世界を多から、あるいは一から考えるならば、
作られたものから作るものへということはあり得ない。
世界を機械的にあるいは合目的的に考えても、
かかることがあることはできない、
否、作るという如きことも入れられる余地はないのである。
然るに多が自己否定的に一、
一が自己否定的に多として、
多と一との絶対矛盾的自己同一の世界においては、
主体が自己否定的に環境を形成することは、
逆に環境が新なる主体を形成することである。
時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。
歴史の世界においては単に与えられたものというものはない。
与えられたものは作られたものであり、自己否定的に作るものを作るものである。
作られたものは過ぎ去ったものであり、無に入ったものである。
しかし時が過去に入ることそのことが、未来を生むことであり、
新なる主体が出て来ることである。
かかる意味において、作られたものから作るものへというのである。
歴史的世界において主体と環境とが何処までも相互否定的に相対立するというのは、
時の現在において過去と未来とが相互否定的に対立する如く対立するのである。
而して現在が矛盾的自己同一として過去から未来へ動き行く如く、
作られたものから作るものへと動き行くのである。
而してそれは同時に個物がモナド的に世界を映すと共に
逆に世界のペルスペクティーフの一観点であるという如き、
多と一との絶対矛盾の自己同一の世界であるということである。
かかる世界において作られたということから、作るものが出て来る、
而してまた新に作り行くのである。
(改行15終わり)
それで多と一との絶対矛盾的自己同一として、
自己矛盾によって自己自身から動き行く世界は、
いつも現在において自己矛盾的である、
現在が矛盾の場所である。
抽象論理の立場からは、矛盾するものが結合するとはいわれないであろう、
結合することができないから矛盾するというのである。
しかし何処かで相触れなければ矛盾ということもあり得ない。
対立が即綜合(そうごう)である。
そこに弁証法的論理があるのである。
矛盾の尖端(せんたん)としては、時の瞬間の如きものが考えられるであろう。
しかし瞬間が時の外にあると考えられる如く、
それも対立を否定すると共に対立せしめる弁証法的空間の一点と考うべきであろう。
時というものを抽象概念的に考えれば、
過去から未来へと無限に動き行く単なる直線的進行と考えられるであろう。
しかし歴史的世界において現実的に時と考えられるものはその生産様式というべきものであろう。
作られたものから作るものへということでなければならない。
それが過去から未来へということである。
時の現在の有つ形というのがその生産様式の形である。
(改行16終わり)
歴史的世界の生産様式が非生産的として、
同じ生産が繰返されると考えられる時、
それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。
現在というものは無内容である、
現在が形を有たない、
把握することのできない瞬間の一点と考えられる。
過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。
物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。
物理的に考えられる世界には、生産ということはない、
同じ世界の繰返しに過ぎない。
空間的な、単なる多の世界である。
生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、
時が形を有つということができる。
合目的的作用において、
過去から未来へということは逆に未来からということであり、
過去から未来へというのが、
単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。
生産様式が一種の内容を有つということである、
過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。
かかる形というのが、生物の種というものである。
歴史的世界の生産様式である。
これを主体的という。
生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、
主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。
而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、
個物的として自己自身を形成するということである。
しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。
(改行17終わり)
真に矛盾的自己同一的な歴史的社会的世界においては、
いつも過去と未来とが自己矛盾的に現在において同時存在的である、
世界が自己矛盾的に一つの現在であるということができる。
生物の合目的的作用においては過去と未来とが現在において結び附くといっても、
なお過程的であって、真の現在というものはない。
従って真の生産というものはない、創造というものはない。
私が生物的生命においては作られたものが作るものを離れない、
単に主体的だという所以(ゆえん)である。
然るに歴史的社会的世界においては何処までも過去と未来とが対立する、
作られたものと作るものとが対立する、
而してまた作るものを作るのである。
生産せられたものが単に過去に入り去るのでなく
また生産するものを生産するのである、
そこに真の生産というものがあるのである。
世界が一つの現在となるということは、
世界が一つの生産様式となるということであり、
それによって新な物が生れる、
新な世界が生れるということである。
それが歴史的創造の生産様式である、
唯環境から因果的に物が出来るというのでもない、
また単に主体的に潜在的なるものが顕現的となるというのでもない。
創造ということは、ベルグソンのいうように、
単に一瞬の過去にも還ることのできない尖端的進行ということではない。
無限なる過去と未来との矛盾的対立から、
矛盾的自己同一的に物が出来るということでなければならない。
直線的なるものが円環的なる所に、
創造ということがあるのである、
真の生産があるのである。
(改行18終わり)
歴史的世界においては、過去は単に過ぎ去ったものではない、
プラトンのいう如く非有が有である。
歴史的現在においては、
何処までも過去と未来とが矛盾的に対立し、
かかる矛盾的対立から矛盾的自己同一的に新な世界が生れる。
これを私は歴史的生命の弁証法というのである。
過去を決定せられたもの、
与えられたものとしてテージスとすれば、
それに対し無数の否定、無数の未来が成立する。
しかし過去というものが矛盾的自己同一的に決定せられたものであり、
過去を矛盾的自己同一的に決定したものが真の未来を決定する、
即ちアンティテージスが成立する。
世界が矛盾的自己同一として創造的であり、
生きた世界であるかぎり、
かかるアンティテージスが成立せなければならない。
而してその矛盾的対立が深く大なればなるほど、
即ち真に矛盾的対立であればあるほど、
矛盾的自己同一的に新なる世界が創造せられる、
それがジンテージスである。
現在において無限の過去と未来とが矛盾的に対立すればするほど、
大なる創造があるのである。
新なる世界が創造せられるということは、
単に過去の世界が否定せられるとか、
なくなるとかいうのではない、
弁証法においていう如くアウフヘーベンせられるのである。
歴史的世界においては無限の過去が現在においてアウフゲホーベンされているのである。
人間となっても、我々は動物性を脱するのではない。
(改行19終わり)
過去と未来とが自己矛盾的に現在において対立するというには、
現在が形を有(も)たなければならない。
それが歴史的世界の生産様式である。
個人的立場からいえば、我々はそこに行為的直観的に物を見、
また作られたものから作るものへということができる。
逆に我々がポイエシス的なる所、行為的直観的なる所が、
歴史的現在であるのである。
生物の形というのは機能的である。
生物が機能的に働くということが、形を有つということである。
而してそれは矛盾的自己同一たる歴史的現在が、
生産様式として一つの形を有つということである。
しかしさきにいった如く、生物的生産様式では、
なお真に過去と未来との矛盾的対立というものはない、
真の歴史的現在というものはない。
矛盾的自己同一として現在が現在自身を限定するとか、
形が形自身を限定するとかいうことはない。
従って生物的動作は行為的直観的ではない。
ヘーゲル的にいえば、それはなおアン・ジヒの状態である。
世界が一つの現在として、無限の過去と未来とが現在において
対立する歴史的社会的生産様式においては、
現在が矛盾的自己同一として、
何処までも動き行くものでありながら、
現在が現在自身の形を有し、
現在が現在自身を限定するとか、
形が形自身を限定するとかいうのである。
現在というものを唯抽象的に考えれば、
現在から現在へなどということは、
飛躍的とか無媒介的とか考えられるかも知らぬが、
弁証法においては、対立が即綜合、綜合が即対立ということであり、
対立なくして綜合はないが、綜合なくして対立もない。
綜合と対立とは何処までも二であって一でなければならない。
而して実践的弁証法においては、
綜合というのはいわゆる理性の要求という如きものではなく、
現実の世界の有つ形、
現実の世界の生産様式というものでなければならない。
無限の過去と未来とが何処までも相互否定的に結合する
絶対矛盾的自己同一的現在の世界においては、
それはイデヤ的ということができる。
ヘーゲルのイデヤとは、此(かく)の如きものでなければならない。
綜合は対立を否定する綜合ではない。
故にそれはまた矛盾的自己同一として自己矛盾的に動き行くのである。
(改行20終わり)
過去と未来との矛盾的自己同一として
自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、
いつも自己自身の中に自己を越えたもの、
超越的なるものを含むということができる。
いつも超越的なるものが内在的であるのである。
現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、
そのことが自己自身を否定し、
自己自身を越え行くことでなければならない。
而してかかる世界は、個物がモナド的に世界を映すと共に
ペルスペクティーフの一観点であるという如き、
表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。
現在が自己自身の中に自己自身を越えたものを含む世界は、
表現的に自己自身を形成する世界でなければならない。
過去と未来とが相互否定的に現在において結合するという世界において、
我々は表現作用的に物を見、
表現作用的に物を見るから働くということができるのである。
それは機械的でもない、合目的的でもない、
而してそれが真に論理的ということである。
矛盾的自己同一的に自己自身によって動き行くもの、
即ち真に具体的なるものが、論理的に真なるものである。
時が単に直線的に考えられ、現在というもののない世界においては、
我々が働くということはない。
私の過去と未来とが現在において結合し、
作られたものから作るものへ、
現在から現在へという矛盾的自己同一は、
我々の自己意識によっても分るであろう。
我々の自己意識は、過去と未来とが現在の意識の野において結合し、
それが矛盾的自己同一として動き行く所にあるのである。
単なる直線的進行において自己の意識的統一というものが可能なるのではない。
私の意識現象が多なると共に私の意識として一であるというのは、
右の如き意昧においての矛盾的自己同一でなければならない。
矛盾的自己同一などいうことは考えられないという人の自己は、
矛盾的自己同一的に爾(しか)考えているのであろう。
しかし斯(か)くいうのは我々の意識的統一の体験によって客観的世界を
説明しようとするのではない。
逆に我々の自己は多と一との絶対矛盾的自己同一の世界の個物として
即ちモナド的に爾あるのである。
(改行21終わり)
右の如くにして、歴史的世界において、主体と環境とが対立し、
主体が環境を、環境が主体を形成し行くということは、
過去と未来とが現在において対立し、
矛盾的自己同一として
作られたものから作るものへということである。
歴史的世界においては単に与えられたものはない。
与えられたものは作られたものである。
環境というものも、何処までも歴史的に作られたものでなければならない。
故に歴史的世界において主体が環境を形成するということは、
形相が質料を形成するという如きことではない。
物質的世界というも、矛盾的自己同一的に自己自身を形成するものである。
絶対矛盾的自己同一としての歴史的現在の世界においては、
種々なる自己自身を限定する形、即ち種々なる生産様式が成立する。
それが歴史的種と考えられるものであり、即ち種々なる社会である。
社会というのは、ポイエシスの様式でなければならない。
故に社会は本質的にイデヤ的なものを含まなければならない。
そこに生物的種との区別があるのである。
イデヤ的に生産的なるかぎり、
即ち深き意義においてポイエシス的なるかぎり、
それは生きた社会である。
(改行22終わり)
私のイデヤ的生産的というのは、歴史的物質的地盤を離れて、
単に文化的となるということではない。
それは形成的主体が環境を離れることであり主体が亡び行くことである、
イデヤがイデールとなることである。
主体が環境を形成する。
環境は主体から作られたものでありながら、
単に作った主体のものではなく、
これに対立しこれを否定するものである。
我々の生命は自己の作ったものに毒せられて死に行くのである。
何処までも主体が生きるには、
主体が更生して行かなければならない、
絶対矛盾的自己同一の歴史的世界の種として世界的生産的となって行かなければならない。
歴史的世界のイデヤ的構成力となって行かなければならない。
生産した所のものが世界性を有たなければならない、
即ち世界的環境を作って行かなければならない。
かかる主体のみ、いつまでも生きるのである。
主体が歴史的種として世界的生産的となるということは、
主体がなくなるということではない、
その特殊性を失って単なる一般となるということではない。
無限の過去と未来とが何処までも現在に包まれるという
絶対矛盾的自己同一の世界の生産様式においては、
種々なる主体が一つの世界的環境において結合すると共に、
それぞれがポイエシス的にイデヤ的であり、
永遠に触れるということができるのである。
すべての主体的なもの、特殊的なものが否定せられて、
抽象的一般の世界となるということでもなければ、
すべての主体が合目的的に一つの主体に綜合せられるということでもない。
種の主体的生存ということと、
文化とは必ずしも一致せないと考えられるが、
何らかの意義においてイデヤ的生産的ならざる主体は
世界歴史において生存することはできないであろう。
イデヤは主体的生命の原理でなければならない。
但(ただ)、作られたものとして既に環境的となったもの、
而して作るものを作るという力を有せないものが、
主体から遊離した文化である。
世界を唯作られたものとして見るのが、単なる文化的見方である。
(改行23終わり)
一項、読了。。。
205 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/04/13 12:24
「絶対矛盾的自己同一」を読め!!
206 :
考える名無しさん:04/04/13 12:35
なんで?教えて。
俺が噂のインテリヤクザだけど
何か質問ある?
208 :
くろしろ社会学白痴断見教教祖 ◆U6chzhlKNI :04/04/13 19:25
勇気ある仕返しリスト候補者は
躊躇わず挙手して。
210 :
考える名無しさん:04/04/13 19:30
163 名前:考える名無しさん :04/04/13 19:27
708 名前:考える名無しさん :04/04/13 19:15
436 名前:くろしろ@社会学白痴断見教教祖 ◆hhhB7.B.co :04/04/13 18:59
アホに、以下略
437 名前:くろしろ ◆0XzG1ReVKg :04/04/13 18:59
トリップ変えテスト。
438 名前:くろしろ@社会学白痴断見教教祖 ◆hhhB7.B.co :04/04/13 19:05
たかが2ちゃんでいじめられた事がそんなに悔しいかね。
わからんもんだ。
211 :
くろしろ社会学白痴断見教教祖 ◆bZr/Js8Pj. :04/04/13 19:36
【哲板荒しの厨房コテ】
■ Sophia ◆8ADoZCl6.k (菊千代 ◆X/npAQtXKwほか)
言わずと知れた自己中女。ストレス解消のためだけに出没し意味不明な罵倒やコテ粘着を続けている。
■ じゆん ◆bYRNL78mlE (久蔵 ◆nHHFfUj/w6 議長 ◆nHHFfUj/w6ほか)
自演荒しで自治議論を演出するDQN。重度の虚言癖だが本人はバレていないと思っているらしい。
>>185-186 (改行14までの考察)
まずわからない用語があったので調べてみた。
【質料】 しつりょう ―れう 2 【質料】
〔(ギリシヤ) hyl; (ラテン) materia〕ある形式を備えたものの
材料・素材となるもの。アリストテレス以来、形相と相関した
ものとして用いられ、例えば家の機能や構造形式が形相で、
その素材である木材が質料。個々の現実に存在するものは、
形相が質料を限定することで成り立つ。ヒュレー。⇔形相
【形相】 けいそう ―さう 0 【形相】
(1)物のかたち。すがた。
(2)〔(ギリシヤ)eidos〕ある事象を他のものと区別させ、それを
存在させるのに不可欠な事象の本質的な存在構造。エイドス。
⇔質料
(つづき)
> 多から一へというのは、世界を因果的に決定論的に考えることである、
> 過去から考えることである、機械的に考えることである。
> これに反し一から多へというのは、合目的的に考えることであろう。
これは、どう理解していいのかちょっと判断に迷った部分。
でもまあ、因果論的に、と西田がいうのだから『多→一』とは、過去の多くの経験や知識(多)を
利用して、ある一つの行為(一)を選択する、と言う意味だろう。
また『一→多』と言うのはある一つの現象(一)から、一番理想的な回答を得るために
様々な可能性を選択する(多)。そのような解釈でいいんじゃないかなと思われる。
まあいまさら言うようだが、幾多郎の文章はそのままでは意味が伝わりにくい。
意味を咀嚼するために、ちょっと考える必要がある、そういう風に意味を解体しなけ
ればならない。
その作業を楽しむのが西田の哲学と関わる味と言えば味なのかもしれないが、
面倒と言えば面倒でもある。読む作業にかなりの葛藤が必要だと感じた。
でも哲学書と触れ合う醍醐味というのは基本的にこういうものなのかも知れない
と感じた。
(つづき)
うーん、この部分だけでも西田の文意の策略にはまっているような気がする。
「一→多」の考える形式が「多→一」の決定論および因果論を免れる行為となるとき、
それは創造と呼ばれ。
「一→多」この形式を創造の基本因子と西田は見ているようだ。
また創造する世界の過去と未来の間には、どうやら創造する場としての
現在の姿がある。
しかし
> 何処までも創造的ということは、いつも未来からということであろう、
> つまり過去からということはないのである。
と言うように創造的なものは、未来というものが当然開示されていなければならない
とも西田は言っている。確かに自分自身、納得する部分はある。
でもしかしだ。一つ気に入らないことがある。
それは『現在』についてである。
(つづき)
> 一瞬の前にも還(かえ)ることのできない純粋持続の世界には、
> 現在というものもあることはできない。
当然この理屈はわかるのだけどあえて聞いてみたい。
過去を意識しない、未来を意識しない自己の形式を、『純粋持続の世界』と言っている。
ここに現在はないという。なぜ西田はそう思ったのだろうか?
そもそも過去も未来も必要としない状態とはいったいどういう状態なのか?
それはプログラムされたことだけをするロボットのような行動のことだろうか?
もしそうなのだとしたら、どうして、そのような行為に【現在】がないと、彼は判断した
のだろうか? さっきも言ったが、この理屈はわかるのだ。
しかし私にはこの問いが非常にアマチュアな思想であるようにも思えてくるのである。
『純粋持続の世界』があると仮定しての疑問。
また『純粋持続の世界』が本当にあり得るのかという疑問。
ありうるとしたらどのようなものでどこまでそれを認識できるのかという疑問。
ちなみに『一瞬の前にも還ることのできない純粋持続の世界』とはつまり西田哲学の
大事な要素、『純粋経験』にあたると思う。
>自己否定的に主体を形成するものである。
あ、でもこれは、非常にいいですね。納得です。
217 :
THE グル:04/04/14 12:46
いいですか、
西田幾多郎の哲学は本物の哲学でありまして、
この選択は間違っていないと言うのが定説です。
どうかしましたか?
>>216 そうですね。西田幾多郎は本物の哲学者だと思います。
ちょっとその西田の哲学の真髄に入りたいというのが今回の批判の
理由でもあります。「純粋経験」これへの考察を試みてみたいと思いました。
ご意見があればよろしくお願いします。
>>214 西田の言う「因果的」「機械的」とは、この論文でも述べているように
出来事等が「過去から未来へ」連続的に進行していく事態を、
過去の一出来事が生起すると因果律に則って未来の全出来事が決定してしまう
という事態を指していると自分は思う。
したがって、
>過去の多くの経験や知識(多)を利用して、ある一つの行為(一)を選択する
ということのない事態を指していると思う。
つまり主体的な自由が存在しない事態のことを指していると思う。
「合目的的」というのも同様に、或る目的が設定されるとそれに基づいて
すべての出来事が決定されてしまう事態を、
「未来から過去へ」あらゆる物事が決定されてしまう事態を指していると考えられ、
この事態においても自由が存在しない。
もちろん西田も世界は「機械的」にも「合目的的」にも考えることができると
述べているが、それは世界についての一面的な見方であると断っている。
単に「多→一」でも「一→多」でもなく、「多→一」かつ「一→多」的に、
すなわち矛盾的自己同一的であるときに「創造」というものがあると
西田は言っていると思う。
過去からの影響を引き受けつつ(「作られたもの」)、未来へと働く(「作るもの」)
ところに「創造」があり、この「創造」の場が「現在」であると述べていると思う。
>>216 純粋持続の世界とは、純粋な持続、非連続なき連続の世界であり、
したがって現在もなければ過去も未来もない世界である。
なぜなら、過去・現在・未来は非連続であるから、
すなわち過去・現在・未来はそれぞれ絶対に異なるものであるからである。
だから、単に持続のみ・連続のみがある世界は
これらの区別が存在しない世界・非連続なき世界であり、
したがって現在なき世界である。
だから、
>過去を意識しない、未来を意識しない
ということは現在をも意識しないということであって
>そもそも過去も未来も必要としない状態
ということではなく、端的に過去・現在・未来という区別が存在しない、
と西田はここで述べているのではないでしょうか。
自分は以上のように解釈しました。
とするとおそらく、純粋持続の世界は「認識」を受け入れない世界ではなかろうか
と思われる。
というのも、もし「認識」というものが何かを認識することであるならば、
認識されるところの何かが他の何かと区別される必要があり、
この区別が純粋持続という事態にそぐわないから。
もしそうであるなら純粋持続の世界は「認識」されるのではなく、
単に「直観」される、全体が一挙に感じられるのみであるとも考えられる。
ただ「直観」も何かを直観することとして考えるならば、以上のような考えは成立しませんが。
>>139 133さんへ (因果的、機械的について)
どうもです。
まあ私の意見は意訳だから、なんとも反論しがたいのだけど
多即一、一即多の連関の中ではいくらでも真理は反転する
ものだと思っています。
>>過去の多くの経験や知識(多)を利用して、ある一つの行為(一)を選択する
>ということのない事態を指していると思う。
>つまり主体的な自由が存在しない事態のことを指していると思う。
ここら辺は、ちょっと自分の説明が足りないかなと思いました。
『創造の中という現在の中ではある一つの行為しか選べない』ということを補足すべきだと
思いました。私の言及していることはまったく実践的な視点によるものだと考えてくださると
ありがたいです。西田の思想は非常に実践的な観点から出されたものです。
『作られたもの』『創造』『行為的直観』これらの指す言葉の狙いは単なる哲学的知識を
希求するための哲学書ではなく、おそらく啓発的な意味を踏まえたプラグマティズムに
あると考えています。おそらく私と133さんはそれほど読み方にぶれはないものと考え
ています。私の述べていることが行為的な視点、つまり行為的直観を俯瞰するものだと
考えて頂けると助かります。私はかなりひねくれた読み方をしていると思います。
また人間(ホモファーベル)であることが歴史的身体であることを(改行12まで
>>93-94)で
> 作られたものが作るものを作る、作られたものから作るものへである。
> 故に人間はポイエシス的である、歴史的身体的ということができるのである。
と述べ、動物と人間を区別をしています。
西田が『人間』が『人間』であると思ったのはなぜなんだろうとか。
そのように考えると、『行為的に自由に選択できる』この『考える』という作業が
いかにも人間的であると私は思ったのです。(改行14まで)では西田は執拗なまでに
『考える』という言葉を多用しているようです。そういった中で自分の考察を行いました。
人間と動物の違いにこそ私は『創造』という言葉を当てはめまして、133さんの読み方だと
『人間』でも『動物』でもどちらでもよい観点になってしまうように思われます。
じゃあ次は
>>220 (純粋持続について)
>ということではなく、端的に過去・現在・未来という区別が存在しない、
>と西田はここで述べているのではないでしょうか。
おそらくまったくそのとおりだと思います。それが『純粋経験』による現実の世界だと
言えるでしょう。別にあなたの意見に対抗するわけではないのですが、このような現
実の中で、人は創造を育むことができるんだろうか? そのような問いが私にはある
わけです。
例えば133さんが
>>220の前段でうまく純粋持続の世界を説明しているなあと思うの
ですがこれはつまり禅の思想を純粋持続に援用したにすぎないだけで、(たしかベ
ルクソンは純粋持続を語るとき、過去と未来と現在という区分での説明をしていなか
ったように思うのででも、私は「時間と自由」しか読んでないのでこれも定かではない
が)この純粋持続の世界観はベルクソンの思想そのものの純粋持続と言うより、西田
の禅の思想ではないかと思っているのです。さて私の思うところは一つです。禅の思
想から『創造』が生み出せるか? 私はできないと思うのです。これはつまりどういうこ
とかというと『瞑想からはなにも生み出せない』と言うことです。つまり、禅とプラグマテ
ィズム(実践哲学)は背反(矛盾)しあうものと考えているのです。
私はあるがままに見る『純粋経験』の世界(純粋持続ではないよ)はそのような思想の
弱さを持っていると持っていると考えています。ある意味で絶対矛盾的自己同一その
ものと言えるかもしれません。
あと西田はやはり、自分の弱さに正直な人でした。
西田は30年連れ添った妻をなくし、再婚を考えました。
幾多郎は友人の和辻哲郎に手紙にてこう言うのです。
「種々たる家庭の不幸に逢い人間として耐え難き中を学問的仕事に奮励」
したが正直に言えば「今は心の底に深い孤独と一種の悲哀すら感じる」。
「できるなら今後幾年かの慰藉(いしゃ)ある暖かい生涯を送って見たい」
これはかなり女々しい発想ともいえます。
でもまあ嫌いにはなれません。
そこが西田の良いところなのかも知れません。
もう一度言っておきますが、私はひねくれた読み方をしています。
あと『純粋経験』についてはまた青空文庫で西田幾多郎の『善の研究』の
一章に収められています。とりあえずそこらへんもやはり読み進める必要
があるようですね。
じゆんさん、丁寧な返答をどうも。
なんだか自分の解釈を押し付けるような言い方をしてしまったようで。
>>222で自分の読み方だと「人間」と「動物」の違いがなくなってしまうと
言われましたが、自分もそのあたりの理解が曖昧だと思いました。
おそらく「行為的直観」がいかなる事態を指しているのかを
自分がまだよくわかっていないからだと思う。
そこで「行為的直観」について質問。
自分は「行為的直観」を、歩いている状況を具体例として思い浮かべて、
見ながら働く、働きながら見る事態と理解しています。
歩くことは景色が変わることであり、景色が変わることは歩くことであると。
でも、これだと西田の言う「物を作る」という観点が抜けてしまっているのでは、
と思いました。
でもさらに、「物を作る」時も歩くときと同じように見ながら作る、作りながら見ることである
とも考えられるので、やはりこのような理解でもいいのかなとも思ってしまう。
あと、西田は「行為的直観」的なあり方に「自由」を見ていると思うのですが、
この自由は直観によっていったん過去との連続性を切るところに、
自己が世界のあり方を見て、自己と世界をひっくるめた全体のあり様を
いったん自覚するところに、
つまり過去からの世界全体のあり方を引き受けつつ(認識しつつ)、
未来への展望を考えるといったところに見ているのかな
と思ったのですがどうでしょう。
これら点についてみなさんはどう思われるでしょうか。
レヴェルの低い質問で申し訳ない。
225=133です。変えるの忘れた。
>>133 >なんだか自分の解釈を押し付けるような言い方をしてしまったようで。
いえいえ、そんな、私こそ誤解を与えるような言い方をしてしまってすいません。
行為的直観については、これから読み進めて理解を深めていく必要もあるとは
思いますが、その前に自分の意見も述べてみます。
私もこの行為的直観の『作る』というところまでの観点までは西田自身も曖昧なん
ではないかな、と実は疑っているのです。
作るとき、つまり『創造』時の行為的直観とはどのようなものなのか、について述
べてみようかなと思います。
まず
<『動物』にとっての行為的直観とはどのようなものなのか>
>自分は「行為的直観」を、歩いている状況を具体例として思い浮かべて、
>見ながら働く、働きながら見る事態と理解しています。
>歩くことは景色が変わることであり、景色が変わることは歩くことであると。
とあるように私も動きの中で絶えず意識し続ける自己のようなものを意識します。
では人間は何が違うのか?
<では人間は何が違うのか?>
人間の創造とは私が思うには、「考える葦」さながらに、立ち止まって考える姿
にあると思えるのです。立ち止まって、いろいろな可能性を吟味し、そしてよう
やく一つの選択をえる。このときの選択は合目的でもありながら、機械的でも
あるでしょう。動物は合目的判断しかできないことを考えると、機械的な行動も
選択できる人間の姿はやはり特筆できることだと思います。
つまり私の『創造』に関する行為的直観は行為の中にあるのではなく、むしろ考え
ている自分の中にそのような直観を見出しているのではないかなと、勝手に想像
してしまいました。つまり『考える』ということを西田は、一つの行為と見なしている
のではないかと。
考えることを一つの行為としてみると、それは考えられた記憶となって、完全な
自由が生まれるのではないかなと思えるのです。考えられたことに縛られない
自由は、私はあらゆるの自由の源泉ではないかと理解しています。過去にも未来
にも縛られず、しかし過去と未来からしか与えられるはずもない、『作られたもの』
がこの世に生じるわけです。つまり、その自由の中からしか私は人間の『ものを作る』
という行為は生まれないような気がするのですよ。
ちょっと西田の思想から踏み外している恐れがありますが、まあいいや。
(とくに静止する人間の行為的直観なんて西田は言ってないものなあ。。。)
素人読みですいません。133さんどうもです。また引き続きご愛顧ください。
229 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/04/29 17:42
久ぁ〜!!!
230 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/04/29 17:43
もうここは終わり?
231 :
考える名無しさん:04/04/29 18:54
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232 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/05/03 00:18
定期age
233 :
じゆん ◆bYRNL78mlE :04/05/03 00:19
234 :
ボン中山 ◆PKPKs4sF8s :04/05/03 00:20
そおなのか? 俺今ネカマにはまってさ。某板で痛いキャラをつくり
あげて大笑いしているよ。カヒミに似せようと思うんだが、そう言う服
ってどんな雑誌に載ってるの? オリーブ?
西田哲学の他にも、これは、と思うものはある。
が、何故かどれも難解。
分かるとき、部分によっては、よく分かる
ような気がするし、直感的に重要なことと。
だが、そこから踏み込んでいけない。むしろ
哲学者はわざとやっているんじゃないかと、思ったりする。しかし
むしろそれは、説明できるものではないのだろう。