哲学は神学の婢 2

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219考える名無しさん
>人々の欲望が資本の原動力になってるのではなく、
>資本の原動力が人々の欲望を喚起している、という構図。

資本の原動力が欲望を喚起するとは、ラカンでいうと「欲望とは大文字の他者(象徴界)の欲望である」ということです。
すなわち構造主義的な考え方ですね。

いま別スレに以下の文を書きました。

>>
有名な13歳の岩崎恭子が金メダルととってときの
「生きてきた中で一番幸せです」の滑稽さは、まさに言語の働きを示しているだろう。

あの滑稽さは、まさろくに生きていない子供がこまっしゃくれて大人のような発言をする
ことにある。それはどこかで聞いたことをそのまま言っている。このようなコンテクスト(文脈)では
このように発言するということで発言させるが、それは大人がいうことであるというコンテクストが
わからずにズレているということだ。うまく空気(文脈)を読みすげて、空気を読めなかったということだろう。

この本質は、人は空気を読んで発言するというよりも、空気が人に言葉を言わせる
ということであり、人間存在そのものが空気(文脈)の中で作られる表象であるということ。
口を開き私という言葉を発言することで、私があり、本質的な私という存在がいるように
錯覚されるということだ。
これがラカンの「無意識は言語のように構造化されている」ということである。
<<

言語(資本主義的は主に数字)の作動が主体をつくり、欲望を喚起する。
220考える名無しさん:2006/07/09(日) 17:37:45
>資本主義の原動力は人々の豊かになりたいという功利主義的なもの
>ではないということです。

ボクたちが豊かになりたいという功利主義的な欲望は、
柄谷的に「資本の原動力が人々の欲望を喚起している」ものです。

しかしラカンはこの構造主義的な思想を越えていきます。
それでもこの構造を動かす力が必要だということです。
それが享楽です。

それは外部へ向かうコントロールできない生の力(欲"動")です。
この力によって資本主義とは、自然を破壊し、後進国から搾取し、
たえず増殖するものです。
ドゥルーズ的に「器官なき身体」です。

柄谷の思想で問題なのが、この生の力がないということですね。
「世界共和国」には外部がない。
マルクスはこの生の力がコントロールさせ自然と協調する世界が
可能であるという理想主義です。
221PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:39:55
>>219-220
コテつけ忘れた。
222PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 17:43:01
>すなわちなぜに人は技術に熱狂するのか。ということが問題になるわけです。

この意味では、技術が享楽を促進するからです。
技術とは、混沌を開拓する有効な道具です。
自然(外部)を征服することが人間本来の快楽だからです。

ネットとは疑似自然ですね。新たな技術は新たなフロンティアを開きます。
223PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:17:32
中沢は、ラカンのボロメオの輪(想像界=象徴界=現実界)をもとに、
社会を「贈与=交換=純粋贈与」として示します。

ここで重要なのか、純粋贈与という外部(自然)との関係が、
贈与、交換という作動させる力となるということです。


柄谷が示すボロメオの輪は、資本ーネーション−国家です。
これは「ネーション(互酬(贈与))=国家(再配分)=資本(交換)」のように言えます。

これを比較すると、柄谷には現実界(外部)がないのですね。
それは最終的に外部のない世界=世界共和国となるわけです。
これはネグリの「帝国」と近く、現代の内部が消失する傾向と対応していますが、
それでも外部はどこに見いだされるか、
社会を動かす根本的な人間の力はどこへ向かうのかと言う問題があります。
ネグリはマルチチュードにそれを見たのですが。(これで十分とは
言いにくいですが)




224考える名無しさん:2006/07/09(日) 18:25:14
マルクスはその根底で自然との調和、内部(社会)と外部(自然)との調和をおいて
おいていました。
二人ともこの延長線上にはあります。
中沢は純粋贈与によって外部との良好な贈与関係を思考します。
柄谷は外部が全て取り込まれた世界を描きます。

その意味ではともに外部の本質、トラウマ的な不確実性をとらえそこなっていると
思います。外部は簡単に調和したり、取り込めたりするものではないからです。
しかしその構図に外部(純粋贈与)をおいた中沢の構造の方が、
有効であると思います。
225PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:32:07
コテが消える・・・
>>219-224でした。
226PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/09(日) 18:42:21
続けると、
ボクは、「互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)」を考えています。

想像界・・・互酬(共同体=繋がり、規範)
象徴界・・・再配分(国家=法、秩序)
 グレイゾーン・・・交換(資本=法則)←科学技術の発達で19世紀以降全面化
                         社会から想像界、現実界を排除していく。
現実界・・・純粋略奪(自然の恵み、天災=混沌)
227考える名無しさん:2006/07/10(月) 12:37:46
>>223
柄谷はボロメオの環を示すことで、一見外部が見えないものに見えるけど
いずれの交換関係でもないアソシエーションを構想することで外部を示して
はいるよ。
ネグリ=ハートの帝国論はスピノザの神即自然に近くて、帝国=マルチチュード
だから、外部がないという言い方はこっちのほうが成り立つ
228考える名無しさん:2006/07/10(月) 12:47:41
むじんくんってキリスト教徒なの?
洗礼受けた?
それとも勝手に自分で信仰しちゃってるだけ?
229PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 13:41:15
>>227
なぜ「アソシエーションが外部となるのでしょうか。
まさに贈与と交換の調和=内部調和ではないでしょうか。

帝国=マルチチュードは無理矢理では。
ドルゥーズから来ているのですから。
マルチチュードは「器官なき身体」であって、
内部にありながら、外部でしょう。
控えめな外部ではありますが・・・
230考える名無しさん:2006/07/10(月) 14:26:45
>>229
柄谷のトランスクリティークを読む限り、彼によれば交換は4つに
類型される。互酬性(ネーション)、強奪−再分配(国家)、貨幣
交換(資本主義)、アソシーエション。このうち前者3つによって
世界は成り立っている。つまりネーション、国家、資本主義によって
ボロメオの環は形成されている。未だ実現されていない交換のタイプ
ということでアソシエーションを持ち出すことで、3つの交換タイプ
から成り立つ世界の「外部」を構想しようとする。これは自分の考え
ではなくて、柄谷の考えだからね。トランスクリティークや世界共和国
を読めばそういう理論が提示されている
231考える名無しさん:2006/07/10(月) 14:30:12
>>229
「マルチチュード」というのはスピノザから来てる。「帝国」を
読めば分かると思うけど、帝国という新たな主権概念は、その構成
要員としてマルチチュードを包摂している。だからマルチチュードに
よるローカルな反抗は、そのまま帝国の核心部を撃つ、という形に
なる。この構図はスピノザの「神即自然」の構図と同じ。従って
帝国=マルチチュードとなる。これもネグリ=ハートが帝国の中で
言っていることなので、自分の考えではないけどね。
232PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 15:45:24
>>230
「アソシーエション」は交換のように贈与が行われるという歴史上
いまだ達成していない交通様式です。
これは外部というよりも「未来」と見るべきです。
ボクがいう「外部」は共時的「外部」です。

>>231
スピノザは、マルクス、ドゥルーズ経由ですよ。
だからマルチチュードは「器官なき身体」であって、
内部にありながら、外部でしょう。
マルチチュードが「外部内内部」も、
ネグリ=ハートが帝国の中で言っていることで、
常識では?
233考える名無しさん:2006/07/10(月) 22:21:08
>>232
>これは外部というよりも「未来」と見るべきです
そうね、未来と言ってもいいよ。ただ柄谷は、現実にアソシエーションの
運動を現実に始めちゃったけどね。

>マルチチュードが「外部内内部」
それでいいけど、帝国の後に出された「マルチチュード」という本で
彼らはマルチチュードの内実を何とかして示そうとしてるんだけど、
うまくいってないように思える
234PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/10(月) 23:27:57
未来というと外部ではないですね。やはり柄谷には外部がない。
内部が完成する形態がアソシエーションなのです。

「マルチチュード」となにか。ネグリは示し得ていませんね。
235考える名無しさん:2006/07/11(火) 00:17:19
人のスレ荒らさないで自分のところでやれ、バカァ〜
236むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 12:06:53
ちょっと見ない間に増えてますね。さすがピカ先生です(笑)。

>>228
> むじんくんってキリスト教徒なの?

はい。普通の教会に子供の頃から行ってます。
237むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 12:22:40
>>226
> ボクは、「互酬(贈与)=(再配分=交換)=純粋略奪(純粋贈与)」を考えています。

ピカ先生が「グレイゾーン」と資本を呼ぶのは正しいと思います。というのは、資本の運動は秩序形成の
主体でありながら、その動力がここで議論されている「外部」だからですね。そして、その二重性、境界に
位置する存在が、フーコーが言うところの「人間」なわけです。

だから、スタティックな構造が存在し、その上に規定される存在として近代的人間を捉えることができない。
そもそもそういう規定秩序から常にはみ出すように強いられている存在が近代人だからです。

この「秩序形成の主体」であるというのは、やはり西欧で発生した革命的な事象です。カントは啓蒙とは
外的な何かに寄りかからずに自律的になること、と述べましたけども、これは無に向けて自己を投棄する
ようなもので、余程のことがないと発生しない運動だと思います。


238むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/11(火) 13:18:36
「内部」的なものとは、つまりナルシシズムです。その一次的な充足を断念し、二次的な、
つまり社会的な回路へと迂回させるのが人間の成長だとしても、やはりそこで形成される
秩序とはつまりは「内部」的秩序、一旦迂回した形でのナルシシズムの成就を目指すための
ものです。

近代社会では、この内部的秩序形成の願望が永続的に禁止されます。フロイドがコンプレクスと
呼んだ外的なものとは、どこまでも到達不能な異質なものであり、それを例外ではなくて能動的な
秩序形成の動力としたところに近代社会の革命的な部分があります。
239考える名無しさん:2006/07/11(火) 14:12:14
むじんくんの通ってらっしゃる教会ってカトリック?
プロテスタント?
240PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/11(火) 17:35:18
>ピカ先生が「グレイゾーン」と資本を呼ぶのは正しいと思います。

お褒めにあずかり光栄です。で、「信仰」なるトンデモはいずこへ?
241考える名無しさん:2006/07/11(火) 18:16:02
また来たのか、ばかぁ〜
242考える名無しさん:2006/07/12(水) 17:16:20


知らない事を、然も知って居る

       様に誤魔化す。

       それも、哲学さ。
243むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 12:10:26
>>239
> プロテスタント?

プロテスタントです。ただ、前も書きましたが子供の頃からなので、別に
思想的にどうこう考えて選んだわけではないです。
244むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 12:13:42
>>240
> お褒めにあずかり光栄です。で、「信仰」なるトンデモはいずこへ?

信仰とは「外部」のみの世界への参入です。これは自己の他者化、「私とは他なるものである」
ことの実現です。そして言うまでも無くこれは「真理」なのであり、その真理から絶えず離脱して
「私は私である」ことの運動を継続するのが近代的自己なるもの、近代的「人間」です。
245考える名無しさん:2006/07/13(木) 12:22:05
むじんくんの通ってらっしゃる教会って大きいですか
それとも小さめの「町の教会」みたいなところですか
246PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 14:11:45
>>244
思弁はよいから。その「悟り」がどうしたのかね。

1 僕は「悟り」を開いた
2 僕は「悟り」フェチだ
3 哲学板で「悟り」の話をするとかまってもらえるかなと思った
4 ただスノブな僕なのさ 

どれ?
247むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/13(木) 18:22:47
>>246
> どれ?

またそれですか(笑)。
248PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/13(木) 19:31:50
また逃げた(笑)
249むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 17:20:47
>>248
> また逃げた(笑)

確かに、その質問はこのスレッドの問題とも関係してますね。つまり、「ただ単に語る」という
ことが如何にして可能か?という問題です。或いは、こう言い換えることもできます。如何にして
原因の物語を共有する誘惑から逃れるか?
250PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 17:25:55
>>249
簡単でしょ。患うのです。
251むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 17:55:00
>>250
患うのは簡単じゃないと思いますよ(笑)。スノビストぴか氏としては、「人間はみんな九官鳥」という
ことなんでしょうが、そうではない発話がいかにして可能か?ということですね。
252ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/14(金) 18:04:20
くるくるぱーになればよいのですよ。
ボクは悟りに逃避するつもりはないのでなりませんが
253むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/14(金) 18:31:32
>>252
> くるくるぱーになればよいのですよ。

そりゃ難しいと思いますよ。ぴか哲学風に言えば、くるくるぱーの「コンテクスト」に乗る形に
なっちゃうわけです。それこそぴか氏が好きな「コンテクストサーフ」ってやつですね。
254PK ◆5nAgoJZJqM :2006/07/14(金) 18:34:56
くるくるぱーになれないからサーフするわけで、
文字通り、くるくるぱ−になればよいのですよ。
簡単でしょ。ボクは興味はないですが。
255考える名無しさん:2006/07/14(金) 18:40:19
寂しいんだね、ぴかぁ〜
カワイソ
256考える名無しさん:2006/07/15(土) 00:35:41
>>252
無垢の欲望を取り戻す、って一種の悟りが必要では?
257考える名無しさん:2006/07/15(土) 02:15:39

51 名前:TR-774 :2006/07/11(火) 00:48:37 ID:???
マテ「お前アルジェリア移民なのに髪の毛ナイジェリアだよねププ」


  ゴスッ!

     \○ノ
   /て○//三
   人  /ヽ



52 名前:TR-774 :2006/07/12(水) 13:53:33 ID:OzCYZD3U
わんもーたーい


53 名前:ズオドプゲラプケ :2006/07/15(土) 01:47:04 ID:???
ホアエズオドプゲラプゲラレンチョピピレンチョピピットコリアーッ!! ホエズオドットアーアーッ!!
 ホアプゲラレンチョピピーッ!! アーッ!! ホアーッ!! 、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! ーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! ーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!! っ、ホアほほ、ほーっ、ホアアーホアーッ!! 、
ほーっ、ホアエズオドプゲラプゲラレンチョピピレンチョピピットコリアーッ!! ホエズオドットアーアーッ!!
 ホアプゲラレンチョピピーッ!! アーッ!! ホアーッ!! 、ほーっ、ホアアーッ!!

258考える名無しさん:2006/07/15(土) 12:44:54
むじんくんは新約聖書の中でどれが好きですか
ぼくはマタイによる福音が好きです
好きな言葉とかありますか
259むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/19(水) 12:10:50
>>254
> 簡単でしょ。ボクは興味はないですが。

バカになろうというのは利口な行為ですね。それもまたコンテクストへ
乗るための行為です。そこから離脱することとは何か?ということです。
260むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/19(水) 12:12:13
>>258
> 好きな言葉とかありますか

そうですね。私はヨハネ伝が好きですね。「はじめに言葉ありき」という。
261考える名無しさん:2006/07/19(水) 13:01:12
無垢ってどういう意味で使うのですか?
262ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 13:54:08
>>259
・・・逝っちゃいなってこと


>>261
ロリータ、岡本太郎、新緑、箱から出す前のPC・・・
263考える名無しさん:2006/07/19(水) 14:00:54
ウザイんだよ、ぴかぁ
ネタがないからって、アラシにくるな。
ラカンでもフロイトでもいいから読んで、血がでるまでズリかいてろボケ。
264ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/19(水) 14:04:46
発見早っ!
265考える名無しさん:2006/07/19(水) 14:17:24
アゲればわかるだろ。
こいつ真性のバカァ?
266考える名無しさん:2006/07/20(木) 09:58:03
むじんくんの教会で使ってる聖書って「共同訳」ですか
ウチはカトリックなんだけど、通ってる人には「共同訳」
使ってるよ
でも神父用の隠された聖書があるらしい…
267むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 16:02:34
>>262
> ・・・逝っちゃいなってこと

?自発的に狂って成功した例は知りませんね。また、自殺ならばそれは
まさしくコンテクストに沿った行為です。
268むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 16:04:00
>>266
> むじんくんの教会で使ってる聖書って「共同訳」ですか

教会では共同訳ですね。神父の隠れた聖書って何ですか?
269ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 16:32:32
ロボトミーとかしらないのかな
270むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/20(木) 17:29:50
>>269
> ロボトミーとかしらないのかな

ロボトミーしても狂人になるのは難しいでしょうね。
271考える名無しさん:2006/07/20(木) 17:56:14
>>268
神父の隠れた聖書って、神父がミサのときとかに
使うやつなんだよね(やたらデカい)
あとたぶんギリシア語原典もうちの教会には
あるらしい。友だちが見たって言ってた
272考える名無しさん:2006/07/20(木) 17:59:27
ミサの典礼文だろ。
聖書ではないだろ。
273考える名無しさん:2006/07/20(木) 18:16:20
>>272
そっか、あれ典礼文なのか。ありがとう。いつも最初から壇上に
置かれてるから、通ってる人は手にとって見たこと
ないんだよね…神父はそれ見ながら聖書の文句をスラスラ
言うから、てっきり聖書かと思ってたよ。
274野次馬:2006/07/20(木) 23:06:00
ぴかぁ〜氏は、ドゥルーズの縮小コピーの浅田彰みたいなのの、さらにまた縮小粗悪コピーに見える。
(許されないほどに曲解=誤解したオレ流の)ジャーゴンをめちゃめちゃくちゃに合成して何を生み出したいんだろうか・・・
ここではいちおう、彼はきちんとした理論と主張をもっており、自分で自分の言ってることがきちんと分かっており、戦略的に独自の文体を生み出した、と好意的に解釈しておこう。
彼は、極限的に2ちゃんねる的だし、いろんな意味において怪物だ。

むじんくんは、2ちゃんでもまれなほど上質であり、まともな知識人であろう。
275考える名無しさん:2006/07/20(木) 23:32:45
ぴかぁもそれを感じるからこそ、嫉妬心からむじんくんに絡むのだろうね。
彼の理論はいざしらず、ネット上とはいえ行動は稚気に属する。
276ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/20(木) 23:36:24
>>274
どういう風にドゥルーズの粗悪なのでしょうか?より具体的に言えればどうぞ。
ダメならば口を閉じてることで了承します。
277考える名無しさん:2006/07/20(木) 23:43:03
2ちゃんねるは限りなく発散的であり、そこにある構造物はことごとく解体され、一瞬にして便所の紙のごとく過去ログとして流されていく。
だから建設者には忌み嫌われる。
2ちゃんねるでは、建設者はそのプライドを捨てて名もなきいち「名無しさん」になれはてなければならないし、そして書かれた有り難いお言葉は、訳のわからない厨房に馬鹿にされ、さらにはその人格まで誹謗中傷されたあげくに、一瞬にして便所の紙となりはてる。
このような屈辱に耐えられるか。だから建設者は、保護された自分の居場所をもち、じっくり建設する。
278考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:05:22
>>276
ドゥルーズの領域横断的なジャーゴンの合成は、西洋的思惟・世界観・人間観の根本構造の転倒・破壊と
新たな世界観や概念の創造、という確たる志向に基付いている。
しかし、ぴかぁ〜さんは、ジャーゴンつかう必然性が見えないし、
自分の貧相な場当たり的意見にたいする単なる武装・装飾でしょ。
ジャーゴンが無意味に浮いてる。(ポモ批評家とかの猿真似? でも少なくとも浅田はぴかぁ〜さんと全く違って、的確にジャーゴンを利用してに明快なんだけどな)
279考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:13:47
>>278
ドゥルーズとぴかぁ〜をジャーゴンだけでつなげるなよ。
ドゥルーズである必然がないだろう。
ドゥルーズ知らないのに無理するなよw
280278:2006/07/21(金) 00:35:58
ちょっとむりしちゃたので、
ぴかぁ〜さん、ドゥルーズの説明おねがいします。
281考える名無しさん:2006/07/21(金) 00:43:31
祟りじゃ〜ジャーゴン様の祟りじゃ〜
282考える名無しさん:2006/07/21(金) 02:01:06
少しスレ違いになってきてます
283考える名無しさん:2006/07/21(金) 22:46:03
ぴかぁ〜のジャーゴンコンプレックスすごいなw
284むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/22(土) 08:52:48
例えば、自分の言葉が本当に通じるかどうかを深刻に疑問に思ってしまっていたヴィトゲンシュタインは
ジャーゴンを使いませんね。やはり、ある種の思考の地盤を再確認するためにジャーゴンはあるんじゃないかと
思います。

例えば、「国語」は一つのジャーゴンの集積と言えるかも知れません。それを繰り返し九官鳥のように
お互い言い合うことで何かを強固にしていると感じ続けることが、例えば「日本民族」の輪郭を形成する。
これがソシュールの議論ですね。
285考える名無しさん:2006/07/22(土) 08:52:54
>>277
それはまさに哲学の姿ですね
286考える名無しさん:2006/07/23(日) 23:09:40
>>284
ジャーゴンを広義に捉えれば国語も含まれるというわけですか。面白いですね。
狭義の(つまり学的)ジャーゴンは、より機能的ですね。特定目的・主題に特化してますから。

生活世界の思想(自然ジャーゴン=自然言語の組織)と、科学(人口ジャーゴン=人工言語の組織)とは連続的である、ということが一部のラジカルな現代哲学では言われてますよ。
いずれにしても、思索・反省を忘れ、レトリック・言葉遊びを忘れた言葉は、(悪い意味での)イデオロギーに堕ちますね。

(ところで、ぴかぁ〜氏のジャーゴンは? まあ、地=知に足がついてない言葉遊びではありますが、何かを生み出すのでしょうか・・・)
287考える名無しさん:2006/07/26(水) 22:48:22
神は死んだ。人間は死んだ。哲学は死んだ。
288むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/27(木) 10:42:22
>>287
> 神は死んだ。人間は死んだ。哲学は死んだ。

信仰とは、最初に「神の死」、つまり偶像の解体がなければなりません。そして、偶像の解体は
人間の解体であり、人間の解体は哲学の解体です。信仰はその果てにあるものです。
289考える名無しさん:2006/07/27(木) 11:46:33
>>288
>信仰とは、最初に「神の死」、つまり偶像の解体がなければ
 なりません

しかし、そのような物言いは、偶像崇拝を否定した後に現われる
特定の宗教だけを特権視する態度であって、信仰というものが
原初的な、神話的形態をとる宗教においても存在する事実を忘れさせ
てしまう。宗教にも諸形態があり、信仰の形態も様々にある。
290考える名無しさん:2006/07/27(木) 14:52:47
むじんくん
お久しぶりです。以前、むじんくんはスピノザの第三種の認識や
ニーチェの晩年の思想を「あれはもう哲学ではないですね」と仰られて
ましたよね。むじんくんにとって、哲学であることと、哲学ではないこと
の境界設定はどこに求められますか?論理性、つまり論理的言説では
なくなったときですか、それとも一種の信仰にも似た直覚知のようなもの
が現われてしまったときですか。その辺をお教え下さい。
291むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/27(木) 17:04:43
>>290
それに関して的確なのは、ヘーゲルの「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という
言葉です。つまり哲学というのは事後的なんですね。哲学の対象として立ち現れる
ものは既に死んでいるものだということです。

認識はこのスレの冒頭に書いたように、ある種の失望から発する運動だと思います。
それは自己自身の基盤を確認しようという運動です。しかし、現実はどうかというと、
その認識したものは次の未来の瞬間には成立しないかも知れないのです。そういう
「破綻の可能性」が常に付きまとうのが哲学的認識の限界点であり、最良の哲学は
それを例えば「物自体」という形で想定し、認識の限界を自ら認めるのです。
292wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/07/27(木) 18:18:27
>291
「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という言葉の解釈はヘーゲルの弁証法が、結果からみた後付けロジックにすぎない、ということも象徴しているように思います。
293考える名無しさん:2006/07/27(木) 19:47:44
>>291
むじんくん
>認識はこのスレの冒頭に書いたように、ある種の失望から発する
 運動だと思います

例えば、古代哲学には認識論は無かったと言われますね。認識論が
哲学の分野として哲学上の問題になるのは、大雑把に言えばデカルト
以降の近代哲学からでしょう。

>それは自己自身の基盤を確認しようという運動
乱暴に解釈してしまえば、デカルトが客観的に世界を認識する基盤を
整えたと同時に、彼は認識主体としてのコギトも想定せざるを得ない
わけですね。主客問題というのはここから始まってます。

そうすると、むじんくんの言われる「哲学」は、認識の方法としての学
として見た場合には、近代以降に展開された哲学、近代哲学の圏域に
限定された哲学である、という主張には同意されますか?
294考える名無しさん:2006/07/28(金) 23:27:49
むじんくんのいう哲学は、デリダ的だね。
295むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 10:41:30
>>292
> 「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」という言葉の解釈はヘーゲルの弁証法が、結果からみた後付けロジックにすぎない、ということも象徴しているように思います。

いや、もちろんそうですよ。なので、ヘーゲルというのは正直だったんですね。
296むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 10:47:16
>>293
> そうすると、むじんくんの言われる「哲学」は、認識の方法としての学
> として見た場合には、近代以降に展開された哲学、近代哲学の圏域に
> 限定された哲学である、という主張には同意されますか?

いや、例えばソクラテスはどうか。彼は時代としては近代社会には生きてません
でしたが、その思考は近代的だったといえると思います。
297考える名無しさん:2006/07/29(土) 12:03:18
>>296
むじんくん
>例えばソクラテスはどうか。彼は時代としては近代社会には生きてません
でしたが、その思考は近代的だったといえると思います

そうすると、近代的思考が事後的に世界を認識する方法であって、それが
ソクラテスにも見出せるので、彼は近代的であった、というこの主張は、
明らかにむじんくんの言う「哲学」が、近代哲学の圏域にあるものであること
を示しているではないですか。。
あと、古代には認識論は無かったんですよ。
298むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/07/29(土) 12:57:34
>>297
> あと、古代には認識論は無かったんですよ。

そうですね。ソクラテスとは、そういう場に認識論を持ち込んだと言えるんじゃないか
と思います。目の前の事象で完結せず、そう認識している自己への関係を持ち込んだ。
299考える名無しさん:2006/07/29(土) 15:20:36
むじんくん
むじんくんは、生成する哲学というものを、哲学とは認めてらっしゃらない
のですか?ここで言う生成する哲学とは、例えばドゥルーズの説明によれば
ルクレティウス、エピクロス、スピノザ、ニーチェ、マルクスといった人たちです。
ドゥルーズの考えでは、彼らは認識が否定性へと導かれ、消極的な思考として
しか現われないような哲学−ヘーゲルが代表ですが−に敵対する、西洋哲学に
おける1つの積極的な哲学の系譜のことです。
むじんくんにとって、哲学とはヘーゲルに代表されるような哲学を指すことで
あって、それだけを哲学として取りあげることは、西洋哲学史の一側面しか
見ていないことに思われるのです。
上記の構図では、ソクラテスの立ち位置は微妙です。積極的な哲学を自らは
展開せず、ソフィストたちの真理の認識を否定性へ導く知のあり方として
ソクラテスを捉えるならば、彼はヘーゲルに連なる哲学者の系譜に入るでしょう。
300むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/01(火) 16:29:55
>>299
> むじんくんは、生成する哲学というものを、哲学とは認めてらっしゃらない
> のですか?

以前の話に戻っちゃいましたが(笑)。それはもはや哲学ではないという立場だと
言いましたよね。
301考える名無しさん:2006/08/01(火) 19:47:21
むじんくん
むじんくんの哲学観がわかりました。ところで、否定性に導かれる
哲学を「哲学」として、それに対置させるのに「神学」を持ってくる
必然性はどこに求められますか。むじんくんが否定される、もう1つの
哲学の系譜、「生成する哲学」を対置しても構わないように思います
けれども…
302むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 15:58:20
>>301
> 哲学を「哲学」として、それに対置させるのに「神学」を持ってくる

神学というのは、信仰にある人間の記述で、その特徴は「直接性」じゃないかと思います。
哲学は否定性ですから、哲学的に言ったらそれは反省を経てない記述に映りますね。

生成の哲学というものは、ある種の内的直感を哲学的言説によって表現するということ
ですが、あくまでもそれは哲学ですから、「直接性」の記述ではありません。神学において、
基本的に神の存在の証明などを記述するのはナンセンスです。Aという人間が目の前に
いて、その本人に向かって「すいません、Aさんってあなたですか?あなたはここにいる
んでしょうか?」という問いぐらい馬鹿げたことです。
303むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 17:23:29
あと、相場で凄く感じるのは、情報によって見方にバイアスがかかってしまうことです。例えば
昨日は結構強い感じでしたが、その前に私はあるホームページで「もうすぐブレイクする」という
話を読んでしまっていました。これだけ強いと十分ありえる。もしブレイクしたら思いっきり上に
上げてしまうだろうと。

そこで昨日の引け前に買いを入れて持ち越してしまったのです。今日経は節目の価格ですから
戻りがある可能性のほうが高いわけですけど、買ってしまったんですねぇ。どうしても読んだ記事の
言葉から自由になることができませんでした。

こういう、ある情報にすがり付いちゃうっていうことがよくあります。その結果は悪いことのほうが多いです。
というのは、そういう思い込みがあると思いと違った方向に動いても損きりができないんですね。
304むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/03(木) 17:24:35
すいません、関係ない話を送信してしまいました。
305考える名無しさん:2006/08/03(木) 19:48:52
>>302
むじんくん
なるほど、今度はむじんくんの「神学」観がわかったような気がします

>基本的に神の存在の証明などを記述するのはナンセンスです

そうすると、トマス・アクィナスに代表されるような神の存在証明や
あるいは否定神学も否定されるのですね。
では、カール・バルトはどうでしょうか。キルケゴール的な弁証法
神学を打ち立てた有名な神学者ですが。ご存知なかったら仕方ない
ですけど…ところで、むじんくんが神学で影響を受けた方って誰ですか?
306むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/05(土) 11:56:36
>>305
> ですけど…ところで、むじんくんが神学で影響を受けた方って誰ですか?

前もちょっと書きましたが、私は神学についてはあまり詳しくないのです(笑)。ただ、カール
バルトは「ロマ書」などで影響を受けてます。20世紀の、ナチの脅威が高まる中で突出した
牧師だったんじゃないでしょうか。

トマスなどの、理性から神を把握するというのは、これは当時の西欧キリスト教社会の必要性
としてはあったんだろうと思います。ただ、信仰をその方向から捉えることは不可能ですね。
同じようなことは、イスラム社会にもあります。スンニ派とシーア派はそういう構造の対立ですし、
特にスーフィズムなどは完全に理性の体系を否定します。
307哲オタ ◆RSVCHQV.72 :2006/08/06(日) 09:56:40
やあ  むじんくんから、スーフィズムなんて意外だな 

308考える名無しさん:2006/08/06(日) 22:49:53
むじんくんが否定している哲学は、形而上学のことでしょ。
309考える名無しさん:2006/08/16(水) 03:32:28
ほんとうにそうか?
310考える名無しさん:2006/08/20(日) 07:10:43
パッペペンパクも読まずに哲学を語る奴は痛いなぁ
311むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:07:02
長らくご無沙汰でした。ちょっと自由時間が増えますのでまた書いていきたいと
思います。

ところで、「形而上学」という言葉ですが、私はこれを言語の効果として出現する
蜃気楼のようなものと考えます。同じ発想はカントの批判書の冒頭にも出てきますね。

例えば、今靖国問題なんかで色々ありますが、そこで語られるナショナリズムなどは
そういう蜃気楼です。所謂「イデア論」というのは、人間精神が実体、カントの言う「物」
に規定されず、言語活動によって世界創造ができるかの如く錯覚すること、精神の
究極の自立性を宣言することだろうと思います。

哲学はこのスレの冒頭に書いたように、出発点において世界からの断絶があるわけです
から、言語の運動による蜃気楼生成といえます。しかし、最良の哲学において、それは
その活動自体の批判となり、つまり「無知の知」へと至る。
312むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:17:17
問題は、この「蜃気楼」というものが人間には常に付きまとい、そこから逃れることが非常に難しい
ということ、そしてその「蜃気楼」によって現実の生活に影響が出る。所謂「思想のために死ぬ」と
いうようなことが現実に発生し得るということです。

精神分析は、この「蜃気楼」の発生原理を追跡するわけですね。マルクスの唯物論も同じです。
単純に批判して終わりにはできない。ある特定の「蜃気楼」はある実生活からの必要性から
出現するのだ、というのがマルクスの唯物論です。
313むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/20(日) 09:56:01
その点で、ユダヤ教系の一神教というのはこの人間に付き纏う「蜃気楼」の問題に対して
ある特異な解決策を提示していると思います。つまり、この世の一切を「非真理」とする。
全ては超越的な人格神の「被造物」とするということです。この偶像崇拝禁止というのは、
形而上学の問題に対して、今もって強力に作用するものとして機能しています。
314考える名無しさん:2006/08/20(日) 23:31:27
むじんくんは、無信仰・無神論をどう定義しますか?
315むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:14:59
>>314
> むじんくんは、無信仰・無神論をどう定義しますか?

そこは2つあると思います。一つは、例えば欧米キリスト教社会であったり、イスラム社会などの
中で「無神論」を主張するというもの。これは、ドストエフスキーが「大審問官」で提起した無神論
問題ですね。こういう、積極的な思想としての無神論。

もう一つは、日本などで多いと言われている無神論。つまり「いや、別に何も信じてないっすねぇ」
といった感覚状態ですね。消極的な、ほとんど無意識的に選択している無神論。この2つは
全く別種のものなわけです。
316むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:23:23
哲学的に問題となるのは、前者だけです。後者の「特に信じてません」という感覚というのは、意識的な
信というものが無いだけで、実際にはそれを補完する何かを、無意識的に信用しています。信用可能
ということは、それだけ幸福な生活だと言えると思いますし、逆に言えば、状況の変化に依存しています。
今後日本がどうなるか不透明ですが、旧来の高度の社会保障、社会的信用の瓦解があれば、こういう
意識は変化するだろうと思います。

ところが、前者についてはそういう状況の変化も何も関係ないわけです。状況がどうだろうと、信じないのだと。
もっと言えば、これは人間理性の絶対性、自律性の維持そのものなわけです。この無神論にとってもっとも
忌むべきものは、自己の自律性を放棄すること、自己を明け渡すことです。ドストエフスキーはこの精神を
問題にしました。
317むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/22(火) 12:30:38
キルケゴールは、この積極的無神論を「絶望」と呼びました。そして、信仰というのはこの絶望を
経由しないではあり得ないというわけです。ドストエフスキーも何故、こういう精神を問題にしたか
というと、信仰に最も積極的に反発し、遠いところにいるこの無神論こそが、実は最も信仰に近いから
なのですね。
318考える名無しさん:2006/08/23(水) 00:28:09
むじんくんの言われる信仰と、そういう真の無神論とは、厳密にはどう違うのでしょうか?
319むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/23(水) 09:52:35
>>318
そこがこのスレのテーマです(笑)。

この無神論を私は「哲学的精神」と考えるわけです。哲学的精神は失われた対象を
言語の力によって復元しようとする精神であり、更に言えば、復元することが不可能で
あること自体を認識する精神です。

真実に「哲学的精神」であらざるを得ない状況というのは、これは非常に危機的状態です。
対象復元の欲望に引き寄せられ、その欲望の赴くままに押し流されていけば、本当に
対象が復元できたと思ってしまう、つまり妄想への転落が待っているのです。
320考える名無しさん:2006/08/23(水) 23:10:03
むじんくんは、
いい意味での哲学=純粋な哲学の完成者、
悪い意味での哲学=形而上学=対象復元妄想に転落した哲学の完成者は、
それぞれ誰だと考えられますか?
321むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/26(土) 09:20:34
>>320
> いい意味での哲学=純粋な哲学の完成者、

ソクラテス、カント

> 悪い意味での哲学=形而上学=対象復元妄想に転落した哲学の完成者は、

これは歴史上に名前が登場しないんじゃないでしょうか(笑)。どこぞの新宗教の
教祖とか?
322考える名無しさん:2006/08/26(土) 14:59:56
むじんくんの言われる信仰は、いったんは無神論を経験する必要があるのでしょうか?
323むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/27(日) 14:56:34
>>322
そうです。坂口安吾が「先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない」と言ってますが、
地獄とはあらゆる救いの蒸発した世界、人間の欲望の対象が欠落した、荒涼とした「物」の世界
です。信仰とは、この地獄の暗闇に差し込む光として存在します。

地獄=無神論の世界こそは、人間が生まれ持っている様々な偶像崇拝の願望を徹底的に打ち砕く
のです。偶像崇拝するものが、どうして真実の信仰へと入ることができるでしょうか。信仰の前に
暗闇があるのは、これは必然なのです。
324むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/27(日) 15:31:25
私は近代的精神にこの「無神論」を見ます。実際、西欧近代社会の成立というのは、
宗教戦争なしにはあり得なかったんじゃないでしょうか。西欧近代社会というのは、
確固たる無神論の社会を打ち立てたことにこそ功績があるのですね。その点で、
「近代社会もまた、様々な神々の一つに過ぎない」と言った、近代社会を様々な
前近代的社会の文化と相対的に見る発想は完全に間違ってます。
325考える名無しさん:2006/08/27(日) 23:25:08
むじんくんのような境地・信仰にいたるために、
哲学的思索以外のもの(特別な修行・体験など)は必要なのでしょうか?
326むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/28(月) 14:39:02
>>325
> 哲学的思索以外のもの(特別な修行・体験など)は必要なのでしょうか?

思索も修行も意味ないのではないでしょうか。ただ、そこに至る過程で、思索が発生して
しまうということはあり得ますし、ここで述べている「哲学的精神」とはそういうものです。
327考える名無しさん:2006/08/28(月) 23:48:13
ニーチェの神・信仰は、むじんくんの神・信仰とどう違うのでしょうか?
328むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/29(火) 18:01:40
>>327
> ニーチェの神・信仰は、むじんくんの神・信仰とどう違うのでしょうか?

ニーチェの永劫回帰などですか?それはあまり内実は変わらないように思います。
329考える名無しさん:2006/08/29(火) 23:37:16
同じような立場の信仰・思想(例えばむじんくんとニーチェのように)をもつなら、
それらが形式的には異なった宗教の信者であろうと、同じ信仰による同じ神を見ていると考えられますか?
むじんくんの信仰・神=ニーチェの信仰・神=別の何とか教の信仰・神とみなすことはありえますか?
330むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/30(水) 13:16:58
>>329
> むじんくんの信仰・神=ニーチェの信仰・神=別の何とか教の信仰・神とみなすことはありえますか?

それは難しい点で、不問にしておくべきとしか言えませんね。確かに、その信仰の内実について考察する、
つまり哲学的思考として把握するならば、それは同一なのです。しかし、これは一方で「信仰」ですから。
それを概念的に同一構造だから、「同一の神」という言い方をすべきではないのですね。

もっと言えば、何故「同一の神」という思考をしたいのか?と問うべきでしょう。それはやはり一般性への
誘惑。人間主義の思考の内部へと「神」を回収したいという誘惑です。思考の対象に「神」がなってしまえば、
それは操作されるべき対象となります。その時点でその思考は偶像崇拝と化します。
331考える名無しさん:2006/08/30(水) 14:30:50
またベタな形而上学だな。
でもこれを形而上学と呼ぶと哲学になっちゃうのでアウトなわけで、
ただ信仰しないといけないわけね。
それにしても<ベタな形而上学>(かっこ<>内を大きな×)だな。
332むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/30(水) 15:56:44
>>331
> またベタな形而上学だな。

形而上学というのは、哲学的思考が無意識に前提とする対象です。これは言語の分節効果の
中でしか生成しない、空中楼閣ですね。哲学はこれを前提とした思考の運動であるからこそ、
根本的に無意味な行為とされるわけです。

カントやソクラテスはその限界点を認識しようとするわけですね。
333考える名無しさん:2006/08/30(水) 16:07:04
そういう解説は哲学なのだから言ってはダメだよ。
334考える名無しさん:2006/08/30(水) 16:10:44
ハイタメといった時点で自らハシタメになる。深いですね。
335ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 16:24:19
稚拙な哲学知識で目立つには否定すること
ベタで自己顕示が強いのです彼は
336考える名無しさん:2006/08/30(水) 19:24:07
337考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:06:34
>>332
認識の限界点へのカント的潔癖さを捨てた哲学、例えばヘーゲル哲学など(大胆に形而上学を語ってしまっている哲学)、
こういうものを(マトモな)哲学とみなすことができますか?
338むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:02:20
>>333
> そういう解説は哲学なのだから言ってはダメだよ。

形而上学批判は哲学です。
339むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:03:13
>>335
> ベタで自己顕示が強いのです彼は

やぁ、どうも久しぶりですね。なぜピカ氏のように心理学に拘泥する人が多いんだろうか?
というのはちょっと考えてみたいと思います(笑)。
340むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/08/31(木) 11:18:30
>>337
なので、ヘーゲルというのは哲学というよりも政治的言説なんですね。ヘーゲル自身、政治的だった
と思いますし。弁証法というのは、現実に発生した我々の行為の世界、力の関係性を記述するわけです。
ただ、それは常に「事後的」です。

好意的に見れば、ヘーゲル哲学というのはスピノザの第三種の認識に至るまでの精神遍歴を
記述したのだともいえます。いえないかな、やっぱ(笑)。
341ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 11:25:05
心理学でなく、動物化したむじんくんにはないといいはる自己言及ですよ。
342考える名無しさん:2006/08/31(木) 23:16:22
>>340
むじんくんは、スピノザの神についてどう診断しますか?

>ヘーゲルというのは哲学というよりも政治的言説
マルクスの思想も、哲学というより、社会学というか政治的言説ではないかと思います。


343むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 13:06:39
>>341
> 心理学でなく、動物化したむじんくんにはないといいはる自己言及ですよ。

哲学的な自己言及とピカ心理学の自意識とは違うと思いますが(笑)。
344むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 13:23:41
>>342
> むじんくんは、スピノザの神についてどう診断しますか?

スピノザに関しては「ああ、そうですね」とかしか言えませんよね(笑)。ただ、「エチカ」と
いうのは、書いている順番が逆なわけです。第三種の認識、というのがまず最初に
前提とされているわけで、認識の果てにそれがあるわけではないですね。

コジェーブはだから、「エチカ」は一瞬のうちに思考されなければならない、と言ってます。
ヘーゲルというのはそこに歴史を挿入するわけですね。

> マルクスの思想も、哲学というより、社会学というか政治的言説ではないかと思います。

ヘーゲルはカントの理性が現実生活の力関係から派生すると言ったわけですが、マルクスも
それを経済的諸関係からみますけど引き継いでますね。ただ、ヘーゲルの場合、概念が現実
と等価なものとされるわけで、言葉によって現実を変える、という意味での「政治」へと転用
されやすいんじゃないか。
345むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/06(水) 14:55:11
スピノザで疑問に思うのは、最後に「神の自己認識」という言い方がされますよね。これは
どうなんだろうかと。つまり、神というのは自己認識しちゃいけないんじゃないかと思うのですね(笑)。
自己認識というのは、何らかの欠けている状態を前提とするわけです。

完全な存在である神が自己認識するということは、自分で自分自身を制限するというんでしょうか、
自己限定を神があえてする、ということになりますね。それを最高の境地とするというのは、どうも
おかしな気がするんですけどね。
346考える名無しさん:2006/09/06(水) 15:09:03
人間自身がアポロンの成句にあるように「汝自身を知れ」だろ
古代秘儀に行き着くと思うが、ピタゴラスもそうだな
347ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 19:30:16
>哲学的な自己言及とピカ心理学の自意識とは違うと思いますが(笑)。

どのように?
348考える名無しさん:2006/09/06(水) 22:15:47
むじんくんの言う「信仰」の内実とは、キリスト教本流とはあまり関係のない
一種の神秘主義だ。こういう神秘主義に定位して、「哲学は神学の婢」と言う
のだから、言い換えれば「哲学は神秘主義の婢」になってしまう。神秘主義
というのは一種の体験としてしかあり得ないのだから、これに反駁するのは
最初から不可能だ。
また、そうした神秘主義に定位するむじんくんが措定する「哲学」とは西洋
哲学の一側面に過ぎない。それはヘーゲルに代表されるような否定性に定位
する哲学の系譜だ。むじんくんはこうした否定性の哲学のみを「哲学」として
認めて、神学=神秘主義的認識の立場からそのような否定性の哲学を否定する。
西洋には否定性の哲学ではない、ニーチェやスピノザに代表されるような
肯定の哲学の系譜があるにも関わらず、それらは「哲学じゃない」と言う。
要するにむじんくんが展開している議論は、神学といいつつ実は神秘主義に
自らを定位して、西洋哲学の一側面だけを裁断しているだけのものだ。肝心の
キリスト教神学には「よく知らないんです」といい、積極性ある哲学に対して
は「あれは哲学じゃない」という、勝手気ままな議論を展開しているに過ぎない。
神秘主義者なのだから、これは反駁できないよ。「神秘的体験」を拠りどころ
としているのだから。これは強いとも、卑怯とも言える。むじんくんを論理的に
追い詰めようとしても、最終審級では「神秘的認識」が全てなのだから。
349ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 22:26:38
そう、ここはむじんくんの暇つぶしスレです。
350むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/07(木) 11:55:39
>>347
> どのように?

心理学はある共通言語空間の内部で承認される言葉を語るものです。哲学的自己言及というのは
その言葉が何故語られたかを追跡するものですね。
351むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/07(木) 12:02:13
>>348
> 西洋には否定性の哲学ではない、ニーチェやスピノザに代表されるような
> 肯定の哲学の系譜があるにも関わらず、それらは「哲学じゃない」と言う。

だけど、ニーチェ自身が自分は反哲学者だって言ってるんだから仕方ありませんよ(笑)。

あと、ここで述べているのは哲学の否定性を批判する一方で、それを評価しているわけです。
哲学は否定として、ある言語空間の規定構造からズレる限りにおいて有効なわけですから。
そうじゃないと、予め頷きあうことが予想される言葉を発し、その共犯関係を強固にするための
言葉、偶像崇拝の言葉が跋扈してしまうのです。
352ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/07(木) 12:22:37
>>350
自己言及ですね。
353考える名無しさん:2006/09/07(木) 17:29:11
>>351
哲学内部でも、そういう問題、起こっているのではないでしょうか?
言い換えれば、哲学のイデオロギー・(むじんくんが否定している意味での)神学・節度なき形而上学への転落という問題、ということでしょうかね・・・
むじんくんの哲学観は、哲学の範囲を狭め過ぎている感もあるものの、
そういう問題に対しては有効な処方箋ですね。

354考える名無しさん:2006/09/07(木) 17:54:54
哲学には視座があり意識にはコギトがある。だから哲学自体が
355考える名無しさん:2006/09/07(木) 18:30:44
>>351
>ニーチェ自身が自分は反哲学者だって言ってるんだから仕方
 ありませんよ

こうやってむじんくんは「ニーチェの哲学」を自身の議論の問題圏から
排除するわけね。ニーチェが反哲学と言うときの「哲学」とは何を指し
ているか、は不問に付して。

むじんくんが否定し評価もする哲学は「形而上学」に限られる。それは
神学という名の神秘主義の立場をとるむじんくんにとっては、常に
「無知の知」に陥らざるを得ないものに映る。そんなの当たり前だ。
むじんくんは西洋哲学の内部において「形而上学の解体」を志向する
哲学にはアレルギー・近親憎悪に近いものを感じるのだろう。
「そんなものは哲学じゃない」というわけだ。
356むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:27:30
>>352
> 自己言及ですね。

そこはどうでしょうか。というのは、哲学的自己言及というのは、裏側に「真理への意思」と
いうべきものが存在します。ぴか氏的ポストモダンというのは、それが無いので最終的には
心理学へ転落するんじゃないですか?
357むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:31:29
>>353
> 哲学内部でも、そういう問題、起こっているのではないでしょうか?

それは誘惑として常にあると思いますが、どうでしょうね。「哲学内部」って
言葉が形容矛盾だと思います(笑)。結局それは哲学史の学習ということを
指すと思いますが、哲学的思考とは関係の無いことですね。
358むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/13(水) 10:38:30
>>355
> むじんくんは西洋哲学の内部において「形而上学の解体」を志向する
> 哲学にはアレルギー・近親憎悪に近いものを感じるのだろう。
> 「そんなものは哲学じゃない」というわけだ。

いえ、それが哲学だと言っているのですが(笑)。
359ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/13(水) 17:27:54
>>356
>じこげんきゅうせい[じこげんきふ―] 【自己言及性】 self-reference
>自己自身を指示・言及すること。

話が通じないと思ったら、自己言及を知らなかったわけですね。
ようは「オマエモナー」ということですよ。
360考える名無しさん:2006/09/13(水) 20:19:01
>>359
なんで喧嘩腰なの?
361ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/13(水) 20:38:38
>>360
ん”!?
362考える名無しさん:2006/09/14(木) 00:34:24
>>358
形而上学の解体を志向しながらも、結局、別の形而上学を生み出してしまうという悲喜劇(たとえば典型的なのがハイデガー)がしばしばありますね。
そういうことは、どう分析・診断されますか?
363むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/15(金) 13:09:14
>>359
> ようは「オマエモナー」ということですよ。

哲学的自己言及、自己の二重化というのは、虚の点としての「真実」の場を想定
しています。それが無ければ心身二元論にはなりませんからね。ぴか氏的ポスト
モダンっていうのはそれを認めないんでしょ?
364ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/15(金) 13:15:02
自己言及の意味、理解できたかな。
365考える名無しさん:2006/09/15(金) 15:27:04
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの
古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。
全くヒドいものだの一語につきる。
日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家ミシェル・フーコのような、現代もの
でも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、ジル・ドゥールズらの思想は
「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを生まで扱う学問ではない。
現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、自分たちが、アメリカ
の支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究しかできない人々だ。
副島隆彦「日本の秘密」

前ページに神学対近代学問(サイエンス)の壮大な対立図式を示した。これ以外に下等学問としての
「人文」というのがある。この人文というのはヒューマニティーズの日本語訳である。
ヒューマニティーズとは「人間、および記録された文学に関わること」という意味である。
だから人文は、簡単に言えば現在で言う文学(部)のことである。他には歴史学があり、その内容は
古文書や石碑の文の解説などを行うことだ。これらは、学問としては下等学問である。
副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」
366考える名無しさん:2006/09/18(月) 14:46:40
クンコガクと神学は関係がない
367むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/19(火) 11:21:46
>>362
> そういうことは、どう分析・診断されますか?

やはり「罠」ということじゃないでしょうか。ただ、危ないのは形而上学を意識的に志向するのでは
なく、排除しているつもりで接近することですね。カントはその点で形而上学から人が逃れられない
ということをハッキリと意識するところから出発するわけです。
368考える名無しさん:2006/09/19(火) 14:50:14
>>367
カントの「物自体」を
「形而上学的真理」に置き換えて読んでもよい、ということでしょうか。
369むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2006/09/20(水) 10:31:39
>>368
> カントの「物自体」を
> 「形而上学的真理」に置き換えて読んでもよい、ということでしょうか。

そうです。人は知らないうちに形而上学を語ってしまうわけですが、その境界はどこにある
のか?というのが純粋理性批判のテーマですね。形而上学的真理があるか無いかではなく、
どのような記述が形而上学なのか、という。更に、認識の領域においては、そのような"真理"は
消極的にしか提示できない。これが物自体というものですね。
370考える名無しさん:2006/09/21(木) 10:58:44
>>369
カント的視点からすれば、
唯心論、唯物論、精神分析などは、一種の形而上学と言えるのではないでしょうか?
371考える名無しさん:2006/09/21(木) 18:12:06
  このスレのひとにとってこの教皇ベネディクト16世の発言は
  以外に面白いかも。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm
   マスコミで言われているようにイスラム教を批判したのではなく
  信仰と理性の関係について講演しているものだから。
372考える名無しさん:2006/10/13(金) 22:59:02
age
373考える名無しさん:2006/12/23(土) 04:23:59
( ´,_ゝ`)いやぁ名無しになっていてもすぐにわかるなぁw
でもなんで折角立派な名前があるのに名無しにしちゃうんだろうねw
精神病院のパソコンじゃ定期的に名無しに戻させる機能がついてるのかな?


374むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/01(月) 17:13:45
あけましておめでとうございます。

このスレ、生きてますか?
375むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/01(月) 17:33:34
お、生きてますね。

>>371の講演は面白いですね。というのは、このスレで語られる問題、つまり人間と神との関係に
おける回答として、「それは統合可能である」と宣言しているからです。それはこの講演にもあるように
「ギリシャ的」なものであり、典型的なカソリック的思考と言えるでしょう。

以前どこかで読んだ、「我々はユダヤ人かギリシャ人か?」というデリダの問いを思い出しました。
人間精神の問題というのは、とどのつまりこの「ユダヤ人かギリシャ人か?」という問いに集約
されると思います。

そして、カント哲学というのは「ユダヤ人」であると語る哲学です。プロテスタント神学もユダヤ人で
あるという宣言です。そして、この講演は「ギリシャ人」であると語る。基本的にカソリックはギリシャ的
思考を好みますね。
376むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:12:51
「ユダヤ的」であるということは、つまり「反自然的」であるということです。ユダヤ系の一神教の
本質にあるのは、この反自然主義です。

反自然主義とはつまりは自己における身体と精神の分離であり、対立です。自己の「自然な」
感情への蔑視、懐疑。これがユダヤ-キリスト教の精神の基本です。
377むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:18:13
自然から、身体から離脱した精神というものの成立のためには、神は自然の神であっては
なりません。人間は自然の内部に在り、人々の関係の内部にある、所謂「類的存在」である
というのが自然な感覚だとしたら、そこからの離脱を可能にするのは、個を直接類と等価と
してしまうような神、つまり超越的な神がいなければなりません。

「啓示宗教」というのは、こういうことです。自然の発達段階によって、ある段階でユダヤ的な
ものが生じるのではない。それは超越的な場からの稲妻のような啓示によってもたらされます。
それは類的なものを度外視し、個に直接意味を与えます。
378むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/09(火) 13:33:09
西欧哲学にはこの超越性というものが常につきまといます。個の思考がそれ自体として
意義を持つ、正しさを持つというのは、超越性なしには語れない。例えば、デカルトの
有名な懐疑は、外界との諸関係を遮断した精神の記述こそが曇りの無い、正しいものだと
宣言するわけですが、その宣言の直前に真っ正直にも「神の保障」を求めてます。これが
無ければ、外界から切り離された精神の思考は自立性を持つことができず、結果として
具体的な、身体的な他者との諸関係による「保障」によって思考が成立するという話に
なったことでしょう。
379考える名無しさん:2007/01/16(火) 23:38:55
ちょっと立ち寄りなんですけど、言葉の解釈がものすごく難しいですね。
理解するのにふつうの5倍以上は掛りそうです。それでも無理かも!
なんとかならないんですか?
それともそういう人向け?
380.:2007/01/16(火) 23:40:39 BE:80053834-2BP(0)
381むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/21(日) 13:56:33
>>379
> なんとかならないんですか?
> それともそういう人向け?

そういう人、とはどういう人でしょうか?(笑)。

文章が難解だという意識はありませんが、説明的ではないとは思います。そして、説明的で
ないとお感じになるとしたら、私の文章は成功しているといえます。
382考える名無しさん:2007/01/22(月) 00:43:59
>>381
そうですね、慣れてくれば分りそうです。説明的でない、というのも何となく分る気がしますね!
でも、私はカントやデカルトの昔のことはやりたくは無いですね。
私としての哲学は、宇宙の真理、神、愛とかそっちの方です。ですから人に分り易いのが
いいんです。
383むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/22(月) 11:55:12
>>382
> でも、私はカントやデカルトの昔のことはやりたくは無いですね。

ソクラテス、デカルト、カント、いずれも時間は昔の人ですけど、その思考の結果としての
文言を評価するのは意味が無いわけです。しかし、彼らの思考のあり方は今でも全く
古くないし、哲学とは要するに彼らのような思考を指すのだ、ということが述べたかった
んですね。

例えばそれは、夏目漱石の「私の個人主義」なども等価だと思います。自己の思考の
自立性というものを宣言する。これはどの時代でも異様なことですし、哲学とはその
異様な精神状態で語る、その思考の運動なのです。
384考える名無しさん:2007/01/22(月) 13:37:40
>>383
なるほど、
少し面白いかもしれない!
すこし気になってきましたので、たまに来てこのスレ、はじめから読んでみましょう。
385考える名無しさん:2007/01/24(水) 06:35:02
TEOLOGICA ANCILIAE
神学は哲学をもたなかったので何とかしようとおもった で
ありすとてれす のけいじじょうがく
とーますあきーなす の すんま
でかると の ほうほうじょせつ
などなど
ないものねだり
神学は偽装

唯一  名目論→記号学/そしゅーる
386考える名無しさん:2007/01/24(水) 21:16:26
ユダヤ教の神は元来、ネタミの神であって低次元のものである。
西洋哲学もネタミが淵源にあって、これを自覚、克服しようとしたのが
イエスやニーチェ、ハイデガーであったのだが、・・・
387むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/25(木) 10:31:41
>>385
> 神学は哲学をもたなかったので何とかしようとおもった で

逆ですね。哲学は実は神学を隠蔽している。超越性の後ろ盾なくしてデカルト的
主体は発生し得ないのです。
388むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/25(木) 10:36:10
>>386
> ユダヤ教の神は元来、ネタミの神であって低次元のものである。

旧約の神が「嫉妬深い」というのは非常に重要なのです。それは、人間の自然な感情の動きとして、
五感に触れる様々なこの世の事物への固着、これを断ち切って「我のみに注視すべし」と命じる
ということですから。

旧約の神は、十戒の偶像崇拝禁止に象徴されるように、この世の森羅万象から精神を切り離し、
超越性との関係を主軸にせよ、と厳しく命じる神です。
389むじんくん ◆zqZE9JGYA6 :2007/01/25(木) 10:54:27
哲学とは、ソクラテスに典型的に見られるように、世俗の慣習的に規定された言語体系からの
逸脱であり、慣習的精神自体に関係する精神の運動です。この逸脱した精神を支えるもの、
それは超越性なのです。
390考える名無しさん:2007/03/22(木) 19:52:51
むじんくん、どうしちゃったんだい?
でてきておくれよ〜。
391考える名無しさん
>>386,388
いい加減に愛の神・イエスに目を向けましょうぞ。
アッバーとは、「とーちゃん」なる呼び声であります。
イエスは人であり、死を打ち破った全人類のアニキですから、
わしらも父なる神を、「とーちゃん」と呼んじゃって、頼っちゃっていいのであります。
とーちゃんがパンを欲しがる子に、ヘビを呉れてやるわけがないと、
聖書に書いてあるではありませんか。
いつまでも山の神にこだわっていないで、
神は愛なり、人間になってまで、まして人の世のどん底をさまようてまで、
かほどまでにもわが魂の救いを重んじられたイエスに、すべてを委ねて
とりすがることこそ、新約時代に生きる人に求められた務めではありませんか。

神学:「聖書に書いてある」最 強。