1 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
<純粋略奪>・・・人間関係は贈与で形成される。贈与を受けたものは負債を感じ、返礼をする。
デリダはたとえば自然の恵みのような見返りのない贈与を「純粋贈与」と読んだ。しかしこれはまた
「純粋略奪」とも言えるだろう。
<自然主義的闘争>・・・・偶然性というトラウマ的外部環境から内部(社会)を守りながら、「資源」
を純粋略奪し、豊かな社会を目指すこと。これが人間社会の下部構造としての自然主義的闘争で
ある。各時代ごとにぞれぞれの闘争様式がある。
<グレイゾーン(内部環境)>・・・近代以前の社会は、外部環境を排除することで秩序を保って
いた。ルネサンスに外部環境は再発見された。そして数量化によって「内部環境」として開拓
され、略奪される。「内部環境」は内部と外部の間のグレイゾーンであり、資本主義システムはこの
内部環境(グレイゾーン)を拡大させることで増大してきた。
<環境コントロール>・・・現代、いかに内部環境(グレイゾーン)をコントロールするかが問題に
なる。それが環境問題、動物化、環境管理権力である。「環境コントロール」が人間管理の問題
として表れるのは、ボクたち自身も自然の一部であるからだ。そしてそれは均質化された良質な
労働力である。
<野蛮なコントロール社会>・・・今後、資源の枯渇はより厳しいコントロール社会を生むかも知れ
ないが、それに対抗する野蛮な外部が回帰する。それは「野蛮なコントロール社会」である。現に
ネット社会として表れてはじめている。
2 :
考える名無しさん:2006/06/24(土) 03:12:44
<純粋略奪>・・・人間関係は贈与で形成される。贈与を受けたものは負債を感じ、返礼をする。
デリダはたとえば自然の恵みのような見返りのない贈与を「純粋贈与」と読んだ。しかしこれはまた
「純粋略奪」とも言えるだろう。
<自然主義的闘争>・・・・偶然性というトラウマ的外部環境から内部(社会)を守りながら、「資源」
を純粋略奪し、豊かな社会を目指すこと。これが人間社会の下部構造としての自然主義的闘争で
ある。各時代ごとにぞれぞれの闘争様式がある。
<グレイゾーン(内部環境)>・・・近代以前の社会は、外部環境を排除することで秩序を保って
いた。ルネサンスに外部環境は再発見された。そして数量化によって「内部環境」として開拓
され、略奪される。「内部環境」は内部と外部の間のグレイゾーンであり、資本主義システムはこの
内部環境(グレイゾーン)を拡大させることで増大してきた。
<環境コントロール>・・・現代、いかに内部環境(グレイゾーン)をコントロールするかが問題に
なる。それが環境問題、動物化、環境管理権力である。「環境コントロール」が人間管理の問題
として表れるのは、ボクたち自身も自然の一部であるからだ。そしてそれは均質化された良質な
労働力である。
<野蛮なコントロール社会>・・・今後、資源の枯渇はより厳しいコントロール社会を生むかも知れ
ないが、それに対抗する野蛮な外部が回帰する。それは「野蛮なコントロール社会」である。現に
ネット社会として表れてはじめている。
山口・光市、母子殺人犯のための正当化理論ですか?
4 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/24(土) 10:39:49
たとえば
なぜアラブは資本主義に抵抗し強いイスラム圏であり続けるのか
なぜアメリカはアラブ圏を目指すのか。
すでにいろいろ言われているようにそこに内部環境(石油)が
あるからです。
もし内部環境(石油)がアラブ圏になければ・・・
5 :
考える名無しさん:2006/06/24(土) 10:40:04
ぴかぁの分析は妄想の域を出ず、残念ながら予兆としてるものも根拠が薄弱。
考察というより、初めにジャーゴンありきだ。
6 :
考える名無しさん:2006/06/24(土) 10:46:36
ショコタンはうんこをしないとボクはいった。
7 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/24(土) 10:58:17
■グレイゾーンの全面化
マルクスが自然と社会との関係として経済をみたように環境問題も経済からみないといけない。さら
に最近の動物化、環境管理権力もしかりです。資本主義システムが環境問題、動物化、環境管理
権力を推進するのはなぜか。都合のよい自然環境、都合よい労働力、消費者をつくるからですね。
しかしここで資本主義システム=ブルジョアジィと短絡してはいけません。つくるのもつくられるのも
ボクたちの一面です。このような多面性はいかに同一性として支えられているのか。すべてがグレイ
ゾーンに包括されるということだと思います。
グレイゾーンとはデジタル化された無法地帯です。倫理が溶解し、数量化による秩序と不確実性が
攻めぎあい、野蛮人が闊歩する。気がつかないほど巨大に長いフェンスで囲われた野性の王国で
動物は管理されているのか、それとも管理者の自己満足か。すなわちそれは内部であり、外部であ
る領域です。
野蛮人は自分たちの強い内部をもつが、大きな社会からは外部です。デジタル化は社会の内部で
あるが、倫理が働かない領域です。心は内部であるが、身体は外部です。グレイゾーンにおいて、
多面性は同一性を確保します。
8 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/24(土) 10:59:24
■野蛮なコントロール社会
現代論的に外部の消失は、世界は大きな内部(社会)となったということだ。これはまた環境問題の
一つ資源の枯渇にも対応している。すなわち資源とは外部である。実際、資源の枯渇は忠告であ
り、いますぐになくなるわけではないが、資源のコントロールが必要とされる。また環境問題では排
出物のコントロールも必要である。
これが社会の下部構造(自然主義的闘争様式)であるとすると、今後環境がどのように変化するか
で、社会の有り様は大きく変わるだろう。仮に常温核融合のようなものが成功すると、コントロールは
緩和されるだろう。しかしこのまま資源が枯渇し続ければ、出産管理、優生学的選別など、全体主
義的な厳しいコントロール社会に向かう可能性は否定できない。
9 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/24(土) 10:59:59
しかしこのようなわかりやすいストーリーに対して、ネット社会のありようは複雑である。ボクは、「グ
レイゾーンとはデジタル化された無法地帯である」といったが、ネット上はまさにそのようにある。ア
ルゴリズムで構造化された人工世界なのに、野蛮人、ムラ社会な世界である。
そこには従来の内部倫理がなく、小さな内部が多数形成されているからだ。そして野蛮人が不確実
なものとして飛来する。ネットが「疑似環境」として成立しているのが、デジタルな構造物のせいでは
ない。デジタルな構造物は単なる箱であり、環境ではない。そこで無数のコミュニケーションが行わ
れるためであり、そしてそのコミュニケーションが失敗するからである。そこに不確実性が生まれ、
「疑似環境」として成立しているのである。
どのような環境コントロールも失敗するが故に環境でありうる。それがグレイゾーンのテーゼである。
再度もどれば、資源の枯渇はより厳しいコントロール社会を生むかも知れないが、それ故にそれに
対抗する外部が回帰し、混沌とするだろう。それは野蛮なコントロール社会である。このように進む
可能性はかなり高いのではないだろうか。それは現にネット社会として表れている。
今度は経済人類学っぽいスレですねとボクはいった。
11 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/24(土) 13:47:14
心を誘導し身体から力を略奪する。
心は貨幣交換によって身体を売り渡す。
心が身体から純粋略奪する。しかしこの純粋略奪の欲望は身体から発生し、心にけしかける。
外部環境から搾取するように心を誘導する身体
身体から搾取するように心を誘導する身体というパラドクス
我から略奪するゆえに我あり
ぴかぁ〜さんの説明を読んでも意味が分からないので、
純粋略奪と自然主義的闘争の意味を誰か教えてください。
略奪とは、鳥が木の実を食ったら鳥の糞に混ざって種が運ばれ
生息範囲が広がるようなものnanoかna。
14 :
考える名無しさん:2006/06/25(日) 16:28:59
自分には私生活があり、デートもすれば行くところもある
ことのいわば逆アリバイを示す為、書き込みたい衝動と必死に戦い
PCの前で、悶々とするぴかぁ〜
15 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/25(日) 20:41:10
■自然と人類
@自然崇拝の時代 未開社会
<自然との関係> 自然との闘争
<人間集団> 人間/自然
<断絶(ファルス)> 自然神(呪術師)
<秩序(象徴的)> 互酬(贈与と返礼)、神のお告げ、掟
<純粋略奪(現実的)> 自然の恵み、他未開社会との闘争
A自然排除の時代 封建社会
<自然との関係> 自然の締め出し(解放)→キリスト教(内部の宗教党争)
<人間集団> 人間(主人)/動物(異教徒)
<断絶(ファルス)> イエス(王)
<秩序(象徴的)> 再配分、宗教
<純粋略奪> 異教徒との闘争
16 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/25(日) 20:41:52
B自然開拓の時代 資本社会(ルネサンス以後)
<自然との関係> 自然の再発見(数量化、テクノロジー)→資本主義社会(分業、貨幣、工業化)
<人間集団> 人間(拡大、平等、自由)/動物(積極的な自然の探求、異文化、植民地)
<人間内 > 心(自己管理としての自意識)/身体(均質化し管理された労働力)
<断絶(ファルス)> 貨幣、平等、自由
<秩序(象徴的)> 法、道徳、資本システム
<純粋享楽> 自然(新大陸、異民族、身体(労働力)
身体(均質化し管理された労働力)=ドゥルーズ「器官なき身体」
C自然破壊の時代 ポストモダン
<自然との関係> 消失、人間(主人)の拡大、人間/動物の境界が曖昧(「帝国」化)、不安
<人間集団> 人間(飽和、消費、、自由)/動物(経済格差)
<人間内 > 心(規律の緩和、自由、暴走、不安)/身体(分離、環境管理)
<断絶(ファルス)> 出世、消費、趣味
<秩序(象徴的)> 法、(道徳)、資本システム、アーキテクチャ
<純粋享楽> 消費、身体(セクシュアリティ)
17 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/25(日) 20:42:36
D疑似自然の時代 ネット社会
<自然との関係> 疑似自然の発見(デジタルテクノロジー)
<人間集団> 人間(幻想化(小さな内部、祭り))/動物(幻想化(資本社会、嫌韓など))
<人間内 > 心(繋がり)/身体(分離、環境管理)
<断絶(ファルス)> 祭りのネタ(のま猫、あびるゆう等)
<秩序(象徴的)> (法、道徳、資本システム)アーキテクチャ
<純粋享楽> 小さな内部の外
E自然協調の社会 マルスク的社会主義社会
<自然との関係> 調和
<人間集団> 人間社会(受苦的)/自然(動物)調和する
<人間内 > 私有物の廃止、個人主義の解消による身体一元論
<断絶(ファルス)> 繋がり?
<純粋享楽> 自然の恵み?
18 :
考える名無しさん:2006/06/25(日) 21:36:06
「ファルス」って「内部環境からの要求」ということですか?
19 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 01:25:37
■なぜ車をとばすのは快楽なのか
車で飛ばすスピードの快楽、PCを操る快楽、小さな子供が自転車を飛ばす快楽とはなにか。機械と
は身体の拡張であると言われる。たとえば車は速さ、力を拡張する。PCは頭脳を拡張する。ネット
はコミュニケーション速度を拡張する。この拡張とは、環境の開拓である。偶然的、混沌の外部環境
を、フォーマットし内部環境(グレイゾーンへ)へ拡張する。ここで働くのは、外部環境からの(純粋)
略奪であり、略奪する快楽である。技術にはこのような快楽を生む。
さらにそれが身体の拡張であるというときには、身体という外部環境の開拓され、心身二元論が作
動し、身体は「器官なき身体」として機械化されている。すなわちドゥルーズの「欲望する機械」に繋がる。
ぴかぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
は目先のことに敏感な広告と宣伝の専門家であるけれど、中味は何にもない
ので、広告宣伝におどらされているぼくらのテンプレートだ
21 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 01:37:13
純粋略奪の快楽の展開は、多面的に展開できる。
一つは技術論が考えられる。技術論については、ハイデガー、ドゥルーズ、ヴィリリオを参照する必要があるだろう。
もう一つはコントロール社会について、フーコー、ドゥルーズ、アガンベン、ネグリに繋がる。
さらに文明論として自然主義と接ぎ木することで、ホッブズからマルクス、ボードリヤール、ドゥルーズに繋がる。
22 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 01:41:52
現代の自然主義的闘争の構図
内部(社会)・・・倫理
心、形而上学(人類学機械)、互酬(贈与と返礼)、
規律訓練権力、神話的暴力、固有名
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
グレイゾーン(内部環境)・・・予測可能性、環境コントロール
断絶(ファルス)、無垢、純粋略奪の快楽、神的暴力
機械論・・・数字(科学)の作動、交換、資本主義システム、生権力、環境問題、帝国
環境コントロール・・・身体(剥き出しの生)、労働力、資源、異教徒、植民地、マルチチュード
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
外部環境・・・偶然性、コントロール不可能
地震、津波、隕石落下による大災害、エイズ、ガン、欲望、寿命、他者erc
23 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 09:46:54
アキレスのパラドクスが示すのは距離を分割することの限界である。
距離が量的に分割可能であるなら無限回分割すればボク達はいつまでもその中に閉じ込められてしまう
24 :
ポコ:2006/06/26(月) 10:13:43
ぴかさんへ。
内部環境(中間)が拡大し過ぎて、外部の不確定な立場を担うように成り、外部〜中間〜内部、の三層構造が斜上に展開し、今や外部と化した内部環境(中間)と内部を繋ぐ更なる内部環境(新中間)が必要に成り続ける、ということを言いたいのですか?
25 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 10:36:15
たとえばライオンがシマウマを殺す。どんなに凄惨でもここに善悪はありません。しかし人間が人間
を殺す。ここにはどんなに「軽く」でも善悪があります。その差は内部(人間界)と外部(自然界)の断
絶があるからです。近代以降の科学技術革命はこの中間(グレイゾーン)を拡大することで、発展し
てきました。簡単にいえば、中間(グレイゾーン)は数字の世界です。数字体系は人間が作った人間
界ですが、そこに質は排除され、善悪は希薄化します。現代、さまざまなものがこのグレイゾーンに
集まり、展開されています。その先端の一つがネットですね。ネット上のさまざまな出来事はグレイ
ゾーンでなにがおこっていくか、示していると思います。
26 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 13:42:28
■なぜ世界は数学で記述できるのか
数量化の限界
「アキレスと亀パラドクス」が示すのは距離を分割することの限界です。たとえば椅子に座る私が
ベッドに向かうときに、その空間を無限に分割可能ならば、同様に私はベッドへ到着できません。距
離が量的に分割可能なら、無限回分割することも可能であり、いつまでもその中に空間に閉じ込め
られてしまいます。
簡単には質を量に還元することの矛盾がここに表れていると言えます。分割とは同一性の反復であ
り、数量化というあくまで一つの不完全な認識方法であるということです。
では数量化は単なる人間の作りだした認識方法であり、「ものそのもの」とは対応していないのか。
このようなパラドクスに反して、「なぜ世界は数学で記述できるのか」、という疑問があります。
27 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 13:43:28
反復可能性という力
ボクは数量化による客観化の力を、情報を縮減する力といいました。それによって高速伝達され、
共有され、反復され、体系化され、客観化される。
>>
数字というシニフィアンがもつ力とは同一性と反復によって情報を縮減する力である。数字によって
縮減された外部に関する情報は、高速伝達され、共有しあい、反復され、体系化されることで客観
化された。神話でしか語られなかった外部は、予測可能で、コントロール可能な機械論的内部環境
となる。
内部とは倫理的領域であり、外部とは偶然的領域である。科学によって開拓された内部環境は人間を身体として剥き出しにする。そこでは倫理は働きにくい。しかし科学はあくまで内部の論理である。だから内部環境は倫理的領域と偶然的領域のグレイゾーンなのだ。
続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その3 グレイゾーンという闘争の場
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060623 <<
これはまさにホパーの反復可能性に対応します。科学とは反復可能性があるものであるのでなく、
反復可能性が科学の力なのです。それが正しいと限らなくても、高速の反復可能性が近似的に、現
実に近づいてていきます。古典力学が相対性理論、量子力学の近似値であったように。
それでも科学が「ものそのもの」を記述しているとは言えません。カントのいうように人は「ものそのも
の」には到達できず、「客観的」な「現象」を見いだすのみです。ゲーテルの不可能性が示すのはこ
のことでしょう。内部にいるボクたちは内部の正しさを内部の論理でのみしか示し得ない。
28 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 13:44:01
科学技術は「ものそのもの」を開拓する
しかし科学技術は思弁的なものではありません。科学が体系化されるのはいつも実働の後です。産
業革命は体系化され科学によるものでなく、技術的な試行錯誤が先行した結果です。科学技術は
「ものそのもの」を記述しているかの前に、科学技術は内部を越えて、外部へ作用し開拓します。
たとえば人類が月へ到着したのは人類の妄想ではなく、科学技術が近似的であろうが、実働的に外
部とコミュニケーション可能であることを示しています。
すなわち人が「ものそのもの」を認識できなくとも、近似的に外部環境に接近し、コミュニケーションし
て開拓します。ボクはこの開拓された外部環境を内部と外部の「グレイゾーン(内部環境)」と呼びま
す。近代以降、科学技術という反復可能性の力は「グレイゾーン(内部環境)」を拡大し、外部から
「資源」を略奪し、内部を物質的に豊かにしています。
29 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 15:12:17
外部に退治すること、その底のみえない暗やみの前に立ちすくんでしまう。
しかしこれはまた快楽である。そこにはなにかが隠されているだろうからだ。
とくにボクたちには科学技術という武器がある。この武器をふるい、その処女値を暴力的に征服する。
内部秩序で押さえ込まれた力を解放する。そこにこそすべての答えがあるのだ。
30 :
純一:2006/06/26(月) 17:48:27
ふ〜、
31 :
純一:2006/06/26(月) 17:49:57
やあ、
32 :
純一:2006/06/26(月) 17:52:24
じゃ、今日もシベリバ行ってみるかね。
33 :
純一:2006/06/26(月) 17:54:32
そう、君がいっていたしべり場のことだね、
34 :
純一:2006/06/26(月) 17:56:21
さて、
35 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 19:43:44
■リアリティと純粋略奪の快楽
リアリティのイベント化
>>
ボクの好きな例にマルセル・デュシャン「泉」があります。美術作品といってただの便器をおく。これ
は美術とは魂だ、美の追究だ、などの「末端」を排除し、美術館というシチュエーションが「美術とは
なか」を支えていることを暴露します。
ここにまもう一つ意味があって、「出オチ」であるということです。「美術作品といってただの便器をお
く。」ことで完結します。もはや作品の鑑賞する深みなどなにもありません。これは「美術作品のイベ
ント化」です。現代芸術は「出オチ」化、イベント化に向かいます。 TV番組のバラエティ化、街のイベ
ント化、劇場化などもこの流れにあります。現代のリアリティはじっくり物語にリアリティがもてず、ダ
イナミズムに求められています。
[議論]続 オタクであることはなぜ恥ずかしいのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060525 <<
ボクは現代のリアリティはイベント化していると言いました。イベント化とは場違いなシニフィアンを滑
り込ませることでうまれる意味の宙づりです。言語の表象におけることば遊び、パロディです。確か
な現実感はうつろいます。
36 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 19:45:33
セクシュアリティというリアリティ
このような差異の戯れの世界で、たしかなリアリティをえるためには、確かな「無垢」が必要とされま
す。底のみえない暗やみの前に立ちすくんでしまう。その前にたつと足が震えるような外部(無垢)。
欲望が想起する通路。その一つがセクシュアリティである。
>>
われわれのさまざまな欲望の中で、性欲こそがもっとも虚構化に抵抗するものであるからだ。性欲
は虚構化によって破壊されず、したがって容易に虚構空間に移植することが出来る。描かれた金
銭、描かれた権力、そうしたものがわれわれの欲望を喚起することはない。しかし描かれた裸体とな
ると、・・・われわれは十分に、ときには身体的にすら反応する。ネコジャラシに飛びつく猫を笑えない
ほど、その反応は確実だ。
世界がリアルであるためには、欲望によって十分に帯電させられなければならない。欲望によって
奥行きが与えられない世界は、いかに精密に描かれようとも、平板で離人的な書き割りめいたもの
になるだろう。しかしひとたび性的なものを帯びた世界は、それがいかにつたなく描かれようとも、一
定のリアリティの確保することが出来る。
[お勉強]戦闘美少女の精神分析 斎藤環 (2000)
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060615 <<
セクシャリティは戯れずボク達の欲望を想起する。それはボク達の中の外部、身体へつながる通
路、断絶、リビドーの入口、ファルスである。ここで心はセクシャリティにより興奮し身体にであう。そ
こにはなにかが隠されている。その処女地を暴力的に征服したい。内部秩序で押さえ込まれた力を
解放する。そこにこそすべての答えがあるのだ。それが享楽=純粋略奪の快楽である。
37 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 19:50:15
★
│
γ ⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
i ・∀・i < 愛、忘れてませんか?
/i i\ \_______
⊂/i ★ i\つ
ゝ /
〜/ \
/ /~\ \
/ / > )
/ ノ / /
/ / . / ./
/ ./ ( ヽ、
(__) \__つ
>数量化の限界
>「アキレスと亀パラドクス」が示すのは距離を分割することの限界です。たとえば椅子に座る私が
>ベッドに向かうときに、その空間を無限に分割可能ならば、同様に私はベッドへ到着できません。距
>離が量的に分割可能なら、無限回分割することも可能であり、いつまでもその中に空間に閉じ込め
>られてしまいます。
>簡単には質を量に還元することの矛盾がここに表れていると言えます。分割とは同一性の反復であ
>り、数量化というあくまで一つの不完全な認識方法であるということです。
つ 微分
お前、馬鹿杉。高校からやり直せ。
というかそのゼノンの話って、教師が微分の最初の授業で一番良く使う例え話じゃないか。
39 :
三ヶ月:2006/06/26(月) 20:57:47
>>38 「ゼノンのパラドクスは微分積分で論破できる」
と単調に述べるのは簡単です。
ぴかぁ〜氏は、距離のみを分割し、時間との関係性を考慮していなかった。
と言っているのであって、間違いではないと思いますが・・・
40 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 21:05:38
41 :
三ヶ月:2006/06/26(月) 21:12:58
ボケたい!ああ、思う存分ボケたい!
うぅっ…
そうです!!
42 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 21:14:31
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, / \
/_____ ヽ / ______ \
| | | / / \ ヽ
|,,_ _, |___/ |/ ,,_ _, ヽ |
| "゚'` } "゚` 6 l | "゚'` } "゚` | |
. ヽ __''_, ,-′ | __''_, | l
ヽ. ー__ /ヽ ヽ ー / /
/ |/\/ l ^ヽ \ / /
| | | | l━━(t)━━━━
43 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/26(月) 21:49:59
内部(社会)・・・倫理
心、形而上学(人類学機械)、互酬(贈与と返礼)、
規律訓練権力、神話的暴力、固有名
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
グレイゾーン(内部環境)・・・予測可能性、環境コントロール、断絶(ファルス)、無垢、
純粋略奪の快楽、神的暴力
@内部(社会)→外部環境
機械論・・・数字(科学)の作動、交換、資本主義システム、生権力、環境問題、帝国
環境コントロール・・・身体(剥き出しの生)、労働力、資源、異教徒、植民地、マルチチュード
A外部環境→内部(社会)
環境からの逆襲(地球温暖化)、器官なき身体、マルチチュード、欲動
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
外部環境・・・偶然性、コントロール不可能
地震、津波、隕石落下による大災害、エイズ、ガン、欲望、寿命、他者erc
44 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 00:11:15
>>39 >ぴかぁ〜氏は、距離のみを分割し、時間との関係性を考慮していなかった。
どこで言ってるの?
45 :
純一:2006/06/27(火) 00:12:43
46 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 00:13:28
いかん・・・
名前変え忘れた・・・
47 :
純一:2006/06/27(火) 00:31:36
ん、どうかしたかね?
48 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 00:43:29
>>46 偽者登場?なんだうれしいもんだ。
>>44 確かに言ってはないが・・・
そんなことよりも
「純粋贈与」=「純粋略奪」
いまいち理解できない。
自然の意思、神としての自然、つまりそこに形而上学的なものが挿しはさまれてはじめて
「略奪」という負い目を含む感情(語)が生まれるのであって、この二つを同一視していいの?
と思う。
木を切るとき、木は抵抗しません。鉱山では鶴嘴を持つ者に石矢玉は飛んできません。
その点で「純粋贈与」は純粋贈与なのであって「純粋略奪」とは言えないのでは?
そういった発想ができるのは、
ぴかぁ〜さんがアニメの影響を強く受けているのではないかと私は推測します。
アニメを見て植物にでも襲われる夢でも見たのかな。
「自然主義的闘争」も批判できるのではないでしょうか?
「略奪」でないかぎり「闘争」では無いと思うのですが。
必要なのは闘争(自由)ではなく、出口(逃げ口)である。
49 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 00:45:27
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50 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/27(火) 01:49:55
>>48 >「純粋贈与」=「純粋略奪」
>いまいち理解できない。
まず純粋贈与と贈与の違いはわかりますか?
51 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 01:57:45
わかりません
52 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 02:03:06
>>50 いつも読んでます。
見返りのない贈与を「純粋贈与」
負債感などの人間の(利害)関係が生じるもの「贈与」
良いですか?
送ったが、しかし、負債感が生じなかったものは
不純贈与とでもいうのかね。
54 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 02:19:37
三ヶ月ってリーマンでそ?
55 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 02:21:26
「交換原理」とかもキーワードなのかな?
「交換」≒「贈与」
56 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 04:28:54
258 名前: 考える名無しさん 03/02/07 13:43
だいたいこの板の存在自体、哲学を冒涜するためにあるんでしょ。
259 名前: 考える名無しさん 03/02/07 13:46
いま258がいいことをいった!
260 名前: 考える名無しさん 03/02/07 13:47
2ちゃんねる自体が人間を冒涜するために存在するのさ。
261 名前: 考える名無しさん 03/02/07 13:50
終わったね。さぁ2ちゃんねらーは今すぐに首を吊れ。
262 名前: 考える名無しさん 03/02/07 13:50
大体見えた。
nobuさんが来てくれるといいね。
58 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 07:26:28
そもそも哲学に冒涜できるほどの高尚さが残っているのやら…
>>39 >「ゼノンのパラドクスは微分積分で論破できる」
>と単調に述べるのは簡単です。
実際、簡単な事柄だから仕方無い。
簡単な事柄を何故に複雑に語るのか?
60 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/27(火) 13:32:42
贈与が負債なのは内部で行われるからです。
純粋贈与に負債がないのは外部から内部だからです。
略奪も同じです。
ネタにマジレスしますが微積分はひとつの数学的ルールですが、それ以前のはなしです。
61 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/27(火) 13:46:54
ボクは科学技術が外部を開拓しグレイゾーンが拡大し、人は心からむきだしの生としての労働が分離され資本主義が作動するといいました。
これはフーコーの生権力につながります。
これを内部から外部への純粋略奪だとすると
外部から内部の純粋略奪は生の力、リビドー欲動が心をつくるということです。これが全体のドライブになります。
これはドゥルーズの器官なき身体に対応します。強度としての生の力が内部を経由して純粋略奪をめざす。
管理されるむきだしの生と管理から逃れようとする、あるいは管理しようとする器官なき身体は同じ身体の二面性であり、
フーコー的とドゥルーズ的、帝国とマルチチュードです。
62 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 16:42:35
うん確かに君はいった。いろんなこといった。
つまらんこともたくさんいった。
でもぴかぁ〜は死を無視している。
63 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/27(火) 17:46:15
64 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 19:23:12
なるほど「略奪」に負債はないと・・・
私は「略奪」には負債としての「抵抗」が生じると考えてました。
略奪:無理矢理に奪い取る
この略奪の意味に含まれる「無理矢理」という概念が、
「純粋」という言葉を付加しても取り払えないと感たので・・・
抵抗無き略奪・・・略奪と言えるのだろうか?
>生の力、リビドー欲動が心をつくる
ここでの「リビドー」ですが、
「動物的な、自然の所産としての欲求」
「特殊人間的な、文化の所産としての欲望」
両方と考えて良いですか?
古臭い?
65 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 20:46:24
ぴかぁに媚びてどうする。
自分で考えろ。
ん、リーマンか?
となると、ぴかぁの自演か。
66 :
純一:2006/06/27(火) 20:55:48
真面目に説明致しますと、
リーマンの中身はミスターXです。
67 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 20:58:28
>>65 そう?
私の意図が見えない?
まあ、取るに足りぬものでありますが・・・
68 :
純一:2006/06/27(火) 21:00:55
三ヶ月の中身もミスターXです。
69 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 21:03:33
ってことは、ぴかぁだろ?
70 :
純一:2006/06/27(火) 21:05:16
>>69 いえ、ぴかぁ〜とミスターXは別人なんで。
71 :
純一:2006/06/27(火) 21:06:58
ミスターXの中身は、こう考えると分かり易いかと。
ロウシ→リーマン→短パン→三ヶ月
72 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 21:10:31
???
そっかなぁ
おれ、リーマンがよく来ていたとき、絶対ぴかぁの自演だと思っていた。
73 :
三ヶ月:2006/06/27(火) 21:12:36
こうした人間の先入見や策略が魔女狩りを生んだのかな?
この果てないレコンキスタは成就し、
いつの日か、ぴかぁ〜に大航海時代は訪れるのか!?
さあ、皆のものハナクソを飛ばせ!!
・・・どっちでもいいよ
74 :
純一:2006/06/27(火) 21:13:30
ホスト見ない限りはわかりませんけど、
たぶん、別人かと。
75 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/27(火) 22:56:25
■器官なき身体/剥き出しの生
ボクは科学技術が外部を開拓しグレイゾーンが拡大し、人は心からむきだしの生としての労働が分
離され資本主義が作動するといいました。これはフーコーの生権力につながります。これを内部か
ら外部への純粋略奪だとすると外部から内部の純粋略奪は生の力、リビドー欲動が心をつくるとい
うことです。これが全体のドライブになります。これはドゥルーズの器官なき身体に対応します。強度
としての生の力が内部を経由して純粋略奪をめざす。管理されるむきだしの生と管理から逃れよう
とする、あるいは管理しようとする器官なき身体は同じ身体の二面性であり、フーコー的とドゥルー
ズ的、帝国とマルチチュードです。
76 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 00:13:04
■大きな内部と小さな内部の対立と協調
●大きな内部と小さな内部の対立と協調(ネオリベラル)
・アーキテクチャ+その場その場での掟(空気読め)によって、規範はより希薄化する。
・グレイゾーンの全面化
・ネットの贈与と資本社会の商品交換が混乱し、対立を生む。
●大きな内部・・・環境コントロール、帝国、剥き出しの生
・環境問題はコントロール社会を促進。アーキテクチャ全面化。監視社会化
・グーグルのような大きなアーキテクチャの台頭
●小さな内部・・・マルチチュード、器官なき身体
・人間関係はネット上にあつまる。(ムラ社会=小さな内部)
・災害(地球温暖化)から新天地をネットに求めて、人々が上陸する。そこは享楽の地である。
・隠された貧しい国から抵抗=テロリスト
・社会の規律による拘束が低下し、繋がりを求めて過激になる。
・ネット上の祭りだけでなく、突発的な祭りが多発する。
●疑似外部・・・新たなテクノロジーが新大陸を生む
・ネット、遺伝子工学、サイボーグ技術
●外部・・・環境破壊された災害/搾取される後進国
・大きな内部と対立した大きな外部として環境問題は作動可能か
・環境問題を外部として享楽することで、大きな内部協調は可能か
77 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 00:23:30
大きな内部と小さな内部は対立する。
資本社会とネット社会、帝国とマルチチュード、資本社会とテロリスト
しかし巧妙な協調関係にもある。
小さな内部を保つには安定し、環境コントロールを可とする大きな内部の自由(ネオリベラル)が
必要とされ、補完しあっている。
このための問題はやはり、変わらず人類と自然の自然主義的闘争にある。
・大きな内部で隠蔽される搾取される後進国
・大きな外部として人類を襲う環境問題
・疑似外部を求めて、進む新たなテクノロジー
ネットの無秩序、遺伝子の暴走(器官なき身体という自然の暴走)
78 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 14:13:07
■続 環境問題にはなぜリアリティがないのか その5 大きな内部と小さな内部の共犯関係
グレイゾーンの全面化
実社会の社会的な規範は希薄化する。さらに広がるネット社会は法さえも働きにくい領域として、内
部の秩序(規範)が溶解し、数量化された価値(数字、貨幣)が重視されるグレイゾーンを全面化する。
環境問題による「資源」への危機感は「資源」のコントロール化もとめる。これは社会のコントロール
というグレイゾーンの全面化のドライブとなるだろう。さらに少ない「資源」をコントロールし、「資源」
消費がすくないデジタル化(ネット)へむかう。このような「グレイゾーンの全面化」とは環境コントロー
ルの重視であり、世界の「帝国」化である。
このための人々の関係は、アーキテクチャによるコントロールに依存し、またその場その場での掟
(空気読め)によって行われる。
79 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 14:13:45
対立する大きな内部と小さな内部の共犯関係
「グレイゾーンの全面化」の特徴である社会的な規範の希薄化は、人々を「自由」にするが、繋がり
を希薄化する。それは「自由」故に閉塞感をもたらす。そのために繋がりもネット上に求められるよう
になる。無数の小さな内部が作られ、つよい繋がりが求められ、ムラ社会化する。「そしてムラ社会
は不定的な祭りにより暴走を起こす。
「グレイゾーンの全面化」という静かな中で不確定に勃発するムラ社会の「祭り」、それが現代の一
般的な風景になる。ネット社会ではなんでもタダで手に入るという「無限贈与(無限に贈与される可
能性は一人の負債感をないような小さなものとする)」が浸透し、資本主義社会の貨幣交換と混乱する。
これらは大きな内部と小さな内部の対立である。しかしまた共犯関係にあるからだろう。ムラ社会の
「祭り」は帝国を安定に作動されるための息抜きであり、祭りがあるから帝国を転覆するほどの力は
発生せず、帝国があるから祭りが可能になるという共犯関係になっている。これは「ネオリベラル」に
見いだされる傾向である。
80 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 14:14:42
排除される弱者、テクノロジーの暴走、環境問題
このような「帝国」論で外部の消失、内部内の外部化といわれる。資本主義社会が作動するには、
外部が必要とされる。では外部はどこにあるのか。それは変わらず人類と自然の自然主義的闘争と
してある、すなわち外部は外部にある。
今でも後進国は「資源(原材料、労働力)」を搾取されている。あるいは先進国においても格差社会
は、良質で安い労働力が生み出されている。 このような隠された外部はもはや問題でないように隠
されている。
さらに疑似外部をつくりだすために新たなテクノロジー開発は進む。ネット技術や遺伝子工学。たと
えばグーグルの世界政府、ゲノム計画などのように、世界を管理したいという人の欲望は止まらな
いし、それによって資本主義システムは作動し続けることができる。これらが疑似外部でありえるの
は、それによって人間の中の外部(器官なき身体)へ出会い、それを管理することが失敗し続けるか
らである。たとえば遺伝子組み換えで人のコントロールを越えたウィルス(生の力)を引き出してまし
まう。SFという形で先行的に具現化されているが、外部環境からの反撃への潜在的な恐怖としてある。
また環境問題にも繋がるだろう。地球温暖化によって環境は変化し、人間へと暴走する可能性があ
る。外部環境からの「資源」の無謀な搾取は、人のコントロールを越えた環境の力を引き出してしまう。
81 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 14:15:17
自然主義的闘争の隠蔽
これらは純粋略奪の快楽という資本主義社会のみならず、人類にとって避けることが困難な問題で
ある。これは環境コントロールのみでは対応できない。内部のイデオロギー、倫理が求められる自
然主義的闘争である。これはブルジョアジーが隠しているのでなく、対立する大きな内部と小さな内
部の共犯関係として資本主義社会そのものが隠そうとしている問題である。
82 :
考える名無しさん:2006/06/28(水) 15:34:42
このように優越感に浸り、それの継続を担保するためにひたすら書き込む。
こんな奴が哲学をしてるといえるのか。
83 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/06/28(水) 16:57:54
しばらくおやすみします。
84 :
純一:2006/06/28(水) 19:17:18
おや、いつまで続くことやら・・・
85 :
考える名無しさん:2006/06/28(水) 21:27:20
それでは留守の間、かわりに埋めておきます
86 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 02:22:43
ぴかぁ〜って、地球温暖化説を信じてたのか…(w
ぴかぁは疑うことをしりませんよ。
なによりパクリが信条ですからね。
そうか、このコテはまずいね。
おかしなことになる。
物を奪うことは略奪だが、物を作ることもある意味もとからあった自然環境の略奪だな。
環境に影響を与えることが生命の本質なのだろうか。
借りたら返すというのは、我々が生きるのに有益な手段を探すというゲームにおいて、
フェアな競争が望まれるからだろう。
91 :
PK:2006/06/30(金) 20:04:43
>>89-90 >環境に影響を与えることが生命の本質なのだろうか。
これはなかなか深い問題ですね。
生命も環境と考えれば、環境内は「自然循環」しています。
全体としては交換しあっていると考えられます。
人間は「自然循環」の外にいますから、略奪です。
>借りたら返すというのは、我々が生きるのに有益な手段を探すというゲームにおいて、
>フェアな競争が望まれるからだろう。
贈与は知らない他者でなく、親密な他者との間におこりますね。
親密な他者とは、愛のある「想像的な」関係。
あなたは私、私はあなたという対等のバランスが望まれるのでは
ないでしょうか。
92 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 20:33:18
>親密な他者とは、愛のある「想像的な」関係。
なんだ、それ
ついにボケたか、ぴかぁ
それにしても何でコロコロ コテ変えるの。
これはなかなか深い問題ですね。→これはなかなか自分にとって都合の良い質問ですね。
結論:ぴかぁ〜の数学は加減乗除の理解のみで終わっている。
ぴかぁ〜に「深い」という語彙があったのが驚き。
>>91 自然循環というと糞尿を食らうイメージかな。
ボクが作り続けてきた糞尿はこの世界への、糞尿のような文章は
親愛なる君たちへのささやかな純粋贈与なのさ。
しかしオレ、この板に書き始めてからそろそろ6年になるのだけれど、
ぴかぁ〜はその時にはもう居たような。
ぴかぁ〜保育スレ〜とかいうようなスレがあったような。
97 :
PK:2006/07/01(土) 20:20:19
>>96 純粋贈与は不可能な領域です。
どんなに糞尿な文章もそこには贈与が働いている。
6年前、保育スレですか、あまりよく覚えていませんね(笑)
出たり入ったりしていますので。
98 :
考える名無しさん:2006/07/01(土) 20:46:13
>どんなに糞尿な文章もそこには贈与が働いている。
スカトロということですな。
99 :
PK:2006/07/01(土) 20:55:16
>>98 そうですね。ぼくも好きですが、アレも贈与ですね。
橋本龍太郎死んだって
101 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/01(土) 21:00:40
test
102 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/01(土) 21:10:28
>>97のつづき
しかしネットでの贈与は、誰かに送られるだけでなく、無数への贈与を
可能にする。
たとえばフリーウェアーをダウンロードするときに、無数に開かれている故に、
一人の負債感は限りなく小さくなります。
それでもそこに負債感があることは確かだと思います
それをもとに、ネットの繋がりが紡がれているわけですから。
103 :
考える名無しさん:2006/07/01(土) 21:38:26
>フリーウェアー
>フリーウェアー
>フリーウェアー
>フリーウェアー
>フリーウェアー
>フリーウェアー
104 :
考える名無しさん:2006/07/01(土) 22:48:02
しばらく休むって言ったんだから、しばらく休めや
105 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 00:08:39
>しかしネットでの贈与は、誰かに送られるだけでなく、無数への贈与を可能にする。
>たとえばフリーウェアーをダウンロードするときに、無数に開かれている故に、一人の負債感は限りなく小さくなります。
これは貴方の言う「内部環境」という造語を使って表現するならば、
ずばり「内部環境の卑小化」と言える。
また貴方は自らそう断言しているようなものです。
106 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/02(日) 00:17:55
「内部環境の卑小化」????
また貴方は自らそう断言しているようなものです???
意味が分からないのですが???
>>106 @負債感の限りなく小さい状態になる。
A無数に開かれている。
それから、最後の2行で判断できますよ。
108 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/02(日) 00:40:53
ボクがいう「内部環境」とは、いわば、内部(社会)と外部(未知の自然)間、
工学的世界のことです。ネットは電子ネットワークという「内部環境」の広がりをもとに、
繰り広げられています。贈与が無数に開かれるのも、ネット技術によるものです。
「内部環境の卑小化」の意味がわかりません。
だから電子ネットワークを「内部環境(馬鹿造語)」と
繋げているその安直さがそもそもの間違いなんだよ。
httpd.confに操作された「内部環境の卑小化」だろ。
110 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 00:54:16
IT関連を理論に絡ませるのは痛すぎる。
絡ませるほどに自己内妄想での定義になっていく。
ネット利用者にすぎないPK ◆5nAgoJZJqMが、計画的に設計されてきた
情報処理系統の技術の成果を、いかに観察して後付け持論で構成しなおしても、
虚構にすぎない。ナンセンスだ。創造者がいない自然現象ではない。
予め意図と理由をもった創造主が存在し、今も生きているんだよ。
嘘を基盤に理論を展開することがおかしいんだよ。
111 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/02(日) 01:27:17
???
だから最初に使用してた「内部環境(馬鹿造語)」とちがってきてるだろ。
「過去」はおおまかにくくって、「現在」は唐突に微視的になる。
バランス悪いんだよ。結局最後は今自分の在る過度に狭い環境でしかそれを捕らえられていないんじゃないの。
ペダンチックに武装してもスカスカなんだよな。
社会に出てみなよ。専門家めざして然るべき方向に進んだら?
114 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 04:16:17
まるで反論できない、馬鹿を露呈したぴかぁ〜の正体を見た。
115 :
281:2006/07/02(日) 08:14:01
男ぼこって女手篭めにするとかのスレじゃないの、ここ。
116 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 08:17:39
117 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/02(日) 13:45:24
>>1 <グレイゾーン(内部環境)>・・・近代以前の社会は、外部環境を排除することで秩序を保って
いた。ルネサンスに外部環境は再発見された。そして数量化によって「内部環境」として開拓
され、略奪される。「内部環境」は内部と外部の間のグレイゾーンであり、資本主義システムはこの
内部環境(グレイゾーン)を拡大させることで増大してきた。
118 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 14:25:49
> 内部環境(グレイゾーン)を拡大させることで増大してきた。
グレイゾーンを拡大させないためにPK戦があるんだろ?
119 :
281:2006/07/02(日) 16:02:57
女を酔わして無理やりやった経験談とか厨房のときに楽しんだいじめとかの
話しよーよ。グレーゾーンなんてつまんねーよ。
120 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/02(日) 18:02:31
Web2.0とは創発性を促す意図的な仕掛けである。
2ちゃんねるでは日々多くの創発性が生まれているが、
そこには意図的な仕掛けがないので、Web2.0とは呼ばれない。
121 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:06:36
これの意味するところは、管理できない創発性を管理すると言う意味で、
促進であるとともに抑圧でもあるとことである。
122 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 00:14:45
>>120 >Web2.0とは創発性を促す意図的な仕掛けである。
大雑把過ぎる定義。どうとでも捉えられるように意図的に大雑把に言っている。
非常にずるい宣言。
しかも、内容が間違っている。Web2.0の本質も掴めていない。
手の施しようがない。
123 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 00:33:59
>>122 もうホントに反論したいなら、より具体的に反論すること。
124 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 00:57:31
■なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか
「涼宮ハルヒの憂鬱」の最終回を見た。ボクはこれが「セカイ系」の構造があるといっていたが、最終
回はまさにそのものの展開として終わった。
ボクは、セカイ系と以下のように説明した。
>>
・セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(現実界)を産出しようとする表現=「外部産出型」の純
化したものである。
・外部とは、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵です。そしてこちらもなんのためらい
もなく殺す。それが享楽(純粋略奪の快楽)である。
・外部産出型は、内部/断絶(ファルス)/外部の構造を持つが、それを純化させるためにセカイ系
では、反省的な主人公/戦闘美少女/漠然とした敵を持つ。
・反省的な主人公という自分という小さな内部へ向かう主人公に対して、「戦闘美少女」の無垢なヒ
ステリー性とセクシュアリティと道具性、すなわち彼女のもつ「狂気」が、相対化されボクたち(内部)
の達し得ない不気味な「外部」を生み出す装置として作動する。
・外部が産出されることは、それに相対化する強い内部が産出する効果が期待される。
<<
125 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 00:59:03
「涼宮ハルヒの憂鬱」の最終回で、この構図そのままが表れていた。キョン/ハルヒ/漠然としてし
た敵の構造において、ハルヒの「退屈をはらすおもしろいことを求める」というヒステリー性、そしてセ
クシュアリティが、まさに意味不明な怪物(外部)を生みだした。
その怪物の意味不明な巨大な力とただただある破壊に、ハルヒが享楽するように、ボクたちは享楽
する。なにか爽快感を感じるのだ。
そしてこの外部の出現がキョンに内部への回帰を生み出す。みんなにもう一度会いたい。そしてハ
ルヒが好きだ。もとにもどった内部世界はなにも変わらない。しかしキョンの中で内部への思いは強
くなっているのだ。これがまさに、セカイ系の構造であり、ボクたちがセカイ系をみる快楽です。
人間にとって自然支配に対立する自由(闘争)が問題なのではなく、
可能な限り最も意味のない出口(逃げ道)が必要なのである。
事実、我々は何かに打ち込むことで、何かを忘れているのだから・・・
またそれは「人間」と「動物」とを分かつ決定的なもののようにも思える。
「ぴかぁ〜」という人間、彼こそはそれを示すに際たる者であった。
彼がここで体系付けたメルヘンな逃げ口。
素直に言えばいい、
「ボクは哲学者や思想家を模倣する事に心をそそられたのではありません。
ボクが模倣したのは出口(逃げ口)を見つけようとしたためであて、
それ以外に理由などありません。」と・・・
>>123 >もうホントに反論したいなら、より具体的に反論すること。
お前、すぐに長文コピペで流すから議論にならないんだよね。
128 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 08:46:11
129 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 09:25:59
>>127 議論にならないんならおかえりなさい。
この手の転移レスには返答しません。
ボクへの思い入れが強すぎる。
ストーカーに落ちぶれる覚悟はできているのですか。
うぜぇよ→転移ですね、ボクへの思い入れが強すぎる
シカト→他スレに出てきてコピペを貼る→うぜぇよ→転移ですね(以下略
なんだ、ぴかぁ〜はPKにコテ変えたのか。ぴか厨ぽさは変わらないな。
>>129 >ストーカーに落ちぶれる覚悟はできているのですか。
何から何まで自分で定義して、自分で裁く人ですね。
あなたの理論に意味が無いように、
あなたの言うこと全てに意味が無いのですよ。
自分という檻に閉じ込められた惨めなサルですね。
あなたの自己完結により生まれるものは、あなたの中の満足感、それのみです。
あなたはオナニーし続けるサルです。
133 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 10:01:16
ストーカーに落ちぶれる覚悟どころか、すでにストーカーであると。
では、さようなら。
134 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 10:08:54
>>133 >ストーカーに落ちぶれる覚悟どころか、すでにストーカーであると。
非常にシンプルな思考回路しか持っていないようで羨ましいですね。
あなたはとても面白い計算機です。
計算機には、とにかく数字を打ち込んで、返す値をみて楽しむのですよ。
あなたはとても面白いサルです。
135 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 10:54:15
■なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか
「外部産出型」としてのセカイ系
「涼宮ハルヒの憂鬱」の最終回を見たが、なかなかおもしろいかった。最終回の前半まで退屈が描
かれ、突如クライマックスが訪れる。ボクは「涼宮ハルヒの憂鬱」が「セカイ系」の構造があるといって
いたが、最終回はまさにそのものの展開として終わった。ボクは、セカイ系を以下のように説明した。
>>
「外部産出型」としてのセカイ系
■セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(外部)を産出しようとする表現=「外部産出型」の系列
にある。
■外部産出型は、「内部/断絶(ファルス)/外部」の構造を持つ。社会(大きな内部)の閉塞感の
中で断絶(ファルス)の存在が外部への道を開く。たとえば「デスノート」では断絶(ファルス)とはデス
ノートであり、外部とは死神界である。
■「外部」とは、未知であり、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵である。そしてこちら
もなんのためらいもなく殺す。それらに享楽(純粋略奪の快楽)がある。「デスノート」では死神界の
力としてノートに名を書かれるだけで殺される。そこには善悪という内部の倫理は関係しない。
■外部が産出されることは、繋がりが希薄化した社会(大きな内部)に外部に相対化された強い繋
がり(小さな内部)が再生産される効果がある。「デスノート」ではキラをもとに狂信的な世界が生ま
れる。あるいはライトとエルの対決という内部の強い繋がりが可能になる。
■しかし「デスノート」は外部産出型ではあるが、セカイ系ではない。
■セカイ系では、外部産出型の構造を純化され、「内部/断絶(ファルス)/外部」=「反省的な主人
公/戦闘美少女/漠然とした敵」の構図をもつ。
■「反省的な主人公」とは閉鎖する内部の象徴である。豊かであるが退屈な日常、学校生活で内省
する主人公という閉塞感。そこに「断絶(ファルス)」としての「戦闘美少女」というが表れる。それに
よって、閉鎖的内部の向こうに不気味な「外部」が産出され、享楽する。
■「戦闘美少女」とは、無垢なヒステリー性、セクシュアリティ、道具性を特徴とする「断絶(ファル
ス)」であり、オタクが「萌える」倒錯の対象である。
<<
136 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 10:54:55
なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか
「涼宮ハルヒの憂鬱」のセカイ系の構造は、「反省的な主人公/戦闘美少女/漠然とした敵」=キョ
ン/ハルヒ(有希)/意味不明な位相空間に対応する。
最終回でこの構図が明確に表れていた。ハルヒの「退屈をはらすおもしろいことを求める」というヒス
テリー性、そしてセクシュアリティが、位相空間とともに意味不明な怪物(外部)を産出する。という
か、世界そのものがハルヒによって形成されるということが「断絶(ファルス)」そのものを設定として
いる。
「なぜ意味不明な怪物が表れ破壊するのか」は、まさにそれが享楽のイメージであるからだ。なにが
なにかわからない圧倒的な暴力と破壊。それにハルヒが享楽し、視聴者のボクたちも享楽する。より
正統な「戦闘美少女」ならば、「エヴァンゲリオン」で使徒を「虐殺」するように、ハルヒは血しぶきとと
もに怪物を殺戮するべきであるが。
さらに「退屈からの突如クライマックス」が享楽を強調する。外部と内部となんの繋がりもないのだと
いう「断絶」の強調であり、それは恐怖でなく、享楽なのだ。
そしてこの外部の出現がキョンに内部への回帰を生み出す。「みんなにもう一度会いたい。」そして
「ハルヒが好きだ。(ハルヒとの退屈な日常を愛する)」と内部を再生産される。もとにもどった日常は
なにも変わらない。しかしキョンの中で(小さな)内部への思いは強くなっているのだ。
これがまさに、セカイ系の構造であり、ボクたちが「セカイ系を見る快楽」である。
137 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 10:58:44
コピペ→うぜぇ→転移ですね、ボクへの思い入れが強すぎる→うぜぇ→コピペ
↑
いまここ
138 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 11:28:43
ぴかぁ〜さん
それほど自信がおありで、人の批判には耳を傾けないほどの論客なら「大航海」程度の雑誌には、当然寄稿を求められるはずですよぬ。
買い求め、読んでみました。
でも、流石にあなたのようなへんてこな文章はありませんでした。
所詮しろうとに毛の生えた程度の奴がネットの中だけで、デカイ面するな
と、こう思っているだけか、可笑しくてからかっているかどちらかしかいないことにマジで気がつかない
ということは、人としてどっかが決定的に欠落していますよ。
あなたが現実には行くところがない障害者で、ここでしか生の発露が見出だせないので見逃して欲しいと
素直に認めるなら、誰も荒らさないと思います。
かくいう私はそう思って黙ってきました。
あなたに対する強い思い入れ、などどこの誰にもこれっぽちもあるわけないではないですか。
それは、あなたが一番ご存知のはず。
本当にそれがわからないなら危ないです。
そく入院なさい。
139 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 13:00:52
ボクはあまたのブロガーのただの一人であり、ボクよりも優れた書き手は
ごろごろいます。だから「大航海」にも、「ユリイカ」にも、「現代思想」でも
寄稿を求められいませんし、投稿するつもりもありません。だからキミの
枠を脅かしはしないので、こんなところでストーカーなどせずに、安心して
シェリングでも、バライユでも勉強してなさい。
それでも続けるなら、かってにしてください。ただ残念ながらキミのような
ボクの追っかけはキミだけではないので、数字でもなんでもコテをつける
ことをおすすめしますよ。
140 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 13:46:19
>>139 >シェリングでも、バライユでも勉強してなさい。
>ボクの追っかけはキミだけではないので、数字でもなんでもコテをつける
>ことをおすすめしますよ。
サルが檻の中で何か言っています。
どうやらバナナが欲しいようです。
しかし、バナナは檻の中にはありませんでした。
141 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 14:09:56
なぜに「ぴかぁ〜」は欲望されるのか。
「ぴかぁ〜」が「戦闘美少女」同様に、無垢なヒステリー性、セクシュアリティ、道具性を
特徴とする「断絶(ファルス)」として機能し、「萌える」倒錯の対象となっている。
ということでしょうかw
142 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 14:12:09
で?
143 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 14:17:13
どへ〜馬鹿も桁外れだね
>ボクはあまたのブロガーのただの一人であり、ボクよりも優れた書き手は
ごろごろいます。
当たり前だろ。
それをわざわざ断るのは、数多のうちの一人ではない、という自負の裏付けではないか。
>だから「大航海」にも、「ユリイカ」にも、「現代思想」でも
寄稿を求められいませんし、投稿するつもりもありません。
そのだからは何をさすのかね。
それに、求められいませんし は、求められていませんし のことだろうが、これでは前段の内容と矛盾まではいかなくとも整合性がないね。
求められていない、では現時点で事実がないという意味で今後については留保しているところが自負を感じるね。
本来は、皮肉られているのだから、だから求められていない、たどと答える自体がマヌケなのだが、
敢えて答えるなら、求められるわけがない
と最低いうだろ。
確かに、自覚の無い分別の分からない人って
見てる、いや、観察してると面白いですよね。
145 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 15:31:37
>「萌える」倒錯の対象となっている。 ということでしょうかw
プなってないよ。
倒錯してるのはおまえだ。
盗作もしているらしいな。
おまえには、ただ消えてくれという欲望があるのみ。WWW
146 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 18:57:16
だいたい、女の手も握ったことない、これからもしないと公言している男たちが
「せっくすするときは、こおするんだお。しないひとはだめなんだお。ぷんぷん」
なんて言ってるのは滑稽。
147 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/03(月) 19:16:19
形而上学的二項対立は止揚するものでも、脱構築するものでもない。
絶えず回帰するウィルスようなものとして受け止めなつづけなければならない。
148 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 19:31:14
>>
デスノート見ました。外人の心臓麻痺の演技うけました!
>>
諸君、ここまでくればお分かりのことと思う。
「ぴかぁ〜」という人間は、
アニメやネットに打ち込むことにより「現実との対峙」をやめ、
逃げ道(逃走線)確保の為、哲学者、思想家を模倣しているのだと言える。
彼のメルヘンは打ち崩された。
私には彼が「婦人の肖像」にへばりつくグレゴール・ザムザのように思える。
・・・しかしながら、我々も似たようなものなのではあるまいか?
>>147 >形而上学的二項対立は止揚するものでも、脱構築するものでもない。
>絶えず回帰するウィルスようなものとして受け止めなつづけなければならない。
片手で額に手を当てながら目を伏せて、電車の車掌のようなキモい声出しながら
セリフを呟き自惚れしているのですか、あなたは。呆れたものです。
大体、表面的な知識だけでわかったつもりになることは非常に危険です。
あなたは国に損害賠償請求したらいかがですか?
取り返しのつかないほどに空虚で滑稽なあなたの思考は十分請求に値すると思いますよ。
そして、請求だけして拒否されてください。あなたの理論に似ています。
151 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 10:55:20
落とし物は「純粋贈与」であるという勘違いがある。落とし物は「純粋贈与」ではない。
落とし物を交番に届けるのは、それが誰かのものとわかっているからだ。
森の果実をもぎって、交番に届けない。誰のものでもないからだ。
「誰か」のものであるというときに、そこに負債感が生じるのである。
それが「内部」の出来事だからだ。
人間同士の間では、「純粋贈与」は不可能な次元にある。
さらにいえば、森の果実をもぎりのも、それは「誰のものでもない」森は存在しない故に、
完全な「純粋贈与」ではない。
たとえば太陽の光であり、空気は、限りなく「純粋贈与」である。
しかし最近は、日照権、空気の汚染など、環境も「誰か」の管理が求められ、
「純粋贈与」であることが難しくなっている。
管理社会とは、このような「純粋贈与」が消失していく過程である。
152 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 11:16:08
少し前にテレビで見たが、小学生に命の尊うさを学ばすために、ニワトリを飼うというのが
あった。買うだけならどこに学校でもやっているが、最終の目的が大きくなったニワトリを
自分たちで殺し、それを食べるというものだ。
ここでの問題は、ボクたちは様々な生き物を殺して食する。大好きは焼き肉の裏で、
確実に牛やブタ、鳥が殺されているのだ。現代ではそのような死は隠されている。
「死」を見つめることで、命の尊うさを学ぼうという趣旨だったと思う。
しかし結局のところ、そのニワトリは殺されなかった。子供達が嫌がったのと、
親たちも反対したためだたように思う。
動物の「死」とは「純粋贈与」である。この授業の目的は「純粋贈与」の残酷さ、尊さを
知ること、すなわり「内部(社会)」の外部が存在することを知ることだと言える。
「純粋贈与」とはそもそも「空気」のような負債感が生まれないものである。
空気を吸っていることにいちいち感謝する人はいない。
しかし古来、人は原始的な自然神を信仰してきたのは、まさに「純粋贈与」への
気づきと、感謝である。そしてその敬意をもつ意味は、「贈与」はそこに始まるからだ。
天からの恵みがあり、それを分けることで、「贈与」は開始される。それは内部(コミュニティ)の
原始的な創造の始まりである。そして「純粋贈与」への自覚は絶えず、内部(コミュニティ)の
結束力を生むのだ。
「純粋贈与」とは単に「めぐみ」だけではない。なぜなら自然は内部の外、人間の価値の外に
あるからだ。空気が強く吹けば台風、太陽が強く照れば日照り、雨が大量に降れば洪水、
その強度に意味はない。「純粋贈与」が天の恵みであるか、天災であるかは、
人間の価値でしかない。
その外部からの衝撃にいかに適応するか、それが人間存在の意味を決定する。
そして内部を作るのだ。
153 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 11:29:46
しかし家畜は人工授精、飼育、生産、商品交換という流れの中で、「純粋贈与」であることが
困難になっている。子供でなくとも、親であっても、あるいは生産者であっても、
そのような「純粋贈与」への敬意を持ちえているのだろうか。
それは資本主義的な貨幣交換の一部として、ただ仕事として行われる。
また最近は、空気、太陽光でさえも、日照権、空気の汚染など、
環境も「誰か」の管理が求められている。
管理社会とは、「純粋贈与」が消失していく。それはまた「贈与」が消失し、
繋がりが希薄化し、資本主義的な「交換」が全面化する社会である。
そして、これは現代のリベラルな「平等」に支えられる。
「平等」とは「交換」的「平等」。自己責任をもち、「自由」に「交換」に参加することの
「平等」である。
自己責任の上昇は「純粋贈与」を抑圧する。すなわち外部から飛来する「偶然」を
抑圧し、多くにおくて人は自己決定としてあるとする。
154 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 11:43:43
交換の全面化は、純粋贈与を消失させ、贈与を希薄化する。
交換に参加する平等、交換の責任を引き受ける自己責任、自立的にであることをしいる。
そして交換が可能であるような管理された社会が全面化する。
繋がりの希薄化するが、これはそれほどに悪い社会ではないかもしれないが、
純粋贈与の消失の根源的な問題は、それが人間の生きる力そのものへの
ドライブとして作動しているという点である。
人間は、外部(純粋贈与)からの衝撃にいかに適応するか、として文明を発達させ、懸命に
生き延びてきた。では今後人々はなんのための生きるのか。
その一つは、自ら「外部(純粋贈与)からの衝撃」を作る出すことである。
テクノロジーの過剰性の意味はここに見いだせるだろう。
テクノロジーの過剰による「環境問題」は自然の恵みである。
排除したはずの純粋贈与が回帰しくるのだから。
ボクたちは再び、外部(純粋贈与)からの衝撃にいかに適応するか、という生きる意味を
見いだすのだ。
さらには遺伝子改良、そしてネットテクノロジーにも同様な傾向が言い出せる。
すなわち人間は潜在的に、不確実な「外部(純粋贈与)からの衝撃」を求め、探し、
掘り起こそうとしている。
155 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 12:09:48
すなわち内部/外部の二項対立を生み出す。そして外部へ対峙こと、この未知を前にした身震い、
そして死ぬ気でむかう必死さの中で人間は実感(リアリティ)をえる。それが純粋略奪(贈与)の快楽である。
156 :
むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/04(火) 12:12:16
>>152 ぴか先生、久しぶりです。ポストモダン的スノビズムの疲れからでしょうか、ちょっと見ない間に
今度は退行したアミニズム世界観へと飛行中ですね。大丈夫でしょうか?
>アミニズム世界観へと飛行中
ぴかの日本語は壊れていて、しかもずれた経済学・人類学用語があって分かりづらいが、
好意的に読むとシステム論の言い換えのようです。
158 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 12:17:20
たしかに家畜の死は知らないかもしれないが、見えないことでボクたちに迫っているのはむしろ狂牛問題にみられる信頼の消失である。
これは逆に見えすぎることの恐怖といえるかもしれないが。
159 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:02:36
■なぜ「純粋贈与」は求められるのか
落とし物は「純粋贈与」ではない
落とし物は「純粋贈与」であるという勘違いがある。落とし物は「純粋贈与」ではない。落とし物を交
番に届けるのは、それが誰かのものとわかっているからだ。森の果実をもぎって、交番に届けない。
誰のものでもないからだ。「誰か」のものであるというときに、そこに負債感が生じるのである。それ
が「内部」の出来事だからだ。
人間同士の間では、「純粋贈与」は不可能な次元にある。さらにいえば、森の果実をもぎりのも、そ
れは「誰のものでもない」森は存在しない故に、完全な「純粋贈与」ではない。たとえば太陽の光であ
り、空気は、限りなく「純粋贈与」である。
160 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:03:12
「純粋贈与」という外部
少し前にテレビで見たが、小学生に命の尊うさを学ばすために、ニワトリを飼うというのがあった。買
うだけならどこに学校でもやっているが、最終の目的が大きくなったニワトリを自分たちで殺し、それ
を食べるというものだ。
ここでの問題は、ボクたちは様々な生き物を殺して食する。大好きは焼き肉の裏で、確実に牛やブ
タ、鳥が殺されているのだ。現代ではそのような死は隠されている。「死」を見つめることで、命の尊
うさを学ぼうという趣旨だったと思う。しかし結局のところ、そのニワトリは殺されなかった。子供達が
嫌がったのと、親たちも反対したためだたように思う。
動物の「死」とは「純粋贈与」である。この授業の目的は「純粋贈与」の残酷さ、尊さを知ること、すな
わり「内部(社会)」の外部が存在することを知ることだと言える。
161 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:03:49
「純粋贈与」による内部(コミュニティ)の再生産
「純粋贈与」とはそもそも「空気」のような負債感が生まれないものである。空気を吸っていることに
いちいち感謝する人はいない。しかし古来、人は原始的な自然神を信仰してきたのは、まさに「純粋
贈与」への気づきと、感謝である。そしてその敬意をもつ意味は、「贈与」はそこに始まるからだ。
天からの恵みがあり、それを分けることで、「贈与」は開始される。それは内部(コミュニティ)の原始
的な創造の始まりである。そして「純粋贈与」への自覚は絶えず、内部(コミュニティ)の結束力を生
むのだ。
「純粋贈与」とは単に「めぐみ」だけではない。なぜなら自然は内部の外、人間の価値の外にあるか
らだ。空気が強く吹けば台風、太陽が強く照れば日照り、雨が大量に降れば洪水、その強度に意味
はない。「純粋贈与」が天の恵みであるか、天災であるかは、人間の価値でしかない。
その「外部(純粋贈与)からの衝撃」にいかに適応するか、それが人間存在の意味を決定する。そし
て内部を作るのだ。だから「純粋贈与」は内部形成のドライブなのである。
162 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:04:28
「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ
しかしボクたちに迫っているのはむしろ家畜の「死」を知るよりも狂牛問題などの食の安全性の問題
である。「自然のめぐみとして牛の命をいただく。感謝!」ではすまない。食肉の生産の中で人工授
精、飼育、生産、商品交換をいかに管理するか。それが問題である。
純粋贈与が根源的に消失しているわけではない。地球環境は空気を浄化し、太陽からは光が降り
注ぐ。問題は贈与から資本主義的な貨幣交換への転換である。空気、太陽光でさえも、日当たりの
良い環境、空調と商品化されている。それらを商品化するのは管理である。
「自然のめぐみ」から「管理された商品」である。ここでは、食の安全が脅かされてるから管理が求め
られるのか、管理されることが安全への気づきを掘り起こすのか、相補的な関係にある。それが純
粋贈与の存在を見えないものとしているのだ。
163 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:05:08
略奪略奪の快楽
これは、「純粋贈与の消失」の根源的な問題であるかもしれない。純粋贈与の到来は、、内部/外
部の二項対立を生みだす。そして外部へ対峙すること、この未知を前にした身震い、そして死ぬ気
でむかう必死さの中で人間は実感(リアリティ)をえる/でしか得られない。それが純粋贈与を求め
る、略奪略奪の快楽(享楽)である。
人間は、外部(純粋贈与)からの衝撃にいかに適応するか、として文明を発達させ、懸命に生き延び
てきた。それは同時に人々はなんのための生きるのかであった。
164 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 14:05:50
「環境問題」は自然の恵みである
贈与社会ではこのような純粋略奪(贈与)の快楽は抑止されてきたが、資本主義的な貨幣交換はむ
しろ純粋略奪(贈与)の快楽をドライブに作動している。これはマルクス的に資本主義社会の根源的
な問題ということも出来るだろう。
なぜ人間は破滅的に豊かさを求めるのか。「安全は危険を生み出すためにある」という「安全への
強迫性」に見いだせる転倒が生まれる。さらに「環境問題は自然の恵みである。」排除したはずの純
粋贈与が回帰しくるのだから。「危険こそ安全(安心)である」という逆転倒である。遺伝子改良、そし
てネットテクノロジーなど、テクノロジーの過剰の意味もここに見いだせる。
純粋贈与をコントロールする試みは必ず失敗するが、失敗を生み出すこと(純粋略奪の快楽)が求
められるのだ。
165 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 15:23:42
贈与は内部内でおこる。
交換は内部と外部の境界グレイゾーンでおこる。
純粋贈与は内部と外部の間におこる。
贈与、交換、純粋贈与はつながりの強度に関係し、順に弱くなる。
166 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 15:36:20
純粋贈与はいつも到来する。
かつては外部へむきだしの純粋贈与は直接到来し、ドライブ(エロス)となり、贈与を促進し強い内部をウンだ。
科学技術は交換を広め、内外の対立を溶解する。内外の境界にグレーゾーンを拡大する。
そのドライブは純粋贈与以上の欲動(タナトス)である。
自由であるが孤独であり安全であるが退屈な領域を作り出した。
その反動はつながりと享楽を求める。
167 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 15:37:59
科学技術の力はエロスをタナトス化した。
PK(PaKuri)
169 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:45:21
■なぜ純粋略奪は快楽なのか
落とし物は「純粋贈与」ではない
>>
(1)純粋贈与は、贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる。それ
は、贈り物が贈られその返礼の品が返されるという、モノの循環システムを破壊してしまう。
(2)贈与では物質性を持ったものを受け取る。しかし、純粋贈与ではモノを受け取ることを否定してし
まう。モノの物質性や個体性は、受け渡された瞬間に破壊されることを望むようになる。
(3)贈与では、贈り物がなされたことを、いつまでも人は忘れない。そのために贈与には返礼が義務
となるのである。ところが純粋贈与では、贈ったことも贈られたことも、いっさいが記憶されることを望
んでいない。誰が贈り物をしたのかさえ考えられないようにして、純粋贈与はおこなわれる。それは
自分がおこなった贈与に対して、いっさいの見返りを求めないのである。
(4)純粋贈与は目に見えない力によってなされる。その力は物質化されない、現象化されない。最後
まで隠れたまま、人間に何かを贈り続けるのである。
「愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈3〉」中沢 新一 ISBN:4062582600
<<
落とし物は「純粋贈与」であるという勘違いがある。落とし物は「純粋贈与」ではない。落とし物を交
番に届けるのは、それが誰かのものとわかっているからだ。森の果実をもぎって、交番に届けない。
誰のものでもないからだ。「誰か」のものであるというときに、そこに負債感が生じるのである。それ
が「内部(コミュニティ)」の出来事だからだ。
人間同士の間では、「純粋贈与」は不可能な次元にある。たとえば太陽の光であり、空気が「純粋贈
与」である。
170 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:45:55
「純粋贈与」という外部
少し前にテレビで見たが、小学生に命の尊うさを学ばせるために、ニワトリを飼うというのがあった。
買うだけならどこの学校でもやっているが、最終の目的が大きくなったニワトリを自分たちで殺し、そ
れを食べるというものだ。
ここでの問題は、ボクたちは様々な生き物を殺して食する。大好きは焼肉の裏で、確実に大量の牛
やブタ、鳥が殺されているのだ。現代ではそのような死は隠されている。この学校の試みは「死」を
現前化させることで、命の尊うさを学ぼうという趣旨だったと思う。しかし結局のところ、そのニワトリ
は殺されなかった。子供達が嫌がったのと、親たちも反対したためだたように思う。
171 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:46:36
「純粋贈与」による内部(コミュニティ)の再生産
「純粋贈与」とはそもそも「空気」のような負債感が生まれないものである。空気を吸っていることに
いちいち感謝する人はいない。しかし古来、人が原始的な自然神を信仰してきたのは、まさに「純粋
贈与」への気づきと、感謝である。
「純粋贈与」とは単に「めぐみ」だけではない。なぜなら自然は人間の価値の外にあるからだ。空気
が強く吹けば台風、太陽が強く照れば日照り、雨が大量に降れば洪水、その強度に意味はない。
「純粋贈与」が天の恵みであるか、天災であるかは、人間の価値でしかない。
だからこの「外部(純粋贈与)からの衝撃」にいかに適応するかが、人間が歴史である。そして「純粋
贈与」への敬意は内部を作る。天の恵み/天罰があり、それを分けることで、「贈与」は開始される。
それは内部(コミュニティ)の始まりである。だから「純粋贈与」への自覚は絶えず、内部(コミュニ
ティ)の結束力を生む。すなわち「純粋贈与」は内部形成のドライブなのである。
172 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:47:25
「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ
動物の「死」とは「純粋贈与」である。だからこの授業の目的は「純粋贈与」の残酷さ、尊さを知ること
で、「内部(社会)」の意味をしることだと言える。このような経験は確かに貴重なものになるだろう。
しかしボクたちに迫っているのはむしろ家畜の「死」を知るよりも狂牛問題などの食の安全性の問題
である。「自然のめぐみとして牛の命をいただく。感謝!」ではすまない。食肉の生産の中で人工授
精、飼育、生産、商品交換をいかに管理するか。それが問題である。
純粋贈与が根源的に消失しているわけではない。地球環境は空気を浄化し、太陽からは光が降り
注ぐ。問題は贈与から資本主義的な貨幣交換への転換によって、空気、太陽光でさえも、日当たり
の良い環境、空調と商品化されている。それらを商品化するのが管理技術である。
「自然のめぐみ」から「管理された商品」へ。ここでは、食の安全が脅かされてるから管理が求められ
るのか、管理されることが安全への気づきを掘り起こすのか、相補的な関係にある。それが純粋贈
与の存在を見えないものとしている。
173 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:48:02
純粋略奪の快楽
純粋贈与の到来は、、内部/外部の二項対立を生みだす。そして外部へ対峙すること、この未知を
前にした身震い、そして死ぬ気でむかう必死さの中で人間は実感(リアリティ)をえる/でしか得られ
ない。それが人間が外部へ向かう略奪略奪の快楽(享楽)である。
人間は、外部からの衝撃にいかに適応するか、として文明を発達させ、懸命に生き延びてきた。贈
与社会ではこのような純粋略奪の快楽は抑止されてきた。それは内部の掟以上に純粋贈与の到来
によってである。強い掟によっての集団性によってしか、外部(純粋贈与)からの衝撃に耐えることが
できなかったからだ。
科学技術は内部から外部への反撃である。科学技術は内外の対立を溶解し、内外の境界に「グ
レーゾーン」を拡大する。このグレイゾーンにおいて資本主義の貨幣交換は作動する。そしてここで
は純粋略奪の快楽をドライブに作動している。そして解放された略奪略奪の快楽(享楽)は強迫性を
増している。
なぜ人間は破滅的に豊かさを求めるのか。「安全は危険を生み出すためにある」という「安全への
強迫性」に見いだせる転倒が生まれる。さらに「環境問題は自然の恵みである。」排除したはずの純
粋贈与が回帰しくるのだから。「危険こそ安全(安心)である」という逆転倒である。遺伝子改良、そし
てネットテクノロジーなど、テクノロジーの過剰の意味もここに見いだせる。
174 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 18:48:44
略奪略奪の快楽はどこへ向かうのか
ニワトリは殺させかなった子供達。彼らは略奪略奪の快楽(享楽)することが怖いわけではない。ニ
ワトリは「ニワトリさん」なのである。すなわち動物とはペットであり、内部に回収されている。それは
「殺人」に近い。これは転倒であるが、純粋贈与が消失した社会とはそのようなものである。
にも関わらず彼らは資本主義社会に生きて、略奪略奪の快楽(享楽)を増殖させているのである。そ
れはどこに向かうのか。すなわち彼らは「外部」をどこに見いだされしていくのか・・・
175 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/04(火) 21:59:32
>>156 >ぴか先生、久しぶりです。ポストモダン的スノビズムの疲れからでしょうか、ちょっと見ない間に
>今度は退行したアミニズム世界観へと飛行中ですね。大丈夫でしょうか?
あっ、神の声が・・・
176 :
三ヶ月:2006/07/04(火) 22:00:57
ごめん。全部は読んでない。
どうして子供たちはニワトリを殺せないのか・・・
子供が或る法則性でもって物事をとらえているからではないのか。
たとえば子供にとって「ニワトリを殺す事」は「自分が親に殺される可能性」もある
という事を示唆させるのではないかと思う。
彼らが認識する世界観を自ら守ろうとしている。それを破壊することは自身の破滅を暗示させる。
ごめん。一部しか読んでない。またじっくり読みます。
177 :
三ヶ月:2006/07/04(火) 22:09:47
いや、自分の経験からです。
あまりに泣くので山に捨てられた経験を持っています。
以来、物を捨てるのが可愛そうでならない。
またあるときは父の放蕩で、母と姉、私は心中しようという話しになったこともあり、
以来、私は幼少にして父と母の間で一緒に寝る事に恐怖した経験があります(笑)
178 :
三ヶ月:2006/07/04(火) 23:12:46
あぁそうか「ニワトリ」じゃなくて「ニワトリさん」な。
子供にとって「子供の理想の法則」が通用している囲い・・・「内部」
もしニワトリが家畜として飼われていたなら、それは子供にとって「外部」だから
かまわないということか・・・ニワトリには名も無くただのただの家畜だということ。
179 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 23:38:35
>>175 思った通り、ユーモアに関して相当愚鈍だね。
180 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 23:43:20
崩壊から喪失へ
事例 1
>ニワトリは殺させかなった子供達。
181 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 23:45:40
崩壊から喪失へ
事例 2
>「外部」をどこに見いだされしていくのか・・・
182 :
三ヶ月:2006/07/05(水) 00:15:26
外部なんて無いよ。どこまでいっても内部だった。
役に立たない親を捨てて、遠く一人上京しても内部だった。
ずっとずっと遠く逃れても内部は続くばかりだ。
ああそうか、我々は内部でしか生きられない。
だから「自由」と銘打って内部環境を拡大させてきたのか。
どおりで広いわけだ。
183 :
考える名無しさん:2006/07/05(水) 00:17:19
糞2ちゃんでエネルギーを費やす馬鹿
184 :
三ヶ月:2006/07/05(水) 00:20:55
はいやめます。
ごめんぴかぁ〜
・・・連投あやまる。
やめなくていいよ〜♪
186 :
考える名無しさん:2006/07/05(水) 00:24:02
>>182 リーマンキャラのほうがおもしろかったよ。
馬鹿ぶりが、よりハジケテいて。
人類の恥
>>175 > あっ、神の声が・・・
フフフ。自然信仰は外部じゃないですよ。つまりトラウマではない自然を愛でるのです。偶像崇拝は
いけませんよ(笑)。
190 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 00:30:58
自然は外部のトラウマ的なものだから、自然神(神とは人間のメタファー)によって、
隠されるのです。
外部というのは外部である限り、消化されずに排泄される食物繊維みたいなもんだよ。
192 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/06(木) 19:10:59
悪いことをするときのほとんどに、自己正当化の心理が働いている。
本当の俺は違うが、外からなんらかの圧力を受けたから、
仕方がないんだ。子供ならば、親が悪い、先生が悪い、
社会が悪いなど。
「悪いこととわかっているが、仕方がない。」この心理がない「悪いこと」は
存在しないと言っても良いだろう。
これは「負債の清算」である。社会の中で循環する負債の連鎖が私に
回ってきたので、次へと送り返しただけ、ということだ。
しかし結局、悪いことをしたあとには罪悪感に苛まれる。「負債の清算」が
完全に清算されることはない。
それでもこのような負債の循環は存在する。
193 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 19:17:22
通常の交通様式としての「略奪」はこのような負債の連鎖内にある。
純粋略奪はこのような連鎖の外にある。略奪を行っても、
負債感は生まれない。
この違いは略奪が内部内の交通であるために連鎖がおこる。
あるいは逆に負債の連鎖が内部を形成している。これは贈与の
連鎖と裏表の関係として、内部を形成している。
それに対して、純粋略奪は、純粋贈与と同様に、内部と外部の
交通として行われる。それは自然からの略奪である。
野性の木の実を取ることに負債は生まれない。
そもそもには善悪の価値は存在しない。
194 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 19:26:40
内部を運営するためには必ず外部からの略奪を必要とする。
自然のめぐみなくは人は生きられないし、内部を形成することはできない。
現代の「分業」化された社会では自然からの純粋略奪は、
交換のネットワークの極地におかれている。
たとえばボクたちの生活に欠かせない「光源」は電気による。
電気は発電所で作られる。その多くは火力発電所として石油を燃料としている。
石油は多くは中東で産出されている。
すなわち中東で自然から純粋略奪された石油が交換のネットワークの
中で電力として送られてくる。
195 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 22:49:08
悪いことをするときのほとんどに、自己正当化の心理が働いている。本当の俺は違うが、外からな
んらかの圧力を受けたから、仕方がないんだ。子供ならば、親が悪い、先生が悪い、社会が悪いな
ど。「悪いこととわかっているが、仕方がない。」この心理がない「悪いこと」は存在しないと言っても
良いだろう。
これは「負債の清算」である。社会の中で循環する負債の連鎖が私に回ってきたので、次へと送り
返しただけ、ということだ。しかし結局、悪いことをしたあとには罪悪感に苛まれる。「負債の清算」が
完全に清算されることはない。それでもこのような負債の循環は存在する。
通常の交通様式としての「略奪」はこのような負債の連鎖内にある。純粋略奪はこのような連鎖の
外にある。略奪を行っても、負債感は生まれない。この違いは略奪が内部内の交通であるために連
鎖がおこる。あるいは逆に負債の連鎖が内部を形成している。これは贈与の連鎖と裏表の関係とし
て、内部を形成している。
それに対して、純粋略奪は、純粋贈与と同様に、内部と外部の交通として行われる。それは自然か
らの略奪である。野性の木の実を取ることに負債は生まれない。そもそもには善悪の価値は存在しない。
196 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/06(木) 22:49:46
内部を運営するためには必ず外部からの略奪を必要とする。自然のめぐみなくは人は生きられない
し、内部を形成することはできない。現代の「分業」化された社会では自然からの純粋略奪は、交換
のネットワークの極地におかれている。
たとえばボクたちの生活に欠かせない「光源」は電気による。電気は発電所で作られる。その多くは
火力発電所として石油を燃料としている。石油は多くは中東で産出されている。すなわち中東で自
然から純粋略奪された石油が交換のネットワークの中で電力として送られてくる。
197 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 23:08:22
>>196 なんで分業や光源をカギカッコで括ってるの?
198 :
三ヶ月:2006/07/07(金) 00:39:55
>>
先ず「略奪」という言葉。それが彼の世界観全体を捻じ曲げている。
人間の事物における存在認識の問題。
環境世界における事物の道具化、意味づけなど。
たとえば「石油」だと存在認識することで、外部ではなくなる。
ただのなにやら解からぬ物であったものが有用な資源となる。
これを「純粋略奪」っていうの?
私は、生物全体の営み自体が『純粋贈与』(「略奪」は使いたくない)で成り立っており、
それをどうこう言及しても使用が無いと思うのですが。
199 :
三ヶ月:2006/07/07(金) 01:00:18
>>197 「分業」により「ニワトリさん」から「やきとり君」への変貌のプロセス全体を
直接的には見ないですむ。
と言いたいのだろう・・・多分。
200 :
考える名無しさん:2006/07/07(金) 09:19:37
= ∩
== (θ \__
=== =3Φ ) \
== (θ /  ̄| |
= ∪ . | |
: ._ ,,,,,,,,_ | | _ .,,i*jlilllタw,,、_.,r-=-r
'゙~``:''ヽ,,,,√ .~゚'、, .l,,gllc/ ̄\/ \/ ̄\i、 ,,r" ,レ'″ .li
、 .'《゙N,,,、 .゚'ll゙゙mr----  ̄ ̄ =`゙ニ-r/" ,r'° 'l
゙l,、 l `'私 ゙゙゚''l*゙^ ,rl゙゙゙゙≒,,,,,,,,,,,wll'
: ゙゚'━'#'┷x,_ .゙私, l ,il_,yー'''''''ー_、 |
,l′ ゚リh,,,,|l, l゙ ,lll゙° ゙''ll
ヽ-rf° ,,゙゙%、 ,l、 ,,ll!e,、 ._,,,r
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` ̄ .゚l,、 ゙゚''*mii,,x'll゙″ ..ll" `゙lllii,l,illllケ″ .,l
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`┓ 確 : 'll" .:ll 'l,r` .:l: ,,l゛
゙|y .喜.l,,l′ .l] : ,lr〜:li、 .,r''゚゚
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゚!illl| `゚゙l l゙ j|" .l゙゜
lll廴.i,],,,,,,,,,,,,il_,,,,,rll、 : |
201 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/07(金) 11:36:43
内部と外部の境界にはグレイゾーンがあります。
野性のニワトリは外部にあり、飼育されたニワトリはグレイゾーンにあり、「ピーちゃん」は内部にあります。
野性のニワトリは純粋略奪されます。
202 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/07(金) 11:54:14
分業に必要なことは正確なコミュニケーションです。標準化、数量化による管理が分業を可能にします。
すなわち同一性と反復への還元、これがグレイゾーンです。
たとえば人間も同じです。外部とは野性の人間(身体)、グレイゾーンでは管理された人間(身体)=これは分業に活用される労働力、内部は固有名という唯一の私
203 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/07(金) 13:26:43
純粋略奪はそれほどめずらしいことではない。
かつては外部は異教徒、グレイゾーンは奴隷(下層階級)、内部は市民であり、戦争は動物の刈りに近いこと、快楽があった。
近代戦争では兵士自体が機械と並列に分業されることで
身体の奴隷化が行われ、内部からの批判がおこった。
あるいは中国でコピー製品が反乱するのは知的所有権という価値をしらないとともに、日本という外部から純粋略奪している。
すなわち交換という価値は、平等と同じく高い教育を必要とするもので人間にそなわっているものではない。
そこには同一性の反復という工学的なグレイゾーンのベースにすべてを流通される世界が必要なのである。
204 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/07(金) 18:41:33
■なぜ「悪いこと」をすると罪悪感をもつのか
「負債の循環」という内部
「悪いこと」をするときにはほとんど自己正当化の心理が働いている。「本当の俺も悪いこととわかっ
ているし、そんなことはしたくはないが、外からなんらかの圧力を受けたから、仕方がないんだ。」親
が悪い、先生が悪い、社会が悪いなど。
これは「負債の清算」である。社会の中で循環する「負債の連鎖」が私に回ってきたので、清算する
ために次へと送り返しただけ、ということだ。しかし悪いことをしたあとに「負債の清算」が清算される
ことはなく、罪悪感が残るのだが。
「略奪」と「純粋略奪」
このような「悪いこと」とは、負債の連鎖内の他人からの「略奪」である。逆に内部(社会)はこのよう
な負債の連鎖の作動によって形成されているといえる。それに対して純粋略奪はこのような連鎖の
外にあり、略奪を行っても負債感は生まれない。この違いは略奪が内部(社会)内にあるのに対し
て、純粋略奪は内部(社会)と外部の間で行われるためだ。
その典型が自然からの略奪である。野性の木の実を取ることに負債は生まれない。それは「自然の
めぐみ」であり、「純粋贈与」であり、善悪の価値の外にある。「自然のめぐみ」なくしては人は生きら
れないし、内部(社会)は維持されない。内部を運営するためには必ず外部からの純粋略奪が必要
とされる。
205 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/07(金) 18:42:21
貨幣交換ネットワークというグレイゾーン
現代の資本主義社会では「貨幣交換」のネットワークによる「市場」が全面化する。「貨幣交換」とは
互いに負債感がわかない「平等」は行為である。このような「貨幣交換」のネットワークは、「負債の
連鎖」が形成する内部の繋がりを希薄化し、また自然からの純粋略奪を極地におく。
たとえばボクたちの生活に欠かせない「光源」は電気による。電気は発電所で作られる。その多くは
火力発電所として石油を燃料としている。石油は多くは中東で産出されている。すなわち中東で自
然から純粋略奪された石油が貨幣交換のネットワークの中で電力として送られてくる。
これは「分業」化された社会である。分業に必要なことは正確なコミュニケーションである。標準化、
数量化による管理が分業を可能にする。全てが「同一性の反復」への還元される。
「光源」を手に入れるのは貨幣交換に参加するだけで、そこには負債感も、快楽も「同一性の反復」
によって抑圧される。だからこのような「貨幣交換」は内部と外部の境界にあるグレイゾーンである。
たとえば野性のニワトリは外部にあり、飼育されたニワトリはグレイゾーンにあり、ペットの「ピーちゃ
ん」は内部にある。飼育されたニワトリを略奪されることはルール違反の窃盗であり、そしてペットの
「ピーちゃん」を略奪されることはルール違反の窃盗以上に人の気持ちを踏みにじる行為であり大き
な負債感が生まれ、野性のニワトリの略奪は負債感なく純粋略奪される。
206 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/07(金) 18:43:44
戦争の「悲惨さ」
かつては外部は異教徒、グレイゾーンは奴隷(下層階級)、内部は市民であった。戦争は内部と外
部の間で行われ、動物の狩りに近い純粋略奪の快楽があった。近代でも絶対主義下では外部(原
住民)への純粋略奪が行われた。
近代において、境界は人間内に進入した。外部は野性の人間(身体)、グレイゾーンは管理された
人間(身体)=分業に活用される労働力、内部は固有名という唯一の私である。世界大戦では内部
内の人間同士で行われたのであるが、兵士は分業され、グレイゾーン(管理された身体)として機械
と並列に扱われた。しかしその「死」が母国に帰ったとき、内部の死として扱われ、「略奪」しあう「悲
惨」があらわになったのだ。
人は「自然に」純粋略奪する
中国でコピー製品が反乱するのは知的所有権という価値を知らないからであるが、日本が自分たち
とは関係がない外部にあるために、純粋略奪し罪悪感がわきにくいのだろう。
「貨幣交換」は、本来的に人間にそなわっているものではない。「同一性の反復」によってすべてを流
通される工学的なグレイゾーンと、平等と同じく高い「教育」を必要とする。だから教育を受けなけれ
ば、外部は野性の木の実同様に純粋略奪の対象となる。
「コロンブスがアメリカという新大陸を発見した」とそれまで「人間」はいなかったように「罪悪感なく」
語られ続けている。すなわち「悪いこと」をすると罪悪感をもつのでなく、罪悪感をもってしまう行為が
「悪いこと」ということだ。
207 :
考える名無しさん:2006/07/07(金) 19:23:12
_,.-‐''"∵∴∵``' ‐ .、._
,.‐'∵∴∵∴∵∴∵∴∵:`‐.、
./∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵(・)\
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`:‐.、∵∴∵∴∵∴-‐''"
209 :
考える名無しさん:2006/07/07(金) 22:57:52
それにしても実に鉤括弧の多い文章だな…。
一体どういう効果を狙ってるんだろうか?
>「コロンブスがアメリカという新大陸を発見した」とそれまで「人間」はいなかったように「罪悪感なく」
とか何故に普通に
「コロンブスがアメリカという新大陸を発見した」とそれまで人間はいなかったように罪悪感なく
と書けないのか。手癖?
210 :
考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:12:44
どうでもよい
211 :
考える名無しさん:2006/07/08(土) 01:19:07
>>208 あんた知らないね。
前置きが本文なんだよ。
後はループするだけ。
212 :
考える名無しさん:2006/07/08(土) 01:30:31
>>209 それはね、刷り込みです。
最初に読んだ本の文体がそうだったのでしょう。
彼は、不自由な日本語能力を、その文体に依存することにより補うとともに「哲学」する気分も獲得することができるのです。
そっとしといてやりましょう。
あなただって、障害者が奇異な言動をしても、咎めだてしますまい。
213 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:21:14
有名な13歳の岩崎恭子が金メダルととってときの
「生きてきた中で一番幸せです」の滑稽さは、まさに言語の働きを示しているだろう。
あの滑稽さは、まさろくに生きていない子供がこまっしゃくれて大人のような発言をする
ことにある。それはどこかで聞いたことをそのまま言っている。このようなコンテクスト(文脈)では
このように発言するということで発言させるが、それは大人がいうことであるというコンテクストが
わからずにズレているということだ。うまく空気(文脈)を読みすげて、空気を読めなかったということだろう。
この本質は、人は空気を読んで発言するというよりも、空気が人に言葉を言わせる
ということであり、人間存在そのものが空気(文脈)の中で作られる表象であるということ。
口を開き私という言葉を発言することで、私があり、本質的な私という存在がいるように
錯覚されるということだ。
これがラカンの「無意識は言語のように構造化されている」ということである。
214 :
純一:2006/07/09(日) 18:06:32
ぴかぁ〜が金メダルとってから言えよ。
215 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 18:43:40
まさろくに生きるとはなにか。
まさろくに生きてみたい。
まさろくまさろく
216 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 18:49:33
では聞くが、錯覚していない滑稽ではない状態とはどのようなものか?
君の論法では主体が空気ということであってみれば、全ては錯覚ということになる。
217 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:59:56
218 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 21:34:21
贈与は一つの暴力として働くことがある。
たとえばボクたちは消費を楽しむ。消費とは単にお金を払うことではなく、
過程である。満足する消費にいたるまでに様々な障害がある。
なにを買えばよいか、どこで買えばよいか。
わからない世界を探索し、悩み、そして最後に満足する消費にいたる。
このような「ゲーム性」が消費の楽しさの一つである。
贈与はこのような「ゲーム性」を横取りする。
たとえば過保護な親は、子供のためといいながら、
子供の人生の「ゲーム性」を横取りしているのだ。
219 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 21:42:32
贈与は一般的に親しい人の間で行われるものである。
これは、プレゼントは親しい人からしかもらえないと考えられるが、
また贈与という暴力は親しい人だから許されるということがある。
たとえば過保護な親は、実際に子供へ様々な必要なものを
贈与している。だから贈与の暴力も許されるのである。
ここであるのは、まさにイマジネールな闘争である。
贈与の愛と暴力に境界を引くことはできない。
それこにあるのは、あなたは私であり、私はあなたであるという
愛と闘争の両義的な関係である。
220 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 21:52:17
贈与はこのような想像的な関係をもとに作動する。
プレゼントすることは相手のためであるとともに自分のためである。
ポトラッチなどの過剰な贈与関係も、イマジネールな想像関係と
して考えることができる。
原始社会の贈与において考えなければならないのは、
贈与の関係の一端に自然神が位置している。
獲物(自然の恵み)を贈与され、それを祝祭によって返礼する。
自然には誰か(神)がいて、コミュニケーション行っているという
ことだ。
しかし単なるイマジネールな闘争ではない。神は現前化しないからだ。
そして原始社会の贈与関係にはいつも神が介入するのだ。
すなわち贈与は単にイマジネールな関係を越えて、
去勢された儀礼の構造をもつ。
贈与は相手に送るだけでなく、送ることを神が見ているのだ。
221 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 22:01:28
贈与の闘争にいたらないように、贈与は儀礼化する。
贈与の儀礼化は現在においても日常的である。
たとえば結婚式のお祝いは、ただ送るのでなく、
渡し方、金額など儀礼化されている。
それを越えた形の贈与は、迷惑でもある。
なぜなら返礼できない負債感を与えるからだ。
しかしなぜ贈与するのかというのは、
想像関係に求めることになるだろう。
すなわちコミュニケーションしたいからだ。
たとえばなぜおしゃべりをするのか。
おしゃべりしたいからであり、繋がっていたいからであり、
疎外されたくないからだ。
誰もが誰かのためになにかをしてあげたいと思う。
親は子のために、彼氏は彼女にために。
愛する者のためになにかをすることは嬉しいものである。
それは相手に貸しを与えるのではない。
ほんとうに見返りはいらないのである。
ただうれしのだ。
222 :
考える名無しさん:2006/07/09(日) 22:12:09
他者への想像関係はもはや人間の根元である。
精神分析にいえばこれは幼児期の母と子の自他未分化に求めるだろう。
人はその地点を求めてやまないのだ。
それがいくら不可能な地点であってもだ。
これを享楽と呼べば、贈与は享楽を求めることになる。
究極的には純粋略奪の快楽へ繋がる。
相手を略奪し、取り込もうという闘争に行き着く。
だから去勢され、贈与は儀礼化されるのである。
では純粋贈与は存在するだろうか。
贈与の本質は返礼を求めるものではない。
贈与の「目的」そのものが他者との繋がることにあり、
そこで完結する。
返礼を生むのは、それは他者の側であって、
贈与するものはある種の繋がることで完結する。
その意味でいえば、贈与はすべて純粋贈与である。
223 :
ago:2006/07/09(日) 22:22:23
ポトラッチは交換の一形態ですよ、PKくん。
例えばバタイユ『呪われた部活 有用性の限界』を読んでください。
神の恩寵は贈与か、教えてほしいです。
(「神」や「宗教」の前にどんな形容がついてるかで分類する必要があるのでしょうが)「神の恩寵」の概念は交換を密輸入していないのか?でもいいです。
224 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 22:44:24
誰もがすべてを贈与し、すべてを略奪したい。
しかし親子でも、恋人でも、そこには象徴的な関係があり、禁止する。
去勢によって、負債感という現実を介入させるのだ。
ただそのような負債感が介入しない贈与はないだろうか。
それが純粋贈与である。
225 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 23:17:34
>ポトラッチは交換の一形態ですよ、PKくん。
ポトラッチは交換???この場合の贈与と交換の境界はなんでしょうか。
226 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 23:37:48
>神の恩寵は贈与か、教えてほしいです。
ボクはまずはじめに享楽をおきたいですね。
すなわち誰もが愛する者にすべてを贈与し、愛する者からすべてを略奪したい。
これが、想像関係です。
贈与と交換はこの享楽への禁止の強度の違いになるのではないでしょうか。
贈与は弱い禁止です。身近な者に適用され、もらった者に負債感が生まれ、
弱い見返りが求められます。
交換は強い禁止ですね。関係がない者い適用され、負債感は生まれので、
見返りはありません。
贈与は結局返礼をもとめることから交換の一種ではないのか、
という問いにたいしては、そうですということです。
すなわち人間には負債感のない、見返りのない贈与は不可能であるということです。
これが純粋贈与の不可能性です。
これは認識論に関係することを意味します。
人間が、純粋贈与することは当然不可能ですが、
純粋贈与されることは、贈与されたと感じれば、それに必ず負債感がうまれ、
不可能です。贈与されたことが気づかなければ、純粋贈与されたことになります。
自然からのめぐみでも、それを「神からの恩寵」と認識すると、神への負債感が
生まれる、贈与ではないでしょうか。
贈与―反対贈与
ポトラッチを出しといて・・・これはちょっと引いたわ
ちなみに商品交換と贈与交換の差異が分からないと
贈与と交換の境界をつけようにもどうしようもないよ
(商品交換と贈与交換の違いを考慮しなければ、贈与も交換の一種として考えることはできる)
228 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 23:47:52
再度言えば、誰もが「愛する者」にすべてを贈与し、愛する者からすべてを略奪したい。
という強い欲望のもとにある。そして贈与と交換はこの享楽への禁止の強度の違いである。
ということは、ものすごく強い贈与というものがあります。
これは儀礼を越えて、社会性を越えて、ただ自らを捧げたい、奪いたいという享楽です。
たとえば強い愛情はこのような状態におかれます。
あるいは原始の生け贄も必ずしも選ばれるのでなく、自ら志願することもあるということです。
それは犠牲ではなく、自らを捧げる行為です。
贈与されたことが気づかつかないような贈与を純粋贈与に対して、
このような欠落を埋める行為=享楽をボクは、純粋略奪と呼びたいと思います。
交換はこのような享楽を強く禁止します。他者との想像関係(繋がり)の強度を
抑圧し、全てを誰に持っても同じ価値ともつ貨幣という数量に還元してしまいます。
229 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 23:51:23
>>227 その贈与と交換の関係を考えてるわけです。
なぜ贈与するのか、を、
想像関係、象徴関係、現実関係をもとに見直そうとことです。
だからキミはどのような境界を考えますか、ということです。
無理な返礼は求めていませんが。
交換・贈与や供犠に関しては、社会学から記号論、バタイユの研究まで
優秀な先行研究がたくさんあるからさ、まあせいぜい頑張ってみてよ
それから、先行研究のアイデアを借用したらちゃんと出典を書くんだぞー
腐ってもここは学問板なんだしね
231 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 00:03:21
ではボトラッチはどのように分類されるか。
まずこれはあくまで儀礼であるということです。
だから享楽のふりということだと思います。
全てを投げ出す享楽のふり(儀礼)=贈与ということで良いのではないでしょうか。
ボクはバタイユの「消尽」を高く評価していません。
極限に「享楽」をおけば、ボトラッチも、消尽も、あくまで儀礼であり、
去勢された社会的な行為で、非生産的な行為のふりしかないと思うのです。
232 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 00:07:07
>>230 >それから、先行研究のアイデアを借用したらちゃんと出典を書くんだぞー
>腐ってもここは学問板なんだしね
忠告してあげた贈与ですね。負債感をおいていかないでくださいw
233 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 00:10:14
やはりラカンと比較すると、バタイユは弱いです。
贈与、交換をラカンで読みかえるということです。
234 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 00:25:39
たとえばネットでも質問されると答えてあげたくなるというのがあります。
2ちゃんねるはいろいろいわれますが、知らない者どうし集まっているのに、
全般的に、いろいろと教えてくれる人が多いですね。
特に決まりがなくとも、交換ではなく、互酬(贈与と返礼)が作動しています。
このような疑似的な想像関係がネットを動かしています。
答えることはそれが一つの喜びであるということです。
贈与することは一つの完結性をもちます。
贈与するものも何かを得るのです。
繋がりですね。
しかしまたそこに優越感を、負債感が生まれることも確かです。
だから負債感を得たものは早く学び、その負債感を
誰かに与えなければなりません。
ネットはこのような互酬的世界です。
235 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 00:41:40
儀礼であると言うことは、享楽が去勢されているということと同時に、
そこにまなざしの快楽が働くということである。
すなわち神(集団)を通した目線で自らを見る(しかない)ということである。
このような見るとボトラッチの劇場性がわかる。
そして神(集団)への近接(繋がり)とともに、負債を与えている。
236 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 00:46:18
>交換はこのような享楽を強く禁止します。他者との想像関係(繋がり)の強度を
>抑圧し、全てを誰に持っても同じ価値ともつ貨幣という数量に還元してしまいます。
貨幣交換は等価交換と言われるが、贈与性(想像的な関係)が残る。
たとえば商品のブランド力は、信頼関係であるとともに、想像関係で成り立っている。
消費者はひいきにすることで、疑似的な負債感を与えている。
等価交換なのだから、そこで関係性が終わるということではない。
237 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 01:03:35
たとえば現代と原始社会のまなざしの快楽の違いは、
原始社会ではまなざしは外部(自然)に開かれているが、現代は内部(みんな)に閉じている
ということだろう。
ポトラッチなど消尽は神への贈与であり、まなざしの快楽である。
現代の消尽では寄付などの贈与が行われるが、繋がりが弱い交換が全面化し、
そもそも贈与に価値は低い。
238 :
三ヶ月:2006/07/10(月) 01:03:49
所有欲とは
「得る事」のみならず、手に余るものを「与える事」でも満たされる。
「愛」もまた所有欲のあらわれである。
239 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:04:46
ヽ:: / o
O )/ ビュ!
__,ハ__゚
/ Y \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
`=============’
i |
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| ノ ( :|
| ⌒ |
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240 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:08:49
/_,, ,,_ \
/ (@)ヅ=ヾ(@));;;;; \
/ /〆"●⌒ヾ;;;;;\ ヽ
|三(__|___)三、 |
|. | | | ノ::ヾ | |
| Y ̄Y ̄Y ̄Yノノ | l
ヽ と ̄^ ̄^ ̄^"シ / /
\ """""" / /
| l━━(t)━━━━┥
241 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:13:25
/\____/ヽ、
/ '''''' '''''':::::\
/ \, 、/、 .::::::::::\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
< ヽ ,,ノ(、_, )ヽ、,, /.::::::::> < あるあるニダ!
\ |` ;‐==‐ァ '.:::|:::::/ \__________
\ `ニニ´ .:::::/
/`ー‐--―´´\
/\___/\
/ / ヽ ::: \
| (●), 、(●)、 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | < ねーよ!
| ,;‐=‐ヽ .:::::| \_______
\ `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐―´´\
242 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:14:47
, -‐、 , -.、
/ ノ ノ ノ
/ 、_.ノ ./ 、_.ノ´
/ ノ / .ノ ,,-‐'⌒i
. / __ノ / /⌒ii´ /、_ .ノ´.
l. `iノ / / |/ ,.'~´ .
| ,,,|./ ``´.丿 、_ノ ,-‐'´⌒)
. l. |``''' / .ノ ./ 丶,-‐'´
| ,___l |、. / / 、,,/
. | ノ | `` '´-、 ,ノ
| _/ |` ‐、__ )
| / ヽ-、 _ ̄`|
| . ヽ::::.` 、,|
| :. |:::: |
| :: |:::: |.
λ::: ノ:: 丿
/ , ::::::'/ __
/ :/:::::::::/ /ヽ ヽ―― 、
/ ::/:::::::::/ / | | \
_/ :::::::::::::/__________/ | | ヽ
, -‐´ / ::::::::::::::/ / / ヽ
(, / :::::::::::::/ / / |\
` ‐- _______ /____________/_________) )
\________________________________/
243 :
三ヶ月:2006/07/10(月) 01:30:31
あった、あった、
ちくま学芸文庫「悦ばしき知識」(ニーチェ全集8)
【第一書14(P.78)「すべて愛と呼ばれるもの。」】
244 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:31:20
,,,,。―'━━-_:
_/″ `''i、
,/゜ `'、
,i" `i、
.,/ 、,,、 ゙l、
.,/` .,i´ .゚!i、 ,r'゚'・r, `'i、
./ ,,,il ●.,l“““““''l| ●.,l。_ `'i、
.,| .,-″`-,,,,r゜ .レ.″,i″`'¬i、 .゙l,
,l゙ .j″ : .r‐:wx, .゙゙‐'゜ ._,,v. "'l,.リ
.Z ,「.rrrr-,。,,: .|、 .》 ..,,,,-・゚゛,,,,,y-. [.゙l
.l ,l゙ .ー'== ."ヘ,xxil} `,r‐'"゙゙_,,,,,,,,,,,i| .リ
:| .l′ ゙'''ll,=- .゙l .'",,,,,レ | .l:
:| ゙l .゙"l━=''''''''゙“““““゙゙゙~'k l: : 久々に|僕ドラえもんです
.l、 l `i,, _,,,,,,l, ケ ]
ト .| ゙ヽ、 .,i'゚~ [ .,ト .l
.゙l, ゙k “'・'r---ニ---v┘ .] ┃
.ヒ :l、 ._,wwwwrr←―ー=-v,,,,,,,,__, ,ド l!
.'k ゙V'″ : : .゙~''y,,┘
゙'┴.,,。,,,,,,,,,,,_ ,,r'°
245 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:36:53
|:;:;:;:::::i ミィ`テ:;';';'ヽ、 ./'":;';'ヽヾシ i:/ /;:;:;:;:;:|
|;:;:;::::::i ヽ,,ヽ●ノ__ヽ ,イ.. ヽ●ノ-´` i__/;:;:;:;:;:;:;|
.|;:;:;::::::i ~ ........ ` :: ......... /;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
|;:;:;:;:;:;i i;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
.|:;:;:;:;:;:i /;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;|
|:;:;:;:;:;:i .. .. i :. .: :`ー、:;:;:;:|
|;:;:;:;:;:;i , ( .::. ) ヽ i:. :. :. . \;:;|
.|:::;:;:;:;:;i ノ ‐● ●- ヽ 、 /|:. :. :. :. |:;:|
|:::;:;:;:;:;ヽ :: _ ∪`ー' ∪ ___, ; / |:. . :.} |;:;\
/::::;:;:;:;:;:;:ヽ ヽ:ー-、..__||___,,..-‐:'/ / .:|:. :.:/ |:;:;:;:\
/::::::;:;:;:;:;:;:;:;ヽ | /└|__|__|└\.../ / ..:|:. :.:/ |:;:;:;::;:;:\
246 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:40:26
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| リ三,, - 'i': : : : :゙:'ヽ. :: :::'' ,, -'':゙:゙:゙゙:':'ヽ-,, 彡 |||
'ヽ, |': :(:::::): :| 'ヽ::: .::'.'/ |: :(:::::): :| ゙''-,,,,,:::||
-=-,,,丶|,,: :'''': :,,リ,-,,,|:::: ://.,,,,,,,|: : :''''' : リ/゙-ヾ 丿
゙・ ''゙゙, -・-゙'''''''''゙-=≡_丶 '''',ヾミミ゙゙''''__-'''_彡ヾ'''' /ソ
''|, ゙ ゙゙,-'''゙ ヽ-  ̄ ゙゙ | ,ノ゙
゙ヽ, ,,,, // ,ヽ .,,, ,||||||
||||i,, 1゙゙,,-ヽ,,,, ,/゙゙.. :ヽ, ..,,,,,゙゙゙リ /|||||||
|||||ヽ ゙'' |ヽ''・,,,','- ''''ヽ,,-''''゙ ,,,,:/.,,,./:リノ 丿||||||
:|| |||iゝ fリt^-'',',,・-..,┬,,,,...--・・,゙゙_ リ// /||| リノ
||||ゝ,,丶\::v || |:‖ -__w ヽリ゙リ゙|j:‖// /|リ
ヽヾゝ''ヽヽ::,, --v,‖ :リ,,リ,゙,,,,,::://ノ /リ
ヾ|ヽ,゙ヽヽ,, ''|'''_ :::ソ/ /リ
| ゙ヽ.\゙Vri ri | ‖iヾソノ / |
| \,゙' ,,゙''''''゙゙''''''゙゙/ / |
| \ ゙゙'''''゙゙'''''''゙ / |
゙'ヽ-----''゙゙
247 :
三ヶ月:2006/07/10(月) 01:45:45
↑まさに「百鬼夜行」だね!
248 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 02:21:32
誰もが「愛する者」にすべてを贈与し、愛する者からすべてを略奪したい。
という強い欲望のもとにある。そして贈与と交換はこの享楽への禁止の強度の違いである。
人間→自然・・・神、祭り、消尽
純粋贈与・・・必ずまなざし(象徴界)の元にあるが、祭りのトランスにより<享楽>に近づく
贈与・・・豊作への返礼、飢饉への贈与
自然→人間・・・自然の恵み、自然からの贈与
純粋略奪・・・神への負債感のない略奪。獲物の狩猟などで<享楽>に近づく
贈与・・・祭り、貢ぎ物への返礼
人間→人間
想像的贈与・・・相手への強い思い。<享楽>に近づくが社会的に禁止
象徴的贈与・・・儀礼的な贈与、まなざしの快楽(無意識)
想像的交換・・・等価交換以上の思い入れ、帰属意識に基づく交換、まなざしの快楽。<享楽>に近づく。
象徴的交換・・・数量化による等価交換
249 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 02:33:59
原始社会
人間→自然/自然→人間/人間→人間。・・一つの象徴的世界。神からの恵み、祭り、消尽、大災害
純粋贈与・・・必ずまなざし(象徴界)の元にあるが、差し迫る自然の猛威から、
祭りのトランスにより<享楽>に近づく
象徴的贈与・・・豊作への返礼、飢饉への贈与、儀礼的な贈与
×想像的贈与・・・相手への強い思い。<享楽>に近づくが社会的に禁止
現代
×人間→自然・・・なし
自然→人間・・・自然の恵み、自然からの略奪
純粋略奪・・・負債感ない自然破壊(見えない)
人間→人間
想像的贈与・・・相手への強い思い。<享楽>に近づくが社会的に禁止
象徴的贈与・・・儀礼的な贈与。強く儀礼化し繋がりを生まない。
想像的交換・・・等価交換以上の思い入れ、帰属意識に基づく交換、まなざしの快楽。<享楽>に近づく。
象徴的交換・・・数量化による等価交換
250 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 02:40:50
/⌒'\
( ,i::::::::::::i ./⌒\
〉ノ:::::::::::| | ○゜ i ) )
/;/:::::::::::」/.〉 /
___.i;;.i::::::::::::i/ ..: .', /
./ ヾ .|;;i:::::::::::/.. ..;;〉.」
.__ .\|;.i:::::::::/ / ...;;/
_ノ\i_) i:::::::/ ...;;/ //
 ̄ .|; i:::::/ / ..;;/
__.|;_i::/ ...;;/
___/ .....;;/
.|;; i ...;;イ
ノ;; ,.‐ ;;-.;i
/;;; /' '' ;;;X
|;; ;i;;.. 〜 ;;|
251 :
三ヶ月:2006/07/10(月) 02:42:50
「百鬼夜行」
1 いろいろの化け物が夜中に列をなして出歩くこと。
2 得体の知れない人々が奇怪な振る舞いをすること。
252 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 10:27:57
−−−−栞−−−−
ここまで読んだ
つまらなかった
253 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:31:53
■なぜ柄谷には「外部」がないのか
大文字の他者(象徴界)の欲望
「資本の原動力が人々の欲望を喚起する」とは、ラカンでいうと「欲望とは大文字の他者(象徴界)の
欲望である」ということです。これは、構造主義的な欲望論です。
有名な13歳の岩崎恭子が金メダルをとったときに「生きてきた中で一番幸せです」といった滑稽さ
は、このようなことを示します。あの滑稽さは、まだろくに生きていない子供がこまっしゃくれて大人の
ような発言をすることにあります。
彼女はどこかでこのような場面(コンテクスト)でこのようにいう大人を見たのでしょう。そして彼女な
りにコンテクスト(文脈)に適した発言をした。しかしそれは子供が使うことではないというコンテクスト
(文脈)までは読めなかった。
さらにいえば、無意識にそのような言葉がでてしまったということです。人はコンテクスト(文脈)を読
んで発言するというよりも、コンテクスト(文脈)が人に言葉を言わせるということです。構造主義的に
いえば、人間存在そのものがコンテクスト(文脈)の中で作られる表象であるということです。口を開
き「私」というシニフィアンを発言することで私があるのであり、事後的に本質的な私という存在がい
るように錯覚される。
「大文字の他者(象徴界)の欲望」とは象徴界=言語体系の中で生まれる欲望がホントの欲望のよ
うに人は錯覚する。これがラカンの「無意識は言語のように構造化されている」という意味です。
そしてこのように、ボクたちが豊かになりたいという功利主義的な欲望は、柄谷的に「資本の原動力
が人々の欲望を喚起している」ものであると繋がります。
254 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:33:12
外部への「享楽」
しかしラカンはこの構造主義を越えていきます。この構造には穴がある。「大文字の他者(象徴界)
の欲望を動かす力はなにか」、「なぜに人は技術に熱狂するのか」、「功利主義的ではない資本主
義の原動力はなにか」
それは、人の「外部」をめざすコントロールできない生の力(欲"動")=享楽です。たとえばこのよう
な力を正的にドゥルーズは「器官なき身体」と呼びます。「外部」とは内部(大文字の他者(象徴界))
の外です。たとえば資本主義が作動するには、自然を破壊し、後進国、下層から搾取し、たえず増
殖することでなりたっています。
技術、そして資本主義は享楽を促進します。技術とは、混沌として外部(自然=フロンティア)を開拓
する有効な道具です。そのような自然(外部)を征服することに人間は享楽を得ます。
255 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:34:03
マルクス的自然との調和と「純粋贈与」と「世界共和国」
中沢新一は、「愛と経済のロゴス」(ASIN:4062582600)の中で、ラカンのボロメオの輪(想像界=象
徴界=現実界)に対応させて、社会を「贈与=交換=純粋贈与」として示します。ここで重要なの
か、純粋贈与という外部(自然)との関係が、内部の関係(贈与、交換)を作動させる力となるという
ことです。
それに対して柄谷行人は「世界共和国へ」(ASIN:4004310016)の中で、ボロメオの輪として「資本=
ネーション=国家」と示しています。これは「ネーション(互酬(贈与))=国家(再配分)=資本(交
換)」のように言えます。ここには現実界(外部)がないのです。
>>
ラカン 想像界=象徴界=現実界
中沢 贈与=交換=純粋贈与
柄谷 ネーション(互酬(贈与))=(国家(再配分)−資本(交換))=外部(現実界)がない
<<
二人ともマルクスから大きな影響を受けています。マルクスはその根底で自然との調和、内部(社
会)と外部(自然)との調和をおいていました。享楽(生の力)が自然と協調する理想主義的世界で
す。中沢は純粋贈与によってマルクス的な外部と内部の良好な贈与関係(中沢は「対称性」とよぶ)
を思考します。
また柄谷では外部が全て内部に取り込まれる、あるいは調和している世界を思考します。だから最
終的に外部のない世界=「世界共和国」となるわけです。これはネグリの「帝国」と近いですが、ネグ
リは大きな内部で間欠的に派生する外部=マルチチュードを想定します。
256 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:34:41
純粋略奪の快楽
外部の本質はトラウマ的な不確実性です。そして人間の外部を目指す力(享楽)はどこへ向かうのか。このように外部は簡単に調和したり、取り込めたりするものではありません。だからボクは以下のような構図を考えています。
>>
互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)
想像界=互酬・・・共同体=繋がり、規範
象徴界=再配分・・国家=法、秩序
グレイゾーン=交換・・・資本=法則←科学技術の発達で19世紀以降全面化で、社会から想像界、現実界が排除されていく。
現実界=純粋略奪(贈与)・・・自然の恵み、天災/環境破壊、後進国、下層からの搾取
<<
257 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:35:19
外部との関係が内部を規定し続けます。原始社会では外部はトラウマ的なものです。恵みとして生
きる糧を与えてくれるとともに、不確実に災害によって命を奪う。だから外部を自然神として良好な
関係を築こう祝祭、呪術の儀礼で秩序は保たれました。そして祝祭はまたボトラッチなどに見られる
ように享楽の解消の場でもありました。
ルネッサンス移行の技術革命によって、人間は自然から効率的に略奪することが可能になります。
このように開拓された領域を「グレイゾーン」と呼びます。この「グレイゾーン」の拡大が資本主義社
会を可能にしています。そして現代では、環境から逆襲=環境破壊による災害が問題になり、また
グローバリズムによる格差(労働力という自然の搾取)の問題はこのようにとらえられると思います。
マルクス的な内部(社会)と外部(自然)の調和と説くのは容易ですが、外部へ向かう過剰性=享楽
が人間の本質である以上、「私的所有の廃止」では解消にはならないと思います。
258 :
三ヶ月:2006/07/10(月) 15:16:01
>>外部の本質はトラウマ的な不確実性
「黄色い甘い香りがするもの(バナナ)」を猿は存在認識し欲する。
人間は「外部を存在認識」することで内部へ取り込んだまでのこと。
そこに引きこもり君のような外部へのトラウマなど無い。
祝祭、呪術の儀礼は環境世界との良好な関係を築く為ではなく、
権力者が共同体への権力を示す為に意図的に執り行われた。
権力者には「先祖の残した古い掟」も含まれる。
259 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:46:38
■なぜ純粋贈与は不可能なのか
想像的な贈与
現代は貨幣による等価交換の世界であるといわれる。しかしそれでも贈与の世界でもある。一般的
に贈与は親しい人の間で行われる。家族、友達、恋人ではお金のやり取りでなく、貸し借りでもなく、
見返りのない贈与が行われている。
最近ではネットでも贈与の構図が働いている。たとえば2ちゃんねるはいろいろいわれますが、知ら
ない者どうし集まっているのに、全般的に情報の贈与で成り立っている。なぜならそれが教える方
も、教えられる方にも繋がる喜びがあるということだ。ネットは交換でなく、互酬的世界なのだ。
贈与は「想像的な」関係をもとに作動している。他者への想像関係はもはや人間の根元である。精
神分析でいえば、幼児期の母と子の自他未分化をの地点(享楽)を求めてやまないということだ。
誰もが愛する人のためになにかをしてあげたいと思う。親は子のために、彼氏は彼女にために。愛
する者のためになにかをすることは嬉しいものである。それは相手への貸しではない。贈与すること
がただうれしのだ。
しかしこのような想像関係とは、おまえがわたしで、わたしがおまえという関係であり、愛の関係であ
るとともに闘争であると言われる。たとえば過保護な親は、子供のためといいながら、子供の人生を
横取りしているのだ。自らの人生を生きることは苦しいがまた楽しい。親の過剰な贈与は生きる喜び
を奪い、自らが楽しむという略奪なのである。
260 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:47:32
象徴的な贈与
だから様々な贈与は儀礼化されている。たとえば結婚式のお祝いは、ただ送るのでなく、渡し方、金
額など儀礼化されている。その他、誕生祝い、恋人へのプレゼントなど度を越えた形の贈与は、迷
惑でもある。なぜなら返礼できない負債感を与え、暴力となる。それが親子でも親子という社会的な
関係の中で子供への贈与は行われているのだ。
精神分析でいえば、幼児が母子の想像関係から去勢され、象徴関係という社会性を獲得するという
ことは、愛する人にすべてを贈与し、すべてを略奪したいという純粋贈与(享楽)は禁止されているこ
とを意味する。親子でも、恋人でも、そこには象徴的な関係があり、贈与と返礼という負債感の連鎖
に参入しているのだ。だから純粋贈与は存在しない。
儀礼であると言うことは、そこに「まなざしの快楽」が働くということである。神(集団)を通した目線で
自らを見る(しかない)ということである。たとえばボトラッチのような非生産的な「消尽」によって純粋
贈与(享楽)が目指されても、それは儀礼であることを逃れることはできない。神(集団)からまなざし
を内面化し、そこに負債感を与え、返礼を求めることという無意識から逃れることはできないのだ。
261 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:48:14
象徴的交換と想像的交換
貨幣交換は等価交換と言われる。「象徴的な贈与」が相手が誰であるかが重要な想像関係である
が、その過剰性を排除し儀礼化しているのに対して、貨幣交換では取引の相手が誰であるというよ
うな想像的な関係は徹底的に排除され、ただ市場のレートによって交換が行われる象徴的な交換
である。
しかしこのような交換にも、想像的な関係は完全には排除できないだろう。たとえば市場(いちば)な
どへいうと、その場で値引き交渉が行われる。それは買い手と売り手が単に等価交換だけでなく、
想像的な関係を構築する。それが進めば常連さんなどは安い値段になる。
あるいは商品のブランド力は、生産側と消費者の信頼関係であるとともに、想像関係で成り立って
いる。「あのブランドがお気に入り」というのはブランドへの思い入れである。なぜ同じようなバックで
高価なブランド品を買うのかは、ブランド品を持つことで、ブランドとの想像関係を結んだ人となるこ
とが出来るからだ。そしてブランドがイメージチェンジし気にくわなかれば、せっかくいままで買ってき
たのにと、恩にきせる(負債感を盾にする)。
262 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:48:51
過剰消費というボトラッチ
だから現代では消費が享楽への行為でもありえるのだ。想像関係が排除されているはずの等価交
換にも人は想像関係を見いだす。疑似的な愛する人にすべてを贈与し、すべてを略奪しようと享楽
の機会を狙っているのだ。
ここでも「まなざしの快楽」が働いている。現代の超越性は自然神でなく、みんなであり、消費の向こ
うの誰かである。たとえば有名なアーティストの作品への思い入れをもち消費するときにはそのアー
ティストは超越的な存在になる。たまに思い入れのあまり過剰な消費を行う人がいるが、これはある
意味で現代のボトラッチといえるかもしれない。
263 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:49:34
享楽の強度
贈与にも延滞された返礼を求めることから逃れられないことから、一種の交換であるともとれる。こ
のように考えると、贈与と交換はこの享楽と禁止の強度の違いと考えることができる。
想像的贈与は、不可能な享楽へ近づくもっとも強度が強いものである。象徴的贈与はそれを抑止す
る。象徴的交換は限りなく、想像関係が排除されているが、想像的交換では排除されたはずの想像
関係が見いだされている。
>>
純粋贈与/純粋略奪(享楽)−想像的贈与−象徴的贈与=想像的交換−象徴的交換
<<
純粋略奪の快楽
では純粋贈与は不可能だろうか。これは認識論に関係する。贈与において、見返りを完全に排除し
た認識は不可能である。しかし贈与したことに気付かない贈与は純粋贈与に近いかもしれない。そ
れは自然からの贈与である。しかし自然は贈与しない。贈与は人間側にしかない。だから人間が自
然からの略奪するのである。
たとえばボクたちは自然からの恵みがなければ、生きていけない。そのためのかつては自然を神と
して、祝祭において贈与し、返礼を求めた。自然の恵みを贈与であると認識したときには、そこには
負債感が生まれるが、贈与と認識せず、ただ略奪しているときに、負債感のない純粋略奪なのである。
完全な負債感がない略奪も人間には不可能に近いが、そこに外部を見いだしたときに限りなく純粋
に略奪することを享楽することができるのだ。
264 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/10(月) 18:04:17
贈与とは共鳴であるが、その不可能性はひとつの暴力へむかう。そして略奪において完結する。
265 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 21:47:33
純粋贈与という無垢な暴力
では純粋贈与は不可能だろうか。愛する人にすべてを贈与しつく享楽の地点はいかに可能か。先に
も示したように、原始においては、自らの命を自然神に捧げる興奮の祝祭の中で限りなく享楽近づく
かもしれない。
しかし自然はなにも言わない。ただ自然は贈与しないし、略奪もしない。自然の恵み/脅威というの
は人間側の論理である。だから純粋贈与が可能だと言える。
ボクたちは自然からの恵みがなければ生きていけない。そのためにかつてに自然を超越的他者=
神として、コミュニケーション可能な位置におき、自然から恵みを贈与されると、祝祭によって返礼
し、自然へ贈与することで自然からの恵みという返礼を期待し、また自然の猛威に対しては贈与に
よって、おさめようとした。本来外部である不確実な力を擬人化によって、内部へ引き込み、疑似的
な想像関係を作り出そうと試みているのだ。
現代では、もはや自然は外部に排除されている。だから純粋贈与は愛する他者(恋人、カリスマ)へ
向かう。しかし他者から純粋贈与されたら、それは脅威ではないだろうか。いわば、かつては自然と
いう物言わぬ他者であったから純粋贈与は可能であったといえる。なぜなら純粋贈与とは負債なき
暴力だからである。すなわち純粋贈与とは純粋略奪において完結するのである。
純粋贈与の極限において愛する人とはなにものでもない。ただ外部であり、そこへ向けて負債なくた
だ略奪する。純粋な破壊行為である。 純粋贈与は純粋な略奪において達成される。たとえばそれ
はバライユが「消尽」と名付けた、儀礼化する前の原始的な供儀における非生産的な消失、破壊に
見ることができる。
266 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/11(火) 09:53:17
同一化とはまず非同一があるところに生まれる運動である。
限りない近接の中で非同一は外部と純化される。
差異化運動はわかりあえない部分を外部へと排他する。
そこでは暴力、破壊のみが生まれる。
祝祭の死の提示はこのような破壊のメタファーであり、同一化にいたる過程である。
負債のない純粋な暴力、破壊がボクたちに快楽を与えるのはこのためだ。
それこそが同一化のみちである。
しかしカントのように、あるいはマルクスのように、そしてカラ谷のようにそれは用意に止揚されるのだろうか。
267 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/11(火) 09:54:34
すべての破壊のあとに調和は訪れるのだろうか。
268 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/11(火) 10:02:06
たとえばイエスの死後、止揚された復活はこのようなすべてが許される愛がとかれた。
それはまた閉塞でもあったそれでも外部はうまれる。なぜなら同一化の運動の本質は外部の産出、享楽への欲望であるからだ。
269 :
考える名無しさん:2006/07/11(火) 10:52:02
は〜ワールドカップが終わったからPKから戻ったってわけだ。
なるほどなるほど
クダラネ
270 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:42:57
■なぜ贈与は暴力なのか
想像的な贈与
現代は貨幣による等価交換の世界であるといわれる。しかしそれでも贈与の世界でもある。一般的
に贈与は親しい人の間で行われる。家族、友達、恋人ではお金のやり取りでなく、貸し借りでもなく、
見返りのない贈与が行われている。
最近ではネットでも贈与の構図が働いている。たとえば2ちゃんねるはいろいろいわれますが、知ら
ない者どうし集まっているのに、全般的に情報の贈与で成り立っている。なぜならそれが教える方
も、教えられる方にも繋がる喜びがあるということだ。ネットは交換でなく、互酬(贈与)的世界なのだ。
贈与は「想像的な」関係をもとに作動している。他者への想像関係はもはや人間の根元である。精
神分析でいえば、幼児期の母と子の自他未分化をの地点(享楽)を求めてやまないということだ。
誰もが愛する人のためになにかをしてあげたいと思う。親は子のために、彼氏は彼女にために。愛
する者のためになにかをすることは嬉しいものである。それは相手への貸しではない。贈与すること
がただうれしのだ。
しかしこのような想像関係とは、おまえがわたしで、わたしがおまえという関係であり、愛の関係であ
るとともに闘争であると言われる。たとえば過保護な親は、子供のためといいながら、子供の人生を
横取りしているのだ。自らの人生を生きることは苦しいがまた楽しい。親の子への過剰な贈与は生
きる喜びを奪い、親自身が子の人生を楽しむという略奪でもあるのだ。
271 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:43:44
象徴的な贈与
だから様々な贈与は儀礼化されている。たとえば結婚式のお祝いは、ただ送るのでなく、渡し方、金
額など儀礼化されている。その他、誕生祝い、恋人へのプレゼントなど度を越えた形の贈与は、相
手への迷惑である。なぜなら返礼できない負債感を与え、相手を拘束するからだ。親子でも親子と
いう儀礼化された社会的な関係の中で、子供への贈与は抑止されているのだ。
精神分析でいえば、愛する人にすべてを贈与し、すべてを略奪したいという純粋贈与(享楽)を禁止
するために、幼児と母の想像関係が去勢され、象徴関係という社会へ参入することである。親子で
も恋人でも、そこには想像関係を抑止する象徴的な関係があり、それによって贈与と返礼が連鎖す
る社会が形成されている。
また儀礼であると言うことは、そこに「まなざしの快楽」が働くということである。他者へ見返りなく贈
与しようとして純粋な贈与(享楽)が目指されても、そこには第三者(まなざし)が介入し、贈与する私
に優越感という自意識を与える。
272 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:44:25
象徴的交換と想像的交換
「象徴的な贈与」は相手が誰であるかが重要な「想像的贈与」から過剰性を排除し儀礼化する。そ
れに対して、貨幣交換は等価交換であり、取引の相手が誰であるというような想像的な関係はより
徹底的に排除され、ただ市場のレートによって交換が行われる象徴的な交換である。しかしこのよう
な交換にも、想像的な関係は完全には排除できないだろう。
たとえば市場(いちば)などへ行くとその場で値引き交渉が行われる。それは買い手と売り手が単に
等価交換だけでなく、想像的な関係を構築する。それが進めば、常連さんとして安い値段で取り引
きできたりする。
あるいは商品のブランド力は、生産側と消費者の信頼関係であるとともに、想像関係で成り立って
いる。「あのブランドがお気に入り」というのはブランドへの思い入れである。なぜ同じようなバックで
高価なブランド品を買うのかは、ブランド品を持つことで、ブランドとの想像関係を結んだ人となるこ
とが出来るからだ。そしてブランドがイメージチェンジし気にくわなかれば、せっかくいままで買ってき
たのにと、恩にきせる(負債感を盾にする)。
273 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:45:04
過剰消費というポトラッチ
だから現代では消費が疑似的な純粋贈与(享楽)への行為でもありえるのだ。たとえば有名なアー
ティストの作品への強い思い入れをもち、消費するときにはそのアーティストは超越的な存在にな
る。思い入れのあまり自己破滅的な消費を行う人がいるが、これはある意味で現代のポトラッチとい
えるかもしれない。
人はどのような状況においても「愛する人」にすべてを贈与し、すべてを略奪しようと享楽の機会を
狙っているのだ。だから想像関係が排除されているはずの等価交換にも人は想像関係を見いだ
す。またここにも「まなざしの快楽」が働いている。現代の超越性は自然神でなく、みんなであり、消
費の向こうの誰かとの繋がりである。
274 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:45:40
繋がりの強度
純粋贈与は不可能であり、贈与が延滞された返礼を求めることから逃れられないとすれば、一種の
交換であるとも考えられる。このように考えると、贈与と交換はこの享楽(他者への繋がり)の強度と
考えることができる。
想像的贈与は、不可能な享楽へ近づくもっとも強度が強い。象徴的贈与はそれを抑止する。象徴的
交換は限りなく、想像関係が排除されているが、想像的交換では排除されたはずの想像関係が見
いだされる。
>>
繋がりの強度
純粋贈与/純粋略奪(享楽)−想像的贈与/象徴的贈与−想像的交換/象徴的交換
<<
275 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:46:32
純粋贈与という純粋な暴力
愛する人にすべてを贈与しつく享楽の地点はいかに可能だろうか。原始においては、それは供儀
(祝祭)の中でめざされた。自然へ返礼を求めない贈与と共に、興奮の祝祭の中で一体化する。自
らの財産を破壊するポトラッチ、また極限には自らの命さえ捧げるのである。バタイユは儀礼化され
る前の祝祭にこのような純粋な贈与に近接する「消尽」が存在したと考える。
現代では、純粋贈与の対象は愛する他者(家族、恋人、カリスマ)へ向かう。自然はなにも言わず、
純粋贈与を受け止めることができたが、生の人間への純粋贈与は脅威ではないだろうか。
純粋贈与(享楽)とはおまえはわたしで、わたしはおまえだという闘争である。そして限りない近接の
中でおまえとわたしの差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。純粋贈与(享
楽)の本質は負債なき暴力により破壊する「純粋略奪」であり、破壊できる外部の産出である。
このように考えると現代の負債なき自然破壊も外部を内部へ引き込もうとする純粋略奪である。享
楽が向かう先、受け止めることが可能なのは、いつも自然であるといえる。一体化したいとかつては
純粋贈与し、そして現代は純粋略奪するのだ。
276 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 13:48:56
容易に自然主義に接ぎ木するのは危険であるが、
まるで自己複製を増殖させるウィルスのようである。
277 :
考える名無しさん:2006/07/11(火) 13:49:30
,:'⌒ヽ
入___人
/ l l \
r、r 、/ ,l ! \ ,.-,-、
(\\\/'´l !´ヽ///)
(\` ,l ! ´/)
\ lr‐┐r ‐ 、l /
`┬‐'´ ゙l | 〉 ゚ 〈 `'‐┬´
. \. |__|(__゚__) /
\⊂ニニ⊃/
\ /
`´
このスレは18歳未満禁止です
nobuさん来てくれませんね。
279 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/11(火) 16:25:59
現代は不思議な二重性にある。ひとつは空気読め的な余裕を失った閉塞性であり
もう一つはリバタリアン的な放任、自由、自己責任である。
現代は自由なのか拘束的なのか
280 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/13(木) 11:36:19
なぜ外部が重要なのかはただ助けるべき弱々しいものでなく、略奪したいという欲望を想起する意味においてである。
倫理的な他者とは理性ではなく欲望をもとにする。
世界共和国にはそのような外部があるだろうか
理性により見せる外部は本質的な外部性をしめしえるのか。
デリダ、カラ谷の他者の虚しさを表していないだろうか。
外部の弱さ、それはフーコーの生権力にもみられる助けるべき外部
そこで見失われているのは外部はなにゆえ外部であるのかということだ。そこにむきだしの牙をもっているかぎりであり、やるかやられるかの闘争であるからだ。
バタイユの消尽を自然との調和とみてはわからない。純粋贈与は暴力であり、純粋略奪である。
281 :
考える名無しさん:2006/07/13(木) 11:58:23
大丈夫だ。
世界共和国にはM58星雲という外部が対応するから、
君の心配には及ばん。ご苦労、下がってよし。
282 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/13(木) 12:21:12
その意味でマルクスにとっての外部とは自然ではなく、資本主義そのものでしかない。
カラ谷の世界共和国もしかりである。自己言及なのである。
283 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 17:05:44
■なぜ柄谷には「外部」がないのか。 「世界共和国」と自然主義的闘争
享楽する国家
現在、資本あるいは情報のグローバル化の中でおこっているのは、ナショナリズムの台頭です。ここ
には享楽の構造があるのではないでしょうか。人は内部/外部の形而上学的二項対立を欲望しま
す。そのためのたとえば「ユダヤ人」、「韓国人」などを「断絶(ファルス)」において「幻想 fantasy」を
生み、外部へ享楽し、内部への帰属意識を高めます。
このような享楽の構造(否定神学)はネーション的内部を形成します。そして国家はこのような内部
内および外部との関係をコントロールする機能としてあります。
グローバル化によって、外部が消失し、大きな内部にむかっているからこそ、享楽の構造によって、
他国、他民族を外部へと排除し、帰属意識を高めるナショナリズム的な小さな内部(自国、自民族)
が求められているのです。
問題は「それでも「外部」は求められる」ということであり、このような享楽に対して、柄谷のいうような
外部のない「世界共和国」へ向かうことはできるのだろうか、ということです。
284 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 17:06:31
「世界共和国」という「超越論的仮象(幻想)」
資本にとっても外部とは、自然です。資本主義は自然を略奪することで継続され、環境問題が生ま
れます。ネーションの外部は、他ネーションです。また国家の外部は他国家です。ここにはナショナリ
ズムなどの闘争、搾取が生まれます。
>>
人類にとって致命的なカタストロフがおこる前に、実現可能なところから始めるほかないのです。人
類はいま、緊急に解決せねばならない課題に直面しています。それは次の三つに集約できます。
1 戦争、2 環境破壊、3 経済格差
これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が集約されてい
るからです。そしてこれらは国家と資本の問題に帰着します。国家と資本を統御しないならば、われ
われはこのまま、破局への道をたどるほかありません。
「世界共和国へ」 柄谷行人(ASIN:4004310016)
<<
柄谷の「世界共和国」では、外部と内部が調和したアソシエーションによって、これらの外部は解消
されます。そしてこのようなアソシエーションを可能にするために、国家間対立が統合された「世界共
和国」が目指されます。すなわちキーになるのは「国家」の統合であり、それはカント的な「統合的理
念」によるとされています。「世界共和国」は到達不可能であるような外部を目指すための仮象(幻
想)としてある。ある意味で目指されるべき倫理的な仮象であるということです。
これは享楽の構造に近いでしょう。トラウマ的カタストロフ(外部)によって、「世界共和国」は享楽さ
れる。そして「このような仮象がなければひとが生きていけない「超越論的な仮象」」の資格をもつと
いうことです。
285 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 17:07:50
「世界共和国」にはなぜリアリティがないのか
ボクは「環境問題にはなぜリアリティがないのか」(
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060629)と言いま
した。環境にやさしく、環境との調和の言説のむずかしさは、その構造が自己言及にあるということ
です。環境問題の「外部」とは我々の世界そのものです。我々が享受する資本主義社会の暴走が、
我々の世界を恐怖に陥れているのです。
そしてこのような自己言及において、享楽の構造による形而上学的二項対立は作動しにくい。享楽
されるような「外部」を生みにくいのです。そして現状の資本主義社会が悪いと「外部」におく、「世界
共和国」にも同様な自己言及があり、同じことが当てはまるのではないでしょうか。
これはマルクス主義そのものがもつ自己言及性です。かつての共産主義革命のときには、享楽の
構造が形而上学的二項対立を演出し、プロレタリアートに対立するプルジョアジーという「超越論的
仮象」(ファルス)を生み出せました。
たとえば現在ならば、環境問題が人類の生存に差し迫る。あるいは地球を破壊するような隕石が落
ちてくる、あるいは宇宙人がせめてくるような、トラウマ的な「外部」が見いだされたときに、「世界共
和国」はリアリティをもちえるのかもしれません。
286 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 17:08:39
自然主義的闘争の可能性
ボクは、環境問題とは有史からの外部(自然)と人間の闘争の延長線上にあり、闘争として外部を
上手くコントロールするが重要である。そしてこの自然主義的闘争という形而上学的二項対立によっ
て、環境問題は欲望されることでリアリティを持ち得るのではないか、と考えました。
理性を統整的に使用するカント的な統整的理念としての「超越論的な仮象」ではなく、欲望を想起し
享楽の構造によって産出される「超越論的な仮象」という「外部」です。そしてこのような外部の産出
こそが、「このような仮象がなけれはひとが生きていけない」ことを意味するのではないでしょうか。
>>
環境と人間とはそのはじめから闘争としてある。・・・「自然」とはこの空間、時間そのものとしてあり、
人間の「自然への思い」を遙かに越えた次元で、不確実なものとして到来する。そのトラウマ的事実
を無意識に隠蔽しているのである。そして環境からの反撃という漠然とした恐怖に、「調和」というよ
り高度なコントロールしようという新たな闘争へ向かっているのだ。
環境のトラウマ性を隠蔽した調和としての環境問題の言説にはリアリティがない。新たな闘争として
語るときに環境問題は欲望を想起し、リアリティを持ち得る。
人は「闘い」、「敵」の仮想性から逃れることはできない。そして「闘う」快楽から逃れることもできな
い。人は自然との闘争を望んでいる。自然との闘争にこそ純粋略奪の快楽があるからだ。それがま
さに人間存在のトラウマである。
これは純粋略奪の快楽という資本主義社会のみならず、人類にとって避けることが困難な自然主義
的な闘争である。・・・もはや外部がないということではなく、ここには外部と対立した内部としての思
想、倫理の再構築が求められるだろう。安易な外部環境との調和論でなくまた排除でもない。闘争と
は人類がいかに「豊かに」生き抜くかのために、対立し、活用し、管理する戦略である。
環境問題にはなぜリアリティがないのか
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060629 <<
287 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 17:09:37
マルクス主義の資本主義批判を根底にもつ柄谷の「世界共和国」は、環境問題と同じように、自己
言及であり、「外部」がない。だから欲望されにくく、「このような仮象がなけれはひとが生きていけな
い」ような「超越論的仮象(幻想)」として作動しにくい。すなわち「世界共和国」にリアリティがない。
さらに資本主義の問題を、自己言及へ回収してしまっても良いのか。ボクは自然主義的闘争という
まずもって欲望を想起し、外部を産出しつつ、コントロール技術によって乗り越えるという挑戦(闘
争)を考えた。ということです。
288 :
むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 18:29:47
それはですね、ヘーゲルが国家は戦闘状態に「なければならない」と語ることと同じな
わけですが、それが成立しなくなってきていることが現実なんですね。もっと言えば、
内部の思想、倫理というものは近代革命以降、ますます成立しにくくなってきている
わけです。自民党の憲法改正案はそれに逆行してますけどね(笑)。
289 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 19:34:23
だからネグリの「帝国」の方が「おもしろい」。
290 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 02:42:57
,. -‐''' ー- 、ヽ‐---、::::::::\ ヽ、 i、
/ ´ ̄  ̄``ヾ lヽ、`'ー゙::::::::::::::;> Y′ 、おっきいちんちん、はやくいれてぇ・・・・・
ト、 / `ヾ、=;r‐<´ヽ. ヽ.l、
-'ー゙-v': ゙´ ̄ ミ =ミ:.、. 、\.\ヾ゙;、 ヽヾヽ |
」::--三' ミ: 、 >、ミ;、ヽ ヽ. ヽヽト、 lハヽ|
,..<,r:'´ 、/;;r:''"ヾ;ト、ヽ.ヽ ヾ;ト、.` ,. -_;'ニニ;_ 、_
::://, ヽ、ベ、ミ;''ヽ;、__ノ;ゝl; ヽl」Lヽ〃rへ;_>=-‐‐.、 /./ `ヽヽ、_
::l// ,' ヽ、 ヾ;ヽ ``'´ /,>‐''" ̄__,,.. --‐''"У/::. ヾー-`'=ー-、
//.! |. , ヽ,.ヽト、,、 // ,.r '' "´  ̄ ̄ , イ ./:::::.:. i `ヽ.\
|:! .| .!i l 、 :ヽト、!l'゙`ヽ,ヽ / / / , ,.-‐/ / //:::::. | ゙、.l
ハ レl ', \ヾミヽゞ=イ / ./ ./ | ./´ ./.' ! |,'::::::::.:. / l l,
/ハVい、 ':, `ヾミ、ー>-‐:| ./ / /_|/ / | j'::::::::::.:. .,.イ:::. .! |
!.| |`トlヽヽ ヽ ヽ`ヾ:;\| / ,.' // | ,' .l ,'::::::::.:.:. .:/:;::i::::.:. | |
|.ハ. l ',.', \ヽ,ヽ `:.、 \〈 / _,. イ / .| ! ,' !::::::::.:.:. .::;' / ノ::::.:. i ,'
ヾ、い l::::/ヽ、 `ヽ、`j./´ / ,′ | | ,' .|:::::____ |:/::::.:.: / |
ヽヾ;、、l;ハ、-`ヽ、. l ノ / .l l. | .,' 「-―‐ ''"´二二二`' ー‐ - 、 __ / .l
\ヽ-‐ヽ ```` i / / .,' l、_ | .| .l 7"``::ー--===:;_三二_`'_ー-=`>-,イ
291 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 02:43:46
/ .; `ヾ! / ./.:.:';': ,イ_〃 `゙ヾ;,!:.ト:ヽ
/ :!、 `ヽ / ,'.:.:.:;:.:/´リ_` _ ノノ.:i:.゙!
〈 l'i / ヽ._ i ! ト、 ト、 !.:.:.:.:;':イ(:J〉 ,=、ヽイ.:.:.:!:.|
|iァ‐'"´ } |_/_jli./;-' i:.:.:.:.:.ト "´, ':.J〉 /.:.:;イ.::!
,li し' li/ ー- 、 !:、:.:.:i 、..__ " ,ノ,:イ:.:.:.;!
. / li ,.-==》 ヽ._iゞ:、.:.ゝ. ゙'´ /_ノ:.:.:./
. / !i. ,.-=ゞツ=-一'" _,:-、 `ヾ:.iゝ `ー--‐:ア"g´.:.:.:/
. / ゙ぐ=--'"´ /`ーァ/´ " ヽ リヽ -=彡'".:.:.:;イ
/ / ./( :.  ̄`ヽ フ".:.:.ハi
/ / ノ ` ー- -‐-、_(("ー-、
.. / /ヽ ̄ ,: "i ` !
. / / `:. _ノ l .: l
,' '´ :. ´ ヽ. ノ-'" /
| ,..:' :、 ヽ. `ーグ /
.i ,:'", : '_"´ i. ` ./ ./
! ,' ' " ,.:-‐ ー---- 、.._、 // __/___ /´ヽ._
ヽ ,. '"´ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄` ` ー'-- 、ヘ | ト._
`Y ,. `ヾJ.ノj
| ,. -─''" ̄ ゙:、
292 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 02:44:46
_Y_
r'。∧。y.
ゝ∨ノ
>>1が糞スレ ,,,ィf...,,,__
)~~( 立てている間に _,,.∠/゙`'''t-nヾ ̄"'''=ー-.....,,,
,i i, ,z'"  ̄ ̄ /n゙゙''''ー--...
,i> <i 文明はどんどん発達し r”^ヽ く:::::|::|:::〔〕〔〕
i> <i. ていく・・・・・・。 入_,..ノ ℃  ̄U ̄_二ニ=
`=.,,ー- ...,,,__ |,r'''"7ヽ、| __,,,... -ー,,.=' >ーz-,,,...--,‐,‐;;:'''""~
~''':x.,, ~"|{ G ゝG }|"~ ,,z:''" ___
~"'=| ゝ、.3 _ノ |=''"~ <ー<> / l ̄ ̄\
.|)) ((| / ̄ ゙̄i;:、 「 ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| ̄ ̄ ̄\
))| r'´ ̄「中] ̄`ヾv、 `-◎──────◎一'
├―┤=├―┤ |li:,
|「 ̄ |i ̄i|「.//||「ln|:;
||//__|L_」||__.||l」u|:;
|ニ⊃| |⊂ニ| || ,|/
|_. └ー┘ ._| ||/
ヘ 「 ̄ ̄ ̄| /
293 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 02:46:15
_,,.-'';;;;;;;;;;/ l| i /// {{i´ `''=シ、彡'、
ヾ;;;;;;;;;;;;:-''{ ヽ`ニ=彡/ `''ー (´ iヽ ヽ
ヾ/ '、_,,ノ ,,..ニシ--、,,_ _,-i ヽ }!
/ / / ((彡, ミ=r=≧;;- /≦=ヤト、 )ツ
{! / >、ミ= 、ヽゝヾ;;シ`` l''k;;シチ ))´ノ!
lヽ、 ,' (  ̄`ヾ.) ^^^` i ´^^`/'´ ハ
>、ヽ| ヾミ=‐イ '、 (__彡' ',
/,.- ヾミ、 {`=彡r,. / (´_彡'i、 ! ピザなどお召し上がり下さい、ふくよかなお方
.l/=-'´ ̄ヽ、 `{´ { {{{i、_ノ ー-`ニ- ∧ ! ヾ!,ノ
/´/ ,,. ‐={ヽ、 ``ヽ ̄ヽ、 `''ー' ,.イリノ' ヽ |l!
./ ,,.=l/ ,,.=={ヽ、` = _ 、ヽ ` 、 ,.イ ,,.ノ l ノ==、
l/ ,r=f//´ ̄ト、 `= __ ヾ、ヽ ', `´ !/ _,,,.ノヽ==、ヽ
294 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 03:46:48
【製品とは】
_、,_
@ (⊂_ ミ ドイツ人が発明
↓
A ( ´_⊃`) アメリカ人が製品化
↓
B ミ ´_>`) イギリス人が投資
↓
C ξ ・_>・) フランス人がデザイン
↓
D ( ´U_,`) イタリア人が宣伝
↓
E ( ´∀`) 日本人が小型化もしくは高性能化に成功
↓
F ( `ハ´) 中国人が海賊版を作り
↓ _,,_
G <ヽ`д´> 韓国人が起源を主張 (スレ主)
295 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 03:51:18
| .( ( | |\
| ) ) ) | | .|
|________(__| .\|
/― ∧ ∧ ――-\≒
/ ( ) \
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
|______________|
/|:: | /, つ | ::|
/. |:: |(_(_, ) | ::|
|.... |:: | しし' | ::|
|.... |:: | | ::|
|.... |:: └──────┘ ::|
\_| ┌────┐ .| ∧∧
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( _)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_, )
/ \ `
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
 ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| ̄
296 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 03:56:51
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚⌒ ⌒゚o \
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
冫 ̄ ー、, -──  ̄ ̄`ー
,/´ ヽ
/ ヽ
,レ' ´ i l
/ , ,l l
。'i ! r',ヽ l l l
,、r;, i'゙ ! ヾ'-' l. l l
_,r'´、l.レ'、 '、 , '、 ,/ l ,.!v-、,_
l L.., } ! ハ、 , ‐' ヽ、 ノ /! /`,/_,l L,
l゙l ヘ」/ l. / `''┬ ' ´ `'ー----- '´ ,/ l / !:イ、_ノ l、
くヽニ/ /__,. -─‐'ー 、 ハ / ,! , ‐''! '`ヽ:<ノ ,l
`T゙ l ! ' ! .! ,f´ ! l | ゙T´
ヽ.__ ,/ l l l
297 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 03:59:27
ノ
__ /
/⌒ ヽ / /
( ^ω^)'゙ヽ. _/ おっおっおっおっおっおっおっ!!
. /iー-‐'"i ,; /
i ! ( ヽ. ) ノ/ .:/
(\.゙ヽ_(_/,イ/
i ! (\\_,_)' ノ
(\\_,_,)'
i ! l ,i\ ヽ、 !
し'
シュッシュッシュッシュッ
298 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 14:01:04
■「世界共和国」は欲望されるか
柄谷によると「世界共和国」は、統整的理念としての「超越論的仮象(幻想)」である。そして柄谷が
理性を統整する力を「欲動」と読ぶとき、精神分析的に「欲動」が向かう先としての「欲望の対象とし
ての幻想」がみごとに重なる。
この「超越論的仮象(幻想)」と「欲望の対象としての幻想」のあまりの相似は、カントを起源にハイデ
ガーをへてラカンに到達したものである。そして柄谷が「物そのものとは(超越論的)他者である」と
いうときに、ラカンからデリダの流れを踏んでいる。すなわち柄谷はカントとデリダを繋ぎ、「物そのも
の」に、倫理的な他者を見いだす。ここではその途中のラカンの現実界という享楽の他者は迂回さ
れている。
ラカンの享楽とは、「他者」への欲望は、外部と内部の形而上学的二項対立を作り出し、「他者」を排
除し暴力となる。それに対して柄谷の統整的理念は、外部と内部の形而上学的二項対立を脱構築
し、「他者」へ開いていく倫理的な行為である。これは、同じ構造をもとに欲望によって内部へ「閉じ
る」と、理性によって外部へ「開く」ということである。しかしこのような思弁的な説明に反して、「超越
論的仮象(幻想)」と「欲望の対象としての幻想」に差を見いだすことはむずかしいだろう。
だから「世界共和国」とは統整的理念としての「超越論的仮象(幻想)」であるとともに、「欲望の対象
としての幻想」である。そして「世界共和国」の有効性は欲望されるかにかかっているのだ。まず欲
望され閉じることで、理性によって開くことが可能になるのだ。
そして「世界共和国」は、「環境問題」と同じように、現在の資本主義を批判するという自己言及性に
よって、欲望を想起する形而上学的二項対立を作り出しにくい。かつてのブルジョアジーとプロレタリ
アート、あるいは最近の帝国とマルチチュードのようには行かないのだ。
299 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 14:03:23
■「世界共和国」は欲望されるか
柄谷によると「世界共和国」は、統整的理念としての「超越論的仮象(幻想)」である。そして柄谷が
理性を統整する力を「欲動」と読ぶとき、精神分析的に「欲動」が向かう先としての「欲望の対象とし
ての幻想」がみごとに重なる。
この「超越論的仮象(幻想)」と「欲望の対象としての幻想」のあまりの相似は、カントを起源にハイデ
ガーをへてラカンに到達したものである。そして柄谷が「物そのものとは(超越論的)他者である」と
いうときに、ラカンからデリダの流れを踏んでいる。すなわち柄谷はカントとデリダを繋ぎ、「物そのも
の」に、倫理的な他者を見いだす。ここではその途中のラカンの現実界という享楽の他者は迂回さ
れている。
ラカンの享楽とは、「他者」への欲望は、外部と内部の形而上学的二項対立を作り出し、「他者」を排
除し暴力となる。それに対して柄谷の統整的理念は、外部と内部の形而上学的二項対立を脱構築
し、「他者」へ開いていく倫理的な行為である。これは、同じ構造をもとに欲望によって内部へ「閉じ
る」と、理性によって外部へ「開く」ということである。しかしこのような思弁的な説明に反して、「超越
論的仮象(幻想)」と「欲望の対象としての幻想」に差を見いだすことはむずかしいだろう。
だから「世界共和国」とは統整的理念としての「超越論的仮象(幻想)」であるとともに、「欲望の対象
としての幻想」である。そして「世界共和国」の有効性は欲望されるかにかかっているのだ。まず欲望
され閉じることで、理性によって開くことが可能になるのだ。
300 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 14:42:42
>読ぶとき
どうやって変換するのですか。
301 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:19:01
, '´  ̄ ̄ ` 、
\ i r-ー-┬-‐、i /
| |,,_ _,{| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ N| "゚'` {"゚`lリ  ̄ < やらないかやらないか!
/ トi ,__''_ ! \ \_________
\ ー .イ
 ̄
, '´  ̄ ̄ ` 、 , '´  ̄ ̄ ` 、
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ i r-ー-┬-‐、i i r-ー-┬-‐、i
やらないか〜〜〜! > | |,,_ _,{| | |,,_ _,{ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
________/ N| "゚'` {"゚`lリ N| "゚'` {"゚`lリ < やらないかやらないかやらないか!
トi ,__''_ ! ト.i ,__''_ ! \______________
∩\ ー .イ ∩ \ ー .イ∩
| ト . \ /
/ /\_」 | /
 ̄ | |
/ /\」
/ /
302 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:24:00
ヽ、 / 思 い
シ 俺 お ! ! .い い
ョ の. 前. ! | つ こ
ン. ケ | !, い と
ベ. ツ ノ l′ た
ン の ゛! ___ 丶
し. 中 ,,ノ' ´ ` ''ヾ、、_ _,.
ろ で / ヽ`'Y´
}f^'^^了t^'^'`'ー1 l
ノ|L_ ! ___ { ,..、|
'- 、.....、r‐''´ }f'tr'i ''^'tォー` }j/i',|
ヽ l.| ´ |  ̄ vijソ.!
丶 └、 Fイ l′
/ ', ‐--‐ ,イ ケ|
, ,/. ヽ `''"´,/ ! ^|ー、
/ / _,,」、'....ィ' '|. \、__
. /./ ,. ‐'''"´ ! / , _」__ヾ',
.,'.,' /´ └ 、_ ノi ノ (、_ ``ヾ!
,'/ / ヽ、 ` ''ー 、ィ-─'' r`'^ `
l| ! リ `ぅ ー=、_
| | サ 〉
ト ′ ./''ー- 、,.._
| ヽl (B / ヽ、
| !,、 ! / ∠_
,イ ヾ' ィ 、 . / ,,ィ'´
303 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:50:40
────|│
 ̄ ̄ ̄ ̄|│
____
/'':::::::::::::::''\ __,,,──,,,_
─ /:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ ∠:::::::::::::::::::::\
 ̄ (::::::::::::::::::::::::::::::::::::| │|:::::::::::::::::::::::ヽ
|\:::::::::::::::::::::::::丿 ├|::::::::::::::::::::::::::|
| ||)ヽ:::::::::::::::/ _____.| |)、:::::::::::::::::::ノ
__ヽ /::|`ヽvv, |::\ |\__ .| \_::∧:_/
── ./::::/⌒ヽ' ̄ `\|. |\|| ̄ \__ | |
W |______, ,.−'−、. |\||___ /──ヽ
| | / ___\ |\||___| /  ̄ ̄ ̄ヽ
| |ヽ/ /、 ノ|`.| | || |__| |
| | | / \_/ |:ノ | .|| ........ | | |
(,⌒ 丿 |::| ./::|  ̄⌒ヽ \シュッ l|i|! !丿 |
 ̄ `| ⌒ヽ`─ | | シュッ i||!|i|!i|!,____|
\| | '─ ′ ( ̄ ̄|:::::::::::::::::::::ノ
'─-′ _,,..i'"':,`-─└───
|\`、: i'、
\\`_',..-i
\|_,..-┘
304 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:52:02
___
/rニー 、` ー、
/´/'´ _,. l,.....ヽ ヽ
r''ヘ_ _ ,.r' l lヽ .i
,r '´l _. リ ! / l.〉 l,r
l 、i(._` `ー-‐'ヽ./ l`
,r::'::::l !ヽ_`ヽ_,..、 '⌒r_'
r‐ 、 _ i:::::;::;_;l-'´` ‐ ̄._ l _,、_'ノ- i、._
l `-、..-i' ´ ヽ_,.ゞ- 、 r ' ´ ̄ /:::::::::`ヽ
! ,..rー、 ヽ. ヽ ./ _,...-::'´:::::::::::::_;/
ヽ、 / ,ヽ. i. ヽ -r:::::'::::´:::::::::::;::::-‐::':´::::::)
`‐/ 、__ ./ヽ,入_,ノ l ,r'´ ` ー ::::_::::::::::::::_;:::- ' ´
_,/ /. ヽ_ _,.. -ヘ-'  ̄
r' ´ ヽ  ̄
ヽ、 _ノ
` ―― ''´
「あれだけで1万かぁ・・・割に合わねえよなぁ・・・」
305 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 01:05:29
___, - 、
/_____)
. | | / ヽ .||
|_.| 0 0 ||_
(/ ⊂⊃ ヽ) | /  ̄ ̄ ̄ \
! トェェェイ ! | ( ( (ヽ ヽ
,\.___`ニニ´__./、. | | −、ヽ\ !
ゝ/  ̄ ̄ ̄ \ /. \/ ̄\/ .\ | 0 |─ |__ /
/ _____ヽ | | _┌l⊂⊃l | | ┌ - ′ ) /
| | / ─ 、−、! | | / ∋ |__| | | ヽェェェイ ヽ <
|__|─ | 0 .| 0 | | /`, | | ` ─┐ h ̄
( ` ─ o−i ヽ / ____ \ .ノ .j ̄ ̄ |
ヽ、 トェェェイノ / ̄O二二 / _ _ ヽ ̄ ̄ \ /  ̄ ヽ\
// /ヽ─二二二O / ,-(_ b )、| \ i ./ |\\
| | / `i'lノ))┘/ , ─ 、 | .王ミ | 、王 l⊂⊃l┐__ヽ__/\ / | | |
| | | ̄| / /| / ( (... ..) ) ヽ ヽ-―┴ ´ノ |____|∈ __./ .| | |
|_|/ヽ、_/ ./ ` ─ ´  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ \-──| \|_|
| | |───/____i ̄l=======l ̄ |_ ____ __\ |\ | |
|/ ヽ── |______\ l二|^|二二|^|二l 丿______ |_丿 \|
l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | | |. | | | | | | | |  ̄ ̄ ̄ l
| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄.| |────| |. | | | | | |.──────| | ̄ ̄ ̄| ̄
306 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 01:20:45
::::::::::::::: ヽ,,
::::::::: ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,'i,
:::::::: i~ ,------,i _____
::::::: :i i' ,;-'i ,-'"~ ̄ ̄ ̄ ̄\,, /−、 −、 \
:::::: :i i i ・i (_/\/\/\ ヽ / | ・|・ | 、 \
::::: _i,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,i `','''i; | ─ 、 ─ 、 ヽ ヽ | / / `-●−′ \ ヽ
:::/~,,~~,~_ ___''',,,,,,,,,,,,,/ ,) | 。.| 。 |─ |,-. | |/ ── | ── ヽ |
::i ,,d ,,;'""" `';,,, " `i; |` - c` ─ '_ 6lノ |. ── | ── | | ______
::i,,___ i ,,,,,,,,,, `'----'" . ヽ (____ ,-',> | ── | ── | l | ̄ ̄||__o__||__
::::::: i i'" "; ヽ __ /ヽ ヽ (__|____ / / | ||____]__o_]
::::::: i `-、.,;'' / `ー'" l ^ヽ \ / / | || o ||
`'-----j | 〈 | | l━━(t)━━━━┥ ,|__||_____||
┌―――──|| |
| ときメモ ⊂ヽ /
(⊇ ONLINE (- ノ
307 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 01:27:28
/ \ 一家そろって シュッ!シュッ!シュッ!
|/ ̄⌒ ̄\ \
/|/l/|/|./ ⌒ ⌒ | \
三 ̄ ̄ ̄\/ | | > < \ | ζ ____
/ __ / ____|| ⊂ 9) ⌒\  ̄ ̄ ̄ ̄\/∵∴∵∴ \
/ >⌒ / / || ___ \ | ) ヘ ∴∵∴∵∴\
/ / (・) / / / \| .\ \_/ /−|⌒ ⌒ /ヘ \\∴∵|
|_/---○|_ | ・ ・ | \____/ |(・) (・) ||||||| (・) ヽ∵|
| (6 |(6レ ∴ つ l.-‐''<_________/゙゙`'' ‐-. ⊂⌒◯-------9)⊂ 6)
| ___| __ /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::`、|||||_ | __ /
\ \_\ \_ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|_/ \ / ヽ_/ /
\___/\___/::::::::,,=ニニ三ニ三ニニ=、::::::::::::::::|____/ \____/
_| |_ __| y:::::::::/ , '〉::::::::::::〉 |__ _| |_
/ / |::::::::/)c'; i'. ::c:: (\j |:::::::::::::| \/ \
| | |::::::ハ .、 ` " .') \l:::::::::::::| .| |
| \ | \ 〈::::/ ゙-`-'. >-..,_,..‐' \::::::〈 / | / |
\ \ \ \ |::/ /、,,ニ' `、ニ_,,-‐"\ \::l / / / /
308 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 01:31:23
_________ _
┃ ̄ ̄ ̄┃"-:. | / \
┃ ┃ ヽ.. | | 頭 | フフフw あまり私におしっこをさせない方がいいw
┃ ┃ ヽ| __| (_
┃___┃ |ヽ: / \
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヾ / /| | |
| タ | ヽ/ / | | |
| | / /, | | |
| ン | \ \| | /
| | \| |
| ク | | ノ |
| | | Λ |
|_____| ________ | | | |
| | | | | |
| 便器 / | | | |
| / | | | |
| │ ( | ( |
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
309 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 01:33:33
, - ― - 、
/::::::::::::::::::::::::::::::::`丶、
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ::ッV∧V∧V∧V∧V∧V∧V∧V、
,':::::::::::ィ、::::::::::::::::::::::::::::::::::≫ キャーッ!! ≪
. i:::::::::/__,、ゞハ;ノヽj;;::イ ┬'≫ >>のび太さんのエッチ!!≪
!::::::,' ''''''''' '''''''' ノ/ィ//〃//〃//〃//〃//〃//〃
f⌒ij.. (●), 、(●) | )
ゞ_ィ `ー ,,ノ(、_, )ヽ、,,. ノ_'´ ,r'' ~''‐、
_,.-::::人 `-=ニ=-. ハ:: ``丶、 { . ..:. ::j ::::::::
∠'''- '´/`-、 `ニニ´. , ィ' `ヽ''' ::::::` 、_ ノ:::::::::::::::
:(⌒)::::: / ` ー- ' ´ i::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
:::::::::::::::i l:::::::::::::::::::::::::::::::::(⌒):
::::::::::::::l i , -―- 、 l l:::::::::::::::::::::::○:::::: :
:::::::::::::l l / ) l l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
::::::::::::l:,,,,,,,,..i/........./`''ー- '´.....l...........l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
310 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 02:13:36
_____
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, /−、 −、 \
/_____ ヽ / |<●>|<●> | 、 \
| ,,,,, 、 ,,,,,,、 ヽ | | / / `(●●)′ \ ヽ
|( ●) (● ) |─ |___ |/ ── | ── ヽ |
|` (●●) ′ 6 l |. ── | ── | |
. ヽ f{++++lレ_ ,-′ | ─ ,,,,,,-,、── | l
ヽ`'''`'″ /ヽ ヽ (_f{++++lレ.__ / /
/ |/\/ l ^ヽ \ `'''`'″ / /
| | | | l━━(t)━━━━┥
/ \
311 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 02:53:39
あら?
313 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 03:55:20
__
/ `i
__ζ___ / |
/ _ \' | ■■ ■■■■
/ l波l \ | ■■■ ■■■■■■
| , ---、  ̄ ,---、 | ヽ | ■■■ ■■■ ■■■
| l、 \ヽ // l | .ヽ| ■■■ ■■ ■■■
| |||. (・)| |(・) .| | | ■■■ ■■ ■■
| |‐‐‐○l |つ | | | ■■■ ■■ ■■
ヽ ヽ. |||| ||| / l__ | ■■■ ■■ ■■
\ `ー‐' ::::`ー' / ヽ | ■■■ ■■
,, -‐'' ̄''▽ヽ___/||:: ヽ |l ■■■ ■■
,, -‐''., ― 、 ヾ, ヽ / ||: |::::::〈::l ■■■ ■■
. r‐厂(~.二.~)、 ヾ \ /. ||: |:::::::::V ■■ ■■
「| | |`ーイ ヽ || || |:: |
| | | ヽ X 〉::.. || ::: || |:: | ■■ ■■
ヽヽヽ ン /::: :::|| : || .....ii:: / ■■ ■■
 ̄(()_|/!!: :::||. || ..:::::: /
314 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 04:03:55
で?
315 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 04:13:02
,ミ ヽ / ̄ ̄ ヽ, ノ///
ゝ \ / ', / く
⌒\ \ {0} /¨`ヽ {0} .', / /⌒
\ \ l トェェェィ ', / / _/\/\/\/\/|_
\ \ リ `ー'′ ', / / \ /
\ ⌒ ⌒ / < しらねーよ! >
ヽ / / \
', |  ̄|/\/\/\/\/\| ̄
', |
\ \ .....
_ノ  ̄`丶.
/` ̄ \ |─-- 、_ )
( _、 --─ーヽ...... __ | / /
', 丶 ' | ,' /
', j | │ | ,'
', | ( ) | /
', | | | ,ノ 〈
> ヽ | | ヽ.__ \
/ __.ノ | .| \__)
(__/ | |
,ノ ヽ
ヽ.__. \
\__)
316 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 04:42:35
♪ ζ⌒ ⌒ ⌒ ⌒ ヽ
( ))
(( ))
( )
(( )⌒ ⌒ ⌒ ⌒ヽ )) ♪
( ) (・) (・) | )
(6-------◯⌒つ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| _||||||||| | < へい!へい!へい!BOY♪
\ / \_/ / \_________
♪ \____/
ノ ーニ- (≒) ' (( (≒)
( |、 ,l || \ 。|| ))
丶\V ( )\\/∈)
丿丶丶// \/
====\/====
( ▽ \ ♪
\ \ \
\ ) )
/ / /
( ヽl ヽl
Vヽ_つ、_つ
317 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 04:43:49
,..-‐:.、
/:::::::::::::ヽ
l::::::::::::::::::丶
!::::::::::::::::::::::ヽ _
':;:::::::::::::::::::::::ヽ ,::':´:::::::ヽ x `" ´ ` ' x.,
';:::::::::::::::::::::::::'、 /:::::::::::::::::::', y^:' . : : :.<
':;::::::::::::::::::::::::', /::::l:::::::::::::::::::::l 〉 ' : : : : x`
ヽ;::_;_/⌒l:::::'、 !::::::|:::::::::::::::::::::| ァ':' . : :,: 'メ
( rっ^ヽ::┴:::‐'::-:::ヘ::::::::::::::::::l キ' : : ; :':.ナ
f´ ~ 、_.ノ:::::::::::::::::::::::::ヽ:;:_::_::ノ ,': . . : : ,:': k'
/`:ー:':::::::;:: ‐ ´  ̄ ` ヽ:;ヽ、 彳: : . . . :,: : ;x!
/::::::::::::::/,....、 r:.ヾ:':, そ: : : : ':':' :' : :f`
!::::::::::::/ i:::::::! l:::::! l::l 'x;、: : : : : :;_rt^
l::::::::::::l ';::::ノ o `~ l::! //`^ヘィ'`
!::::::::::l 、__ ,. リ,-〈メ、
ヽ::::::::':、 /´}‐' ノ これ尿道にぶちこむぞ
` -:::_ヽ、 _ ィ´ /〉- ´
/´::`::ー:::‐ァT:´:::::/_,//
__/ヽ::_::_:::::::;/ ヽ:_::イ//
f´ / ̄ | ~
ヽ ノ !
318 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 08:37:05
,、 ,、
l \ / l
| \ __ / |
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| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:::. | ふなぁ〜むしぃ〜
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| |\ ' ノ::::`´::::::: ', ::::::r'
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| ,. -―‐' | 人 Y
| / i / ヽ、 /
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', / |
ヽ / ,'
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>――'´ fト、 {
/ `'' i
319 :
考える名無しさん:2006/07/15(土) 08:52:17
/\___/\ べ
┌v ''''i''''v┐ / ⌒ ⌒ ::: \ ろ
(. ){. | } .) .| (●), 、(●)、 | べ
. ( .)゙'ヽ_,ノー' .| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | ぁろ
. `ー' ,、.┴┴ 、 | /トェェェェェイヽ' .::::| あば
ノ >-─|<`ヽ、 .\ |,r-r-r| .:::/ ああ
く へ, V、_,/ '`-.`| | |´―´´\ ぁ!?
(⌒ヽ\ノ,〉 >'、\/⌒j .,! ! !
{ ヽ、 テ彡⌒ ⌒} _,..-‐ '’ '’ノ
| } 丶 . .,,___ノ、/´ _,. -一 ''"´
|. { し'´ .} |
⊆ニゝ ● ヽニ⊇
320 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/15(土) 19:31:33
岡本太郎が生み出そうとしているのは無垢である。
321 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/15(土) 19:42:08
無垢は贈与であるとともに暴力であり、略奪である。
外部へすべてを捧げることですべてを略奪するのであり、また外部ははじめからあるのでなく、
その暗闇への飛躍により外部は無垢としてあらわれるのである。
322 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/18(火) 00:15:07
■享楽の構造と「愛の関係」
「バタイユ 消尽」
「バタイユ 消尽」 湯浅博雄(ISBN:4061597620)を読みました。バタイユの思想はフロイト、ラカンと
同じ構図を持っています。ラカンとはフロイト、コジェーブに師事したお友達ですから当然です。バタ
イユの特色は、文化人類学への展開です。
バタイユは、原始の祝祭におけるポトラッチなどの返礼を求めない純粋な贈与を「消尽」と呼びまし
た。大切なものを自然へと捧げ、さらに破壊します。これは享楽の構造と言えるでしょう。自然という
外部へ「聖なるもの」というファルスを通して、見返りなく、贈与する。そのような祭りの身体的な興奮
の場において、「返礼」を求めるよこしまな思いを進入させる言語を乗り越え、自然と一体化するよう
に享楽する。
323 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/18(火) 00:16:04
「愛の関係」
さらに本書の後半部では、キリスト教などの否定神学的な閉じた共同体の形成に対して、「愛の関
係」という倫理的なものが示されます。「愛の関係」とは決して同一化できない他者へむけて「消尽」
しつづけることで開き続ける倫理的な関係ということです。これは必ずしもバタイユのものではなく、
湯浅氏がレヴィナスを迂回して考えた解説のようにですが。
この倫理的な「愛の関係」は柄谷、デリダの「他者」と近いものではないでしょうか。柄谷は「他者」と
はカントの「物そのもの」であるといいました。
>>
デリダの、柄谷の「他者」は、倫理的な意味をもつ。到達不可能であることはわかっているが、「(現
実界)の他者」へ到達しようという、「(象徴界の)他者」を「反転」しつづけるという終わりなき試みへ
の決意である
なぜ「継続」こそが「正義」なのか? その3
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050617 <<
これは統整的理念としての「世界共和国」に重なります。理性を統整的に使用することで決して達成
されるものではない「世界共和国」はたえず現状に対する批判としてありつづけるということです。
つぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
325 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/18(火) 00:17:03
「消尽」という暴力
しかし現代、恋人などへ「キミのために全財産を消尽する」と言われた場合にはどうでしょうか。恐怖
するのではないでしょうか。なぜならば消尽(純粋贈与)は享楽であり、精神分析的に悪い転移(イマ
ジネールな闘争)、暴力であるからです。原始における祝祭の「消尽」が可能なのは、相手が「自然」
だから止めどなく消尽することができるのです。
愛する人にすべてを贈与しつく享楽の地点はいかに可能だろうか。原始においては、それは供儀
(祝祭)の中でめざされた。自然へ返礼を求めない贈与と共に、興奮の祝祭の中で一体化する。自
らの財産を破壊するポトラッチ、また極限には自らの命さえ捧げるのである。バタイユは儀礼化され
る前の祝祭にこのような純粋な贈与に近接する「消尽」が存在したと考える。
>>
現代では、純粋贈与の対象は愛する他者(家族、恋人、カリスマ)へ向かう。自然はなにも言わず、
純粋贈与を受け止めることができたが、生の人間への純粋贈与は脅威ではないだろうか。
純粋贈与(享楽)とはおまえはわたしで、わたしはおまえだという闘争である。そして限りない近接の
中でおまえとわたしの差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。純粋贈与(享
楽)の本質は負債なき暴力により破壊する「純粋略奪」であり、破壊できる外部の産出である。
なぜ贈与は暴力なのか
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060711 <<
つぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
327 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/18(火) 00:21:06
享楽の構造と「愛の関係」の差異
では享楽の構造(否定神学)と、「愛の関係」(脱構築し続ける倫理的「他者」)どのように差異を見い
だすことができるのでしょうか。
享楽の構造(否定神学)とは他者を外部へ排除することで、内部への帰属を高めます。そして産出さ
れた外部へ負債なき暴力という「純粋略奪の快楽」が生まれる。「超越論的仮象(空想)」は内外を
分ける「断絶(ファルス)」の位置にあります。
それに対して、「愛の関係」は享楽の構造によって内部へ閉じる外部へ開き続ける。すなわち脱構
築されつづける。「超越論的仮象(空想)」は理性的に検討される対象となります。
このように思弁的に差異は説明はできるとしても、享楽の構造と「愛の関係」が区別するのは難しい
でしょう。
動力は享楽の構造であり、欲望されることで脱構築も意味を持つのです。だから享楽の強度が重要
になります。
つぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
329 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/18(火) 09:47:30
純粋暴力の快楽
330 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/18(火) 12:35:46
政治的立場なき立場は可能か
おまえ本当に日本語が不自由だな。
332 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 13:51:20
ねたねぇ〜
333 :
考える名無しさん:2006/07/19(水) 13:53:39
なら黙って引っ込んでろ。
334 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 13:54:54
早っ!
335 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 14:25:28
柄谷は「他者」を未来の他者と呼ぶ。たとえば反証可能性を上げている。
反証可能性とは「未来の他者」が反証することに開かれていることである。
この「他者」は共同体の外に存在する。
ラカンは他者について様々に思考してきた。
小文字の他者=現前の他者、大文字の他者=共同体そのものをつり上げる他者
これらの他者に共通するのは、人は他者を欲望するということである。
小文字の他者への欲望に失敗し、大文字の他者への欲望に失敗し、
空想によってごまかされるが、それにも失敗し、また空想を見る。
そこには決して到達できない「現実界の他者」がいる。
脱構築は閉じた空想を暴露し、開く。柄谷の「他者」はこの開かれの先にいる。
すなわち「現実界の他者」と同じである。
ただ違うのはラカンの「現実界の他者」が欲望によって目指されるのに対して、
柄谷の「他者」は理性的統整によって目指される。
ラカンは人間そのものが失敗し続ける受動性に動力を求めているのに対して、
柄谷は理性的に失敗させ続ける能動性に動力を求める。
無意識と意識的テクニックの違いである。
336 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 14:42:19
ボクは反証可能性を科学技術そのものがもつ力だといった。
高速で伝達され反証されることそのものが客観性であり、実働としての効果をもちえる。
その力は欲望にある。人が欲望するかぎり、閉じ続けることなどありえない。
これは倫理的なものでなく人間の特性である。
337 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 14:53:34
カラ谷がいう他者は超越論的であるのは正しい。ものそのものに他者がいるのでなく
ものそのものは仮象(幻想)でしかありえないのである。
ものそのとのトラウマ的接触が他者の空想を生むのだ。
338 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 15:02:02
他者は本質的にトラウマ的である。他者への開かれが倫理的でありえるのは閉じること、空想で意味付けることが一般的であるからだ。
339 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 15:08:13
だから他者を外部へ排他し罪悪感なく「殺害」する。
340 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 16:36:03
■なぜ「他者」に開くことは征服なのか
柄谷の「開く他者」とラカンの「閉じる他者」
たとえば柄谷は「他者」語るのに反証可能性を例に上げている。反証可能性とは「未来の他者」が反
証することに開かれていることである。この「他者」は共同体(内部)の外に存在する。
ラカンは「他者」について様々に思考してきた。小文字の他者=現前の他者、大文字の他者=共同
体(内部)そのものをつり上げる他者。これらの他者に共通するのは、人は他者を欲望するというこ
とである。そして小文字の他者への欲望に失敗し、大文字の他者への欲望に失敗し、「空想」によっ
てごまかされるが、それにも失敗し、また「空想」を見る。そこには決して到達できない「現実界の他
者」への欲望がある。
柄谷も「他者」は脱構築とつなげることができる。内部の外へ、外へと脱構築する、開き続ける。ラカ
ンのいう閉じた「空想」を暴露し、開く。だから柄谷の「他者」は超越論的他者であるとともに、すなわ
ち「現実界の他者」と同じである。
341 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 16:36:46
欲望の他者と理性の他者
「他者」は本質的にトラウマ的である。柄谷が「他者」への開かれを倫理的なものとして見るのは、閉
じ、空想で意味付けることが一般的であるから、開かれに理性的な意識を対応させるのだ。「閉じて
はいけない。開き続けよ。」
ラカンの「現実界の他者」は欲望によって目指されるが、柄谷の「他者」は理性によって目指される。
ラカンは人間の止めることができない「受動性」に動力を求めているのに対して、柄谷は理性的な
「能動性」に動力を求める。無意識と意識の違いである。欲望と理性の違いである。
342 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 16:37:22
「他者」に開くことは征服か、倫理か
ボクは「反証可能性」を科学技術そのものがもつ力だといった。高速で伝達され人々に反証されるこ
とそのものが客観性を構築し、トライ&エラーとしての実働的効果を持つ。それは人々の「世界征
服」への欲望によって閉じては開きを続ける。
柄谷の理性はなにによって作動するのか。そこに欲望があるとき、意識的な「開く」理性は、無意識
な「開く」欲望に回収されてしまう。そして開くことがただ倫理的であると言えるだろうか。
343 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 22:58:48
脳死問題・・・脳死からの臓器移植を認めるか
クローン問題・・・クローン人間を認めるか
中絶問題・・・中絶を認めるか
ネット上の著作権問題
344 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 10:39:34
なぜ政治的な発言はためらわれるのか
日本人だからあいまい?
345 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 12:28:24
なに、それ
聞いてるの?
どうせ書くこと決まってんだろ。
さっさと書けよ、読まんけどな。
346 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 12:34:49
豊かさの快楽
347 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 12:38:55
一行レスはしないでください。
レスのしようがありません。
あと、もっとレスレベル上げてください。
348 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 13:05:02
救いようのない思い上がり
自分の悪文が有り難いお言葉ときたもんだ。
>ではなぜここにアップしたのか。
2ちゃんねるは限りなく発散的であり、そこにある構造物はことごとく解体され、一瞬にして便所の紙のごとく過去ログとして流されていく。
だから建設者には忌み嫌われる。
2ちゃんねるでは、建設者はそのプライドを捨てて名もなきいち「名無しさん」になれはてなければならないし、そして書かれた有り難いお言葉は、訳のわからない厨房に馬鹿にされ、さらにはその人格まで誹謗中傷されたあげくに、一瞬にして便所の紙となりはてる。
このような屈辱に耐えられるか。だから建設者は、保護された自分の居場所をもち、じっくり建設する。
349 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 13:15:33
>このような屈辱に耐えられるか。
その程度のことが屈辱か。
まさに自分こそ厨房であって、ただのネットおたくだと自覚すべきだな。
350 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 13:27:25
>さらにはその人格まで誹謗中傷されたあげくに、
しゃしゃり出なければ、その心配はないよ。
>一瞬にして便所の紙となりはてる。
一瞬にして、というのは君が書いたその刹那ということだよね。
本当に力のある文は、「厨房」が何をいおうがその価値は変わらんものだがね。
「有り難い言葉」なるものは、受け入れられて初めてその効力を発揮するものだがね。
君、何読んだかしらんが何もしらないね。
ジャーゴンを駆使することだけに長けて、人の上に立ったつもりなのだろうけど、
まるで幼児のプライドだね。
351 :
建設者:2006/07/20(木) 13:42:22
やあ (。・_・。)ノ
352 :
建設者:2006/07/20(木) 13:43:55
ん、うーん(;>_<;)
353 :
建設者:2006/07/20(木) 13:47:08
ふ〜(^_^)
では
354 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 15:40:57
小泉首相にとっては、なんとも苦々しい記事が讀賣夕刊一面を飾ったようですね。
355 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 16:31:39
豊かさは快楽である。
豊かさは生存に対する保障になり、生存率を高める。
また豊かさは他者との差異により際立つ。
しかし豊かさの快楽はこれらだけでは組み尽くせない。
豊かさは端的に快楽を与えてくれる。無垢を与えてくれる。豊かさは祭りである。
356 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 16:44:57
短パンは不適切だ。
あれは、半ズボンか、ハーパンって言うのが正しい。
短パンは、ドラえもんののび太や、レイザーラモンや猫ひろしが着てる奴を指す。
まあ、年代問わず、ハーパン着てる男なんか大嫌いだが。
357 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 16:46:43
豊かさの快楽とは祭りを日常化することにある。
近代の資本主義社会は祭りの日常化をめざしている。
共産主義社会の敗退は祭りの日常化を抑圧したことにある。
祭りとは儀礼化した祭りをこえていくなにかである。
後期資本主義は選択という消費の祭りからイベント化という祭りにむかっている。
イベント化という祭りはコンテクスとの脱構築である。
358 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 16:55:32
19日午後7時50分ごろ、米花市米花町のホテルロビーで「眠りの小五郎」として知られる
探偵毛利小五郎さん(45)が頸部を針のようなもので刺されて死亡、警視庁捜査一課が 毛利さんと一緒にいた男子小学生(7)を重過失致死の疑いがあるとして補導して いたことが分かった。
小学生は毛利さんの知人の子供で、以前から毛利さん宅で一緒に 暮らしていたという。
関係者によると、毛利さんが偶然居合わせた殺人事件の現場で警察の捜査に協力していた ところ、
小学生が突然毛利さんに向かって麻酔針を発射し、毛利さんはその場で意識を 失い呼吸困難に陥り間もなく死亡した。
小学生は警察の取調べに対して、麻酔針は以前から何度も繰り返し使用していた、毛利 さんを殺害する意思は全くなかったと説明しているが、
一方で自分は高校生探偵だなどと 訳のわからないことも話しており、警察では小学生の精神鑑定を実施するとともに、 腕時計型麻酔銃の入手経路などについても調べを進める予定。
359 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 18:31:03
■豊かさとはなぜ祭りなのか
豊かさは快楽である。豊かさは生存に対する保障になり、生存率を高める。また豊かさは他者との
差異により際立つ。
しかし豊かさの快楽はこれらだけでは組み尽くせない。豊かさは端的に快楽を与えてくれる。無垢を
与えてくれる。豊かさは祭りである。豊かさの快楽とは祭りを日常化することにある。近代の資本主
義社会は祭りの日常化をめざしている。共産主義社会の敗退は祭りの日常化を抑圧したことにある。
祭りとは儀礼化した祭りをこえていくなにかである。後期資本主義は選択という消費の祭りからイベ
ント化という祭りにむかっている。イベント化という祭りはコンテクスとの脱構築である。
360 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 18:40:32
有り難いお言葉どーも
361 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 18:51:33
たしかに物質的豊かさと祭りに正確な相関関係はない。
たとえば祭りを享受するためには「若さ」が必要である。
しかし日常的に祭りに参加し続けるには豊かでなければ困難である。
また物質的な豊かさは「余裕」を生み出すことで祭りへの参加の意欲を高める。すなわち「若さ」さえ生み出すのだ。
祭りとは非生産的贈与であり、暴力であり、破壊である。
362 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 19:08:18
社会は豊かになり祭りがあふれている。しかし豊かさとパランスを忘れ祭りに没入しすぎると破綻するだろう。
363 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 19:11:22
どーもどーも
364 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 19:39:23
■なぜ豊かさは祭りをめざすのか
豊かさは快楽である。豊かさは生存に対する保障になり、生存率を高める。また豊かさは他者との
差異により際立つ。しかし豊かさの快楽はこれらだけでは組み尽くせない。豊かさは端的に快楽を
与えてくれる。無垢を与えてくれる。豊かさは祭りである。豊かさの快楽とは祭りを日常化することにある。
祭りとは儀礼化した祭りをこえていくなにかである。祭りとは非生産的贈与であり、暴力であり、破壊
である。
近代の資本主義社会は祭りの日常化をめざしている。共産主義社会の敗退は祭りの日常化を抑圧
したことにある。後期資本主義は選択という消費の祭りからイベント化という祭りにむかっている。イ
ベント化という祭りはコンテクスとの脱構築である。
たしかに物質的豊かさと祭りに正確な相関関係はない。たとえば祭りを享受するためには「若さ」が
必要である。しかし日常的に祭りに参加し続けるには豊かでなければ困難である。また物質的な豊
かさは「余裕」を生み出すことで祭りへの参加の意欲を高める。すなわち「若さ」さえ生み出すのだ。
社会は豊かになり祭りがあふれている。しかし豊かさとパランスを忘れ祭りに没入しすぎると破綻す
るだろう。
365 :
考える名無しさん:2006/07/20(木) 20:04:11
はんがー
ありがてぇありがてぇ
366 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 22:03:20
人々が興奮したとき、それを解消するためには他者を必要とする。
他者とそれを共有することで興奮の不快は抑えられる。
快感原則は他者を必要とする。
悩みを誰かに相談するのもこのような効果である。
そして祭りの興奮も同様である。
367 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 00:02:20
世界は他者でできている。
他者とは言語である。
ボクたちは言語で世界を認識する。
「痛み」は言葉であるし、「言葉にならない気持ち」も言葉である。
言葉は他者の言葉である。
そこには絶えず他者が介入し続ける。
しかしそれでも「痛み」という言葉の向こうに"痛み"はあるだろう。
言葉がとんだ瞬間、それは不可能なほどにわずかに
他者が介入しない「純粋な」痛みが表れる。
たとえば祭りである。儀礼化した祭りでなく、
人々との偶有的な興奮の共有としての「祭り」では、
言葉はとび、限りなく「純粋」な興奮が訪れる。
そしてそのとき新たな「他者」とであるのである。
コミュニケーションのツールとしての言葉を越えたのにもかかわらず、
コミュニケーションしえているという他者である。
しかしそれは正確には「他者」ではない。
「他者」とは言語であるからだ。そして「私」も言語である。
だからこの出会いは他者と私の出会いを越えた「純粋」な出会いであり、
不可能な出会いである。
368 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 00:08:52
しかしコミュニケーションとはそもそもこのような不可能な「純粋な出会い」としてある。
言語のやり取りという興奮の中で、「純粋な出会い」が遠くにかいまみえる。
他者とのコミュニケーションは興奮であり、興奮の解消である。
たとえば悩みを誰かに相談するのもこのような効果である。
コミュニケーションは興奮そのものも生みだすとともに、それを解消する。
他者とそれを共有することで興奮の不快は抑えられる。
快感原則は他者を必要とする。
369 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 00:19:55
しかし「純粋な出会い」では限りなく危険な出会いである。
限りない近接の中で他者と私の差異は外部へと純化され、排他され、
そして破壊が求められる。それは「純粋な暴力」である。
370 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:22:27
あ〜りが〜たや、ありがたや〜
>ぴか、 さあ、割り箸詰め作業に戻ろうか
i | |
| _____人__/
i_,,, r´_ _〉
((テヽ!´ _ _ /_ _j
ゝ_i  ̄ |  ̄ i
ゝ ヽ (_、__j_)ヽ ノ
, イ ヽ、 ii /
/ \ ヽ =ニ= /
/ \ `ーj---‐i´i\
\/ !j \
_ ,,,,_ /\ \ ,c、.c、
___/´ 、、ヽ/i :|三三三三三三三\.ヽ.ヽ二l
// \ \/ .i / ,.-、-、| |: |
| | 、\ \ \! |:| !
| ヽ_,r.'\rj)、rj) !| |
\___/ / | /
372 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 10:35:43
.i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i ;,,_,,;;;;;;;;,,..;_ 、 ,.__..,;_,,,;;;,,;;;;;;;;__,,___ ....;;;;;;;;;;;;;;;;;
:!;;;;;;;;;;;;;;;;;;フ;'"゙゙゙゙゙゙゙゙゙~~ ̄゛ `!i、  ̄´  ̄ .`''‐ i;;;;;;;;;;;;;;;; 空気嫁と言っていれば
. l;;;;;;;;;彡;;;;;ゝ .if'=====ー゙ :: ,.========r ゙i;|.l;;;;;;;;;;
ヽ;;ノ;;;;;;;;;;;;;;; .`''`-ヽ--''゙゙゙ ;; '゙ゝヽ-ノ-‐'゙´ ;.i;;;;;;i.フ;;;;;;l 2CHでは超有名人!
゙l;;;;;;;;;;;;`、 ,! : ,、|ll/ ;;;;;;;;r"
i;;;;;;;;;;;;;;l、 / ;:;: :.゛゛:l ;;;;;;;;./
'';;;;;;;;;;;;;i i;;;;;;.;:;:;;;;;;;: .i;;;;;;;;;;;;;;;
/;;;ゝ ./´:::: ´;:;:;;;;;; ,!;;;;;;;;;;;;;;;;;i そんなふうに考えていた
ミ;;;;'! .ヽ;;、_;.::__::::;;:: /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;!
: 、.-、/;;;|l `;:;:;: ,.ノ.::: :lく;;;;;;;;l゙゙′ 時期が、俺にもありますた。
''";;;;;;;;;;;;;'l、 .,, :::::::::___ ・ ,'" :::::: .ヽ;;;;;丶;
;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ, ゙゙--= ゙̄~゛`''>,,._,..,r;" ,,l゙ :::::::::::: i;;;;;;
.`";'"゙;;;;;;;;;;;;;i、 ヽ_ ゙̄ ̄゛_、 __r::::::::::::::::: ヽ
;;.'ミ;;;;;;;;;:'.、 ゙゙゙゙"'''"~ ‐"":::::::::::::::::::: i
373 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 11:11:45
不吉なことを…
遠からずジャーゴンの嵐が吹くぞ。
平伏すがよい。
374 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 11:41:39
いや今日はぴか氏が一晩かけて調べたドゥルーズに関する詳細な解説が読めるはずだ。
わくわくジャーゴンランド。
375 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 12:01:19
ネタ夏枯れのあなたにネタ提供。
なぜボクのお言葉は有り難いのか。
376 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 13:24:34
ものそのものは外部であり、それとの相対的に現象はあらわれる。
しかしものそのものの本質はそれがあるか、ないかでなく、認識の中で必要とされる概念であるということだ。
カントはアンチノミーを説明するための調停的な第三者の位置としておいた。
すなわち真理をもとめる過剰を抑止する仮想点としてある。
377 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 13:29:08
ハー ジャーゴン様のお出ましだー
>真理をもとめる過剰
これはどういう意味ですか?何がどう過剰なのかちゃんと説明して。
379 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 13:33:36
多分
わからないのはあなたがボクのテキストを読む力がないのです
とかいってスルー
380 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 13:41:30
ぴかぁ〜
なんでこのボクがこんなクチュジョクに晒されなければならないんだ。
ママー
381 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 13:46:45
はいはいピカちゃん。あなたは偉いのよ。
あなたのいうことがわからない人は、劣等人種なのだから相手にしてはいけないのよ。
そうだよね、ボクは常に正しいんだよね、
ママー
うんボクまけないよ。
382 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 13:52:06
ジャーゴン中毒
自己のジャーゴンに酩酊していると思われる。
383 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:08:25
■なぜ柄谷の「他者」は暴力でもあるのか
カントとラカンの欲望論
ものそのものは外部であり、それとの相対的に現象はあらわれる。しかしものそのものの本質はそ
れがあるか、ないかでなく、認識の中で必要とされる概念であるということだ。カントはアンチノミーを
説明するための調停的な第三者の位置としておいた。すなわち真理をもとめる過剰を抑止する仮想
点としてある。
これはラカンの欲望論と重なる。ラカンにおける現実界とはそれがある、ないではなく、到達できない
ことによって欲望されることで、ある点です。そして欲望は現実界があるように擬装して現実という幻
想を作り出す。この現実はカントのいう現実=現象ということになるだろう。
そしてカントはこのような幻想を感性(直観)と悟性(理性)による統覚の働きに求める。カントにはこ
のような幻想に向かう構造の説明はあっても力についての言及はないが、あえて言えば、統覚とは
自己が自己として同一であり続けるという力による。これをラカンの欲動を結びつけることはそれほ
ど難しいことではないだろう。
384 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:10:26
柄谷の「他者」という暴力
柄谷はものそものを「他者」と呼ぶ。それは共時的共同体の外、そして現在の外としての未来の「他
者」である。柄谷の「他者」は脱構築とつなげることができる。内部の外へ、外へと脱構築する、開き
続ける。
これもまたラカン的である。象徴界を共有しない現実界の「他者」。象徴界内部では解消されないア
ンチノミーの解消=真実は、外部の他者に求められる。人は真実を欲望する。この欲望が外部の
「他者」へ開かれ続ける。そのような「他者」がいるかどうかではなく、真実を求める欲望が「他者」を
生み出すのである。
そして真実を求める欲望は、ある意味で暴力である。現状という秩序の破壊であり、また未知を開
拓するという暴力である。そして真実を求めるというよりも、暴力をふるうことそのものが欲望なので
ある。すなわちリビドーの解消に向けて、真実を求める名のもとに暴力が行われることは排除できない。
385 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:11:02
反証可能性機械
だから柄谷のようにものそのものを単に倫理的なものとして楽観的語ることはできないのである。た
とえば柄谷は「他者」語るのに反証可能性を例に上げている。反証可能性とは「未来の他者」が反
証することに開かれていることである。
それに対して、ボクは「反証可能性」を科学技術そのものがもつ力だといった。高速で伝達され人々
に反証されることそのものが客観性を構築し、トライ&エラーとしての実働的効果を持つ。それは
「真実(他者)」への欲望を動力によって、資本主義社会の根底で作動する開いては閉じる「反証可
能性機械」であるのだ。
>>385 「機械」と呼んでしまうと話がおかしくなりませんか?
この場合、「機械」と言う言葉を、何と対置させて使っているんですか?
387 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:48:18
■なぜ「物そのもの」は暴力的であるのか
カントの欲望論
カントの「物そのもの」は外部であり、それとの相対的に現象はあらわれる。しかし物そのものの本
質はそれがあるか、ないかでなく、真理を考える上で必要とされる概念であるということだ。カントは
アンチノミーを説明するための調停的な第三者の点として物そのものをおいた。
これはラカンの欲望論と重なる。ラカンにおける現実界とはそれがある、ないではなく、到達できない
ことによって欲望される点である。そして欲望は現実界があるように擬装して現実という幻想を作り
出す。この現実はカントのいう現象(幻想)ということになるだろう。
そしてカントはこのような幻想を感性(直観)と悟性(理性)による統覚の働きに求める。カントには幻
想に向かう構造の説明はあっても力についての言及はないが、あえて言えば、統覚とは自己が自
己として同一であり続けるという力による。これをラカンの欲動を結びつけることはそれほど難しいこ
とではないだろう。
388 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:48:56
柄谷の「他者」という暴力
柄谷はカントの「ものそもの」を「他者」と呼ぶ。それは共時的共同体の外、そして現在の外としての
未来の「他者」である。柄谷の「他者」は脱構築とつなげることができる。内部の外へ、外へと脱構築
する、開き続けるという倫理的なものである。
これもまたラカン的である。象徴界を共有しない現実界の「他者」。象徴界内部では解消されないア
ンチノミーの解消=真実は、外部の他者に求められる。人は真実を欲望する。この欲望が外部の
「他者」へ開かれ続ける。そのような「他者」がいるかどうかではなく、真実を求める欲望が「他者」を
生み出すのである。
そして真実を求める欲望は、ある意味で暴力である。現状という秩序の破壊であり、また未知を開
拓するという暴力である。そして真実を求めるというよりも、暴力をふるうことそのものが欲望なので
ある。すなわちリビドーの解消に向けて、真実を求める名のもとに脱構築的暴力が行われることは
排除できない。
389 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:49:43
「物そのもの」という「機械論の欲望」
「近代自然科学の哲学的基礎付けをした」といわれるカントの「物そのもの」はデカルトの「コギト」同
様に、そこに開拓されていない、そして決して組み尽くせない「未知」があるのだという「機械論の欲
望」を想起されるフラッグでもある。だから柄谷のように「物そのもの」を単に倫理的なものとして楽観
的語ることはできないのである。
>>
しかし「方法序説」(ISBN:4003361318)に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖
の叫びは、また享楽への叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、
「人間は機械だ」ということではないだろうか。「我思う故に我あり」とは、人類が「機械論の欲望」を
見出した瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ。
そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。「コギト」を消去することに
躍起なのだ。それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているの
が、「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く
有効な手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。
「自由に享楽させろ」 享楽自由主義の時代
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060309 <<
390 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 14:50:19
反証可能性機械
たとえば柄谷は「他者」語るのに反証可能性を例に上げている。反証可能性とは「未来の他者」が反
証することに開かれていることである。
それに対して、ボクは「反証可能性」を科学技術そのものがもつ力だといった。高速で伝達され人々
に反証されることそのものが客観性を構築し、トライ&エラーとしての実働的効果を持つ。それは
「真実(他者)」への欲望を動力によって、資本主義社会の根底で作動する開いては閉じる「反証可
能性機械」であるのだ。
少し分かりかけてきました。質問に答えないことが答えなのですね。
思考・議論することや根拠の提示を拒否して、「ボクはこう解釈する」を繰り返すことで、
「ボクだけはかけがえのないボクであり、機械ではないのだ」と叫んでいるのかもしれませんね。
つまり「機械」と対置されているのは「ぴかぁ〜」ということですね?
392 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 15:08:40
反証可能性は幻想の上塗りではない。到達できない(超越論的)
真実があるという確信のもと思考はすすめられる。
そしてこの確信を支えるのは欲望である。
393 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 15:14:13
ん?またあぼーんが増えてきたな
「欲望が確信を支える」というより「目的論的」と言うことではないでしょうか?
「機械論」と「目的論」は対義語なので、そうであれば話がおかしくなると書きました。
395 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 15:24:16
欲望論がわかっていないですね。機械論と目的論は対立しません。
その程度で質問など三年早いですよ。
「欲望論」というものは聞いたことがありません。
機械論と目的論が対立すると言うのは、その「欲望論」用語ではなく、
哲学用語の話です。
国語辞典にもありましたので哲学用語以前に日本語の話でした。
一応はっておきます。
きかい-ろん 2 【機械論】
〔哲〕〔mechanism〕
あらゆる現象を機械の運動になぞらえ、因果法則によって解明しようとする説。
一七世紀の科学革命を通じて広く流布した世界観。
目的に向かっての現象の生成・完成を認めない点で目的論に、
また、生命特有の現象を認めない点で生気論に対立する。
三省堂提供「大辞林 第二版」より
398 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 15:32:50
馬鹿か
399 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 15:43:28
一遍しねや糞ぴかぁ
400 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 15:48:08
基本的に荒らしはスルーです。
が答。
異を唱えるものはぴかぁにとっては、全て荒らし。
哀れなオタク。
401 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 16:02:15
ヒュームのコンベンション、スミスの神の手、カントの現象、マルサスの人工論、ダーウィンの自然淘汰、フロイトの超自我、そして構造主義
402 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 16:04:51
創発論の系譜
403 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 16:30:09
パクリがチクチクささって便所紙にもならんな。
404 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 17:10:20
今日のジャーゴン開陳は終了ですか。
シスターファッカーぴかぁ殿。
>>394-398 お気を悪くなされたのなら謝ります。
老婆心ながら、ぴかぁ〜語と日本語の対応関係の説明がないまま進められるなら、
だれからも理解してもらえず孤立する一方ないのではないかとご忠告したわけです。
406 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 20:36:12
しかしYouTubeは一気に来ましたね。
ネットがテキストベースなのは、転送速度の制約からです。
常時高速接続が一般的になることで始めて、画像、そして動画が
活発にやり取りされることだできるようになったということです。
しかしそれも今後もネットがテキストベースであるのは変わらないと思います。
接続速度がいくら高速になろうが、人間の情報処理速度は変わらないからです。
それでなくても大量の情報が溢れているのに、画像、動画は扱いが難しい。
だからボクは動画は本質的にネットでは一般化しないのではないかと
思いましたが、YouTubeが一気に来たのは驚きました。
正確にはアクセス数、情報転送量が増えているだけで、
コミュニケーションではないし、特に日本の場合は
マスメディアの切り取りの公開以上ではないのですが
407 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 20:38:54
いらんこといわんで、黙って引っ込んでろ。sageでやれ、ヴォケ
408 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 20:51:21
だからテキストコミュニケーションの添え物であり続けるのかもしれません。
「極楽の加藤が泣いた」というネタでテキストを書くときに、
YouTubeへリンクする。
どうもそれ以上ではありえないように思います。
それでもすでにYahooに匹敵するアクセス数はものすごいことですが。
409 :
考える名無しさん:2006/07/21(金) 20:54:01
はいはいわかった
誰もお前の話しに興味ない
帰れ帰れ
410 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/21(金) 23:53:44
ロールズの無知のベールの個人とは統計的な個人である。
無数に多くの人を母数にするときに、個人の個性は正規分布に埋没する。
たとえばもっとも豊かな人も、正規分布上の必然の一人となる。
そしてそれが誰であるかは、偶然でしかない。
マキシミン・ルールなど統計学につなげる当然の仮定である。
411 :
純一:2006/07/22(土) 00:10:43
ふんふんふん〜♪
>ぴか、 さあ、割り箸詰め作業に戻ろうか
i | |
| _____人__/
i_,,, r´_ _〉
((テヽ!´ _ _ /_ _j
ゝ_i  ̄ |  ̄ i
ゝ ヽ (_、__j_)ヽ ノ
, イ ヽ、 ii /
/ \ ヽ =ニ= /
/ \ `ーj---‐i´i\
\/ !j \
_ ,,,,_ /\ \ ,c、.c、
___/´ 、、ヽ/i :|三三三三三三三\.ヽ.ヽ二l
// \ \/ .i / ,.-、-、| |: |
| | 、\ \ \! |:| !
| ヽ_,r.'\rj)、rj) !| |
\___/ / | /
413 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 03:13:22
池沼ジャーゴンぴかぁ
嫉妬深い野郎だぜ。
腰を下ろせば
鹿の糞
415 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 09:10:55
|::::::::::::::::: ____________ :::::::::|
手 |::::::::::::: ,. '":::::::::::::::::::::::::`ヽ. ::::::::| 頭 ど
遅 |::::: /::::::::く:::::::╋::::::::>:::::::::\ :::| で. こ
れ |:::: 〈:::::::::;:::--- 、─ァ -- 、:;:::::::::〉 :::| す が
で. .|::::: ,〉'" `'´ `ヽ! :| か 悪
す |:::: / / ハ ハ ヽ ヽ 、 ', | ゜ い
ね. |:::: i ,' /!__i_, !' ! ,_ハ__ハ ', ! ', ん
゜/:: ノ.! ! /,ィ-ァ!、! レ',ィ-=!、! i ハ 〉 で
´\|:: 〈 ノ Yレヘ''ゞ-' ゞ-''/レ' ン ∠、 す
:::: 〈 ハ !ハ." ______ "ハ ハ ! ! か
:: ノ、 `ァ'_」>、._`ー' ,,.イ/イ、ノ ヽ. ?
/ `ァ''´ ', ヽ干´ン::::::::::::`ヽ. `''ー─
! ヽ/ ,y ヽ、. .,!':::::::::.y::::::::::::',
〉r〈_,.-、7-、 Y十::::.::::::i::::::::::::::〉
: レ^iY⌒ヽ,イ'ヽ-! .|::::::::::::::;ハr、::::Y
:: '! ,ィ〈 `y'´`ヽ!::::::::::::/´⌒'/'
::: Y´ヽ、)-'、___ノ、::::::::/ /
416 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 09:19:02
_ _ _ _
/::. ソ . :;;ヽ /::. ソ . :;;ヽ
/::. ..:::;;;ヽ /::. ..:::;;;ヽ
/::. ..::;;;;ヽ /::. ..::;;;;ヽ
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iミ:::ミC= ≡..::: ) iミ:::ミC= ≡..::: )
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|::: | ミ ヽ\| |::: | ミ ヽ\|
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|::: | ミ ヽ\| |::: | ミ ヽ\|
|::: 丶ヽ ..:ヽ ) |::: 丶ヽ ..:ヽ )
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( \ l. | ..:;;;;;;| ( \ l. | ..:;;;;;;|
|::\∨丿 ″..:;;;;;| |::\∨丿 ″..:;;;;;|
|::: ( ( ゙ ..:;;;;;| |::: ( ( ゙ ..:;;;;;|
417 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 09:28:16
_,,....、
/ ゙j <やっほー
゙fi__/
ri´ `''、
l ..l, |
_..-¬'―-、 / / .|
,/´ ゙'ミ'''ぐ'‐、, / | ___ /
-''7/ l ! .ヽ |.,..-'~゛ `゙l
./│ ! ,! l ./ ....-¬'ヘv、,,、
,!,!.! l l lイ .,..r''/ ..l│\
.!.!.l' / ! l.l l゙.! l /,! ゙l ...―-、
l/ / / .ノ、! !..l-′ ノ/ .ト--''|゙/ .冂´゙'、 ...---、
,! /ー'" ./ l'{ニ] l ,iシ゛ / .l./ ./.! .|''} !/゙'',
.! / /ヽ .、 ゞ .iリ ,/ Λ / iジ .|.l.〉 .,/l゙ ,!
| / ,,/ ._,〃 "'iく..| __. ./ / | .! ./ ,/./ ノ'" /
.! .┴'''''" .r'" ゙‐ .′.! ゙゙'- ......xニ- .「^'''"! "''''ゝ '" ″ .ゞ ノ
418 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 09:30:16
._,-‐'"゙゙゙゙゙゙゙'''ー、、 O〜 O〜 O〜
.,/ `'i、 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 ←1
,i´ .,――-、 ヽ O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜
,l゙ ,i´ ゙i、 │ O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 ワー
| | 卵子 .} | O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜
゙l、 .ヽ 丿 .,i´ O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 ワー
ヽ `'ー--‐" ,/ O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 ワー
\、 ,/ O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜 O〜
`'ー-,,,,,,,,,,--'"`
419 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/22(土) 10:07:16
■なぜ豊かさは快楽なのか
"他者"との「純粋な出会い」
世界は他者でできている。他者とは言語である。ボクたちは言語で世界を認識する。「痛み」は言葉
であるし、「言葉にならない気持ち」も言葉である。言葉は他者の言葉である。そこには絶えず他者
が介入し続ける。
しかしそれでも「痛み」という言葉の向こうに"痛み"はあるだろう。言葉がとんだ瞬間、それは不可能
なほどにわずかに他者が介入しない「純粋な」痛みが表れる。たとえば祭りである。儀礼化した祭り
でなく、人々との偶有的な興奮の共有としての「祭り」では、言葉はとび、限りなく「純粋」な興奮が訪
れる。そしてそのとき新たな"他者"と出会うのである。
コミュニケーションのツールとしての言葉を越えたのにもかかわらず、コミュニケーション可能な"他
者"である。しかしそれは正確には他者ではない。「他者」とは言語であるからだ。そして「私」も言語
である。だからこの出会いは"他者"と"私"の出会いを越えた「純粋な出会い」であり、不可能な出会
いである。
しかしコミュニケーションとはそもそもこのような不可能な「純粋な出会い」としてある。言語のやり取
りという興奮の中で、「純粋な出会い」が遠くにかいまみえる。他者とのコミュニケーションは興奮で
あり、興奮の解消である。
たとえば悩みを誰かに相談するのもこのような効果である。コミュニケーションは興奮そのものも生
みだすとともに、それを解消する。快感原則は他者を必要とする。他者とそれを共有することで興奮
の不快は抑えられる。しかし「純粋な出会い」は限りなく危険な出会いである。限りない近接の中で
他者と私の差異は外部へと純化され、排他され、そして破壊が求められる。それは「純粋な暴力」で
ある。そして「祭り」である。
420 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/22(土) 10:08:39
豊かさの快楽
豊かさは快楽である。豊かさは生存に対する保障になり、生存率を高める。また豊かさは他者との
差異により際立つ。しかし豊かさの快楽はこれらだけでは組み尽くせない。豊かさは端的に快楽を
与えてくれる。豊かさの快楽とは「祭り」を日常化することにある。
「祭り」とは儀礼化した祭りをこえていくなにかである。祭りとは非生産的贈与であり、暴力であり、破
壊である。近代の資本主義社会は祭りの日常化をめざしている。共産主義社会の敗退は祭りの日
常化を抑圧したことにある。さらに後期資本主義は選択という消費の祭りからイベント化という祭り
にむかっている。イベント化という祭りはコンテクスの脱構築である。
>>
消費物資や商品の、部分で全体を表すというこの換喩的方法の繰り返しは、過剰そのもののおか
げで集団的な一大隠喩によって、再び贈与としての見世物的で無尽蔵の潤沢さのイメージとなるの
だが、それは祭りのイメージに他ならない。
「消費社会の神話と構造」 ジャン・ボードリヤール (ASIN:4314007001)
<<
物質的豊かさと祭りに正確な相関関係はない。たとえば祭りを享受するためには「若さ」が必要であ
る。しかし日常的に祭りに参加し続けるには豊かでなければ困難である。また物質的な豊かさは「余
裕」を生み出すことで祭りへの参加の意欲を高める。すなわち「若さ」さえ生み出すのだ。
豊かさの快楽とは、不可能な「純粋な出会い」への純粋な贈与である。
Scienceの昔の意味は「知識」でした。
Natural Science/Philosophyが発展してニュートン力学が生まれ
科学(Science)、特に物理学が「知識」を具現するものになります。
結局残った残りカスの妄想が哲学なので、現代では
哲学=妄想
科学=知識
という状態になっています。
他の思想は社会科学(SocialScience)と改名してがんぱっていますが
理系からは相手にされていません。
422 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 11:23:39
祭が日常化したら祭じゃなくなるから、
また祭が必要になるわな?
祭やイベントが常態化しても、それが日常なのだから新たな祭が創出されるってことか?イカレちまうね。
423 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 11:30:54
// _ ゝ─‐-、_
/7 / //んri`ヽ.
| // / // 〃 1 l ヽ
{7 /ハ-l-‐/‐' 、 l/l j j i
/_,! イj ^ー-‐' メ、l/ll |
/ { リ ! , ヽ.__刈 |
|ハ | r─- 、 ハ l
| l ! | 〉 /`ト j
V l ハ ヽ.__,/ ./_ノl/
廴l iヽ. , ィi l /
/久トノ ` ー ''´ ! l l l/
/ ___ ゙ ,:-'´ヒヒ丶
/´ ヽ` ̄ ー-゙:.、
i - 、 `ヽ_
l: 、.: ヽ ゙i"
! i ; n .:c.: ', _..ハ
| ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
| ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 /
/ゝ丶7 / 7 ._ / > 「了
./ ./丶 \ //===∧ r‐ァ | / 「了 /´_==| |=='ゝ __
//ヽ\ / | 7 // | |. / /== | |=='ゝ / ∠==| |=='ゝ / ヽ
,/ ゝ ヽ` =‐/ (. | l____,-、/ /. | | / | r'7| |_,-、 // `ヽ\
| l ̄ || / / .ヽ. | 「 ̄フ/ ===| |=='ゝ.| | /,ヘ」 | ̄ / ´====='ゝ ` =‐-
| l__|l .// 丶ヽ_ || '´ | | L_レ' ヽ 二了 ===ァ‐ァ==='ゝ
! !-- !!/ \_|.」 l__/ヽ =====---===' ゝ _/∠... 」\
|_| よ く じ ょ う せ い と か い ヽ _,. -¬、_ノ
424 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 11:41:04
| | | | l .| .| l .| l .l ,,,,,、ヽ‐''"~"''‐ \. ::. : :::.. ...::::::: ...:::: ( ̄⌒|
. l.|. l l l l l l | .l._!、-''"'~ \ ヽ ヽ :::.....::::::.... ..:::....::::::: ::::::.........::::::.. > ミ=_ .:|
. | l l l .l l l. l l/ヽ _,,、-‐‐\ \ 、 :: :::. .. .: ::::::. ヽ〜-, :|
l l i. l .l. ヽl. l ヽl l ._,、.'",、-‐'''、~iヽ.、 \~"' :::: ..::::: .::: ,r=:;;、..::: .. :.....::..:/ / :|
! ヽヽ .ヽ ヽ ヽ ヽ .l./ /-,{:::。::::} .|' \ \ .:: .:.. .ゞ_;;ノ .:: :: ゝ、_ - |
ヽ\ヽ. \ヽ ヽi /,ヘ-' ヾ;;;;;ツ / l\. .: .::::::::.. ..::::::::::::、. ::. ( _,へr'.|
. | | ヽ、 \ヽヽ、|  ̄ヽ,_,、-‐''"~" .l_,、 :: :: ::.. `ヽ、`ヽ、 :: ::::::.. ,'
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ヽヽ l.ヽヽ.l .l /.ヽ ,____,,,| | l l `i`、`、 | .| ⌒ヽ =ミシ〜ー./
ヽ ヽ \、.|./ /. ヽ .十‐十‐十‐|-|、} } | ゝ-__,,.、ソ、》 /
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426 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 02:03:54
否定神学は本質的には「死」に向かう。
フロイトの「死の欲動」であり、ハイデガーの「死に向かう存在」である。
これらは西洋思想の根底にある「死の思想」である。
たとえばニーチェがディオニソス的というとき、「死の思想」への反論であり、
「生の思想」への回帰である。
しかしこれを「力への意志」へと展開するとき、「死の思想」へ戻ってしまう。
「力への意志」とは死を生へ転倒した否定神学である。
ディオニソス的が否定神学と逃れるのは、力とは集団性であることを
的確に指摘するからである。この差異は、1神教と多神教に対応する。
神という否定神学へつり上げる1神教に対して、多神教は複数性へ開かれる。
これは自然神である。
どこにでも神はいるというだけでなく、そもそも神という「他者」は存在しない。
外部(自然)と内部は未分化であり、神とは未分化そのものである。
そして死は存在しない。生と死は未分化であり、ただ連続性としての力があるだけだ。
それがディオニソス的、あるいは東洋的な「生の思想」である。
ニーチェがディオニソスでわずかに開き、その後閉じた。
そしてその後の多くの優秀なニーチェの後継者たちの中で、
唯一継承しえたのはドゥルーズぐらいだろう。
ハイデガーも、ラカンも、デリダも否定神学、「死の思想」から逃れ得ていない。
427 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 02:14:26
たとえばデリダが脱構築というときにその向こうに「他者」を見いだす。
これは倫理的なものであると言おうが、本質的に「死」である。
外部には「他者」は存在しない。ただ未分化が存在するだけである。
しかし哲学的な言説を用いる限り、この未分化を表現することは
不可能である。それを語ることで、他者が進入してしまうからだ。
ではいかに語るのか。アンティオディプスはその試みとしてある。
428 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 02:30:10
だから西欧的な法秩序(契約)社会は否定神学的に「死」につり上げられ成立する。
「死」を保障する「他者(1者)」との関係によって形成される。
「死」とは個人と同義であり、社会は個人の契約によって成立するのである。
それは、マルクス主義であろうが、リベラリズムであろうが変わらない。
「死の思想」である。最近のロールズの正義論はまさに顕著である。
429 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 02:44:42
言葉は、様々な秩序、平等、自由、法、正義を語る。しかし現実はずれている。
どのようなすばらしい秩序への構造も必ず失敗する。
平等も、自由も、法も、正義も必ず失敗する。
現代では、正の秩序としての「死の思想」に対して、
現実に必ず失敗させ続ける悪の「生の思想」の構図で
語られる。「生の思想」はそのような位置で存在し続ける。
このようなまどろっこしいことは止めて、
かつてのように、そのはじめから平等、自由、法、正義など存在しない。
未分化でありつつ、結局今と本質的にかわらず秩序ある社会は
語ることは禁止されている。
現実に必ず失敗することを誰もが知っていても、「悪」と呼び、
平等、自由、法、正義があるように振る舞うことが儀礼である。
それが「死の思想」の社会を生きるということである。
それがカントがいう統整的理念である。
430 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 02:50:45
ではなぜ「死の思想」は「生の思想」を凌駕しえたのだろうか。
それは西洋で科学技術が発達し、世界を資本主義社会へと変えていったからだ。
そして科学技術は本質的に「死の思想」であるからだ。
科学技術とは同一性と反復であり、反証可能性という力である。
このような還元主義はその根底に、「死」の概念によって成立する個を
前提にするのだ。
社会の下部構造としての科学技術の発達は世界を開拓し、「死の思想」を
布教しているのである。
未分化を未分化として受け入れる「生の思想」は「悪」として排除されるのだ。
431 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 03:03:08
ベタにいえば、先進国は一夫一婦制である。それは法秩序としてあるが、
まるで純粋な愛とは一対一であり、それが一夫一婦制を支えるように転倒される。
現実にボクたちは、むしろ多数の人に好意を持つという日常の自分を知らないように
振る舞う。そのようにしかない現実を間違ったことのように、考える。
この現実を、不可能な理想からのズレとして受け入れるようが、そのまま不条理として
受け入れようが、現実そのものはある秩序をもち進むのである。
ただ現代は、「死の思想」が全面化し、不可能な理想からのズレとして受け入れられているのだ。
432 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 03:43:28
仮に「生の思想」を目指すなら、一夫一婦制を脱構築する、あるいは一夫多妻制の他者へ開くのでは
まったく不十分である。なぜなぜなら一夫一婦制など存在しないのだから。
脱構築も思弁の域をでない。
現実は脱構築的なのであり、そのような現実そのものを受け入れることが、「生の思想」である。
「死の思想」の世界ではこれは不可能な領域である。
433 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 06:47:07
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| ミ ミ/ ̄ノ二__‐──ァ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽニニ二二二ヾヽ ミ .ミ |
| ミ | =彳o。ト ̄ '´ !o_シ`ヾ | ミ |
| ミ | ー─ ' ./ ⌒ ヽ. `' '' " | ミ |
| ミ | i i | ミ |
丶 ミ | | .| . | ミ /
丶 ミミ | 'i i' | ミミ /
丶 ミミミミミミ| " ─ " |ミミミミミミミ /
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434 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 06:48:05
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| / (・) (・) | もっといい声で鳴けや |
(6 ⊂⊃ | \________
| l , ,| v ____
| \つ_/ / ̄ \
| \___// _______
/⌒ - - ⌒ | /┌⌒┐┌⌒
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\ \| 亠 | ∫6 ι└─ つ -┘ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\⊇ /干\| | ┌─〜─つ < 助けてドラえも〜ん
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( /⌒v⌒\_ \____/
パンパン| 丶/⌒ - - \
/ \ | | / |
/ ノ\__| |__三_ノ| |
/ /パンパン| | | |
/__/ | | | |
435 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 06:50:31
陰部陰部陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰部陰部陰部
陰部陰部陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰部陰部陰部
陰部陰●陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰●陰部陰部
陰部陰部●部陰部陰●●●●●●●陰部陰部●部陰部陰部
陰部陰部陰●陰●●部陰部●部陰部●●陰●陰部陰部陰部
陰部陰部陰部●部陰部陰部●部陰部陰●陰部陰部陰部陰部
陰部陰部陰●陰部陰部陰部●部陰部陰部●部陰部陰部陰部
陰部陰部陰●陰部陰部●●●●●部陰部陰●陰部陰部陰部
陰部陰部●部陰部陰●陰部●部陰●陰部陰部●部陰部陰部
陰部陰部●部陰部●部陰部●部陰部●部陰部●部陰部陰部
陰部陰部●部陰●陰部陰部●部陰部陰●陰部●部陰部陰部
陰部陰●陰部陰●陰部陰部●部陰部陰●陰部陰●●●陰部
陰●●●陰部陰●陰部陰部●部陰部陰●陰部陰●陰部陰部
陰部陰部●部陰●陰部陰部●部陰部陰●部陰●部陰部陰部
陰部陰部●部陰部●部陰部●部陰部●陰部陰●部陰部陰部
陰部陰部●部陰部陰●陰部●部陰●部陰部陰●部陰部陰部
陰部陰部陰●陰部陰部●●●●●陰部陰部●陰部陰部陰部
陰部陰部陰●陰部陰部陰部●部陰部陰部陰●陰部陰部陰部
陰部陰部陰部●部陰部陰部●部陰部陰部●部陰部陰部陰部
陰部陰部陰●陰●●部陰部●部陰部●●陰●陰部陰部陰部
陰部陰部●部陰部陰●●●●●●●陰部陰部●部陰部陰部
陰部陰●陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰●陰部陰部
陰部陰部陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰部陰部陰部
陰部陰部陰部陰部陰部陰部●部陰部陰部陰部陰部陰部陰部
436 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 07:02:03
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/∵∴∴,(・)(・)∴\
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/∵∴∴,(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)∴\
/∵∴∴,(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)∴\
/∵∴∴,(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)(・)∴|
|∵∵/ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ \|
|∵ / 三 | | | | | | | | | | | | 三 |
|∵ | __|__|_|__|_|__|__|_|_|__|__|__|_ |
\| \__________________/ /
\____________________/
437 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 07:53:27
_,,_|||皴遵r┬-辯簷梭皀●蘗墺泅r┬-荏犬罠柊r┬-槞肌莱ソ翼薪●衂嫦r┬-戳丶
/_諡贏_____● ___● _____λ___● 倹 _●\__
/∵∴∵∴∵孝奄∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵6775030a19∴丿∴∵∴∵∴譎∴∵∴∵∴∴∵\
/∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴昃∴∵∴∵∴/∴∵∴∵∴淙錫∵∴∵∴∵∴∵∴∵\
/∵∴∴((・)(())(・)(・)(())(())(・)(・)(・)(())(・)(())(・/(・)|・)(・)(())(・)(・)())(・)(・)()(・)(・)∴|
|∵∵/ ○ ○ ● ○ ○ 臠 ○ ○ ○ ○ ● ○|○ ○\ ○ ○ ○氓○ ○ ○ ● ○ ○ \|
|∵ / 三 ||| ||| | | ||| | ||| | |||||||| | ||| |/ | ||| /| | | ||||||||||||| ||| | ||| ||||||||三 |
|∵ | 〆 __|__|_|__|_|__|__|_|_|__|ロ_|_/|_|_|__|__|_|ロ|__|__|_|__|__|__||__ |
\| ||||((\___甘___□_甘甘____/__嘔__●甘甘___甘_□__||_/ /
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438 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 10:27:08
/∵∴∵∴∵孝奄∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵6775030a19∴丿∴∵∴∵∴譎∴∵∴∵∴∴∵\
/∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴昃∴∵∴∵∴/∴∵∴∵∴淙錫∵∴∵∴∵∴∵∴∵\
/∵∴∴((・)(())(・)(・)(())(())(・)(・)(・)(())(・)(())(・/(・)|・)(・)(())(・)(・)())(・)(・)()(・)(・)∴|
|∵∵/ ○ ○ ● ○ ○ 臠 ○ ○ ○ ○ ● ○|○ ○\ ○ ○ ○氓○ ○ ○ ● ○ ○ \|
|∵ / 三 ||| ||| | | ||| | ||| | |||||||| | ||| |/ | ||| /| | | ||||||||||||| ||| | ||| ||||||||三 |
|∵ | 〆 __|__|_|__|_|__|__|_|_|__|ロ_|_/|_|_|__|__|_|ロ|__|__|_|__|__|__||__ |
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/(●) (徊)\ /(●) (●)\ /(●) (●)\ /(●) (●)\ /(●) (●)\
r┬-痣訟●游殷r┬-臈殉范皐椁偏窯懋●艤杞
439 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 19:33:39
■なぜ社会は「死の思想」なのか
「死の思想」と「生の思想」
否定神学は本質的には「死」に向かう。フロイトの「死の欲動」であり、ハイデガーの「死に向かう存
在」である。これらは西洋思想の根底にある「死の思想」である。たとえばニーチェがディオニソス的
というとき、「死の思想」への反論であり、「生の思想」への回帰である。しかしこれを「力への意志」
へと展開するとき、「死の思想」へ戻ってしまう。「力への意志」とは死を生へ転倒した否定神学である。
ディオニソス的が否定神学を逃れるのは、力とは集団性であることを的確に指摘するからである。こ
の差異は、1神教と多神教に対応する。神という否定神学へつり上げる1神教に対して、多神教は
複数性へ開かれる。これは自然神である。どこにでも神はいるというだけでなく、そもそも神という
「他者」は存在しない。外部(自然)と内部は未分化であり、神とは未分化そのものである。そして死
は存在しない。生と死は未分化であり、ただ連続性としての力があるだけだ。それがディオニソス
的、あるいは東洋的な「生の思想」である。
ニーチェがディオニソスでわずかに開き、その後閉じた。そしてその後の多くの優秀なニーチェの後
継者たちの中で、唯一継承しえたのはドゥルーズぐらいだろう。ハイデガーも、ラカンも、デリダも否
定神学、「死の思想」から逃れ得ていない。たとえばデリダが脱構築というときにその向こうに「他
者」を見いだす。これは倫理的なものであると言おうが、本質的に「死」である。
外部には「他者」は存在しない。ただ未分化が存在するだけである。しかし哲学的な言説を用いる限
り、この未分化を表現することは不可能である。それを語ることで、他者が進入してしまうからだ。で
はいかに語るのか。「アンティオディプス」はその試みとしてある。
440 :
純一:2006/07/23(日) 19:34:11
ちなみに、ここの荒らしは私がやっとります。
441 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 19:34:29
正の秩序「死の思想」と悪の「生の思想」
だから西欧的な法秩序(契約)社会は否定神学的に「死」につり上げられ成立する。「死」を保障する
「他者(1者)」との関係によって形成される。「死」とは個人と同義であり、社会は個人の契約によっ
て成立するのである。それは、マルクス主義であろうが、リベラリズムであろうが変わらない。「死の
思想」である。最近のロールズの正義論はまさに顕著である。
言葉は、様々な秩序、平等、自由、法、正義を語る。しかし現実はずれている。どのようなすばらしい
秩序への構造も必ず失敗する。平等も、自由も、法も、正義も必ず失敗する。現代では、正の秩序と
しての「死の思想」に対して、現実に必ず失敗させ続ける悪の「生の思想」の構図で語られる。「生の
思想」はそのような位置で存在し続ける。
このようなまどろっこしいことは止めて、かつてのように、そのはじめから平等、自由、法、正義など
存在しない。未分化でありつつ、結局今と本質的にかわらず秩序ある社会は語ることは禁止されて
いる。現実に必ず失敗することを誰もが知っていても、「悪」と呼び、平等、自由、法、正義があるよう
に振る舞うことが儀礼である。それが「死の思想」の社会を生きるということである。それがカントが
いう統整的理念である。
442 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 19:35:07
科学技術は「死の思想」
ではなぜ「死の思想」は「生の思想」を凌駕しえたのだろうか。それは西洋で科学技術が発達し、世
界を資本主義社会へと変えていったからだ。そして科学技術は本質的に「死の思想」であるからだ。
科学技術とは同一性と反復であり、反証可能性という力である。このような還元主義はその根底
に、「死」の概念によって成立する個を前提にするのだ。
社会の下部構造としての科学技術の発達は世界を開拓し、「死の思想」を布教しているのである。
未分化を未分化として受け入れる「生の思想」は「悪」として排除されるのだ。
443 :
純一:2006/07/23(日) 19:35:33
コピペはAA板から持ってきてます。
444 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/23(日) 19:36:11
現実そのものを受け入れることが「生の思想」
ベタにいえば、先進国は一夫一婦制である。それは法秩序としてあるが、まるで純粋な愛とは一対
一であり、それが一夫一婦制を支えるように転倒される。現実にボクたちは、むしろ多数の人に好意
を持つという日常の自分を知らないように振る舞う。そのようにしかない現実を間違ったことのよう
に、考える。
この現実を、不可能な理想からのズレとして受け入れるようが、そのまま不条理として受け入れよう
が、現実そのものはある秩序をもち進むのである。ただ現代は、「死の思想」が全面化し、不可能な
理想からのズレとして受け入れられているのだ。
仮に「生の思想」を目指すなら、一夫一婦制を脱構築する、あるいは一夫多妻制の他者へ開くので
はまったく不十分である。なぜなぜなら一夫一婦制など存在しないのだから。脱構築も思弁の域を
でない。現実は脱構築的なのであり、そのような現実そのものを受け入れることが、「生の思想」で
ある。「死の思想」の世界ではこれは不可能な領域である。
445 :
純一:2006/07/23(日) 19:37:07
では、そういうことで。
ジニ係数
http://www.oucc.org/~clown/photo/jini_2003.jpg ジニ係数の目安
〜0.1 平準化が仕組まれる人為的な背景がある
0.1〜0.2 相当平等だが向上への努力を阻害する懸念がある
0.2〜0.3 社会で一般にある通常の配分型
0.3〜0.4 少し格差があるが、競争の中での向上には好ましい面もある
0.4〜0.5 格差がきつい
0.5〜 特段の事情がない限り是正を要する
----
ジニ係数が0.5を超えるようであるならば,格差を抑えるような対策が
必要になってきますが,所得再分配が有効に機能している現状では、
「格差社会」は、単にマスゴミの煽り文句に過ぎませんな。
乗せられて悩んでる馬鹿はご苦労さん。
447 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 20:38:23
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`)すいません、ちょっといっぱい通らせてくださいね
| /
| /| |
// | |
U .U
448 :
考える名無しさん:2006/07/23(日) 20:44:02
ハァハァキッツーマモノマイェイ!! ハァハァキッツーノマモナイェイ!! ハァハァキッツーモナマモイェイ!!
▲_[ ̄] ∧_∧ ∧_∧
( *・w・)ホモセクースサイコー ( *゚w゚)コシフランカイボケ!(;TДT)
カクカク( つ つ ∧_∧ カクカク( つ つ ∧_∧ カクカク( つ つ ▲_[ ̄]そんなんで満足できるか!
(( 〉 〉ィ⌒⌒( *゚w゚) (( 〉 〉ィ⌒⌒(ili´Д`) (( 〉 〉ィ⌒⌒( *・w・)
(__と、_入_,,つλつ (__と、_入_,,つλつ (__と、_入_,,つλつ
ノマノマイェイ!
∧_∧ゲラゲラ ▲[ ̄]ギャハハ ∧_∧ 〜∞
( *゚w゚) ._「l ( *・w・) _「l_ (iliTДT) _「l_ ☆ d
( つ|米| ( つ|米| ( つ|猛| \ ∧_∧_ノヽ モナー達は糞!!
| │ | |酒| | │ | |酒| | │ | |毒| d (((`(・∀・ _)
(___)__)  ̄ (___)__)  ̄ (__)_)  ̄ d  ̄`匚_ノ´
■■■■■■■■■■■■■
オラオラオラーッ パパパパパーン ■■■■■■■■■■■■■
ギャハハハハッ☆))ДT) ←モナ研スレ ■■■■■モナ板潰し■■■■
▲[ ̄]∩☆))o;゚) ←しぃスレ. ■■■■■■■■■■■■■o∞':,~.'",
(,,*・w・)彡☆))Д;) ←モラスレ ■∧_∧■■■■■■■ ∧∧';;;,;;:;.
⊂彡☆))Д´> ←のま虐殺スレ ∵:'※;';(;Д(::;;),´そ';:・'゙、※;::.::(゚;;o。,*)
449 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 00:51:38
人 ごま塩弁当 日の丸弁当 タルタルソースかけ弁当 昆布佃煮弁当 卵焼き弁当 しらす弁当 タマネギフライ弁当
(__) モヤシカレー炒め弁当 枝豆ひじき弁当 ちくわ天弁当 煮豆弁当 イワシフライ弁当 肉そぼろ弁当 きんぴらごぼう弁当
(____) のり弁当 さつま揚げ弁当 豆腐ハンバーグ弁当 鮭弁当 竹輪カレー弁当 ハムカツ弁当 サーモンフライ弁当
/ \ ささみ梅しそはさみ揚げ弁当 コロッケ弁当 煮物弁当 日替わり弁当A かき揚丼弁当 チキンライス弁当
./ (●) (●).', 助六寿司 ワカサギ唐揚げ弁当 山菜おこわ弁当 サンマの蒲焼弁当 ステーキ・うなぎ弁当
l |,,,ノ(、_, )ヽ、,, l 中華丼弁当 レバーステーキ弁当 アジフライ弁当 チキンカレー弁当 鯵の押し寿司弁当 ミックスフライ弁当
、ヽ `-=ニ=- ' / オムライス弁当 スコッチエッグ弁当 タコライス弁当 メンチカツ弁当 ジンギスカン弁当 スペアリブ弁当 玄米精進弁当
i"./ `ニニ´ ',ヽ 野菜炒め弁当 豚キムチ弁当 麻婆豆腐弁当 ゴーヤチャンプルー弁当 特製中華弁当 海老天丼弁当
ヽi iノ たいめし チキンカツ弁当 ハヤシライス弁当 親子丼弁当 うなぎの蒲焼弁当 ミックスフライ・うなぎ弁当 ステーキ弁当
', ∩ / 白身魚あんかけ弁当 日替わり弁当B トンカツ弁当 ホタテフライ弁当 チャーシュー弁当 エビフライ弁当
ヽ (. ) / 豚の角煮弁当 酢豚弁当 カツ丼弁当 豚しょうが焼き弁当 松花堂弁当 目玉焼きハンバーグ弁当
', i! / 焼き魚弁当 レバニラ炒め弁当 イカ天丼弁当 牛カルビ弁当 サーロインステーキ弁当
(___/ \___) 特製ハンバーグ弁当 エビチリ弁当 カツカレー弁当 イカフライ弁当
450 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 01:46:10
/ ̄\
.r ┤ ト、 在 (´`) ∩
|. \_/ ヽ (´ヽ )i⌒i,|
| __( ̄ | `ヽ !、∪ノ`.|臨
| __)_ノ ) ノ
ヽ___) ノ ζ (_ノ⌒ ̄ (⌒)
i⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄\ ノ ~.レ-r┐
| 〉 / \ ノ__ | .| ト、兵
烈 / ̄ヽ ノ /\ \ / | 〈 ̄ `-Lλ_レ′
| ノ_/、/⌒i |||||| (・) (・) |  ̄`ー‐---‐/´)
/ ̄ヽノ i / i. (6‐‐‐‐‐‐‐○⌒つ | i´ヽ/ ノ 闘
| i |⌒iノ/ | _||||||||| | / ノノー―‐┐
`ー ´;ヾ `~' i \ / \_/ ./ ―イ ´ノ ーーイ
`ヽ ⌒ヽ/ ヽ .\___/ (、 ̄´
〈 ___ノ i 〉  ̄`ー―-(_ノ/⌒ーー 、
ヽ / プンプンプリン体 i (⌒ ,ヽ者
`ー /^‐━, ヽ_( ̄ ̄ ,)
陣 /ノ―、='、 / ̄`ヽ´ ̄ヽ_ i (_ ̄_ ノ
/´ / / ̄`i、 / / ) ヽ(____ノ
ノ 丿 l | `i 〈 ヽ ,ノ⌒
| 〈 l 〈 〉 | / ヽ_ , _ |皆
ゝ ,/ ノ i i! 〉 〉
ヽ、 ノ (_ノ|, 、|| ヽ⌒ヽ
| | | ⌒ヽノ
ヽ_ノ \_ノ
451 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 01:56:40
神秘体験をしました。
452 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/24(月) 01:56:51
現実そのものを受け入れなければ、生きていけない。という意味で、誰もがみな、
「生の思想」と生きている。「生きる」と言うことと「考える」ということの差異として見いだすことができる。
誰もが生きている。しかしそれを自己認識として思惟するとき、それは死したものと
ならざる終えない。そして人はただ生きていながら、ただ生きることができない。
前頭葉の機能を停止せよ(=考えるな)
身体センサーからの情報をただ感じよ
454 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 02:03:20
/ `、
/ l
,! |
{ /i i i 、 |
l / | /l |`、、 |ヽ l ト,-,,,;;iiiiiii
__ ∠{ / | L| | .ト |`ーi H |_ヽl |l | | l)ll!''''''''iiii、 こ な
}||llllll{ 、 l ̄ゝ'、 `|`N | >,ゝ-、V! | .| | ノ、,,} ヽヽ の ん
‘|| \ ∨、i"{::;:i "{.:;}}" |ノノイ’}i;, l ヽヽ ハ な
{/{ 〃`i.、 、_ヽ:ノ `-´´ '!7",!)ノ '!i;, | | ` ゲ ん
’,ii!' l l //// ///// / /"l j ノ!|liヽ} は で
,;ii!''∧ |│ ` / / l/イ:/:: `||,,}、 !? す
,ill!"/ ∧ 、│|\ c-==ュ ,イl l,! /"j/l |./|||| '''' か
l|||-"─--`、.|_!-、`;. 、_ ,. " l ,! l'" .'" '1 |||l `
/ /''7⌒「| .i|/ |'''` -−' __// /l |
/ / ,! / | |`ー、_−-、 /r--==¬ヽ |
/ l ' { `i、~`-`ミー-='┴─''_'-/--,┬─-、l
| l 、 ヽ.\ ` ー一''''',ri:i"/i,、.//,--、. \
.| /\ l r-、- 、_ ' l !、\ ̄ `i ヽ
,| / \ |' `---、_ ヽ、 `i `; / l i
455 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/24(月) 02:18:55
これはまさにデカルトに回帰する。それは科学技術への回帰である。
科学技術は、強く分離した。
科学技術は「死の思想」
ではなぜ「死の思想」は「生の思想」を凌駕しえたのだろうか。それは西洋で科学技術が発達し、世
界を資本主義社会へと変えていったからだ。そして科学技術は本質的に「死の思想」であるからだ。
科学技術とは同一性と反復であり、反証可能性という力である。このような還元主義はその根底
に、「死」の概念によって成立する個を前提にするのだ。
社会の下部構造としての科学技術の発達は世界を開拓し、「死の思想」を布教しているのである。
未分化を未分化として受け入れる「生の思想」は「悪」として排除されるのだ。
456 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 02:47:40
¬ √
∧、 ∧_∧ ∧_
/⌒ヽ\__∧_∧ (`<_´ )_//~⌒ヽ
|( ● )| i\( `_ゝ´\/ / ∵ ハ/i |( ● )|
\_ノ ^i |ハ∵ \ ∵ ヽ | i^ ゝ_ノ
|_|,-''iつl/∵ / ̄ ̄ ̄ ̄/∵ l⊂i''-,|_|
[__|_|/〉 ._/ F∵V /__〈\|_|__]
[ニニ〉\/__∧_/ ∵ 〈二二]|
└―' ∵ 。。 ∵ '─┘| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ ∵∵=====' '=====''∵∵/ < ア∴ラマン∴アラマ∴ンアラ∴マンア∴ラマン∴アラマ∴ン
.\__`::========::"____/ \___________________
/ .| \ゝ、゙l;: ,,/;;,ノ;r'" :| \
'" | `''-、`'ー--─'";;-'''" ,| \_
457 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 03:35:52
__,,,,_ ζ
/´ / ̄ ̄ ̄ ̄\
/ 〃 _/ \
i /´/\ ⌒ ⌒ |
| 〉. ||||||| (・) (・) |
| |─(6-------◯⌒つ |
ヤヽリ | _||||||||| |
ヽ_」 \ / \_/ /
ゝ i、 \____/
r|、` '' ー--‐f´
_/ | \ /|\_
/ ̄/ | /`又´\| |  ̄\
458 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 03:42:29
,.――――-、
ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、 【呪いのトンファーパーマン】
| | (・)。(・)|
| |@_,.--、_,> このコピペを見たら明日死にます。
ヽヽ___ノ 他の場所にコピペしても無駄です。
/:::::::::::::::::l /77
/::::::::::i:i:::::::i,../ / |
l:::/::::::::i:i:::、:::/ / |
l;;ノ:::::::::::::::l l;.,.,.! |
/::::::::::::::::l/ / 冂
/:::::::;へ:::::::l~ |ヌ|
/:::::/´ ヽ:::l .|ヌ|
.〔:::::l l:::l 凵
ヽ;;;> \;;>
459 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/24(月) 20:35:36
■なぜ純粋略奪(暴力)は血の匂いがないのか
神話的暴力と神的暴力
ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。
神話的暴力
法維持的暴力 現存の法秩序を再生産する
法措定的暴力 空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる
神的暴力 何ものをも目的としない暴力
デリダは「法の力」の中で、ベンヤミンの「暴力批判論」の解読を試みる。そしてベンヤミンを同意し
ながら、「神的暴力」の前で尻込みしたと言われる。
>>
神的暴力には、もはやはぎ取るべき規定性など何一つ残っていないのだから。したがってわれわれ
は、「血の匂い」を恐れることなく、あえて現実の交配形態のなかに神的暴力の痕跡を捜し求める
べきではないか。
ベンヤミンのテクストはこの直後で終わり、デリダの講演も終わりを迎える。しかし今確認した結論
がその含意を明らかにするのは、講演に付加された「あとがき」(Postscriptum)においてなのである。
すなわち、われわれが現実の歴史のなかに、神的暴力にもっとも近いものを求めようとするなら、ナ
チスの「最終的解決」こそがそれに当たるのではないか、と。
「最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたいと思います。そ
れは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えることに他なりませ
ん。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義
の、判読しがたい署名であったという解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです(Derrida)」
「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」 馬場靖雄
<<
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/24(月) 20:36:59
なぜ純粋略奪(暴力)は血の匂いがないのか
この予感はまったく正しいだろう。これらの暴力を内部/外部の関係でみると、
>>
神話的暴力
法維持的暴力 内部を維持する暴力
法措定的暴力 内部から外部への暴力
神的暴力 外部から内部への暴力(何ものをも目的としない暴力であっても内部に接触する時、内
部を解体する)
<<
内部から外部への法措定的暴力と外部から内部の神的暴力は限りなく近接する。なぜなら神的暴
力は存在しないからだ。強いて言えば、自然災害であり、そこに人間が介するときに何ものをも目的
としない暴力は不可能である。だから神的暴力は法措定的暴力に近接する。
そしてそれは逆いえば、法措定的暴力は神的暴力に近接するのである。すなわち法措定的暴力
は、あたかも 「罪を取り去り、血の匂いがなく、まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に罪を取り
去っている。」ように振るまわれるのである。そしてボクはこれを純粋略奪(暴力)の快楽とよぶ。
>>
前者(神話的暴力)が罪をつくり、あがなわせるなら、後者(神的動力)は罪を取り去る。前者が脅迫
的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的であ
る。……まさに滅ぼしながらも、この裁きは、同時に罪を取り去っている。……前者は犠牲を要求
し、後者は犠牲を受け入れる
「法の力」 デリダ
<<
461 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/24(月) 20:37:45
限りなく純粋な断絶
内部を維持する法維持的暴力は必ず外部を必要とする。内部維持を行うときのそこには外部が存
在し、外部を疎外することで内部維持の暴力は生まれるのである。だからこれらの暴力は内部/外
部を断絶する二項対立の暴力に還元できるのである。
デリダがいうように「ホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えること」ができ
るとすれば、そこに限りなく純粋な内部/外部の断絶が再現されているからだ。限りなく純粋な断絶
においては、まるで木の実をもぎるように人が殺されるのだ。それはアガンベンのいう「ホモサケル」
である。そこに「純粋な悪」がある。
>>
この違いは略奪が内部(社会)内にあるのに対して、純粋略奪は内部(社会)と外部の間で行われる
ためだ。・・・その典型が自然からの略奪である。野性の木の実を取ることに負債は生まれない。そ
れは「自然のめぐみ」であり、「純粋贈与」であり、善悪の価値の外にある。
「コロンブスがアメリカという新大陸を発見した」とそれまで「人間」はいなかったように「罪悪感なく」
語られ続けている。「悪いこと」をすると罪悪感をもつのでなく、罪悪感をもってしまう行為が「悪いこ
と」ということであり、そして罪悪感が存在しない限りなく「純粋な悪」は存在しえるということだ。
なぜ限りなく「純粋な悪」は存在しえるのか
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060707#p1 <<
462 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 21:46:16
紙〜
ジャー(水流す音)
最近紙のストック足りないぞ
ちゃんと補充しろよ
ぴかぁ〜
さあ、割り箸詰め作業に戻ろうか >ぴか虫
i | |
| _____人__/
i_,,, r´_ _〉
((テヽ!´ _ _ /_ _j
ゝ_i  ̄ |  ̄ i
ゝ ヽ (_、__j_)ヽ ノ
, イ ヽ、 ii /
/ \ ヽ =ニ= /
/ \ `ーj---‐i´i\
\/ !j \
_ ,,,,_ /\ \ ,c、.c、
___/´ 、、ヽ/i :|三三三三三三三\.ヽ.ヽ二l
// \ \/ .i / ,.-、-、| |: |
| | 、\ \ \! |:| !
| ヽ_,r.'\rj)、rj) !| |
\___/ / | /
464 :
考える名無しさん:2006/07/24(月) 23:24:16
今日もお勤めご苦労さんス
465 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 00:33:28
■なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか?
神話的暴力と神的暴力
ベンヤミン「暴力批判論」(ASIN:4003246314)では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。
>>
神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力
法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する
法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる
神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力
<<
デリダは「法の力」の中で、ベンヤミンの「暴力批判論」の解読を試みる。そしてベンヤミンを同意し
ながら、「神的暴力」の前で尻込みしたと言われる。
>>
神的暴力には、もはやはぎ取るべき規定性など何一つ残っていないのだから。したがってわれわれ
は、「血の匂い」を恐れることなく、あえて現実の交配形態のなかに神的暴力の痕跡を捜し求める
べきではないか。
ベンヤミンのテクストはこの直後で終わり、デリダの講演も終わりを迎える。しかし今確認した結論
がその含意を明らかにするのは、講演に付加された「あとがき」(Postscriptum)においてなのである。
すなわち、われわれが現実の歴史のなかに、神的暴力にもっとも近いものを求めようとするなら、ナ
チスの「最終的解決」こそがそれに当たるのではないか、と。
「最後に私は、このテクストに含まれるもっとも恐るべきものに注意を促しておきたいと思います。そ
れは……あのホロコーストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えることに他なりませ
ん。……ここでわたしたちは、あのホロコーストが法の罪の許しであり、『神』の暴力的な怒りと正義
の、判読しがたい署名であったという解釈の可能性に震え上がり、震撼させられることになるのです
(Derrida)」
「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」 馬場靖雄
<<
466 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 00:34:56
神的暴力は可能か
「何ものをも目的としない暴力」など可能なのだろうか。強いて言えば、自然災害である。自然の猛
威がいかに大量に人を「殺害」しようが「何ものをも目的としない。」逆に言えば、人間が介するとき
に「何ものをも目的としない暴力」は不可能である。
このとき神的暴力は法措定的暴力に近接する。法措定的暴力とは内部の秩序を外部へ行使する暴
力である。それに対して神的暴力は内部秩序の外の暴力であるが、人間が介するときに「何ものを
も目的としない暴力」は不可能であるとすれば、それはもう一つの内部として作動する。外部は内部
となり、内部は外部として暴力は行使される。
現にベンヤミンの「暴力批判論」のもとになったソレルの「暴力論」では、このような神的暴力はブル
ジョアジー/プロレタリアートの対立において、内部のブルジョアジーに対して、新たな秩序を形成
するプロレタリアートの革命を示していた。ベンヤミンはこのような対立する内部を純粋化すること
で、神的暴力を構想したのであるが、それは不可能な領域である。
467 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 00:36:53
限りなく純粋な断絶
逆いえば、法措定的暴力が神的暴力に近接する可能性があるのだ。デリダがいうように「ホロコー
ストを、あらゆる解釈に抗う神的暴力の表われとして考えること」ができるとすれば、それはただそこ
に神的暴力が表れるのでなく、そこに限りなく純粋な内部/外部の断絶が再現されているのではな
いだろうか。
限りなく純粋な断絶の向こうの外部は、法の外であり、そこで 暴力が行使されるときには、神的暴
力に近接する。そしてまるで木の実をもぎるように人が殺される可能性が生まれる。そのような殺害
される人をアガンベンは「ホモサケル」と呼んだ。
すなわち法措定的暴力は、あたかも「罪を取り去り、血の匂いがなく、まさに滅ぼしながらも、この裁
きは、同時に罪を取り去っている。」ように振るまわれるのである。そしてボクはこれを純粋略奪(暴
力)の快楽とよぶ。
内部を維持する法維持的暴力は必ず外部を必要とする。内部維持を行うときのそこには外部が存
在し、外部を疎外することで内部維持の暴力は生まれるのである。だからこれらの暴力は内部/外
部を断絶する二項対立の暴力に還元できるのである。
468 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 00:38:15
「ゲーデル的脱構築」と「(後期)デリダ的脱構築」
馬場は、神的暴力を東の「(後期)デリダ的脱構築」につなげる。
>>
(「法の力」の)第一部では、同じものを再生産しようとするシステムのメカニズムに抗って新たな秩
序を構想するための拠点となる、純粋な否定性としての正義が追求された。一方第二部(ベンヤミ
ンの神的暴力)では、・・・まず存在しているのは現実の混合形態であり、そこに含まれる異質な諸
要素の間の齟齬こそが、救済のチャンスをもたらすと同時に、恐るべきものを招来する危険をも孕
んでいるとされるのである。この二つの方向性は、東のいう「二つの脱構築」のそれぞれに対応して
いるように思われる。・・・東は、「ゲーデル的脱構築」と「(後期)デリダ的脱構築」を区別するよう提
案している。
「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」 馬場靖雄
<<
ボクは、不可能な「神的暴力」と、神的暴力が転倒した法措定的暴力を上げたが、馬場にならい以
下のように言うことができるだろう。
>>
神的暴力が転倒した法措定的暴力・・・「ゲーデル的脱構築」(否定神学)
不可能な神的暴力・・・「(後期)デリダ的脱構築」(幽霊)
<<
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 00:40:18
「(後期)デリダ的脱構築」はほんとうに可能か?
「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄の主題は、問題はいかに「ゲーデル的脱
構築」(否定神学)から「(後期)デリダ的脱構築」(幽霊)へズレいくか。いかに「(後期)デリダ的脱構
築」(幽霊)は可能かである。
>>
観察の観察を不断に行いながら、同時に何らかの「背後」にたどり着こうとする誘惑と常に戦ってい
かねばならないのである。あるいは「法の力」を捩って、こう言ってもいいかもしれない。法の背後
に、それを可能にしたり一定の方向へ導いたりする何らかの「力」を求めようとしてはならない。その
「力」が、まったく無規定な、それ自体としては存在しえない「正義」であろうと、あるいは麗しい「寛容
の精神」であろうと同じことだ。むしろ、法をめぐって生じるあらゆる観察=作動が、それ自体として
現実的な力であると考えるべきなのである。
「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」 馬場靖雄
<<
「個別的にそのつど誰が、どんな区別を用いて観察しているのかと、問いつづけねばならない。」、
「たどり着こうとする誘惑と常に戦っていかねばならない」・・・これらは、簡単にいえば、「安易に全体
性を望むな。部分部分で考えるのだ。」ということになる。
神的暴力=「(後期)デリダ的脱構築」(幽霊)とは、究極的には自然災害のごとく、それは「何ものを
も目的としない暴力」である。そして容易に法措定的暴力へ転倒(「ゲーデル的脱構築」(否定神
学))するのである。果たして、神的暴力=「(後期)デリダ的脱構築」(幽霊)は可能なのだろうか。
470 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 01:05:49
おう
便所紙サンキュー
471 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 19:15:33
■なぜ多くのWeb2.0は抑圧なのか
最近Web2.0を勘違いしている人たちがいるように感じる。
Web2.0は創発性を生み出す仕組みではない。
創発性はすでにネットに内在している。
だからその創発性を育てる仕組みである。
そして仕組みはいつもそうであるが、力の抑止と生成の両面をもつ。
創発性を自らつくるもの、過保護、コントロールするような抑圧は、
むしろ創発性を閉じこめる。
2ちゃんねるでもわかるように、そもそもにネットの創発力は
力強い。多くにおいてWeb2.0の名に行われるものは、
制作者の自己満足的な囲いである。
Web2.0の基本はCGM(消費者が生成したメディア)ということを
わすれてはいけない。Web2.0は生成しやすい場の提供でしかない。
力は作り出すことはできない。力はすでにネットに蠢いているのだ。
>>
今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される
概念としてCGM(Consumer Generated Mediaの略)が存在します。
簡単に訳すと「消費者が生成したメディア」とでも言うべきものなのです
<<
472 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 19:33:26
ネットの強力な創発性はまずもってWeb2.0を越えていくものだと考えた方が良いでしょう。
だからWeb2.0の基本は抑圧にあります。だから「小さな政府」であるべきです。
473 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 19:37:05
ん?ここ洋式?和式?
474 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 20:42:12
■なぜCGM(消費者が生成したメディア)なのか
>>
ネット時代の新潮流――CGMとは
ttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news024.html 今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM
(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言う
べきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)
し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。
Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱す
るブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、そ
の中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
ConsumerGenerated(消費者から生成)されているものは「Media」だけではなく、多くの人々による知
恵(衆知)です。Web2.0的なプラットフォームによって、多くの人々による知恵(衆知)が集積されるこ
とで、1つの大きな力となり、ネット上に現れています。
Web2.0の世界で本当に重要なことは、システムやWeb2.0的なプラットフォームではなく、そこに集ま
る人とそれらの知をどの方向に集積させるかであると考えるからです。
<<
475 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 20:43:06
CGM(消費者が生成したメディア)という言葉を始めて知りましたが、ここで示されているCGMの例
は、YouTube、ブログ、2ちゃんねる、mixiなどでネットはなんでもCGMと言えそうです。
CGMはWeb2.0と対比することに意味がありそうです。すなわちCGMという「知恵(衆知)が集積され
た力」を活用するプラットフォームがWeb2.0であるということです。Web2.0=枠組み、CGM=創発的
動力です。
これはとても的確な指摘だと思います。最近Web2.0を勘違いしている人たちがいるように感じま
す。2ちゃんねるでもわかるように、そもそもにネットの創発力は、力強い。力はすでにネットに蠢い
ているます。Web2.0は創発的動力を生み出すのでなく、すでにネットに溢れている創発的動力に方
向性をもとて活性化する枠組みでしかありません。
枠組みはいつもそうであるが、力の活性と抑止の両面をもちます。制作者の自己満足的な囲いは、
むしろ創発性を抑圧します。だからネットの強力な創発性はWeb2.0を越えていくものだと考えた方が
良いのではないでしょうか。
476 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 20:45:19
いぁ まだ入っているんだけど?
477 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/25(火) 22:01:36
■なぜいまCGM(消費者が生成したメディア)なのか
CGM(消費者が生成したメディア)という言葉を始めて知りましたが、ここで示されているCGMの例
は、YouTube、ブログ、2ちゃんねる、mixiなどでネットはなんでもCGMと言えそうです。
ではなぜいまさらCGM(消費者が生成したメディア)なのか。なぜ「ネット時代の新潮流」なのかという
感じがします。この言葉の作られた背景をボクは良く知りませんが、ボクが想像するに、CGMという
言葉は、Web2.0と対比することに意味がありそうです。
最近Web2.0が注目されていますが、Web2.0を勘違いしている人たちがいるように感じます。Web2.0
は、CGMという「知恵(衆知)が集積された力」を活用するための枠組みでしかないということです。
すなわちWeb2.0=枠組み、CGM=創発的力です。
そもそもネットの創発力は、ネットに蠢いているます。そのようなネットに溢れている創発的動力に方
向性を与えて活性化する枠組みがWeb2.0です。
理想的にはCGMとWeb2.0の相補的な関係が力を生むということですが、枠組みはいつもそうです
が、力の活性と抑止の両面をもちます。Web2.0そのものに抑圧は内在しています。いかにうまく抑圧
するかとも考えられます。なぜなら往々にしてネットの強力な創発力はWeb2.0という枠組みを越えて
いくからです。
たとえば最近のYouTubeの爆発をYouTube再度も想像できなかったでしょうし、あまりに急激な躍進
は様々な枠組みの改良を求められでしょう。
このようにWeb2.0が注目されているいまだから、CGMへの言及が重要であるということでしょう。
478 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 22:10:52
グリグリ
∧_∧ ;. ;. ,;.’
(・∀・ )‖ ,;.’ ・;.,
( (( つ〇)),;.,;.・;., ,;.’;.,
人 Y;.;.;「|,.,.;.’,.,.,.,.,.,∧.,∧
(__)_)⊂ ″⌒つ;#ぴかぁ>っ;
~ ,;.・;.’;.,;.・ アギャーー!!!
∧ ・;,, ’;.
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄
そうなる前に死ね
479 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 22:17:30
ミス・ユニバースで日本代表の女が2位に入ったというテレビのニュースに、デカパイが
早速反応した。
「見てよ、あの怖い顔。あんなのが2位だってさ。」 見ると眼が吊り上がり、化け物風の
顔で確かに怖い。デカパイも眼が吊り上がってはいるが、日本代表の女よりはるかに
穏やかな顔つきだ。
「スタイルは負けだな、顔は私の勝ち。」 ライバル心ムキ出しだ。大好物の冷凍ビスコを
食うのを中断してテレビに鋭い視線を送ってる。
「あなたはああいう女はどう?」 「イヤだな。」
「そうだよね、あんなのどこがイイんだろ。」
単純女は俺の返事に満足したようで、安心してニコニコ顔になって冷凍ビスコをまた
食い始めた。
テレビでは気に食わなかったけど、案外いい女かも知れないと思って、インタネットで
調べてみたら、「知花くらら」という名で、けっこう写真も見つかった。やっぱり化け物風の
怖い顔で、俺好みではない。優勝したプエルトリコの女も嫌い。トップ5全員が写ってる
写真があるけど、小さくて良く見えないが俺の好みの女は居そうにない。
ミス・ユニバースサイトを眺めてたら、デカパイが「何見てんだ、スケベ」と覗き込んで
くるので一緒に見た。「ロクなのが居ないね、ね、ね」とうるさいから、「居ないな」と
答えるとまたニコニコ顔。
たしかにロクなのが居ねぇや。うちの家内のほうがはるかに美人だよ、アハハハ。
家族旅行の日にちと行き先、決まりました。行きたくないなぁ。
480 :
考える名無しさん:2006/07/25(火) 22:23:05
長文でかつ壁のような書き込み。
その内容は理論的でなく感情的な場合がほとんど。
自分の主張だけ言い張って読み手のことを考えてない自己中さと
アタマのよわさに醜さを感じる。
481 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 02:55:40
はじめまして。
みなさんの知恵をおかしください。
写真芸術における遠近法の意味と効果とは何でしょう?
わたしは遠近法の確立(ブルネレスキ)、系統化(アベルティ)〜
その後のパノフスキーに至るまでの展開の見取り図は何となく描けるけど、
「現代写真」における遠近法の意味と効果については未だに何も
言えません。絵画ならば何となく答えられるのですが。
482 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 03:01:53
481です。すみません、質問はスレ違いかと思うのですが、
この板のみなさんのご意見をお聞きできれば幸いです。
場違いでしたら退散します。
483 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 09:31:32
質問スレがよいと思いますよ
484 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 09:47:12
最近BSでチャップリンをやってますが、チャップリン映画をみるとあの時代の不条理がよくわかりますね。
チャップリンが描くのは学なく貧しい弱者が社会で虐げられている姿ですが
教育、社会整備の不備な時代、たとえば今の下層なら、当然の人権が守られていないのでは、と始まる対立が
そこに権利の概念さえない不条理にいきています。
チャップリンはそれを暴きだすわけです。
485 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 09:54:29
現代はそのような意味で幸せな時代であり、倫理の時代です。
みなある程度豊かで教育をいきとどき、他者に対して倫理的な振る舞いをきたいできる。
高度に空気を読むことが期待できる社会だといえます。
486 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 10:04:36
ボクたちはそれになれ高度な空気を当たり前に期待しますが、
チャップリン的世界は、おそらくそれは有史以来かわらずそしていまも世界のほとんどがそうでしょう。
このようなボクたちの「歴史の終わり」を過ぎた社会の方がかなり得意であるということです。
487 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 10:13:06
しかしボクたちの社会は不条理を撲滅しえたということではなく、むしろ隠されているということでしょう。
たとえば母の子への強い愛情という神話に反して、虐待が問題になっていますがそれは現代の病であるとともに脈々と歴史上行われてきたことでしょう。
女子供、奴隷が商品として流通するのはかわらずあるでしょう。
488 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 10:29:37
倫理は本質的に超越論的で、弁証法的世界を想起するということ、到達すべき理想があり、
現実はそれとの差異によりはかられ、差異は解消されると考えるということです。
しかしこのような考えは比較的新しいのではないでしょうか。
不条理、すなわち不平等と不自由な世界をただ当たり前に受けとめる、それは生得的な特性のように、ことの方が根源的な人間の在り方としてあると思います。
489 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 10:39:27
平等と自由がめざされる倫理的世界と不平等と不自由を受けとめる不条理な世界。
たとえば最近なら、不条理な世界であるイラク、北朝鮮を倫理的世界へというアメリカ、日本などの構図があります。
アメリカは倫理的世界の普及のために暴力も辞さない姿勢です。
ニュースなどで流れる北朝鮮の不条理な世界を倫理的な世界に住むボクたちはみて、ボクたちの世界の世界の正しさを確認するわけです。
490 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 10:52:11
再度いえば世界は不条理としてあるということです。倫理的世界でもそれはかわりません。
倫理的世界が正しいという価値は存在しませんし、不条理がなくなっているわけではない。
北朝鮮が間違いで日本が正しい、さらにいえば北朝鮮の方が不条理であることでもないということです。
北朝鮮と日本の決定的な違いは科学技術の発達による物質的豊かさ、経済の活性化の度合いがあげられるのではないでしょうでしょか
たとえば日本は極貧な倫理的な国、北朝鮮が豊かな不条理な国であった場合にどうでしょうか
しかしそれはありえないでしょう。
経済的な発展と倫理的であることには関係があるからです。そして倫理的な国の正しさを支えているのが豊かさだからです。
491 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 11:27:38
あんたすげーよ
ある意味
492 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:24:58
遅くまでご苦労様。
毎日毎日何が何でもカキコしなければならないのですね。
493 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:30:55
あら
遅くじゃなくて朝だったのね。
それは重ね重ねお勤めご苦労様です。
494 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:33:52
■なぜ不条理を受け入れる必要があるのか
「歴史の終わり」後の倫理の時代
最近BSでチャップリンをやってますが、チャップリン映画をみるとあの時代の不条理が
よくわかりますね。チャップリンが描くのは学なく貧しい弱者が社会で虐げられている姿
ですが、教育、社会整備の不備な時代、たとえば今の下層なら、当然の人権が守られ
ていないのでは、と始まる対立がそこに権利の概念さえない不条理にいきています。
チャップリンはそれを暴きだすわけです。
現代はそのような意味で幸せな時代であり、倫理の時代です。みなある程度豊かで教
育をいきとどき、他者に対して倫理的な振る舞いをきたいできる。高度に空気を読むこ
とが期待できる社会だといえます。
ボクたちはそれになれ高度な空気を当たり前に期待しますが、チャップリン的世界は、
おそらくそれは有史以来かわらずそしていまも世界のほとんどがそうでしょう。このよう
なボクたちの「歴史の終わり」を過ぎた社会の方がかなり特異であるということです。
しかしボクたちの社会は不条理を撲滅しえたということではなく、むしろ隠されていると
いうことでしょう。たとえば母の子への強い愛情という神話に反して、虐待が問題になっ
ていますがそれは現代の病であるとともに脈々と歴史上行われてきたことでしょう。女
子供、奴隷が商品として流通するのはかわらずあるでしょう。
倫理は本質的に超越論的で、弁証法的世界を想起するということ、到達すべき理想
があり、現実はそれとの差異によりはかられ、差異は解消されると考えるということで
す。しかしこのような考えは比較的新しいのではないでしょうか。不条理、すなわち不平
等と不自由な世界をただ当たり前に受けとめる、それは生得的な特性のように、こと
の方が根源的な人間の在り方としてあると思います。
495 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:34:40
豊かな倫理的世界と貧しい不条理な世界
平等と自由がめざされる倫理的世界と不平等と不自由を受けとめる不条理な世界。
たとえば最近なら、不条理な世界であるイラク、北朝鮮を倫理的世界へというアメリカ、
日本などの構図があります。アメリカは倫理的世界の普及のために暴力も辞さない姿
勢です。ニュースなどで流れる北朝鮮の不条理な世界を倫理的な世界に住むボクたち
はみて、ボクたちの世界の正しさを確認するわけです。
再度いえば、世界は不条理としてあるということです。倫理的世界でもそれはかわり
ません。倫理的世界が正しいという価値は存在しませんし、不条理がなくなっているわ
けではない。北朝鮮が間違いで日本が正しい、さらにいえば北朝鮮の方が不条理であ
ることでもないということです。
北朝鮮と日本の決定的な違いは科学技術の発達による物質的豊かさ、経済の活性
化の度合いがあげられるのではないでしょうでしょか。たとえば日本は極貧な倫理的な
国、北朝鮮が豊かな不条理な国であった場合にどうでしょうか。しかしそれはありえな
いでしょう。経済的な発展と倫理的であることには関係があるからです。そして倫理的
な国の正しさを支えているのが豊かさだからです。
豊かさになったという正しさが倫理的な社会の正しさである。そして倫理的な社会とは
倫理的であることが目指されている不条理な世界である。なぜ倫理的世界は豊かさに
なりえたか自由と平等が産業革命以降の良質な労働力と消費者を生み出したとい
えるということでしょう。
これは倫理的な世界をめざせばかならず豊かになることではないが、不条理な世界の
ままでは資本主義的発展は困難であるということです。だからボクたちの倫理への期
待は、豊かさへの期待と切り離すことはむずかしい。倫理的であろう、正しくあろうこ
とは、そうすれば「豊かさ」に救われるが隠蔽されています。
496 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:36:38
偶有的な不条理性と純粋な生の力
逆にいえばある程度豊かな社会を生きるボクたちにとって、不条理を受け入れることは
豊かさから排除される恐怖としてあります。だからボクたちは、まわりにあふれる不条
理をないように抑圧し、世界が倫理的であるようにふるまう。そして表出する間違っ
たこと、例外なこと、悪いこととして嫌悪し、恐怖するのです。
ボクたちもとって不条理を不条理として受け入れること、世界は不平等で不自由である
という現実を受け入れることは恐怖です。だからそれに対して、恨み、負債感をもち、
復讐心をもつ。それが社会的向上の活力ともなっている。
誰かが必ず不公平になる。誰がなるかは偶有的です。運命を受け入れるということで
す。「なぜおれなんだ」にたまたまであることを突きつける。不条理を不条理として生き
るとは端的にいえば動物のように生きるということです。動物は与えられた環境の中
で懸命に生きる。不遇であってもその中で絶望することがない強さがある。これは知恵
がなく馬鹿であるといえますが、どのように知恵を働かそうが、世界の偶有的な不条理
性、努力にかかわらず不条理であることから逃れられません。
倫理的世界では必ず恨み、負債感、、復讐心、絶望に向かうしかありません。だから負
債感なき「純粋な生の力」によって不条理を受け入れることが必要なのです。
497 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 14:39:52
■▲▼
498 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 16:43:55
似顔絵は顔ではない。
パーツの単純化
配置のデフォルメ
499 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 16:44:59
なぜ似顔絵は似ているのか?
500 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 17:45:48
ありのままに世界を受け止めるということ
「倫理的な社会」が生む負債感は復讐心、絶望によって、倫理的な社会の円環の中に人をとどめま
す。それに対して「純粋な生の力」はその円環を越える力です。それはただ不条理に立ち向かう活
力というようなものでなく、倫理の外にあり不条理そのものを生み出す負債感なき暴力でもありま
す。だから倫理的な社会は、不条理とともに「純粋な生の力」がないよう抑圧してきました。
不条理を不条理として受け入れることは、負債感なく不条理を受け入れ、そして罪悪感なく自ら不
条理を生み出すことを引き受けることです。それがありのままに世界を受け止めるということであ
り、「不条理な世界」です。
501 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 17:51:00
なあぴかぁ〜、お前と飲むときはいつも白○屋だな。
一番最初、お前と飲んだときからそうだったよな。
俺が貧乏浪人生で、お前が月20万稼ぐフリーターだったとき、
おごってもらったのが白木屋だったな。
「俺は、毎晩こういうところで飲み歩いてるぜ。金が余ってしょーがねーから」
お前はそういって笑ってたっけな。
俺が大学出て入社して初任給22万だったとき、
おまえは月30万稼ぐんだって胸を張っていたよな。
「毎晩残業で休みもないけど、金がすごいんだ」
「バイトの後輩どもにこうして奢ってやって、言うこと聞かせるんだ」
「社長の息子も、バイトまとめている俺に頭上がらないんだぜ」
そういうことを目を輝かせて語っていたのも、白○屋だったな。
あれから十年たって今、こうして、たまにお前と飲むときもやっぱり白○屋だ。
ここ何年か、こういう安い居酒屋に行くのはお前と一緒のときだけだ。
別に安い店が悪いというわけじゃないが、ここの酒は色付の汚水みたいなもんだ。
油の悪い、不衛生な料理は、毒を食っているような気がしてならない。
なあ、別に女が居る店でなくたっていい。
もう少し金を出せば、こんな残飯でなくって、本物の酒と食べ物を出す店を
いくらでも知っているはずの年齢じゃないのか、俺たちは?
でも、今のお前を見ると、
お前がポケットから取り出すくしゃくしゃの千円札三枚を見ると、
俺はどうしても「もっといい店行こうぜ」って言えなくなるんだ。
お前が前のバイトクビになったの聞いたよ。お前が体壊したのも知ってたよ。
新しく入ったバイト先で、一回りも歳の違う、20代の若いフリーターの中に混じって、
使えない粗大ゴミ扱いされて、それでも必死に卑屈になってバイト続けているのもわかってる。
だけど、もういいだろ。
十年前と同じ白木屋で、十年前と同じ、努力もしない夢を語らないでくれ。
そんなのは、隣の席で浮かれているガキどもだけに許されるなぐさめなんだよ
502 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 18:04:04
人間にはこのような純粋な力への究極的欲望がありますが、
このような純粋に不条理な世界は動物の世界であり、人間には不可能な領域です。
だから人間は倫理的な社会と不条理な世界の間にある不条理な社会を生きています。
503 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 18:09:44
俺が高校生の時、銭湯で友人を見かけたので後ろから、 「ヨォ!」っと頭をこついたら、 それが人違いでソリコミを入れたバリバリのヤンキーだった。
俺はとっさに基地外を装って蛇口をペロペロと舐めてその場をごまかした
504 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 18:13:33
このマインドゲームはかなり不思議です。
次の注意に従ってゲームしてください!!
※ はやくスクロールして下のほうの文章を読んではいけません!
なるべく一行ずつ、スクロールしましょう。 計算はできるだけ早く、アタマの中でしましょう。
次の質問に答えてください。
2+2?
4+4?
8+8?
16+16?
12と5の間で思いつく数字は???
あなたの選んだ数字は、7ではないですか??? どうでしょう?
505 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 18:14:31
不条理な社会という宙吊りを生きている。
506 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 18:15:37
豊かさは幸福ではない。
507 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 19:29:12
ある男が夜のダウンタウンを歩いていたら 突然、大男の暴漢に襲われた。
その暴漢の目当ては男の尻で、男はたちまち組み伏せられ、ズボンを脱がされてしまった。
入れられそうになった時、男はいいアイデアを思いついた。
「I am AIDS!」 と叫んだのだ。
しかし暴漢はこう答えた。
「Me too」
508 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:38:45
■なぜボクたちは「不条理な社会」という宙吊りを生きるか
倫理的な社会と不条理な社会
最近BSでチャップリン特集をやってますが、チャップリン映画をみるとあの時代の不条理がよくわか
ります。チャップリンが描くのは学なく貧しい弱者が社会で虐げられている姿です。たとえば今の下
層なら当然の人権が守られていないのではと対立が始まりますが、教育、社会整備の不備な時代
には彼らは権利の概念さえない不条理にいきています。だからチャップリンは最後は正義が勝つと
いうことではなく、その不条理の社会で逞しく生きる人々を描きます。
ボクたちが生きる現代社会はそのような意味で幸せな時代であり、高度に「倫理的な社会」です。み
なある程度豊かで教育がいきとどき、他者に対して倫理的な振るまいを期待できます。ボクたちは
場の中で空気を読むことが期待できることを当たり前に感じていますが、チャップリン的「不条理な
社会」、すなわち不平等と不自由な社会は、おそらくそれは有史以来かわらず、そしていまも社会の
多くがそうでしょう。だから「歴史の終わり」を過ぎた社会を生きているボクたちがかなり特異である
のでしょう。
509 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:39:19
倫理と現実の差異
しかしボクたちの社会は不条理を撲滅しえたということではありません。不条理は隠されているとい
うことです。現代の倫理は本質的に超越論的で、弁証法的世界を想起するところにあります。到達
すべき理想があり、現実はそれとの差異によりはかられ、差異は解消されると信じられているという
ことです。
そしてこのような倫理的な考えは比較的新しいのではないでしょうか。より根源的な人間の有り様
は、不条理に生きる、それが生得的な特性のように不条理をただ受けとめるようにあると思います。
たとえば最近、母の子への強い愛情という「神話」に反して、虐待が問題になっていますが、このよう
な不条理、あるいはもっと悲惨な不条理は歴史上で脈々と行われてきたことでしょうし、いまも世界
のほとんどがそのようにあると思います。「現代の病」といわれるのは、高度に「倫理的な社会」が信
じられている中で行われるからです。
510 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:39:52
不条理な社会「北朝鮮」と倫理的な社会「日本」
たとえば最近なら、不条理な社会であるイラクや北朝鮮と、倫理的な社会であるアメリカや、日本な
ど先進国の構図があります。ニュースなどで流れる北朝鮮の不条理な社会を倫理的な社会に住む
ボクたちがみて、ボクたちの社会の正しさを確認するわけです。そしてアメリカはそのような正しさの
普及のために暴力も辞さない姿勢です。
倫理への理念にかかわらず、「倫理的な社会」には不条理がなくなっているわけではありません。社
会は不条理としてあるということです。倫理的な社会が「正しい」という価値は存在しません。北朝鮮
が間違いで日本が「正しい」、さらにいえば北朝鮮の方が不条理であるということも言えません。
511 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:40:24
倫理とは豊かさへの期待である
では北朝鮮と日本の決定的な違いなにか、といえば、科学技術の発達による物質的豊かさ、経済
の活性化の度合いがあげられるのではないでしょうでしょか。たとえば日本が極貧な倫理的な国、
北朝鮮が豊かな不条理な国であった場合にどうでしょうか。それでも日本が「正しい」といえるでしょうか。
しかしこの疑問は愚問かもしれません。なぜなら経済的な発展と倫理的であることには関係がある
からです。倫理的な社会が豊かであるのは、産業革命以降、自由と平等が良質な労働力と消費者
を生み出したと言えるからです。ただしこれは倫理的な社会をめざせばかならず豊かになることでは
ありません。後進国には倫理的であろうとしても貧しい国は多くあります。しかし不条理な社会のま
まで資本主義的発展は困難であるということです。
だからボクたちの倫理的な「正しさ」への期待は、豊かさへの期待と切り離すことはむずかしい。倫
理的であろう、正しくあろうことは、そうすれば幸福という「豊か」への期待が隠されています。当然そ
れは決して満たされることはないものです。そして満たされることがない故に有効であるということです。
512 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:40:55
倫理が負債感を生む
逆にいえばある程度豊かな社会を生きるボクたちにとって、不条理を受け入れることはいまの豊か
さから排除される恐怖としてあります。だからボクたちは、まわりにあふれる不条理をないことのよう
に抑圧し、社会が倫理的であるようにふるまおうとします。そして表出する間違ったこと、例外なこ
と、悪いことを嫌悪し、恐怖するのです。
そして不条理に見まわれたとき、それはとても一般的なことですが、「(社会は倫理的なのに)なんで
オレだけ」と、倫理的な正しさとの差異を負債感として受け取り、社会への恨み、復讐心をもちます。
513 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:41:27
だた生きるという「純粋な生の力」
不条理を不条理として生きるとは端的にいえば動物のように生きるということです。動物は与えられ
た環境の中で懸命に生きる。不遇であってもその中で絶望することなく、ただ生きるだけです。しかし
倫理的な社会では、人が動物のように「ただ生きる」のは「馬鹿」だと考えられます。倫理という正し
さであり、知恵と努力によって、運命は切り開くことができると考えられます。
しかしここでは、不条理を不条理として受け入れること、世界は不平等で不自由であるという現実を
受け入れることへの恐怖があります。不条理を受け入れることは知恵、努力を否定することではあり
ません。どのように知恵、努力にかかわらず、世界の偶有的な不条理性から逃れることはできない
ことは一つの事実です。そしてこの不条理を不条理として受け入れる恐怖に立ち向かうのが、だた
生きるという「純粋な生の力」です。
514 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 19:42:05
「倫理的な社会」と「不条理なセカイ」の間で宙づりされる「不条理な社会」
「倫理的な社会」が生む負債感は復讐心、絶望によって、倫理的な社会の円環の中に人をとどめま
す。それに対して「純粋な生の力」はその円環を越える力です。それはただ不条理に立ち向かう活
力というようなものでなく、倫理の外にあり不条理そのものを生み出す負債感なき暴力でもありま
す。だから倫理的な社会は、不条理とともに「純粋な生の力」がないよう抑圧してきました。
不条理を不条理として受け入れること、ありのままに(不条理な)世界を受け止めるということは、負
債感なく不条理を受け入れ、そして罪悪感なく不条理を行使することを引き受けることです。人には
根源的にこのような「純粋な生の力」への欲望がありますが、「不条理なセカイ」は動物の世界であ
り、人間には不可能な領域です。
人は「倫理的な社会」と「不条理なセカイ」の間にある「不条理な社会」という宙吊りを生きるのです。
515 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 19:47:58
いや〜下痢している訳じゃないからそんなにいらないよ。
516 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 20:49:19
倫理的な社会という同調圧力は、不条理を恐れ隠蔽しますが同時に不条理を生成しているともいえないでしょうか。
517 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 20:59:54
518 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 21:04:53
不条理な社会として「北朝鮮」を上げましたが、北朝鮮も「倫理的な社会」でもあります。
北朝鮮なりの正義があり、それによって不条理が生まれているということですね。
すげー雑だな。w
520 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 21:21:30
出口なき倫理的社会の典型なのですね。
そこに気がついてしまうと最悪の恐怖です。
521 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 21:28:24
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522 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 21:38:27
北朝鮮が「最悪の恐怖」というのも短絡があって、
たとえば歴史上、北朝鮮はそれほど最悪かということです。
不条理は歴史の必然であるという事実です。
では現在の日本はいかように北朝鮮より良いのかと考えると、
「物質的に豊か」であることしかないように思います。
ボクの歴史観からいうと、ルネサンスそれから産業革命によって、
歴史は動き始めた。進歩史観をもった。これはヘーゲル的ですが。
その前は、歴史は進んでいなかった。
技術進歩にしか歴史は動かせない。そしてそれは物理的な豊かさの向上でもある。
その意味で、日本は北朝鮮より(正しい方向に)進んでいる。
しかしそれは不条理と関係するとは限らないということです。
523 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 21:47:53
言葉足らずでした。
最悪の恐怖とは北朝鮮のような特定の例のことではなく、
出口の見えない閉塞的倫理的社会のことをアイロニィとして最悪といいました。
雑にできている頭なもんですいません。
524 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 21:57:22
なんか妙な奴が現れたな。
525 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 22:01:31
>>523 マジレスしても、コケにされるだけだぞ。
その程度のことなら黙って本でも読んでな。
526 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 22:14:13
>>523 倫理的社会の閉塞性もいくつかありますね。
たとえば、フーコーに倣えば、
封建社会的な抑圧、規律規範的です。
現代はこれとは違い、環境管理(アーキテクチャ)的といわれます。
気がつかないうちにコントロールされている。
ボクが考えるのは、豊かで自由だけど、閉塞的である。
マニュアル化されすぎて、路線に乗る場合と、逸脱する場合の差が
大きすぎて、踏み外せないというような抑圧です。
これもいわば資本主義社会的閉塞です。
提供される商品を買う分には低価格であるが、
それに自分だけのオプションをつけると、急激に効果になる。
たとえば車は100万程度で変えますが、
自分だけの車を注文すると、数億円になります。
ボクたちは、マニュアル化された自由しかない。
レッシングの規制を、法、規範、市場、アーキテクチャと言いましたが、
これは市場による閉塞性になるのでしょうか。
527 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 22:21:17
レッシングは規制を、法、規範、市場、アーキテクチャの4つ上げましたが、
これは市場による閉塞性に近いのでしょうか。
これは単に自分のもつ金銭的なものではないのですね。
たとえば学歴社会では決められたコースを踏み外すと再起できない。
まだまだ転職などは開かれているとはいえません。
その意味では市場ではなく、規範に近いかもしれません。
528 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 23:12:57
レッシングの4つの規制(法、規範、市場、アーキテクチャ)を元にすれば、
現代の特性として規範による拘束がが低下している。
たとえば「無限の可能性に開かれている。やりたいようにやれ、夢をもて」という
言葉は、ある種のダブルバインドのように働いている。
現実には、市場、アーキテクチャの拘束は強まり、可能性は必ずしも広がっていない。
だれもオマエはダメだと言わないままで、「閉じた」門の前で待ち続けている。
だれも寛容を持って「そのうち開くよ。頑張れ」としかいわない。
誰かが一言「おまえなどに門は開く分けないだろう。馬鹿」と一言あれば、
それはあきらめがつくのかも知れない。
たとえばニートやフリーターとはそのような状態ではないだろうか。
529 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 23:28:48
>封建社会的な抑圧、規律規範的です。 現代はこれとは違い、環境管理(アーキテクチャ)的といわれます。
前者に比べて、後者が「最悪」なのは気がつかないうちに、という点と気がついてしまった場合の喪失感ではないでしょうか。
といっても前者の状況に置かれたことがないので想像の域を出ませんが。
530 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 23:42:51
>といっても前者の状況に置かれたことがないので想像の域を出ませんが。
いや規律訓練は、緩んではいますが、いまでも日常的です。
教育で善悪の規範が内面化されることです。
531 :
十二使鳥:2006/07/26(水) 23:45:52
おす。ぴか〜くん。
久しぶり。
最近、面白いコテはいないけ?
と、いってもコテ張ってる奴自体が少ないからなぁ・・・・
532 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 23:46:58
533 :
十二使鳥:2006/07/26(水) 23:49:01
>>532 やっぱそうか。
なんちゅうか、
つまらん。
534 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 23:49:57
535 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/26(水) 23:55:58
ボクが思うのは、社会の規範はほんとに緩んでいるのかということ。
有史以来、最も教育が行き届き、豊かであるこの社会の住人は、
もっとも「常識的な」人々である。
特に都会では儀礼的無関心という超高度な規範が共有されるている。
たしかに価値観は多様化し、人々の考えは相容れないが、
互いに「寛容にである」という規範で、高度な秩序を保っている。
それは、従来の社会的な規範から、寛容の規範へ変更している。
そしてそれは高度な規範ではないだろうか。
536 :
考える名無しさん:2006/07/26(水) 23:57:29
その規範的抑圧にたいしては、反発する自由がありますが、環境管理的抑圧に於いては、感性の摩滅が強いられ主体性はその観念すら喪失しかねない。
537 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 00:09:29
たとえば「夢をもつ」というのも一つの現代的な規範であり、
拘束として働いているのでははないだろうか。
538 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 00:27:23
>537
そう思います。
実現しないから、夢なんですけどね。
夢を持て、という拘束が夢を見る自由を奪う。
539 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 00:42:24
>>538 「自由であれ」が、自由をうばう、ということですね。
540 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 01:00:13
「なぜボクたちは「不条理な社会」という宙吊りを生きるか」で3つを分けました。
「倫理的な社会」・・・自由で平等な目指される超越論的な社会
「不条理なセカイ」・・・「純粋な生の力」の動物の世界
「不条理な社会」・・・ 「倫理的な社会」と「不条理なセカイ」の間で宙づりになる現実社会
たとえば日本は「倫理的な社会」、北朝鮮は「不条理な社会」と考えられるが、
決してそうではなく、どちらも「不条理な社会」である。
541 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 01:17:20
そうですね。
夢をみるのも自由を勝ち取るのも、不条理な社会に生きる人間の欲求なのですから、
倫理的社会の視点から要求されても馴染まないですね。
それに加えて、ゆめを持て、はそれを実現させるためのプロセスとワンセットで言及しているわけですからなおさらです。
プロセスが明確な夢など夢じゃないですよ。
542 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 09:33:06
科学技術の発展はマルクスのいうように資本主義存命の必然か、人間の欲望であり資本主義をしたがえるのか
543 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 09:46:07
人間の歴史は自然との闘争である。
技術革新は新たな闘争法であり、資本主義は自然への征服欲を根底にもつ。
純粋略奪の快楽である。
自然主義的史観
自然従属、崇拝の時代…呪術
自然隔離の時代…国家、都市化、一神教、キリスト教
自然略奪の時代…ルネサンス、産業革命、現代
自然管理の時代…情報技術、現代から
544 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 09:56:07
あんたいつ寝てるの?
545 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 09:56:47
国家が自然略奪の時代=資本主義の産物であるなら、
自然管理の時代の時代の秩序形態はいかようなものか
546 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 10:21:16
自然との関係において「歴史」は生まれる
547 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 10:25:13
>>544 そこで昨今囁かれだしたのが、ぴかぁ〜機関説なわけだが・・・
548 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 10:43:17
そう、ぴかぁ〜機関という数人で組織されたチームが、24時間体制で板の監視、情報の収集、書き込みを交代で行っている。
549 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 12:26:04
そろそろ、ぽすとぴかあ〜の時期だなあ
550 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 12:28:21
ぴかぁ〜機関に代わるタレントがいるかね?
551 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 13:13:13
■自然主義的闘争史観
マルクスは科学技術の発展とは資本主義存命の必然であり、下部構造としての経済によるものでしか
ないといった。それに対してボクが考えるのは、人間の歴史とは自然との闘争であり、自然主義的闘争
を下部構造とした自然主義的史観であると考える。そして近代以降の技術革新、そしてそれを元にした
資本主義社会は新たな自然との闘争方法としてある。そして自然主義闘争とは純粋略奪の快楽である。
社会形態/交換様式/宗教/快楽
自然従属、崇拝の時代…未開社会/互酬/自然崇拝(呪術)/ポトラッチ
自然隔離の時代…都市化、帝国/再配分/一神教(キリスト教)/戦争
自然略奪の時代…国家、資本主義/交換/産業革命(ルネサンス)、科学技術/消費
自然管理の時代…地球環境保護機構、/交換、再配分(環境税)/情報技術、環境管理技術/ (ネット)コミュニケーション
ルネサンス以降の科学技術革命は自然主義的闘争方法を隔絶から略奪に変え、資本主義システムの
もとに地球規模で略奪をすることに成功した。しかしその反動として環境問題として自然の「逆襲」が始
まっている。それにともない新たな自然主義的闘争形態へ移行する必要がある。その一つの成功例が
オゾン層破壊物質の削減であり、それに続くCO2排出規制である。今後さらに地球環境保護の政治力
は増し、「地球環境保護機構」のような動きは避けられなくなるだろう。そして資本主義は情報処理、環
境管理技術の発展とともに、地球環境をコントロールすることを必然とする自然管理の時代へと移行す
るだろう。
552 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 13:35:43
環境問題、あるいは遺伝子操作の倫理なども含め、様々な問題は地球規模で影響を与えるため
に、保護主義的傾向が強まるのは否めない。資本主義システム、ネット上の情報交換などの創発的
な動きと、それをコントロールする政治的な保護主義の対立の中で、世界はバランスを取っていくだろう。
553 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 14:15:27
地球外自然開拓の時代
月、火星自然の開拓ははじまるだろうが本格化するのはさらに次の段階になるだろう
554 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 14:17:09
人は生きるために自然と闘争するのではない。それが純粋略奪(暴力)の快楽だからむかうのだ
555 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 14:21:32
ふ〜ん (´・ω・`)
556 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 14:23:18
他者への暴力から負債感を払うことはできない。動物のようにただ殺すことは、ホモサケルであろうと完全不可能である。
ただ無限の未知である自然への暴力だけが負債感ない暴力を可能にする。
ボトラッチという自然への純粋贈与の本質は純粋略奪(暴力)なのである。
557 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 14:33:20
そして純粋略奪の快楽の系譜はポトラッチ、野蛮人(異教徒)の殺害をへて、科学による自然征服へ至り、現在は疑似自然(ネット)の開拓にむかっている。
558 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 14:46:46
(´・ω・`)そんなもんかねぇ
559 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/27(木) 14:48:20
だいたいね
560 :
考える名無しさん:2006/07/27(木) 15:02:53
ところでぴかぁ〜は、朝まで生テレビは見てる?
科学の基礎付けが為された時点で哲学の役目はほとんど終わったようなもんだ
562 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 13:04:00
シミュラークルな社会とは未知が自然から離れ自己産出される社会である。
労働価値説とは単なる労働をさすのでなく自然という無垢を加工する労働な根ざしている。
この労働が無垢が産出されために行われはじめるとき社会はシュミラークル化する。
本来、労働は生存を目的に自然と関係し行われてきたが、そこには無垢を開拓する快楽としてもあった。
しかし分業が進みある豊かさに達すると、労働は単純化し無垢が消失する。そして無垢は消費に求められるようになる。
そして無垢を生むために労働が行われ、たとえばブランド品のように商品は使用品でなく無垢を演出する品となる。
それがシュミラークル化した社会である。
これは自然への負荷を低減したわけでなく、逆に増加した。無垢の自己産出はより無垢への欲望を刺激し強迫性ましたために、
自然からの略奪も加速化したからだ。しかしそれは過渡的である可能性はある。
無垢産出の加速はさらに物質性をこえて、情報化しているからだ。電子ゲーム、ネットコミュニケーションなど。
しかしおもしろいのはこれら情報化は空間的に語られることが多いことだ。ネットやRPGはフロンティアのメタファーとしてある。
これは人の根源的な無垢としての自然への欲望を表している。
さらに言えば、電子情報技術において、やっと無垢な疑似自然を表現することが可能になったということだろう。
563 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 13:14:08
ボードリヤールのシミュラークル論はマルクス主義的生産社会から消費社会としてかかれた。
現代の情報化社会はさらに進んでいるように思う。むしろボードリヤール的シュミラークル社会の虚像感からは退避している面がある。
それは情報処理技術がある意味で無垢をかつての自然に近付けることを可能にしているからだ。
それは単にシミュレーション技術が向上しリアルになったということではない。
たとえばそれはネットはある意味で野蛮な未開社会へ回帰しているといわれることにあらわれている。
564 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 13:29:31
ネットの無垢性とはディスコミュニケーション性にある。失敗しつづけるコミュニケーションそのものがネットを無垢な疑似自然をつくる。
すなわち予測不可能な他者という無垢な自然の表出である。
消費の無垢性とは誰もが欲しがっているがまた誰も手に入れていないまなざしの快楽にある。ここでも無垢のキーは他者である。
実は自然の無垢性も他者性から切り離せない。自然とは神という他者との対話としてある。
わかりあえるようでいて決してわかりあえない差異が残り続ける。この他者性が無垢である。
自然との直接的な対話としての生産の無垢から、商品を介した間接的シュミラークルな対話としての消費の無垢、
そしてネット上の直接的な対話のコミュニケーションの無垢へと変化している。
565 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 14:33:10
■なぜ人々はネットへ向かうのか
「消費シミュラークル社会」から「コミュニケーションシミュラークル社会」へ
シミュラークルな社会
労働価値説とは単なる労働をさすのでなく自然という「無垢」を加工する労働観に根ざしている。労
働は生存を目的にした自然との関係としてあるが、そこには「無垢」を開拓する快楽としてもある。
しかし分業が進み労働は単純化し、社会がある豊かさに達すると、労働は「無垢」を生むために行
われる。たとえばブランド品のように商品は使用品でなく無垢を演出する品となる。このように無垢
が自己産出される社会が、「シュミラークル化した社会」である。
これによって自然への負荷を低減するわけでなく、逆に増加する。無垢の自己産出は強迫的に無
垢への欲望を刺激し、社会から姿を消した自然はただ原料としてのみ略奪される。
566 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 14:36:10
シミュラークルを加速する情報技術
ボードリヤールのシミュラークル論は、このようなマルクス主義的生産社会から消費社会への以降
として書かれた。そして現代はさらに情報化社会として変化している。情報化技術はこのような無垢
の自己産出としてのシミュラークル性を加速している。
たとえばゲームなどでヴァーチャルな世界は未知な自然のメタファーとしてあり、よりリアルなものと
して、臨場感ある無垢な世界を演出する方向に向かっている。これは人の根源的な無垢としての自
然への欲望を表している。やっと無垢を想起するような疑似自然を映像表現することが可能になっ
たということだろう。
野蛮な社会への回帰
しかし人々がゲームからネットへ向かうとき、情報化社会はさらに変化しているように思う。たとえば
ネットは野蛮な未開社会へ回帰しているといわれることにあらわれている。映像的なリアルな世界よ
りも、ネット上のジャングルの方が不確実で、危険で、ワクワクするというわけだ。
「ネットの無垢性」とはディスコミュニケーション性にある。社会的な役割が失われた剥き出しの人々
が出会うことがネットを無垢な疑似自然として演出している。すなわち予測不可能な他者という無垢
な自然の表出である。
567 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 14:36:55
無垢産出の変化
実は「自然の無垢性」も他者性から切り離せない。自然の恵みであり、自然災害であり、そこにはす
れ違い続ける自然神という他者との対話がある。また「消費の無垢性」とは誰もが欲しがっている
が、また誰も手に入れていない故に欲望する。それは商品を介した「大衆」という他者との決して分
かり合えない対話である。たとえばオタクも「萌える偶像」を介した「セクシャリティ」な他者(自己)と
の分かり合えない対話である。
すなわち自然との直接的な対話としての「生産の無垢」から、商品を介した間接的な対話としての
「消費(シミュラークルな)の無垢」、そしてネット上の直接的な対話の「コミュニケーションの無垢」へ
と変化している。
「消費シミュラークル社会」から「コミュニケーションシミュラークル社会」へ
わかりあえるようでいて決してわかりあえない差異が残り続ける。これが「他者性という無垢」であ
る。そして無垢とは欲望の対象であり原因である現実という「幻想(シミュラークル)」である。そして
ボードリヤールが消費社会をシュミラークルな社会というとき、他者とのコミュニケーションにおける
物理的な直接性からの解離を示しているといえる。
その意味でいえば、ネット社会はボードリヤール的なシミュラークルな社会から、他者との物理的な
直接性を回復する方向へ向かっている。それが人々をネットへ向かわせているのだ。「消費シミュ
ラークル社会」から「コミュニケーションシミュラークル社会」への変化に、自然破壊を回避する方向
が見いだせないだろうか。
568 :
考える名無しさん:2006/07/28(金) 14:43:05
う〜む、難題…
569 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 15:50:55
では労働はどのようになるのだろか
ネット関連の労働とは、ウエブ2のように自然を作り出すような人々である。グーグルのように
570 :
考える名無しさん:2006/07/28(金) 16:16:32
どうなるの?
先を聞かせて?
571 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 17:15:16
■なぜネットは地球を救うのか
シミュラークル化した社会
労働価値説における労働とは単なる労働をさすのでなく、労働とは自然から生産するという労働観
に根ざしている。労働は生存を目的にした自然との関係としてあるが、そこには自然のもつ「無垢性
(未知)」を開拓する快楽としてもある。
近代以降、分業化が進み「労働」は自然と切り離され、自然の「無垢性(未知)」を開拓する快楽から
切り離されていく。そして分業化による生産効率の向上とともに社会がある豊かさに達するととも
に、人々は無垢への快楽を消費に見いだしていく。
消費社会における商品は単なる使用品でなく、たとえばブランド品のように無垢を「演出」する商品
である。このように労働が「無垢」を自己産出される社会が「シュミラークル化した社会」である。
「無垢」の自己産出は市場における無垢の競争を引き起こし、強迫的に人々の無垢への欲望を刺
激する。ここで生まれる負荷は、分業化によって社会から隔絶された自然に向けられる。自然はた
だ資源として略奪されつづけ、環境破壊を生む。
572 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 17:15:49
シミュラークルを加速する情報技術
ボードリヤールのシミュラークル論は、マルクス主義的生産社会から消費社会への移行として書か
れた。現代はそのころに比べ、情報化社会としてさらに変化している。
その変化の一つとして、情報処理技術によってシミュラークル性がさらに加速されている。たとえば
ゲームやCGなどによって、ヴァーチャルな世界はよりリアルなものとして、臨場感ある無垢な世界を
演出する方向に向かっている。
このようなヴァーチャルな世界は、かつての無垢としての自然のメタファーとしてある。情報処理技
術の向上は、疑似自然な映像表現を可能にするようになったのだ。
ネットという「未知な新大陸」
しかし人々がネットへ向かうとき、情報化社会はさらに変化しているように思う。ネットで求められて
いるのはヴァーチャルなリアリティではない。そこで行われているのは画像でも動画でもないテキス
トベースのコミュニケーションである。映像によるリアルな世界よりも、ネット上の「野蛮な未開社会」
の方が、不確実で、危険で、ワクワクする、「無垢」に溢れているというわけだ。
ネットもまた自然のメタファー、「未知な新大陸」として語られる。しかしネットが「未知な新大陸」であ
るのは、新しいテクノロジーが次々投入されるためではない。「ネットの無垢性」は社会的な役割が
消去された「剥き出しの人々」が出会い、そしてわかりあえるようでいて決してわかりあえないという
未知=「他者性という無垢」による。それは予測不可能な他者という無垢な自然の表出なのである。
573 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 17:16:28
他者性という無垢
わかりあえるようでいて決してわかりあえないという「他者性という無垢」は、無垢そのものの本質を
表している。原始社会において、自然の恵み、自然災害は、そこにはすれ違い続ける自然神という
他者との対話としてある。それが「自然の無垢性」である。
あるいは消費社会では、誰もがその商品を欲しがっているが、また誰も手に入れていない故に欲望
される。それは商品の向こうにいる「大衆」という他者との決して分かり合えない対話である。たとえ
ばオタクも「萌える偶像」が想起する「セクシャリティ」な他者(自己)との対話である。それが「消費の
無垢性」である。
ハイパーリアルな消費社会
ボードリヤールは消費社会をシュミラークルな社会と言ったが、「無垢」とはその太古から人々の欲
望を想起する欲望の対象であり原因であるリアルな「幻想(シミュラークル)」なのである。
だからボードリヤールがシュミラークルを強調するときは、「ハイパーリアル」がキーワードになるだ
ろう。リアリティをハイパーリアルにする消費社会の特性とは対話する「他者」との距離に関係してい
るのではないだろうか。
「自然の無垢」では他者(自然)は現前化している対話するのに対して、「消費の無垢」では他者は
商品の向こうのにしかなく、活発な商品交換によって創発的に無垢を生成される。またネット上の情
報も同様にも無垢の創発性は見られるが、ネットでは疑似的にも現前化し表れる。すなわちボードリ
ヤールがいうハイパーリアルとは、「他者」との対話における物理的な直接性からの解離を示してい
るといえる。
574 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/28(金) 17:17:14
コミュニケーション(シミュラークル)社会は地球を救うか
だからネットコミュニケションはハイパーリアルでなく、リアルなのであり、ネットの出現は人々を「疑
似自然」へ回帰させているのだ。まさにそれが人々をネットへ向かう理由である。そしてさらに希望
的には、このような「消費(シミュラークル)社会」から「コミュニケーション(シミュラークル)社会」への
変化は、人々の無垢への欲望を消費からネットへ向かわせることで、過剰な消費を押される可能性
がある。
またネット関連の労働とは、グーグルのように、人々がコミュニケーションする場を作り出すことにあ
る。それはWeb2.0などと呼ばれるが、疑似的に「自然」を作り出すようなことである。そしてここに資
本主義社会では回避不可能と言われる自然破壊を回避する可能性があるのではないだろうか。
575 :
考える名無しさん:2006/07/28(金) 17:34:58
こんな暑くても思考力落ちないなんてすごいね。
576 :
考える名無しさん:2006/07/28(金) 18:05:21
577 :
考える名無しさん:2006/07/28(金) 18:19:18
>576
偉そうにいってるけど理解しているのかねW
578 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/29(土) 10:07:39
新書がブームだとか、職業ドラマがブームだとか、社会は観念的、想像的なものよりも、
論理的、実利的なもの求められているようです。
ボクも最近は小説を読むことが少なくなりましたが、小説というのはその世界に入るのに
時間がかかります。一度入り込むと別世界の空気を楽しむことができるのですが、
それに比べて、新書などは、生活の延長線にあり、別世界の空気へ入ることは
必要ありません。どんなに奇怪な話でもそれは同じ世界の地平の出しであって、
別の空気ではないのです。
だから前後関係なく、その部分を読むだけで楽しめたりします。
これは情報過多の社会の傾向であるのかもしれません。
小説世界にどっぷり入り込むこと時間、多くの認知量を与える余裕がない。
579 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/29(土) 10:11:13
これは、観念的、想像的なものが必要されないということでなく、
認知限界において、なにに限りある情報処理能力、そのための時間を使うか
ということです。
580 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/29(土) 10:29:48
他者との断絶、みじかになればなるほど表出するわからなさ
この断絶は人をヒステリックにします。
愛とはこの断絶を認めあうことです。
この暗やみに人は恐怖します。
たとえば韓国人には親近感とともにだからこそわかない暗闇をみて、ヒステリックになります。
581 :
考える名無しさん:2006/07/29(土) 11:14:01
ついに愛まで語りだしたか。
勇み足すんなよ W
17 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2006/07/29(土) 21:27:32
最近ぴかって言う人がまじこわい。ひきこもりでもなんとか物書きやれると思ったんだけどその夢を完全に打ち砕く存在だよ。何とかしないと本当に何年後かに精神障害者とかホームレスが大量発生すると本気で思うんだけど。
なんか言われてんぞ
何気に当たってるよな
584 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 00:57:58
地球人口60億人って少ないな。琵琶湖に集合できるらしいが。
一人から1円集めても、たった60億円にしかならない・・・
細菌60億個って、ワンルームぐらいか。
それで地球環境がパンクするかもって、一人当たりのエネルギー効率がよっぽど悪い生き物なんだな。
思考がおかしくないか?
人間一人当たりで2000kcalのエネルギーを消費して平均で100Wの出力。
効率は計算してみればわかるだろう。
587 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 02:59:51
何かグーグルで論じている本でそういうこと書いているのなかったけ?ウェブ進化論とかそういうやつ。
588 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 12:50:53
昨日BSで恐竜VSほ乳類を見ていて思いました。
ほ乳類は脳を進化させることで脳に大量のエネルギーを必要とするので、
恐竜のように大型化できなかった。
いまの大量のエネルギー消費は脳機能維持ではないが、
脳の機能向上が、逆に"頭の悪い"無駄づかいを生んでいる・・・
>>586 SI単位と統一して・・・
>>588 86.0655737634372kcal/h
地球のエネルギーは常に過剰なんだよね?
質問があやふや過ぎる。
質問じゃなくてピカへのヒント
17 名前:考える名無しさん 投稿日:2006/07/29(土) 21:27:32
最近ぴかって言う人がまじこわい。ひきこもりでもなんとか物書きやれると思ったんだけどその夢を完全に打ち砕く存在だよ。何とかしないと本当に何年後かに精神障害者とかホームレスが大量発生すると本気で思うんだけど。
594 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 15:43:47
意味わがんね
595 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 15:46:40
日曜の昼間に何やってんの?
>>593 反面教師と考えれば良いんではないですかね。
597 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 17:55:54
最近、体感アトラクションが流行っている。
大画面に映し出される迫力ある画像と揺れる座席。
まるで実際に乗り物に持っているような迫力を味わうことでできる。
乗ると確かにハラハラドキドキである。
しかしそれが虚像であることを知っている。
反射する身体と、俯瞰する心
体感アトラクションが最近てどこの田舎モンだよ?
599 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 19:26:36
しーっ
ホントのこといっちゃダメよ
600 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 20:12:02
600
601 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 20:55:54
最近、結婚しない人が増えていますが、彼らの多くが結婚を望んでいるということです。
簡単にいえば、結婚への条件が、相手への条件が高くなっているということでしょう。
容姿、金銭面など「贅沢」になっている。
602 :
純一:2006/07/30(日) 20:57:27
まあ、それは昔からですがね。
なぜ条件が高くなっているのか?
604 :
純一:2006/07/30(日) 21:03:35
より多く、より高くを望むのは別に今に限ったことじゃないよ。
605 :
純一:2006/07/30(日) 21:04:28
宮台のあの論とかね。
606 :
純一:2006/07/30(日) 21:06:13
年収が少ない相手をわざわざ選ぶ人は居ない。
普通なら、より高くを選ぶ筈だ。
一人で自活できるなら特に配偶者がほしいとは思わん
608 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:11:27
しかし恋とは不思議なもので、タレントのような容姿を望んでも、実際には恋に落ちると
相手がかわいく見えるものですし、実際に恋によってかわいくなるものです。
問題は、「出会い」がないということではないでしょうか。「出会い」とはきっかけです。
誰かを好きになるとは錯覚です。なぜ相手がその人であるかに理由はない。
日々多くの人とすれ違う中で、なんらかの形而上学的な転倒が必要です。
情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
見いだせない。
その中で限りなく条件は高くなる。条件という物理的なもので差異化しようと思うと、
かなり限定的なものでなければ、ならない。
これに近いのがオタクですね。オタクが情報の細部へ向かうのは、物理的に条件によって
差異を見いだそうとするためです。
だから恋愛条件オタクになってしまう。
609 :
純一:2006/07/30(日) 21:14:53
ここで論じてみたいのは、
ぴかぁ〜が形而上学と脱構築というタームを、
単に「出会い」を論じる為に必要だったのかという点だ。
610 :
純一:2006/07/30(日) 21:20:31
539 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 14:59:42
>>538 ポストモダンが暗かったのは、事後的ではないですよ。
疑心暗鬼=ディスコントラクション(解体)としてありますから。
611 :
純一:2006/07/30(日) 21:21:10
546 :考える名無しさん :2006/07/30(日) 15:03:47
デリダのいうディコンストラクションと、
ぴかぁのいうディスコントラクションは違うものなの?
612 :
純一:2006/07/30(日) 21:22:30
○ディコンストラクション
×ディスコントラクション
ですよ、皆さん。
タームの不用意な使用による誤用、つまり、
使うべき場所も間違ってますから、この間違いと同じくね。
613 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:27:00
新しいおもちゃを手にいれた子供の如くタームを使いたいのさ。
そしてジャーゴンと化す。
614 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:29:07
このような恋愛条件オタクが物理的条件へ向かうときに、疑似恋愛ゲームが
求められるのは必然です。ドラマ、ゲーム、そしてセックスも満たされてしまいます。
そしてはじめから恋愛そのものもゲームなのです。
本当に彼女がほしい、もてたいなら。一番はファッションのセンスを磨くことです。
ファッションに多くの投資を行うこと。
ファッションの根底にあるのは、他者から見られる自分を気にすることであり、
それは自らがなにが似合うか、なにを好むか、自らを知ること、
〜系というようにファッションはコミュニティへの帰属としてあります。
流行りのファッションを着こなすことがもてるのは、このような社交性が
評価され、それは積極的な恋愛ゲームへの参加を意味するのです。
その意味で、疑似恋愛ゲームと本物の恋愛はそれほど違いが
あるわけでないと思います。
615 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:32:09
それ、若者より中高年に言ってやれよ
616 :
純一:2006/07/30(日) 21:32:25
さてさて・・・
617 :
純一:2006/07/30(日) 21:32:59
619 :
純一:2006/07/30(日) 21:34:00
うーん、気持ち悪い。
620 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:35:34
621 :
純一:2006/07/30(日) 21:35:43
622 :
純一:2006/07/30(日) 21:37:49
>>620 >それ以前の話なわけです・・・
そうかもしれない。だが、
ぴかぁ〜、君はそれ以前に誤字しているわけだ。
そこんところをまず自覚したまえ。
624 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:41:05
誤字はぴかぁ〜としての、ステータスシンボルですから、とボクはいった。
625 :
純一:2006/07/30(日) 21:42:22
社会学系のブログ読んでると、
自意識の大きさに辟易しませんかね。
626 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:42:53
疑似恋愛ゲームと本物の恋愛はそれほど違いというか、本物の恋愛はゲームなのです。
たとえばあいのりを見て、たった数人でよくもまあ、恋愛に落ちるなと考えてはいけません。
あれこそまさに恋愛そのものです。
ではオタクはなぜ疑似恋愛ゲームへ積極的で、実際の恋愛ゲームに向かわないのでしょうか。
>>620 ・気になる人へのアプローチの仕方ランキング
・告白までの時間ランキング
・ラブラブだけど不安になる瞬間ランキング
・相手のちょっとかわいい態度ランキング
・相手のうっとうしい態度ランキング
・男の浮気ランキング
・女の浮気ランキング
・結婚を意識するまでの時間ランキング
・女性が結婚を迫るときランキング
・結婚を決意した瞬間ランキング
こんだけあったら何か言えるだろう?
628 :
純一:2006/07/30(日) 21:46:48
まあ、宮台譲りと考えるべきなのかな。
ともかく、あんまり読みたくないね。
629 :
純一:2006/07/30(日) 21:47:49
まずはその自意識を・・・
といったところだろうね。
630 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:48:33
恋愛といおうがゲームといおうが、いずれにしても閉鎖的空間が必要だということだけ。
>>625 それは少しわかる。
でもブログは多かれ少なかれそんなもんじゃない?
それがないと逆につまらないし。
632 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:49:12
このような恋愛は80年代に生まれたと言われています。
そしてそれはオタク文化が育ったときと同じです。
633 :
純一:2006/07/30(日) 21:50:53
>>632 ぴかぁ〜、完全無視じゃなくて、
疑問点にちゃんと答えてみたらどうだい?
635 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:51:53
ぴかぁお前テレビばっかり見てんだなW
636 :
純一:2006/07/30(日) 21:53:17
で、ちょっと思ったのだが、
ぴかぁ〜みたいに誤字、誤用が当たり前でも、
ブログ界隈じゃ流通するんだよね。
でも、それって、ブログ界隈のレベルが、
実際がどれくらい低いかを証明してるよね。
ここで指摘できるというのに。
見合いなんて
条件闘争そのものじゃんね?
638 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 21:55:57
基本的には駆け落ちなんだよ。
だから恋愛なるものが、蔓延、普遍化するわけない。
639 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:56:08
後進国の女性を見るとわかりますが、日本の女性は美しくなりました。
化粧品、ファッションなどが飛躍的に良くなっています。
女性にとってファッションはいわば肉と血です。
オタク性があるわけです。
男にはわからないような細かい文化がそこにあるわけです。
そこにファッションに無頓着で、女性の苦労、肉と血がわからない男性に
興味は持てないでしょう。大きな断絶を感じてしまいます。
たとえばオタクにとって自分の趣向をまったくわかってもらえないことは
自己否定のように感じてしまうでしょう。
640 :
純一:2006/07/30(日) 21:56:34
ブログって1個の城みたいなもんだね。
篭城戦しかできないのが強みなのかな。
で、結果的にはいい加減だらけのぴかぁ〜のブログも
粗が中々出てこないという特性に守られているわけだけど、
いざ、掲示板に戻ってくると、篭城できなくなって丸裸になるよね。
641 :
純一:2006/07/30(日) 21:58:27
時々思うけどさ、あの社会学系のブログの連中も、
全員、2chに集まってやりあえば、適当に淘汰されるんじゃないかな。
そういう淘汰をやらないから、自意識ばっか大きくなるんだろうね。
642 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:59:56
オタクはなぜファッションを気にかけないのか。
簡単にいえば興味がないということでしょう。
そこにオタクがもてないことの理由が凝縮されているように思います。
643 :
純一:2006/07/30(日) 22:00:55
>>639 女のほうがオタク的で鈍感だと言うこと?
645 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 22:02:09
すなわち恋愛とは、オタク文化を並列な一つのゲームであり、
いまの流行り、ファッショナブルであることが、ゲーム参加への必要条件になっているからです。
おしまい・・・
646 :
純一:2006/07/30(日) 22:03:02
で、下手な篭城ばっかやってるから、
半mixiみたいになっちゃってんだろうね。
647 :
純一:2006/07/30(日) 22:03:55
648 :
純一:2006/07/30(日) 22:05:31
さてさて・・・
649 :
純一:2006/07/30(日) 22:08:00
今日も1つも疑問に答えずに、
ぴかぁ〜は逃げてしまいましたな。
650 :
純一:2006/07/30(日) 22:08:52
と思ったら、東スレに避難してた。↓
617 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 22:07:16
>>616 ブログで答えています。選択することの意味がないということ。
東はもともと科学屋なので、思想家というよりも、現状分析家なのです。、
651 :
純一:2006/07/30(日) 22:09:48
617 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 22:07:16
>>616 ブログで答えています。選択することの意味がないということ。
東はもともと科学屋なので、思想家というよりも、現状分析家なのです。、
652 :
純一:2006/07/30(日) 22:11:17
このスレと、ラカンスレ、それに東スレを、
避難スレとして使ってますな。
653 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 22:12:30
ぴかぁ、おまえはこういった身近な問題について論じると見事に馬脚を現すな。
得意のジャーゴン乱発戦術が使えず、論旨が丸裸になると見るも無惨だな。
自分のレスだけまとめて読んでみな。
支離滅裂、しりすぼみの論理、見出し掲げて展開しない内容…
酷いもんだ。
やはりお前は、意味のないことにジャーゴンの粉飾しているのがお似合いのようだ。
目くらましが出来るからね〜〜
654 :
純一:2006/07/30(日) 22:13:49
ローテーションしているわけだね。
1つのスレで反論されたら、次のスレに移ると。
ブログのような防御機能が無いから、逃げるしかないわけだ。
逃げるぐらい誰でもやってるんだからいいじゃんか
純一も固いこといってやるな
656 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 22:50:52
■オタクはなぜもてないのか
恋愛条件オタク
最近、結婚しない人が増えていますが、彼らの多くが結婚を望んでいるということです。簡単にいえ
ば、結婚への条件が、相手への条件が高くなっているということでしょう。容姿、金銭面など「贅沢」
になっている。
しかし恋とは不思議なもので、タレントのような容姿を望んでも、実際には恋に落ちると相手がかわ
いく見えるものですし、実際に恋によってかわいくなるものです。
問題は、「出会い」がないということではないでしょうか。「出会い」とはきっかけです。誰かを好きに
なるとは錯覚です。なぜ相手がその人であるかに理由はない。日々多くの人とすれ違う中で、なんら
かの形而上学的な転倒が必要です。
情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。瞬間瞬間で「脱構築」が
作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がそ
の中でも特別という「きっかけ」が見いだせない。
その中で限りなく条件は高くなる。条件という物理的なもので差異化しようと思うと、かなり限定的な
ものでなければ、ならない。これに近いのがオタクですね。オタクが情報の細部へ向かうのは、物理
的に条件によって差異を見いだそうとするためです。だから「恋愛条件オタク」になってしまう。
このような「恋愛条件オタク」が物理的条件へ向かうときに、疑似恋愛ゲームが求められるのは必然
です。ドラマ、ゲーム、そしてセックスも満たされてしまいます。そしてはじめから恋愛そのものもゲー
ムなのです。
657 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 22:54:20
オタクはなぜファッションを気にかけないのか。
オタクはなぜファッションを気にかけないのか。簡単にいえば興味がないということでしょう。 そこに
オタクがもてないことの理由が凝縮されているように思います。
このような恋愛は80年代に生まれたと言われています。そしてそれはオタク文化が育ったときと同
じです。恋愛とは、オタク文化を並列な一つのゲームであり、いまの流行り、ファッショナブルである
ことが、ゲーム参加への必要条件になっているからです。
後進国の女性を見るとわかりますが、日本の女性は美しくなりました。化粧品、ファッションなどが飛
躍的に良くなっています。女性にとってファッションはいわば肉と血です。そこにオタク性があるわけ
です。男にはわからないような細かい文化がそこにあるわけです。
だから女性はファッションに無頓着で、女性の苦労、肉と血がわからない男性に興味は持てず、大き
な断絶を感じてしまいます。たとえばオタクもとって自分の趣向をまったくわかってもらえないことは
自己否定のように感じてしまうでしょう。
本当に彼女がほしい、もてたいなら。一番はファッションのセンスを磨くことです。ファッションに多く
の投資を行うこと。ファッションの根底にあるのは、他者から見られる自分を気にすることであり、そ
れは自らがなにが似合うか、なにを好むか、自らを知ること、〜系というようにファッションはコミュニ
ティへの帰属としてあります。
流行りのファッションを着こなすことがもてるのは、このような社交性が評価され、それは積極的な恋
愛ゲームへの参加を意味するのです。その意味で、疑似恋愛ゲームと本物の恋愛はそれほど違い
があるわけでない。どこに自らを見いだすのか、自分のままで誰かの認めてもらいたという恋愛条件
オタクということです。
658 :
考える名無しさん:2006/07/30(日) 23:00:53
めちゃめちゃだな
せめて、てにをはぐらい直しとけ。精神イケヌマ
659 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 00:32:21
■なぜ「ウェブ進化論」は楽観的なのか
「ウェブ進化論」は楽観的なのか
「ウェブ進化論」(ASIN:4480062858) の梅田望夫が「二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲
学はどこに」というコラムを書いていますが、ボクが以前からフラストレーションがあるのが、ネットは
産業革命以来のものだと言われたりしますが、そのわりにネットの本質をとらえる知識人がいないと
ということです。
同じ時期に出た佐々木俊尚「グーグル」(ASIN:4166605011)では、最近の情報技術論で一般化して
いる環境管理権力のような危機感が語られています。これはフーコー、ドゥルーズからのポストモダ
ン思想の系譜ですが、もっと前向きに人間の変容をとらえた人がいない。
梅田は「ウェブ進化論」で、それを補完しようとしているのではないでしょうか。梅田は哲学者でも、
社会学者でもなく、思想としては稚拙ですが、なんとか「ネットの力」を伝えたいという思いが、「ウェ
ブ進化論」には溢れていますね。梅田はシリコンパレーに住んでおり、それはシリコンバレーの高揚
感なのでしょう。そして「シリコンバレーからの手紙」とは「未来からの手紙」なのです。
梅田はこの本であえて「オプティミズムに書いている」といっていますが、ただ陽気な楽観主義では
なく、いまシリコンバレーという未来で行われている「ネットの力」をなんとか伝えたいということであ
り、それは技術的な紹介でなく、未来像の提示という意味で意欲的な「思想書」なのです。それがこ
の本が熱狂的に受け入れられて理由でしょう。
660 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 00:36:31
「二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲学はどこに」
ボクは、時代の「収束」と「拡散」というサイクルのようなものを考えています。世界大戦、マルクス主
義の「収束」からの反動として、ポストモダンは「拡散」過程にあります。
ポストモダン論はそのファッショナブルで軽い言説に反して、本質は暗いものです。一言で言えば、
疑心暗鬼の哲学です。全体主義、マルクス主義へのアレルギーを元にする「発散」のポストモダン的
に言えば、「収束」は危険です。
たとえば「動物化」とは、ヘーゲルの歴史観による、「歴史の終わり」の未来を失った人々という意味
です。そこには「拡散」しもはや「未来」はないのです。
梅田望夫が「二〇二五年までの半世紀を代表する思想・哲学はどこに」((二〇二五年までの半世紀
を代表する思想・哲学はどこに
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060718))と問うのは、1000
年後に振り返ると今はどのように語られるだろうか、というような視点です。
今を1000年後に振り返ると、確実にネット創世記として語られるだろう。それをボクたちは誇りにし
てもよいだろう。しかしただ「ネット創世記に生きた人たち」と呼ばれるだけで、良いのだろうか。それ
と共に、ボクたちは言葉と責任を未来へ送ることはできないのだろうか。
ボクたちは「未来」へ期待することは間違いでしょうか。ネットの登場でいま「収束」に転じているので
はないでしょうか。疑心暗鬼はより強い反転としての収束を生みます。ネットは情報に溢れ、「発散」
的です。しかしそれ故に人は「収束」しようとする。ナショナリズムの台頭はわかりやすいですが、よ
り確かなアイデンティティの取り返しのようなものが起こっている。
そしてボクたちに必要なのは、現在の閉塞としての反動としての収束でなく、未来への「収束」です。
ナショナリズムではなく、ネット技術への熱狂が生む「収束」です。「ウェブ進化論」は楽観的すぎると
いう批判があることはわかりつつ、「未来」への熱狂を伝えたいということではないでしょうか。
661 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 00:53:48
ふんふん、何にそう書いてあったんだい。
悲惨なスレだな
663 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 15:38:51
なんだか哲学虚しい症候群になりました。哲学のニヒリズムはうんざりです。
ボクはドラッカーやトフラーのように楽しい実在的な未来を語りたいだけなんです。
世の中こんなに楽しいのになぜ重箱の隅をほじらなければならないのか
664 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 15:43:01
しかしベルクソンって意味不明ですね。ありゃ自然主義なのか、観念論なのかなんなのかね
665 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 15:51:06
しかし東かオタクをターゲットにしたのはすばらしいですね。
もはや哲学の呪文にかかる人は屈折した情熱のオタクか、サヨもどきしかいない。
サヨもどきはすでにおさえられてますから
この鼻のきかせかたは天才的です
ファッションを語るならぴかぁ〜の姿もブログかどっかで晒してほしいもんだな
顔はモザイクでいいから
667 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 18:45:53
俺もぴかぁ〜の気持ちはよくわかるよ。
そこでさ、聞いてくれよ。
昨日学校の同じクラスの女のうちに遊びに行ったらなんか妙に俺に触れてくるんだよ。 んで「なんだよ?」って行ったらキスされてさ 俺チェリーだしよくわからずに見よう見真似で服を脱がしたらさ
女が「勇一のくっさいのちょうだい、くっさいの欲しい」とか言いだしたのよ。
俺は、え?なんだよこの後おっぱい揉んだり吸ったりするんじゃねーの?って思ってて戸惑ってたらさ
女がまた「勇一のくっさいの欲しいぃょぉ」って可愛い声出したんだよ。
だから、足の親指の爪のカスをあげたら往復ビンタされちゃったよ。
どうゆーこと?
教えてぴかぁ〜
668 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 18:52:31
しかし、SMもほどほどにしなければならないね
672 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 21:38:06
何やすやすと、つられてんだよ
雑談に来てるのにつられるもくそもあるかボケ
674 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 22:05:53
雑談だろうがなんだろうが、釣られる馬鹿はバカだろがクソボケ。
675 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 22:06:27
ケンカやめな!
「自然主義的闘争論」って結局は「疎外論」への後退なんじゃないのか?
要するに「外部」の疎外体が「内部」って話だろ、だったら永遠に弁証法をやるしかない
まあ、ポモ以降「疎外論」が成立しにくくなったって認識はあるみたいだけれども
でも「カーニヴァル」が「内部 vs 外部」の二元論を突き破るものなのかな?
>>674 つられて何ぼだろが小さいこと気にしやがって
どうだっていいんだよ
釣られるやつ見るのが嫌ならこんなとこ来るなよ
>>675 うるさいんだよ
お前は黙ってネタ垂れるかレスしてればいいんだよ
679 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 22:37:24
>>677 口のへらねえクソガキだな、まったく。
釣られたのを指摘されたのがそんなにくやしいか。
釣られているのを見るのが嫌だと誰がいったボケ。
ただ馬鹿にしただけだクソガキ。
680 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 22:39:43
681 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/31(月) 22:41:46
>>679 俺が誰にレスしようがお前の知ったこっちゃねんだよ
それ見て「お前つられてるぞm9(^Д^)プギャー」ってか?
馬鹿だろやっぱり
683 :
考える名無しさん:2006/07/31(月) 23:23:09
はいはいわかったわかった。
君のいうとおりでいいよ。
>>683 当たり前だろが
これからは余計でつまらない真似するなよ
685 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 00:22:48
やかましいぞクソガキ。
下手にでてりゃ付け上がりやがって。
いいかげんにしろや。
686 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 00:29:37
>>684 これからはって、このスレの常連気取りか W
ごくろうさん
常連?それはお前らだろ?
爺どもの残り少ない人生を慮って「これからは」って
言ってやってんだありがたく思えよ
688 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 00:56:58
十年早いんだよ、ぼーず。
そんなに年齢にこだわるなよ
大人ならそろそろちっちゃいことにこだわる人生を直していけよ
690 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 01:20:02
さっきからこだわるを連発しているが、こだわってるのはテメエの方だというのがわからんのか低脳。
歳などわかるわけないだろうが。
歳に関係なくテメエみたいのをクソガキっていうんだよ。
よく覚えておけ低脳クソガキ。
やっとそこまでわかったんなら
誰が釣られたかなんてこといちいち馬鹿にしにくることも
同じことだってわかるだろ?
所詮誰も彼も釣られて書いてんだからどうでもいいだろが
じゃそういうことで
またな
693 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 01:54:54
何訳わからんこといって自己満足してんだ阿呆ガキ。
テメエとまたはねえよ。
>>693 じゃあ俺このスレに常駐することにしたから
このスレからは消えてね
さいならー
695 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 02:07:49
つくづく気の毒な奴だな。
お前が常駐しようがすまいが、俺の与り知らぬところだが、俺が消えなければならぬ必要もあるまい。
お前とまたはないといったまでだ。
このスレはお前だけしかいないのか?
おまえ脳みそあるのか。
>>695 「また」をありがとう
とりあえず飽きたんで話題振ってくれ
697 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 04:06:17
柄谷ってマルクスの誤読から資本の欲動などとアホなこといってるけど、ぴかぁさんの解釈ではそれは純粋略奪の快楽ですよ?では攻撃欲動も純粋快楽といえるんですか?たとえば人を傷つける快楽とか、ひきこもりを見下すこともそうですよね?
698 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/01(火) 04:06:41
久しぶりです。
村上春樹の「国境の南、太陽の西」を読んだ。
主体が、欲望に駆動される空虚たる運動であることがよくわかった。
以前、統計的な出来事と、それが自分自身に起きることの感覚の
違いを、「偶有性から単独性への転倒」、つまり「遡及的に『運命的
感覚』を感じる」と言われたけれど、自身の単独性は運命の相手との
一度きりの経験から演繹されるのだから、ある個人にとっての<欲望>は、
記号的には「欲望」だけれども、その現象としては一度きりの単独的な
ものだから、その<欲望>が失われた後、主体はもはや埋めようのない
「空虚」に耐えて生きなければならないことを、どう捉えればいいのだろう。
単独性を持った個人にとって、取り返しのつかない欲望の対象を失った時に、
彼が死を選ぶことを私は否定できない。
その喪失を乗り越えてなお「欲望」を空虚と知りつつ産出しようと努力する姿勢が
「成熟」だとするならば、なんて空虚なのだろう……
「ノリつつシラケ、シラケつつノル」という言葉は、どこかに欲望たるもの(当然
遡及可能性を含んでいると<信じている>もの)が偏在していることを前提にしている。
しかし「欲望」が個人にとっては単独的なものであり、代替可能でないことをここまで
示されてなお、「欲望」を抱くと自律的に運動することなど可能なのだろうか?
成熟が魂の死であるなら、成熟以降の生は全て虚無ではないだろうか?
「成熟」しないまま転移を繰り返し想像界に人生のほとんどを置いて死んでいくのが
普通の人間だという気がしてきた。
私には、愛は転移であり想像界の現象であって、象徴界とはその燃え尽きたかけらの
ように思える。
「象徴界の砂漠へようこそ」
699 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 04:17:37
そういうの待ってました(笑)
701 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 10:22:03
いよーぅ
リーマンキャラ久しぶりの登場だな。
どうしたんだい?
702 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 10:28:43
>>697 柄谷は根底に欲動をおいていますね。しかし柄谷も欲動とはなにかは、具端的に説明されていませ
んね。純粋略奪の快楽はフロイトの欲動(リビドー)に近いです。その意味で柄谷の欲動に近いかも
しれません。
純粋略奪は罪悪感なき略奪ですから、社会では去勢されて不可能の領域です。人を傷つける、ひき
こもりを見下すことに罪悪感を排除することはできません。自分が受けた社会からの抑圧を社会へ
送り返すように行われます。だから純粋略奪ではありません。
703 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 10:58:41
>>698 お久しぶりです。ボクも村上春樹好きですよ。
ほとんど読んでます。しかしノーベル賞候補とは凄いですね。
村上春樹のあの強烈な魅力はなんなのでしょうね。
構造的にはセカイ系に近いように感じます。
主人公はいつも漠然とした大きな不安の中にいます。
そしてそれに対する無力感の中に生きている。
ただ日常を受け入れ、時計の針が刻むように生きている。
多くの場面はただなにもない淡々とした日常が描かれます。
しかしある種の使命のようなものに巻き込まれてしまう。
だがそれは不安を振り払うような戦いではなく、
ただささやかな日常を取り返すようなものでしかないが、
だからこそ闘う。
みたいな・・・
704 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 16:12:23
NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor.html ボクも一部見ましたが、こういうのを見るとある種の懐疑を覚えてしまいますね。
すなわち数人をお涙ちょうだい的に描き、全体を標榜しているのではないか。
社会にはいつも格差があって、どのようなときにお涙ちょうだいを
切り取ることはできる。
ボクは本質的に創発主義者なのだからだろうか。
創発主義者は世界はなるようにしかならないということ。
最近でいえば、ネオリベ、ネオコン的ということになるのだろうか。
ヒュームのコンベンション、アダムスミスの神の手、
ダーウィンの自然淘汰など
最近なら新古典派経済学、シカゴ学派、ノージックのリバタリアンなど
705 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 16:27:16
コミュニケーション衰退に見るIT時代の終焉
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0607/27/news009.html 最近ひさしぶりにみた痛い記事ですね。
>>
コミュニケーションの基本は、人と会って話すことである。ITテクノロジーを使って
コミュニケーションを取ることは、その代替であって、本質ではない。
人間が成長するためには、やはり人と直接あって話を聞くということが、一番近道である。
というよりも、過去人間はそれでしか成長してこなかったわけで、そのメソッドをたかだか
数年か数十年前に発明された技術に置き換えて大丈夫なはずがない。
学校なんかいらない、通信教育だけで十分、とは誰も思わないわけだが、話を単純化すれば
誰でもわかる本質を、ITなどという言葉を絡めただけで見失ってしまう。
今我々は、ITに対する幻想を捨てる時期にさしかかってきている。それはITがない時代の人間
ITによる遠くて薄い人間関係に依存すれば、信頼できる人間関係が築けず、当然恋人もできない。
したがって結婚もできず子供もできないわけである。この傾向は、少子化の統計などからも
容易に想像できる。
<<
「人間が成長するためには、やはり人と直接あって話を聞くということが、一番近道である。」
というときのコミュニケーション能力とはなんだろうか。
ただボクたちがコミュニケーション能力と言うときに、こんな単純化するほど幸せな世界に
生きていないことだけはたしかですね。
「誰かをフィルターにする」、「情報スルー能力」も必要。
ネットで情報を収集する能力も必要で、
ネットで多数の人と話をすることも楽しい。
そして現前化する人と会話することも必要。
コミュニケーションとはいつも多様であり、さらに多様に、楽しくなっているというだけ。
706 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 16:35:00
707 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 16:59:19
人はある程度満たされているときは干渉しないで自由にしてくれといい、
不満足なときになんとか規制して保護してくれというわけです。
708 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 17:22:58
人はある程度満たされているときは干渉しないで自由にしてくれといい、
不満足なときになんとか規制して保護してくれというわけです。
これはフロンティアと関係する。ネットがリバタリア二ズムが強いのは、
ネットがフロンティアであるからだ。
フロンティアが消失した閉塞社会の中で、保守化が起こり、国家による
調整を求めるようになる。
その意味で、現在のネオリベ、ネオコン化はネットの発達と関係している
のではないだろうか。ネットの可能性が、アメリカのネオリベ傾向に
「勇気」を与えている。実用的には80年代閉塞していたアメリカが
90年代のITバブルによって復活したこととも繋がるだろう。
ネオリベが豊かさを導き、フロンティアを提供し、純粋略奪の開拓を
与える。
たとえばアメリカは気候変動枠組条約締約国会議(COP)に従わないことを
選択しているが、これもIT化の成功と関係しているだろう。
IT化の成功がアメリカを勇気づけているのである。
アメリカはすでに新大陸を発見したのでし、環境問題のような閉塞に
興味が低い。
自然主義的闘争史観において、次のステージへ向かっているが、
多くの国が環境問題(コントロール)に闘争の場を見いだそうとしているのに対して、
アメリカはより楽観的に、新大陸としてITに闘争の場を見いだしている。
709 :
考える名無しさん:2006/08/01(火) 19:11:50
さっそく核心にせまりたいのですがそのようなコミュニケーション社会の敗北者のリビドーは結局ネット社会に向かうしかなく、リアル社会の勝者は子孫繁栄をふくむ富の独占をおこなうと…。
710 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/01(火) 22:05:42
>>709 もう少し核心にせまってもらえれば・・・
711 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 02:27:09
コミュニケーション社会における敗者の存在を否定されることにより生ずるであろう死の欲動に基づく攻撃欲動はどこに向かうのかということですが。
712 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 04:18:07
柄谷の最大の功績は批評の世界においてトランスクリティークという手法を開発したこと。カントとマルクス、フロイトは完全に誤爆だったが、そこにニーチェを加えれば事情が一変すると思う。柄谷には再起を期待しています。
713 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 09:42:17
>>711 自然主義的闘争では、敗者がどうということではなく、
欲動はかならず外部(自然)へ向かいます。
ネットは疑似自然としてあるのではないか、ということです。
>>712 カントとマルクスの交通というアクロバティックはおもしろいとしても、
なにか芸術的なおもしろさの域を超えないですね。
柄谷にはなにが欠けているのか、ということはおもしろいと思います。
ボクは「柄谷には外部がない」と言いましたが、
本質的な欲動がないように思います。
714 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 09:52:15
外部へ向かいたいという悪意なき暴力的な欲動がない。
これはマルクスにも特徴的です。マルクスはまさにそれが資本主義的なものであって、
それが解消されることが史観であったわけです。
トラクリはこの欲動の解消をカント的理念で隠蔽することにあるように感じます。
715 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 12:02:10
ありがとうございます。ではぴかぁさん自身はニーチェをどのように捉えられてますか?それにドゥルーズなどを絡めればかなりの理論的展開が可能かと思われるのですが。またカントのいう世界平和はどのような手段で達成されるべきとお考えですか?
716 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 13:31:37
ニーチェは理性に対する欲動の哲学者ですね。その先見性からドゥルーズなどポスモダ思想に大きな影響を与えたわけです。
しかし同世代少し先にダーウィンがいるわけです。
カントの世界平和でもヘーゲル、マルクスの弁証法でも、そしてニーチェの超人でも止揚しちゃうんですね。
これはさまざまな政治思想にも当てはまりますが、進歩史観そのものが欲動(純粋略奪の快楽)であって何かを排他しているのですね。
ニーチェのキリスト教徒、マルクスの資本主義、ナチスのユダヤ人…
進化論は多々この同列に並ばれますが、違うのです。
進化論は進歩でなくあくまで環境にあわせた変化なのです。環境がかわれば変化するだけです。
だから世界平和のようにどこにも止揚しないのです。ただ変化し続けるだけです。
ボクが言う創発主義も同じです。
進歩主義はルネサンス以降の科学進歩によりあらわれた啓蒙思想であり、科学技術にのみあてはまり、
人間にはあてはまりません。
人間はどこにも止揚しない。そのときどきの環境にそって自然と闘争し続けるだけです。
717 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:35:37
いよーぅまっってますた
718 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:39:59
人間はどこにも止揚しない。そのときどきの環境にそって自然と闘争し続けるだけです。
↑
いいですねえ。
本音ですよ。
719 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 13:40:03
だからボクはルサンチマンや超人、力への思想などと説教くさくなる前の、
ディオニソス的と生をいきいきと描く悲劇の誕生が好きなのです。
720 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:41:18
>719
佳境に入ってきましたね。
ピカァ〜節。
嫌いじゃないですよ。
721 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:42:25
さすが ぴかぁ〜
722 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:44:12
だんだん腕を上げるぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
723 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:45:05
野暮な質問だけど、何歳ぐらいから哲学の勉強してるの?
月に何冊本を読むの?
724 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 13:48:05
進化を止めないぴかぁ〜
725 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 14:17:58
進歩とは自然の征服のことなんですね。
ルネサンス以降の新たな自然との闘争様式です。自然を定量化することで開拓、略奪する。
そして開拓の拡大が進歩であり、そには略奪の快楽がともないます。
なんでも進歩はこの方法論の一人歩き、快楽を求めることです。
現代は開拓にブレーキがかかっている。どうもこの様式ではうまくいかなくなっている。
進歩史観そのものの限界なわけです。それが閉塞感にもなっている。
ルネサンス以前は自然と社会は断絶し、農耕など必要なところは共存していた。
そのように闘争して、進歩史観はありません。
しかしいまさらそこにもどることなどできません。だから環境開拓からコントロールへ、
このとき国際的な保守主義に迎うことはいなめないと思いますし、国際的な統括機関(いまのCOPより強制力をもつ)ができるのではないでしょうか
イラク戦争以降アメリカも国連決議を重視する傾向がみられます。
そしてさらに開拓の快楽は疑似自然世界=ネットへむかいます。
これはネグリの帝国とマルチチュードに近い構図でもあります。
726 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 14:26:07
しかしいまさらそこにもどることなどできません。
養老孟司はもどれるといってますね。
727 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 14:27:55
カラ谷の帝国にはなぜマルチュードはいないのか?ということだとおもいます。
マルチチュードは誰なのかは明確ではありません。しかし誰かわからないことこそがマルチチュードの存在意義だと思うのです。
ボクはネット周辺にみるわけですが、いまなら2ちゃねらーでもブロガーでも、ハッカーでもよいが
自然開拓に行き詰まり閉塞しつつする帝国から逸脱し快楽を探索する人々ではないでしょうか
728 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 14:31:38
ネグリなどサヨはすぐに体制、反体制の構図を描きますが、脱体制なんでしょい
体制が閉塞するから新天地へめざす人々です。価値観が違い対立するときは反体制的になるでしょうが
729 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 14:54:12
しかしこのような創発主義の問題は保守主義的であるということですね。
突き詰めればなるようにしかならないになる。
730 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 15:09:49
なんかさ、誉めてから調子が落ちてね?
731 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 15:09:52
アソシエーションなども基本的にそこへの回帰をめざしますね
自然との調和です。しかし自然との調和などないというのがボクの考えです。
たとえばルネサンス前が調和しているように見えるのは事後的です。
実際に自然に生きる人は必死で、闘争です。ロマン主義です。
環境調和とはボッカ的でなくコントロールする闘争です。
732 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 15:12:47
ムフフフ
733 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 15:16:13
>>730 知の巨人ぴかぁ〜に限ってそれはないんじゃね?
734 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 16:19:58
■なぜ進歩史観でなく進化論的なのか
進歩史観と進化論
ニーチェは理性に対する欲動の哲学者ですね。その先見性からドゥルーズなどポスモダ思想に大きな
影響を与えたわけです。しかし同世代少し先にダーウィンがいるわけです。
カントの世界平和でもヘーゲル、マルクスの弁証法でも、そしてニーチェの超人でも止揚しちゃうんです
ね。これはさまざまな政治思想にも当てはまりますが、進歩史観そのものが欲動(純粋略奪の快楽)で
あって何かを排他しているのですね。ニーチェのキリスト教徒、マルクスの資本主義、ナチスのユダヤ人…
進化論は多々この同列に並ばれますが、違うのです。進化論は進歩でなくあくまで環境にあわせた変
化なのです。環境がかわれば変化するだけです。だから世界平和のようにどこにも止揚しないのです。
ただ変化し続けるだけです。ボクが言う創発主義も同じです。進歩主義はルネサンス以降の科学進歩
によりあらわれた啓蒙思想であり、科学技術にのみあてはまり、人間にはあてはまりません。人間はど
こにも止揚しない。そのときどきの環境にそって自然と闘争し続けるだけです。
735 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 16:20:42
自然主義的闘争様式としての進歩史観
進歩とは自然の征服のことなんですね。ルネサンス以降の新たな自然との闘争様式です。自然を定量
化することで開拓、略奪する。そして開拓の拡大が進歩であり、そには略奪の快楽がともないます。な
んでも進歩はこの方法論の一人歩き、快楽を求めることです。現代は開拓にブレーキがかかっている。
どうもこの様式ではうまくいかなくなっている。進歩史観そのものの限界なわけです。それが閉塞感にも
なっている。
ルネサンス以前は自然と社会は断絶し、農耕など必要なところは共存していた。そのように闘争して、
進歩史観はありません。しかしいまさらそこにもどることなどできません。アソシエーションなども基本的
にそこへの回帰をめざしますね。自然との調和です。しかし自然との調和などないというのがボクの考
えです。たとえばルネサンス前が調和しているように見えるのは事後的です。実際に自然に生きる人は
必死で、闘争です。ロマン主義です。環境調和とはボッカ的でなくコントロールする闘争です。
736 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 16:21:15
新たな自然主義的闘争様式としての環境管理と新大陸ネット
だから環境開拓からコントロールへ、このとき国際的な保守主義に迎うことはいなめないと思いますし、
国際的な統括機関(いまのCOPより強制力をもつ)ができるのではないでしょうか。イラク戦争以降アメ
リカも国連決議を重視する傾向がみられます。そしてさらに開拓の快楽は疑似自然世界=ネットへむ
かいます。これはネグリの帝国とマルチチュードに近い構図でもあります。
柄谷の帝国にはなぜマルチュードはいないのか?ということだとおもいます。マルチチュードは誰なの
かは明確ではありません。しかし誰かわからないことこそがマルチチュードの存在意義だと思うのです。
ボクはネット周辺にみるわけですが、いまなら2ちゃねらーでもブロガーでも、ハッカーでもよいが、自然
開拓に行き詰まり閉塞しつつする帝国から逸脱し快楽を探索する人々ではないでしょうか。ネグリなど
サヨはすぐに体制、反体制の構図を描きますが、脱体制なんでしょう。体制が閉塞するから新天地へめ
ざす人々です。価値観が違い対立するときは反体制的になるでしょうが。
737 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 16:40:05
素晴らしい。称賛の言葉さえ思い付かない。
相当な学問的実績のある方なのだと推察する。
このような考察がこうして読めるなんて、ありがたくも便利になったものだ。
確かにおもしろいですね。細部はまだまだですが、もう少し勉強すると
将来注目されるようなものになると思います。
739 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 16:58:30
実はもうすでに、しかるべきところで注目されていて、出版の方向に進んでいるらしいです。
740 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 17:00:00
むべなるかなだな。
741 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 19:39:36
空気嫁
743 :
考える名無しさん:2006/08/02(水) 23:01:41
ぴかあさん
亀田祭りを分析してください
よからぬエネルギーが動き出しているようです
744 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 23:19:20
よからぬものがジョジョビジョバ・・・ですな。
大人の事情ですね。
ところで日本の人口の減少に転じ、世界もそのうち減少に転じるのはなぜでしょうか。
これもよからぬものが・・・ですかな。
マルクスによれば、資本がそれ自体ではどうにもならないものに
自然資源と労働力の再生産の2つがありますね。自然主義的闘争
の立場では、自然資源=環境というものは市場のコントロール化
におかれるようですが、労働力の再生産というものはどのように
位置づけられますか。つまり家族です。家族は市場化されるでしょうか
人間を労働者として育てる装置は整ってますが、人間の出産は
自然に委ねられるものですね。これをコントロール化におくかどうか
746 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/02(水) 23:51:56
労働力はかつては階級制で確保されました。
簡単には上層/下層に管理と労働の境界があります。
たとえばこれは、領主と農奴という単位に対応します。
近代以降では、この境界が人間の中に入ってきます。
自由と平等のもとに、自律した主体は心身二元論化されます。
自らの労働力としての身体を管理する心という図式です。
これはフーコーの規律訓練権力と生権力に対応しますが。
そして自律して主体による単位=家族に対応するのではないでしょうか。
出産は自然に委ねられるものですが、明らかにこれらの状況に
依存しているのではないでしょうか。
最近なら避妊が容易になり特に管理するものになっています。
747 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 00:06:04
領主/農奴、心/身体というときに、農奴、身体という労働力は外部=自然に近いのです。
いかに農奴を、身体を使いこなすかも、自然主義的闘争の一部です。
748 :
純一:2006/08/03(木) 00:06:44
なるほど?
749 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 00:10:20
自然主義的闘争史観とは、人の歴史は自然との闘争関係としてあるということです。
そして労働力も一つの自然としてあるということです。
750 :
純一:2006/08/03(木) 00:10:42
なるほど?
>>747 過去ではなく、これからはどうなるでしょう
資本は労働力の再生産をその外部=自然に依存しなければならない
という命題は、これからも定式化されるでしょうか。それとも
何らかの技術革新なり何なりでコントロール化するでしょうか
また、あらゆるものを市場化する資本の運動は、家族を市場化する
でしょうか。自然資源までも統御化においてしまうと、資本にとって
最後の自然のフロンティアは家族だと思います。恐らく市場化に最も
抵抗するのは家族でしょう。
752 :
純一:2006/08/03(木) 00:17:20
ぴかぁ〜は言ってる言葉は難しいのだが、
言ってる内容は極端に単純なのだよな。
753 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 00:35:51
>>751 >資本は労働力の再生産をその外部=自然に依存しなければならない
>という命題は、これからも定式化されるでしょうか。
>最後の自然のフロンティアは家族だと思います。恐らく市場化に最も
>抵抗するのは家族でしょう。
先に言ったように、家庭、出産はすでに、聖域でもないと思います。
自然主義闘争様式に依存しています。ドゥルーズもいうように
「家庭」は資本主義的ですね。
ではさらに将来、SFのように試験管ベイビーなどで生産管理されるのか。
中国の政府により一人っ子政策レベルはありますが、そこまでは
ないと思います。
先進国で少子化が進むのも、家庭の崩壊など、後期資本主義に
対応しているのではないでしょうか。かつてほど労働力は必要と
されていないのですね。子供を持つことはむしろ「娯楽」に近づいている。
ある意味で、自然主義的闘争は、現代なら資本主義は、
出産も「自然に」調整しているのですね。
754 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 00:47:25
自然は決して人間には管理できません。なぜなら自然とはこの世界(空間、時間)そのものだからです。
かつて川の氾濫に悩まされたことも、現在地球環境問題(環境の暴走)も本質的には同じ問題です。
人間は身近な自然をコントロールしますが、自然はいつもそれを越えて到来します。
だから人間はただ自然へ闘争し続けるだけです。
755 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/03(木) 01:00:53
>>703 いきなり電波っぽい書き込みで済みません。
>>698 あれでは何だか訳わからないですよね……
それにスレの流れを止めてしまって済みません。が、もうすこし
続けさせてください。
私が村上春樹の「国境の南、太陽の西」を読んで思ったのは、
欲望の対象とは、代替可能なのだろうか、という疑問でした。
もしくは、欲望が代替可能ならば人間は「欲望」足りうるのだろうか、
という疑問です。
村上春樹がこの小説で描く恋愛の対象「島本さん」は、「僕」にとっては
たった一人の友であり、理解者であり、喜びの源泉であり、
それ自身は消費されることのない欲望をうみだすものです。
(たぶんレヴィナスの「顔」とはそう言った「他者」の概念なのでしょう)
この欲望の源泉は、私にとっては唯一の代替不可能なものです。「かけがえのない」
相手です。
(つづく 1/3)
756 :
純一:2006/08/03(木) 01:02:13
飲み屋メンバー現れる
757 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 01:03:08
>>753のつづき
しかし遺伝子工学という自然としての身体の開拓はどのような未来を開くかは、
わからないですね。すでに遺伝子管理された作物は一般的です。
次の時代は、自然略奪の時代から、自然管理の時代へ向かいますから、
自然としての身体の管理が行われる可能性は高いですね。
クローンはないように思いますが、結局子供と同じで育てないといけないので。
しかし生まれる間に遺伝子異常があると治療されることは、人の生存率を
さらに高めます。
ん〜・・・どうでしょ。
758 :
純一:2006/08/03(木) 01:04:47
いや、普通にそれはSFの会話だろうと。
759 :
純一:2006/08/03(木) 01:05:41
どこが哲学なんだ。
760 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/03(木) 01:41:08
相手が「かけがえのない」ものであることは、言葉による規定より前にあります。
それは象徴界ではなく現実界にあり、鏡像関係に至る想像界の中で転移を飽くことなく
繰り返すことのできる相手です。
鏡像段階を経、言語を操るようになった人間が二度目に陥る鏡像関係、と言えるかも知れません。
この転移の関係が、言葉による抑制によって制御されていく。けれど、欲望の源泉はやはり
相手の欲望を欲望する「想像界」に或るものと思われます。恋愛は「転移」ですから。
主体が主体たる要件は、空虚の中に「そこに欲望がある」と思いこむことです。
カフカの「掟の門」、「ブレード・ランナー」はともに、ある役割を引き受けることで
「自分自身」になろうとしますが、その役割とは自身の消滅です。「掟の門」は商人の
恐れやあこがれといった心の反映だけのものであって、その向こうには何もない。
「ブレード・ランナー」では、模造物を捉える自分自身が模造物であることに至る。
その構造を知り、それが主体なんだと割り切って、新しい欲望を生み出し、「祭り」を
起こす。それが現代における一つの(成熟)だとは思います。
ですが、あらゆる欲望の源泉を、当然他の世界との関係を含めながらではありますが、
特定の相手との間でお互いに生み出すような「他者」はかけがいのない「他者」では
ないでしょうか。
(つづく 2/3))
761 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/03(木) 01:42:20
この「他者」たる最愛の人を亡くしたとき、人は世界に興味を失います。欲望があるで
あろう「空虚」をもはや見ようとしません。主体が崩れていきます。欲望があるという
欲望、源(アルシ)欲望と言えるようなものが失われてしまったのですから。
いくつもの作品で出てくる「半分になってしまった人間」とは、欲望を喚起する機能を
失った「死んだ」人間ですが、自身が死んだことを社会的に承認してもらうことが出来ず
さまよう「幽霊」なのかも知れません。
ここで質問なのですが、
・「鏡像段階である『他者』を失い、なお社会的なネットワークの中で生きることを『成熟』と
呼ぶのなら、それはあまりにもむなしく、誰も望まない成熟ではないだろうか?」
・代替可能な無垢は、「他者」という無垢の源泉とどのような関係にあるのでしょうか?
・個人にとって、その個人のための無垢をお互いに生み出す「他者」の喪失は、ただ一回きりで
代替不可能だとすれば、それでも生み出される「無垢」とはいったい何なのでしょうか?
質問が整理されていない、訳がわからなければスルーしていただいても結構です。
ちょっと電波は言っているかも知れませんし、スレの流れとずれているでしょうから。
ただ、やはり私の様々な現象の読解は主体論であり、ラカン・ジジェクに依っているのです。
ですので、ぴかぁ〜さんの意見をお聞きできたら、とわがままに思ってしまいました。
(おわり 3/3)
※途中でリアルのいざこざがあって、止まってしまいました。すみません。
>>753 >ドゥルーズもいうように「家庭」は資本主義的ですね
『アンチ・オイディプス』においては、主目的としてラカン派への攻撃が
あったが、資本の「生産性の自然な上昇力」として、マルクスによる経済
的下部構造以外にそれを規定するものがあること、つまりエディプス・コ
ンプレックスによる主体化=労働力の再生産という規定要因があることを
明るみにしたことが功績の1つでしょう。ここで腑分けすれば、ドゥルーズ
における家族が資本主義の規定要因として機能しているという指摘と、労働力
の再生産が人間の生産=出産という自然の与件に委ねられるというマルクスの
定式とは違う、ということです。
根本的な疑問だけど、自然主義的闘争という場合、「自然」という
観念あるいは概念をいささか素朴に使っていないだろうか。
>>1で「自然の恵み」と言っているけれど、そうした「自然」は、ある
特定の時代に作られた、認識論的な装置−歴史的産物ではないのか、
と疑ってみる作業が必要ではないか。ニーチェのように系譜学的考察
によって。「自然」を人間にとって自明のものであるかのように素朴に
使ってしまうと、ある特定の時代に作られた認識論的装置であるにも
関わらず、それに定位して、歴史の各発展段階にそのような「自然」と
人間との相克を読み込む、ということにならないかと疑ってみることが
できると思う。つまり、ある時代に作られた歴史的産物である「自然」
という認識論的装置を「歴史」に「投射」している思考になりはしないか
764 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 02:17:28
>リーマンさん
ボクもだいぶ前に「国境の南、太陽の西」を読みましたが内容わすれてしまいました。
村上春樹をラカンで説明できるか疑問がありますが、作品の内容とは関係なく、
質問に答えたいと思います。
>・「鏡像段階である『他者』を失い、なお社会的なネットワークの中で生きることを『成熟』と
> 呼ぶのなら、それはあまりにもむなしく、誰も望まない成熟ではないだろうか?」
ラカンは人を二度疎外されると言います。一つは鏡像段階、二回目は象徴界への参入。
鏡像段階が疎外なのは、本当の自分が他者の鏡像によって変わられるからです。
他者の欲望しか欲望できないのです。
だから「最愛の人」=鏡像段階である『他者』も純粋なものではありません。
自分の疎外された仮のものでしかありません。それが最愛であるのは、最愛でなければ、
自分を見いだせないからであって、それは他の人でもよいのです。
765 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 02:19:38
>この「他者」たる最愛の人を亡くしたとき、人は世界に興味を失います。欲望があるで
>あろう「空虚」をもはや見ようとしません。主体が崩れていきます。欲望があるという
>欲望、源(アルシ)欲望と言えるようなものが失われてしまったのですから。
そうでしょうか。とても欲望的ではないでしょうか。最愛の人にしか興味がない。
その人が亡くなろうが、生きていようが、それが欲望ではないでしょうか。
しかし転移した人が亡くなると、自分の中にしかいなくなり、より内部に閉じこめられ、
自分の中の想像のみが膨らんでしまいます。
たとえば初恋の人は美しく、現実には二度と会わない方がよいというようなことです。
766 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 02:20:25
「それはあまりにもむなしく、誰も望まない成熟ではないだろうか」とはどの目線で見解でしょうか。
読者目線であるなら、感傷ですね。社会的なネットワークの中で生きる人にとっては、
それが疑えない現実ですから。
>・代替可能な無垢は、「他者」という無垢の源泉とどのような関係にあるのでしょうか?
>・個人にとって、その個人のための無垢をお互いに生み出す「他者」の喪失は、ただ一回きりで
> 代替不可能だとすれば、それでも生み出される「無垢」とはいったい何なのでしょうか?
無垢は代替不可能だから無垢ですね。無垢は幻想である故に忘却され、次の無垢へ
向かいます。それが生物の治癒力でしょう。
767 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/03(木) 02:35:26
>>765 相手が死のうが生きていようが関係なく自分の中に存在する「他者」は
「他者」ではなく、「他我」であり、それは自己の一部に過ぎず、なんら
新たな欲望を生み出さないのではないでしょうか?
「亡霊を復活させてはならない」というその意味で、「存在するとは
別のしかたで」が書かれた気がするのです。
死者はあくまで死者として扱い、自己の中に「生きる」自己が仮象的に
生み出す相手を「亡霊」として呼び出すことは、禁忌ではないでしょうか。
そんな風に死者と対話することは、結局のところ鏡をのぞき込むような
行為であり、そこに無垢というものは生まれない気がします。
けれど、もともと「無垢」とは自身が追い求めるものとして遡及的に想定
するものであり、もともと「他我」の領域にあるものかもしれないですね。
それならば、そのようにして「自分自身しか知らない」死者を呼び出して
仮想的に対話を繰り広げることが新たなる無垢を作り出すとすれば、
それは実際には永遠にしあわせが続く、と言うことなのかも知れません。
新しいカクテルを作り、それを味わうときに、隣に彼女の姿を体温が
感じられるまで思い浮かべ、カクテルを味わってもらい、その感想を聞く、
と言う行為はオカルトめいていますが、それならば合点がいきます。
けれど、寂しいことではありますね。
ありがとうございました。
768 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 02:43:35
>>762 マルクスよりも、ドゥルーズを指示するということです。
それに古典経済学でも、マルサスの人口論しかり、
人口は経済発展の調整項ではないでしょうか。
>>763 >つまり、ある時代に作られた歴史的産物である「自然」
>という認識論的装置を「歴史」に「投射」している思考になりはしないか
この意味で言うと、ボクの考えの根底にあるのは、人は普遍的に純粋略奪の快楽
(フロイトのリビドー(欲動)に近い)を持つということです。
ボクがいう「自然」とは純粋略奪の快楽が向かう対象を意味するわけです。
これがマルクス、柄谷と決定的に違います。彼らはこれは資本主義的悪(近代という
認識論装置の産物)であって、まさにこれをなくすことで、自然との調和を目指すわけです。
史観が止揚されるわけです。
自然主義的闘争とは、この快楽は人間に普遍だなくせないということで思考されているのです。
人間は自然と調和などできない、太古に調和してるように見えるのこそロマン主義的な
認識論装置の産物である。
その時代時代で人々は自然と死闘を繰り広げてきたのだ。そしてそれは生きるためだけでなく、
死闘自身が快楽なのだ、ということです。
>>
人は生きるために自然と闘争するのではない。それが純粋略奪(暴力)の快楽だからむかうのだ。
「他者」への暴力から負債感を払うことはできない。動物のようにただ殺すことは、「ホモサケル」であ
ろうと完全には不可能である。ただ無限の未知である自然への暴力だけが負債感ない暴力を可能
にする。
ボトラッチという自然への純粋贈与の本質は純粋略奪(暴力)なのである。純粋略奪の快楽の系譜
はポトラッチから、野蛮人(異教徒)との闘争をへて、科学による自然征服へ至り、現在はネットとい
う疑似フロンティア(自然)の開拓へもむかっている。
参照
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060728 <<
>>768 >その時代時代で人々は自然と死闘を繰り広げてきたのだ
このように言うときの「自然」というものが、まさに歴史的に
形成された観念形態ではないのか、ということです。
太古の自然との調和にしろ、闘争にしろ、そのときに使われる
「自然」という言葉の起源を問わないでいいのですか、ということ。
例えばホッブスなら「自然状態」は万人の闘争状態と言うだろうし
ルソーなら「自然状態」は調和したロマン的な状態を夢見る。
この時代にある「自然」観というものは、明らかに歴史的に形成された
ものでしょう。古代哲学に認識論は無かったけれど、ギリシア哲学の
主流である「自然哲学」を唱えていた人たち、デモクリトスでも
誰でもいいけど、彼らに現前している「自然」は、やはりホッブスなど
の時代の「自然」とは異なったものとして現われているでしょう。
夏目漱石が研究した18世紀の英文学に現われる「自然」概念も、それら
とは異なったものでしょう。こうしたことを鑑みれば、
>>1で言われて
いるような「自然」も、やはり1つの歴史的に形成された「自然」観に
則っている可能性があると疑いが生じるでしょう。そうした「言葉」や
「観念」の「起源」を問いましょう、ということです。
771 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 03:10:09
>>769 自然状態、自然法などとは自然の意味は違うとは思いますが、
歴史的に「自然」観を形成するものを、ボクは純粋略奪の快楽が向かう対象として
考えるわけです。もっとも根底にあるのは自然でなく、欲動です。
フロイトもラカンも欲動を根底においていましたし、
それをより史観に展開したのが、ドゥルーズですね。
ドゥルーズは精神分析を批判しながら、まさに精神分析的であることは
良く言われます。
「はじめに欲動あり」それがコード化されることで歴史を語るわけです。
772 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 03:16:58
本当の自然とはこの世界(空間、時間)です。人はそれぞれの時代で、欲動の向かう対象として
「自然」を作りだし、闘争するわけです。
ボクが自然を未知、無垢と読むのはそのためです。人がそこに何かがあるだろうと
欲望を想起する無垢が自然であり、そこに本当に何かがあるかでなく、
あるだろうことで、略奪したくなる対象なのです。
そのように時代ことに「自然」は作られ、闘争するのです。
だから人は生きるために自然と闘うだけでなく、そこに未知(の幻想)があるから向かうのです。
何かに定位して、世界なり歴史なりを説明する場合、
自らが定位するものの定義はなるべく自己批判・吟味して
精緻化しておいたほうがよいよ。
>本当の自然とは…
と語りだす所作は、理論的内容が異なっていても、信仰に
定位する何とかくんとあまり変わらなくなってしまうからね。
774 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 08:17:06
ぴかぁさんと浅田彰さんで賢者対談を行って地球の未来について話し合ってください。そしてわれわれを正しい未来に導いてください。
775 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 11:16:47
776 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 11:59:35
亀田くん一夜にしてヒールですね。
最近一夜にしてヒール現象が流行っていますね。ホリエモンしかり、日本代表しかり
日本も総祭り化状態なのでしょうか
2ちゃんねる化しているのでしょうか
マスコミも2ちゃんねるに連動する傾向がつよまっているように感じます。
ボクなんかもそうですがなにか衝撃的、不安な事件などがあると2ちゃんねるで反応を確認しますね。
たとえば地震だとか、テレビでのハプニング、女性タレントが過激な服装をしてどきっとすると
2ちゃんねるにいくとだいたい同じ感想をもつ人がいてさっそけキャプった画像がアップされてたりします。
なぜかというと、それにより心の中の興奮が抑えられて安心するからですね。
フロイトの快感原則であり、内的なストレスの解消は他者とのコミュニケーションにより解消されやすいからです。
たとえば誰かに話を聞いてもらうだけですっきりするように
777 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 12:08:37
そして不安を解消しながら祭りで興奮を生む。快感原則の彼岸です。
マスコミもきっと2ちゃんねるの反応を気にして連動しているでしょう
たとえば最近では北朝鮮のミサイルに対する先制防衛論の盛り上がりなどあります。
ボクもあのミサイルにはかなりむかつきました。ほんとうに日本に打つことなどできない、煽りだというのはわかりますが
だからといって笑っていられない
778 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 12:30:38
すなわちネットは不安の解消をめざし、社会を瞬間共時的間主観的作動する装置として働いているということです。
かつこれは言語圏に閉じているので全体主義を思わせ恐いことです。
ただ沸騰しやすく冷めやすいことから継続性が低い
>>775 >議論がおもしろかったのでブログにアップしました
アップされた書き込みはすべて私のものでした…
以前に他スレで「人々の欲望が資本の原動力になってる
のではなく、資本の原動力が人々の欲望を喚起している、
という構図。」という書き込みをして、ブログに載せて
頂いたのも私です。
ぴかぁ〜さんのスレには初めて遊びに来ましたが、これから
も読ませて頂きますので、頑張ってください
面白い議論ができそうなら、また書き込みもしてみます
780 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 12:51:21
>>779 そうでしたか。いつも刺激的な提示ありがとうございます。
また書き込みお待ちしています。
781 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 13:11:28
■瞬間共時的間主観的作動する装置としてのネット
亀田くん一夜にしてヒールですね。最近一夜にしてヒール現象が流行っていますね。ホリエモンしか
り、日本代表しかり、日本も総祭り化状態なのでしょうか。2ちゃんねる化しているのでしょうか。マス
コミもきっと2ちゃんねるの反応を気にして連動していることがさらにこの傾向に拍車をかけています。
ボクなんかもそうですがなにか衝撃的、不安な事件などがあると2ちゃんねるで反応を確認します
ね。たとえば地震だとか、テレビでのハプニング、あるいは女性タレントが過激な服装をしてどきっと
すると、2ちゃんねるを見に行くとだいたい同じ感想をもつ人がいて、さっそけキャプった画像がアッ
プされてたりします。
たとえば最近では北朝鮮のミサイルに対する先制防衛論の盛り上がりなどもあります。ほんとうに
日本に打つことなどできない、煽りだというのはわかりますが、ボクもあのミサイルにはかなりむか
つきました。
このような反応は、他者と同意見をみることで心の中の興奮が抑えられて安心するからですね。フロ
イトの快感原則であり、内的なストレスの解消は他者とのコミュニケーションにより解消されやすい
からです。たとえば誰かに話を聞いてもらうだけですっきりするように。そして不安を解消しながら祭
りで興奮を生む。快感原則の彼岸です。
すなわちネットは不安の解消をめざし、社会を瞬間共時的間主観的作動する装置として働いている
ということです。かつこれは言語圏に閉じているので全体主義を思わせ恐いことです。ただ沸騰しや
すく冷めやすいことから継続性が低い。すぐにそのような盛り上がりを挫く力が働き、次の祭りへ向
かうことになる。
782 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 13:42:24
おい。ぴかとかいう餓鬼。ネットでいぎがってんじゃねえよ。そろそろ正体さらせや。それとも真性のひきこもりで本当におもて出れねえのか?
783 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 14:00:00
「瞬間共時的間主観的作動する装置」としてのネットは、2ちゃんねるの厨房祭りとして非難されて
今したが、いまや社会が2ちゃんねる化しています。もはや「世論」なのですね。
社会の2ちゃんねる化という潜在的なパワーはどこへ向かうのか。
よく考えれば、直接民主主義的なものへ向かいますし、
悪く考えれば全体主義的なものに向かいます。
さらには、煽動されることが指摘されています。
784 :
779:2006/08/03(木) 14:14:54
ちょっと今思いついちゃったので、もう1回だけ書き込ませて下さい
ぴかぁ〜さんは、柄谷行人によるカントの崇高論とフロイトの死の欲動
=ユーモア論を接合させる試みをどう読まれますか。
あるいはカントの崇高論だけでもいいのですけれど。
乱暴に要約してしまえば、カントは人間がその前では無力でしかあり得ない
ような自然現象、自然の猛威(大嵐、稲妻など)を目の前にしたときに、
ある種の快感が生じることに注目して分析しますね。それは経験的な自己
にとっては無力な状態におかれる他はない対象としての自然に対して、理性
が、そうした大きな自然に対して、いわばより「大なるもの」として機能し、
自然の猛威を「余裕を持って眺めること」でもたらされる「快楽」ですね。
カントはそれをサブライム(崇高)と呼びました。
785 :
779:2006/08/03(木) 14:15:55
後期フロイトは、第一次世界大戦から帰還した戦争神経症患者たちが夢で
戦場の苦痛を再現させるという事態に遭遇し、夢が願望充足の現れであるという
それまでの自身の立場を大幅に変更しますね。「死の欲動」が提示されるのは
論文『快感原則の彼岸』以降ですが、ここで超自我に対する見方が変わるわけ
ですね。それまで人間にとって外的な規範(両親の躾や共同体の道徳)を内面化
することによって「超自我」は形成されると考えられていたものが、攻撃性
という観点から、本来は外に向かうべき攻撃性が内に向かうことによって形成
されるのが「超自我」だ、ということになるわけです。フロイトはそれを
「死の欲動」と呼びますね。
柄谷はフロイトのユーモア論をカントの崇高論に接続させますね。
経験的自我がこうむった「傷」に対して、本来なら経験的自我を規制するはずの
働きをする超自我が、いわば「親が子供を慰めるように」慰める働きをする場合
がある、超自我が経験的自我に対して「それはなんでもない、たいしたことないよ」
と慰めてあげる働きをする、それをフロイトは「ユーモア」と呼んだわけです。
カントの崇高論とフロイトのユーモア論には一定の理論的な対応関係があるだろう
というのが柄谷の主張ですが、ぴかぁ〜さんの自然主義闘争の立場では、カントの
崇高論やこうした柄谷の主張をどう捉えますか。
786 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 15:26:25
>>784-785 柄谷の主張は以下のような構図で考えられるかもしれません。
内部=超自我=象徴界=社会秩序 VS 外部=死の欲動=現実界=物そのもの=トラウマ的な自然の力
フロイトの「死の欲動」の例では、「戦争神経症患者たちの夢」の他に、
母親の不在を再現する子供のフォーダー遊びの例もあげられています。
要するに自ら快感原則に反する不快を再現することを快感原則の彼岸として、
死の欲動を呼びます。
ラカンはまさにこの『快感原則の彼岸』を中心にフロイトを継承するわけです。
ラカンは欲動とは死の欲動であると考えます。なぜなら人は超自我(象徴界)によって
去勢されて失った「本当の自分」を取り戻そうとするからです。
すなわち超自我(象徴界)VS失われた本当の自分=欲動(現実界)の構図があるわけです。
社会=超自我は正ですから、欲動はマイナスのイメージ「死の欲動」となります。
ドゥルーズは、精神分析が欲動をマイナスイメージで語ることを否定しますが、
どちらから見るかだけのことで構図は同じです。だからドゥルーズはラカン的なのですね。
787 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 15:29:02
フロイトのユーモア論はトラウマ的な現実界への近接という緊張を、寸前で超自我(象徴界)が
笑うとことで緩和すると考えられるのではないでしょうか。またこの現実界とカントの
「物そのもの」はよく同じものであると言われます。カントの崇高論は、あえて、外部
「物そのもの(現実界)」への近接する「勇気」と考えられます。
ボクの純粋略奪の快楽も同じ構図にあります。人は内部を生きるが、外部を求める快楽から
逃れられないと考えます。
だからボクは今ひとつこの「崇高」というものが納得できない。カントの崇高論はその後に
継承されています。たとえばウヨ的に、死をも怖れず、敵に向かう姿勢として結びつけられたり、
革命擁護に用いられたり、最近では自爆テロにも繋がる可能性があります。
ベンヤミンはこのような崇高論を暴力論につなげていますが、外部へ向かう暴力を
「崇高」と呼ぶのは文化的な考え方ではないかと思うのです。
すなわち内部の人間が外部へ向かう姿勢を「かっこいい」と呼ぶわけです。
そうではなくて、自然の猛威が人々を殺すことに善悪がないように、人間が自然の果実をもぎることに
善悪がないように、これは内部の価値観の彼岸にある、暴力であり、だから快楽なのです。
788 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 15:31:45
やはり、三島に言及するしかないか。
789 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 15:36:27
ベンヤミンをこれを神的暴力と読みますが、負債感のない純粋な暴力です。
人が社会で行う暴力は必ず負債感がともないます。
社会が悪いからオレはこうなっただから負債感を送り返す=復讐する。
そうではなくても、人がその暴力を自然へ向けるとき、負債のない暴力に近接します。
純粋な暴力、純粋な死の欲動、純粋略奪の快楽、この欲動は人の根源的な特性です。
とボクは考えます。
790 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 15:39:06
>>788 純粋な暴力を語るときにどうしてもウヨに近接しますね。
ボクもウヨ化してっぽい・・・
791 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 15:41:05
世紀末はやはりまだ来てなかったのか。ノストラダムスの予言がずれていたという説はやはり真実なのか。
791の発言がずれている件
793 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 16:41:11
>>790 「純粋な暴力」についての、ぴかぁ〜さんの見解をもう少しかみくだいて書いていただけないでしょうか?
794 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 16:43:55
私も、「負債感の無い暴力」について、ベンヤミンはどう書いているのか、ぴかぁ〜さんがそれをどう解釈しているのか、大いに関心があります。
795 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 16:48:28
>>789 人がその暴力を自然へ向けるとき、負債のない暴力に近接します。
↑
これを、もう少しかみくだいていただけると、純粋な暴力の概念が把握しやすくなると思います。
796 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 17:46:35
ベンヤミンは法に関して3つの暴力を分けます。
一つは法を維持する、社会秩序を維持するための暴力です。内部の暴力です。
二つ目は、法がないところに法を制定する行使する暴力。内部から外部への暴力です。
これら二つを神話的暴力と呼びます。
それに対して、もう一つ神的暴力をあげます。
これは自然災害のような暴力への目的がない暴力です。内部を破壊する外部から内部の暴力です。
純粋暴力です。
ボクは二つ目と、三つ目はかなり近いのではと考えます。
二つ目の法がないところに法を制定する行使する暴力。内部から外部への暴力において、
価値観とは内部の価値です。だから内部内での暴力は相手への負債感から逃れられません。
それに対して、外部への暴力は負債感がありません、というか負債感の連鎖が
内部を形成しているからです。
たとえばかつての西洋社会という内部と、原住民という外部への暴力は、
負債感がなく、木の実をもぎるように暴力が行使されたたのではないか、ということです。
原住民は「人間」ではなかったのです。
悪意、負債感がない限りなく純粋な暴力が行われた。
797 :
779:2006/08/03(木) 17:47:42
>>787 丁寧なレスをありがとう。
>フロイトのユーモア論はトラウマ的な現実界への近接という緊張を、
寸前で超自我(象徴界)が笑うとことで緩和すると考えられるので
はないでしょうか
ユーモアというのは、「笑い」とは実は無関係なものですね。フロイト
はユーモアを解する人間と解さない人間がいる、と述べています。
ユーモアというのは、いわば1つの「態度」ですね。例えば、ヒューム
やライプニッツは数学は分析判断と考えたのに対し、カントは数学を
「アプリオリな総合的判断」だと考えた。後にニーチェが喝破するように、
またごく普通に考えても、「アプリオリな総合的判断」などというものが
成り立つわけがない。にも関わらずカントは数学をアプリオリな総合判断
とした。この場合、数学をアプリオリな総合判断とみなす、そうした態度が
「ユーモア」なんですね。付け加えると、カントの数学論はこの故に嘲笑
され続けたかもしれないですけど、非ユークリッド幾何学が成立して
やはり数学論をやらざるを得なくなったときに、例えばポアンカレなんかは
結構カントを意識した議論を展開するんですね。
もう1つの例を挙げると、スピノザは人間には自由意志はない、自由に振舞って
いるように思われるのは、自分を動かしている諸原因が複雑すぎて、人間には
認識できないからだ、と人間の自由意志を否定しますね。カントはスピノザの
この認識を受け継ぎつつも、次のように言う。ある犯罪者の犯した犯罪行為を
調べて、様々な原因の系列がこの犯罪者を犯罪に導いたのだ、つまり彼は自分の
意思ではなく、他の原因によって犯罪を引き起こしてしまったのだ、と考える
ことが正解だとしても、法廷では、この犯罪者が犯した犯罪は彼の「自由意志」
に基づく、とみなして差し支えない。彼を犯罪へと導いた諸々の原因の系列の連鎖
はこの場合には度外視してよろしい、と。これが「ユーモア」という「態度」です。
798 :
779:2006/08/03(木) 17:48:19
>>787 ひとまずこれで最後の書き込みにしますね。
>だからボクは今ひとつこの「崇高」というものが納得できない
「崇高」というのは、大いなる自然の猛威に対して、あるいは信じがたい
自然現象を目の前にして、「無力である」ということをひとまず認めるところから
出発しますね。自然主義闘争の立場からは、崇高の快感情の前提であるこの
「無力さ」は、「闘争の諦念」となるのでしょうか?もしそうならば、諦念から
快の感情が生まれてくるというのはどういった事態なのでしょう。
ちょっと前の話題に戻らさせて頂きますけど、「自然」というものを人間にとって
アプリオリな与件として捉えていいのだろうか、という疑問が私にはあります。
もちろん自然があるのは当たり前ですが、自然主義闘争と言う場合の、「自然」
という言葉は、既に「作為」「人工」「人為的なもの」という観念が成立すると
同時に分割されて見出されたような「自然」ではないのか、という疑いですね。
付け加えると、人間と自然との闘争ということで言えば、「生きた自然(ピュシス)
からのズレ」というのは『構造と力』以来のパターンですが、これはフロイトの
「Trieb」という語を「本能」と訳してはいけないということですね。
799 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 17:48:39
なにか同じ説明ばかりしてるな・・・定期コピペ作るか・・・
800 :
PK ◆5nAgoJZJqM :2006/08/03(木) 18:25:03
>>797-798 的確な質問ありがとうございます。
カントの「物そのもの」とラカンの現実界が近いといったように、
カントの「アプリオリな総合的判断」とラカンの欲望論はとても近いのですね。
だから柄谷はアプリオリな総合的判断への「理性的な欲動」というアクロバティックな
つなげ方をしたのだと思います。
決して経験で反証されないものを人はなぜ目指すのか。むしろ決して反証されない故に
欲望される。これがラカンの欲望論であり、欲動です。
そして目指される対象(柄谷のいう「超越論的仮象(幻想)」が、ボクが言う「無垢」であり、
「自然」なのです。
>自然主義闘争の立場からは、崇高の快感情の前提であるこの
>「無力さ」は、「闘争の諦念」となるのでしょうか?もしそうならば、諦念から
>快の感情が生まれてくるというのはどういった事態なのでしょう。
それが、これの答えになっていると思います。
なぜ無垢が自然であるのかは、このような欲望は暴力だからです。
たとえばある他者に興味をもつ。しかし他者との間は決して埋まらない。
だからなおさら他者に近接する。これは暴力なのです。
ただこの欲望を心おきなく震えるのが、「自然」なのです。
801 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 18:25:38
>「自然」というものを人間にとって
>アプリオリな与件として捉えていいのだろうか、という疑問が私にはあります。
>もちろん自然があるのは当たり前ですが、自然主義闘争と言う場合の、「自然」
>という言葉は、既に「作為」「人工」「人為的なもの」という観念が成立すると
>同時に分割されて見出されたような「自然」ではないのか、という疑いですね。
何度も言うように、ボクがいう「自然」とは、歴史的に形成された観念形態のことを
言っているのです。人はそれぞれの時代で、欲動の向かう対象として「自然」をどのように
作りだし、闘争したのか。それが自然主義的闘争論です。
『構造と力』は良い本ですが、欲動論としては弱いですね。
本能と欲動(Trieb)が違うと言うだけでは不十分なのですね。
これでは、いわれるように「自然」を観念形態として実体化しすぎている。
そうではなくて、自然は「物そのもの」であり、そこには到達しえない故に
「超越論的仮象(幻想)」、「無垢(幻想)」でありつづけるものです。
802 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 18:26:44
あれ、
>>800でコテが変わってしまいました・・・
803 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 18:27:33
最近のイスラエルやアメリカの行動にはそのような攻撃欲動を感じるのですが?
804 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/03(木) 19:05:29
>>801 ボクがいう「自然」とは、歴史的に形成された観念形態のことを
言っているのです。人はそれぞれの時代で、欲動の向かう対象として「自然」をどのように
作りだし、闘争したのか。それが自然主義的闘争論です。
↑
ぴかぁ〜さんが言っている「自然」とは、ア・ポステリオリに人間の経済活動が作り出し、
ある時点以降、所与のものとなっていった、商品、貨幣、暴力に起因した国家(スターリニズムがその顕著な例ですが)などのことなのですね。
805 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/03(木) 19:07:22
もしそうであれば、ファシズムも、「歴史的に形成された観念形態」としての「自然」になりますね。
806 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/03(木) 19:16:00
イスラム原理主義もシオニズムも「歴史的に形成された観念形態(共同幻想としての)」としての「自然」として規定されてしまう。
事実、そうなのでしょうか?
ウィステリア
やおら登場したこの論客は何故今まで寝たふりをしていたかが謎だ。
808 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 19:45:29
>>804-806 なにか勘違いされていますね。
ぼく言う意味は・・・
たとえばアガンベンは「人類学機械」というものを考えています。
人間/動物という形而上学的二項対立を生み出す機械です。
たとえば自由と平等の現代ならば、人間/動物は遺伝子によって規定されます。
しかしほんの少し前まで、「人間」は生得的か、経験的か
あるいは始めたサルを見た人は人間ではないのかと真面目に考えました。
もっといえば、アフリカから連れられてきた黒人奴隷は人間だったのか。
奴隷狩りの人々はそんなに悪い人ではなかったのです。
彼らは今ならば、自然動物を狩り、檻に詰めて運ぶように、
奴隷を刈っていただけです。
現在、動物が入りをする人が悪人でないように、彼らは社会的には良い人です。
すなわちここに人間/動物の境界が引かれたのです。
階級制度では、「人間」とは特権的な人々だけで、下流は生得的に、動物との
グレイゾーンだったのです。
すなわちこの動物は「自然」です。
>>746でも書いたように
>近代以降では、この境界が人間の中に入ってきます。
>自由と平等のもとに、自律した主体は心身二元論化されます。
>自らの労働力としての身体を管理する心という図式です。
>これはフーコーの規律訓練権力と生権力に対応しますが。
心=人間/身体=(自然)です。
科学は「自然」を略奪する快楽によって作動しています。
これが心(人間)に触れたとき、倫理的な拒絶が起きます。
809 :
純一:2006/08/03(木) 19:47:20
お、盛り上がってるね〜
810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 19:53:55
>ボクがいう「自然」とは、歴史的に形成された観念形態のことを
>言っているのです。
歴史的に形成された観念形態=自然ととってのですね。
これは
>>769の文脈から繋がっています。
歴史的に形成された観念形態がすべて自然でなく、
「自然」とは歴史的に形成された観念形態の一種類である、
ということです。
811 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 19:57:24
何か本当に知能指数300以上の人たちの議論になってしまった。この人たちは人間なのか?知的スーパーサイヤ人だろ笑
812 :
純一:2006/08/03(木) 19:59:22
いや〜、ぴかぁ〜の理論は難しいね。
813 :
純一:2006/08/03(木) 20:00:21
いや、難しそうだね、か。
814 :
純一:2006/08/03(木) 20:01:10
↓こういう初歩的な間違いをするようには見えない文だね。
539 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 14:59:42
>>538 ポストモダンが暗かったのは、事後的ではないですよ。
疑心暗鬼=ディスコントラクション(解体)としてありますから。
815 :
純一:2006/08/03(木) 20:01:50
546 :考える名無しさん :2006/07/30(日) 15:03:47
デリダのいうディコンストラクションと、
ぴかぁのいうディスコントラクションは違うものなの?
816 :
korosiya:2006/08/03(木) 20:20:57
ぴかぁのいうディコンストラクションとは欲動の露呈のことだろ
817 :
純一:2006/08/03(木) 20:49:27
ぴかぁ〜のはディスコントラクションですな。
818 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 20:57:47
お笑い系ぴかぁのことだから、きっとコントの一種かと
819 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 21:00:30
純一さん、機械さんのスレにきたことは、ありますか。
820 :
純一:2006/08/03(木) 21:09:22
かつて笑いモノになったミッキー・ロークの猫パンチは、
相手一人に倒れたフリをさせれば達成できる。
だがしかし、今回の亀田の勝利は、
1.レフリーを抱き込む
2.審判を抱き込む
3.TVカメラマンを抱きこむ
4.解説者4人を抱きこむ
5.観客を抱きこむ
6.新聞社大手4社をすべて抱きこむ
と、関わる人間が非常に多く、その苦労は比較にならない。
亀田一家やTBSに留まらず、まさに日本国民が一丸となってもぎ取った奇跡の勝利である。
一人として造反者の出なかったこの結束は、大相撲で養った八百長容認の精神と、
企業談合等の予定調和を好む国民性あってこそ。
韓国や中国ではなし得ない、まさに日本ならではの快挙ニダ。
822 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 21:13:13
>>820 ぴかばかり相手にしても面白くないでしょう? たまには、機械さんの
スレにも遊びにきてください。あなたは、唯物論者ですか。
823 :
純一:2006/08/03(木) 21:30:18
824 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 21:30:28
日中とは打って変わってレスレベル低いな
825 :
純一:2006/08/03(木) 21:36:22
>>822 >あなたは、唯物論者ですか。
いえ、観念論者ですね。
どっちかといえば。
826 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 21:48:53
西部邁と話しがあいそうですな。
ネット的な時空というのは、幻想としての全能感を調達しやすい
トポロジカルな空間だけど、ここのスレ主は、そうしたネット的なものを
オバー・エスティメーションし過ぎていると思います。そこまでネット的
なものが称揚されていながら、なぜ書店や出版物が全然減らないのでしょうか。VDT症候群という言葉もあるとおり、ネットという媒体は、
そもそも詳細な話や緻密な問題やコンテンツを扱うのにあまり適していないと
思います。何百ページもある長編小説や学術書を、そういうので読む人は
あまりいないでしょう。もちろん、将来的には液晶技術が大幅に向上して、
あまり目に負荷のかからない電子媒体というのも考えられるけど、でも、
映像や音楽は別として、大量の活字情報の移動に、ネットは向かないと
いうのが基本線でしょう。よく学者さんとかで、細かい話をブログで
いっぱい書く人がいますけど、普通の人はあまり読まないと思う。本で
読むよね、そっちの方が楽だし・・。
ネットでも、ちょっとした話ぐらいはできるけどね。現代社会は、地域
コミュニティーの壊滅を、こうした電子システム的なもので代替させて、
都市的なアトムを量産させている訳だけど、バランスとしてどうなの?
という人間的な感覚があります。偏頗で極端な人間を作りそうなんだよね、
そういう空間だけで生きている人達って。だから、誰とは言わないけど、
孤独なサイコちゃんみたいな人が、ネットには多く蔓延っているから、
レベルや質を良好に保つって、あれでしょう?このあいだヤフーで、
小学生たちの読書量が増えているという記事があったけど、やっぱり紙媒体
は不滅というか、普遍的な媒体だと思います。
あと、百年は情報、知のベースとしては紙媒体が主流なんじゃない?
あとは、ネットコミュニティ的なものの弊害ということで、よくとりあげ
られている話題だけど、そうしたコミュニティーサイトに付き合わされて
いるうちに、匿名的な自意識の肥大、過剰、それによる頻繁なサイトチェック、
注意散漫、付き合いによるレスポンスの疲労で、日常生活にまで支障を
来たすから、あまり関わらないようにした、というのもあったけど、
一般人でも、利巧な人は、そういう悪循環的な機制に気付いて、ある程度は、
ネット的なものとは距離化するよね。話聞いていると、マルクス的な
ユートピア(幻想)が、そういうネット的なものに移行しているようで、
ここのスレ主は、利巧な人のはずなのに、そういう基本レベルの認識に、
相当のバイアスがかかっているので、皆さん、時々注意してあげましょう。(笑
そういうネット的な空間だけで生き続けたいという人がいてもいいとは思うけど、
だからといってその利害関係で、現実認識を変えようとするのには、
時代遅れの下手なアジテーションというものでしょう。結婚して、子供いて、
収入が必要な人達には、そんなネット空間だけで吹いて生きることできない
でしょう?そういう将来を否定している人達や学生の一部だけ、そういう
偏頗な生き方が一時的には妄想的にできると思うけど、普通の人は、もっと
まともな現実感覚や現状認識を持っていますよ。結局、メディアリテラシー
の一つとしても、そういう距離化や相対化も必要なんだと思います。
普通の人間関係でも、あの監禁事件じゃないけど、他者との密着で、
殺人にまで至るということもあるし、拙いやり取りというのは傍から見て
いても醜いものです。あと、ここのスレ主の言っていることは、やっぱり
ヴァーチャルな幻想を幻想として生きるということだから、何か根本的に
違うような気がします。このスレ主を天才呼ばわりするのは、止めた方がいい
と思います。もっと、誤字脱字の少ない現実的な鋭い意見が聞きたいものです。
さて、ファンには天才と呼ばれているらしい東野圭吾さんの長編小説でも読もう。
【幻夜】ね。
ここから、引用です。
パソコンが恋人になっていませんか?
VDT症候群は、パソコン中心のライフスタイルが引き起こす生活習慣病のようなもの。さらに
突き詰めれば、仕事至上主義や人間関係の希薄さがそもそもの原因、ともいえる。
「もしかして、VDT症候群?」と思ったあなたは、一度生活そのものを見直してみよう
心の病にもつながる!?
「たかが疲れ目くらい」「肩こりなんてよくあること」などと放置しておくと、頭痛や睡眠障害、
食欲不振、過食、生理不順、不安感、抑うつ状態などさまざまなストレス症状を招くこともある。
ときには心の病「テクノストレス」を引き起こす場合も。とくにパソコンにしがみついているうちに、
イライラが募り、うまく対人関係が結べなくなる「テクノ依存症」は深刻。体のトラブルは、心の
不調のサインでもある。気をつけよう!
830 :
純一:2006/08/03(木) 22:39:38
>>827 >ネット的な時空というのは、幻想としての全能感を調達しやすい
>トポロジカルな空間だけど、ここのスレ主は、そうしたネット的なものを
>オバー・エスティメーションし過ぎていると思います。
>孤独なサイコちゃんみたいな人が、ネットには多く蔓延っているから、
要するにぴかぁ〜のことですね。
831 :
純一:2006/08/03(木) 22:42:13
>>828 >一般人でも、利巧な人は、そういう悪循環的な機制に気付いて、ある程度は、
>ネット的なものとは距離化するよね。話聞いていると、マルクス的な
>ユートピア(幻想)が、そういうネット的なものに移行しているようで、
>ここのスレ主は、利巧な人のはずなのに、そういう基本レベルの認識に、
>相当のバイアスがかかっているので、皆さん、時々注意してあげましょう。(笑
なるほどね。
832 :
純一:2006/08/03(木) 22:44:07
確かにこのぴかぁ〜のスレとか読んでると、
ネットを称揚し過ぎな感覚は否めないね。
そういう意味で、
>>827-828の文は合ってるな。
833 :
純一:2006/08/03(木) 22:48:28
>>828 >そういうネット的な空間だけで生き続けたいという人がいてもいいとは思うけど、
>だからといってその利害関係で、現実認識を変えようとするのには、
>時代遅れの下手なアジテーションというものでしょう。結婚して、子供いて、
>収入が必要な人達には、そんなネット空間だけで吹いて生きることできない
>でしょう?そういう将来を否定している人達や学生の一部だけ、そういう
>偏頗な生き方が一時的には妄想的にできると思うけど、普通の人は、もっと
>まともな現実感覚や現状認識を持っていますよ。結局、メディアリテラシー
>の一つとしても、そういう距離化や相対化も必要なんだと思います。
ということは、私のプロジェクト云々に関しても、この認識が正しいとするなら、
アジテーションは無理ってことになるね。そして、そういう類の活動をしようと
している人々全てにも、こういったことが冷めて見られるということをも
同時に示しているわけだ。これは別のアジテーションの仕方を考えなければ
ならなくなりそうですな。
834 :
純一:2006/08/03(木) 22:54:25
ちなみに、昨日の私がした予言が
>>781で的中しました。
>209 :純一 :2006/08/02(水) 23:35:24
>そのうち、ぴかぁ〜のブログにて、
>亀田戦の哲学的考察が始まることでしょうな。
835 :
純一:2006/08/03(木) 23:02:29
いや、やっぱここで私が指摘したから、
ぴかぁ〜が反発してブログに掲載しないかもしれないね。
836 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:06:56
>>827-829 全くその通りと思うが、いいじゃないの。
なんの影響も弊害もあるじゃなし。
所詮趣味の域をでないわけだし、盲目的追従者が出てくるのも世間によくあること。
ほっといてやれば?
837 :
純一:2006/08/03(木) 23:08:27
ぴかぁ〜は私が倒して御覧にいれましょう。
838 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:13:25
倒すってのは具体的にどういう状態?
839 :
純一:2006/08/03(木) 23:13:47
>>827 >レベルや質を良好に保つって、あれでしょう?このあいだヤフーで、
>小学生たちの読書量が増えているという記事があったけど、やっぱり紙媒体
>は不滅というか、普遍的な媒体だと思います。
>あと、百年は情報、知のベースとしては紙媒体が主流なんじゃない?
あと、たぶん、あれだろうね。
ネットだと、
>>1のぴかぁ〜のように、
いい加減なことがいくらでも書けるからね。
840 :
純一:2006/08/03(木) 23:14:49
841 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:20:44
ちょっとわかりません。
ここから撤退させるってこと?
無理でしょう。
842 :
純一:2006/08/03(木) 23:22:13
>>841 いや、つまり、
ぴかぁ〜を黙らせれば良いんですよね?
843 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:24:14
ハハハどんな手があるか知りませんが、彼は黙らんでしょ?
844 :
純一:2006/08/03(木) 23:26:05
>>843 いえ、たぶん、私が本気を出せば、
可能であると思います。
相対的=人それぞれ
重層的非決定=人それぞれ
ニヒリズム=かっこつけ
パラダイム=常識
イデオロギー=思いこみ
テクスト=文章
エクリチュール=文章
コンテクスト=話の流れ
コード=お約束
アイデンティティ=わがまま
アフォーダンス=わかりやすさ
アウラ=よくわかんないけどなんかすごい
現前性=ある
反グローバリズム=金持ちムカツク
身体性=ボクね、こう見えてもなかなか頭でっかちってわけじゃないんだなぁ。わかる?
---
と言い換える事を義務付け様ぜ。
846 :
純一:2006/08/03(木) 23:34:03
あと、脱構築って訳もあんまり良くないですね。
自然な言い方ではないし。
847 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/03(木) 23:36:50
>>827-829 「細かい話を、普通の人はあまり読まないと言いつつ、長文ありがとうございます。
てんこ盛りなのでどこから言及すればよいかですが、まず紙媒体とネットとの比較ですね。
ネットが長文を読みにくいのは確かですね。電子図書など出ていますが、読みにくいですね。
読書という意味では本は一番モバイルですね。
しかしだからネットはダメとはならずに、ネットの優位性が多くあるのですね。まずデーターベースで
すね。世界中を検索できるってトンでもないことですね。最近「ウェブ進化論」でも話題なのがGoogle
ですね。「知の世界再編をする」というのも伊達ではないということでしょう。読んでいないならぜひ読
むと良いですよ。
ネットはパラノイアの巣窟でなく、知のそして、ビジネスの最先端であることが、よくわかります。「結
婚して、子供いて、収入が必要な人達」は、ネットをいかに賢く使うかを考えていると思います。
この長文で問題になっているのは、おそらく2ちゃんねる的なものでしょうか。ネットは便所の落書
き、引きこもりの暇つぶしと言われる巣窟ですから。しかしネットのコミュニケーションをこれだけで考
えるのも偏狭でしょ。
>>781に「瞬間共時的間主観的作動する装置としてのネット」と書きましたが、
ネットは一つの世論となっています。
まあ、ネットについてはいままでいろいろ書きました。
この当たりとか、見てください。
「なぜネットコミュニケーションは必ず失敗するのか?」
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050630
848 :
純一:2006/08/03(木) 23:37:00
>と訳せばこんな事には…。
特にぴかぁ〜の場合、
>>608の用語の乱用が酷いですね。
?
850 :
純一:2006/08/03(木) 23:39:52
>>847 >しかしだからネットはダメとはならずに、ネットの優位性が多くあるのですね。まずデーターベースで
>すね。世界中を検索できるってトンでもないことですね。最近「ウェブ進化論」でも話題なのがGoogle
>ですね。「知の世界再編をする」というのも伊達ではないということでしょう。読んでいないならぜひ読
>むと良いですよ。
だから、
>>827-829は、そういうポジティブな部分ではなく、
ネガティブな部分を語っているわけで、そこで、ポジティブな
部分はここですよ、というぴかぁ〜の論旨は無駄なものにしか
思えないのですが。
851 :
純一:2006/08/03(木) 23:42:57
>>847 >しかしだからネットはダメとはならずに、ネットの優位性が多くあるのですね。まずデーターベースで
>すね。世界中を検索できるってトンでもないことですね。最近「ウェブ進化論」でも話題なのがGoogle
>ですね。「知の世界再編をする」というのも伊達ではないということでしょう。読んでいないならぜひ読
>むと良いですよ。
たとえば、ぴかぁ〜は今までこのスレなどで、
ネットのポジティブな部分はここです-@というわけですが、
それに対して、
>>827-829がいいや、ネガティブな部分はここです-A
と言ってるのに、それを綜合せずに、また、ぴかぁ〜が、
いいや、それでもネットのポジティブな部分はここです-@と
言うのなら、単なる循環にしかならないわけでして、@とAを綜合して
まとめるという作業をぴかぁ〜は怠り、単に自分の主張を繰り返している
だけではないですかね?
852 :
純一:2006/08/03(木) 23:46:34
>>847 つまり、@に対して、その理論のウィークポイントはAであると、
指摘されているわけですから、そこで@を繰り返すのは、単に
自論を繰り返しているだけになりますよね。
ですから、この場合、指摘されたウィークポイントであるAに、
@の論点から、如何にそのAで指摘されたポイントを克服する
ことができるのか?という視点で反論しなければ意味をもたない
わけです。
853 :
純一:2006/08/03(木) 23:48:59
で、
>>848に戻りますが、
>特にぴかぁ〜の場合、
>>608の用語の乱用が酷いですね。
>>608はこれです。
>608 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:11:27
>しかし恋とは不思議なもので、タレントのような容姿を望んでも、実際には恋に落ちると
>相手がかわいく見えるものですし、実際に恋によってかわいくなるものです。
>
>問題は、「出会い」がないということではないでしょうか。「出会い」とはきっかけです。
>誰かを好きになるとは錯覚です。なぜ相手がその人であるかに理由はない。
>日々多くの人とすれ違う中で、なんらかの形而上学的な転倒が必要です。
>
>情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
>瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
>
>その中で限りなく条件は高くなる。条件という物理的なもので差異化しようと思うと、
>かなり限定的なものでなければ、ならない。
>これに近いのがオタクですね。オタクが情報の細部へ向かうのは、物理的に条件によって
>差異を見いだそうとするためです。
>
>だから恋愛条件オタクになってしまう。
854 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:49:36
ま、取りあえずBS-1見ようや
855 :
純一:2006/08/03(木) 23:51:15
それで、
>>608の発言を受けて、その直後に私が疑問を持ちました。
>>609にそれを書きました。
>609 :純一 :2006/07/30(日) 21:14:53
>ここで論じてみたいのは、
>ぴかぁ〜が形而上学と脱構築というタームを、
>単に「出会い」を論じる為に必要だったのかという点だ。
856 :
純一:2006/08/03(木) 23:52:00
857 :
純一:2006/08/03(木) 23:52:34
地上波じゃ見れないのかね。
858 :
純一:2006/08/03(木) 23:54:44
>>608のぴかぁ〜の発言で問題なのは、
>>609で疑問を持った通り、
>ぴかぁ〜が形而上学と脱構築というタームを、
>単に「出会い」を論じる為に必要だったのかという点だ。
という点です。
具体的には以下の点です。
>>608 >情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
>瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
859 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 23:58:05
>>851-853 そうなんだよ。
そういう彼だから、何をいっても効果がないと・・・
予め、批判を受け入れない構造ができているんだな。
860 :
純一:2006/08/03(木) 23:58:46
この時点で
>>608のぴかぁ〜の発言の中での、
タームの乱用が見抜ける人は中々鋭敏であると思います。
861 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 00:00:10
なんだBS1WEB進化論ってあるから見たのになんだ
ツマンネ
862 :
純一:2006/08/04(金) 00:00:50
>>859 >予め、批判を受け入れない構造ができているんだな。
ですね、勝つかはともかく、彼の観念内では負けという
字は存在しませんからね。
863 :
純一:2006/08/04(金) 00:01:37
864 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 00:02:48
みなくてもよかったよ
著者が在り来りのことしゃべっただけ
それも2分…
865 :
純一:2006/08/04(金) 00:05:25
今一度、ぴかぁ〜のターム乱用文を見てみましょう。
>>608 >情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
>瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
この文章で専門用語が使われているところを、
私、純一が意味が分かるように、日常用語に変換してみましょう。
>情報化過多の時代、このような絶対的な安定は困難になっています。
>瞬間瞬間で「不安」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
866 :
純一:2006/08/04(金) 00:06:25
>>864 BSで放送してたのなら、
どっちにしても私は見れないね。
867 :
純一:2006/08/04(金) 00:09:52
>>608の専門用語を使ったぴかぁ〜の文を、
>>865での変換文のようにすれば、誰でも意味が分かり、
尚且つ、ぴかぁ〜が単なる普通のことを専門用語で、
確信犯的に難しく言い換えていることが分かると思います。
868 :
純一:2006/08/04(金) 00:11:12
即ち、ぴかぁ〜が大したことも無い感想を、
専門用語を使うことで、哲学っぽく見せているということが
お分かりいただけると思います。
869 :
純一:2006/08/04(金) 00:14:13
で、こういったことは少し用語を知っていれば、
誰にでもできます。そして、問題はこういう
ぴかぁ〜の大したことも無い感想が、>>
>>865みたいな
やり方によって、哲学として蔓延しているってことです。
870 :
純一:2006/08/04(金) 00:15:50
つまり、ぴかぁ〜のスレはほとんど彼の感想を、
>>865のやり方で言い換えているだけで、また、
ブログも同じやり方でぴかぁ〜の感想が書かれているだけですよ。
871 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 00:19:21
いや蔓延はしないって
あくまでもぴかぁという特異なキャラに限ったことであって、大勢に影響なしと見ます。
872 :
純一:2006/08/04(金) 00:21:01
まあ、このスレというか、
ぴかぁ〜スレの領域では蔓延してるよね。
873 :
純一:2006/08/04(金) 00:22:58
リーマンとかも
この程度の乱用を見抜けないからね。
874 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 00:25:54
つまりね、ぴかぁのやっていることは、
ある人が集めているフィギアの数が驚異的に多い、といった程度のことに過ぎないんです。
そっとしておいて、コレクションさせておけばと
どうしてフィギアを集めると言い得るのか
>>870 ぴかぁ〜については、今や問題設定そのものを変更すべきである。
すなわち、彼の頭の悪さを指摘するのではなく(それはもはや周知の
事実である)、なぜ彼はこのように生きざるを得ないのか、
その必然性を明らかにすべきである。
と、俺は思うんだよ。
877 :
純一:2006/08/04(金) 00:29:43
878 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 00:33:03
頭は悪くないだろ。
その必然性とやらには興味もてない。
879 :
純一:2006/08/04(金) 00:35:14
頭もそうだが、より根本的には
性格が曲がってるのではないかな?
>>878 必然性という言い方が気に入らなければ、「哲学的」に(笑)
「充足理由」と言い換えたっていいんだよ。
ぴかぁ〜の書き物なんざ、これは断言してもいいけど、
どこに出したって通用しない代物だ。しかも一向に進歩が無い。
しかも管見の限りでは、いかに正当な反論に対しても、真面目に
これを吟味するという姿勢が見られないという、およそ哲学的なもの
とは無縁の人物である。
従って、ぴあぁ〜について(対して)論を立てたいなら、彼の言説もどきの
たわ言の内容について議論しても無意味であるから、むしろひとつの症候と
してこれを読み解く以外にないでしょう?ってこと。
881 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 01:03:05
>880
とくに反論はないがね。
アンタもやるね、昼間ぴかぁによりそって議論してた人でしょ?
一体なに企んでんの 笑
それにしても、ついに ぴあぁ〜ですかい。
882 :
880:2006/08/04(金) 01:13:33
>>881 いや、それは俺じゃないよ(笑)別に何も企んでないし。
単に時折哲学板を見ていて、その都度ぴかぁ〜の「言論と人格」に
あきれていたというだけのこと。
ただ、ハンドルを間違えたのは、ぴかぁ〜氏に失礼だったね。お詫びするよ。
昼間の質問もどこか馬鹿にした感じだったが、
思わぬ反撃で悔しかったんだろ。
確かにぴかぁ〜は出鱈目だがそれを的確に指摘できるやつがこの板にいるか。
その程度にはぴかぁ〜も知恵をつけてるということだ。
885 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 10:20:40
純粋略奪の快楽(自然主義的闘争論)
人間の歴史とは自然との闘争であり、自然主義的闘争を下部構造とした自然主義的史観である。
そして近代以降の技術革新、そしてそれを元にした資本主義社会は新たな「自然」との闘争方法としてある。
人は生きるために自然と闘争するのではない。それが純粋略奪(暴力)の快楽だからむかうのだ。
だから「自然」とは純粋略奪の快楽が作り出す無垢な仮象である。純粋略奪の快楽の系譜はポト
ラッチから、野蛮人(異教徒)との闘争をへて、科学による自然征服へ至り、現在はネットという疑似
フロンティア(自然)の開拓へもむかっている。
社会形態/交換様式/宗教・技術/快楽(祭り)
自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝(呪術)/ポトラッチ
自然開拓の時代・・・都市化、帝国/再配分/一神教(キリスト教)/戦争
自然略奪の時代・・・国家、資本主義/交換/科学技術(産業革命)/消費
自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/情報技術、環境管理技術
/(ネット)コミュニケーション
ルネサンス以降の科学技術革命は自然主義的闘争方法を開拓から略奪に変え、資本主義システ
ムのもとに地球規模で略奪をすることに成功した。しかしその反動として環境問題として自然の「逆
襲」が始まっている。それにともない新たな自然主義的闘争形態へ移行する必要がある。
その一つの成功例がオゾン層破壊物質の削減であり、それに続くCO2排出規制である。今後さら
に地球環境保護の政治力は増し、「地球環境保護機構」のような動きは避けられなくなるだろう。そ
して資本主義は情報処理、環境管理技術の発展とともに、地球環境をコントロールすることを必然と
する「自然管理の時代」へと移行するだろう。
886 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 11:05:22
そぉ よかったね
おめでと
887 :
考える名無しさん :2006/08/04(金) 11:07:04
888 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 12:54:31
日本人はまじめすぎる
889 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 13:02:09
お前よりはな。
890 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 13:20:19
昨日、カントの「アプリオリな総合判断」とラカンの欲望論が近いといいました。
ラカンにおいて、現実界は、認識できないがあるものというよりも、
認識から照射されるが、そこにあるだろう無です。ボクたちはただそこにある影だけをみる。
しかしそれは錯覚かもしれない。
これはカントの物自体と似ています。カントの物自体も認識できないものというよりも、
アンチノミーの中で表れる認識の向こうにあるだろう超越論的対象です。
それはアンチノミーか説明するのに必要になる点です。
欲望がめざすときどこに向かっているのかは、認識できない「向こう」です。
ラカンの現実界も同様に欲望論を説明するのに必要になる超越論的対象です。
カントでは、アプリオリな総合判断によって現象(客観的現実)が可能になります。
アプリオリな総合判断を可能にしているのは超越論的統覚としての同一性の自己です。
自己が自己であることによって、現象(客観的現実)は維持されます。
ラカンにおいて現象(客観的現実)は欲望が支えます。対象aを介して現実界へ向かおう
とするう欲望、世界を生き生きとした現実(リアリティ)として表されます。
のちにヘーゲルなど、カントの超越論的対象Xは必要なのかと非難されますが、
超越論的対象Xという確かになにかがあるか、ないかでなく、
現実を支えるためには、超越論的対象X(物そのもの、現実界)がなければならない。
ということです。
柄谷的にいえば、超越論的対象X(物そのもの、現実界)へ向かい続ける欲動が、
仮象(幻想)であっても、避けることができない現象(現実)を生むのです。
891 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 13:30:20
柄谷はカントの物そのものを「他者」と呼びます。
それは外部の他者であり、未来の他者です。
反証可能性を例にすると、様々な他者による反証が交わされることでのみ、
決して到達できない真実としての「物そのもの」が表れるのです。
そしてこの真実へ向かわざる終えず、到達できるという仮象(幻想)に
現実(リアリティ)を見せる力が欲動なのです。
すなわち「アプリオリな総合判断」は決してその確かさを証明できない故に、
欲望され続けるのです。
892 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:11:27
>891
カントの物自体は、感性的直感を認識のインフラとしたア・プリオリな総合判断を超え、それを制限する超越論的なもの、
柄谷の他者は、自分とは別のシステムのなかの(未知なる)他者一般だったと思いますが。
<「アプリオリな総合判断」は決してその確かさを証明できない故に、欲望され続けるのです>
↑
「確かさを証明できない故」ではなく、「総合判断で到達不能であるのに、何故、そこまで人間に求めるのか(人間が求めるのか)」、だと思います。
893 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:11:34
純粋略奪の快楽の作動
@外部と内部の境界を引く
A外部が無垢(いきいきした幻想)とされる
B外部への(欲望)略奪衝動が掻き立てられる
C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力が行使される
これは欲望の構図そのものであるが、重要であるのは外部内部の境界の強度である。
より純粋な外部であるほど負債感はなくなり、より純粋な暴力が行使される。それが「自然」である。
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり不確実性であり、到達できない「物そのもの」であり、トラウマ的なのだ。
だから自然は純粋な欲望の対象でありつづげ「自然」として回帰しつづけるのだ。
この欲暴論を下部構造するのが自然主義的闘争論である。そして経済とはこのような自然との関係を言う。
人は有史以来どのように「自然」をみい出したか。
そしてどのようにみいだしていくのか
894 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:20:01
>>893 <より純粋な外部であるほど負債感はなくなり、より純粋な暴力が行使される。それが「自然」である。>
↑
これは、ア・プリオリなものではなく、ア・ポステリオリであり、また、無意識に下部構造に取込まれていき、且つ、社会的/経験的なものではあるが、「日常的には意識されない」ものですね。
895 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:29:09
そうですね。昨日もいったように黒人はかつては「自然の恵み」でしたが、いまは人間です。
しかしフロイトを経験したボクたちにとり、アプリオリ、アポステリオリという分類は有効なのか、と思いますね。
896 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:32:46
>895
有効、無効を問わず、「人間のア・プリオリな認識がどこまで到達できるのか、できないのか」、を追求するのも、また、社会的存在でしかありえない人間の、日常的には意識されないア・ポステリオリな衝動でしょう。
897 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:35:26
>>892は了解です。カントはむずかしいですね。
というか、アプリオリな総合判断は破綻していると思います。空間、時間認識はデカルトの発明で以上ではないのではないでしょうか
898 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:40:20
空間時間認識は近代以降の自然主義的闘争様式の一部でしょう。
すなわち科学技術ですが
そのように考えると物そのものとは欲望論の現実界としてのみ意味があるようにおもいます。
899 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:46:15
>897
私も、「(7+5=12はア・プリオリな総合判断である)、という箇所から、既に、経験知を紛れ込ませる陥穽に堕ちこんでいる」、と別スレで書いたら、ブログでやってください、というクレームをいただきました。
900 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:46:29
「語りえぬもの」とはそれでも語りたい、からしか意味がない、という意味で
901 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:51:25
>898
空間=延長の概念からは物自体には到達不能である云々はデカルトも書いていますね。
では、仕事に戻ります。
ぴかぁ〜さん、「働いたら負けだ」の心意気、かってます。
がんばってください。
902 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:55:01
それでも、カントは純理を書きたかったのですよ。
この衝動は痛いほどわかります。
では。
903 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:55:22
ボクも仕事中なんですが…
904 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/04(金) 14:56:18
>903
私も仕事中なんですが…
905 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 15:03:59
信じてもらえないですが、世の中にはこんな仕事もあるんです。
なぜボクが哲学をするかはとてもよい時間つぶしだからですね。
ぶっちゃけほんと暇な仕事なんですよ。哲学でもしないて間がもたない。
これで人並みの給料だから罰があたりますね。
この部署にくる前は結構忙しくて、楽でいいなとおもっていたらもう三年以上たってしまいいつのまにかここの古株で哲学に詳しくなってしまいました。
信じてもらえなくてよいですが
906 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 15:08:08
信じる、信じますから俺にもやらせてくれ〜
た頼むマジで
907 :
779:2006/08/04(金) 15:10:01
思い当たることを幾つか。
1.アプリオリとアポステリオリは普通、同じものだと言われる。
経験に先立って存在する「先験的なもの」を見出すのは「経験の後」だから。
2.柄谷はもっとぶっきらぼうに、ラカンの現実界−想像界−象徴界を
カントの感性(物自体)−悟性−理性の言い換えと述べている。
3.昨日、死の欲動とユーモア論を述べたけど、カントをやるには数学論から
入るのが正しい、という柄谷テーゼが正しいなら、ラカンをやるには死の欲動
から入るのが正しい、と言えると思う。
4.最近、野田又夫の近世哲学研究、デカルト研究を読んでいるが、普通、世界を
客観的に見る視点を確立すると同時に、そのような客観的に見る主体としての
主観をも見出し、その主観(コギト)を保証するものとして神の存在を必要とする
というのがデカルトの道筋らしい。認識論における主客問題はここから生じるとされる。
ここでも、柄谷が『探究』で面白いことを言っていて、主観が全世界を覆うときに
成立するのが客観的世界である、と述べている。これは通常の見方と逆になってる。
つまり、「客観的」とは、主観が全世界を覆ったときに確保されるもの、となる。
私はこれを言語論から見たい気がする。このときの主観を「主観=言語」とした
場合、世界を分節し続ける言語としての主観と、言語が構造的に欠如体を持ち、
そのような欠如が主体を主体ならしめている、というテーゼとはどう関わるか。
5.時間・空間論は古代にもある。それらを感性の先験的カテゴリーとして位置づけ
たのがカントということになる。デカルトということで言えば、彼の機械的自然観の
モデルになった機械は「時計」らしい。
908 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 16:07:48
1.最近は、「やわらかな遺伝子」など、進化論研究では、先天性は遺伝子上の
スイッチとしてあり、後天的な環境によって、どのスイッチが押されるかが
違いことから、先天的と後天的は分けられないというものがあります。
4.ラカンばかりで申し訳ありませんが、とてもラカン的ですね。
>世界を客観的に見る視点を確立すると同時に、そのような客観的に見る主体としての
>主観をも見出し、その主観(コギト)を保証するものとして神の存在を必要とする
ラカンは、生まれたばかりの母と未分化な状態から、母の不在によって、他者を見いだすとともに
自我を見いだすと、考えます。
その後、鏡像関係(想像界)によって、他者を盗むことで自我は発達しますが、
これは盗みあいの闘争にいたるために、第三者(象徴界=大文字の他者=神)が介入し、
去勢されます。
第三者(象徴界=大文字の他者=神)の介入=去勢とは、言語の獲得です。
言語の獲得とは、社会的な秩序の注入です。なぜ言語が神であるのかは、言語(社会)の
正当性には根拠がなく、第三者(神)が保障することでなりたっている一つの神話だからです。
(この当たりは、ヴィトゲンシュタインの規則のパラドクスへのクリプキの解答に繋がります。)
しかしこの言語体系は不完全です。自己言及のパラドクス(私とはなにか)に答えることが
できない穴があります。それは到達できない真実(現実界)へ繋がっています。
「主観を「主観=言語」とした場合、世界を分節し続ける言語としての主観」→象徴界
「言語が構造的に欠如体を持ち、そのような欠如が主体を主体ならしめている」→現実界
に対応するのではないでしょうか。
この関係は、通常、客観は社会的な常識として象徴界が支えていますが、
言語は「主体とはなにか」に答えることができない。「主体とはなにか」と問い続ける
欲望によって主体は主体たりえるということです。
909 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 16:08:33
5.カントの時間、空間とは、解析幾何学、デカルトの考えた座標的なものではないでしょうか。
すなわち数量化です。
910 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 16:24:31
自然主義的闘争論
欲望の構図
@外部と内部の境界を引く。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
この欲望の構図において、外部と内部の境界の強度が重要となる。より境界が明確に、
そしてより純粋な外部であるほど、外部は無垢として生き生きと表れ、開拓は正当化さ
れ、負債感なく、より純粋な暴力が行使される。このように純粋な外部の表れが「自然」
である。
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり、不確実性であり、決して到達
できない「物そのもの」であり、人にとってトラウマ的なものである。 だから自然は欲望
を想起する純粋な外部としてあり、「自然」として回帰しつづける。経済とはこのような
「自然」と人間の関係のことである。
この「自然」と人間の闘争を下部構造に考えるのが、自然主義的闘争論である。人は
有史以来、そして将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するのかを考える。
911 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 16:38:06
たとえば「なぜ山の登るのか」で考えてみると、
@外部と内部の境界を引く。
山は社会の外部である。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての山は登頂が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。
山のいつもそこにあり、そこに無垢という価値はない。これは人間側の価値による、
幻想である。
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢に見せられ、登覇したくなる。
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
人類の快挙という正義の名のもとに、登覇される。
912 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 16:43:04
「なぜ山の登るのか」
山のいつもそこにあり、そこに無垢という価値はない。
913 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 16:45:38
914 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 16:49:21
>>913 タームを知らないとその文は読み解けませんよ。
915 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 16:54:44
これを、たとえば「なぜ彼女をものに(登頂)するのか」と比較すると、
@外部と内部の境界を引く。
女性は男性の外部である。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての女性は「登頂」が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢に見せられ、「登覇」したくなる。
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
男性の快挙という正義の名のもとに、「登覇」される。
山はより純粋な外部(「自然」)としてあるために、負債感なく暴力が行使されるが、
相手が女性の場合、気持ちを無視した暴力であり、それが強引に行うことには、
負債感がともなう。
しかしかつて男尊女卑の時代、女性への略奪(暴力)は負債感なく行われていた。
ここでは、女性、奴隷は「自然」=動物であったのだ。
これが、人は有史以来、そして将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するという、
自然主義的闘争論である。
916 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 16:59:35
>>911 古代社会で灌漑その他、道具を使うことを知って、人為的なものと
自然なものとの峻別がなされても、なお、自然には不思議な力が
宿るとされ、畏怖する対象として、自然神を崇拝するということが
同時に行なわれていた。この場合、略奪衝動は掻き立てられていない
ことになると思いますけど、その辺はどう思います?
911の図式はとても力動論的というか、動態的な歴史を対象としている
ように思いますけど、静態的自然観を長く持ち続けた古代社会も
あるのですよ
917 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:02:11
こんな上っ面だけでつじつまあわせしたようなのを果たして哲学と呼ぶんですかね。
918 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:11:12
>>916 たとえば未踏の山は霊山と言われ、神聖なものでした。
未知であるものを「神聖なもの」と崇めるのと、それを略奪したいと思うことは
同じことの裏返しなのです。
たとえばかつての呪術でのポトラッチは自然への純粋贈与と呼ばれますが、
これはまた純粋略奪でもあるのです。贈与は暴力なのです。
自然主義的闘争は力動論です。しかし静態的自然観と反することは
ないと思います。古代社会の能動性は主に祭りでのみ爆発します。
919 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:13:15
たとえば処女信仰とは、神聖なものほど汚したいことです。
920 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:19:27
なんだかバタイユみたいになってきたな
921 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:22:10
当然です。バタイユとラカンはお友達ですから。
922 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:32:31
なぜ未踏の山を霊山として、神聖なものでして崇めるのかは、
人間にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖なのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして神とは蓋です。
神とは本質的に「他者」です。他者とはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「他者」をおくことで、人は安心します。
なにかあれば、「他者」へコミュニケートすれば良いからです。
祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
だから昔は未知の自然には「他者」だらけです。沼には河童、山にはトトロ、
天井にはまっくろくろすけ、闇には幽霊、宇宙には宇宙人。
近代科学の闘争では、かつての「他者」を配置し贈与する暴力から、
数量化による計測する暴力に切り替わりました。
923 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:35:59
神聖なものでして崇めるのかは、
ますます面妖な・・・
924 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:37:33
沼には河童、山にはトトロ、 天井にはまっくろくろすけ、闇には幽霊、宇宙には宇宙人、哲板にぴかぁ〜。
925 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:43:28
>>922 闘争の「形態」が切り替わる要因はどこに求められるの?
近代以前と近代以後とで「闘争形態」が変わってしまう
動因は何だと思う?
926 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:52:34
切り替わる動員はなにかはむずかしい問題ですね。
重要なことはこれは進歩史観ではないということです。
進化論です。進化論とは自然淘汰であり、環境に適応したものが生き残る。それは進歩でなく適応という変化です。
だから創発的、偶然の積み重ねが秩序を生むです。
なぜ文化的に後進国の中世西洋でルネサンスがおこり、現在の資本主義的成功にいたるのか
一概にいうことは難しいですね。
927 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 17:55:52
偶然の積み重ねが秩序を生むです。
あーそうあるか
928 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 18:02:33
カオス理論のバタフライ効果の例もありますしね
929 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 18:03:02
自然を支配する技術=テクノロジーの進歩がなぜ
西洋から現われたのでしょう?闘争の形態は地域
によって異なった様相を持つのはなぜですか?
930 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 19:26:04
只今オタクぴかぁ〜は帰宅するふりをしています。
PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で
待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの
前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機
中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で待機中PCの前で
待機中PCの前で待機中
931 :
純一:2006/08/04(金) 20:20:14
ふ〜、
932 :
純一:2006/08/04(金) 20:21:15
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 20:07:37
伝説のコジェーヴの講義言ったのか、すげっ!
日テレ大作見に行ったけどタロウ凄いね。
933 :
純一:2006/08/04(金) 20:21:52
暇だね
934 :
純一:2006/08/04(金) 20:23:06
コジェーブの講義以前に、
ぴかぁ〜は講義の元となる哲学者の論を理解していません。
これは100%確実な情報です。
935 :
純一:2006/08/04(金) 20:25:11
では、なぜコジェーブの名前出すのかと言うと、
コジェーブという単語を出せば、誰かその単語を知っている人間が、
この人物についてぴかぁ〜以上の知識を知っている場合に、
お互いに理解している者同士として、話ができるからです。
936 :
純一:2006/08/04(金) 20:27:27
要するに、ぴかぁ〜が知らないコジェーブの情報を、
誰かが聞かせてくれるから、わざわざ用語を出して言っているだけです。
マルクスとか、ラカンとかもそうですね。
結構、理解しているとは言い難い理解なのですが、
単語さえ出せば、誰かがそれについての知識を書き込みますからね。
937 :
純一:2006/08/04(金) 20:29:48
さて、ぴかぁ〜の詭弁をどう打ち破り、
ぴかぁ〜自身を殺せるかが問題ですな。
938 :
純一:2006/08/04(金) 20:32:58
さて、ぴかぁ〜の理論を打ち砕くには、
パラダイムシフトの転換が必要になります。
即ち、問いの転換、方法論の転換が必要になるわけです。
そこで参考になるのは、
>>876で呈せられた疑問です。
939 :
純一:2006/08/04(金) 20:34:16
940 :
純一:2006/08/04(金) 20:35:00
これがまず、私の問題提起になります。
>870 :純一 :2006/08/04(金) 00:15:50
>つまり、ぴかぁ〜のスレはほとんど彼の感想を、
>
>>865のやり方で言い換えているだけで、また、
>ブログも同じやり方でぴかぁ〜の感想が書かれているだけですよ。
941 :
純一:2006/08/04(金) 20:37:12
そして、
>>870にこたえ、
>>876の提起が為される。
>876 :考える名無しさん :2006/08/04(金) 00:28:47
>
>>870 >ぴかぁ〜については、今や問題設定そのものを変更すべきである。
>すなわち、彼の頭の悪さを指摘するのではなく(それはもはや周知の
>事実である)、なぜ彼はこのように生きざるを得ないのか、
>その必然性を明らかにすべきである。
>と、俺は思うんだよ。
942 :
純一:2006/08/04(金) 20:40:36
>>876の提起は二部に分割できる。
>ぴかぁ〜については、今や問題設定そのものを変更すべきである。
>すなわち、彼の頭の悪さを指摘するのではなく(それはもはや周知の
>事実である)、
ここまでが第一部になります。即ち、
ぴかぁ〜が無駄な専門用語を使い、無駄に威嚇しているのは、
もはや周知の事実であることは誰もが認めているのです。
>なぜ彼はこのように生きざるを得ないのか、
>その必然性を明らかにすべきである。
>と、俺は思うんだよ。
しかし、なぜぴかぁ〜は威勢を張るのか、
という問いは、彼を精神分析して見ないと分からない
ということですね。
943 :
純一:2006/08/04(金) 20:41:53
そして、ここで重要なのは、
この分析は私が度々、様々な場面でやってきた結果を
集大成としてまとめれば済む話だということなんです。
では、その結果を引用するとしましょう。
944 :
純一:2006/08/04(金) 20:44:59
>ぴかぁ〜の場合・・・他人のブログからさも自分が考えたかのようにパクる
これは結局、ぴかぁ〜が自分では思考しておらず、
また、他人のブログからの情報、たとえば、しろうとのブログからの
ハルヒネタの搾取などを常習的に行っている点からも推測できると思いますが、
彼には理論を生産する術がないと思われるのです。
この生産する術の無いものは、他人から搾取する他ない、
つまり、他人の理論を略奪する他なく、これを彼は
純粋略奪と名付けて正当化しております。
945 :
純一:2006/08/04(金) 20:48:39
>ぴかぁ〜の場合は、オタク的な消費と言えるかもしれない。
>当然のことながら、この消費は消費ではあっても、
>哲学という能動的なものではないのですが。
オタク的な消費の仕方にそもそも哲学書が含まれ得るという事実は、
哲学がぴかぁ〜のメンタルと同様、オタク的に消費されるということでも
あります。即ち、同人と同様、ぴかぁ〜にとっては、哲学書は同人の
ように読んで消費するのみしかできない動物なのです。
946 :
純一:2006/08/04(金) 20:51:54
動物は象徴界を短絡し、想像界と現実界を直接繋げる(ぴかぁ〜)
のですが、象徴界が脱落しているサンプルを観察してみましょう。
>539 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 14:59:42
>
>>538 >ポストモダンが暗かったのは、事後的ではないですよ。
>疑心暗鬼=ディスコントラクション(解体)としてありますから。
947 :
純一:2006/08/04(金) 20:53:35
>546 :考える名無しさん :2006/07/30(日) 15:03:47
>デリダのいうディコンストラクションと、
>ぴかぁのいうディスコントラクションは違うものなの?
これは上の546の指摘通り、単調な間違いでありますが、
これこそが、ぴかぁ〜が象徴界をスキップしているのか、
または象徴界の司る脳の海馬がクラッシュしているのかの
いずれかである証拠なのです。
948 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 20:53:49
純一、今日はいきなり核心を突いちゃったね。
949 :
純一:2006/08/04(金) 20:55:14
そして私は高らかに宣言しました。
これは理論的帰結としての患者の診断を言い渡す、
症状の告知でもあります。
>145 :純一 :2006/08/02(水) 20:18:29
>この間違いは、ぴかぁ〜が根本的に、
>哲学書を斜め読みしているということを証明するものです。
950 :
純一:2006/08/04(金) 20:56:14
951 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:00:25
30分以内に新スレがたつ悪寒
952 :
純一:2006/08/04(金) 21:01:12
必ず、立つでしょうな。
953 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:03:49
飽きるってことないのかね。
954 :
純一:2006/08/04(金) 21:15:10
ぴかぁ〜理論では飽きは無いらしいね。
955 :
純一:2006/08/04(金) 21:16:38
891 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 13:30:20
柄谷はカントの物そのものを「他者」と呼びます。
それは外部の他者であり、未来の他者です。
反証可能性を例にすると、様々な他者による反証が交わされることでのみ、
決して到達できない真実としての「物そのもの」が表れるのです。
そしてこの真実へ向かわざる終えず、到達できるという仮象(幻想)に
現実(リアリティ)を見せる力が欲動なのです。
すなわち「アプリオリな総合判断」は決してその確かさを証明できない故に、
欲望され続けるのです。
956 :
純一:2006/08/04(金) 21:20:07
>決して到達できない真実としての「物そのもの」が表れるのです。
>そしてこの真実へ向かわざる終えず、到達できるという仮象(幻想)に
>現実(リアリティ)を見せる力が欲動なのです。
つまり、決してぴかぁ〜のスレは結論には到達せず、
本人の到達できるという仮象(幻想)が物そのものとしての
根拠の無い自信を生み出しているというわけだね。
957 :
純一:2006/08/04(金) 21:21:21
まさに、ぴかぁ〜っぽいね。
958 :
純一:2006/08/04(金) 21:23:11
>すなわち「アプリオリな総合判断」は決してその確かさを証明できない故に、
>欲望され続けるのです。
すなわち、「ぴかぁ〜理論」は決してその確かさを証明できない故に、
欲望され続けるわけだね。
959 :
純一:2006/08/04(金) 21:25:00
>900 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:46:29
>「語りえぬもの」とはそれでも語りたい、からしか意味がない、という意味で
つまり、とにかく言いたい、書きたい、
スレを立てたいというわけだね。
960 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:27:49
深まることも発展することもないのに、飽きるどころか自信を深める。
どういった精神のありようなのだろう。
961 :
純一:2006/08/04(金) 21:28:57
893 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:11:34
純粋略奪の快楽の作動
@外部と内部の境界を引く
A外部が無垢(いきいきした幻想)とされる
B外部への(欲望)略奪衝動が掻き立てられる
C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力が行使される
これは欲望の構図そのものであるが、重要であるのは外部内部の境界の強度である。
より純粋な外部であるほど負債感はなくなり、より純粋な暴力が行使される。それが「自然」である。
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり不確実性であり、到達できない「物そのもの」であり、トラウマ的なのだ。
だから自然は純粋な欲望の対象でありつづげ「自然」として回帰しつづけるのだ。
この欲暴論を下部構造するのが自然主義的闘争論である。そして経済とはこのような自然との関係を言う。
人は有史以来どのように「自然」をみい出したか。
そしてどのようにみいだしていくのか
962 :
純一:2006/08/04(金) 21:30:07
それにはこれを読み解く他ないでしょう。
>>893はパクリ(純粋略奪)のプロセスが詳細に記されている。
963 :
純一:2006/08/04(金) 21:33:24
>893 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:11:34
>純粋略奪の快楽の作動
>@外部と内部の境界を引く
>A外部が無垢(いきいきした幻想)とされる
>B外部への(欲望)略奪衝動が掻き立てられる
>C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力が行使される
ぴかぁ〜自身による、
パクリ(純粋略奪)の快楽の作動
@外部(他人のブログ)と内部(ぴかぁ〜のブログ)の境界を引く
A外部(他人のブログ)が無垢(いきいきした幻想)とされる
B外部(他人のブログ)への(欲望)略奪(パクリ)衝動が掻き立てられる
C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力(盗作)が行使される
964 :
純一:2006/08/04(金) 21:38:15
>パクリ(純粋略奪)の快楽の作動
>@外部(他人のブログ)と内部(ぴかぁ〜のブログ)の境界を引く
>A外部(他人のブログ)が無垢(いきいきした幻想)とされる
>B外部(他人のブログ)への(欲望)略奪(パクリ)衝動が掻き立てられる
>C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力(盗作)が行使される
つまり、ぴかぁ〜自身の分析によれば、
ぴかぁ〜が他人からパクるのは、
>@外部(他人のブログ)と内部(ぴかぁ〜のブログ)の境界を引く
他人とぴかぁ〜自身との落差に気が付き、
>A外部(他人のブログ)が無垢(いきいきした幻想)とされる
他人の理論が良いものに見え、
>B外部(他人のブログ)への(欲望)略奪(パクリ)衝動が掻き立てられる
それを自分のものにしたいという衝動が掻き立てられ、
>C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力(盗作)が行使される
他人からパクることに快楽を感じながら、盗作していると告白しているわけだ。
965 :
純一:2006/08/04(金) 21:43:02
>自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり不確実性であり、到達できない「物そのもの」であり、トラウマ的なのだ。
>だから自然は純粋な欲望の対象でありつづげ「自然」として回帰しつづけるのだ。
>この欲暴論を下部構造するのが自然主義的闘争論である。そして経済とはこのような自然との関係を言う。
>人は有史以来どのように「自然」をみい出したか。
>そしてどのようにみいだしていくのか
つまり、ぴかぁ〜が他人の理論をパクるのは、
他人がぴかぁ〜理論でないからであると。
そして、ぴかぁ〜理論ではないのだから、
差異が発生し、他人のブログが無垢に見える。
ぴかぁ〜理論(内部)でないもの(他人の理論)は、
外部なんだから、支配されるべきだろうってことだね。
966 :
純一:2006/08/04(金) 21:46:11
ぴかぁ〜の理論的帰結は結局こんな感じになるけどね。
967 :
純一:2006/08/04(金) 21:48:49
922 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:32:31
なぜ未踏の山を霊山として、神聖なものでして崇めるのかは、
人間にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖なのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして神とは蓋です。
神とは本質的に「他者」です。他者とはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「他者」をおくことで、人は安心します。
なにかあれば、「他者」へコミュニケートすれば良いからです。
祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
だから昔は未知の自然には「他者」だらけです。沼には河童、山にはトトロ、
天井にはまっくろくろすけ、闇には幽霊、宇宙には宇宙人。
近代科学の闘争では、かつての「他者」を配置し贈与する暴力から、
数量化による計測する暴力に切り替わりました。
968 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:49:00
多かれ少なかれ、大方はそういうものではないかな?
理論的に帰結した哲学っていうものも知らないし。
969 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:53:42
最も重要な要素である思考領域を外部に開こう(交通しよう)とする基本的思考基盤はぴかぁ〜にはあるのではないかな?
970 :
純一:2006/08/04(金) 21:54:32
>922 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 17:32:31
>なぜ未踏の山を霊山として、神聖なものでして崇めるのかは、
>人間にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖なのです。
>とにかくそこに蓋をしたいのです。そして神とは蓋です。
つまり、
なぜ未踏のタームを知ったかぶりし、知っているかのようなものとして崇めるのかは、
ぴかぁ〜にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だからなのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして知ったかぶりとは蓋です。
971 :
純一:2006/08/04(金) 22:00:30
>神とは本質的に「他者」です。他者とはコミュニケーション可能な者です。
>その意味は「他者」をおくことで、人は安心します。
>なにかあれば、「他者」へコミュニケートすれば良いからです。
>祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
つまり、
知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
972 :
純一:2006/08/04(金) 22:11:44
>だから昔は未知の自然には「他者」だらけです。沼には河童、山にはトトロ、
>天井にはまっくろくろすけ、闇には幽霊、宇宙には宇宙人。
つまり、
だから昔のぴかぁ〜は未知の理論には「知ったかぶり」だらけです。結論には無垢、批判には無視、
脱構築にはディスコントラクション、他人には転嫁、誤字には誤字。
973 :
純一:2006/08/04(金) 22:16:39
>近代科学の闘争では、かつての「他者」を配置し贈与する暴力から、
>数量化による計測する暴力に切り替わりました。
つまり、
最近の方法では、かつての「ジャーゴン」を配置し知ったかするパクリから、
無断転載による盗作する暴力に切り替わりました。
974 :
純一:2006/08/04(金) 22:18:10
まとめると、
なぜ未踏のタームを知ったかぶりし、知っているかのようなものとして崇めるのかは、
ぴかぁ〜にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だからなのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして知ったかぶりとは蓋です。
知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
だから昔のぴかぁ〜は未知の理論には「知ったかぶり」だらけです。結論には無垢、批判には無視、
脱構築にはディスコントラクション、他人には転嫁、誤字には誤字。
最近の方法では、かつての「ジャーゴン」を配置し知ったかするパクリから、
無断転載による盗作する暴力に切り替わりました。
975 :
純一:2006/08/04(金) 22:21:43
>知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
>その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
>なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
>祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
これは結構当たってるだろう。
ぴかぁ〜理論を本人に当てはめるとこうなる。
976 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:24:15
ぴかぁ〜に思考はないでしょ。
薄っぺらい理論もどきとジャーゴンだけ。
977 :
純一:2006/08/04(金) 22:24:35
>祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
祈り、贈与を、現代語訳すると、
媚び、諂い、になるから、
>知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
>その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
>なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
>媚び、諂い、コミュニケートするのです。
では何にコミュニケートするのか?
というと、外部(未知の理論)を教えてくれる他人(神)へですよ。
978 :
純一:2006/08/04(金) 22:27:10
ぴかぁ〜は理論的帰結として、
外部(未知の理論)へコミュニケートする為に、
理論を教えてくれる他人(神)へ、媚び(贈与)し、
それを内部化するわけです。
979 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:28:54
向学心があるってことかな?
980 :
純一:2006/08/04(金) 22:32:35
そして、ぴかぁ〜の内部(知識)が増大すると、
純粋略奪(パクリ)の方法も変わる。
>最近の方法では、かつての「ジャーゴン」を配置し知ったかするパクリから、
>無断転載による盗作する暴力に切り替わりました。
内部(知識)が増大すれば、略奪(パクリ)する方法も変化し、
外部(他人の理論)と内部(ぴかぁ〜の知識) の関係性も変わる。
歴史的に発展していくわけだ。
981 :
純一:2006/08/04(金) 22:36:57
さあ、どうでしょうかね。
向学心かどうか。
>未知であるものを「神聖なもの」と崇めるのと、それを略奪したいと思うことは
>同じことの裏返しなのです。
つまり、ぴかぁ〜が知らない理論を読むのと、 それをパクリたいと思うことは
同じことの裏返しなのです。
だそうだよ。
ぴかぁ〜は極めて常人である、ということがわかりました。
983 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 22:38:55
984 :
純一:2006/08/04(金) 22:40:11
>未知であるものを「神聖なもの」と崇めるのと、それを略奪したいと思うことは
>同じことの裏返しなのです。
要するに、
@ぴかぁ〜が理解できない理論を見つける
Aそれをパクリたいと思う
ぴかぁ〜が理解できない理論を見つけること、
即、それをパクリたいと思うってことですな。
985 :
純一:2006/08/04(金) 22:40:46
986 :
純一:2006/08/04(金) 22:41:57
987 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:44:18
せっかく建ててくれたのだから次スレでやろうよ。
988 :
純一:2006/08/04(金) 22:47:03
そうだね。
989 :
純一:2006/08/04(金) 22:47:35
では、残りは好きなように書いてくれ。
990 :
純一:2006/08/04(金) 22:48:16
次スレに移ろう。
991 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:49:15
9
992 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:11:09
自然主義闘争を人間の歴史の「下部構造」と言い切ってしまうからには
@自然崇拝、自然排除、自然征服、自然管理という時代の変遷の起動因自体
は何なのか、を説明できないと不完全であろう
A自然との「闘争様式」がなぜ変遷していくのか、その起動因も説明できない
と不完全であろう
Bなぜ西洋から自然を征服する技術=テクノロジーが生まれ、その他地域に
伝播していき、逆にその他地域からはなぜそうした技術が生まれずに
きたのか、こうしたことも自然主義闘争史観からうまく説明できないと
不完全であろう
993 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 23:16:37
994 :
純一:2006/08/04(金) 23:18:14
6
995 :
純一:2006/08/04(金) 23:19:18
5
996 :
純一:2006/08/04(金) 23:19:50
4
997 :
純一:2006/08/04(金) 23:20:24
3
998 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:20:35
>>993 難しいかもしれないが、「下部構造」というからにはそこから歴史の
起動因を説明付けられないと、意味のない空論になる。
まだ不完全な理屈の域を出ていないと批判を受けても仕方ないものに
なるよ
999 :
純一:2006/08/04(金) 23:20:55
2
1000 :
純一:2006/08/04(金) 23:21:24
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。