1 :
考える名無しさん :
05/01/08 14:13:05 ドゥルーズの「意味の論理学」を訳すの続きです。 ドゥルーズに関する意見・疑問点なんでも出し合って お互いに理解に勤めましょう。 死のダイブの時にドゥルーズは何を考えたのでしょう。 自殺と最も遠い思想の持ち主の彼が、どうして・・・・ 先ずはこの質問から。
まずは2ゲット
3 :
考える名無しさん :05/01/08 14:16:32
西洋哲学者の誰かが「そのダイブの短い間(地上に激突するまで)にも 彼は哲学的な問題を考えたはずである。」と言っていましたが、 本当でしょうかね。
4 :
考える名無しさん :05/01/08 14:17:49
先ずは4ゲット
エランですよ
続いて6ゲット
7 :
考える名無しさん :05/01/08 18:12:23
エランとはベルグソンの「エランビタール」なのだね。 でも、死んで行く行為をエランとはいえないだな。 エラン=躍動ですもんね。 喜び飛び跳ねる行為がダイブか。
エランが、選ん だのは、帰らん ことであった とさ。
10 :
考える名無しさん :05/01/08 20:06:09
語呂合わせじゃだめだな。 そうか。あったんだな、ドゥルーズ・スレ。 知らんかった。こっちはこっちでやっか。
11 :
考える名無しさん :05/01/08 20:08:17
それでは、ガタリ以前のドゥルーズと以後のドゥルーズ 何処が違うのか・・・・言っとくれ。
年齢が違う
>>11 60年代までのドゥルーズは自分が議論のために用いる概念を哲学史の文脈
の中に位置づけていた(概念についての注釈もこの点で学問的)。
しかしガタリと組んでからは概念がメタフォリックになった。よくいえば
自由、わるくいえば恣意的。たとえば「器官なき身体」。「差異と反復」
までは生物学の文脈をきちんとふんでいたのに、「アンチ・オイディプス」
になると、「器官なき身体とは死の欲動である」なんてことを言い出す。
14 :
考える名無しさん :05/01/08 20:23:15
つまり、ドゥルーズ個人の哲学は 「生成の純粋な流れは、身体的な原因によるのか または、身体的な実在は生成の純粋な流れの所産なのか と言う対立を究極まで進めなかった」と言う事が ガタリの出現の背景になっていると、ジジェクは 言っている。
ジジェク真に受けるなよ
16 :
考える名無しさん :05/01/08 20:27:43
でも、その恣意的な概念を作り出す行為自体が、より ポスト・構造主義的と言えなくもないもんなぁ〜。 年齢が違うのは正しい。 良いも悪くも、ガタリの出現によって、概念人間と言う 概念を作る事が定義ではなく創作になったって事だろW。
14みたいな人がいるからポストモダンは頭が悪いと言われるんだね。
18 :
考える名無しさん :05/01/08 20:29:52
受けないだ。 柄谷君になっちゃうからね。 それに、マルクス復活、カント、ヘーゲルの復活はいやだのう。 もっと、ポスト・構造主義を読まんといかん。
19 :
考える名無しさん :05/01/08 20:31:08
そうか。14は頭が悪いか?
20 :
考える名無しさん :05/01/08 20:33:23
「器官なき身体」は「死の欲動」であるは正すいだす。
>>16 >恣意的な概念を作り出す行為自体が、より
ポスト・構造主義的
「哲学とはなにか」の答が「概念をつくること」
だったことからみても、「恣意的」とも見える概念の創造が
ドゥルーズ自身の目論見だったことは事実。
でも60年代の彼の思考が議論にたえる明確な「論点」を
もっていた(その論点が正しいとは言っていない)のに
対して、DGの場合は学問的に相手にできない論述をしている
ように思う。
22 :
考える名無しさん :05/01/08 20:42:07
ドゥルーズはガタリほど、政治に興味がなかった。 いや、全くないのである。だから、A.ネグリやジジェクのように ドゥルーズを政治的に読む事は正統派の読み方ではないと言う事だ。 多分、フーコー的に読んでるんだな。 ジジェクもドゥルーズを非政治的と言ってるね。
>>20 「正しい」かどうかはどうでもいいんだ。
ドゥルーズ=ガタリが概念をアナロジカルに拡大使用したという事実を
指摘したのだから。
24 :
考える名無しさん :05/01/08 20:46:38
21 そうだな。 君の推論は正しいよ。 でも、論点を合わせられるという読みが、構造を強化する事なんでは? つまり、何が正しいかと言う正統派古典主義的哲学になっちまう・・・ だから、創作に向かったって事では・・・ 確かに、DGの概念は論破できない。それは、音楽を正しくない音楽だ と言って論破できない事と一緒じゃない。
25 :
考える名無しさん :05/01/08 20:48:14
23 分かり申した。 理解できる。 出来たような気がする。
26 :
考える名無しさん :05/01/08 20:50:22
論点を合わせるとは、中の思考であり、ドゥルーズの「逃走・分裂」 ではなくなるんだ。
DGに学問的にアプローチできないって、嘘だろ アンチポモの論理にドゥルージアンが乗る意味がわからん
>>24 哲学にも戦略が必要だろうし、
その戦略が芸術に歩み寄る手法であってもかまわない。
DGも「自分たちの概念は論争のためのものではなく、
使用されるためのものだ」と言っていた。
ただ、そういう戦略が「構造」を相手にするために有効かどうかは、
クエスチョンだな。60年代のドゥルーズは、一見むちゃくちゃ学問的
で堅苦しい議論をしているようにみえて、そういう学問的アプローチ
自体が壊れ始める端緒も示していた。DGになるとはじめから壊れている。
29 :
考える名無しさん :05/01/08 20:55:14
23 それは引用ですから、一つのセリーであり、 色んな文献から引っ張ってくる事が戦略としてある気がするね。
>>27 そいつは失礼。
ただしおれはドゥルージアンとやらではない。
31 :
考える名無しさん :05/01/08 20:57:02
28 なるほどね。素晴らしい分析。 感心・・・・
32 :
考える名無しさん :05/01/08 21:00:07
ラカンやデリダや浅田の言う様に「ズレ」が見えてきたので 論理が壊れていくという時代背景もある気がするけどね。
33 :
考える名無しさん :05/01/08 21:05:48
言うという行為が言っている内容と次元が異なる面がある。 だから、言う内容はそのまま伝わらないってのもある。 だから、作品として投げ出して、「ほれ、これはどう読む?」 って読者の任せているって気もする。
D&Gが繰り返し「メタファーではない」 といっていることをもう一度 真剣に考え直すべきだと思う。 みんな安直なポモ=メタファー論に乗っかりすぎ
35 :
考える名無しさん :05/01/08 21:06:41
そうだ。 同感す。
36 :
考える名無しさん :05/01/08 21:09:53
D&Gはある意味では唯物論者であり、 概念(書物)も物だと考えてるのだろう。 だからメタファーではない。ただ読者がどの様によんでも その可能性を否定しない。
論理とメタファーの二分法に疑義を唱える哲学を、 すべて「曖昧なメタファー」と片づけるのは思考停止じゃないか?
ジジェクは共産党や教会の硬直なドグマにこそ可能性があると考える だからガタリを過剰に叩く そんな人の罵倒は割り引いて捉えないと。 前スレから今スレにかけてまとめてくれている人の見解は理解できるけど、 やっぱりドゥルーズは生涯哲学をやめていないと思う。
>>34 さっきからDGにけちつけてる者です。
おれはポモ=メタファー論などには犬のくそほどの価値も
認めておりません。
しかし、DGたち自身がくりかえし「メタファーではない」
と言表している、そのこと自体を素直に受け入れてはいけないと
思います。メタファーには2つのレベルがあるでしょ。
言語=シンボル=メタファーという広義のレベルと、
メタファー=隠喩という狭義のレベル。
すべての哲学は前者のメタファーである言語を用いて言語の
境界を明らかにしようとしている。その意味でDGは
「メタファーではない」と言う。しかし、彼らの概念は
同時に「隠喩」なんですよ。構造に立ち向かうだけの
厳密さと限界を同時に備えた概念ではない。
40 :
考える名無しさん :05/01/08 21:15:23
はい。 そうだ。 メタファーの裏には「物自体」が隠れております。 だから「それ」が何かは分からんが、 「それ」はどの様なものか(君に現れるか) は答えられる。「それはあのようなものです」と。 これがメタファーである。
>>39 >しかし、彼らの概念は
同時に「隠喩」なんですよ。構造に立ち向かうだけの
厳密さと限界を同時に備えた概念ではない。
既存の哲学に則ってないだけじゃん
「厳密さ」とか「構造」という語をフェティッシュ化してないか?
43 :
考える名無しさん :05/01/08 21:19:04
言語について言えば、既存の言語概念を遵守する事が いやだったのがドゥルーズだ。 だから、彼の哲学は創作である。この事で脱領土化しようとした。
>>37 論理とメタファーの二分法に異議を唱えるためには、
学問的かつメタフォリカルな論述が必要です。
その戦略という点でドゥルーズとDGを比べた場合、
ドゥルーズに分があるとおれは思う。
>>41 それはたんに既存の哲学もDGもまともに読んでない人の意見だ。
46 :
考える名無しさん :05/01/08 21:22:18
隠喩・比喩と言うよりも、文脈を読み替えた事で カントもヘーゲルも違うように読む。誤読万歳と言う事だるね。 その読み方の道筋が無限にあるので、これを夫々のトレ(筋) にそって、セルーと言うのだろうな。
>>45 読んでるけどさ、
「まともに立ち向かう」を定義してみてよ。
ジジェクはOKなんだろ?
>>43 ちょっと待ってほしい。ドゥルーズのフランス語は
きわめてオーソドックスです。フランス哲学の伝統
ってわれわれが思う以上に保守主義的なんですよ!
誤読万歳じゃないと思う。 それすでに論難だし。
「68年の思想」に対するイメージが貧しい上に、 そこにいかなる厳密さがあるのかを析出する努力がなされていないのは間違いないと思う。
>「まともに立ち向かう」を定義してみてよ。 =システムの可能性の条件を示すこと
>>51 D&Gはそれをやりまくってるじゃん
あなたが人類学や精神分析の可能性の条件に興味を持っていないだけなのではないか?
>>52 D&Gについて「メタファー」としてまとめてしまう行為
私なりにD&Gの意義をまとめると、 それは精神現象学の書き直しと言うことなのではないかと思う。 そうした営みが20世紀に可能だったかどうかについては、 もちろん疑義を唱える者の方が多いけど。
>>53 「可能性の条件」というのはね、同時にそのシステムの限界の
記述なんだよ。わかるか?
カントの純粋理性批判が「アプリオリな総合判断はいかにして
可能か」という問いに答える試論だったのはわかってるな?
そして彼の答えがアプリオリな総合判断の二律背反、という
純粋理性の可能性と限界を明らかにしたことも知ってるよな。
こういう明晰な議論ができなければ、たとえば「純粋理性」
というシステムの可能性の条件は見えてこないわけ。
60年代までのD、たとえば「スピノザと表現の問題」や「差異と
反復」には、まるっきりカントとは異なるシステムへのアプローチ
ではあるが、それに匹敵する成果があるんだよ。
DGはあくま概念の使用法の実験であって、構造に対する斜に
かまえたアプローチなの。
>>56 アンチ・オイディプスにおける綜合の議論はまさにそうしたものじゃないの?
どこが斜に構えているのか引用して見せてくれ
>>57 いま手元に本がないんだよ。
あなたが言っているのはどういう議論なのか、
簡潔に要約してくれる?
ちょっと悪いけどこのスレの中だけでいいからハンドル つけてくれない? 議論している相手を特定したい。
>>58 読んでないのかよ
生産の接続的綜合
登録の離接的綜合
消費の連接的綜合
という形で、
基本的にはカントを援用しつつ
オイディプス化の誤謬推理を批判する資本主義の分析論になっている
わりいなヘタレなんで特定されたくないや どうせわかるでしょ?
とはいえトピックごとに捨てハンはつけとくよ60 ようするに56は、 60のような議論が「カントの応用」だと言いたいのではないかと思う。 それは半分正しいが、やはり最終的には間違いではないか?
良く読めば、 AOEはごくふつうに論理的に書いてある本だろ?
「差異と反復」での偉業の一つはね、 「概念の凝集性(コヒーレンス)」という概念を提出したことにある。 もちろんこれは西欧哲学の伝統であるidee(プラトンのイデアや カントの理念)の意義の明晰化と批判をねらったもので、論理的な 思考における概念はそれ自体では成り立たず、概念はその外部に 依存することを示す概念だ。こういう思考の例を、DGの著作から 端的にあげてほしい。
ちゃんとカント的な批判の要諦は満たしていると思うぞ おそらく「器官なき身体」に過剰に引きずられているのではないだろうか あれだってスピノザの「実体」を 「資本主義と分裂症」という特定のシステム分析のために読み替え、 そこに論理的な規定を与えたものだ。
>>64 西洋哲学の伝統に定位することを目指していない本に、
そういう議論を望むのは正しい読解だろうか?
つまり、56氏はあくまでも哲学プロパーの議論を期待しているということだろう。 D&Gに。 ならたしかに駄目本かもね。
バディウやジジェクの議論とD&Gを比べて、 後者の厳密度が劣るというのは俺には意味不明。
69 :
考える名無しさん :05/01/09 17:56:39
それでは、ドゥルーズにとってカントの影響は何だったのか。 シェーマ(図式)と構想力とそれを纏め上げる統覚にポスト構造主義 は興味を覚えているみたいな気もするけども・・・・ つまり、悟性の範疇によった、あらかじめ人間の認識が決められたもの と考える決定論的なものから逃れようとする意図でもあるような 気がするが・・・ それとも、悟性の範疇(構造)を壊す意味から、構想力を強調したのだろうか?
壊すというよりは、 カテゴリーを作りかえる可能性を強調したのだと思う。
71 :
考える名無しさん :05/01/09 18:11:14
ドゥルーズにとってのカントもそうだけど、ヘーゲルはどうなの? 全ての物を内在=現象的に捉えるヘーゲル? この点をドゥルーズの内在の哲学として引き継いでいる気もする。 また、ヘーゲルの弁証法は歴史性・通時性を帯びている。 この点については、ドゥルーズは差異を共時的に捉えると言う ポスト・構造主義と同じスタンスである。 定立・反定立・総合と言うヘーゲル弁証法的変化を 共時的変化させて、時間性を消去し、「変身」と言うタームで 内在的に「成る」と言う、それ自身の変化可能性を引き継いでいると考えるが如何に?
72 :
考える名無しさん :05/01/09 18:18:28
70 そっか。 作り変えられた「悟性の構造」は、ちょっととんでもない誤解かも知れぬが、 やはり、人間すべての者がこの作り変えられた同じ「悟性の範疇」を 持つと言えるのだろうか。 と言うよりも、この点が大事だが、むしろポスト・構造主義は この点をソシュールの記号論によって、書き換えたのではないだろうか? つまり、人間の認識は(言語=記号)によってなされるのであると。 そうする事によって、カントの悟性の範疇を基礎にした人間の認識論 は切り替えられた。
73 :
考える名無しさん :05/01/09 18:20:14
言語の構造によって、認識が決定されると言う事になっていった。
71は『無人島1953-1968』読め 2ジャン・イポリット『論理と実存』 14ドラマ化の方法 でそのあと『差異と反復』 そのままだとドゥルーズ理解がめちゃくちゃ。
何か強烈にレヴェルの高いスレだな 俺は騙されてるのか?
76 :
考える名無しさん :05/01/09 20:13:35
ドゥルーズ理解はむちゃくちゃでも良い。 ストーリー性・歴史性・物語性は形而上学である。 よって、ポスト・構造主義はそれをデコンストラクト するんだわいね。 75:このスレはレヴェルが高いのは正しい。 だって、T大の院生中心にレスするけんね。
レベルが低い原因がわかった
78 :
考える名無しさん :05/01/09 20:19:16
所で、資本主義を肯定的に捉えていると言うドゥルーズ て事で良いのかいのう。 「器官なき身体」とは主体なき身体であると同時に 分裂症的行為ではあっても、分裂病患者ではないと言うのは 正しいのでしょうかね? その場合「分裂症」とは次々と切断し、欲望が相乗的に湧きあがる 事で、資本的過剰差異化した商品世界にマッチしていると言う事か。 つまり、ここにポスト・モダンに繋がっている。
79 :
考える名無しさん :05/01/09 20:26:53
「差異と戯れ」ってこったろうかね? 77君。 why you can say the person here are not so high intellectual?
80 :
考える名無しさん :05/01/09 20:31:14
まともな英文も書けない香具師がいるからだろ、きっと
81 :
考える名無しさん :05/01/09 20:36:56
あの英文はまずいなぁ〜。 それよりも、ドゥルーズとヘーゲルとカントとの関連はどうだい。
82 :
考える名無しさん :05/01/09 20:41:04
人間の認識は帰属する記号構造によって決まる。 よって、カント的なアプリオリな範疇による 解釈は、唯一の正しい認識を求めると言う意味で ドゥルーズとは相容れないものである。
83 :
考える名無しさん :05/01/09 20:45:30
解読格子ね。 この解読格子=言語構造 によって、人は発想をするわけで、 どうしても格子の外には出られないってのが、構造主義的妄想である。 フーコーはこの事を、エピステーメーと言った。
>>77 偽者かよ
ところでスレ住人のみなさん、ドゥルーズの思想に興味があってこのスレのぞいてみたんですけど、
入門書としては何を読んだらいいでしょうか?
まさかいきなり『アンチ・オイディプス』とか『差異と反復』とかを読めとは言わないで下さいね
>>84 本人の本が一番だね
記号と事件
ドゥルーズの思想
無人島
このへんから始めるべき。
訳も比較的まとも。
次に 「スピノザ」「ニーチェ」「ヒューム」あたりの文庫本。
>>85 、86
ありがとうございます。さっそく明日学校の図書館行って見て来ます。
88 :
考える名無しさん :05/01/09 22:21:31
「意味の論理学」121P 「アルトーは、文学において絶対の深層だったただ一人の人である。アルトー は、今日でもまだ知られていない下層の意味を探求していた。 しかし、キャロルは表層の支配者もしくは測量師のままである。表層は十分に 知られていると思われていて探られなかったが、しかしそこに意味の論理学の すべてがある。」と言う文章をもって第13セリーを結んでいる。 深層と表層の哲学はあの襞のテーマでもある。 ドゥルーズは深層に分子が、表層には襞が意味を紡ぐと解釈できる。 深層は内在の哲学であるだろうし、表層は地理学的な褶曲を表す。 褶曲はフラットから山・谷を造成する。表層は皮膚であり皮膚は襞によって しわを作り、そこにフラットと褶曲の界面(境)を齎す。
89 :
考える名無しさん :05/01/09 22:27:11
「襞・ライプニッツとバロック」で彼は襞と言う表層に重点を移したように見える。 表層とは地理学への憧憬であり、このことはポスト・構造主義が 科学主義の系列に属している事の証である。 「無人島」にも同じ響きがあるのか? それにしても、「無人島」の中の1.「無人島の原因と理由」の翻訳 あれでは理解できないのでは。
90 :
考える名無しさん :05/01/09 22:33:40
表層とは身体の皮膚であり、地表である。 このことは、構造主義が通時性から共時性に視点を移しいた事と パラレルであると言えないだろうか。通時性とは時間を省く事で奥行きをなくす。 つまり、表層での差異運動こそ、ポスト・構造主義だ。 そこには、深層はないのではないだろうか?つまり、ドゥルーズの 表層とは差異の別名ではないか?
前スレを廃墟に追い込んだ電波が現れたよ こいついつもまともな議論が始まると沸いてくる
92 :
考える名無しさん :05/01/09 22:34:51
90 間違い訂正:「共時性とは時間を省く・・・」 でした。
93 :
考える名無しさん :05/01/09 22:35:57
そうかもね!!! 今日は百カウントまでだぞ。
94 :
考える名無しさん :05/01/09 22:45:19
「非人称的で前個人的ではあるが、特異性という概念、したがって反一般性 の概念が、いまやこの領域とその生成力との規定のために、われわれにとって 仮説として役立たなくてはならない。」第14セリー 非人称とは前・エディプス期であり、そこでの事は特異性と言っているのだ。 つまり、還元されざる、経験されぬものであり、これは出来事だろうか? そしてこの前・エディプスこそ、生成の領域なのだと言う事。 つまり、この生成こそがドゥルーズ哲学の根幹なのだね。
95 :
考える名無しさん :05/01/09 22:49:15
この非人称とはハイデガーの「存在の開け」であり、 人間存在の「無」的な存在のあり方を引き継いでいるのではないだろうか? とは言っても、この「無」は生成と言う身体・表層的なリビドーとは 無関係であり、もっと、深刻な現存在の存在である存在に被投された 姿を示してはいる。
96 :
考える名無しさん :05/01/09 22:56:45
「諸観念は、異なる強度の間に突然現れる稲妻のようにきらめく。」 「これらのすさまじい運動は、成熟した主体とは相容れず」、「未熟な 主体」とだけ和解可能である。ルネ・シェール「ドゥルーズのまなざし」 つまり、ここで、ルネはドゥルーズを引用しつつ、強度こそ諸観念の母体 であるとして、この運動を主体にではなく、前主体にこそ創造の 根源があるとする。つまり、前・エディプスこそ、創造の根源なのである。 そして、前主体は「器官なき身体」でもあるのである。
97 :
考える名無しさん :05/01/09 23:06:06
「太陽が空を進み、船が海上を進むにつれて、甲板の床板の上に、 船の側壁の上に、海のうえに、読み解く事の出来め、しかも心を引き裂くような 文字が、いつも変わらぬゆくりとした速度で、描きだされては壊されてゆくのだ、 -------さまざまなものの影と、そこここのくきりとした稜線と、 いろいろなものの角や海の上の数々の三角形にぶつかって折れ曲がっては 又元に戻る光の条、そうしたものからなるエクリチュールが。 「カオスモーズ」フェリックス・ガタリ引用
ドゥルーズはもっと官能的に表現されるべきだよ。
99 :
考える名無しさん :05/01/09 23:13:50
そのかずかずの三角形を支配する幾何学は、海の波が大きくうねるにつれて 崩れて行くのだが、つづいてまた、改めて、移ろいやすい幾何学として 存在する、そうやって繰り返し、飽きることなく。」 全文に続く。「カオスモーズ」1Pマルグリット・デュラス作 の引用である。 これをもって、現象学の参考とするのはどうでしょうか? 素晴らしい文です。「読み解く事の出来ぬ・・」に訂正。 看板からの眺めが意味を生み出す瞬間を言い表わしたものです。 素晴らしいので書いたのですが・・・。 現象学的ノエシスとして理解してはどうでしょう。 ガタリ、マグリット・デユラスに感謝です。
100 :
考える名無しさん :05/01/09 23:17:48
どうも。 この文章は「北の愛人」と言う本からの引用かな。 河出文庫 清水徹訳1996年と書いてある。 98:そうです。 この文章はドゥルーズでは全くない。官能的ではないというのは 正しい。 それでは、約束の100カウントにつき、今日はこれまで・・・・・
というわけで、前スレ同様ここも馬鹿によって死にました。
>>38 >>39 こいつらのまともなやりとりも台無し。
102 :
ソーカル膀 :05/01/10 01:22:03
論理的学問である哲学が理解できない文芸批評家くずれのスレッドだな
パレやん・・・最悪やんか・・・
104 :
考える名無しさん :05/01/10 07:25:59
これは、パレではない気がしますよ。
105 :
考える名無しさん :05/01/10 07:28:08
熱狂的なドゥルージアンでしょう。 詳細な引用から論理的な展開これはバレには 出来ないスタイルです。 むしろ103さんはあの「ぴかぁ〜」では?
106 :
考える名無しさん :05/01/10 07:30:59
論理的な哲学を超えようとしたと言っても 君には理解できないかもしれないので レスしませんが、もう少し、背景を理解すべし。 まともなやりとりとはどのようなものを 示しているのでしょうか?
107 :
考える名無しさん :05/01/10 07:41:47
1) 「生産の接続的綜合 登録の離接的綜合 消費の連接的綜合 という形で、 基本的にはカントを援用しつつ オイディプス化の誤謬推理を批判する資本主義の分析論になっている」 2) 「論理的な思考における概念はそれ自体では成り立たず、概念はその外部に 依存することを示す概念だ。こういう思考の例を、DGの著作から 端的にあげてほしい。」 この辺についてもう少し論じてみてよ。
108 :
考える名無しさん :05/01/10 07:51:06
ドゥルーズの著作スタイルは叩くときは徹底的に叩く、褒めるときは手放しで褒めると いうものだから誤解を招きやすい(狂信者を産みやすい)。彼は自分で言ってるほど反ヘー ゲル的ではない。もしヘーゲルの仕事がなかったら彼が「大論理学」を書いていたかも しれないくらいだ。
109 :
考える名無しさん :05/01/10 08:56:53
増田達哉はあらゆる意味で屑。
110 :
考える名無しさん :05/01/10 09:30:39
108 それは言える。同感。 ジジェクなんかも、ドゥルーズ自身が言っているほど 反ヘーゲルではなく、ドゥルーズ自身がむしろ弁証法を彼自身の 内在哲学における差異の体系確立の為に利用したと言うのは 正しい気がする。 しかし、次の点だけ引っかかるので聞きたいのだが、 どうして、ジジェクにしろ柄谷にしろ、へ−ゲルとカントを 今・この時期に読み直しているのかと言う点だけどね。 再度ヘーゲル・カントに戻って、ポスト・構造主義が 剥奪した再度「主体」を取り戻そうとするのかが分からんのだよ。
111 :
考える名無しさん :05/01/10 09:32:50
「再度」が重複。一つ消去。
112 :
考える名無しさん :05/01/10 09:37:56
オイディプス化によって、コード化された古典主義時代の 「言語=概念=示されたもの」 と言う式 の夫々の「=」に 斜線を引くことで(イクオールではない。)、 「=」の示す「間」に揺らぎが生まれる。 この揺らぎこそ、資本主義的な「身体」なのだと言う事だろうな。
113 :
考える名無しさん :05/01/10 09:42:39
それは、資本による貨幣の増殖運動であり(G−W−G) 発展的に変化・拡大する運動ではなく、無意味な差異を反復する 運動である。
114 :
考える名無しさん :05/01/10 10:35:59
>>110 君はやっぱパレルゴンだべ。君は、死んだ犬であるはず(ポスト構造主義のキャッチフレーズから
の伝聞)だったカント-ヘーゲルが死んでないなんていう奴がいるのはどういうこと?と
独り言を言っているにすぎない。その伝聞に正当性があるかどうか確かめるのは君であっ
て、周囲に聞いてもしょうがないよ。まずは自分でカント-ヘーゲルを読んでいくしかない
っしょ。だいいち、ヘーゲルは最も激烈な反カント主義者なんだから、二人を「主体
の思想家」と一括りにするのがまず間違ってる。ヘーゲルの「信仰と知」あたりを読むと
カントとヘーゲルの違いがわかっていいんじゃないだろうか。
カント、ヘーゲル、マルクス、ドゥルーズらに比べたらジジェクや柄谷なんてどうでも
いい思想家だと思うので、俺にはあんま興味ないことなんだけどね。
107に答えたいがパレルゴンが消えるまで回答は控えるよ
116 :
考える名無しさん :05/01/10 15:19:18
ふむふむ。 て言うか、若手の哲学者は、常に、「偉大」と言う称号は得られないんだよ。 晩年になって初めて評価が確定するのだよ。 だからジジェク・バディウなんかも、今後いかに評価されるかって事だろうね。 古典だけ読んでても、視点の多様性をいかに学ぶかと言う問題もある。 そう言う多様な読み方は、新しい人間がやる事であり、一流ではなくても 斬新な哲学者の著書を探る必要があるんだな。 だから、ヘーゲル・カントをジジェク・ドゥルーズ・バディウがいかに読んだかを 研究する事は大切なんだろう。
117 :
考える名無しさん :05/01/10 15:23:19
115「誰かがいるから答えない」ちゅうのは、おかしい。 パレルゴンはいないかもしれないし、このスレッドを立てたのが 彼かもしれないだろう。そう言う事を気にする必要があるか? 哲学をしたければ、素直にレスすれば・・・・
118 :
考える名無しさん :05/01/10 15:25:49
特に、認知科学・脳科学の発達がこの「主体性」復活に大きく影響を 与えているのは、どう見ても、正しいような気がするが?
119 :
考える名無しさん :05/01/10 15:29:44
「自説を持たずして、このスレッドに質問を呈示した事はない。」 from X.
120 :
考える名無しさん :05/01/10 22:10:06
確かに、マルクス・スレッドで引用の通り、ドゥルーズの最後の本は マルクスに関するものにしたいと考えていたようである。 なぜか、これは全くの自説に過ぎないが、 ヨーロッパ知識人の多くが、この史的唯物論者に深くかかわって 名声を博した事実に関係があるだろうし、また、ヨーロッパ自身が余りにも 長きに亘って、彼の影響を受けた為ではないだろうか? 同時に、マルクスの思想の被差別者の開放を求めると言う政治スタイル が、構造の抑圧的差別の批判としてのポスト・構造主義の政治に無能な 「逃走」や「ディコンストラクト」と言う戦略を超えうると感じられる からではなかろうか?
121 :
考える名無しさん :05/01/10 22:17:12
マルクス復活の為には、次の3点をどのように考えるのかと言う 問題点が残っているのである。 1)歴史性について、いかに復活させるのか? いかに歴史性を肯定するのか? 2)政治的な運動を求めるのであれば、「主体」の復活はいかに 証明されるのか? 行為=変化させうると考える場合には「主体」が前提される。 3)被差別者=サバルタンの開放は如何にして新たな被差別者を つくらずになされうるのか? 以上がそれである。
122 :
考える名無しさん :05/01/11 21:26:35
あと少しで入試本番を迎える高校3年女子です。 私は希望の大学に入るために、いま苦手な数学も一生懸命勉強しています。 だけど最近お兄ちゃんに教えてもらった本を読んでみて、怒りが忽然とこみ上げてきました。 「知の欺瞞」という本です。 なんで私は大学に入るために苦手で嫌いな数学や理科を必死の思いで勉強しているのに 大学の先生たちがあんな簡単なミスを犯し、バカなくせに学識を誇ろうと分かりもしない数学 を見せびらかしてえらそうに振舞っていたのでしょうか? お兄ちゃんに聞いたら、あの本に書いてあることの中には大学1、2年生で習うことも結構あ るそうです。 受験生には難しい入試を課すくせに、自分たちは何にも勉強しないなんて許せないです。 どう考えても間違ってると思います。 だから私は、無事に希望校に合格できたら、絶対学生自治会に入って、学生に授業を教え る資格が あるかどうか、先生たちに試験を受けさせるように運動するつもりです。 精神分析医の精神分析をします! じゃないとおかしいじゃない! 私が英語を勉強するのになんで数学の入試を受けなきゃい けないのかも わかんないのに、その上先生たちがそういうことまったくわかってないって絶 対おかしい! だから私は入学したら絶対自治会に入って運動します。もう決めました。とめてもムダです。 絶対、絶対、絶対だからね!
123 :
考える名無しさん :05/01/11 21:27:42
つまんね
124 :
考える名無しさん :05/01/11 22:28:34
ほう! 君の兄さんがソーカルの「知の欺瞞」の事を言ったと言う事が、 作り話ではないとして、 ポスト構造主義の数学引用について、その精度がどうのこうの 言う前に、君自身が、ポスト構造主義の引用した数学を検証してみる事 ではないかな? なぜ数学の引用がなされたか。 なぜ哲学で数式による表現が必要だったか? この事のほうが、間違いだ、正しいのだと問い掛ける事よりも 哲学的には重要なんだと言う気がするな。 哲学をよく分からずに、その哲学の一部を批判するのはどうかと思うな。
「挙証責任を反転してはならない。用いられている表現に 理解可能な意味を与えることに成功していることを示す 責任は、まず第一に、異義を唱えられたポストモダンの 側にある のだ。読者には、髪をかきむしってまで、意味を 発見したり発明したりする責任はない」 (『「知」の欺瞞』xx頁より、 Jacques Bouveresse, Prodiges et vertiges de l'analogie: De l'abus des belles-lettres dans la pens\'ee, Paris: Raisons d'Agir, 1999 の p.10 にある言葉)
126 :
考える名無しさん :05/01/11 22:33:25
それと、もし君が本当に高三の学生であるならば こう言う高度な本を読めたと言う事は立派だと思う。 本当に高校生であるならばの話だが、 哲版のソーカル房の誰かではないかと言う気もするけどね? 芝居ではないのかな(笑) いずれにしても、読みが足りない様だね。 背景を学ぶ事が必要じゃなかな。
128 :
考える名無しさん :05/01/11 22:40:37
125 私は全面的に数式による哲学的な表現を賛成してるわけではありません。 勿論数学者にとっては、どうしようもないばか者に見えてくるでしょうね。 同感ですね。しかし、124で言っているように、なぜラカンは数式を用いて 精神分析を表現したんだと言う問いも重要なわけです。 ここではこの背景については答えませんが、私にはむしろこの問題 の方が重要なのです。もっとも、数学にそれほど明るくないと言う事も ありますが。
なぜラカンは数式を用いて 精神分析を表現したんだと言う問いも重要なわけです。 なぜ,どうして,教えて.
そのほうがカッコいいからだ \(^_^)/
131 :
考える名無しさん :05/01/11 22:47:57
増田達●はどうしようもない白痴
132 :
考える名無しさん :05/01/11 22:48:37
ソーカルの指摘も数学者としてはもっともな事。 しかし、ああ言う偽の論文をお書きになった事に絶望しました。 多分、彼は、ポスト・モダン風の知の戯れを許せないと思っていた んでしょうね。だから、欺いたんでしょう。 背景から見ると、それは引用です。多様な引用は時として、背景を 無視します。つまり、オリジナルの背景を切断し、部分的に 引用すると言う、ポスト・構造主義の戦略があります。 だから、ああ言う無茶な結果になったのでしょうね。
分る、すごくいいの書いたけど、お前等も書きたいって言えないから 対立する事言って胸をはらしてるんだろ。分る、総合とは何だ、言ってみろ?
というよりもポモの数学・科学理解度ってやけに低いんだが 合理的な解釈に成功した椰子っているの? 他のスレみても ラカンまんせ〜,デリダまんせ〜ばかりで誰も著作の内容を理解していないんだけどね
135 :
考える名無しさん :05/01/11 22:56:03
この哲版でも多くの人が論議したように、構造主義は科学主義であった のですね。科学的に世界を捉えようとすると、人間が不在になります。 つまり、人間が観察すると色々な見方が出てきます。 Aさんは、それは「a」だと言い、bさんはそれは「b」だと言う。 これでは、しょうがないわけです。しかも、どちらが正しいのかという 論議もじつは背景(仮に立場としましょう。)が異なると意見が異なり 真理が不明になるいったと言う考えが時代背景としてありました。
136 :
考える名無しさん :05/01/11 23:01:54
こう言う状況の中では、何が正しいかと言う事は論議や証明ではなされない 状況になります。つまり、引用です。引用によってほのめかすと言う 手段が重要になります。この引用の一つが「数式」による表現だった のです。数学者にとっては不十分でも、時代の哲学を一身に受けた 表現手段だったと言う事でしょうね。 133 君がどれほどの知識を持って発言しているかは、君の文章を 読めば分かるよ。もっと本を読んだ方が良いのでは・・・
137 :
考える名無しさん :05/01/11 23:12:47
増●達●とは・・・ a:頭が固い(つーか悪い) b:不細工 c:チンカス d:ダサい服 e:エロ f:フシダラ g:下劣 h:恥知らず i:田舎者 j:自慰的な営み多し k:韓国人のような品性と面 l:礼儀知らず m:見栄っ張り n:盗人 o:オナニスト p:パラノイア q:クサイ r:ルサンチマンの塊 s:視野狭窄 t:とんま u:うそつき v:ヴァイオレンス w:悪口大好き x:人間として× y:やらしい z:雑魚
> つまり、人間が観察すると色々な見方が出てきます。 人によって観察結果が異なる原因を分析して,客観的な観察手法を 案出するのが社会科学者・自然科学者の態度ですが,構造主義では どのように対処したんですか. > しかも、どちらが正しいのかという > 論議もじつは背景(仮に立場としましょう。)が異なると意見が異なり > 真理が不明になるいったと言う考えが時代背景としてありました。 議論の前提条件 (公理系) が異なれば結論が異なるのは当たり前ですよね. > こう言う状況の中では、何が正しいかと言う事は論議や証明ではなされない > 状況になります。つまり、引用です。 厳密に表現するのが難しい事柄を例示や比喩で示すのはもっともだけど, 理解していない素材 (数学や科学の用語) を使うのはまずいでしょ. 社会科学や自然科学ではそんなコケオドシは許容されていないよ. ソカ厨が糾弾しているのも煎じ詰めればこの一点に集約されるよね: 「理解してもいない用語を散りばめたコケオドシは知的不誠実だ」とね. 結局のところ,「正しい」とは何かを厳密に考えなかったことが原因じゃないかね. 数学における「正しい命題」とは「前提条件 (公理系) から得られる/証明される命題」 のこと. 科学における「正しい理論」とは「客観的に観察される事実と適合する理論」のこと. 証明や観察に依拠しない「正しさ」を目指したのだとすれば数学や科学に依存せずに 正しいとはどういうことかを独自に定義する必要があるね.
>>138 ドゥルーズスレなんだから、
『哲学とは何か』の科学と哲学の定義読めよ
ドゥルーズによる科学の定義は現実の科学と一致しているのかね
142 :
考える名無しさん :05/01/12 11:58:18
>>138 > 証明や観察に依拠しない「正しさ」を目指したのだとすれば数学や科学に依存せずに
> 正しいとはどういうことかを独自に定義する必要があるね.
哲学者といえども他者による業績評価を求める以上は
他者が「理解」しかつ「共感」できるように著述する必要がある。
自然科学者の目から見て不適切な引用があったとしても
同時代の多くの思想家がそれを「理解」しまた「共感」もしたという
事実に変わりはなく、その意味ではポストモダンの著者は
一定の成功を収めたいえる。
「美しさ」が客観的な観察や論理的な証明ではなくて
目の肥えた鑑賞者の評価に基づくのと同じように、
思想家にとって「正しさ」とは客観的な観察や論理的な証明
ではなく同時代の思想家による主観的な評価に基づくものなのだ。
143 :
考える名無しさん :05/01/12 12:12:03
>>142 >思想家にとって「正しさ」とは客観的な観察や論理的な証明
>ではなく同時代の思想家による主観的な評価に基づくものなのだ。
思想全体の論理的整合性は、哲学にとって、必要なものでは
ないですか?
それは主観的評価とはあまり関係ないものでしょう。
その他、「視点が斬新だ」とか、「深みがある」などの部分は
主観的な評価が大きいでしょうね。
>>143 論理的整合性は哲学に限らず論説文が備えるべき必要条件です。
途中で送信してしまった。失礼。
>>143 論理的整合性は哲学に限らず論説文が備えるべき必要条件です。
論理的に整合しているからといって「正しい」わけではありません。
146 :
考える名無しさん :05/01/12 12:19:22
>>145 といいますと?
「正しい」というのは、どういうことなんでしょう?
147 :
考える名無しさん :05/01/12 12:22:14
よくさ、ドルーズ=ガタリって言う書き方されるけど、 この2人同一人物?
148 :
考える名無しさん :05/01/12 12:23:41
別人
149 :
考える名無しさん :05/01/12 12:25:22
じゃなんで=でつながってんの?
150 :
考える名無しさん :05/01/12 12:27:35
共著者だから。 べつに=でつなぐ必要はないんだろうけど。 二人合わせてのペンネームみたいなものなのかな?
151 :
考える名無しさん :05/01/12 12:28:37
同一人物、最初ドゥルーズって名乗ってたけど、 のちにガタリ(こっちが本名ね)の戻したって話。
おいおい
153 :
考える名無しさん :05/01/12 12:34:51
>>146 > といいますと?
> 「正しい」というのは、どういうことなんでしょう?
社会科学・自然科学の世界においても同時期に
複数の研究者が独立に同一の理論を提唱することが
あります。このことは、人間の発想が極めて似通っている
ことを示唆します。従って、文化・宗教・生い立ち・社会的地位等の
似通った思想家であれば類似した思想を抱く可能性が大です。
思想は論理的な証明や客観的な観察によって「正しさ」を
主張することが困難ですから、正しいかどうかの判定も
個々人に委ねられます。要は「自分はその思想・主張に
同意できるかどうか」です。従って「思想の正しさ」とは
その思想が正しいかどうかの0−1式のデジタル判断ではなく、
「その思想に共感する人間がどこにどれだけ存在するか」という
アナログ判断になります。
以上の意味で↓を書きましたが、相当言葉足らずだったようです。
> 思想家にとって「正しさ」とは客観的な観察や論理的な証明
> ではなく同時代の思想家による主観的な評価に基づくものなのだ。
154 :
考える名無しさん :05/01/12 12:45:34
>>153 誰にとっての正しさか、が混乱しているような気がします。
>>142 では、
>思想家にとって「正しさ」とは
とありますが、
>>153 では、その思想家の思想を読む読者にとっての
「正しさ」の話になっています。
まず、思想家自身がどういう真理概念を持っているかという問題があって、
次に、そういう真理概念に基づいて書かれたものを読んだ読者が、その
思想家の真理概念に同意するか、しないか、の問題がある。
ここでは、後者の問題について言っているわけですね?
155 :
考える名無しさん :05/01/12 12:51:02
>>154 いいえ。わたしは「真理概念」については言及していません。
「思想家がある思想・主張を正しいと判断すること」と、
「その思想家がある思想・主張に同意すること」が
同値である、と書いています。
156 :
考える名無しさん :05/01/12 12:55:43
>>155 といいますと?
それは「真理概念」とは無関係な話なのですか?
「真理」の反対概念は「偽」あるいは「誤謬」なので、
真理概念と無関係な話とは、思えないのですが。
157 :
考える名無しさん :05/01/12 12:56:41
正しさという言葉を使うから、わかりにくいのかな?
158 :
考える名無しさん :05/01/12 13:05:59
>>156 ,157
思想は論理的な証明や客観的な観察によって真偽を決定できません。
にもかかわらず,その思想に共感し同意する人々が存在します。その
ような人々にとってその思想は「正しい」わけです。
一方でその思想に同意しない人々も存在します。そのような人々に
とってその思想は「正しくない」のです。
思想の真偽を判定すること(同意であれば真、不同意であれば偽)は
可能ですが、判定基準は一般に個々人によって異なります。また、同一
個人であっても成長過程や人生経験によって真偽判定基準はかわります。
思想における「真」、「偽」は極めて俗人的な概念だということですね。
訂正:俗人的 → 属人的
ところでドゥルーズは読んでいないのかい?
あなたはドゥルーズの思想のどこに共感しましたか?
162 :
考える名無しさん :05/01/12 13:14:22
>>158 「正しさ」「真」の使い方が、そもそも一般的じゃないような気がします。
「ハイデガーの思想は正しい」とか「ニーチェの思想は偽である」のような
言い方は、あまり聞いたことがないです。
普通は、「ハイデガーの真理概念はニーチェの真理概念とは異なる」
のように使います。
163 :
考える名無しさん :05/01/12 13:23:45
思想全体について真偽を言うならば、やはり、最初に言ったような 論理的整合性によるのではないですか? 「ハイデガーの思想は、ここが矛盾している、したがって誤謬を含んでいる」 という言い方なら、しますから。
>>162 ,163
数学における真理概念:「正しい命題」、「真である命題」とは「前提条件 (公理系) から得られる/証明される命題」 のこと
科学における真理概念:「正しい理論」、「真である理論」とは「客観的に観察される事実と適合する理論」のこと
上の二つは容易ですが思想の真理概念は客観的には定義できないというのがわたしの主張です。
思想の真理概念を敢えて定義するな「思想において『正しい思想・主義・主張』などは客観的に定義できず、ただ人々が
その思想・主義・主張に共感するかどうかだけだ」となります。
> 思想全体について真偽を言うならば、やはり、最初に言ったような
> 論理的整合性によるのではないですか?
> 「ハイデガーの思想は、ここが矛盾している、したがって誤謬を含んでいる」
> という言い方なら、しますから。
論理的整合性が論説文が備えるべき必要条件であることは上にも書きました。
論理的整合性が保たれていない主張は即座に偽であると断定できます。
しかし、論説が矛盾を抱えていないからといって、その論説が妥当であると
人々が判定するとは限らないわけです。
162は 「特定の思想において『真』,『偽』がどのように定義されているか」という問いと 「思想自体の真偽をどのように定義するか」という問いを混同しているように見えるな
166 :
165 :05/01/12 13:45:04
「正しい」の議論は昨晩の書き込みからの継続だろうね 正しいかどうかは議論・証明・観察によって示せない →「引用」によってほのめかす →人によっては共感して賛意を表する 136 名前:考える名無しさん[] 投稿日:05/01/11 23:01:54 こう言う状況の中では、何が正しいかと言う事は論議や証明ではなされない 状況になります。つまり、引用です。引用によってほのめかすと言う 手段が重要になります。この引用の一つが「数式」による表現だった のです。数学者にとっては不十分でも、時代の哲学を一身に受けた 表現手段だったと言う事でしょうね。
167 :
考える名無しさん :05/01/12 13:48:15
>>164 やはり「正しさ」とか「真」という言葉を使うと、わかりにくいと思います。
哲学での真理概念というと、「思考と存在との一致」とか「観念と観念との
内的斉合性」などを意味する場合が多いから。
ハイデガーはそういう真理概念に対して、ギリシャ的「アレテイア」が本来の
真理概念であるとしましたが。
あなたが言っていることはわかりますが、それは、「正しさ」というより
或る思想は客観的な「妥当性」を持ちうるのかどうか?と言ったほうが
わかりやすい。
168 :
165 :05/01/12 14:10:36
>>167 > 或る思想は客観的な「妥当性」を持ちうるのかどうか
昨晩からのスレの流れを見ると
1.ソーカルは「人々の賛意を得るために、自分自身が
理解してもいない数学・科学の概念をコケオドシ的に
濫用するのは知的不誠実だ」と非難した
2.コケオドシが通用したのは思想の妥当性を客観的に
判定する手法がなく、多くの同時代人が流行に流されて
追従したためだ
って感じだね
思想の妥当性を客観的に判定する方法論や基準を
提示してくれると盛り上がると思う
このスレでやるなよ ソーカルスレでぜひ
いまのオレの理解度ではソカ厨を論破する自信がない このスレでネタを仕入れてから ソカ厨厨としてデビューする計画だ 協力を待っている
あーなるほど ならドゥルーズの理屈も仕込んでいってくれ ドゥルーズは数学、科学、芸術、哲学をちゃんと区別している ソカ厨はポモ=芸術と哲学の混合物と思っているが…
172 :
考える名無しさん :05/01/12 16:44:15
おそろしくレベル低いなココw
173 :
考える名無しさん :05/01/12 16:50:07
はたしてそうかな?
YES!!!
175 :
考える名無しさん :05/01/12 16:55:20
スレタイは、ジル・ドゥルーズにすべきだった。 ドゥルーズだけじゃ、個体を同定してないからな。
176 :
考える名無しさん :05/01/12 16:58:22
ところで、みんなは「無人島」「狂人の二つの体制」計4冊を すでに揃えているのかな? なかなかに高くつくが・・・。
177 :
考える名無しさん :05/01/12 17:00:26
漏れは恥ずかしいながら、まだ一冊じゃ。
178 :
考える名無しさん :05/01/12 17:02:42
小学生はお年玉で買い揃えろよw
179 :
考える名無しさん :05/01/12 17:27:26
中学生ばかりで鬱。
ドゥルーズ⇒ガタリ 言ってみたかっただけとです
てか無人島その他のテクスト揃えてもなあ。 未発表音源寄せ集めのアルバム。2pacみたいなもん。
代表作「意味の論理学」の日本音盤がクズだから仕方ないだろうな。
なるほど、邦題も変だしな
誰か早く新しいライナーノーツ書いてくれ
185 :
考える名無しさん :05/01/15 08:47:13
ドゥルーズってヴィトゲンシュタインはシカトしてるの?
感覚の論理では肯定的に引用しているけど、 哲学とは何かではヴィト以後の分析哲学に批判的だ 言語分析へ、という流れに懐疑的とみた ラッセルとホワイトヘッドは好きみたいだが
187 :
185 :05/01/15 08:57:46
188 :
考える名無しさん :05/01/15 10:53:50
そうか。 でもむしろ、ウィトゲンシュタインの方も、「論考」から「探求」 期に移行するにつれて言語外的要素を認めると言う事になるわけで、 後期にあたる「ゲーム論」は、発話行為の問題に繋がるという意味で より、多様に創作できる要因が現れるのだから、ドゥルーズも それほど嫌っているとは言えないだろうな。
189 :
考える名無しさん :05/01/15 10:56:00
つまり、言語は言語内の意味体系によっては完結できないと言う事が 後期「ゲーム論」にはあるわけで、サールの発話のコンテクストの 余地が生まれるのではないかと思うな。
190 :
185 :05/01/15 10:59:33
へー。
191 :
考える名無しさん :05/01/15 11:02:01
前世紀の色々な哲学者の多くはこの問題に触れているのだ。 つまり、述べている事は述べている事以外からの前提・背景を 隠し持っている。このことは本能と言えるかもしれない。
192 :
考える名無しさん :05/01/15 11:07:00
>>188 ドゥルーズの「意味の論理学」は哲学的な意義より、戦略的意義の
方が強い。
自分の哲学の固有性のためにアンチ・ウィトという戦略を使ったわけ。
それだけのことであり、ゲーム論は完全に認めている。
193 :
考える名無しさん :05/01/15 11:14:20
192 了解。 それよりも、「機械論的唯物論者」の決定論にレスしよう。 面白いよ。
194 :
考える名無しさん :05/01/15 14:31:21
ドゥルーズも静かだにゃ。
故人のご冥福をお祈りします
196 :
考える名無しさん :05/01/15 14:43:40
どうした、ドゥルージアン。リトルネロの意味を答えてみては。
なんか変な進行ですね
ネロはパトラッシュの飼い主でOK?
199 :
考える名無しさん :05/01/15 21:10:04
ダミダコリャ!! 囀りたまえ!! これは俺の領土だと!!
200 :
考える名無しさん :05/01/15 21:12:09
脳内物質論も中心的な問題点に来ていない。 ドゥルーズも全く進まない。
201 :
考える名無しさん :05/01/15 21:16:18
領土化運動こそさえずりなのだ。 「造成地の午後」丹生谷先生の仰る 無意味・無気味に広がる男達のいない女達の午後 何が露になったのか?無意味な世界である。 この世界にさえずりが意味化する行為として 行われる時に、意味は布置化され、社会が生き生きと 現れるのである。
202 :
考える名無しさん :05/01/15 21:19:46
社会とは当たり前として存在するのではなく、 意味化するオィディプスが必要なのである。 とするならば、社会=領土化とは男のなす行為 だと言う事だろう。 だから、そこからの脱出として、ジェンダー・フェミニズム運動 が世紀末に盛んだった。それは母性原理でもある。
203 :
考える名無しさん :05/01/15 21:23:10
もちろん、これは、カルチュラル・スタディズの重要性を唱えているのだ。 オイディプスは抑圧であり、その事に於いて、言語社会に参画する 登竜門である。
明らかにおかしいひとがひとりいるよ
206 :
考える名無しさん :05/01/15 22:21:19
それは誰だ!
キミとボクさ
208 :
考える名無しさん :05/01/15 22:24:55
それよりも、ドゥルーズ・レスをする方いないの? 田原さん!いかがお過ごしでしょうか?
209 :
考える名無しさん :05/01/15 22:26:46
もっと真面目なレス求む。 日本のドゥルージアン代表に書き込み願います。 机に座って、本を読んでるばかりいないで、 書き込み願う。
憑き物が落ちたような気がする もうどうでもよい
おまいら喘息の苦しみを知らないだろ!
知りません
そもそも喘息持ちのくせに煙草スパスパ吸ってた事自体、 自殺行為なんだよジルさんよ!
スピノザも肺結核なのに煙草をスパスパやってましたが何か?
バカだったってことだろ
アルトー『ヴァン・ゴッホ』買った。 今度読む。
217 :
考える名無しさん :05/01/20 03:55:02
増田達YAは恥知らず。イャ
218 :
考える名無しさん :05/01/22 18:19:41
相変わらず進まないのが、ジル・ドゥルーズ スレッドですね。 難解にして、独自の創造の世界だから、手につかないね。 それよりも、我々にとって、ドゥルーズの世界の意味する 物は何かと言う視点から、眺めてみると、細細した 概念を理解しようとするよりも、見えてくるのではないだろか?
219 :
考える名無しさん :05/01/23 10:14:47
ドゥルーズの考えによれば、哲学の仕事というのは新たな概念=言葉を 作ることらしい。
共感はできるが肝心のその概念が理解できん 時代が追いついていないのか?
221 :
考える名無しさん :05/01/24 23:13:16
223 :
考える名無しさん :05/01/25 00:37:07
今一度、ここに戻って >死のダイブの時にドゥルーズは何を考えたのでしょう。 自殺と最も遠い思想の持ち主の彼が、どうして・・・・ 先ずはこの質問から。
喫煙者の自殺率は高いと新聞に書いてありますた
ラカン=ヘーゲル的ドゥルーズ
226 :
考える名無しさん :05/01/26 00:25:32
ドゥルーズ が死に関して考察した言説は
今、アンチ・オイディプス読んでます わけわかんね〜
あれ、失敗翻訳との話を聞く。
229 :
考える名無しさん :05/01/30 16:34:35
ガタリ『「アンチ・オイディプス」草稿』が出ましたね
230 :
考える名無しさん :05/01/30 21:41:29
読んでもわけ分かんないけど、 ベケット、アルトー、カフカがガンガン出てくるから、 ふいーんきはよく分かるよね。
231 :
考える名無しさん :05/02/02 03:44:56
232 :
考える名無しさん :05/02/03 22:55:15
アリエズといえば 現代フランス哲学 ―フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層― エリック・アリエズ 毬藻 充 訳 ↑この本どうでしょう?デカンの本も読んだんですけど。 知っている人いたら感想聞かせてください。
233 :
考える名無しさん :05/02/03 23:31:40
234 :
考える名無しさん :05/02/04 00:42:09
235 :
考える名無しさん :05/02/12 00:11:22
>今一度、ここに戻って >>死のダイブの時にドゥルーズは何を考えたのでしょう。 >自殺と最も遠い思想の持ち主の彼が、どうして・・・・ >先ずはこの質問から。 闘病しているうちに思考不能になるっておもったんでしょ。 喘息もちのヤシのことだから、それまでにシミュレーションしてたはずだし。
意味の論理学がすでにそのシミュレーションとも言われているね
237 :
考える名無しさん :05/02/26 22:43:31
ドゥルーズスレっていきなり停まるよね。
238 :
新刊 :05/03/03 01:06:50
Titre
La philosophie de Deleuze
Auteur
Paola MARRATI,
Francois ZOURABICHVILI,
Anne SAUVAGNARGUES
Collection
Quadrige
Type d'ouvrage
Poche
Prix
20,00�Euros
Nombre de pages
352
Date d'edition
octobre 2004
ISBN
2130547389
http://www.puf.com/livres/PC1859a.html
ここを専門家か専門家予備軍が参照しているなら、平易に答えてくれ給え。 「暗き先触れ」って何?
240 :
考える名無しさん :05/03/03 01:44:59
>>239 どこからの引用?
文脈がないと回答不可能
差異と反復だろう。 稲妻の経路を、それに先立って定める。
>>240-241 thx
「差異と反復」P.382に「暗き先触れ」があった。
「個体化−ドラマ化−(差異化/異化)=(微分化/分化)」P.369
+
諸理念は、多様体だ、強度だとか。
ドゥルーズの着想は、おぼろにせよ、理解できるような気がする。
「暗き先触れ」って何?
個体化に先立つ経路だろうよ
>>243 の返答には失望した。暇なプロパーは、書き込みよろ。
245 :
考える名無しさん :05/03/04 00:29:03
尊大な教えて君氏ね
専門家じゃなくてもいいから聞いてくれ ドゥルーズの答えのでない問いとデリダの到達しえない他者の違いって何?
「答えのでない問い」なんて一度も言ったことないと思われ
檜垣ネタだろ
今アンチオイディプス読んでるんですけど、コードと公理系は具体的にどう違うんですか? コードは質の異なる流れの間に繋がりをつけるもの、しかし公理系においては脱コード化した流れどうしの微分の比のよって はじめてその流れの性質が確定される、と書いてある(と俺は読み取ったが間違ってるかもしれん)から、 コードと公理系の違いは流れと連接との関係が逆転してるということですか?
251 :
考える名無しさん :05/03/08 01:38:26
>>250 知らね。あんま興味ないけど、誰か答えてくれるかもしれないのでageてみる。
コードは質、公理は量なんじゃないの。
>>250 コード化:諸器官や部分対象のさまざまな接続の連鎖を規定するもの(土地機械)
超コード化:コードを規定するコード(専制君主機械)
脱コード化:デコード、脱土地化と再土地化の永久運動(資本主義機械)
公理系:脱土地化と再土地化を連結−調整する種々の流れ
255 :
考える名無しさん :05/03/12 00:12:06
>>254 にある樫村氏の論文にその後、どのような反応があったのかな?
よくわからんがエートスの問題かな?
257 :
考える名無しさん :05/03/12 22:37:38
コードは欲望の流れにルールを課していく事。 一方公理系とは、資本主義の運動を表現し 資本主義が1)本質的に分裂症であると定義する一方 2)システムに欲望を回収する運動(公理系)でもあると言い この二つの運動を資本主義に特有のものとした。 よって、資本の運動とは、領土化2)と脱領土化1)の総合運動と捉えているのだ。 つまり、領土化運動が公理系であると言う事。 この事とコードとの相似性はあるが、公理系は資本の運動の中での 欲望の回収を言い表わすのに使われているが、コードはむしろ 脱コード化の対照的概念として使われていると言えるのではないだろうか。 とすれば、コード化=原始共同体と言う、コードだけで出来ている社会を 言い現しているのではないか。(浅田:構造と力、宇野:ドゥルーズ流動の哲学) 参照。
258 :
考える名無しさん :05/03/12 23:03:36
公理系がシステム全体(組織体)として、欲望の流れを整流化する事 を言い表わしているのに対し、コードとはその一つ一つ局面での欲望の捕獲 行為でしょうね。
>>252 ,253,257,258
お答え有り難うございます。だいたい感じは掴めました
あのー、「ドゥルーズのアベセデール」は何でドゥルーズの死後に放映されなくてはいけなかったのでしょうか? 意図がよくわからないのです。どなたかご存じですか?
制作者パルネがドゥルーズの愛人だったから?
262 :
考える名無しさん :2005/03/22(火) 23:06:16
アンチ・オイディプス買ってきたのですが、シュレーバー控訴院長って 誰ですか?
265 :
262 :2005/03/22(火) 23:53:56
266 :
考える名無しさん :2005/03/23(水) 00:56:30
千のプラトーを古本で100円でゲット。 内容を解説しろ。
>>262 俺もそこでちょっと止まったが、基本的に人名で知らないのは流し読みで大丈夫だと思う。
後でカントールやクラインが出てくるけど同様の対応で
カントールやクラインならまだしもシューマン、ブーレーズまで出てくるからねえ
Google開いたまま読書するといいんじゃないの? そういうのドゥルーズ=ガタリも好きそうだし。
ブーレーズはともかくカントールやクラインよりシューマンが有名だと思うのは間違いなのか
271 :
考える名無しさん :2005/03/23(水) 08:25:03
272 :
考える名無しさん :2005/03/23(水) 09:13:00
カントールを呼んだときはショックだった。 無限というものが頭から離れなくて夜も眠れなかった。 無限に関して、個物と全体のヘーゲル弁証法が数学的に表された んだから大変だ。 以来、私は数学の不気味な深みにとりつかれている。
俺も千のプラトー(「千の」と言ってる通り日本語訳版)買ってきたYO。 リゾームの章を読み終わったが、何度も出てくるn-1っていうのは全部でn個ある点において ある任意の点から他の点へ引ける線の数(そしておそらくその線はDGの言うところの逃走線)だと思ったらいいのかな?
それもあるけど、 神や国家などの「一者」を外すという意味合いが強い。
ん?その一者というのは充実身体のことですか?
276 :
考える名無しさん :2005/03/27(日) 13:38:27
277 :
考える名無しさん :2005/03/27(日) 13:44:25
ソーホーの生活では、太陽の光がまったく入らない地下の部屋に暮らして、
あまり会話をすることもなく、自由な時を過ごしていた。ときどき英語の論
文を執筆していたが、あまり捗らなかったので、気晴らしにチャイナ・タウ
ンを散策したり、音楽を聴いたり、ビデオをみたりして、感性を楽しませな
がら逃避的な生活を過ごしていた。暇をもてあましたときには、ドゥルーズ
の『差異と反復』を日本語訳で読んだ。この種のフランス哲学は、私がこれ
まで軽んじていた類のものなのであるが、生活環境が変化してしまったおか
げで、こういう本を読んで適当にやり過ごそうとしたのであった。
ところが面白いことに、この本を読みすすめていくと、ドゥルーズの哲学
は、私のこれまでの研究に深い関係があることを理解するようになった。と
くに彼のアリストテレス批判や「問題」概念の検討は、私の思想を発展させ
ていく上で決定的に重要であると感じた。またソーホーに暮らすことによっ
て、私はドゥルーズの思考を直観的に理解できるようになっていた。なぜか
不思議とワクワクしてくる。読む前からその先が見えてくるようであった。
こういう読書経験をすることは、人生においてめったにないだろう。『差異
と反復』を読み終えると、こんどはドゥルーズ=ガタリの名著『千のプラト
ー』を読みはじめた。火事とその後のソーホー生活によって、私の中にこれ
までとは別の関心が湧き上がってきた。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20New%20York%20postscript-Intellectuals%20and%20the%20Public.htm
差異と反復、ムチャ疲れる…。まともに解読できない…。 アンチ・オイディプス、経済分からん…。1回読んだだけじゃ無理って解説にかいてある…。 千のプラトー、本が重いし高い…。未だ買う勇気が出ない…。 なんか、漏れには未だ早すぎる本なんだろうか?
>私、理工学部で生物学(生態学)をやっております。 >『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未来のために』を読んで感激しまして 黒木や山形が聞いたら卒倒しそうだw
>>279 アレは理工学部でも十分解読できる本だと思うけど?
むしろ細かいツッコミ所を見逃さずに読めるかどうかが肝心だろ、小泉の本は。
>>276 の講義もクローン個体間のルーツに関するところが微妙にあやしい。
>>281 あ、黒木ってこの人か。
忘れてた。
とりあえず、小泉はあやしい所が他の人より比較的多いとは俺も思う。
ときに、 俺は初めてドゥルーズを呼んだ(ミル・プラトーのリゾーム)時の感想は、 この人はマテマリアリズムとアニミズムがその極限で融合すると言いたいのかな、 というものだったんだけど、 あんまりドゥルーズもドゥルーズ関連書籍も読んでないから、 いまひとつこの直感が的を得ているか分んないんだけど、 どうでしょうか?
マテマリアリズム→マテリアリズム
>>283 ドゥルーズなら「君の言うことはもっともだ」というだろうな。
残念ながら現状日本人の手になるドゥルーズ解説(入門)書には、 あまりいいものは無いと思う。あえて挙げれば宇野邦一の 「ドゥルーズ−流動の哲学」だが、教科書的なのはいいとしても、 叙述が平坦すぎて「読ませる」魅力がない。 同じ教科書的な入門書なら、ハートの「ドゥルーズの哲学」のほうがベターというか、 まずは押さえておきたい事柄が書いてある。 翻訳で読めるものとしては、バディウの「ドゥルーズ」が一番いいのではないか。 ズーラヴィクヴィリの「ドゥルーズ−ひちつの出来事の哲学」はバランスのいい良書だが、 意図的とは言え訳にクセがあり過ぎる。 マルタンの「ドゥルーズ/変奏」はドゥルーズ本人の序が寄せられているものの、 詩的に過ぎて、少なくとも俺にはわけがわからん。 ジジェクの「身体なき器官」はポイントは押さえてあるが、厭味が過ぎて、 ちょっとしらける(ついでに言えば、翻訳のセンスに問題が多い)。 シェレールの「ドゥルーズへのまなざし」はドゥルーズファン向けのエッセイ。 読むのがきついけど、江川隆男の「存在と差異」には何かありそうなので、 今は個人的にはこれを少しずつ読んでいる。 個人的には、ドゥルーズ入門に対する印象はこんな感じ。
>>283 >マテリアリズムとアニミズムがその極限で融合する
それは違うんじゃないかな。
確かにドゥルーズは植物や無機物も「観想する」等と述べているけど、
それはスピノザの並行論的な意味で捉えるべきだと思う。
要するに、諸個物はその「身体」の構成や可塑性に厳密に対応した「精神(観念)」
を持つ訳だけど、例えば人間の「精神」と時計の「精神」の間には、
それらの身体(延長)の構成や可塑性が異なっているのと全く同じ程度の差異がある、
という考え方だと思う。
だから草木にも灰皿にもウイルスにも「人間と同じような精神がある」という意味での
「アニミズム」では全くない。
288 :
ニコライV ◆ggDFgffMfs :2005/03/27(日) 20:12:21
>>286 サンクス。
参考になります。
>>287 「人間と同じような精神がある」という意味での「アニミズム」でないとは思う。
『差異と反復』の最後の存在の喧騒とかも含めたドゥルーズの世界は、
スピノザ的な平行論的な意味でとらえるべきだとも、
それが正当な(常識的な)解釈だと、なるほど、
言われてみれば、思う。
此処からは知ったかの推論なんだけど、
『資本主義と分裂症』が、
確かに言葉は俺らの日常使う言語と同じ言語を使っているけど、
言葉同士の結びつき(=論理)が二回読まなきゃ分からないって言うとこからして、
明らかにまったく違う思考回路でもって世界が構成されているという印象を受けたんだよ。
で、その思考回路って言うのがツリーのような(《統合⇔分岐》=二項対立と、解釈しました)
では無くて、リゾームのような
(《分岐⇔分岐》={(1=∞(永劫回帰?))原論}だと解釈しました)
だと思ったわけ。
で、これって何か唯物論が極まりすぎてアニミズム(ていうかマナイズム?)っぽいなぁ、
と思ったんですよ。
書きながら「漏れ、ムチャクチャなこと書いとる」とは思った。 反省している。 でも思い切って質問してみて良かったとは思う。 サッパリ分からん。
290 :
考える名無しさん :2005/03/27(日) 23:30:27
>>286 有益な書き込み感謝!
では
ハート、バディウ、ズーラ
の三著はドゥルーズ入門として必読ということでいいみたいね。
じゃ、頑張って読んでみっか。
アリエズのドゥルーズ論ってまだ訳されてないのか。
本当はそれが読みたいんだが。
フラ語やってないから読めねー。
291 :
考える名無しさん :2005/03/31(木) 21:07:17
アリエズ「ドゥルーズのベルクソニズムについて」 (大原理志訳、『批評空間』第II期第15号、太田出版、1997/10)
292 :
考える名無しさん :2005/03/31(木) 21:46:51
それよりもやはりドゥルーズの著書を読むほうが良いのだよ。 難解でも、誰かの書いたドゥルーズ論はドゥルーズではないし、 それだったら、ガタリを読んだ方が分かりやすい。
カフカがいいよ。 あれが一番良くまとまっている。 訳悪いけど。
マイナー文学のために、だったっけ? なるほど。 次、ドゥルーズを買うとしたら、それにするよ。 千のプラトーなんて高くて買えん。
295 :
ローカルルール審議中 :2005/04/01(金) 00:09:50
今やっとアンチ読み終わった。 分裂病者ってそんなに偉いんですかね。
シュレーバーとアルトーは偉いよ。 こいつらより偉い健常者の方が少ない。
297 :
考える名無しさん :皇紀2665/04/01(金) 00:20:22
うぁ。なんか名前変わった。キモ。 シュレーバーはパラノイアだったんでしょ? いま、なんか分裂病(統合失調)に良く効く薬なんかも開発されてる みたいだし(副作用も強いらしいが)、何とかレセプターの障害とか ってことだし、健常者を分析するようなたいそれたモノじゃないんじゃ ないの?
298 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 22:03:51
分裂症と言っても、本当の精神病患者の事を言っているのではないのよ。 古典時代のように、私がいて現前があって、世界を一つずつ論理的に組み立てて 認識すると言う、言わば、全ての世界が明確に、矛盾なく幾度となく 繰り返し同じように現れると言う事を否定したと言う事でしょうね。 物事は、幾度となく、無限に姿を変えると言う事。 この事と、資本主義の様にいろんな物が次々に生産されて、消費され、消えていく と言う事がイクオールなのでしょうね。彼にとっては、多様に戯れる事 これこそが、スキゾフレニーなのです。
299 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 22:13:42
どうして、君は、名前を乗っ取れるのでしょう。 不思議です。「ローカルルール審議中」さん。
300 :
あいうえお :皇紀2665/04/01(金) 22:14:49
今度こそ名前を変えられないようにしました。 これでどうでしょう。
>>298 あんたの言ってることは、とても良く分かる。
故に、あんたの言っていることは、あんた自身に対する気休めに過ぎない、と思われてならない。
302 :
考える名無しさん :皇紀2665/04/01(金) 22:25:21
それこそ表象チックな印象を覚えるんですが…。 理想的スキゾフレニーという同一性。 アンチには精神分析家がオイディプス化に大変な努力を払う ことを茶化す下りがあるけれども、ドゥルーズにしてもそのまま そっくり分裂症化に大変な努力を払っている感がするのです。
>>298 もっと言うと資本主義はパッと見ると物事が幾度となく無限に姿を変わってる様にみせかけて
実は公理系への吸収によって不変のシステムになってるということも言ってたような気がする。
環境ホルモンが人間のホルモンと類似しているがゆえに代わりに作用して人体に害を及ぼしているのと同様に、
資本主義は欲望の分裂症的な性格と似ているがゆえにかえって無意識に悪影響を及ぼしているみたいだ。
304 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 23:20:21
>>302 で、その大変な努力が報われないと分かって死んじゃったんですな。
305 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 23:59:49
「ザッヘル・マゾッホからマゾヒズムへ」 國分功一郎訳 みすずno.526(2005年4月号)
「アキラから半端に逃走しちゃったアホへ」 しろうと+ぴかぁ共訳 誰か出版してあげなヨ(2005年x月号)
差異と反復って言うのは、 差異が反復するって言うこと? それとも《差異⇔反復》っていうこと?
308 :
あいうえお :2005/04/02(土) 21:15:46
差異化することが反復する事でもあるし、反復する事が差異化することである。 また、反復とは回収であり領土化であり、差異化は脱領土的な逃走である。 組織化からの脱出が差異化であり、反復は脱出の捕獲である。 つまり、スキゾ=差異化運動に対するパラノの反復である。 言語は意味を反復する前提で成り立っている。だから、言語による脱構築 に意味があるんだ。
ラストの脱構築の部分がよくわからないなあ… ドゥルーズ本人は脱構築という言葉は使わなかったんじゃないかな?
>>309 ポスト構造主義派の人には
>>308 的な人が多い。本来、ポスト構造主義という名称は、
ドゥルーズ、フーコー、デリダらの個別的思想に共通する要素を言い表したものではなく、
単なる時代区分的な「構造主義の次の時代に出てきた思想家」という便宜的な呼称に
すぎない。なので、「ポスト構造主義的思考一般」をもってドゥルーズの個別思想を根拠
づけることははじめから転倒していて、してはいけないことである。脱構築というデリダ
の概念を持ってくるのも全く的外れとは言えないが、思考のヒントにする以上のものには
ならない。にも関わらず相変わらず
>>308 的な意見が多いその原因は日本におけるフランス
現代思想受容の仕方に原因があると思われる。
これは全世界的にあったことみたいだけどね。 デリダの最後のインタビューを見ると。 本人は、一緒にするなという反発と同時に、彼らとの確かな 連帯感を感じるみたいなことを、いってたような気がする。
312 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 08:09:31
ポスト・構造主義が構造主義の後に来たと言うのは正しい。 ただし、だた後にきたのなら、構造主義後の哲学(思想全て) はポスト・構造主義と呼ばれるだろう。 しかし、そうではなく、フランスを中心に、構造批判をした人たちを 指している事は明白である。ただし、一般に言われているような ポスト・構造主義と言われる哲学者が全て「私はポスト・構造主義者である。」 と自称してはいない。 つまり、自分独自の哲学を一つのグループの中に位置図けられるのを 嫌ったんだ。つまり、自分の個性を主張したかった。 フーコーだったか、確かに「私はポスト・構造主義者ではない。」 と言っていたようだ。それでも、彼らには共通点が多いのも事実。
>>312 フーコーが強調していたのは、自分の仕事は構造主義的なものではない
ということだったよ。 「言葉と物」が反響を呼ぶにつれて、フーコーは構造主義者
だという通説が広まったの。 そこで、「言葉と物」の発表後に寄せられた数々の
批判に答える形でいろいろ書いて、それが「知の考古学」につながってくの。
「私はポスト・構造主義者ではない」という発言もあるのかな、どこでしたのかなあ?
それにしても、ポストモダン的タームを畳み掛けて何か言った気になるのは愚劣だ。 紹介以上の踏み込んだ解説書・読解書がほとんどないせいだろうけど。 まだまだ研究が手付かずだってことだ。
正直その道で食ってる人も未だほとんどわかってないって事?
その道で食っている人は、 啓蒙を無駄な仕事と考えがちだから。 留学組の連中と話すと、 一般読書人に対する関心がちっともないことに気付くよ。
317 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 13:56:05
313 その通りかも知れない。 フーコーは構造主義者ではないとしか言っていないかも知れんな。 訂正する。しかし、彼はやはり構造主義者ですよ。 外から見たら、そのまま「構造主義者」って事だろう。 言葉による、差異体系と認識の方法が時代ごとに異なると言っているのだから。 (エピステーメー) 次に、「知の考古学」でも、「言説」の分析で、表現方法の時代的な特徴を 言い表わしている。つまり、諸要素の布置によって、特徴的体系が出来ている と言う事だろう。全てはこの布置=体系=構造によっている訳で、 個の独自性・独創性は写像されて、例として、構造から排除されたものは、監獄に捕まる てっこったろうな。「監獄の歴史」
狂気の歴史の頃は、普通に構造主義と自称しているけどな
319 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 14:01:45
317 写像は捨象(捨て去る)に訂正変更。
320 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 14:06:44
そして、構造主義の最大の特徴は、この構造が、真理によって成り立っていない と言う事だ。つまり、「気違い」はこの構造にとって異物であるので 病院に送られたと言う事である。つまり、恣意的体系(スシュール記号論) によって、夫々の立場の人間は作られるんだ。 これって、問題なんだ。 逆に「気違いが」この構造の恣意的な面を暴くのが恐いので、隔離したって 事ですね。
論理的真理はどうするの?
322 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 14:19:32
そんなものは、全て慣習です。論理学に疎いですが、 全ての、「○○律」は恣意的慣習に影響されているのです。
323 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 14:22:44
ですから、万人が認める論理的真理は捏造されたものです。 だからと言って、真理に行き着く論理を見出そうとしたら それも創作になります。ですから、真理ではなく創作する事 を是認すると、多様性にに開かれるのですね。(ポスト・構造主義)
これだから、研究者にはしっかり啓蒙する義務がある。
國分さんに期待しましょう 無理か。
326 :
ローカルルール審議中 :2005/04/03(日) 18:14:38
>そんなものは、全て慣習です。論理学に疎いですが、 論理学に疎いのに >全ての、「○○律」は恣意的慣習に影響されているのです ?
前のレスを参照する時は>>をつけましょう。
>>1 みたいに
329 :
ローカルルール審議中 :2005/04/05(火) 18:08:06
330 :
ローカルルール審議中 :2005/04/17(日) 00:57:54
アンチオイディプスは欲望と機械の心身2元論ってことでいいですよね。
>>330 そうなん? 聞きかじりだけど、二元論の克服が現代哲学の主要テーマだったんじゃない?
>>330 激しく違うと思われ
むしろ欲望する生産の一元論
333 :
ローカルルール審議中 :2005/04/17(日) 15:44:29
334 :
ローカルルール審議中 :2005/04/17(日) 20:10:55
そう言うことである。 二元論の乗り越えこそが、ポスト・モダンの中心的な 運動である。欲望する機械なのであり、欲望と機械ではない。 機械は無意識な運動であり、メカニックではない。
335 :
ローカルルール審議中 :2005/04/18(月) 21:58:36
器官なき身体を、通説通り純粋な状態の原始的な欲望といったような 意味で解釈して、それが機械と接続されて、欲望する諸機械を形作るのだ とすれば、欲望する諸機械化の手前で2元論でしょう。
何と何との二元論?欲望と機械か?
337 :
ローカルルール審議中 :2005/04/19(火) 22:03:28
そうではない。 欲望が機械状(無意識に構造化されている)になっていると言う事である。 よって、「欲望と機械」の二項ではないのです。 これは、精神分析学的に言えるのです。 我々のリビドーは何かの抑制によって欲望がある形を取って 現れると言う事です。例えば、資本主義機械は、 欲望の流れを自分の機械に即して整流化し、欲望を全体に構造化された形で、 コントロールするのです。 一方、機関亡き身体とは、欲望する機械との対立概念ではないと言う事。 つまり、全く異なるものであり、欲望=器官亡き身体ではないと言う事です。 この辺は微妙な所でもあるので、重要な点かも知れんな。 ただ、ドゥルーズは全面的にスキゾを肯定しているわけでもない。 つまり、分裂は再領土によって捕獲される。つまり、差異は反復化されると言う 事だろう。
はあ?
ドゥルーズが実はばりばり二元論だってのはもう自明だろ? 詩的で幻想的なのが取り柄。
340 :
ローカルルール審議中 :2005/04/19(火) 22:53:36
うん。ちがう?
341 :
ローカルルール審議中 :2005/04/19(火) 22:58:56
アンチオイディプスは二元論というか、疎外論ぽいとは思った。 勘違いしてるような気もするけど。
>>337 >例えば、資本主義機械は、欲望の流れを自分の機械に即して整流化し、欲望を全体に構造化さ
>れた形で、コントロールするのです
これだと
>>335 の言う「純粋な状態の原始的な欲望」と「〜機械」の結合云々と変わらない。
ドゥルーズは「我々の身体」も「〜機械」も両方とも欲望する諸機械の一種にすぎず、それらが
様々な結合の仕方をしており、そこに「正しい結合の仕方」「正しくない結合の仕方」という目
的論的思考を介在させない身体の在り方を「器官なき身体」と呼んだのだと思うのだが。
>>339 とんでもない偏見だ
むしろ全く逆だろ?
二元論とは世界が二つの独立した(互いが互いの存立そのものに影響を及ぼし合わない)原理や 根源的要素から成り立っているという主張のこと。誰かが、世界の中には互いが互いの存立そ のものに影響を及ぼし合う原理や要素がいくつあるのかを主張したとしても、その主張が「〜元 論的主張」であるかどうかには全く関係がない。術語の無知の問題。
346 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 01:27:01
ドゥルーズが二元論? それ、本気で言ってるの?冗談としか思えないのだが。。。
ニーチェ的強度とハイデガー的存在論差異を隠喩手的に連結している、 ということでドゥルーズは幻想だっていう批判は否定できないだろ。
また吉本信者の自称ハイデガー歴10年の人ですか。
349 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 10:51:49
ドゥルーズは、ガタリとなんかタッグを組む必要はなかったのでは・・・ ガタリが押しが強かったので、ドゥルーズはついつい乗せられちゃったか・・ その辺の事情、ノンフィクションを誰か書いてくれないかな。
ガタリと組んだから良かったに決まってるじゃん
351 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 14:28:53
352 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 14:54:52
>>352 >したがって、言ってみればこの「器官なき身体」は、
>必ず何らかの具体的な「身体」的なものに連結して現われなければならない。
ここ混乱してるじゃん
354 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 15:06:43
で、なんだかアンチオイディプスって二元論的だなあとなんとなく思ったわけで。
その理解は間違い。 だいたい二元論は駄目とか、 そういう水準で哲学の優劣を論じるのがイクナイ。 浅田彰の解説の最大の悪影響だったと思う。
356 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 15:22:16
だから隠れユングとか言われるんだよ
357 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 15:26:12
別に二元論はダメとかは思っていないし、なんでダメって言われてるの
かもわからない。(僕は哲学科じゃないので)
ただ
>>352 のページを書いている人が、アンチオイディプスを読んで
なにやら資本主義を理解したらしいので、じゃあ読んでみようと思って
本を買ってきたのですよ。
>>345 さんのおっしゃるとおり二元論の意味もあやふやだし。
ドゥルーズに詳しい皆さんとしてはやっぱり
>>352 の理解は誤りなんでしょうか?
一つだけ言うと、 アンチオイディプスの翻訳者は、 精神分析と経済学の用語理解が不十分なので、 ちょっと苦労するかもしれない。 352のサイトは素人解説の一つとして受け取ればいいと思う。 けどあてにしたら駄目。
359 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 16:01:25
AO及びMPには金融理論に対する本質的な批判が隠れている。 今の金融理論は「貨幣」という概念を中心に据えており、金融政策 の基本的メカニズムも「貨幣」を中心だ。 しかしそうじゃなかった。 問題は「貨幣」ではなく「信用」であり、「信用」の一般理論が必 要なのである。 そしてドゥルーズの経済学批判はそういう未来の経済学批判だった のである。
360 :
:2005/04/20(水) 16:03:09
アンチ・オイディプスの話が盛り上がってきたので、新スレでも建てますか。 千のプラトーも含めて「資本主義と分裂症」っていうスレ名にして
362 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 16:58:51
「信用」は情報の機械状のブロックである。 それは第一に「個別」であり、トランスファーできるものではない。 銀行であり企業であれ個人であれこの信用に対する振る舞いが、金の 流れを作るのである。 だから、信用は決して売買されるのではなく、割り当てられるのだ。 金融は銀行だけの規律社会的問題ではなく、信用のネットワークの管 理社会的問題となったのだ。
363 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 17:18:30
アホクサー
364 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 17:21:11
(´・ω・`)
365 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 17:24:26
ヾ(^ ^ゞ =з =з =з=з =з =з=з =з =з=з =з =з=з =з =з=з =з =з=з =з =з
一つだけ言うと、 アンチオイディプスの翻訳者は、 精神分析と経済学の用語理解が不十分 それって、訳者失格、というのと同義なんだがw
367 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 18:14:08
>>366 ええええ?
どこですか?
一番やばいところだけ教えてください。
>>367 フロイトとラカンの用語全部
せめてラプランシュ&ポンタリス本ぐらい使えよと。
369 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 18:23:31
>>368 そうそう
l'imaginaireの訳なんて酷いね。
370 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 18:26:19
>>369 それを言うならle symboliqueもひどいよ。
差異の体系というものがまるでわかってない訳だよ。
371 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 18:28:56
le reelもラカンの区別した使用にまったく無頓着に 訳してるんだもんな。 いやんなっちゃうよ。
でもrealiteを「実在」とするのは賛成 ラカニアンに忠実じゃなくてもいいと思うが、 参照すらしていないのが明白だからめちゃくちゃになる。 訳者後書きの弁明とかその典型。
373 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 19:31:11
数学がわかってない訳だから完全ボツ 精神分析では、sensとsignificationの区別がついとらん。 全部勉強しなおせ。
>>357 >>352 の理解は誤りなんでしょうか?
>>352 はドゥルーズ思想の概略としては間違っているとは言えないが、入門書レベルのま
とめとしてよくあるタイプの説明(AO、MPを故意に俗っぽく説明した浅田彰「構造と力」
「逃走論」に代表される)なので今となってはあまり面白くない。また、>355さんの言うよ
うに浅田的な概略素描、ひいてはもっと一般的に誰かの思想の概略素描に対し、それが正
しいか誤りかを指摘することはあまり生産的ではない。「二元論は駄目とか、そういう水準
で哲学の優劣を論じる」という、しょーもない見かけの問題を構成しやすいからです(その
典型が
>>334 「二元論の乗り越えこそが、ポスト・モダンの中心的な運動である」という
レス。
>>345 のような回答をすればよいだけなのに、二元論という言葉にバカみたいに
条件反射してるでしょ)。
ドゥルーズ=ガタリ思想の概略素描は、あくまで彼らが提唱した思想は本当に資本主義や
分裂病に関してマルクスやフロイト=ラカンに比べヨリ妥当なものなのか?という、個々人
が考えて答えを出すべき問いの補助線以上のものにすべきではないと思います。
375 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 22:16:51
この様に考えないといけないとか言う事自体、形而上学的なのではないだろうか。 二項対立的に捉えるのが間違いだと言うのは、その背景があっての事だと思う。 二元論とはと言う定義をしても背景は見えてこない。何故二元論ではダメだったか を知る事こそ、ポスト・モダン すなわちポスト・構造主義の運動の意味が分かるんだ。 多分君には分かっていないから、定義付けで満足するんだと思う。 二元論は何故否定されねばならなかったか?どうでしょう。 それと、単純に資本主義=ドゥルーズ=分裂症と考え、それをマルクスと比較するのは ちょっとドゥルーズ問題意識の中心を外している気がするな。もっと広いのではないだろうか。 例えば、形而上学批判と言う切り口もある。 もっとも、マルクスにラカンを同じサイドに置くのも不思議だ。
>>375 またまた曖昧極まるレスで問題ありだなあ
1形而上学が絶対悪であると言っていて、形而上学批判ならなんでもかんでも許される
と言っているようにしか見えない。
2「二項対立的思考」と「二元論」が同じものだと思っている。
3何故二元論ではダメなのか、その理由は?ドゥルーズや浅田がそう言ったから、という
以上の理由は何ですか? 正しいドゥルーズ理解や正しい浅田理解は補助線にすぎない。
4 >資本主義=ドゥルーズ=分裂症と考え、それをマルクスと比較する
意味不明の等号。そんなことはどこにも書いてない。ちゃんと読んでください。
5>マルクスにラカンを同じサイドに置くのも不思議。
AO、MPには「資本主義と分裂病」というサブタイトルがついていて、マルクス
やフロイト=ラカンの理論の批判的継承がメインになっているのだから不思議で
もなんでもない。不思議と思うほうが不思議。
377 :
ローカルルール審議中 :2005/04/21(木) 20:41:21
言っている意味が良く分からん。 1・形而上学は悪であるから批判するのでしょう。 当面批判する事が必要であったから、ポスト・構造主義がそうしたんだろう。 その後もずっと形而上学批判で十分とは言っていないだろう。 このスレッドはドゥルーズであり、よって、彼の哲学は形而上学批判だと言っている にすぎないのだ。 2・二項対立と二元論は違うものだと言うのは正しい。だだ、ポスト・構造主義的に見ると 同じ穴のムジナである。理由はわかるよね。 3・については何故二元論は正しいと(二項対立的認識)言えるかを考えると良い。 答えは次回にする。 4.「ドゥルーズ=ガタリ思想の概略素描は、あくまで彼らが提唱した思想は本当に資本主義や 分裂病に関してマルクスやフロイト=ラカンに比べヨリ妥当なものなのか?という、個々人 が考えて答えを出すべき問いの補助線以上のものにすべきではないと思います。」 これはどう言うことだろうな?君がこの等号を意味不明と言うのなら、まだよく読んでいない と言う事だろうな。 5.なるほど、彼はラカンを批判しているのは事実。しかし、実際に批判しているのは 精神分析学全般だろう。俺の自論としては、むしろ、ラカンを無視できない。 構造主義的精神分析学から、その主体の「ずれ」をポスト・構造主義的に見出せるのは 彼の偉業だと思うが。 以上、もう少し深く読む必要があるな。
378 :
ローカルルール審議中 :2005/04/21(木) 21:27:06
>>373 >精神分析では、sensとsignificationの区別がついとらん
というと?
379 :
ローカルルール審議中 :2005/04/21(木) 21:42:08
>>378 ラカンのその辺は、ソシュール言語学やらないと難しい。
ソシュールがsignifierの現在分詞、過去分詞の実詞扱いしたわけだけど、
その関係は十分形式化されたとは言えず、それが発展的にラカンによって
関数的に捉える道が開かれた。
ここまでくれば、signifierはまったくsensを含まないことがわかる。
翻訳でもあえて訳語を使わないことが多いのはそういう理由。
380 :
379 :2005/04/21(木) 21:49:04
あ、それでsignificationだな。 significationは関数である。 f(S)=s の関数fのこと。 sensではない。 よこレスすまそ
曖昧な物言いをしてるのは、パレやん?
>>379 あのさあ、ラカンはフレーゲも援用しているんだよ?
分析の連中は怒り狂っているけど
(特にブーヴレス)
>>377 1>形而上学は悪であるから批判するのでしょう。
「形而上学は悪である」などという曖昧極まりない解説書的概略などどうでもいい。
そもそも思想というのは善悪の彼岸にある。解説書は解りやすくするために形而上学一般
を仮想敵にして書いてあるだけのこと。概略を原書読解のヒントにすることはよい。しか
し概略を確認するために原書読解をするのは悪しき論点先取以外のなにものでもない。
2>二項対立と二元論は違うものだと言うのは正しい。だだ、ポスト・構造主義的に見ると
>同じ穴のムジナである。
君以外の誰一人としてそんなわけのわからんことを言ってるやつはいないと思うよ。
まったくの新説(珍説)。知ったかはやめとけ。
3>答えは次回にする。
次回ちゃんと書いてくださいね。
4 俺に対して「君は単純に資本主義=ドゥルーズ=分裂症と考えている」という批判を
>>375 でしたのは君のほう。俺はそんなこと一言も言っていないと言っている。理論
上の問題ではなく、議論上の問題。
5 これも議論上の問題。俺の書きこみをちゃんと読んでないだけのこと。
ドゥルーズはむしろ正統的なメタフィジシャンだろ? ライプニッツにホワイトヘッドだぜ?
385 :
ローカルルール審議中 :2005/04/22(金) 22:15:37
ライプニッツはモナドロジーだろう。 「世界は無数の実体によって出来上がっている。 この実体をモナドと言う。モナドにはそこを通って 何かが出入りできるような窓がない。モナドは実体であるから、 神の創造とともに生じる。よって部分がなく、外部の影響で変化しない。 ただし、それ自体は内部で変化する。全てのモナドは一種の精神的存在 として、世界を自分の中に写しだす。 そして、モナドの数だけ世界がある事になる。そして、無数のモナドは自分自身の 中に原因を持ちながら、予定調和的に統一されている。」 小坂修平著西洋哲学史より。 ここまで言えばもう分かるだろう。ドゥルーズは予定調和を踏襲してはいない。
386 :
ローカルルール審議中 :2005/04/22(金) 22:23:12
予定調和以外の部分である実体を内在の哲学として、自分のものにしている点と 全てのモナドが自分の位置から世界を映し出していると言う点ある。 つまり、ドゥルーズの関数(夫々の位置から世界は多様になる)はライプニッツの影響である。 全ての視点は絶対点=超越点を持ち得ないと言う事。(形而上学批判) また、内在は外の影響よりも自分の「変身」を強調することになるんだろうが。 つまり、絶対視点の固定=デカルト的捕らえ方の否定をライプニッツに見出すべき だろうが。分かったかい。
387 :
ローカルルール審議中 :2005/04/22(金) 22:25:04
383は言葉遊びをやっているだけで、中味がないのう。 説明できていない。もう少し多様に読むことだな。
388 :
ローカルルール審議中 :2005/04/22(金) 23:50:51
アンチオイディプスの中では「対象a」についての批判はないですよね。
だって部分対象の理論だもの
ひさしぶりに見たら
>>385 ,386みたいなまともなレスがついてるな
391 :
ローカルルール審議中 :2005/04/23(土) 03:22:49
>>386 ライプニッツのモナド説から予定調和説を抜いたらモナド説は即崩壊すると思うの
だが。その説明は都合が良すぎるのではないかな。
392 :
ローカルルール審議中 :2005/04/23(土) 07:28:17
『差異と反復』岩波文庫を見た気がしたんだが あれは幻だったのか
393 :
ローカルルール審議中 :2005/04/23(土) 10:03:46
君らは予定調和の意味が全然わかってないようでつね。
予定調和を「出来事」の敵と考える香具師は、 ドゥルーズをもう一度読み直すべきです
おもて 3 【面】 (1)かお。顔面。 「―を伏せる」 (2)ものの表面。 「湖の―」 (3)能などの面。仮面。 (4)面目。体面。 おもだち 0 2 【面立ち】 顔のようす。顔つき。顔だち。おもざし。 visageビサージュ ドゥルーズは次のように顔と頭とを区別している。「肖像画家ベイコンは、頭の画家であり、顔の画家ではない。 これら二つのあいだにはひとつの大きな違いがある。というのも、顔が、頭を覆うひとつの構造化された 空間的組織であるのに対し、頭とは、たとえそれが身体の尖端をなしていようとも、 あくまでも、身体のひとつの属領だからである。これは、頭が精神を欠いていることを意味するわけではなく、 身体である精神、身体的かつ生命力のある呼吸なのだ〔……〕。 したがって、ベイコンが肖像画家として遂行するプロジェクトは非常に特殊なものである。 顔を壊すこと、顔の下に頭を見い出すこと、あるいは、顔の下から頭を出現させること」(Ibid., p.19)
ミルプラトーでもその話は出てたね。 顔を壊して、自動弾頭弾になれ、みたいなw
397 :
ローカルルール審議中 :2005/04/23(土) 15:38:19
予定調和とは・・・という単なる概念説明では予定調和は絶対に理解 できないよね。
アリストテレスの形相と質量という考え方と予定調和は原理としては同じではないのか。
見ることは喜び
400 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 14:49:05
予定調和とは神が予め、世界の全てのものを全体的に調和している様に創ったと言う 説である。デカルトにしても、理性的に分析すれば、世界は機械論的に創られてある と力説しているが、これも予定調和説と同じである。因果で捉える事が出来ると言う 考えは、ある意味で予定調和説でもある。勿論、神学の「神は○○のように世界を 御創りになった。」のような、断定にも、予定調和の臭いはする。 顔貌性とは全ての価値体系を作っている基準であり、二項作用によって 基準を確立し、それにそって、異物・多様性を排除する機械である。勿論 スキゾ分析は、この顔の帝国から脱出を図る必要がある。その為には、このシニフィアン =主体化作用から逃れなければならない。 「きみたちのブラックホール、ホワイトウォールを探せ、それを認識し、きみたちの 顔を認識せよ、そうでない限り、きみたちの逃走線は成立しないであろう。」 ミルプラトー参照。
>>400 デカルトの説が予定調和と同じわけがない。予定調和は厳密に言えば、実体相互の
予定調和と、心身間の予定調和とがある。デカルトは心身間の関係を規定するのに、
スコラ的な物理的影響説を採らざるを得なかった。よく知られているように、
松果腺に心身結合の原因があると見た。マールブランシュはこれに不満を覚え、
機会原因説を唱えるが、ライプニッツはそれに代わるものとして、予定調和を唱える。
予定調和は、「因果で捉える事が出来る」という説ではなく、因果を可能にしている
ものを問題にしている。ライプニッツにとっては、実は実体間にも心身間にも、
因果関係はない。なのに、互いに一致する。この一致を可能にする条件として、
予定調和を論ずるわけです。
因果関係があるのは、ある個別の魂の変化の場合と、ある個別の肉体の変化の場合のみです。
従って、因果関係は、一つの実体の中に、それに固有なものとして閉じられている。
その閉じられた実体同士につながりをもたらすのが予定調和です。
まあ、暇だったので指摘しておきました。ドゥルーズはしかしライプニッツの包摂の
議論を『襞』で論じてたよね?
補足 >従って、因果関係は、一つの実体の中に、それに固有なものとして閉じられている ライプニッツは、実体はそれぞれ独立の世界のようなものである、と言っております。 世界が滅びようとも、神と自分の魂さえ残っていれば、世界はいつもと変わらず進行する、 とも。これは極端な言い方ですが、実体相互には因果関係がない、ということを 強調しているのです。「モナドには、そこを通って出入りできるような窓はない」は あまりに有名な言葉です。 ただ、ライプニッツの場合は、予定調和ですべてが説明できるのか、という問題があって、 『新説』発表後に、予定調和は心身の一致を説明しても、結合は説明していないという 反論が出るのですがね。この問題はボス宛ての書簡で再燃するが、・・・ まあ、いいか。うんこでもするか。
403 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 15:30:39
「パリスはヘレナを愛している」を「パリスは愛する」と「ヘレナ は愛される」に分解できれば、モナドの内的性質が成立すると考えた ライプニッツのどこに偉いところがあるんですか? なんか、ありきたりの英語の構文変換の問題のにしか見えないのですが。
404 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 15:46:03
何でドゥルーズがライプニッツをこんなにひいきにするのかさっぱり わからんな。
>「パリスはヘレナを愛している」を「パリスは愛する」と「ヘレナ >は愛される」に分解できれば、モナドの内的性質が成立すると考えた >ライプニッツのどこに偉いところがあるんですか? 「どこに偉いところがあるんですか?」と訊かれても困るなあ(笑)。 あなたの言う「偉い」とは、大体どういう意味ですか? ライプニッツがモナドの自発性を 説いたことでなした哲学的寄与のことでしょうか? それから、構文変換とかじゃなくて、その上の文章が言わんとしているのは、 実体の各属性は、その実体に固有のものとして属し、かつ、自発的に展開されていくという ことです。「パリスはヘレナを愛している」は二つの実体間の関係を表すものですが、 ライプニッツにとっては、実はこの関係はリアルなものではない。 精確に言うならば、「パリスは愛する」と「ヘレナは愛される」という、おのおの二つの 実体に起こることが、予定調和によって一致しているに過ぎない。 肝腎なのは、両実体間に実在的結合はないということです。一つの実体には、以後それに 起こるすべての述語があらかじめ含まれている。よって、ある時期に達すると、自発的に、 「パリスは愛する」という述語が現実化され、それが、一方で、他の実体において自発的に 展開された「ヘレナは愛される」と一致する。この一致においてのみ、「パリスはヘレナを 愛している」という事態が成り立つというわけです。 まあ、これが「偉い」かどうかは俺にも分かりませんがね。
406 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 15:55:09
>>405 「パリスは愛する」はいいとして、「ヘレナは愛される」という場合、
「愛される」という述語がヘレナという実体に属しているわけでないですよね?
変ですよ。
>>406 なんで変なの?
「ヘレナは愛される」はヘレナという実体に属する述語だよ?
別に述語は能動的であっても受動的であってもいいんだよ。
勿論、能動的な述語には能動的な表象が伴い、受動的な述語には受動的な表象が伴う。
ライプニッツは、ある一つの表象が、他の表象に対して、より判明である時に、
能動的になると語っていますよ。あるいは、ある表象が、他の表象に対して、
その原因をしっかりと説明するような場合に、能動的になる、と。
408 :
406 :2005/04/24(日) 16:06:11
つまり、パリスがいなければ、「ヘレナは愛される」は成立しない。 言い換えれば「パリスは愛する」が前提で、その結果「ヘレナは愛される」 といえると思うんですよ。 それにしても、「パリスは愛する」という命題にはなにか意味があるんですかね? といったところで、なんかわかりました。 お?やっぱり予定調和はすごいかもしれないです。 じゃまたあとで。
>つまり、パリスがいなければ、「ヘレナは愛される」は成立しない。 >言い換えれば「パリスは愛する」が前提で、その結果「ヘレナは愛される」 >といえると思うんですよ。 ああ、なるほど。そんな風に考えているのですね。 いや、「パリスはヘレナを愛する」という文章で、パリスを優先させる理由は何もありません。 もしあなたが優先させるのなら、私は同等の権利をもって、ヘレナがいなければ、「パリスは 愛する」は成立しない、と言えますよ。 まず、パリスを「チンポ太郎」に置き換え、ヘレナを「マコリン」に置き換えて見ましょうか。 1) Chinpo-taro loves Makorin. 2) Makorin is loved by Chinpo-taro. としましょう。1) は「チンポ太郎」という実体に関する述語です。2) は「マコリン」という 実体に関する述語。つまり、チンポ太郎という実体の中には、あらかじめ、マコリンという 実体の存在が含まれていて(これは創造時からそうなっている)、それが特定の時期に なって、Chinpo-taro loves Makorin. という形で顕在化する。 一方、マコリンという実体にも、チンポ太郎という実体の存在が含まれており、これが ある時期に達すると、Makorin is loved by Chinpo-taro. が発現する。 しかし、これら二つの述語は、相互に独立で、実在的なつながりはないという点が重要。 しかし、互いに独立である、Chinpo-taro loves Makorin. と、Makorin is loved by Chinpo-taro. とが、 ある一定の時期に、予定調和によって、いわば「出会う」わけです。 ここに出来事が成立するんですよ。 まあ、こういう話はライプニッツ・スレでやるべきでしょうが。
410 :
406 :2005/04/24(日) 16:40:44
ちょっと気になって戻ってきました。
>>409 >ヘレナがいなければ、「パリスは愛する」は成立しない、と言えますよ。
そうなんです。俺が気づいたのはこの点なんです。
であるならば、 「パリスは愛する」という命題にはなにか意味があるんですかね?
と思ったところでひらめきました。
ではまた。
411 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 17:05:54
予定調和については、直接の相互作用なしに、全体の秩序を説明するんですね。 ちょっと違ってました。それにしても、全体化と言う点から見ると、デカルトの 機械論も神の存在を前提として、現前はあるがままに知りうると考えたのでしょう。 そこから、世界を全体的に捉えうる(機械的に体系的に)。 そう言う意味からは、ポスト・モダン的には、同じ面が見えてくるんですね。 つまり、全体と部分と言う点です。勿論インテグレーション批判として。 ただし、ライプニッツには部分はないのかな? ライプニッツの主語と述語の問題については、全ては分析判断と言う事でしょうか。 つまり、主語の中に全ての述語は含まれている。よって、総合判断はない。 こう言う事ですかね。
412 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 18:36:18
「神が個別的事物(モナド)の間の関係をすべて初めから定めていて、 すべての現象は合法則的、合目的的に進行する様、調和的に秩序づけら れている。」と言う事から、あくまで、形而上学的であると言えますよね。 一方デカルトにあっても、世界は因果によって説明がつくと考えている。 つまり、世界にある一切の運動の原因は神であり、神=機械論的な基盤 であり、やはり、世界は真理として、絶対に数式的に開かれていると言う 事になります。ここから、ライプニッツ、デカルトがともに神を前提にして 無矛盾な体系を築こうとした。
>>411 「スレ違い」と指摘されるのを恐れておりますので、肝腎な点だけを。
まず、部分と全体の関係ですが、デカルト・スピノザ流の哲学では、部分と全体は
量的に規定されています。それに対して、ライプニッツの哲学では、質的に規定されている。
量的な規定では、部分は所詮、部分であり、それは全体を総合的に包括することはできない。
ライプニッツの場合は、各実体が「全宇宙を表出する鏡」であり、部分といえども、
そのおのおのがそれぞれ独自の仕方で全体を包括している。
つまり、部分と全体の間には、単に質的な差異しかないわけで、全体は部分よりも「大きい」
とかいえないわけです。
414 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 18:45:20
つまり、ライプニッツには夫々の間に因果関係は不要であった。 それは、神が、最初から調和するように創っていたと考えたから。 一方、デカルトでは、物質間は因果関係によって成り立ち、 運動の原因を神とし、神の属性を不変性とし、そこから運動の不変性、 慣性の法則、数学の証明の真理性が唱えられる。 こんな感じですかね。ポスト・モダン的な視点から見ると、ともに批判 の対象ですかね。つまり、形而上学的=ヒエラルキー的真理の探究と言う 共通性が見出せると言う事です。
>ライプニッツの主語と述語の問題については、全ては分析判断と言う事でしょうか これは厄介な問題です。解釈者によって異なる、というのがさしあたりの答えです。 ラッセル・クーチュラ流の解釈では、すべて分析判断になります。カント的な意味で。 しかし、ライプニッツの議論をそのままカント哲学の俎上に載せるのは無理があります。 そもそも、ライプニッツは、「分析・綜合」という区別をしません。 ライプニッツのいう主語というのは、即「実体」のことです。そして述語というのは、 この実体の「属性」のことです。この属性が、実体の(諸)本質をなしています。 しかし、ライプニッツ自身が述べているように、この諸本質は実体に「必然的に」 帰属するのではない。カントの場合は、「分析判断」は必然的で確実なものとされています。 しかしライプニッツの場合は、主語と述語との関係は、あくまで「偶然的」なんです。 たとえば、正三角形の本質には、「三つの辺の長さが等しい」ということが属しています。 これは分析命題であり、ア・プリオリに必然的です。しかしライプニッツはアルノーに 対して、自分のいう「包摂」の考えはそれとは異なる、と明言しています。 例えば、「アレキサンダーはルビコン河を渡った」というのは、神の予見を仮定する限りは 必然的だが、それ自体としてはア・プリオリに偶然的である、というわけです。 というのも、「アレキサンダーは渡らないこともできた」ということが、ア・プリオリに 可能であるからです。三角形の場合は、その逆が不可能、こういう場合に、ライプニッツは それが「必然的」であると言います。 アレキサンダーの場合は、「充足理由の原理」もっと精確に言えば「完全性の原理」が 働いていて、三角形の場合は、「矛盾の原理」が働いています。 この説明を成功しているとみなすかどうかで、解釈が変わってきます。 詳しくは『形而上学叙説』『アルノー宛書簡』『モナドロジー』等をご覧下さい。 スレ違いなのでこの話は俺の現象学スレでやりましょうか?(笑)
>>412 >世界にある一切の運動の原因は神であり、神=機械論的な基盤
>であり、やはり、世界は真理として、絶対に数式的に開かれていると言う
>事になります。ここから、ライプニッツ、デカルトがともに神を前提にして
>無矛盾な体系を築こうとした。
これはおっしゃる通りだと思います。神を第一原因として前提するのは、近代哲学としては
やむを得ないことでしょう。ただ、神をどう捉えるかが問題になっているのだと思います。
デカルト哲学の神は、機械論的に、意志を欠いたものとして捉えられていますが、
ライプニッツはそうじゃないと言った。
しかし、神に絶対的な信頼を置き、神が真理を保証するという点では、共通しています。
ただ、これを「形而上学」として葬る現代の趨勢には反対しますがね。
だって、現代は「神」という言葉をいろんな違った表現で言い表しているだけですからね。
そうじゃないでしょうか?
>>414 >形而上学的=ヒエラルキー的真理
どういうこと? 神を最高点にして現実世界の真理を証明していくということ?
これはしかし、物事に「根拠」を置く思想なら、すべて「形而上学的」になりますよ?
ポスト・モダンは「無根拠」、絶対的真理の否定を標榜するかも知れませんが、
それ自体、ある根拠に先行的に身を置くことによって可能なのではないでしょうか?
「形而上学的=ヒエラルキー的真理」を反駁する思想、この思想には、別の「根拠」が
宿っているように見えますよ。つまり、ヒエラルキーを否定し、差異のみを
強調する相対主義的思考・・・どうですか、このあたりの批判は?
418 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 18:54:31
ちんぼさんへ。 「スレ違い」ではないですよ。 素晴らしい書き手は多くいた方がいいし、異なる哲学の分野から 書いていただける事に感謝ですよ。ポスト・構造主義的な視点だけから見た ライプニッツと専門分野の見方とは、捉え方が違うし、細部に亘って認識されている 点が勉強になりますよ。ポスト・構造主義からは、既に述べたように デカルトもライプニッツも形而上学的側面が見えてきます。 勿論、ライプニッツの方が、内在的に世界を映し出し、無数の世界がある と言う多様性に開かれると言う意味で、好意的に受け取れます。 所謂、布置と言う事です。
419 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 18:57:47
カントの総合的判断のポイントはなに?
浅はかなポモ信者は哲学と世界観を混同してる。 浅田とそれを売り出した編集者が悪い。
421 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 19:08:27
そうですね。何が真理かと言うスタイルで物事を考えると、それは全て 形而上学的になります。物質的世界であれ、人間の内面的な状態の分析 であれ、そうです。なぜそう言うスタイルを批判したのかと言うのは、 人間の認識が言語のあり方に依存して成り立っていると言う事が、ソシュール によって、判明したからですね。つまり、真理は、経験的な世界を 帰納法的にか、演繹的にかによって、そのあるがままの姿が判明すると 考える事が出来ないと言う事になります。つまり、言語による分節によって 世界はいかようにも現れると言う事です。
422 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 19:14:58
ちんぼさんの批判については、まさに、否定神学と言われるものです。 つまり、「これもちがう、あれもちがう」と言って、全てを否定する事で 真理を煙に巻こうとしても、「否定する私」を肯定していると言う事になります。 そこの所を逃れるにはどうするかと言うと、否定する「私」とは何かと考える時 それは、答えさせられている「私」に行き着きます。「私」とは何か。 それは、名付けられた者の総称であり、この事を名付けの暴力として 考えたのがデリダです。名付けられる事で答えさせられる事、この事を 形而上学の批判の対象にします。
>>422 >ちんぼさんの批判については、まさに、否定神学と言われるものです。
>つまり、「これもちがう、あれもちがう」と言って、全てを否定する事で
>真理を煙に巻こうとしても、
それは否定神学ではなくて、懐疑論だろ。
否定神学とは、偽ディオニシウス・アレオパギタみたいな新プラトン主義の
影響を受けた神学だよ。
424 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 19:21:21
つまり、形而上学は全て現前を肯定している事が前提としてあるのですね。 この目の前にある世界は見えるようにあるのであると言う事を信じてます。 しかし、ここは私見ですが、我々の言う現前する世界は、この五感によって 現れたものであり、感官の異なる動物では、異なる世界がある事になります。 この事が正しいのならば、何故、我々人間の感じる世界だけが正しいといえるのか と考えられます。つまり、この辺は、カントの「物自体」が分からないと言う事 同じですね。
>>424 >この目の前にある世界は見えるようにあるのであると言う事を信じてます。
そんなこと言ってる形而上学者は一体誰でしょう?
タレスもアリストテレスもトマスもデカルトもそんなことは
言ってませんが。
ドゥルーズのスレでいい加減な形而上学批判して恥ずかしくありませんか?
426 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 19:32:01
そして、この様な形而上学は実は二項的な言語の構造によって まさに一つの言語が一つの対象をそのあるがままのとおりに指示し 言い表わしているとの解釈から来ていると言う事があるんです。 つまり、言語によってその分節が異なるのも係らず、真理は言語によって しか表せないと言う事が正しいならば、言語による探求は真理ではなく 真理と呼ばれるものを作成する為にあると言う事になります。 では、何のためにでしょうか。社会を構造的に集団化するためだと思われ ます。つまり、真理がないと言う事は良し悪しの基準がない社会になります。 言語構造に依存する事は、言語が既に良し悪しの構造としてある事を前提に しています。勿論良し悪しだけではなく、左右・明暗・高低等もありますが それらはすべて、人間を組織化するために作られたものと考えられます。
427 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 19:41:23
この辺のところはフーコーの書物を参照すれば明白です。時代はエピステーメー として開かれている事になります。言語の表現の背景によって 言語表現は言語の意味のみではなく、コンテクストに左右されます。 つまり、言語はその背景によって位置付けられていると言う事になっていくんですね。 こんな感じでどうでしょう。もっとも、言語的に他者に述べる事 と言う暴力を如何にする抜けるかと言う点について、デリダ・ドゥルーズなど かなり引用を多用すると言う方向へ向かっていくと言う事もあるでしょうね。 言語による真理の探究はこう言う意味から無理であると考えられますね。 だから、創作なのです。
>>422 >つまり、「これもちがう、あれもちがう」と言って、全てを否定する事で
>真理を煙に巻こうとしても、「否定する私」を肯定していると言う事になります。
それはデカルト的懐疑のことでしょうか?
つまり、いろいろ懐疑してみても、懐疑する自分がいて、この懐疑する自分だけは否定できない。
つまり、ここで、自我に亀裂が生じて、いわゆる「経験的自我」と「超越論的自我」との
区別が生ずる。
経験的自我は、「懐疑する自我」、超越論的自我は、その懐疑する自我をもう一度、自我として
捉え直す自我。こういうことでしょうか?
>否定する「私」とは何かと考える時
>それは、答えさせられている「私」に行き着きます。
「否定する私」とは、上の「経験的自我」で、「答えさせられている私」は、上の「超越論的
自我」でいいと思います。
>「私」とは何か。 >それは、名付けられた者の総称であり、この事を名付けの暴力として >考えたのがデリダです。 超越論的自我とは何か? 「それは、名付けられた者の総称」? ちょっと話が飛んでいるような 気がします。「名付けられた者」とは誰でしょうか? 「答えさせられている私」でしょうか? つまり、「超越論的自我」のことでしょうか? 要するに、「超越論的自我」を、 「超越論的自我」と名づけること、そのことに暴力が含まれているということですか? >名付けられる事で答えさせられる事 つまり、「超越論的自我」というものを作り上げ、そのように問題を設定してしまうこと、 これが「暴力」なんでしょうか?
>言語による分節によって世界はいかようにも現れる これは新手の主観主義のように見えます。世界が自明的に措定されていて、それを 「解釈する」(範疇化する)人間がいる。これは近代哲学の構図を そのまま引き継いでいるのではないでしょうか? 勿論、世界は、主観においてさまざまな仕方で現れ、主観はさまざまな仕方でそれを語る。 そこには、「主観に現れる限りの世界」、つまり、「世界の解釈」しかなく、世界そのものなんて 存在しないと言われるかも知れませんが、世界のない世界の解釈なんて不可能です。 つまり、ここでは依然、認識問題が主客二元論を基礎になされているような気がします。 勿論、重点が主観に置かれているので、「主観主義」という表現を使いました。 そもそも、真理を「主客の一致」としてしか受け止めていないことに問題があるような。
>我々の言う現前する世界は、この五感によって >現れたものであり、感官の異なる動物では、異なる世界がある事になります。 >この事が正しいのならば、何故、我々人間の感じる世界だけが正しいといえるのか >と考えられます。 「我々の言う現前する世界は、この五感によって現れたものであり」・・・逆だと思います。 世界が逆に「五感によって現れたもの」として解釈されている。そういう解釈の生ずる基盤が、 「感官の異なる動物では、異なる世界がある」という考えだと思います。 これはハイデガー流の現存在分析から批判ですが。
432 :
ローカルルール審議中 :2005/04/24(日) 20:46:56
>>言語による分節によって世界はいかようにも現れる >これは新手の主観主義のように見えます。 はああああ〜 こいつだめ
>>432 そう、駄目なんですよ。だから問題になるんですよ。肝腎なのは、「駄目」という一言で
片付けるのではなく、どこに駄目になる原因があるのかを追求することなんですよ。
>>427 おっしゃることには大体、賛成ですが、もっと哲学的に緻密に議論を積み重ねて行くのが
いいと思います。私には、あなたが近代を批判しているにも拘らず、近代哲学の用語を
ほとんど何の批判もなく、そっくりそのまま使用しているように思えます。
問題なのは、近代の哲学者たちが、あなたが使用しているように、そのような用語を
本当に使用していたのか、ということではないでしょうか?
はっきり言いますと、「近代」というのものを勝手に妄想で構築して、それを批判しているように
見えるのです。近代哲学は、「ポストモダン」というものによって、極度に歪められています。
私は例えば、デカルトとライプニッツを無造作に「同じ」とするあなたの論法に「暴力」を
感じますよ。彼らは声を大にして言うでしょう、「俺らは違います」と。
近代哲学を正しく理解することがまず先決ではないですか?
勿論、ここで「正しく理解する」ということは、真理を求めるという意味ではなく、
己の置かれた解釈学的状況を明らかにした上で、近代哲学の可能性を問うということですが。
大体、ドゥルーズのライプニッツ解釈がその好例ではないですか?
まあ、俺は場違いなので現象学スレに帰ります。
ただ、ライプニッツ哲学に関する誤解を解きたかっただけです。
それから、
>>432 に今一度言いますが、
私は「主観主義」と括弧に入れるべきでしたね。
というのも、馬鹿が簡単に誤解してしまいますからね。
435 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 20:23:36
昨日はどうもすみませんでした。 途中で書き込みが出来なくなりました。
436 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 20:29:44
「それはデカルト的懐疑のことでしょうか? つまり、いろいろ懐疑してみても、懐疑する自分がいて、この懐疑する自分だけは否定できない。 つまり、ここで、自我に亀裂が生じて、いわゆる「経験的自我」と「超越論的自我」との 区別が生ずる。」 いいえ、否定神学とはそう言うことではありません。 つまり、完全に形而上学批判をする場合に、全ての肯定と否定は 排除しなければなりません。つまり、何かを論理的に述べる(形而上学) 場合には、「そうである。」か「そうではない。」と言う表現になります。 その組み立てによって、高度な論理は創られます。例えば「我思うゆえに われあり。」も肯定です。ですから、形而上学批判の場合には全ての肯定と 全ての否定を否定しなければなりません。
437 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 20:41:54
しかし、「肯定・否定」を否定しても、否定すると言う事によって 私は、ある事を述べている事になります。この事を別の局面から述べると 語ること全てを否定しても否定している「私」を否定できないと言ったんです。 この事は、デカルトの懐疑と似ていますが、全く異なるものです。 誤解を招くので、436の説明で了解願います。 そこで、この形而上学批判を徹底する時どの様になるのかと言う問題点が浮かび上がるでしょう。 つまり、その為には2つの方法があると思われます。 一つは、「我思う」と言うコギト=自我=主体を放棄する事です。 主体は創られたものであり、その様な存在証明は出来ないとすることです。 我は「名付けの暴力」によって、答えさせられているに過ぎないと考えるのですね。 そこで、我=主体を喪失する事で、統一化する組織体から、逃走できるようになるのです。 つまり、形而上学とは、「我思う」によって、持続するリビドーの流れ が切断され、「主体以前」に亀裂を齎し、その傷口=空にシニフィアン連鎖 を持ち込んだ結果なのです。
438 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 20:51:33
こう言う分析は、古典哲学にはありませんね。 つまり、貴方の分析には、全て論理で理解できると言う、信憑がありますね。 確かに古典哲学には構築された結晶の美しさがあります。 しかしその結晶は、自己満足的に、他者を排除するんです。 この様に考えているのが、ポスト・構造主義です。つまり、真理とは (何が正しいかと問うスタイル全てが)非真理を排除する事によって 成り立っています。この事は、西洋は東洋と言う非真理において成り立つのです。 この様な背景が貴方の専門である現象学・存在論を経て、精神分析学、記号論 を経て生まれてきます。ただし、お分かりのように、ポスト・構造主義とは 歴史的に経過した論理の発展的結果として出来上がった物ではありません。 それは、生きる人間の運動としても生まれたのです。それは68年5月の フランスの革命です。
439 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 21:00:06
形而上学批判の根底には、形而上学が構築の哲学である事を暴 こうとしている事にあります。つまり、形而上学のピラミッド的 (ドゥルーズならばツリー状と言うでしょう。)結晶が流れるような 人間の創造性を破壊し・剥製にした事を批判しているんですね。 つまり、真理は、構築され、それ以外の考え方をすべて排除します。 そうしないと、自分の言う真理が崩壊するからです。 この様に高度に構築された構造は絶対真理の構造です。(論理と言い換えても 良い。)この構築された構造=論理、非妥協的な決め付けに対し反旗を 翻したのが五月でした。 一応、ポスト・モダンとして、貴方の反論を受けたままでは、まずいので 反論の反論として上記書きました。
440 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 22:09:02
「我々の言う現前する世界は、この五感によって現れたものであり」・・・逆だと思います。 世界が逆に「五感によって現れたもの」として解釈されている。そういう解釈の生ずる基盤が、 「感官の異なる動物では、異なる世界がある」という考えだと思います。 所謂現象学的に捉えるとそう言うことですね。 全面的に否定はしません。ただ、私が説明しようとした背景が、 現象学批判ではなく、近代哲学特にデカルト批判だったのです。 ですから、五感を信じ、その現れるものが客観的に外の世界と同じである と言う事を批判したかったから、こう言う言い方になったのですよ。 貴方の現象学的な捉え方の方が、志向性として、働きかける側の影響も 考えられるからより納得性がありますね。つまり、対象として自然を 支配すると言う西洋理性批判のスタイルにもなります。
441 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 22:11:53
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442 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 22:13:35
ただし、現象学が、はたして、形而上学を乗り越ええたかは疑問ですね。 つまり、独我論的に自分に現れる現象のみを信じる事で、私に意味関連 として現れる事のみを信じてどうなるのかと言う問題が残る気がします。 同時に、それは、そう言う現象学が真理であると、明言し、真理を紡いでいるのです。 それ以外の真理はなくなるのです。
443 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 22:30:42
>>437 >語ること全てを否定しても否定している「私」を否定できないと言ったんです。
>この事は、デカルトの懐疑と似ていますが、全く異なるものです。
昨今東浩紀などによって使われている「否定神学」という言葉の意味はその通り。しかしその
舌の根の乾かぬうちに、
>>438-439 のような教条的ポストモダニズムを書き連ねるのはいただ
けない。なぜなら、東浩紀によって批判されているのはまさに、
>>438-439 のようなポストモ
ダニスト側の主張が隠し持っている、「古典哲学は誤読しようが、なにしようが構わない、しか
し
>>438-439 のようなポストモダニズムの公式だけは絶対に誤読してはならない」という
新たな「権力」であるからです。
444 :
ローカルルール審議中 :2005/04/25(月) 22:50:10
どうして、それが新たな権力なのでしょうか。 東のようにサブカルに向かわないからでしょうか? つまり、否定神学と言っていること自体が否定神学と言う批判ですか? それならば納得しますが、こう言う古典哲学者に説明するには、 語っている事が語られている事とか、見ることが見られる事とか言って 煙に巻いてもしょうがないでしょう。ですから、ある意味、否定神学的に 書いたのです。増殖・変身・スキゾに成る様に書いても、彼にはそれは バカに見えるだけでしょう。
ドゥルーズを読んでさえいない奴がこのスレで暴れてんじゃねーよ。 荒らすな。出てけ。
だからパレやんでしょ。
丁寧なレス、感謝します。やはり、他分野の人とは、意義深い話が出来ますね。 >完全に形而上学批判をする場合に、全ての肯定と否定は >排除しなければなりません。つまり、何かを論理的に述べる(形而上学) >場合には、「そうである。」か「そうではない。」と言う表現になります。 これが「否定神学」がどうかは人によって意見が分かれるかも知れませんが、用語の問題には 触れないでおきましょう。ここでは、ある命題は必ず「真」か「偽」のいずれでなければならない、である、 という考えを批判なさっているのですね? そのような考えはまさに論理実証主義者にふさわしいと思いますが、 この考えにもとづいて「高度な論理」が作られるという意見には賛成します。 しかし、一つ疑問が残ります。「何かを論理的に述べる」際、それを規定しているのは「論理」 ですよね? 論理というものは、「私」がどのように考えていようと、「私」の判断を超越して、 私にある意味で真偽の判定を強いるものだと思います。 なのに、あなたは、いきなり、「肯定・否定」の問題を、「私」の問題として語っています。 私は、形而上学の本質が、ロゴスにあるという考えには賛成します。しかし、それがどうして、 「私」の問題として捉えられるのでしょうか? 論理学においては、判断する主体は、「私」では なく、真偽の判定も、人間の恣意性とは独立に為され得るはずです。
あなたは形而上学を単純に「何かを論理的に述べる」と言いますが、これについての私の 考えを言わせて下さい。 私は形而上学の本質は、ハイデガーが言ったように、その「存在・神・学的体制」にあると 思います。つまり、形而上学は一方で、存在が存在者を基礎づける「存在論」であり、 他方で、存在者(神)が存在を基礎づける「神学」であるということです。 この際、「基礎づけ」というのが、形而上学の顕著な特徴をなしています。 「存在・神・学」の「学」とは、「ロゴス」であり、それは「根拠」Grund のことです。 ギリシア語で言えば、aition。つまり、このようにロゴスを「基礎づけ」として解釈するところに 形而上学の本質があると思います。 そこで、この考えは、果たして、肯定・否定という二項関係で物事を規定する考えと、どれほどの 親近性をもっているのでしょうか。 このように理解していいですかね? 事情は幾何学における場合と同一である、と。 いくつかの公理が自明に前提され、そこから次々に定理が導出される。この定理の集まりが、 まさに真理である、と。つまり、スピノザの『エチカ』のスタイルのような感じです。 しかし、問題は、その始めに置かれた「公理」ですよね? これが定理の証明を、つまり、 真偽の判定をなすのですが、この「公理」のあり方をどう規定されますか?
>一つは、「我思う」と言うコギト=自我=主体を放棄する事です。 >主体は創られたものであり、その様な存在証明は出来ないとすることです。 「主体は創られたものであり」という言葉ですが、誰が作ったのですか? まさか「自我」なんて言わないでしょうね! 自然発生したというのもなしですよ! まあ、これは冗談ですが・・・ あと、ego cogito, ergo sum. ですが、このデカルトの証明をどういう風に解釈していますか? ego cogito というのは、「私は考える」と言っているのではなくて、 むしろ、私は、表象することにおいて、表象されるものとともに、私自身を表象している、 ということです。デカルト自身、cogito me cogitare という表現を使っています。 ここで肝腎なのは、cogito は、私によって「答えさせられた」のではなく、表象することにおいて、 表象されるものの方から、いわば「招き寄せられた」みたいな感じなのです。「表象されるもの」 とは、存在者のことでありますから、cogito は、存在者が、そこで存在者として立ち現れるために 要請されたということです。 cogito を要請しているのは、つまり「答えさせている」のは、自我ではありません。 それは、存在者です。私には従って、cogito を「名付けの暴力」などという概念によって 把握することは、デカルト哲学に対する基本的な誤解に基づくように思われます。 デリダがそういう意味でそういう表現を使っているとも思えません。
>そこで、我=主体を喪失する事で、統一化する組織体から、逃走できるようになるのです。 >つまり、形而上学とは、「我思う」によって、持続するリビドーの流れ >が切断され、「主体以前」に亀裂を齎し、その傷口=空にシニフィアン連鎖 >を持ち込んだ結果なのです。 私には「我=主体を喪失する」というのがどういうことなのかよく分かりませんが、 「統一化する組織体」というのはなんですか? それが「我=主体」を産むものなのですか? しかしあなたは、「私」がそういう「我=主体」を産むと言ってましたよね? もしかして、「我=主体」は社会の産物である、とかではないと思いますが・・・ ウーン、後半、もう少し説明して下さい。「主体以前」とはなんでしょうか? あと、「主体以前」に亀裂を齎すとは? >つまり、貴方の分析には、全て論理で理解できると言う、信憑がありますね いや、論理で「理解できる」というよりも、「理解できる」ものが論理なんですよ。 それが近代哲学の大前提なんです。現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である、 と誰かさんが言ってるじゃないですか。 >しかしその結晶は、自己満足的に、他者を排除するんです ここであなたのいう「他者」というのは、「論理で理解できないもの」でしょうか? あなたはしかし、近代の哲学者のほとんどが、神秘思想に首を突っ込み、それをなんとか 合理的に解釈して、己の体系の一部とした努力をどう考えますか? それは他者をなんとか自分の立場から理解しようとする努力だと思いますよ。 むしろ、「他者が排除されている」と考えることこそ、その「排除している」当人への 恨みを表明しているのではありませんか? つまり、相互に排除し合っているような気が しますよ?
>つまり、真理は、構築され、それ以外の考え方をすべて排除します ここに私は、反動的な「排除」を見るのです。近代の哲学者は、少なくとも、すべてを 合理的に解釈しようとした点で、すべてのものに平等に接し、すべてのものを公正に扱い、 駄目なものは駄目、いいものはいい、と言ったのではありませんか? むしろ、ヘーゲルの「あれも、これも」を否定したキルケゴールの「あれか、これか」の方が、 排除丸出しではありませんか? 近代の哲学者は、少なくとも、「基準」をはっきりと示しました。それに妥当しないもので あっても、それを折衷的に、改変して、自分達の理解に沿うように、みずからの体系の中に 置きました。これこそまさに、他者の理解ではないですか? 他者に迎合せず、自分の 立場を貫きつつ、それでいて他者を理解しようと努力する。これを「排除」というのなら、 それ以外に、どんな可能性があるでしょうか? 近代の哲学者は、他者が、結局は理解不可能であることを知りつつも、なんとか、己の 立場から理解しようとした、と言えるでしょう。もしこれを破棄するのなら、そこには 絶望しか残らないような気がします。つまり、他者はわからん、ほっとけ、みたいな。 これこそ、排除です。黙殺です。
で、チンポ太郎は、ドゥルーズをどう考えているわけ? 日本の哲学科の御仁の基本と一緒で、駄目なポモ扱い?
>>452 デリダほどではないが、買っているはず。
いいたいことは > ドゥルーズはむしろ正統的なメタフィジシャンだろ? > ライプニッツにホワイトヘッドだぜ? つまりこれでしょう。デリダにしろ、ドゥルーズにしろ。
455 :
ローカルルール審議中 :2005/04/26(火) 22:32:46
「何かを論理的に述べる」際、それを規定しているのは「論理」ですよね? 論理というものは、「私」がどのように考えていようと、「私」の判断を超越して、 私にある意味で真偽の判定を強いるものだと思います。 そのとおりです。つまり、私が真理の判定が出来ない、つまり、時代の真理と言われる考え方に 依存して、我々は真理を答える様になっています。この事こそ構造主義が指摘した点です。 ですから、私は私ではない事になるでしょう。私は、既存の価値体系に捉えられたなにか としか言えません。だから、私は答えさせられているのだと言う事です。 なのに、あなたは、いきなり、「肯定・否定」の問題を、「私」の問題として語っています。 つまり、「私」を定立させる事で、西洋形而上学は出来上がっている、「私」が対象に向かって それが何かを認識し、働きかけられる存在者であると言う事を前提にしているのです。 ですから、私の説明は、こう言う肯定・否定をする「私」は答えられない問題である真理 に答えさせられていると言いたかったのです。つまり、私=主体は貴方も言う様に 構造=論理によって創られているのです。そして、論理が果たして正しいのかと言う事 (公理)は証明不可能なのです。 私は、形而上学の本質が、ロゴスにあるという考えには賛成します。しかし、それがどうして、 「私」の問題として捉えられるのでしょうか? 論理学においては、判断する主体は、「私」では なく、真偽の判定も、人間の恣意性とは独立に為され得るはずです。 この点は公理の問題と同じです。論理は証明できない一点を必ず隠しています。 例えば、ある考え方があるとします。その考え方は正しいのでしょうか。 証明する必要があります。次に、その証明の方法は正しいのでしょうか? 無限にメタ・証明が必要になります。
456 :
ローカルルール審議中 :2005/04/26(火) 22:46:08
ちんぼさんの場合「公理」について、あるいは論理に従って判断する場合 の「論理」が、形式主義的に真理として既にあると考えているのでしょうか? 少し話を変えますが、 その問題は「無限」問題と同じです。悪無限といわれたものですが、 無限は果たして我々の理性で捉えれれるのかと言う問題です。 捉えたらそれは無限ではありえません。この無限遠点が永遠に無限後退 する(証明がメタ証明を必要とする。)と言う事でここに「我思う」で 蓋をしたのがデカルトです。今日は仕事がありますので後はまた明日にでも。 ちんぼさんとは多くの交流が出来るし、こちらも勉強になりますので 今後とも宜しく。まだ、ちんぼさんのレスに全て答えてはいません、 まったり答えていきたいと思います。宜しく。
457 :
ローカルルール審議中 :2005/04/26(火) 23:17:25
>>456 >その問題は「無限」問題と同じです。悪無限といわれたものですが、
>無限は果たして我々の理性で捉えれれるのかと言う問題です。
悪無限と真無限の違いについてはヘーゲルの「大論理学」有論を読むべし。
西洋近代哲学における悟性と理性の違いをきちんと理解するなり。
理性で無限を捉えられると考えたのが近代哲学なり。
君のいう形而上学なるものは俗流形而上学にすぎないなり。
くれぐれも不完全性定理や量子力学を持ち出して恥ずかしい説明なんかするのはやめるなりよ。
彼女の上を通り過ぎて行った幾人もの男たち。 太いチ○ポを入れられ、男の背中に手を廻し悶えていた。 アナルまで見せながら尻を掴まれバックで犯されていた。そうは思いませんか? あなたがキスをした彼女の口唇・舌は他のチ○ポを舐め回していた汚れた口唇。 彼女にセックスを仕込んだ男たちのことを考えると 胸が熱くなりませんか?興奮しませんか? あなたの彼女は、あなたと出会った時に既に中古品でした。 これは、あなたの彼女の処女膜を破った男のみならず、 あなたが彼女に出会う前にあなたの奥さんを抱いた他の男たちのすべてが あなたが、あなたの彼女を初めて抱いた時よりも良い状態の彼女の肉体を 弄んでいたのです。 あなたと出会う前より若かった時の状態の良い肉体を他の男達が弄んでいたのです。 あなたは、その何人もの男たちに調教され、その男たちの唾液や汗や精液を体細胞に浸透させられ、 しかも老化が既に進行してしまっていた中古女を彼女に貰ったのです。 ひょっとしたら、中絶も経験しているかもしれません。 あなたの彼女は、他の男の子供を体内に宿していたのかもしれないのです。 あなたは、一人の男として、悔しくありませんか? 一生の伴侶である彼女が中古女であった事を。 悔しさで胸が張り裂けそうになりませんか? あなたは、それでも、今の彼女を愛せますか?
>>458 スレ違いだし、「飯島愛」はタイプじゃないが、男は惚れればそれまでよ。
逆に経験豊かな女性の側が、物足りなく感じることや不満の方がネックになるんじゃないか。
460 :
ローカルルール審議中 :2005/04/27(水) 00:10:07
ちんぽさんと会話してる人は柄谷行人の「形式化の諸問題」あたりに書かれてる ことを反芻してるだけでしょ。 そういうの飽きた。ちんぽさんにドゥルーズ哲学そのものへの批判なり賛同なりをききたい。 せっかくだから。
>>452 >>453 の方が代弁して下さってます。大いに尊敬しておりますよ。
特にデリダは映画を見てから大好きになった。
恨むらくは、仕事に忙殺され、最近はろくに読書ができない・・・。あと、本買う金もない・・・。
>つまり、私が真理の判定が出来ない、つまり、時代の真理と言われる考え方に >依存して、我々は真理を答える様になっています。 「時代の真理」と論理学で規定される真理は別物でしょう。 あなたは恐らく、フーコーのいうようなエピステーメーや、クーンのパラダイム論の 観点から、我々の認識様式が、その時代に特定のあるパターンによって規定されている と考えているのかも知れませんが、私はそれなら、クーンに突きつけられた批判を 繰り返すことができるでしょう。つまり、もし、「時代の真理」というものに依存して、 我々が真理を語るとするのなら、中世の魔術的な世界認識と、近代の科学的な 世界認識は、程度の違いに過ぎないということになります。 近代の科学は、気象学の見地から雷の発生を記述しますが、古代人は何とかという 神様がゴロゴロ鳴らしていると信じていました。 さて、どちらも程度の(つまり、解釈の)違いに過ぎないのですか? テクストが戯れています、なんてのはなしですよ!
>「私」を定立させる事で、西洋形而上学は出来上がっている、 >「私」が対象に向かってそれが何かを認識し、 >働きかけられる存在者であると言う事を前提にしているのです フーコーの現象学に対する見解がそんな感じのものでしたよね。 私は今から四年前、つまり哲学を学び始めた頃に、この板でフッサールについての スレを立てたのですが、そこでこんな発言をしているんです。念のため、引用しておきます。 >それからデリダの言う「現象学」は、フーコーが『物の秩序』の英訳版の >序言で書いているような現象学とは全く異なります。 >フーコーによれば、現象学は「観察する主観に絶対的な優位を与える」もの >であり、その観察する主観は、「ある構成的役割を、ある行為に帰するのだが、 >その行為は、すべての歴史性の起源に、それ自身の観点を配置するのである」。 >そしてその歴史性は、「ある超越論的意識を導く」のです。 私自身は、これを書いた時期、フッサールの後期思想と格闘していて、こういう フーコーのような物言いに非常に疑問を覚えたわけです。 今、あなたとの会話で重要なのは、「観察する主観に絶対的な優位を与える」と フーコーが述べているところですよね。 私にはしかし、この手の批判(もう常套句にさえなっている)は、どうも近代哲学に 対する根本的誤解から来ているような気がするのです。私はデカルトの例を 引きましたが、ego cogito は、ポストモダニストが単純に解釈しているような 主体ではありません。主体の「死」なんか唱えられても、それで近代哲学の何を 理解したことになるのでしょうか? 私は第一に、「観察する主観に絶対的な優位を与える」という風に近代哲学を断罪する やり方には反対します。このような断罪は、「近代哲学において、何故、主体がある種の 優位を有するに至ったのか」ということに関する、批判的反省を斥けてしまいます。
主体が優位をもつのは誰の目にも明らかです。しかし、何故そうなったのか、 そして何故、そのようなことが起こらざるを得なかったのか、この歴史の必然性を、 ポストモダニストたちは考えているのでしょうか? 私には、そのように見えません。ここにこそ、近代哲学の秘密があるにも拘らず、です。 一体、デカルトとともに、何が起こったのか、ポストモダニストは理解しているのでしょうか? 私はその点、あなたがどう考えているのかを知りたいと思います。 デカルトとともに「主体の優位が起こった」のは誰でも知っています。問題なのは、 「何故、そのような優位が起こったのか」です。 いい例として、あなたは、プロタゴラスの箴言「人間は万物の尺度である」と、デカルトに おける主体の優位との関係をどう捉えますか? どっちもどっち、ではありませんよね!
公理と無限の問題はまた今度詳しくレスします。少しだけ気になる点を。 無限後退をコギトで「蓋をした」という考えはよく分かりません。 この蓋というのは、鍋料理で使う「蓋」と解して宜しいのでしょうか? >無限は果たして我々の理性で捉えれれるのかと言う問題です。 >捉えたらそれは無限ではありえません。 近代の大方の哲学者の見解によれば、無限は人間の理性で把握可能です。 無限であるものは、有限である人間には直接には知り得ません。しかし、 有限であるという自分の立場を否定することによって、無限を間接的に知ることは できます。無限というのは、そもそも、神の属性です。 従って、我々において有限であるものが、神においては無限であると考えればよい わけです。 それから、無限の数とか、無限の量とかいうものは、存在しません。 そうしたものは、ライプニッツがいみじくも言ったように、「想像力の産物」で あり、理性の対象ではありません。 (ライプニッツは微積分の発明者です、念のため。) 無限であり得るのは、「力」や「知」のようなものです。たとえば、人間の 知識は有限ですが、神の知識は無限である、という具合に。
さて、あなたは、無限を理性で捉えられたら、それはもはや「無限」ではないと言います。 しかしこの際、「捉える」ということを、どのように規定されていますか? あなたは恐らく、人間は有限であるがゆえに、無限は捉えられない、という論法なので しょうが、人間はしかし、有限であるこそ、無限を理解できるのではないでしょうか? つまり、自己を超えて、自己を客観化することによって、換言すれば、神という絶対者の 相のもとに、自己を置くことによって、無限という概念を理解するのではないですか? ここには、自己を閉じるという運動ではなく、自己を否定し、自己を他のものの相から 眺めるという現象が起こっています。従って、私には「蓋」という表現がピンと来ないのです。 (もしかすると、「自己を客観化する」ということで、あなたはあなたの仰る「答えさせられる 自我」というのを持ち出すかも知れませんが、事情はまさに逆でしょう。ここで生じている のは、他からの自己の規定であり、ラカンのいう鏡像段階のようなものです。つまり、ここで 自我の分裂、あるいは亀裂が生じているのですが、これはまさに、自我に絶対性を与えるなど という批判とはまったく正反対のことが起こっていることの証左ではないでしょうか?) こういう事情をどう解釈されますか?
>>460 時間があるときに別スレでやりたいですね。
それでは、今日も張り切って凡俗どもと仕事してまいります!
チンポに簡単に言っておくと、 フーコーの主体批判をポモ一般と区別した方がいいぞ 哲学科の人間にとっては粗雑に見える問い方だが、 フーコーの一連の問いは、 「なぜ主体が優位になったか」をめぐっている。 最初から最後まで。
凡俗って… 形而上学者はこうだからな。
>>468 おっしゃる通りです。
私が上で批判しているのは、フーコーの現象学に対するスタンスと、それを無批判に
受け入れて有頂天になっている一部の「自称」ポストモダニストです。
フーコーが主体の問題を考え抜いていることは知っております。
ただ、当時はデリダのフッサール論に夢中でしたので、その文脈でフーコーを
批判していたのです。
>フーコーの主体批判をポモ一般と区別した方がいいぞ
これには賛成です。俺自身は「ポストモダニズム」というのは、リオタールが定義した意味で
解しております。つまり、distrust of metanarratives というやつです。
それに対して、ハイデガーやデリダのような哲学者は、ローティーがそうしているように、
単に「ポスト・ニーチェの哲学者」post-Nietzschean philosophers というのがいいと思います。
ハイデガーもデリダも、ニーチェこそ「最後の哲学者」と見なしていますからね。
それから、
>哲学科の人間にとっては粗雑に見える問い方だが
私は哲学科でないので分かりませんが、「何故主体が優位を持つようになったのか?」という
問いは、ハイデガー自身が『ニーチェ』講義の後半で提出している問いですよ?
ここで問いの「粗雑さ」とは、どのような形で問題になるのでしょう?
>>469 私の過去スレを読んで下さい(笑)。
厳密に言うとドゥルーズはポストモダニストには分類できないような気がする。 フーコーと違って外部と内部がまだ未分化な状態の場面での哲学を展開してる人だからな。
ポストモダンって単なる蔑称だからな。 メタナラティヴへの不信と言ったって、リオタールはけっこうまともだよ。 実際のところ、ボードリヤールを広告代理店が使った事実が、 インテリに過剰に忌避されているだけのような気がする。 そういう呼称を取り払ってみれば、 そこそこまともな学者たちの膨大な仕事が見えてくると思う。
473 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 12:54:41
と言うと、ポスト・モダンとポスト・構造主義はどう違うのかな? ポスト・モダンとは建築中心に述べられた言葉で、ポスト構造主義とは 哲学の概念だろう。内容的には、ほぼ同じ事を言っている。 モダンが幾何学的なものを求めるならば、ポストモダンはアールヌーボー的 曲線と、内と外が絡みつく、キアスム的なあるいは「肉」と言うポンティ の概念のようなものだろう。
474 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 13:10:28
主体とは何か?この場合「自我」と主体の違いを定義付ける必要もあるでしょうが 取りあえずデカルトのコギトを自我=主体としておきましょう。 デカルトも懐疑で述べている様に、我の存在証明は我々が考えているほど 簡単ではありませんよね。我思う事だけは否定できない事実として残り よって「我はある」と信じている訳です。この「我」の存在が証明できないと 自我もありえません。よって。デカルトの存在証明をもって、自我の証明と考えます。 ところが、ここで、デカルトの証明にもう一つの局面が隠されています。 それは、「我あり」のこの我は自立しており、外の世界を対象化する自立する個人 であり、これは、古典主義に共通の認識ですが、この個人が自由な創造する 人間を表象しています。この自由に発想し、世界の真理を遍く理解する個人と しての人間賛歌です。
475 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 13:21:06
一方精神分析学では、原抑圧をへて、自我=主体は確立されると考えます。 デカルトが、「我思う」に意味した事は、「我思わぬ」ではない者に 変わる事でしょう。つまり、我思わぬと言う、リビードー的存在(ここに 存在と言う名前を付けて良いか迷うのですが)と言えないものを否定し 意識に登るところ=フィールドのみを存在として捉えている気がします。 ですから、精神分析学的には「我思わぬところに我あり」と言う表現の方が 理解しやすいのです。つまり、「私の意識する私」の下に「私の意識しない 私と言えないものがある。」と考えるのです。この私と言えない状態の ものこと前主体です。ラカンは想像界と呼びます。母と子の関係を言い 言語のない世界を指します。
476 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 13:48:21
ラカンの場合には、原シニフィアン(これを私は父親の否定と解しています。) の前段として、鏡象段階と言うものがあって、赤ちゃんは自分の鏡に映る象を 自分だと解するようになると考えています。この象を認識するものこそ すでに、自分を客体化すると言う、ずれの発生を指示しています。 つまり、持続する「私」と私を客体化し認識する「私」のずれです。 このずれこそが、ポスト・構造主義にとって大きな意味を持っていると思います。 纏めますと、デカルトは自分で自分がある(になる)と考えている気がします。 つまり、自分で考えて、自分を証明する。一方デカルト後の精神分析学は無で生まれ 社会生活の中で、自我=主体は作られると考えていると思います。 そして、最大の違いは、「デカルトが我現前に真なるものを見出す。」に対し 「われ、分裂の中に、我の姿を追いかけるなり。されど、我見出せず。さらに 追いかけるなり。」でしょうかね。
477 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 13:58:38
確かに、デカルトが五感のセンスから論理的に物を捉える事 を確信していましたが、 ヘーゲルでは、内面の定立・反定立・総合と言う弁証法へ向かう のですよね。つまり、静態的に真理に到達してはいないと考えているし ニーチェにしては、真理は力であると言う事になるでしょう。 理性による分析で真理は表れない。さ迷う事で我は悟る事になる訳です。 ポスト・構造主義は、この様な反理性的な面を踏襲しているのは事実です。 歴史の流れ(こう言う風に捉えるのはポスト・構造主義としてはまずいですが。) からみて、理論理性の評価は逓減してきたと言えますね。ただ、概念は別ですが。 ドゥルーズは概念に否定的ではありませんから。
478 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 14:06:58
高校生乙
だからパレルゴンだって
480 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 15:22:49
西洋形而上学に深く立ち入らないまま通俗的なポスト構造主義の解説を書き散らすのはやめよう。 非生産的きわまりない。
481 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 16:06:21
479 ぴかぁ〜だべ。 その通り。私は「パレルゴン」である。 理由があって、現在は「名無し」で書いている。 その内HNに戻るが、現状ではまだ早い。つまり、強力な 書き手がいないのである。俺は待っている、チンボのような 多くの書き手が集まる事を・・・・ ぴかぁ〜は今一歩正確さ、説明能力に欠ける。 しろうとは逃げが早すぎる。ポールは行方不明である。 以上から、今後はもっと正確に対話の出来る人が出るまでは HNには戻らない。諸君が想像するんだな。 480:私の言う事を全く理解できないでいる。 全てはお見通しだ!!!
482 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 16:09:15
パレルゴンは180冊の哲学書を読んだのだ。 読み方は速読なので、古典をねちねちと読み込む事はしない。 全ては速度である。速度は欲望の流れに身を任せで、快感で読むのだ。 何か質問ある。
483 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 18:20:30
ちんぼさんの発言に対し詳細な意見が聞きたいコーナーです。 1)「神を第一原因として前提するのは、近代哲学としては やむを得ないことでしょう。」 第1原因と言う場合、その第1原因の原因はありませんよね。 その場合第1原因は、原因であり結果であると言う自己循環によって それ以上の疑問をしない様に強制しますよね。つまり、公理(自明にして証明なし に真と受け取られる前提)の問題と同じように、証明を求めると、証明が出来ない ので、直感的にそれ以上疑わないように蓋をするのだと思うんですが、(デカルトの我の存在証明 と同じです。この意味で、蓋と言ったのですが)どのようにお考えでしょうか。
484 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 21:17:32
>180冊の哲学書を読んだのだ。
哲学書を180冊読んでるやつから
>>483 みたいな質問が出るわきゃないと思うが。
すべては原因であり結果であるという円環(神または世界)に切り込んでいくことが
近代哲学のエッセンスであって、「我思う故に我あり」(自己意識)を絶対的始元として
全てを演繹していく体系ではない。逆に近代哲学は学の絶対的始元の不可能性を説く
のだ。このことはきっと君が181冊目に読む本に書いてありますよw
485 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 21:27:16
痛い奴続出だなw
486 :
考える名無しさん :2005/04/29(金) 22:12:53
484 そんな事は分かってるよ。 ちんぼさんが古典的に哲学を徹底的に学んでいるので、 確認したかっただけだ。どのようにこの難問に答えるのかを。 勿論演繹的に世界を捉える事はポスト・構造主義には受け入れられないのは 当たり前の事です。 それでも、意見感謝する。
487 :
元高校生 :2005/04/29(金) 22:55:32
近代が自己意識以前を思考しようとせずに「蓋をしてしまっている」というのは先入観 にすぎません。近代哲学は自己意識以前をバリバリ思考してますw。ラカンの主体成立 の理論(鏡像段階)は特にヘーゲルの自己意識成立過程(「意識」感覚的確信→知覚→悟性、 から「自己意識」へ)の理論を通俗化したものにすぎません。ラカンのいう「斜線を 引かれた主体」とは近代哲学でいうところの自己意識そのものでありまして、常に既に 他者に媒介されている(象徴界に参入している)わけです。これは近代からあったとても オーソドックスな考え方です。別にポスト近代の思想家が暴いたものでもなんでもない。 で、ここからがあなたが誤解されているところなのですが、この他者の媒介を生にとって 抑圧的なものとして拒否し(象徴界から離脱し)、意識の世界(想像界)のみを肯定しようと いうのはニーチェやドゥルーズの哲学とはなんの関係もない「自然に帰れ」的ユートピア ニズムにすぎません。ニーチェやドゥルーズは近代思想を全否定したわけではなく、 近代思想がいわゆる「これまでの人間や世界」の概念把握を目的とした目的論的思考 のみを暗黙のうちに前提しているところに抵抗しようとしたのだと思います。別に超人や これからの世界の概念把握を目的としてもいいじゃん、という提案です。カントの問いを 転倒したドゥルーズの超越論的経験論の問い「純粋にアポステリオリなものはいかにして 可能か」はこの文脈において考えられるべきだと思います。「純粋にアポステリオリなもの はいかにして可能か」という問いを発し、それに答えるということはそれだけで「これま での人間や世界」を対象とした目的論的思考の圏外に出ることになる、とドゥルーズは言 っているのだと思います(それに成功しているかどうかは知りませんが)。
> この他者の媒介を生にとって > 抑圧的なものとして拒否し(象徴界から離脱し)、意識の世界(想像界)のみを肯定しようと > いうのはニーチェやドゥルーズの哲学とはなんの関係もない「自然に帰れ」的ユートピア > ニズムにすぎません。 これって中途半端にポモにかぶれた奴が必ず陥る病気みたいなものだな。
489 :
488 :2005/04/29(金) 23:01:07
某kagamiさんなんかもこんな感じ。
490 :
プ ◆Fmd2B6wtag :2005/04/29(金) 23:34:49 BE:24167434-
「差異と反復」を読んだのだけれどさっぱり。訳が悪かったのか何か知りませんが、 全然ピンとくる瞬間がありませんでした。 誰 か よ か っ た ら 教 え て く れ ま せ ん か?。 差異と反復ってなんですか?。なるべく説明不要の単語だけで解説してください、 お願いします。m(_ _)m ほんと、約5000円が無駄になりますので、解説、要約お願いします。
491 :
↑ :2005/04/29(金) 23:47:56
こういう質問をする奴で本当に読んだ人間を見たことがない。
>>471 >>472 賛成です。大体、哲学者にレッテルを貼るのは非常に残酷な行為だと思います。
>>475-477 私がこの文章を読んで思ったのは、
>>480 の人がいみじくも言っているように、
「通俗的なポスト構造主義の解説」だと言うことです。こういうのは、その辺の
『分かりたいあなたのための現代思想』のような概説本に載っていることだと
思います。哲学の用語の使い回しから見ても、きちんと原書について研究した人の
ものとは思えません。申し訳ないですが、ちょっと読む気がしない。
自分の文章を書いてほしいなあ。
>>483 >第1原因と言う場合、その第1原因の原因はありませんよね。
>その場合第1原因は、原因であり結果であると言う自己循環によって
>それ以上の疑問をしない様に強制しますよね。
神は原因でありますが、結果ではありません。結果は、神から派生するすべてのもの
です。問題は、この原因としての神と、その派生態である被造物との関係であり、
有限者がどうして無限者から生じ得るのか、ということです。
この問題は、シェリング・スレで少しだけ論じたことがありますので、参照して
下さい。
勿論、神は結果でも有り得ますよ。しかし、原因と結果は別物です。ただ、別物で
あるけれども、ある意味では同一でなければならない。これが実は汎神論の
最大の問題なんです。例えば、スピノザは、前者を神、後者をその様態として
捉えました。シェリングは、この原因としての神が、いかに創造という行為を行い、
そしてまた自己のなかに帰り、最終的に「一切中一切」となるかを、歴史的に
描こうとしました。『世界年代』がそれなのですが、・・・スレ違いなのでここでは
話しません。興味があるのであれば、私のスレでどうぞ。
>公理(自明にして証明なし >に真と受け取られる前提)の問題と同じように、証明を求めると、証明が出来ない >ので、直感的にそれ以上疑わないように蓋をするのだと思うんですが、(デカルトの我の存在証明 >と同じです。この意味で、蓋と言ったのですが)どのようにお考えでしょうか。 それはちょっと違うと思います。神はどうして、それ以上の根拠づけを必要としないのか? それは、彼が端的に「根拠づけるもの」だからです。 何故、神はそのように絶対的に根拠づけることができるのか? 近代の哲学者達は(のみならずスコラの哲学者も)、それは神が、絶対的必然性とともに 実在するからである、と考えました。例えば、人間の実在は、必然ではなく偶然です。 というのは、人間の本質のうちには、「実在する」ということが含まれていない。 それに対して、神の本質のうちには、なんでもそれが良いものであれば、絶対的に含まれている。 それゆえ、神の本質のうちには実在が含まれているので、神は可能でさえあれば、 絶対的に、すなわち必然的に実在することができる。 だからこそ、この絶対的実在としての神が、その他のすべての実在の原因になり得るわけです。 (ここでそんな「神様」はあんたが勝手に妄想したんでしょ、と言うことは出来ますが、 それは一度「神」という概念を理解した上でそれを疑っているのです。よって、神はともかくも、 そのように受け入れざるを得ない存在者なんですよ。否定をしても、その否定のうちに、 神は既に肯定されているんです。) これはいわゆる、神の存在論的証明というやつで、アンセルムスからデカルト、ライプニッツに 受け継がれています。まあ、これにはカントの強力な批判がありまして、例の「存在はレアールな 述語ではない」というのがそれであります。
>>484 >すべては原因であり結果であるという円環
そうですね、シェリングは特にこれをはっきりと意識していますよね。
>>487 >ラカンの主体成立
>の理論(鏡像段階)は特にヘーゲルの自己意識成立過程(「意識」感覚的確信→知覚→悟性、
>から「自己意識」へ)の理論を通俗化したものにすぎません
そうかも知れないっすね(笑)。
ラカン自身が主人と奴隷と弁証法をよく引き合いに出しますよね。
でも、この手の批判で行くと、現代思想はぜんぶヘーゲルの亜流で説明できてしまうような・・・
>ニーチェやドゥルーズは近代思想を全否定したわけではなく、
>近代思想がいわゆる「これまでの人間や世界」の概念把握を目的とした目的論的思考
>のみを暗黙のうちに前提しているところに抵抗しようとしたのだと思います
ニーチェはしかし、その目的論的思考から抜け出したのかな?
ハイデガーの読みでは究極的な形でプラトンを反芻しているのだけれども。
>カントの問いを
>転倒したドゥルーズの超越論的経験論の問い「純粋にアポステリオリなものはいかにして
>可能か」はこの文脈において考えられるべきだと思います
どうでしょう、「ドゥルーズの超越論的経験論」は彼のヒューム研究に由来すると思いますよ。
フッサールもその点でカントよりもヒュームを評価したのだから。
少なくともこの「超越論的経験論」は近代哲学で大いに論ぜられております。
そもそもこれはフッサールの用語だし。
497 :
考える名無しさん :2005/04/30(土) 15:00:52
ドゥルーズ
498 :
考える名無しさん :2005/04/30(土) 16:26:02
NHK出版の檜垣立哉の『ドゥルーズ』はどうですか? 半分くらいまで読んだけど難しくてよくわからないです。
499 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 22:57:09
ヘーゲルで現代思想を全部証明出来るってのは言いすぎでしょうね。 極端に言うと、ヘーゲルは絶対知を求めたのですよ。 絶対知とは、主客の統一である神の地でしょうか。 まさに形而上学です。彼の説で、現代思想全てを証明する事は、出来ないと思いますよ。 「近代哲学は自己意識以前をバリバリ思考してますw。ラカンの主体成立 の理論(鏡像段階)は特にヘーゲルの自己意識成立過程(「意識」感覚的確信→知覚→悟性、 から「自己意識」へ)の理論を通俗化したものにすぎません。ラカンのいう「斜線を 引かれた主体」とは近代哲学でいうところの自己意識そのものでありまして、常に既に 他者に媒介されている(象徴界に参入している)わけです。これは近代からあったとても オーソドックスな考え方です。別にポスト近代の思想家が暴いたものでもなんでもない。」 先ず誤解を確認したいのですが、貴方の言う近代哲学とは何時の時代を指しているのですか? デカルトでしょうか?ヘーゲルでしょうか?多分構造主義以前を指しておられるのでしょう。 そこで、私はラカンが主体を否定しているとは言っていません。 ご存知のように、ジジェクはラカンがポスト・構造主義ではないと言っていますね。
相変わらずパレルゴンは解説だけ。 解説書しか読んでないツケが出てるな。
501 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:13:04
つまり、よく読むと、ラカンは想像界=自我、象徴界=主体化 と捉えている気がします。つまり、彼は差異化される主体を(シニフィアン連鎖) をポスト・構造主義的に認めてはいない事は事実でしょう。 つまり、差異化・多様化する方向に、この主体の離脱を肯定する方向には進めてはいない と言う事です。しかし、ラカンは斜線を引かれたS=空に現れるシニフィアン連鎖を 主体としたのでしょう。しかし、このラカンの主体、自我に対する 捉え方が、近代哲学の自己意識と言うのは誤りです。 自己意識があくまでも、自分による自立的な意識と解する以上誤りでしょう。 もっとも、このヘーゲルの自己意識の定義をもう少し詳細に論じて欲しいが。 おそらくヘーゲルとラカンでは大きく異なるのは事実でしょう。 ラカンは色々な数式を駆使して、人間の精神構造を暴いた(仄めかした) のですが、その事自体が構造主義的です。ヘーゲルにはこのような、仄めかし はありません。
502 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:14:29
500 どう言う点でそうなのか言えるだろうか。 ぴかぁ〜。
503 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:22:09
つまり、ラカンのSのバッテンは主体の非決定ではあるが、主体の否定ではない と言う事でしょう。そこに消されたSのシニフィアンの意味を姿を 小文字のaを求めて、あるいは大文字のAを求めて彷徨う。 ただし、この求めるものを入手する事は出来ない。 そして、ここがポスト・構造主義と最も違う点ですが、彼ラカンはその様に 求めてさ迷うものを否定していないと言う事です。 この点が、ラカンの不十分な点です。彼はS=主体にバッテンするにもかかわらず それの定立を否定していない。この点をジジェクも述べている。 そして、ラカンをポスト・構造主義から引き離したと言う事でしょう。
504 :
考える名無しさん :2005/04/30(土) 23:27:24
主体は絶えざる主体化によって主体なのだよ。
505 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:29:25
つまり、ここは僕の解釈ですが、少なくとも、象徴界の主体が失われても 想像界の自我は我に確実にあると言うことで、ポスト構造主義の主体化 以前のリビード的な流れの世界を肯定しなかったと言う事で、ジジェクは ラカンをポスト・モダン的な妄想から、自我を救ったと言う事でしょうか。 私は、逆にラカンが余りにも構造主義的に、数式を高度化して精神分析を 混乱させた点にも目を向けるべきだと思います。つまり、彼は構造主義的 であったと言う事であり、ヘーゲルとは全く異なると言う事です。
506 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:30:25
504 君の言う主体とは何でしょうか?
507 :
考える名無しさん :2005/04/30(土) 23:37:19
主体とは自由、否定性、乗り越えであり、同時に自己の回復であること。
508 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/04/30(土) 23:39:35
それでは、主体はどのようにして生まれるのか?
509 :
考える名無しさん :2005/04/30(土) 23:43:54
多分、意志によって。
パレやんも少しは自分の意見をいえよ。 入門書知識を並べられてもつならないあけ。
パレは他人の概念に寄生してるだけの馬鹿
512 :
元高校生 :2005/04/30(土) 23:52:42
>>501 >ヘーゲルで現代思想を全部証明(←間違ってる、証明じゃなくて説明でしょ)出来るって
>のは言いすぎでしょうね。
もちろん言い過ぎです。あなたの思想が近代哲学の圏内で全部説明できるのです。
ちんぽ太郎さんのイロニーだと思われます。
>ラカンの主体、自我に対する捉え方が、近代哲学の自己意識と言うのは誤りです。
どうでしょうね。ラカンのほうが単純化しすぎているように思えます。もっともラカンは
コジェーヴ的ヘーゲルにインスパイアされて自己の理論の補助線にした程度のことでしょ
う。哲学の学説と分析医の臨床的仮説の横断にはもっと慎重さが必要だと思います。
>自己意識があくまでも、自分による自立的な意識と解する以上誤りでしょう。
えっと、なんかヘーゲルについて語りながらフィヒテの自我哲学のようなものを勝手に
想像してませんか?ヘーゲルの考えでは他者に媒介されなければ自己意識は発生しない。
>もっとも、このヘーゲルの自己意識の定義をもう少し詳細に論じて欲しいが。
あなたの読んだ180冊の哲学書の中の「精神現象学」という本でよいでしょう。
>ラカンは色々な数式を駆使して、人間の精神構造を暴いた(仄めかした)のですが、
>その事自体が構造主義的です。ヘーゲルにはこのような、仄めかしはありません。
文章の意味がわかりません。「仄めかした?」
私がなぜ
>>487 を書いたかというと、私も元高校生(つまり元ポモ厨)で、あなたと同じ
ような勘違いをよくしていたからです。ジャーゴンを取っ払ってみるとただの疎外論、
みたいなw。
>>503 >>505 も一緒。頑張って精進してくだせえませ。
パレなんざこの程度(w
514 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 00:24:51
>>512 「純粋にアポステリオリなもの」は何を目指すのですか。
515 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 00:45:58
学問の奥行きを知ってしまうと、個人の意見がみんな糞に見えるんだよね。 自分の意見も含めてさ。 意見という意見すべてがDQNであるか底が見え透いたものなんだよ。 それが原典との出会いというものじゃん? これが原典であれが解説書というのは本質的区別ではないのよ。 諸意見を色あせたものにしてしまい、自分の意見をいう意欲を完全蒸発させ、 ただひたすら固有のロジックに沈潜させる力を持つ書物が原典と言われるんだ。 そういう原典にすけこまされたことがない人は見苦しいから嫌いだ。
516 :
元高校生 :2005/05/01(日) 01:14:05
>>496 >ニーチェはしかし、その目的論的思考から抜け出したのかな?
わからないです。だから「抵抗しようとしたのだと思います」という曖昧な表現にしとき
ました。ただニーチェが巷で言われているほど革命的な思想家だとは思いませんが。
>ハイデガーの読みでは究極的な形でプラトンを反芻しているのだけれども。
うーん、ハイデガーによれば、ニーチェは実は西洋形而上学の伝統的問題構成「存在と思惟」
の圏内で考えることを突き詰め終局させた「最期の形而上学者」であるということですかね。
えっ?全然違うって?(笑)できればここのところの詳細を聞きたいっす。
>どうでしょう、「ドゥルーズの超越論的経験論」は彼のヒューム研究に由来すると思い
>ますよ。 フッサールもその点でカントよりもヒュームを評価したのだから。
>少なくともこの「超越論的経験論」は近代哲学で大いに論ぜられております。
>そもそもこれはフッサールの用語だし。
「超越論的経験論」(アポステリオリな経験の条件を問うこと)は近代哲学でも出てくるの
ですか?具体的に哲学者と著作を挙げていただくと嬉しいです。勉強してみます。
あと「超越論的経験論」がフッサールの用語だということは恥ずかしながらぜんぜん知り
ませんでした。
正確には「超越的経験」だな。 『デカルト的省察』。 もちろん「超越論的経験論」という措辞はドゥルーズのもの。
「ドゥルーズの天分は「超越論的経験主義」という概念にあるが、それは、 超越論的なものを経験的データの豊富な流れを構造化する形式的ネットワーク として捉えるといった、在り来たりな考え方の対極に位置している。 ドゥルーズ的な意味での「超越論的なもの」は、現実に較べれば、無限に豊富で ある−−−それは潜在性の無限の潜在的可能性を支える領域であり、 そこから現実が現勢化されるのである。」 「身体なき器官」P.19
519 :
元高校生 :2005/05/01(日) 01:44:55
>>517 どうも。
>もちろん「超越論的経験論」という措辞はドゥルーズのもの。
ですよね。ドゥルーズはカントの言う諸能力の一つ「感性」をパッシヴなものでなく、
アクティヴなものと捉え直すという、ヘーゲルのカント解釈とは異なるカント解釈をし
カント哲学に「ヘーゲル弁証法に回収されない『ただアポステリオリ経験されるだけのもの』の
存立条件」のヒントを見ていて、それは近代の哲学者はやっていない仕事じゃないかなあ、
と今まで漠然と思っていたので。
>もちろん「超越論的経験論」という措辞はドゥルーズのもの たしかどこかで(『危機』か時間論関係の草稿)フッサールが Empirismus という表現を 使っていたように思いますよ。 それから、『デカルト的省察』のみならず、フッサールの後期の著作には普通に 「超越論的経験」という言い回しが出てきて、それを詳細に研究するのが超越論的現象学の 仕事である、とフッサールは言ってますよ。なので、超越論的現象学はある意味で、 超越論的な経験論、「超越論的経験論」なんですよ。 なんでフッサールはカントのようにカテゴリーについて語らず、ノエシス・ノエマの相関関係で 意識を説明するのか? このあたりに秘密があるかも。 あと、フッサールはカントの形式主義を排するわけです。一方で、ヒュームの経験論を持ち上げ、 ヒュームはある意味で「超越論的経験」の領野を探究していたと『危機』でいうんですね。 普通、超越論的哲学というとカントですが、フッサールはヒュームに優位を与える。 というのは、超越論的なものと経験的なものはどこかで混交していなければならない。 この問題が先鋭化するのが「幾何学の起源」なんです。 理念の歴史を下っていくうちに、どうも自分の意図したものとは逸れていく自分がいる。 そう言えば、デリダは超越論的経験の領野として「ドキュマン」と「エクリチュール」を語って おりますよ、この論文の仏訳の序文で。 まあ、「超越論的経験論」という言葉をドゥルーズが誰から学んだのかは知りません。 それに、彼の説明を読む限りでは、・・・まあ、いいか。
>うーん、ハイデガーによれば、ニーチェは実は西洋形而上学の伝統的問題構成「存在と思惟」 >の圏内で考えることを突き詰め終局させた「最期の形而上学者」であるということですかね。 >えっ?全然違うって?(笑)できればここのところの詳細を聞きたいっす。 詳細はこのスレでは勿論やりません(笑)。来るべきところに来ましょうね! ほら、あなたの目の前に寂しそうなスレが一人でしくしくと・・・
522 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/05/01(日) 07:23:25
私のことでしょうか? 寂しくはありませんよ。哲学とは人の数だけあると考えるのが ドゥルーズでしょう。還元・回収する事は出来ないのです。 誤解があるといけませんので述べますが、私は原文を読んでいない とは言っていません。軽やかに読むことを言ったまでです。 ドゥルーズの本は多く読んでいます。ミル・プラトー、アンチ・オイディプス 差異と反復・襞は読んでいますし、フーコー言葉と物・地の考古学など あるいはデカルト等は読んでますので、誤解のない様に、また、ジジェク 「否定的なものののとへの滞留」等です。ここで、これ以上自慢しても 仕方ありませんので、哲学の問題の探求に努めては如何でしょう。
523 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/05/01(日) 07:33:17
ところで、質問ですが、 1)ニーチェがどうして、たいした哲学者ではないと言えるのでしょうか。 私は、西洋形而上学の解体はニーチェから始まったと考えていますが。 2)「超越論的経験論」は何故重要なのでしょうか。 つまり、超越性と言うカントのモチーフに、ヒューム的な経験論を持ち込む 事によって、二項的なものをなくそうとした。 確かに、私もこの問題には大いに興味がありました。超越性と経験 この二項対立的なものを分解したかったのでしょうか。
524 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/05/01(日) 07:35:54
特に、ドゥルーズは経験論に傾注していますが、これは、経験と言うものが 回収されないからです。(還元されない。)だから、ヒュームなのでしょう。
525 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/05/01(日) 07:58:57
「意識の世界(想像界)のみを肯定しようと いうのはニーチェやドゥルーズの哲学とはなんの関係もない「自然に帰れ」的ユートピア ニズムにすぎません。ニーチェやドゥルーズは近代思想を全否定したわけではなく、 近代思想がいわゆる「これまでの人間や世界」の概念把握を目的とした目的論的思考 のみを暗黙のうちに前提しているところに抵抗しようとしたのだと思います。」 質問ですが、1)想像界=自我の世界の肯定がどうして、自然に帰れという運動になるのです。 2)目的論のみの否定ならば、超自我=エディプスの否定、逃走、ノマド論 欲望する機械論はどう言う位置付けになるのでしょうか。 簡略化し過ぎてはいませんか?
パレやん、メタメタやがな
527 :
パレルゴン ◆DRyRniyr9k :2005/05/01(日) 09:39:45
「ドゥルーズの天分は「超越論的経験主義」という概念にあるが、それは、 超越論的なものを経験的データの豊富な流れを構造化する形式的ネットワーク として捉えるといった、在り来たりな考え方の対極に位置している。 ドゥルーズ的な意味での「超越論的なもの」は、現実に較べれば、無限に豊富で ある−−−それは潜在性の無限の潜在的可能性を支える領域であり、 そこから現実が現勢化されるのである。」 「身体なき器官」P.19 ジジェクの引用ですね。その通りです。 同じ19Pのその後の行の『ドゥルーズは超越論的経験論の領域を 「意識の純粋な前ー主体的流動、非人格的で前反省的な意識、自己なき 意識の質的持続」と定義している。』と書いていますね。 まさにその通りです。
528 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 09:44:48
ぴかぁ〜も落ちぶれたなぁ。 抽象的にストーカー的にパレルゴンや数人のHNを中傷するのみで、 建設的な意見が言えないと言う無知をさらけ出している。 感情的な中傷によって、逆に自分の無能をさらけ出しているのだ。 分かったら、建設的に何処が「ダメ」か哲学的に書いてみ!
529 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 09:51:34
本音は、パレルゴンの知識を羨望し、中傷する事で、何かを引き出し 逆に、パレルゴンから何かを学ぼうとしている。 こんな感じでしょう。(笑) ぴかぁ〜ももっと真面目に本を読んで書いて欲しいな。 ルーマンは止めたのかい。相変わらず、薄い入門書(対話) NHKブックの東の動物的をごたごた言っているに過ぎないのでは? もっと、頭が切れる所を見せてねぇ〜????
518=527=パレw
528=529=パレw
都合が悪くなると途端に名無しになるパレw
533 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:08:19
本も読まないで、用語だけで本をなぞってんじゃねーよ。
534 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:17:46
あっパレ
535 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:18:01
以前、フサールでポスト・構造主義は全て説明できる と竹田青嗣さんが言っていた事を思い出したが、哲学とは多くの 概念を如何に組み立てるかにあるのだろう。だから、一流の哲学者の 考えた事の多くはよく似た諸問題であるが、その哲学の中の諸要因の どちらが影響を与え、どちらが与えられるかによって、結果的には大きく異なるのだ。 だから、同じ問題を考えてはいても、組み方によって、最終的には大きく異なる。 概念を繋ぎ変える事によって、説明は出来ても、諸概念の組み立ては その哲学者のものとはおおよそ異なるのである。 それでも、説明はつくと言いうるのかと言う事だろう。
536 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:20:11
超越論的には実在論をとり、かつ経験的には観念論をとる奴は馬鹿、であるらしい。 これはどういうことかわかるかい?
537 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:27:41
矛盾している。ありえないと言う事かな? 超越性は実在ではありえず、経験論は観念論とは全く違うので 両立不可能と言う事だろう。
538 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 16:39:58
純粋理性批判を読まないで哲学を語ること自体が信じられません。
539 :
元高校生 :2005/05/01(日) 19:00:54
>>522 まず人のレスと板の空気をちゃんと読みましょう。
>寂しそうなスレ=「現象学・再入門」というチンポさんの立てたスレのこと。
>哲学とは人の数だけあると考えるのがドゥルーズでしょう。→それってただのマイ哲w
>これ以上自慢しても仕方ありませんので→まったく自慢になってないのでご心配なく。
>哲学の問題の探求に努めては如何でしょう。→はーい。
540 :
元高校生 :2005/05/01(日) 19:01:42
>>523 >西洋形而上学の解体はニーチェから始まったと考えていますが。
ニーチェに全く関係なく形而上学的言説への異議申し立てをした二潮流として、マルクス主義的
なアプローチ(「哲学は思惟によってなされた宗教に他ならない」)や論理実証主義的アプローチ
(「形而上学的問題はすべて擬似問題である」)があります。この二潮流のほうがニーチェよりも
さらに徹底して反形而上学的であるというほうが常識のような気がしますが。まずニーチェから
全ては始まった!とする構図は、ルカーチ的ドグマやカルナップ的ドグマに対してあえて立てら
れた入門書的ドグマにすぎないと言ったら・・・きっと怒るんだろうなあw
541 :
元高校生 :2005/05/01(日) 19:02:27
>「超越論的経験論」は何故重要なのでしょうか。 まず超越論的(Transcendental)という言葉の意味について確認したいのですが、超越論的哲学 という言葉で、何か経験的世界とは違った「超越論的世界」なるものの存在を認める哲学と想像 する人が多いのですが、これは悪しき物象化で間違っていると思います。「超越論的世界」とい うものを想定した時点で、超越的Transcendentになってしまいます。チンポさんの「超越論的 なものと経験的なものはどこかで混交していなければならない」にも、パレルゴンさんの「超越 性と言うカントのモチーフに、ヒューム的な経験論を持ち込む事によって、二項的なものをなく そうとした」にもそのような間違いを感じます。カントの超越論的哲学というのはあくまで人間 の思惟が強いられている「働き」(動的構造と言ってもいい)はどうなっているのかの探求のこと であり、「経験的世界、経験的対象」「超越的世界、超越的対象」の生成論理ではありません。 (わたしも以前おなじような誤解をしていました。でもそれじゃヒュームと変わらないでしょ) それは「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」(人はアプリオリな総合判断を現に行って いる→ではアプリオリな総合判断を可能にしている条件とは何か]という問いで端的に言い表さ れます。ドゥルーズの超越論的経験論もこのような意味で捉えなければならない。「アポステリ オリな経験はいかにして可能か」(人はアポステリオリな経験を現にしている→ではアポステリ オリな経験を可能にしている条件とは何か]という問うことそのものが超越論的経験論と呼ばれ る。これはかなりトリッキーな問いであり、思考実験に限りなく近いことは認めます。しかし 電波ではない。でもお二人のように「経験的/超越論的」を「経験的/超経験的」と混同すると 逆にドゥルーズの超越論的経験論は単なる形容矛盾、電波になってしまいます。
542 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 19:28:29
「ニーチェに全く関係なく形而上学的言説への異議申し立てをした二潮流として、マルクス主義的 なアプローチ(「哲学は思惟によってなされた宗教に他ならない」)や論理実証主義的アプローチ (「形而上学的問題はすべて擬似問題である」)があります。」 説明が簡単で分かりにくいのですが、貴方の言う形而上学とは私の意味する所とは かなり違っている気がします。おそらく貴方の場合弁証法についても、非形而上学 と言うのでしょうね。貴方の形而上学の概念では、ポスト・構造主義的な形而上学批判は 出来ないでしょう。 「この二潮流のほうがニーチェよりも さらに徹底して反形而上学的であるというほうが常識のような気がしますが。」 おそらく私の返事は遅れますが、あえて質問させて下さい。 どうして、このニ潮流の方がより反形而上学的なのでしょうか? 「カントの超越論的哲学というのはあくまで人間 の思惟が強いられている「働き」(動的構造と言ってもいい)はどうなっているのかの探求のこと 」 その通りですね。確かに、超越論的に捉える事は超越的ではありませんね。 ただし、ドゥルーズがアポステリオリな経験は如何に可能かと言う条件を 問うたのではなく、超越的なものを破壊し、その先に流れるような欲望の 持続を肯定したのだと思います。ですから、条件の研究ではなく、少なくとも 実験と言うほうが良い気がします。
543 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 19:35:55
ドゥルーズは「実験」と言う概念が好きでした。これは結果に回収されない 試み・行為だからです。この点は重要です。 つまり、ジジェクが次の様に表現したのもその為です。 『ドゥルーズは超越論的経験論の領域を 「意識の純粋な前ー主体的流動、非人格的で前反省的な意識、自己なき 意識の質的持続」と定義している。』。 つまり、貴方が超越論的と言う表現で表したように、静態ではなく動態的=持続的 表現こそ、ドゥルーズ哲学の真髄です。
544 :
考える名無しさん :2005/05/01(日) 21:04:38
読者に対して、フーコーのように実存主義的なシンパシーを感じさせる わけでなく、ドゥルーズのようなアジテーションに心惹かれさせるわけ でなく、デリダのように一転突破全面展開的な眺望を与えてくれるわけ でないルーマンですが、見向きもされない飄々とした(むしろ殺伐とし た、といっていいかもしれない)やりかたで、しかし、こうした人たち が決してやれなかった、深い(というよりも複合的だが浅いと言換える べきかも知れない)地点でルーマンはニーチェの教説を“解体”してい るのだと、私は捉えています。by泰斗 ↑どゆ意味?
545 :
元高校生 :2005/05/01(日) 21:12:53
>>542 >>543 >貴方の言う形而上学とは私の意味する所とはかなり違っている気がします。
>おそらく貴方の場合弁証法についても、非形而上学と言うのでしょうね。
>貴方の形而上学の概念では、ポスト・構造主義的な形而上学批判は出来ないでしょう。
ここはパレルゴンさんが規定した「形而上学」や「ポスト・構造主義的な形而上学批判」
の意味を理解するための啓蒙スレッドなのだろうか?
「弁証法は形而上学か否か?」という問いの意味もわかりません。「弁証法は目的論か
否か?」という問いなら解りますが。答えは「弁証法は目的論です」
>どうして、このニ潮流の方がより反形而上学的なのでしょうか?
そこから説明しなきゃならないのだろうか。めんどいからやだ。ぐぐって。
>ドゥルーズがアポステリオリな経験は如何に可能かと言う条件を問うたのではなく、
>超越的なものを破壊し、その先に流れるような欲望の持続を肯定したのだと思います。
>ですから、条件の研究ではなく、少なくとも実験と言うほうが良い気がします。
ですから、私はその理解には明確に反対するわけです。
>ドゥルーズは「実験」と言う概念が好きでした。
「実験」は概念(Concept)ではありません。手法(method)です。
>これは結果に回収されない試み・行為だからです。この点は重要です。
ドゥルーズの著作を目的論批判(実践)とだけ読むのにも反対ですね。
いいかげん疲れた・・・そろそろ寂しいスレのほうに行こうかな。
パレは入門書に書いてあることを鸚鵡返しするだけの馬鹿
547 :
考える名無しさん :2005/05/02(月) 10:59:14
これらをひとまとめに総称してそれと呼んでしまったことは何たる誤りであることか。 ドゥルージアンはドゥルーズをドゥルーズとひとまとめに呼んではいけない。
548 :
考える名無しさん :2005/05/02(月) 22:25:08
そうですね。 おっしゃる通りです。 固有名に全てが吸収されてはなりません。 ドゥルーズとは、無限に開かれているのですから、 主語に述語が全て含まれてはいけないのです。 分析判断ではまずい。ナポレオンは○○河を渡らない可能性もあるのです。 ちんぼさんこれで宜しいでしょうか?
549 :
考える名無しさん :2005/05/02(月) 22:27:07
今ですら、僕らは過去の歴史を変えうるのです。 それは、新しい関連=背景から、異なる過去へのセリーによって 私たちは全く新しい過去を作り出せるのです。
550 :
考える名無しさん :2005/05/02(月) 22:28:47
元高校生は旧ばかぁ〜だろう? そんな気がするなぁ〜。
哲学板普仏戦争はフランス側の壊滅的敗北のうちに終わりましたとさ。
552 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 09:39:49
フランス哲学が永遠の真理である事はありえませんよ。 真理とは、多様な流れをせき止めて、剥製化した静止状態 を指すのであって、まさに、エレア派のゼノンの矢にすぎません。 ベルグソンが批判した様にです。ドゥルルーズもまさに、目的論のみを 批判したのではなく、この点をも批判しているのです。
>>551 こういうこと書いている馬鹿は、
日本哲学がフランスに対して壊滅的に負け続けている現実をどう考えているんだろう?
554 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 11:15:43
> 日本哲学がフランスに対して壊滅的に負け続けている ↑頭がおかしい香具師?
555 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 11:40:41
て言うか、日本には哲学はないといったほうがいいのでは。 本来哲学とは、世界は如何にあるか?を問題にしたので、 世界と如何に調和するかと言う、手法を問題にする東洋とは異質なものです。 例えば、553さんが、日本の哲学者(西田・柄谷・竹田・浅田・東など) をフランス哲学者と比較するならば、それは勝ち目はありません。 今でも、日本では哲学は西洋の思想の導入に過ぎない、翻訳中心に過ぎないのです。 この局面を打開する為には、現在の日本のアカデミズムに依存しては無理だろう と思われます。つまり、アカデミズム内では間違いや粗探し、あるいは 権威を守る事が興味の中心であり、新たな哲学を確立しようとする、若い有能な 研究者は潰されるでしょう。
556 :
金星少女歌劇団一行 :2005/05/03(火) 13:27:21
そろそろドゥルーズをフランスという田舎から開放してあげましょう。 ドゥルーズの自閉的戦略は冷戦構造ではうまく機能した。 今はそのままでは使えない。
557 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 13:41:41
> つまり、アカデミズム内では間違いや粗探し、あるいは > 権威を守る事が興味の中心であり、新たな哲学を確立しようとする、若い有能な > 研究者は潰されるでしょう それは、あまりないと思うね。よくあるのは、自分では天才のつもりの馬鹿が、 専門家の評価を得られない理由が自分の馬鹿さであることさえ馬鹿ゆえに理解で きず、アカデミズム批判に自己正当化を見出すと言う滑稽な光景でしょう。
559 :
金星少女歌劇団一行 :2005/05/03(火) 14:00:36
もうフランスの連中にはドゥルーズの可能性を引き出すことは できないと思うな。 連中は世界で何が起っているのかまったく見えていない。 レギュラシオンにしてもそうだ。 良くも悪くも舞台は完全にアメリカに移っている。 少なくともそういう現実を踏まえない奴はもうだめね。
昔は フランス人っていいな〜 て 思った時代もありました。
>>556 哲学のことを語るのに、冷戦構造が云々言うのは本筋ではない。
ドゥルーズには政治哲学もあるが、そういう発言はジャーナリズムにやられすぎ。
562 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 16:17:29
確かに、フランス哲学は終了って感じかもしれない。 そして、ポスト・構造主義が残した、形而上学批判と脱構築に逃走論 は局所的なマイノリティの運動へと突き進んでいった感はある。 つまり、スピヴァクのように、夫々の立場が如何に承認されうるか と言う問題に摩り替わって、政治的な問題へと進んでいったと見られる。 そこには、ネグリ・ハートの「帝国」があるし、ジジェクの「イラク」 ハバーマスのコミュニケーション論等、「真理とはなにか」から、 ポスト・モダンの「真理の多様性」に向かい、そこから、「局所的な承認の問題」 と言う政治に向かっていった事は事実である。 とは言っても、これによって、巷で言われるように、哲学は終焉したのではない。
最後にドゥルゥーズが 「私は完全にマルクス主義者です」と 言ったのを忘れるな
ドゥルーズはフランスというより日本のにおいがする
565 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 20:52:45
ドゥルーズは死ぬ前に、次に書くのはマルクスだと言ったのでしょう。 つまり、反形而上学もここまで解体されると、何も語れない事になってしまう。 また、脱構築や逃走からは、何も生まれないし、この状況で、差別化(経済的にも 政治的にも民族的にも)は現実としてある。 そこから、何が語れるのかと考えたら、アルチュセーを経てのマルクス とカントとヘーゲルにあると考える哲学者が多くいたことから、 そうなったのだろう。何を語るのか、ヘーゲルでポスト・構造主義の 何を引き継いだのか?カントから何を引き出すのかと言う事がこれからの 課題だろう。
566 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 21:09:08
つまり、現実に生きている人間は労働しないと生きていけない。 この事は、どのような思想が評価されようが変わらない。 ポストモダンのような、多様性を語れるのも、経済的に豊かな社会が 背景・前提としてあった。この事が、ポスト・構造主義思想の衰退 とともに、再度表に現れたと言う事かもしれない。 つまり、確固たる思想を信じ、語りうるものを歴史を肯定したい と言う欲望もあったのだと言う事だろう。
567 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 21:22:39
ただし、この確固たる思想への傾注は、真理を語ることを目的としではない。 自分の属する局所からの承認されるべく運動を求めているのだろう。 つまり、帰属する階層・グループの承認を求める要求なのであろう。 例えば、東欧諸国の崩壊後、資本主義(自由主義)へと加速するかに見えた 旧共産諸国は、内部に孕む民族主義運動を齎し、同時に、中東に見られる イスラーム主義運動と相まって、局所の承認紛争の様相を呈している。 この事が意味するのは、共産主義対資本主義と言うイデオロギー闘争 ではなく、この様な二大潮流の価値体系の影で、抑圧され続けた、マイノリティ (少数被差別者グループ)の反動であったと言う事だろう。 だから、マルクスの全面的な復活ではなく、局所の開放=承認の運動が 被差別開放と言うマルクス主義思想を求めたのである。
568 :
考える名無しさん :2005/05/03(火) 21:41:35
哲学の時代が終わり、地道に民主化運動するしかないということだな。 場合によってはブッシュの民主化戦争もありということで。
570 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 06:37:58
つまり、何が正しいのかを探求する時代は終わったと言う事だ。 同時に、何も真理はないと言う時代も終わった。 そして、少なくとも、ドゥルーズが言った、局所的な(全体化する運動ではなく、 局所の真理の承認要求)戦いは始まったのだと言う事だろう。つまり、スピヴァクの 「サバルタンは語ることができるか」と言うテーマが、大きな意味を持ってきていると言う事だろう。 全体化=二項対立的な概念によって作られた、言語体系は優劣を内包しながら 被差別者を作ったこと、この不平等のなかで、如何にマイノリティは承認=認められるのか 現在の哲学が失った問題が政治的に現れた背景だろう。
571 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 06:47:12
そこで、哲学をする者たちは、真理の多様性を認める必要があるが、 政治の問題にこれ以上近づく事は出来ない。なぜならばそれは局所の真理 承認の戦いである以上、多様なグループ(帰属組織)の信条(を真理ではない) を研究し、その言い分とそれ以外のグループの信条とを比較し、あるいは それらのグループの力関係と結果を予測すると言う、全く哲学とはいえない フィールドに入り込む事になるからである。 よって、少なくとも、ネグリのような研究へと身を投げ出さず、あくまで 哲学の分野で、研究するのならば、ポスト・構造主義の視点を踏まえて、カント ヘーゲルに新たな読解を見出す必要があるだろう。
572 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 06:56:05
ただし、哲学を続ける姿勢の中に、ポスト・構造主義が長い間政治運動に疎い と批判をされ続けた姿勢をそのまま持ち込むのは拙い。 あくまでも、哲学は真理ではなく、引用と解釈とにある事を知り、全体化による、 被差別を黙認する事はもう出来ないだろう。机に向かって知識を膨らませても 飢えたる人間や、被差別者の存在を無視し、差異化する身体に身をゆだね 欲望に逃走する事は出来ないだろう。ドゥルージアンの君達も心して学習する 必要があるだろう。
573 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 07:19:53
とは言っても、政治運動に参加することを求めるものではない。 そう言った運動は、逆に新たな被差別者を作ることになるからだ。 このような、政治運動は承認運動なのであり、例え被差別者の運動であっても 荷担する事は、逆に新たな被差別者をつくる事になるからだ。 我々の哲学(ポスト・構造主義)のなすべき事は、弱者の救済しかない。 つまり、地震被災者の救出や支援をボランティア活動で行う事、そして この様な被差別者の存在と救済を社会に訴えかける事こそ、当面重要な 問題となるだろう。この行為によって、社会は被差別者の消滅に向かう 事を求めなければならないだろう。画一的な価値を求める大きな組織の 罪を暴く事こそ、ポスト・構造主義の結論であろう。 意見を求む。
574 :
元高校生 :2005/05/04(水) 15:29:44
>>570-573 心意気はいいと思いますし、反対するところはあまりないです。でもあえて一つだけ
言わせてもらうと、自分が、机に向かって知識を膨らませることが出来る条件を所有
していること(端的に言えば「語れる位置」にいること)を必要以上に恥じることはない
ということです。「語れない位置」にいる人達を必要以上に特権化する必要もない。
あなたがポスト・構造主義の視点を踏まえて、カント ヘーゲルに新たな読解を見出す
必要があると考えるならば、所有している「語れる位置」を最大限に利用しながらも
そこに安住せず、その仕事を淡々とやればよいだけだと思います。
かつての左翼運動においても「労働者の解放のための理論を習得するには資本家並の
余暇と金が必要、故に労働者の解放は不可能」という上っ面だけの論理があり、さらに
その論理は「こんなに弱者を理解しようとしてる俺たちがなぜ尊敬されないのか?」と
いう最悪な思考すら産みました。今から見るとこれは明らかに馬鹿げています。個人的
投資の利益が長い目で見れば社会的利益に還元されるといういわば「学問の巧智」が完全
に忘却されているからです。
というわけで、あなたの「ポスト・構造主義の視点を踏まえた近代哲学の新たな読解」
をここで具体的に展開していただくのがいちばん生産的だと思われます。よろしくどうぞ。
元高校生の意見は歴史的な考察がほとんどなくて、言っても言わなくても同じなんだよな。 正直に言うと邪魔。 それより、ここで名無しでかきこみしている人とチンポ太郎の論争がみたいな。 これから面白くなりそうなきがするんだよね。 お互いにないものを併せ持っていて、議論が有意義になると思う。 なんで元高校生は仕切らずにちょっと黙っててほしい。 それに余計かも知れないが感想文としてみてみても、 あなたの意見は面白いとは言いがたい。中学生レベルだと思う。
576 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 16:05:25
俺のマルクス主義発言はスルーか?
577 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 16:26:18
資本論とか存在と時間なんかを寝転びながら読んで、「ぎゃはは、 こいつおもしれーまじっすかー?」と笑って枕を叩くくらいじゃ ないとドゥルーズの本は読めないよ。
578 :
考える名無しさん :2005/05/04(水) 23:10:59
そうだね。 俺も賛成だ。形而上学を一語一句間違えずに読解する事も良いかも知れんが やはり、浅田先生のおっしゃるように、「資本論」は寝て読むこと が最高だろうな。そして、部分的な点を好き勝手に繋ぎ合わせるとで 全く違う哲学者のある部分と接続するんだ。この快感を感じる事こそ ポスト・構造主義のすり抜ける事なのだ。そして、形而上学を批判することなく かわすと言う事になる。
579 :
元高校生 :2005/05/04(水) 23:30:26
>>575 あ、ほんとに?(笑)ならもう書かないけど。
マイ哲には興味ないし。
>元高校生 読んでるぞ。面白くなくて良い。
荒谷大輔「出来の論理学−『アンチ・オイディプス』の哲学的基礎付け」『情況』 (情況出版)、二〇〇三年七月号、pp.146-161 この論文を読めばドゥルーズがカルトかカルトじゃないかわかるってよ
583 :
考える名無しさん :2005/05/05(木) 15:41:02
一つだけ付け加えますが。「語れない位置にいる人」とは、単純に机につけない人 や貧しくて発言力のない人を指しているのではありません。 誤解のないように。もっとももしかしたら僕達も語る事が出来ていないのかも 知れません。それは貧富の差だけでもなし、サバルタンとは従属されし者であり 代理表象される者であり、代表に回収されるものを指します。 例えば、構造に捕らわれたもの全てを指示す可能性すらあるのです。 サイードの「オリエンタリズム」等参照ください。
584 :
考える名無しさん :2005/05/08(日) 01:32:42
ドゥルーズ ,:r: ´ ̄三二ー、 ,r' ニ‐ =三、:::ヽ ,rr'" '"'' ‐三ニ=-、_::::ヽ .!::l _,. = r':::::;i、_ ヽ:ヽ-‐_ _,.-,. _,,,_ ヽ:::i !::::::::::ー.、 ,r:!ヽ:!. _ _,::;'t.r::" i! .l:::::::::::::::::::::ヽ、 /::::::::::::l::i`:'フ':. ` -' .: '.ィ、::::::::::::::::::::::::::::::‐;、 i:::::::::::::::::ヽ ` ;: :.、 ::リ l:::::::::::::::::::::::::::;:':::::i !:::::::::::::::::::::i:. ヽ -'´ ,.ヽ ; ! l:::::::::::::::::::::::;r:::::::::::! .l:::::::::::::::::::::::ヽ 、ー、-‐_'´ ,:r'r、!:::::::::::::::':::::::::::::':::::::! i:::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、 ´ _ r'ノ´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l ヽ::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ̄::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::i
似てる
ドゥルーズは思想は強烈だったけど人生はラスト以外普通だったんだね。 友人に個性的なの(フーコー、リオタール、ガタリ、ネグリなど)が多いけど積極的に政治運動には関わらなかったみたいだし
ヒキー気味だと、自分で言ってたから。
589 :
考える名無しさん :2005/05/20(金) 13:30:14
大学1年生で、ドゥルーズを勉強してみようかと思います。 まずは何から読めばいいでしょうか?
とりあえず「構造と力」は読むな
592 :
589 :2005/05/20(金) 17:07:30
>>590-591 アドバイスありがとうございます。
早速、『記号と事件』を大学生協で買ってきます。
>>589 ズーラビクヴィリ「ドゥルーズひとつの出来事の哲学」
これはドゥルーズ論でまじに感心した貴重な一冊
ただし、翻訳者が相当アレだから、覚悟しとくように
翻訳がアレすぎるものは、結局後回しにしたほうがいい。
595 :
考える名無しさん :2005/05/23(月) 16:50:16
最近ドゥルーズ読んだんだけど、ちょっと質問していい? ドゥルーズのいう強度って程度の差異でも本性の差異でもない感覚される内的な差異だと 理解したんだが、これがつまりベルクソンも持続なの?
596 :
考える名無しさん :2005/05/23(月) 17:20:51
翻訳がアレとか言ふ前に、まずはフランス語くらいできる やうになっておくことを勧めるのがすじぢゃないか。。。
>>595 カントの強度の議論から来ている。
「知覚の予料」。
純粋理性批判のB207から219ページまでの議論。
598 :
考える名無しさん :2005/05/24(火) 00:19:43
599 :
考える名無しさん :2005/05/24(火) 01:29:01
カント厨うぜー だいたいドンス・スコトスから来てるし
>>595 >>597 「「強度の差異」という表現は、一種の同語反復である。
強度とは、感覚されうるものの〔充足〕理由たる差異の形式である。
一切の強度は、差異的=微分的な強度であり、
〔媒介されていない〕それ自身における差異である。」 「差異と反復」P.334
--とある。どういう意味?
ドゥルーズのいう「強度」についてだけど、 哲学史的な概念という側面はもちろんあるんだけど、 とりあえず数学的な意味での「外延量」に対する「内包量(≒強度)」 の概念を押さえておけば、理解しやすくなると思う。
日本だと「強烈な経験」程度の理解が主流だけどね
604 :
考える名無しさん :2005/05/27(金) 05:52:27
「強度」の概念は、「差異」や「反復」と同様、始原的な概念だ。 「先験的原理としての強度は、単に知覚の予料であるばかりではな く、図式としてもろもろのエクステンシオの発生、延長量としての 延長の発生、延長を満たしている質料としてのクワリタス(物理的 な質)の発生、対象指示としてのクワレ(感覚的な質)の発生、と いう、四重の発生の源泉でもあるのだ」(『差異と反復』P347) 「差異と反復という、すなわち哲学的な開始と再開」 (『差異と反復』P257) であることをしっかり押さえておかないと、わけのわからない理解に なってしまう。
>>602 哲学事典じゃなく、普通の辞書にも載ってるけどね(哲学用語として)。
607 :
考える名無しさん :2005/05/29(日) 23:10:25
>>606 どのあたりが解らないのでしょうか。
強度については、とりあえず、強度≒差異≒反復
ぐらいの理解でいいと思います。
「先験的な原理としての強度」とは、厳密な議論
はひとまず置いといて、カントの先験的形式(時
間・空間)のようなものだと思ってかまわないで
しょう。
608 :
考える名無しさん :2005/06/02(木) 06:51:53
時代を生きた人々 (武蔵大学公開講座) 作品 著者 ページ -------------------------------------------------------------------------------- 荻生徂徠と「江戸」の発見 八木 清治著 3-34 『青鞜』の時代を生きた女性たち 原島 正著 35-90 ドゥルーズの差異哲学 財津 理著 91-136 『オズの魔法つかい』の作者L・F・バームと一九世紀末アメリカ 吉川 純子著 137-172 マルティン・ルターとその時代 踊 共二著 173-224 キング牧師と人種統合 川島 浩平著 225-268
ドゥルーズは、我流で不徹底でしたけど、ずっと好きで読んでました。 超越論的経験主義、という言葉や、感覚という言葉の持つ (だいたいでしか判りませんけど)意味する所が自分にピンと くるものがあったからだと思います。 邦訳ばかりですけど、シネマだけは英語版でがんばって読みました。 ですが、最近、細々とデリダを読み始めたのですけど、混乱して きています。 印象で申し訳ないのですが、デリダの方が徹底的な感じがします。 ドゥルーズは非主体的で、非物語的であろうとも、「何かの形が残る」 ことには許容的であったような気がするのですが、デリダはそれを 許さないような気がしたのです。 (たとえば、シネマの2巻で出てくる「時間の結晶」のような物は、 デリダの世界にはなく、絶えず結晶化を拒むような運動に、ある 種の正しさや方法をみているように感じました) ドゥルーズもそうですが、デリダなんかはさらに初心者です。 どなたか、ドゥルーズとデリダの立場の違いや、あるいは、両者がど のような地点で手を結び得る(結んでいる)のかについて、判りやすく 教えては貰えないでしょうか?
610 :
考える名無しさん :2005/06/09(木) 21:44:04
611 :
考える名無しさん :2005/06/09(木) 22:08:08
おフランスと言うだけで哲学してるみたいで、漏れは嫌いだ。
檜垣は結構いい仕事してると思うんだけど ちょっとベルグソンに引き付けて読みすぎって気もするね。
609です。 610さん、ありがとうございました。 ざっと目を通して、やはり「シネマ」などの問題系を通じて、 ベルクソンが参照されているようでしたね。 (そして、デリダの背後には、ベルクソンがあまり感じられませんね) これから、精読してみます。読後、また感想などあげさせて貰います。
609です。 教えていただいたページを、大変面白く読み終わりました。 ぼんやりと感じていた(ような)ことが、展開と説得力をもって、 ものすごくきれいに整理されていることに、感動しました。 自分の関心に引きつけてメモさせていただければ、 1 「生ける現在」の受け止め方の差異 2 「参照される哲学者」(主にベルクソン受容に関する)の差異 3 「無限」の含み方(のようなもの)の差異 に両者の違いがあって、それが自然と人為に関する、簡単に は相容れない可能性の圏域をそれぞれ作っている、ということ でしょうか。 (まとめが乱暴だったら、すいません) 特に3に関しては、「差異と反復」におけるヘーゲル(無限大)と ライプニッツ(無限小)の比較につながっていって、読んでいて スリリングでしたし、とても判りやすいと思いました。
また、(漠然としていますが)ある種の作動性のようなものが ここでは問われているのかな、とも思いました。 カフカの両者の読解の差が(それ自身、判りやすい例として)取 り上げられていましたけど、ドゥルーズの文学機械は、イレギュ ラーなどを含みつつも、どこまでも作動していくのに対し、デリ ダは、(やはり、)カフカに、到達しえない待機や彷徨をみてい る(らしい)。 となると、ドゥルーズの作動性の根拠のようなものが気になって くるのですが、それが、上記1〜3のドゥルーズ側のスタンス (の一種のあらわれ)ということになるのでしょうか。 話が大きくなってしまいますが、エクリチュール概念とリゾー ム概念に至るそれぞれの経緯や問題の立て方の相違が、個人的 には気になってきました。 何にせよ、教えてくださった610さんには、大変感謝しています。 的確な読みや整理の優秀さだけでなく、読んでいて「心ある」感 じがして、檜垣さんのファンにもなってしまいました。 どうも、ありがとうございました。
自意識が過剰なようなので、もう少し自重できるようになれると もっと良い「読み手」になれると思いますよ。 頑張ってくださいね。
616さんは、良い「読み手」になるために、 ドゥルーズを読んでいるのですか? 教えてくださった方に、お礼をきちんといい、 こちらに出来ることがあればフィードバックすべき と思って投稿したまでです。 見苦しかったら、どうもすいません。 ですが、ドゥルーズなどの著作が、決して良い「読み手」 を作るためにあるのだとは思いませんけど。
618 :
考える名無しさん :2005/06/16(木) 07:06:21
もっと要点まとめて書けよ
下手ですいません。 時間がある時に、要点をまとめてみて貰えますか?
日記はチラシの裏にでも書いてくださいね。
>日記はチラシの裏にでも書いてくださいね。 すいません。こういう文言は、どこに書けばいいんですか? 「チラシの裏」ではないとして。w
622 :
考える名無しさん :2005/06/16(木) 11:15:42
614615が何で日記になるんだ?読後感を整理しようとしただけだろ。
ドゥルーズわかんねーAgencementってなんだよーわかんないよー ……すいません泣き言です。
627 :
考える名無しさん :2005/06/28(火) 20:41:56
# shinichiroinaba 『あの発言はやはり「宮台終わってる」ととられるのですね。反省。『経』の連載のような仕事をもっとしていただきたいのですが。』 # shinichiroinaba 『「パヴロフのワン君キター!!!」て感じですね。』 # shinichiroinaba 『「まがいものファン」氏のご発言は私には自説の確からしさ(ドゥルーズが本気でいってることをネグリやその他諸々は比喩としかとっていない)を裏付けるものにしか見えません。』
一週間ほど前から「意味の論理学」読んでます。 やっべー超ムズい ただ何故か妙に「一番深いのは皮膚」という言葉だけ理解できた。 不思議の国のアリスからの引用が何ケ所かありますが、正直じっくり読んだことがないのでわかりません。 今頃読むのも恥ずかしいのですが、一応読んでおいたほうがいいのでしょうか?それとも引用の部分は斜読みしたほうがいいのでしょうか?
>>628 日本語訳は糞なので注意
たぶん『無人島』の1953-1968(だっけ?)
に入っている論文を先に読んだ方がいいと思う。
そしてアリスは両方読むべし。
苦心して和訳で読みました。(英訳を参照、和訳だけでは読めない) アリスは、ほんの話の糸口に過ぎないのでは? むしろボルヘスの「伝奇集」を。 本書はアリス論ではないし。
それは思いこみだね キャロル読まないと肝心の意味とナンセンスの関係がわかりにくくなる
てゆうか、普通既読だろ。 それに 「読んだ方がいいですか?」 「あまり関係無いんじゃないですか?」 とか言ってる時点で
633 :
考える名無しさん :2005/07/10(日) 01:15:55
ドゥルーズdeleuze トゥルースtruth
言語言語
でさ、 哲学畑の人間じゃない (物理畑)からよくわからんのだが、 「専門家」が専門家を名乗れる程度の研究って、 ドゥルーズに関してはさ、 ぜんぜん出来てない気がするんだよ。 実際どうなの? 漏れ? 漏れはちょうど『差異と反復』を じっくり読み始めたばかりさ。 なんだか頭がよくなる気がする本だね。 今まで入門書をいくらか読んできたけど、 やっぱり本人の本を熟読するのが一番の気がするな。 この夏休み中に序論を八割方理解したいものだ。
「漏れ?」って。w あんたのこと誰か聞いたの?
いや、漏れも
>>636 が馬鹿に見えるぞ
漏れ?
漏れは偉い人だから構わないのさ
640 :
考える名無しさん :2005/07/18(月) 20:26:41
みんな馬鹿さ。 漏れ藻前らもな。
641 :
考える名無しさん :2005/07/18(月) 20:47:50
漏れも読みでみるお。
漏れもsageる!!
濡れも
644 :
考える名無しさん :2005/07/26(火) 07:14:13
はやしのブログっつーの、面白いんだけど このひと分析哲学なの?なぜドゥルーズとかスピノザよんでんの? ようわからん」
645 :
考える名無しさん :2005/07/26(火) 22:02:30
【書評】 江川隆男著『存在と差異― ドゥルーズの超越論的経験論』 . . . . . . 鈴木 泉 鈴木これ以上ありえないというくらいのべた褒め。 江川本そんなによいか。
647 :
考える名無しさん :2005/07/27(水) 00:36:08
スピノザーナ最新号
>>647 どうも。探してみまつ。
江川本ちょっと読んでみたいけど、あの本高くて手が出ない。
図書館にもあまり置いてないし。
649 :
考える名無しさん :2005/07/27(水) 13:57:25
江川本は買って損した。つまらん詐術だよ。芸にもなっていない。
650 :
考える名無しさん :2005/07/27(水) 14:32:19
買ったんならもっと中身のあるコメントしてくれ
652 :
考える名無しさん :2005/07/27(水) 16:00:30
653 :
考える名無しさん :2005/07/27(水) 21:46:32
逃走したのか。。。
江川本は1/3ぐらいはメチャ面白い けど全部ではない
655 :
考える名無しさん :2005/07/28(木) 13:07:42
それだけかい
656 :
考える名無しさん :2005/07/29(金) 02:16:06
プ
657 :
:2005/07/29(金) 13:44:37
長文書き込みが余みたいな
江川本には楽譜が載っていたけど、あれは何なの?
(∩゚д゚)アーアー聞こえない
今日CINEMA1買ってきたんですけど、みんなで一緒に読みませんか?
仏語の?
>>660 いや、英語。私、仏語できませんから。
本当は和訳がよかったんだけど、シネマはまだ訳されてないからな…
663 :
考える名無しさん :2005/08/04(木) 03:07:53
ドゥルーズの解説本は少ないな。 まともなのはさらに少ないw
664 :
考える名無しさん :2005/08/04(木) 03:54:10
小泉のが唯一まともだよ。
665 :
考える名無しさん :2005/08/04(木) 17:09:04
普遍数学について説明しているのは小泉の本だけだしなw
666chaos
667 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 04:56:33
>663 桧垣立哉氏の「ドゥルーズー解けない問いを生きるー」は、ただの入門書になっちゃうのかな?
668 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 05:00:55
2つの可能性だけが存在する 微分も知らない文系バカにはドゥルーズなんて理解できないw ドゥルーズ自体いい加減なことしかいっていないラカンと同じw
669 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 09:11:49
確かに、ドゥルーズ、微分を持ってくる必要はあったのかな?とは思う。 多様体、持ってくる必要あったのかな?と。たぶん、なかったと思う。 ドゥルーズはただ単に数学が好きだったんだよ。でも、ラカンと比べて 欲しくないね。自分でも言ってるけど、彼はもっともナイーヴな哲学者 だったんだ。誰がみても山師っぽいラカンとは違う。まったくまじめで 真剣な哲学者だったのさ。
670 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 10:21:46
多様体は訳が悪い多数多様体ならまだわかる multiplicityは普通<多>とか多数性と訳されてる
671 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 10:25:47
そうなの・・・?リーマンの多様体の事じゃないと言いたいの?
672 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 10:28:19
数学の多様態はmanifoldだね
673 :
672 :2005/08/14(日) 10:28:54
失礼、多様「体」
674 :
考える名無しさん :2005/08/14(日) 10:31:57
でも、ドゥルーズはリーマンの多様体の論文について、どこかで 引用しているでしょう? そこから、なんらかのイメージを借りて きて、自分の概念を作ったと思うけどな。まあ、それには賛成しかねる 訳だけど。
アルベール・ロトマンとかいう数理哲学者の引用だろ?
>>676 あれは最終章だけコピーすればいいと思う
678 :
考える名無しさん :2005/08/27(土) 20:53:12
The Deleuze Dictionary買った奴いる? いたら感想キボンヌ
679 :
考える名無しさん :2005/08/27(土) 21:12:49
あのね、数学の多様体は英語ではmanifoldだけど、フランス語では varieteなの(アクサン省略→ヴァリエテ)。ドゥルーズの多様体は 翻訳ではそうなってしまったけど原語ではmultiplisiteで数学の多様体 とは異なる概念。 あとアルベール・ロトマンはドゥルーズの盟友で、ソーカルが 批判した「差異と反復」の微分哲学のもとネタは彼に由来する。 ロトマンのアイディアを借り受けたのはたしかにドゥルーズの失敗 だったとは思うけど、ソーカルも近視眼的な批判をしていることは 否定できないと思うよ。
ベルクソンの多様体の議論は、 あくまでも哲学的概念だと思う。 あとロトマンを誰かが紹介しろよ 数学出来る奴が
681 :
考える名無しさん :2005/08/27(土) 21:24:29
>ベルクソンの多様体 ってなんだよ。 ベルグソンはそんな概念使ってないよ。
>>681 Le bergsonisme, p.31.
>>682 、3
はいはい、じゃはじめからドゥルーズのベルグソニズムと言えよな。
お前みたいな初心者ばかりが書き込んでると思うなよ。
お前はドゥルーズ経由じゃなくベルグソンそのものを読んでない。
ベルクソン読んでるやつはベル「グ」ソンなんて言う訳ないわけだが。
687 :
考える名無しさん :2005/08/28(日) 15:04:53
>>686 プッ。
言ってるんじゃなくて書いてるンだが(^^;)
つまんね
Bergsonの"Essai"の第2章は、 "De la multiplicite des etats de conscience l'idee de duree" このmultipliciteって、ここでは一般的に「多様性」と訳されるのかな。 「多様性」ですむところに、おもに微分幾何で使われる 数学の専門用語の「多様体」という言葉を使うと、 「目くらまし」mystificationという批判を浴びることになる。 フランス語では、普通「多様体」はvarieteというらしい。
691 :
考える名無しさん :2005/08/29(月) 20:55:45
『差異と反復』の英語訳って誰のがおすすめですか?つい最近も新しい訳本が出てるみたいですが。 Amazonでは五つ星になってた。
fdddddddddddddddddddddd
ドゥルーズ翻訳家以外は多数性とか数多性とかいう訳を使うことが多い 括弧付きの<多>と訳すこともあるよ
多様性って聴いてたいていの人はvarietyの方を思い浮かべるから避けた方がいいと思う
理系の連中は哲学用語の固有性をナメ杉
ようするに、フランスの柳生博。
697 :
考える名無しさん :2005/09/26(月) 20:04:01
全集・シリーズ KAWADE道の手帖 タイトル ドゥルーズ 副タイトル 著者名 河出書房新社編集部編 ISBN Cコード 4-309-74005-7 0010 哲学・心理学・思想 判型 A5 /240頁 ●発売日 2005.10.24 ●発行日 定価/在庫 定価 1,575円 〔税込〕 (*)未刊 =/ (本体 1,500円 ) 内容紹介 受賞・書評 没後10年を機に20世紀後半最大の哲学の魅力をガイド。初邦訳論考、対談、討議。宇野邦一、前田英樹、酒井隆史、萱野稔人、檜垣立哉など、ドゥルーズ研究者総結集。
差異哲学と哲学史のポリフォニー ドゥルーズ没後10年に寄せて 鈴木泉 『創文』2005.8(478号)創文社, p.12-16
699 :
考える名無しさん :2005/10/10(月) 19:58:58
聖母 レオポルト・フォン・ザッヘル・マゾッホ著 藤川芳朗訳 中央公論新社 05年10月刊 本体2,200円 46判253頁 ISBN4-12-003674-X ■帯文より:私に跪き、罪を贖うがよい。配信に容赦ない制裁を下す美しい 女教祖…。歪んだ愛は狂気と化す。初邦訳。ジル・ドゥルーズが絶賛した、 知られざるマゾッホ最高傑作。 ●装丁が古きよきマゾッホの訳書と違う雰囲気で、新しいと言えば新しい、 物足りないといえば物足りない・・・。最初から文庫で出してくれたらもっ と嬉しかったです。
701 :
考える名無しさん :2005/10/15(土) 02:41:20
多形倒錯しろっていうのは、既知外になれっていう事?
702 :
考える名無しさん :2005/10/16(日) 14:35:09
何だかんだ言ってもホモですからね、この人。
いやヘテロ的だろ
>>701 必ずしも的外れではない。
実際アルトーとかニーチェとかシュレーバーとか
ヘルダーリンとかルーセルとか好きっしょ、ドゥルーズは
ただの電波じゃ駄目で、 哲学や芸術に本当にインパクトを与えた電波を応援してるんだろうな
『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』
707 :
考える名無しさん :2005/10/20(木) 19:57:43
http://urag.exblog.jp/2353243/ 『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』河出書房新社 河出書房新社さんの「道の手帖」シリーズの1冊として、『ドゥルーズ――没後10年、入門のために』が刊行されました。対談やインタビュー、ブックガイドなど盛りだくさんな一冊です。
05年10月刊 A5判並製192頁 本体1500円
708 :
考える名無しさん :2005/10/20(木) 20:03:43
【ドゥルーズを読むためのブックガイド】 ルクレティウス『物の本質について』岩波文庫/ クリュシッポス『初期ストア派断片集』京都大学学術出版会/ プロティノス『エンネアデス』中央公論社/ 道元『正法眼蔵』河出文庫ほか/ ドゥンス=スコトゥス『存在の一義性』哲学書房/ スピノザ『エチカ』岩波文庫/ ライプニッツ『モナドロジー』中央公論新社/ ヒューム『人性論』岩波文庫/ ルソー『社会契約論』岩波文庫ほか/ フーリエ『四運動の原理』現代思潮新社/ カント『判断力批判』岩波文庫/ キルケゴール『反復』岩波文庫/ ニーチェ『ツァラトゥストラ』中公文庫ほか/ マルクス『資本論』国民文庫ほか/ ベルクソン『記憶と生』未知谷/ ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫/ パース『連続性の哲学』岩波文庫/ ホワイトヘッド『過程と実在』松籟社/ ペギー『歴史との対話』中央出版社/ タルド『世論と群集』未来社/ ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫/ ヴォリンガー『抽象と感情移入』岩波文庫/ サルトル『自我の超越 情動論素描』人文書院/ アクセロス『遊星的思考へ』白水社/ フーコー『言葉と物』『性の歴史』新潮社/
709 :
考える名無しさん :2005/10/20(木) 20:04:30
クラストル『国家に抗する社会』水声社/ ヴィリリオ『速度と政治』平凡社ライブラリー/ ガタリ『カオスモーズ』河出書房新社/ アガンベン『バートルビー 偶然性について』月曜社/ フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫/ シュレーバー『回想録』平凡社ライブラリー/ ライヒ『ファシズムの大衆心理』せりか書房/ レイン『引き裂かれた自己』みすず書房/ ラカン『エクリ』弘文堂/ ヘルダーリン『詩集』岩波文庫/ クライスト『チリの地震』河出文庫/ マゾッホ『残酷な女たち』河出文庫/ カフカ『変身』『城』新潮文庫ほか/ カネッティ『群集と権力』法政大学出版局/ ゴンブロヴィッチ『ポルノグラフィア』河出書房新社/ レルネット=ホレーニア『白羊宮の火星』福武文庫/ プルースト『失われた時を求めて』ちくま文庫など/ アルトー『ロデーズからの手紙』白水社/ ジャリ『超男性』白水社uブックス/ ミショー『魔法の国で』青土社/ クロソウスキー『ディアーナの水浴』水声社/ トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』岩波書店/ ホイットマン『自選詩集』岩波文庫/ メルヴィル『白鯨』『バートルビー』筑摩書房ほか/ フィッツジェラルド『崩壊』荒地出版社/
710 :
考える名無しさん :2005/10/20(木) 20:05:57
ミラー『マルーシの巨像』水声社/ ロレンス『現代人は愛しうるか』ちくま学芸文庫/ ウルフ『波』みすず書房/ ペソア『不穏の書、断章』思潮社/ ベケット『いざ最悪の方へ』書肆山田/ 蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』河出文庫/ 浅田彰『構造と力』勁草書房/ 中沢新一『チベットのモーツァルト』講談社学術文庫/ 宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』講談社メチエ/ 丹生谷貴志『死体は窓から投げ捨てよ』河出書房新社/ 前田英樹『小林秀雄』河出書房新社/ 小沢秋広『中島敦と〈問い〉』河出書房新社/ 小泉義之『ドゥルーズの哲学』講談社現代新書/ 檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』NHK出版/ 江川隆男『存在と差異』知泉書館/ 郡司ペギオ-幸夫『生成する生命』哲学書房/ 杉村昌昭『分裂共生論』人文書院/ 山の手緑+矢部史郎『無産大衆神髄』河出書房新社/ 萱野稔人『国家とはなにか』以文社/ ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』河出書房新社/ ハート『ドゥルーズの哲学』法政大学出版局/ シェレール『ドゥルーズへのまなざし』筑摩書房/ マルタン『ドゥルーズ/変奏』松籟社/ ビュイダン『サハラ』法政大学出版局/ バディウ『ドゥルーズ 存在の喧騒』河出書房新社/ ジジェク『身体なき器官』河出書房新社
711 :
考える名無しさん :2005/10/20(木) 21:01:01
『シネマ』って日本語訳はされない?
713 :
考える名無しさん :2005/10/23(日) 17:04:13
714 :
考える名無しさん :2005/10/23(日) 17:07:12
【名古屋大学】多元数理科学研究科 [Chapter 14]
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/math/1128609399/ 930 :132人目の素数さん :2005/10/23(日) 16:43:44
>夫馬です。
394 :132人目の素数さん :2005/10/23(日) 15:55:20
599 :無名草子さん :2005/10/23(日) 12:09:41
. , .. ∧_∧
' .∴ ' (表現論)
` . ・,‘ r⌒> _/ /
, . ’ | y'⌒ ⌒i
,,- ''フ ' | / ノ |
∧ ∧ ,,/ ,/ , ー' /´ヾ_ノ
(´Д /⌒) ,,/ ,/ / , ノ
(⌒__/ ノ_,/ ,/ / / /
`(__/ ,/ / / ,'
('' )' ,/´つ / /| |
| ノ / !、_// 〉
{ } / |_/
\_/
黒木、土建屋、宇沢、藤原、長谷川の不等式
ポモ(w)>>>>>>表現論(禿藁)
715 :
:2005/10/24(月) 22:41:56
シネマは英訳はあるけどな。 邦訳は誰が権利もってるのやら。 Zizekのドゥルーズ論、騙されたつもりで読んでみたが、わりといける。 しかし、修辞疑問文の多用はやめてくれないかな。読みにくくて。
ジジェクはもともとガタリが嫌いなだけ
しねまは法政大が持っているんじゃない?
シネマ1が財津、2が宇野 出たばっかの河出ブックレット「ドゥルーズ」に書いてあったから間違いあるまい。
719 :
G :2005/10/25(火) 16:02:22
デリダと共著でマルクス論を書くのが 嫌だったんです。その前に逃走しました。
720 :
sage :2005/10/25(火) 20:36:33
↑何が? 自殺の真相??
めっちゃデマじゃん。
723 :
考える名無しさん :2005/11/11(金) 21:03:27
ドゥルーズって人の遺した論法の一部、概念化の阻止,差異,反復といったこだわりを眺めていると、この人の中で、思考の物化への強い抵抗があり、かつその背景には存在の物化への強い否定的衝動があったのではないかと思わず考えてしまう。
724 :
考える名無しさん :2005/11/11(金) 21:14:11
ドゥルーズはマルクスについての本は一度も書かず、遺稿にもマルクスについての記述はないとの事ですが、彼の内部でマルクスがどれだけの比重があったかは、まだ保留すべきでないかと思えます。確かにマルクスについて正面からは書かなかったとしても→
725 :
考える名無しさん :2005/11/11(金) 21:19:43
→マルクスの資本論を独自な手法(オイディプス帝国主義批判)で掘り下げる記述は数多い。人間への価値化から絶えず逃走し得る存在とは何か、という問題意識は彼の全哲学に於いて変わらずあったのではないでしょうか。そう考える時、ドゥルーズのマルクス論は→
726 :
考える名無しさん :2005/11/11(金) 21:23:24
→彼の生前の著作中に既に散りばめられている、という言い方も出来るのではないか。恐らくそれは、つまりドゥルーズによるマルクス読み替えの意義は、これからの日本でますます本質的に問われて行くのではと思えるんですが。
729 :
考える名無しさん :2005/11/13(日) 11:24:42
確かに小粋だね♪これは有名な写真ですね。有り難く戴きました。
730 :
考える名無しさん :2005/11/14(月) 04:53:06
単行本 シリーズ・道徳の系譜 タイトル 死の哲学 副タイトル 著者名 江川隆男 ISBN Cコード 4-309-24358-4 0010 哲学・心理学・思想 判型 4-6 /166頁 ●発売日 2005.12.14 ●発行日 定価/在庫 定価 1,575円 〔税込〕 (*)未刊 =/ (本体 1,500円 ) 内容紹介 受賞・書評 死は残酷と無能力による人間本性の変化へとわれわれを導く。スピノザ、 アルトー、ドゥルーズらが渦巻く大地からうまれた衝撃の実践哲学。死 を折り曲げ、死を分裂症化し、ひとつの死を構成する。来るべき哲学へ の宣言。 more information 著者紹介 10422// 江川 隆男 (エガワ タカオ) 1958年、東京生まれ。首都大学東京哲学科助手。著書に『存在と差異』、 訳書にドゥルーズ『狂人の二つの体制』『無人島』ほか。
>>730 >首都大学東京哲学科助手
江川さん、まだ助手なのか・・・。
732 :
考える名無しさん :2005/11/15(火) 00:44:23
『ミル・プラトー』「序―リゾーム」中に、昨今の少年犯罪への貴重な示唆を発見した。《たえず〈彼のリゾームはこわされ〉、〈彼の地図はよごされ〉、その地図は位置を正され、あらゆる出口は塞がれて、ついに彼は自分自身の恥辱と罪悪感、〈恐怖症〉が根を生やす》
733 :
考える名無しさん :2005/11/15(火) 00:48:11
《そしていかにフロイト先生の介入がさまざまな情動の主体化や、シニフィアンによる権力奪取を保障しているか、いかに子供が、恥辱的かつ罪悪的なものとして恐れられる〈動物になる〉という形のもとでしか、もはや逃走できないか、という事を示すであろう》
sage
735 :
新刊情報 :2005/12/09(金) 14:38:07
松本潤一郎・大山載吉著 210頁 2310円 現代の哲学を読む2 ドゥルーズ(生成変化のサブマリン) ISBN: 4560024529 白水社
736 :
考える名無しさん :2005/12/09(金) 17:05:53
提案 國分が未訳を一年間ですべて訳し、周囲が手助け
ドゥルーズを読みながらオナニーをする皆さんを尊敬しますw
うぃーおーりーびんな イエローサブマリン イエローサブマリン 潜水艦
739 :
考える名無しさん :2005/12/10(土) 00:41:42
741 :
考える名無しさん :2005/12/10(土) 21:38:33
ドゥルーズの本って売れるの?
哲学系の本の中では売れてる。 ただ哲学というジャンル自体がマーケッティングがら一番遠いところにあるから全然売れてないんじゃない?
芸術をやっている人に好評だからね 逆に分析哲学などは、一般読者が皆無。
744 :
考える名無しさん :2006/01/16(月) 21:17:17
『ニーチェと哲学』の訳は良くないのでしょうか?
80年代までの訳は全部良くないと思ってよい
どうもです。そうなんですか・・・
747 :
考える名無しさん :2006/02/16(木) 01:02:35
応援!
748 :
考える名無しさん :2006/02/18(土) 17:31:53
>>395 visageは「ビサージュ」じゃなくて「ビザージュ」って読むんじゃなかったっけ?どうでもいいけど
違ってたらゴメソ
>>748 どう見てもヴィサージュです。
本当にありがとうございました。
いや、ヴィザージュでしょ
俺もヴィザージュに一票
752 :
考える名無しさん :2006/02/18(土) 18:36:23
ヴィザアッー!ジュ
ボインに挟まれると濁ります
エロティツクですね
755 :
748 :2006/02/18(土) 21:12:50
>>753 Dayone。母音と母音のあいだにあるから「s」の発音は濁るよね普通。
面倒臭いからいちいち調べなかったけどw
もしかして例外的に清音で発音する(あるいはドゥルーズがそうした)
のかな?とか思ったけど。
>>755 ,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ <んなこたーない
´∀`/ \_______
 ̄
負け惜しみに一票
757 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 02:15:40
758 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 08:05:49
ドゥルーズは絶望の淵に立っていながら、死ぬほど楽天的な思想を我々に示した。 ニーチェやスピノザ的でいられるのは、楽天的でなければ不可能なんだよ。
759 :
不苦労博士 :2006/02/28(火) 08:21:08
宇宙人ハーフ曰く「お金は爆発だぁ!」
760 :
考える名無しさん :2006/03/11(土) 23:00:57
青土社から「ジル・ドゥルーズ」クレア・コールブルック著 が出たが、どうなんだろう。
761 :
考える名無しさん :2006/03/11(土) 23:18:17
レスないとこ見ると興味ないのか。
762 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 08:06:04
ドゥルーズとは何だったのか? どのように西洋哲学に、あるいはポスト・構造主義の発展に貢献したのか。 そして、今の時点で見ると、それは何が言いたかったのか。 ただの多様性・開放系・逃走・創作・リゾーム・セリーだけの 概念創作人物に過ぎなかったのか。
763 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 08:08:26
逃走であるのならば、どうして大学に所属し、給料を貰って 仕えたのか。逃走とは全ての規制から、あるは、全ての社会構造の 解体であるはずではなかったか?
764 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 14:09:43
>>763 それは違うよ。
『千のプラトー』の「平滑と条理」の最後にも書いてあるけど、
中心が無くなればいい、というのは間違いで、
中心をジャグリングしたり既存の中心を脱臼させて新しくしたり、
そういうのが必要なわけ。
「我々が一つの平滑空間だけで満足するなどとは、決して思ってはならない」というわけだ。
リゾームはツリーとは違うやり方でツリー以上にタチの悪い権力を持ちうると言うのは、
ネグリとハートの『帝国』をはじめとして、ネットの現状を見ても、明らかになりつつある事だ。
同様に、平滑空間も、すぐに中心が発生したり、殺伐とした戦場になったりする。
>>764 概ね同意
彼の語る「ノマド的生活者」というのが、地図上を縦横無尽に移動する人々に限らず
反対に動かないでいるかのように見える人々だということを考えなあかんね
常に複数の位相で事態を考え、それを交差させ、撹乱すること
ドゥルーズの遺してくれたものは、いまだに、今だからこそ意義あるものだと思うよ
766 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 16:21:01
やっぱりガタリをもっと評価しないとね。ドゥルーズはともすれば古風になっちゃうんだよ。
767 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 19:50:16
そうだよね。 ドゥルーズの概念の多くはガタリのものであり、 ガタリが考え出した物だといわれているよね。 一方、ドゥルーズは哲学的にまとめるのが上手かった。 そこで、横取りしたといわれているのではないだろうか。 条理空間と平滑空間については、条理が碁盤の目のよう決められている 空間であるならば、平滑はその様な前提がないと言う事で良いかな。 いずれにしても、ドゥルーズの複数性・差異・逃走は今の時代では 効力を失いつつあるのではないかいのう。
768 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 20:02:46
つまり、ネグリの政治へ向かう姿勢、スピヴァクのサバルタン(マルクス 主義的視点)、ジジェクの主体の再構築等歴史の(通時性)の復活が認めら れるのだ。 いつまでも、構造・主体から逃走するのは、不当に無政府主義をもたらし 政治に目をつぶる事で、逃げている弱者に過ぎない様でもある。 おそらく、ドゥルーズも晩年に「マルクス」への興味を抱いていた。 それは、逃走から歴史的なものへ目を向け出そうとする現れだったのか も知れない。つまり、ポスト構造主義の共時性からマルクスの通時性へ 逃走から闘争へ時代は開かれて行こうとしているのでは。
サヨクの飯の種を確保せよってことやね〜
770 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 20:21:39
そうだね。同時にポスト構造主義の差異・反主体はそれでも闘争する 貧しきポスト・コロニアルの人々にとっては、西洋エリートアカデミズム のたわごとに過ぎなかったと言うでしょう。ドゥルースのノマドは 貧しきものたちの「語る事」へと吸収されて行く。つまり、投げ入れられて あるその時代と階層とを引き受け、そこから、運動へと向かう事で 構想主義、ポスト・構造主義が否定した、構造内での変革の可能性を 再度開いたと言う事だろう。
そもそもそんなにドゥルーズがサヨクなのか?
772 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 20:39:27
ドゥルーズは左翼とは言えないだろうな。 むしろ資本主義信奉者でしょう。反歴史的唯物論者でしょう。 それでも、死ぬ間際には「マルクス」に興味があったと聞いたけどね。 時代に流れを敏感にキャッチしていたと言う事だろうな。 その後、多くのフランス哲学者達はマルクス復活を目指すからな。
そもそも、ドゥルーズの主体は、『ニーチェと哲学』で語られているように 作りだし・与えるという境位を含む、通時性へと開かれた主体であって 単に歴史や構造を否定し、逃走する主体ではない そうした主体は、闘争への契機を含んでるし、無政府主義的ではまったくないし 生成しつつある「絶対に複数でしかない」世界へと自らを投げ入れている主体だろ それに、哲学がマルクスへと単純に引き返すことはないよ
ドゥルーズなんて典型的なトロツキストだろ。
ピエさん警報。
ドゥルーズなんてどうでもいい。 今こそジジェクとともにレーニンを反復するべきじゃね?
777 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 22:35:38
きょうの最後のコメントだけど。 ポスト構造主義は概ね「主体」と呼ばれるものを 構造からの強制と捉えていると考えられる。 よって、主体は硬直化され、構造に捉えられていと考えている。 つまり、逃走は主体の行動ではなく、部分欲望(否主体)の反応 (身体的)と捉えるべきでは?
778 :
考える名無しさん :2006/03/12(日) 22:37:09
クソスレの女神がおまいらにクソをした
パレルゴンさん久しぶり
780 :
考える名無しさん :2006/03/14(火) 01:52:57
ガタリに一番近くて、しかも情報論などをやっているのはピエール・レヴィだね。 『ヴァーチャルとは何か?』すっげーおもしろい。 ただし「主体感」というのを強調しないで、準=客体のアクチュアリテの浮上という テーマで多様な素材を鮮やかにさばいている。
781 :
考える名無しさん :2006/03/14(火) 01:54:11
くだらなそうにしか聞こえないよ
782 :
考える名無しさん :2006/03/14(火) 02:41:24
おもしろそう。 論旨を解説キボンヌ
783 :
考える名無しさん :2006/03/14(火) 12:46:10
784 :
考える名無しさん :2006/03/14(火) 21:07:06
ドゥルーズを読みながら激しくオナニーをする編集者は、千代田区にいますよね。
785 :
考える名無しさん :2006/03/16(木) 21:53:32
そう言う意味ではサルトルへの回帰と言うのは正しいのかもしれない。 実存主義者としての彼は、左派運動家でもあったわけだし、 歴史を変えうると考えていた。その点が、ハイデガーに批判されたと言うこと だろうね。「存在と無」と「存在と時間」の差かな。
786 :
考える名無しさん :2006/03/16(木) 22:39:49
ドゥルーズ・ガタリの何を継承するかなんだよな。彼らのあの領域横断性の ダイナミズムとか、絵画・文学論でめざましい創見をみせたところとか、確信犯的な 暴力性に惹かれた人間からすると、どんどんマルクスや左翼、あとスピノザ、ニーチェ あたりばかりで古典回帰して読まれていってしまうというのは、寂しい気がする。 実際、デリダはそういう読み方をされてアカデミズムに認知されるのと引き換えに、 どんどん有効性を失ってきている気がしてならない。
787 :
考える名無しさん :2006/03/19(日) 00:49:16
>>783 『ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』
レヴィ,ピエール著〈L´evy,Pierre〉;米山優監訳
(京都)昭和堂 06.3.30
207p 19cm(B6) ¥2,900(税別)
要旨
現代の高度情報化社会の急速な発展をよりよい方向へと導くためには、
哲学的な視点はどのように寄与するのか。この課題に真っ正面から取り
組んだ「ヴァーチャル哲学」の全体像を紹介する。
目次
1 ヴァーチャル化とは何か?;2 身体のヴァーチャル化;3 テキストのヴァ
ーチャル化;4 経済のヴァーチャル化;5 人間を形成した三つのヴァーチャ
ル化―言語、技術、そして契約;6 ヴァーチャル化の操作、あるいは人類
学的三学;7 知性のヴァーチャル化と主体の構築;8 知性のヴァーチャル化
と客体の構築;9 存在論的四学―ヴァーチャル化、すなわちいくつもある
変様の一つ;エピローグ ようこそ、ヴァーチャルなものへの道へ
備考
ISBN4-8122-0607-3
788 :
考える名無しさん :2006/03/23(木) 21:49:56
青土社の「ジル・ドゥルーズ」を読んでいるんだけど、良い本だね。 邦訳中で、近々に発売される「シネマ」の引用もあるし、ドゥルーズの映画論 の全貌が分かるよ。
789 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 02:45:55
「シネマ」は今年中に出したいといっていたな。翻訳が楽しいとか言ってた。
シネマ刊行まであれよあれよで20年か・・・
791 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 22:23:35
確かに遅い。法政大学出版より出るのかな? 今ごろ出ても、ドゥルーズ自体が時代にそぐわない気もするけどね。 青土社の「ドゥルーズ」で十分シネマ論はカバーしてると思うけどな。
792 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 22:27:25
ところで、ドゥルーズのレスが少ないのはどうしてだろう? 1)難解だから。 2)ドゥルーズは理解するのではなく、触発される事だから。 3)ドゥルーズは既に時代遅れだから。 4)其の他
>>792 4)其の他
そもそも板の人口が少ない
それに、ソーカルのあれがあったから
ある時期のドゥルーズに関してはちょっと手が出しにくい
『スピノザ』や『ニーチェと哲学』などで専門以外の人間でも
ドゥルーズに触れる機会は比較的多いんだけど
それらを読了したあとで次に何を読んでいいか分からないんだよね
794 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 22:46:29
「記号と事件」は分かりやすいな。 ドゥルーズ哲学全体が見えてくるとおもうな。 ただ、「差異と反復」「アンチ・オイディプス」「ミル・プラトー」 は困難でも読む必要はあると思う。
ソーカルってそんなにインパクトあったの?
796 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 22:53:22
ドゥルーズは理解ではけっしてないからな。頭ではなく情動・直観・概念 で進んでいく気がするな。
797 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 22:58:25
あったとも言えるし、なかったとも言える。 くだらん事だよ。ポスト・モダンの連中は無視居ていたって事だろうな。 デタラメ書いて賞を取ったって事だろう。 つまり、ポストモダンの連中の数式を使った説明が、間違いだと 言ったのよ。
798 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 23:03:12
ドュルーズがいいのは、精神医学の構造を一種の権力構造と見破って 、その罠を資本主義の流れ(FLOWだったっけ?)によって解決しようとしたからだと 思うのであります。画期的だと思います。現代人はみんな統合失調症 (乃至は分裂病)だといっているのであります。
799 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 23:21:45
>>796 そんなことはない…と俺は思ってたけど。
綿密な論理というのはちゃんとドゥルーズは重視していたと思うんだよ。
ただ、論理が情動を疎外(阻害?)するようでは、哲学とは言えない、という立場だったと、俺は思ってる。
どうなの、ここらへん?
>>797 知の欺瞞の序文を読んだ限りではどうやらソーカル本人も、
「やたら数式ばっか書き散らすのはやめろよ、分かりにくいし、しかも間違ってたりしてるよ」
ということが言いたかっただけみたいだしね。
>>798 俺はアンチオイディプスは読んでないから分からんけど、
逃走論(古いなぁ…)を読んだ限りでは、
資本主義を逆手にとって、じゃないの?
ついでに質問しとくか。
フローの概念の周辺について解説希望。
800 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 23:24:52
> 知の欺瞞の序文を読んだ限りではどうやらソーカル本人も、 > 「やたら数式ばっか書き散らすのはやめろよ、分かりにくいし、しかも間違ってたりしてるよ」 > ということが言いたかっただけみたいだしね。 ホントは、単に数式云々だけではなくて、それ以上に 「哲学者なんてみんなアホでしょ」と言いたかったんだろうけどね。 それをきちんと論理化して説得力ある文章を書くことは、 たぶんソーカルさんにはできない。
801 :
考える名無しさん :2006/03/24(金) 23:27:53
>>799 だから、資本主義自体が権力追求の、一種の病的なシステムなんですよ!
802 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 00:13:32
資本主義は差異化にとって有効なのだと言う事だろうな。 つまり、あらゆる物を貨幣と言う評価基準によって、無差別に 認めていく。これを共産主義と比較すると一層分かるだろう。 つまり、生産手段と搾取禁止労働者の独占と言う方が懲りそうな 価値観を崩せない。資本主義では売れれば良いわけで、流行=差異が 欲望によって強調させるってこったろう。 だから、資本主義を基盤に、その求心力から如何に逃れるか(逃走論) と言う事だろう。脱領土とも言う。
803 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 00:16:51
ソーカルについては、ポスト構造主義は見てみにフリでいいと思う。 何も数式の間違いによって失う物はないわけで、言わば、引用・比喩 で利用しただけと考えるのが正しいと思う。
804 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 09:10:58
もう少し丁寧に説明を加えると、ポスト・構造主義は、数式による証明 真理の探究、形而上学的な理論構築には全く興味がない。 いや、逆に、そう言ったものからのと逃走であったのだ。 もっと正確に言うと、利用した数式も論理も創作することを求めての事であり、 それら利用したものの証明を進めたのではないのだ。 だから、ある状況を説明するのに、数式を使ったが、これは、ポスト・構造主義 が多く利用する精神分析用語・地理学的用語を引用した事と同じである。つまり、 数式は表現手段に過ぎなかった。ところが、真理を表現する数学者・科学者に とってはミステイクに映ったのだろう。
まあその、引用/比喩/表現手段としてさえも 間違った数式を使っているのだから、叩かれて当然なんだが。 昔の哲学者は(西田幾多郎とか) 平気でどこから引用したんだかわからない誤った引用をしているが、 今の哲学者はそんなことはしない。 それにもかかわらず、数学や物理については平気で誤ったことを言うっつーのは 要するに、今までいかに理系からの批判を離れて、安易にものを考えていたかっていうことだよね。 勿論、引用を誤ったからって直ちにその人の思想が根本的に誤っているということにはならない。 しかし学問とか研究とかいうもの全体にとっては、 理系と文系がこうやって交流する(批判しあう)のは良いことだと思うよ。
ポストモダンがむかつく、ってのはよくわかる。 現代思想系の奴って、「もはや大学は真理を伝える場だとは考えられていない」とか 平気で言うけれども、「真理を伝える場だと考えていない」のはあんたらだけだって言うの。 大学の半分以上を占める理系の分野では、まず真理(何と呼ぼうと勝手だが)を確実に学生に伝え、 その上で新しい発見(何と呼ぼうと勝手だが)を目指して研究する、ということが現状として行われている。 それが、「現代思想」の観点からして「古い」あり方に見えると考えるのはまあ良いが、 実際にそのような現状にあるものを、 「既に真理などという観念は崩壊した。大学は既に真理を伝える場所ではない」などと宣うのは 単なる事実誤認以外の何ものでもない。 もしそれで彼らが理系の教授連に向って、 「あなたたちの考えは根本的になっていない。さっさと大学を出て行きなさい」と 攻撃的に叫んだりするのなら、それなりに誠実だが。
すまん、スレ違いのことを書きすぎたみたいだ。 俺もこのスレを見てるくらいだから、別に現代思想を全否定してるわけじゃないのだが いわゆる「ポストモダン」な人々はちょっと勘違いしてることが多いよね、と 愚痴をこぼしたかっただけだ。すまんね
808 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 21:55:51
いいや、何でもレスして交流するのが、哲版なので、お互いの距離が 近くなるので大変いい事だと思う。ポスト・モダンとポスト・構造主義 について一つだけ言っておきたいのだけど、前者と後者を分けて考えたい と日頃思っているんだけど、特にこの哲版では、前者の信奉者が多く、後者 は少数ですね。前者は東さん大澤さんを中心にした、いわゆる、サブカル系 漫画、アキバ系に近い、後者はドゥルーズ、ソシュール、フーコー、デリダ レヴィ・ストロースと言った、構造主義を含んで、構造とは何か?構造からの 逃走に興味がある連中を中心により学術的問題に興味がある。この二つを明確に 分けないと混乱するね。
809 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 21:59:55
前者はあくまでも日本のサブカルでCS(カルチュラル・スタディズ)には 全く興味がない。上っ面の問題をザット見つめているだけ、深みがない。 少なくとも哲版であるのだから、CSスチュアート・ホール位理解して 国際的なサブカルの運動と繋げて欲しいよな。
810 :
798です。 :2006/03/25(土) 22:18:40
>>799 すまん、今わけあって、手元に文献がないのです。後ほどガタリあいましょう(笑い)。
811 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 23:08:48
オタクを代表(ルプレザント)するとは言わないけど、 その分類の基準について一言言わせて貰いたい。 それは、オタクの中でも語るのが好きなオタクと嫌いなオタクがいるということだ。 それだけなんだけどね。 代表者を認めないことがオタクの特長かもしれないと、いま思ったけど、どうなんだろ? まぁ、それはまた違うスレの話かな。
812 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 23:24:04
ていうか、ポストうんたらかんたらっていうのは、その名称を見たら分かるとおり、定立の仕方が否定的なんだよね。 「実存主義ではない」「構造主義ではない」「精神分析ではない」等々…。 だから、根底に肯定的な定立(〜である)というのができるというのは、あんがい怪しいと思う。 それもおそらく、当然なことなんだろう。 その時代におけるその時代自身の定義が、大きな物語が生きている間は、一種の「過程」として定立できたとするならば。
813 :
考える名無しさん :2006/03/25(土) 23:43:53
↑ こいつバカ
>>812 「肯定的な定立」というのは怪しげなものでさ
それって結局のところ知的堆積物のことなんじゃないの?
実存主義(サルトル)は所与としての知を否定するところからはじまったし
精神分析は精神医学の旧来のドグマの否定からはじまったし
構造主義もまた素朴なアトミズムの否定からはじまったわけさ
今じゃあ、立派な「肯定的に定立」された学派、手法として認められているけど
興隆した直後なんか、「精神分析って、頭のおかしいユダヤ人の戯言だろ」とか
「実存主義って、単なるわがままをカッコよく言っただけだろ」などと言われていたんだから
今のポスト〜に負けないぐらいに単純に否定的なものとして扱われていたよな
それを考慮するとどの主義であれ手法であれ、「ポスト〜」と表現できると思うんだがね
例えば、デカルトなら「ポスト・スコラ」と言えるだろうし
ショーペンハウアーやヘーゲルを「ポスト・カント」と言えないこともないんじゃない
そもそも「ポスト・モダン」のモダンは、ヘーゲルやカント
百科全書派やルソーなどのモダン(近代)の人たちの思想のことだしね
↓ ↑ →→→→
816 :
815 :2006/03/26(日) 00:08:08
うわ、ズレよった
817 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 04:09:09
昔俳句の第二芸術論というのを桑原武夫がだしてさ、俳句を一流作家、素人のものと まぜて、評者に審査させたら区別できなかった、というのでえらい調子づいて俳句を批判したわけ。 ソーカルの間抜けな批判もその程度のものだよね。まぁ、四年経てば笑いものだねw。
818 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 08:10:33
オタクとポスト・構造主義は根本的に異なるってのはどうだろうか? しかし、類似点もある。ともに実践を中心に活動する。ともに、強制からの 逃走。自己中心的で、政治に疎い。自分の考え(こもり)にのみ興味がある。 811さんが言ったように、オタクには1)話が好きなやつと 2)交流に全く 興味がないやつがいる。 1)はポスト・構造主義と相容れる。 相違点について オタクは興味のある点(自分・趣味)にのみ固執するがポスト・構造主義は個ではなく 形而上学批判に興味があり、アンチ・デカルトを求めて探求し、最終的には、 欲望の哲学で、差異の世界を体験する。つまり、一回性の内在性に行き着くと同時に 戯れに新たな世界を見出す。結果としては、同じく個に行き着くが、ポスト構造主義 の個は個人ではなく、身体の局所の欲望であり、個人は部分に分裂する。
>>817 それは少し楽観視しすぎでは。
文学というものの性質上、「一流作家のもの」と「素人のもの」とを
めくらテストで区別できなかったとしても、それは必しも
その人が文学を理解していない、ということを意味しない。
それに対して、論文の査読云々の話を置いておいても、現代の哲学者の大多数が
数学や自然科学を碌に理解していない、というのは明白な事実。
ソーカルは単にそれを露骨に示した、というだけ。
ソーカルの批判を、
「自然科学を全く理解してない奴が、どうやって自然科学を批判できるのか?
それは根本的に不可能なのではないか?」
と読み換えてみても、まだそのように楽観視できますか?
理系出身なんだがドゥルーズは面白く読めるよ。 でも小泉義之さんは読んでると頭が痛くなる。
821 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 20:34:43
小泉さんって、ドゥルーズの亜流でしょうか。
822 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 21:24:55
>>819 誰が自然科学を批判していると思ってるのw?そもそもそういう理解が、
フランス哲学の90年代以降の流れを分かっていない。
分析哲学だって、リクールがしつこく対話して分析しているように、
あらかじめ「世界像」をいうものを最初から念頭においてやっているだろう?
ヴィトゲンシュタインだってそうだ。人間の意図についての議論だって結局は
そういうものを排除できない。
リクールだとそれは「物語」だとか、ナベール経由で導入されたスピノザ的な
原初の肯定だとか言われることになるんだけれど、フランス哲学はそうした「世界像」
が、ある種の制限を必然的に帯びてもいる社会環境の中から、内在的に浮かび上がってくる、
そしてそれに呼応してある科学がアクチュアル化する、という事を言っているだけなのであって。
それを科学そのものに対する懐疑論という風に捉えるのは、見当違い。
まぁ、クリステヴァはしらん。ドゥルーズ・ガタリにしても、それが「物語の解体」
をやったものだと誤読されているから、そういう批判が起こってくる。
823 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 21:31:48
リクールが言う意味での「物語」の多元論化、という風にフランスの哲学は 進んできているのであって、それを「物語」の解体的相対化とし捉えたところに 誤解があった。 アメリカの哲学こそ、デヴィッドソンなんかみても簡単に二流の科学者に 論破されてしまっているし、救いようがない。自然科学者自身が、フランスの場合アメリカより はるかに哲学に関心を持っているし、敬意を払っている。対話も行われている。
824 :
上 :2006/03/26(日) 21:32:50
リクールが言う意味での「物語」を、さらに多元化するという意味ね。
825 :
819 :2006/03/26(日) 21:37:32
>>822 すまん言い方が悪かったかも知らんが、
別にそういう意味で「批判」と書いたわけじゃないんですが。
俺が書きたかったことの意味は、「批判」するにせよその他何をするにせよ、
「自然科学を知らない奴はそもそも自然科学を<論じる>ことができるはずがない、
従って自然科学はそのような哲学思想の射程内に入りえない」のでは?
ということなんですが。
そういう意味で
>>819 を読んでくださいな
826 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 23:02:41
>「自然科学を知らない奴はそもそも自然科学を<論じる>ことができるはずがない、 >従って自然科学はそのような哲学思想の射程内に入りえない」のでは? 無理やり論じて(振りをして?つもりになって?) なにか重大な考察をしている気分になってるのが多い罠
827 :
考える名無しさん :2006/03/26(日) 23:32:03
>>557 > よくあるのは、自分では天才のつもりの馬鹿が、
> 専門家の評価を得られない理由が自分の馬鹿さであることさえ馬鹿ゆえに理解で
> きず、アカデミズム批判に自己正当化を見出すと言う滑稽な光景でしょう。
というのも、無能なご老体達がすでに使い古した言い訳なのですが…
828 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 02:20:02
829 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 02:24:41
ドゥルーズをスピノザ寄りに読むというやつだよね。こういう読解は どんどんやってもらいたい。 ただし、ドゥルーズもガタリもそればっかりじゃないだろうという 反動が起こってくるのを期待してだけどね。 でもって、実際にドゥルーズの限界がスピノザ主義にあるのも確か。
スピノザ主義の何が限界でしょうか?
831 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 20:39:44
物語の多元化と解体の違いと言うのは素晴らしい分析だ。 その場合デリダはどちらになるのかな。 822さんの考えをもう少しききたいどす。 819さんへ いや、数式の間違いと、科学主義的な捉え方に対する批判は別でしょうね。 科学が、客観的な対象の存在を疑わずに鵜呑みにしている事が、哲学界から 見ると、問題なのでしょう。そして、その事から色んな問題が発生したのが 前世紀ですよ。公害・温暖化・遺伝物質による汚染等、つまり、科学のやる事は バランスと関係の視点が抜け落ちているのではないかと言う事が判明してきたのです。 同時に、ハイゼンベルクの不確定性、数学上の不完全性定理、フラクタル 等物理・科学分野では多くの見直しが求めらています。
832 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 20:53:32
>>831 脱構築って言葉からして多元化だろう。
ズラしだからね。
833 :
819 :2006/03/27(月) 21:27:32
>>831 > 客観的な対象の存在を疑わずに鵜呑みにしている事が、
> 哲学界から見ると、問題なのでしょう。
だからさあ、、科学が「客観的な対象の存在を疑わずに鵜呑みにして」いて、
しかもそのことが現在の科学的認識方法にとって「問題」だ、という判断が
どうして科学を知らない人にできるのですか?ということなんですが。
「哲学というのは実験も何もせずに考えているだけだから、
結局哲学によっては何もわからない」とか言われたら、どう答えますか?
そんな抽象的な、批判する対象について無理解な批判の仕方は
何も言っていることにならない、と思いませんか?
> その事から色んな問題が発生したのが前世紀ですよ。
> 公害・温暖化・遺伝物質による汚染等、つまり、科学のやる事は
根本的な科学的知識の正当性を論じている時に、
「公害」とか「温暖化」とかそんなのは何の関係もありませんが。
地球の温暖化は重要な問題だけど、それは
だからエネルギーの使い方・需要と供給についてよく考え、社会の設計をしましょう、
という問題に過ぎない。
科学的知識自体の正当性とは何の関係もないんですが?
そうやって、別個の問題をごっちゃ論じるから、
文系の連中は何もわかっていない、と言われるのですよ。
834 :
819 :2006/03/27(月) 21:28:39
> 同時に、ハイゼンベルクの不確定性、数学上の不完全性定理、
> フラクタル等物理・科学分野では多くの見直しが求めらています。
え?
普通に考えると、量子力学の不確定性原理なんてのは80年も前に言われたことで
当然そういうものを踏まえて20世紀の物理学というものは進歩してきたわけですが?
論理学での不完全性定理ってのもそうですよね。
どこがどう、「見直しが求められている」のか、正直わからない。
フラクタルって、・・・それがどうやって物理に対して見直しを求めているんでしょう?
フラクタルって何か知ってます?
・・・ってか、俺は
>>822-825 さんが言っていること自体は面白いと思う方だけど
(その内容が
>>819 とは関係しているかいないかはさておき)、
>>831 みたいな人を見ると、本当に何というか・・・
こういう人がいるから、理系は文系を馬鹿にするのだし
文系の人は文系の人で、そっか科学なんて碌に知らなくても構わないんだ、と思ってしまうのだよね・・・・
まあ、ここではスレ違いですね。今後自粛します。
すみませんね>他の人
835 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 22:25:53
1)「だからさあ、、科学が「客観的な対象の存在を疑わずに鵜呑みにして」いて、 しかもそのことが現在の科学的認識方法にとって「問題」だ、という判断が どうして科学を知らない人にできるのですか?ということなんですが。」 科学を知っていると言うのがどう言う事か良く分かりませんが、おそらく 科学者程は知りません。しかし、その証明の前提である、客観的世界は少なくとも 肯定なさっているでしょうね。そうじゃないと、実験・観察・体系化(数式化) はできないでしょう。この基本的な前提を素人の哲学者も分かるのですよ。 また、それは、哲学が全ての領域を対象にしているからでもあります。と言うか、 科学も哲学的な問題点を抱えているからです。貴方も知っている様に、デカルトの哲学は 物理学の基盤でもあるでしょう。私は良く知りませんがマッハはどうでしょうか? 特にポスト構造主義と呼ばれているフランス哲学は反デカルトです。こう言う意味で 批判したまでです。
836 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 22:36:49
2)「量子力学の不確定性原理なんてのは80年も前に言われたことで 当然そういうものを踏まえて20世紀の物理学というものは進歩してきたわけですが? 論理学での不完全性定理ってのもそうですよね。 どこがどう、「見直しが求められている」のか、正直わからない。 フラクタルって、・・・それがどうやって物理に対して見直しを求めているんでしょう? フラクタルって何か知ってます? 」 貴方が「・・・踏まえて・・」と言うとき「見直したと言う事」ではないですか。 踏まえたとは、踏まえた物を訂正したのでしょう。言葉のあやですよ。 同じ事を、一方は愛情を持って、他方は批判的に述べた結果がこう言う表現になった のですね。不完全性定理については数理論の矛盾が現れたと言うことでしょう。 この点は、両義性の領域ですね。無限の掌握不可能点に開いた空間。存在論的 超越点のような。フラクタルとは同じ形状の形を何回も繰り返すと自然の地形 のような物が現れてくる。つまり、計算ではなくあくまでも恣意的にある事を 繰り返す結果が、意図せぬ物となる事を示していると言う事でしょうか。 そう言う意味で、数理論を超えた何かがある事に気付いたと言う風に解しています。 私は専門家ではありませんが・・・・
837 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 22:46:01
と言うか、真理が一つしかなく、その真理を探究していくと言う姿勢に うんざりしたのが、ニーチェから存在論・現象学・記号論・精神分析学 ポスト・構造主義にはありますね。こんなに多様な感覚をたった一つにする と言う事が認められなかったと言う事。その背景に前世紀の科学・数学の 修正があたとおもいます。(量子力学も含めて) だからと言って、科学主義は全てダメダとは思いませんよ。
838 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 23:00:05
どの意見もそれなりにもっともだ。 ある批判レスにおいて、批判先の意見を、その批判レスで解釈されているように、解釈することは十分にできるし、 そのように解釈したならその批判レスの内容に賛同することは概ねできるからだ。 何を言いたいかというと、スレの流れが不毛になりつつあるということ。 話題ズラさないか
科学の具体的な知識がなくても方法論の批判はできるわけだが。 あー、面倒だな。 「論じたいなら少しでも科哲をかじってからにしてくれ」ですませたくなるんだが、それじゃ気がすまないかい。
A:「論じたいなら少しでも科学をかじってからにしてくれ」 B:「論じたいなら少しでも科哲をかじってからにしてくれ」 ↑これでは不毛なのは明らか
一対一対応の記号を積み重ねた理論では捉えきれない何かについて。 哲学者がぐだぐだになりながらも追い詰めた、その先にあったのはただの空白だった。 「そのもの」を斜線が引かれた記号としてしか語れなかったわけだ。 それ以外のやり方でも、どーにも説得力がない。 哲学者はいろいろやり方を考えた。 ところで、今までの科学者は誠実な人間だけだったらしい。 問われれば全霊をかけて答えを探すようなナイスガイだ。 そこに試行錯誤する哲学者→似非科学者が入り込んだ。 今まで誠実な科学者ばかり見てきた先生方には、 こいつは問いかける大人が気に入るような答えを出す小賢しいやつに見えた。 まあ、ある意味当然だな。 ソーカルのあれは要するに「語り口を意識した語りは駄目だろ」という、ある意味無茶な警告だ。 正当な科学者であるソーカルは「誠実さ」を示した立派なお方だったわけだ。 だが、そのやり方がいささか捻くれていたおかげで、 今度は「誠実さとは何か」というお話で盛り上がるようになってしまった。 姿勢ってのもまた語りえないもの、つーか語ろうとした直後に消えうせるもののうちの一つなんだけどな。 そーゆーお話。
842 :
819 :2006/03/28(火) 00:28:32
すまん自粛するって言ったがもう一度だけ書かせてくれ。すまん
>>835 > 客観的世界は少なくとも肯定なさっているでしょうね。
> そうじゃないと、実験・観察・体系化(数式化)はできないでしょう。
客観的世界を仮定しないと実験できない、ってよく言うけど、
何でそんな言い方になるのかがわからない。
それは「客観的世界を仮定しないと客体物としての物を食べることはできない」と
言うのと同じ程度にナンセンスにしか俺には聞こえないのですが。
客観的世界を仮定しようがしまいが、食べ物くらい食べられますよ。
勿論、結果として現代の物理学は客体に関する理論から成り立っているわけですが、
それはあくまでも結果論としての話。つまり、それ以外の形式を取る理論では
ものをうまく説明することができないから、現状ではそのようになっている、というだけの話。
もし主観も含めた「理論」が成立して、その方がよく
現象を説明できるのなら、世界中の物理学者はいつでも主観を含めた理論を認めるのですが。
ここで問題になるのは、実験物理学者が実験の計画を立て、理論物理学者が数式を考え始めるときに、
世界の客観性なり真理の一意性なり或いは観測に負荷をかける理論なり、何でもいいですけど、
そういうものに彼らは知らないうちに汚染されており、その結果として
独断的な観測や理論をしか構成できていないのだろうか?ということであるはずです。
そうして、あなたのような人はそれに対して、汚染されている、と言っているわけですね。
(それが、あなたの言う「客観的な対象の存在を鵜呑みにすることが問題だ」ということの意味であるはずです)
しかしなぜ汚染されていると判断できるのか?
それは汚染されているに違いないから汚染されている、と言っているのに過ぎないのではないか?
少なくとも、実際に科学の実験や理論構成がどのようなものかについて何も知らない人が
それを論じることができるはずは、明らかにないのだが?と言っているのですけど。
(少なくとも世界の客体性とかいうことに限って言えば、俺は上に言ったように
あなたの言うような「科学的認識がそれを疑わずに鵜呑みにしている」ということはないと思っています。)
843 :
819 :2006/03/28(火) 00:29:08
「公害」とか「温暖化」については、あなたの非を認めていただいたと考えても宜しいですね。
> 踏まえたとは、踏まえた物を訂正したのでしょう。言葉のあやですよ。
違いますね。
あなたは「ハイゼンベルクの不確定性」というものを、「科学主義への批判が内在的に現れた例」
として出してきている。
しかし実際には、今までの科学では予測されない新しい実験結果なり何なりが出てきて
その結果科学が進歩する、というのは科学では日常的に行われていることです。
量子力学なんていうのもその一例に過ぎない。
だから、不確定性原理を「科学主義」の限界か、或いはそれに対する内からの批判か何かのように言う
あなたの言い方は明確に間違いです。これは「言葉のあや」ではありません。
> 繰り返す結果が、意図せぬ物となる事を示していると言う事でしょうか。
> そう言う意味で、数理論を超えた何かがある事に気付いたと言う風に解しています。
えっと・・・・
数理論っていうのが何を意味しているのかわかりませんが、
俺はどうやってもそうは解釈できないと思う、とだけ言っておきます
>>839 「科学の具体的な知識がなくても方法論の批判はできる」というのが、
「自分で泳ぐことはできなくても、どうやれば上手に泳げるのかを論じることはできる」というのと
どう違うんですか?というのが俺の言っていることです。
まあ、あなたは本当に「泳げなくても泳ぎ方を論じられる」派なのかも知れない。
(実際にそういう人はいるので)これ以上はたぶん水掛け論になるから論じられないですね。
ただまあ、「論じたいなら少しでも科哲をかじってからにしてくれ」と言うと
「論じたいなら少しでも科学をかじってからにしてくれ」と反論されて終るだけだからそれはよくないと思うなw
>>838 すまんね以後本当に自粛します
あー、くそ酒が抜けねえ。包丁で目の前のモノを、それが何であれ二つにぶった切るのが科学なら、 その二つをずいっと目の前に差し出して「今お前さんがやった行為そのものはこれか。それともこれか」 とやるのが科学哲学だ。 んで、お前さんは「切り方が正確かどうかなんて切ることに熟練したやつにしかわかんねーだろ」とかいうわけだ。 どんだけ的はずしてるかわかったか? わかんねーか。じゃあもう死ね。俺も死ぬから。
話は変わるけど、ドゥルーズの書簡集ってないの?
書簡集もだが特に講義録が読みたい。 今後編纂されるんじゃないかな。
848 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 02:41:51
849 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 09:39:56
waros
850 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 10:38:20
科学が客観性を前提にしてるから汚染されてるって・・・。 そうなの?
851 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 18:03:46
>だからさあ、、科学が「客観的な対象の存在を疑わずに鵜呑みにして」いて、 しかもそのことが現在の科学的認識方法にとって「問題」だ、という判断が どうして科学を知らない人にできるのですか?ということなんですが。 「哲学というのは実験も何もせずに考えているだけだから、 結局哲学によっては何もわからない」とか言われたら、どう答えますか? そんな抽象的な、批判する対象について無理解な批判の仕方は 何も言っていることにならない、と思いませんか? これ書いた奴、馬鹿じゃないのw?
852 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 18:34:32
不毛だ。 実に不毛な流れだ。 これは俺個人の意識内の価値順位だが、 不毛なレスは馬鹿なレスよりもたちが悪い。 話題を変えるべきだろう。 ↓↓↓ドゥルーズの限界について↓↓↓
853 :
822 :2006/03/28(火) 20:26:42
>>831 デリダの差延は、多元化というよりは、むしろ「一元化の留保」というべきものであって、
多元化ということにはもっと積極的な意味があると思うんですよね。
ドゥルーズも、ガタリも最後に近づけば近づくほど、ライプニッツにシフトしようと
していくわけなんだけれども、しかしどうしてもスピノザといまいち区別されていなかった。
それは非−共可能性、なんていうことをことさらに強調したところにもあらわれている
わけで、ライプニッツのなかにある目的論の発想をさらに否定して、それを逆に言うと目的化
してしまっている。
それはやはり、多元論を「一元性の留保」という意味でみてしまっているということであり、
「存在の一義性」の話なんかで、そんな留保はつけていない、とドゥルーズは主張するかもしれない
んだけれど、「存在の一義性」の概念の規定自体にそうした側面が含まれてしまっている。
854 :
822 :2006/03/28(火) 20:37:27
だからその意味では、最終的にはスピノザ流の肯定を前に出しながらも、 相対化や解体のほうに実質的にはとどまらざるを得なかった部分があると思う。 しかしそれでもなお、払拭できないのがその「スピノザ的な肯定」そのもので あって、ナベール経由で導入したリクールはそれを「物語」というふうに呼んだ。 一種のヴァーチャルなものが、アクチュアル化していく過程なんだけど、そうした アクチュアル化するものも、逆にヴァーチャルなものを刺激する。そして アクチュアリテの軸は移っていくし、並存している。 ピエール・レヴィのヴァーチャル論はガタリなどもひきつつ、このあたりの 消息を良く伝えている。
>>852 答え:結局、ニーチェとスピノザの限界を超えられないところ
856 :
822 :2006/03/28(火) 20:45:37
ドゥルーズは非=共可能性、ということをいったわけだけれども、 実際にはむしろ共可能性の発想でもって、ヴァーチャル−アクチュアル の対が多元的に並存する状況を考えないといけない。そうなって初めて、 ライプニッツになるし、これはレヴィの師匠であるミシェル・セールが そもそも産み出した考え方だ。 アクチュアル化したとしても、そんなものはヴァーチャルなものではないか? という疑問も、もちろんありうるし、科学の立場からそれを批判するというなら してみればいいが、しかしレヴィの情報論などは、普通にネットを使ったりしている われわれからするとまったく違和感がない。その外の物理などの科学にしても シュミレーションを多用したなかで現代では成立しているのであり、そういうものを 科学への懐疑論であるというのは、馬鹿馬鹿しい言い分だ。
857 :
822 :2006/03/28(火) 21:15:32
これを科学の発生の人類学、という形で考察したのが、ブリュノ・ラトゥールで あり、またスタンジェールなどもそうである。これらはセールの弟子の系譜。 晩年のガタリもこちらへの言及が多い。あと、オートポイエーシスや、 モナドロジーについてもよく言及していたが、上に述べたような諸科学のアク チュアリザシオンを、モナドロジーの視点から回収するというのが、「限界」を 克服するための道であることを、理解しかけてきていたからだ。 こういう言い方は誤解を招くかもしれんが、虚構的なものを中心にしても、 学問的なアクチュアリザシオンが起こってくる、というのは、非西欧的な学問、 本草学などでもそうだし、そもそも人類の神話的な思考がそういうものなのだ。 そういう状況を最初から予見して、科学と神話を融合しようとしていたのがセー ル。 あと、分析系ももうかなり吸収してきているけど、そちらはリクール系がいいね。 ヴィトゲンシュタインにとっての「世界像」の問題なんかを、自分の先在する「物 語」 という主題で回収しちゃった。だからもう、全体が融合して、新しいステージに入っ てきてるね、フランスは。
858 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 22:06:40
もっと分かりやすく書いてみて。 「共可能」「一元化の保留」「バーチャル・アクチュアルの対」「スピノザ流の 肯定」「最後に行くほどライプニッツにシフト」「スピノザと区別されていなかっ た」などもっとの背景について詳細に説明を
859 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 22:14:52
よく分からんが、多元化と一元化は全く異なるものですよね。 とは言っても、多元化と言う言葉はポスト構造主義から見ると ちょっと使えない気もする。むしろ差異化と言うべき気がします。 つまり、ズラス行為です。同時に一元化と言うのも、二元論の否定と言う ニュアンスなら分かりますが、いずれにしても、ポスト・構造主義 は次元化と言う意図はないだろうと思います。 あえて言えば、差異化で、その差異化の反復です。
860 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 22:17:41
でも、よく読むと、853さんの捉え方はポスト・構造主義ではない 様ですね。ですから、分かりにくかったのかも知れませんね。
861 :
考える名無しさん :2006/03/28(火) 22:19:31
差異化すると言う行為は多元論ではなく、あくまで「行為」ですね。
862 :
822 :2006/03/28(火) 22:43:50
「最後に行くほどライプニッツにシフト」これについては、「差異と反復」 と晩年の「襞」などを読み比べてみれば明瞭です。ガタリについては、 「カオスモーズ」を参照。 「スピノザと区別されていなかった」というのは、たとえばスピノザの哲学を 決定づけるのが、徹底した目的論の否定であり、そこから彼は機械論に行ったし、 倫理についてもそのラインで考えているということを思い出してください。 それはデカルトから続く、スコラ哲学に残存していたアニミズム的な世界観の 否定の流れの延長なのですが、ライプニッツはむしろ、現実存在するものに「共可能性」 という形で制約を加えて、それでアニミズムを修正していこうとする。アニミズムというのは 目的論的な思考ですが(種は、ある植物になるべくしてなる、といったように) ライプニッツはいわば目的論否定の目的論を作り出した。それがモナドロジーの 多元論を生んだ。 スピノザの目的論否定の激しさは、文字通り差異化であろうし、多元論的な ようにも見える。しかしそのなかの否定性が自己目的化してしまっているという側面がある。 ライプニッツの多元論は、もっとはっきり「相互限定」を最初から打ち出しており、 その重層として世界を見ようというもの。 「バーチャル・アクチュアルの対」については、最近訳の出たレヴィの 「ヴァーチャルとは何か?」を読んでください。 また、「一元化の保留」とは、「一元化することを保留する、(という意味での 多元化)」の子とを言っており、フッサールに対してデリダが「受動的総合」を強調したような ことを念頭において言っています。
863 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 01:32:53
864 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 03:36:48
>ここで問題になるのは、実験物理学者が実験の計画を立て、理論物理学者が数式を考え始めるときに、 世界の客観性なり真理の一意性なり或いは観測に負荷をかける理論なり、何でもいいですけど、 そういうものに彼らは知らないうちに汚染されており、その結果として 独断的な観測や理論をしか構成できていないのだろうか?ということであるはずです。 お前の言っているのは詭弁だろう。この後がさw。お前は「独断的な観測や理論」 でないものを科学者はやっているのだ、という逆証明をするべきなんであって。 それが本当に出来るのであればそれを哲学と認めてやろう。デカルトは科学者として それをやろうとした。 そもそも、仮にそこまで理想化された「客観性」が実際には確保されていなかったとしても、 そのことで科学を、というよりむしろシアンスを貶める必要は別にない、というのが フランス人の今の考え方だろ。何か文句ありますかw?
865 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 03:39:16
>お前は「独断的な観測や理論」 でないものを科学者はやっているのだ、という逆証明をするべきなんであって で、これを本当にやりかけたらヴィトゲンシュタインくらいにはあれこれ考える んでないとなw。ホワイトヘッドでもいいけどさ。 そんなものはやはり哲学としかいわねぇんだよw。
866 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 16:14:53
翻って哲学に何ができたというのだろうか? 独断的な観測や理論に基づいたものだったら なぜそれを用いた技術でこんな場所に戯言を書き込めるのでしょうかねwwww
867 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 16:40:20
ウィトって・・・・p 馬鹿じゃん
868 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 20:55:37
862さんへ。返事ありがとう。 なるほど、スピノザよりライプニッツのモナドロジーですか。 共可能的に世界は開かれている。つまり関係性として開かれてある。 よって、強烈な差異化と言うよりも、複合的、重層的に世界はある。 そこで、このスレッドで論議中の、物理科学の信憑性も、自己組織化や 受動的総合のように、生物(人間)として、世界は関係性として 既に意識に上る前に開かれている。よって、その世界を観察すれば おのずと、この生物としての世界は必然的に開かれ、それは、真理・偽 と言う問題は全く起こりえない。こう言う事でしょうか。 高度な理論物理学についても、それはあくまで受動的総合を基礎にしている ので、真偽の問題はないと言う事でしょうか。 いずれにしても、素晴らしい分析感謝します。有難う。
869 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 21:03:16
それはそうとして、確かに貴方の考え方の方が、時代に適合している 気がします。ハイデガーのところで、ユキュスクルの話をしましたが、 世界は生物の生息状況によって関係性として開かれるのは正しいし、 また、ドルーズの差異化する身体論だと、総合が全くなくなります。 その後、ジジェクやバトラーあたりは、歴史性の復活を主張していますし ポスト・コロニアル系の方からも、現状(置かれている状況)を認める 必要性が叫ばれています。 つまり、ヘーゲルから多くを受け取ろうとしているんですね。 この辺の背景が、貴方のモナドロジー受容から伺えます。
870 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 22:01:24
あー…無知な俺に質問させてくれ…。 ようするにだな…。 世界⇔俺の意識 という、二項に分離した、そして意識的かつ論理的に思考できる、図式に至る前に、 非人称的な意識 という、一義的な、差異を内に蠢かせたただ一つの理念的に想定された存在、という図式を、 ドゥルーズは考えていて、それこそがドゥルーズ的なイデアであり、 そこに常に新たなものが生成し続ける、という、ある種、到来する他者、というようなものが、 ドゥルーズが信じた世界だ、ということでいいのだろうか? 違うなら訂正、正しくても補完、おねがいします。
871 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 22:05:36
バーチャル(仮想)と言う世界を認めると言うこと。 つまり、すべは架空に過ぎないことの肯定。真も偽も全ては バーチャルと言う事。統一場の理論も仮想であり、全ては創作 とするならば、問題はなくなるって事。だから、ニュートン力学 アインシュタインの理論と、次々と論理の上塗りが行なわれ、 決して最終章は開かれない。夫々が仮想であり、全ては創作だからだ。
872 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 22:09:46
あっていると思うよ。 一義性=内在性 であり、それ以外の対象性を持たない。 主観・客観と言う二項対立をなくすと言う事だ。 ただ、イディアと言うタームは禁句ですよ。形而上学的プラトン主義 になっちまうから。
873 :
考える名無しさん :2006/03/29(水) 22:16:29
それと、意識的に論理的思考する前にある非組織化された情動の開放 を求めたのがドゥルーズですが、これを論理的に意識する「私」と それ以前と言う風に二元論的に捉えるのもいけない気がします。 つまり、考える「私」を主体と言い換えてもいいですが、この主体を 抹殺しようとしたのが、ドゥルーズです。
874 :
670 :2006/03/29(水) 22:22:00
あっていますか、よかった。 ありがとうございます。 今一つそこら辺の一連の概念間の関係が見えないんですよね…。 入門書はいろいろ読んでいますが、どうもそこらへんを明快に語りすぎて誤解されるのを恐れているのか、出し渋っている感があるように思えます。 本当はこうやってあっているか否かということで一喜一憂したらいけない(「いけない」というのもイケナイ?)んだけど、 まずは道を理解してドゥルーズの地平まで行ってみる、そのためにはこうやって正誤ゲームじみたこともやむを得ない。 という考えはどうなんでしょう?
875 :
870 :2006/03/29(水) 22:26:06
>>873 それじゃまともなこと言えないのは当然ってことだね
877 :
862 :2006/03/29(水) 23:30:20
>>868 この生物としての世界は必然的に開かれ、それは、真理・偽
と言う問題は全く起こりえない。こう言う事でしょうか。
真偽問題がまったく起こりえない、とまでいうとまた自然科学系の
人のアレルギーがあるからw、やや言いかえると、要するにヴァーチャルーアクチュアル
という問題を、レヴィなんかはガタリも援用しつつ、レアルーポッシブルというこれまでの
科学の発想とは少しずれたものとして考えようとしているということです。
ポッシブルなものがレアル(現実)になるのは、ある「選別」の結果であり、そこには
どうしてももとからある考え方の傾向とか、抑制が強く働いている。スコラ的な古い学問の
段階では、アニミズムがそういう局面を荷っていた。
ドゥルーズ、ガタリはそれをずらしていく力として、潜勢力としてのヴァーチャルと、
そのアクチュアル化について語った。それは、スピノザ的な目的論の否定の流れにあるものだった。
878 :
862 :2006/03/29(水) 23:40:19
ただし、今レヴィがセールの流れをひきながら語っているライプニッツ主義だと、 ヴァーチャルからアクチュアルへ、またアクチュアルからヴァーチャルへ・・ という流れが、「選別」でも「反−選別」でもなく、ヴァーチャル−アクチュアルの 自己増殖として捉えられている。 「反ー選別」という考え方を、「選別」に限定を加えるもの、として解釈するなら、 ヴァーチャル−アクチュアルという対自体が複数化して、並存的に相互限定するような世界を 現代は現出している。869さんがヘーゲルといったのは非常に鋭いです。ただ、私はこれは むしろ西田の「場所的弁証法」にちかい「相互限定」の世界観だと思う。 そしてそれは、上で述べたように、ライプニッツが「目的論否定の目的論」というものを 編みだしたやり方でもあるわけです。いわば、自ら限定を加えあって、洗練されていくアニミズム 世界です。 アクチュアル−ヴァーチャル、というのも、アクチュアル化自体が、情報論的にいうと複雑に 相互にリンクしあった情報の集積する「すい点」(熊楠用語)となるということであって、 ヴァーチャルなものとは、そのアクチュアル化を準備する情報の裾野ですね。
879 :
862 :2006/03/29(水) 23:55:09
もちろん、アクチュアル化した「すい点」もまた、別のアクチュアル化の ための情報の裾野(すなわちヴァーチャルなもの)になりうる。しかし、 リアル−ポッシブルオンリーのような、「選別」的で排他的な構造は作らない そしてそのために、逆に突出した誤謬に導かれないということになっている。 これが現代的に解釈された「共−可能性」だ。 このように情報論で情報が集積してくること、それが「アクチュアル化」の一種の前提 された目標のように改定されて、それが集積をもたらすことと、他の自然科学が学問的に 目標を定め、充実してくることとは、実質的にはそう違わないというのが、今の考え方 です。 このことは、潜勢力としての「ヴァーチャル」を、文字通り人間社会の秩序を 突き崩す力を秘めた「動物性への変容」という風にも捉えていたドゥルーズと、 現代の汎アニミズム的な世界観を比較してみてもわかる。やはりドゥルーズにとって、 「動物性」というのは下から突き上げてくるものなんですね。 「本草学」化していく現代のフランスのやりかただと、むしろアニミズムの 水平的相互限定とか、相互関係を肯定するところから、指針を汲み取ってくる。 日本でこれに近いことをやっている人というと、実は以外にも「対象性人類学」 の中沢新一です。
880 :
862 :2006/03/29(水) 23:57:49
目標のように改定されて→目標のように仮定されて、対象性→対称性 でした。すいません
881 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 00:54:11
興味深い。 だが、わからない。 具体例を挙げてくださらないか。 主に、 バーチャル(仮想、想像?)⇔アクチュアル(現実?)とポッシブル(可能、可能性?)⇔レエル(現実、現実化?)の違いはどう現れるのか? バーチャルとアクチュアルの相互限定が実際にどのように起こっているのか? ということについて。 あと、初歩的な概念をいくつか確認させてください。 反-選別と非-共可能、共可能についてとか。
882 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 13:27:16
age
883 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 22:22:48
詳細なご説明ですね。 ポッシブルの選別によって、レアルが生まれると言う考えでは排他性が生まれる ので、バーチャルからアクチュアルへと変わってきたと言う事ですね。 つまり、後者はライプニッツ的に共可能に自己増殖的であり、選別・反選別でもない と言うことですね。 詳しくないのでですが、アリストテレスの「可能態」「現実態」と言う概念が ありますが、この辺との関連もあるのでしょうね。 いずれにしても、スピノザ的な物から見える分裂・差異化と言う「内在の差異化」 のみを強調する、ドゥルーズの姿勢よりも、自己増殖としての「今・ここ・私」から 映し出された世界を肯定し、そこから、自己関連性に沿って、世界を関連付けて 組織化し、変換をしていくと言う事でしょうかね。
884 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 22:30:28
中沢さんについては、「南方熊楠」論を書いていらっしゃいましたが、 読んでませんでした。「切片曲線論」「バルセロナ秘数3」でしたっけ 「ノウサギの走り」の様な初期の頃の作品は読みましたが、熊楠論は 読んでません。どちらかと言うと、浅田彰先生の本を読んで、そこから ポスト・構造主義に入った感じですね。
885 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 22:41:35
ただ、バーチャル(潜勢力)とアクチュアルと言う捉え方で考えて 物理学的な理論はどのようになるのでしょうかね。 例えば、皆さん興味のある、統一場の理論なんか、バーチャルと そのアクチュアル化と言う論理で見ると、どの様な位置付けになるのでしょう。 やはり、コギト的な観察する「私」がいて、宇宙空間と言う対象を必要とする 気もしますね。(笑)そして、観察・分析・理論化(数式化)と言う プロセスを否定できない気もしますね。
886 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 22:51:53
つまり、如何なる前提も背景もない、観察する「私」がいて、 分析すると言う、デカルト的な「私」です。 そうではなく、バーチャルをアクチュアル化する場合には、「私」は どのようになるのでしょうか。すでに、ある地点=背景にいて その背景でものを関係性として見出している「私」ですよね。 その局所にると言い換えてもよい「私」が観察する世界は、明らかに コギトのそれとは異なるでしょう。その場合、おおくの局所が発生し 色んな論理が生まれては消えると言う事でしょう。
887 :
862 :2006/03/30(木) 22:58:08
>アリストテレスの「可能態」「現実態」と言う概念が ありますが、この辺との関連もあるのでしょうね。 レヴィの本だと、アリストテレスの四原因と比較してヴァーチャル−アクチュアル レアルーポッシブルについて語ったりもしていますが、それはやはり彼の全体の立論を 追った上で読んだほうが、より説得力があるでしょうね。 ヴァーチャルを情報集積の基盤、アクチュアルをその集積、圧縮と見るとすると、 たとえば情報の諸要素は、たとえばこのネットのそれぞれのページがリンクし合うように 相互に結びついているわけですから、そうした相互性そのものが圧縮されたものが、 アクチュアル化しているといえる。そういう風に、情報の裾野をもった「すい点」が 形成されるわけです。 しかしながら、その「すい点」もやはりまた別の「すい点」の裾野になっており、 これもネット世界を見ればよく分かると思います。その意味では、アクチュアルな ものもヴァーチャルな働きをなしており、同時に重なり合っている。 そしてこの「相互性の圧縮」という条件を満たす形で、いくつものアクチュアル− ヴァーチャルの対が共可能に自己増殖していく。こういうのが現代の情報の世界。 一方で、例えば昔は情報が集積される場所が図書館だったり、企業だったり したわけですが、いまやどんどん情報は「脱領土化」し、上に言ったような情報空間 に発生する、いくつもの情報の「すい点」が「アクチュアル」なものとなって、 社会が回るようになってきている。 一方、レアル−ポッシブルということだと、昔は正しいものを選別するものだった。 諸現象を綜合によって考える、という図式が強く、カントのようにプロセスの中でそれ を考えても、またフッサールみたいに端的でレアルなものを想定した上で、そこに至る 「受動的綜合」まで考えようとしても、最後に置かれるのが「レアル」であったら、 それらの思考は線形性や不可逆性、過程性の二元論のうちにとどまり続ける。 もっともラジカルにとどまったのはデリダでしょうけどね。
888 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 23:06:19
この辺の局所的な「私」は、ポスト構造主義的共時性を強調し、没個性化する哲学 からはあまり見えてきませんね。だから、ヘーゲルが再評価されてくる基盤がある気がします。 それでも、「私」はここで生きている。そこから共可能の世界を紡いでいく と言う。つまり、政治的になると言う事でしょう。
889 :
862 :2006/03/30(木) 23:12:04
『森のバロック』は今読むといい本なんですよ。中沢氏は、あれは晩成型 の人です。今世紀に入ってからがいい。若い頃のは結構危なっかしいです。 情報集積をマスから考えていくとか、それの入れ子的な重なり合いを考えるとか、 価値の創発問題を考えるとか、そういうことからいうと、上に書いたような アクチュアル−ヴァーチャル論はむしろ複雑系やオートポイエシスなどとすごく 親和性が高い。というか、自然科学系がものすごく近づいてきている気がします。 複雑系の脳の科学なんかも面白いですね。 とはいえ、完全に決定論的な宇宙論を構想したいと思うような物理学者も、 まぁいるでしょうw。だとしても、それが心の問題や芸術の問題、神話的思考、 社会や国家の定礎の問題まで、説明できうるとは到底思えないのですがね。 よく、ヒルベルトの還元的な考え方がゲーデルによって否定されて云々・・・ といったような時代からばっかり科学と哲学を考えようとする人がいますが、そもそも 全然還元的に考えようとする気がないところで、科学も人文系も考えようとしているのです から、そういう科学と哲学の二元論ってこちらの立場から見ると奇妙でアナクロな 気がします。
890 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 23:15:58
明日早いので、今日は失礼します。レスは明日読みます。 宜しく。
891 :
862 :2006/03/30(木) 23:21:33
>その局所にると言い換えてもよい「私」が観察する世界は、明らかに コギトのそれとは異なるでしょう。その場合、おおくの局所が発生し 色んな論理が生まれては消えると言う事でしょう。 はいはい。そうですねぇ。この場合はヘーゲル的に言うと、「特殊」と 「個」の位置がひっくり返る現象が頻発するということですね。ヘーゲルだと、 「個」は「特殊」に吸収されてしまうものでしかなかったのですが、その関係の線形性 や不可逆性そのものが相対化される。 アガンベンも「開かれ」でこれを考えていました。コジェーヴ(とバタイユ)を援用し て、市民社会的人間(特殊)と動物性(個)の関係としてみていましたが、それもなんだか、 転倒のための転倒の議論に終わってしまった。二元論的に分裂したまま、転倒を夢想して 終わった気がします。(東の「動物化」なんかもその文脈のアレンジでしょう) ついでにそういう「特殊」と「個」の転倒は、吉本隆明が早くからあれこれ考察して きて、うまくいかなかったテーマですね。彼の言う、「幻想」というのは、本来「ヴァーチャル」 のことでなければならない。
892 :
862 :2006/03/30(木) 23:29:12
だから政治と、芸術の双方を(先ほどの「特殊」「個」の話だと、芸術というのは 大体アガンベンでも吉本でも、動物性とともに個的幻想に位置づけられます)考えようとし、 また個としての人間の自由とかいうことについても考えようとして、袋小路に入っていた 観のある現代の思想というものが、このアクチュアルーヴァーチャルについての 議論や、現代のライプニッツ主義の展開のなかで、また大きく展開する機運が出てきた、 ということですね。
893 :
862 :2006/03/30(木) 23:46:40
これが人文的な方面だとどう展開するのか?例えば中沢さんで言うと、「精霊の王」なんかだと、 ミシャクチ信仰の対象となる石棒なら石棒が、古代人の神話的思考がそれをめぐって集積してくる 「すい点」として考察されるそれをめぐってのフォークロア的、考古学的な情報を採集しながら、 上に書いたような転倒が起こっていたことを探ってみようとする。そういう「本草学」を やろうとするわけです。 それはもう、単なる「個」とも、「集団的なもの」ともいえない、その両方の意味を持った、 モナド的なものの突出ですね。ミシェル−セールが「準−客体(準ー主体)ともいったようなもの です。 で、そういうアクチュアル化の「すい点」のなかに、自然と人間との相互的、対称的な関係に ついてのどんなあり方が幾重にも折りたたまれて集積していることを読み解き、それが 一種のアナロジーをもって他の「すい点」とも、構造的に照応している(モナドです からね)ことを分析していく。それを、彼の言う「流動的知性」の働きなるものを肯定しながら やっていっているわけです。
894 :
862 :2006/03/30(木) 23:49:11
上ですが、 >で、そういうアクチュアル化の「すい点」のなかに、自然と人間との相互的、対称的な関係に ついてのどんなあり方が幾重にも折りたたまれて集積しているかを読み解き でした。失礼。
895 :
考える名無しさん :2006/03/30(木) 23:51:24
>>891 議論の途中で悪いが、「普遍」と「特殊」が関係するというなら分かるんだが
「特殊」と「個」が関係するという意味が理解できない
「個」が「特殊」に吸収されてしまう、という下りを見るかぎりは
知(savoir)というフレームワークで表象される個人を「市民社会的人間」
知に還元できない個人を「動物性」と呼んでいるように見えるが・・・
そもそもバタイユが使用する「動物性」は「個」ではなく
「交流」のモメント、「水の中の水」の様体なので
「個」ではあるのだが「複数」でもあるモメントのことなので
バタイユやアガンペンの議論をちょっと乱暴に切りすぎている感はあるなー
896 :
862 :2006/03/31(金) 00:03:13
>「特殊」と「個」が関係するという意味が理解できない 関係しないというのがよくわからない。ヘーゲルだと普通に関係していますが。 動物性、という言葉にも、もちろん先に述べてきたような「下から突き上げてくる 潜勢力」といったニュアンスが読み込まれるし、ゾーエーやらマルチチュードやらの ニュアンスが読み込まれているのはわかっています。そしてそこにすでに転倒の意味合いが 強く出ているのも知っています。 ただ、そういう文脈そのものが、転倒を自己目的化しているように思えてしまう。 スピノザが目的論の否定を自己目的化したように。
897 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 00:38:20
すげーなバカ
898 :
昨日質問した者 :2006/03/31(金) 00:43:24
「すい点」「裾野」の話を聞くと、どうしても浅田彰のクラインの壷を思い出すんだけど、 そのイメージでオーケー?(クラインの壷が作れるか作れないかとかいう議論は省く) あと、あの壺の絵だと分かりにくくなっているけど、あの壺のノズル部は上がる度に違うノズル(反復)になっているんだよね。 あと、俺の頭がまだ近代的なだけかもしれないけど、今一つ出てきた概念間の関係「しか」見えてこないんだよね。 こう…もっと古典的な概念に還元してくれたりとか…しないかなぁ。 古典的概念がどうやって現代思想のタームに変形を余儀なくされるのかという説明を聞かせてはくれませんか?
899 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 01:08:43
野暮かもしれないけど自演?とりあえずドゥルーズスレだから
手塚さん?
901 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:08:24
タームを繋ぎあわせているので、少し分かりにくいのですが、 もっとも、こう言う2チャンネルのような所では、このように、自身が 興味のあるタームの連続で説明するしかありませんね。 ところで、もう少し、皆が分かるようなテーマ・文章で質問をしたいのですが 誤解ならばご指摘願いますが、つまり、個々は、モナドのように、局所的な視点 から全体を写す様に、存在し、そこから、バーチャルとアクチュアルと言う 弁証法的相互運動(バーチャルとアクチュアルとの)によって、自己差異化する。 これが、ヘーゲルの言うような、アウフヘーベン(止揚)かどうかは仰っていない わけですね。そして、南方熊楠の言う、「すい点」に西洋の観察に見られない 重要な見方があると言う事しょうか。そして、このような観察方法は関係性として 世界を観察する方法である。
902 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:17:30
そこで、確かに、スピノザのような、内在の分裂を求めるスタイルでは、 差異化の運動であり、形而上学と構造批判としては意味あるものでしょう が、現実に組織に生きる人間にとっては、それは、アート=サンプル 極端な表現に過ぎなくなります。つまり、誰も、このような実践を 朝から晩までできません。そこで、このスレッドで誰かが言っていたように 多文化、多言語化、多極化と言う、異質なるものの共存と言う観点を 考慮に入れると、それは、貴方の言うような、ライプニッツがいい訳です。 つまり、夫々は局所において、全体を写している。そして、夫々が 夫々の立場から、世界を見つめ、自己関係的に行動すると言う、ハッピーエンド になります。
903 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:33:17
ところで、この様に考える時、ライプニッツの目的論を排除しても、予定調和的な 視点は残っていると考えるべきなのでしょうね。つまり、個々の局所から世界からを 眺める時に、それが全体化された(統一した世界がある事)世界の局所からなのか、 あるいは、全体を前提にしない立場なのかによって、大きく異なると思われます。 つまり、全体を前提にすると、そこには大きなシステムによって、個々の自己組織的な 活動は、知らぬまに吸収されているとう事になります。自分が意識しようとしないとに 係りなく、全体の組織化の部分になると言う事です。
904 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:42:40
ヴァーチャル―アクチュアルをつなぐ「増殖」の構造
これに関して幾つか疑問が残る
例えば、アクチュアル―ヴァーチャルたるモナドの「自己増殖」
それは、ボードリアールが語ったような
記号の伝達作用が内在させている
シミュラークル化による「増殖」のことを指しているのか?
また、この疑問から導き出されることがある
理論の限界として、「情報」と言いながらも
結局のところ「記号的なもの」しか扱わずに
記号化されない「情報」の存在を隠蔽してしまわないか、ということ
このあたりはどうよ?
>>903 虚構的な全体性を捏造してしまう、絶対的モナドの設定や予定調和などには
弁神論的な含みがあるから、そこはきちんと処理しないとまずいだろうね
905 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:43:10
一方、全体を前提としない場合ですが、これは、局所としての自己から 自己組織的に世界を関連として見つめるのですが、あくまで世界はカオス に満ちていようと関係なく、自己が世界を布置化すると言う事になります。 そうなると、個々の位置によって、全く見え方が異なると言う事になります。 この事の意味する所は、かなり、ドゥルーズの内在=生成変化の哲学に近く なります。
906 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 22:53:52
現実の世界を見渡した場合、全体化されない、自己組織化と言うのは、 ありえないでしょうね。色々な組織があり、管理されているわけで、 好き勝手に罪悪を重ねても、それは勝手と言う事になります。 つまり、自己から見つめ、それを関係性の中で意味付けして、行動しても その判断以前に、ルールがあります。つまり、自己組織化前に、既に 刷り込まれた価値観が(構造が)前提となっています。 つまり、この点について、貴方の考え方はどうなるのでしょうかね。
907 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 23:02:58
おそらく、自己増殖は間主観的に起こると言う事でしょうか。 つまり、社会全体が大きな自己増殖機関であり、個々人の自己組織化は この全体の運動の中で、夫々を映し出す。勿論窓も交通も前提とされて います。 そこで、この視点がまったく見えないのですが、つまり、全体を前提にすると 局所間の差別が発生するのです。中心部にいるモナドと辺境地のモナドとの間に つまり、二項的な差別が生まれると言う事になる気がします。 この辺の運動は、ポスト・コロニアル系とジェンダー系とあるいは、サイード が研究を進めています。あるいは、ネグリなどでしょうか。
908 :
考える名無しさん :2006/03/31(金) 23:06:29
つまり、構造主義からポスト構造主義への運動の意味は、この全体化への 反動だったのですが、再度、全体的な視点を隠し持ったならば、同じ問題 を抱え込んだ事になるのです。ですから、外を作る事を極力避けたのが ドゥルーズだった気がします。
909 :
862 :2006/03/32(土) 01:28:13
ちょっと論文の資料がまとめて入ったので作業に追われていました。 明日まとめてお返事しましょう。
910 :
考える名無しさん :2006/04/02(日) 10:11:45
クラインの壺について、誰か言っていたけど、確かに、バーチャル(潜在的な潜勢力)と アクチュアル(現実化)の対によって、世界が開かれると言う見方と、類似性は ありそうですね。クラインの壺には、絶えず、吸収したものを吐き出し、又吸収する と言う循環があり、内部と外部が繋がっていると言う意味では、主客と言う二元論は 回避されています。浅田さんの「構造と力」をみると、クラインの壺はモダン の表現とされていますよね。たえざる構造の組替えによる動的スパイラル、 新たな差異を作り出す運動エネルギー、不換紙幣と表現されています。 ただし、この差異化の運動をモダンと言うのはどうかと思いますけどね。 明らかにポスト・モダンの表現の方が良い気がします。
911 :
考える名無しさん :2006/04/02(日) 10:22:42
「構造と力」の続きで、浅田さんは、ポストモダンを差異を差異として肯定すると 述べられています。 つまり、リゾームなのですね。遊戯性戯れ、バタイユ、永劫回帰、外の思考、逃走 と言うタームで繋いでいますね。そこで、再度バーチャル・アクチュアル とクラインについて、双方とも内部と外部とが分離できない関係にあります。 対象化する「私」と対象化される「物」と言う関係が、お互いがお互いを映し出す (可逆的に原因であり結果でありうる。)と言う、関連性において見出されています。 この点の類似性はありますね。 お互いに、モダンからポスト・モダンの思考方法なのでしょうね。
912 :
考える名無しさん :2006/04/02(日) 10:33:33
ボードリヤールのシミュラークルとバーチャル−アクチュアルの見方にも 多くの類似性がある気がしますね。つまり、物と言われるものはすべて 情報化時代に実在性を喪失します。つまり、背景(コンテクストの多様性) において、実在の意味が変わってくると言う事でしょう。 だから、全てがコピー・シミュレーションになるとう事です。 この辺ボードリヤールの見方とバーチャル(コンテクストの多様さ) とアクチュアル(あるコンテクストからの現実)と言う捉え方は明らかに 類似面を持っていますね。
913 :
862 :2006/04/02(日) 22:36:49
>ライプニッツの目的論を排除しても、予定調和的な 視点は残っていると考えるべきなのでしょうね。つまり、個々の局所から世界からを 眺める時に、それが全体化された(統一した世界がある事)世界の局所からなのか、 あるいは、全体を前提にしない立場なのかによって、大きく異なると思われます。 つまり、全体を前提にすると、そこには大きなシステムによって、個々の自己組織的な 活動は、知らぬまに吸収されているとう事になります。 結局、ここなんですよね。ドゥルーズもガタリも、もちろん晩年になるほどライプニッツに 傾倒して言っているわけですが、彼らの場合はここでライプニッツ主義に、「全体化」を前提にしないものだ というニュアンスを付け足すわけですね。そしてそうすると、スピノザに近くなる。 「非−共可能性」を強調するということですね。 レヴィが情報論でヴァーチャル−アクチュアル論を提起し、それがライプニッツを 踏まえている、という場合に、考えなければならないのは、やはりミシェル・セールの ライプニッツ主義です。結局セールのライプニッツ解釈というのは、「世界の全体性」 を、「統一されてあること」とは考えないわけです。いわゆる「最善律」において、 「可能性や本質の最大量があるように、神は世界を創造した」といわれる場合の、 その最大量を、セールは諸要素の「組み合わせ」の最大量と見る。ユニファイしていく 果てに、全体が見出されるとか、レアルな個がそうしたものとしてあるとかいう、理論構成をとらない。 ここがまったく違うわけです。そしてそういう「綜合」の観点から、個や世界の全体を 考えるのは、「選別」の考え方であり、それは「レアル−ポッシブル」の典型的な考え方であると いえます。
914 :
862 :2006/04/02(日) 22:57:36
「全体性」の定義は、そうした選別の立場に立つなら、いわゆる「存在の大いなる 連鎖」の、「鎖の連鎖」の最大限ということになる。 組み合わせ的な発想なら、むしろ限られた諸要素からでも多様性を考察できる。表音文字 や01の二進法によるアルゴリズムでもなんでもいわけです。 だからレアルーポッシブルから、アクチュアル−ヴァーチャルへの視点の移行というのは、 「選別、綜合」から「組み合わせ」への移行であるともいえる。 では情報的に「組み合わせ」ということがどう考えられるかというと、それは 上に述べたような「情報の圧縮化」ということでしょう。個々の情報も、例えば ネット内のテキストとそのリンク関係を見ても分かるように、それぞれに相互的な 関係の中で成立したものです。「圧縮化」によって、情報がアクチュアル化するということは、 その相互性の重層を意味するわけです。 ライプニッツ的な「充満の宇宙」を考えるにあたって、「組み合わせ」の多様性が どこまでも多様に見出されていったもの、と考えるならば、それは「レアル−ポッシブル」 の側から見るならば、果てしなく脱−中心化したものであるということにもなる。 いっぽうで、脱−中心化を目的化するわけでもないです。というのは、この場合、 アクチュアル化によって特定の「すい点」が影響力をもってくる、「準ー主体化(かつ客体化)」 するということと、組み合わせの「全体性」に向おうとする運動は矛盾しません。しかも、 アクチュアル化が生じる各点において、同じように組み合わせの「全体性」への動きが 起こっているわけです。 そしてその運動はなんだというと、「脱−領土化」の運動ですね。レアルからの 脱−中心化です。相互性の重層や、入れ子構造、全体と部分が同時的に成立する構造・・ 実際、複雑系などが扱っているのは、バラバラに諸分野で起こってくるそうした関係の 分析ですし、それらがどういうわけかわからないが照応しあっている、というかそれらの間で 価値の創発を読み取るにあたっての概念、ヒントを、互いに色んな研究者が与え合っている ような状況です。こういうものを、セールは早くから「ライプニッツ的状況」と呼んできたわけです。
915 :
862 :2006/04/02(日) 23:12:35
情報論の分野で、アクチュアル−ヴァーチャルの問題を主軸にしながら、 複雑系などがやっていることをさらに広い文脈に広げようとしているのが レヴィだともいえる。アートポイエーシスもこれに近いし、ガタリ、ドゥルーズ もすでに十分近いのですが、ただまだ何か、議論を公理系の不可逆性を強調したり、 「非−共可能性」を強調したりする中で進めようとしている。 そういうふうに「全体性」に到達することに「留保」をつけるのは、「鎖の延長」 をいつまでも考えなければならないと思っているからなのであって、「組み合わせ」的な 世界にはもともとそのような特定の「始点」の考えはない。「鎖の延長」をする 余地を残すことによって、「全体性」へと向いますよ、ということを担保する、というか、 そうした担保そのものが、世界の「全体性」を巡る世界像の「掛け金」になっている、 という状況があると思います。 しかしながら、「組み合わせ」的な世界で、相互にバラバラに、諸構造が、同じ ヴァーチャル−アクチュアルについての思惟を導くとか、価値の創発についての、共通した テーマを導くということ、そのものが、すでにこの世界像そのものを成立させてしまっている。 レアルーポッシブル、の枠組みの中で、全体性としての世界像そのものまでも、 「選択」しようとして文字通りコインを投げているような、そういうところが まだガタリにもあると思う。「クラインの壷」も貨幣の比喩であるし、もちろん そういうところはありますね。 『バートルビー』とか、面白かったけれど、アガンベンもどうしても最後に この「コインを投げる」ところで思索が止まる気がする。。もっとも、そのおかげで イスラム思想については彼はよく解明してくれたと思うのですが。
916 :
862 :2006/04/02(日) 23:30:47
ようするに、「脱−領土化」が疎外論になってしまっている。いっぽうで「組み合わせ論」 的な考え方だと、アクチュアル化はそのまま「脱−中心化」であり「脱−領土化」であるが、 これには一定の不可逆の方向を設定する必要はない。だからモナドの明晰度の違いから、 結果としてヒエラルキーができるということについても、「脱−中心化」としての 相互化の重層がすすむとともに、ヴァーチャル化もアクチュアル化もすすみ、かつ アクチュアル化したところも、他のアクチュアル化する「すい点」にとっての情報の 裾野としての、ヴァーチャルなものでありうるので、ヒエラルキー自体余り意味を成さない。 むしろ、その相互化の重層のなかで、「レアルなものへの選別」、という線系的な 方向が否定されていくこと、そのことが、モナドのアクチュアル性の度合いを示すことになるし、 それが持つ普遍的な意味合いをもあかすことになるのだと思う。 いっぽうで、レアル−ポッシブルが、疎外論と結びくなかで、そこからも「レアルであること」 に留保をつける思想が出てくるし、古くはカントの批判哲学もそういうものでしょう。 これが、たとえばカッシーラーのシンボル論にもなるし、消費社会論のヴァーチャル性の 話にもなる。しかしそれはちょっとニュアンス違うのではないかと私は思います。 ガタリはこっちにちょっと近づいているのかもしれません。 しかしいずれにしても、ヴァーチャルというテーマ自体が興味深いものであり、そこから さまざまな思想が整理できることは確かですね。
917 :
862 :2006/04/02(日) 23:40:26
ここで、最初の視点にもどると、ヴァーチャルなもの、を軸に現代思想がさまざまに 解釈できるのは分かったが、そのヴァーチャルなものを、 @相対主義的で、どちらかというと否定的なものとしてみる。自らへの留保を孕んだものとしてみる。 か、 A多元的で、肯定的で、かつ、自然科学の動向ともシンクロしつつ、その仕組みを扱っていこうとする。 の二通りの立場がありうるわけで、このばあい、「ヴァーチャルなもの」とはようするに 「物語」のことでもあります。それが、垂直に、線形的に、(時間的に)あくまでも否定の契機をはらんで 留保をつけられることによって、「差異化」するか、 水平に、並存的に、空間的(場所的)に、「多元化」するか、という二通りの立場がありうることになります。 フランスの哲学は、ここ数十年スピノザ主義的に、上の立場で学際的研究で華々しく成果を あげたのですが、次はライプニッツ主義で、第二の立場に移行しつつ、色んな集団的研究者が また新しい段階を模索しはじめたところだと思いますね。
918 :
862 :2006/04/02(日) 23:45:33
>>915 >「組み合わせ」的な 世界にはもともとそのような特定の「始点」の考えはない。は、
「組み合わせ」的な 世界にはもともとそのような特定の「終点・始点」の考えはない。
の誤りでした。すいません。
篠原資明のドゥルーズ解説本て評判悪いけど、どこがダメなの? ソフトカバーになってたから買っちゃったんだけど(´・ω・`)
920 :
考える名無しさん :2006/04/04(火) 17:07:46
age
921 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 00:30:26
分析が専門で趣味でドゥルーズ読んでる人とかいないですか
922 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 11:33:27
いっぱいいますよ
923 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 22:13:30
情報理論から内在的な差異化の欠点である交通(関連性の中の私)の欠如を モナド的な関係論で一気に解決するのは、もう一つ安易な気がする。 それほど上手くいっているのかなと言う疑問は残る。なにか問題点はないのかなぁ〜。 例えば、このような関係性のネットワーク=自己組織化から他者は永遠に無視される とかないかなw。
924 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 22:21:02
ネットワーク社会は外部からの抑圧管理をすり抜ける事で、自己関連性(興味)を展開させる 社会であるとすれば、永遠に他者への思いやりは消失する。同時に、この欠落する他者性への 思いやりは、ライプニッツでは全体性を求める予定調和にあったのではないか。 つまり、全体性の視点の欠落が、情報化理論にあるのではないかと言う疑問が残るのである。 他者性を強調したのはレビナスであった。
925 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 22:29:05
今の時代予定調和を肯定するには勇気がいる。証明不可能なものを前提にして 論理を立てることは出来ない。そこで、多様なものどものを共存させる方法 はあるか。互いに無視するネットワーク社会によって、夫々の個々人の世界は 開かれるが、共存する為には何かが必要である。もっとも、ネットワークとは言っても そこには、大国・ルールによる領土化が見え隠れする。そこに「おいそこの君」と 呼ばれて、振り向く「私」がいるかもしれない。言語による差異化は差別化でもある。 こう言う問題が、科学的なドゥルーズ読みの中に欠けているのである。 もっと、デリダ・レビナス・ジェンダー問題・サイードを読むべきである。
926 :
考える名無しさん :2006/04/14(金) 22:41:30
哲学とはテクニカルな問題ではない。ネットワークによって、関係性として あるあり方によって、我々は形而上学と、内在の差異化運動による自己閉塞から を超え出る事が出来ると考えるのは安易過ぎるのではないだろうか。 現に、我々は精神分析に見られるような、無意識に捉えられてる。 この無意識はけっして、完全に知りうるものではないし、認識の「地」 であり、その上に「図」となって現れるのが認識=経験である。 その様な前提を無視してネット関連で表層的にのみ考えて良いものだろうか。 その潜在性と現実性の関係がどうなっているのか、問題はないか考える必要がありはしないか。 全てが解決してはいないそれが、組織と個の問題として残っている気がします。 そこに、帝国の問題もあるのでは。
927 :
考える名無しさん :2006/04/15(土) 00:56:53
>>922 ほんとかな そういう人の「読み」がききたいけど
928 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 10:11:53
スピノザからライプニッツにシフトするフランス。確かに説得力がある。 スピノザがあくまで一義的な内在の豊穣=差異に道を開くとしても、現在の PCネットワーク時代には今一マッチしない。コンピューターのアクセスは 関係性として、局所からの接続と切断と言う捉え方の方が現状をより良く表現 出きる。ドゥルーズの思想はさらに過激な時代をも分析している。 つまり、リゾームとは、モグラの巣のように、色んな所に穴をあけ、定住地を 非定住的セリーとしてしまう。つまり、戦闘は、向かい合う布陣からゲリラへと 変質する。ネグリの「赤い旅団」とはこの事を示しているのではないだろうか? テロリトが学問の中枢にいると言う不思議な現象が示しているのもこの事の 現れであろう。
929 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 10:17:50
さらに、テロリストとハッカーの類似性もある。ネットによる接続と切断は 外的な規制や構造から逃走することでもあるのだ。ここである事からここでない事 へ瞬時にすり抜け、変身するのである。ただ、それでも、ここにいるとは言わないけれども このように運動する事は否定できない。つまり、ネットによる関連性を重視しつつも 内在する事・差異化すること(者ではなく)を否定できない以上、「差異と反復」的スピノザ 読みをも軽視できないだろう。 は否定できない。
930 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 10:30:44
二項対立的に物事を認識するのは、避けねばならないが、あえて利用させてもらえれば 内在の多重性=変身=差異化と言う、回収されぬもののあり方は、外的な関係性の 多様化による、視点の重層化と比例していると言えるのではないだろうか。 だとするならば、差異化(内在)はネットワークのノマド的多様化に一致する。 つまり、スピノザとライプニッツの共生が肯定されると言う事だろう。 現に、青土社の「ドゥルーズ」クレア・コールブルック著、國分功一郎訳 にも、「ドゥルーズ以降」の項目にスピノザ的なドゥルーズを継承・発展させ ている研究者の例も書いてあるのではなかろうか。
931 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 10:39:21
それは、279Pモイラ・ガーテンスとジュヌヴィエーヴ・ロイドの「最近の スピノザに関する著作では、想像力の政治的重要性が強調され、ドゥルーズ の跡を継いで、哲学的伝統の肯定的読解が行なわれている。」と示されてもいる。 『集団的想像力─スピノザの過去と現在』。と示されています。
932 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 13:50:18
>証明不可能なものを前提にして論理を立てることは出来ない。そこで、多様な ものどものを共存させる方法 はあるか。 それは、「全体性」というものを最後まで「掛け金」とし続ける考え方であり、 「レアル-ポッシブル」的な考え方ではないか。915ですでに答えているように、 「脱ー中心化(脱ー領土化)」のすい点が、バラバラに共ー可能的にある、という風に 見るのでないと、かえって差異や脱領土化を目的化した二元論になってしまい、 また「全体性」を統一の文脈でしか捉えていないことになるのではないか。 >互いに無視するネットワーク社会によって、夫々の個々人の世界は 開かれるが、共存する為には何かが必要である。もっとも、ネットワークとは言っても そこには、大国・ルールによる領土化が見え隠れする。 もちろん、こういう疑念や問いかけはたえず行っていく必要はあると思う。結局の ところ、ネットワーク化する社会についての悲観論と、肯定論の両方がありうるのであり、 肯定論的な考え方も出てきているということだ。そして悲観論の文脈だと、個の特異性 や他者性といったものも、たとえばマルチチュードのような集団性、組合主義のような ものに帰属する形でとらえられがちだ。ドゥルーズを政治運動の文脈で読み込むとそうなるが、 そこに拘束を感じるということもある。 全体性を打破するものをもとめるあまり、「全体性=統一性」というものにふたたび 飲み込まれていってしまう例だと思う。
933 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 14:11:07
>>931 「スピノザとライプニッツの共生」という線で、ドゥルーズを継承・発展させるのが
これから先もっとも面白いのではないかと私も思います。
ネグリ的な方向でドゥルーズを読んで行く読み方ももちろんあるけれども、その場合、
たとえば「インターネットもグローバル化も嫌悪するが、しかしインターナショナルな
マルチチュードの連帯は肯定する」とような主張をする人たちに、ある種の世代的な
(はっきりいうと団塊世代的な)バイアスがかかっていることも認めておく必要がある
と思う。
自分たちだって、先行世代からすればいやというほどグローバル化していたこの世代の
人たちの感覚に、若い人があまり過剰適応すると、かえって可能性を潰すような気がする。
スピノザとライプニッツを共生させるという場合に、スピノザの二元性よりも、
ライプニッツの多元性にシフトするとしても、ただライプニッツにはスピノザに
及ばないところがまだいくつかある。それは、集団的想像力論、情念論と結びついた
政治論であり、ここを情報理論などから再び脚光を浴びつつあるライプニッツ的多元主義に
いかに組み合わせていくか、ということが重要になってくる。
934 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 14:43:38
「静まることのない群衆〔=La multitude、多くの者たち、民衆の意味もあり〕、 それが私なのだ。彼らは気前よく消費し、粗暴で、盲目的なのだ。 彼らは、笑いであり、嗚咽であり、何ものも持たず、ただ期待し、何かを抑えるということをがない。」 (ジョルジュ・バタイユ 『非‐知』) 想像力の政治的重要性に関していえば 政治の「宗教性」(キルケゴール、バタイユ)やその「妄想的」(クロソウスキー)側面に 光を当てたのはドゥルーズが最初ではない ドゥルーズは想像力及び政治に対するそうしたラディカルな路線を さらにラディカルに押し進めたと考える つまり、「ノマディズム」、「戦争機械」、「リゾーム」など 西洋の政治思想、共同体の一般的な考えからは逸脱してはいるものの ドゥルーズの思索はある種の伝統(それとも夢だろうか)を引き継ぎ それを押し進めたものではないか また、「La multitude」を組合主義として解してしまうことは その有効性を、脱中心性を、革新的な部分を、取り逃がしてしまうことになる 言うまでもなく、「La multitude」は全体性に回帰するような そんな人間の集合を言うのではないのだから 現代的ライプニッツ主義から批判を行なうのはよいが 「レアル‐ポッシブル」で切りとれるほど 想像力(そして妄想的行動)や「La multitude」は単純なものではない
935 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:00:15
>>934 そこでヴァーチャル(ヴィルチュアリテ)という論点に戻るわけですよw。
想像力についての議論はヴァーチャルの問題とともにこそ考えるべきなのであり、
ヴィルチュアリテは「全体性を突き崩す」潜勢力、という意味だけを持っている
わけではない。
La multitudeを脱−中心性ととらえるのはいいんだけど、それが素朴な永久革命論
に回収されてしまうことが問題だといいたいわけ。反ー全体性、というかたちで
逆に全体性をつねに希求しているような論理構成になってしまう。
全体性をユニファイのプロセスのなかで見ているからそういう風になる。
936 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:19:47
長い間、返答せず、また、即座の回答感謝します。 なるほどですね。それで、全体を突き崩す行為と、多様な存在の肯定。 存在と言うと問題でしょうね。多様な分裂化と言いましょうか、それと、 ある程度の規制・管理が同時並存する社会が理想だとするならば どのように実現するかが重要な問題となるでしょう。 その辺について、どのように考えていますか。 実際、この辺の問題については、確か貴方も、無限の問題で考えてましたね。 つまり、無限が対象可能かどうかと言う問題ですが、可能と捉えるならば 多様なネット社会でも全体は自動的に決まると考えられます。 一方無限は捉えられないものと考えるならば、それは、常に不可能であり 差異化するしかない。つまり、常に非決定としての要因が加わる事で 不安定さ=論理的掌握 の不可能性が現れます。
937 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:31:27
つまり、差異化は無限掌握の不可能性に起因し、全体像の掌握(固定)可能性は 実無限として考えられる。後者は主体を再度可能にするものですね。 この辺の捉え方は、ジジェクに見られる気がします。再度、「我」を肯定する と言う事で、「非決定なもの」を葬ろうとしています。 ポスト・構造主義の分けのわからない混乱を抜け出ようとしているのでしょう。 しかし。「私」とは名付けられたものでしょうか?それとも、私と言う行為主体 でしょうか。このような問いかけに対して、ネット多様社会はどう答えるのでしょう。
938 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:38:35
>>935 バタイユやドゥルーズ(同時にネグリら)の理論を永久革命論だいうことはできるが
同時にそれはヘラクレイトス的な世界観だと言ってもいいわけだ
素朴な永久革命論に回収されることが問題だという前に
どこのだれの永久革命論がどのような問題を抱えているのか
それをまずはっきりすべきだ
それに、彼らの理論は反−全体性という形ではなく
それは非−全体性という形を取る
なぜなら、ニーチェのあとに続いた彼らにとって
「反」を付加するべき「全体」はもはや有効ではなかったから
しかし、彼らの理論が表面上
全体性を希求しているような論理構成であることは確かだ
なぜなら、彼らの依拠している欲望の理論(ヘーゲルからフロイトまで)には
全体性・万能への志向があるからだ
けれども、全体性への志向があるからといって
それを一様に単一のプロセスの産物と解するのは浅はかだ
939 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:43:22
おそらく、多くのポスト・構造主義者は名付けられた者として「私」を定義しています。 この名付けられた者は、構造の中に捉えられている。この点から、「私」からの逃走 として脱構築が始まったのです。よって、やはり、逃走としての多様性=差異化が 重要であったと言う気がします。 同時に、PCネットワーク時代・消費社会(ボードリヤール)が始まり 脱構築が現実化する気がしますが、何か不思議なのは、哲学と現実とが 全く並行的に実現していく。これは、偶然なのかそれとも、哲学が現実を 先取りしたのか?或は、両面が夫々影響しあって、現実を開いていったのか どうなのでしょう?
940 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:58:05
要するに、前世紀の構造主義、ポスト構造主義の運動は、抑圧された「私」 作られ返答させられた「私」からの逃走だったのですよ。だから、差異化する 「私」と呼べないものに「なる事」だった。それは創造・変身する内在性 として、スピノザへのアクセス(熟読ではなく)が必要だった。 一方、こう言う事を続けるには、多様なる外的なアクセスが必要であった。 それが、ネット社会である。しかし、ネットサーフィンするならば、 「それをする人」主体が必要となる。それが、主体の復活となる。
941 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 15:59:52
オタクは密室にこもる内在性であり、その密室でアクセスするのは モナド的関係性の多様性なのです。
942 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 16:08:10
938 そうですね。反全体ではなく、非全体と言うほうがすっきりしますね。 あくまで、回収されない事。それこそが「生」でしょうね。 ネットワーク社会では、この生の肯定が重要です。いかなる去勢も 否定されなけばなりません。いかなるルールも、法も暴力です。 そこで、このように考える時、どのような状況が状態が求められるのか。 他者をある名(名詞)で呼べるのか。社会機械は全てを飲み込みつつ 拡大する。ここから如何に逃れうるのか。問題だ。
943 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 16:11:06
他者を名付けて呼ぶ行為は暴力ではないのか。 この辺はデリダの問題領域でしょうね。
944 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 16:21:32
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
945 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 16:22:11
ヘラクレイトスの万物は流転すると言う、永久革命とは永久に差異化する ものと、外的に多様にアクセスするものの表現でもあるかもしれない。 それは、弁証法の過程を絶対知に到達できない行程として捉える 「否定弁証法」だ。このように、同一化・完結しない「私」、と言う 持続する弁証法こそ、ポスト・構造主義的差異化なのでしょう。
946 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 21:00:48
なんだか紛らわしいのでHN戻したり。(ちなみに932、933、935です)
>>945 >弁証法の過程を絶対知に到達できない行程として捉える「否定弁証法」というのが
ポスト構造だというのは、当たっていますね。ようするにヘーゲルのいう「特殊」の
ヴィルクリッヒカイトでとどまっているかたちの弁証法です。ジジェクの場合、こうした
留保もつけないでヘーゲルを肯定しています。
しかしこういうのは、不可逆の公理系を前提にしないと考えられない議論ですよね。
そこで939への返答となりますが、こういう不可逆過程への注目が技術的に現れてきたのは
熱機関とカルノーサイクルの時代であって、社会科学ともそれはシンクロしていた。
情報理論と現代の社会の分析が再びシンクロしているのも、同じような現象でしょう。
というか、不可逆の公理系を思い描くことで、社会分析をもやろうとしていた時代が、
近代のひずみを端的に表していたのであって、別種の自然観とか、自由についての考え方
とか、芸術についての考え方とかが生み出されなければならない。
たぶんこのスレには、ジジェク派的なヘーゲルのシンパと、ドゥルーズ派的なスピノザ
のシンパと、セールorレヴィ派的なライプニッツのシンパがいるのだと思います。(誤解
ならすみません)
それで想像力とか、情報とか、全体性とか、ネットワーク社会とかが、共通のテーマに
なっている。用語が近づいているので、多少互いに同じ言葉で思い描いていることが違うのだと思う。
しかし「ドゥルーズをいかに発展させるか?」ということを考えるなら、このあたりが
要注意なのだと思う。
947 :
862 :2006/04/16(日) 21:01:50
失礼。まだ戻ってなかった。
948 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 21:38:04
946さんへ 確かに時代の変遷は不思議ですね。同じような事だ色んな面で同時並行的に 発生する。これは、いわゆる、思考のパターン化が同時に発生する事によるのでしょう。 フーコーのエピステーメーなどがそれでしょう。 ところで、「想像力」と言うタームと情報化時代はどのような関係になっているのでしょう。
949 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 21:44:00
帝国からいかにマルチチュードは逃れえるのかと言うのが重要じゃないの? 帝国は多国籍化しつつ、脱中心化を進めている事で、逆に、マルチチュードの運動である 脱構造と一致している気がする。と言う意味では当面は帝国の運動に乗っかるんじゃないの?
950 :
考える名無しさん :2006/04/16(日) 21:51:26
ネグリは当面帝国の多国籍化による脱中心を肯定している。 今はマルチチュードが動くときではなく、帝国の動きを黙認しておく時 と思っているのではないかのw?反発することで、逆に領土化されてしまう と言う事だろう?
951 :
862 :2006/04/16(日) 22:07:24
>>948 そこらあたりを「ヴァーチャル」ということから再考していったらどうか
と思っているのですが、私もまだまとまりきらないですね。
しかし「物語」というリクール的なテーマから読んでいけば、かなり具体化
すると思うのです。想像的なもののアクチュアル化について考察するわけです。。
「物語」同様、想像的なものも、ただ相対化されたり批判されたり(ある種の
シュミラクル批判としての消費社会論のように)すればいいというものではない。
それ自身が、脱−中心化の指針としての役割を持たねばならないと思っています。
しかし、それをジジェクのように疎外論的にではなく、分析したいわけです。
>>950 ネグリにたいしてもそうですが、私がむかしから浅田彰的ドゥルージアンに少し抵抗が
あるのは、あとえばマルクスをかたりながらバブル経済の時代に、高度資本主義を
肯定するとか、ああいったところですね。批判しているものとともすればそっくりに
なってしまうのです。これは、上野修さんがいうように、スピノザがホッブスを結果的に
追認してしまう側面を持っているのにも似ています。
もうすこし違った文脈亜から、自由とか、解放とか、ヴィルチュアリテを考えなければ
ならないと思う。
952 :
考える名無しさん :2006/04/18(火) 00:22:40
うーんなんかつまんないね ペンローズとドゥルーズを一緒に読んでるような人に大法螺かましてほしいな
だな。もうちょっと電波度上げてもらわないと。
954 :
考える名無しさん :2006/04/18(火) 21:32:01
電波というか違うアプローチが欲しいというか それか具体的にテクストを読むか。大雑把なありきたりな話ばっかじゃない?
955 :
考える名無しさん :2006/04/18(火) 22:11:54
2ちゃんねるで具体的にテキストなんか読むわけないよね。何言ってんだか。 からんでくるんなら自分の意見なり立場なりをはっきりさせてからにしてもらおうか。
956 :
考える名無しさん :2006/04/18(火) 22:17:40
違うアプローチが欲しければ自分が書けばいいだろうが。
ドゥルーズ的にファニーはいい女だったんだろうか?
958 :
考える名無しさん :2006/04/22(土) 08:31:00
機械とスピノザの神がごっちゃになる今日この頃。
959 :
考える名無しさん :2006/05/10(水) 00:53:22
ドゥルーズとネグリの違いは、ライプニッツへの評価じゃないか?
960 :
考える名無しさん :2006/05/28(日) 23:01:19
というか全然違う
961 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:39:18
まだあった。このスレッド。ぼちぼち閉めにしますか。 ドゥルーズの時代も終わりでしょうか。PCネット時代は 超越論的経験論を肯定しているのか。内在性として、単独性として 他者性を肯定できたのか?それでも世界としての全体性は否定されても 良いか?
962 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:41:25
PCネットワークは出来事としてのアクセスを齎したか。 だからと言って、最低限の共通性としてルールを否定できるだろうか?
963 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:45:02
全体性は有限である。一方有限は無限と言うカオスをその外に隠し持っている。 この無限を飼いならすか、無視するか、否定しなければ、確定は無限応対する。 この事を指摘したのが、「ポスト・構造主義」であったのだ。 だとすれば、この全体・と無限(部分)をどの様に超えると言えるのか? この事が判明しない限り、我々はポスト・構造主義を超えた事にはならない。
964 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:48:04
あるいは、全体と無限と言う概念を忘却する(脱構築)する事によって 経験論に身をゆだねる事だろうか。全ての確実性を一回きりの、事件と 何物にも回収されない出来事として、見出すべきなのだろうか?
M君いる? いるんでしょ? 半年前に課したDVD返してください。 連絡先も教えてください。
966 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:50:22
963の確定は「無限応対」は「無限後退」に訂正する。
967 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:52:55
いや、おそらく、ここにいる諸君では私のレスが分からないだろう。 ほんの一部の人間を除いて。中沢新一氏に傾注する「彼」と「パレルゴン」 だけだ。
968 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 22:53:48
965君。Mってだれだす?
>>968 某旧帝博士課程に言った後、音信不通になった僕の知人です。
今では入手不可能なDVDを貸したんですが返してくれません。
2ちゃんねらーでドゥルーズ研究者だったので見てるかも(>_<)
970 :
考える名無しさん :2006/06/24(土) 23:01:35
ドゥルーズはポスト構造主義を先鋭化し、自分=主体を徹底的に批判・喪失 した事で、主体性の欺瞞を暴いた。その結果私がどうにも成らない自己分裂 の隘路に落ちたのだ。 このことで、哲学的な歩みはその歩を止めざるを得なくなった。 これが、ポスト・構造主義の結果なのだ。
971 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 09:53:06
つまり、世界を分析し、認識し・確定するには、前提として、この認識する「私」 が確立されねばならず、ポスト・構造主義が言う様に、この「私」が確立できない のならば、世界はどのようであるか語れないからだ。 また、この語る行為が暴力であったり、個々人の認識が世界の思考パターンに左右 されているのであるのならば、それは、つまり、語ることの使命は終わった事に なるからだ。と言う事で、ポスト構造主義の哲学は終焉する。
972 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 09:59:54
この、壮大な主体の謎解きの旅は、全体性の否定と言うポスト・構造主義の 残滓引き継ぎつつ、新たな思想の運動に引き継がれ、発展していく事であろ う。ただし、「主体」の復活として、局所の存在としての「個」の 政治的な眼差しの中で全体化を拒否する闘争として、引き継がれる事になる。
973 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 10:05:02
ネットワーカーが齎している事は、全体化の否定ではあるが、それはあくまで 「逃走」であり「闘争」ではありえない。つまり、内在性を否定し、関係性にのみ 注意を払う哲学であるのではないだろうか。つまり、スピノザからライプニッツへの 移行を強調する背景がこれである。どうだろう?
974 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 21:35:36
>>963 デリダ的な意味でのポスト構造主義は、全体性にたいしての単なる留保にすぎなかった。
そしてその留保のうちに多様性を見いだしていたし、無限性の問題もそれに近づけて考えていた。
しかし多様性が見いだされるということはもっと積極的な意味を持っているのでなければ
ならない。全体性を留保するということに対して、「潜在性」という言葉を持ってきたドゥルーズは
その意味ではいいところに球をアシストしてくれている気がする。
ドゥルーズの潜在性、ヴィルチュアリテの概念を、アガンベンのように「実現するかもしれないし、
しないかもしれないもの」という二重の性質(まさにホモ・サケルの生のありかたのような)において
のみとらえると、それはデリダ的な、いかにもポスト構造的なドゥルーズ読みになるだろう。
975 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 21:58:10
実際には、ドゥルーズのヴィルチュアリテの思想は、別の分岐点を模索して 多元的に浮上する方法を模索するものであった。それはポッシブルなものが 選択されてレアルになる、というだけのものではなく、またレアルなものに レアルなものを接木していく(あるいはレアルなものを更新して行く)ものでもない。 ヴィルチュアリテがアクチュアル化の「すい点」を多様に形成しつつ、ネットワーク 的に連接しながら作り出される世界を思い描くとき、そこには「接木」の発想はない。 もちろんそれによって全体性が作り出されるという発想もない。それは基本的に水平な 世界である。 一方で社会的次元、テクネーの次元での人間は、多くの場合垂直的な「接木」の 世界観に否応なしにからめとられている。ヴィルチュエルなものが、ポッシブルなもので しかない世界、二元論的な世界に生きている。 個的次元に元来属している水平性を、この垂直な社会的次元にどうかみ合わせていくか。 それが重要なのだと思う。
976 :
考える名無しさん :2006/06/25(日) 22:09:37
ドゥルーズが「人間から狼への生成変化」について語っていたあたりなど、 その意味では面白かった。レヴィ=ストロースより彼が個の次元に踏み込んだのは ここにおいてだった。 しかしそれはむしろ、「生成変化」というより、ある意味では間接的に、自然と 水平的にあるものとしての個の次元、相互性と混交の次元だった。 (セールならここで、「スフィンクス」とそれが置かれた「場所」について語ったろう) 主体の謎解きの旅、というのは文字どおりここにあるだろう。あるいはここを、 ランドネ(周遊)するものであるだろう。
978 :
考える名無しさん :2006/06/27(火) 11:42:42
979 :
考える名無しさん :2006/07/02(日) 19:03:45
ドゥルーズって結局「諸行無常」って言ってるだけでしょ
980 :
考える名無しさん :2006/07/03(月) 00:23:34
ちがうよ。ミミズのような両性具有人になるためのでっち上げ哲学だったんだよ。書いたのはアリエル・ドンバールだよ。
江川隆男の「存在と差異」ってどう? なんかいかにもドゥルージア〜ンな文章って聞いたけど。
982 :
考える名無しさん :2006/07/03(月) 01:15:16
日本にはドルーズを真剣に読んでいる人はいないんですか
院生ドゥルージアンの文章って何であんなに痛いんだろう。 浅田彰や今活躍してる奴らまだ全然まし。 院生ドゥルージアンの文章はドゥルージアンにしか理解不能。。