ぬるぽ
3 :
考える名無しさん :2006/12/11(月) 16:37:33
老子でオススメの本はありますか?
ID
但し
老子の世俗的なところが大嫌いだ。
6 :考える名無しさん :2006/12/11(月) 23:41:03 老子の世俗的なところが大嫌いだ。
8 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 00:22:08
老子の言葉に酔いしれているのは日本人ぐらいですね。 当の中国人は文化なんて尊重などしていませんから。
9 :
6 :2006/12/12(火) 01:15:40
なぜ晒されたのだろう・・・ 実際、荘子あたりに比べても 人生訓・政治的なのが圧倒的に多い(しかも下らない)じゃない。
9 :6:2006/12/12(火) 01:15:40 なぜ晒されたのだろう・・・ 実際、荘子あたりに比べても 人生訓・政治的なのが圧倒的に多い(しかも下らない)じゃない。
11 :
6 :2006/12/12(火) 01:23:53
まぁいいや
13 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 02:24:20
老子より孔子に萌えるのは俺だけではないはず
15 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 04:30:42
糞スレ認定
17 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 04:36:10
そんなにスルー、スルーって言ってないで、少しは老子を見習って無為であってみたらどうですか。
対象を作って見習う? 頑張れ
見習ったら誰も書き込まないで終わり。無為だから。
20 :
考える名無しさん :2006/12/12(火) 22:09:55
いいんじゃね?
21 :
考える名無しさん :2006/12/15(金) 15:30:11
あるがままに、ままに上げるか
左座獲山(さざえさん) 中国は隋の時代、長江に棲む魚を根こそぎ奪っていく、「銅鑼音呼(どらねこ)」という妖獣がいた。 聖獣白虎の化身と呼ばれ、鳴き声は銅鑼に似て、その音に引き寄せられた魚群を皆巨大な口に 入れてしまうという。そして、その余りの素早さに誰も銅鑼音呼を捕えられる者はいなかった。 銅鑼音呼の被害に悩まされた漁民は、三国時代の仙人左慈の孫である左座に、退治を依頼した。 左座は、銅羅音呼が現れたと聞くと、普段履いている鉄下駄を脱ぎ捨て裸足になった。そして、 妖気を発して天空を飛び駆けて南にその後を追ったという。しかし、口一杯に魚をくわえた銅鑼音呼を 捕える事は出来なかった。失敗した左座は、「自分は本来山にこもる仙人であり、山のものなら 獲らえられたであろう」と言い訳をした。漁民達は左座をあざ笑い、漁民の長である盲目の王飛(おうひ) もまた彼を笑った。左座をあざ笑う声は長く長く続き、みな笑い転げた。 面目を潰した左座は自らを恥じ、その後流浪の日々を送り、やがてその神通力も失い、気が転じて 狂人となったという。 この故事を後の詩人李白が詩に残している。 御魚加得多銅鑼音呼追駆手 (おさかなくわえたどらねこおっかけて) 裸足出駆天空妖気南左座獲山 (はだしでかけてくようきなさざえさん) 民長笑転流 王飛様盲笑転流 (みんながわらってる おひさまもわらってる) 流流流流流流 狂妄異異転気 (るるるるるる きょうもいいてんき) 言うまでもなく国民的名作「サザエさん」はこの故事や、それをもとにしたこの詩を由来としているのである。 民明書房刊『長谷川とは長江也』より
23 :
考える名無しさん :2006/12/18(月) 17:14:46
老子さえいなけりゃ…
24 :
考える名無しさん :2006/12/20(水) 18:05:38
老子に詳しい人いる? 第一章「名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。」の部分がよくワカンネ 名無き→無名、名有り→有名だよな。有名が万物の母だよな? でも他の章じゃ無名である道が万物の母とか言ってるし。 有名の道は無名の道の一部分なのか?
原初には名も無く区別も無かった。名づけることから、万物が生じた。 「道」というのも普通に言い習わされているような道の意味ではない。
最初に名は無かった 色を赤と青に分け、青を藍と水色に分け、、、という具合に万物が生まれた 最初にあるのはただ宇宙一つだったのに 顔を目と鼻と口と、、に分けて ってことかな?
ところてんへの思想も有かな…と考えた俺ガイル。
30 :
考える名無しさん :2007/01/04(木) 03:45:39
老子の「道」と陽明学の「良知」は同じもの?
老子をもとに家訓をつくりたい
32 :
承狂 :2007/01/10(水) 22:08:09
30氏に。 太上老君道徳経は、仙道、即ち仙人の教え。 王陽明は、儒家、即ち尭舜の治世を理想とする孔子の流れ。従って、道と良知は異なると考えて良いかと。
33 :
承狂 :2007/01/17(水) 04:02:09
因みに、 老子に萌えは出ないけど、伝習録には萌えの字がある。 暇な奴ぁ読め。陽明は以外に深いから。
34 :
考える名無しさん :2007/01/17(水) 04:49:05
「学絶てば憂いなし」 正論かも 学問やめよかな…
35 :
考える名無しさん :2007/01/17(水) 15:45:33
バイト絶てば憂いなし でもバイクは欲しいんだよな…
高校生の頃、倫理の教科書で老子を知った時は何だこの電波って思いました
37 :
承狂 :2007/01/18(木) 02:52:37
因みに私、宗教板の宗教無宗教スレで毒電波発信中です。
39 :
考える名無しさん :2007/01/21(日) 14:11:15
>>34 老子なみに学問やってから考えろ。
最初から学のない奴が考えることではない。
40 :
考える名無しさん :2007/01/24(水) 02:47:16
>>36 俺は雷に撃たれたような感覚だった
でも未だに老子を理解できん…
41 :
考える名無しさん :2007/02/06(火) 23:16:11
「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る 聖人は行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す」 引き篭りには最適な考え方ですネ
42 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 02:25:40
む…無理だ
43 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 02:22:46
老子使えないだろ…常識的に考えて
苦労もしたこともなけりゃ挫折体験もない尻の青いエリート君には 確かに無意味だな。
45 :
 ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :2007/02/08(木) 02:53:50
彡川三三三ミ 川川 ::::::⌒ ⌒ヽ 川川::::::::ー◎-◎-) 川(6|:::::::: ( 。。)) カタカタカタ 川川;;;::∴ ノ 3 ノ ______ \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ | | ̄ ̄\ \ / \__| | | ̄ ̄| / \___ | | |__| | \ |つ |__|__/ / /  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄
46 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 21:52:56
>>44 確かに挫折したときには老荘思想は効くな。
癒されて終わりにしてしまうとどうしようもなくなるがw
47 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 22:01:07
> 「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る > 聖人は行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す」 何だ俺のことか。
48 :
考える名無しさん :2007/02/10(土) 14:59:20
戸を出る前から戸の外側にいる。 いや、外側と内側というもの自体がないのだ。
うーん癒し系ですねえ。傷つきやすい僕にぴったり来ます。
50 :
考える名無しさん :2007/03/10(土) 19:09:48
在日医師増産中、安楽死で年金解決するつもり
>>24 例えば宇宙というものを考察するとき、宇宙の始まりの前には
「始まる以前」という状態があっただろうと考えるのが普通だわな。
存在、ということを考えるとき、存在する以前、っていうのを考えるのも
わりとありがちな思考だわな。
意識、っていうのを考える時にも、意識する以前の状態があるだろうと
考えるのは割とポピュラーな思考パターンだと思うんだ。
タオイズムの根幹は、この"原初”こそが一切の基本であり不変的テーゼだと
いうスタンスから始まる。その他の『付加物』を統率するためのドグマが
無為に至るのは流れからいって自然な事。
有名の道(概念化されたもの)は無名の道(原初)の一部分である。
>>30 基幹と応用部分。仁という物も応用部分、というスタンス。
>>「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る 聖人は行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す」 小さなものから大きなものへと拡大して物事を見る。 家庭の中の人間関係からも人の心の機微を読み取り、何が社会にとって 大事で何が不足しているかを読み取ることも出来る。 どんなに規模の大きいコミュニティもそれを支えるのは人間の心である。 物事には成長と衰退の流れがあり、流行廃りも時の流れに均される。 一連の経過が摂理というものであるならば、すべての事象は『自然』という 起伏のメカニズムの中に内包される。 >> 老子は癒し系では無い。戦乱の世の古代にあって平和な世界というものを どうやって定着させようかと思考した痕跡のある稀有な書物である。 無為自然を「そのまま、このまま、いまのまま」と考えてる一切のお手軽 関連本の著者は悉く阿呆である。
どちらかというと、萌えポイントは 自分が老子的に生きる ではなく 老子的に生きてる人に出逢いたい ってのが本音。
老子的に生きてるって、具体的にどういう?
>>55 いや、スルーはいいんだけど替わりに何かお題振らなきゃスレ落ちするぜ?
57 :
考える名無しさん :2007/03/23(金) 07:25:41
>>56 癒し系では無いって凄く分かる。
自然って厳しいもん。
スレ落ち困るので、保守。
58 :
考える名無しさん :2007/03/25(日) 03:45:26
老子というものをもっと単純に読むべきと思う 道とは天地開闢以前の何かで、全ての原因であるとしているのだから、それをそのまま考えればよい そのまま考えればよいというのは、とりあえず現代科学と照らし合わせて妄言かどうか見てみろということになるだろう それで思うに、老子の道は量子力学的宇宙観と大変よく似ている そこにこそ本質的な価値の現実的可能性が示されていると思う 大体、そうでないとすれば(科学的に全くのでたらめとすれば)、老子は他のソクラテス以前のギリシャ思想家と同じレベルになる つまり、万物の根源は水である、火である・・のように道であると言ったに過ぎないことになる このようなギリシャ思想を現代の我々はどう思うか? 「昔の人も色々考えたんだね」と感想を言ってその本質的主張を無視して、現代を生きる上での末梢的教訓を探すだけだ そうゆう思想の読み方というのは、まず自分にすでにある経験に沿うものをあら探ししているに過ぎない それは思想に触れたと言うにはあまりに浅薄ではなかろうか? つまり、道が妄言ならば、老子の総体が妄言であると考えなければおかしい 老子の本質を無視して断片にばかり拘泥している様を見ると、思考放棄して「癒し」とやらを求めるだけの低俗・凡俗かと邪推してしまう
59 :
考える名無しさん :2007/03/25(日) 06:57:40
仏教思想と類似点が多い。別々に成立したのなら東洋思想の特徴ということになるが、仏教思想の亜流の可能性もある。
60 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/03/25(日) 13:11:04
>>59 何処が?
核となる思想は全くの別ベクトルだが。
枝葉がゴッチャなのは当然の話。
今の日本で神道と仏教と基督教がゴッチャなのと同じ事。
61 :
考える名無しさん :2007/03/27(火) 21:34:46
老子とウィトゲンシュタインの接点の摩擦で感じてしまった俺
62 :
考える名無しさん :2007/03/29(木) 20:16:38
>>60 印度から来た仏教が支那に輸入されたときに
既存思想の中で似ている老荘思想経由で翻訳されたので
仏教と老荘が近いような感じを受けるんだよ、多分。
日本の葬式仏教はさらに儒教的祖先崇拝がプラスされてるけど。
63 :
194 ◆JMEUe1jdXc :2007/03/29(木) 20:30:21
>>61 いい具合に感度が開発されてますな ビンビンに敏感になるよね
キリスト教のパウロの「はじめに言葉があった」というくだりも感じれると思う
似てるんじゃなく出発点が同じなんだろうな
ヨハネ福音書な。
百人居れば、百通りの『老子的な生き方』が出てくるのが、このジイサンの一番の魅力かも。 自分の道(生き方)が世俗とぶつかるときに、いかにして道を変えずに、世俗と折り合いを つけて行くかの方法論、とか。うまく言葉にできんが……。 避けるも、かわすも、演ずるも善し。あるいは何も為さずに、泰然と受け流してもOK。 思想なのに、言葉の理解よりも、「こんな感じじゃないの」って感覚の方がしっくりくる。 ヘンなジジイだったんだろうなぁ。
世俗とすれ違うのが難しい狭い道での出来事。 ↓世俗と鉢合わせ _____ _______/ \____ ●→ ←俺  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ そこで俺のほうが待避所に近い所にあるし、とりあえず ↓の図のように待つことに。 _____ _______/ ←俺\____ ●→  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ これで俺は待避所を進み、世俗は通常の道を行きすれ違う事が可能になる。 _____ _______/ ●俺 \____  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ↑馬鹿か世俗は。
67 :
設問 :2007/04/10(火) 12:23:11
「東京カレンダーに載ってた店だから高いけどうまい」 という世俗と、うまくすれ違ってみてください。
68 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 12:25:46
外国で、とある狭い路地を進んでいると、向こう側から大柄な男が歩いてきた。 彼は「この国じゃ、自分より劣っている相手には道を譲らないんだ」と、私を見て嗤った。 私は、その男が通れるように、身を避けてやった。 「私の国では譲ります」と、微笑んで。 この逸話を聞いたとき、なんとなく老子的だなぁと思った。
老子は詩
71 :
考える名無しさん :2007/05/28(月) 21:36:29 0
アタイは荘子萌え
72 :
考える名無しさん :2007/07/02(月) 02:07:50 0
>>59 確かに、仏教と似ているとこは多いけどさ。
もともとの上座部仏教は性悪説で精進第一のストイシズム。
老荘は無為の思想が先に立つから、精進して涅槃を見るみたいな人為は有り得ない。
両者のいいとこどりをしたのが大乗仏教。
仏道の道は道教のタオという話もある。
74 :
考える名無しさん :2007/07/05(木) 14:23:07 0
原初の状態を最重視する点では似てると思います その状態を体現している人は 何かの作為をするわけではなく 見た目は凡庸でただそこにいる 普通で親切な人なのに 無意識に世界を治めている みんなそれぞれ宇宙の法則そのものなのに 捕らわれてしまうが故に苦しみを自ら招き寄せる 苦しみが生まれるのは自らに無意味さをわからせるため 悟らせるためでしょう 人生における苦しみ悲しみによって自意識は何かを手に入れ そこから何かしら成長できた人は 本当の姿(原初)に一歩近づこうとする 負の感情だけではなく老荘や仏教書も 原初に近づけるワープツール
加島祥三(笑)
76 :
考える名無しさん :2007/08/08(水) 17:39:41 0
老子暗黒伝
老子って道の形而上学もあるけど、あくまで根本は政治思想だよね。 荘子は道の形而上学を突き詰めて、結果「政治なんてどうでもいいこと」となっている。 「修身治国平天下(内から外へ)」の中国の伝統から言うと、 理論から実践への流れは荘子の方が徹底してる気がするんだよね。 老子は理論云々よりやはり実践への関心が強いように思う。 なんで老子の方が一般的には人気があるのかな。 やっぱりミステリアスなありがたみがあるから? それとも、荘子の超俗っぷりより、まだ世俗的な老子の方が親しめるのかな。
老子のほうが荘子の物語性より奥が深く感じるからでは? 即応性がありそうだし。 なにより老子のほうが慈愛を感じるよ。衆に対するね。もっともそれは「太陽の恵み」的な 受ける側からすれば大局の視点からなんだけども・・・ 老仙めいた人物が、戦乱の暴虐を憂い民草を救おうと立ち上がり散りゆく若き君子たちを 眺めながら、気まぐれに精髄の片鱗を書き残して置いていってくれた、みたいな・・・ (もっとも作者は単独でなく、教義的に複数の人間が関与した可能性もある、とのことだが・・・) かの基本は神秘体験の実践による平和社会の薫育だと思えるのだが、これの一部を 読んで(相手を衰えさせるにはその勢いを過剰にさせる、とか・・・)兵法が書いてあると 読むのは全体の流れを読んでも無理があるだろう。 ただの独り言だ。
80 :
考える名無しさん :2007/08/09(木) 00:54:15 O
「平和社会の薫育」という時点で、やはり政治的・倫理的な色彩があるのが大きいんだろうね。 しかし、慈愛に何の意味があるのか。うまく治めて幸福を得ることに何の意味があるのか。そしてその根拠は何なのか。 結局全てはどうしようもないわけだし、第一、道の視点からすれば全て同じジャマイカ?と 荘子は嘲笑しながら(荘子は明らかに性格が悪いですからね!)、言うんじゃないかしら。 個人主義的で、ニヒリズムに共感を覚えてしまう、自分のような脱政治的人間には、 国を治めたり、巧みに生き抜いたり(結局は幸福を追求)することを 何よりまず第一の目標とする『老子』(その点では儒・墨と違いはない)の思想よりは、 寧ろ荘子や禅仏教のような、非政治的・非倫理的教説の方がしっくりきますね。 まあ、あくまで処世或いは政治思想として捉えるなら、荘子なんかよりずっと有用なんだけどね。 ただ、それには「政治は重要なもの」っていう形而上学的基礎付けが必要じゃないかな。 形而上学(本)の帰結(末)としての政治・倫理思想なわけだから、 衆に対する慈愛だとか、即応性とかいう政治・倫理思想の分野ではなくして、 最後は形而上学の分野でやり合わないといけないのではないかな。 個人的には、道の形而上学にまで達した人が、どうして今更政治哲学を説くのかが納得がいきません。 まあ、ご指摘の通り『老子』の書は格言集みたいな色彩があって、 様々な作者が混ざり合っているので、もしかしたら本末が一致しないのもそのせいかも知れないけれど。 『荘子』にしたって、逍遥遊・斉物論とその他の篇では内容が一致しないわけだし。 以上の点を踏まえた上で、老子の思想に萌える人は、老子のどの辺に優れた点を感じますかね。
万物斎同の境地からすれば、名を揚げようと戦場を駆け回り村を焼き払ったり、仕官して毀誉褒貶に組して治世を乱したり する、人の乱れた世界は『不自然』だからじゃないのかな? 調和の取れた世界を愛するがゆえに、仁義礼などの“徳”の上に、道の神秘体験的な全一感を立てるのだと思う。 それは修行実践の体現者ゆえの、『体験』から導き出された感覚なんじゃないかと。 自然に内面から湧き出すような感情じゃなくて、しゃちほこばって構えるようなのはやっぱり不自然なんだよ。 どっちが上か、とかじゃなくて、根源的なエネルギーがどっから湧き出すか、どこが始まりか、みたいな・・・ 物見やぐらから祭りのように犇く民衆を眺めながら、風に吹かれて境地を語るのは、自分の方が優れている、という 思いなんかじゃなくて、欲に囚われず自由で在ることの静かなる莞爾なんじゃないかな。
>>81 面白そうなので横槍スマソ。俺、荘子派ね。
調和の取れた世界を愛するというが、では調和を調和とし、不調和を不調和とする根拠は何?
都合よく道を体験した人から見たらそうなんだなんて言わないでね。
そうなればこのスレはもはや宗教板に行かなければならなくなるよ。
自然と不自然も同様。結局見方の違う人間の善し悪しのレッテルの貼り合いなのではないか。
全ては一なる道の自己展開。俺らにとっては運命。つまり全ては自然であり、不自然は存在しない。
要するに誰かがあるものを自然といい、また誰かがそれを不自然という、
それら全ては実は決まっていて、自然なこと。
意志の自由を認めるか否かで老荘は違うと思う。荘子は意志の自由を認めない。
老子は意志の自由を認めないと話のつじつまが合わなくなる。
83 :
考える名無しさん :2007/08/09(木) 10:02:52 O
老子を道家の哲学者とするか宗教家として道教的に考えるかで評価は変わるのでは? 荘子はあくまで哲学者であって道家の哲学者としては荘子の方が明らかに徹底してる 道の境地に達すれば差異に固執するなんて煩悩に過ぎないことがわかる しかし宗教的憧れを誘う点から言えば老子の方が断然上 例えてみればイエスとプロティノスみたいなもんだ
84 :
考える名無しさん :2007/08/11(土) 01:30:36 O
age
85 :
考える名無しさん :2007/08/17(金) 21:40:29 0
どうなったの?
うむ。老子は人類史上2番目の天才だな。
>>82 調和と不調和の違いを逐一具体例で示すことは難しいだろう。
基本的に老子の世界は神秘体験の一体感を基調とした立場から描かれているのだから、
それを拠り所に慮っていかなければ話が合わなくなる。
まず全一感における梵我一如の状態から世界の有様を肯定する立場が現れる。次いで
社会生活における我執めいた個我の強調(欲念、等)とその行動が、不調和の原因と
みなされる。
何故に「上善は水の如し」と謂われるのか?
自然の力のままに流れ動き、なおかつ万物を潤すその働きにこそ理想とするものが
あったからこそだろう。これが薫育の理想なのだ、と・・・
>全ては一なる道の自己展開。俺らにとっては運命。つまり全ては自然であり、不自然は存在しない。
>要するに誰かがあるものを自然といい、また誰かがそれを不自然という、
>それら全ては実は決まっていて、自然なこと。
老子の立場は決して「運命論者」では無いだろう、と思う。
調和に反するものまで全ては「流れ」であると受け入れるようならば、そもそも
老子の思想が形に残るはずが無い。
老子の作者に愛情や慈悲の発露が無ければ、どうしてあれだけ干渉するような話をしようか?
薫育の話では、列氏にも描かれるが、民衆が彼を慕うところを彼の師が諌める話もある。 善行が表立ちすぎて民衆が浮かれることすら彼らは「不自然」と見なすのだ。 基本は「己に自然な形で満ち足りる」状態を善しとするのであって、それ以外の如何なる 飾り物も度を過ぎれば害となるのである。 孔子を諌める話も彼が『学』的に義礼という鋳型に嵌め込み、仁を額縁に飾り掲げ過ぎる からではなかっただろうか?
>>87-88 たぶん一連の荘子派の人たちは
老子のその神秘的体験の正しさの根拠を聞いてる(疑ってる)んだと思うよ
ある意味神秘的体験をしているレベルの更に上の視点から見下ろすような感じでね
90 :
考える名無しさん :2007/08/20(月) 18:22:37 O
俺老子大好きなんだけど、やり取り見てて、やっぱり宗教なんだなーとオモタ。
下馬飲君酒 馬より下りて君に酒を飲ましめ 問君何所之 君に問う 何(いず)くにか之(ゆ)く所ぞと 君言不得意 君は言う 意を得ず 帰臥南山陲 南山の陲(ほとり)に帰臥(きが)せんと 但去莫復問 但だ去れ 復た問うこと莫(な)けん 白雲無盡時 白雲は尽くる時無からん いいね。さびしくもどこか清しい情景が眼に浮かぶ。 夏の日も暮れかけたし、久々にマーラーでも聴こうか。
俺自身は、宗教としては老子という書物はかなり異質な存在であると思っている。 こんなに世俗に関わる記述をする経典はあまり無いだろうからだ。 普通なら(他に神秘主義の経典〜東西を問わず)、まず自分たちの“世界観”こそを 教義の中心に据えて語られるだろうからだ。 それは常に豪奢で神話的であり、その奥深さのベールに包まれて読み手の想像を 喚起するような趣向を凝らしている。 翻って老子を眺めやると、実に簡素であり、説明が不足がちであると思えるほどである。 思うにこれは、テキスト自体が副読本めいたものであり、まず実践ありきだったのでは ないか、と想像する。(たぶんその状態から流布したものではないか、と…) で、それは何故か、と言えば、老子の著書の方向性は『神秘体験の普及化による平和社会の実現』 ではないかと私には思えるからだ。 何章だったか忘れたが、「知を用いようとする者には、その光を鈍くさせる」という記述がある。 これは大衆を愚鈍にさせ支配するためだ、とかいう解釈をしていた解説書を読んで憤慨した 記憶があるが、そうではなくて、前レスで書いた列氏の薫陶の立場なのではないか、と 私には思えるからだ。 鋭敏な先導者よりも和やかな薫陶者、そしてその心にはタオの全一的調和、辿り着ける 世界には王の威光すら必要が無いほどに民草は自足しているのだ、という理想… ひどく牧歌的ではあるが、彼らの目指す理想郷は“現実”を離れてはいなかったのだと思う。 「民衆も彼(道者)の道具であり、彼は道具を見捨てず、それを用いる」という感じの記述も、 薫陶の意欲無しにはチグハグなものになってしまうだろう。 老子の記述に兵法ありきと読む御仁もいるが、理想だけで平和は実現できない、という 著者のリアリティを持った意向ではなかったか、と一人勘繰ってみる。
民を治めることができる論語は、支配者階級に読まれた。 愚民政策を推進する老子は、庶民に読まれた。
94 :
考える名無しさん :2007/08/21(火) 00:01:05 O
やっぱり宗教じゃんwww
96 :
考える名無しさん :2007/08/21(火) 00:50:55 0
ほとんど仏教と同じ思考パターン。成立時期もかなり近いのでインドの仏教の影響で作られたと考えるのが自然だろう。
>>96 解説書に、仏教がシルクロードを渡って伝来してきたが、「老子と同じじゃないか」と相手にされず、
中国本土に広まるには日本における神仏習合のような経緯を経てやっと2〜300年経ってから
普及し始めたって書いてあった記憶があるが・・・
99 :
考える名無しさん :2007/08/21(火) 01:48:28 O
中国では中華思想などの影響により、仏教が受容されたのはようやく六朝時代になってから。 一方老子は漢代の墓から出土しており、漢代に既にかなり流布していたことがわかる。 仏教の伝来自体は漢代だけど、影響を受けた人間なんてごく少数に過ぎない。 それなのによくもまあしゃあしゃあと「仏教の影響で作られたと考えるのが自然」とか言ってくれるね。氏ねば?
>>99 受容ってだけなら六朝時代ってこともない。
本来の老子の思想については仏教の影響により・・・って
>>96 みたいなのは現状ではトンデモの部類だろうけど、
後漢末には仏教も知識人にはちょいちょい知られるようになってきてるから
王弼や何晏あたりの玄学の論調に目新しい新思想として
仏教が影響を与えた可能性は無きにしも非ずだと思う。
でもって以降の伝統的な老荘思想が
少なからず玄学の議論を下敷きにした再解釈に負ってた部分があるのは否定できない。
101 :
考える名無しさん :2007/08/23(木) 16:43:50 0
老荘無しでは仏教を解釈できなくて、 そこで生まれた仏教が格義仏教と聞いたことがあるけど。 玄学に対する仏教の影響を絶対否定するわけではないけども、 穏当に考えれば、少なくとも六朝時代までは、 仏教の影響は過大評価すべきでないんじゃない?
仏教なんかより老子の思想と法家がくっついた時期のほうが面白いと思わない? なぜ韓非子に老子解釈の章があると思う?
老子のベースになってる黄帝思想が法家の一つのベースでもあるんだし そんなに不思議でもないんじゃないか?
104 :
考える名無しさん :2007/09/03(月) 23:41:28 0
仏教と老荘は全然違うだろ。確かに共通性はあるけど 老子がパンクだとしたら、仏陀はメタルだ。 荘子はハードコアで、達磨はグランジだった。 わっかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ
老子が登校拒否児だとしたら、仏陀は引き篭もり青年だ。 荘子は非行少年で、達磨は体育教師だった。
106 :
考える名無しさん :2007/09/04(火) 19:50:26 0
わっかるかなあ〜 わっかんねえだろうなあ〜
>>105 老子が引きこもりで仏陀は旅するニート団隊長だろ。
荘子と達磨はあってる。
老子パンクつうのはなんとなく当たってるきがすw 仏陀メタルはどーなのww
109 :
考える名無しさん :2007/09/07(金) 12:55:52 0
メタラーは何かと理論を好むし、ゴリゴリに楽曲の整合性と技術を追求するストイックな面が強い そういう点で上座部仏教に限って言えばメタルと通じるものがあるかなと
おーう、老子ロックじゃーん!リスペクトですよって? 氏ねよ
111 :
考える名無しさん :2007/09/11(火) 23:26:32 0
老子の思想は一番好きだけど、 所詮、書物にすぎない。 書物に執着しすぎるのは健康的に良くないよね。 自分で感じ、気づいた事が一番大事であって、 そういった事を積み重ねて、老子の思想を理解するのが、 大事だと思う。
そんなに経験主義を重視するなら出家でもして修行したらいかがですが?
113 :
考える名無しさん :2007/09/14(金) 21:00:05 0
普通に生活していく事こそ修行だと思うがな。 出家なんてものは、人間が作ったルール、 神様も人間が作り出した概念にしかすぎない。 人間が意図的に作り出したものに、群れてすがって生きていくというのは、 愚かな事だと思うがな。 たった一人で細き道を行く事ことが美学。
114 :
考える名無しさん :2007/09/22(土) 17:35:30 0
老子好きって少ないのね。 なぜだろう。
老子、丸呑みすると、たいてい腹壊してゲリするわな
116 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 02:27:24 0
ニーチェ哲学は老荘思想に似てる
117 :
考える名無しさん :2007/09/23(日) 02:32:33 0
>>114 日本では
孔子の方が
認知度が高いから
違うか?
118 :
考える名無しさん :2007/10/07(日) 23:32:43 O
あらゆるの常識を打ち砕き破壊して新たに進化するという時代の流れを老子を読めば本質に迫れる
119 :
考える名無しさん :2007/10/11(木) 18:44:21 0
>>119 日本語に変換する労力を惜しまなかったとしても老子に『進化』という概念が有用であるだろうか甚だ疑問だ。
むしろ「簡素であれ」と言うほうがよほど似合う気がする。
保守オツカレ。
>>114 教育のせいじゃない?
道徳って儒家だよね。
あーそうさ、オレは昭和の男さ。
為政者側にとってはけっこううっとおしい思想だと思う。 でも弾圧したり論破しさせてどうこうって思想でもないんだよな
ぶつかっちゃ駄目です。かわすんです。
矛盾に満ちた思想 老子の思想に従えば老子の思想すら必要なくなる
129 :
考える名無しさん :2007/11/11(日) 20:56:27 0
>>124 良い意味にも悪い意味にもとれる。
話は変わるけど、
そもそも2chで論じ合うのは老子的ではないと思う。
だからこのスレは書き込みが少ないのではと最近思うようになった。
>>129 そうだろう。
同じような考えの
荘子スレやストア派スレの書き込みがほとんど書物の引用なのだ。
>>127 まぁ釣りだろう。
釣りじゃなかったら酷すぎる
134 :
考える名無しさん :2007/11/13(火) 19:40:40 0
>>133 本人が釣りだと思って書いたかどうかは知らないが、
そこが道家思想の大きな問題であるのだよ。
言うものは知らず。知るものは言わず。では老子は?
135 :
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ :2007/11/13(火) 20:09:49 0
,、-'''´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄, ヽ / 丶 丶 ヾ / / \ . / 丶 ヽ ヽ / ´ ヽ / ,‐'''''フ''ラ、,ヽ /''‐"`ヽ ヽ:::ヽ / ,' ′ ``´ `'‐、 ヽ:::ヽ . | ,' l !::::::: ヽ . | l ,ィ,ニミt:、, 、 ,.ィzzt:、 | |:::::: \ ,! i ` _`'=:` ',ィツ''´ ̄` ! l:: ヽ r゙、 l -=・=- .::'' :::: -=・=- | i::: / | ' l | .::: ::::::. `゙゙゙´ | /゙i::: / . l 'l l ,,,;;; ;::::::. l〃 /::: / . ヽ リ. /{,:z _ .,zヾ:、 l'ノ'/:::::ノ ヽ-! / __ _ '; l / ̄ |. l /ニニニt、 l ,'~ ! l {;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;} .! / ゙i、 ; li ⌒''''''⌒;/ ; / ,..、」ヽ 'ヾヽ、.....、ノ: ' ,イ__ . / / !. \ ゝ=='´ // |┐! -‐‐'/. | { \ / | | ヽ,__ / | '、 `ー―― ' .ノノ | `'
老子の思想と言っている物も所詮は書物。 翻訳の仕方で内容も変化する。 書物を研究するのは無意味な事。 書物の矛盾点を指摘して喜ぶのはさらに無意味な事。
加島祥三みたいな電波が老子について偉そうに語ってるあたり、詭弁を弄するだけの詐欺師に 人気の思想家ですなあ。
138 :
考える名無しさん :2007/11/14(水) 01:12:07 0
>>136 無意味だと思われることにも意味がある。
少なくとも老子はそういうことを考えている。
決め付けすることが一番老子から遠い。
>>137 偉い、偉くないは関係ないのが老子。
偉そうなのは「あいつは偉そうだ」と考えるあなたの心。
139 :
↑ :2007/11/14(水) 21:45:35 0
こういうのを禅問答とか繰言とかという。 易者なんかもこの手の詐欺師が多かったので、明治維新以降は一気に易学が廃れてしまった。
140 :
考える名無しさん :2007/11/14(水) 21:51:26 0
でも老子は基本的に鏡の哲学だからな 鏡には読む人の顔が映し出されるのは確かだ
>>139 なるほど、勉強になります。
よく分かっておられますね。
ああだ、こうだ意見を言い始めると、 なんだか殺伐としてくるな。 沈黙は金だな。 そうして、このスレはまた書き込みが無くなっていく。
↑ それなら沈黙してろ
146 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 20:07:24 0
易学ってw 易が学なわけないだろがw
147 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 21:20:08 0
>>146 易ってのは壮大な哲学だぞ。その辺の胡散臭い易者を見て、あれが
易だなんて思っちゃいかん。
148 :
考える名無しさん :2007/11/15(木) 23:05:39 0
壮大だろうとなんだろうとゴミはゴミ
151 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 11:20:00 0
竹内まりやってゴミ?
老子を、善い悪い、正しい間違ってるという基準で語ることはできない
153 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 18:42:27 0
>>152 そうだな老子は「糞か糞でないか」で語るべきだと思うヨ
老子って明らかに糞だよね
老子の教えで幸せになった者はいない
156 :
考える名無しさん :2007/11/19(月) 20:09:59 0
>>154 荘子は「道は糞小便の中にもある」なんて言ってるんだ。
ニワカ老子好きになら別だが、
道家に糞なんて言ったって無駄だよw
>>155 もそうだが、道家思想の本質分かっていない奴が多いな。
消極的思想だとばっかり思ってないか?
159 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 05:23:53 0
笑われなければそれは道ではない
161 :
考える名無しさん :2007/11/20(火) 12:10:08 0
人間が生み出すどのような価値観も、結局はフィクション。 そのようなものに、囚われて生きる必要はない。 そのことを、老子は教えてくれる。 たとえ言動は社会的な規範に縛られていても、 個人の内面の自由を保つことはできる。
負け犬の思想
賢人を釣るには器が小さすぎる
老子の思想は外から教えられるものではない
166 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 19:29:38 0
>>162 負けてるのに勝ってる
勝ってるのに負けてる
そのどちらでもない
だから遊び心が出てくる
それで人生が愉しめる
それを悟りと呼ぶ人もいる
167 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 19:30:22 0
DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
168 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 22:35:06 0
孔子は人徳で老子は天徳と公演で言ってるがそんなもんなのか
169 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 23:20:47 0
どっちも糞
道とは、道ではないものではないもの、である
老子に興味を持つ時点で人生終わり
172 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 03:28:41 0
「『老子』はこうあってほしい」という願望が投影される格言集=『老子』
174 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 05:06:28 0
老子を知って人生が始まったという人々もいるだろう。 個人的には、老子より荘子のほうが理解しやすいが。
175 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 21:34:15 0
上善は水の如し むやみにアゲるな。
老子のように生きても退屈だと思うのですよ
178 :
考える名無しさん :2007/11/22(木) 23:40:25 0
いったい何が悲しゅうて老子のように生きにゃならんのw
退屈を感じるのは自分自身に渇欲(非・自足感)があるからです。 現世的欲求に全て満ち足りてもなお徒労感に陥ることもあるのです。 欲の根本にいったい何が横たわっているのかを内省しましょう。 欲望の根源は常に内因にあるのです。外因は常に『誘発』に過ぎません。 内観を極めたうえでのアイデンティティの根拠を信仰的に自己の外部に 見出すのが“宗教人”的な在り方でしたが、それなら『空』(般若思想)のほうが もっと徹底しているわけです、が、ここは老子のスレなので・・・
180 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 00:03:37 0
老子には何か「確かなもの」があるな。 それが何かは表現しがたいのだが・・・
老子の思想がなかったとしても、 老子が語った道と呼ばれるものに従う人は従う。 細き道をたった一人で行くとき、 周りは楽しく華やかに過ごしている。 この道が間違っているではないかと迷う時があり、挫けそうになる事がある。 そんな時の支えになるのが老子の思想。
憧れ先行型の思想家では五本の指に入るね
183 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 06:01:55 0
老子が思想家ってw どんな思想も無いだろ老子には
ものは言いようだな
まるで十牛図のようだ 最後には真っ白な赤子に帰る
186 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 22:31:26 0
このスレきもいお
きもい物があるからきもくない物がある
188 :
考える名無しさん :2007/11/28(水) 01:55:03 O
楊朱さんのが好きだ
老子のバカ
190 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 20:55:00 0
バカと言われても動じないだろうな、老子
191 :
考える名無しさん :2007/11/30(金) 21:34:23 O
葬式はお祝い
ヘタレ思想
193 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 13:14:40 0
老子の凄いとこはまだなの?
無為自然
195 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 20:52:41 0
>無為自然 それを目指すとしたら自然じゃないだろw
196 :
考える名無しさん :2007/12/01(土) 21:55:33 0
>>195 そんなこと荘子ですでに言及済み。
哲学板の人間にとっては荘子のほうが向いていると思うが、
お前らどうせ範囲外のもので難しいのは嫌いなんだろうなw
197 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 09:21:48 0
>>196 なんだ荘子はおれレベルだったかワハハハw
198 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 11:24:38 0
老子だけだとジジイが何か言ってるなって感じ。 でも老荘とそろうと完全無敵な思想になる。
199 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 14:45:19 0
無作為自然てなとこだろうな。
200 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 15:15:35 0
>>198 >完全無敵な思想になる
欲望丸出しだなw
2ちゃんで「ワハハハ」とレスの最後につける人って 現実には豪快に笑い飛ばせるような人物じゃないんだろうね。 レスで最後に笑いを入れる人は、器の小ささや弱弱しさが 滲み出ている。
無用の用
203 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 22:16:29 0
老子の思想なんていらないよというのが老子の思想
セコ厨乙
205 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 01:14:57 0
>>201 馬鹿かオマエはw
おれに器の小ささで勝とうなんて100年早いぞ
弱弱しさでもおれに勝とうなんて思うな
オマエとおれげは鍛えの入り方が違うワハハハハw !!
207 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 01:17:44 0
おれげ・・・鍛えの入り方・・・ どこの田舎者だよ。
208 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 19:48:12 0
>>207 アホーw
田舎さでおれに朝鮮しようなんて300年早いぞおのイネカッペ !!
209 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 21:34:16 0
おれげ 久しぶりにワロタ。 ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハw ありがと
老子とは要するに、
211 :
考える名無しさん :2007/12/04(火) 20:55:08 0
要するに、、、、糞 !!
糞は万物の母
213 :
考える名無しさん :2007/12/04(火) 22:06:09 0
糞も何かの役に立っていると考えるのが無用の用
214 :
考える名無しさん :2007/12/05(水) 18:15:22 0
うむ たしかに、、w 糞と鋏は使いようって昔の人はいいこと言った
215 :
考える名無しさん :2007/12/05(水) 19:52:06 0
よう昔人
216 :
考える名無しさん :2007/12/05(水) 20:47:23 0
糞を撒けば草木が生い繁るように、 世間で無価値とされるものが尊いものを生み出すのであるる。
老子は人生の答を教えてくれる
218 :
考える名無しさん :2007/12/06(木) 21:31:53 0
問いと答えは一緒だからな 問いは答えであり、答えは新たなる問いを生み出す
219 :
考える名無しさん :2007/12/06(木) 22:47:47 0
ニートのような市場の外部がこれから新たな価値を生み出すみたいな。
老子、頑張れ!
老子って犬の糞を踏んづけたみたいな味わいなんだよナw
222 :
考える名無しさん :2007/12/07(金) 20:44:09 0
老子はがんばらない おまえもがんばるな
道はエロい
老子、負けるな!
225 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 19:32:16 0
世俗的とか矛盾があるとか上で指摘されてるけど 世俗を超越する方法じゃなくて、世俗と無為の妥協点を教えてると考えるべきじゃないのかなぁ
おれげは老子
227 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 20:59:02 0
ろうこ、てだれ?
老子ちゃん
娘に老子って名前つけたらグレるだろうな
電波な思想
何のために存在してるかわからない思想
老子に触ると火傷するぜ
運命論者 運命愛 これが人生か、さらばもう一度
究極の思想
たおやかな道
労使
道 タ オ −−−−−−−−−−−−−−−−−−!!
239 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 11:30:40 0
老子
240 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 11:36:48 0
なぜ世の中に貧困が生まれるのか? それは役人が税金を搾取するから 老子の言葉
241 :
考える名無しさん :2007/12/25(火) 19:58:06 0
うむ、老丹は政治評論家でもあったのだ
242 :
考える名無しさん :2007/12/26(水) 13:31:47 0
「老子は死んだ」
244 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 13:59:40 0
「鼻くそを丸める」 これは結構くせになる 織田信長もたしなんだ 思索に耽る一つの道である 千利休もここから茶道を編み出した いわば禅のような日本人のメンタルにおける 源流ともいうべき尊い一つの道なのだ
245 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 16:37:07 0
すべてスルー 無為自然
246 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 16:52:08 0
「横浜市立大学先天異常モニタリングセンター」 のHPがすべて消されました。
奇形児総出産頻度
1.48%(1999)→1.42%(2000)→1.70%(2001)→1.77%(2002)→1.84%(2003)→
1.77%(2004)→1.95%(2005)
>日本産婦人科医学会先天異常モニタリングの本部およびクリアリングハウス
>国際モニタリングセンター日本支部は1992年より神奈川県にある横浜市立大
>学医学部産婦人科におかれています。
>実際にスタッフが常駐している場所は、
>横浜市立大学医学部付属市民総合医療センターです。
http://www.icbdsr.jp/2005data.html http://www.icbdsr.jp/index.html
この「老子」が「杉作J太郎」とかだったら絶対評価されてないんだろうな
248 :
考える名無しさん :2008/01/20(日) 17:46:27 0
老子の日本的な体現と言ったら まず良寛さんを思いつくな
老子の体現といえば小島よしお
なにをいまさら
らりるれ老子
>>249 そんなの関係ねえとことさらに言うのは実際には関係あるからこそ
老子の体現にはほど遠い
253 :
考える名無しさん :2008/02/10(日) 08:37:51 0
あっしには関わりのねえこってござんす
君のくれたリズムで 僕らは踊り続けるだろう 君のくれたユーモアで 僕らは笑い続けるだろう 世界が紡ぐバイブで 僕らは動き続けるだろう 僕らの生きる速度で 地球は周り続けるだろう オレは満足してる オレは大満足 不満はダサイ オレは今のままで満足 今持ってるモノに浸る 無い物ねだりで悩まない 努力 修業も必要なし 今のままで幸せだから
私はいつも食べることと寝ることとセックスを求めている
やはり人生はセックスが一番だということを老子は教えてくれる
人生はお金とセックスが全てです。 それ以外の価値はありません。 お金とセックスに恵まれない人生は無意味です。 それが人生の答えであり老子の教えです。
260 :
考える名無しさん :2008/02/15(金) 16:55:44 0
261 :
考える名無しさん :2008/02/15(金) 21:35:21 0
どう曲解したらそうなるのやら
老子は女には不自由しなかったはず
263 :
考える名無しさん :2008/03/02(日) 09:38:17 0
老子を英語で読みたいのですがおすすめの本はありますか? できれば日本語併記がいいのですが、洋書でもかまいません
264 :
考える名無しさん :2008/03/02(日) 10:07:29 O
人生のすべてはお金とセックスなのではなくお金とセックスが人生においてもっとも重要な目的の派生物にもっとも近いものに他ならない
265 :
考える名無しさん :2008/03/02(日) 10:08:12 0
>>263 オンライン書店でTaoで検索してみたら?
洋書ならいっぱいあるけど、対訳はなさそう。
ちくま文庫の『タオ―老子』は英語からの意訳らしい。
266 :
考える名無しさん :2008/03/02(日) 10:09:21 O
よってお金とセックスは人生のすべてではない(だんしょう
>>265 どんな翻訳か一度見てから買いたかったのだけど、本屋に行っても選べるほど置いてないだろうから
とりあえずAMAZONで一番上に出てきた奴を買ってみます。
ありがとう。
268 :
考える名無しさん :2008/03/02(日) 22:22:41 0
老子の体言といえば江頭2:50
老子は最後は悲惨な死に方をしたんだけどね
道(タオ)の奴隷になるなかれ by 老子
272 :
考える名無しさん :2008/04/23(水) 21:57:41 O
老子ほっとけ
273 :
考える名無しさん :2008/06/05(木) 20:22:34 O
老子は死んだ
274 :
考える名無しさん :2008/07/05(土) 12:20:48 O
老子はメンヘラ
「老子」もいいけど「蘇化子」もね
276 :
考える名無しさん :2008/07/05(土) 17:54:45 0
老荘と孔子孟子くらいは漢文で読んどきたいよね。 あと唐詩とかも。
277 :
考える名無しさん :2008/07/05(土) 18:11:44 O
「大学」「中庸」「論語」「孟子」は基本だ。精神の正しきは祭りごとに通ずる。滞りなきはよき国をつくるのだ。ヘーゲルよりよっぽどいい
278 :
考える名無しさん :2008/07/06(日) 00:00:16 0
>>277 中国の歴代の帝国は、中盤から後半にかけて役人の腐敗とかで苦労してるけど。
279 :
考える名無しさん :2008/07/06(日) 00:06:27 0
老荘の思想で、為政者は民の生活に介入すべきでない。自然にまかせるべきだ。 と、言った言葉がある。 これを昔の中国の偉い人がその思想に感銘をうけ、大災害の難民をほっておいたと言う話しがある。 無茶な受け取り方をする人間もいるので、老荘の思想は政治に介入しないほうが良いと思う。
280 :
考える名無しさん :2008/07/06(日) 00:17:42 0
老子は天秤を利用して水を汲むのを見て嘆いた。 一休は地震が来たら死ぬがよいと諭した。 利便性や災害予防のために ヒトがその自然の性を失うのを嘆いたのである。
老子=宅間
282 :
考える名無しさん :2008/07/22(火) 09:53:33 0
老子道徳経ってかなり短いね。 でも老子が書いたものじゃないみたいだけど。 まあかなり良いことが書いてある。
でもその経典にのめり込み過ぎても駄目なんだぜ。 涅槃経っていう一般人にはややマイナーな仏経典にも、「あんま色んな物求め過ぎんなよww」みたいな事書いてあった気がするけど、それって「こんなもん読んでるお前!そう!お前が求め過ぎてるんだよ!」みたいな。……チャラ文体は疲れるな。 和光同塵が座右の銘の俺には、かなりの良スレ。 権威とかの大小はあれ、何千年も前からこうやって議論があったんだろうなぁ。 最初の方からじっくりゆっくり読んでくことにするよ。
↑む。的外れな事を書いてしまったかもしれん。 俺は高校時代に老子を初めて読んだんだ。 で、「その鋭を挫きそのタイ(漢字忘れちゃった)を塞ぎ…」って所を読んだら、『老子なんか読んでる不自然でとんがってかっこつけてる俺』に気付いてショックを受けて、そこで本閉じて、しばらく老子(というか思想や哲学自体)封印したんだ。 次にちゃんと読んだのは五年くらい後。 でも。全編目を通した今、あの時本を閉じた事は老子の解釈の一つとして間違ってないと思ってる。それが俺にとっての老子。自分語りスマソ。
285 :
考える名無しさん :2008/08/12(火) 09:19:13 0
何をする訳でもない、だけど時は過ぎ行くのよね 「時代」という目には見えない道がある、その中で飼われている どうやらこの世には因果律があるみたい、 誰にも分からないように、こそっと良いことしておけば、いいことがあるとか、 本当かしら? でも、無くてもいい、 それで、他人に感付かれて、逆に他人から当たり前のようにせかされるのはゴメンね 「掃除、有難う」「またお願いね」、言葉で言われると、そんなものかとガッカリする、 慈しみは心だけで受け止めて欲しかった、 でも、気が付かれてしまった、しくじった。 ねずみ、ゴキブリは今日も下水道で掃除をしているのね、 同じ時代に生きていても、見つけられたら殺される、 何で、人間だけがこの世で「大手」が振るえるのかしら、 自分は自分、人は人、好き勝手な生き方でさえ、人間には許されているのに ねずみはねずみ、ゴキブリはゴキブリにはならないのよね、 見つけられたら駆除される、 「老子」は素知らぬ顔ができるはずよね このスレ、スルーしてくれるかしら それとも・・・
286 :
考える名無しさん :2008/08/15(金) 00:40:34 0
老子とニーチェが討論したら 一方的にニーチェがブチぎれて 老子がバーカとかいって鼻くそほじってそう
287 :
考える名無しさん :2008/08/15(金) 18:49:01 0
老子は他人をバーカとか言うかねえ 多分ニーチェが理解できずに綺麗言と捉えてぎゃんぎゃん喚くかもしれんが
哲学板名物 ル・サンチマン™ のコピペショウ お楽しみいただいていますか?
289 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:33:13 0
T.中国の思想と道教 第1章 道教の成立(道家と道教は本当に別物か?) 早稲田大学文学部教授 福井文雅 一.問題の所在 道教集団は紀元後五世紀中頃までは道家と呼ばれていた。ところが、道家が紀元後五世紀中頃に一つの宗教集団と して独立すると、当時あった「仏教」や「儒教」などと言う他の宗教集団や集合体と区別する場合や、あるいは宗教 としての独自性を強調する場合などに、道家を「道教」と呼ぶようになった。 実際、道教は紀元後五世紀になると、一つの大きな宗教と成ろうとしていた。陸修静が登場し、教義を整理し、寇 謙之が道教を国教にしたのも、すべて五世紀の出来事である。 言い換えれば、道教と道家は五世紀中頃からは【同義語】synonymsとして使われるようになったのである。同義語と 言うのは、卑近な例で言えば、同じ林と言う姓の人を指して、林氏と言ったり、林君と呼んだりする場合である。中 身は同じでも、状況や時代などで呼び方が違ったのである。仏教を釋家と言うようなものである。 そのように、道家、道教の両語が同義語として現れる好例は、紀元後六世紀の『滅惑論』に早くも出てくる。道家、 道教の両語が同じ意味で同一の文中に出てくるのである。後世になっても、『四庫全書総目提要』の用例でも同様で ある。この提要は、中国最後の王朝である清朝が勅命で作らせた文献目録と解題である。そこでも、道教を「道家」 の語でまとめて述べている。 つまり、道家教団が成立した五世紀半以降からは、近世でも、中国人は学者も一般人も、道家、道教を同義語とし て使ってきていた。北京の輔仁大学学長陳垣は学者としても高名であったが、道教の碑文等を集めながらも、『道家 金石略』の題名で刊行している。 日本でも、第二次大戦後しばらくは、私の記憶では中国研究者の間でも、道家という言葉を道教宗団の意味で使っ ている場合があった(ドウケと発音していた)。西欧の研究者も同様であり、それが証拠には道教も道家も区別するこ となく、Taoism(英語)、taoisme(フランス語)、Taoismus(ドイツ語)等々の音訳語で両方とも呼んでいる。
290 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:34:22 0
このように、道家と道教は同義語なのであるから、道教を述べる時には道家の用例を含めて述べるのは当然であり、 むしろ両語を並行して説明しなければ、一方的な偏った説明になってしまう。 しかし、戦後の日本の学界には、「外国人の説は誤っている。道家は哲学。道教は道家とは違う発生と歴史とを持 つ宗教だ」と主張する人々が出て、その説は日本国内で一時力を持っていた。欧米の若い研究者のなかには、その説 に追随する人も出ていた。 道教の研究は、結局は「道教とは何か?」を解明する仕事であるから、道教と道家とが違うとなれば二つの集団が あることになり、道教という宗教についての歴史も結論も大きく違ってこざるをえない。 事実、「道教と道家は同じか? 違うか?」の問いは、道教研究で最大の問題になった。 ところが、道教宗団が成立した紀元後五世紀前後の古文献や歴史資料を見ても、道教と道家とは違うとする日本出 来の新説を裏付ける明証は見つからない。つまり、道教宗団が発生した当時の中国人はそのような説を、言いもしな いし、書いてもいないのである。 結局のところは、日本で生まれた新説は、今にして思えば、それを言いだした日本人当人だけの思い込みか、資料 の誤読が原因であった。ある日本人先学が誤解していたのが最大の原因であったのであるが、誤解していたと言える 証拠を、つい近頃私は発見した。この論文(本章二○頁に採録)を読むと、長年にわたって日本人学界を迷わせてき た道教誤解の出発点が判ったのである。これを早く見つけてさえいれば、第二次大戦後から延々として(日本国内だ けで)続いてきた「道教と道家別物説」はとうの昔に消えていたことであろう。
291 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:35:26 0
アメリカのラッセル・カークランド教授は『道教の歴史と文化』(雄山閣、一九九八年五月)に発表した「中国にお ける道教の歴史的概観」(丸山宏訳、特に二頁)において、酒井忠夫・福井文雅共著「道教とは何か−道教・道家・道 術・道士」(酒井編『道教の総合的研究』、国書刊行会、一九七七年)と、拙稿Fumimasa Fukui,”The History of Taois- tic Studies in Japan and Some Related Issues”,Acta Asiatica 68(1995),pp.1-17を引用し、道教・道家別物説を 否定した最初の日本人として福井の文を紹介したあとで、最近の学界の動向を紹介し、 世界中の道教研究の専門家は、もはや道家と道教との区別(中略)を根本的な歴史的問題とは考えていないと言 ってもよいだろう。 と、断言している。 しかし、日本には未だその「道教と道家別物説」は残っている。そこで、まず始めには「道教」と「道家」との語 義と用法の史的変遷を述べ、次に、日本に残る「道教と道家別物説」の原因と、それが残した弊害を紹介して、最後 に、この両語にまつわるいくつかの問題点を挙げておくことにしたい。 それに先立っては、これまでの学説史を概観しておきたいところであるが、それはすでに一九七七年三月刊の『道 教の総合的研究』(国書刊行会)に収める論文「道教とは何か」の中の拙論に尽きている。その改訂版は『道教1』 (平河出版社、一九八三年二月)と『選集 道教と日本』巻一(雄山閣、一九九八年十二月)である。そこで、紙数の関 係から、道教研究の学説史の詳細はすべてそれらに譲り、直ちに本論にはいることにしたい。 注:日本では一時期、道家とは老子・荘子・列子などと、それをを奉じる「哲学思想家」として、道教とは無関係と 考えられた。現在もその誤解は続いている。
292 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:36:44 0
二.道教(道家教団)の語の成立史 道教という言葉は紀元前からあるが、しかし未だ一集団を指す固有名詞にはなってなく、単に文字通り「(つき従 って行くべき)道の教え」を指す普通名詞にすぎなかった。 その意味であればどの教えも道教と言われた。道教という語が文献に始めて見えるのは、紀元前の『墨子』非儒篇 下第三十九の「儒者はもって道教となす」の例である。しかし、この「道教」の意味は当時行われていた儒家の「聖 人・先王の教え。聖人の道を説く教え」を指す言葉に過ぎなかった。つまり、道教は「何らかの道を指す教え」であ るならば、何の教えにでも付けられる普通名詞であったのである。 だから、時代を下がって『三国志』を見ても、呉書巻十三、陸遜伝の「道教を熙隆す」の道教も、この世を治める 「立派な教え」という一般的意味、普通名詞である。 紀元前には儒教を指して道教と言ったし、それに対しては、紀元後に仏教が入って来た時にも、立派な仏陀の教え であるから、仏教を指して道教と訳す場合もあった。(『梁高僧伝』巻三、求那跋摩伝)。いわゆる「古訳」の代表者 である三世紀末の竺法護やほぼ同時代の康僧鎧、聶承遠などに、その訳例は多い。 他方、普通名詞の道教と同じ時期に、並行して道家(どうか)という言葉があった。これは一集団の名称であり、 したがって固有名詞で、紀元前一世紀に編集された『史記』の「太史公自序」に、当時存在した六派の学術の内の一 として名前が出ている(六派の名前は集団を示すものではなく、単なる書物の分類の名前だ、とする説も近頃あるが、 私にはまだ十分には理解できない説であり、ここでは通説に従っておく)。 道家が老子から発して紀元五世紀に到る伝統の歴史を描いたのが『魏書』釋老志であり、『隋書』經籍志である。 そこに描かれた歴史をそのまま史実として信用するかどうかは別問題とするにしても、「道家(つまり、五世紀の道家 教団)の源は老子に始まる」と記す両書の記事を五世紀の漢人が信じていた、という事実は否定できない。
293 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:37:46 0
この道家を説明するのに、「無為にして、また為さざるなしと曰う」という『老子』第三十七章・第四十八の文か ら、太史公(司馬遷)は始めている。同じ『史記』の巻五十六には、丞相陳平が道家に関連して「黄帝・老子の術を 好んだ」の文がある。紀元後一世紀になると、『漢書』の「芸文志」では「道家者流」を「道家の人々は元来は史官 の出身であり、君人が南面するの術である」とも説明している。 これらの資料によれば、道家は何らかの「治世の術」と老子に関係した集団であったことが推測できる。 では、具体的には道家の教団はどのような内容であったのか? この問題を、道教の成立史に直接関係する文献 から探るならば、その具体的姿は紀元後四世紀始めの書『抱朴子』外篇に、「神僊・方薬・鬼怪・変化・養生・延 年・禳邪・却禍の事は、道家に属する」とはっきりと書いてあるのがそれである。 つづいての例では、紀元後五世紀始めに『魏書』釋老志(仏教と道教の記録)に「道家の源は、老子から出ている」 と言い、張陵を経過する教えの伝統を述べ、「(寇謙之を訪ねる時の車馬では)旗幟がことごとく青いのは、道家の色に 従っているのである」とある例である。これも『魏書』釋老志の一文である。この記録が道教史の最高の資料である ことは言うまでもあるまい。 ただし、同じ釋老志の中にも、道教の語を含む「清整道教」という文も見える。しかし、ここの道教はやはり単な る「道の教え」の意味であって、宗教教団としての道教を意味するものではない。 このように道家の語は、一集団を指す固有名詞であった。しかし、道家が一個の宗教集団として仏教宗団や儒教集 団と対立するようになると、他教を意識する時などに、道家を道教と置き替える場合が、自他共におきてきた。 その事実を示す最初の例として、『道教の総合的研究』(一九七七年三月)に私が初めて挙例したのは、五世紀中頃 の顧歓(四二○年頃〜四八三年頃)著『夷夏論』(『南斉書』巻五十四)に、次のようにある文である。 仏教は文にして博(ひろ)く、道教は質にして精である。
294 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:39:22 0
この文章はまさしく道・仏二教の比較論である。仏教に対して道家を対置している。こういう場合では、道家では なくて道教と称しているのである。 同時代に、朱広之が上と同じ文を『疑夷夏論、諮顧道士』(『弘明集』巻七、大正蔵五二、四四頁下)に引用して議論 している。 この例のように、「他の宗教に対する時に、道家の代わりに道教の語を使った」と言える証拠としては、六世紀の 『滅惑論』(大正蔵五二、四九頁下)に出る次の文も良い例である。 三破論に云ふ、道家の教えの妙なる[点]は、思いを精(こら)して一を得(え)て、死すること無くして聖 [の域]に入ることにある、と。・・・滅惑論に云ふ、三教の真偽は煥然(あきらかに)として辨(=区別)じ易し。 それ仏法は神を練り、道教は形を練る、と。 上の文は、南斉の道士の張融に仮託した『三破論』では「道家」の語を使っているのに対して、劉勰は道教の語を 使って、「道教」で言い替えて反論しているものである。注意して読むと、張融と違って劉勰は、道家だけではなく 儒教・仏教・道教の「三教」を問題にし、「仏法」を道家に比較して議論している時には、「道教」の語を使っていた ことが判ろう。 つまり、道教という語は、道家が儒教・仏教と比較して語られる時に、あるいは道家の優位を言う時に、道家の語 に代わって用いられるようになったのである。この私の推論を裏付けるのが、上の文に直ぐ続く『滅惑論』(大正蔵 五二、五一頁中)の次の文である。 案ずるに、道家は法を立つるに、かの品に三あり。上は老子を標し、次は神仙を述べ、下は張陵を襲ひ(=受け 継ぎ)、太上を宗となす。 ここでは、同じ『滅惑論』の中でも、先の文とは違って道家の語を使っているが(同右、五一頁中)、意味は(宗団と しての)道教と同じである。
295 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:40:25 0
このように、道家というグループに属する人々が、五世紀中頃になって一宗教団体として自立し、自分達を対外的 に(つまり儒教や仏教に対して、または比較して)物申す場合に、例えば、儒教や仏教に対抗して自分等「道家」の独 自性や偉大さを述べるような場合に、自分達の集団を道家の代わりに道教と呼び、「道教」の語を使うようになった のである。 『道教義枢』とか唐末の『道教霊験記』などの書物の題名も、そういった場合の命名に他ならない。この使用法は 現在まで続いている。
296 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:41:33 0
三.道家と道教は五世紀以降は同義語 このように、現代であれば道教と言うところを道家と書くこの種の例は、中国史には五世紀以降数限りない。南宋 の鄭樵の『通志』や馬端臨の『文献通考』の「道家」がそれであり、近代での最も良い例は(先程も引用したが)、 『四庫全書総目提要』の中の道教に関する総説の中に見える。中国最後の王朝である清朝が勅命で作らせたこの書物 目録でも、道教の語は用いずに「道家」で道教関係の書物をまとめているのである。 道家と道教という語がどのようにして成立したのか? この二つの語が文献上ではどのような使われ方をして来た のか? この問題を、文献上で歴史的に辿って見ると、五世紀以後には両者は明らかに同義語であった事実が、客観 的に判ってきた。道家と道教両語の違いは「使用上の違い」だけであって、これまで日本の学者達が主張して来たよ うな意味上の違いではなかったのである。 「道教とは何か?」という先学の研究では、道教と道家の「用法による違い」に着目した例はない。したがって、 以上のような結論を見ることがなかったが、語義としては道家=道教の説は私個人の解釈ばかりではなくて、文献が 示す事実なのである。道家・道教が同義語synonymsであることは、今や否定できないであろう。 道家と道教両語の違いは「使用上の違い」に在るということは、「仏教」「儒教」の語の用法と比較しても判る。仏 教を仏家とか釈家、儒教を儒家と中国人史家はよく言い換えるが、道家、道教と同様にその理由は状況や時代に因る のであって、両者が意味内容で相違していたからではない。
297 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:44:31 0
「道家は哲学、道教は宗教」として、両者を別物として区別するのが、ついこの十数年前までは日本の学界では常 識であった。日本式区別にしたがうと、道家は紀元前の老子や荘子等の哲学者の集団を指す言葉であり、道教は紀元 後に張(道)陵等の道士を開祖とする宗教集団を指す言葉である、ということになっており、したがって、「道家と 道教両者の間に歴史的連携は無い」とも言うのである。 しかし、中国と欧米の学界では、日本のような道家・道教間の歴史的断絶は認めず、両者の間に(時代による変容 はあったにしても)歴史的な連続はあった、とするのである。 道家・道教が同義語であることが(前節で述べたように)歴史資料の上で確かめられた以上、日本人先達が「道 家・道教は別物である」という解釈は、明らかに誤りであった。 欧米の学界では「もはや道家と道教との区別を根本的な歴史的問題とは考えていない」とするカークランド教授の 意見は、すでに先に紹介した。 それでは、なぜ日本の先学達は誤った「道家・道教別物説」を述べたのであろうか? それには、大別して三種の原因があった、と私は考えている。第一には、研究者が現代から見て古代を解釈してい たからであった。つまり、「道家は哲学、道教は宗教」という分け方は、哲学と宗教は別物とする現代人の見方に立 っているものである。 しかし、紀元前の漢人が、哲学と宗教とを現代の意味で区別していたであろうか? 区別する必要があったであろ うか? 古代の社会では、今で言う哲学と宗教は合体していたのである。その事実は、『史記』封禅書等々、紀元前の 史書の中の宗教関係文献を読めば、明瞭である。
298 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:46:39 0
第二には、道教と道家とが同義語である事実を知らなかったからであった。 紀元後五世紀になると、ある集団が道教を名乗り始めた。そこで、「それに先立つ道家とは名称が違うから、道家 と新出の道教とは違う」という言わば思い込みによる誤解から出発して、「道家」と「道教」とを別物とする日本人 学者間の議論は始まっていたのである。 その誤解の始まりは、四十数年前に『道教の本質』を執筆した老先学の次の文中にあった−− 道教と道家とは同じではない。しかし、古来、混同して用いられていることは明らかで、例せば、道教について の最初の代表的な文献である魏書の釋老志がそれであり、文献通考も四庫全書総目提要もまたそうである。しか し、一は黄帝も老子などを神格化して崇拝している宗教であり、一は時によっては老荘哲学などとも誇称してい る学派であることが注意される。(『東洋思想講座』巻三、一九五八年八月、東京・至文堂、一三五頁) 一読、この文は長い本文の後の「結論」のように見えるであろう。しかし、実際はそうではなかったのである。 「道教と道家とは同じではない。」の文はこの章の出だしの文なのである。いわば結論が、何の説明も無く、最初に来 ている論文であった。 しかも、これに続いて、「しかし、古来、混同して用いられていることは明らかで、」と断定の文が続くのであるが、 何故「混同して」いると言えるのか? その説明もまったく無い。『魏書釋老志』や『文献通考』や『四庫全書総目 提要』の用例が「何故混同している」と言えるのか? 数百年の間、何故混同したままで漢人学者はいられたのか? この答えも説明もまったく書いてはいない。 つまりは、「混同して用いられている」と思ったのは、そう思った日本人老先学の誤解、誤読に過ぎなかったので ある。本当は、漢人学者の間では「同義語として用いられている」と、そこのところを書けば、正解であっただろう。 「同義語」という言葉がこれまでの先学達の論文のなかについぞ出てこなかったところから見ると、日本の先学達 は、もしかすると、この言語学の述語を知らなかったのではあるまいか?
299 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:48:02 0
ともあれ、誤読の上に立った「道家と道教とは同じではない」の説は日本の学界の通説になった。上に引用した論 文『道教の本質』の論理の矛盾と誤読に気がつき、その説に反対の人はいたかも知れない。しかし、先学への反論を 歓迎しない日本的風土のために、混同説が今日まで長く存在したことは、学界のためには不幸な出来事であった。 この文中には「道家は哲学、道教は宗教」という一部日本人の見方も見える。これが現代人の発想であり間違いで あることは、すでに第一の問題点の中で述べた。 「道家と道教とは違う」とする誤解から派生した第三の問題点は、道教と言えば「道教」という一語だけにこだわ り、同義語である「道家」の用法と資料とを無視し、もしくは軽視した論考も出たことである。 意外にも日本人研究者は気が付かないことであるが、道教よりも道家の語を使って道教を語る論著が、漢人には多 いのである。その一例としてすでに『道家金石略』を挙げたが、同様の例は儒者の典籍にも多々ある。 「道教」という語を使う文章には、儒教、仏教と比較したり、道家の独自性を強調したりする場合が多い。したが って、道教という一語だけに終始した議論と結論には、論理に無理や偏りが必然的に生じている。 例えば、道家と道教とを歴史的にも質的にも違うとして峻別する日本式解釈にしたがっているならば、道家と道教 とを別々の組織・教義・歴史を持った二個の流派として考えなければならないであろう。そのような集団は歴史上に も文献上にも存在しない。それにもかかわらず二個の流派を想定して議論するならば、二個の流派別々に現代までの 歴史を無理に作為しなければならず、結局は、学問上で遅かれ早かれ破綻を来すことになるであろう。 以上、従来の問題点を大きく列挙してみた。このように従来の問題点を並べてくると、道家と道教との問題点の核心 は、両語の意味をキチンと分析していれば解決することであったことが判る。
300 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 19:49:27 0
さらには、用語を厳密に規定してから出発すれば、議論する前に問題は解決している場合もあったことが判ろう。
例えば、「道教では(云々)」と言う場合に道教という一語で片付けずに、さらに問題を細分化して分析し、「道教教
団、道教教理、道教儀礼」等々、さまざまな意味に分けて考えておけば、議論する前に結論が自ずから出てきていた
かも知れないのである。(略)
四.焦点−−語義の解明
以上のように問題点を考えてくると、道教の基本的な問題は、現時点ではほとんどが歴史や社会ではなくて、直接
には、研究者の使う語義にかかわっていることが知れよう。分析哲学者ウィットゲンシュタインが述べたように、
「哲学的問題は、我々が普段使用している言語の働きを誤解していることから生じる。哲学的思考の結果は、真理の
発見ではなく、混乱の解消なのである。」
【講座 道教】第四巻 道教と中国思想 雄山閣出版 2000年8月25日初版発行
http://www.amazon.co.jp/dp/4639016948/
301 :
考える名無しさん :2008/09/08(月) 21:10:27 O
>>47 そこに書いてあることは学問の効用と神通力、つまり超能力関係のことだよ
302 :
考える名無しさん :2008/09/18(木) 20:53:37 0
>>301 なんでそうなる?
個としての人の在り方も共同体の中で必ず影響を受けていて切り離すことは出来ない。
だから民草の在り様を観て国単位までその傾向を敷衍することができる。
個人の存在も森羅万象と数珠つながりで関連し合っている。
聖人はその繋がりと流れを先読みして物事を慮るから
「聖人は行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す」
になるんじゃないの?
道教の妖術の話じゃないんだぜ?
役立たず思想晒し上げ
305 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 17:51:58 0
>聖人はその繋がりと流れを先読みして物事を慮るから
>「聖人は行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す」
>になるんじゃないの?
全然違う、堀衛門じゃないんだからw
要はあんたの知らない世界があるということww
>>304 「お前には」なww
あんたの知らない世界というのを教えてもらいたいな。 玄の世界を。
307 :
考える名無しさん :2008/11/26(水) 11:51:13 O
老子ってメンヘラでしょ
308 :
考える名無しさん :2008/11/26(水) 14:53:44 0
ズボラな話でゴメンナサイ。3教ーー儒、仏、道ーーを纏めて 書いた洪自誠の「采根譚」と言う書物があります。 訳本で読んでますが、参考になり、慰められています。 仙人に憧れています。
三教を修めた人といえば日本では良寛が有名
老子って説明が下手だったんだよな。 天才ではあったけど大天才ではなかった。 もう少しだったね。彼は道半ばで終わった。
老子と荘子の関係は?
312 :
考える名無しさん :2008/12/18(木) 00:14:54 O
老子の本名って分かる方いらっしゃいますか?
313 :
考える名無しさん :2008/12/21(日) 10:36:09 0
頭であれこれ考えずに、魂の赴くままに諸事を行う事が出来ればねぇ… そんな人が増えれば、世の中も 少しはましになるだ老子
314 :
考える名無しさん :2008/12/21(日) 14:37:22 0
一休も良寛も、秘かに寄り添う女性がいました。 それで居て、飄々と生きたのは何故か、ほのぼのとしたものを感じます。 女の肌の白きを見て、雲から落ちた仙人も居たとか。 人生、急ぐ必要は無いようです。 儒教の様なたてまえの思想ばかりでは、時には本音に戻りましょう。
柴咲コウが読んでた
316 :
考える名無しさん :2009/01/11(日) 17:22:57 O
老子の思想は役に立たない
無用の用だよ。
318 :
考える名無しさん :2009/01/22(木) 18:51:09 O
仏教より偉大にみえる無為自然
319 :
考える名無しさん :2009/01/22(木) 19:13:56 O
320 :
し :2009/01/22(木) 19:18:18 O
下の底のドロドロがうまいんじゃねえか。なめんなよ
321 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 05:23:12 0
孔子と老子はどちらが先に生まれたか? 孔子が老子に会った時はわからなかった。 いまだにわからない。
322 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 06:29:31 0
鶏が先か、卵が先か。
323 :
考える名無しさん :2009/02/07(土) 14:12:55 0
324 :
考える名無しさん :2009/02/09(月) 14:08:24 0
現代に老子がいたとして、 昨今の金融危機や不況を改めて評するとしたら、何と言うでしょうか?
325 :
考える名無しさん :2009/02/09(月) 15:34:36 0
評するに値しないと考えるんじゃね
原始生活に立ち戻れと言うんじゃない?自給自足の。
レスありがとうございます。 老子はきっと現代人には見向きもしないんでしょうね。 2chさえあれば原始生活もアリなんですが。2chは名無しだから、老子も認めてくれ…るわけないか。
328 :
考える名無しさん :2009/02/10(火) 02:25:48 0
欲が深いから苦しむ 余談だが日本○観は道家でもなんでもないから気をつけろw
以下、参考までに夏目漱石が大学のレポート(「老子の哲学」1892年)で描いた老子の解説図(新版全集第26巻より)。 半角英数字は該当する章番号を付記した。 道 ┳絶対の道┳(一)範 囲 ┳無限 ┃ ┃ ┣無始 ┃ ┃ ┗無終 62,25,4 ┃ ┣(二)体(無為)┳無形 ┃ ┃ ┣無声 ┃ ┃ ┗無臭 4,25,14,35,21 ┃ ┗(三)用(有為)┳生万物 ┃ ┣無意識にして法あり ┃ ┗柔にして屈する能はず 34,51,40,42,79,73,37 ┗相対の道┳人之道(損不足奉有余) 48,77,81 ┣不 道(壮者必老) 30,55 ┗非 道(盗夸[とうか]) 53
修身┳(ア)無為 <消極的> ┃ ┣(一)学問を廃す┳(甲)講修学理するを廃す ┃ ┃ ┗(乙)致知格物の観察を廃す 47 ┃ ┃ ┃ ┣(二)行為を廃す┳(甲)道徳上┳仁 ┃ ┃ ┃ ┣義 ┃ ┃ ┃ ┣礼 ┃ ┃ ┃ ┗智 5,18,19,38 ┃ ┃ ┣(乙)美術上…音楽等 12 ┃ ┃ ┗(丙)肉体の快楽…衣食の賛沢等 ┃ ┃ ┃ ┃ (たげんなればしばしばきゅうす) ┃ ┗(三)多言を廃す(多 言 数 窮 5 ┃ (せいじんはふげんのおしえをおこなう) ┃ 又云聖人行不言之教) 47 ┃ ┗(イ)復帰於嬰児(えいじにふっきす)<積極的?> 28 ┣(一)足ることを知れ 46 ┣(二)柔を守り物と争ふなかれ 76,78,66,68 ┗(三)静に安んじて下に居れ 61,16,26
政治┳天下を得る方 ┃ ┣(一)不敢為天下先〔敢えて天下の先と為らず〕 67 ┃ ┗(二)能守道〔能く道を守る〕 32 ┃ ┗天下を得たる後…施悶々之政〔悶々の政を施す〕 60 ┣(一)消極的┳徐刑罰[刑罰を除く] 74 ┃ ┣撒甲兵[甲兵を撒す] 57,31 ┃ ┗廃法令忌諱[法令忌諱を廃す] 57,(65) ┃ ┗(二)積極的┳教育┳無智┳不尚賢[賢を不尚(たっと)ばず] 3 ┃ ┃ ┣毀利器[毀利器毀(こぼ)つ] (57) ┃ ┃ ┗已技巧[技巧を已(や)む] (57) ┃ ┃ ┃ ┗無欲┳不貴難得之財〔得難きの財を貴ばず〕3 ┃ ┗去耳目之楽〔耳目の楽を去る〕 (12) ┃ ┗方針┳守倹軽負〔賦〕収斂〔倹を守り賦斂(ふれん)を軽くす〕 75,67 ┣善下民〔善く民に下る〕 66 ┣柔弱自居〔柔弱にして自ら居る〕 ┗因物性禦之〔物の性に因(よ)り之を禦す〕
上記図
>>330-332 (本来は縦書き等記載法が多少ちがう)の所収された論文は『漱石文明論集』?(岩波文庫)でも一部紹介されている。
漱石が「復帰於嬰児」を積極的かどうか迷っていたり、老子をワーズワースと比較しているところが面白い。
また、漱石は老子の水に関する記述を完全に比喩として考えているようだ。
ヘーゲルとの違いを絶対的意識の有無に見ているのも興味深い。
英数字は章番号。 道1,18,21,23,32,40,47,65 /\ 玄6,27 / \ 善2,8,65 / 25,52\ 武器,27-31,36,68-69,76,80、 処世術24,47_____/_発生論___\______政治学(王26、税金79) \ / /\ \ / \ 学問批判18,20,48___\___\政治批判53 \ /言語5,32 \ /\ / \/ \感覚論12,14 \/ \/ /\ /\相2,20 /\ / \ / \/__\__ __/__\嬰児礼賛10,20,28,55、女性礼賛61 自然,天地5,6,7 \ \ / /無為38,43,57,63 水2,32,66,78____\___\/___/______\理想状況(小国寡民80) 物理学36,45 \ 逆説1,2,18,32,38,40,47,57,63,71 (柔弱36,40,76 \ / 無用の用11) \ / \/ 徳38,51,65
茶の湯は、茶、花卉、絵画等を主題に仕組まれた即興劇であった。
茶室の調子を破る一点の色もなく
物のリズムをそこなうそよとの音もなく
調和を乱す一指の動きもなく
四囲の統一を破る一言も発せず
すべての行動を単純に自然に行なう
こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。
そしていかにも不思議なことには
それがしばしば成功したのであった。
そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。
茶道は道教の仮の姿であった。
(岡倉天心「茶の本」より)
http://www5.atpages.jp/denshouuta/page030.html
生きるというのは死ねば治る病気のようなもの
337 :
考える名無しさん :2009/03/20(金) 23:30:03 0
無双が出てきて、無双厨が出てきた 無双厨が出てきて、無双厨的発言が出てきた 無双厨的発言が出てきて、アンチ無双厨が出てきた アンチ無双厨が出てきて、アンチ無双厨が無双厨を叩きまくった アンチ無双厨が無双厨を叩きまくって、アンチ無双厨と無双厨の争いが勃発した アンチ無双厨と無双厨の争いが勃発してそれに便乗するものも出てきた 便乗する物が出て来てさらに無双スレができた さらに無双スレができてまともなスレがなくなった まともなスレがなくなって板が荒れた 板が荒れて、楽しい三戦ライフがつぶれた 楽しい三戦ライフがつぶれて、まともな住人がいなくなった まともな住人がいなくなって、厨な住人が増殖した 厨な住人が増殖して、厨な話題が増えた 厨な話題が増えて、板が厨になった 板が厨になって、まともな人が寄り付かなくなった まともな人が寄り付かなくなって、板は厨の天下になった 無双が出てきて、なにもかもつぶれた
>>337 漢詩と、漢詩→和訳では、そのような文もそのような意味あいの文章は無いですね。
漢詩→英訳後の彼自身の解釈でそうなったのだと思いますが。
ヒンズー教の経典でその文章の出典をググッタけれどもワカランカッタ。
ヒンズー教の経典て、膨大だから、わからんね。
でもその心が変われば...というのは、解釈として、ヒンズー教やら仏教では当てはまるし、
他の宗教でも当てはまりそう。
340 :
337 :2009/03/22(日) 23:19:12 0
ありがとうございます。何かヒントがあったら、思い出してください。
341 :
考える名無しさん :2009/03/22(日) 23:44:48 O
白いコートの女。庄内藩30石に封。
342 :
考える名無しさん :2009/03/28(土) 12:03:42 0
老子いいねぇ
343 :
考える名無しさん :2009/03/28(土) 13:39:49 0
母ちゃんの腹の中に80年近く入っていたといわれる老子 村人「お腹の中ってどんな所なんですか?」 老子「暑くもなく寒くもない、まぁ、秋だな」 村人「春では無いんですか?」 老子「うむ、時々マツタケが生えてくるからな」
344 :
考える名無しさん :2009/03/31(火) 20:22:31 0
つまらんね
345 :
考える名無しさん :2009/03/31(火) 21:19:13 0
いや、自分で色々調べて徹底的に見極めた上での結論だから では、選挙云々がなければ、麻生以上の人間が総理になったか それは違う 派閥の力学でろくでもない奴が総理になることはいくらでもある むしろ選挙のタイミングでなければ弱小派閥の麻生が総理になることはなかったかもしれない この世界的難局にまともな人がトップにきて日本は幸運だと思っています 今気づいていない人にも後世には評価される仕事をしている 麻生こそが近年まれにみる名宰相だということを確信している
346 :
考える名無しさん :2009/03/31(火) 23:07:12 0
老子すごすぎるよ・・
347 :
考える名無しさん :2009/04/17(金) 14:19:35 0
無意味なことを書き連ねて それが2500年間を読まれている事がすごい それ光を弱め、塵を収め、刃を丸くする 自然は心地よい木漏れ日を作り、自然と空気を清浄にする 捨てられた刃はただ錆びるに任せるのみである これは人間に出来る事ではない
348 :
:2009/04/17(金) 15:33:17 0
老子は座右の書。
350 :
考える名無しさん :2009/05/06(水) 14:53:03 0
老子って今では処世術みたいに読まれてるけど、本来は為政者が読む読み物 なんじゃないかな
為政者とか公務員志望者くらいしか本読まなかったのでは
アホしか読まねーでしょ
353 :
考える名無しさん :2009/05/06(水) 18:04:17 0
老子のこと?
354 :
考える名無しさん :2009/05/06(水) 19:44:20 0
いずれにしろ今にいたるまで老子が残されてるという 事実は事実として認められる。 やはりなにかだれかこれは残したいという意志があったから 受け継がれているのだろう。 それが古典の古典たる所以だろ。 今から先誰がこのように受け継がれていくだろうか?
355 :
ミ〇 :2009/05/15(金) 16:06:46 O
(^^)
356 :
ぱや :2009/05/26(火) 01:47:38 0
老子さまに憧れています 自然 自由 を大好きにしてくれました すべては自然で自由だ 人の考えた 不自然や不自由 など あんまりおもしろかない 自然や自由 を基本にしたい(愛したい)と 想えたことに 感謝です ありがとうございます 老子さま
第一章 道可道、非常道 名可名、非常名 無名天地之始 有名万物之母 故常無欲以観其妙 常有欲以観其徼 此両者同出而異名 同謂之玄 玄之又玄衆妙之門 道の道とすべきは、常の道にあらず。 名の名とすべきは、常の名にあらず 無は天地の始に名づけ 有は万物の母に名づく 故に常に無は以ってその妙を観(シメ)さんと欲し、 常に有は以ってその徼(キョウ)を観(シメ)さんと欲す この両者は同出にして、名を異にする 同じく之を玄と謂う 玄の又玄、衆妙の門なり
第11章 三十輻共一轂。 当其無、有車之用。 セン埴以為器。 当其無、有器之用。 鑿戸ユウ以為室。 当其無、有室之用。 故有之以為利、 無之以為用。 三十輻(ぷく)一轂(こく)を共にす。 其の無に当たりて、車の用あり。 埴をこねて以って器を為(つく)る。 その無に当たりて、器の用あり。 戸ユウをうがちて以って室を為る。 其の無に当たりて、室の用有り。 故に有の以って利を為すは、 無の以って用を為せばなり。 三十の矢が放射状に集まって、一つの車輪の中心部と共にある。 そこに無(空間)があるから、車輪の働きをする。 土をこねて、それで器を作る。その器に無(空間)があるこらこそ、 それは、器としての用を為すのである。 壁をうがって戸口や窓をつくり、それで以って、部屋をつくる。 部屋の中に無(空間)があってこそ、それは部屋の用を為す。 従って、有が有としての価値がある為には、そこに何らかの 無の働きがあるからなのである。
第60章 治大国 若烹小鮮 以道@天下 其鬼不神 非其鬼不神 其神不傷人 非其神不傷人 聖人亦不傷人 夫両不相傷 故徳交帰焉 大国を治むるは 小鮮を烹(に)るが如し 道を以って天下に@(のぞ)めば 其の鬼、神ならず 其の鬼、神ならずにあらず 其の神、人を傷(そこな)わず 其の神人を傷わずにあらず 聖人、また、人を傷わず それ、両(ふたつ)相傷わず 故に徳は交(こもごも)に帰す <解釈> 大国を治めるのは、小魚を煮るようなものだ。(※注: この最初の一行は、前章の最後とする説あり。) <根元>が一つであり、その<はたらき>が、二つになり、三つになるという「道」の 理を以って、この天下にのぞむならば、「鬼」と「神」の<根元>は一つのものより生 じ、その<はたらき>が相反するものであるという事になる。 このように「道」の<根元>を以ってのぞむならば、鬼が神という事も無く、又、鬼が神でないという事も無い。 又、「道」の<はたらき>を以ってのぞむならば、鬼と神は元々一つのものから生じて二つに分かれ、 人に害を及ぼすものを「鬼」と名づけ、人に徳を齎すものを「神」と名づけた。 このようにして、「道」の<はたらき>を以ってのぞめば、「神」は人を害するものではない。 また、 「道」の<根元>を以ってのぞめば、「神」と「鬼」は一つであり、「神」が人を害するものではないという事もない。 同様に、「聖人」も又、「道」の<根元>から生じた様々な「道」の<はたらき>において、人をそこなう事のない人に対して名づけられた「名」である故に、当然、「聖人」と言われる人は、人をそこなう事はない人である。 「道」の<根元>から生じた<はたらき>において、相反するところの二つは、二つで一つのもの、つまり、互いに補い合うものであり、そこなうものではない。 これら互いに反する二つのものは、そこなうものでないどころか、どちらか片方を消滅させれば、同時に他の片方も消滅してしまう事になるのである。 故に「徳」はその「道」から生じた様々な<はたらき>に帰す。
老子の思想が現代に残ってることが不思議
タオ・コード「老子の暗号が語り出す」という本を読み出したら面白いんだ 老子の、「道」を男性器、「徳」を女性器の暗号と解して、 宇宙=性(もしくは性エネルギー)とするんだ 道教の中には、こういうものがあると知ってはいたが、 この本の通りなのかはわからん この本は、ノンフィクションとしているんだが、 フィクションでもいいや 久しぶりに老子を読む気になった
http://nam21.sakura.ne.jp/tao/ 道1
>>358 、25、32、34、60
>>360 生活7、9、13、15、16、 /\
処世術24、33、44、 /21、39、 行政29、武器軍事30、31@、37、
処世術47@、50、 / 40、52 58、59、62、46、54、57(無為)、
善65、73_______/__発出論_\________武器軍事(68)、69、(税金75、79 )
\ / /\ \ /
学問批判18、19、20(母)、48@___\政治17、32、53、67(宝)、74
言語56、知71/\ / \ /\聖人3@、自然及び天地5、27(善)、70、72@
感覚論12@〜14、35 \/ \/
/\ /\ /\ / \
/ \/__\____/__\女性(受動性)礼賛6、嬰児礼賛10@、非区別28、
水8@(善)、66、78@ \ / / \(無為43)、非区別49、嬰児55
/_______\___\/___/______\
物理4、無用の用11
>>359 逆説2@、81@ 理想状況(61)、64、小国寡民80@
22、26、対立36、45、\ /
対立63、(柔弱76@)、77\ /
\/
徳23、38@、41、51@
たおやかの語源
365 :
考える名無しさん :2009/11/12(木) 13:28:36 0
手で折れるくらい弱い
老子一派が弾圧されることは無い
どうでもいい思想
褒め言葉だな
全く何の役にも立たない思想
370 :
老子 :2009/12/26(土) 08:47:44 O
人生の目的はセックス
自然農法のバックボーンとなる思想。
アトピーの人には有り難みがわかる。
/////////////////////
http://nam21.sakura.ne.jp/tao/ 25、32、34、60
>>360 道1
>>358 、
生活7、9、13、15、16、 /\
処世術24、33、44、 /21、39、 行政29、武器軍事30、31@、37、
処世術47@、50、 / 40、52 58、59、62、46、54、57(無為)、
善65、73_______/__発出論_\________武器軍事(68)、69、(税金75、79 )
\ / /\ \ /
学問批判18、19、20(母)、48@___\政治17、32、53、67(宝)、74
言語56、知71/\ / \ /\聖人3@、自然及び天地5、27(善)、70、72@
感覚論12@〜14、35 \/ \/
/\ /\ /\ / \
/ \/__\____/__\女性(受動性)礼賛6、嬰児礼賛10@、非区別28、
水8@(善)、66、78@ \ / / \(無為43)、非区別49、嬰児55
/_______\___\/___/______\
物理4、無用の用11
>>359 逆説2@、81@ 理想状況(61)、64、小国寡民80@
22、26、対立36、45、\ /
対立63、(柔弱76@)、77\ /
\/
徳23、38@、41、51@
ハイデガーは1946年に中国文学研究家のHsiao*と老子の翻訳を試みている(芽野良男作成年譜より)。
"Heidegger and Asian Thought"p.102-103
(1947年8月9日ハイデガーからシャオ氏への手紙における老子の引用)id=uOvIJSN5LEEC&pg=PA102&img=1&zoom=3&hl=ja&sig=ACfU3U2HP6osFw-63zP_EbO2mT8WB48BSg&w=685
http://books.google.co.jp/books?id=uOvIJSN5LEEC&pg=PA103&img=1&zoom=3&hl=ja&sig=ACfU3U2YgQIBvewUeIvgItpgZAARHVleAw&w=685 山小屋にて1947年8月9日
親愛なるシャオ様
私は度々あなたを思い出します。またすぐにあなたとの会話を
再開できればうれしいです。
あなたが私に書いてくれた次の行を考えています。
<"Wer kann still sein und aus der
stille durch sie auf den Weg bringen
(bewegen)etwas so,dass es
zum ersheinen kommt?"
[Wer vermag es,stillend etwas
ins Sein zu bringen?
Des Himmels Tao. >
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。
動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。
道徳経(天の道)より
親愛なる情を持って
あなたのマルティン・ハイデガーより
373 :
追記 :2010/02/07(日) 00:07:53 0
ラカンも1969年に中国語の女性?家庭教師(フランソワ・チェン)から老子を教わっている。
ラカンが興味を示したのは第一章と第42章の冒頭。特に第一章の「道」が行為と発話
(La Voie/voix,[The Voie/voix], [Way/voice])の二つの意味をもつ点に注目したらしく、
以下の図を書いたそうだ。
("The later Lacan" p.43**及び
http://www.lacanchine.com/L_Cheng-Lacan3.html )
le faire ― sans nom ― n'ayant désir
le Dao <
le parler ― le Nom ― ayant désir
(翻訳すると)
doing-nameless-not having desire
Tao/
\speaking-the name- having desire
行為- 無名- 無欲
道/
\道う(言う)-名前- 欲望を持つ
これは、住所を書く順序の日本と西洋との違いといった比較文化論や、主体の喪失と享楽の出現といった
問題体系に繋がるらしいが、邦訳がないためにはっきりしたことはわからない。ラカンは、ハイデガーフ
リークだったので、老子への取り組みは、(いわゆる「東風」が状況的にあったとしても)その影響はあ
ったかも知れない。ヘラクレイトス論のロゴス解釈との類似が指摘されているし、RSI理論をまとめるた
めの「中間の空間」なる用語を42章から編み出しているという(『ジャック・ラカン伝』p380)。セ
ミナール14、20、21で老子が触れられているそうだが(老子以前は孟子が参照されたりしている)、
空虚な中心という概念(老子第11章)などが精神分析の構造化に寄与した、あるいは後押しをしたとも
考えられなくもない。
375 :
考える名無しさん :2010/02/27(土) 18:42:50 0
★【トレンド】20〜30代に「老子」が人気…「足るを知る」が節約、エコのスローライフにつながるとか
なんだか老子が好きだという20〜30代の人が増えている。
カシハラの周りだけなのか? と思って、ある書店の店員さんに伺ったところ、
「過去の名言集や思想集を新しく書き換えた本が人気ですね。難解に
書かれていた解説が簡略化され、思想が読みやすく、わかりやすくなった上に、
文字も大きくなったので一般の人でも読みやすくもなった」というお言葉が。
でもなんで今さら老子? 授業で習ったようなものがなぜ復活? なんだか
モヤモヤしてきたので、周りの新しい老子ファンに、直接なんで好きなのかを聞いてみた。
すると新しいファンには2つの種類があるがことが判明!!
一方は、風水占い派。有名な中国の富豪が老子をもとにした風水を広めていて、
そこから老子を読むようになったというグループ。どちらかというと占いのような
感覚で老子を読み始めたそう。宇宙と人生の根源的な不滅の真理を、
老子の本でも説いていることから、その真髄を知るために老子ファンになったのだとか。
好きなものは探求するファンならはですねぇ。
もう一方は、節約エコ派。老子が言っている「足るを知る」という思想が、
節約やエコにつながるんだそうです。文化人類学者でもあり、環境啓蒙家の
辻信一さんの『スローライフのために「しないこと」』という本の中にも、
老子の思想がスローライフやエコに通じると書かれているのだとか。
いやぁ、紀元前から言われていたことを今さらのように新しく感じるのも時代なのでしょうか。
「いろいろな教えやマニュアルを教える本が増えすぎていて、みんな同じに見えてしまう。
それを上回るものをみんな探していて原点に戻って、行き着いたのが
中国の思想家なのではないか?」というファンの声も。
それにしても人間の真髄が変わらないとしたら、なんのためにこの何千年は
あったのでしょうかねぇ〜。なんとなくむなしい気分に……う〜ん。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1267093004893.html 2010年2月27日
老子は好きだけどオカルトはきらいだなあ
老子ってオカルトなの??
378 :
考える名無しさん :2010/06/09(水) 22:08:56 0
荘子や荘子の教えで最も大事な点が忘れられているのか、判らないでいるのか、語られることが一度も無いね。 このことを欠いたんでは、教えそのものが何の値打ちも無いのだが。 この点を指摘されないのは、この点を理解できないことが原因であるとするなら、 仏教やキリスト教や、古代ギリシャの哲学もまた、理解していないものであると言うことになるのだが。
379 :
考える名無しさん :2010/06/13(日) 14:46:15 0
>>376-377 老子の道徳経と言うのは、道教の経典になってんだろう?
道教では、錬丹術と言って、ある種の水銀を服用することにより長寿を得ようとするというし、
房中術と言って、男女のセックスが長寿に寄与すると言う考えに基づいた教えが有るらしい。
房中術については、真言密教にもあるらしいね。
これらの行為は、老荘の教えを誤解したものであると思う。真言密教の房中術についても
理趣経を誤解したものであると思う。
いずれにしても、これらの教えが実行されているなら、カルトと言われても良いのでは?
老荘にしろ、仏教にしろ、真実は一または無相であると言う判断から流れ出ている教えなのだ。
真言密教の房中術や、道教の錬丹とか房中などは、この真実に反することになるから、こういう教えを
有している限りカルトと言われるべきだと思う。
それなら道教が老荘思想に対するオカルトだと言えばいい
老子をなめんなよ
382 :
考える名無しさん :
2010/08/18(水) 10:46:29 0 まぁ〜そんなにこだわんなくてもいいんじゃん あたしゃ、結構、若いコが好きだよ