<存在、言語、記号の世界>
*認識の原型
生命の認識の原型は、存在認識である。それは「あるもの」という認識、存在認識である。
意識という力により、この世界の中に境界を想定し切り取ることである。
そして存在認識するとは、私内部に心象を描くことである。
心象は個体内部に、五感を通して受けた情報がおよび内的な記憶、生理の
変化全てに対して総合された形で現れる塊のようなである。
たとえば神経生理構造においては外的刺激そのものが内的に現れるわけではない。
刺激は内的な心象として認識されるのである。
ここには有意識も無意識もない。それらを含めた内的なものだからである。
たとえば、赤い丸いボールの存在認識とは、外部の認識し得ないボールそのものに対して、
知覚を通して、内部に描かれる赤い、丸い、など情報の総体、すなわち心象である。
*個体における存在認識の世界
存在認識が生命の認識の原型であるとは、すなわち人または生命は「あるもの」としてしか
認識しえないということである。
人は進化において存在認識能力を向上させてきた。
カエルは動くものと動かないものにしか境界を引けず存在を切り取れない。
下等な動物は世界を切り取れる力、意識力が弱い。
これは五感の能力ではない。人は犬の嗅覚には及ばないし、鷹の視力には及ばない。
存在認識とは、知覚した「目の前」のものを基本とする。
「目の前」のものとは唯一無二の存在である。
「目の前」のバナナは世界の中で「目の前にしかない」バナナである。
それは内部に一度かぎり現れる唯一無二の心象である。
そしてそのバナナを食べた場合には味覚としてのおいしいという情報が加わり
バナナの心象は作られる。
そしてこのバナナ1の心象が記憶された場合に、
次にバナナ2を存在認識した場合には、バナナ2とバナナ1の心象の記憶は比較される。
そこで近似的であることにより、同類性が確認される。
そしてバナナの存在認識が繰り返されることにより、内部にバナナの最大公約数的心象(心象類)が
形成される。黄色く、長く、おいしいというバナナの「心象類」が形成される。
さらにこのように記憶に様々な心象類が存在する場合、
「みかん」という心象類と「りんご」という心象類の最大公約数から、「たべもの」や「おいしい」などの
高次の心象類が形成される。
また「リンゴ」と「丸い木」では、「丸い」、「赤い」などの高次の心象類が形成される。
このようにして存在認識は、心象類を階層的に形成した記憶構造を形成する。
そしてこの心象階層構造の複雑性は、意識という力の強さによる存在認識能力により
決定される。
*集団における存在認識の世界
個体における心象階層構造を示したが、集団性を考慮する必要がある。
個体とは階層の集団であり、上位層の個体の一部である。
すなわち私は細胞の集まりであり、社会の一部であるということである。
集団とは単に集まったものでなく、そこに共有された「情報」が存在すると
いうことである。これは私は細胞の共有された「情報」をもち、
社会の共有される「情報」をもっているということである。
まず大前提としてはほぼ同じ心象発生システム、すなわち生理システムを
もっているということが前提にある。
その上で「情報」の共有として考えられるのが、体験の共有である。
単純には空間的な近さと、近さの時間的な持続長さである。
小さな集団(人ならば家族や友達や恋人など)とても体験の共有性が高い。
そこにはコミュニケーションがあり、個体と同様に、集団の中に心象階層構造がおこる。
彼等の中の「バナナ」の心象類はとても近いものになるはずである。
心象階層構造は多くにおいて他者と共有されているということである。
すなわちこの心象階層構造は私という個体の内部にあるものでなく、
コミュニケーションにより、社会という個体の心でもあるといえる。
しかし世界を切り取れる力、意識力が弱い下等動物における高い集団性は、
遺伝子という先天的情報の伝達によるものが大きいだろう。
蜂などは遺伝子により、肉体形態までが、集団性により規定されている。
彼等は生まれながら社会という集団性を形成するための共有された情報を
もちえているのである。
生命は多かれ少なかれ、このような先天的な共有される情報を持ち、共有性を
維持しているのである。ではどこまで先天的でどこまで後天的か?
これはむずかしい問題である。
なぜならこのような遺伝子情報はそれのみで完結していないからである
すなわち遺伝子情報は可能性を秘めた情報だからである。
後天的な体験により現れたり、死ぬまで現れなかったりするのである。
これが一番わかりやすいのが種間の共生関係だろう。
ある種の植物と昆虫は、遺伝子情報はお互いの存在がいる可能性が組み込まれている。
ある植物は限定されたその昆虫がやってくることによってのみ受精が可能である。
これは人についてもいえる。私たちの体には無数の細菌が生活している。
生まれて、もしその細菌が体に入らなければ我々は生きることができない。
生まれて細菌がはいることを想定して、遺伝子情報はできているのである。
すなわち後天的な体験を予測して遺伝子情報はできていることであり、
一見、後天的な体験により手に入れたと思われた情報も先天的遺伝子情報の
スイッチでしかないことが考えられるのである。
バナナのおいしさは食べてからわかったのか?食べる前から知っていたのか?
生命は、言語習得の前に遺伝子情報の共有、そして空間的に近い個体間の
体験の共有により集団的な心象階層構造を持ち得ていたと考えられる。
このような考えは、ソシュール言語論に対して二つのことを示唆する。
一つ目はソシュールの言う認識の原型は言語であることを否定すること。
二つ目はソシュールの言う言語が差異構造を持つ理由が
言語に先立つ心象の階層構造にあるということである。
このように言語を持たない生物の認識では、集団に共有された集団的心象類と
そのときに一度だけ宿る個体的心象の二重構造でできている。
心象類は抽象的で、コミュニケートが難しいために、緩やかであろうが集団内の
コミュニケーションにより時代的に変化する。
言語を持たない生物の認識は、集団的心象類に拘束されながら、一度かぎりの
個体的心象を描くことである。
*言語認識の社会
人は心象類に言語表現というラベルを与えた。
さらに心象類自身を言語表現により説明することにより、社会的に共有された
言語意味を与えた。ここにラングとしての言語が体系される。
しかし心象類に言語表現というラベルを与えながら、その心象類をラベルにより
言語意味を与える行為は、存在認識を存在認識するという自己認識的行為である。
人の自意識はこのようにして取得されたのではないだろうか。
そして曖昧な心象類が言語化されることにより、存在の社会的な共有性を高め、
コミュニケーションが容易となった。
コミュニケーションとは自己の中に生まれた一回限りの心象を相手に伝えようと
いう行為であり、まず伝えたい事が先にある。
しかし伝えたいこととは、自己の中にある抽象的で、無意識的な心象である。
そのために社会的に共有された言語(ラング)が用いられるわけであるが、
心象を社会的言語(ラング)体系のみで伝えるには限界がある。
このために言語は、より心象を伝えようと道具として創意工夫され、つかわれる。
これがパロールである。
たとえば言語以外でのコミュニケーションを考えると、
両手で強く握手するという方法を選ぶかも知れない。
ハグするかも知れない。
または満面の笑顔を浮かべるかも知れない。
はにかみ、目を伏せるかも知れない。
相手を叩くかも知れない。
このような行為は、自己と相手含めた状況の中で選ばれる。
それがどのような場所なのか、自己と他者にいままでの関係性、
他者の性格が考慮されるだろう。
言語において同様である。
パロールという言語の利便性は、時代性の中で体系化され、社会的言語(ラング)を変化させていく。
しかし言語(ラング)は、社会的な共有性が要求され、社会的な拘束を含んでいるが故に、
時代の中で記号組織化しつづける言語の一瞬を切り取り、体系化したものにしかすぎず、
たえず差異が存在する。
それは社会的な言語(社会的な言語表現+社会的言語意味)と個人的な心象という
二重構造によるものである。
ただこの二重構造においては、社会的な言語(ラング)構造は、存在認識により
心象を生むという構造そのものをも侵食している。
*記号認識という現代社会
記号論では、対象物を記号ととらえ、直接知覚できる事象という「記号表現」と、
直接は知覚できない「記号意味」でとらえる。記号意味とは、直接は
知覚できないが無意識的な意味である。
たとえば「テーブルの上に置かれている一つリンゴ」の記号表現は、果物、丸い、赤い、木になるである。
そして「テーブルの上に置かれているリンゴ」の記号意味は、例えば「寂しさ」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「果物−丸い−赤い−木」と、新たな「果物−丸い−赤い−木−寂しさ」との
間で差異を生む。
たとえば「女子高生」の記号表現は、高校、女性、若いである。
そして現代における「女子高生」の記号意味は、例えば「退廃」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「高校ー女性ー若い」と新たな「高校ー女性ー若い」との差異である。
記号表現は、社会的に静的な意味であるのに対して、記号意味とは、動的な意味としてとらえられる。
これは社会的に体系化された言語(ラング)と、体験という個人的心象を動力とし記号組織化し
つづける言語との差異を解明することいえるかもしれない。
そしてポストモダンにおいて記号論が大きな意味を持った理由は、ポストモダン以降では
情報化社会の中で言語記号意味の記号組織化は、今までにないような加速度的に
ダイナミックに変化しているのである。そして差異が広がっているという現状が
によるものを考えられる。
そして記号論という行為そのものがポストモダン的なダイナミズムの内部にあるのである。