810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 11:56:23
たとえば貧しい国が資本主義に見せられるのは、このような自由である。
地域コミュニティの慣習に拘束されている彼らは資本主義の豊かさの中に、主体の自由をみるのだ。
主体を自由に選ぶことができる。
811 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:15:12
■自由とはなにか。
<近代の豊かさの中で「自由」思想が生まれ広がった>
自由とは内部拘束の強度をあらわす。だから外部拘束が強いとき内部拘束が求められる。自由はう
まれない。外部拘束が弱く内部拘束が強いとき自由=拘束を緩めることがもとめられる。このような
バランスの源泉は公平感にある。公平感がみたされないとき公平なシステムがもとめられる。
近代以前にも自由=拘束の緩和は求められただろうが、これは「自由」とは呼ばれない。実際には
「自由」という言葉はリベラルと関係する。自由はシステムの一部である。基本は近代的なものである。
なぜ近代に自由が求められたのかは、外部環境から解放されたことが大きいだろう。経済的な豊か
さの意味が大きい。より豊かで多数で流動性の高い社会での公平感を満たすためには、個体の自
立により経済の自由と平等が求められた。内部環境が拘束的になり、つよく個人の自律が求められ
た。自由は平等と対の近代的価値である。たとえば自由はリベラルと保守主義の関係で語られる。
そしてリベラルは資本主義の自由競争を意味するといってよいだろう。これはまさに消費社会に対
応した公平感であり、正義のありかたである。
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:16:40
<流動性の高い社会では他者は拘束的であり、儀礼的無関心が求められる。>
後期資本主義においてさらに豊かになりさらに自由が求められる。たとえばバーリンの「積極的自
由」とは行為の主体であること、「消極的自由」とは他者の干渉がないことでわけているが、後期資
本主義では自由は「消極的自由」まで広められている。
ネットではまるで知り合いのように贈与が行われる。逆になぜ社会では知り合いのように贈与が行
われないのか。儀礼的無関心。あえて無関心であることが儀礼である。逆にいえば、むしろ「儀礼的
無関心」の方が不自然である。他者へ関心を当然であるが、それをあえて抑圧する。これが儀礼で
あるのは、「無関心でいてあげる」という貸し(贈与)である。なぜ無関心を装う必要があるのだろうか。
流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、関心しあう関係(知り合いの関係)は
繋がりであり、利便的である。しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。そこ
では関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。社会的な関心とは拘束で
もある。たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。
813 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:17:14
<貨幣は人を他者の拘束から解放する>
情報化社会では、人の認知力に限界がある。余計なことに患わされないために、無関心でありあ
う。マクドナルド化として商売にも展開される。誰に対しても、世界中どこでもおなじ必要以上に干渉
しない(他者回避)サービス。
これは、人は貨幣によって、他者と深く関わらずに社会生活をおこることができることを示している。
これは現代の貨幣が重要である一つである。お金ですべてが買える」というメタファーはここからく
る。貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。「面倒なことを貨幣によって購入する
ことで、認知に余裕ができ、「好きなこと」ができる余裕が生まれる。
逆にいては、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで等価交換に乗らなかったようなこと、他
者との協力関係でまかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。「好きなこと」のた
めに、貨幣が必要であるわけだ。
814 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:17:47
<貨幣は不必要な他者を排除し、必要な他者を買う。>
好きなことをするために面倒なことは貨幣で買う。しかし好きなこととはなにか。たとえば風俗嬢のジ
レンマ。好きでもない男の性器をしゃぶるなど苦痛であるがお金のためには仕方がない。お金があ
れば好きなことができる。しかし風俗嬢はホストにお金を貢いでしまう。彼女の好きなことがホストに
貢ぐことではないが、お金を稼ぐこと、使うことが目的化するのだ。そしてここで求められているのは
貨幣により排除したはずの他者とのつながりである。貨幣は不必要な他者を排除し、必要な他者を買う。
ここに貨幣の不思議な力がある。すなわち社会的な関係性を再構築する力である。たとえばボード
リヤールはこれをソシュール的言語構造、差異の体系と対比させている。いままでの地域コミュニ
ティなどのつながりから、流動性の高い社会では市場=貨幣システムに主体性を委ねることが求め
られる。さらにものによって規定される主体を描いている。
なにを買い、なにをもっているかによってアイデンティティは支えられる。そしてそれほど主体的な行
為だろうか。広告はここに狙い撃ちする。これを買えばあなたのアイデンティティは満たされる。これ
が広告の究極的な意味である。主体を販売する以上にもうかる商売はない。すなわち消費社会である。
815 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:18:24
<ネットでは他者との関係がコントロールできるために他者の関わりが求められる>
他者から解放され、自分のやりたいことをやるために貨幣は必要とされる。しかしネットでは匿名で
あり、場からの参入離脱が容易である。関心をコントロールすることができる。この話題に首をつっこ
み、飽きれば離れる。「関心」のコンロトールの容易性がネットのコミュニケーションを支えている。
ネットでは他者との関係は参入離脱の容易性から調整され、商人(貨幣)を介することが必要でなく
なる。むしろこのように他者回避される社会の反動として、他者との繋がりを求める場となる。それ
は他者との関係を調整することが容易であるからだ。気に入れば関わり、嫌なら離れある。社会で
は空間的(物理的)な制約から、出会いは身近な人に制約されるが、ネットでは自ら能動的に、自分
と関心があう人間と関わることもできる。
ネットがリバタリアンにむかうのは、外部拘束と内部拘束の関係=外部拘束が弱く、内部拘束が強
いとき自由=拘束を緩めることに関係する。その意味で、ネットではバーリンの「消極的自由」、他者
の干渉からの自由よりもさらに広い自由が求められている。ネットにおいける公平感は、資本主義
的な拘束、貨幣交換の秩序からの解放も求めている。
816 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:19:06
<自由と不自由のらせん状態、ネット上の資本主義秩序との衝突、生権力化(グレイゾーン化)>
ここで問題は三つある。ひとつは自由が拡大されすぎた不安、そして消費社会に見られるように、自
由の揺り戻し、むしろ不自由を求めることがおこっていること。自由と不自由のらせん状態の中で終
わりない消費への過剰が起こっている。これはネットにも見られる。他者回避と他者を求めることの
らせん状態。二つ目は、ネットに見られたようなさらなる自由の拡大が、資本主義的な秩序と衝突し
ていること。
三つ目は、拘束が「グレイゾーン化」していること、生権力。もう一つは自由の揺り戻し、不自由を求
めることがおこっていることである。「グレイゾーン化」は身体管理であり、リベラル(自由)とは相補
的な関係にある。デカルトの機械論にみられる。
817 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:19:40
<リベラルと生権力は相補的な関係で秩序を維持する>
近代的な自由が、封建社会、宗教的な内部拘束からの解放を意味するとき、それを可能にしたのは
経済的な豊かさであるといった。豊かは外部拘束(自然環境)から解放を意味です。社会は自然を
開拓し、コントロールし、社会(内部)と自然(外部)との間の管理された自然(グレイゾーン)を広げた
ことを意味する。それは数量化であり、科学技術の発展による。
そしてデカルトの心身二元論、機械論はこの潮流の中になる。労働力がグレイゾーン化されていく。
すなわち自由になる心と、機械化され管理される身体の分離である。現に産業革命を支えたのはこ
のような大量生産機械とそれに組み込まれる機械的身体である。これは単に人間の機械化だけで
なく、心は賃金(貨幣)によって自由になっていくのである。
このような身体の拘束は従来の「自由」とは異なる次元にある。社会秩序からの解放されているの
だから、リベラル(自由)化であるが、拘束として働くのは、「外部拘束」である。このような拘束をフー
コーは生権力と呼んだ。そしてこれは心の同意を得ている、主体の自立的な行為であるために、従
来の意味で拘束と言えない。
これは、自由が拡大すれば、身体を管理するという、リベラルと相補的な関係あり、近代以降の秩
序を維持する主流となっている。そしてネットでの自由の拡大でも有効な方法である。これが最近で
は東の「環境管理権力」などの問題意識繋がっている。
818 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:46:09
<近代の自然主義的闘争様式=数量化がリベラル(心の自由)と生(身体)管理を指向する>
このような生権力を理解するために、ボクは数量化(テクノロジー)は、自然を開拓するための近代
における自然主義的な闘争様式であり、下部構造としてあることを考えたい。近代以降は都市から
隔離されていた自然に対して、人は新たな自然主義的な闘争様式である数量化(テクノロジー)を成
熟させていくのである。それによって以下のようなことは一気に進むのだ。これは、未知の自然を管
理でいる自然=グレイゾーンとして開拓することであり、自然への闘争様式である。
自然科学・・・物理世界の開拓
大航海・・・地球の土地の開拓(土地の商品化)
心身二元論、機械論・・・身体の開拓(労働の商品化)
(質的)価値の量化・・・交換、貨幣、市場の拡大
生産の機械化・・・分業、大量生産(フォーディズム)・・・産業革命、資本主義社会
消費(マクドナルド化)・・・情報化技術、マーケティング・・・心の開拓→ポップカルチャー(サブカルチャー)
ネット・・・情報操作の個別化=空間化(新大陸のメタファー) 、資本主義秩序の無視
そしてこれらの傾向は、封建的、絶対主義的な社会秩序を解体し、自律して主体の平等と自由を目
指す方向をもつ。それは、主体が自由を目指して、これらが起こったのでなく、数量化(テクノロジー)
という自然主義的な闘争様式の中で、人々の公平感を満たす正義システムとして、リベラル(自由と
平等)が目指されたのだ。この動きはいまも続いている。現代における、あるいはネットにおける公
平感とはなにか。さらに新たな正義システムが検討されているのだ。そしてこのようなリベラルな流
れはそのはじめから、心身二元論、身体の機械化(生権力)によって成り立っている。その意味では
今後も自由は、生権力を志向し、その反面で心の自由が求められる傾向にあるだろう。
819 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:28:34
消費社会という貨幣システムによって他者回避と他者を求めることの無限らせんは、
ネットの参入離脱可能なコミュニケーションシステムが代替する傾向にある。
このような流れでは、ネットは豊かさそのものをさせることはできないので、資本主義的システムは
作動し続けるだろうが、成熟し、過剰な消費はネットによって、形骸化する可能性がある。
人々の欲望は消費からネット上へ向かい、繋がり(共同性)が求められる。
現在の、著作権の問題でなどで対立する資本主義秩序とネット秩序はいかように
落ちつくだろうか。資本主義的な強硬は軋轢を生むだろうから、
セキュリティシステムが求められるだろう。現在の生権力傾向は加速する。
これは、第一次産業から二次産業、三次産業、情報産業への波が移ったよりも
大きなパラダイムシフトを起こすかもしれない。産業そのものの形骸化である。
産業活動、貨幣への欲望は成熟し、ネット上のコミュニケーションの繋がりが
重視される。
820 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:29:10
貨幣以前のリアリティ(アイデンティティ)は宗教が支えていた。なによりも宗教的な繋がり、
それは地域コミュニティの繋がりと同じであるが、が支えていた。
それが貨幣への欲望が繋がりを代替した。お金を持つことが、アイデンティティを支える。
ネットコミュニケーションはそれまでのアイデンティティを与えることが可能だろうか。
ネットの特徴は参入離脱の容易性である。それが流動化する社会に対応する。
流動化する社会においても、お金への欲望は揺るぎがない。お金に支えられることで、
社会の流動性は可能になっているとも言える。お金さえあれば一人になろうが、
コミュニティに疎外されようが、問題ではない。
ネット住人の参入離脱の容易性も、お金に支えられているのではないだろうか。
しかし豊かさの成熟の安定の中であって、必ずしもお金が支えているわけではない。
むしろ宗教、貨幣と強烈なリアリティ自身が、消費社会以降、揺らいでいるのかも知れない。
もはやリアリティをささえる強い点は必要とされないのかもしれない。
そのような点が、流動し、移り変わり、熱狂することで、リアリティは支えられているのかも
しれない。熱狂の純化
821 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:39:19
純化されt熱狂によってアイデンティティ(リアリティ)が支えられるというのは、
狂気であるかもしれないが、それを可能にするのは、成熟した資本主義社会の
豊かさあり、アクセスするだけでいつでも「繋がる」、どこかしかへ帰属できることの基盤である。
理想的に語れば、長い未来には労働時間は短縮され、ネットへの接続の時間が増し、
そこで好みのコミュニティへの帰属し、社会生活が営まれている。
ネット上ではとくにセキュリティに絡む、様々な社会問題が起こっている。
資本主義的なシステムは成熟し、環境への配慮からも、抑制されているということだ。
終わり。
822 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 21:37:35
ギリシアのアテナでは市民5万人、奴隷15万人
ギリシアには「自由」という言葉はない。あえて言えば、
ポリスへ市民と帰属することが「自由」である。
アリストテレス「ニコマコス倫理学」では主人と奴隷は「自然」の区分とされた。
すなわち市民と奴隷は先天的な境界、人間/動物の境界があり、
自由は人間であることを意味する。
近代において、人間/動物の境界は溶解し、人間の内部
心身二元論として現れる。身体=機械=動物の充足に対して、
心=人間が自由の領域である。
823 :
きんぴら:2006/09/04(月) 21:52:45
で?
>>822 関曠野の「プラトンと資本主義」を読まれたし
古代ギリシャでも人間/動物の二分法が崩れ始めてたのが解るから
やっぱ「歴史」が欠落してるね、「自然主義的〜」って現代の先進諸国の理論だよ
それに限定したらば解る
825 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 22:16:54
>>824 巡回乙!
「プラトンと資本主義」おもしろそうだな。でもその前の読む本がたくさんあるよ。
チミは「自然主義的〜」を理解していないから。
というかまだできていないし。
例えばイスラム諸国やアフリカ諸国は「遅れて」るんじゃなくて
「純粋略奪」の「享楽」を断念したからこその「現代」であって
じゃなければ彼らも「資本主義」化しなければならないのか?
だったらポスコロ以前だな
827 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 22:26:02
>>826 なんどもなんどもこれは史観ではないといってるのにのー
放置する方が良いのかのー
>>827 俺は放置でいいいんだよ!なんど書けば良いんだ?
ここは2ちゃんの貴方のスレだし貴方の思ったように進めれば良い
「向上委員会」なんてどうでも良いよw
829 :
考える名無しさん:2006/09/04(月) 22:35:09
堀江はリバウンド的自然主義
830 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 23:16:34
ホリエモンにはがんばってほしいね。
831 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 23:33:59
832 :
ヤハウェ:2006/09/04(月) 23:45:28
ぴかぁ〜さんのエッセイスレッドはここですか?
834 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 09:23:46
マルクスには外部がない
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。
ここで自然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と
私的所有で分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部
(社会)の一部となった自然である。
このようにマルクスに外部がないのは、ヘーゲルに外部がないを継承している。
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の比較で明らかである。
これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決定的に異なる。
弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。
ここである対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、
あたらな生産物が止揚される。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は
進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。
ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそれに対応することを強いられる。
これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなければならないのは、
自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理された自然ではない。
人間の認識を越え、コントロールなどできない偶然的に突然発生する生物に対して圧倒的な力である。
だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。
このための生物は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。
外部とはこのような認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
835 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 09:24:19
このような意味でマルクスには外部がない。そしてこの外部のなさはマルクス主義に全体に渉り、
分析をあやまらせている。マルクスの止揚された社会を社会主義(アソシエーショニズム)におくのだが、
そのイメージは自然との調和である。人間に管理されることができる自然であり、外部の自然が消失している。
マルクスが言うように、経済は自然との関係で構築されるが、自然が外部であり、災害、恵みとして
人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は社会形態を
再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
生物の進化論とともに、そして人間の歴史においても、圧倒的な外部自然へ
の対応をもとに変化している。容易に、自然と人間が止揚されることはない。
836 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 10:19:40
人間の歴史とは外部自然にいかに対応するかである。
未開社会は外部自然に直にさらされリスクの高い社会である。未開社会が集団を中心に助け合いの社会で
あるのはリスクを分散しあうためである。一人ではとてもじゃないが生きていけない。
農耕によりリスクは緩和される。外部自然との間に開拓され、収穫という予測可能な自然の緩衝部(グレイゾーン)がうまれる。
その中で蓄財がうまれ、所有と所有者の概念が生まれる。
所有は共同材であり管理者としての権力と権力闘争がうまれ、階級が発生する。
しかし外部自然からのリスク型は高く、緩衝部の構築と内部の共同性とそして内部の闘争の構図である。
このような内部成熟のなかでギリシア哲学、一神教など人間内面の開拓が行われる。
そしてリスクが下がる中で個人感、私有感が浮上してくる。これを爆発させたのは数量化革命である。
外部自然を征服し緩衝部を開拓する。
豊かさとリスク管理と啓蒙主義はソウホ的に進む。ここで自然とは管理可能なものとされる。
そして産業革命、資本主義社会である。この短期の爆発を可能にしたのは先の成熟であり、
流動性が高まった社会において貨幣による交換が適応した。これが価値の数量化であることは重要である。
837 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:39:20
■なぜマルクスには外部がないのか
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の差異
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。ここで自
然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と私的所有で
分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部(社会)の一部と
なった自然である。
このようなマルクスの考えは、へーゲルの弁証法を継承している。ヘーゲルの弁証法とダーウィンの
進化論の比較で明らかである。これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決
定的に異なる。弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。ここである
対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、あたらな生産物が止揚され
る。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそ
れに対応することを強いられる。これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなけれ
ばならないのは、自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理さ
れた自然ではない。人間の認識を越え、コントロールなどできない不確実で突然発生する生物に対
して圧倒的な力である。だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。このための生物
は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。外部とはこのよ
うな認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
838 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:40:07
自然主義的闘争史観
これは人間の歴史がそのまま進化論に対応することではない。生物進化と人間の歴史の混同は自
然主義的誤謬をまねく。重要なことは、マルクスが言うように、経済は自然との関係で構築される
が、人間の歴史においても、自然は外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということである。災
害、恵みとして人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は社
会形態を再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
たとえばこのような外部自然と人間の歴史(ボクはこれを「自然主義的闘争」とよぶ)を考えると、未
開社会は、不確実な外部自然に直にさらされリスクの高い社会である。未開社会が集団を中心とし
て助け合いの社会(贈与互酬社会)であるのは、このような不確実性なリスクを分散しあうためであ
る。一人ではとてもじゃないが生きていけない。
その後、農耕発明によって、自然からのリスクは緩和される。外部自然との間の開拓された自然=
緩衝部(グレイゾーン)によって、収穫という予測可能性が高まる。外部自然からのリスク型はまだま
だ高く、緩衝部を障壁にした強い内部が形成される。その中で蓄財もうまれる。所有と所有者の概
念が生まれる。所有は共同材であり管理者としての権力と権力闘争がうまれ、階級が発生する。
このような内部成熟のなかでギリシア哲学、宗教など人間内面の開拓(精神革命)が行われる。こ
のような共同体内部、そして人間内部の成熟は、イデオロギー化し、共同体の闘争を生む。
839 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:40:51
数量化という自然主義的闘争様式
緩衝部(グレイゾーン)の発展と、内部の成熟によって、自然との関係を決定的に変容させるのが、
の数量化革命である。この革命性は外部自然の不確実性を予測可能性なものへと変換し、緩衝部
(グレイゾーン)を拡大される。科学とは外部自然の数量化であり、大航海とは地球の数量化であ
り、そして啓蒙思想とは共同体の「数量化」であり、個人、私有の浮上である。これらと豊かさは相補
的に近代社会を構築する。
それが社会を決定的に変容させたのが、産業革命である。産業革命が生んだものが資本主義社会
である。産業革命が数十年という短期に爆発し得たのは先に「数量化」革命によって下地ができて
いたためである。機械化という外部自然の数量化、大航海という数量化された資源開発、啓蒙思想
による均質化(数量化)した労働力。これらは貨幣という価値の数量化によって紡がれる。
840 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:41:54
ヘーゲルの「歴史の終わり」と回帰する疑似自然と熱狂
後期資本主義社会において、緩衝部(グレイゾーン)はさらに拡大し、外部自然の不確実性の脅威
はもはやなくなってように感じてしまう。このような状態はヘーゲルの「歴史の終わり」である。
しかしそう簡単に終わらず、外部自然はさまざまに回帰している。一つは環境問題である。さらには
資本主義社会によって搾取されて外部、たとえばイスラム原理主義など、あるいは資本主義秩序に
従わないネット住人たち、これらを外部(自然)と呼ぶのは、必ずしも適当ではないだろう。内部闘争
であり、緩衝部(グレイゾーン)に位置する。しかし外部自然と人間の関係の軋轢として生まれた疑
似自然なものたちである。そしてこれらの自然にあわせてボクたちは社会構造を再構築する、適応
することが求められている。
ここに、たとえば柄谷のいうように、人間と自然との調和を理想とするマルクスの止揚された社会主
義(アソシエーショニズム)の可能性が再び生まれるのかもしれない。しかし消費社会の過剰性は自
然との闘争に勝利した人間が力をもてあまし、闘争するための疑似自然を自ら生みだしている、自
らリスクをつくりだしていると考えることもできる。
外部自然とははたして、そこにある実在的なものだろうか。外部が実りであるか、脅威であるかは、
人の認識側にしかない。そして人は外部自然への闘争を求めている面があるのである。たとえば未
開社会では自然と過剰崇拝(ボトラッチ)し、封建社会では疑似自然としての野蛮人(異教徒、異民
族)へと闘争し、資本主義では自然環境を資源として闘争し、消費社会では人間内部を闘争し、ネッ
ト社会では疑似的空間を開拓する。自然主義的闘争の本質は熱狂であり、人々は熱狂を求めている。
841 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:50:02
人間の歴史とは、不確実な外部自然との闘争であるとともに、その闘争に生まれる熱狂を欲望し、
自ら不確実な外部自然を作り出す歴史でもある。
842 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 12:48:01
これは自然を克服する進歩史観である。しかし自然の克服とは物質的な豊かさの史観、すなわち資本主義的価値から事後的な史観でしかない。
このような外部自然は人間の認識論的対象である。たとえばマルクスのいう商品の物神性と未開社会の自然神は同等の次元にあり、外部を神的に転倒したものである。
外部とは決して止揚されず必ず神性を帯びて回帰するものである。
現代に回帰している神話は環境問題、ネット、原理主義などである。そして歴史はこのような神話的外部への闘争としてあらわれる。
変化でしかない。
843 :
考える名無しさん:2006/09/05(火) 14:54:34
おまえ頭おかしいんじゃね。
便所紙を大量生産してどーすんの?
あ?便所紙をよー。
パラノイアだろ、ぴかぁ〜とやら。
844 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:15:50
■自由とはなにか。
外部拘束(環境)と内部拘束(社会秩序)と自由
まず人への拘束として、外部拘束と内部拘束を考えてみる。外部拘束とは、人は空を飛べない、冷
夏が作物が育たないなどの人を越えたところの制約である。それに対して内部拘束とは後天的拘
束、社会的な拘束である。社会の秩序、規則、道徳によって制約される拘束である。これらは明確な
境界があるわけではないが、このような分類を想定する。
自由と考えるときには、外部拘束と内部拘束との関係を考える必要があるだろう。たとえば外部拘
束が強いときには、内部拘束は外部から内部(社会)を守る障壁となり、人のためのものとなり、逆
に外部拘束が弱いときに、内部拘束が強いときには、それは抑圧的に感じる。
たとえば封建社会などの階級制は、外部拘束が強く働く中で、社会を守る内部拘束として働いての
ではないだろうか。現代、階級制が人々の自由を抑圧するものとして考えられるのは、豊かな社会
となって外部拘束の働くが弱いために、内部拘束は弱いものが望まれるためである。
たとえばこれは現代のリベラルズムにおける自由と保護の関係にも言えるだろう。たとえば景気が
良いとき、外部拘束が弱いとき、内部拘束は弱く、より自由な社会が求められ、景気が悪いとき、外
部拘束が強いときには、内部拘束が強く、保護的な政策が求められる。
このような拘束の強度に対するバランスの源泉は「公平感」にある。人々の主観的な「公平感」がみ
たされるように内部拘束は調整される。このような内部拘束の調整システムが「正義」である。すな
わちある環境(外部拘束)においていかに人々の公平感が満たされるのかの調整が機構が「正義」
(内部拘束)である。
845 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:16:50
「積極的自由」と「消極的自由」と儀礼的無関心
「自由」という言葉が積極的に語られるのは、近代以降である。近代以降に、都市としてのシステム
が整備され、経済的に豊かになる中で、公平感を満たすためには、いままでの内部拘束、封建的な
階級制度は抑圧的になり、啓蒙主義的な個体の自立による自由と平等が求められた。このときにリ
ベラリズム(自由)というという積極的なイデオロギーが生まれた。
たとえばバーリンは自由を「積極的自由」と「消極的自由」を区別した。「積極的自由」とは自由な社
会に向けて、積極的に内部秩序を構築することである。しかしある程度、自由が達成された社会、た
とえば後期資本主義社会で重要になるのは「消極的自由」である。「消極的自由」とは内部秩序の
強度を弱めることを意味する。もはや「積極的自由」という内部拘束でさえ、抑圧的に感じるために、
内部秩序の強度を弱めることを意味する。
ここまで内部拘束を希薄にすると、それぞれの主観的な「公平感」を剥き出しになり、対立が生まれ
る。たとえば現在、ボクたちは他者へ関心に対してあえて無関心であるという「儀礼的無関心」を
守っている。これはさまに「消極的な自由」の社会の状態である。
流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、関心しあう関係(知り合いの関係)は
繋がりであり、利便的である。しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。そこ
では関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。社会的な関心とは拘束で
もある。たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。ボクたちは、これほど
に外部抑圧から解放され、内部抑圧が希薄化することを望んでいるのだ。
現代では「消極的な自由」は、「積極的自由」というイデオロギーの対立以上に、他者の関心からの
自由という生理的なレベルにまで達している。これはまさに公的なもの=政治への無関心、私的趣
味への高い関心に繋がるだろう。
846 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:33:49
「消極的な自由」と貨幣システムの奇妙な相補性
このような「消極的な自由」と貨幣システムは奇妙に相性がよい。人は貨幣によって、儀礼的無関
心、他者回避のように他者と深く関わらずに社会生活をおこることができる。「お金ですべてが買え
る」というメタファーは、貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。「面倒なことを貨
幣によって購入することで、他者を回避でき、私的な「好きなこと」を時間を傾けることができる。
逆にいえば、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで等価交換に乗らなかったようなこと、他
者との協力関係でまかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。情報化社会では、
人の認知力に限界がある。余計なことに患わされず、「好きなこと」のために、貨幣が必要であるわけだ。
たとえばこれを積極的に商売にして成功しているのが、マクドナルド化である。誰に対しても、世界
中どこでもおなじ必要以上に干渉しない(他者回避)サービスである。
847 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:34:31
貨幣によって「公的な他者」を排除し「私的な他者」を手に入れる
「好きなこと」をするために面倒なことは貨幣で買う。しかし「好きなこと」とはなにか。たとえば風俗嬢
のジレンマ。好きでもない男の性器をしゃぶるなど苦痛であるがお金のためには仕方がない。お金
があれば好きなことができる。しかし風俗嬢はホストにお金を貢いでしまう。彼女の好きなことがホス
トに貢ぐことではないが、お金を稼ぐこと、使うことが目的化するのだ。
例えば現代の「夢を持とう」という考えはこの先にある。「さあ、他者回避し時間の余裕ができた。「好
きなことをしよう。」ということであり、現代はここに強迫性が生まれ、そしてお金を稼ぐこと、使うこと
が目的化する転倒が起こる。そして貨幣によって社会的な関係性を再構築するのである。
たとえばボードリヤールはこれをソシュール的言語構造、差異の体系と対比させている。いままでの
地域コミュニティなどのつながりから、流動性の高い社会では市場=貨幣システムに主体性を委ね
ることが求められ、「もの」によって規定される主体を描いている。
特にここで重要なものがマスメディアである。「これを買えばあなたのアイデンティティは満たされ
る。」これが広告の究極的な意味である。なにを買い、なにをもっているかによってアイデンティティ
は支えられる。それが消費社会である。そしてものをもつことによるアイデンティティとは、他者の承
認によってしか現れない。貨幣によって「公的な他者」を排除し、自らを承認してくれる「私的な他者」
を手に入れることができる。
848 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:24:43
■なぜ「リアリティ」は神話への熱狂によって生まれるのか
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の差異
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。ここで自
然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と私的所有で
分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部(社会)の一部と
なった自然である。
このようなマルクスの考えは、へーゲルの弁証法を継承している。ヘーゲルの弁証法とダーウィンの
進化論の比較で明らかである。これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決
定的に異なる。弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。ここである
対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、あたらな生産物が止揚され
る。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそ
れに対応することを強いられる。これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなけれ
ばならないのは、自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理さ
れた自然ではない。人間の認識を越え、コントロールなどできない不確実で突然発生する生物に
対して圧倒的な力である。だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。このための生物
は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。外部とはこのよ
うな認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
849 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:25:29
外部自然は神話として回帰し続ける
これは人間の歴史がそのまま進化論に対応することではない。生物進化と人間の歴史の混同は自
然主義的誤謬をまねく。重要なことは、外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということである。
災害、恵みとして人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は
社会形態を再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
そして自然は外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということは、さらに重要なことを示してい
る。人は外部自然を語れないということである。外部自然とはカントのいう「物そのもの」であり、人が
認識する自然とはあくまで「仮象」でしかないということだ。すなわち外部自然は絶えず神話として語
られる、神話として回帰しつづけるということである。
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:33:40
熱狂によって「リアリティ」という神話は生まれる
そしてこのような神話が神話として成立すること、すなわちその時代の「リアリティ」を形成しえたこと
は、人々がその神話へ熱狂したことによる。神話への熱狂が社会の「リアリティ」を形成し、社会を再
構造化する。そしてそこにその時代の進歩史観は生まれる。
たとえば現代の神話のマルクスの指摘した貨幣、商品の物神性(フェティシズム)であり、ボクたちは
これらの熱狂し、そして「リアリティ」そのものである。そしてボクたちのもつ進歩史観は原始社会が
現代へ、技術の発達、社会の合理化がいかに進み、物質的な豊かさを手に入れたかと語らえる。そ
してこのような方向性は現代の肯定、現代の神話でしかない。
このような「神話への熱狂」は、その時代のリアリティを支えてきた。未開社会の自然神、封建社会
の階級制を支えた1神教、そして近代では科学という神話であり、資本主義は貨幣、商品の物神性
(フェティシズム)、さらに現代のマーケティング、マスメディアは熱狂をめざす神話製造装置であり、
ボードリヤールのシミュラークル論に繋がる。現代でも変わらない。環境問題でさえ神話である。ネッ
トではたとえば嫌韓など神話を大量生産している。そしてネット上で対価なく労働が行われるのが、
そこに「まなざしの他者(自分を承認してくれる神的他者)」が捏造される故である。
851 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:10:09
マルクスに外部がないのはすでに「負債なき共同体」という神話として回収されているからだ。
これはカラ谷がより具体化している世界共和国である。
カラ谷はこれを超越論的仮象とよぶ。すなわち熱狂される神話である。
ここでなにゆえに熱狂されるのか。現代の問題、格差、テロ、環境問題などの不安からである。
これはカントが世界大戦をマルクスが大恐慌を待っていたこととつながる。
破滅的状況が世界共和国への熱狂を生むというわけだ。
将来はわからないが、再度いえば熱狂は決して止揚しない。かりに外部環境の変化から世界共和国が生まれても、歴史はおわらない。
熱狂の神話はかならず回帰する。
852 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:12:17
なぜ神話への熱狂は必ず回帰するのか
853 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:22:02
現代の西洋とイスラムは神話の衝突としてみる必要があり、また熱狂が作動している。
アルカイダがアメリカが作ったとしても作動しているのは神話への熱狂であり、リアリティの衝突である。
イスラム圏は反アメリカに熱狂し、アメリカは資本主義的世界征服に熱狂する。
現実はこのような2項対立でないということは意味がない。2項対立の熱狂がリアリティを生んでいるのだから。
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:41:18
熱狂の日常化、多様化において、「リアリティ」の多様化、コミュニティの分散が起こっていると
とともの「リアリティ」そのものの希薄化が進む。貨幣へのフェティシズムも、一つの熱狂への
変容である。
そしてこのような熱狂が活性化する場として、サブカルチャーがあり、たとえば女子高生、
オタクなどがあり、それらはネットへ集約知れつつある。ネットは熱狂は場であり、
様々な「リアリティ」が生まれる場としてある。
レッシングは人間を規制・制御するものとして、「法、規範、市場、アーキテクチャ」の4つを
上げている。このうち、法、規範そして市場ははリアリティを反映し、再構築されるが、
アーキテクシャはリアリティの外部として作動する。
855 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:42:12
>>
具体的に踏み込もう。レッシグによると、社会統制には4つのやり方がある。
1.威嚇的命令、2.市場、3.規範、4.アーキテクチャー。
厳罰化すれば統制できる(=1)。市場価格の上げ下げでも統制できる(=2)。
学校教育でも統制できる(=3)。
問題は4だ。これはシステムの設計のことだが、設計次第で人々の行動を変えられる。
ネットを匿名性が確保されるように設計するか否かで人々の行動様式が激変するのは、
出会い系サイト絡みの事件を見ても分かる。だがこれはネットに限られない。
このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。
例えばコーヒーショップの椅子の堅さ。椅子の堅さ次第で客の回転率を操縦できる。
同様に駅前再開発をすると、空間の匿名性上昇を通じて、援助交際を増やせる。
威嚇的命令による支配には、被支配者の不自由感が伴うが、
2市場<3規範<4アーキテクチャーの順で不自由感は減る。
そのため、被支配者が自己決定しているつもりで、支配者から見ると意図通りの支配が実現する。
分かりやすく言えば、自ら喜んで支配に服する。これに抗するのは大変だ。自分は自由だと
思っているので、対抗する動機づけが存在しないからだ。(宮台)
<<
これは、人が認識できないような外部自然そのものを管理することを目指す。
管理される自然=グレイゾーンの拡大である。このような意味で、近代以降の「数量化」には、
特別性がある。そこに歴史が止揚する可能性が開かれる。
856 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:48:36
熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造は、近代の数量化そのものがもつ構造である。
デカルトの心身二元論、機械論に見られる。東はこれをポストモダンの解離構造と呼んだ。
857 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 16:07:04
しかしこれはそれほど得意だろうか。再度、進化論的視点に戻ろう。外部自然は圧倒的な不確実性としてある。
そして、グレイゾーン(アーキテクチャ)の向こうからやってくる。
すなわち、東の「ポストモダンの解離構造」にも外部がないのである。
柄谷はカントの「物そのもの」の重要性を強調する。「物そのもの」とは他者であるという。
柄谷にとって、共同体の外の他者は最重要な概念である。たとえばヴィトゲンシュタインの
「教えるー学ぶ」、マルクスの交換、デカルトのコギト、そしてカントの「物そのもの」を見る。
このような「外部の他者」は、他者である以上、コミュニケーション可能であり、
「神話」へと回収された他者なのである。柄谷は、外部=「物そのもの」をすでに
回収してしまっている。
外部とはコミュニケーション不可能な、ベンヤミンがいう「神的暴力」である。
外部の到来の前には、ボクたちはただ立ちすくむしかない。
858 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 16:12:59
しかし、熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造が近代科学の発明として
語ってのはフーコーであるが、アガンベンはギリシアの市民/奴隷にみる。
人間/動物の形而上学である。
859 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
■熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造
熱狂の日常化、多様化において、「リアリティ」の多様化、コミュニティの分散が起こっているとととも
の「リアリティ」そのものの希薄化が進む。貨幣へのフェティシズムも、一つの熱狂への変容である。
そしてこのような熱狂が活性化する場として、サブカルチャーがあり、たとえば女子高生、オタクなど
があり、それらはネットへ集約知れつつある。ネットは熱狂は場であり、様々な「リアリティ」が生まれ
る場としてある。
レッシングは人間を規制・制御するものとして、「法、規範、市場、アーキテクチャ」の4つを上げてい
る。このうち、法、規範そして市場ははリアリティを反映し、再構築されるが、アーキテクシャはリアリ
ティの外部として作動する。
人が認識できないような外部自然そのものを管理することを目指す。管理される自然=グレイゾー
ンの拡大である。このような意味で、近代以降の「数量化」には、特別性がある。そこに歴史が止揚
する可能性が開かれる。