存在認識は言語認識に先立つ

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1ぴかぁ〜
存在認識は、体験に対して個体の中に描かれる抽象的な心象である。
この存在認識は、生命における原初的な認識である。
そして原始的生命は「集団的に共有された心象」を持っていた。
それは遺伝子により共有されたものであり、また集団生活において共有されたものである。
そして人において、「集団的に共有された心象」が、言語(ラング)へと拡張された。
そして言語は、集団の中で自律的に変化していったのである。

このように人の認識は、集団的に拘束された言語認識と、個人的な存在認識との
二重構造を形成している。
これは言語認識という有意識容易な認識と、存在認識(心象)という有意識しがたい
(無意識な)認識との二重構造である。
このために言語と心象は多くにおいて分離する。言語は社会的な状況に合わせて
つかわれるために、多くにおいて心象とは合わないのである。
これは記号学における二重構造にもつながると考えられる。
2考える名無しさん:04/02/05 22:52
面白そうだから、続けて。
3ぴかぁ〜:04/02/05 22:55
他スレ主題と離れてきたので、分スレしました。
そこでのレスコピペします。

679 :ぴかぁ〜 :04/02/05 01:57
<記号意味というダイナミズム>
認識の元型は存在認識である。存在認識は心象として内的に現れる。
ここには有意識も無意識もない。それらを含めた内的なものだからである。

心象は最大公約数的な心象(心象類)をもつ。これが心象階層構造である。
すなわち、バナナ、リンゴ、イチゴの心象の最大公約数的な心象類は、「くだもの」、「うまい」などである。
このように心象は、階層構造を持ち記憶化されている。
この記憶は、遺伝子という記憶、個体体験という記憶からできている。
さらにはこれらは、個体の体験で共有された心象類、
社会的に共有された心象類、人類的に共有された心象類、生命的に共有された心象類という
構造をもっている。(例えば生命的な心象類は、ほとんど遺伝子記憶を元にしているだろう。)
4ぴかぁ〜:04/02/05 22:56
言語学において
言語表現とは、(特に社会的以上の大きな範囲で共有された)心象類にそれぞれ
与えられたラベルである。
これは心象類というこころに現れる曖昧なものを、社会で共有されたに便利だからである。
言語意味とは、これらの心象階層構造を表す。
リンゴの言語表現の言語意味は、果物、丸い、赤い、木になる、うまいなどである。
5ぴかぁ〜:04/02/05 22:56
記号学においては、
言語と、表現と意味は少し異なる。記号表現は意識されたもの、言語意味であり、
記号意味とは、意識の裏に潜む無意識的意味である。
そして特には、人工物について考えられる。
たとえば「テーブルの上に置かれている一つリンゴ」の記号表現は、果物、丸い、赤い、木になるである。
そして「テーブルの上に置かれているリンゴ」の記号意味は、例えば「寂しさ」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「果物−丸い−赤い−木」から、「果物−丸い−赤い−木−寂しさ」への
新たな関連性の発生である。
「テーブルの上に置かれているリンゴ」を存在認識することにより、新たな心象類の関連を
発見する行為である。
6ぴかぁ〜:04/02/05 22:57
たとえば「女子高生」の記号表現は、高校、女性、若いである。
そして現代における「女子高生」の記号意味は、例えば「退廃」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「高校ー女性ー若い」へ、新たな「高校ー女性ー若い」への
新たな関連性の発生である。
記号表現は、ある意味すでに社会的に静的な価値であるのに対して、
記号意味とは、動的な価値としてとらえられることが多いのである。

私が示した、記号組織化構造とは、動的な記号意味が、現代の情報化社会の中で
ダイナミズムに成長する構造を示したものと言える。
7ぴかぁ〜:04/02/05 22:57
この心象が認識の原型であるという考えは
ソシュール言語論に対して大きな二つのことを示唆する

一つ目はソシュールの言う認識の原型は言語であることを否定すること
二つ目はソシュールの言う言語が差異構造を持つ理由が
言語に先立つ心象の階層構造にあるということである
8ぴかぁ〜:04/02/05 22:58
社会的な心象階層構造において
心象階に言語表現が与えられるとすると
言語意味は心象階である

そして言語表現が与えられることにより
強い意識力のもとにさらされることになる
言語は言語で社会の中で自律的に変化する

ここに心象自体は二重構造を持つことになる
すなわち言語を勝ち得た心象階と
取り残された心象である

たとえばいい女を見たとき
「いい女」と言語表現をあたえ、それに付いてくる言語意味を意識するという
言語思考と
いい女を見たときにおこる心象である

ここでの言語思考は言語構造(ラング)に拘束された思考である。
それに対して心象は個人的なものである
9ぴかぁ〜:04/02/05 22:58
とりあえずここまで。
10ぴかぁ〜:04/02/05 22:59
>>2
まだ考えはじめたばかりでこの程度しかありません。
今後ぼちぼち考えたいと思っています。
11ぴかぁ〜:04/02/05 23:07
その他参照
<記号の解体>
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1075378016/615-619
<記号組織化するハニカムハーツ>
http://aa4a.com/chichannel/honey18.htm
12ぴかぁ〜:04/02/05 23:22
言語を持たない猿にとっても有意識と無意識とはなんだろう?
13考える名無しさん:04/02/05 23:46
>>12
>言語を持たない猿にとって有意識と無意識とはなんだろうか?

その前に、言語を持たない猿に理性は存在するのか?、それを問いたい。
14ぴかぁ〜:04/02/05 23:46
<言語というコミュニケーションツール>
言語とはコミュニケーションの道具である。
それは自己から他者へ、そして自己から自己へという意味での
コミュニケーションである。

ここでは、まず伝えたい事が先にある。
これはコミュニケーション欲を原動力にする。
そしてそれを伝えるために、道具としての言語と使うという図式がある。
伝えたいこととは、自己の中になる心象である。
言語という道具は社会的な共有性を持つものである。
15ぴかぁ〜:04/02/05 23:47
たとえば、自己に他者に対して敬愛的な心象が生まれ、
これは心象であるために、抽象的であり、無意識的である。
それを他者に伝えるために言語という道具が使われる。

これは必ずしも言語でなくてもよい。たとえば言語が異なり、
言語によるコミュニケーションができない場合を考えてみると。

両手で強く握手するという方法を選ぶかも知れない。
ハグするかも知れない。
または満面の笑顔を浮かべるかも知れない。
はにかみ、目を伏せるかも知れない。
相手を叩くかも知れない。
16ぴかぁ〜:04/02/05 23:47
このような行為は、自己と相手含めた状況の中で選ばれる。
それがどのような場所なのか、自己と他者にいままでの関係性、
他者の性格が考慮されるだろう。
言語において同様である。

これはたとえば、作家においても同じである。
作家は想定される読者に対して、自己の心象を伝えようとする。

またこれは自己へ伝える場合も同じなのである。
17ぴかぁ〜:04/02/05 23:48
>>13
>その前に、言語を持たない猿に理性は存在するのか?、それを問いたい。

その前に、人の理性とはなにか?それを問いたい。
18考える名無しさん:04/02/05 23:50
>>12
サルは言語を持たないのですか?
19ぴかぁ〜:04/02/05 23:52
>>18
持つのですか?
20考える名無しさん:04/02/05 23:52
>>17
理性⇔野性。

>>18
「言語を持たない猿」という定義がすでにしてあるじゃないか。

21考える名無しさん:04/02/05 23:54
なにがいいたい
22ぴかぁ〜:04/02/05 23:56
>理性⇔野性。

この考え方がすでに理性主義だと思いますが。

りせい【理性】
(1)感情におぼれずに,筋道を立てて物事を考え判断する能力。
(2)〔哲〕〔(英) reason, (ド) Vernunft〕(ア)感覚的能力に対して,概念的に思考する能力。
(イ)カントの用語。広義には,先天的能力の総称。また狭義には,感性・悟性から区別され,
理念によって悟性認識を統一する能力をいう。→感性・悟性
(ウ)ヘーゲルの用語。抽象的概念の能力である悟性と区別される,具体的概念の能力。弁証法的思考能力。
(エ)神の啓示に対して,人間の自然的知。(オ)宇宙や世界を支配する原理(世界理性・絶対理性)。
やせい【野性】
(野生動物の)生まれたままの性質。自然で本能のままの粗野な性質。「―的」「―味」
23考える名無しさん:04/02/06 00:04
>>22
>この考え方がすでに理性主義だと思いますが。
そうですよ。>>22(1)の能力、(2)(イ)の能力が猿に存在するのか、
感情におぼれなければ自我を認識できることもありえるはず。
24考える名無しさん:04/02/06 00:11
>>19
「言語」って何ですか?
25ぴかぁ〜:04/02/06 00:13
>>23
あるでしょうね。
程度問題ですが。
2623:04/02/06 00:18
>>23
>自我を認識できる
有意識。

>>24
>「言語」
「キキ、キ」=鳴き声または記号の表意
「キキ、キ(ごはん)」=言語
27考える名無しさん:04/02/06 00:21
>存在認識は、体験に対して個体の中に描かれる抽象的な心象である。
この存在認識は、生命における原初的な認識である

これは疑問だぞ。存在認識が生命における原初的な認識である
としたら生命は全て存在への認識が可能だということになる。
存在の認識が可能なのであればつまるところ個体としての自己認識
も可能だということに帰着する。しかし、生物学の分野で自己の生命を防衛
するよりも種の保存を優先させる割合の方が大きい生物などに対して
自己を認識する能力があるという理論を適応させるのは如何なものか
2826:04/02/06 00:24
>(ごはん)
すでに意識している。「キキ、キ」を認識できれば「ごはん」と置き換えられる。
29ぴかぁ〜:04/02/06 00:27
>>27

>存在認識は認識の原型である。原型という意味は、人の認識の原型であると同時に
>生命の認識の原型であるということである。
>すなわち人または生命は「あるもの」としてしか認識しえないのである。
>人は進化において存在認識能力を向上させてきた。
>カエルは動くものと動かないものにしか境界を引けず存在を切り取れない。
>下等な動物は世界を切り取れる力、意識力が弱い。
>これは五感の能力ではない。人は犬の嗅覚には及ばないし、鷹の視力には及ばない。
<記号の解体>より
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1075378016/615-619

これはとても重要なことです。
このように生命は認識能力を向上させてきた。
そして「自己」を認識するのは、外界を詳細に認識しえないと、
内的な自分を切り取ることができないのではないのか?と
考えています。

そしてこれには言語の役割が大きい可能性がある。
心象はとても抽象的であやふやなものだから。
30ぴかぁ〜:04/02/06 00:29
>>24

⇒ げんご【言語】
(1)思想・感情・意志などを互いに伝達し合うための社会的に一定した組織をもつ,
記号とその体系。また,それによって伝達し合う行為。音声によらない手話も含まれる。
文字の使用を含めていうこともある。ことば。ごんご。
(2)〔ソシュールの用語「ラング((フ) langue)」の小林英夫による訳語〕⇒ラング
31考える名無しさん:04/02/06 00:32
>>30
「記号」って何ですか?
3228:04/02/06 00:33
>>30
記号を差し出しても伝わらなくては言語には含まれないのではないだろうか?
33ぴかぁ〜:04/02/06 00:33
>>27
たとえば有形物と無形物の認識のしやすさいうのがある。
当然、目の前にある有形物は認識しやすい。
さらには、物と概念の認識のしやすさというものある。
当然、概念を認識することはとても難しい。
「自己」「愛」「優しさ」「神」などなど

これは言語の力が必要かも知れない。
3432:04/02/06 00:35
>>31
>「記号」
■←これは何でしょう>31さん。
35ぴかぁ〜:04/02/06 00:36
>>31
⇒ きごう【記号】
(1)一定の事象や内容を代理・代行して指し示すはたらきをもつ知覚可能な対象。
狭くは種々の符号・しるし・標識などを指すが,広くは言語や文字,
さらには雨を知らせる黒雲や職業を示す制服なども含まれる。
事象との結びつきが雨と黒雲のように事実的・因果的なものを自然的記号,
職業と制服のように規約的なものを人為的記号と呼ぶ。
また,事象との結びつきが一義的・直接的なものをサインまたはシグナル,
多義的・間接的であるものをシンボルとする分類もある。
交通信号や道路標識は前者の,言語や儀礼は後者の代表である。
(2)特定の学問分野で対象・概念・操作などを表示するために用いられる符号。
「論理―」「化学―」
(3)〔言〕 ソシュール言語学において,能記(記号表現)と所記(記号内容)
の両面をもった言語研究の単位。両者の結びつきは恣意的とされる。
36考える名無しさん:04/02/06 00:37
ぴかぁは哲学辞典をみながら、ネタを考えているに400ぴかぁ
37ぴかぁ〜:04/02/06 00:38
>>32
>記号を差し出しても伝わらなくては言語には含まれないのではないだろうか?

記号論的には、森羅万象すべてが記号と考えますが、
これは人間にとってという意味があると思います。
認識する、されるは前提にあると思います。
3834:04/02/06 00:38
答え:株式会社スクエア

知らなければただの「四角」。
39ぴかぁ〜:04/02/06 00:38
>>36
yahoo辞書ですよ。
40考える名無しさん:04/02/06 00:43
>それは遺伝子により共有されたものであり、また集団生活において共有されたものである。
そして人において、「集団的に共有された心象」が、言語(ラング)へと拡張された。
そして言語は、集団の中で自律的に変化していったの

言語というものは有機体ではない。それは地層に近い。つまり、死んだ
生物が土砂に埋もれ幾層にも積みあがって出来た自然「ぶつ」だ。
そして、パロールとは生きた言語である。死んだはずの自然「ぶつ」
を道具としてそこに生命をあたえそれが機能している社会という最小
要素のことである。それは完全に有機体的なものだ。文化財も言語同様
に死んだ「もの」であり、ラングとは「集団的に共有された心象」
なのではなく、それは完全に無機に帰った使われるための道具でしか
ない。決して心象ではない。しかし、その道具はそれを扱う、または
解読する個人によって新たに生命をその都度与えられる用途である。

というわけで、フロイトが無意識をこの死んだ言語によって復活させよう
とした試みはたぶんに正しい。なぜなら言語とはそれを読むものにとって
(これまた消失したはずの)過去から心象を現在に現出させて、明確に
その当人が抱えている抑圧や表象代表やその派生物を認識させることが
できる。(表象代表は認識させちゃだめだったっけ?まあいいか)
つまり問題解決の糸口となることは確かだから
41ぴかぁ〜:04/02/06 00:46
なぜ概念を認識するのが難しいかというと、
存在認識の「心象階層構造」で考えても、階層の高次に現れるからではないだろうか。

猿の集団がいて、猿Aに対して、やさしい猿が数匹いたとして、
そのやさしい猿たちとの経験から、最大公約数的に「やさしさ」は現れる。
しかしここから「やさしさ」を抽出することはとても難しい思う。

これは猿Aに対してやさしい猿たちの最大公約数が他にもたくさんあるからだ。
42考える名無しさん:04/02/06 01:00
>>38
>これは人間にとってという意味があると思います。
>認識する、されるは前提にある
何故?
本当に説明を聞きたい。
単純に「動物にだって言語はある」って思ってしまうです。
4338:04/02/06 01:03
>>42
アンカー>>37だろ。
44ぴかぁ〜:04/02/06 01:09
>>40
<言語というコミュニケーションツール> >>14-15に、書きましたが、
言語はコミュニケーションツールです。これは内的な心象を伝えたいという
つよい欲望によるものです。
すなわち心象が先にあり、どのように伝えるかは状況にあるものです。

ここでラングとは社会的に共有された言語の体系です。
そしてパロールは、相手が社会よりも小さな範囲の相手ですから、
ラング的な大系よりも、相手に伝えることが優先されます。
言語という道具は、より自由に使われるのです。
そしてこのようなパロールとして言語が繰り返えし使われることにより、
社会的に共有され、ラングとして組み込まれます。
すなわちラングは社会的な共有性であり、
パロールとはより小さな集団での共有性なのです。
そしてその共有の基礎となるものは、自己の心象でしかないのです。

そして心象の内の言語化された部分は有意識しやすいが、
残された物は、無意識的なのです。フロイトが無意識を言語化したということは、
この言語化されなていない心象を言語化しようとしう試みと考えることができます。
45考える名無しさん:04/02/06 01:11
>認識の元型は存在認識である。存在認識は心象として内的に現れる。
ここには有意識も無意識もない。それらを含めた内的なものだからである。

これがいわゆる自己表現という自己同一性の求めに応じた発話の個人的
存在を世界に投げかけている無意識的要素だろう。ここを感じ取るのは
臨床の仕事だろうが、必ずしもそれは自分のことについて話すという
ことには繋がらないものだと思うが。つまり、それは表現されている
という文化的自己の発話であり必ずしも欲動がそこから発するわけではなく
そこに文化的位置付けとしての個人が自身によって表現「されてしまう」
ということになるのだと思う。表現が有罪判決のあとに客観的な発言ならば
欲動はそこからは読み取れない。
46ぴかぁ〜:04/02/06 01:15
>>42
私の意見を書きますと、
動物には、コミュニケーションがあり、「記号」はあると思います。
だから「言語」もあるといってもいいかも知れませんが、
一般的には「言語」は人のみが持ち得ていると考えますね。
これは以下の意味において、動物は記号の体系化の度合いが低いということでしょうか。

>⇒ げんご【言語】
>(1)思想・感情・意志などを互いに伝達し合うための社会的に一定した組織をもつ,
>記号とその体系。
47考える名無しさん:04/02/06 01:21
>>47
うーん・・・腑に落ちない。
結局その「体系」は 人間の様々な言語体系をモデルとして考え出しだものでしょう?
「度合い」といっても、自分たちの「体系の度合い」から判断するものですよね?

なんかフェアじゃない・・・と感じる。
48ぴかぁ〜:04/02/06 01:24
>>45
心象は完全には共有し得ないから、コミュニケーションしたいという欲望が
うまれるのだと思います。
そして言語(特にラング)は社会的な共有を前提する、逆に言えば「社会的拘束」を
前提にしているために、
パロール的自由度を生み、また文学、詩などの観念的言語表現を生むのだと思います。
49ぴかぁ〜:04/02/06 01:28
>>47
人間は人間中心主義なのですね。
たとえば、さきほどの動物に理性はあるのかという話がありましたが、
これは(人間と同じほどに)理性的なのか?という意味がある。
さらには、人と動物には差があり、それが理性であるという思想があります。

これの「理性」を「言語体系」に置き換えるといいでしょうね。
50考える名無しさん:04/02/06 01:32
>すなわちラングは社会的な共有性であり、
パロールとはより小さな集団での共有性なのです。
そしてその共有の基礎となるものは、自己の心象でしかないのです

そういえないこともないが、あなたはカントが言う意味での人間の直観、
空間と時間がどのように人間に感性的直観として現れるかについてどう
考えるか。つまり、時間というものはまず常住不変なものとして表れ
それが継起していく様態。言語というものが固定した常住不変なものと
して人間に知覚される。それが継起することによってそこに意味が現れる。
つまり、言語(ラング)はもともと共有されているものとして考えるならば
パロールももともとそういう常住不変なものとしてあり、それが特定の狭い対象
のための道具としてあるということになってしまう。それではパロールとラング
の様態が同じものになってしまう。そうではなくてやはりラングは共有性の「もの」
でありながら死んだ言語であり、それとはまったく種類の違うパロールは
その共有性を使用することで手段としてあるものであるといい方でないと意味が
通らなくなる
51ぴかぁ〜:04/02/06 01:35
芸術とは、言語(ラング)という社会的制約によっては、
表現し得ない心象を、作品としてむき出しにするのだと思います。
だからこれは個人的に自己内に現れた心象なのです。

そしてそれが他者に伝わったときに、本来、共有し得ないはずの心情と心象の生な
コミュニケーションとなるために、驚きと感動を生むのだと思います。
それが受け手側の錯覚だとしてもですが。
52ぴかぁ〜:04/02/06 01:53
>>50
「カントが言う意味での人間の直観、 空間と時間がどのように
人間に感性的直観として現れるかについて」いうのならば、
人がもっとも深く共有しえるのは、遺伝子により伝わった生理です。
遺伝子情報は人の間ではほとんどにおいて同じです。そして
そして進化という時間変化において、人の文明進歩は瞬間ですから、
私たちは多くにおいてコピー品なのです。
ならば、人間の直観、 空間と時間に深い共有性があってもいいでしょう。

では言語は?と考えると、その元には、遺伝子情報的「感性的直観」が
あってもいいでしょう。それが心象の社会的共有です。
だた抽象的心象に比べ、言語が言語表現を持っているがゆえに扱いやすい。
そのために言語は生まれたのだと思いますが。
そしてそれはコミュニケートしやすいのです。だから道具なのですが。
コミュニケートしやすいとは、変化しやすいということです。
もともとも共有された心象にくらべ、自律的に変化しやすいということは、
言語は、コミュニケーションの中で自律的に成長するということです。
だから世界にはこのような多様な言語があり、さらに地域によって
変化があるのです。
ここではラングはこのような流動するラングを、使いやすいように時代性の中で
共有されてる部分を体系化したものが、ラングであり、
まさにいま社会で流動しているのがパロールです。
53考える名無しさん:04/02/06 02:06
社会とは機能であり、コミュニケーションという要素が複雑に
交じり合っている。それは言語分野でいえば、誰かが「あ」という
言葉を発しそれがコミュニケーションという共同体の領域に入った
瞬間、つまり誰かがそれを聴いてその意味を捉えた瞬間に社会全体は
移動するのである。それは絶えず繰り返され捉えることのない全体
としてある。1円が市場に投じられるということはそれが貨幣という
コミュニケーション領域で同じように投じられたことによって市場が
微妙に動くのと同じことである。ということはコミュニケーションとは
生きている。有機的な機能なのだ。そして、ラングは無機的なもの
なのだ。冷たい硬貨と同じだ。共同体とは機能のことであり、これこそ
社会である。捉えることはできない。捉えるということはいつでもそれは
爾後的な模造物であり、機能を言語化することは点で捉えることに近い。
そして、共同体とはいつでも投げ出しとそれを受け取る側との無差別的な
公場であり、たぶんにそこからしか個人が世界に対してコミットできる
場所はなく(というのは哲学、社会学という学問が吹聴する一般での
偽りと思うがそのことはここではいわない)その共同体との関わりは
個人的な意志によってしか決定されない。つまり受け取り側と投げかけ側
は手前勝手な参加しかできないし強要はできない。「馬鹿の壁」は
ここから生れる。これは当たり前としかいいようがなく誰も責めることは
できない。
54今はお腹痛くないPart2:04/02/06 02:09
55ぴかぁ〜:04/02/06 02:13
>>53
多くにおいて同意しますが、
>コミュニケーションとは生きている。有機的な機能なのだ。
>そして、ラングは無機的なものなのだ。

これは微妙ですね。ラングも有機的なものです。
ただ変化速度が遅い。
その理由が、人為的な面も大きいと思います。
社会には言語体系について監視する体制があります。
言語学者であり、教育者であり、行政です。
これは言語が文化であるからです。
速い速度で変化しては、秩序ある社会が保たれないという危惧があります。
だから体系化し、逸脱を見張り、指摘するのです。
56ぴかぁ〜:04/02/06 02:17
言語の変化速度をいえば、当然ラングよりパロールが
早いのですが、
シニフィエ(言語表現)よりもシニフィアン(言語意味)の方が、
早いのではないでしょうか。
これは言語表現が、明確で監視しやすい対して、
言語意味はもともと心象そのものですから、まさに生き物です。
これはまさに記号学における意味(無意識的意味)も絡みますし、
情報化社会の中でうごめいています。

たとえば、「女子高生」のシニフィアンは?
57考える名無しさん:04/02/06 02:20
>53
おい、そこの部分は完全否定させてもらうぞ。
土俵を変えて悪いがラングは完全に無機物だ。
あーでもこれは想像の問題だからなー
58ぴかぁ〜:04/02/06 02:29
>>57
有機的ですよ。遅くとも変化しますから。
59考える名無しさん:04/02/06 09:00
60ぴかぁー:04/02/06 11:41
まとめると
言語を持たない生物の認識は
集団に共有された集団的存在認識(心象類)とそのときに一度だけ宿る個体的存在認識の二重構造でできている
心象階は種に渡る遺伝的なものと社会集団に渡る後天的なものがあるが
その境界は曖昧である
下等な動物ほど遺伝的なものに依存することになる
心象階は集団内のコミュニケーションにより時代的に変化する
認識は集団的心象類に拘束されながら、一度かぎりの個体的心象を描くことである
61ぴかぁー:04/02/06 12:03
言語を持ち得た人は
心象類に言語表現というラベルを与えた。
これにより曖昧な心象類は社会的な共有性を高め、コミュニケーションを容易になった。さらに心象類自身を言語化すりことにより
社会的に共有された言語意味を与えた

ここにラングとしての言語が体系がされた

心象類に言語表現というラベルを与えながら、その心象類をラベルにより言語意味を与える行為は
自己言及的である
これは心象類を存在認識する、すなわち自己認識的行為である
人の自己認識能力はこのようにして取得されたのではないだろうか
62考える名無しさん:04/02/06 12:10
どうも、心象ということばはピンと来ないのだがねぇ。イマージュとか
気取って言ったほうがいいのにな。
63考える名無しさん:04/02/06 12:16
イメージの時代だからな
64ぴかぁー:04/02/06 12:29
I ó Nous voulons examiner les différents discours sur l'art qui
, en prenant appui sur des notions philosophiques, entreprennent
de justifier l'oeuvre, de la légitimer, de la valoriser, ou tout
simplement d'y trouver l'illustration de théories : de la manife
station du réel, du jaillissement du sens, du surgissement des
valeurs, des mécanismes de la perception. Dans ce dernier cas
l'oeuvre apparaît comme la métaphore concrète d'une articulation
théorique.

Nous voulons faire état du paysage philosophique et culturel sur
fond duquel toute oeuvre s'élabore. Dans ce paysage, les philosophies
sont des vues privilégiées, des tableaux du monde que l'oeuvre d'art
parvient à rendre visible : l'oeuvre s'est élaborée à l'intérieur
d'un projet philosophique de rendre le monde visible.

L'artiste n'analyse pas son époque, il s'identifie à celle-ci; il
ne thématise pas les idées il les fait exister. Il ne s'agit pas
seulement rendre la théorie visible mais aussi de la rendre concrète.
Il ne s'agit pas seulement de donner le spectacle de la théorie mais
de la proposer comme expérience.
65ぴかぁー:04/02/06 12:30
集団的な心象類は言語化される。
時代の中で無数のコミュニケーションが繰り返されることにより自律的に変化する。
これが記号自己組織化構造である

コミュニケーションとは自己の中に生まれた心象を相手に伝えようという行為である。
そのために社会的に共有された言語が用いられるが、
心象を社会的言語体系のみで伝えるには限界がある
このために道具としての言語が
本来の言語体系を離れてつかわれる
これがパロールである
このような言語という道具を使う創意工夫が
時代性の中でラングをも変化させていくのである
66ぴかぁー:04/02/06 12:36
ここには
言語(社会的な言語表現+社会的言語意味)と個人的な心象という
二重構造が存在する

さらに自己認識能力の獲得など、存在認識により心象を生む構造にも
言語認識能力は侵食している
67ぴかぁー:04/02/06 12:36
ここには
言語(社会的な言語表現+社会的言語意味)と個人的な心象という
二重構造が存在する

さらに自己認識能力の獲得など、存在認識により心象を生む構造にも
言語認識能力は侵食している
68ぴかぁー :04/02/06 12:42
心象に関して以下参照
L'image filmique, d'après Bergson, serait alors une coupe immobile
du mouvement, c'est-à-dire l'un des vingt-quatre photogrammes qui
défilent dans une seconde.
Mais pour Deleuze, le problèmeest plus complexe que cela*, face
à une démonstration qui semblait sans faille, il parvient à émettre
une objection : la reproduction de l'illusion ne serait-elle pas
également sa correction ?
Il va insister sur le fait que l'on ne perçoit pas 24 coupes immobiles
mais une "image moyenne" contenant du mouvement, "le mouvement ne
s'ajoute pas, ne s'additionne pas: le mouvement appartient au contraire
à l'image moyenne comme donnée immédiate" comme pour la perception
naturelle. Deleuze, à la différence de Bergson, ne nie pas le fait qu'il
y ait une différence entre la perception naturelle et la perception
cinématographique, il explique : "l'illusion est corrigée en amont de
la perception, par les conditions qui rendent la perception possible dans
le sujet. Tandis qu'au cinéma elle est corrigée en même temps que l'image
apparaît".
69ぴかぁー:04/02/06 12:49
偽コテやめてください
70 ぴかぁー:04/02/06 12:59
さて身体の心像において逆説てきに了解は主観性を与えるが、任意の
contractionにはひとつの特異点が存在する。
それは単純な対象化を伴わない内的構造をなすところで了解の位相同
相写像を保持する。
しかし事象の系列の欠落はどのように位置づけられるのか?
探究は今始まったばかりである。
このいばらの道に立つ今の私に必要なのは認識の勇気である。
71ぴかぁー:04/02/06 13:08
記号論的意味とは

個人的心象を動力とした変化する記号組織化構造を解明することいえるかもしれない
たえず学術的な意味でのラングとは時代の中で変化する一点を切り取り体系化した
ものでしかない
そこにはたえず変化し続ける言語との差異が存在する
そしてポストモダンにおいて記号論が大きな意味を持ち得た理由は
ポストモダンではこの差異が広がっているからである
情報化社会の中で言語記号の意味は、加速度的にダイナミックに変化しているのである

そして記号論的意味を考えるという行為もこのダイナミズムの外には出られない
72ぴかぁー:04/02/06 13:10
とりあえずここまで
73ぴかぁー:04/02/06 13:40
では心象とはなにかと考えれはある存在を体験したときに現れる
個体内部の変化全てに対する塊である

たとえば神経生理構造においては外的刺激そのものが内的に現れるわけではない
刺激は内的な心象として認識されるのである
74考える名無しさん:04/02/06 15:58
ところで言語学では現在ソシュールの評価ってどうなん?
75考える名無しさん:04/02/06 16:04
ぴかぁーって、ピカチュウなのか?
で、ゲシュタルトとの関係はどうなのよ。
76考える名無しさん:04/02/06 16:10
つまんねーカスしかいねえから帰るわ
77考える名無しさん:04/02/06 16:27
>>75
431 :夢魔 ◆ULFoMaooII :04/02/01 21:52
  >>430 PIKER:━《名》[C][1 けちな賭博(とばく)師.][2 けちな人; 用心深い人.]( ̄ー ̄)ピカァー
78ぴかぁー:04/02/06 17:15
そもそも指示する働きは指示するものと指示されるものとの定立における、指示するものと
指示されるものとの間に指示関係を設定することの上に成立する
これは間身体性ではなく身体内在性に他ならない
つまり折り込まれた指示関係においてはじめて意味を持つのであり、ここから「心がある」
という物象化的認識を劇的に刷新し、本来の心の様式に到達することができるだろう
79考える名無しさん:04/02/06 17:27
だれか止めてやれよ
80考える名無しさん:04/02/06 17:53
ぴかぁーすげー
ソシュールとウィトゲンシュタインをまとめて一気に乗り越えちゃったよ。
81考える名無しさん:04/02/06 17:56
>>81
我々は歴史的事件の目撃者だ。
82考える名無しさん:04/02/06 18:28
ラングの変化の例を具体的に挙げてみい?>ぴかぁ
83ぴかぁ〜:04/02/06 18:38
>>82
ラングが変化しないなら、
共時態、通時態という概念がなくなりますよ。
84考える名無しさん:04/02/06 18:53
名無きは天地の始め、名有るは万有の母。
85ぴかぁ〜:04/02/06 19:11
<存在認識は言語認識に先立つ>

生命の認識の原型は、存在認識である。存在認識とは、存在に対して内的な
心象を描くことである。そして心象は個体内部の変化全てに対して現れる塊である。
たとえば神経生理構造においては外的刺激そのものが内的に現れるわけではない。
刺激は内的な心象として認識されるのである。
86ぴかぁ〜:04/02/06 19:11
言語を持たない生物の認識では、集団に共有された集団的存在認識(心象類と呼ぶ)と
そのときに一度だけ宿る個体的存在認識(心象)の二重構造でできている。
心象類は種に渡る遺伝的なものと、後天的で社会生活で積み上げられた
文化的なものであるが、その境界は曖昧である。(これは遺伝子の開放系特性による)
下等な動物では遺伝的なものの比率は大きいだろう。
心象類は抽象的で、コミュニケートが難しいために、緩やかであろうが集団内の
コミュニケーションにより時代的に変化する。
言語を持たない生物の認識は、集団的心象類に拘束されながら、一度かぎりの
個体的心象を描くことである。
87ぴかぁ〜:04/02/06 19:12
言語を持ち得た人では、心象類に言語表現というラベルを与えた。
これにより曖昧な心象類は、社会的な共有性を高め、コミュニケーションが容易となった。
さらに心象類自身を言語表現により説明することにより、社会的に共有された
言語意味を与えた。ここにラングとしての言語が体系される。
しかし心象類に言語表現というラベルを与えながら、その心象類をラベルにより
言語意味を与える行為は、存在認識を存在認識するという自己認識的行為である。
人の自意識はこのようにして取得されたのではないだろうか。

集団的な心象類が言語されたことによって、コミュニケーションが活発化する。
時代の中で無数のコミュニケーションが繰り返されることにより、言語は
自律的に変化する。これが記号自己組織化構造である。
88ぴかぁ〜:04/02/06 19:12
コミュニケーションとは自己の中に生まれた一回限りの心象を相手に伝えようと
いう行為である。そのために社会的に共有された言語(ラング)が用いられるわけであるが、
心象を社会的言語(ラング)体系のみで伝えるには限界がある。
このために言語は、より心象を伝えようと道具として創意工夫され、つかわれる。
これがパロールである。
そしてパロールという言語の利便性は、時代性の中で体系化され、ラングを変化させていく。

言語(ラング)は、社会的な共有性が要求される、社会的な拘束を含んでいるが故に、
時代の中で記号組織化しつづける言語の一瞬を切り取り、体系化したものにしかすぎず、
たえず差異が存在する。
それは社会的な言語(社会的な言語表現+社会的言語意味)と個人的な心象という
二重構造によるものである。
ただこの二重構造においては、社会的な言語(ラング)構造は、存在認識により
心象を生むという構造そのものをも侵食している。
89ぴかぁ〜:04/02/06 19:13
記号論的「意味」とは、社会的に体系化された言語(ラング)と、体験という個人的心象を
動力とし記号組織化しつづける言語の差異を解明することいえるかもしれない。
そしてポストモダンにおいて記号論が大きな意味を持った理由は、ポストモダン以降では
情報化社会の中で言語記号意味の記号組織化は、今までにないような加速度的に
ダイナミックに変化しているのである。そして差異が広がっているという現状が
によるものを考えられる。
そして記号論的意味を考えるという行為されも、このダイナミズムの内部にあるのである。
90ぴかぁ〜:04/02/06 22:30
全体まとめました。

<存在、言語、記号の世界>
認識の原型、個体における存在認識の世界、集団における存在認識の世界
言語認識の社会、記号認識という現代社会
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1067605998/212-226
91ぴかぁ〜:04/02/06 23:06
ここでは、
有意識とは、世界に境界を想定する力であり、
自意識とは言語により開拓された内的心象であり、
無意識とは言語化に取り残された内的心象である。

有意識とはすることであり、無意識とは心象である。
92ぴかぁ〜:04/02/06 23:08
さてと、
93ぴかぁ〜:04/02/06 23:11
訂正
ここでは、
有意識とは、世界に境界を想定する力であり、
無意識とは集団的な心象類(言語化)から、取り残された個人的的心象である。
自意識とは言語により開拓された内的心象である。

有意識とはすることであり、無意識とは心象である。
94考える名無しさん:04/02/07 09:08
見えても手に触れなければ無いと言うだろう。
見えずとも手に触れれば有るというだろう。
視覚で存在認識がなされるのではない。
95ぴかぁ〜:04/02/07 14:25
>>94
視覚という感覚だけを取り上げてもあまり意味がない。
存在は総合的な感覚から作り出される心象です。
極端な話、目が見えない人(視覚がない人)も見えています。
96ぴかぁ〜:04/02/07 21:38
パロール的(言語表現ー言語意味)解読表

私は、コミュニケーションとは、まず私の中に心象があり、
それを以下に伝えるかという道具としての言語があるといった。
伝達されるのは言語表現としてのコードのみである。
そしてコミュニケーションする双方が同じコードを解読表(コードと意味の関連性)を
持っているために、その意味のコードのみを伝達すれば、
相手がそれを解読して意味が伝わるわけである。
これはラング的コードを解読表である。
97ぴかぁ〜:04/02/07 21:39
しかし実際のコミュニケーションでは、伝えたい物は抽象的な心象である。
それをまずコード化することがとても困難である。
それでも、コードのみで相手に抽象的な心象を伝えなければならない。
ではどうするか?
まずラング的コードを解読表という共有性を拡張するのである。
実際に我々はラング的コードを解読表以上の共有性を持っている。
同じような体験をすれば、近い感情を持つ。それが抽象的な心象でも
多くにおいてそれは共有されている(ように見える)。
私たちは限りなく近い遺伝子のコピー品だからだ。
そして相手をしれば、さらに共有性は深まる。
98ぴかぁ〜:04/02/07 21:39
すなわちこれは、ラング的コードを解読表を改良し、相手にあわせた限定的な
パロール的なコードを解読表を作るのである。
そのためには相手を知ることが必要である。相手を深く知れば知るほど、
パロール的な解読表は、心象を的確に伝えられるようになるのである。
たとえば熟年夫婦において「あれ」だけで、それが何をさし、どうしてほしいのか
わかるのは、パロール的な解読表が限りなく心象を伝えるのに適したひとつの例である。
しかしこれなどは、コミュニケーションが言語だけに依存していないことがよくわかる例でもある。
すなわちコミュニケーションとは心象の共有化であり、それは言語である必然もないのである。
99・ ◆32reqGPkuc :04/02/07 21:44
言語が存在に先立つ……みたいな事を
この間は言ってませんでしたっけ??

……言ってないか
100考える名無しさん:04/02/07 21:55
すごいです!
ぴかぁ〜さん、ぜひうちで出版させてください!
101考える名無しさん:04/02/07 22:11
ちくびぎゅーん
102ぴかぁ〜:04/02/08 00:08
記号組織化するハニカムハーツ
  加速する記号組織化
  存在、言語、記号の世界
http://members.at.infoseek.co.jp/myselfism/chichannel/
http://aa4a.com/chichannel/
(携帯)
http://members.at.infoseek.co.jp/myselfism/chichannel/left.htm
http://aa4a.com/chichannel/left.htm
103考える名無しさん:04/02/08 00:21
こいつら言うだけ言ってますって感じだな
104ぴかぁ〜:04/02/08 00:22
>>103
たとえば?
105考える名無しさん:04/02/08 00:23
応援しています。
気になった点。
まだ>>7までしか読んでないので、そこまでですが。
また今度続き読みますね。

>>7
>一つ目はソシュールの言う認識の原型は言語であることを否定すること
ソシュールは、シニフィアンとシニフィエとの関係に拘った。
シーニュと指示対象との関係については、それほど積極的に論じていない。
106ぴかぁ〜:04/02/08 00:30
>>105
ありがとうございます。
ここにまとめましたので、これ読んでもらったほうがいいと思います。
存在、言語、記号の世界
http://members.at.infoseek.co.jp/myselfism/chichannel/honey19.htm

確かに言い過ぎかも知れませんね。
ソシュール「一般言語学講義」も死後に講義をまとめられた物で、
いろいろ問題があるようで、ソシュールがどこまで考えていたか、
議論がありますね。
107考える名無しさん:04/02/08 00:32
あとダッシュで読み飛ばした。
揚げ足取りばかりでスマン。
ほんとに今度ちゃんと読みます。

>>60
>心象階は種に渡る遺伝的なものと社会集団に渡る後天的なものがあるが
>その境界は曖昧である
>下等な動物ほど遺伝的なものに依存することになる

逆じゃないか? 遺伝的なものに依存しているほど下等であると「みなしてしまう」。
108考える名無しさん:04/02/08 00:33
>>106
どうもです。
109ぴかぁ〜:04/02/08 00:39
>>107
下等な動物ほど遺伝的なものに依存することになる?
遺伝的なものに依存しているほど下等である?

どう違うのでしょうか?
110考える名無しさん:04/02/08 01:27
ところで心象の内容というと・・?
111ぴかぁ〜:04/02/08 02:16
>>110
<存在、言語、記号の世界>参照
http://members.at.infoseek.co.jp/myselfism/chichannel/honey19.htm
112ぴかぁ〜:04/02/08 04:58
>>107
>揚げ足取りばかりでスマン。

どんどんお願いします。
そのためにここにいますし、刺激になりますので。
113考える名無しさん:04/02/08 05:02
いろいろ説を打ち立てる行動力に拍手。まぁ、頑張れや。そして、言葉を送ろう。





 恥 は 過 去 ロ グ に 残 る ! ! !






114ぴかぁ〜:04/02/08 05:50
>>113
たとえば?
115考える名無しさん:04/02/08 17:26
あんたさんざん糞スレたててたじゃん。
荒れてないのは珍しいんじゃねーの?
116考える名無しさん:04/02/08 18:10
>>114
悪魔スレ
117考える名無しさん:04/02/11 23:35
九論文みせてみ
118考える名無しさん
age