ここでは職業哲学者に限らず、知識人にとっての倫理
とりわけ知的職業の倫理について議論したい
なお、勝手ながら、ここはわたしの本スレとさせてもらう
さて、1としてわたしが話題を(特に多くの者から反発を受けるような話題を)ふろう
わたしは昨今の哲学と哲学板の状況に不満を覚える
特に虚飾的に言葉を並べ立てて自らを知的であると欺瞞するような風潮に対して
わたしはとてつもない嫌悪感を抱くしその嫌悪感を隠したいとも思わない
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
手鏡じゃなくて鋭角DVカムを使用する
そのような風潮が生じている原因は何か
わたしはそれを古い哲学者の職業倫理意識が蔓延しているせいだと考える
このような風潮こそ哲学がかかった流行病である
この種の問題に対してわたしは様々なアプローチを試みてきたつもりだったが
ここでは「職業倫理を考えるスレ」としてこの種の問題に取り組みたい
ほったて小屋をおっ立てて、本格的に徹底抗戦ですか
とりあえず、新スレおめ!!
ここでわたしは二種の考え方を提出し、検討したい
1哲学者は不確実な言明をしてはいけない、という考え
2哲学者には職業倫理などない、という考え
「哲学者」とは便宜上わたしが適当に与えた名であるので、この線引きを問題にするのはやめにしていただく
>>7 あり
ところで、君のあの長いレスは何とかならんかね
やりにくくてしょうがない
まず、タームの混乱。特に「人によって意味がマチマチ」度が極端に高いのは、
「形而上学」「理性」「弁証法」「ポストモダン」「科学」そして「哲学」などである。
これは各々の読書歴を突き合わせ、誠実な対話をしていくことである程度解消できる。
しかし、これは議論参加者が、知ったかぶりをしないという条件が必要。
>さて、1としてわたしが話題を(特に多くの者から反発を受けるような話題を)ふろう
「〜といってみる」、ネタ的ということですね。
13 :
考える名無しさん:04/04/12 16:30
>>3 >特に虚飾的に言葉を並べ立てて自らを知的であると欺瞞するような風潮に対して
まともなもの書きや研究者はそんなことないでしょ。
修行段階でそういう態度は徹底的に叩かれるから。
そのような風潮があるとすれば、この板にもっとも色濃いね。
>>11 それはどうでしょうか。
これらのタームは思想と直結している。
それをなんらかで規定することが自体が議論すべきことですね。
でも、知ったかぶりはたまに僕もしてしまうことがある。熱くなったときなど、
孫引きであるにも関わらず、あたかも原典をちゃんと読んだかのように語って
しまう。その場合はできるだけ後で訂正、謝罪をするのがベストだと思う。
そのときは熱くなってるから難しいんだけどねえw
16 :
考える名無しさん:04/04/12 16:34
>>11 誰がどの本で言ってる「形而上学」か
誰がどの本で言ってる「理性」か
誰がどの本で言ってる「弁証法」か
誰がどの本で言ってる「ポストモダン」か
こういったことを明確化しないで、さも自分の主張であるかのように
語ることを避けねばならないね。
1哲学者は不確実な言明をしてはいけない、という考え
このような考え方は特に哲学板で広く受け入れられているように思われる
この「不確実な言明」とは何か
それは世界に対する叙述であれば世界以外の要素が含まれている言明ということであり
このような倫理を(暗にでも)持つものは、個人の独断が含まれる言明を一見激しく攻撃する
しかし、彼らは、言明そのものではなく、その言明を発言した発言者に批判を向ける
というのも、発言そのものに対して批判を向けることは批判者自身が自らの独断を露呈せざるをえないからである
>>14 Яさんはこの板のコンセプトにはあまり興味がないと思うけど・・・。
そこまでいうなら、いってしまおう。
このパロリチュールのエクリチュール性で議論しろ!
パロールによる議論では、無理だ。
わかるな。
書簡のように、本来の掲示板のように、一日1レス程度で、熟慮した文でコミュニケーションしろ。
それができるか。おまえらに。そこまで自制心があるのか。厨房のくせに。
ほんとうに2ちゃんねる的祭りを楽しんでいないと言えるのなら、
そうしろ。それだけだ。
わかるな。
>>1のむらむらするかまってほしい、煽り的、ネタ的スレ立てで
どの口がいうのか。馬鹿者!
Я さんは、どっちのスレにも出てきてしまうのだろうからね
23 :
考える名無しさん:04/04/12 16:43
あたりまえだろ
わしはパロリチューリストやからな
どこぞの馬鹿どもみたいにエクリチューリスとのふりするのは
はてなだけや
ははははは
>>16 俺の考えだと、
「形而上学」はもうもの凄いことになってますよね。主観的観念論、絶対的観念論、客観論、
実体論、イデア論、などなど、もう何がなんだかわからない。
「理性」は特に、俗にいう単に感性の対立物としての理性、カントのいう理性、ヘーゲルのいう理性
などの混乱。
「弁証法」は周知のように対話術としての弁証法か、フィヒテのいう弁証法、ヘーゲルの、そしてマルクスの
弁証法の区別。
「ポストモダン」は狭義のポスト構造主義者の思想内容のことなのか、それとも20世紀の時代状況のことなのか、
それとも高度情報化社会のことを言っているにすぎないのか。
これらを少なくともスレッド内ではちゃんと整理するべきですね。
>>1 あとのなめさんがこの世界を語る時の最低限の仮定も
羅列してほしい。
27 :
考える名無しさん:04/04/12 16:52
せめてエクリチュールの場をもち、自分の言説を提示してからスタートちゅうことやね
わしみたいにな
ははははは
例を挙げよう
「地球は丸い」「地球は平らである」
例えば「地球は丸い」という意見に対して
この種の職業倫理をもつ者は「いいや、地球は球ではない」とは言わずに
「君は『地球は球である』と言うが、-(その真偽は置いといて)-、君の発言は独断が含まれている」と、発言の内容の外部を批判する
ここでもし「『地球は球である』という意見は独断的であり発言すべきでない」と言うならば
彼は以下の
A「『地球は球ではない』という意見は確実であるがゆえに発言可能である」という立場か
B「『〜である』という意見においては不確実な意見を言ってはならないが、『〜ではない』という意見においては不確実な言明をしてもよい」という立場か
C「そもそも語ってはならない」という立場か
のいずれかに陥ると思われる
のなめって、兄?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
>>28 でも「はてな」も言説の場ではないんでしょ?あЯさんはあそこでも正確な引用、他者の書いた論文との
タームの規定共有は放棄しているわけだから。あれも「とりあえず・・・と言ってみる」の場だったん
じゃなかったっけ。
33 :
考える名無しさん:04/04/12 16:58
>>25 正直言って、そうしたタームをきちんと整理して議論できる人間は
この板の状況を見てとっとと逃げ出すと思う。
孤立無援の状態で整理係を買って出るお人よしは少ないでしょ。
>>32 だからきみはいつまでもダメなんだよ。
世界は、01ではない。
よりエクリチュールの場を求めるべきという、「程度の問題」なんだよ。
きみは一日朝昼晩に、「程度の問題」ととなれなさい。
36 :
考える名無しさん:04/04/12 17:05
>>29 君が「独断」で意味するものをはっきりさせて欲しい。
dogmatiqueという語義を踏まえて使っているのか、それとも日本語の語感
そのままに「自分勝手な断定」という広く浅い意味なのか。
>>34 ははは。僕がダメなやつかどうかはともかく、それではすべてЯさんのさじ加減次第に
なってしまう。匿名掲示板は暴力、強制力がないから、「程度の問題」で済ませてしま
うとまずいのではないか。そうでないと、本当に「ただ長い時間2ちゃんをやる暇のあ
るやつ」の勝ちになってしまうでしょw。
>>26 わたしの仮定は
1、矛盾した発言は世界について何1つ語っていない、ゆえに矛盾した発言をすべきではない
2、世界について叙述している、純粋な言明、混ぜものの一切無い言明というものはない、ゆえに確実な言明をしようとするべきではない
3、主観から完全に切り離された世界について語ることはできない、ゆえに主観抜きに世界を語ろうとすべきではない
4、世界がわたし一人の内部においてしか成立していないとは考えられない、ゆえに個人的主観のみで世界を語るべきではない
5、何らかの言明を確立することはその言明の論理的不確実さを覆い隠しかねない、ゆえに何らかの言明の確立を求めるべきではない、それゆえに議論では同意ではなく反対意見を求めるべきである
とりあえず挙げてみた
まだあると思う
>>34 長いやつが勝って何の問題がある。
またまた勝ち負けか。
声に出して!「程度の問題」!
>>38 その規定はちょっとどうかな。既にある種の哲学的立場を前提していると思うが。
>>36 でもdogmatiqueという語も二義性があるよね
独断、理論
ここでは懐疑論を念頭において展開した
心の平安が保たれてない、という意味合いが強いと思う
>>39 >長いやつが勝って何の問題がある。
わかったわかった。君の勝ちでいいよ。
>>41 まー何らかの立場ではある
だけどここで挙げた倫理は全て批判可能な形にしてある
だからそれ自体議論可能
>わかったわかった。君の勝ちでいいよ。
わーい!わーい!勝ったぁ〜!
興味がもてそうもないので、ここらでおいとましよう。
では最後にみんなで、
「程・度・の・問・題」!
>>46 逆に言えば、君は程度の問題には興味が無く、程度ではない問題に興味があるということだ
しかし、それこそ君がもつ宗教的なものの露呈に過ぎないのではないかね?
>>38 1の定義がいちばんよくわからないんです。矛盾をはらんだ世界を語るにしても、基本的には発言、
言説は悟性的、論理的でなければならない、ということですか。
>>47 もういいよ、やめときな。
きみは倫理といっているではないか。
倫理とはなんだよ。
だれが決めるのだね。
そういうことだよ。
50 :
考える名無しさん:04/04/12 17:24
今、勝ち組みの責任はこの上なく重いな
まあ、自負しているだけだからあまり責任は無いが
程度は知れるな
>>48 そうです、世界が矛盾をはらんでいるとしても、議論を行うには矛盾した言明を排除せざるをえない
矛盾はもともと我々の脳の内部において成立する概念ですから(論理体系は世界そのものではなく人間の脳内において構成されるもの)
世界が矛盾をはらんでいることを指摘するならば、我々の悟性が致命的に誤っていることを示す必要があると思われます
論理式の内部にパラドクスが含まれているetc
>>49 君は2つの点で混同しているように思われる
・倫理を議論にかけることができるかどうか
・倫理をどのように選択するか
上は理論的な事柄であり、下は実践的な事柄であるように思われる
>>51 よくわかりました。カントを踏まえないヘーゲル的言説、もしくはウィト(論哲)を踏まえない
ハイデガー的言説、を直接提示することの危険性、無用な混乱、などが実例だと思いますね。
君は一つの点で理解できていないと思われる
・倫理とはなにか?
「程度の問題」!「さび加減」!
>>53 わたしにはハイデガーは難解すぎて読めませんでした
しかし、わたしがヘーゲルには否定的でカントには肯定的な立場というのはその通りです
ルールを始める前になんのスポーツをするかきめなければならない。
スポーツをするだけでは、ルールはきめられない。野球?サッカー、ピンポン!
のなめさんの、弁証法スレからのコピペ
対話としての弁証法の意義は認める
しかし弁証法的に語られたいかなる理論もまったく無意味であるとわたしは主張する
矛盾があるからこそ発展があるというのは正しいとしても
それは矛盾を放置すれば自然と-歴史によって必然的に-発展が導かれるというわけではない
矛盾を矛盾のまま放置することを避けようとすることによって発展が導かれるのだ
ヘーゲルの弁証法はその悪しき遺産として矛盾を許容する態度を産み出した
しかし、矛盾を矛盾のまま放置することは発展ではなく堕落を招く結果となるだけだ
我々は、アンチテーゼと向かい合いながらも、矛盾を拒否し、矛盾を回避することで発展を得ていくのだ
ジンテーゼという題目のもとに神の座に座るも良かろう
しかし、我々人間は神ではない
自らの無力さを知り傲慢さを捨てるならば、我々はジンテーゼなき弁証法に手法を委ね
永遠に続くアンチテーゼとの対話に身を委ねるべきである
>>54 なるほど
君の意見は「倫理は程度の問題であり、程度の問題は意味が無い」という意見だとしよう
ならば、程度の問題でないものを君は提出できるのかね?
もし、君がそうでないものを提出できたならば、わたしは君の提出した言説を掲げて倫理について考えることを放棄しよう
しかし、君が何一つ程度の問題でないものを提出できなかったならば
わたしが「程度の問題でない問題を考えるべきではない」と考えるのは問題ないはずだ
すまん、落ちる
>ならば、程度の問題でないものを君は提出できるのかね?
First Order Logic が証明するもの全て。
ここでは私もЯさんに賛成せざるをえない。
われわれ人間すべてにおいてオーバーラップする「倫理」
を論証することが可能だと?
僕の意見は
>>57で転載させていただいたのなめさんの意見とはかなり違うのですが
(「矛盾を拒否し、矛盾を回避することで発展を得ていくのだ」「ジンテーゼという
題目のもとに神の座に座る」というのが正直よくわからない)、しかし、カントを読
まなければお話にならない、というのは認めます。
あいかわずだな
兄は
仕事きまらなかっのか
まったくきまる/きまらない
だから程度の問題
だから真理でなく、論理なんだろ
ダイナミズムだよ
なにについてかの具体性がなければ選択できない
だから倫理そのものを議題にするのはナンセンス
>>60 論理が誤っている可能性を指摘できる
Яのように「矛盾した言明は間違っていない」という主張だって可能だ
(ここで「論理が誤っている」と主張する人間が論理を使用することはできない、という反論が考えられる
しかし、この種の論証「超実論的論証」《ウィトの独我論反駁など》は論理的には不完全である)
わたしはすべての問題は(論理に関する問題も含めて)、倫理的問題に変換できると考える
>>59 じゃあね。またね。ヘーゲル「小論理学」の序論はおすすめですよ。ヘーゲルの
カントについての考え方がよくわかります。では。
>わたしはすべての問題は(論理に関する問題も含めて)、倫理的問題に変換できると考える
だから「倫理」がわれわれ人間すべてにおいてオーバーラップするような定義がなきゃ
論議する意味がないんじゃない?
>>60 続き
>われわれ人間すべてにおいてオーバーラップする「倫理」
>を論証することが可能だと?
論証することは不可能です
また、論証すべきだとも思いません
>>65 >だから「倫理」がわれわれ人間すべてにおいてオーバーラップするような定義がなきゃ
>論議する意味がないんじゃない?
「議論する意味が無い」というあなたの意見は
1つの倫理的言明の提出であるように思えます
わたしはその意見に反対です
ですから、このテーマでわたしはあなたと議論をすることはできます(あなたが議論を拒否するかどうかはともかく)
質問です。 「倫理」の定義は何でしょうか?
わしはこのスレに異議はないよ
コミュニケーションしただけ
「がんばれよ兄」
それだけのことですよ」
では!
>>68 「倫」→集団
「理」→ことわり
だから倫理学は集団のルールについて研究するものと大学時代に教わりました
ん? だれもその定義に質問しないのかな?
では、
「倫理」とは "集団のルール" なんですね?
「ルール」とは algorithm を示しますか?
そしてその「ルール」の正当性を確かめる方法はあるのかな?
その「集団」は "全ての人間" を示しますか、それとも "任意の人間のグループ"
を示しますか?
>>70 のなめさん、おちてないじゃん。まあいいか。
のなめさんの「哲学者の職業倫理」っていうのは単に「哲学に関する議論のルール」
というよりカントの「純理」における理性の越権を批判するというスタンスなんじゃ
ない?漠然と「倫理とは何か?」と問うても話がずれるような。
73 :
考える名無しさん:04/04/12 18:05
>>72 >カントの「純理」における理性の越権を批判するというスタンス
そして理性に然るべき立場を与え、形而上学を再建するというスタンス。
それを倫理と呼ぶかどうかは別として。
シャワー浴びとった
>>71 ルールの正当性を確かめることはできないし、そうするべきではない、と思います
また、「倫理」という用語はルールを意味しますが
わたしは「倫理的問題」という時、それが一部の狭い集団内においてルールとして通用するかどうかではなく
価値や規範に対しての問題と理解しています
ですから誤解を恐れぬならば、「全ての人間」と理解していただいて結構です
>>74 よくわかんない。
>ルールの正当性を確かめることはできないし、そうするべきではない
あなたはその "ルール" があるかどうか、そしてその正当性を確かめなく
てもいいと?
では何のためにこの「職業倫理」をついきゅうしてるの?
>>74 そしたら結局 Яさんが言うように "だいたい" なんじゃん。
>>72 ええ、ここでのわたしの目的は理性の越権を批判することであり、同時に理性そのものを批判にかけることです
何かを批判するならば、その批判した側も批判されるはずです
わたしは、正当化できるような何か、というものは存在しないと思います
ですから正当化できる批判というものも存在しないと考えております
包括的に、すべてのものは批判可能である、 それがわたしが提出するてーぜ
>>77 >わたしは、正当化できるような何か、というものは存在しないと思います
つまり、
・倫理とはなにか?「程度の問題」!「さび加減」!
なんですね?
これで倫理なんかだいたいとおちついたら最悪だな
兄は倫理を救えるんだろうな
救えずにこのスレたてたならただの馬鹿たぞ
80 :
考える名無しさん:04/04/12 18:25
「さび加減」って何? わびさび?
>>77 ああ、やっぱりそうか。でも
>何かを批判するならば、その批判した側も批判されるはずです
わたしは、正当化できるような何か、というものは存在しないと思います
ですから正当化できる批判というものも存在しないと考えております
というのはちょっと意味不明です。「わたしは、正当化できるような「絶対的、イデア的な」何か、
というものは存在しない思います、と言い換えてもよいのかな。
82 :
考える名無しさん:04/04/12 18:28
>>77 >包括的に、すべてのものは批判可能である、 それがわたしが提出するてーぜ
「批判 critique」という概念をはっきり明示してください。
単なる「けなし」ではないんでしょう?
失礼、上は途中で送信しちゃいました
>>75 正当性を確かめることはできません
しかし、いくつかの職業倫理のおかしい箇所、到底受け入れられない箇所を吟味しつつ探すことはできます
>>83 > 正当性を確かめることはできません
だからねー、それを言ってしまったら結局
「私の言っていることは "多分" 正解だろう、でも正確にはわかりません」
と言っているのと変わりないでしょ?
と、今日はこれで・・・。また。
>>82 ええ、批判とは、批判する対象の理論とは両立不可能な関係の言明です
追加すると、だからぴかーさんはそのことに触れられると
それを無視してたんだよ! 結局ぴかーさんの言っていることは
"だいたい" なんだから。
じゃー。
87 :
考える名無しさん:04/04/12 18:35
>>85 アンチテーゼを提起することが「批判」?
少なくとも、カントの言う「批判」はそうではないよね。
>>83 >正当性を確かめることはできません
しかし、いくつかの職業倫理のおかしい箇所、到底受け入れられない箇所を吟味しつつ探すことはできます
後期ウィト、クリブキ、柄谷「探求T」あたりの考えに近いのかな。
>>87 わたしはここでは論理的に両立不可能な関係を想像しています
26の意見は極端だな。だめ。でも、のなめさんの書くこともちょっと苦しい。
何か引用するとか、言葉の定義付けをきちんとするとかしないと共通言語が
成立しない。
>>84 わたしは、正解かどうかということには興味を抱きません
決定的な理論の確立というものを求めるべきではないと考えるからです
(しかし、わたしはピカの思考とは大きく異なります、わたしは非合理性を批判しますから)
>>90 そうですね
わたしの意見は見てのとおり、
ウィトゲンシュタインに対して「『哲学的問題はない』という哲学的問題を展開している」と批判した人の影響を受けてます
そろそろ落ちますね
では。ちょっとスタートダッシュはいまいちだったけど(失礼!)スレッドマスター
頑張ってくださいねー。
94 :
かかってこいよ この野郎:04/04/12 19:31
はっしまった!
96 :
考える名無しさん:04/04/12 20:55
まぁ哲学者だの思想家だのは、一人残らず救いようも無いアフォであるということは、
ソーカル事件により明らかなワケだが。
ソーカル(藁
本当は古い職業倫理が受け入れられないことを論証する予定だったが
レスもあいたので
ですから、わたくしは、新しい職業倫理を提案したいと思います。
わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。
そしてそれらを述べてこの公演を終えたいと思います。
1、われわれの客観的な推測知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えでている。
それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の内部においてもあてはまる。
2、すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。
誤りはあらゆる科学者によってたえず犯されている。
誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。
この理念自身が間違っている。
3、もちろん、可能な限り誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。
しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何びとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。
直感によって導かれる創造的な科学者にとっても、それはうまくいくわけではない。
直感はわれわれを誤った方法に導くこともある。
4、もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。
それゆえ、そうした誤りを探求することが科学者の特殊な課題となる。
よく確証された理論、あるいはよく利用されてきた実際的な手続きのうちにも誤りがあるという観察は、重要な発見である。
5、それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。
われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。
なぜなら古い職業倫理の態度は、われわれの誤りをもみ消し、隠蔽し、できるだけ速やかに忘却させるものであるからである。
6、新しい原則は、学ぶためには、また可能な限り誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。
それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7、それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張ってなければならない。
われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。
誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8、それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9、われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、
それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。
われわれが他者の誤りを明らかにするときは、我々自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。
またわれわれは、最高級の科学者でさえ誤りを犯したことを思い出すべきである。
もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。
われわれは気をゆるめてはならないということである。
しかし、繰り返し誤りを犯すことは人間には避けがたい。
10、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、
とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。
これはまた寛容に通じる。
11、われわれは自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。
それは自己批判と同じくらい良いものである。
12、合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。
それはなぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないかについての特定された理由を述べるものでなければならない。
それは客観的真理に接近するという理念によって、導かれていなければならない。
このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。
わたくしの提案は倫理の領域においても討論可能で改善可能な提案がなされうることを示す一助となるべきものです。
のなめさんへ
同意か反対かはともかく、やりたいことはなんとなくわかります。が、「古い職業倫理」
というのが何かをまず明確に指示していただきたいと思います。でないと始めから
話がずれることになりかねない。「古い職業倫理」と一括りにしているものが単にのなめ
さんの主観的な仮想的でないことを証明しないとぴかぁさんと同じ轍を踏むことになりか
ねない。のなめさんの提案が「倫理の領域においても討論可能で改善可能な提案がなされ
うることを示す一助」になるか否かはまず、「古い職業倫理とは何か」をいかに誠実に、
先入観少なく提出できるかにかかっていると思います。それと、引用を多く用いるのもよ
いかと思われます。「・・・を読んでないやつは基本的にはこのスレに書いちゃダメ」く
らいのスタンスでもよいのではないでしょうか。
と書いてはみたけど、
>>8で下のように書いてあるから、
>「哲学者」とは便宜上わたしが適当に与えた名であるので、
この線引きを問題にするのはやめにしていただく
最初から逃げの布石をうたれているような気もする・・・
>>103 ご希望どおり
>>99-101は引用です
ここでいう「古い職業倫理」とは「真理」に対する誤った解釈です
わたしの主張は「真理はある」というものであり、この種の哲学的アプローチは何人かの哲学者からとられてきました
しかしながら、哲学的アプローチ、形而上学的アプローチに関しては、それが哲学的、形而上学的であることを理由に無視される現状があります
そのような態度は彼ら自身が立つ価値観に対して盲目的であるだけとわたしは感じます
そこでわたしが今回とった方法は、倫理的アプローチ、純粋に倫理を議論する場として、一倫理として提出するということです
わたしはここで、「倫理について議論にかけることは可能であり、また、倫理について積極的に議論すべきである」という主張をしています
もちろん、ここではわたしは反論を待っています
「倫理について議論にかけることは不可能、もしくは、無意味である」」という意見がどれほどの説得力をもつのか
それを吟味しようと手ぐすねひいて待ってるということです
そして彼らの意見が彼ら自身が立脚する価値観に対して無批判であることを指摘し
そのため倫理の領域においても合理的討論を行う余地があることをわたしは示したいと思っております
>「・・・を読んでないやつは基本的にはこのスレに書いちゃダメ」くらいのスタンスでもよいのではないでしょうか。
読んでいる人に対して行っても面白くないので、読んでない人に対して議論をふっかけることを信条としています
わたしは議論においては同意より反対意見こそ好ましいと思ってますから
このようなわたしの意見を積極的に批判にかけたいと考えるのです
>>38など、わたしが議論において必要と考える条件などもそれぞれ倫理的なものとして提出していますから議論できそうに思えますがね
でも、あからさまにカント、ウィト、ポパー的なものを提出されて、そこから始めよう
と言われてもなあ・・・。それなら議論するよりそれらの著作を読んで納得したやつと
納得しないやつが議論したほうが、タームのぶれもないし、いいんじゃないかな。著作を
読まずに云々するというほうがそれこそ「職業倫理」に関する問題だし。あまりに漠然と
しすぎてるんだよね、スレのコンセプトが。それに>読んでない人に対して議論をふっか
けることを信条、として何か生産的なことがあるの?のなめさんが主観的に面白いだけだ
と思うが。
107 :
考える名無しさん:04/04/13 20:53
哲学者って、ライターの一種だろ?
部数の少ない雑誌の。
108 :
考える名無しさん:04/04/13 21:02
そそ
>>106 読んだ人より読んでない人の方がずっと反対意見が言いやすいと思うからです
本を読んだ人しか議論に参加できないという考え方は反対意見を言いにくい空気をつくります
それよりは素直に納得いかないところを指摘する方がずっと生産的であるように思います
どうせなら、ここでは「生産的な議論とはどのようなものか」についてでも議論しますか?
わたしとばかーさんでは生産的な議論に対する考え方が異なるように思えますので
110 :
考える名無しさん:04/04/13 21:39
読まないのに賛成も反対も。賛成の反対なのだ。
111 :
考える名無しさん:04/04/13 21:45
少年達は天使を殺す
天使たちはスリルで瞳濡らす
お疲れ・・・お疲れ
112 :
Я ◆wMDHqGPerU :04/04/13 21:48
この手の流行りは、やっぱりフランクフルト学派
ハーバマスでないの?
伝統的形而上学の問題のほとんどは、検証不可能で無意味なものなんだ。
哲学の課題は、自然科学において用いられる言語の論理分析と
意味の明確化に限るべきだよ。
>のなめさん
>ここでいう「古い職業倫理」とは「真理」に対する誤った解釈です
>わたしの主張は「真理はある」というものであり、
>>104 よくわからないのですが、のなめさんは「真理はある」と考えているのですか?
>>99-101を読むと、「真理は存在しない」と主張したいのだと受け取れますが・・。
またここで使わている「真理」とは、人間から独立して存在する客観的真理のことなのか、
それとも、他者と共有可能な共同主観的な客観知のことなのですか?
古い職業倫理(誤った真理解釈)とは具体的に何を指すのですか?
ちなみに僕は、客観的な真理の探求は形而上学的議論に陥る危険性があるので、
共同主観的な客観知の探求が学問にふさわしいと考えます。
>>109 「生産的な議論」の条件は、参加者各自が誠実であること、という当たり前のことしかない
と思う。Яさんとの会話でも書いたけど、2ちゃんには暴力や強制力がないから、相手の
誠実さを直接的に確かめることはできない。なので、あるテーマなり思想なりを語るときに
はそれに関した著作をちゃんと読んでいるか、ということで間接的に判断するしかない。
>>113 そうすると、結局は英米分析哲学と大陸哲学の不毛な分離、対決という図式になってしまう。
論理実証主義の課題の定義はそれで全くよいのだけれど、哲学の課題の定義にはならないよね。
734 :パレルゴン :04/04/13 23:03
古典主義とは真理の存在を信じ、その真理は、思考により捉えうる
と考えているのです。つまり、プラトン・デカルト・アリストテレス
も同じなのです。思考する「私」と言うものを探していないのです。
彼らは、信じているのです「私」の発見能力を。
それを、創作に換えられないところが、現前主義と言ったのです。
735 :考える名無しさん :04/04/13 23:32
>>734 プラトン・デカルト・アリストテレスが「思考する『私』というものを探していない」
とする場合のソースを示してください。
749 名前:久蔵 ◆nHHFfUj/w6 :04/04/14 00:28
>古典主義とは真理の存在を信じ、その真理は、思考により捉えうる
>と考えているのです。
「古典主義」の定義としても妙だよな。
>>114 >よくわからないのですが、のなめさんは「真理はある」と考えているのですか?
はい、表現がいかようにも解釈しようがあるためほとんど何も語ってないに等しいですが、わたしは「真理はある」と考えております
>
>>99-101を読むと、「真理は存在しない」と主張したいのだと受け取れますが・・。
いいえ、
>>99-101の引用はむしろ真理の存在の主張を前提とせざるをえません
真理なきところに誤りは発生しようがないからです(これは引用先の著者自身そう語ってます)
>またここで使わている「真理」とは、人間から独立して存在する客観的真理のことなのか、
>それとも、他者と共有可能な共同主観的な客観知のことなのですか?
主観から独立して存在する客観的真理のことです
「真理の存在」を主張するものは、主観から独立した対象、客観知などの形而上学的実体を設定することで、
知的謙虚さ、寛容さ、などの道徳を導き出しているのです
>古い職業倫理(誤った真理解釈)とは具体的に何を指すのですか?
「真理はない」という主張をする者たち、一般に、相対主義と呼ばれる態度です
(もっとも、相対主義に限らず多くの者、真理の存在を主張する者でさえ、誤った真理解釈はなされているでしょうが)
>>116 >「生産的な議論」の条件は、参加者各自が誠実であること、という当たり前のことしかないと思う。
ハーバーマスのコミュニケーション行為論を彷彿とさせますね
では、わたしはあなたの意見を批判しようと思います
わたしは、生産的な議論とはその議論に参加することで何かを得られること、議論に参加する前と後で変化が生じることと考えます
ですから、あなたの主張「参加者各自が誠実であることが生産的議論の条件である」は誤っていると主張します
なぜならば、議論の相手が不誠実であろうとも、彼の発した言葉から何かを学ぶことはできるからです
生産的議論に必要なものは(論理的な諸条件には触れないならば)、自らの真摯さであるとわたしは考えます
ですから、自らの真摯さを要請するために、議論において、認識の対象としての実在、客観的存在、形而上学的実体を創り出すことは議論を生産的にすることができる
これがわたしからの批判です
>>113 わたしも伝統的形而上学の問題のほとんどには興味がありませんが
1無意味ではない
2言語の論理分析に留まる必要はない
と考えます
>>120 ハーバーマスは読んでませんが、
>>116はそんな大げさなことを言ったんじゃないんでw、
簡単に言えば「知ったか」を排除するにはどうしたらよいか、ということだけで匿名掲示板
における生産的な議論の条件はほとんど満たされたといえる。
それと、>議論において、認識の対象としての実在、客観的存在、形而上学的実体を創り出す
ことは議論を生産的にすることができる、というのは「統制的理念」としてなんらかのエックス
を自己で設定し議論に望む、ということだけが自らの真摯さを担保するのだということですか。
>>122 わたしは知ったかをすることで新しい知識が得られるとは考えません
しかし、「知ったか」の何が問題かと言うならば、それは「傲慢さ」、知的謙虚さの欠如だと考えます
わたし自身、いくつかの本を読みましたが、読み込みも足りず本当に理解しているものなど何一つないでしょう
その意味ではわたしも「知ったか」と同等、せいぜいRの言う「程度の問題」なのです
しかし、わたしと「知ったか」との間には謙虚か傲慢かという線引きが可能とわたしは考えます
「知ったか」を排除することが生産的議論につながるかということに関して
わたしも「知ったか」と議論して生産的なものを得ることはとても難しいと考えますが
「知ったか」との間に生産的議論は不可能ではない、と考えます
それは彼が意図するところとはまったく別のところであってもわたしが学ぶことができる可能性が残されているからです
(もしかしたら「知ったか」は謙虚であることの非合理さを指摘してくれるかもしれません)
>「統制的理念」としてなんらかのエックス
>を自己で設定し議論に望む、ということだけが自らの真摯さを担保するのだということですか。
いえ、決してそれだけが真摯さを担保するとはわたしは考えません
相対主義者であっても、ごく一部ではあるが、自らを律する者もいます(わたしが勝手に思う限りではJ・L・マッキーなど)
のなめさんの言いたいこと、やりたいことがいまいちわからないんですよ。まず、
・匿名掲示板上での議論について話し合いたいのか、それとも議論一般についてかを言ってほしい。
・
>>99-101の引用元を示す。
・のなめさんが読んで最も影響を受けた思想家を何人か書いてほしい。
・J・L・マッキーって知らない。そんなマイナーな(僕が知らないだけでメジャーなのかも知れないが)
人ではなく、もっとビッグネームでもこのテーマでの話はできるので、そうしてほしい。
という希望があります。
マッキーってそんなマイナーか?
デカルトやカントやクワインほどじゃないにせよ。
>のなめさん
>はい、表現がいかようにも解釈しようがあるためほとんど何も語ってないに等しいですが、わたしは「真理はある」と考えております
>主観から独立して存在する客観的真理のことです
>>119 スレの主題から若干外れますが、のなめさんの真理概念についてもう少しお聞きしたいと思います。
「主観から独立した対象、客観知などの形而上学的実体」を想定することに僕は疑問を抱きます。
客観的真理、物自体を想定すると必ず、「では、人間を超越したそれらの形而上学的実体・真理に
如何にして人間は到達するか? もしくは、到達したと如何にして判断するのか?」
という答えられない問いが問われるからです。
これは決してひねくれた問いでなく、我々に与えられているものは各自の主観的な世界しかありえない
ことを考えれば、極自然な問いです。
それでいて、「三角形の和は180度である」といった客観的な真理としかいえないような知も存在します。
しかし僕は、それらを(のなめさんの言う)客観的な真理と考えるのではなく、
>>115で述べたように、
我々の共同主観的な客観知と考えるべきだと思います。
「共同主観的な客観知」とは、人間が発見、もしくは到達すべき、人間から独立した領域に存在する真理ではなく、
我々の日常の世界の中で万人に共通する知、もしくはその知を用いて構築された世界を指します。
(数学といった理念的存在だけでなく、「私に見えているものはコップである」といった日常的な確信まで)
つまり、共同主観的な客観知は客観的な真理と異なり、人間に属する概念です。
哲学を含めた学問は、どこぞやに存在する客観的真理を発見する行為でなく、共同主観的な客観知を
取り出す行為と考えるべきであると思います。
これはもちろん「真理は存在しない」といった相対主義ではありません。
真理のあり場所が異なるだけで、従来の真理は共同主観的な客観知に変換され存在し続けます。
これで、イデア界を想定するような形而上学的議論を避けることができます。
繰り返せば、我々に与えられている世界は主観的・相対的な世界です。
その主観的世界の中から、万人に共通する知として取り出されたものが従来真理と呼ばれるものです。
しかしそれらは人間から独立した領域に存在する何かではないし、ましてやそれらが我々の主観的世界の
存在を可能とする何かと考える必要はないと僕は考えます。
もう一つの疑問は──こちらが僕の本題なのですが──真理を普遍的、万人に当てはまる客観的なものだと
考える必要はあるのかということです。真理を相対的なものであると考えてどこがいけないのでしょう。
真理を絶対的なものと考える帰結として、十人十色性を持つ知(経験)は、真理から程遠い単なる個別的視点
にすぎないと斥けられます。
客観的な真理と呼ばれているものは、我々に与えられた経験世界の中の、他者と共有された部分を取り出したもの
(共同主観的な客観知)ですが、それらとそれ以外の他者と共有できない主観的なもの(この花は美しく見える等)とは
真理の本質的な面に関してなんら区別はないと僕は考えます。
「蛇だと思っていたのがよく見れば縄だった」という見間違いも、この共同主観的な世界(他者と共有されている世界)に
参入が許された(他者によって「あれは縄だよ」と確認された)時、それは共同主観的な客観知になるだけであって、
蛇と見えた先ほどの経験も見誤った一視点ではなく、縄とみた経験と何ら区別なき真理であると考えます。
つまり僕は、我々の経験する世界は全て各自にとって真理であり、それら各自の世界に共通する知・経験のみが
真理ではないと考えています。
それゆえ僕は、「真理(=相対的)」と「共同主観的な客観知(=客観的)」の二つの概念を分けます。
なぜこのような事をするかと言えば、真理といえば絶対的に正しいもので、それゆえそれらが我々の
主観世界を規定すると考えてしまう誤謬を避けたいからです。
僕にとって(客観知によって組み立てられた)客観的な世界より、主観的な僕が経験する世界の方が真実であると
思っています。
>わたしはここで、「倫理について議論にかけることは可能であり、また、倫理について積極的に議論すべきである」という主張をしています
>>104 同意です。
「倫理は相対的なものであるから議論するのは無意味である」と考える理由が全くわかりません。
むしろ、相対的であるからこそ、より普遍的な「共同主観的な客観倫理」を求めて議論するのは当然と考えます。
>のなめさん
sage進行の方がいいですか?
ポールさんもそんなに長々と書かずに「のなめさんは現象学はどう思うの?」って聞けば
いいのに。それで「フッサールは読んだ、それをふまえて言っている」「フッサールは
読んだけどわからなかった」「読んでない、現象学についていい本教えて」とかそういう
会話したほうが話が早くない?なんかこのスレの展開がまどろっこしいんですよね。ちな
みに僕は「読んでない、フッサールで最初に読むならどの本がいいか教えて」です。
>>130 のなめさんとは(おそらく)以前僕と長々と議論したことがあるので、僕が現象学的な視点から
以上のことを述べていることがわかっていると思います。大森が入っていることも。
それと、たとえある哲学者の説をを繰り返しているとしても、一度自分の言葉に置き換えてから
述べた方が良いと思います。いきなり「現象学の真理概念についてどう思う?」と聞かれても
大抵の人は戸惑うだけでしょう。
ここは議論スレですから。前僕と長々と議論したことがあるので
ちなみに以上の話は現象学の本から書き写したわけじゃないので、
「これが現象学の真理概念なんて嘘つくな」とか批判しないでください・・。
フッサールやハイデガーの真理概念はよくわかりません。
133 :
考える名無しさん:04/04/14 23:34
>>132 すご〜く幼稚な疑問かもしてないけど・・・
主観と主観がなぜ共同化されるの?
>>133 >主観と主観がなぜ共同化されるの?
なんででしょうね。
我々が経験する世界は主観的なものですが、その主観的世界の内でも
個人によって相違するものと、完全に他人と共有されるものがあります。
例えば、「この花は美しいと感じる」とは前者であり、「三角形の和は180度である」
とは後者です。この後者の知を共同主観的な知と呼んでいます。
なぜ同じ主観内の出来事でありながらそのような違いが出てくるか、僕もわかりません。
ただ、伝統的な真理概念「共同主観化される知は人間を離れて存在する領域、もしくは世界
に属するものであるから」は、「物自体−現象界」といった二元世界を前提とします。
その世界観を否定し、僕に与えられている経験世界からすべてを導き出そうとすれば、
新たな真理概念を構築しなければならないと思います。
また、共同主観的な知(経験)が可能であることが、我々の世界が各自閉ざされている
にもかかわらず、共通した世界に生きている証拠ではないでしょうか。
もちろんここでいう共通した世界とは、唯一の固定された世界という意味ではないことは
当然ですが。
遺伝子的に限りなく近いからですね。
136 :
考える名無しさん:04/04/15 00:07
>>134 >ただ、伝統的な真理概念「共同主観化される知は人間を離れて存在する領域、もしくは世界
>に属するものであるから」は、「物自体−現象界」といった二元世界を前提とします。
ここちょっと分かりません。
「人間を離れても存在する世界」=「物自体」
「人間と相即して現れる世界」=「現象界」
だとすると、「共同主観化される知」はどこに身を置いたらいいのでしょう?
>>135 >遺伝子的に限りなく近いからですね。
そう答える人は多いと思いますが、それは所謂「先取り論法」です。
「共同主観的な客観知がなぜ可能か?」という問いに、遺伝子を観察する時に
生じる共同主観的な知(誰もがDNAがらせん状に見える等)を前提としているからです。
>>136 >「共同主観化される知」はどこに身を置いたらいいのでしょう?
もちろん現象界です。
むしろ物自体の存在を否定しているので現象界というより、
我々が経験するこの世界のどこかというべきでしょう。
>>137 なんか現象学の説明になっていてスレ違いという気がしないでもないが、まあいいか。
現象学には詳しくないので的はずれかもしれないが、
現象学が所謂「先取り論法」を批判する、のと同型の批判がヘーゲルあたりから出て
くるとは思いませんか?
>>138 をちょっと訂正
現象学が所謂「先取り論法」を批判する、のと同型の批判がヘーゲルあたりから現象学に向けて
出てくるとは思いませんか?現象学は前もって主観を前提していると。
140 :
考える名無しさん:04/04/15 00:39
>>137 >我々が経験するこの世界のどこかというべきでしょう。
はからずも、「われわれ」と書いてますね。
「主観」は私の主観ではなく、「我々の主観」なのですね?
つまり共同主観とは、「我々の主観」である。
そうすると、現象というものも、「我々の現象」であると述べていいことにはなりませんか?
>ばかぁ〜さん
確かにスレ違いなので、これに関しては最後にします。
(のなめさんが許せば、今後も真理概念について議論したいと願ってますが)
>現象学が所謂「先取り論法」を批判する、のと同型の批判がヘーゲルあたりから現象学に向けて
>出てくるとは思いませんか?現象学は前もって主観を前提していると。
ヘーゲルは全く知らないのですが、当然そのような批判があってしかるべきだと思います。
これに関して以前のなめさんとも(おそらく)議論しましたが、僕は何らかの理論構築において
何らかの前提が必ず必要と考えています。
もっとも基礎的な前提とは、我々の経験する世界を基盤に語るということです。
我々の経験世界、いいかえれば、我々の主観から出発すべきであると考えます。
もっとも主観的な知から遠いと思われている物理世界でさえ、主観的な知から抽出された
共同主観的な知を元に構築されたものです。それゆえ、それらは経験世界によって基礎
づけられるべきであるという現象学の理念には共感しています。
この理念によって、物理世界のような理論的構築物が我々の経験世界から遊離して、
暴走することを防ぐと思うからです。
ただ、その方法が客観的方法(科学)よりも共同主観的世界を解明するとは限らないし、
事実解明していません。
>>140 >つまり共同主観とは、「我々の主観」である。
>そうすると、現象というものも、「我々の現象」であると述べていいことにはなりませんか?
「我々の主観」といった一つの共同主観はありませんし、「我々の現象」と言われる現象もないと考えます。
ここで述べる「我々が経験する世界」とはあくまで、各自が経験するそれぞれ異なった相貌で現れる世界
です。共同主観的世界と呼ばれるものは、各自の主観において現れる世界に共通する知で組み上げられた
(こういうべきか迷いますが)理論的構築物です。
(スレ違いなのでとりあえずこれでレスは終わりにします。すみません)
>>141 わたしもこの話題はこれで最後にしますが、ヘーゲルの場合もスタートは「経験」
です(「経験」の意味についてはいろいろあるのですがここでは省略)。しかし、
ヘーゲルの場合、何らかの前提を立て、それを吟味することによってその前提が
いわば破棄されます(前もって破棄されることがきまっているのではなく、あくまで
吟味の上で)。いわば主観という前提をそのままにしておかないのですね。逆に客観
もそのままではいません。吟味により崩壊します(なんかあんまりいい説明じゃないかも)。
なので弁証法からは「現象学は主観の破棄可能性をあらかじめ奪った上での思考、
客観主義は客観の破棄可能性をあらかじめ奪った上での思考」という批判が出てくる
と考えます。
>>144 どうもです。今度のぞかせていただきたいと思います。ではお休みなさい。
>ばかー
>>124 >のなめさんの言いたいこと、やりたいことがいまいちわからないんですよ。まず、
一言で言うと、合理性と批判的議論の擁護です(論理的な側面を含む)
>・匿名掲示板上での議論について話し合いたいのか、それとも議論一般についてかを言ってほしい。
議論一般においてです
>・
>>99-101の引用元を示す
カール・ライムント・ポパーの『よりよき世界をもとめて』より
ポパー哲学をまとめると、この12か条の倫理に集約できます
>・J・L・マッキーって知らない。そんなマイナーな(僕が知らないだけでメジャーなのかも知れないが)
>人ではなく、もっとビッグネームでもこのテーマでの話はできるので、そうしてほしい。
単純にわたしが倫理学にも興味があるからマッキーの名が挙がったので哲学としては知名度は低いと思います
しかし、自らが批判する相手の立場の例外を指摘するのは難しいですね、やはり名を挙げるには著作を読む必要はあるでしょうから
逆にわたしが批判する立場の哲学者の名は簡単に挙がります、ファイアアーベントなどもっとも代表的なものではないでしょうか?
さらにそこまで極端なものでなくともいくつかの思考はわたしが批判するものを含んでいると思います
>・のなめさんが読んで最も影響を受けた思想家を何人か書いてほしい。
9割9分9厘、ポパーです
他の哲学者の本を読んでもポパーと対比させて考えているのでとことんポパーです
他に影響を受けたというか尊敬する哲学者としての名は、ヒューム、カント(わたしがポパーを知る前に出会い哲学にのめりこむきっかけとなった哲学者ですから)
あと、細かいところで影響を受けているというか自分で考えないで受け売りをしているのは、ハンス・アルバート、マッキー、
日本人では井上達夫、小河原誠とかですかね
もっとも、凡才のわたしが難解な哲学的問題を理解するのに大きい影響を与えたという人ならば数え切れないほどいます
>ポールさん
お久しぶりです、ポールさんのご察しのとおりです
いつぞやは議論を放り出してすみませんでした
>>126 >客観的真理、物自体を想定すると必ず、「では、人間を超越したそれらの形而上学的実体・真理に
>如何にして人間は到達するか? もしくは、到達したと如何にして判断するのか?」
>という答えられない問いが問われるからです。
わたしの解答はこうなります
「到達できない、また、到達する必要が無い」
逆にわたしはこう返しましょう
なぜ「客観的真理に到達する必要があるのか?」
わたしにはそれは心理学的な理由付け以外に答える術はないと考えます
>それでいて、「三角形の和は180度である」といった客観的な真理としかいえないような知も存在します。
これが「客観的真理」と呼べる条件はどこにあるのでしょうか?
例外がないか?/ある、リーマン幾何学
それを受け入れられない集団がいないか?/いるかもしれない、また、わたしがそれを受け入れなければならない理由は無い
ユークリド幾何学を受け入れている集団が多いからか?/それを「真理」と呼んでいいのか?
そのような客観的真理は真理として有効なのか?世界についていかほどかも語っているのか?/・・・・・
>「共同主観的な客観知」とは、人間が発見、もしくは到達すべき、人間から独立した領域に存在する真理ではなく、
>我々の日常の世界の中で万人に共通する知、もしくはその知を用いて構築された世界を指します。
>(数学といった理念的存在だけでなく、「私に見えているものはコップである」といった日常的な確信まで)
>つまり、共同主観的な客観知は客観的な真理と異なり、人間に属する概念です。
わたしは、共同主観的な客観知を求めるべきとは思いません
ここに、わたしがここで提起する倫理的問題が隠されているように思われます
>ポールさん
>>127 >哲学を含めた学問は、どこぞやに存在する客観的真理を発見する行為でなく、共同主観的な客観知を
>取り出す行為と考えるべきであると思います。
わたしは、哲学を含めた学問一般は何らかの客観知を取り出す行為ではないと主張します
すなわち、何らかの知識を発見し確立する行為ではない
わたしは、学問一般は客観的真理を発見する行為ではなく、客観的真理を探究する行為である(また、そうあるべきである)と考えます
探求するには探求する対象を便宜上補わざるをえないのが我々の認識能力の限界です
・真理があるから探求するのではなく、探求するために真理を設定するのです
>これはもちろん「真理は存在しない」といった相対主義ではありません。
>真理のあり場所が異なるだけで、従来の真理は共同主観的な客観知に変換され存在し続けます。
わたしはポールさんの考えには反対です
少なくとも、わたしはそれを「真理」とは呼びたくありません
>繰り返せば、我々に与えられている世界は主観的・相対的な世界です。
>その主観的世界の中から、万人に共通する知として取り出されたものが従来真理と呼ばれるものです。
ええ、少なくとも、「真理はそのようにしてとりだしうる」とは考えられてたと思われます
>しかしそれらは人間から独立した領域に存在する何かではないし、ましてやそれらが我々の主観的世界の
>存在を可能とする何かと考える必要はないと僕は考えます。
ええ、主観的世界の存在を可能とする何かを考える必要はないとわたしも思います
ただ「主観的世界」という言葉を可能にするには「客観的世界」という仮定が必要なようですね
>ポールさん
>もう一つの疑問は──こちらが僕の本題なのですが──真理を普遍的、万人に当てはまる客観的なものだと
>考える必要はあるのかということです。
わたしは「真理」という言葉の意味は「恒久普遍的なもの」であると思いますし、そのような意味で使用した方が誤解を招かないと考えます
>考える必要はあるのかということです。真理を相対的なものであると考えてどこがいけないのでしょう。
>真理を絶対的なものと考える帰結として、十人十色性を持つ知(経験)は、真理から程遠い単なる個別的視点
>にすぎないと斥けられます。
わたしは個別的経験は普遍的なものではないと考えますし、
また「個別的経験は真理である」という意見に対しては「真理ではない」と斥けられてよいと思います
例を出すと(恒例ですが「地球は丸いか平らか」に関して)
わたしの経験は「地球は丸い」と考えれるようなものではありません、ましてや大地が動いているなどと考えれるものではありません
もし、「地球は丸いか平らか」という問題に対して「馬鹿を言うな、わたしの個別的経験では地球は平らであり静止している、地球は丸いなどと考えることは馬鹿らしい」と言ったならば
わたしの言葉は笑い飛ばされてしまうでしょうし、わたしの言葉は「真理ではない」として斥けられて当然と思います
このように個別的経験を真理と見なす行為は「ニワトリの周囲に円を描いてきつく握り締めるとニワトリは円から出れなくなる」と同じように
誤った思考にとらわれやすくなりますし
行き過ぎると、「我々は個別的経験以上のことを何一つ語るべきではない」という意見が提出されるように思われます
失礼
続き
>>128 >「蛇だと思っていたのがよく見れば縄だった」という見間違いも、この共同主観的な世界(他者と共有されている世界)に
>参入が許された(他者によって「あれは縄だよ」と確認された)時、それは共同主観的な客観知になるだけであって、
>蛇と見えた先ほどの経験も見誤った一視点ではなく、縄とみた経験と何ら区別なき真理であると考えます。
個別的経験においてはそうかもしれません
しかしわたしは個別的経験の真偽を考えることにあまり興味を抱きません
また、発言はすべて個別の経験において語られるのではなく普遍化可能性を持つべきだと考えます
少なくとも、わたしは独り言ではなく普遍的な内容として述べられたと解釈するでしょう
>なぜこのような事をするかと言えば、真理といえば絶対的に正しいもので、それゆえそれらが我々の
>主観世界を規定すると考えてしまう誤謬を避けたいからです。
そのような誤謬を避けるには「真理」という語の意味を変換する以外に方法は無いのでしょうか?
また、個人の経験をすべて飲み込むようかの形で形成される客観知は形式的なもの、形而上学的なものにどんどんのめりこんでいくかのように思われます
>>129 >同意です。
>「倫理は相対的なものであるから議論するのは無意味である」と考える理由が全くわかりません。
>むしろ、相対的であるからこそ、より普遍的な「共同主観的な客観倫理」を求めて議論するのは当然と考えます。
同意ありがとうございます
しかし、方法論に関しては現象学に対する見解と同じく、異なる意見であるように思われます
>sage進行の方がいいですか?
どちらでもいいです
ただ、長い文章を書く時はsageで書き込む方がマナーかなと思います
>ポールさん
>>141 わたしの批判はご承知でしょうが
1理論を前提から構築することはできない、理論は提出された時点で多くの前提を有するだけである
2経験は理論の基盤になりえない、また理論の基盤を確立する必要も無い
>ばかーさん
>>143 >弁証法からは「現象学は主観の破棄可能性をあらかじめ奪った上での思考、
>客観主義は客観の破棄可能性をあらかじめ奪った上での思考」という批判が出てくる
>と考えます。
客観主義が客観の破棄可能性を持ったまま主張されるということはありえないのでしょうか?
その部分を論証しなければ弁証法は客観主義を批判できていないように思えるのですが?
失礼、落ちます
>のなめさん
のなめさんはポパーの影響を受けていたのですね。
ポパーが初めて知りました
ここ最近仕事が忙しく、こちらに全く頭が廻らない状態ですが、
のなめさんレベルの人と議論できる機会は少ないので
なんとかレスを続けたいと思っています。
また、リアルで議論できる場を持たなければならないとも
最近真剣に考えています。
しています。
153=ポールです。
なんか文章無茶苦茶(笑
とにかくそういうことです。意識朦朧。寝ます。
保守
わざわざ保守せんでもスレとして終わってる
一日しか持たなかったとはね
もったいないから、ピカー化して自分の考えを少し書いてみる
批判的意見は歓迎
それにしても新聞の勧誘ほど謙虚さを知らない職業はないね
なぜこれが社会問題にならんのか不思議だよ
今回のテーマは哲学の職業倫理について
一般に、有名な職業倫理は「語りえぬものには沈黙せねばならない」というものがある
ウィトゲンシュタインは『論考』において多くの思考、分析を行ったわけだが(中には受け入れられないものもあるが)
最後のこの一行だけは吟味にかけずに述べている(その根底にある無意識の形而上学的理念に対して吟味をかけてない)
また、この言葉が形而上学への排斥となる傾向も多々あるように思える
ウィトゲンシュタインは自分の哲学をはしごの比喩に例えた(6・54)(それをクワインが批判したのは有名)
クワインの批判は、何度でも非意義さを確かめるためにはしごを投げ捨てるべきではない、とのこと
長々と書いて、何を言いたいのかというと
無駄なことをやってもそれが無駄と分かることは無駄ではないので、とりあえず形而上学について考えてみますよ、ということです
わざわざ文を書く前にこれだけの前口上が必要というのも哲学という学問のもつ欠陥だな
sage
我々は世界についていかほどに知りえるかというと不可知だ
カントも世界に対しては不可知という態度をとっていたが、カントは「物自体」という設定を置いた
この設定は「形而上学的」と特に昨今のポストモダンの潮流で大きく批判されているように思える
ちょっと自分のことを書いてみる
俺がはじめてカントを読んだ時は難解で全然理解できなかった
もちろん「物自体はある」となぜ言えるのか理解できなかった
当時としてはヒュームの方が全然説得力があるように感じた
ただ、俺は形而上学に関してはヒュームはカントより正しいと感じたわけだけど
倫理学に関してはヒュームの倫理学は受け入れられず、カントの方がずっと意味あるように思えた
その当時は、「カントの世界に対する説明はカント倫理学を説明するための布石に過ぎないのでは、と理解していた」
だからポストモダンの形而上学に対する反発も全く理解できないわけではない
形而上学は権威的な説明を行う道具に陥りやすいものだ
だけど、俺は有意味な形而上学もあると考える
もし形而上学に弊害が発生するならば
それは
1難解な表現で煙にまく
2権威的な説明方法をとる
ということだと思う
こういうことを踏まえて行ったアプローチが「物自体は我々の倫理的態度が設定するもの」という言いかた
これは権威主義的な問いの発生を解除しようと思ったアプローチなんだ
哲学では昔から独我論に対する問題があったわけだけど
「物自体の存在があるから独我論は間違っている」というような意見がある
だけどこれは形而上学による権威的説明でしかないように思える
このような意見はさらに「物自体があるとなぜ言えるのか?」という批判を生じさせ
永久に同じ問いを繰り返す不毛さに陥ってしまうように思える
(そんでもって俺の拙い読解ではカントの物自体の設定はこの種の問いに答える必要が無いと理解している)
哲学の歴史では「世界→独我論」という説明の仕方をとっていたけど
これをあえて俺は逆にしてみた「独我論の否定→世界と物自体の設定」
このような方法にはいくつかの批判もあることだろう
代表的なものは「独我論を否定する根拠はどこにあるのか」ということだろうね
これを俺は道徳に求めるわけだけど、それだけだと客観世界の仮定が独我論に対して優位であることを示すことはできない
(そのためポパーは道徳に関してナイーブと揶揄された)
そこで客観世界の仮定が独我論に対して優位性を持っている理由を説明する必要がある
まーそれは次回ということで
そろそろ飽きたから落ちるね
気が向いたらまたピカー化する
164 :
考える名無しさん:04/04/18 23:42
良スレだからage
ここでは良スレはsageるものです
すみません・・・
>>160-163 カントは「形而上学」と「人が勝手に形而上学に期待してしまうこと」を区別した
のではないだろうか。僕はウィトゲンシュタインには詳しくないが、彼の「語りえ
ないことについては沈黙しなければならない」というのもそういうことを言ってい
ると思う。比喩で言えば、「罪刑法定主義における「罪」は裁きうる、もちろん
「罪」とはそういうものだけではない、しかし、刑法は沈黙しなければならない」
というだけのことではないでしょうか。こう書くと誤解されそうだが、僕もカント
の哲学は本当に凄いと思ってますよ。
また、
>>162の前段でのなめさんが言っている「形而上学の弊害」云々というのは
別に形而上学の問題ではなく、単に権威主義、衒学主義の問題。また、
>哲学の歴史では「世界→独我論」という説明の仕方をとっていた
というのもちょっと曖昧すぎて・・・。説明していただけると嬉しいです。
>>167 勝手に思う限りですが、カントは自らの言葉に反して形而上学に対しては否定的な見解をもってたと思いますよ
形而上学とそうでないものというよりは、不毛な論争などに対して
まぁ、ここではカントがどう考えていたか、ウィトがどう考えていたかというような解釈論争は避けるつもりです
また、わたしはポパーの影響を受けているのでポパー的なカント解釈をしています
それとウィトの沈黙に対してはかなり解釈が異なるようですね
これもおいおい触れればいいので後回しにします
ただ、カントとウィトは立場が多少異なります、それもおいおい
>>哲学の歴史では「世界→独我論」という説明の仕方をとっていた
独我論反駁の論争では、客観世界の存在を正当化できるかどうかが問われていた、ということです
わたしはこのたぐいの問いを形而上学的な問い、権威主義的な問いであると考えます
形而上学として批判されるべきものは理論ではなく問いなのです
>のなめさんへ
突然失礼します。私もこの議論に参加させてください。
まず以下の文面に意見があるのでお付き合い頂けたらと思います。
>>38 >1、矛盾した発言は世界について何1つ語っていない、
> ゆえに矛盾した発言をすべきではない
>2、世界について叙述している、純粋な言明、混ぜものの一切無い言明というものはない、
> ゆえに確実な言明をしようとするべきではない
この二つはどうやら発言する態度について語っているのですね。
同意したいと思います。
>3、主観から完全に切り離された世界について語ることはできない、
> ゆえに主観抜きに世界を語ろうとすべきではない
さて、ここではなぜか主観という設定を設けていることから、発言する際あらためて
主観の定義を発言者自身が保持する必要がある。よって主観について定義することが
できない人は発言できない理屈になってしまう。このような態度を要求することは、
(たとえ、自身が存在者としての絶対なる視点を所有したとしても) “倫理的な態度
を求める人間”にとって、あるべく態度(思考行為)なのだろうか?
>4、世界がわたし一人の内部においてしか成立していないとは考えられない、
> ゆえに個人的主観のみで世界を語るべきではない
これも同様。
>5、何らかの言明を確立することはその言明の論理的不確実さを覆い隠しかねない、
> ゆえに何らかの言明の確立を求めるべきではない、
> それゆえに議論では同意ではなく反対意見を求めるべきである
まあ実はこれが自分がおかしいぞと思った部分だ。つまりなんらかの発言したとい
うことは、1〜4の条件をパスしたということになる。そして、それをあなたは発言に対
する倫理的な態度とした。であるにもかかわらず、その発言に対しては言明の確立
をさせるな、と言う。つまり『自分の論証に自信があっても言葉を濁さなければなら
ない』と言うのだろうか?これは倫理的に、誠実な態度に値するのか?
また同様の理由で。“反対意見を求める”態度と言うのは、『ある意味で議論をかく
乱する意図』も垣間見える。また『真理を探究する態度としてもあるまじき不誠実さ』
であると認められる。私にはこの「5」の部分がが特に、詭弁ではないか、また倫理
的態度として欠陥に価するのではないかと感じた。
反対意見を“求める”態度とはそもそも具体的にどういう態度なのか?
いやそうではなくて反対意見を“受け入れる”態度の間違いではないのか?
いかがだろう? 1〜4については多くの論証がポールさんやばかぁ〜さんによって
ここで挙げられているので、スルーしてもらっても構わない。 しかし5についてはでき
れば答えてもらいたい。一応ざらっと目を通したのだが、すでに回答しているものに対
してはアンカーのみで構わないと思う。また、私があなたの論理の作為工作を行ったと
いうのなら、それはそれで構わない。自身の誠実さへの批判として受け入れたいと思う。
。。。最後に、
あなたは・・・さんですね。あなたは、私のことを全然知らないとは思いますが、
私が哲学版に来てから、一番尊敬に値する人物が、あなたでした。
哲学的知識についてはあなたにはまったく及びません(ほとんど無知に近いです)
が、もしよろしければ、私の批判に付き合ってくださるとたいへん嬉しいのです。
あ、あ、、あとついでに、
私の『哲学者の職業倫理』観ついて申し上げます。
『論は可能な限り、具体的でなければならない』
と言うことだと私は考えています。ただ具体的であるべき。それだけで良いような気がしま
す。具体的であると言うことは、つまり他者から批判を受けやすい、つまり他者に批判を委
ねるという、能動的な受動的主体であれ、と言うことです。無知や人格を晒し、また自らのレ
ベルも晒す行為と言えるでしょう。また、具体的であると言うことは、議論の作為から離れ、
自身の論を全方位からの批判可能性を残すと言うことだと考えているのです。
議論に置いて、タームの呪縛、また詭弁から逃れるには、私にはこれしか方法がないのではな
いかなと考えています。以上、マイ哲学者からの観点でした。 よろ。
あ、あ、、あと、それから、
あと哲学議論に倫理を設定すると、永遠に『倫理の呪縛』から逃れられなくなってしまうのでは
ないでしょうか?。
しかし、それをあえて逃れてしまえば、それは“逃避”と言ってもっとも倫理から遠い立場である
とも言えるでしょう。そのようなことを踏まえると、議論の終わり方、論の締め方という観点も哲学
者の倫理を言及する立場としては、不可欠であるように思えます。論の終わりにはあらゆる論
駁可能性の廃棄を考えなくてはならない。このような私の意見に対しても、あなたに意見があれ
ばお聞かせ下さい。 よろよろ
ちょっと自分、勝手すぎますかね?
では失礼させて頂きます。
ついでだから続きを、つれづれなるままに
客観主義者が独我論を否定し客観世界を設定することはたやすい
しかし、それはただの信仰となんらかわらない非合理的なものと言われるだろう
その点をどのように克服するか
「独我論」はたいていの者には受け入れられない、しかしながら自称独我論者の哲学者(名前は忘れた、イギリスの誰だっけ?)や独我論から出発する哲学者も何人かいる
これはなぜだろうか
(別にポールさんを指しているわけではありませんので悪しからず)
わたしは、このような者は「主観は確実で、疑いようがない」という思考をしているためと考える
もし、何か確実なものがあるならば、不確実な設定を自ら行い思考する者は「非合理的」と言わざるをえないだろう
確実な何かがありながらも不確実な何かとたわむれるのは、哲学者の職業倫理に反することになるだろう
しかし、何も確実なものがないならば、それでもなお我々が不確実な言明、不確実な設定をしてはならない理由はどこにもないだろう
「何も確かなものはない」という可謬主義の立場を徹底するならばこの職業倫理を批判することができる
(原理的に不可能にも関わらず当為を要請する価値は、我々の現実と切り離されたお題目主義の域を脱することができないからです
そのような価値自体が非合理的であると言ってよいでしょう)
>私が哲学版に来てから、一番尊敬に値する人物が、あなたでした。
なんかこの言い方、感じ悪いですね。
最初に来て、一番、尊敬していたのがあなたですた。
こんな感じでよろしくお願いします。w
しかし可謬主義の徹底など可能なのか、その余地はどれほど残されているのか
もし、主観が確実ならば、我々は主観によって得られた情報だけを語るべきであり他については沈黙を守るべきである
しかし、主観は確実なのだろうか?
もし、論理が確実ならば、我々は論理に関することだけを語るべきであり他については沈黙を守るべきである
しかし、論理は確実なのだろうか?
もし、「すべては不確かである」ということだけが確実ならば、我々は「不可知」という言葉だけを残して他については沈黙を守るべきである
しかし、「すべては不確かである」ということは確実なのだろうか?
>>170 どうぞ、議論にご参加ください
このスレはピカをパラドクスに陥らせる意図のもとにつくった悪意に満ちたスレッドでしたが
肝心の本人に逃げられましたからね
>この二つはどうやら発言する態度について語っているのですね。
>同意したいと思います。
うーん、ただ語っているのではなく、挑戦を試みています
この5か条はすべて「・・・ゆえにーーーすべきではない」という形式をとりました
「事実から当為を導き出すことはできない」という有名な自然主義的誤謬があり、そのせいで「価値については語ることができない」という思考が蔓延しています
もちろんこの文章にはわたしが持つひとつの価値を抜き出すことができます
「それが不可能であるならば、するべきではない」
また、「・・・である、ゆえにーーーすべきではない」というわたしの主張は
「・・・でなければ、−−−してもよい」と変換できます
このような表現に対して論理的にミスはないかチェックを受けようというのが当初のねらいでした
178 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/19 12:30
>>177 さっそく返答ありがとうございます。
ですがもう自分は寝る時間なので明日の朝までに返答などをこさえようかと思います。
>このスレはピカをパラドクスに陥らせる意図のもとにつくった悪意に満ちたスレッドでしたが
>肝心の本人に逃げられましたからね
たぶんあなたはご存じではないかも知れないが、最近のぴかさんは、かなり凄いことになってますよ。
もしかしたらのなめさんも、やられるかもですw
あと前もって言っておきますが哲学的知識は自分自身は皆無に近いのですが、私のレベルに
気にせず語って頂けると助かります。いちおうレスする前に一生懸命、ポールさんやばかぁ〜
さんの議論を追ってますんで。なんでこれからも、なんとかみんなに追いつけるように頑張る
つもりでいます。どぞ、よろしくお願いします。
>>170 >さて、ここではなぜか主観という設定を設けていることから、発言する際あらためて
>主観の定義を発言者自身が保持する必要がある。よって主観について定義することが
>できない人は発言できない理屈になってしまう。
「主観について定義できない人」とは「主観と客観を切り離していない人」ということだと思われます
彼の言葉には「客観とはわたしの主観と同一である」という補足を加えれば議論に加わることは問題ないと思われます
議論の場においてはわれわれが問題としている内容が同一である必要があると思われます
ですから客観の存在が必要不可欠なのだと思われます
「君がどう考えようとも、わたしがどう考えるか、が問題なのだ」という人間は批判的議論を行うことができるでしょうか?
提出された批判に対して「だが、わたしはこう考えるからわたしにとってはこうなんだ」という返答をする者が生産的議論を行えるとは思えません
それとわたしの提出した仮定は発言を封じこめるようなものではありません
わたしは「いかなる発言も禁止すべきではない」と考えます
これは「禁止される発言もある/その意見は発言されるべきではない」という意見もまた禁止されるべきではない、という立場です
わたしはそれが発言できるかどうかということに関してはすべての意見は発言されてよいと考えます
(非論理的で理解不能な文章ですら)
しかし、「それは間違っている」という発言も同時に禁止されるものではない、と言おうと考えています
わたしは「発言してよい/してはいけない」の線引きに関しては線引きを行わず
「正しい/間違っている」の線引きを導入しようとしています
>>171 >つまり『自分の論証に自信があっても言葉を濁さなければなら
>ない』と言うのだろうか?これは倫理的に、誠実な態度に値するのか?
これこそわたしが批判にかける職業倫理です
・なぜ、確証に自信がなければ言葉を濁さなければならないのでしょうか?
その意見の根底には「不確実な意見を言ってはならない」という神話が存在するように思われます
>また同様の理由で。“反対意見を求める”態度と言うのは、『ある意味で議論をかく
>乱する意図』も垣間見える。また『真理を探究する態度としてもあるまじき不誠実さ』
>であると認められる。私にはこの「5」の部分がが特に、詭弁ではないか、また倫理
>的態度として欠陥に価するのではないかと感じた。
・「反対意見を求める態度」は議論をかく乱させるでしょうか?
仮に「反対意見を求めるべきではなく、同意を求めるべきである」としましょう
そこにはいくつかの問題があるように思われます
1議論を同意によって収束させようとするならば、我々は同意によって終わることができるよう同じ基盤に立つ意見を求めてしまいがちになる
これは自分と似た意見を議論に参加させ、自分と異なる意見を排除する方向に向かうのではないか?
2議論によって反対意見を求めないならば、我々がその議題を保持することにどれほどの意味があるのだろうか
例えば、わたしが「客観世界はある」と主張するならば、誰かが「いや、ない」と反論せねば議論は発生しようがない
ここで議論に参加する者全員が「うん、客観世界はある」と同意するならば、それを議論することなど不可能であるように思える
>>172 >あと哲学議論に倫理を設定すると、永遠に『倫理の呪縛』から逃れられなくなってしまうのでは
>ないでしょうか?。
わたしは、「倫理なき哲学」こそ永劫回帰に陥るだけのように思えます
哲学は倫理と関連したものであり、価値抜きにして存在について語ることはできないとわたしは思います
だからといって、何らかの価値を確立した上で存在を語るべきだともわたしは思いません
存在と価値の関連の中でわれわれは議論を通じて世界や我々の価値をより良くしていける
これがポパーの哲学だと思われます
>そのようなことを踏まえると、議論の終わり方、論の締め方という観点も哲学
>者の倫理を言及する立場としては、不可欠であるように思えます。
議論の終わりに関しては、わたしは次のような説明をします
1議論の内部、論理的な事柄に関して
議論に終わりを設けるべきではない、原理的には議論に終止符を打つことはできない
2議論の外部、現実的な事柄に関して
現実には我々はいつまでも議論し続けることはできない、我々には生活があるのだから
どこかで議論を切り上げる必要がある
議論を切り上げた際には、我々個人がそれぞれ保持したい言明を保持すればよい
この1と2を同一視するべきではないとわたしは考えます
ハーバーマスの理論はこの2点を切り離さないために陥ったものと思われます
すみません 落ちます
レスが遅れ遅れになってすみません
自らが問題とする箇所以外には返答を怠ったことをゆるしてください
多くの人が参加して来ましたね。よろしくお願いします。
あまり頭が回りませんので、とりあえずのなめさんに一つだけ。
>代表的なものは「独我論を否定する根拠はどこにあるのか」ということだろうね
>これを俺は道徳に求めるわけだけど
>>163 のなめさんは真理や客観世界を、知の探求や独我論否定のために”便宜上”
想定していると僕は受け取っています。
この想定された真理は、「我々の実用上、実践上の要請によって」想定されたという意味なら
僕も賛成であり、僕がここで述べたいことでもあります。つまり僕は、
「我々に与えられているものは各自の経験世界であり、それ以外にない。
そこでの個別的経験、知に我々の経験を超えた所謂真理による判別はありえない。
全ては同等の権利で存在している。
ただし我々は、客観的に見れば同等の権利で存在している経験、知のうち、
『実践的に要請されざるを得ないもの』を真理であると分類している」
と主張したいのです。
例えば「過去は存在した」が常識になっているのは、それが真理だからではなく、
そう考える方が実践上有意義だからそう考えるだけであって、過去が存在したことが
真理であるからではありません。(もしかしたら客観的真理かもしれません)
「蛇だと思ってよくみると縄だった」という見間違いも、最初に見間違えた蛇が主観の誤りでなく、
世界がそのように変化すると考えることを排除する理由はありません。
あるとすれば、「実践上」「倫理的」要請でしかありえません。
僕は、のなめさんが独我論に対して執拗に批判する理由として「倫理的(実践的)」を挙げるのは
正しいと思うのですが、「倫理(実践)」を基準に独我論を否定することが哲学的に正しいとは思えません。
「私の意識の外部にあるはずの世界が私の意識のもとに現れる」という何気ない事実でさえ、
「他人は僕の意識の中の出来事である」と考えるガチガチの独我論と同程度の権利で
不思議なことなのです。ただ、後者は実践上必要ないものゆえに鼻でせせら笑われて否定され、
前者はそれを前提とすることが必要であるゆえ不可疑に肯定される、
ただそれだけの違いに過ぎないと思うのです。
>>174 ここでもう一度僕のスタンスを明確にしておきます。
たびたび明言していることですが、僕はもともと筋金入りの客観主義者であり、主観主義、
ましてやガチガチの独我論など信じられません。それゆえ、自らの客観主義を何らかの思想で基礎付けて
もらう必要はなく、哲学にもそれを求めていません。
僕が哲学に期待するのは、僕のこの常識的な世界観に疑いの矢を放つことです。
それゆえ、反客観主義哲学である大森荘蔵や現象学に関心があるのです。
>>174についての反論はまた次回に・・。
(すみません、ageてしまいました・・)
186 :
THE グル:04/04/19 23:59
\ │ /
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
─( ゚ ∀ ゚ )< ていせつていせつ!
\_/ \_________
/ │ \
∩ ∧ ∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ∩∧ ∧∩\( ゚∀゚)< 定説!定説!定説!
ていせつ〜〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
 ̄
>>181 のなめさんが書かれている2つのテーゼについて一言
ハーバーマスはよく知りませんが、1と2を同一視するべきではない、というのには
ある意味同意。議論者は2(有限、可変)であるにも関わらず、1(無限、不変)である
かのように語らなければならない、という意味で。しかしながら、それだけで哲学議
論の終わり方についての話は尽きないと思います。次は1(形式)と2(内容)を統一し
た把握3に行かなければならないと思うからです。
>ポールさん
>>184 端的なレスをゆるしてください
>僕は、のなめさんが独我論に対して執拗に批判する理由として「倫理的(実践的)」を挙げるのは
>正しいと思うのですが、「倫理(実践)」を基準に独我論を否定することが哲学的に正しいとは思えません。
わたしの独我論への批判は、「独我論が主張する立場もまた確実ではない」というものです
「確実さ」という点では主観も客観も同じくらい不確かなものであり
その上で独我論ではなく知覚の外に対象を設定する理由としては
もし我々の主観しか存在しないのだとしたら、我々のもつ知識はすべて我々の内部において発生したと考えられる
しかし、多くの科学理論をわたしが自ら考え出したと考えれるほどわたしの頭は賢くない
また、独我論に限らず共同主観に対する批判として
わたしは
1、本に書かれたことからも我々は知識を得ることができる(その著者が意図しなかったことさえも)
2、数学者ピタゴラスがタイルに描かれた図形を見て新しい数学を発見したように
我々の思考からも、我々は新しい知識を発見することができる
という批判を提出しましょう
わたしは実在の設定を倫理的要請に頼っています
実在の設定は謙虚な行為であり、独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
これは実在論が独我論と比較して優位である理由になると思います
わたしはここで実在論と独我論が議論できる可能性を認めています
その上で、実在論が独我論と比較して合理的であるという主張をしています
わたしには主観が不確実であると分かりながらも独我論を主張する者はほとんどいないように思えます
>>188 修正
>これは実在論が独我論と比較して優位である理由になると思います
この言葉は言い過ぎでした
撤回します
>>187 弁証法ということですか?
わたしはそのような把握は必要ないと思いますよ
「議論は原理的に永久に終わりがない」、それでじゅうぶんです
議論を終わらせるものは「もう眠いから寝る」とか「忙しい」とか「仕事があるから」とか議論とは関係ないものです
のなめさんへ
よろしくお願いします
>>177 >うーん、ただ語っているのではなく、挑戦を試みています
了解しました。おそらく私もそのようです。
>「それが不可能であるならば、するべきではない」
つまりあなたにとって、『価値』とは自己の行為(今回の場合、哲学的実践)を
規定するものとしてあるわけですね。しかしまあここでの、規定というのは行為を
束縛(選択を狭める)するものではなく、むしろその可能性を広げる(自由を与
える)ためにある、と言うことのようですね。
うーん驚きです。やはりあなたは凄いですね。『価値』=『行為規範』と言う発想
は私には思い浮かびませんでした。そもそも『価値』とはなんなのかすら皆目解
らなかったので。まさに驚嘆の思いです。
>「主観について定義できない人」とは「主観と客観を切り離していない人」ということだと思われます
いやそうではないです。そもそも主観がなんなのか解らない人のことということで
す。つまり哲学問題としての主観と客観のパラドックスに、はまっている人のこと
です。
>>179>彼の言葉には「客観とはわたしの主観と同一である」という補足を加えれば議論に
>加わることは問題ないと思われます
これはそのような人に、主観の定義を便宜的に与えてやる必要があるのか?
という聞き手としての倫理の問題を生みそうですね。
(つづき)
>議論の場においてはわれわれが問題としている内容が同一である必要があると思われます
>ですから客観の存在が必要不可欠なのだと思われます
ここで言う客観の存在が必要であると言うことは、つまり議論において監督的立
場の人間が必要であることでしょうか? それとも単なる他者存在としての『観客』
なのでしょうか?
いやどうやらあなたの論理は違うようです。
>「君がどう考えようとも、わたしがどう考えるか、が問題なのだ」という人間は批判的議論を
>行うことができるでしょうか?
>提出された批判に対して「だが、わたしはこう考えるからわたしにとってはこうなんだ」とい
>う返答をする者が生産的議論を行えるとは思えません
どうやら、あなたは議論を相対(あいたい)的なものとして考えているようだからです。
私はそれとは少し違います。私は相手の論理を見つめるとき、私の過去提出した論その
ものは、空白化されます。『私』が何を言ったか、それが過去の言説と矛盾するかどうかにつ
いて、考えることをしません。真理概念を希求するにあたって矛盾関係を、打ち出すことは
むしろ邪魔だと考えているのです。そんな『私』をいい加減だと思う人もいるでしょう。しかし
私は真理は矛盾を抱えなければならない、とも考えているためそのような作法をとることを
当然のこととしているわけです。
(つづき)
>その意見の根底には「不確実な意見を言ってはならない」という神話が存在するように思われます
まさに私はその神話に囚われているのだと思います。しかし哲学はそのような神話
への没頭行為であると考えることは充分論理的です。
>・「反対意見を求める態度」は議論をかく乱させるでしょうか?
>仮に「反対意見を求めるべきではなく、同意を求めるべきである」としましょう
>そこにはいくつかの問題があるように思われます
えーとこれは私が問いかけた言及とは違います。私は批判は(賛成、反対ともに)“求めるもの”
ではないと言っていたわけです。批判は、求めるものではなく、存在者から語りかけるように、
または、暴力的にすら到来してきます。そういうもんではないか。そのような批判は論上では
まったくもって当然のものだと言うことです。
ですから私は、批判は“受け止めるべきである”としたのです。そこに反対意見、賛成意見に対し
て批判的な態度を取ってはいけないのではないか、と言いたいわけです。
あとちなみに同意に関しては、独我論者の発言に他者の同意が与えられたとき、それは客観の
称号だけでなく、客観的意見を超えた普遍的真理の称号も与えられるため、他者の同意を受け
入れることも必要であると私は考えたいですね。
(つづき)
>1議論を同意によって収束させようとするならば、我々は同意によって終わることができるよう同じ基盤に立つ意見を求めてしまいがちになる
>これは自分と似た意見を議論に参加させ、自分と異なる意見を排除する方向に向かうのではないか?
このような真理とそれからなる懐疑は生得的に我々に与えらえるものではありません。つまり
『経験』を批判することと同じことになります。『経験批判』は自らを独我論者であると設定する
限りおいて、その批判は、するべきでないと私は考えます。また弁証法の論上にも載せること
のできぬ論題だと私は考えます。
>だからといって、何らかの価値を確立した上で存在を語るべきだともわたしは思いません
>存在と価値の関連の中でわれわれは議論を通じて世界や我々の価値をより良くしていける
全面的に同意します。ちなみに私は『価値』を『行為』と言葉を置き換えて読みました。そのような
読み方でもよかったでしょうか?
では、次に私の意見を書きます。
私は議論に関わらず、あらゆる行為は合目的でなければならないとしています。
まずこれを第1原則としましょう。
しかし哲学はこのような原則に批判を掛けるものであると言うことです。ですから決して議論は合
目的である必要はないと考えています。でこれを第2原則としましょう。
つまり機械的な自我も、必要であると私は考えています。
さて、哲学は『合目的』と『機械的』を行き来する行為だと言えるでしょう。と言うことは『合目的』から
『機械的』な自己に自我が移行するとき、そこに我々は『哲学的自我』を産出されるのではないか
ということです。そして哲学的自我とは、つまり「考える自分」のことです。そして哲学的自我はその
『合目的』と『機械的』の度重なる往復によって、『倫理』なる現象を見出すのではないか?
実は、私は弁証法によっていかなる倫理(もちろん職業的倫理も含む)も『産出』も『創出』も『贈与』
もされないものと考えています。ですから、このような倫理を語る議論にあっては、我々は自己言及
的に自身の経験からしか語るしかなくなるでしょう。私は言説の確かさは自身の経験によって補強さ
れるものと考えています。そしてこれは真理度(こういう尺度があればですが)
ちょっと眠くなったので最後に少しだけ。
私は議論とは、観点の交流であると考えています。はっきり言って私は議論と会話の違いがわかりま
せん。あえて違いを言うのなら「テーマ(超越的な主観)」があるかどうかといえるのではないでしょうか?
超越的な主観のまわりで客観なる存在の我々がただ会話しているだけのでしょうか?
そのように私には思われるのです。なんか意味不明ですいません。お休みなさい。
>・「反対意見を求める態度」は議論をかく乱させるでしょうか?
あーこれに対しての意見を言い忘れていましたね。
また、かく乱させるかどうかについては、私の意見が普遍的であるという前提のもとで提出していま
すから、この点の私自身の論証は不可能です。私は私の意見に同意してくれる人によって私の論
の普遍性を獲得することになるのではと考えます。じゃないと楽しくないでしょう。つか哲学に楽しさ
を求めるのは倫理的にいかがなものなんでしょう?
>>183 あ、ポールさん。とつぜんですが、おじゃまさせて頂いてます。
こちらこそ、よろしくお願いします。
>ばかぁ〜さん
よろしくです。
それでは。
>>190 >弁証法ということですか?
いや、別に弁証法どうこうということではなく、いわばカッコの入れ外し、もしくは抽象と抽象解除
の問題とでも言おうか。いい例ではないかも知れないが、ぴかぁ〜氏はたとえ議論を破綻させたとし
ても決して存在論をカッコ入れすべきでない、のなめ氏はたとえ議論が認識論だけになったとしても
決してカッコを外すべきでない、という主張をしているように感じます。僕はカッコ入れしたり外し
たりして議論してもよいと思う。ただし「どこでカッコ入れしたか?どこで外したのか?」の共通理
解が論者の間にあるときだけ。いや、むしろその共通理解だけあればよいというのが、僕が考える
「議論の倫理」についての暫定的回答ですかね。
ポパーについて入門書程度の知識しかない状態の僕がこう言うのは不誠実かな?とも思いますが、
のなめさんの意見は独我論、独断論を排除するという面のみにとらわれすぎているように思います。
>のなめさん
また「つまみ食い」で申し訳ないですが、気づいたところから少しづつ・・。
>1理論を前提から構築することはできない、理論は提出された時点で多くの前提を有するだけである
>>151 のなめさんは以前から、議論(理論構築)に前提は必要ないという主張をされてますが、
僕はこれに同意できません。なんらかの主張、理論立ては、必ず何らかの前提から
出発しています。例えば哲学における世界描写に関して言えば以下の通りです。
科学と異なり哲学は、
1.科学が前提とするものを疑う 2.実証不可能性
という性質を持っている為、科学よりも、より少ない前提から出発します。
ではそこにおいて前提がないかといえば、そうではありません。哲学者は必ず
「世界は論理的整合性を持つ。少なくとも人間が理解できる整合性で世界は成り立っている」
という仮定の上で自らの理論を組み立てます。だからこそ哲学者は自らの理論の
論理的整合性を保つ為に苦心するのでしょうし、他者が彼の説を批判するときは、
彼の論理的綻びを指摘するわけです。
哲学者が最終的に持つ唯一の武器は論理だけだともいえます。
例えば、僕が主張してきた主観主義的世界観は、「僕の経験する世界を基盤に世界を考える」
という前提があり、客観主義者は「私から独立した世界が存在し、私はその一部である」という
第三者的視点を前提として理論を構築しています。どちらが正しいかは、(哲学的には)どちらの
理論が論理的に堅固であるかで決まると思います。
理論の真偽の判定が論理的整合性だからこそ、はるか昔に死滅したはずの哲学説が、
現在において突如として蘇ってくるという、科学ではありえない現象が起こるのだと思います。
>>188は以前から僕に対して向けられている批判ですが、これについてもまた後ほど。
>>199訂正・追加
>(哲学的には)どちらが正しいかは、どちらの理論が論理的に堅固であるかで決まるのであって、
>倫理的要請ではないと思います。
>>198,199
うーん、僕はこれにはちょっと頷けないなあ。論理的整合性の問題なのだろうか。
今僕はヘーゲルとハイデガーに関心を持っているからなのかも知れないが、ポールさんと
のなめさんの間で議論されている、主観主義と客観主義とか、哲学の大前提は何かとか、
そういうことはあまり重要なこととは思えないんです。かといって僕に、お二人の議論の
地平を越えるパースペクティヴを提出するなどという力もありませんし、テーマが拡散し
ている観もありますので、ここはいったん引いて、このスレはしばらくロムることにした
いと思います。では。
端的にレスします
>じゆん
>つまりあなたにとって、『価値』とは自己の行為(今回の場合、哲学的実践)を
>規定するものとしてあるわけですね。
事実に関与することができない価値は価値として無意味であると考えているということです
具体的な状況を無視してなされる価値批判は無内容です
同じく、具体的な状況を無視して提出される価値も無内容です
>うーん驚きです。やはりあなたは凄いですね。『価値』=『行為規範』と言う発想
>は私には思い浮かびませんでした。そもそも『価値』とはなんなのかすら皆目解
>らなかったので。まさに驚嘆の思いです。
個人にとっての行為を支配するような価値に関してわたしは語っていません(語る気もないが)
「〜すべき」「〜してはいけない」という言葉はナマの事実と規範的事実の両方において使用される言葉であるとマッキーの『倫理学』にありました
同時にそれらの混同を批判していました
マッキーはサールの自然主義的誤謬批判を反批判しましたが、わたしにはマッキーが示した例は価値について我々が言及しうる(議論しうる)ことを示したように思えました
わたしが影響を受けた一部です
続き
>これはそのような人に、主観の定義を便宜的に与えてやる必要があるのか?
>という聞き手としての倫理の問題を生みそうですね。
いいえ、聞き手がそう補完するということです
彼がどのようなことについて言及しようとも、わたしはそれが客観世界について語られたことと理解します
でなければ彼が何について語ろうとしていたのかなど理解できないからです
>ここで言う客観の存在が必要であると言うことは、つまり議論において監督的立
>場の人間が必要であることでしょうか? それとも単なる他者存在としての『観客』
>なのでしょうか?
ここにおけるわたしの主張はこうなります
「議論はどこにあるのか、議論は主観と切り離された客観的な場所にある」
理由はこうです
もし、議論が主観の内部に成立するならば、議論によって得られた新しい知識も我々がすでにもっていた知識ということになる
それは議論によって我々は新しい知識を得ることができないという主張に落ち着くように思えます
>>193 >まさに私はその神話に囚われているのだと思います。しかし哲学はそのような神話
>への没頭行為であると考えることは充分論理的です。
論理的に整合が取れているかもしれませんが、その神話を批判することは可能です
(また、批判してはならない理由もない)
なぜならば、(非分析的な言明で)確実な言明など何一つないのですから
「確実な言明はない」という言明すら不確実なのです
我々の有する認識能力はどうしようもないほど無力であるためこのようなパラドクスに似た状況に陥るのです
※ここで注意すべきは、わたしはあなたがそのような行為に没頭することを批判しているのではなく(あなたの行為は自由です)
そのような神話、古い価値を批判しているのです
この批判している対象は客観的なものです
続き
>えーとこれは私が問いかけた言及とは違います。私は批判は(賛成、反対ともに)“求めるもの”
>ではないと言っていたわけです。批判は、求めるものではなく、存在者から語りかけるように、
>または、暴力的にすら到来してきます。そういうもんではないか。そのような批判は論上では
>まったくもって当然のものだと言うことです。
議論において批判は求めるものではなく暴力的に到来してくるものだと・・・
わたしは「求めるべき」と言ってますから価値に対する言及をしています
批判が暴力的に到来しようがそうでなかろうがかまいません
>ですから私は、批判は“受け止めるべきである”としたのです。そこに反対意見、賛成意見に対し
>て批判的な態度を取ってはいけないのではないか、と言いたいわけです。
ええ、とってかまわないです
批判はそれ自体何かの価値の上に成立した一意見でしかありません
批判を受けた者が批判に対して反批判することはむしろ奨励されるべきです
なぜならば反批判は最初に提出された批判を批判し直す行為であり、これもまた相手にとっては批判の一部だからです
>あとちなみに同意に関しては、独我論者の発言に他者の同意が与えられたとき、それは客観の
>称号だけでなく、客観的意見を超えた普遍的真理の称号も与えられるため、他者の同意を受け
>入れることも必要であると私は考えたいですね。
ちょっと理解できないです
もちろんわたしも何から何まで同意無くして議論が可能だと思っているわけではありませんよ
最低限、議題に関する同意は必要であると考えていますから
しかし同意によって意見をすりよせる議論よりは、反対意見によって意見をぶつけ合う議論の方がより生産的であると考えています
>>194 >このような真理とそれからなる懐疑は生得的に我々に与えらえるものではありません。つまり
>『経験』を批判することと同じことになります。『経験批判』は自らを独我論者であると設定する
>限りおいて、その批判は、するべきでないと私は考えます。また弁証法の論上にも載せること
>のできぬ論題だと私は考えます。
わたしの理解不足かもしれませんが・・・・
わたしは経験論者ではありません、経験は疑いうるとする合理主義者です
したがって経験は批判しうるしそれは奨励されるべきであると考えます
むしろ、経験が批判にさらされうるからこそ、我々は経験を重んじることができるのだと思います
>全面的に同意します。ちなみに私は『価値』を『行為』と言葉を置き換えて読みました。そのような
>読み方でもよかったでしょうか?
あなたに意味が少しでも通じればどのような読みでも結構です
>議論について
おそらく、わたしはあなたの言う「真理度」というものに強烈に批判的立場であると思います
ちょっとポールさんやじゆんさんと対話して
わたしの言う倫理的要請(多分表現が悪かった)が誤解されているように思えます
そこでわたしは自らの倫理的要請を説明するために比喩を用いたいと思います
(稚拙な比喩でごめんなさい)
・比喩
ある道を歩いていたら道が二つに分かれていた(問題との出会い)
わたしはどちらの道が正しいのか分からない
道にはそれぞれその道が正しいと主張する者がついている
しかし、いくら二人の意見を聞こうともどちらの道が正しいのか分からない(原理的に不可知)
片方は「わたしの道が正しくあちらは間違っている」と言い、もう片方は「わたしの道が正しく、あちらが間違っている」と言う
論理を受け入れるわたしは二人とも正しいと考えることはできない
あるいは二人とも間違っているかもしれない
しかし「あれかこれか」の選択肢のどれかを選ばねばならないというならば
わたしは嘘をついたり非道徳的な態度の人の示す道よりは、嘘をつかなかったり道徳的な態度の示す道を選ぶ
これは道徳的な態度の人の示す道が正しいだろうという事実に対する希望ではなく、我々の内なる道徳が選択している
そして、この選択は「合理的」と呼べる
これがわたしが「倫理的要請」と呼んだものです
補足
人で表現したものは理論と理論の弁護者ということではなく
理論そのものを「人」と表現したつもりです
>>208 のなめさんへ
返答どうもありがとうございます。
実は、自分で読み返して、ちょっと意味が通らない箇所や脱字が散見できたもの
ですから、かなり不安だったのです。
(言い訳をすると、一日のうちの仕事量が多かったため、頭が回らなかったのだ
と思います)
ですからまずそれを、お詫びをしたいと思います。
明日になればまた仕事が休みにはいるので、そのとき自論の整理、返答等を確実に
行えるかと思いますのでまたよろしくお願いしたいかと思います。
本当は、このような言明をせずに、できるだけ丁寧に論を作り、受け答えしたいの
ですが、こちらも、なにぶん時間的拘束もありますし、スレの流れ(時間的密度)
も意識せざるを得ませんから(このスレに来たばっかりなので)、そのように理解
して頂くと、いくらかほっとする気持ちです。
すみません、よろしくお願いします。
あなたの言う批判箇所に対しては、今、目を通しています。
(今少し寝れたものですから、頭がすっきりしました)
それでは。
>じゆんさん
いえ、別にかまいませんよ
かくいうわたしも忙しくてちゃんと推考してレスを返してませんですから
わたしだって誤読、誤解釈はしているでしょう
しかし議論をすることでそれらの修正も可能です
お互いさまということですね
われわれが問題にすべきは議論の内部です
(議論の内部は客観的領域です)
問題を共有しながら批判的議論を行えればゆっくりでもかまわないと思います(むしろゆっくりの方がいいかも)
>ばかぁ〜
>>197 >のなめさんの意見は独我論、独断論を排除するという面のみにとらわれすぎているように思います。
独断を放置することはさすがに『哲学』とは呼べないだろうと考えているからです
元来、哲学は独断でない知識を目的としてきました
しかし、事実として独断でない知識などありません
すべての知識、言明は独断の領域を越えることができません
ですから哲学は独断を否定するような倫理的なものとして理解し直す必要があると考えるのです
ちなみにわたしは独我論を決して認めないわけではありませんよ
主観の存在が確実であることを示してくれれば、わたしは独我論者となるつもりです(その方が合理的な選択ですから)
>ポールさん
>>198 >のなめさんは以前から、議論(理論構築)に前提は必要ないという主張をされてますが、
>僕はこれに同意できません。なんらかの主張、理論立ては、必ず何らかの前提から
>出発しています。
いいえ、前提から出発していません
われわれは前提から出発しているのではなく、すでにして何らかの理論をもっているのです
我々の期待や問題といったものが先行するのです
これは観察においてもそうです
観察の理論負荷性というものがありますが、観察するには観察する何かという対象が必要です
これは我々が「何かを観察しよう」という問題意識をもたねば生じないように思えます
われわれはすでにして理論を有しそして理論は多くの(無限の)前提を含んでいるのです
>>198 >科学と異なり哲学は、
>1.科学が前提とするものを疑う 2.実証不可能性
>という性質を持っている為、科学よりも、より少ない前提から出発します。
1についてはそうであると思いますが、2を批判します
科学は実証可能でしょうか?
わたしはそうは思いません
そもそも「実証」とは何でしょうか?
わたしには多くの科学理論は何一つ実証されていないように思えますが
そうそう、それとわたしは極端なまでの科学信者ですよ
わたしは科学の擁護をしています(ポパーが科学の擁護をしたように)
>>198 >論理的整合性を保つ為に苦心するのでしょうし、他者が彼の説を批判するときは、
>彼の論理的綻びを指摘するわけです。
>哲学者が最終的に持つ唯一の武器は論理だけだともいえます。
わたしからの批判は
1論理ですら確固たる基盤にはない(これは最近の哲学の流行であるように感じます)
2哲学者は論理的綻びだけを指摘するわけではない
なぜならば「論理的に整合していればよい」という言明は論理的なものではなく彼の信仰でしかないからです
>>199 >理論の真偽の判定が論理的整合性だからこそ、はるか昔に死滅したはずの哲学説が、
>現在において突如として蘇ってくるという、科学ではありえない現象が起こるのだと思います。
昔に死滅した学説が突如として蘇ってくるのは科学でも多くある話です
原子論、エーテル説など、わたしには哲学よりも科学の方がそのようなダイナミックな展開が多いように思えます
>>201 >(哲学的には)どちらが正しいかは、どちらの理論が論理的に堅固であるかで決まるのであって、
>倫理的要請ではないと思います。
なぜ論理的かどうかではなく「論理的堅固さ」が問題となるのでしょうか?
わたしは「片方が8割論理的でもう片方が2割論理的なら8割論理的の方が正しい」とは到底思えません
論理とは論理的でないものが一つもないからこそ論理たりうるのです
わたしが自らの理論のどこかで同語反復や循環を繰り返せば理論全体が堅固になるというのでしょうか?
わたしには到底同意できませんし
そのような考え方は科学に対する誤った理解から生じるとわたしは思います
ちなみにわたしは論理を前提として受け入れてます(もし論理が間違っているならわたしは間違っている)
論理なきところに批判的議論は成立しないと考えていますから
失礼、落ちます
「実在」と「倫理的要請」についてさらに説明します
カントは「物自体」を実践理性の要請の問題としましたが
これは「物自体」の設定の理由付けが「実用的であるから」という理由付けではありません
わたしはこれを「倫理的要請」と言いましたが、これもまた理由付けを道徳に求めて思考を放棄しているわけではありません
「物自体があるかないか」という問題は理論のみで考えるならば「どちらでもない」としか言いようがない問題なのです
しかし、もし「物自体がある」と「物自体はない」のどちらか一つを選択するという実践的な問題として考えるならば
「物自体はある」と考えることに理由はあるのです
その理由は「物自体はない」と考える理由はもっとないからです
カントは理論理性による問題と実践理性による問題を分離しました
しかし、それからの科学の発展によって、競合する科学理論の正否すら決定的な回答を出すことはできないということが明らかになったのです
すべての問題は実践理性による問題を含むのです(この言明ですら)
科学と非科学
ウィトゲンシュタインは科学と非科学の境界をルールとしました
対してポパーは科学と非科学の(便宜上ではなく意味上の)境界をモラルにひいていると思われます
科学、特に自然科学は学問としては類をみないほどの成功を収めているように思えます
それは社会科学の混迷とは雲泥の差です
その理由はどこにあるのか
わたしは、自然科学における科学者集団にモラルがあったからだと考えます
そして科学者集団のモラルとは、自分が「間違っている」と思うものを「間違っている」と言う
そしてそれを非個人的な思考、検討、一言で言えば、批判的議論にかけるということです
自然科学のこんにちの発展があるのは
多くの異なる意見を認める寛容さと、非道徳な意見(独断的すぎる意見)を排除する論争を行う豊かな地盤があったからです
> のなめさん
>>188 >その上で、実在論が独我論と比較して合理的であるという主張をしています
えー横レスですが、おそらくこれはその通りだと思います。
私は
>>188(+
>>189)で書かれた主張に全面的同意をしたいと思います。
>>203 >事実に関与することができない価値は価値として無意味であると考えているということです
>具体的な状況を無視してなされる価値批判は無内容です
>同じく、具体的な状況を無視して提出される価値も無内容です
これを読んで直感的に理解したことは、これらの条件にあてはまる行為は、哲学的思索、
および議論だと言える、ということです。無内容の定義が曖昧なため、あなたの主張は
無内容であるように思えますが、このようにあなたの人格を仮に私が設定することで、
無内容ではなくなるように思います。それは意味を持った行為に変化するのではないで
しょうか?
私が哲学的議論に意味を見出すとしたら、まずそれが一つです。
哲学議論そのものは思想の譲渡にすぎません。決して科学は弁証法的に真理が顕現さ
れる過程を映すものでもないと考えます。科学などの真理探究は議論ではなくプラグマテ
ィズムに委ねられるものと思います。
>>204 あなたの主張は神話には批判価値があるというように理解しました。
私はあなたの意見に同意します。
であれば神話に対する懐疑を提出することは理にかなっていると言うことになりそうです。
>これはそのような人に、主観の定義を便宜的に与えてやる必要があるのか?
>という聞き手としての倫理の問題を生みそうですね。
のような主張も有りと言うことです。
そうですよね?
(どうか悪意的な意味にとらないでください)
>>205 >ちょっと理解できないです
>もちろんわたしも何から何まで同意無くして議論が可能だと思っているわけではありませんよ
>最低限、議題に関する同意は必要であると考えていますから
>しかし同意によって意見をすりよせる議論よりは、反対意見によって意見をぶつけ合う議論
>の方がより生産的であると考えています
申し訳ありません。あなたの人格をここで便宜的に設定していたことと、
>>188にある独我
論と実在論の違いを認識していなかったことによる錯誤です。お許し下さい。
しかし同意のみの意見からも、私はそこから充分に生産的になりうるものだと考えています。
他者への連関を考えたとき同意は力強い論理の支えになると言うことを私は言いたいのです。
独我的ではなく議論を主体と考えたとき、同意そのものが、意見として生産的であるというのが
私の主張です。
おそらく、これは議論を論戦と捉えた、あなたの神話があるのではないかと思えるのです。
もちろんそのような神話も批判可能なのでしょう。
なぜなら批判は無理解から(無理解を認識主体として便宜上設定するため)なされるからです。
賛成にしろ、反対にしろ。そういう意味では賛成反対の一方の優位性を設定することは便宜上
の価値設定であって、そもそもの価値としては無価値であると言うのが私の主張なのです。
まあ価値そのものの価値性を認めることには無条件に承認、同意しますけれども。
>>206 >わたしは経験論者ではありません、経験は疑いうるとする合理主義者です
私もこれに賛同します。
しかし
>したがって経験は批判しうるしそれは奨励されるべきであると考えます
とまでは思いません。むしろ経験は批判のために要請されるものであり
経験を懐疑してはならぬと思います。このような論法はおそらく、カントの純粋
理性批判に通じるのだとは思っています。しかし私は経験ではなく理性もしくは
純粋理性ならば批判は可能だと考えるし、なお奨励されるべきものではないかと
考えています。
>おそらく、わたしはあなたの言う「真理度」というものに強烈に批判的立場であると思います
そうでしょうね、『真理度』と言うものの私の無理解から来るからだと思います。
また、私も一つの懐疑として提出したつもりです。このような認識的なまたは感覚
的、感情的な度合いについては、おそらくベルクソンによって徹底的に批判に曝さ
れていましたので。しかしこの真理度への批判価値は高いと言えるのではないかと
思えます。おそらくあなたはこれを経験批判と呼びたいのかも知れませんが、私は
これを経験とは私は呼びません。と言うより体験批判ではないかと思うのです。
ちょっと中断してあなたに言いたいことがあります。
私の居丈高な態度、または自らの主義を設定しない主張する態度は許して頂けると
助かります。私の論法はあなたといくらか似ていまして、相手の論に覆い被さるように
行われると言うことです。ですからあなたはもしかすると私が全面的否定を行っている
ように思われるのもやむなしと考えています。もちろん私自身はそう思われてもそれで
構わないのですが、どうもメタ議論化をこの議論の場では許容しているように思われる
ので、一応確認しておきたいと思いました。ちなみに言っておきますと私はあなたの
主張はかなりの部分賛同しています。
でちょっと
>>188 の批判に戻ってみたいと思います。
独我論と実在論の優位性を設定しましたが、しかし実在論は共同幻想によって
合理性を失われるのも事実だと思われるのです。
その前に、合理的の意味を調べました。
【合理的】 (形動)
(1)論理にかなっているさま。因習や迷信にとらわれないさま。
(2)目的に合っていて無駄のないさま。
(つづき)
私は合理的であるかという基盤は実在論よりも独我論により導かれるものだと考
えていました。つまり論理そのものを形成するものは独我(個)であると考えてい
たためです。ですから私はある意味で独我論を信奉します。
しかしその独我論があなたの言うように他者(実在)を要請するのも事実と言える
でしょう。それがあなたの実在論による独我論批判なのだと思います。しかしウィト
にしてもそうですが、しかし私は独我論者の独我のみが否定される言われは無い
ものと考えています。
独我論者とて、論を提出する者、それは実在へのアプローチと言う行為をする者
である。独我論はそもそも実在論者への批判を倫理的なる態度で行っているので
あって、独我的なるものを批判されるのはナンセンスだと私は考えたいと思います。
私が独我論者に対して批判に掛けられる唯一のものは、所謂あなたの言う“職業
倫理”ではないか、つまり私の言うところの“行為規範への言及”ではないかと思っ
ているのです。そういう意味で独我論者の独我批判は無意味だと考えています。
まあちょっと言いすぎの観はありますが、これが私の独我論の理解なのだと言うこと
です。
(つづき)
それとまた申し上げようかと思うのは、私の主義はおそらくプラグマティズム(実践哲学
主義)ではないかと想像しています。言葉が曖昧なのは不勉強のためプラグマティズム
のことを私自身よく理解していないからです。そういった主義の中では私は経験そのも
のへの批判は否定的なのだと言うことです。経験を批判したときその独我論の主張が
崩壊される恐れがあるからです。もちろん、その経験の崩壊を構わないと考える主張も
あると思います。しかし経験つまり“独我論の論理”なるものを崩壊を意図することは、
私は危険なものと考えるのです。この危険なものという判断は私の倫理から来るものです。
その弁明はここでは避けたいかなと考えています。
また私は批判は無限であるとは思いません。あなたの言うように他者の要請によって批
判を中断されることもしばしばです。
しかし、私が恐れるものは、批判の奨励によって必然的に導き出される、行為への“飽き”
なのです。ですから私は批判(理性)には批判価値はあるが、奨励せずという判断をとりた
いと考えるのです。
まあこの辺はあなたの言った
>>179の
>「正しい/間違っている」の線引きを導入しようとしています
論に賛同の意味で、自論を転回させたのだと意味を汲んでくれると助かります。
あと思ったのですが歴史を俯瞰(超越)する行為ができるのはおそらく哲学だけ
なんだなと思いました。それ以外の行為はすべて歴史に束縛されているように思
われます。いや全然関係ないんですがね。
とりあえず、のなめさんマッキーの説明ありがとうございました。
こんどその本を覗いてみたいと思います。
いやいや、長文失礼しました。それでは。
>じゆん
>これを読んで直感的に理解したことは、これらの条件にあてはまる行為は、哲学的思索、
>および議論だと言える、ということです。
まず第一に、わたしは「無内容」と「無意味」とを峻別しているという前置きをさせてください
わたしは哲学的議論、哲学的思索のすべてが無内容だとは思いません
しかし幾人かの哲学者に対しては無内容な言葉を並べ立てていると考えています
>無内容の定義が曖昧なため、あなたの主張は
>無内容であるように思えますが、このようにあなたの人格を仮に私が設定することで、
>無内容ではなくなるように思います。それは意味を持った行為に変化するのではないで
>しょうか?
わたし個人は論争に参加できない思想は無内容だと考えております
これはわたしが「盲目的に信仰に値する価値というものはない」という一つの立場(事実としては不確かな言明です)に立っているということです
しかしこの言明をわたしが盲目的に信仰しているわけではありません
わたしは「盲目的に信仰に値するものがある」という主張と議論できる態度を捨てる気はありません
>私が哲学的議論に意味を見出すとしたら、まずそれが一つです。
>哲学議論そのものは思想の譲渡にすぎません。
わたしは哲学的議論は意味があるものと考えますが、哲学議論が思想の譲渡とは考えません
なぜなら議論をすることで我々は思索をより深めることができるからです
>決して科学は弁証法的に真理が顕現される過程を映すものでもないと考えます。科学などの真理探究は議論ではなくプラグマテ
>ィズムに委ねられるものと思います。
プラグマティズムに対してはわたしは非常に反対です
科学に参加する科学者自身は真理に奉仕していると考えているからです
科学を「プラグマティズム」と呼ぶのは哲学者集団ぐらいのものです
そしてプラグマティズムに反する科学者も多くいます
アインシュタイン、ド・ブロイ、シュレディンガー、そして、カール・ポパーもその一人です
プラグマティズムに対する批判として
1科学によってこの世界の幾分かを学ぶことができる
2科学は真理を目的としており真理に近づくことを目指している
(共にポパーより)
そしてわたし個人のプラグマティズム批判として
「真理なき道具は道具としても不十分である」という主張をします
理論の道具としての有為性は、その真偽が明らかになることで保たれるからです
例えば、ニュートン力学はこんにちの科学理論では通用しない理論です
しかし、ニュートン力学は世界を表現するには間違いであることが明らかになったため
その内部(速度の遅い状況では)安心して道具として使用することができるのです
理論はその限界、誤りが判明することで、ある領域内での信頼性が確保されるのです
>>218 >あなたの主張は神話には批判価値があるというように理解しました。
>私はあなたの意見に同意します。
>であれば神話に対する懐疑を提出することは理にかなっていると言うことになりそうです。
ええ、神話には批判価値があります
それは神話にも正しい可能性があり、その言明が正しい可能性を含むため、その言明には意味があるということです
わたしは、正しい可能性を含む言明はすべて意味があると考えております
「批判」とは「それは正しいかもしれないけど、〜のような理由で正しいと考える理由はない」みたいな意見と考えていただいて結構です
ですからわたしは「批判可能性」というものを重要視します(これはばかぁ〜さんの言う「破棄可能性」と類似していると思いました)
わたしは事実として批判不可能な言明は存在しないと考えます
>のような主張も有りと言うことです。
>そうですよね?
ありですけど、それも批判にかけられますよ
>>219 >独我的ではなく議論を主体と考えたとき、同意そのものが、意見として生産的であるというのが
>私の主張です。
それに対しては、わたしは次のような反論をしたいと考えます
・反論を一切含まない同意は議論を成立させない
常に「全面的に同意」「激しく同意」しか言わなければ、それは議論とは言えないでしょう
議論には異なる2つの意見の存在が必要不可欠であると思われます
それは全面的に同意しながらも、どこか異なるところが必ず一つはある
そうでないものを「議論」と呼ぶならば
ありとあらゆるもの、言葉を発するすべてが「議論」と呼べてしまいます
(この点ではじゆんさんも同意してくれることでしょう)
では同意は議論によって生産的になりうるか、ということに関して
同意とは議論を生産的にすることではなく、「議論の議題を絞りこむために行う作業である」という主張をしたいと思います
我々は同意をすることで「その箇所はわたしがあなたと議論したいところではありませんよ」という主張をしているのです
それは議論そのものに対しては生産的意見とはなりえないが、議論を機能させる潤滑油とはなりえる
>おそらく、これは議論を論戦と捉えた、あなたの神話があるのではないかと思えるのです。
わたしは議論を論戦と捉えております
しかし、議論には必ず両立しない二つの言明が必要なのではないでしょうか?
>>220 >むしろ経験は批判のために要請されるものであり経験を懐疑してはならぬと思います。
>このような論法はおそらく、カントの純粋理性批判に通じるのだとは思っています。しかし私は経験ではなく理性もしくは
>純粋理性ならば批判は可能だと考えるし、なお奨励されるべきものではないかと
>考えています。
わたしも、「経験が間違っている」とは考えません
その理由は、理論と経験が両立しないならば、経験を破棄するのはあまりにも独断的過ぎると考えるからです
しかし、経験に対する信頼は合理性に対する信頼より低次であると考えます
わたしはこの種の問題整理を、1論理、2拝中律、3経験とおきました、(論理の方がより形而上学的な問題)
しかし、経験を疑ってはならない神聖なものとすることには反対です
それこそ経験を無意味なものとしてしまう行為であるように思えます
のなめってぴかぁ〜に似てるよね。レスの長さといい、内容の薄さといい。
議論マニアなんだろうか。
>>230 内容が薄いように感じるのは仕方がない
それは問いが定まってないからだよ
問題を見失った議論ほど内容のない議論はない
ここでのわたしの立場を一言で言うと「ピカは間違っている」という主張になる
ピカがほとんど無内容なことしか言ってないから、わたしの主張も同じくらい無内容なものとなる
なぜならば、ある言明とその言明の否定の言明は、共に同じ量の内容を持つからだ
わたしが過去に別の名でスレをたてた時も「ほとんど意味がないがほんの少しだけ意味がある主張をする」と言っている
わたしの言葉はそのほとんどが相対主義批判であり、「真理」を擁護している
主張を有意義にするのは「真理」の存在だ
ところが、わたしは、有意義な議論の前提である「真理はある」という主張をしており(それを真理のもとに議論にかけようとしている)
これが一見、不毛な韜晦術に見えるのもいたしかたないことだろう
>>230 そうそう、ある理論がどれほどの内容があるのかについては
その理論が否定している言明の量がその理論の内容の量と考えて差し支えありません
わたしが一見内容がないように見えて実は内容があり
ピカが無内容な戯言を垂れ流しているだけということがわかると思います
>のなめさん。
>事実に関与することができない価値は価値として無意味であると考えているということです
>具体的な状況を無視してなされる価値批判は無内容です
>同じく、具体的な状況を無視して提出される価値も無内容です /
>>203 について
>>226 >まず第一に、わたしは「無内容」と「無意味」とを峻別しているという前置きをさせてください
>わたしは哲学的議論、哲学的思索のすべてが無内容だとは思いません
>しかし幾人かの哲学者に対しては無内容な言葉を並べ立てていると考えています
純粋な好奇心でお聞きしますが、無内容な言葉を並べ立てる哲学者とは誰ですか?
私の頭の中ではヘーゲルにあたるのかなとか、ちらりと思ったりしたのですが。
まあいいやこれは、忘れてくださいw。
(つづき)
どうやら私は、あなたの言う無内容の意味を把握していなかったようですね。どうやら無内容
とは、つまり中身がないという意味のようですね。言い換えれば空論とも言えるでしょう。そうで
すね? それであれば私は同意したいと思います。議論において、具体的であることはやは
り重要だと言うことです。
しかし
>わたし個人は論争に参加できない思想は無内容だと考えております
とまでは思いません。論争に参加できるできないで『無内容』が定立されるとは思いません。
これはつまり以下のあなたの立場と対立するものと考えてもらっても結構です。
>これはわたしが「盲目的に信仰に値する価値というものはない」という一つの立場
>(事実としては不確かな言明です)に立っているということです
つまり盲目的に信仰に価する価値というものが確かにあると言うことです。 これは生
の形式を把握する際に、もちろん見受けられるものと考えますし(つまり生得的なもの
と言うことです)、また議論においても見受けられるものと考えます。つまり私はこう主張
します。盲目的に信仰に対する価値はあると言うことです。それは議論においてもです。
これについてはまたの機会にあなたと論戦したいですね。(まあ機会があればの話ですが)
ちなみに申し上げますと、私はこれは具体例の提示によって私は、論破は可能と考えてい
ます。いかがでしょう?
(つづき) 『思索を深めるために議論があるわけでもない』
>わたしは哲学的議論は意味があるものと考えますが、哲学議論が思想の譲渡とは考えません
>なぜなら議論をすることで我々は思索をより深めることができるからです
私は議論を、思索を深めるための道具のように扱うことはしません。
思索を深めること自体は、それは個人的作業以上のものを超えることはありえない
と考えます。ですから、必然的に、他者が多数参加する議論にはあなたの論はあ
てはまりにくいものと考えます。
しかしあなたがわざわざ“我々”と指示しているようなので、“我々”について考えて
みますが、相対(あいたい)する議論(あなたの賛同する論戦)において我々が思索
を深めるためには、お互いの意志を確認する必要がありそうです。つまりそれは思想
の譲渡が完了しなければ、その思索を我々が深め合うことは不可能ではないかと言う
ことです。少なくとも互いが互いを無理解であるか、また同意できない状態で、思索を
深め合うことは、不可能だと考えます。つまり思想の譲渡は議論の発展においては、も
はや前提(絶対)でなくてはいけないと考えます。
(つづき) 『思索を深める条件』
私は
1:思想の譲渡による、共通理解を得ること。
2:またその理解から思索を深める作業への了承を得ること
1については相手の思想に対する、同意を得ることの意の解釈で結構です。2について
議論が合目的であることを確認するための同意です。
私はこの2つを満たさずに、互いが思索を深めることなどできない。そのような定律を
議論の参加者は、まず把握すべしと考えます。私はこの定律を乱す議論はいわゆる
正常な議論に価しないと考えます。ちなみに私はこのような議論の定律を設定するこ
とは充分倫理に乗っ取るものと考えます。そして、定律以外の行為は倫理的ではな
いと判断したいと思います。つまり横暴な議論、もしくは議論の倫理的な部分を逸脱
したものと判断します。
(つづき) 『議論の定義とは』
ちょっとここで、議論についてさらに言及したいと思います。
なぜなら
>>228で
>常に「全面的に同意」「激しく同意」しか言わなければ、それは議論とは言えないでしょう
>議論には異なる2つの意見の存在が必要不可欠であると思われます
>それは全面的に同意しながらも、どこか異なるところが必ず一つはある
>そうでないものを「議論」と呼ぶならば
>ありとあらゆるもの、言葉を発するすべてが「議論」と呼べてしまいます
>(この点ではじゆんさんも同意してくれることでしょう)
私はこのようなものを端的には議論とは呼びません。二つの意見があれば議論と
呼べるかというと、私は違うと断言します。私は議論にはもちろん二つ以上の意見
者が必要とは考えますが、これは議論の必要条件に過ぎないのであって、十分条
件とは言えないからです。私が議論と会話をわけ隔てる唯一のものが、第三者の
存在、つまり観客、もしくは判定者、監督者の存在というわけです。つまり私はこう
言っていることになります。第三者のいない密室で行われたものは議論とは認めな
いと。私は、第三者の存在を議論の必要充分条件だと見なしているということです。
ですから第三者の存在さえあるならば、それが同意のみの議論であっても、議論と
呼べてしまう。そのように解釈するわけです。ですから、
>(この点ではじゆんさんも同意してくれることでしょう)
にはあいにく同意できません。あしからず。。。
(つづき) 『同意の役割について』
私は必要条件からの議論の普遍性を求めるような定義を行うことはある意味で恣
意的だと考えます。私は議論に対しては普遍性の解釈によって、第三者の存在を
確認しましたが、あなたの論法では議論の一部である『同意』概念によって議論の
普遍性を獲得しようとしました。その点をおいて恣意的であることを判断させて頂い
たことをあらかじめご了承下さい。
>では同意は議論によって生産的になりうるか、ということに関して
>同意とは議論を生産的にすることではなく、「議論の議題を絞りこむために行う作業である」という主張をしたいと思います
>我々は同意をすることで「その箇所はわたしがあなたと議論したいところではありませんよ」という主張をしているのです
>それは議論そのものに対しては生産的意見とはなりえないが、議論を機能させる潤滑油とはなりえる
私はこのような言明も賛同できません。なぜなら『同意』概念は潤滑油ではないと
考えているからです。『同意』はつまり賛同の意だと言うことでしょう。
つまり「あなた」の言明を支持するという、正式な言明であると言うことになります。
このような儀礼的行為は、議題を絞り込むこととは直結しないと、まず私は考えます。
私個人の考えを言わせて頂ければ、私は同意を得ることによってさらなる同意を求
めることを追求します。それが議論において発展を生むものと考えるのです。そして
その同意は両者の意見の交わった“原点”としての役割を持ちます。そして、その原
点は何度でも同意したい事柄として認識されるはずです。私は、そのような経緯を経
て、さらなる同意を得るために議論を続行する意志を育めるものと考えています。私
は同意は潤滑油以上の役割を見出します。つまり原動力としての『同意』の力を認識
します。そして生産的であることと倫理とするのならば、私は反論より、同意の力を強く
認識すべしと考えます。
(つづき) 『議論は論戦ではない、1』
>しかし、議論には必ず両立しない二つの言明が必要なのではないでしょうか?
そんなことはないでしょう。議論に排中律の前提を求める必要は必ずしもないものと、
私は考えます。共同体原則を確認し合うための議論もあるでしょうし、同意のみの議
論も存在すると考えます。
私はあなたと議論の捉え方の違いを認識し合う必要があると考えました。
つまり議論そのものの捉え方が違うと言うことです。ちなみにこれは確認です。
ちなみにこれは、同意を得る行為となるでしょうか? 問題の幅を確かに狭めているよ
うに思えますが。
>わたしは議論を論戦と捉えております
私は議論とは“剣の演舞”と捉えています。なぜなら議論において誰も傷付くことがない
からです。もしその人が、傷つくとしたらそれは論理の不完全性ではなく、議論の技術
の不完全性です。我々が議論に不満を抱くのは往々にして、それを語る術がないから
ではないでしょうか? 私は議論に対しては技術を磨くことが肝要であるべしと考えます。
我々は議論の技術によって、議論における優劣を定めていることもしばしばではないで
しょう。
つまり議論の優劣は、決して真理度“だけ”ではないと言うことです。真理度に対する批
判的価値に対しては、あなたの同意の確認を得て、(つまり問題を狭めているはずです
ので) この場面においても同意して頂けるものと考えていますが、いかがでしょう?
また私は、端的にその真理度を探求することを回避したのが形而上学の議論であると、
今、認識したのですが、いかがでしょう?
(つづき) 『議論は論戦ではない、2』
つまりこれは、『我々は議論においてどのように勝敗を決するのか?』を考えることによ
って判断は自明のものとなるでしょう。つまり“議論”は論戦でないと考えるのが筋なの
です。
この点を追求すれば、“論戦”と捉えるいわれはないものと考えるのです。我々は演舞
(議論)によって、思索(舞)を深め合うことは可能であると考えますし、また協力体制を作
ることも、可能であると考えます。そのように考えた場合、議論は倫理自体を天秤に掛け
るよりも、もっと奥深まって、議論を儀式化することも可能であると考えるし、その状態を
維持することが(つまり演者としての自覚を持つことが) 議論の質を上げることは必然
だとも考えています。それはつまり狂言や歌舞伎のように、行動の所作に法則を持たせ
るようなことと捉えてくださっても結構です。
そして、今のところそれを哲学板においてまさに体現しているのは、THE グル氏と言え
ます。(ご存じでしょうか?) まあ、あなたが彼をお気に召すかちょっと定かではありませんけど。
ちなみに、私は氏を最高の議論の発言者、演者(エンターテナー)だと考えています。もちろん
私自身にもいくらかその自負はあるつもりです。またのなめさんにも、その自覚はあるので
はないでしょうか?
また議論を思索を深め合うためにあるとする、あなたの意見のかわりに、私も相対する議論
の『目的なるもの』を定義したいと思います。
一応言っておきますが、議論が演舞であるからと言ってそれが“真剣さ”を失うもの、倫理的
基盤を破棄するものではないものと考えています。議論に面白さではなく、確実さを求める
ことは必要なことであるし、また経験や信念も、必要と考えるのが肝要と言うべきでしょうから。
(つづき) 『議論の目的とは』
議論は精神的な萌芽を体験するためにあるのではないでしょうか? 私は議論をする
ときいかに自分が気持ちよくなれるかを、追求します。また相手に、いかに気持ちよくな
れるかを模索します。もしかするとこのような言明はあなたを不快にさせる恐れがありま
すが、あえて申し上げておきます。
どうやら最初にある“職業倫理”からは大きく枠をはみ出した感がありますね。その点をま
ず謝罪したいと思います。しかしいま私がしているように、またあなたもしているように、議
論そのものの普遍性を発見する行為はとても実りある作業だと私は考えています。おそら
くあなたもそのように考えているものと思います。
もし可能であれば、議論の普遍性部分を検出する作業を行ってみたいと思いますが、
いかがでしょうか? まあつまり今やっていることと変わりない、互いの議論の定義を否定
しあい、また自論を止揚させる、もしくは自論をそのまま展開させる行為のことを継続した
いのです。私自身はあなたの主張をそのまま下敷きにさせて頂いております。つまり、『議
論そのもの』を見つめる議論を、今後も続行したいという意志の現れだとご理解下さい。
またあなたの科学におけるプラグマティズム批判と、真理概念における経験批判の私の
批判は次の機会にさせて下さい。もしくは忘れてもらっても構いません。まあ非常に興味
のある考察対象ではありますが。とりあえず次の機会にさせて頂きます。今回は『議論』の
みを視野に入れての発言でした。よろしくお願いします。
(つづき)
とりあえず最後に申し上げておきます。私に対する論理展開の不満などがあれば申し上
げてください。あいにく私はあなたの栄光ある知見に対する共感という同意を差し上げる
ことはできませんが、それ以外の部分においては、努力したいとは考えているのです。
文を短くしろと言うのなら、それも引き受けようかなとは思いますが。
しかしそろそろ私もこの議論が拡散したような気がしますね。そろそろ整理した方がいい
のかも知れません。おそらく私の論点をその整理する際にはその基準を独我論の立場を
坐すのがよいのでしょうね。(いや、独り言です)
ちょっと今回のは、横暴すぎる論理も散見しますが、ご愛顧頂けると助かります。
また、今度は『同意』『反論』『批判』『議論の場』の原則一般なんかを一考してみたいと考え
ています。まあ今度こそは、ゆっくりやらせて頂きますがw。
>>230 うーん、、、
内容が薄まると感じるのは、しょうがないのでは?
ポールさんやばかぁ〜さんや私などを連続して相手にしてきたんだよ。
ちょっとだけレス。
>>232 >その理論が否定している言明の量がその理論の内容の量と考えて差し支えありません
これには私も賛同したいと思いますね。
それでは。
>ばかぁ〜さん
>ポールさんとのなめさんの間で議論されている、主観主義と客観主義とか、哲学の大前提は何かとか、
>そういうことはあまり重要なこととは思えないんです。
>>202 僕は世界を語る語り方には二通りの仕方があると考えています。
「客観主義的な語り」と「主観主義的な語り」です。
それらは、「我々から独立した客観世界の存在」を前提とするか、
「私に与えられた経験世界の内で語る」ことを前提とするかの違いであって、
どちらの語り方も正しく世界を捉えていると僕は考えています。
例えば評判の悪い独我論は、我々の日常の思考の基盤である、客観主義的な語りの内では
間違っているが、主観的な語りにおいても誤っているとは決して言えません。
誤りだと言われるのは、我々の日常の実践に反するからという、ただそれだけの理由です。
我々の日常の生活においては、客観主義的な語りを用いる方が合理的で実践的である場合が多いので、
主観主義的な語りは排除されますが、それは単に実践的な要請でしかありえず、どちらが客観的に真である
とはいえないというのが僕の主張です。
ハイデガーの現存在分析も、従来では見過ごされてきた主観的な語りにおいて、人間を見事に
分析したゆえにあれだけのインパクトがあったのだと思います。
哲学議論において両者の主張がすれ違う大きな原因の一つが、自らの語り方のみを正しいと考える
偏った思考法や、二つの語りを混同している場合です。
「思想」ではなく「哲学」の基盤で議論するなら──なぜなら「思想」は、客観主義的な語りのみが真であると
いう日常の思考を問答無用で前提としているから──、客観主義的に語りと主観主義的な語りの違いを明白に
可視化しておくことは重要であると考えています。
その一方で、この二つの語りは、従来の二元論的思考をベースとしています。
二元論を否定すべきならば、これを超える新たな語り口を見出さねばならないとも考えています。
>じゆんさん
ちょっと長いので何日かに分けてレスを返します
>>233 >純粋な好奇心でお聞きしますが、無内容な言葉を並べ立てる哲学者とは誰ですか?
>私の頭の中ではヘーゲルにあたるのかなとか、ちらりと思ったりしたのですが。
ええ、わたしはヘーゲルが大嫌いです、ヘーゲルの文章は中身がない言葉遊びと感じます
そして弁証法的表現が大嫌いです
>>234 >どうやら私は、あなたの言う無内容の意味を把握していなかったようですね。どうやら無内容
>とは、つまり中身がないという意味のようですね。言い換えれば空論とも言えるでしょう。そうで
>すね? それであれば私は同意したいと思います。議論において、具体的であることはやは
>り重要だと言うことです。
ええ、そうですね、具体的というか身近というか、我々の手元に提出できるということです
科学で言えば「経験」と言えるでしょう
これは経験にまったく関与しないで世界について語る理論はその理論が問題としている点に対して何の解決も与えていない、と言えると思います
具体的にはこの板でわたしが機械君と議論した「決定論VS非決定論」に使用したのも同じ手法です
わたしは、決定論を批判するために決定論が具体的に提出できる範囲に関して何も関与できないことを示そうとしました
その批判を受けて、機械君は、「わたしからの批判は決定論への批判ではなく予測の限界の導入で決定論を論理的に救うことができる」という回避を示したわけですが
彼は論理的には救いながらも、その行為によって決定論が現実世界に関与できる関係を断ち切ってしまったのです
まさしく、決定論を我々が議論し考察できる次元から、神が居座る触れることができない次元に持っていってしまったのです
何らかの理論を論理から救うことはきわめて簡単です
また、「いかなる理論も論理的には救われねばならない」とわたしは考えます
矛盾を突きつけられた時どのように回避するか、が、理論の良し悪し、我々が理論選択時にどちらを選択するかの道徳的判断の目安になるのです
それが自らの理論を空論となる方向に回避するか、それとも、より具体的な矛盾の渦の方向に回避しながらも矛盾しない状況をつくるか
わたしは後者を選択しますし、それが「合理的」と呼べると主張します
なぜならば、理論が空論となりながらも保持する行為はその理論に対する盲信としか思えないからです
>>234 >つまり盲目的に信仰に価する価値というものが確かにあると言うことです。 これは生
>の形式を把握する際に、もちろん見受けられるものと考えますし(つまり生得的なもの
>と言うことです)、また議論においても見受けられるものと考えます。つまり私はこう主張
>します。盲目的に信仰に対する価値はあると言うことです。それは議論においてもです。
この種の論法(あなたの論法)は相対主義批判にも度々使用されてきたものです
「真理はない」という主張は「それ自体真理である」という主張を含む
それゆえ、どこかに真理がある可能性が存在する
わたしが尊敬する井上先生も同じ論法を使用していたと思います
しかし、このような言い回しは、個人が真理を探究することの意味を説くことはできても
その探求そのものの合理性を説くことはできないように思えます
「仮にあったとしても私はそんなものを求めない、そんなものを求めるのは非合理的で非哲学的な行為だ」と言われたら、相対主義者に対して返す言葉を失います
ポパーもまた「合理主義そのものは合理的に正当化し得ない、非合理的な理性信仰からなる」と書いています
わたしはこの問題を乗り越えたいと考えました
つまり非合理主義に対していかに合理主義の合理性を説くか
そこで参考になったのが、ポパーの「権威主義的問いの追放」の部分です
さらにポパーは相対主義批判で「真理」と「確実さ」の峻別も行っております
わたしは、ポパーの言う「確実さ」こそが権威主義的問いの源泉であると考えました
そのため、わたしはここで1「確実さの追求」の非合理性を主張し、
2「真理の探求」が「確実さの追求」より合理的であるという主張をすることで
合理主義そのものの合理性を説明できないかと考えました
以下は引用予定
1については、『開かれた社会・・・』の下巻が見つからないのでうろおぼえで
ポパーは「誰が国を治めるべきか」という問いを権威主義的で考察するに値しない問いとしました
この問いに対して「国民が治めるべきである」という回答を与えても、その問いの権威主義は変わらない、と書いてます
この下の部分はわたしに大きい影響を与えた箇所です
「誰か国を治めるにふさわしい為政者が存在する」という概念こそ、権威主義的な形式であるわけです
私自身の意思ですら、また、同意ですら、私を行動せしめるには不十分なのです
そして「誰が為政者となっても悪い政治を回避するにはどうすればいいか」という問いを建てていたと思います
民主主義を為政者の選抜と正当化を考える限り、民主主義の理念は崩壊します
これはハーバーマスの批判がそのような正当化主義的民主主義に通用すること(多数決の原理への同意が全会一致で必要)と
ガダマーによるハーバーマスへの批判、「無政府主義ユートピアに行き着くもの」ということが端的に示していると思われます
無政府主義ユートピアはそれ自体最高権力です、しかし空論でありまったくもって無内容です
これは政治体制についてですが、理論についても同じであると思われます
理論は権威を求めるほど空論となってしまうのです
2「確実さ」と「真理」の峻別について
>相対主義は、知識人たちが犯した数多くの犯罪の一つです。
>それは理性に対する、そして人間性に対する裏切りです。
>ある種の哲学者たちは真理にかんする相対主義を説いてしますが、
>それは、思うに、真理と確実性の観念を混同しているからなのです。
・・・
>真理とは何かしら客観的なものであるが、確実性は何かしら主観的なものであることを理解されてるでしょう。
>それは次のようなかたちで定式化できる
>不確かな真理ーそれどころか、われわれが偽と見誤っている真なる命題ーすら存在するが、不確かな確実性といったものは存在しない
『よりよき世界を求めて』より
わたしは、ここで「誰も確実な言明を提出できない」という理由で
「どこかに確実なる言明がある」「確実さを求めるべきである」と言った意見を「非合理的」と言おうと思います
そしてまた、確実な言明が何もないからこそ、「真理は存在する」と言おうと思います
「真理」とは名ばかりで我々が知的謙虚さを持つために設定するものですから
誰か真理より優位で信仰に値する何かを提出できない限り、「真理の設定と真理の探究は合理的である」と言えると思います
それと、わたしが「確実な言明は存在しない」と言った理由を、
「どこかに確実な言明は存在する」という立場は、理論が不確実であるということでその理論を棄却できる立場です
しかし、どこにも確実なる言明は存在しません
これは政治で言えば、「どこかにユートピア(哲人のような為政者)がある」という立場に立ち、「それはユートピアではない(彼は哲人のような為政者ではない)」と言って政策を棄却するようなものです
そのような意見は政策について何一つ語っていません(政策の悪い箇所すら指摘できていない)
(ハーバーマスのロールズ批判などはその典型でしょうね、ハーバーマスのあの言葉を非生産的と感じたのは私だけではないはずです)
わたしは議論においてこのような最高権威から発言する意見を−それが主張であろうと批判であろうと−「非合理的」と言おうと思います
(理由は、彼が最高権威に関して具体的に提出できないから、ですね)
なんか本論でないところで長々と書いてしまいました
本論については後日レスを返します
もう少し短くまとめるよう努力するつもりです
(いくら何でも長すぎだ・・・・)
端的な批判と必要箇所(問題としたい個所)において論証を中心に展開したいです
再び参加。のなめさん、ポールさん、じゆんさんへ(誤解があるようなので)。
弁証法についてです。弁証法は「中身がない言葉遊び」とは、のなめさんに限らず世間ではよく言われ
ることですが、単に間違っています。弁証法はわれわれが(勿論のなめさんもポールさんも)日常で普通
に使っている思考の跡を丹念に追っただけのものなのです。
例)「本を読んで楽しむ」(抽象的、もしくは悟性的側面)→否定→「語意、文法を学ぶのに苦労する」
(弁証法的、もしくは否定的理性的側面)→否定の否定→「本を読んで楽しむ」(思弁的、もしくは肯定的
理性的側面)
最初も最後も現象としては変わらない。しかし「読書」の深度は深まっているということです。だから
なんなんだと言われそうですがw、まあそういうことです。
>みなさんへ
えー、何度かこのスレを最初から読み返したりしているのですが、何度読んでもこのスレ
は面白いです。一つ一つの意見を読むたびにいろいろな考えが浮かんで、議論に
奥行きが感じられるように思います。これは私の考えが定まっていないのかな。
まあおそらく、私は、たくさんの誤解をしているものと思います。ばか〜さんに指摘され
るように弁証法の意味を狭義に捉えている可能性もあるかも知れません。しかし、私は
ばか〜さんの言っている意味が、ほとんど理解することができました。と言うことは、私
は理解できていないというわけでもないと言うことになります。なぜなら発言が理解でき
ないことこそ、こと理解できていない証拠だからです。私も『弁証法』と述べる際にはある
程度の弁証法の意味を自ら検討します。その私の述べた弁証法の意味にばか〜さん
の言うような『思考の論理化』のことも当然含まれていたと思うのです。
いやちょっと脱線しました。ようは私は、議論には誤解ありきなんだと言うことを言いたい
だけなのです。無理解は単に議論を不能にしますが、誤解であれば、議論をかなり有
効にするものと私は考えています。おそらく誤解には論点の先取り、論点の恣意的な変
更などいろいろな意味が含まれたりするでしょうが、議論する分においては、誤解は、な
かなか複雑で、巧妙な作用を議論に促すものと私は考えているのです。おおげさに言
えば誤解は議論を活性化します。そして私は誤解からなる言明こそが有為であるとさえ
考えています。
(つづき)
つまり、誤解は悪いことではないと言うことです。少なくとも議論においては、完全なる
善の意志の固まりだと言えるでしょう。そして誤解あっての議論だということ。私は議論
の意見の対立は誤解からしか、生じないものと考えます。その誤解の呪縛をを紐解い
てしまえば、議論なんてこの世から消滅してしまうように思われるのです。
そういったことを踏まえてちょっと、あえてふざけた物言いをしますが誤解することは、
つまり議論において無理解の主張に立つことは、『哲学者の職業倫理的』には正当
である、「〜してよい」と言えると思うのです。しかし議論を有効なものにするためには、
無理解であってはならないと言うことになります。これは発言者の一方にのみ言及さ
れるものではなくて双方の共通理解であるべきだと私は考えます。
つまりこれは相手の主張を理解せねばならない。つまり主張を理解した上での発言を
しなければならない。そこにおいて発言は自由でありうるし、また有為なるものと考える
ことができる。それは議論の発展を意味する。そのように考えたいと私は思いますね。
私はただ展開されるだけの無意味に感じられる議論と、私の言う発展する議論にはそ
のような理解の差があるように思われます。まあこれは単に私の主観ですけどね。
(つづき)
そして、ばか〜さんが指摘したように意味を問い直す姿勢もべつに否定しているつもり
ではないということ。そこに議論が深まった感触もえることができるからです。でも、まあ
ばか〜さんに言っておきますと、たぶん私もあなたを誤解しているのかも知れないけれ
ど、あえてみんな、誤解しているのだと、言うことを理解して頂けると助かります。私は哲
学用語自体はそれほど難しいものとは思っていないですから。ただ自分にとっては『語
る』に難しいだけなのです。
また私は、のなめ氏とポール氏の議論もそういった“あえて”で括弧した『誤解』の上から
成り立っているものと考えています。ですからどちらの意見も見ていて非常に面白い。つ
まりどちらの意見も確実であり、真理に基づいていると考えられるからです。
そのようなことを、またこのスレに参加して理解することができました。私の
>>188への横レ
スは二人の議論を理解したいと言う意味であると思ってもらって構いません。そしてこの
議論に参加し、議論の内部にて発言し、このように議論に参加できたことを、たいへん嬉
しく思います。議論の内と外では全然、見える世界が違ってくるから。そこまでの感触を
参加する前までには味わえなかったので。とくにそれは思います。
相手に読んでもらえることを前提に、自論を作成することは、とても緊張感があったりして
面白い。また他人の論の内部に入れる心地よさが議論に参加すると得られたりするじゃ
ないですか。うーん、面白い面白いばっかり言って申し訳ありません。自分、さっきから本
当に何を言ってるのかわかりませんね。ようはつまり議論は参加した方が面白いってこと
です。そゆことです。よろしくお願いします。
255 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/27 13:32
ちょっと今回は、議論の本旨とは直接関係ないことを語りましたが、それほどのスレ違い
ではないと思いますので述べさせて頂くことにしました。(まあその判断は私の勝手な判
断なのですが)またみなさんの意見に対する批判は、おいおいできたらと思います。
それじゃ。
(ちょっとスレ下がり気味なんでageちゃいますね)
256 :
考える名無しさん:04/04/27 13:34
学校の先生も2ちゃん見てるのだろうか・・・・
257 :
考える名無しさん:04/04/27 13:39
・・・・と思ったら、教育・先生板というのがあるんだなぁ
生徒も先生もご苦労様です。
>のなめさん
最近忙しく、レスが返せず申し訳ありません。
(
>>228等の)のなめさんの議論主義には共感、かつ敬意を表しています。
僕はネットでしか哲学議論をしたことがないので自分の客観的位置が全くわかりません。
専門家から見ればおそらく、初歩的な論点について繰り返しているにすぎないのだろうと
怖れています。にもかかわらず、僕の初心者意見を真摯に受け止めてくれます。
2年程前読んだ、永井均さんの『子供のための哲学』に、
「哲学の議論は、思想を持つ者同士の討論とは逆に、自分では気づかない
自説の難点や弱点を相手に指摘してもらうこと”だけ”を目指して行われる」
と書かれていました。そしてそのすぐ後に、
「僕の経験した範囲では、大森荘蔵さんが完璧に哲学的であると感じた」
と書かれ、そこで初めて大森荘蔵という名前を知りました。
僕にとって「哲学議論」とはこのようなものだと今でも思い込んでいます。
(そのためには、自分が間違っている時、相手の意見を受け入れる謙虚さが
必要です。そして僕にはこの謙虚さが足りないと常々反省しています)
だからこそのなめさんのような「自分の主張に激しく突っ込んでくれる」人こそ、
僕にとって最も必要な議論相手だと考えています。
僕ものなめさんの議論主義に賛同するからこそ、失礼を怖れずこれからも、
のなめさんとの異見に激しく突っ込んでいきたいと思います。
こんばんは。これからは僕は「茶々入れ」の役をあえてしようと思います。でも、あくまで
真面目な茶々入れのつもりです。「・・・と言っているが、それは結局、・・・の考えを
丸写ししただけじゃないか」とか「文章が長すぎる、端的に・・・と書けば十分でしょ」とか。
こういうのは主に名無しさんがやっていますが、たまにはコテがやってもよいと思います。
僕は議論の内部と外部を軽薄に行き来したいと思ってます、と宣言してからやるのは意味が
あると思うので。まあ、とげとげしくもならず、馴れ合いにもならず、いい議論をしましょう。
>>254じゆんさんへ
>また私は、のなめ氏とポール氏の議論もそういった“あえて”で括弧した『誤解』の上から
>成り立っているものと考えています。ですからどちらの意見も見ていて非常に面白い。つ
>まりどちらの意見も確実であり、真理に基づいていると考えられるからです。
というときの「真理」の意味が不明です。形式論理学(悟性)はわれわれに認識の整合性を与えるが、
真理は与えない。むしろ真理をカッコに入れたときに立ち現われるのが悟性。概念・判断・推理な
どの諸形態の間の必然的連関は度外視される。僕は悟性の領域は哲学から科学へとまるごと無償譲
渡してもよいと考える。つまりこのスレで提案、そして少なからず受け入れられている?「議論の
ルール」は哲学の議論(真理を扱うがゆえに精確さを欠くが厳密)ではなく科学の議論(真理を扱わ
ないがゆえに厳密でないが精確)についてではないだろうか。それならそれでいいが、その場合
「議論一般について考える」という定義は破棄されるべき。
失礼、遅くなりました
>じゆんさん
>>235 ・『思索を深めるために議論があるわけでもない』
>私は議論を、思索を深めるための道具のように扱うことはしません。
>思索を深めること自体は、それは個人的作業以上のものを超えることはありえない
>と考えます。ですから、必然的に、他者が多数参加する議論にはあなたの論はあ
>てはまりにくいものと考えます。
議論によって個人の思索以外の何に影響を与えることができるでしょうか?
直接的には(個人の思索にすら)何一つ影響を与えることはできないと思われます
なぜならば、議論はあくまでも言葉の世界の構築物に過ぎないからです
人間は魔術師じゃありませんので、言葉で物を動かすことはできません
しかし、間接的には個人の思索に影響を与えることができると思われます
例えば、矛盾が見つかったならば、両立不可能な言明のうちのどちらか一つ以上を捨てねばなりません
そして個人の思索もまた、世界に対して直接的な影響は何一つ与えないでしょうが、間接的に物に対して影響を与えることはできるわけです
>相対(あいたい)する議論(あなたの賛同する論戦)において我々が思索
>を深めるためには、お互いの意志を確認する必要がありそうです。つまりそれは思想
>の譲渡が完了しなければ、その思索を我々が深め合うことは不可能ではないかと言う
>ことです。
わたしは、この意見に反対です
なぜならば、議論をすることで我々は相手の意見を議論する前よりもっと理解できるからです
「思索の譲渡なくして議論は不可能」という意見は
「相手の理論を理解しないで議論はできない」と言うようなものです
しかし、「議論をすることで相手を理解することができる」ならば
我々はとりあえず大きな誤解をもったままでも議論を先行させることができます
(わたしはここで議論の先行性を主張しています)
>少なくとも互いが互いを無理解であるか、また同意できない状態で、思索を
>深め合うことは、不可能だと考えます。つまり思想の譲渡は議論の発展においては、も
>はや前提(絶対)でなくてはいけないと考えます。
「無理解」や「同意できない状態」とはどのようなものでしょうか?
それは理解しようとしない傲慢さや自らが勝手につくったフレームワークの壁ではないでしょうか?
仮に「無理解」や「同意できない状態」では議論不可能であったとしても
わたしは、そのような「同意できない」状態は理論に沿って発生するものではなく、個人の心理的なものに沿って発生するものであると主張します
「全ての理論は、−理論上−、議論可能である。(何らかの問題に対して競合する理論群があるならば、その理論間においては議論不可能となるような側面は理論には無い)」
これがわたしが行う主張です
議論を不可能にするのは議論に参加する者の態度と現実的な障害(死亡、多忙、言語障害etc)です
>>236 >(つづき) 『思索を深める条件』
わたしは、議論を深める条件に「同意」や「思想の譲渡」は必要ないと主張します
思索を深めるのは、それが思索を深めねば乗り越えられないような理論的困難です
「無から有をつくることはできない」というポパーの意見と同様、わたしも思想は何もないところから生み出すことはできないと主張します
すでにして、何らかの理論を保持しており、その理論と両立不可能な言明が指摘されれば指摘されるほど、理論は思索を深めやすくなるでしょう
例えば、光の性質について、粒子か波かという論争が科学ではありましたが
この問題は光が進むのに媒体となる物質の存在の有無に問題が移り、その結果、光の速度や光速不変の一例(マイケルソンとハーレーの実験)などの多くの知識が獲得されました
これらの論争を通じて、科学は多くの科学的知識、大きな転換を迎えたわけです
ですから、議論において思索を深める条件において、わたしは相手の同意の有無は無関係であると考えます
思索を深めるのに必要なものは、何らかの理論とその理論と両立不可能なものという理論的条件であると主張します
もちろん、相手の意思がはっきりと了解できる状況なら議論は円滑に進むでしょう
しかし、相手の意思がまるで理解できないような状況でも思索を深めることは可能です
相手の言葉が−その発言者の意図とは無関係であるにせよ−自らの理論と両立不可能であれば、それは思索可能であり、思索を深める契機になるからです
(「両立不可能なもの」というように、わたしは「矛盾の拒否」を前提としています。それゆえ、わたしは論理は議論の前提条件となると考えております)
>>237 この点についてはわたしはあまり理解しないまま反論させていただきます
わたしがここを読んで思ったことは次の点です
密室で行われた会話が「議論であること」を共に参加者が同意しているなら、それは議論となるのでしょうか?それとも、ならないのでしょうか?
これはただパラドクスに陥るだけと思います
わたしは「議論」の定義が必要とは思いません
「定義」とは言葉上の問題であり、単語を説明する以上の役割を持たないからです
ですから問題に関連しないような「定義」は端的に言ってほとんど意味がありません
わたしはここで、「同意」のみで塗り固められた議論は「議論」とは言えない、という指摘をすることで、
議論にとって重要なものは異なる理論同士の差異、理論間の違いであることを指摘しようとしているわけです
以下は引用
『弁証法』より
>対話にとって無条件な賛成は無用であるばかりか、むしろ有害でさえある。
>というのは話がそこで終わってしまうからである。
>相手の発言に対して「ノー」(または「しかし」)と言ってこそ、そこに対話が産まれるのである。
>・・・
>ともかく「イエス」よりも「ノー」の方が、肯定よりも否定のほうが生産的だということに注意する必要がある
>(このことは弁証法にとっても重要なことである)
わたしは、論点なき議論、議題なき議論に関しては、まるでもって無意義であると考えます
(問題なき理論、「問い」なき理論もまた、無内容であると考えております)
それゆえ、そのような論点や議題を明確化するためにも、理論間の違いこそもっともはっきりとさせる必要のあるものと考えます
今日はこのへんで
>ばかぁ〜さん
>>251 わたしは、弁証法のすべてを否定はしませんよ
しかし、ヘーゲル哲学とヘーゲル哲学の亜流、そこから生じる弁証法的説明については否定的です
(わたしはヘーゲルについて何一つ理解していないと言えるでしょう)
わたしは、対話としての弁証法の意義は認めますが
三位一体のようにすべてを包括的に説明する弁証法がまるで無内容であると考えるのです
ヘーゲル哲学は「無内容」というよりは「実証主義」と揶揄されることの方が多いような気がします
これは変化を説明するにも関わらず、時間について何一つ思考されていないように思えるからです
わたしは非決定論者ですし、過去から現在までと、未来に関しては致命的な隔たりがあると考える者です
ですから「事実」(〜である)ということと「当為」(〜すべきである)とは明確に区別される必要があると考えます
ヘーゲル哲学は変化をすべて同じ時間軸に立って説明することで実証主義的で具体的には何も語れない空疎なものになってしまったのではないでしょうか?
これは、わたしが「弁証法」スレで引用した少年の質問とそれへのヘーゲルの回答が端的に示していると思います
>>267は急いで書き込んだためにかなりはしょってますね
ヘーゲルは「無内容」というよりは、「実証主義」、特に「法実証主義」と揶揄されることの方が多いように思えます
(少なくともわたしが読んだ本の中では)
その原因は、ヘーゲルが現在と未来の隔絶に無頓着であり、事実と当為を分離していないからではないか?、と勝手な推測から批判しているわけです
わたしはヘーゲルは『精神の現象学』の最初だけと『小論理学』(昔OFWさんにすすめられて)しか読んでいませんし
丁寧に読み込んではいないので勝手な誤解をしている可能性が高いですが、もし異なるのなら訂正をお願いします
269 :
ばかぁ〜 ◆vPfc5O9SRw :04/05/02 08:22
>>267 >ヘーゲル哲学は「無内容」というよりは「実証主義」と揶揄されることの方が多いような気がします
という世論が大勢なのかどうかはちょっとよくわからないのですが、
>「事実」(〜である)ということと「当為」(〜すべきである)とは明確に区別される必要がある
というのはよくわかります。何故なら僕も最近までカントの登場で哲学は基本的に終わった、あとはそ
の精緻化だけが問題だ、と思っていたからです。その考えが、ヘーゲルを実際に読んでみたら揺らいだ。
(
>>268ものなめさんのレスかな)きっかけはOFW氏のヘーゲル、マルクスについてのレスを読んだからで
す。僕はそれまで弁証法は言葉遊び、詭弁、事実と当為の無分別な取り込み法、だと思っていた(笠井潔
「テロルの現象学で批判されたようなものと捉えていた)。でもその批判は「弁証法のイメージ」に対し
ての批判ではあっても、ヘーゲルに対してはあたらないのではないかと思った。もちろん僕もまだ勉強中
なので、僕が下手な解説をするより、OFW氏の過去のレスや「小論理学」の緒論に書かれているカント論
を読んでいただけるとわかりやすいと思います。ただ、一つ理解していただきたいのは「力無き美は悟性
を憎む」(ヘーゲル)ならぬ「力なきばかぁ〜は悟性を憎む」というわけではないということです。「力無
き俺は悟性を笑う」と公言している方もいるようですが、僕ものなめさんと同様そういう態度には否定的
なのです。
すまん。あげちまった。失礼しました。
271 :
考える名無しさん:04/05/03 22:48
どんまぃ
遅くなりました、申し訳ない
>>238 >じゆんさん
>私個人の考えを言わせて頂ければ、私は同意を得ることによってさらなる同意を求
>めることを追求します。それが議論において発展を生むものと考えるのです。そして
>その同意は両者の意見の交わった“原点”としての役割を持ちます。そして、その原
>点は何度でも同意したい事柄として認識されるはずです。私は、そのような経緯を経
>て、さらなる同意を得るために議論を続行する意志を育めるものと考えています。私
>は同意は潤滑油以上の役割を見出します。つまり原動力としての『同意』の力を認識
>します。そして生産的であることと倫理とするのならば、私は反論より、同意の力を強く
>認識すべしと考えます。
なるほど、ならば、わたしはその意見に強く反対します
生産的な議論とは、いえ、議論における生産性とはただ両立不可能な関係の提示にのみあるからです
じゆんさんの言うとおり、現実の世界においては同意によって何か生産的なものを得られるのかもしれません
しかし、その生産的なものは議論とは異なるものです
なぜならば、ある理論に対して同意が得られても、理論そのものは何も得ないからです
しいて挙げるならば同意による権力を得ることができるということでしょうか
これは、批判的議論において使用される「同意」においても同じことが言えます
わたしは、議論において「同意」もしくは共有する同じ基盤は必要ないと強く主張します
続き
議論における同意とは、せいぜい議論に参加する者の心理に強い肯定を与えるくらいです
しかし、反対意見は異なります
なぜならば、ある二つの関係が両立不可能であるならば、それらは矛盾している関係ということになるからです
矛盾は、−論理を採用するならば−、二つの言明のどちらか片方か、もしくは両方を破棄しなければなりません
これは心理的な事柄ではなく、論理的な事柄です
論理がそうであるように(厳密には違うかもしれないが)、両立不可能な意見の提示は客観的領域に関するものです
したがって、反対意見の提出は、
その反対された理論か、反対意見自身か、あるいは両方かが破棄されるか、それらが両立可能なように改変される(説明される、説明が試みられる)かのどれかを選択しなければならないはずです
これは議論を強く進ませるものです
なぜならば、議論がそこで停滞することは客観的領域において矛盾を放置することであり、それは論理を採用する限り許されないことだからです(論理のルールに反する)
訂正
>その反対された理論か、反対意見自身か、あるいは両方かが破棄されるか、
↓
その反対された理論か、反対意見自身か、あるいは両方か、が破棄されるか、
>>239 >そんなことはないでしょう。議論に排中律の前提を求める必要は必ずしもないものと、
>私は考えます。
わたしも議論の前提においては排中律は必要ないと考えます
(もっとも、生産的な議論を行うには排中律が必要でしょうし、排中律そのものを議論にかけるならば直観主義論理を採用する理由はあまりにもありませんが)
わたしが議論に必要と考えているのは矛盾律¬(A∧¬A)すなわち矛盾の破棄です
>共同体原則を確認し合うための議論もあるでしょうし、同意のみの議
>論も存在すると考えます。
「共同体原則を確認しよう」と言ってはじまった議論は、それが同意のみで終了したならば「議論」とは呼べないでしょう
それは「共同体原則の確認」です
「議論をしよう」と開始して同意のみで終了したというならば、それを「議論」と呼んでもかまわないでしょうが、わざわざ呼ぶ理由を感じません
また、仮にそれが議論であっても、それは決して生産的ではありません
A「議論をしよう」
B「うん、しよう」
A「俺は〜だと思う」
B「俺も〜だと思う」
A「そうか」
B「そうだ」
A「じゃ、これで終了だ、有意義で生産的な議論だった」
議論に参加している者にとってどうかは分かりませんが、少なくとも端から見ている第三者にとっては生産的ではないものです
さらに追加して、このような暴言を吐くことにしましょう
・議論そのもの(議論を進めること、そしてそれによって生じる理論間の諸関係のみ)によって
終了してしまうような議論は生産的ではない
>つまり議論そのものの捉え方が違うと言うことです。ちなみにこれは確認です。
>ちなみにこれは、同意を得る行為となるでしょうか? 問題の幅を確かに狭めているよ
>うに思えますが。
わたしとじゆんさんの間の議論で問題となっているものは「議論とは何か」という言葉上の問題だけではないでしょう
「生産的議論とはどうあるべきか」という倫理的な問題をも含んでいると思われます
じゆんさんの行為を「同意」と呼ぶか「確認」と呼ぶかどうかは別にして(わたしは何と呼ぶかについてはあまり興味がないのです)
関連する異なる問題を提起する姿勢を感じました
>私は議論とは“剣の演舞”と捉えています。なぜなら議論において誰も傷付くことがない
>からです。
あなたの主張には次のようなものが含まれるはずです
「論戦は誰かを傷つけるが、剣の演舞は誰も傷つくことがない」
わたしには、論戦が誰かを傷つけるとは思えません(これはわたしが言葉の暴力に鈍感なだけかもしれませんが)
>もしその人が、傷つくとしたらそれは論理の不完全性ではなく、議論の技術
>の不完全性です。
わたしは議論によって誰かが傷つくことはないと考えていますが、論理が不完全でない理論などないと考えております
すべての理論は論理的には不完全なのです
もし、議論によって、論理的に完全だと思っている人間が傷つくのだとしたら、それは生産的だとわたしは思います
完全と思い込んでいたものが不完全だと分かったのです
それ進歩でしょう
(それが不完全だと分かるにはそれは不完全である必要がある、我々は不完全なものを完全と見誤ることはありますが、その逆はありません)
ですからそのような判明は後退ではありません、生産的な前進と考えてよいでしょう(もしくは「前進も後退もしていない」)
>>239 >我々が議論に不満を抱くのは往々にして、それを語る術がないから
>ではないでしょうか? 私は議論に対しては技術を磨くことが肝要であるべしと考えます。
>我々は議論の技術によって、議論における優劣を定めていることもしばしばではないで
>しょう。
ええ、そうです
議論が終了してしまう一番の理由は反論できる具体的事例が尽きることです
しかし、具体的事例が出せれば逆転する可能性はあります
ですから具体的事例が全く出せないからといって、そのような理論の核を破棄する必要はありません
しかし、具体的事例が出せない理論を選ぶ理由についてもわたしは何も知りません
わたしが何かを選ばねばならないのだというのならば、わたしは具体的事例の多い方を選びます
>つまり議論の優劣は、決して真理度“だけ”ではないと言うことです。
真理度以外で議論に優劣をつける人はいるでしょう
ただ、その意見が出る理由とこの後の文章が理解できません
>真理度に対する批判的価値に対しては、あなたの同意の確認を得て、(つまり問題を狭めているはずです
>ので) この場面においても同意して頂けるものと考えていますが、いかがでしょう?
わたしは真理度というものには批判的です
理論の優劣は道徳的にしかはかることができないと考えるからです
正直、じゆんさんが、真理についてどのように考えており、何を真理度と呼んでいるのか、理解できておりません
補足
>>279は通常議論を行う時に議論に行き詰まることについて
相手が具体的事例を出さずに展開するならば、議論は永久に終わらない
我々は方法を選ばねばいつまでも議論を続けることができる
>また私は、端的にその真理度を探求することを回避したのが形而上学の議論であると、
>今、認識したのですが、いかがでしょう?
「真理度」というものは理論の優劣をはかる度合いであり、「形而上学」は理論の優劣ではなく純粋に完全な理論を探求するということでしょうか?
わたしは何が哲学だとか何が形而上学だとかいったことについて明確に知りません
もしかしたら「形而上学」とはそのような目的のものかもしれません
純粋に形而上学的な議論となるとそのようになるのかもしれませんが、だとしたらわたしは形而上学的議論に興味がないと言えるでしょう
今日はこの辺で
>ばか〜さん
>>269 数年ぶりに『小論理学』を読み返しました
本を読むということは常にすばらしいもので、昔とは違う解釈をしておりました
常に新たな地平を創造するという点で、読書はすばらしいものと思います
しかし、ヘーゲルに対してはわたしはなおも批判的です
カントに対する批判としては「客観性に対する思想の第二の態度〜第三の態度」あたりかと思われます
また、排中律に関する文章からはわたしが最も否定する絶対的相対主義者の態度を感じました
近々ヘーゲルに関しての批判をばかぁ〜さんに対して行いたいと思います
追記
ヘーゲルに関しては次の文章がヘーゲルらしいと思いました
>青年のあり方は抽象物のなかでのたうちまわるところにあるのに反して、
>人生経験のある人間はあれかこれかを避けて、具体的なものに付くのである。
ばかぁ〜さんは弁証法を「破棄可能性」と表現しましたが、わたしには他ならぬヘーゲル自身に破棄可能性があるとは思えません
ついでに、
名指しではないが、別のスレでわたしに対して批判をしていると思われるようなレスを発見しました(ピカではない名無し)
わたしがここで行っていることが他ならぬ彼のような者に対する批判であるとだけ書かせてください
>ポールさん
>>258 失礼、遅くなりました
いえいえ、こちらこそ、お付き合いお願いします
>>283 >近々ヘーゲルに関しての批判をばかぁ〜さんに対して行いたいと思います
お待ちしております。「絶対的相対主義者の態度」というのがよくわからないので、
そのへんの解説もいただけるとありがたいです。また、>ばかぁ〜さんは弁証法を
「破棄可能性」と表現しましたが、とありますが、僕は弁証法のことを「破棄可能性」
と表現したことはありません。では、お待ちしております。
こしあんさんて、のなめさん?複数固定持ちだとしたらかなりがっかり。
>のなめさん
遅くなりました。
(おそらく知っての通り)僕はこのスレの主旨にはあまり関心がなく、のなめさんとの
「客観主義−主観主義」の議論を望んでいます。ですから、またもやスレ違いになりますが、
性懲りもなく同じことを繰り返させてもらいます。のなめさんの御寛容を願います。
まず、のなめさんは現象学について誤解をしているようなので、そちらを先に訂正させてもらいます。
>わたしは、このような者は「主観は確実で、疑いようがない」という思考をしているためと考える
>>174 ここでいう「主観は確実」とは、「(私の主観に現れる)経験世界は確実」という意味だと思いますが、
経験世界は絶対的に確実であると現象学は言っているのではありません。そうではなく、
「(絶対的に正しいかどうかは断定できないが)正しい、確かだ、と我々が確信する最終的な根拠は経験世界しかありえない」
という意味で「経験世界こそが我々の最も根源的な根拠である」と述べます。
ある入門書では、「超越論的主観性とは信念システムである」と(確か)述べられていました。
あくまで「信念」「確信せざるを得ない」であり、「確実で疑いようがない」と積極的に肯定しているのではありません。
科学も、「実証」というまさにこの原理に従ってその信頼性が保たれています。
例えば万有引力の法則が正しいことを最終的に「確信」するのは、各自の経験世界のうちでの実験結果や
計算結果、そしてそれを他者の経験世界とのすり合わせるという経験世界内での手続きを経ることにより
それは正しいに違いないと我々は確信し、むしろ確信せざるをえません。
現実と全く接点のないような抽象理論でさえ、経験世界での論理性に頼って理論の正しさを確信するという意味で
経験世界をその基盤にもっています。
その上で、
>わたしは実在の設定を倫理的要請に頼っています
>実在の設定は謙虚な行為であり、独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188 に対して反論させてもらいます。
僕が現象学の、「全世界が開けてくる場としての超越論的主観性」に共感を覚えるのは、
僕の日常の世界観に非常に即しているからです。
世界の存在者をその様態で分類すれば、「物質−概念」「人間−動物」等様々な
分類の仕方があります。しかしこれは客観主義的な見方からみた世界の区分であり、
実際の僕の実感とは異なっています。
世界には無数の存在者がありますが、その中で唯一根本的に異なった在り方をしている
存在者は僕です。僕以外の全ての存在者は──他者も犬も数学理論も時間も──僕の世界に
現れる対象物として存在しています。しかし僕だけは、僕の世界のどこを探してもみつかりません。
もちろんここでは僕の身体も僕ではなく、他者の身体と同じく、僕の世界に現れる対象物にすぎず、
僕ではありません。「僕」とはもちろん、「世界が開かれてくる場」超越論的主観性です。
「現存在とは、世界が開けてくる場である」というハイデガーの人間の定義に、客観主義者であった以前の僕は非常な感銘を受けました。
客観主義的世界描写では、この実感を説明できません。
なぜなら、そこでは僕ものなめさんも全く同じ在り方をする存在者として一くくりにされて
しまうからです。
客観主義者から見れば、ポールものなめさんもばかぁ〜さんも人間という同じ在り方をする
存在者にまとめられますが、僕の実感をよく振り返ってみれば、僕だけが他の存在者とは
全く異なった在り方をしています。
その違いは何かと言えば、先ほど述べた「世界が現れてくる場(僕)−その場に現れる対象物」
という対立項で表現できます。
僕に与えられた世界は、僕という場に開かれた経験世界だけであり、その各自の経験世界を
お互いにすり合わせたとき共通する経験・知──誰が見てもコップに見える等──から、
各自の経験世界の外に共通する客観世界や客観知が存在するだろう、と便宜上推測したことから
客観主義が生じます。
客観主義とはこのように、各自十人十色の相貌で現れる主観的世界から構築されたものです。
その意味で、客観主義を含む全ての知は、主観的世界のうちから生じると考えることに論理上
間違いがあるとは思えないし、ましてや、「独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188」は全く的外れであり、
むしろその「自然主義的態度」を実践上の要請を根拠に信じることこそ、哲学徒としては誤った行為ではないでしょうか?
僕にはのなめさんの客観主義は、科学擁護のための理論、科学的方法論の基礎付けであると感じます。
もちろん科学のような客観主義的語りは必要であり、(その世界が客観世界だろうと、共同主観的世界であろうと)
一つの客観的な世界描写として正しい方法論ということはもちろん認めています。
その基礎付けも重要な仕事であると考えています。
しかし、ここが科学でなく、哲学の場であるならば、科学万能の現代の世界観から排除されがちな主観主義的語り
──これこそ哲学の重要な仕事だと僕は思っていますが──を否定するのなめさんに不満を覚えます。
繰り返せば、「世界は僕をも一点景として含む客観的世界である」とする客観主義的語りと共に、
「世界とは僕という場を起点に開けてきたものである」という語り方も同様に正しい世界描写だと思っています。
そして、「独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致する」のではないかと考えています。
もう一つ。
のなめさんは主観主義的語りを否定する根拠として、以下を挙げています。
>もし我々の主観しか存在しないのだとしたら、我々のもつ知識はすべて我々の内部において発生したと考えられる
>しかし、多くの科学理論をわたしが自ら考え出したと考えれるほどわたしの頭は賢くない
>1、本に書かれたことからも我々は知識を得ることができる(その著者が意図しなかったことさえも)
>2、数学者ピタゴラスがタイルに描かれた図形を見て新しい数学を発見したように
>我々の思考からも、我々は新しい知識を発見することができる
>>188 至極もっともな反論でありますが、逆にのなめさんに問いたいと思います。
「のなめさんは『全ての知が私の主観の内で生成されることは”できすぎ”だ』と言われますが、
『世界が数学で成り立っている、もしくは我々は数学的に世界を解釈できることが”できすぎ”だ』と
同様に考えないのですか? なぜ前者だけ『できすぎである』と可能性を排除するのに、後者では
その可能性を事実として受け入れるのですか? 単に実践上の要請以外の何物ではないのではないですか?
もし実践上の理由であるならば、それを客観的な知、真理(に近い)と考えることは許されるのですか?」
ある意味屁理屈を言っているのは僕も承知しています。
しかし僕が言いたいのは、独我論に限らず哲学的に世界を観察すれば、世界自体ができすぎに、不可思議に
成り立っているのであり、その不可思議さに客観的に正否を付けられるのか、ということを問いたいのです。
のなめさんは「客観的に正否をつける必要はない」と反論するでしょうが、今までの議論から読み取れば、
明らかに何らかの客観的真理を要請し、それを想定すること求めているのなめさんがこの言動を根拠に
僕の主張に反論するのは矛盾していると感じます。
客観知を要請しながら、それと具体的な知との照合の適否を拒否しているからです。
>>ポール
>>288-293はちと難しい。
>ある入門書では、「超越論的主観性とは信念システムである」と(確か)述べられていました。
具体的書名キボン
ポールさんへ
(僕は「イデーン」も「論理学研究」も読んでないです。すみませんがそれを前提に生意気なレス。)
「客観主義」とは「僕」と「僕の世界に現れる対象物」に関する知を固定、つまり主観と対象を
分離してしまい、のちにその一致を目指すもの、と言えると思います。デカルトから始まった近代
の知のあり方。しかし、ヘーゲル、ハイデガーはそれに執拗に抵抗し、近代によって捨象された
ギリシア哲学やロマン主義を持ち出してその問題構成自体を攪乱しようとする。主観−客観の分離、
そしてその再一致という問題は、「世界を産出しつつその産出されたものに従う」という存在の
襞性(つまりは世界内存在)を忘却した上での偽の(もしくは仮の)問題としてカッコに入れる(否定
するわけではない)。そうなると「語りうるもの」と「語りえないもの」の峻別は解除される。ここで、
大陸哲学に対する分析哲学、科学による批判、「言葉遊び」「文学化」「ジャーゴン化」などが出て
くるのですが、これは実は大した問題ではない。ハイデガーは世界内存在を考慮し、語ろうとする
「哲学」に「厳密性」、世界内存在を考慮せず対象知だけを語ろうとする「諸学」に「精密性」を
与えているからです。つまり彼はそんな批判は百も承知なわけです。哲学板においても、この「厳密性」
と「精密性」の区別を百も承知な連中が話せばまともな議論になると思う(おそらく、のなめさんも
ポールさんもそのことは「百も承知」だと思うので)。なので、僕は、議論を「語りうるもの」に限定し、
「議論」を確保する消極的精密主義よりも、「語りえないもの」も包摂し、かつ「議論」からその都度、
「ただの詭弁」を排除していく積極的厳密主義を支持します。
>>295の訂正
文中の「精密」という言葉は全て「精確」のまちがい。
>ばかぁ〜さん
>>286 >>287 絶対的相対主義者とは「相対主義の態度をとる自分は絶対的である」という態度です
ファイアアーベントですら拒否した態度です
それと「こしあん」はわたしです
このHNはその日につけたものです
わたしは複数の固定もちというよりは、気分に応じてコテを変えてるだけです
コテをつけている時は基本的に同じコテで通しています(スレ内で人物の特定が必要な時のみ古いものを使用)
「のなめ」も適当につけたものです 「NO NAME」をローマ字読みしただけ
ほんとは女性のふりをしようと思ってました
コテを変更する一番の理由は他人と議論をしやすくするためです
同じコテで続けると議論がしにくくなりますので
わたしは議論に人格は必要ないと考えてます
たいてい、ピカと絡む時に新しくHNを更新しています
HNを変えてもわたしの文章はクセがあるのでたいてい理解していただけるでしょう
今のところ使用したHNは全部看破されてます
>じゆんさん
>>240 >この点を追求すれば、“論戦”と捉えるいわれはないものと考えるのです。我々は演舞
>(議論)によって、思索(舞)を深め合うことは可能であると考えますし、また協力体制を作
>ることも、可能であると考えます。そのように考えた場合、議論は倫理自体を天秤に掛け
>るよりも、もっと奥深まって、議論を儀式化することも可能であると考えるし、その状態を
>維持することが(つまり演者としての自覚を持つことが) 議論の質を上げることは必然
>だとも考えています。
じゆんさんは「論戦」という言葉を、「決定的な終わりがある」という意味で使用しているように思えます
わたしは議論は原理上終わりがないと考えますし、それゆえに、議論によって結論を一つに絞りこむことは(論理的には)できないと考えます
しかし、議論は何一つ結論を出せないかというならばそれは異なります
結論を一つに絞り込むことはできませんが、いくつかを排除することはできます
(論理を採用する限りにおいては、矛盾は常に排除される)
思索を深めるとは、その問題に関連する問いの関係を理解し、思索とそれとは両立しないものとの関係を理解していくことです
どちらを選ぶかということは議論そのものには直接は関係しません
どちらを選ぶかという問題は我々が何らかの立場を否応なしにとらざるをえない時に生じる問題であり(そのような状況に全ての人は置かれているでしょう)
そして、そのような立場を抱えたまま我々は議論に臨まざるをえないのです
わたしは議論を儀式化することは議論に何の影響も与えないと考えます
議論によって問題となるものは議論の内容、すなわち理論的なものです
そしてこの理論的なものは相互否定という関係によって明快にあらわれてくるものです
>>240 >そして、今のところそれを哲学板においてまさに体現しているのは、THE グル氏と言え
>ます。(ご存じでしょうか?)
ええ、知ってます、彼は・・・時折驚嘆する文章を書きますが、わたしは彼が知恵者だとしても真摯な議論の参加者とは思いませんね
それに時折的外れな、その場に即していない文章を書いている時もあるように見受けられます
対話や議論において問題点は常に移り変わるものですし、発言する際の個々人の抱える問題がずれている時も多々あるでしょう
そのような中で、議論を続行する真摯さのみが問いの共有を果たす唯一の方法であり
THE グル氏は端的な表現しかできないためにそのような問いの共有を果たすことができないように思えます
このご時世に、解の共有、思想の一致を唱えるほどわたしは愚かではありません
(わたしは「各個人がそれぞれ異なる意見を持ってよい」と考える多元主義「Pluralismus」の立場です
しかし、ルーズに「何でもあり」を認めるのではなく、真理(truth)の理念によって不適切な理論の除去を主張する立場です)
わたしが重要と考えるもの、そう主張するものは、問いの共有です
多くの異なる立場、多くの異なる意見が、同じ問いを共有し議論することで、
真理や実在の理念のもとにいくつかの不適切さが排除されること、
これがわたしが知る最も信頼に足る方法であり
科学はこのような習慣や文化、伝統の中にあることでこんにちの発展を得、
哲学は逆にそのような伝統を失いつつあることで消えつつある
わたしはそう考えています
>>240 >一応言っておきますが、議論が演舞であるからと言ってそれが“真剣さ”を失うもの、倫理的
>基盤を破棄するものではないものと考えています。議論に面白さではなく、確実さを求める
>ことは必要なことであるし、また経験や信念も、必要と考えるのが肝要と言うべきでしょうから。
わたしは議論においては確実さを求めるべきではないと考えます
なぜならば確実なものなど何一つ提出できないからです
また、経験的でなければならないとも思いません
ピタゴラスの三平方の定理のように、数学自身から我々が数学を学べるように、経験以外からでも我々が学べるものはたくさんあります
そして信念も必要ないでしょう、議論に必要なものは何らかの立場であり(何の立場にも立たずに発言することなど不可能でしょう)
その立場を指示する理由と、その立場の否定を支持できない理由であると思われます
(その理由を表明することは、逆に言えばどのような理由があれば立場を変更できるかを表明することでもある)
>ポールさん
>>289 >ここでいう「主観は確実」とは、「(私の主観に現れる)経験世界は確実」という意味だと思いますが、
>経験世界は絶対的に確実であると現象学は言っているのではありません。そうではなく、
>「(絶対的に正しいかどうかは断定できないが)正しい、確かだ、と我々が確信する最終的な根拠は経験世界しかありえない」
>あくまで「信念」「確信せざるを得ない」であり、「確実で疑いようがない」と積極的に肯定しているのではありません。
失礼しました
わたしは現象学を誤解していたでしょうね、もともと誤解を覚悟で批判してました
しかし「信念」を問題にしているならば、それ以上「確実さ」を問題にすべきではないのです
我々は、この一点において「確実さ」への信仰、神話を追放すべきなのです
ポールさんはニュートンの万有引力の法則を挙げましたが
万有引力の法則は間違ってます、現在の物理学では通用しないものです
したがって、それは「実証」と言われながら、決定性をもってない反駁されうるものです
これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第一の批判です
ニュートンの万有引力の法則にはマッハが当初から否定的でしたが、万有引力の法則は正しいと考えられてました
しかしアインシュタインの一般相対性理論によって万有引力の法則はとどめをさされたと言っていいでしょう
しかし現存する科学者でもアインシュタインを否定している科学者もいます
彼らは多くの科学者からは笑われるかもしれませんが、れっきとした科学者です
この問題に限らず、量子力学のコペンハーゲン解釈、多世界解釈など科学では多くの異なる解釈が存在しています
それは「実証」と言われながらも、複数の異なる解釈を持つ
これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第二の批判です
・科学の経験主義解釈批判(ベーコン批判)
科学は経験を純化することでつくられるでしょうか?
わたしは経験に反する科学理論を多く知っています
(もちろんわたしはこのようなことを真剣に言っているわけではありませんよ)
・わたしの体験では地球は平らである、誰に聞いても地球の球性を経験している者はいないが
科学では地球は丸いと言われる
もし経験世界での検証によって理論の強度が増すというなら、地球は平ら>地球は丸い、となりそうなものである
結論から言えば、検証によって理論の強度は増しません、せいぜい心理的な強度が増すぐらいです
また、ハンソンの「観察の理論負荷性」というものがあります
「我々は観察をする時点で何らかの理論をもっていて、その理論に合わせた解釈をすでにして行っている」というものです
わたしもまたそう思います
純粋な観察、純粋な経験とは、文章にすることもできないものです
わたしが何かを見ている時、その「何か」には焦点があたりそれ以外は意識から外れます
その時点でもはや「純粋な経験」とは呼べないでしょう
>>291 >各自の経験世界の外に共通する客観世界や客観知が存在するだろう、と便宜上推測したことから
>客観主義が生じます。
>客観主義とはこのように、各自十人十色の相貌で現れる主観的世界から構築されたものです。
いいえ、他の客観主義はどうか知りませんが
わたしは思考が逆です
わたしは実在については不可知だと考えております(
>>160)
わたしは他者の主観世界から構築されたものを客観とは考えておりません(わたしは間主観も批判している
>>188)
>その意味で、客観主義を含む全ての知は、主観的世界のうちから生じると考えることに論理上
>間違いがあるとは思えないし、ましてや、「独我論は謙虚ではなく傲慢な行為です
>>188」は全く的外れであり、
わたしは客観世界を設定しています、実在を設定しています
これはわたし自身の設定であり、漠然とした何かからわたしが知を得ているといったものではありません
わたしは模写説でもありません
>むしろその「自然主義的態度」を実践上の要請を根拠に信じることこそ、哲学徒としては誤った行為ではないでしょうか?
よって、わたしは自然主義ではありません、どちらかというと反自然主義になります
わたしは自分の知覚そのものを信じておりません
わたしが実在を設定する理由は、わたし自身の無知と無力さを動機に、
他者との間に同一のものを設定することによってそのような何かを知ろうとする態度から来ています
他者の主観から客観とはそのようなものであろうと推測するのではなく、
他者の主観をわたしの主観と同等にするために客観を設けるのです
従って、わたしの客観主義はこのように言えるでしょう
「実在を設定した独我論」と
>>292 >繰り返せば、「世界は僕をも一点景として含む客観的世界である」とする客観主義的語りと共に、
>「世界とは僕という場を起点に開けてきたものである」という語り方も同様に正しい世界描写だと思っています。
それはあなたにとっては正しいかもしれませんが別の者にとって正しいかどうかは分かりません
主観的語りは主観の数だけ存在します
それらを統制し吟味しそして思推を深めるためにも客観的語りは必要不可欠と思います
>そして、「独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致する」のではないかと考えています。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でそのように考えましたね
その結果、挫折したと言われています
わたしも「対象は無色である」というのが実在論の立場であるならばまったくもって無意義なものと思います
>>293 >「のなめさんは『全ての知が私の主観の内で生成されることは”できすぎ”だ』と言われますが、
>『世界が数学で成り立っている、もしくは我々は数学的に世界を解釈できることが”できすぎ”だ』と
>同様に考えないのですか?
それに対するわたしの回答は至極簡単なものです
そもそも世界は数学で成り立ってない
世界はまったくもって秩序だっていない、混沌としていて、我々がその全てを把握することは不可能である
しかし、それが世界を数学的に解釈してはならない理由にはなりません
それこそ素朴なまでの自然主義的態度と言えるのではないでしょうか?
我々は混沌としている世界を秩序だった形式にのっとって見ることで世界の混沌さを理解するのです
(わたしはここで混沌と秩序を相対的な関係と理解しています)
世界は秩序だったものが何一つないような「完全なる混沌」(この言葉はすでにしておかしいが)ではない
世界は混沌としているが、それゆえにどこかには秩序がある
我々は数学的ではない混沌とした世界を数学を覗いて見ることによって世界を記述する
そして世界のどこかにほんの少しでも秩序があるのなら、それは「できすぎ」ではない
これは変化を例にとってみれば分かります
我々の周辺には変化しないものは何もないものばかりですが
その「変化」には必ず変化しない部分があります
変化しない部分があるからこそ、それが変化であると我々は理解できるのです
もし全てが完全に変化するならば、それは言葉にすることは不可能などうしようもない状況になるでしょう
まさしく「世界は矛盾している」と言えるような状況です
>>293 >客観知を要請しながら、それと具体的な知との照合の適否を拒否しているからです。
ええ、わたしは客観知そのものと具体的な知との照合を拒否しています
わたしが客観知に与えたものは形式的なものです
そして具体的な知そのものを客観知と照合するならば、具体的な知はその形式のみで不適合とされるからです
(どうでもいいですが、ヘーゲルはそのような態度を批判していますね)
わたしはある具体的な知識が真理かどうかを考えることに興味を感じませんし、そのような真理を設定していません
ばかぁ〜さんが「統制概念としての真理」(
>>122)と言ったように
真理とは多くの具体的な理論同士の間で問題になるものです(つまり議論する時に問題となる)
これは、わたしが、学問の目的は「真理の獲得」ではなく「真理の探究」である(
>>148)と言ったところからも問題ないと思われます
>>306 修正
「形式的なもの」って言い方が良くない
「形相」というか、「問い」というか
とりあえず、「形だけのもの」に修正
今日はこのへんで
>ばかぁ〜さん
>>295 明快な説明ありがとうございます。
僕も「主客の分離」を、世界を解読する為のひとつの手法だと考えれば強力な方法論であることは認めますが、
「それが事実、世界の成り立ちである」とすることには疑問視します。
もっと正確に僕の心情を言えば、科学的世界観の下にある現代人の例に漏れず僕は、
「主客分離」の客観主義を信じていた(そして今でも信じざるをえない)からこそ、
「それは違う」と反論する哲学に非常な関心を持ちます。
「どこがどう違うのか説明してくれないか」と。
そこで、客観的語りとは異なった主観的語りをする哲学、客観的語りに反発する哲学に惹かれるわけです。
哲学が、「世界への驚き」から始まるならば、主観的語りを排除することはできないでしょう。
なぜならその驚きの多くは、主観的語りによって描かれた世界と客観的語りによって描かれた世界
との差異、つまりそれらの関係性に関わっているからです。
>ハイデガーは世界内存在を考慮し、語ろうとする
>「哲学」に「厳密性」、世界内存在を考慮せず対象知だけを語ろうとする「諸学」に「精密性」を
>与えているからです。
>>295 客観的な語りが「精密」、主観的語りが「厳密」にほぼ該当するでしょう。
僕も、「積極的厳密主義」抜きでは哲学の根幹的なものが骨抜きになるのではないかと考えます。
ハイデガーは、「本質的な問いは必ず循環論法になってしまうが、その循環から出ようとするのではなく、
そこに留まり、問い続けることが重要である」と言ったそうですが、哲学とは本来そのようなものでしょう。
>>309補足
>僕も「主客の分離」を、世界を解読する為のひとつの手法だと考えれば強力な方法論であることは認めますが、
>「それが事実、世界の成り立ちである」とすることには疑問視します。
>>309 >>291において、僕は世界の成り立ちを「世界が現れてくる場(僕)−その場に現れる対象物」としましたが、
客観主義は後者の「(客観的に見られた私を含む)その場に現れる対象物とそれらの関係」を解明する
ことには成功しましたが、それらと「それが現れてくる場(僕)」との関係は説明できません。
そして今の僕にとって「事実、世界の成り立ち」を描写する理論とは、この関係を説明できる理論
でなければならないと感じています。
>のなめさん
>ピタゴラスの三平方の定理のように、数学自身から我々が数学を学べるように、経験以外からでも我々が学べるものはたくさんあります
>>300 数学の哲学に全く無知なのを顧みず、以下述べてみます。
数学の体系とは、純粋に理念的なものではなく、経験から導かれたある原初的な経験法則を元に、
普遍的に構築したものだと思います。
具体的に言えば、「1+1=2」は経験から導かれた原初的ものであり、その法則性を基盤に経験を超えて
「12345*6789」といった理念的体系を構築します。
この経験を超えた(経験に戻って検証できない)数学体系の拡張性ゆえに、数学とは経験とは
別の何かだと考えられますが、元はといえば、経験を基盤にしたものだと思います。
また、この構築されていく過程で経験世界から乖離した数学が経験世界を規定する逆転現象を
指摘したのがフッサールではないかと勝手に解釈しております。
以下質問ですが、
最先端の数学は、数学体系という理論構築物内部での整合性だけが問題であって、経験世界との
合致には関知しないと聞きますが、本当なのでしょうか?
また、物理学的世界(宇宙論等)はこのような経験から隔絶された数学を用いて、経験世界(宇宙)を
解明しようとしているのでしょうか? もしそうであるならば、そのような逆転現象についてどう思われますか?
>この問題に限らず、量子力学のコペンハーゲン解釈、多世界解釈など科学では多くの異なる解釈が存在しています
>それは「実証」と言われながらも、複数の異なる解釈を持つ
>これが科学の実証主義解釈に対するわたしからの第二の批判です
>>301 「実証」(経験に戻って確かめること)と、「解釈」(与えられたデータを意味付けすること)は別物です。
たとえ、解釈において一致が見られずとも、それが実証という方法論の杜撰さを指摘するものではありません。
我々が世界を解釈する時、その正しさを判断する最終的な根拠を求める場は、いつでも与えられた経験世界
でしかありえず、それゆえ実証という方法を抜きにして、我々は物事に判断をすることは出来ないということは
度々指摘しているところです。
完全な抽象理論でさえ、その抽象理論が産まれてくる原初の場は経験世界であるというのは、
前述の数学の例と同様です。例えば、多世界解釈がいかに経験世界から乖離していようとも、
量子の観察という”経験”を元に構築された理論です。
>万有引力の法則は間違ってます、現在の物理学では通用しないものです
>>301 すみません。基本的なことなのでしょうが知りませんでした。
物理学が描く世界とは、「あるモデルを通してみた世界」であって、人間の認識から独立した客観世界を
描写した世界でないことは知っていました。ですが、万有引力すら否定されるのですか?
ある条件(例えば、地球上の人間の立場)においては正しいのではないですか。
とまれ、僕が興味を持つ分野は科学哲学とも関連するのではないかと気づきました。
僕のような科学知識欠如で科学批判をするのはアフォですから。勉強してきます。
>カントは理論理性による問題と実践理性による問題を分離しました
>>215 のなめさんが「倫理的要請」を持ち出す理由がわかったような気がします。
この区別を理解したうえで、自分がどちらの領域を基盤に語っているのか把握して哲学問題を
語るなら良いのですが、多くの人は、己が語っている基盤を混同したまま実践理性による解釈で
あるところを、理論理性による客観的な言明であると混同する場合が多いのではないでしょうか?
本来はある実践的要請によって正しいとされた言明が、いつのまにかそれが「客観的に真である」と
一人歩きし、その理念が我々の生活を規定することが多々あります。
たとえば、「客観世界は存在する」「人を殺してはいけない」といった言明です。
哲学の面白いところは、そういった祭り上げられた言明(常識)の原初の場に戻って、
その言明の真の意味を暴くことだと思います。
実在世界についての言明でも、実践理性の領域で語るならのなめさんの意見に反論はありません。
>他者の主観から客観とはそのようなものであろうと推測するのではなく、
>他者の主観をわたしの主観と同等にするために客観を設けるのです
>>303 これには「なるほど」と感心しました。
>すべての問題は実践理性による問題を含むのです
>>215 そうでしょうか?
理論理性で解明できない問題は実践理性による問題を含む(実践理性的に判断せざるを得ない)
とする考え方に僕は賛同できません。
「大森さんの凄さは、役に立たないことにこだわったこと」と永井さんが述べたように、
哲学者とは、実践的要請を判断基準とせず、論理的整合性だけを武器に世界を「見取ろう」とするからこそ
哲学者なのではないですか?
>主観的語りは主観の数だけ存在します
>それらを統制し吟味しそして思推を深めるためにも客観的語りは必要不可欠と思います
>>304 確かに、主観的に語られた世界は主観の数だけ存在します。しかし、
「『世界とは、我々の認識から独立した唯一の世界ではなく、世界自体が十人十色に現れる』と考えてはいけないのか?」
というのが、大森から影響を受けた僕の自身への問いです。
以前クワインの有名な『経験主義のふたつのドグマ』を読んで妙に納得しました。
「(科学的命題から日常的な言説まで)われわれのいわゆる知識や信念の総体は、
周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、
科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。
周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」
「ある構築物に参入を許されない言説でも、別の構築物においては参入を許される。
それら構築物同士の真偽を客観的に判断することは出来ない」とする、この相対主義に陥る危険性のある
クワインの主張をのなめさんはどう思いますか?
>のなめさん
久しぶりにまとまった自由時間を持て、とりとめもなく書き連ねています。
初歩的なことを連呼しているだけでしょうから全レスしなくていいですよ。
重要な間違いと思われるところだけで。申し訳ないですから。
>>309 >客観的な語りが「精密」、主観的語りが「厳密」にほぼ該当するでしょう。
うーん、この言い方にはいまだ首肯し難いところがあります。誤解しないでほしいの
ですが、これは多分に僕の勉強不足を原因とする「判断保留」です。すみません。
それと、ポールさんお勧めの「あるとない」のスレッド、読みました。単なる良スレ
というだけでなく、まさにこのスレで議論されている問題が凝縮されていると思う
(特にOFW氏とハイデガー派?の名無しさんの議論は素晴らしいと思った)。僕は
OFW氏のいわば戸坂潤的なハイデガー批判に肯定的であるため、ハイデガーの主
観的語りはかなり警戒的に読むべきだという気もしています。あのへんの議論をこ
この議論に繋げられたらかなり生産的な対話になりそうだなあ、などと勝手に思っ
ております。では。
> のなめさんへ
えー、、、
途中で議論を放り出してしまって申し訳ありませんでした。実は今までパソコンが
壊れてしまって全然、哲学的考察をする気になれなかったのです。いちおう説明を
とも思ったのですが、しないでおくそういう判断でいることにしました。
またお付き合いできればと思うのですが、よろしければご意見頂ければと思います。
>>246 >矛盾を突きつけられた時どのように回避するか、が、理論の良し悪し、
>我々が理論選択時にどちらを選択するかの道徳的判断の目安になるのです
>それが自らの理論を空論となる方向に回避するか、それとも、
>より具体的な矛盾の渦の方向に回避しながらも矛盾しない状況をつくるか
>わたしは後者を選択しますし、それが「合理的」と呼べると主張します
もし私が合理的である判断をするのなら、私はそこに「矛盾」があると叫ぶことが
まず大事なのではないかなと思いました。
そこに論理を展開させる『必要性』があれば、矛盾を突き進みながら、つまり空論で
ありながらも問題を回避(無視)させて、次なる問題の答えを展開するように働きかける。
そうやって歴史の中で多くの理論が生まれたのではと思われます。
つまり真空の観念を展開させた『パスカルの原理』のような科学的な『理想状態』は
すなわち『空論』そのものであるということです。しかしそれを『空論』とは呼ばず、
厳密性を無視してもよいものとして今日では認識されます。つまり『パスカルの原理』
なる理論の空論性を否定する者は誰もいないし、その必要もないのだと言うことです。
そして矛盾があると叫ぶことが哲学徒の存在意義なのだとちらりと思いました。
ちょっと古典科学で責めてみました。 (パスカル 1623-1662)
(つづき)
>>247-249 理論の権威主義批判の説明本当に分かりやすいものでした。
しかしもしその権威が民主的な採決によって導かれ、そして権威の所有者が
民の最大普遍を包括するような言明、または理論を簡潔な形(あるいは言明)で
提出されたらそれは、合理的なのではないかと言うことです。合理的には無駄が
ないという意味があったかと思います。つまりそれは十徳ナイフのようにオールマイティ
な理論を一つの言葉(シンボル)で保持する様を思い描くことができます。
実は今、私がここで念頭に置いているのはユングのタイプ理論、または無意識的元型へ
の科学的態度なるものです。タイプ理論は非常に簡明な言葉で人格をカテゴライズする
ことによって合理化を促しているように見えるのではないでしょうか?
また心理学理論そのものは、語弊がなければおそらく、科学的な権威付けが頻繁に行わ
れているのではないかと思います。しかしユングは元型という最大普遍の人格像などを臨床、
または個人の経験により抽出することにより、理論化することに成功した。権威あっての理論
を初めて体現した人だと言えます。しかしその価値は臨床的には有用的で理論としても失わ
れておらず、また元型という概念は心理学の発展に力を与える実践的な意味合いが強いも
のと考えます。
たしか「果てしない探求」という著書ではポパー氏はフロイトの批判は声高に
痛烈に掲げていたけれど、ユングに関しては沈黙していたように思われました。
いや、もしかしたらどこかでユングの批判をしているのかもしれません。
この差異はいかなる意味を持つのか?
(つづき)
たしかポパーが批判していたのはフロイトの『エディプスコンプレックス』だと思います。
それこそ『エディプス理論』と呼んでフロイトの理論すべてを棄却していたものと思います。
またそういったフロイトのエディプス理論への批判はもはや社会通念的なものであり、
性にすべてを還元するフロイトの人格批判にまで行われるのが当然のようです。
彼の理論の継承者であるエーリッヒ・フロムも『愛することについて』でフロイトのリビドー
理論を、すなわち愛の観念の即時否定としていとも簡単に切り捨てました。
しかし、ユングの元型に関しては今もなお人々(科学者、心理学者)に広い指示され
ている気がします。なぜ神話という非論理の極致のようなものを採用したユングが支持
され、自我を性衝動の固まりと捉えたフロイトがこんなにも不遜に扱われるのか、ちょっ
と私には分からなかったわけです。無意識を発明したからフロイトは偉い。それだけじ
ゃないと私は思ったのですけどね。他にも凄いところはたくさんあるし、、、とね
ポパーの論理なら、理論の反証可能性が理論における神話(物語)の導入によって
いとも簡単に達成されたとみることが、おそらく一つの見識を得る手がかりかと思いま
すが。これでは理論における美しさは、アインシュタインの相対性理論にはとても及
ぶものではありません。
しかし神話とは権威そのものではないのか? そのような問いがあなたの権威主義批判
によって私に生ずることになりました。心理学を科学か似非科学か見定めるのもよし、
科学であるのなら科学的態度を要請させるものはなんなのか、それについて考えてみる
のも面白そうだと思ったら、ポールさんの客観的態度、主観的態度なる表現である程度
説明されているように思われますので私はこの辺にしたいと思いました。
(つづき)
ちなみにいま私は量子論批判、アインシュタイン批判、弁証法、ポパーの唱える『理論
の反証可能性』の批判にに手を付けてみたいと考えていますがなかなか
手を付けにくいです。ただ単に私の力不足です。哲学的知識の他に科学的知識の不足を
痛感しています。相対性理論の批判なんかかなり面白そうだなと思ってはいるんですが。
ちなみに私はポパー氏のアインシュタインへの賞賛の部分はほとんど盲信の部類に入る
のではと思っています。しかし物理的知識が高校で終了している私が思わず批判してしま
いそうな状況もいくらかまずいかなと思っています。昨今ではアインシュタインの相対性理
論をトンデモ科学と評する輩もいるくらいです。それに比べて量子論の理論展開の慎まし
さには涙ぐむものがあるわけです。あれから百年経った後でも量子論がなんなのかさっぱり
分からない人が大勢いるくらいですから。もちろん私は「よくわかるシリーズ」で量子論を勉強
しましたから、素人の概念の模倣レベルなわけですが。科学への不信、懐疑はやり出すと
きりがないですね。まあそこが面白いんでしょうけどね。
いまポパーの『果てしない探求』岩波現代文庫の下巻の半分までざらっと読んでいる途中
なのですが、ちょっと読み込みが足りないかなと思いました。そこら辺の誤解はびしばし指摘
して頂けると助かります。
いちおう読んだ感想はポパーはけっこう面白い哲学者だということでした。私は結構好きな
哲学者の部類に入りそうです。なんだかひょうひょうとしている様はいいなあと思いました。
神経質なんだけど神経質じゃないように、すらりと述べる様は確かにある種の哲学的素質を
持っている曲者なんだなあと感じられました。ちょっと偉そうな物言いでごめんなさいです。
それでは。
私はポールさんとのなめさんの議論も面白く見させて頂いております。結構奥が深いところで
二人は議論されていて見る方も緊張感があって良いなあと思っています。
またばかぁ〜さんを巡る弁証法の議論の流れにも自分は乗りたいとは思っているのですが
まだまだ力、読書の質が及ばない感じがしますね。近いうち(ん、いつかそのうちにしておこう)
にそこら辺の議論にも厳しくつっこむつもりではありますので、そのときもまた、どうかよろしく
お願いします。
>>321 (補足)
>ポパーの論理なら、理論の反証可能性が理論における神話(物語)の導入によって
>いとも簡単に達成されたとみることが
ちょっと補足します。ユングの理論の反証可能性の実践の達成とは、神話の導入によって
批判そのものを封殺した、つまり反証することを不可能にした状態と捉えてくださると分かり
やすいと思います。まず神話を否定することがナンセンスである。もう一つ、神話そのものの
権威化によって反証を封殺した。そういう意味での反証可能性の実践の達成だと言うことです。
ちょっとこの辺りのことはまだ説明しづらいですね。もう少し今度は言葉をまとめようかと思
います。
遅くなってすみません
私的に別の議論をしていたため、こちらを少しお休みさせてもらいました
熱くなるとテーマの異なる議論でもついついそのような話題にうつりがちなので・・・
>ポールさん
>>311 >数学の体系とは、純粋に理念的なものではなく、経験から導かれたある原初的な経験法則を元に、
>普遍的に構築したものだと思います。
わたしは数学は経験を基盤にしたものではないと考えます
もちろん数学を学ぶのに我々が経験を通じて学ぶということに異を唱える気はありませんが
(産まれた時から数学能力をもっているわけではない)
それは数学が経験を基盤にしているかどうかとは無関係です
現在の流行的な考え方は、数学の正しさはその社会性、公共性に由来する、というところではないでしょうか?
数学が経験を基盤にしないことに関しては、無理数や虚数について考えてみたり
さらには、非ユークリッド幾何学やカントールの集合論について考えてみるといいかもしれません
>最先端の数学は、数学体系という理論構築物内部での整合性だけが問題であって、経験世界との
>合致には関知しないと聞きますが、本当なのでしょうか?
わたしも数学の哲学については軽くレポートを書いたことがあることと数学基礎論を学んだことがあるだけで
最先端の数学については何も知りません
しかし思うに、おそらくは整合性だけが問われると思います
というよりは、経験世界との合致に関知する数学とはどのようなものでしょうか?
小学生が内角の和が179°の三角形を発見したと言ったら何と答えればいいのでしょうか?
(もちろんユークリッド幾何学での話です)
そもそもわたしは数学的実在が物理的なこの現実世界に存在するとは考えられません
>>311 >また、物理学的世界(宇宙論等)はこのような経験から隔絶された数学を用いて、経験世界(宇宙)を
>解明しようとしているのでしょうか? もしそうであるならば、そのような逆転現象についてどう思われますか?
わたしは、物理学を含めて多くの科学理論は経験の畜産物ではないと考えています
ですから、経験から隔絶された数学を用いることは何ら問題ないと考えます
(何より、経験から隔絶されていない数学などないでしょうから)
重要なことはそれが合理的に、明快に表現できているかどうかということに思えます
空間の歪みに沿って直進する光の動きをユークリッド幾何学で表現することは可能かもしれませんが
理解しにくいでしょう
しかし非ユークリッド幾何学を使用すれば明快に表せるのならば、そのような表現を使用するべきです
わたしは科学(物理学や宇宙論を含めて)、それらは経験世界に内在する法則を抽出するといった作業ではないと考えています
科学は我々人間が問題とするところを解決し説明する方法でありその試みであると考えます
そもそもこの世界には法則など存在しません、ただ法則を世界に押し付けているだけです
仮に世界に法則が存在するとして、科学をそのような世界に内在する法則を掘り出していく行為とするならば
我々の認識能力のあまりの低さ、宇宙の一部である人間が宇宙全体を理解する困難さの前に挫折するだけでしょう
もしくは挫折を知らない傲慢な態度により多くの科学の芽を摘むことになるでしょう
過去にも多くの科学者がそのような信念の前に科学を捨て修道院に入ったり、科学の終焉を唱えたり、科学の排斥を唱えたりしたものです
彼らは科学にあまりにも多くを望みすぎているのです
科学は信仰の拠り所ではありません
科学は間違いだらけです(高校までの理科の教科書を読めば書いてあることはほとんど間違いです)
間違いない答えを知りたい人、杞憂を払拭したい人、不安を取り除き安心したい人は科学ではなく宗教団体に入るべきなのです
何かを絶対に正しいとしてくれる教典、ないし、何かに絶対的反駁を与えてくれる経典が欲しい人も科学ではなく宗教団体に入るべきなのです
そこでなら彼の希望は叶えられるでしょうから
わたしは物理学が宇宙の法則なり宇宙の真理なりを解明することは無限の年月を重ねても不可能だと考えますが(ましてや近づくことすらできないでしょう)
彼らの成果は宇宙についての理解を大きく促していると感じます(その理解の深度は年月を重ねることでより深くなっていくだろうと考えています)
>>312 >「実証」(経験に戻って確かめること)と、「解釈」(与えられたデータを意味付けすること)は別物です。
>たとえ、解釈において一致が見られずとも、それが実証という方法論の杜撰さを指摘するものではありません。
法則を経験と照らし合わせることは不可能です
経験とはせいぜい次のようなものです
「2004年5月27日0時34分、温度17度、湿度・・・、わたし『のなめ』がディスプレイに『ポール』の字を発見する・・・(永遠に続く)」
こんなものをいくら集めたところで法則にはなりませんし
このような経験を法則と照らし合わせることで法則の真偽を判断することなどできません
法則ないし科学理論は経験を超えたものを語っているのです
もし前提条件と補助仮説がいくらでも改ざん可能であるならば
あらゆる科学法則ないし言説はすべての経験を語りうるのです(唯物機械論スレの決定論を見れば明白です)
わたしがピカのスレで例示した光の波説の否定も、エーテルの風によるテーブルの縮小を導入することで全てを語りうるのです(正直、このあまりにも馬鹿げた補助仮説は発想だけはすごいのでわたしは評価してますが)
わたしも科学理論の真偽を判断する根拠は経験世界に求めます(その点はポールさんと同じ立場です)
しかし、科学理論と経験との間にはカルナップが主張するような一対一関係はありません
経験と理論との間に真偽が明確に現れるような形で論理を適用することは不可能なのです
>我々が世界を解釈する時、その正しさを判断する最終的な根拠を求める場は、いつでも与えられた経験世界
>でしかありえず、それゆえ実証という方法を抜きにして、我々は物事に判断をすることは出来ないということは
>度々指摘しているところです。
わたしも科学理論の根拠は経験世界について語っている情報の真偽にあると考えます
問題は、「正しい」と考える根拠がどこにあるのかということについて
わたしはそれは経験ではなく合理性にあると考えるということです
これは、わたしが経験論ではなく合理論の立場をとるということです(もちろんポパーもカントも合理論です)
>>313 >万有引力
万有引力が物理学で否定されるのは
万有引力とは「遠くに離れたもの同士がお互いに引き合う遠隔作用をもった力」であるからです
ニュートンは万有引力の法則を発見した時、自分の頭が狂ってしまったと考えたそうです(ガウスもロバチェフスキーも非ユークリッド幾何学を発見したときは公表するのをためらったそうですが)
遠くに離れたもの同士が直接に引き合うなど魔術的力は物理学とは程遠いものと感じたのでしょう
物理学でも問題になるのは近接作用ですから(わたしは物理学部出身ではないので間違っているかもしれません)
遠くに離れたもの同士に直接作用する力は付き合ってすぐの恋人同士だけで十分です
>>314 >>315 >本来はある実践的要請によって正しいとされた言明が、いつのまにかそれが「客観的に真である」と
>一人歩きし、その理念が我々の生活を規定することが多々あります。
これは往々にしてあるでしょうね
一般社会で「悪魔が騙している可能性」を指摘すれば、憐れな目で見られるのが落ちです
しかし、それは我々の生活を規定するかもしれませんが、我々の行動や我々の自由な思考を規定することまではできません
いかなる事実があろうとも、わたしがどのようなものに価値を見出し、(物理的に可能な範囲で)どのように身体を動かすかは自由です
>「大森さんの凄さは、役に立たないことにこだわったこと」と永井さんが述べたように、
>哲学者とは、実践的要請を判断基準とせず、論理的整合性だけを武器に世界を「見取ろう」とするからこそ
>哲学者なのではないですか?
「哲学者」とは本来はそのような意味なのかもしれませんが、わたしはそのような哲学には興味を抱けないのです
しかし、論理的整合性を武器に世界を見取ることなどできるのでしょうか?
そもそも論理的整合性とはどのようなものでしょうか?
それは世界について何も語らないことではないでしょうか?
・世界について何かを語ると論理的には不整合になり、論理整合的に語ると世界については何も語れなくなる
わたしには論理と経験にはこのような関係があるように思えます
>>316 ◎現象学批判
>確かに、主観的に語られた世界は主観の数だけ存在します。しかし、
>「『世界とは、我々の認識から独立した唯一の世界ではなく、世界自体が十人十色に現れる』と考えてはいけないのか?」
>というのが、大森から影響を受けた僕の自身への問いです。
現象学に対するわたしの批判は
1現象学においては世界は矛盾しないのか?
わたしは「矛盾は間違っている」と考えますから、世界に矛盾が含まれるような世界観を肯定することはできません
個々の主観を見ると世界を正反対に見る人もいるでしょう
「それはカモであってウサギではない」「それはウサギであってカモではない」
「世界は決定している」「世界は決定してない」
「わたしはufoを見た」「君が見たのはufoではなく飛行機だ」
それら個々のあい矛盾する主観が、統一された世界として語られる時に矛盾は発生しないのでしょうか?
2現象学は矛盾の解決について具体的にどのように語っているのか、それは世界について語ることができているのか
3「現象学は間違っている」という主観を発する者に対して現象学はパラドクスを生じさせるのではないか
>クワイン
クワインは『経験主義の2つのドグマ』と『ことばと対象』を読まされたのですが
いやー、すっかり忘れてましたね
>「(科学的命題から日常的な言説まで)われわれのいわゆる知識や信念の総体は、
>周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、
>科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。
>周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」
同意します
>「ある構築物に参入を許されない言説でも、別の構築物においては参入を許される。
>それら構築物同士の真偽を客観的に判断することは出来ない」
同意しません
判断することはできます
おそらく、クワインはそれを「客観的」とは呼びたくないのでしょう