジこねくりまわしてホイ
317第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 12:31:26 O
だから論理性の高い言説には教育が必要であるとともに、権力に依存しているのです。ヴィトの規則とはなにかという議論につながります。
ただ言語意味と経済価値を比較した場合に経済価値がより差し迫った生存に根ざしているという意味でシビアです。
318考える名無しさん:2007/09/07(金) 12:41:37 0
>>313
ぴかぁ〜さん、互酬制と原始共産制との相違点についてご教授ください。
319考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:11:02 O
もう風俗不振になるかもしれない位のハズレに
当たってしまいました・・。
まぁこんなこと言っても始まらないのでレポします。

女性:りえ(43)
HPに指名率トップって書いてるけど、トップの理由が良く分かりません。。
顔は美人とは間違っても言えないし、体系もただのデブと言っても言い過ぎじゃないと思います。
愛想は良いです。プレイもちゃんとしてくれましたし、ぶっちゃけ基アリです。
それでも指名したいとは思いませんね。私は・・。

HPはキレイに写ってますね〜。映像修正技術の進化に脱帽って感じですね。
あ〜失敗した。

はずさない秘訣教えてください、ぴかぁ〜さん。
320第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 13:14:51 0
■なぜ不正はなくならないのか

互酬性と貨幣交換

互酬(贈与と返礼)と貨幣交換の違いは、貨幣交換は相手が誰であろうが、等価として交換
するというその場だけで成立するものです。それに対して、親友のためになにかをするの
は、誰でもよいのではなく親友だからであり、また同じだけ返してもらうためではありませ
ん。親友としての関係性に価値があり、それは時間的にも開かれています。親が子供を育
てるのは将来、子供にその分を返してもらいたいからではなく、その子がまた子供へ贈与
することを期待します。ここには未来に開かれた親密な関係があります。

これを言語論につなげると貨幣価値は論理的です。誰に向かって、あるいは歴史に関係な
く、コンテクストに関係なく、コンスタティブに意味が伝達されます。しかし実際の言語意味
はコンテクストから切り離せません。相手が誰か、そして歴史の中で、パフォーマティブに意
味はあらわれます。だから純粋な論理的な意味は存在しないといえます。そして純粋な貨
幣交換はありません。そこには必ず互酬制が混入します。
321第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 13:15:23 0
生存に根ざした互酬制の強力さ

このような互酬制の重要性は、コンテクスト(人間関係)から切り離されて人はいきていけな
いということである。人はコンテクストを読み、対応することで生存します。だから自由主義
のもとに、貨幣交換の純粋性を高めることは、とても危険なことです。このために、場から
切り離されても成立する権力基盤が保障されていなければなりません。これが柄谷がいう
市場経済は絶対主義国家のもとて発達したということの意味です。

自由主義が未発達な国では、貨幣交換は不安定であり、特に権力に近い場では、収賄や
贈与が一般的です。中国などでコピー商品が氾濫するのも、知的価値、等価交換などの教
育と国家的な強制がなければ、なくなりません。またたとえばソ連などの共産主義(国家社
会主義)の失敗も互酬制に蝕まれたといえるでしょう。また日本でも安部内閣閣僚の不正
など、互酬制を排除することは不可能であると言えます。

また最近言われているネオリベラリズム(新自由主義)がどこまで純粋に自由主義が実現
されているかは疑問です。自由にすれば「自然に」格差が生まれると言われますが、グ
ローバリズムとして世界に広がる市場経済の周辺にいくほどに、国家権力も内包した勝ち
組内の互酬制が作動していることは容易に想像できるのではないでしょうか。
322考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:17:06 0
ですからあ、ぴかぁ〜さん、互酬制と原始共産制との相違点についてご教授ください。
323第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 13:17:53 0
>>318
互酬制は交通様式の一つであり、
原始共産制は互酬制が全面的に活用された共同体のあり方です。
324考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:19:13 O
商店街のコンペで、昨日は軽井沢までゴルフに行きました。
コンペを終えて夕方の5時には、バスで帰京、6時集合で近所のスナックに行きました。

60歳のマスターもコンペには出て、88回で優勝したのです。
皆なで祝勝会をしてあげました。
その時に初めて、マスターが面白いビデオがあると見せて呉れたのが、お婆ちゃんのSEXビデオでした。

年齢は一番若くて55歳、高齢者は69歳でした。このAVに出ているのは、全部で8名が出ていて、新宿や渋谷の繁華街で、お年寄りのオバちゃんをスカウトするところから始まります。
最初は抵抗があるのか、なかなかOKが出ません。
それでも30名ぐらいを交渉していると、60歳ぐらいの女性が初出演をOKしました。
325考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:22:10 O
そばのかなり有名なラブホに連れて行かれ、20代から60代の男性が待ち受けていて、相手はそのオバちゃんが決めます。

もちろん性交することと撮影することは、最初に説明して決めています。
40代の男性が選ばれました。陰茎を自分でオナニーして勃起させています。
彼女は年齢は59歳とか自己紹介をしています。
昔は大きかった乳房も今は垂れて、下を向いているし、お腹には脂肪がついて三段腹です。

陰部の手入れも悪く、黒々とした陰毛は茫々で、大陰唇も黒ずんで色変りしています。
326第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 13:29:16 0
国の公共工事業者に入札の建設業界の談合が問題になっています。
このために純粋は入札を行う必要がありますが、
一般消費者でも購入先を決めるときは、価格だけでは決めません。
誰であり、その歴史であり、そこには主観的な思い入れが混入します。
むしろ価格だけで決定することはむしろ危険でしょう。
単に利権を得ようとするだけでなく、入札の本当の難しさがあります。
327考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:29:34 0
>>323
ぴかぁ〜さん、ありがとうございます。
それで、原始共産制社会は、イデア(=イデオロギー)でしょうか、はたまた、歴史的事実でしょうか?
328第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 13:32:42 0
>>327
イデオロギーなき歴史的事実はないですよ。
329考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:34:48 0
>328
ぴかぁ〜さん、ありがとうございます。
そのご回答をいただいた瞬間、おかげさまで目からコンタクトが落ちました。
330考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:36:50 0
>>328
>イデオロギーなき歴史的事実はないですよ。

本当にいい言葉ですね。
私のアフォリズム集に入れておきます。
331考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:40:40 O
先から我慢汁が垂れました。
332考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:50:51 O
黒々としたアソコを開いて、40代の男優に見せて、そこを触らせています。
まだほとんど濡れていなく、びらびらの肉唇から土留め色のマンコが見えます。

クリトリスもかなり大きく、サクランボぐらいはあります。
そこを舐めさせると、さすがにこのオバちゃんも恥ずかしいのか、自分で男優のペニスを触りこすっています。

「久しぶりなんだよ、もう10年ぐらいは男に抱かれていないから、もう濡れないかもしれないよ」などとつぶやいているのが録音されています。
でもプロのAV男優ですから、舐める技術は一流です。
333考える名無しさん:2007/09/07(金) 13:52:43 O
キスをされると「ううううっ、いいね〜」などと悶えます。
陰部を指で触りクリトリスを吸われると、さすがに腰が震えだします。
ベッドの上で大股を広げて、アソコを開脚します。
15分もすると少しずつ濡れて、愛液が光ってきました。
指で膣の中を攪拌されていると気持ちがいいのか、身体を抱きつかせて、チンポを欲しがります。
アップで膣と陰茎が写り出されます。

ぎゅんとマンコの中に勃起したペニスが少しずつ挿入されていきます。
オバちゃんは顔を顰めて苦しそうな声を上げ出します。
男優のピストンに。両脚を腰に巻きつけ出しました。
たぶん陰核を擦りつけて快感を楽しんでいるのでしょう。

「あううあうう〜、最高だよ〜」時間にすると30分ぐらいで最初のエクスタシーが来たようです。
爪が男優の肩に食い込んで、その快楽を表現しています。
334第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 14:32:48 0
>>330
系譜学と呼びます。ニーチェです。
335考える名無しさん:2007/09/07(金) 16:34:35 0
それでは質問です。
1)系譜学と認識論と存在論ではどのような違いがありますか。

2)剰余価値はどの様なものでしょう。
  マルクスはどうして剰余価値が生まれ、それがどうして恐慌論へと
  発展していくのでしょう。

3)どうして貨幣による交換は互酬制に劣るのでしょうか。
  NAMは相互報酬制なのでしょうか。

4)どうして、柄谷の本を読みながら教え調で書くのでしょうか。
336考える名無しさん:2007/09/07(金) 16:40:22 0
質問2

1)共産主義国家の崩壊後どうして今またマルクスなのでしょうか。

2)どうして、科学技術による自然破壊を経験した今、再度科学技術崇拝
  による発展を求めるのでしょうか。

3)どうして、相互報酬制を支持するのに、科学技術崇拝なのでしょうか。
  この二項の関係に矛盾はないのでしょうか。
337第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 17:37:38 0
>>335
1)系譜学は認識論と存在論と分けた方がよいですね。
2)「さるでもわかるマルクス」参照
3)http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1189115863/48-51
4)柄谷がマルクスを読みながら教え調で書くから

1)共産主義国家の崩壊し、資本主義の時代だからこそマルクス
2)止まらないから
3)だれが相互報酬制を支持する?
338第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 17:41:37 0
3-47
■なぜ汚職はなくならないのか

貨幣交換と互酬

貨幣交換と互酬(贈与と返礼)の違いは、貨幣交換は「相手が誰であろうが、等価として交換
する」という、その場だけで成立するものです。近代以降の流動性の高い社会では、多くの初
対面の人と交換を行う必要があります。そこではその場で成立する貨幣交換の「無時間性」は
重要です。

それに対して、親友のためになにかをするのは、誰でもよいのではなく親友だからであり、また
いつか同じだけ返してもらうためでもありません。親友としての関係性に価値があり、それは親
友と過ごした時間、あるいはその家族、子供へと継続した時間に開かれています。たとえば親
が子供を育てるのは将来、子供にその分を返してもらいたいからではなく、その子がまた子供
へ贈与することを期待します。ここには未来に開かれた親密な関係があります。

これを言語論につなげると貨幣価値は「論理」的です。誰に向かって、あるいは歴史に関係な
く、コンテクストに関係なく、コンスタティブに意味が伝達されます。しかし実際の言語意味はコ
ンテクストから切り離せません。相手が誰か、そして歴史の中で、パフォーマティブに意味はあ
らわれます。だから純粋な「論理」的な意味は存在しないといえます。そして純粋な貨幣交
換はありません。そこには必ず「互酬性」が混入します。
339第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 17:42:20 0
互酬制の強さと貨幣交換の弱さ

「親密な関係を重視する」という互酬制の重要性は、人は社会関係から切り離されていきては
いけないということにあります。人は場(コンテクスト)に埋め込まれ、変化に対応することで生
存します。だから「相手が誰であろうが等価として交換する」という貨幣交換の純粋性を高める
ことは、とても危険なことなのです。

ボクたちは日々、当然のように貨幣交換を行える裏には、自由な貨幣交換を疎外することがな
いように強力な権力として国家の存在があります。この場合の国家は1国だけではありませ
ん。国家は世界を網羅した協力体制にあります。自由主義を受け入れるには、場から切り離さ
れても生存可能を保証するような権力基盤が必要とされます。

たとえばネット上で貨幣交換が活発でない理由の一つは、このような国家権力の機能が作動
しにくいということがあります。ネット上は不正を突き止めるのは難しい「無法地帯」と言われま
す。i-modeなどでは課金システムがうまく作動しているのは、ドコモの管理体制内で決済がお
こなわれるという安全性からです。

自由主義の理想が、「相手が誰であろうが、等価として交換する」という純粋な貨幣交換による
活発な経済活動であるとしても、貨幣交換に互酬性が混入せざるおえません。というより
も、もともと互酬制が生存に根ざした共同体の基底としてあるのに対して、貨幣交換は弱く、
繊細なシステムであり、国家権力という秩序を保つ強い権力による保護と規律訓練を必要と
するのです。
340第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 17:43:04 0
権力の独占と互酬性

マルクスは貨幣の力を、商品の価値を決める位置にあること、そして資本家は貨幣を蓄積す
ることを自己目的化する守銭奴である、といいましたが、権力が問題になるのはいつも権力が
「親密な関係を重視する」互酬制と結びつき、閉塞するときです。だから実際に貨幣の力が権
力として作動するのは、「親密な関係を重視する」互酬制を巻き込んで、強力な内部を形成
するときだと、言えるのではないでしょうか。

最近のネオリベラリズム(新自由主義)では、自由にすれば「自然に」格差が生まれる。それが
自由競争によるものであり、必ずしも悪くないと言われます。しかしどこまで純粋に自由主義が
実現されているかは疑問です。

自由主義が未発達な国において、経済が発展しない理由の一つとして、国家権力に近い場で
も贈賄・収賄が行われ、経済の自由な活動を疎外します。グローバリズムとして世界に広がる
市場経済の周辺(未発達な国)にいくほどに、自由主義をうたう企業が、国家権力を内包し、
「親密な関係を重視する」互酬性による勝ち組を形成するのは、容易に想像できるのではない
でしょうか。

ソ連などの共産主義(国家社会主義)の失敗は互酬性を払拭できなかったことに大きな要因
があるのではないでしょうか。平等な分配というイデオロギーのもとに国家権力が機能してい
たはずが、そこには「親密な関係を重視する」互酬性が蠢いていた、ということです。
341考える名無しさん:2007/09/07(金) 17:49:14 O
自演乙
寂しいね
342第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/07(金) 18:02:21 O
空谷が市場経済は絶対主義国家に始まるというのはこのためです。

そしてさらなる民主化とは共同体に自由と平等を啓蒙することで、貨幣交換を根付かせることにあります。
343考える名無しさん:2007/09/07(金) 20:35:29 0
          ____   
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\      
    /   ⌒(__人__)⌒ \    <知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
    |      |r┬-|    |      初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について…
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ              
 |    l              \
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.    
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))





          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //  < ルサウンチマンだっておwwwwwwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      気の利いた洒落のつもりかよwwwwwwwwwwwwwww
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バ   ン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
344考える名無しさん:2007/09/07(金) 22:01:16 O
学校ごっこは終わったのかい?
345考える名無しさん:2007/09/07(金) 23:45:05 0
系譜学を認識論と存在論とに分ける事は無いでしょう。
それぞれ異なると考えた方のが普通ではないでしょうか。
特に系譜学と認識論とは全く異なる、むしろ、認識論を否定する
形で系譜(学)が肯定されるのではないでしょうか。
勿論ニーチェからフーコーにも見られます。
系譜とは客観的視点の否定です。

それでは質問です。
互酬制が正しいとするならば、実社会ではグローバルな資本によって
貨幣による財サービースが交換されるのでしょうか。
もし互酬制に拘るならば、どのようにして、グローバル資本主義である貨幣流通
社会を否定し、新たな社会を作るのでしょうか。

346考える名無しさん:2007/09/07(金) 23:50:48 0
君は、互酬制を支持するのか?或は貨幣による交換を支持するのか?
あるいは、どちらを支持する事も無く、ただ、柄谷に沿って君自身
論理を学習しているだけであるのか。
347考える名無しさん:2007/09/07(金) 23:52:54 0
共産主義(社会主義)国家崩壊後であるから、資本主義批判と言うのは
論理的であるのだろうか?なぜ、今資本主義批判なのかと言う疑問に対して
論理的な答えになってると言いうるのか?
348考える名無しさん:2007/09/07(金) 23:58:27 0
もしマルクスを支持するのであれば、貨幣と言う非使用価値を批判すべき
ではないでしょうか?つまり、資本主義では物は交換価値として現れる
と言う点を批判するべきではないのでしょうか?
だとすれば、互酬制や贈与は肯定され、貨幣流通は批判されるべきではないのでしょうか。

だから、柄谷はアソシエーソン支持だったのではないでしょうか?
349第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 00:01:31 0
「親密な関係を重視する」互酬制に対する、
「相手が誰であろうが等価として交換する」貨幣交換という対立は、
近代化のポイントになる。

たとえば公共性とは、「親密な関係を重視する」ことではなく、
「相手が誰であろうが等しく」関係性をもつ。
むしろ「親密な関係を重視する」態度は避けられる。

近代的な主体とは、「親密な関係を重視する」ことを避け、
「相手が誰であろうが等しく尊重する」という規範を訓練された主体である。
これは、フーコーのいう規律訓練型権力によって、作られる。

たとえば最近、中国人において様々なモラルが問題になっている。
商品の安全管理の悪さ、公共でのマナーの悪さ、コピー商品など
これらは近代的な規律として、国家権力によって、規律訓練され
なければならない。そこ規律とは、「親密な関係を重視する」ことを避け、
「相手が誰であろうが等しく尊重する」ことである。
350第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 00:02:10 0

日本も以前はそうだったのだろうが、今では十分に訓練され、
世界的に日本人のマナーの高さは評価されているところまできている。

ただこのような訓練は、近代化への適応という方向性において価値をもつ。
だから失ったものがある。「親密な関係を重視する」
たとえば田舎者が都会に来ると、小さな地方コミュニティに支えられた
自己主張がウザがらえるということがあるが、これはまさにそのような
抑圧である。

小さなコミュニティという井の中の蛙は、それはそれで幸福な状態である。
大海において、都会人は小さく無表情に生きるというようなことがある。
351考える名無しさん:2007/09/08(土) 00:06:19 0
つまり、互酬制はワイロや贈収賄を表す概念ではないのではないでしょうか?
むしろ資本主義的貨幣経済のほうが、そう言う生権力を内包しているのでは
ないでしょういか?だから柄谷はアソシエーション(非貨幣的兄弟愛的集団主義)
を求めたのではないでしょうか?だから浅田はバタイユ&モースの贈与の
一撃だったのではないでしょうか。
352考える名無しさん:2007/09/08(土) 00:15:55 0
つまり、マルクスの資本主義批判が貨幣の物神性批判にあるのです。
使用価値になりえない貨幣と言うものは不必要な労働の産物であり、
資本主義の矛盾を表している。よって、共産主義の果てには、通貨は
消滅すると言う事ではないでしょうか?
いずれにしても、グローバリゼーションと帝国と生政権批判を続けて
マルチチュードの反対運動を待ち望んでいる者がおります。
かれらも、また、恐ろしく、マルクスに固執しているのでしょうか。

353考える名無しさん:2007/09/08(土) 00:22:17 0
小阪修平だったかも知れませんが、かれはポストモダンの論客だったのでしょうか
私の記憶が正しかったらですが「俺はもうマルクスはいいよ」と言っていたのでは
なかったでしょうか?
何故今マルクすなのでしょうか。

ところで私は誰でしょうか?
ヒント
1)今年の12月から復活を宣言した者でしょうか。
2)純一さんと共闘した者でしょうか。
3)以前PARE○○と言われた者でしょうか

さて誰でしょうか?
354考える名無しさん:2007/09/08(土) 00:28:24 0
ジジェクとA・ネグリです。明らかに強引にグローバリゼーション
に対する下層階級に団結と闘争と革命を求めているものは、異常です。
あくまでも、自分達の系譜にこだわり、すべての現象を反資本主義
に絡めて捉える異常さがあるのではないでしょうか?
ボーダーレスの時代にどのように単独者は団結すると言うのでしょう。
不思議ではないでしょうか。
355第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 01:06:31 0
>特に系譜学と認識論とは全く異なる

素朴な歴史学を懐疑する系譜学は、認識論に分類されるでしょう。

>ただ、柄谷に沿って君自身論理を学習しているだけであるのか。

ボクにとって柄谷の魅力は、ラカン的であることです。
カント、マルクス、ポランニー、ウォーラーステインの影響がわかりますが、
あまりにラカン的なのです。だからそこ、おかしなところもわかります。

たとえば、「世界共和国」は人が欲望せずにはおれない超越論的仮象(幻想)であると
言います。しかし「世界共和国」は何故にその資格を持つのでしょう。
資本主義は「お金持ちになる」と幻想として作動させていますが、
どこでそれが「世界共和国」へすり替わるのでしょうか。
柄谷はラカン的でありながら、現実界の理解が低い故にこのよな問題が起こります。
356第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 01:07:32 0
>もしマルクスを支持するのであれば、貨幣と言う非使用価値を批判すべき
>ではないでしょうか?つまり、資本主義では物は交換価値として現れる
>と言う点を批判するべきではないのでしょうか?

マルクスの資本主義批判は、使用価値と交換価値の二重性についてですね。
物神性は二重性にあらわれ、資本家は労働力を二重性において剰余価値を生み出します。
マルクスの資本主義批判のすばらしいところは、このように経済学でありつづけたことです。

ボクは賄賂を問題にしました。マルクスも資本家が賄賂なので不正を行っていることは
知っていたでしょうが、これは経済学ではないのです。
経済学とは貨幣交換を基本にした科学です。だから経済学的操作によって生み出されている
構造的な搾取を指摘することがめざしたのであって、不正を指摘することは政治であり、
政治家の個人的な犯罪であり、科学者マルクスには関係がないのです。

しかしボクが貨幣交換に対置する互酬制の根元性を指摘する。
賄賂の問題は個人的な犯罪ではなく、構造的な問題であるということです。
そして科学(経済学)はそもそも、このような互酬性(想像的なもの)を扱うことができなのです。
精神分析のみが扱うことを可能にするのです。
ここに柄谷が不徹底ですが、ラカン的である理由があらわれます。

だからボクが貨幣交換に潜む互酬性について言及するときには、
マルクスのみではなく、経済学全般の批判(科学の批判)、経済学の彼岸を語っているのです。
357考える名無しさん:2007/09/08(土) 06:46:32 O
ところで私は誰でしょうか?

リーマンキャラ
358考える名無しさん:2007/09/08(土) 08:57:42 0
それでは質問です。

1)系譜学をデカルト的な現前(客観)の認識論として捉えた場合に比較すると
 それはあくまで認識論ではあり無いのではないでしょうか。
 つまり、系譜学とはその認識判断する背景を時系列的に分析する
 認識主体の認識構造を考古学的にトレースすることなのです。
 つまり、ドゥルーズはこの手法をセリーとして、分析に使用している
 のではないでしょうか。
2)なぜマルクスが経済的であり続けた事が良かったのでしょうか。

3)柄谷のどこがラカン的なのでしょう。それはどのような弊害を齎したのでしょう。
359考える名無しさん:2007/09/08(土) 09:07:03 0
1)どうして科学は人間的な営み全ての事を無視し、出来ない事として目をつぶって
 しまうのでしょうか。
2)科学はどうして認識する主体がどのように現れるかを証明できないのでしょうか。

3)科学はどうしてエピステーメーと布置とイデオロギーの呼びかけを認めないのでしょうか。

4)どうしてフーコーを語りながら科学的なものだけに傾注するのでしょうか。

5)どうしてマルクスの剰余価値を搾取する資本を認めるのに、社会主義での
  ワイロや旧ソ連の貧富の差やKGBの暗殺は黙示されるのでしょうか。
6)どうして共産主義は崩壊したのでしょうか。労働者の指導者への不満はなかった
  のでしょうか。
360考える名無しさん:2007/09/08(土) 09:11:38 0
7)科学主義は一体人間の不在を喜んでいるのでしょうか。

8)科学主義はフーコーの言うような時代の布置に影響されていないと
  如何に証明するのでしょうか。

9)科学主義はどうして正しいと証明できるのでしょうか。


10)私は一体誰なのでしょうか? 
361考える名無しさん:2007/09/08(土) 09:20:25 O
自演乙
自分がいいたいことありきで 逆に質問を設定しとるなW
362第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 09:38:32 0
1)認識論を懐疑論と捉えればよい。
2)社会設計の科学をめざすためです。
3)想像的なものを重視することです。

1)科学は人間的な営み全ての事を無視しするの?
2)3)素朴な唯物論だから
4)誰が?
5)6)社会設計の科学をめざしために、想像的なものを扱えないから
7)主義が喜ぶ?
8)9)素朴な唯物論だから証明しない
10)さあ?

せっかくならもう少しソウゾウ性ある質問を頼む。
363考える名無しさん:2007/09/08(土) 09:46:30 O
せっかくならもう少しソウゾウ性ある質問を頼む。

クサイ イタイ ウザイ
364第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/08(土) 10:25:17 0
ネットの公共性の低さは、国家権力の抑圧が低いことによる。
このような権力はフーコーのいうような規律訓練的なので、
物理的な圧力でなく、自己内面的であるはずが、
ネットという場で規律圧が弱まるのはなぜか。
365むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/08(土) 10:26:03 0
>>312
> 再度言えば、互酬とは等価交換ではありません。
> だから原初的な交通様式なのです。

それは、ピカ先生も好きな構造主義が批判したところでは?つまり、互酬が最初にあり、
それが等価交換へと「発展」したというのはウソなんだと。互酬を成立させるための構造が
あり、やはりそれは等価交換的な空間で成立しているんだと。

原初的っていうのは、それは我々の視点から見た遠近法的倒錯だってことですね。本当に
等価交換的な地平が崩れ去ってしまった場においては、互酬すら成立しないんじゃないかと
いうことです。
366むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/08(土) 10:31:24 0
自分は詳しくないですけど、ぴか氏の好きなラカンも同じようなこと言ってたと
思います。想像的な関係、愛の関係は、象徴的なものが無ければ成立しない。
我々が素朴に「本来的」とか言っているものは全て象徴的なものによって既に
規定されてるし、されているからこそ成立するんだと。
367むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/09/08(土) 10:41:44 0
具体例で言えば、最近は言わなくなった「日本的雇用慣行」とか、「日本的村社会」という
言葉があります。

これは、良い意味でも悪い意味でも、日本列島に属する人々の「本来的」特性として語られる。
だから、
 「アメリカに言われても変えられないし、むしろ誇りに思うべき」
 「前近代的だから変えないといけない」
といった議論が生まれます。

しかし、そもそもこういった慣行、村社会自体を成立させている構造がある。例えばそれは
戦後日本であれば冷戦であり、その中で一国社会主義が可能だったという例外的状況
だったりする。

これは崩れるんですね。人々の意思とは無関係に崩れるし、「本来的」なものも同時に
崩れる。
368考える名無しさん:2007/09/08(土) 11:07:32 0
いいえ。この様な視点が君の論旨には不明だから質問したのですが、
答えも不十分です。
構造主義の認識が不十分です。短絡的に回顧主義的な科学一辺倒主義に
陥っていないと言えるでしょうか。

認識する「私」の問題が抜け落ちてる中で、認識主体を全面的に肯定し
科学のみが、進歩・発展させると単純に考えすぎているのではないでしょうか。
回帰的に再帰する問題を見ないでいるところ、或は著者名を多く持ち出す
事によって、理解不十分の所を流している気がします。
もう少し詳細に理解することが有効かと思われます。
柄谷のラカン理解がどうしていけないのでしょうか?
それは恐らく、科学では捉えきれない精神面の問題だからでしょうか。
369考える名無しさん:2007/09/08(土) 11:11:24 0
と言うよりも、むしろ、知識の集積段階にいる君にとって、その知識が
どの様に関連して、自分の意見として成り立っているかと言うところが
不明なのかも知れません。つまり、自分の立つ位置から、その概念=哲学
はどのように判断されるのかと言う点がちらほら見えますが不十分なのでしょう。
検討を求む。
370考える名無しさん:2007/09/08(土) 11:15:15 0
検討は健闘に訂正です。
東から柄谷への探求は間違ってはいませんよ。
あるいは中沢はどうです。
もっとも、外国のオリジナルの文献を読んだほうがいいかも知れません。
371考える名無しさん:2007/09/08(土) 14:45:48 0
>>359
>6)どうして共産主義は崩壊したのでしょうか。労働者の指導者への不満はなかった
  のでしょうか。

かつて世界に共産主義と呼ばれる制度が構築されたことがある、という寝物語をいまだに信じているのですか?
何故、国家は死滅せず、スターリニズムに陥っていくのか、が本題でしょ?
372第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 01:34:54 0
>>365
等価交換とは、商品交換(貨幣交換)のようにその場で価値が等しいとして
交換が成立することです。
互酬は等価交換ではありません。贈与(与える)という非等価交換です。
たとえば返礼は必ずしも贈与された人に返す必要はないのです。
返礼は贈与されることで生まれた負債感を解消する行為です。
たとえば先輩にお世話になったことを、今度自分が先輩になったときに、
後輩にしてあげる。そして贈与と返礼の伝統が作られていくのです。
この伝統を全体としてみると、擬似等価交換のようなものが成立している。

構造主義が示したのは、未開社会の局所的な互酬が、高度に数学的な
象徴的構造(擬似等価交換)を成立させていた、ということです。
さらにはポスト構造主義では、このような象徴的構造分析は、できすぎた
静的なものであり、実際はもっと動的で曖昧なものであるということです。
たとえば学校の伝統であるといいながら、後輩をかわいがらない先輩
もいたりするわけです。
373第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 01:42:27 0
>>366
ラカンがいったのは、子供のころの母親との想像的な関係に、父が介入し
象徴的な秩序のもとにおかれる、すなわち去勢です。
だから去勢後は、想像的なものと象徴的なもの、さらに現実的なものが
それぞれに支え合った形で世界は形成されているということです。
象徴的なものとは言語ですから、認識論的にいえば、世界は言語によって
構造化されるということになります。
374考える名無しさん:2007/09/09(日) 01:43:07 0
互酬てのは分かち合いとか慈愛、喜捨とか、そんなもんで
数値化すべきものではないのでは?
つーか、合理性を超えたところがあるのでは?
375第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 01:45:37 0
>>368-370
???
376第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 01:48:18 0
>>374
互酬で成り立つ経済に全体として数学的な秩序が
あった、というのが構造主義の発見です。
377考える名無しさん:2007/09/09(日) 01:54:44 0
>>376
そいつは西欧的合理主義に無理矢理嵌め込んだのだと思う。
本来、価値は計測できないのだから。
378第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 01:57:57 0
>>377
価値ではなく、構造(秩序)です。
構造主義の初歩ですから、勉強してみてください。
379考える名無しさん:2007/09/09(日) 02:14:54 0
>>378
それでは資本主義-商品経済と大差ないのでは?
貨幣という媒介が無いだけで、



380第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 02:29:12 0
>>379
共同体の経済の基本は成員の生存を保証する
という根源的な目的があると思うのです。
そのためには、価値の分配が必要なわけです。
それは、未開社会だろうが、封建社会だろうが、
資本主義だろうが変わらない。

381考える名無しさん:2007/09/09(日) 02:41:05 0
>>380
大雑把にいえば互酬的経済と資本主義経済は大差ない。
ということですか。
382第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 02:46:48 0
>>381
なにが共通で、なにが違うか、が重要であるということですね。
383考える名無しさん:2007/09/09(日) 02:52:59 0
互酬においては共同体のほうにウエイトがあるような気は
しますがね。

384考える名無しさん:2007/09/09(日) 02:59:25 0
古い言葉かもしれませんが、ゲマインシャフトとかですね。
385第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 03:00:53 0
互酬が共同体の内部で成立し、
貨幣交換は共同体と共同体の間で成立すると言われる理由です。
その当たりはこのスレで比較してきましたので、
参考にしてください。
386考える名無しさん:2007/09/09(日) 03:14:09 0
共同体ではゲゼルシャフト、ゲマインシャフトという区別も
ありますし、(他にも集団論とかとして色々あるようですが)
おおよそ了解です。
387第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 03:41:57 0
マルクスのおもしろいところはこのような社会学的なものを
経済学的に説明するところですね。
それは唯物史観ということです。
経済という物質的な関係で構造的に説明することで、
社会のあり方がより客観的になる、ということです。
いまでは、経済だけを下部構造とするのは、無理があると
言われますが、
経済を重要視することの説得力は、それが生存に
根ざしているからです。
たとえば、数日間、食料がたたれても死活問題であるという
ことによって、人は経済に深く依存せざるおえないということです。
388第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 09:57:21 0
■なぜ日本人は元気がなのか。

「親密な関係を重視する」ことを避け「相手が誰であろうが等しく尊重する」

「親密な関係を重視する」互酬制に対する、「相手が誰であろうが等価として交換する」貨
幣交換という対立は、近代化のポイントになる。たとえば公共性とは、「親密な関係を重視
する」ことではなく、「相手が誰であろうが等しく」関係性をもつ。むしろ「親密な関係を重視
する」態度は避けられる。

近代的な主体とは、「親密な関係を重視する」ことを避け、「相手が誰であろうが等しく尊重
する」という規範を訓練された主体である。これは、フーコーのいう規律訓練型権力によっ
て、作られる。

たとえば最近、中国人において様々なモラルが問題になっている。商品の安全管理の悪
さ、公共でのマナーの悪さ、コピー商品など、これらは近代的な規律として、国家権力に
よって、規律訓練されなければならない。そこ規律とは、「親密な関係を重視する」ことを避
け、「相手が誰であろうが等しく尊重する」ことである。
389第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 09:58:14 0
日本人のマナーの高さと元気のなさ

日本も以前はそうだったのだろうが、今では十分に訓練され、世界的に日本人のマナーの
高さは評価されているところまできている。ただこのような訓練は、近代化への適応という
方向性において価値をもつ。だから失ったものがある。「親密な関係を重視する」こと。

たとえば田舎者が都会に来ると、小さな地方コミュニティに支えられた自己主張がウザがら
えるということがあるが、これはまさにそのような抑圧である。小さなコミュニティという井の
中の蛙は、それはそれで幸福な状態である。大海において、都会人は小さく無表情に生き
るというようなことがある。

日本人は特に訓練されすぎて、公共性の中で閉塞しているように思うのです。動物化した
主体という社会性からの退却には、このような面があるように思います。
390第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 10:00:28 0
ネットの公共性の低さは、国家権力の抑圧が低いことによる。このような権力はフーコーの
いうような規律訓練的なので、物理的な圧力でなく、自己内面的であるはずが、ネットという
場で規律圧が弱まるのはなぜか。
391第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 10:58:40 0
■マルクスのリアリティと彼岸

価値配分としての経済

マルクスのおもしろいところは、社会学的なものを経済学的に説明するところです。それは唯
物史観ということです。経済という物質的な関係で構造的に説明することで、社会のあり方が
より客観的になる、ということです。いまでは、経済だけを下部構造とするのは、無理があると
言われますが、経済を重要視することの説得力は、それが生存に根ざしているからです。た
とえば、数日間、食料がたたれても死活問題であるということによって、人は経済に深く依存せ
ざるおえないということです。

共同体の経済の基本は成員の生存を保証するという根源的な目的があると思うのです。そ
のためには、価値の配分が必要なわけです。それは、未開社会だろうが、封建社会だろうが、
資本主義だろうが変わらない。そのような意味で、経済には共通の部分があると思います。
392第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 10:59:31 0
擬似等価交換

等価交換とは、商品交換(貨幣交換)のようにその場で価値が等しいとして交換が成立するこ
とです。互酬は等価交換ではありません。贈与(与える)という非等価交換です。たとえば返礼
は必ずしも贈与された人に返す必要はないのです。返礼は贈与されることで生まれた負債感
を解消する行為です。たとえば先輩にお世話になったことを、今度自分が先輩になったとき
に、後輩にしてあげる。そして贈与と返礼の伝統が作られていくのです。この伝統を全体として
みると、擬似等価交換のようなものが成立している。構造主義が示したのは、未開社会の局
所的な互酬が、高度に数学的な象徴的構造(擬似等価交換)を成立させていた、ということです。

ボクはこのような「価値の分配」に対する感受性を「公平感」と呼びました。成員の中である程
度の「公平感」がなければ、共同体は維持されない。というか、共同体という「想像的な」内部
そのものが、このような「公平感」によって可能になっているのです。
393第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 11:00:08 0
マルクスの彼岸

マルクスの資本主義批判は、使用価値と交換価値の二重性についてです。物神性は二重性
にあらわれ、資本家は労働力を二重性において剰余価値を生み出します。マルクスの資本主
義批判は、経済学でありつづけました。

マルクスも資本家が賄賂なので不正を行っていることは、知っていたでしょうが、これは経済学
ではないのです。経済学とは貨幣交換を基本にした科学です。だから経済学的操作によって
生み出されている構造的な搾取を指摘することがめざしたのであって、不正を指摘することは
政治であり、個人的な犯罪であり、科学者マルクスには関係がないのです。

しかしボクが貨幣交換に対置する互酬制の根元性を指摘する。賄賂の問題は個人的な犯罪
ではなく、構造的な問題であるということです。そして科学(経済学)はそもそも、このような互
酬性(想像的なもの)を扱うことができなのです。だからボクが貨幣交換に潜む互酬性につい
て言及するときには、マルクスのみではなく、経済学全般の批判(科学の批判)、経済学の彼
岸を語っているのです。 そしてこのような彼岸は、精神分析のみが扱うことを可能なのです。
394第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 13:42:11 O
親密な関係をつくる。これは生存の安全、あるいは楽しさなど、とても当たり前なことではないでしょうか。
親しい人とそうでない人への対応はことなります。

しかし社会の流動性が向上するなかでこのような親しさは禁止されます。
395考える名無しさん:2007/09/09(日) 13:47:19 0
嫌オタク流
中原昌也、高橋ヨシキ、海猫沢めろん、更科修一郎 定価 : 1,000円+ 税
出版:太田出版 サイズ:四六判 / 224p ISBN:4-7783-1001-2

■内容説明
緊急出版! ぼくらはみんな“萌えカス”になってしまったのか!?
誰も語らなかった、もうひとつのオタク論(目次参照)。本書を、「オタクこそが優生種族である」「市場原理によってオタクはオタク以外のものを淘汰した、我々の勝利だ!」と無邪気に信じている人々へ捧げる―――。

第一部 「オタクの時代」の真実 中原昌也×高橋ヨシキ×海猫沢めろん

イントロダクション
大人の常識が失われた世界
「オタクは勝ち組」の嘘
「オタク選民意識」の源流
アウトサイダー・アートとしての“萌え”
オタクは本当に弾圧されているのか?
世界に認められていないジャパニメーション
オタクの夢の国、日本
オタクはなぜ近親相姦が好きなのか?
今のオタクは恵まれている
オタクは迫害されていない
萌えと性欲
「恋愛」が分からないオタクたち
オタクの女性蔑視
1リットルの涙を流せってんだ!
下流社会の娯楽としてのアニメ

第二部 日本を蝕む「萌え(ルビ・ポルノ)」の脅威 中原昌也×高橋ヨシキ×更科修一郎

http://www.ohtabooks.com/view/bookinfo.cgi?isbn=4778310012
396第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 14:30:15 O
これがもっとも強く求められるのが国家公務員です。社会的に一般的な親しいものとの助け合いにも注意する必要があります。
しかしこのような誰もがもつものであり、公共性とよばれます。
397考える名無しさん:2007/09/09(日) 17:10:23 0
政治思想におけるリバタリアニズムの大きな特徴の一つは、国家への人々の心情的・規範同一化に
徹底して反対するという個人主義的要素にある。
リバタリアニズムの観点からすれば、国家や政府は諸個人の基本的権利を保護するといった道具的
役割しかもたない。それ以上の価値を認めることは個人の自由だが、それを他人にまで強いるのは
不当な介入である。国民的あるいは民族的なアイディンティティなるものが各個人にとってどの
くらい大切か、社会にとってどれくらい有益かは一つの問題だが、ともかくその確立は政府の
任務ではない。
ところが今の日本では、ナショナリズムに一見反対している論者たちが戦後世代が戦後世代が
戦争責任の引き受けることを主張するというねじれが見られる。しかしそれは日本人すべてに、
戦前戦中戦後を通じた「日本人」という国民集団への人格的帰属を強いることになる。
これこそ否定されるべきナショナリズムの一類型である。国がなんらかの責任を負うからといって
国民が人格的な責任を負うということにはならない。
森村進「自由はどこまで可能かーリバタリアニズム入門」P132~133
398第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 17:26:34 0
■公共性のナイーブさ

「親密な関係を重視する」互酬制、「相手が誰であろうが等価として交換する」貨幣交換

「親密な関係を重視する」互酬制に対する、「相手が誰であろうが等価として交換する」貨
幣交換という対立は、近代化のポイントになる。たとえば公共性とは、「親密な関係を重視
する」ことではなく、「相手が誰であろうが等しく」関係性をもつ。むしろ「親密な関係を重視
する」態度は避けられる。

近代的な主体とは、「親密な関係を重視する」ことを避け、「相手が誰であろうが等しく扱う
」という規範を訓練された主体である。これは、フーコーのいう規律訓練型権力によっ
て、作られる。
399第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 17:27:25 0
アーレントの公共領域

これをアーレントの公共の議論につなげることだできるだろう。アーレントは私的領域(プラ
イバシーの領域)、ボクが言う「親密な関係を重視する」互酬的領域に対して、社会的領域
(経済社会)の領域と公共領域(政治的自由な領域)を考えます。

ボクがいう「相手が誰であろうが等しく尊重する」という公共性において、「相手が誰であろ
うが等価として交換する」貨幣交換を重視する領域としての社会的領域とわけて、他者を
尊重し会話する領域としての公共領域(政治的自由な領域)を立てます。

社会的(経済的)領域では、貨幣交換において相手が誰であるか問わないように、人は誰
もが同じであるように画一化する。それに対して、公共(政治的)領域では一人ずつをそれ
ぞれ尊重するという「複数性」を求めます。それは、柄谷がいう自由の互酬性としてのアソ
シエーショニズムといえるでしょう。
400第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 17:30:19 0
互酬性「私的領域」、貨幣交換「経済的領域」、アソシエーション「公共的領域」

アーレントはこのような公共(政治的)領域の実現を、「活動」と呼び、生存を支える「労
働」、創造が高い「仕事」と区別し、高次な行為と考えます。ボクは、互酬的「親密な関係を
重視する」、貨幣交換的「相手が誰であろうが等しく扱う」、アソシエーション的「相手が誰で
あろうが等しく尊重する」という次元を考えたいと思います。

互酬性のような「私的領域」は、生存に根ざした身近な関係を重視しますので、人間関係の
基底としてあります。「経済的領域」は、社会の流動性が増す近代において、貨幣交換を作
動させるために、国家による規律訓練によって教育する必要があります。画一の徹底は、
さらには生権力によって徹底されます。

さらにはアソシエーションのような「公共的領域」はさらに高度な教育が必要とされるととも
に、他者を等しく尊重するという行為は、人の認知限界を超えた理想でしかないのかもしれ
ません。これはデリダの倫理的な他者性に繋がるものですが、あまりにナイーブは領域で
あるといえます。

アーレントの公共領域は、奴隷制経済によって支えられてアテナの民主制を想定しており、
経済性を無視した非現実的なものであるという批判があります。近代的な公共性が貨幣交
換という経済を支えるものとして成立していると考えれば、経済的領域と公共領域を分類
し、教育することの難しさ、高等な要求であり、維持することがむずかしいナイーブなもので
あることがわかります。
401第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 17:46:00 0
現代は規律訓練から生権力と言われるように、ネオリバタリアニズムなど、
経済的領域を徹底する傾向にあります。すなわち貨幣交換に依存した動物化です。
それはアソシエーション「公共的領域」があまりに高度で、ナイーブであることにも
よるでしょう。
402考える名無しさん:2007/09/09(日) 23:02:31 0
          ____   
       / \  /\ キリッ
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    /   ⌒(__人__)⌒ \    <知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
    |      |r┬-|    |      初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について…
     \     `ー'´   /
    ノ            \
  /´               ヽ              
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 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、.    
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))





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 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ
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| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      気の利いた洒落のつもりかよwwwwwwwwwwwwwww
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ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
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 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
403第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 23:39:25 0
ロールズの「善に対する正義の優位性」

ロールズのリベラリズム「正義論」において、正義とは、「公正としての正義」、「自由で平等
な人々が完全に「自発的な意志」のもとで、合意する取り決め」である。だからロールズが
「善に対する正義の優位性」というとき、「善」がボクが言う主観的な「公平」であり、「正義」
が取り決めによる「平等」に対応するだろう。

ロールズの正義論の核心である「善に対する正義の優位性」をボクの考えで説明すると、
人々は公平(善)を求める。しかしこれは小さなコミュニティの主観的な価値であり、コミュニ
ティ間で調整することはむずかしい。よって、大きなコミュニティにおいては、より客観的な
取り決めによる平等(正義)を目指される。しかし人々は公平(善)を求めているので、取り
決め(正義)との差異が生まれ続ける故に、終わりなく、取り決め(正義)を試行錯誤(内省
的均衡)し続ける、ということになるだろう。

しかし取り決めがロールズのいう「公正としての正義」すなわち自由と平等である必然性は
ない。すなわち正義が封建社会的階級制、あるいは宗教的な原理主義的平等、社会主義
的平等、修正的資本主義的平等によって目指されてはならない前提はない。ロールズの
正義がリベラリズムであるのは、あくまで現代の資本主義社会を支えることを前提としたイ
デオロギーであるからだ。
404第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/09(日) 23:50:31 0
外部(環境)/グレイゾーン(経済的領域)/私的領域(公平)/政治的領域(正義)
環境/経済学/社会学/政治学
環境/貨幣交換/互酬/アソシエーション
環境/資本/ネーション/国家
405第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/10(月) 00:11:04 0
■公平な社会とは

・互酬と貨幣交換 ポランニー
 環境/貨幣交換/互酬/アソシエーション

・資本と国家 ウォーラースーテイン
 環境/資本/ネーション/国家

・規律訓練型と生権力型 フーコ

・経済的公共性と政治的公共性  アーレント
 外部(環境)/グレイゾーン(経済的領域)/私的領域(公平)/政治的領域(正義)
 環境/経済学/社会学/政治学

・善と正義(公平と平等) ロールーズ
406第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/10(月) 00:50:33 0
自由の互酬性(相互性)とは、身近な愛の関係でも、広域の交換の関係でもなく、
広域に愛の関係をめざすと言うことです。これをマルクスはアソシエーションといい、
デリダ、柄谷は他者性と呼びました。倫理的な次元です。

ネットコミュニケーションにおいて、互酬性によるネットワークが再現されています。
オープンソース、Web2.0など。しかしこれはかなり限られた領域でしかありません。
特に経済を支えるものになっていません。


407第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/10(月) 00:51:24 0
■公平な社会とは

1 リベラリズム

1)互酬と貨幣交換 マルクス、ポランニー
 貨幣交換/互酬/アソシエーション
2)資本と国家 柄谷、ウォーラースーテイン
 資本/ネーション/国家
3)規律訓練型と生権力型 フーコ
4)マクドナルド化(動物化) 
5)ポストモダンの二層構造 東
6)経済的公共性と政治的公共性  アーレント
 外部(環境)/グレイゾーン(経済的領域)/私的領域(公平)/政治的領域(正義)
 経済学/社会学/政治学
 消費の関係/愛の関係
7)善と正義(公平と平等) ロールーズ

2 どこへ向かうのか

・<環境>の回帰
・ネット上の公平
408考える名無しさん:2007/09/10(月) 22:26:20 0
ぴかぁ〜の仲間のキキキが作家になるために動いているらしいですよ。
もし本が出れば買ってあげましょうね。
409第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 09:09:13 O
黒沢明の映画「生きる」のテレビドラマリメイクをみて、しんみりしてしまった。
市役所勤務の惰性的な日常を生きる男をガンにより余命がわずかなことをしり、苦悩する。
まず快楽を追求するが虚しく、若い子のいきいきに感染し楽しくなるが気持ちわるがられ
最後に放置された不法投棄処理に奔走し公園建設にこぎつけ、完成された公園に満足しながら死んでいく。
ここにある道徳的教訓を導くなら、自らができることを一生懸命することに充実があるということだろう。
410第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 09:24:58 O
その前日にエヴァ劇場版をみていた。シンジは死をかけたまさに死に物狂いという点で共通点がみいだせる。
しかしシンジにはなぜ彼のような人々を救っても充実がないのか。それはシンジには場を受け入れる能動性がないからだ。巻き込まれいやいや死に対面される。
411第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 09:31:29 O
ボクが思うのはシンジの態度よりも、それが人々の共感を呼んだことに興味がある。きっと「生きる」の主人公よりも、共感するのだろう。
そしてこれは人々が責任を回避しているといこととは逆の意味をもつのではないだろうか。
すなわち責任とは他者から負荷されるものであり、それを拒絶したいことにリアリティがある。
412第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 09:46:33 O
ボクたちは責任の消失した時代に生きているのだ。だれかから強烈な責任を求められることはない。
強烈な責任を拒否する態度、そしていやいやながらも死に物狂いで解決する。
これ以上の快楽があるだろうか。
生きる男は責任を与えられない男である。もはや彼の態度は道徳的であるより、自己満足的である。
413第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 10:03:35 O
私でなければできない仕事などない。市場とはそのように私的なものを解体する領域である。
いかに責任をみいたすか。この二つに反映されている。
セカイ系の夢をみるか、自己満足するか
414第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/11(火) 12:32:56 O
生きる男の若い子への感染はオタク的であるといえる。その徹底にセカイ系がある。

それを乗り越えた生きる男の最後の仕事は倫理的であるといえるか。
倫理的であるためには対話をしてあとに続く仲間を作らなければならなかったのだろう。
だからつけ焼き場の自己満足といわなければならないだろう。
415考える名無しさん:2007/09/13(木) 00:00:13 0
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    /   ⌒(__人__)⌒ \    <知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
    |      |r┬-|    |      初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について…
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| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      気の利いた洒落のつもりかよwwwwwwwwwwwwwww
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 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
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416考える名無しさん:2007/09/13(木) 00:17:49 0
>>415
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒」
が生じた、と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒。」
を生じさせたと考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サウンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサウンチマン(=ル・サウンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。
417考える名無しさん:2007/09/13(木) 01:00:35 0
>>416
谷川俊太郎「なんでもおまんこ」
ttp://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/6.html
418考える名無しさん:2007/09/13(木) 19:02:52 O
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人は
どうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、
「ドイツ哲学の学者達」の悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、
偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。
本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、ドイツ式観念語
(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)
を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。
こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてると、あとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。
当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回して、それが
「するどい批評になっていなければいけない」と、勝手に思い込む。

副島隆彦「属国日本論を超えて」
419短パン:2007/09/13(木) 19:50:05 0
読む気にもなれない。。。

落ちたな。
420考える名無しさん:2007/09/13(木) 20:45:57 O
え おまい読めたの?ぞぬ
421考える名無しさん:2007/09/13(木) 22:02:15 0
>>419
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」について
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒」
が生じた、と言うのがセコ厨の懸命な主張だが、
その内実が「文体がくどいから納豆ネバネバ文体」というような、まさに、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言であるので、それが、
「哲厨にとって、勢古氏の指摘は、ソーカル事件に匹敵する大事件だったのだろう
今まで自分が信じてきた世界観、価値観が足下からガラガラと
崩れ落ちる不安感。そして、自分が入れあげた哲学に騙されていたと
知った時の驚愕。そして失望。その後、時間差で襲ってきた憤怒と激怒。」
を生じさせたと考えるにはかなり無理があり、
そんなものに自分のル・サウンチマンを仮託してカタルシスを求める人間は、やはり、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
のであり、その結果、哲学板でバカにされ、論理で立ち向かうことができないので、
自作自演、騙り、擬似ウォッチスレ立て、あるいは、2ちゃんのクリシェに逃げ、
挙句の果てには意味の無いコピペを板のスレッド中に貼り付け、迷惑を掛けまくるのも、
知的ルサウンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにしている
当人自身知的ルサウンチマン(=ル・サウンチマン)に重篤に冒された人間の当然の成り行きである。
422短パン:2007/09/13(木) 22:22:54 0
長文系が「読んで貰えないと、総てが無効・。。。」

知ってるよ、その位はな?
423第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/14(金) 11:01:59 O
競争をさけ、やさしく振る舞う若者たち。
オマエよりオレのほうが重要だ。現代の競争の本質はここにある。だれかが優位にたてはそれに比べてオレなんか、と不安になる。
不安であるほどそれは自らの生存以上の重要な価値となり、精神的追い詰められ不健康になる。
このナイーブさは回りからみるとなんてことないものが疑心暗鬼により増大する。
すなわちこのような競争不安は孤立からくる。信頼ある関係が失われたところからくる。
424第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/14(金) 11:06:30 O
これはかつてのスポコンマンガに描かれた競争とはことなる。それは信頼ある競争である。
ライバルとは強く意識しあうことで互いの重要性を補完しあう。そこに絆がある。
現代人が孤立化しやすいのは「自由」と深く関係する。
425考える名無しさん:2007/09/14(金) 11:51:11 0
>>423-424
【ニート】「人をけ落としてまで生きたくない」【フリーター】
http://news23.2ch.net/test/read.cgi/news/1189550401/

426第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/14(金) 11:52:22 O
自由は豊かさに支えられている。豊かであることで他者に依存しない自由を享受することができる、とともに豊かさそのものが自由を規定する。
すなわち何をもっているかという多様性が自由の指標になる。買える多様性の範囲が自由の範囲であるといえる。
このような物質的豊かさに依存した自由は他者との関係を希薄にする。
427第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/14(金) 11:54:45 O
>>425
そう、その記事について
428考える名無しさん:2007/09/14(金) 13:48:55 O
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人は
どうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、
「ドイツ哲学の学者達」の悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、
偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。
本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、ドイツ式観念語
(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)
を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。
こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてると、あとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。
当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回して、それが
「するどい批評になっていなければいけない」と、勝手に思い込む。

副島隆彦「属国日本論を超えて」
429考える名無しさん:2007/09/14(金) 16:01:18 0
>>427
哲学とか学問とか抜きにして、423,424は面白いと思ったよ。
これ2レスに関しては恐らく、他人の理論を持ち出したり、他の人の主張にわざと近づけたりさせてない感じがする。
自分で考えて、自分で導いた(だろう)というところが魅力的だと思う。
ところが、426の最後で今までの、たとえば>>406-407に無理矢理つなげようとしているのかなと感じた。
学問に拘るのなら面白い必要はないんだけどね。読んで面白いものを追求するのもありじゃないかな、と思ったまでです。
430考える名無しさん:2007/09/15(土) 05:13:52 0
                l三`ー 、_;:;:;:;:;:;:j;:;:;:;:;:;:_;:;:;_;:-三三三三三l
               l三  r=ミ''‐--‐';二,_ ̄    ,三三三彡彡l_   この感じ・・・・
              lミ′   ̄    ー-'"    '=ミニ彡彡/‐、ヽ
                  l;l  ,_-‐ 、    __,,.. - 、       彡彡彳、.//  自演か・・
_______∧,、_‖ `之ヽ、, i l´ _,ィ辷ァ-、、   彡彡'r ノ/_ ______
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄'`'` ̄ 1     ̄フ/l l::. ヽこ~ ̄     彡彳~´/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                 ヽ   ´ :l .l:::.         彡ィ-‐'′
                ゝ、  / :.  :r-、        彡′
              / ィ:ヘ  `ヽ:__,ィ='´        彡;ヽ、
          _,,..-‐'7 /:::::::ヽ   _: :_    ヽ      ィ´.}::ヽ ヽ、
      _,-‐'´    {  ヽ:::::::::ヘ `'ー===ー-- '   /ノ /::::::ヘ, ヽー、
431第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/15(土) 17:57:18 0
>>429
そういうこともありますが、また社会学/経済学という対立もありますね。
432第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/15(土) 20:59:49 O
最近ほんとにマスコミの質が落ちたのか、ネットとの連動化しているのか
些細なミスをネタにあおるタイプの内容が増えていますね。
マスコミの2ちゃんねる化というのでしょうか。明らかにネットの瞬発的な反応を当て込んだ報道形態ということでしょう
433第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/15(土) 21:04:31 O
人気投票が民意として政治さえも動かす。これはネットの発達で人気の応答性がよくなっているためでしょう。
この応答性を求めて、マスコミは些細なことをネタとするために衝撃的に報道する。
434考える名無しさん:2007/09/15(土) 21:05:16 0
ネット以前からあったような気がするけど
文春や新潮のスキャンダルジャーナリズム化
は結構前でしょう
2ちゃんはとくにひどいが
何処でも前向きな意見がなくなり、揚げ足取りの魔女狩りが
一時しのぎの憂さ晴らしになる。いじめのネット版
435第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/15(土) 22:57:50 O
スキャンダルは以前からあるがネットはセンシティブにしているということでしょう。
ネットでの反響をあてこんでネタを提供するマスコミ。それはネット外の反応にも影響する。
436第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/15(土) 23:02:27 O
たとえばニュース板がマスコミの受けそうなニュースを拾い上げてネタで楽しむとすれば、
マスコミもネットの盛り上がりを意識してニュースをつくる。
437考える名無しさん:2007/09/15(土) 23:02:29 0
それは主に2ちゃんなんですか。
僕にはネット世界と言うのは漠然として
つかみどころがないですが。
438第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/17(月) 03:04:26 O
どこまでが贈与的でどこまでか貨幣交換的であるか考えるとおもしろい。
たとえばサービス残業とはなんだろう。バイトでは時間と対価は厳密である。サービスで残業することはありえない。
439短パン:2007/09/17(月) 04:04:53 0
>どこまでが贈与的でどこまでか貨幣交換的であるか考えるとおもしろい。

何処が面白いのかを書いてみろ?ぴか〜・・・
いい加減にデキネェのか?おっさんは。。。おぃ。
440短パン:2007/09/17(月) 04:08:25 0
広義的なヤツの視野が狭視的な、視点で語ってどぅなる?
・・・。け。臭いよ、おまえ。
441考える名無しさん:2007/09/17(月) 05:10:32 0
イヌ派とネコ派みたいに交錯しているのだな。
そこでイヌとネコ両方飼う人というのは、
イヌ派とネコ派の人が考えているより一段階手前の認識でイヌネコを捉えるのだが、
労働に関しても同様の交錯を保ったままいられるのだろうか。
賃金という形で現れる違いを目にして、不平等を新たに感じてしまうだろう。
金は別腹で消化してしまう。
442考える名無しさん:2007/09/17(月) 09:56:03 O
ぴっかさんは、あい変わらず浅いですね
443考える名無しさん:2007/09/18(火) 04:13:16 0
ところで思想地図は投稿したの?
444第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/19(水) 23:35:20 O
なんでも鑑定団をたまにみるがあのおもしろさはなんだろう。
あそこには二つの物語がある。ひとつは依頼者の鑑定対象への思い入れの物語である。
先祖からの言い伝え、友人からの贈り物などなど
もう一つは対象そのものの物語である。どのような時代にどのように生まれたのか。
そしてプロにより価格が査定される。この価格は後者の 対象の物語と関係してあらわれる。
そこに依頼人の気持ちとのあいだにギャップが生まれるとともに、僕たちの考えていた常識とのギャップである。
こんな茶わんがこんな値段?
445第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/19(水) 23:43:05 O
ここで決まる価格はまさに交換価値である。ビンテイジ品は使用価値よりもその希少性に価値がもたれ、その価値はどれだけ人がほしがるか、人気があるかで決定する。
だからまずもって生活に根ざした価格でないところのより浮遊した、不思議な価格であるところのおもしろさである。
しかしそれは現実の価格であることにはかわりなく、そこに一攫千金的な夢がある。
446考える名無しさん:2007/09/19(水) 23:55:11 0
エンゲル係数的な範囲と道楽みたいな範囲を一緒くたにはできない。
447考える名無しさん:2007/09/20(木) 00:23:24 0
「お宝」は生活の必需・実用には属さず、道楽などの対象であるが「見栄」「虚飾」など
暮らしに彩を添えるなどの精神的・象徴的効用はあって、優れて文化的対象・財でもありうる。
448考える名無しさん:2007/09/20(木) 00:57:43 0
文化資本が経済資本を外れて逆規定することがある。いわゆるブルデュー
の象徴資本、ブランドである。
しかしブルデューによれば家庭・学校教育による文化資本は最終的に
経済資本に規定される。
449考える名無しさん:2007/09/20(木) 01:08:01 0
成り上がりが没落貴族の娘を娶るのは文化という財を手に入れようと
するのである。
450考える名無しさん:2007/09/20(木) 02:38:23 0
婚姻関係には新興階級の戦略がはたらく

大学教授は文化資本が最大であるが経済資本は中である。
成金は文化資本がゼロである。

451第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 00:00:09 0
「純粋贈与」という外部

少し前にテレビで見たが、小学生に命の尊うさを学ばせるために、ニワトリを飼うという
のがあった。買うだけならどこの学校でもやっているが、最終の目的が大きくなったニ
ワトリを自分たちで殺し、それを食べるというものだ。

ここでの問題は、ボクたちは様々な生き物を殺して食する。大好きは焼肉の裏で、確実
に大量の牛やブタ、鳥が殺されているのだ。現代ではそのような死は隠されている。こ
の学校の試みは「死」を現前化させることで、命の尊うさを学ぼうという趣旨だったと思
う。しかし結局のところ、そのニワトリは殺されなかった。子供達が嫌がったのと、親た
ちも反対したためだたように思う。
452第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 00:05:06 0
「純粋贈与」による内部(コミュニティ)の再生産

「純粋贈与」とはそもそも「空気」のような負債感が生まれないものである。空気を吸っ
ていることにいちいち感謝する人はいない。しかし古来、人が原始的な自然神を信仰し
てきたのは、まさに「純粋贈与」への気づきと、感謝である。

「純粋贈与」とは単に「めぐみ」だけではない。なぜなら自然は人間の価値の外にある
からだ。空気が強く吹けば台風、太陽が強く照れば日照り、雨が大量に降れば洪水、
その強度に意味はない。「純粋贈与」が天の恵みであるか、天災であるかは、人間の
価値でしかない。

だからこの「外部(純粋贈与)からの衝撃」にいかに適応するかが、人間が歴史であ
る。そして「純粋贈与」への敬意は内部を作る。天の恵み/天罰があり、それを分ける
ことで、「贈与」は開始される。それは内部(コミュニティ)の始まりである。だから「純粋
贈与」への自覚は絶えず、内部(コミュニティ)の結束力を生む。すなわち「純粋贈与」
は内部形成のドライブなのである。
453第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 00:06:34 0
「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ

動物の「死」とは「純粋贈与」である。だからこの授業の目的は「純粋贈与」の残酷さ、
尊さを知ることで、「内部(社会)」の意味をしることだと言える。このような経験は確か
に貴重なものになるだろう。

しかしボクたちに迫っているのはむしろ家畜の「死」を知るよりも狂牛問題などの食の
安全性の問題である。「自然のめぐみとして牛の命をいただく。感謝!」ではすまない。
食肉の生産の中で人工授精、飼育、生産、商品交換をいかに管理するか。それが問
題である。

純粋贈与が根源的に消失しているわけではない。地球環境は空気を浄化し、太陽から
は光が降り注ぐ。問題は贈与から資本主義的な貨幣交換への転換によって、空気、太
陽光でさえも、日当たりの良い環境、空調と商品化されている。それらを商品化するの
が管理技術である。

「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ。ここでは、食の安全が脅かされてるから管
理が求められるのか、管理されることが安全への気づきを掘り起こすのか、相補的な
関係にある。それが純粋贈与の存在を見えないものとしている。
454第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 00:07:39 0
純粋略奪の快楽

純粋贈与の到来は、、内部/外部の二項対立を生みだす。そして外部へ対峙するこ
と、この未知を前にした身震い、そして死ぬ気でむかう必死さの中で人間は実感(リア
リティ)をえる/でしか得られない。それが人間が外部へ向かう略奪略奪の快楽(享楽)
である。

人間は、外部からの衝撃にいかに適応するか、として文明を発達させ、懸命に生き延
びてきた。贈与社会ではこのような純粋略奪の快楽は抑止されてきた。それは内部の
掟以上に純粋贈与の到来によってである。強い掟によっての集団性によってしか、外
部(純粋贈与)からの衝撃に耐えることができなかったからだ。

科学技術は内部から外部への反撃である。科学技術は内外の対立を溶解し、内外の
境界に「グレーゾーン」を拡大する。このグレイゾーンにおいて資本主義の貨幣交換は
作動する。そしてここでは純粋略奪の快楽をドライブに作動している。そして解放された
略奪略奪の快楽(享楽)は強迫性を増している。

なぜ人間は破滅的に豊かさを求めるのか。「安全は危険を生み出すためにある」という
「安全への強迫性」に見いだせる転倒が生まれる。さらに「環境問題は自然の恵みであ
る。」排除したはずの純粋贈与が回帰しくるのだから。「危険こそ安全(安心)である」と
いう逆転倒である。遺伝子改良、そしてネットテクノロジーなど、テクノロジーの過剰の
意味もここに見いだせる。
455第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 00:08:11 0
純粋略奪の快楽はどこへ向かうのか

ニワトリは殺させかなった子供達。彼らは略奪略奪の快楽(享楽)することが怖いわけ
ではない。ニワトリは「ニワトリさん」なのである。すなわち動物とはペットであり、内部に
回収されている。それは「殺人」に近い。これは転倒であるが、純粋贈与が消失した社
会とはそのようなものである。

にも関わらず彼らは資本主義社会に生きて、略奪略奪の快楽(享楽)を増殖させてい
るのである。それはどこに向かうのか。すなわち彼らは「外部」をどこに見いだしていく
のか・・・
456第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 01:57:56 O
身近なものとの繋がりとしての内部の強化と外部との広い交流
457第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 15:01:06 O
人間においてまずすべきことは生存することである。そして生存は決定的に自然と関係する。
自然のめぐみ、自然災害という到来の中を生存すること。
このために大切なことは自然と対話することである。自然がなにを考え、なにをもとめているのかを知ることが大切である。
しかしその前に大切なのが自然が対話可能であるという前提である。
自然がただただ不確実で人間との対話が可能であり、なおかつ人間を糸も簡単に殺害する力を秘めていたら、人間に救いがあるか、そのようなことを受けとめることなどできないだろう。
だから自然は対話可能な他者、すなわち神である。自然の恵みはご褒美であり、災害は罰であり、神からの贈与である。
458第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 15:09:53 O
さらに生存に大切なことは隣人である。この過酷な中で一人で生きることなどそもそもの可能性としてない。
だから生まれたときからすでに隣人たちとの集団の一部としてある。その集団とは当然、自然としての神とともにあり、従属するものとしてある。
神のめぐみも災害という巨大な贈与を分け合うことで生存する集団としてある。
だからなにものもみなのものであり、伝達は贈与によりおこなわれる。
459考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:00:27 0
おまえのものは俺のもの
俺のものは俺のもの
460考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:25:01 0
無限から有限が析出される過程

神・子・聖霊

絶対無・無・有

想像界・象徴界・現実界
461考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:41:42 0
『純粋な自然の贈与』ケネー
重農学派

農業の分与が交換なのか

労働価値説
462考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:44:47 0
貨幣価値説
近代においては貨幣が神なのか
463考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:49:06 0
経済人類学
限定された目的の貨幣
貨幣は祓うための宗教的呪物
464考える名無しさん:2007/09/21(金) 17:52:19 0
経済人類学
共同体の定義
@貨幣が共通
A同じ祭りを祝う
B禁忌(罪と罰)の共有
465第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/21(金) 19:04:44 O
贈与性と貨幣等価交換性の関係性ほと経済性だけでなく、社会性、さらに政治性を表記する指標はないように思う。
すなわち贈与性とは相手が誰であるかを重視した関係性であり、等価交換とは誰であるかを排除し、ものとしての関係性である。
466考える名無しさん:2007/09/21(金) 19:56:00 O
自然が神だの対話可能な他者だの
思い込みや受け売りなど聞きとうないわ

おまえはエビちゃんがどうの テレビで何やってただの言っとったほうがお似合いだ
実際楽しいだろ?
467考える名無しさん:2007/09/22(土) 13:43:53 0
>>465
贈与性=夫婦関係
等価交換=フーゾク、売買春
468考える名無しさん:2007/09/22(土) 18:21:48 0
資本主義は絶対許さん!
469考える名無しさん:2007/09/22(土) 18:25:27 0
交換という抽象がそもそもおかしいんじゃないの
470考える名無しさん:2007/09/22(土) 19:44:55 0
>>468
資本主義は許さん!貨幣は認めん!

=女はタダでやらせろ
471考える名無しさん:2007/09/22(土) 20:17:00 0
ハード(自動車、電化製品等)の交換を減らして
ソフト(音楽、映像等)の交換で経済は回せないものか
472考える名無しさん:2007/09/23(日) 11:59:46 0
実際の経済の現場で交換を実感するのはイカれた経済学徒だけじゃないの
等価交換なんてないから剰余も価値も発生するんだろ
473D3:2007/09/23(日) 12:53:52 0
>>476
贈与は他者を人としてあつかう。継続した関係性を育てる。
貨幣交換は他者をもの(消耗品)としてあつかう。

>>471
人はソフトだけでお腹はふくれないということでしょう。

>>472
マルクスがいうように、剰余の問題は等価交換の中から生まれからこそ
問題なわけです。
474D3:2007/09/23(日) 12:58:31 0
贈与性と貨幣等価交換性の関係性ほと経済性だけでなく、社会性、
さらに政治性を表記する指標はないように思う。
すなわち贈与性とは相手が誰であるかを重視した関係性であり、
等価交換とは誰であるかを排除し、ものとしての関係性である。

しかしそれでも贈与と等価交換の境界は不明確である。
475D3:2007/09/23(日) 13:02:37 0
贈与は時間を考慮する。
交換はその場で完結するということもできるが、
投資とはなんだろうか。
等価交換を目指されるが、そこには思い入れが入る。
476考える名無しさん:2007/09/23(日) 13:15:55 0
D3→D3NH→第三の波平
(´。` )
477D3:2007/09/23(日) 13:17:05 0
うんこ
478第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/23(日) 13:30:37 O
たとえば風俗嬢はサービスをうる。彼女のようにふるまうがそれはお金との交換であり、サービス内と外は断絶している。
この人間関係性から断絶こそが等価交換の特徴であり、力である。
479考える名無しさん:2007/09/23(日) 14:35:03 O
完全に見誤っている。
哀れ…
480考える名無しさん:2007/09/23(日) 15:07:18 0

     ミミ ヽヽヽヽリリノノノノ
    ミ   ,,、,、,、,、,、,、,、、 彡 
     l  i''"        i彡
     | 」  ⌒' '⌒  |  
    ,r-/  <・> < ・> |      
    l       ノ( 、_, )ヽ |    <アイドル?エビちゃん?札束ちらつかせたら股開いたぜ
    ー'    ノ、__!!_,.、|      
     ∧     ヽニニソ  l      
   /\ヽ         /    
 /     ヽ.  `ー--一' ノ/ヽ    ノ7_,,, 、    ______
/   (⌒、"⌒ソ⌒ヽ─ '"   `、  ( ィ⌒ -'"",う/壱 / /万:/|
    ~''(_)(_)(_)(_)ソ       ヽノ   ,イ^_.|≡≡|__|≡≡|彡|_____
    ヽ/`、_, ィ/           ヽ─/ ̄//|≡≡|__|≡≡|/壱//万 :/|
   /     /           ) / ≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|彡|
         /            i|≡≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|彡|
\      ノ             |≡≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|彡|
  \__ /             ノ|≡≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|/
481考える名無しさん:2007/09/23(日) 18:49:42 O
オレンジを搾るとオレンジジュースが

牛の乳を搾ると牛乳ができる

ぴかぁが絞っているのは雑巾
できるのは?捨てるしかない汚水ってわけ
ただ絞る力が強いからその量も夥しいわね
このスレは差し詰め下水
よかったねぴかぁ
2ちゃんがあって
482第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/23(日) 18:53:07 0
貴重なものも回りには欲望が渦巻く。
贈与は貴重なものに関係し、交換は一般的なものに関係する。
483考える名無しさん:2007/09/23(日) 18:55:52 0
独自通貨「円天」の健康商品会社、会員5万人への配当停止
9月23日9時19分配信 読売新聞
 高額の配当や、「円天」と呼ばれる独自通貨をもらえるとうたって、全国の会員から多額の「協力金」を集めていた東京都新宿区の健康関連商品販売会社
「エル・アンド・ジー」が今年2月以降、配当の支払いを中止し、各地の消費生活センターに苦情が相次いでいることがわかった。
 今月20日には、同社が社員の大半を解雇したことも判明。同社の会員は約5万人、集めた資金は約1000億円に上るとみられ、
返金を求めて訴訟を起こした会員の代理人弁護士は「不特定多数から資金を預かることを禁じた出資法違反の疑いが強い」と指摘している。
 健康補助食品などの製造・販売を目的に1987年に設立された同社は、2004年ごろから全国各地のホテルで演歌歌手やタレントを招いた説明会を開催。
「1口100万円の協力金を預けて会員になれば3か月ごとに9万円の配当を支払う」「1年後の満期には元本を返金する」などとうたって、会員の勧誘を始めた。
484第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 00:51:22 0
等価交換の等価とはいかように決定されるのか。
商品価値とはなにか、につながる。
なぜなら商品とは等価交換されるための対象のことだからだ。
まさにマルクスのいった商品の分析からはじまる。
485第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 01:01:35 0
マルクスが資本家から労働者の搾取を考えたとき、
たとえば資本家がその経済力にものをいわせて様々に画策し、
不正な搾取を行っていることを指摘したのではない。
そのような政治的な不正にはマルクスは興味がない。
なぜなら本質的な問題は経済的な下部構造になるからだ。
すなわちマルクスが指摘するのは、資本主義という「正当な」構造
そのものに組み込まれている不当さである。
資本主義という経済の正当さこそが不当であるということであり、
そのためには資本家、政治家の隠れた悪行など小さなことで、
革命によって正当さそのものは変えなければならないと考えたのである。
486第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 01:06:25 0
それは労働力という特殊な商品が「正当に」等価交換される
ところに隠された不当さである。
だからマルクスは等価交換そのものを否定したわけではない。
より等価に交換される正当な生産様式を思考したということである。
487考える名無しさん:2007/09/24(月) 01:19:11 0
不正(というか格差の拡大)は資本主義以前からある。

豊かな土地の住人は不毛な土地の住人に対して始めから有利であり、
余った不要な収穫物をもって不毛な土地の住人の大事なものと交換
できるのだから。
488第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 01:24:58 0
このような状況の中でモースによって発見されたのが、「贈与」である。
それは経済の本質が等価交換にないとういうこと、そして
レヴィ=ストロースによって、「贈与」が等価交換と劣らず、
高い経済構造を持ち得るということを示したのだ。
これはある意味で、マルクスを含めた経済学への衝撃であるとともに、
マルクスの考えるアソシエーションの可能性を開くものであった。
489第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 01:38:45 0
だから等価交換とはなにか、と考える必要があるだろ。
それは古典経済者が考え出した妄想なのか
490第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 01:48:53 0
まずはじめに考えることは、
ひとは一人では生きていけないという事実である。
狩猟生活においても、農耕生活においても、人は協力を必要とする。
現代はお金さえあれば一人で生きていけるというとき、
お金さえあればという資本主義社会が分業によって成長したことを
忘れることはできないだろう。

生存における協力体制はいかようにあるのか、を考える必要がある
491考える名無しさん:2007/09/24(月) 01:49:50 0
シルクロードの商人は価格差はよく判っていて
等価交換など信じていなかった。
マルクスは商人をひどく嫌っていた。
商品以前に、生産者・労働の等価を前提としているのではないか?
492第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 02:19:08 0
生存は自然と関係する。自然の強大な力の前に立ったとき、
人々は無力である。だから生存における協力体制とはまず
身近なものとの関係の強化を意味するだろう。
協力して自然の巨大な力と立ち向かう。

しかし自然の力は災害としてだけでなく、めぐみとしてある。
人々は自然と対話し、そこにある法則性を聞き取ることで、
自然を味方につけるのである。

このとき自然は対話可能な存在として現れる。
すなわち神という他者として現れる。

自然神を中心に他者たちとの助けあい共同体として現れる。
すなわち神からの贈与、負債を分配する秩序の協力体制である。
493第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 02:27:46 0
神という贈与、負債を司る強力な中心に従うことで
共同体は成立する。
たとえばポトラッチなどの消尽、純粋な贈与は、非経済的な行為とされるが、
神を共同体の成員として考えれば、めぐみ(贈与)への返礼という経済的な
行為であることがわかる。
494考える名無しさん:2007/09/24(月) 02:37:30 0
それは基本的に多神教で唯一神ではない。
消尽・蕩尽は大抵の食い物は腐ってしまうからでもある。
また、神は共同体の外部にある、というのは恵みを齎すのだから。

495第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 02:47:09 0
たとえば多くの神話は贈与に対して、欲張ったものが負債をおう。
構造をもつ。これは現代において、ラカンが「手紙は必ず宛先に届く」
といったことにもつながる。物語とは負債が償われる点で終わる。
この生理的な欲求は、現代でも言語そのものに内在する力として
引き継がれてる。
496考える名無しさん:2007/09/24(月) 02:50:16 0
「贈与」の根本義は「無償性」にある。そうでないなら
「贈与」ではない。
497考える名無しさん:2007/09/24(月) 02:52:28 0
具体的な生産法抜きに語れるかな。分業にはそれ以前の原型が
あってはじめて分業が語れるんじゃないかな。
498考える名無しさん:2007/09/24(月) 02:57:57 0
ポランニーだって具体的で複雑な人間関係が結果的に財の配分になっているのを
描写しているのであって、非市場社会から市場社会へと至る具体的仕事が必要じゃ
ないか。抽象論は具体から析出されねば。
499第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 02:59:24 0
自然がただただ不確実で人間との対話が不可能であり、
そのような不確実性にただ翻弄されるだけの存在であることを
人は受けとめることなどできないということ。

このことが、贈与と負債という互酬性、そして神を中心とする
ヒエラルキーと分配という様式的秩序を原初的に形成する。
500考える名無しさん:2007/09/24(月) 03:03:54 0
市場社会には贈与は属さないし、
あったら賄賂みたいなもんか、家族的関係だろ。
501第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:09:33 0
>>491
商品は空間差異をもつ等価交換を利用し、剰余を得る。
等価交換は信じるものではない。
等価交換の意味がわかっていない。

>>494
>消尽・蕩尽は大抵の食い物は腐ってしまうからでもある。
???w
>また、神は共同体の外部にある、というのは恵みを齎すのだから。
神は共同体の内部にあるから神。

>>494
日本語が変w
根本義が無償性なら、根本でないものがあるということ

>>498
経済人類学と哲学の違いを考えるべし。
ニーチェから学び直すのがよい。

質問は一人か。絡むならもっと気合い入れろ。なめんな。惚け
502考える名無しさん:2007/09/24(月) 03:18:28 0
神は共同体から疎外されたものだ、という意味で外部と言っています。
勿論、その共同体に固有の神であったりはするのですが。

贈与が等価交換であったりするわけはないでしょう。
503第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:20:45 0
>>502
外部が内部に回収されたものを神(話)というんだ。

>贈与が等価交換であったりするわけはないでしょう。

???ヨッパらんって絡むな。
504第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:21:30 0
古典経済学の等価交換

等価交換の等価とはいかように決定されるのか。商品価値とはなにか、につながる。な
ぜなら商品とは等価交換されるための対象のことだからだ。まさにマルクスのいった商
品の分析からはじまる。

マルクスが資本家から労働者の搾取を考えたとき、たとえば資本家がその経済力にも
のをいわせて様々に画策し、不正な搾取を行っていることを指摘したのではない。その
ような政治的な不正にはマルクスは興味がない。なぜなら本質的な問題は経済的な下
部構造になるからだ。すなわちマルクスが指摘するのは、資本主義という「正当な」構
造そのものに組み込まれている不当さである。資本主義という経済の正当さこそが不
当であるということであり、そのためには資本家、政治家の隠れた悪行など小さなこと
で、革命によって正当さそのものは変えなければならないと考えたのである。

それは労働力という特殊な商品が「正当に」等価交換されるところに隠された不当さで
ある。だからマルクスは等価交換そのものを否定したわけではない。より等価に交換さ
れる正当な生産様式を思考したということである。

このような状況の中でモースによって発見されたのが、「贈与」である。それは経済の
本質が等価交換にないとういうこと、そしてレヴィ=ストロースによって、「贈与」が等価
交換と劣らず、高い経済構造を持ち得るということを示したのだ。これはある意味で、
マルクスを含めた経済学への衝撃であった。だから等価交換とはなにか、と考える必
要があるだろ。それは古典経済者が考え出した妄想なのか。
505第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:22:09 0
自然神と共同体

まずはじめに考えることは、ひとは一人では生きていけないという事実である。狩猟生
活においても、農耕生活においても、人は協力を必要とする。現代はお金さえあれば
一人で生きていけるというとき、お金さえあればという資本主義社会が分業によって成
長したことを忘れることはできないだろう。生存における協力体制はいかようにあるの
か、を考える必要がある

生存は自然と関係する。自然の強大な力の前に立ったとき、人々は無力である。だか
ら生存における協力体制とはまず身近なものとの関係の強化を意味するだろう。協力
して自然の巨大な力と立ち向かう。しかし自然の力は災害としてだけでなく、めぐみとし
てある。人々は自然と対話し、そこにある法則性を聞き取ることで、自然を味方につけ
るのである。

このとき自然は対話可能な存在として現れる。すなわち神という他者として現れる。自
然神を中心に他者たちとの助けあい共同体として現れる。すなわち神からの贈与、負
債を分配する秩序の協力体制である。
506第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:23:03 0
神という贈与、負債を司る強力な中心に従うことで共同体は成立する。たとえばポトラッ
チなどの消尽、純粋な贈与は、非経済的な行為とされるが、神を共同体の成員として
考えれば、めぐみ(贈与)への返礼という経済的な行為であることがわかる。

たとえば多くの神話は贈与に対して、欲張ったものが負債をおう。構造をもつ。これは
現代において、ラカンが「手紙は必ず宛先に届く」といったことにもつながる。物語とは
負債が償われる点で終わる。この生理的な欲求は、現代でも言語そのものに内在する
力として引き継がれてる。

自然がただただ不確実で人間との対話が不可能であり、そのような不確実性にただ翻
弄されるだけの存在であることを人は受けとめることなどできないということ。このこと
が、贈与と負債という互酬性、そして神を中心とするヒエラルキーと分配という様式的秩
序を原初的に形成する。
507第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 03:30:15 0
神を中心とするヒエラルキーと分配、そして成員たちの贈与と負債という互酬性
様式が基本的には変わらない構造としてあった。だから問題は等価交換が
いかように生まれてきたのかということである。
508考える名無しさん:2007/09/24(月) 04:35:32 0
馬鹿にしてるつもりはありませんよ。
堂々めぐりに見えたもので。
経済学と哲学はどういう関係にあるわけですか。
答えなくてもいいですよ。
一見でしか関われないのは仕方ありませんから。
509第三の波平 ◇v97jOX.oqY:2007/09/24(月) 10:45:59 0
>>508
しばらくやすめ。完全に壊れかけとるがな。
510考える名無しさん:2007/09/24(月) 18:52:51 0
>>509
>完全に壊れかけとる

自覚してたんだ・・
511考える名無しさん:2007/09/24(月) 21:25:20 0

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512第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/25(火) 16:08:39 O
等価交換の発達は社会の流動性を関係するだろう。不特定多数と出会う社会構造では贈与が働くことはむずかしく、
物品の移動は略奪か、貨幣により等価交換しかない。
513考える名無しさん:2007/09/25(火) 20:30:42 O
違うよ。。。
514第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/26(水) 17:09:14 O
ダイエットは倒錯的な行為である。人は栄養を貯えることを目的にしてきた。
それが懸命にやせる。それは食べ過ぎの解消だけでなく、容姿をよくするというためだという。
このような動物は人間以外にいないだろう。まさにこれが人間の柔軟さである。
ボクはかつて環境対策にはこのような転換が必要であるといった。エネルギーをつかわないことがかっこいいという転換である。
最近のエコについての広報で近い方向があるが、どこまでこの転換された欲望が脅迫的になりえるかが問題である。
ダイエットのしすぎで死ぬ人がでているが、エコロジーのしすぎて死ね人はでるだろうか。
515考える名無しさん:2007/09/26(水) 18:39:42 O
でるね、間違いなく
516第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/27(木) 21:42:40 O
エコロジーのしすぎて死ねというのは考えにくい。一つはエコロジーというものがとても抽象的で結果としてみえにくいからだ。
成果としてどのようにあらわれるのかが見えない。
さらにダイエットが身体に直接関係することで実感として快感につながりやすい。
517第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/27(木) 23:59:51 0
人を殺してしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。
人のものを略奪することには罪悪感が伴うだろう。
そしてもっとも価値が高く、決して代替がきかない人の命を奪う。
ここには想像を絶する強烈な罪悪感が生まれるのではないだろうか。

社会的な規範の根元に、目には目をという、犯した負債を同じだけ負わせるというものがある。
現在の法律の刑罰は、説明上はこのような負債の解消に乗っ取っていいないことに
されているが、かつての仇討ちなど、そこには人間の心情にそったものがあるだろう。

たとえば子供を殺された親がその犯人に復讐するとには、負債を解消するということで、
人を殺しても、罪悪感(負債感)は少ないのではないだろうか。
すなわち略奪もまた、経済性に乗っ取った行為であることがわかる。
518考える名無しさん:2007/09/28(金) 00:05:46 0
何かドゥルーズみたいだ。
519第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 00:20:18 0
>>
贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与
者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれ
は、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ず
る負債感である。

かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及し
た。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる
/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないの
である−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」と
は究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みの
ようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相
殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確
には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換し
たならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相
殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続す
る。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与
にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相
殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏 「貨幣と精神」 第7章 聖なるものと構造
<<
520第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 00:34:26 0
純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である、
ということは、とても示唆的である。

贈与にによる交換は、負債感を延滞させることで、関係性を継続させる。
家族や親友などの親しい関係での交換が贈与によって行われるのは、
そこに継続した関係性があるからだ。また継続した関係を保証するために、
年賀状やお歳暮、お祝い、プレゼントなどの儀礼的な贈与が使われる。
そしてお返しを隠蔽する。
それに対して、貨幣による交換はその場で負債感を解消することで、関係性を
断ち切る。

このような「負債感」の相殺にかかる時間という考え方は、速度につながるだろう。
すなわち贈与による交換は、低速であるが、貨幣交換は高速に行われる。
これは近代において社会の流動性が向上する場合に、貨幣交換が求められることを
説明する。見ず知らずの様々な人々が出会い、経済活動を行う中で、
贈与交換の低速では対応できないのである。だから身近な関係などに限定される。
それはまた社会的繋がりを希薄にすることになる。
521考える名無しさん:2007/09/28(金) 00:54:53 0
しかし貨幣交換を可能にするために重要なことを純粋贈与が関係するのでは
ないだろうか。

純粋贈与は、「神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるとともに、
自然災害や予測不可能な災難なども考えることができる。すなわち神や自然の
人間に対する略奪である。ボクはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。
そして負債を解消するように復讐を望むだろう。
しかしそれは地震などの天災出会った場合には、生まれる負債感の相殺は
どこにも向かうことができない。
そしてそれを解消するために神が生まれた。神という他者を想定することで、
負債を解消する可能性を開く。でなければ、人は決して解消されない負債の
中でいきることができない。

人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との
贈与交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと
想定することで、解消しようとする。

自然のめぐみ、豊作は、神への貢ぎ物として返礼されることで、負債感を解消
しようとする。そしてこのような純粋贈与という巨大な力は、共同体全体として
受け止めることになる。すなわち負債感の配分として助け合いがうまれる。
522第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:02:12 0
しかし近代において、科学の発達は物質的な豊かさを達成し、
自然を飼い慣らし、コントロールすることを可能にする。
自然の恵み、災害という不確実性は解消され、
神から大いなる贈与を生むことがなくなる。

ここではもはや負債感の分配は必要がなくなる。
そして社会的な繋がりは希薄化し、社会は流動的になるとともに、
贈与のような強さはない脆弱は貨幣交換による高速な交換を可能にする。

もはや純粋な天災は存在しない。たとえば地震で火災が発生し死亡しても、
国による地震対策の整備不全など、責任は人災として問われる。
523考える名無しさん:2007/09/28(金) 01:18:03 0
贈与と交換とともに略奪を考えなければならない。
必要なものを手に入れるには略奪はもっとも手っ取り早い方法である。
贈与は贈与は低速であるが、その分、強度を持つ。
その強度とは、関係性の構築を意味する。
これはまた略奪からの逃れるための方法でもある。
信頼関係を築くことで、略奪を防ぐとともに、
関係性の外部からの略奪行為に対抗する防衛策でもある。

それは神や自然からの純粋略奪も意味する。
だから自然の恵みは分配しない、自然災害は助け合う。

それに対して、貨幣交換は高速であるために関係性は希薄である。
この瞬間的な交換において、相手が略奪しないとは保証されない。
このために、交換相手であるとともに、その外部からの略奪に
対しての安心が必要とされるのだ。

たとえばこれを貨幣価値はなにによって支えられているのかということに
つなげることができる。ハイパーインフレ、バブルの崩壊によって、
貨幣が紙屑になることを経験している。
524考える名無しさん:2007/09/28(金) 01:19:34 O
しかしピカァもちょっと色気がでてきたな。
これぞ世間で認められるに必要な超重大なるものにちがいないわけだがw
だって色気がなきゃいくら有能であろうとも、
いやむしろ有能であるからこそ排他されるものだろう。
というのも賛美され愛されるに値するにも関わらず他人様に無関心で素っ気ないようでは憎しみに値するわけだから。
525第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:42:12 0
■贈与から貨幣交換へ

純粋贈与と、贈与と、交換

>>
贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与
者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれ
は、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ず
る負債感である。

かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及し
た。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる
/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないの
である−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」と
は究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みの
ようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相
殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確
には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換し
たならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相
殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続す
る。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与
にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相
殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏「貨幣と精神」第7章聖なるものと構造
<<
526第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:42:56 0
純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異であ
る、ということは、とても示唆的である。贈与による交換は、負債感を延滞させること
で、関係性を継続させる。家族や親友などの親しい関係での交換が贈与によって行
われるのは、そこに継続した関係性があるからだ。また継続した関係を保証するた
めに、年賀状やお歳暮、お祝い、プレゼントなどの儀礼的な贈与が使われる。そし
てお返しを隠蔽する。それに対して、貨幣による交換はその場で負債感を解消する
ことで、関係性を断ち切る。

このような「負債感」の相殺にかかる時間という考え方は、速度につながるだろう。
すなわち贈与による交換は、低速であるが、貨幣交換は高速に行われる。そしてさ
らにここに強度が関係する。
527第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:43:49 0
贈与と交換の強度

人を殺してしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。人のものを略奪することに
は罪悪感が伴うだろう。そしてもっとも価値が高く、決して代替がきかない人の命を
奪う。ここには想像を絶する強烈な罪悪感が生まれるのではないだろうか。

社会的な規範の根元に、目には目をという、犯した負債を同じだけ負わせるというも
のがある。現在の法律の刑罰は、説明上はこのような負債の解消に乗っ取ってい
いないことにされているが、かつての仇討ちなど、そこには人間の心情にそったも
のがあるだろう。

たとえば子供を殺された親がその犯人に復讐するとには、負債を解消するというこ
とで、人を殺しても、罪悪感(負債感)は少ないのではないだろうか。すなわち略奪も
また、経済性に乗っ取った行為であることがわかる。

だから贈与と交換とともに略奪を考えなければならない。必要なものを手に入れる
には略奪はもっとも手っ取り早い方法である。贈与は贈与は低速であるが、その
分、強度を持つ。その強度とは、関係性の構築を意味する。これはまた略奪からの
逃れるための方法でもある。信頼関係を築くことで、略奪を防ぐとともに、関係性の
外部からの略奪行為に対抗する防衛策でもある。
528第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:48:42 0
純粋略奪

そしてもっとも強力な略奪とは、純粋略奪である。純粋贈与は、「神や自然の人間に
対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるとともに、自然災害や予測不可能な
災難なども考えることができる。すなわち神や自然の人間に対する略奪である。ボ
クはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。そして負債を
解消するように復讐を望むだろう。しかしそれは地震などの天災出会った場合に
は、生まれる負債感の相殺はどこにも向かうことができない。そしてそれを解消する
ために神が生まれた。神という他者を想定することで、負債を解消する可能性を開
く。でなければ、人は決して解消されない負債の中でいきることができない。

人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈与交
換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定すること
で、解消しようとする。

自然のめぐみ、豊作は、神への貢ぎ物として返礼されることで、負債感を解消しよう
とする。そしてこのような純粋贈与という巨大な力は、共同体全体として受け止める
ことになる。だから自然の恵みは分配しあい、自然災害は助け合う。すなわち負債
感の配分として助け合いがうまれる。
529第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 01:49:40 0
貨幣交換と国家権力

近代において、科学の発達は物質的な豊かさを達成し、自然を飼い慣らし、コント
ロールすることを可能にする。自然の恵み、災害という不確実性は解消され、神か
ら大いなる贈与を生むことがなくなる。ここではもはや負債感の分配は必要がなくなる。

そして社会的な繋がりは希薄化し、社会は流動的になるとともに、贈与のような強さ
はない脆弱な貨幣交換による高速な交換を可能にする。

それでも、貨幣交換という瞬間的な交換において、相手が略奪しないとは保証され
ない。さらにはたとえばこれを貨幣価値はなにによって支えられているのかというこ
とにつなげることができる。ハイパーインフレ、バブルの崩壊によって、貨幣が紙屑
になることを経験している。脆弱は貨幣交換を支えるシステムが法であり、規範の
教育であり、それを推進する国家権力である。

国家は経済的な安定性を保証することで可能になるのだろう。そして脆弱な貨幣交
換を可能にあるのである。
530考える名無しさん:2007/09/28(金) 03:09:44 O
お金って、商品と商品による交換の間接的な役割を担ってるだけだよね?
よく発明したな
531考える名無しさん:2007/09/28(金) 08:14:57 0
柄谷のエピゴーネン、死ぬしかないんじゃない
532考える名無しさん:2007/09/28(金) 08:19:06 0
柄谷のジャーゴン、死ぬまで2ちゃんでハッピー
知恵遅れが
533第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 09:31:23 0
たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。
それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。
無償で大金を贈与されることの罪悪感が伴うだろう。宝くじは一つのシステムであるが、
たとえば幸運に拾ってしまうとどうだろうか。

このために宗教に帰属していなくとも、漠然と神に感謝するだろう。
それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。
神へ感謝することで返礼する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。
また知り合いに祝儀を振る舞うだろう。たとえはホールインワンをするとパーティーを
開くなどにも現れている。

これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による
贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。

これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な行為である。負債感は無意識に
罪悪感として、今後の様々な行為を萎縮させるようなことがおこる。
たとえばサッカーでゴールをしたあと、神に祈る行為など、この幸運を吹っ切り、
次に結びつける行為であるといえるだろう。

ここに互酬性(贈与と返礼)の起源をみることができるのではないだろうか。
原始的な社会では自然の恵み、災害という偶然性のまっただ中で、生きていた。
その日常は、原因なく、幸運と不幸が降りかかる、すなわち純粋贈与(略奪)が
到来する世界である。
534考える名無しさん:2007/09/28(金) 09:45:09 0
知恵遅れがなにってんの
死ぬまで2ちゃんで書いてろ
棺おけにPC一緒に焼いてもらえ
535第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/28(金) 11:24:27 O
交換に還元されない贈与性とは純粋贈与との関係、すなわち神への返礼の混入である。
贈与はただ送り手へ迎うだけでなく、神への返礼が混入されている。
自然の不確実性に左右される生活では神への負債の解消は必要ならざるものである。
これは近代において、贈与から交換へシフトすることを説明する。すなわち自然の不確実性からの離脱、科学技術により社会の予測可能性が増す中で、神へ負債感は減少し、交換は等価性をました。
536第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/28(金) 11:42:38 O
贈与は等価性を増す。現代の贈与はかえさなくてもよいのでなく、等価、あるいは利子をつけた返礼が期待される。
たとえば専業妻とは専属のハウスキーパーであり、セックス処理だ、雇うより安上がりだというネタ話があるが、
この笑えなさは贈与のような関係がかぎりなく等価性を増すところにある。
妻の値段、子供の値段など経済性ではかられる。経済学の合理性には予期がない。
ここで消失しているのは純粋贈与への負債感であり、神への返礼である。それはこの不確実な世界にいることの不安である。
537第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/28(金) 11:45:00 O
だから科学技術が発達し予測可能性が高まった社会では、贈与から等価交換、人間的なつながりから、貨幣をもつことが重視される傾向がある。
538第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:45:22 0
■純粋贈与と、贈与と、交換

幸運と神

たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは
飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大
金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。

このために宗教への帰属とは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感
(負債感)を解消するために必要な返礼する他者を想定する。神へ感謝することで返礼
する。あるいは慈善団体へ一部寄付することもあるだろう。また知り合いに祝儀を振る
舞うだろう。

これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与
は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなも
のであるだけでなく、経済的な行為である。負債感は無意識に罪悪感として、今後の
様々な行為を萎縮させるようなことがおこる。この幸運を吹っ切り、次に結びつける行
為であるといえるだろう。たとえばホールインワンをするとパーティーを開く、たとえば
サッカーでゴールをしたあと、神に祈る行為などにも現れている。
539第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:46:15 0
贈与には神への返礼が含まれている

ここに互酬性(贈与と返礼)の起源をみることができるのではないだろうか。原始的な社
会では自然の恵み、災害という偶然性のまっただ中で、生きていた。その日常は、原因
なく、幸運と不幸が降りかかる、すなわち純粋贈与(略奪)が到来する世界である。

このような原始的な社会で互酬性(贈与と返礼)が一般的であるのは、単に共同体の
成員同士の助け合いというだけではなく、神という他者も含めた互酬性(贈与と返礼)を
考えなければならない。だから贈与は誰かに贈与すれば、いつか返礼がかえってくる
だろうという打算的な交換であるが、そのネットワークに神が含まれていることで、ボト
ラッチなど散財のような交換をこえた行為となる。すなわち贈与とはいつも神への返礼
が含まれているのである。

逆にいえば、神からの贈与への負債感を解消するために人は贈与せずにはおれな
い。互酬性(贈与と返礼)に参加するしかないのである。
540第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:46:49 0
純粋贈与と純粋略奪

>>
贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者に
なるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換
の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。

かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。
モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定し
ている契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それ
はむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈
与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定す
れはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺
にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、
負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したなら
ば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺される
だろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむ
しろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、そ
れに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできな
いことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏 「貨幣と精神」 第7章聖なるものと構造
<<
541第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:47:40 0
純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である、と
いうことは、とても示唆的である。交換における時間的な延滞を引き起こすのが、「神
への返礼」だろう。贈与は、他者との間で完結しない神の存在によって、等価交換のよ
うな瞬時に負債を解消することができない。たえず自然の恵み、災害という純粋贈与
の不確実性に晒されている以上、神への返礼を欠かすことはできないのだ。

純粋贈与は、「神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるととも
に、自然災害や予測不可能な災難なども考えることができる。すなわち神や自然の人
間に対する略奪である。ボクはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。そして負債を解
消するように復讐を望むだろう。しかしそれは地震などの天災出会った場合には、生ま
れる負債感の相殺はどこにも向かうことができない。

そしてそれを解消するために神が生まれた。神という他者を想定することで、負債を解
消する可能性を開く。でなければ、人は決して解消されない負債の中でいきることがで
きない。人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈
与交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定するこ
とで、解消しようとする。
542第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:48:41 0
近代における贈与交換の等価性

交換に還元されない贈与性とは純粋贈与との関係、すなわち神への返礼の混入であ
る。贈与はただ送り手へ向かうだけでなく、神への返礼が混入されている。自然の不確
実性に左右される生活では神への負債の解消は必要ならざるものである。

これは近代において、贈与から交換へシフトすることを説明する。すなわち自然の不確
実性からの離脱、科学技術により社会の予測可能性が増す中で、神へ負債感は減少
し、贈与は等価性を増す。この先に神への返礼が消失した貨幣による等価交換がある。

科学技術が発達し予測可能性が高まった社会では、贈与から等価交換、人間的なつ
ながりから、貨幣をもつことが重視される傾向がある。たとえば専業妻とは専属のハウ
スキーパーであり、セックス処理であり、雇うより安上がりだというネタ話がある。妻のコ
ストという考えの笑えなさは様々なものが等価交換家向かうという現状があるからだ。
543第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 13:49:20 0
等価交換の不可能性

しかしこのような現状を考えると逆に現実の貨幣による等価交換はどこまで純粋なも
の、すなわち贈与性が排除されているのか、ということもいえるだろう。等価交換を根底
にするのは経済学である。経済学では完全競争が基本とされ、主体は功利主義的に
効用を求めて等価交換を行う。しかし経済学はある種の理論的な純粋状態を記述して
おり、現実とは必ずしも合致しない。

負債感は生じない、負債感の持続時間がゼロである交換としての純粋は等価交換を
行うことができるのか。たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特
性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したも
のであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用
で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。

これはもはやコミュニケーションの問題であるかもしれない。等価交換とは完全な意味
伝達が行われたコミュニケーションの成立である。しかし意味は決して完全に伝達され
ない。だから等価交換は限りなく不可能なものであり、交換には負債感を伴わざる終え
ないのである。
544第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/28(金) 15:45:20 0
書き出すとどんどん長文になって、なんというか、
もう2ちゃんねるに書き込む域を越えてるな・・・
545考える名無しさん:2007/09/28(金) 17:54:21 O
構成力ないからな、
致し方あるまい。
546第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/28(金) 18:06:00 O
構成力というかさ、下部構造として文字数制限やスレッド方式などが、
文章、構成自体を構造化するわけよ
547考える名無しさん:2007/09/28(金) 19:14:23 0
http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0709/28/news094.html
CEDEC 2007最終日となった9月28日には、「アドベンチャーゲームの復権」と題したセッションが開催された。成り立ちから現在に至る歴史を振り返りつつ、アドベンチャーゲームの未来を考えてみた。
548考える名無しさん:2007/09/28(金) 21:14:41 O
今夜 妻を貸し出します。
これは、純粋贈与ですかね。
549考える名無しさん:2007/09/28(金) 21:26:57 O
>>546
いずれにしても
つまらんものしか書けないというわけだ
もうやめな
550考える名無しさん:2007/09/28(金) 21:31:12 0
>>549
波平は自分の風俗通いを正当化したいだけなの
つまるとかつまらんとかそういう次元ではない
551考える名無しさん:2007/09/28(金) 23:56:09 O
女は買うものだ。養うものではない。
552考える名無しさん:2007/09/29(土) 00:07:04 0
>>551
親からもらったお小遣いで風俗通いする波平(ニート)であった
これを自己正当化する為の屁理屈がこのスレの全てである


贈与 → 親は子(波平)に小遣い与えて当然である

交換 → 風俗でワシ(波平)が女買って何が悪い


この2点を踏まえて読み返すと、波平論の全てが繋がる感動が味わえる
これまでも、そしてこれからも
553考える名無しさん:2007/09/29(土) 01:55:50 0
>>543
ルーマンの『社会の経済』を読めばもうちょっと展開できるんでないかい。春日淳一の
本もでてることだし・・・。
554考える名無しさん:2007/09/29(土) 02:23:24 0
>>553

余計なお世話だな。
555考える名無しさん:2007/09/29(土) 02:36:08 0
>>554
でもな、中野の『貨幣と精神』を読むくらいだったら貨幣経済を社会学的に考察した
『社会の経済』を読む方がよほどいい。
556考える名無しさん:2007/09/29(土) 14:57:33 0
「それが仕事だから」、「プロだから」とは、ここに公共があることを意味する。
仕事は自らかが対価をえてることではなく、社会的な貢献を意味する。
557第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/29(土) 18:35:15 O
暗闇を照らすものとしての想像的な次元
そこに神的な贈与性が生まれる。
558考える名無しさん:2007/09/29(土) 18:36:48 0
ヴァーチャルリアリティは、認知限界を超える、騙す。
実用には完全は必要がない。
559第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/29(土) 22:36:03 0
等価交換に隠された「神への返礼」

贈与はただ送り手へ向かうだけでなく、神への返礼が混入されている。自然の不確
実性に左右される生活では神への負債の解消は必要ならざるものである。これは
近代において、贈与から交換へシフトすることを説明する。すなわち科学技術により
社会の予測可能性が増す中で、自然の不確実性からの離脱し、神へ負債感は減
少することで、贈与は交換性を増す。この先に貨幣による等価交換がある。

しかし逆に現実の貨幣による等価交換はどこまで純粋であるか、ということもいえる
だろう。負債感の持続時間がゼロである純粋な交換は可能なのか。たとえばある電
化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不
良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレー
ムを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのよう
なことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。

ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである
純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受けることを
意味する。だから消費者はブランド品を好むのである。すなわちどのような等価交
換であっても、相手が誰であるかという期待があり、贈与性が完全に解消されること
はないだろう。
560第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/29(土) 22:36:52 0
マルクスの貨幣論

マルクスは等価交換を「暗闇への飛躍」と呼んだように、交換は奇跡的な行為であ
る。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が出会い、交
換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を
持っている人がAというう対象を望んでいいなかればならないという奇跡的な出会い
が必要である。

貨幣はこれらの間を結ぶ位置にいる。Aという対象を持っている人もBという対象を
持っている人もまず貨幣と交換することで、等価交換を容易にする。貨幣を持つと
言うことは商品に対して優位な位置にたつことを意味する。

さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を
決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか
決まらないものであるからだ。そしてここでも貨幣は優位な位置をもつ。商品は貨幣
と交換されることで初めて価値を持つのである。

商品を売る人はもってもらうのであり、貨幣で買う人は買ってあげるという非対称な
関係が生まれる。資本家は労働者から労働力を買ってあげ、労働者は労働力を
買ってあげる、ということである。これは消費でいえば、消費者は商品を買ってあげ
る。資本家は商品を買ってもらうという非対称である。
561第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/29(土) 22:38:14 0
ラカン的贈与論

これはラカンにつなげることは容易だろう。先の互酬性(贈与と返礼)では、以下の
ような関係があった。

>>
現実界(不確実性)=純粋贈与(略奪)、自然のめぐみ、脅威→外傷的
想像界(神的なものへの期待)=外傷をさけるために、神を想定し、贈与(交換=コ
ミュニケーション)が可能ないよに振るまう→神(自然)に対して人は負債を負う→交
換に贈与性(神への贈与)を混入し負債を返礼する。
象徴界(社会的な構造化)=互酬性(贈与の儀礼化)
<<

原始社会では、自然のめぐみ、脅威という不確実性を生きる。人は不確実であるこ
とを受け止めることはできない。このために自然を神という交換可能な(超越的な)
他者とし、不確実性を負債とする。不確実性には(交換)コミュニケーションは存在し
ないが、負債とはいつかは返礼できる。そこに交換関係が成立している、ように振る
舞う。

自然のめぐみは神からの褒美であり、脅威は怒りというメッセージである。それを受
け止めて適切に返答することで、自然をコントロールする。話しかけてもコミュニ
ケーションが成立しない力とはなんと脅威であろうか。話せば分かることで人は安
心する。
562第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/29(土) 22:39:33 0
ラカン的貨幣論

>>
現実界(不確実性)=純粋等価交換(負債感の持続時間がゼロ)→利害による闘争
(略奪)の可能性
想像界(神的なものへの期待)=闘争(略奪)をさけるために、神(貨幣という絶対的
な価値)を想定し、等価交換(交換=コミュニケーション)が可能ないよに振るまう→
貨幣に対して人は負債を負う(買ってもらう立場)、貨幣を持つ者は神様→交換に贈
与性(貨幣への返礼)を混入し負債を返礼する。売るときに返礼が働く。
象徴界(社会的な構造化)=貨幣交換(貨幣交換の儀礼化)
<<

想像界(神的なものへの期待)=外傷をさけるために、神を想定し、贈与(交換=コ
ミュニケーション)が可能ないよに振るまう→神(自然)に対して人は負債を負う→交
換に贈与性(神への返礼)を混入し負債を返礼する。

異なる対象を等価に交換することは、「暗闇の飛躍」であり、不確実である。なにに
おいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに
絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なもの
であり、従うしかないと考えられる。
563第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/29(土) 22:40:19 0
貨幣への負債感

貨幣価値は交換価値として市場で決定されると思われているが、それも一つの神
話である。たとえばメーカーは市場に出回る前に価格を決定する。ここにはマルク
スのいうような労働時間(人件費)など加工費は考慮されるが、最終的にはこの商
品ならこれぐらいかな、という戦略的、偶然的に決定される。だから貨幣は神の位
置にいる。資本家と労働者の非対称性であり、お客様は神様なのである。

だから貨幣交換は負債感の持続時間がゼロであり、心理的な貸し借りの感情は、
生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるようなものではない。交換関係が成立し
ている、ように振るまうことで、人は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感を
もつ。たとえば先のブランド戦略とは、売る立場が等価交換以上のもの(信頼=贈
与性)を提供するという意味を持つだろう。
564考える名無しさん:2007/09/30(日) 00:47:59 O
>>563
6/100点
565第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 11:36:04 0
商品を売る立場は、その商品の信頼性、それはまさに売る人の信頼性をPRしなければならない。
そこには貨幣という商品はなにによって保証されているのか、ということも問われるはずが、
その問いは隠されている。貨幣はいつも絶対的な位置にいるのである。

これは、商品が十分多くある場合である。仮に商品が希少なものである場合、逆に売る立場は
強い位置にくる。価格の決定に大きな権利をもつ。しかしこれは本質的な貨幣交換とは異なる。
稀少品もまず貨幣価値化されなければ、価値を持たない。
たとえば数千万円する壺も、貨幣価値化されなければ、古い壺でしかない。
566第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 12:24:36 0
「なんでも鑑定団」をたまにみるがあのおもしろさはなんだろう。ある鑑定対象に対し
て、二つの物語が語られる。ひとつは依頼者の鑑定対象への思い入れの物語であ
る。先祖からの言い伝え、友人からの贈り物などなど。もう一つは対象そのものの
物語である。どのような時代にどのように生まれたのか。

そして最後に、プロにより価格が査定される。父の形見、一族の尊厳、作者の生死
をかけた作品など感動的な物語であっても、物語と断絶したところで価格が決定さ
れる。貨幣のもつ価値制定の力の場面がある。

だから商品を売る立場は、その商品の信頼性、それはまさに売る人の信頼性をPR
しなければならない。そこには貨幣という商品はなにによって保証されているのか、
ということも問われるはずが、その問いは隠されている。貨幣はいつも絶対的な位
置にいるのである。

しかし商品が十分多くなく、商品が希少なものである場合、逆に売る立場は強い位
置にくるのではないだろうか。だが売る立場が強い位置にくるのはあくまで貨幣によ
る価値査定の後でる。稀少品もまず貨幣価値化されなければ、価値を持たない。希
少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」が稀少であると認めること
で価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に
思い入れがあっても価値を持たない。稀少品を売る立場の強さは貨幣に従属したも
のでしかない。
567第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/30(日) 13:33:07 O
経済学の基本である効用を求める合理的な主体は消費者であるより、生産者に適応する。
この差は人の違いではなく公共的と私的に関係する。
人は生産的な場面、すなわち労働の側面において公共的な振るまい、消費において私的に振るまいますいからである。
568第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/09/30(日) 13:37:33 O
しかし貨幣価値を求める合理性を公共的なものとする考えそのものが近代におけるものであり、
資本主義社会において制定された。
569第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 14:04:16 0
>>
古典派ないし新古典派経済学においては、純粋状態とも呼べる経済システム像が
構想された。すなわち経済主体とは自律的「個人」であり、そうした個人が「利己心」
をもって「市場」で取引をするなかで「神の見えざる手」(スミス)の力によって、需要
と供給の「均衡」がもたらされた。「需要」はそれをちょうど均衡するだけの「供給」を
生み出した(セーの法則)。財市場だけでなく、貨幣市場や労働市場でも、つまりす
べての市場で同時に均衡した(ワルラスの一般均衡理論)。個人は「商品」あるいは
「財」について「効用」をもち、自分の効用を最大化に関して、「合理的」に行動し、市
場の均衡点においてその集積である「社会的厚生」が最大化された(特にピグーの
厚生経済学)−。

こうした市場について考え方は、まず基本的に、快楽の量は計算可能であるとする
ベンサムの功利主義思想に基づいているといえる。こうした「快感計算」の不可能
性や「合理的人間」という仮定が非現実的であることから、こうした諸々の仮定を批
判したり、経済学理論全体の有効性を疑問視したりする向きもある。また第二に、
過去の状態が現在を決定し、現在の状態が未来を決定するという<機械論>の考え
方がベースにあると言える。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P33-32
<<

こうした経済学的主体はどこにいるのだろうか、ということが経済学への批判であ
る。経済学の基本である効用を求める合理的な主体は消費者であるより、生産者
に適応する。この差は人の違いではなく公共的と私的に関係する。人は生産的な
場面、すなわち労働の側面において公共的な振るまい、消費において私的に振る
まいやすいからである。そして経済学的合理性を公共的なものとする考えそのもの
が近代におけるものであり、資本主義社会において制定され、目指されるイデオロ
ギーを表している。
570考える名無しさん:2007/09/30(日) 14:21:49 0
4/100点くらい?
571考える名無しさん:2007/09/30(日) 14:22:42 0
あのね、中野は経済学は全くやっていないから彼の著書を信用して経済学を語ると
とんでもない大恥をかくよ。たしか日本経済学会とは異なる経済理論学会にも彼は
入っていないと思う。
572第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 15:00:31 0
>>571
馬鹿?
573考える名無しさん:2007/09/30(日) 15:13:20 0
>>572
なら続ければいい。だれも否定はしない。ただ徒労なだけ。
574第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 15:18:02 0
>>573
自分じゃ否定できないから、学会に媚びてるんだろう。
めんどい、散れ、ボケ
575第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 15:18:33 0
「国家と商品交換は並行的に成立する」

ホッブズの秩序問題との関係で考えることができるだろう。まず外部からの略奪、め
ぐみがあり、それを想像的に解消することで秩序が生まれる。贈与において外部と
は自然であり、貨幣において外部とは共同体の外の他者である。

これは近代において、贈与から交換へ経済がシフトすることを説明するかもしれな
い。近代の科学技術の発達は、自然の不確実性を解明し、社会の予測可能性が増
す。外部としての自然の影響が低下すれば、共同体の外の他者が問題となる。

自然が脅威であったとき、共同体と自然との関係には略奪のような抜け道はなく、
自然という神への贈与に向かうしかない。そして贈与において「負債感」の相殺にか
かる時間、負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共同
体との中で行われる。これは交換に信用を与え、略奪(闘争)を排除する「強度」を
持たせる。そして共同体と共同体の間では、略奪(戦争)が行われていた。
576第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/09/30(日) 15:20:28 0
しかし近代において、自然の脅威が科学において管理されはじめ、関係が全面化し
たとき、繋がりは希薄化する。共同体の外の他者との間に緊張関係が生じる。ここ
では、貨幣交換が全面化(貨幣という神)することは、必然ではない。ホッブズの考
えは、このような外部としての自然の影響が低下したあとの問題であると言える。

だから柄谷がいうように帝国主義において、植民地として略奪が行われたのは、等
価交換などというめんどくさいものよりも、略奪することがとても容易であるからだ。
そしてこの等価交換という脆弱な行為を成立させるためには、国家権力が必要と
される。

>>
国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他
の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が
無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代
国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。

「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903
<<

すなわち経済学的世界はどこにいるのだろうか。経済学的なものを公共性とする資
本主義を進めるイデオロギー的国家戦略にある。
577考える名無しさん:2007/10/01(月) 02:42:23 0
578第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 11:47:51 O
しかしテレビが普及してまだ数十年だろ。その前は夜なにしてたんだろうか
不思議だな
579第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 12:26:51 O
不確実性としての外部を隠蔽し儀礼的に調停するところに神は生まれ、人は負債感をもち、敬う。
このようなラカン的象徴化装置において、贈与、貨幣は説明されるが、この装置は汎用的である。
たとえば君主や国家も動揺の構造にある。
580第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 12:49:53 O
これはとてもよくある構造である。浜崎あゆみだろうが、カリスマとはいままでにない外部を調停したものとして登場し、ファンは「いろんなモノをもらった」と負債を負うことで崇める。
581第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 12:57:54 O
すると問題はどこに不確実性を見いだすか、ということになる。
重要な点は外部は客観的に存在するのではなく、人々が脅威であることであらわれる。
現代において、神よりも貨幣ー国家(法)ー科学技術、すなわち論理的な分析が有用であるということだ。
582第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 13:02:27 O
これは、問題(外部)そのものもシステムが生み出しているとすればトートロジーに陥る。
それを断ち切るのは生存ではないだろうか。結局のところ生存を保障する神(システム)はどこに見いだされるのか、というリミットにおいて、システムシフトは作動する。
583第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 13:08:42 O
どのようなシステムにおいても生存における問題を解決するなら、人々は負債感をもち敬う。
そして現在においても感染は貨幣にだけむかっているわけではないが、貨幣の力がましているのも確かだろう。
問題は、生み出される例外状態はなにか?ということだ。
584第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/01(月) 13:17:43 O
現代の例外状態とは国家(法)、貨幣の外部である。環境、資源問題、テロリズム、ネットなどがあげられる。
585第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:09:18 0
■「世界共和国」論

なぜグローバリズムで格差が生まれるのか

例外状態をいかに統治し、人々の生存を確保するか、それがその時代の「神」の役目
である。

グローバリズムは、柄谷がいうように、最近のことではなく、国家はそのはじめから世界
経済とともに発生した、ということである。そして科学技術−国家(法)−貨幣の秩序体
系は、国家の境界(グレイゾーン)で自国のために、権力を発動させる。国家権力のも
と、科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市
場へ流入することで利潤をえる。ここに国家間の権力闘争があり、先進国は帝国主義
的な植民地であり、南北格差問題など、合法的に略奪を繰り返してきた。

たとえば中国が世界の工場と言われるのは、大量の人々を労働力として均質に科学
的に教育し、安価に市場に投入することで、安価で質のよい人材を提供することにあ
る。国家としての中国は、先進国との利害をめぐる駆け引きが行われる。

このような例外状態における闘争は、国内でも格差として現れるだろう。経済学者がい
うようにネオリベラリズムが生み出す格差が単に経済学的な合理性、すなわち自由と
平等の状態では統計学的に算出されるような格差である、という外で、その例外状態
において、このような闘争が行われ、そして決定的に権力(お金)を持つ者が優位に働
くだろう。「小さな政府」はまた一つの国家戦略である。
586第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:09:52 0
回帰する純粋贈与(略奪)

現代の外部は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する純粋贈与(略
奪)」とは、人間とは関係がない純粋は自然災害などではなく、環境資源問題、テロリ
ズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出している例外状態で
生まれる。

これを表す象徴的な物語はAIDSである。AIDSは本来、アフリカ奥地の猿に感染する
ウィルスであったという。これは社会の外部の存在であるが、まだ外部とは言えな
い。AIDSウィルスが外部であるのは、それが内部に到来し、人々に恐怖を与えることに
おいてである。

これはアガンベンの用語で言えば、外部と内部の境界、開拓された外部=グレイゾー
ンの問題いうことだできるだろう。
587第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:10:28 0
なぜビン・ラディンは脅威なのか

先進国の権力への反動ということで、現代のテロリズムも、また開拓された外部、回帰
した外部である。このような権力への抵抗運動は耐えず存在した。

たとえばビン・ラディンの脅威は、一人の金持ちが現代の「帝国」とも呼ばれるアメリカと
対等に戦えているという事実である。ここには、「不確実性としての外部を隠蔽し儀礼
的に調停するところに神は生まれ、人は負債感をもち、敬うという、ラカン的象徴化装
置が働いている。それは宗教的な指導者と近い位置であるが、それとは異なるのは、
彼が神格化されることで暴力を手に入れたというよりも、テロリズムという暴力の行使
にによって、神格化されたということだ。

イラク、北朝鮮などの原子爆弾の流出の可能性など、従来は高価で高い位置にいる者
のみが手に入れることができた科学技術である兵器、情報(ネット)技術などが安価で
手にはいるようになっていることで、科学技術−独自の信念によって、アメリカに対抗で
きるまでになっているということではないだろうか。

権力への抵抗運動は耐えず存在したが、ここには「科学技術−国家(法)−貨幣」の
秩序体系における、科学技術の突出がある。科学技術の発展が、国家、貨幣の秩序
を越えた例外状態を作り出し、その秩序を脅かす。
588第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:11:01 0
なぜネットには多くの神がいるのか

ネットもまた科学技術の発展が、国家、貨幣を抑えて、その秩序を脅かす、回帰した外
部である。安価で世界へ情報発信し、コミュニケーションすることが可能にすることで、
国家(法)の秩序を飛び越え、危険な情報や、法的な公共性において認められないよう
な誹謗中傷などが、無法地帯として氾濫している。国家(法)の秩序が及ばないけれ
ば、当然、貨幣交換も安心してできない。

このような例外状態は、略奪(闘争)の場である。だから贈与関係の強度が浮上し、
ネットの社会性を支えている。そしてネットにおいての「神」は、国家(法)でも、貨幣で
もなく、贈与するものである。高価なソフトをアップするもの、一般には知りえない有用
な情報を公開するもの、無償の労働で有用な意見を発信するアルファブロガーなど
は、まさに「神」と呼ばれ、自らの裸体を晒す女性は「女神」と呼ばれる。ネットでは多く
において、匿名であり、それ故に、「小さな」純粋贈与=天からの贈り物と行うものであ
るために、小さな「神」なのである。

しかしこれらはまた「科学技術−国家(法)−貨幣」の秩序体系が世界を開拓する時に
生まれる遷移状態であるといえるのかもしれない。中東にも確実に資本主義的な秩序
は浸透し続けているし、ネット技術はまさにグローバリズムを押し進めるツールである。
ネットへの国家権力の行使の緩さは、「ネット上で人は殺せない」というような直接的な
生存と離れているためであるとも言える。テロリズムの「神」もネットの「神」も、現代の
「神」=科学技術−国家(法)−貨幣にかわり、人々の生存を保証する可能性は低いだろう。
589第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:11:39 0
なぜ環境問題対策はうまくいかないのか

それは絶対主義国家設立のはじめからかわらない。だから環境問題は根本的な生き
ずづまりかもしれない。格差としてしか解消されなければ神の位置を確保できない。

環境問題もまた、現代の「神」=科学技術−国家(法)−貨幣が生み出した、回帰した
外部(自然の脅威)である。環境問題対応としては、一つは省エネなどの科学技術が
考えられる。環境対策はメーカーには開発費がかさみ、消費者には価格アップになる。
だからこのような技術の導入は、国家(法)主導による強制としての規制、環境税、補
助金などが必要である。

本質的な問題は、科学技術−国家(法)−貨幣は、環境問題という例外状態において
も利潤を生み出さなければ、その「神」としての存在意義を問われることにあるだろう。
環境問題は、1国だけで解決できず、国家間の利害が絡んでうまくいっていないのは、
それぞれの国家がその存在意義として、環境対策をしながら、利益を生み出すことを
指名としているからだ。
590第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 11:14:23 0
「世界共和国」論

柄谷の「世界共和国」論が単に、国家の上位概念として国際組織を作ることだけを意
味せず、アソシエーションとして、科学技術−世界共和国(法)−贈与というシステムそ
のもののシフト(革命)を提案するのもそのためだろう。

これは現実には夢物語である。しかし環境問題から利益を生めずに、人々の生存に
近接するとき、科学技術−国家(法)−貨幣のシステムへの信頼は解体される。そし
て再びホッブズ的な略奪(戦争)状態が発生することは十分に考えられる。

最近の中国による世界資源の争奪などに、その傾向が見えているのかもしれない。そ
こで浮上するものは、やはり共同体として組織される贈与関係の絆である。そして共同
体間の混沌として闘争のずっと先にしか、新たな「神」は現れないだろう。
591第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/02(火) 11:41:26 O
世界の貧困が平準化しないのは国家間に闘争があるからだ。システムはこのような国家間の闘争、神々の闘争でしか解決できない。
神々を納まる神はいない。
グローバリズムも国際的環境問題対策もそれはかわらない。
だからだだシステムはみずからの存在意義をかけ、神々の闘争、国家間の闘争を激化させる。
国家の強行さはシステムとして自国民の生存にかかわっているからだ。しかしここにトートロジーがある。
国家がなければ自国民ネンーションはない。すなわちここにまさに神の構図がある。
592第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 12:07:52 0
「世界共和国」の可能性

世界の貧困が平準化しないのは国家間に闘争があるからだ。このような国家間の
闘争、神々の闘争でしか解決できない。神々を納める神はいない。それは、グロー
バリズムでも国際的環境問題対策でもかわらない。だから環境問題が深刻化して
も、国家はただみずからの存在意義をかけ、神々の闘争、国家間の闘争を激化さ
せる。最近の中国による世界資源の争奪などに、その傾向が見えているのかもし
れない。

このような国家の強固さは、自国民(ネーション)の生存にかかわっているからだ。し
かしここに循環論があるだろう。自国民(ネンーション)は国家に先行して存在する
わけではなく、国家がなければ自国民(ネンーション)は存在しない。すなわちここに
まさにラカン的象徴化装置による神の構図がある。

柄谷の「世界共和国」論が単に、国家の上位概念として国際組織を作ることだけを
意味せず、アソシエーションとして、科学技術−世界共和国(法)−贈与というシス
テムそのもののシフト(革命)を提案するは、神々が調停することはなく、新たな神
が生まれるしかないためだろう。

「世界共和国」が可能であるとすれば、このような神々の闘争が混沌としてた先にし
かないだろう。あるいは宇宙人が攻めて、地球人の生存そのものが危ぶまれると
き、「世界共和国」という強い神は作動するだろう。
593考える名無しさん:2007/10/02(火) 14:41:15 0
RPGゲームはシュミラークル化したフロンティアではないですか?

御回答よろしくお願いします。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412959064
594考える名無しさん:2007/10/02(火) 15:53:37 0
波兵はさ、ものすごいたくさん書いているけど、何のため?
595第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 16:03:52 0
>>593
そうですよ。
でも作業ゲー言葉があるように、没入するかはどうかは、あなた次第。
>>594
波平です。
596第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 16:06:52 0
とうとう完結しましたよ。(^^)

なぜお金がすべてなのか(仮) 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/

その1 純粋贈与と、贈与と、交換
その2 貨幣への負債感
その3 科学技術−国家(法)−貨幣
その4 貨幣交換世界の正当性
その5 神々の闘争



597第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 16:22:32 0
残念ながらこれが今のボクの限界です(><)
598第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 21:54:46 0
■純粋贈与と、贈与と、交換

・人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈与
交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定する
ことで、解消しようとする。

・異なる対象を等価に交換することは、「暗闇の飛躍」であり、不確実である。なにに
おいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに
絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なもの
であり、従うしかないと考えられる。

・交換関係が成立しているように振るまうことで、人は貨幣に対して負債をおう。売
る立場は負債感をもつ。

・結局のところ生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。アガンベンは
シュミットを引用し、「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」と言った
が、ここでいう選ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停した
のか、が問題となるだろう。
599第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 21:55:44 0
・そして贈与における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身
近な共同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘
争)を排除するような繋がりの「強度」があるだろう。

・なぜなら貨幣交換は、負債感を生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋
がりの強度を生みにくい、繊細で弱いシステムであるからだ。

・科学技術と世界経済が権力の独占を可能にすることで、国家は可能になった。す
なわち、科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システム」を形
成したということだ。科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の
非対称性によって市場へ流入する。これらの運用を国家権力が補強する。

・科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制
定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立
ち、人々に負債感を与え続けているのだ。
600第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 21:56:20 0
・現代の外部は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する純粋贈与
(略奪)」とは、人間とは関係がない純粋は自然災害などではなく、環境資源問題、
テロリズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出している例外
状態で生まれる。

・テロリズムの「神」もネットの「神」も、現代の「神」=科学技術−国家(法)−貨幣に
かわり、人々の生存を保証する可能性は低く、新たな時代の神とはなりえないだろう。

・なぜなら科学技術−国家(法)−貨幣は、環境問題という例外状態においても利
潤を生み出さなければ、その「神」としての存在意義を問われるからだ。環境問題
は、1国だけで解決できず、国家間の利害が絡んでうまくいっていないのは、それぞ
れの国家がその存在意義として、環境対策をしながら、利益を確保するという矛盾
に陥っているからだ。

・しかし「世界共和国」が可能であるとすれば、このような神々の闘争が徹底的に混
沌としてた先にしかないだろう。
601第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 22:59:27 0
■純粋贈与と、贈与と、交換

・例外状態と権力
生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。アガンベンはシュミットを引用
し、「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」と言ったが、ここでいう選
ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停したのか、が問題と
なるだろう。

・贈与社会
原始社会では、人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)=自然のめぐみ、脅
威に晒されてきた。この例外状態を神との贈与交換として解消する、すなわちいつ
かは、「負債感」の相殺できるだろうと想定することで、解消しようとする。

・貨幣交換の神性
異なる対象を等価に交換する商品交換ことは、「暗闇の飛躍」であり、不確実であ
る。なににおいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性があ
る。そこに絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対
的なものであり、従うしかないと考えられる。 交換関係が成立しているように振るま
うことで、人は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感をもつ。
602第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 23:01:07 0
・贈与関係の強さ、貨幣交換の弱さ
贈与における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共
同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘争)を排
除するような繋がりの「強度」があるだろう。それに対して、貨幣交換は、負債感を
生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で
弱いシステムである。だから科学技術、国家権力を必要とする。

・科学技術−国家(法)−貨幣
科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システム」を形成した。
科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市
場へ流入する。これらの運用を国家権力が補強する。科学技術−国家(法)−貨幣
は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。
正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けて
いるのだ。
603第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/02(火) 23:01:55 0
・回帰する純粋贈与(略奪)
現代の外部(例外状態)は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する
純粋贈与(略奪)」とは、人間とは関係がない純粋は自然災害などではなく、環境資
源問題、テロリズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出して
いる例外状態で生まれる。テロリズムの「神」もネットの「神」も、現代の「神」=科学
技術−国家(法)−貨幣にかわり、人々の生存を保証する可能性は低く、新たな時
代の神とはなりえないだろう。

・環境問題
科学技術−国家(法)−貨幣は、環境問題という例外状態においても利潤を生み出
さなければ、その「神」としての存在意義を問われる。環境問題は、1国だけで解決
できず、国家間の利害が絡んでうまくいっていないのは、それぞれの国家がその存
在意義として、環境対策をしながら、利益を確保するという矛盾に陥っているから
だ。

・神々(国家間)の闘争
「世界共和国」が可能であるとすれば、このような神々(国家間)の闘争が徹底的に
混沌とした先にしかないだろう。
604第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 00:16:17 0
技術とは不確実性(外部)を予測可能性(内部)へ回収するものである。
「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」ということをつなげれば、
主権者とは、技術の行使を独占するものである。
605考える名無しさん:2007/10/03(水) 02:48:45 0
ようまだやってんのか?ヤメロと言ってたんだがな。
しかし事情は知らないがヤメル踏ん切りができたようだな。
何か応募したらしいじゃないか。
ま受け売りだらけだからな、多分読まないでポイかもー。
まご苦労さん。
606塾頭:2007/10/03(水) 11:03:29 0
そうか、応募したか。
意外とよくかけていると思う。ちょっと見直した。
終盤に向かってややgdgd感が漂うが、そのへんは実際の論文でお手並み拝見というところか。
ただ最大の問題は、何度もいうようだが、東と北だの課題のどっちでもないということだな。
採用される数は限られているのだから、課題どおりに書いたアブストラクトが
どれも悲惨ということでもないかぎり、かなり厳しいだろう。
まあ、グッドラックだね。お疲れさん。
607第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/03(水) 13:34:49 O
よくかけてるというか、すごいよ。フーコーやドゥルースこえてるやん。すごすぎてなにがすごいかわからん
608考える名無しさん:2007/10/03(水) 14:09:41 0
                          ,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,
                        ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;---、;:;:;:;:;:,,,
                      /;;;;;;;;;;,-'''"     ゙'''ヽ;;;;;;ヽ
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                     /;;;;;;;;;'"             _ヽ、
            r‐、'" )    i';;;;;;;;;;;            ,,;;;;;;-=ヽ、
           /  / /     |;;;;;;;;;;|  ,,,,,;;;;;;;;;-、    ‐'"゙_,,,,,,,_\
         r‐、' ヽ/ヽ/゙l    |;;;;;;;;/ /-─'''''''"ヽ   "‐=二 ̄ヽ、
        /  ノ / /、ノ     |;;;;;;|  '",,,-==‐ ヽ  " 、      ヽ
       /ヽ、/ヽ/ヽ/ /    ,┴、;|  ==ニ-‐'" ,    ヽ、     ゙i
      /ヽ、/  / /、_/     |l |ヽl        /l      .)\    i
     /   /--/、/_ /     \|lノl       /└-‐ヽ-‐'    ヽ   i
    / ─'''"    ''、/       l、 ゙|      /   ,,---'ニ=メ i  .|
   /          /        ヽ-i      i'  /-l「ヽ┼+// ;;  /    波平です!
  ./ ─-、__,,-- /          ヽ、    ヽ=ヽ─++-''ノ    /、
 /        / ̄ヽ          ,,,,\    ヽ  ゙‐─''''''"~    / ヾヽ
_/        /    ゙\____,,-''''"   \               / ) 
        /     l'"      ヽ、    \ヽ、           / /
        l      l    __,,,,ノ      \ ゙''ヽ 、,,,__,,;-'" /
        l      ,,,-─''"             ヽ、,,,       ,,‐"
       人 ,,,,,,─''"                    ゙゙゙'''''''''''''''"~
609ずれた:2007/10/03(水) 14:12:24 0
                          ,,,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,
                        ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;---、;:;:;:;:;:,,,
                      /;;;;;;;;;;,-'''"     ゙'''ヽ;;;;;;ヽ
                      /;;;;;;;;;'''           ヽ;;;;l
                     /;;;;;;;;;'"             _ヽ、
            r‐、'" )    i';;;;;;;;;;;            ,,;;;;;;-=ヽ、
           /  / /     |;;;;;;;;;;|  ,,,,,;;;;;;;;;-、    ‐'"゙_,,,,,,,_\
         r‐、' ヽ/ヽ/゙l    |;;;;;;;;/ /-─'''''''"ヽ   "‐=二 ̄ヽ、
        /  ノ / /、ノ     |;;;;;;|  '",,,-==‐ ヽ  " 、      ヽ
       /ヽ、/ヽ/ヽ/ /    ,┴、;|  ==ニ-‐'" ,    ヽ、     ゙i
      /ヽ、/  / /、_/     |l |ヽl        /l      .)\    i
     /   /--/、/_ /     \|lノl       /└-‐ヽ-‐'    ヽ   i
    / ─'''"    ''、/       l、 ゙|      /   ,,---'ニ=メ i  .|
   /          /        ヽ-i      i'  /-l「ヽ┼+// ;;  /    波平です!
  ./ ─-、__,,-- /          ヽ、    ヽ=ヽ─++-''ノ    /、
 /        / ̄ヽ          ,,,,\    ヽ  ゙‐─''''''"~    / ヾヽ
_/        /    ゙\____,,-''''"   \               / ) 
        /     l'"      ヽ、    \ヽ、           / /
       l      l    __,,,,ノ      \ ゙''ヽ 、,,,__,,;-'" /
       l      ,,,-─''"             ヽ、,,,       ,,‐"
      人 ,,,,,,─''"
610第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 17:58:14 0
なぜお金がすべてなのか(全体) 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004

おいおい、ブクマが増えてるよ。
この難解を、いまの哲学住人で理解できる奴はいないだろうに、
はてな住人ごときが読みこなせんのかよ。
ノリでブクマするなよ!ったく
611考える名無しさん:2007/10/03(水) 19:02:03 O
題名の前提からして間違ってる。
ピカァ〜のこの浮かれっぷりからしてお金が全てではない証拠だ。
612考える名無しさん:2007/10/03(水) 19:19:48 O
男子諸君は愛されるためには手段を選ばない情熱家である。
・僕には金が全てだ。そんな僕でも愛してほしい。
・僕には国が全ての愛国主義者だ。日本を日本人をそして僕を愛してほしい。

KinKi Kidsに学ぶべきである。
彼らは愛されるより愛したいんだと主張している。
613考える名無しさん:2007/10/03(水) 19:26:40 O
愛されるというのは仕事なのだ。
614第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/03(水) 19:52:01 O
やっぱ低能ばかり
615考える名無しさん:2007/10/03(水) 20:00:56 O
愛されないことを恨むでない。
愛することから始めることだ。
さすれば道は開かれん。
616考える名無しさん:2007/10/03(水) 20:15:05 O
愛されなきゃ仕事にならんぞ。
またおべっかでも愛さなきゃ仕事にならんよ。
とはいえ装いとしての愛のほうが、相手にとっては安楽でよろしいだろう。
617考える名無しさん:2007/10/03(水) 21:25:27 0
>「神」=科学技術−国家(法)−貨幣
この図式は成り立つのかねぇ?
618考える名無しさん:2007/10/03(水) 21:33:36 0
世俗的なものを並べても神にはならんだろ。
619考える名無しさん:2007/10/03(水) 21:35:56 0
読んだけれどさ、結局のところ、
「象徴界は現実界の侵犯に常に脅かされ、再編される」
のひと言でいいんじゃね?

それと、貨幣の本質は交換なんだから、贈与されるのは
同語反復だね。

「神」の定義も、歴史的地域的な差異を無視して引用されている
けれど、クラ交換で想定される神と一神教で想定される神は
別物だろうに。
資本論とか、完全にキリスト教をやり玉に挙げている論文なら
前提抜きで持ちだしてもいいと思うけれどさ。
日本の八百万の神とか北欧神話の神々なんて、象徴界の結び目に
なってないでしょ。
貨幣の概念に類似する神はあくまで一神教の神だよ。
620第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 22:35:04 0
>>619
まあ、とにかくしっかり読んでからよい。
読んでこれなら、ひと言もないな。
621第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 22:58:33 0
まあ、ひまだし・・・

>それと、貨幣の本質は交換なんだから、贈与されるのは
>同語反復だね。

贈与と贈与性は違う。

>「神」の定義も、歴史的地域的な差異を無視して引用されている
>けれど、クラ交換で想定される神と一神教で想定される神は
>別物だろうに。

クラ交換で想定される「神」と一神教で想定される「神」。おまえも両方とも「神」と書いてるだろう。

>日本の八百万の神とか北欧神話の神々なんて、象徴界の結び目に
>なってないでしょ。
>貨幣の概念に類似する神はあくまで一神教の神だよ。

確かに原始社会の自然神と貨幣の神性の間の間がないな。
多神教から一神教を書かなかった。柄谷でいうと贈与−再配分−交換の再配分のところ
そのうち書くよ。あと、ソビエトなど共産主義社会、ナチスの全体主義、消費社会とか
このあたりも書かないと。今回は新たな境地が開けたから、展開はよういだ。

「象徴界は現実界の侵犯に常に脅かされ、再編される」 なんて間違いをいうから、
今回の画期的なところを解説すると

まず「外部」の思考は、カントに始まるわけだよ。これを二つに分けなければならない。
@例外状態論 カント-ソレル−シュミット−ベンヤミン−アガンベン
A欲動論 カント−フロイト−ラカン−ドゥルーズ(浅田)−デリダ(柄谷)

今回はこの二つの融合が行われているところがすごいわけ。
まあ、わからんと思うが。
622第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 23:03:23 0
器官なき身体(ドゥルーズ)と剥き出しの生(アガンベン)の違いというかね。
ようは、力はどこからくるかってこと。
623考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:07:56 0
ようは、こっちA欲動論 フロイト−ラカン−ドゥルーズ(浅田)−デリダ(柄谷) には、
外部がない、と批判しているわけ。
純粋贈与は、本質的には象徴界の穴=現実界(欲動)とは違うわけ。
624619:2007/10/03(水) 23:10:37 0
ぴかぁ〜氏は最終的に「世界共和国へ」に結びつけたいんだろうけれど、
あの結論じゃ統一協会とどっこいどっこいじゃね?終末戦争によって新たな
世界が生まれる、と。終末戦争待望論だわな。

柄谷の主張は一貫していて、剰余価値は共同体の富の不均等にその
基礎をおいており、資本はその不均等を拡大し続けざるを得ないということ。
ラカン的にいえば、人間は現実界を象徴化しようとするが、常に象徴化できない
剰余を持ち続ける、ということだね。
貨幣の本質は、貨幣そのものの運動であり、貨幣を使う共同体の拡大であり、
自己増殖である、と。
それはいい。

しかし、環境問題が解決しないことを例に引いているように、結局システムに
絡め取られるんだから人間がいくら意志でがんばったって無駄よ、とかそういう
展開にしちゃうと、機械的唯物論への回帰か原理主義的終末戦争観に行き
着かざるをえないでしょ。
その点どうよ?
625619:2007/10/03(水) 23:16:29 0
>>621
>>贈与と贈与性の違い
貨幣は交換されるから貨幣なのよ。
贈与性ってのは、贈与への欲望でしょ。
>>624にも書いたけれど、贈与への欲望は
人間の生理的なものだよ。貨幣が全面的に
交換されなくても人間が社会的動物として
生きている頃から行われているんだから。
そして贈与の結果として貨幣が生まれ、貨幣が
普遍性を持つにつれて商品が生まれるわけだ。
その順番は別に間違えていないと思うけれど?
626第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 23:20:34 0
>>「神」=科学技術−国家(法)−貨幣
>この図式は成り立つのかねぇ?

これはもう少しつめないといけない。
国家−貨幣=神はよいとしても、科学技術は神になるための道具(暴力装置)

>>604にも書いたように、技術論がもう少し必要になる。

技術とは不確実性(外部)を予測可能性(内部)へ回収するものである。
「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」ということをつなげれば、
主権者(神)とは、技術の行使を独占するものである。

神の歴史とは、技術を誰が独占したか、で語ることができる。

最初の技術を独占したのは、自然(神)
自然は周期をもって、予測しているというは、最初の(疑似)技術

それを、呪術、灌漑などで、宗教者=王が独占していく
絶対主義国家の王は、新たな科学技術(兵器、航海術など)の芽生えを独占し、
軍部(帝国主義)に独占され、資本家、市民(民主主義国家)に渡されていく・・・みたいな

627619:2007/10/03(水) 23:25:26 0
次。
>>621
クラ交換の「神」と一神教の「神」は別物でしょ?
何でそんなことをいったのかというと、ぴかぁ〜さんの
論文を一読すると、歴史的な経過がほぼ無視されている
からなんだよね。
まぁ、その後反省しているからいいけど。

貨幣が全面的に交換されている資本主義社会に対する
分析なのか、人間という種に対する分析なのか、時代が
特定されるならどの時代について行っているのか、そこら
変をきちんと整理しないで「神」という言葉を使うのは危険
じゃないかね?

ネット上で、無料で価値あるものを配っている人間を「神」と
呼ぶのは、もちろん一神教的な「神」の神性の原初的な
現れかもしれないけれど、その「神」は何らかの統合の象徴、
象徴界の結び目ではないから、この「神」も違うしさ。

「神」って結局古いがフォイエルバッハの言葉を使えば、
種たる人間そのもの、でしょ。その人間総体の投影が一神教な
わけだ。それくらい汎用的なものだから、キルトの結び目、
象徴界の留め具になる。空っぽな場所、でしょ、神って。
628考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:26:41 0
交換を目的とした生産は「商品的」であるが、貨幣以前からあっただろう。
629考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:35:31 0
>>624
>ぴかぁ〜氏は最終的に「世界共和国へ」に結びつけたいんだろうけれど、

なわけないだろう。神々の闘争とはなにかわかってんのか。

>柄谷の主張は一貫していて、剰余価値は共同体の富の不均等にその
>基礎をおいており、資本はその不均等を拡大し続けざるを得ないということ。

マルクス理解めちゃくちゃだな。
マルクスがいっているのは、資本主義のやっかいは
資本家のやってることが正当だから問題なんだよ。
きちんと労働力に対価を払っているわけだ。
マルクスとラカンの剰余をいっしょにしちゃいかんよ。
でも、それは勉強すればいい。

>原理主義的終末戦争観に行き着かざるをえないでしょ。

神々の闘争(戦争)は、人類史上ずっとつづいているということだよ。
日本が消費社会でのほほんとしてても
世界の人の多くが貧困なのは、弱国の国民だから。
環境問題だからってそれはかわらん。
簡単なことだろう。

>>625
だから>>621-623嫁。
結局、おまえもA、そして以前のワシと一緒で「外部」がないのよ。
結局、欲望論=現実界は他者に行き着いて、外部がないんだよ。
630考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:41:42 0
>>627
クラ交換の「神」と一神教の「神」は別物でしょ?

しつこい。違うものの中の同じものを考えろ。


>論文を一読すると、歴史的な経過がほぼ無視されている
>からなんだよね。
>まぁ、その後反省しているからいいけど。

反省なんかしてねぇよ。
金払えば、本1冊つかって書いてやるよ、っていってんだよ。
631619:2007/10/03(水) 23:42:06 0
ラスト
>>621
要するに、二つの外部って
例外状態論……認識論的外部
欲動論……存在論的外部
でしょ?

例外状態論……象徴界の外部たる現実界について
欲動論……現実界を象徴化たらしめる力について
だね。
これはお互いに補完しあっている。別に目新しい
ことではない、と思うが、どこら辺が新しいの?

>>623で、欲動論には外部がない、と批判しているけれど、
そりゃ当たり前でしょう。外部を求める力のことなんだから。
外部は前提とされていて、そのものは対象とされていない。
器官なき身体は機械と接続されて生産を始めるんだから。
632619:2007/10/03(水) 23:46:11 0
>>628
商品といったときに、現代資本主義の中で我々が
接している商品は、常に他の商品との関係が前提と
されている。けれど、交換が恒常的ではなくて主に消費に
当てられることを目的としている場合における交換物は、
その当時には「交換物」であって、商品という概念が生まれる
以前のもの。
商品性、というのは後から遡及的に現代の人間がみた場合に
当てはめるカテゴリですね。
633考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:47:07 0
もし波平の本が出版されたら絶対に買うw
634第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/03(水) 23:47:39 0
>象徴界の留め具になる。空っぽな場所、でしょ、神って。

神は、外部を想像的に回収するところに現れる他者。

これが象徴界の留め具になるのは、そのあと、
だから現実界になるのはそのあと。
だからオマエには外部がないんだよ。

とにかくこれが分からないと、ワシの文を全部誤読する。
635619:2007/10/03(水) 23:53:44 0
>>629
いやいや、柄谷氏の主張は一貫してこうだよ。
「マルクスその可能性の中心」読みました?
彼のマルクス理解が正しいかどうかはともかく、
柄谷氏を引用している以上は、柄谷理論を用いないと。
引用必要ならしますよ。
マルクスの怒りが剰余価値に向いているとしても、その
剰余価値の源泉が、マルクスと柄谷とでは異なるということ
ですがな。

ラカンの剰余−人間は現実界を象徴化し続けるが、常に
すべての現実を象徴化することはできない−に確かに
似ているけれど、そこは当然区別しております。扱う
対象が違うんだから。
636考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:56:17 0
>>631
>例外状態論……認識論的外部
>欲動論……存在論的外部

存在論的と認識論的では分けられないだろう。
現実界だって、両方の意味で使われる。

しいていえば、
例外状態・・・外的外部
欲動・・・内的外部

けっきょく、内的外部というのはそのはじめから現実界的他者。
デリダ、柄谷の「他者性」がもっともあてはまる。

外的外部は想像的に他者として現れる。
637619:2007/10/04(木) 00:00:14 0
>>629
最後のところは答えになっていない。
「神」たる資本主義的生産体制と環境問題がぶつかると
いう一般的な結論を述べているに過ぎない。
その国家間なり共同体間の不均等は、資本というシステムが
要請している、という柄谷の主張はその通りだと思うけれど。
638考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:00:52 0
>「マルクスその可能性の中心」読みました?
>彼のマルクス理解が正しいかどうかはともかく、
>柄谷氏を引用している以上は、柄谷理論を用いないと。

読んだが忘れた。
でもそんな変なことはいわんよ。

>似ているけれど、そこは当然区別しております。扱う
>対象が違うんだから。

わかればよい。

639考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:03:31 0
マルクスレーニン主義が経済を先見したのは、
1928年の大恐慌だけであった。
640考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:04:45 0
>>637
なるほど。そこがわかってないんだな。
神々の闘争とは国家紛争だぞ。

>「神」たる資本主義的生産体制

ネグリ「帝国」みたいなことを思ってるんじゃないのか。
まったく逆だぞ。これはネグリ「帝国」の批判にもなってるんだから。
641第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 00:07:24 0
あれ、コテが消えた。
>>628>>639はワシじゃない。
>>629>>630>>634>>636>>638>>640はワシ
642619:2007/10/04(木) 00:07:25 0
>>634
空っぽな場所と、それを埋める誰かの違い、ってことね。それは
わかっていますが?
たとえば「共産主義」という「留め具」は結局のところ、あらゆる
人間を飲み込んでいったわけですしね。

誤読というか、論点がイマイチだといっているんだけれどなぁ。
643考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:13:20 0
マルクスレーニン主義とは、プロレタリアをメシア
として1000年王国を築くことにあった。
この社会主義にも社会改革をしながら徐々に世界を
変える考えもあったが、冷戦終了でこうした考えは
ピリオドをうった。いわば、亡霊といっていいのであった。

644第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 00:15:56 0
>>642
まさにここが論点なんだよ!

>しいていえば、
>例外状態・・・外的外部
>欲動・・・内的外部
>けっきょく、内的外部というのはそのはじめから現実界的他者。
>デリダ、柄谷の「他者性」がもっともあてはまる。
>外的外部は想像的に他者として現れる。

たとえばデリダの翻訳論がある。
なぜ翻訳は可能なのか。

あの議論は突き詰めると、現実界的他者性が現れる。
結局、人間は動物でないから、そのはじめにコミュニケーション可能性がある
ようなこと。

A欲動論 カント−フロイト−ラカン−ドゥルーズ(浅田)−デリダ(柄谷)

この流れは、突き詰めると、現実界=他者性にいきつく。
皆が、そういう風に言っているわけではないが

しかしカントの「ものそのもの」には他者性はない。それ以前の不確実性。
柄谷がカントのものそのものを他者性をといってのは、
典型的な誤読。
こちらが正当なカント継承者たち
@例外状態論 カント-ソレル−シュミット−ベンヤミン−アガンベ−第三の波平
645619:2007/10/04(木) 00:21:03 0
>>640
いやぁ、それはわかってますって。
問題は、ぴかぁ〜さんが、結局どうしたいの?ってのが
なくて、「世界はもっと混沌になっちゃうんだよ〜」っていう
結論が肩すかしだってことですよ。
読み返したってそうとしか書いていないでしょう。別にラカン
持ち出すまでもない。
そんな話なら、田中宇さんのメルマガでも読んだ方がずっと
ファンタジーですよ。

結局、ローティーみたいなことを言いたかったけれど論旨不明
になっちゃった、というのが一読した感想でした。

もっとサブカルの分析とか、そっちの方がいいんじゃないですか?
そっちに欲望は感じませんか?
世界共和国なんてどうだっていいじゃないですか?
646第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 00:29:15 0
>「世界はもっと混沌になっちゃうんだよ〜」

そんなこといってないぞ。
世界はいつも戦争状態。
だからいまも世界には貧民の方がおおい。
ぶっちゃければ、環境が悪くなってツバル共和国が沈んで難民になって、
いまとなにが違うの、ってこと。

世界共和国なんて、宇宙人でもこないとできねぇよ!
ってことだよ。
ここまで言わすなよ。


外部の話をもう一つ。
マルクスの「暗闇への飛躍」がまさに現実界=内的外部。
でももし、相手が食べ物を加えた犬だったら、
交換する馬鹿はいない。ただ略奪するだけ。
もし森になる果実だったら、交換などしないもぎ取るだけ。
これが純粋贈与(略奪)=外的外部

これはわかりやすいだろう。
学べ!
647考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:29:52 0
一口に社会主義思想といっても、2種類ある。
マルクス主義と社会民主主義である。資本主義社会で
賃金及び労働条件向上、社会福祉に貢献したのは後者である。
そのため、マルクス主義とその嫡子のボルシェヴィズムは、
社会民主主義はどの国でも争うことになる。
ベルンシュタインは千年王国より現実に立脚した主義であった。
仮に、マルクス主義などが果たした役割を問われれば、
それは反面教師であったに過ぎない。
648619:2007/10/04(木) 00:33:04 0
あれれ、ぴかぁ〜さん、ラカンからもう離れたんだぁ、びっくり!
ということは後ほど話すとして、

>>644
先に整理すると、

デリダのいう「他者」は、レヴィナスとほぼ同意ですが
「理解することの絶対に不可能なもの」という意味ですよね。
我々が「他人」というとき、それは同じ人間であったり、日本人であったり、
同僚であったり、何らかの象徴界のネットワーク上にすでに登記されている
属性によって区分される。
しかしレヴィナスやデリダは、それは「他者ではない」といった。それはすでに
知られている以上、他者とは呼べない、と。
そして他者とは、「理解も共感もできない相手」であるという概念を提起し、
この他者と共生するためにはどうすればよいのか、という正義論を打ち立てていく
(特にデリダ)

それに対してもともとカントの「もの自体」は、数字のゼロのような存在ですよね。
「物事を体系立てて理解するためにはどうしても必要となるピース、それが実在
せずとも存在を要請されるピース」のこと。だからもの自体の実在は、遡及的に
定義されるだけでその存在を確かめるすべはないし実在自体も問題にならない。
創造的に措定される外部が「外部外部」なら、外部は概念に他ならない。

カントをヘーゲルが批判してようやくドイツ観念論が発展したのに、それ以前に
戻ってしまうのはいかがなものかと……
649考える名無しさん:2007/10/04(木) 00:35:24 0
20世紀は戦争の時代といわれたが、21世紀は
戦争は起こらない安定した時代と言われる。
650619:2007/10/04(木) 00:39:18 0
>>646
>>世界共和国なんて、宇宙人でもこないとできねぇよ!
わかりやすいんですが、それってネタとしておもしろくないですよ
正直言って。
難解さの皮をはいだら当たり前のこといっているよ、ってのが今回の
論文のような気がしますが、提出先の課題はそういうものだったんですか?

一見穏やかに見える社会も、ふたをはがすと奪い合い毟りあう贈与社会で
それは人間の本性でした、というのなら、火曜深夜の日テレをみましょう。
カイジはいい題材ですよ。

これはお世辞抜きに、これまでのぴかぁ〜さんの断章は面白かったし
概念理解において勉強になったので、黙っていれずに特攻しましたよ。
651第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 00:48:12 0
>>650
もうここまでくると屁理屈だな。
デリダの脱構築なんて、誰もが普通に日常やってることでしょ、
と同じだ。

ハイディガーよりも赤ちゃんの方が世界について多く知っているなんて、
当たり前のことだ。
ガキじゃあるまいし、くだらんこというな。
652619:2007/10/04(木) 00:56:33 0
>>651
ちょっと待ってください。
「難解さの皮をはいだら当たり前のこといっているよ」ってのに
同意するんですか?

難解さは難解である意味があります。そのような概念を表す
言葉を使わなければ説明できないからこそ、難解な概念を
示す。決して難解である身振りを示すために難解な言葉を
振りまくわけではないでしょう。

赤ちゃんの方がハイデガーより世界について多く知っているわけ
ないでしょう。脳に刻み込まれたかもしれないが、それは以前
象徴界のネットワークには刻み込まれていない。だからこそハイデガーは
世界について述べた。

ぴかぁ〜さんにとっての哲学も同じでしょう?

>>644>>642が論点だといいましたよね。
それに対して僕は>>648を書きましたが、これには正面から
答えてもらえないのでしょうか?
653第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 00:58:03 0
再度、

マルクスの「暗闇への飛躍」がまさに現実界=内的外部。
そこにすでにコミュニケーション可能性=他者性が想定されている。

もし、相手が食べ物を加えた犬だったら、「暗闇への飛躍」の前にただ略奪する。
これは、もし森になる果実だったら、交換などしないもぎ取るだけ、と同じ。
これがまさに純粋贈与(略奪)=外的外部。

しかし人は不思議なことに、森の果実がなる木に、感謝したりする。
これは、外的外部に対して、想像的に他者を想定する。
そして、それを贈与として返礼(感謝)をする。
外的外部に対しては、このときはじめてコミュニケーション可能性が生まれている。

すなわちマルクスの「暗闇への飛躍」のような現実界=内的外部は、
そのはじめに、このような外的外部を想像的に回収する段階を排除している。
だから本当の外部ではなく、内的な外部と呼ぶ。
654第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 01:10:22 0
ラカンから離れているわけではない。
ジジェクも現実界を、想像的現実界、象徴的現実界、現実的現実界に分けている。

ワシのサブカルの話はついていけて、深く読めたが、
今回の貨幣論はついていけないので、浅くしか読めないというだけのこと。

A欲動論 カント−フロイト−ラカン−ドゥルーズ(浅田)−デリダ(柄谷) −ネグリ

を転覆する可能性があるということで、とにかく原石のダイヤだ。
ワシもまだ可能性を見極め切れていない。
655619:2007/10/04(木) 01:13:45 0
>>653
「内的外部」と「外的外部」って使い方逆じゃありませんか?

「内的外部」はむしろ象徴界ですし、「外的外部」は現実界でしょう。
全く予測不能の、もしくは予測範囲外の出来事こそが現実界なんですから。

サッカーやっていて、パスして味方に通るのも相手にとられるのも象徴界の
ネットワーク上の出来事でしょう。パスして通れば「内的内部」とられれば「内的外部」。
しかし心臓に当たって心拍停止になったり、いきなり虎が乱入してきたり、コート中央
から火山が噴火したらそれは現実界がちん入してきた例になる。これは外部の外部です。

暗闇への飛躍=等価交換がなしえるのは、それを交換する相手を想定して、交換という
システムが駆動することを前提としているからで、そのときの相手は「他者」であるけれど、
システムの内部の人間ですから「内的他者」ですよね。

二つわかったことがあります。
一つめ。
デリダ、レヴィナスのいう「他者」は、システムの外部に常に存在し、その接触においても
なお外部であり続ける他者です。そのような他者は「外的外部」といいませんか?
二つめ。
ぴかぁ〜さんは、結局のところ人間の動物としての生、人間という象徴界のネットワークの
そとにある人間自身のもつ原初的な性癖や行動に着目されている、ということでしょうか。

ただ、二つとも今回の論文で特に重要だと思えなかったので、どこが革新的なのかわかり
真線でした。それが私のレベルの低さなのか、論文自体の問題なのかは他の方の言及を
待つしかありませんが。
656考える名無しさん:2007/10/04(木) 01:20:52 0
第三のなみとは、ITであるが、
なみへいとは、それをパロっているのだろう。
しかし、この世界は言論の自由が無いな。
657考える名無しさん:2007/10/04(木) 01:27:25 0
まず、「贈与」という人間的「行為」と自然の「恵み」あるいは「脅威」が無造作に
混同されている、あるいは不適切な用語法である。
また、「純粋」に関しても「本源的-未分化」と「純化」が、ごたまぜにされている。

658考える名無しさん:2007/10/04(木) 01:58:38 0
>赤ちゃんの方がハイデガーより世界について多く知っている

そのことをハイデガーは「存在忘却」と言っている。
個人史的にも人類史的にも。
659考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:15:57 0
なみへいは、アルビントフラーをパロッた。
ML主義とは、マルクスレーニン主義ではなく、
毛沢東林彪主義ともいわれる。
いずれにせよ1928年の恐慌以外ははやらず
廃れた議論になった。
のみならず・・・・ここからは怖くてかけない。
660考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:26:53 0
しかし、宇宙物理の世界のようだった。
661考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:27:45 0
その心は役に○たない。
662考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:27:48 0
自分の思うように他人が読んでくれると勘違いしている時点であきまへん。
「論文」ではなく「随筆」です。
663考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:31:30 0
やはり、岩波が教科書ですか。
664考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:39:48 0
自分の思うように読んでもらう、とは
思っていません。大衆に迎合した論拠の無いこと
を、いやらしく文化人のように意見するという形の
マヌーバー的、文章で「論文」としては偏りが
大きく見られ、これは随筆と呼ぶにも
迎合するいやらしさがあるので、「随筆」でも
ありません。これは、「空想」です。
665考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:46:22 0
>自分の思うように他人が読んでくれる
そのためには互いの凡庸さが必要である。
例えば、「〜の蕎麦が旨い」というレベルである。
勿論「形而上学的には」などと言ってはおしまいである。
666考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:50:20 0
波社長は世間の人は過去にある程度の実績を残している文化人の文章と、
ペーペーのニートの文章を同じように受け取ってくれると考えているの
だろうか?
667考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:52:23 0
大衆は一般にバカであってバカと言われたがっているのである。
すなはち、勢ひにまかせて大衆を蔑むが如き発言が(大衆に)
好まれるのである。
というふのも大衆はそこに真実を見るからである。
668考える名無しさん:2007/10/04(木) 02:57:45 0
ここからいへることは、大衆は実際を生きているのであって
エラさふな知識人なぞは一応の参照でしかなひといふやふなものなの
である。
669第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 03:42:24 0
板トンでたね。

>>655
>全く予測不能の、もしくは予測範囲外の出来事こそが現実界なんですから。

NO!ラカンの現実界は、象徴界の穴、象徴界側から、ないことであると想定するもの。
サッカーの例は意味不明。

>暗闇への飛躍=等価交換がなしえるのは、それを交換する相手を想定して、交換という
>システムが駆動することを前提としているからで、そのときの相手は「他者」であるけれど、
>システムの内部の人間ですから「内的他者」ですよね。

NO!原理的にいえば、暗闇への飛躍は、相手が人間である必要はなくて、
森でも犬でもよい。交換(飛躍)してみたあとでないと、なにもわからないわけだから。

>デリダ、レヴィナスのいう「他者」は、システムの外部に常に存在し、その接触においても
>なお外部であり続ける他者です。そのような他者は「外的外部」といいませんか?

だからこの場合と同じ。デリダにしても、実は他者は犬だってよい。
この原理はわかるが、柄谷が他者をより実在的な人間に近づけてしまったように、
実はデリダが「他者」を語るとき、実在的な人間が見え隠れする、ということ。
670第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 03:43:07 0
>ぴかぁ〜さんは、結局のところ人間の動物としての生、人間という象徴界のネットワークの
>そとにある人間自身のもつ原初的な性癖や行動に着目されている、ということでしょうか。

だからデリダの他者から、より実在的な人間臭を取り除くということだね。
たとえば例外状態の話は、ベンヤミンの暴力論につながる。
ベンヤミンは3つの法の暴力をあげる。
・内部を維持する暴力
・外部を内部に回収する暴力(神話的暴力)
・純粋な外部の暴力(テロリズム的)=混沌として内部を溶解する(神的暴力)

デリダは、この神的暴力の前で後込みをしてしまう。デリダが考える他者さえも溶解するから。
このような例からも、デリダの他者に人間臭が漂う。

>ただ、二つとも今回の論文で特に重要だと思えなかったので、どこが革新的なのかわかり
>真線でした。それが私のレベルの低さなのか、論文自体の問題なのかは他の方の言及を
>待つしかありませんが。

いままでと違うからね。君はついてこれてないね。
671考える名無しさん:2007/10/04(木) 03:51:53 0
くだらんね。「他者」とかいうと既知っぽいが、
未知、未踏だろうさ。
冒険が欠けてるよ。
672619:2007/10/04(木) 06:04:57 0
>>669
サッカーの例は意味不明ですか。
別にドライブでも良い。車を運転しているときに、
ある時、自分がどうやって運転してきたかすっかり
忘れてしまっているようなときがあるでしょう。そういう
ときは、交通法規という象徴界の法に自信を完全に
委ねて自動人形のようになっている。
ところが、対向車線からトラックがつっこんできたときは、
慌ててハンドルをひねるでしょう。そこで交通法規という
象徴界が現実界の侵入を受ける。そこに自我が発生する。

ラカンの現実界は、現実そのものであると同時に現実を
象徴化した残滓である、というのは共通理解だと思いますが。
673619:2007/10/04(木) 06:18:11 0
>>670
>>いままでと違うからね。君はついてこれてないね。
何がどう違うんですか?
その説明も、不可能ですか?

たまたま攻殻機動隊を観ていたんで、ちょっと思ったのは
SF的には古いんですが、ぴかぁ〜さんは「他者」を近代が
規定してきた「人間」−フーコーが消えゆくと言った人間−
から拡張して、たとえば電脳空間における記憶媒体の集合体とか、
そういう「モノ」と「ヒト」との境目が曖昧になる領域まで拡大
しているということでしょうか?
確かに今日的テーマですけれど、エンタメで取り上げられるほど
大衆的になったテーマでもありますよね。

後気になったんですが、
>>621
の哲学者の系譜にヘーゲルがいないんですが、ヘーゲルは@とAの
どちらに区分されると考えられています?
674第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 08:41:41 0
>>672
だから意味不明。
つこんでくるトラックを認識できるかがひねる
現実界は認識できないだろ。ボケ
もう少しできる子だと思ったが・・・
675考える名無しさん:2007/10/04(木) 09:41:56 0
ここで、波さんとはいわなみを言っているらしい。
又、文化人の文章云々の記述があるが、戦後、
戦前、軍部に協力し、戦後は、遅れてきた社会主義派
として、劣等感を持ち、進んで社会主義の旗振りを
勧めた人たちのことである。
特にせかい、いわなみ等で活躍した。
しかし、冷戦の時を越え、彼らの持つ二重の基準
ダブルスタンダードは敗れることになった。
その結果、正しく歴史を理解していく上で
ここの住民の言う「実績のある文化人」は非難されるに
至った。しかも、いわ○は、単に憲法に反しているだけという
ただそれだけで、憲法学者の誰某という出版を繰り返した。
日本の憲法学者宮沢俊義が指示したのはハンスケルゼンである。
したがって、ここでえせ文化人を気取るのはなかなか興味深かった。
676考える名無しさん:2007/10/04(木) 09:48:57 0
大衆をバカといっていくのもこの考えの主軸である。
まず第一段階で民衆に迎合していく、それは親身に
大衆に腐心しているという形で支持を集める。
次に来るのは独裁である。
この政治形態が失敗したのは明らかである。
これに対して、民主政治は、最良ではないが、
最悪の独裁者が出ない点では優れているといえた。
この後はいうまでもなく、進歩人は批判を受けた。
それが、この板の内容である。正に、亡霊である。
677619:2007/10/04(木) 13:41:57 0
>>674
うーん、この引用自体は、ジジェクの解説本から引っ張って
来たんですけれどね。現実界そのものは当然認識できませんが
(認識できないから現実界なんですが)、現実界が象徴界を
かき乱したこともまた事実なわけです。そこで均衡を保っていた
象徴界が再編されるわけですね。
ここら辺の解釈はここでやってもしょうがないのでやめときますね。

ところでこれは最初に聞いておくべきだったんですが、あの文章
なぜお金がすべてなのか(全体) 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004
は独立したモノとして、あれのみで読んで理解すると言うことで
よいのでしょうか。他の文章の参照を必要とするのでしょうか?
678考える名無しさん:2007/10/04(木) 15:49:08 0
一応、貼っとくな。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071004/p3
679619:2007/10/04(木) 15:56:57 0
たとえば「死」について、内部と外部と言う言葉を
用いて言えば、
死そのもの……象徴界の内部の死=内部内部
社会的に承認された死……象徴界の崩壊=内部外部
そして、外部外部すなわち現実界には、死はない、と。

思ったのですが、外部外部が想像的であるというぴかぁ〜さんの
理解って、かなりラカンの初期の思想じゃないんですか?そこでは
あまり現実界が問題にされておらず、想像界に対する象徴界の
優位が示されている。しかしそれは思想的には古いですよ。

まぁ、そんなことよりsiroutoさんとの絡みが今後期待なんですが。
ついでにkagamiさんともぜひやり合ってください。
680第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/04(木) 18:52:01 0
>うーん、この引用自体は、ジジェクの解説本から引っ張って
>来たんですけれどね。

うそはいかん。チミ。

>は独立したモノとして、あれのみで読んで理解すると言うことで
>よいのでしょうか。他の文章の参照を必要とするのでしょうか?

お好きに

>一応、貼っとくな。

ブクマ乞食には釣られない。

>たとえば「死」について、内部と外部と言う言葉を
>用いて言えば、
>死そのもの……象徴界の内部の死=内部内部
>社会的に承認された死……象徴界の崩壊=内部外部
>そして、外部外部すなわち現実界には、死はない、と。

これはまあまあ○

>思ったのですが、外部外部が想像的である

なぬ!外的外部は想像的に隠される、といったんだ。

>まぁ、そんなことよりsiroutoさんとの絡みが今後期待なんですが。

ブクマ乞食になってずいぶん哲学から離れてるのに、
必死に絡まれても、苦笑いしかでない。
681第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/05(金) 02:57:08 0
[コメント]「なぜお金はすべてなのか」Q&A http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071006
682考える名無しさん:2007/10/05(金) 04:31:10 O
人間もここまでくるとすでに批判も意味をなさないな。
あるのは隔離のみW
683第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/05(金) 11:43:56 O
ウエェ〜ェ\)^o^(/
684619:2007/10/05(金) 12:37:39 0
>>680
>>うそはいかん。チミ。
「現代思想ガイドブック スラヴォイ・ジジェク」p54-56参照

>>なぬ!外的外部は想像的に隠される、といったんだ。
だから古いんですってば。
「イデオロギーの崇高な対象」p203-207参照
685第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/05(金) 12:49:52 0
「人生はなにかをするには短すぎ、なにもしないには長すぎる。」という言葉がある。
ここで想定されているのは、人生という限られた枠(キャパシティー)だ。
限られた枠は、人々の思惑を越えて、強制的に働くが、
現代の多くは、限られた枠を持て余す、すなわち小さすぎるよりも
大きすぎることが問題になっているように思う。
寿命は長くなり、様々なものが高速に進む。
長すぎる人生をいかにやり過ごすか。

686第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/05(金) 14:38:47 0
>>684
はははは、書いてあるね。
微妙だな。入門書だからわかりやすけど。

正確には、トラックそのものが現実界のように
読めてしまうのはよくない。
これは、「ラカンの囚人のせき立て」でしょ。
だから正確には、トラックがつっこんできたときの
判断において、現実界が開かれるようことでしょ。

>だから古いんですってば。

これに古いも新しいもないだろう。
687619:2007/10/05(金) 18:06:06 0
>>686
参照してもらえたのはうれしいです。
スルーされるかと思っていたので。

トラックそのものは現実界ではありませんね。それはそうです。

古い新しいは、ラカン思想の時代区分(ジジェク流の)に
依ってます。
外的外部が想像的に隠される=想像界と象徴界の関係の重視
はラカン思想の初期ですよ。
後期になるにつれ、現実界と象徴界との関係が重視されてくる。
ジジェクが思想界の中心に躍り出たのも「現実界の哲学者」としてでしょう。
まぁ、言うまでもないことでしょうが。
688第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/05(金) 19:00:17 0
サッカー、トラックの例はわかったけど、説明が悪いな。
人は思いも寄らないことが起こると、一瞬フリーズする。
この空白の週間こそが、象徴界の穴としての現実界
ということだね。トラックとかものではなく、認識できないことである
ようなものとしての現実界


「イデオロギーの崇高な対象」p203-207参照
見たが、なにが古いのかわからんな。
たとえば後期の対象aは、現実界をふさぐ幻想だな。
689第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/05(金) 19:07:57 0
>>687見るの忘れてた

>古い新しいは、ラカン思想の時代区分(ジジェク流の)に
>依ってます。
>外的外部が想像的に隠される=想像界と象徴界の関係の重視
>はラカン思想の初期ですよ。
>後期になるにつれ、現実界と象徴界との関係が重視されてくる。

話にならんな。

初期 鏡像段階(想像界重視)
中期 無意識はランガージュのように構造化されている(象徴界)
後期 対象a(現実界)

この流れだが、象徴界−想像界−現実界というベースは、中期からかわらん。
ただどれを重視し思考したか、だけのこと。
現実界は想像的隠されるは、ベース。
690考える名無しさん:2007/10/05(金) 21:24:57 O
空白の週間 ね

怖いね
691考える名無しさん:2007/10/06(土) 00:43:37 0
煽る気はないが。
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071005/p4

波平さん、トラバ削除するなって。
論理的に、反論してくれ。
692第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/06(土) 02:05:23 0
贈与と「贈与性」
交換と贈与性
貨幣の非対称性と贈与性
693考える名無しさん:2007/10/06(土) 13:00:14 0
おい、ぴかぁ
素人のエントリにちゃんと反論してみろw
694考える名無しさん:2007/10/06(土) 13:36:39 O
反論なんかできるわけないよ
リアルのないところで生きているんだから
695考える名無しさん:2007/10/06(土) 17:16:42 0
素人に論理的に反論できないぴかぁwwwww


696考える名無しさん:2007/10/06(土) 17:18:07 0
マルクスの「暗闇への飛躍」ってなんだよwwww
マルクスはそんな事言ってねぇよww
697第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/07(日) 00:38:15 0
■「萌え理論Blog - 文系だからこそ誤魔化して書いてはいけない」への反論
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1112366181/865-870

まんどくくせー(><)
698第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/07(日) 15:43:28 0
■ブクマ乞食だからといって誤魔化して書いていいわけだはない
http://d.hatena.ne.jp/pikarrrs/20071007#1191734979
699考える名無しさん:2007/10/07(日) 16:10:15 0
書いていいわけだはない


意味不明な日本語
700短パン(酔):2007/10/07(日) 16:15:31 0
寝言は、寝てから言えwwww


たのむぜw
701考える名無しさん:2007/10/07(日) 17:20:36 0
>>698
>内容を簡略化し読みやすくわかりやすくすることはとても重要なことである。

いや、おまえの文章は、「何書いてるんだが難しい言葉とかマルクスとかロックとかホッブズとか
凄い人の名前が出てるからきっと凄いんだろうな」みたいなドキュソに支持されている、つうこと。

わかりやすい、んではなく、なんとなく凄そう、という受容のされ方だよ。
(注 ほんとは凄くない)
702第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/07(日) 17:30:59 0
ブログなんかそんなもんだ。
しろうとにしろ、人に期待しすぎなんだよ。
その期待が自分のさびしさからきていることぐらい自己分析できなのかね。
なんのために哲学やってるんだか。
ガキすぎてはなしにならん。
703考える名無しさん:2007/10/07(日) 17:54:16 0
>>702
>なんのために哲学やってるんだか。

おまwwwそのためにぴかぁーは哲学やってたのかwww
704考える名無しさん:2007/10/07(日) 20:38:47 O
こんな 自惚れ糞野郎なんかどーでもよかろう?
705第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/08(月) 20:50:59 O
仕事なんだから、プロなんだから。現代の公共性をこれほど表すことばはないのではないだろうか。
本来、公共性は経済性と切り離された社会の秩序は以下にあるべきかという政治的なものであったが
現代において政治的な領域は価値の多様性により混沌としている。
そこで浮上するのが経済的な公共性、すなわち社会秩序はお金によって判断される。
お金をもらっている仕事だから。お金を払ったから権利があるなど
貨幣交換は交換関係をその場で完結させるゆえに流動的な現代の社会にあっている。
706第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/08(月) 21:01:03 O
お金を払ううちは恋人であるキャバ嬢が金が無くなると他人になる。
このような割り切った関係が経済的な公共性である。
しかしそれでも政治的な公共性は残る。たとえば弱者をいかに補完するか、である。
ここには国による再配分の問題がある。制度的にいかに救済するか。しかしさらに現代において困難であるのは贈与的な公共性、すなわち助け合いの関係である。
かつてならば法にならないような規範、道徳である。
707第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/08(月) 21:03:02 O
仕事でもなく、法、制度的でもなく、人としての社会的な秩序の問題。
708第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/08(月) 21:06:12 O
だっるぅるるぅ〜
709第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 01:11:45 0
Q:贈与を貨幣交換にまで拡張するのは無理があるのではないか。

「贈与(交換)」と「贈与性」

本文ではわかりにくいが、ボクは「贈与(交換)」と「贈与性」を分けている。

>>
贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者に
なるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースはまず、提供・受容・返
礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は必ず返礼を伴う>−を、人類学
的・博物史的事例から抽出する。そしてそのうえで、この贈与の回路を永続化させる
<力>、贈与規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見いだす。

レヴィ=ストロースの批判点は、モースは交換のシステムという一つの象徴システムを
せっかく摘出しかかったのに、最終的には情緒的・神秘的な回答に落ち着いてしまった
という点にある。ラカン用語で言い換えれば、モースは象徴界の理論をうち立てようとし
て、最後の一点で想像界に足を取られた、といったところがろうか。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P129-131
<<

ここにレヴィ=ストロース的な象徴的贈与と、モース的な想像的贈与と呼ぶような違い
がある。レヴィ=ストロース的な象徴的贈与とは、まさに構造主義である。一般的に贈
与関係、贈与交換という場合には、構造化された象徴的な関係をいうだろう。たとえば
柄谷が、「世界共和国」の中で、カール・ポランニーを参照に、交通様式を交換、再配
分、互酬性(贈与と返礼)に分けているが、ここでいう互酬性(贈与と返礼)も同様であ
る。
710第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 01:14:09 0
>>
交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられ
ています。そえは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交
換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。たとえばマルクスは
商品交換が共同体と共同体の間で成立するということを強調しました。では、共同体の
中では交換がないか、といえば、そんなことはない。商品交換とはちがった交換の原理
がある。それが贈与と返礼という互酬であす。

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)P21
<<


贈与性=負債感

それに対して、モース的な想像的贈与は「交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち
優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感(中野)」である。ボクは「贈与(交換)」と分
けて、この想像的な贈与、「贈与(交換)」を生み出すような負債感を「贈与性」と呼んだ。

>>
「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロで
ある。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借り
の感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実
の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換でだろうか。

・・・ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである
純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受けることを意味
する。だから消費者はブランド品を好むのである。すなわちどのような等価交換であっ
ても、相手が誰であるかという期待があり、贈与性が完全に解消されることはないだろう。

[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004
<<
711第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 01:14:52 0
ラカンにおいて、象徴界とは社会的な規律、習慣である。それに対して想像界とは、対
面的な他者との関係性である。「鏡像関係」で説明されるように人は現前の他者に対し
て、鏡像的に自らを投影しようとする。人は鏡像的な関係によってしか、自らを見いだ
すことができないからである。そこには「贈与は贈られる者に心理的負債と返礼の義務
を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつ」ような闘争
関係が存在する。このような意味で、贈与性は、人間関係の基底として働く想像的な力
学としてあるのだ。
712第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 10:25:26 0
商品交換は共同体と共同体の間で、互酬(贈与と返礼)は共同体の中で成立する


先に示したように、柄谷がマルクスを引いて言った、「商品交換は共同体と共同体
の間で成立する交換、互酬(贈与と返礼)は共同体の中で成立する交換」とは、ど
のような意味だろうか。これはまさに「贈与性」=負債感によって説明されるだろう。

たとえばしょうゆをきらしたのでお隣さんにちょっとかりに行くと時、しょうゆをもらうと
の引き替えに、お金を払う、あるいは等価の元としてかつおぶしを渡して、これで貸
し借り無し、というのは、失礼だろう。そこはお願いしてすなおに借りる、あるいは何
かを渡すとしてもそれは等価交換ではなく、貸しは貸しとしてお煎餅でもどうですか
と贈り物として渡すことが礼儀である。これは、この関係が、その場だけではなく、ま
たお隣さんがなにかこまったときは助けるというような長期的な親密か関係を構築
していることの確認としてある。

この長期的な関係は、長期的にみると貸し借りなしの等価な関係である、というわ
けでもない。たとえばお隣さんが父親を不慮の事故でなくして、経済的にこまってい
れば、お返しなど気にしなくてもいいのよ、と返礼のきたいなく、不等価な交換が行
われる。このような助け合いの関係は、お隣さんとの関係だけでなく、共同体として
の繋がりとして行われる。仮にこちらが苦しいときは余裕がある他の誰かが助けて
くれるというような関係であり、長期的に等価であるのは、共同体内においてである。
713第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 10:27:07 0
このような助け合いの関係、すなわち互酬性(贈与と返礼)は、人間関係において
根元的である。共同体を納める君主、法、国家などがなくとも、発生し、共同体外か
らの脅威に対して、助け合う。まさにそこに働いているのが、人間関係の基底として
働く想像的な力学としての「贈与性」である。

このような「贈与性」の強力さがわかってはじめて、マルクス(柄谷)が強調する「商
品交換は共同体と共同体の間で成立する」の意味がわかる。すなわち商品交換を
成立させるためには、この「贈与性」が排除された状況が必要とされる、ということで
ある。人と人が関係するときには、大なり小なり想像的な力、「贈与性」が作動してし
まう。相手への興味、相手との関係性の構築への期待などが作動してしまう。そし
て等価交換と言いながら、そこに「贈与性」が進入してしまう。だから「贈与性」が排
除された等価交換とは、「共同体と共同体の間」という一つの極限状態である。
714第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 10:33:27 0
戦争は共同体と共同体の間でおこる


まさにこのような意味において、純粋な等価交換−「負債感の持続時間がゼロ」で
あり、「心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺される」関
係−は不可能な領域であると言える。「共同体と共同体の間」で行われるという幻
想的な場面でしかない。

>>
交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を
持っている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという
対象を望み、Bという対象を持っている人がAというう対象を望んでいなければなら
ないという「奇跡的な出会い」が必要である。

・・・さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等
価を決定するのか、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的に
しか決まらないものであるからだ。

[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004
<<
715第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 10:34:09 0
だから「贈与性」が排除された世界とは、闘争の世界である。「奇跡的な出会い」、
奇跡的な等価への納得などの面倒な手続きよりも、力のある方が暴力的に略奪す
る、あるいは暴力的に不当な交換をさせることがだろう。原始社会から、共同体内
は贈与交換によって成立してきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極限的
な領域としてあった。この領域において闘争(戦争)は行われてきたのである。

大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにそのようなことです。欧州という
共同体と未開社会という共同体がであったときに、暴力にまさに欧州が暴力的に略
奪する、あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体への従属させたので
ある。これは現の国家間や、文化圏間にも引き継がれている。
716第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 11:16:22 O
はい、ここまでで質問のある人!(^O^)/
717第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 11:51:51 O
マルクスは貨幣をこのような奇跡を補完するものとして描く。商品交換の間に貨が介入することで、奇跡は緩和される。
貨幣は断絶を調停した存在として超越論的であることを許される。
超越論的とは、そもそも貨幣には商品と等価な価値があるわけでもかかわらず等価であるように振るまうことを許され、
人々は決してこんな紙切れとはいえないどころか、貨幣こそを望む。貨幣に交換してもらうことを望む。
これを超越論的な想像的回復と呼ぼう。断絶を想像的に回復することで回復した対象は神性化され、人々は負債をおう。
718第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 11:59:55 O
このような超越論的な想像的回復はなにも新しいものではない。
ドゥルーズでは王権がうまれる超コード化、デリダ(東)では散種の多義性化、あるいはラカンでは大文字の他者であり対象aに相当する。
719第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 12:05:59 O
さらにいえば、互酬性(贈与と返礼)もまた同様な構造をもつ。
純粋贈与(略奪)という断絶を調停するために(自然)神は想像され、人々は負債をおうことで、贈与関係をおこなう。
贈与性は想像的なものであるとともに、象徴関係のなかにある。これがモースの贈与論である。
720第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 12:11:42 O
純粋交換という不可能性を想像的に回復するために貨幣はある。
貨幣交換とはただ等価交換であるのでなく、貨幣への負債感=贈与性を内在する。貨幣へ従うことで交換は可能になる。
そこに貨幣の非対称性が生まれる。貨幣をもつものへ負債をおいながら交換は行われる。
721第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/09(火) 12:24:06 O
貨幣をもつものは神秘的な自然のように神性をもつ。
722第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 13:32:26 0
「金はすばらしい物だ!」

マルクスは貨幣をこのような奇跡を補完するものとして描く。商品交換の間に貨幣
が介入することで、奇跡は緩和される。貨幣は断絶を調停した存在として超越論的
であることを許される。超越論的な存在とは、そもそも貨幣には商品と等価な価値
があるわけでもかかわらず、等価であるように振るまうことを許され、人々は決して
「こんなのだたの紙切れだ」とはいえないどころか、貨幣こそを望む。

純粋交換という不可能性、あるいは闘争状態を想像的に回復するために貨幣はあ
る。貨幣交換とはただ等価交換であるのでなく、貨幣への負債感(贈与性)を内在
する。貨幣へ従うことで交換は可能になる。そこに貨幣の非対称性が生まれる。貨
幣をもつものへ負債をおいながら交換は行われる。

>>
すべての商品生産者は、・・・「社会的質権」を確保しなければならぬ。・・・他人の商
品を不断に買い入れることを命ずるのに、他方では、彼自身の商品の生産と売却と
は、時間を要するようになり、偶然に依存するようになる。売ることなくして買うため
に、彼はあらかじめ、買うことなくして売っておかなければならない。この操作が一
般的規模で行われることは、それ自身矛盾しているように思われる。・・・商品流通
の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の形態たる貨幣の力が、
増大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の願うこと何一つかな
わぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめることができる(コロン
ブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめどがない。質的に、またはその形態
上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の一般的代表者である。というの
は、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。

「資本論」 マルクス 3章3節 貨幣 P229-232 
<<
723第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 13:37:28 0
「資本−国家−ネーション」

ただ社会の秩序は貨幣のみで達成されているわけではない。特に貨幣交換は脆弱
であり、贈与交換の強力さはない。だから等価交換を成立させるためには、このよう
な暴力と排除するとともに、この極点状態を緩和する方法が必要とされる。

このために柄谷は「国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立す
る。一つの共同体が他の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体
の間で生産物の交換が無事に行われるようになる。(柄谷)」といった。すなわちもう
一つの「超越論的な想像的回復」である国家が必要とされる。

すなわち柄谷が「資本−国家−ネーション」というとき、さらに「超越論的な想像的回
復」としての贈与関係が継続し残ることで、貨幣交換−国家(再配分)−贈与交換と
いう3つの「超越論的な想像的回復」の作動によって社会秩序が保たれていること
を表す。これは、近代において3分割され現れた経済−政治−社会に対応する。現
代は3つの神が相補的に世界の秩序を納めている。そしてそれぞれには、象徴界
−想像界−現実界の作動がある。

交換−贈与(性)−純粋贈与(象徴界−想像界−現実界)

資本    交換(需要と供給)−貨幣の非対称性−自然
国家    再配分(身分制度、法)−弱者救済−他国家
ネーション 社会(規範)−助け合い−自然、動物(野蛮人)
724第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/09(火) 13:41:13 0
時代ごとに3つのうちのどの秩序が力をもつか。近代の特徴は科学技術の発展を
あげることができるあろう。自然が開拓されることで、武器、資本を独占することで
国家権力が増大する。その後、国家が世界的にバランスが飽和し、透明化すること
で、さらに科学技術によって、社会の予測可能性が高まり、資本(貨幣交換)が安全
に行われる、重要性がます。
725短パン(酔):2007/10/09(火) 16:40:24 0
・・・。語り部として、
やってる割には、見えない文面ばっかりだ・・・・。

失望していい?
そろそろ。
(純一を見方に付けようと考えている。本人の了解は受けてはいないが、な。)
726短パン(酔):2007/10/09(火) 16:42:52 0
(敵?味方?どっち?)
どっちも、無い。
オマエが思うなら、そのままに善でも悪でも動くよね。

で?
727短パン(酔):2007/10/09(火) 16:44:37 0
・・・。俺と話がしたいんじゃないかと思って、ちょっと・・・・。


お邪魔だったかな?
失礼。
728短パン(酔):2007/10/09(火) 18:01:07 0
・・・。俺に答えないと、此処でやってけなくなるぞ?

第三の目。
729考える名無しさん:2007/10/10(水) 00:13:17 O
まあ 短パンよ はみ毛の処理をしろよ
話しはそれからだ
なんてね
言ってみただけー
730考える名無しさん:2007/10/10(水) 01:52:08 0
思想地図であずまんから呼び出されたらここで実況してねー
731短パン(酔):2007/10/10(水) 02:14:19 0
>>729
ねぐそはねてしる。
(そうじゃないと、寝糞といえんからなwww)
言ってみただけー☆
732考える名無しさん:2007/10/10(水) 06:24:20 O
はみちんは純粋贈与だがハミタマは等価交換だぞ
短パン。
733第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/10(水) 09:16:03 O
貨幣が貨幣の位置、商品の王、にいることを許すのは、断絶を調停するからである。貨幣への信頼(贈与性)による。
商品は貨幣による価格化されなければ価値をもたない。それにより断絶の侵入を回収する。
734第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:47:38 0
■貨幣交換の贈与性とは

贈与(交換)と贈与性

ボクは「贈与(交換)」と「贈与性」を分けている。この差はレヴィ=ストロース的な象徴的贈与と、
モース的な想像的贈与と呼ぶような違いに対応している。

>>
モースはこの論文(「贈与論」)の冒頭で、「未開あるいは太古の社会類型において、贈り物を受け
た場合に、その返礼を義務づける法的経済的規則はいかなるものであるか、贈られて物にはいか
なる力があって、受贈者にその返礼をなさしめるのか」という問いに照準をあわせる。

モースはまず、提供・受容・返礼という義務、そしてそれを命ずる贈答規則−<贈与は必ず返礼を伴
う>−を、人類学的・博物史的事例から抽出する。そしてそのうえで、この贈与の回路を永続化させ
る<力>、贈与規則それ自体を創出する呪術的な<力>を見いだす。

レヴィ=ストロースの批判点は、モースは交換のシステムという一つの象徴システムをせっかく摘出
しかかったのに、最終的には情緒的・神秘的な回答に落ち着いてしまったという点にある。ラカン用
語で言い換えれば、<b>モースは象徴界の理論をうち立てようとして、最後の一点で想像界に足
を取られた、といったところがろうか。</b>

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P126-131
<<
735第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:48:15 0
レヴィ=ストロース的な象徴的贈与とは、まさに構造主義である。一般的に「贈与(交換)」という場
合には、構造化された象徴的な関係をいうだろう。たとえば柄谷は、カール・ポランニーを参照に、
交通様式を交換、再配分、互酬性(贈与と返礼)に分けているが、ここでいう互酬性(贈与と返礼)も
同様である。

>>
交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。そ
えは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中では
むしろわずかの部分でしかありません。たとえばマルクスは商品交換が共同体と共同体の間で成
立するということを強調しました。では、共同体の中では交換がないか、といえば、そんなことはな
い。商品交換とはちがった交換の原理がある。それが贈与と返礼という互酬である。

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)P21
<<
736第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:49:14 0
贈与性=負債感

それに対して、モース的な想像的贈与は「交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への
欲望と、引き続き生ずる負債感(中野)」である。ボクは「贈与(交換)」と分けて、この想像的な贈
与、「贈与(交換)」を生み出すような負債感を「贈与性」と呼んだ。

ラカンにおいて、象徴界とは社会的な規律、習慣である。それに対して想像界とは、対面的な他者
との関係性である。「鏡像関係」で説明されるように人は現前の他者に対して、鏡像的に自らを投影
しようとする。人は鏡像的な関係によってしか、自らを見いだすことができないからである。

そこには「贈与は贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になる
ということは、相手の上位にたつ」ような闘争関係が存在する。このような意味で、贈与性は人と人の
間で働く想像的な引力としてあるのだ。
737第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:50:04 0
互酬は共同体の中で成立する

先に示したように、柄谷がマルクスを引いて言った、商品交換は共同体と共同体の間で成立する、
互酬(贈与と返礼)は共同体の中で成立する、とは、どのような意味だろうか。これはまさに「贈与
性」=負債感によって説明されるだろう。

たとえばしょうゆをきらしたのでお隣さんにちょっとかりに行くと時、しょうゆをもらうとの引き替えに、
お金を払う、あるいは等価の元としてかつおぶしを渡して、これで貸し借り無し、というのは、失礼だ
ろう。そこはお願いしてすなおに借りる、あるいは何かを渡すとしてもそれは等価交換ではなく、貸し
は貸しとしてお煎餅でもどうですかと贈り物として渡すことが礼儀である。これは、この関係が、その
場だけではなく、またお隣さんがなにかこまったときは助けるというような長期的な親密か関係を構
築していることの確認としてある。

この長期的な関係は、長期的にみると貸し借りなしの等価な関係である、というわけでもない。たと
えばお隣さんが父親を不慮の事故でなくして、経済的にこまっていれば、お返しなど気にしなくても
いいのよ、と返礼のきたいなく、不等価な交換が行われる。このような助け合いの関係は、お隣さん
との関係だけでなく、共同体としての繋がりとして行われる。仮にこちらが苦しいときは余裕がある
他の誰かが助けてくれるというような関係であり、<b>共同体の中で成立する互酬(贈与と返礼)で
ある。このような互酬性(贈与と返礼)に働いているのが、想像的な力学としての「贈与性」である。
738第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:51:02 0
商品交換は共同体と共同体の間で成立する

このような「贈与性」の強力さがわかってはじめて、柄谷(マルクス)が強調する「商品交換は共同体
と共同体の間で成立する」の意味がわかるだろう。すなわち商品交換を成立させるためには、この
「贈与性」が排除された状況が必要とされる。なぜなら、人と人が関係するときには、大なり小なり想
像的な力、「贈与性」が作動してしまう。相手への興味、相手との関係性の構築への期待などが作
動してしまう。等価交換と言いながら、そこに「贈与性」が進入してしまう。

だから「共同体と共同体の間」という状況は、まったく知らない者が出会い、その一瞬において交換
し、なんの負債感もなく、別れていくような極限の状態である。このような極限でなければ、「贈与
性」に汚染されないような純粋な等価交換は成立しない。

純粋な等価交換−「負債感の持続時間がゼロ」であり、「心理的な貸し借りの感情は、生じるとして
も瞬時に、その場で相殺される」関係−は、「共同体と共同体の間」で行われるという幻想的な場面
でしか行われない不可能な領域であると言えるのかもしれない。

>>
交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が
出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を持っ
ている人がAというう対象を望んでいなければならないという「奇跡的な出会い」が必要である。

・・・さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を決定するの
か、という問題がある。対象の価値とは交換されることで事後的にしか決まらないものであるからだ。

[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004
<<
739第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:51:58 0
貨幣の贈与性

マルクスは貨幣をこのような奇跡を補完するものとして描く。
>>
すべての商品生産者は、・・・「社会的質権」を確保しなければならぬ。・・・他人の商品を不断に買い
入れることを命ずるのに、他方では、彼自身の商品の生産と売却とは、時間を要するようになり、偶
然に依存するようになる。売ることなくして買うために、彼はあらかじめ、買うことなくして売っておか
なければならない。この操作が一般的規模で行われることは、それ自身矛盾しているように思われる。

・・・商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の形態たる貨幣の力が、増
大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の願うこと何一つかなわぬものはない。
金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめることができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、そ
の本性上とめどがない。質的に、またはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の
一般的代表者である。というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。

「資本論」 マルクス 3章3節 貨幣 P229-232 
<<

ただ貨幣の特別性は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利であるという実在的な利
便性ではない。なぜ貨幣だけが「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」ことを許されるのか。こ
の貨幣の特別性は、貨幣が商品間の「断絶」を調停する、断絶を想像的に回復し「共同体と共同体
の間」の交換を可能にすることで、超越的であることを許される。超越的な存在とは、そもそも貨幣
には商品と等しい価値がないにもかかわらず、商品を価格化する神の位置である。
740第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:52:39 0
売り手が「砂漠の真ん中で迷ったときのペットボトル入りの水」を1千万円、100億円ということは
かってであるが、買い手がそれを買わなければ、「価値」は生まれない。あるいは「父親の形見」で
もよいが、決して貨幣価値化しないような「断熱」、交換を妨げるような「断絶」の侵入を排除する。

そのような意味で、貨幣は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利である以上に、「あ
らゆる商品」に対して、従わざる終えないような絶対的な位置をしめる。

「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品A
と商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとして
も瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで
負債感の持続時間がゼロである純粋な交換だろうか。

(売り手の)ブランドとは、信用という形で買い手(貨幣を持つ者)への負債感を引き受けることを意
味する。等価交換は等しい関係であるはずが、信頼性を証明するのはいつも商品の売り手である。
売り手はいつも負債感(贈与性)を持つ。貨幣自体はいつも絶対の信頼があるように振るまわれ
る。貨幣そのものには紙のような、なんの使用価値がないにも関わらずである。

そして売り手は商品に対する保証を求められる。それは品質保証という意味だけではなく、「ソニー
製品には期待していたのに、期待はずれだな。」というような買い手の思い入れへの及ぶ。
741第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 09:53:13 0
超越論的な想像的回復

ここにみられるのは、<b>秩序における断絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化さ
れ、(人々へ)負債感(贈与性)を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と
呼ぼう。</b>このような転倒はなにも新しいものではない。マルクスの価値形態論における形態B
から形態C、ドゥルーズでは王権がうまれる超コード化(専制君主宇機械)、デリダ(東)では「散種の
多義性化」、そしてラカンの「対象a」である。

そしてモースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここでの断絶は純粋
贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という断絶を調停するために(自然)神は想像さ
れ、共同体の秩序は回復し、人々は負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

再度言えば、(象徴界的)秩序における断絶(現実界)を想像(界)的に回復することで、回復した対
象は神性化され、、(人々へ)(想像的な)負債感(贈与性)を与える。

>>
現実界は(想像界を媒介として運動する)象徴界の極限である。いわば現実界は、象徴界における
論理的欠如であると同時に、その因果的前提でもある。そして想像界は、それが負債感その他もろ
もろの(感情)転移の空間であるという意味において、象徴界を運動せしめる媒介だ

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P145
<<
742第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 11:44:46 0
戦争は共同体と共同体の間でおこる

「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、交換が奇跡的な行為である以上に、「共同体と共同
体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が行われる領域であるからだ。

原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立してきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極
限的な領域として、闘争(戦争)は行われてきたのである。大航海時代に行われた植民地での略奪とは
まさにそのようなことである。欧州という共同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった欧州が暴
力的に略奪する、あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体へと従属させたのである。これ
は現在の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。

>>
共同体と共同体の間では、商品交換より先に、相手から暴力的に略奪する可能性があります。P22

絶対主義国家による国家と商人資本の提携は、一方で、世界市場における商人交換のために競争し
ながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地の部族的共同体を支配する植民地主義
をもたらしました。交換による差額で儲けるよりも、略奪によるほうがてっとり早いのです。そして略取で
きないときには交換する。「重商主義」と呼ばれる時代の内実は、そのようなものです。P133

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)
<<
743第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/10(水) 11:48:35 0
科学技術−国家(法)−貨幣

すなわち近代化とは、共同体と共同体の間を、科学技術−国家(法)−貨幣が相補的に開拓するこ
とにある。

>>
科学技術は自然(労働力も含む)を解体することで資源化する。そこに時間的、空間的差異を生み
出す。そして貨幣の非対称性によって、貨幣価値し市場に流し込む。これらの運用を国家権力が補
強する。

マルクスは資本家が(特別)剰余価値を生み出すために、技術革新は必要とされる、といったことに
対応するようであるが、科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状
態」を制定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々
に負債感を与え続けているのだ。

[まとめ]なぜお金はすべてなのか(全体) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071004
<<
744第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/10(水) 12:27:18 O
カラ谷はポランニーを展開し、互酬、交換、再配分の三つの交通様式をあげている。これは現代なら、資本、国家、ネーションに相当するが、いつの時代も作動したボロメオの輪であるという。
これを展開すれば、原始社会は贈与を中心とするが、自然神との疑似的な再配分があった。交換はわずかにあった。
農耕、鉄器など技術の発展は予測可能性を高め、暴力をもち富を回収し、敵をたおすものとしての疑似的な神としての王との再配分が強固になる。
ここでは贈与交換は社会の規定にあり、交換はわずかである。
科学技術の進展は、自然を解体する。世界は国家により分割され、流動性の高い社会では交換が浮上する。
745短パン(酔):2007/10/10(水) 12:30:23 0
君にとって、よもや、マルクスの書物は、「聖書」の如きにぎわいか・・・・

やはり。。。。。
甘いな、
746考える名無しさん:2007/10/10(水) 12:34:13 0
このスレは何を議論して、どんな答えを出そうとしているんですか?
747短パン(酔):2007/10/10(水) 12:35:16 0
人を語るとは、哲学の根源だけど。
君は、何か語ったか?
悩んでいる過程なんぞ、どぅでもいい!!!!!

最期に吐き出せる言葉を綴れ?
・・・・。
おぃ。
過程じゃないんだよ・・・・・。ん?
748第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/10(水) 12:35:29 O
貨幣は交換の断絶を想像的に回復する。そこに等価ななにかがあるように振るまうことで、等価が成立しえるようにみせる。
大根が100円であることに根拠などない。
それにより人々は貨幣による価格化に従わなければならない。価格化しないものは存在しないように。

貨幣はすでに交換に贈与性を侵入させている。それはなによりもお金をもちたいことであらわれる。
お金をもらうために労働力をうる。お金をもらうために信用を確立する。
749短パン(酔):2007/10/10(水) 12:38:06 0
>>746
経過を言っているだけ、、、、
いわば、日記帳さ。何処かの誰かの・・・な。

どっちが堕ちるか、闘うか?
旧ぴか。
750短パン(酔):2007/10/10(水) 12:41:29 0
ふ。
経済原理か・・・・
くだらねぇw
751考える名無しさん:2007/10/10(水) 13:09:13 O
短バンってさ ホントにぴかのことが好きなんだなー
なんか麗しさすら感じるよ。
言ってみただけー。
752短パン(酔):2007/10/10(水) 13:35:06 0
相手してれば、それが全部スキとか。どぅいう理屈だよwww

寝糞は、寝てからしれ!!!!
・・・。後は、かぁちゃんに怒られなさーい。

以上。
言ってみただけー☆
753第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/10(水) 15:24:44 O
ヴィトの規則に従うも、他者のマネをするという想像的な回復である。
754第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/10(水) 15:29:23 O
そしてそのような規則から抜けられないのは、負債をおっているからである。
755考える名無しさん:2007/10/10(水) 17:20:03 O
よくわかるな。
おまえが負債だらけだからな。
いつまでも自分に嘘はつきとおせないぞ。
それとも墓場まで持っていくか?
756考える名無しさん:2007/10/10(水) 20:25:17 0
>>746
市場原理の中を堂々巡りする永劫回帰です。
757短パン(酔):2007/10/10(水) 22:48:01 O
ん〜俺やっぱり。。。
好きかもしれんよ?

なんてなWWW

758第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:32:35 0
貨幣の超越論性

>>
すべての商品生産者は、・・・「社会的質権」を確保しなければならぬ。・・・他人の商
品を不断に買い入れることを命ずるのに、他方では、彼自身の商品の生産と売却と
は、時間を要するようになり、偶然に依存するようになる。売ることなくして買うため
に、彼はあらかじめ、買うことなくして売っておかなければならない。この操作が一
般的規模で行われることは、それ自身矛盾しているように思われる。

・・・商品を交換価値として、交換価値を商品として掌握しておく可能性とともに、黄
金欲が目覚めてくる。商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会
的な富の形態たる貨幣の力が、増大する。「金はすばらしい物だ!これをもってい
る人は、彼の願うこと何一つかなわぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園
に達せしめることができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめど
がない。質的に、またはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の
一般的代表者である。というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。

マルクス 「資本論」(ISBN:4003412516) 3章3節 貨幣 P229-232
<<

マルクスは貨幣を商品交換の「偶然に依存する」出会いを補完するものとして描く。
ただ貨幣の特別性は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利であると
いう実在的な利便性ではない。
759第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:33:25 0
たとえば売り手が「砂漠の真ん中で迷ったときのペットボトル入りの水」を1千万円、
100億円ということはかってであるが、買い手がそれを買わなければ、「価値」は生
まれない。あるいは「父親の形見」でもよいが、決して貨幣価値化しないような「断
絶」、交換を妨げるような「断絶」の侵入を排除する。

貨幣は、本来不可能であるはずの等価交換を可能なように見せる幻想である。商
品間の「断絶」を想像的に回復することで等価交換が成立しているように振るまわ
せる。だから貨幣は「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」から便利である以
上に、「あらゆる商品」に対して、従わざる終えないような「絶対的」な価値基準を提
供という超越論的な位置を占めている。そこにとめどない貨幣への衝動が生まれる。

>>
貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示されるべき価値があるかのよう
な幻影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相違なる
使用価値の関係においてあるという事実をおおいかくす。・・・すべての商品と関係
しあう一中心としての商品、すなわち貨幣によって、すべての商品は「質的同一性と
量的比率」によって存在させられる。それが最初からあったのではなくい。それゆえ
に「共通の本質」とは、潜在的な貨幣形態にすぎないのである。

柄谷行人 「マルクスの可能性の中心」(ISBN:4061589318) P32-37
<<
760第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:34:18 0
貨幣交換に内在する贈与性

>>
純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相
殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確
には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換し
たならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相
殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続す
る。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P143-144
<<

現実の貨幣による等価交換ではどこまで負債感の生じない純粋な交換が可能だろ
うか。売り手は、信用という形で買い手(貨幣を持つ者)への負債感を引き受けよう
とする。等価交換は等しい関係であるはずが、信頼性を証明するのはいつも商品
の売り手である。売り手は商品に対する保証を求められる。それは品質保証という
意味だけではなく、「ソニー製品には期待していたのに、期待はずれだな。」というよ
うな買い手の思い入れへ及ぶ。

これは、明らかに貨幣−商品の非対称な関係を元にしている。逆にいえば、貨幣は
商品に対して優位な位置に立たなければ、商品交換は「断絶」の前にたちどまり、
成立し得ない。すなわち貨幣交換は負債感が生じない等価交換を成立させている
ようでいて、貨幣に対する商品の負債感(贈与性)を隠している。このために実際の
貨幣交換の場で表出してしまう。
761第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:35:28 0
超越論的な想像的回復

このような貨幣の発生、マルクスでいえば価値形態論において形態B(拡大された
相対的価値形態)から形態C(一般的価値形態)への「転倒」で語られる。これは、
秩序の断絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化され、(人々へ)負
債感(贈与性)を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と呼ぼう。

モースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここでの断
絶は純粋贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停す
るために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神への負債
をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

このような転倒はなにも新しいものではない。ドゥルーズでは王権がうまれる超コー
ド化(専制君主宇機械)、デリダ(東)では「散種の多義性化」、そしてラカンの「対象
a」、ジジェクの「シニシズム」である。さらにヴィトゲンシュタインの「規則に従う」も、
「暗闇への跳躍」のためにただ他者のマネをするという意味でまさに同様な想像的
な回復を示しているだろう。そしてそのような「規則」から抜けられないのは、負債を
おっているからである。
762第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:36:00 0
>>
217.「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」 もしこの問いが、原因につい
ての問いでないならば、この問いは、私が規則に従ってそのように行為する事につ
いての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしま
えば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り
返っている。そのとき私は、こう言いたい「私は当にそのように行為するのである。」

「哲学的探求」 ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076)
<<

再度言えば、(象徴界的)秩序における断絶(現実界)を想像(界)的に回復すること
で、回復した対象は神性化され、、(人々へ)(想像的な)負債感(贈与性)を与える。

>>
現実界は(想像界を媒介として運動する)象徴界の極限である。いわば現実界は、
象徴界における論理的欠如であると同時に、その因果的前提でもある。そして想像
界は、それが負債感その他もろもろの(感情)転移の空間であるという意味におい
て、象徴界を運動せしめる媒介だ

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) P145
<<
763第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:37:27 0
戦争は共同体と共同体の間でおこる

「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、商品交換が奇跡的な行為であ
る以上に、「共同体と共同体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が
行われる領域であるからだ。原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立し
てきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極限的な領域として、闘争(戦争)
は行われてきたのである。大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにその
ようなことである。欧州という共同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった
欧州が暴力的に略奪する、あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体
へと従属させたのである。これは現在の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。

>>
共同体と共同体の間では、商品交換より先に、相手から暴力的に略奪する可能性
があります。P22

絶対主義国家による国家と商人資本の提携は、一方で、世界市場における商人交
換のために競争しながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地
の部族的共同体を支配する植民地主義をもたらしました。交換による差額で儲ける
よりも、略奪によるほうがてっとり早いのです。そして略取できないときには交換す
る。「重商主義」と呼ばれる時代の内実は、そのようなものです。P133

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)
<<
764第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:38:15 0
貨幣交換とは「国家」の中で成立する

貨幣交換に贈与性が介入するならば、貨幣交換と贈与交換とはなにが違うのだろ
う。それは、贈与性の強さということになるだろう。互酬性は負債感が持続する、商
品交換は負債感が生じないとすれば、貨幣交換は負債感が弱く継続すると言える
かもしれない。そして互酬性は「共同体の中」で成立する、商品交換は「共同体と共
同体の間」で成立するならば、貨幣交換とはその中間にある、「国家」の中で成立する。

ここでいう「国家」とは、柄谷がいう、「国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並
行的に成立する」ということと対応するだろう。国家は、一つの共同体が他の多数の
共同体を支配することで、「共同体と共同体の間」の断絶に秩序をもたらす。そこ
は、贈与性の強度において、「共同体の中」と「共同体と共同体の間」の中間の領
域、弱い贈与性の領域である。

>>
共同体と共同体の間では、商品交換よりも先に、相手から暴力的に略奪する可能
性があります。そして、それが継続的なものである場合に、そこに貢納制国家が成
立します。その場合、他の共同体から継続的に略奪するためには、一方的な強奪
だけではなく、さまざまな意味での「再配分」が必要です。それは治水灌漑などの公
共事業、福祉、安全の確保というかたちをとります。ゆえに、それは実際にも、一種
の交換として表象されるのです。私は、この交換様式を再配分と呼びます。

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016) P22
<<
765第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 01:38:53 0
国家(再配分)と共同体(互酬性)の相似性

国家は再分配(略取と再配分)という交換様式をもつ。しかしそれは国家において
特別であるわけではない。モースが見いだした互酬性(贈与と返礼)もまた再配分
(略取と再配分)の構造にある。贈与関係での「超越論的な想像的回復」では、断絶
は純粋贈与(略奪)=自然のめぐみ、脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を
調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神へ
の負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

自然は周期性をもつ。定期的に豊作のようなめぐみを与え、水害のような災害をあ
たえる。ここに神をみるなら、そこには擬似的な略取(災害、あるいは神への貢ぎ
物)と再配分(豊作)がある。すなわち、再配分もまた贈与交換の一種であるといえる。

たとえば貢納制国家においても、それはただ暴力において統治するわけでも、また
物質的に成員の生存を保証することでもない。そこには原始社会の「超越論的な想
像的回復」による贈与と再配分の関係をそのまま継続している。国家においての
「断絶」は、原始社会と変わらない。純粋贈与(略奪)=自然の脅威、国家外からの
敵の到来とである。純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像
され、国家の秩序は回復し、人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がお
こなわれる。
766第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 02:41:20 0
縦関係=国家(再配分)と横関係=共同体(互酬性)の差異

共同体と国家の違いは、技術の差と言えることができるだろう。技術の特性とは還
元作用にある。技術は不確実性(外部)を還元作用にによって、予測可能性(内部)
へ回収するものである。不確実性とは、いつも純粋贈与(略奪)=自然の脅威と、外
部から到来する他者=野蛮人(動物)である。

すなわちその時代において、技術と外部の関係を考える必要がある。ここに「主権
者とは例外状態について決定する者である。(シュミット)」ということをつなげれば、
主権者とは、技術の行使を独占することで例外状態(外部と内部の境界)を決定す
る者である、ということである。

互酬性の共同体では、外部は純粋贈与(略奪)=自然の脅威が重要であり、また
自然が外部から到来する他者=野蛮人(動物)との遭遇を妨げる。このために、再
配分(略奪と再配分)という縦関係と、互酬(贈与と返礼)という横関係において、縦
関係の力は薄れて、横関係が重要になる。

それに対して、再配分の原始国家は、いくつからの共同体を統括し、農耕、灌漑、
武器などの技術が発達し、純粋贈与(略奪)=自然の脅威をコントロールすること
で、資源、暴力を確保することで、外部から到来する他者=野蛮人(動物)との遭遇
が重要になる。ここでは集権化するような縦関係=再配分(略取と再配分)の組織
が重要になる。
767第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 02:43:31 0
広い縦関係=国家と弱い横関係=貨幣交換

そしてこのような原始国家の先に、絶対主義王権国家によって、商品交換が成立す
る物語が描かれるだろう。技術が科学技術として、自然のコントロールし、より強い
暴力を手に入れたときに、より広範囲で強力な縦関係=再配分(略取と再配分)が
組織化される。横関係=互酬(贈与と返礼)は希薄化し、それに代わり、贈与性が
低い貨幣交換が全面化するのではないだろうか。

互酬性は強い想像的な贈与性を必要とするために、その影響の範囲は共同体とい
う限られた領域に限られる。それに対して貨幣交換は弱い贈与性で作動可能であ
るために、広範囲の国家内において作動可能なのである。貨幣交換は互酬性にく
らべて、より広範囲でフラットな交換である。ただ弱い贈与性である故に、国家のよ
うな強い縦関係を必要とする。

>>
国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他
の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が
無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代
国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。

絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧
し、また教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもっ
た火器の発明と商品経済の浸透である。火器は・・・国家が暴力の独占に存する。
商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ること
はできないかったが、絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる。

「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903
<<
768第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 02:57:13 0
共同体
外部・・・自然のめぐみ、脅威>他共同体
技術・・・狩猟
@強く狭い横交換・・・互酬性(贈与と返礼)
A弱く狭い縦交換・・・自然神との疑似再配分(略取と再配分)

原始国家
外部・・・他国家(野蛮人)>自然のめぐみ、脅威
技術・・・農耕、灌漑、鉄武器
@広く強い縦交換・・・再配分(略取と再配分)
A強く狭い横関係・・・互酬性(贈与と返礼)
B広く弱い横関係・・・貨幣交換

国家
外部・・・他国家(野蛮人)>>自然のめぐみ、脅威
技術・・・科学技術
@広く強い縦交換・・・再配分(略取と再配分)
A広く弱い横関係・・・貨幣交換
B強く狭い横関係・・・互酬性(贈与と返礼)

現代国家
外部・・・(他国家(野蛮人)>自然のめぐみ、脅威)
技術・・・科学技術、大量生産、情報技術
@広く弱い横関係・・・貨幣交換
A広く強い縦交換・・・再配分(略取と再配分)
B強く狭い横関係・・・互酬性(贈与と返礼)
769考える名無しさん:2007/10/11(木) 03:19:24 0
共同体のテリトリーがあって、外部は魑魅魍魎とかが支配する
領域だあたりする。
採集、狩猟から農耕に移ると「森」の神は殺害された。
770考える名無しさん:2007/10/11(木) 03:35:49 0
共同体には空間的外部と超越的外部があって後者に自然の恵み・脅威があり、
サケの遡上、クマ、豪雪 etc が属した。
771考える名無しさん:2007/10/11(木) 03:56:19 0
世俗の秩序・コントロールを超えたものが超越であるが、
現代ではナイフで鉛筆を上手に削るだけでもヒーロー、
或いはカリスマと見做されるであろう。
772考える名無しさん:2007/10/11(木) 10:16:39 O
そりゃ結構でしたな。
773第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 11:48:27 0
G戦争は共同体と共同体の間でおこる

「共同体と共同体の間」が極限の状態であるのは、商品交換が奇跡的な行為であ
る以上に、「共同体と共同体の間」とは、力のある方が暴力的に略奪する、闘争が
行われる領域であるからだ。原始社会から、共同体内は贈与交換によって成立し
てきた。それに対して、共同体と共同体の間は、極限的な領域として、闘争(戦争)
は行われてきたのである。

大航海時代に行われた植民地での略奪とはまさにそのようなことである。欧州とい
う共同体と部族的共同体が出会ったときに、力をもった欧州が暴力的に略奪する、
あるいは暴力的に不当な交換をさせる、自らの共同体へと従属させたのである。こ
れは現在の国家間や、文化圏間にも引き継がれているだろう。

>>
絶対主義国家による国家と商人資本の提携は、一方で、世界市場における商人交
換のために競争しながら、他方で、世界中の資源(金・銀・その他)を略奪し、各地
の部族的共同体を支配する植民地主義をもたらしました。交換による差額で儲ける
よりも、略奪によるほうがてっとり早いのです。そして略取できないときには交換す
る。「重商主義」と呼ばれる時代の内実は、そのようなものです。P133

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)
<<
774第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 11:49:06 0
H共同体内の擬似的な「再配分」

柄谷は、共同体と共同体の間での闘争領域を納めるものとして「貢納制国家」が成
立し、再配分(略取と再配分)という交換様式が形成されると言う。

>>
共同体と共同体の間では、商品交換よりも先に、相手から暴力的に略奪する可能
性があります。そして、それが継続的なものである場合に、そこに貢納制国家が成
立します。その場合、他の共同体から継続的に略奪するためには、一方的な強奪
だけではなく、さまざまな意味での「再配分」が必要です。それは治水灌漑などの公
共事業、福祉、安全の確保というかたちをとります。ゆえに、それは実際にも、一種
の交換として表象されるのです。私は、この交換様式を再配分と呼びます。

柄谷行人 「世界共和国へ」(ISBN:4004310016) P22
<<

しかし再配分という交換様式は、国家において特別であるわけではないだろう。
モースが見いだした共同体の内の互酬性(贈与と返礼)もまた再配分(略取と再配
分)の構造にあるだろう。互酬性を生む「超越論的な想像的回復」では、純粋贈与
(略奪)=自然のめぐみ、脅威という「断絶」を調停するために(自然)神は想像さ
れ、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神への負債をおうことで、贈与の連鎖
がおこなわれる。

この場合に、純粋贈与としての自然は周期性をもつ。定期的に豊作のようなめぐみ
を与え、水害のような災害をあたえる。ここに略取(災害、あるいは神への貢ぎ物)
と再配分(豊作)という、擬似的な再配分を見ることができる。
775第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 11:49:59 0
I縦の贈与交換(再配分)と横の贈与交換(互酬性)

たとえば貢納制国家においても、ただ暴力において統治するわけでも、また物質的
に成員の生存を保証するわけでもない。国家においても「断絶」は、原始社会と変
わらず、純粋贈与(略奪)=自然の脅威、外部からの敵の到来とである。そして純
粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像され、国家の秩序は回
復し、人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

貢納制国家を統治する「王」は、共同体の互酬性の自然(神)の位置を継承すること
で、成員への負債感によって国家を統治する。成員は縦への当然の贈与関係=再
配分(略取と再配分)として「王」を敬うのである。

すなわち「超越論的な想像的回復」における贈与性の力学は、縦の交換関係として
再配分(略取と再配分)と横の交換関係として互酬性(贈与と返礼)を生むと言うこと
ができるだろう。そして「王」は「超越論的な想像的回復」による縦−横の贈与交換
関係を継承している。
776第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/11(木) 11:50:36 0
11)「環境」=外部と技術の関係性

では、共同体(互酬性)と国家(再配分)の違いはなんだろう。それはまず「環境」で
はないだろうか。稲葉は、ホッブズの秩序問題を考える上で、秩序と「エコロジカル
な条件」が関係することを指摘している。

>>
ホッブズ的自然状態を解釈するもっとも自然で、おそらく有意義なやり方は、それを
国家以前の状態と解釈するのではなく、何らかの理由で国家が解体してしまった後
の無政府状態と解釈する、というものでしょう。・・・もちろんまず思いつくのが、ホッ
ブズも意識していたであろう、文字通り戦争を通じての、国家の解体です。・・・しか
し本書で言う意味でのロック的=生態学的パースペクティブはもう少し踏み込むこと
を可能にします。・・・つまり「技術」「生産力」のことです。・・・生産力の発展、経済成
長によって、法と国家にとっての「エコロジカルな条件」は変わりうるのです。

「「資本」論―取引する身体/取引される身体」 稲葉振一郎(ISBN:4480062645)P34-37
<<

外部とは、いつも自然の脅威、めぐみと、「野蛮人(動物)」である。そして技術の特
性とは還元作用にある。技術は外部という不確実性を還元作用にによって、予測可
能性にして、内部へ回収する。すなわち人類社会の変化を、外部圧とその外部圧を
開拓する技術の関係で語るということである。
777第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/11(木) 14:56:07 O
たとえば人が人を殺すのは悪である。ではライオンがしまうまを殺すのは悪か。
778第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/11(木) 15:12:07 O
再度言えば、(象徴界的)それは善でも悪でもない。なぜならそれは規範の外部にあるからだ。
これが逆に宙吊りにするのはなぜ人は人を殺してはいけないのか、という規範である。
規範は規範だまもらなければならない。秩序における断絶(現実界)を想像(界)的に回復すること
で、回復した対象は神性化され、(人々へ)(想像的な)負債感(贈与性)を与える。
ただ戦争、死刑など規範という内部の限界(例外状態)においてのみ、規範を行使する法の外部でありながら、法が行使されことで暴力があらわになる。
779第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/12(金) 00:14:57 0
12)共同体と国家の違い

>>
原始社会と未開社会は異なる。原始社会は国家の前段階の共同体であるが、未開社会は、国家の周
縁部に位置し、文明を拒否する共同体である。未開社会が可能になるためには、国家から地理的に十
分に孤立し、狩猟採集によって生活できる自然条件が必要である。

原始社会は、互酬的交換だけでなく、他の交換様式を萌芽的にはらむ。このような共同体と共同体の
間には互酬にもとづく規範(掟)がない。このために一つの共同体が他の諸共同体を支配し、暴力的略
奪を禁じることで、国家と法が成立する。

国家では、農業共同体からの賦役と貢納(租税)、他の国家からの略奪に対して共同体を防衛する、
「公共的」事業を興すなどによって、共同体の間を調整、制御する。このような略取−再配分があたかも
互酬的交換であるように表象されること(互酬の擬制)によって、国家は公共的、理性的であるという観
念が生じ、一つの共同体が他の諸共同体を継続的に支配する形態が生まれる。

「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903
<<

互酬性の共同体(未開社会)では、生活の多くを自然そのものに依存する。外部は純粋贈与(略奪)=
自然の脅威が重要であり、また到来する他者=野蛮人(動物)との遭遇を妨げられている。縦交換の相
手は、自然神であり、強い1者ではなく、分散された漠然としてある。このために経済行為は、狭い領域
で強く作用するような互酬性(贈与と返礼)の横関係が重要になるだろう。

>>
未開社会
 外部・・・自然のめぐみ、脅威
 技術・・・狩猟採集
 交換 @横交換−狭い−強い・・・互酬性(贈与と返礼)
     A縦交換−狭い−弱い・・・自然神との疑似再配分(略取と再配分)
<<
780第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/12(金) 00:15:59 0
それに対して、再配分の原始国家は、いくつからの共同体が統括された形態もつ。農耕、灌漑、金属武
器などの技術が発達し、自然はある程度、管理されはじめる。そして絶えず外部からの到来する他者=
野蛮人(動物)と闘争状態にあった。

共同体群という広い領域を統治する、さらに外部からの到来する他者=野蛮人(動物)と対応するため
に、権力(暴力)を集中させるための強い縦関係=再配分(略取と再配分)の組織が重要になる。このよ
うな縦関係は互酬性共同体からの自然神の位置を、1者に集約し、継続する。すなわち「王」は神の位
置を占めるだろう。そして共同体内の横関係は互酬性が継続されるだろうが、共同体群という広域にお
いては、一部であろうが、貨幣交換が行われる。

>>
原始国家
 外部・・・野蛮人>自然のめぐみ、脅威
 技術・・・農耕、灌漑、金属武器
 交換 @縦交換−広く−強い・・・再配分(略取と再配分)
     A横関係−狭い−強い・・・互酬性(贈与と返礼)
     B横関係−広く−弱い・・・貨幣交換
<<
781考える名無しさん:2007/10/12(金) 01:25:30 0
波平のヘーゲルとハイデガーとドゥルーズに
対する評価を訊きたい。
782考える名無しさん:2007/10/12(金) 05:22:20 0
ヘーゲル  老人
ハイデガー ちょび髭
ドゥルーズ  はげ
783考える名無しさん:2007/10/12(金) 13:34:20 0
結局波平はヘーゲルとハイデガーについては
何も言えないんだよな。あとポストモダンについても
784第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 21:39:30 0
■「なぜお金はすべてなのか」EX

1)贈与交換と贈与性
 贈与交換と贈与性
 贈与性=負債感
 互酬は共同体の中で成立する

2)貨幣交換の贈与性
 商品交換は共同体と共同体の間で成立する
 貨幣の超越論性
 貨幣交換に内在する贈与性

3)縦交換の再配分と横交換の互酬性
 超越論的な想像的回復
 戦争は共同体と共同体の間でおこる
 共同体内の擬似的な「再配分」
 縦交換としての再配分と横交換としての互酬性
785第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 22:00:50 0
4)環境と交換様式

「環境」=外部と技術の関係性

では、共同体(互酬性)と国家(再配分)の違いはなんだろう。それはまず「環境」で
はないだろうか。稲葉は、ホッブズの秩序問題を考える上で、秩序と「エコロジカル
な条件」が関係することを指摘している。

>>
ホッブズ的自然状態を解釈するもっとも自然で、おそらく有意義なやり方は、それを
国家以前の状態と解釈するのではなく、何らかの理由で国家が解体してしまった後
の無政府状態と解釈する、というものでしょう。・・・もちろんまず思いつくのが、ホッ
ブズも意識していたであろう、文字通り戦争を通じての、国家の解体です。・・・しか
し本書で言う意味でのロック的=生態学的パースペクティブはもう少し踏み込むこと
を可能にします。・・・つまり「技術」「生産力」のことです。・・・生産力の発展、経済成
長によって、法と国家にとっての「エコロジカルな条件」は変わりうるのです。

「「資本」論―取引する身体/取引される身体」 稲葉振一郎(ISBN:4480062645)P34-37
<<

外部とは、いつも自然の脅威、めぐみと、「野蛮人(動物)」である。そして技術の特
性とは還元作用にある。技術は外部という不確実性を還元作用にによって、予測可
能性にして、内部へ回収する。すなわち人類社会の変化を、外部圧とその外部圧を
開拓する技術の関係で語るということである。
786第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 22:01:58 0
共同体(互酬性)と国家(再配分)の違い

>>
原始社会と未開社会は異なる。原始社会は国家の前段階の共同体であるが、未開
社会は、国家の周縁部に位置し、文明を拒否する共同体である。未開社会が可能
になるためには、国家から地理的に十分に孤立し、狩猟採集によって生活できる自
然条件が必要である。

原始社会は、互酬的交換だけでなく、他の交換様式を萌芽的にはらむ。このような
共同体と共同体の間には互酬にもとづく規範(掟)がない。このために一つの共同
体が他の諸共同体を支配し、暴力的略奪を禁じることで、国家と法が成立する。

国家では、農業共同体からの賦役と貢納(租税)、他の国家からの略奪に対して共
同体を防衛する、「公共的」事業を興すなどによって、共同体の間を調整、制御す
る。このような略取−再配分があたかも互酬的交換であるように表象されること(互
酬の擬制)によって、国家は公共的、理性的であるという観念が生じ、一つの共同
体が他の諸共同体を継続的に支配する形態が生まれる。

「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903
<<

互酬性の共同体(未開社会)では、生活の多くを自然そのものに依存する。外部は
純粋贈与(略奪)=自然の脅威が重要であり、また到来する他者=野蛮人(動物)
との遭遇を妨げられている。縦交換の相手は、自然神であり、強い1者ではなく、分
散された漠然としてある。このために経済行為は、狭い領域で強く作用するような互
酬性(贈与と返礼)の横関係が重要になるだろう。
787第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 22:02:49 0
>>
未開社会
 外部・・・自然のめぐみ、脅威
 技術・・・狩猟採集
 交換 @横交換−狭い−強く・・・互酬性(贈与と返礼)
     A縦交換−狭い−弱く・・・自然神との疑似再配分(略取と再配分)
<<

それに対して、再配分の原始国家は、いくつからの共同体が統括された形態もつ。
農耕、灌漑、金属武器などの技術が発達し、自然はある程度、管理されはじめる。
そして絶えず外部からの到来する他者=野蛮人(動物)と闘争状態にあった。

共同体群という広い領域を統治する、さらに外部からの到来する他者=野蛮人(動
物)と対応するために、権力(暴力)を集中させるための強い縦関係=再配分(略取
と再配分)の組織が重要になる。このような縦関係は互酬性共同体からの自然神
の位置を、1者に集約し、継続する。すなわち「王」は神の位置を占めるだろう。そし
て共同体内の横関係は互酬性が継続されるだろうが、共同体と共同体の間におい
ては、貨幣交換が行われる。

>>
原始国家
 外部・・・野蛮人>自然のめぐみ、脅威
 技術・・・農耕、灌漑、金属武器
 交換 @縦交換−広く−強い・・・再配分(略取と再配分)
     A横関係−狭い−強い・・・互酬性(贈与と返礼)
     B横関係−広く−弱い・・・貨幣交換
<<
788第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 23:52:36 0
韓国の歴史大河ドラマ「朱蒙(チュモン)」のDVDを借りて見始めたが、
歴史とは負債の連鎖だよね。同時的な人の繋がりの強さ以上に、
歴史的な人の繋がりに拘束されて、人はある。

これは、外部環境との関係で考える必要があるだろう。
自然の営みの長さとの密接な関係、そして人の流動性の遅さ。
負債は世代を越えて、支払われる、ということ。

そのように考えると、現代の負債の交換は、世代内、いや
より短気に行われる。
これは外部環境を排除し、たまに地震や台風でしか、
大きな負債を生み出さないこと、そして流動性の高さは、
長期的な負債の維持を難しくしている。
ここに貨幣交換の意味があるだろ。負債は大量の消費に
よって希薄化され、解消されていく。

しかしそう単純ではないだろう。
たとえば中国や韓国が戦争によって日本から受けた負債は
日本人にはとてもわかりにくい。世代をこえて継続される
負債への返礼の要求。このわかりにくさは、日本人から見ると、
グローバルな経済活動としてこれほどに密接な関係を持っている
ことのギャップとして現れる。
活発な関係性の構築、すなわち小さな負債のやりとりをしているのに、
なぜそのような大きな負債が残存し続け得いるのか。
789第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/13(土) 23:57:04 0
貨幣交換のような弱い繋がり、贈与関係になれており、
強い繋がりを理解できないのだろう。
それが、武力戦争と経済戦争の違いである。

決定的に相手を抑圧する武力戦争。
決定的な負債を生み出す。

負債がなく、等価交換の積み重ねとして見えない経済戦争。
決定的な負債が見えない。
結局、資本主義において先進国の豊かさは、地域的な搾取に
よって成立しているが、そこでの負債がみえない。
790考える名無しさん:2007/10/14(日) 02:59:27 0
ねえ、そろそろあずまんから電話きた?
791第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 03:51:50 0
映画でよくあるが、ギャングが麻薬の取引をする場面、
貨幣交換を行うが、そこにみなぎる緊張感は、
この交換の一瞬の交差の中で生じる危険である。
偽物をつかまされないか、攻撃を仕掛けてこないか、
この場面こそ、マルクスがいった「命がけの飛躍」という
もっと純粋な商品交換を表している。

普通ならばそこで騙されれば、警察、法に売ったえ
かけることができるだろう。違法な取引である以上、
そのようなことはできない。
この一瞬にすべてがかかってくる。

そしてそれは逆に、ボクたちが日頃行う貨幣交換という
何気ない行為が、様々なもので安心を確保されているかがわかる。
それは大きくは国家による治安と、企業による信用の確保である。

特に重要であるのは、信用関係だろう。
継続して商売を行うためには、信用を与え続ければならない。
最近の食品の不正表示などにみられるように、
一度の信用の失墜がすべてを台無しにしてしまう。

だから貨幣交換は等価にその瞬間に負債が解消されるような
単純なものではない。そこには継続した贈与性が作用している。
でなければ、貨幣交換はあまりに緊張をはらんだ行為である。
792第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 04:14:40 0
ここに信用の強度をみるとすれば、その強度が増す先に
贈与交換があるだろう。

貨幣交換ではまだ交換とその場で完了するふりがなされていたが、
贈与交換では、等価であることも、その時間も曖昧になる。
いつ返してもよい。返すものが等価であることもない。
さらには直接、贈与したものに返礼する必要もない。

信用は対面の関係ではなく、助け合いのネットワークの形態で
繋がりをつくるだろう。

逆にいえば、貨幣交換は分子が個体のように強固な繋がりから、
液体、そして気体へと分断され、流動性が上がるように、
助けないのネットワークを分断する。
ここに近代的な個人を見いだすことができるだろう。
793第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 04:55:53 0
■なぜ商売には信用が一番なのか

ギャングの純粋な交換

映画でよくあるが、ギャングが麻薬の取引をする場面、貨幣交換を行うが、そこにみ
なぎる緊張感は、この交換の一瞬の交差の中で生じる危険である。偽物をつかまさ
れないか、攻撃を仕掛けてこないか、この場面こそ、マルクスがいった「命がけの飛
躍」というもっと純粋な商品交換を表している。普通ならばそこで騙されれば、警察、
法に売ったえかけることができるだろう。違法な取引である以上、そのようなことは
できない。この一瞬にすべてがかかってくる。

そしてそれは逆に、ボクたちが日頃行う貨幣交換という何気ない行為が、様々なも
ので安心を確保されているかがわかる。それは大きくは国家による治安と、企業に
よる信用の確保である。特に重要であるのは、信用関係だろう。継続して商売を行
うためには、信用を与え続ければならない。最近の食品の不正表示などにみられる
ように、一度の信用の失墜がすべてを台無しにしてしまう。

だから貨幣交換は等価にその瞬間に負債が解消されるような単純なものではな
い。そこには継続した贈与性が作用している。でなければ、貨幣交換はあまりに緊
張をはらんだ行為である。
794第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 04:56:25 0
贈与交換から分断される近代的個人

ここに信用の強度をみるとすれば、その強度が増す先に贈与交換があるだろう。貨
幣交換ではまだ交換とその場で完了するふりがなされていたが、贈与交換では、等
価であることも、その時間も曖昧になる。いつ返してもよい。返すものが等価である
こともない。さらには直接、贈与したものに返礼する必要もない。信用は対面の関係
ではなく、助け合いのネットワークの形態で繋がりをつくるだろう。

逆にいえば、貨幣交換は分子が個体のように強固な繋がりから、液体、そして気体
へと分断され、流動性が上がるように、助けないのネットワークを分断する。ここに
近代的な個人を見いだすことができるだろう。
795第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 04:56:59 0
貨幣交換の隠される格差構造

しかし貨幣交換においても助け合いのネットワークは存在している。それがなけれ
ば、貨幣交換はあまりに危険すぎる。これは、市場経済においては隠されるだろう。
なぜなら市場経済は自由で平等な完全競争をめざすからだ。その裏で助け合いの
ネットワークが作動する。たとえばブランド品として信用を勝ち得るのは違法とはい
えないだろう。しかしインサイダーや談合、天下り、贈収賄などとして露呈する。これ
らは違法であるが、正当と程度問題でしかない。助け合いのネットワークは、内部を
外部の境界を儲ける閉塞的に、格差な構造である。

たとえばネオリベラリズムという、より純粋な市場を目指す言説において、このよう
な助け合いのネットワークがどのような意味を持つだろうか。国家という規制が緩や
かな中で、より強く助け合いのネットワークが働く。そして違法と正当の境界におい
て、もっとも有用に働くだろう。

ギャングのような国家の力が働かず、信用が希薄な世界において、重要なことはや
はり信用(助け合い)である。小さくても信用できるものの強固な繋がりをつくる。ヤ
クザや不良の世界で身内の強い繋がりを重視するのもそのためだろう。世界の果
て(例外状態)において、駆け引きがおこなわれる。
796考える名無しさん:2007/10/14(日) 05:11:14 0
おまえのは全部本で読んだとか映画でみたとかテレビで見たとかだよな
797第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 11:28:11 0
2ちゃんねらー「薄気味悪い」 神戸新聞不思議なネット感覚
http://www.j-cast.com/2007/10/12012188.html

神戸新聞もこの日、担当記者が訪れて取材したが、10月11日
になってコラム「ハーバーだより」に、「ネットが介する違和感」と
いう記事が掲載された。そこでは、指定時刻に献花した20人ほど
の動機の紹介とともに、記者の「感想」がつづられている。記事の
冒頭で、「『2ちゃんねる』の呼びかけに応じただけです」という集団
からの返答を紹介して、次のように献花者の動機について述べている。

「参加者の多くは冒頭のような、ネットを介した軽いものだった」
さらに、間接的な表現で、動機が「ゲーム感覚」であることを示唆。
そして、最後にこう締めくくった。

「見ず知らずが一同に集う『違和感』。事件をめぐる匿名の誹謗中傷
はネット上で今も止む気配がない。いじめと容易に結びつくその薄気
味悪さが、ずっとぬぐえずにいる」
「その薄気味悪さ」の「その」が何を指すかはっきりしないが、記事の題
名から言っても、ネットについての指摘である印象が強い。

798第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 11:50:34 0
ネットという見えない他者からの誹謗中傷の延長線上の届く献花
それは延長線上にないのかもしれない。
誹謗中傷する者がいて、その死を悲しむ者がいるのかもしれないが、
ネットという匿名性がこれらの差異を見えなくしてしまう。
ここに「その薄気味悪さ」が生まれているのだろう。

しかしそれ以上にネットと死の関係があるのかもしれない。
ネットと死はあわなさすぎる。
それはネットに死は存在しないということだ。
ネット上のものはコピペされ終わりなき生き残り続く。

死こそがもっとも人間の存在を示すものであるといっていいだろう。
終わりがあることで、そこに人の存在意義がうまれる。
799考える名無しさん:2007/10/14(日) 13:16:53 O
おまえって 自分では稚拙でアバウトな表現しか出来ない癖に、人の文にはうるさいなW
ま、そこがおまえをおまえたらしめている所以なんだろうが
800第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/14(日) 18:10:09 0
社会には絶えず小さな裂け目が存在する。
それをどのように調停するか。そこに神性が生まれる。
801考える名無しさん:2007/10/14(日) 18:53:49 0
ダンテによると、
この世は大きなすり鉢で底にちいさな穴があいている。
底からふちまで同心円状に溝が走っているんだが、溝の中では悪魔がいたずら心を募らせている。
生まれて大きなすり鉢のふちに立たされて、うまく底に達して穴をくぐっていければ神と遊べる。
でもうっかり溝にはまると悪魔のとりこになってしまうんだと。
とりこにならずに調停出来ればその人はまさしく神だろうな
802考える名無しさん:2007/10/14(日) 20:13:56 O
なんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばら
ばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんば
んなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらば

んばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばんなんばらばんばんばん
803考える名無しさん:2007/10/15(月) 15:46:34 O
失われた民主主義 T・スコッチボル 河田潤一訳
慶応義塾大学出版 2940円
804考える名無しさん:2007/10/15(月) 15:51:27 0
基本的な質問で申し訳ないのですが、
クラ交換のような交換は贈与とは言わないのでしょうか?
805第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/15(月) 17:07:06 O
クラ交換は典型的な贈与交換では?
806第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/15(月) 17:09:36 O
人は見ず知らずの人を命懸けで助ける場合がある。これは現代でも贈与交換が働いていることを示す。
すなわち象徴界である。
807第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/15(月) 17:15:18 O
最近、贈与を貨幣交換化する流れがある。社会企業家は助け合い(ボンティアや国の支援)の領域を
貨幣交換化することで広い領域をカバーし一つが安価でも利益をあげることをめざす。
グーグルのアフェなどもそれに近い面があるのではないだろうか。
ブログなどの労力を対価で支払うのでなく、気持ちでしはらう。
808考える名無しさん:2007/10/15(月) 18:17:13 0
>>805
ありがとうございます。
波平さんが言われている「贈与」と「贈与性」は別物なんですか?
贈与交換は共同体の間で行われるものですよね。

波平さんが>>784で言われていることは、
贈与性は共同体の内外を問わず、人間の根源的な衝動として
存在するけれど、贈与は共同体の間で行われ、共同体内部での
物品の移動は「互酬」と言われる、
という区別でいいのでしょうか?
809第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 18:33:43 0
>>808
違います。
互酬と贈与交換は同じものです。
互酬性はより交換を強調する言葉です。
贈与交換+その返礼=互酬

互酬(贈与交換、返礼)は共同体の中で行われる。
共同体と共同体の間で行われるのは貨幣交換です。
810考える名無しさん:2007/10/15(月) 18:42:49 0
ある種の贈与は物品で返礼してはいけない。せいぜい感謝の言葉に
留めなくてはいけない。

というのも、それは「恩寵」のようなものであるから。

「名前も告げずに去る」というパターンなどがそれである。
811考える名無しさん:2007/10/15(月) 18:46:40 0
>>809
>>互酬(贈与交換、返礼)は共同体の中で行われる。
>>共同体と共同体の間で行われるのは貨幣交換です。

「互酬」と「貨幣交換」は別のもので、その違いは共同体内部で
行われるか共同体と共同体の間で行われるかの違いですよね。

しかし、クラ交換は共同体と共同体の間で行われる贈与交換で
それは貨幣交換ではありませんよね。貨幣とは共通の度量衡を
もってはじめて貨幣となりますが、贈与交換では共通の度量衡が
ないことが前提となっていますから。

共同体内部では交換は行われていない、と考えるべきではないでしょうか。
もしくは、「交換」という言葉は使うべきではないのではないかなぁ〜なんて
思ったので書きました。
812第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 21:53:15 0
この当たりは厳密さを求めても仕方がないのですが、
クラ交換が行われる部族は「共同体」の内部ということになります。
たとえば部族間では近親相姦を避けるために女の交換が
行われます。そのように部族が生き延びということです。

マルクスのいう「共同体と共同体の間」とは、贈与性が働かない
ということです。だから貨幣交換するしかない。
813考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:02:15 0
クラは賀詞交換みたいなもので共同性の確認・身内意識の強化
同じ「超越的なもの」を戴いていることの再確認・強化など
がメインな「神事」的あものであった。

同時に市場も開かれたりして(決してクラではない)
こっちは世俗的な商売的なものだった。

814考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:07:33 0
中華朝貢貿易においては貢物に対して皇帝ははるかに上回る財物を
下賜したのであり、中国から見れば倭国はテリトリー内部と見做されていた。
815考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:20:21 0
>>812で言われている「共同体」の概念が
よくわからなくなりました……

というのも、クラ交換も、その一般形式である
贈与交換も、事後的に交換価値として見いだされる
貨幣も、全て異なる共同体同士で行われるからこそ
生じるもののはずだからです。

>>812だけ読むと、クラ交換を行う<共同体>と、
貨幣交換を行う「共同体」は別物のように読めてしまう
のですが、誤読でしょうか?

貨幣交換という行為が贈与交換の一形態でなければ、
冨の蕩尽という行為は問題にならないと思うのですが……
816第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 22:25:01 0
>>815
マルクスの問題点は、なぜ貨幣交換が必要とされたのか、ということです。
なぜなら贈与性というのはとてつもなく強力だからです。
人は自然にしていれば、必ず贈与交換で経済を形成するからです。

贈与交換は雑草、貨幣交換は誰かが育てなければすぐに枯れてしまう
温室の花というようなイメージですね。
817考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:28:44 0
あと、はじめに行われるのは貨幣交換でなく、商品交換ですね。
貨幣という共通の度量衡以前の交換です。

>クラ交換を行う<共同体>と、
>貨幣交換を行う「共同体」は別物のように読めてしまう

クラ交換は部族間という共同体内
商品交換は贈与交換が行われない共同体間ではじまる
818813:2007/10/15(月) 22:29:44 0
一つの共同体内部にも市場-商売-売り手・買い手的関係と
身内・親戚・宗族・宗教・まつりごと的関係が複合しているのは
一般的でしょう。

819考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:34:18 0
要するに物品は交換されるから贈与物であり貨幣で
あるわけで、逆ではない。そして交換を駆動するのは
それが人間の本質だから、ということになります。

贈与物と商品は、だからその本質はどちらも「運動」で
あり、その運動の形式は交換です。
そして贈与されるのはあくまで異なる共同体に於いて
だと思うのですが……
820考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:37:02 0
>>813
歴史的には同時期にクラ交換と商品交換が行われて
いたのかも知れませんが(よく知らないです)、それが
「神事的」か「商売的」かは事後的に判断されることで
あって、交換という本質に違いはないのでは?
クラ交換は等価交換ではありませんし、(世界市場ではない)
市場交換はある程度等価交換を目指していたのでしょうが、
貨幣が交換価値という等価物をその商品の中に見いだす
(そして貨幣がうまれる)のは、あくまで運動の後です。
交換という運動を駆動している力は、クラ交換でも市場でも
一緒です。
世界市場が生まれて初めて「資本」という自己増殖する
交換価値が生まれたわけで、逆ではありません。
821813:2007/10/15(月) 22:37:44 0
廃棄まぎわの弁当をただでくれるのは、贈与ですが、そこには
「他人ではない」的な感情が働いています。
つまりゲマインシャフト的ということです。
822第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 22:40:10 0
>>819
同じ話の繰り返しになるのでひとまずこれまでとしますが、
贈与交換と貨幣交換の違いはなにかということです。

とっても卑近な例で言えば、困っていたときに親切に友達が
助けてくれた。それであなたは、ありがとうとお金を払った。
これはなぜ失礼なのか。ということです。
823考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:45:53 0
>>817
>>クラ交換は部族間という共同体内
>>商品交換は贈与交換が行われない共同体間ではじまる

これは間違っていますよ。贈与交換はクラ交換であれ
沈黙交換であれ、すべて同じ度量衡を持たない共同体間で
行われています。

波平さんが書かれているように、「贈与は……負債感の解消である」。
つまり(これが構造主義のポイントですが)贈与は何かを受け取った
から行うのではなく、既に(想像的な水準であれ)以前に贈与が行われ
返さなければならないという負債感を生じるから行われるわけです。
その贈与は、いったいそれがどのような交換価値を持つのかわからない
(つまり同じ度量衡をもたない)から、負債感は等価ではなくなるわけです。
あらかじめ同じ度量衡を持っていたら、それだけ返せばいいわけですから。
824813:2007/10/15(月) 22:51:39 0
共同体とはそう明確なものではなく、家族ですら共同体かどうか怪しくなっている
いる時代でもありますが。
825考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:53:31 0
>>822
同じ話の繰り返しですかねぇ。

ひとこと付け加えると、波平さんは貨幣交換は弱いものだ、
といわれていますが、それは弱くしぶといものですね。

なぜなら、一旦共同体が破壊されて共通の度量衡が失われ
貨幣がその機能を失い、共同体が一時混乱に陥ったとしても
世界が崩壊しない限りは貨幣は運動の帰結として生じてくるもの
だからです。

こんなことはわかりきっているかも知れませんが、負債感を生じない
完全な交換は透視図法の焦点みたいなもので実存せず、そして
生産関係が変化すれば「砂の上に刻まれた顔が波に洗われるように
して消え、そして全ての一切は流れてゆくだろう」ということになるわけ
です。逆に言えば、資本主義という生産関係はもろく、そしてしぶとい
わけです。
826考える名無しさん:2007/10/15(月) 22:55:57 0
>>821
それは再帰的な話であって、贈与から貨幣が発生する
プロセスとは関連がありませんよ。
827813:2007/10/15(月) 23:18:00 0
>>826
市場経済ではこのような贈与は違法とされるという例として
提出しました。
合理化の進展は贈与を排除していくものだという意味でもありますが
それは救い無き世界を意味するのかもしれません。
828第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 23:21:01 0
とりあうず、落ち着きましょう。
意見の相違と、定義の違いがごっちゃになっています。

おそらく、贈与交換については考え方は同じだと思います。
なにを共同体とするかの考え方の違いでしょう。

大きな違いは、貨幣交換とはなにかということです。
貨幣交換と贈与交換の決定的な違いをわかっていません。
だから以下の例をあげたのです。あっさりスルーされました。
少し考え見ると分かると思います。

とっても卑近な例で言えば、困っていたときに親切に友達が
助けてくれた。それであなたは、ありがとうとお金を払った。
これはなぜ失礼なのか。ということです。

なぜここでお金を払うことが失礼なのか。なぜ等価交換は失礼なのか。
なぜ歴史的に商品や、お金儲けは嫌われてきたのか。

贈与交換とは、交換は商品であっても、そこには商品以上の交換
があるのです。人と人との繋がりです。贈与交換は継続して
人間関係(助け合い)を保証する人と人の交換です。

それに対して、商品交換=等価交換は、相手は誰でも良いのです。
ある商品とある商品が等価であると了承し、その時に交換する。
人と人の繋がりは必要がありません。
あくまで商品と商品で閉じた交換。そこでは人は脇役でしかない。
むしろ人と人の繋がりを切断ところに意味があるのです。
贈与交換のようにあらかじめの繋がりを必要としない。

まずこの違いからすべてを始めないといけません。
829813:2007/10/15(月) 23:26:33 0
貨幣以前から交換を目的とした商品生産はあったのであって
例えば、絹・米などは準貨幣としても機能していたと考えられるでしょう。
つまり、贈与が貨幣の起源ではないでしょう。
830第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 23:29:34 0
>その贈与は、いったいそれがどのような交換価値を持つのかわからない
>(つまり同じ度量衡をもたない)から、負債感は等価ではなくなるわけです。
>あらかじめ同じ度量衡を持っていたら、それだけ返せばいいわけですから。

すると、これはおかしいのです。
人は等価交換を望むができないから、贈与交換を行うように読めます。
違います。(未開社会では)人はまず繋がり、助けないを求めるのです。
なぜなら(未開社会では)一人で生きていくことができないからです。

>なぜなら、一旦共同体が破壊されて共通の度量衡が失われ
>貨幣がその機能を失い、共同体が一時混乱に陥ったとしても
>世界が崩壊しない限りは貨幣は運動の帰結として生じてくるもの
>だからです。

これも違います。
未開社会は破壊された共同体とは違います。
未開社会には貨幣交換に対する記憶がありません。

貨幣の記憶のないわずかな人々のみ残して生存を始めれば、
まず助けないの贈与交換が行われます。
貨幣交換が行われるのは、人の繋がりが希薄化する程度に
人口が増えなければならないでしょう。
それでも贈与交換に貨幣交換がとって変わろうとすれば、
また近代の始まりのように、人が世界を征服するまで待たなければならないでしょう。
831考える名無しさん:2007/10/15(月) 23:31:43 0
>>828
スルーしてすみません……
>>なぜ等価交換は失礼なのか。
これはわかります。等価交換は、交換を止めてしまう
からです。人と人とのつながりは、物と物との交換で
購われています。その交換=運動を、等価交換は
止めてしまう。つまり、つながりを絶ってしまう。
了解です。

贈与交換から貨幣は生じてきたが、貨幣として生じた
段階=すなわち運動の事後的作用として等価物として
生じた段階で、再帰的に、物と物との関係から人と人との
関係が消え去ります。それを物神化と呼ぶ。それはよくわかります。

>>なにを共同体とするかの考え方の違いでしょう。
そうなんですが、それが重要だと思うんですが、どうもうまく説明
できません。勉強不足です。
832813:2007/10/15(月) 23:38:03 0
共同体の一つの要素は「縁」でしょうね。
ゲゼルシャフトにおいてはこれは排除されるでしょうが。
833考える名無しさん:2007/10/15(月) 23:38:04 0
8回規制で再接続です。
>>830
>>人は等価交換を望むができないから、贈与交換を行うように読めます。
そう読めたら、書き方が悪いですね。贈与交換の段階では、等価交換という
概念は存在しませんから。

クラ交換だと相手にクラを渡しに行く交換になりますが、沈黙交易に於いては
ある場所においてあるものを、自分の共同体ではない誰かが置いた、わけの
わからない、けれどお返しをしなければならないもの、として受け取られます。
こちらの方が、贈与交換の本質をわかりやすく示していると思います。
>>(未開社会では)人はまず繋がり、助けないを求めるのです。
ですが、それは沈黙交易やクラ交換とはまた別のことです。それこそ、共同体
内部の現象であるといえる。沈黙交易は、見えない共同体に対して、その返礼を
(すなわち助けを)請うているわけではないのですから。

>>これも違います。
>>未開社会は破壊された共同体とは違います。
>>未開社会には貨幣交換に対する記憶がありません。
いや、これは現代資本主義社会について書いたんですが……
834考える名無しさん:2007/10/15(月) 23:45:57 0
>>827
貨幣が実存として、運動するものとして流通し、その貨幣を
前提として方がくみ上げられているほどに発展している
社会なら、「違法」という観念もうまれてくるでしょうね。

ただ、議論は(私が思っているのは)まず、共同体間での
それこそ奇蹟に近い偶然で始まった交換がなぜ行われ、
どのように続いたのかが問題になっているのであって、
既に世界市場がうまれ、貨幣が一般的な概念になっている
現時点で構成された世界観から見るとおかしなことになっちゃうよ〜と
いうことです。

合理化の進展は世界の平準化であり、それは資本主義の進める
一つの大きな力ですが、同時に資本主義は世界を決して平準化しない。
共同体の間に経済的な格差があって、始めて資本は自己増殖できる。
共同体内部でも同様で、生産物の作り始めと終わりでは価値に差が生まれる。
その差を資本は飲み込む。
地理的にも文化的にも資本主義はでこぼこと、開発のまだら模様を残しながら
進行していきますが、このまだらな進行、決して平準にはならない、という点は
重要だと思います。

贈与は、波平さんは書かれましたが、むしろ生々しい略奪という行為によって現前してますよ。
835第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 23:48:40 0
>>>(未開社会では)人はまず繋がり、助けないを求めるのです。
>ですが、それは沈黙交易やクラ交換とはまた別のことです。それこそ、共同体
>内部の現象であるといえる。沈黙交易は、見えない共同体に対して、その返礼を
>(すなわち助けを)請うているわけではないのですから。

これは、ラカン的にいえば、想像的と象徴的な違いですね。

人はまず繋がり、助けない贈与性が、儀礼化した贈与交換となる。
沈黙交易やクラ交換とは、助けないが儀礼化したものです。
このようなシステムを「共同体」と呼びます。
共同体の間とは、このようなシステムの繋がりがないということです。
ここに商品交換は生まれます。
なぜなら略奪(戦争)以外に、交換様式が存在しないのですから。

>いや、これは現代資本主義社会について書いたんですが……

なにがいいたいのかわかりません。

とりあえず、ここまで。
836第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/15(月) 23:51:36 0
誤字なおしました。

>>>(未開社会では)人はまず繋がり、助けないを求めるのです。
>ですが、それは沈黙交易やクラ交換とはまた別のことです。それこそ、共同体
>内部の現象であるといえる。沈黙交易は、見えない共同体に対して、その返礼を
>(すなわち助けを)請うているわけではないのですから。

これは、ラカン的にいえば、想像的と象徴的な違いですね。

助けあいの想像的な贈与性が、儀礼化して象徴的な贈与交換となる。
沈黙交易やクラ交換とは、助けあいが儀礼化したものです。
このような贈与交換システムを「共同体」と呼びます。

共同体の間とは、このようなシステムの繋がりがまったくないということです。
ここに商品交換は生まれます。
なぜならここには、略奪(戦争)以外に、交換様式が存在しないのですから。

>いや、これは現代資本主義社会について書いたんですが……

なにがいいたいのかわかりません。

とりあえず、ここまで。
837考える名無しさん:2007/10/15(月) 23:58:27 0
シンプルに行きましょう。

要するに、波平さんは
クラ交換は共同体の内部で行われ、
貨幣交換は共同体の外部で行われていた

この主張で言い訳ですね?
838第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 00:07:36 0
>>837
話はそう単純にはいきません。
まずボクが言いたいことはここに書いていることです。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071012
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071010

もう少し考えをまとめてから聞いてもらったほうがいいですよ。
あと、相手の意見を読むこと。
言いたいことが先行しすぎると、議論になりません。
839考える名無しさん:2007/10/16(火) 00:11:59 0
まず相違点と同意点を理解しあうことです。
たとえばマナ、ハウに貨幣の原型があるという考えは、
すでに一般的に言われています。
ボクはこの考えにまったく反対しているわけではありません。
ただ話はそう単純ではないということです。
贈与交換と貨幣交換には断絶があるということです。
840第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 00:13:00 0
コテがうまくつきません。
>>839はボクです。
841813:2007/10/16(火) 00:25:19 0
クラ交換はゲゼルシャフト
貨幣経済はゲマインシャフト

一つの地域(国でもよい)の中に重層していてかまわない。
842813:2007/10/16(火) 00:27:08 0
↑逆でした
843813:2007/10/16(火) 00:36:21 0
>>834
共同体間の交易は奇跡的なものではなく、人口増大や環境変化などの
圧力や冒険心(現在では起業家精神?)などによって、フロンティアを
求めた結果と考えられます。
844第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 00:56:54 0
柄谷的にいえば、この3つはいつも働いています。

互酬(贈与交換)
再配分(略取と再配分)
商品交換

ただその時代になにが主であるかの違いです。
未開社会・・・互酬性
原始国家・・・再配分
資本主義経済・・・商品交換

現代は主は商品交換でも、それを支えるベースは互酬でしょう。
人が社会規範を守ろうとするのは、お互いに助けあい
秩序を保とうとするからです。これは一種の互酬です。
845考える名無しさん:2007/10/16(火) 01:02:13 0
>>844
それは単一の共同体モデルで、掠奪、戦争、支配などの
共同体間の関係が抜けてるのでは?
846第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 01:08:33 0
>>845
国家、資本主義経済が単一の共同体モデル???
847第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 01:17:36 0
掠奪、戦争は定常な交換として考えないのですね。
定常化するには、再配分(略取と再配分)とする必要がある。
支配とは暴力による弾圧ではむずかしく、支配者に対する負債感
として、すなわち贈与交換が成立しているように振る舞われる。
だから王は神なのです。
848考える名無しさん:2007/10/16(火) 01:35:26 0
(一見)等価交換において、肥沃な土地の住人は余った穀物を、痩せた土地の住人
の労働と交換しうる。
すなわち、後者は生存のため奴隷的生活に甘んじなければならない。
悪くすると、借金のため痩せた土地まで手放さなければならなくなるかもしれない。
849第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 09:14:16 O
貨幣交換が特殊な状態であるなら、自由と平等も特殊な状況である。これは経済的な余裕に支えられているからだ。
一人でも生きていけるということの意味は、安定した社会を支えにするというとても脆い基盤のうえにたっている。
それは国家とお金に多くを委ねる姿勢である。いざとなればなんとかしてもらえるという漠然とした期待に支えられている。
850第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 09:23:15 O
現代における不安の要因はこのような漠然とした期待への漠然とした不安である。
年金問題にしても国のあまりのずさんさは一気に不安をかきたて、貨幣への依存、すなわち貯蓄することへむかわせた。
そこには贈与性という想像的なクッションの欠落がある。人は一人では生きていけないという不安が謙虚さを生み、日常的に人間関係の構築をうながす。
非常時にもっとも強固なものは国家でもなく、貨幣でもなく、贈与交換という助け合いであるということ。
851第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 09:36:32 O
等価交換の可能性はともに利益をえることにある。これはそれぞれが異なる共同体に属し、交換においての差異を、マルクスがいう剰余価値を生み出せる可能性にあることだ。
同じ共同体では差異は生まれず交換の意味がない。
852第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 13:07:38 O
■死と科学
@死刑とスイッチ
A死の神性
B純粋な暴力
C科学と例外状態
853第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 13:36:04 O
ボードリヤール 象徴交換と死
854考える名無しさん:2007/10/16(火) 16:51:47 0
誘導尋問的な「男女共同参画社会に関する世論調査」

ttp://www8.cao.go.jp/survey/h19/h19-danjyo/
ttp://www8.cao.go.jp/survey/h19/h19-danjyo/3.html

Q3〔回答票3〕 今後,あなたが,男女が社会のあらゆる分野でもっと平等になるために最も重要と思うことは何でしょうか。この中から1つお答えください。

(13.4) (ア) 法律や制度の上での見直しを行い,性差別につながるものを改めること
(23.8) (イ) 女性を取り巻く様々な偏見,固定的な社会通念,慣習・しきたりを改めること
(23.1) (ウ) 女性自身が経済力をつけたり,知識・技術を習得するなど,積極的に力の向上を図ること
(18.8) (エ) 女性の就業,社会参加を支援する施設やサービスの充実を図ること
(11.4) (オ) 政府や企業などの重要な役職に一定の割合で女性を登用する制度を採用・充実すること
(2.2) その他
(7.3) わからない


これをみろ。
イウエオで「女性」問題が選択肢にあり、「男性」の選択肢は一つも無いぞ。

おまいらは、こんな結果誘導的な調査に不満はないのか?
Q3にどう答えても女の地位は上がるだけで下がることは決してない選択肢である。

この調査の結果を受けて、政策が決まってるんだぞ。
855考える名無しさん:2007/10/16(火) 16:55:46 0
>>850
>>非常時にもっとも強固なものは国家でもなく、貨幣でもなく、贈与交換という助け合いであるということ。
こんな道徳訓辞が哲学の前提なの?
856第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 18:47:43 O
アメリカの映画で電気椅子による死刑執行場面があった。スイッチが数個ならび、それぞれに執行人がつき、執行の際には一斉にボタンを押していた。
これは誰が実際に電気をオンにしたのかわからなくするためである。
執行人は死刑囚になんの思いもないし、仕事として執行しているだけだろう。
しかし実際に自分がスイッチを押し、人が死ぬという体験は簡単なものではない。
基本的に他者の生を奪う行為は神の領域であり、その負債は人間が背負えるものではない。
このような配慮から誰が実際に執行したのかわかないようにする。
857第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 18:53:42 O
最近、法務大臣の死刑の承認を大臣が背負うのではなく、くじかなにかで決め手はどうだろうという発言があったが、これも同様な心理によるだろう。
死への負債は偶然性により希釈される。
858第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 18:59:39 O
このような死の神性は虚構であるといえるだろう。しかし死はそこにしかない。
人の死と動物の死の違いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。
だからこそ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。
859第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 19:07:04 O
自然の恵みは、決して返礼を求めないということから純粋贈与といわれる。
しかしそれは贈与ではない。ただ来るだけだ。それが贈与であると思うのは人の認識でしかない。
たとえば大雨がふる。百姓にはめぐみであっても、それが川を氾濫させ災害と思う人がいるだろう。
だから純粋贈与はまた純粋略奪である。
860第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 19:19:59 O
ベンヤミンは暴力批判論の中で純粋な暴力について言及しているが、真に純粋であればその力は暴力でさえない。
たとえば大地震が家屋を破壊し大量の死者を出したとしてそれは純粋な暴力であるが、本質的に暴力ではない。
このような純粋な暴力の真の恐怖は、人が限りなく純粋な暴力を行使することを想像したときである。
殺害する者を恨んでいるわけでもなく、殺人に快楽を覚えるわけでも、なにか目的があるわけでもなく、ただ殺す。
たとえば日々、捨てられた大量の犬がガス室で「処理」されているらしい。これは純粋な暴力の一種だろう。
861第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 19:29:44 O
まさにデリダはベンヤミンの純粋な暴力にナチスのユダヤ人虐殺をみて、恐怖したのだ。
アガンベンは同じような意味からアウシュビッツの囚人を剥き出しの生と呼んだ。
もはやそこにはユダヤ人への恨みや、ナチスによる快楽が希薄化し、人の生を効率よく処理するための装置が作動しているだけである。
ここに倫理的な生は存在しないし、集団の一部としての生も存在しない。ただ処理される剥き出しの生のみがある。
862第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 19:38:11 O
アガンベンはこのような領域を例外状態と呼び、法の領域との関係で語る。
しかしこのような暴力をつくりだすためにはガス室という装置が重要な役割を果たしているだろう。
たとえば手作業において人を殺害する場合に、いかに関係性を排除しようとしても、数人で押すスイッチの場合と同じで困難だろう。
そこに負債感が侵入し、人間の死としてあらわれてしまう。そこに科学技術が介入することで暴力は純粋さを増すことができる。
863考える名無しさん:2007/10/16(火) 19:41:15 0
チャチャッチャチャチャチャッ!
スーパーマリオブラザーズでは、プレイヤーには3つの命が
与えられます。

穴に落ちたり、敵にぶつかったり、壁に潰されると命は1つ
減ってしまいます。

そして命が全て無くなると、ゲームは終了。プレイヤーは、
ゲームの敗北という絶対的な死を宣告されます。

ではリセットしてやり直そうとしたとき、あなたの父親が来て
こんなものがあるから勉強しないんだと捨てられてしまいました。

ゲームそのものが無くなってしまったので死はもうありません。
864第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/16(火) 19:49:51 O
これは科学技術がもつ還元主義による。質をある単位に還元し量化し、処理する。
倫理的な次元は科学に近接すると溶解する。医学において人は身体という一つの単位である。
ただの身体であるから医療は反復され、より最適な方法がめざされる。
これは科学技術が例外状態を開示する特性をもつことをしめす。
たとえば現代の戦争の凄惨さは科学技術により兵器が大量破壊を可能にして、倫理的な死を溶解し、人を兵器の部品化し、死という質を機能停止した一身体という量に還元したところにある。
865考える名無しさん:2007/10/16(火) 19:58:00 0
純粋贈与は「純粋贈与」ってカッコにくくった方がよくないですかね?
だって言語を介した純粋贈与って純粋贈与ではありませんから。
逆に、言語を介して痕跡を表しているんだよ、と言う意味で「純粋贈与」って
書いた方がいいんじゃないカナ?
866第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 21:29:58 0
■なぜ科学は死を溶解するのか

@死刑とスイッチ

アメリカの映画で電気椅子による死刑執行場面があった。スイッチが数個ならび、
それぞれに執行人がつき、執行の際には一斉にボタンを押していた。これは誰が実
際に電気をオンにしたのかわからなくするためである。執行人は死刑囚になんの思
いもないし、仕事として執行しているだけだろう。しかし実際に自分がスイッチを押
し、人が死ぬという体験は簡単なものではない。基本的に他者の生を奪う行為は神
の領域であり、その負債は人間が背負えるものではない。このような配慮から誰が
実際に執行したのかわかないようにする。

最近、法務大臣の死刑の承認を大臣が背負うのではなく、くじかなにかで決め手は
どうだろうという発言があったが、これも同様な心理によるだろう。死への負債は偶
然性により希釈される。
867第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 21:30:57 0
A死の神性

このような死の神性は虚構であるといえるだろう。しかし死はそこにしかない。人の
死と動物の死の違いは生物学的な差異ではなく倫理的な差異でしかない。だからこ
そ人は他者の死に対して背負えない負債をおうのだ。

生と死において重要なことは「個」ということだ。たとえば、僕たちの内部では今も多
くの細胞が「死んでいる」。「細胞」を「個」と考えると、細胞は死んでいるのであり、
僕を「個」と考えると僕という個を生存させるための新陳代謝である。

「死」とはなんらかの「個」を決定し、停止することである。人間の「死」とはなにか。
明確には医学的な「脳」の停止でしかない。すなわち「死」には「個」を決定する認識
者を必要とする。

「死」はどこまでも「個」の設定を必要する。そして設定するのは現存在である人間
でしかありあえない。だから「個」の設定は、「私」という個人であり、私はいつか死ぬ、
そして死とはどこまでも倫理的なものである。
868第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 21:31:42 0
B純粋な暴力

自然の恵みは、決して返礼を求めないということから純粋贈与といわれる。しかしそ
れは贈与ではない。ただ来るだけだ。それが贈与であると思うのは人の認識でしか
ない。たとえば大雨がふる。百姓にはめぐみであっても、それが川を氾濫させ災害
と思う人がいるだろう。だから純粋贈与はまた純粋略奪である。

ベンヤミンは暴力批判論の中で純粋な暴力について言及しているが、真に純粋で
あればその力は暴力でさえない。たとえば大地震が家屋を破壊し大量の死者を出
したとしてそれは純粋な暴力であるが、本質的に暴力ではない。このような純粋な
暴力の真の恐怖は、人が限りなく純粋な暴力を行使することを想像したときである。
殺害する者を恨んでいるわけでもなく、殺人に快楽を覚えるわけでも、なにか目的
があるわけでもなく、ただ殺す。たとえば日々、捨てられた大量の犬がガス室で「処
理」されているらしい。これは純粋な暴力の一種だろう。
869第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 21:32:50 0
デリダはベンヤミンの純粋な暴力にナチスのユダヤ人虐殺をみて、恐怖したのだ。
アガンベンは同じような意味からアウシュビッツの囚人を剥き出しの生と呼んだ。も
はやそこにはユダヤ人への恨みや、ナチスによる快楽が希薄化し、人の生を効率
よく処理するための装置が作動しているだけである。ここに倫理的な生は存在しな
いし、集団の一部としての生も存在しない。ただ処理される剥き出しの生のみがある。
870第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/16(火) 21:36:36 0
C科学と例外状態

アガンベンはこのような領域を例外状態と呼び、法の領域との関係で語る。例外状
態とは、戒厳令や戦時中などの緊急時に通常の法が一時停止されることである。こ
れは無法地帯ではなく、特別な規則が作動する。たとえば通常、人を殺すことは違
法であるが、例外状態では許される場合があるなど。通常と無法の間にある。倫理
(秩序)と混沌の間にある秩序である。

アガンベンはここに権力による暴力をみる。しかしこのような暴力をつくりだすため
にはガス室という装置が重要な役割を果たしているだろう。たとえば手作業におい
て人を殺害する場合に、いかに関係性を排除しようとしても、数人で押すスイッチの
場合と同じで困難だろう。そこに負債感が侵入し、人間の死としてあらわれてしま
う。そこに科学技術が介入することで暴力は純粋さを増すことができる。

これは科学技術がもつ還元主義による。質をある単位に還元し量化し、処理する。
倫理的な次元は科学に近接すると溶解する。医学において人は身体という一つの
単位である。ただの身体であるから医療は反復され、より最適な方法がめざされ
る。これは科学技術が例外状態を開示する特性をもつことをしめす。たとえば現代
の戦争の凄惨さは科学技術により兵器が大量破壊を可能にして、倫理的な死を溶
解し、人を兵器の部品化し、死という質を機能停止した一身体という量に還元したと
ころにある。

すなわち科学もまた別の意味で例外状態をつくりだす。倫理を溶解するが、無秩序
ではなく、異なる秩序である。ここにフーコーの言う生権力に近づく。
871第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/17(水) 12:25:59 O
だから現代において科学技術に囲まれ生活をしているということは、ボクたちは生をむき出しにされ生きている。
すなわち管理され処理される生の日常を生きている。
872第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/17(水) 14:26:25 O
法はいつも人間の尊厳をまもる倫理を基本に制定されるが
科学技術は倫理を溶解することで法の外部にむかう。そしてそこに法を打ち建てることが求められる。
現代ではネットしかり、遺伝子技術しかり、医学しかりである。
しかしここに単に法と科学の対立をみることはできない。科学により生み出される例外状態はフロンティアとも呼ばれるからだ。
873第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/17(水) 17:05:27 0
■科学技術は暴力を純粋化し、生を剥き出しにする。

「個」への強い思い、人はだれとも代替されない唯一の存在であるという代替不可
能性が動物とは断絶した人間の倫理的な次元を開く。

「純粋な暴力」とは、代替可能性による死への負債感の消失である。殺す者を恨ん
でいるわけでも、殺すことに快楽を覚えるわけでも、ただ殺す(処理する)。そして
「純粋な暴力」の真の恐怖は、人が人に対して限りなく純粋な暴力を行使することを
想像したときである。

現代において、科学技術は質を量(代替可能性)へ解体することで、暴力の純粋さ
を増す。そして科学技術の暴力は、人間の生へ介入することで倫理的な(秩序あ
る)生でもなく、動物のように倫理の外部にある無秩序な生でもなく、その中間で管
理され処理される「剥き出しの生」へと近接する。

現代において科学技術に囲まれ生活をしているということは、ボクたちは生をむき
出しにされ、生きている。すなわち管理され処理される生の日常を生きている、とい
うことだ。
874第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/18(木) 09:17:27 O
亀田バッシングを見ていると感じる薄気味悪さはなんだろう。
処罰をこえた人々のヒステリックさ。その人格攻撃はまさにいままで人気であったところそのものである。
最近、バッシングがつづく。朝ショウ龍、沢尻、安部首相と官僚、ホリエモン

やはり情報化技術の発達により応答性が向上し、興味が短期に一緒に集中する傾向のあらわれだろう
これは2ちゃんねるの祭りとして現われたが、それが社会全般に広がっている。
ボクもなにか不条理なことを知ると、ネットで騒ぎにして、マスコミで取り上げられることを期待してしまう。
世論というものへの期待がある。この世論の力に気がついたのが、イラク人質バッシングや小泉支持あたりではなかっただろうか。
あの辺りから人々の中で騒ぐことが力となるという漠然とした意識が芽生えたように思う。
亀田バッシングにあるのは不気味さは、事実への関心以上に力を行使するような興奮である。
875第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/18(木) 09:30:41 O
特にその傾向が強いのが2ちゃんねるとマスコミの同期である。
少し前までは2ちゃんねるはマスメディアに対して卑屈な気後れがあり、マスメディアは2ちゃんねるをバカにし、対立関係があった。
よくいえばマスメディアへの監視機能が働いていたが、今ではたがいに認めあい、境界は薄れ、互いに同期しあっている。
マスメディアは2ちゃんねるへネタを投下する。マスメディアはそれを自覚しつつニュース(ネタ)をつくる。
以前は偶然的な同期から確信的な同期へ。この確信さに薄気味悪さを感じてしまう。
もはや生け贄はだれでもよい。小さなつまずきさえあれば。ここに出口はあるのだろうか。
876第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/18(木) 09:36:22 O
それはバッシングというより、「炎上」という表現の方が正しいのだろう。
亀田家はバッシングされているといいより、炎上しているのである。
877第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/18(木) 11:26:19 0
■なぜ亀田家バッシングは薄気味悪いのか 炎上化する社会

新たな「世論」の力への気づき

亀田バッシングを見ていて感じる薄気味悪さはなんだろう。処罰をこえて、人格攻撃
にいたる人々のヒステリックさ。その人格はいままで魅力であったところそのもので
ある。最近、バッシングが途絶えることがない。安部首相と大臣、朝青龍、沢尻エリカ・・・

ボクもなにか不条理なことを知ると、ネットで騒ぎにして、マスコミで取り上げられる
ことを期待してしまう。そこには「世論」が世を正してくれるという期待がある。世論は
最近起こったことではないが、新たに人々が「世論」の力に気がついたのが、イラク
人質バッシングや小泉支持あたりではなかっただろうか。あの辺りから人々の中で
騒ぐことが力となるという漠然とした意識が芽生えたように思う。

この「世論」の新しさは、ネットの発達を関係しているように思う。ネットは人々の反
応を迅速に表示する。この応答性の速さは、人々の興味を短期で一点に集中す
る力として現れている。
878第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/18(木) 11:27:02 0
2ちゃんねるとマスメディアの確信的な同期

このような傾向は、2ちゃんねるで「祭り」としてはじまった。「祭り」は単に人々の興
味を短期で一点に集中するだけでなく、その力そのものにみなが自覚的である、ア
イロニカルであることに特徴がある。このアイロニーは社会に気味の悪いものとして
受け止められている。そこにマスメディアの2ちゃんねる批判が起こる。

しかし最近の特徴として、このアイロニーがマスコミと同期しつつあるように思う。イ
ラク人質バッシングや小泉支持あたりにもこのような同期は見られたが、そこには
偶発的で、お互い手探りな感じであった。2ちゃんねらーはマスコミと同期しつつ取
り上げられることに新鮮な喜びを感じていた。

もはや2ちゃんねるは単なるマイナーな存在として無視できず、一般化していく中
で、同期は意図的なものへ向かっている。2ちゃんねるはマスメディアからニュース
(ネタ)を拾い上げる。マスメディアは拾い上げられることに自覚的にニュース(ネタ)
をつくる。マスメディアにとってこのようなバッシングの日常化はニュースソースに困
らないという点で大きなメリットがある。

2ちゃんねるとマスメディアの偶然的な同期から確信的な同期へ。小さなつまず
きさえあれば、もはや生け贄はだれでもよい。そこには、興味を短期で一点に集
中する力に自覚的に作動させたいという意図がある。この確信さに薄気味悪
さを感じてしまう。それはバッシングというより、「炎上」という表現の方が正しいのだろう。(終)
879第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/18(木) 11:37:46 O
アイロニカルであるのは力に自覚的で操作可能性をカンジ、操作そのものな楽しみを感じることにある。
880考える名無しさん:2007/10/18(木) 12:48:59 0
>878
はじめて君の書いた文章に同意するよ。ウェブ炎上がもはやウェブ上の特殊な形態ではなく、
一般化されているというわけだね。
881考える名無しさん:2007/10/18(木) 13:31:21 O
昔の女性誌によるユウキナエバッシングとか。
宮崎事件以後の「ここに何万人もの宮崎勤がいます!」とか。
連合赤軍メンバーの親父自殺だとか(宮崎勤の親父も自殺)。
非国民!ニート!とか
昔から炎上は酷かった気がするのです。
より経済的かつ効率的に村八分が行われるようになっただけという気がします。
882第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/18(木) 13:39:05 0
バッシングと「炎上」の違いにアイロニカルを見てるわけです。
ここでいうアイロニカルであるというのは、力に自覚的で
そこに操作可能性を感じ、操作そのものな楽しむ傾向がある。
それはネットのインタラクティブ(応答性の良さ)という技術を
背景にしていると思うのです。
883考える名無しさん:2007/10/18(木) 21:27:32 O
おまえがいうまでもなく、みんなわかってる。
たまには生産しろ。
884第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/18(木) 21:47:54 0
素直に同意といえ
885考える名無しさん:2007/10/19(金) 00:27:50 0
ネラーが祭をするのはいつものことだろうに。
886第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 00:58:22 0
祭りがマスメディアと確信的に同期するとき、息苦しいような閉塞感が生まれます。
出口がない・・・
887考える名無しさん:2007/10/19(金) 02:07:01 0
たまたま今回はテレビの意図とネラーの嗜好が重なっただけだろ。
テレビの意向ってのはテレビを見ている大衆なんだが、その大衆と
ネラーは重ならないだろう。
ネラーガつまらないと思ったら容赦なく叩くよ、初音ミク問題みたいに。
888考える名無しさん:2007/10/19(金) 02:07:56 O
>>886

異議あり!
それは常駐の人だけではないでしょうか?
889第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 08:57:53 O
こじまよしお
消費社会のもつ集中化
マスメディアの閉塞に関する通路として期待された2ちゃんねるが確信的にマスメディアと同期し、ただただ消費するだけの終わりのない動物化の円環を速く回すだけ
ただ象徴の貧困を加速するならば、もはや行き場のない閉塞感しかない。
890第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 10:23:07 0
終わりのない動物化の円環

ギター侍、ヒロシ、HG、こじまよしお・・・など、お笑いの消費はヒステリックに、短期
間になっている。このような傾向はそのまま、バッシングの傾向と対応するのではな
いだろうか。安部首相と大臣、朝青龍、沢尻エリカ、亀田家・・・これは、たとえば「象
徴の貧困」と言われるような消費社会の傾向の一つである。

>>
ハイパー産業社会においては、個は文化産業が流通させるイメージを取り込んで
内面化する。内面化されるイメージはますます標準化され、個人の過去は全ての人
にとって同じようなものとなってしまう。ひとりの個人には固有の「過去」などもはや
ない、産業的な「過ぎ去り(=流行)」しか存在しない、ということになる。・・・資本主義
とともにグローバル化されたブランド、製品の論理による人びとの同一化、個体化。

「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌 ベルナール・スティグレール 
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060911
<<
891第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 10:26:30 0
このようなマスメディア主導の閉塞へのカウンターとして、ネットは期待された。上か
らの押しつけではなく、それを解体し、発散させ、横への広がりによって多様性を確
保する。マスメディアが2ちゃんねるを叩くとき、そこには誹謗中傷などの様々な問
題がありながらも、いままで独占してきたメディアの位置を脅かされる恐怖が確実に
あった。

しかしマスメディアと2ちゃんねるの確信的な同期という共犯関係が成立してしまう
と、そこに生まれるのは、終わりのない動物化の円環が加速化されるという絶望的
な閉塞でしかない。「さて、次の獲物は誰かな。」とマスメディアと2ちゃんねるは「炎
上」先を求め、這い回っている。

>>
売れているものがメディアに取り上げられることで注目度を増し、さらに売れるという
スパイラル現象。マーケティング用語でティッピングポイント、経済学では収穫逓増
(ていぞう)と呼ばれる現象が起き、一極集中へとひた走る。そうした情報の流通環
境を加速させているうえで大きいのは、やはりインターネット−−とくにウェブの存在
だろう。

いまや誰でも何か知りたいことがあれば、パソコンや携帯電話で検索すればよい。
億単位におよぶほどふんだんな情報が出てくる。しかも、情報を引き出す際には、
より個人に特化(パーソナライズ)した絞り込みでセグメント(区分)することすら可能
だ。

だが、どういうわけか、何かが起きる際には一極集中のような現象が見られる。そこ
にこの新しい時代の逆説的な傾向がある。・・・いま訪れつつある社会は、本当にフ
ラットなのだろうか。もうひとつの大きな要素が見逃されているように映るのだ。・・・
巨大な一極とフラット化の社会というべきか。P49-50

グーグル・アマゾン化する社会 森健 (ISBN-10:4334033695)
<<
892第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 12:10:59 O
アガンベンの主張は権力は境界に現われるということだ。
この意味は現代により重要だろう。内部にいることでボクたちは自由と平等を謳歌する。
フーコーのいうようにもはや上からの権力は希薄化し、それが権力であるか気がつかないほどに横に薄く広がっている。
ネオリベラリのいう小さな国家、その先にはマルクスを継承した国家が消失した帝国があるのかもしれない。
893第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 12:22:14 O
イラク戦争、途上国からの難民、下流などはフラットな世界の偏在でしかない。
しかしアガンベンの例外状態の議論はまさにその偏在を問題にする。権力はいつも例外状態に明確に現われる。
これはカラ谷がマルクス、ネグリを批判した国家論に近い。国家は消失しない。国家は戦争により現われる。
例外状態でなにがおこなわれているこそが権力を顕にする。国家間の最前線、資本主義経済の最前線、科学の最前線、それが問題である。
894第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 13:00:22 0
■例外で考える

アガンベンの主張は権力は境界に現われるということだ。「主権者とは例外状態につい
て決定する者である。(シュミット)」この意味は現代により重要だろう。内部にいること
でボクたちは自由と平等を謳歌する。

フーコーのいうようにもはや上からの権力は希薄化し、それが権力であるか気がつか
ないほどに横に薄く広がっている。ネオリベラリのいう小さな国家、その先にはマルクス
を継承したネグリのいう国家が消失した「帝国」があるのかもしれない。ここでは、イラク
戦争、途上国からの難民、下流などはフラットな世界の偏在でしかない。

しかしアガンベンの例外状態の議論はまさにその偏在を問題にする。権力はいつも例
外状態に明確に現われる。 これは柄谷がマルクス、ネグリを批判した言った、「国家は
消失しない。国家は戦争により現われる。」につながる。

例外状態でなにがおこなわれているこそが権力を顕にする。国家の最前線、資本主義
経済の最前線、科学の最前線、ネットの最前線、それが問題である。
895第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 16:30:50 O
この世界で恐ろしいものと考えると、まずお金。お金がからむと人が変わるといわれるように恐ろしい。
次は他者。他者との関係は緊張をしいられる。
これは実感としては低いが国家権力。法に触れてしまった場合に強力な暴力として現われるだろう。
あとは自然。いまなら地震など生の自然に触れると人はただ立ちすくむだろう。
さらには機械。ただ機械的に作動する機械の力は恐怖である。

これらは暴力に関係することで私を作用する。レッシングは人を動かすものとして四つをあげた。法、規範、市場、アーキテクチャ。
資本(貨幣交換)−市場−お金
国家(再配分)−法−国家権力
ネーション(贈与交換)−規範−他者
*−アーキテクチャ−機械
*(純粋贈与)−*−自然

896第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 16:51:19 O
これらの暴力はおおきく分けると、自然=物理的な力と他者=社会的な力に分解できるのではないだろうか。
897第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 17:17:26 0
ネーション(贈与交換)−規範−他者。規範は、社会的な力である。
他者との関係の中から現れる。贈り物などの物質的な形態を媒介するとしても、

資本(貨幣交換)−市場−お金 。貨幣は硬貨、紙幣など物質的な
形態であるが、それが貨幣であるのは、社会的な取り決めによる。

国家(再配分)−法−国家権力。国家権力は、軍隊、警察などの
物理的な力として現れる。国家権力が無法な暴力と異なるのは、
社会的な関係によるものである。しかし多くにおいて、物理的な
暴力をもって行使される。特に法的にいえば、どのような理由であれ、
市民が暴力を振るうことは違法な行為とされ、物理的な暴力は
国家権力の独占されている。

自然の力は、社会的な関係と離れた、純粋に物理的な力である。
しかし実際には純粋な自然の力というのは存在しない。

たとえば地震で損害を被った場合、日頃の避難訓練が悪かった、
家の耐震対策が不十分だった、と社会的な問題と関係する。

このような問題は、アーキテクチャの問題である。人間の生活圏において、
純粋な自然は存在せず、アーキテクチャーと関係する。
アーキテクチャは、物理的な制約を力とすると、そこの他者の
意図が含まれている、すなわち制作されている。
898第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 17:46:15 0
これは暴力とはただの物理的な力ではなく、社会的な圧力である、
ということを示すだろう。すなわち他者からの意図の圧力の形態である。

逆に社会的な力において、物理的な力の強度を問うことができる。
そして国家権力は決定的に、物理的な暴力を独占している。

貨幣であれ、アーキテクチャであれ、その力は法に根ざしている。
貨幣関係を破ることも、アーキテクチャを破壊することも、
法によって禁止されている限りである。

これに対して、規範は、法以前の社会性である。
明文化されていないが、そうすべきである社会性である。
法によって独占されている物理的な暴力の以前である。
たとえば家庭でしつけのために親が子を叩くことが許される。
これは法で禁止されていないという事以前に、
規範によって許されていることをもとに法が成立されている。
革命が民衆のデモから起こる場合があるのは、
このためである。

ただ科学技術の発達は、国家権力頼らずとも、強力なアーキテクチャを
持つことができるようになりつつある。

物理的な力において、以下に分類される。
国家(貨幣)−規範−アーキテクチャ
899第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 18:00:21 O
から谷は近代絶対主義国家の成立を科学技術の発展をもとにした軍事力と経済力の独占にみた。
これらは科学が世界を資源にかえたことによる富の独占だろう。
しかしこのような科学は社会に拡散していく。これが科学技術と市場経済の発展だろう。そして民主主義へむかう力となった。
900第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/10/19(金) 18:12:39 O
これは国家の消滅を意味しなかった。むしろ帝国主義として国家は強化された。
それは国家の発展が植民地という国家の外部からの搾取に基づいていたためだろう。
暴力を独占する国家があって富は成立していた。
世界大戦をへて現代、科学はより解放された。しかし軍事力の国家による独占は変わっていないのではないだろうか。
すなわちいまも国家外からの搾取の構造はかわっていないからだろう。
多国籍企業であろうと、国家との協力なく成立しない。それはただ民営化という形態で国家の端部で搾取する装置のごとく作動している。
901第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 19:17:16 0
■なぜ国家は物理的な暴力を独占するのか

この世界で恐ろしいもの

この世界で恐ろしいものと考えると、まずお金。お金がからむと人が変わるといわれ
るように恐ろしい。次は他者。他者との関係は緊張をしいられる。これは実感として
は低いが国家権力。法に触れてしまった場合に強力な暴力として現われるだろう。
あとは自然。いまなら地震など生の自然に触れると人はただ立ちすくむだろう。さら
には機械。ただ機械的に作動する機械の力は恐怖である。

これらは暴力に関係することで私を作用する。レッシングは人を動かすものとして
四つをあげた。法、規範、市場、アーキテクチャ。

資本(貨幣交換)−市場−お金
国家(再配分)−法−国家権力
ネーション(贈与交換)−規範−他者
*−アーキテクチャ−機械
*(純粋贈与)−*−自然
902第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 19:17:55 0
自然=物理的な力/他者=社会的な力

これらの暴力はおおきく分けると、自然=物理的な力と他者=社会的な力に分解で
きるのではないだろうか。

規範は、社会的な力である。贈り物などの物質的な形態を媒介するとしても、他者
との関係の中から現れる。貨幣は硬貨、紙幣など物質的な形態であるが、それが
貨幣であるのは、社会的な取り決めによる。

国家権力は、軍隊、警察などの物理的な力として現れる。国家権力が無法な暴力
と異なるのは、社会的な関係によるものである。しかし多くにおいて、物理的な暴力
をもって行使される。特に法的にいえば、どのような理由であれ、市民が暴力を振る
うことは違法な行為とされ、物理的な暴力は国家権力の独占されている。

自然の力は、社会的な関係と離れた、純粋に物理的な力である。しかし実際には純
粋な自然の力というのは存在しない。たとえば地震で損害を被った場合、日頃の避
難訓練が悪かった、家の耐震対策が不十分だった、と社会的な問題と関係する。

このような問題は、アーキテクチャの問題である。人間の生活圏において、純粋な
自然は存在せず、アーキテクチャーと関係する。アーキテクチャは、物理的な制約
を力とすると、そこの他者の意図が含まれている、すなわち制作されている。

これは暴力とはただの物理的な力ではなく、社会的な圧力である、ということを示す
だろう。すなわち他者からの意図の圧力の形態である。
903第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 19:18:37 0
物理的な力の強度

逆に社会的な力において、物理的な力の強度を問うことができる。そして国家権力
は決定的に、物理的な暴力を独占している。貨幣であれ、アーキテクチャであれ、
その力は法に根ざしている。貨幣関係を破ることも、アーキテクチャを破壊すること
も、法によって禁止されている限りである。

これに対して、規範は、法以前の社会性である。明文化されていないが、そうすべ
きである社会性である。法によって独占されている物理的な暴力の以前である。た
とえば家庭でしつけのために親が子を叩くことが許される。これは法で禁止されて
いないという事以前に、規範によって許されていることをもとに法が成立されてい
る。革命が民衆のデモから起こる場合があるのは、このためである。

ただ科学技術の発達は、国家権力頼らずとも、強力なアーキテクチャを持つことが
できるようになりつつある。
904第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 19:19:24 0
国家による軍事力の独占

物理的な暴力において、以下に分類される。

国家(貨幣)−規範−アーキテクチャ

柄谷は近代絶対主義国家の成立を科学技術の発展をもとにした軍事力と経済力
の独占にみた。これらは科学が世界を資源にかえたことによる富の独占だろう。し
かしこのような科学は社会に拡散していく。これが科学技術と市場経済の発展だろ
う。そして民主主義へむかう力となった。

これは国家の消滅を意味しなかった。むしろ帝国主義として国家は強化された。そ
れは国家の発展が植民地という国家の外部からの搾取に基づいていたためだろ
う。暴力を独占する国家があって富は成立していた。世界大戦をへて現代、科学は
より解放された。

しかし軍事力の国家による独占は変わっていないのではないだろうか。すなわちい
まも国家外からの搾取の構造はかわっていないからだろう。多国籍企業であろう
と、国家との協力なく成立しない。それはただ民営化という形態で国家の端部で搾
取する装置のごとく作動している。
905第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/19(金) 19:19:58 0
例外状態を決定する者

アガンベンの主張は権力は境界に現われるということだ。「主権者とは例外状態に
ついて決定する者である。(シュミット)」この意味は現代により重要だろう。内部にい
ることでボクたちは自由と平等を謳歌する。

フーコーのいうようにもはや上からの権力は希薄化し、それが権力であるか気がつ
かないほどに横に薄く広がっている。ネオリベラリのいう小さな国家、その先にはマ
ルクスを継承したネグリのいう国家が消失した「帝国」があるのかもしれない。ここで
は、イラク戦争、途上国からの難民、下流などはフラットな世界の偏在でしかない。

しかしアガンベンの例外状態の議論はまさにその偏在を問題にする。権力はいつも
例外状態に明確に現われる。これは柄谷がマルクス、ネグリを批判した言った、「国
家は消失しない。国家は戦争により現われる。」につながる。
906第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 12:41:15 0
超越論的な想像的回復

秩序の断絶を想像的に回復することで、回復した対象は神性化され、(人々へ)負
債感(贈与性)を与える、という「転倒」である。これを「超越論的な想像的回復」と呼
ぼう。モースが見いだした贈与関係もまた、「超越論的な想像的回復」である。ここ
での断絶は純粋贈与(略奪)=自然の脅威である。純粋贈与(略奪)という「断絶」を
調停するために(自然)神は想像され、共同体の秩序は回復し、人々は(自然)神へ
の負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。

たとえば貢納制国家においても、ただ暴力において成員を統治するわけでも、また
物質的に成員の生存を保証するわけでもない。国家においても「断絶」は、原始社
会と変わらず、純粋贈与(略奪)=自然の脅威、外部からの敵の到来とである。そし
て純粋贈与(略奪)という「断絶」を調停するために王=神は想像され、国家の秩序
は回復し、人々は王=神への負債をおうことで、贈与の連鎖がおこなわれる。貢納
制国家を統治する「王」は、共同体の互酬性の自然(神)の位置を継承することで、
成員への負債感によって国家を統治する。成員は縦への当然の贈与関係=再配
分(略取と再配分)として「王」を敬うのである。

すなわち「超越論的な想像的回復」における贈与性の力学は、縦の交換関係として
再配分(略取と再配分)と横の交換関係として互酬性(贈与と返礼)を生むと言うこと
ができるだろう。そして「王」は「超越論的な想像的回復」による縦−横の贈与交換
関係を継承している。
907第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 12:49:01 0
従来の権力論が縦の交換を指摘するのに、
フーコーは横の交換を指摘する。
従来の権力論が、縦/横に君主/臣下の構造を重ねるのに対して、
フーコーはその対抗として、横の中に働く権力を指摘する。
しかしそれは従来の権力論の対抗であるために、
逆にもはや国家権力は重要ではないというような、
縦の交換を軽視することが起こっている。

秩序は想像的な回復として構造化され、
そのはじめから、縦−横の秩序として考えなければならない。
908第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 19:13:05 0
絶対主義国家までと、民主主義国家との差はなにか、
すなわち君主が不在なのになにもなかったように国家が存続する不思議。
国家はただの残余であり、そのうち消えるだろうという思い。

そこに「超越論的な想像的回復」の構造をみれば、不思議ではないだろう。
神は未開社会のはじめから、継続されているのであり、
そこに具体的な王がいる必要もない。
では具体的に現代の神はなにか。
909考える名無しさん:2007/10/20(土) 19:36:23 O
日高唔朗ショーの気味悪さに相通じるものがあるな
910考える名無しさん:2007/10/20(土) 20:17:26 0
やった、電話が来ました!
911考える名無しさん:2007/10/20(土) 20:56:45 0
あずまんから電話?なんていってた?
912考える名無しさん:2007/10/20(土) 21:09:27 0
いや、あずまんからじゃなくて編集部のひとから。
うちあわせの日時を決めたいって。でも、あずまんたちと面接してからだから
まだ採用決定というわけじゃないって念を押されたよ。
913考える名無しさん:2007/10/20(土) 22:21:35 0
すげー!やっと認められたんだなぁ。
914考える名無しさん:2007/10/20(土) 23:21:27 0
ぴかーさんおめでとう!
915考える名無しさん:2007/10/20(土) 23:33:31 0
さあ、みんなでぴかぁ〜さんを胴上げだ!落としたりするなよw
916第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/21(日) 00:20:52 0
絶対主義国家までと、民主主義国家との差はなにか、
すなわち君主が不在なのになにもなかったように国家が存続する不思議。
国家はただの残余であり、そのうち消えるだろうという思い。

そこに「超越論的な想像的回復」の構造をみれば、不思議ではないだろう。
神は未開社会のはじめから、継続されているのであり、
そこに具体的な王がいる必要もない。

「超越論的な想像的回復」の構造の維持に重要であるのは、
断絶の存在である。それは自然であり、野蛮人です。
外部圧によって、作動し続ける。

柄谷は、国家とは他の国家との関係ではじめて国家であると、
言った。
917考える名無しさん
ハゲ「やあ私が第三の波平です、波兵じゃありませんよ」(キリッ、キリッ)
編集部「いやあ、いい原稿ですね。」(爆笑)