1 :
考える名無しさん :
2005/10/05(水) 22:02:57 すべての雑念から解放され、 精神的な境地に到達する。 これを「涅槃(ねはん)」、と言う。 つまり、「悟り」、だな。 涅槃的に世の中を語っていこう。
2 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2005/10/05(水) 22:08:03
無抵抗。 全ては無抵抗にしか繋がっていない。
3 :
& ◆LMRaV4nJQQ :2005/10/05(水) 22:23:55
涅槃に達し、雑念から解放された私は、何も語りません。さようなら。
4 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2005/10/05(水) 22:25:16
1.道具があれば道具を使って何かをする。 2.道具がなければ道具を作って何かをする。 抗えず何も出来なくなれば(道具がなくなれば) その次は何でも出来るようになる。 つまり、最初(2.)から始められる。不自由の中の自由。
5 :
考える名無しさん :2005/10/06(木) 14:23:22
問題は涅槃の境地にいつまでもいることができないことだ
6 :
考える名無しさん :2005/10/06(木) 19:34:34
ここで待ってるって言ってたんだがなぁ あの勘違い野郎!
7 :
凡人 :2005/10/06(木) 20:05:00
>>1 番さん
仏語の涅槃は宗教上の商売用語で有るから用いる事はしませんが悟りは人が
人間として生きる知能を育てる為に欠く事のできない必須事項です。
宗教的精神を含まずに人が悟る為の方法で有るなら哲学的に尤も重要な部分
ですので真剣にお話し致します。
大変に良いスレですね。
8 :
考える名無しさん :2005/10/06(木) 20:21:11
凡人さんヨミニクイ。
なぜ世の中を語りたいのか語れ。
10 :
考える名無しさん :2005/10/06(木) 20:25:58
国民には選択させておけばよいのだ。
彼は彼岸だから
12 :
考える名無しさん :2005/10/10(月) 16:52:58
真理を悟る
13 :
考える名無しさん :2005/10/23(日) 01:56:38
パーラミタってことですか?
14 :
考える名無しさん :2005/10/23(日) 02:03:47
無住所涅槃ってことです。
15 :
考える名無しさん :2005/10/23(日) 23:24:37
へぇー、涅槃=悟りなのか。 「菩提樹の下で明けの明星を見たときに悟った」 「涅槃はお亡くなりになる事」 と聞いてたから別だと思ってた。
16 :
考える名無しさん :2005/11/15(火) 12:34:28
僕が「悟り」と解釈しただけだよ。
17 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 19:51:59
全てが無意味であることを
18 :
考える名無しさん :2005/12/12(月) 15:51:30
涅槃(ねはん)で待つって言葉的には合ってるの??
19 :
考える名無しさん :2005/12/12(月) 22:49:19
ブッダの教え(目覚めた人の教え)では、死んだ後のことは知覚できない つまり、わからないということで死後の世界のことは無記なので 沖雅也サンのように飛び降り自殺の際の遺書に用いちゃうのは、誤解もいいとこです。
20 :
考える名無しさん :2005/12/12(月) 23:10:23
沖雅也(本名: 日景城児)さんは、天国という意味のつもりでネハンを 用いたんでしょうね!
22 :
考える名無しさん :2005/12/13(火) 20:28:31
遅いな、アイツ
23 :
↑ :2005/12/13(火) 20:56:54
>>22 これ、某千葉県某白井市某桜台のゾンビ議員たちの蛸壺墓守寝首掻き野卑坊と申しまして、
ゾンビですので、暫く、こちらの涅槃にいつくかもしれませんが、うっちゃっておいてやってください。
哲学の、て、もわかりませんので。
もちろん、政治も財政も、共同幻想のなんたるかも、な〜んにもわからないDQNどん臭痴ほう議員のふんどしかつぎです。
かみさんがふんどしをしめるのですが、これがまた、まったく戦意のない不戦連敗痴ほう議員でつ
24 :
考える名無しさん :2005/12/14(水) 23:23:55
23は、やはり ころころころがった糞を相手の顔面に投げる練習もしたり 金魚のクソでありつづけた 経験があるようだな?
25 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 15:57:18
アフオ 待ってたぞ!!
26 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 17:11:54
「悟り」って、私のイメージでは何事にも動じないって感じなんだけど そんな人って本当にいるのかなー?もし、そんな人が実際にいたら いろんなイタズラを仕掛けてどんな反応するか、見てみたい。 まるで、ドリフのコントだけど。 お釈迦様がいま、生きてたらなぁ。
27 :
考える名無しさん :2005/12/21(水) 01:13:21
何事にも動じない.......?
28 :
考える名無しさん :2005/12/21(水) 15:30:32
あの時代はまだ同性愛者への偏見が強かったからなあ… あの世で幸せになろうって意味だと思った。
>>15 亀で面目ないが、入滅って意味で使われることもあるようなのでそれもありだそうでし
31 :
考える名無しさん :2006/03/22(水) 02:20:49
つうどう
33 :
ヨヴァ :2006/03/22(水) 03:46:54
すべての物は常に流転し、 その中に自分と捕らえられる物は無く、 すべてが苦の為にしか存在していない ようはこれを受け入れることがニルヴァーナなんでしょ。 俺は >かくすればかくなるもの >と知りながら已むに已まれぬ大和魂 みたいな 普遍不動の魂を我とする物のほうが好きだが
おん369そわか おん369そわか おん369そわか
35 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 02:03:57
なにこの煩悩w
36 :
みょーん :2006/04/28(金) 19:52:58
極彩色のうごめくエネルギーみたいなものに、 私は角砂糖のように解け溶けて行った。 「ああ、死ぬってこういうことか」 こうして戻っていくんだ根源に。 それはせつないような・・でもむしろ感動と喜びでした。 私はこの成分の一部。この成分で出来ている。 夢を以前見て、たぶんこのビジョンが私にとっての涅槃。 この夢を見て以来、心の中にいつもそのエネルギーを感ずるし 感動とせつなさを抱いている。 私は今の与えられた条件のもとに生きて、そして、そこに戻っていく。
37 :
メフィスト :2006/04/29(土) 10:27:24
うちの嫁はエッチのときに 「ああ、極楽涅槃ってこのことね!」 と言っております。
39 :
チン念 :2006/05/01(月) 01:56:58
まだまだ、迷いの世界に さ迷っておるぞ!w
40 :
みょーん :2006/05/01(月) 17:07:51
>>38 >>39 茶化しじゃなくて、セックスをしてイクときって神秘的だと思う。
快楽だよね。
それで、子供が出来て、産むときって
苦痛だよね
これが意味するものってなんだろうと思うのだよ。
快楽と苦痛はすごく近い位置にあるんじゃないのかな。
41 :
考える名無しさん :2006/05/03(水) 02:14:10
利己的な遺伝子の なせる業です。
みーむ なーむ〜
43 :
考える名無しさん :2006/05/03(水) 03:39:25
子供を産む時も辛いけど、産まれてきてから生きてく時も苦しいよ。 人はそれから逃れたくて快感をもたらすセックスをするのかな。 でも、気持ちよくなりたくてセックスをする人達ってのはなんて世俗なんだろー。俺もしたいと思ってるし。でも子供を作りたいと思わない。 全ての雑念から開放されるとしたら、周りから人がいなくなった時かな。なんでこんなにたくさんの人間が産まれてくるんだろって。一人じゃ生きていけないと解っているけど、周りに人が多すぎる。大都会の中でも(不安なく)孤独になれたら悟りが開けそう。
44 :
考える名無しさん :2006/05/06(土) 22:03:02
仮に涅槃といわれる境地に達したとする。 で、人のことなんか放っておけばいいんだが、 親切心で おっと、こうしたほうが好いんだよ、と言いたくなる。 ほとんどの人間がが馬鹿だから、イライラすることになる。 これは涅槃ではない。 ・・・・・・今日の般若湯は酔わせるな・・・・ 実は、空海大師はゴータマ・ブッダを強烈に裏切ったのではないか、 という疑問は誰でもが抱く疾風怒涛の世界。又後日・・・
45 :
みょーん :2006/05/07(日) 17:59:01
見下した瞬間、世界は終わる。 だから、釈迦は「慢」をひつこく説いたのでしょう? 垣間見た悟りに浮かれて、傲慢さにおぼれた時、金色に輝いた世界は 砂のように、ボソボソに崩れて砂漠になる。 仏とは忍耐のなせる技でしょう。
46 :
考える名無しさん :2006/05/10(水) 22:49:19
応無所住而生其心
>>45 ちゃうの。見下した瞬間、世界は終わる。っていうのは
自分の無抵抗を捨てたから。自分が無抵抗の状態においてあればそれでよし。
ガンジー様も大統領になっちゃったから暗殺されたし、
どんなに頑張ったって救われないという、無抵抗の状況においてのみ
神の救いがあるの。自力で何とかなるのなら助けは無用です。
死ねば分かるとか通説がありますが、無抵抗になれば分かると同じです。
無抵抗のときに救いがあるということが他のどんな事よりも大切なんです。
48 :
みょーん :2006/05/11(木) 00:29:07
>>47 無抵抗という響きは、あきらめを含みますか?
「自然」になるということでしょう。
でも、人間として生まれた条件は変わらない。
特定の国、時代・・・そして、今、ここに人間のAとして誕生した
私を生きなければなりません。超越、達観するのは瞬間です。
人間の私を切り捨てる瞬間、それは傲慢さになりませんか?
>>48 諦められないのです。最底辺が無抵抗ですからここ以下は無い。
そういうところから築いていくのが真の自分の力です。
ただ、神様にもきっかけを援助してもらいたいですが。
その援助がもし、なくて、最底辺から自力だけで立ち上がれるのなら、
自分の力だけで何にでも成れるのでは?
リセットして(無抵抗の地点に行って)どこへ向かおうと自由なんですから。
50 :
みょーん :2006/05/11(木) 10:34:39
「神のお導きに従う」とか「宇宙のリズムに身を委ねるとか」 そういうニュアンスでしょうか?
>「宇宙のリズムに身を委ねるとか」 そんな感じです。流木は岩にぶつかりません。 細菌が薬に対する耐性菌になるのも無抵抗の力でなると思っています。 無抵抗に生まれ無抵抗に死ぬ。地球も無抵抗の中で回ってます。
52 :
みょーん :2006/05/12(金) 16:26:14
>>51 おっしゃる意味はよくわかります。心を開放するとそのような
感覚になると思います。無になるという感覚にも通ずるでしょうか?
それでも、その状態はやはり瞬間的だと思うのです。
人間を生きて、自分を解放するなら、さまざまなリズムが出入りします。
「宇宙にリズム」「人のリズム」「ある個人のリズム」
そんなものをどのように複合させるのか
それが「私のリズム」だと思うのです。そして複合させる過程には多大な
忍耐と思考が必要だと思うのです。
53 :
考える名無しさん :2006/05/12(金) 16:32:30
みんなが幸せになる方程式を発見しました。 男+女=セックス でも、どうやって解くか分かりません。 誰か解いてください。
55 :
考える名無しさん :2006/05/12(金) 16:55:15
(3.14=乙π)
>>52 宇宙のリズム〜でもいいですが、私vs.宇宙でもいいような。
戦いの物語で物語らしくなるのは敵が圧倒的に強いときで
主人公が勝つと分かっていても弱いものいじめのような物語には魅力を感じないでしょう。
それで、勝てないゲームでもやってみるとなんとかなるっていうのは物語の中
だけに限った事ではないんですよね。
形勢不利から大逆転が一番気持ちいいですから。
57 :
みょーん :2006/05/12(金) 17:14:23
>>56 私なりに解釈しますと、宇宙のリズムに同化していては認識できないん
ですよね。宇宙のリズムに挑戦してはじめて認識につながる。
59 :
みょーん :2006/05/12(金) 19:37:23
NAS6 ◆o1AYEkZmQU さんのおっしゃる「無抵抗」という感覚が少し 理解できた気がいたします。「脱力と達観」というふうに言う人もあるでしょうか。 私の悟りのプロセスと始まりかたが違います。 私の場合は自然の心が極めて流動的で、あかんぼうのようにぼんやりとした世界 にあるというところから始まります。 世界をそのまま吸収する。外の世界がそのまま自分の世界となる。 そうしてたくさんのモノを内側に抱えるほど複雑になり、対立が始まります。 その対立を切り捨てず、考え抜き、調和点を求める永遠の作業が 悟りへのプロセスです。
>>59 >世界をそのまま吸収する。外の世界がそのまま自分の世界となる。
これは認識の事かと思いました。
私というブラックボックスに情報を放り込む。(入力)
そして私の世界観を構築する。(出力)
入出力の差があまりない(無抵抗或いはトートロジー)ことが正解ですが
正解しても意味は余りなくただの自己満足で幸せ感を得るという悟り?
みょーんさんがおっしゃるように認識は差が無いと認識できません。
(トートロジーが何かの説明にならないように)というか認識は比較です。
比較とはAとBの差をとるということです。
これは、ローカル視点と同じです。絶対座標上のA点をローカル視点O’から認識する場合、
A−O’とするからです。それでO’(主観)を絶対座標の原点O(客観)に近づけるのが悟りだと思います。
つまりO−O’=ゼロとすることが神の視点を得るということです。
61 :
考える名無しさん :2006/05/12(金) 20:53:17
あのくたらさんみゃくさんぼだい
62 :
考える名無しさん :2006/05/12(金) 21:02:43
しゅたら
63 :
考える名無しさん :2006/05/12(金) 21:12:36
さんが
64 :
みょーん :2006/05/12(金) 23:46:35
>>60 絶対的な真理が存在すると考えられるわけですか?
65 :
みょーん :2006/05/13(土) 00:12:37
釈迦や多くの宗教で「愛」「慈悲」「恕」など利他を説きます。 その意味は、私の所与条件から観る頂きは卑小で、他を通して無数の 頂きへのプロセスを認識し、山の姿を少しでも見ていく作業のように 思えます。生物の数だけ、頂きがあり、その頂き全体が神の姿で・・・ でも、当然私は全体にはなれません。
66 :
みょーん :2006/05/13(土) 00:29:52
私たちが今話をしている悟り?へのプロセスは思考、理性に由来 していると思います。 例えば、肉体的に、あるいは直感的に、あるいは感情的に 「悟り」を得ることについてはどう思われますか。
67 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/13(土) 01:59:29
全体にはなれないけど、全体の視点に立てるかも。そこが悟りのような気もするし、 的外れのような気もする。
68 :
考える名無しさん :2006/05/13(土) 09:16:56
>>53 みんなが幸せになる方程式を発見しました。
男+女=お互いの同意⇒ セックス −コンドーム −子供
でも、どうやって解くか分かりません。
誰か解いてください。
数学よくわからん。
69 :
みょーん :2006/05/13(土) 10:32:37
>>67 全体の視点に立つのは予感したということい過ぎません。
阿弥陀仏の本願は一切の衆生の救済だったと思いますが、
自分の力で自分を救えるうちは救済は必要なく、それはかえって煩わしい。
自分ではどうしようもなくなった無抵抗の瞬間に救済をするからありがたいと思うんです。
その救済を余り上手くやりすぎるとそれも自分の力で切り抜けたと思ってしまうらしいですが。
自省をこめてね。
>>64 この板で私がずっと主張している最大の主題の無抵抗が絶対の真理と確信してます。
私の考えでは無抵抗になれば自動的に救済されるのですが、
そこを何とかして自分自身で無抵抗から自分を救いたい。
それは無抵抗じゃないと言われるかもしれませんが。それとさっきの自省はここですが。
無抵抗から自分の力で組み立てられるのなら何も恐れる事は無くて、
無抵抗からの救済が(阿弥陀仏の)他力だから「あるかないか」不安になる。
>>66 >肉体的に「悟り」を得ること
事故の起こる瞬間やボールがぶつかってくる瞬間に時の流れが遅くなるという感覚を
味わった事は無いですか?
その感覚が無抵抗に近いと思うんだけど。
71 :
考える名無しさん :2006/05/13(土) 13:41:38
男+女=あっあっ気持ちいい ⇒ セックス −コンドーム −子供
72 :
考える名無しさん :2006/05/13(土) 14:04:21
男+女+セックス+あっあっ気持ちいい=男@ 男+女+セックス+あっあっ気持ちいい=女A @+Aより、 2男+2女+2セックス+2あっあっ気持ちいい=男+女 男+女+2セックス+2あっあっ気持ちいい=0B Bー@より、 2セックス+2あっあっ気持ちいい=-男 男+2セックス+2あっあっ気持ちいい=0 オナニーはセックスより2倍気持ちいいことが証明された。
73 :
考える名無しさん :2006/05/13(土) 14:06:01
すまん、ふつうに計算ミスしたよ(´・ω・`)
74 :
みょーん :2006/05/15(月) 04:11:18
救われるというのはどういう意味ですか?
75 :
考える名無しさん :2006/05/15(月) 04:39:13
>涅槃的に世の中を語っていこう。 断る。 以上。
77 :
考える名無しさん :2006/05/15(月) 22:18:43
なんとかなっただけでは救われない
78 :
考える名無しさん :2006/05/16(火) 06:13:12
なんとかならない人間が圧倒的に多い。 涅槃にいけるといっても、いけない人だっているんでしょ? 割合的に 涅槃に行ける者=勝ち組 涅槃に行けない者=勝ち組以外 涅槃にいくなんて時間の無駄な事はだれもしようとしない。 でも実際に多くの人は苦しんでんだよな。 そして勝ち組になりたい人の多くは周りを見ることができない。 涅槃にいきたければ努力しなさい! 競争相手が多すぎんだよ。
79 :
みょーん :2006/05/16(火) 23:28:50
人間の頭は傲慢ですから、打ち砕かれればいい。 人間がどんなに何をどうしようと、地球が少し身震いするだけで、 築き上げたものも命も消えてしまう。 圧倒的な力に、身動きできない状態を経験してしか 自然に帰依したい心は生まれないものでしょうか? 誰の中にも存在している宇宙に通じている道を開ける ことをどうしたら出来るのでしょうか。 「共鳴」という手段を考えます。
>>79 ダンテの神曲読んだ事無いんですが、
「冥界の門を通りたくば、汝の欲を捨てよ」
というくだりは有名なので知っています。
解答としては「私はあなたに全て従います」でいいのでは。
つまり、無抵抗ってこと。
81 :
みょーん :2006/05/16(火) 23:47:35
無抵抗とは自我をゼロにすることなのですか? 私にとって「悟り」とは 宇宙の流れと自我のエネルギーの調和点 を常に、どの瞬間も探しもとめていくことです。 そのプロセスとして、宇宙・・自然と隔たってしまった自我の意識 を、宇宙的心との回路を結ぶためにまず自我のエネルギーを下げる 必要があるという場合があるとは思います。 宇宙的心と、現在を生きる自我。両方が活動を活発化させ、激しく 対立したのち、見出した調和点が、その人間のあるべき姿だと 思っています。
82 :
みょーん :2006/05/16(火) 23:51:42
>>80 それは個人の秘密の部類になるのではないでしょうか。
>>81 連投規制入るかも知れないけど。
自我はなかなか消せないね。乱暴に言えば
一回死んで自我がゼロの瞬間にやっぱり自我は消せないねと
自我がまた出来て生まれ変わるとか。そんな感じ。
自我を意識として死を睡眠として考えてもいいかも。違うとは思うけど。
84 :
みょーん :2006/05/17(水) 00:08:11
生きることは無数の調和点を見出していくことだと思います。 内的世界も。外的世界も。
85 :
考える名無しさん :2006/05/17(水) 00:12:14
>>84 調和点でしょ。
自分の欲望はなかなか消せないから意識だけでも消す方向に持っていって
さぁ、どうでしょう。とやった時に自分の欲望がちこっとついてくる。
87 :
みょーん :2006/05/17(水) 00:34:31
>>83 割と近い感覚を見ているのかな。と私はここのところのやりとり
で感じました。
NAS6 ◆o1AYEkZmQU さんは法華経を読んだことがありますか?
「みょーん」というのは、法華経に登場するマイナーな菩薩の
「妙音」から拝借してしまいました。
妙音菩薩は宇宙人らしいですが、私の尊敬する音楽家です。
音楽は生命の活動そのものですし、楽器と音の関係は肉体と精神と
同じです。私は音楽を通して、「共鳴」する道を探しています。
>>87 >私は音楽を通して、「共鳴」する道を探しています
おお、マクロス7だ。法華経は読んだ事ないけど。ぐぐってみる。
↑は主人公が戦闘にノコノコ出向いて攻撃をかわすだけかわして
歌って、歌の力で敵と停戦する。という物語なんだけど。
見ていて、戦闘の真ん中で無抵抗に踊って攻撃が無駄な事を諭して平和が出来る
という私のイメージにぴったりだと思いました。
89 :
みょーん :2006/05/17(水) 00:52:23
>>88 ははは。。
へえ。マクロス7ってアニメですか?
割とお若い方なのですね。おじいさんなのかと
勝手に思っていました。
法華経は、妙音菩薩品第24です。
明るくて、かわいいような菩薩です。
90のリンクのアンカー消えるみたいで。。。補足すると三法印の項です。
92 :
みょーん :2006/05/17(水) 02:05:45
立正佼成会のサイトですね。妙音菩薩品24、書いてなかったですね。。 13くらいまでしかなかった。これからがいいとこなのに・・ 仏教はものすごく理屈っぽいので言葉を理解するだけでも、 いいっぱい解釈があるし、大変です。その理屈っぽさが仏教の限界だと 思うんですよね。だからお経を唱えれば救われる的にシンプルにもっていく んだろうけど。お経もやっぱり言葉なんですよね。 涅槃寂静、私の感覚的にはそうでしょうと思います。がよくわかりません。 でも仏教の時空の概念はすごいです。釈迦の見ていた世界を感じたい。
93 :
みょーん :2006/05/17(水) 02:16:04
仏教でポピュラーですが、「煩悩即菩提」とか 「色即是空」「空即是色」とか。循環性と、表裏一体性を 言っていますよね。対立要素がどんどん相対化して循環していく 世界観に感動します。
音楽は良いね。でも、半可通なので詩を重視してしまいます。
勝手に自分を重ねて悦に入ってます。
>>93 世迷いごとですが、表裏を言えばその中に大抵のものが入るので普遍性を
出すのには都合がいいかと思います。仏教じゃないかもしれませんが
「苦あれば楽あり」でどんなに苦しい状態に置かれてもその中にも
波があるはずですからただ苦しいだけだとしても言い通せてしまうようなことです。
今書いた事は仏教が説く事については関わらない小手先の事ですが。
95 :
みょーん :2006/05/17(水) 23:43:42
>>94 言葉を伴った音楽も作りますが、詩はとても社会的な感じがします。
言葉は具体的すぎますし、時々心との間に距離がある気がします。
言葉はウソをつくのです。
私が音で描きたいと思うのは、例えば水の中で浮く感じ。
光の様子。自分が溶けて霧になる感じ。不思議さ。
泉に落ちる雫。
色鮮やかな景色。バッタの筋肉質な跳躍・・
ものが壊れる。糸が解ける。カーテンが舞い上がる・・
モノを観て、モノになって、ものを感じて、ものを愛して。
でも、音楽は人間の営みそのものですから、多様です。
だから、私の作るのも多様なんですけど。
色に寒暖を感じるように 音楽にも寒暖を感じる。
97 :
みょーん :2006/05/18(木) 00:02:53
そうですねえ。景色や想いや・・・「見える」音楽を作りたいです。 曼荼羅は心の調和点を描くものですが、音楽でそれをしたいんです。
98 :
みょーん :2006/05/18(木) 16:48:53
調和点を得る作業。 このスレで重要なテーマだと思います。 1 対立を認めなければいけない 2 対立しているものを自分のなかに抱える 3 区別、分析、検討、分類 対立を認めるためには、挫折感や、無力感などが必要でしょうか。 「悪」として葬り去ったり、存在を無いものとしたり、都合の悪いものを 封じ込めてしまうと、永遠に調和はないですね。まずは机の上に並べないと。 それで、食べてみないといけないですね。それで、一生懸命消化酵素を出して 分解して吸収して、栄養に変えるんです。
>>98 1,3は認識ですね。要は差を感じる事。
新たに認識するものA’と自分との差あるいは前に認識したAとの差。
それを検討する事。
2はその差を受け入れる事でしょうか。
100 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:02:06
認識が差であるということについて。 「AはAである」トートロジーについて考えて 「A=A」とします。移項して 「A−A=0」この式は 「AとAの差(違い)がない」つまり「AとAは同じ」かえって「AはAである」 認識は「AはBとCだけ違う」という形式で 「A−B=C」 Cがゼロの時AとBは同じで、ゼロでない時はCという特徴が抽出できる。 というのが、認識についての私の認識です。
101 :
みょーん :2006/05/18(木) 22:11:56
1から3にいくにしたがって、対象がよりクローズアップしていきます。 まず、対立があることを認める。影を葬り去ることが出来ないことに気がつか なくてはいけません。ここでは、自分を捨ててはいません。 つぎに、対立の両極を体験してみます。つまり半分自分を捨てるわけです。 そして、両極についての考察を始めます。この時点で、第三の点が生み出される わけです。考察の過程で、循環が始まります。 調和点を見るために、人間として必要な要素があると思います。 エゴが強すぎると、対立を受け入れないでしょう。 感情が未開発だと、共感性に乏しくなるでしょう。 思考が未熟だと、調和点を見つけ出せずに、「悪」をうむでしょう。 愛のない思考は傲慢。忍耐力の無い愛はエゴ。ということだと思います。
102 :
みょーん :2006/05/18(木) 22:29:36
山道を散歩していて植物たちの美しさに息を呑む。 自然は調和点をよく知っているから。 地面を這うシダ、幹をつたう、つる草、しなだれる大木の枝・・・ 植物たちは根を降ろした環境のなかで、「太陽と水」をめぐって静かに お互いが、攻めぎあいながら、見事なバランス感覚で、懸命に生きる。 「自己の生の達成と繁栄」「種の繁栄」「同時に生を紡ぐもの全体の繁栄」 自然はこの調和点を見事に射抜いていて、ひたすらに美しいです。
103 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:30:49
>>99 >1,3は認識ですね
とかいたけど、1〜3全て認識ですね。
1,3は識で、見分け知る事。
2はそれを認める事。
>>101 >調和点
言いたい事が分かる気もしますが、何の事を言っているんですか?安定?
104 :
考える名無しさん :2006/05/18(木) 22:31:46
諸君らは、仏典の言う『無我』を誤解しているようだ。 自我をなくす、とかエゴを抑えるとかいうことでは、全くない。 『諸法無我』とは、諸の〈存在する〉事物には本質がない、本性がない、ということをいっているのだ。
あるいは「永遠不変の実体」はない。
106 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 22:43:06
>>104 「諸法無我」は「諸々は現象だ」ですよね。
「見えるものしか見ていない」つまり「感知できるものしか認識しない」
そこから、どう展開するか。少し様子を見ます。
107 :
みょーん :2006/05/18(木) 22:44:21
108 :
みょーん :2006/05/18(木) 22:50:44
調和点は、両方が、共存できるということです。 バランスが整うこと。
109 :
みょーん :2006/05/18(木) 23:00:30
仏教の中でもいろんな解釈がありますね。無我について。 我に執着することをやめることですね。自分を拡散すること。 でも、我をこっぱ微塵にすることじゃないですね。 拡散して、自分を再構築したものが、大我とか真我と言われる ものではないですか? と、いうようなやり取りをしてきたんです。
110 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:22:29
>>104 さんはどうしたの?意向どおりに諸法無我について考えてみます。
他人をいくら観察してもその人になれないので真のところは分からない。
でも、他人だけではなく自分についても言える。
なぜ、息をするのか、鼓動しているのか。分からない。
見えるものしか見れない。
で、諸法無我を提示する意図が掴めないのですが。
111 :
みょーん :2006/05/18(木) 23:37:53
「諸法実相」というのもありますね。諸法無我はマクロ的で 諸法実相はミクロ的。
112 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:45:02
「諸行無常」は「万物はつねに変化している」 「万物は掴みどころが無い」でこれも「本当のところは分からない」 という読み解きです。 「涅槃寂静」は・・・ちょっと待ってね。考えてみる。
113 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/18(木) 23:56:48
「涅槃寂静」は「悟れば静か」 「悟れば煩わされる事が無い」 前2つの(「諸行無常」「諸法無我」)「本当のところは分からない」から 「追求しなければ安心である」 だから、「通り過ぎるものをただ喜びをもって感じろ」というスタンスだと理解してます。 来るもの拒まず、去るもの追わず
114 :
みょーん :2006/05/18(木) 23:57:17
115 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 00:10:05
116 :
みょーん :2006/05/19(金) 00:17:48
でもね、自己のみの悟りで完結しないんですよ。 他人と関わると、他人のさまざまな、心のバランスに出会うんですよ。 我が真の姿でないことを知ってしまうと、他人の本当の姿に出会いたくなる。 その他人の本当の姿に出会うためにどうしたらいいか。。。 他人と一緒に模索するんです。密かにですけど。 「私はあなたの仏界を是非とも見てみたい」
117 :
みょーん :2006/05/19(金) 00:30:15
>>115 うわーーーもももも文字だらけーーー。ヒートアップ。
今日はもう音楽を弾きます。NS6さんはじめ、やっぱ哲学の人は文字
が得意ですよね。あたりまえですけど、2chて文章だけが解読の
手がかりだからつらいですよね。会って話すのと違って
直感が制限されて理解するのに疲れる。。。。
クールダウンしてじっくり読みます。
NS6さんラブー。。おやすみなさい。きゃあ。。。。
118 :
みょーん :2006/05/19(金) 07:48:14
>>115 読んだら、別に、NS6さんがずっと主張しているご意見でしたね。
ひとつ疑念があります。私から見ると、NS6さんは頭での認識はしているけれど、
心では溶けていない感じがします。柔らかくない感じ。頭は柔らかい
けど、心がストッパーかかったままみたいな。
頭で認識するのは、「予感する」こと。心で再現できてはじめて「知る」
ことが出来るのでは?
「水面に映った月と実際の月ほどの違い」という例えがあります。
119 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 18:14:05
120 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/19(金) 18:33:50
諸行無常からいうと決定論は何なんだろう? 単なる誤謬?
122 :
みょーん :2006/05/20(土) 08:22:07
123 :
考える名無しさん :2006/05/20(土) 09:07:10
「諸行無常」は常なるモノは無し、即ち万物はつねに変化している。 「諸法無我」は我は無し、即ち万物には決まった意識・意思などは無い。 即ち、万物には常なる形も意思も無く、ただあるがままにある。 無一物の教えだね。
粉飾したら無一物になりますた
125 :
みょーん :2006/05/20(土) 12:17:45
「空」(諸行無常、諸法無我)を知って悟りオッケーって、 すごい男性的だと思うのです。 性欲を考えるとわかるけど、男性は心と切り離して肉体を見ることが出来ます。 物として人間を見ることが出来るのです。その裏返しの「肉体と切り離した精神 の飛翔と拡散(空)」ではないでしょうか。やっぱり不調和だなと・・・ 【空を見れば何も決まったものは無く絶え間無く形を変える雲があって、地面には 私の足が在る】 物事の本質ってなんだろう。 私が知っている中で、なんかぴたっときたのは天台大師の考えた世界です。 微小の世界のほんの一瞬に、世界の現象すべてが備わっている。(一念三千)
126 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/20(土) 12:18:58
>>122 九識は菴摩羅識をより善い地平へ持っていくこと。つまり
業の積み方を説いているんですよね。
やはり悟りがでてくるのですね。
調和点とはここらへん(悟り)のことでしょうか?
127 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/20(土) 12:26:14
>>125 >物事の本質ってなんだろう。
諸法無我で「諸々には本質はない。ただ現象としてあるだけだ」としていますね。
でも、本質を知り(追求し)たくなりますよね。
それで、追求して自らを苦しめて(渇望して)しまう。
128 :
みょーん :2006/05/20(土) 12:36:36
>>126 あれ?第九識がNAS6さんの言う無抵抗。宇宙の循環に身を捧げる
感覚かと思いましたが・・・
>>128 自分で言うのは気が引けるかも。
それぞれが悟りを目指しているのでそれぞれの真理でいいんでしょうが。
もし「良かったら」メールください。見せたいものがあるので。
130 :
みょーん :2006/05/20(土) 13:12:13
調和点は単純な話。限界と可能性を正しく観るということ。 すべての現象に限界と可能性があって、これが分離していると、 苦しみ。一致しているのがオッケー。限界と可能性が循環する状態。 が悟りみたいに私は思っています。 作曲でいえば、音は無限にあるけど、人間の声で出せない音を 使っても、歌えないし・・でもピッコロなら出せるかもね。 みたいな。 そうやっていくと、可能性をみること、いやそれ以上に限界を よく知っていくことがどんなに重要か気がつくって話です。
131 :
みょーん :2006/05/20(土) 13:14:44
>>128 そうそう。最後は自分が神になるしかないって話。
「神になる余地」を与えている仏教に一票!
て感じ
132 :
考える名無しさん :2006/05/20(土) 13:46:15
>>125 >「空」(諸行無常、諸法無我)を知って悟りオッケー
色即是空空即是色であり、一切皆苦であり涅槃静寂なわけです。
悟りとは少し違うのでは?
極楽は西にも東にもあらず来た道探せみなみにある。
とは一休宗純か。
133 :
考える名無しさん :2006/05/20(土) 20:01:36
ここは哲学板のわりには、みな用語の概念がまちまちのようですな。 そもそも仏教を哲学から捉えるのが適切かどうか。。。 少なくとも般若経的な見方からすれば、一切の哲学的吟味から離れなければならない。 その先に涅槃を観るのが仏教というもの。
テスト
135 :
考える名無しさん :2006/05/21(日) 19:59:29
コテトリのテストですか?
自己満足と諦め
自己満足より幸せなことはないですよ。どんな幸せも自己満足にたどり着く。
138 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2006/05/22(月) 18:21:38
初恋が不倫の人がいるそうです。
高校生で先生を好きになったんだって、うらやましいけど、せつないな。
得ろ目的でそれだけと割り切る人はいいだろうけど。 飽きられたら捨てられる運命w
141 :
みょーん :2006/05/25(木) 01:25:55
142 :
考える名無しさん :2006/05/26(金) 22:04:30
不倫に愛はあるのでしょうか? 愛なく交接すれば解脱といえるでしょうか?
それで愛ってなんですか?
144 :
考える名無しさん :2006/05/27(土) 11:45:26
十二支縁起にある『愛』でしょう。
その愛は捨てなきゃだめだな
146 :
考える名無しさん :2006/05/29(月) 22:59:21
愛を捨てて交接も良いな
147 :
考える名無しさん :2006/06/04(日) 22:55:33
涅槃も捨てよう
148 :
考える名無しさん :2006/06/05(月) 22:39:03
そもそも持っていないものを捨てることはできない。 持っていないから求めようと思っても得られない。 これが涅槃。
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152 :
考える名無しさん :2006/06/08(木) 22:17:47
なんじゃ
154 :
考える名無しさん :2006/07/08(土) 17:58:38
このスレも、とうとうお陀仏ですか。。。
155 :
お中元さん :2006/07/09(日) 01:38:15
♪♪ ほたるの光 窓の雪 レスよむ月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 明けてぞ けさは別れゆく
nahan
157 :
考える名無しさん :2006/10/03(火) 01:41:49
とおじも
158 :
考える名無しさん :2006/11/06(月) 03:12:50
のじまた
159 :
考える名無しさん :2006/12/13(水) 23:14:52
かしわぎだいら
160 :
考える名無しさん :2006/12/13(水) 23:18:52
おもひでみさき
161 :
479 :2007/01/13(土) 22:18:53
>虫に聞けさん >「菜食について考えるpart10」の108 >仏教に矛盾があれば仏陀も悟ったことにはならないという意味がわかりませんか? わかりません。 ・仏陀に関する情報が正しく伝達しなかった可能性がある ・記録の内容の矛盾は記録の全否定ではない。否定されるのは信頼性 ・悟りに関する情報が信頼できない=悟っていないことの証明ではない でしょう?突っ込まれることを解ってて言ってるとしか思えない。 突然失礼します。こっちでやれと言われたもので・・・ 虫に聞けさんと言う方が、「仏陀が悟っていないことを簡単に論証できる」らしいので、 論証していただこうとしてるのですが、菜食スレだったためにスレ違いになりまして・・・
162 :
考える名無しさん :2007/01/13(土) 23:15:04
ニルヴァーナは「死」の状態であることであって「死」の状態とは則ち時間がないことに通じる。時間がないということは時間が経つことで生じることがないことに通じる。則ち精神が時間を経ない状態を涅はんという。精神が時間を経ないということは色即是空が無い状態をいう。
163 :
考える名無しさん :2007/01/13(土) 23:25:17
然るに涅はんとは純粋に在るということになる。則ち涅はんは五蘊が映し出す世界の前の状態に当たる。よって涅はんは変化を伴う時間の経過・空の状態の前にあることになる。則ち時間を経ないである状態でいる一定の状態を涅はんといい時間を超越してあることだと解かれる。
165 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 14:51:04
宗教とはミームを運ぶための船である 合唱・・・・・・
166 :
考える名無しさん :2007/03/09(金) 22:11:22
あげ
167 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 21:32:59
age
168 :
民主主義の学校さん :2007/04/14(土) 02:02:15
俗世間は、カネ(予算)の分捕り合戦で、お釈迦はんのお誕生日も雲のかなた、、、
169 :
考える名無しさん :2007/04/14(土) 02:18:30
厄いわね
170 :
考える名無しさん :2007/04/14(土) 07:27:30
厄いわよ
171 :
いけた駄作さん :2007/04/19(木) 18:07:11
今年の花まつりは、煩悩の火をたぎらせた日と重なったんだな。 とくに、葬家どもはwwww
172 :
考える名無しさん :2007/05/05(土) 18:06:05
涅槃と天国の違いは仏教が無我説を前提とすることでしょうか?
173 :
四苦八苦さん :2007/05/18(金) 03:24:48 0
涅槃は、後には死と結びつけられるが、はじめは現世において得られるものとされていた。 「この世において、見たり聞いたり考えたり意識したりする形、麗しいものに対する欲望やむさぼりを 除き去れば、不滅のやすらぎの境地(涅槃)を得られるのですよ」と、ブッダは説いた。
174 :
考える名無しさん :2007/05/18(金) 03:44:03 0
仏教の本で何かよいものがあればお教えください。 ちなみに私は玄侑宗久とかスマナサーラを読んでいます。
175 :
短パン :2007/05/18(金) 03:46:36 0
寝てれば、なんでも解決すんのなw 全く、便利な世の中さw
176 :
洲 :2007/05/19(土) 23:28:26 0
177 :
考える名無しさん :2007/05/20(日) 02:52:14 0
角川文庫の仏教の思想シリーズは初心者が仏教全般を理解するうえで 便利だと思うのですがどうでしょうか?
178 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 01:47:21 0
共によきブッディストとなるように 精進しましょう!(^^)v
179 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 02:39:08 0
言葉すら、 思いすら、 記憶すら、 自分の存在からも解放されなければ、悟りとはいえないだろう。 自分の存在から解放されれば、冥界にすらたどり着くことは可能である。 閻王に遭いそして戻ることができるのは生きたまま死する人のみ。 つまり生人で無くなる必要がある。 そこは鬼の世界、仏の世界である。 生きたまま冥界を進む人がいれば、それは既に人ではない。 鬼の類で人は「人でなし」とそれを言う。 それも滅し魂となり、世界と同化するだろう。 おまいらが悟りだと思うそれは、都合の良い思い込みにしかすぎない。 人が言う悟りとは、心を言葉でいう表現にしかすぎない。 それが悟りだと思うなら、表現を繰り返せばいいだけ。 悟りに何を望む、その程度がおまえだとうこと、それだけ。
180 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 03:20:57 0
>>179 冥府魔道だね、迷いが無い世界だからこそ思考もない。
死んでいるので魂も捨てた人じゃないかな?
残ったものは心(情念)と肉体。
こんな状態になったら魂を取り戻せるのだろうか?
181 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 18:57:14 0
182 :
考える名無しさん :2007/05/24(木) 02:26:29 0
ねはん中
183 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/05/24(木) 02:34:00 O
カートのニルバァーナは最高だよな。
184 :
考える名無しさん :2007/05/25(金) 05:16:32 O
無心です。または、そこからくる動き。 つーかセックスです。レイプは駄目違う。 レイプは苦行です。
185 :
考える名無しさん :2007/06/02(土) 01:00:36 0
涅槃って退屈そうだな。
186 :
短パン :2007/06/02(土) 07:37:05 0
仏陀って、なんか、楽だよなぁ〜w
187 :
短パン :2007/06/02(土) 07:37:55 0
『自然体ですからっ!』 ふ〜ん。。。。
188 :
龍宮 :2007/06/06(水) 19:24:13 O
涅槃だが付け加えておくとおそらく時間の限りなく短いことを意味すると考えられる。状態が移り変わるところのものが変わらず良い状態でいられることが涅槃であるといえよう。しかし状態が移り変ることがない時間などあるのだろうか。それが体内の時間であっても
189 :
龍宮 :2007/06/06(水) 20:09:50 O
本当は移り変わることのない時間などありえない。シッダールタが27歳の時に菩提樹の下で縁覚に目覚めた後も気分の落ち込みや悪い状態やことが起きたこともあっただろう。では仏陀がその後時間をどうみたか。涅槃は文字通り仏陀の死を意味することで生きる人に涅槃は存在しない
190 :
龍宮 :2007/06/06(水) 21:49:30 O
仏陀が菩提樹の下で数数の縁ある人達と会って悟ったその後みた世界観。それは数学が示す通り無限大数のなかで起りえている数数の神秘的な整合性だったのだろう。整合性は時間と密接に結びついている。そして凡夫が良い時を永遠にしようとする間違いに気づいたのだろう
191 :
龍宮 :2007/06/06(水) 22:02:10 O
時間は進み去く。すべては移り行く。そのなかで我々はその都度ひとつのことを選択しなければならない。自分の欲望を我慢して自己を高めること自己を犠牲にして他の益を願うこと。あるいは自己のために生きることその都度選択しなければならない。
192 :
龍宮 :2007/06/06(水) 22:15:23 O
我々には時間の制約がある。そのなかですべては自己を犠牲にして何かに近づくための時間に当てるべきか。それとも楽の方向を取り続けるべきなのか?何をすればいいのか?この問に仏陀は答えるだろう
193 :
龍宮 :2007/06/07(木) 19:34:57 O
アーナンダよ。我々はあるひとつの瞬間にいてその瞬間が過ぎ去ろうとする時に同時にみんなと共にいるのだよ。すべてのものが移り変わりすべての人や生き年生けるものがそのなかで同時に動いている時に我々も共にいるのだよ
194 :
龍宮 :2007/06/07(木) 19:41:02 O
アーナンダよ。我々が同時にいる時に無限に広がっている世界も宇宙にいる万物もすべての意志や知恵もすべてひとつになっているのだ。そしてこの無限にみえるすべてはやはり有限のなかにいて限りあるものなのだ。この共にある我々は有限にあるのだよ
195 :
龍宮 :2007/06/07(木) 19:48:09 O
つまり世界は無限ではないのだ。アーナンダよ。すべては有限のなかにいてひとつが移り行く時我々もやはり同時に移り行くのだ。そのひとつが移り行く時にそれが我々が動くすべての理由になるのだ。我々はみな時間に繋がれているのだ。すべては影響しあっているのだ
196 :
考える名無しさん :2007/06/07(木) 19:55:47 0
涅槃ってやっぱり本当は死のことだと思う。 生きている限り、煩悩はあるし、煩悩がないと生きていけないから。 でも、涅槃が死だと言い切ると(この思想が即身仏とか自殺的な仏教の 傾向に影響を与えたと思われるが)、死を賛美することになり、 万人受けしないから、大乗仏教で大衆化する中で色々と取り繕われてきたんだろ。
197 :
龍宮 :2007/06/07(木) 20:00:25 O
我々はどうあるべきなのだろう。アーナンダよ。我々は一瞬一瞬にいるのだ。しかし多くの場合みな遠くまで見渡しているのだ。だからみな遠くまである点としてすべてをみるのだ。アーナンダよ。それは確かにいいことではある。人はみなこういった意識を手にしているのだ
198 :
考える名無しさん :2007/06/07(木) 20:04:54 0
涅槃の創世
199 :
龍宮 :2007/06/07(木) 20:07:26 O
だからみな苦行のなかに身を置いたり快楽のなかに泥酔したりするのだ。しかしどちらがいいということはないのだよ。すべて自然にあることなのだ。一瞬をみるのだ。そのなかで良いことを考えるのだ。アーナンダよ。必ずすべてに良いことがある筈だ。よくみるのだアーナンダよ
宇宙世紀ダブルオーセブンティナイン サイドスリーはジオン公国を名乗り 地球連邦政府に独立戦争を挑んできた
201 :
龍宮 :2007/06/09(土) 17:50:10 O
リャリープトラ(舎利拂)よ。我々はみな繋がりをもって生まれてきたのだ。誰一人として時間の制約を受けていないものはいないのだ。シャリープトラよ。この宇宙に存在するものすべては移り変わるもののひとつなのだ
202 :
龍宮 :2007/06/09(土) 17:59:34 O
シャリープトラよ。万物はすべて静止したままではいられないのだ。鉄は動かずにいるが静止しているのではない。鉄は絶えず大気の影響を受けていていつかは錆びる。私も同じだ一年の間動かずにい静止していなさい。それは必ずや何かに動かされる。必ずその意志は動かされている
203 :
龍宮 :2007/06/09(土) 18:13:31 O
動かすものは何かであって何かとはすべてなのだ。すべての意志はそなたを動かすだろう。即ち如是(ここに在るが如く)力だ。すべては作用するだろう。即ちすべては時に繋がれている。時とは万物なり。すべては影響しあっていてそれが即ち時なのだ
204 :
龍宮 :2007/06/09(土) 18:19:32 O
シャリープトラよ。万物を容づくっているものは美しい。万物は数が如く美しく成り立っていてひとつとして作用しあっていないものはない。すべては影響していてそのひとつが欠けるということはないのだ。すべてがあってそれが現在なのだ
205 :
龍宮 :2007/06/10(日) 07:36:46 O
現在はうまく成り立っているものだ。シャリープトラよ。天と地は繋がっているように一見繋がりのみえないような水と鉄には繋がりがある。すべては繋がりがあって万物は果報として生まれたものなのだ。だから何ひとつとして関係していないものはない
俺は生きるけど は最期かもわからんから
207 :
龍宮 :2007/06/10(日) 07:49:59 O
うまく成り立っているということは数字が表すように我々生き年生けるものも数字の如きものなのだ。それが絶えず変化していて数字が時間を帯て常に何らかの数字になるように万物も因果と時間の法則のなかで密接に関係して常に新たなものが誕生しているのだ
208 :
龍宮 :2007/06/10(日) 07:56:41 O
シャリープトラよ。よく見るがよい。世界は一で表せる。また世界を二にも表せる。一から百にも表せる。また世界にあるものをひとつひとつ数えあげていけばガンジス川の砂の数の如き膨大な数字で表されるだろう。細かくみればどれだけでも繊細にしかし単純にもわかるものだ
209 :
龍宮 :2007/06/10(日) 14:52:59 O
シャリープトラよ。天は万物をふたつのものに分けた。それは光と闇だ。この万物の法則は必ず陰と陽に分かれている。人間には悪と善がある。生命をもつものには陽が生命を持たないものには陰の要素がある。しかしそれは別の陰陽にみればそうではなくなるものだ
211 :
龍宮 :2007/06/13(水) 20:42:33 O
「仏陀よ。私は今まで百人の人間を殺めてきた。私の罪はあまりにも深く到底生きている間には償うことはできない。私の罪はあまりにも深く暗いものだ。しかしそれよりも私が酷く絶望しているのは私の業だ。私は過去を振り返ってみてもこの人間が行う業を止めることができない」
212 :
龍宮 :2007/06/13(水) 20:51:35 O
アングリマーラよ。私は人間に絶望しない。何故ならそれはすべての定めだからだ。すべては陰と陽に分かれる。だから誰であっても陽の時だけを経過していくことはできないのだ。例え罪の深さが罪業を決しても地獄は現れるものだ
213 :
龍宮 :2007/06/13(水) 21:05:09 O
現れるとはすべてなのだ。アングリマーラよ。我々には常に陰陽が現れ訪れるるものなのだ。訪れるとは業のことだアングリマーラよ。広く自分とは関係のない世界で起こることは訪れない。自身に関わることが訪れるということなのだ。訪れるということが行いなのだ
214 :
龍宮 :2007/06/13(水) 21:10:25 O
アングリマーラよ。生きることは苦しい。あるいは良いことばかりの生もあるだろう。しかしアングリマーラよ良いことばかりの業にも地獄は訪れるのだ。恐ろしく知りたくないようなことが訪れるのだ。だから良いことばかりではないのだ。本当のことは誰にでも訪れるものだ
215 :
龍宮 :2007/06/13(水) 21:17:04 O
よく見るがよいアングリマーラよ。そなたの業は深く重い罪を背負っている。しかしよく見るのだ。是にあるが如く(如是)今があるものだ是に非ず(是非)のことをよくみるがよい。すべては今なのだ。訪れるとはすべてなのだ。五蘊皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまふ
マングリーガエシよ、よく見るがいい。
217 :
龍宮 :2007/06/16(土) 01:43:42 O
かたちあるものはすべて美しい数学のようなものである。
218 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 02:00:10 O
五十七億六千年後の永い間に
219 :
龍宮 :2007/06/17(日) 03:13:26 O
アングリマーラよ。実際に地獄にいる人間や地獄をみている人間はそれほど多くはいない。しかしそれほどの苦しみや行い(業)が実在しているのは悪のためなのだ。悪はいつでもそなたについている。しかしアングリマーラよ、よく見るがいい。悪の世界にいる人間はいないのだ
220 :
龍宮 :2007/06/17(日) 07:43:42 O
悪魔とはその時に訪れるのだ。しかしアングリマーラよ、悪魔が訪れる時に因果の法則のなかにあって生きているものはみな悪魔から退けられているのだ。ただ悪魔は人間の堕ちきった者のみに悪の行いをさせるのだ。アングリマーラよ、それは恐ろしい
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
222 :
龍宮 :2007/06/17(日) 09:01:23 O
地獄にいる人間をみるがよいアングリマーラよ「仏陀よ。それは私だ」アングリマーラよ、そなたは地獄にいないのだ。何故ならそなたは地獄から遠ざかっていくほどに地獄を知っているからだ。そなたに地獄が訪れることはもうない「仏陀よ。その通りだ」
223 :
龍宮 :2007/06/18(月) 23:11:39 O
キリストや仏陀や日本人からすれば天皇の物語性は時空を超越するような何かがある。宗教というものは真に現実にあった何かに揺り動かされて残ってしまうものなのだろう。すべては有り得たのだ。それを考えると現代の陳腐な人間劇のなんとお粗末なことだろう。
224 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 23:18:30 O
カトリックが持つ神聖な太陽の柔らかい光に包まれているような独特の雰囲気やイエスに対する敬愛の態度や慈悲深い考え方はその物語性に端を発するものだろう。仏教の雰囲気は気高い
225 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 23:24:47 O
仏陀がどのような雰囲気の人物であったかというとすべての時間に演劇を超越してすべての生き年生けるものと関わった真実の人だったのだろうと思う。ともあれ人間が余暇という時間を持たないということはない。だからところどころに劇としての物語性は含まれている
226 :
龍宮 :2007/06/21(木) 19:21:07 O
空を見るがいい。よく見ると蒼くしかしよく見ると暗い。あれが虚空だ。暗い空を見ているとそれがすべてのものにかたりかけているのがわかる。明るさのなかに暗さが見えるのはすべてが表裏一体だからだ。暗さの中に明るさがあるように暗さのなかに明るいものがあるのだ目建連よ
227 :
考える名無しさん :2007/06/21(木) 20:56:52 O
にゃはーん
228 :
194 ◆JMEUe1jdXc :2007/06/21(木) 23:38:40 0
勝手に勘違いしないでよねと言われて振られる不細工な男みたいなもんだ 人間は自らの妄想に裏切られてるだけなんだがな 悟りしものも悟りに拘泥することなく生きるがよろしいでしょう 気付きの瞬間はいくつもある そんな瞬間があると思えばこその人生だ
229 :
龍宮 :2007/06/23(土) 08:37:27 O
目乾連─もくけんれん(マウドガリヤーヤナ)よ人と人の間にある穴をよく見るがいい。その穴は餓鬼の穴だ。またあの空のように蒼く透き通った空を見るがいい。あの空が餓鬼の穴に通じているのだ。虚空は美しい。しかし虚空にも暗闇に通じているのだ
230 :
龍宮 :2007/06/23(土) 20:19:57 O
人の心は虚空のように広い。心はすべてに通じている。心に映るものは外側の世界に通じているのだ。心は外側の世界が移り変わるのに共通して動くものなのだ。人は人の心の動きに応じて心が動くものなのだ。心の世界はその動きに応じて外側の世界も動くのだ
231 :
龍宮 :2007/06/23(土) 20:36:37 O
私の心が動く時他にある心も動いている。また人の心と外側の世界は別別なのだ。しかし目乾連よ別の世界と私の心とは繋がっている。私の次の心の動きは世界の次の動きに通じているのだ。時間はその時々に私の心と外側の世界が一体となってひとつの方向を向くものなのだ
232 :
龍宮 :2007/06/23(土) 20:44:13 O
心の次の動きを見るがいい。それが禅定の意味だ。目乾連よそのなかに時々心のなかに穴ができる。その時人が恐ろしいものに変わるのだ。人が恐ろしいものに変わるのは人の心が闇に通じているからだ。これが餓鬼道だ。その時自分の心をよくみるのだ。
233 :
考える名無しさん :2007/06/24(日) 02:21:46 0
良スレ
234 :
短パン :2007/06/24(日) 04:10:45 0
良スレ だって言われてる臭いので、一応見てみたのだが・・・・・ んん。そぅかねぇ〜〜〜〜w
235 :
龍宮 :2007/06/29(金) 20:46:44 O
目乾連よよく見るがいい。人の顔をよく見るがいい。どの人間も畜生の顔をしている。それがあるがままの顔なのだ。あるがままとは畜生のことなのだ。畜生とは悪の根源だ。獣は血を食す。同じように人が人を食うのだ
236 :
龍宮 :2007/06/29(金) 20:58:17 O
すべての根源にあるのは畜生の心だ。畜生の心は人が人を支配する心だ。心の動きをみるがいい。そのすべては畜生のように単純なものなのだ。人が人を食う心。それが畜生の心だ。心とは簡単に動くものなのだ
237 :
龍宮 :2007/06/29(金) 21:11:35 O
人の心とは獣の心なのだ。あるがままの心とは畜生の心なのだ。しかし目乾連よ。人の心は獣の心より恐ろしいものだ。畜生の心はあるがままの心だ。しかし人間はもっと恐ろしい顔に変わるものだ。それが人間の性(相)なのだ。それが餓鬼の心だ。
238 :
龍宮 :2007/06/29(金) 21:56:32 O
餓鬼の心とはその通り単純に動く心(畜生道)ではないのだ。餓鬼の心は短い時間のなかで逡巡する心なのだ。目乾連よ人間はそのように逡巡する。これが悪の根源だ。短い時間のなかでも人間の心は醜いところへと堕ちていくものだ。しかし人は仏の心へと変わることもできるのだ
239 :
龍宮 :2007/06/29(金) 22:49:33 0
仏の心とは清らかなわだかまりのない心だ。仏の心とは青く生い茂っている あの緑のような心だ。仏の心とは青く澄み渡った蒼穹の心だ。仏の心とは 正しい見解・正しい決意・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい努力・ 正しい思念・正しい瞑想(八正道)の心だ。目乾連よ仏の心とはあるがままの 心のことなのだ。すなわちすべては純粋にあるがままの心こそ仏の心なのだ。 しかし目乾連(マウドガリヤーヤナ)よ獣の心(畜生)とはあるがままの心だ。そして 仏の心もあるがままの心なのだ。しかし河の流れをよくみるがいい。目乾連よ すべては淀みなく進んでいる。すべてはあるがままなのだ。だから、目乾連よ 清らかであるということは穏やかであるということなのだ。しかし河の流れは すべて一定ではない。どこかでは滞り沼になっている。またどこかでは濁流となって 激しく流れている。自然は穏やかなものばかりでなく攻撃的なものも持ち合わせている。 清らかなるものも淀んだものも善も悪もすべては忽然一体なのだ。これが 因果の法なのだ。
240 :
龍宮 :2007/06/30(土) 18:50:00 O
時間はすべてを変える。五蘊(五観)は河の流れのように次から次へと流れているものなのだ。心を清らかにするのだ。流れを変える必要はない。人間は精神を如何ようにも変える意思を持つ。目乾連よ心を真っ直ぐに保つのだ。畜生のように激しくいくのではない。良く流れを保つのだ
241 :
龍宮 :2007/06/30(土) 18:55:05 O
意識は短い時間で物事を変える。意識(内)が何かを変えることによってすべてが(外)が変わるのだ。そして内で曲げたものは自分に還る。餓鬼の心は悪の心だ。餓鬼はすべてを悪い方向へと貶めて流れを黒い泥のように変えてしまうのだ。心を正しい方向へと保つがいい
242 :
龍宮 :2007/07/04(水) 22:02:01 O
アングリマーラよ。時間は数と同じく大小がある。長い時間と短い時間がある。時間の大小は数の如くどれだけでも大きくなりどれだけでも小さくなる。人が瞬きをする瞬間はあるいは56億7000万年に通じているのだ。それだけ長い時間とそれだ小さい時間には繋りがあるのだ
243 :
零 :2007/07/05(木) 22:54:40 0
有世涅槃と無余涅槃。有余涅槃は仮の涅槃。 無余涅槃と無間地獄、どちらも死へと至り、 無=神に帰着する、つまり神に帰命するという事。 そしてどの境地において死を迎えようが、それは同じである。 死においては全てのものが平等にそれを受け取る。 しかし案ずる事はない、全ては所詮空であり、 全ては全て(神)として永久に存在し続けるのである。 故に安息の中で死に至りたいのであれば、 あまり我に固執すべきではないであろう。 かといって私は、人に対して煩悩を滅するべきであるなどとは、 全く思っていない。人はありのままでよいのである。 少なくとも、根源なる神は、絶対無なのであり、 根源なる者は、それ故に、人に対してこうあらねばならないなどと、 強制するような事はない。 全ては神から生まれ、神に帰る。 それはキリスト教などが説く、 実際のところで2元性の相対神(創造神、破壊神)などではなく、 絶対神=絶対無へと帰る。 自我から無我へと至る。 無我とは自我の対義語であり、 自我の対義語は真我ではない。 また私は相対者の我を人我(相対我)と名づけ、 絶対者(普遍真人)の我を神我(絶対我)と名づける。
244 :
零 :2007/07/05(木) 22:58:18 0
真・十界論 神界(神我における神界/真実の神界/絶対者/神人/創造神の降臨) 無余涅槃(無我における神界) 仏界(一つの時代における全ての相対者において唯一人が至る) 菩薩界(菩薩界と縁覚界は途中ループおり、 縁覚界 その間に有余涅槃<仮の涅槃>に至る。) 声聞界 天界 人界 修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界(仮の無間地獄が存在する。) 魔界(一つの時代における全ての相対者において唯一人が至る) 無間地獄(無我における神界、 真実の上では神というものは善悪を超越している) 神界(神我における神界/真実の神界/絶対者/魔人/破壊神の降臨) 普遍真人のみが神界(絶対者)に至る。 この構図を見て頂ければ分かると思うが、 あくまでも私論だが、真の十界論(十五界論)とは、 善悪という視点において、境地の数が比例するのである。
245 :
零 :2007/07/05(木) 23:02:05 0
本来の十界論 仏界 菩薩界 縁覚界 声聞界 天界 人界 修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界 多重レス申し訳ありません・・。
246 :
考える名無しさん :2007/07/05(木) 23:02:55 0
age
247 :
考える名無しさん :2007/07/05(木) 23:20:22 O
十五界はいいすぎだ。六界も観念論だからそれがあるといえばあるないと言えばない。ただよくできた方便品だ。十界は六界という輪廻の世界の上に知の世界観をつけ加えただけで輪廻の認識が声聞と縁覚で世界(法)の認識を得たうえで菩薩は世界平和のために生きている人のことだ
248 :
零 :2007/07/05(木) 23:21:22 0
無余涅槃(神界に至る)=真我(右脳が左脳の全てを侵食)そのものと成る事。 全ての魔(負)を滅し去り、神(正)のみと成った状態。 無間地獄(神界に至る)=自我(左脳が右脳の全てを侵食)そのものと成る事。 全ての神(正)を滅し去り、魔(負)のみと成った状態。 普通、人は真我(右脳)と自我(左脳)の両方を併せ持ち、 これこそが人が人であるという所以である。 仏界の時点では、まだ自我が残っている。 魔界の時点では、まだ真我が残っている。 神界(梵天、帝釈天などにおける境地)に至る為には、 何も持たざる者という条件がついている。 つまりその存在は相対次元において絶対無の存在でなければならない。 そして釈迦ですら、真の意味では無余涅槃(神界)に至る事ができなかったのであり、 またその反例としてヒトラーですら、真の意味では無間地獄(神界)に至る事ができなかったのである。
249 :
考える名無しさん :2007/07/05(木) 23:25:15 O
だから十界の上をつくるのは構わないが六界が万人の認識に適しているだろう。精神の至上は空海の唱えた十住心がある
250 :
零 :2007/07/06(金) 00:39:17 0
>>247 一応247としていますが、あなたへの返レスには相応しくない内容も
含まれておりますので、まぁあまり気になさらないでください。
あなたの反証は、論理を無視していると謂わざるを得ません。
あなたは唯物論者か、
少なくとも、あなたは顕教の方便の教えを採用しているように見受けられます。
私はあくまでも中道を選択するようにしていますが、
唯物論に固執していると、仏界以上に至る事はありませんよ、
まぁ地獄界以下に堕ちる事もないので、ある意味正解かもしれないですね。
人が語る全ての相対性によるところの真理と呼ばれているものにおいて、
暗黙の内に示唆されている神の真理を読み取る必要があるのではないでしょうか。
殆どの宗教は、特に顕教などは、多くの方便を有し、
ほぼ全てが方便によって形成されていると言っても差し支えないが、
しかし神の真理はその中に、実際に厳然と存在するものであって、
それこそが相対性における絶対である。
けっして観念論として切り捨てられるべきものではないのです。
大体、仏が取り扱っている法をあなたは観念論としているが、
仏という存在は生命存在における法を、相対世界においての絶対性の上で、
説き伝えるものなのであり、それは神の預言者と呼ばれる。
その者の教えを観念論とすべきではないと私は考える。
ただしあくまでも、彼等預言者(仏や救世主含む)は、
相対的存在者なので、神によって絶対性を付与されたとは言っても、
その教えはやはり相対的な教えである。故に、その者の教えのみが正しい
などという事は決してない。しかし精神に次元があるように、
あらゆる全てのものに、次元という性質が存在するように、
教えにも相対性における高低という次元が存在する訳です。
251 :
零 :2007/07/06(金) 00:40:13 0
またあなたは六道輪廻する宇宙というものを基準に世界の認識をもっており、 それを仏は、九界を迷いとし、酒に酔った状態、眠っている状態であるとし、 仏界を真の悟りとし、酔いから醒めた状態、覚醒した状態であるとしている。 しかし私は仏界もまだ迷いとし、酒に酔った状態、眠っている状態とする。 仏界がまだ迷いであるという事に関しては、釈迦が最期に身をもって示している通りである。 また存在を認識する場合、 0(一なる実体)を見て、その次に神々(霊魂)の世界を見る、 次に正しい心を見る、次に穢れた心を見た後に、 知識や論理の世界を見て、最後に六道輪廻する相対性の物質世界の全てを見る。 真実から方便へ、方便から真実へ。 真実を理解した上で方便をも解するのが覚者であり、 方便であるものを真実(真理)と見たり、真実(真理)であるものを方便と見たりするのは、本末転倒です。 存在の深さで見れば、絶対における霊魂⇒心⇒物質となります。 まず絶対次元が実体であり、相対次元における心や、物質などはその影に過ぎませんが、 絶対次元における心は絶対であり、そこから法が生まれたのでなければ、 むはや法など死物同然でしょう。 顕教がとっている方便ではなく、密教で説く教えの方がむしろ真実です。 基本的に、大衆が理解するものは、方便であり誤りであって、 極限られた人々が理解するものが、真理であり真実です。
252 :
零 :2007/07/06(金) 00:41:35 0
ただしこれはあくまで真実の原理に関わる話であって、 私が小乗教を肯定し、大乗教を否定している訳ではありません。 大体の場合、小乗教では、ある程度、機根が整っている者達が関与するので、 仏は真実(真理/実相)を説く事ができる。 しかし大乗教は、機根が多種多様に散らばりを見せる大衆に対しての働きかけであり、 小乗教では救われないくらいに機根が整っていない者達を相手にする故、 止むを得なく、ほぼ全てが方便となってしまう訳である。 話はそれますが、このような原理を起因として、民主政治の腐敗(衆愚政治)が現れる訳です。 そこで独裁政治が望まれるような局面を迎える場合がありますが、 独裁政治の場合、統治者の性質によって、善政と悪政に大きく分かれるものです。 またナポレオンなどが、顕教を代表とする宗教を指して、 民衆を黙らせる(コントロールする)為に、好都合なものなどと証しているのは悲しい事実です・・。 まぁ実際に宗教を利用して一国を自身の都合に従って支配し、利益を搾取する為政者や、 もしくは宗教を利用して、教祖である自己をドグマ化し、同じく自身の都合に従って、 在家や出家の信徒を問わずに支配し利益を搾取する者達は後を絶ちません・・。 前レスと重複しますが、私は大衆を蔑視している訳ではありません。 むしろ、全ての、このような多種多様な相対的関係性を、 ありのままで、素晴らしいものであると見ています。
253 :
零 :2007/07/06(金) 00:52:21 0
>>247 此処は哲学の板であり、しかも涅槃に関する内容です。
だとしたら、法の対象は二乗ひいては菩薩となるでしょう。
ならばもはや、万人の認識という尺度をもってくるのは、
不適切ではないでしょうか?
少なくとも万人には真理をストレートに説く事はできません。
あくまでも私の目的は思想の啓蒙にあるので、
したがって十住心の件に関しては問題ではありません。
十住心が精神の至上であるという事に関しては賛成です。
254 :
零 :2007/07/06(金) 01:05:09 0
>>249 あなたはこの件に関して、
正しい認識をもった上で方便を見ておられるようですので、
私はこの後、特に何も言う事はありません。
とりあえず安心しました。
それでは失礼します。
255 :
龍宮 :2007/07/16(月) 07:05:34 O
世界(仏教)の中心にあるというシュミセンに待機しているマートレーヤ(弥勒菩薩)よ。五十六億七千年
256 :
零 :2007/07/18(水) 02:15:12 0
>>131 >最後は自分が神になるしかないって話。 「神になる余地」を与えている仏教に一票!
人は有限の存在であり、どこまでいっても人であり、
人が神になる事はできない。
人が己の肉体の細胞を組織している神であるように、
神とは一切(絶対的には全ては一つの存在)万物の、
意識であり、脳である。そして全ては、その神の意識によって生じている夢である、
故にこれを空というのである。
人が夢を見る時、そこに己が有るように、
神の夢にもまた、そこに神自身である人としての己がある。
そして涅槃(無余涅槃)とはその神自身の為のものであり、
釈迦の説いた涅槃とは、絶対者(神)にとっての道標である。
人はむしろ、神に成ろうとするのではなく、
人として、その生を真っ当すべきであると私は思う。
それと、一元性の絶対神や、二元性の相対神、多元性の神々などというものは、
一切に含まれる性質に過ぎず、これらは存在でも存在者でもない。
(しかし人はこれらの性質に多くの妄想的見解を与えるものである)
究極的には一元存在である絶対者(神)(存在/存在そのもの)のみが存在しており、
その中に相対者(存在者)が存在している。
またこれが無限と有限の真意である。
つまり相対次元(世界)というものは有限であり、
無限の本質とは一つであるという意味に過ぎず、
人が考え、また数学や論理において表される無限は現実には存在し得ない。
257 :
零 :2007/07/18(水) 02:16:23 0
それと、一元性の絶対神や、二元性の相対神、多元性の神々などというものは、 一切に含まれる性質に過ぎず、これらは存在でも存在者でもない。 (しかし人はこれらの性質に多くの妄想的見解を与えるものである) 究極的には一元存在である絶対者(神)(存在/存在そのもの)のみが存在しており、 その中に相対者(存在者)が存在している。 またこれが無限と有限の真意である。 つまり相対次元(世界)というものは有限であり、 無限の本質とは一つであるという意味に過ぎず、 人が考え、また数学や論理において表される無限は現実には存在し得ない。
258 :
零 :2007/07/18(水) 02:27:15 0
時間次元(相対次元)に有る者は、 涅槃(無余涅槃)に至る事によって死に至る(絶対者<絶対神>に帰命する)。 時間次元(相対次元)に無い者は、 涅槃(無余涅槃)に至る事によって絶対者(神界)に至る(絶対者<絶対神>に回帰する)。 無時間次元(絶対次元に)に無い者は、 涅槃(無余涅槃)によって至る事によって死に至る(絶対者<絶対神>に帰命する)。 無時間次元(絶対次元に)に有る者は、 涅槃(無余涅槃)によって至る事によって絶対者(神界)に至る(絶対者<絶対神>に回帰する)。
259 :
零 :2007/07/18(水) 02:32:17 0
そして釈迦は確かに無余涅槃に到達したが、 上記の問題に阻まれて、真の意味での無余涅槃に至る事ができなかった。 まぁいわば、仏典で説かれている修行によって至るであろう境地というものがあるが、 これを仏、魔王、転輪聖王、梵天、帝釈天と定めている部分がある。 真の無余涅槃とは、此処で記されている梵天の境地を意味する。 正の性質そのものと言ったところであろうか。 人という形をとった存在が持ちうる、神性(真我/仏/神)と人性(自我/魔)という性質において、 その者の中で神性のみが支配する状態を指す。 また逆に人性のみが支配する状態も存在する、 恐らくこれが帝釈天の境地であろう。 これは負の性質そのものという事になる。 そしてこの二つの境地は至る者は、もはや人ではない。 またギリシャ神話にでてくるゼウスや、ムー王国の帝王ラ・ムーなどは、 この転輪聖王という事になる。 それと絶対神とは即、絶対次元を意味し、 一切の時間や運命というものの全ては此処によって確定しており全ては必然である。 時間が無いとはそういう事を意味する。 しかし人の次元では、全ては偶然の産物であると思うべきではないかと考えている。 何故なら絶対的な必然の中には、成るようにしか成らないという意味が含まれているからである。 これらの考えに対する批判を寄せて頂く事を願っている。
260 :
龍宮 :2007/07/22(日) 20:29:04 O
帝釈天
261 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 21:15:58 0
262 :
零 :2007/07/23(月) 08:01:25 0
>>260 私が帝釈天だと何故わかったのでしょうか?
>>261 私自身、空想だと思いたいくらいですよ・・・・。
263 :
考える名無しさん :2007/07/23(月) 10:56:53 0
>>262 うん、空想だと思ったほうがいいと思うよ。
264 :
龍宮 :2007/07/23(月) 12:26:44 O
菩薩、仏、如来、不動妙王、四天王、神の類はみんな性質だ。実際仏教でいうところの神仏はみんな紀元前の時代にいた神や人物をモデルにしている。それぞれには穏やかであったり荒々しかったり性質がある。人に当てはめれば誰が何になる運命かが決まっている
265 :
零 :2007/07/24(火) 02:33:48 0
>>263 きっと明日あたりには、空想であった事を悟れるかもしれませんw。
>>264 そうです、貴方のご指摘の通りです。
私の識見としては、全ての神仏その他は性質であるという見方で
貴方の見解と完全に一致しています。
ただしあえて、神々という性質の中の最高善の性質を神として立て、
最高悪の性質を魔と立てています。
次に如来(知)や明王(力)や菩薩(心)というのを、
人の保有する根本的な3種の性質の比喩として立てています。
また四天王に関しては、その当時に存在していた4人のとある存在を
そのように位置づけられたのでしょう。
そして仏に関しては、実際に性質である事には変わりありませんが、
あえて仏というものに関しては、その者を世に確実に送り出す為に、
便宜上、仏という性質を有する者のみを、仏という存在者として扱う事にしています。
>実際仏教でいうところの神仏はみんな紀元前の時代にいた神や人物をモデルにしている。
私もそのように考えております。
266 :
零 :2007/07/24(火) 02:34:36 0
>それぞれには穏やかであったり荒々しかったり性質がある。 そう、それによって、世界は完成していると言えます。 個体存在(相対者)とはどこまでも不完全なものです。 しかしそれは全体として見た時には、完成している。 善もあれば悪もある。そのように対立・矛盾を抱えている性質の全ては尊い。 不完全なる完全、未完成なる完成と言ったところでしょう。 >人に当てはめれば誰が何になる運命かが決まっている そうですね、仏教では、人の次元、宇宙、相対次元を器世界として見てますね。 一生という時間の中で、その者(器)がどのような存在(性質)であるかは、 宗教家、学者、政治家、資産家、法律家・・・・などという形で規定できる。 そして絶対次元においては、誰が何になる運命かが絶対的に確定している。 存在者が為し且つ為し得る、全ての言動、全ての者の才能等、 全ての努力、全ての操作、全ての因縁から派生する結果、 全ての民衆の三業に対しての権力者の権力の介入、 これらがどういう形で顕れようが、全ては絶対必然であり、 それは全ての論理法則を超えており、全ての道徳・倫理を超えており、 全ての自然法則を超えており、全ての宇宙法則を超えており、 何者も、如何なる力も働きも、それに抗う事はできない。 この絶対必然の究極的性質は、時間次元を超えており、 全ての時は完全に確立している。 人はこの己や他者や世界に現れた運命、宿命、宿業を、 どう思い、どう考え、どう感じるかなどは自由であり、 そこにこそ真の意味での幸福が存在する。 まぁこのように私は認識しています。 それと貴方のレスは非常に興味深い、 今後もレスの継続を希望します。
267 :
零 :2007/07/24(火) 03:00:13 0
まぁでも・・・心が、システム環境(物質、霊、世界)に対しての決定に、 大きな影響を与えている事を考えると、 実際、心の次元の全ても確定しているという事になりますね・・・。 絶対次元というものをシステムとして見た場合、 もっと言えば、機械的システムとして見た場合、 必然的に、哲学における人間機械論が、正しいという事を、 立証してしまう事になった訳です・・・・。 全てはあまりにもメカニックである、だからこそ完成であり完全なのでしょう。 それと個体が有する性質や世界が有する性質を、 種子という形で解釈しています。 方便品などでは、その個体の種子が花を咲かせた状態を、仏界の顕現としたり、 仏界の心が一瞬でも生起したりした場合を指して、 仏界とし、厳密には仏界を開く、としてますね。 まぁ仏界を継続して開き続ければ、少しずつ、 己の種子における有限性の上で、ある程度、善性が強化され、 境涯が高まり、それによって現実変革の力も養われ、 人生の上での自己実現の可能性も広がるというところでしょうね。
268 :
考える名無しさん :2007/07/24(火) 13:58:55 0
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270 :
零 :2007/07/26(木) 17:35:37 0
>>261 >>264 私の妄想ではない事を立証する為にあえてソースを提示する事にします。
さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、
それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はない事を明かしている
(最高の仏である「如来」は「自性輪身」と呼ばれ、自性であるとされている)。
これによって、縁起によって全ての存在は無自性であり、
それによって「空」であると論証しているのである。
龍樹の「空」はこれから「無自性空」とも呼ばれる。
271 :
零 :2007/07/26(木) 17:38:42 0
つまりこの最高の仏である如来というものが、絶対者である訳です。 また世の全ての教えは、所詮、方便に過ぎないので、 ストレートな表現、つまりは完全な意味での真実は全て隠蔽されます。 もう一つ言うと、この最高の仏である如来以外の、 その他全ての仏は、悉く相対者であり、無自性的存在者です。 (勿論キリスト教のイエス・キリストなども同じ事です。) そしてこの最高の仏であるとされている絶対者(神)から、 預言を受けて、行動を起こしている訳です。 元より、救済を為すのは全ての神、もしくは神の意志によって、 為されるのであり、人が為す救済など、けっして真の意味での救済では ありません。救済を為す時、人は、他者を裁く事になります。 従って、救済をする者は、世の主である、神もしくは、神に順ずる者(仏/救世主)で なければならないという事です。 しかしこの絶対者という存在には大きな問題があります。 仏教の教えにあるように、梵天と帝釈天は、合わせて梵釈とされ、 それが表裏一体の関係にある事を意味しているのですが、 存在者である有的絶対者は、この相対的矛盾の上に、世に生を受ける事になるのです。 ちなみに、絶対次元に有る絶対者に関しては、無的絶対者と言われています。 絶対者に関しては哲学における形而上学や神学に詳しく記されてあります。 そして自意識というものに、実体が有るのは、この最高の仏のみであり、 その他全ての意識には実体が無く、仮に成立したものに過ぎず、 空であると言ったところでしょう。 あと真の成仏に関しては真言密教の住十心を参考にするとよいでしょう。 またkの真の成仏とは、上記に示した、最高の仏が至る境地という事になります。 それとこの話は、絶対に他言しないで頂きたい・・・・。
272 :
零 :2007/07/26(木) 20:37:40 0
しかし、ソースを提示したはよいが・・・・、 これはウィキペディアに掲載されていたやつなんだけど、 正直、文章がなんか変だな・・・wwwww。 失敗した・・・かな。
273 :
龍宮 :2007/07/29(日) 13:33:28 O
唯心碍 すべてのものは我が身が写すもの(五蘊=五感)なりて世界は絵のようなものでる。すべてとは則ち自身であり世界が自分だということはすべてを写している意志こそ世界である。私がみるものはすべてに繋がっている
274 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 13:53:35 0
完全にいちゃってる
275 :
縁覚 :2007/07/29(日) 14:02:29 O
縁覚 縁覚とはすべてのものは繋がっていて離れていないということである。しかし内と内との繋がりは見えにくい。または繋がりが幾層にも重なって遠すぎる。内面と内面は別々である。考えていることは別々である。それでも繋がっている
276 :
縁覚 :2007/07/29(日) 14:07:45 O
だから考えているということはすべて事実とは別であってもそのまま世界に通じているのだ。私が誰かのことを思い浮かぶとは相手と通じていることに他ならない。縁とは私がその時その時に感じていることの反作用が相手にもあるということである。しかしそれは別々である。
277 :
龍宮 :2007/07/29(日) 14:10:14 O
反作用であるから相手が思っていることは私が思っていることに他ならない。相手が私を思うとき私が相手を同じように思うのである。しかしそれは繋がっているとは別に別世界のことであり事実とはいなかる。よって相手が私を思うことと相手が思うことは一致しない
278 :
仏陀 :2007/07/29(日) 14:24:34 O
しかし哀しむことはないのだ。アングリマーラよ。そなたが無知であるがために犯してきた罪も例え48億年の罪滅すといえども世界はその繋がりを絶とうとはしない。27劫もの人間との繋がりは消えることはないのだ。すべてはそなたの思う通りだ。その罪を背負っていくがいい
279 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 16:19:25 O
すべての答えは繋がりそれ自体が時間だということだ。死ぬまでの時間というものがすべての答えだ。だからそういった意味で今回はよかった。
280 :
零 :2007/07/30(月) 04:30:31 0
>竜宮 非常に正しく深みのあるお言葉ですね。 勉強になります。 そして、このままこのスレを最後までもっていきましょうw
281 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 06:39:13 0
>龍宮 失礼しました
282 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 18:44:02 O
俺はいいぞ。上にいけ
283 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 19:32:31 0
ほんと、坊さんの説法をタダで聞かせてもらってるみたい
284 :
龍宮 :2007/07/30(月) 21:06:00 O
到達しよう。
285 :
光の軌道(龍宮) :2007/07/31(火) 22:02:14 O
大円鏡智
286 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 07:45:10 O
日本人が日本人を嫌っている因果がわからない。が、日本人がひとりを消してまとまろうとする罪は昔からかわらない。それでもしようとするか日本人。穢民め
287 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 07:51:44 O
七百年余りの間何があったか知りたい。何があったのか直接俺は知らない。ただ何かがあったのは確かだ。日本人が下手に涙を流したり感動したり許しあったのはわかるが俺は良いとは思わんぞ
288 :
考える名無しさん :2007/08/07(火) 15:20:55 0
>1 「据え膳食わぬは武士の恥」ってのと同じじゃないの?
289 :
清左衛門残日録 :2007/08/31(金) 23:02:02 O
最近手が痺れるしペンをよく落とす。ニルヴァーナに入りそう(-_ヾ)
>>1 >すべての雑念から解放され、
>精神的な境地に到達する。
涅槃。ネハン、半分寝て。それを繰り返せば「寝半」
余計なことを考えている時点では寝ることは不可能だw
寝半ている状態では精神世界の中以外考えられないだろう。
ファイナルアンサー?
291 :
考える名無しさん :2007/09/01(土) 09:01:00 O
仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月(仏の真法身は、猶虚空のごとし。身に応じて形を現す。水中の月のごとし)
293 :
龍宮 :2007/09/02(日) 16:26:05 O
何故無理をしようとするのだ。無理をすることで何かが壊れているのだ。すべての物事は均衡のうえに成り立っている。均衡は流れだ。流れは変わる。均衡は崩れる。しかし均衡を意識が壊すことは混乱に繋がるのだ。それをよく考えるがいい。サティ
>>293 >何故無理をしようとするのだ。
無理して発言しなくておk
>無理をすることで何かが壊れているのだ。
なにか壊れて、そんな発言をしているんですか?
>すべての物事は均衡のうえに成り立っている。
んなことはありえない。成り立っていない。
>均衡は流れだ。
それを信じるのは構わないが宗教でしょうか?
>流れは変わる。均衡は崩れる。
自分で何を言いたいのか整理してきたほうがよろしいでしょう。
>しかし均衡を意識が壊すことは混乱に繋がるのだ。
んなことはない。デタラメもいいとろだ。
295 :
考える名無しさん :2007/09/02(日) 20:01:48 0
>>295 説明が不要なことと必要なことは明らかに違う。
298 :
考える名無しさん :2007/09/05(水) 14:35:20 0
で、涅槃の域に達したやついるの?
そういう人と話したいなら宗教板にいくとたくさん?いる
300 :
興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/09/06(木) 20:58:31 0
六道からの消滅だと思います、大乗仏教の法身仏思想は概念的ですので思想としては面白いですが。 上座経典にあるように消滅が正しいと思います
301 :
やみ :2007/10/01(月) 00:35:42 O
対話疲れた。眠いわ
302 :
考える名無しさん :2007/10/02(火) 07:19:18 0
涅槃と死と何処が違うか。生老病死からどちらも解放 される。誰にでも死は公平に訪れます。仏教徒であろう となかろうとーーーー。
>>302 涅槃に入った者は二度と生まれ変わらない。
佛教は死後は49日で生まれ変わると考える。
304 :
千の風さん :2007/10/10(水) 03:40:16 0
六道輪廻 : 天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界__これを生の営み 日々のこころ模様と考えられやしないか。
地球上に核爆弾100発ぐらい落とせば, みんな涅槃にいけるぉ
306 :
ルイ・太川陽介さん :2007/10/25(木) 10:50:19 0
・・・涅槃寂静 ・・・やすらぎ おパンツはいたエテコーが、この境地を得るには 事実上、死と同義語ってところが わたしもエテコーの一匹として・・・涙
307 :
興味 ◆pdbZuOSN8c :2007/10/30(火) 23:27:47 0
308 :
考える名無しさん :2007/11/07(水) 01:34:39 0
釈迦は、何を説いて廻ったか???
309 :
考える名無しさん :2007/11/07(水) 02:17:56 0
白取春彦『仏教「超」入門』PHP文庫 白取春彦『はじめて知る仏教』講談社+a新書 副島正光『釈迦』清水書院 中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』NHKブックス 中村元・三枝充悳『バウッダ―仏教』小学館 田上太秀『仏陀のいいたかったこと』講談社学術文庫 田上太秀『ブッダの人生哲学』講談社選書メチエ 定方晟『空と無我』講談社現代新書 石飛直子『ブッダ論理学五つの難問』講談社選書メチエ 石飛直子『ブッダと龍樹の論理学−縁起と中道』サンガ 宮元啓一『ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』春秋社 ↑とりあえずここら辺から読んどきゃ良いんじゃないの。 宗教としてじゃなく、あくまでも哲学・思想として仏教を考えるならね。 変に神格化・神秘化されたブッダ像に基づく仏教書、輪廻や極楽浄土、霊魂の存在などを真に受けた仏教書なんて 哲学・思想的には考察に値しないだろうし。
>>309 > 輪廻や極楽浄土、霊魂の存在などを真に受けた仏教書なんて
> 哲学・思想的には考察に値しないだろうし。
宮元啓一氏は輪廻説肯定派なのでは?
311 :
考える名無しさん :2007/11/07(水) 16:26:21 0
>>310 宮元の輪廻肯定は「倫理的要請として輪廻が仮定されざるを得ない」という立場
(輪廻を否定すれば因果論も否定され、仏教が単なる相対主義・虚無主義になってしまう故)。
したがって、実際に輪廻という現象が実在するか否かを問題にしているわけではない。
312 :
考える名無しさん :2007/11/09(金) 00:34:34 0
仏教=ニヒリズムに陥っちゃうのは 生命科学を知るなさすぎでつよね。
313 :
考える名無しさん :2007/11/09(金) 01:44:04 0
丸山圭三郎の思想は仏教に通ずるものがあると思う 丸山自身もたびたび仏教思想に言及している
>>309 霊魂については否定するが、輪廻については佛教の土台として必要だと思う。
ふぷい(^^)
316 :
龍宮 :2007/11/11(日) 15:10:31 O
つゆとをち つゆと消えにし我が身かな 関白もこの世の夢か。それでも本当は命は続いていくんだけどね。命が途絶えてしまうのはこの世の果てについたからだ。俺の命も続けていくのだろうか・・・
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
[315] 今朝、会員の宇根君から来た学問研究メールは、すばらしいので、早速ここに載せます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/08/24(Thu) 18:28:37
http://snsi-j.jp/boards/sample1/89.html 自分勝手な思い込みではなく、なるべく、世界水準(world values ワールド・ヴァリューズ、世界普遍価値)に
合致するように、日本語の各基本語(words ワード)の中の、真理、信仰、哲学(フロソフィー、知恵への愛=
愛知という訳語を私、副島隆彦は以後は使おうと思います)などを使いながら、徹底的に、これを分かり易く
してもようと思います。
仏陀(ゴータマ)の本当の言葉であり、 「真理の言葉 」である、法句経(ほっくきょう)の言葉の中村元
(なかむらはじめ)の日本語を使いながら、日本まで伝来した大乗仏教が、本物の仏教(上座部仏教=簡単に
言えば、小乗)からどれぐらい逸脱したものであるかも、も正面から考えます。
法相宗(ほっそうしゅう)こそが 大乗の中にあっても、本物の仏教であり、輪廻転生(サンサーラ、業、
ごう、カルマ、ヒンズー=インド教の思想)を否定して、竜樹(ナーガールジュナ)が再構築した「空」の
真理を、伝える宗派であることも書かねばなりません。日本では、三島由紀夫と、小室直樹が、この
ことを論究しました。
スピノザとヴィトゲンシュタインというユダヤ人が、どのように、キリスト教(人間への愛の思想、
グレイス、アガペー)を、理性(リーズン)と、合理(ラチオ)というユダヤ思想のすごさで、
切り裂いたか、を、今こそ、日本人としてはっきりさせなければいけません。
おそらく、この上野修(うえのおさむ)というスピノザ研究の学者は、相当な水準まで来ている
はずです。しかし、私が解明した、リーズン(理性) とラチオ(合理)の到達点まで来ている
かは、吟味しなければいけません。
宮元啓一(みやもとけいいち)と石飛道子(いしとびみちこ)という仏教研究学者も、君が正確に
読み破ったのだから、きっと優れた到達度を示していると思います。私も時間を見つけて、読んでみます。
はじめまして、会員の宇根康裕です。27歳で京都で技術開発をしている会社員です。今回メールする 目的は、最近道場で話題になっている宗教に関して、最近読んだ「スピノザ」 (上野修著NHK出版) をヒントに、私が考えたことをとを書くためです。 いきなりですが、結論は キリスト教は、キリストを信じる「信仰」であり、スピノザ、ウィトゲンシュタインは、真理を証明 する「哲学」である。初期仏教は真理を理解する「哲学」であり、各種大乗仏教は、「信仰」の あつまりであり “仏教”ではない。老荘思想は、儒教と対立していて、道教は、道を信じる「信仰」 で、間違った政治(間違った儒教)に対抗している。 以下のブッダに関する記述は、主に宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読み、私が理解したことである。 ブッダは12因縁を順逆に観じ、悟りを得た。ブッダが発見したのは、 西洋にはない、因果の論理学 であり、ブッダはその論理学を用いて、ついに真理を“発見”した。これまでの ヒンズー教は、 信仰であったが、信仰とは別の世界、真理の世界に入った。 仏教は真理を発見する哲学であり、信仰ではなく、必死で考えなければならなかった。考えて、 考えて、考え抜いた先に、真理を見ることができるのであって、信仰をいくらやっても、真理 には到達しえない。 輪廻の輪から抜け出すということは、当時の信仰の輪(ヒンズー教)から抜け出すということ である。ブッダは信仰から抜け出して、真理の世界へ行った。
勘違いしてはならないのは、ブッダは輪廻を前提として、その輪廻から抜けたのではなく、輪廻など 考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである。 また、ブッダは、信仰を捨てて真理の道へいくことが、自らの体験で難しいとわかっているから、 信仰をすてるための修行をさせている。しかし、民衆は修行に耐えれなくなった。そこで、民衆は 真理ではなく、信仰を求めるようになった。 これが大乗仏教である。空なんだと思え、あるいは、唱えろ、極楽を信じろ、という信仰だと考える。 大乗仏教は信仰であるがゆえ、よいと思った信仰はどんどん取り入れられる。こうして、大乗仏教は、 どんどん派生していったのだろう。大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。袴谷 (はかまや)氏の批判仏教からは、ハッキリみてとることができなかったが、私は初期仏教と後の 仏教は、真理(哲学)か信仰(宗教)か、の違いだと考える。 以上から、初期仏教と大乗仏教は、まとめられないことは明らかである。 宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に 最速で迫る書物である。
宗教の成立の根拠に、 非現実的存在、我を媒介にして結局、非現実的かつ非存在的な無、これが神と呼ばれるものなので、 則ち無神とも呼ぶべきものにたどり着く哲学的生活があるんでしょうね。 その到達した状況を哲学的に表現すればまさに無神論になります。 この状況に至る道は過酷にすぎ、そこに止まることは苦こそ免れるとはいえその無神と対峙し続けるということなので非常に恐ろしいことでしょう。 現実こそ本当の救いになっているという認識をした哲学者は反哲学的生活を無神にほぼ強いられ、 他人にも反哲学的生活を薦める宗教を編み出したりするわけです。
人間ってえええ か弱いもの ですねぇ〜♪
324 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 16:36:49 0
802 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:08:58 0 長老は「本物のアビダンマのテキスト」について「仏説ではないだろうという感じはあります」といわれています。 龍樹の批判対象は「本物のアビダンマのテキスト」だろうとおもいます。 わたしは『アビダンマッタサンガハ』は見ていませんので評価できません。 「初期仏教でもテーラワーダ仏教でも部派仏教でも、「現象には自分の特色がある」と言います。 大乗仏教は「そんな特色はない、全ては空だ」と一生懸命批判しています。 どちらが正しいか、ちょっと考えればすぐに分かります。」 と長老はいわれています。 たしかに、長老がおっしゃるような大乗仏教があるとすれば、そんなものが正しくないことは考えればすぐに分かります。 しかし、少なくとも、龍樹やチギの大乗仏教がそのようなものではないことは、 龍樹やチギの書いたものを読みさえすればすぐに分かります。 たとえば、チギの 「三諦説とは、実相にきりつめてみると、存在するものの一切は自性を有していない(空)けれども、 それぞれ個別性を主張しうる存在のゆえに名字を有しており(仮)、 しかも空であることと仮であることとが一なる存在において統一されている(中)がゆえに、 即空即仮即中として表示されうることを明かす教説」[*1]です。
325 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 16:37:32 0
803 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:09:59 0
「初期仏教では「現象の中に実体はない。全ては変化するから
『これ』と掴まえられるものはない」と言い、それをsunnata〔中略〕と言う」
という長老のご理解は正しいとおもいます。
ところが、「本物のアビダンマのテキスト」では「現象の中に実体はある」といっています[*2]。
龍樹は、この「現象の中に実体はある」という考えを論理的に批判しています。
この龍樹の批判を「言葉の遊びだけ」といわれているのだとすると、
長老にとっては「論理的な批判」も「言葉の遊び」ということになるのでしょう。
こうなりますと、わたしとしても「では頑張って下さい」と言うしかありません。
わたしが長老のお考えを論理的に批判したところで、それは「言葉の遊び」ということになるだけでしょうから。
[*1] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
http://fallibilism.web.fc2.com/122.html [*2] 佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html 804 :考える名無しさん :2007/11/16(金) 03:17:44 0
長老って、スマナサーラのことか?w
テーラワーダ仏教なんて、あんなもん実質カルト集団なんだから
まともに取り合う必要ねーよwwww
326 :
考える名無しさん :2007/11/16(金) 19:10:09 0
1.副島隆彦信者の一人が副島のホームページの掲示板でブッダの輪廻説を否定 2.副島もそれに賛同、その信者が紹介した宮元啓一と石飛道子という仏教学者の本を「素晴らしそうだ、自分も読んでみる」と発言 3.だがその宮元や石飛が関わっているテーラワーダ仏教は輪廻説肯定派の宗派である(!) 4.あ…あれ?^^;
間違ってるかもしれんが、ここを見るといいかも。 「宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、 大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に 最速で迫る書物である。」 「大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。」 宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読んで大乗仏教の最高理解を学んだことで、 大乗仏教は本当の仏教じゃないということが分かったということじゃないか?
>>327 その副島信者の人がどういうつもりでそう書いたのかは分からんが、
少なくとも宮元は大乗仏教を否定して初期仏教の立場に立ってるはずだし、
石飛にしても大乗仏教(中観)の立場からではあれ、
これまでの龍樹論を否定して論理学的な側面から新たに中観仏教を解釈し直しており、
結果的に宮元の仏教観に近いものとなっている。
そして何よりテーラワーダ仏教自体が、
大乗仏教を「ブッダの教えをねじ曲げた似非仏教」として糾弾しており、
輪廻など存在しないという大乗・中観的な仏教観を否定して
「輪廻は存在するし、ブッダも輪廻とそこからの解脱を説いていた」
という立場に立っている。
注意すべきは、信仰であるがゆえに本当の仏教(思想・哲学)ではないはずの
大乗仏教においてこそむしろ輪廻が否定される傾向にあり、
本当の仏教は哲学・思想だとする立場をとっているはずの宮元や石飛、
そしてその二人がシンパシーを感じているらしいテーラワーダ仏教においてこそ
むしろ輪廻が肯定されているという事実だろうな。
信仰、神秘主義的な大乗的仏教理解を否定し、
思想・哲学として、論理的な側面から仏教を考える立場においてこそ
輪廻が肯定されているという矛盾的な事実。
俺はべつに仏教に詳しいわけじゃないので詳細な事情は分からんが、
たしかにこれは不可解ではあるわな。
329 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 01:53:08 0
おいおい。 副島を批判するならちゃんと文章を読んでから非難しろよ。 副島自体はテーラワーダ仏教など調べた事もないし、話題に出た事もない。 副島の弟子が副島の仏陀論に触発されて自分で仏教を調べて、宮元啓一氏と 石飛道子氏にいきついただけだ。それで読んで見るかとなっただけだ。 副島が影響を受けたのは中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」 (ブッダのことば、岩波文庫、1984年)だけだ。
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46 横山全雄(よこやまぜんのう)老師へ 2007年3月8日 やはり、日本では中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」(ブッダのことば、岩波文庫、1984年)と 「ダンマパーダ」(真理のことば、その一部が法句経、岩波文庫、1978年)だげが、ブッダ本人の言葉でしょう。 私は、中村元が、東大を定年退官してから、本当に自由になって、「お釈迦様の本当の言葉、教えは、これだけなんだ」と、 激しい真実暴露をやったことの凄(すご)さを、今更ながらに思います。 私は、あのころ学生で、友人の東大生に、「久我山(くがやま)に、中村先生が住んでいるから、遊びに行かないか」と 誘われたことがあるのです。そのころ、私は、その東急井の頭(いのかしら)線の久我山のアパートに住んでいたのです。 故・中村元に会いにいっていればよかった。あの頃、中村元が与えた日本の仏教界の各宗のインテリ理論家たちに与えた 衝撃は、ものすごく大きかったのだと思います。 (引用貼り付け終わり)
僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、 (「西蔵旅行記」(あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、 行ってみて、カトマンドゥーからポカラまで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを 越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で分かりました。 彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、 激しい疑念の気持ちを持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana マハヤーナ)という大嘘を、暴くために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、 よく分かりました。その「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事 なのだと私にはいよいよ分かりました。 ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、 漱石の「則天去私(そくてんきょし) 」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 日本でだけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。 諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。 ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。 四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。 ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん) ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、 =真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46 この世の一切を、根底から批判しつくそうという、私の気迫を、横山老師なら、分かってくださるでしょう。 私が、これまでに、冗談で、あれこれの真実暴露の、恐ろしい本 を冗談で書いてきたなどど、思っている ような連中は、全部、激しい、やけどを負わせてやろうと思います。 私の頭脳と思想が、そこらの生来の 軽度のキチガイたち程度に、負けるわけがないのです。
僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、(「西蔵旅行記」 (あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、行ってみて、カトマンドゥーからポカラ まで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で 分かりました。 彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、激しい疑念の気持ちを 持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana マハヤーナ)という大嘘を、暴く ために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、よく分かりました。その 「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事なのだと私にはいよいよ 分かりました。 ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、 漱石の「則天去私(そくてんきょし)」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 日本で だけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。 諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。 ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。 四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。 ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん) ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、 =真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。
遠藤周作(「深い河」という作品がある)や、高橋和己(たかはしかずみ、「西方浄土論」のようなもの)や、 三島由紀夫(「暁の寺」のなかの竜樹=ナーガルジュナ=論 ) の聖地ベナレス(バラナシー)への言及にも、 私は、今では、大いに異論があります。現地まで行ってみて、私に分かったことがいろいろあります。私は それらをおいおい書きます。 仏教(ブッダのことば)は、徹底的に、無神論である。ブッダは、一切の神を信じない。 空(くう)とは、 絶対的に 無 のことである。これ以外の解釈はすべてウソだ。 死ねば一切が、消える。すべては、無だ、 という思想です。出家した者は、生きている限り修行だけせよ。 ただし、いたずらに激しい修行(苦行)などはするな、という一点で、彼は、悟った。そして、悟り(正覚) というには、解脱(げだつ)で、ブッダが6年間厳しい修行をして、35歳で到達したのですが、この「解脱 (げだつ)」というは、ヒンドゥーの思想そのものであって、仏教に中には、それに相当する言葉がない。
ブッダの80歳での死のことを、涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)と言って、入寂、仏滅ですが、こっちが、本当の悟り (understanding、deliverence )というのではないですか。 仏教には、 悟り(解脱)というのは無いはずです。 仏教(釈迦の教え、ブッダの言葉)は、徹底的に、死ねばすべてがおしまい、消えてなくなるのだ、という思想です。 ブッダのあとから現れた、歴代の各国のアホたちが、のちのちの高僧どもとなって、何を言ったかは、一切、問題 ではない。ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。それ以外は、ずべて、ウソだ。でっち上げです。 ですから、日本で、空海、最澄、親鸞、日蓮やら、栄西、道元やら、を崇拝するなら、どうぞ。それぞれの 教祖様として崇めればいい。それが人それぞれの宗教ですから。「しかし、お釈迦様本人は、そんなことは、 どこにも言っていないからな」「証拠を出してみろ」という、私からの、攻撃を彼らは受けることになります。 私は、ゴータマ・シッダールダ本人が、しゃべった言葉、以外は、絶対に、仏教(ブッディズム)ではない、 と原理的に決め付けます。そして、一切のウソを排除します。相手が、誰だろうと、いい加減なことを言う者を、 すべて言葉の力で、切り殺す。(このことの大前提として、その人が、その人の、自分の考えを言うのは、 その人の自由です。私は何も言いません。ご自由にどうぞ。 )
ブッダの思想は、全部、全部、すべては無に帰ってゆく、という思想です。 こういうこともよく分かってきました。 今から、私は日本のウソ仏教の、壮大な馬鹿な各仏教教団を、徹底的に、たたきます。 東大の、印哲(いんてつ)の教授どもの渡邊照宏(わたなべしょうこう)だろうが、前田恵学(まえだけいがく) だろうが、平山彰(ひらやまあきら)だろうが、山口瑞鳳(やまぐちずいほう)だろうが、すべての、彼らの、 大乗仏教論の、わけの分からない、むずかしい言葉を並べつくす、虚妄の「日本仏教学」など、叩き壊すべきだ。 彼らにしてみれば、厳格な自己正当化として、「私たちは、仏教の経典の厳密なテキスト・クリティーク(文献の 読み込み、翻訳)をやっているだけです。学問とは、古典文献を正確に解読することです。それだけです。その 厳しい修練です」という一点に、立てこもっている。そのことは私にもよく分かります。 こいつらが、現代の 比叡山延暦寺(天台法華宗)であることは自明です。 やはり、日本では中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」(ブッダのことば、岩波文庫、 1984年)と「ダンマパーダ」(真理のことば、その一部が法句経、岩波文庫、1978年)だげが、ブッダ 本人の言葉でしょう。私は、中村元が、東大を定年退官してから、本当に自由になって、「お釈迦様の本当の 言葉、教えは、これだけなんだ」と、激しい真実暴露をやったことの凄(すご)さを、今更ながらに思います。
338 :
考える名無しさん :2007/11/17(土) 16:32:03 0
>>332 >ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの
>中観(ちゅうがん)ですらない。
これホントにソエジの文章?
思いっきり無知晒してんじゃんwwww
龍樹さんや中観派は唯識や阿頼耶識なんて一言も言ってねーぜよ?wwww
むしろ唯識と中観は犬猿の仲なわけだが
339 :
ちゅう ◆Pzn2.y/16A :2007/11/17(土) 17:14:36 0
>>337 >やはり、日本では中村元(なかむらはじめ)が訳した、「スッタニパータ」(ブッダのことば、岩波文庫、
1984年)と「ダンマパーダ」(真理のことば、その一部が法句経、岩波文庫、1978年)だげが、ブッダ
本人の言葉でしょう。
訳者の中村元が自身が「スッタニパータ」と「ダンマパダ」のすべての言葉がブッダの言葉を
そのまま伝えているなどとはいっていない。それらの本の解説や注釈を読んだ上で言っているのか?
↓これはかなりの名作だと思う。 tp://www2.ihn.jp/~seraburu/juu0.html 「輪廻が無ければ仏教の論理は成り立たないし悟りもない」というテーラワーダ系の主張は 上記の論文によって覆されるのではあるまいか。
>>338 副島の文章にはそういう細かな間違いが結構ある。
それは副島の弱点だが、それは問題ではないと思う。
>>339 「ブッダのあとから現れた、歴代の各国のアホたちが、のちのちの高僧どもとなって、何を言ったかは、一切、問題
ではない。ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。それ以外は、ずべて、ウソだ。でっち上げです。
私は、ゴータマ・シッダールダ本人が、しゃべった言葉、以外は、絶対に、仏教(ブッディズム)ではない、
と原理的に決め付けます。そして、一切のウソを排除します。相手が、誰だろうと、いい加減なことを言う者を、
すべて言葉の力で、切り殺す。(このことの大前提として、その人が、その人の、自分の考えを言うのは、
その人の自由です。私は何も言いません。ご自由にどうぞ。 ) 」
中村元が副島に影響をあたえたのはこのことだろ。
このことが分からなければいつまで真実にたどりつけないという事だろう。
誤解や人騙しやカルトが広まっていくだけだ。
仏陀が言った言葉しか仏教として信じない。
スマナサーラだろうが空海が言おうが、日本の仏教集団や、外国の
仏教団体が何を言おうが、仏陀の言葉だけが正統性があるってことだろ。
342 :
ちゅう ◆Pzn2.y/16A :2007/11/18(日) 09:00:49 0
>>341 >ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。
江戸時代の学者、富永仲基も「出定後語」で同様のことを言っている。
お経のほとんどはブッダの言葉に後の人たちが「加上」したもので
ほんとにブッダの言わんとした言葉ではないと。
でも現在残されたアーガマからブッダの言葉を選択するなんてできる
かな?選別の基準にすでに先入見が入ってしまう。ブッダはかくあるべき
という価値評価が入ってしまう。
歴史史料としての文献批判は難しいだろ。
343 :
ちゅう ◆Pzn2.y/16A :2007/11/18(日) 09:58:25 0
以前さるフォーラムで仏教についてえんえんと議論したが結局 結論は仏教は4法印だけでよいだろうということだった。 「諸行無常 ゆえに 諸法無我」 「一切皆苦 ゆえに 涅槃寂静」
344 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 11:06:47 O
四法印自体大乗仏教
345 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 13:43:23 O
ブッダがしゃべったことだけが本物の仏教 というのも仏教解釈の一つにすぎない。目立ちたいだけと思われる。 日本では、釈尊の開いた仏教が中国経由で来たものを仏教と呼んでいる。それをもって仏教としている。 例えて言うならソニーがつくった携帯型蓄音機をウォークマンと呼び、それ以外のメーカーが作った同種のものはウォークマンでないと言っているようなもん。
>>ブッダがしゃべったことだけが本物の仏教 というのも仏教解釈の一つにすぎない ↑は分からなくも無いが、だったら仏教などというのをやめてしまえ。 新しい宗教でもつくればいい。そして、それを仏陀の教えなどと言うな。 >>日本では、釈尊の開いた仏教が中国経由で来たものを仏教と呼んでいる。それをもって仏教としている。 だから糞になったんだろ。 例えばフランス人がたまたまブラジルに来て、そこでブラジル人から日本文化を 学んだとしよう。そしてこのあと、このフランス人がブラジル経緯の日本文化しか 認めないとなったらどうなる?どんだけ捻じ曲がった日本文化理解となる分かるか? こういうことなんだよ。
347 :
ちゅう ◆Pzn2.y/16A :2007/11/18(日) 17:43:36 0
「諸法無我」という教えを「仏教」に適用すれば これであれば仏教であるという仏教の自性は示せ ないということだから、何が「仏教」であるかな んて「仏教」としてはどうでもいいことだね。 むしろこれで無ければ「仏教」でないという「こだわり」 を持つことこそ仏教としてふさわしくない。
>>347 その考えが320の
「また、ブッダは、信仰を捨てて真理の道へいくことが、自らの体験で難しいとわかっているから、
信仰をすてるための修行をさせている。しかし、民衆は修行に耐えれなくなった。そこで、民衆は
真理ではなく、信仰を求めるようになった。
これが大乗仏教である。空なんだと思え、あるいは、唱えろ、極楽を信じろ、という信仰だと考える。
大乗仏教は信仰であるがゆえ、よいと思った信仰はどんどん取り入れられる。こうして、大乗仏教は、
どんどん派生していったのだろう。大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。」
というような状態を生んだんじゃないか?
349 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 17:58:22 O
独覚界としての芥川龍之介や太宰治(作家)、レーニンや孫文(作家)もしくは菩薩道としてのマーティー=ルーサー=キング、ガンディー、レノン。如来としての釈迦
350 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 18:06:24 O
釈尊は、自灯明法灯明って言ってるだろ。つまり釈尊がいったことより大事なことがある。 それがブッダの教えだ!
351 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 18:09:11 O
西遊記に示されるように妖術(力)を持つ強い猿も気づいてみれば仏の手の平の中で暴れていただけのことになる。実際に力をもつということは権力がすべての人を掌握するということになる。今みんなが欲しいのは力だ。社会に出ればわかることだが。しかし如来や仏はこれを否定する
352 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 18:24:47 O
それは力が悪いというのではなく力があってもそれは一時のこと。長い目でみれば勃興も繁栄も最後には衰退する。恨みをかっていればそれが子孫に災いとなって振りかかる。仏が見るのは長い長い時間の流れと大宇宙の根源となる真理だろう。
353 :
ちゅう ◆Pzn2.y/16A :2007/11/18(日) 18:27:01 0
354 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 18:49:08 0
涅槃像が寝はんぞう… って、やかましいわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
355 :
考える名無しさん :2007/11/18(日) 19:37:12 O
ブッダのことばの中に大乗仏教の正当性が証明されているわけだが。
356 :
龍宮 :2007/11/18(日) 20:08:09 O
仏界というは自由自在の世界のことなり。それは即ち真理の糸を辿り生きること。自然も社会も人も動物もすべて幾重にも重なりあってできている。それは非常に難しい。そこには真理がある。真理のなかには善も悪もあり光も闇もある。しかし糸は糸。それは決まっている。
357 :
龍宮 :2007/11/18(日) 20:21:29 O
糸は幾重にも重なって見えにくい。この糸を正しく辿ることこそ良き道があるというもの即ち八正道(正見、正思、正語、正業、生命、正精進、正念、正定)しかし世界は厳しい。非道もある。非情もある。そして道はいくつもある。無理をせず柔軟に安全に進むべきだ。道中気をつけて
358 :
龍宮 :2007/11/18(日) 20:33:10 O
糸は糸。糸は過去蓄積された産物だ。目の前にある物質も人も人以外の生き物も意識も精神も無意識や目に見えぬ繋がりもすべては決まっている。しかしそれはコスモス(構造)だ。だから時にはそれがカオスにもなる。そして道は決まっていない。道は出来るもの
359 :
龍宮 :2007/11/19(月) 18:13:47 O
あげだ
361 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 01:35:01 0
l l `′ ,、 `ー'´ / ヽ /`ヽ / / /フ | | r-、 `ー' `ー′ L__/ r"> // | | ヽヽ ,.._ / / { { || 〉〉 ,-、 // { { い | | /ノ / / ,、 { { ヽヽ、 ヽ`'二_二' / / / / ノ /7 ヽヽ、 `'-ニ,/´_=;;;;=_ ヽ`ニノ / / { { `ー-`ニニ /r'゙_ ヽ / _`',`ー-‐'´ノ r'7 ヽヽ、 _,.ノl=・=-.∴.-=・=!'-ニ二__// 「`! `'-`ニニ二-ァ | `ー'_ !」 _ー' |ヾー―---‐'´ ,-、 l ! ,. -'´ri |l ‘~`ー'~′ l| r‐`ニニ'ー- 、_// ヽ、ヽ--―'ニ ‐'´ {ヾ ! ,r;'ニーニヽ、!l/}ヽ、 ``ー‐'´_ __ ``'' ''´ /,トミ! ir,!-┴-!、ヾ, !'/\ヽ、_ /ノ い、 ///ハ||′-―-、`|||' l ヽ `ヽ、二./ こらまんじゃ夫馬いっちょ \`ー―'ニ´‐',/ ! ||!/ ヽl|| lヽ \ ,-、 おまんじゃえーじゃよなw ,、 ̄ ,. -'_/ ! ||!______l|| l \`ー‐'´ ノ ── = ニ /=、。。。。。。。。。。。。。。。。r=、ヽ ─ =ニ三 (◎ ヽ-─────(◎ ) ノ◎、 |\ \ / / | /◎、 (_,rへ `ソ /> ◎) (◎く| レ' ,rへ ) ─ = ニ \◎'/ / \ ヽ、◎/ ノ / \ ヽ ─ =ニ三 ( ◎( ) ◎) ─ = ー、_ら ⊂、_,r´
362 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 02:13:50 0
テーラワーダの連中って何であんなに排他的で攻撃的なの? そもそも長老の性格からしてそうだし やはり破戒僧・外道と呼ばれていることに対するルサンチマン(=ルサウンチマン)の発露なんですか?w
363 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 10:01:19 0
スッタニパータや法句経(ダンマパダ)が、釈尊が語った言葉そのままだと 信じているってのは、なんつうか所詮何をやってもアマチュアの予備校教師の 限界なのかな。哀れだな。
364 :
考える名無しさん :2007/11/21(水) 16:30:05 0
テーラワーダの事務員がやってるブログ(東京寺男日記)も何か攻撃的。 自分ら以外の宗派に対して「バカ」だの「頭悪い」だの「程度が知れる」だの、 仏教者とは思えない下品な言動がちらほらと見受けられる。
365 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 19:32:37 O
六道輪廻は人間の知性を取り払った人間の徳の高低を現す。簡単に言えば良い人は正直に生きているので優しい人の世界にいることになる(天道)。天界(天道)にいる人にも無論地獄から天までが訪れる。が酷い人間も不思議と何かがわかって天道には線引きをして近づかない
366 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 19:44:53 O
この六道はすべて人間の知性とは別につまりは「識」や「意」ではなく「心」の動きや働きにより常に良いところにいるか、または良いところに流れつく人かそうでないかによる。この六道は行方や道が良いか選択が正しいか誠実であるか正直かによる。住む世界の区分け
367 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 20:15:25 O
この六道に気づきそこから出て知性でこの六道輪廻を乗り越えようとする世界が声聞、独覚(縁覚)、菩薩、仏になる。ただこの世界はあくまで六道の域を出ていない。やはり知性があっても悪いところに行き着く人もいる。仏教の世界では誠実(天)の上の存在者となる
368 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 21:14:13 O
菩薩界に達した人はみな人類愛を標榜する。菩薩の意味はその悟りによって得た利他自利の思想に基づく。菩薩界の人たちが苦心するのは心優しき知性態だけでは万人を救済できないところにある。そしてその良心とは裏腹に蔓延る裏切りや非道の穢土への悲愁にある
369 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 21:44:42 O
菩薩道に必要なこと。仏教の世界では六波羅蜜による修業を菩薩に標榜する。即ち布施・自戒・忍辱・精進・禅定(ぜんじょう)・智慧(般若波羅蜜)。布施は自由であること。我執を捨てて物事を利益を考えて行動すること。所有物の意向を利他未分で考えること
370 :
考える名無しさん :2007/11/24(土) 22:03:06 O
自戒は自分に正直であること。わだかまりがないこと。悪い状況悪い態度があった時それを包み隠さずに見ること。そもそもみな活きているのでどこまでいっても悪いことが無くなるということはない。問題は無理に自分をよくすることではなく無理なく自分をみられるかにある
371 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 05:02:26 O
忍辱(にんにく)波羅蜜は世の中の不条理に耐えること。良いことをしているのに何か不都合があっても心を乱さず耐えること。布施波羅蜜も自戒波羅蜜も常にわだかまりなく無理なく良いタイミングで行うこと。波羅蜜はすべて空である時間
372 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 05:10:32 O
次から次の世界に移り変わる時間を悟りその都度良い行いをしていくことの好機、意識の流れを読み取る訓練になる。菩薩道はそのためにある。仏教の世界では世界一般にある道徳とは違う側面がある。実は良し悪しは決まりから起こるのではなく
373 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 07:54:06 O
良きことも悪きこともはその都度事情が変わる。本当に良いことはそれがすべてに取って良いことの綜合になる。ドフトエフスキーの思想はこの般若波羅蜜の本質の意味に近い。ある密教などの仏教思想には殺人も肯定するものがあるという。深入りすると少し危険な意味を帯びてくる
374 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 08:16:14 O
ただ仏教徒のその殆んどは殺生を否定するだろうし戒律を設けている。禅宗も浄土宗も日蓮宗も奈良系も真言宗天台宗もすべて戒律を設けている。それからオウムの行き過ぎた「ポワ」も基本はその意味だが私利私欲や煩雑からくる非道である。本質を間違えてはいけない
375 :
考える名無しさん :2007/11/25(日) 20:31:37 O
ねはん
376 :
考える名無しさん :2007/11/26(月) 12:13:47 O
大河のような流れ
377 :
考える名無しさん :2007/11/27(火) 01:12:26 0
涅槃=ジャック・ラカンの言う現実界の境地 と勝手ながら考えているんだが、どうだろう?
378 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 12:12:17 O
精進波羅蜜。人間は時間の流れと共に変化する。都度の発展・発達の精神。正法眼蔵「寸陰をすごさず精進弁道すべし」常にどんな状況にあっても発展を望む心。
379 :
龍宮 :2007/12/02(日) 12:17:38 O
禅定波羅蜜。もともとの禅の意味は精神がひとつに統一されたかたちをいう。手を合わせた合掌も心を合わせて一になった状態を表す。人と人との関係も時間の中で心が合わさる。それこそが万人の真の目的であって人類に限らず万物はすべて禅を欲す
380 :
龍宮 :2007/12/02(日) 12:21:20 O
心の平静や平安は安定を意味する。禅の意味もすべては心の統一に集約されよう。ただ妙なもので時間は一定を許さない。人間も安定の次には破壊や変化を求める。これはすべての元凶ではあるが間違いなく必定。
381 :
龍宮 :2007/12/02(日) 12:36:25 O
禅と変化は表裏一体であって、仏教はやはり仏陀(ビシュヌ)の教えによって平静(涅槃寂滅)を説く。曹洞宗の只管打坐は臨済宗の公安禅よりこの考えが深い。問答禅はもっと現実に即して禅の意味を説く。仏教の考え方が平静至上主義の考え方に依っているのであれば対抗するであろう
382 :
考える名無しさん :2007/12/02(日) 20:12:29 O
大河
383 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 19:47:28 O
斯くして菩薩は智慧(般若波羅蜜)に至る。仏の行いはすべてを統合する。すべては方便として生き年生ける者を悉く救済する。仏の智慧は悟りの極致に達しその一挙手一踏足には無駄がなくまた無理がなく瞬間、万物に与える作用は珠玉のような徳を備えている。
384 :
考える名無しさん :2007/12/03(月) 21:08:37 0
「前の燃料が尽き果て、 次の燃料が与えられないのだから、 消滅するほかはない」 ということだ。
385 :
やみ :2007/12/05(水) 00:19:23 O
燃料とは面倒な。世界は確かにその通りにある。が、すべてはよくよく智慧を働かせて選ぶといい。
386 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 13:31:53 0
涅槃とは虚無。解脱(一切の煩悩から逃れた)した人が死ぬと涅槃に至る。 解脱してない人が死ぬと輪廻する。悟りとは、そのことを理解すること。 よって、悟り→解脱→涅槃と進む。 涅槃即虚無
387 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 13:34:40 0
解脱したからといって何事にも動じないわけでもないし、 肉体的苦痛から解放されるわけでもない。釈迦も晩年は 足腰の痛みで顔をゆがめていた。 「お釈迦様、チャックが・・」と言われれば、慌てて 股間に手をやる。
388 :
考える名無しさん :2007/12/08(土) 13:36:30 0
無記については誤解が多い。
389 :
考える名無しさん :2007/12/11(火) 20:23:16 0
ageyo
390 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 08:50:37 O
あげ
391 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 14:28:52 0
涅槃を唯一達成可能な状態ってつまり死だと思うんだけど どうだろうか?
392 :
初夜の鐘さん :2008/01/12(土) 15:13:24 0
人間=おサルって以上は・・・ね。
>>391 死んでからの涅槃=無余涅槃
生きたままの涅槃=有余涅槃
ちゃんと区別されている。
394 :
イモ欽トリオさん :2008/01/13(日) 18:20:35 0
♪♪ 100%片思い グッと迫れば 無理、無理 ベイビー
395 :
考える名無しさん :2008/01/13(日) 19:16:35 0
おまいらのなかに、悟ったり、解脱したり、有余でも無余でもいいが 涅槃に達した奴が一人でもいるのか? いねえだろ(ドットコムは除くw) それでこんなこと話してても、童貞が集まってセックスはどんなものか 想像で語り合ってるようなもんだろ?
396 :
考える名無しさん :2008/01/13(日) 19:26:57 0
涅槃にたどり着くには、どうすればいいの? たどり着いた人、具体的に教えてくだされ。
精神の躁鬱を自在にコントロールできる状態、それを涅槃という。
398 :
考える名無しさん :2008/01/13(日) 21:13:51 0
>>396 いるわけねえだろ。キチガイを呼び寄せたいのか?
性行為で得られる快感から、下半身の快感を抜き取った感覚。 脳だけでイき続けるような状態、それが涅槃。
涅槃は、もういい
401 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 01:24:35 0
結果より内容重視! ちょうど、松本のちづちゃんの逆を行けばイイ!www
402 :
考える名無しさん :2008/01/16(水) 02:33:37 O
餓鬼界に入った
なむしんにょいちにょだいはつねはんきょう なむしんにょいちにょだいはつねはんきょう なむしんにょいちにょだいはつねはんきょう
404 :
考える名無しさん :2008/03/23(日) 19:33:49 O
「ひかりごけ」でも読むがいい
カスみたいな奴が偽サヨクに祭りあげられて どんどん死んでるだけですよ
イースターの祭りですか
407 :
龍宮 :2008/04/04(金) 18:57:30 O
暴力で人は死ぬか?または暴力の連鎖は良心を殺すか?答えは否だ。女はこのことに気づきしかしそれでも暴力を許すだろう。しかしみんな間違いがある。俺は今の女の生き方を絶対認めない
408 :
龍宮 :2008/04/04(金) 20:34:23 O
俺の代でなるかはわからないがヒュンダイが一度は政治をやる。そうでなければ世界の問題は解決しないだろう
409 :
考える名無しさん :2008/04/05(土) 20:23:52 O
すべての物事は無限に連なりあって関係しあっている。人間の関係から生物、物に至るまですべての物事には関係があって絶えず動いている。今の人間の関心は専ら悪にある。
410 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 18:26:42 O
生き年生けるもの 万物 物部(物述) 武田勝頼 信勝 親子 天目山 佐賀県 山形県 ラップと海賊 春うらら
411 :
あめのみやつこ(し) :2008/04/11(金) 20:00:25 O
人は生まれ育ち子を産み老いを迎え死に逝く。人は人に出会いそこに性が合わさり相となりそれが力となる。そして力はひとつの実を結び子が生まれ育まれてそれが永遠と続いているわけだ。合わさるというのは自然なことなので組み合わせには妙がある
412 :
あめのみやつこ :2008/04/12(土) 07:36:04 O
妙は妙を呼び起こす。我々の幾千億の親たちもみんなどのように結び付いてどのように生きてきたかで我々自身がある。だからみんな誰とでも繋がっていいということはない。だから大きくいえば自由恋愛はない。しかし恋愛は自由なのである
413 :
あめのみやつこ :2008/04/12(土) 07:41:33 O
否応なしにある人と人との結びつきには争いとなる要因がある。しかし自然には勝手に人と人とは結びつくものだ。ある種の人がある種の人に会い結びつくとそれが戦争の直接的な要因になることがある、だから逆に人と人との結びつくことには人為的または神的な手が加えられる
414 :
あめのみやつこ :2008/04/12(土) 07:58:00 O
人と人とは結びつきとは反対にある種の人と人とは遠ざかる。それは類的にはみんなどちからに共鳴する。どちらの類に依るかということで類はどんどん遠ざかり時間の莫大な量により戦争が勃発する。あまり目にはみえないが争いの原理はかわらないだろう
415 :
あめのみやつこ :2008/04/12(土) 08:05:36 O
現代では人はこの結びつきを嫌っている。我々は隣人と結びつかないことが美徳とされ過去にあった悲劇や悲惨な出来事を嫌っている。逆に隣人との結びつきへの嫌悪は社会からの孤独な群衆をつくりあげ人は結びつきの代償を死せる魂(物質)に求めるようになった
416 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 22:50:50 O
しょうがないではすまされないわけだが。極端なこと言えば俺は悪いところを無くして死と苦しみから逃れるだけだ。あとはおまえらが悪いといって終わり
417 :
考える名無しさん :2008/04/12(土) 23:23:35 0
どのように結びつこうが勝手だが、世間、社会、権力、為政者などに 遠慮するのが民間人といふものだ。
418 :
あめのみやつこ :2008/04/17(木) 19:50:47 O
そういう私でありたい
419 :
考える名無しさん :2008/04/17(木) 20:06:24 O
菩薩道としての知恵。高度情報化社会の中の菩薩行。人と人。複雑怪奇な社会人。そこから離れようとする自分。普賢菩薩よ。丘の上にいる地蔵菩薩よ。私は離れたいのだ。しかし離れずに後少しいよう。だから教えてほしい。時間は過ぎ行く。しかしいっこうに核へ辿りつかないのだ
420 :
考える名無しさん :2008/04/18(金) 18:59:11 O
俺はあまりにすべてを中途半端に来すぎたのかもしれない。 「あなたはどこに行きたいですか」 「ニルバーナ」
421 :
あめのみやつこ :2008/04/19(土) 16:13:04 O
雨降りそう
422 :
あめのみやつこ :2008/04/20(日) 17:56:01 O
人間は結びつく。国家・地域・社会から組織・友達関係に至るまですべて人間の結びつき(構造)によって出来上がっている。重要なことは結びつきにはすべて意味がある。人間(性)は人間(性)と合わさった瞬間に「対」ができる。「対」はそのまま「力」流道性として時間となる
423 :
(酔)命のり短パン :2008/04/20(日) 18:12:49 0
へー
424 :
(酔)命のり短パン :2008/04/20(日) 18:16:07 0
涅槃で待たれても。。。。 ねぇ?
425 :
あめのみやつこ :2008/04/20(日) 18:28:44 O
横浜ブルースみたいなものだよ
426 :
(酔)命のり短パン :2008/04/20(日) 18:51:00 0
言わんとしている意味がわからんな。 あめのみやつこ
427 :
(酔)閻魔短パン :2008/04/20(日) 19:04:13 0
・・・そのくだらない意地に付き合ってはやるが、 30秒以内で収束させろよ? おぃ。 冗談じゃないのは、コッチのほうだ;・・ 解るか?解るよなw ふ
428 :
あめのみやつこ :2008/04/20(日) 19:11:35 O
話は江戸中期徳川吉継公から八代将軍吉宗公に変わる享保1年に遡る。下総の御浪人で山崎文佐衛門という御人が永代橋を通って江戸に出たところにはじまる
429 :
あめのみやつこ :2008/04/20(日) 19:25:07 O
その時私は米沢藩今の山形県上杉家のお家騒動に巻き込まれ浪人の身となり江戸に出ていた。私はこの下総の浪人山崎文佐衛門と出会うのであるが会うまでに時間が掛かるので話を省くことにしよう。話はもっと遡るが私は天下が決する関ヶ原の合戦前上杉騒動の時分・・・
私は足軽としてザックザックと歩いている夢をよく見る。時私は春の空気を感じながら何らかの悲しみを抱えひたすらどこかへ向かってザックザックと歩いている。夢。私の今の意識はこの関ヶ原の合戦に向かう足軽隊と江戸中期の浪人、そして今がリンクし同じ意識と思うのである
431 :
(酔)閻魔短パン :2008/04/20(日) 19:37:02 0
閻魔張ってるあたしに言い訳の連打は少しみっともないかも、だぜ? あめのみやつこ
432 :
(酔)閻魔短パン :2008/04/20(日) 19:42:38 0
俺に噛み付く位だから、どんあんもんかと想ったが・。・・・ はあん。 ま、いいぜwハゲ
433 :
あめのみやつこ :2008/04/20(日) 19:57:39 O
まあそういうわけだ。想像力ばかりが先に立ったが出会いに意味があるならその意味を理解していくべきだろう
434 :
考える名無しさん :2008/04/22(火) 07:43:52 0
二十歳の原点の高野悦子と同じタイプの人間が還暦まで生きたらちゃんと解脱できるかも。
>>1 生きている欝は無理だ。
しかし悟りを開こうと努力する事が素晴らしいんだよ。
時間をかけてダラダラとやるもんではないよ。
437 :
(酔)閻魔短パン :2008/04/22(火) 07:56:00 0
>>429 その時私は?w
おまえ、何処のタイムトリッパーwwww
438 :
考える名無しさん :2008/04/22(火) 19:52:10 O
話すことはたくさんある
439 :
考える名無しさん :2008/04/22(火) 20:18:23 O
立教って池袋の内の庭だっけ
440 :
し :2008/04/22(火) 20:50:15 O
富永仲基の「出定後語」に面白い記述があった。「空」と「無」「有」と「不空」についてのチャプターだったかな
441 :
考える名無しさん :2008/04/23(水) 05:37:12 O
まあ下手なことせずに連絡取るか
442 :
(酔)セル短パン :2008/04/23(水) 05:43:12 0
犯罪の 一番きつい所・・・・ 上告されるのも、所詮弁護団の・・・・ う
443 :
(酔)セル短パン :2008/04/23(水) 05:45:12 0
ゴロゴロしているばやいでねぇべww ぶるあぁぁぁっぁああああ
444 :
国際文化人 :2008/04/23(水) 05:49:53 O
フルート
445 :
国際文化人 :2008/04/25(金) 12:43:34 O
まあおまえもいつまでも馬鹿やってないで最短距離でくるんだな。俺たちも生物なんだから死のカルマがくるぞ
446 :
し :2008/04/26(土) 08:03:03 O
いろいろな人間に伝えたいことはたくさんある。多すぎるくらいだ。ただ、もう本を読まなくなってしまった。学生の時に無理にでも読み進めた。ニルバーナへ外へと向かっているのがわかる
447 :
し :2008/05/02(金) 22:00:26 O
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと
448 :
考える名無しさん :2008/05/02(金) 22:05:26 0
涅槃寂静、これに尽きる。
449 :
し :2008/05/03(土) 05:34:00 O
人間には自然な状態がある。仏陀が先ず気づいたことはこの自然な状態のことだ。森の中でそれがどういう状態なのか、そして縁起に気づいたのも木の横に静止し座してからだ。それから時間。時間は自由にあるのではなく万物の流転が全体に影響を及ぼす。そうやって私もいる
450 :
し :2008/05/03(土) 05:48:26 O
粗暴な人間や口の悪い人間が恰好よく見えるのは自然に行動しているからだ。逆に良かれと思って優しく見せる人間が魅惑的に見えないのもそのようなことをしなくてもいいのに無理にするから善くはない。だから本来の沈黙や放置に無理がなければそちらが慈悲になることもある
451 :
し :2008/05/03(土) 05:57:00 O
空とは全ては留まることなく続いている・すべてひと続きであるという意味だ。つまりは始まりはない。生まれてから死ぬまでひと続きなのだ。生まれ出ことも続いて来たということだ。ただ終わりはある。それがニルバーナ(涅槃)であり個体が消滅に向かうことは必然
452 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/05/05(月) 15:10:26 0
盲語綺語両舌悪口を離れて言います 死ね 最後の審判です
453 :
し :2008/05/06(火) 05:38:41 O
ネゲエントロピー
454 :
ね :2008/05/06(火) 08:09:35 0
エネマグラ
455 :
考える名無しさん :2008/05/16(金) 16:44:20 O
最近一青窈ばかり聞いてる。それから山岡と海原雄山が和解したことに何の意味があるってんだフジテレビよ
456 :
考える名無しさん :2008/05/16(金) 21:11:17 O
現成公安 正法眼蔵だな。疲れちったよ。何かがどにもならねえ
457 :
考える名無しさん :2008/05/16(金) 21:54:35 O
フランス人とは縁があるのだが心残りはわからないことができたといったところだろう
459 :
考える名無しさん :2008/05/16(金) 22:48:27 O
天照(晃)大御神と月読命とスサノオ命(猛々)と大国主神と神武天皇
460 :
考える名無しさん :2008/05/17(土) 08:54:18 O
遠い世界に旅に出ようか
461 :
考える名無しさん :2008/05/18(日) 19:30:57 O
それとも赤い風船にのって
462 :
考える名無しさん :2008/05/18(日) 19:35:16 O
雲の上を歩いてみようか
463 :
考える名無しさん :2008/05/18(日) 19:54:32 O
太陽の光で虹をつくった お空の風をもらって帰って 暗い霧を吹き飛ばしたい
464 :
龍宮 :2008/05/21(水) 21:14:31 O
心は工(たくみ)なる画師の如く 種々の五陰を画き 一切世界の中に 法(もの)として造らざる無し<続〉
465 :
龍宮 :2008/05/21(水) 21:19:17 O
心の如く仏も亦しかり 仏の如く衆生も然り 心と仏と及び衆生とは 是の三差別無し<華厳経―続〉
466 :
し :2008/05/24(土) 19:21:28 O
寂しい
467 :
考える名無しさん :2008/06/01(日) 14:33:44 O
儚き夢だった
468 :
龍宮 :2008/06/01(日) 17:14:20 O
人は行き止まることでふたつの選択肢を選らばなければならない、ひとつは自分以外の人を選ぶかもうひとつはニルバーナ、自分を選ぶか。年齢がこれを選ぶといっても過言ではない
469 :
龍宮 :2008/06/09(月) 21:05:46 O
やすらかに今はねむり給え
470 :
考える名無しさん :2008/06/09(月) 21:32:42 0
・・・・
471 :
龍宮 :2008/06/09(月) 21:52:12 O
最近私は本を読まなくなってしまった。哲学のように極度に抽象的な概念を欲しない。しかし形象的綜合というものが人間に備わっている事実には哲学に今でも傾倒する。つまり誘発性は知っているということだ。尾瞬間に先験性が何かを誘発するということだ。今は何とも言えないが
472 :
龍宮 :2008/06/12(木) 00:06:31 O
道理に合わないことが起こるのは世の常だ。しかし昔からこのことが多かった。辻褄が合わないのは意識に濁りがあるからかもしれない。例えば1の次に2がきて2の次に4。その次に8がくる。しかし4と8の間に苦慮する。無い辻褄が合わない。昔からこうだった
473 :
考える名無しさん :2008/06/12(木) 00:17:44 O
物事の辻褄というのは悟性と理解によって合い達成される。しかし意識の濁りは理解を妨げ実は道理の通りにならないという錯覚を及ぼす。これが所謂汚れたマナス=識というものだ。しかし物事というものは妙なもので実は突然微量な変異を起こし一時道理でないこともある。
474 :
龍宮 :2008/06/12(木) 00:30:17 O
この妙に人間は惑わされる。特に移り変わりのはやい昨今意識が妨げにあい道理に辿りつかないことが徃徃にしてある。現代に不浄が目立つのはこのことにある。ともすれば環境問題や犯罪もこの現代の不浄によるところが大きい。つまり大人が汚れ(マナス)ているのだ
475 :
龍宮 :2008/06/12(木) 00:42:22 O
子供には道理を通していくのがいい。指導者たるものまたは教育者、上司はすぐに下手な飴と鞭を止めて意識を通していって後は自然に委せるのが良い。意識を通せば道理にも明るくなり相手のことや自然も理解するようになる。但し闇については話を区切った方が良かろう
476 :
考える名無しさん :2008/06/15(日) 14:59:46 O
釈迦如来
477 :
あめのみやつこ :2008/07/05(土) 20:23:47 O
慈悲とは難しい。自然な慈悲はすべての人の涙を誘うものだ。もしある慈悲に涙が流れないのだとしたら、それは慈悲ではない。自然に反した押しつけや無理な与えになる
478 :
考える名無しさん :2008/07/18(金) 02:09:43 O
例えば日蓮が滝の口にて首をはねられそうになった時、瞬く星ぼしの内ひとつが流れ星となって流れでたという。星が流れた瞬間に宇宙は隕石を落とし日蓮の命は守られたという。現代でも日蓮と宇宙の関係を説く人が多い。その時の凄みを
479 :
考える名無しさん :2008/07/18(金) 02:17:53 O
恐ろしげだが運命とは時に宇宙が表裏一体となって何かを守ることがある。その時我々は一点に何かが集中する奇跡的な場面に遭遇する。その時よく物事がスローモーションになりドラマチックに物事が進行し集約されるのだ。人間はこの宇宙の真理の一点から遠ざかってしまった。
480 :
考える名無しさん :2008/07/18(金) 02:46:40 O
結局万物は分離し世界は一見何の変哲もない雑多なものによってすべて何の関わりもなく存在しているようだがそうではない。すべてはどこかで関わりあっていて万物は舟のように舵をとって進んでいる。その法則のもとに宇宙はあるということだ。
481 :
考える名無しさん :2008/07/29(火) 20:26:36 0
>>197 から
>>242 までの龍宮さんが書いた仏陀の言葉ってどの経典からの引用なんですか?
すごく心に響くんですが
482 :
考える名無しさん :2008/07/29(火) 21:16:15 0
>>481 おそらく、仏教全般をベースにした、彼(彼女)独自の解釈&編集。
個々の単語についてならば、これはここ、これはここ、と言い得るかもしれんが
煩雑になろうし、彼(彼女)独自の解釈の方が大勢を占める以上、あまり意味はないだろう。
キリスト教的世界観も若干仄見える気がする。
483 :
龍宮 :2008/07/29(火) 21:56:09 0
構成も考えずお恥ずかしい限りです。 引用はしていません。浄土三部経の無量寿経と法華経の序品〜方便品 あたりを読んでいて思いつきで書きました。 あとは今まで生きていたなかで入ってきた情報を元にして 心のままに書きました。 仏陀という人が日本仏教のみならずアジア圏で考えられている像が あまりに堅い完璧なもので人間としてどのような人物であるか興味があり そればかりを考えていた時期がありました。それである仏陀像を 自分なりに解釈してイメージしたものを書いてみたのです。 仏教の教義や律、経、論にかかわらず 厳格で神聖なイメージのある仏教が仏陀の精神性を受けているのは間違いありません。 たぶん孤高を保ち気高い人でありそれを見ていた人たちは みんなその精神性からくる姿に魅了されていたのは事実でしょう。 仏陀のまわりにいたお弟子さんはみんなその精神性をみて自分に 投影されていたと思います。そこから教義や精神のあり方が画一的に 今の仏教に結びついていると思います。だから仏陀という人物を 描いて見たかったのです。つまりは仏教は仏陀の原型を未だに追っている 部分がありそれがある普遍的な精神性に結びついているのだと思います。
484 :
考える名無しさん :2008/07/29(火) 22:00:03 0
ニルというのが否定の意味でヴァーナというのがたしか生命 。 生命の否定、ニルヴァーナ。ろうそくの火を吹き消すといういいがある。 ろうそくは君だ。長いか短いか、どちらにしろ生きていることはその火が燃えている。 無駄な燃焼をしないということが涅槃だな。
485 :
考える名無しさん :2008/07/29(火) 22:06:29 0
nirvana
486 :
龍宮 :2008/07/29(火) 22:16:29 0
仏陀は人を感動させてきたのだと思います。 どうやってそれをやってきたのか、それは 仏陀は空気や人の精気や精神の調和などを神懸かり的に 読めた人でありそれでいて哲学者だったのでしょう。 キリストもそうですが宗教者の伝説上の人物はみんな 神懸かり的に人の心を掌握でき一言一言一挙手一踏足に 無駄がなく精神が光に導かれるまで何かをいえる人だったのだと思います。 人間はあるところまで行き着くと涙を流します。 涙を流すのは遠き日の自分と今の自分の苦しみが直接的に出会った 瞬間に人は感動し涙を流すものです。仏陀はたぶんそれがわかっていた。 未曾有に深い人間を見渡す目と果てしなく悲しみを知る慈悲が 備わった希有な人だったのでしょう。 気高いとは人に依存しすぎないそれでいて人の生から決して離れない そういう人物像が近くにいた人々を魅了してきたからこそそれが 未だに残っている。仏教の僧の在りかがたぶん仏陀に投影されて できた者なのだと思います。そういった イメージから仏陀に何があったのか?それを経典から伝承から みて書いてみたのです
487 :
龍宮 :2008/07/29(火) 22:29:02 0
それから仏陀はいろいろいってきたのだと思いますが その哲学は仏陀が生きていくなかで変化していったのだと思います。 お弟子さんがのちに編纂していった教義はいろいろいっていて たぶんはじめは纏まっていたけど聞いていくなかで矛盾なども 出てきたのだと思いますが、仏陀の哲学の根本は今考えるに「中道」 と生命原理を説いたものでありそこから派生して深いことを 話てきたと思いますがそれが簡単でない分いろいろな解釈や教義 が残っていてそれが結構驚かされるようなものがたくさんあり いったいこの考え方の原型はなんだったのだろうと考えると 確かに深い生命哲学論者であったのかと想像します。 ともあれ仏陀の魅力は哲学ではなくその姿であったのには間違い ありませんが
488 :
し :2008/09/09(火) 19:20:51 O
唯識真思高僧説
489 :
考える名無しさん :2008/09/20(土) 14:32:32 O
日蓮正宗の大石寺にいってきましたよ。非常に参考になりました。やはり日蓮宗の末端特に日興流は力の使い方が悪い。悪口が穢い。創価学会含めて、天皇家は癌を創ってしまったようですね。
490 :
考える名無しさん :2008/09/20(土) 14:36:33 O
金貸しとしては是非日蓮宗系のお金が欲しい。ではそのように
491 :
考える名無しさん :2008/09/20(土) 16:51:48 O
悪こそが救われるといった親鸞はすごい。哲学者だ。大悪は許されないが小さな悪はいいといった池田大作とは大違いだ。
創価は仏教じゃないよ あれは単なる池田教
『仏陀は歴史上の人物であり、したがって人間にとって理解しやすい。キリストは歴史上の人間であるとともに神であり、そのために遥かに捉え難い。本当は、キリストでさえも自分自身を把握できなかった。仏陀はおのれの生涯を全うし、年老いて死んだ。 ところがキリストの、キリストとしての活動が続いたのは、おそらく一年にすぎなかったであろう。』(みすず書房 ユング自伝より抜)
キリストが歴史上の人物だと思い込んでるか否かが 聖書圏(西洋)の人間とそうでない人間の境だな。 無神論者や反キリスト、ユダヤ人などであっても 聖書圏の人間である以上は、ある程度はキリストみたいなものが 歴史的に存在しうると考えている、そういう風潮を受け入れている。 犯罪や、犯罪的なものの考え方が許される余地があると形而上の 夢想に望みを繋ぐ、これからも犯罪や犯罪的な考え方を続けるために。 犯罪性を自粛するという堅苦しさを自分自身が受け入れないために。
じゃあ、非聖書圏の人間が確固たる歴史観の下に キリストの存在を全否定してるのかというと、そういうわけでもなく、 よく考えないままに放っといている。神話と現実をあまりよく分けて 考えない人々の信仰対象だと慮って、仏陀や孔子などとも同列に 考えてあげているところがあるが、西洋人にとってはキリストってのは 仏陀や孔子はおろか、ソクラテスやプラトンとも全く違った意味合いを 持っている。ギリシャ神話やエジプト神話のような、形而上の夢想も あって、ソクラテスやプラトンみたいな現実的な歴史上の人物もいて、 形而上の夢想でありつつも現実的な歴史上の人物でもあるという 強引な定義の上に唯一、キリストという存在がある。聖書圏だけにおいては。 聖書の改善版的な意味を持つコーランを信じるイスラム教徒ですら、 キリストを歴史上の人物と捉える代わりに、死んで生き返るみたいな 夢想的な部分は切り捨てて、長生きして死んだただの人間だと考えている。 徹底的な現実主義者でありつつも、唯一の夢想としてキリストだけは信じる、 徹底的な現実と夢想のせめぎ合いが科学のような精密な学問も派生さす、 良くも悪しくも人類文明を体系構築的に発展させてきた聖書圏の人々。 キリストが存在性の根本から不能であると気付いた時点で、良くも悪しくも終わる。
496 :
考える名無しさん :2008/10/20(月) 00:07:15 O
大蔵界曼荼羅(マンダラ)
497 :
考える名無しさん :2008/10/25(土) 09:35:09 O
光のマナ識 希望の阿頼耶識ね。世界に向かわれたし
498 :
考える名無しさん :2008/11/19(水) 15:08:32 0
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
中村元には騙された。仏教権威の著しい毀損。 サーリプッダさんにモッガラーナさん。 漢訳仏典の荘厳さからは程遠い、俗化された聖教。 大作のほうがまだマシだっての。
500 :
考える名無しさん :2008/11/20(木) 15:27:29 0
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
501 :
考える名無しさん :2008/11/20(木) 15:28:05 0
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人は、どうせみんなから捨てられる。 このことは、肝に銘じておいたほうがよい。自分の仲間うちからも捨てられる。 日本の知識 業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の 悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。 この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、そのことが周りに バレたくないばっかりに、やたらと、象徴語と、ドイツ式観念語 (本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。約500語) を使いたがる。 読んでいる方はいやになる。 だから、最後には捨てる。 私は、そういう、本来学者になるべきではないのに、学者になっている人たちの、どうしようもない 下手くそで、難解なだけの論文を、30代のこと付き合いでたくさん読んだから、 このことが、よく分かる。エリート銀行員か、官僚にでもなれば良かったのに。 こんなに自分に向かないことで苦しんで、しかも、こんな下手な誰も説得できないような文章を、 苦しみながら書いてると、あとあと大変だろうな。どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。 50歳ぐらいで自分に絶望するのではないか、と、ひそかに、同情した学者の卵たちを私は たくさん見かけた。 当たり前のことを、はっきりと書くことができない。 やたらとこねくり回して、それが 「するどい批評になっていなければいけない」と、勝手に思い込む。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P35〜36
荘厳さと難解さは違うんですな。もちろん平易さとも。 文章の内容に合った臨機応変の対処を。
503 :
考える名無しさん :2008/11/22(土) 19:53:09 0
[569] 以下の一連の投稿文に、私の考えを書きます。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/05/31(Thu) 05:30:06 私たちは、「研究者」などで食べて、生きているのではありません。そういう気取りが、今後、 どれぐらい、学問道場を、重苦しくするか、と思いまして、こういう、日本国での学問の やりかたの基本の点は、決して、大きく間違わないように、私が、徹底的に今のうちから、 目を光らせようとおもいます。 大事なことは、日々、読書して、そして、それが楽しくて、発見があって、「ああ、そうだったのか」 「なるほどなあ」と、驚く喜びに満ちていることです。それ以外の学問は邪道だ。自分たちだけ 偉いお坊様だと気取って、哀れなことに信じ込んだ、天台密教のクソ坊主たち、新カント学を 名乗って、アホダラ経の、自分たちにも意味不明のことを書き続けた、東大のクソ学者たちの やったことだ。 私たちは、あの悲惨な轍(てつ)は、絶対に踏まない。
釈迦は王子なのに実力主義者だろ。 そもそもバラモンを勝手に再定義してしまう釈迦が裏切り者なのだ。
仏教もあくまで一種の社会学だ。 それもカースト制っていう、最大級の格差社会で生まれた。 社会を十分に傍観的に研究するために釈迦も出家をした。 社会の内側で研究してる内は、どうしたって少なからず 自分自身の利益を考えてしまう。自分の利益よりも他人の利益を 第一に考えるという、普通の社会人とは逆の立場にあえて 身を置き、そういう自分と普通の社会人との関係性によって 社会全体の均衡を保つ、絶対的傍観者であるが故の特殊な 社会的立場までも考慮に入れている、そこまで配慮している。 決してただの厭世には留まらない、最大級の厭世からまた 社会への配慮に戻っている、鎮護国家という余裕すらある。 国家主義を超えた厭世主義であるがために、余裕としてまた 国家までも包含してしまう、そこまで行って初めて真の仏陀となる。
「仏陀である」という自覚があるのなら、 おそらくそれは「キリストではない」という自覚と同義となる。 社会を十分に傍観する立場に立つのが仏陀なら、 社会をそのまま自分自身に内包してしまうのがキリスト。 自意識が社会と一致するか、もしくは社会以上の大きさとなる、 社会は自分であり、自分が社会だから、自分がやっていいと 思うことは何でも社会で許されるという極大の自意識過剰。 自分が許せることが何一つ社会では許されないからこそ 社会の外側に出てしまう、そこでまた社会を見詰め直す 仏陀とは真逆の存在。 【キリ(社会)スト】 ⇔ 【仏陀】 (社会) 仮に仏陀もキリストもいるというのなら、仲良しなどは絶対無理、 一つの社会を巡った場合の天敵同士になるだろう。
仏陀はおそらく実在したし、仮に実在しなかったとしても
仏教徒が涅槃と呼ぶような状態は実在しても何もおかしくない。
一方で、キリストはおそらく実在しなかったし、仮に実在しても
キリスト教徒が復活と呼んでいるような死者の蘇生は
実在しない。キリストも普通に長生きして死んだだけ。
イスラム教徒含む、非聖書圏の人間のほぼ一致した見解。
ただ聖書圏の人間だけが、
>>493 を見ても分かるように
仏陀の実在を信じつつ、さらにキリストの実在までも信じる。
くそを信じずみそだけを信じるのと、みそもくそも信じる分かれ目。
信仰を健全な範囲内に留めるのと、何もかもを信じ込む白痴、
迷信までも完全に容認してしまったのの分かれ目。
508 :
考える名無しさん :2008/12/02(火) 23:26:43 O
地球はあと20億年かかる。
509 :
考える名無しさん :2008/12/03(水) 04:05:22 0
www
510 :
考える名無しさん :2008/12/03(水) 04:38:52 0
あ
511 :
考える名無しさん :2008/12/03(水) 05:07:56 0
え
512 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/12/03(水) 12:03:24 0
>>507 あなたは幻術を理解するまで何年かかりますかね?
800年 あなた方が私並みに迷信を捨て去るのにかかる年月と同じです。
とりあえずスプーン曲げ(精神コントロールを応用するほう)から練習した方がいいんじゃね?
迷信は、精神的に苦痛なんで、いらーん
いらんといってもそれを少しでも拠り所にしている以上、無くせないだろう なくなったらこまるのだから それは、スプーン曲げができるようになるには十分な精神コントロールが必要であるのと似ている 精神コントロールもおぼつかないのに金属を自由に曲げれる力だけ得たら生活に支障がでるから 生物というのは段階をふむようにできているようだ
少しずつ、迷信に頼らない楽な精神性に成長すればよろしい。 それこそ世代を踏んで、本当に800年かけてでもいいから、 進んで火に飛び込むウサギから、犬猫ぐらいまで進化する。 そこにこそ、楽に開けた真の浄土がある。いくら拡充した所で、 天国や煉獄もどきの地獄でしかない領域とは全くの別物の。
518 :
考える名無しさん :2008/12/17(水) 13:43:35 0
人間界の上が神界でこれは一応連続性があることになってるけど、 すると仏界は全く違う第三(第二の)の世界だといえるんだろうけど、 道元とかも仏道修行も終わりはないと言ってるから結局輪廻から逃れられない気がするが。
519 :
し :2009/01/03(土) 00:29:02 O
いいか?仏陀が菩提樹の下にいると何人かの縁がある人が順に来たそうだ。縁が縁を呼び光から闇に良い人から悪魔に縁が繋がったそうだ。良いことの後に悪いことが悪いことの後に良いことがあるのは何故か?
520 :
考える名無しさん :2009/01/03(土) 00:53:55 O
まあいいや仏陀は自然の産物だ。そもそも自と他は違う。違うが差異があり同じだ。だから歴史はすべて自と他から哲学から入っている。それから認識が先行したのは良くない。良くないが数学が発達して否応なしに悪いことが頭でされてる
521 :
考える名無しさん :2009/01/03(土) 01:57:44 0
確かに科学がもたらした物は大いに肯定できるようなもんじゃないけど 物理?や数学が悪って決めつけるのもどうかと。数学や物理学は一つの認識であって、 それがどう発展しようと神仏は気にも留めてないだろうしそれで簡単に宇宙が分かるわけでもない。 つまりこの世の現象は(全くとはいわないが)認識とはほとんど隔絶されて無関係に動く。 だから数学の発展とかお構いなく哲学は哲学でやっていけばいいと思うんだけどな。
522 :
し :2009/01/03(土) 07:26:47 O
北宋・五胡十六国時代・南宋・元・明←ここ・清
523 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 00:06:41 0
科学者は宗教をバカにしたりするが、真っ当な宗教家は科学をバカにしたりしない。 これだけでもう、科学者のほうが不誠実で、真っ当な宗教家のほうが誠実だって分かる。 科学は人間性を司ったりはしない。人間性を司っているのはあくまで宗教だったり道徳だったり。 宗教や道徳をバカにして反故にするんなら、人間としてはただの犯罪主義者にしかならない。 その人間自身の科学や哲学の修得度とはまた別のものとしてある、人間性の善し悪し。
524 :
考える名無しさん :2009/01/31(土) 23:02:26 0
一口に宗教と言っても、現代日本の巷に溢れてるような オカルトまがいなやつとか、自己啓発的な新興宗教とかを宗教と 言っていいのかはかなり懐疑的
真っ当な宗教か、カルトかの違い。 道徳のための宗教や宗教のための道徳であるか、 犯罪のための宗教や宗教のための犯罪であるか。 道徳のドミノ倒しを促すか、犯罪のドミノ倒しを促すか、 天と地どころか、天と地中ほどの落差を両者間に与える。
526 :
考える名無しさん :2009/02/04(水) 23:22:31 0
科学者や法律家であるが故に偉いということは、 お坊さんやお侍さんであるが故に偉いということを決して上回らない。 数学的帰納法によるプラスマイナスゼロ、罪と罰のマッチポンプ、 いつだって人間としての実体性や実在性に沿わない概念の処理ばかりに奔走し、 一概に善良な人間性を追い求めようとする努力などをしたことはない。 紛う方なき実体性や実在性に基づいている人間の、善良さの真理(善智識)や 道徳こそを積極的に追い求めてきた僧侶や武士などに比べれば、 人間としての偉大さは幼稚園児と大人ほどの差にまで開ききっている。 科学や法律を「悪用せずに善用する」という、一概な姿勢を保てない限り 科学者や法律家が僧侶や武士並みに偉くなるなんてことは絶対無理だが、 現状では何でもアリな概念遊びの塊りでしかない科学理論や実定法から、 真に実体や実在である人間にとって有用かつ善良であるものだけを 抽出する作業が必要となり、それはいま科学者や法律家が自分たちの 職務をこなす上で全く義務とも嗜好ともしてないところ。 人間にとっての善智識や道徳に基づいてのみ科学や法律を活用する、 怠ってきたが故にこそ無駄に概念ばかりが拡張されてきた所もあるから、 概念の拡張以上の善用と悪用の取捨選択こそがいま求められている。
527 :
考える名無しさん :2009/02/26(木) 22:09:39 0
涅槃って「悟り」と混同されてる場合が多いようだが、釈迦入滅が涅槃だぜ? 悟りを開くことは「成道」。華厳時の悟り。法華涅槃時の入滅。 前者が有余涅槃で後者が無余涅槃とも。 成道か有余涅槃とちゃんと言わなけりゃ、カートコバーンの自殺あたり とまでごちゃ混ぜになってしまう。ちゃんと悟りを大成する青年期の釈迦。 こちらを追い求めている人間のほうが遥かに多い、現世利益の時代の実質。
528 :
NAS6 ◆kl1JWE6W72 :2009/02/27(金) 00:21:47 0
ヤコブの手紙4.4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。 世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵となるのです。
529 :
考える名無しさん :2009/02/27(金) 00:22:06 0
うん、オウム真理教の入信者たちも、 「現世で最終解脱を目指したいと思います」って 選手宣誓みたいに宣言してたよね。
530 :
考える名無しさん :2009/02/27(金) 00:28:26 0
「数学的帰納法によるプラスマイナスゼロ」って何だ? わけ分からん。
釈迦の場合、成道から涅槃まで45年。無理な布教をしなけりゃあと20年は生きられたとも。 悟りを得ることは、長生きで真っ当な人生を送る要でこそあるのであって、 早死にしたり犯罪したりは全く悟りの本質に背いている。 道元や日蓮がいくら峻厳で突出した教義を示そうとも、5,60歳で死んじまったんじゃあ 8,90歳まで生きた法然や親鸞に支持率で負けるのも仕方がない。 いくら教義が緩かろうが、釈迦の生き様を体得してるのはこっちだから。
532 :
考える名無しさん :2009/03/02(月) 02:39:54 O
カトゥマンズの僧侶に会いに行くか?ミスティックリバー〜深い河
533 :
考える名無しさん :2009/04/06(月) 14:38:49 O
アングリマーラよよく見るが良い
534 :
考える名無しさん :2009/04/07(火) 20:32:22 0
[850] 自画像を描くチェンマイの象の映像です。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2008/04/20(Sun) 06:18:47 副島隆彦から 私も、このチェンマイの象が描く絵に感動しました。 仕付けたらこれぐらいは出来る、ということなのか、それとも、高等動物はこれぐらいの正確な外界認識をもともと しているものなのか、と自問します。動物行動学(本当は、社会生物学、ソシオ・バイオロジー)の研究者たちが、 実験観察用に飼い慣らしているチンパンジーやゴリラでもこれほどの描写能力は無いでしょう。 私は、人間は、犬猫などの動物よりも劣る愚かな生物である、という、山本夏彦(やまもとなつひこ)翁の思想に 影響されて、ずっと30年ぐらい、そのように考えてきた人間ですから、さらにこの考えを深くします。 人間は、狂った猿である、と本当に思います。動物には、芸能人も、スポーツ選手も、政治家も、王様も、税金 取りも、官僚もいません。 動物は無益な争いはしません。餌を取る為にしか他の動物を殺しません。生活環境の改善と「生命の再生産」 ( reproduction of life リプロダクション・オブ・ライフ、子育て、種の繁栄)以外のことには熱中しません。 スタジアムに集まって数万人で観戦や芸能に酔いしれるというような馬鹿なこともしません。 人間が持つ愚か極まりない、共同幻想(=集合的な無意識、イデオロギーや宗教などもこれ ) がありません。 西欧人は、近代(モダン Modern )が、はじまった今から丁度500年前から、「狂気としての人類の近代」を 生きざるを得なくなったのだと、私は判定しています。やめておけばいいのに自己の存在の理由を問いただしはじめた。
535 :
涅槃 :2009/04/10(金) 03:11:23 O
蓄積されたものというものは時間の経過がないと解消されない。だから怖いし一筋縄ではいかないのです。起きてしまったものは止めようがない。それから皆苦しみの中に目的がある。慎重にいかないと全部がいい平らかな道はないのですよ
根本的な方向性が、人類の繁栄ではない破滅という反対方向に 振れ切っているんで、ちょっとやそっとの方向修正ではどうにも。
537 :
考える名無しさん :2009/04/10(金) 10:34:04 0
ピンポイントに破滅に向かっているからこそ辛く苦しいんだよ。 人類という存在性にとって、厳密に間違いきっている存在性(共食い)だけを わざわざ特別な追求対象としているからこそ辛く苦しい。 間違いきってはいない限りでの存在性の追及であればちっとも苦しくなく、 3000年以上前からそれはそれで追求されているんだが、あまり重視されない。 本物の真理の追究なんかよりも、間違いきっているが故の狂乱のほうに 心を奪われて、すでにある真理すらも見えなくなってしまっている。
538 :
考える名無しさん :2009/05/12(火) 21:20:45 0
無限に柔らかい、無限量の綿の中に、 どこまでも限り無く沈み込んでいく感じ。 早い話がリラックス。どこまでも限り無い。
539 :
考える名無しさん :2009/05/28(木) 22:09:34 0
栄西−空海−華厳経 一遍−融通念仏宗−日蓮―最澄−浄土宗法然−キリシタン−浄土真宗−
わたしが来たのは地上に剣をもたらすためだ、と思ってはならない。 剣ではなく、便器をもたらすために来たのだ by キリスト
541 :
考える名無しさん :2009/05/29(金) 22:19:45 0
実はもう、キリストなんてちっとも信じちゃいないくせに。 ただ信仰破棄に伴う罪や責任の受け入れが怖いだけのくせに。 信仰のフリした信仰ごっこ。宗教のフリした宗教ごっこ。 本物の信教からすりゃ甚だ迷惑なだけの。
542 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 06:42:23 O
殺害にいたる論理に精通しているのが法然と親鸞それから日蓮だが現代の日蓮宗はようやくいくつかの問題を脱したようだ。浄土宗は純粋善で禅宗に至る
543 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 06:55:03 0
昔から坂の問題はあったようだが一遍のひじりは遊行−楽にすることだ。 一遍にも迷いはあったが夜明け前苦行をやめて遊行に移ってから民衆がついて きた。では苦行とは何かということになる。楽か苦か?善か非か?
544 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 08:25:59 O
まあ熊野速玉大社ですよつまるところ
嫌がらせじゃない。禅も臨済宗禅は坐禅苦行したあとに楽な姿勢をとらせる。曹洞宗は基本的に現在苦行は自然に反するかを今迷っている元来は苦行。
546 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 10:46:28 0
富貴にも苦行にも偏らない中道を釈迦が説いたにも関わらず浄土門以外の 仏教宗派が苦行を行うのは、華厳経などを拠り所にしている場合が多い。 高い崖から飛び降りるような苦行もあれば、錬金術まがいの利殖行為もあり、 売春もあり、喉に溶けた鉄を流し込むような重罰の描写もある。 それら全ての重々無尽の縁起を踏まえつつ、普賢菩薩の導きによって 最後には最高の悟りの境地へと至る善財童子。全く富貴にも苦行にも偏らず ど真ん中だけを保ち続けるんなら、別に儒家の中庸であってもいい。 そうではなく、一応は富貴と苦行の両極端に到達し、森羅万象の縁起を 確かめてからまた中正に戻ることで仏教独特の中道が確立される。 何ものをも知り尽くしてしかも囚われぬ、開いて結ぶ戯れの妙技がある。
547 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 13:48:01 0
548 :
考える名無しさん :2009/05/30(土) 16:13:07 0
釈迦が誕生直後に発したとされる言葉「天上天下唯我独尊」、 生まれた直後ってのは冗談にしろ、「真俗二諦」への潜在的な達観を 述べた言葉としては、驚愕に値する意義を持っている。 真諦を表す「天上」、俗諦を表す「天下」、今風に言えば「宇宙」と「地球」。 宇宙の真理を体得して、地球上の公共性にも沿った見解を持つ。 2500年前のインド・ネパール国境付近で生まれた王族の子供が すでにその段階に値する識見を会得していたとする頼もしさ。 そこを目指しているのではなく、そこから仏教は始まっているし、 俗諦だけなら同時期に中国で生まれた儒教などもそこから始めている。 宇宙の真理と地球上の公共性との、極端な誤りのない範囲での追求を 現世界人口の半数程度にも値する地域で競争させてきた系統としての価値。 大間違いの価値観こそを増殖させてきた人類の1/3(イスラムは含まない) を屈服させて支配下においたとて、自分たちのほうがすでに多数派なので 闇雲に利益を貪り取ろうだなんて妄念は生まれ得ない。正しい識見の 持ち主こそは、悪いことをし続けるだけの少数派としての猶予も持たない。 個々の国としてではなく、仏教圏や儒教圏としての非アブラハム教圏が 全体的に天上天下唯我独尊であり、故にこそ慈しみを以て外界にも接する。
549 :
考える名無しさん :2009/06/06(土) 00:17:01 0
仏教6道輪廻 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天のうち 地獄は甘くさい血のにおい、餓鬼は貧しさ、畜生 日本13宗の宗派にはそれぞれ問題への知恵がある。 日本人のカルマはすべて仏教とキリシタンに入っているといっていい。 一遍からが曹洞宗との対峙になるが楽が苦になる前提が出てきた。 駆け込み寺といえば日蓮宗と臨済宗、曹洞宗。 北海道問題がこちらに移行している。 競輪競馬は中国絡みで日蓮宗より曹洞宗に因っている。 曹洞宗の原理が果たしていいのかという言説になってくる。
キリシタンなど、創価学会と同程度の扱いだ。 仏教全体と比肩させるほどのもんでもない。 地獄餓鬼畜生の三悪趣しか知らないカルト。
ウチの親戚に、ちょっとヤバめのおばさんがいて、 酒が回ると神様がどうだ、聖書がどうだとイっちゃった目で語るんだが、 友人に誘われたかなんかして、アムウェイの販促に凝り始めて、 鍋やら洗剤やらを買わされたりもしたんだが(鍋は数年で把手が駄目になった)、 「まあ、キリスト教とかに入るよりはマシだよねえ」と噂してたもんだ。 こんなもんだ、大体の日本人のキリスト教観ってのは。アムウェイ以下。 オウム事件も創価やキリシタンみたいなカルトにとってこそ響き、 普通の神道や仏教には何の関係もない。完全に断絶している信頼の壁。 正統宗教とカルト宗教の間。浄土真宗以上とアムウェイ以下の間。
552 :
し :2009/06/06(土) 23:34:53 O
黄檗宗ー三禅といわれ臨済宗と通じている。中国人隠元が開祖であり
553 :
外国人 :2009/06/07(日) 00:30:25 0
長男は寺にいて戦いがないことに気づかなかった。 次男はいちはやく米沢にいって鶴岡へ移送された。 三男・・・
554 :
道元禅師 法然聖人 法華 市川亀次郎 :2009/07/13(月) 20:57:26 O
ようやく到達だ。受け取れ。それが全員の親だ。完
555 :
にるば :2009/07/13(月) 21:03:49 O
ひそーひひそー
556 :
四ノ宮 :2009/07/30(木) 03:29:57 O
降下するの意味わかるか?十二縁起のなかに涅槃と仏生がある。思った以上に縁はすべてに対している。地獄界の入り口は果報に向かって来る。
557 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 10:02:35 O
('A`) (| |) | ●| ∪ ∪
558 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 12:52:35 0
仏教の因果律に一念三千世界という観念がある。十如是、十界、三世間の 一念三千大世界。即ち十如是は時間の観念に相当する。相、性、体、力、 作、因、縁、果、報、本末究きょう等。もともと仏教の観念は空の観念で 相とはもともとの性質。この性質はそのまま社会構造といってもいい。 つまり人間でも物でもすべては経過して蓄積された地層がある。これが因果応報 によってすべての因になる。性質が体にやどりそれが物事を動かす力に なる。ほっておいても石はいつか動く。動かぬ石は動く可能性を有して存在する。 時間の観念は急に物事が起こるというのではなくちゃんと経過した時間の もとに起こるもので放置すれば物事の動きは遅れる。また悪い力は別に作用 していくものだ。社会構造は十如是というもともとの宇宙の始まりから 十界という段差ある社会構造へと変化しこの時間は経過を辿る。
559 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 12:57:46 0
天台宗の考え方だが空は無我。無我にはちゃんと相がある。それでもわだかまりのない心で いることは難しい。経過は結局経過。無理してもしょうがない。多少無理にすべきところはあるが
560 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 13:06:46 0
浅田彰の構造と力ではピュシスとサンスがいかなる方向を取って 社会構造となるまでの説明と聖と俗のところに社会構造のそもそもの忌みがある。 つまりよごれについて相には濁点やよごれみたいなものはまとわりつく 識のはたらきにも汚れたマナスなるものが言われるが平安時代のよごれ 室町時代の穢れ、江戸時代の中期あたりからの権力構造。赤穂浪士や雲や鬼 もちゃんと社会構造に組み込まれている。それを無視してきれいなオフィスで 仕事はなかなかないのだ。疲れる
561 :
考える名無しさん :2009/08/09(日) 18:37:27 O
どうにかしたい。肌荒れもどうにかしたい。
562 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 01:36:25 O
('A`) (| |) | ●| ∪ ∪
563 :
考える名無しさん :2009/09/30(水) 14:53:26 O
(^∀^)ノ
まんこ痛い
565 :
し :2009/10/03(土) 12:00:43 0
融通念仏宗は華厳経と法華経を正依と旁依においている。 空の概念はものごとの連続性を示していて色は空に異ならず 空は色に異ならない。つまりは空は常に終わりなく続くものごとの 地続きを言う。つまりは終わりがあるようでものごとには終わりはない。 社会の構造が混乱をきたしたときにそれが終息することはああるが それは空の概念からすれば前の続きの静けさに過ぎない。空は色 つまりはものごとには生気があり地続きは常に色がある。 ここから巨編である華厳経と法華経が始まる
566 :
し :2009/10/03(土) 12:11:18 0
つまりは意識の上では終わりはあっても すべては空の地続きにありものごとの終わりはなく 終わりなく常に続く状態を色としてみる。 法華経は物語と十如是(時間と因果)と十界で成り立つ。 華厳経は物語とものごとの成り立ちの美しさの論を示す。
567 :
考える名無しさん :2009/10/03(土) 19:28:50 0
聖徳太子が飛鳥から三論、倶舎、成実、法相宗、華厳、律の南都六宗を 招いたときに伝来した華厳宗が残っている。東大寺、興福寺、薬師寺などの 寺も立てられた。
全てを知る(認識する) 時間を超越した自我の状態 そこでは涅槃は語られず、涅槃は言葉として在るのみ。 理は言葉に、言葉は虚無に、虚無は涅槃に還る。 人間は本来そうして始まるものだね。 涅槃に立ってから、生きるに歩む。
570 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 08:55:56 0
571 :
考える名無しさん :2010/01/19(火) 15:42:08 0
この世は、「諸行無常」で、実体は無い。「諸法無我」。そして 「一切皆苦」。しかし、悟れば「涅槃寂静」。 其処までは、単純には行けない。
573 :
あめのみやつこ :2010/02/11(木) 08:32:50 0
今死ねたらどんなにいいだろう? ただ死ぬときはどんな死に方をしても痛い。 一度生を手放すと駄目だな。寝るときに思う。 ああもうこれで終わりなんだと・・・・
574 :
考える名無しさん :2010/02/15(月) 01:07:09 0
575 :
考える名無しさん :2010/04/05(月) 16:51:36 O
私には何もない。私には何もないのだ。だから私は貴方に何も与えることはできない。与えるどころか何かを奪いたい気持ちになるかもしれないのだ。嗚呼ダルマのなかで私はニルバーナに至ることが私にはないのだ。
576 :
考える名無しさん :2010/06/13(日) 14:28:06 O
生きながらえて夜明けをみる
577 :
考える名無しさん :2010/06/13(日) 14:55:43 O
ガンタンク
578 :
考える名無しさん :2010/06/16(水) 04:14:33 O
さあまた夜が明けるが今日は陽がでない
579 :
考える名無しさん :2010/06/17(木) 03:32:09 O
雲がない。ふたたび陽は昇るだろう
580 :
考える名無しさん :2010/06/19(土) 04:33:30 O
雨で太陽がでませんね
581 :
し :2010/06/20(日) 04:26:40 O
ライジングサン
582 :
やみつき :2010/06/20(日) 19:47:38 O
結局陽がでない。
583 :
し :2010/06/26(土) 05:04:01 O
また朝に陽が昇らぬのか
584 :
考える名無しさん :2010/06/28(月) 04:23:23 O
さあ今日も夜が明けますよ。今日は陽がでそう
585 :
考える名無しさん :2010/07/01(木) 21:19:28 0
おれは自己の考えを通して世界を再構築している。 おれはおれから出ることができない。 おれはおまえを見ておれの考えを知る。
586 :
やみつき :2010/07/04(日) 05:44:16 O
さあ晴れの日だ
587 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2010/07/10(土) 04:54:23 O
悩み大き夜明け
588 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 05:54:04 O
アングリマーラよよく見るがいい。本質は元来悪である。人間はその中心に悪を抱えているのだ。その悪は果物の実と同じである。そのことをよく考えるのだ。その本質の意味するところははじめは美しく甘い実なのだ。よく見るがいい
589 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 06:11:16 O
仏陀が鳥が羽を広げたように手をゆっくりと広げ鳥と同じように風に逆らわずによく自然な動作で手を仰ぐと陽が現れあまねくすべての万物を照らした。そうして仏陀はゆっくりとまた話はじめた
590 :
考える名無しさん :2010/07/14(水) 06:20:37 O
アングリマーラよ陽は美しい。そして果実は美しい。そして人間の本質は美しい。仏陀よよくあなたの言うことはわかる。そうその通りだ。しかしあなたは私の悪を見ている。私の抱えている悪を。そう私は果実の甘い部分ともうひとつ黒いものを抱えている。
アングリマーラよ美というものが人間の本質であるのと同等に悪というものも人間の本質なのだ。人生とは本来甘美である。しかし同時に黒い陰も落とす。悪というものを今から語ろうアングリマーラよ。そうすることが必要なのだ
すべての実体あるものはすべてその内部で変化し成長する。そういった意味で鳥も植物も同じつまりは清んだところを通って生成していくのだ。生成は美であるのだアングリマーラよ
そして生成と相反する要素は死に絶え腐っていくことである。それこそが悪の根源である
ひとつのところに腐って落ち生成されずにまま密閉され異臭を放つもを私は悪と呼びたくはない。しかし静止し生成の円環を拒否する精神や内部は腐る。そしてそれは摂理である
アングリマーラよ私はそれを拒否しない。悪は生成を拒否し静止しているのだ。私はそれを知っている。そして私はいつでも生成の精神である
仏陀よ。あなたはそれを拒否しない。あなたは山から森を通って最上の飲み水になり涌き出す水のごとくまた鳥が空を飛ぶときに受け入れた自分の生成のように覚りを開いた。しかしあなたは地獄に下りたち悪をも見ようというのか?その必要が何故あるのか?
悪との縁起をもつことは私のカルマによるものだ。私には実体によるはじめから創始され生成された実体を梵からわかりカルマをともなう実体とそれをとりまくすべての世界(層)に立脚し自然と法に関係する必要がある
清らかな湧き水はすべて生成の摂理のままに雨が山に降り山から森を通って小川に流れ生成したものである。そして清らかではない水がどこかに止まり泥にまみれてもそれが摂理なのだ
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を食い止めることも摂理だ。 もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
汚水が溜まることが摂理なら、その汚水の浄化を試みることも摂理だ。 もっとも、これらは実際には「摂理」ではなく人間自身の恣意でしかないが。
まじで人間馬鹿ばっかりで、やり取りするのもくだらない。 こいつら5分先の気分を回復できたら5分後も生きてる自動生命維持装置でしかないだろ。