◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない51◆
1 :
真理 :
2005/12/29(木) 11:40:17 だろうか?
2 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 11:43:59
にせものスレ w
3 :
真理 :2005/12/29(木) 11:57:26
と決め付ける理由は?
4 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 12:03:18
5 :
真理 :2005/12/29(木) 12:06:34
では過去50スレの半分は偽者だ、終わりかけてるスレ50もな
6 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 12:07:36
で?
7 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 12:17:24
糸冬
8 :
真理 :2005/12/29(木) 12:22:02
宇宙に始まり(開闢)があったことを認めた時点で、決定論は破綻する、 そんなことも解らぬ馬鹿の巣窟ってことだ。
9 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 12:50:15
10 :
真理 :2005/12/29(木) 12:59:14
俺は、汚れ、乱れ、どうしようもない状態にある君らの脳みそを ついでに大掃除してしてあげようという奇特な人間さ
このスレ、もはや哲学版の伝統だな
12 :
「機械的唯物論」者 :2005/12/29(木) 15:12:15
脳は伝統的に物質だからこのスレはもはや哲学板の必然である。
13 :
真理 :2005/12/29(木) 15:17:33
ベタな機械タンは粗悪な物質だから52番目の重複スレを立てるのは必然である。
14 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 15:18:11
関係なく存在できるものなど存在しない すべてのものは干渉しながら存在している。
15 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 15:24:26
16 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/29(木) 15:46:25
乙!
17 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 16:09:40
18 :
真理 :2005/12/29(木) 16:56:46
痛い、痒い、の意味が分らぬ馬鹿は居ないが、 実感=クオリアの意味が分らぬ馬鹿は多いか(スレ50に溜まっとる)
えー、しぃー、まあ、そういうこともある!
20 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 17:02:23
21 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 17:06:43
管理人…「この腐った世界…。この進行にピリオドを打つのは今しかない。そして、彼しか残されていない。
某有名私立大学付属高校首席が人類を変えてくれる。」
この思想を持った彼は革命を起こすのに最も相応しい世界、政界へと将来足を踏み入れることにした。
「新時代掲示板」ZERO±solid±NOTICE±は
個人の思想・哲学・政治・非現実的な話実質…始めたばかり・・・余り人も居ません…共にこの思想を歩んで行こうではありませんか・・・!!いや、本当に面白いです!!!!!
騙されたと思って一回きてみてください!!!そして、メンバーになって下さい!
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http://bbs7.fc2.com/cgi-bin/e.cgi/deathnote/
22 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 17:22:01
↑CGIだ、止めとけ ALL
23 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 17:52:03
24 :
機械タンの孫娘 :2005/12/29(木) 18:23:59
みなさん、今年も、祖父が大変お世話になりました。 聞き分けのないただ機械的な祖父ですが、来年もまた可愛がってやってください。 謹んで、年の瀬に、皆様のご多幸をおいのりしております。 )かしこ
ぴかぁ〜 はっちゃけて下さい
26 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/29(木) 18:29:16
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
27 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/29(木) 18:30:55
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
28 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/29(木) 18:32:39
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
29 :
考える名無しさん :2005/12/29(木) 18:35:15
で?
>ぴかぁ〜 もうそのコピペこのスレには貼らないで。 一度貼ったんだから後は26-28へのアンカーだけにしてね。
31 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/29(木) 19:51:19
そういうわけにはいかんでしょう。
そういうわけにはいかん訳ないでしょ。 だって荒らしか頭のおかしい人だと思われちゃうよ。 もしかして本当にそうなの?
>>31 吹いたw
荒らし確定
ぴかぁ〜のまとめサイトでも作って誘導してよ
純一が謹慎中の今一番ウザイやり方で書込みしてくるのはぴかぁ〜だな
35 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 01:21:20
で?
36 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 01:26:11
>>40 まあ、例えば、お前が囲碁が好きで、ほとんど絶対ありえないけど、
囲碁がきっかけでお下げのかわいい女子小学生と知り合いになって、
週末に碁会所で囲碁を打つ関係になったとして、
その女子小学生を殺して裸にしようとか、思わないだろ。
普通にそのまま毎週囲碁やってたほうが、絶対楽しい。
37 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 01:27:01
全て決定してるんでしょ 何でギャンブルしないの
ギャンブルは偶然に過ぎない。
39 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 04:52:11
偶然の総体は決定されている。
ギャンブルの本質は作為だよ?
41 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 07:11:34
ギャンブルずきな機械タンはベタな親爺である。
42 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 09:46:41
で?
43 :
まさ :2005/12/30(金) 13:28:56
宇宙も時間も人間がわかりやすいように 都合よく考え出したもので、定義をかえればまったく違うものになっちゃうん じゃないのですか。クオリアってのは赤色を多くの人が赤に見えるから赤と認識しているように 赤色は別の色でも元々はよかったんだってことですよね。宇宙もまったく違う概念を 脳に植えつければそれになった。今からではもう遅いよ、クオリアのように理解できない 今から100年以内に 植え付けられるのは宇宙の先(最大の∞)と物質の最小の∞は繋がって いるってことぐらいかな。今はそんな馬鹿なって思う人は地球が平らって 時代に丸い訳ないじゃん。って言ってた人のレベルだから正常な頭脳かな? まじで?って思った人は異常だけど真実を早めに理解できる人。 かも。 このスレが一番大好きです。みなさん良いお年をお迎えください〜。 まさかこのスレでカウントダウンしないよね(笑) PS.最高位さん帰ってきて。
44 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/30(金) 13:52:01
>クオリアってのは赤色を多くの人が赤に見えるから赤と認識しているように >赤色は別の色でも元々はよかったんだってことですよね。 赤色は別の色でも良かったが、赤色である。なぜか、それにはある種の必然があるということですね。 この必然は、赤色の連続性から見えてきます。進化論的連続性です。 必然とはこのような「超経験論」的に考える必要がありますね。 たとえば宇宙論的な言説は、「メタ経験論」範疇です。 「メタ経験論」とは、丸いことを経験するのではなく、丸いと言う知識を経験するのです。 このような経験論的次元と、超経験論的次元を混同することを、自然的誤謬といいます。
45 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/30(金) 13:58:23
地球が丸いこと
>>43 >クオリアってのは赤色を多くの人が赤に見えるから赤と認識しているように
他人が赤に見えているかどうかはわからない、というのが
クオリア論だろ。
48 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/30(金) 14:58:09
>>46 それはクオリア論ではありません。
クオリア論は、どこまでも科学ですから
49 :
考える名無しさん :2005/12/30(金) 15:04:32
赤だろうが青だろうが 外界にある物理的対象に対して 人の生理学的機能によりそれを知覚し その知覚する際に必然的に生じてしまう脳内感覚
>>48 > それはクオリア論ではありません。
> クオリア論は、どこまでも科学ですから
ええ。クオリア論は他人が何を考えてるか、どう感じているか分かると主張してます。自分の
実感が第三者的に記述可能であり、普遍化可能だと主張しています。
つまりクオリア論とは「夜郎自大」と同義語です。
51 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2005/12/31(土) 00:01:32
>>50 夜郎自大とはえらく「時代」がかった表現ですね。『三丁目の夕日』は
ご覧になりましたか?
「クオリア論」は、たしかに懸念される方向に「牽強付会」されている懸念は
あります。
『コンピュータシステム全体』を「ディスプレイに映るドットから全て説明す
べきだ」という方向に「持っていく」のは、明らかに間違いでると同様です。
自然界は「(人類にとっては)当然にクオリア化される情報」・・可視光線や
可聴周波数帯域音波以外の情報媒体(赤外線・紫外線、超音波等々等々)に満た
されており、人類の「脳」に映った「映像」のみが「存在する」・・あるいは
「確かなモノ(存在)である」と強調するのは、観念論の「認識至上主義的病弊」
のバリエーション以外の何ものでもありません。
52 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 00:10:03
念の為磔 人間の脳が「物質」であることついては、誰も異論がありません しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます ・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です 人間の脳を構成する一千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から 分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです 勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません 分子生物学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです この宇宙で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は 全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に すぎず、人間の脳が造り出す「意識」も何ら特別ではありません 意識は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です 「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により 決定されております。自由(意志)感は文字通り「感じ」にすぎません 量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です 以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る 「唯一の最終真理(思想)」の輪郭です。全宗教&全観念論は徒労です
願望と自己欺瞞は物質である。
54 :
まずる :2005/12/31(土) 00:12:22
身体の記憶は?
何か物質があるから、自己欺瞞が起こるってこと? 全ての原因は物質だから。
56 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2005/12/31(土) 01:28:30
51の続き、 運良く感覚器官が捕捉して脳に送り込んだ「音」なり「色や形」なりが、 全部「クオリア化される」訳ではない・・・というのがポイントです。 それらのクオリア(感覚的クオリア)は、記憶されたクオリアパターン (指向的クオリア)の「選別を受け」始めて「ソニー出井氏解釈流の クオリア」になるのであって、その前段階である「感覚的クオリア」 と「指向的クオリア」が、本当は「クオリアの全て」なのですが、出井氏 は、「感覚的クオリアが「雨となり」降り注ぐ状況において「意味あるもの」 だけを選別する「指向的クオリア」の働きを無条件に賞賛しているだけで、 そのレベルでは「クオリアを形成することが出来る能力」という、経済人らしい 発想しか生まれてきません。
57 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 04:21:11
出井とか茂木とかって生きてて恥ずかしくないらしいね
>>51 >>56 『三丁目の夕日』は見てません。面白いですか?
前から読んでいて不思議なのですが、機械氏の"クオリア"というのは世間で言われている
クオリア論と全く関係ないということなんでしょうか?
> それらのクオリア(感覚的クオリア)は、記憶されたクオリアパターン
> (指向的クオリア)の「選別を受け」始めて「ソニー出井氏解釈流の
> クオリア」になるのであって
つまり言語論ですよね。世界から"リンゴ"、"赤"、"カメラ"という事物が主観に立ち現れるのは
主体にその言語が成立した瞬間からであると。それ以前にそういった"事物"が存在するわけでは
ないということですね。且つ、ソシュールが言うように、その文節規則は恣意的であると。クオリア論は
そこが逆さまで、且つクオリアは必然的文節化であるかのような宣伝になっている。
59 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 11:57:31
言葉以前の感覚がクオリアでしょ? クオリアにより世界や言葉が恣意的に文節された。
60 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 12:57:39
クオリアを意識によって分節化したのが言語です。 言語こそクオリア感覚と意識思想を結びつけるものです。 意識されないクオリアはありません。 クオリアのない思想があります。
61 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 13:02:36
なるほど。 萌えは最近つくられたラングであるが、 あと独特の感覚クオリアは昔からあったわけだ。
62 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 13:30:42
大脳を経由して意識されたのが表象クオリア 大脳を経由しないで無意識に知覚されたのが非表象クオリア 例えば反射など
>>62 表象のないクオリアなんて、矛盾じゃねえの?
64 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 14:26:26
例えば、熱湯に触れると肌の神経細胞が熱クオリアを感知して アツい、ヤバい、マチガイない! と感知し、すぐさま回避行動をとります このクオリアは一般的な私たちの意識が解釈するものとは違い 神経ネットワークそのものが解釈するものです つまりこの場合、クオリアの解釈項は神経細胞なのです よって、我々の意識には立ち現れない 非表象クオリアなのであります
65 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 14:33:31
>>64 単なる反射だろう。クオリアとは関係がないよ。
そして、我々も事後的に神経細胞の麻痺・損傷から 熱いというクオリアを意識上で感知するのである
67 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 14:42:02
>>65 人間が系統進化の過程で大脳を進化させる以前、
つまり低等動物時代にはクオリアが無いということですか?
人類以外にもクオリアがあるのか、という問いは、 私以外にもクオリアはあるのか、という問いと似て いますね。 蜂は幾つかの色を区別でき、犬は白黒の世界に 住んでいると言われますが、これは実際に観察 できる命題ではありません。観察できるのは、 異なる波長を発する光を受け取った蜂や犬が、 どういう反応をするのか、ということだけです。 端的に言えば、蜂や犬の心は分からない。けれど、 そこに人間と同じものを仮定することはでき、かつ、 それによって理解が深まるということです。
×異なる波長を発する光 ○異なる波長の光
>>68 理解が深まるというのがよく分からない。
例えば犬の心を想定することでどのように理解が深まる?
>>70 高校の時の科学の参考書に、カラー写真と白黒写真(被写体同一)
が並べられて、左が人間の視点で、右が犬の視点だと紹介されて
いました。しかし、ここには二段階の推論があります。
犬にある波長を見せると特定の反応をする(実証レベル)。
↓
犬は白黒の世界に住んでいる(「白」「黒」と言う概念の導入)。
↓
犬の視界は白黒写真と同じである(知りえないものの視覚化)。
でも、下にいくほど理解は容易であり、親しみが持てます。
72 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 15:11:44
クオリアの本質は快・不快です 生物は死のリスクが伴う不快を避け、 生存率が高まる快だけを追及して進化してきたのです これが生を求めつづける生物の本質です これが複雑化したものが人のクオリアです
73 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 15:13:01
>>67 >人間が系統進化の過程で大脳を進化させる以前、
>つまり低等動物時代にはクオリアが無いということですか?
微妙な質問ですね。たとえば心は人間だけが持つのか、
心とはなにか、ということに繋がります。
一般的に、クオリア論は人間の心についての議論だと
思います。
>>71 推論というが、それはどのような推論なんだろ。
経験から単純に導かれる推論じゃないよね。
75 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 16:30:59
>>26-28 ■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
77 :
考える名無しさん :2005/12/31(土) 17:19:15
で?
>>74 信念からの推論だと思います。
私は現役の科学者に訊いたことがありますが、やはり、
「科学は普遍的であり(宇宙の何処でも当て嵌まる)、
普遍的でないように見える場合は我々の知識が足りて
いないだけだ」と考える人が多いようです。
これ自体は全く実証的な考えではないと思いますが、
これが科学者の科学研究の動機のひとつになっている
と考えてもあながち間違いではないでしょう。つまり、
宇宙の普遍的な真理は必ず在るはずであり、それを
知りたいということですね。
コミュニケーションもそうで、「相手の心が分かるであろう」
ことを期待して始める、これがコミュニケーションの第一の
動機だと思います。
>>72 >>73 クオリア論はゲシュタルト理論と等価と考えるのはどうですか?動物はゲシュタルト的に
構造化された世界を遺伝子レベルの"経験"によって保持しており、本能はその図に対して
どのように行動すべきか的確なシグナルを発する。
問題はこれを人間に適応しようという発想ですね。人間の場合には安定したゲシュタルト的
世界を持たないんですね。これがフロイド派の精神分析の出発点です。言語的に構造化された
世界というのは、決して不変のものではない。何かの拍子に崩壊するのです。
80 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/01(日) 00:48:54
>>58 >前から読んでいて不思議なのですが、機械氏の"クオリア"というのは世間で言われている
>クオリア論と全く関係ないということなんでしょうか?
関係ない訳ではありませんが「クオリアという概念」が発見されて間もないので、「便乗組」
が、「自分の牽強付会策」として利用している節はあるようですね。
・・誰が便乗組であるか?誰が「真理への一里塚と見ている組」かは、判断がつきかねることは
判ります。
要は「便乗組」の「観念論的勘違い」に惑わされないこと・・が重要です。
「クオリア」という概念が「主観によって異なる」のでは、科学的概念として「クオリア」を
敢えて述べた人(正直言うと、名前は知りませんが・・)の「述べたことの真意」を裏切ること
になります。
82 :
考える名無しさん :2006/01/01(日) 03:20:00
いえ、貴方ほどじゃ・・
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 次でボケて!!! | |________| ∧∧ || ( ゚д゚)|| / づΦ
ことわる
>>79 こう言っては何だが、
おまいは分子生物学もゲシュタルト心理学も精神分析も、
何も理解していない。
知らないことは書き込まないほうがよいと思うぞ。
86 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/01(日) 16:56:44
男なら、ごたくの前にてめえの考えかけや!
87 :
考える名無しさん :2006/01/01(日) 19:28:19
88 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/01(日) 21:58:34
明けましておめでとうございます。
89 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/02(月) 00:03:35
>>88 グレゴリオ暦2006年、明けましておめでとうございます。
90 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 01:41:54
機械タン、今年も頑張って (o^・^)o chu !!
91 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/02(月) 01:49:36
>>90 「頑張る」つもりは全くありません。
「頑張る」必要性が(私には)無いからです。
92 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 02:12:21
決定してるわけねw
93 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/02(月) 02:29:01
ヒント 「機械的唯物論」者 がこのスレからでられないのは、 なぜでしょうか。
94 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 02:34:29
96 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 02:50:42
97 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 03:01:19
98 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 03:03:05
ぴかぁ〜の孤独を想うと夜眠れなくなる 本人気付いてないのが なお痛い こら、更正労働省!なんとかしろ
99 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 03:45:40
で?
100 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 04:03:53
で?
101 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/02(月) 08:58:43
>>75 >クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
そう定義すれば「語り得ない」・・・というか既に語っているのですが・・おいといて、
「遺伝子による進化上の経験」『だけ』で「クオリア」は形成されるのです。
胎児の頃から人間は「母親の腹の内外の音」を聴いており、(聴覚クオリア)
誕生後1〜2日で「まぶたが開く」前にも「外界の明かり」をまぶた越しに
「クオリア」として、「捉えて」おります。
102 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 11:13:51
ということは、母胎内での受精後のどこかで クオリアが発生するわけなのですね? となると、遺伝情報にはクオリア発生の情報が刻まれているはずです 発生生物学ではどうなのでしょうか?
あけましておめでとうございます。
>>102 希望に満ちたお話ですね(笑)。
104 :
考える名無しさん :2006/01/02(月) 15:02:17
あげましておめでとう
105 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/02(月) 21:35:34
>>101 生まれてからの経験はクオリアを変化させるのですね。
それはクオリア論に対して何の批判にもなってない気が^^;
107 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:05:27
>>105 クオリアは(それだけでは)如何なる「意味」でもありません。
クオリアとは「感覚器官と脳」が「意味」を作成する「素材」のことなのです。
「(ある)映画の『意味』(価値)」の素材は「一枚一枚のフィルム」ですし、
「(ある)音楽の『意味』(価値)」の素材は「一枚一枚の音符」です。
脳内に「(ある)意味」を作成するためには必ずその「素材」である
一枚一枚のフィルム、一個一個の音符という『「クオリア」が存在すること』が
『必要条件』となります。
新生児の脳内にも「意味」が生じており、それは新生児が「クオリア」が発生
する(為の)「感覚器官」と「脳」と「情報源である外界」という『三者全て』
を備えているからです。
108 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 00:14:01
>>107 生まれてからの経験はクオリアを変化させるのですね。
周りの人たちから、人の話を聞かないね、と言われませんか。
落ちつきましょう。
109 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:18:35
>>108 観念論者の「煩悩にまみれた知識」では「もはや理解不能」かも
しれませんが・・・
(感覚的)クオリアは基本的に「同じ」です。
幼児が見る「空の『青さ』」と老人が見る「空の『青さ』」は、
「同じ」・・・だということです。
110 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 00:28:29
>>109 それで良いのです。
くだらないレスでも、返答になっていることは、必要です。
>幼児が見る「空の『青さ』」と老人が見る「空の『青さ』」は、
>「同じ」・・・だということです。
こういうのは、クオリア議論以前、すなわち心脳論以前の
地点です。すなわち脳科学の勉強をすればわかるということです。
昔の「機械的唯物論」者の魅力はしろうとなのに、懸命に勉強し、
科学的事実知識を披露するところだったと思います。
勉強もせず、言いたい放題ですか、落ちぶれましたね。
111 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:34:23
>>110 「玄人」のぴかぁ〜さんにも判らないことが多すぎるようなので、
少し混乱されているようですね。
なまじ「クオリア」などという「新しいこと」に首を突っ込まないで、
(日本で言えば)江戸時代中期の「カント氏」の「物自体は認識できない」
とかの「観念論的念仏」に守備範囲を固定された方がよいのではないかと
思います・・・が。
112 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 00:35:00
モノは言い様やな 2ちゃんねるで付け焼き知識を披露しなくなったら落ちぶれて
>>110 過去ログ読むと、機械タンのどこをぴかぁ〜が気に入ってたかはわかるよ( ̄ー ̄)
そういえば機械=ぴかぁ〜だと言ってる椰子も多かったよ
114 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:40:11
>>113 観念論者さん達は、難しい本(実はわざと難しいように書かれた本)を、
「言語の壁」を超えて(長い時間を費やして)「解読する」・・という
「とてつもない偉業」を(個人的に)成し遂げてきた方々なので、
理論物理学が飛躍的に進化してしまった結果・・・彼らの「勉強」が、
全く「無意味になってしまった」ことは、相当に気の毒だとは思います。
115 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 00:43:42
>>111 いつからその手の前置きでレスがしめるようになってしまったので
しょうか、大変悲しいですね。
たまには初心に戻ってみては、
「幼児が見る「空の『青さ』」と老人が見る「空の『青さ』」は、
「同じ」か?」ということについて、
あなたの意見でなく、学者による科学的知見を調べ、述べてみてください。
116 :
無意味なわけがないのが分からんらしい :2006/01/03(火) 00:49:38
ところで科学者はなぜあんなにも社会科の成績が悪いのか。社会科が相当苦手みたいだが
117 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:51:58
>>115 ぴかぁ〜さんの「脳」では、既に「調べること」が「テツガクすること」
であることと「イコール」になっている・・・とは思いませんか?
「哲学」は「調べること」・・・辞書を引くこと・「外国の文献を調べること」
である・・・それが「当たり前である」と考えることは(日本の)「大学における
『哲学』」のことです。
日本の大学にもはや『哲学は産まれない』・・という前提をご存じででおっしゃって
いる「哲学」のことでしたら・・私はあまり興味を持つことは出来ません。
118 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 00:53:30
機械は正鵠を射てるな
119 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 00:55:17
>>118 有り難うございます。
本日は就寝させて頂きます。
120 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 01:01:51
>>117 くだらないご託ですね。
世の中の謎で、調べてわかることなど多くはないのです。
ほとんどは「哲学」的な空想の次元が語られる。
だらだからこそ、調べられることぐらいは、調べてみれば、
「幼児が見る「空の『青さ』」と老人が見る「空の『青さ』」は「同じ」か?」
という科学的な見解などの、簡単な質問も答えられないと、
「哲学」でもないでしょう、ということです。
まったくくだらない説教です。言っていて恥ずかしくなります。
それぐらい悲しいのです。落ちぶれぶりに・・・
121 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 01:04:47
>>120 >「幼児が見る「空の『青さ』」と老人が見る「空の『青さ』」は「同じ」か?」
についてはどう判断するの?間違っていると誰かが言ってるの?
122 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 01:05:18
>>121 それぐらい調べましょう。参加するなら。
123 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 01:41:42
自由意志が無いというほうがむしろ科学時代のホンネなんだろうけど、 これって社会的にヤバくね?
124 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 01:46:52
「なぜ世界に科学的秩序があるのか?」 「神がつくったから」 神はサイコロを振りませんから大丈夫ですよ。
125 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:01:46
サイコロを振らない完全な必然でしかないとすれば、人類史の中で起こってきた 身の毛もよだつような悲惨な出来事もまた必然であって、数々の残虐な所業もまた 全体の生成の経過の中で必然的に無くては成らないものであったということになる。 そこにはもちろん「人間が自らの意志で自らを改善しうる可能性」など全く無い。 法と刑罰における「被告の意思決定に基づく自己責任」の建前やこれいかに?
126 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 02:07:59
>>125 なわけがない。神が必然しか語らないなら、
信仰が成り立たない。
信仰はあくまで人間の自由意志の余地を残すものだから。
「おまえらがなにをしようがしょうがないよ。諦めな」とはいわない。
いわば神は必然を越えるということだね。
127 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:14:51
というかぴかぁ〜よ。 クオリアは自由意志問題に対してどう関係してくると思うのか? 物理的記述から完全にはみ出るということが即自由意志の実在に繋がるのか どうか? ここが俺にはまだイマイチよくわからんのだが?
128 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:37:01
1の言うとおり、意識はある種の刺激/反応の総体に過ぎないと言えるかもしれなん。 #脳は認識装置でしかないから、認識論的次元を超えられるず、ひいては存在論の次元を超えることが出来ない。」 #しかし君が確かに存在している。 #存在は必然ですか?
129 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:40:39
まさか今時量子論の「波束の収縮」なんてものを字面通り受け止める香具師 なんていないだろう。そして、非決定性、粒子の確率的な実在値の分布が 即自由意志、なんてことを本気で考えている香具師もいないだろう。という より量子論から自由意志問題を問うこと自体ナンセンスだろう・・。
130 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:43:34
刺激/反応だと・・? ばっかね〜のw おまい犬かよ
131 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:46:03
なぁ そんなことより誰か
>>127 に答えてくれ。
俺にはもうなにがなんだかわけわからんちんだぞ。
132 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 02:53:45
>>127 クオリアが心身(心脳)問題というのは、茂木もいっている。
それは良いとして、では自由意志をどこに担保するのか。
これはそれほど本質的な問題だろうか、と思うわけです。
心身(心脳)問題が不明確なのだから、自由意志はどこにでも担保できる。
たとえば身による科学的記述が非決定論であれば、その中に担保できる。
科学的に記述的できる自由意志はありえる。
心が言語の意味論であれば、その中に担保できないかもしれない。
たとえば言語という無意識によって操作されているかもしれない。
まず心身問題ではないのか、と思うのですね。
「自由意志」とはあまりに曖昧な言葉すぎると思うのですが、
いかが?
133 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 02:59:05
134 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:00:04
やっぱ論理的不完全さの隙間にある「かもしれない」という可能性の担保でしか ないわけだ・・。いつでもそうだなコレは。
135 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:08:33
実際、自由意志が無いとされるとどんな問題が起こり得るのよ?
136 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:13:23
>>133 おれは お前と違って人間よ、犬じゃない
ところでお前の名前、パブロフでいいんだよな?
137 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:25:38
人間だけが特別だとか勘違いしている時点で駄目だろw 進化論認めてないなら別だがw
138 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:30:13
犬も人間も仲良くしようや! で、もし自由意志が無いことが証明されたら何か問題でもあんの?
139 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:41:36
人間だけが特別な存在だと思えなくなる 類似例 ドイツ国民のみが優良人種であると思えなくなる
140 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:45:59
いやそれはあれこれ理由付けては特別やと思うやろ 同じ人間同士でも自分は特別に扱ってる訳やし 他にもあるのかな?
141 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:53:08
宗教屋、哲屋の飯の種が無くなる
142 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 03:56:59
そか、哲屋は深刻なんか でも神が死んでも宗教屋繁盛してるしそっちは大丈夫やろ
143 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 04:00:57
他はなんかあんの?
144 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 04:45:40
>>137 人間と犬の差異もわからないとは
さすがパブロフw
145 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 04:58:07
人間の活動もほとんどが反射です。 いつも頭で考えて、一つ一つの動作を行ってますか?
146 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 05:10:37
147 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 09:33:34
人間に自由意志がないならなぜ科学者はみんなをマインドコントロールできないのかな。2ちゃんですらこのありさま。
心が無いから、心の統制が無いと、これ以上なにを納得するとでも?
>>125 >法と刑罰における「被告の意思決定に基づく自己責任」の建前やこれいかに?
すべてが必然だとしても、被告の意思決定があることは変わりがない。
「自己のあり方=意思」だ。それが必然なら、刑罰も必然。何一つ問題なし。
>>107 > クオリアとは「感覚器官と脳」が「意味」を作成する「素材」のことなのです。
> 脳内に「(ある)意味」を作成するためには必ずその「素材」である
> 一枚一枚のフィルム、一個一個の音符という『「クオリア」が存在すること』が
> 『必要条件』となります。
これはウソでしょ。脳が主観に立ち現れている事物(以前の何か)を言語によって
分節化することによって個々の素材が形成されるという言い方が近い。
> 新生児の脳内にも「意味」が生じており、それは新生児が「クオリア」が発生
> する(為の)「感覚器官」と「脳」と「情報源である外界」という『三者全て』
> を備えているからです。
これウソでしょ。新生児にとって外界というのは存在しませんよね。いわゆる幼児的
自己中心性というのはウソで、自他未分化というのが新生児の状況です。
>>132 > それは良いとして、では自由意志をどこに担保するのか。
担保する必要があるか、ということだと思いますよ。例えば、精神分析で言えば、
ある思わずやってしまった行為が過去の経験から因果的に説明可能だとして、
それは自由意志じゃないと言えるのだろうか?ということですね。
実際、アメリカやそれを真似た日本の教育論で、俗流精神分析の影響で子供に
トラウマを与えないようにしたほうが将来神経症にならないだとか、早くから母親から
引き離すと自立するとか、そういった話が流行したことがあります。
これがオカシイのは、必然論というのは常に事後的に記述したものなんですね。
精神分析というのは、常に自己自身を事後的に記述することにより、ある無意識の
拘束を意識化するというものです。しかし、当事者として現在に生きる場合、それは
不可能なんですね。
つまり、人間は自由な主体として行為するが、必然的行為として記述可能だ、こういう
ことだと思います。刑罰などは前者の視点から人間を語るわけですし、そうしなければ
ならない。
>>150 嘘と断言できるだけの根拠がないですよね?
>これはウソでしょ。脳が主観に立ち現れている事物(以前の何か)を言語によって
>分節化することによって個々の素材が形成されるという言い方が近い。
音韻はともかくとして、少なくとも知覚に近い部分に関しては、
言語による影響は小さいとされているのでは。
色の分節が違うからといって、知覚の仕方が変わるわけではないという意味で。
サピアやウォーフの言語相対仮説は強いものとしては否定される傾向にある。
>これウソでしょ。新生児にとって外界というのは存在しませんよね。いわゆる幼児的
>自己中心性というのはウソで、自他未分化というのが新生児の状況です。
ピアジェシアンに対する批判で新生児の自他未分化というのがいわれる。
しかし、たとえば、身体イメージに関しては、新生児でも自他は分化している。
新生児自身の手をその子の頬につけた場合と、別の物体をつけた場合とで反応が異なる。
それどころか身体イメージに関しては、胎児期に成立している可能性もある。
そのイメージが胎児から新生児まで一貫したものかは別にしても、
単純に新生児の自他未分化はいえない。
別に実験的根拠がなければいけないと主張するわけではないが、
実証から遠く離れたことを主張するには、
あまりに根拠なり論証なりがなさすぎると思った。
今見つけたので、もうひとつ参考に >411 名無しさん@3周年 sage New! 2006/01/03(火) 12:11:46 ID:zEQ1uGkD >四十九日で違う人に転生するって事はそれ以降お線香をあげても無意味なんでしょうか? >あと三十日ってなんて読むんですか。 転生の有無に関わらず これ(線香をあげるかどうか)を無意味と言うか意味ありと言うか、も 自由意志があるかどうか、全ては決定しているのかどうか、 に対するスタンスとシンクロする・・w
>>152 > 音韻はともかくとして、少なくとも知覚に近い部分に関しては、
> 言語による影響は小さいとされているのでは。
> 色の分節が違うからといって、知覚の仕方が変わるわけではないという意味で。
ここでウソと言っているのは、言語的分節化以前に素材としての個々の事物が
あるという考えなんですね。例えば、個々の音符というのは平均律によって記述された
楽譜というテクノロジーによって出現するのであって、それ以前に音符なんか存在
しないわけです。言語以前の"知覚"とは?のっぺりとした、漠然とした世界の立ち現れ
でしかないでしょう。
> 単純に新生児の自他未分化はいえない。
それは完全に未分化というわけじゃないでしょうね。しかし、外界、感覚器官、新皮質による
分節化、これらの相互連動によって自己と世界、個々の事物といったものが生まれたときから
出来上がっているというのは明らかに間違い。
> 実証から遠く離れたことを主張するには、
> あまりに根拠なり論証なりがなさすぎると思った。
クオリア論というのは、人間の内部に安定した世界観が予め備わっており、それに従って
生きることが本来できるといった発想から出てきてますが、これは間違いということです。
そんな証拠はどこにも無い。
クオリア論というのは古来からの他者問題からきてることは明らかです。つまり、 自分と同じように隣の人は世界と出会っているのだろうか。もっと分かりやすい 話にすれば、恋愛している人間が相手が自分のことをどう見ているんだろうか? と気にしているときに、相手のアタマの中に触れたいという願望です。 これは、今までだったら愛の誓いをするだとか、様々な文化的機構によって 媒介されていた。今でもマスメディアというのは、基本的に他者にとっての世界 という役割なのであり、自己の世界というのは同時に他者によって承認された 世界でなければならないという欲望故に成立している媒介です。 ところが、脳科学などが進歩すると、ひょっとするとそういう媒介なしに、直接 相手の主観を自らの主観として体験可能かもしれない。或いは第三者的に 測定可能かもしれない、こういう話が出てくる。クオリア論はその一つだと思います。 恋愛対象が自分のことをどう考えているかが、ニューロン発火状態を見ることで 自分が相手にどのような"クオリア"として成立しているかが分かる。分かりたい。 こういうことじゃないでしょうかね。そして、これは必ず失敗するのです。
157 :
152 :2006/01/03(火) 12:54:06
>>155 >ここでウソと言っているのは、言語的分節化以前に素材としての個々の事物が
>あるという考えなんですね。
つまり、認識にはすべて、平均律のようなシンボリックなものが介在している、
ということを主張しているということ?
>のっぺりとした、漠然とした世界の立ち現れでしかないでしょう。
すみません、「のっぺり」「でしかないでしょう」で何がいいたいのかわからない。
のっぺりということが、言語的なものの介在がないという主張にとって、
どういう意味で不利なことなの?
俺は完全にそんなものがないといいたいわけじゃないし。
挙げてくれた音符の認識は、言語てきなものの介在のすごく適切な例だと思うけど、
すべての音の認識にそのような平均律があること(どの音の認識ものっぺりしていないこと)を、
もう少し突っ込んで話してほしい。
>それは完全に未分化というわけじゃないでしょうね。しかし、外界、感覚器官、新皮質による
>分節化、これらの相互連動によって自己と世界、個々の事物といったものが生まれたときから
>出来上がっているというのは明らかに間違い。
「生まれたときから出来上がっている」ことが間違いということには賛成です。
>クオリア論というのは、
俺にとってはクオリアはどうでもいいですが、
俺も安定した世界観が人間のうちにあるという仮定には反対です。
>>156 クオリア論は、「ニューロンの発火構造とクオリアの関連性を
前提にして相手の主観を把握しようとする作業仮説」ですね。
したがって、クオリア自体が主観的に定義されているからと言って、
科学の方法論かによって強硬に排除されるものではありません。
作業仮説において、このような「非実証的前提」が含まれているの
は、むしろ一般的だとも言えます(例えば、原子論が作業仮説だった
時代には、「原子は存在するけど観察できない」という有用な非実証的
前提が用いられています)。問題なのは、前提をあたかも証明された事柄
のように扱うこと、あるいは、仮説を結論として扱うことです。
そのような作業仮説に対して、十分な根拠無しに「できない」というのは、
これも一種のカルト的論法だと思います。
>>158 しかし、疑似科学も反証可能性の無い理論を扱ってる。
その辺はどういう基準で区別されるんだ?
160 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 14:11:01
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
161 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 14:11:44
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
162 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 14:13:30
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
>>159 「疑似科学が反証可能性の無い理論を扱っている」というのは
ある意味で疑似科学の過大評価です。普通、疑似科学には、
理論そのものが無い場合が多いんです。
例えば、UFO研究を考えて見ましょう。
この点、UFO研究=疑似科学というのはこれも極端な飛躍で、
「個々の未確認物体が宇宙人の乗り物かどうかを確かめる」
という研究には、十分に反証可能性があります。
ところが、これをやる人はUFO研究者で極めて少ないわけです。
たいてい「UFO=宇宙人の乗り物」という前提を「証明されたかの
ごとく扱う」か、あるいは、「現代技術で正体が分からないものが
ある→宇宙人の乗り物だ」という風に論理が飛躍します。
このような先入観と論理飛躍を為す人に、いくら反証可能性を
説明しても意味が無い。なぜなら、そこにはそもそも理論を構築
しようとする態度が無いからです。そして、こういう人は、一見して
偽者と分かる写真や証言でも、信じてしまうことが多いのです。
164 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 14:17:19
だからクオリア以前は?認識機能を持った有機生命体だけに限っての事柄だろ うそれは?
165 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 14:18:30
>>157 > つまり、認識にはすべて、平均律のようなシンボリックなものが介在している、
> ということを主張しているということ?
そうです。
> のっぺりということが、言語的なものの介在がないという主張にとって、
> どういう意味で不利なことなの?
不利というよりは、
> 「生まれたときから出来上がっている」ことが間違いということには賛成です。
> 俺も安定した世界観が人間のうちにあるという仮定には反対です。
ということになる。動物の場合、生まれた後の学習というのは確かにあるが、
基本的な世界認知構造は遺伝子レベルで規定されている。人間の場合、
超未熟児で生まれるということもあり、そこが殆ど破綻しているに等しい。
世界の事物は言語的に形成され、それは新生児には存在しない。
クオリア論というのはそこの説明が逆さまです。大人の認識感覚を誕生時点から
あるかのごとく語ろうとしている。ニーチェの言う、"遠近法的倒錯"というものです。
167 :
考える名無しさん :2006/01/03(火) 14:35:27
そうかな?
>>158 > そのような作業仮説に対して、十分な根拠無しに「できない」というのは、
> これも一種のカルト的論法だと思います。
しかし、クオリア論というのは
>>163 > ところが、これをやる人はUFO研究者で極めて少ないわけです。
> たいてい「UFO=宇宙人の乗り物」という前提を「証明されたかの
> ごとく扱う」か、あるいは、「現代技術で正体が分からないものが
> ある→宇宙人の乗り物だ」という風に論理が飛躍します。
クオリア=人間の主観的認識構造の基本要素という前提を「証明されたかの
ごとく扱う」わけです。
そもそも、人間の主観的認識構造が単体の脳構造によって解明できるという
発想がおかしい。主観とは他者との関係なしに存在しない。人間はヘーゲルが
言うように最初から"疎外"された状態でしか自己認識ができないわけで、
「相手の主観を把握する」という命題は成立しないんですよ。
>>156 の最後に
"必ず失敗する"と述べたのはそういうことです。そういう問いを問うてしまう構造を
問題にすべきで、この問いの回答を出そうとするのは間違いってことです。
例えば、禅問答では先生の答えに一貫した答えをしようとすることが不能な内容の 問いが発せられる。他者の気持ちを知ろうというのはそれと同じです。回答が必然的に 不在となるような問いが何故発せられてしまうのか、悟りとは問題に的確に回答する ことではなく、問題設定そのものの解消のことを指す。
>>168 前スレの最後に書いた話ですが、犬の心は知りえません。
また、人間の認識構造が犬の認識構造と違うということも知りえません。
しかし、「犬は白黒の世界に住んでいる」という命題は、特に拒絶され
ないわけです。論理的にはおかしいにもかかわらずです。しかも、
このように説明されることが、犬の心を把握する(≠知る)ことには
役立ちます。
これは、合理的な推理のレベルで話が進んでいるからだと思います。
つまり、「知り得ない」=「実証できない」という時点で諦めるか、
「合理的に推理することは可能だ」と考えるのかの違いです。そして、
前者がどんなに実証的で正しいとしても、後者を用いなければ、
日常生活は成立しません。
また、素粒子と同じように、ニューロン構造の解明によって、人間の
行動の予測精度が向上するようならば、これも有用なわけです。
クオリア論とは、そういうレベルの話(非実証的だが、合理的に排除
されるわけでもないレベルの話)だと考えています。
171 :
152 :2006/01/03(火) 15:42:43
>>166 >ということになる。動物の場合、生まれた後の学習というのは確かにあるが、
>基本的な世界認知構造は遺伝子レベルで規定されている。人間の場合、
>超未熟児で生まれるということもあり、そこが殆ど破綻しているに等しい。
>世界の事物は言語的に形成され、それは新生児には存在しない。
同じことが繰り返されているだけで、そのテーゼに行き着く行程がまったく見えない。
3点。
第1、前半の動物観に関しては、ちょっと待てよという感じです。
ラカンのもとづいている動物データからまったく変わっていない。
遺伝子にも、生態学的環境にも帰することのできない行動上のバリエーションがあることは、
動物における遺伝子決定論と単純な学習だけでは説明できない(いわゆる動物の“文化”)。
基本的な認知的構造が遺伝子的に決定されているなんて断言できない。
「基本的な認知構造」で具体的に何を指しているかにもよりますが。
しかし、問題は次の第2、3点なので、動物は今はどうでもいいです。
第2、超未熟児というのはいいすぎで、最近の発達心理学では、
それほど未熟ではないという実験結果が多いでしょ。
大雑把にまとめすぎてすまんけど。
少なくとも、(ラカンがいうような)未熟児説が、
それほど未熟じゃないよ説に比べて正しいとする証拠は何もない。
第3、「世界の事物は言語的に形成され」について、
すべての認識に平均律状のものがかかわってくる根拠は?
むじんくんが悪いんじゃなくて、こっちの頭が悪いの。
ラカンの鏡像段階がギリギリの俺にとっては、
そこは論理の飛躍に見えてしまうだけなので、説明がほしい。
俺が求めた説明があれば、クオリア論の逆さまがいけない理由の説明にもなると思う。
クオリア論の逆さまがいけないといっても、どうしていけないのかわからない。
ニーチェをもちだしても、問題を言い換えているだけで、説明になってない。
>>170 背後に常識が控えてるっことか?
まあ、日常生活では常識が控えてるのは当然でもあるが。
173 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/03(火) 16:00:16
>>150 >> クオリアとは「感覚器官と脳」が「意味」を作成する「素材」のことなのです。
>> 脳内に「(ある)意味」を作成するためには必ずその「素材」である
>> 一枚一枚のフィルム、一個一個の音符という『「クオリア」が存在すること』が
>> 『必要条件』となります。
>これはウソでしょ。脳が主観に立ち現れている事物(以前の何か)を言語によって
>分節化することによって個々の素材が形成されるという言い方が近い。
言語を持たない動物(の脳)にはクオリアは存在しない?
あるいは、一見「言語を持たない」動物も、「言語様のモノ」を持っている?
・・・どちらも「明らかに間違い」です。
>> 新生児の脳内にも「意味」が生じており、それは新生児が「クオリア」が発生
>> する(為の)「感覚器官」と「脳」と「情報源である外界」という『三者全て』
>> を備えているからです。
>これウソでしょ。新生児にとって外界というのは存在しませんよね。いわゆる幼児的
>自己中心性というのはウソで、自他未分化というのが新生児の状況です。
では人間はいつ『自他未分化』ではなくなるのですか?他者の顔を見分けて笑った瞬間ですか?
幼稚園に入園したときですか?それとも、思春期の「自我の目覚め」ですか?
>>172 常識と言うより日常的経験ですね。
アキレスと亀の話と同じです。
アキレスと亀の話は、極限の概念ができるまで理論上は論破できません。
しかし、実際に歩いてみるとできるわけです。
心の問題も似ていて、いくら「相手の心は分からない」と言ってみたところで、
実際はコミュニケーションが可能です。
私はここに興味があります。
言い換えれば、他我問題を哲学的に解消しても、 コミュニケーションの問題は現実に残るということ ですね。
176 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 16:41:21
心身問題は、哲学が語り得ぬものとあぼーんしてしまったのに 対して、科学が懸命に語ろうとしている、よって 哲学の焼き回しであろうが、クオリアには意味がある。 もはや語るのは、科学だけなのだ。
>>176 クオリアとやらに、科学的にどんな意味があるというんですか?
178 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:49:44
>>178 よくわかりません。
もうすこし、具体的に説明願えませんか?
180 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 18:13:48
>>179 科学的に到達できず、哲学的に「語り得ない」とされるものの
位置を「あえて」名付けて、在処を明確にした。
「名付け」というある意味で、形而上学は、
次の脱構築の動力となる。人間の特性、旗があると目指したくなる
ということですね。
茂木のマニフェストにも似たようなことが書いてあったと思います。
>>180 >科学的に到達できず、哲学的に「語り得ない」とされるものの
>位置を「あえて」名付けて、在処を明確にした。
どうも抽象的でわかりかねます。
「科学的に到達できない」、とういのは、例えば、どういうことですか?
実際に行われている科学において、「到達」というのは、
どのようなことに該当するのでしょう?
>>170 > このように説明されることが、犬の心を把握する(≠知る)ことには
> 役立ちます。
犬でも構わないんですけど、心が個体のどこかにあるという考えが錯覚であって、
心というのは既に社会的なんですね。
例えば、他者の心を知るという話の前に、自分の心を知ることができるか。そもそも
自分がどう感じ、どう考えているか知っているか。突き詰めるとこれもよく分からない。
ヘーゲルなんかは主人と奴隷の弁証法なんかでそこを説明するわけですね。私と
いうのは他人であった、と。
> クオリア論とは、そういうレベルの話(非実証的だが、合理的に排除
> されるわけでもないレベルの話)だと考えています。
なので、マッチポンプのような話です、クオリア論は。そういうマッチポンプな問いを発して
しまうような構造を問いにかけるべきだと思いますよ。それが仰っている"日常"というものの
解明であり、人工知能が可能かどうかはその辺にヒントがあるんじゃないか。
クオリア論と人工知能開発は関係ないでしょう^^;
あと、むじんさんが私に何を言いたいのかよく分からないです^^; 私は「非論理的にもかかわらず有用な考え方というものがなぜかある」 ということを言ってるんであって、「心が固体の中にある」というのが真だ と言ってるわけではないです。それも非論理的だけどなぜか有用なので、 興味深いことではあるのですが。 例えば、脳の刺激⇔反応という科学的実験の最中でも、科学者はそこに 「相手の心を探っている」という意識があると思います。これは、「素粒子の 心を知りたい」という湯川さんの話なんかにも繋がります。 でも、これは論理的に突き詰めていくとおかしいな、と思うわけです。しかし、 それにもかかわらず、そういう論理的におかしな思考が、ある科学者にとって 研究の動機や発端になってるというのが、私には面白いんですね。 私は科学の方法論よりも、個々の科学者の態度に興味があります。
>>171 > 第1、前半の動物観に関しては、ちょっと待てよという感じです。
いや、人間との比較においての話、です。程度問題だとは思いますよ、仰るように。
人間の場合には、
> 第2、超未熟児というのはいいすぎで、最近の発達心理学では、
> それほど未熟ではないという実験結果が多いでしょ。
この点になりますが、やはり文化的なもののウェイトが人間の場合には遥かに大きい。
"それ程未熟じゃない"という中身がよく分かりませんが、大日本帝国万歳を叫んで
特攻隊に参加するような発想を生まれつき持つわけじゃない。つまり後天的な、社会的
状況などで抑制されてしまう程度の"本能"しか持たない。
> 第3、「世界の事物は言語的に形成され」について、
> すべての認識に平均律状のものがかかわってくる根拠は?
それは単純なことで、机の上にコップがある場合、"机"と"コップ"が分割されて見えるのは
言語が介在しているからですね。友人でアフリカ旅行して、あまり動物園化してないサバンナ
に行ったときのこと聞いたんですが、都市にいるのと違ってただ単に平原にいるという感じで
ものすごく開放感があったと。これは都市というのは全部意味づけされてますけど、サバンナ
ではそういう概念構成が無くなるからでしょうね。しかし、おそらくそこを道案内した現地のガイドは
ちゃんと分節化されているんです、そういうサバンナでも。
> クオリア論の逆さまがいけないといっても、どうしていけないのかわからない。
> ニーチェをもちだしても、問題を言い換えているだけで、説明になってない。
いけない理由は間違いだということもありますが、例えば差別というのがありますね。ヨーロッパでは
ユダヤ人問題などが。これを、ユダヤ人という言葉によって表象される差別的イメージというのはクオリア
であると。クオリアは言語以前の質感であると。どうなるかというと、ユダヤ人というのは確かに存在するんだ。
そういう嫌な連中が確かに自分の外側にいるんだ。だから差別して当然である。こういう発想につながる。
>>185 >いけない理由は間違いだということもありますが、例えば差別というのがありますね。ヨーロッパでは
>ユダヤ人問題などが。これを、ユダヤ人という言葉によって表象される差別的イメージというのはクオリア
>であると。クオリアは言語以前の質感であると。どうなるかというと、ユダヤ人というのは確かに存在するんだ。
>そういう嫌な連中が確かに自分の外側にいるんだ。だから差別して当然である。こういう発想につながる。
むしろ、逆ですね。
クオリア的前提から説明するならば、「ユダヤ人」という言葉によって表象される
差別的イメージは、単なる脳内現象に過ぎない、単なるニューロンの発火から
生じるものに過ぎない、ということです。「ユダヤ人」が自分の外にいるわけでは
ないのです(「表象」は「物自体」ではないということの再確認でもあります)。
これは、「ユダヤ人」なるものは本当は存在しないはずなのに、「ユダヤ人」という
一言で意思疎通が図れてしまうことの簡明な説明になるかもしれません。ただ、
これは明らかに実証性が無い話ですけれども。
面白いのは、クオリア論が従来の認識論の枠組みから全然 外れていないという点です。つまり、物自体があって、我々は それを認識しており、我々が現に見ているのは表象である、と。 その時、物自体と表象の間に色々なプロセスが挟まれるわけ ですが、クオリア論は端的に脳の活動であるとしてしまう。 ということは、クオリア論に対しては、従来の批判が、全部 当て嵌まることになると同時に、このような古典的な枠組みから の再挑戦でもあります。 このへんはむじんさんが指摘されるとおりですね。
>>184 > あと、むじんさんが私に何を言いたいのかよく分からないです^^;
> 私は「非論理的にもかかわらず有用な考え方というものがなぜかある」
> ということを言ってるんであって、「心が固体の中にある」というのが真だ
> と言ってるわけではないです。それも非論理的だけどなぜか有用なので、
> 興味深いことではあるのですが。
いや、その点のことを書いているつもりなんですけどね(笑)。
日常生活のことを仰ってましたけど、個々人が日常生活においてコミュニケーションが
可能なのは不思議である。可能であるということはそこに何がしかの共通感覚があるんじゃ
なかろうか。これが例えばクオリア論だったりする。
しかし、これは話が逆さまだろうということです。まずコミュニケーション可能な日常生活しか
人間はしないんです。例えば、私的言語は存在し得るか、そんなものは無い。だとすると、
我々は最初から社会的である。個人の心というのも既に社会的である。
そこを、コミュニケーション可能であるということは、それを成立させている共通観念が外的に
存在するのだ、という方向へ話を持っていくと奇妙なことになるのであって、それはマッチポンプ
だということですね。
>>188 >日常生活のことを仰ってましたけど、個々人が日常生活においてコミュニケーションが
>可能なのは不思議である。可能であるということはそこに何がしかの共通感覚があるんじゃ
>なかろうか。これが例えばクオリア論だったりする。
ええ、そういう風な立場の人も多いと思います。
>しかし、これは話が逆さまだろうということです。まずコミュニケーション可能な日常生活しか
>人間はしないんです。例えば、私的言語は存在し得るか、そんなものは無い。だとすると、
>我々は最初から社会的である。個人の心というのも既に社会的である。
「コミュニケーション可能な日常生活しか人間はしない」ということは、共通感覚の
不存在の証明になっていません。むしろ、「コミュニケーション可能な日常生活が
なんで可能なのか」ということで、前者の問いに戻ってしまいます。
また、私的言語が存在しない、というのは、まだ、どちらとも言えないと思います。
特に、クオリア論と私的言語とは、「クオリアは少なくとも自分には語り得るのか」
という問題の解決と関係してくるように思います。私的言語が可能なら、クオリア
も少なくとも自分には語りえるものとなります。
そもそも、「共通感覚のようなものはあるのか?」という問いは、 実証的には答えられませんね。むしろ、「ある」という前提と、 「ない」という前提から出発するしかない。 しかし、それを解消しなければならない理由も無いわけです。 「ない」ということも、問いの解消と言うよりは「消極的な答え」に 近いでしょう(「ある」という前提で考えるのと同根です)。 問題なのは、「ある」と答えると「じゃあどこにあるんだ?」という ことになり、「ない」と答えると「じゃあ何でコミュニケーション可能 なのか?」ということになります。これはどちらも厄介な問いです。 クオリアは、「ある」ことを前提にした上で、ひとつの仮説を立てて みたものだと考えています。この作業仮説に対しては、まだ何も 言えないでしょう。しかし、哲学的に新たな問題が加えられていない ということは、既に何度も書いてきたことです。
>>186 > むしろ、逆ですね。
> クオリア的前提から説明するならば、「ユダヤ人」という言葉によって表象される
> 差別的イメージは、単なる脳内現象に過ぎない、単なるニューロンの発火から
> 生じるものに過ぎない、ということです。「ユダヤ人」が自分の外にいるわけでは
> ないのです
私はこのページの記述をもとに"クオリア"を想定してますが、ちょっと違いませんか?
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html 明らかに"はじめにクオリアありき"という話ですよね、これは。書かれている内容に
ついて言えば、そういうニューロン発火をするのはクオリア形成のための必然的な過程なのだと。
>>191 私は茂木さんのクオリア論に与する立場ではありません。
>>189 >>190 コミュニケーションが可能か否か。これは仰るように実証不能だと思います。しかし、
そもそもこの問いの立て方自体が問題あるんじゃないか。これが私が"解消"と言っている
ことなんですね。
コミュニケーションの問いのはじめには、何故か個人の主観があり、それが他者の主観と
同意できるかどうかという話になる。しかし、そもそも個人の主観というものがあるか。
コミュニケートを目指す他者というのは何なのか。
例えば、子供なんかだとすぐに友達とか大人の真似しますよね。本人はそう"したい"と言う
わけですが、これは個人の主観なのか。何を言いたいかというと、個人というのは
既に他人との関係上の存在である。その関係を規定しているのは、精神分析の用語で
言えば欲望です。個人が他者と関係するのではなくて、最初から関係しか存在せず、その
関係のことを精神と呼んでいる。
だとしたら、関係を規定するクオリアのようなものを想定するのはナンセンスです。精神とは
関係のことなんですから。個人が他者とコミュニケーションをするための基底というものを
想定する必要は無い。
>>192 > 私は茂木さんのクオリア論に与する立場ではありません。
そうですか(笑)。だけど、この人が発端なんじゃないんですか?ちょっと用語の
意味が混乱してて、殆ど使用する意味ない気がしますね(笑)。
>>193 >コミュニケーションの問いのはじめには、何故か個人の主観があり、
>それが他者の主観と 同意できるかどうかという話になる。しかし、
>そもそも個人の主観というものがあるか。 コミュニケートを目指す
>他者というのは何なのか。
独我論的には他者は世界に不存在ですね。
つまり、他者の心はこの世界には存在していないということです。
しかし、面白いことに、この独我論的世界の中には、私も不存在です。
なぜなら、世界の中には、私の心も存在しないことになります。
あなたが仰るように、他者が存在しない限り私は存在しない。
しかし、それでも問題の立て方はおかしくないと思います。
第一に、「関係はどこから来るのか?」と問うことが完全にナンセンスで
あるとは思えません。
第二に、私と他者を消去しても、言語か、あるいは、現象か、どちらかが
残ると思います。つまり、思考か、あるいは、世界ですね。これの根拠を
探求することに意味が無い、ということはないと考えます。
もうひとつ言えるのは、他我問題ではなく、閉鎖的な自己心身論に 持ち込まれると、反論が非常に難しいということです。つまり、私の 脳に電極を繋いで、一定の現象が起きる、そして、それがどうも私の ニューロン発火パターンと対応しているらしい、ということが分かった ならば、これはどう考えたらいいのか、ということです。
>>173 > 言語を持たない動物(の脳)にはクオリアは存在しない?
> あるいは、一見「言語を持たない」動物も、「言語様のモノ」を持っている?
> ・・・どちらも「明らかに間違い」です。
動物は種ごとに意味づけを持った世界構造=クオリア集合を持つでしょうね。人間の
場合には言語によって規定されていて、重要なのはそれは遺伝子レベルで規定された
ものではない。
> では人間はいつ『自他未分化』ではなくなるのですか?他者の顔を見分けて笑った瞬間ですか?
> 幼稚園に入園したときですか?それとも、思春期の「自我の目覚め」ですか?
言語習得が一つのポイントじゃないでしょうか。次は所謂青年期だと思います。
>>195 > 第二に、私と他者を消去しても、言語か、あるいは、現象か、どちらかが
> 残ると思います。つまり、思考か、あるいは、世界ですね。これの根拠を
> 探求することに意味が無い、ということはないと考えます。
そこです。つまり、リアリティは何か?ということだと思いますが、マルクスはそこで
経済的下部構造ということを言うんですね。「哲学者を神秘主義へと導く神秘は、
“社会的”生活のなかにひそんでいる」と。
今のところ、私はこの言葉を超えるものは無いと考えてます。クオリア論の
ような"共通意味"を想定してしまうと、現状肯定で終わってしまうんですね。
何も分かったことにならない、クオリアという言葉で言い換えているだけで。
>>196 > これはどう考えたらいいのか、ということです。
おっしゃるようなことは、デカルトの懐疑と等価ですね。デカルトはそこで
「どうも私のニューロン発火パターンと対応しているらしい」と語る主体は確実に
"在る"とした。その後、じゃあその発火パターンが外界の状況と対応している
ことをどこで保障するのか?と進むわけですが、そこで神を持ち出してきて
保障済みとする(笑)。
>>198 >そこです。つまり、リアリティは何か?ということだと思いますが、マルクスはそこで
>経済的下部構造ということを言うんですね。「哲学者を神秘主義へと導く神秘は、
>“社会的”生活のなかにひそんでいる」と。
>今のところ、私はこの言葉を超えるものは無いと考えてます。クオリア論の
>ような"共通意味"を想定してしまうと、現状肯定で終わってしまうんですね。
>何も分かったことにならない、クオリアという言葉で言い換えているだけで。
言い換えるというよりも、実験手法を模索する段階だと思います。それは、
デモクリトス型の原子論のみでは、世界を「水」「空気」「ト・アペイロン」と
言い換えるのとほとんど変わらないのに似ています。原子論は、いくつか
の実験手法と結び付いて初めて、他のアレテー論から次の段階へ移行
できます。
クオリアが「単なる他我問題・心身問題の言い換え」で終わるか、それとも、
次のステップへ進めるかはまだ分からないと思います。この段階で、思弁的
に否定するのは危険です。
>>196 > つまり、私の脳に電極を繋いで、一定の現象が起きる、
アイソレーションタンクというのが昔ありました。ジョン・リリィだったかな。ちょっと
風変わりな人が考案したもので、人間と同じ比重で体温と同じ温度の液体の入った
タンクに入る実験です。器具が触れるところはあるので、完全とはいえませんが、
外界からの刺激を遮断した状態にすることができるわけで、そのときに脳がどのような
反応をするのだろうか、というものです。
リリィは色んなドラッグを服用したりしてこのタンクに入るんですが、宇宙人だか何か、
とにかく別世界の存在とコンタクトを取ったと言ってたと思います(笑)。これをどう考えるか。
やはり反証不能なんですね。
臨死体験の話も似てます。脳のある部分を刺激すると、臨死体験で共通して見られるような、
幽体離脱であったり、光を見るといった体験をする。しかし、これは実際に光を見てないと
いえるのだろうか。実際にあの世との通信をするための器官が脳にはあるんじゃなかろうか、
これも反証不能だと思います。
>おっしゃるようなことは、デカルトの懐疑と等価ですね。デカルトはそこで >「どうも私のニューロン発火パターンと対応しているらしい」と語る主体は確実に >"在る"とした。その後、じゃあその発火パターンが外界の状況と対応している >ことをどこで保障するのか?と進むわけですが、そこで神を持ち出してきて >保障済みとする(笑)。 ええ、結局、哲学的には古典的枠組みに収まるということですね。 しかし、一度破綻した理論でも再挑戦の機会は保障されます。 「一度破綻した理論と類似だからこれも破綻している」というのは、 論理的な飛躍では無いでしょうか。 少なくとも、私たちはまだ学問の発展段階にいるのであり、様々な 可能性を留保する必要があると思います。
>>200 いえ、それは他我問題なんですね。
リリィさんの脳に電極を繋いで報告させたのでは、意味が無い。
閉鎖的な心身論では、まさにこの私の脳に電極を繋いでみないと
いけないわけです。これは、前スレで面白い議論がありました。
つまり、知識の共有を一旦無視したらどうなるのか、ということです。
私的言語の問題でもあります。
前スレの346です。
以前確かクオリアは私的言語にすぎない、とかいうレスがありましたよ。
>>189 >私的言語が可能なら、クオリアも少なくとも自分には語りえるものとなります。
これはどういうことでしょう?
>>199 > クオリアが「単なる他我問題・心身問題の言い換え」で終わるか、それとも、
> 次のステップへ進めるかはまだ分からないと思います。この段階で、思弁的
> に否定するのは危険です。
人間の主観的認識をニューロン発火で記述するといった話は別に否定してません。問題は、
そのニューロン発火がある固定した、必然的なものであるという想定をすることです。それは
神秘主義ですよ、ということですね。どこで間違うか、社会性という点を無視するとそうなると
いうことです。
>>201 > しかし、一度破綻した理論でも再挑戦の機会は保障されます。
> 「一度破綻した理論と類似だからこれも破綻している」というのは、
> 論理的な飛躍では無いでしょうか。
私はデカルトの論は今でも有効だし、全く破綻してないと思います。彼のコギトというのは
心理的主観じゃないんですね。特定の人称代名詞に還元できないんです。また、神を持ち出した
ということも全く正当だと思ってますよ(笑)。評判悪いですが、それ以外ないだろうと思います。
>>203 クオリアは主観的なものですから、私の「痛み」について語り得る
のは私に対してのみだと思います。しかし、これは、私的言語の
問題とまったく一緒では無いでしょうか。
つまり、「あなたたちには分からないが、私の「痛み」がある」なんて
自分自身に言うことが可能なのかと。
これは、クオリア=私的言語だとするとますます当て嵌まると思います。
>>204 >人間の主観的認識をニューロン発火で記述するといった話は別に否定してません。問題は、
>そのニューロン発火がある固定した、必然的なものであるという想定をすることです。それは
>神秘主義ですよ、ということですね。どこで間違うか、社会性という点を無視するとそうなると
>いうことです。
これは何を仰ってるのかよく分からないですね。
>私はデカルトの論は今でも有効だし、全く破綻してないと思います。彼のコギトというのは
>心理的主観じゃないんですね。特定の人称代名詞に還元できないんです。また、神を持ち出した
>ということも全く正当だと思ってますよ(笑)。評判悪いですが、それ以外ないだろうと思います。
私はラッセルの『哲学入門』における批判が妥当だと思います。
デカルトは余計なことを仮定している、つまり、「私はコップを見ている」ので
はなく、「コップが見られている」と言う方が正確である、ということだと思います。
この点についてまでデカルトが配慮していた考えるのは、史料上の根拠が
ちょっとなさ過ぎますし、デカルトが何を考えてたなんかはもはや藪の中です。
207 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:06:20
>>194 >>192 >> 私は茂木さんのクオリア論に与する立場ではありません。
>そうですか(笑)。だけど、この人が発端なんじゃないんですか?ちょっと用語の
>意味が混乱してて、殆ど使用する意味ない気がしますね(笑)。
私は決して「一言」さんに組するつもりはありませんが、むじんさんがあまりに
典型的に「アカデミズム観念論」に浸かりすぎているので、「一言」(さんは別人ですが)
茂木さんは、「クオリアの発見者」ではありません。従って、
アメリゴ・ベスプッチかクリストファー・コロンブスかどちらかが「発見」した
「アメリカ大陸」が、「ベスプッチかコロンブス」の許可なく「論じてはいけない」という
論理は「間違い」だと思います。
ましてや、茂木さんは「発見者」でもありません。「単なる翻訳者・紹介者」であることを
忘れておりませんか?そういうことも「しっかり検証する」態度こそ「哲学」なのです。
208 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:13:54
>>205 >これは、クオリア=私的言語だとするとますます当て嵌まると思います。
クオリアは言語発生の「遙か前」(10の3乗年くらい過去)から、(「進化」の過程で)
動物の「脳」に発生していた現象ですので、「言語」は「クオリア」を原因として発生した
「新たな適応能力」である・・と考えるべきであり、その逆では(けして)ありません。
>>206 > >神秘主義ですよ、ということですね。どこで間違うか、社会性という点を無視するとそうなると
> >いうことです。
> これは何を仰ってるのかよく分からないですね。
新皮質の細胞は成長過程で当然変化しますね。回路が形成される。それは何に従って
行われるか、社会によって規定されます。
ですから、ある概念的刺激があってニューロン発火があっても、意味の問題に関して何かが
明晰になったかというとなってない。そこを、何かクオリアなるものによって必然的に規定されて
いるとなると、それは神秘主義ですよということです。
> デカルトは余計なことを仮定している、つまり、「私はコップを見ている」ので
> はなく、「コップが見られている」と言う方が正確である、ということだと思います。
これはちょっと分からない(笑)。
210 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:15:38
>208の訂正です。 10の3乗年くらい過去→10の5乗年くらい過去
>>207 > ましてや、茂木さんは「発見者」でもありません。「単なる翻訳者・紹介者」であることを
> 忘れておりませんか?そういうことも「しっかり検証する」態度こそ「哲学」なのです。
そうですか。知りませんでした(笑)。しかし、どうも用語の意味が混乱しているようで困ったもの
だなぁと。どこか分かりやすいページはありますか?
あとですね、
>>208 > 動物の「脳」に発生していた現象ですので、「言語」は「クオリア」を原因として発生した
> 「新たな適応能力」である・・と考えるべきであり、その逆では(けして)ありません。
茂木さんの論に近いと思いますが(笑)。
212 :
203 :2006/01/04(水) 00:17:32
>>205 実は私的言語ってよく知らないんです。
よくクオリアは言葉にできないとか言われてるんですが、それが私的言語によって可能になるというところに興味を持ったのでレスつけてます。
その点理解してもらった上で説明いただけると助かります。
>クオリアは主観的なものですから、私の「痛み」について語り得るのは私に対してのみだと思います。
俺の理解では何かについて語り得るか語り得ないかはそれが言葉にできるかどうかの違いによるもので、
相手が私だろうが他人だろうが変わりはないと思うんですが。
213 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:22:19
>>209 >社会によって規定されます。
>(中略)そこを、何かクオリアなるものによって必然的に規定されて
>いるとなると、それは神秘主義ですよということです。
社会によって規定されていると断言するならば・・・「社会というもの」が
「環境によって発生するクオリア」一種として「個体の脳に立ち顕れる」・・
・とはお考えになれないのですか?
214 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:23:52
>>211 >茂木さんの論に近いと思いますが(笑)。
では、「正しい」ということですね。反論は出来ないと思います。
215 :
203 :2006/01/04(水) 00:26:05
そういえば茂木さんで思い出したけど美濃正さんに 「クオリアなんて怖くない クオリア・マニフェスト(哲学ヴァージョン)」 て奴があった。読んでみたい。
>>213 > ・とはお考えになれないのですか?
考えられませんね(笑)。だとしたら、人間は動物と同じように矛盾無く暮らしているんじゃない
でしょうか。実際は違いますね。あと、文化的相違を説明できないです。
217 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:27:36
>>211 >どうも用語の意味が混乱しているようで困ったものだなぁと。
あなたが「アカデミックな観念論」に「染まってしまっている」のが、
よくわかるレスですね。
何処の「哲学事典」を探しても「クオリア」を説明していない・・から、
「クオリア」を哲学の領域には「入れたくない」ということですよね?
>>214 >>217 あはは。いや、単純に手前勝手に使われている用語だなぁと。あと、色々見ていると
別に新しい用語にする意味無いんじゃないかと。そのほうが混乱無くて分かりやすい
かと思いますよ。間違いが明快になって(笑)。
219 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:29:26
>>216 では209は「レスのレベルで矛盾を内包している」ことになります。
>>219 つまり、機械氏=詭弁家ということですか?
221 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 00:33:14
>>218 >別に新しい用語にする意味無いんじゃないかと。
観念論者は、過去数千年そういう言説で「新しいコト」を排除しようと
躍起になって活動しており、あなたもまたその伝統に忠実であることは、
よく理解できます。
>>221 仕方ないですよ。哲学に進歩はないですからね。そしてクオリア論は科学じゃないですから。
>>221 ちなみに、機械さんが一番嫌いな観念論者は誰ですか?(笑)。
224 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 01:02:22
(笑)とか使うと馬鹿に見えますよ
226 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 02:03:59
>>209 >新皮質の細胞は成長過程で当然変化しますね。回路が形成される。それは何に従って
>行われるか、社会によって規定されます。
@「回路が形成される」ことに「(あなたの意味の)クオリア」は関与しない・・?
>ですから、ある概念的刺激があってニューロン発火があっても、意味の問題に関して
>何かが明晰になったかというとなってない。そこを、何かクオリアなるものによって
>必然的に規定されているとなると、それは神秘主義ですよということです。
A「ある概念的刺激」というあいまいな「刺激」は「感覚器官から入力された刺激(クオリア)」
のことでは「ない」
B何かクオリアなるものによって「必然的に規定されている」訳ではない・・ということは、
「観念論者の伝家の宝刀」・・・「超越的云々」を持ち出すということですね?。
「超越(論)てきであ〜〜る」という「葵の紋章」は江戸時代中期の「カント氏」
依頼400年以上たった現在でも「礼拝の対象」である・・やはり「観念論」は
『照れ』をたいそうめんどくさい言葉(詭弁)で誤魔化した「宗教の一側面」に
すぎません。
いっそのこと「宗教です」と素直に認めれば、「楽」になるのに「学会の信者と
聖教新聞の読者は別です」などといわれても、外部からは「区別が付きません」・・
ということです。・・・『(深層心理)隠れキリシタン』も同様です。
227 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/04(水) 02:07:50
就寝させて戴きます。
他の動物と違って、人間が生きる矛盾を感じる根本原因は、 今でないいつか、ここでない何処かを想像するからである。 想像力とかシミュレーション能力と言われている機能だ。 こいつが脳の機能として人間に新たに組み込まれてから、 ややこしいことになってきた。
人間に想像力が無ければ全ては必然であり、すべては無矛盾である。 偶然の正体とは、想像力により「もしああだったならばこうなのに、 現実はこうじゃないから偶然だ」という所から感じる矛盾感である。 脳が持つ想像力の機能が、話をややこしくしている。 仏教はこの想像力を、煩悩の原因としている。
230 :
脱出した超知能動物 :2006/01/04(水) 02:36:04
>>228 他の動物と違って・・・・何で違うのか?何処が違うのか?
哺乳類の(中の)「エリート主義」は傲慢不遜だと思うがな。
231 :
脱出した超知能動物 :2006/01/04(水) 02:42:04
>>228 >想像力とかシミュレーション能力と言われている機能だ。
そんなもの、「高等哺乳類」だけではなく「爬虫類」「鳥類」
「両生類」にだって備わっており、人類が「備えていない」
著音波による通信、地磁気を感じ取る「大陸間の渡り」とか、
「数千キロを旅して故郷の川に帰ってくる」・・能力が
『人類に真似できる能力』か?・・と言われれば「NON]でしょ?
232 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 02:49:20
>>231 鳥やは虫類に想像力などないよ。魚が臭いを感知して川に戻るから
想像力がある証拠だなんてトンデモな意見は、ここで初めて聞きました。
>231 あー、何も分かってないなあ。 「カツオが太平洋を回遊するから不思議だよなあ」と人間が感じるのは、 人間の身体機能そのままで海に飛び込んでもそんなの無理だよなと 「想像する」から不思議に感じるんだ。想像力がないカツオは、 太平洋を回遊する事は何も不思議ではないし、渡り鳥が海を渡るのも 不思議とは思わない。カツオは他の動物の行動も不思議だとは考えていない。 何故ならカツオには想像力がないから。 カツオの行動が不思議だと考えるのは「人間だけ」。 何故なら人間には想像力があって、「もし俺が、もし猫が、 もし猿が太平洋に入っても方向が分からないし回遊できないよな。 カツオすげえ」と考えるから。分かる?
人間に真似できる能力じゃない = 想像力があるという証拠にはなら ない。 だって、コンピュータのルート計算が人間より速くて人間には真似でき ないからコンピュータに想像力があるのだ、という結論にはならないで しょう
今やってた13Fって映画、なかなか面白かった。
236 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 11:29:58
就寝させて戴きます。
237 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 11:32:12
大卒で無職の俺が来て差し上げたぞ
>>209 >新皮質の細胞は成長過程で当然変化しますね。回路が形成される。それは何に従って
>行われるか、社会によって規定されます。
より広く言えば環境全般ですね。
しかし、自然科学者の中には社会も結局は物理学で還元可能であるという
前提に立つ人もいると思います。この還元可能性の前では、社会の複雑性
から即座に「非固定的」という結論を導くことはできません。
ラッセルのデカルト批判は、「我思う」だと「我在り」は当然に出てくる、しかし、
「思われる」だと「我」である必要は無い、というものです。コップを見ているの
なら「誰かが見ている」(注:英語の三人称単数ですね。)のだろうけれども、
コップが見られているのなら、誰か特定の人物が見ていると考える根拠は無い。
3秒前にAさんが見て、2秒前にBさんが見て、1秒前にバークリーの神が見ていて
もいいわけです。
一人称の我は必ずあるというのが前提ですか?
>>212 私なりの理解で説明させていただきます。
例えば、AさんとBさんがいる。
Aさんが「目の前にパソコンがある」と言い、Bさんが「私の目の前にもある」
と言う。これは、私的言語ではなく、他者の返答を持ち得る言語です。
分かり易く言うと、「会話が成立する言語」です。
ところが、ある日、Aさんは「目の前のパソコンを『えくせく』と呼ぶ」ことに
決めます。そして、この取り決めについては、誰にも話さない。この時、
Aさんが内心で『えくせく』という言葉を使うことが可能なのか、ということ
を考えると、これは難問なわけです。最も典型的で簡単な反論は、
「パソコン=『えくせく』」という取り決めが守られているかどうかは、Aさん
個人では確認できない、だから、そんな確認不能な取り決めは無駄だ、
という主張です。
これはクオリアについても当て嵌まります。「この痛み」「この悲しみ」と
自分の中だけで考えることが可能なのか。そんなことは不可能じゃないか。
だって、私が「この痛み」について考えているという保証が得られないじゃないか。
すなわち、他者の検証を排斥して、かつ、それを正しく考えることが可能なのか。
と、私は、こういう風に考えてみました。
>>239 ラッセル自身はそこについて何も述べていません。
242 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 12:21:52
大卒で無職の俺が来て差し上げたぞ
243 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 12:23:45
みなさん幸せですか?
244 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 12:25:33
言葉は重要ではない
245 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 12:29:50
幸福ですか?
イメージを想像する事は出来るけど、イメージで考える事は出来ない。
247 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 13:27:29
考えるのではなく、イメージで物語を進行させたまえ この能力はパソコンと向き合う事で失われていく 言語に頼るばかりのは世は虚しい
>>206 > デカルトは余計なことを仮定している、つまり、「私はコップを見ている」ので
> はなく、「コップが見られている」と言う方が正確である、ということだと思います。
や
>>240 で、やっぱり惚れてしまいそうだw
また、
>>240 >これはクオリアについても当て嵌まります。「この痛み」「この悲しみ」と
>自分の中だけで考えることが可能なのか。そんなことは不可能じゃないか。
>だって、私が「この痛み」について考えているという保証が得られないじゃないか。
>すなわち、他者の検証を排斥して、かつ、それを正しく考えることが可能なのか。
は、思考(内容)すべてに言えますよねw
上の文の“クオリア”を“釈尊の悟り”に
“「この痛み」「この悲しみ」”を“「縁起」”
に置き換えると・・・
『すなわち、他者の検証を排斥して、かつ、
それを正しく(=「縁起は、正しいものの見方である」と)考えることが可能なのか。』
と、これ以上はスレ違いw
|
|彡サッ
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249 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 14:01:06
言葉の無い世界で生きろ
>>226 > @「回路が形成される」ことに「(あなたの意味の)クオリア」は関与しない・・?
脳の回路は自然淘汰と同じように、単に有効なものが生き残るだけでしょう。そこを
裏側でクオリアが制御しているっていう発想が神秘主義ですよ、ということです。
> 「観念論者の伝家の宝刀」・・・「超越的云々」を持ち出すということですね?。
超越的なものを私は認めてますが、それはあなたのように何でもクオリアという「伝家の宝刀」で
思考停止するためではなく、人間の認識を無制限に拡張可能とするためです。超越性を否定する
人間はこの世に聖地をつくってしまいますからね。
>>238 > しかし、自然科学者の中には社会も結局は物理学で還元可能であるという
> 前提に立つ人もいると思います。この還元可能性の前では、社会の複雑性
> から即座に「非固定的」という結論を導くことはできません。
物理学的な還元は問題ないと思うんですね。人間の認識をニューロン発火として記述することが
問題ないのと同様で。しかし、クオリア論というのは、そこに目に見える必然性を求めますね。
脳がある回路形成をするのは、クオリアに合わせて行われるのだ、と。それはウソだろうと
いうことです。それは進化論で例えれば、キリンがクビが長いのは、キリンというクオリアが
あるからだ、という記述と同じです。何も分かったことにならない。
> ラッセルのデカルト批判は、「我思う」だと「我在り」は当然に出てくる、しかし、
> 「思われる」だと「我」である必要は無い、というものです。
なるほど。"我"による世界構成ではなく、世界自体の"場"から考えるということでしょうか。
しかし、それはデカルトのコギト批判になっているのかな。心理学的な自我概念に
近くないですか、その批判対象になっている"我"は。コギトというのは、見る/見られるという
相互性から切れたところで「全てを疑い続けている」という、虚の中心としての何かですね。
これは"我"というと誤解を招きがちですが、人称代名詞に還元できない何かです。
>>239 >>241 一人称は三人称とセットなので、"私はいない"ということなんでしょうかね。
実際、私"が"コップを見ているというのはオカシイんですね。コップは見えている。因果関係が
逆ですね。脳はこの場合受信側なのであって、能動的に何かやっているかのような表現は
変だろうと思います。
ただ、デカルトの場合にはちょっと違っていて、世界を懐疑の中で消去した後で、疑い得ない
思考作用を軸に世界をもう一度再構成する。ここがポイントだと思います。コップが"見えている"
状態から懐疑によって"我"を一旦世界から切断し、"我"によってコップを再び"見る"。この場合の
"コップ見る"は"コップを思考する"としたほうがいいんじゃないか。
253 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 15:05:39
>>252 むじんくんて馬鹿なの?
"私はいない"・・とか
"コップ見る"は"コップを思考する"・・とか
遊んでるの?
でなきゃマジ馬鹿なんだけど
254 :
むじんくん :2006/01/04(水) 15:18:47
>>248 いえ。スレ違いでは無いと思いますよ^^;
従来の懐疑論を打破したのがデカルトの哲学らしいですが、
むじんさんが仰るように、デカルトは疑い得ない思考と言うのを
作り上げてしまう、ここが仏教との決定的な違いだと思います。
本当は、疑い得ない思考などというものは、どこからも担保され
ていないはずです。
>物理学的な還元は問題ないと思うんですね。人間の認識をニューロン発火として記述することが
>問題ないのと同様で。しかし、クオリア論というのは、そこに目に見える必然性を求めますね。
>脳がある回路形成をするのは、クオリアに合わせて行われるのだ、と。それはウソだろうと
>いうことです。それは進化論で例えれば、キリンがクビが長いのは、キリンというクオリアが
>あるからだ、という記述と同じです。何も分かったことにならない。
これがクオリア論の本道だとは思えませんね。
クオリア論は、少なくとも、脳の回路形成がクオリアに従って
固定的に行われるということを前提にしていないと思います。
むしろ、逆で、クオリアが脳の回路に規定される、これは物理的な
還元とほとんど同じでしょう。
>>251 >なるほど。"我"による世界構成ではなく、世界自体の"場"から考えるということでしょうか。
>しかし、それはデカルトのコギト批判になっているのかな。心理学的な自我概念に
>近くないですか、その批判対象になっている"我"は。コギトというのは、見る/見られるという
>相互性から切れたところで「全てを疑い続けている」という、虚の中心としての何かですね。
>これは"我"というと誤解を招きがちですが、人称代名詞に還元できない何かです。
私はこういうことは実証的に言えないと思います。
つまり、デカルトが心理学的な自我概念を見通してさらにその先まで
読んでいた、というのは、史料からは言えません。「こうも読める」という
範疇では、それをデカルトの哲学に含めるのは無理があるでしょう。
>>256 > これがクオリア論の本道だとは思えませんね。
そうですか。機械氏のクオリア論は亜流なんでしょうか・・・。要は、人間の価値基準がクオリアによって
規定されているという言い方がまずいということです。
>>257 > 私はこういうことは実証的に言えないと思います。
デカルトは確か、日常生活に関しては自分の"方法"を適用すべきでない、こう書いていたと
思うんですね。日常生活については、それぞれの地域での慣習にしたがっていればよいと
(彼は結構旅行して歩いた人らしいですね)。
しかし、認識については自らの方法に従うべきだと。これは慣習から精神を引き離すという
ことです。中世的な世界観からすると、認識というのはイコール慣習だったんですね。そこから
決別するということは、即ち心理学的自我とは異質の"私"を基礎付けたといってよいと思うのです。
人間の相互関係から湧き出てくる習慣的知、ここを基点にしないで思考することは可能か、それは
世界との関係をどこで保障するのか。仰るように担保できるものはどこにも無いんです。そこで彼は
神を持ち出した。根拠ないですからね。しかし、その飛躍によって成立する"精神"の認識によって、
何故か現在の我々が生きる近代社会は成立しちゃってるんですよね。
例えば、物理学者の頭の中で数式によって考えられたエネルギーによって、広島長崎が一瞬で荒野となった。
>>255 >
>>252 は少し褝の香りがするねw
あはは。確かに。"コップを見ているのではない、コップが見えているのだ"というのがを
第一段階とすると、再びコップを"見る"、つまりデカルト的、近代諸科学的視点から
コップを捕らえなおすというのは禅にはあるんだろうか。
>>256 >むじんさんが仰るように、デカルトは疑い得ない思考と言うのを
>作り上げてしまう、ここが仏教との決定的な違いだと思います。
>本当は、疑い得ない思考などというものは、どこからも担保され
>ていないはずです。
「真如」「如来蔵」「本覚」という思想が担保されたものであることは言うに及ばず、
さらには、もしかしたら、〈 「涅槃」という概念でさえも根本的に担保されたものかもしれない! 〉
という恐怖が、仏教にはあるんですよ・・(^^;)
262 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 16:44:17
>脳がある回路形成をするのは、クオリアに合わせて行われるのだ こんなめちゃくちゃなこと、どこで誰が言ってんの??? 妄想垂れ流すのもいいかげんにしてほしい
>>262 > >脳がある回路形成をするのは、クオリアに合わせて行われるのだ
> こんなめちゃくちゃなこと、どこで誰が言ってんの???
> 妄想垂れ流すのもいいかげんにしてほしい
>>107 とか。茂木さんなども同様だと思いますよ。
>>259 それはデカルトの史料からは実証的に言えないと思います^^;
>>261 ええ、究極的には担保されていないかもしれない、担保されているかもしれない
というのは、正しいと思うのですが(究極的は決定論かもしれないし、非決定論
かもしれないというのが正しいように)、デカルトの著作は、そこから一歩先に進んで、
「疑いようが無い」と書いています。しかし、これに対しては、ラッセルの批判が
当て嵌まるでしょう。これは、恐怖の解消です。
>>264 > それはデカルトの史料からは実証的に言えないと思います^^;
まぁ、デカルト賛美はどうでもいいんですけど(笑)、ただ、近代的思考というものの
起源はやっぱり変てこなんですよね。同じようなことやったのがソクラテスですね。
彼は嫌われて殺されちゃったですが。つまり慣習から切れた精神というのはちょっと
不気味だったんでしょうね。
逆に我々の社会は根拠のない認識が中心になってます。恐らく、クオリア論(茂木さん
のような、イデア論的解釈のやつ)はその空虚を埋め合わせるために出てきたものだと
思います。
266 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 17:20:49
>>263 なんだ、やっぱりきみが無理やり読み違えてるだけか。
いつになったら頑固な思い込みから抜け出せるんだろうね、きみは・・・
267 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 17:23:15
>クオリア論(茂木さんのような、イデア論的解釈のやつ) こういつまでもしつこく勘違いを繰り返してるのを見ると、 可笑しいのを通り越して気の毒になってくる
>>266 > いつになったら頑固な思い込みから抜け出せるんだろうね、きみは・・・
でもね、だとしたらクオリアっていう言葉は意味ないよね(笑)。普通の脳科学ということで
いいんじゃないの?
269 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 17:38:42
>>268 それは前にも言ったでしょ。
普通の科学の枠内にいる限りは「クオリア」なんて概念が入り込む余地はないの。
茂木がやりたいのは、主観的経験に対応する神経相関を見つけるってことで、
これは「普通の脳科学」では手に負えない。
(「主観的経験」なんてものは科学の枠内に収まらないから)
>>269 > (「主観的経験」なんてものは科学の枠内に収まらないから)
そんなことないでしょ。例えば戦争から帰ってきた人が、何かの拍子に戦地の様子が
フラッシュバックしたとする。ある特定の、気味悪い感覚に襲われるとする。これを
脳神経がどのように活動した結果なのかを調べる→治療するというのと違うの?
>>269 あと、瞑想中の人の頭を調べるっていうとかもやってますよね。脳のある部分を刺激すると
臨死体験に近い光景を見たりするとか。それと同じだったら"クオリア"とか言う必要ないね。
クオリアっていうのは、もっと崇高なものなんですよ(笑)。
272 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 17:54:31
まず、医療ってのは科学じゃなくて技術だから。 そこんとこ勘違いしないように。 医療ってのは人を相手にするものだから、患者が「これこれこういう感じが(主観的に)する」 と言ったらそれを尊重せざるを得ないけど、実際にできることは 「身体の『客観的な』状態を健康なときの状態へ近づける」ということだけで、 その結果、患者の主観的体験が変化したとしても、それは付随的にそうなったとしか言えない。
273 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 17:56:36
>あと、瞑想中の人の頭を調べるっていうとかもやってますよね。脳のある部分を刺激すると >臨死体験に近い光景を見たりするとか。それと同じだったら"クオリア"とか言う必要ないね。 なんで他のことだと理路整然と話せるのに、クオリアの事になると とたんに論理の飛躍があたりまえのように出てくるんだろう。 なんかのコンプレックスが関わってるとしか思えん。
274 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:01:15
むじんくんて やっぱり馬鹿なの?
>>260 (近代諸科学的視点ではないだろうが、)あるよ。
ていうか、禅の骨格は、目の前の積木を一遍崩して、もう一度組み直すものだから・・
いや、実際には崩してはいないか・・
なんつったらいいのかな・・(^^;)
276 :
むじんくん :2006/01/04(水) 18:03:05
機械と同様にやっぱり馬鹿です。
>>272 > その結果、患者の主観的体験が変化したとしても、それは付随的にそうなったとしか言えない。
別に医療と考えなくていいじゃないですか。戦地のイメージがフラッシュバックする人間の
脳活動を観察していることと、クオリア論は違うの?
>>273 > なんで他のことだと理路整然と話せるのに、クオリアの事になると
> とたんに論理の飛躍があたりまえのように出てくるんだろう。
あはは。そりゃクオリア論が飛躍しているからだろうね。
>>275 > ていうか、禅の骨格は、目の前の積木を一遍崩して、もう一度組み直すものだから・・
> いや、実際には崩してはいないか・・
> なんつったらいいのかな・・(^^;)
"積木"を成立させている自己の意識構造を崩し、もう一度再構成するということでしょうか。
完全に崩れた状態が"悟り"なのかな。
279 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:09:28
>>277 えーと、きみの言う「クオリア論」って何のことを指してるの?
多分きみが勝手に名づけてるだけだと思うんだけど。
治療とかじゃなく、純粋に「戦地のイメージ」と神経活動との相関に注目するなら
それはクオリアの研究と大差はないでしょう。
280 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:09:30
>>273 クオリアなんて概念は不要だということだよw
2500年前の『想』と同じだとしたら全然新しくはないよねw
>>279 > えーと、きみの言う「クオリア論」って何のことを指してるの?
茂木さんに代表される、あるいはここの機械氏の主張のような、崇高なる理想卿を散歩することです。
> 治療とかじゃなく、純粋に「戦地のイメージ」と神経活動との相関に注目するなら
> それはクオリアの研究と大差はないでしょう。
だったら変な用語使わないほうがいいですね。普通の脳科学ですよね、しかもかなり昔から
研究されている。
282 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:22:11
>>281 >茂木さんに代表される、あるいはここの機械氏の主張のような、崇高なる理想卿を散歩することです。
さっぱりわからんわ。
具体的な内容としてはどんなものを想定しているの?
>だったら変な用語使わないほうがいいですね。普通の脳科学ですよね、しかもかなり昔から
>研究されている。
そりゃ昔からやってる人もいるよ。
茂木の功績は、概念を整理して、わかりやすいキャッチフレーズを作ったってところ。
283 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:27:55
>>282 > 具体的な内容としてはどんなものを想定しているの?
例えばですね。アメリカ大統領になったとしますよね、あなたが。で、戦争すべきかどうか迷ったときに
自らの内なる"クオリア"にお伺いを立てるんですよ。そうすると、爆撃すべきかどうかわかるんですね(笑)。
> 茂木の功績は、概念を整理して、わかりやすいキャッチフレーズを作ったってところ。
つまり、単なるSonyのコマーシャルってことですか。ガッカリですね、それは。
285 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:29:09
あ、282だ・・orz
だから、「クオリア論」というのがものすごく画期的な問題提起だ、 というのが、茂木や(なぜだかその影響を受けている)機械の妄想なのよ。 クオリア論なんて、古来の哲学問題の焼き直しでしょうよ。 ただ、茂木や機械は「脳科学がこれだけ発達した結果、古来の哲学問題が 科学的に解明され得る時が来たのだ」みたいなことを言うから、 批判されるというだけ。
287 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 18:33:51
>>284 >例えばですね。アメリカ大統領になったとしますよね、あなたが。で、戦争すべきかどうか迷ったときに
>自らの内なる"クオリア"にお伺いを立てるんですよ。そうすると、爆撃すべきかどうかわかるんですね(笑)。
だとしたら、きみが考えてる「クオリア」ってのは、茂木らが言ってるのとはまったく別物ですね。
>つまり、単なるSonyのコマーシャルってことですか。ガッカリですね、それは。
ソニーじゃなくて「意識研究業界」のコマーシャルだね。
実際科学研究に携わってるひとじゃないとわからないかもしれないけど、
共通の言語を作るってのは分野の形成に関して大きな力を持つ。
>>278 禅に限らず、仏教では崩れたままではいけませんw
ある意味、再構成とは言えるかも。
289 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 19:22:56
>>286 内容は画期的じゃなくても、「問題を提起した」ということはけっこう画期的なのよ。
それまで意識の問題なんてのは、現役を退いた研究者が老後の手慰みに考えるもの、
ぐらいの位置づけで、脳科学の教科書でも最後の章でちょびっとだけ触れられるかどうか、
ってぐらいものものだった。
(触れられたところで、著者の「思い」が吐露されてるだけ、なんてのがごく普通だった。)
それがクリックが「漏れは意識をフルタイムで研究する」って言い出してから注目を集めるようになって、
まあ悪く言えば茂木はその尻馬に乗ったってだけとも言えるかもしれんが、
「クオリア」ってのに注目してそれを前面に押し出したってのは、
けっこう問題をわかりやすく整理してて(聞きかじりだけで批判する馬鹿はほっといて)
それなりの意味はあると思う。
>>287 > だとしたら、きみが考えてる「クオリア」ってのは、茂木らが言ってるのとはまったく別物ですね。
しかし、
http://6519.teacup.com/kenmogi/bbs 私はアーティストは作品が全てであって、その意味などについては無記を貫くべきだと思う。
それがクオリア原理主義からの論理的帰結だが、そう思わない人が彷徨する世間という
ものがある。
こんなこと書いちゃってますよ。同じでしょ。耳をすませばそこにクオリアが在る、ってわけですよ。
> 共通の言語を作るってのは分野の形成に関して大きな力を持つ。
誤解の元ですよね。だって、戦争神経症の脳神経活動調べるのと同じってことなんでしょ?
>>290 むしろ逆ではないでしょうか^^;
作品があって、その美の源泉を作品外に求めて分析を
始めるのがイデア論の最初の作業だと思います。
作品の意味について無記を貫く以上、「美そのもの」
の出る余地はもはやありません。あるのは、作品だけ
です。
292 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 19:35:53
>>291 この件に関しては、どれだけ説明しても無意味みたいよ。
理屈とか、論理とか、そういうものが通用しない地点で勘違いが固着しちゃってるみたいだから。
茂木さんの説明で疑問なのは、形而上学の復活と 言ってる箇所ですね。作品自体を問題にする以上、 形而上学の復活は無いはずです。
294 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 19:38:31
>>290 同じ実験をしても、それをどう解釈するかってのはまた別な問題なの。
「ノイズ」として捨てられてたデータが「カオス」の登場とともに復活したってのは良い例。
>>291 >>293 > 作品自体を問題にする以上、
> 形而上学の復活は無いはずです。
作品自体っていうのはクオリアじゃないですよね。彼が言っているのは、美とは
解説されてはならない、ということでしょう。解説によって"本来の美"を感じ取るという
ことから引き離されてしまうのだ、と。
これは形而上学だと思いますよ。
>>291 >>293 すぐ後でこう書いてますしね。
美とは、意味という接地が奪われた無重力空間で私たちの魂がとる姿勢の
ことではなかったのか。
結構美術論として恥ずかしい言葉ではありますが(笑)。
>>294 > 同じ実験をしても、それをどう解釈するかってのはまた別な問題なの。
> 「ノイズ」として捨てられてたデータが「カオス」の登場とともに復活したってのは良い例。
全然別解釈になってませんよね(笑)。変な新語で言い換えてるだけでしょ。
298 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 20:02:59
>>295 「本来の美」なんてこと、どこで彼が口にしてるの?
きみのクオリアに関するコメントの中で出てきている「イデア的なもの」は、
茂木自身の言説にはまったく現れておらず、すべてきみ自身が付け加えたものだってことに
いいかげん気づいてもいいと思うんだけど・・・
>>288 > 禅に限らず、仏教では崩れたままではいけませんw
確かにそうでしょうね(笑)。聞いた話ですけど、結構禅でおかしくなっちゃう人いるらしいですね。
"禅病"って言うらしいですが、神経衰弱みたいになってどうにもダメになってしまう人がいると。
だから、あまり気軽にやらないほうがいいんでしょうね。
>>298 > 「本来の美」なんてこと、どこで彼が口にしてるの?
それわね、分かりやすく書いてるだけですよ。
美とは、意味という接地が奪われた無重力空間で私たちの魂がとる姿勢の
ことではなかったのか。
すごいなぁ、しかし。
むじんくんは馬鹿ではないと思うが、この件に関しては明らかに根本的な
勘違いをしているとしか思えない。
>>291 の説明で容易にわかるはずだと思うのだが…
302 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 20:12:38
むじんくんのは「イデア病」と言ってもいいかもしれんなw
>>301 >
>>291 の説明で容易にわかるはずだと思うのだが…
だったら作品といえばよい。クオリアじゃなくてね。クオリアというからには
作品の裏側の何者かを想定しているってことでしょ。何で"クオリア"って
言葉をわざわざ作って宣伝しているのか。
>>302 > むじんくんのは「イデア病」と言ってもいいかもしれんなw
「クオリア」を精神分析する。これは面白い課題ですよ。クオリア自体はくだらないけどね。
305 :
考える名無しさん :2006/01/04(水) 20:26:33
イデア病:言語マンセー、構造マンセーで、実体らしきもの(勘違い含む)は全てイデアとして退けるw
306 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 21:38:21
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
307 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 21:39:53
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
308 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 21:41:06
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
クオリアと五感はどう違うのか。同じだと思うんですが。
私見。 「五感」 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。 幸福感や挫折感は普通入らない(クオリアには入る)。 「表象」 認識されて現れている当のもの。 「クオリア」 心脳問題に限定された場合の「表象」とほぼ同じ。 脳が決定的な働きをしていることを前提とする点で、従来の 哲学的な手法とは異なる。但し、論点は変わっていない。
ああ、五感+感情=クオリアでいいのかな? で、クオリアは出力が予め決まっていると。 決定論の方が、理解するのに簡単だからね。
>>310 【用語解説試案】
五蘊=人間。(実存的に捉えれば、私という存在。) → 広義の色で考えれば、一切の存在。
色=物質および肉体 → 「五蘊に於いてのみの狭義の色であれば、(この私の)肉体のみを指す」という見方もあり。
ちなみに、色(rupa)の語源は「壊れるもの、変化するもの」。
受=感受作用。
想=表象作用。(印象、イメージとも。)
行=意思及び受想識以外の心作用。→(十二支)縁起や、諸行無常で言われる行とは違う。(原語は同じだけどねw)
〔作意(注意)・(和合としての)触・思(意思)・定(精神統一)・念(忘れないこと)・慧(知的作用)・etc.〕
識=認識作用・意識。或いは(六識の総体という見方をすれば)認識主体との解釈もありうる。
>>310 【用語解説試案】
(六)根=眼・耳・鼻・舌・身・意。各種感覚器官、及びその能力。後者に重点が置かれることが多いかも。
意根は、脳及び脳のはたらきと受け止めることも可能かもしれない。
(意識との差異や関連については略w。手に余る(^^;) )
(六)境=色・声・香・味・触・法。上記の各根が捉えうる、それぞれの対象。(ややこしくなるので現代的分類分析は略w)
必要な補足だけすると、ここでの「色」は物質或いは色(いろ)・形・明るさ。視覚的に知覚できる対象。
触は、身体(皮膚)で知覚する対象のこと。或いは前四つ以外の外的対象。
法は、思想・概念とか、およそ人の意識が認知するような(抽象的存在としての)対象をいう。
(ダルマ(理法)という語が用いられていることから、もともとは
「理法等真理・本質を認知・認識するのは意識である」という考えから導かれた用法であろう。
ちなみに、認識対象の法を、勝義において「おしえ・縁起・四諦」とする場合あり。)
(六)識=眼・耳・鼻・舌・身・意。根と境の和合により成立した(生じた)それぞれの認識。
ひっくるめて(五蘊の)識というも可。根境それぞれに合わせて分別すれば六種になる。(雑だなw)
少し具体性を持たせれば「これこれはこのようである」とはっきり知覚認識し分別されたもの。
(ちなみに、これら六識も法境として意識の対象となりうる。但、意識を認識する意識を、哲学的に無限遡及はさせない。
→縁起としての時間的流れからすれば一度で十分であろうし、刹那的な存在と捉えれば解決する?
以下略wってかお手上げ(^^;) )
>>311 あ、決定的な、というのは「決定論的な」ではなく
「決定的に重要な」の意です。
紛らわしかったですね^^;
あと、五感っていうのは日常用語でなかなか
分かりにくいところがありますね。感情もそう
ですが、例えば、空想は五感に入るのか、とか。
>>313 >(六)境=色・声・香・味・触・法。上記の各根が捉えうる、それぞれの対象。(ややこしくなるので現代的分類分析は略w)
そこを教えてくださいよ^^;
視覚=感覚器官が捉えるのは、色ですか、波長ですか、物自体ですか、
あるいは、それとも何らかの名ですか。もしかすると、色を捉えてるのでは
なく、視覚=感覚器官の能力がすなわち色かもしれないですね。
インドなんかでは物には見られる能力があるとされてるそうだけど。
>>316 ややこしくなるって言ってるじゃん・・(^^;)
ま、明るさも含め、眼で択えられるもの全てでいいとおも。
ただ当然、当時は波長なんてないし、
(特に初期では)単純に「目に見えるもの」ってだけだと思うよ。
よーするに、現代の知識や分類をどこまで当てはめていいのか?
というやっかいな壁があると思われ・・・w
>>318 波長だと概念=法になるから、かなり困難な問題を残してると思います。
320 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 00:30:05
>>251 >物理学的な還元は問題ないと思うんですね。人間の認識をニューロン発火として記述することが
>問題ないのと同様で。しかし、クオリア論というのは、そこに目に見える必然性を求めますね。
>脳がある回路形成をするのは、クオリアに合わせて行われるのだ、と。それはウソだろうと
では「ニューロン発火」は「どのような形態によって」・・・「『意識』に立ち顕れるのか?」と
質問してもよろしいでしょうか?
「眩しい赤色のクオリア」(視覚)、「耳をつんざく雑音のクオリア」(聴覚)、
「鼻の曲がるような悪臭のクオリア」(嗅覚)、「陶酔を誘う指技のクオリア」(触覚)、
「顎が落ちそうな美味のクオリア」(味覚)『以外』の「クオリア」・・・・
(要するに「5感覚器官以外から」の情報)を、あなたは、いつかどこかで「経験」
したことがあるのですか?
ちなみに「内観」・・・『内臓が(うずくor躍動する)感じのクオリア」』は「触覚」に
分類されます。
321 :
152 :2006/01/05(木) 00:36:54
>>185 毎度レスどうもです。
亀レスだけど。
>つまり後天的な、社会的状況などで抑制されてしまう程度の"本能"しか持たない。
これの反対のことが、イスラエルのキブツで起こっている。
ウェスターマーク効果といわれるもので、同年齢でまとめられて育てられても、
あまりに幼いころから一緒に育てられている相手には性衝動が起きない。
インセスト回避の生物学的基盤の存在の例証として挙げられる。
文化的に家族といった組織を改組しても、それでは“本能”は抑制できない例。
社会的状況で必ずしもあらゆる“本能”が抑えられるとは思えません。
人間において文化のウェイトが他の動物に比して大きいとはいっても、
認識のすべてに文化的なものが行き渡っているといえるほど、
文化的なものが“本能”を抑圧しきっているとは断言しかねると思う。
>それは単純なことで、机の上にコップがある場合、"机"と"コップ"が分割されて見えるのは
>言語が介在しているからですね。
それは構造主義言語学の前提から導かれる結論であるだけで、
別にアフォーダンスでも何でも説明が可能ではないか?(アフォーダンスに認識主体は存在しませんが)
ミッキーマウスをネズミとして見るには言語がなければならないが(エーコの低類像問題)、
本物のネズミをネズミとして見るのに言語が介在していなければならない道理はない。
言語が世界の分節化に大いに寄与していることに疑問を挟む者はいないと思うが、
あらゆる認識に言語による分節化が行き渡っていることを、
構造主義言語学の前提を共有しないものに納得させるのは難しいのでは?
>差別
クオリアってそんなに強固なものなんですかね?
そんなに頑固なものなら、文化的変異はすべてクオリアの手に余ることになってしまう。
クオリアが言語以前の質感だとしても、
クオリアが経験によって可塑的であることも否定はしないでしょ?
クオリアについてはあんまり知らないのでぜんぜん的外れかもしれんが。
322 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 00:40:02
>>320 「理解感」「失望感」といった純内観的クオリアも存在することを
ご存知ないようで
323 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 00:47:28
>>322 それは「五感から何か情報が入ってきて、さらにそれが
「クオリアとして『意識』に立ち顕れる・・・コトに対する
「指向的クオリアの反応」ですので、今私が言及している「感覚的クオリア」
(の働きの結果「だけ」)では「ありません」・・・・当然です。
ちなみに「夢を見る」状態では、主に「指向的クオリア」が、あたかも
「感覚的クオリアのように振る舞う」状態になりますが、指向的クオリアは
雑駁に言えば「その個体の感覚的クオリアの集積結果」ですので、基を質せば
「感覚的クオリア」が殆ど(『全て』ではないけれど・・)です。
324 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 00:54:04
クオリア=情報じゃダメなの?
325 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 00:58:45
>>324 「情報」という言葉は「経済学」「政治学」「社会学」「情報工学」等々
の分野において「恣意的に用いられている単語」ですので・・・無理です。
強いて言えば「クオリアは全ての『情報』の母胎となる脳内の『顕現』」
・・・ということになります。
「(脳内に)顕現しない感覚刺激」は、「意味がない」・・・「ヴィト」
です。
326 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 01:04:09
そうですね
327 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 01:05:28
このスレが上に来ると、固有名詞のスレが俄然争うように上に来る現象はなんなんだろ?
>>320 > 「眩しい赤色のクオリア」(視覚)
すみません、「眩しい赤色」でとめられませんか?
329 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 01:11:04
>>328 判りますが、哲学は「文学」ではありませんので、「クオリア」という概念
を、貴方がいくらお嫌いでもこの場面で「省くこと」は出来ません。
「眩しい赤色」・・と言う表現は「(感覚的)クオリアそのもの」を説明する
為(だけ)の「表現」ですので・・。
330 :
322 :2006/01/05(木) 01:16:55
>>323 「指向的クオリア」などと「俺用語」を多用されても
俺みたいな新参者には意味不明だが、
「理解感」「失望感」も基をただせば「五感」と係わっている(間接的に)
だろうが「眩しい」「美味い」等とは違い、少なくとも「リアルタイム」
に五感と連動しているわけではない、間接的(寧ろ独立的と言ってもよい)
「クオリア」に分類される。
>>329 > 判りますが、哲学は「文学」ではありませんので、「クオリア」という概念
> を、貴方がいくらお嫌いでもこの場面で「省くこと」は出来ません。
残念です。そこで止めていただけるのならば同意できるのですが。「眩しい赤色」で我慢できずに
「のクオリア」があると宣言してしまうのは、やはりそこに天国を見てしまうからでしょうか。
332 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 01:20:38
>>329 さらに「眩しい赤色」は、至るところに存在しますが、その「脳」が、
眼球の網膜を「通過」して、「さらに」・・・「脳」に「現前する」
ことにより、「眩しい赤色」という「クオリア」がその「脳」に発生する
ことになります。
「至るところに存在する眩しい赤色」が「クオリアになる」には「注視」
という過程が必要なのであり、その「注視」をもたらすのが「指向的クオリア」
なのです。
333 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 01:22:54
本日は就寝させて戴きます。
>>332 > 「眩しい赤色」という「クオリア」がその「脳」に発生する
すみません、 「眩しい赤色」という「概念」じゃダメですか?「イメージ」とか。
335 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/05(木) 01:34:59
>>334 @美女による愛撫の触覚的クオリア
と
A美女による愛撫・・という概念
は
「違う」のです。「全く違う」のです。
「クオリア」は「観念」とは「全く違うこと」なのです。
336 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 01:38:16
うんこの触感と味覚のクオリア(^Q^)/^
337 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 01:39:26
「触覚的」、「視覚的」と「クオリア」を五感に還元することそのものが、 クオリアをとらえ損なっているわけだな。 というこのとらえそこないが、クオリアを浮かび上がらせている、 とでもいうのか。
338 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 01:44:20
>>336 ある意味、良い例かもしれない。
うんこのクオリアは、視覚であり、臭覚であるのか。
そこに(他者の)うんこへの「グロ気持ち悪さ」はないだろう。
それこそが、クオリアの本質だね。
339 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 01:46:38
よい例とか言うて俺にかかわるなや、台無しだわ
340 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 01:54:51
主体としての人間の意志は幻想であり、ある任意の規定構造xからの派生的な 自動現象であると仮定すると、その任意の静止モデルとしての規定構造xの 無矛盾を証明するにはxを要素として含む拡張された規定構造x'(x∈x')の 無矛盾であることの証明が必要条件である。かくして求められるx'nとしての 全自然現象は無から有を開始することが経験論的に不可能であり(かつこのこと は主体としての自由意志の背理であることの説明でもある)、従ってx'n⇔x'∞ である。ゆえに規定構造そのものの完全に無矛盾な静止モデルは実現し得ない。 結論として実存的な主体感覚もまた自然現象の継続であり、かつ規定構造そのもの を完全に把握することの不可能であるゆえに構造そのものが主体であると言う ことはできず、機械論的決定論も成り立たない。
>>338 あんたを図と臣照るけれど、所詮は道化師だな。
頭は最低ではないけれど上級ではない・・・要は平凡
でも自分は最高だと思っている、それは勝手だが、
平凡な発想しかできない奴は鉄板では所詮虚しい
342 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 02:03:22
>>341 「なんだとー!正々堂々と理屈で勝負しろやい!」
343 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/05(木) 02:11:00
クオリアは五感と意識の中間 或いは架け橋ではないでしょうか。 (どちらかといえば五感側に近い。五蘊でいう「受」と「想」の間でしょうか)
344 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 02:14:46
うんこのクオリアを考えればわかる。 クオリアは「意味」なのだ。
345 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 02:17:28
スレスト?
348 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 02:42:55
これがパクリって奴か……
350 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 02:49:45
このw付けたがるアホのこいつ ほんまにあれやな ええ奴や、こいつが2ちゃんねるから消えたら少なくても俺だけは泣くわ
351 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 02:50:27
>>349 そうそう、ぴかはパクリしか知らない淋しいヤツなのよ
許せw
353 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 05:11:20
次スレには期待してるから
354 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 05:21:37
盛り上がっているところ、申し訳ないのだが、 ちんぽっぽ。
355 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 06:26:50
社会構造そのものがちんぽっぽ、いや、さらに、人間存在そのものが、 いや、さらに、牛糞とそこにわく蛆でさえもちんぽっぽ、 いや、さらに、宇宙の生誕そのものすらもちんちんぽっぽちんぽっぽ ようするに全てがちんぽっぽによって初めて規定されているということに まだ気がつかないのかな?
356 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 06:36:06
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
357 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 06:42:16
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
>>321 > 社会的状況で必ずしもあらゆる“本能”が抑えられるとは思えません。
それはそうなんですよ。なので、前にも書きましたが程度問題だとは思います。近親相姦、
食人行為などはユニバーサルなタブーであり、これは自然と避けるわけで、動物の本能と
呼ばれるものに近い。
ただ、人間の場合本能に従って生きる(これ自体が不可能ですが)ことが生活環境への適応に
ならないという点で、そもそも生活環境というものが本能と等価ですが、そういったものを根拠に
しないで生きるという点で一線を引くべきだと思います。
> 本物のネズミをネズミとして見るのに言語が介在していなければならない道理はない。
しかし、人間の場合それ以外に手がかりはありませんよね。動物であれば、ネズミをネズミと
見て、更にそれは飛びつくべきかどうかを本能が判定する。そういう、食べるものとして感覚する。
人間の場合にはそこが破綻している。クオリア論者は直感的にネズミと分かるみたいですが(笑)。
> そんなに頑固なものなら、文化的変異はすべてクオリアの手に余ることになってしまう。
クオリアはだから文化的変異について説明できないだろうと思います。クオリアというのは
ニーチェが言う遠近法的倒錯ですよ。現時点の自分の自明のイメージが所与のものであると
断定するところから出発する。こういう思考は繰り返し手を変え品を変え出てきます。ユング
心理学なんかも同じ穴のムジナです。だから、クオリアを精神分析しなければならない。
クオリア自体の歴史性を問わなければならない。
>>335 > 「クオリア」は「観念」とは「全く違うこと」なのです。
まぁ、概念とか言うとちょっと違いますが、イメージとかでどうですか?
機械さんの言う「指向的クオリア」っていうのは文化的概念構造を指す
わけでしょ?
360 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/05(木) 12:09:57
みなさん あけおめ このスレ、無くなったのかと思ってたよ 何がどうなってたの?
361 :
203 :2006/01/05(木) 12:20:11
>>240 直感的には自分のクオリアは自分だけのものだろうと思えるし、「この痛み」「この悲しみ」と
呼ぶことでそれらのクオリアを指示することも自分の中では可能に思える。
でも、それらを単に名指すだけじゃなくてどのような痛みなのかを語り得るかが
語りかける対象(私なのか他人なのか)によって違ってくるとは考えられないし、
そもそも「私に関する何かを私に語る」という自体がよく理解できない・・・
とか書いててもしかしたら一言さんのレスはクオリアの語りと私的言語の可能性が平行関係にあるよ、
私的言語が可能ならクオリアについて語ることも可能だろうね、ということを少し反語混じりに指摘しただけかも知れないと思った・・・。
さぁここでイマージュが万を侍して登場!
>>338 > うんこのクオリアは、視覚であり、臭覚であるのか。
> そこに(他者の)うんこへの「グロ気持ち悪さ」はないだろう。
> それこそが、クオリアの本質だね。
茂木さんの
音楽を構成するクオリアが音という物理的刺激によってもたらされるというのは単なる偶然である。
本質的なのはクオリアの方であって、音という物理的刺激の属性の方ではない。
に例えれば、「グロ気持ち悪さ」がウンコの視覚的、臭覚的刺激によってもたらされるというのは
単なる偶然である。本質的なのは「グロ気持ち悪さ」の方であって、ウンコの視覚的、臭覚的刺激
の属性ではない。
脳科学によって表現された意味論ということですね。ウンコを食べながら射精する人もいるでしょうから、
ウンコからの感覚的刺激とクオリアとの関連は恣意的である。
ただ、何も説明していることになってませんね。依然として。
いや、しかしウンコ食べながら射精している人は、「グロ気持ち悪さ」があるからこそ そうするのだから、やっぱり恣意的じゃないのかな。うーむ。
うんこの感覚的刺激と「グロ気持ち悪さ」との自明的関連の中にありながら、ウンコを食べ(或いは食べさせられ) 射精にいたる場合、それは クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 を凌駕するところの自己の出現と言える。これはカントの言う「崇高さ」である。
366 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 16:43:06
能書きはええから取り敢えず崇高なうんこを食ってみたまへ
367 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 16:46:24
>>365 「崇高」であるかどうかはわからないが、
「言語による文明的経験」でしょう。
抑圧された欲望による(象徴界の)倒錯ですね。
368 :
考える名無しさん :2006/01/05(木) 16:47:51
>クオリア(意味) この人の勘違いを端的に表してるねw こんなこと書いてるようじゃ何言ったって信憑性ゼロ。
>>367 > 「言語による文明的経験」でしょう。
そう?確かに抑圧された欲望の倒錯行為ですが、対象不在の快楽、不快の快
だとしたら"意味"から逃れてませんか。
370 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 18:21:05
フロイト的には、「遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験」であっても、 ラカン的にはどこまでも象徴界(シニフィアンの連鎖)、意味の先送りでしょう。 「うんこ」そのものはないものでもなく、禁止されている、社会的に(言語によって)抑圧 されている故に欲望される。 子供が「うんち」に過剰反応することの延長線ですね。
>>370 確かにそうかな。やっぱウンコ食べるのは「崇高」とは違う気がしてきました(笑)。
372 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 00:54:16
主体としての人間の意志は幻想であり、ある任意の規定構造xからの派生的な 自動現象であると仮定すると、その任意の静止モデルとしての規定構造xの 無矛盾を証明するにはxを要素として含む拡張された規定構造x'(x∈x')の 無矛盾であることの証明が必要条件である。かくして求められるx'nとしての 全自然現象は無から有を開始することが経験論的に不可能であり(かつこのこと は主体としての自由意志の背理であることの説明でもある)、従ってx'n⇔x'∞ である。ゆえに規定構造そのものの完全に無矛盾な静止モデルは実現し得ない。 結論として実存的な主体感覚もまた自然現象の継続であり、かつ規定構造そのもの を完全に把握することの不可能であるゆえに構造そのものが主体であると言う ことはできず、機械論的決定論も成り立たない。 また質感については、他存在の 質感存在であることの真偽を値を求めることが論理の性質上不可能であるがゆえに、 観測者としての「私」以外の他の任意の世界構成要素は質感存在であるか、 ないかのいずれかであることを満たしていれば良いわけで(y|y⇒¬i)⇒(Qy∨¬Qy) 「私」以外の他の任意の世界構成要素の集合z(y1.y2.y3.y4・・・yn)が質感存在Qz であると仮定すると、z(y1.y2.y3.y4・・・yn)⇔Qzとなる。そしてこれはとりも なおさず少なくとも論理的に真であることは明白である。このことによって 質感問題に特有な幽霊性のパラドクスも回避され、かつ世界の全構成要素の 現象展開が同時に質感存在の現象展開であるということの仮定のゆえに、 質感が自己開始能力としての自由な主体性へと何らかの形でアプローチし 得るという可能性もまた消失してしまう。
373 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 00:59:49
日本語でたのむ・・w
374 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 01:02:32
一応日本語なんでちゅが・・・。
375 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 01:05:53
>>372 は、ハッキリ言って自信ないでちゅ・・。
自分でもあまりに突飛過ぎるぽ。
376 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/06(金) 01:07:17
>>368 ですから、『クオリアとは「意味(なるもの)」の素材として「感覚器官+脳」
に「立ち顕れる外界(内臓触感を含む)」のありよう』です・・と何度も申し
上げているのですが、「観念論で奈良漬けにされた脳」には反応して戴けないのです。
377 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 01:16:00
>>376 >「観念論で奈良漬けにされた脳」
もはや笑いに走るしかない機械たん。萌え。
378 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 01:16:18
>「感覚器官+脳」に「立ち顕れる外界(内臓触感を含む)」のありよう 時間的流れは無視ですかw 感受と認識との間のタイムラグは? その、ある一定のスパンのものを総合してクオリアと呼ぶのか・・?
379 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/06(金) 01:18:38
>>363 >茂木さんの
>音楽を構成するクオリアが音という物理的刺激によってもたらされるというのは単なる偶然である。
>本質的なのはクオリアの方であって、音という物理的刺激の属性の方ではない。
音楽を「単なる偶然」と言いきる「大脳性理学者」は「音楽」を聴くことは出来ても、
『音楽と「雑音」の区別をすることは出来ない』という訳です。
一口に言えば「浅い・浅はか」・・ですが、「音楽の楽しみ」は「(遺伝子)才能+時間」が
無ければ「理解できない」=「指向的クオリアを蓄積できない」ので、茂木さん個体の音楽理解
のほうが「よほど『問題』である」と判断するほうが「正しい」と思います。
380 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/06(金) 01:31:55
>>378 >その、ある一定のスパンのものを総合してクオリアと呼ぶのか・・?
「クオリア」とはそんなに難しい概念ではありません。
茂木氏や出井氏が「ソニーの再生のために(多少厳密性は犠牲にして)
「ああだこうだ」述べているので、混乱しているだけです。
「一定のスパン」については、例えば1秒間を採ると「映画は60コマの
静止画のパラパラ」ですから、60枚の静止画(写真)の「クオリア」を
1秒間に60枚連続的にクオリア化する経験・・です。
人間の実際の「視覚」も、「動体視力が優れているイチロー」でも、
せいぜい「200枚の静止画/秒」以上の運動の「クオリア捕捉」は、
出来ないと思います。
クオリア論はカントのアポリアの焼き直し、でOK?
382 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/06(金) 01:47:41
>>381 カントが江戸時代中期(における人生)で、今言われている「クオリア」
を分析していたら・・それはすごいと思いますが、それ以降「高名な観念論者」
さん達が(数)百年前の「散歩爺さん」を尊重するのは「大学の講師の都合」
なのです。
要するに(超有名な)カントを教えていれば「給料を貰う」ことに文句が出にくい
・・・ということ(だけ)です。
皆さん「(家庭もある)生活者」ですから、仕方がないとは思いますが・・。
383 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 02:18:47
>>372 はつまりでちゅね・・・
もののこえ
さざれ石のこころ
清水に御霊宿る
我々火の民の感性は正しかったでちゅ。
しかし主体としての意志ではないでちゅ。我々も、それらもまた。
それらはたゆたうものでちゅ。移ろいゆく自然そのものでちゅ。
みたまを感じてみるでちゅ。我々火の民ならできるでちゅ。
384 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 02:57:57
茂木さんはそんなに浅くないよ。説明を端折ったから浅く見えるような説明 をしちゃったんじゃないのかな。
>>376 > 「観念論で奈良漬けにされた脳」には反応して戴けないのです。
人間の精神を語る際に気をつけたほうがいいのは、因果関係が逆さまだということですよ。
意味が成立しているのだからその原因である素材があるはずだ、これは間違い。意味が
成立した後に素材が何か?という問いが発生する。
つまり、「クオリア」という言葉によって何かが分かったわけじゃない。意味が成立しているのは
クオリアがあるからだ。これは意味が成立しているのは意味があるからだという同語反復に
過ぎないのです。
>>379 > 一口に言えば「浅い・浅はか」・・ですが、「音楽の楽しみ」は「(遺伝子)才能+時間」が
> 無ければ「理解できない」=「指向的クオリアを蓄積できない」
これも同じ。「指向クオリア」なるものを蓄積するためには「指向クオリア」がなければならない。
この命題の困難さを避けるために持ち出すのが「本能」「才能」という言葉です。そしてこれも
"クオリア"なんだと。つまり何も分かってない。言葉を言い換えているに過ぎない。
このような意味問題の困難さをどう避けるか。やはりマルクスの 「哲学者を神秘主義へと導く神秘は、“社会的”生活のなかにひそんでいる」 が有効だと思います。単体の脳が意味形成をしていると考えるのではなく、複数の 脳の関係性に意味の起源を見る。例えば、私的言語はありえるか。意味とは社会的 であり、人間社会とは欲望の変形である。 真にリアルなものは?欲望であり、欲望の禁止であり、欲望の変形である。つまり、 広い意味での経済的活動である。
388 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 11:46:40
人は神より与え賜た「クオリア」により単なる物質を超えた精神・主観を得 開眼し、心の自由・『魂』を持つ特別な存在となった。
389 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 11:51:50
>>388 物質ってなんですか?
超えるってなんですか?
それらが物質の中にないとどうしていえるわけ?
390 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 12:27:16
>>389 そうそう。物質を「越えてる」わけではないんでちゅ。
>>物質ってなんですか?
そうそう。それがそもそも問われるべきものでちゅ。
>>388 のように無根拠に飛躍する人がいるから、そこでまた間違った
保守的な反動としての先入見が固執されるのでちゅ。この問題は
一歩間違えば ものすごい誤解をされてしまうような危険があり
まちゅ。
391 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 12:38:06
人が経験し得る「経験界」の外側には「超越界」という広大な世界が 存在するだろうことは量子や宇宙開闢の不思議(現経験界の境界)を を考えれば容易に想像できることす。 人の心には「超越界」に通じるパイプが在るはずです そこを閉ざしている貴方、先ずは、お目覚めください。
392 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 12:59:41
>>389 >物質ってなんですか?
「そこを閉ざした人」の狭い「経験世界」で認め得る「実体」と呼ばれるものでしょうか
>超えるってなんですか?
もうお解かりですよね
393 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 13:03:54
>>392 実体て何ですか?
超える、がまだお解かりじゃないんですが・・
>>391 > 人の心には「超越界」に通じるパイプが在るはずです
> そこを閉ざしている貴方、先ずは、お目覚めください。
機械さん、名前変えたんですか?
395 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 13:20:39
科学の進歩により、「経験界」は拡大されつつあります。 それは単に論理的な拡張、その結果に過ぎないのでしょうか、 「いえ違います」(ルールとデータベース理論からしても) 人の心には「超越界」と繋がる何かが在るからこそ可能なのです。 そしてその一つが「記号では表し得ぬ原始的質感」(クオリア) なのかもしれません。
396 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 13:33:13
>>391 すべての素粒子にそのパイプがあってもおかしくはない。
もしそうなら、物質を超えてなんかいない。
397 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 13:34:52
>>395 人の心だけとは限らない。電子の心、陽子の心、
全てのものの真ん中には心がある。だから中心という。
物質こそがクオリアを持っているんだよ。
398 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 14:18:13
「物質」と「その相互作用」が「世界の全て」でしょうか 「経験界内狭思考」「固定観念」 ⇒ お目覚めください
399 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 14:23:11
>>398 >「物質」と「その相互作用」が「世界の全て」でしょうか
全てだよ。全てが物質とその相互作用の中に含まれているから。
400 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 14:25:39
401 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 14:44:30
>全てだよ。全てが物質とその相互作用の中に含まれているから。 「経験界」に在っても「実体」とは同定し得ぬもの⇒「空間」「時間」 先ずは、これに『心』もお加えください。
402 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 14:46:08
>>401 実体が何かわかってないのでは?時間も空間もわかってないでしょ?
403 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 14:47:06
結局のところ、汝目覚めよ氏は何も言っていないに等しい。
404 :
汝目覚めよ :2006/01/06(金) 15:00:36
>時間も空間もわかってないでしょ? それらを「本当の意味」でわかっている人は居ないでしょう。 「相対論」なる理論は重力や時空の関係を実験的事実と演繹的思考から 定式化したに過ぎず、それらが「本当の意味」でわかった訳ではありません。
405 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 15:02:10
>>404 >それらを「本当の意味」でわかっている人は居ないでしょう。
違います。
わかっている人がいるかいないかすら、貴方にはわからないってことです。
単に貴方が本当の意味では何もわかっていないに過ぎません。
406 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 15:02:56
>>404 >「相対論」なる理論は重力や時空の関係を実験的事実と演繹的思考から
>定式化したに過ぎず、それらが「本当の意味」でわかった訳ではありません。
こんなものは所詮、貴方の頭の中でのことです。
407 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 15:34:21
アノー、「ダレガ イチバン ワカッテナイカ コンテスト」 ヤッテルッテ キータン デスガ ココ?
408 :
考える名無しさん :2006/01/06(金) 21:01:08
409 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/07(土) 00:14:59
>>359 >> 「クオリア」は「観念」とは「全く違うこと」なのです。
>まぁ、概念とか言うとちょっと違いますが、イメージとかでどうですか?
>機械さんの言う「指向的クオリア」っていうのは文化的概念構造を指す
>わけでしょ?
ブンカテキガイネンコウゾウ・・そういう「意味付けされたモノ」が存在する
「前」に「存在する(した)」のは、
@個々(人)の脳に絶え間なく立ち顕れる感覚器官からの情報・・と
Aその情報を瞬時に「意味」として形成する「脳及び神経細胞群の構造」
が「まず(新生児の段階で)」存在したからです。
そういう意味で、「指向的クオリア」とは、
@誕生直後には「殆どROMとして(人類的に)脳に組み込まれた『認識構造』」
Aその後においては、「経験」・・・遭遇した「感覚的クオリアによって変容した@」
・・ということです。
410 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 00:16:07
>>358 >しかし、人間の場合それ以外に手がかりはありませんよね。
俺がずっと知りたいと思っているのは、あなたが「それ以外にない」と判断する根拠だ。
ここで言いたいのは、言語に依存する認識があることを示してほしいのではなく
(これはすでにいろいろとよい例を示してもらった)、
言語に依存しない認識がない理由を示してほしいわけ。
本能が壊れているでは理由になっていない。
本能なんて言葉は大風呂敷すぎる。
>クオリアはだから文化的変異について説明できないだろうと思います。
俺はクオリアについてはまったく素人だが、クオリアとニューロン発火とを同一視するなら、
別にヘッブ則でもPDPモデルでも何かしらによって文化的変異は説明できそうだけど?
411 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/07(土) 00:25:35
409の捕捉です。 『感覚的クオリア』とは「五感感覚器官(のフィルタリング)を通過した情報」であり、 『指向的クオリア』とは「脳・神経細胞が感覚的クオリア群をフィルタリングする構造」 ・・・ということです。 (茂木さんの用語法とは「全く違う」のかもしれませんが・・・・)
>>409 > @誕生直後には「殆どROMとして(人類的に)脳に組み込まれた『認識構造』」
これって実証されてるんでしょうか。
413 :
152 :2006/01/07(土) 00:29:44
414 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/07(土) 00:31:32
>>412 実証?ですか・・・(新生児の)人間の脳は「遺伝子情報で分化した受精卵(一個)
の「一部」であることはご存じですよね?
>>410 > 言語に依存しない認識がない理由を示してほしいわけ。
> 本能なんて言葉は大風呂敷すぎる。
だけど、前からの話からすると、言語的認識以外というのは本能的な価値判断ですよね。言語的思考を
経由しないということで言えば。これが全く無いとは言えませんよ、人間でも。これも前に書いたように、
近親相姦や食人というのは文化的抑圧によってそうしているとは言えないという調査結果がありますね。
ただ、そういう面の感覚を軸に人間は生活しているわけじゃないということです。自分で自分の檻を作る
動物ですからね、人間は。
> >クオリアはだから文化的変異について説明できないだろうと思います。
> 俺はクオリアについてはまったく素人だが、クオリアとニューロン発火とを同一視するなら、
> 別にヘッブ則でもPDPモデルでも何かしらによって文化的変異は説明できそうだけど?
ニューロン発火パターンに所与のものがあるというわけですよ、クオリア論は。もしそうじゃない、
環境によって変わるんだ、とか言うならばクオリアって何だ?ってことでしょ。
>>414 > 実証?ですか・・・(新生児の)人間の脳は「遺伝子情報で分化した受精卵(一個)
> の「一部」であることはご存じですよね?
しかし、人間の場合新皮質の超巨大化と未熟児で誕生することからあまり遺伝子レベルの
感覚に頼ることができませんよね。
417 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/07(土) 00:46:45
>>416 いや「感覚」は「脳」があって始めて生じるモノなので、「観念論的本末転倒」
は「基本的勘違い」だと申し上げている訳です。
あなたが(何時かは知りませんが)「誕生した瞬間」に「持っていた脳」と、
その後の「経験」から『貴方自身の今の脳』が形成され、そのようなレスをしている
・・・ということです。
>>417 つまり、クオリアの出番はないということですか。
419 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/07(土) 00:55:02
>>418 新生児の(遺伝子由来の)指向的クオリアと最初の感覚的クオリアの『出会い』
が、我々人類の「共通の始源」だと申し上げているだけです。
貴方にも「始源」はあったのであり「その後の経験」もまた「貴方独自のもの」
ですが、貴方も「何時か死ぬ人類という哺乳類の一個体」である・・ということです。
「指向的クオリア」って、一体何のこったい。
421 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 01:42:22
感覚の運動は物理的運動そのものである。なぜなら感覚は同時に物質であるから。
422 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 02:07:55
素粒子あるいは紐あるいはxもまたクオリアする性質そのものである。どう いう風にであるかは直接観測することは出来ないけれども。我々はたまたま 脳という器官を通じてしかクオリア出来ないというだけである。我々の クオリアするテリトリーを離れたものがクオリアしていないとは決して断言 できない。自分と同じ人間である他人に対してすら、その人がクオリア しているかいないかを判断することは絶対に不可能なのだから。
423 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 02:26:59
他人はクオリアしているか、いないかの「いずれかであれば」論理的には 真となる。この場合我々と同じ人間である他人がクオリアしていない と本気で考える人のほうがむしろおかしいだろう。ではクオリアする物質 である我々人間と同じ「物質」である、全ての物理的自然現象の諸要素は どうか?
424 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 02:53:54
クオリアは移ろいゆく自然 人と共にたゆたうもののこころ
425 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 02:55:06
でちゅ。
426 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 07:07:56
>>419 > 新生児の(遺伝子由来の)指向的クオリアと最初の感覚的クオリアの『出会い』
> が、我々人類の「共通の始源」だと申し上げているだけです。
だけど、その指向的クオリアってやつが基準になって人間の認識を組み立てていくんですよね。
つまり、人間は動物と同じように自らの処し方を知っているということですか、本来。
>>427 「かもしれない」という仮説を立てるのがクオリア論の一形態として
あるかもしれませんね。そして、それが思弁的な理論に反するからと
言って、即座に誤っているわけではありません。
これは相対性理論に反対して『持続と同時性』を書いたベルクソンの
ような例があります(哲学の方が誤っているというのはよくあること
です)。
クオリアって受け手としての言葉だよな。 モノの本質ってのは変わってないのに見る側(人間)の変化に警鐘を鳴らしてるって感じ。
430 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 18:26:00
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
431 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 18:26:41
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
432 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 18:27:49
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
433 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 18:35:12
434 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 18:39:18
430 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/07(土) 18:26:00
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
435 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 18:44:07
431 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/07(土) 18:26:41
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
436 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 18:46:24
432 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/07(土) 18:27:49
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する
のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる
ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。
これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに?
なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、
簡単には以下のよう意味になる。
クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし
最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の
問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉
でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、
意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
433 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2006/01/07(土) 18:35:12
【研究】 「放っておけない」 人をだます"ニセ科学"にどう対応するか…物理学会、3月にシンポ★4
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1136610867/l50
ぴかぁ〜自身で批判的に(あら探しするつもりで)読んでごらん。
>>430 >ラカン的には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
「クオリア」は無意識のことか? 別物だろう。
>>431 >たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。
盲人と普通の人とに共通な色のクオリアを仮定し、さらに伝聞に伝聞を重ねて、
挙げ句に、ラカンやヴィトゲンシュタインの言葉尻を文脈抜きで引用しても
何の説得力もない。
>>432 >意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
「複雑なコンテキスト」の彼方にあるのは、ぴかぁ〜の「意味=クオリア」説。
438 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 21:16:16
>>437 あら探ししても、「意味=クオリア」説の反論が見あたらないのですが、
反論できますか?できないですね。
>>438 > あら探ししても、「意味=クオリア」説の反論が見あたらないのですが、
> 反論できますか?できないですね。
「意味=クオリア」説だと脳内ニューロン発火では説明にならないから不愉快なんでしょう。自分の
主観的自明性を脳科学で記述できたらいいのに、という願望ですからね、クオリア論は。
>>438 花がアフォードしている「意味」は、
「ここにくれば甘い蜜が吸える」じゃありませんか。
そこでの意味の伝達において、「赤」が果たしている役割は、
記号だと思いますが。
>>428 > 「かもしれない」という仮説を立てるのがクオリア論の一形態として
> あるかもしれませんね。そして、それが思弁的な理論に反するからと
> 言って、即座に誤っているわけではありません。
思弁的というわけじゃないですよね。例えば都市生活をどう説明するのか?法律を
自らに制定することをどう説明するのか?戦争をどう説明するのか?自殺は?
とにかく、無理がありすぎます。
442 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 21:58:26
なんだかさ、人工知能スレでも赤という色を巡って議論されているけど 結局、脳の情報認識=反応?が解明されないと、人工知能も実現しなそう。 で、どうなのよ、みなさん、赤という色の認識さえ明確に出来ないのに 脳の働きが解るのかな? 天才降臨キボン。
城のようですね。
444 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 22:30:31
>>442 問題は、「脳の働き」がわかってもクオリアはわからないということです。
身体の構造がわかっても、心はわからない、ということと同じですね。
445 :
437 :2006/01/07(土) 22:37:28
言葉足らずだったか。訂正する。
>>430-432 をぴかぁ〜自身で批判的に(あら探しするつもりで)読んでごらん。
つまり、反論するしない以前に、そんなんじゃ立論の体を成してないぞ。
センスは良いんだから、最低限、第三者の観点を持てるように心掛けるこった。
それと、クオリアに興味はない。
446 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 22:42:02
「精神」、「心」、「私」とは意味である、ということです。 ボクたちはデカルト的な「心身二元論」を信じるかどうか、 以前にすでに心身二元論的な考え方をします。 これは、「私」が意味だからです。それはそもそも身体の どこにもないのですから、心身二元論的に考えることは 当然です。
447 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 23:10:57
>>444 つまり、クオリアが解明されないと下の発言の様に人間の様に
活動するいわば、鉄腕アトムの様なロボットは出来ないと言う
ことですか。
で、クオリアって何?、それが、どう脳の働きに関係しているのだろう?
452 名前:決定論スレ46の556 :2006/01/07(土) 22:13:20
>>450 人工知能の定義を
「人間の脳とまったく同じ方法で、同じ動作をする、人工的に作られたもの」
とするなら、そういうことになりますね。
448 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 23:11:32
>>445 あら探ししても、「意味=クオリア」説の反論が見あたらないのですが、
反論できますか?クオリアに興味はない?さようなら。
449 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 23:15:00
意味論の歴史の中にすでにある心理主義批判だけで、 意味=クオリア説への反論になってんじゃないのか?
450 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 23:16:00
それと、有名な「私的言語批判」あたりも。
451 :
考える名無しさん :2006/01/07(土) 23:18:20
浦沢直樹/プルートゥ てか、手塚治虫って偉大・・w
452 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 23:19:28
>>449 それがクオリア論の議論の確信の一つではないか、と思います。
現在のこのスレは、その前段階ですね。
そちらへ話を展開していただいても良いですが、
基本的にこのスレには、そこまで言語論に詳しい方はいないようですが。
453 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 23:23:01
さらに、クオリア議論は、哲学でなく、科学であり、
哲学的律儀さを越えることの容易さ。すなわち「語り得ないもの」も語ってしまえる
「科学の力」があるわけです。
だからボクはこのような、進化心理学などを横目に見た仮説を語るわけです。
このような発言は、「哲学」ですると、狂人ですね。
>>436 >クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
454 :
決定論スレ46の556 :2006/01/07(土) 23:31:19
>>453 >さらに、クオリア議論は、哲学でなく、科学であり、
観測も検証もできないものについての議論が、科学であるというのはおかしくないですか?
すでに、「科学の議論ではない、主観の述べ合いである」と断言なさっている方もいらっしゃいますが。
455 :
437 :2006/01/07(土) 23:35:05
不用意にしかも不適切にテクニカルタームを多用することは、 余りに浅はかで目眩ましの権威付けに過ぎないことに気付くこと。 聞く耳持たないなら、何も言うことはない。
456 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 23:42:00
>>454 科学の極限ですね。
「科学の議論ではない、主観の述べ合いである」というのは、
ある意味で正しいですが、それをあえて科学側へ引き込もうという
試みです。
>観測も検証もできないものについての議論が、科学であるというのはおかしくないですか?
まったくもっておかしくないですよ。
科学の「観測、検証できるもの」という信念は、いわば「いつか」が隠されているのですよ。
>>453 > さらに、クオリア議論は、哲学でなく、科学であり、
そうかな。哲学でもなければ科学でもないんじゃないか。意味の神秘を哲学風に語るか科学風に
語るか。どちらも分かったようで何も分からない、神秘を語る点で変わりない。そこをどう避けるか
だと思うんですけどね。
458 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:11:48
>>457 いや、科学ですよ。
「だれがなんと言おうとこれは科学だ!
だから哲学的な見解はいらない。
さあ考えましょう」茂木はそう宣言しているのです。
459 :
決定論スレ46の556 :2006/01/08(日) 01:22:07
>>456 >科学の「観測、検証できるもの」という信念は、いわば「いつか」が隠されているのですよ。
科学では「これこれこういうことが(いつか)観測できるはずだ」ということを言う場合がありますが、
それは、それに先立って、何らかの仮説による予測があっていわれることです。
そして、仮説は、なんらかの観測事実を説明するために立てられます。
ですから、その仮説を否定する観測事実が観測されれば、
その仮説は否定されますよね?
(これが反証可能性であって、よく知られている科学の要件ですね。)
そして、もちろん、その仮説に基づく「これこれこういうことが(いつか)観測できるはずだ」も
否定されるわけです。
では、クオリアに、こういった反証可能性がありますか?
無いですよね?
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:25:44
>>459 よくご存じですね。
では教えてください。反証可能性がないだろう、科学には、
どのようなものがありますか?
461 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:32:34
くだらない質問でした。 ボクがくだらないと思う質問の一つが境界を問うものです。 科学の境界はどこか?生命の境界はどこか?人間の境界は? これは定義の問題でしかないし、思考することそのものには、 なんの意味もありません。 たとえば、科学とは反証可能性があるものだ、という定義は、 一つの課程です。それを信じることは否定しませんが、 それを議論することになんの意味のありません。 クオリアは科学である、そう茂木が宣言した。 それだけのことです。
>>461 と、すれば、
>クオリアは科学である、そう茂木が宣言した。
ことにも、あなたが、「クオリア議論は、哲学でなく、科学であり」と言ったことにも、
何の意味もないということですね。
つまり、「そういう種類の議論」を茂木さんも、あなたも、しているわけで、
科学の定義とそれを付き合わせることには何の意味も無いと。
463 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:01:05
前提1・反証可能であれば科学である 前提2・科学であれば真である 結論・ゆえに反証可能であれば真である。 この論証はどこがおかしいか指摘せよ。
464 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:01:11
科学のハードプロブレム
>>463 >前提2・科学であれば真である
これが真でない。
466 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:04:33
反証可能というのは、繰り返し検証が可能な現象のみが対象のもの。 一回性の歴史を刻み続ける人のアクチュアリティーは対象外になってしまう。 では、科学ではないから無意味なものなのか?
467 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:06:02
反証可能くんと真くんは友達の友達だから、実は他人。
468 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:06:30
>>462 くだらないですね。なにがしたいのですか?
この手の議論が好きなら、他の相手を選んでください。
クオリアは科学である、そう茂木が宣言した。
それだけのことです。
そしてボクは、クオリアは科学であるといった。
これ以上でも、以下でもありません。
>>468 要するに、あなたの言う「科学」というのは、
私の知っている「科学」とは別のものだった、
というか、あなたの言う「科学」というのは「何かを指す言葉」でさえなかった、
そのことを知らなかったために、私があなたの発言の意味を誤解していた、
それだけのことですよ。
>>462 は、それを確認しているだけです。
470 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:12:23
>>466 クオリア論には、科学とは反証可能性であるのか、も含まれている。
精神分析的には、「科学とは反証可能性である」は何を抑圧しているのか
ということですね。
この議論に意味がないことはないし、好きならつづけてもらえば
よいですが、「精神分析は科学か?」と同じで、
クオリア論がメタ議論であることは、理解してほしいですね。
心には反証可能性がない故に心理学は右に左に混迷し続けているという
歴史を前に、クオリア論でくりかえしてもねぇ〜みたいな。
>>469 私はあなたのいう「科学」も一般的な意味での「科学」とは
異なると思うのですが、どうでしょうか?
>>462 意味の話は反証不能になりますから、それが科学じゃないと言われちゃえばそう
なってしまいますね。ただ、そこが問題かというと違うんじゃないか。
何で意味があるか、クオリアがあるから。これは何も言ってないに等しいんですよね。
クオリアはユングの語る元型と等価だと思うのです。これは言葉を言い換えているに
過ぎませんね。
474 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:16:13
良く知りませんが、「決定論スレ46の556」の売りは、 この手の議論なのですね。きっと。
>>470 > クオリア論がメタ議論であることは、理解してほしいですね。
でも、メタになってなくないですか?つまり、精神分析がメタ心理学であるという
意味ではなってませんよね。仰るように意味論ならばメタ理論にならざるを得ませんし、
反証不能になるわけですが。
>>472 まず、辞書的には「一定の対象を独自の方法論に基づき体系的に
研究する学問」とありますから、科学の方法論は複数あっていいと
思いますし、また、ひとつ学問分野(例えば法学)にさらに複数の
方法論があってもいいと思います。
ですから、「科学の方法論」というのは、あんまり意味を持たないと
思うんです。
次に、自然科学に限定するとしても、例えば、「法則の普遍性」を
科学の前提におくのか、それとも、それを確率的に考えてしまうのか、
あるいは、「いろんな可能性を許容してしまう」のか、こういうのは
個々の科学者の科学観からして違うと思います。で、普通は、科学
法則はやっぱり宇宙の何処でも通用するんじゃないかなあ?と。
477 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:26:12
>>476 しかし、法則というのはあくまで観測者の解釈記述であって、事象そのものが
法則であるとは言えないのでは?
>>477 ええ、その可能性はあります。
が、他方でラッセルやペンローズみたいにプラトン的な
関係自体の実在を主張する立場もありますから、何とも
言えないんですよ。少なくとも、私は。
もし、そういう関係自体の世界が在るとしたら、事象と離れて
法則もそこにあるのかもしれません。
>>473 >なってしまいますね。ただ、そこが問題かというと違うんじゃないか。
あなたが、どういったことが議論の対象になっているとお考えかちょっとわかりませんが、
>>453 -
>>454 から始まった議論では、問題はその点ですよ。
>>461 時点での議論の対象となっている「意味」というのは、
「科学の定義に適合するかどうかによって、あることが科学であるかどうかを論じること」
の「意味」になっています、ぴかぁ〜さんは、
>>461 でそれには意味が無い、
とおっしゃっています。
これはぴかぁ〜さんの考え方であって、一般論として、「何で意味があるか」といった話をここでしても、
それこそ意味が無いと思うんですが・・・。
>>476 まあ、そういう意味では私の言っている意味の科学は、
厳密には「自然科学」と言うべきでしょうね。
確かに、さまざまな方法論がありますが、
仮説と検証による方法は、自然科学においては共通のもののはずです。
個々の方法論のバリエーションはこの域を超えるものではないはずです。
(超えた場合は疑似科学の疑いをかけられるでしょう。)
>例えば、「法則の普遍性」を
〜
>法則はやっぱり宇宙の何処でも通用するんじゃないかなあ?と。
理論物理学の最先端の世界では、その点に揺らぎがあるのも事実のようですが、
世界になんらかの普遍性的な法則性がある、と前提するのが、
(自然科学においては)もっとも一般的な考え方だと思います。
この点についてはそうでない、と言った覚えがありませんが。
>>480 ということは、帰納法は自然科学の方法論の前提なんでしょうか?
もうひとつ、何を前提にしていいのか、という点の基準については、
まだ伺ってないと思います。その辺はどうなんでしょうか?
482 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 02:49:55
イデアを前提しないとやっぱ思考効率落ちるっしょ。スッキリ整理できない っしょ。
>>482 モデルと事象が一致してる、と考えるのは有益ですよね。
天気予報なんかも、モデルが事象に近付いてる筈だ、という
確率以上の信念があるでしょうし。
484 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 03:03:04
>>483 でも、バタフライ効果とかの複雑系が、モデルと事象の一致という信念を
困難にしていまふ。
>>484 複雑系はまだよく分からないのですが、バタフライ効果については、
この信念でも説明可能なようですね。つまり、あくまでも観測技術の
問題に過ぎないと。
むしろ、事象とモデルが一致しない場合に、「もっと一致するモデルがある」
とか「観測技術を向上させれば精度が上がるだろう」と考えるのも、一重に
この信念のおかげだと思うのですが。
>>481 >ということは、帰納法は自然科学の方法論の前提なんでしょうか?
意味がよくわかりません、
>>480 の内容とどのようにつながっているのでしょう?
>もうひとつ、何を前提にしていいのか、という点の基準については、
>まだ伺ってないと思います。その辺はどうなんでしょうか?
それこそ、どういう前提を置くかによるでしょう。
論理的に考えようとするならば(これも一つの前提ですね)、
ある前提を置いたなら、その後に置く前提は、
先立つ前提に矛盾しない事柄しか置けないことになりますね。
487 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 03:16:07
>>485 要するにまあ何だ、たとえ観測技術の問題はイタチゴッコであったと
しても、そうやってやっていくしか道はないことは確かでしょうな。
>>486 普通、自然科学は帰納で命題を導いてると考えられてるわけですが、
科学哲学ではこの帰納法の問題点を指摘して、いろいろと回避策を
考えますね。
で、仮説⇔検証のモデルをストレートに認めるのは、科学の方法論
としては珍しいのではないかと。常識的ではあるのですが。
どういう前提によるか、と言うと、勝手に「神は存在する」とかを前提に
してもいいってことでしょうか。矛盾無く体系を組めると思います。また、
ダメだとするとその規範はどこからくるのかが問題になりますね。
>>487 それが科学の効率経済かもしれませんね。
>>488 >普通、自然科学は帰納で命題を導いてると考えられてるわけですが、
〜
>としては珍しいのではないかと。常識的ではあるのですが。
よくわかりませんね。
仮に、帰納法に問題があるとして、それが仮説、検証モデルと、どう対立するのですか?
>どういう前提によるか、と言うと、勝手に「神は存在する」とかを前提に
>してもいいってことでしょうか。
というか、その「してもいい」というのはどういう意味なんでしょうか。
別に私に、あなたの思考方法をいい、わるい、と決める権利は無いと思うのですが。
あなたの好きなように前提なさったら良いのではないでしょうか?
>矛盾無く体系を組めると思います。
「神は存在する」を最初の前提にするなら、そうですね。
>また、
>ダメだとするとその規範はどこからくるのかが問題になりますね。
それは、「神は存在する」に先立って行なった前提によるでしょうね。
あくまでも一般論ですよ。
あなたが、論理的に考えたくない、と考えたなら、それをダメだなどという権利は私にはありませんし、
そんな野暮なことを言いたいとも思いません。好きなように前提を立ててください。
>>490 「神は存在する」を前提にしていいとすると、神は科学と関係ある
ことになりますね。しかし、本当にそうなのか、というのが第一点。
第二点は、あなたが私に論理的に考えないのはダメだ、という権利は
法的には保障されてますね。なんで権利が無いのか、私には理解できません。
第三点。あなたの理論は単なる常識論で、哲学的根拠はどこにも無いのでは
ないか、というものです。
492 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 05:36:42
ドラエモンは存在するかって? ええ、いますとも、私の心の中にいつでも、温かい微笑をたたえて。
493 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 06:27:29
>>492 脳の仕組みとかさ、クオリアとかさ、人工知能とかさ、科学や哲学とかさ、頭痛くなりそうだったけど、君の一言で救われたよ。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
494 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 06:56:47
サンタは存在しないだって? いえいえ、思い浮かべてごらん、ソリに乗ってシャンシャンと鈴を鳴らしながら トナカイと共に雪空の中を優雅に飛んでゆく姿を。ほら、そこにいるではないですか。
>>491 あのですね。
そろそろこのスレとの関連性がわからない話になってきましたよ。
>「神は存在する」を前提にしていいとすると、神は科学と関係ある
>ことになりますね。しかし、本当にそうなのか、というのが第一点。
わけがわかりませんね。前者と後者にどんなつながりがあるのですか?
個人が神の存在を前提にものを考える自由と、
科学と神の関係性はまったく別の問題だと思いますが。
>第二点は、あなたが私に論理的に考えないのはダメだ、という権利は
>法的には保障されてますね。なんで権利が無いのか、私には理解できません。
ええと、「いけない言う」には二つの意味がありますね。
「「いけない」と発言する。」という意味と、「「いけない」と命令する。」という意味です。
私が時分に権利が無い、と申し上げたのは後者の意味です。
>第三点。あなたの理論は単なる常識論で、哲学的根拠はどこにも無いのでは
>ないか、というものです。
理論、というほどのものは申し上げたつもりはありませんが、
とりあえず、抽象的で、私のどの発言がどのように問題なのかよくわかりません。
具体的には、どの発言がどのように問題なのでしょうか?
496 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 10:50:16
肛門の回りの毛が激しくウザいんだがこれって永久脱毛出来るかな? うんこが付くんだよ。
>>485 > むしろ、事象とモデルが一致しない場合に、「もっと一致するモデルがある」
> とか「観測技術を向上させれば精度が上がるだろう」と考えるのも、一重に
> この信念のおかげだと思うのですが。
所謂自然科学の前提は数学的整合性でしょうね。近代科学はまず最初に直感的な
数学的理論構造があり、それを実証するために実験が行われる。この場合の直感は
経験的なものではない、時間と空間といった、人間による世界の基本的な"切り取り方"に
基づく。
クオリア論はそこに経験を入れようとしていることが特徴なんだろうと思います。例えば、
様々な物理法則から勘案するに、地球が太陽の周りを回転しているとするほうが数学的
整合性がある、これが普通の自然科学だとしたら、クオリア論は、あくまでも太陽が地上の
人間にどう見えるか、ここから出発する。数学的整合性が前提する直感的思考空間よりも
前に経験的なものを立てている。
498 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 11:08:33
肛門の回りの毛が激しくウザいんだがこれって永久脱毛出来るかな? うんこが付くんだよ。
ウンコの付いた肛門の周りの毛は重いの? ずんごーい。
>>485 >>497 の続き
なので、数学的整合性を機軸としたモデルとイデア論とは全く違う。数学的モデルは経験を
通さずとも直感的に明証性を検証できるわけです。ところが、イデア論は論理的に整合的で
ありながらも、決して自然科学のモデルのように、直感において検証することができない。だと
したら、それは経験に晒されなければならないが、イデア論はあくまでも経験以前の何者かを
記述しようとする。これが形而上学です。
>>485 >>500 の続き
クオリア論というのは、科学的記述、つまり経験を必要としない認識という立場を取りつつも、
経験に晒されなければならないような対象を記述しようとしている。この点で形而上学なのです。
赤を波長として記述することは自然科学で記述可能です。数学的モデルで表現された
ニューロン構造にある波長の色情報がどのように影響を与えるか、これも非経験的領域の
認識として記述可能です。
しかし、「赤さそのもの」といった概念を"科学的"に記述するというのは、これはイデア論
と同じ、本来経験を通さなければならない概念をそれ自体が非経験的に在るかのごとく
扱うことに等しい。
502 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 13:44:24
じゃあ必然しかない
503 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 13:54:59
おまえらアホだろ? スタート地点がすでにあるのに、 あれこれスタート地点について屁理屈重ねているだけ 早くレースを始めな
最初のボタンはかけたのだから、 掛け違いかどうかなんてどうでもいいから、 そのまま全部のボタンをかけて出かけろと。
505 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 14:35:31
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
506 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 14:36:39
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
507 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 14:37:33
それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
508 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 14:41:40
二十歳すぎて2ちゃんやってたら 痛いよね
509 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 14:43:41
就職が決まったばかり、22歳処女。いや、「女の童貞」と呼んでほしい──。
511 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 17:10:43
いうなれば、昆虫は赤を我々の赤クオリアとしては認識していない。 ユクスキュルなどがすでに指摘していることだが。 昆虫は花の匂いや蜜の匂いに反応してると想われる。 では、花の赤はなんで赤でなければならないのか? あの赤は何に向けて赤をアフォードしているのか?
512 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 17:15:05
そう、人間にである。 言い方を代えれば、赤という生々しい色は、 外部というリアルに存在してはいない。 では、どこか? そう、人間の脳内に赤が生じているのだ。 つまり、赤とはアクチュアルな人のクオリアに過ぎないわけである。
>>495 どうやら論点を把握していただけないようなので結構です。
少なくとも「クオリア論と科学は無関係」という仮説にはさほど
根拠が無いということは分かりました。ありがとうございました。
>>497 それも、実際の科学史から考えるとちょっと奇妙だと思います。
行き当たりばったりで実験してないのは「地球と磁気の関係」や
パスカルの真空実験を見れば分かります。彼らは、仮説を立て
てから確認のために実験してるわけですね。
しかし、全部そうなのか?、と言われるとさすがにきつい。これは、
むしろ、科学者が統一的な科学の方法論なるものに基づいて行動し
ていないことを表していると思います。そもそも、「科学とは何か?」を
問うこと自体が「解答の無い問題」ではないかと。
これは法学と似ていて、「法学なら法とは何かが分かっている必要がある」
はずなのに、実際には「法の定義論=法概念論は統一的な定義を立てる
ことを放棄し」、法実務家は個々の具体的な事件に着目します。つまり、
対象の明確性はそれほど重要ではなく、グレーゾーンは個別的に対処し
ていきましょう、ということですね。
しかし、法実務と科学実務との違いはやはり、あって、法実務は 訴訟の遅延を酷く嫌います。訴訟経済です。数学のように「解ける のは100年後でも構わない」ということはないんですね。 そこで、議論が不十分でも権威的に切り捨てちゃうところがあるの ですが(もっとも、そういう場合でも、よく考えられていることが多い です)、科学者の場合は「そんなこと科学と関係ない」というよりも 「よく分からない」と答える人の方が多かったですね。>クオリア こういうハードケースに対する個々の実務家の態度は、とても 興味深いです。
515 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:15:48
>>512 対象に対する人の反応が、動物にも見られる、ということは
良くあると思います。
たとえば音楽の心地よさは動物にも感じられるところがあったり、
色への反応などです。
そこには、言語意味に汚染される前に、先天的な意味があると
ということであり、進化論的意味です。
これは身体構造的にはかなり明確です。
たとえば人の手はなぜ5本なのか、人の耳の形は
人の内臓の形は、ということは進化上の継続性
(動物の構造との連続性)で見ることができます。
これを意味へ展開するのが、進化心理学です。
進化心理学は、認知科学の一分野として数えられます。
心の解明という意味で。
クオリア論もこのような心の科学の一つでしょう。
516 :
あ :2006/01/08(日) 18:34:50
515>それはそうだとしても、「言語意味に汚染」されなければ、 それを認識することもできないんですよね。 「先天的意味」っていうのも言葉ですから・・・。 ごめん、スレ違いですね、揚げ足とりじゃありません、 ここは認識論をやってるわけじゃないでしょうから。失礼しました
517 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 18:42:39
505 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/08(日) 14:35:31
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
518 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:43:13
>>516 だからといって、「先天的意味」がないということでは、
ないですね。
科学は、「言語意味に汚染」されずに、「先天的意味」を
記述しようとする試みなのです。
519 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 18:44:08
506 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/08(日) 14:36:39
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
520 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 18:48:45
507 名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/01/08(日) 14:37:33 それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
>>513 >どうやら論点を把握していただけないようなので結構です。
私の質問のいくつかに、あなたは答えてくださっていません。
これでは論点の把握のしようがありません。
>少なくとも「クオリア論と科学は無関係」という仮説にはさほど
>根拠が無いということは分かりました。ありがとうございました。
根拠は、一言で言えば、「クオリアは観測できない」ですよ。
これは、クオリアを論じようとする方の多くも認めて下さっていることです。
あなたはこれを覆していませんね?
目を覆って無視すると宣言なさっているだけです。
>>513 > そもそも、「科学とは何か?」を
> 問うこと自体が「解答の無い問題」ではないかと。
例えば、スポーツや楽器、職人などが技術を教える際に、数学を教えるように技術を
伝えることができるか。できませんよね。しかし、弟子の経験を直接操作することなんか
もちろん不可能ですから、言葉と実演などで伝えようとする。後は教わる側が練習する
しかないわけですが、必ず習得できるとは限らない。じゃあ、先生が語る言葉は悪い意味で
主観的で、言われても言われなくても関係ないような言説かというとそうでもない。
ところが、数学を基礎とした自然科学は全く違うんですね。練習とか関係なく、きちんと
伝えることができるわけです。論文を読めば、読んだ側は理解できる知識があれば認識を
拡張することができる。進歩しちゃうんですね。しかし、泳ぎ方を書いた本読んでも、泳げる
わけじゃない。
>>514 > しかし、法実務と科学実務との違いはやはり、あって
法律と科学の比較は確かに分かりやすい例だと思います。科学はそれ自体で閉じることが
できるというか、経験を基本的に必要としないが、法律はそうじゃないですね。科学者は
世間と断絶して科学の進歩に貢献できるが、法律はそうはいかないでしょう。ただ、ここは
自然法をどう考えるかという点で議論があるところかと思いますが。
クオリア論に戻ると、意味というのは明らかに経験的な側面がある。ところが、これを経験との
関連を無視して語り始めると、言葉だけが独り歩きして形而上学になってしまう。自然科学、
数学などは経験との関連を無視しても発展できちゃうんですね。
523 :
あ :2006/01/08(日) 18:52:39
「語りえぬもの」とは、「神」かもしれませんね。 それも、われわれがそう呼ぶレベルではなく、「そうならしめている何か」 ・・・だめですね、言葉で呼んだとたんうそになってしまうから 説明できないですね、、、。 でも、その「何か」が存在することは信じますけど
>>518 > 科学は、「言語意味に汚染」されずに、「先天的意味」を
> 記述しようとする試みなのです。
ちょっと待ってください(笑)。そりゃちょっと違うんじゃないですか?科学は先天的「形式」を
記述すると言ったほうがいいでしょう。科学の中に所謂「意味」は出現しませんよね。
525 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:54:51
>>521 やっと定義論という好みの問題から、ある程度のとこまできましたね。
「クオリアは観測できない」というのことは、
そのはじめに「クオリア」とはなにか、があるわけですね。
クオリアとはなんであり、なぜ観測できないのですか?
526 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:57:47
>>524 簡単ですよ。
なぜ人類は科学を進歩させるのか?
それは、生存のためという功利性だけですか?
ということです。
科学が形式の記述であっても、それは意味を求めることを
否定することではありません。
意味に近づく方法ための形式の記述です。
>>526 しかし、自然科学はその方法からしてどこまでも意味に触れることは適いませんね。意味は
社会的ですからね。自然科学は社会的じゃない。
528 :
あ :2006/01/08(日) 19:04:25
「クオリア」(意味?)は、その「何か」をそう名づけて呼ぶことに 自分が決めているから、それが「そうだとわかる」んじゃないですか? むしろ、「わかる」というより「決めているだけ」だと思います。 これは、あたりまえの話で「海」を「UMI」と呼ぶことに何の必然性もありませんから。 自分で、そう呼ぶことに決めているだけなんですから。 だから、それ以上語りえぬものを語ろうとしても、それはそう「決めるだけ」であり 無理です。 ただ、それをそう決めさせている何か、が存在することは信じます。 (これも言葉でそう決めているだけなんですが)
529 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:07:14
>>528 名付けとは還元であり、抑圧であり、「ものの殺害」です。
そして終わりは始まりです。
名付けなければ、次に進めません。
>>526 科学によって意味を生じさせるという錬金術を行っていた例として、オウム真理教などがありますね。
あそこは理科系の人多かったみたいですけど、そういう願望が人にあることは否定できない。本屋で
「人に好かれる方法」とか読むのも同じようなものですが(笑)。
531 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:08:37
>>527 自然科学とはなんですか?に戻りますか(笑)
532 :
あ :2006/01/08(日) 19:12:12
ごめんなさい、揚げ足を取っているわけではありませんので。 ただ、それを決めているのが「自分だ」と気づいた(決めた)瞬間に、 同時に「それを決めさせている何かがいる」ことに気づく(決めた)ことに なりませんか? それを、法則と呼ぶかなんと呼ぶかはわかりませんが、 ひょっとするとこういう認識の仕方でしか、その「何か」には 迫れないかもしれないとも思うのです
533 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 19:12:14
意味とは?
534 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:12:23
>530 どうも、この手の話に終始しますね。 クオリア議論そのものは、科学的知識不足でにつまっていますね。 なぜ人類は科学を進歩させるのか?
>>531 > 自然科学とはなんですか?に戻りますか(笑)
クオリア論は少なくとも狭義の自然科学ではないわけですが、精神分析のような方法でもない
わけです。じゃあ何と等価かと言うと、ユング心理学だと思いますよ。元型とクオリアは等価でしょう。
これは何も説明してませんよね。メタ心理学にもなってない。あと、思想としても有害です。
536 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:15:33
>>535 元型とクオリアは等価???
すいません。個人的にはユングの元型とオウムの教義の違いが
わからないもので。
>>522 泳ぎ方は「水泳の本」を読めば分かります。
これは「泳ぐ知識」は本でも理解可能だ、ということです。
しかし、仰るように、「泳ぐ技術」は練習しないとできません。
では、自然科学でこういうことが無いかと言うと実はあって、
論文を読めば「知識」は拡大するのですが、実際にそれを
追試できるかは個々の科学者の技術の問題になります。
一流の科学者だから実験も一流かと言うとそうではありません。
論文を読むだけでは実験はできないのです。
科学史(知識史)と技術史が一般に区別されるのは適切だと思います。
>>535 原型とクオリアが等価ではないと思います。
ユングの「原型」というのはクオリア論では「ニューロンの発火パターン」の
方に当たると思います(そもそも比較可能かと言うのはあるのですが)。
クオリアは、原型に規定される具体的イメージですね。
ユング派の先生に教えてもらったことがありますが、ユング心理学で
重要なのは、
1,厳密に科学とは言えないが実際に治療として使える。
2,原型=具体的イメージではない(具体的イメージは当然遺伝しない)。
という2点みたいです。
>>534 > なぜ人類は科学を進歩させるのか?
ぴかぁ氏の好きなラカン風に言えば、他者の欲望の問いということでしょうかね。
そうであるならば、
>>536 > 元型とクオリアは等価???
> すいません。個人的にはユングの元型とオウムの教義の違いが
> わからないもので。
ユング心理学みたいなことは言うべきではない。欲望の対象を明示して自足しようという
ことですからね。
面白いのは、 原型→具体的イメージ ニューロン発火パターン→クオリア という「規定するもの」「規定されるもの」があって、後者は 自己自身では観測可能なわけですね。問題なのは、他者 との共有可能性が無いのではないかという疑いです(脳に 電極を繋いでモニターすればいいのでは、というのはひとつ の提案だと思いますが)。
>>541 その人の視界を液晶に映し出す技術が誕生すれば可能ですよ。
少なくとも、「この方法では視覚クオリアを観測したことにならない」
という人は現場の科学者では少ないんじゃないでしょうか?
「クオリアは観測不能」というのは「今の技術では観測不能」という
のに過ぎないと考えています。但し、科学的にそれどよくても、
哲学上の心身問題は解決して無いとは思います^^;
あと、本人が自分のクオリアを観測してるのは、一応 前提になってるんじゃないでしょうか?
544 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:36:51
>>539 > なぜ人類は科学を進歩させるのか?
ラカン風にいえば「欲望は無への欲望である」ということですね。
それは、意味を求めるためです。そして意味は手に入らない、ということだと思います。
ユングの原型とは、「遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験」なのでしょうか。
>クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
>>542 >>543 しかし、従来の表象論みたいな延長だと、モニターのは厳密に言うと
他人のクオリアじゃなくて自分のクオリアということになるけど、って
これはあくまでも哲学的にそう考えることができる、ということだろうか?
546 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:41:44
>>542 >その人の視界を液晶に映し出す技術が誕生すれば可能ですよ。
これは面白いですね。
「その人の視界を液晶に映し出す」とはなにか?ですね。
視覚的なクオリアは、光学情報へ還元できるのか、ということですね。
ボクはクオリアが意味である以上、還元できないことがクオリアだと
思います。
>>545 ええ、そうなります。
あくまでも「哲学的には」そう疑えます。そもそも、クオリア論は
従来の哲学に何も付け加えていない、という私の仮説が正しい
ならば、クオリア論はある程度、どこかで妥協してくると思います。
その妥協ラインとして、「他人の脳に電極繋いでモニターできちゃえば
ひとまずそこで話を置いておく」というのはありえると思います。つまり、
クオリアを完全に閉鎖的な主観の世界に閉じ込めないということです。
このへんは、医学なんかだと結構使われるように思います。
>>542 それ(映し出された画面の観測)は、
観測者の視覚を通り観測者のクオリアに変換されるだけでは?
被験者のものと変貌していないという保償はあるの?
>>525 >「クオリアは観測できない」というのことは、
>そのはじめに「クオリア」とはなにか、があるわけですね。
いや、まったくそのとおり。
>クオリアとはなんであり、なぜ観測できないのですか?
私の立場からいうと、「クオリア」というのは、脳や意識について議論しているときに、
他の人が議論に割り込む形で持ち込もうとする「なにか」でしかありません。
それこそ「クオリア」という単語は記号、ラベルでしかないわけです。
ですから、私が「クオリアは観測できない」といってしまうのは、
じつは、ちょっと言いすぎです、あくまでも「一言で」簡単に言うために、
「クオリアについて論じようとする人が、クオリアと示した物はすべて
(第三者から)観測不可能なものだった」
から回りくどい部分を省いているわけです。
逆に言えば、「クオリア」という言葉をなんらかの観測可能な対象を指す言葉として使う人がいても、
かまわないわけで、その場合「クオリアは観測不可能」は正しくないわけですが、
そういった定義にクオリアについて論じている大部分の方は納得なさるでしょうか。
>>546 それは「完全な」還元を目指すかどうかですね。
>>548 はい、哲学的にはそう言えます。
が、「質感共通」の前提が働くんではないかと思います。
つまり、「赤さ」は「誰でもほとんど同じだろう」ということですね。
これは「犬の視界は白黒写真」という説明方法と似ていて、
白黒写真だってあくまでも「私」の視界でしか無い。けれど、
そこをいったん切り捨ててしまうんではないかと。
551 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:54:07
>>505-507 ■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
でも示しましたが、意味が語り得ないのでは、
対象があり、そこを意味へと変換するのは、因果律ではなく、
その間に解釈項が入るためです。
意味が主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。
だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、
意味は主観であり、語り得ないのですね。
しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションが
なりたちません。そのために解釈項には近似的なのですね。
あなたと私は限りなく同じなのですね。
>クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
ボクがこのようにいうときに、遺伝子による進化上の経験これは人間では限りなく共通です。
言語による文明的経験は、同じ文化圏であるために同じです。
このために主観であるクオリア(意味)は、限りなく近く感じることができるのです。
>>550 つまり、素粒子論みたいに、「素粒子は見えないけどそういう概念を
使ってると便利だよ」ということだろうか?
たとえば自分の声を録音して再生して聞いてみると、とても 自分の声とは思えない、という体験はよくあると思います。 で、他人から「お前は自分の声をどんな声だと思っているんだ」 と聞かれて、「こんな声だよ」と客観的に表現して伝える方法は、 あるでしょうか? クオリア問題というのは、こういうこととは違うのでしょうか?
554 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:59:48
>>549 >クオリアとはなんであり、なぜ観測できないのですか?
語りましたね。それでよいのですよ。それが科学であるか、ないのか、は
事後的なのです。クオリア議論が先立つのです。
555 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/08(日) 19:59:56
みなさん 真剣に、クオリアごときが理解できないんですね クオリアの問題というのは、そんな事ではありません
>>542 非常に面白い考え方ですね。
どうも、あなたの「クオリア」の定義は他の人とは少し違うのではないですか。
つまり、あなたは、「観測可能な何か」だと定義しているわけですよね?
「観測不可能だ」と断言なさる方もいましたから、少なくとも、
そういう方とあなたのクオリアの定義は違うものなわけですよね?
であれば、「あなたの言う「クオリア」は科学の対象となるかも知れませんよ。
あるいは、すでに科学が対象としているものを「クオリア」と言い換えているだけに過ぎないかもしれませんが。
>>552 ええ、そうですね。
コミュニケーションに役立てばそれでいいんじゃないかと。
「他人が観測してる」ことなんて絶対ワカランから、全部観測報告と
考えなければならないか、というとそうじゃないんですよ。
でないと、「ウソ」の概念が成立しない(ウソは他人の頭の中が
分かってることを前提にしてますからね)。
>>554 その事後的な問題を持ち出したのは(わたしではなく)
当のあなたですが。
>>556 >あるいは、すでに科学が対象としているものを「クオリア」と言い換えているだけに過ぎないかもしれませんが。
一言タソは、前からそう言っていたと思うが・・(^^;)
560 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 20:08:17
>>558 ボクのテキストからそれを読み込んだのは、
あなたのクオリアでしょう。
>>559 ええ、西洋でも観念論の極地はそうなりますよね。
「全部表象なんだから、科学に客観性は皆無(というか客観性なんて虚構)」
という懐疑から出発して、もう一度再構築する。
「科学的対象としてのコロッケ」と「料理されたキツネ色のコロッケ」は、実は
最初から一緒で、科学は最初から「クオリアしか」扱ってない(最近の脳科学
の一部は、こういう考えに親和的かもしれませんね。唯脳論とか^^;)。
ただ、私はこれに満足できなくて(例えば、「キツネ色」と「波長」)、西洋哲学の
動向を学んでるわけですが。
>>537 > 追試できるかは個々の科学者の技術の問題になります。
しかし、科学ではあくまでも実験は重要ではありますが中心ではないですよね。理論の
ために行う。そして、スポーツのコーチが語る言葉は科学的言説ではないんですね。どこが
違うかというと、経験について語るかどうかだと思います。逆に言ったら、スポーツのコーチの
言葉は、実際のスポーツを経験が無ければ成立しない言説ですね。
ウィトゲンシュタインは、語りえぬものについては沈黙しなければならない といいましたが、ぎゃくにいうと語り得るものは、どんなにうまく語ろうが、語り得られるものでしか ない、と言うことですよね。 「クオリア(意味?)」を本当に捕らえようとしたら、「沈黙」しかないのでは? むろん、こんなことを言うと議論は終わってしまうし、面白くもないのはわかってますが
565 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 20:38:14
>>564 人とは、語り得ぬものこそを語る動物なのですね。
科学の原動力もそこにあります。
そうです。 そして、必ず、限界に突き当るんです。 そして、そのとき初めて何か次元の違う大きなものに、「沈黙」を持って相対するしかないものに 気づくんです。
>>538 > ユングの「原型」というのはクオリア論では「ニューロンの発火パターン」の
> 方に当たると思います(そもそも比較可能かと言うのはあるのですが)。
> クオリアは、原型に規定される具体的イメージですね。
確かにそうですね。
> 1,厳密に科学とは言えないが実際に治療として使える。
> 2,原型=具体的イメージではない(具体的イメージは当然遺伝しない)。
ええ。ただ、認識としてユング派の発想は何も語ってないわけです。心的現象をただ
なぞっているだけで、他の所謂心理学と同等なんですね。そして、様々な事象を
様々な元型として分類しているだけなのです。これは本能心理学みたいなやつと
同じなんですね。
>>544 > > なぜ人類は科学を進歩させるのか?
> ラカン風にいえば「欲望は無への欲望である」ということですね。
> それは、意味を求めるためです。そして意味は手に入らない、ということだと思います。
そうですね。だとしたら、
> ユングの原型とは、「遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験」なのでしょうか。
元型とか言うべきではない。ユングの元型は「遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験」
の遺伝の側でしょうね。そして、ラカンは当然そこが破綻しているところから人間を語っていたかと
思います。
>>551 > >クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
> ボクがこのようにいうときに、遺伝子による進化上の経験これは人間では限りなく共通です。
> 言語による文明的経験は、同じ文化圏であるために同じです。
> このために主観であるクオリア(意味)は、限りなく近く感じることができるのです。
そういう語り方はラカンファンのあなたとしてはよろしくないんじゃないですか(笑)。
こういうのは、将棋やチェスのような頭脳ゲームでも顕著で、 「将棋のプロが詰まないと言ってもコンピュータは詰ませて しまう」わけです。
571 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 20:48:19
>>566 気づくかどうかはわかりませんが、
語り得ぬ者を語る者がこそが、「人間」である、ということです。
572 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 20:51:18
>>569 ここでラカン的なヒネリを語っても、だれもわからないでしょう。(笑)
人は分かり合える(ようにふるまう)ということですね。
つまり、到達できないことはわかっていても、その距離を極限まで小さくすることに ロマンを感じる動物、ということですね
>>572 > ここでラカン的なヒネリを語っても、だれもわからないでしょう。(笑)
いや、ヒネリということではなくて、ラカンというかフロイド派の考えから言えば、
原因と結果を逆さまにしているのが、ユング理論であったり、クオリア論だと
いうことなんです。
"私"の解釈と"あなた"の解釈という問題を立てること自体が、ラカン的にいったら
ミスリードでしょう。私の解釈はあなたの解釈だったわけだから。人間というのは
そういうものだ、これがラカンの他者の理論でしょう。
>>574 どう振るか、どう投げるかも科学的に説明されてしまうと思います。
特に、ボールの軌道は分析が始まってますよね。
将来、監督はスポーツ経験者ではなくスポーツ科学者かもしれません。
カリスマの問題はありますが。
でも科学的に説明されても、そこで納得しきれないのが人間。
>>562 >>568 >>574 >>576 宗教(的体験)についてもそれが言えるかどうか・・
釈尊の悟りの内容は、(『行なくして』)語りうるのか?
布教伝道に際し、もっとも重要な部分だw
誤解・変貌なしに何千年も続きうるのか?
人は、データをコピーし合うわけではない
という限界は、なくならないだろうし・・
579 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:18:44
>>575 いや、違いますよ。
前にもいったと思いますが、ラカンはコミュニケーションの
すれ違いを言うわけで・・・
>>577 >>578 私は説明がすべてだとは思いません。
モナリザをいくら科学的に説明されても、そこから生じるのは
モナリザを観賞する感動ではありません。つまり、説明はあくまでも
説明に過ぎないと思うのです。
科学的還元は、還元後の説明文をすべてとするのではなく、還元前の
現象そのものをちゃんと残していると思います。「現象は説明ではないし、
説明は現象ではない」のです。
コミュニケーションが通じるには、(そういう言い方が許されるなら)個々人の 感じ方がある程度、共通してなくてはならないでしょう。いや、そういうふうに作られてなくては ならないでしょう。 いやそれ以前に、 たとえば、みんなが「適温だ」と感じるお湯の温度が大体一定しているのは何故でしょう? ある人にとって、80度が適温だという風になっていないのは何故でしょう? 考えてみると、じつに不思議だと思いませんか? ここでは、コミュニケーションの面のみを取り上げているようですが、 それ以前にもっともっと考えれば不思議なことってあると思いませんか?
582 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 21:29:26
583 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:32:26
■クオリアを囲う全方位網
「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」
>>505-507 でも示しましたが、意味が語り得ないのでは、対象が
あり、そこを意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が主観
であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、意味は
主観であり、語り得ないのですね。
しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために
解釈項には近似的なのですね。あなたと私は限りなく同じなのですね。
>クオリア(意味)=@遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験
+B生まれてからの記憶された経験
ボクがこのようにいうときに、遺伝子による進化上の経験これは人間では限りなく共通です。言語に
よる文明的経験は、同じ文化圏であるために同じです。このために主観であるクオリア(意味)は、
限りなく近く感じることができるのです。
これはクオリア(意味)の読み解きのヒントになると思います。身体は「@遺伝子による進化上の
記憶(経験)」であり、これを構造的に解体することは可能です。これはいわばハードであり、ソフト側は
進化心理学的な考察的なアプローチです。さらには「A言語による文明的経験」は(心理)考古学に
よる心理の考察があります。最近では、歴史学、社会学による考察があります。認知科学とは、
状況証拠的意味の考察の全方位網的動きをしています。その中心に立てられた旗が「クオリア」です。
584 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 21:37:13
では、違う文化圏であっても、人間が似たようなもので、理解できる、 コミュニケーションできるのは何故?
586 :
考える名無しさん :2006/01/08(日) 21:39:59
587 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:40:51
>>585 @遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験
ミトコンドリアイブ(全人類の母)はそれほど昔ではない。
僕たちは限りなく同じなのですね。
588 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:43:37
それ故には「クオリア」は「語ることができる」可能性があるのです。
>>579 > 前にもいったと思いますが、ラカンはコミュニケーションの
> すれ違いを言うわけで・・・
主観的意味を共通化するための近似的解釈項っていうのは違うでしょう。コミュニケーションの
すれ違いっていうのは、一人相撲をやっているということですよね。自分とは他者によって語られた
自分であるがゆえに、他者とすれちがう。
590 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:45:53
>>589 むじんくんは、いつも最後はボクが最初に主張したころに
回帰する(笑)
591 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/08(日) 21:46:01
>>576 > どう振るか、どう投げるかも科学的に説明されてしまうと思います。
> 特に、ボールの軌道は分析が始まってますよね。
いや、それは分析可能だと思うんですよ。赤いと感じることをニューロン発火として記述するのと
同じレベルで。
しかし、ボールを投げるという行為を行う人間主観に対して、それは何にも参考になりませんよね。
コーチが様々なたとえ話や実演などで、何とか感覚をつかんでもらおうとするしかない。
ただ、ボールを投げるというニューロンパターンがきちんと解析されれば、それを外から人工的に
起こすことが可能なので、そういう技術はできるかも知れません。頭に電極差すと、勝手に腕が
動いてボール投げてしまう。ラジコンマウスとかいうのは既にありますよね。
>>587 > @遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験
> ミトコンドリアイブ(全人類の母)はそれほど昔ではない。
> 僕たちは限りなく同じなのですね。
それは全く救世主的な言説ですが、全く人間の説明になってませんよね。
>>590 > むじんくんは、いつも最後はボクが最初に主張したころに
> 回帰する(笑)
最初?どこで洗脳されちゃったんですか?(笑)。
>>592 実演やたとえ話が有効かと言うとそうでもないんですよ。
いわゆる天才指導は分かりにくいという奴ですね。
経験があればいいというものではない。
595 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 21:58:32
■「クオリア」を囲う全方位網としての認知科学と倫理
「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」
>>505-507 でも示しましたが、意味が語り得ないのは、対象が
あり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が主観
であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、意味は
主観であり、語り得ないのですね。
しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために
解釈項は「限りなく同じ」なのですね。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのですね。
>クオリア(意味)=@遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験
+B生まれてからの記憶された経験
ボクがこのようにいうときに、遺伝子による進化上の経験これは人間では限りなく共通です。(時間的
には数億年です)言語による文明的経験も文化圏が異なったのは、文化考古学的時間では、最近
です。(時間的にはたかだか数万年前です。)このような意味で、あなたと私は「限りなく同じ」なの
です。
これはクオリア(意味)の読み解きのヒントになると思います。身体は「@遺伝子による進化上の
記憶(経験)」であり、これを構造的に解体することは可能です。これはいわばハードであり、ソフト側は
進化心理学的な考察的があります。さらには「A言語による文明的経験」は(心理)考古学による
心理の考察があります。また文化の考察では、歴史学、社会学などがあります。認知科学とは、
状況証拠的に意味を考察する全方位網として動いています。そしてその中心に立てられた旗が
「クオリア」です。
僕たちは限りなく同じである故には「クオリア」は「語ることができる」可能性があるのです。しかし進化心理学への批判などに見られるように、僕たちは限りなく同じであるという個性の抑圧、すなわち
「人間」の「動物」への還元は様々な倫理的な波紋を広げています。
ここで面白いのは、僕たちは限りなく同じであるというのは、リベラルを支える倫理であるにも
関わらず、それは倫理的に問題であるのは、それは動物とは切り離された「人間」としての平等
故です。動物と連続性を持つことが問題なのです。
>>583 > 認知科学とは、状況証拠的意味の考察の全方位網的動きをしています。その中心に立てられた旗が「クオリア」です。
ラカンファンのぴかぁ氏がこういう反ラカン的思考に染まってしまったのは何か理由があるんでしょうか(笑)。
>>594 > 経験があればいいというものではない。
いやいや、クオリアの話なんです。投げるという行為に関わる感覚というか、イメージというか、
そういうものは比喩でしか語れませんね。直接他人の経験に触れることはできないわけですから。
クオリア論というのはそこを問題にしているんでしょう。
例えば、
>>578 の話も同じなんですね。悟りを教える際に、科学的記述を僧侶がしていても、それ
修行にならないんです(笑)。仰るように、例えば禅を習ったら必ず悟るか、段階を踏んで、
(掛け算の次に割り算を習うように)だんだん悟ることを知ることができるか。できません。
一生悟れないかもしれない。しかし、だからといって禅問答が不要ということにもならない。
コーチのたとえ話が不要でないように。
>>597 いえ、スポーツの実演と言うのはクオリアを語ってるわけじゃ
ないんですよ(それ以前に、経験はクオリアではないでしょう)。
>>595 > ここで面白いのは、僕たちは限りなく同じであるというのは、リベラルを支える倫理であるにも
> 関わらず、それは倫理的に問題であるのは、それは動物とは切り離された「人間」としての平等
> 故です。動物と連続性を持つことが問題なのです。
救いが無いということが分かる寸前にこういったファッショ的思考に染まってしまうというのは
なるほど想像ができますが・・・。やはりクオリア論は有害ということですね。
科学の話に戻すと、科学論文だって比喩です。 科学論文に「知識」が張り付いてて、それが私に直接認識される わけではありませんから(もしそうなら、言葉だけであらゆる科学 を理解させることが可能になってしまいます)。 科学を理解することと悟ることとが大きく違うわけでもありません。
602 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 22:19:34
>>599 僕たちは限りなく同じでもあって、同じではない。
クオリア論にもこのような残余が必ず残ると言うことですね。
ここに精神分析がありますね。小さい頃の経験が、
事後的に現れて、人格に決定的な影響を与える。
これはフロイト的であり、ラカンでは、むしろ
A言語による文明的経験の共通性(象徴界)が重視されます。
だから
>>595 はある意味で、ラカンに近いのです。
>>601 ええ、程度の違いはあります。
例えば、猫を生物学的に説明するのは簡単です。
しかし、これとクオリアが関係ないかと言うとそうではないんです。
私が見てるのは「私の猫クオリア」であり、他人が見てるのは
「その人の猫クオリア」です。私の猫クオリアそのものを、直接
提示できるわけではありません。
これは、「投げる感覚」を直接提示できないのと一緒です。
ただ、面白いのは、視覚的なクオリアはとてもコミュニケーションし
易いんです。
604 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/08(日) 22:23:46
>>597 むじんくんさん
「知識」と「智慧」の違いですね。
>>598 > いえ、スポーツの実演と言うのはクオリアを語ってるわけじゃ
> ないんですよ(それ以前に、経験はクオリアではないでしょう)。
クオリアが対象とするのは、経験的なことですよね。三角形の内角の和が180度という
認識のことじゃあない。チョコレートを食べたときの「チョコレート」の感覚、赤色を見たときの
「赤色」の感覚。
これは経験的なことなんですね。そこが狭義の自然科学が対象とするものと違っている。
自然科学は経験を必要としません。三角形の内角の和が180度という、非経験的な直感に
よって明晰に理解できる領域で仕事をするんです。クオリア論はそこからはみ出している。
>>605 自然科学とはまさに経験科学ですよ^^;
非経験的な世界なら魔法が使える宇宙だって簡単に
構築できるでしょう。でもそれは物理学ではありません。
普通、分類では「人文科学」「経験科学」「純粋科学」で、
非経験的なのは純粋科学だけですよね。私の大学時代の
物理学者の人は、「純粋科学もほんとうは経験科学」と
仰ってましたが(つまり、経験から離れた純粋な認識なんて
ありえないということです)。
>>604 > 「知識」と「智慧」の違いですね。
そうなんです。クオリア論が特異なのは、知識で智慧を語れると言っている部分なんですね。
そうなると何が起こるかというと、直感的感覚の地平、三角形を想像するような、その地平で
「チョコレート」というものが在ると語ることになる。つまり、経験的な対象なしに、チョコレート
そのものが在るという話になっちゃうんです。これは形而上学だろうと。
608 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 22:36:12
三角形の総和は文化的経験ですよ。
609 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/08(日) 23:05:54
>>607 むじんくんさん
知識と智慧の間は光の速さくらい(決して追いつけない)くらいの隔たりがあると思います。
>経験的な対象なしに、チョコレートそのものが在るという話になっちゃうんです。
この状態は、自分が光と同一(追いついたのではなく)なのではないでしょうか。
(かなりオカルトが入ってますが)
610 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 00:01:36
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2
■僕たちは限りなく同じである。
「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」
>>505-507 で示しましたが、クオリア(意味)が語り得ないのは、
対象があり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が
主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、
対象のクオリア(意味)は主観でしかなく、「語り得ない」のです。
しかしこのように意味が主観では、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。解釈項は
「限りなく同じ」なのです。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。
>>
クオリア(意味)=@遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験+B生まれてからの記憶された経験
<<
ボクがこのようにいうときに、「@遺伝子による進化上の経験」は人間では限りなく共通です
(時間的には数億年の経験です)。「A言語による文明的経験」も文化圏が分割したのは、最近です。
(時間的にはたかだか数万年前です。)このような意味で、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。
これはクオリア(意味)の読み解きのヒントになると思います。たとえば「@遺伝子による進化上の
記憶(経験)」は身体を構造的に解体することにより行われてきました。これはいわばハードであり、
科学的にもっとも進んだ領域です。このソフト側は心理学、最近では進化心理学による考察が
あります。さらには「A言語による文明的経験」は人間の初期には、(心理)考古学による考察が
進んでいますし、文化そのものの考察では、歴史学、社会学などがあります。
認知科学は、このように状況証拠的なクオリア(意味)の全方位網として進んでいます。このような
意味で、「クオリア(意味)」とは認知科学の中心に立てられ、目指される旗です。「僕たちは限りなく
同じである」故には「クオリア」は「語ることができる」可能性があるのです。
611 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 00:03:28
>>514 >しかし、法実務と科学実務との違いはやはり、あって、法実務は
>訴訟の遅延を酷く嫌います。訴訟経済です。数学のように「解ける
>のは100年後でも構わない」ということはないんですね。
「法学」の上位にある(筈)の「政治学」は20世紀以降、「殆ど機能していない」
結果だと思います。・・・経済学や法学の「祖」は政治学であり、その向こうには
「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)「社会契約論」(ルッソー)があるのですが、
「みんなそんなことは忘れている」のが実態です。人間は「忘れやすい生物」なのです。
>そこで、議論が不十分でも権威的に切り捨てちゃうところがあるの
>ですが(もっとも、そういう場合でも、よく考えられていることが多い
>です)、科学者の場合は「そんなこと科学と関係ない」というよりも
>「よく分からない」と答える人の方が多かったですね。>クオリア
法学が「学問」であるか否か?・・・断定できないのは「あまりに利害に
直結している」からです。・・・時の「首相」が逮捕される・・という事態
が、1976年にありましたが、「三権分立」でいうと「法律は国会で創る」
(改正も出来る)・・・「行政」は「法律」に基づいて権力を行使しないと
「違法」になる。・・「違法であるか否かは裁判所(司法)が最終決定権を
持つ」・・という「三者もたれ合い」の構造があるだけで、「正義」を担保する
「絶対的な構造」などはあり得ない・・・要するに警察や裁判所も人間的な
「間違い」を冒す可能性を「十分」有している・・・ということが白日の下に
晒されることを「目の当たりにする」機会でした。
しかし、マスコミはそういう観点でその事件を捉えなかった・・ということ・・
要するに「マスコミ的な観点」も経済原理(個々のマスコミが儲かるか否か)で、
大きく左右される・・・と考えることが「正論」であるということです。
612 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 00:05:09
■僕たちはそれぞれが違う しかしまた「限りなく同じである」ということは、同じではないということです。クオリア論にもこのような 「残余」が必ず残ります。ここに精神分析があるのではないでしょうか。精神分析における抑圧された 無意識とは、小さい頃の経験(B生まれてからの記憶された経験)が、事後的に現れて、その人に 決定的な影響を与える、すなわち「私」であるという個性を与える、ということです。 「動物」は生まれながらに高い完成度を備えている。すなわち「@遺伝子による進化上の経験」に よって、クオリア(意味)が決定します。あるいは意味そのものが必要とされません。しかし「人間」は 未熟な状態で生まれ、「A言語による文明的経験」、さらには「B生まれてからの記憶された経験」が 決定的な意味をもつということを表している。 しかしここには科学を越えた、「人間/動物の差異」がなければならない、という倫理的次元の介入が あることも否めません。たとえば、「僕たちは限りなく同じである」というのは、最近のリベラル的平等 主義を支える倫理です。しかし、進化心理学など認知科学は倫理的に批判にさらされています。 これはリベラルでは、「人間である僕たちは限りなく同じである」という「動物/人間の差異」に基づき、 「人間は動物と違いみな平等だ」ということであるのに対して、認知科学における「僕たちは限りなく 同じである」というのは、「動物/人間の差異」を解体するのです。
613 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 00:15:51
>>612 >進化心理学など認知科学は倫理的に批判にさらされています。
その「倫理学的批判」に(特定の宗教的観点以外に)何か価値があるのですか?
>これはリベラルでは、「人間である僕たちは限りなく同じである」という「動物/人間の差異」に基づき、
>「人間は動物と違いみな平等だ」ということであるのに対して、認知科学における「僕たちは限りなく
>同じである」というのは、「動物/人間の差異」を解体するのです。
人間(という「種」)は、動物学では「哺乳類」に分類されますが、「他の哺乳類」と同じ「類」では
なにか「とてもまずい」理由でもあるのですか?
>>602 > A言語による文明的経験の共通性(象徴界)が重視されます。
> だから
>>595 はある意味で、ラカンに近いのです。
だとしたら、私の主観とあなたの主観の調性役としての解釈項というのは変でしょ。
最初から共通のものとしての言語的構造によって意味が構成されるとしたら。クオリア論が
胡散臭いのは、そういう歴史性を不問にしちゃって内的な意味としての"クオリア"ありきで
語る点です。
>>606 経験という言葉が悪いんですかね。日常経験という意味です。自然科学は数学とは違って
確かに物にあたって検証しないとダメですが、重要なのは数学的整合性であり、それは
非経験的なものなんですね。
>>609 > この状態は、自分が光と同一(追いついたのではなく)なのではないでしょうか。
> (かなりオカルトが入ってますが)
こんなことがかかれてます(笑)。
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html クオリアの起源の解明に成功すれば、、アンドロメダ星雲に人類を送ることより大きな
インパクトを人類に与えるだろう。
615 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 00:21:05
>>612 >しかしここには科学を越えた、「人間/動物の差異」がなければならない、という倫理的次元の介入が
>あることも否めません。たとえば、「僕たちは限りなく同じである」というのは、最近のリベラル的平等
>主義を支える倫理です。
要するに・・と言うしかありませんが「現代米国のプロテスタント原理主義」と「本質的には同じ主義」
を主張されているように思えますが?・・・大統領就任式に「聖書に手を乗っけて宣誓する」という、
「まるで馬鹿馬鹿しい」儀式を行う国の「プロテスタント原理主義」のことです。
>>612 > ここに精神分析があるのではないでしょうか。精神分析における抑圧された
> 無意識とは、小さい頃の経験(B生まれてからの記憶された経験)が、事後的に現れて、その人に
> 決定的な影響を与える、すなわち「私」であるという個性を与える、ということです。
逆ですね。ある神経症が発症した場合、系譜学的に遡行していくと幼児体験に行き着くというのが
精神分析です。
617 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 00:28:01
>>616 どこが逆なにか、もう少し明確に語ってください。
逆!といいながら、同じことを言っていることが多いように思います。
618 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 00:30:30
>>617 おまえの頭では処理できないスレだから、とりあえずガムスレに帰りなさいよ。みっともないよ
いやむしろ宗教スレを立てて欲しいです。俺らは応援してます。
620 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 01:52:17
>>616 「神経症」という症状名は便利ですが・・・「科学的」ではない・・
というのが、最近の医学の動向のようです。・・それが必ずしも「正」
だとは限りませんが、「(属している)社会集団にうまくとけ込めないこと」
・・・が神経症の(主な)発症原因である・・とすれば「社会集団の質」によって、
「正常・神経症」を弁別すると、社会集団の質が改善されると、「真逆になる」
可能性も多いので、「神経症」・・・という「不適応周辺症」は必ずしも「病理」
ではなく「社会の病理の裏面」である可能性も(大いに)あると思います。
621 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 02:01:46
>>620 社会が悪いから抑圧される人達がでるというのはまったく短絡的発想。
歴史を勉強しなさい。
622 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 02:02:55
機械君は、どうしていつも ・・・とか( )を、多用するの?
623 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 02:09:06
>>621 「良い悪い」ではなくて、時事の社会に適応できなかった「天才」もいる
ということを申し上げたかったのです。
宗教裁判で火焙りにすると脅されて「はい太陽が地球を回っております」と「証言」し、
その後「それでも地球は回っている」と呟いた(と言われている)G・ガリレイは、
「キリスト教の2000年に亘る強権思想支配」に反抗した「勇気ある科学者」だった・・
ということです。彼こそは「偉大で勇気ある人類の『科学の祖』の一人」です。
>>617 > 逆!といいながら、同じことを言っていることが多いように思います。
あはは。いやこれはちょっと揚げ足取り的だったですが、子供の頃の特定の経験から将来の
影響を予測できるというのは違いますよ、ということです。素質、親以外の様々な環境等考えれば
当然ですが、予測不能なんですね。逆に、神経症が発症した後で、症状の元となった外傷に遡行
することは可能なのです。且つ、その外傷体験が客観的に(?)存在したかどうかすらどうでも
いいんですね。
>>620 > ではなく「社会の病理の裏面」である可能性も(大いに)あると思います。
ええ。それはそうです。ただし、精神分析は社会への適応を中心に考えませんね。社会へ
適応しなければならないという心理的動き自体を問題にする。メタ心理学ですから。社会への
適応/不適応を基準に自我を強くしないといけないだとか、社会がどうだとか論じるのは一般の
心理学です。そして、この"心理学"というのは要するに世論調査、女性週刊誌といったものと
大差ない認識なんですね。
625 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 02:18:48
>>624 あはは。やはりそうですね。ボクは「子供の頃の特定の経験から将来の
影響を予測できる」などとは、まったくいっていませんよ。
結局、ボクと同じようなことをいっていますよ。
626 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 02:21:19
>>624 >精神分析は社会への適応を中心に考えませんね。社会へ
>適応しなければならないという心理的動き自体を問題にする。
そうです。ただし、
その「心理的動き」が不満なくフラストレーション状態にならない場合は、「正常」
その「心理的動き」が不満充満で「フラストレーション状態」になる場合は、「神経症」
って、「なんかおかしくありませんか」?・・ということです。・・深くは追求しませんが。
627 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 02:22:36
>>623 わけがわからんなぁ
要するに
機械君自身が、社会に適応できない心身症であると診断された事実と
ガリレオの真実が、社会に受け入れられなかった事実を、こじつけて
自分を天才だと 遠まわしに主張している
という事かな?
628 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/09(月) 02:29:57
>>627 いや、私はむしろ社会に適応していると思います。
ただ、私が(もしかしたら)「適用しすぎているのでは?」と感じる
のは「それなりに適応している」ように見える方々が、私に寄りついてくる
(これはビジネスの「分野」ですが)・・現象が見られるので、あまり
「世俗的適応」も必ずしも「いいだけ」ではない・・と感じている・・という
こと(だけ)です。
629 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 02:44:59
>>628 と、すると
社会に適応しない新しい論理を持っていたガリレオは
心身症に分類される という理屈ですか??
それは違うでしょう
科学的な理屈という、事情によって社会に溶け込まないのと
精神構造上で、どうしても社会に溶け込む事ができないのとでは
全く意味が違いますよ
それから
社会に適応しすぎている というのは
どういう状態なんでしょうかね?
普通の人は、そういう発想は持たないと思いますよ
普通は、この矛盾した世の中で
いかに、あらゆる事柄を
矛盾なく消化していけばよいのかを考えるのであって
「自分は社会に適応しすぎている」などと言って、困るような人は
あまり見かけませんよ
>>626 > って、「なんかおかしくありませんか」?・・ということです。・・深くは追求しませんが。
精神分析的に言えば、フラストレーションにならない人は自らの欲望を知っており、そうだから
こそ正常でいられる。フラストレーションになっている人は知らないが故に神経症になっている。
ただ、知らない状態でも世間との関係が(たまたま)うまくいっていれば仰るように神経症に
なりませんね。あと、戦争になると神経症が治ったりすることが多いといいます。
フロイドは適応という方向を第一に考えなかった。ある意味で反精神医学と言えると思いますが、
これは彼がユダヤ人だったという点があるんじゃないかと思いますね。ユダヤ人はどう頑張っても
非ユダヤ人社会において心情的な"お仲間"に入れてもらえないわけですからね。
>>625 > 結局、ボクと同じようなことをいっていますよ。
だとしたらですね、やっぱりクオリア論は視点がおかしいですよね。意味の問題を「クオリアがあるから」
っていう、ユング風の同語反復しているだけってことになりませんか。
>>626 ああ、しかしあれですか。機械さんはクオリア信者だから本来人間は神経症なんて可能性は
あり得ないと言いたいんでしょうか。神経症があるということは、自らのクオリアに耳を澄まして
いない、汚れた心を持っているからだと(笑)。
633 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 11:56:33
>>631 だとしたら???なにを否定したいのか、まとめてください。(笑)
疑似科学であることを認めたくない疑似哲学者きどりと疑似哲学者にも辿り着かないゴミクズが集まるスレはココですか
>>468 オウム真理教は科学である、そう茂木が宣言した。
それだけのことです。
そしてボクは、オウム真理教は科学であるといった。
これ以上でも、以下でもありません。
636 :
203 :2006/01/09(月) 15:12:19
>>636 この人は私と逆で、
哲学的におかしい
↓
だからxxは間違ってるor別の理論が必要だ
という思考順序ですね。
私なんかは、
自然選択説には反証可能性が無い
↓
じゃあ反証可能性は科学の必要要件じゃないのでは?
と考えちゃうんですけどね^^;
あと、この人は実証と言いつつ実験してないのが問題だと思います^^;
まあ、反証可能性は「反論できない理論は反論できない」という 同語反復に似てて、その後で、「反論できない命題は議論しても 無駄だよ」ということが言いたいだけだから。 ただ、反論できない理論というものが本当に無駄なのか、という 価値論の問題に突入すると、難しくなるわけで。あと、普通、 理論は反証可能な命題と反証不能な命題の混合物だし。
>>639 ええ、「反証可能性がある命題」と「反証可能性が無い命題」
は事実問題ですから、これを認めないのは難しい。けれど、
「反証可能性があるものだけが科学である」と言われると、
「それは定義の問題では? ^^; 」と思ってしまいます。
私は、実際の現場ではどうなってるのか、という方向に関心が
いくわけで、これを調べると縦方向では科学史になり、横方向
ではその時代の科学(と呼ばれるものの?)の諸分野になるわけ
です(もちろん、「なんで科学の定義が一義的に定まらないのに
科学史が成立するのか?」という哲学的問題は残るんですが、
これは法制史や比較法でも言えるわけです。ならば、そこに
ある程度の多様性を認めておこうと)。
>>639 で、科学は、そういう包括的な理論としての正しさ、
というものを放棄してるわけですよ。
それは放棄することが正しいかどうかということではなくて、
「そう言う方法」なわけです。
>>637 「自然選択説には反証可能性が無い」というのはにわかには肯定しかねますね。
技術的に困難であるから、「事実上」不可能ということと、
「論理的」に不可能である、ということを混同されているように思います。
というか、「あなたのいうところのクオリア」について、あなたはその反証可能性について、
前者の意味(「技術的に困難」)で考えてらっしゃいますよね。
これは、他の人と、大きく違う点です。
>>640 しかし、現場主義にもある種の危険性があるから、やはり
理論的な構築は必要だと思うけど。
>>642 いえ、現場至上主義では無いんですよ。
むしろ、実際の歴史は、実務がそうだから理論もそうあるべきだ、
という流れでは無いし、逆に、理論がそうだから実務もそうある
べきだ、という流れでも無いんですね。
つまり、「法学or法実務とは?」という問題が重要なのではなく、
個々のルールブックや訴訟を集めて、「まあ、このへんは法学
と呼ぶことにしましょう」という大まかなコンセンサスがあれば、
それで十分だ、ということです。で、このコンセンサスからは規範
が出てこない(法学or法実務とはそういうものだから、それは法学
or法実務と呼んではならない云々は出てこない)以上、それは呼称
の問題(便宜の問題)なんですね。
これを強制するとなると、権威的にいかないと無理です。
>>633 > だとしたら???なにを否定したいのか、まとめてください。(笑)
クオリアは原因ではなくて結果だということです。ところが、クオリア論はあくまでもそれを
原因として設定し、人間心理の森羅万象をそこから演繹できるとするわけです。ユングの
元型理論と等価であり、通常の心理学と同じ地平での認識でしょう。そして、心理学とは
世論調査以上のものではない。
>>636 この最後の
ラマルク「用不用」、、ユクスキュル「環世界」、そして今西「種の主体性」。これらはいわば
「種の主体性進化学」を完成させる三大ロジックだ。
これが笑えた。今西進化論っていうのはクオリア論と確かに似てますね。進化というのは「なるべくしてなった」
というやつですよね。
19世紀終わりごろに出てきて、20世紀全体を支配した3大理論はフロイドの精神分析、マルクスの唯物論、
ダーウィンの進化論ですね。これらが共通しているのは反証不能という点です。20世紀というのはこの3大巨人
との格闘をしたが、結局彼らの掌の上にいたという感じだろうと思います。
>>615 > 要するに・・と言うしかありませんが「現代米国のプロテスタント原理主義」と「本質的には同じ主義」
思うんですが、
>>645 に書いた3人は何れも自然界を"被造物"と見なす点で共通してます。機械論っていうのは
この世界が被造物、つまりそれ自体としては意思をもたない存在とされる視点からの記述ですね。今西さんなんかは
そこに反対なんでしょう。クオリア論も同じだと思います。
647 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 18:07:45
>>644 そうではなくても、ボクのどの言葉に対して、どう反論するのかを
明確にしてほしいのです。どこ対する反論か、わからないのです。
どうもあわてて読んで読み間違えて反論している。だから結局、
ボクが反対していることを反対していることが多いと思います。
もともと知識嗜好が似ているところがありますから(笑)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1133455812/ 761 757 New! 2006/01/09(月) 18:53:53
さらに言えば、われわれの宇宙・世界の「概念」は「対立構造」で
成り立っていて、ひとつの概念があったとき、同時に対峙した概念も生まれる、
(たとえば「美しい」がでれば「醜い」が出て、「高い」がでれば「低い」がでてくる)
というように。概念の対創生。
決定論と非決定論はこの対峙関係にあって、どちらも「概念」として「ある」んじゃ
ないのか。対極的な構造として組み込まれているような気がするぞ。
>対極的な構造として組み込まれているような気がするぞ。
どうよw
>>647 > 明確にしてほしいのです。どこ対する反論か、わからないのです。
つまりですね、
認知科学は、このように状況証拠的なクオリア(意味)の全方位網として進んでいます。このような
意味で、「クオリア(意味)」とは認知科学の中心に立てられ、目指される旗です。「僕たちは限りなく
同じである」故には「クオリア」は「語ることができる」可能性があるのです。
といった、「クオリアを目指して」という問題設定が間違いってことですね。
>>649 「意味」をどういう定義で使ってますか?
651 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/09(月) 20:22:17
>>649 >しかしまた「限りなく同じである」ということは、同じではないということです。クオリア論にもこのような
>「残余」が必ず残ります。
それに続けてこういっているわけです。
クオリアを目指してるが不可能であると。
だから結局、同じことを言っているんですよ(笑)
652 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 20:24:24
言葉でいくら説明したって、それは置き換えであって、「そのもの自体」に たどりつくことはできないんだって。当たり前の話だけど。 「そんなことわかってる」と言いつつ、「もしかしたら説明できるかも・・・。」 なんて思ってるでしょ? でも、それが間違いの元であって、「もともとが虚偽だ」ってことを 男らしく認めない限り、延々と解決不能な不毛な議論がつづくだけだよ。 まあ、余計なお世話か
>>651 > だから結局、同じことを言っているんですよ(笑)
>>610 > ■「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2
これは、
> ■僕たちは限りなく同じである。
こちらではなく、
>>612 > ■僕たちはそれぞれが違う
こっちが主旨ということですか。失礼しました(笑)。
>>650 > 「意味」をどういう定義で使ってますか?
意味の定義って難しいですね(笑)。こうやって書き込みによってやりとりが
何故か成立している際の"内容"とよばれるものですね。文字列ではなくて。
>>654 クオリアはいわゆる内容ではありませんね。
>>655 > クオリアはいわゆる内容ではありませんね。
内容じゃないかと思いますよ。"赤さ"とかですから。
>>656 内容じゃなくて指示対象だと思いますよ。
「赤さ」とはプラトンの言う「赤のイデア」ではなく、
アリストテレスが最初の出発点とする具体的な「この赤」
ですね。
クオリア論のポイントは、ここからアリストテレスが始める
「赤の本質論(あるいは、赤の意味論)」を回避して、
ニューロン発火のパターンとの関係に還元してしまう点だと思います。
>>657 > 「赤さ」とはプラトンの言う「赤のイデア」ではなく、
そうですかね。「赤さ」というからには個別の赤を包括してるんでしょう。また、
> ニューロン発火のパターンとの関係に還元してしまう点だと思います。
これもイデア論を全く回避できてません。そういうニューロン発火パターンが所与の
ものだとするわけですから。ニューロン発火という記述によってイデアを表現しているに
過ぎない。
ガリレオなんか機転は、この「本質論」から「関係の記述」に 移ったことですね。 アリストテレスは「重さとは何か?」という本質を問いますが、 ガリレオは「重さと速さとの関係はどうなってるのか?」という ことから出発する。
>>658 イデア論の特徴は、所与のものであるということじゃなくて、
それが具体的個物の観察から離れた何かである、ということです。
プラトンは「それがイデア界にある」と言い、
アリストテレスは「個物に内在する」と考えました。
そして、そういうものは観察ではなく思考によって探求可能だ、
と仮定するわけです。
だから、具体的個物=クオリアを離れて「赤さとは何か?」を論じない限り、
イデア論へとは移行しないわけです。クオリア論では、「私が見ている赤
と私の脳との関係」を調べ続ける限り、形而下学です。
また、所与ではない、という根拠もまだ見つかっていませんし(社会性は
所与のものでない、という根拠になりません)。
>>660 > だから、具体的個物=クオリアを離れて「赤さとは何か?」を論じない限り、
> イデア論へとは移行しないわけです。
具体的個物は"赤さ"という概念の前に存在するというのは違いますよね。まず"赤さ"が
成立してから個別の赤が語られる。プラトンからアリストテレスというのはイデア論の
回避ではなく、隠蔽なんですね。そして、必然的に本質論にならざるを得ないわけですが、
それは当然なのです。
>>661 それは「クオリア論はイデア論ではない」という私の命題と関係ないです。
というか、イデアが先か具体的個物が先か、という一大問題は まだ誰も解決してません。
>>662 > それは「クオリア論はイデア論ではない」という私の命題と関係ないです。
そうですか?言い方を変えれば、経験的に"赤さ"といっているところを離れて"赤さ"自体を前提に
しているのがクオリア論だと思いますよ。前に書いたように、経験的な事象を非経験的に語る。
>>664 それは少なくとも私の言うクオリア論とは関係ないです。
666 :
考える名無しさん :2006/01/09(月) 23:21:11
何論だろが何説だろが手続きのハナシはいらね! 要は、誰からみても「なるほど」という説明が できりゃいいのよ。
>>666 単純に言うと、クオリア論は「脳の活動と意識に関係がある」というのが
出発点で、そこから多種多様に分岐する(実験できるのかどうかも含む)
だけです。特定の人のクオリア論を攻撃しても基本は否定されません。
>>667 >
>>666 > 単純に言うと、クオリア論は「脳の活動と意識に関係がある」というのが
> 出発点で
そうだったらクオリアなんて言葉を使う必要ないですね。
>>668 日常用語を用いると曖昧だからですよ。
法学で「過失」を「うっかり」とか「善意」を「知らなかったこと」
とか言わないのと一緒です。
用語のあげつらいをはじめたら議論になりません。
ところで、「無駄な言い換え」というのが流行ってるみたいですが、 言い換えなかったら認めるわけですか?
>>669 > 用語のあげつらいをはじめたら議論になりません。
いや、意識が脳の活動と関係があるのは昔からの話ですよね。別にクオリアがどうのと
いう意味ないですよ。
クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する
ところを指していると思いますよ。そして、それは本能のように所与であると。
>>671 >クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する
>ところを指していると思いますよ。
それはあなたが付け加えてるだけでしょう?
673 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/10(火) 00:16:55
>>660 >だから、具体的個物=クオリアを離れて「赤さとは何か?」を論じない限り、
>イデア論へとは移行しないわけです。クオリア論では、「私が見ている赤
>と私の脳との関係」を調べ続ける限り、形而下学です。
私に言わせれば、ギリシア哲学(を踏襲する観念論)は、
「私が見ている赤と私の脳との関係」を調べることを拒否し続ける限り、
形而上学です。・・・ということになります。
新生児時代のの記憶は誰も持っておりません。幼児期の「もやの様な記憶」
その後の「霧の中の記憶」・・を経て『現在』が「もっとも明晰なクオリアを
有している」と考えがちですが、「その信念」は実は『死ぬまで続く』のです。
老化に伴って「再び霧の中に」『さらにもやの中に』記憶(指向的クオリア)も
「感覚的クオリア(感覚器官の感受性)」も衰えていき、いつしか「深い闇の中」
に入っていく・・をれが「人類という個体の『脳』の運命」であり、誰もそれを
「止める」ことは出来ません。(無論「遅くすること」はある程度可能ですが。)
>668>671 一言タソは、前から 焼き直しにすぎない、と発言してたような・・w
>>670 > 言い換えなかったら認めるわけですか?
認めませんよ(笑)。
>>672 > それはあなたが付け加えてるだけでしょう?
そうじゃないでしょう。人間の思考が意味の運動であり、そこに注目しているからこそ
「クオリア」なんてこと言うんじゃないですか?クオリアは意味ですよ。
>>667 > クオリア論は「脳の活動と意識に関係がある」
得体の知れないものを得体の知れないものの関係で説明する詐欺師にしか私には見えません
さて問題です、「意識」の仕組みを説明できる人が世の中にいるのでしょうか?
クオリアはどうでもいいので、先ず「意識」を説明して下さい
と茶々を入れてみるテスト
>>675 脳が意味の運動かどうかなんて誰も分からないでしょう。
>>676 クオリアの問題提起に対して答えられてるのは「難しすぎる」という
だけです。誰も説明には成功してません。着手自体もまだでしょうし。
できるかどうかも?だと思います。
私はそもそもクオリア論には反対なんですが、他人の問題提起を
曲解して反論をするようなことはしたくないだけです。それと、問いの
可能性を始めから除去するのには反対です。
678 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/10(火) 00:50:00
>>676 哲学は「学」ですので、「素人に説明する(できる)こと」は二の次三の次です。
そもそも「(科)学とは何か」を理解してから、再度ご訪問下さい。
・・・最近は「マスコミで取り上げられる」「コマーシャルで取り上げられる」
ことを「至上の価値」がと思い込んでいる方が多いので、結構困ります。
679 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/10(火) 00:52:23
>>677 >脳が意味の運動かどうかなんて誰も分からないでしょう。
「『意味』が脳の活動の結果」だということは自明ですけれどね。
>>678 「意識」の仕組みを説明できる人が世の中にいる
ということでいいのだね
素人もへったくれもない話なんだけどな
インチキなことはよく分かった、せいぜい布教に努めてくれ、じゃあな
>>677 > 脳が意味の運動かどうかなんて誰も分からないでしょう。
脳じゃなくて、人間の思考、認識ですよ。
683 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 01:11:11
>>680 「意識」の仕組みも知らずに このスレでなにやってんの?
684 :
ハル :2006/01/10(火) 01:14:50
暇つぶしかな?
>>682 > それも誰にも分からないですよ^^;
そうじゃなければ人間じゃありません(笑)。
686 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 01:22:10
↓51スレ費やして得た結論は?
687 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 01:22:11
脳は人間にとって意味としてのクオリアを集積し整理する場である。 場が破壊されたり変質した際には意味としてのクオリアは変質するか あるいは場の支配から逃れ出で完全に「私」から分離してしまう。 もちろんこの際「私」から分離したクオリアそのものが消失して しまったというわけではなく、あくまで環境全体の生成の中に別の 仕方で編入されたというだけにすぎない。
688 :
ハル :2006/01/10(火) 01:22:27
>>679 > 「『意味』が脳の活動の結果」だということは自明ですけれどね。
脳は関与してますが、中継点でしょ。
691 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/10(火) 01:29:08
>>680 >>
>>678 >「意識」の仕組みを説明できる人が世の中にいる
>ということでいいのだね
貴方が生きている理由を「誰も絶対」説明できないのは判ります。
(そんな『無駄な時間』を誰も過ごしたくないからです)
客観的に見れば「事実上説明できないでしょうし、大した問題ではない」
ということです。
だから「誰も貴方に『真理を説明する労力』を払う価値を感じない」
というのが「真実」なのです。
「この世界」ではいくら努力しても出来ないことも「ある」のです。
692 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 01:32:36
>>脳は関与してますが、中継点でしょ。 中継点であると同時に数ある意味の要素のうちの一つでもある。 管理職クオリアであっても他の従業員クオリアと同じ「クオリア」である。
なんで具体的個物が意味に先行して"ある"とかいう話になるんでしょうかね。それは 動物でもありえないんじゃないですか?それとも人間特有の現象ですか?
694 :
ハル :2006/01/10(火) 01:33:41
>>687 それは学問としてのクオリアだな。
意味と本質が分離することはよくある話であるからなあ。(むしろそのほうが哲学としては自然だろう)
695 :
ハル :2006/01/10(火) 01:42:01
>>692 無限に続く論法かもしれないが、全てがクオリアならどこに中継点という特殊な要素が加わるのだろうか。
脳が中枢って考えると意味問題はおかしな発想になるんじゃないですか?意味に関しては 脳は中枢というよりも中継点であり、受信装置である。中枢と考えてしまうと、個人のクオリアが 他人に通じるかとか、そういう変な話になる。意味は社会的なんですね、最初から。
その前に「一般人が言うところの意味なんかない」と考える方がスッキリしますよ。 ウィトゲンシュタインみたいに。
698 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 02:00:57
>>695 何の意味があって太陽を中心にして九つの惑星が軌道を規定され回っている
のだろう?
意味は人間現象の中だけでの意味生成現象のことであって、ただ我々の意味生成
現象としての性質がクオリアを意味化しているに過ぎない。中継点としての
脳とは単なるクオリアの物理的側面としての結晶作用のようなものでしかない。
世界の普遍的な構成素質は全て特殊な要素としての現象形態を常に生成しつづける。
物理的側面だけに限っても、個々の現象は常に特殊であるという性質を持つ。
さもなければ全ては実無限的な普遍性の渦の中で少しの形式を持つこともなく
たちどころに溶解してしまうだろう。
>>697 > その前に「一般人が言うところの意味なんかない」と考える方がスッキリしますよ。
でも、クオリア論はあると言ってるんでしょ。無いと考えるほうがいいですよね、確かに。
>一言さん
>>698 が前に仰っていたアリストテレス的発想だと思いますが、これは一言さんのクオリア論ですか?
>>699 すっきりすることと解決できてるかどうかは別問題です。
ウィトゲンシュタインの意味論(?)は前期も後期もすっきりしますが、
私にはどうも違和感が残ります。
702 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 02:06:52
僕タンもう眠いでちゅ。 おやすみでちゅ。。
>>700 私はクオリア論者じゃありませんよ。
ただ、クオリア論の問題提起(意識と脳とは実は関係がある?)が
単純には一蹴できない、というだけです。
704 :
ハル :2006/01/10(火) 02:11:28
>>693 多分、今という瞬間がまず実在するとして考えているのではないでしょうか。
意味は未だ未知の未来に向かうものですからその根拠は不明だと考えて。
ただしそうなると決定論的な主張が崩れてしまうのですが。
なぜなら唯物論による決定論は具体的個物によりその個物の未来への意味も決定しているとするのですから。
705 :
ハル :2006/01/10(火) 02:21:25
>>698 現象学に学問としての分析科学と同等の地位が与えられればそれで通るかもね。
706 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/10(火) 02:28:42
「クオリア論者」というのは止めましょうよ。 ソニーで経営を数百億円マイナスにしたマスコミ露出の経営者「出井」しが、 茂木氏を「持ち上げていた」・・とかは「真理」には関係ない「自分の金儲け」 の世界ですから、 「話を元に戻す」必要があります。 @「茂木解釈クオリア」は「ソニー解釈クオリア」(販促ブランド)と「同じ」なので、 『「哲学」における「クオリア」という概念』とは「相当異なる」ということです。 「流行概念」クオリア・・は「認識論の資本主義的曲解」であり、「存在論の曲解」です。
707 :
ハル :2006/01/10(火) 02:34:54
>>701 1番すっきりするのは何も考えないことですよ。
しかし学問は考えなければならない。
一種の自己矛盾そのものですよ。学問は。
>>706 そういうことを望むなら、『「哲学」における「クオリア」という概念』とやらを、
明確に定義するのが先決でしょう。
709 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 02:48:56
意識というのは化学反応による燃焼のようなもの。 火に置き換えてみればよくわかる。 普通、火は火それ自体が単体としては存在しない。
710 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/10(火) 02:50:28
「学問を「理解する(出来る)主体」と 「学問なんてしったことではない儲かれば良い」 どっちなんでしょう? いや、あくまで「あなたの(ちっぽけな)人生」において・・・、
711 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 02:50:51
712 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 03:03:44
>>711 呼吸をしたり、水分を補給したり、
ご飯を食べたりというのは、
体内で化学反応を起こすために必要なわけだ。
必要なものがととのえば、
それらが結びついて燃焼が発生する。
713 :
ハル :2006/01/10(火) 03:22:17
>>709 意識を語るには個物としての脳もしくは身体とその保有する意味内容の要素として二瞬間以上が必要と考えられる。
またその内容が閉じたものであるか開いたものであるかでも区分できる。
こう考えると少なくとも三瞬間以上の要素から二瞬間以上の要素を選び出し一瞬間に意識は変換可能であるとしなければ、意識は時間の継続性をもたないことになるが、これは不合理になる。
経験的にその不合理を意識は収得しているが不合理なものは不合理だろう。
714 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 03:33:37
「名前(記号)」と「形態」の結びつき。 これが人間の意識ですよ。
715 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/10(火) 03:40:12
>>714 名前は、人間の価値観が作り出した観念だが?
要するに
意識が名前を作り出しているのであって
最初から、絶対的な基準を持って存在しているのではないという事
名前などというものより先に、意識の方が先に存在している
716 :
ハル :2006/01/10(火) 03:45:26
>>716 それが本来は無理矢理っぼいんだけどね。
自閉症の患者でもなければそれで日常には問題ないし、それでいいと言えばそれまでなのだが。
>>691 (1)-俺
>>676 >
> > クオリア論は「脳の活動と意識に関係がある」
>
> 得体の知れないものを得体の知れないものの関係で説明する詐欺師にしか私には見えません
> さて問題です、「意識」の仕組みを説明できる人が世の中にいるのでしょうか?
> クオリアはどうでもいいので、先ず「意識」を説明して下さい
(2)
>>678 > 哲学は「学」ですので、「素人に説明する(できる)こと」は二の次三の次です。
> そもそも「(科)学とは何か」を理解してから、再度ご訪問下さい。
(3)-俺
>>680 > 「意識」の仕組みを説明できる人が世の中にいる、ということでいいのだね
(4)
>>683 > 「意識」の仕組みも知らずに このスレでなにやってんの?
(5)-俺
>>689 > 解明すらされてないもんをどうやって説明するんだ、というのが、そんなにおかしいか?
>
http://www.google.co.jp/search?q=%22%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF%22 で、
>>691 の内容は話の筋と全然関係ない話で開き直ってる、のはどうしてなんだろね?
結局、(1) の「詐欺師」のレッテルが取れてないことに気付かんところが恐ろしい
要するに (1) の「得体の知れないものを得体の知れないものの関係で説明する」ことを、
(2) のように哲学であるとかいう辺りに神経を疑うんだよね
結論として、このスレにおけるクオリアなる概念は詐欺師の戯言に利用している、
ということに気付かないんだろね、一生
最後に預言しよう、将来において意識の仕組みが解明された場合、
後付けでクオリアなる概念でこのように説明できていたのだ、
とかいいだす卑怯な詐欺師が現れることを
そもそも、なんでクオリアの話が出てきたの?
719 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 08:58:51
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>>701 > すっきりすることと解決できてるかどうかは別問題です。
意味の問題は、解決というより解消するしかないと思いますよ。解決するってことは
イデア論になるということですよ。
>>703 > ただ、クオリア論の問題提起(意識と脳とは実は関係がある?)が
> 単純には一蹴できない、というだけです。
そこは同意しますが、
>>696 のような点でちょっとおかしな話になっているのが
クオリア論かと思うんですけどね。単体の脳で考えると自家撞着になって、
そこを辻褄合わせるためにイデアとか持ち出すんだろうと思います。
結局意味を既定しているのが複数の脳の関係性であり、脳が属する社会というものに 既定されているならば、その社会の様式を決定しているのは、広い意味での経済的活動である。 例えば、個人主義という言葉で意味されるものが資本主義と切り離して存在しえるか。
723 :
ハル :2006/01/10(火) 11:17:00
>>716 は
>>714 への間違い
クオリアには感触と物質としての二つの側面がある。
その二つを絡めた命題に関しては議論が解決しえない。
なぜなら感触を言述するには必ずそれを感知するクオリアが必要とされるが、そのクオリアにも感触があるためクオリアは言述しようとすると、その言述の無限の渦の中に常に飲み込まれる存在となるためである。
こういう例はどうでしょうか。自転車に乗ることは、一回覚えると何年も間をおいた後でも すぐに乗れますね。しかし、英語圏でしばらく生活して、日本に帰ってくる。5年後にまた 英語圏へ出かけたとき、自転車のようにうまくいくか?いかないんですね。 自転車に乗る、というニューロンの回路は一回形成されればそこを想起さえすればよい。 しかし、言語はそうじゃない。
725 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 11:36:19
人間の思考が意味の運動であり、そこに注目しているからこそ 「クオリア」なんてこと言うんじゃないですか?クオリアは意味ですよ。 人間の思考が意味の運動であり、そこに注目しているからこそ 「クオリア」なんてこと言うんじゃないですか?クオリアは意味ですよ。 人間の思考が意味の運動であり、そこに注目しているからこそ 「クオリア」なんてこと言うんじゃないですか?クオリアは意味ですよ。 人間の思考が意味の運動であり、そこに注目しているからこそ 「クオリア」なんてこと言うんじゃないですか?クオリアは意味ですよ。
或いはこういう例。精神病患者の妄想は非構成的なものではなく、正常と呼ばれる人と 「違った形で」構成的であると言われます。これは"社会"という脳と脳との関係性から 切れてしまった際の防衛反応と考えられないか。
727 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 11:43:05
クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する ところを指していると思いますよ。そして、それは本能のように所与であると。 クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する ところを指していると思いますよ。そして、それは本能のように所与であると。 クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する ところを指していると思いますよ。そして、それは本能のように所与であると。 クオリアっていうのは、"意味"がニューロン発火によってもたらされるという点に注目する ところを指していると思いますよ。そして、それは本能のように所与であると。
その意味(
>>726 )で、"真理を探究する"とされる所謂哲学なるものは、自発的に
精神病の状態に入ることと等価かも知れない。(しかし、彼はすぐに日常生活に
戻っていくが)
つまり、脳と脳の関係という、日常的な関係性から自己を切り離し、純粋に
自己自身の内部において意味を発生させようとする錬金術である。ここに
おいて突如意味が本当に発生してしまったら?その人間は立派な精神病
患者である。
729 :
ハル :2006/01/10(火) 12:44:59
>>727 いや、もたらされるとかもたらすとかではなく、その二つが本来同一であるというのが、クオリア論ではないのか。
730 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 12:46:53
731 :
ハル :2006/01/10(火) 13:05:23
>>724 それは人によると思うが。
>>728 そうなると関係性の中で意味が不可逆的に浮遊していこうとする意識の方向が精神病ということになりそうですね。
732 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 13:17:37
>>731 は性関係において付加逆なので男性には成れませんよね?
>>728 「脳と脳の関係」というが、空間的に離れた脳と脳がどうやって関係するんだね?
クオリア論は否定するのに、このスレで見られるような もっと曖昧なことは主張できる、というのが解せません。
735 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 14:28:47
それを言ったらおしまいよw
>>731 > それは人によると思うが。
いや、実際そうだと思いますよ。意味の社会性という点があるからだと思います。
> そうなると関係性の中で意味が不可逆的に浮遊していこうとする意識の方向が精神病ということになりそうですね。
すみません、ちょっと分からなかったです。
>>733 > 「脳と脳の関係」というが、空間的に離れた脳と脳がどうやって関係するんだね?
こうやって関係してます。
>>734 > クオリア論は否定するのに、このスレで見られるような
> もっと曖昧なことは主張できる、というのが解せません。
曖昧?曖昧なのはクオリアなるものですよ(笑)。そして、それは主旨から言って
必然なんですね。
ある特定の理論に否定的見解をもつか肯定的見解をもつかはそれこそ個々人の自由だろう 俺は科学的営為に敬意を払うし多くの科学理論を正しいと考えるが それは科学のもつ方法論、理論に対する批判を積極的に行うという方法を信頼しているからだ まったくテストされていない理論よりはテストを経た理論の方を信頼しているし 理論への批判を積極的に行うことは知的営為に携わる人間の義務だと考えている 科学と疑似科学の線引き問題でよく実証可能性や反証可能性という言葉が言われるが 実証可能性と反証可能性はまったく相反する概念だと言ってもいい 体よく言えば、実証可能性は「確定可能性」を意味するのに対して 反証可能性は「吟味可能性」を意味する ポパーの言う反証可能性による科学の説明は 科学的営為に参加する人間は、理論を確定させようとするのではなく理論を吟味しようとすべきだということだ 科学的営為に携わるならば、われわれは問題設定を変更しなければならない 「どの理論が確定できるのか」から「どの理論がどれだけの内容をもって世界と一致しているのか(一致していない部分はどれだけあるのか)」へと 個々人がいかなる理論を採用するかは それこそ「地球は平らである」にしろ「地球が丸い」にしろ、フロギストン説だろうとアニミズムだろうと われわれは彼らの選択した行為を非難するべきではない 選択ではなく当の理論を批判することが科学のもつ知的営みだ 「もし一人を除いたすべての人類が同意見で、ただ一人だけがそれに反対の意見をもっていたとしても、 人類がその一人を沈黙させることは、 その一人が力をもっていて人類を沈黙させるのと同じく、まったく不当なことである。」 ミル
遅くなったが あけましておめでとうございます
739 :
ハル :2006/01/10(火) 15:22:11
>>736 >>731 プラトンのイデアみたいなものが現実世界にまで無理に拡張しようとする精神状態がいわゆる精神病なのかなと勝手に思ったのですが。
具体的個物が先であれ意味が先であれその一方が独立に存在するとは常識的に考えずらいのにそうしようと無理をしているのが精神病なのではないかと考えたのです。
表現は主観的ですが言っていることは似たり寄ったりだと思うのですが・・・。
ただ、精神病と言ってもそれは社会的見地からの不都合で独自な見地からいけば必ずしも真実から離れてはいないかと。
結局は社会に命題の原因は帰するものかと。
>>734 そう思うなら、あなたは曖昧な主張は放置して、
曖昧でない主張を相手にすべきですね。
しかし、実際にはその逆のことをしている。
そもそも、あなた自身が、あなたの自身の主張の曖昧な点についての説明を、
無視していますしね。
>>736 >こうやって関係してます。
こうやって、というのは「パソコン画面上の文字を見ることを通して」という
意味だろうが、それが「クオリア」にならない限り、物を見るなんてことは
できないぞ。何かを「見る」というのは、「視覚クオリア化する」というのと
同義。
>>740 私は曖昧だから駄目だ、とは言いません。
また、私はクオリア論者ではないからあなたの質問には全部
答えられませんし、また、クオリア論者自身全部は答えられ
ないでしょう。
私が問題視するのは、とかく他人の主張を曲解して反論しやすい
ようにし、それに反論を加えることです。これはコミュニケーション
の妨げになり、また、相互理解にあまり役立ちません。
いかなる理論にも欠陥がある以上、批判することは容易いのですから、
それを擁護する態度の方が重要な時もあります。
743 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 15:41:49
また、ループして遊んでいますね ↓ぴかぁ〜さん、例のお薬を!
744 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 15:42:29
「クオリアが意味を与える」なんて曲解してるやつ相手にしても時間のムダだって。 致命的に国語力が足りないか、偏見・先入観にがちがちにとらわれてて 人の書いたことを素直に理解できないかのどちらか(あるいは両方)。
745 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 15:43:31
>>742 >いかなる理論にも欠陥がある以上、批判することは容易いのですから、
>それを擁護する態度の方が重要な時もあります。
いかなる理論も免れることができない欠陥を指摘することが、その理論を批判することになるのだろうか?
なるほど、わたしが他人を批判することは容易いかもしれない
「君は神ではない」と言えばいいだけだ
しかし、このような批判は「神であるような人が存在する」という理念に批判自体が帰依している
一言が挙げた批判も「まったく欠陥がない理論が存在する」という理念に批判自体が帰依している
これを正当化主義的思考と言うが
はたして、このような正当化を問う批判が批判として適当なのか甚だ疑問が残る
これを「批判と正当化の峻別の問題」と言う
ちなみに、俺は理論を批判することはとても難しいと思っている
747 :
ハル :2006/01/10(火) 15:47:07
>>740 人は常に事象を理論化してそれに無意識のうちに執着しようとしますからね。
それを無視することでそれを無意識の領域に追いやりそれを守ろうとしているんですよ。
理論の必然性は人間がただ安心したいからこそ求められるものであり、事象に理論が必然的にくっつくというのは人間の仮定に過ぎないが、その仮定に執着しようとするため曖昧な理論の方が話が進むのではないだろうか。
>>739 > プラトンのイデアみたいなものが現実世界にまで無理に拡張しようとする精神状態がいわゆる精神病なのかなと勝手に思ったのですが。
日常生活で"意味"が存在すると考えるのはむしろ普通のことですね。それは逆に言えば日常生活と
いうものが出来ているからです、当たり前のこととして。ところが、これが難しくなって、何か自分がエイリアンの
ような、変な状況に置かれてしまって、当たり前じゃなくなると"意味"を防衛的につくってしまうというんでしょうか、
妄想というのはそういうものだと思います。
>>741 > こうやって、というのは「パソコン画面上の文字を見ることを通して」という
> 意味だろうが、それが「クオリア」にならない限り
なるんじゃないですか。エロ小説読んで興奮したりするのが人間ですから。
>>746 それが曲解の典型的な例なんですよ。
私は「いかなる理論も免れることができない欠陥を指摘することが、
その理論を批判することになる」なんて全く言ってませんね。
過去ログでも何度も言ってますが、理論は発展するのであって、
いきなりどこからか湧いてくるわけではない、つまり、多くの
難点を持って登場するということです。それが批判に晒されて
だんだんと信頼性が高まっていくわけですが、それはあなたが
言うような「吟味」だけでなく、「理解」「訂正」なども重要
な役割を演じてるわけです。
吟味の重要性を知ってるということと、実際に適切な吟味ができるか
どうか、ということは必ずしも一致しない(一流の訴訟法学者が
一流の弁護士であるとは限らない)のです。
>>750 >私は「いかなる理論も免れることができない欠陥を指摘することが、
>その理論を批判することになる」なんて全く言ってませんね。
では、ある理論を批判することは同時に別の理論を批判したり擁護したりすることになるということになる
批判と正当化を峻別するならば、理論を批判することは、同時に自己批判につながることになる
(批判もまた批判可能である)
このような態度をとるならば
いかなる理論にも欠陥があるからといって、
そこから、理論を批判することは容易いと結論付けることはできない
君の
>>742 は説明不足ということになる
ーーーーーーーーーーーーーーー
われわれは理論と携わることで、論理を前提として受け入れ言葉を通じて規範とコミットする
言葉を通じて対話を行うということは論理にコミットするということを意味する
>それはあなたが 言うような「吟味」だけでなく、「理解」「訂正」なども重要 >な役割を演じてるわけです。 >・理解 吟味なくして理解なし >・訂正 吟味可能性=訂正可能性
>>751 それも曲解でしょう。
>いかなる理論にも欠陥があるからといって、
>そこから、理論を批判することは容易いと結論付けることはできない。
なんて結論は出していません。
他人の理論を曲解して闇雲に批判するのは容易いということです。
>>752 私は吟味可能性=訂正可能性という意味で使っていません。
「神は存在する」というのは吟味不可能ですが、「やっぱりいないかも」と
訂正することは可能です。私の「訂正」というのはそういう意味です。
ついでに、ドイツ語の「批判」の語源は「吟味」 日本語の「批判」という言葉の否定的イメージが一般的に強いだけ
>>753 >なんて結論は出していません。
>他人の理論を曲解して闇雲に批判するのは容易いということです。
なるほど、わたしの曲解でした
では、
>>742 の
>いかなる理論にも欠陥がある以上、批判することは容易いのですから、
この文章はどのような意図で書いたのですか?
757 :
ハル :2006/01/10(火) 16:21:13
>>748 程度問題ですよ。
何も精神病患者が意味を作っていると言うのではありません。
なぜなら意味というのは社会という関係の場があってこそのものですから。
ただし一般に間違いというものは起こっていて、それが言語の多様化を促しているのも確かでしょう。
そうやって言語の意味が多様化していくのは明らかでしょう。
しかしそれは正規の使い方ではなく、しかも現前するものでもありません。
その「極端」な体現が精神病なのかと。
あくまで「極端」な話です。
>>754 >私は吟味可能性=訂正可能性という意味で使っていません。
>「神は存在する」というのは吟味不可能ですが、「やっぱりいないかも」と
>訂正することは可能です。私の「訂正」というのはそういう意味です。
1、「神は存在する」は吟味可能
2、俺もその意味で「訂正」という言葉を使用しているし、訂正不可能な言明は発見されていない
悪いが、吟味可能性=訂正可能性は基本
「本を読め」と言わないだけ俺は紳士だ
>>749 >なるんじゃないですか。エロ小説読んで興奮したりするのが人間ですから。
全くそういう意味ではなくて、対象がパソコンの画面でもエロ小説の頁でも
絵画でも現実の風景でも何でも、目から入ってきた光線が
「色」と「形」のクオリアとして意識に立ち現れない限り、
何かを「見る」ことは不可能だろう、ということ。
「意味を理解するかしないか」「興奮するかしないか」とかいう
はるか以前の問題。
>>742 > 私が問題視するのは、とかく他人の主張を曲解して反論しやすい
> ようにし、それに反論を加えることです。
すみません、クオリアの話に戻りますと(笑)。人間の言語を"科学的"に知ろうとする際に、
意味の部分は意識的に避けてたと思うんですね。あくまでも文字や音声パターンという
データ化できる部分を取り上げて、それがどのような規則性があるか、統計的にどうか、
そういう分析だったと思うんです。例えば、Googleのメールサービスでは、メール内容を
解析して表示する広告を変化させたりするシステムを開発したわけですけど、そういう
ものですね。
クオリア論というのは、文字や音声パターンから喚起される"意味"を科学的に知ろうと。
そこが中心だろうと思います。ところが、意味というのは文字列パターン分析のようには
いかない、つまり経験的な現象ですから、単体の脳みそ解析すると、そこに意味が
発見されるという発想はおかしいんじゃないかということですね。
>>759 > 「意味を理解するかしないか」「興奮するかしないか」とかいう
> はるか以前の問題。
よく分からないのですが、エロ小説を読むんじゃなくてその本を
眺めているということですか。そこに本があると。
すみません、それで何を仰りたいのかよくわかりません。
762 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 17:03:56
>クオリア論というのは、文字や音声パターンから喚起される"意味"を科学的に知ろうと。 >そこが中心だろうと思います。 ぜんぜん違うってのに。 さんざん馬鹿にされてまだわかんないの?
>>762 > さんざん馬鹿にされてまだわかんないの?
いや、少なくとも言語的に文節化される以前の"個物"が在るなんて話は
やめましょうよ(笑)。それ言っちゃったらそこで話終わりですよ。
764 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 17:21:13
>>763 おまいにとって「そこで話終わり」なら
それで別にかまわないから黙って去ってくれ。
むりやり曲解して居座り続けられても
迷惑でしかないんで。
765 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 17:32:04
意味が理解できると考える時点でアウチですね。
766 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 18:12:27
御意
>>756 私の念頭に常に時間軸があります。
現在、いかなる理論にも「まだ見当もついていない重要な
(世界と整合的でない)欠陥がある」というのが私の見解
ですし、また、歴史的に見れば、古い理論はもっと欠陥が
備わっていると思います。そういう点について批判するの
は、その道のプロでなくてもできますが、これを訂正する
となるととても難しいのです。
>>758 私があなたと同じ意味で使っていないと言ってるでしょう。
768 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 18:46:17
>一言 >そういう点について批判するの >は、その道のプロでなくてもできますが、これを訂正する >となるととても難しいのです。 君、他人のことを曲解と言う割には他人の文章を読めないんだね >そういう点について批判するの >は、その道のプロでなくてもできますが、 君、この問題関連の本は何を読んだ? ちょっと著作名を挙げてみてくれ >これを訂正する >となるととても難しいのです。 どう訂正するのでしょうか? 理論をどう訂正するのが目的ですか? >「まだ見当もついていない重要な >(世界と整合的でない)欠陥がある」というのが私の見解 >ですし、 という文章を読むと 「理論を世界と整合的であるように修正する」ということでしょうか? では、「理論が世界と整合的である」とはどのようなことを言うのでしょうか? 俺は丁寧に対応してるが、それでも一つ一つの単語には注意を払っている 「整合」「対応」などの話もずいぶん昔からしてるね 君は興味がなかったかもしれないが。 さて、「理論が世界と整合的である」とは 「理論が訂正不可能である」ということを意味するように思える とすると、君は「理論を訂正不可能であるように修正することが目的である」という見地に立っていないであろうか?
>一言 それともう少し具体例を出しながら説明したほうがいい >そういう点について批判するの は、 という文章では、どのような批判を君が問題にしているのかが見えない 「そういう点」が曖昧なんだよ 例えば、「その理論は世界と整合的でない欠陥がどこかにある」という批判と 「その理論は世界と整合的でない欠陥がこれこれこういうところにある」という批判では意味が違ってくる (これは単純存在言明と意味の関係も然り) 前者は、そもそも批判をなしているのかどうか疑う余地があるが 後者は、提出するのが難しくまた理論に対してとても有意義な批判となる
>単純存在言明について ついでだから軽く説明 「神はいる」という言明は有意味か無意味か、科学的か非科学的かについて で、単純存在言明は反証不可能だが有意義であり科学的営為の基本になる 「神はいる」は科学的に見ても十分有意義な言明だということだ これは「神はいる」という言葉が「ラジウムがある」や「エイズを治療する薬がある」という言明と同じ性質をもってるからだ キュリー夫妻は「ラジウムがある」と思わなければ研究の仕様がない すなわち「あると思わねば発見されない」 しかし単純存在言明だけではそれは研究を前進させない ここで条件付けの必要性が発生する 「太陽系に木星より大きい惑星が存在する」 これだけでは批判不可能 これを批判可能にするには「それがどの範囲に存在するのか」「どのような性質をもってるのか」などの 条件付けをする必要がある また、それによって批判可能となり有意義な科学的研究が行われる 「エイズ特効薬がどこかにある」も正しいかもしれないし誤ってるかもしれない どこかにあるかもしれないしどこにもないかもしれない この言明だけでは科学的、批判的な議論は行われないし われわれの知識を増大させる建設的な議論を行うことはできない ここからさらに建設的な議論を行うには、条件付けによって理論が経験世界と衝突する内容をもたせる必要がある これは論理、規範的作業であり、この作業は論理的関係における批判を前提としている
772 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 19:21:49
俺は科学的営為を実証主義とは解釈しないが 科学の実証主義的解釈の衰退は 論理実証主義とそれへのポパーやクワインの批判あたりを参考にするといいと思う 悪いが、一言は科学を実証主義と解釈しているように思える 科学を実証主義として解釈すると哲学的には多くの困難が生じる 哲学をやってくなら知っておいて損はない 参考にどうぞ
>>742 > いかなる理論にも欠陥がある以上、批判することは容易いのですから、
> それを擁護する態度の方が重要な時もあります。
欠陥を探す以前の問題だと、俺は思うんだけどね
註:この文の「クオリア」は「このスレにおけるクオリア」ではない
一般的な「クオリア」を用いて「意識」の仕組みを説明する際についての注意点
先ず、クオリアなる概念があっても別段問題ない
そういう概念がある、それだけの話
ここで考える必要があるのは、クオリアなる概念を持ち出して、
意識の仕組みを説明するのに解決しうることがありえるのか?ってこと
クオリアなる概念そのものが説明すらできんものなのに、
問題の解決の役に立つと思える?
問題の解決に役に立たない概念をひたすら連呼しても意味がないと、
思えないほうが不思議でならないんだけどな
結局、概念の断片で説明して誤魔化し続けるんだよね
クオリアを意識の仕組みの説明に持ち出す前に、クオリアそのものを説明する必要がある
と思わないか?
語りえぬもので未だ語りえぬものを説明する意義が見出せない
それだけのことなんだよね
>>773 ファイヤアーベントを抜けてるのは俺的にはポイントが高い気がする
ありゃ、むちゃいいすぎだなと思ったから
参考にするにはたらないのかなと、気になっただけなので気にしないでください
でも、科学論をお勉強する人は避けて通れない人物なんだよね、きっと
(昔、講義を受けた程度で、薄っぺらいことしか知りません)
>>775 ファイヤアーベントの科学論は社会構成主義への第一歩だからね
ぴかぁ〜の科学解釈はファイヤアーベント流
正直、理系の人や現場に立っている人にはファイヤアーベントは読んでほしくない
哲学へのあらぬ誤解と対立を招きそうだから
ただファイヤアーベントもポパーへのいくつかの批判は適切だと思う
相対主義者っぽくない鋭い批判があるんだよね
科学論の参考にするならやはり論理実証主義の失敗の歴史を見るのが一番
クワインが王道、ポパーは・・・ポパリアンの俺が言うのもなんだがとても癖が強い
一言で言えばポパーは道徳哲学者だ
個人的には好きだが「素人にはおすすめしない」ってやつだ
>>774 > クオリアなる概念そのものが説明すらできんものなのに
"クオリアの意味"とは"意味の意味"ですから、なかなか難しいんですね。
何だかよくわかりませんが、ゾルレン氏の科学観によると、 このスレの「クオリア」に関するいろいろな言明や理論は、科学的には有意味なのか、 それに条件付けすることによって経験世界と衝突する内容(反証可能性)を持たせる ことができるのか否か、どうでしょうか。 答えがイエスなら、クオリアは科学の対象になり得る、ということでしょうか。
779 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 20:16:57
>ぴかぁ〜の科学解釈はファイヤアーベント流 ファイヤアーベントはしらんね。 それにしても、メタクオリア議論も良いが、 もう少し科学実証的な議論はないのかね。
>>779 ありていに言うと、
科学の言う「正しさ」なんてのは幻想で
社会的な強者によってつくられたものだという見解さ
その時代に主流な理論が「正しい」ってやつさ
781 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 20:32:50
なにを今更 そんな一般教養レベルから始めないとダメな奴ばかりなのか? ぴかぁ〜さん、例のやつお願いします
782 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 20:41:08
>>780 ボクは創発主義唯物論者なので、科学の正しさは信じていますよ。
まず世界は創発的構造であり、人間はそれを近似的に認識できる。
特に科学はもっとも近似的に表現できる存在論である。
人間は、進化上において生存のために適正に世界を認識
できるように進化しているため。
すなわち人間も創発的構造の一部であり、世界と密接な関係であり、
単なる幻想を見ていることはありえない。
ただ科学の確からしさは決して証明できない。
という世界観の持ち主です。
>>778 俺に質問してる?
>答えがイエスなら、クオリアは科学の対象になり得る、ということでしょうか。
仮にノーでもクオリア研究は科学の対象と同等の価値となりうるよ
ポパーの欠点は「科学」という名前に固執しすぎたこと
おかげで「進化論」は「非常に有意義な形而上学的プログラム」という言い回しになったわけだが
これは科学に含めても問題ないレベルだし、
重要なことは科学か否かではなく
それがわれわれの知識の発展につながる有意義な研究となるかどうか、だと思うわけよ
>クオリア
「クオリア」がねぇ、何かを解決しようとしてる理論なのか
科学者がこれから挑む問題なのかはっきりしないんだよね
もし「クオリア」という言葉を導入することで何かが説明できるというなら
俺はそれには否定的な見解にならざるをえない
何も説明していないにも関わらず造語によって何かを説明しているように見せかけているだけ
「詐欺師」という表現も納得がいく
機械君の「それはクオリアです」は何の説明にも何の解決にもなってないだろう
だが、それが「クオリア」に関する一連の問題の消失を意味するわけではない
クオリアについて研究する意義はあるんじゃないの
>>782 どっちにしろ科学論ではないね
知識テーゼと秩序テーゼがごっちゃになってる
785 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 20:49:27
ただ科学自身も創発構造物なので、 時代のイデオロギーに左右される面は否めません。 カント的には、ものそのものはあるが、現象しか認識できない。 しかし現象の確からしさは、進化という超経験の実績時間長さが、 保証する。
786 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 20:52:31
>>784 科学論と言われると、
>科学の確からしさは決して証明できない。
しか残らないだろう。それ以外になにかある?
>ぴかぁ〜 すまん、秩序テーゼではなく独立テーゼだったな 科学論の根本テーゼは2つ 1科学の問題とする世界はわれわれの認識と独立している 2われわれはそのような独立した世界の秩序を知識として得ることができる だったと思う
>>786 いやいや、科学論だって幅広いし、多くの問題群がある
例えば「科学は確からしさをまったく問題にしていない」という見解だってある
この見解にたてば
確からしさの証明不可能性に固執するやつは馬鹿ってことだからね
789 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:00:53
>>788 ちょっと勉強のために聞くんだけど、
哲学などの言説はなにをもってその確からしさを保証されているの?
たとえば、ハイデガーが「現存在の存在はおのれの意味を時間性において見い出す。」
というとき、そんなのおまえのさじ加減だろう、と言われないのはなぜ?
「確からしさ」てのはプロバブリィ、蓋然性ってやつだな これが論理的なものではなく心理学的なものだというのがピカの見解だと思うが そのとおりだと思うよ
791 :
決定論スレ46の556 :2006/01/10(火) 21:03:12
命題の意義ってのは二種類あるわけですよ。 まず、命題それ自体に興味がある、それを話してるだけで楽しいと。 次に、命題の真偽が、我々にとって実際的な差異を示していること。 例えば、天動説と地動説では、月ロケット一つ飛ばすにしても、 軌道計算とかいろいろ変わってきますよね。 もちろん、両方の意義を同時に備えている場合もあるわけですけどね。 一般的に科学技術研究の意義、というのは後者の意義ですよね。 で、このスレの議論というのは、前者の意義しかない、 と、これは、私が言っているのではなく、 他の方が私に、過去スレで断言なさったことがありました。
792 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:07:52
>>790 ん〜、でもハイデガーにそうは言わないのはなぜ?
ボクが「好き勝手なこと」をいうこととどのように差異化すれば
よいの?
>>791 では、神経症的確からしさマニアのキミは、どうおもう?
哲学などの言説はなにをもってその確からしさを保証されているの?
たとえば、ハイデガーが「現存在の存在はおのれの意味を時間性において見い出す。」
というとき、そんなのおまえのさじ加減だろう、と言われないのはなぜ?
>>792 >ん〜、でもハイデガーにそうは言わないのはなぜ?
>ボクが「好き勝手なこと」をいうこととどのように差異化すれば
>よいの?
ウィトゲンシュタインとかはハイデガーのことをボロクソに言ってる
>たとえば、ハイデガーが「現存在の存在はおのれの意味を時間性において見い出す。」
>というとき、そんなのおまえのさじ加減だろう、と言われないのはなぜ?
ウィトなら、言葉の役目を果たしていないハイデガーの言葉を嘲笑するだろうね
ハイデガーのことをボロクソに言ってる人もいるし、逆に崇拝している人もいる
794 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:16:52
>>793 では、ウィトゲンシュタインに「さじ加減だろう」、というと
ダメなの?
分析哲学主流派からすれば、経験領野でのテスト可能性がない言明=ナンセンスな言明 だから、ハイデガーもぴかぁ〜もナンセンスだよ。
796 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:21:32
>>795 分析哲学主流派って誰?
デイビットソンとか、ローティとかは?
>ピカ 俺は今、急死してネットに書き込みできない
>ピカ 俺は今、生きていてネットに書き込みできる
799 :
決定論スレ46の556 :2006/01/10(火) 21:27:22
>>792 何か勘違いなさっているように思います。
>>791 の内容は、「確からしさ」とは直接には関係ないですし、
これ以前にも私はそういう話はほとんどしてないと思いますが。
>>797 と
>>798 はそれぞれ両立しないから
>>797 と
>>798 のどちらかが正しいか、もしくは、どちらも間違っている
どちらも正しいということはありえない
で、ピカは
>>797 と
>>798 のそれぞれの言明の信頼度に差異はないと思う?
この2つはさじ加減だと思う?
われわれは言葉を使用して会話するわけだけど、これは論理を前提にしている
そんでもって、偽と証明できないにも関わらず、なぜか自己矛盾のパラドクスを偽として拒否する
これはさじ加減なのかねぇ
801 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:42:33
>ピカ
俺らは言葉を使用することですでにして論理の枠組みの中にいるわけだが
この論理への信頼がそもそもさじ加減であるかもしれないし、そうでないかもしれない
論理の体系が無矛盾で無パラドクスであることは証明できない
その蓋然性はファーストオーダーだろうがファジーだろうがさじ加減にすぎないかもしれない
だから「ダメ」ではない
だけど
>>797 のようなことをリアル社会で言うと狂人扱いされる
そのことがホントに不思議に思うならともかく、ピカも
>>797 は狂人仕様に感じただろ?
>>801 >ゾルレンはおちゃめ。
おちゃめだろうが矛盾した発言は矛盾しているんだよ
804 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:52:49
>>802 したといいたいけど、ん〜正直言うと、しなかった。
だって、このコンテクストではね。
しかし言いたいことはわかるよ。ボクが
>>785 で言いたかったことも
このことなんだよ。わかるかな?
805 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:54:03
>>805 その言い方イイね。
正しい/正しくない より 面白い/面白くない だ!
ってことでしょ?
>>806 >>776 > ぴかぁ〜の科学解釈はファイヤアーベント流
さらに、納得できるものを今感じた
ファイヤアーベントのいう科学をこう解釈する人もいる
科学は面白ければそれでいい
>>804 >しかし言いたいことはわかるよ。ボクが
>>785 で言いたかったことも
>このことなんだよ。わかるかな?
俺はカントにもこのような発想があったと踏んでいる
カントの「自然」に関する説明は経験的なものではなく論理における自己矛盾の忌避を示しているのではないかと
対決スレにも書いたわけだが、これは純粋に悟性的な産物だろう
で、俺は
>>785 と同じとは思えないのだが
>矛盾していようが、おちゃめなんだよ
いや、俺はおちゃめかもしれないし、そうでないかもしれない
だが、
>>797 と
>>798 は相矛盾する
809 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 22:09:03
>>808 超越論的でなく、「超経験的」だよ。
人は「超経験的」に、確からしさの共有を可能にしている。
だって、僕たちの祖先が分裂したのは高々数万年前で、
その前数億年は同じ祖先なんだよ。
そしてここでクオリア論につなげよう。
>>505-507 >クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 22:13:09
クオリア論は意味論であり、論理の成立もクオリアの共有と、同じ次元にある
>ピカ
>人は「超経験的」に、確からしさの共有を可能にしている。
単純な質問なんだが、確からしさを共有する必要なんてどこにあるの?
「もし一人を除いたすべての人類が同意見で、ただ一人だけがそれに反対の意見をもっていたとしても、
人類がその一人を沈黙させることは、
その一人が力をもっていて人類を沈黙させるのと同じく、まったく不当なことである。」
ミル
哲学では誰に賛成しようが誰に反対しようが個人の自由さ
哲学で重要なことは反対するときに明確な批判をできるか
逆に批判を受けたときにきちんと反論できるか、だ
それができたらウィトゲンシュタインを批判しようと構わないし
それができないでぐーたら言葉を述べているやつは馬鹿にされる
>>505-507 はシラネ
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 22:22:20
>単純な質問なんだが、確からしさを共有する必要なんてどこにあるの? キミの100人の友達がいたとする。 彼らが全員昆虫だったらどうする? 共有とは、ベイトソンのゼロ学習レベルだよ。
>>812 >キミの100人の友達がいたとする。
>彼らが全員昆虫だったらどうする?
別にどうもしない
彼らは友達さ
ネットの向こうの俺が人間であるという保証がどこにある?
もしかしたらイグアナかもしれないし
キーボードの上を乱雑に歩いてたことがたまたま意味の通る文章を打ち出したのかもしれない
だが、君は相互理解の可能性を信じコミュニケーションをとっている
共感の不在においても対話は成立するんだよ
その精神が道徳であり哲学のもつ対話精神の中枢
814 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 22:31:47
>>813 昆虫でも、イグアナでも、キーボードの上を乱雑に歩いてたことが
たまたま意味の通る文章を打ち出してもいない。
なぜなら、超経験的な共有した確からしさがあるかさ。
キミの100人の友達が全員昆虫だったら、
人間の友達ほしくなるよ。
(超経験的な共有した確からしさがある)コミュニケーションが、
言語に先行するからね。主体の存在条件だから。
815 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 22:33:12
超経験的な共有した確からしさがなければ、 ゾマホンはここにはいないのさ。
816 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 22:37:45
/ < __>  ̄ / /\ |\ ハ // ̄ / | ( ◎) / .| _ノ(ノヽノ .ヽ-ヾ _ / \ / ノ人 ヽ | イ・ヽ\) ) | .| | ヾ) ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヾ人__ノ(。。` ヽ / | 父さん! | ⌒ | ノ ノ < 人 | レノ / | 強い電波です! ヽ、 ⌒ ノノノノ \__________ /~/`ーーーー´/___/ヽ / | ̄~|ヽ/\/| | | / |__| o .|__| |
817 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/10(火) 22:44:30
厳密に言えば 我思う故に我あり これ以外に、確かなものなど有りえません
818 :
考える名無しさん :2006/01/10(火) 23:37:14
自己言及のバラドクス
819 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 00:02:14
820 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 00:36:37
×「我思う」ならば「我あり」 ○「我あり」ならば「我思う」
821 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 00:49:53
>>820 『我思う「以前」に「クオリア」あり』が正しいと想います。
数多くの動物の中で、言語によって「自他のクオリアの異同を確認し
つつ生存する」能力を備えた「地球上における最も進化した『脳』」
を人類が(遺伝子的に)持っており、「我々個々の人間」は「たまたま
気づいたとき(新生児《時》ではありませんが)」に、『言語によって
「自他のクオリアの異同を確認しつつ生存する」』自分の「存在」につ
いて、「自覚的になった」だけの「存在」なのです。
822 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 01:08:51
>>821 のPS.です。
「クオリア」は「意味」ではありません。
少なくとも「意味ある・・」という文脈で使われる「肯定的な意味」に
対して、「クオリア」は「全くニュートラル」です。
個体保存本能・・・死刑の寸前に「何とか逃れたい」と考える「脳」
種族保存本能・・・人類がよりすぐれた存在(超人類)に滅ぼされ
る事態に直面して、戦って殺される体験
も、全部「クオリア」です。・・・(人類にとっては全く肯定的意味がない事実)も
「クオリア」として人類の個々の「脳」に立ち顕れる・・・ということです。
牛や豚が「とさつ場」で「とさつ機」が自分に近づくのを「見る」のも「クオリア」
なのです。
823 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 01:13:04
>>821 相変わらず奇妙な事ばかり言いますね
痛い というクオリアを感じる場合
感じる という事は
すなわち
痛い と思っているわけです
思う以前に、クオリアがあるなどと
いったい、何を勘違いしているのでしょうかね
824 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 01:15:56
825 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 01:21:52
>>823 あなたが「痛い」と感じるのはその「感覚的クオリア」を「指向的クオリア」が
「選択」した時「だけ」です。
たまたま「触覚に意識が向く」体験は、「他の4感」が「意味ある情報」を
送ってきていない「時」であり、覚醒時に「指向的クオリア」の対象として
選択される「感覚的クオリア」は、ほとんど「視覚のクオリア」です。
これは、人類の祖先が草原で暮らしていた時に発達した「肉食動物の接近を
なるべく早く探知する」能力の「遺伝子」の働きなのです。
多くの草食動物は「耳を動かす」能力を備えておりますが、人類はその能力
には「頼らなかった」・・ということです。
826 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 01:25:17
>>825 >あなたが「痛い」と感じるのはその「感覚的クオリア」を「指向的クオリア」が
>「選択」した時「だけ」です。
感じないクオリアとは、いったい何ですか?
クオリアというのは、「感じ」の事ですよ
勘違いもホドホドにして下さいね
827 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 01:29:29
>>826 >クオリアというのは、「感じ」の事ですよ
うーむ、それは「超新説」ですね。それなら全部「感じ」で済みますので、
難しい議論は全く必要ありませんね・・。
825から機械タン語の対応表を作るとこんな風かな? 感覚的クオリア → 感覚与件 志向的クオリア → 意識 意味のある情報 → クオリア
829 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 01:39:13
はて 「超新説」??? はぁ? 『本人が主観的に感じる実感的な質感』 これが簡単に、一言で説明した場合のクオリアというものですが? >それなら >難しい議論は全く必要ありませんね・・。 そうですよ? クオリアの起源は、科学的に解明できるとっかかりすら有りえない という事で、ほぼ決着がついている事です 難しく考えたって、同じですよ あなたのように、頭がズレちゃうだけ というのがオチです
830 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 01:42:51
うみねこはまだか?
831 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 01:44:12
>>828 いや、敢えて言うならば・・・
感覚的クオリア→5感覚器官から脳(大脳に限らず)に入力される情報
志向的クオリア→入力される情報を(主に「捨てる」)脳の能力
意味のある情報→指向的クオリアにより「捨てられなかった」感覚的クオリア
ですね。
832 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 01:46:00
831の訂正です。 志向的クオリア→指向的クオリア
833 :
ディオニュソス :2006/01/11(水) 01:52:26
機械氏、とりあえずクオリアというものそのものの基本をおさえておこうな。
最高位氏は
>>829 以外のことは殆どいわない。言う必要もないだろうか
らな。赤い感じそのものは、それについての科学的な記述とは冷ややかに、
永遠に分離したまんまだ。機械氏こなへんはどうよ?
834 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 01:58:44
>感覚的クオリア→5感覚器官から脳(大脳に限らず)に入力される情報 いやいや それはクオリアではありませんよ それは電気信号などの、物理的な情報です その情報が、なぜそのような感覚に感じるのか そこには、科学では解明できない『飛躍』が存在している というのがクオリアの問題というものです >志向的クオリア→入力される情報を(主に「捨てる」)脳の能力 これなんかは、更にクオリアではありません 情報を取捨選択するという脳の働きであって クオリアとは全く意味が違います >意味のある情報→指向的クオリアにより「捨てられなかった」感覚的クオリア 意味とは、人間の価値観が与えるものであって それこそクオリアとは意味が違います
835 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 02:01:09
>>833 赤い感じは「彩度・明度・色相」という「色の3要素」の中で「色相」
に分類され、ある特定の幅(の波長)を持った電磁波が「人間の眼球」に達し、
網膜で「電気的信号」に変換され、脳内の「視床他」に到達した時に惹起される
脳内の「一連の反応」のことであり、「同じ人類」であれば大体は「同じ反応」
が起こる・・・「その脳内現象」のことです。
但し、上記は「赤緑色盲」の遺伝子が「優性」になった方には、当て嵌りません。
>>831 828は、機械タンはいつも独特の表現を使う為、ズレてると言われ続けてしまうので、
誤解の少ない表現に変えるとどうなるかと思って、書いたものです。
ちょっと変だったので、
感覚的クオリア → 感覚情報
志向的クオリア → 意識
意味のある → クオリアに対応する
クオリア → 情報
と変えます。
試しに
>>825 を変換してみます。かなりすっきりすると思います。
あなたが「痛い」と感じるのはその「感覚情報」を「意識」が
「選択」した時「だけ」です。
たまたま「触覚に意識が向く」体験は、「他の4感」が「クオリアに対応する感覚情報」を
送ってきていない「時」であり、覚醒時に「意識」の対象として
選択される「感覚情報」は、ほとんど「視覚情報」です。
837 :
ディオニュソス :2006/01/11(水) 02:02:46
838 :
[機械的唯物論者 ◆djnIuM2ZLs :2006/01/11(水) 02:05:19
>>837 では「判っている」あなたにお任せして、本日は就寝させて頂きます。
839 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 02:11:47
>>835 >赤い感じは「彩度・明度・色相」という「色の3要素」の中で「色相」
>に分類され、ある特定の幅(の波長)を持った電磁波が「人間の眼球」に達し、
>網膜で「電気的信号」に変換され、脳内の「視床他」に到達した時に惹起される
>脳内の「一連の反応」のことであり、「同じ人類」であれば大体は「同じ反応」
>が起こる・・・「その脳内現象」のことです。
それでは何故、それが一般で言われる黄色に感じるのではなく
赤に感じるのか
その理由を、科学的に説明したまえ
キミは哲学というものが、全くわかっていないんだよ
本質的 という言葉とは、全くかけ離れている
いつも言うように
キミのは単なる、トンデモ科学論考であって
観点が完全にズレてしまっているんだよ
840 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 02:24:28
>>833 そういう事ですね
なんでこんな簡単な事が理解できない人が多いのか
常々、不思議で仕方ない
まぁ、クオリアについて説明させれば
その人の哲学的センスが、手に取るようにわかるね
>>836 キミのも擬似哲学だな
>感覚的クオリア → 感覚情報
だから、その情報が、なんでそういう感覚に感じるのかという話なんだよ
クオリアってヤツはね
意味わからんの???
>>840 836です。
>だから、その情報が、なんでそういう感覚に感じるのかという話なんだよ
俺が言いたかったのは、機械タンは「クオリア」という単語を用いていながら、
実際は、クオリアの話をしていなかった、と言うことです。
「意味のある」を「クオリアに対応する」としたのも変でしたね。
843 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 02:54:24
>>841 なるほど
そういう事でしたか
しかし何で機械君は
機械的唯物論者、決定論者であるにもかかわらず
クオリアという言葉が好きなんだろうね
それが不思議で仕方ない
まぁ一言で言って、理解できていないからなんだけど
誤解しちゃう人が後を断たないから、変な解説は迷惑なんだよね
>>843 機械説と同趣旨のクオリア論を展開している人はこのスレでは見かけませんよ?
>>809 > 人は「超経験的」に、確からしさの共有を可能にしている。
> だって、僕たちの祖先が分裂したのは高々数万年前で、
> その前数億年は同じ祖先なんだよ。
これって、機械氏の
>>821 クオリア論とも似てますが、立証されてるんでしょうか。自分が
知る限り、近親相姦や食人などのタブーはありますが、人間の場合非常に「超経験的」
部分が弱い。少なくとも成人した人間にとっては取るに足らないことになりますよね。
少なくとも、「超経験的」部分に対する直感的シグナルで行動を規定しませんね。
また、認識に関して言えば、言語に先行して個物がある、これは人間の場合成り立たない
んじゃないか。「超経験的」な世界の分節化が人間にもあるということですが、上の話と
同じで少なくともそれは行動を規定しませんね。
じゃあ、何で「超経験的」に見える共有があるか。やはり人の言表主体は他なるものだったから、
でしょう。つまり世界の分節化がそもそも個別の身体から発生していない。人間は"他なるもの"
に従属することで自己を発生させるわけで、最初に共有される言語、そこから派生する分節化
に参入するということですね。
>>811 > 単純な質問なんだが、確からしさを共有する必要なんてどこにあるの?
> 「もし一人を除いたすべての人類が同意見で、ただ一人だけがそれに反対の意見をもっていたとしても、
> 人類がその一人を沈黙させることは、
> その一人が力をもっていて人類を沈黙させるのと同じく、まったく不当なことである。」
> ミル
ちょっと脱線ですが、ミルはこういうこと言うんですが、一方で植民地支配を礼讃してるんですね。
なぜならば、
> 哲学では誰に賛成しようが誰に反対しようが個人の自由さ
> 哲学で重要なことは反対するときに明確な批判をできるか
> 逆に批判を受けたときにきちんと反論できるか、だ
ということが、前近代社会では成立しないからです。つまり、それもまた時代に既定された意識という
ことですね。産業資本主義社会によって既定された意識ということです。
>>843 > しかし何で機械君は
> 機械的唯物論者、決定論者であるにもかかわらず
> クオリアという言葉が好きなんだろうね
そこは精神医学なんかでの人間観の対立構造なんですね。
1.人間は生まれたときから世界と調和的だった。
2.人間は生まれたとき混沌の中にいた。
フロイドやラカンといった精神分析派は2なんですね。一方で1を主張する人も多い。機械氏の
意見は1ですね。
これがどこで一番問題になるかというと、倫理的問題に関してです。人が人を殺すのは
1の人間観→何かの間違い。
2の人間観→本来的。
となる。極端な言い方ですが。
クオリアが好きというのは、だから理由がある。自分の行いはよいのだろうか悪いのだろうか。
何を基準に生きるのか。
あと、機械氏がキリスト教を毛嫌いしているのも分かります(笑)。 つまり、機械氏のような本能論者にとって、ユダヤ教系の宗教は「余計なもの」なんですね。或いは、 人が本来持つ本能を歪めてしまうものであると。しかし、本能論は個別には色々出てくるでしょうが、 都市生活などに関して全く説明ができないだろうと思います。都市生活は「余計なもの」に囲まれた 生活ですからね。
849 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 12:50:01
>>844 クオリア論
などという言葉を使っている時点で、おかしいんですよ
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 13:07:56
クオリアが明らかな意味論であるのは、たとえば「赤」のクオリアはいつも同じではない。 コンテクストに依存するということですね。 ここで機械やんのように絶対的な「赤」のクオリアがあるんだ。というのがイデア論であり、形而上学ですね。
851 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 13:46:43
>>850 ???
同じものが、常に同じ色であるとは言えないわけだが
同じ色は同じ色だと決まっている
違う赤なのなら、それは違う赤なのである
そもそも色などというものは、存在しないであろう
人間の感覚器が、人間に与えている感覚である
人間が作り出し、勝手に感じているものだ
と、言えるであろう
更に
意味などというものとも関係がない
意味というものは
人間が思考した際に生まれてくる価値観によるものである
852 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 13:53:45
哲学最高位、それだと追試だ。自分の考えを再度整理してみな 色とは、クオリアとは、意味とは
853 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 13:58:32
>>852 ん?
追試?w
意味がわからん
>色とは、クオリアとは、意味とは
わかってるつもりだけど?w
じゃあさ
キミが、どういう意味で使っているのか説明してよ
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:00:04
あ、逃げた。でもどうでもいいし、追わない。
855 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 14:05:35
あのね 意味論て、よくわからんけど 唯名論みたいなもんでしょ 要するに 名前は、人間の価値観が生み出した便宜上のものであって 名前がついているそのものが、独自的に意味を持って存在しているのではない というのに似ているのではないかね? しかし クオリア 感じ というものは 意味や価値観によって生まれたり、変化したりするものではない その感じ は その感じ だ
856 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 14:08:13
>>854 ん?
逃げた???
わけわからんな
キミが理由も言わずに人を批判しているから、ちゃんと説明しなさい と言ってるんだよ
キミも会話の出来ない人なのかね?
857 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:35:42
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
@クオリア・マニフェスト
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
858 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:36:44
Aオートポイエーシス
事実、神経学によると、人が感じる色は、光の波長でなく、言葉として認識した色と近いと言われる。
だから当然、同じ波長の赤でも見えているものはちがう。たとえばデザイナー、画家など色職人は
様々な赤を日頃認識している。当然、なんでも赤の僕達とは見え方が違う。たとえばこれは
オートポイエーシスが考えられたもとでもある。
>>
オートポイエーシスは神経システムをモデルにして組み立てられている。マトゥラーナが問題とした
神経システムは、色の知覚に関するものである。外部刺激に対する視覚神経細胞の活動は、
外部刺激の物理的特性に1対1に対応していないという実験結果がある。つまり、神経システムを
外部刺激−細胞活動のスタティックな写像として見ると、実験結果が説明出来ない。こうしたことから、
神経システムはそれ自体の関連の内部でのみ活動しているはずだとマトゥラーナは考えた。
http://rikou.st.ryukoku.ac.jp/~nomura/docs/autopoiesis/node4.html <<
たとえば、盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。そして色は言語であるというとき、普通の人も
盲人と近い形でイメージとして色を認識しているということである。
それでも、この赤という意味(クオリア)は、派手、明るい、ショック、危険などの確定記述の束に還元
されない。これを赤のイデアと呼んでも結局、言語への還元でしかない。ラカンが意味は現実界に
あり、人は知りえない、あるいはヴィトゲンシュタインィトの「語りえぬもの」とは、このような意味である。
859 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:37:48
Bやわらかな遺伝子 それでも、意味にさかのぼるなら、アフォーダンスという考え方がある。赤を人の認識に還元する のでなく、たとえば赤い花は赤いことをアフォードしていると考える。赤い花は動物、昆虫を引き寄せる ために赤を訴えている。人が赤に感じるクオリアはこのような進化上の経験によるということだ。 これは進化心理学であり、憶測でしかない。すなわち意味とは、このようなことである。美とはなに? なんのために生きているの?などなどだから意味は現実界(ものそのもの)にしかない。それは、 簡単には以下のよう意味になる。 クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験 主観と客観とはなんだろう。たとえば人間の先天的能力で赤く見えるものは、客観である。しかし 最近は「やわらかな遺伝子」などといわれ、遺伝子は単なる先天的なものではなく、後天的な発動の 問題がある。だから遺伝子的にも先天性と後天性は明確でない。いわば後天的解釈項(それは言葉 でも育つ環境でも良いか)によって、遺伝子がどのように発動するか、わからないということであり、 意味(クオリア)はこのような複雑なコンテクストの彼方にある。
860 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:39:04
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。 その2
C僕たちは限りなく同じである。
「「クオリア」はなぜ語りえないのか。」
>>505-507 で示しましたが、クオリア(意味)が語り得ないのは、
対象があり、意味へと変換するのは、因果律ではなく、その間に解釈項が入るためです。意味が
主観であるのは、解釈項が「私」であるからです。だから私の解釈とあなたの解釈は異なる故に、
対象のクオリア(意味)は主観であり、語り得ないのです。
しかし意味が主観だけでは、間主観性、すなわちコミュニケーションがなりたちません。そのために
解釈項は「限りなく同じ」なのです。すなわち、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。
クオリア(意味)=@遺伝子による進化上の経験+A言語による文明的経験+B生まれてからの記憶された経験
ボクがこのようにいうときに、「@遺伝子による進化上の経験」は人間では限りなく共通です(時間的
には数億年の経験です)。「A言語による文明的経験」も文化圏が分割したのは、最近です。(時間的
にはたかだか数万年前です。)このような意味で、あなたと私は「限りなく同じ」なのです。
これはクオリア(意味)の読み解きのヒントになると思います。たとえば「@遺伝子による進化上の記憶
(経験)」は身体を構造的に解体することにより行われてきました。これはいわばハードであり、科学的
にもっとも進んだ領域です。このソフト側は心理学、最近では進化心理学による考察があります。
さらには「A言語による文明的経験」は人間の初期には、(心理)考古学による考察が進んで
いますし、文化そのものの考察では、歴史学、社会学などがあります。
認知科学は、このように状況証拠的なクオリア(意味)の全方位網として進んでいます。このような
意味で、「クオリア(意味)」とは認知科学の中心に立てられ、目指される旗です。「僕たちは限りなく
同じである」故には「クオリア」は「語ることができる」可能性があるのです。
861 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:40:41
D僕たちはそれぞれが違う しかしまた「限りなく同じである」とは、同じではないということです。クオリア論にもこのような残余が必ず 残ります。ここに精神分析があるのではないでしょうか。精神分析における抑圧された無意識とは、 小さい頃の経験(B生まれてからの記憶された経験)が、事後的に現れて、その人に決定的な影響を 与える、すなわち「私」であるという個性を与える。 「動物」は生まれながらに高い完成度を備えている。すなわち「@遺伝子による進化上の経験」によって、 クオリア(意味)が決定する。あるいは意味そのものが必要とされない。しかし「人間」は未熟な状態で 生まれ、「A言語による文明的経験」、さらには「B生まれてからの記憶された経験」が決定的な意味を もつということを表している。 しかしここには科学を越えた、「人間/動物の差異」がなければならない、という倫理的次元の介入が あることも否めません。たとえば、「僕たちは限りなく同じである」というのは、最近のリベラル的平等主義を 支える倫理です。しかし、進化心理学など認知科学は倫理的に批判にさらされています。これはリベラル では、「人間である僕たちは限りなく同じである」という「人間/動物の差異」に基づき、「人間は動物と 違いみな平等だ」ということであるのに対して、認知科学における「僕たちは限りなく同じである」という のは、「人間/動物の差異」を解体するのです。 ここで重要なのは、ここでの「人間/動物の差異」の解体が、従来の科学の「人間は動物である」という ことではなく、「動物も人間的である」という方向をもっているということです。
>>857 では
>「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり
と普通なのに、
>>858 で
>この赤という意味(クオリア)
と、クオリアが「意味」にすり替わっているのは、なんでだ?
その間に
>盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
>ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。
という文章があるが、生まれついての盲人に色がわかるわけないだろ。
「赤」とか「青」とか「黒」とか言われたって、何のことやらわからん。
区別できないものを、どうやってイメージとして認識するんだ?
863 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 14:55:43
864 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:59:39
>>862 生まれついての非盲人ならば色はわかる、ということでしょうか?
865 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 15:01:07
857 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 14:35:42
■「クオリア」はなぜ語りえないのか。
@クオリア・マニフェスト
>>
クオリア・マニフェスト 茂木健一郎
http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html 私たちの世界観の中で心的現象が本来占める重要性に対するいきいきとした感受性を持ち、心の
中の様々な表象(representation、Vorstellung)の重要性を指摘したのが、フッサール、ハイデガーら
の現象学者たちであった。
私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に
支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、
「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係に
ある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない
理由である。
主観性の起源の解明のためには、クオリアに対応するニューロンの活動の時空間的なパターンの
解明のために必要な議論よりもさらにシステム論的な議論が要求される。
<<
ハイデガーの、フッサールとの違いは、コンテクスト主義と言われている。すなわち物理主義など、
現象を因果律だけで説明するのではなく、間に解釈項を入れる。ハイデガーではそれが「現存在」で
ある。対象を赤いとみるのは主観という解釈項である。これはパースの記号論の3項であり、ラカン的
には現実界(ものそのもの)から想像界への解釈項としての象徴界(言語)となる。だからラカン的
には、「クオリア」は言語のように構造化されているとなるだろう。
866 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 15:02:29
すいません、質問を深読みしました。 だから盲人にも色はわかると、言っているのです。
>>864 俺もあんたも「赤」のクオリアが一応わかるんだから、
そうなんじゃないのw
>>862 > という文章があるが、生まれついての盲人に色がわかるわけないだろ。
目という器官が使用不能になっていても、視覚をつかさどる脳の機能が
損傷してなければ色は絶対に分かる。そういう医療技術は今研究中ですよね。
そこ(脳の視覚機能)が損傷してる場合、視覚的なものは成立するんでしょうかね。
脳はもともとの担当部分が損傷した場合、他の領域が代理をすると言われますが。
>>866 だから、何を根拠にそんなこと言っているのよ。
生まれついて耳が聞こえない人に「ドレミ」のクオリアが、
生まれついて味覚のない人に「甘い辛い」のクオリアが
わかるわけないのと同じように、
生まれついて目が見えない人に「赤」のクオリアがわかるわけないじゃない。
深読み、って、何を深読みするのw
>>868 それは全然別の問題で、「目が使用不能になっても、物を見ることが
できる(色のクオリアを持つことができる)」ということでしょ。
それはそれで凄いことだが、別に不思議でも何でもない。
「クオリアは、最終的には脳の状態に規定される」という仮説の補強材料
にはなるかもしれないが。
目が見えないのと色を想像できないのって違うくね?
あれ?このスレ何のスレ?
872 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 15:52:14
盲人
>>869 > それは全然別の問題で、「目が使用不能になっても、物を見ることが
> できる(色のクオリアを持つことができる)」ということでしょ。
ぴか氏の
>盲人も普通の人と同じように色がわかるという。たとえば盲人は、赤は派手、明るい、
>ショック、危険などなど色をイメージとして認識している。
というのは、赤の意味が盲人に成立してるということですね。逆に、非盲人でなくても、
意味なくして"赤"が成立するのだろうか。
874 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 16:11:33
>>869 うまれながら、うまれながらの連呼がイデア論で
形而上学なんだよ!
っていっても理解できないのか
素朴な実在くんには
>>873 >赤の意味が盲人に成立してるということですね。
「赤の意味」というのがよくわからない。たとえば触覚その他から
「ポスト」という概念を理解し、「それを目で見たときに生じる
感じをそう呼ぶんですよ」とか言われれば、生まれながらの盲人にも
「赤の意味」はわかるかもしれんが、「赤のクオリア」なんか、
わかりようがない。
>盲人でなくても、 意味なくして"赤"が成立するのだろうか。
何言ってんだかわからん。生まれて初めて見る変な色だって、
「その色」のクオリアは成立するでしょ。「赤」なんて言葉は
知ろうが知るまいが関係ない。
>>874 「生まれながらwの盲人に赤のクオリアなんか理解できないだろ」
というのの、どこが「イデア論」で「形而上学」なんだ?
「理解できないのか」ったって、何をどう理解すればいいんだ。
理解できるような説明なんか、どこにもないだろ。
876 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 17:17:22
生まれながらに色をみれるわけではなく、 見る訓練、特に言語的な「これが赤です」などがないと見れないらしいよ
生まれたばかりの赤ちゃんが大人のように見えてると 勘違いしてるんだろう。
878 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 17:24:24
ふむふむ・・ たとえば、初めて食べる外国の料理、材料も調理法も目新しい。 食べてみたらメチャおいしかった。 このとき、クオリアは? もともとあったのか?それとも食したときに(初めて)生じたのか?
こういう話をどこかで読みました。子供が夜泣きする頻度が減るのは、言葉を 習得する前後であると。つまり、言語は生の現実をかなり減圧するというんですね。 言語習得以前だと夢で立ちあらわれるイメージに(ちょっと表現悪いですが)直に 対面してしまう。当然"赤い"とかいう見え方もないだろうと思います。
880 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 17:42:31
>>878 クオリアは意味であるというのは、デジタル化されている
ということなんだよ。
たとえば、実験であるのが、赤の波長を少しづつかえても、
人はそれを見分けられない。たとえば「ピンク」、「赤」、「濃い赤」のように
デジタルでしか感じられない、と言われている。
それが、色の達人は、訓練、あるいは「ショッキングレッド」など、細かく名付けられていて、
10に見分けられるみたいなこと。
味も同じで同じで、味音痴と、食通では、感じている味は違う、ってこと。
881 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 18:02:37
ここは決定論スレなんだが。クオリアの議論は他所でやってくれ。
>>881 人間はクオリアからは自由だということが分かりました。
883 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 18:30:05
自由と決定論は両立する。
変なコテにつられすぎw
>>876 >>879 そんなわけないだろ。牛だって赤くらい見分ける。どんなクオリアを感じている
のかは知りようがないが。それは本当は他人一般についても同じ。
狼に育てられた少女だって、赤のクオリアくらい持っているだろう。
でなけりゃ、「この色が赤で、この色が青」とか、言葉を教えられるわけがない。
というか、生まれつきの盲人(視覚のクオリア経験を持たない人)でも
赤のクオリアがわかるなら、人間にもイヌやコウモリのクオリアがわかって
よさそうなもんだが。
>>877 >>880 同じものを見たって、赤ん坊と子供と大人ではクオリアは違うだろうさ。
個人によっても違うだろう。専門家と素人で同じなわけがない。味覚だって
嗅覚だって触覚だって同じことだ。言語的経験の蓄積も文化の違いも
大いに影響するだろうな。そんなこと何の不思議もない。
それと「生まれながらの盲人でも赤のクオリアを持つ」ことと、
一体何の関係があるんだね?
886 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 19:37:02
>>885 そんなわけないだろって、科学を信じない宗教家か!
子供相談室じゃないんだから、ちびっ子がだだこねすぎ。
牛たちが同じ「赤」クオリアであっても、
人間こそが、クオリアに経験が含まれるんだよ。ばーか、しね!
887 :
203 :2006/01/11(水) 20:34:52
ぴかぁ〜もむじんくんも頭冷やしたら? 名無しさんが言ってることは極めて常識的なことじゃん。 あと意外と、と言っては失礼になるかもしれないが最高位の理解が適切なんで感心しました。 指摘のいちいちがなんというか、ごもっとも。 イタダケナイトコロモあるけれど、それも含めて勉強になります。
>>885 > そんなわけないだろ。
でも、結構そこは定説じゃないですかね。人間の経験は既に言語的分節化を経たものであると。
そこを回避するというか、溶かしてしまおうというのが禅の悟りとかでしょうね。赤を目の当たり
にしつつも"赤"を見ない。
で、脳が物質で意識は必然だという主張とクオリアに一体どういう関係があるんだ?
890 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/11(水) 21:13:18
クオリアは総てに共通しているのではないでしょうか。 受け取り方が個々において異なるものだと。
891 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 21:22:41
>>887 哲学板長いけど、「常識的」って聞いたの2回目だ。
かっちょいー!ボクは口が裂けても言えません。恥ずかしくて。
892 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 21:35:57
893 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 22:41:39
こんばんは! またまた、けったいな事を言う人が沢山いますねw けったいな考えを持つ事が哲学である とでも思っているのでしょうか そう思わせるフシがありますね あのね 言葉を知らない赤ちゃんでも ほっぺたをつねったり ビンタしたら泣きますよ 当たり前ですが、痛いんでしょうね 言葉を知らなくても、痛いというクオリアはあるようですよ? こんなのは、私は小さな子供の頃に実験ずみですw 言葉を覚えるまではクオリアがないなんて 今更、何をワケのわからないバカな事を言ってるんでしょうかねぇ・・・ 人間にとって、クオリアが無ければ 自分の思考以外、全て『無』ですよ クオリアを、完全に遮断した世界では、外部を認識するスベはありません 「他」を認識する際の手段は、全てクオリアだと言える そして人間は その認識したものを分析し、思考し、意味をつけるという行程を行います みなさん こんな簡単な事を なんで突拍子もなく勘違いするのが好きなんでしょうかね ちょっと理解に苦しみます
894 :
考える名無しさん :2006/01/11(水) 22:52:09
レスを見た限り、あいつが精神的に一番ガキだな。 そういうクオリア
895 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 23:08:04
>>893 ヒソヒソ・・・ はずかしいだろうから、小声で言うけど、
「言葉を覚えるまではクオリアがないなんて」 誰一人いってないぞ・・・
空気読んで・・・ヒソヒソ・・・
>>893 > 言葉を知らなくても、痛いというクオリアはあるようですよ?
すみません、「痛いというクオリア」という言葉はこのスレで新たに出てきた
クオリア観だと思います(笑)。「痛みのクオリア」はありましたけどね。
>>893 > 人間にとって、クオリアが無ければ
> 自分の思考以外、全て『無』ですよ
この文章は「自分の思考以外」を除けば正しい。つまり、人間はさかのぼれば"無"であった。
クオリアと思考は連動している。クオリアとは思考なのです。
以下、全て間違い(笑)。
> クオリアを、完全に遮断した世界では、外部を認識するスベはありません
> 「他」を認識する際の手段は、全てクオリアだと言える
> そして人間は
> その認識したものを分析し、思考し、意味をつけるという行程を行います
> みなさん
> こんな簡単な事を
> なんで突拍子もなく勘違いするのが好きなんでしょうかね
> ちょっと理解に苦しみます
898 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/11(水) 23:37:05
言葉とクオリア。 ある意味触れてはいけない領域です。
899 :
ディオニュソス :2006/01/11(水) 23:55:28
>>897 クオリア無しでは観測者の観測行為はありえない。
しかし観測者の観測行為がもたらす事象の記述によっては当のクオリア
そのものは決して導出されることはない。
こんなの分かりきったことだろww
900 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/11(水) 23:59:31
まだ、けったいな事を言う人がいますね >すみません、「痛いというクオリア」という言葉はこのスレで新たに出てきた >クオリア観だと思います(笑)。「痛みのクオリア」はありましたけどね。 「痛いというクオリア」と「痛みのクオリア」 これの違いを明確に述べよ >クオリアとは思考なのです。 いやいや クオリアとは 本人が主観的に感じる実感的な質感 だよ? 思考とは違うよ 何考えてんの?
901 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 00:01:16
次はぴか〜君だ
>>895 については
>>876 それからキミの
>>859 >クオリア(意味)=遺伝子による進化上の経験
>+言語による文明的経験+生まれてからの記憶された経験
こんなものを足していかなくても、クオリアはある という事
それからチョットだけ、さかのぼるけど
>>880 >クオリアは意味であるというのは、デジタル化されている
>ということなんだよ
デジタル化されたものならさ
キミが
>>850 で言っていた
>クオリアが明らかな意味論であるのは、たとえば「赤」のクオリアはいつも同じではない。
というのと矛盾するんじゃないかい?
デジタル化されてりゃ
同じものは、常に同じなはずだ
しかも「意味」というものは抽象的な価値観であって
デジタル化できるような性質のものではない
キミ達の言っている事は
全然、論理的につながっていないんだよ
あんたも暇だね おかしなのは、ほっときゃいいのに
903 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 00:09:38
>次はぴか〜君だ
え〜ボクっすか・・・はぁ〜、じゃあ、簡単に。
>デジタル化されたものならさ
>というのと矛盾するんじゃないかい?
しない。解釈項が変化するから。(参照
>>857 )
終わり。
ぴかはなんでそんなに孤独なの?
>>904 あんたも暇だね
おかしなのは、ほっときゃいいのに
906 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 00:19:15
907 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 00:21:25
>>902 うむ
かなり暇なんだよねw (゜。゜)ボー
>>903 >しない。解釈項が変化するから。
何が変化しようとも
クオリアというのは、最終結果としての「感じ」なんだよ
結果だけを取り出せば、1は1なんだよ
だから1のクオリアは1であって、同じだという事になる
1が、いったい
1以外の何であると言うのか
908 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 00:28:39
クオリア議論も潮時かな。いきなりレベル落ちた・・・
909 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/12(木) 00:30:52
>>243 >しかし何で機械君は 機械的唯物論者、決定論者であるにもかかわらず
>クオリアという言葉が好きなんだろうねそれが不思議で仕方ない
>まぁ一言で言って、理解できていないからなんだけど
>誤解しちゃう人が後を断たないから、変な解説は迷惑なんだよね
「クオリア」は茂木氏やSONYの「登録商標」ではありません。
脳内現象における「客観と主観」をよく説明できる「科学的概念」であると
考えたので、数年前に引用したまでです。
要するに「主観と客観をいじくり回して一生を終える」観念論者や宗教家
さん達の「目を覚まさせる為」に持ち出した概念であり、「脳内現象の説明
手段」・・というのが「キーワード」なのです。
(ベストセラーになろうが)茂木氏が紹介した「クオリア」をこの板に紹介
した手前、敢えて茂木解釈の「危うさ」を指摘しておりませんが、少なくとも
SONY井出氏の解釈が「噴飯モノ」であることに間違いはありません。
茂木氏が「SONYには逆らうことが出来ない立場」にあることも考慮して
あげるべきです。
>>907 > 結果だけを取り出せば、1は1なんだよ
> だから1のクオリアは1であって、同じだという事になる
この比喩はいくない
1 が全て同一である保証はない
> 本人が主観的に感じる実感的な質感
と自分でいってるんだし
もったいない
>>900 > 「痛いというクオリア」と「痛みのクオリア」
実際に殴られたりした場合の"生の体験"(これは形容矛盾ですが)は表現のしようがない。赤ん坊が
つねられたのも同じ。しかし"痛み"となればそれはある分節化された"体験"となる。更に他者のとの
共有も可能だろう。
> 本人が主観的に感じる実感的な質感
「本人が主観的に感じる」時点で構造化された世界にいるのだ。
クオリアについては性行為いや最高位の理解が一番まともだな ぴかやむじんは「意識は言語による構築物」というドグマにとらわれてるから それ以外の考え方に神経質的な拒否反応を示してる(つまりは頭が固い=バカの壁w)
ついでに言えば機械は、単におつむが足りないので クオリアの意味を理解してないw
914 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/12(木) 00:44:56
>>911 「痛み」は触覚の表現であり、視覚や聴覚に比べると「表現語彙が
非常に少ない」事に気づきます。
同じ「痛み」でも様々なバリエーションがあるのに「痛覚は再現
できない」からです。
ちなみに「視覚・聴覚を(他者の脳に)再現しようとする試み」が、
「映画」であり「絵画」であり「音楽」であり「演劇」であり「文学」
なのです。
「触覚」に関する「再現性を持った媒体」を人類は未だに獲得して
いない・・・のです。味覚や嗅覚を主体とする「料理という媒体」に
おいて、僅かながら「食感とか歯ごたえ」として、「触覚のクオリア」
を「再現・伝達しようとする試み」が見られる程度です。
同じように「ワインのソムリエ」が一生懸命「再現・伝達」しようと
するワインの「味覚と嗅覚のクオリア」も、視覚・聴覚の「それ」に
比べると「遙かに貧弱である」ことは(明確に)指摘できます。
915 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/12(木) 00:45:06
>>912 さん
しかし言語は重要なファクターだと思いますよ。
>>915 何にとって「重要」?
クオリアそのものは言語とは独立した存在だよ。
それを説明するときに言語を用いざるを得ないというだけ。
917 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 00:48:06
>>908 あ、逃げたw
少しは人の言葉に耳を傾けた方がいいと思うよ?
>>909 >脳内現象における「客観と主観」をよく説明できる「科学的概念」であると
>考えたので、
その時点で間違えている
クオリアは、科学的には解明できるとっかかりすらない事柄であって
それは大きな間違いだよ
んで、これだけ子供にもわかるように説明しても
いまだにそれが理解できないというのも不思議なんだけどね
そもそもキミは、特に主観という事柄に対して
突っ込んで考えた事はないんだろうね
頭が固くて、どうしようもない おじいさんと話しているみたいだもんな
918 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2006/01/12(木) 00:52:20
>>916 さん
私はクオリアは脳と意識を繋ぐ架け橋だと思っています。
つまり「意識=クオリア」という考えではありません。
その架け橋を担うは言葉だと思います。
919 :
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I :2006/01/12(木) 00:53:23
>>917 >そもそもキミは、特に主観という事柄に対して
>突っ込んで考えた事はないんだろうね
そう、観念論者のように「穴に頭を突っ込んで『暗くて見えない』と
叫ぶような『愚』」とは「無縁である」ということです。
・・本日は就寝させて戴きます。
920 :
ディオニュソス :2006/01/12(木) 00:54:22
機械氏は少し頭を冷やしたほうがいいな。 案外何も考えずにボーッとしている時にふと気づくかもしれんから。 「・・・はっ!!なーんだこんなことだったのか拍子抜けww」 みたいな。
ここには何種類のクオリア理解があるんだろうか。だれか整理汁!
>>918 意識っていってもいろんなレベルの意識があるからね。
お医者さんが言う「意識がある・ない」のレベルの意識は、
言語がなくても存在しうるでしょう。
もっと高度なレベルの意識になれば、言語による構造化は不可欠でしょうが。
923 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:01:27
つうか仕事してないだろ、ここで必死のヤツ
924 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:02:03
自演くさいヤツも居るしな
>>921 哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
「機械的唯物論」者 ◆Wrk8395W0I
のクオリアへの理解と思ふ
926 :
ディオニュソス :2006/01/12(木) 01:11:16
>>919 >>「穴に頭を突っ込んで『暗くて見えない』と 叫ぶような『愚』」とは
「無縁である」
そうそれ。むしろ機械氏の今の状況そのもの。というか見えてることに
気づいてない・・。
927 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 01:12:32
>>910 あれは単に
彼が、クオリアはデジタルだ
と言った事に対して
デジタルなのなら、こうだよ?
と説明して突っ込んだにすぎません
>>911 >実際に殴られたりした場合の"生の体験"(これは形容矛盾ですが)は表現のしようがない。赤ん坊が
>つねられたのも同じ。しかし"痛み"となればそれはある分節化された"体験"となる。更に他者のとの
>共有も可能だろう。
表現のしようが あろうがなかろうが関係ありませんよ
実際、人間は「痛い」という感じを感じるのですからね
また、「痛み」という表現を使おうが使うまいが
他人とクオリアを共有する事など、絶対に不可能です
他人にクオリアがある という事を証明する事すら不可能なのですからね
更に言えば、目の前に他人が存在している事すら絶対に真だとは言えないわけです
ただ言える事は
我思う 故に我あり
これだけであって
私のクオリアについてしか観測できません
やっぱトンデモじゃなく
基本ぐらいは押さえて話しましょうよ
928 :
ディオニュソス :2006/01/12(木) 01:19:27
>>最高位氏 おいらの立てたスレは絶対にトンデモだと思ってるだろ?ん? あれは・・・まあトンデモだ気にすんな。ププッ。
929 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:22:27
930 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 01:22:49
>>928 おいらの立てたスレって何?
失礼ですが、全く記憶にないです
931 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:28:45
2ちゃんねるって暇人でニートが議論の最後に「なんくせ」付けれるな。 だって暇だから、いつだって最後にレスできる。
932 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:28:48
>>930 神の存在を証明するために死ねるか?・・とかのスレタイで
俺は何時でも神におために死ねるとか・・・・だったとかでなかったか?
933 :
ディオニュソス :2006/01/12(木) 01:32:01
>>932 なんじゃそりゃ?違うわ全然。
聞いたこともないぞそんなのは。
934 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 01:33:08
935 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 01:50:57
937 :
ディオニュソス :2006/01/12(木) 02:11:32
>>935 そうだ、アレだアレ。
まあ気にすんな。
>>937 このスレはオマイの落書き帳なのか?
イイカゲンにシル!!
939 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 02:19:29
クリオネの話が聞きたいな
>>938 自分が立てたスレを宣伝したい自己顕示欲の強い奴なんだろ
そんな奴にイチイチカリカリすんな
クリトリスの話はどこ行った?
943 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 07:53:52
944 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 07:55:05
945 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 07:55:48
946 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/01/12(木) 07:56:42
おk!w
947 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 08:17:31
948 :
考える名無しさん :2006/01/12(木) 10:22:24
久々にきた. なんの話しだ?.
そうだそうだ!決定論とクリオネがどうして関係あるんだよ!
>>927 > 他人にクオリアがある という事を証明する事すら不可能なのですからね
> 更に言えば、目の前に他人が存在している事すら絶対に真だとは言えないわけです
> ただ言える事は
> 我思う 故に我あり
ちょっと整理も兼ねて書いて見ましょうか。ご存知のことが殆どかと思いますが。
デカルトはお書きになっている名文句の後に、神を持ってきて、自己の認識の確実性が保障されていると
宣言しましたね。これはすこぶる評判が悪いわけですが、実はこの点がデカルトの一番重要な
指摘であるというのが私の解釈です。
「我思う」の"我"は身体的実感を伴う私という主観ではありません。これは特定の人称代名詞に
還元できない。「クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言った」は嘘つきと"言っている主体"と
"言われている対象"、2つのクレタ人があるという話ですね。そして、言表行為の主体(嘘つきと
語る主体)は人称代名詞に還元できない何者かです。そして、言われている対象、言表内容の
主体は人称代名詞に還元できる"私"です。
つまり、主観とか客観というのは、言表主体によって語られた構造から派生した効果に過ぎない。
人間は生まれたとき主観も客観もありません。しかし、取り囲まれている言表主体に従属する
ことにより、"私"を発生させる。
デカルトのコギトというのは言表主体のことです。まず彼はその部分を切り出したわけです。自己を
2重化させたといってもよい。その後で、神を持ってきて言表主体の語りを確実だと宣言する。何が
重要かというと、神というのは当然どこにも存在しません。この世に"無い"ものです。そこに言表主体
の信頼性を設定するというのは、言表行為の主体と言表内容と主体との混同を禁止するためなのです。
混同するとどうなるか。言表主体はこの世の何者かによって既定されているということになる。一言で
言えば、慣習に従うということです。デカルトはこれを禁止した。これは近代版の偶像崇拝の禁止なのです。