1 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
「まなざしの快楽」とは、主体の快楽である。みなに見られているだろう、コンテクストを共有している
だろうことが、「このような主体たれ」と主体を立ち上がらせる。ボクたちは言語の獲得によって、社会に
参入し、主体となる。
それに対して、「あぼーんする快楽」は、主体性を溶解させる快楽であり、主体を主体たらしめる拘束
としての コンテクストを溶解する快楽である。 このようなコンテクストの解体は、多くにおいて身体を
通して行われる。たとえばジェットコースターでは、まずその恐怖という身体への影響によって、
身体が主体を維持できないことによって、「女性はおしとやかに」というようなコンテクストは解体
される。
さらにはあぼーんすることは、「無」化、客体化、群れ化を生む。たとえば家でくつろぐときには、
なれた環境の中で環境の一部として客体化している。あるいはマックなどではオートメーション的に
客体化として扱われることを望む。あるいは様々な道具を使うときには、「無」化し、道具の一部となる。
あるいは集団の中では、社会的であるというよりも群れのパートとなるのだ。そこに生物的に環境と、
群れと共鳴する快楽が生まれる。むしろボクたちはほとんどにおいて主体的ではないのだ。
前スレ
PART11
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1132505941/l50
2げろ
3 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 00:20:05
◎まなざしの快楽とあぼーんする快楽◎
■コンテクストという社会性
まなざしとはコンテクストです。ボクたちはコンテクストに拘束され、行為します。なぜならコンテクストが
共有されないとコミュニケーションできないからです。場(コンテクスト)違いな行為は他者から、外部と
して排除されます。誰でも経験があると思いますが、場から排除されたときの苦痛はものすごい負荷となります。
特にそれが慣れ親しんだ場であったら、なおさらです。もはや行き場がありません。さらにコ
ンテクストは生き物のようにたえず新陳代謝していますので、乗り遅れないようにすることが必要です。
たとえば2ちゃんねるでは、「コンテクストを共有できない」というコンテクスを共有して、コミュニケーショ
ンしています。だから2ちゃんねるで社会的に認められない誹謗中傷が許容されます。「あー2ちゃんね
るならしかたないよ」ということです。それほどまでしてもコンテクストは生成されます。
人はそもそもにおいてコミュニケーションせずにはおれません。いわば人は止まることができないので
す。刺激としての「無垢」を求めて、コミュニケーションを行われます。このような数々のコミュニケーショ
ンがコンテクストを新陳代謝させています。
4 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 00:20:35
■コンテクストの深層構造
人はコンテクストから解放されるときがあるのでしょうか。人は意識しているときのみ、コンテクストに拘
束されているわけではなく、無意識の状態でも、コンテクストの拘束されています。たとえばボーとして
るときの、一人のときも、コンテクストから解放されていません。かといって、密室では人は非公共的に
なります。ここにはコンテクストに深層構造があるということです。コンテクストからの解放は日常的には
泥酔したときが一番近いかもしれませんが、完全にコンテクストから逃れると人は、自分が何ものであ
るかもわからない精神病になってしまいます。
■身体という下部構造
このような人を拘束するものとしては、先天的な遺伝子があります。これは「身体」によって具現化しま
す。たとえばボクたちが魚のように水の中で息ができないのも、鳥のように飛へないのも、遺伝子として
限定されています。さらにはなにをどのように感じ、どのように反応するかなどの身体的な限界としての
拘束を受けています。
このような身体という先天性はコンテクストの下部構造として働きます。コンテクストが新陳代謝すると
いう下部構造である、人はコミュニケーションせずにはおれない、ということも身体性からの拘束です。
だから身体が耐えられないような状況ではコンテクストも糞もありません。たとえば飢えたような身体的
な極限ではコンテクストの拘束は働しにくいでしょう。しかしまた逆に身体に負荷がなさすぎる状況、飽
食のような状態も、コンテクストは働きにくいといえます。このような身体性の先行によって、コンテクス
トが消失することをあぼーんすると言います。
5 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 00:21:04
■社会性の過剰としての主体性
昆虫などの低級生物の群れではコンテクストによってではなく、先天的な身体性そのものによって秩序
を保ちます。群れの各役割で身体構造さえ違います。このような昆虫では群れという集団の方が高い
秩序性を持ちます。ここでは個体とは一匹の昆虫というよりも、群れ全体といえます。
高等な動物は社会性というコンテクストを持っています。群れの秩序は先天的な集団性とともに社会性
によって保たれます。その中でもより高等な人間群の秩序は社会性によって保たれます。これが人間
にとってコンテクストが重要な理由です。しかし昆虫の集団と人間の集団を比較すればわかるように、
その秩序性には大きな差があります。コンテクストという社会性は不完全な集団性なのです。不完全で
ある故に、過剰に繋がりを求める。その過剰性が「この私」という主体性として現れているといえます。
「我思う故に我在り」とは社会へ向けての叫びです。
■集団性という力への意志
なぜ人はコンテクストによって「群れる」のでしょうか。場から排除されたときの苦痛はものすごい負荷と
なります。また完全にコンテクストから逃れると人は、自分が何ものであるかもわからない、主体性が
消失します。ここには群れることの根元性があります。ここには低級な生物に見られる集団性が下部構
造として働いているということです。
まなざしの快楽は主体性の獲得によってこの私という主体を勝ち取る快楽であるとともに、コンテクスト
を共有し繋がる快楽です。コンテクストという社会性は不完全な集団性である故に、過剰性が現れま
す。そしてあぼーんする快楽はこのようなコンテクストが溶解し、主体性というコンテクストの拘束が解
体する快楽であるとともに、失われた集団性へ回帰する快楽である。
245 :考える名無しさん :2005/12/13(火) 10:50:47 HOST:189.9.244.43.ap.livedoor.jp
>>146,142,137,135,157,167,172,179,182,197,199,208,209,212,220,225,227,231,234,239等、
数年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
削除対象アドレス
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134404648/ 削除理由・詳細・その他:GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
・固定ハンドル叩き・固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法
・固定ハンドルが題名に入っている
8 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 00:22:02
あぼーん!していこう!
10 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 00:22:50
なぜかね?
ぴかぁ〜、また立てたのかよ!
いいかげん知ったかやめな!
チンポ太郎「礼には及びませんよ。しかし、降り込みを忘れずに。あ、あと最後にですね」
純一の母「ええ、なんでしょう?」
チンポ太郎「純一が帰りましたら」
純一の母「はい」
チンポ太郎「荒らすな、ボケ、とお伝え下さい」
純一の母「アラスナボケ、ですか?」
チンポ太郎「そうです。では、ごきげんよう」
ガチャ。
16 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 06:59:55
ちょっとぴかあ、面倒だとは思うけどもSMにおける快楽を
まなざしとあぼーんを使って解説してみてくれよ
17 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 07:04:55
あと純一は生活でのストレスを哲板に向けるのはやめとこうや
あれやったらビップいってこい、びっぷ
18 :
純一の母 :2005/12/16(金) 08:19:37
息子も2chで友だちぴかぁ〜と親しくなって、
スレをアボーンする快楽にひたっています。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等加速度運動し、快感であるにも関わらず、
自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。
すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの減少)に対抗する力であり、環境と相反し安定を
目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰がタナトスである。
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
高一の物理もできずに「科学」「遺伝子工学」「量子力学」「生命の進化」…
20 :
:2005/12/16(金) 09:38:08
で?
21 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 09:59:57
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw は増田達哉レヴェルのかす
22 :
:2005/12/16(金) 10:13:01
本人も哲学ではないと主張するぴかぁ〜。
23 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 11:19:06
増田ってだれ?
ますだおかだ
25 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 15:55:01
SM!快楽を唄ういい題材やないの
羞恥心が快楽に痛みすら自分が唯一の自分である確認になる瞬間
その時、何がまなざされ、何があぼーんされているのか説いてみてくれや
26 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 16:20:50
主体性のワナ
27 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 16:28:51
解放による閉鎖
28 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 16:36:04
まあ処女を求める短絡的なこいつにゃ関係ない話やし無理か
29 :
:2005/12/16(金) 16:57:12
2chのワナにはまり現実界の主体性を喪失したぴかぁ〜。
ねるねるねるねはねればねるほどおいしいよ。
31 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:13:05
確かにセックスからはじめるのはいいかもしれませんね。
ならなんといってもラカンの「性関係は存在しない」からはじまるでしょ
すなわちエロとはコンテクストであるということです。
エロは道徳的なエロを禁止するコンテクストを破るタブーの快楽です。
たとえば美人に欲情するのは美しいからではありません。
彼女に同期するからです。美しいのに僕と同じ「汚れ」を持っているだろうから欲情するのです。
SMの精神性はこのタブーというコンテクストの極みです。
SM愛好者に社会的な地位の高い人が多いと言われますが、
「うわあ〜この俺様がこんなことされてるよ〜みんなみて〜」ということですね。
32 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:21:14
エロはまなざしの快楽の強烈さを示しています。
最近のエロの反乱は、多少のエロな社会性で許容してしまっています。
たがより禁止の方へ、本来性から離れた存在であるロリへむかいます。
いまの社会は多少のエロは許容しますがロリには不寛容です。
だからこそロリコンは増えるのです。
33 :
:2005/12/16(金) 18:26:53
ロリコンへのファルスの反乱を禁止できないエロおやじ、ぴかぁ〜。
34 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:28:14
はてさてこの「性関係は存在しない」の強力さをのりこえられるのか
それがあぼーんする快楽という試みなのです。
35 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:45:30
制服になぜ欲情するかもわかるでしょう。制服そのものが社会性のコンテクストだからです。
まなざしの快楽の強烈さは、本来僕らは本能で女性に欲情することを転倒するのです。
36 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 19:02:18
だからSMは主体性の快楽です。主体的であるほど快楽を生むのです。
あぼーんする快楽はこのようなまなざしの幻想にだまされず、コンテクストを溶解し、コンテクストに依存しません。
そこにはSMも、ロリもないのです。たとえばフェラの気持ち良さはどうでしょうか。
フェラは性感体という身体を直接刺激する快楽でありまなざしの幻想にかんけいしません。
しかし誰がフェラしてくれているか?うえとあやかか?、おすぎか?というコンテクストで快楽はまったくことなるのです。
かわります。
哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ 哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ
哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ 哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ
哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ 哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ
哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ 哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ
哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ 哲学風ホモ日記が気持ち悪いだけだろ
貧素な生活で快楽もないだろ 貧素な生活で快楽もないだろ
貧素な生活で快楽もないだろ 貧素な生活で快楽もないだろ
貧素な生活で快楽もないだろ 貧素な生活で快楽もないだろ
貧素な生活で快楽もないだろ 貧素な生活で快楽もないだろ
貧素な生活で快楽もないだろ 貧素な生活で快楽もないだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ 哲学風雑文とやおいフィクションの相性がいいだけだろ
40 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 19:34:20
>ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
ペンパック聴いてねーだろ
41 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 20:05:09
ペンパック?
42 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 20:12:03
しかしおすぎに無理矢理フェラされ不快なはずなのに
体が気持ちよさが感じてしまう、
あるいはSMによってもうどうでもよいという絶頂のとき、
そのわずかな瞬間あぼーんしているといえるかもしれません。
エロティシズムがコンテクストのギャップをもとにしているとして、
その快楽自体は身体によって行われる。
そして身体が快感に溺れるとき、もはやコンテクストは溶解する。
ならば、エロティシズムはいわば、コンテクストを振り払い、
身体的な快感へおぼれるというあぼーんするためにある、
ということも言えます。
「「この私」がこんなことされてる」というドライブが、
もはや誰でも良い私、ただ快感に溺れる「器官なき身体」へ向かう。
43 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 20:16:35
このように考えると、人はなぜエロティシズムへ向かうのか、
と再度考える必要があるだろう。
「ベン」という、ミネソタに棲んでいるもーほーがパックをしている時の音。?
45 :
考える名無しさん:2005/12/16(金) 21:06:48
考えが反復してエロに向かう器官なき変態オヤジぴかぁ〜。
や、
>ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
ペンパック聴いてねーだろ
42 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 20:12:03
しかしおすぎに無理矢理フェラされ不快なはずなのに
体が気持ちよさが感じてしまう、
あるいはSMによってもうどうでもよいという絶頂のとき、
そのわずかな瞬間あぼーんしているといえるかもしれません。
>42 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 20:12:03
>しかしおすぎに無理矢理フェラされ不快なはずなのに
>体が気持ちよさが感じてしまう、
想像して笑ってしまいました
32 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:21:14
エロはまなざしの快楽の強烈さを示しています。
最近のエロの反乱は、多少のエロな社会性で許容してしまっています。
たがより禁止の方へ、本来性から離れた存在であるロリへむかいます。
いまの社会は多少のエロは許容しますがロリには不寛容です。
だからこそロリコンは増えるのです。
>32 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:21:14
>いまの社会は多少のエロは許容しますがロリには不寛容です。
>だからこそロリコンは増えるのです。
ロリコンはいらないね
>35 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 18:45:30
>制服になぜ欲情するかもわかるでしょう。制服そのものが社会性のコンテクストだからです。
>まなざしの快楽の強烈さは、本来僕らは本能で女性に欲情することを転倒するのです。
から、
ぴかぁ〜が、
@制服萌えである
Aロリコンである
=女子高生好きなオヤジである
との結論が出ます
ブルセラ好きのぴかぁ〜の性癖を
ラカンで証拠立てることもあるまい、
56 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 23:19:44
まなざしのエロティシズム、あぼーんするエロティシズム
エロは道徳的なエロを禁止するコンテクストを破るタブーの快楽です。たとえば美人に欲情するのは
美しいからではありません。彼女に同期するからです。美しいのに僕と同じ「汚れ」を持っているだろう
から欲情するのです。「うえとあや」というコンテクストがどれだけ可憐でも、彼女が同期するとき、
同じように臭く、同じように排便し、同じようにエロくというギャップに欲情するのです。「うわあ〜あの
可憐なうえとあやもこんなことしてる〜みんなみて〜」
最近のエロの氾濫は、多少のエロな社会性で許容してしまっています。だからより禁止の方である
ロリへむかいます。制服になぜ欲情するかもわかるでしょう。制服そのものが社会性のコンテクスト
だからです。SMの精神性はこのタブーの一つの極みです。SM愛好者に社会的な地位の高い人が多い
と言われますが、「うわあ〜この社会的な俺様がこんなことされてるよ〜みんなみて〜」ということですね。
だからSMは主体性の快楽です。主体的であるほど快楽を生むのです。まなざしの快楽の強烈さは、
本来僕らは本能で女性に欲情することを転倒するのです。
57 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/16(金) 23:20:13
はてさてこの「まなざしの快楽」の強力さをのりこえられるのか。それが「あぼーんする快楽」という試み
なのです。「あぼーんする快楽」はこのようなまなざしの幻想にだまされず、コンテクストを溶解し、コンテクストに依存しない快楽です。だから、そこにはロリもSMもないのです。
ボクは「あぼーんする快楽」は「身体」と関係すると言いました。この強烈なまなざしを溶解するのは、
身体の直接的な反応しかありません。たとえばフェラの気持ち良さはどうでしょうか。フェラは性感体と
いう身体を直接刺激する快楽です。だからまなざしの幻想に関係なく、身体が快楽を感じるのです。
しかし誰がフェラしてくれているか?うえとあやかか?おすぎか?というコンテクストで快楽はまったく
異なるのではないでしょうか。まなざしの力は、快感であるはずのフェラを不快であると感じさせることも
できるのです。
しかしおすぎに無理矢理フェラされ不快なはずなのに、体が気持ち良さが感じてしまう、あるいはSMに
よってもうどうでもよいという絶頂のとき、そのわずかな瞬間、まなざしは吹っ飛んであぼーんしていると
いえるかもしれません。いやセックスにおいてそこまでの快楽は得られないかもしれません。やはり
「(まなざしの働かない)性関係は存在しない」のです。
人は様々な理由でセックスを行います。その一つに、タブーを犯し、より強烈なまなざしを得たいという
思いがあるとともに、コンテクストを溶解し、快楽に溺れ、あぼーんしたいという思いがあるのではない
でしょうか。
まずは脱童貞してからしゃべれや
あぼーんwwwwww
60 :
考える名無しさん:2005/12/17(土) 01:21:37
ぴかあええやないの!
サンキュウ、一部使わさせて貰うわ
61 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 02:22:03
あぼーんする快楽は、本来認識することはできません。だからカントの物そのもの、あるいは
ラカンの現実界の位置にあります。それをとらえようとすると、そのときにはまなざしが作動し、
あぼーんではないのです。
最近はあぼーんは科学によって記述されるようになっています。本来、僕たちが認識しえなかった
僕たちの事実を解明しています。快楽とはどのような仕組みで起こっているのかなどです。
あぼーんすることは、ある意味では科学的な知識を勉強することなのでしょう。
「生物学的に(女性の)オーガズムの状態を説明すると:オーガズム状態の女性の脳をPET
(陽電子放射断層撮影装置)という最新映像装置で観察すると、 快楽中枢以外のすべての脳機能が
ストップした状態になっているという。一方で快楽物質であるドーパミンやエンドルフィンが脳内に
大量に放出され、オーガズムの最中は、一時的に幸せいっぱいになっていることが科学的に
明らかになっている。 」
しかし科学にはさまざまな問題があります。まなざしの快楽のような「心」を記述するところまで来ていない、ということです。それはあぼーんするという身体へと徹底的に還元してしまいます。
たとえば最近の「ゲーム脳」があります。この真実はわかりませんが、「ゲーム脳」という言葉が
一人歩きし、若者の流行りのファッションなど、タブーへ近接する「まなざしの快楽」そのものが
「ゲーム脳」の還元されています。これはまさに「ゲーム脳」という危険な言葉そのものが、まなざしの
快楽を作動させ、人々の興味を強くかき立てているのです。
62 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 03:26:24
結局、ラカン最強という事になる・・・わけだ・・・
地震だ
64 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 04:18:25
あぼーんする快楽の一つへ繋がる考えており、
他者同期性を考えたいと思う。
僕たちは限りなく、他者を必要としているということだ。
なぜなら、他者との限りなく私だからである。
人は人形ともコミュニケーションできる。
これはコミュニケーションがまなざしによって行われるからである。
コミュニケーションがまなざしに支えられている、すなわち
コンテクストを共有しているという幻想、意味が伝達しえているという幻想
によって支えられているならば、それが本当の人である必要はないのだ。
ペットでも、人形にでも、存在していない空想でも、
コミュニケーションすることが可能なのである。
それでも、やはり他者は特別なのではないだろうか、ということだ。
なぜなら限りなく私だからだ。
人間同士のコミュニケーション、さらにはより自分に近い人間、
たとえば年代、性別、趣味が近い人間とのコミュニケーションは、
楽しいのです。
なぜならより均質なコンテクストを共有でき、意味の伝達が
行われやすいからだ。
65 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 04:24:10
ボクは、コンテクストをより複雑することを差異化運動と言った。
たとえば、哲学好き、構造学、ラカン・・・というように
より細部で興味を同じくする人とのコミュニケーションが楽しいのだ。
そして人間/動物の差異として、他者同期性を考える。
このよう差異化運動の前提として、限りなく私でコミュニケーションが
可能であるような、「身体」的な僅差として他者が特別なのだ。
66 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 04:30:31
動物は高い他者同期性をもっている。それは先天的な
引き合う力である。
このような考えでは、オタクが二次元に萌えるのは、
他者同期性を無視している、ということになる。
他者同期性論でいえば、それでもオタクは人間の女性を欲望するのである。
67 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 04:33:06
まなざしの快楽として、二次元を欲望しても、
たとえばその二次元でさえ、人間であるように、
それは姿形でなく、限りなく人間的であるのは、
その根底には他者同期性があるからではないだろうか。
68 :
考える名無しさん:2005/12/17(土) 05:23:41
他者同期性により二次元の女性にファルスを希求するオタクぴかぁ〜。
第2次ベビーブーマーが子供を産まないので少子化
そう、今2ちゃんねるをやってる世代のことです
m9( ゚,_J゚)お前のことだ
70 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 14:33:04
他者同期性とは先天的生物が持ち得ている能力です。
71 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 16:44:21
他者がそこにいることによって、「間」が口を開ける。
言語コミュニケーションが行われる以前に、すでにそこに「間」が開き、
不安が生まれ、「意味」の宙づりが起こっている。
すなわち存在の認識はすでに、コミュニケーションである。
72 :
考える名無しさん:2005/12/17(土) 16:50:42
不安にさいなまれ、他者とのコミュニケーションに支障をきたすぴかぁ〜。
73 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 16:54:41
この「間」とは相手の気持ち(意味)がわからない事から来る
不安である。
しかしそこには、すでに「コミュニケーション可能性」が前提に
されている。もし他者がコミュニケーション不可能な存在ならば、
「間」は存在しないだろう。
74 :
考える名無しさん:2005/12/17(土) 17:01:54
「郵便的な不安」を客体化できないぴかぁ〜。
75 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 17:13:09
すなわちまなざしとあぼーんの問題とは、俗に言う心脳問題と
言われるものです。
76 :
考える名無しさん:2005/12/17(土) 17:17:59
で?
77 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 17:49:51
「で?」?
78 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 20:05:40
たとえばマックやファミレスやコンビニをささえているのはバイトである。
それは労働力というだけでなく、部外者というバイトの特性である。
彼らの場への執着のなさ、離脱容易な身軽さが、現代に求められる他者回避の場をつくっている。
正社員、経営家族などその店を定住する人々はそこに場をつくりだしてしまい、
それはかならず外部という疎外をつくりだす。
79 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/17(土) 23:54:51
ハイデガー、ラカン、デリダなどなど、言語化は「死」へ例えられた。
生の「生き生きしたもの」を名付けることによって殺害する。
名付けるとは、複雑性の縮減である。縮減することによって、
秩序を形成する。たとえば言語は構造化されるているのです。
それを単に静的なものと考えると、「死」と考えてしまう。
ニーチェ「力への意志」、ベルクソンの「持続」、ドゥルーズの「器官なき身体」
ラカンの「現実界」、フロイトの「欲動」、デリダの「散種」などなど
哲学者は「死」に対する言語に還元できない「生」を考えてきた。
すなわちそこには「生」/「死」の対立がある。
80 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:06:37
しかし創発性では「生」の根元性として「複雑性の縮減」を示している。
「生」とは動的な構造化である。そのような力は「死」という
環境の複雑性を縮減することによって生まれる。
このように考えると、「言葉」は静的なものではない。絶えず変化する体系である。
創発的な「生」そのものである。
観念が生まれるのは精神の内ではない。
観念はその正誤に関わらずすでに精神の外にあり、
人はそれを受け取るに過ぎないのだ。
既存の観念を精神の内でどんなに複雑に精密に交錯させようとも、
それらが欠陥品ではないことを確かめる方法は無い。
観念をそのままの姿で認識することこそ人の限界であるからだ。
82 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:17:31
言語を語る哲学家と創発性の違いは、「人間」というもののとらえ方によるだろう。
哲学家たちは、言葉そのものが「生」的なものであっても、
それは「人間」にとっては「疎外」である。
「人間」とはその根元に言葉に還元されない「意志」が求められるという
人間主義を根元にしているのです。
彼らにとって、重要なのは「人間」というものなにものに縮減されない
自由意志という力の在処である。
>ニーチェ「力への意志」、ベルクソンの「持続」、ドゥルーズの「器官なき身体」
>ラカンの「現実界」、フロイトの「欲動」、デリダの「散種」などなど
これらを一まとめにするのは無理があるし、哲学の本質を人間主義と言い切るのも
無理がある。ぴかぁ〜はまずアンチ哲学ありきでものを考えてるようだな。
なんか哲学に恨みでもあるのか?
84 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:22:26
哲学は脱構築を叫ぼうとも、その根底には「人間」というもの
尊厳を探求するという構造を持っている。
人間/動物によって、あるいは生/言語によって、脱構築という
正義によって、「尊厳の元」が探求されるのだ。
85 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:31:17
たとえばホフマイヤー「生命記号論」で示されるのは、
「生命はその全てが記号操作、記号操作に理客する」ということである。
生命の種の単位である細胞自身が、記号操作という外部情報の複雑性を
縮減するということである。
複雑性の縮減とは簡単には(アナログ情報の)デジタル化である。
そのようなデジタル化によって秩序は構築され、動性はうまれるのである。
混沌そのものには生は生まれない。これが今までの多くの哲学者には
見えなかった点である。
このようなデジタル化の根元性において、生命から言語、社会の「生」に
連続性が生まれるのである。
ぴかぁ〜、誰とも会話しなくなっちゃったな。
それにしても理客って・・・ちゃんと確認してから書き込めよ。
87 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:39:08
簡単にいえば、ニーチェ「力への意志」、ベルクソンの「持続」、ドゥルーズの「器官なき身体」
ラカンの「現実界」、フロイトの「欲動」、デリダの「散種」などなどは、
言語の外には存在しない。
「生」とは言語を抜きには現れない、ということである。
むしろ「言語」こそが人間の「生」なのである。
88 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:45:40
たとえば心脳問題へつなげると、
心という「この私」と脳という物理主義的唯物論を
いかに繋がるのか。
物理主義的唯物論は還元論であり、「この私」は還元できない、
ということになる。
「この私」においては、言語という還元が重要である。
そしてそこには、階層的に物理主義的唯物論的還元が繋がるだろう。
これはあまりに現段階で還元しすぎであるが、そこには創発性という
生の構造によって繋がるだろう。
>ニーチェ「力への意志」、ラカンの「現実界」
こちらは有機体論、ラングとしての言語、観念論
>ドゥルーズの「器官なき身体」フロイトの「欲動」、デリダの「散種」
こちらは機械論、エクリチュールとしての言語、唯物論
ではないかね?
90 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:48:48
>>86 会話しますよ。
それよりレスしてもらうにはそれなりの内容を考えなさい。
92 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 00:56:40
それなりの内容についていいましょう。
まったくもって多いのが、文脈と無視して、
テクカルタームをみるを反射的にアディクションにレスする人です。
この手の人は、なまじ自分は知識があると自信をもっていますので、
自分の行為のトンチンカンさを認識できず、放置されると
逆切れします。荒らしが荒らしとわかっているのに比べると、厄介です。
93 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:00:17
あえていえば、
>>89などは典型ですね。
まさにアディクションだけです。文脈的にトンチンカンです。
まあ、文脈を呼んでいない、興味がないのでしょうが。
アディクション自身は2ちゃんねるそのものの特性ですので、
非難はしませんが、無視されることに逆切れはやめなさい。
あくまでレスする選択権は、レスする方にあるのです。
テクニカルタームには固有の文脈がもれなく付いてきます。
ですからそのターム固有の文脈に沿って赤の他人同士でも会話が成立するのです。
ターム固有の文脈を無視してぴかぁ〜文脈で話がしたかったら、
テクニカルタームを使わなければいい。
95 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:11:14
>>94 これはなかなか良い発言です。典型的なテクニカルターム房の
精神性を表していますし、哲学板の文脈です。
だからボクは何度も言うのです。これは「哲学」ではない。
「哲学」というものとはなにも関係がない。
これは「科学」であると。
これの意味するところは、
>テクニカルタームには固有の文脈がもれなく付いてきます。
>ですからそのターム固有の文脈に沿って赤の他人同士でも会話が成立するのです。
という文脈=内部の外にいるのです。その文脈が読めないからトンチンカンで
放置させていただくのです。チンコ太郎しかり。
「ボクの文脈を読め!」=「ボクの全存在を受け入れて、お母さん!」
「レスする選択権は、レスする方にある」=「ボクが主役だよ、お母さん!」
97 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:14:03
あえて言わしてもらえば、
>テクニカルタームには固有の文脈がもれなく付いてきます。
>ですからそのターム固有の文脈に沿って赤の他人同士でも会話が成立するのです。
的な「哲学房」という内部でアディクションするのも良いが、
たまには外部にでて、そこにある新たな文脈と真剣に向かいってみてはいかが。
それが「哲学する」ということではないですか、ということです。
まあ、大きなお世話ですが。
98 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:17:09
このような文脈議論は、ボクがここにきてから923回目です。
いつもここから話が始まる。「哲学する」とは、内部に開くことであり、
きっとこのようなことなのですね。
単なる愚痴ですが。
>>95 「科学」であるなら、実証が必要ですね。
ぴかぁ〜さんの書くことは実証も反証もできないものばかりですから、
自負と裏腹にやはり質の悪い「哲学」なのではないですか?
100 :
考える名無しさん:2005/12/18(日) 01:20:35
100
101 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:21:13
>>99 >「科学」であるなら、実証が必要ですね。
これがコピペになっています。この手の議論は
最近は飽きてしないことにしていますので、これで終わります。
「これは「哲学」ではない。「哲学」というものとはなにも関係がない。
これは「科学」であると。
だから正しい、間違いではなく、共鳴するか、しないか、それだけだ。」
102 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:22:06
■哲学的「生」と「死」
ハイデガー、ラカン、デリダなどなど、言語化は「死」へ例えられた。生の「生き生きしたもの」を
名付けることによって殺害する。名付けるとは、複雑性の縮減である。縮減することによって、
秩序を形成する。たとえば言語は構造化されるているのです。それを単に静的なものと考えると、
「死」と考えてしまう。
ニーチェ「力への意志」、ベルクソンの「持続」、ドゥルーズの「器官なき身体」、ラカンの「現実界」、
フロイトの「欲動」、デリダの「散種」などなど、哲学者は「死」に対する言語に還元できない「生」を
考えてきた。すなわちそこには「生」/「死」の対立がある。
しかし創発性では「生」の根元性として「複雑性の縮減」を示している。「生」とは動的な構造化である。
そのような力は「死」という環境の複雑性を縮減することによって生まれる。このように考えると、
「言葉」は静的なものではない。絶えず変化する体系である。創発的な「生」そのものである。
言語を語る哲学家と創発性の違いは、「人間」というもののとらえ方によるだろう。哲学家たちは、
言葉そのものが「生」的なものであっても、それは「人間」にとっては「疎外」である。「人間」とは
その根元に言葉に還元されない「意志」が求められるという人間主義を根元にしているのです。
彼らにとって、重要なのは「人間」というものなにものに縮減されない自由意志という力の在処である。
哲学は脱構築を叫ぼうとも、その根底には「人間」というもの尊厳を探求するという構造を持っている。
人間/動物によって、あるいは生/言語によって、脱構築という正義によって、「尊厳の元」が
探求されるのだ。
103 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:23:49
■「生」の「デジタル化」性
たとえばホフマイヤー「生命記号論」で示されるのは、「生命はその全てが記号操作、記号操作に立脚
する」ということである。生命の種の単位である細胞自身が、記号操作という外部情報の複雑性を縮減
するということである。複雑性の縮減とは簡単には(アナログ情報の)デジタル化である。そのような
デジタル化によって秩序は構築され、動性はうまれるのである。混沌そのものには生は生まれない。
これが今までの多くの哲学者には見えなかった点である。
このようなデジタル化の根元性において、生命から言語、社会の「生」に連続性が生まれるのである。
簡単にいえば、哲学的「生」は、言語の外には存在しない。「生」とは言語を抜きには現れない、という
ことである。むしろ「言語」こそが人間の「生」なのである。
たとえば心脳問題へつなげると、心という「この私」と脳という物理主義的唯物論をいかに繋がるのか。
物理主義的唯物論は還元論であり、「この私」は還元できない、ということになる。「この私」に
おいては、言語という還元が重要である。そしてそこには、階層的に物理主義的唯物論的還元が
繋がるだろう。これはあまりに現段階で還元しすぎであるが、そこには創発性という生の構造に
よって繋がるだろう。
>「これは「哲学」ではない。「哲学」というものとはなにも関係がない。
>これは「科学」であると。
>だから正しい、間違いではなく、共鳴するか、しないか、それだけだ。」
は?科学理論って、共鳴したりしなかったりするものなの?
それとも「これはパイプではない」をもじったギャグ?
105 :
考える名無しさん:2005/12/18(日) 01:27:13
>>99 おまえは法学も論理学も知らないだろ?
それじゃ、法律の論理について考えるのは無理だよ。w
106 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 01:37:46
「生」について語るとは、いかに「生きた言葉」を語るか
ということである。
最近、「生き生き」批判する学者がいるが、そこには
言語の向こうになにか本当の「生き生き」したものがあり、
言語がそれを還元し、殺しているということであるが、
言語の向こうなど存在しない。
「生き生き」とは言語の中に存在する。
たえず変化するウテウテでエレチューな生きた言語こそが、
「生き生き」したものなのである。
さすが重症常駐者!
「言語」を「2ちゃんねる」に変えればその通りだな。
>>101 >これは「科学」であると。
>だから正しい、間違いではなく、共鳴するか、しないか、それだけだ。
馬鹿。プロの科学者の実験精度を知らない。いいから早く学参を買え。
109 :
108:2005/12/18(日) 10:15:51
ぴかぁ〜が理系の板では全く相手にされないということは誰でも分かるが、
「科学」は共鳴するかどうかとか言い出すのには驚いた。トンデモの典型。
110 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 14:25:22
2ちゃねらーはアディクティドレスばっかたな。
111 :
考える名無しさん:2005/12/18(日) 14:36:35
>>110 ばっかたな、2chにおぼれているぴかぁ〜。
カバだなぁ〜。
口開けてると、鳥がやってきて、口の中を掃除してくれる。
113 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/18(日) 22:10:44
アディクト
114 :
考える名無しさん:2005/12/18(日) 22:23:41
で?
ひきこもりは死ね!!!
116 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/19(月) 10:08:00
「で?」?
117 :
考える名無しさん:2005/12/19(月) 10:12:25
増田達哉はちんかす
さぶ
119 :
考える名無しさん:2005/12/19(月) 20:25:46
ぴかぁ〜良かったな、純一があぼーんされて
120 :
考える名無しさん:2005/12/19(月) 20:27:35
決定、次にあぼ〜んされるぴかぁ〜。
ぴかちゃんもあぼーんね
122 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/19(月) 23:05:51
まおちゃんをオリンピックに!
委員会はオリンピックの私物化をやめろ!
ロートルだしても、そいつはおこぼれと一生言われるんだぞ!
俺、ぴかぁ〜より純一のほうが好きだし面白いと思うけどなあ
124 :
寂:2005/12/19(月) 23:43:29
reply-to
>>122 >ロートルだしても、そいつはおこぼれと一生言われるんだぞ!
同意する
もし仮に、「旅に終わりが無い。」のなら、
それは、地獄だ。
そんな気がする・・・。
>ぴかぁ〜
ほらほら、最近書き込みが少ないぞ〜。
現実から逃げて、逃げて、逃げまくるのがおまえの生き様だろ〜!
また、惨めな自分に戻りたいのか? 哀れな自分を直視できるのか?
お前が生きていく場所はここしかないんだから、もっと真剣にやれ〜!!
「煽る人の心理」って、どんなものなんでしょう?理解に苦しみます。。。
などと、呆けた事を書いてみるテスト
128 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/25(日) 00:05:03
視覚エクスタシー
他人からの眼差しを習得して投げ返してるだけだろ
閑古ってます閑古ってます
131 :
考える名無しさん:2005/12/27(火) 21:10:25
┌┐
/ /
/ / i
| ( ゚Д゚) <そんなバナナ !!
|(ノi |)
| i i
\_ヽ_,ゝ
U" U
age
ひきこもり中年のスレッド
133 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/27(火) 21:42:57
無意識=象徴界
流動化、分散化、共同化、自己組織化
[スタート]
→すべてのプログラム
→アクセサリ
→メモ帳
俺もよく使うよ
136 :
考える名無しさん:2005/12/27(火) 22:25:33
うちのメモ帳はすでにタスクバーの中に・・・w
137 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 12:26:35
ラカンの強力さをあえて簡潔にいえば
僕たちは言語システムに組み込まれ、自分の意志でおこなっているとする発情することも
欲望することも言語システムによるものだということだ。
この呪文は、なわけないとい思いながらも、考えれば考えるほどぬけられない。
138 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 12:37:16
これをデリダであり、東でありが郵便的といおうが
本質的にはなにもかわらない。
しかしこのような言語システムに自覚的になることは言語システムの活性化につながる。
言語システムは差異の体系による静的な構造物でなく、ラカンがシニフィアンの連鎖といったようにコミュニケーションによりたえず蠢く動的なシステムである。
すなわち一つの創発システムである。僕たちはシステムの一パーツであるが、
システムの創発性は僕たちの振る舞いがシステム自体を大きく変える可能性をもっている。
139 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 12:45:50
さらにパースペクティブで語ればこの世界そのものか構造でできている。
それは言語システムと同様に創発システムである。
たとえば進化はランダムから生まれるが、創発的に構造化された動的なシステムている。
僕達は進化、コミュニティなど多重にシステムに組み込まれ、
それそれへ影響する存在である。
ここにおいて、僕達のエロス(生の欲動)であり、自由意志を抽出することに意味があるだろうか
140 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 12:51:05
しかしそれでもこの多層なシステムの一部である、この私とはなんだと問うのが人間という症候である。
猿も蟻もヒヤシンスもミジンコもとわないだろうに
141 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 12:58:52
142 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 13:16:47
コンテクストからの開放
それがクオリア
143 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 13:32:01
ラカンでつなげればこの私とはそのはじめに失われている。
他者の鏡像であり、言語システムとして疎外され、
取り戻すことで、ありつづける存在である。
たとえば生物が遺伝子という先天性により、あるがそこに私がないとすれば、人は先天性を見失い失われて、ないことが私であるといえる。
私とは失われているものを取り戻すという動力である。
144 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 13:40:45
たとえば生物には生き長らえるという強い生命力という動力がある。
この力が進化を推し進めているというよりも
進化のという創発性そのものが生命力であるといえる。
当然人間にも生命力は働いている。
そして人の失われたことによる動力との関係はどのようなものか?
145 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 14:09:27
これにはさまざまな考え方がある。
フロイトのエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の対立、ラカンの失なわれた現実界、ドゥルーズの器官なき身体など
ボクはフロイトにならい力動的にとらえた。
はじめにエロスあり、しかし人間では象徴界からの抑圧により、それはあるときはエロスと呼ばれ、またあるときはタナトスと呼ばれる。
しかし社会、言語秩序において過剰な力としてあらわれると。
146 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 14:49:28
人間とは象徴的秩序により力の行き場を見失った存在である。
147 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 15:41:15
■言語システムと生命システム
ラカンの強力さをあえて簡潔にいえば、僕たちは言語システムに組み込まれ、自分の意志で
おこなっているとする発情することも欲望することも言語システムによるものだということだ。
この呪文は、「なわけない」とい思いながらも、考えれば考えるほどぬけられない。これをデリダであり、
東であり郵便的といおうが、本質的にはなにもかわらない。
しかしこのような言語システムに自覚的になることは言語システムの活性化につながる。言語システム
は差異の体系による静的な構造物でなく、ラカンがシニフィアンの連鎖といったように
コミュニケーションによりたえず蠢く動的なシステムである。すなわち一つの創発システムである。
僕たちはシステムの一パーツであるが、システムの創発性は僕たちの振る舞いがシステム自体を
大きく変える可能性をもっている。
さらにパースペクティブで語ればこの世界そのものか構造でできている。それは言語システムと同様に
創発システムである。たとえば進化はランダムから生まれるが、創発的に構造化された動的な
システムている。僕達は進化、コミュニティなど多重にシステムに組み込まれ、それそれへ影響する
存在である。
148 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 15:41:48
■人間という症候と生命力
ここにおいて、僕達のエロス(生の欲動)であり、自由意志を抽出することに意味があるだろうか。
しかしそれでもこの多層なシステムの一部である、「この私」とはなんだと問うのが人間という症候で
ある。猿も蟻もヒヤシンスもミジンコもとわないだろうに。
ラカンでつなげれば、「この私」とはそのはじめに失われている。他者の鏡像であり、言語システム
として疎外され、取り戻すことで、ありつづける存在である。たとえば生物が遺伝子という先天性に
より、「ある」がそこに「私がない」とすれば、人は先天性を見失い、「ない」ことが「私である」といえる。
私とは失われているものを取り戻すという動力である。
生物には生き長らえるという強い生命力という動力がある。この力が進化を推し進めているという
よりも、進化のという創発性そのものが生命力であるといえる。当然人間にも生命力は働いている。
そして人の失われたことによる動力との関係はどのようなものか?
これにはさまざまな考え方がある。フロイトのエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の対立、ラカンの
失なわれた現実界、ドゥルーズの器官なき身体など。ボクはフロイトにならい力動的にとらえた。
はじめにエロスあり、しかし人間では象徴界からの抑圧により、それはあるときはエロスと呼ばれ、
またあるときはタナトスと呼ばれる。しかし社会、言語秩序において過剰な力としてあらわれる。
人間とは象徴的秩序により力の行き場を見失った存在である。
149 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 15:42:35
>>
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まって
いるような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等速度運動しようとする
それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、
自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。
すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの減少)に対抗する力であり、環境と相反し
安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰である、人間的な力が
タナトスである。
多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつもエロスは環境の力に対して
不足しているのである。しかし人間が環境の内部に秩序世界を構築したとき、その内部でエロスは
過剰へと転ずる。その過剰性がタナトスである。
<<
150 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 17:02:03
■創発システムの階層構造
再度いえば、このような力は、創発的なシステム内の力として生まれている。このような創発的
システムは、ある個体はパーツからできたシステムであり、また上位のシステムのパーツであると
いう階層構造にある。たとえば「私」という個体は細胞によるシステムであり、社会のパーツである。
そして個体性とは、明確な単位でなく、自律性の強度を表すものである。
だから個体性の力とは個体というシステムを維持しようとする力である、また上位のシステムを維持
しようとする力である。そしてこのような力はランダムから偶発的に発生した創発秩序に内在するもの
である。あるとき偶発的に生命は生まれたのであり、進化は始まったのです。その創発性の中で、
私という個体性というシステムは生まれたのである。言語システムも生命というシステムの一部
である。
151 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 17:03:31
■生命記号論
このような科学的知見も言語システムの一部であり、人間の発明した相対的なものであることは
否めない。言語とはなにかといえば、還元である。アナログ情報のデジタル化といってもよい。なぜ
デジタル化するかといえば、大量な情報を扱える程度に縮小するためである。
しかし「科学は単なる主観である」と、相対主義に陥るのでなく、たとえば科学は近似的にでも世界
そのものを表記しえていると考えられないだろうか。この世界という秩序は、創発的な構造物で
できており、人が言語としておこなうようになんらかの還元作用によっている。だから科学はその
構造に近づく、近似的であるが、有用な方法である。
このような考え方に、パースの記号論を活用し生命を記号として表記する「生命記号論」がある。
@対象をA解釈項によってB記述する。これはまさにボクのいう還元であり、アナログ情報の
デジタル化であるとともに、言語システムである。ラカンに当てはめれば、@現実界をA象徴界に
よってB想像界として記述する。
そして問題は言語システムでは、解釈は主体が行うのであるが、生命においては誰が行うのか。
「生命記号論」では細胞である。たとえば遺伝子を細胞が解釈し、具現化するということが示されて
いる。創発性という秩序化は、このような還元システムが作動するということではないだろうか。
152 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 17:24:07
パッチワーク
153 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 18:17:39
ぴかぁ〜、オートポイエーシスって何?
154 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 18:22:51
オートなポイ、え〜、しすしすです。
155 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 18:26:17
ワケワカンネ
156 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 18:38:19
ばかばっか w
157 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 18:48:56
158 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 19:02:59
大将!え〜です。
愛です。
愛を信じること、といってもいい。
161 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 19:12:07
緊急
初心者の方へ
くれぐれもラカンとオートポイエーシスには手をださないでください。
なにがあっても保障しかねます。
162 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 19:16:35
で?
163 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/28(水) 19:20:54
「で?」?
164 :
考える名無しさん:2005/12/28(水) 20:05:24
ん?
165 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2005/12/30(金) 04:01:39
愛だけは互いに神経接続をせねば存在できないもの。
互いが互いに見つめ合い溶け合いながら互いを確かめ合うことのできるものは
愛だけです。あらゆるものが対象aと呼ばれうるこのご時世、愛以上に広域な世界
認識を支えるものはないのです。しかしそれは信じなければ存在しえないものなのです。
神経がない相手でも愛せるだろ?
うほっ?
>>161 馬鹿が! センター試験の物理解けないくせに…理系の学生は失笑して誰も信じてないよ
しかも数学・英語はもちろんだめ、意味不明の文章力じゃ現代文もだめだろ。
170 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2005/12/30(金) 14:24:31
そんなこといいだしたら
古井由吉の小説なんて読めない。
私とは幻想であり、幻想なくして私はありえない、私ありえぬところに人間的な生は
もはやない。動物的な生はあまりにもハードするぎるのだ。ああ、貧弱なる我が自我よ!
ああ!
そんなことってどんなこと?
今年も平日昼間から毎日常駐、ご苦労様。来年もニート道を極めてください。 >ぴかぁ
と、ねぎらってみる。
173 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2005/12/30(金) 19:29:55
ここ数日間ぼくもほぼ常駐状態だったが2chの中毒者の気持ちはよくわかったw
174 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/30(金) 20:05:53
「まきな◆I2rWVFDN2M」NGワードの設定しました。
さようなら。
175 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 20:12:45
なににげてんだ?w
byまきな
176 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 20:15:27
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnwをNGワードにしろよと。
177 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 20:20:11
ぴかぁのブログがまきなに思い切りインスパイアされている件について。
NGにしても絶対見てると思うけどね
179 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 00:26:24
世界があるようにある。いわば素朴な実在論とはなにか。
180 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 01:05:07
181 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 11:59:00
晒しあげ
まきなさん
文学板の某スレでもお見かけしました
こちらの板にも出張していたのですね。。。
あぼーんする快楽とは、内在し拘束するまなざしからの解放
例えば仕事を終えて会社から一歩外に出た瞬間の解放感
週末の金曜日の夕方から夜にかけての解放感
帰宅して安堵する解放感
この「快楽」「解放感」を得るには、それに先立つまなざしがなくてはなりません
つまり、逆説的ですが拘束するまなざしがあって初めてあぼーんの快楽が
得られるのです
毎日が日曜日の人や、あるいは日々まなざしに拘束されていない人たちには
あぼーんの快楽は訪れないでしょう
184 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 16:29:18
なかなかやるな。誰?
185 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 16:31:24
ぴかぁ、自演しながら年越しですか。
毎年毎年ほんとうにごくろうさまです。
186 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2005/12/31(土) 16:33:03
赤色は別の色でも良かったが、赤色である。なぜか、それにはある種の必然があるということですね。
この必然は、赤色の連続性から見えてきます。進化論的連続性です。
必然とはこのような「超経験論」的に考える必要がありますね。
たとえば宇宙論的な言説は、「メタ経験論」範疇です。
「メタ経験論」とは、丸いことを経験するのではなく、丸いと言う知識を経験するのです。
このような経験論的次元と、超経験論的次元を混同することを、自然的誤謬といいます。
ネタ切れか?
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
まなざしの快楽と、まなざしの拘束の根源となるものは、
「人間の欲望は他者の欲望である」ではないでしょうか
誰かから見られているだろうという快楽は、誰かに見られたいという欲望であり
他者のまなざしの拘束の窮屈さは、実は拘束されたい、律されたいという欲望の変形です
まなざしの快楽も拘束も拘束からの解放もつねに他者のまなざしが必要前提となります
「私」の欲望が「他者」の欲望を具現し、「他者」の欲望が「私」の欲望を具現します
そこにあるのはまなざしの相互性、つまり、一方からだけでは成り立たないのですね
ぴかぁ〜死ね
あけましておめでとうございます
哲学板の発展を祈念致します
平成十八年元旦
192 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/01(日) 15:37:31
大晦日、格闘技であぼーんできませんでした・・・
唯一はヒョードルのあまりの強さだけか・・・
193 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 15:38:48
ひきこもりキター!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1!11!!!!!!!!!!!!!!!!
194 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/01(日) 15:50:47
大晦日、正月という不思議の空間。
クリスマス前当たりから、師も走るほどに街のテンションが上がっていく。
このような間主観的な興奮状態には、ライブが求められる。
それにしても、プライドって生でなかったのね。なんかガックシだな。アウラが消えるよね。
一頃で言えば、お祭りであるが、お祭りは無垢の供給装置である。
お祭りない退屈な人生を人はいきられない。
それは刹那的でなく、給備的である。
定期的なアドレナリンの噴出は、活性化である。
人にはエロス(生の欲動)がわき出てくる。
生きることはそれだけで大切である。
しかし日常という反復は退屈である。
その終わりなく日常からの抑圧からの噴出するエロスの残余
それはむしろ、あえて危険へ近接するタナトス(死への欲動)となる。
祭りはこの過剰性を吸収するのだ。
現代は、日常が祭りかしていると言われる。
いまや一般化したバラエティーはその昔は、正月のみに行われる
無礼講番組に起源をもつと言われる。
お正月番組の日常化、それは街さえもバラエティー化、
流動性の高い社会として。街の劇場化、街のイベント化
その中で、即興的、瞬発的な快楽が求められる。
それは、テクノロジーにより、「視覚エクスタシー」として提供される。
エクスタシー化する社会に僕たちは生きているのだ。
元旦えくすたしぃ〜
195 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/01(日) 16:07:33
プライドはお祭り化しすぎてきていないだろうか。
その興奮はガチであるという興奮にある。
そこに象徴的な物語があることは避けられない。
小川と吉田には物語があるんだろう。
その物語のシニフィアンの連鎖に僕たちの欲望は流されていくのだが、
しかし、プライドはプロレスとは違う。
物語化しすぎた、物語化されてヒーローがいつも勝つプロレスとは違う。
そこにあるエロスとしての力に僕たちは欲望するのだ。
いや、興奮し、エクスタシーするのだ。
そのような欲動の核を彩り、飾る言葉はいらないのだ。
ボクたちはただ闘い、殴られ、倒れるその姿へ
共鳴することによって、無垢を見いだすのである。
196 :
ぴかぁ〜:2006/01/01(日) 16:51:32
はてなを始めるまでは、思うままに書いてきた。
今思えば、その頃の主張のほうがよりユニークであり、実もあった。
いつの日か用語を並べて、見た目ではそれらしいことを書くようになった。
もう既に記号のほうが思考よりも主導権をとるようになった。
しかし、これで満足している。
書き込むことで安定した収入を得、それと同時に
偽者でもそれらしく見えたいという平々凡々な、低い位置ではあるが
実生活を営む上でバランスの取れるくらいの自尊心は保たれた。
もはや放つ言葉すべてジョークである。漠然と象徴的な記号群を無作為に
シミュラークラではあるがリアルな舞台でパラドキシカルな融合そして
再構築をプルーラルでありダイバーシファイされたパラダイムにスパイラルを描くのである。
>>196 >書き込むことで安定した収入を得
KUWASIKU
kwsk
書き込むことで安定した収入を得、それと同時に
偽者でもそれらしく見えたいという平々凡々な、低い位置ではあるが
実生活を営む上でバランスの取れるくらいの自尊心は保たれた
くわすく
200 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 02:30:58
生活保護あげ
201 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 03:21:43
コウダクミがレコ大をとった件について
ぴかぁ〜が関心を持つ分野がヲタ丸出しでキモイ
203 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 15:09:56
■セックス「マッチョ」物語
エクスタシーという身体的快楽とは「ベタ」であり、エロティシズム という氾濫する性知識により
倒錯的快楽とは「メタ」と考えることができます。これはベイトソン的な分類になるわけですが。
現代の快楽の問題は、「無垢への欲望」であるということです。容易に手に入る故に、飽きてしまい
次の「無垢」へ向かわなければならないということです。このような状況において、「ベタ」の次元では、
継続した満足をえることは難しい、すぐに飽きてしまう。フェラによる快感ということも、体がなれて
しまう。これを補うのは「メタ」の次元の導入です。誰に舐めてもらうか。誰にとは、その女性の物語を
消費するということです。
より代替容易にはエロビデオでも良いのですが、マンネリ化しているエロビデオの内容を支えている
のが、次々に入れ替わるAV女優ですね。その女優それぞれの物語(文脈)を消費するのです。
ここまでくると、「ベタ」な快楽、文脈のない快楽は存在するのだろうか、ということだと思います。
すなわちラカンの「性関係は存在しない」ということですね。
たとえば、セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な
性体験の話です。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面ですね。「セックスマッチョの優越」です。
性体験がまだでも、あっても性関係とは「物語」であるということ、現代では高校生の自慢話の次元で
しか語られない、ということです。
204 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 15:11:16
「セックス「マッチョ」物語」で面白いのは、そこには男女の差がないということ。女性も「マッチョ」化
している。女を商品化するように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには
「から騒ぎ」的ということ。
さらに面白いのは、女性も男性的に欲望する。たとえば、「巨乳」というエロティシズムは、女性にも
通用する。女性は「巨乳」を欲望するし、女性は男性ヌードでなく、女性ヌードに欲情する。あるいは、
女性的男性ヌードに。男前とは女性的な顔である、ということが言われる。男前はみな女装が似合う。
205 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 15:40:07
なんだそれ。
206 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 15:58:47
風潮としてはそういう傾向やけども
女性が古来より求める女性として喜びとして
マッチョは表現悪いな神との同化、強い男に支配され融合する事や
母性とし男性に居場所を提供する事で自分の居場所を求める事も
同時に起こってる時代だわ
それらは端的に無垢である故に各人の中で消化しては次の欲望を欲するが
恋愛や肉体関係を持つ上でぴかあの宣う健全な無垢て何やろか?ぼけ
207 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 16:10:11
>>206 ぼけ!?だれにいうとんねん!
日本語ちゃんと書け、意味わからんわ、ぼけ!
208 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 16:20:05
もうこいつ‥簡単に言うたらやなぼけ
健全な無垢て何や聞かせてくださいて事です
209 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 16:38:53
健全な無垢とはヘタレサイクルや!ぼけ!
210 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 16:44:51
貴様用語で余計に分からんわ!じゃあ逆に健全やない無垢てなんじゃいや!
211 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 16:45:44
犬殿、焦り過ぎじゃ
213 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 16:57:10
「愛」こそすべて!
214 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:03:38
「愛」とはパラノイアである。イマジネールな死闘である。
精神分析では、そこに去勢することを良しとする。
社会的な次元を言えることで、死闘を止めさえ、秩序をもたらす。
しかし現代は、イマジネールな死闘という欲望が減退している。
物質的な豊かさ、価値の多様性が、「愛」がなくても、充足し、
加速された消費の次元で、無垢が供給されてしまうのである。
そして社会性という去勢が向かし、幼児的な全能感をもち、
充足してしまう。これを「動物化」などという。
215 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:10:12
これを自己充足と考えてはいけない。
「愛」の次元が、物理的な近接から離れている。
まなざしの次元として、マスメディアによって、
そのメンバーにいなくても、あるコミュニティーの一員であるのだ。
たとえば、あややコミュニティの一員であるために、あややと
ある必要はなく、またあややファンとの会う必要はないのだ。
容易に、「愛」の内部を形成することができてしまう。
そしてこのよう「愛の容易さ」はあややへの執着を弱める。
次の日には、うえとあやコミュニティの一員であるかもしれないし、
むしろ多重に帰属することが普通である。
結局のとこと、「愛の容易さ」が「愛」を希薄化させて、
そもそもにおいて、「愛」そのものを不可能にしているのだ。
健全な無垢の欲望を妨げている。
216 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 17:14:38
ぴかぁの愛は果たして愛と呼べるのか。
217 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:22:24
>ぴかぁの愛は果たして愛と呼べるのか。
でなく、世界はそれを「愛」と呼ぶんだぜぇぇぇぇ〜!!!!
218 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 17:28:47
愛と私的所有は同一だと思いますか?
219 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 17:30:50
熱愛、友愛、自己愛・・・
愛にもいろいろあるわけですが。
220 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:32:43
たとえば、低下層の人々がキリスト教に出会ったときの
衝撃とはなんだろうか。
彼らはそこに「愛」を見いだしたのである。
自分を内部とし、そして「創造」することの喜びを教えてくれる。
このような「愛」との出会いは、現代でもだれでもあるだろう。
たとえば、ロック少年がシェキナベーベーなロッケンロールと
であったとき、
ダンス少年がダンスとであったとき、
しろうとが東理論にであったとき、
そこには未完成(無垢)があり、そこに「私」がいなければならない、
という興奮である。
221 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:33:40
222 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 17:40:46
まあいいでしょう。
223 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 17:43:45
>>222 はぁ?なにがいんだよ!ごらぁ〜しばくぞ!
ぴかぁご機嫌ですね
まきなが相手してるからね。
226 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 18:35:45
ある女から政治経済的に他者を排除し、所有する。これを世間では恋愛と呼びますが
排除された他者の羨望の眼差しこそが所有の快楽であるということをお忘れ無く。
227 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 18:40:41
>>226 無垢の「消費」ね。「愛」とは、無垢の「創造」ね。
>>211読めや。乳首、ぎゅーするぞ!
228 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 18:56:28
ぴかぁの文章を読むと、醸造アルコールを水道水で100倍希釈したものを
飲んだ時のような哀しい色に染まる。もう少し凝縮してくれないか。
229 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 18:58:12
いちいち読み手のウケを当て込まなくていい、目配せがじゃまくさい。
ぴかぁ〜の文章はパクリだから。
231 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 19:05:30
>>228-229 理解できないならそういいな。
それからいちいち1レスを2レスに分けるな。
232 :
まずる:2006/01/03(火) 19:07:00
愛は無垢の欲望かと。
233 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 19:07:32
いや、理解できないわけではなくて、ぴかぁの
「あえてする迂回」があまり効果的ではないということ。
なんで意味もない迂回をしているのか。
迂回することに充実してしまっていないか?
ということだね。
234 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 19:12:46
>>233 なんというかな。残念ながら、しろうとがいうように
まきなはボクに似ているところがあるんだよね。
2ちゃんねるに来た頃のボクに似ているところがあるね。
自分の中にこうだという思いがある。あっている、間違っているは別にして。
そうすると、いかにそれを表現するか、記述するかが問題になるわけだが、
気持ちが先行して、論理性が低下して、ことばが隠喩的になる。
まわりの人間から、人の話を聞かないと言われるだろう。
まあ、言っていることのすばらしさは、ボクが100倍すごいわけだけどね。
235 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 19:16:21
まずるも、まきなも、なんかテーマを持ち、スレたてな。
236 :
まずる:2006/01/03(火) 19:23:15
「美しすぎて悟りを開きました」って立てようと思ったけど、
独り言か夢板へ行けって言われそうだったからやめたんよ。
237 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 19:43:16
悟りましたスレねぇ
毎日どこかで一つたってるからなあ
238 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 19:50:12
2006は哲学詩の年です。
隠喩的で結構!論理性が低下して結構!
ひとの話なんか聴くわけがない!
なぜなら私は詩人だから。
239 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 19:58:02
ぼくはひとつの鐘になる
ぼくは響きでみたされる
ぼくの重さで底が割れ
下へ下へとおちていく
落ちるごとに別の世界にぶつかって
新たな音色が重なりだす・・・
そしてそれからすべてを聴いて
ぼくはまたひとりになった
まきな詩集選 『弔鐘』
このスレ、最後にはなぜかいつも詩人が残るね
241 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 20:13:35
残るっても良いが、詩を書くな、ぼけ!
242 :
まずる:2006/01/03(火) 20:24:59
詩なんてくだらない。
心が揺れないから。
2ちゃん哲学板で愛を語り愛を求め愛を叫ぶぴかぁ〜
ワイヤードマザーにしがみつくヘソのない子ぴかぁ〜
みなしごぴかぁ〜は愛を知らない。
white shade作「ぴかぁ〜は愛を知らない」
244 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 20:28:51
たぶんぴかぁはこのままハエ級の存在者として
生きていくんだと思う。南無。。。
246 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 20:38:14
>>241 そんなことよりサイダーの瓶にビー玉をつめる作業に戻るんだ。
247 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 20:49:43
それにしてもひどいな。
しょうがないじゃん
共鳴してるのが詩人ばっかしなんだもん
249 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 20:56:49
共鳴はしていない。
あえてレスまで付けておいて共鳴してないってのは
自己欺瞞ですよ
251 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/03(火) 21:13:23
共鳴は大袈裟でしょう。
すれ違った程度のことじゃないかな。
>>228 花村萬月の小説を読めばよろしいかと
彼の作品は原液100パーセント、濃縮ジュース
>>251 ここに書くよりブログに書いたほうが
共鳴度は低いかもしれないよ?
254 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/03(火) 22:31:13
「あぼーんする快楽」について語れや!
あぼーん「する」快楽?「される」快楽?
256 :
まずる:2006/01/03(火) 23:10:34
あぼーんする快楽 < セックスの快楽 < ポリネシアンセックスで得られる快楽
あぼーんの快楽がないと人は心身ともに消耗し、こころや身体を病むでしょう
健常者はたいてい、まなざしの拘束とあぼーんの快楽を交互にバランスよく
保てているといえるでしょう
つねにまなざしが内在していてそれをあぼーんできない人は、
強迫観念にとらわれたり、妄想がひどくなるでしょう
拘束するまなざしとあぼーんとの臨機応変な付き合い方が現代では
重要視されるのではないでしょうか
こうして他人に考えてもらうのがぴかぁ〜の戦略なのに…。
259 :
まずる:2006/01/03(火) 23:48:25
携帯なんであぼーんなんて無理。
260 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:12:21
>258
対象aってのを、ぴかぁ〜さんはやりたいんですよね、きっと。
「何かある」と相手に思わせる、そのことが目的なんですよね。
だからベタに「あぼーんする快楽ってなんだよ?」と訊いたって
当然答えはしない。
ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」に出てくるポーランド人と
ユダヤ人のお話ですね。
261 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 00:14:58
だからここは「ぴかぁ〜」スレではないんだよ!ばかー!
262 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 00:15:57
なんでぴかぁ〜について語っちゃうかな。
263 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:16:37
>261
だって、「あぽーんする快楽」って「ハレとケ」でいいじゃないですか?
って聞きたくなるじゃないですか?
って聞いたら泥沼じゃないですか?w
264 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:31:35
ぴかぁ〜さんのスレでないのなら、
適当に語って良いと言うことですか?
問題系が明らかになっていないので、
議論のしようがない気がするんですよ。
無言の前提、みたいなもので言葉をつなげる
ことは、意味があるんですか?
というか、それを「繋がりの娯楽」とか言っちゃうわけですかねw
265 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:31:53
詩人ねえ
都合の良い言葉だね。
ひさびさに根本的な批判が出た。
269 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:42:18
でも、わたしはぴかぁ〜さんのスレを荒らしたいわけではないので、
誤解しないでくださいね。
あるスレで教えを請うたもの、とだけ言っておきましょうかw
ですのでみなさんの問題意識を好き勝手に出し合えばいいんでないの?
まなざしの快楽は、人間の神経症的側面を楽しむ快楽、
あぼーんする快楽はそれをリセットする快楽のことなのかな?
問題意識もなにも、議論のしようがないわな。
無言の前提、みたいなもので言葉をつなげてるだけだし。
272 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:49:41
「まなざしの快楽」は「他人の欲望を欲望する」快楽、
「あぽーんする快楽」は「ある言説から抜け出す(メタ化する)」快楽
とか言ってみる
ところで「欲望」というのは「象徴界」に於いてしか成り立たないもの
なんですか?
273 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 00:50:49
ぴかぁ〜ファンの集いじゃねぇつーの!
274 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:53:30
ぴかぁ〜さんもベタな言葉で語ってくださいよー
>>258 俺の書きこみもかなりぴかぁ〜にぱくられている。
最初は頭に来たが、しばらくして考えが変わった。
もともと学問に私的所有権などない。
せこいこと言わずにどんどんぱくらせてやろうではないか。
パクリだし
277 :
まずる:2006/01/04(水) 00:54:36
ぴかぁーは猫とセックスでもしてください。
太っ腹だな。
279 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 00:56:49
ぴかぁ〜にパラノイアしようの会じゃねぇつーの!
280 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 00:57:46
せめて、「ぴかぁ〜哲学」について語ってくれ。
281 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:58:17
議論とか鼎談とかセッションとかにおける「パクリ」は
言い出すときりがないので>275さんの態度は大人だとw
ていうか、セッションの目的って言葉の戯れの意味もあるけど、
「相手の欲望」を織り込んで話すことで自分でも思ってもみない
話が飛び出すのが楽しい気がするので。
やっぱ詰まったらセッションですよ。
東さんが司会しまくっていた意味はそこにもある気がします
パラノイアっていうより、被害者の会だよな。
283 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 00:58:34
ぴかぁさんも
ついに「消費」されちゃいましたね
さようなら
ぴかぁ〜にパラノイアしようの会じゃねぇつーの!
ぴかぁ〜をいじめる会だっつーの!
著作権はあるよ。
286 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:01:19
それから、このスレではwは禁止ですよ。
NGワードにしています。
その他、w)、笑)、藁などなどはOKですが。
287 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:01:40
著作権はあるよ、ここにあるよ
288 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:01:49
>東さんが司会しまくっていた意味はそこにもある気がします
そこまで考えてるかな
289 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:02:29
w
290 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:02:37
>286
はい、気をつけますw)
291 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:04:14
なんでwだけ禁止にしてんの?
>>281 >「相手の欲望」を織り込んで話すことで自分でも思ってもみない話が飛び出す
でも、そういう精神分析をつねにすでに内包した浅田・東的な語りが生産的
だった時代はもう終わってるんじゃないかな。
あまりにそういうのばっかやってると無意識が枯渇しちゃう。
現在はシュルレアリスムが衰退した状況に似ている。
単にジャーナリスティックな言説のほうが面白くないか。
293 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:06:39
あと、言い忘れていましたが、「考える名無しさん」もNGワードに
設定されています。
福田の時代か
295 :
まずる:2006/01/04(水) 01:08:07
ぴかっ〜は、短い言葉で、
重みのある発言をできるように、心がけてください。
長く退屈な文章と、改行のタイミングの悪さは
あなたの悪い癖です。
296 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:10:21
考える名無しさんをNGワードにしてどうすんの?
297 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:11:16
では、場を立て直しましょう。
どのような内容で議論するか、提案願います。
あくまで、スレ内容に近いところでお願いします。
年末年始の番組で何が面白かった?
ラカンにすれば?
300 :
300:2006/01/04(水) 01:12:55
300?
今は「意識的に無意識」の非生産性のほうが問題なわけだ。
話者が徹底して意識的であろうとしてはじめて、第三者に無意識が見える。
話者が意識的に無意識を内包させて話すのは害悪以外の何者でもない。
自分の言説に意図的にバイアスをかけることが可能になってしまうからね。
東浩紀なんてその典型でしょ。ぴかぁは彼の縮小再生産。
>>293 こういうレスが「意識的に無意識」の典型ね。
302 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:18:14
自分用語と読みにくさがぴかあの売りやろ
たまに間違った用語を用いてるし、一読じゃ理解しにくいわ
内容を簡潔に伝える事よりそれを伝えない事で自分自身が
無垢られる事を狙ってるんやろ
ネット遊びじゃ賢いやり口かもやけど、リアルなコミュニケーションでは
ただうざいだけになるやろな
303 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 01:18:59
コテハンつけました
>297
マジですか?ぴかぁ〜さんの問題意識のほとばしりが
やっぱ議論の元じゃないんですかね。
以前ぴかぁ〜さんに質問したとき、問題意識を言語化するための
道具として現代思想の言葉を使っていると言っていたので、
問題意識がまず先にあるんですよね?
それを先にベタに述べてもらったらいかがですかね。
ああ、荒らされるのか。なんてこった。
>295
まずるさんもぴかぁ〜さんを欲望する場面とベタに置く場面を
分けられたらいかがでしょうか?
>たまに間違った用語を用いてるし、一読じゃ理解しにくいわ
リアルに間違えてるんだろうね。
305 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:22:54
>>301 面白いですね。
これで思ったのが、ネットコミュニケーションというのは、
コンテクストが消失している。
相手がだれで、どのような背景をもっているかわからず、
テキストのみで、コミュニケーションが行われる。
このような状況で、意識的、無意識的とはなにか?
306 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:25:18
>>302 ネットコミュニケーションにおける意味の伝達の問題と、
それをあぼーん化ですね。ごちゃごちゃ言わずに、ささと
エクスタシーさせろよ。
307 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 01:25:28
>292
ああ、織り込んでと言うのは、「振りをして」という意味ではありません。
>301で言われているように、
>話者が徹底して意識的であろうとしてはじめて、第三者に無意識が見える。
という意味で言っています。
何かを隠しているような「ふり」をするのではなく、思いつきでも何でも話を
つなげていくと、お互いが思わぬ発見をする、という「セッションの喜び」を
言いたかったんです。
前々から疑問があったんだよなあ。ぴかぁはわざとやってるんじゃないかと。
ぴかぁくらいの量の文章を書いていれば、たまにまぐれ当たりすることがあるはずだが、
それがない。全てが見当はずれだ。これは確率論的にかなりおかしい。
わざと正統的解釈を外して書いているのではないか。
309 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:27:03
>>303 「無垢る」努力も必要ですから。
お正月ファンサービスですね。
310 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:28:39
>>308 「全てが見当はずれと言い切れる私」はマッチョですね。
311 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:29:57
とりあえずこれでどうでしょうか。
「2ちゃねらーはなぜマッチョなのか?」
>わざと正統的解釈を外して書いているのではないか。
んなわきゃない。
313 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:31:31
参考資料です。
■セックス「マッチョ」物語
エクスタシーという身体的快楽とは「ベタ」であり、エロティシズム という氾濫する性知識により
倒錯的快楽とは「メタ」と考えることができます。これはベイトソン的な分類になるわけですが。
現代の快楽の問題は、「無垢への欲望」であるということです。容易に手に入る故に、飽きてしまい
次の「無垢」へ向かわなければならないということです。このような状況において、「ベタ」の次元では、
継続した満足をえることは難しい、すぐに飽きてしまう。フェラによる快感ということも、体がなれて
しまう。これを補うのは「メタ」の次元の導入です。誰に舐めてもらうか。誰にとは、その女性の物語を
消費するということです。
より代替容易にはエロビデオでも良いのですが、マンネリ化しているエロビデオの内容を支えている
のが、次々に入れ替わるAV女優ですね。その女優それぞれの物語(文脈)を消費するのです。
ここまでくると、「ベタ」な快楽、文脈のない快楽は存在するのだろうか、ということだと思います。
すなわちラカンの「性関係は存在しない」ということですね。
たとえば、セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な
性体験の話です。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面ですね。「セックスマッチョの優越」です。
性体験がまだでも、あっても性関係とは「物語」であるということ、現代では高校生の自慢話の次元で
しか語られない、ということです。
314 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:32:00
ネットから離れたらマッチョでなくヘタレといか
カスやろ
まあ、ここにゃそういうのが多く占めてるのやろけども
ベースとしてぴかぁ〜って馬鹿に尽きるからね。
わざと正統的解釈を外しているのではなくて、
用語の濫用がただ正統的解釈を外しまくってるだけ
>>307 うん、ただそれだとソクラテス的対話法だよね。
話者は徹頭徹尾真面目でなければならない。
東がやっている対談はそれとは対極にあると思うんだよね。
東が批評空間系の連中から引き継いだ最悪の遺産というか。
317 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:33:55
「セックス「マッチョ」物語」で面白いのは、そこには男女の差がないということ。女性も「マッチョ」化
している。女を商品化するように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには
「から騒ぎ」的ということ。
さらに面白いのは、女性も男性的に欲望する。たとえば、「巨乳」というエロティシズムは、女性にも
通用する。女性は「巨乳」を欲望するし、女性は男性ヌードでなく、女性ヌードに欲情する。あるいは、
女性的男性ヌードに。男前とは女性的な顔である、ということが言われる。男前はみな女装が似合う。
318 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:36:48
女のマッチョ化は確かに今の風潮ではあるが
前にも書いたけど女なんざ根本では支配される事を望んでるわ
これは神話でなく、快楽故にそうなるのよ
319 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:38:54
>>314 ただマッチョ馬鹿が集まっているとか、所詮中高生が多いとか、
そういうことだけでは、言い尽くせないのだと思います。
2ちゃんねるというコンテクストが、マッチョにさせる。
させられているということだと思います。
このはずかしげもなく、マッチョでいられる構造とはなにか?
たとえば、2ちゃんねるでの民族的なヘイトスピーチなども
ここまで反社会的なことが言える俺様をみて、というマッチョ的ですよね。
それが、偽犯罪予告で、通報され逮捕されたりしています。
320 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:38:58
そうでもないが
321 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 01:39:03
>305
対談などと違うのは、相手の顔や姿や体温や体臭の変化などが
見えず、さらに切れ切れのレスからそれぞれが「解釈」を立ち上げて
議論に「参加」してくる、ということですよね。
でもそのような状況でも、「無意識」とは構造的に忘れられざるをえないものであり、
常に「語り手」にとって無意識であることは変わらないと思います。
「ばか」が罵声なのか戯れなのか新たな現象への名付けなのかはコンテキストから
判断するしかありませんが、それが失われている以上、発言者それぞれが文脈を
(勝手に)読み取って判断するしかありません。
だから大概「議論」は一致をみることなく、戯れか決裂に終わることが多いですが、
もし議論に参加した話者が何かを「つかんだ」ら、それは個々それぞれの話者が
議論に(動的に)採用した文脈=コンテキストの解釈に依っているわけです。
そこで発見されるのは、話者自身の「無意識」であり、自身がどのようなコンテキストを
採用せざるを得なかったのかという否定的に定立された自己だと思います。
しかし、その自己も、議論する以前には存在せず、議論の経過の中で「再発見」=創造
されたものです。
それ故、議論に於いて共通するコンテキストが対談ほどはっきりしなくても、同様の
「意識」「無意識」がネットに置いても話者同士の間で創造される、と思います。
もちろん、ぐちゃぐちゃに戯れるつもりならリアルだろうがネットだろうがぐちゃぐちゃになりますw)
>>312 >>315 でも確率論的におかしくないか?
全くの馬鹿がでたらめを書いたとしても、あの量だぜ。
まぐれ当たりはするだろ。
323 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:40:12
>>318 マッチョ的発言ですね。
「おれは女がわかっている」
ボクがわからないのが、このような発言をしてしまえるのは、
恥ずかしさのなさ、かっこわるさの消失とはなにものかのか?
324 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:40:22
wを(wを変えることに意味があるのか
325 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:40:59
これを「マッチョ化する2ちゃんねる」と呼びましょう。
326 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:43:02
実生活で誇る部分を持たない君等カスが
女を調子付かせて勘違いさせ始めてるけども
結局穴ぼっこやわ、女は
327 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:43:03
リーマンさん
レス指定は>>でおねがいします。>ではリンクがたどれません。
328 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 01:43:43
>316
はい、「真面目さ」を>316さんの言われている意味で捉えるなら
真面目さの程度で「無意識」への(それぞれの)接近は異なるでしょう。
ただ、それは言われている「ソクラテス的対話法」=対面的対話であるか
ネット的な、文脈がそれぞれの話者にとって切れ切れになっているかは
また別の話だと思うのです。
その違いについては
>321に書きました。
329 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 01:46:07
>>327 いろいろ申し訳ないです。これで大丈夫でしょうか?
筋肉は言語ですよ
331 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:46:54
因みに君は2ちゃんねるにこだわるけども
リアルを生きるモノにとっちゃ古より男はマッチョ故に男なんだわ
332 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:47:06
こうしてパクる知識を与えられているわけですが。
333 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:48:07
要はぴかぁはダニみたいなもん
334 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:50:49
>>321 >でもそのような状況でも、「無意識」とは構造的に忘れられざるをえないものであり、
>常に「語り手」にとって無意識であることは変わらないと思います。
>そこで発見されるのは、話者自身の「無意識」であり、自身がどのようなコンテキストを
>採用せざるを得なかったのかという否定的に定立された自己だと思います。
ふと思ったのが、このような相手の「真意」の読みが、精神分析的だなと。
精神分析では抑圧された「真意」を言語化するわけです。
ネットではテキストの向こうの「真意」を言語化するわけですね。
335 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:52:27
ほんとダニですな
336 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 01:56:01
>>331 >リアルを生きるモノにとっちゃ古より男はマッチョ故に男なんだわ
古よりの「男」とは、弱気をたすけ、的ではないでしょうか。
そのような大きな物語を信じていないにもかかわらずに、
マッチョとは。
こういうマッチョ化のベタさは、明らかに低脳にしかみえない。
にもかかわらず、言わずにはおれない。
ある意味、反射的なあぼーんなレベルで言ってしまう、
言わずにおれない。まるでそこにある間に吸い込まれるように、
みたいにみえるのですね。
東もぴかぁ〜も根は近代的主体の持ち主だと感じるな。
相手の「真意」は知りたい、言語化したい。しかし自分の「真意」は悟らせないし
言語化させない。
それは生きていく上では別に悪いことではないが、学問としては生産的でないよね。
338 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:58:53
いや真意を探る会話を楽しむならば
ネットコミュニティー事態をあぼーんする為だわ
とかいってあげた方がわかりやすい?
339 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 01:59:25
ぴかぁ〜ってカンニング竹山みたいだね
340 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:00:11
ある意味は、彼らは懸命に緊張を解消している。
ボケにツッコマずにおれない、みたいなことだと思います。
たとえば、ぴかぁ〜のレスが、「間」を垂れ流し続けており、
それの後ろから、掃除するように、懸命につこみ、
緊張を回収しようとしている。
言わされているということだと思うのです。
341 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:01:58
弱きを助けるのはマッチョ的思考故に起こる
建前であり大儀を掲げる事に意味を置いてるだけやしな
反射的とは浅はかな秤やわな
ぴかぁ〜は松本人志的立ち位置に憧れているが能力不足で立てない、
といったところだろう。山崎邦正になってしまう。
343 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:05:05
言わせているのか言わされていのか
ルールを設けな各々の解釈の上を踊るだけの戯言なんだわ
まあ、明日早いしそろそろ寝るわ
344 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:10:56
>言わせているのか言わされていのか
たしかに特定はできない。ボク自身も言わされているレベルに
いるわけです。
>>334のように、ネットはなにか、精神分析的、無意識的だな。
と思いますね。
まさに、ラカン的象徴界、シニフィアンの連鎖ということです。
345 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 02:11:01
>>334 「無意識」とは「相手に隠された真意」ではなく、「自身の言葉を
構造化するために抑圧せざるを得なかったモノ」ではないかと。
それに気付くのは「本人」であって、その物語は本人にしか
見えないのでは無いでしょうか?
テキストの向こう側に見えた相手の「真意」とは、二人の間に
作り上げられた物語であって、その場で創造されたモノである
と思うのです。
うまい例が見つからないのですが……
346 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:11:28
哲板の山崎邦正
347 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:12:22
ヤマザキアン
>>331 リアルかどうかは別にしてブルーカラーとホワイトカラーが
明確に分離する19世紀後半までは芸術における男性像は
過剰な筋肉性を特徴としているね
349 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:16:39
>>345 ネットするということは、まるで一人の精神分析医になるようだ、
と言う意味です。
言葉を紡ぎあいながら、真意を探り合う。
それは、相手が真意を隠そうとしているのでなくて、
テキストのみの交換という、コンテクストが共有されにくい場での
コミュニケーションである。ということです。
これはまた、発言の過剰性、自己存在の過剰性、すなわちマッチョ化
に繋がると思うのです。
350 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:18:02
ラカンを読んでなくてもここまで偉そうに言えるとは。
351 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 02:21:48
すみません、2chねらーがマッチョである、という前提が
よく分からないんです。そうなんですか?
いわゆるDQNと言う人たちはマッチョ的だし、そういう人たちが
町を闊歩していて、それを見て不快に思う強さよりあこがれる強さの
方が増してきている気はしますが。
たとえばニートの問題で、「目の前にニートがいたらどうする」
という問題設定に、「徴兵しろ!」「とにかく働かせろ!」と言い切る
言葉はとてもマッチョ的な気がします。
しかし、ニートと言っても具体的な「顔」を持った人間であれば、
それぞれ対策が違うし、「ニート」という言説がそもそもどのような
文脈で語られ構造を持っているのかを見極める必要があります。
このような考えを「イライラする」「面倒だ」と一括する思想がなぜ
優勢になるのか、というところが問題であると思います。
その上で2chなどの匿名性の高い言論空間がそのような言説を
導きやすいのはなぜか、という問題設定になるのかな、と思います。
ツマラン話ですみませんw)
352 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:24:22
オチっぽい話になってきましたな。
353 :
まずる:2006/01/04(水) 02:24:24
ほんとツマンネ。
354 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:24:52
>>351 日常はどうかはわからないが、
2ちゃんねるの発言がマッチョになる、のはなぜか、
ということですね。
355 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:25:17
ぴかぁは理論的なものを書くよりも
小説書いたほうがいいね。
356 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:26:27
そうだな、小説ならキテレツなものが書けるだろう。
>>349 それはちょっと違うと思うな。
ネットでの議論というのは、2ちゃんねるにしても細かいカテゴリー分け
(コンテクストの共有)の後の議論という大前提があるからね。
「お前はそもそもなんでこの板に来ているの?」という問いかけがまずあるわけだ。
この問いかけを忘れて発言の過剰性、自己存在の過剰性に没入することはできても、
やはり夢はさめる。新規参入者などによって。
358 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:32:07
>>357 2ちゃんねるのカテゴリー分けはわかります。
しかし2ちゃんねるのレスの多くが、コンスタティブでなく、
パフォーマティブである。
まさに「2ちゃんねる」というもの、そのマッチョ性を
語っているわけです。
オチ
360 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 02:33:48
>>349 「真意」と言うとき、それぞれの話者がそれぞれの
納得を得られる範囲で概念が共有されればそれで
十分コミュニケーションは取れますよね。
もっと話し合ってみると実は全然お互いの「共通理解」が
異なっていた、と言うこともあると思いますが、それは
議論がそもそも時間的空間的技術的限定を受けるためで、
顔をつきあわせていてもそれは変わらないですよね
(もちろん「理解」というものは究極的には「身体的」なものだと思います)
だから自身の認識の枠内で受け入れられれば議論は継続される。
コミュニケーションは行われる。そのとき、お互いが議論に置いて発見
するのはお互いの認識の枠内での発見であり、更新された認識の枠の
発見であると思うのです。つまりそれぞれがてんでんばらばらなことを
実は「発見」していてもコミュニケーションになるわけです。というか、
それこそがコミュニケーションの本義だと思うのです。
相手の言葉に自分の言葉を重ね合わせてそこから新たな発見をする。
だからリアルな話し合いでも、発言は過剰になり、自己存在は過剰になります。
朝まで生テレビのように。
で、2chのようなネットの議論がリアルと違うのは、やはり「間」が無い、ということに
尽きる気がします。コミュニケーションを「言葉」以外で行うことが出来ないから、
リアルでの話し合いよりも頻繁に、挨拶のようなコミュニケーションのための言葉と
議論のようなメッセージを伝える言葉を同じ枠内でやりとりしなければならない。
それが発言の過剰性、自己存在の過剰性を誘発するとは思います。
考えて発言するよりも、「反応する」というように。
その際、社会的な言説が「マッチョ的」であれば、マッチョ的になるのでは?
ああ、「間」についてはすでにぴかぁ〜さんが発言されていましたね。
362 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:40:10
多少無理してでも形式化して語ってくれない?
読んでられない。
363 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:40:22
>>360 >だからリアルな話し合いでも、発言は過剰になり、自己存在は過剰になります。
>朝まで生テレビのように。
朝生の例は面白いですね。しかしあれはすれ違うように作られている。
議題、論者の選定などで。
あーあ、注意されたのに、
パクリの間を与えちゃ駄目だよ。
>>358 レスの質は板によってぜんぜん違うよ。クラシック板とか行ったことある?
とてもコンスタティヴだよ。コテが嫌われるにも関わらず、書きこみ内容が
バラバラに拡散されることもない。
哲学板もああいう雰囲気になってくれればいいと密かに思っているんだが。
東信者だけでしょ。
367 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 02:43:07
でも何となく理解が深まりましたよ。
ぴかぁ〜さんの「真意」を勝手に想像しました。
挑発的な発言がなければ議論はまわらない。結論的な(オチ、ですか?)
レスには発言しにくいんですね。
そこで挑発的な、意味の取りにくい発言をすることでレスが活発化する。
つまりこれはセミナールなわけですね。
で、「つまんね」で終わるんですかね、詩人の人?w)
368 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:44:31
2ちゃんの発言がマッチョなんは発言に伴う責任や危険性が
少ないからに決まってるやないか、ぼけ
そもそもマッチョて何やねん
哲板で行なわれる正当な議論かて
自分の意見が正しいと示す為の
ある種マッチョな行為やないか
ヘタレが息巻いてマッチョなんて単語持ち出したら
自らの首絞めてガリガリになるだけだわ
わかったら、調子こいてマッチョやら言うてないで
違うアプローチからあぼーん語っとけや!ぼけ!寝る!
369 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:44:48
>>365 2ちゃんねるは終わったなどと言われる中で、
コンスタティブな有効性というのもいわれますね。
たとえば家電板などでの、家電製品の情報は買う上で有効だなど。
しかし一般的に「2ちゃんねらー」という蔑視は、マッチョ的ですね。
370 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:46:27
議論がループしてるよね。
371 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:47:46
>>368 「マッチョ」という言葉を使うことのマッチョ性ですね。
少しネタバレですね。w
372 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:48:01
2ちゃんねるが終わったのなら、2ちゃんやめろよな
373 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 02:49:17
>>364 残念ながらパクられませんよ。
なぜなら私の「腑に落ちた」理解は私の個人的な
経験でしかあり得ないからです。
逆に議論しなければそのようなモノは生まれ得なかった。
議論が共同作業であり場が開かれている以上、パクられて
ナンボですよw)
今日もたくさんコピったと。
375 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 02:51:20
議論してる時点で負けてるんじゃない?
なんだかんだでコピーされる知識を披露してんだから。
376 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 02:53:46
コミュニケーションとは「間」の開けないなのですね。
非完結性によって、相手に完結したい、ツッコミたいという
気持ち悪さを与える。
相手を意味の宙づりにするということですが、
2ちゃんねるでは、この宙づりがとても容易にできる。
そのような場であることがコンテクストとして共有されている。
それが「2ちゃねらー」という共同体の意味ですね。
だからそのような場が読めないものは、
「ネタにマジレスかっこわるい」となるのですね。
kimox
>>369 そうそう。自分の消費の参考にするには2ちゃんねるはまだまだ有効。
特にオープン価格が主流になった家電商品と、海外旅行などのサービス商品ね。
あと、ちゃねらー自身がちゃねらーというパブリックイメージに自ら束縛されはじめて
きたね。これはあんまり面白くない。コンスタティブに書いたほうが面白いことも
無理にパフォーマティブに書かなくてはいけない、と勝手に思い込んでいる。
またパクリの材料を与えてしまいましたな。
そろそろ寝ますね。
381 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:03:18
>>378 もはや、パブリックイメージ以外に2ちゃんねるはないと
思います。ネオ麦茶以来、マスメディアとともに
「2ちゃんねる」は育ってきたわけですから。
しかしこの根元性には、ネットのディスコミュニケーションの
乗り越えに、2ちゃんねるの革新性があり、成功した。
すなわち、ディスコミュニティーションそのものをコンテクストとする。
ネットコミュニケーションは分かり合えないんだ、ということを
コンテクストにして分かりあうことによってパフォーマティブが
作動するということ。わかるかな?
わかるかな?
383 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 03:06:10
>>381 さあ、はやくパンにマヨネーズを塗る作業に戻るんだ。
マヨネーズおいしい
>>376 意識的にネタとして書いたものにマジレスした人に「ネタにマジレスかっこわるい」
というならまだいいのよ。
問題は、慣れたちゃねらーは自分の書きこみが好意的にとられたら「あれはマジだった」
批判的に取られたら「あれはネタだった」と後付けで言うでしょう?
そりゃあ、一見さんは空気読めないし、ただの恣意的排除にすぎないよ。
386 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:08:48
ネットという困難な状況で、コンスタティブなコミュニケーションによって、
分かりあおうと朝生化して、最後は炎上するするよいも、
コンスタティブでは分かり合えないということを共有しあうという、
メタな立場にたつ、ネットコミュニケーションの常連、達人という
立ち位置が2ちゃんねらーなわけです。
だからその根底にコンスタティブな議論を馬鹿にするのですね。
これが初心者が、2ちゃんねるに恐怖する、とけ込めない
2ちゃんねる的シニシズムの元ですね。
387 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:10:07
最後は炎上するよりも、
マヨネーズ…
それも哲学ですな。
389 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:12:21
ネットでコンスタティブなコミュニケーションによって、
分かりあおうと朝生化して、最後は炎上するした経験のある人にはわかります。
パーソナルな掲示板、最近ではブログ、mixiで、炎上が問題になっていますが、
炎上は悪意で怒るのでなく、真面目な人の相違ほど、逃げ場がなくなり、
過熱するのです。
マヨネーズとあぼーんの快楽は同じですよ。
深い・・・
>>381 違うと思う。
ディスコミュニケーションそのものをコンテクストとしたらパフォーマティブな
言説は作動しないんだよ。モームスでもハイデガーでもどんな内容でも変わらない
構造主義の項のようなものになってしまう。全てを語れるが何も語れないんだな。
>>386 なるほどです。
一見さんには、その弁証法的な運動の経過は
見えませんからキツイです。
リーマン寝ないの?
ネオ麦茶か、懐かしいな。
ヤツが2ちゃんねるに存在していた時こそ2ちゃんねる最盛期だたな。
うん、寝ようと思ったんだけど、面白い議論が続いてるんで
ついつい。
空気読めなくてごめんよ……
朝早いなら早く寝たほうがいいよ。
2000年から居ついてるんでしょ?
2ちゃんねるのプロフェッショナルじゃん。
399 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:20:38
>>393 のまネコ騒動など、2ちゃんねるも開かれていますが、
内部としても作動しているのですね。
内部とは、外部を排除するから内部なのです。
そこには、「お、おまえも2ちゃねらーか」、と確認する、
ポイントができあがっているのです。
マッチョは、このような内部であることを証明でもあります。
マッチョは誰かを排除するそぶりなわけです。
より僕は2ちゃねらーという内部にいることの喜びなわけです。
不良少年がマッチョ的に悪いことを競い合うようなことですね。
そこでオートポイエーシスですよ。
>>389 なら初心者は炎上を経験するしかないっすよね。
大塚英志の暴れっぷりはそんな理解でいいのかしら?
ていうか、その「炎上の経験」を軸にした達人と初心者の
立ち位置って、戦争−運動−アイロニー−シニカル−ロマン主義の
戦後精神史に重なる気がしますね。
北田暁大ですな。
でもぴかぁの意見は基本的に常駐コテハンの心構え、にしか読めないなあ。
一方の極で哲学入門の前書きみたいなのを延々と熱く語る常駐コテがいる。
もう一方の極でぴかぁのようにイロニーそのものになりきる常駐コテがいる。
それ以前に君らはなぜそんなに常駐コテにこだわるのか?
そこが全く見えてこないのね。
ぴかぁ〜もついに北田をパクったか。
ぴかぁ〜はイロニーではないね。
もっと気楽なタイプ。
407 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:28:27
>>401 まず、2ちゃねらーにくるとある種の恐怖を味わうと思いますよ。
2ちゃねらーはまず(人格)否定から来るからです。
コンテクストの見えないところからの否定は、ものすごい恐怖です。
その経験によって、この否定がマジでなく、スタイルであることが
だんだんわかってきて、まねしていく、内部に帰属していくということでしょう。
>戦争−運動−アイロニー−シニカル−ロマン主義
北田において、2ちゃんねるはロマン主義的シニシズムでしたね。
気楽すぎて、イロニーとは対極にいるよね。
そこでオートポイエーシスですよ。
410 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:31:39
>>404 確かに哲学板は比較的ベタですね。
規制議論などでも、素朴に理想的な掲示板が語られる。
隣の板で、シニカルのるつぼのような板があるのに。
それを経験したものとの差が、規制議論ででているように思います。
北田のパクりは認めるんだね。
ルーマンはどうよ?ぴかぁ〜
>>408 書きこみ内容は気楽でも、書きこみ回数と書きこみ時間はシリアスだよ、ぴかぁは。
2ちゃんねるはここが怖い。「2006/01/04(水) 03:28:27 」という情報は変えられないんだな。
北田と東ってどうなの?
>>407 私コテハンのようにリーマンで、学生時代は運動もしていたんですがw)
リアルでも同じですよ、人格否定。徹底的に追い込んでいく。意識的に
排除される「外部の人間」を作ることで内部の結束を固めようとする。
これに本気で悔しがって、どうやって打ち負かそうかガンガルことで
一人前?になっていく。
その対抗手段は、場面場面での切り返し、「型」を覚えることに
尽きますね。言われるとおり、「スタイル」の問題です。
相手がマジ(転移)だろうが、スタイルだろうが、言葉でのやりとりで
戦う以上、戦術を知ってしまえば対抗できるわけです。
不毛ですが、これ以上の教育の仕方を日本社会は知らない、残念ですが。
>北田氏のパクリ
そんな概念さえパクリにしたら、あらゆる概念がパクリでしょ。
もともと北田氏だってヘーゲル(コジェーヴ)からの概念の借用なわけだし。
とベタに反応するのがカッコワルイ訳ですねw)
417 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:38:07
>>412 ルーマンは難解ですね。馬場ちゃん本しか読んでいません。
しかしシステム論の難しさというのは、
複雑すぎて、現象描写に終始するという面白くなさがあります。
北田のパクりばっかではな。
そこがループの軸なのですよ。
>>410 そうじゃなくてさ。なぜ戦略立ててまで常駐コテハン続けなきゃならないのかってこと。
コンスタティブに書いてほっとけばいいだけの話ではないか?
別に2ちゃんねるで何かを布教・宣伝したいわけじゃないだろ。
あとは自己顕示欲だけってことになっちゃうけど。
北田はコジェーブとかからストレートにパクってんじゃない罠。
ほんとに戦略か?
422 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:42:43
>>416 >リアルでも同じですよ、人格否定。徹底的に追い込んでいく。意識的に
>排除される「外部の人間」を作ることで内部の結束を固めようとする。
>これに本気で悔しがって、どうやって打ち負かそうかガンガルことで
>一人前?になっていく。
いまどき?と言う感じもしますが?
たんに趣味なのでは。
424 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:44:22
>>422 私のいる世界が古いのかも知れませんね。
今時は人格否定ではなくて放置もしくは切り捨てですかね?
他のスタイルがないってのは、
自己顕示欲しかないってことだしね。
シカトですね。
今の時代では。
>>414 平日の深夜に「お前ニートだろ」「お前こそニートだろ」みたいな会話する
滑稽さが実はもろに出てるんだ、2ちゃんは。
今議論してる奴らは俺も含めて社会的にはロクな奴じゃないわけ。
でももろに出ているからこそ忘却しやすい。
>>428 そっか……
リアルでシカト、ネットで炎上ですか。
良くそのギャップに耐えられるなぁw)
そうでもないと思うが。
434 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:53:49
>>430 >リアルでシカト、ネットで炎上ですか。
>良くそのギャップに耐えられるなぁw)
たしかにそういわれると面白いですね。
しかし繋がりはあるでしょう。
価値の分散化ですね。
リアルでは相手の価値を尊重し、
ネットでは価値の近い相手を捜して、熱く語る故に炎上する。
435 :
まずる:2006/01/04(水) 03:54:53
>>429 一緒にしないで
って言いたいんだけど。
パソコンをつかう仕事してる人は
大体夜中まで仕事してるし。
そこでオートポイエーシスですよ。
437 :
まずる:2006/01/04(水) 03:57:09
>>434 僕も炎上したいから、目印の君に接近してるんだよ。
僕のハートに火をつけてよ。
>>424 ぴかぁ〜に対する根本的な疑問なのさ。
今の時代、リアル社会でアイロニカルな立場しか選べないというならわかる。
俺も実際そうだし。リアル社会から降りるなら「死」しかないしな。
でも「やめても死なない2ちゃんねる」でならどんな立場を選んでも別にどうでもいいよな。
ひょっとしてぴかぁ〜にはコミュニケーションの場が2ちゃんねるしかないのかなと。
439 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 03:59:04
>>437 本当に炎上したいなら、マジなブログに殴り込むんだね。
本当にぴかぁ〜にはコミュニケーションの場が2ちゃんねるしかないでしょ。
441 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:01:19
>>438 ってかさ、マジな話。さっきから、キミがマッチョな感じなのは
伝わるのだけど、言っていることが理解できないのだけど?
もっとわかりやすくキボーン!
それはぴかぁ〜が頭悪いからでそ?
>>434 鈴木謙介さんの自我の二極化、と言う意味が
よりはっきり分かりました。
身体的な接触を欠いた「他者(他我ですかね)」が
肥大化するわけですね。
先ほどのマッチョとの関わりを感じます。
より記号化された他我を消費するわけですね。
444 :
まずる:2006/01/04(水) 04:04:33
>>439 君のブログ?しらないよ。僕だったらホムペとブログ持ってるけど。。
記号化も何もたんなるネット中毒でしょ?
446 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:06:28
>>444 だからボクはダメだって。
どこまでいいから、マジそうは人のところに殴り込みな。
ホムペとブログのアドレスおしえな!
ぴかぁ〜のプログ教えてあげればいいじゃん。
そこで炎上したらいい。
448 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:11:54
炎上しないよ。俺を炎上させたらたいしたもんだよ。
コメント削除するからね。
>>441 ん、言いたいことは単純だよ。2ちゃんねるも含めてネットコミュニケーションの
場はたくさんあるわけだけど、でもネットコミュニケーションの場を持つか
持たないかがコミュニケーションの場を持つか持たないかに直結してるわけじゃないでしょ。
少なくとも今の社会の標準的な人々のあいだでは。
ぴかぁ〜個人にとって死活問題だというならそれはそれでいいんだけどさ、
それなら個人の問題として語らなきゃ意味がないんだよね。
死活問題なんだよ、少なくともぴかぁ〜にとっては。
453 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:19:25
>>450 やっぱり、わからない。
なんで2ちゃんねるの哲学板にこだわるのか?ってことで良いのかな?
まず2ちゃんねる以外では「哲学」に興味をもつ知り合いはいない。
「哲学」というマイナーな分野で、2ちゃんねるがもっとも人が多くて活発だから。
2ちゃんねるだけでなく、ブログもやっている。
それぞれ使い分けている。
これでよい?
>>438 >今の時代、リアル社会でアイロニカルな立場しか選べないというならわかる。
>俺も実際そうだし。リアル社会から降りるなら「死」しかないしな。
ここのところよく分からないです。
リアル社会から降りる、とは?
長州小力好きなの?
456 :
まずる:2006/01/04(水) 04:20:13
>>447 ミクシー入ってる?
何がどうあろうと、僕のホムペは君には理解できない
世界なような気がする。
これでぴかぁ〜が理系板に行かない理由がわかりましたな。
北田とかが出てくるならギリギリ理解できるレベルなんじゃない?
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:24:30
>>456 入ってるよ!
理解できないか、できるか、みたみないとわからない。
よーし、ぴかぁ〜のmixiのアド晒せ。
462 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:26:08
mixiどうよ?
464 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:27:24
mixiは最近はじめたけど、使い方がわかんないね。
465 :
まずる:2006/01/04(水) 04:29:40
>>458 ドロップアウトするのは、自身が属しているコミュニティーから
と言う意味ですか?
そこから離れたら、「死」しか無いんですか?
それは、一般的な話ですかね。よくわからんです。
>>453 それだけだったら淡々と書きこみしていればいいだけのことじゃないだろうか。
ベタだのメタだのは他人の評価に任せてどこ吹く風でいいんじゃない?
>>454 リアル社会ではコミュニケーションや主体性の確保が必要だから。主体であることや
コミュニケーションをやめることはできないでしょ?降りれない。
ネットではいつでも主体であることやコミュニケーションやめることができる。
なのになぜぴかぁはイロニーまで使ってネット上でそれらを保持しようとするのか。
まったくわからないんです。
一般的でしょ。
君が一般人ならね。
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:33:41
>>465 承認したべ。ってかmixiほとんど活動してないからね。
471 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:35:42
>それだけだったら淡々と書きこみしていればいいだけのことじゃないだろうか。
>ベタだのメタだのは他人の評価に任せてどこ吹く風でいいんじゃない?
よくわからな。ほら、リーマンの聞いているだろう。
キミがなにがいいたいのか、よくわからないんだよ。
どこ吹く風でもよいし、なくてもよいのでは???
472 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:36:25
>>470 mixiの使いからわからんから。
どやって友達さがすの?
ぴかぁ〜個人にとって死活問題なんだよ。
しろうとのコミュニティーに入れば?
475 :
まずる:2006/01/04(水) 04:37:48
意外につかえるよ?
ああ、「不可能」という意味の「死」ね。
使えるか?
478 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/04(水) 04:40:23
まだやっていたのか。。。
東をキーワードにたどってけば?
480 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:41:30
>>474 どのように?
ってか、mixiコミュニティーでほとんどレスしていないんですが
481 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/04(水) 04:42:21
ぴかぁはクオリアとか書いてる時点でもう×でしょw
使い方は知らん。
まずるにでも聞け。
483 :
まずる:2006/01/04(水) 04:42:44
>>477 うん。
なんかいろんな意味で楽しいじゃん。
日記みると、ただの変態なだけどさ。
484 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:43:13
mixiにはメタがない。
なぜにあんなに懸命に自分のデータをさらすのか。
もはや2ちゃんねるとmixiのセキュリティーレベルはかわらないのに。
>>466 死よりも発狂といったほうがいいか。
リアル社会で主体性の保持やコミュニケーションに失敗した者がネットで代替し
中毒になるというのはよくわかる。ある意味自然なことだ。
リアル社会で健全な(と主張している)ぴかぁ君が常駐コテハンな理由がわからないんだよ。
486 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:44:55
>リアル社会で健全な(と主張している)ぴかぁ君が常駐コテハンな理由がわからないんだよ。
なるほど、そういう偏見ね。
2ちゃねらーなんて、社会では善良な市民でしょ。
いまどき、普通じゃねぁ?
487 :
まずる:2006/01/04(水) 04:45:07
>>484 楽しいじゃん。
まぁ、どうせ僕は2ちゃんでも顔写真やHP
晒されまくりだし。(引越し5回目)
488 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:46:36
ってか、mixiのコミュニティーは人少ないし、
どうやって楽しんでるの?
メッセージのやり取りがおもしろいの?
489 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/04(水) 04:46:46
>>485 哲学語るためじゃないんですか?
リアルでのコミュニティーに参加したらどう?って
意味ですか?
私の周りにも哲学の話題を深められる人、いないです。
私は常駐コテハンになるほど気力も体力もないですが。
まずるは池面か?
492 :
まずる:2006/01/04(水) 04:49:54
>>488 日記へのコメントかな。
紙面じゃ感想もらえないでしょ。
>>490 そういう事にしておいて。
493 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/04(水) 04:50:38
>>484 mixiにはメタがないっていうよりも、メタを排撃するための環境設定でしょ、あそこは。
ヒトとヒトがべったりだし。
494 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:51:05
おーまずるのmixiにぎわってるな。
いいよな、まずるは人を引きつけるネタがあるから。
哲学ネタなんか誰もみないよ。
哲学ネタで人が集まるのは、日本ではこの板だけでしょう。
495 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:52:27
>>494 ストレートにオタネタにすればいいじゃん。
497 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/04(水) 04:53:08
mixiはとっくの昔にやめたよ。
498 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:53:29
mixiに向いていないのがこれでよくわかった。
ブログでよいよ。
もうやめんのか?はやすぎるぞ
500 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:55:15
501 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:56:15
>>499 やめないけど。残していると便利ではある。
>>486 それはあまりにもきれいごと。
>>489 >哲学語るためじゃないんですか?
それだとこんどはぴかぁのパクリの理由がわからなくなる。
どう考えてもおかしいよ。
萌えネタでもいいしね。
504 :
まずる:2006/01/04(水) 04:57:50
>>494 そう?哲学してる人も日常書けばいいじゃん。
ボキャブラリー豊富な方が人生タノシイヨ。
>>502 ぴかぁ〜を買い被りすぎなのでは?
ただのパクるオヤジですよ。
506 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 04:59:21
>>502 なんか屈折してるな。自分の心配した方がよいのでは?
507 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/04(水) 05:01:52
ぴかぁはブログ書いてるけど、ネット以外で何かやろうとは思わないわけ?
絵書いたり、写真撮ったり、音楽作ったり、政治家になってみたり、とか。
ぴかぁ〜が自分の心配しろよと。
509 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 05:03:19
>>504 なら、ブログの方がよいな。
壁を作らずに、公開する方がよい。
30過ぎたろ?
511 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 05:04:19
>>507 なんどもいうけど、ボクはリーマンですよ。
お仕事の合間ですから。
いや、べつにいいんだけどね。
ちなみにぴかぁの部屋の間取りは?
今日ぼくは部屋探しに出かけるのです。
そうか、世の中いろんな会社があるもんだな。
ちなみになんの仕事?
514 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 05:08:09
さあ、そろそろ寝るか。
3年ぶりぐらいに、2ちゃんでこんなに雑談したな。
では、おやすみALL!
はい、また。おやすみなさい。
>>506 屈折というよりいやらしい性格だね、俺は。
>>リアル社会で健全な(と主張している)ぴかぁ君が常駐コテハンな理由がわからないんだよ。
>なるほど、そういう偏見ね。
ここなんだよな、いちばん引っかかるのは。
リアル社会とネット社会、両方で長期間アイロニーを成立させることが本当にできるのだろうか。
どちらかがシリアスなのではないか?
517 :
まずる:2006/01/04(水) 05:09:54
>>ぴか
ミクシーでも一緒じゃん。
紹介文とか最高に好き。
ホムペはどう?
遁走するぴかぁ。
何度ぴかぁの背中を見送ったか。
ぴかぁが金に任せて大量の本を斜め読みしていることは間違いないだろう。
ボンボン30代の無職、もしくは高額の手当てをもらっている●●●●●か?
520 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 05:20:49
触れてしまえば、消えるだけ。
シャボンの泡に、われ泣きぬれて蟹とたわうわなにをくぁwせdrftgyふじこlp
521 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/04(水) 05:22:22
だからリーマンだって。
普通は携帯から仕事の合間に打ってるのさ。
携帯から打ったこと人ならわかるけど、
返信するとき、そのレスのコピペができないんだよ。
さらに長文打つのが大変。
レスの送りが早くなっても対応ができない。
だから基本的に返答ができない。
なんかボクが自閉症的に黙々とレスしていると言われるけど、
そういう理由なわけ。黙々と独り言するしかないわけ。
あ〜もうすぐお正月おやすみも終わりだね...zzz...
>>521 ブログからのコピペはできるのかよ。もうちっとマシな嘘つきなよ。
523 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 06:36:14
例えば、浮気がばれそうになった時は、なんでもいいから言い訳しろ!
っていう、アレと同じなのかもしれないね。アヒャ
524 :
まずる:2006/01/04(水) 08:16:23
浮気なんてコソコソするもんじゃないよね。
おまえら働け
526 :
まずる:2006/01/04(水) 09:44:02
僕はフリーでやってんので、詰め込み過ぎて
年明けは仕事受けないんですよ。海外行くし。
雇われさんは頑張れ。
うるせーデカちん
528 :
まずる:2006/01/04(水) 15:46:50
ありがとう。よちよち。
529 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 21:03:29
じっと手をみる
>>519 図書館に山ほど本はありますよ。
ネットで検索して予約すれば手に入れるのも簡単だし。
なにより絶版になった本でもほとんどあるので重宝しています。
なぜ擁護する?
斉藤環センセのように、肯定してみたいのです。
逆に言えば、大塚英志さんのようなプロレスが出来ないのです。
一言で言うと、「空気の読めない奴」なのです。
ああ、また空気を読まない発言をしてしまった……
そんなんでひとつ、よろしくどうぞ。
現実的には519はあってると思うよ。
まずるとリーマンつまんないからコテ外しよろしく。
535 :
まずる:2006/01/05(木) 01:59:00
よちよち。
536 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 02:40:25
ネットコミュニケーションと精神分析、そして2ちゃんねるのマッチョ化
にもどろう。
精神分析の効果とは、欲望の承認であう。社会的に承認されない様々な行為、考えを
言葉にして、承認されること、それは誰かの「OK」ではなく、
誰か(精神分析医)に告白することによって、自分が納得する、あるいは
分析医の目線で客観視される、ということである。
これはたとえば宗教的な「懺悔」であったり、友達への相談であったりする、
快楽である。
ネットはこのような快楽装置として働いている。
マッチョに語ることの、その裏に、抑圧された「後ろめたさ」を
公開し、懺悔することにある。
たとえば、「女はものだ。つぎつぎやりまくってるぜ」というマッチョ発言には、
言葉にすることによって、抑圧された「うしろめたさ」を現前化し、解放する快楽がある。
ある意味で、ボクはボクが間違っていることを知っている、という告白である。
537 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 02:44:21
悪名高き2ちゃねらーが善良な市民であるというギャップは、
このような精神分析的行為として理解できる。
それは、抑圧されたものをはき出す、分析装置として作動しているのだ。
だからマッチョ化され、懸命に悪態は付かれるのである。
たとえはそれは悪いことの告白ということではなく、
悪いことを想像してしまった自分への自己懲罰である。
たとえば、ロリに萌えてしまうことを言えない、すなわち抑圧している
自分を、ここで暴露することの快楽。
さらに過激なことをいうことの快楽である。
538 :
まずる:2006/01/05(木) 02:48:47
>>536 女にモノ扱いされたせいか、逆恨みで「おんなはモノだ!肉便器!」
なんて言ってる奴もいるけどね〜。
539 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 02:52:44
面白いのが、タレントがむしろテレビで、自己暴露することだ。
テレビという公共の場で、暴露することで、許されるという
感じがある。
たとえば、素人も浮気などを、テレビなのでは、告白する。
許されみたいない感じがある。
2chにおける発言ー告白っていうのはある種の儀式ですね。
象徴界というよそよそしい位相を自己の半内界に位置づけるための儀式。
そのことで自他の境界は曖昧になり、また匿名性がその持続を下支えする。
心の中でつぶやくしかなかったことが、掲示板において擬似的に外化される。
ぴかぁの言うように承認される快楽ってことですね。
541 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 03:00:01
誰にも言えずに、抑圧すること、それが心の病になる。
どのような形であれ、言葉にすること。
たとえば、これは日記の精神分析的な効果である。
ネットとは、「王様の耳はロバの耳」であり、
便所の落書きの場である。
それはまさにネットが精神分析装置であるからだ。
そしてこれが「まなざしの快楽」の本質である。
いろんなおもちゃがあるけど電池はおなじ
ちゅーか電池が働きたくておもちゃを自分に被せる
そのおもちゃのひとつが愛だと思いますね
単一電池に合うおもちゃは少ない
543 :
まずる:2006/01/05(木) 03:01:10
でも不思議だよね。
本当に好きな奴にだけは、親にも言えないような
性癖や最悪な部分が出せちゃうから。
544 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/05(木) 03:03:01
>>543 それを、承認されたいという快楽、
あるいは踏み絵ですね。
「こんな俺でも好きなのか!」
545 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 03:03:11
それが最悪の部分でない事を知ってるからだわ
象徴界の半内界化は阿部和重の小説にも頻繁に出てくるものです。
まあ、要はドンキホーテなわけですが。主人公が身の回りの出来事を
全て理性的に処理しようとするゆえに象徴界が怪物化するわけですね。
象徴界の怪物化、現実界化が主人公に世界との闘争の場を与え、作品に
熱をもたらすわけですが、その熱は妄想によるものである以上、極限的には
妄想からの脱却が生じ、現実のばかばかしさ、他者の醒めた眼差しが引き起こす
笑い、今宵もお時間になりました、で終了ですね。
すみません前レス
250ぐらいだかに”愛”って単語が出てた頃に書いちゃいました
そしたらどっと+300ぐらい新規が増えて‥
548 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 03:33:11
で?
愛
550 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 03:40:45
私の知人に「上尾」と名乗る者がおる。
彼はのせりふは、こうだった。
「僕には愛がないんです。」と・・・
「ウケないから、もうやめたら?」
と、つっこんだのは言うまでもない。
551 :
まずる:2006/01/05(木) 03:41:01
>>544 本命とは声だけの関係にして、裸より恥ずかしいものを見せる
んですよ。エロチックだろ?
どうせ相手は既婚者だし、俺が踏み出せるのはここまでって
あきらめのような気もするけどね。
>>545 最悪な部分だと思うよ。なぜか話せるんだよね。
「今日は3回オナニーしたよ」なんて普通に話せるよ。
552 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 03:48:19
「で、おかずは誰だったの?」と、必ず聴いてくる・・・だろ?
それに対する答えは結構重要。しくじってはならないのである。決して・・・
フォー!
ま、まずるちゃんたら、ふ、不倫ですってぇ!
554 :
まずる:2006/01/05(木) 03:51:26
>>552 答えた事ないね。
「何、お前って言って欲しい?」なんていいます。
>>553 不倫じゃないですよ。これは恋愛です。
555 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 03:55:14
今回は「あぼーんする快楽」にふさわしい内容ですな?
557 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 04:13:43
はい らっせらぁ〜 らっせらぁ〜
\ )ヽ_人ノ、,、ノヽ /( /
ヽ`ヽノ ∩___∩ ヽ_ノ(
_ノ(ヽ、. | ノ ヽ /) \_
)(((i ) / (●), (●)| ( i))) (
//∠彡 ,,ノ(、_, )ヽ |_ゝ \'\
( ___、 ト‐=‐ァ' ,__ )
| `ニニ´ /´
ぴかぁがあほすぎる件について。
目のつけどころはいいよね、まなざしの快楽とか。
でも直観把握力がないから開始点だけは良くてあとは全部こじつけw
些細なことをさも本質的なことのようにジャーゴンで粉飾する典型的なバカポモ野郎。
それがぴかぁ〜クオリティ
559 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 04:14:43
別にオナニー三回したなんてのは最悪の話でも何でもないやろ
許容内だと認識した上で行なってると思われるわ
承認の快楽であるのは確かやろけども
踏絵は大袈裟やろしな
踏絵ってのは彼女の母親と浮気した項を彼女に伝える位の
覚悟が要求されるべきやわ
君のはただ相手を選んで自分を受け入れてくれる部分を出してる
に過ぎないわ
まあそれでええやけども
560 :
まずる:2006/01/05(木) 04:23:55
最悪な事より、ずっと恥ずかしい話しでしょ。
友達や親に「オナニー三回しました」なんて言うか?
これは純愛なんですよ。
僕は彼女に対してセックスする目的も何も無い。
存在自体があってほしいと願う純粋な欲望。
つーかテメーつみきだろ。
↑
なにこの白痴?
562 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 04:36:27
友達との会話なら普通に行なわれ
親であっても笑いに変換できる間であれば余裕やろ
君はどんなけ罪の意識を背負って自慰行為してんのよ
まあ君の内省はもうしまいにしよか
↑
二回も読み直したのに結像しません。アル意味クリエイティヴ
564 :
まずる:2006/01/05(木) 04:55:51
>友達との会話なら普通に行なわれ
>親であっても笑いに変換できる間であれば余裕やろ
無理だろ。ていうか無理だろ。
自分を笑いのネタにするほど滑稽に生きてないし。
565 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 05:02:11
正月って、ひまだよね?
おまえだけな、この穀潰しが!
567 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 10:46:42
晒しあげ
568 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 13:09:37
ネット上でオナニー三回してる事を彼女に伝え喜んでいると
告白してる事の方が、ある意味自分をネタにした滑稽な行為に見えるわ
569 :
考える名無しさん:2006/01/05(木) 15:56:27
>まずる
哲学板で、こんな事打ち込むからには、覚悟は出来ておるのだろう?
そう言ってましたよ、
ぴかぁ〜が。
hikikomorisure
ぴかちゃんに質問。
ケース1
現実社会において、非難される人を庇うという行為は、
少なからず危険を伴なうと思います。
なぜなら、庇う人も庇われる人同様に非難の対象となり得るから。
ケース2
匿名性が高い、そして、自作自演の可能性が非常に高くなる場所においては、
非難される人と庇う人(それが実際に別の人物が庇っているとしても)が、
同じ人物だと思い込まされるという現象が見られます。
この現象においても庇う人には危険が伴いますが、
庇う人の匿名性が保たれている以上、ケース1に比べて遥かに危険が少ないでしょう。
以上の事からケース1では非難の対象が分散され、一個人に非難が向けられる事が少なくなりますが、
ケース2においては最初に非難された人に非難が集中されます。
今の哲学板がケース2に当てはまると思いますが、このケース2の状況において、
非難したい人を非難するには、直接非難するよりも、庇うという行為が適切なのかと思いました。
これは匿名性の透明度が非難をするという行為に対して、どう働きかけるのかという問題ですが、
例えば、「ぴかぁ〜」という人を潰したければ、匿名で庇えばよいのでしょうか。
>>571 ぴかぁ〜を潰したいなら自分も常駐ヒッキーになって連投することだね。
純一は文面が短すぎ、内容が浅すぎた。あれじゃどんな無知な削除人でも荒らし認定
してしまう。
要するにぴかぁ〜と同じような、ジャーゴンとなりきり文体で水増しした文章を
ぴかぁ〜のスレに連投すりゃいいのだ。
君の人生のためにもおすすめはしないがね。
573 :
まずる:2006/01/05(木) 22:10:37
オナニーは例えばの話なんですがね。
まずるは純一か?
575 :
まずる:2006/01/06(金) 00:59:54
僕、以前いた蘭貢って名前できてましたよ。
576 :
考える名無しさん:2006/01/06(金) 04:14:49
>>572 そう思うんだったら、YOU〜それ、実践しちゃいなよ?
(俺には、出来ない。)
577 :
576:2006/01/06(金) 05:06:03
579 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 11:33:47
ラカン思想の問題はわかっている。
フロイトの無意識理解にあらわれている。フロイトの豊かでとらえられない、たびたびかわる無意識理解に対して
ラカンの無意識は言語で構造化されている。
これは言語で構造化されている無意識を、無意識と予防と理解したほうが良いだろう。
では残りの無意識は何処へ?現実界である。
ラカンの現実界は異次元ポケットであり、都合の悪いものは何でも入る。
しかしこれは「語りえぬもの」だ。ラカンは哲学としてのマナーに律儀である。
生物学者、神経学者などの科学者としての、語りえぬものこそ大いに語るフロイトの違いであり、
まさにヴィトはフロイトを批判したのであるが、またヴィトは自らからをフロイトの弟子と呼んだのである。
580 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 12:12:22
しかし本質的な問題はフロイトの生き生きした描写を死したシニフィアンの構造に還元したことではなく、
ラカンの思想が僕たちを見事に描写してしまうこてである。
金玉のちいせえ野郎だなw
582 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 13:01:10
ボクが考えるのはシニフィアンの構造になぜ死臭がただようのか
たとえばラカンは名付けはものの殺害であるという。たとえば「猫」と言語に還元することによりそのものそのものは失われる。
しかし還元することそのものが構造化を可能する。そして構造の消失が「死」であり、「生」とは構造のダイナミズムといえないだろうか。
象徴界は一つの生のダイナミズムである。これによりラカンは生の思想の一面とし評価しえないだろうか
583 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 13:13:52
もの(そのもの)であり、生であり、ダイナミズムとは構造のダイナミズムである。
>ラカンの思想が僕たちを見事に描写してしまうこてである。
俺はそれはそれで正直な理論だと評価するが
585 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 13:30:45
しかしこれだけではラカンの思想を生の思想と呼ぶには無理があるだろう。
ラカンへの批判はデカルトを継承するその主体の表象主義であり、すなわち身体性の欠如である。
それがドゥルーズの器官なき身体の意味である。
ラカンの身体は現実界に「抑圧」されている。
しかし生は身体に求められなければならないのだろうか。
ボクが言語構造のダイナミズムと言う生を語るとき、そこにあるのは記号論的観点である。
すなわち身体も構造であり記号作用の一部であるということであり、言語と身体(たとえば細胞、遺伝子)は構造でくくられる。
すなわち生とは構造のダイナミズムである。
586 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 13:43:54
たとえばラカンの欲望は無へ欲望であると、他者の欲望を欲望することであり、そこには明確の対象があるわけでない。
これが否定的に語られるのは本来の私が言語により虚勢されるからである。
この生の私と死の言語の対立はダイナミズムの対立となる。
(現実界の)器質的構造化のダイナミズムと(象徴界の)言語的構造化のダイナミズムの対立である。
これは要素還元論ではなく、非還元論的システム論である。
虚勢じゃなくて去勢でしょ
存在と意味(言語)の対立のことを言ってるのかな?
588 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 16:52:15
さらにラカンがフロイトから受け継いだ身体的次元の欲動は本能とは異なる
人間特有な力としてある。
エロス、タナトスとは生物学的には定義できないものであり、いまも不可解なものとしてある。
特にラカンにおいては、現実界というベールの向こうでその詳細は語られるひつようがない。
さらにラカンが情動などを徹底的に排除し、意味論の世界のみをめざしたのである。
589 :
考える名無しさん:2006/01/06(金) 18:04:06
だめだこりゃ
590 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 18:17:18
オディプスコンプレックスは精神分析の基本となるが
ラカンは初期の考察において、これを現代の核家族化において想像的父と象徴的父の混乱、それによるダブルバインドが問題であると指摘している。
ドゥルーズあるいはフーコーがアンチオディプスというとき欲動を家庭という三角形に閉じ込め、普遍化たことを非難したが
問題は、オディプスよりも精神分析のように去勢を解決作としてよいのかということだ。
この点はフロイトもラカンも疑問を持ち続けてきた。
しかし去勢不全による非社会性はまさに現在にも通じる。
591 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:21:28
たとえば想像関係とは他者の欲望を欲望するというイマジネールな闘争、
ヘーゲル的な主と奴の弁証法である。
ラカン的物語によると、ここに第三者の介入によって、象徴界への参入することで、
この闘争は、収まる。社会の秩序の中の中で関係性が営まれる。
これは一つの物語であるが、ボクたちはこのような想像的で、そして象徴的な
関係で人間関係は営んでいるという実感がある。
たとえば、会社における上司と部下とは、象徴的な上下関係である。
間には、社会的な上下があることによって、闘争へのいたらない。
しかしまたたとえば本音、無礼講などのような、闘争があることも否めない。
社会においてもはや純粋は想像関係はもちろんないが、純粋な象徴関係もない。
たとえばボクは、「消費的」な関係と「創造的」な関係といった。
消費的な関係とは、たとえば打算的な恋愛関係である。
相手が美人である、処女である。その価値(無垢)を消費することで成り立つ。
消費されると魅力なく終わってしまう。
それに対して、創造的な関係とは、関係によって、価値(無垢)が
生み出されるような関係である。
たとえばライバル関係という闘争的であっても、その競争心が
新たな価値を生み出すのである。
これはラカン的には良い転移関係、悪い転移関係に対応するのかもしれない。
ボクはこのような創造的な関係、それは二者間ということではなく、
コミュニティであってもよいにであるが、創造的な内部であり、
「愛」と呼ぶ。
592 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:22:32
そこには強い内部への強い帰属心が生まれるという意味で「愛」と呼ぶ。
593 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:38:56
ここで重要な概念が「無垢」だろう。
ボクは欲望とは無垢への欲望といった。
ラカンは欲望とは他者の欲望への欲望であり、
無への欲望であり、死への欲望であるといった。
ラカンの「無」とボクがいう「無垢」とは如何なる関係があるのだろうか。
ラカンの「無」が決して満たされない欲望であり、
疎外され欠落した主体を示しているのに対して、
ボクの「無垢」とはあたかもなんらかの実態のようである。
これが、先に示した、ラカンの「生の私と死の言語の対立」から
「(現実界の)器質的構造化のダイナミズムと(象徴界の)言語的構造化のダイナミズムの対立」
への変更のポイントとなるだろう。
594 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:47:04
すなわち、無垢とはダイナミズムを支える燃料である。
スタスティックナ反復の中に忍びこむ無垢によって、
変化が生まれ、ダイナミズムが生まれ、主体であり、言語であり、
社会であり、システムは維持されるのである。
ダイナミズムを維持するためには、継続した「無垢」の供給が必要である。
ここで重要な観点があるだろう。
ラカンの欲望論の根底にある人間/動物の差異である。
ラカンの欲望がヘーゲルの欲望論、すなわち動物は欲求し、人間のみが終わりない欲望をする。
あるいはさらにはハイデガーの現存在としての特権性。
物語としての人間であり、それは「人間のみが死ぬことができる」故の、
特別性である。欲望は死への欲望である人間である。
ボクが言う「(現実界の)器質的構造化のダイナミズムと(象徴界の)言語的構造化のダイナミズムの対立」 であり、
無垢への欲望では、如何様に人間/動物の差異の問題を解決するのだろうか。
こころにもないことを言わなくていい。
596 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:49:10
なぜ「欲望が死の欲望なのか」
それは、人間の欲望だからである。
欲望がら死が消失するときには、人間/動物の差異は如何様に
解決されるのだろうか。
syosinsya
598 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/06(金) 23:53:51
その解答への道が、以前提示したエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲望)の関係の解釈である。
>>
環境という静へ向かう力は、生命秩序維持にとって、動を抑圧する「不快なもの」となる。このために
生命は、「不快なもの」を排除し、動として安定することを志向する。これが、快感原則である。
快感原則が、緊張を和らげる、主体内部の静へ向かうのであるが、ここで重要なのは生命にとって静
とは、安定した動である、ということだ。それに対して、快感原則の彼岸は、本来環境が作り出す不快
を、自ら作り出すことを示す。安定した動であるエロスが、自ら不安定を生みだすのである。これが
タナトスである。
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。一定
速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっているような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等速度運動しようとする
それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、
自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。
すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの増加)に対抗する力であり、環境と相反し安定
を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰がタナトスである。
生(エロス)への回帰
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051214 <<
599 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:02:47
概略を述べると、「(現実界の)器質的構造化のダイナミズム」の維持のためには、
無垢(不確実性)が必要とされる。生命とはその発生から決して、止またことがない存在である。
たとえばあなたの生命活動は数十億年一度も止まっていないために、今があるのである。
そこにはたえず、無垢が共有されているのである。
それは、環境という現実界から多くにおいて、生命の危険との背中合わせの
形で共有されてきたのである。
しかし人間は文明によって、環境の不確実性を大幅に排除してきたのである。
それによって、すなわち去勢によって、人間は無垢の欠乏状態にある。
よく言われるように、進化の時間単位では人間発生の数十万年は、短すぎる。
いまだに、ボクたちは、環境という不確実性と背中合わせに生きるように、
できているのだ。
簡単には動物園の動物を遅う安全という、無垢の欠如という神経症であり、
人間はそのような状態にある。
ボクたちは、そのような無垢を「(象徴界の)言語的構造化のダイナミズム」に
求めるのである。それが人間の過剰性である。
600 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:04:50
それが生の欲動が、過剰性として、社会的に抑圧され、
死の欲動と名付けられる。
ボクたちは欠乏する無垢をもとめて、擬似的な死を欲望する行動を
向かうのである。
>>600 >ボクたちは欠乏する無垢をもとめて、擬似的な死を欲望する
対象αを欲動する振る舞いが喪失そのものを維持してしまう
ってことですか?
602 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:09:33
これにより、ボクのテーゼ「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」が
導かれる。
昼間から見て何度かレスしたものだけど、ぴかぁ〜のテーゼは分かった。
でもそれって、死の欲動(タナトス)とか対象α(無垢だっけ?)と馴染みの議論に
終始した、よく言って妥当な悪く言って平凡なものに思えるなあ。
なんか学生のレポートみたいというか...
604 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:18:17
>>601 ?
対象αを欲望する振る舞いが、無垢への欲望、ということです。
605 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:21:00
>>603 これを真面目に書き込むと本1冊になりますので、
ストーリーをなぞっているだけですから、
というが、失礼ながら本質的な問題意識が共有できていないのでは
ないでしょうか。
最強、ラカンの乗り越えという哲学最大の問題?の一つということですか。
606 :
考える名無しさん:2006/01/07(土) 00:26:23
(;゚д゚)
ノ( ヘヘ
>>604 なるほど、しかし無垢とはなかなか良いネーミングだね。
ブログも持っているんですね、今度からこのスレと一緒に
のぞかせてもいますね。
>>605 すみません、普段は経済板の住人で哲学板ならびにはぴかぁ〜さんの存在は最近知ったばかりなもので。その本質的な
問題意識もいずれ共有できるといいですね。
608 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:33:53
>>607 ありがとうございます。
問題意識に興味があれば、共有できると思います。
これはデリダもドルゥーズなどが乗り越えられず、
ボクの一生をかけて楽しむ課題ですから
609 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:39:15
過剰な無垢の経験は、反復強迫によって解消される構造化される。
無垢の欠乏は、(死への)過剰な経験を求める。
よって、健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。
610 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 00:41:22
過剰な無垢の経験は、抑圧され、事後的に反復強迫によって解消される構造化される。
611 :
まずる:2006/01/07(土) 02:44:37
>>578 まったく覚えてない。
でもメンヘルサロンから、此処に「究極ナル!」なんて
書き込んで来たんで、しばらく名無しでオトナシク
してました。
でもまた別の板で顔を無転されたりしたんで、ここでコテ復活。
612 :
まずる:2006/01/07(土) 02:48:49
コクトーは、怖るべき子供たちの物語の冒頭に
「愛とは、性も目的も無い純粋な欲望」だと書いてたたね。
613 :
考える名無しさん:2006/01/07(土) 03:42:21
空想はいくらでも自由
615 :
まずる:2006/01/07(土) 03:53:04
>>614 色々叩かれてここに戻ってきたって意味。
616 :
考える名無しさん:2006/01/07(土) 05:01:30
精読した訳じゃないが、意味とか欲望とかを語る際に
生命は動的で云々とかいうある種の物語を持ち込むのは関心しないな。
その時点で悪しき疑似科学による権威付け臭がする。
617 :
考える名無しさん:2006/01/07(土) 05:04:38
まあ、檻をこしらえて
その中で“自由”を手に入れたんだから
それもまたよろし
>>615 なんか良うわからんけど自分語りするなや
恥ずかしいやっちゃでほんま
619 :
まずる:2006/01/07(土) 08:16:56
そうだね。
まずるは純一?
ってレスが無かったら、
僕もこういう話しないんだけど。
確かに、「無意識は言語のように構造化されている」には様々な解釈がある。
それにしても、
>ラカンの無意識は言語で構造化されている。
>これは言語で構造化されている無意識を、無意識と予防と理解したほうが良いだろう。
>では残りの無意識は何処へ?現実界である。
>ボクが考えるのはシニフィアンの構造になぜ死臭がただようのか
>エロス、タナトスとは生物学的には定義できないものであり、いまも不可解なものとしてある。
一言で言ってしまえば、ぴかぁ〜は、ラカンの無意識を語ることを試みて、
結果、ぴかぁ〜の無理解(防御)を語っている。
621 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 12:51:42
>>620 目のつけどころは良いので、ちゃんと意見できれば、おもしろいのでが、
無理ですか?そうですか。
ぴかぁ〜[の無理解(防御)]にとって
>ラカンの現実界は異次元ポケットであり、都合の悪いものは何でも入る。
ラカンのふざけたテクスト群は、精神分析されるべき症候(=「真理」)でもある。
ラカンの仕掛けた言語ゲームに参加した限りは、解釈する者、是認する者、
否認する者すらを映す歪んだ鏡となり、現実界と象徴界をつなぐ輪としての
想像界の相貌を表す。
だからこそ、
「送り手は、受け手からの自分自身の伝言を逆さまの形式を通して受け取っている」
「手紙は常に送り先に届く」
これらの謎々を真剣に解かない限り、いつまでたっても偽の結論めいた
「語り得ぬもの」の換喩のまわりをぐるぐる回ってることになるんじゃないか。
623 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 21:19:30
>>622 ラカンについておしえてほしいのですか。
解説書をお読み下さい。
ラカン社員、乙。
625 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 21:57:14
■生のフロイトと死のラカン
ラカン思想の問題はわかっている。フロイトの無意識理解にあらわれている。フロイトの豊かで
とらえられず、変化し続ける無意識理解に対して、ラカンの無意識は明快である。「無意識は言語で
構造化されている。」この明快さは、言語で構造化されている無意識を、「無意識」と呼ぼう、と
理解したほうが良いだろう。
では残りの無意識は何処へ?現実界である。ラカンの現実界は異次元ポケットであり、都合の悪い
ものは何でも入る。しかしこれは「語りえぬもの」だ。フロイトが哲学を嫌っていたのに対して、ラカンは
哲学のマナーに律儀である。生物学者、神経学者などの科学者としての、語りえぬものこそ大いに
語るフロイトとの違いであり、まさにヴィトゲンシュタインはフロイトを批判したのである。また
ヴィトゲンシュタインは自らをフロイトの弟子と呼んだのであるが。
しかし本質的な問題はフロイトの生き生きした描写を死したシニフィアンの構造に還元したことでは
なく、それでもラカンの思想が僕たちを見事に描写してしまうことである。
626 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 21:57:52
■象徴界のダイナミズム
ラカンの思想にはなぜ死臭がただようのか。ラカンは名付けは「ものの殺害」であるという。たとえば
「猫」と言語に還元することにより、そのものそのものは失われる。そして言語によって構造化された
世界は静の世界であり、死の世界である。
しかし本当にそうだろうか。「死の世界」とは、エントロピーの増加であり、構造が消失した世界である。
生命という高度な構造物が、死ぬことによって塵へと消失していくのでは、ないだろうか。
このような「生の世界」とは、まず還元があり、それが構造化されてくという、ダイナミズムである。
そして象徴界はまさにこのような構造によってなりたっている。単にすでに構造化されているという
ことではなく、象徴界は絶えず変化するというダイナミズムをもっている。人がたえず新たに名付け、
還元し、構造を脱構築し続けることによって、象徴界は成り立っている。これはドゥルーズの「差異と
反復」であり、デリダの「差延」である。
627 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 22:16:53
■「死への欲望」という生の力
しかし「象徴界のダイナミズム」だけでは、ラカンの思想を生の思想へと読み替えるには不十分だろう。
ラカンへの批判はデカルトを継承するその主体の表象主義である。主体とは他者に投射されもので
あり、目の前の表象である。そこには身体性が排除される。ドゥルーズが欲動を生へと転換する
ために、「器官なき身体」を導入した理由がある。
ラカンの身体は現実界に「抑圧」され、「死への欲動」といわれる。たとえば近親相姦のように、象徴界
によって禁止された、社会的に許されない享楽を望むものであるからだ。しかし象徴界を生の
ダイナミズムとして考えるときに、「死への欲動」は象徴界の静構造を解体する力であり、象徴界に
ダイナミズムを与える力の源泉そのものとして考えられるだろう。
ぴかぁは文体と書きたがっている内容が合ってないし、合ってないことがよい効果ももたらしていない。
思考のディティールを書きたいんでしょ?そういうひとが「ダイナミズム」とか普通に使うか?w
口先だけでないなら文体で示せよw
注意)
何度もいっていますが、「w」はNGワードになっています。
「w」を使った文章には100%レスしません。
「w)」「笑)」などは問題ありません。
630 :
考える名無しさん:2006/01/07(土) 22:57:36
小文字はOKなのか?w
そうなのかM
とっと死ねよぴかぁvv
633 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/07(土) 23:13:04
■無への欲望と無垢への欲望
ここから、ボクは「欲望とは「無垢」への欲望である」といった。ラカンは「欲望とは他者の欲望への
欲望であり、無への欲望であり、死への欲望である」といった。「無」とは決して満たされない欲望で
あり、疎外され欠落した主体を示している。それ故に、欲望は満たされることがなく、終わることが
ないないのである。「無への欲望」、死によってしか満たされないという終わらない欲望という
ダイナミズムを支えている。
これを、対象化し、生的につなげたものが「無垢」である。欲動は象徴界によって禁止された、社会的に
許されないものへ向かう。構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望によって、静的な
構造の中にダイナミズムが生まれる。ダイナミズムそのものが、主体であり、言語であり、社会であり、
システムを維持するのである。
死臭がただようのはぴかだろ。働けよ。
635 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 00:19:12
■「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立
しかしラカンの「無への欲望」あるいは「死への欲望」と、ボクの「無垢の欲望」は同じではない。
ラカンの欲望論の根底にあるのが、ヘーゲルの欲望論、すなわち動物は欲求し、人間のみが終わり
ない欲望をするという、「人間/動物」の差異である。この「人間」はラカンではハイデガーの現存在に
繋がる。「人間」のみが死ぬことができるという特別性であり、物語としての「人間」であり、死ぬこと
によって物語は完成し、人は物語として完成することを望むのである。だから「欲望は死の欲望である」
のは、「人間」の欲望だからである。
ボクが、構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望というときに、「人間/動物」の差異は
維持されない。なぜなら、「動物」も維持されるためには、「無垢」を必要するからである。すなわち
現実界も構造化されているからである。
そして、ヘーゲルの「人間/動物」の差異−これはデカルトの心身二元論の二項対立と考えても
良いだろう−におけて、「動物」は「(現実界の)器質的構造」であり、ラカン的な「人間」は、
「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立と考えることができる。そしてこのような
構造のダイナミズムの維持には「無垢」が必要とされるのだ。
636 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 00:41:59
■「人間」という物語
これを一つの物語をして語ろう。生命とはその発生から決して、止またことがない存在である。たとえば
あなたの生命活動は数十億年一度も止まっていないために、今がある。そこにはたえず、「無垢」が
供給されている。しかしこの無垢は「環境」の圧力、進化論の自然淘汰圧という、生命維持への危険
として供給されてきたのである。ここには「環境」と「(現実界の)器質的構造」の対立がある。
しかし人間は文化によって、このような環境の圧力を大幅に排除することに成功したのである。文化
という高い秩序性は「(象徴界の)言語的構造」によって維持されている。ここでは「環境」と
「(現実界の)器質的構造」の対立から、「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の
対立へシフトする。これをラカンが「去勢」というときには、「(象徴界の)言語的構造」が「(現実界の)
器質的構造」を抑圧する。これによって、無垢が欠乏する傾向が怒るのである。
よく言われるように、進化の時間単位では人間発生の数十万年は、短すぎる。いまだに、ボクたちは、
環境という不確実性と背中合わせに生きるように、できているのだ。しかし僕たちは動物園の動物の
状態であり、無垢の欠如である。このために、僕たちは無垢をもとめる。その欲動が、過剰性として
の「死への欲動」であり、禁止された「享楽」である。
80年代までによくいたニューサイエンス神秘主義者がまだ生き残っていたとは・・・
ぴかぁで不思議なのは茂木を評価しているところなんだよねえ。
もしかしSGビリーバーですか?
639 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:04:04
■「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」
ラカンにおいて、想像関係とは、他者の欲望を欲望するという「闘争」であり、ヘーゲル的な主と奴の
弁証法である。そのために第三者の介入によって、象徴界への参入することで、この闘争は、収まる。
社会の秩序の中で関係性が営まれる。たとえば、不確実性として無垢は突然襲来する。そして過剰な
無垢の経験は、反復強迫によって、分割されながら、象徴化へのと構造化されていく。
しかし現代において問題は、無垢の欠乏により、(死への)過剰な欲望を求めるである。宮台的に
いえば、人は「動物化」して豊かさに充足したまったり生きることができずに、過剰に対象に没入する
という「ヘタレ化」してしまう。
これにより、ボクのテーゼ「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」が導かれる。過剰でもなく、
欠乏でもなく、無垢を適切に消費することによって、健全な精神は保たれる、という一つの理想である。
640 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:05:18
■創造的な「愛」の関係
これは、どのような状態であるかは、考え続けられなければならないが、それは「愛」の関係であると、
言いたい。たとえば、会社における上司と部下とは、象徴的な上下関係である。間には、社会的な
上下があることによって、闘争へのいたらない。しかしまたたとえば本音、無礼講などのような闘争が
あることも否めない。社会においてもはや純粋は想像関係はもちろんないが、純粋な象徴関係もない。
僕たちは想像的で、そして象徴的な関係で人間関係は営んでいる。
ボクは、「消費的」な関係と「創造的」な関係といった。消費的な関係とは、たとえば打算的な恋愛関係
である。相手が美人である、処女である。その価値(無垢)を消費することで成り立つ。消費すると
終わってしまう。
それに対して、創造的な関係とは、関係によって、価値(無垢)が、生み出されるような関係である。
たとえばライバル関係では、闘争的であっても、その競争心が、新たな価値を生み出すのである。
これはラカン的には良い転移関係(想像的関係)に対応するのかもしれない。ボクはこのような
創造的な関係、それは二者間ということではなく、コミュニティであってもよいにであるが、創造的な
内部であり、そこには強い内部への強い帰属心が生まれるという意味で「愛」と呼ぶ。
641 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 01:07:22
題 なぜ欲望は「無垢」への欲望なのか?
たのむから、自分の中ですら定義が曖昧な用語を使うのはやめてくれ。
643 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 01:51:12
ぴかぁ〜さん的には、ここまで反応がクズでも無問題?
>642
言葉の定義を曖昧にすることでアブストラクトな概念を捉えるのはありだと思うんです。
ぴかぁは言葉の定義は曖昧なのに科学的である身振りをしまくるから問題なんでしょう。
>643
無問題でしょう。ただ書き捨てて、否定的なレスがつけば元気がでるってタイプだろうし。
>>644 >言葉の定義を曖昧にすることでアブストラクトな概念を捉えるのはあり
意味がわからないな。実例は?
言葉の定義を曖昧にすることで得られるのは抽象概念の把持ではなく、
単なるイメージでしょう。
ぴかぁの言説はアンチ哲学のルサンチマンを晴らすためだけのものじゃないか。
646 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:24:11
647 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:25:39
ボクは「認知限界」による人の還元主義(信仰といってもよい)であり、「生物学的脱構築」
(忘却といってもよい)というときには、さまざまな人間性を身体的なもの(動物)へ還元しています。
人は身体として、主体性が決定しているということです。ここから言えることは、心と身体
(動物と人間)の切り離しの不可能性です。
そして技術の発達が身体を直接働きかけることを可能にしているときに、たとえば視覚エクスタシー的
な画像刺激(クオリア)にさらされているとき、さらには極端には薬や手術で、性格を変えるということが
できてしまう時代に、人間とは、主体とはどういうことか、というを考えなければなりません。これは、
結局「心身(心脳)問題」であり、ボクらはいかに心(人間)を救うのかという倫理的なところへ踏み
込んでいます
648 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 02:29:00
そもそもぴかぁ〜さんのテキストは
人に読まれることを前提にしているのでしょうか?
引用の羅列か怪しい定義の言葉のちりばめにしか
みえず、「開いたテキスト」というより、「テーマのない
書き散らし」にしか見えないんですが。
649 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:32:51
ここにある還元と忘却には精神分析的視点が抜けている。
まさに精神分析的な問題であるのに。
すなわち「抑圧」であり、事後性である。
還元と忘却には時間差がある。
忘れたようで何年か後に回帰することがある。
ここでは認知限界であり、「生物学的脱構築」では、説明する
ことはできない。
650 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:36:47
>>648 哲学的テクストとは多くにおいてそのようなものではないでしょうか。
だからただしい指摘は、
「ぴかぁが大哲学者のような振る舞いをしても、誰もぴかぁを勉強などしない」
ですね。
それは、大哲学者以外は哲学をするな、ということですね。
ただしい指摘は、
「ぴかぁは勉強などしない」だろ。
652 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:41:14
なんでも良いですが、無垢への欲望です。
ボクもそしてキミたちも。
653 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 02:45:01
>>650 たとえば東さんが(大哲学者か知りませんが)論旨明快なのは、
難しくないからではなく、対象がはっきりしているからです。
言葉を戯れさせているのではなく、はっきりと対象を浮かび
上がらせるために言葉を紡いでいるからです。
レトリックってそういうものでしょ?
つまり、平易な言葉でも(当然誤解されるおそれはありますが)
語れるものであるはずなんです。
言葉の戯れがなにか新しい概念を提出してくれるかのように
言葉を紡ぐ行為は、ジャーゴンと言われてもしょうがないのでは?
654 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:48:16
技術の発達が身体に直接働きかけることを可能にしているときに、
・視覚エクスタシー的な画像刺激(クオリア)にさらされている。
・薬や手術で、性格を変えられる。
主体はどうなるのか?
無垢は科学的に供給可能か
655 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:49:41
>>653 東ともしボクを比べてくれるのは、大変嬉しいことですが、
そのもっとも大きな違いは、金です。
金さえくれれば、書きますよ。
656 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 02:52:45
金が入らなければジャーゴンを書き続けるぞ!
これでいいのでしょうか?
657 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 02:54:20
逆に言えば、今書いているテキストには何ら
意味も価値もない、ということですよね。
わかりやすく書くためにはわかりやすくする上で
翻案される内容、核が必要ですが、それが皆無
なのですから。
結局挑発して目立ちたいだけなんですね。がっかりしました。
658 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:54:21
>>656 お金という抑圧がなく、楽しく書いているのです。
あなたとなんらかわりませんよ。
さあ、今夜も誇大妄想を見学して楽しもうのコーナーがやってまいりました
660 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 02:57:04
>>657 ボクのスタンスがわかったところで、
あなたのスタンスをおしえてください。
なにゆえに、ボクを選んで、懸命にそのような指摘を
していただけているのですか。
お金ももらえずに。
661 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:00:18
わかりませんか?わかりました。
662 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/08(日) 03:02:43
モギが乗り込んできている時点でぴかぁは問題外です。モギが糞とかそういう話ではなくて
モギ的前提を受け入れたら哲学はできないってことですね。モギ的地平に哲学は不在です。
それとぴかぁは自らの意見が他者に理解されないことで自らを無垢づけているわけ。
彼にとっては理解されては困るわけよ。交換されたくないから交換する価値のない文章を書き捨ててるわけです。
だから彼はいくらここで批判されようと、あの曖昧な文体でだらだら書き捨てては否定され、否定されることで自分
の感情を空白にして、そのブランクな主体の人工的な幸福に浸り、その悦楽を彼は無垢とよぶわけでしょう。
労働時間が商品へと一挙に縮約されるのが日常である資本制内部においては類型化されたマゾヒズムなんです。
つまりぴかぁは退屈なんだよ。
663 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:05:22
>>662 ぴかの「無垢への欲望」ってのは常駐の言い訳を後付けで考えたものにすぎないよ。
ブランクな主体の人工的な幸福やマゾヒズムすらないと思う。
665 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:10:07
>>
ボクは「認知限界」による人の還元主義(信仰といってもよい)であり、「生物学的脱構築」
(忘却といってもよい)というときには、さまざまな人間性を身体的なもの(動物)へ還元しています。
人は身体として、主体性が決定しているということです。ここから言えることは、心と身体
(動物と人間)の切り離しの不可能性です。
そして技術の発達が身体を直接働きかけることを可能にしているときに、たとえば視覚エクスタシー的
な画像刺激(クオリア)にさらされているとき、さらには極端には薬や手術で、性格を変えるということが
できてしまう時代に、人間とは、主体とはどういうことか、というを考えなければなりません。これは、
結局「心身(心脳)問題」であり、ボクらはいかに心(人間)を救うのかという倫理的なところへ踏み
込んでいます
<<
ここにある還元と忘却には精神分析的視点が抜けている。まさに精神分析的な問題であるのに。
すなわち「抑圧」であり、事後性である。還元と忘却には時間差がある。忘れたようで何年か後に
回帰することがある。ここでは認知限界であり、「生物学的脱構築」では、説明することはできない。
では、技術の発達が身体に直接働きかけることを可能にしているときに、
・視覚エクスタシー的な画像刺激(クオリア)にさらされている。
・薬や手術で、性格を変えられる。
主体はどうなるのか?
無垢は科学的に供給可能か?
ぼくはもう活動限界だよ。
あすまた肉体労働なんだ。寝まちゅ。
ぴかぁ〜さん
初刷り3000、@2000*3%、ハードカバー
でどうですか?
668 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:33:24
■なぜ「無垢」への欲望が生のダイナミズムなのか
@生のフロイトと死のラカン
ラカン思想の問題はわかっている。フロイトの無意識理解にあらわれている。フロイトの豊かで
とらえられず、変化し続ける無意識理解に対して、ラカンの無意識は明快である。「無意識は言語で
構造化されている。」この明快さは、言語で構造化されている無意識を、「無意識」と呼ぼう、と理解
したほうが良いだろう。
では残りの無意識は何処へ?現実界である。ラカンの現実界は異次元ポケットであり、都合の悪い
ものは何でも入る。しかしこれは「語りえぬもの」だ。フロイトが哲学を嫌っていたのに対して、ラカンは
哲学のマナーに律儀である。生物学者、神経学者などの科学者としての、語りえぬものこそ大いに
語るフロイトとの違いであり、まさにヴィトゲンシュタインはフロイトを批判したのである。また
ヴィトゲンシュタインは自らをフロイトの弟子と呼んだのであるが。
しかし本質的な問題はフロイトの生き生きした描写を死したシニフィアンの構造に還元したことでは
なく、それでもラカンの思想が僕たちを見事に描写してしまうことである。
669 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:34:13
A象徴界のダイナミズム
ラカンの思想にはなぜ死臭がただようのか。ラカンは名付けは「ものの殺害」であるという。たとえば
「猫」と言語に還元することにより、そのものそのものは失われる。そして言語によって構造化された
世界は静の世界であり、死の世界である。
しかし本当にそうだろうか。「死の世界」とは、エントロピーの増加であり、構造が消失した世界である。
生命という高度な構造物が、死ぬことによって塵へと消失していくのでは、ないだろうか。このような
「生の世界」とは、まず還元があり、それが構造化されてくという、ダイナミズムである。そして象徴界は
まさにこのような構造によってなりたっている。
構造が維持されるためには、たとえ静的に見えたとしても、そこに新陳代謝としてのダイナミズムが
なければ、維持されず、構造は解体される。すなわち象徴界は絶えず変化するというダイナミズムを
もっている。人がたえず新たに名付け、還元し、構造を脱構築し続けることによって、象徴界は
成り立っている。これはドゥルーズの「差異と反復」であり、デリダの「差延」である。
670 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:35:08
B「死への欲動」という生の力
しかし「象徴界のダイナミズム」だけでは、ラカンの思想を生の思想へと読み替えるには不十分だろう。
ラカンへの批判はデカルトを継承するその主体の表象主義である。主体とは他者に投射されもので
あり、目の前の表象である。そこには身体性が排除される。ドゥルーズが欲動を生へと転換する
ために、「器官なき身体」を導入した理由がある。
ラカンの身体は現実界に「抑圧」され、「死への欲動」といわれる。たとえば近親相姦のように、
象徴界によって禁止された、社会的に許されない享楽を望むものであるからだ。しかし象徴界を生の
ダイナミズムとして考えるときに、「死への欲動」は象徴界の静構造を解体する力であり、象徴界に
ダイナミズムを与える力の源泉そのものとして考えられるだろう。
671 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:36:08
C無への欲望と無垢への欲望
ここから、ボクは「欲望とは「無垢」への欲望である」といった。ラカンは「欲望とは他者の欲望への
欲望であり、無への欲望であり、死への欲望である」といった。「無」とは決して満たされない欲望で
あり、疎外され欠落した主体を示している。それ故に、欲望は満たされることがなく、終わることが
ないないのである。「無への欲望」、死によってしか満たされないという終わらない欲望という
ダイナミズムを支えている。
これを、対象化し、生的につなげたものが「無垢」である。欲動は象徴界によって禁止された、社会的に
許されないものへ向かう。構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望によって、静的な
構造の中にダイナミズムが生まれる。ダイナミズムそのものが、主体であり、言語であり、社会であり、
システムを維持するのである。
672 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:37:20
D「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立
しかしラカンの「無への欲望」あるいは「死への欲望」と、ボクの「無垢の欲望」は同じではない。
ラカンの欲望論の根底にあるのが、ヘーゲルの欲望論、すなわち動物は欲求し、人間のみが終わり
ない欲望をするという、「人間/動物」の差異である。この「人間」はラカンではハイデガーの現存在に
繋がる。「人間」のみが死ぬことができるという特別性であり、物語としての「人間」であり、死ぬことに
よって物語は完成し、人は物語として完成することを望むのである。だから「欲望は死の欲望である」
のは、「人間」の欲望だからである。
ボクが、構造化から差異化されたものとしての「無垢」への欲望というときに、「人間/動物」の差異は
維持されない。なぜなら、「動物」も維持されるためには、「無垢」を必要するからである。すなわち
現実界も構造化されているからである。
そして、ヘーゲルの「人間/動物」の差異−これはデカルトの心身二元論の二項対立と考えても
良いだろう−におけて、「動物」は「(現実界の)器質的構造」であり、ラカン的な「人間」は、
「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の対立と考えることができる。そしてこのような
構造のダイナミズムの維持には「無垢」が必要とされるのだ。
673 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:38:31
E「人間」という物語
これを一つの物語をして語ろう。生命とはその発生から決して、止またことがない存在である。
たとえばあなたの生命活動は数十億年一度も止まっていないために、今がある。そこにはたえず、
「無垢」が供給されている。しかしこの無垢は「環境」の圧力、進化論の自然淘汰圧という、生命維持
への危険として供給されてきたのである。ここには「環境」と「(現実界の)器質的構造」の対立がある。
しかし人間は文化によって、このような環境の圧力を大幅に排除することに成功したのである。
文化という高い秩序性は「(象徴界の)言語的構造」によって維持されている。ここでは「環境」と
「(現実界の)器質的構造」の対立から、「(現実界の)器質的構造」と「(象徴界の)言語的構造」の
対立へシフトする。これをラカンが「去勢」というときには、「(象徴界の)言語的構造」が
「(現実界の)器質的構造」を抑圧する。これによって、無垢が欠乏する傾向が怒るのである。
よく言われるように、進化の時間単位では人間発生の数十万年は、短すぎる。いまだに、ボクたちは、
環境という不確実性と背中合わせに生きるように、できているのだ。しかし僕たちは動物園の動物の
状態であり、無垢の欠如である。このために、僕たちは無垢をもとめる。その欲動が、過剰性としての
「死への欲動」であり、禁止された「享楽」である。
674 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 03:38:51
モギが乗り込んできている時点でぴかぁは問題外です。モギが糞とかそういう話ではなくて
モギ的前提を受け入れたら哲学はできないってことですね。モギ的地平に哲学は不在です。
それとぴかぁは自らの意見が他者に理解されないことで自らを無垢づけているわけ。
彼にとっては理解されては困るわけよ。交換されたくないから交換する価値のない文章を書き捨ててるわけです。
だから彼はいくらここで批判されようと、あの曖昧な文体でだらだら書き捨てては否定され、否定されることで自分
の感情を空白にして、そのブランクな主体の人工的な幸福に浸り、その悦楽を彼は無垢とよぶわけでしょう。
労働時間が商品へと一挙に縮約されるのが日常である資本制内部においては類型化されたマゾヒズムなんです。
つまりぴかぁは退屈なんだよ。
675 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:39:24
F「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」
ラカンにおいて、想像関係とは、他者の欲望を欲望するという「闘争」であり、ヘーゲル的な「主と奴の
弁証法」である。そのために第三者の介入によって、象徴界への参入することで、この闘争は、
収まる。社会の秩序の中で関係性が営まれる。たとえば、不確実性として無垢は突然襲来する。
そして過剰な無垢の経験は、反復強迫によって、分割されながら、象徴化へのと構造化されていく。
しかし現代において問題は、無垢の欠乏により、(死への)過剰な欲望を求めるである。宮台的に
いえば、人は「動物化」して豊かさに充足したまったり生きることができずに、過剰に対象に没入する
という「ヘタレ化」してしまう。
これにより、ボクのテーゼ「健全な無垢の欲望に健全な精神は宿る。」が導かれる。過剰でもなく、
欠乏でもなく、無垢を適切に消費することによって、健全な精神は保たれる、という一つの理想である。
人名と術語による初心者威圧キターーーー!
だけど内容はスッカラカン
677 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:41:35
G創造的な「愛」の関係
これは、どのような状態であるかは、考え続けられなければならないが、それは「愛」の関係であると、
言いたい。たとえば、会社における上司と部下とは、象徴的な上下関係である。間には、社会的な
上下があることによって、闘争へのいたらない。しかしまたたとえば本音、無礼講などのような闘争が
あることも否めない。社会においてもはや純粋は想像関係はもちろんないが、純粋な象徴関係もない。
僕たちは想像的で、そして象徴的な関係で人間関係は営んでいる。
ボクは、「消費的」な関係と「創造的」な関係といった。消費的な関係とは、たとえば打算的な恋愛関係
である。相手が美人である、処女である。その価値(無垢)を消費することで成り立つ。消費すると
終わってしまう。
それに対して、創造的な関係とは、関係によって、価値(無垢)が、生み出されるような関係である。
たとえばライバル関係では、闘争的であっても、その競争心が、新たな価値を生み出すのである。
これはラカン的には良い転移関係(想像的関係)に対応するのかもしれない。ボクはこのような
創造的な関係、それは二者間ということではなく、コミュニティであってもよいにであるが、創造的な
内部であり、そこには強い内部への強い帰属心が生まれるという意味で「愛」と呼ぶ。
678 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 03:43:24
645=676
679 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 03:45:03
モギが乗り込んできている時点でぴかぁは問題外です。モギが糞とかそういう話ではなくて
モギ的前提を受け入れたら哲学はできないってことですね。モギ的地平に哲学は不在です。
それとぴかぁは自らの意見が他者に理解されないことで自らを無垢づけているわけ。
彼にとっては理解されては困るわけよ。交換されたくないから交換する価値のない文章を書き捨ててるわけです。
だから彼はいくらここで批判されようと、あの曖昧な文体でだらだら書き捨てては否定され、否定されることで自分
の感情を空白にして、そのブランクな主体の人工的な幸福に浸り、その悦楽を彼は無垢とよぶわけでしょう。
労働時間が商品へと一挙に縮約されるのが日常である資本制内部においては類型化されたマゾヒズムなんです。
つまりぴかぁは退屈なんだよ。
680 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 03:46:11
まあ「無垢への欲望」ってのは2chに出入りする人間を
うまく捉えてると思ったねぇ
その線でしばらくやると面白いものが出来るかもしれんから
変に哲学に深入りせずにもっと平易な言葉を鍛えてもらいたいと思いますた。
681 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 03:52:23
本テキストはいつもより難解に成っているかもしれません。
単に自説の開示であり、、多くにおいてボクは人間描写を絡めますので、
平易ですが、本テクストはラカン思想をベースに説明していますので、
ラカン理解がなければ、わからないでしょう。
創造的な関係を築くには、敬意も必要か?
684 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 04:03:50
>>683 正確には、創造的関係に敬意は生まれるか?ですね。
当然あると思います。
逆はどうだろう?
敬意がなければ創造的な関係にはいたらない。
686 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 04:15:45
精神分析自体が窃視症的倒錯による快楽に突き動かされているわけだからね。
見たくないものまで見えてしまうというサド・マゾ綯い交ぜな場の生起を記憶
し続けることがラカニアンの定めでしょう。
687 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 04:20:00
>>685 >敬意がなければ創造的な関係にはいたらない。
価値はいつも事後的なものです。
敬意がなければ敬意がある関係にはいたらない?
というのは、おかしいですね。
...-ー、,-─
.-=・=- i、-=・=-
.. / ー-' ヽ
.. -=ニ=- まだやってんのか(ワラ
.`ニニ´
689 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 04:23:30
そうだな。敬意は後付けだ。
SはMにもなれるが、MはMでしかないのだから。
690 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 04:29:48
スレ流し読みしたが、ぴかぁがマゾなのはわかった。
691 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 04:35:56
>688
このAAやばいねー(w
ギリギリの人間だよな(恐
残念。憑依霊でした
. /ヘミミミ/ ``'ー-.、,ヽ丶)ヽ、
、. レ"ヾヘミミ/ ヽソノ;、ヾi
../◎)、________∠l _ヽlヾミミミン -zュ、、 ´ ';ソ:| ・ ・
..| 「.....;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|l i A;ヽミミゾ ,__゙ヾヽ |ノ! ・ ● ○ \
.彡⌒ー/| \___.;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|l | | iミミソ ヽィ;:i゙! ` ,,,,,,,__ |/. ・ / \ ─── ./
/´⌒ヽ______ ./ | ヽiミソ ` /,,,,,_~`ヽ/ / \ _ノ
,/´ ! ヲ==℃/ ̄ ゙iー:ソ ////// ,、-' |ヽ,r;_i /
/_レ‐ームム‐" ̄ ̄ ̄). ノソ ` = _, | ///./
/ __ r'~ ̄ ̄ . "! ,.r===;-、, ` '′ ,'
/ _) ハ. / ヽ、 ヽ,) ノ
| 、 _ノ. ─,r'イ ', l!、 ゙i ./ ,.'
│ ノ" / . i | ', iゝヽ..ノ,イ /
゙、;;;,,.. / . !│ ヽ ゝ.二 '´ /.│
│ │ / . ! | ヽ / !、
│ / . | | >‐‐ァ" | \
│ / | | ,、r'" ,、r''" / \
694 :
考える名無しさん:2006/01/08(日) 16:41:33
>>681 それは逃げ。
ラカンをベースにしているから難しいのではなく、
理論を弁証法的に組み立てる上で媒介が中抜けになって
どうとでも取れる内容、結論のない終わり方になっているから。
このテキスト自体が「ワルシャワのレーニン」を目指しているなら
結論がどこにあるのかをベタに示してごらん?ただの衒学でなければ
出来るはずだよ
なぜ、ぴかぁ〜はウザイのか?
696 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:18:40
>>694 では「ラカン思想におけるハイデガーの意味」について、
少し語ってください。
その内容によって、あなたの御託を考慮しましょう。
以後、これに対する解答があるまで、
この手の話は単なるかまって君の夢想として放置させていただきます。
らかんなぁ〜い
698 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 18:30:57
*このスレにおける注意時効
@「w」はNGワードになっています。「w」を使った文章には100%レスしません。
「w)」「笑)」などは問題ありません。
Aこのスレに参加するには、哲学の中の下程度の知識を必要とします。
特にラカンへの言及が多いために、そのような知識が必要です。
「ラカン的欲望とはなにか?」に答えられない人は、参加ご遠慮願います。
699 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 19:30:25
最近の面白いCMに、街に怪獣が現れ、それを救おうと
ウルトラマンもどきに変身するのだが、そのウルトラマンが
怪獣よりもはるかにデカイ。そこで終わってしまう、というものだ。
そこで暴露されるのは、なぜ怪獣とウルトラマンのサイズは
いつもあっているのか、というものだ。
> 41 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日:2005/12/28(水) 01:21:45
>ラカンはフロイト+ヘーゲル+ハイデガー+ソシュール+αです。
>違いは、言語論、主体論、欲望論などですね。
>欲望は他者の欲望である、
>無意識は言語で構造化されている、などですね。
>あとはお勉強を。
なんちゃって哲人ぴかぁ〜は、フロイト、ヘーゲル、ハイデガー、ソシュールの
いずれの著作も読んだことがない。おそらく手元にもない。
参照した入門書、解説書の引用元を隠す意図からか、
一行に満たない引用すら改竄する傾向がある。一例をあげよう。
かつて、ぴかぁ〜の参照先の一つであった「構造と力」で、浅田彰は、
『「無意識は言語活動(ランガージュ)と同じように構造化されている」
というラカンの有名な公式は、「無意識は言語(ラング)と同じような
構造である。という命題と混同されてはならない。』と記述している。
さらに『真に問題なのは、主体の欲望と《他者》を結ぶ言説(ディスクール)
の運動なのである。』
象徴界のダイナミズムを連呼するぴかぁ〜のラカン解釈のお粗末さ(退行)
は、冒頭に引用した「無意識は言語で構造化されている、などですね。」
の一言に尽きる。今手にしているラカンの入門書を捨て、「構造と力」と
「郵便本」を初心に帰って精読せよ。>ぴかぁ〜
701 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/08(日) 20:10:49
>>700 言っててはずかしくなんでしょうね。
無知とはそのようなものですね。
ぴかぁはいったいどうしちゃったんだー。
以前はほんの少しだが自分の無知に自覚と恥を持っていたのに。
ちょっぴり自虐的だったからかわいかったのにー。
最近はまるで普通の電波ちゃんじゃないか。
ぴかぁは頑張っているとは思うが、
周りに屑しか集まらないのは自業自得だな。
704 :
649:2006/01/08(日) 23:35:09
>>696 質問に対してあらぬ方向の質問を返してきた時点で
あなたは最初の質問には論理的に答えられない、
すなわち論破されたと自覚したわけだね。
あなたの書き散らす文章の中で、ラカンがハイデガーに
どのように影響を受けたかわからなければ読み取れない箇所が
あるとすれば、それはあなたが説明すればいいこと。
それが重要であるならば、読み手に対して「逆質問」などという
恥知らずな行為を行わないでしょう。
また繰り返すが本来レトリックとは相手に文意が正確に伝わるように
用いられるものであって、衒学的に相手を煙に巻くのは何の意味も
ないよ。ラカンがあれだけ難解な文章を書いたのは(語ったのは)
読み手が弁証法的に理解を深めることで読み手が変化することを
前提としていたからだけれども、あくまでそれは問題意識を正確に
読者(聴衆)に伝えるためであって混乱させるためではない。
ぴかぁ〜さんの場合は、問題意識が既に無い。過去の偉大な哲学者の
文言を切り貼りして怪しげな概念を放り込めば自分流の哲学が出来る、
そういうものではないでしょう?
そんな所でもじもじしてないで、♪・・・・さっさと糞してこい!
>>699 人間大のウルトラマンが活躍する話もあるから
怪獣にあわせてるんだよ
サービスサービスぅ♪
柳田理科雄じゃないんだからさ
>>699みたいな話はやめとき
ぴかぁ〜もまた不出来な東の使徒なんだろうさ。部外者からみて。
彼の代わりに言ってあげよう。
東がデータベースを次世代の主要概念として提示したのは面白い。
データベース全体の構造をスキーマ(schema)と言う。
ラカンのシェーマLが念頭にあったか否かは知らない。
パターン青!
まちがいない・・・・・・
711 :
649:2006/01/09(月) 04:29:07
>704はテッカイしますぅ
テッカイ!テッカイ!ですぅ
712 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 10:46:17
無垢とは差異である。
713 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 11:07:35
しらんがな。
714 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 12:29:14
マッチョ化とは一つ距離感である。
おれはしらんが、〜じゃないの?
本当のマッチョは自己の肉体を外部に起き、客観的に眺め賛同するわけだ
この場合は発言が外部におかれる。
マッチョは自分の肉体に酔うだろうか?
他者が認めるよりも先ず自分が認めるのだろうか?
美人がものごころついたころ、先ず他人から賞賛されて
初めて自らの美に気づくように、指摘はつねに己れより
他者のほうが先立つ?
716 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 12:41:50
このような発言の放り投げと波紋の客観視は責任回避である。
ここにあるのはつながりの希薄さによる恐れである。
発言は責任あることを望む。なぜなら発言は自分自身だから、それを放り投げることは苦痛である。
しかし放り投げなければ我が身が傷つく場において、放り投げられる。
たとえばそのような場である。マッチョ化はそこに障害があることを物語り、安全を確保する。
マッチョのかっこよさはそこに障害があることをしり、それでも身をきることにある。そこに飛び込んでは障害をしらない馬鹿である。
717 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 12:47:30
現代はいつもこのような危険な場をしり、近づくか、という状況の中にある。それがクールなマッチョだ。これはアイロニカルであり、シニカルな態度とも言われる。
オタクがかっこ悪いのはマッチョではないからだ。
718 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 12:54:49
たとえば精神分析ではマッチョは精神分析家の位置である。
場に発言するが姿は表さない。超越的他者の位置
オタクは想像的他者の位置で場に身を投げすべてをさらす。
転移された自我は争いの対象にしかならない。
オタクがもてないのはこのためだ。
719 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 13:03:58
オタクは身体であるのに対して
マッチョとは身体なきシニフィアンでありつづけることである。
神に身体がないことの縮小であり、アイドルはうんちをしないことである。
720 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 13:08:17
現代は身体を隠し、シニフィアンでいることのゲームである。
そしてそれは身体さえシニフィアンにむかう。
それが僕達の欲望の究極の目標である。
721 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 15:01:29
はあぁ。。
おわっ。引っかかったぞ?
っつか、ぴかうっせぇよ。
こんなの一行でかたずけりゃいいのと違うんか。。?
「無視すんなバーカヽ(`Д´)ノ」
>>714は
>>713に対する反応?
こっちは、常駐組ではないから、流れがよく汲み取れないのだけど、、、
>おれはしらんが、〜じゃないの?
これが
>>713に対する投げ返しだったとしたら・・・う〜ん、、、申し訳ない。よくわかんねや。ヽ(´ー`)ノ
>>715 >マッチョは自分の肉体に酔うだろうか?
そいつが、マッチョ化するに至る経緯が何であったか、又は何であるか。によって、答えは色々だと思うけど、
基本的に、「酔う」んではないだろうかね?
>他者が認めるよりも先ず自分が認めるのだろうか?
難しいな・・・。多分、他社の認証と自己の認証は「同時」に求めるのではないだろうか。。。
ん?・・・でも、これは、何事に関しても同じ事が言えちゃうね・・・。タハー
自分が苦労して何かを習得したような時。
「おっ。すげぇなぁ〜、やるじゃないか。」って言われたら、大人だって嬉しいじゃん?(それが全体論的にはチリにも満たない事だったとしても!)
共時性ってのは、例えばこういう事なんだろう。と、勝手に解釈しているんだけど、、、(実用的に考えすぎかもしれんが。。。)
ただ。それが連動するには、お互いが近くに居ないと、なかなか上手くいかないんだろうな。
また、逆を言えば、「ある行為や活動をこなしていたのだが、人には言いにくい(表現しにくい)
内面的な悩みを抱えている」時に、「おっ。すげぇなぁ〜、やるじゃないか。」って言われたとしたら・・・
そこに芽生えるのは、きっと「疎外感」だと思う。
〜なんて書いてみても、人間ってのが、なにものなのか?俺にもわがんねだどもな〜。
したらば。ノシ
723 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 15:31:30
なぜ人はシニフィアンになりたがるのか
飴玉いっぱいくれたからあいつっていい奴だよな
725 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 15:35:37
やっぱ、ソシュール系だとだめですよ
動き出さないからです
動かさないと
>>722 >多分、他社の認証と自己の認証は「同時」に求めるのではないだろうか。。。
例えば、自分がいくら「イケテル」と自身を認めても、他者が認めなければ
そのときの自分の認識はどうなるのかな・・・? ぐらつくのでは?
やはり、他者に認識されて初めて他者のまなざしは内在するのでは?
イケテるだろう、という自意識で多少は高揚するだろうが、本当のところどうなんだろ
じゃあな、ぴかぁ、また半年後。
【にちゃん名物、貧乏ニートの特徴】
・面倒なことから逃げ回ってきたので経験値が非常に少なく人間総合レベルが低い。
・なので、ダメな自分を言い繕うことが習い性になっており、言い訳力ばかりが高い。
・狭い視野と世界で生きているので、知識自慢をしたり、すぐに対立を煽る。
・一般人を知的ではないと見下している割には、自分は他人の与える答えを憶えやすい。
・恐ろしくカラーがなく無視されてきたので、カラーのある人間を攻撃対象に選ぶ。
・自分が無能で退屈であるとばれないように、発言しないで誰かの意見をそのまま言う。
・答えを憶える勉強ばかりしてきた為HQが低く、自分で考えたり判断することができない。
・自分より優れたひとや、自分の足らないところを補う人と付き合えず、とんでもなく孤独。
・もはや自分が自力で今より幸福になることはないので、他人の不幸をクローズアップして忘却。
・人と目を合わせて話すことができず、ひとに聞こえるように話すこともできず、促すと怒る。
・断片的知識ばかりで、体験を通じた知恵や情感が無い。
ほう。
731 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 18:46:05
■「マッチョ化」させる場
セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な性体験の
話である。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面ですね。「セックスマッチョの優越」です。「セックス「マッチョ」物語」では、そこには男女の差がない。女性も「マッチョ」化しています。女を商品化する
ように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには「から騒ぎ」的ということ。
浮気などを、テレビなのでは、告白する。許されるみたいない感じがある。タレントがむしろテレビで
自己暴露することだ。テレビという公共の場で、むしろ暴露することで、許されるという感じがあります。
2ちゃんねるもマッチョな場として作動しています。たとえば、2ちゃんねるでの民族的なヘイトスピーチ
などもここまで反社会的なことが言える俺様をみて、というマッチョ的です。これは、ただマッチョが
馬鹿であるとか、所詮中高生が多いとか、そういうことだけでは、言い尽くせないのだと思います。
そこにはマッチョ化させる状況があるということです。たとえば、テレビという場が、2ちゃんねるという
場が、はずかしげもなく、マッチョでいられる。
732 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 18:53:29
ニート来たー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ニート来たー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ニート来たー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ニート来たー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ニート来たー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
2ちゃんねるは匿名で責任取らなくていいからって理由だけだよ。
テレビの場合、テレビ素人が消滅したってだけの話だ。
734 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 19:02:44
■共有するコンテクストの弱体によるマッチョ化
本当のマッスルマッチョは自己の肉体を外部に起き、客観的に眺め賛同します。マッチョ化とは
一つ距離感です。「おれはしらんが、〜じゃないの?」という場合は発言が外部におかれます。
このような発言の放り投げと波紋の客観視は、つながりの希薄さによる恐れでしょう。本来、発言は
自分に根ざした責任あることを望みます。なぜなら発言は自分自身だからです。それを放り投げる
ことは苦痛である。
しかしつながりが希薄は場とは、放り投げなければ、我が身が傷つく場です。だからマッチョ化とは、
そこに障害があることを知っているということ、すなわちここが繋がりが希薄な場であるという
メタコンテクストで、繋がりを保とうとしている、このような難解な空気が読めているという優越です。
だからこのような繋がりが希薄で緊張感に満たされた、みなが牽制しあっているような場に、
空気を読めずに、マッチョ化せずにお人好しな発言するものは、疎外されます。
このような複雑な空気読んだクールなマッチョな姿勢は、シニカルな態度です。このような繋がりが
希薄な場は、2ちゃんねるだけではなく、現代の社会そのものの状況です。だから難解な空気
読んだクールなマッチョな姿勢が求められます。たとえばベタなオタクがかっこ悪いのはマッチョでは
ない、空気が読めない外部であるからです。
そして2ちゃんねるなどでは、より繋がりが希薄であるために、より過剰にマッチョに振る舞うことが
「繋がることができない」という空気を読んだ繋がりあっているという姿勢であり、マッチョ化することが
求められるのです。それはまた、放り投げた、無責任な、発言でもあります。
735 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 19:30:02
■マッチョという抑圧の開示 大文字の他者への言葉(まなざしの快楽)
精神分析の効果とは、欲望の承認です。社会的に承認されない様々な行為、考えを言葉にして、
承認されること、それは単に誰かの「OK」ではなく、告白するという行為そのものであり、さらに
それは、他者の目線で自分自身を客観視する、ということです。このような効果は、友達へ
相談することや、日記を書くことで安心するようなことでも得られます。
ネット、あるいはテレビなどの、誰かに見られているという視線の存在は、どうような精神分析装置
としての作動している面があるでしょう。このような視線は、「大文字の他者」と呼ばれます。
ネット、あるいはテレビなどで、マッチョによって「大いに」語ることの、その裏には、抑圧された
「後ろめたさ」を公開し、「懺悔」することがあります。たとえば、「女はものだ。つぎつぎやりまくっ
てるぜ」、あるいは人種差別的なヘイトスピーチは、心の中に芽生え、抑圧したものを、あえて
「マッチョ」に言葉にすることによって、抑圧された「うしろめたさ」を現前化し、解放する快楽です。
こんな不届きなことを考えてしまったことを抑圧することの苦しさからの解放です。それはまた俺は俺が
人種差別的なヘイトスピーチは間違っていることを知っている、という理性的な告白であり、
社会的な内部への繋がりっているという、快楽です。
すなわちマッチョ化とは、自分を開示しないという「メタコンテクスト」での繋がりの開始であり、
さらには自分を過激に開示することによる繋がりの継続という戦略です。
736 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 19:39:25
ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
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ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
ネットで自説を述べることだけが生きがい、哀れなヒキコモリ中年ぴかぁ〜
ずいぶんとニート臭いスレだなw
ただの煽りよかマシだよ
類は友を呼ぶ
740 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 19:51:58
闘争せよ!
最下階級闘争せよ!
潰し会え!
*なぜ人々はマッチョ化するのか
■「マッチョ化」させる場
セックスの話になると、100%出てくるのが、女性を商品として消費したという「マッチョ」な性体験の
話である。まさにここにあるのは、童貞蔑視の裏面です。「セックスマッチョの優越」です。「セックスマッチョ物語」では、そこには男女の差がありません。女性も「マッチョ」化しています。女を商品化する
ように語る男も、女に商品化され、語られている、ということ。ベタには「から騒ぎ」的ということです。
浮気などを、テレビなのでは、マッチョに告白することは、許されるみたいない感じがあります。
タレントはむしろテレビでマッチョに自己暴露します。テレビという公共の場で、むしろ暴露することで、
許されるという感じがあります。
2ちゃんねるもマッチョな場として作動しています。たとえば、2ちゃんねるでの民族的なヘイトスピーチ
などもここまで反社会的なことが言える俺様をみて、というマッチョ的です。これは、ただマッチョが
馬鹿であるとか、所詮中高生が多いとか、そういうことだけでは、言い尽くせないのだと思います。
そこにはマッチョ化させる状況があるということです。たとえば、テレビという場が、2ちゃんねるという
場が、はずかしげもなく、マッチョでいられる。
■マッチョ化による繋がりの確認
本当のマッスルマッチョは自己の肉体を外部に起き、客観的に眺め賛同します。マッチョ化とは
一つ距離感です。2ちゃんねるの「〜だけど、どうよ?」という場合は発言が外部におかれます。
このような発言の放り投げと波紋の客観視は、つながりの希薄さによる恐れでしょう。本来、発言は
自分に根ざした責任あることを望みます。なぜなら発言は自分自身だからです。それを放り投げる
ことは苦痛である。
しかしつながりが希薄は場とは、放り投げなければ、我が身が傷つく場です。「〜だけど、どうよ?」
というマッチョ化は、そこにつながることへの障害があることを知っているということであり、それは
「つながることが困難である」というメタコンテクストで、繋がりを保とうということです。
だからこのような繋がりが希薄で緊張感に満たされた、みなが牽制しあっているような場に、
空気を読めずに、マッチョ化せずにお人好しなマジ発言するものは、疎外されます。
このような複雑な空気読んだクールなマッチョな姿勢は、シニカルな態度です。このような繋がりが
希薄な場は、現代の社会そのものの状況です。だから現代では、クールなマッチョな姿勢ががっこよいといわれます。そして2ちゃんねるなどでは、より繋がりが希薄であるために、より過剰にマッチョに
振る舞うことが求められます。それはまた、放り投げた、無責任な、発言でもあります。 たとえば
ベタなオタクがかっこ悪いのはマッチョに降る前ないという意味で、空気が読めない外部である
からです。
743 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/10(火) 21:38:33
■マッチョ化による抑圧されたもの開示
精神分析の効果とは、欲望の承認です。社会的に承認されない様々な行為、考えを言葉にして、
承認されること、それは単に誰かの「OK」ではなく、告白するという行為そのものであり、さらに
それは、他者の目線で自分自身を客観視する、ということです。このような効果は、友達へ
相談することや、日記を書くことで安心するようなことでも得られます。
ネット、あるいはテレビなどの、誰かに見られているという視線の存在は、どうような精神分析装置
としての作動している面があるでしょう。このような視線は、「大文字の他者」と呼ばれます。
ネット、あるいはテレビなどで、マッチョによって「大いに」語ることの、その裏には、抑圧された
「後ろめたさ」を公開し、「懺悔」することがあります。たとえば、「女はものだ。つぎつぎやりまくっ
てるぜ」、あるいは人種差別的なヘイトスピーチは、心の中に芽生え、抑圧したものを、あえて
「マッチョ」に言葉にすることによって、抑圧された「うしろめたさ」を現前化し、解放する快楽です。
こんな不届きなことを考えてしまったことを抑圧することの苦しさからの解放です。それはまた俺は俺が
人種差別的なヘイトスピーチは間違っていることを知っている、という理性的な告白であり、
社会的な内部への繋がりっているという、快楽です。
マッチョ化とは、コンテクストの共有が希薄な状況の中で、メタコンテクストを共有しようとしながら、
抑圧されたものの開示するという、精神分析的な快楽です。
744 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/11(水) 01:25:23
>>672 >現実界も構造化されている
えー、それはないでしょう。現実界は認識の彼岸にあるんじゃないんですか?
745 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/11(水) 01:31:03
>>675 >過剰でもなく、 欠乏でもなく、無垢を適切に消費することによって、
>健全な精神は保たれる、という一つの理想である。
というのは結局弁証法的な運動の消失点を指し示しているに
過ぎないんじゃないですか?
>>677 >「消費的」な関係と「創造的」な関係
を存在論的に対立させていますが、これは事後的に判断される
運動の結果に過ぎず、存在としては同一であり、故に弁証法的な
運動の消失点、理想、約束の場所、存在し得ないことで存在を示す
空虚に過ぎないのでは?
ぴかぁ〜さんにとって「無垢の愛」とはラカンと同様に弁証法的な
運動によって展開された記憶の原点として位置づけられる空虚であると
読めてしまいます。
746 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/11(水) 01:44:49
マッチョ化そのものがアメリカン・ミソジニーという説話を
輸入し再構成したものに過ぎない気がするんですが……
マッチョは女(男)をものとして扱い捨てるが故にマッチョであり、
女はバカだから故にマッチョを選ぶ、「俺たち」を選ばずに。
繰り返しマッチョが演じられ、女(男)をもてあそび捨てて
「俺たち」仲間に回帰するという物語の繰り返しは、
「俺たち」のトラウマを回避するがために作られた物語だから
でしょう。だから繰り返される。「俺たち」が現実に傷つくたびに、
癒しの物語は必要とされる。
だからマッチョは仮装に過ぎない。マッチョに凌辱される女(男)
と同様に、それはある位置を占める記号に過ぎない。
選ばれなかった「俺たち」の自尊心を回復し、マッチョを仮装する
ことで集団に回帰し、不純物である異性を放逐する機能を、物語が
果たしている訳ですね。
747 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/11(水) 01:48:38
>>742 >>743 結局マッチョ化とは、選ばれなかった「俺たち」の視点から
語れる物語であり、マッチョは集団へ回帰する機能を持つ。
一旦その機能を持ってしまえば、マッチョは集団への回帰を
果たす一つの記号となる。
仮想化された「価値」としての女(男)を媒介として、集団への
回帰を果たすための儀式になっているのですね。
748 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 13:36:01
>>744 >えー、それはないでしょう。現実界は認識の彼岸にあるんじゃないんですか?
現実界は認識の彼岸ことと、構造化されていることは、対立しないでしょう。
確かに認識の彼岸なので、構造化されているか、わらかない、ラカンはいうでしょう。
その上で、構造化されているといっているのです。
なぜなら、現実界に欲動という作用があるのは、混沌であるはずが
ありません。認識されなくても、構造があるだろう、というのが、考察です。
さらにいえば、ボクはこの世界は構造であると考えるわけです。
世界がただ混沌であるなら、世界というものは存在しない、ということです。
>>745 それはまったく正しい読みです。「ぴかぁ〜の言葉は意味のないただの垂れ流しだ。」
という中傷の中で、ここまで的確に読み込んでいただいて、ありがとうございます。
>健全な精神は保たれる、という一つの理想である。
と書いているように、これはユートピアであって、決して達しない「消失点」であり、
それ故に、目指される点です。これにより、無垢への欲望が構造にダイナミズムを
産み続けます。
749 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 13:37:29
>>746-747 「アメリカン・ミソジニーという説話」は知りません。
「「俺たち」のトラウマを回避するがために作られた物語」というのは、
面白いですね。このトラウマとはなんでしょうか。
ボクは、「集団」を二つの意味で使っています。
一つは、身近ないわば「愛」の集団。マッチョな不良仲間のような
回りからは疎外された、高い帰属意識をもった集団であり、
もう一つは、象徴界(大文字の他者=神)という意味です。
「■マッチョ化による繋がりの確認」は、「愛」の集団をもとめて、
そして、■マッチョ化による抑圧されたもの開示は大文字の他者の
承認を求めてです。
リーマンさんの話は、この二つの混同された形だと思います。
750 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/11(水) 19:21:15
なんで最近くりーむしちゅーばっか司会しているんだろう。
面白くもないのに。
デレクターとか、プロデューサーとか、が年代的に使いやすいのか。
そういう制作側の世代交代という象徴界の変化によって、
番組内容とか、使われるタレントとか、変わりそうだね。
渡る世間とか、ホソギかず子とか視聴率がいいのは、
じじばばの見る番組が少ないからじゃないかな。
それは、第一線制作者の(象徴界の)世代交代で、
じじばば番組の作り手がいないからじゃないの。
553 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2006/01/11(水) 20:55:07
>>551 やっと学習しましたが、真面目にとりあうと疲れて損しますからね。
1.キーワードだけパクって、いかにも思わせぶりなことを書く
2.実はよく分かっていないので、突っ込んだ質問に答えられない
3.そして間違いを指摘していくと、逆切れしはじめて荒れる
この流れでいかに不毛な展開が哲板で繰り返されたか。
読む方だけが労力を払う必要はないですよ。それは甘やかし。
せめて推敲して「てにをは」を直すまで読まないようにしないと。
752 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 00:00:27
まなかなの一方をオファーするときは、
どうやって選ぶんだろう・・・
面白くもないのに。
デレクターとか、プロデューサーとか、が年代的に使いやすいのか。
そういう制作側の世代交代という象徴界の変化によって、
番組内容とか、使われるタレントとか、変わりそうだね。
渡る世間とか、ホソギかず子とか視聴率がいいのは、
じじばばの見る番組が少ないからじゃないかな。
それは、第一線制作者の(象徴界の)世代交代で、
じじばば番組の作り手がいないからじゃないの。
754 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/12(木) 00:37:03
>>748 現実界は認識の彼岸にあり、人間によって認識される=「構造化される」ので
あって、不可視であるとかわからないとかではなく(まるでベールがかかって
いるかのように。それはむしろ無意識)、認識以前の言語化以前の世界でしょう。
言語という象徴は「もの」の殺害なのですから、言語である「混沌」や「構造」を
現実界の「在り方」として使うことは出来ません。それ自体が論理矛盾です。
勉強不足で申し訳ないんですが、「現実界の欲動」とはいったいなんでしょうか?
>構造にダイナミズムを産み続けます。
の意味がわからないです。
755 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/12(木) 01:11:46
言われていることは正しいのですが、たぶん順序は逆です。
先に「マッチョ化による抑圧されたもの」という物語があり、
それが一つの累計的な神話となって初めて「マッチョ」という
身振りが社会的に通用する記号として流通する。
繰り返しになりますが、「異性に選ばれなかった」という「理由無き空虚」を
埋める物語が「マッチョというバカを選んだマヌケな異性」であり、これは
あくまで虚構であり、虚構として消費できるが故にトラウマとして処理できます。
この物語を通じて、「選ばれなかったもの」の怨恨は逆に共同体を支える
神話となる。
その神話が流通して初めて、「マッチョ」という身振りが「バカな異性の獲得」と
いう消費されるスタイルとして確立し、虚構であるが故にマイノリティの生んだ
マジョリティとして一つの(否定的な)集団を作るのだと思います。
>>746と
>>747は、ですから時間的には継起しつつ隔絶したお話です。
756 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/12(木) 01:33:58
>>748 お褒めいただいてうれしいのですが、やはりラカンはキツイです。
見果てぬ対象aへの欲望の運動、終着のない終わり無き運動、
「終わり無き日常を生きる」のは、知ってしまったものにとっては
つらすぎますね。
757 :
考える名無しさん:2006/01/12(木) 01:53:16
リーマン、そろそろぴかぁ〜に戻れよ。
758 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/12(木) 02:15:09
759 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 10:38:09
>>754 ラカンにおいての「現実界」は、単に「認識の彼岸」ではなく、享楽の場所です。
象徴界へ参入する前の母と未分化の状態という全能感を取り戻そう(たとえば近親相姦)
とする欲動が働く場であり、象徴界は、その享楽を禁止するように働いているのです。
だから正常な主体にとって、現実界は「認識の彼岸」にあるのです。それに対して、
現実界が露呈してくると精神病理になります。
ボクが現実界も構造化されているというのは、ラカンとしてのトンデモです。
しかしドルゥースがこの死の欲動を、生の欲動としてとらえ、その原型として
「器官なき身体」として考えたように、現実界は「身体」です。
だから言語でなく、なんらかの構造化であるというのは、それほどおかしくないと
思います。
>>755 「異性に選ばれなかった」ですか。マッチョはもてないくん?
760 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 18:06:04
抑圧されたものは、意識によりとらえようとも姿をけす。
それは、意識がよそ見をしたとき愚痴として回帰している。
そしてその痕跡、だれかの不満であり、さまざまな不安なできごととしてあらわれる。
しかしそれは確信ではない。なぜならシニフィアンの連鎖がとまらないからだ。
表象代理としてのシニフィアンが愚痴としてあふれてくる。それもよそ見をしたときにあふれている。
761 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/12(木) 18:19:24
そして夢として回帰するのだ。
よそ見
愚痴
夢
763 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 00:23:16
>>759 非常に大きな勘違いをしていました。大変勉強になったので、
感謝と確認をさせてください。
「認識の彼岸」、認識できないものとは認識できないのだから
「認識できない」と語ることは原理上出来ない。にもかかわらず、
自分が「認識の彼岸」とそれを名付けている時点で既にそれは
精神の内部にあり、「内部の内部」としての外部なんですね。
外部を「語る」には、「内部の内部」として語る以外にない。
現実、というときに常に二つのことが同時に指し示されていて、
それは現実という言語化されないものを言語であらわしている、
ということ。逆に言えば言葉の力は、何かが存在することを指し示す
ことにあるのではなく、否定することで何かの痕跡をあらわすことにある。
何かがあった。しかし今は無い。
「現実界」と言うとき、それは「象徴界」を前提としているわけですね。
そして当然、カントが「物自体」という「概念」を発したとき、この二重性
−存在と象徴−を当然含んで発せられたわけですね。
764 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 00:28:41
欲望とは「無垢」への欲望である。
無垢とは差異である。
現実界からの差異を象徴界へ還元(反復)する。それが欲望の運動である。
これは、象徴界における隠喩の運動である。
たとえば「動物化」と隠喩として名付けることで、形なく漂う差異群が、
なんらかの意味を持つように収まってしまう。
これは現実界からの禁止としての差異の進入をすくい取り、象徴界へ
流し込む運動である。このように象徴界のダイナミズムは保たれている。
765 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 00:39:49
>>763 >否定することで何かの痕跡をあらわすことにある。
>何かがあった。しかし今は無い。
これですね。「欲望は無への欲望である。」
無いことが、ある。
「無いこと、がある」を理解するというのは、とても高等なことらしいね。
人間以外、一部猿でわかるとか、わからないとか。
まさに人間の特性で、欲望の本質であり、現実界のありよう。
これがラカン理解の一番わかりにくいところ。
というか、これはハイデガーの「真実とは」から来ているのだけど。
766 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 00:42:04
>>759 「語りえぬものには沈黙しなければならない」
語りえぬものはそもそも存在しないんだから、
わざわざ沈黙という禁止を言う必要はない。
この理解の鍵は、「語りえぬもの」が存在の不可能性であることに
対し、「語りえぬもの」という存在の「不在」を語ってはならないという
倫理の要請である、と言う事実である。
「現実界」は現実が象徴化されることが出来なかった「象徴界」の内部の内部、
外部として存在する。
なぜ倫理の要請なのかと言えば、人間は、「象徴化」出来なかった現実、
現実を構造化する上で構造的に排除されたもの、不在として語られたものに
欲望を抱くから。それが「欲動」である、ということですね?
(以上ジジェクの本からの抜き書き、やや変更)
原因を求めるのは、常にうまくいかなかったときだけ。
何かを求めるのは、何かが生まれる予感か、何かを失った痕跡か、
いずれにしろそこにないものだけ。
767 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 00:53:47
>>765 ハイデガーというと、「死を先験的に生きる」という
言葉が浮かびます。
死は自然的な死ではあり得ない。象徴的な、痕跡としての
「死」として死は存在する。そしてその象徴界のネットワーク自体の
死(要するに本人の死)がある。ここも同時に二つのことが語られている。
だから「死」を想像できるのは、痕跡=言語を扱うことの出来る高度な
知能を持った人間にしか出来ず、逆に言えば自分が死ぬという究極的な
終焉を想像し、そこから自分の人生を俯瞰的に眺めることが可能である、
「死」に立ってよりよき生を、と言う結論が得られる、と自分では解釈します。
768 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 01:12:04
>>749 「ミソジニー」は女性嫌悪です。
アメリカ文化は非常に女性嫌悪の強い文化です。
その文化の、少なくとも映画の分野では、西部開拓の
歴史がミソジニー化を生み出したと考えられます。
西部の開拓地では男性が圧倒的多数です。
女性は非常に少数であり、カップリングすると言うことは
男性が女性に選ばれる、と言うことになります。
生涯娼婦以外に女性を抱くことが無く、パートナーを持つ
ことが出来なかった男性にとって、その挫折を鎮魂させる
ためには物語が必要でした。
それは「酸っぱいブドウ」の逸話に似ています。
ブドウは酸っぱい。俺たちを選ばなかった女性はバカだ。
バカには不幸が訪れなければならない。それゆえ、女性が
選んだのは、「力の強いわがままでやりたい放題のマッチョ」であり、
そいつはやりたい放題なんだからやられるだけやられて捨てられる。
そうなるに決まっている。何せ俺たちのような勇敢で仲間を大切にする
いい男ではなく、「マッチョ」を選んだんだから。
いい男なら、女なんか捨てて俺たちのところに戻ってくるはずだ。
(続く)
769 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 01:13:56
つまり、彼らは女性に選ばれなかったという理由無き事実に対し、
「マッチョと淫乱なバカ女」にひどい目に遭わされたという物語を
トラウマとして何度も繰り返すわけです、鎮魂のために。
西部開拓が終わり、カーボーイたちがハリウッド映画のメインスターとなった
頃から、この「ミソジニー」を中心に据えた映画が作られはじめ、今に至ります。
だからアメリカ映画は男集団にバカな女が乗り込むとか(メジャーリーグ)、
性悪な女性が周囲を引っかき回した上で死ぬ(冷たい微笑)とか、ミソジニーを
繰り返す。
マッチョはその点で記号であり、俺たちの集団を根拠づける外部であり、
あこがれの対象なのです、アメリカ映画文化においては。
以上、内田樹先生の全くのパクリですが、重要なのは、トラウマが
「虐待された事実」ではなく、時間的に後から再構成された物語において
実在する、と言う点で、それが言いたかったんです。長くてすみません。
770 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 01:15:49
771 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 01:37:44
>>770 勘違いうれしいけど、ちがうんだなぁ、これが。
手塚さんはもっと幅広いでしょう、知識も見識も対人能力も嫌みもw
出来ればカントに関する知識をお聞きしたいです。
東センセのスレはレベルが高いのでなかなか絡めません。
ていうか、isedとか、知識人のかみ合った議論を生で聞いてみたい。
772 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 02:43:06
ぴかスレなら絡めるわけね
773 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/13(金) 03:12:45
>>772 そういう見方もあるのか……もの言えば唇寒し、だな
>>768-769 実はハリウッドの考える最高の憧れはボニーとクライドじゃないか
と思ってる
ボニーみたいな女性像は意外とハリウッドでは少ないけどね
775 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 10:06:08
>>766 >「語りえぬもの」という存在の「不在」を語ってはならないという
>倫理の要請である、
「語りえぬものには沈黙しなければならない」 が、倫理の要請ですか。面白いですね。
死の欲動を禁止する象徴界の法に順守せよ、というようなことでしょうか。
欲動自身は、貧乏揺すり?のように、もっと生物学的なものです。
だから、象徴界で禁止された近親相姦のようなものをただただ享楽しようとする。
しかしこれはまた欲望の、そして主体であることの、根本的な契機になっている。
たとえば、そこに他者がいるだけで、欲動は発動し、コミュニケーションしようとする。
しかしそれは象徴界(社会関係)を無視していますから、それだけだと想像関係による闘争になるので、
象徴界が必要とされる、というこおtです。
776 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 10:06:43
>>767 そのような意味で、ラカンはハイデガーの「死」に見せられています。
「欲望は死への欲望である」とは、死ぬことははじめて、欲望は成就するようなもの。
動物は「死」なない。「人間」だけが「死」ぬことができ、そこで完結することができる物語である、
ということです。
ラカンを生へと読みかえたいボクはまさにここを検討したいのです。
ボクたちの生きることの緊張感、充実感は本当に「死」を元にしているのか。
「いつか死ぬこと」をしるから、今を生きられるのか?
動物は「死」をしりません。しかし彼らにも生きる緊張感、充実感、慎重さがみなぎっています。
生きることと死ぬことは必ずしも関係していないのはないか。
ただただ、生の欲動(エロス)は生きることを向かう、のではないか。
そうすると、ラカンの欲動も必ずしも、死の欲動とは言えないのですね。
ボクが現実界も構造化されていると考えるのは、生の欲動(エロス)を生命の力として見るからです。
>>768 アメリカ文化の「ミソジニー」ですか、「マドンナ」も一つの象徴でしょうか。
従順な女性を根底に求める日本にはない文化ですね。
ボクがいった「マッチョ化」はツッパリ少年的な「虚勢をはる」という軽い意味です。
777 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 10:42:12
>>776の続き
そこでボクはラカンの「無への欲望」、「死への欲望」を「無垢への欲望」を読みかえるのです。
欲動によって、象徴界の禁止への進入がなければ、象徴界は変化することなく、
止まってしまいます。言語体系とは、それが間違っているとされる言葉の使い方が
されること、「語り得えるもの」を語り続けることから、変化します。
秩序という安定とは、静止ではなく、安定した動にあるのです。
なぜなら止まってしまうと、環境圧によって風化するからです。
「無への欲望」、「死への欲望」は、決して満足しないことを示しています。
それは、決して反復に満足せず、差異を求め続け、「無垢への欲望」ともとれます。
だから動物は「死」をしらなくても、生きる緊張感、充実感、慎重さがみなぎりつづけています。
しかしこれでは「動物は欲求するだけ、人間だけが欲望する。」という、欲望の定義がかわります。
動物の「無垢への欲動」は、環境圧によって供給されます。野性では毎日が、瞬間瞬間が
反復に還元されない差異の世界です。だから無垢(差異)がいつも過剰です。
いわば、無垢への欲望は満たされつづけており、欲望は消失しているのです。
それに対して、人間は環境からガードされています。これは象徴界の効果です。
象徴界という秩序は、環境からの差異の進入の防波堤です。
象徴界によって、毎日が反復に還元され、差異(無垢)が欠乏気味です。
だから無垢(差異)を求め続けるのです。象徴界が禁止した享楽を欲望し続けるのです。
だから「無垢への欲動」は人間と動物にあるが、「無垢への欲望」は人間のみです。
これが、「無垢への欲望」論のアウトラインです。
778 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 10:49:17
mako
779 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 11:24:50
ここでは生命は現実界という差異をたべ自身を維持する創発機械であり、象徴界も社会という創発機械です。
さらにつっこめば動物も欲望するし、象徴的秩序があるのは常識でしょう。
犬猫も嫉妬する。猿の群れは近親相姦を避けるシステムがあります。
現実界(個体性)と象徴界(社会性)の対立に、象徴界に抑圧された現実界としての欲望は生まれます。
機械じゃなくてシステムって呼んで
781 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 11:51:05
機械だとドゥルーズっぽいでしょうか
ドゥルーズとの違いはドゥルーズが動物/人間の差異をこえていない。
あくまで人間の物語にとどまり、マルクスを横目にみて資本主義分析なところですね。
ボクはダーウィンを横目に見ています。だから「環境圧」(自然淘汰)を組み込んでいる。
ラカン、ドゥルーズらが「環境圧」(自然淘汰)を語らないのは不自然だと思うんです。
これによって物語がとてもすっきりする。
どこまでも堕ちていくぴかぁ〜
はたして彼は再び社会に戻ることができるのであろうか?
社会生活についてはどうか分からないけど、
ここ1ヶ月ぐらいのぴかぁ〜は冴えてると思う。
784 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/13(金) 12:05:39
ラカンは科学であり、ドゥルーズは哲学思想であり、ボクは科学である、ということですね。
これで冴えてるって言われても(笑)
786 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/14(土) 03:01:43
>>776>>777 了解しました。
「無垢」とは当然「無垢でないもの」から言語的否定的に指し示される
空虚、欲動の場所、と言う理解でよいでしょうか。それは存在しない。
しかしそれを人は求める。
ふたつ、質問です。過去スレも同時に読ませていただいています。
1)
>>777 >そこでボクはラカンの「無への欲望」、「死への欲望」を「無垢への欲望」を読みかえるのです。
ラカンのテーゼ「欲望をあきらめるな!」は、「死」とあくまで想像的に捉えている点で非常に
ポジティブであり、ぴかぁ〜さんの言われる「無垢への要望」と異ならないように思えるのですが。
その差異とはいったいなんでしょう?
2)「健全な無垢への欲望」
というときの「健全さ」の意味がわからない。無垢への欲望は方向性を持たない気がします。
ストーカー行為も、相手の意図を組み適切な対処を取ることも、同じ欲望の現前です。
要は結果から遡って確定されるものに過ぎない。健全さという価値は事後的に決定され、
弁証法的に社会的な規範となります。
しかし現時点での日本に於いてスローガンとしての「無垢への欲望」を言ったところで
反応はあるのでしょうか。大きな物語は終焉を迎え、社会性そのものが解体しているときに、
「健全さ」の物差しが失われつつある中で健全さは実証され得るのでしょうか?
787 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/14(土) 03:08:16
さらに「愛」の問題です。
>>677 >ボクはこのような
>創造的な関係、それは二者間ということではなく、コミュニティであってもよいにであるが、創造的な
>内部であり、そこには強い内部への強い帰属心が生まれるという意味で「愛」と呼ぶ。
これはどうしても、欲望という秩序紊乱因子=社会の差異を生み出す力が、「強い内部への強い帰属心」
に吸収される、つまり「組織への愛」「国家への愛」に容易に転化するように見えます。これは逆説です。
欲望は秩序の紊乱者です。愛は秩序の安定性の上でのお互いの唯一性(という幻想)です。
大きな抑圧、ビックブラザー、死が反省的に人を生に駆り立てることは
実証的です。
フランス人がもっとも生き生きとしていたのはドイツに占領されて
レジスタンスとして戦っていたときだと聞きます。人間は、抑圧への抵抗、
まだ見ぬユートピアに向かって邁進するとき、もっとも生き生きとしたそうです。
それは「理想」という名の死を賭けた壮大な「祭り」であったとも言えます。
しかし大きな物語が壊れ、社会が統一的な物語を失い、弁証法的な「歴史」を世界が経過することを
「終わりつつある」現在、弁証法的に、すなわち愛するように欲望を開示できるのでしょうか、「死に
直面すること」を経由することなく。
風呂位入れよ
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
30過ぎて2ちゃんに人生かけてんじゃねーぞ!!
790 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/15(日) 00:42:15
>リーマンさん
ん〜休日で、頭が回らなくなっています。
無垢には否定はありません。反復と差異です。
反復とは「約束事」ですね。たとえばりんごが2つあるとは、りんごという約束ことが
あるから、それらを同じものが二つと考えます。しかしまったく同じりんごは存在しません。
たとえば人がふたりいるといいますが、それらが親しい人だろと、みよちゃんとじろちゃんが
いるといいます。それが二人をそれぞれに個性を見ているのですね。その個性が
反復からの差異ですね。象徴界とはこのような「約束事」でできていますが、
約束事されていない現実界から「無垢」が登場し、それが名付けられ約束事になるように、
差異が進入しないと、ダイナミズムはうまれません。
無垢への欲望とは、このような新たな無垢を求めるということです。
たとえばテレビは無垢を供給します。テレビが供給するのは、お約束としての反復です。
しかしそれだけだと、退屈でみません。その中でに、お約束外を少しずつ忍びこませるのです。
あまりにお約束から外れすぎると意味がわかりませんし、わかるために集中力が
求められますので、無垢の量を調整する必要があります。
791 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/15(日) 00:46:59
ここに「健全な無垢への欲望」があります。この適度な無垢を供給することが必要だ、
ということです。しかし最近では、ひきこもりがテレビ、ゲームなどで無垢を供給し、
満足し生きるということが可能に成っていますが、しかしそれでは無垢を満たされているとは
いえません。テレビ、ゲームなどの無垢は、「減算の無垢」であり、消費です。
いわば、生理的な刺激としての無垢は、刺激として反復によって、還元されてしまう。
たとえば、刺激がつづけいてる、それ自体が反復となります。
ほんとうに、無垢を供給する、加算の無垢は、「創造」関係ではないかと考えます。
この当たりは、ボクは「差異化運動」と読んでいます。「差異化運動とは、他者と差異を
より細部に見いだそうとする運動である。差異化運動が魅力的なのはより詳細に自分が
なにものか記述するからである。」そしてこのような創造関係を「愛」と呼びます。
このあたりは、こちらを参照下さい。
なぜレイザーラモンHGは憂鬱なのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051207
792 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/15(日) 00:48:30
このような「創造」関係は、現代的な射程はあると思います。TV、ゲームなどの消費によって
コンビニエンスな無垢によって欲望が満たされたと思うな。愛の関係によって、ほんとうの
「おいしい」無垢は得られ、健全な精神は宿る、ということです。
先にいったように「健全」とは理想主義的、決して達成しないものという意味があることは
否めません。そのような意味で「己の欲望に譲歩するな」ということでしょう。
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
30過ぎて2ちゃんに人生かけてんじゃねーぞ!!
794 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/15(日) 00:56:44
ボクの「愛」が内部への帰属を強め、それが外部へ排他的であることは、否めませんが、
内部が外部への暴力として作動することは、内部に無垢が欠乏し、それが外部に強迫的に
求められるときだと思います。それは主体という内部の無垢の欠乏と同じです。
「愛」の維持にも、「健全な無垢の供給」が求められます。よって、「健全な無垢への欲望」が
理想主義的な、決して達成しない、求められ続ける倫理なのです。
やや洗い解答に成ってしまいました。
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
30過ぎて2ちゃんに人生かけてんじゃねーぞ!!
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
30過ぎて2ちゃんに人生かけてんじゃねーぞ!!
ひきこもり中年ぴかぁ〜死ね!
30過ぎて2ちゃんに人生かけてんじゃねーぞ!!
荒らし依頼だしました。
荒らし依頼ってことは荒らしの首謀者になると言うことですね?
800 :
考える名無しさん:2006/01/15(日) 03:20:17
800
801 :
考える名無しさん:2006/01/15(日) 03:57:04
働けよリーマン
ちんかすぴかぁ〜w
今夜の徹底討論
「なぜ、ぴかぁ〜はチンカス臭いのか?」
804 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/01/16(月) 00:16:30
ぴかぁ〜さん、返答ありがとうございます。
「無垢」とは否定ではなく「差異と反復」ですか……なるほど。
「否定」はあくまで象徴界の運動であり、現実界から
象徴界に再取得されるものは「一度目」に投げ入れられたものが
他のものの「反復」として捉えられると言うこと、つまり差異である、
と言うことですね。
言い換えると、「Aではない」というだけではなく、「Aでは
無いBである」という、実体としてのBがあるという違いですね。
このとき、「それ」(ES)は現実界から象徴界へ投げ入れられ、ぎゃくに
欲望(という人間の精神の運動)は現実界に「それ」を求め受け取る。
受け取る側が欲する「量」と投げ入れられるものの「量」の間には常に
食い違いが生じ、「過剰」と「欠乏」となる。
「それ」は自然的にも人工的にも生じるが、欲望と「それ」がほどよくバランスを
取る「健全」な関係が必要ではないか。「それ」は他者という「現実界」の「それ」
への欲望が充足関係になったようなときに生じる。それが「愛」である、と。
最後まで「それ」と書いたのは、やはり「無」と「無垢」の違いがよくわからなかった
からです。人間の物語を超えた、人間/動物の差異を持たない欲望、という
概念がわからないし、なぜそれが重要なのかがわかりませんでした。
とりあえず過去ログ読んでみます。
こなれていない表現な上にいい意味での挑発が無いレスになってしまいました。
これが今の、精一杯(ルパン)
805 :
考える名無しさん:2006/01/16(月) 16:18:11
ほう
806 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 17:10:22
*無垢とは「失われた他者からの声」である。
■「無への欲望」と「無垢への欲望」
ラカンの「無への欲望」の物語では、人間と動物の違いは、人間は早熟で生まれるということから
始まります。統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像(想像的他者)に、あるいは
社会的な立場(象徴的他者、大文字の他者)で満たそうとします。これが欲望です。(欲望とは
他者の欲望である。)
しかしそれは本来の自己そのものではありえないために、欲望は求められ続ける。ここに根元的な
欠け(無への欲望)が生まれるわけです。そして欲望がもはや死ぬことでしか満たされない(死への欲望)と言われます。
ボクはこれを「差異と反復」で読みかえます。世界は、私は一瞬たりとも同一ではありえない。
たとえば何かを知ったあとの私は、すでにその前の私とは違うものです。しかし自己同一性が
保たれているのは、差異が反復に回収されるからです。同一性とは反復ですね。絶えず同じ自分で
あること(自己同一性)が保たれる状態です。
たとえば世界にまったく同じりんごが一つとしてないの、それをりんごが(同じものが)7つ数え
られるのは、差異を回収し同一性としているからです。このように「私」という自己同一性は、
他者が私を呼ぶことによって、象徴界が差異を反復へ回収することによって、「誰々の子供」、
「〜という名前」、「〜の会社の課長」、「私は〜が好きだ」・・・という形で保たれます。
しかし人間はそれだけに満足できません。生きている「充実感」を求めます。(ラカンのいう享楽)。
人間は、言語という反復に回収される前の差異、現実界の差異=「無垢」を求めます。これを
社会側からみれば、利己的な秩序の破壊として取られます。そして個人からみれば社会からの
抑圧と考えられます。
このようにラカンが無いものを求めつづける運動(無の欲望)は、差異を必要としつづける運動
(無垢への欲望)と読みかえられます。
807 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 17:11:17
■「欲望をあきらめるな!」と「健全な無垢への欲望」
ここからボクは、人が「充実感」を得るという「健全性」は、「無垢」が満たされることだと考えます。
では「無垢」が満たされるとはどのような状態か。これはラカンの 「欲望をあきらめるな!」に
繋がります。簡単にいえば、 「欲望をあきらめるな!」とは、想像的同一性、象徴的同一性を
越えて、(不可能でも)現実界への欲望し続けろ、ということです。
たとえばフロイトなど精神分析の目標は、患者を社会復帰させることを目標にします。すなわち
象徴的同一性として、「誰々の子供」、「〜という名前」、「〜の会社の課長」を受け入れることを
目標とします。ラカンもそれを目指しますが、単に流動性の高い現代社会では社会に忠実である
ことだけでは、精神の「健全性」が保たれないのではないか、と考えました。だから(不可能でも)
現実界への欲望し続けろ、といったのです。
たとえば、なぜ人々がロリータへ向かうのかは、大人の女性のエロは氾濫しすぎて、反復で
しかない退屈なものと成っているからです。ロリータは反復を越えた差異(無垢)であり、
欲望されるのです。しかしこれは現実界の(本当の)無垢ではありません。「ロリータ」は
どこかにいる本当の少女ではなく、社会的に禁止されることで象徴的に作られた幻です。
象徴界のガードは堅く、人は現実界へ到達することは困難です。人が「これは流行りだ!
新しいな!面白いな!」と思う「無垢」は、すでに象徴界によって回収された「幻想の無垢」です。
象徴界の他者との同一化=「大文字の他者の欲望」を欲望しているのです。
ラカンの「欲望をあきらめるな!」とは、このような幻想をこえた向こうにあるということです。
しかしボクが「健全な無垢への欲望」という時には、「欲望をあきらめるな!」というほどの
ストイックさを緩和したところもあります。現代のように無垢が欠乏した時代には、
欠乏し、窒息し、転落するよりも、それが「幻想の無垢」であっても、安定的に供給されることが
重要ではないか、ということです。
808 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 17:11:55
■「死の欲動」=「「失われ他者からの声」への欲動」
如何に「健全な無垢への欲望」をするか。ここで「無垢」とはなにかということを再度考えないと
いけません。
ボクが無垢は差異であるというときには、生命とは「差異を反復へ回収し、自己同一性を保つシステム
である」という考えがあります。この生命システム、欲動機械は人間でも変わりません。では人間と
それ以外の差はないか。なぜ人間のみが欲望をもっているのか。
「自己同一性を保つシステム」というとき、それは生物個体であるとともに、生命群です。一般的に
生命は個体としてだけでなく、集団の一部として存在しています。たとえば蟻は1匹が個体ですが、
集団の一部として働き蟻など、個体形態も拘束されています。すなわち生物は先天的に集団への
拘束を持っています。
しかし人間は個体としての存在が強いために、集団の拘束が弱い存在です。それを補う形で社会
(象徴界)は存在するといえます。人間以外の生物では個体/集団が先天的に決められた協調関係
で成り立つのに対して、人間は個体/集団(社会)に対立関係が存在します。
人間以外の集団性とは他者からの呼び声であり、人間にはこの他者からの呼び声が欠落し、
それ故に、他者を欲望する、欲望とは他者の欲望だということです。すなわち欲動とは他者への欲動であり、(現実界の)本物の無垢とは「失われた他者」からの刺激であり、不確実性です。
809 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 17:12:34
■消費関係と創造関係
ボクは、幻想の無垢を一方的に消費し、またつぎの消費関係へと向かうという現代の消費社会的な
欲望形態を「消費関係」と呼びました。しかしこれは刺激を重視したより過激に向かうために、
安定した無垢の供給は難しいのではないか、と思います。
このような意味で、ボクは「消費関係」に対して、より「現実界の他者」へ欲望する方法として、
「創造関係」を考えました。これをボクは「差異化運動」と読んでいます。差異化運動とは、他者と
差異をより細部に見いだそうとする運動です。差異化運動が魅力的なのは、「失われた他者からの
声」に近接し、無垢を産み続ける運動ではないか、ということです。そしてこのような創造関係を
ボクは「愛」と呼びます。
810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 17:13:32
>健全さという価値は事後的に決定され、弁証法的に社会的な規範となります。
>大きな物語は終焉を迎え、社会性そのものが解体しているときに、
>「健全さ」の物差しが失われつつある中で健全さは実証され得るのでしょうか?
>しかし大きな物語が壊れ、社会が統一的な物語を失い、弁証法的な「歴史」を世界が経過することを
>「終わりつつある」現在、弁証法的に、すなわち愛するように欲望を開示できるのでしょうか、「死に
>直面すること」を経由することなく。
リーマンさんのこれらの質問への解答として、ラカンの「欲望をあきらめるな!」はあります。
ラカンは、象徴界(社会的な規範)の向こうを目指せ、幻想の無垢に騙されるなといます。
それに対して、ボクの「健全な無垢への欲望」は、社会的な規範よりも、無垢が欠乏し暴走する
より問題を重視し、安定的に無垢を供給することを目指します。
811 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 18:42:17
再まとめ
■無垢への欲望とは「他者からの呼び声」への欲望である。
@「無への欲望」と「無垢への欲望」
ラカンの「無への欲望」の物語では、人間と動物の違いは、人間は早熟で生まれるということから
始まります。統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像(想像的他者)に、あるいは
社会的な立場(象徴的他者、大文字の他者)で満たそうとします。これが欲望です。(欲望とは
他者の欲望である。)
しかしそれは本来の自己そのものではありえないために、欲望は求められ続ける。ここに根元的な
欠け(無への欲望)が生まれるわけです。そしてこのような同一性へ向かう生物学的力が欲動です。
欲動が死への欲動と言われるのは、欲望がもはや死ぬことでしか満たされない(死への欲望)と
言われます。
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 18:43:37
A「無垢への欲望」
ボクはこれを「差異と反復」で読みかえます。世界は、私は一瞬たりとも同一ではありえない。
たとえば何かを知ったあとの私は、すでにその前の私とは違うものです。しかし自己同一性が
保たれているのは、差異が反復に回収されるからです。同一性とは反復です。絶えず同じ自分で
あること(自己同一性)が保たれる状態です。
たとえば世界にまったく同じりんごが一つとしてないの、それをりんごが(同じものが)7つ数え
られるのは、差異を回収し同一性としているからです。このように「私」という自己同一性は、
他者が私を呼ぶことによって、象徴界が差異を反復へ回収することによって、「誰々の子供」、
「〜という名前」、「〜の会社の課長」、「私は〜が好きだ」・・・という形で保たれます。
これが象徴界への参入です。
しかし人間はそれだけに満足できません。生きている「充実感」を求めます。これが欲動です。
人間は、言語という反復に回収される前の差異、現実界の差異=「無垢」を求めます。これを
社会側からみれば、利己的な秩序の破壊として取られます。そして個人からみれば社会からの
抑圧と考えられます。このようにラカンが無いものを求めつづける運動(無の欲望)は、差異を
必要としつづける運動(無垢への欲望)と読みかえられます。
813 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 18:44:20
B無垢とは「他者からの呼び声」
ボクが無垢は差異であるというときには、生命とは「差異を反復へ回収し、自己同一性を保つシステム
である」という考えがあります。この生命システム、欲動機械は人間でも変わりません。では人間と
それ以外の差はないか。なぜ人間のみが欲望をもっているのか。
「自己同一性を保つシステム」というとき、それは生物個体であるとともに、生命群です。一般的に
生命は個体としてだけでなく、集団の一部として存在しています。たとえば蟻は1匹が個体ですが、
集団の一部として働き蟻など、個体形態も拘束されています。すなわち生物は先天的に集団への
拘束を持っています。
しかし人間は個体としての存在が強いために、集団の拘束が弱い存在です。それを補う形で社会
(象徴界)は存在するといえます。人間以外の生物では個体/集団が先天的に決められた協調関係
で成り立つのに対して、人間は個体/集団(社会)に対立関係が存在します。
人間以外の集団性とは「他者からの呼び声」であり、人間にはこの「他者からの呼び声」が欠落して
います。人は統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像を求めるということからも、
欲動が向かうのがこの「他者からの呼び声」であるといえます。そして、無垢とは「他者からの呼び声」
です。
814 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 18:45:01
C「欲望をあきらめるな!」
たとえばフロイトなど精神分析の目標は、患者を社会復帰させることを目標にします。すなわち
象徴的同一性として、「誰々の子供」、「〜という名前」、「〜の会社の課長」を受け入れることを
目標とします。ラカンもそれを目指しますが、現代のような流動性の高い社会では社会に忠実で
あることだけでは、精神の「健全性」が保たれないと考えました。それがラカンの倫理テーゼ
「欲望をあきらめるな!」です。簡単にいえば、これは想像的同一性、象徴的同一性を越えて、
(不可能でも)欲望の根元である現実界を欲望し続けろ、ということです。
たとえば、なぜ人々がロリータへ向かうのかは、大人の女性のエロは氾濫しすぎて、反復で
しかない退屈なものと成っているからです。ロリータは反復を越えた差異(無垢)であり、
欲望されるのです。しかしこれは現実界の(本当の)無垢ではありません。「ロリータ」は
どこかにいる本当の少女ではなく、社会的に禁止されることで象徴的に作られた幻です。
象徴界のガードは堅く、人は現実界へ到達することは困難です。人が「これは流行りだ!
新しいな!面白いな!」と思う「無垢」は、すでに象徴界によって回収された「幻想の無垢」です。
象徴界の他者との同一化=「大文字の他者の欲望」を欲望しているのです。
815 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 18:46:06
D消費関係と創造関係
しかしボクが「健全な無垢への欲望」という時には、「欲望をあきらめるな!」というほどの
ストイックさを緩和したところにあります。現代のように無垢が欠乏した時代には、窒息し、
転落するよりも、それが「幻想の無垢」であっても、安定的に供給されることが、重要ではないか、
ということです。
ロリータが好きならば、ロリータに萌えるのも良いということです。しかしこのような幻想の無垢を
ただ消費し、またつぎの消費へと向かうという現代の消費社会の欲望形態は、身体的な刺激を
重視したものであり、より過激に向かうしかないのではないか。そこには充足はないのではないか、
と考えました。ボクはこのような関係を「消費関係」と呼びました。
ボクは「消費関係」に対して、「無垢」を創造する「創造関係」を考えました。これは「差異化運動」を
基本にしています。差異化運動とは、より「近い他者」と差異をより細部に見いだそうとする運動です。
たとえば、「宿命のライバル」などです。差異化運動が魅力的なのは、他者との関係で、より自分が
細部において見いだされるという、「失われた他者からの呼び声」に近接し、無垢を産み続ける
運動ではないか、ということです。そしてこのような関係をボクは「愛」と呼びます。
この創造関係と、闘争へいたる想像関係(イマジネールな闘争)とは、とても近い関係にあります。
これを明確に区別することは難しいですが、そこには保たれる象徴界の介入が必要とされること、
すなわち純粋な二者の関係ではなく、開かれたコミュニティであることです。
816 :
考える名無しさん:2006/01/16(月) 18:47:17
まず働こう
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
加速度的に!
825 :
考える名無しさん:2006/01/16(月) 19:16:04
あっはははは
826 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 20:02:23
■無垢への欲望とは「他者からの呼び声」への欲望である。
@「無への欲望」と「無垢への欲望」
ラカンの「無への欲望」の物語では、人間と動物の違いは、人間は早熟で生まれるということから
始まります。統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像(想像的他者)に、あるいは
社会的な立場(象徴的他者、大文字の他者)で満たそうとします。これが欲望です。(欲望とは
他者の欲望である。)
しかしそれは本来の自己そのものではありえないために、欲望は求められ続ける。ここに根元的な
欠け(無への欲望)が生まれるわけです。そしてこのような同一性へ向かう生物学的力が欲動です。
欲動が死への欲動と言われるのは、欲望がもはや死ぬことでしか満たされない(死への欲望)と
言われます。
827 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 20:02:55
A「無垢への欲望」
ボクはこれを「差異と反復」で読みかえます。世界は、私は一瞬たりとも同一ではありえない。
たとえば何かを知ったあとの私は、すでにその前の私とは違うものです。しかし自己同一性が
保たれているのは、差異が反復に回収されるからです。同一性とは反復です。絶えず同じ自分で
あること(自己同一性)が保たれる状態です。
たとえば世界にまったく同じりんごが一つとしてないの、それをりんごが(同じものが)7つ数え
られるのは、差異を回収し同一性としているからです。このように「私」という自己同一性は、
他者が私を呼ぶことによって、象徴界が差異を反復へ回収することによって、「誰々の子供」、
「〜という名前」、「〜の会社の課長」、「私は〜が好きだ」・・・という形で保たれます。
これが象徴界への参入です。
しかし人間はそれだけに満足できません。生きている「充実感」を求めます。これが欲動です。
人間は、言語という反復に回収される前の差異、現実界の差異=「無垢」を求めます。これを
社会側からみれば、利己的な秩序の破壊として取られます。そして個人からみれば社会からの
抑圧と考えられます。このようにラカンが無いものを求めつづける運動(無の欲望)は、差異を
必要としつづける運動(無垢への欲望)と読みかえられます。
828 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 20:03:25
B無垢とは「他者からの呼び声」
ボクが無垢は差異であるというときには、生命とは「差異を反復へ回収し、自己同一性を保つシステム
である」という考えがあります。この生命システム、欲動機械は人間でも変わりません。では人間と
それ以外の差はないか。なぜ人間のみが欲望をもっているのか。
「自己同一性を保つシステム」というとき、それは生物個体であるとともに、生命群です。一般的に
生命は個体としてだけでなく、集団の一部として存在しています。たとえば蟻は1匹が個体ですが、
集団の一部として働き蟻など、個体形態も拘束されています。すなわち生物は先天的に集団への
拘束を持っています。
しかし人間は個体としての存在が強いために、集団の拘束が弱い存在です。それを補う形で社会
(象徴界)は存在するといえます。人間以外の生物では個体/集団が先天的に決められた協調関係
で成り立つのに対して、人間は個体/集団(社会)に対立関係が存在します。
人間以外の集団性とは「他者からの呼び声」であり、人間にはこの「他者からの呼び声」が欠落して
います。人は統一感のないまま生まれる故に自己同一性を、他者の鏡像を求めるということからも、
欲動が向かうのがこの「他者からの呼び声」であるといえます。そして、無垢とは「他者からの呼び声」
です。
829 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 20:04:04
C「欲望をあきらめるな!」
たとえばフロイトなど精神分析の目標は、患者を社会復帰させることを目標にします。すなわち
象徴的同一性として、「誰々の子供」、「〜という名前」、「〜の会社の課長」を受け入れることを
目標とします。ラカンもそれを目指しますが、現代のような流動性の高い社会では社会に忠実で
あることだけでは、精神の「健全性」が保たれないと考えました。それがラカンの倫理テーゼ
「欲望をあきらめるな!」です。簡単にいえば、これは想像的同一性、象徴的同一性を越えて、
(不可能でも)欲望の根元である現実界を欲望し続けろ、ということです。
たとえば、なぜ人々がロリータへ向かうのかは、大人の女性のエロは氾濫しすぎて、反復で
しかない退屈なものと成っているからです。ロリータは反復を越えた差異(無垢)であり、
欲望されるのです。しかしこれは現実界の(本当の)無垢ではありません。「ロリータ」は
どこかにいる本当の少女ではなく、社会的に禁止されることで象徴的に作られた幻です。
象徴界のガードは堅く、人は現実界へ到達することは困難です。人が「これは流行りだ!
新しいな!面白いな!」と思う「無垢」は、すでに象徴界によって回収された「幻想の無垢」です。
象徴界の他者との同一化=「大文字の他者の欲望」を欲望しているのです。
830 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/16(月) 20:09:13
D消費関係と創造関係
しかしボクが「健全な無垢への欲望」という時には、「欲望をあきらめるな!」というほどの
ストイックさを緩和したところにあります。現代のように無垢が欠乏した時代には、窒息し、
転落するよりも、それが「幻想の無垢」であっても、安定的に供給されることが、重要ではないか、
ということです。
ロリータが好きならば、ロリータに萌えるのも良いということです。しかしこのような幻想の無垢を
ただ消費し、またつぎの消費へと向かうという現代の消費社会の欲望形態は、身体的な刺激を
重視したものであり、より過激に向かうしかないのではないか。そこには充足はないのではないか、
と考えました。ボクはこのような関係を「消費関係」と呼びました。
ボクは「消費関係」に対して、「無垢」を創造する「創造関係」を考えました。これは「差異化運動」を
基本にしています。差異化運動とは、より「近い他者」と差異をより細部に見いだそうとする運動です。
たとえば、「宿命のライバル」などです。差異化運動が魅力的なのは、他者との関係で、より自分が
細部において見いだされるという、「失われた他者からの呼び声」に近接し、無垢を産み続ける
運動ではないか、ということです。そしてこのような関係をボクは「愛」と呼びます。
この創造関係と、闘争へいたる想像関係(イマジネールな闘争)とは、とても近い関係にあります。
これを明確に区別することは難しいですが、そこには保たれる象徴界の介入が必要とされること、
すなわち純粋な二者の関係ではなく、開かれたコミュニティであることです。
ぴかぁ〜、必死に恥ずかしい過去を消そうとしてるなw
>>823 ぴかぁ〜がバカにされる理由がわかった
商業高校卒のオレでも速度と加速度の違いはわかる
>>832 ああつっこみたい、じゃあ今までの話はさっぱりわからなかったのかと、
でもスルー
>>833 すみません。わかりませんでした
無名だけど実は凄い人で、単にやっかまれているだけなのかと思ってました
ひさしぶりに来てみたら純一復活してるじゃん
ほんと懲りないなw
836 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 00:24:57
幻想の無垢・・・承認される欲望?
本当の無垢・・・他者からの呼び声?
欲動は他者からの呼び声に反応する?
でもラカンとフロイトを往復
ノマドの彼方へ
839 :
考える名無しさん:2006/01/17(火) 15:33:59
これって要するに「アンチ・オイディプス」でしょ?
840 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 18:57:47
アンチ・オイディプスなのでしょうか?
841 :
考える名無しさん:2006/01/17(火) 19:11:19
違うの?
842 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:16:27
違いますよ。
843 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:17:18
■他者からの呼び声
@世界への他者志向性
たとえば火星表面の人面石とはなんでしょうか。火星の表面を観察をしたところ影が人の顔のように
見えた。そのほかにも人面魚というのもありました。鯉の模様が人の顔のように見える。このような現象に
おもしろいのは、偶有的な模様からそのような模様に惹かれることです。ここにはそこにシグナル(意味)を
感じるという人の志向性があります。
たとえば富士山を見たときになんらかの感慨を持ちます。海に沈む夕日であり、星空であり、花であり、
なんらかの感慨をもちます。偶有的なものであるはずなのに、理解できないところで心が何かを感じて
しまう。そしてこのような感慨は、そこに誰かからの何らかのシグナル(意味)があるように捏造されます。
富士山は誰かからの私たちへのシグナルなのです。富士山はたまたま出来たのではない。だれかが
富士山を美しくつくったのです。だから私はそこに美しさというシグナル(意味)を受け取ることが出来る
のです。
捏造される誰かとは、私が美しいと思うものに、同じように美しいと思える、コミュニケーション可能な
「他者」です。それは火星人であったり、幽霊であったりしますが、多くにおいて「神」です。神は、人の
英知を越えた存在ではありますが、私とコミュニケーション可能な存在です。ここには、人の「他者志向性」
があります。人は惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く惹かれるということ
です。
たとえば人はペットや人形などさまざまものに、愛着をもちます。ペットや人形などに語りかけます。そして
愛着あるものに強く感情移入します。愛着あるものが傷つくときには、自分のように痛みます。ここにも
「他者志向性」があります。そしてさらには他者とは、限りなく私に近い存在であるということがわかります。
844 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:18:22
A他者への他者志向性
たとえば、友達がすねを打って痛がっている。この痛みは私にわかるのだろうか、という哲学的な疑問が
あります。これは確かめようがありません。しかし友達がすねを打って痛がっている様子をみると、私自身
も痛さを感じます。それを感じることが出来るのは、他者は限りなく私だからです。
たとえば、なぜ子供は子供に惹かれるのでしょうか。電車の中で何組かの家族連れがいると、子供は他の
家族の子供の動作をみているのに気づいたことはないでしょうか。彼らはなにかのシグナルを出し合う
ように強く惹かれあっています。しかしこれは子供だけの特性ではないでしょう。たとえば異国で同じ
日本人に見かけたときなど、多数の異種の中に、自分と近い人をみたときに、感じるものがあります。
そこにはもう一人の「私」を見つけるのです。
人面岩や富士山やペットに見られた他者性志向による捏造された他者とのコミュニケーションよりも、
相手がほんとうの他者であった場合には、コミュニケーションは双方向的になり、それはよりお互いに
他者志向性を深めていくという同期行為となります。
845 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:19:46
B他者との心象同期
>>
「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在
である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に
再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)
再現しようとする」こと、心象構造の同期行為である」(コミュニケーション自己構築論id:pikarrr:20040307)
<<
人面岩や富士山やペットに見られた、惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く
惹かれるという他者志向性は、本質的に本物の他者との同期行為を目的とした傾向ではないでしょうか。
それはコミュニティを形成する力となります。
たとえば人はなぜ音楽が好きなのか。人が偶有的な音よりも、ある音階の組み合わせに心地よさを感じる
のは、生理的なものかもしれません。そしてなぜその音楽にこころ惹かれるのか理解は出来ないが、
そこには誰かがいる、私へのメッセージがある。それは実体としての歌い手よりも、神性を捏造された人
(カリスマ)として現れます。
現代において、コンサートなど一人が歌を歌うのに多くの人々が囲うという風景は、冷静に考えるとある
意味異様かもしれませんが、これはかつてと宗教儀式と近い構造をもっていると考えられます。その
ような、神性をおびた他者の音楽に対して、多くの人が同じように同期行為を行えるということは、隣の
聴衆とも同期しているのです。なぜ感動するのかはわからないが、同じことに同じように感動する人々は、
コミュニティとして一体感を作ります。
人は意味を、他者からの、コミュニティからの意味として求めます。それは人が強く他者を求め、
コミュニティに帰属することを求めているからです。
846 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:21:54
C他者の特別性
他者志向性とは、対象が「誰かの、何かのため(意味)」にあるということです。ここでは、人は偶有的な
世界に因果律を捏造しています。すべての事象は、ある「他者の」原因によって起こっているということで
あり、すべての事象には他者が存在するということです。すべての意味は、他者の、コミュニティの意味
です。
このように主体にとって「他者」はその根元において特別な存在なのです。その特別性とは、主体にとって
他者とは「理解し合える」以前に、「同期」しあえる存在であり、「限りなく私」であるということです。この
ような志向性は、生理に求めることができるのではないでしょうか。たとえば犬は犬に同期する。ミツバチ
はミツバチに同期する。それは種のコミュニティの形成作用にもつながっていると思われます。
たとえば友達がすねを打って痛がっている場合に、主体は痛みを同期します。他者とのコミュニケーション
はこのような同期をともなって行われています。「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった
心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、
客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする。」
しかしこのような同期においては、完全に同期することはなく、主体と他者の間にはたえず差異が存在
します。コミュニケーションはそのような差異を解消するように行われます。そしてコミュニケーションが言語
によって行われている場合には、言語によって解消されない「心象的な」差異を生みつづけます。
847 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:23:07
D差異化運動
たとえば、なぜ自分と「近い人」とのおしゃべりは楽しいのでしょうか。こどもはこどもと、アニメ好きは
アニメ好きと、ガンダム好きはガンダム好きと語らうことは楽しいです。そのディテイルまで理解し合える
相手と巡り会えることは少ないですが、そのような相手を巡り会い、コミュニケーションすることはわくわく
する行為です。
より近い人と心象同期は、差異がより小さくなっていることを示します。そしてそれは、他者との関係性を
密にしていると同時に、主体の単独性を高めているのです。たとえば、大人と子供がいると、それは大人
と子供としてしか、差異化されません。しかしもし子供がもう一人加われば、それは「おとなしい子供」と
「活発な子供」と差異化されます。さらに「おとなしい子供」がもう一人加われば、「ぼつぼつしゃべる子供」
と「ほとんどしゃべらない子供」として差異化されます。このようにより近い他者は、私を複雑化します。
すなわち私がなにものであるかをより明確化するのです。
848 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:25:07
E私が私となるための他者
そしてさらにはこのような差異化は静的な位置の規定にはとどまりません。近い他者との
コミュニケーションは、差異化を動的に促進します。より細部において、近い他者との相違点を作り出す
方向に向かいます。たとえば数学が得意な二人の子供がいれば、より違いを持とうと、互いに数学に
ついて競い勉強します。またマンガ好きの二人の子供がいれば、よりうまくマンガを書こうと努力します。
他者とのコミュニケーションは、私をつくっていきます。そしてより近い他者とのコミュニケーションは私を
より詳細につくっていき、私はだれでもない私になっていく、単独性を高めるていきます。他者と「絆」を
結ぶとは、単に他者と関係をつくることではなく、他者に対して、だれでもない人になるということです。
それは「かけがえのない」人となることです。
これはコミュニティとしても現れます。たとえば音楽好きがコンサートで盛り上がり一体感をもつという
ことは、外がから見ると、人々が均質化しているようにみえるかもしれませんが、内部では差異化運動が
行われています。帰属意識を高めながら、単独性を高めているのです。すなわち他者とは主体の単独性
を高め、コミュニティ内で他の誰でもない位置を見つけ、コミュニティを活性化するための特別な存在なの
です。
849 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:29:54
F他者化
「誰か(他者)、何か(意味)」という他者志向性は、主体にとって「他者」が根元的に特別な存在ということ
であり、強く他者を求め、コミュニティへの帰属を求めているということです。他者志向性は
コミュニケーションにおいて心象の同期であり、それによってコミュニティ内の誰でもない位置(単独性)を
見つけます。すなわちコミュニケーションとは、コミュニティにとって活性化であり、主体にとっては私を
絶えず再生産されつづける行為ということです。
たとえば、大切にしている人形であったり、自分の写真が傷つけられると、いい気持ちがしないのはなぜ
でしょうか。それは所有物が傷つけられことによるのでしょうか。では私の所有物でない人形、顔写真が
傷つけられたときには平気でしょうか。
これは一方向的な読み込みになりますが、主体が対象に同期していることを表しています。他者志向性
は、人の認識全般であり、それが人物でなくとも、対象全般が、「誰か(他者)、何か(意味)」という
他者志向によって、他者化されます。
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 19:30:49
G言語による世界征服
たとえばひとけのない不気味な沼があるすると、そこに河童が住むという噂ができます。河童とは「他者」
であり、沼は河童のテリトリーであり、不気味な沼は他者化されます。このようにして未知は、「他者
(限りなく私である存在)」のものとして、征服されます。死後の世界には神様がおり、暗闇には幽霊が
おり、宇宙には宇宙人おり、この世界そのものには神がいます。
これらは未知への不安を解消するために捏造された他者です。この捏造された他者はそれが誰であるか
よりも、未知を征服するものとして現れます。他者志向性とは、世界すべてを他者化することであり、
言語化することであり、記号に回収することであり、世界を征服することです。
他者とはシニフィエ(意味)なきシニフィアン(言語表現)=超越論的シニフィアンです。そして捏造された
他者は、未知に対する不安を元にしており、意味は言語化されない余剰として残ります。そして意味は
あとから余剰を解消しながら、様々に神話として作られていきます。
このような征服指向は、人の志向性そのものを表しているといえるのかもしれません。未知(謎)を執拗に
解消する行為は、「好奇心」や「挑戦」などといわれますが、アダムとイブ、パンドラの箱など、神話に
おいても人の根元的な特性として描かれています。さらにこれは細菌が増殖していくような生命的な
特性であるともいえるかもしれません。
現代、世界を説明するのは、神話から科学であり、哲学へと移っていますが、これらも神話の一形態で
あるといえるかもしれません。この世界には、「人間」にとって、何らかの意味があるという他者志向に
よって、物語が作られています。
851 :
わさび茶漬:2006/01/17(火) 20:02:04
おもしろいです。
オイラ自身、感じはするけどまだ名前がない、つまりまだ概念化されていない、そんなちょっとした日常の感覚というのが、ここでは分かりやすい形で表現されてます。そこがおもしろいです。
これからもぴかーさんに期待してるであります。
852 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 20:12:59
行動の認識と生成の双方向計算モデル:ミラーニューロン
http://www.ynl.t.u-tokyo.ac.jp/~inamura/research/a03.html ミラーニューロンの発見が最近の脳科学における一つの注目すべき話題になっている.これは
霊長類において,他人の運動を観察したときと,自分で同様の運動を行うときの両方において
活動するニューロンがあるという事実である.
これは運動の受容(観察)と運動の生成(行動)が同じ一つの情報処理で結びついていることを
示唆している。また、ミラーニューロンが発見された霊長類はシンボル操作を行う事も可能であり、
脳の情報処理は言語発達と行動発達が相互的に行なわれていると予想される。このように人間の
シンボルや言語を用いた高度な情報処理の背景には、受容と生成の双方向の情報処理を行う
システムがある。このシステムが身体や環境と適応し、状況によって学習する機能をもち、発達する
ことが重要である。またこうして獲得したものが再使用可能となり、シンボルや言語の胚となると
考えられる。
853 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 20:43:58
わさびさんありがとうございます。
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 21:05:57
これはいまほどラカンをしらない、少し前に書いた文章です。
読み返すと多くにおいてラカンで説明できることがわかります。
それでもいくつかの相違点が見いだせます。
まず「他者志向性」です。ラカンでは他者の特別性は生まれて鏡像段階(想像界)に始まりますが、ここでは先天的(現実界)に他者が特別です。
これは進化論的に、人以外は集団としての行為が先天的にもっているが、
人は失われ、そして残されたものが他者志向性である。
それをもとに後天的社会性で補完しようとしている、しかしそこには他者との同期の不可能性が残り続けると考えます。
先にドゥルーズと同じかとありましたが、ボクの考える欲動はドゥルーズのように原的に万能でなく、
人間の特別性=他者志向性を起きます。
それ故にオディプスの三角は根源的な人間の特性だと考えます。
なぜならオディプスは個体として自立しすぎた人間が失った生物的、先天的な集団性を
後天的に補うシステムであるとかんがえるからです。
855 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 21:15:59
欲動は生物学的なものですが、人間特有と言われます。
欲動の他者志向性も人間特有と考えられます。その他生物は先天的に集団行為が規定されているからです。
そしてこれはラカンの死の欲動と呼んでもよいでしょう。
想像関係、象徴関係をこえて他者へむかうからです。
なぜなら想像関係、象徴関係では決して、完全な集団性=生物の先天的集団性は満たされないからです。
コミュニケーションはかならず失敗する独我論世界から逃れられないから、過剰に他者を求めつづけるのです。
排斥について教えてください。
857 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 22:32:33
他者志向性という欲動としてのみ残った集団性は、言語を媒介としてオデプスにより、社会性をつくる。
ここでは社会性(象徴界)が、さらに他者へ向かう欲動(現実界)を抑圧するという対立を生む。
そのような中で抑圧された欲動の表象代理として無垢という幻想が生まれる。
858 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/17(火) 23:02:21
■欲動としての「他者志向性」
これはいまほどラカンをしらない、少し前に書いた文章です。読み返すと多くにおいてラカンで説明
できることがわかります。それでもいくつかの相違点が見いだせます。
まず「他者志向性」です。ラカンでは他者の特別性は生まれて鏡像段階(想像界)に始まりますが、
ここでは先天的(現実界)に他者が特別です。これは進化論的に、人以外は集団としての行為が
先天的にもっているが、人は失われ、そして残されたものが他者志向性である。それをもとに後天的
社会性で補完しようとしている、しかしそこには他者との同期の不可能性が残り続けると考えます。
先にドゥルーズと同じかとありましたが、ボクの考える欲動はドゥルーズのように原的に万能でなく、
人間の特別性=他者志向性を起きます。それ故にオディプスの三角は根源的な人間の特性だと
考えます。なぜならオディプスは個体として自立しすぎた人間が失った生物的、先天的な集団性を
後天的に補うシステムであるとかんがえるからです。
欲動は生物学的なものですが、人間特有と言われます。欲動の他者志向性も人間特有と考えられ
ます。その他生物は先天的に集団行為が規定されているからです。そしてこれはラカンの死の欲動と
呼んでもよいでしょう。想像関係、象徴関係をこえて他者へむかうからです。なぜなら想像関係、
象徴関係では決して、完全な集団性=生物の先天的集団性は満たされないからです。
コミュニケーションはかならず失敗する独我論世界から逃れられないから、過剰に他者を求め
つづけるのです。
他者志向性という欲動としてのみ残った集団性は、言語を媒介としてオデプスにより、社会性をつくる。
ここでは社会性(象徴界)が、さらに他者へ向かう欲動(現実界)を抑圧するという対立を生む。この
抑圧はラカンの欲望です。そして欲望の原因であり対象である対象aは、欲動の表象代理として現れ
ます。これはそれが他者と繋がるという形で現れます。それが「無垢」という幻想です。
566 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw [] 投稿日:2005/12/12(月) 22:05:40
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等加速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まっている
ような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等加速度運動しようとする
579 名前:しろうと ◆AUSirOutoE [sage] 投稿日:2005/12/12(月) 22:53:41
>>566 >等加速度運動である。一定速度で動く。
等加速度運動≠等速運動
加速度と速度を混同してませんか。
>このとき物体には力が働かない。
等加速度運動というのは等しく加速してる運動でしょ。
重力による自由落下のように。とすれば力が働いてるのでは。
ちんかすぴかぁ〜
ども。
難しいです、マジで。
ここ三回くらいのブログの更新を読みまして、
まとまっているという意味ではこれほどまとまっている
ものはないのですが、当たり前ですが逆に具体的に
どのような場合を想定して書かれているのかがわからず、
ぼんやりとしたイメージと、響き合わない概念の並列状況が
頭の中にある状態です。
過去スレの様々な具体的な事象を取り上げた分析と呼応関係に
あるのでしょう。ですのでしばらく過去スレ読みます。
ありがとうございました。
862 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/19(木) 02:29:32
>>861 そこまで深く考えなくても・・・というか、
リーマンさんの質問で自分でも混乱して、昔のブログをみていて、
回帰しました。
もっとも新しい、「なぜ「他者からの呼び声」なのか」は、
以前に書いたものですが、我ながらまとまっているなと思い、
再掲載しました。そしてそれを今のラカン知識で分析してみました。
そして今も検討中です。
863 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 02:13:59
他者からの呼び声が聞こえる・・・
864 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 02:22:48
貴方は誰?
865 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 02:59:18
こーゆー時期に、ライブドアの話をできないって不毛だよね。
哲学はアカデミックな閉域で自閉しておりますと揶揄されても仕方ない。
すごく面白いサンプル提供してくれてるのに…。
あのヒルズ族の現実界はなんだったのか?
他者に映る想像界を必至に印象操作するために、あれほどの過剰な演出を
必要としていた人間群の末路。ホリエモンはある意味、日本のビジネス界
における、異物・異者・不気味な存在、怪物的なモノとして登場して来た
と思う。それは日本のビジネスシーンにおける象徴界の枠組みを宙吊り、
攪乱して、それは一昨日の東証システムの一時停止までに波及した。
シニフィエなきシニフィアン(意味のなき言語)のように異常な自己増殖を
していた貨幣・エクイティの実態とはなんだったのか?そこでは、貨幣が
言語のように流通しているよね。ネットでの他愛のないおしゃべりと
いわゆるデイトレーデイングという小刻みな売買が、そこでは等価な表象と
して対応していると思います。ここを分析してみよう。
と、こんな感じで話すすめていけばいいのでは?
866 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 03:15:18
ボクも少ししたいなと思ってた。
というのは片腕が死んじゃったじゃん。
これがかなり大きい感じがする。
ボクは、ホリエモンというのは「不気味なもの」ではなく、
どこまでも「隣のにいちゃん」だったと思う。
想像界の住人で、何千億だろうが、リアリティがないのは、
ホリエモン自身もリアリティを持っていなかった。
ここでリアリティがないと言う意味は、リアリティがあると言う意味か。
リアリティがないのは、何千億!!!!というとてつもないすごさが伝わらないということ。
リアリティーがあるというのは、所詮マネーゲームのリアルにおいては、
ボクたちの現実的な金銭観と比べるのがおかしくて、ただの数字といれば良いだけのこと。
なんというか、酒代で数千円ってなんともないが、それがメシ代だとすげー高級と
思ってしまうような感覚の差を、ホリエモンもボクたちも、まあ会社買うんだから数千億するだろう。
普通だな、というリアリティを共有してしまっている、ということ。
そのような意味で、ホリエモンはボクたちと想像関係を結ぶことに成功した。
しかし、「死」の登場で、一気に幻想が冷めて、(リアリティとはいつも幻想だからね)
象徴的な世界に突入したな、もうかつての「ホリエモン」ではありえないだろう、
ということ。
867 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 03:25:54
だから、そこで対象とされているのは、直接的な利益や効果でなく、
あくまでシンボリックな剰余、あるいは交換、売買自体による快が
婉曲的に志向されているのだと思う。生理学的なスリル、反応、興奮。
アカデミックな世界では、一般的な人の目で見れば、隠語じみた
ジャーゴンが多用・乱用されるのも、そうした言辞を弄ぶ人たちの
知的な厳格さにそれは拠るのではなく、そこでは知的ステータスという
「もの」をそこで幻想的に享楽している行為なのだと思う。
だから晦渋な本を読解することやそうした概念ほど、そうした時空では
圧倒的に好まれる。なぜなら、そこで消費されているのは意味ではなく、
難解なものにアクセスできる自己の頭脳の優秀さの証明事項として、
それは倒錯的に機能しているからでしょう。
868 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 03:28:05
このような想像的な関係が、「死」によって象徴的なものに
なるのは良くある話で、
たとえば、ビートたけし。彼は死ななかったけど、
あれは、「去勢」の儀式だったともいえる。
去勢されたのは、たけしだけでなく、ボクたちだね。
その前に「殴り込み事件」もあったけど。あれも小さな「去勢」かな。
あるいは、NYのビルテロも、ジジェクは「現実界という砂漠へようこそ」と
言ったが、幻想の想像界からの象徴界への去勢。
イスラム圏を取り込んだ新たな資本主義秩序への参入(暴力的な)去勢
というの始まりと言えるかも知れない。
とにかくこの「死」というのは、「ホリエモン」を大きく転換させる。
ライブドアが継続するのか、終わるのか知らないけど。
ボクたちの想像関係を切断された「ホリエモン」は
超越論的他者(シニフィアン)へと向かうだろう。
もうボクたちは素直に笑えない。
ボクはかつて「バリバリバリュー」などのセレブ紹介番組を
金持ちを羨ましみながら、想像的にマジかでみるセレブが
あまり僕らと変わらない人間で、逆にセレブを笑う番組として
機能しているところが人気といった。
そして最近の株ブームが、このような「親しみのセレブ」への
想像的な近接に支えられていたら、これはターニングポイントになるかもしれない。
株ブームが去るというよりも、「血」が流れる世界に向かう。
金と力と死、これは昔から切れないものだったという、ことが
明らかになるのではないだろうか。
869 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 03:43:36
■「ホリエモン」の殺害
ボクもライブドアの捜査されたということよりも、片腕が死んだ、ということが、大きなターニング
ポイントになると思う。それはいわば、ディズニーランドと「死」というような感じ。
ボクは、ホリエモンというのは「不気味なもの」ではなく、どこまでも「隣のにいちゃん」だったと思う。
想像界の住人で、何千億だろうが、リアリティがないのは、ホリエモン自身もリアリティを持って
いなかった。ここでリアリティがないと言う意味は、リアリティがあると言う意味か。リアリティがない
のは、何千億!!!!というとてつもないすごさが伝わらないということ。リアリティーがあるという
のは、所詮マネーゲームのリアルにおいては、ボクたちの現実的な金銭観と比べるのがおかしくて、
ただの数字と思えば良いだけのこと。なんというか、酒代で数千円ってなんともないが、それがメシ代
だとすげー高級と思ってしまうような感覚の差を持つように、ホリエモンもボクたちも、まあ会社買う
んだから数千億するだろう。普通だな、というリアリティを共有してしまっている、ということ。
そのような意味で、ホリエモンはボクたちと想像関係を結ぶことに成功した。しかし、「死」の登場で、
一気に幻想が冷めて、(リアリティとはいつも幻想だからね)象徴的な世界に突入したな、もうかつて
の「ホリエモン」ではありえないだろう、ということ。
870 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 03:44:08
このような想像的な関係が、「死」によって象徴的なものになるのは良くある話で、たとえば、ビート
たけし。彼は死ななかったけど、あれは、「去勢」の儀式だったともいえる。去勢されたのは、たけし
だけでなく、ボクたちだね。その前に「殴り込み事件」もあったけど。あれも小さな「去勢」かな。
あるいは、NYのビルテロも、ジジェクは「現実界という砂漠へようこそ」と言ったが、幻想の想像界
からの象徴界への去勢。イスラム圏を取り込んだ新たな資本主義秩序という下部構造(無意識)、
そこでは先進国に搾取された貧しい国々の抑圧された欲望が蠢いていた、が表面化した。
(暴力的な)去勢の始まりと言えるかも知れない。
とにかくこの「死」というのは、「ホリエモン」を大きく転換させる。ライブドアが継続するのか、終わる
のか知らないけど。ボクたちとの想像関係を切断された「ホリエモン」は超越論的他者(シニフィアン)
へと向かうだろう。もうボクたちは「ホリエモン」に素直に笑えない。
ボクはかつて「バリバリバリュー」などのセレブ紹介番組を金持ちを羨ましみながら、想像的に間近か
でみるセレブがあまり僕らと変わらない人間で、逆にセレブを笑う番組として機能しているところが
人気といった。
そして最近の株ブームが、このような「親しみのセレブ」への想像的な近接に支えられていたら、これは
ターニングポイントになるかもしれない。株ブームが去るというよりも、「血」が流れる世界に向かう。
金と力と死、これは昔から切れないものだったという、こと、下部構造(無意識)で蠢いていたヒルズ族、
あるいはその黒幕のマネーゲームの達人が、表面化し、素直な株ブームの住人は去勢され、血を
みるかもしれない。
871 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 03:47:51
社会を脱法的に奔り抜ける事は超人的で、偶像「ホリエモン」は、絶対君主制から生まれたルサンチマンに刺し殺された模様。
虚栄こそヒューマニズム。因果応報のねじに捻られて刹那さに埋まる。
872 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 03:49:24
それでさー、思うのだけれど、哲板の人たちはみんな自分で
勉強すれば、相当なレベルのものまで理解できる能力がある
と思うし、そういう人間を相手にして執拗に何かを伝えること
にあまり意味がないんじゃないかな?と思うのです。
だって、啓蒙のプログラムを志向するのであれば、分かっている
人間ではなく、分かってない、見えてない人間の蒙を解くのが
啓蒙的な意義でしょ。それは、ただの自己表現なんだぁーにしても、
穏やかで、見る眼のある人、あんまりこの周辺ではいないでしょ。
いても、そういう人は殆どROMで終わり。拍手期待するのも不毛
でしょ。いや、未知の他者との遭遇を、もしくはコミュニケーションを
求めているんだぁ〜と言っても、哲学を好む人間はそもそも自我が強い
人間が多いのだから、最初から期待薄でしょ、期待するだけ白痴でしょ?
となって、結局は、この板の存在意義がほとんど不明な感じもする。
世の中から、一人でもあぼーんな人間が少なくなって、もっと文化的で
クレバーな人が多い世界になってもらいたいけど、その方法として、(ry
なんだかなぁーという感じです。
873 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 04:00:12
>>872 深く考えすぎだな。
ネットができ、こんな感じでコミュニケーションができるのように
なってまだ数年。その前は、みんな孤立した住人だった。
ゲームでもアニメでも、テレビでも、哲学でもよいが、
語る場もなかった。いまや最大の娯楽でしょう。
もうネットのない時代にもどれない。それだけのこと。
874 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 04:18:44
>>873 というよりも、ネットで思想や出来事の解釈を重ねることに、
あまり具体的な効果がないという問題を俎上に載せたかった。
そこで、メッセージを受け取れる人間はいるけど、ごく一部の
少数の人間しかいなだろうし、そうした閉域での自己満足や
同語反復、鏡像的なナルシシズムの閉域(似たもの同士の
似たような意見交換)に自閉して、終わることへの危惧、
そうした行為への未来への見通し、不毛さを述べているのです。
『それで終わっちゃて、本当に満足なの?』という疑問符を提示
しているの。これは、でも哲学的な事柄に携わっている学者でも
同じかな?と。社会に流通しえるような緻密な言語戦略を持って
何かを発言したり、メディアに登場している人、殆どいなそうだもん。
だから意味を求めるものは、稚拙なニューエイジ的なものや新興宗教的な
ものへと退行してしまうし、それは、属性抜きで全世代的に広がる現象
として、一部あるでしょ?全てを相対化するだけのジャーゴンを弄ぶ
ソフィストには、世間的にはまだニーズがない訳ですよね。というか、
戦略を変えない限り、ずっとそうした傾向は続くと思いますが・・。
わたしは、一部考えありますよ。秘密だけどね。
875 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 04:35:06
まあこの程度のコミュニケーションはゲーム感覚でいいのとちゃうの?
このような安全に身を起き、覚悟が育たぬままこのコミュニティー
に定住してしまうと
他の環境に順応出来ないカスを多く産出させる事は否めないが
こいつ等自分で選んでるのやから
876 :
PLAYBOY ◆VGMdSbKWD6 :2006/01/20(金) 04:35:33
えーと、遊びですよ。隣り近所の仲間を集めて、みんなで缶蹴りしようといった感じの。
参加してわいわいやるのが楽しい。その遊びを面白くさせるのが『ミッション』な訳で、統一したルールを敷いて同じ目的を目指す。
同じ目的意識があると仲間じゃん意識も生まれるから不思議。落ちこぼれたらヒヨコにして庇ってやればいい。できる奴なら更に難度上げたりでさ。
興味があるなら一緒になって遊べばよいし、興味なくても誘えば寄ってきて一緒に遊べる。
つまり、単に(職人的な)面白い遊びなんだよ。
877 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 04:42:00
リアルに居場所や立場があるヤツは哲板は知的遊戯やろけど
此処に家建てて住んでる奴は末期やろな
たまにいてるし怖いわ
878 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 04:45:00
本間はこの手のネタバラシは無いほうが
遊びも白熱していいねんけどな
879 :
PLAYBOY ◆VGMdSbKWD6 :2006/01/20(金) 04:47:05
けど、遊びだからって手を抜いたりしない。職人的なまでの緻密さとアホっぽい発想の大胆さを以て、突き詰めていく理詰めの、
頭のパズルゲームみたいなのかな。
到達点はたやすくなく過酷に時間もスキルも要求される。真剣なんだよ。
遊びって言ってるけど軽々しいものではなくて、仕事も遊び、人生も遊びみたく重々しく大切な行い。
むしろ、プロフェッショナル(職人的)なのだよ。アマチュアなのに...
どっちだよ(笑)
真剣に余暇を過ごしたいだけ。本業にしている人は真剣に遊んでいる達人レベルなのさ。
880 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 10:39:52
ボクはかつて電車男について、社会とネットはどっちがリアルか
すなわちほんとの自分に近いか。電車男のリアリティはネットにあり、
社会はエルメス獲得ゲームというバーチャルなものになっているといった。
だからどうとかではないがここに日常の一部がある。そして日常が革命である必要はない。みたいな?
881 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 11:01:38
で?
882 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 11:05:06
「で?」?
883 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 13:34:58
ボクはネットコミュニケーションの活発化を心の暴走、逆襲と呼んだ。
それはテクノロジーにより甘やかされた身体、すなわち動物化への逆襲である。
すなわちヘタレ化である。
なぜみなネットに向かうのか、ケータイは爆発的に普及したのか、という身体的合理性を越えた意味、
すなわち「淋しいから」という心の繋がりの社会性への欲望という汚物である。
884 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 14:01:25
心は汚物を撒き散らしながら暴走する。これこそ人間という症候だろう。
885 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 14:29:33
このような暴走、ポピュリズムの不安定は、なんでかなー→ゲッツ→残念→フォ〜→ という意味で理解しないといけない。
小泉が大勝したからと不安を煽る評論家には、だからなに?ホリエモンの失態なは潮時か?ということだ。
886 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:04:04
クラスで目立たなかった貴方も、携帯、パソコンの普及により
多少脚光を浴びれ良かったな
このコミュニティーは一文化として深く根付くとは思うが
もう一時の勢いは失せ次第に汚物は肉体に還元されていく
それでも尚それにしがみ付くのは、探求心から成せる業か淋しさ故か
つらつら事後確認を行なう貴方には、時世に逆らえる程の力
到底持ち得ないであろう
我々は、微笑ましく貴方を眺めている
貴方の視界では平坦に映るはずの高見から
タカミ
888 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:16:02
平坦に映るであろうタカミから
ねぇ皆みて 僕はここにいるよ
ほかの子とは ちがう
僕は みんなより かしこいの
はやく はやく僕をみつけてよ
こんなにいっぱい考えたんだから
やっぱり昼間はクスリやってるヤツか極左の主婦しかいねーな
890 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:23:52
あと かわれない よわい おまえ と ○○ とな
891 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 15:26:17
>クラスで目立たなかった貴方も、携帯、パソコンの普及により
>多少脚光を浴びれ良かったな
「(学校の)クラス」って価値観ってあるよね。
たとえばある女性と付き合ったとする。そのときにふと、この子、「クラス」でいうと、
どんなタイプの子だろうと想像する。
マドンナタイプ?男子となれなれしいタイプ?如何にも「女子」というタイプ
いじめられタイプ?
地味とか、イジメられっこだったりすると、今は違っても
なにか違和感が生まれる。まあ、ぶっちゃくどう動でも良いのだが
892 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:27:09
ぴかの壁
893 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:29:58
あぼーんされないまなざし
894 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 15:47:32
■創発性のみが「心」たちに力を与える。
ボクはネットコミュニケーションの活発化を心の暴走、逆襲と呼んだ。それはテクノロジーにより
甘やかされた身体、すなわち動物化への逆襲である。すなわちヘタレ化である。なぜみなネットに
向かうのか、ケータイは爆発的に普及したのか、という身体的合理性を越えた意味、すなわち
「淋しいから」という心の繋がりの社会性への欲望という汚物である。心は汚物を撒き散らしながら
暴走する。これこそ人間という症候だろう。
このような暴走、ポピュリズムの不安定は、なんでかなー→ゲッツ→残念→フォ〜→ という意味で
理解しないといけない。小泉が大勝したからと不安を煽る評論家には、「だからなに?」、ホリエモン
の失態になは「潮時か?」ということだ。
しかしおもしろいのは、「心」とは唯一無二であるから「心」である。個数に還元できない。しかし
創発性とは個性のない複数があるきっかけで秩序を生むものであるから、「心」とは相容れない
はずである。しかしこの「心の暴走」では、「心」はオレはオレであることを保っている。規律訓練的に
規格化された「心」へ訓練されるわけでも、環境管理的に知らずに規格化されるわけでもない、
オレはオレだ、ということそのものが、大きな秩序を形成する。そしてそこには、「権力者」は存在
しない。すなわち「心」たちが大きな力をもつ唯一な方法なのである。その力が不安的なもので
あったとしても。
895 :
考える名無しさん:2006/01/20(金) 15:57:09
心の解放とも呼べる此処が日常に大きな影響をもたらしている
対峙する他者の承認なくして築かれた自己は
そこに大きな違和感を産む
馬鹿には言っても通じない
どうせ僕はつまらない人間
どこに向かいたいのだろうか
心開けば股開く
心閉じても股開く
898 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 17:39:19
■なぜもはや「ホリエモン」では笑えないのか。
@「隣のにいちゃん」「ホリエモン」
ライブドアショックである。ボクはライブドアに捜査のメスが入ってということよりも、片腕が死んだ、
ということが、大きなターニングポイントになると思っている。もはや「ホリエモン」では笑えない、
ということだ。
ボクは、ホリエモンというのは、どこまでも「隣のにいちゃん」だったと思う。想像界の住人で、何千億
だろうが、リアリティがないのは、ホリエモン自身もリアリティを持っていなかったからだ。それはただの
数字である。
何千億!!!!というとてつもない金額のすごさが伝わらないという意味で、リアリティーがない。
しかしまあ会社買うんだから数千億するだろう、普通だな。というリアリティーをボクたちも、
「ホリエモン」と共有している。それはマネーゲームということではなく、べたな例でいえば、酒代で
数千円ってなんともないが、それがメシ代だとすげー高級と思ってしまうような感覚の差がある。単に
そこにあるリアリティということだ。ボクたちの日常の金銭学と比べる必要はなく、そこにある数字と
いうだけのことだ。
ボクはかつて「バリバリバリュー」などのセレブ紹介番組を金持ちを羨ましみながら、想像的に間近かで
みるセレブがあまり僕らと変わらない人間で、逆にセレブを笑う番組として機能しているところが人気
といった。
これを同じ意味でドラえもん的「ホリエモン」と想像的な関係を結んでいる。それは、ボクたちが騙されて
いるということではなく、そこにあるリアリティを共有しているということであり、あるいはネットでは、
そのような価値(文化)があるということだ。たとえば世界一金持ちのビルゲイツが「仲間」であると
いうことである。そのような意味で、「ホリエモン」とボクたちは想像関係を結ぶことに成功している。
899 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 17:40:24
A「死」を刻印された「ホリエモン」
しかし、「死」の登場で、一気に幻想が冷めて、象徴的なものが突出した。それは、もはやかつての
「ホリエモン」ではありえないだろう。このような想像的な関係が、「死」によって象徴的なものになる、
すなわち去勢されることは良くある話である。たとえば、ビートたけしのバイク事故。彼は死ななかった
けど、あれは一つの「去勢」の儀式だったともいえるだろう。去勢されたのは、たけしだけでなく、
ボクたちもだ。
あるいは、NYテロも幻想の想像界からの去勢であると言える。イスラム圏を取り込んだ新たな
資本主義秩序という下部構造(無意識)が、先進国に搾取された貧しい国々の抑圧された欲望という
形で露出した。それは(暴力的な)去勢であると言えるかも知れない。
この「死」というのは、「ホリエモン」を大きく転換させるだろう。ライブドアが継続するのか、終わるのか
わからないが。ボクたちとの想像関係を切断された「ホリエモン」は超越論的他者(シニフィアン)へと
向かう。もうボクたちは「ホリエモン」に素直に笑えない。
最近の株ブームが、「親しみのセレブ」への想像的な幻想に支えられていたら、これはターニング
ポイントになるかもしれない。金に当然ついて回る象徴界(無意識)としての「力と死」が露呈する。
この下部構造(無意識)によって、素直な株ブームの住人は去勢され、血にまみるかもしれない。
それは騙されていたということではなく、本来あるが、実感できなかったものである。
「ホリエモン」はマネーゲームの人なのではなく、「お金でなんでも買える」という素朴な幻想を夢見た
素朴な人である。マネーゲームにはそのような素朴な幻想はない。そして「ホリエモン」が村上ファンド
などのようにマネーゲームの人であれば、僕たちが「ホリエモン」に惹かれなかっただろう。僕たちは
その素朴な夢に想像的に同期したのだ。そして「死」はそのような関係を去勢したのだ。
900 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/20(金) 20:09:45
900!
自動思考化したポモ理論を毎日反復することによって
903 :
tar:2006/01/21(土) 09:42:38
W哲学板Wでググったらぴかのホムペが2番目に出てきたw
右脳が活性化する。
こともあるかもしれない。
>>901
今夜のお題
「なぜ、ぴかぁ〜は2ちゃんを止められないか?」
「なぜ、ぴかぁ〜は働かないか?」
「なぜ、ぴかぁ〜は知ったかしたがるのか?」
どれ?
906 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 13:16:59
だから、2ちゃんねるもライブドアと一緒で砂上の楼閣なのさぁー。
ホリエモンは、確か2ちゃんシステムを評価してたよね。
そこに気付かないのが痛い。検察でも何でもいいけど、この巨大掲示板
目障り、犯罪の温床になってる、そうだ、管理者サイドしょっぴくネタ
ぐらい探せばいっぱい出て来るだろう、それで、この掲示板閉鎖決定!
ということに対する現実的な想像力がないことが、PCの問題点。
907 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 13:24:52
みんなかまってほしいんだよ
こっちは名誉毀損であっちが不正取引か?
もう、PCは別の段階へシフトする時期に来ていると思う。
ここで毎日グダグダ語っていても、何の成果もないでしょ?
そろそろ具体的なヴィジョンを持って動こうよ。
簡単に言うと、もう少し現実的なコミュニティーを作ればいい。
哲学的なアソーシェーション。もちろん、最初はノンプロフィットで。
キリスト教もその発生初期では、社会的な疎外者、のらくら者、
やくざっぽい人、つまりはどうしようもない人間たちの集まり
だった。その哲学ヴァージョンを作ればいい。
そこでは形態的にいって中心となるような教祖もドグマも存在
しない脱-中心化されたヒエラルキーもないドーナツ的な組織図が
描かれる。不登校者、ヒキコ、自傷癖のある人、リストラされた人、
DVを受けている人、イジメにあっている子、哲学・心理学好きな人。
このように、参加資格のある人たちを見つけるのは、現代社会では
異常にたやすい。
あと、ネット、ブログでの提言というのは、名のない個人が
いくらやってもたかが知れている。著名人がやるのと訳が違う。
日本人はみんな権威に弱いから・・。ならば、こうした
特殊なアソーシェーションとして提出されるレジュメのような
ものをまずはパンフ形式レベルの書籍でいいから発行できるように
して、最低限の利益をあげるようにする。それは、現代社会の砂漠を
サバイブするための処方箋、プラス哲学的なライフスタイルの実践
の良きモデルを追求するようなものとなる。
掲示板システムがそれほど好きだと言うのであれば、前にいた
キキィというコテがやってたみたいに掲示板システムを自前で
用意すればいいでしょ。彼氏はなんか、オリジナルグッズの
ようなものも販売してたみたいだけど、サーバー維持費などで
お金が必要なら何か作って売ればいいし、一部は商業ベースで
考えてもいいんじゃない?迷える子羊がこの国には多いんだから、
こうした試みも立派な社会的アンガージュマンだよね。少なくとも
終日2ちゃんでおじゃべりしてる慣性の法則だけに従属している
堕落した人よりは、ずっとイケてる感じがする。
哲学的なプロジェクト(投企)、救済、これは魅力的だなぁー。
はじめに成功したところが継続して成功し続けるんだよ。ひとり勝ち。はやいものの総取り。
新参者の生き残りはむずかしいんじゃないかな。
それから手軽に言葉を交わせるからいいんじゃん。メディアとして雑誌書籍・テレビ・インターネットならPCのインターネットがより身近にひとの短絡をしたよね。
それに勝る現実をつくるのは並大抵じゃできない。逆にプロフィットの追求だけが現実をつくるのかもしれないが。
教会をひきあいに提示したようだが、あれは信仰があるから金も集まる人も集まる。仕組みにはやはりプロフィット。社会奉仕も自己犠牲も終にはプロフィットをなすとそそぎ込まれて。
哲学にプロフィット似合わない。時間的コストだとか自己犠牲しても獲たいものは、大抵のひとがあらかじめ持っている。
哲学に関わるのは持たないからだよ。無くしたものをさがすように戸惑いがむしゃらになりあきらめる。
見つかるととてもうれしいけどね。不具たちをあつめても為すのはなぐさめばかりとかはまっぴらだ。結局、救うのは自分だよ。
だから便利さにおいても快適さにおいてもインターネットがずば抜けてるから離れられないひとで溢れる。
いろんなひとが訪れる。ひとを選り分けてるのは単に哲学ジャンルの敷居の高さでなくなってきている。
あらゆるひとが哲学をする。汎化がすすみ裾野は広がった。巨大になった。次は……。
どうなるのだろう。
913 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 14:11:55
914 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 14:27:00
だから、哲学的な救済というのは、普通の意味では全然救済ではないし、
そこが哲学の深いとこでしょ?精神安定のために安易に薬を求めるような
態度、超越論的なメシア、教祖、グルを安易に希求する態度、単なる
現状肯定etc.そうした短絡路を否定するところから哲学のスタイル
というものは確立されると思う。実存レベルで言うとね。
ただ、一般的なパンピーが難解で数百ページに及ぶような分厚な
哲学書やそうした概念にいきなりアクセスするのは無理だから、
そうしたものを世俗化、もう少し簡潔なものにまとめたものを
継続的にパンフみたいなので公刊できればいいんじゃないかな?と。
よく、コンビニなどに売ってる、小冊誌ぐらいのボリュームで
ちょうどいいと思う。一般の人にはね。というか、流通経路と
して、コンビニとアマンゾン的なものに特化した方がいいぐらい。
915 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 14:32:17
あ、誤解があったようだけど、PCはぴかぁー氏の略称として
使いました。
>>912 プロフィットや効用って、何もお金だけに換算することは
ないでしょ?ボランティアする人たちはその行為に心理的な
効用を得ているからするのでしょう。
916 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 14:33:21
あした新聞にセンター試験問題が掲載される
勝負しろ
そういうのは本屋いけばあふれてる。手にとって読みたいなら読むし、読まないなら読まない。
新たにパンフ参入の意義がわからない。ポータルはほしいけどね。
それと分かりやすくとは簡単にとはちがう。入門のためなら、尚のこと、きっちり考える道具をあたえたほうがまし。
こどもには難しいことは難しいままで伝えるだろう。語り口はやわらげてもゆずれない。わかるまで繰り返す。理解してなくても手法として知らしめる。
興味ないなら知らなくてもいいじゃん。いろんなひとを許容してこその社会だから。詩でも写真でも音楽でも株でも料理でも一生関わらないひとも居るかも。
みんなが一緒でないよ。ただ自分はこう思っているんだけど、あなたは?くらいの提示でいいのでは。
ステートメントありきで関わったひとを感化できる。感化されないのも一興。正解などないよ。
しかしポータルはほしいけど役割的に2ちゃんねるが補完しているから有り難いとおもう。
918 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:21:03
>>914 そういう哲学の特別性が残っていればね。単に小難しく読めることそのものに
価値がある、ということになっていなければよいが。
この板を見るとそれ以上であるとは思えない。そしてそれが悪いことではない。
マニアとはそのようなものだし、現代の「私」とはマニア性で支えられるから。
>>915 PC=ぴかぁーかよ、てっきりどっかのコピペ文かと思ったよ。
わしを誰やと思ってんだよ。善良なサラリーマンだぞ。
なことやってる暇があるかいな!
変に内部などつくらんでよろし。
ブログもあれば、2ちゃんもある。まさにこれこそが現代の哲学そのものだと、おもう。
仮に哲学家みたいな人々がいるとして、彼らはなにをしてるのか、と考えればよい。
919 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:25:18
しかしなんともいってボクらの世代、ポスモダ世代は、
「口ばっかり」ってことだね。
決定することができない。これはポスモダ的には
決定することの危うさを知っているということなんだけど、
実際に、行動することができない、ということでもある。
後にヘタレ世代と呼ばれるだろうな。
920 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 15:28:08
まあ、言いたいことは分かるんだけど、こっちの言ってることは
「ポスト2ちゃん」を見据えての話だから。たしかに今のところ
そのパンフレベルのものは、この板で十分調達できるし、それが
永続するなら、まあ、機能的には等価なんだから、わざわざ
そういうの買う人もいないでしょう。それと、一般人はそんなに
ストゥリクトで厳密な哲学を求めてないと思うよ。それは時間と
能力のある人の特権みたいなものだから・・。そうした人たちを
最初から対象としてない、ただ、哲学的なものにコミットする層
を少し広げましょうよ、あなたの言葉でいう汎化、裾野を拡げて
いきましょうよ、そうすればDQNが減って、少しは住みごごちの
良い国になるのではないかなぁ?という話であって・・。
なんというか、最初はファッション的な感覚で入れるようにする
のがいいんだけど。哲プロパーの人たちはそういうのを嫌うだろう
けど、まずは形、スタイルから入る。哲学的に考えられる人って、
かっこいいんだ、素敵なんだ、なんか付加価値あるんだぁーと、
錯覚的にでいいから、最初はそんな感じで敷居を低く、入りやすい
おしゃれなカフェぐらいの雰囲気に持っていく。
分かるかなぁー、この微妙な感覚。
>しかしなんともいってボクらの世代、ポスモダ世代は、
>「口ばっかり」ってことだね。
「世代」とか言わず「ポストモダン」とくくれ
同じ世代で哲学を真剣に学んでいる人たちに失礼だ
922 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:33:57
923 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:36:39
>>921 コンスタティブとパフォーマティブの差だ。
だから哲学を真剣に学んでいる人たちも「口ばっかり」側なの。
>>923 ポモといっしょにするなよ
決定的解答の不可能性を踏まえた上で、議論を通じて客観的知識の発展に携わる人もいる
彼らを「口ばっかり」と言うなら、哲学は最初から「口ばっかり」だよ
ユートピアが欲しいなら救世主の存在でも信じてキリスト教にでも入信すりゃいいんだ
926 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:44:07
>>924 カントでいえば、純理と実理の差のようなことだな。
では、キミの回りでは、どのような「実践」が提示されているのかな。
927 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 15:45:27
よく女から「あんた口だけだね」と言われるwww
928 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:46:02
>>926 カントを読み直せ、ボケ!
実践理性は理論理性よりも優位なんだよ
俺が対決スレで道徳について分析したり、
合理主義と道徳が不可分に結びついていたりすることを挙げたのも
実践理性の方を問題にしているからだろ
カントも読まずにカントの名を出すなよ
やっぱり、まだこのレベルが楽しいんだろうなぁ〜。
無責任、匿名、じゃれ合い、馴れ合い、良コテ、駄コテ
板貢献とか言ってるレベル。
ぴかぁー氏は、ホリエモンに似てる、性格的に・・。
ずばりヴァニティ(虚栄心)が高い。どーゆー職業で、
これだけの書き込み数できんの?そんなリーマンあり得ないし。
プログラムに自動的に書き込みさせてるなら、すごいけど(笑
やっぱり、もうちょっと行動力のありそうな所に(ry
あて先が根源的に間違っていたかも。
932 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:52:21
>>929 キレるなよ。
「つぎはぎ派」ポスモダ世代はすぐキレるな。
933 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 15:54:33
>>931 そう、あて先が間違っている。
どこに送ろうが、必ずキミに戻ってくる。なぜなら(ry
>>932 「つぎはぎ」という言葉を使ったのはもちろん皮肉だよ
おまえがその皮肉を理解しないことは確信していたがね
もう少し外に目を向けてみろ
自分の得意分野の外にも興味を向けてみろ
多くの考えと多くの批判がある
それらに耳を傾けないのは閉鎖的な態度だと思わんか?
935 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 16:03:06
>>934 どしった?やけにカリカリしてるな。
やなことでもあったの?
とりあえず「オマエモナー」
>>933 そうそう戻って来る。答えは、乱歩の小説【鏡地獄】にある。
そうした鏡しかない場所に隔離された主人公は発狂するの
ではなかったかな?と。ネットでもそういう人いるよね。
まあ、現実の人間関係も似たようなものだけど。
似たもの同士が、どこでも集っているから。
937 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 16:18:45
>>936 ん〜というか、それってどこまでもキミの抑圧された欲望でしょ。
938 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 16:21:36
やはり、ぴかぁさんは一枚上手ですね
939 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 16:26:27
>>937 えー、なーに、私の抑圧された願望って!?
鏡が内部に被覆された卵の殻の中に住んでいる、
知的なエーリアンに、一度、その卵を割って
対社会的な手間をかけて、何かを現実的に動かして
みたら?このまま哲板で眼を悪くして、体調もおかしくして、
一生を幻想の電子媒体の中で過ごしました、じゃ、良くない
んじゃない?と言ったまで。悪いけど、私は2ちゃんは殆ど
見てない。一週間で一時間も見てない。ここ数日は特別に、
遊んでるけど、このスレにしか書いてない。
ぴかチュウに教育への提言ができると思ってるところが凄い
じゃあ、最後に。もう分かった、この板にいる人たちのテンションが。
たぶん、こもっていたいんでしょ?ずーーっと、桃源郷の中に・・。
哲学は哲学、現実は現実ということで、明確に境界線をひいて
いるのだと思う。哲学が構成してくれた幻想を壊さないで、
ずーっと夢魔と戯れていたい、現実は厳しいし、冷たい、
だから遠くから無責任なチャットだけしていたい、匿名的な存在で、
永久に透明に死んだように生きて存在していたいということなんでしょう。
でも、そういう生き方も、ありなんだと思う。人殺ししたり、
物を盗んだり、エネルギーを大量消費して自然破壊するような
生き方よりは、それでもずっといいのだろうと思う。
ただ、いずれ2ちゃんシステムは幻だったということで、いつかは
倒壊する。だから、このシステムに過剰コミットする人は、その時、
買い手の付かないライブドア株を持っている今の素人投資家と同じ
運命になることは目に見えている。代替サイトができても、
その規模や影響力が権力者からみてリミットを越えれば、絶対に
潰されると思う。
ただ、これってイネイブラーで、逆効果だ。ダメといわれると
益々やりたがる、マゾヒストはいつも叱責されることを好むから★
ひきこもり中年ぴかぁ〜w
【イネイブラー、依存症維持システム】
アルコール依存症者は、1人で長期にわたって飲み続けることはできない。逆にいうと、長期に飲み続けている依存症患者の周りには、「飲み続けることを可能にしている人」がいることになる。この人を「イネイブラー(Enabler)」という。
イネイブラーは、自分が関与することで、結果的には本人の自立と責任性を彼らから奪って、問題の解決を遠ざけている事には気づかず、患者の飲酒問題を手放すことをしないことを患者への愛情だと誤解している事が多い。
まぁ、2ちゃんねるに依存してますよ。最近では色んな板で色んな関わりをもっていて瞬時の移動につぐ移動。
そそのかしそそのかされながらアルコールを浴びる、アルコールの漬けの中毒者。ただ中なので抜けた状態が分からない。
おそらく2ちゃんねるシステムはこれからも継続すると信じてやまないままでいる。
伝統にまでなったシステムは権力者の声により崩壊するのか。否、ありえないと(確固としないが)確信する。この信じていることは愚かであるかもしれないが、この2ちゃんねるに自己像を投影し焦点をむすべている根拠である。
現実と境界をひきネットを幻想として遊ぶのは自分を防衛するためだったのかも。関わりが増すほどに囚われが増しやっかいだなぁと感じているのは本音としてある。
しかし義憤を抱えこんでいて冷静になれずにいる自分が居て、ああ厄介なのだ。
2ちゃんねるに投稿し奪われたテキストは回収されず劣化コピーだのに価値を上げながら急速に広まっていた。それを知った。
2ちゃんねるにインターネットに怯えながら依存から抜けだせない。まるでアルコール中毒のように。
あぼーんの地平を憧れつづけてるだけの甘えなのかねぇ。
947 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 20:14:51
なんかよくわからん。
948 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 20:16:18
■創発性のみが「心」たちに力を与える。
ボクはネットコミュニケーションの活発化を心の暴走、逆襲と呼んだ。それはテクノロジーにより
甘やかされた身体、すなわち動物化への逆襲である。すなわちヘタレ化である。なぜみなネットに
向かうのか、ケータイは爆発的に普及したのか、という身体的合理性を越えた意味、すなわち
「淋しいから」という心の繋がりの社会性への欲望という汚物である。心は汚物を撒き散らしながら
暴走する。これこそ人間という症候だろう。
このような暴走、ポピュリズムの不安定は、なんでかなー→ゲッツ→残念→フォ〜→ という意味で
理解しないといけない。小泉が大勝したからと不安を煽る評論家には、「だからなに?」、ホリエモン
の失態になは「潮時か?」ということだ。
しかしおもしろいのは、「心」とは唯一無二であるから「心」である。個数に還元できない。しかし
創発性とは個性のない複数があるきっかけで秩序を生むものであるから、「心」とは相容れない
はずである。しかしこの「心の暴走」では、「心」はオレはオレであることを保っている。規律訓練的に
規格化された「心」へ訓練されるわけでも、環境管理的に知らずに規格化されるわけでもない、
オレはオレだ、ということそのものが、大きな秩序を形成する。そしてそこには、「権力者」は存在
しない。すなわち「心」たちが大きな力をもつ唯一な方法なのである。その力が不安的なもので
あったとしても。
>>944 「アルコール依存症」を「ネット依存症」に置き換えれば、まさにぴかぁ〜のことだね。
ネット依存症者にとっての「イネイブラー」とは、「煽り」のことじゃないかな。
ぴかぁ〜は昔から煽りに弱い。
煽られたら、すぐムキになって、煽りに屈してないことをアピールするために、ますます発奮する。
現実の社会ならその発奮が原動力になるのだが、ネット上はまったく反対に作用する。
つまり、ネットに依存すればするほど、社会から遠ざかる。
近年、幼児に対する性犯罪など、社会から遊離したネット依存症者の犯罪が多いが、
話のネタが女子高生や炉離といったヲタク系が多いぴかぁ〜は、彼らの予備軍になりかかっていると思う。
大抵のアルコール依存症者は自らの病気を悟っているが、ネット依存症者は、自らの異常に気づかない人が多い分、
余計たちが悪い。
・・という、極くまともな俺の指摘も、「ネット依存症者」にとっては、彼の「発奮」材料にしかならないんだろうな。
ここまできたら、始めは極く普通のチャネラーだったぴかぁ〜が、どこまで依存症を深めて堕ちていくのか、
気になるところでもある。
950 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 20:59:16
>>949 だからベタな悪性転移なんだって。
だから「ぴかぁ〜は新しい世界へ行くべき」と大きなお世話話になるわけ。
ベタにキミが「どこかへいきたい」と煮詰まってるだけだろう。
以下放置。
イネイブラーの提言者も2チャンネルに消費されたと感じているわけだね
さあ、発奮してもらいましょうか!
クソ、風邪がいっこうに治らんぜ
>>935 >とりあえず「オマエモナー」
批判に開かれているから相互批判に進んで参加するんだろ
そういう返ししかできないところが勉強不足がバレバレだって言ってるの
954 :
まずる:2006/01/22(日) 00:57:06
アルコール依存症とネット依存症じゃ
スゲー違いだよな。
依存症で一致するからってイコールで結びつけるのは
極端すぎかと思う。
955 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 01:13:21
956 :
まずる:2006/01/22(日) 01:15:58
>>955 ありがと。
絵好きな人いたら紹介して。
営業するから。
よちよち
957 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 01:18:28
958 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 13:33:55
959 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 16:39:17
あぼーん!していこう!
そうだな
961 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 16:51:03
純一氏ね
?
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
964 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:13:14
なぜかね?
なぜだろうね?
966 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:23:07
荒らし死ねボケ
967 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:24:15
まったくだな
968 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:25:10
いいかげん知ったかやめな!
荒らし死すべしでつね?
970 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:26:13
>>968 ぴかぁ〜に言ってやれよ、とツッコミしてみる
971 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:26:36
ちょっとぴかあ、面倒だとは思うけどもSMにおける快楽をまなざしとあぼーんを使って解説してみてくれよ
なんでよりによってSMなの?
973 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:50:56
多分15.6才だろうからSMはまだ…というよりむけてないか。
15.6からSMは無いだろうと。
975 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:57:10
いや、有ってもいいが、こいつは無いと。
976 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:09:31
ぴかぁ〜はSMで言うとMだね。
縛られているオタクを容易に想像できる。
977 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:38:06
ぴかぁ〜いいでちゅ〜ぴかぁ〜しにまちゅ〜
しね
978 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 18:57:12
緊縛され、興奮するぴかぁ〜age
979 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 09:49:43
あと純一は生活でのストレスを哲板に向けるのはやめとこうや
ストレスsage
981 :
考える名無しさん:
【ぴかぁと純一】まなざしの快楽15【二人だけの世界】