★まなざしの快楽(他者からの呼び声)PART13★
877 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 19:19:31
このような賭けをなりたたせているのが、動物的な集団性の喪失を保管する社会性です。
社会性としてつながりながらそこには断絶がある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげるために物神性という幻想をみる。
しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ同様の夢こそが消費となる
そしていかに夢をつくりだすかがマーケティングですが
もはや与えられるのでなく自ら夢に酔おうということがケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。
人はこの「生き生き」がなければいきていけません。かつては生きることが
不確実な賭けの世界ですからいきるだけで「生き生き」できた。むしろ危険すぎていきるのが大変だった。
最近は社会が整備され、あえて賭けが試みられます。しかも安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」するのです。
ケータイ、2ちゃんのように
878 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 19:43:06
賭けがなぜ興奮するのか、自分を賭けているからですね。
自分のお金、所有物を賭けているということでなく、自分自身が賭けられているのです。
たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らずの人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで傷つきます。
しかしこれは自分が賭けられているというよりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げるのです。
賭けは他者が現全している必要はなく、物思いに耽っているときも小さく賭けられています。
賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。
>>875 > 商品の物神性とは賭けであり神だのみです。商品交換そのもののこのギャンブル性が
それは、未開人がある貝殻に拘ったりするのと同じでしょ。資本主義社会の商品とは違いますよね。
こう言ったらいいのかな。マルクスは価値と価格をわけてますよね。ぴか氏のは価格の話でしょう。
実際の現象としての商品売買。マルクスは裏側で価値が機能していると信じているんですよ。そこが
違います。ポストモダン風に読もうとしても、資本論はそう読めませんよ(笑)。
880 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 20:02:53
現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないといけない、いや巻き込まれていました。
しかし現代は賭けから逃げて生存できます。危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。
そして安全な賭けで間に合わせる。マック、コンビニにしかいかない。あるいはワイドショー、ハリウッド映画、
テレビゲーム、ケータイなど管理された安全な賭け(どきどき)で間に合わせる。
これはまた無垢欠乏症になります。そして突破的に無謀な賭けにでてまわりを巻き込み破滅してしまう。
ロリコンのポイントは幼児という弱さによる安全と社会的に禁止されている危険な賭けということです。
その先に破滅する幼児殺人犯がいます。
2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、禁止された言葉をいう賭けです。
>>880 > 現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。
いいですね。有閑階級は(笑)。
882 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 21:24:57
ボクが「フリーターの知」というとき、それでもこのようなヘタレを許す、あるいは奨励するのである。
ヘタレなさい。姑息に賭けなさい。と
無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは違う。
無垢とは私が私であることの賭けであり、単独性の満足がめざされる。
身体的な危険な賭けは私しかできないという意味で無垢であって、勘違いされるかもしれないが身体の危険そのもののスリルでない。
では現代において、そもそもヘタレずに無垢を手に入れるとはなんだろうか。
これは難しい問題である。なぜなら情報化社会において、私だけの賭けを見いだすことはむずかしいからだ。私である必要はない。
883 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 22:08:29
ボクは西洋の死の思想からくる単独性重視と、東洋の生の思想からくる社会性重視をしめした。
これらはそれぞれの形で主体を想起する。そして現代科学がこれを解体する偶然の思想であるといった。
すなわち賭けが賭けとしてなりたつための背景としての生死の思想が解体されつつあるのだ。
そして主体とり戻しのために、「生き生き」するために無謀が表出している。より禁止へ危険へ、そして身体的なスリルへ。
それを回避する方法として「フリーターの知」はある。
884 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:01:08
■ケータイとマルクス
ケータイという欲望
最近のケータイの使用はすさまじいものがあります。最近おもわず写真とりたくなった光景があって、
昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて小学生ぐらい
の息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。なんか微笑
ましいような、不気味なような最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な
光景はよくみます。
みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイという対戦ゲームを
楽しむと言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能
な反応と限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。プログラムされた
ゲームも疑似他者とのコミュニケーションです。
まさに2ちゃんがそれなわけですが、これの欲望の特徴を表していましね。欲望は欠如がありそれを
満たすのでなく、欲望自体が欠如を広げる。ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如が
あったわけでなく、ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆく。そしてこれがまさに資本主義の
作動原理です。いまからケータイ、ネット、テレビ、車、電気のなかった時代を想像できないというとき
には、欠如が開かれた今から事後的にみるから大きな欠落が口をひろげているが、その当時はそれで
ある種の充足はあるわけです。まさに人間の特徴ですね。
885 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:05:27
物神性と無垢性
ジジェクは、ラカンが「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介
しています。「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち
物神性だとマルクスはいっています。それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。
なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。
問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての
物神性がケータイという危機、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、もはや
その物神性のみが交換されているという事実です。すなわち物神性を呼び出すために、
コミュニケーションの(不)可能性にベットされているのです。
商品の物神性とは賭けであり神だのみです。商品交換そのもののこのギャンブル性が必要以上の
交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり、ケータイはこの
ギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。
886 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:07:41
賭けと夢と「私」
このような賭けをなりたたせているのが、動物的な集団性の喪失を保管する社会性です。社会性として
つながりながらそこには断絶がある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげる
ために物神性という幻想をみる。しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ
同様の夢こそが消費となる。そしていかに夢をつくりだすかがマーケティングですが、もはや与えられる
のでなく自ら夢に酔おうということがケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。人はこの「生き生き」がなければいきて
いけません。かつては生きることが不確実な賭けの世界ですからいきるだけで「生き生き」できた。
むしろ危険すぎていきるのが大変だった。最近は社会が整備され、あえて賭けが試みられます。
しかも安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」するのです。ケータイ、2ちゃんのように。
賭けがなぜ興奮するのか、自分を賭けているからです。自分のお金、所有物を賭けているということ
でなく、自分自身が賭けられているのです。たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らず
の人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで傷つきます。しかしこれは自分が賭けられているという
よりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げるのです。賭けは他者が現全している必要はなく、物思いに
耽っているときも小さく賭けられています。賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。
887 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:10:38
安全な賭けと「フリーターの知」
現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。かつては生存するためには危険な賭け
でも参加しないといけない、いや巻き込まれていました。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な賭けで
間に合わせる。マック、コンビニにしかいかない。あるいはワイドショー、ハリウッド映画、テレビゲーム、
ケータイなど管理された安全な賭け(どきどき)で間に合わせる。
これはまた無垢欠乏症になります。そして突破的に無謀な賭けにでてまわりを巻き込み破滅して
しまう。ロリコンのポイントは幼児という弱さによる安全と社会的に禁止されている危険な賭けということ
です。2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、禁止された言葉をいう賭けです。
ボクが「フリーターの知」というとき、それでもこのようなヘタレを許す、あるいは奨励するのである。
ヘタレなさい。姑息に賭けなさい。と。無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは
違う。無垢とは私が私であることの賭けであり、単独性の満足がめざされる。身体的な危険な賭けは
私しかできないという意味で無垢であって、勘違いされるかもしれないが身体の危険そのもののスリル
でない。では現代において、そもそもヘタレずに無垢を手に入れるとはなんだろうか。これは難しい
問題である。なぜなら情報化社会において、私だけの賭けを見いだすことはむずかしいからだ。
私である必要はない。
ボクは西洋の死の思想からくる単独性重視と、東洋の生の思想からくる社会性重視をしめした。
これらはそれぞれの形で主体を想起する。そして現代科学がこれを解体する偶然の思想であると
いった。すなわち賭けが賭けとしてなりたつための背景としての生死の思想が解体されつつあるのだ。
そして主体とり戻しのために、「生き生き」するために無謀が表出している。より禁止へ危険へ、
そして身体的なスリルへ。それを回避する方法として「フリーターの知」はある。
888 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:21:00
>こう言ったらいいのかな。マルクスは価値と価格をわけてますよね。ぴか氏のは価格の話でしょう。
>実際の現象としての商品売買。マルクスは裏側で価値が機能していると信じているんですよ。そこが
>違います。ポストモダン風に読もうとしても、資本論はそう読めませんよ(笑)。
???物神性は価値形態ですよね?
価格は費用と利潤ではありませんよね?
ロト6で1億円あたったwwww
891 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 23:35:55
嘘なら嘘って言えよ、
素直に虚言を認めるなら許してやるからな。
嘘でーす。
本当はミニロトで1千万円でした。
>>888 > ???物神性は価値形態ですよね?
価値形態論だけど、ぴか氏のは価格の話に近いんでないの?あと、マルクスは物神性は社会的労働の
総体を表現したものだと信じているんですね。バクチとちょっと違うと思いますよ。
895 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:12:26
■ネット依存の快楽
ケータイという対戦ゲーム
最近のケータイの使用はすさまじいものがあります。最近おもわず写真とりたくなった光景があって、
昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて小学生ぐらいの
息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。なんか微笑ましい
ような、不気味なような最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な光景は
よくみます。
みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイという対戦ゲームを楽しむと
言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能な反応と
限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。プログラムされたゲームも
疑似他者とのコミュニケーションです。
物神性と無垢性
ジジェクは、ラカンが「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介
しています。「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち
物神性だとマルクスはいっています。それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。
なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。
問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての
物神性がケータイという機器、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、もはやその
物神性のみが交換されているという事実です。すなわち物神性を呼び出すために、コミュニケーションの
(不)可能性にベットされているのです。
商品の物神性とは賭けであり、「神だのみ」です。商品交換そのもののこのギャンブル性が必要以上の
交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり、ケータイはこの
ギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。
896 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:13:17
賭けと夢と「生き生き」
このような賭けをなりたたせているのが、「社会性」です。「社会性」としてつながりながらそこには断絶が
ある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげるために物神性という幻想をみる。
しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ同様の夢こそが消費となる。そして
いかに夢をつくりだすかがマーケティングですが、もはや与えられるのでなく自ら夢に酔おうということが
ケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。賭けになぜ興奮するのか。自分を賭けている
からです。自分のお金、所有物を賭けているということでなく、自分自身が賭けられているのです。
たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らずの人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで
傷つきます。そしてこれは自分が賭けられているというよりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げる
のです。賭けは他者が現前している必要はなく、物思いに耽っているときも小さく賭けられています。
賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。だから人はこの「生き生き」がなければ
いきていけません。
897 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:14:18
無垢欠乏と安全な賭けと中毒
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、
むしろ危険すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。危険な賭けに
巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な賭けで間に合わせる。
安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」
するのです。
マック、コンビニなどは「他者回避」の場です。ワイドショー、ハリウッド映画、テレビゲームなど、管理された
安全な賭けで間に合わせる。さらにロリコンのポイントは幼児という弱さ存在という安全であり、幼児を
欲望するという社会的に禁止されている危険な賭けです。2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、
禁止された言葉をいう賭けです。
しかし無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは違います。無垢とは私が私で
あることの賭けであり、単独性の満足がめざされます。身体的な危険な賭けは、それを私しかできない
という意味で無垢であって、その身体の危険からくるスリルでない。主体をとり戻しのために、「生き生き」
するために無謀が表出しています。より禁止へ危険へ、そして身体的なスリルへ。
ケータイという対戦ゲームにおいて、私の取り戻しであるのか、身体的なスリルであるのか、違いを
見いだすことができるだろうか。ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如があった
わけでなく、ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆくというときの中毒性において、どちらに
しても快楽は身体的なものである。
ポトラッチの一形態?
>>897 > しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
いいですね。有閑階級は(笑)。
実際は違うんじゃないか。社会での上層に行くための手段が見えにくくなってきているので、
今まで以上に学歴に拘ったり、あと、教育がかなり階層化していると聞いてます。一方で、
もう全く諦めムードの人たちがいたりする。
どちらかというと学校で勉強をし、成績がいい者から有名企業へ就職ができ、終身雇用を
前提とした中での出世競争という、「賭けの無い」世界が壊れてきており、誰もがギャンブラーに
ならないといけない時代になってきているんじゃないか。
あと、賃労働に転落しているならば、基本的に自分を商品として売らなければならないので、
賭けから逃げるというのは不可能ですね。他者からの逃避をするには蓄財が必要です。
901 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 10:43:02
>>900 ボクの意見との相違が微妙になっていますね。
「誰もがギャンブラーにならないといけない時代」=ジャングル化する社会
なんどのいうように、大きな違いは充足とはなにか、ということでしょうね。
物質的な豊かさか、物資的豊かさの彼岸か。
>>901 > ボクの意見との相違が微妙になっていますね。
関心の対象も見方も似ているとは思いますよ。しかし
> 物質的な豊かさか、物資的豊かさの彼岸か。
物質的豊かさではなくて、精神的な充足の問題が経済的構造に既定されていると
考えるのが僕で、精神自体の問題だとするのがピカ氏でしょ。観念論と唯物論。
903 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 11:51:27
観念論と唯物論の使い方が間違っているのですが、
まあ良いでしょう(笑)
>物質的豊かさではなくて、精神的な充足の問題が経済的構造に既定されていると
>考えるのが僕で、精神自体の問題だとするのがピカ氏でしょ。
精神的な充足を規定する経済的構造に黒幕はいるか、どうかでしょ(笑)
下部構造という意味では、ボクはテクノロジーを考えています。
フーコは規律訓練権力と生権力を揚げます。規律訓練権力は、教育などで、
人の内面にイデオロギーの植え込み、自立的な主体とする。
それに対して、生権力は生(身体)をコントロールする。
東はこの生権力から現代の下部構造として環境管理権力と言います。
前にあげたマックの硬い椅子であるとか、グーグルなどで検索するときに
素朴にネット上全てのページを検索しているようで、実は知らない間に
様々な作為が入っています。広告料を払った企業ページが優先してヒットするとか、
エロページの排除、さらにあるイデオロギー的なところはヒットしないような作為も
問題なっています。このような環境管理権力の特徴は権力の透明化ですね。
見えないところでコントロールされる。しかしこれをむじんくんのような、
黒幕的な権力構造と考えるのもまた違うんです。
かつての規律訓練権力の場合、イデオロギーを教育するなど、意図的な
大きな組織が必要とされます。しかし環境管理権力は個人のページの閲覧に
規制をかける、あるいは監視カメラをつけるなど、小さな権力が行われるのです。
このように現代は、小さな権力闘争の場であって、むじんくんのいう大きな黒幕という
とらえ方では見えません。そしてこの小さな権力闘争の場の成立は、物質的な
豊かさが前提にしないと考えられません。
ジャングル化する社会とはそのような意味であり、サバイバルのそのように考えないと
いけません。
>>903 > 精神的な充足を規定する経済的構造に黒幕はいるか、どうかでしょ(笑)
困った人ですねぇ(笑)。そういう意識面での問題じゃないわけですよ。
フーコーの話なんかは僕は面白いと思うんですけど、やはりそれは上部構造の
話なんです。系譜学的な記述は意味あると思うし、凄く面白いとも思いますけどね。
例に出しているマックの椅子の話なんかも、そうやる理由は都市化しているからであり、
人々に内面的抑圧が不可能になってきているからですが、そもそもそれは資本主義的
生産様式の上に私有財産制が機能しているから必然的に発生するわけです。
内面の管理→身体の管理、はい終わり。では説明にならないわけで、そうせざるを得ない
社会というものを考えなければならない。
テクノロジーの変異というのは、当然社会の物質的基盤として考慮すべきですが、
しかし一方で全く変わらず鉄の意志で動き続けている構造がある。経済的下部構造
とはそういうものですね。見た目がいかに変わろうとも、資本主義社会は資本主義社会です。
905 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 12:31:14
>内面の管理→身体の管理、はい終わり。では説明にならないわけで、そうせざるを得ない
>社会というものを考えなければならない。
「そうせざるを得ない」という言葉にあるのは「意志」ですね。
すでに脱構築(内破)されていませんか。
政府でもよいですが、「大いなる意志」でコントロールできるうちはまだ良いのです。
ボクがジャングル化する社会でいっているのは、勝ち組、負け組がでるだろうが、
底にあるのは、小さな権力闘争の、「意志」なき創発性というジャングルだ、といっているのです。
906 :
考える名無しさん:2006/02/10(金) 13:10:11
ほう、これはたいした才能だ
907 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 13:19:01
東もリトルブラザーと小さな権力といちながら、セカイの
下部構造としての大きな環境管理権力から抜け切れていないように思います。
すなわち闘争でなく静的な構造物とみています
>>905 > 「そうせざるを得ない」という言葉にあるのは「意志」ですね。
意志という言葉をどういう意味で使っているのか分かりませんが、借金返済のために何かをするのと
同じってことですよ。例えばマックが借金していて、それを返済しなければならないので、顧客の回転を
早くしたいと考えたときに、椅子を硬くするという方法などがある。これが小さな村であれば、そうしなくても
構わないかも知れないが、都市部ではそうするしかない。そして、裏側で働いている借金返済という動機は
同じなのです。
M.ウェーバーがどこかで書いてたと思いますが、資本主義社会が浸透するときに
見られることは、借金をさせるということなんですね。これがかなり難しい。だから、
植民地ではまず、借金せざるを得ないように現地の生産関係をズタズタにするのです。
貨幣を欲しがるようにしなければならない。
911 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 15:25:28
追い込まれてきましたか。
ボクは資本関係が作動していることも、経済的勝ち負けがさらに広がることも否定していませんよ。
勝つものが勝つ、負けるものが負けるのでなく不確実になる。だから単純なブル/プロレの静構造はない。
さらに混沌とするのは、確かに経済ゲームはベタにわかりやすいゲームだから、「エリートの知」ゲームとして残るが
経済的勝者が勝者だという幸せさえ混沌とする。
それがジャングル化社会です。
再度まとめてむじんくんの立ち位置を明確にしてください。
912 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 16:03:29
このような混沌をいかに生き抜くか、単に豊かではだめで「生き生き」しなければならない。
その方法を3つの知として示したのです。
>>911 > 追い込まれてきましたか。
どうも僕を古典的な左翼活動家と見做したいようだけど、それは全く違いますよ。経済的勝ち負けゲームと
いうのはそれは人々の意識に上がってきているものですが、そのレベルではなくて、勝ち負けゲームを意識的に
しようとしまいと、資本の運動下にあることは変わらないということなのです。
仮に善意の経営者がいようとも、大企業が倒産しようとも、資本の支配とそこに従属する労働者という構造は
変わらず、そこでは必然的に搾取が行われるのです。その構造を見ようということですよ、僕の立場は。
ピカ氏のは、そんな構造知るか、感覚的に生き生きしてればそれでOKだろう、そういう発想なのです。それは
修行すれば外界の問題は解消することが可能だという精神論だということです。そこに反対なわけ。
914 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 18:51:36
>>913 追い込まれてきましたね。
さすがにマルクスを見方につけたところが勝因でしょうかね。
>ピカ氏のは、そんな構造知るか、感覚的に生き生きしてればそれでOKだろう、そういう発想なのです。それは
>修行すれば外界の問題は解消することが可能だという精神論だということです。そこに反対なわけ。
話にならないですね。
>資本の支配とそこに従属する労働者という構造は
>変わらず、そこでは必然的に搾取が行われるのです。
これも議論のポイントがずれていると思うのです。
では資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのです。
むじんくんの立ち位置は、ブル/プロレの静構造があるという、
古典的な左翼活動家でいいと思いますが。
自分と同等か、それ以上のものを好敵手とせよ!
>>914 ちょっと今酔っ払っているので変な感じかも知れませんが、頑張って書いてみますか(笑)。
> これも議論のポイントがずれていると思うのです。
> では資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのです。
誰かというのは問題になりませんね。植民地論を考えるべきなのですよ。そこで何が行われたか、なぜ
それが必要だったか。そして、その本質的な部分は先進国も変わりなく続いているのです。ヨーロッパとは、
世界で始めて植民地となった場所なのです。
> 古典的な左翼活動家でいいと思いますが。
ブルジョアジーはいます。しかし、それは具体的な特定の人間を指すのではない。
ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?外の構造が何だろうと、哲学すれば開放されるという
のがピカ氏の思想なんでしょ?経済的下部構造に無関心な精神、現実の世界に対して無関心な精神をつくろう
というのがピカ哲学です。
ピカ思想は自己啓発セミナーに近くないですか?
918 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 00:36:01
植民地とは、資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのですね。
>ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?
まったく理解できていないのですよ。
>>918 > 植民地とは、資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのですね。
違います。いかにして現地の人間の生活を賃労働に転落させるか、いかにして借金させるか、
いかにして分業をさせるか。
> >ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?
> まったく理解できていないのですよ。
結構理解していると自負してますよ(笑)。自分の知っている人に逮捕された自己啓発セミナー幹部がいますが、
その人が言っていることとそっくりですよ。彼ら自己啓発軍団はエリートでもなければフリーターでもない、生き生き
哲学を持ってます。
920 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 00:43:12
>>919 酔っぱらっているのですか?いつももボケボケなのでわからない(笑)
誰と誰かは、来訪者と現地の人間でしょう。自分で書いてますよ。
むじんくんはいつもすべて自負しいるのですよ。
自負していないことをから始めないと、いつまで立っても
他者の声は聞こえませんよ。
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
>>920 > 酔っぱらっているのですか?いつももボケボケなのでわからない(笑)
そんなことありません。今はちょっと調子悪いかもね(笑)。
> 誰と誰かは、来訪者と現地の人間でしょう。自分で書いてますよ。
来訪者を突き動かしている構造があります。現地人は来訪者によって玉突きのように
動かされました。その運動はイスラム社会などで今も続いてます。
> 自負していないことをから始めないと、いつまで立っても
> 他者の声は聞こえませんよ。
自己啓発セミナと同じっていうのはどうですか?彼らの主張との違いがありますか?
923 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:11:11
自己啓発セミナとは、規律訓練権力の一種ですね。
「心」に空にして、一気にそこに、イデオロギー的なものを
つっこむ。
たとえばオウムの洗脳では、個室に詰め込んで、宙づりにする。
パプティコンでは見えないが、見られる状態におく。
なににおいては、ボクの「生き生き哲学(笑)」が
自己啓発セミナ的なのでしょうか?
924 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:14:21
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
むじんくんの自負によって他者の声を聞かないボケボケを、
「そんなので哲学やる気があるのか!」と責めるのではなく、
それでむじんくんは「生き生き」している、それでいいのですよと、
許すことなのです。
925 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:17:50
これは、逆にいえば、むじんくんの正論的な否定を、
その否定そのものが、むくんじんを「生き生き」している、
と脱構築(内破)し、そして許すのです。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 00:38:26
>たとえば、その「小さな権力闘争」に出口はありますか?どうやって抜け出すの。
なにを求めているのでしょう。ポストモダン思想をまったく理解してないわけですね。
これは宗教家への問いでしょう。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:14:21
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
むじんくんの自負によって他者の声を聞かないボケボケを、
「そんなので哲学やる気があるのか!」と責めるのではなく、
それでむじんくんは「生き生き」している、それでいいのですよと、
許すことなのです。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:17:50
これは、逆にいえば、むじんくんの正論的な否定を、
その否定そのものが、むくんじんを「生き生き」している、
と脱構築(内破)し、そして許すのです。
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)