1 :
考える名無しさん :
04/11/17 19:27:47 抽象的すぎてよくわかんない形而上学をマターリ語りましょう。
形而上学は「けいじじょうがく」って読みます。
形而上学は英語で「Metaphysics」って言います。
抽象的なのとただの妄想をごっちゃにしてはいけません。
思いつきだけでスレたてるなっつったろ?
7 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/11/17 20:15:01
「形而上学」はアリストテレスから始まりますが 中世ではスコラ的神学、近世では存在論と結び付けられてきました カントは、大陸合理論とイギリス経験論を折衷する形でドイツ観念論の流れを生みますが、 そこでは伝統的な哲学の形而上学という概念を批判し、その限界を定め再構築を試みます それで自分の形而上学の暫定的な定義は「経験を超える存在・認識の学」というものです
8 :
考える名無しさん :04/11/17 20:17:15
|____ \□ □ / / _____ / / |_____| / / / /  ̄ (⌒ ⌒ヽ ∧_∧ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ ( ; ) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ ) ( ̄ ̄ ̄ ̄┴- (´ ) ::: ) | ( *≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; ) / / ∧ \ (⌒:: :: ::⌒ ) / / / U\ \ ( ゝ ヾ 丶 ソ / / ( ̄) | |\ ( ̄) ヽ ヾ ノノ ノ / ( ノ ( | | \ ノ ( ⊂- ┘( ) └--┘ ( ) UUUU UUUU
9 :
考える名無しさん :04/11/17 20:17:42
形而下学を省略して「科学」というようになった。 形而上学は科学より上です。
10 :
考える名無しさん :04/11/17 20:19:41
クサイ
12 :
考える名無しさん :04/11/17 20:22:25
_, ._ ( ゚ Д゚)臭い
ψ
∠ ̄\ / ン〜'ヽ ( (´・ω・`) / _| _) ノ _∪__∪ ∧ ∧ ~(_)_) ⊂⌒ ( +ω+)つ
超自然現象の真理を体系的に捉える学問
17 :
考える名無しさん :04/11/18 18:01:43
超自然現象が超常現象のことなら、超常現象を対象と する学問はカルトであって形而上学ではない。 自然学に対する自然哲学がもともとの形而上学である。
18 :
考える名無しさん :04/11/18 18:05:19
「現象」ってつけなければ合ってると思われ。
19 :
考える名無しさん :04/11/18 18:05:57
超自然的存在ってこと?
20 :
考える名無しさん :04/11/18 20:27:14
「超自然」がチョー不自然に聞える。 自然って越えられるものでしょうか? 人間の思い上がりもいいかげんにしたら。 もっとも人間も身体は自然に属するのであって 超自然なるものではない。
21 :
考える名無しさん :04/11/18 20:42:46
_ ∩_∩ /|☆\ニ\( ・д・)_,l\ ミヽ 〔|∈∋、 ̄☆∪ ̄ ̄  ̄||l>  ̄`=c、ーニ´〓 ∋ー─ゞ 彡 ⊂二] i ii ⊂二] ⊂二] ⊂二] ⊂二] ⊂二] パラ ⊂二] ⊂二]
22 :
考える名無しさん :04/11/18 20:43:42
゚ヾ ⌒)⌒`;;` ,。 *゙(´⌒;;ノ⌒)`);ゝ;;⌒)ノ`, ,;´⌒:;i⌒`;,∴ヾ;;゙ノ;⌒`))、 `:ミ(´⌒ノ;;ヾ∵゙ミ⌒)⌒`";゙;;,、,,;.、 ,'"(´(⌒;人;゙ノ从;⌒`;;ノ⌒)`;、ζ⊇゚) ,(´⌒;;ヾ;从;;人;:ノ;ノ⌒`,。` `゙゙゙゙゙ (;´;:・`ヾ∴从;;ノ;;⌒`));、;ノ;;⌒゙〜') ":゙゙`';;゙ミ"`゙~゙;゙∵^~`;" ;`" ゙;',;,;;,
23 :
考える名無しさん :04/11/18 21:57:07
>>20 哲学の世界じゃ「超自然」なんてごく当たり前に取り扱われると思うが・・・
物の本質を追いかけると、感性を超えた世界にたどり着く
25 :
考える名無しさん :04/11/19 03:12:31
26 :
考える名無しさん :04/11/19 07:40:51
はぐれ刑事上学派
28 :
考える名無しさん :04/11/19 11:16:16
また糞スレか。
6年前に読んだアリストテレスの『形而上学』 今ならやっと1%ぐらいは理解できる気がする ま、「物」と「名前」は使い分けろってことだよね?
30 :
考える名無しさん :04/11/29 14:37:39
あたしにはよくわからないんですけどなんか面白そうですね
31 :
考える名無しさん :04/12/11 18:06:10
そうよ、刑事ジョーだぜ、面白くなっくてどうんすんのよ。
32 :
考える名無しさん :05/01/23 09:54:53
http://thinker.jp/tls/works.htm http://www.i-nexus.org/gazette/law/tls010.html 元阪大助手の小林和之は、自分のホームページ上で 、
「どうして日本の法哲学界はこんなにも知的に貧困なんだろう。論文を読んで、 "他人の書いたものの切り貼りがほとんどで、
まるでいやいや書かされた小学生の夏休み感想文のようだ"と思うことは珍しくない。」
「挑発の意味もこめて「業界トップ宣言」をしてみようかとも思ったけれど、なんだかハズカシイからとりあえずはやめておこう。
だって、(日本の)法哲学界の第一人者、なんて、「三丁目でイチバンかけっこが速い」とか言っているようなものだからね。」 的なことを書いています。
他にも、
日本法哲学会は知的に貧困である。
日本法哲学会には一流の研究者が一人も居ない。
日本には、法哲学会界の進歩に貢献したと言える者が一人も居ない。そもそも法哲学界において日本人研究者は全く存在感がない。
貢献どころか島国を一歩出れば、個人的な知り合い以外に名前を知られている者すら一人も居ないのではないだろうか。
さらに、
書いてる論文については、周知のとおり、
外国の研究者の引き写し
外国と日本の状況の違いを考える事なく無批判に引き写す
「発展途上国型輸入学問」
「他人の書いたものの単なる感想文は哲学ではない。」と言っております。
副島隆彦と言ってる事が同じだね。副島よりも説得力はありそうだ。
33 :
考える名無しさん :05/01/23 10:03:20
宮台は、「メタ万物学」なんて言い方をするね。
34 :
考える名無しさん :05/02/06 23:59:04
しきりなおすぞ。 形而上学=超越論的哲学についてあつく語ってくれ。
35 :
考える名無しさん :05/02/07 00:05:26
おれを一人にしないでくれ。 さっきから風呂が沸いているのにここにいるのだから。
形而上学なんて、言葉だけ知ってるだけで、中身さっぱりわからん。 だれか基礎だけでいいから教えてくれ。
physicsの背後にある原理を探る学、じゃダメかな?
形而上学ニアイコール存在論
39 :
考える名無しさん :05/02/07 02:24:38
科学とは何かを科学する学問
40 :
考える名無しさん :05/02/07 02:27:47
形而上学ってようは二元論討議でそ?
第一原因を探るんじゃないの
42 :
考える名無しさん :05/02/07 05:31:51
43 :
考える名無しさん :05/02/07 05:42:05
形而上学ってなんなのかエロイ人分かりやすく教えてくれよ
形而上学の定義なんて語ったところで、それ意味があるのかな、と思うわけだな。 素直にエイドスとか本質とかプシュケーとか語ったらどうだろう。
本質とは原理的あるいは構造的なものを指すで合ってるか? 規定的であり、存在論的なものが本質かな?
46 :
考える名無しさん :05/02/07 09:52:46
なんだよ だれも形而上学がなんなのか分かりやすく説明できないのかよ 形而上学って言葉だけ知ってて自分のものにしてないのかよ なんだよこのスレは
47 :
考える名無しさん :05/02/07 11:04:47
「続・自然学」っていう意味だよ。
48 :
考える名無しさん :05/02/07 11:15:14
49 :
考える名無しさん :05/02/07 11:34:24
>>48 ttp://tech.millto.net/~ksm/index34.html >アリストテレスは、自然学、形而上学、実践哲学、論理学などの著作を残したが、
>これらは死後に弟子達が編纂して名称を与えたものである。その際に、
>存在の原理について書かれた論が自然学の後ろに配置され、
>よって後ろを意味するメタという語が自然学という言葉にかぶさり、
>メタフィジークと呼ばれるようになった。
>だから、形而上学は正確にはタ・メタ・タ・フィジカと呼ばれ、
>その意味は「自然学諸巻の後の諸巻」ということになる。
>こうして、物理という自然的なものの背後にあるもの(原理)を探ることが
>存在論ということになった。そして、この言葉を日本では、形而上学と翻訳されている。
50 :
考える名無しさん :05/02/07 11:47:08
>>49 自分の言葉でわかりやすく話してほしいんだけど・・
51 :
考える名無しさん :05/02/07 12:20:11
だから、簡単に言えば「続・自然学」だってば。w
52 :
考える名無しさん :05/02/07 12:30:04
>>50 >>49 の説明でも分からなかったら、お前に理解するのは無理。
諦めろ。
53 :
考える名無しさん :05/02/07 12:31:57
>>52 てか読んでないんですよ
このスレにいる人がちゃんと理解してんのかどうかが知りたかっただけ
54 :
考える名無しさん :05/02/07 12:38:50
科学哲学では、科学の基礎になっているが、それ自体は確証も反証も できないような信念の体系を「形而上学」と呼んだりすることもあるね。
世の中が物理の法則で動いているのはよくわかった だが 何故物理の法則があるのかを 考えてみよう というのが形而上学。
56 :
考える名無しさん :05/02/07 12:53:36
>>50 古代ギリシャのアリストテレスさんは自分が学校で講義した内容を文章として残していました。
後世の人はそのアリストテレスの遺稿に対し、テーマごとに分類して題名をつけました。
アリストテレスの学識は広大な領域におよんでいました。
その考察範囲は倫理学・政治学といったもののみならず、
物理学・天文学・生物学などの自然科学の領域にも及んでいました。
そのうち、物体の運動などこの世界の物理的現象を扱った講義録があり、
それに対して『自然学』(physika)という名前がつけられました。
ところで、この『自然学』(physika)と呼ばれる講義録には、続きが付属していました。
その『自然学』(physika)のあとに続く部分には、
「この世界にものが「ある」とはどういうことか?」といった「存在」の問題であるとか
「神」の問題であるとか、「「なぜ」物事が起きるのか」という因果の問題であるとか、
この現実世界のその「背後」にある原理を探るような内容が探究されていました。
後世の人はこの自然学のあとに続く部分のことを
『自然学の後に続く書』("ta meta ta physika")と呼ぶようになりました。そのまんまですね。
この"ta meta ta physika"が語源となり、
自然的なものを超え自然的なものの基礎となる問題について考察するような学のことを
"Metaphysics"と呼ぶようになりました。
(なお、日本語の「形而上学」という言葉は、明治に西洋からこの概念を導入した際に当てられた訳語で、
『易経』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”
(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)から取られているそうです。)
これでいいか?
58 :
考える名無しさん :05/02/07 13:02:13
>>55 そういう答えを待ってたんだよ
ありがとう
>>56 長いから俺なりに要約していいか?
つまり、物理の背後にある原理を探る。ってことでいい?
60 :
考える名無しさん :05/02/07 13:38:14
61 :
考える名無しさん :05/02/07 13:41:16
「背後」とかゆうからグダグダw
今一番ホットなテーマは「形而上量子力学」だね。 1997年「ボース・アインシュタイン凝縮」の成功で、 ミクロの世界を扱う学問だった量子力学が、 マクロのものとして捉えることもできるようになってしまった。 この衝撃に哲学者は黙っていられなかった。
>>63 「形而上量子力学」
誰の用語だよ。
> この衝撃に哲学者は黙っていられなかった。
黙ってなかったのは、どの哲学者なんだ?
具体的にあげてくれ。
65 :
考える名無しさん :05/02/08 01:48:18
>>64 形而上量子力学って言葉は初耳だけど
量子力学者で哲学者って人は結構いるよ。
シュレーディンガーとか、ボーアとか・・・。
66 :
考える名無しさん :05/02/08 01:56:48
プ
67 :
考える名無しさん :05/02/09 11:19:08
科学も実在を研究の対象としている以上、形而上学ではなかろうか。
実在を研究体操してる香具師は形而下学。 形而上学はそれをさらに超越する。
69 :
考える名無しさん :05/02/10 00:06:15
形而上量子力学、という言葉はやや受け入れがたいですが、 量子力学はたしかに、哲学的な論争を巻き起こしているようですね。 ミクロな物質が波の性質を持つため、物体の”広がり”とその”(我々による)観測”が問題になっています。 簡単にいうと、波の性質を持つのに、観測するときはある一点に現れることが問題になっています。 それに対して、主に2つの解釈があります。 1、観測する瞬間に波が収縮する、という”コペンハーゲン解釈”(←一般的解釈だが、光速度を越えるものを想定することになるので、最近疑われている)です。 2、波が収縮するのではなく、(それぞれ別の場所に観測するという)複数の世界が存在する、という”他世界解釈”。 ただ、コペンハーゲン解釈(実証主義)にしろ、他世界解釈(実在主義)にしろ、 マクロな物資に関しては問題とならない、という点では一致しているはずです。 (マクロな物質では波の局在性が保たれる=波は広がりをほとんどもたないため) 参考文献「和田純夫 教養としての物理学入門 岩波書店」 ←大学の授業でつかいました。文系用につくられており、なかなか奥が深いです。 和田さん本人は多世界解釈に強くコミットしています。
70 :
考える名無しさん :05/02/10 00:51:46
あと、コンピュータも哲学でよくテーマにされるよね。
脳やコンピュータは分野を超えたトピックだな
72 :
考える名無しさん :05/02/10 01:07:14
形而上学って自然科学を哲学する学問なの?
74 :
考える名無しさん :05/02/11 01:00:50
スレタイには「カント」「アリストテレス」って書いてあるんだから、 せめてどちらかの文脈で形而上学を語ってくらはい
75 :
考える名無しさん :05/02/11 01:09:28
とりあえずエネルゲイアについて語ってくれ
76 :
考える名無しさん :05/02/11 01:19:30
エンテレケイアについてもおながいします
形而上学の復権をもっとも壮大なスケールでおこなったのは、ドイツの哲学者ハイデッガーである。 彼の主著「存在と時間」(1927)は、プラトン、アリストテレス以来の存在一般の意味の究明を現代において反復しようとする企てである。 それによれば、存在の意味の究明は、人間存在を手掛かりにするほかはない。 というのも、人間だけが自分の存在をつねに気にかけている存在者であり、したがって、なんらかの意味で「存在」ということを了解している唯一の存在者だからである。 ハイデッガーは、この人間の存在了解をなりたたせているのが時間性であることを発見し、この時間性の視点から新たな存在論を構築しようとした。 Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved.
とりあえずややこしくなるからハイデッガーは置いておいていいよ
79 :
考える名無しさん :05/02/11 10:49:41
二十世紀の真の形而上学者はホワイトヘッドだと思う。 ハイデガーと異なりちゃんとメタ自然学だし。
80 :
考える名無しさん :05/02/11 11:06:37
こうして嘘をつくという私の格律を普遍的法則に仕立てるや否や、この格率は自滅せざるを得ないだろう。 (道徳形而上学原論 篠田秀雄訳 岩波文庫 P45 1-2行目) これに関連して、 「格律を自滅させたくないならば、定言命法に従え」というのは、 仮言命法なのでは?と思うのですが。みなさんはどう思いますか?
81 :
考える名無しさん :05/02/11 11:12:09
「それが好ましい結果をもたらすと判断されるときには、嘘をつけ」 これを普遍的法則に仕立てれば問題ないような。 ところでこれは形而上学なのか。
82 :
Joy :05/02/11 11:18:09
「格律を自滅させたくなくても、定言命法に従う必要はない」ということでしょ。
84 :
Joy :05/02/11 12:01:28
>>80 >「格律を自滅させたくないならば、定言命法に従え」というのは、
ちょっとおかしいよ
「嘘をつけ」は定言命法だよ、だけど自滅するんだ
そこでの批判は
「なぜ自滅する定言命法を格率としてはいけないのか、カントはそれに答えてない」ということでは?
「なぜ格率を普遍的法則に仕立てなければならないのか」 「なぜ自滅する格率に従ってはいけないのか」 「なぜ定言命法に従わなければいけないのか」 とりあえずカントに聞きたいのはこの三点ですな。 ところでカントの倫理学というのは「形而上学」なんでしょうか。
86 :
Joy :05/02/11 12:44:30
>>85 本を引用しない勝手な意見でよろしければ
1番目
「もし客観的格率が存在するならばそれは自然法則のように普遍的法則のように成立する」
とか、なかった?
2番目
「自然は存在することが同時に目的を満たす」とかなかった?
3番目
カントはどこでそんなこと言った?
さっぱりわかんねーや。
>>86 すいませんカントなんか読んだこともありません。
解説書等を読んで「何でこんなおかしなことを言う爺さんがありがたがられて
いるのだろう?」と疑問だっただけで。
カントってひたすら「仮言命法はダメだ定言命法に従え!」って
言ってるんだと思ってたんですが、違うんですか。
1番目と2番目はさっぱり意味不明です。
89 :
Joy :05/02/11 13:15:42
>>88 >カントってひたすら「仮言命法はダメだ定言命法に従え!」って
>言ってるんだと思ってたんですが、違うんですか。
「もし客観的な道徳規律が存在するならば、それはどのようなものになるか」
これが『道徳形而上学原論』で書かれた内容
形而上学なんて意味不明でわけわからないもの
興味ある人だけやればいいさ
90 :
Joy :05/02/11 13:22:31
カントは原論の序文で 「善と呼べる行為は善意思だけである」と書いてなかったか?
91 :
考える名無しさん :05/02/11 18:17:00
92 :
Taku(80) :05/02/11 22:13:16
>Joyさん 問題提起に真剣に取り組んでいただいて感謝しています。 今回の問題提起の本質は、 カントが”仮言明法/定言命法という形式を普遍法則であるかどうかの判断基準に取り入れてしまったこと” に問題があるのではないか、ということです。 道徳法則が必ずしも定言命法の形式を取る必要はないのではないか、すなわち 定言命法と仮言命法は”実践上”それほど明確に区別されうるのか。 というのも、どうして定言命法が定言命法たりえるのか説明しようとすると、どうしても仮言的な要素がでてきてしまうからです。 ex)嘘をついちゃいけないってのが定言明法なのはね、もし〜だったら・・・だからだよ。
93 :
Taku(80) :05/02/11 22:16:08
ちなみに>86-1について 同書P86 10行目 君の行為の格率が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ。 との記述があります。
94 :
Joy :05/02/11 22:51:04
「道徳形而上学原論」は持ってるけど行方不明 引用はちょい待って とりあえず軽く返答 >道徳法則が必ずしも定言命法の形式を取る必要はないのではないか、すなわち >定言命法と仮言命法は”実践上”それほど明確に区別されうるのか。 実践上は明確にできないのでは カントの道徳論は実践を考えると無意味かと >というのも、どうして定言命法が定言命法たりえるのか説明しようとすると、どうしても仮言的な要素がでてきてしまうからです ちょっと分かんないです、定言命法は定言命法かと 仮言的な物言いが道徳規律としては不適、ということでは? 「嘘をつけ」は仮言命法ではなく定言命法だと思うのですが それは「いついかなる時でもそうせよ」と命令しているので・・・
>>94 こっちでも横レスだけど、Takuさんが言いたいのはこういうことでは。
カントは「定言命法で示される普遍的な規則に従え」と言っている。
でもそれは読み替えると「ある規則が普遍化可能ならばそれに従え」と言っているわけで、
これはどう見ても仮言命法になっている。
つまり、「なぜある定言命法に従わなければならないか」に対して
カントが仮言命法的に答えているのは矛盾してる、と言いたいんだと思う。
96 :
Taku(80) :05/02/11 23:21:30
>94 カントは純粋理性に対する、実践理性の優位を主張しています。 すなわちカント哲学に於いては 道徳的に行為する主体>認識する主体です。 (人間の自由が自覚されうるから) これを踏まえると、 もし、Joyさんの言うように、カントの道徳論が実践的に無意味だとすれば、 それはカント哲学の重大な欠陥ではないでしょうか? >ちょっと分かんないです、定言命法は定言命法かと >仮言的な物言いが道徳規律としては不適、ということでは? これに関してはJoyさんの指摘のとおり、意味のある文章になっていませんでした。 正確に言うと、「どうしてこの定言命法を道徳法則に選んだのか、説明しようとすると、 仮言的な要素が出てきてしまう」ということでした。すみません。
97 :
Taku(80) :05/02/11 23:24:55
>95さん その通りです。問題を発展的に再定式化してくれていて感激です。
98 :
Joy :05/02/11 23:33:06
>>96 >カントは純粋理性に対する、実践理性の優位を主張しています。
>すなわちカント哲学に於いては
>道徳的に行為する主体>認識する主体です。
ええ、カント哲学の「要請」という語は道徳的判断による行為です
>もし、Joyさんの言うように、カントの道徳論が実践的に無意味だとすれば、
>それはカント哲学の重大な欠陥ではないでしょうか?
わたしが分からないのは、
カントは、実践として、嘘をつかないことが善で嘘をつくことが悪としたでしょうか?
カントの実践に対する意見は善意思だけだったと思うのですが
序文に「善と言える行為は善意思だけである」とかありませんでしたっけ?
>カントは「定言命法で示される普遍的な規則に従え」と言っている。
これも、そう書かれてましたっけ?
とりあえず今は本を探してます
多分、『道徳形而上学原論』でしょうから、引用個所をお願いします
なんだこのスレ・・・?
カント哲学では「意思」って「行為」なの?
序言ではなく、第一章の冒頭でしたね >我々の住む世界はもとより、この世界の外でも >無制限に善と見なされうるものは、善意思のほかにはまったく考えることができない。
>>100 分からん
だが、カントによれば、
「定言命法に従え」とかじゃなくて、善意思の正体が定言命法
103 :
Taku(80) :05/02/12 00:11:10
>Joy 確かにカントは、善なるものは善意志おいて他にない。 と宣言していますね。”この世界の外でも”というのは”神さえも例外ではない”ことを暗示しているようにも思えます。 カントにおいて、善悪の区別とは、”意志”に対してのみ意味を持つものなのでしょう。 ただ、”格率にしたがって行為せよ”とは、意志は行為(≠結果)と一体であることをカント自身が認めているとして問題ないのではないでしょうか? 「従え」という言い方についてですが、正確には(おそらく最上位の)定言命法として 「君は、(君が行為に際して従うべき)君の格率が普遍的法則になることを、当の格率によって(その格率と)同時に欲しうるような格率に従ってのみ行為せよ」 (前掲書 P85)という記述があります。
>>103 >「君は、(君が行為に際して従うべき)君の格率が普遍的法則になることを、当の格率によって(その格率と)同時に欲しうるような格率に従ってのみ行為せよ」
これが善意思の正体
カントにとっての道徳は基本的にこの一文で終了
これだけは暗記したよ
105 :
考える名無しさん :05/02/12 00:33:09
>>104 自分の規律の「普遍性」(もちろんそんなものはない)
を担保するための苦肉の策だよ。
「自由意志」があるかのようなみせかけにすぎない。
106 :
考える名無しさん :05/02/12 00:35:27
もし普遍的な核率があるなら、無条件にそれにしたがうしかないはず。 それに対して個の自由意志を担保するために、「定言命法」などという。 陰湿な論理だ。
107 :
考える名無しさん :05/02/12 00:38:54
カントの道徳論は役に立たないし、あまり妥当性もない。
>>107 役に立たない、と妥当性はない、とはまるで違う論点だよ。
それぞれを分けてきちんと説明してください。
109 :
Taku(80) :05/02/12 00:41:11
>106 カントは普遍的な格率があるとはいっていないと思います。 自分の格率が普遍的であることを欲するように行為するべきだ、といっているだけです。
>>109 それがやばいんだよ。
自分の核率が普遍的であることを欲するかのように、
なんてキリスト教文化圏絶対主義を前提にしなきゃ成り立たない
理屈だろ。
111 :
考える名無しさん :05/02/12 00:44:37
>>110 >キリスト教文化圏絶対主義
カントは超越論的問いを立てているのでそういう文化的
基準を持ち込んでも無駄ですよ。
112 :
考える名無しさん :05/02/12 00:45:44
113 :
考える名無しさん :05/02/12 00:46:40
>>111 核率に関して超越論的なんて持ち出すのは却下
114 :
Taku(80) :05/02/12 00:47:58
カントは神を前提にしない哲学を打ち立てたと心得ているけど、違いますか? (”要請”はされてるけど、認識論と実践論においては少なくとも”必要”はない) もっとも、ニーチェにすればルサンチマンから生ずる点で、 キリスト教とカント哲学(というか西洋哲学全体)は同根とされていますが、 いずれにせよ、対キリスト教の視点からカントを批判するのは正しくないと思います。
115 :
考える名無しさん :05/02/12 00:48:11
核率??
116 :
考える名無しさん :05/02/12 00:48:31
117 :
考える名無しさん :05/02/12 00:49:16
118 :
考える名無しさん :05/02/12 00:50:23
>>114 カントの認識論に神は必要とは言わないが、前提はされてるでしょ。
物自体は、神の認識力をもってしてなら可能だという話だったはず
119 :
考える名無しさん :05/02/12 00:50:35
>>114 神を迂回する道徳哲学を打ち立てたんだよ。
その契機はキリスト教。
120 :
考える名無しさん :05/02/12 00:50:48
121 :
考える名無しさん :05/02/12 00:53:13
122 :
考える名無しさん :05/02/12 00:54:01
123 :
考える名無しさん :05/02/12 00:55:52
124 :
考える名無しさん :05/02/12 01:17:33
Maxime!
125 :
Taku(80) :05/02/12 01:29:26
>118 カントは神を”信じていた”だけであって、自分の哲学の前提にはしていないと思います。 ”モノ自体”っていうのは必ずしも”神”と結びつける必要はない。というか、 ”神”を持ち込まないために、”モノ自体”の認識についてはカントは議論を放棄しています。 その意味で、対キリスト教的にカントを見るのはよろしくないのでは?といったわけです。 >119 むしろ、ニーチェの指摘したように、我々が殺した”神”に代わるものとして、すなわち”死んだ神”に代わって”道徳”が必要だったのではないでしょうか。
126 :
考える名無しさん :05/02/12 01:44:56
カントの場合、宇宙人の存在を信じていたことの方が興味深い。 あの強欲が全財産かけてもいいと言い切っていたんだぜ? パスカルの賭けも真っ青だ。 神学よりそっちの方が面白い。
文化と哲学をごっちゃにしてはいけない。 しかし、たしかに文化的背景が大きく影響することもある。
128 :
二酉 :05/02/12 09:35:51
>>109 普遍的な道徳法則があるとしたら、って話はしてるよね。
実践と、法則は分けて考えたほうが良いと思う。
Joyさまが
>>94 で仰っていますが、個々のケースに際した実践について
カントは語ってないです。ちょっと「無意味」って言葉の捉え方がずれてるような。
>>110 儒教道徳も、自らの格律を普遍的たらしめよって言ってるお。礼に従うのは、その形式。
(実践的な)道徳に関しては洋の東西・文化圏は関係ないんじゃないかなと思う。
でも、道徳は社会や他人の存在を前提にしてるから、それらを拒否するしとには
無効(=普遍的法則とは言い難い)だとも思う。
でも、それは道徳法則の欠陥ではなく、意志の自律の原理の優位性を証明しただけじゃないかと。
これはカント自身も指摘してるから、カントの体系の欠陥ではなく、
「道徳」自体の限界だと思う。社会や他人など、他者性を認識して理性でもって
自己反省をした場合に導かれるものが(より洗練された)格率だと思うの。
でも、他者性を認めないしと、認めてても「あえて」無視するしとにそれを要請することは出来ないよっと。
「格率に従って行為せよ」とは言うけど、実際に行為するときには格率のことは
意識に上らないと思う。せいぜい、「善くあれ」ってくらいじゃない?
行動原理を常に頭に置いたまま、理性的に行為できるしとって尊敬に価するです。。。
亀で横なレススマソ(´Д`;)
>>128 >でも、道徳は社会や他人の存在を前提にしてるから、それらを拒否するしとには
>無効(=普遍的法則とは言い難い)だとも思う。
>でも、それは道徳法則の欠陥ではなく、意志の自律の原理の優位性を証明しただけじゃないかと。
>これはカント自身も指摘してるから
どこでカントはそれを指摘してたんでしょうか。
そんなことカントは一言も言ってないと思います。
もしよろしければ教えてくださいな。
130 :
考える名無しさん :05/02/12 12:06:43
二酉はスレストとして知られている…
道徳性の原理を見出そうとして、我々がこれまで傾けてきたいっさいの努力の跡を見ると、 かかる努力が水泡に帰せざるを得なかったことは、少しも不思議ではない。 我々は、人間が義務によって法則に結び付けられていることを知っていた、 ところが我々は、 人間が彼自身の立法ではあるが、しかし普遍的であるような立法にのみ服従するものであるということ、 また彼自身の意思ではあるが、しかし自然の目的に従って普遍的に立法する意思のままに行動するより他はないということに気づかなかったのである。 我々は、自分の意志が訳もなく法則(それがどのようなものであるにせよ)に服従しているとだけ考えていたために、 この法則はなんらかの関心を魅力あるいは強制として伴わねばないことになったのである。 しかしそのような法則は、彼自身の意思から、法則として発生したものではなくて、 彼の意思が合法則的に何か他のあるものに強要され、或る仕方で行為せざるを得なかったからである。 このような(中段のこと)、まったく必然的な推論があるので、義務の最高の根拠を見出そうとするいっさいの労力はすべて失敗に帰し、再び取り返しがつかなくなったのである。 これによって諸人が得たところのものは、義務ではなくて、ある種の関心にもとづく行為の必然性にすぎなかった。 かかる関心には、自分自身の関心もあったろうし、また他人の関心もあったであろう。 だがそうなると命法は、常に条件付きのものにならざるを得なかったし、それだからまた道徳的命令たるに耐えなかったのである。 私はこの原則を、意思の自律の原理と呼びたい、 そしてこの原理は、私が上述の理由からすべて他律の中に算え入れるようないっさいの原理と対立するのである。 『道徳形而上学原論』
もうついていけないYO 誰か要約してくれ〜
ぶっちゃけー(キムタク風に) 道徳って義務が伴うでしょ 道徳規律にわけもなく人間が従わなければならないと考えると 道徳規律は人間の関心と分離できない すると仮言的な物言いになる 「君が〜を望むなら・・・であれ」とね これは人間が従わなければならないような律を想定しているので「他律の原理」と呼ぼう だけど、人間が自分の意志で自律的に、自然的、普遍法則的に自らの行動を律する他には 従わなければならないようなものはない、ということに俺は気づいた これは「意思の自律の原理」と呼ぼう この「意思の自律の原理」は他の一切の他律と反する こんな感じ
135 :
考える名無しさん :05/02/12 13:06:55
「義務」という言葉は、自分の意志に基づくというよりは、外部からの 強制を連想させるような気がする。
>人間が自分の意志で自律的に、自然的、普遍法則的に自らの行動を律する他には >従わなければならないようなものはない 何故これには従わなければならないんだろう。
義務よ! 君の崇高にして偉大な名は、 人の心に取り入るような何か好ましいものを一つももっていないのに、服従を要求する、 さりとてまた意思を動かすために、 おのずから嫌悪の念を喚びおこしたり心を怖じさせるようなものをもって威嚇するのではなくて、 自然に人の心に入ってきて、不本意ながらも敬意(必ずしも遵奉させるまでにはいたらないにしても)を表せしめるような道徳的法則を樹立するだけである。 この法則の前では、いっさいの情意的傾向は、たとえ心ひそかに反抗するにしても、すべて沈黙する。 君を発生せしめた尊貴な起源はなんであるか、傾向との親縁関係を毅然として斥ける君の高貴な出自の根源はどこにあるのか。 人間だけが自らに与え得るところの価値を成立せしめる条件は何に由来するのか。 『実践理性批判』
>>136 君が多重人格か精神崩壊者じゃない限り
自分で義務としたことには従わないといけないだろ
>>138 しかし、「自分」と「自分がかつて義務と設定したこと」は違う。
多重人格者じゃなくても自分で決めたことに従わないことはできるのでは。
>>137 のポイントは
>不本意ながらも敬意(必ずしも遵奉させるまでにはいたらないにしても)を表せしめるような道徳的法則を樹立するだけである。
カントは道徳規律に敬意を払い、それを義務としながらも、
必ず遵奉するには至らないとしている
義務でありながら遵奉させるにいたらないものって、本当に義務なんだろうか。
>>139 そりゃもう表現をこねくりまわしてるだけだ
「自分で決めたことを守れ」なんてカントは一言も言ってないよ
つか遵奉をさせないから義務なんだけどな。
仮言的命法は、我々が行為そのものとは別に欲している何か或るもの (あるいはそれを欲することが、とにかく可能な何か或るもの)を得るための 手段としての可能的行為を実践的に必然的であるとして提示する。 また定言的命法は、行為を何かほかの目的に関係させずに、 それ自体だけで客観的-必然的であるとして提示する命法であると 言えるだろう。 (「道徳形而上学原論」 岩波文庫 P69 より)
>>80 >「格律を自滅させたくないならば、定言命法に従え」というのは、
>仮言命法なのでは?と思うのですが。みなさんはどう思いますか?
言ってしまえれば、それはいちおう仮言命法なのかもしれないが
(形式的には)、しかしそれは仮言的命法ではない。
「格率」および「自滅」という用語を見れば明らかだけど、
それは内的な要素であり、他律を要請するものではないね。
道徳的であることから、いかなる外的な要素も混入させてはならないと
カントは言っているわけだ。効率(技術)とか便利(幸福)とかそういう
要素の混入をカントは仮言的命法として否定している。
なんか微妙にスレ違いじゃないか? 確かにカントネタだが、形而上とは少し違う気がする・・・
148 :
考える名無しさん :05/02/12 15:14:32
だいたい、現実には違う生き方をする人間が多いことが分かっているときに、 <すべての人がその生き方をすれば理想的>という理由だけで、その生き方を しなければならない、というのは変じゃないか?
真理が認識の全ての内容を問題にしているならば、どのような標徴がその認識内容を 真にするのかと問う事は全く不可能である。何故なら、全てが真であるものはどこの 特徴を挙げても真であるからだ。従って、そのような要求は認識と真理の自己矛盾で ある。 全ての人間がどこを取っても理想的な生活をしているという事は不可能である。すると、 どこを取っても同様であるからだ。そうでないなら、理想が複数ある事が前提にされている のであり、それらのうちのどれが理想的であるのかという、理想の語と矛盾する事態が発生 する。我々が言及できるのは、その表面における特徴だけであり、そのような表面を考える 特性において思考するのである。それをもって、内容に関する事を含む事はできないとされる。
>>136 人間は感性界だけでなく英知界にも属すから、ではダメですか?
151 :
考える名無しさん :05/02/13 00:39:08
ぶっちゃけた話、カントの倫理学って糞の価値もないと思いますが。
ほとんど現実的な問題に関しては無内容ですね。 それに比例して普遍的ではあると思うが…
正直に言えば、カントに限らず倫理学というのは余り役に立たない。
現実的な問題には役に立たないけど哲学には重要な気がする 価値について語るにはカントの門をくぐらないと
だから、形而上学の話をしようってば
>>155 流れを見なよ。
「道徳形而上学原論」の話をしているんだよ。
ま、一人のレスから流れた話題だ もとに戻ってもいいんじゃない なぜ形而上学は現実のクソの役にも立たないか?とかどうよ 面白いんだけどなぁ
本当に現実の役に立たないか?とかどうよ? コンピュータでオントロジー工学やってます、勉強してますみたいな人がこないと無理かね。
159 :
考える名無しさん :05/02/13 01:22:52
まず第一に、形而上学的認識の源泉について言えば、この認識が経験的なものであり得ない ことは、すでに形而上学的認識という概念に明示されている。それだから、形而上学的認識の 諸原理(この認識の原則ばかりでなく、その基本的概念もまたこれに属する)は、決して経験 から得られたものであってはならない。形而上学的認識とは、自然的認識ではなくて超自然的 認識、換言すれば経験の彼方にある認識を意味するからである。それだから本来の物理学の 源泉をなすところの外的経験や、また経験的心理学の基礎をなすところの内的経験は、いず れも形而上学的認識の根底におかれてはならないだろう。すると形而上学的認識は、ア・プリ オリな認識、すなわち純粋悟性及び純粋理性に基づく認識ということになる。 (プロレゴメナ 第1節)
>>158 >オントロジー工学
これって、要するにカテゴリー表をうまく検索して推論するためのシステムなので、哲学的には大して重要じゃないよ。
言葉が存在論になってるけど、存在者の存在を問うようなものじゃない。
>>160 哲学の存在論も似たようなもんだと思うが。
162 :
駒場生 :05/02/13 01:41:21
アーレントによれば、カントは極限悪という形で、ヨーロッパの思想史にはなかった概念を提示した。それまでのヨーロッパでは、人間は(神の似姿たる)善の存在であった。よって、善の欠如・判断の誤りこそが悪に他ならなかった。 道徳の限界に関連して 駒場講義ノートより (神学者たちは、神はなぜ悪の存在を許したのか、という問に対し“神義論”を盛んに行ってきた。多くは“悪は神の善を輝かせるために存在”といった答えが出され、“善悪二元論”はむしろ異端であった。) カントは極限悪という新しい概念を持ち出したにもかかわらず、人間にはありえないものとして引っ込めてしまった。しかし、ナチの600万人にも及ぶユダヤ人殺害は、むしろ極限悪の概念をもってこそ捉えうるものなのではないだろうか? アーレントによれば、ナチによる虐殺は単なる殺人ではなく人種主義(他人種の排除)のイデオロギーの帰結を体現しようとする、恐ろしい行為である。 ナチスの「生きるに値しない生命」、スターリンの「滅ぼされるべき階級」といった思想は、通常の悪(自己愛に基づいた悪、理解・許すことのできる悪。カントのいう根本悪。)の概念では理解できない。ナチのユダヤ人殺害は、戦争への有利不利関係なしに固執され、 “ユダヤ人を殺せ”という定言命法が成立していたといえる。この犯罪は(根本悪の範囲にとどまらない故に)もはや、罰することも、許すこともできないものである。 = 極限悪の状態がありうるかもしれない。
カントは道徳に他律や経験の混入を否定している、ってことは道徳の限界状況そのものを 否定していると思うのだけど。カントの倫理はどちらかというと消極的なものだと思われるが。
164 :
考える名無しさん :05/02/13 01:48:54
ナチは、ユダヤ人をただ殺せばそれでよしとしたわけではなく、資源として有効利用しようと してたんじゃなかったっけ?
>>156 あくまで形而上学のために準備された基礎付けであって形而上学ではない。
カントにおいて批判と哲学(形而上学)が違うのと同じ。
>>162 ユダヤ人を殺せって定言命法に適ってない核率だろ。
「アーリア人の純潔のために」とかなんとか他の目的が入ってんじゃん。
明らかに他律だよ。
167 :
駒場生 :05/02/13 02:04:36
>166 自己愛に基づく(根本悪の範囲での)行為=可能な意志の主体による行為=赦すことのできる行為 といえるのか? というのが教官の主張の本質であったと思います。
168 :
考える名無しさん :05/02/13 02:07:02
「全体主義の起源」邦訳3巻のp.266-270あたりの記述を拡大解釈したんだろう。 アレントの議論と少々ずれてる気がするが。
「赦す」とか「不当」とかいうのがどうもピンとこないな カント道徳論には合わない表現だよね
170 :
駒場生 :05/02/13 02:16:02
>168 よろしければ、詳しく”ずれ”を指摘してくれると嬉しいです。
>>169 ああ、それはおれも気になった。赦せるからどうだってんだろう。
不道徳には変わりないじゃんね。
172 :
駒場生 :05/02/13 02:27:32
赦しに関連して ・1793年のカントの著作「単なる理性の限界内における宗教」において カントは“人間は生来、悪である”というテーゼを打ち立てる。 →しかし、カントは人間を善として捉えていたのでは?ゲーテの言うように、 カントはキリスト教の原罪説に服したのだろうか?以下で考えていく。 ・根本(元)悪(the radical evil)・・・人間が抱えるところの根源的な悪 この根本悪について、カントは“未開部族の野蛮性”、“文明世界の戦争の頻発”といった例を挙げる。 人間は自己愛に基づいて行動するが、道徳法則への尊敬の念が自己愛に勝ったとき、実践理性が自己愛を抑制する。 しかし、我々の行動の多くは自己愛の動機からくるものである。ex)バレなきゃいい! ・では、このような根本悪はどこから来るのか? 感性が理性に勝ったとき悪が生じる、と考えるのが一般的である。しかしカントによれば、感性自体は善でも悪でもない。 逆説的ではあるが、実践理性の中に悪の芽は存在するのである。 意図的に悪の行為をしたのでなければ帰責は不可能である。ここでいう“意図的”の背後にあるのは自由意志に他ならないから、 “善”を行うのと同様に“悪”を行うのも自由意志である。つまり、悪は実践理性の中に存在する。 以上の議論から、我々は“根絶しがたい悪=根源悪”を抱えているといえる。
173 :
駒場生 :05/02/13 02:28:44
・極限悪(the extreme evil) カントによれば、どんな悪人であっても理性的存在者である限り、悪事であることは認識している。 →反省可能であり、更生可能である。 しかし、仮に “理性が道徳法則そのものの権威を自ら否定し、道徳法則を反逆する仕方で放棄し、 道徳法則を否定したいが故に悪事を行う”といった、 “理性の腐敗”、“悪の格率”が生じたとしたら、 それは“純粋に悪しき意志”(善意思の対極)である。これが極限悪に他ならない。 ・では、人間が極限悪の体現をしうるのか? という問題について、以下でみていく。 自由意志の主体たる人間が、自由の法則(道徳法則)を否定することは、自己矛盾の状態である。 よって、極限悪の状態は人間には不可能である。カントによれば、最も悪人であっても、 上に挙げた“悪の格率”を採用することはありえないのである。 以上講義ノートより。
174 :
考える名無しさん :05/02/13 02:30:02
>>170 アレントがそこで議論してるのは、功利主義的風潮が拡大しつつある大衆社会の中での
全体主義的「最終解決」という方法のもつ意味合いについてであって、さらにその後は、
全体主義的支配体制の権力者が持つ法観念が批判されるわけだが、カントの定言命法
と類似させて批判されるような仕方ではない。
175 :
駒場生 :05/02/13 02:34:47
根本悪と極限悪の、赦しの議論が出てきました。前者は帰責可能であるがゆえに、赦すことができるが、 後者はどうか?という話だったと思います。
「赦し」は別に道徳や倫理ではないぞ。かといって宗教かというとそれも違う。 たんなる宗教用語だ。
177 :
駒場生 :05/02/13 02:40:04
>174 頭に入れておきます。ありがとうございました。
178 :
駒場生 :05/02/13 02:41:41
>176 ごめんなさい。”許し”と表現したほうがいいでしょうか。帰責可能=許しの可能性という文脈で語ったんだと思います。
驚くべきは、
>>172-173 に「赦し」という語が駒場生の言葉以外では一度も出てないということだ。
180 :
考える名無しさん :05/02/13 02:44:04
>>173 極限悪っつーのは、つまり、「これは悪いことであるが故にやってやろう」としてやる行為だろ。
どんな極悪人でも、「つい欲に目がくらんで」とか「その行為は本来的には(あるいは別の目的に
鑑みれば)良いことなんだ」とか言い訳しながらやるもんなんだろうが、極限悪とはそんな言い訳を
一切しない悪ということでしょ。
赦すも赦さないも、そのような意思で行為する者があり得るのかどうか・・・
>>180 ありえるとは思うよ
「なんで自滅する定言命法を選ばないのか」のカントの説明は「自然」で片付けられてる感じだし
そこを突くことはできるんじゃないかな
182 :
駒場生 :05/02/13 02:53:12
>179 かえって混乱させてしまい、すみません。板書がほとんどない講義なので、ノートはメモ程度にしか取れていません、、、 ”帰責可能”が”許すことが可能”と結びついていたんだと思います。
183 :
考える名無しさん :05/02/13 02:56:13
>>181 ある・ない、の水掛け論になっちまいそうだが、
「これは悪であるが故に(そしてそのためだけに)なさねばならない」という意思的行為が
可能とは思えない。
>>183 善とは普遍性を求める意思だから
悪とは個別性を求める意思
ある目的をその目的であるという理由でなさねばならないというような執着による行為
とかどうよ
形而上学に話を戻そうぜ。
まずは
>>73 のヘボイのを正すのからはじめようや。
186 :
sage :05/02/13 03:19:23
ねむいっす、、、 興味深い議論をありがとう、それでは。 by駒場生
で、どの点がヘボイ?
コテ多いなぁ・・・
刑事ジョーが来る!!
190 :
考える名無しさん :05/02/13 13:59:03
駒場生って、高橋か増田の授業ノートか?
「自滅する」って功利主義と違うのか?
192 :
考える名無しさん :05/02/13 14:13:08
カント倫理学スレになってて、キモイ。 やめてほしい。 ライプニッツの話にすりゃあいいんだよ 近世哲学で真に形而上学者なのは彼のみ。
よく知らないけど、メタフィジーク(形而上学)って アリストテレスが本を書くときにフィジーク(自然学)の前に置いたから そう呼ばれているだけで、深い意味はない、って、本当ですか?
嘘です。
195 :
考える名無しさん :05/02/13 14:46:36
それじゃ「形而上量子力学」について語ろうか?
>>63
>>126 しかも「遊星」の住人のことについて書いているわけだから、
当時知られていた水星、金星、火星、木星、土星のことである。
これらの星に住人がいないことはすでに明らか。
彗星は他の太陽系を回っている、との記述もあるね。
でも、そんな誤りは些細なこと。
宇宙人の哲学的定義は?
意味としては、地球外の生命体なんじゃないの。 で、「地球外」とはどういうことか?「生命体」はどう定義されるか? とか?語義が細かくなっていくだけで意味がないと思うけど
>しかも「遊星」の住人のことについて書いているわけだから、 >当時知られていた水星、金星、火星、木星、土星のことである。 他の太陽系の惑星を含めてじゃなくて?
いやいや、地球外生命体=宇宙人とは限らないよ。 まず宇宙とは何か、人(ヒト)とは何かを考えなければいけない。 「宇宙」には色々な意味があるが、この場合「宇宙」=「地球外」と考えることが妥当である。 では「外」とは何か。 そして最後に残る、ヒトとは何か。 論点はこの2つに絞られる。
203 :
考える名無しさん :05/02/17 06:09:45
四次元とか多次元って哲学的にどういう位置づけなの?
>>203 人によって違うんでないの。
スレタイにカントがあるからその延長で考えると、
3次元より上の相は「感性的直観として捉えられない相」
ということにでもなるんじゃなかろか。
つまり、アポステリオリな命題が成立しない相ということで。
数学的多次元と物理学的多次元では微妙に異なってくる。
語りえないものについては沈黙しなくてはならない
207 :
考える名無しさん :05/02/17 23:14:53
>>204 カント的に、相対性理論ってどうなるんだろうね。
認識のアプリオリな形式は、あくまでユークリッド的な3次元の空間と、1次元の時間なわけで、
それは相対性理論があろうとなかろうと、変らない。
(物理学者を含む我々自身が日常、そのような空間を感じつつ生きている、という意味で)
そうするとカントにあっては、「我々にとって根源的」なアプリオリなユークリッド空間と、
「自然科学上根源的」な4次元の擬リーマン空間との双方が並立されなくてはならなくなる。
しかしこの後者についての知識(つまり、相対性理論の知識だが)の客観性は、正しく保証され得るのだろうか。
カントに詳しい人、誰か教えてくれ
カントの時代に四次元なんて概念無いんじゃねぇの?
209 :
考える名無しさん :05/02/18 00:15:16
>>208 そういう問題じゃなくて、
「相対性理論の出現によって、カント哲学は果たしてその有効性を失ってしまうのか??」
ということだと思うんだけど。
カントの有効性は相対性理論以前から結構破綻してるよ。
>>210 いやそういう問題じゃなくてw
現在の世界でも、カントの哲学がある程度は正しいと思ってる人はかなりいるはずで、
(俺だってカントの主張にはそれなりに価値があると、いちおう思うわけだが)
そういう人にとって、相対論はどうなるんだろう、と
212 :
考える名無しさん :05/02/18 00:26:21
4次元とは何でしょう? 3次元+1の、その+1が時間なのだとしたら、やはり空間と時間を別のものと捉えているわけで、 「感性的直感の純粋形式としての空間と時間」というカントの理解は特に揺るがないと思うのだが。
>>212 それは勿論、揺るがないよ。
ただし、その直観の形式としての時空間は、あくまでもユークリッド空間というか、
まっすぐな空間なわけだよね。
(曲がった空間の中で生きていると日常で我々は考えていない。)
ところが、一般相対性理論では時空間というのは曲がった空間なわけだ。
そうすると、まっすぐな時空間を直観の形式としてアプリオリに想定するカント哲学の立場から、
相対性理論を客観的に正当化することはできるんだろうか、と。
214 :
考える名無しさん :05/02/18 00:36:10
>>213 「空間」という直感に、そもそも真っ直ぐだの曲がっているだのという規定は無いはず。
だって、真っ直ぐだの曲がっているだの考えるときに既に「空間」という根源的な直観が
あるわけでしょ。
>>214 相対性理論の空間ってのは、ユークリッド幾何学が成立しない空間ですよ。
正直に言って、我々は「ユークリッド幾何が成立しない空間」というものを想像することはできない。
そういう意味で、我々の直観の形式となるのは、必ずユークリッド空間でなくてはならないと思う。
(実際、カントはそれだからこそアプリオリな直観の形式からユークリッド幾何学が基礎付けられると考えたわけでしょ。)
だから、相対性理論の空間が直観の形式たる空間と別のものであることは、明らかだと思う。
216 :
考える名無しさん :05/02/18 00:53:22
>正直に言って、我々は「ユークリッド幾何が成立しない空間」というものを想像することはできない。 リーマン空間くらいになら、容易に想像可能でしょ。 >だから、相対性理論の空間が直観の形式たる空間と別のものであることは、明らかだと思う。 でもどちらも「空間」なんでしょ? 君だって、両者に対して「〜空間」と言ってるじゃない。
>>216 抽象的になら、想像可能かも知れないよ。
でも、「自分の今生きているこの時空間が、4次元の擬リーマン空間である」ということを
「直観的」に感じることができる?俺はできない。
で、まあそれは置いておくとして、「どちらも空間」では話が済まないんだよ。
もう一度繰り返すと、
・第一にカントは、「アプリオリな直観の形式として時空間が認められる」→「ユークリッド幾何学が正当化される」
と考えたわけだから、
もしその「直観の形式」が「まっすぐ」な空間でないのなら、
カントにとってユークリッド空間は基礎づけられないことになってしまうと思うんだが。
(その時、相対性理論はおろか全ての物理学的知識も多分基礎づけられなくなってしまう)
だから、少なくともカントの哲学体系にとっては、直観の形式はあくまでもユークリッド空間でなくてはならない。
・第二に、もし我々の直観の形式が相対性理論のような擬リーマン空間だったとしたら、
我々はアプリオリに相対性理論を知っていなくてはならなくなる。
しかし、実際にそうではないでしょ?アインシュタインが発見するまでは、誰も相対性理論なんて知らなかった。
それに、そもそも現在の最新の物理学的知見でも、
我々の住む時空間が「擬リーマン空間」であることまではわかっているが、
じゃあ具体的にその計量は幾つになっているのか、ということは正確にわかっていない。
(宇宙は開いているのか、閉じているのか、とかもわかっていない)
そういう意味でも、相対論の空間はアプリオリなものではあり得ない。
すまん、
>>217 × カントにとってユークリッド空間は基礎づけられないことになってしまう
○ カントにとってユークリッド幾何学は基礎づけられないことになってしまう
ですね。すみません
219 :
考える名無しさん :05/02/18 01:14:11
>>217 あのさ、カントの場合は直感の形式としての空間なんですよ。
それが実際の空間と一致するかしないかは別問題。 というよりも、相対論が可能となるために
も、カントの言う直感の形式としての空間というものが要請される。
じゃあ、その空間の属性は・・・となったときに初めてユークリッド空間なのか、それ以外なのかが
問題になるのであり、「経験」が可能となるためには直感の側で空間というものが考えられて
いなければならないという図式を変更する必要はない。
>それが実際の空間と一致するかしないかは別問題。 その通り。
221 :
考える名無しさん :05/02/18 01:16:40
カントはユークリッド幾何学がアプリオリに正しい唯一の幾何学だと考てたんだろ? これはまあ、間違っていたことが明らかなんじゃないか?
そこでプラトンですよ。
223 :
考える名無しさん :05/02/18 01:19:39
「そこでカッシーラですよ」の間違いじゃない?
225 :
考える名無しさん :05/02/18 01:25:34
カッシーラは、相対性理論などを踏まえたうえで、カントの哲学を再解釈 したんじゃないのか? 俺はよく知らんが。w
>>219 細かいこと言ってすまんが、「直感」じゃなくて「直観」でしょ?
> それが実際の空間と一致するかしないかは別問題。
これは同意。
> というよりも、相対論が可能となるためにも、カントの言う直感の形式としての空間というものが要請される。
これも概ね同意。
> じゃあ、その空間の属性は・・・となったときに初めてユークリッド空間なのか、それ以外なのかが
> 問題になるのであり
そうなんだけど、何度も言うように、それがユークリッド空間だからこそ、
ユークリッド幾何学が正当化されるのですよ?俺の言ってることを理解してる?
> 「経験」が可能となるためには直感の側で空間というものが考えられて
> いなければならないという図式を変更する必要はない。
これも同意。
>>225 どんな風に再解釈したちゃったわけ(教えてよ〜)
228 :
考える名無しさん :05/02/18 01:28:56
>(宇宙は開いているのか、閉じているのか、とかもわかっていない) 宇宙は何に対して開いたり閉じたりするんでしょう。 宇宙の外側の「空間」に対してですかね? やっぱり根源的にすべてに対してある一つの空間というものを想定せずにものを考える ことが出来ない気がするが。
229 :
考える名無しさん :05/02/18 01:29:13
だから、よく知らんのだよ〜。
最近(といってもほんとについ最近だけど)の哲学板の流行りは 時間ではなくて、空間の再解釈に移動したのですか?
231 :
考える名無しさん :05/02/18 01:35:23
>>226 カントにおいてユークリッド幾何学が正当化されていることが気に食わないんですか?
現代でもユークリッド幾何学が数学的に偽とされてるわけではないですけど。
カッシーラ恐るべし!
地面に正確無比に馬鹿でかい三角形を書いて正確に内角を測ると その和は2直角よりでかくなる。
>>233 でもそれがユークリッド幾何学の否定だとは、だれも考えないよね。
235 :
考える名無しさん :05/02/18 01:40:49
俺の考えを言うと、人間の生得的な認識能力の一部として時空という形 式もあるだろうけれど、これはあくまで人間という種に固有のものだろ う。また、この生得的な認識の形式としての空間をある方向に抽象化し ていけば、ユークリッドの幾何学の空間になるのだろうけれど、生得的 な直観の形式としての空間=ユークリッド幾何学の空間ではないね。さ らに、物理学の理論の基礎的な部分としての時空概念も、何らかの意味 でこの生得的な直観の形式としての時空に起源を持ってはいるだろうけ れど、それによって「基礎づけられる」ものではないだろう。
>>228 宇宙論は専門でないんであまり偉そうに言えないんですけど、
・「開いている」→「ずっと上に進んでいくと上に進み続ける」
・「閉じている」→「ずっと上に進んでいくと、下から出てくる」
ということです、簡単に言えば。
>>231 > カントにおいてユークリッド幾何学が正当化されていることが気に食わないんですか?
俺はそんなことは言ってません、
>>217 をよく読んでください。
何度も繰り返すけど、カントの最低限ユークリッド幾何を根拠づけるためだけにでも、
カントのアプリオリな空間はユークリッド空間であることが必要だ、という当り前のことを言ってるだけです。
>>225 カッシーラか!
そのうち読んでみるよ。有難う
>>233 地表面も、2次元的にはユークリッド空間でないからね。
(3次元的にはユークリッド的空間の中にあるにせよ)
もう寝るよ。おやふみ〜みんな
>>234 否定はしない。
たくさんある公理系の一つで、その中ではちゃんと筋が通っている。
238 :
考える名無しさん :05/02/18 01:48:00
>>236 君は、「まっすぐ」とか「曲がっている」という語がどのような事態を表してるか
直観できるでしょ?
非ユークリッド幾何学においる直線とは、ユークリッド幾何学では曲線であると聞いても、
ちゃんと脳内変換できるでしょ?
そのように思考できるために要請される直観の形式としての空間が要請され、それが
ユークリッド幾何学的な空間であるということのどこに不当性があるのかな?
変な日本語書いたな。訂正。 誤−そのように思考できるために要請される直観の形式としての空間が要請され、 正−そのように思考できるために直観の形式としての空間が要請され
とりあえず日常生活に差し障りのない空間認識ってことね。
>>238 > 君は、「まっすぐ」とか「曲がっている」という語がどのような事態を表してるか直観できるでしょ?
俺はいちおう物理学者なんだが、直観はできないよ。
あくまで相対性理論というのは、数式の上でしか理解できない。
もしあんたが擬リーマン空間を直観できるのなら、それはあんたが類稀な精神の持ち主か、
或いはリーマン幾何学というものを根本的に理解してないか、どちらかだと思う。
> 非ユークリッド幾何学においる直線とは、ユークリッド幾何学では曲線である
この部分、俺には意味不明。数学の話をするのなら、もっと正確な用語を使ってくれ。
> そのように思考できるために要請される直観の形式としての空間が要請され、それが
> ユークリッド幾何学的な空間であるということのどこに不当性があるのかな?
この部分も意味不明。というか、あんたは俺の言ってることを全然読んでいないね。
もう本当に寝る。おやふみなさい〜 ヽ(´△`)ノ
>>all
242 :
考える名無しさん :05/02/18 02:00:03
>>241 辞書で「まっすぐ」をひくと「曲がっていないこと」と説明されてるんだけど、
こういう「まっすぐ」「曲がっている」を直観できないんですか?
マジですか?
辞書って。。(藁
244 :
考える名無しさん :05/02/18 02:02:44
>> 非ユークリッド幾何学においる直線とは、ユークリッド幾何学では曲線である >この部分、俺には意味不明。数学の話をするのなら、もっと正確な用語を使ってくれ。 「直線」とは2点間の最短距離でしょ。 それがユークリッドではまさに直観的に思い浮かぶ「あの直線」だけど、 非ユークリッド幾何学では・・・・ってそんなに意味不明ですかね?
245 :
考える名無しさん :05/02/18 02:06:15
たしかに、先にユークリッド幾何学を勉強せずに非ユークリッド幾何学が 理解できるのかとか、先に古典物理学を勉強せずに相対性理論が理解でき るのか、という感じはするが、どうなんだろうねえ。また、こういういわ ば「理解のための基礎」と「根拠付けとしての基礎」というのは同一視で きないんじゃないだろうか。
あのう(ちょっと横レス)ユークリッド幾何学が空間を前提とするのは理解できますが、 空間自体はユークリッド幾何学を前提とせずとも理解できますよね。 カントの純粋直観という空間は、そのユークリッド幾何学と同一視 された理解が為されていますが、空間そのものについては明らかに なっていないはず。(いわゆる存在の差異性とかについての言及は カントにおいてはなかったと思う)その辺の区別を付けた方がよくない? (べつに〜、なのかな)
>>236 カントは(地球上の)人間の感性形式だけを問題にしてるわけじゃないよ。
宇宙人がいて、彼らがもしかしたら我々とは別の感性を備えてるかもしれない可能性をカントは見てる。
(それでも純粋悟性概念や純粋理性概念については同一だと言うと思うが。)
248 :
考える名無しさん :05/02/18 03:17:37
ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もともに構成された公理系だろ。 カントの直観形式で前提されている空間や時間は構成された幾何学の体系じゃないだろ。 むしろそれを前提にして幾何学な構成されるんじゃないか? 最低限空間や時間としての性格を有していれば、十分なんじゃないのか? 俺はカントにはうといから、誰か説明してやれ。
>>248 まあ、その理解でいいだろ。
感性の直観形式は人間にのみ妥当するもんだしな。
カテゴリーは理性的存在者一般に妥当するもんだが。
純粋数学、とくに純粋幾何学は、この学が感官の対象だけに関係するという条件のもとでのみ 客観的実在性を持つことが出来る。ところで、感官の対象に関しては、原則が確立されている。 それは、我々の感性的表象は決して物自体の表象ではなくて、物自体が我々に現れる仕方の 表象に過ぎない、ということである。するとこういうことが分かる、すなわち−幾何学の命題は、 我々の想像力によって虚構された物の規定のようなものではない、それだから現実的な対象へ 適用されえないほど信用のおけない規定ではなくて、必然的に空間に妥当し、空間において 見出される限りの全てのものに妥当する−空間は一切の外的現象の形式に他ならず、感官の 対象は全てこの形式においてのみ我々に与えられるから−ということである。幾何学は、 感性の形式をその根底においている、そしてこの感性は外的現象を可能ならしめる根拠である。 それだから外的現象は、幾何学が外的現象に指定する以外の何物をも含むことは出来ない。 (プロレゴメナ 13節 注1)
>>247 >カントは(地球上の)人間の感性形式だけを問題にしてるわけじゃないよ。
>宇宙人がいて、彼らがもしかしたら我々とは別の感性を備えてるかもしれない可能性をカントは見てる。
本当にそれはカントの考えなの?
主観に「ある」以外の一切の感性形式について考えない態度がカントの態度として正当ではなかったの?
主客問題の主観を軸にした、コペルニクス的展開てそういうものだと思うのだけど。
とりあえずソース希望。
つまり、どういうことかというと、 空間は我々の経験する現象を可能ならしめる根源的な形式(概念じゃないよ)であり、 だからこそ我々の経験する外的現象は空間のもとで考えられる。そうである以上、 ユークリッド幾何学の命題は単にでっち上げられたものではなくて、現象の範囲内では 実在的で正しいんだよ、ということでしょう。 問題は、非ユークリッド空間の実在性を、現象の範囲内でかまわないとして、 どう捉えるか、ということかな。
>>252 >問題は、非ユークリッド空間の実在性を、現象の範囲内でかまわないとして、
>どう捉えるか、ということかな。
その辺は、カントの理解を超えたとしていいような気が。
ベルクソンとかドゥルーズとかそれを引き継いだ人はいると思う。
たとえば純粋持続とかは、自分にとっては超カント的だなと思うし。
>>253 「経験していること」と「概念として把握していること」の齟齬の問題かね。
カントの際には確かにこのズレへの注目は見当たらないね。
>>254 >「経験していること」と「概念として把握していること」の齟齬の問題かね。
要素的には対象的なものと、実在(空間的なあるを踏まえた経験的なもの)の区分かな。(伝わっているかな)
具体的に言うと意識対象自体の生成と分裂、また置換の過程についての言及は皆無。
概念はむしろ意識対象自体への指示としての装置、のような働きをする。
そんな感じ。
>>251 宇宙人について言及してる箇所は確かに純粋理性批判にあった気もするけど、
そいつらに対してはどういう感性の形式を想定してるんだっけ?
おれも手持ちにないので、誰かソースきぼんぬ
>>254-255 つまりあんたらは、「カントでは非ユークリッド幾何は基礎付けられない、
まして一般相対性理論なんかはまったく想定できない」派?
やっぱりそうなのかなあ・・・
そう考えると、カントの批判哲学自体が一瞬にして、非常につまらないものに
見えてしまうのはおれだけか?
257 :
考える名無しさん :05/02/18 13:54:30
むしろ、「ものすごくがんばれば基礎づけられるかもしれない けど、非常に難しい。むしろ別の体系を考えた方がいい」派 かな?
数学者は自分の作った公理系が実在するとかしないとか問題にしないよフツー
259 :
考える名無しさん :05/02/18 14:15:56
作ったんなら公理系は実在するにきまっているわけで・・・
おまえら哲学だろ、「実在」ってなんだと思ってる?
探してみた。これで合ってるかな? 「我々は感性の特殊な条件を、物を可能ならしめる条件とすることはできない。 我々はこれを、物の現象を可能ならしめる条件となし得るだけである。それだから、 『空間は、我々に外的に現れる限りの一切のものを含む』、と言うことはできるが、 しかし『一切の物自体を含む』、と言うことはできない。 この場合に、たとえ物自体が直観せられようとせられまいと、 またどんな主観によって直観せられようと、それは問題でない。 “我々とは別の思惟的存在者”の直観については、これらの存在者が、 我々の直観を制限している条件や、また我々に普遍的に妥当する条件と同じ条件によって 制限されているかどうかを判断することはまったく不可能だからである。」 引用部分は、 「I.先験的原理論」−「第一部門 先験的感性論」−「第一節 空間について」 −「上記の諸概念から生じる結論(b)」から。 篠田英雄訳・岩波文庫版『純粋理性批判』上巻、p.94-95。 (ただし引用符と句読点をちょっといじった) この“我々とは別の思惟的存在者”が、問題の「宇宙人」だと思われ。
で、ここからは俺の解釈。 つまり、宇宙人がどのような感性の形式を持っているかについては、人間には判断できない。 ただし、宇宙人の感性の形式がカントの考えているような「幾何学」、 言い換えれば感官の対象についての経験的認識を“無時間的に”構成するような体系である限り、 その幾何学はどんなものでもいい。ユークリッドでもリーマンでもロバチェフスキーでも、 その他わけのわからないものでも。 「ユークリッド幾何学」を「我々には見えない宇宙人幾何学」に そっくり置き換えて、後の部分はそのまま放っておいても、 その後に続く悟性とか理性とかの認識プロセスそのものには変更の必要がない。 (もちろん、宇宙人がそのプロセスの中で“具体的に”どんな認識を しているのかは、まったくわからない)
>>263 つまり、人間にはこの宇宙を三次元的にしか認識できないが
宇宙人の中には、四次元、五次元と認識できるものもいるかもしれない。と?
>>200 そうかも知れない。
カント・ラプラス説を唱えたカントのことだから。
月の住人について言及しているので、遊星もついこの太陽系のことと理解してしまった。
>>264 可能性としては否定出来ないと思う。
というかカントは否定していない。
月の住民と言えばかぐや姫もそうだな。
269 :
考える名無しさん :05/02/19 01:21:46
「宇宙人ならば他の直観形式もあり得る」ということは、究極的には 「私でない他の人は、私と異なった直観形式を持っていることもあり得る」 ということだよね? そうなると幾何学の普遍性(万人に共通する、という意味での)が 失われてしまうように思うけど、どうなんでしょ 教えてえらい人
つまり、小川さんには小川幾何学、 山本さんには山本幾何学、・・・・ となってしまうのでは? 本当にそれでいいのかカント?
271 :
考える名無しさん :05/02/19 01:28:59
「宇宙人ならば8本足ということもあり得る」というと、究極的には 「私でない他の人は、8本足ということもあり得る」ということになる のか?
>>269 4次元以上を直観できる偉い数学者とかはいるかもしんないね。
ユークリッド幾何学を考えて違和感がない人達は実用的には大体ひとまとめにしていいんじゃ。
自分も周りの人も「我々」って言っていいくらい空間時間の感覚ってあんまり変わらんみたいだし。
普遍性を語る領域って悟性のレベルだから
極端な話、感性形式が一人一人違っててもカント的には問題ないんだと思う。
カントの論の組み立ては、
すべての理性的存在者に妥当なものは、すべての人間にも妥当する
(人間が理性的存在者であるかぎり)という形で行われるからさ。
273 :
考える名無しさん :05/02/19 01:34:40
>>262 の文章から、「カントは宇宙人が存在すると信じていた」とするのは
いくらなんでも・・・
>>271 人間は2本足である、という生物学的知識を前提にするならば、
他の人は8本足である可能性があるとはいえないでしょう。しかし、
○「他の人が何本の足を持っているか」は、他の人を見て触れば確かめることができる。
しかし、「他の人がどのような感性の形式を持っているか」は、私には決して直接確かめられない。
だから、これとそれとはかなり状況が違うでしょう。
○あと、「人間は2本足である」というのはあくまでも経験的な知識だよね。
アプリオリに考えれば、人間が8本足を持つことも可能ではある、とも言える。
275 :
考える名無しさん :05/02/19 01:36:24
スウェーデンボルグの影響で、宇宙人について想像するのが流行って たって話じゃなかった?
276 :
考える名無しさん :05/02/19 01:38:42
>>274 それなら、自分の直観形式とは別の直観形式もあり得るかどうかなんてことが
どうして分かるの?
277 :
考える名無しさん :05/02/19 01:40:09
>「他の人がどのような感性の形式を持っているか」は、私には決して直接確かめられない。 自分の感性の形式自体も「直接」には確かめられない。 あくまで形式なんだから。 形式というのは、概念や命題から推論して導き出せるもんでしょ。 だとすれば、他人の感性の形式もその言葉から推論できるはず。
>>272 > 自分も周りの人も「我々」って言っていいくらい空間時間の感覚ってあんまり変わらんみたいだし。
そうだけど、そういう「状況証拠」によってアプリオリであるはずのものに対して
判断してしまってよいのか、とw
むしろ、
> 感性形式が一人一人違っててもカント的には問題ないんだと思う。
これかな。
要するに、カント(というか、ドイツ観念論自体が)というのは、
他者にはあまり興味がないのでは、と思えてくるんだが。
>>273 カントは「宇宙人が存在するのは確実である」みたいなことを言ってると思うよ。
しかも確か、純粋理性批判の中で。
誰かソースきぼんぬ
>>277 他者の言葉や概念から、その人の「言葉や概念の形式」ならわかるかも知れないけど、
その人の「直観の形式」まではわからないんじゃないの・・・・?
他の人の直観は私にはわからないわけだからさ。超能力ででもない限り。
280 :
考える名無しさん :05/02/19 01:59:20
> だとすれば、他人の感性の形式もその言葉から推論できるはず。 じゃ、宇宙人でない人間の共通の感性の形式も推論できるでしょ、 他の感性の形式をもっている宇宙人の可能性とは関係なく。
281 :
考える名無しさん :05/02/19 02:01:49
>>279 それじゃ、直感の形式に関しては、自分のことしか分からないはずで、
他の直感の形式が有り得るかどうかなんて、頭の中でごちゃごちゃ考えても、
分かるわけもないよね。
282 :
考える名無しさん :05/02/19 02:05:05
>>279 「言葉や概念の形式」が何を意味してるのかよく分かりません。
283 :
考える名無しさん :05/02/19 02:06:34
> 他の人の直観は私にはわからないわけだからさ。超能力ででもない限り。 自分の直感の形式は分かるの? どうやって?
>>281 そう、だからカントは要するに他の人のことはどうでもいいんじゃないか、と。
いずれにせよ、「宇宙人」と「他者」とは何も違わないよ。
もしカントが、「感性の形式は人類には普遍的」だが、「宇宙人に通用するかはわからない」などと
考えていたのなら、カントは間違っている。
285 :
考える名無しさん :05/02/19 02:08:00
286 :
考える名無しさん :05/02/19 02:10:11
完全な独我論者であるべきだった?
>>282 俺にもよくわからない(w
>>277 がヘンなこと言い出したから、それにつきあってみただけで。
>>283 自分の直観の形式がわからない、とでも?
そうするとカントの哲学なんかは根本的に成り立たなくなるのだけど。
普通に考えれば、私の直観はいま、ここに私に与えられているのだから、
それがどういう形式に従っているのかくらいは、よく省察すればわかると思うんだけど
288 :
考える名無しさん :05/02/19 02:16:00
うん、俺は自分の直観の形式なんて、全然わからんなあ。・・・・・・ともかくもう寝る。
>>285-286 そうね、ある意味「独我論」になるんでしょうかねえ・・よくわからんけど。
「独我論」ということの意味にもよるけどね。
例えばヘーゲルや西田幾多郎は、「自分は独我論者ではない」と言い張るだろうけど、
それにもかかわらず、根源的に彼らは独我論者だ、とも言えるでしょう。
290 :
考える名無しさん :05/02/19 02:19:24
>>287 あんた、超越論的感性論の部分さえ読んでないだろ。
>>290 いちおう読んでるけど、かなり昔に読んだので忘れてるかも知れない。
そんな一行レスしてないで、
どこがどう違っているのか教えてくれよ。
>>290 はどこに行ったのかな?
根拠を示さずに人の悪口だけ書いて、去ってゆく人って、感じ悪いなあ。。
好意的に解釈すれば、多分「どういう形式に従っているのかくらいは、よく省察すればわかる」
って所に反応したんだろうけど、それがカントの言うことに合致しているかどうかは
少なくとも
>>283 との議論の上では大したことではないと思うんだが。
ていうか俺も寝る。
>>293 だ か ら、
俺がどういう風に把握できてなくて、どういう風に理解すべきなのか、
ちゃんと書いて教えてくれよ。
仮にも哲学板にカキコするならば、それ位はすべきだと思うよ。頼むよ。
おやすみ
>>294 あなた、他人の直感は超能力でもない限り分からないと言ってたでしょ。
そこのところからして、直感の「形式」という意味が分かってないわけ。
>もしカントが、「感性の形式は人類には普遍的」だが、「宇宙人に通用するかはわからない」などと >考えていたのなら、カントは間違っている。 そう考えていた、とされてるんじゃないのか? で、君は人類でも一人一人違うと考えているのかな?
297 :
考える名無しさん :05/02/19 09:18:28
>>295 なんだ、そんな理由ですか。。。
・第一に、半ば冗談で書いた「超能力」って言葉を根拠に真面目に批判されても困る。
俺は別に超能力なんて信じているわけではないから、
「もし超能力みたいなことを仮定すれば、俺らの予期しないどんなことでも起こり得るけどね?」
と言っているわけで。
・第二に、「他人の直観は超能力でもない限りわからない」と主張することが、
なぜ直観の形式を理解していないことになるのか、明確ではないね。
あなたはどうも、論拠を説明せずに、やみくもに人の批判だけをしたがる癖がある人のようだな。
哲学板にいるんだからさ、そういう一行レス、二行レスみたいなのはやめようよ・・・
298 :
考える名無しさん :05/02/19 09:29:52
>>296 俺自身は別にカント主義者でもないですから。
でもカントに従って考えてみると、
確かに多分、人類の場合は、悟性や感性の形式みたいなものは自分とそれほど違わないんじゃないかという気がする。
でも、それは少なくともアプリオリにわかることではなくて、
単に経験的に見て「たぶん中国人も俺らと同じ感性の形式を持ってるだろう」と理解できることなんじゃないの?
というか、あなた自身はどう思うわけよ?
風呂入ってる間に思ったのだが、
好意的に考えて、恐らく
>>295 は、
「もし超能力によって他者の直観を知ることができたとしたら、それは同様に感性の形式によっていなくてはならない」と
言っているのだろう。それは確かにそうなんだろう。
むしろ、「超能力」なんてものを仮定しなくても、そもそも他人の直観・思惟というものを想像できる時点で
それは感性と悟性の形式によっていなくてはならない、とも言えるだろう。
しかしそれならば、「宇宙人」についても同様のことが言えるんじゃないだろうか。
300 :
考える名無しさん :05/02/19 10:13:51
感性的直観の対象と形式を混同してるから馬鹿にされてることに気付け
で現時点での結論としては、
カントがもし
>>299 に従って「全ての理性的存在者は同一の感性・悟性の形式を持っていなくてはならない」と
主張しているのなら、その当否はともかくとして、主張自体は理解できる。
その場合、「宇宙人」であろうと何であろうと当然、俺らと同じ理性を有する。
(「神」はどうか?となるとわからんが。)
しかし上で主張されていることによれば、カントはそうは考えなかった、らしい。
その辺は、俺としてはもう一度カントを読み直してみなくてはわからん。
誰か俺の理解に誤りがあったら教えてくれ。
それも違うようだ。感性的直感は形式であり、感性的感覚が内容となるようだ。 対象は現象としての表象だ。 感性的直感の対象を形式と混同しているなんて指摘したらばかにされるからここ以外 では書き込まないほうがいいぞ。
>>300 だからそういう一行レスはやめろってw
何か言うのなら、ちゃんと説明をしろよ
>>302 あなたも「直観」を「直感」なんて書かない方がいいのではないか?
お互い、些細な言葉遣いで罵倒しあうのはやめましょうね
まして、一行レスで論拠を示さずに、人の悪口だけ言うなんてのは良くないよ。
>>304 罵倒し合うとは、あなたと私が相互に規定し合い、全体の関係を形成していると考えるのは
やめたほうがいいという意味だね。まして、相互だけじゃないのにだ。
現象において感覚と対応するところのものを、私は現象の質料と名づける。これに反して、 現象の多様な内容を整理するところのものは、現象の形式と呼ばれる。感覚を整理し、 またそれをある形式に収めることができるものは、それ自身感覚ではあり得ない。 それだから一切の現象の質料は、なるほど我々にア・ポステリオリにのみ与えられはするが しかし現象の形式は、感覚を受け入れるものとして、すでに我々の心のうちにア・プリオリに 具わっていなければならない、従ってまたこの形式は、一切の感覚から分離して考察されねば ならない。 感覚に属するものを一切含んでいない表象は、純粋(超越論的意味において)な表象と呼ばれる。 すると感性的直観一般の純粋形式は、我々の心のうちにア・プリオリに見出され、それて現象に おける一切の多様なものは、この形式によって、ある関係において直観せられるのである。 (純理:34-35)
我々が対象から触発される限り、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚である。 感覚を介して対象に関係するような直感を、経験的直感という。また経験的直感のまだ規定されて いない対象を、現象という。
空間は、外感によって表象せられる一切の現象の形式に他ならない。換言すれば、空間は 感性の主観的条件であり、この条件のもとにおいてのみ外的直観が我々に可能なのである。 ところで主観は、対象によって触発せられるという受容性をもつものであるが、この受容性は かかる対象に関する一切の直観よりも前に存在しなければならない。あらゆる現象の形式 であるところの空間は、どうして一切の現実的知覚よりも前に、すなわちア・プリオリに心意識の うちに与えられ得るのか、またこの形式はどうして純粋直観として、換言すれば、一切の対象が そこにおいて規定せられねばならぬような直観として、一切の経験よりも前にこれらの対象の 関係の原理を含み得るのかということは、これによって理解できる。 (純理:42)
このスレすげぇな。 何がなんだかさっぱりだ。 記念パピコ。
310 :
考える名無しさん :05/02/19 11:51:52
>>309 あなたは哲学に関係ない人? それともカントの研究者?
>>299 超能力以前に感性の形式って私秘的なもんなのか?
あんまりアリストテレスについての書き込みが無いけど アリストテレスが最初に形而上学を唱えたのか?
アリストテレスの「形而上学」(岩波文庫)買ってきた。
>>313 アリストテレスの講義録の一部を弟子達がまとめて形而上学と呼ぶようになった。
ああいう思考を形而上学と呼ぶようになったのは少なくともアリストテレス以降。
第一哲学と言ってたのかな
アリストテレスの「形而上学」を読むと、 当然のことではあるが、自分たちの生きた時代を「現代」と捉えている。 2000年前にすげーな、と思った。
神のこと、死後の世界、人類誕生以前のことを研究するのが神学。 哲学は人間や人間界のことを研究する学問だった。 やがて哲学から数学、物理学、生物学などが分岐していった。 アリストテレスの時代は、まだ神学と哲学と数学しか無かった時代じゃなかった?
>>318 何を根拠にそんなことを考えてるのかわからん。
あと、「神学」という学問はなかったはずだし、医学はあった。
あと、歴史学と修辞学もあったと思っていいかもしれない。
>>319 神学はあったよ。
アリストテレスにおいてテオロギケー(神学)は存在論とともに第一哲学の両輪だった。
とはいっても、現代人が想像するような意味での神学ではなかったが。
>アリストテレスの時代は、まだ神学と哲学と数学しか無かった時代じゃなかった? アリストテレス著作集の題名だけでも眺めてみなされ。他にもいろいろあるから。
哲学の歴史は相当古いだろうな。 昔の人は夜やることないから、物思いに耽ってただろうし。
夜にヤることはいっぱいあるでしょー
>>323 物思いに耽った古代人はいろんな神話をこしらえたそうだよ。
夜な夜な物思いに耽った古代人。 神の世界、死後の世界、天地創造以前の世界などを考えた。→宗教に発展 自然や人間など万物の真理を考えた。→哲学に発展 か?
>>326 神話に潜むドクサ性を批判→哲学に発展
だろ。史実的には。
>>322 だから、それはピロソピアの範囲内だっつーの。
動物研究もピロソピアの一環として行われた。
329 :
考える名無しさん :05/02/21 14:58:01
このスレ、タイトルのせいで、結局カントスレになっている。 もったいない。
330 :
考える名無しさん :05/02/21 15:20:23
ピロピロソピアピロソピア
仕方がないさ。 みんなカントしか知らないから。
アリストテレスがわけわからないのだと思われ エイドスとヒューレーという説明と、イデアの説明とで、どれほどの意義があるのか理解できてる人が少ないということでは? かくいう俺もいまいちなんだけどね
哲学の潮流の一つである分析哲学が、 メタフィジックを近年まで軽視していたのも大きい。
>>332 Joyいるんなら最近気になってたこのレスに答えてくれ。
おれはJoyを信じたいんだ。。。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1108220215/598 598 名前:考える名無しさん [sage] 投稿日:05/02/16 (水) 13:06 :37
「格率が最大限になる」ってのが意味不明なんだけど。
『基礎付け』にでてくる定言命法の定式って、
唯一の原理:「普遍的法則となるようにあなたが同時に意欲しうるような格率に従ってのみ行為せよ」
そのバリエーション、
第一の法式:「あたかもあなたの意志の格率があなたの意志によって普遍的自然法則となるべきであるかのように行為せよ」
第二の法式:「あなたの人格と同様にどの他の人格の内にもある人間性を、決して単に手段としてだけではなく常に同時に目的として使用するように行為せよ」
第三の法式:「普遍的に立法する意志としてのすべての理性的存在者の意志の理念」
だけだったと思うけど。
格率って「〜しよう」ってことなので、それが最大限なるよう律するってのは、
せいぜい「したい」ことをなるだけするようにするくらいの意味しか受けとれない。
好意的に読んでも仮言命法にしかならないと思うよ。
自分の意図に対して最適な手段を選んで行為せよ、ってな。それはカントの意図に反するし。
>>334 >格率って「〜しよう」ってことなので、それが最大限なるよう律するってのは、
格率って「〜しよう」ってことなの?
俺は行為をする際の規範みたいなものと教わったよ
>せいぜい「したい」ことをなるだけするようにするくらいの意味しか受けとれない。
>好意的に読んでも仮言命法にしかならないと思うよ。
要は「最大限」という言葉がおかしいということでしょ
「普遍」という表現ならOKと
大学の先生が「最大限」と表現していたと思ってたけど、
ノートを確かめたら「普遍」と書いてあった
すまん
「最大限」を「普遍」に修正してくれ
>>335 格律は行為の主観的原理で定言命法の定式をパスすることによって客観的原理になる
「嘘をつかないでおこう(Wollen)」という格律が客観的原理としての形をとるときに
有限な理性的存在者である人間に対しては「嘘をつくな」というSollenの形で現れるといった具合
ひとはみなこうしようああしようと思いその思惑にしたがって行為するから
それを規範とよぶならそういってもべつにいいんだけど言葉が強すぎるかもしれない
>>336 カントにとっての道徳は客観的価値の存在を設定して義務の根源を認めることなので
「規範」と呼ぶのは、そう呼ぶ時点でそのような義務を認めているから説明としてはちょっと不適切ということかな
説明ありがとう
338 :
考える名無しさん :05/02/27 23:35:57
Joyってぴかぁ〜?
いや、ぴかぁ〜って現代思想系(パレルゴン)とか機械的唯物論系(機械)とか、 科学哲学系(我無)とかニヒリスト&リアリスト系(半角カタカナ、改行しまくり男)とか 色々人格があるじゃん。 で、大学生哲学科系がJoyなのかなぁと
人間は外界を最終的に目指すとされているようだが、形而上はどこに由来するものなのだろう。 自己に由来するものは自由であるし、外界であるなら空間だろう。 すると、時間はどこに由来するのだろう。 自由と時間は自己の内部に含まれるものだと考えられる。これらは自己の外部にないようだ。 自己の内部において、自由と時間はどのように関係しているのだろう。
>>339 その答え方も激しくぴかぁ〜ポイなぁ
ま どっちゃでもええか
時間が形式だと譲歩したとしても、自由はどうなるのかだ。 自己の範囲を超えるという超越性を含んだものが自由なのだろうか。 基本的に感性に属する扱いなのかな。
344 :
考える名無しさん :05/02/28 01:25:10
意味のわかりにくい文章書くのはポモ流なの?
345 :
考える名無しさん :05/02/28 01:32:48
346 :
考える名無しさん :05/03/01 13:37:15
意味のわかりにくい文章書いても、読み解く根性ある人にしか 伝わらんから文字通り意味ないんじゃないの?よくしらんけど。
347 :
考える名無しさん :05/03/04 06:16:15
で、話を戻して形而上学についてなんだが。
348 :
考える名無しさん :05/03/04 12:18:16
349 :
考える名無しさん :05/03/06 00:19:04
あぼーん
351 :
考える名無しさん :05/03/07 17:27:38
352 :
考える名無しさん :05/03/07 17:36:38
さて、Chinaについて語ろうか 哲学オタは基本的に西洋かぶれだからさー
353 :
考える名無しさん :05/03/07 20:54:44
354 :
考える名無しさん :05/03/07 20:56:52
時間変更
‖\/‖ ‖ ‖\/‖ ‖ ‖\/‖ ‖ ‖\/‖ ‖ ‖\/‖
‖ ‖ ‖\/‖ ‖ ‖\./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \. ‖
‖\/‖ ‖ ‖\/‖ │大変長らくお待たせをいたしました│‖
‖ ‖ ‖\/‖ ‖ ‖\| ただいまから、宝塚四季のレビュー.| ‖
‖\/‖ ‖ ‖\/‖ │を開演いたします。 . |‖
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レビュー(一斉投票)を12時33分から開演いたします。
チケット(投票コード)の用意はよろしいでしょうか??
チケットはこちらでご用意ください。(無料!!)
http://tiger513.maido3.com/~bs6000/2ch/ 劇場(投票所)はこちら
http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1110118996/ http://etc3.2ch.net/test/read.cgi/vote/1110131754/ 劇場に入ったら、下の例のように投票してください。
------------------------------------------------------
[[2ch**-********-**]](←投票コードを貼る)
<<宝塚・四季>>板に一票。
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投票済みでもご入場ください。
また開演に遅れましてもご入場いただけますので、遠慮なくご観劇ください
355 :
考える名無しさん :05/03/08 19:46:54
356 :
ローカルルール審議中 :2005/04/02(土) 20:27:54
ager
357 :
ローカルルール審議中 :2005/04/20(水) 03:28:37
That落ち反対
スレ違いかもしれませんが、画家のキリコの「形而上学的不安」という 絵を知っている人いますか? あれは、人間を単純化して、マネキンのように描くキリコ独特の絵なんですが、 あれを突き詰めていくと、なんというか「現実的なひっかかり(意味?)が どんどんなくなっていき、最後には自殺につながっていくような不安を 描いた絵に思えるのです。 形而上学ってそういう側面がありませんか?
>>358 戦前ならシェストフ読んで自殺衝動覚えたような馬鹿だな
360 :
考える名無しさん :2005/05/22(日) 21:34:35
形而上学って何ですか?
俺様の言葉にならない説法を聞き涙する学問
362 :
考える名無しさん :2005/07/18(月) 17:03:20
形而上学に出てくる4つの実例、 @正直な商人は掛値をしない行為 A行き続ける行為 B困ってる人を助ける行為 C自分の幸福を確保する行為 これが動機からなされた行為だけが道徳的価値を持つと言われたのですが、 さっぱりわかりません。 どういう事なのか解説願えないでしょうか?
363 :
考える名無しさん :2005/07/19(火) 05:12:32
形而上学の問題出して。
エンテレケイア
366 :
考える名無しさん :2005/07/19(火) 23:57:53
アリストテレスは私の講義を聴いてない人には分からないように本を書いたと言っている。 皆さんアリストテレスが分からないと言って自分の頭が悪いわけではありません。 カントやヘーゲルも多分同じ。よく分かっている人の本は分かりやすい。彼らは自分の哲学が良くわからなっかたのではないか。 後の人が多分こうだろうと言って解釈したのではないか。
哲学者は国語を勉強しろ。
「美しい日本語」って、概念の使用を抑圧する方向に働くんだよ
カント著の『道徳形而上学言論』岩波文庫を読むことになって読んでるんだけど なんか難しい言葉ばかり使ってあって意味わからへん。 なんか解説サイトとかない?自分でまとめながら読んでくしかないかな?
370 :
考える名無しさん :2005/08/05(金) 12:40:33
岩波ではなく中公のほうを読んだらどうか
>>369 中公の世界の名著の訳の方が正確。
岩波文庫のと以文社のは似たり寄ったり。出来れば全集版で読まれたい。
誰かアリストテレスの『心とは何か』の内容軽く解説してください…
>>372 中公のって2500円する 道徳形而上学の基礎づけって本でいいのかな?
それとも1500円の人倫の形而上学の基礎づけ??
どっちか迷って結局買えなかった…orz
>>347 「道徳形而上学の基礎づけ」は以文社のものだね。
この訳が一番精確で優れていると思う。
376 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 15:42:03
以文社と中公どっちがいいの? 上のほうだと中公がいいって言われたけど、 すぐ上のだと 以文社がいいと…。 内容は似てるというか同じものなんですか
377 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 16:17:15
以分社 数ページ毎に注解もあってベスト
378 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 16:34:31
もぅ両方よめよ!自分で確かめてみ・・・
379 :
考える名無しさん :2005/08/11(木) 01:53:36
>>360 形而上学とは我々の経験を超えた問題を扱う学問のこと。
例えば、「魂は存在するか」とか「世界に始まりはあるか」
「あの世は存在するか」などが典型的。
380 :
考える名無しさん :2005/08/11(木) 23:00:48
初心者の質問 形而上学はアリストテレスから始まったとありますが、プラトンの「イデア」は 形而上の概念ではないんですか?
>>379 えらく論理実証主義的な形而上学観だな。
影の主
384 :
考える名無しさん :2005/09/26(月) 12:52:30
上でも紹介されてる 道徳形而上学の基礎付けって本読んでるんだけど、 難しい言葉ばかりで読むの大変。 まだ第一章なんだけど…さっぱり…orz なんかうまい具合にまとめてて、読むのに参考になるサイトとかないでしょうか?
>>377 以文社の訳よりは名著の訳の方が正確だよ。
注解も単なる要約ばっかりだしあんまり役に立たない。
高いし買って損した。訳文もほぼ岩波文庫とかわらんし。
マジ?
俺が友人たちの数人で比較対照した限り、 以文社の訳の方が厳密で精確だった。名著の訳は 間違いは少ないが訳語が一定してないので、 学術目的には使えない。
学術目的ならどうせ原文を読みつつやるんだから訳語はそう気にすることもない。 が、Sittenを道徳と訳す以文社の訳語の方がどうかと思うぞ。 Moralとの区別がつかないし、岩波の全集版でも人倫になってる。
Sittenを道徳と訳すのはそんなに問題じゃないだろ。 カント学者の間でもそう訳す人は結構いると思われ。 区別が付かなくなるという欠点は認めるが。
>>389 区別がつかなくなるという欠陥を問題にしてるんじゃ?
学術的「精確さ」を問うなら当然の指摘だな
ところで 形而上学って 読みは けいじじょうがく だよね? それとも、けいじょうがく ?
393 :
考える名無しさん :2005/10/01(土) 18:56:52
「けいじじょうがく」が正解
394 :
考える名無しさん :2005/10/02(日) 13:24:05
形而上学は、平和学へと進化すべきでしたが、 やはり雲の上の学問が、地上の学問へ下がるのは、 進化の過程では起き得ないことでした。 私が、平和学を構築いたします。 どこかの大学が平和学などといってましたが、平たい内容でした。 私は、マックス・ウェーバーが社会学を構築したのと同じ気概で やります。
頑張れ
396 :
考える名無しさん :2005/10/05(水) 23:30:14
形而上学って全部根拠無いからダメだろ
397 :
考える名無しさん :2005/10/06(木) 00:55:37
確かにダメなのだが、その根拠のない形而上学が自然科学を 根拠付けている側面がある。
>>396 じゃあお前さんが独力で形而上学を滅ぼしてください
399 :
考える名無しさん :2005/10/08(土) 12:56:24
>>398 カントは、諸学が絶滅しても、形而上学だけは生き残ると『純粋理性批判』
の序文で書いていたな。形而上学はしょせん純粋な思考の産物にすぎないから
人類が存続する限り、誰かが思いつく。人類が絶滅すれば、形而上学も滅ぶ。
400 :
考える名無しさん :2005/10/08(土) 13:45:30
この世は滅茶苦茶である
>>396 他のものの根拠となるべきものに別の根拠があったらだめだろ。
根拠となるべきものはそこから出発せにゃならんのに。
認識論とごっちゃになってないか? さもなきゃ存在論的基礎と認識論的基礎を同一視する哲学的立場なのか。
403 :
考える名無しさん :2005/10/14(金) 14:54:15
人間はこの世の説明に形而下学だけじゃ間に合わないから形而上学的発想を生み出した 形而上学を信仰していればとりあえず精神は安定する
404 :
考える名無しさん :2005/10/14(金) 22:59:37
形而上学って人に何かしたら自分に返って来るとかの因果とかだろ?
405 :
考える名無しさん :2005/10/15(土) 21:39:31
形而上学と言うのは経験では把握できないような問いに対して答える為の学でいいの? 例えば、物事の最小単位は何か、宇宙は永遠に続くのか、などが形而上学的問いの代表であった。 しかし今日では、それこそ、クォーク・レプトンなどが発見されており、宇宙の限界年齢も大体予測されている。
406 :
考える名無しさん :2005/10/15(土) 21:44:00
宇宙論と形而上学とを混同するのはやめましょう
ヒューレが同一の根源であるのか、という懐疑ですね。 考え方が異なるんじゃないですか。
408 :
考える名無しさん :2005/10/15(土) 21:58:10
形而上学的遺題という問題群があるのではなく、 形而上学的領域と言う問題領域があるのです。 中身は時代により激しく入れ替わります。
409 :
考える名無しさん :2005/10/15(土) 22:00:45
アリストテレス全巻読みたい
411 :
スレンダー :2005/10/16(日) 00:41:44
形而上学を形而上学するのですか。 面白いですね。
412 :
考える名無しさん :2005/10/16(日) 01:25:45
形而上学は知行一致が原則だから。
413 :
考える名無しさん :2005/10/16(日) 12:21:54
形而上学の説が肉感的に思えるのは俺がバカだからですか?
溜まってるだけだろ。抜いとけ。
417 :
考える名無しさん :2005/10/21(金) 21:04:30
419 :
考える名無しさん :2005/10/26(水) 00:34:09
形而上学はとてつもなく重要だと思います。 現実に起きることばかり考えていたら歴史は発展しなかったでしょう。 カントも自然科学と形而上学ははっきり区別してました(確かそういうこと書いてました) 空想的ではあるが宗教とは異なった学問的立場から平和を模索する一手段だと思います。 私の夢は、カントの著作をわかりやすく解説した本を出版することです。 そういうことが好きな人を従業員にして小企業を作って仲間で達成したいです。 ただし、XXXX出版解釈版(誤解釈も多々ありそう版)と副題付きで出しますが。
420 :
考える名無しさん :2005/11/08(火) 17:17:03
あげ
421 :
考える名無しさん :2005/11/16(水) 00:14:30
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は? :|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ? :i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの? i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。 i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう? i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。 ::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ? :::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。 ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何? -".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを? ::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。 ::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞! ::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
すいません 形而上学の入門書でおすすめがあれば教えてください よろしくおねがいします
423 :
考える名無しさん :2005/11/21(月) 22:56:48
お願いage
425 :
422 :2005/11/22(火) 01:06:24
>>424 どうもです!
ありがとうございました。
426 :
考える名無しさん :2005/11/22(火) 08:42:11
>>402 存在論と認識論を同一視する「立場」って妙ですね。
それは単に、誤謬ですよ。
427 :
考える名無しさん :2005/11/22(火) 08:47:44
>>425 その本は入門と名うっていますが、あまり入門ではありません。
あなたが哲学を大学で専門的に勉強されている方なら、大丈夫でしょうけれど。
428 :
考える名無しさん :2005/11/22(火) 10:15:32
天上の最高善を思考すれば形而上学になる。
429 :
422 :2005/11/22(火) 20:45:31
>>427 助言ありがとうございます。
私の専攻は違うのですが、形而上学に興味がありここでお聞きしました。
427さんのおすすめがあればおしえてください。
430 :
427 :2005/11/22(火) 22:50:41
>>429 形而上学と一言で言っても色々なトピックがあります。
どのトピックに興味を持たれているのですか?
431 :
422 :2005/11/23(水) 00:31:30
>>430 そうなんですよね。。
ただ漠然と形而上学って言葉に興味を持っただけなので本当の入り口にいます。
ですからトピックはと聞かれても…分かりません。
もう少し勉強してからココを覗いた方がいいのでしょうか?
432 :
430 :2005/11/23(水) 08:07:53
>>431 私は哲学を正規教育によってスタートさせましたので、そうでない環境の方が
如何にして形而上学学習の一歩を踏み出すことができるのかについて、
残念ながら助言できません。ただ、トマス・ネーゲル氏の翻訳入門本(あれっ、すみません、
タイトル度忘れ…)は良いと知人から聞きました。図書館などで借りて読まれては如何でしょうか。
大学の哲学教授が書いた入門書を選んで読んでいかれると良いと思います。
433 :
422 :2005/11/23(水) 09:29:38
>>432 大変丁寧に教えていただきありがとうございます。
今日、早速図書館に行って来ます。
434 :
考える名無しさん :2005/11/24(木) 05:31:44
プロティヌスについて聞かせてほしいのだが。 あるいは、善を一度だけみたポンピュリオスについて。
435 :
◆G21qyIOiHI :2005/11/24(木) 07:47:56
#tQkb-XHO
436 :
考える名無しさん :2005/11/24(木) 20:45:38
あ、ごめん。ポルフュリオスだった。 学問的な形而上学もいいが、 実践的な<一者>あるいは<一>をみた人の意見を聞きたい。
訂正しなけりゃわざとですんだのに 俺はわざとだと思った。 名前だけ知ってて読んでないからコメントできんが。
438 :
考える名無しさん :2005/11/24(木) 21:35:49
>>437 ああああ。間違ってました(w。まぁ、ご愛嬌ということで。。。
先日、プロティヌス全集を借りてきて読んでたんだよ。
んで、巻頭にこの人の『プロティヌス伝』が載ってたんだよね。
これいま改めてみたら、「プロティノス」ですね。
プロティヌスは知ってる限り「一者」を4回見た、自分も1回見た、という
記述があってさ、これに引っかかった。
形而上学を学んでる人で「一者」を「見た」人っていないのかな。
体験が伴う哲学というものについて、語れる人を希望。。。
↑意味不明なんですけど… 何が知りたいの?
440 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 08:48:55
>>439 プロティノスが言うところの<一者>を実際に見た人の体験談。
『形而上学』を読んでる人たちは、プロティノスと読んでる本が
被ってるだろうから、一応このスレで振ってみたと。。。
441 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 09:55:20
自分が見たものがプロティノスが見た一者と同一であることはどうやって 判断するんだろう? 一者は「一者で〜す」と宣言しながら現れるのか?
神秘家のみる<一者>などは自我にすぎませぬ。 それを超えて無我に至らねばならぬのです。 by仏陀
443 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 10:19:34
>>441 それは己が認識するのでは。
ああ、これってばプロティノスが書いたとおりだな(ワラ、とかね。
もしかすると、「見る」という行為が、目では見ない
かなり特殊なものかもしれないし。。。
で、そういう体験があった人の体験談を聞きたいと。
444 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 14:08:07
202.223.151.67
445 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 14:11:44
446 :
考える名無しさん :2005/11/28(月) 20:03:24
>>445 いや、あえて言うなら、「見る」ことはできると思うんだけど。
哲学的な思索を行うことでね。プロティノスは実践してるわけだから。
言葉と論理で考えているだけが哲学のゴールだとは思えない。
もちろん「見る」ことがゴールだとも思わないんだが、
4回も「見る」必要性が何処にあるのか、という疑問もあるんだよ。
やっぱり宗教板だな
448 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 14:42:17
むしろ、 啓示や神秘や直観を論理的に解釈したり批判したりすることが 哲学なのかもしれない。 たとえばソクラテスがやってたことがまさにそれ。
449 :
考える名無しさん :2005/11/29(火) 15:19:06
シェリングなんかは、 哲学者よりは魔術師に分類したほうが よい気がしてきた。
451 :
考える名無しさん :2005/11/30(水) 08:54:06
>>448 自分は、ダイモーンを身のうちに住まわしている人がソクラテスだった、
ということを知ったのが、プラトンを読み始めた理由だなぁ。
家族ぐるみで交流してた某神社の巫女さんやってた人が、
そういう人だった。あまりにも日常過ぎて特に不思議とも思わなかったが。
自分にとって、宗教と哲学は隣接分野としか思えないんだよね。
そんな例外的で古代な話されてもな。 フッサールやハイデガーやフレーゲやラッセルやソシュールが神の声で哲学してたわけじゃないし。
453 :
考える名無しさん :2005/11/30(水) 14:29:00
ダイモーンなんて言うから宗教的に聞こえるけど、 良心の呼び声って言えば、 それこそ「日常過ぎる」かもしれんが、 まあ、似たようなもんかもしれん。 パスカルは賭けだとか葦だとかを思い出すだけでも 広い意味ではもちろん哲学者なんだと思うけど、 世間的には、 宗教思想家とかモラリストとか言ったほうがよいのかもしれない。
ダイモーンを良心の呼び声と解釈するのも無理やりすぎるだろ。 啓蒙時代には好まれた解釈だが
>>452 それはわからん。
西洋にも東洋と同じく瞑想法は存在していた。
そしてその瞑想法の影響化に形而上学は生成し。
中世カトリック教会の瞑想法により発展した。
そして近世哲学者の多くは神秘主義/瞑想法についてなんらかの
知識/実践を行なっていた形跡がある。
それが現代まで続いていたとしても、そしてそのことを本人が
黙秘していたとしても不思議ではない。
現象学での超越論的還元って瞑想法だろw 実演してるところ未だ見たことないけどw 現象学者ならできるんだよねw
457 :
考える名無しさん :2005/12/01(木) 22:22:00
「理想的にはすべての命題は真か偽である。」 みたいな信念を抱くのをやめることをきっかけとして、 色々な重要な問題に興味深い示唆を与える方法 だった気がするが。 たとえば想像上の存在者と現実的な存在者との区別の問題とか。 形相的還元はまさに神学っぽくないほうの形而上学の方法かも。
458 :
考える名無しさん :2005/12/02(金) 00:03:29
物が在る事に理由があるのでしょうか 理由は在るものではなく創る物ではないでしょうか? 自意識が芽生え、強くなった 理由とは人間の意識が創った物じゃないのか 何故事象を認識するのか?存在するために認識する必要があった 生物は何から生まれたか?空間と物質 空間と物質・・・宇宙 宇宙の謎がわからない限り考えても意味がない
459 :
ヘイト ◆iyx/0deoUw :2005/12/02(金) 00:15:07
んな無茶な 逆しか無理だろ
460 :
考える名無しさん :2005/12/13(火) 09:49:35
形而上学で宇宙を考えることができるのかね。 沢山の宇宙を考えることになるのか、あるものから宇宙全部に高めたものを考えるのかね。
462 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 06:58:00
>>424 の本が、分析にも強いスコラの専門家によって
邦訳中だったらいいのお。
463 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 09:01:16
哲学で言うところの「宇宙」と、物理で言うところの「宇宙」では 意味が全く異なるということをまず知らなければなりません。
464 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 09:07:18
>>463 馬鹿いうな。
想定された宇宙は多様である。
465 :
考える名無しさん :2005/12/20(火) 09:23:59
>>464 笑止笑止
_,,;::-―ー-:;:,,、
/'''''' '''''':::::::\
|::-=・=-;;;;;;;_-=・=-:::|
| .:"ー=〓=-'`:::: |
\ `ニニ´ .::::::/
,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
: | '; \_____ ノ.| ヽ i
| \/゙(__)\,| i |
> ヽ. ハ | |
言うなれば私は、私の天才的知能により誰もが持っている「内なる世界」
とでも呼ぶべき世界を、常人より遥かに優れた形で構築してしまっている。
その世界は既に外界のそれに迫り、一部では遥かに凌駕してしまっている。
466 :
考える名無しさん :2005/12/23(金) 21:47:20
形而上学って何なのか分かりやすく教えてください!
形而上学は当て字
468 :
考える名無しさん :2005/12/23(金) 22:55:37
形而下が経済とか商学とか法学とか、自然科学とか、って言ったら少しわかるかな。
469 :
考える名無しさん :2005/12/24(土) 02:54:01
470 :
ぽっくん ◆5m18GD4M5g :2005/12/24(土) 03:04:05
デカルトの考えた知恵の木 実を結ぶ枝3・・・道徳 実を結ぶ枝2・・・医学 実を結ぶ枝1・・・機械学 幹・・・自然学 木の根・・・形而上学
471 :
考える名無しさん :2005/12/24(土) 23:37:11
472 :
考える名無しさん :2005/12/24(土) 23:51:02
>>466 形而上学の確立を目指すカント「純粋理性批判」によれば、
形而上学のテーマは、神・不死・自由。
473 :
考える名無しさん :2005/12/26(月) 00:35:52
>>472 神・不死のセットはなんとなく分かるけど
自由が一緒くたにされてるのが分からないお
474 :
考える名無しさん :2005/12/26(月) 02:07:47
>>473 >自由が一緒くたにされてるのが分からないお
『人間には(普通の意味で口にするような)自由などない、人間は、とことん自然に縛られてしまっているのだ』
という考え方を、一度通過しておくことが必要かと思います。
例えば、スピノザの「エチカ」でこんな議論があります。
激しく罵倒されたりしたときに感情がどうしても抑えられないと感じることがあるが、これは、感情が「自らに由る」ものではなく、周囲から左右されるものであることを示し、神を知ることによってのみ、人はそうしたことに振り回されず、善き生を送れるのだ、と。
(スピノザの神は、議論の詳細を知らないとちょっと馴染めないかもしれませんが、実はカントでも事態は大差ありません。例えば、「純粋理性批判」のB114やB395ですが。)
カントは、同書のB447で、「自由」とは「無条件的な原因性」、つまり、どんなにしても上手く説明しきれない原因のことなんだとしていますが、
人間は自然にとことん縛られている、そして、自然の法則に基づく、あるいはいわゆる科学的な原因の説明を踏まえたうえで、それでもなおある原因性、という言い方をしているわけです。
いずれにせよ、人間が自然に縛られた存在だ、という考え方を、いったんは、通過してほしいと思います。これには、上にあげた、スピノザの「エチカ」が役に立ってくれると思いますよ。
475 :
考える名無しさん :2005/12/26(月) 03:16:31
あくまで言いたいことは
>>474 のほうで書いてしまったつもりですが、
それでもなお、ちょっと補足しますと、
カントの「純粋理性批判」では、従来行われてきた方法で「神」を証明することができないということを示すことが、大きなテーマの一つになっています。
ただし、他方、それを認めた上でなお、「人間の現存在の最高目標である、宗教」を守ることが、カントの目標となっています。
これは、「自由」の論じ方と、同じ手法であることが分かりますでしょうか?
つまり、カントにおいて、「神」と「自由」は、実は繋がっている課題だということです。
これは、B395の注で、「神」と「自由」と「不死」との関係として、はっきり明示されています。
「自由」というと、現代的かつ至極正当なテーマで、
「神」や「不死」となると、何やら怪しげなテーマに感じるのは、もちろん分かりますが、
それならなおさら、「自由」はそもそもどういうところで言い得るのか、について勉強すると、
目を開かれる思いがすると思います、きっと。
476 :
考える名無しさん :2005/12/28(水) 00:24:31
そもそも、人に自由はない。 が、人はあたかも自分が自由であるかのように思うことを免れない、このことを否定しようとしても無駄である、という前提から、カントは形而上学を始める。
形而上学復活!!?
479 :
考える名無しさん :2006/02/10(金) 19:28:54
形而上学ってなんですたれたの?
形而上学に勝敗を決める ♖ฺ♘ฺ♗ฺ♔ฺ♕ฺ♗ฺ♘ฺ♖ฺ ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ ♜ฺ♞ฺ♝ฺ♚ฺ♛ฺ♝ฺ♞ฺ♜ฺ
♟
♖♘♗♟♕♗♘♖ ♙♙♙♙♙♙♙♙ ♟♟♟♟♟♟♟ ♜♞♝♚♛♝♞♜
sugeーーーーーーーー!!!!11
自由をコントロールにおきかえればよい 自分の身体が自由である とは 自分の身体をコントロールできていると解釈し 自分の思想が自由である とは 自分の思想がコントロールできていると解釈する
>>479 形而上学、すげー流行ってるじゃん。
『科学哲学』の論文の半分は形而上学関連。
486 :
考える名無しさん :2006/03/07(火) 02:16:00
おれも混ぜて。 少しばかり哲学をかじると人は無神論に傾く、しかし哲学を深く知ると こころは再び宗教へ戻っていく。 ベーコンがこんなこといってた。
昔は物理学も社会学も心理学もみんな哲学だった。 次第にそれぞれの分野に展開して、結局形而上学だけが残った。 つまり哲学=形而上学。
488 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 03:15:24
リーマンはカントの先験的感性論に影響受けたらしいんだけど、 あれって現代ではどう考えられてるの?自然科学がいくら発達しても、 ああいう議論は出来ないよね。ならそれなりに有効性はあるわけだ。
489 :
考える名無しさん :2006/03/27(月) 05:37:54
カントの空間に対する考えはいいけど、自然数に対する考えはちょっとどうかな。 自然数こそ、第三の主観的形式じゃないの?
490 :
考える名無しさん :2006/04/25(火) 00:18:54
なあに、かえって免疫力がつく。
491 :
考える名無しさん :2006/04/27(木) 13:46:38
前に狼板でみた刑而上学スレはなかなかよかった
492 :
考える名無しさん :2006/06/21(水) 13:41:24
⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーン
493 :
考える名無しさん :2006/07/15(土) 16:41:46
形而上学が専攻できる大学ってどっかある?
トロープってなーに?
495 :
考える名無しさん :2006/07/18(火) 12:33:38
┐(´ー`)┌ヤレヤレ
497 :
考える名無しさん :2006/07/23(日) 21:57:01
♖ฺ♘ฺ♗ฺ♔ฺ♕ฺ♗ฺ♘ฺ♖ฺ ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ♙ฺ ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ♟ฺ ♜ฺ♞ฺ♝ฺ♚ฺ♛ฺ♝ฺ♞ฺ♜
498 :
考える名無しさん :2006/07/27(木) 03:43:15
499 :
考える名無しさん :2006/07/27(木) 05:28:58
ポストモダン以降の哲学に興味がわきません(><)
500 :
考える名無しさん :2006/07/27(木) 11:53:58
ポストモダン以降なんて言葉初めて聞いたwwww
501 :
考える名無しさん :2006/09/22(金) 15:03:06
誰かいませんか
502 :
考える名無しさん :2006/09/22(金) 15:53:57
ある子が「形而下」、なんてのは時を忘れての 単なる「逃げ」、って断言してたよ。
504 :
考える名無しさん :2006/10/02(月) 22:30:53
形而上学なんて哲学とは呼ばないって偉い人がいってた
あぼーん
あぼーん
507 :
考える名無しさん :2006/10/07(土) 20:24:58
根源的なものから、どうして悪が生じてくるのでしょうか。
508 :
考える名無しさん :2006/10/24(火) 06:13:34
悪が根源だから?
509 :
考える名無しさん :2006/11/28(火) 11:43:44
どうなんでしょうね
510 :
考える名無しさん :2006/11/28(火) 12:03:41
すべてのものは変化を伴うからだ。有為転変は物事を腐らす。陰陽に変化させるから悪はあるがままのものでしかない
形而上学に関心を持ってます。 形而上学の入門として、おすすめの一般書を教えてください。
え?
513 :
考える名無しさん :2006/12/01(金) 16:12:21
形而上を論ずるのは必然である。 その実在性が直観されるからだ。 意味もなく直観は働かない。 科学的な分析とは異質の直観が形而上学において重要な認識の手段である。 直観を軽視する事への反省により人類の新たな可能性が開かれるであろう。
514 :
考える名無しさん :2006/12/06(水) 14:52:43
taってギリシャ語で「巻」?
515 :
考える名無しさん :2006/12/09(土) 01:41:13
516 :
カンティアン :2006/12/20(水) 21:44:36
>>506 副島隆彦ってだれ?哲学者?
そんな常識、哲学研究者なら哲学習い初めに教わってるよ。
517 :
考える名無しさん :2006/12/25(月) 18:22:33
つか、文脈に依るだろ。 理性でしっくりくるケースはあたりまえのようにあるだろ。
>>516 常識っておまえこんなトンデモが常識な訳ないだろw
以下メタ形而上学を語るスレになりました。
メタ形而上学ってこんど論文集でるんだよな。 もう出た?
>>520 柳田國男のメタ妖怪形而上学がおすすめっすよ。
522 :
考える名無しさん :2007/01/16(火) 04:46:43
カントの形状について
523 :
考える名無しさん :2007/01/17(水) 20:24:08
学校の宿題で分からない問題があったので質問させて下さい。 「義務という動機からなされた行為だけが道徳的価値をもつ、という主張の意味について、カントが提示している4つの実例に則して述べよ。」とゆう問題なんですけど誰か分かる人居ますか?
>>523 それ「道徳形而上学の基礎づけ」のことだよ。
これ以上のヒントはだせないなw
あぼーん
あぼーん
「唯一成功した形而上学は数学である」(ケルヴィン卿) だらか 形而上学=数学 と思っていいのですか?
527 と528 は どこが違うの?
なんで副島さんは、こんな基地外になってしまったのかねえ、、、
531 :
考える名無しさん :2007/03/11(日) 13:52:36
金儲けのため 突飛なこと言ったほうが信者たちの食いつきがいいし注目される 支離滅裂なことを言ってることは本人も自覚してる
プギャプギャ━━━m9(^Д^≡^Д^)9m━━━━!!!!!!!!
533 :
考える名無しさん :2007/04/28(土) 15:27:39
抽象的な、モノ
534 :
考える名無しさん :2007/05/07(月) 00:59:03
人類が科学に行き詰まり、ここに立ち帰ってくる日はもうそんなに遠くないであろう 大衆一人一人が外部から目を背け己の内面と向き合い苦悶する姿が、もうすぐ見られるのだ 在るものが在る、などとということはもう言わせない
535 :
考える名無しさん :2007/05/08(火) 07:14:42
形而上学=認識論 ということを発見したぞ。
>>536 カント的にはそうかもしれないけど。。。
普通は別物でしょ。
538 :
考える名無しさん :2007/06/25(月) 06:58:46 O
形ジュ学の『ジュ』がどうしても変換できません。訓読みで何て読むの?マジレスお願い
539 :
考える名無しさん :2007/06/25(月) 07:00:11 O
自己解決しますた。ゆとり乙
540 :
考える名無しさん :2007/06/25(月) 09:42:10 0
>>498 登録制だから、2ちゃんより真面目に書いてあるね。
>>380 アリストテレスはイデア説を形而上学から無理やり削ぎ落としただけ
とても正攻法とは言えないやり方でね
単に嫌いだったんじゃないの、プラトンのことが
http://geopoli.exblog.jp/ (地政学を英国で学ぶ)
プロパガンダで負けてはいけない:その2
ネオコンの思想的源泉となったとされている亡命ユダヤ系の知識人、レオ・シュトラウスという人物がおります。
現代のアメリカの保守系知識人に相当影響力を与えた人なんですが、彼の思想のエッセンスを私なりの独断的解釈
でいうと、「世の中には絶対の善があり、政治はこれを目指さなければならない」ということにつきます。
なぜこのようなシュトラウスの思想がこれほどアメリカで受けたのかというと、それはなんと言ってもその言論が
出てきた時代背景にあります。彼がアメリカでいろいろと本を書いていた時代は50年代から60年代末までなの
ですが、この時代の後半の特徴としてはベトナムなどが絡んできたこともあり、アメリカの左翼が復活してきた
時代でもあります。
もちろんアメリカ知識人の間でも「相対論」というか「真実なんてないんだ」という議論がまことしやかに
主張されたこともあるのですが、このような時代にシュトラウスは古代ギリシャやローマの話を持ち出して、
「理想の政治を目指さなくてはならない」
と言ったのです。これは一種の復古主義なんですが、この古典関係の知識がすごかったのでアメリカでは
誰も反論できずにブッチギリの存在感があったのです。
最近のこのシュトラウスの批判で必ず出てくるのが「ノーブル・ライ」というか、「支配階級は民衆をわざとだまして
コントロールしなければない」ということを彼が言っていたということです。このようなうがった見方をするのも確かに
「あり」なのかもしれませんが、真相はまだ闇の中。
それよりも私が重要だと思うのは、シュトラウスがアメリカの保守系の知識人たちに、リベラル側の相対主義や虚無主義、
それにマルクス/共産主義の思想に対して、ギリシャ/ローマの古典的な知識を縦横無尽に駆使すれば退治できるヒント
を教えた、という部分です。この伝統を意識的に継ごうとしているのが、現在の保守系知識人ではヴィクター・ディビス・
ハンソンということになると思われますが、シュトラウスと比べるとやっぱりちょっと見劣りしますね(苦笑
>>526 「Gさん(七十歳の癌患者)
私はこのまえの検診で癌に侵されていることがわかり、医者は悪性のものではないと
言いますが、その後の家族の態度などを総合しますと、余命は一年程度であろうと勝手に
思い込んでいます。いままで自分の好きなことは何もしてきませんでした。自分の時間は
すべて他人のために捧げてきました。結婚前は親に絶対服従し、そして結婚後は夫そして
子供のいいなりになっていました。私はそれでいいと思っていました。「幸福だ」とさえ思って
いたのです。
>>544 。でも、癌が私の体内に発見されたとき、このままで死んでしまうのは厭だ
という強烈な思いが身体の底から立ちのぼってきました。小学生のときから
勉強は好きでした。とくに理数系のもの、抽象的なものが好きでした。大学に
行きたいという思いも、親の反対で実現しませんでしたが、私は死ぬ前に
いろいろ考えてみたいのです。例えば、はたして神はいるのか、魂は不滅なのか、
絶対的真理はあるのか、知りたいのです。このまえ本屋でふと手に取った入門書
から、まさにカントという哲学者がこうした問いに一生を捧げた、ということを
知りました。
>>545 入院のとき、夫が「何か読みたいものあるか?
届けるから」と言いましたので、「カントの『純粋理性批判』
をお願いするわ」と答えますと、夫は目を丸くしていました。
そして、ベッドの上で読み出したのですが、予想どおり皆目
わからないのです。いらいらしましたが、いくつかの入門書を
読んでみても、そこに書かれているかぎりではわかるのですが、
どうしても原書との橋がかからない。私はカントのナマの声が
聞きたいのです。一生こうした問いに導かれて生き抜いた
哲学者自身の思索の細かい襞に入って、残された時間を彼と
共にじっくり真剣に考えてみたいのです。」
(中島義道「カントの自我論」p329-330)
>>546 形而上学とはまさしくこうしたGさん(七十歳の癌患者)の「身体の底から立ち
のぼって」くる「はたして神はいるのか、魂は不滅なのか、絶対的真理はあるのか、」
という問いを「頭がしびれるくらい」(中島義道)考えることにほかならぬ。
本を読んでいると形而的にだとか形而上にだとか頻繁に出てくるんですが 意味が分かりません 調べてもいまいち掴めません 一体どういう意味なんですか?
549 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 17:45:52 0
「形而上」ってもとは朱子学の用語だったんじゃなかったっけ。 それを昔(明治頃?)の人が西洋哲学の翻訳語として使い 始めた。だからわかりにくい言葉になっちゃった。 日本語で「形而上的」と言うより英語で「メタフィジカル」と言う 方が分かり易いでしょう。
>>549 むしろ物理学を形而下学と翻訳してもらいたい!
551 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 20:03:40 0
西周だっけ。「形而上学」の訳語を考案したのは
552 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 20:17:42 0
「不動の動者」は認識可能だ、ということを 自らの体験においてはっきりいえる人、手を上げてー!
553 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 22:49:14 O
理性こそが不動の動者かと
形而上学を専攻したいです。 どこの大学へ入学すればいいですか?
>>552 認識可能だから
「不動の動者」
は存在しているんだよ。
超自然学とかメタ自然学でいいんじゃないか オカルト臭くなるが
トランスパーソナル学と形而上学はどう違うの?
マイケル・カントテレットを目指してがんばります。
559 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/09/27(木) 06:17:25 0
奴隷は生きた財産である。奴隷と家畜は大差ない。 というのも、どちらも肉体によって(ギリシャ人の)生活に奉仕するものだから。 アリストテレス
>>560 つなぎ合わせだが そういう趣旨の文はある
それで何が言いたい?
あぼーん
あぼーん
かまって厨
566 :
考える名無しさん :2007/10/01(月) 09:09:49 0
>>549 「形而上」という言葉を『易経』(形而上者謂之道、形而下者謂之器)
からとったと信じていた。朱子学ってどのように繋がってるんだろう。
知識がないのでわからんちゃん。。。
567 :
考える名無しさん :2007/10/01(月) 11:03:47 0
善悪の彼岸読んでたら「関心なき直観」て言葉が出てきたんだけど おおまかにどういう意味?検索しても出てこない
オッカムの剃刀 オッカムの剃刀(オッカムのかみそり; Occam's razor; Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、 必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」( Entities should not be multiplied beyond necessity )と いう指針。(この「実体」は「前提」と解釈してもよい。) もともとスコラ哲学にあり、14世紀の哲学者・神学者のオッカム(William of Ockham)が多用したことで有名になった。 オッカムの著作にある言葉 必要が無いなら多くのものを定立してはならない。 少数の論理でよい場合は多数の論理をたててはいけない。 [編集] 現代英語での表現 「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである」 「剃刀」という言葉は、説明に不要な存在をそぎ落とすことを比喩しており、そのためオッカムの剃刀は 別名「思考節約の原理」"Principle of Parsimony"とも呼ばれる。 同様の指針として、心理学の分野において、「ある行動がより低次の心的能力によるものと解釈できる場合は、 その行動をより高次の心的能力によるものと解釈するべきではない」というモーガンの公準が知られている。 ポール・ディラック理論の妥当性を判断する要件としては、簡潔さのほかに、美しさもある。これらをまとめれば、 「単純で美しい理論こそ真実であろう」という発想だ。 たとえば、ポール・ディラックはこう述べている。 研究者は自然の基本法則を数式に表現しようとするとき、数学的な美しさを追究するべきだ。単純さを求めると、 美しさを求めるのと同じ結果になることが多い。ただ、どちらかを取るとすれば、美しさの方を優先するべきだ
あぼーん
570 :
考える名無しさん :2007/10/01(月) 16:34:57 0
形而上学とは考えていませんが、私には神というもの はわかりませんが、形而上学に近いものと考えています。 検討してください。 −−グーグル検索:C点による時空論 仏教に近いかもしれません。般若心経の色即是空にーー
このオッカムの刃、の凄(すご)みが分からないようでは、日本の知識人階級などというものは、 東アジアの土人だ。土人のまじない師階級だ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
577 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 20:45:48 0
TBSはこうして在日朝鮮人に乗っ取られた。 窓際社員の独り言です。 (1)1960年代 テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかいの問題(例えば「朝鮮民主主義人民共和国」を"北朝鮮"と呼んでしまった、など)に対して、 朝鮮総連から会社及び経営幹部の自宅に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に"在日枠"が密かに設けられる。 総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。 在日枠の密約を所轄官庁に対して内密にしてもらうよう局側から総連に「お願い」をしてさらに弱みを握られ身動きがとれなくなっていく。 (2)1970年代 政府を叩きさえすれば世論が喝采する狂った時代。 在日社員の「反日番組」を「権力に対するペンの戦い」「調査報道」と勘違いした経営幹部が社内で在日を積極登用。 「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」などと理想論を述べたのは良かったが、 しかし昇進差別をしなかったのは甘い日本人幹部だけで、課長、部長と昇進した在日社員は、帰化した在日二世を理不尽なまでに優遇する逆差別人事を徹底。 異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務など番組制作の第一線から退けられる。 (3)1980年代---90年代 昇進した在日社員が主要な報道番組のプロデューサーや報道局長など、決定的なポストを占める。 某サヨク週刊誌の在日編集長をキャスターに迎えたニュース番組が、 学生時代に学生運動に没頭した団塊の世代の視聴者の支持により高い視聴率を得る。 1989年の参議院議員選挙では「土井社会党」「マドンナブーム」を援護。あからさまな社会党支持。
578 :
考える名無しさん :2007/12/13(木) 20:46:39 0
(4)1990年代---2000年代 偏向報道、捏造報道、取材情報を特定の勢力に提供するなど、報道機関として存在を否定されかねない不祥事が続発。 朝日新聞、系列のテレビ朝日が、どちらかといえば「北京の意」を汲んだ報道が多い。 バブル崩壊以降の景気低迷でただでさえ厳しい広告収入が、「サラ金」と「パチンコ」に大きく依存。まさに、在日朝鮮人の資金で在日朝鮮人が運営しているのがウチの放送局。 在日の局長が在日のスターを「作り上げる」ような番組制作が為され、その証拠に「筑紫哲也の番組名」が未だに存在する。
579 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 02:27:28 0
|____ \□ □ / / _____ / / |_____| / / / /  ̄ (⌒ ⌒ヽ ∧_∧ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ ( ; ) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ ) ( ̄ ̄ ̄ ̄┴- (´ ) ::: ) | ( *≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; ) / / ∧ \ (⌒:: :: ::⌒ ) / / / U\ \ ( ゝ ヾ 丶 ソ / / ( ̄) | |\ ( ̄) ヽ ヾ ノノ ノ / ( ノ ( | | \ ノ ( ⊂- ┘( ) └--┘ ( ) UUUU UUUU
580 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 02:57:06 O
キム○クも在日でしょ?
581 :
考える名無しさん :2008/01/20(日) 20:53:41 0
形而上学=ファンタジー
582 :
考える名無しさん :2008/01/28(月) 10:57:23 O
形而上学といえばヤスパース
584 :
考える名無しさん :2008/01/28(月) 16:59:28 O
形而上詩人っていたね
今レポート書いてまつ
今日『現代形而上学論文集』って本買った。 読んだことある人おる?
ほとんど もとの英文の方で 読んでるけど
589 :
考える名無しさん :2008/02/02(土) 11:15:26 0
>>588 英文で読んでるって言いたかっただけですね。
こういうのってライプニッツからカントにいたる流れの焼き直しにすぎんだろ。 英米の連中は歴史を知らなさ過ぎ。
593 :
考える名無しさん :2008/02/03(日) 04:12:42 0
595 :
V :2008/02/03(日) 05:21:57 0
596 :
考える名無しさん :2008/02/03(日) 05:23:28 0
598 :
考える名無しさん :2008/02/03(日) 17:53:09 O
>>592 読んでから言えよ大陸厨(笑)
君らじゃ読みこなせ無いかもしれないけど(笑)
>>598 直近の英米系の状況を知ってたら「大陸厨」なんて言えないはずだけどねえ(爆)
で、トロープって何か教えてくれませんかね?
>>598 過去の古典を押さえるのが先決だろ。
英米分析系の重箱の隅をつつくような下らない議論
の振り回されてる暇は無いはず。
まあ、英米の連中は英語しかできないようだから
語学力が追いつかないと思うけどね。
>>602 どの時代のでも
>重箱の隅をつつくような
ことはしないといけないと思うが
特に若いうちは
というかあの程度を「重箱の隅をつつく」と感じるようじゃ そもそも学問に頭が向いてないだろ。哲学に限らず。
>>601 そんなことは誰でもできるんですけどね。
英米プラグマティストは滅んでくれ
あぼーん
はったりと電波ばかり
612 :
考える名無しさん :2008/02/17(日) 05:48:46 O
C点による時空論ーーーグーグル検索 形而上学の一種かも知れません 宇宙は物理学で観測された以外に存在しません。 しかし、物理学では宇宙は無から生じます。物理の限界です。 宇宙の神秘を、観測によらないロジックによらない思索による 思考の限界まで、追求した概念による宇宙を試論しました。 現象世界の研究は物理学の分野です。本質えの挑戦が哲学です。 B面もC点も矛盾と無限とになります。しかし、ナンセンスとして 逃げないでください。 矛盾も無限も定義されておりませんが、検討してください。 読んでお分かりとは思いますが、すこし蛇足をいたします。 持続と瞬間との同時存在について述べます。 時間は、過去、現在、未来と流れます。 過去より現在に至る瞬間をマイナス0とします。 現在より未来に至る瞬間をプラス0とします。 現在はプラスマイナス0であります。 マイナス0は過去は存在し決定されたものですので、変化を認めません。 プラス0は過去と現在より条件ずけられますが、幾分の自由度があり 変化もあります。 過去は過ぎ去ったもので、無であります。 未来はいまだ来たらぬもので、無であります。 現在は有でありますが、0ですが連続します。 数直線上の0と1は、無限という概念を入れることで、0より1まで 連続します。現在という瞬間も、同様に連続します。 現在という瞬間は0秒まで考えています。 以上蛇足ですが、追加しました。
C点による時空論 過去の論説を発展させたものではありません。 哲学に問題をだします。 無限と矛盾です。ナンセンスとして逃げないでください。
哲学と自然科学とは、大きなギャップがあり、どうすることも できません。矛盾を認めるところでは、数学も物理も成り立ちません。 知られざる存在を想像し、思索するだけの限界は、認めざるを得ません。
形而上学って、放っておくと電波のたまり場になるよな…
数学以外のまともな形而上学ってあるの?
そうだよね。 しかし 「数学はただひとつのよい形而上学である」 (ケルヴィン卿) Mathematics is the only good metaphysics (Lord Kelvin) は有名だけど。
ルークスじゃないの?
ロークスだと思い込んでたがラックスなのか。
訳本まだー
ルーじゃないのか?
大柴か
コピペだけど 感性=ア・ポステリオリな総合的判断 悟性=ア・プリオリな総合判断 理性=分析的判断 に感心したのだが、どうなんですか? 誰か上級者はいないの?
628 :
カント :2008/06/12(木) 17:26:45 0
そもそも宇宙論は無から始まるといってないんですよ。 失礼ですがあのホーキングでさえこのことがまだわかってないんです。 それと感性とか悟性についてのべたのは インマヌエル・カント という人でロックなどがとなえた経験論はおおまか正しいが間違って いるといいました。そのことを説明する純粋理性批判という著書で上の言葉を使っているんですよ
>>627 ア・ポステリオリ、ア・プリオリから勉強しなおしだ。
630 :
考える名無しさん :2008/07/22(火) 12:22:55 0
形而上学の現在 飯田 隆編/伊藤邦武編 岩波書店8月7日 税込価格:3,360円 ISBN:9784000112628 形而上学の今日的なヴィジョンと語り口とは。大きな物語の廃墟をゆく、意味と価値の源への探険。
631 :
考える名無しさん :2008/08/23(土) 11:13:18 0
age
そもそも形而上学って下部構造を無視しているというか、 下部構造に関する認識がなかった時代の産物なんで 徹底的に時代遅れでしょう。
633 :
考える名無しさん :2008/09/06(土) 15:18:10 0
>>632 そのような考え方が、それと知らず
形而上学に基づいているんだよ。
形而上学って結局何を目指してるの?
ちくま新書からカント読本が出てるけど読んだ人いる?
637 :
吾輩は名無しである :2008/09/22(月) 18:18:35 0
カントは難しいですー。何から手を出したらいいか困ります。 でも、カントの物自体とライプニッツのモナドロジーが異なるものであることは、 理解しています。
638 :
考える名無しさん :2008/09/24(水) 15:01:06 0
カントの著作のそれぞれについて、良い訳本を教えてください。
639 :
考える名無しさん :2008/09/25(木) 18:03:01 0
私にも教えてください。
ノーマン・ケンプ・スミス
次元や時間に関することって、ここでは扱うべきでない?
>>641 読んでやるから、とりあえず次元や時間について語ってみ。
643 :
641 :2008/10/07(火) 22:12:11 0
お、ながらく全然レス無い(というか流れを止めてシモタ)と思っていたけど、 ついさっき書き込んでくれた人がいたか。 もうだいぶ前に他のとこに書いてしまったのだけど、コピペさせてもらうよ。 3次元空間+1次元時間と呼ばれているこの宇宙が、実は時間とともに分岐して、 似たようなパラレルワールドが次々作られていると考える考え方があったはず (多元宇宙論?)。 このばあい、パラレルワールド自体が3次元空間+αの空間軸と考えていいと 思うのだけど、それを前提にして考えると、時間軸も+βとなるかもという 妄想が浮かんできた。 それをもとに、時間とは何かという問いについて、ヒントになりそうなことを 最近あれこれ考えている(以下は別スレで書いた俺の文章のコピペ改訂版)。 適切な言い方になるかわからないけど、一本の木の主幹の部分がビッグバン (宇宙の始まり)だとする。 時間が経過し、枝はどんどん無限に枝分かれして、細い枝の最先端は、 現在を表しているとする。 未来にも、その先でどんどん分岐は起こりつつ、宇宙は肥大化する。 (※分岐が起こるポイントは、時間の最小単位とされるプランク時間ごと。 ) ところが一度分岐した枝からは、隣に生まれた枝(パラレルワールド)を 認知できない(人間の認識の限界)。 そしてその各枝は、それぞれ同じ時間で存在していたとしても、状態が異なっている。 遠い過去に分岐した枝ほど、状態がかけ離れていく可能性が高まる。 それゆえに時間をとめて「枝の先端から他の枝の先端へどんどん渡り歩いていく」と、 あたかもパラパラ漫画を見ているかのようにみえる。 つまり時間をとめても、パラレルワールドを渡り歩くと、その歩み自体が 時間と同じ感覚で表現できる。 我々の生活上使われている時間の正体も、もしかしたらパラレルワールドを 渡り歩いている状態と同じことなのかもしれない。
やっぱり 「次元や時間に関することって、ここでは扱うべきでない」 ということだな。 哲学と物理を混同していては話にならん。
645 :
643 :2008/10/09(木) 19:43:06 0
学問に線なんて一本びしっと引けるモンじゃないでしょ。
ちなみに
>>643 は物理スレにも書いたけど、物理じゃないといわれたよ。
よろこんで付き合ってくれた人もいたけどね。
哲学は全ての学問の祖だから、そっちには関係なくてもこっちには用が
あるんだというのが、よその分野のスレに出かけていく哲学ぽいことにも
興味ある人の言い分だと思う。
それに形而上学って物事がそのようにある理由を考える学問なんだから、
物理やその他の学問とかぶる部分が多いのは当たり前なんじゃないの?
形而上学に限らず、哲学とその他の学問がはっきりと区分できると考えて
いるほうがおかしいと思うよ。
哲学でも物理でもないな。 妄想だな。
647 :
643 :2008/10/09(木) 23:51:55 0
>>646 そうだよ。そう書いてあるだろ。
お前程度の奴が「ボクちゃん形而上学スレの常連でちゅ〜」ってな感じで、
聞いてやるから書いてみろとか抜かす程度の板なら用はない。
648 :
考える名無しさん :2008/10/17(金) 04:04:33 0
三浦さんの本がそこら辺扱ってない?
649 :
考える名無しさん :2008/10/21(火) 18:17:58 0
カントの哲学 池田雄一 河出社 を読んでいます。私は読みやすいと思いますが、 最後まで読んだら、感想させていただきます。
650 :
考える名無しさん :2008/11/02(日) 18:29:34 0
質問です。時間と空間が人間の感性の形式に過ぎないとするならば、 人類が存在する前にあるはずの「時間・空間」とは何なのでしょうか?
答え: 問い自体がおかしい。
653 :
650 :2008/11/02(日) 19:01:35 0
時間や空間を介しない世界は存在しない、とカントは言っているのでは? となるとそれ以前の世界はなかった、ということ?
654 :
考える名無しさん :2008/11/02(日) 19:45:49 0
>>653 人間が無ければ、時間・空間という認識は存在しない。
655 :
650 :2008/11/02(日) 21:08:19 0
というと、人間が現れる以前の世界はいわゆる「物自体」の世界という解釈で いいのですね。
656 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/02(日) 21:19:29 0
ちがいますね、混沌という。 それを世界創生のちょい前というですなぁw。
>>655 「人間が現れる以前の世界」をいま人間が考えているからさ。
宇宙の起源を探ろうと何億もの金をつぎ込んでる天文 学者は、実は誤った仮象に惑わさているのですか? そんなことせずに自分の超越論的な内観で、自分の認 識の中に宇宙の起源を探ればいいですか?
659 :
考える名無しさん :2008/11/03(月) 10:56:03 0
法政大卒 池田雄一氏をご存知でしょうか?
660 :
吉田メロウ :2008/11/03(月) 11:00:54 O
>>659 人探しなら他所でやってくれ。我々は今、我々の起源を考えることで忙しいのだよ。
(*^‐^*)b
>>658 カントは日常的世界だよ。
宇宙とかは別の話。
662 :
考える名無しさん :2008/11/03(月) 17:33:38 0
>>661 それなら、宇宙開闢以来続いている時間の経過は認めるが、それまでの
世界はわれわれが認識できない世界ということだね。
>>662 宇宙のことなら、相対論の時間。
日常的なことなら、カントの時間。
わかったかい?
>>663 宇宙の起源をめぐるアンチノミーの話してるから
どう見ても宇宙の話だろ。
665 :
考える名無しさん :2008/11/03(月) 21:21:33 0
カントの言ってる世界とは宇宙も含めてだろ。
で、カントン包茎は、どうすればいいの。 ちょちょちょと待って、俺は火星方形だからねw。 引っ張れば、出るよwwww。
カントの「宇宙」とは、日常的なこの世界のことだよ。 アインシュタインの宇宙があることは、予想外だった。 しかし、それはあまり重要でない。 経済学はカントの時間だよ。 心理学も。 生物学も・・・・
668 :
考える名無しさん :2008/11/04(火) 00:16:38 0
時空間という実体はあるが、われわれは制限された仕方で時空間の構成する 世界を認識せざるを得ない。われわれ以外の生物はまたちがったやり方で 認識しているのだろうけど。
否。 そんな高尚なことではないよ。 カントのいってることは、 「ニュートンの時空を、物理以外(経済学等)に使ってもいい」 と言っただけ。
670 :
考える名無しさん :2008/11/10(月) 17:45:06 0
形而上学っていう訳語って賛否両論あるよな
「超自然学」とでも訳せばいいわけ?
自然学後門ぐらいが適切か
>>670 「メタ物理学」が一番しっくりくる。
もしくは「形而上学」を保持したまま、物理学を「形而学」に変えるとかw
プラトンの原典全集はOCTのPlatonis operaが良いね(^^)v
675 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 01:37:33 0
アリストテレスの形而上学ってさ原文のギリシア語のほうが 読みやすいんだがw。これは日本語訳が固すぎるのか? やけに堅苦しい訳だとおもう。
676 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 01:54:38 0
ギリシャ語でおk
677 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 02:04:09 0
うん?ギリシア語でよんどけってこと?
>>675 ギリシャ語読めないくせにwww
FUCK OFF!!!
680 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 18:13:20 0
681 :
考える名無しさん :2008/11/11(火) 21:15:00 0
当然みんなアリストテレスの形而上学はギリシア語でよんでるよな? パンテス アントローポイ トゥ〜 エーデナイ オレゴンタイ ピュセ〜
とりあえず初学者はちくま新書のカント入門→訳なんでもいいからプロレゴメナ読んどけば間違いない。
>>650 そういうのに関しては理性は知ることができないし、考えてもムダ。ってのがカントの主張。
「純粋理性の限界を画する」ってのはそういうこと。
684 :
考える名無しさん :2008/11/12(水) 02:35:52 0
アリストテレスのギリシア語はいいよね
685 :
考える名無しさん :2008/11/16(日) 03:10:48 0
テオプラストスも形而上学書いたらしいんだけど知ってる人いる?
687 :
考える名無しさん :2008/11/17(月) 16:55:08 0
多分そうです。どんな内容なんだろう・・・
688 :
考える名無しさん :2009/02/06(金) 20:26:40 0
691 :
考える名無しさん :2009/02/20(金) 04:25:15 0
【レス抽出】 対象スレ: 【カント】形而上学を語るスレ【アリストテレス】 キーワード: ルイス 抽出レス数:0
692 :
考える名無しさん :2009/02/20(金) 04:26:53 0
@@@@@@@@ ‐=*ニ,>/.i <,ニ*=‐ @@@@@@@@@@@@@ | ,,ノ(、_, )ヽ、,, | ヽ: il´トェェェイli / うだつの上がらない哲学教師 ヽ:!l |,r-r-|! / によるワラウム自演なのかね〜? / ̄ヽ - `ー、 / : ヽ. i ノ : i i |. ゚、 _ ノ ヽ_゚ ノ,、 | |. | | | | | ! ! | | | / ; V / |/ `、/ / .((i)) \ / ./~\ \
しょうがないね ル・サンチマン™ がまたしつこく駄文自レスの醜いコピペを繰り返してるね。 ここで再度 ル・サンチマン™ さんとはなにか確認です @無職であり、醜いコピペを貼ることが生き甲斐である A容姿が醜く、コピペも醜い B「自然科学」の威を借りようとするが、 学問的な裏付けは全くしない、つ〜か出来ない、醜いコピペしかできない Cソーカルをしばしば引き合いにするが、ソーカルが何者なのかは全く理解していないが、醜いコピペは貼りまくる Dソーカル事件がアイデンティティになってしまっているだけでなく、意味不明の醜いコピペを板中に貼る E醜いコピペがそっくり自分に当てはまる F何故かポストモダンにいまだに劣等感を抱えていて該当スレは彼による醜いコピペで埋め尽くされている Gル・サンチマンとは「知的ルサンチマン」を意味し、ル・サンチマン™ はそれを一身に体現する哲板名物の醜いコピペ野郎である H醜いコピペを駆使し、訳の分からない自作自演をする Iリアルアカデミスト(???笑!)どころか誰に対しても一切届かぬ醜い意味不明コピペ J裸のデブ男の絡み合いに関する飽くなき執着&その醜いコピペ K言い負かされると、その他人の書き込みを他スレに醜いコピペに改変して貼りまくる Lさらに発狂すると「スナインコッコスマナラコッサーラ長老派」とか訳の判らん醜い戯言コピペを板全体に貼りまくる M無職無能低学歴と指摘されて反論できず馬鹿の一つ覚えの醜いコピペを繰り返す ←今ここ
(⌒ ⌒ヽ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ (´ ) ⌒::: .) (´;: ::⌒`) :; ) /∴,zェェ.ュ'.:''::´zェェ.ュ:i ∧ ヽ. ヽニニソ l 血管ブチ切れすぎじゃないのかね〜?w /∵\ヽ / | x 9 / / ´ ,.!_;;;:r''.. ` 、 ,...-‐' _,....-‐'" `'-、:: ` 、 /.. ,....―'" `ー、__ `l /_;::::-'" /::::::::::::::::ノ ,.../._r'" ヽ`''「 ̄ ̄ (__ノ' \_\
○ ○ ○ ‖__‖__‖ /∵∴∵∴\ / \ |∵-=・=- -=・=-∵| (⌒ ` (・・) ´⌒) \_/ ̄ ̄\_/ ヽ: il´トェェェイli / 大きな物語は終焉したんじゃよ? \ /⌒⌒ヽ / \ \ ・ | \ ( 人 ) / ヽ \ / ゝ ヽ \ / | \ |;; | \/ | | \ l |;; ;;; |\__/ | | \ ̄ ―|;; ;;; |-/ | .| \ |;; ;;; |/ | | \ |;; | |/ | | | |; ;; ;;| /| | セイヤッセイヤッセイヤッセイヤッセイヤッセイヤッセイヤッセイヤッ ______________ /δ⊆・⊇ 。/†::† /δ ⊆・⊇。 /| ♪ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
696 :
考える名無しさん :2009/02/25(水) 17:24:16 0
ソレスタルビーイングのガンダムマイスターが量子脳波を使っているからなんだよ!
697 :
考える名無しさん :2009/03/05(木) 22:47:24 0
698 :
考える名無しさん :2009/03/15(日) 17:52:24 O
カント(1724〜1804、ドイツの哲学者) 目的論 ●動物には自意識がない。動物は単に目的の手段としてのみ存在する。 ●その目的とは人間である。 ●したがて人間は動物を道具として利用することができる。 カントって馬鹿でつか?
699 :
考える名無しさん :2009/03/20(金) 14:39:09 O
●神は、ある目的のため、動物を創造されました。 ●その目的とは人間である。 ●したがて人間は家畜を道具として利用したり食べたりしても、神は祝福されるのです。 このドグマと、カント哲学の違いを説明できる人は挙手
700 :
考える名無しさん :2009/03/20(金) 14:52:46 O
アリストテレス 「奴隷は生きた財産である。・・・ 奴隷と家畜の用途には大差がない。 なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」 「奴隷は理性はもたないが,主人の命令に従いうる程度には理性に与り, 自分の利益のために,家畜とほとんど変わることない肉体労働を通じて主人に仕えるように生まれついた」
ヒュームを読んだけど、カントそっくりだった。 「コペルニクス的転回」も最初はヒューム。 と思った。 そうですよねぇ。
sage
>>700 さすがはアリストテレス
現実を正しく捉えているな
704 :
考える名無しさん :2009/05/08(金) 12:49:48 0
705 :
考える名無しさん :2009/05/08(金) 13:23:59 0
706 :
中上 :2009/08/13(木) 11:30:04 0
俺のことか?
707 :
私小説論 :2009/08/14(金) 14:21:07 0
『タイピー』"Typee", 1846年 『オムー』"Omoo", 1847年 『マーディ』"Mardi and a Voyage Thither", 1849年 『レッドバーン』"Redburn, His First Voyage", 1849年 『白いジャケツ』"White-Jacket", 1850年 『白鯨』"Moby-Dick", 1851年 『ピエール』"Pierre or the Ambiguities", 1852年 『代書人バートルビー』"Bartleby the Scrivener", 1853年 『イスラエル・ポッター』"Israel Potter", 1855年 『短篇集』"The Piazza Tales" 1856年 『詐欺師』"The Confidence-Man", 1857年 『ビリー・バッド』"Billy Budd", 1924年
708 :
私小説論 :2009/08/14(金) 14:22:18 0
『タイピー』"Typee", 1846年 『オムー』"Omoo", 1847年 『マーディ』"Mardi and a Voyage Thither", 1849年 『レッドバーン』"Redburn, His First Voyage", 1849年 『白いジャケツ』"White-Jacket", 1850年 『白鯨』"Moby-Dick", 1851年 『ピエール』"Pierre or the Ambiguities", 1852年 『代書人バートルビー』"Bartleby the Scrivener", 1853年 『イスラエル・ポッター』"Israel Potter", 1855年 『短篇集』"The Piazza Tales" 1856年 『詐欺師』"The Confidence-Man", 1857年 『ビリー・バッド』"Billy Budd", 1924年
709 :
私小説論 :2009/08/14(金) 14:23:18 0
『タイピー』"Typee", 1846年 『オムー』"Omoo", 1847年 『マーディ』"Mardi and a Voyage Thither", 1849年 『レッドバーン』"Redburn, His First Voyage", 1849年 『白いジャケツ』"White-Jacket", 1850年 『白鯨』"Moby-Dick", 1851年 『ピエール』"Pierre or the Ambiguities", 1852年 『代書人バートルビー』"Bartleby the Scrivener", 1853年 『イスラエル・ポッター』"Israel Potter", 1855年 『短篇集』"The Piazza Tales" 1856年 『詐欺師』"The Confidence-Man", 1857年 『ビリー・バッド』"Billy Budd", 1924年
710 :
考える名無しさん :2009/08/14(金) 14:24:39 0
お前を吸収してやろう
711 :
考える名無しさん :2009/08/15(土) 01:40:09 0
カントに批判された中世スコラ形而上学は、どう反論できますか?
カントとスコラは、どっちもどっち。
713 :
考える名無しさん :2009/08/15(土) 15:52:37 0
712さん、スコラとは誰を指示されてますか。詳しく説明していただけるならお願いします。
714 :
考える名無しさん :2009/09/02(水) 11:03:19 0
カントはキリスト教を否定したんですよね。 新たな形而上学を打ち立てた。ところが信じるものは神だなんて 発言していると、ある本に書かれてました。 そのころの神といったらキリスト教のことなのに矛盾してませんか?
「哲学者の神」という言葉もある
のりpが形而上学を実践してる
>>715 ではカントはキリスト教以外の神を信じたということ?
カント誕生の前世紀三十年戦争でカトリックもプロテスタントも疲弊して
ライプニッツやクリスチャン・ウォルフの時代を経て啓蒙思想、絶対王政の
中でカントが導き出したのはキリスト教以外の何かでしょう?
それが新たな形而上学つまりカントの神って何でしょう?
ひょっとすると批判哲学そのものだったりして。
あぼーん
カントが分かりつつある
720 :
考える名無しさん :2009/10/06(火) 14:43:10 0
>>714 「実践理性批判」の結語に沿えば、
世界を創造した神と比肩し得るものを人間存在の中に見出したんだろう
それがカントにとっての「信仰」
721 :
考える名無しさん :2009/10/22(木) 11:42:16 O
tesuto
722 :
考える名無しさん :2009/10/28(水) 22:18:11 0
形而上学とは、 空間で、精一杯、時間を使ってみる試みです。
723 :
よふ :2009/10/29(木) 01:38:03 O
全消しと一緒
724 :
考える名無しさん :2009/11/01(日) 13:51:09 0
アリストテレスとプラトンの思想の違い何だべか? 今テスト勉強中。
人倫の形而上学は、理想社と岩波、どっちの訳がいいんでしょうか?
分析形而上学の教科書まだ?
727 :
考える名無しさん :2009/12/13(日) 02:07:57 0
全七巻w
シリーズ 現代哲学への招待 形而上学レッスン 存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド E.コニー / T.サイダー著 小山虎訳 四六 ● 320頁 発行日:2009年12月 税込定価:3,360円
新参者ですmんが、公務員試験で形而上学と言うものをふと聞いた。 なんか俺の長年にわたる疑問はこの分野なのかなと思った 何故重力があるのか、質量というものは何故あるのか。 1+1は何故2になるのか。大学で法律の先生に対して「何故刑法199条はあるのか」 ということを問い詰めても「人が死んだら社会的な利益云々」 何故人が死んではいけないのか、何故人は死ぬのか。それは法律の分野じゃないらしい たとえばタレスなんかからみたら水の存在が形而上的だったのかな?その時には原子や反物質のことなんかわからなかったわけだし。 今は形而上学もいくつかの分野に分かれてなくなってきてるるらしいけど・・・ そうあるべくしてあるのだから受け入れるべき というのは本当に受け入れていいのかな? その時点で思考が停止しそうでいつも気持ち悪くなる。でも考えても答えはでない こんな俺にお勧めの本を紹介してくれorz
>>730 そんな理解できるような単純なものではないよ。なので勉強しても無駄。
長年疑問を持ち、それが正解。
貴方が尋ねている、そして理解しようとしているのは物事の本質、真理だよ。
それは定義したら、本質や真理ではなくなるってことをまず理解したほうがいい。
建前の理屈で知識として覚えても無意味ってこと。
武道に「見の目を弱く、観の目を強く」という言葉がある。
貴方が知識の目で見ようとしているのは見の目であって、観の目ではない。
そして形而上の対象とは観念の目でみることであって、それを語っても
まったく表層だけをみた建前の屁理屈に等しい。
物事の外面を見て理解したいという気持ちはわかるが、その意図する方向は
物事の内面、つまり見えざる領域にある。
形而上の観念を悟には?学ぶことではない。 正しく教えるならば、「それは分からない、それだけ」 この一言程度の意図が理解できるとき、貴方は形而上の類が何かを 自身へ説明できる。他人へ建前の表現で説明できるのは幻にすぎない。
>>730 哲学は考える手伝いはしてくるかも知れないけれど、結論はおそらく与えてはくれない
とりあえず、哲学や形而上学は不案内のようなので
『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』永井均著 ちくま学芸文庫
あたりを読んでみてはどうか
734 :
考える名無しさん :2010/03/11(木) 15:31:12 0
「858」 冒頭加筆します。ここのうしろに「722」番の中から、「合理
(ratio ラチオ)と「理性(reason リーズン)」について、再掲載します。
お読みください。2007.6.18 今月6月30日
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200706.html 私たちは、3年ぐらい前から、reason リーズン は、「理性」(あるいは、理由)などと
いうコトバに訳して、日本人の知識階級は、それで分かった気になって、実際は、何にも
分かっていない。「理性」という言葉にして、アホダラ経の有り難い、お経を読むように
難解な日本語翻訳文で、何か分かった振りをして、それで、偉そうに、「自分は高学歴で、
知識階級に所属する」と、勝手にうぬぼれてきた。
私、副島隆彦は、そういう人間全員を許さない。もし、上記の私の「真実読み破り訳」に
ケチを付け、異議を唱える者がいたら、その者は、どうどうと名前を名乗った上で、私に
問答を提起してきなさい。私が、10時間ぐらいかけて、懇切丁寧に説明します。
分かったふりは、一切、無しだ。どこからでも、どんなコトバを使ってでも、すべて解明
されなければならない。自分が分かったふりをして、私、副島隆彦をせせら笑うようだと、
その自分自身の、脳天が逆襲を受けて、激しくもんどり打つから、覚悟しなさい。私には、
いい加減な日本土人(どじん)の分かった振りは、一切ないのです。
735 :
『啓蒙とは何か』より :2010/04/04(日) 12:15:34 O
啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。 ところで、この状態は、人間が自ら招いたものであるから、彼自身に 責めがある。 未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない 状態である。 ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。 というのは、この状態にある原因は、悟性をあえて使用しようとする 決意と勇気とを欠くところにあるからである。 それだから「敢えて賢こかれ!(Sapere aude)」「自分自身の悟性を 使用する勇気をもて!」−−−これがすなわち啓蒙の標語である。 イマヌエル・カント『啓蒙とは何か』岩波文庫 p.7 (2004年)
736 :
考える名無しさん :2010/04/16(金) 15:53:05 O
age
737 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 09:25:55 0
カントはビッグバンについても語っているはずだ。 神については世界の外にあると語っているはずだ。 ということは形而上学は世界の外にあること。
738 :
考える名無しさん :2010/04/22(木) 09:59:23 0
最大の疑問はキリスト教を下地にしていることです。 世界史を学んだ方ならご存知の通り、その起源はユダヤ教にあります。 ユダヤ教は、世界初の一神教である古代エジプトのアトン一神教に 影響されて一神教になりました。キリスト教もこれに倣って一神教になったのです。 ユダがカルディア王国(新バビロニア王国)によってバビロン捕囚になったのは皆さんご存知の通り。 バビロン捕囚の期間『旧約聖書』がしたためられました。 一方でメディア王国においてゾロアスターがゾロアスター教を唱えました。 ユダヤ教はゾロアスター教からも影響を受け、善悪、神の国、楽園思想を生み出しました。 キリスト教も然り。 こんな経緯で出現してきた宗教を過大評価してカントの哲学を 論じていいんでしょうか? カントによる新たな形而上学を語る上でまずしなければならないのは キリスト教を超えた議論ではないかと。
たとえば<主−客>というとき客に相当するものを形而といい、 それを上から俯瞰して思惟することを形而上学、でいいんじゃね? ところで現代哲学は一種の形而上学批判なんでしょ。 宗教は特に一神教は完全に形而上学的思考だよね。 だって人間の外側に神をおくでしょ?