九鬼流の「偶然性の三様態」を引用してみますね。
まだ第一章の定言的偶然までしかいってませんが、後で一応僕なりに
咀嚼した上で載せてみます。他にも暇な方おりましたら読書会ノリ
でやってもいいと思います。もし間違ってたら(わかんないかな・・)
ご指摘いただければありがたい限りです。
・偶然性は必然性(自己同一性、トートロジー)の否定である。
< 必然性の三様態 >
A1. 定言的必然:ある概念とその徴表(メルクマール)との対応、同一性。
A2. 仮説的(仮言)必然 :yがある条件xなしには存在しないであろうこと。
A3. 離接(選言)的必然:判断により「一か他か」へと還元し、事態を確実に把握すること。
つまり全事象(全概念)Wにおける、必然性の集合をAとしたとき
偶然性の集合Bは必然性の否定、または全事象からAを除いた(Aに属しない)
ものにあたるわけであるから、B=A'もしくはB≠Aと表記できる。よって
<偶然性の三様態>
B1. 定言的偶然 B2. 仮説的偶然 B3. 離接的偶然
この三様態に偶然性を区分できると考えられる。
という感じで結構いいかげん(?)にはしょってみました。
今のところ、定言的偶然だけなら少々解説入れられます。
引用というか、適当な読み替えですね。
あと、
>つまり全事象(全概念)Wにおける
>または全事象からAを除いた
これらは今のところはっきり断言できないので保留にしときます。
全事象をそのまま全概念と換言するのもなんか気が引けるし
全事象が必然と偶然の2性質のみであると断言していいものか
ちょっとまだ迷ってるもんで。
>>169 〈A1〉で言っている全事象(メルクマール)と、全概念の対応付けは可能でしょうか?
集合論的な話になっちゃいますけど、ここでいうところの「全概念」は、
「全事象」の冪集合になるでしょうから、一般に「全概念」の方が「全事象」
よりも「常に多い」という結論になると思うんですよ。
それと「偶然性とはトートロジーの否定である」という事は、その構造は
〈偶然性〉と〈これは[トートロジー]ではない〉が同値になるような意味ですか?
つまり「偶然性」というものが、いかなるトートロジーも成立し得ない事を意味
するんですか?確かに命題論理以降の形式論理ではそれが当てはまると思います。
その結果命題論理以降の形式論理一般にとって、「〜は真か偽のいずれかであり
常に内部で判定できる」事が否定される(不完全性定理)ことは良く知られています。
そのようにして「真でありながら証明不可能な命題が幾らでも存在する」という
事実は、飛躍すれば、「現実でありながら偶然の事象は幾らでも存在する」という
事になるのかもしれません。勝手な解釈ですが・・・。
更にはトートロジーの設定というものが断定的であって、形式的な妥当性を
問題にしていないという立場が現在有力です。
例えば定言的偶然の場合で本文から拝借しますが
三角形という概念における必然性は「3つの線分(辺)から成る面」です。
その他の「ひとつの角が直角で、他の二角は45度」とか「3辺が等しい長さである」
とかいう性質は、単なる三角形という概念における”可能的要素(多様性)”に
過ぎないのであって、三角形の本質ではないということです。
この可能的要素が九鬼の言う定言的偶然に当たります。
つまり可能的要素によってだけでは、三角形の自己同一性を
維持することができないと言えます。
何について書けばいいのか…。 議論の範囲を絞ってほしいな。
確率論と自由意志論は別の論なのだけれど。必然、偶然の定義は一般的なもので
いいと思う。
>>173 すみません。わざわざ参加していただいて感謝してます。
>議論の範囲を絞ってほしいな。
今は必然、偶然とは何かをやってみたいかなと思うんですがどうでしょう。
両者の定義を煮詰めることで何か見つかりそうな気がします。
とはいっても、自分としては結構なんでもいいので
これ以外でも何か議案があれば遠慮なくお願いします。
ゲーム理論的なこともやってみたいんですが、なかなかいい感じの
ゲームが思いつかないので、何かあったらそれもお願いします。
>>171 >「全事象」の冪集合になるでしょうから、一般に「全概念」の方が「全事象」
>よりも「常に多い」という結論になると思うんですよ。
最初そうかなと思ったんですが、それではどうしても「真で唯の事象」に対応する
「複数の概念(虚構)」という意味合いになってしまって”真の実在”を
想定しちゃいますよね。私は(人間にとっての)実在は複数でもいいと思うので、
全概念=世界という観念論的な定義のほうがいいんじゃないかと思うわけですが。
>「〜は真か偽のいずれかであり常に内部で判定できる」事が
>否定される(不完全性定理)ことは良く知られています。
おっしゃるように、概念をすべて論理的に整理してしまうと
不完全性定理によって、その概念(世界)は自身によって自身の矛盾を
解消できない事態にあることになりますね。
しかし、トートロジーの設定が26氏の言う無前提(一様性)に支えられている
とした場合、論理的世界は虚構であったとしても何ら差し支えはないですね。
ミクロな世界が確率でしか記述し得ないこと。また、ミクロの総体の平均が
マクロな世界において一定の秩序として現れてくるというのもこれにリンクしますね。
よって、有は無に支えられているという26氏の推理は正しいものであると感じます。
>>171 あ、徴表(メルクマール)というのは概念に備わっている性質のことです。
「日本人(概念)は黄色人種(徴表)である。」といった具合に。
この黄色人種という徴表は、日本人という概念における必然性(同一性)を意味しますよね。
まあでも日本国籍の外国人という例外もありますが、”一般的に黄色人種”です。
九鬼はこの一般的性質のことを(妥当な)法則と呼んで例外的偶然(孤立的事実)と
対比させてました。ついでに結構おもしろかった彼の出した日本語の例を借ります。
「たまたま」、「まま」、「まぐれ」、「まれに」という頻度(偶然)を表す
日本語に共通する”ま”というのは元来、”間”の意味であって、時間的、空間的な
間隔を意味する。つまり偶然がある連続性において間を置いて以外に存在しないと言える。
この日本語の成り立ちから分かるように、定言的偶然は例外的偶然において把握され易い。
”ま”に注目することによって、「まにあった」「まがわるい」というのが偶然への遭遇に
対する、前者は適合、後者は不適合を表していることが明確になりますね。
これは私の解釈ですが、概念を構成するのはやはり経験であるわけで、
”一般的に多くの場合に”と言うように、人間は経験的多頻度と
(定言的)必然を結びつけやすい傾向にあるとも言えますね。
これは現代の(統計的検定によって有意基準にあるとする)科学も同じでしょう。
「ex. タバコを吸うと癌になる、あの先生に習うと必ず成績が上がる」
人間は物事をよく理解する際には必ず必然性への還元(本質看取)が
必要であるけども、それは必然とはいっても普遍(すべてに適合)ではない場合も
ままあるわけです。ここにおいても「同質性の維持」と「異質性の排除」という
人間心理の基本構造が見て取れるのではないでしょうか。
話は逸れますが、バタイユが同質性・異質性について書いてますね。
私はバタイユは解説書系でちらっとしか読んだことないですが・・。
訂正
有意基準→有意水準
>>169 定言仮言選言は当時、論理学の先端と言われていた。ここから現在の情報処理ができた。
定言は入力と出力の対応、仮言はスイッチング、論理演算、選言はAD変換、量子化。
それに必然と偶然をくっつけてどうするのかな。
>>172 それは三角形を上位概念としているから。正三角形の3はは正n角形の要素とすることもできる。
>>174 > 今は必然、偶然とは何かをやってみたいかなと思うんですがどうでしょう。
> 両者の定義を煮詰めることで何か見つかりそうな気がします。
因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
>>176 「偶に」は「間々に」(時として)から変化したと思うが、「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
俺の目的としては、一様性から「量子」を、または「量子論理」を妥当な路線で
導きたかったという感じです。だから「量子論」を物理学の動機として用いるの
ではなくて、論理には元々普遍的に量子的性質があると考えたいのです。
物事についてちゃんと知識として理解する為には、論理の「同一律」と「矛盾律」
は欠かせないものになります。言い替えるとある事柄が理解可能であるためには
最低限の条件として「同一律」「矛盾律」が生まれてこなければなりません。
「排中律」は無ければ不便だけれども、絶対に必要とは限らないと思っています。
しかし、同一やら矛盾やらが「一様性」の前段階にある、という考えはありません。
何故なら一様であるようなものは、全て理解不可能だからです。その世界は、
無意味といって差し支えないでしょう。意味があると認められるモノ(前提)が
出てきたときに初めて「論理」が一定の意味と恒真性を持ち始めてくると。
一様性はランダムとか「偶然」を《直接に》導く原因であろうと考えられるので、
「偶然性」は論理より更に遡って基本的な性質であるように感じられます。
最近は「無」というものがただ単に「存在」の反対概念ではなくて、存在と存在が
稠密に打ち消し合って(干渉と相殺)、「無」に限りなく近付くというイメージが
出てきました。つまり「無」や「無限」は仮想(理想)であって、
(無〈完全一様性〉)<(理解可能性の世界)<(絶対的存在)
という図式の様に、モノの存在の本質が「0か1」なのではなく、それがSなら
0<(1/N)≦S≦[{N−{1/N}/N]<1
であるような「存在可能性(可能性的真理値)」の領域と限界があって、
いかなるモノも絶対的ではなく、確率的真理と見なす考え方になってきました。
>>179 訂正ですが選言は論理和の誤りでした。排中律が量子化でした。
無限(すべて)は一様ではなく多様だと思う。無限(すべて)にはどんなものもどこかに存在する。
>>182 俺の考える「一様性」の解釈とはちょっと違いますね。
無限が一様性であると考える事は、いかなる「局所」の概念も無前提では成立しない
という事です。
>それに必然と偶然をくっつけてどうするのかな。
必然からこぼれたモノが偶然で、またそれは必然と相対するものでもある。
そして定言、仮言、選言の論理構造においてそれぞれ3種の偶然の様態が
見られるというのはなかなか明確だし、偶然を整理するには最適ではないですか?
>因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
この無視というのは万物の因果関係を想定した上での“あえて無視”ですか?
>「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
そうですね。植物の由来を持つ言葉は日本語に多いですし
麻文化なんてのも日本の重要な文化でしたしね。
ただ九鬼のおもしろいのは和歌や他の日本古典文学や
漢文の引用などよくやってくれてるところですね。
(当然ですが)こういうのは西欧哲学にないのでとても新鮮です。
>>184は
>>179です。
しかも変な文字化け起こしてますね。書き直します。
>「偶に」は「間々に」(時として)から変化したと思うが
>「ま」は真、麻など違う意味のものも多い。
日本語には植物の名前を由来とする言葉は多いですね。
それに麻文化なんてのも日本の重要な文化でしたし。
追記です。
>因果関係に着目する場合は必然、因果関係を無視する場合は偶然でいいのでは?
私が冒頭で言ったように、自由意思を論じるにあたっては
どうしても必然(因果)という壁があります。
すべてに原因(拠る所)が存在するのなら、宇宙が生じた時点で
今の自分すらもどう考えどう行動するかもすべて決まっていることに
なってしまいますよね。(ならない解釈もあるかもしれませんが)
偶然は思考停止(あるべき必然を見出さない)状態であるとするなら
すべての因果の繋がりを肯定した決定論的世界になってしまわないでしょうか?
偶然が偶然としてそのまま存在するとする立場が
とりあえず今の私の立場です。
ですから、「偶然そのものは何なのか」という問いは私にとって非常に
重要な問題になってくるので、一般定義を越えて把握する必要がありました。
>>180 >いかなるモノも絶対的ではなく、確率的真理と見なす考え方になってきました。
真偽(all or nothing)でなく信頼の度合い(%)として
物事を判断すると私が言ったのに似てるかもしれませんね。
ということは結局、私は万物の究極法則(真理)を
“全くの偶然(無根拠)である”としているのだと思います。
逆転させた形而上学みたいなもんでしょうか?
>>186 因果律は必ずしも「原因がヒトツで結果がヒトツ」じゃなくても良いのでは
ないでしょうか?例えばサイコロ振るのが「原因」なら、結果は6種類あるような
感じで。コインならば2種類。もし因果がこれに支えられれば、全ての原因がヒトツ
でも結果は無数に生まれて行くので、決定論ながらも自分の主観(結果をヒトツに
限定しようとする作用を持つ)にとっては予測性も決定性も持たないと思います。
つまり絶対に決定できるような絶対的確実性は無いと思うのです。例えば、黒い
箱の中にパチンコ玉を10000個入れて、その中に1個だけ赤色の玉があるとき、
普通のパチンコ玉を取るのはほぼ確実でしょうが、絶対ではないと。こういうのが
いつも原理的に存在すると思っています。
そういう因果の決定性なら、俺はOKだと思っています。
>>188 そのような非決定論的な因果律では、偶然の存在位置が
「因−偶然(確率的な結びつき)−果」となるわけですね。
そして結果について考察する際に、中間にある偶然性は
排除されて確実な一本道と解釈されるということですね。
そこでその一本道を逆転させてしまうから
決定論的世界観が生まれるという指摘でしょうか?
>>187 確かに形而上学です。それは真理と呼ぶにはためらいが・・・。
「無根拠」「無前提」「偶然」など、それを基盤にする事はOKだと思いますし、
一番妥当で平等でしょう。しかしこれでは何も語れない。語るには最低限の
同一律と矛盾律が生まれてくるような状況が生じた時でしょう。ここで初めて
形而下になる。しかし画期的だと思うのは、従来の形而上学と形而下学が不連続
であったのに対し、今の議論では形而上から形而下までスムーズに移行出来る点
です。純粋な「無前提」「無根拠」「偶然」等は、ここでは「無意味=無」を唱って
いるわけですから、神や絶対的存在を無条件で持ち出す危機を回避できるわけです。
そして完全な「無」である事は、対象が無限大である時だけだから、認識可能な
世界観は自ずと形而下学に絞られるという解釈を取ります。即ち対象が有限で
ある時のみ形而下になる。これなら神は要りません。
>>183 一様に、といった場合、分布であるし、何が一様に分布するのかということに
なるから、一様は何らかの傾向を示すものであるかと思うのですが。
例えば0から9までの数が一様に分布するという場合、それ以外のものが
ある可能性には着目していないですね。
>>189 >そこでその一本道を逆転させてしまうから
決定論的世界観が生まれるという指摘でしょうか?
大方そうですね。もし、この議論で云うような事が妥当で、或いは「正しい」と
認められ得るならば、決定論的世界観は論理的にも矛盾です。
ただしこの世には、何らかの意味で物事を確実性に近付かせる法則があるのは確か
だと思います。力学などがそうですね。それが何であるかは今もって良くわかりません。
>>184 事象は必然と偶然に二分できるということでしょうか。
定言、仮言、選言は恒真命題であり、それに偶然をくっつけるのは
偶然はトートロジーの否定という九鬼自身の説に反します。
>>186 > すべての因果の繋がりを肯定した決定論的世界になってしまわないでしょうか?
それでいいのでは。なにか問題があるのでしょうか。
>>188 因果律は原因がひとつで結果がひとつです。
>>131に書いたように、
サイコロの結果も決まっています。
>>195 一様な分布では、もしそれが0〜9までの数だとするなら、予め与えた条件が
0〜9までなのであって、それ以外を考えたら何も語れなくなります。
そのような一様性を拡大し、もし16進法ならば→17進法→100進法→
1万進法→1兆進法→・・・→無限となる過程が自ずと沸きます。そこには
「1」もあるかもしれないし「X」があるかもしれない。「ζ」があるかも
しれないが、それがあっても、結局何か意味のある知識にはならないのです。
これを指して完全な一様性だと主張しているのです。もしこれを「多様性」
だと置き換えても、意味するところは全く変わらないと思います。
>>196 一様と多様は違う意味の言葉です。これを混同して使っているのでしょうか。
>>195 サイコロは解かり易い類推の一種であって、物理的な実体のつもりで言ったのでは
ありませんよ。もしかなりの精度でサイコロを打ち出せる機械があれば、
観察する人にとってサイコロの挙動が予測不能であっても、大体同じ目が出せる
でしょうね。これは古典力学的な仮定であって、今問題にしている事とは別問題
でしょう。
>>193 まだ第二章の仮説的偶然までしか読んでませんが
定言においての偶然の現れ方は“例外”や“可能的要素(非本質)”
として捉えられるということです。
私の解釈なのでうまく伝えられなかったかもしれませんが
例えば、「すべての〜は〜である」の述語部分には偶然的な要素を
当てることができないという意味での“必然の否定”ではないでしょうか。
>>194 問題というか私の個人的な問題ですね。
私が決定論的世界を否定したい立場だから・・というだけです。
>>197 そんなのは言われるまでも無く分かりますが、「一様性」であってもいいし、
「多様性」であってもいいし、「性質X」でも良いという事ですよ。
同じ性質を指して言葉を使っているだけです。記号みたいなものです。
例えば「無前提性」だとか「無根拠」だとか「偶然」とか「無限」とか
同じ事を説明するのに色々な言葉が出てきてるでしょう?
その類推から、「一様分布」があがり、拡張されればそれを理想的な
完全一様性だと考えられるという事ですが、別に日本語の意味合いがどうとか
いう議論とは関係無いと思うのですが。
>>192 >ただしこの世には、何らかの意味で物事を確実性に近付かせる法則があるのは確か
>だと思います。力学などがそうですね。それが何であるかは今もって良くわかりません。
引用の引用になりますがこういう言葉があるそうです。
これは私の経験的多頻度と法則性の結びつき(同質性維持と異質性排除)
にも通ずるような考え方かもしれません。
「法則とは事実の急流が過ぎゆく河床である。事実はその河床に
従っては行くが、もともと事実がその河床を凹ませたのである。」
ブートルー『自然法則の偶然性』(1874)
このブートルーの言葉もイデア的な本質を逆転させたような発想ですよね。
私もこの言葉にかなりのシンパシーを感じます。
また同じような方向性として、法則(必然性)のベイズ主義的な
捉え方もできるのではないでしょうか。
>>194-195 飛べないカラスさんは確率論を無知による妥協策
と捉える立場(確率の主観主義的解釈)だということでしょうか?
そうであるのなら、私と全く逆の立場になってしまうので
意見が衝突するのはやはり仕方ないですね・・。
でも、飛べないカラスさんのような決定論的な立場の方からの
意見がなかったら、独善的な考えに陥ってしまいそうなので
とてもありがたいことだと思ってます。
ていうか参加人数ずっと3人ですねここ。
もしかしたらROMしてる人がいたりするのかな・・。
>>203 ある事象は、次の事象の確率を左右するような働きがあるという事ですかね?
つもり重なって強化されていくというような?
形式化できるといいですよね。
>>204 それは202へのレス・・・っぽいですね。
法則のベイズ主義的な捉え方というのは端的に言うと
「以前は多くがそうであったから、以後もほぼそうであると信じる。」
その指針を法則と呼んでいるという捉え方です。
本質(イデア)についてもおそらく同じ事が言えると思います。
例えば“りんご”という概念を持つためにはまず“りんご”という
言葉に対応するものをいくつか教えてもらう必要があります。
そのいくつかの“りんご”の共通項をりんごの本質として捉え、
さらに多くのりんごを知ることで本質を純化する(可能的内容の捨象)。
そして“りんご”という抽象化された概念を獲得する課程があります。
上記のような認識過程があるということは
これからもし「りんごのような形をした直径50cmの白い果実」をも
りんごとして見なすような体験が増えれば”赤”や”大きさ”すらも
可能的内容として捨象され、りんごの必然性(同一性)が変質します。
以前は例外だったしても、例外の頻度が増せばそれはすでに例外ではなくなる
ということですね。この認識過程も法則と同じことではないでしょうか。
>>199 定言的必然と定言的偶然の違いはなんでしょう。定言的偶然を式で表してみてください。
>>200 26さんの言う一様性についてはイメージできますが、対義語関係にある多様と一様を
混同するのは、他の人が見たら誤解の元になりそうだと思いました。
>>203 >>132に書いたように、さいころを振るという原因と、目が出るという結果の対応は
因果法則であり決定論です。
>>206 まあ相対論における「特殊」と「一般」についても何が一般で何が特殊かの説明は
後回しですからね。
決定論的とかの議論についてですが、それを決定論であると認める事と、
認めない事で具体的にどのような差異がおありだと感じられますか?
「サイコロを振れば目が出る」のは確かに因果律そのもので、決定的だと言えますが
それ以外の何かを語れないでしょう。ここで論じたいのはこのような事ではなくて
事象や概念、
>>1の言うように意志に関する分析なのです。
仮に俺が今まで述べたような「一様性」において、そこには無限の事象が存在し、
全て決定しているとしても差し支えは無いが、もっと内部的な意味にとっては
全く影響の無い事だと思います。定義的に、完全一様性の中で起きる「事象X」
の確率は無限小ですが、このXが決定しているか、決定していないかという話は、
今は勘弁してください。これは俺には語れないのです。
例えば円周率の小数展開の問題で、「9という数字が1億回続く箇所が存在する」
という命題について決定論的な立場では、「そのような場所も存在する」と見るべき
ですが、決定論的でなければ「判らない」と言えば済むから楽なのです。
>>206 九鬼は定言的必然は全称判断で表され、
定言的偶然は特称判断で表されると言っています。
表記方法が古いようですがそのまま書きます。
<'というのは<の打ち消し(包括関係の否定)の代用です。
またa=abというのは左辺aと右辺a×bの同一関係を表すもので
特段、a=bの絶対同一関係を表すものではありません。
・定言的必然「すべてのaはb(non-b)である」
全称肯定 a < b (a=ab)
全称否定 a < b' (a=ab')
・定言的偶然「若干のaはb(non-b)である。」
特称肯定(全称否定の否定) a <' b' (a≠ab')
特称否定(全称肯定の否定) a <' b (a≠ab)
ここにおいて定言的偶然は記号の否定という形で明確に現れる。
つまり同一関係の否定を表すことが分かるということになります。
>>207 > 決定論的とかの議論についてですが、それを決定論であると認める事と、
> 認めない事で具体的にどのような差異がおありだと感じられますか?
> 事象や概念、
>>1の言うように意志に関する分析なのです。
何が意志を生み出し、意志が何を生み出しているのか分析することは、意志の
因果関係の分析です。因果法則の否定は分析を放棄することになります。
> 例えば円周率の小数展開の問題で、「9という数字が1億回続く箇所が存在する」
> という命題について決定論的な立場では、「そのような場所も存在する」と見るべき
> ですが、決定論的でなければ「判らない」と言えば済むから楽なのです。
これは数学の問題です。俺にもこの問題は解けません。決定論だとわからないでは
済まないのではありません。
>>208 全称が必然で特称が偶然なのですね。
これは恒真式でしょうか。偶然は恒真式の否定でしたね。
「若干の整数は偶数である」は定言的偶然でしょうか。
>>209 >これは恒真式でしょうか。偶然は恒真式の否定でしたね。
トートロジー(恒真式)の否定と端的に言ってしまったのがマズかったですね。
定言的偶然においては、「普遍(本質)的判断の否定」と言った方がしっくり来ます。
>「若干の整数は偶数である」は定言的偶然でしょうか。
よってこれは特称判断(整数の本質、普遍性を判断するものではない)なので真です。
例えば、ここで「偶数」を否定したとしても整数の概念そのものとの同一性を
欠くことにはならないので偶数は可能的内容(偶然的要素)と言えます。
つまり「若干の整数は偶数である」は特称判断であり、
特称判断は定言においての偶然の表現方法(定言的偶然)です。
>>209 元々因果関係の否定はしてません。そして決定論の否定も肯定もしてません。
元々話し合っているのは、決定論や非決定論についての議論ではないという事を
言っているのであって、非決定論の証明や決定論の証明とは別問題です。
議論は形而下で行わないと話は進みません。そもそも
「決定論に基づけば『自由意思』は存在しない」
「非決定論に基づけば『自由意思』は存在する」
という二分によって「自由意思」の性質を分析する事は出来ません。
決定論の中には、「予測不可能性」と呼ばれる性質もあるのでそちらを加味する
方が議論が面白くなりそうなのですが。
>これは数学の問題です。俺にもこの問題は解けません。決定論だとわからないでは
済まないのではありません。
もし決定論ならば、円周率の無限小数は全部決まっているという前提が必要なのです。
数学の問題だから解けないという片付け方は出来ません。無限小数は無限に続く
のだから、
>>182でおっしゃるように、「どんなものも何処かに存在しなければ
ならない」という立場を取らなければなりません。
>>210 > 定言的偶然においては、「普遍(本質)的判断の否定」と言った方がしっくり来ます。
そうですね。では「若干の整数が偶数なのは必然である」という文章があったとします。
ここでの必然の使われ方は定言的必然でしょうか。
「すべてのヒト遺伝子が46本なのは偶然である」の偶然は定言的偶然でしょうか。
>>211 決定論に予測不可能性はありません。
俺が解けないというのは円周率は無限小数であり循環小数でない等の証明が
できないということです。
>>184に戻りますが、
> この無視というのは万物の因果関係を想定した上での“あえて無視”ですか?
「私が試験に合格したのは偶然だ」という場合、勉強したから等の因果関係を無視して
いるという意味で、その人が万物の因果関係を想定しているかは別問題です。
自明だと思いましたが気になるみたいですね。
>>212 >「若干の整数が偶数なのは必然である」という文章があったとします。
>ここでの必然の使われ方は定言的必然でしょうか。
はしょって説明したのでいいかげんな伝わり方になってしまったかもしれません。
概念(主語)に対する偶然or必然的徴表(述語)、この述語部分の徴表の
偶然or必然性を定言的偶然or必然と、九鬼はそう呼んでいるようです。
この文では、主語部分a「若干の整数が偶数」と述語部分b「必然」の対応になります。
a部分は単に"真"なので「aが真であることは必然である。」と言い換えられます。
述語bは主語aの部分が真であることの確実さ(必然性)を言っているだけなので
どっちでもないような気がします。そもそもこの文の主語a(真)と述語b(必然)を
概念と徴表の対応として捉えにくいのでなんとも・・。
>「すべてのヒト遺伝子が46本なのは偶然である」の偶然は定言的偶然でしょうか。
これもだいたい上と同じですね。
主語c「すべてのヒト遺伝子は46本(23対46本の染色体)である」の内部の
"ヒト遺伝子"と"46本"の46本はヒト遺伝子にとって定言的必然と言えます。
また、上と同じようにcは真であるので「cが真であるのは偶然である。」
と言い換えることができると思いますが、この対応は概念と徴表ではないですよね。
おそらくカラスさんの挙げられたのは偶然・必然命題とか様相論理
みたいなもんなんじゃないでしょうか?そこんとこ私はよくわかってませんが・・。
>>213 訂正ですがヒト遺伝子→ヒト染色体でした。
その例だと必然、偶然はどのような意味を持つのでしょうか。
>>214 なんでしょうね・・。
おそらく命題の成立課程に対して偶然、必然を
言っているのだと思うんですが。
整数の例の場合はきっと必然として成り立つということを
強調しているだけであって、遺伝子の例で言っているのは
「ヒトは偶然にも46本の染色体を持つようになった。
(ヒトは偶然に誕生した)」ということですよねたぶん。
>>212 >「私が試験に合格したのは偶然だ」という場合、勉強したから等の因果関係を無視して
>いるという意味で、その人が万物の因果関係を想定しているかは別問題です。
>自明だと思いましたが気になるみたいですね。
どちらにしても因果関係を考慮に入れていない発言ということですね。了解です。
先の発言はどちらでも構いませんが、議論をする上ではやはり
お互い立場をハッキリさせておいたほうが分かりやすいと思うのですが。
私の立場は26氏やカラス氏とは違っているとは思いますが
端的に言うと、万物を構成する究極の基盤は偶然であるとする立場です。
偶然(無秩序)→必然(秩序)の流れは以前示した通りです。
>>216 かなりあなたと近いんですが、まんま同じではないですね。
偶然(完全ランダム、完全一様性)→秩序への至りまでは全く同感です。
ただし、万物を構成する究極の基盤は、ランダム的な「部分」から必然的に発生する
「同一的な何か」(偏り)だと思っています。
従って俺は、扱う対象が無限ならば何も構成されないと観ている事になります。
有限という立場で発現する「必然性」と「偶然性」の混成状態で世界とその認識が
構成されていくと考えています。
しかし本質的には全く同じで、言い方を変えているだけかもしれません。
最近は、その秩序(偏り)が自己相似化によって元々の性質を強める傾向が
あるのではないかと考えています。全くの勘ですが。
そういう訳でフラクタルやカオス理論にはかなり興味があります。
「自己相似化」が法則一般の鍵になるような気がするのです。
これはただの思い付きなんで流しても構いません。