私はこの板の「真面目の人生の目的を考えませんか?4」で
163として考えを示した通り、この世界(母集団=宇宙全体)は有限であり
また、ほぼ混沌(偶発の総体)であるが、有限(≠無限)であることによって
「偏りの事件として秩序(意味)」も必然的に、局所的に発生すると考えました。
また、誤差(理論と現実世界の不一致)という現象は、逆説的に人間を
目的論的な束縛から救う一筋の光(自由意思の存在証明)ではないかと考えています。
(目的論的世界観は束縛であると捉えるかは別問題になりますが。)
まだ試論としてしか考えていないので矛盾点も多くあります。
まあ、それはいいとしてみなさんで確率に哲学的考察を加えてみませんか?
確率と人間の意思決定(未来)には切っても切り離せないものがあるでしょう。
古来から人間は自らの未来を、占星術に代表される「占い」に託してきました。
現代において「占い」や「予言」の信憑性は落ちたと言えますが、気になる人も多いでしょう。
しかし一方、現代において占いの影響力が衰えたとはいっても、「実証的な科学」が
それに代わるものとなっています。「この命題は確からしい(実証された)」として、
その命題を積み重ねた総体であると言えます。
いくら文明が発展したと言っても、自らの未来を占星術に託す本質は何も変わっていません。
また、実証的な科学の根本は、「過去の経験的な事象をデータとして分析することにより
それは未来においても反復されるだろう」という帰納法を信頼することの上に成り立ちます。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) うん(運)
━O(∇)O) なんちゃってなあ。
○-ω-◯ シッシッ
まあ、ゴタゴタ言ってもしょうがないですね。
とりあえず、皆さんの意見お待ちしております。
できれば、帰納法の考察なども加えてみようかと思います。
また、統計学や数理に詳しい方の参加もお待ちしてます。
できればベイズの理論(主観確率)と意思決定の関わりや
中心極限定理、大数の法則についても話ができればと思います。
いきなり小難しい話も何なので、話題作りにあるゲームを提示してみます。
これは「人生を可能性と価値のゲーム」として捉える上で
重要な一歩だと思うので、まず以下にのせてみます。
私をとある大富豪の「ディーラー」だとします。
そこで、あなたにこんなゲームを提示してみたとします。
1回限りのジャンケンをします。
私(ディーラー)は「グー」と「パー」しか出さないことにします。
あなたが勝てば2000万獲得。
あいこであれば1000万没収。
あなたが負ければ2000万没収。
あなたは何を出しますか?また、どちらが有利でしょうか?
また、あなたならどちらの立場が得だと思いますか?
適当に考えたので、後々条件は修正するかもしれません。
これについてまず考察を入れてみたいと思います。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) おそいよ
━O(∇)O)
○-ω-◯
面白そうです。
第一感で僕ならパーを出します。
しかし、ちょっと考えてみると。
グーの時 親がグー あいこなので負けてしまいます。
親がパー より、グーは絶対不利。僕は軽率にも、親はパーを出さないと考えたからです。
チョキの時 親がグー 負け
親がパー 勝ち これは完全5分の勝負ですが、親はパーを選ぶでしょうか。
パーのとき 親がグー 勝ち 2000万獲得。
親がパー あいこではいけません。1000万没収
この勝負は僕が有利だと思ってます。
現段階では。
単純な期待値計算の結果も乗せてみます。
【あなたの場合】
1.グーを出す どちらにしろ損をするので考慮しない。
2.チョキを出す 1/2(2000)+1/2(-2000)= 0 万円
3.パーを出す 1/2(2000)+1/2(-1000)= 500 万円
よってあなたの期待値はプラス500万円となります。
【私(ディーラー)の場合】
1.グーを出す 1/2(-2000)+1/2(2000)= 0 万円
2.チョキを出す 出せないので考慮しない
3.パーを出す 1/2(-2000)+1/2(1000)= -500 万円
よって私(ディーラー)の期待値はマイナス500万円です。
これは、どちらを出すか分からない→1/2とした場合です。
そう単純にいくものではないので、この裏に心理的なものの影響力
を推し量ってみたいというのが真意です。
計算間違ってたら指摘してください・・。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) 面白いけど「やらない」
━O(∇)O) 確率で人生は勝負しません。
○-ω-◯ 有利も糞もない確率は確率。
私はグーとパーしか出さないと宣言することによって
相手にも必然的にパーとチョキの選択権しか与えないことが分かります。
直感的に「グー」を出すのはおバカさんです。
また、期待値計算をしてみると(すべて二者択一で1/2)
とすると、これではディーラー側が不利であるのは明確です。
12 :
考える名無しさん:04/04/26 06:24
心理もあるよ。
きめない。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) カッパがあるよ。
━O(∇)O)
○-ω-◯
>>10 すべての意思決定や世界解釈を信念(偏見)に基づく判断に還元するのが意図です。
また、統計的な確からしさだけに縛られない部分(=自由意思)も
見つけられたらと思ってます。
予定としては「歴史の自己同一的解釈」、「過去を実証分析した結果
の信頼に基づく先験的判断」の批判なども考える予定です。
今日は学校があるので、また帰ってきてからお願いします。
思うに14は天邪鬼。
僕はとても興味があります。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) そうですね。その通りです
━O(∇)O) ぼくも楽しみです。
○-ω-◯
とりあえず、このような限定式ジャンケン(カイジのあれじゃなくて)の場合
期待値でみれば、あなたがパーを出すことが最も有利な選択です。
パーを出す→勝てば2千万、あいこでマイナス1千万。
パーが総合的に有利であることはディーラーも重々承知でしょう。
だからこそ、ここから先がおもしろいところだと思います。個人的には・・。
本当はグー、チョキ、パーそれぞれに重み付けしてもよかったんですが
3通りあるとわけがわかんなくなるので、2通りに単純化してます。
おそらくこの問題は、個人の気質(価値観)と
勝てる可能性の兼ね合いがミソだと思ってます。
寝ます。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) エエエェェー
━O(∇)O) 学校行くんじゃないの?
○-ω-◯
いよいよ寝ます!
んー心理っていっても、全部(メタ(メタ(メタ(メタ…)
という心理があって、それと考える人はじゃんけんはただの互角かな?
でもそうとは知らず「期待値」だけで「パー」出す人もいるとすると、
全体として「パー」を出す人の方が「チョキ」を出す人よりも多くなる。
上のように思った人は(メタ(メタ…)だから一番上と同じ。
1.メタの一群は「パー」か「チョキ」を同程度出す。
2.そうでない人は「パー」を出す場合が多い。
3.リアルバカは直感でグーを出すかもしれない。
全体として「パー」を出す人が多い。
あんまり自信無いけど、どうですかねえ。
27 :
考える名無しさん:04/04/26 07:14
確率考えたらローリスクなのはパーを出すことだけど、
ディーラーはそこを読んでパーで来るだろうから、
やっぱりチョキを出しとこうかと思うが、
ディーラーもアホじゃないだろうからグーで来るとおもうんで
パーにしとこうと思うんだけど、やはりディーラーはそれを見抜いて
・
・
・
以下無限に続く
>>27 だからそれが(メタ(メタ(メタ…)の一群ですよ。
でもそういう考えに至らない人がいるだろうから、
メタの一群意外の人はローリスクなパーを出す割合が高くなると。
一度拝んだものを果たして、見抜くというか。
親に不利な条件下では、親が自滅するのを待つのがいい。
この場合僕はパーを出し、確率で言う可能性にかける。
逆に不利な条件下ではどうやら裏をかかなければならない。
自分が親であるときに、相手はすんなりと手の形をきめるだろうから。
それに付いて読みすぎたと言う訳にはいかない。
一度オセロを裏返して置いて、裏は白だったのか。はじめから知ってるはずだからな。
パーを出すと分かっていながらグーを出した親は結局のところ自滅。
何も考えずにパーを出すのが得策で、パーを出す親も利口。
ここでチョキやグーを出しに行くのは有利故の自滅。
相手がパーの可能性が高くても、パーを出すことだ。
メタメタの堂々巡りにかかるのは親の方で、われわれは堂々とかまえてればいいんだよ。
>>28 パーを出すのがローリスクだと分かる位の人は必然的に
メタメタメタメタに巻き込まれていくでしょう。
∬ _,,,,,,,,,,_
∬ (=゚Д゚=) うひょー
━O(∇)O)
○-ω-◯
32 :
考える名無しさん:04/04/26 07:37
思い切ってチョキを出すのもいいが
負けたら痛いというのが、圧倒的な心理的不利を招いてるね。
金持ちディーラーvs挑戦者という、挑戦者の立場も心理的に不利。
よって、保守的になりがちだから、挑戦者はパーを出しがち。
それを知っていてディーラーはちゃっかりパーを出す。
もし負けても少しは負担が軽いという心の弱さは、そのまま敗北につながる。
ここは思い切ってチョキを出すのが吉。・・・かなあ。
ここで迷わずチョキを出せる男はギャンブルに強いヤツと言えるかも。
>>26の考え方だと、掛け金の重みを考えて、互角な勝負と言えるね。
こうして考えてみると世界が有限だというよりも
人間の行為が有限だと言いたくなる。
しかしまた、こいつは気の強そうなヤツだなというディーラーの
判断(長年の勘)もあるわけで、そのときディーラーはグーを出すことも考える。
>>30 やっぱそうかなあ?
んー。
「パー出す方が何か得っぽいよね、良くわかんないけど」
程度の馬鹿がたまにいるような気が・・・?
へー32はギャンブルに強いのか。
わざわざ有利な奴が、5分に持ち込むのはどうかしてる。
心の弱さとかじゃなく、それは必然の理だ。
ディーラーがちゃっかりパーを出すと過程するからおかしくなる。
ディーラーを考えずに、その雰囲気を感じ取り。
進む道を決めるべきだ。
ディーラーがパーを出すなら。僕はチョキさ。
(立場の)心理的不利を確率的有利で解消しているように見せかけて
実は心理的不利を一層強めているんじゃないかな?この勝負。
>>36 麻雀なら素人には負けないけど、強い人とやるとボロ負け・・。
もっともだね。
確率的に有利なら、心理的にも有利だ。
ここで、おじててしまって、勝算の低い方に張るといけない。
>>39 おれが金持ちディーラーならその程度くらいまでは読んで
パーを出すけどね。
一回きりの勝負でしょ?
>40
そうかい、ならこの勝負僕の勝ちだ。
ディーラーがパーを出すのは必然。
そのぐらいは読んで僕はチョキを出すよ。
事実出しただろ?
42 :
考える名無しさん:04/04/26 08:05
|||m
⊂ |
| |
↑こんな風なの出して最強
>42
なら、接着剤を握ってもらうぜ。
君もぐーは出したくないだろ?
>>38 麻雀は人生そのものだ。・・・とオジサンがよく言います。
たしかに人間の人生も、自らの選択における勝算と
その選択の後に付与される価値の兼ね合いで決定している。
ベイズの理論のように、自らの過去の経験(事前分布)を元に
自らの未来を選択してゆき、その結果が事後分布に変化を与え
またそれを事前分布として後の判断に生かす。・・・その繰り返し。
人間の意思決定は帰納法(過去がこうだったから未来もこうだろう)
を信頼することの上に成り立つわけだな。
この世界は有限ね…
でも「自分が何を出すか」といったら
俺の場合は気分で適当に決めるしかできないな。
何故なら40と41でメタメタになってるから。
例えばこうしたらどうだ?
ディーラーは一人だが挑戦者は一杯いる。一人一回ずつしか勝負できない。
そして各勝負の結果は一切情報公開しない。
俺はディーラーだとする。俺は自分の言ったとおり、
たまに確定的理由でパーを出す人間がいると想定して、
チョキによって負けるのは気にしないでパーだけ出し続ける。
するとメタ群との勝負では差額はゼロ。
そうじゃない群の人達との勝負ではディーラーがプラス。
あ、決定的に間違えた。
全然プラスになんねえや。
2000万と1000万だもんな
つまり俺の考えだと「勝ち」は多いが金額はマイナスだ
>>46 >するとメタ群との勝負では差額はゼロ。
>そうじゃない群の人達との勝負ではディーラーがプラス。
メタ群との勝負は半々なので、負け2千万により損害が出るでしょう。
ですが、そうじゃない群との勝負でプラスになります。
メタであるか、そうでないか。
ディーラーがこのどちらかを見抜くことが重要かな・・?
>46
君は気づいてないかもしれないけどな。
40と41のじゃんけんでは僕が圧倒的に勝っているんだよ。
僕がパーを出すと少し言っただけで、それを軽率に信じ込んでしまった40がよ、
余裕ぶっこいてパーだしただけだ。僕はその先出しを見逃さなかったのさ。
僕はパーを出すだけといったんじゃない。相手がパーなら僕はチョキを出すとも言った。
それすらも40は分かってないんだ。
この勝負はメタメタとかではなく、僕の必勝と言えるね。
一度きりの勝負でしょ? とかいっちゃって・・・。
>32
ディーラーが読むものだと言ってるじゃないか。
だから、こちら側はパーを出してればいい。
確率に縛られるのはいつだって不利なほうだよ。
>>50 あの・・
お互い無言で手の内を読みあってるというのが前提じゃないの?
(こんなとこで勝った勝ったさわいで何がしたい?)
なら39に対する40の発言は適当ではないと思うがね。
勝った勝ったと騒いでるのではない。
子での話しをしているのに、勝手に親になり、パー派をコケにするからさ。
なにがそのぐらいは読んでだ? 32に負けてるじゃないか。
別に親になるのはいいけどな。
ちゃんと親なりに考えて欲しいな。せめて32と僕を負かすぐらいの思考力でね。
頼むから掲示板での仮想ジャンケンで熱くならないでくれよ
いろんなケースを想定してるだけだろ
仮にディーラーがグーとパーを同数ランダムに出すとする。
挑戦者が沢山いるとして、もし挑戦者がパーかチョキを同数程度
出すのであれば、ディーラーが得する。勝ち負け差額約ゼロでも
あいこの数だけ1000万円貰える回数増えるから。
よく考えたら、パーを確定的に出す人もいて(リスク低いぜー)、
チョキを確定的に出す人もいて(ディーラだってそれくらい気付くぜー)
メタの理由から気分で決める人もいて、
「なんだよどうせ相手はグーかパーかは2分の1で出すって
決めてるんだから自分はパーがマシだ」
というような確定派がいる事もあるので「パー」が優性になりそう。
どっちにしろマシだと思うような「パー」が増えそう。
どっちにしろ「パー」の割合が高くなりそうな気がする。
おもしろい切り口だが
統計の勉強会してもなー
>40
悪かったよ、すぐカッとなっちゃうのは僕のいけない癖だ。
今後も仲良くしような。
>26
そういうこと。
僕ならパー固定だけど、32のように勝負師の魂をギラギラに燃やす人もいる。
だから、僕のパー固定も成立するのさ。32も麻雀で成功するようにあっさり勝ってしまう。
>ボン
脱線してるかな?
どっちにせよ、僕はとても勉強になったから満足だよ。
メタでない群とは、
「パーを出す割合が多い『チョキとパーの混成』」であると
俺は見てるわけです。
非メタの中にはあんまり考えずにどちらかを出す人と、
損しない、マシだという理由でパーを出す人がいる。
どういう理由にしても安全なパーを選ぶ人がどうしても出てくる。
チョキを確定的な理由で選ぶ人よりも多分多いと思う。
ただの直感なんだけど、
1位 不確定な人(メタで開き直った人か、単なる気分屋さん)
メタな人は自分の心に裏切られないようにコインか何かで決めればいい。
2位 パーを確定的に出す人
3位 チョキを確定的に出す人
実際統計取ってみたいな。猶予を短くして。
あ、テンパって「グー」出す奴の事忘れてた。
一億人もいればどっかにグー出す奴多分いるよ。
親がパーを出さないと言うことも考えてみよう。
既に出ているけど、親はパーを出すわけには行かない。
パーではあいこ止まりだからだ。
親の目的は、あいこではなくて、勝つこと。
親はパーで勝負することはあまりにも不利だけど、
グーを出すだけで、5分の勝負に持ち込めるということだ。
一億人も相手すればチョキを出すこともあるかもしれないな。
そのときまさかのグーが生きてくるんだ。
実際ありゃ鳥肌ものだぜぇ。その場に居てぇなおい。
まあ俺の考えは固まった。
>>6の質問に答えないといけない。
俺の場合はコインの表裏でパーかチョキを絶対的に決め、
俺とディーラーの場合、
ディーラーが不確定な場合も確定的な場合もじゃんけん勝負はいずれも互角。
ディーラーが金銭的に得する場合が多い。
余白(勘)
ディーラーはグーを出したときに負ける確率が若干高い。
全員不確定(コインで決めるなど)な事は無い。
グーを出す奴もいる。
ディーラーは金銭的に得であろうとする選択を取る。
無作為に選んだ人がどのタイプの人であるか結局分からないが
「どちらを出すか特に決めないタイプ」と対戦する確率が高い。
負けない限り得をするわけだから、何となくディーラーが有利。
>>59 いや親はチョキを出さないという規則になってるから出せません。
その為にグーとパーが表裏に書かれたパネルで勝負してもいいわけです。
チョキを出した「おてつき」のようなルールは今のところ無いです。
子はグーを出しても構わないので、出す人がもしかしたらいるかも。
一億回も相手すりゃ、うっかり出しちゃうんじゃないかってジョークなんだけど、伝わらないならいいよ。
親が仕組まれてるコンピューターならそりゃ万が一にもでないけどさ。
脱輪だからいいけど。
26よ、僕はずっとこのスレを見てきたんだぜ? ちょっとは信頼してくれよな。
さて俺は変わらず「パー」だ。この時点では親は不利で、僕らが有利だと感じる。
友達にも意見を聞いてみよう。
> あいこであれば1000万没収。
この条件で参加する香具師にはきっと別の目的がある。
64 :
暇人苦学生(=1):04/04/26 13:36
>>26氏、中指氏、32氏、他名無し数名
なるほどよくわかります。ですがしかしですよ!
ここにおいてとても重要な問題が、私の意図通り露呈してきました。
あなた方は、「(自分と同じように)ディーラーも損をしたくないはずだ
→いや絶対に損をしたくないに違いない。」という、根も葉もない前提の上に
立って、有利不利の話をしているわけです。自分もそうだから相手もそうに
違いないということを、推論において無意識のうちに大前提に置いてしまうわけです。
ディーラー(私)は大金持ちですから、損をしても得をしてもどちらでも
構わないわけで、あなた方の反応を見て楽しみたいだけかもしれません。
やはり人間の行動原理に、”信念”って野郎は無意識の奥底に頑なに、
あらゆる推論に置ける(自分では気付かない)大前提を成していると言えるわけです。
ですから、ここで私(ディーラー)側が、やはり有利だと考えます。
挑戦者のような弱い立場である場合、
自らの単なる希望が「絶対そうに違いない!」と意識的でなくとも、
ついつい見事に信念化してしまいやすい立場であると言えます。
帰納法におけるある確からしさと、単なる個人の希望的観測(偏見)は
どちらも前提としてあるわけですが、その境界が非常に曖昧になっているわけです。
>>62 ごめんなさい。ついマジ突っ込みして後で「あ、やべ」とか思った!
>>1 戻って来ましたね。待ってましたよ。
反応を見て楽しかったですか?そりゃ良かった。今後も盛り上げましょう。
また、今後において「確率」という言葉の定義も問題になります。
今では確率というといろんな意味で多義的に使われますが、
ここで議論をするにおいて明確な使い分け方の認識が必要です。
1.信念の度合い(主観的)。
2.可能性の比として。起こりうる全事象の中で
着目する事象が起こりうる、全体と着目事象の比として。
3.相対頻度、極限においての確率。
ある系列の中(例えばサイの出目の系列)で、着目した性質が
無限系列において一定の値に収束を見せるような場合、
それを相対頻度の極限値という。
4.証拠の支持の度合い。命題が、在る証拠によって支えられる度合い。
例えばある予言や推定、法則が、ある証拠に支えられる度合い。
>>64 >ですから、ここで私(ディーラー)側が、やはり有利だと考えます。
まあ、これはあまり意味を成さない言葉ですね・・。
私(ディーラー)にとっては、損得どちらでも構わないものですが
損得における有利不利は別として、心理的に不利であるのは挑戦者でしょう。
それはそうと、テンパってグーを出すバカを見てみたいですね。
>>68 例えばあなたが
>>6で行ったような質問を仮に「口頭」によって行ったとし、
「終わりましたさあ行きますよ」という具合でいきなり勝負に持ちこめば
「えっ?えっ?なになにー!?」というような感じでグーを出す奴が出る
確率が高くなるような気はする。
つまり、
>>6の質問からの猶予によって、挑戦者が考えるゆとりの程度があり
確率が変動する可能性があるということかな?
それはグーに限らず、パーとチョキでも変動しそう。
グーは極端だけどチョキとパーの間ではどこか揺れ動く変化が常にあるでしょう。
もし興味があったら、このジャンケンを友達に仕掛けてみてください。
100円賭けくらいでも十分熱い勝負じゃないかな・・?もちろん親は自分。
相手は自分の方が有利だとおそらく気付くから、勝負に乗りやすいはず。
まんがでしょ。
>>70 そうですね。猶予はある程度設けた方がいいでしょうね。
ここで重要なのは、挑戦者が確率的に有利だと気付くことですから。
でも実際統計を取るとおもしろい結果でるかもしれませんねえ・・。
資金の問題があって1000万勝負はできないけど、リスクを何に置き換えるか
それによってはできるかもしれまんせん。
ある意味、グーを出すのは「束縛からの自由」とも言えるでしょう。
負けると分かっている勝負にあえて挑む。武士道チックな死に様です。
>>74 おそらくパーを出す人間が多いと思いますよ。
基本的にみんな保守的ですから。
どっかの大富豪に勝負をもちかけられたとして
こんな風に偉そうに言ってても、僕は正直びびってパー出しちゃいそうです。
なにせ1000万ですよ。掛け金大きいほどパーを出したくなると思います。
>>76 リスクの条件変えればまた変動しそう。価値とでもいうか。
殺人鬼のジャンケンマニアの場合は
「お前が負けなら殺す」
「あいこならお前は半殺しだ」
「勝ったら逃がしてやる」
の場合、殺人鬼に不利なところは何も無いからただの遊びで
勝手にジャンケンできるわけだから必ずしも殺す事は考えない。
しかし殺人鬼に付き合わされてじゃんけんしなければいけないような人は
圧倒的にパーが増えるでしょうね。
確率の概念の誕生とギャンブル(賭博)には密接な関わりがあります。
パスカルととその友人のシュバリエ・ド・メレの話なんかは有名です。
>>67で言っているように、確率は様々な意味を持つわけだけど
論理のみを扱う数学の確率論は別として、一番重要視されるのは
確率の概念と実践的契機の結びつきであるべきです。
哲学上の問題においても、色々議論はなされていると思います。
(ウィトゲンシュタインやらフェルマーやら色々と)
また、ヒュームは彼の著書『人間本性論』でこんなことを言ってます。
「たとえ、対象がしばしば、または常に連なって起こったことを
観察したとしても、これら経験済みの対象以外の対象については
如何なる推定をする根拠もない。」
かと言ってヒュームの言う通りにしても問題アリアリでしょう。
1分一秒、自分が未来において、まず生きている保証を否定しながら
生活していかなくてはいけません。
やはり重要になってくるのが、何を正しい帰納とし
何を間違った帰納であるとするか。帰納の問題に帰結すると思います。
>>1は、小島寛之『確率的発想法』を読んだんだ、間違いない!
>>80 まあそんな事はいいじゃないですか。興味あるなら一緒にやりましょう。
充分哲学的だと思いますので。
正しい帰納の候補
「この物体は何処から見ても丸いから球だ。」
間違った帰納の候補
「日本人の半分はA型だから日本人の半分は几帳面だ」
よーく分かりました。
でもディーラー有利は納得いかないな。
こんな圧倒的な状況でどうしてパーを出して負けるかな。
まぁ、そういう問題でもないのか。
結論とかは出ないもんなの?
ちょっと「真面目の人生の目的スレ4」で忙しいので
少々こちらは後回しになっちゃいます。皆さんごめんなさい。
>>80 ほぼオリジナル(のつもり)ですが、確率の定義のあたりは
図書館で借りた40年くらい前の本を参考にしてます。
今その本をアマゾンで検索かけて見てみましたが、おもしろそうですね。
あと、もちろん限定式ジャンケンも昨日の夜、寝る前に思いついたものです。
というかこのアイデアを披露したいがためにスレ立てたに近いです。(半分本当)
何がオリジナルで、何がオリジナルでないかという追求は
あっちのスレで非常に疲れましたんで、そこらへんは不問でお願いします。
もし、
>>78のように哲学者の名前や、
>>4のように定理や法則の名前を
羅列していることが、権威主義的であると感じたのなら自粛します。
もし興味があるのなら、各自検索なり著作を当たるなりしてもらえれば
こちらとしても助かると思ったから、いくらか名前を紹介してきたつもりです。
これ(哲学者の言葉や定理の名前を挙げることの是非)については
皆さんの意見を伺いたいところです。まあ、楽しんでいきましょう。
>>82 どうやらディーラーならパー。挑戦者ならチョキが有利らしい。
(大人数を相手に、ディーラーが儲けることを前提としている場合なら)
ということが推測できるだけで、結果は”実際に”やらないと分かりませんね。
もちろんディーラーは挑戦者の反応を楽しんでいるだけで
損得勘定気にしないのであれば、どれをだしても構わないと
ノリ次第だと言えるのではないでしょうか。
いやー、あっちの「人生の目的」の方の議論はもういいんじゃないすか?
向こう(ちくび)の議論の態度が既にかなり問題ありだと思いますよ。
ちくびは議論の勝ち負けしか考えてないという印象がどうしてもあります。
もはや議論のの名を借りた一方的な中傷が始まっているといっても過言じゃない。
ちくびは形而上から議論を展開し、あなたは科学的な仮説を元に自説を展開して
おられる。あなたは科学的な態度をもって批判を受けつけるという姿勢がある分
充分フェアだと思う。ちくびは「絶望的な世界観」とかいって自分の嫌悪感を表明
するに留まって、今は自分の攻撃を正当化することしか考えてないと思う。所謂
揚げ足取りが始まっているという印象を拭えない。あなたがちくびに付き合うのは
、俺から見れば勿体無い。あなたには生産性があると思うが、ちくびには無い。
ちくびはあのスレの中で「自分の居場所はありません、さようなら」と言った。
だから文字通りちゃんと居なくなって然るべきと思います。じゃないとあいつは
嘘つきです。それだけで充分。勿体無いから付き合わなくていいと思う。
まあ元々ゲームにとって「有利」や「不利」っていうのは語義の設定によって
まちまちの価値観を生み出す事になるでしょう。
このスレのジャンケン賭博の例で、俺は「金銭の損得」に最も価値を置き、
その上で有利不利を判断した訳で。
こう解釈すると、挑戦者には有利不利があるが、ディーラーは損得を考えない
のだから有利不利は無い。
我々挑戦者が「有利、不利とは、得するか損するかである」と定義する場合、
「有利か不利かいずれかである」と「得か損かいずれかである」は同値です。
この意味において
「(有利)≡(得の方が多い)≡A」「(不利)≡(損の方が多い)≡否(A)」
という反対事象を抽出する操作がある。これは
>>1のいうように挑戦者側の
偏見に過ぎない。何故なら我々挑戦者の中にもしディーラー並かそれ以上の
大金持ちがいたとすれば、そのような「Aと否(A)」は必ずしも成立しないから。
帰納法の穴になるわけです。
俺がジャンケンの挑戦者である時の作戦というものは、
自分を不確定な立場に置く事によって、結果そのものについてディーラー側に
いかなる予測性も与えないという方針です。もし俺が「得をしたい」という
前提ならば、これが最も得策であろうと判断しました。
何故ならディーラーが「得をしたい」と思うのであれば、挑戦者が出す確率が
高いであろう「パー」を意識した戦略によって相手の手の内を読もうとする
心理が働く事が考えられ、俺の場合の戦略との兼ね合いが生じます。
俺が「チョキ」を出すか「パー」を出すかは、ほぼ2分の1で判り得ない。
挑戦者全体の集合を考えたときにはディーラーが「グー」を出した時に負ける
確率が高いであろう事から、ディーラーは若干「グー」を出す確率を減らす
などの措置が想定できます。その場合、俺がコインなどで「チョキ」を選択
した場合に負ける確率が減り、勝つ確率が増えます。また逆に俺が「パー」
だったときはあいこになる確率が若干高いが、俺が「チョキ」を出すか「パー」
を出すかはほぼ2分の1である事から、ディーラーが「なるべく得になるように」
という前提でみるならば、勝つ確率は若干高いと判断しました。
どういう事かというと、親が「グー」を出し、挑戦者である俺が「チョキ」を出す
ときの組み合わせが最も少なく、親が「パー」で俺が「チョキ」を出す組み合わせ
と、親が「パー」で俺が「パー」のときの組み合わせがほぼ等しくなります。
その為「勝ち」か「あいこ」の確率が「負け」の確率よりも高くなります。
逆にディーラーが「グー」を出す確率を上げる場合であっても、組み合わせ
から親が「グー」で俺が「チョキ」の時と、親が「グー」で俺が「パー」の時が
等しくなり「あいこ」が減るので、損をする確率が若干低まります。
ディーラーが損得は関係無いような純粋な気分屋の場合は、全ての組み合わせが
ほぼ等しくなるのでじゃんけん勝負は互角です。つまりディーラーが何らかの
意図無しにただ勝負を楽しむのであれば勝敗の平衡状態にあり、何らかの意図で
「グー」か「パー」を出す傾向を強くするなら、俺が有利な方向に行きます。
もし俺が勝負しなければいけない立場であれば、俺にとって最も有効な方法だと
考えました。理由として、ディーラーがどういう人か判らないからです。
俺が「得したい」と考えるならば、この勝負は明らかに俺にとって不利です。
>>1を読む限り、科学的には「散逸構造論」に近い。
>>26 そうですね。まず有利不利以前に
確率について考える場合、”何を意味あるものとして取り出すか”
という、現象から価値要素を抽出する作業がありますよね。
やはりギャンブルが確率論誕生に深く関わっているということからも
「自分にとって何が利益(意味あるもの)となるか」という主観的なものが
現実において、確率(数値)以前に重要な意義を果たすところでしょう。
今回のゲームの場合、何に重み付けをするか(価値を置くか)という
要素を排除した場合、
>>9のような無機質な期待値計算通りになると思います。
「何に価値(意味)を見出し、その価値を前提にどういった選択をするか。」
これが、今回のゲームの重要な視点だと思ってます。
価値の前提次第で、今回のゲームに関する有利不利の考え方が違うように。
(・∀・)続きまだー?
まだかな まだかなー
(゚∀゚) ヽ(・∀・ )
散逸構造論ちょっとググってみました。
ノーベル科学賞(1977)のイリヤ・プリゴジンの説いた理論だそうです。
以下参照サイト
ttp://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/prigogin.htm 僕なりに簡単に要約してみると
宇宙空間ではエントロピーの増大に逆行し、時として"ゆらぎ"が発生する。
その局所的な"ゆらぎ"が秩序を生み出し、その小さな秩序が全体に影響を
与える。(ポジティブorネガティブ・フィードバック)
ネガティブ→全体がその小さな秩序を打ち消す方向に働く。
ポジティブ→全体がその小さな秩序に影響されやがて大きな秩序を形成する。
ということで、かなりそのまんまな理論でした・・。
>>94-95 すみません、最近学校のレポートとか色々忙しかったもんで。
100 :
考える名無しさん:04/05/01 23:03
まあとりあえず頑張れ。
でも、ほどほどにな。
>>97 楽しみにしてるよってことだから。
マイペースでがんばって下さいね。
>>94 >>101 応援ありがとうございます。
とりあえず最近は、議論のネタ作りのため
いろいろ本とかサイト当たってみてます。
ほどほどにがんばっていきます。
>>1 純粋に数学的な考えによって、物理学の基礎を説明する根拠になるかもしれない。
プリゴジンは化学の分野だけど、物理学(熱力学)の基礎を揺るがす発見をした。
重要なのは、
>>1が物理的な散逸構造の説明の更なる根拠になり得る、
数学的な基礎付けの可能性を持っているという事。
更に物理的に存在可能な世界観について、数学的妥当性を持って言及出来得ること。
「何故量子状態の粒子は確率的予測に従うか」(混沌)
「何故大質量の力学は近似的に予測可能であるか」(秩序)
などの難問を考える上で重要な根拠を提示できる可能性がある。
議題としては「量子論」「散逸構造論」「宇宙論」「カオス理論」などに
言及できるような気がします。
>>103 参加いただきありがとうございます。
私は数学も物理もかなりド素人なんですが
どこらへんに可能性を感じていただけましたか?
えーと、重複になるかもしれませんが一応方針として
前にも言ったかもしれないことをもう一度まとめておきます。
まず、確率論の用い方(現実への対応)として
あらゆる単純化可能な確定的法則の総体(=複雑な現象)を
分析する上での妥協案として、統計的な手法を用いるのか。
それとも、あらゆる現象は基本的、究極的には不確定的で
予測不可能(混沌)であり確率としてしか記述し得ない。
それらのものを統計的な視点で捉えるのか。
この考え方の違いは大きいと思います。ここで私は後者を採ります。
マクロな系に見られるあらゆる秩序(確定的な法則)も
"ミクロな系における個々のランダムな分子運動の統計的平均"
これによって、マクロな系においてほぼ一定の秩序を成しているように
見なせると捉えれば、やはり納得のいく考えであろうと思います。
また、世界(系列)を有限と捉える立場も
すべてが完全に理想的な混沌状態へと発散してしまわない
理論的な根拠になるものでしょう。
話が哲学的でなくてすみません・・。
しかし、人生の〜スレでもどなたかが指摘された通り
すべての事象を確定的な法則で記述し得るとする立場に
立った科学者からすると、究極的には混沌であるとするこの方法論は
その可能性を閉ざしてしまうものになるかもしれないのは確かです。
だいたい
>>1や
>>105の考え方を基礎として
その究極的に確定し得ないランダム性を、因果の連鎖に縛られない何か
→"自由意思"と捉えれば、この非決定的な世界観の展望が
見えてくるのではと思うわけです。
そこでこの「"自由意思"とは何なのか」を皆さんと
一緒に考えていけたらと思う次第であります。
・・・まとめ終わりです。
>>105>>107 後者は自由意思、主観つまり視点の固定です。主観に入ってきた情報しか
知りえないと前提するわけです。
>>108 なるほど
それは逆に、"情報量を制限した状態"="主観"と捉えることができますね。
また制限によって自由(不確定的)な意思が保証されるとも言えそうです。
・・って、こういうことでいいですか?
あと、「誤差」についての説明が不足していたので追記します。
>>1と
>>105とちょっとかぶります。
理想世界(理論)と現実世界の不一致が見せるこの「誤差」という現象は
対象を理想的なランダムとしてしか想定できない理論の限界に拠ります。
観測対象が理想的にランダムであると想定していたとしても
その観測対象が有限である限り(無限の系列にない限り)、
実際には必ずどこかしらで偏り(理想とのズレ)が出ます。
ただし、その集団ができる限り大きければできる限り小さくなるズレです。
マクロな系では確定的な法則を適用してもたいした問題がないのはこのためです。
また、理論値と実測値が必ずしもピッタリ一致しないという事実は
「系列が有限→全体はほぼ(不完全に)ランダムの総体」である根拠でしょう。
「偏り(ゆらぎ)→秩序の形成」の流れは散逸構造論にある通りかもしれません。
散逸構造論を教えてくれた
>>90氏に感謝します。
))1
そして
>>108の意見は科学的には「量子論」の【不確定性原理】に近い。
また
>>107の根拠と
>>109の試みはペンローズという物理学者が
自由意志を解き明かそうとする考え方に近い。
>>111 同じようなこと考える人って、やっぱりよくいるもんなんですね・・。
それもググってみます。調べたらきっとその彼らのが遠く先行ってそう。
不勉強で申し訳ない。
>>112 ご自分の意見が科学的に妥当である事に自信を持って良いと思います。
それらを知ってから議論を進めても充分有意義で楽しいひとときを過ごせるでしょう。
つまり、量子論くらい勉強してからこういうスレを立てろってことよ。
おっしゃる通りです・・。助言感謝致します。
>>114 おい、勝手に90を名乗るんじゃねえっ!
俺はそんな事言わねーよ。量子論は別に哲学じゃねーからいいんだよーだ。
それより君飲みに行かねーか?どんなパンツ履いてんだ?それが真理よりまず大事。
>>117 おっけーです。例え偽でも本物でも気にするほどのことじゃないですよ。
でも偽90氏の言うこともたしかです。
量子論の枠ですでに発表されている理論をなぞっているだけ
だったのなら、わざわざこのスレに持ち込むまでもないですから。
本物90氏の言うように、それを知った上での議論のほうが
よっぽど有意義になると思いますし。
でもこういう量子論的な話はあくまで基礎付けであって
実はここでこれについて発展的な議論を期待してる主題でもないんですよね。
でもできるにこしたこともないです。
ここで議論の展開を主に期待してるのは
自由意思そのものだとか、人間の意思決定(価値と勝算)とかもそうだし
ランダムとはそもそも何だろうとか、メタ確率論的な話をしてみたいわけです。
やはり主観の問題に最終的に行き着くんじゃないかと。
120 :
考える名無しさん:04/05/04 20:27
>>120 ええ、その次なる「価値ゲーム」を模索中なんですが
なかなかいいやつが思いつきませんね。
皆さんも何かいいやつ思いついたら教えてください。
前のジャンケンゲームのアレンジで、親の手を公開して
大人数を相手取るとどうなるかとかもおもしろいかと思ったんですが
前のゲームについてはもうだいぶ言い尽くした感もありますし・・。
>九鬼周造
読んだことはないけど興味あります。今度図書館で探してきます。
彼は「いき」についてしか知りませんでした。
>>1 ≪未来偶然命題≫!季刊『哲学』見なあかんでえ。
>>124 『偶然性の問題』が主著なんですね。解説読んでたらすごく興味沸きました。
うちの大学の図書館で検索したらどうやらそれ、あるみたいなんで
GW明けにでも借りてみます。
ちなみに今借りてるのがこれまた古い本
1968年で「岩波講座 哲学(10)『論理』」ってやつです。
読むの激遅いんで「帰納と確率 / 大森荘蔵」の章を中心に
パラパラと他のも併せて読んでる感じです。
きちんと読み終えたらいくつかパクっていこうと思ってます。
>>125 いろいろ教えていただいて勉強になります。
そおなのか? 俺今ネカマにはまってさ。某板で痛いキャラをつくり
あげて大笑いしているよ。カヒミに似せようと思うんだが、そう言う服
ってどんな雑誌に載ってるの? オリーブ?
主観から統計によって客観を推論するのが知性の働き。
>>119 それいいですね。「メタ確率論」
「何で確率になるの?」という話を、俺もしたい。「何で確率があるの?」というか。
ランダムとは何かという問題は、根本的基礎的な議論として興味深い。
どこからパクっても違う事を考えるわけだから気にする事もないしね。
そういうわけで、ランダムのひとつの性質として
「分布の一様性」をあげたいと思う。ただし一様性の制限は弱い。
サンプルが大きければ大きいほど分布の一様性が高まり、
サンプルが小さいほど分布の一様性は少なくなる。
カオスとは初期条件・境界条件を定めると以後の運動が決まるような簡単な系で
あっても、初期条件のわずかな差で大きく違った結果を生ずるような現象。
サイコロも同じで、振り方、状況が同じなら結果も同じ。
つまりカオスは決定論に基づいている。
初期条件を変化させていくと1から6のどれかの結果を出すが、
確率はどの目も6分の1。確率論も決定論に基づいている。
確率論が決定論を否定することはできない。
いやいや何も確率論が決定論の否定だとは言ってませんって。
カオスは自然を全部を把握しきれないという仮定で、決定論的な初期条件の差による
バタフライ効果で予測不能である事を示すあくまでカオス理論の原理的な
問題でしょう。それが古典力学的な決定論であってもここでの問題とは質が
異なります。
例えばランダムとは何であるかと考える事は決定論を否定することにはならない。
ここではカオス理論の話はしていないのだから。
ええっと、うちの学校の図書館で「九鬼周造全集」の2巻
偶然関連が収録されてるやつを借りてきました。
25年前の発行なのに新品同然にキレイでありがたい。
円周率の小数点以下をN進数展開したときにN個ある数字の頻度が1/Nに
近付くと仮定します。2進数なら0か1かは2分の1です。
考えてみれば物理定数にはπが入っているやつが一杯あって、どんなに精度を
究めようとしても単なる実測(観測)では原理的に絶対に正確な値は出ませんね。
元々円(円や球やN次元球)は極めて一様性の高い図形だから、
この図形の「ある特別な点」を指定出来ない。この「決められなさ」が
ランダムに結びつくのかな?つまり、
一様性=ランダム
という図式です。続きます。
我々が「一様性」というとき、それが「理想的な一様性」であるという観念
において、その対象に関する「確定的な意味合い」を持たせようとする行為は
原理的な矛盾を意味しているような気がします。
つまり「一様であるような集合」に対してある特殊な点を知ろうとする事や
決めようとする事は原理的に不可能であろうと。
俺は次のように考えました。
元々「一様なもの」は「一様なもの」でしかなく、我々が作為的に決めようとする
「有限回の試行」によって「不規則性」が顔を出すのではないか。
そこで「不規則性」の本質に「一様性」があるのだと思いました。
「不規則性」は作為的な抽出による単なる「結果」ではないかと。
>>136-137 これはある対象が完全な一様性を持っていたとして、
そこで起こる不規則性は我々の作為であると言うことでしょうか?
>元々円(円や球やN次元球)は極めて一様性の高い図形だから
ちなみにこれは何が一様なんですか?
たしかに、観測される事象がある確率分布に従う
とはいっても、それは個々の事象や、ある一点については
何も言及できないですよね。
当たり前ですが、「次に起こるのは何か?」についても
確率的な考え方は、ほぼ無力であると言えると思います。
つまり確率を、未来の可能性という意味合いで使った場合は
それこそギャンブルとしか言えなくなります。
でも、ある分子1モルの集まりだとか巨視的な場面においては
まとまりとして、ほぼ確実性のある結果が得られるようになるわけです。
量子論の話が出ていましたが、量子論は個々の分子については
不可知の立場を取り、その上で体系をくみ上げたわけですから
ここで偶然そのものとは何かを問う際のヒントにはなっても
それに直接答えることは原理的に不可能ですよね。
確率論でさえも無限を実体として捉えること(神の視点)でしか
確率を定義できないわけですから、偶然を現実的な場面(有限の世界)で
捉えるのは、やはり哲学の役目なんじゃないでしょうか。
>>137 2次元の図形として「円」は「4角形」よりも一様で特別な点はありません。
同様にNを任意の3以上の自然数としたときに「N角形」のNがいくら増えようと
常に「頂点」などの特別な点が存在します。
いびつな曲線で構成された完結な図形(閉じた図形)の場合は、それを構成する
曲線の中に曲率の極大値と極小値が定義できるので、やはり一様とはいえません。
そういう意味で「円」を構成する要素(点の集合)は極めて一様性が高いと言える
と思います。我々が円の中のある「点」を指定した時、「指定した」という意味以外に
この「点」の価値は見出せません。例えば「円に外接する正方形」のような図形
の場合は外接の点がはっきり定義できますが、「正方形」なる図形を用いないと
こういう事は出来ません。
我々の「作為」「抽出」「決定」といった行為の全部が「一様性」と相容れない
関係にあるのではないかと疑っているのです。
>>140 これについては一概には言えませんけど、俺の適当な自然観(世界観)を
語らせてください。
「世界は論理的に妥当であって、論理的に妥当な世界だけが存在可能であろう」
という考えがあります。これだけでは解かりにくいかもしれないので例えを
出します。
科学の方法論というのは、自然の中にパターンを見付けて法則化する事で発展します。
要は、「自然というものがどんなものかは解からないけど、とにかくそういう法則
が見付かったのだから仕方が無い、無理矢理解釈しよう」というものです。
これらの法則を更に一般化し、統合化された知識になります。言わば部分から
全体の掌握です。その経験知のうちで最も基本的な学問が物理学です。
俺の考えでは、世界のある性質(物理法則など)は、
予めそこに備わっているような「無条件性」から存在するのではなく、
全く無理の無い妥当な論理的世界観から導出され得る象徴的存在ではないかと
いう感じです。しかし何も現代論理学がベースになるという話ではありません。
>>141 なるほど。なんとなくわかりました。
どの性質をとってもばらつきがないということでしょうか。
N次元の球体は、重心からの距離はどれも同じだし
傾きもすべて同じであるとか、どの方向から見ても形が変わらないとか。
円または3次元以上の球体など、それ自身だけでは特異な点が見られないと。
>>142 経験的法則は世界の妥当な記述方法ということですね。
経験よりも法則が先んじて事物に備わっているのではないと。
「人間自身が論理的存在なのであって、世界がそうであるとは限らない」
と私は思いますね。論理的存在というのは人間の表層意識のことです。
「理論は世界を見ているのではなくて、世界の見方を見ている」
とも言えるでしょうか。端的に”やっぱり観念論派”ですね。
142の補足として書きます。
仮定として「世界は有限である」ということを述べるだけで、
「世界には偏りがある」という事が妥当である事を、
>>1は言っています。
この仮定が数学的妥当性による要求でないことはわかります。
俺には世界が無限か有限か解かりませんが、それでも余程有限と考える方が
直感的に妥当であろうと思っています。そういういかにも妥当な推論から
或いは散逸構造のようなモデルが導出されたり、相対論や量子論などの
性質が垣間見えたりするのではという夢を見ています。
所謂「ボトムアップ思考」です。
俺が
>>1のアイディアを借りて更に付け加えるならば、
「世界は無限なら完全な一様性を持つが、有限である」
妙な解釈になっちゃいますが、完全デタラメの中に有限の領域があって
そこを「世界」を呼ぶという感じでしょうか。
となると「完全デタラメの無限世界はあるのか」という討論が巻き起こります。
続きます。
私が
>>2でも言ったように
”帰納法の正当性”も経験に支えられた信頼にすぎないのであって
さらに、帰納法を現実に適用するためには「斉一性の原理」という
大前提が必要であって、またさらに、その原理すらも経験法則なんですよね。
というわけで、私が真理(100%)というものを保留させ
真偽を信頼の度合い(100%未満)に還元するのもそのためです。
合理主義にのような非合理主義のような経験論的主張・・?
でも、どういった理論を推し進めるためにもやはり
”決定的根拠のない何かしらの仮定(断言)”は必要です。
>>145 続けてください。
【145からの追記】仮に「完全デタラメの無限世界」があると仮定します。
完全にデタラメで無限なのだから、何処かに意味を見出す事が出来ません。
つまり定義不能な世界です。このようなものを「世界」と呼び得るでしょうか。
我々は「世界」というものを完結した対象と見なします。それでいて「全て」
であろうとする事を要求します。俺は、「無限」を完結した世界として考える事
は出来ないと考えています。下手をすると、世界に完結した領域を与えているのは
人間の仕事かもしれません。少なくとも、認知できる範囲は有限なのです。
とにかく「デタラメ無限世界」を仮定しても、そこに有限の枠を与えれば、
>>1の言う通り「絶対に偏りが起こる有意味な領域」が出来るのです。
しかも「無限の中に有限の枠を与える」という行為が作為的でなくても、
有限の領域というのは自然に「在る」ものなので、その中には何かの規則(偏り)
が自然に「在る」という風に考えます。そのようにして、どこかに有意味な事象
が含まれるような領域を「世界」と呼ぶのだと。まあこれは勝手な解釈だから
あまりお勧めはしません。
>>142 これ見て思い出しましたが「木を見て森を見ず」
別の言い方をするならポランニーの言う「暗黙知」ですね。
表層意識に現れない前概念的な”身体の思考”という領域で
偶然や不規則、誤差について論じてもおもしろそうです。
俺が
>>147で述べた事は、単に物理的な宇宙観を指しているのかもしれません。
先に言った世界の解釈を拡大すると、我々が知っている以外の世界領域が別にも
いくらでも無限に存在することになりますよね。
「宇宙はヒトツ」という考えは現代宇宙論から遠ざかりつつあります。
物理学者が「宇宙」というとき、物理法則が適用出来、法則によって何らかの
因果関係が成立し得るような範囲を指します。
つまり法則の届かない領域は我々の宇宙ではない、という考え方をします。
一般相対論によれば、
子宇宙、孫宇宙なるものが理論的に導かれ、似たような宇宙が別にもあると考えても
理論上は差し支えないわけです。宇宙論的な見解だと、「我々の知らない宇宙では
我々の知っている物理法則とは違う法則で成り立っている」というような事が
言われているようです。どういう事であるかは想像を絶しますが。
現状の議論に符合させるとしたら、「無作為抽出による2つ以上のサンプルの
結果は、母集団が完全にランダムであってもそれぞれ違った偏りを持つ」
という類推になると思います。
>>147 観念論と集合論を統合して妙な仮説を練り上げてみました。
・宇宙の真の姿を無限で完全にランダムな集合と仮定。
・ある生命体の認識能力(世界)を有限な集合と仮定。
サンプル数が少ないほど、世界に偏り(秩序=意味)が生まれやすい。
故に、これらから論理的に導かれる結論として
・ある生命体の認識能力(世界)が大きければ大きいほど
その生命体にとって、その世界には意味(偏り)が少ない。
・ある生命体の認識能力(世界)が小さければ小さいほど
その世界には明確な意味(偏り)が現れる。
言い換えるなら、
無知の極限にある生命体ほど、世界をよく知っているが
知の極限にある生命体(神)は世界をほとんど知らない。
こんなパラドキシカルな結論が出ました。。
>>150 集合論ではなくて統計学ですね。それと、
無知の極限にある生命体ほど、世界をよく知っているが
知の極限にある生命体(神)は世界をほとんど知らない。
ではなくて
無知の極限にある生命体にとっては、彼の世界をすべて明らかに語り得る。
知の極限にある生命体(神)にとっては、彼の世界を全く語り得ない。
のほうがいいですね。
>>150 ・宇宙の真の姿を無限で完全にランダムな集合と仮定。
・ある生命体の認識能力(世界)を有限な集合と仮定。
ではなくて
・宇宙の大きさは無限で、完全にランダムな性質を持つ全体集合と仮定。
・ある生命体の認識能力(世界)は、その宇宙の部分集合と仮定。
がいいですね。訂正しまくりです。
もし
>>1の言う通り世界が有限であり、また俺が言うように一様ならば、
一様性とランダムの関係、有限性と秩序の関係から、
無理無く散逸構造や量子論的な確率の実際的な存在の根拠を、
物理学を使わずに更に原理的に認める事が出来るような気がします。
俺は先に世界のモデルに相応しいものは「論理的に妥当」なる言葉を使いましたが、
あまり正確な言葉じゃないですね。
仮に「前提を廃する事」を実際的で確定的観念に置きかえるのならば、
「決まった特別なものがない」=一様性
となると考えています。言うなれば、全ての事物にとって第一原因は無前提である事が
最も妥当であろうと。それならば世界の本質は一様であり、ランダムである事は
無理の無い推論であると考えられるのです。【無前提=一様性】
これは現代物理学でいうところの「真空の揺らぎ」に似ていると思います。
26氏の助言によりだいぶこの説に修正いれてみました。
なんだか似非科学的でワクワクします。とりあえず以下にまとめます。
【混沌世界仮説 試論ver0.2】
・我々の宇宙以外の宇宙も考慮した”すべての宇宙”を想定する。
・すべての宇宙の大きさは無限で、完全にランダムな性質を持つ全体集合とする。
・ある生命体の認識可能な世界は、その宇宙の部分集合(部分宇宙?)であり
全体集合からの有限個数サンプリングにより構成される。
・有限個数のサンプリングには、必ず誤差(偏り=秩序=意味)が生じる。
故に
・ある一生命体の認識可能な世界が大きければ大きいほど
つまり、全体集合からのサンプル数が多いほど意味は生じにくい。
・ある一生命体の認識可能な世界が小さければ小さいほど
つまり、全体集合からのサンプル数が少ないほど意味は生じやすい。
これを言い換えるなら
知の極限にある生命体(神)は、自らの世界について全く語り得ないが
無知の極限にある生命体は、自らの世界についてすべて明らかに語りうる。
となるわけです・・かな?
そういや何かゲームを考えないと・・。
九鬼周造もまだ序説しか読んでないんですが
暇はたっぷりあるので、のんびりやっていきます。
>>152 その意見には単純に賛成します。
ただし、「宇宙が無限で完全なランダムの性質を持つ全体集合」と規定する
根拠として、宇宙はただ「一様」でありさえすれば良いと考えます。
一様(つまり無前提)である事から、自然に「無限」と、更にそこから「ランダム」が
導出され得ます。
>>無知の極限にある生命体にとっては、彼の世界をすべて明らかに語り得る。
知の極限にある生命体(神)にとっては、彼の世界を全く語り得ない。
いかにも哲学っぽくなってきましたね。
>>153 すべて(無限)の宇宙の集合は球体である。
故に全く一様(無意味)な性質を持つが
ある部分を切り出した際に、つまり個々の宇宙間に
断絶(孤立)が生じた際に、それらの個々の宇宙は
有限故に特異な点(意味)を持つことになる。
とするとどうでしょう。苦しいかな・・。
>>157 おっしゃるとおりです。
オッカムのカミソリってやつですね。
まあよく言われることですが
「俺の悩みなんて、広大な世界に比べればちっぽけなもんだ」
なんていうのも当てはまるかもしれませんね。
「【俺の悩み】=局所のある性質」は確かに存在するように感じられるんだが
俯瞰的に眺めると無効化される。同様に
生命科学のような学問はいかに「生命科学」の領域で理論化されても、
全体的な一般論にはならない→更に大きな舞台で無効化。
同様に物理学でも同じ様な事が起こるのかもしれませんね。
ちょっと興味があって調べていたのですが、π以外にも自然対数の底eなどにも
面白い性質があります。【e=[1+(1/n)]^n n→∞】
N人いる学級が席替えをするとき、なるべく無作為になるように席を決めると
結構な確率でまた同じ席に座ってしまう人が現れる。このとき、学級の中で
誰一人として前に自分が座っていた席と同じ席にならない確率はいくつか。
この確率はN人のNを増やすほど(1/e)に近付くみたいです。
>>158 無限の球体なるものが存在するんでしょうか?
無限ならそれは球体じゃないような・・・。
その後に続いている部分は概ね賛成です。
しかし有限なものの中で一番一様性が高い性質を持つのはN次元球であろうと
考えています。しかしメタ的な意味合いにおいてはそのN次元球も「大きさ」
などの確定的なパラメーターが与えられてしまいます。
いつも意味を与えるのはメタの観点です。
>>150 無限大との比はありません。
ここでの意味(偏り)、知る、語り得るは一般的定義でいいですか?
>>160 ネピア数eは複利計算の話なんかでもよく出てきますよね。
その話聞いて、40人集まれば同じ誕生日の人が一組以上いる
確率が90%になるって話を思い出しました。
>>161 うーん、無限の球体というのはなんというか
部分をとればどうやら全体は球らしいが無限なので検証不可。
といった感じでしょうか。
円周率の数字の出現も一様らしいが検証不可なのと同じです。
>>162 ほぼ一般定義でいいですが、”語りうる”というのは
人間で言うなら、言語として明確に表現可能という意味です。
本能的にとか、無意識的に知っていることとは区別します。
あと150の定義だとまずいので155と158のあたりが改正案です。
>>163 そうですか、まだちょっと考えるところがありますね。
基本的にはあなたの考えには多く賛成です。しかし俺はもっと一般化、普遍化
したいと感じています。直感的には、全体集合が無限の球体であるという
アナロジカルな推論にはそれなりの説得性を感じています。しかし俺の無前提化に
対する欲望が、それにブレーキを掛けてしまうのです。
俺の単なる好みからいうと、いきなり世界に幾何学的な前提を持ち込む事には
どうしてもためらいが生じてしまいます。世界について幾何学的なイメージは
外せないものですが、どのようにして幾何的な性質を帯びるのか、更に疑問が
沸いてくるからです。次のレスから、俺が個人的に納得しやすい形式で、色々
あなたの考えの助けが出来ればいいかな、と思っています。
俺が
>>164で疑問視した事を更に整理し、自分なりの普遍化を考えてみたいと
思います。
俺は唯一の妥当な条件として「無前提性」をあげました。要約すると、
「無前提性=一様性」なる仮定を用いています。そしていかなる特殊性も排除
され得るような性質として、アナロジカルに「無限」である事が要求されます。
そして「無限」であるような実体全体を観念的に対象化する事は不可能である
という姿勢を取っています。つまり「検証不能(反証不能)」なわけです。
数学では「無限」を定義して対象化し得るが、それは定義を与えているからです。
そこで、なるべく定義を減らすように努力すると(あくまで俺個人の考えですが)
「無限と有限」に大別され、分かり易くいうと「無限は有限を内包する」という
いかにも当然な(それでも仮定)解釈を基本にする事が望ましいと思っています。
考えを流れで示すと次のようになります。
無前提性→一様性→無限性→有限性→誤差→特殊性→局所性
これを基礎にして、解かり易いイメージを考えていきたいです。
やはり幾何的に考えるとやりやすいですね。続けます。
【
>>165の続き】もし全体集合が無限で、部分集合が全体集合と等しくなければ、
部分集合は「有限である」と仮定します。「無前提性→一様性→無限性」の仮定
から、全体集合にはこれといった特徴がありません、というか定義できません。
そこで、仮定として採用した「有限性」が、幾何的なアナロジーとして「大きさ」
というイメージになります。任意の有限な「領域」は、元々選び出される前の
全体の性質(一様性)と、有限であるが故の新しい性質(偏り)を併せ持つ事が
妥当であろうと考えます。つまり有限であり尚且つ「一様性」のような特徴を
持つであろうと考えられます。しかし両方パーフェクトに備える事は原理上無い
ので、有限な領域というものは、自然に何らかの特徴を獲得する必要があります。
数学的には真部分集合です。もしそこにある制限が「有限性」以外に無いのであれば、
有限なりにも最も一様で在るべき姿に落ち着く事が妥当であろうと思います。
この幾何的イメージ(有限)は、全ての点(と定義するもの)が同様の価値を
持つようなもの、つまり一定の曲率を持った閉じた系(有限)であろうと
考えられます。こう仮定すると、このような系は紛れも無くN(有限)次元
の正の曲率だけを備えた対象になり得るでしょう。これがN次元球です。
つまり、無限であるときはその性質が球のようであるか、平坦であるか、
どのように考えても差し支えないのですが、一様性の中に「有限性」を持ちこむ
だけで球の様な性質を帯びてくるのだと考えたいです。
すんません、レポート忙しくてなかなか来れませんでした。
今は菊池雅章ききながら、九鬼周造の「偶然性の問題」
読み進まさせてもらってます。なかなか優雅な時間です。
実はまだもう一個レポートあるんですが、ちょっと一休みです。
九鬼のヤツはまだ第一章ですけど、何か取り上げるものが
あればパクっていきますね。
世界説もいいんですが、やっぱし偶然そのものについてと
価値ゲームを作って、みんなにやってもらえたらと思ってます。
九鬼流の「偶然性の三様態」を引用してみますね。
まだ第一章の定言的偶然までしかいってませんが、後で一応僕なりに
咀嚼した上で載せてみます。他にも暇な方おりましたら読書会ノリ
でやってもいいと思います。もし間違ってたら(わかんないかな・・)
ご指摘いただければありがたい限りです。
・偶然性は必然性(自己同一性、トートロジー)の否定である。
< 必然性の三様態 >
A1. 定言的必然:ある概念とその徴表(メルクマール)との対応、同一性。
A2. 仮説的(仮言)必然 :yがある条件xなしには存在しないであろうこと。
A3. 離接(選言)的必然:判断により「一か他か」へと還元し、事態を確実に把握すること。
つまり全事象(全概念)Wにおける、必然性の集合をAとしたとき
偶然性の集合Bは必然性の否定、または全事象からAを除いた(Aに属しない)
ものにあたるわけであるから、B=A'もしくはB≠Aと表記できる。よって
<偶然性の三様態>
B1. 定言的偶然 B2. 仮説的偶然 B3. 離接的偶然
この三様態に偶然性を区分できると考えられる。
という感じで結構いいかげん(?)にはしょってみました。
今のところ、定言的偶然だけなら少々解説入れられます。
引用というか、適当な読み替えですね。
あと、
>つまり全事象(全概念)Wにおける
>または全事象からAを除いた
これらは今のところはっきり断言できないので保留にしときます。
全事象をそのまま全概念と換言するのもなんか気が引けるし
全事象が必然と偶然の2性質のみであると断言していいものか
ちょっとまだ迷ってるもんで。
>>169 〈A1〉で言っている全事象(メルクマール)と、全概念の対応付けは可能でしょうか?
集合論的な話になっちゃいますけど、ここでいうところの「全概念」は、
「全事象」の冪集合になるでしょうから、一般に「全概念」の方が「全事象」
よりも「常に多い」という結論になると思うんですよ。
それと「偶然性とはトートロジーの否定である」という事は、その構造は
〈偶然性〉と〈これは[トートロジー]ではない〉が同値になるような意味ですか?
つまり「偶然性」というものが、いかなるトートロジーも成立し得ない事を意味
するんですか?確かに命題論理以降の形式論理ではそれが当てはまると思います。
その結果命題論理以降の形式論理一般にとって、「〜は真か偽のいずれかであり
常に内部で判定できる」事が否定される(不完全性定理)ことは良く知られています。
そのようにして「真でありながら証明不可能な命題が幾らでも存在する」という
事実は、飛躍すれば、「現実でありながら偶然の事象は幾らでも存在する」という
事になるのかもしれません。勝手な解釈ですが・・・。
更にはトートロジーの設定というものが断定的であって、形式的な妥当性を
問題にしていないという立場が現在有力です。
例えば定言的偶然の場合で本文から拝借しますが
三角形という概念における必然性は「3つの線分(辺)から成る面」です。
その他の「ひとつの角が直角で、他の二角は45度」とか「3辺が等しい長さである」
とかいう性質は、単なる三角形という概念における”可能的要素(多様性)”に
過ぎないのであって、三角形の本質ではないということです。
この可能的要素が九鬼の言う定言的偶然に当たります。
つまり可能的要素によってだけでは、三角形の自己同一性を
維持することができないと言えます。
何について書けばいいのか…。 議論の範囲を絞ってほしいな。
確率論と自由意志論は別の論なのだけれど。必然、偶然の定義は一般的なもので
いいと思う。
>>173 すみません。わざわざ参加していただいて感謝してます。
>議論の範囲を絞ってほしいな。
今は必然、偶然とは何かをやってみたいかなと思うんですがどうでしょう。
両者の定義を煮詰めることで何か見つかりそうな気がします。
とはいっても、自分としては結構なんでもいいので
これ以外でも何か議案があれば遠慮なくお願いします。
ゲーム理論的なこともやってみたいんですが、なかなかいい感じの
ゲームが思いつかないので、何かあったらそれもお願いします。
>>171 >「全事象」の冪集合になるでしょうから、一般に「全概念」の方が「全事象」
>よりも「常に多い」という結論になると思うんですよ。
最初そうかなと思ったんですが、それではどうしても「真で唯の事象」に対応する
「複数の概念(虚構)」という意味合いになってしまって”真の実在”を
想定しちゃいますよね。私は(人間にとっての)実在は複数でもいいと思うので、
全概念=世界という観念論的な定義のほうがいいんじゃないかと思うわけですが。
>「〜は真か偽のいずれかであり常に内部で判定できる」事が
>否定される(不完全性定理)ことは良く知られています。
おっしゃるように、概念をすべて論理的に整理してしまうと
不完全性定理によって、その概念(世界)は自身によって自身の矛盾を
解消できない事態にあることになりますね。
しかし、トートロジーの設定が26氏の言う無前提(一様性)に支えられている
とした場合、論理的世界は虚構であったとしても何ら差し支えはないですね。
ミクロな世界が確率でしか記述し得ないこと。また、ミクロの総体の平均が
マクロな世界において一定の秩序として現れてくるというのもこれにリンクしますね。
よって、有は無に支えられているという26氏の推理は正しいものであると感じます。
>>171 あ、徴表(メルクマール)というのは概念に備わっている性質のことです。
「日本人(概念)は黄色人種(徴表)である。」といった具合に。
この黄色人種という徴表は、日本人という概念における必然性(同一性)を意味しますよね。
まあでも日本国籍の外国人という例外もありますが、”一般的に黄色人種”です。
九鬼はこの一般的性質のことを(妥当な)法則と呼んで例外的偶然(孤立的事実)と
対比させてました。ついでに結構おもしろかった彼の出した日本語の例を借ります。
「たまたま」、「まま」、「まぐれ」、「まれに」という頻度(偶然)を表す
日本語に共通する”ま”というのは元来、”間”の意味であって、時間的、空間的な
間隔を意味する。つまり偶然がある連続性において間を置いて以外に存在しないと言える。
この日本語の成り立ちから分かるように、定言的偶然は例外的偶然において把握され易い。
”ま”に注目することによって、「まにあった」「まがわるい」というのが偶然への遭遇に
対する、前者は適合、後者は不適合を表していることが明確になりますね。
これは私の解釈ですが、概念を構成するのはやはり経験であるわけで、
”一般的に多くの場合に”と言うように、人間は経験的多頻度と
(定言的)必然を結びつけやすい傾向にあるとも言えますね。
これは現代の(統計的検定によって有意基準にあるとする)科学も同じでしょう。
「ex. タバコを吸うと癌になる、あの先生に習うと必ず成績が上がる」
人間は物事をよく理解する際には必ず必然性への還元(本質看取)が
必要であるけども、それは必然とはいっても普遍(すべてに適合)ではない場合も
ままあるわけです。ここにおいても「同質性の維持」と「異質性の排除」という
人間心理の基本構造が見て取れるのではないでしょうか。
話は逸れますが、バタイユが同質性・異質性について書いてますね。
私はバタイユは解説書系でちらっとしか読んだことないですが・・。
訂正
有意基準→有意水準
>>169 定言仮言選言は当時、論理学の先端と言われていた。ここから現在の情報処理ができた。
定言は入力と出力の対応、仮言はスイッチング、論理演算、選言はAD変換、量子化。
それに必然と偶然をくっつけてどうするのかな。
>>172 それは三角形を上位概念としているから。正三角形の3はは正n角形の要素とすることもできる。
>>174 > 今は必然、偶然とは何かをやってみたいかなと思うんですがどうでしょう。
> 両者の定義を煮詰めることで何か見つかりそうな気がします。
因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
>>176 「偶に」は「間々に」(時として)から変化したと思うが、「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
俺の目的としては、一様性から「量子」を、または「量子論理」を妥当な路線で
導きたかったという感じです。だから「量子論」を物理学の動機として用いるの
ではなくて、論理には元々普遍的に量子的性質があると考えたいのです。
物事についてちゃんと知識として理解する為には、論理の「同一律」と「矛盾律」
は欠かせないものになります。言い替えるとある事柄が理解可能であるためには
最低限の条件として「同一律」「矛盾律」が生まれてこなければなりません。
「排中律」は無ければ不便だけれども、絶対に必要とは限らないと思っています。
しかし、同一やら矛盾やらが「一様性」の前段階にある、という考えはありません。
何故なら一様であるようなものは、全て理解不可能だからです。その世界は、
無意味といって差し支えないでしょう。意味があると認められるモノ(前提)が
出てきたときに初めて「論理」が一定の意味と恒真性を持ち始めてくると。
一様性はランダムとか「偶然」を《直接に》導く原因であろうと考えられるので、
「偶然性」は論理より更に遡って基本的な性質であるように感じられます。
最近は「無」というものがただ単に「存在」の反対概念ではなくて、存在と存在が
稠密に打ち消し合って(干渉と相殺)、「無」に限りなく近付くというイメージが
出てきました。つまり「無」や「無限」は仮想(理想)であって、
(無〈完全一様性〉)<(理解可能性の世界)<(絶対的存在)
という図式の様に、モノの存在の本質が「0か1」なのではなく、それがSなら
0<(1/N)≦S≦[{N−{1/N}/N]<1
であるような「存在可能性(可能性的真理値)」の領域と限界があって、
いかなるモノも絶対的ではなく、確率的真理と見なす考え方になってきました。
>>179 訂正ですが選言は論理和の誤りでした。排中律が量子化でした。
無限(すべて)は一様ではなく多様だと思う。無限(すべて)にはどんなものもどこかに存在する。
>>182 俺の考える「一様性」の解釈とはちょっと違いますね。
無限が一様性であると考える事は、いかなる「局所」の概念も無前提では成立しない
という事です。
>それに必然と偶然をくっつけてどうするのかな。
必然からこぼれたモノが偶然で、またそれは必然と相対するものでもある。
そして定言、仮言、選言の論理構造においてそれぞれ3種の偶然の様態が
見られるというのはなかなか明確だし、偶然を整理するには最適ではないですか?
>因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
この無視というのは万物の因果関係を想定した上での“あえて無視”ですか?
>「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
そうですね。植物の由来を持つ言葉は日本語に多いですし
麻文化なんてのも日本の重要な文化でしたしね。
ただ九鬼のおもしろいのは和歌や他の日本古典文学や
漢文の引用などよくやってくれてるところですね。
(当然ですが)こういうのは西欧哲学にないのでとても新鮮です。
>>184は
>>179です。
しかも変な文字化け起こしてますね。書き直します。
>「偶に」は「間々に」(時として)から変化したと思うが
>「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
日本語には植物の名前を由来とする言葉は多いですね。
それに麻文化なんてのも日本の重要な文化でしたし。
追記です。
>因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
私が冒頭で言ったように、自由意思を論じるにあたっては
どうしても必然(因果)という壁があります。
すべてに原因(拠る所)が存在するのなら、宇宙が生じた時点で
今の自分すらもどう考えどう行動するかもすべて決まっていることに
なってしまいますよね。(ならない解釈もあるかもしれませんが)
偶然は思考停止(あるべき必然を見出さない)状態であるとするなら
すべての因果の繋がりを肯定した決定論的世界になってしまわないでしょうか?
偶然が偶然としてそのまま存在するとする立場が
とりあえず今の私の立場です。
ですから、「偶然そのものは何なのか」という問いは私にとって非常に
重要な問題になってくるので、一般定義を越えて把握する必要がありました。
>>180 >いかなるモノも絶対的ではなく、確率的真理と見なす考え方になってきました。
真偽(all or nothing)でなく信頼の度合い(%)として
物事を判断すると私が言ったのに似てるかもしれませんね。
ということは結局、私は万物の究極法則(真理)を
“全くの偶然(無根拠)である”としているのだと思います。
逆転させた形而上学みたいなもんでしょうか?
>>186 因果律は必ずしも「原因がヒトツで結果がヒトツ」じゃなくても良いのでは
ないでしょうか?例えばサイコロ振るのが「原因」なら、結果は6種類あるような
感じで。コインならば2種類。もし因果がこれに支えられれば、全ての原因がヒトツ
でも結果は無数に生まれて行くので、決定論ながらも自分の主観(結果をヒトツに
限定しようとする作用を持つ)にとっては予測性も決定性も持たないと思います。
つまり絶対に決定できるような絶対的確実性は無いと思うのです。例えば、黒い
箱の中にパチンコ玉を10000個入れて、その中に1個だけ赤色の玉があるとき、
普通のパチンコ玉を取るのはほぼ確実でしょうが、絶対ではないと。こういうのが
いつも原理的に存在すると思っています。
そういう因果の決定性なら、俺はOKだと思っています。
>>188 そのような非決定論的な因果律では、偶然の存在位置が
「因−偶然(確率的な結びつき)−果」となるわけですね。
そして結果について考察する際に、中間にある偶然性は
排除されて確実な一本道と解釈されるということですね。
そこでその一本道を逆転させてしまうから
決定論的世界観が生まれるという指摘でしょうか?
>>187 確かに形而上学です。それは真理と呼ぶにはためらいが・・・。
「無根拠」「無前提」「偶然」など、それを基盤にする事はOKだと思いますし、
一番妥当で平等でしょう。しかしこれでは何も語れない。語るには最低限の
同一律と矛盾律が生まれてくるような状況が生じた時でしょう。ここで初めて
形而下になる。しかし画期的だと思うのは、従来の形而上学と形而下学が不連続
であったのに対し、今の議論では形而上から形而下までスムーズに移行出来る点
です。純粋な「無前提」「無根拠」「偶然」等は、ここでは「無意味=無」を唱って
いるわけですから、神や絶対的存在を無条件で持ち出す危機を回避できるわけです。
そして完全な「無」である事は、対象が無限大である時だけだから、認識可能な
世界観は自ずと形而下学に絞られるという解釈を取ります。即ち対象が有限で
ある時のみ形而下になる。これなら神は要りません。
>>183 一様に、といった場合、分布であるし、何が一様に分布するのかということに
なるから、一様は何らかの傾向を示すものであるかと思うのですが。
例えば0から9までの数が一様に分布するという場合、それ以外のものが
ある可能性には着目していないですね。
>>189 >そこでその一本道を逆転させてしまうから
決定論的世界観が生まれるという指摘でしょうか?
大方そうですね。もし、この議論で云うような事が妥当で、或いは「正しい」と
認められ得るならば、決定論的世界観は論理的にも矛盾です。
ただしこの世には、何らかの意味で物事を確実性に近付かせる法則があるのは確か
だと思います。力学などがそうですね。それが何であるかは今もって良くわかりません。
>>184 事象は必然と偶然に二分できるということでしょうか。
定言、仮言、選言は恒真命題であり、それに偶然をくっつけるのは
偶然はトートロジーの否定という九鬼自身の説に反します。
>>186 > すべての因果の繋がりを肯定した決定論的世界になってしまわないでしょうか?
それでいいのでは。なにか問題があるのでしょうか。
>>188 因果律は原因がひとつで結果がひとつです。
>>131に書いたように、
サイコロの結果も決まっています。
>>195 一様な分布では、もしそれが0〜9までの数だとするなら、予め与えた条件が
0〜9までなのであって、それ以外を考えたら何も語れなくなります。
そのような一様性を拡大し、もし16進法ならば→17進法→100進法→
1万進法→1兆進法→・・・→無限となる過程が自ずと沸きます。そこには
「1」もあるかもしれないし「X」があるかもしれない。「ζ」があるかも
しれないが、それがあっても、結局何か意味のある知識にはならないのです。
これを指して完全な一様性だと主張しているのです。もしこれを「多様性」
だと置き換えても、意味するところは全く変わらないと思います。
>>196 一様と多様は違う意味の言葉です。これを混同して使っているのでしょうか。
>>195 サイコロは解かり易い類推の一種であって、物理的な実体のつもりで言ったのでは
ありませんよ。もしかなりの精度でサイコロを打ち出せる機械があれば、
観察する人にとってサイコロの挙動が予測不能であっても、大体同じ目が出せる
でしょうね。これは古典力学的な仮定であって、今問題にしている事とは別問題
でしょう。
>>193 まだ第二章の仮説的偶然までしか読んでませんが
定言においての偶然の現れ方は“例外”や“可能的要素(非本質)”
として捉えられるということです。
私の解釈なのでうまく伝えられなかったかもしれませんが
例えば、「すべての〜は〜である」の述語部分には偶然的な要素を
当てることができないという意味での“必然の否定”ではないでしょうか。
>>194 問題というか私の個人的な問題ですね。
私が決定論的世界を否定したい立場だから・・というだけです。
>>197 そんなのは言われるまでも無く分かりますが、「一様性」であってもいいし、
「多様性」であってもいいし、「性質X」でも良いという事ですよ。
同じ性質を指して言葉を使っているだけです。記号みたいなものです。
例えば「無前提性」だとか「無根拠」だとか「偶然」とか「無限」とか
同じ事を説明するのに色々な言葉が出てきてるでしょう?
その類推から、「一様分布」があがり、拡張されればそれを理想的な
完全一様性だと考えられるという事ですが、別に日本語の意味合いがどうとか
いう議論とは関係無いと思うのですが。
>>192 >ただしこの世には、何らかの意味で物事を確実性に近付かせる法則があるのは確か
>だと思います。力学などがそうですね。それが何であるかは今もって良くわかりません。
引用の引用になりますがこういう言葉があるそうです。
これは私の経験的多頻度と法則性の結びつき(同質性維持と異質性排除)
にも通ずるような考え方かもしれません。
「法則とは事実の急流が過ぎゆく河床である。事実はその河床に
従っては行くが、もともと事実がその河床を凹ませたのである。」
ブートルー『自然法則の偶然性』(1874)
このブートルーの言葉もイデア的な本質を逆転させたような発想ですよね。
私もこの言葉にかなりのシンパシーを感じます。
また同じような方向性として、法則(必然性)のベイズ主義的な
捉え方もできるのではないでしょうか。
>>194-195 飛べないカラスさんは確率論を無知による妥協策
と捉える立場(確率の主観主義的解釈)だということでしょうか?
そうであるのなら、私と全く逆の立場になってしまうので
意見が衝突するのはやはり仕方ないですね・・。
でも、飛べないカラスさんのような決定論的な立場の方からの
意見がなかったら、独善的な考えに陥ってしまいそうなので
とてもありがたいことだと思ってます。
ていうか参加人数ずっと3人ですねここ。
もしかしたらROMしてる人がいたりするのかな・・。
>>203 ある事象は、次の事象の確率を左右するような働きがあるという事ですかね?
つもり重なって強化されていくというような?
形式化できるといいですよね。
>>204 それは202へのレス・・・っぽいですね。
法則のベイズ主義的な捉え方というのは端的に言うと
「以前は多くがそうであったから、以後もほぼそうであると信じる。」
その指針を法則と呼んでいるという捉え方です。
本質(イデア)についてもおそらく同じ事が言えると思います。
例えば“りんご”という概念を持つためにはまず“りんご”という
言葉に対応するものをいくつか教えてもらう必要があります。
そのいくつかの“りんご”の共通項をりんごの本質として捉え、
さらに多くのりんごを知ることで本質を純化する(可能的内容の捨象)。
そして“りんご”という抽象化された概念を獲得する課程があります。
上記のような認識過程があるということは
これからもし「りんごのような形をした直径50cmの白い果実」をも
りんごとして見なすような体験が増えれば”赤”や”大きさ”すらも
可能的内容として捨象され、りんごの必然性(同一性)が変質します。
以前は例外だったしても、例外の頻度が増せばそれはすでに例外ではなくなる
ということですね。この認識過程も法則と同じことではないでしょうか。
>>199 定言的必然と定言的偶然の違いはなんでしょう。定言的偶然を式で表してみてください。
>>200 26さんの言う一様性についてはイメージできますが、対義語関係にある多様と一様を
混同するのは、他の人が見たら誤解の元になりそうだと思いました。
>>203 >>132に書いたように、さいころを振るという原因と、目が出るという結果の対応は
因果法則であり決定論です。
>>206 まあ相対論における「特殊」と「一般」についても何が一般で何が特殊かの説明は
後回しですからね。
決定論的とかの議論についてですが、それを決定論であると認める事と、
認めない事で具体的にどのような差異がおありだと感じられますか?
「サイコロを振れば目が出る」のは確かに因果律そのもので、決定的だと言えますが
それ以外の何かを語れないでしょう。ここで論じたいのはこのような事ではなくて
事象や概念、
>>1の言うように意志に関する分析なのです。
仮に俺が今まで述べたような「一様性」において、そこには無限の事象が存在し、
全て決定しているとしても差し支えは無いが、もっと内部的な意味にとっては
全く影響の無い事だと思います。定義的に、完全一様性の中で起きる「事象X」
の確率は無限小ですが、このXが決定しているか、決定していないかという話は、
今は勘弁してください。これは俺には語れないのです。
例えば円周率の小数展開の問題で、「9という数字が1億回続く箇所が存在する」
という命題について決定論的な立場では、「そのような場所も存在する」と見るべき
ですが、決定論的でなければ「判らない」と言えば済むから楽なのです。
>>206 九鬼は定言的必然は全称判断で表され、
定言的偶然は特称判断で表されると言っています。
表記方法が古いようですがそのまま書きます。
<'というのは<の打ち消し(包括関係の否定)の代用です。
またa=abというのは左辺aと右辺a×bの同一関係を表すもので
特段、a=bの絶対同一関係を表すものではありません。
・定言的必然「すべてのaはb(non-b)である」
全称肯定 a < b (a=ab)
全称否定 a < b' (a=ab')
・定言的偶然「若干のaはb(non-b)である。」
特称肯定(全称否定の否定) a <' b' (a≠ab')
特称否定(全称肯定の否定) a <' b (a≠ab)
ここにおいて定言的偶然は記号の否定という形で明確に現れる。
つまり同一関係の否定を表すことが分かるということになります。
>>207 > 決定論的とかの議論についてですが、それを決定論であると認める事と、
> 認めない事で具体的にどのような差異がおありだと感じられますか?
> 事象や概念、
>>1の言うように意志に関する分析なのです。
何が意志を生み出し、意志が何を生み出しているのか分析することは、意志の
因果関係の分析です。因果法則の否定は分析を放棄することになります。
> 例えば円周率の小数展開の問題で、「9という数字が1億回続く箇所が存在する」
> という命題について決定論的な立場では、「そのような場所も存在する」と見るべき
> ですが、決定論的でなければ「判らない」と言えば済むから楽なのです。
これは数学の問題です。俺にもこの問題は解けません。決定論だとわからないでは
済まないのではありません。
>>208 全称が必然で特称が偶然なのですね。
これは恒真式でしょうか。偶然は恒真式の否定でしたね。
「若干の整数は偶数である」は定言的偶然でしょうか。
>>209 >これは恒真式でしょうか。偶然は恒真式の否定でしたね。
トートロジー(恒真式)の否定と端的に言ってしまったのがマズかったですね。
定言的偶然においては、「普遍(本質)的判断の否定」と言った方がしっくり来ます。
>「若干の整数は偶数である」は定言的偶然でしょうか。
よってこれは特称判断(整数の本質、普遍性を判断するものではない)なので真です。
例えば、ここで「偶数」を否定したとしても整数の概念そのものとの同一性を
欠くことにはならないので偶数は可能的内容(偶然的要素)と言えます。
つまり「若干の整数は偶数である」は特称判断であり、
特称判断は定言においての偶然の表現方法(定言的偶然)です。
>>209 元々因果関係の否定はしてません。そして決定論の否定も肯定もしてません。
元々話し合っているのは、決定論や非決定論についての議論ではないという事を
言っているのであって、非決定論の証明や決定論の証明とは別問題です。
議論は形而下で行わないと話は進みません。そもそも
「決定論に基づけば『自由意思』は存在しない」
「非決定論に基づけば『自由意思』は存在する」
という二分によって「自由意思」の性質を分析する事は出来ません。
決定論の中には、「予測不可能性」と呼ばれる性質もあるのでそちらを加味する
方が議論が面白くなりそうなのですが。
>これは数学の問題です。俺にもこの問題は解けません。決定論だとわからないでは
済まないのではありません。
もし決定論ならば、円周率の無限小数は全部決まっているという前提が必要なのです。
数学の問題だから解けないという片付け方は出来ません。無限小数は無限に続く
のだから、
>>182でおっしゃるように、「どんなものも何処かに存在しなければ
ならない」という立場を取らなければなりません。
>>210 > 定言的偶然においては、「普遍(本質)的判断の否定」と言った方がしっくり来ます。
そうですね。では「若干の整数が偶数なのは必然である」という文章があったとします。
ここでの必然の使われ方は定言的必然でしょうか。
「すべてのヒト遺伝子が46本なのは偶然である」の偶然は定言的偶然でしょうか。
>>211 決定論に予測不可能性はありません。
俺が解けないというのは円周率は無限小数であり循環小数でない等の証明が
できないということです。
>>184に戻りますが、
> この無視というのは万物の因果関係を想定した上での“あえて無視”ですか?
「私が試験に合格したのは偶然だ」という場合、勉強したから等の因果関係を無視して
いるという意味で、その人が万物の因果関係を想定しているかは別問題です。
自明だと思いましたが気になるみたいですね。
>>212 >「若干の整数が偶数なのは必然である」という文章があったとします。
>ここでの必然の使われ方は定言的必然でしょうか。
はしょって説明したのでいいかげんな伝わり方になってしまったかもしれません。
概念(主語)に対する偶然or必然的徴表(述語)、この述語部分の徴表の
偶然or必然性を定言的偶然or必然と、九鬼はそう呼んでいるようです。
この文では、主語部分a「若干の整数が偶数」と述語部分b「必然」の対応になります。
a部分は単に"真"なので「aが真であることは必然である。」と言い換えられます。
述語bは主語aの部分が真であることの確実さ(必然性)を言っているだけなので
どっちでもないような気がします。そもそもこの文の主語a(真)と述語b(必然)を
概念と徴表の対応として捉えにくいのでなんとも・・。
>「すべてのヒト遺伝子が46本なのは偶然である」の偶然は定言的偶然でしょうか。
これもだいたい上と同じですね。
主語c「すべてのヒト遺伝子は46本(23対46本の染色体)である」の内部の
"ヒト遺伝子"と"46本"の46本はヒト遺伝子にとって定言的必然と言えます。
また、上と同じようにcは真であるので「cが真であるのは偶然である。」
と言い換えることができると思いますが、この対応は概念と徴表ではないですよね。
おそらくカラスさんの挙げられたのは偶然・必然命題とか様相論理
みたいなもんなんじゃないでしょうか?そこんとこ私はよくわかってませんが・・。
>>213 訂正ですがヒト遺伝子→ヒト染色体でした。
その例だと必然、偶然はどのような意味を持つのでしょうか。
>>214 なんでしょうね・・。
おそらく命題の成立課程に対して偶然、必然を
言っているのだと思うんですが。
整数の例の場合はきっと必然として成り立つということを
強調しているだけであって、遺伝子の例で言っているのは
「ヒトは偶然にも46本の染色体を持つようになった。
(ヒトは偶然に誕生した)」ということですよねたぶん。
>>212 >「私が試験に合格したのは偶然だ」という場合、勉強したから等の因果関係を無視して
>いるという意味で、その人が万物の因果関係を想定しているかは別問題です。
>自明だと思いましたが気になるみたいですね。
どちらにしても因果関係を考慮に入れていない発言ということですね。了解です。
先の発言はどちらでも構いませんが、議論をする上ではやはり
お互い立場をハッキリさせておいたほうが分かりやすいと思うのですが。
私の立場は26氏やカラス氏とは違っているとは思いますが
端的に言うと、万物を構成する究極の基盤は偶然であるとする立場です。
偶然(無秩序)→必然(秩序)の流れは以前示した通りです。
>>216 かなりあなたと近いんですが、まんま同じではないですね。
偶然(完全ランダム、完全一様性)→秩序への至りまでは全く同感です。
ただし、万物を構成する究極の基盤は、ランダム的な「部分」から必然的に発生する
「同一的な何か」(偏り)だと思っています。
従って俺は、扱う対象が無限ならば何も構成されないと観ている事になります。
有限という立場で発現する「必然性」と「偶然性」の混成状態で世界とその認識が
構成されていくと考えています。
しかし本質的には全く同じで、言い方を変えているだけかもしれません。
最近は、その秩序(偏り)が自己相似化によって元々の性質を強める傾向が
あるのではないかと考えています。全くの勘ですが。
そういう訳でフラクタルやカオス理論にはかなり興味があります。
「自己相似化」が法則一般の鍵になるような気がするのです。
これはただの思い付きなんで流しても構いません。