質問させてください
○上のほうのレスで、クワインが進化論を取り入れたことへの批判がありますよね。
図書館で「心と認識−実在論的パースペクティブ」 昭和堂 梅林・河野編
という本をみつけました。この中で進化論的認識論が議論されているのですが、
こういったものは、ここにいらっしゃるみなさんは評価されませんか?
○もう一つ。これまた上のほうのレスで、「自然主義的転回で変更を余儀なくされるのは
一昔前の分析哲学と構造主義言語学」というものがありました。
構造主義言語学とはソシュール、一昔前の分析哲学とはフレーゲ、ラッセル、ウィトあたり
かと私は考えたのですが、ソシュールと自然主義的転回を扱った文献などご教示くださいませんでしょうか。
ウィトやソシュールの議論は、第一哲学に言語論をもってくることを前提にしてるから
今後はヤバい、ということでしょうか。
結局クワインや戸田山さんの批判は、「世界は言語により構成される」ということへの
批判なのでしょうか?
むずかしくてワケわからなくなってきました・・・
と言うか、構造主義言語学に自然主義がどう傷をつけられるってんだ?
えと
>>42に「自然主義的転回で変更を余儀なくされるのは
一昔前の分析哲学と構造主義言語学」といったニュアンスのレスがあったもので
>>297のように考えました。
言語論的転回が説明される際に、「ソシュール以来の〜」というものが多いと思いますが
クワイン-戸田山流の考え方だと、言語学方面からの言語論的転回はどのように扱われるのでしょうか。
私は言語哲学と同様に、構造主義言語学においても「全てに先行する言語認識」
とでもいうものが「見切られた」のかと思いました。
単に私の勉強不足ですね・・・
全てに先行する言語認識ってことを現代の構造主義言語学
つまり、現代の言語学は唱えていないと思う。
>>301 言語学板のソシュールスレを見ると、丸山圭三郎がソシュールを過大評価したって
いわれてますが、ソシュールに沸いてるのは哲学系の人で、言語学系の人は
わりと落ち着いた評価だ、という印象は確かに以前からありました。
ちょっとそのあたりを言語学板でも聞いてみます
どうもです
>>301 そんなことはないよ。シニフィェ/シニフィアンの系列は言語の物質的側面では
なくて形式的な側面を言い表すものだから(つまり示差的な価値)、認識にとって
のアプリオリな条件(といっても各ラングに依存するわけだが)という位置づけで
考えなくてはならない。そうでないと言語論的転回をソシュールと重ね合わせる
人が出てくるわけがないよ。構造主義やラカン以降の精神分析も全部その成果に
負っている。それと302は丸山の『ソシュールの思想』ぐらいはちゃんと
読もうよ。2ちゃんで質問するのはその後だよ。
>>303 おっしゃる通りです 丸山さんのソシュール論はむかーし新書を読んだきりでした
反省いたします
>>303 確かにソシュールは言語中心的なことを書いてた記憶があるし
それが構造主義哲学に受け継がれたってのも事実だろうが
それが言語学者の通説になったわけでもないし、言語学とラカンやアルチュセールと言った現代思想とは分けて考えるべきでは?
>>305 303に書かれてあることは、ソシュール理解としては極めて初歩的なことで
たんに『一般言語学講義』を読めば出てくる議論。
言語学では通説が異なるなんて次元の話ではない。
君も丸山の本ぐらいはしっかり読んだ方がいいよ。
ソシュールの話じゃなくて構造主義言語学の話をしていたと思ったのだが。
308 :
考える名無しさん:04/04/01 18:08
さらしあげ
何でソシュール読めじゃなくて丸山読めなんだ?
言語が認識を規定するって説を生成文法派のピンカーも批判してたな。
もちろんソシュールを直接読むに越したことはない。
ただ『一般言語学講義』は弟子が編んだ本だからね。
草稿などの編纂や異同や解釈の点でいろいろと微妙な問題があるわけ。
加えて日本語訳の問題もある。素人がいきなり手を出すと火傷するよ。
そうした問題もふくめて丸山の本(『ソシュールの思想』岩波書店)
はクリアーしているから、とりあえずはこちらをすすめる。
生成文法ってチョムスキーじゃないの?
チョムは構造主義言語学だろ。
構造主義言語学は普通ソシュールに端を発するフランス語圏の言語学。
チョムスキーの言語学はその潮流とは別で
「アメリカ構造主義言語学」と呼んで一般には区別される。
おいおい、アメリカの言語学もソシュールの考え方を受け継いでますよ?
それにチョムスキーをアメリカ構造主義言語学とはいわないだろ。
お前ら、言語学板へいけ。
だから、言語学板でやれって。
そうだね
321 :
考える名無しさん:04/04/02 02:47
>>310 スティーヴン・ピンカーは、言語が自律的な構造を持つことを良しとしないんでしょ。
生成文法は自然主義ではないかと。
NHKブックスの『心の仕組み』にあったエディプス・コンプレクス批判はお粗末だった記憶が。
なんだかんだいって、進化心理学が精神分析にいちばん近い分野である気もする。
解説の長谷川寿一もピンカーと同様、「自然主義の誤謬」を恐れもしない進化心理学者。
とはいえ、わかりやすく書けるのはすごいと思うということで。
http://cruel.org/books/pinkercorrect.html 邦訳の誤りが書いてあります。
ピンカーといえば、animal kingdom(動物界)を「どうぶつ王国」と訳されてもいました。
どうでもいいが、
>>311は、「丸山圭三郎を読んだだけの素人」としか思えないのだが
323 :
考える名無しさん:04/04/02 02:52
>>303 ラカンで思い出したけど、エディプス・コンプレクスと言語とをつなげたのはすごい。
ラカンについて素人同然なので、はっきりとは言えないけど。
5歳ごろに自己の行動を再帰的に調整できるようになるんだけど、
それを媒介してるのは言語と考えられている(旧ソ連のルリアとか)。
もしかしたらまったく違う内的過程なのかもしれないし、
同じ5歳児を見てるから、というのもあるのかもしれないけど。
324 :
考える名無しさん:04/04/02 02:52
言語論的展開というスレの趣旨とあってるかどうかは分からないが、
チョムスキーの言語哲学(言語知識生得説)についての話題は、哲
学板だろ。
>>322 うざいよお前。せっかくレスもらってるのに
>>322 反論してる方もソシュール専門家には見えないぞ
327 :
考える名無しさん:04/04/02 12:03
言語学板:チョム←→認知言語学者
心理学板:チョム←→言語習得説論者
哲学板:チョム←→構造主義者
こんな感じ?
チョムチョム
329 :
考える名無しさん:04/04/02 12:40
アメリカの言語学で構造主義というと生成変形文法より一世代前の人た
ちのことになるんじゃないの?
331 :
考える名無しさん:04/04/02 15:49
みんな、逃げてーーーーーーーーーー
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__
/:::::\
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/::●:::: ●:|
|::::/ ○\: |
|:: /三 | 三|:|
|:: | ト‐=‐ァ' |:| 食ってくれるわ
/:: | ` `二´' |:\
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|::| \:::|
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|::| |:::|
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332 :
考える名無しさん:04/04/02 19:10
$◇a
>>321 生成文法は哲学じゃないしから自然主義vs反自然主義の区分を持ち込むのはおかしいと思う。
さらに「言語が自律的構造を持たない」とピンカーが考えてるかどうかはともかく、それと自然主義はイコールではないでしょう。
いや、俺の脳内では認知科学とかコネクショニズムによって
生成文法が再燃しつつある昨今、自然主義代表としてのチョム
と反自然主義代表としてのソシュールみたいな戯言が出てくる
のは自然主義代表戸田山、反自然主義代表金森修ばりに笑える
ネタだと思うが。
ついでに言えば両者とも同じ穴の狢。
ヴィト読め。
生成文法やコネクショニスト的文法みたいな理系?っぽくない、普通の?言語学も
経験科学で実証科学だからな。
338 :
考える名無しさん:04/04/03 13:25
>>333 「哲学じゃないから」というのが理由になるのかなぁ。
チョムスキーが言語モデュール云々と述べるのは、ふつうは言語学と考えられている領域を超えているし。
チョムスキーが自然主義だからといって、
彼に対立する立場が非自然主義ということにはならないし。
チョムスキーとピンカーとでは言語の発生について意見が違う。
チョムスキーが大脳に言語モデュールがポンと登場したと考えるのに対して、
ピンカーは自然淘汰の結果と考えている。
ピンカーは認知科学者だし、自然主義だと思う。
一方で、生成文法を論じているすべての言語学者が、
言語の進化的・発達的基盤について述べているかどうか知らないけど、
生成文法の進化的・発達的基盤を、チョムスキーだけ見て論じるのは、仰るとおりおかしい。
生成文法の具体的な研究は、とくにそういう基盤まで考えてやる必要はないし。
>>338 反自然主義ってのは、自然科学の領域の事柄について考えないことではなくて
科学に還元できない固有の領域(道徳・合理性・知識・同一性・志向性・美など)問題があるということでしょうし、
自然主義というのはそういった問題を扱う哲学もまた科学の営みの一貫だと言うものですよね?(戸田山氏の影響受けすぎ?)
その理屈だと、自然科学者は全て自然主義者ということになってしまいませんか?
また、言語哲学の問題を言語学による自然言語研究の一部であり、自然言語の実証的研究(つまり、言語が実際にどうあるか)によって
言語哲学のテーゼが吟味されなければならない、と言う哲学的立場(をとる人が現実にいるかどうかはともかくとして)があったとして、
それが言語の神経科学的基盤に言及しない限り、その立場が反自然主義だと考えるのはおかしいのではないでしょうか?
(クワインによる認識論の自然化論は、脳科学ではなく心理学に還元する話でしたよね?)
340 :
考える名無しさん:04/04/06 20:19
さらしあげ
341 :
考える名無しさん:04/04/06 20:25
>>309 内容はともかく、もうちょっと文章を推敲してほしいものだな。
あっ、309じゃなくて339だった。もうちょっと推敲すべきだった。
343 :
考える名無しさん:04/04/07 00:15
>>339 自然主義と反自然主義とについては、だいたいその通りだと思います。
>>338は別にそれに反するような意図はないです。
>自然科学者はすべて自然主義者か?
そうだと思います。
しかし、それはその人が科学者として発言しているときのみ、としか言えないかもしれません。
たとえば、物理学が基本的に自然主義であるとはいえ、
ある物理学者が「道徳は自然科学に還元できない」と思っていても、
その人の理論が道徳に及ばないかぎり(ふつうは物理学をやっていても及ばないでしょう)、
その人の立場が一貫してないことについての説明は、義務にならないと思います。
>神経的基盤に言及しない自然言語研究は反自然主義か?
視点によって答え方が変わってくると思います。
自然言語を想定し、それに法則性があると考えるなら、その意味では自然主義でしょう。
しかし、そのような自然主義を取るとしても、その言語体系が脳に還元できないと考えることは可能であり、
その意味では反自然主義といえるでしょう。
>クワインの認識論の自然化は、脳科学ではなく心理学に還元する話では?
この質問の意図がちょっとわからなかったです。
すいません。
心理学ということで、クワインは認知心理学を考えていると思います。
認知心理学では、生物学的妥当性(脳科学などに矛盾しない)が問われるので、
脳科学に還元している面ももちろんあるでしょう。
344 :
考える名無しさん:04/04/07 00:20
>>341 ごめんよー。文意がおかしくなってるとこもあるねー。
>>343 >そうだと思います。
>しかし、それはその人が科学者として発言しているときのみ、としか言えないかもしれません。
自然科学の領域について発言すれば即自然主義であり、しかも、それ以外の領域についての発言との整合性が問われないのであれば
自然主義という概念自体が無意味なものにはなりませんか?
>>321での「自然主義の誤謬」とは何のことでしょうか?(ピンカーは意識の問題は科学で解明不可能と考えていますね)
>しかし、そのような自然主義を取るとしても、その言語体系が脳に還元できないと考えることは可能であり、
脳に還元できないが経験科学の領域に還元できる、との考え方が反自然主義としてみましょう。
では、脳科学や進化生物学や生態学がより基本的な諸学(物理学や化学や生理学や地球科学?)に還元できないと考えることはどうでしょうか?
>心理学ということで、クワインは認知心理学を考えていると思います。
そうですね。クワインは物理主義者と名乗っていましたし、還元されることには賛成だろうと思います。
しかし、「真理を追って」の中で認識論が「心理学や認知科学」に取り込まれると並列していることもありますし
議論の批判対象から言っても自然化を「経験科学」の内に置きたいとしている、と読むのは無理があるでしょうか?
346 :
考える名無しさん:04/04/07 02:51
>>345 >自然科学の領域について発言すれば即自然主義であり、しかも、
>それ以外の領域についての発言との整合性が問われないのであれば
>自然主義という概念自体が無意味なものにはなりませんか?
その意味では無意味でしょう。
だから「義務ではない」と書きました。
一貫性を示さねばならないような文章を書く権利があるからです
(典型的には、脳科学で“宗教的体験は神秘的なものではなく、側頭葉うんぬん……”
というような文章を想定していますが)。
こういうときには、とくに自然主義かどうか問題になりますよね。
反対に、そのような総括的な議論に興味がなく、
日常的には神秘的体験がほんとうに神秘的なものなのだと考える自然科学者がいても、
その非一貫性を説明する義務は、その人にはないだろうと思うわけです。
>脳に還元できないが経験科学の領域に還元できる、との考え方が反自然主義としてみましょう。
のくだり。
作為的な定義ではないかと。
脳科学が物理学に還元できるかどうかに関係なく、脳科学は自然主義だし、むしろ還元主義の問題かなぁと。
自然主義と還元主義とを同時に論じるのは、議論が錯綜するだけのような気がします。
うまくまとめられればよいけど。
なので、
>>343を撤回して、自然言語研究をやっていて脳の活動に還元できないと考えている問題も、
いずれにしろ自然主義であって、還元主義かどうかというのが問題になっていると考えます。
一般的にそれを自然主義といっているかは別になりますが。
347 :
346とか:04/04/07 03:09
還元主義と自然主義とについてですが。
>では、脳科学や進化生物学や生態学がより基本的な諸学
>(物理学や化学や生理学や地球科学?)に還元できないと考えることはどうでしょうか?
実際のところ「還元」ということで何を言っているのか、が問題になると思います。
心が脳の生理学的法則依存していることを疑う心理学者はいないでしょう。
その意味では、ほとんどの心理学者は還元主義者であり、物理学のほうが基礎的な学問といえます。
しかし、心理学的法則と生理学的法則とがどれほどの類似性を持つのか
(あるいは、心理学的法則そのものを生理学的法則に還元できるかどうか)は、また別の議論。
むしろ、実際の心理学では、心理学的法則と生理学的法則との対応関係を調べることが、
両方の分野で重要な一部となっているのでは。
その意味では、還元できるかどうかというのはつねに先送りされる問題であり、
どちらが基礎的な学問かとはいえないでしょう。
デイヴィドソンは犬死にかよ
349 :
考える名無しさん:04/04/09 00:35
結局、言語学方面からの言語論的転回はどうなるんだ?w
分析哲学の言語観は、言語学から見ると相当独りよがりのようだ。
命題関数の濫用が鼻につくとのこと。
351 :
考える名無しさん:04/04/09 00:59
言語学者は哲学のつまみ食いしてるだけ
(と煽ってみる)
352 :
考える名無しさん:04/04/09 01:27
>>349 そんなものは起きなかった。
ってのは駄目?
>>353 ダメ ソシュールをいなかったことにするなら別だが。
>>354 たぶん、そのあとに言語学では「言語論的展開」は起きなかったっていいたいんじゃ?
>>354 いや、ふつう「言語論的転回」ていったら
19世紀末から20世紀初頭の出来事のことでしょ。
分析であれ何であれ。
言語学はソシュールで「転回した」ということ。
>>357 >言語学はソシュールで「転回した」ということ。
言語哲学を第一哲学としておくのが言語論的転回なんでしょ?
言語学がそんな転回をしたの?
言語学が転回しなくても現代思想は転回した。
360 :
考える名無しさん:04/04/09 15:44
>>358 転回したからこそ、丸山圭三郎のような人がたんなる言語学者
ではなくて、思想家として活躍できたわけです。
言語学者が聞いたらびっくり?
言語学者は哲学を知らないから仕方ないよ
哲学者も知らないからお互い様
>>356 言語学はもとから言語を扱っているわけだから、「言語論的転回」って意味不明にならんか?
言語論的転回ということで、ウィトゲンシュタインの言語分析を指すのなら、
言語学でのソシュールの構造の発見を指すことは難しいような。
もちろん「転回」かどうかは事後的なパースペクティヴからの判断。
しかしソシュールの言語学の革命がなければ
レヴィ=ストロースの構造やラカンの象徴界といった
構造主義の広汎な展開は生まれなかっただろう。
(LSは数学の知見とも関係あるわけだけれど。)
言語学だけで閉じているようには考えてはならない。
(もっとよく知りたいなら「岩波講座・現代思想」の
「言語論的転回」の巻でも嫁。)
>>365 >レヴィ=ストロースの構造やラカンの象徴界といった
>構造主義の広汎な展開は生まれなかっただろう。
だから、それは
>言語学はソシュールで「転回した」ということ。
とは違うと何度言ったら…。
言語論より先に日本語を勉強しろ。
>>365 >>356で「言語学」って限定してるのでは?
構造主義の思想を含めるなら話が別というのはわかります。
構造主義に比べて、生成文法って、他の分野への波及が少ないような気がする。
「知の欺瞞」あたりのラカンやクリステヴァ叩きが
「構造主義言語学」一般にまで敷衍されることがあって、激しくウザイ。
言語学でのソシュールの継承と現代思想への影響は分けて考えるべき。
>>367 ちがった。
>構造主義に比べて、生成文法って、他の分野への波及が少ないような気がする。
↓
「構造言語学に比べて、生成文法って、他の分野への波及が少ないような気がする」
>>366 だから、繰り返すが、事後的なパースペクティヴによる判断だって。
後の歴史的展開を考えれば、ソシュールで「転回」したと見做せるわけ。
構造主義の起源をソシュールとLSに求めるのは常識だろ?
ソシュール以降言語学がクラチュロス的言語観を脱して
構造主義言語学を形成したのも有名な話だろ
(ヤコブソンやイェルムスレウなど)。
>>370 ソシュールが言語学に革命を起こしたのは事実だけど
それは「
>>358の言うような意味での「言語論的転回」とは違う、と言ってるの。
「意味」や音等が他の語や音との差異による、という主張は受け継がれたけれど
>>358のような強い意味においてではない。
純粋な「差異の体系」しか存在しないなんて思ってる言語学者は…少なくとも主流派ではないな。
あくまで言語というものの性質を理解するものとしてだろ。
だから、言語学板に行ってやれ。
何なら建ててきてやろうか?
正直、嵐扱いされそうで嫌なんだが。
つーか 単にラカン屋さんが「ソシュール流の言語論的転回」とやらが
否定されたら困るだけだろ
なんでここでラカンや精神分析がでてくんだ?
書かずにはいられない一言ですか。
おしゃれです。
ラカンは数学や言語学の概念を勝手に乱用する馬鹿にしたい馬鹿が一匹いるようだな。
数学や言語学の知識においてラカンの足元にも及ばないのだろうが。
えーと、やはり言語学板にスレを立てた方がよろしいでしょうか?
このスレには言語学の方はいらっしゃらないですかね?
私の余計な一言から迷走?がはじまってしまったようで申し訳ありません。
ですが、引き続き言語学における言語論的転回について議論いただけると
ありがたいです。
>>377 >このスレには言語学の方はいらっしゃらないですかね?
いても確認できない。
ここまでを自分なりにまとめてみました
○分析哲学の言語論的転回
・第一哲学に言語哲学を持ってくる
→全てに先行する言語認識
→世界は言語により構成される
○言語学の言語論的転回
・言語は直接の指示対象を持たない(言語は不透明)
→世界は言語を通じてしか認識できない
→世界は言語により構成される
○現象学の言語論的転回
・ ?
→ ?
→世界は言語により構成される
>>267さんのご指摘に現象学方面からの言語論的転回とありましたが、
詳しい方の解説お願いします。
で、現在話題になっていることとして
○分析哲学の言語論的転回
→第一哲学路線はありえないのではないか?
○言語学の言語論的転回
→そもそも「すべてに先行する言語認識」という強い主張がなされたか?
○現象学の言語論的転回
→?
こんな感じでよろしいでしょうか?
381 :
考える名無しさん:04/04/10 23:24
あげときますね
>>380 >○言語学の言語論的転回
> →そもそも「すべてに先行する言語認識」という強い主張がなされたか?
言語学にはド素人なんですが、
>>316の本によるとそんな感じの事をソシュールは主張したらしいです。
ただし、それは現在の言語学では否定されているらしい。
>>382さん
情報ありがとうございます 2冊とも町田健さんという言語学者さんですね。
「すべてに先行する言語認識という強い主張」が現在の言語学では旗色が悪い、
ということが明記されていたわけでしょうか?
私もその2冊にあたって、さらに参考文献も調べてみることにいたします。
>>380 ソシュールまで言語論的転回に入れるんなら、
・オックスフォード日常言語学派(オースティン、サール)
・プラグマティズムの言語学(パース、ミード、モリス)
・ハーバーマス、アーペル、ガダマーあたり
は入らないのかな?
385 :
考える名無しさん:04/04/11 22:48
あげ
386 :
くろしろ@社会学白痴断見教教祖:04/04/11 22:57
ふははははははははははは
数学出来ないやつは ア ワ レ w
206 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/04/06 20:31
>>204 数学的には楽だよ。算数しかでない感じ。
ただ文章は(((( ;゜Д゜)))ガクブル
529 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/03/14 19:57
あ、あと
利潤率低下傾向の式で
M M/V
r=――― =――――――
C+V C/V+1
って式をよく見ますが、
要するにM/(C+V)をVで割っているわけですよね
なのになぜ左辺rはr/Vにならないんでしょう?
すいません。数学リア厨以下なんで。。。
ご説明できる方いれば一つ。
僕は漠然と、構造主義も言語論的転回も用語というよりスローガンかなと
思ってます。ソシュールにはなんとなく構造主義の御大というイメージがあ
るんですが、そもそも言語論的転回タタキって、ポスト構造主義の構造主
義タタキと同様の印象がありませんか?
新商品発売記念大特価キャンペーンみたいで気になるんですが、
何か役に立つんでしょうか?
別に言語論的転回を擁護する必要もないのでは?
誰が困るわけでもあるまいし
>>384 >・オックスフォード日常言語学派(オースティン、サール)
一般に、言語論的展開と言うとき論理実証主義も日常言語学派も分析哲学のそれに含まれてんじゃないかな?
と言うか、そもそも分析哲学という呼び名自体日常言語学派((日常)言語の分析哲学)が語源だったはず。
チョムスキーが転回叩きのハシリだろう。
392 :
考える名無しさん:04/04/12 00:06
>>390 そうですね。
オックスフォード日常言語学は既出ということで、他のはどうでしょ?
現象学は分析哲学の言語論的転回を身体論的転回で迎え撃ったという一文を読んだことがある。
意味は知らない。
身体的な現象であれ自然的な現象であれ
結局言語によって分節されなければ何の意味も
なさないのだから、ひとつの知として認識を
扱う以上、言語の優位性は揺るがないと思うがなあ。
単純に言語論的転回がどう批判されることになるのか
説得的な意見を聞いたためしがない。
単に時代が過ぎて言語論的転回の成果が忘れ去られようと
しているだけなのだとすれば、分析哲学であれ構造主義であれ
断じて言語論的転回の成果を擁護すべきではないだろうか。
>身体的な現象であれ自然的な現象であれ
>結局言語によって分節されなければ何の意味も
>なさないのだから
それ言ったら、言語は自然現象であり身体現象(って言葉があるかは知らんが)じゃんか。
>>395 「自然現象であり身体現象である」ことそのものを認識し理解するのは
言語の力によるものだよね。言語以前に何かを立てても、言語というフィルター
を外せないとすれば、やはり言語の優位性は否定できないと思う。
>>396 それを言ったら、その言語を認識し理解するのは脳の認知的過程だろう。
それに「認識し理解する」事が純粋に言語の領域だけで行われているってのは無理があるでしょ。
自然現象も言語も数学的に表現されます。
つまり、第一哲学は数学の哲学です。
>>397 いや、だから「脳の認知的過程」も言語で記述するわけよ。
>>396 はそういう話。言語以前にみえるものも言語を通して把握される。
>>398 数学も、本来は数学の言語であって、
さまざま言語のなかの一つの特殊な言語形態です。
>いや、だから「脳の認知的過程」も言語で記述するわけよ。
>
>>396 はそういう話。言語以前にみえるものも言語を通して把握される。
いや、そう言うだろうとは思ったのだけれども、その把握自体も純粋に言語の問題ではない。
いや、そのこともまた言語によって語られ(ry
と幾らでも循環できるでしょ?
>>394は最初のところでボタンを掛け違えてるように見える。
>>400 循環できる。まさにそうです。しかしそれもまた言語によって解決されるか、
さらに問い直されるしかない。ではどんな言語を用いるべきか。
前期ウィトゲンシュタインの言語の論理を精緻化しようとする問いは
まさにそういうところから出発していた。つまり論理によって
言語の閉じた循環を乗り越えようとした。しかしそれも挫折し、
後期ウィトゲンシュタインでは、言語ゲームという考え方に移った。
ある意味でこれは完全な言語内在論であり、ここに言語の優位性
(つまり言語的循環の乗り越え不可能性)が確立されたのだと思う。
>>400-401 第一哲学の放棄ってのは、そういうことなのかね?
これを放棄すれば「第一哲学は何か?言語の哲学なのか、自然現象の哲学なのか?」という問い自体が放棄される。
>>384さん
プラグマティズムの言語観てハーバーマスなんかに影響与えてるやつでしょうか?
ハーバーマスの(アーペルも?)コミュニケーション理論って言語論的転回を「超える」
ためのものではないのでしょうか?
ガダマーの言語論的転回は解釈学的循環ってやつですか?
これらは分析哲学、言語学、現象学の言語論的転回とは別路線ということですか?
さすがにいろいろな問題がでてくるわけですね。
逆にこれらの分野が認知科学の発展やいわゆる自然主義的転回の問題提起に
どう答えていくのかも気になりますし。
ご指摘ありがとうございます。
>>400 >いや、そう言うだろうとは思ったのだけれども、その把握自体も純粋に言語の問題ではない。
その把握自体も言語以前の認識によって語られ、ならともかく
純粋に言語の問題ではない、なら
>いや、そのこともまた言語によって語られ(ry
という突っ込みは成り立たないと思うが。
>>398 第一哲学に数学の哲学をもってくるということは、世界は論理的に把握されるということですか?
それって論理実証主義とはどのように異なるのでしょうか?
>>399 えーと、それだと赤ちゃんや動物は世界をどのように捉えるのでしょうか?
あまりにバカバカしい質問で申し訳ないですが。
ここまでくると、「世界は言語により構成される」という強い意味での言語論的転回を
含意しないように思われるのですが。
もちろんこれらは余りに素人的な疑問なのでスルーしていただいて結構なのですが、
スレの内容が高度化してかなり専門的になってきましたので、しばらくROMらせてください。
406 :
考える名無しさん:04/04/12 02:03
>>394-401 >身体的な現象であれ自然的な現象であれ
>結局言語によって分節されなければ何の意味も
>なさないのだから、ひとつの知として認識を
>扱う以上、言語の優位性は揺るがないと思うがなあ。
>単純に言語論的転回がどう批判されることになるのか
>説得的な意見を聞いたためしがない。
言語によって分節されることによって成される意味と、
知覚によって分節されることによって成される意味とがあるという考え方はできないのかな。
ものすごく安易な考え方なのはわかってるけど、それに対してはどう対処するのかと。
言語の優位性があるとしても、そこからすべてが言語による認識かどうかは結論できないでしょう。
>>401 >循環できる。まさにそうです。しかしそれもまた言語によって解決されるか、
問い直されることに関してはともかく、解決されることが言語によらなければ成らないとも限らないでしょう。
非言語的な理解が存在しうるなら。非言語的な理解をそもそも「理解」と呼べるか、という問題はありますが
(言語をもたない動物が理解したり知識をもったりすること否定する人も多いようで)
そもそもこれを「言語的循環」と呼ぶことは適切なのか?
>さらに問い直されるしかない。ではどんな言語を用いるべきか。
こういう風に飛ばれると頭の悪い人間にはちょっとついてゆきづらい。
>>406 ネズミがチーズとゴムを区別してチーズの側に向かっていったとしても
ネズミが「ここにチーズがある」と思っていると考えるべきだろうか?と言う立場の人もいる。
言語をもつ人間なら「ここにチーズがある」に対応する「ここにチーズがある」と言う文を持つことでチーズを指示できるけど
ネズミはそれができないのでチーズを認識することは不可能。と言う考え方。
更にこの特殊バージョンとして、ネズミの脳の中にチーズだの何だのを表す記号があってそれが作る文で、
ネズミの行動が支えられているならそれは心の言語なので、言語的認識に一種である。と言うのもある模様。
多少、勘違いして紹介しているかも知れんが。
サールは『志向性』の中で動物に志向性(物事を指示するという性質)がないと考えるのは
哲学的ドグマに執着する物だけだと書いていたけど、
>>408みたいな議論のことを言ってるんだと思う。
410 :
考える名無しさん:04/04/12 03:02
>>408 なるほど。
にしても両方とも極端な感じですね。
前者について。
人間はそのようにすればチーズを認識することができる。
しかし、人間が言語を獲得したあとに言語から離れて認識することができないために、
人間の認識にとって言語が決定的であるだけで、
言語を持たない他の生物がチーズを認識できないことにはならないのでは。
他の動物が人間と同じような認識の仕方では認識していない、ということ以上はいえないでしょ。
後者についても同様で、そういった神経のコミュニケーションが、
当該個体に言語として認識されているかどうか不明。
脳のなかにチーズを知覚的に認識させる記号があったとしても、
それがどう処理されたら言語なのかいわないと、
脳のなかに表象されているものはすべて言語になってしまうのでは。
>>410 人間が「ここにチーズがある」と思ったとき、それが実はゴムだったら間違った認識。
でも、ネズミがゴム製チーズを食べようとしたとしても、ネズミは間違えた認識をしたといえるのか、って話だったかと。
味がおかしかったら食べるのを止めるけど、そこからは刺激に反応した事が言えるだけだ
もしも味がチーズ味で柔らかければ食べつづけたはずだ。だったら、間違えた認識をもったといえないだろう。
視覚的刺激に反応してチーズやゴムに向かい、刺激に反応してチーズを食べつづけたり食べるのを止めたりするだけとなる。
間違った認識がないなら、そっから区別される正しい認識もない。事態の認識なんてネズミは行ってない。
命題を表す言語なしにはあらゆる認識がありえない。ってな感じの主張だったはず。
>>411 すみません。
人間とネズミとの違いがわからないです。
>>412 人間はチーズをを作れるけど、
ネズミはチーズを作れないから、根本的に違うでしょう。
>>411 >もしも味がチーズ味で柔らかければ食べつづけたはずだ。
そりゃ人間でも食べるわな。
認識の有無と認識の正誤は問題が違うよな。
対象の知覚に対して言語という付随感覚も備えた生物を
まず人間(一般の言語獲得者としての)とし、
そこから他の動物と比較して類似性を考えるべき。
動物同士で対象に関するやり取りがあるなら動物の言語?
その可能性が開けるんじゃないの。
僕はフレーゲやソシュールを読んだわけでもない素人ですが、まさに議論が
>266にある心理主義に基づく観念論的誤謬に陥っているのではないかと思い
ます。僕自身、「転回」という言葉にはちゃぶ台返しや東郷ターンのイメー
ジがあって好きになれませんが、あまり「言語論的転回」を叩く気にも限定
する気にもなれません。しかしその感情が、それがないとどうも世の中が不
便になりそうな気がするという漠然とした直感に依っているため、なんだか
出かかったしゃっくりが止まっているようなむずがゆい思いはあります。
>チーズ 1 [cheese]
>動物の乳のタンパク質を酵素を加えて分離、凝固させ、発酵させた食品。
>そのままのものをナチュラル-チーズ、加工したものをプロセス-チーズと
>いう。乾酪(かんらく)。
例えば『大辞林』によれば、「チーズ」に関して上記のような「説明」がな
されており、ここから言語論的転回の痕跡を見てとるかとらないかは論者に
よりますが(僕としては見えるような気が・・)、この多義性をもつ「常識
的説明」の現実が議論からすっぽり抜けて、実験心理学的・認知的議論に退
行してしまっているのは何故でしょう?この「説明」をどうすればより満足
できるのかが見えません。
1)そもそも「説明」がナンセンスなので、説明をやめる
2)人間と動物に共通する生理学的分析を反映させる
3)辞書は「死んだ言葉」しか反映しないから「生きた」言葉にする
4)コミュニケーションに必要な要素をもっと加える
5)人間的要素を排除する(例えば数式化)
6)詩的・文学的要素を加味する
などなど、いろいろ思いつくことは思いつきますが、説得的な理由がさっぱ
り・・・そこの所をはっきりできれば「言語論的転回」の条件と限界を明確
にし批判も可能ではないかと思いますが、今の段階では知的興味をそそられ
ることも責任感を煽られることもない・・・かも。
ウィトが言った、
言語が世界を現している、言語を理解することが世界を理解することにもなる
これが言語論的転回の思想を最も端的にあらわしている。
420 :
考える名無しさん:04/04/13 01:36
>>415 フレーゲのほうが「はじめに言ありき」というような誤謬に陥っていると考えることはできない?
チーズがイメージで捉えられるとしても、
「すべての」認識がイメージないし観念を媒介とすると主張するわけじゃないし。
イメージによる認識があることの主張、即、心理主義というわけではないはず。
今の心理学なら、言語の重要性を無視することはないでしょうし。
文脈主義のように、一元化するほうが偏った見方では?
言語である以上、文脈主義は免れえないけど、語の意味はそれで終わるものなのか?と。
>チーズ
どの点に言語論的転回の痕跡を見てとったのか言ってほしいです。
421 :
考える名無しさん:04/04/13 02:10
言語的「理解」だけが「解り方」じゃない。「体得」「会得」「暗黙知」「了解」etc
ある。
>>421 問題なのは、言語的理解以前の理解があるかどうかではなく、
そうした前言語的理解自体も言語化されなければ、理解できないという
循環の問題なのですよ。仮に「体得」という概念を「体得」したから
といって、それは説明したことにはならないわけです。
423 :
考える名無しさん:04/04/13 02:20
体得の概念の理解がなにごとかの「体得」であるわけがないのは当たり前でしょう。
>>422 言語論的転回ってそんなしょうもない話しだったっけ?
その理解もまた、言語以外のもの抜きにはってことになっちゃうだろ。
425 :
考える名無しさん:04/04/13 02:25
そもそも「説明」が成り立つのは「言語以前」的な経験や知があってのことでしょう。
>>423 その当たり前のことが問題なのです。「体得」が前言語的理解であるならば
その理由を説明しなければならない。それは概念化され、言語化されなければ
ならない。「ね、分かるでしょ」と同意を求めているだけではダメなわけですよ。
言語化しえぬものがあることを言語化して説明することは、
みずからの行為と主張のあいだで矛盾が生じてしまうわけです。つまり
前言語的理解の存在を証明したければ、それ自体も前言語的に説明すべきだ
ということです。
>>424 ちょっと意味が分かりません。
427 :
考える名無しさん:04/04/13 02:36
>>426 説明は(テキスト)デジタルですが、行為はアナログなのですよ。
>>425 繰り返しになりますが、言語以前的経験があるとしても、
それが言語というフィルターを通してしか把握できないところに
問題があるわけです。「言語以前的なもの」は所与の言語から
遡行的に見出されたものなのだとすれば、むしろ言語こそ、
「言語以前的なもの」を構成しているのだということが
問題となるわけです。
>>427 そのアナログ性がデジタル性によって媒介されて見出されており
「アナログなもの」そのものは語りえないということが問題になっているのです。
>>429 すみません。同じ反論ばかり出てくるので。もう止めますね。
431 :
考える名無しさん:04/04/13 02:41
パロールはエクリチュールより情報量が多く、行為は一層多い。
つまり、言語は粗雑にしか表現できない。
>>428 繰り返しになりますが、言語的理解があるとしても、
それが言語以前の活動を通してしか把握できないところに
問題があるわけです。「言語的なもの」は所与の非言語的理解から
構築されたものなのだとすれば、むしろ言語以前こそ、
「言語的なもの」を構成しているのだということが
問題となるわけです。
>>428 言語はあくまでイメージの通信手段。今自分が思い浮かべるイメージと合致する言葉を知っていれば
それが想起される。
>すみません。同じ反論ばかり出てくるので。もう止めますね。
同じ事ばっか繰り返すからだろ。
435 :
考える名無しさん:04/04/13 02:43
同じ曲はどんな歌手が歌っても「歌詞」としては同一である。言語はその程度ということです。
>>432 オリジナルが微妙に改ざんされていて、非対称性がかえって際立ち、
かえって
>>428の主張を裏付けることになっている。
>>435 音楽のたとえは「前言語的な経験」を喚起するのにいい例ですが、
それとてデータ化され、言語化されるわけですよね。CD がそうであるように。
言語はテキストとして書かれている文字だけではありませんよ。
>繰り返しになりますが、言語以前的経験があるとしても、
>それが言語というフィルターを通してしか把握できないところに
>問題があるわけです。
何故、そうなるのか不明。それを言ったら言語も言語以外の理解やフィルターがあってこそ成り立つ。
>「言語以前的なもの」は所与の言語から
>遡行的に見出されたものなのだとすれば、むしろ言語こそ、
これも論拠なし。
>>433 「千角形」は、それを表象することは出来ませんが
ちゃんと理解できるし、相手にもそれが何だか
伝えられますよ。
440 :
考える名無しさん:04/04/13 02:53
>>422 >>426 >前言語的理解の存在を証明したければ、それ自体も前言語的に説明すべきだ
よくあること。
「手順記憶」のような前言語的概念を説明するときに、
「自転車の乗り方といったようなコツなど」と述べるとき、
相手の前言語的(とされている)体験に訴えるわけだし。
それを説明する言語表現のみで説明を完了させようとすれば循環に陥るが、
外部への(たとえおざなりだとしても)参照を駆使すれば、前言語的説明は可能。
あらゆる説明が、少なくとも日常的には、ある概念を説明する言表のなかで
説明内容を閉じなければならない(外部への参照というズルをしない)という義務を持つわけではないし。
>>439 それだけでは理解できないし、伝えられないよ
442 :
考える名無しさん:04/04/13 02:54
「千角形」は「操作的」定義として理解されるのであって、「イメージ」
としては伝わらない。(あえてイメージすれば円とほとんど同じだけど)
>>438 端的にいうと私の問いは、言語以前のものがあるかないかということではなくて、言語以前のものをいかに「正しく」説明できるのかということです。
というのも、その説明ができなければ、言語以前のものの有無を主張することが
不確実なものになってくるからです。
444 :
考える名無しさん:04/04/13 02:56
>>442 >「千角形」は「操作的」定義として理解されるのであって、「イメージ」
>としては伝わらない。(あえてイメージすれば円とほとんど同じだけど)
その「あえてのイメージ」でじゅうぶんでしょ。
すべての表象がくっきりしている必然性はない。
>>441 「1000個の頂点を持ち、1000個の線分に囲まれた平面図形」
で理解できませんか?
>言語化しえぬものがあることを言語化して説明することは、
>みずからの行為と主張のあいだで矛盾が生じてしまうわけです。
言語以前の理解が存在することと言語化できないものがあることは、全然別のこと。
言語以前の理解に言語が支えられていることを、言語で主張することは別に矛盾したことではない。
>>443 >「千角形」は「操作的」定義として理解されるのであって、「イメージ」
>としては伝わらない。(あえてイメージすれば円とほとんど同じだけど)
いや、円のような形である必要さえない
449 :
考える名無しさん:04/04/13 03:01
私の「千角形」の例は「言語はあくまでイメージの通信手段」という考えに
反対して出されたものです。
453 :
考える名無しさん:04/04/13 03:06
言語は、言わば結節点だけつーか、間引いているわけだよね。間引き方の良し悪し
てのもあるわけだけど。
>>451 平面でも
凹多角形を考えれば
円に近いとは限らない
455 :
考える名無しさん:04/04/13 03:08
>>452 イメージがはっきりしている必然性はないというのはどう?
「言語があくまでイメージの通信手段」という極端な主張って、このスレでは誰もしてないと思うけど。
>>440 >「自転車の乗り方といったようなコツなど」
なるほど。そうした説明形式があることについて
おっしゃりたいことはよく分かります。
しかしそのような説明を「前言語的理解」と便宜上呼ぶことにしても、
一般に「理解」という語を使えるほど確実で正しい説明たりうるのか
疑問です。というのも、明らかにそうしたコツを何度教えても
「自転車に乗れない」人は一定数いるわけですから。
果たしてそれを概念化し客観化することのできる言語的説明と同列に
扱いうるかどうか。日常言語ではそれを「理解」したと呼ぶのかも
しれませんが、それはたんなる用語の混乱だというふうに見えかねない。
>>443 じゃ、言語についてなら正しく説明できるのか?
>>455 433にはっきり言明されておりますが
>>456 そうですね。自転車の乗り方は「理解した」とか「理解してない」という問題ではなく、
「乗れるようになった」か「乗れるようになってない」かの問題であると思います。
459 :
考える名無しさん:04/04/13 03:13
数学・論理学は日常言語の派生態であって、極めて厳密な「操作的」定義の
集積であるが、その分イメージ性は乏しくなるわけですよ。
じゃあ写真とか絵画をどうやって考えるのよ?
絵を描くことによって絵を「説明」するときも言語過程が働くと?
こうした困難ゆえに、
言語に限らない記号認識や、
あらゆる記号認識を可能にしている認知プロセスが注目されるようになったのだろう。
>>437 >音楽のたとえは「前言語的な経験」を喚起するのにいい例ですが、
>それとてデータ化され、言語化されるわけですよね。
例えば、ハイフェッツの弾くブラームスと、ヌヴーの弾くブラームスとの違いは
私にははっきり分かりますが、特別に言語化されてはおりません。
>>456 >「自転車に乗れない」人は一定数いるわけですから。
>果たしてそれを概念化し客観化することのできる言語的説明と同列に
>扱いうるかどうか。
言語的説明なら誰でも覚えられるってわけでもないし。
さらにいうと、言語の意味を理解するとは使えるようになることだよ。
それでも外国語を覚えられない人は幾らでもいるわけだし(母国語は生物学的な理由だろう)。
素朴な質問なのですが
カラオケで歌おうと思って曲を覚えて
歌えるようになるっていうのは言語的に理解しているのですか?
464 :
考える名無しさん:04/04/13 03:26
とりあえず「発音できれば」下手なりに「音痴」として歌うことも可能です。
>>463 1拍目で8分休符分おいてA音で歌いだして
2拍目で半音下げて、3拍目で・・・・
なんて考えながらメロディーを覚えるわけじゃないよね
466 :
考える名無しさん:04/04/13 03:30
音程やリズムは勿論ですが「コノテーション」をどれほど「理解」あるいは
「消化」、「表現」し得るかが評価を決定するのでしょうが。
>>465 でもパソコンに演奏させるのは
そういう理屈ですよね?
人間も脳内ではそういう処理がされてるのか?
されてないならどういうことなのですか?
468 :
考える名無しさん:04/04/13 03:33
>>456 「概念化し客観化することのできる言語的説明」として、たとえば何を想定しています?
「コツ」だと半ば同語反復的なので、「自転車に乗るといったような技術の要領」に変えます。
支障ないはず。
自転車に乗れなくても(そもそもコツは言語的に教えることはできないですし)、
そのアナロジーで、この文脈でいう「技術の要領」がどんなものか理解できるでしょう。
焼き肉をひっくり返すタイミングでも何でも良いわけですから。
ここでは、言語的な説明と前言語的な経験に訴える説明とが相補的に働く必要があります。
>果たしてそれを概念化し客観化することのできる言語的説明と同列に扱いうるかどうか。
扱う必要はあるのでしょうか。
これと同列に扱えないということから、
ただちに「前言語的なものを言語で正しく説明できない」ということは導かれない。
それを用語の混乱として片づけるまえに、
(あなたの言う意味で)混乱していても、上で述べたように、
非言語的なものを言語でそれなりには説明できるのはなぜかを考えるほうが先では?
469 :
考える名無しさん:04/04/13 03:35
>>458 そうではないです。
「自転車の乗り方」ではなくて、「手順記憶」や「コツ」といった概念の理解の話。
>>462 それならば、何かを伝えたり教えるということの
客観性や普遍性が崩壊しませんか。
言語的理解も行為論的次元で捉えるとした場合、
その使用が成功するか否かは完全に予測不可能だということに
なりますよね。結果として実際に使えているかどうか、自転車に
乗れているかどうか、という事実性だけが拠り所になるわけですから。
それは何事かを説明したり伝達したりするという概念そのものを
破壊してしまうように思われます。
教えるたり伝えたりするのが上手い人もいれば下手な人もいる
といった凡庸な事実に行き着くだけにすぎないのではないか。
その上手さや下手さの理由そのものを説明する必要はないのでしょうか。
471 :
考える名無しさん:04/04/13 03:35
脳内処理はコンピュータをモデルにして発想することが多いようですが
大抵は間違ってることが多いようです。
>>467 マニアックな話になっちゃうけど、ロックやポップスにおいて
ドラムでハイハットを刻むでしょ、
あれはうまい人間がやるのを、機械ではどうしてもまねできないらしい。
どう精密にプログラムしても人間のノリが出ない。
人の身体能力は驚くほど精緻なんじゃないかな。
桁違いに細かいデジタルなのか、アナログなのかはよく分からないけど。
>>469 概念とは言語なんだから、そりゃあ理解可能でしょう。
474 :
考える名無しさん:04/04/13 03:41
>>473 非言語的なものについての概念はありうるか?
その言語化された概念の説明は、正しいといえるのか?という話になってるモヨウ。
>>474 大概のものは非言語的だよ。
犬もボールも言語ではない。
おいおいみんな
今夜はどうしたんだ?
478 :
考える名無しさん:04/04/13 03:43
>>470 客観性や普遍性があるかどうかと「親や周囲が子供に物事を教える」ことは
別物でしょう。
479 :
考える名無しさん:04/04/13 03:45
>>470 今は、自転車の乗り方じゃなくて、
自転車の乗り方を引き合いに出して「コツ」という概念を説明すること
の話じゃないの?
>>474 概念化された時点で概念は言語でしょ。
言語が対象とするものと言語自体は異なる。
ただし、言語が対象とする物も言語によって分節化されるしかない
というのが現代思想なんだっけ?
浅薄の一言で切り捨てられそうだけれども、前言語的認識があったとして、それを言語で表現してはいけない。
もし言語で表現できるのなら、それは言語によって構築されたものとみなされなければならない、という主張は
この徹底的に浅薄な理由で自明とはいえない。
深淵さを振りかざすな。
482 :
考える名無しさん:04/04/13 03:47
____
/∵∴∵∴\
/∵∴∵∴∵∴\
/∵-=・=-∴-=・=-|
|∵∵∵/ \∵|
|∵∵ /三(u)三| | 要するに、概念≠言語であり万万美が露ということだわな。
|∵∵ | ____ | |
|∵∵ | ____ | |
|∵∵ | ____ | |
\∵ | === .|/
\|___/
というか、言語論的転回ってそういう話じゃなかったと思うんだよな…。
484 :
考える名無しさん:04/04/13 03:52
「コツ」には呼吸やタイミングがあって、それは「実地」で「そこだ!」
とか「いけ!」とか言って教えるわけだ。言語と行為がからみあった中でしか
可能ではない。
×というか、言語論的転回ってそういう話じゃなかったと思うんだよな…。
○というか、言語論的転回ってこういう話じゃなかったと思うんだよな…。
>>468 >「概念化し客観化することのできる言語的説明」として、たとえば何を想定しています?
たとえば教科書なんか典型的だと思います。出来不出来はあるとはいえ、
最低限伝えるべきことを言語化し説明している(ことになっている)。
>(あなたの言う意味で)混乱していても、上で述べたように、
>非言語的なものを言語でそれなりには説明できるのはなぜか
>を考えるほうが先では?
言語的理解を行為として捉え、それがうまくいくかぎり言語であろうが
なかろうが説明と呼んでいいではないか、というプラグマティックな主張は
分かります。それはそれとして認めます。
ただ私の最終的な疑問は
>>470 のようなことです。
487 :
考える名無しさん:04/04/13 03:57
「自転車の乗り方」の「概念」?
>>486 言語論的転回について本で読んだ知識はどれくらい?
>>483 「事物−観念−自我」関係で考えるのではなく、「事態−命題−我々」関係という
土俵で考察を進めるんだっけ?
>>414 >そりゃ人間でも食べるわな。
「ここにチーズがある」という文は偽でも、食べつづけることに真も偽もないっしょ。
食べてるのが人間でも。と言う話。
言語論的転回への批判て
すべてをコトバ遊びにすんな て理解じゃダメ?
492 :
考える名無しさん:04/04/13 04:07
>>486 「自転車に乗るコツ」は私も無理だと思いますが、
「コツ」という概念なら可能では。
493 :
考える名無しさん:04/04/13 04:07
命題たってな〜、「事態」とすごくかけはなれてるよな
>>491 駄目とも駄目でないとも言えない。
当てはまる相手も当てはまらない相手もいる。
495 :
考える名無しさん:04/04/13 04:10
楽しいか?
>>489 ソシュール系統の構造主義は違う。
(言語学とは言ってないので突っ込まないでね)
497 :
考える名無しさん:04/04/14 00:25
>>428的にはネズミの認識も人間の言語が作ったことになるのかな?
498 :
考える名無しさん:04/04/23 02:16
>>497 あるいはネズミの認識などというものはないということになるのかな?
499 :
考える名無しさん:04/04/24 23:50
うりゃ、ageるぞ ゴルァ
春休みが終わったとたん低調になったね
GWにはオマイラ総出で議論すれ
自然化された認識論というのは、大げさに言うと人間中心主義の拒否と
理解してよろしいでしょうか。
なんとなくこれがポイントになりそうな気がするのですが。
門脇さんの本の書評の部分でしょうか?
むしろ反自然主義に「もっとしっかりせい」と言ってるようにみえますが・・・
例えば、『科学を考える』の田村さんの論文のように、自然主義というのは哲学者に
対して根本的に世界との関わり方の変更を求めてるように見えるのです。
反自然主義者・・・世界は人間の精神により成り立つ
自然主義者、科学者、一般人・・・世界の中に人間がいる
こんな感じで、もちろんあまりに乱暴な括り方なんでしょうけども。
506 :
考える名無しさん:04/05/07 23:11
age
508 :
考える名無しさん:04/05/08 06:44
>>502 この自然主義は、現象学の話なので、このスレの流れとは関係ないと思う(とりあえずは)。
フッサールが自然主義/反自然主義の区分を乗り越えようとしていたのに対して、
門脇が取りあげているフッサール像はかなり矮小化されている、という話のようだ。
いや、自然主義批判じゃなくて物理主義批判の話だ。
場がわれわれと因果的に作用しないと言ってるのか、存在者じゃないといってるのか。
どっちにしろ妙じゃないか?
510 :
考える名無しさん:04/05/11 23:50
>>509 竹内薫『「場」とはなんだろう』、講談社、2000
↑この本?
ちゃんと書名を挙げてほしかった。
物理主義というのは、クォークとレプトンというような基本的な単位的となる実在を設定したうえで、
それらの機械的な相互作用によって、すべての力を説明しようとするもののことだろう。
場は、それとは反対に、物質粒子を電磁場と同様の形で表現しようとしたもの。
離散的な粒子を、連続的な場に還元する。
我々と因果的に作用するということは、物質と力とを分けた考え方であり、
そのような考え方を退けるという話ではなかろうか。
雑学レベルでしか知らないのでよくわからん。
511 :
考える名無しさん:04/05/11 23:53
いずれにしても、すべての問題を物理学に還元しようと主張する「物理主義」とは関係ない。
512 :
考える名無しさん:04/05/18 20:28
>物理主義というのは、クォークとレプトンというような基本的な単位的となる実在を設定したうえで、
>それらの機械的な相互作用によって、すべての力を説明しようとするもののことだろう。
これはどっからでて来た話だ?
というか他の文章も何を言ってるのかいまいち意味が取れない。
>我々と因果的に作用するということは、物質と力とを分けた考え方であり、
物質と力?を分けることが、因果関係と何の関係がある?
どうでも良いことだが、このスレ「言語論的転回」でぐぐったら
かなり上位にきてるな
物言語
デイヴィドソン
「言語」なんて存在するのだろうか
森本浩一(もりもと・こういち)著
日本放送出版協会
本体1000円 19cm 125p (シリーズ・哲学のエッセンス )
分類:801.01 件名:言語哲学 04026689
4-14-009314-5 / 2004.05
516 :
考える名無しさん:04/05/24 13:59
物理主義なんて近代の遺物、年取った親父はまだ取り付かれているが、
若いやつには、白い目で見られてるねw
今は、なんてったって、計算主義、これだよ。
現在理論物理って他って、ほとんどがシミュレーションだからなw
>>515 その本は、ここで紹介されてるってことは言語論的転回に言及があるってこと?
518 :
考える名無しさん:04/05/24 18:02
言語こそが世界のすべてなんだよ。
つまり言語をしらない赤子は何も考えることはできないし
言語を習得することもできないわけだ。
これがわからない人はWの論考レベルからやりなおしだね。
>>515 その本、入門系のものとしては久々にヒット。
とても明快でかなりいい。デイヴィドソンの解説ってこれまで
専門的なものしかなかったから、貴重だよ。
523 :
考える名無しさん:04/06/05 02:40
hosyu
524 :
考える名無しさん:04/06/06 18:52
すぐ終わった。
動物が”何を信じているか”、どういう状況なら誤ちを犯したと言えるか、って問題は
デネットの『志向姿勢の哲学』によると結構人気があるみたいですね。(人気のある例はネズミより蛙だそうですが)
自分も子供の頃にテレビで、蟻が死ぬとその体から特殊な化学物質が出てくる
その物質に反応したまわりの生きた蟻はその死体を処理する
それどころか、生きた蟻にその化学物質をつけると、付けられた蟻が女王蟻であっても、”誤って”処理されてしまう。
ってのを見て、蟻が何を考えていると見るべきか、悩んだ記憶があります。
果たして、蟻は「死体がある」という思って、生きた蟻を処分しているのか
それとも、その化学物質に汚染された「汚物がある」と思って処理しているのか、って。
前者なら”偽なる信念”で蟻は行動していますし、後者なら”真なる信念”で行動していて、過ちなど犯してないことになるでしょう。
行動から動物の信念を特定していこうとした場合、やりようによっては「常に動物は誤らない」ということに出来てしまう。
というか、「刺激−反応」だけで、信念などと言うものはない、というか。
そしてヒトの言語についても自然現象である物理的な振る舞いだけから、その意味を特定していこうとすると
「馬」と「人間に馬と同じ刺激を与えるもの」との区別がなくなってしまう、と考えられているそうです。
それを根拠に、言語が事物を指示するということは、自然現象だけからは説明できない、と考え
自然主義を批判する立場もあるそうです。
527 :
考える名無しさん:04/06/08 04:10
528 :
考える名無しさん:04/06/08 11:06
>>526 トマーリンの報告で、チンパンジーが嘘をつくというのがありますね。
以下、チンプのルーシータソとファウツ先生との会話。
部屋の中にヽ(・∀・)ノ●ウンコーが落ちている。
どう考えてもルーシータソが犯人。
ファウツ先生「あれ何だ?」
ルーシータン「あらルーシー知らないわよ」
ファウツ先生「知ってるだろ。あれ何だ?」
ルーシータン「汚いわねぇ」
ファウツ先生「誰の“汚い”なんだ?」
ルーシータン「スーのじゃないかしら?」
ファウツ先生「スーのじゃねぇだろ。誰の?」
ルーシータン「ファウツ先生のじゃないかしら?」
ファウツ先生「違うだろ(藁)。 “ファウツ先生”のじゃねぇ。誰の?」
ルーシータン「ルーシー……。汚い……汚い……。ごめんなさい……。ルーシー……」
全部手話です。
529 :
考える名無しさん:04/06/08 17:56
w
531 :
考える名無しさん:04/06/27 20:50
回転すれば言語論が楽しめる
532 :
考える名無しさん:04/06/27 21:43
まあ、哲学やってるような奴には言語くらいしか拠り所ないからな。
533 :
考える名無しさん:04/07/07 02:29
猿に言語はありません。
by野矢茂樹
534 :
考える名無しさん:04/07/07 03:34
>>533 野矢がサルの何を知っているというのか。
536 :
考える名無しさん:04/07/12 07:22
バフーチンについて、一般的な解説をまとめてるページありませんか?
英語でも良いのですが。
あまり見つからず苦労してます。
もしご存知の方いらしたらよろしくお願いします
>>528は言語じゃない。人間の意訳が加わっていることも明記されてない。
無責任なカキコだ。
539 :
考える名無しさん:04/08/12 02:12
hosyu
540 :
考える名無しさん:04/08/12 02:12
ひろゆきさんΣ(゚Д゚)
541 :
考える名無しさん:04/08/12 02:17
ないと思う、、、
542 :
考える名無しさん:04/08/16 20:42
わーい、天下一ソロバンだ。
わーい、イチジク浣腸だ。
わーい、腹減った。
おい、芸能部長、この危機的状況を何とかせい。
>>537 何の理由もなく「言語じゃない」と書くのも無責任ですな。
544 :
考える名無しさん:04/08/18 02:11
545 :
考える名無しさん:04/08/21 15:30
おい、542サンよ、このスレにHannibal=芸能部長が出没してるんか?
546 :
考える名無しさん:04/08/22 22:39
>>515 を今読んでる途中だけど
ディヴィドソンにとっては意味論の立場から言語論的転回は拒否されるの?
むつかしい・・・
547 :
考える名無しさん:04/08/29 08:27
hosyu
548 :
考える名無しさん:04/09/14 11:19:19
hosyu
549 :
考える名無しさん:04/09/14 13:40:13
だるまさんがころんだ>言語論転回
550 :
考える名無しさん:04/09/16 16:09:52
野球拳>だるまさんがころんだ
551 :
考える名無しさん:04/09/30 10:44:31
言語論的展開>野球拳
552 :
考える名無しさん:04/10/02 22:39:23
源五郎的典型こそ闇夜のフンドシ。
>>543馬鹿ですか?
ボノボやチンパンジーに喃語はあるか?
どこからか捕まえてきたサルに言語を教え込んで何が分かるんだ?
彼らが自然状態でどんな言語を用いているか示せよ。
554 :
考える名無しさん:04/10/08 21:44:20
おれ、花ビラ3回転の方が好き!
みんなもそうだべ?
555 :
考える名無しさん:04/10/15 02:42:56
>>553 そういうことではないよ。
ボノボやチンパンジーに「言語」がないのは確か
(たとえば、文法の理解や産出に関するデータはほとんどないし、あってもデータの解釈が怪しい)。
ただ、それはヒト以外の種にヒトの持つ言語がないと言っているのと変わらない。
現生の最近縁種である大型類人猿に言語(手話、図形文字言語)を教えて、
何が理解・産出できて何ができないのかを調べ、
そこから翻ってヒトの言語について知ることができるということ。
言語は言語として一枚岩ではなくて、さまざまな性質があるので。
だから、言語ではないと書くこと自体が無責任というわけではなくて、
どういう点で言語ではないかと思ったのかを明らかにしてほしかったということ。
あと、自然状態でのコミュニケーション行動にこだわることはなくて、
自然状態が認知上の限界を示しているわけではない。
で、(言語を教え込むというように)類人猿をわざわざ実験に持ち込むということにも意味がある。
>>555 >(たとえば、文法の理解や産出に関するデータはほとんどないし、あってもデータの解釈が怪しい)。
こういう言い方はないと思います。
じゃあまずあなたが、データを出せってことになるから。
>ただ、それはヒト以外の種にヒトの持つ言語がないと言っているのと変わらない。
>現生の最近縁種である大型類人猿に言語(手話、図形文字言語)を教えて、
>何が理解・産出できて何ができないのかを調べ、
>そこから翻ってヒトの言語について知ることができるということ。
>言語は言語として一枚岩ではなくて、さまざまな性質があるので。
知ることができるのではなく、ただ確認できるだけだと思います。
すでに人間は、多くの言語についての知識を獲得しています。
おそらく、それを知らないのは科学者ぐらいのものでしょうね。
おそらく、根本的なことがわかっていないような気がする。
チンパンジーに言語を教えることはできます。
チンパンジーに文法を教えることも可能です。
チンパンジーに数学を教えることも可能です。
少なくとも類人猿には、それくらいの知能はあるのです。
では何がそれとは、根本的に違うか、
どれだけ、チンパンジーに人間の言葉を教えようが
それがそのチンパンジーの子供に伝わらない。
これが伝わって初めて、つまり、
言語機能としての価値が成立する条件妥当なのだということです。
そのようなことを、なにかの本で養老猛子は言っていました。
つまり同生物上の伝達、つまり究極において、親から、未成熟な子へ
その伝達が、可能となるものが言語だと言うことです。
557 :
考える名無しさん:04/10/15 10:18:35
>>556 >文法について
ボノボのカンジですね。
Savage-Rumbaugh, E. S., Murphy, J., Sevcik, R. A., Brakke, K. E., Williams, S., & Rumbaugh, D. M. (1993).
Language comprehension in ape and child. Monographs of the Society for Reesearh.
Child Development, Servial No., 233, 58(3-4), 1-22.
語順に反応したと主張されてますが、語順に縛られなくても、
それ以外の意味になりえない文がほとんどじゃないか、という批判があります。
ただ、微妙な文については、ちゃんと語順に反応していたようですが。
>知ることができるのではなく、ただ確認できるだけだと思います。
>すでに人間は、多くの言語についての知識を獲得しています。
>おそらく、それを知らないのは科学者ぐらいのものでしょうね。
ヒトと他の大型類人猿との種間研究によって知識が得られることがあります。
それはヒト種内研究では知られえないことでしょう?
今まで知られたことが確認されることはあるでしょうが。
558 :
考える名無しさん:04/10/15 10:19:31
>おそらく、根本的なことがわかっていないような気がする。 〔以下〕
「では、何がそれとは、根本的に違うか」は、それは論じている人によって変わります。
言語にはさまざまな特徴があり、どれが欠けてもヒトの言語にはならないのだから、
どの特徴が目立っているかを主張できても、どれが根本的かを論じるのは難しい。
ヒトにしか見られない特徴をあげて、言語はヒトにしかないと論じたりとか、
他の種にも見られる特徴をあげて、言語はヒト以外にもあると論じたりとかは意味が薄い。
伝達に関しては、チンパンジーには存在するでしょう。
生得的な行動ではなく、シンボル(約定記号)使用行動が集団内で通用することがあり、
コミュニケーション行動は親子間で伝わっていきます。
(シンボル使用、親子間の伝達は、別々にしか読んでいないので、
推測になってしまいましたが、十分可能だと思います。)
ただし野生チンパンジーでは教授行動は見られません。
ただ1例、カンジが養子ルーリスに手話を教えたというエピソードがあるだけです
(これでも教授行動が見られたということで十分にすごいことなのですが)。
しかしなんでこのjunて野郎はどこでもコテハンで書き込むかな。
なんか意味あんのか、コテハンで書くことに。
560 :
考える名無しさん:04/10/15 10:23:16
誤解のないように言うと、
言語の何が根本なのか論じること自体が無意味ということではないです。
他の種に言語が見られるか?というときに、
>ヒトにしか見られない特徴をあげて、言語はヒトにしかないと論じたりとか、
>他の種にも見られる特徴をあげて、言語はヒト以外にもあると論じたりとかは意味が薄い
ということです。
>>557-558 >>560 返答どうも、
そっちょくに言って、根本的にわかっていないのは、わたしの方でしたね。
偽りの非難をしてしまい申しわけありませんでした。
もし今後も、好意にわたしの分を判断してくれるのならば、
わたしの主張の狙い、わたしの根本的スタンスを、理解してくれるものと思います。
では、たびたび疑問に思ったことができたので、
いくつか批判、質問したいと思います。
>>557 文法について
わたしが、文法に対しての批判を講じたのは確かではありますが、
ですが、
その反証と採用するものが、「語順」の明晰性では、
まだわたしには不十分であると思われました。
たとえば、>「りんごが食べたい」
>「食べたい、りんご」
これでは、どちらもまったく同じ意味として通じるものと思います。
ですから、
語順を文法を内包すると考えることこそ無理があるとわたしは考えます。
むしろ、語句における、名詞の格変化、動詞の活用の範囲を限定し
それを使い分けることこそ、「文法」を定義することに、
よりふさわしいと考えたりするのですが。
そういう観点で論じるならば、チンパンジーに、
文法を理解させるのは "困難" と言うよりは、
むしろ、当然できるものと、わたしは思う。
また資料を提出しない個人的な主観で言うのなら
そういった資料か映像を過去見て驚いたことがあります。
(つづき)
>伝達に関しては、チンパンジーには存在するでしょう。
>生得的な行動ではなく、シンボル(約定記号)使用行動が集団内で通用することがあり、
これについて思うことを申し上げます。
この事例が、充分に満たす範囲は、
シンボル使用が、とある生物において一般的である。
と言うことだけだと思います。
むろん、当然の批判であるその場合においてもシンボルを規定するのは
人間であると言うことは忘れてはいけないのでしょう。
しかし、文法の意味において、最初に行われることは、名詞と動詞にわける、
つまり"対象"と"現象"に分けることの原理的理解が為され、かつ、
そのコミュニケーションが成立することだと思うのです。
つまりサルにおいて言うのなら
「あのXというサルが、こっちに来る」
「あのりんごは、うまい」
というような簡明なコミュニケーションが、
成り立っているかどうかが、基本的に重要だったりするのです。
こういったコミュニケーションの獲得が、非-人間の動物社会で獲得できるのか?
それが文法に対する理解だとわたしは思うのですが?
ちなみに、サルのコミュニケーションで、
「この椅子は木でできている」
「このバナナは黄色い」
と言う構文は、
その文自体が、そもそものサルの目的を
規定することができないので、
それは無意味と退けることができるはずです。
(つづき)
以上で具体的な反論は終わりですが、
せっかくですから、これからわたしの、文法について思うことを書きます。
見て、"あるがままのもの" を分ける。
それが文法なのだとわたしは思うのだということ。
ちなみに文法の「法」とは、あえて仏教という宗教的なセンスを、
かりて表現するならば達磨(ダルマ)のことであり、
つまりそれは、物事や事情すべてに通じる「理法」であるとのこと。
あなたの言う形での"約定"の約束ではなく、
きわめて現象が本質の中に内属された、
生得的なものであるという判断をわたしは持っています。
つまり元来は文法とは、生得的なものであるというのが、
わたしの主張のスタンスであるということ。
そして、語順をマスターすることは、
たしかに、文法を理解することと同一の形態を所有すると思いますが、
その"分ける"の秩序が、思考の中で、成立される、
つまり、生得的にマスター(獲得)されていなければ、
やはり文法は理解されたとは言えないと思うのです。
そしてこの点において、チンパンジーに文法を理解させることは
可能であるとわたしは言っているわけです。
その点の主張を、では今から講じます。
"分ける" という認識の作業は、事象が解体され、
次に伝達されるために "固定化される" このセンス(感性、素質)が、
文法であるとわたしは考えます。つまり、あくまで語順ではない。
では、語順の反証の前に、“物事を分ける”の具体的事例です。
たとえば、
■ A ■「わたしは昨日、病院に行った」
ということばを
■ B ■「わたしはきのうびょういんにいった」
と表現するだけで、文法の支配から遠くなるはずです。
なぜなら、ひらがなと漢字を分けていないから。
まだわからなければこうします。
■ C ■「ワタシハキノウビョウインヘイッタ」
すらすらと読めますか?
では、分けると、語順の違いにおいて言います。
分けることにおいて
■ D ■「わたし、昨日、病院、行った」
と単純に四つのセンテンスに分けられるかと思います。
(助詞(は、に、を)は、体系に支配されるのでこの場合はずしました。)
そしてこの四つのセンテンスをどのように入れ替えても
意味は一つにまとまるはずです。例証は出しませんので
自分で考えてみてください。
ですから、語順は文法ではないです。(きっぱり)
では、物事が分けられていない事例を言います。
■ E ■「わたし、わたし、昨日、行った 私 昨日 病院 昨日 昨日」
これが物事が分けられていない人の言葉です。
そして、サルにたとえるのなら
■ F ■「椅子、バナナ、椅子、バナナ、食べる、立つ、座る、座る」
と連呼するさまを、言うかと思います。
そしてこの文が、体系化されているか、どうかが文法において慣用なのです。
われわれはすでに生得的に、
一番目のバナナと三番目のバナナを、同一のものと考えていますが、
サルにとっては同一のものではないのかもしれない。
まったく違うバナナなのかもしれないわけです。
でも、誰もそう思わないのは、
つまり連呼を当然のものとして、
考えているからだと私は考えます。
それはつまり “あるがまま” をも、
前提にしているだけのことなのです。
そのサルにとってそのバナナと、あのバナナは、まったく違うのかもしれない、
立って食べるバナナ、座って食べるバナナが違うのかも。
でも、あの構文【 F 】なままでは、
そんな風には絶対に受け取れませんよね。
つまり、“あるがまま”が、分けられていないということになります。
ですから、この分けられることをおいて、文法を理解したと私は呼びたい。
それが可能であるからこそ、チンパンジーにも文法の理解は可能との
結びつきがあると思うのです。
>ヒトにしか見られない特徴をあげて、言語はヒトにしかないと論じたりとか、
>他の種にも見られる特徴をあげて、言語はヒト以外にもあると論じたりとかは意味が薄い。
わたしの思っていることだけを簡単に述べますが、
その意味は強いと思います。
薄くさせるのも強くさせるのもそれぞれの主観です。
とりあえず、ぜんぜん意見がまとまっていないですが、
そのまま載せたいと思います。まとまっていないのは、
わたしの問題意識が未分化であるだけですので、
その辺はご容赦ください。
いちおう今回の論を提出するに当たり、
論軸にしたのはハイデッガーの「形而上学入門」にあたります。(今、通読中ですが)
もしご存知であれば、たしょうですが、わたしの話の理解は早いかと思います。
つか、長文、つまり内容的な余計、余分が多いとは思いますので、
その場合は、どうぞスルーしてください。
>>559 申し訳ないけど、
こういう他学のエキスパートが参入される可能性の多い場では、
できる限り、コテハンで意見することにしようというスタンスでいます。
わたしの場合、習うより、慣れよという感じなので。
人が集まると見れば、荒らして回ってるな。こいつは。何かの発作か?
572 :
考える名無しさん:04/10/16 00:55:07
>>562 もちろん語順だけで十分とは言っていません。
類人猿の学習した「言語」に文法があるかどうかについては、
形態論を含む統語論で議論されていること全体に目を向けなきゃいけないのは確かです。
>>563-564 >>558では野生でのシンボル(社会的な集団のなかでの約束によってのみ成立する記号)の
使用について述べただけで、文法については触れるつもりはありませんでした。
野生ではなく、人工的に手話を教えた場合では(チンパンジーのウォショウなど)、
命題的な言語使用もでき、それを使用してチンプ相互にコミュニケートしているそうです。
エピソードになりますが、手話で独り言や寝言も見られるというのは面白いですね(詳細は下)。
573 :
考える名無しさん:04/10/16 00:57:00
Q. How do the chimpanzees use ASL?
A. Under double-blind conditions, we have found that the chimpanzees communicate information
in American Sign Language (ASL) to human observers. They use signs to refer to natural language
categories: e.g. DOG for any dog, FLOWER for any flower, SHOE for any shoe, etc. The chimpanzees
acquire and spontaneously use their signs to communicate with humans and each other about the
normal course of surrounding events. They have demonstrated an ability to invent new signs or
combine signs to metaphorically label a novel item, for example: calling a radish CRY HURT FOOD
or referring to a watermelon as a DRINK FRUIT. In a double-blind condition, the chimpanzees can
comprehend and produce novel prepositional phrases, understand vocal English words, translate
words into their ASL glosses and even transmit their signing skills to the next generation without
human intervention. Their play behavior has demonstrated that they use the same types of
imaginary play as humans. It has also been demonstrated that they carry on chimpanzee-to-
chimpanzee conversation and sign to themselves when alone. Conversational research shows the
chimpanzees initiate and maintain conversations in ways that are like humans. The chimpanzees
can repair a conversation if there is misunderstanding. They will also sign to themselves when alone
and we have even observed them to sign in their sleep.
http://www.cwu.edu/~cwuchci/chimpanzee_info/faq_info.htm ウォショウは今はファウツのところ(CHCI)にいます。
読んでいないのですが、上で挙げたことのもっと詳細なことはこの本にあるかと。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047913375/ 原著が6年も前の本なので、最近のエピソードはフォローされていないでしょうが。
574 :
考える名無しさん:04/10/16 00:57:46
>>565 私の言ったのはシンボルの約定性であって(これはシンボルの定義にもなりますが)、
文法が生得的か経験的かは、まだ論争中ですね。(しかも食傷気味?)
広く深い論争なので、私は詳しいフォローができてません。
ただ、あなたが文法が生得的であると主張する理由がよくわかりません。
「分ける」の秩序は、社会的な相互作用によって、徐々に学習していくことも可能です(語順だけじゃなくて)。
>>566-567 「語順」が「意味のまとまり」に影響を与えることは、けっこうあります。
通常、能動態と受動態とは同一の「意味」を持っていると考えられますが、
Many people love few people.(多くの人は少数の人しか愛さない)
Few people are loved by many people. (少数の人しか多くの人に愛されない)
このように、語順によって意味が規定されることがあります。
文法を考えるときは、語順と意味とのビミョーな関係を考えなきゃいけない。
生成文法では、標準理論で深層構造(意味にかかわる)と表層構造(語順にかかわる)との関係が単純だったのが、
語順が意味に与える例がけっこう発見され、統率・束縛理論に移行していくことになったようです。
文法については、語順も意味も、どちらかだけではいけないということですね。
こう考えたとしてもあなたの結論が変わるわけではないので、すんなり理解していただけると思いますが。
>>568 チンパンジーに文法の理解・産出が可能であるという結論へのつながりがわからないです
(文句じゃなくて、ほんとにわかってないだけです)。
チンパンジーには、ヒトとは違う「分け」られ方のある文法は認めることができるということですか?
>>572-574 気合の入った返答どうもありがとうございます。
ちょっと返事に時間がかかりましたが、
(実は英語ができないため、気合を入れるのに時間がかかったのです。)
とりあえず、あなたはすごい人だってことは、なんとか知ることができて
それを伝えることができて、よかったと思っています。
ちなみに
>>573の英文を翻訳サイトで翻訳して、それを今読んだばかりなので
紹介されたサイトはまだ見ていないのですが、そのうち時間がとれた時には、
必ず見ようと思っていますので、理解が追いつかない部分は多少あるとは思うのですが
その辺はご容赦ください。
とりあえず
>>573の文を翻訳したものを↓に載せます。
おおざっぱですが、多少、ロムの方の理解の足しにはなると思ったので。
(
>>573を翻訳サイトで翻訳したものです。)
> Q. チンパンジーはどのようにASLを使用しますか。
> A. 二重盲検の条件の下では、私たちが、人間の観察者にチンパンジーが
> アメリカの身振り(ASL)の中の情報を伝えることを知りました。
> それらは、自然言語カテゴリーを参照するサインを使用します:
> 例えば任意の犬のためのDOG、任意の花のためのFLOWER、
> 任意の靴などのためのSHOE。チンパンジーは、人間と、
> および互いに出来事を囲む正常なコースに関して通信する
> それらのサインを得て自然に使用します。
> 例えば、それらは、新しいサインを発明するかあるいは
> 比喩的に斬新なアイテムにラベルを付けるサインを組み
> 合わせる能力を実証しました。ハツカダイコンをCRY HURT FOODと呼ぶか
> スイカをDRINK FRUITと呼ぶこと。
> 二重盲検の状態で、チンパンジーは斬新な前置詞句を理解し生産し、
> 音声の英語の言葉を理解し、言葉をそれらのASL光沢に翻訳し、
> 人間の介在のない次世代にそれらの署名する技術を送信することができます。
> それらのプレー振る舞いは、それらが人間と同じタイプの想像上のプレーを
> 使用することを実証しました。
> 孤独な場合、チンパンジー会話およびそれら自身へのサインチンパンジーに
> それらが続行することはさらに実証されました。
> 会話の研究は、チンパンジーが人間に似ている方法で会話を始めて
> 維持することを示します。
> 誤解がある場合、チンパンジーは会話を修理することができます。
> さらに、孤独な場合、それらはそれら自身に署名するでしょう。
> また、私たちは、署名する(睡眠中に)ためにそれらをさらに観察しました。
いちおう上の文を読んでもやはり、変わらない私の意見を言わせていただきます。
この実験に使われている、シンボルを開発したのは、やはり人間であるということです。
つまりこういうことです。「猿の惑星」という映画に触れれば、わかるのですが、
人類が滅亡した何万年後の世界に猿は人間と同等の知能で、その世界で繁栄していました。
猿たちは、人間の開発した文明の利器、および言語、文化や技術を利用することで、
その繁栄を実現したわけですよね。ここで考えてもらいたいことというのは、
その猿たちは開発したものは、一つも無いのだということです。
言語は言うに及ばず、科学の到達点は、幾何数におけるようにその抽象性にあるかと思います。
ことごとく余計な概念を剥ぎ取り、そして概念としての無形の姿を実現したものが、
数学の基礎になったわけです。実際人間もそうだったのかは分からないけれど、
論理的に考えるとそう考えざるをえないわけですよね。物事を抽象化するのは人間であり、
この人間の特化された能力を持つ生物は今のところいないわけです。
すなわち、シンボル、つまり意味そのものを開発し続けるのは、そしてその意味を
保持し続ける能力を持つ生物はいないわけです。こう言ってしまえれば簡単です。
・猿に、自然状態で三角形を作り出すことはできない。
・あるいは、三角形を教えた猿に円を生み出すことはできない。
・また、猿に抽象の意味を覚えさせることはできない。
・猿に時間の概念を理解させることはできない。
・猿は、「物自体」を所有することは永遠にない。
しかし猿は、その人間が発明したシンボルを、使用することはできるということです。
もしかしたら、「時間」だって使用することができるかもしれない。
でも絶対に「物自体」は使用することはできないと思います。
それが猿と人間の差異だと私は思います。
それがあなたの対話を通して、理解したことですね。
あまり参考にならないかもしれませんが、よろしかったらどうぞ。
あと語順については、とりあえず簡単に。
語順は、文法自体を理解するために先立つものとしてあるだけのことを言いたいのでした。
つまり文法理解のための道具的存在-概念が語順なのだということです。
文法を組み立てるためには、語順が必要という先立つ語順が受け持つ支配関係ではなく、
むしろ文法の約定の中で、支配されているものが、語順であるということです。
これは、言語の体系によってさまざまに変異する、
人間の理解の仕方を見れば分かると思います。
中国語と英語と日本語、脳の回路の使い方(認識体系)は、
それぞれまったく違います。
また概念の取捨選択の順序(語順)も違うと思います。
これは私が以前読んだものですが
「木を見る西洋人、森を見る東洋人」リチャード・E・ニスベット著(ダイヤモンド社)
を踏まえての意見です。
よろしかったらどうぞご覧になってみてください。
まあおそらく、あなたはとっくに了解していることだとは思いますが、
この場にて紹介しておきたいと思います。
そしてこれで、だいたい私の意見をわかってくれるものだと思います。
つまり、この辺がいまのところの到達点だということです。
これまでの感想を言うと、さまざまな学者が、言語に対してのさまざまな意見、
一定の見識を持ち合わせています。ソシュールだとか、ラカンだとか、ハイデッガーだとか、
どれも一義的には収束せず、テクニカル・タームもそれぞれの立場で分かれ、
共通見解は言語に関しては得られにくいのだとは思います。
しかし、その物事が指していることものは、つねに一緒だなあという感想があります。
差異、反復、同一性、同時性、反復の差異、接近と分離、これらの言葉は、
ぼくの言語を使用するときの印象です。そして、
言語をイメージするとき常に時間をイメージするのは、やはり顕著な特質だと思います。
ぼくが言語を理解したいと思うのは、そういった時間に支配された、意味の物語の世界に
参入できるからだと思うのですね。おそらくあなたも、
そういった世界に魅力を持ったから言語を極めようとしているのかもと思いました。
とりあえずそんな感想ですがよろしくお願いします。
私の意見いちおうはこれで以上になります。
お付き合いしていただいてありがとうございました。
根拠は猿の惑星かよ。
>>580 「猿の惑星」は説明のために使ったのであって、理解のために必要なもの
根拠、つまりアプリオリに必要なものではないですよん。
参入のために、人間であるという個体の同一性のために必要なのです。
とりあえず、自分はだいたい言ったのでこれで失礼しようと思ってます。
それでは。
>>576 ASL光沢→ASLでの解釈
署名する→手話する
プレー振る舞い→遊び行動
>孤独な場合、チンパンジー会話およびそれら自身へのサインチンパンジーに
>それらが続行することはさらに実証されました。
手話でチンパンジーどうしの会話や独り言ができることも実証された。
>また、私たちは、署名する(睡眠中に)ためにそれらをさらに観察しました。
彼らが睡眠中に手話している(寝言)のさえ観察しました。
>>555 553はひどい言い方だった。すまん。
555には異論ないんだけど
>ボノボやチンパンジーに「言語」がないのは確か
という時の「言語」と
>言語は言語として一枚岩ではなくて、さまざまな性質があるので。
とかの場合の「言語」は違うだろ?
もし「文法がなくても概念を指し示す何らかの表現があればそれを言語とする」とか
の前提があるんなら最初にそう言っておいた方が誤解がなくていいと思うよ。
もともとの動物に言語があるか、って問題提起は
言語は命題(真か偽か真理値を割り振れるもの)を表彰できる何か
を動物が持っているかだったな。
585 :
考える名無しさん:04/10/21 05:54:22
で、結局ゲンゴロウさんは回転するん?
586 :
考える名無しさん:04/10/23 00:34:42
>>577 ヒトだけがシンボル能力に「特化」しているのは当然として。
前にも書きましたが、自然状態で「シンボルを使わない」ことは、
「シンボルを使えない」ことを意味しないんです。
言い換えると、自然状態はそのまま認知の限界を示すわけではない。
>すなわち、シンボル、つまり意味そのものを開発し続けるのは、そしてその意味を
>保持し続ける能力を持つ生物はいないわけです。
シンボル使用だけでなく、シンボル産出(および社会で通用すること)は、
チンパンジーの社会で見られます。ヒトほどの数はありませんけど。
シンボルは、記号と指示対象とのつながりが恣意的なその記号として理解します。
587 :
ju〜n ◆bYRNL78mlE :04/10/23 11:24:28
>>586 えーと返事を書きます。
恣意性について考えるのならば、『恣意性』には。すでに「自然的な結びつきがない」という
語義上の意味があるので、あなたの自然状態からの言及は論点先取りだと思います。
私が抽象化という言葉を前提とするとき、つねに捨象という概念を含ませていました。
>>577が前提としていることは、「自然」、「事象(あるがまま)」、「物」、「道具」、「幾何学」、
「記号」、「言語」、「概念」、「観念」
と抽象化の形態が変化し先鋭化していることは、おそらく想像できたことだと思います。
それには気づかれませんでしたでしょうか?
そして、このような抽象化は、つまり無駄なものを捨象によって切り落とすことによって成立します。
例えば、幾何的に考えていくならば、
「四角形」、そこから角を一つ取れば(捨象すれば)、「三角形」に捨象されます。
それから、辺の均一性によって、「正三角形」になります。
そして「丸」をイメージします。それから面積を取り除いた、
「点」を創造(想像ではない)することができます。
その「丸」と「点」の間にあるものは何か?
それは「観念」であり、「中身」という意味です。
こういう風に「捨象」していく能力は、人間に特別なものだと、
私は考えますがいかがでしょうか?
いちおう言っておくと「抽象」と「捨象」は、認識においてはまったく同じ行為です。
まあご存知でしょうが。
そしておそらくこの捨象能力の有無が人間と動物(サル)との違いを設ける、
確実な判断だと今、私は考えています。 あなたはどう思われるます?
588 :
ju〜n ◆bYRNL78mlE :04/10/23 11:29:01
ちなみに私の文章が荒いのは重々承知していますが、
どうかご容赦いただければと思います。
>>583 どうもありがとうございます。
とても助かりました。
589 :
考える名無しさん:04/10/23 15:58:41
>>587 >恣意性について考えるのならば、『恣意性』には。すでに「自然的な結びつきがない」という
>語義上の意味があるので、あなたの自然状態からの言及は論点先取りだと思います。
「自然状態」の「自然」と「自然的な結びつきがない」の「自然」は無関係です。
あと、サルに抽象ができないと仰っていますが、どういうことでしょ?
590 :
ju〜n ◆bYRNL78mlE :04/10/23 17:17:32
>>589 >あと、サルに抽象ができないと仰っていますが、どういうことでしょ?
シンボル使用と、抽象化作業、つまりシンボルの抽出化作業は、違うということです。
ちなみにサルと連想ゲームの遊びなんてできないですよね。
でも、もうこれ以上は、説明できません。
あなたが、どこまで私の言っていることを理解しているのか、
していないのか分からなくなったので。
それでは。
>>584 ∧∧
/⌒ヽ) 文がなきゃ無理ぽ。
i三 ∪ 人工語を使って自分の意志を表現するだけじゃ足りないぽ。
〜 三 |
(/~∪
二三
二三
二三
戸田山氏と野家氏の他には日本語で読める、言語論的転回は既に見切られた、って論文ない?
「第一哲学としての言語哲学」に多くの哲学者たちは見切りをつけ始めた、ってのはいくつか読んだけど
それらは特に言語論的転回の見切りを直接論証したものではなかった。
593 :
考える名無しさん:04/10/26 21:46:17
sage
594 :
考える名無しさん:04/10/26 22:07:20
言論のそもそもの感覚は、個人差の相違に
分類化されるという矛盾を論理的に整合していくことをしている哲学者
そうでないものにわける事じたい真理にたいしてはバイアスという蓋然性が
演繹される現状について初歩的なと思われる、感覚のそれの誤謬のすくない、から
始めて己の哲学の普遍性、有用性を斬新的に論証するべき必然性にたいする認識が
薄いのは士ね。
595 :
考える名無しさん:04/10/26 22:18:19
_, ._
( ゚ Д゚) <マジっすか
596 :
考える名無しさん:04/10/26 22:36:40
マジだよおれがリプレイはずすときぐらいは、大花火のこり20Gぐらいの
598 :
考える名無しさん:04/10/27 23:54:15
>>590 抽象を、さまざまな事例を、ある特徴を持つかどうかという基準で、
あるカテゴリに入るかどうか振り分ける作業と考えます。
たとえば、ライオン、ウサギ、ウマのように、
4つ足でふさふさという基準を満たすのが「けもの」みたいに。
当てはまる事例は、特徴を共有するために類似しているが、
まったく同じものと思っていてはいけなくて、
つまり、例では、ライオン、ウマを「けもの」と考えても、
ライオンとウマとの区別ができていなければならない。
ハトやサルでは、このような意味で抽象は可能です。
来そうな反論としては、
1 分類しているのは実物ではなく、写真やスライド。実物に対応するものだとわかっているのか。
2 特徴を結びつけているだけなのか、
その「事例」が当てはまる/当てはまらないものだとちゃんとわかってのことなのか、決まらない。
3 そもそも類似性に反応しているだけではないのか。
こんな感じ。
1に関しては、実験数は少ないのですが、保証されているようです。
2、3に関しては、確かめる方法があります。
方法の1つは、「ある概念Cに属する事例が呈示されたらPという反応をせよ」としておいて、
このとき抽象をして概念を形成していたのなら、
「その概念に属する新しい事例を呈示して別のQという反応をせよ」という次のステップで、
学習が妨害されて遅くなるだろうと考えられます。
この方法を用いた実験は知らないので、教えてほしいくらいですが。
これに関しても「抽象」の定義によりますが、サルに抽象ができないと単純にはいえないのでは?
599 :
考える名無しさん:04/10/30 11:49:36
げんごろうの回転
601 :
考える名無しさん:04/10/30 17:49:37
意味なくハゲるな上げ。
602 :
599:04/10/30 21:41:50
>>597 9行目以降の記述には自信がないが、試しに記してみる。
597のリンク先の野家啓一氏の解説に、次のような一文がある。
>形而上学の再活性化へのギアチェンジを行ったのは、
>本人の意図は別にしてクリプキの『名指しと必然性』(初出一九七二年)
>であったと言うべきだろう。
『名指しと必然性』は、言語哲学の書物でもあると言ってよいと思う。
したがって、形而上学の復権は、言語哲学の見切りによるというよりは、
言語哲学の展開に基づくのではないだろうか。
ところで、形而上学という語には、
少なくとも二つの意義があるように思われる。
一方は、「不動の動者」という言葉に象徴されるような、
「超自然的かつ神学的」な意義である。
他方は、『範疇論』でなされたとされる探求とも関連する、
「言語哲学的」な意義である。
後者は、実は、「自然の探求の前提となるもの」
なのではないだろうか。
アリストテレスに関する興味深い読み物
http://itpro.nikkeibp.co.jp/NIP/nip04_bn.jsp?BN=Y&OFFSET=1
>>598 遅レスですが、、、
>抽象を、さまざまな事例を、ある特徴を持つかどうかという基準で、
>あるカテゴリに入るかどうか振り分ける作業と考えます。
私が言いたいことは、
抽象はカテゴリーに振り分ける/【分類】などではないんです。
カテゴリーを持つことなんです。
カテゴリーの前提は識別ではなく、使い分けられるかのような気がします。
とりあえず、これ以上の説明はさけますね。
理解している、いない云々ではなく、
自分はもう、すでにこんがらがってきたからです。
勘弁してください (笑)
>1 分類しているのは実物ではなく、写真やスライド。実物に対応するものだとわかっているのか。
これに対しては確認は取れているようですね。
しかし2、3については取れていない。
では、あなたの意見は反論ではないと判断させてください。
>これに関しても「抽象」の定義によりますが、サルに抽象ができないと単純にはいえないのでは?
もちろん、定義によるでしょう。でもこれ以上は無意味です。
認知の領野において単純さを求めること自体、ナンセンスと考えるからです。
私も認知科学の領野は好きで、そういう実験のことについては、
ニュースや、科学雑誌などでたまにですが情報を追っています。
今回、あなたとは動物という観点で議論をさせていただきましたが、
自分の認識が覆ったという印象は残念ながら、ないです。
むろんそれよりも、あなたとの議論の方が面白かったのですけれどね。
まあ、あなたもそうだとうれしいのですが。
まあ実は、私は。"動物実験"、という方法論そのものに、
懐疑を示しているつもりなのです。人間の実験結果の操作性もさることながら、
その実験結果自体に「実証」という意味が、どこまで求めていいものなのか?
そう今私が述べることは、哲学徒さながらの科学批判です。
きっと実験技術というものも、進歩するはずなのです。
人間にある能力は、きっとサルにもあるのだろう。そう思って、
科学者は実験のプロセスをつくり実験を始めるのだと思います。
であれば、その実験は、サルにも同様にあることを前提として
実験を作り上げるはずなのです。
いや私は科学の内情など知りませんから、これは私の勝手な
憶測なのですけれど、つまり、失敗すると分かっていながら、
そう、人間だけが持つ能力が、サルにはやはりないのだと分かって
いながら、その実験を始めるものなのでしょうか? アメリカ合衆国
が先頭に立って進められる、バイオテクノロジーの産業では、我先に
新たな遺伝子の新発見を、開発をと叫ばれます。昔そんな情報テレビ
を見ました。そのような成功だけを求める環境では、あらゆる失敗は、
封印されるのではないでしょうか?そんな疑惑が私の中にはあるのです。
むろん、これは科学者が見ればそんな事はないと、
一蹴してしまうのでしょうけれども。まあこれは、
あなたに言うことではありませんけれど、そう思ったので記しておきます。
今、このたびの議論で、もし私が、あなたに反論するのであれば、
実証としての、実験での不可能例、失敗例を出したほうが早いって
ことが事実としてあります。しかし私は、一般の素人ですから科学の
領域で、科学者がどのような失敗をしたのか知りません。ですから、
あなたへの反論は無理です。英語の論文でも読めればいいのです
けれど、英語を読むのがすごく遅いです。ですから、私の立場からの
反論が、そもそもの不可能事なのです。しかし、いちおうは動物と人間
の違いと言うものを、私の、哲学的操作によって識別することは成功しました。
それだけでもよしとしたいです。そうさせてください。
言語を中心として考えたときに、サルは言語を持てるか?
サルに言語を持ったコミュニティーを形成させることができるか?
つまり言い換えれば、サルに人間になれるか?
あなただって、否(不可能)と答えるはずです。
これがあなたと私との議論の接点でした。
もし、人間が自分が住める新たな惑星を見つけたとき、
最初に人間がすることは移住ではなく、
そのような壮大な実験が始まるような気がします。
えーと最後に、自分はほとんど言いたいことは言ってしまいましたので
なんかいきなり勝手に纏めるような形になってしまいましたけど、
まだ、あなたが、言いたいこと、言い足りないことがあれば言ってください。
もちろん、言語関連ではなくてもいいです。
あなたとの議論は非常に有意義でした。
ちなみに私は科学で今注目しているのは脳科学の分野です。
もしスレを移っても、あなたと議論ができるなら非常に嬉しかったりするのですが、
いかがでしょう。またーり進行ならいくらでも付き合えます。
その前に、テーマが必要ですけれどね。
私の気持ちはそんな感じですね。
とりあえず、それでは。
611 :
考える名無しさん:04/11/18 00:15:16
ありがとう
ごめんなさい
あげてもうた
613 :
考える名無しさん:04/11/22 00:19:26
615 :
考える名無しさん:04/12/02 09:25:30
hosyu
するな。
あのさ。
ゴルァァー
619 :
考える名無しさん:04/12/08 18:49:30
おしえてあげない。
いじわる。
いいモナー、ググルから。
622 :
考える名無しさん:04/12/21 20:54:59
ところがコネクショニズムの考え方では、思考のかなりの部分は非言語的な情報処理であり、
符号やラベルのついていない『前・記号的表象(pre-symbolic representation)』の形成や変換であるとする。
意識される思考過程というのは、ただたんに、ものごとの一貫性をチェックしたり、
真実性を吟味したり、あるいは他人とコミュニケーションをもつために、
人間が「わざわざする」言語化行為の結果であって、
それはその場その場での行為を直接的には制御も支配もしていないということである。
佐伯胖「思想の言葉」『思想』771号、1988年
age
624 :
考える名無しさん:05/01/02 16:51:25
hosyu
625 :
考える名無しさん:05/01/08 21:05:25
fosyu
f
627 :
考える名無しさん:05/01/19 20:44:41
言葉責めでイカせたい
>>627 略して「リンガ/責め=イカ」。 全裸で
629 :
考える名無しさん:05/02/01 02:23:52
全裸age
630 :
考える名無しさん:05/02/11 00:56:00
>>622 「思考」というより「情報処理」じゃないかな、
この文脈なら。
それは当然じゃない?
631 :
考える名無しさん:05/02/11 01:01:47
ちなみに佐伯胖氏は「決め方の論理」という名著の著者さ
>>630 思考とは何か、って考えた事ある?
一応、「科学的世界像」が仮定した上で、思考とはどういう営みなのかって。
633 :
考える名無しさん:05/02/12 00:09:07
634 :
考える名無しさん:05/02/12 01:01:30
あるよ
635 :
考える名無しさん:05/02/12 01:15:07
言語論的転回って100年前のできごとだよね。
その後ハイデッガーだのデリダだのって
出てこれたのはなぜ?
636 :
考える名無しさん:05/02/12 01:18:23
思想界のローカリズムのせい
637 :
考える名無しさん:05/02/12 02:12:56
英米哲学によって大陸哲学が駆逐されつつある
現状は思想のグローバル化といえるのかな。
638 :
考える名無しさん:05/02/12 02:15:11
駆逐なんて起こってないから。
639 :
考える名無しさん:05/02/17 01:45:01
哲学の
存在論的転回
↓
認識論的転回
↓
言語論的転回
↓
自然主義(認知論)的転回
640 :
考える名無しさん:05/02/17 10:01:43
転回バカ
641 :
考える名無しさん:05/02/17 11:02:13
カバ回転、これが言語論的転回!
642 :
考える名無しさん:05/02/17 13:00:50
コペルニクス的花びら大回転
643 :
考える名無しさん:05/02/17 14:32:15
軟骨体の骨折
>>630 思考=意識にのぼるものと思ってない?
意識に上らないプロセス込みの話だよ。
645 :
考える名無しさん:05/02/17 15:07:46
心は言葉じゃねーだろ
646 :
考える名無しさん:05/02/17 16:00:52
過去の遺物だってば。
どうせ「強いテーゼ」と「弱いテーゼ」を区別して、
後者を救済する試みだろう。
648 :
考える名無しさん:05/02/17 16:09:29
と、ボケが申しております。
649 :
考える名無しさん:05/02/17 16:37:30
Vokay …こんなスペル?
650 :
考える名無しさん:05/02/17 17:52:40
勃茎?
651 :
考える名無しさん:05/02/17 18:33:46
ウチの先生って野●●一先生?
現代思想誌の分析特集号でもダメットは誰もが失敗だと考える論理実証主義ときわめて
似てるのになんで人気があったのか20世紀哲学のナゾ、とか書かれてたよね。
論理実証主義は失敗だった。
だがそれは偉大な失敗だった。
てことじゃないか?
と意味不明瞭な事を書いてお茶を濁してみる。
そうか?
かなり幼稚な科学主義だろう。
さっさとそんな発想と手を切ったからこそ、
分析哲学はまっとうになったんだと思う。
654 :
考える名無しさん:05/02/18 12:45:44
幼稚なねらーキター
655 :
考える名無しさん:05/02/18 13:00:31
>>653 論理実証主義の「発想」って、何だと思ってるの?
656 :
ジン:05/02/18 13:09:35
657 :
考える名無しさん:05/02/18 13:33:55
>>656 答えられまきゃ、そう言えや
許してやるからさぁw
658 :
ジン:05/02/18 13:35:16
てか、答えようとしてねーよぼけ
釣られやがってw
お前文系だろ?
659 :
考える名無しさん:05/02/18 13:35:51
ゴンベが種まきゃ、カラスがほじくる。
660 :
考える名無しさん:05/02/18 13:50:53
661 :
考える名無しさん:05/02/18 14:38:01
662 :
考える名無しさん:05/02/18 17:48:50
>>651 >ダメットは誰もが失敗だと考える
>論理実証主義ときわめて似てる
記述的形而上学の解説でだっけ?
しばらく前の『思想』のフレーゲ特集における
ダメットのインタヴューにおいて、
ダメットは次のように述べていた。
すなわち、
「多くの人々が検証条件的意味論が失敗だと考えていたが、
その人々はなぜそれが失敗なのかを言うことはできなかった。」
と述べていたのである。
ところで、論理実証主義とひとまとめにして、
それとダメットが似ていると言うのはまずい言い方だと思う。
そのような言い方が許されるならば、
次のような言い方も許されなければならない。
たとえば、
「(論理実証主義者に分類されるカルナップの)
状態記述に可能世界意味論が似ているから、
可能世界意味論が流行したのは謎だ。」
という言い方も。
663 :
考える名無しさん:05/02/18 18:05:59
664 :
考える名無しさん:05/02/18 18:19:12
今みたいな世界的哲学者になる以前にダメットの人気が高まったのは
基本的にはオックスフォード周辺でのことだし、
その背景には、オックスフォードではダメットが「クワイン派」みたいな役割を
果たしてた、つう事情があるだろ。
といっても、ダメットがクワインのエピゴーネンとか言ってるわけじゃねーから
誤解するなよ。
665 :
考える名無しさん:05/02/18 18:44:34
はじめに謝っとく。適当なこと書いてゴメン。
>記述的形而上学の解説(
>>651)
その解説を書いた加地氏の
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886791506 のあとがきをざっと眺めたことがあるんだが、
そこで次のようなことを言っていたのは記述的形而上学の
人だと思うんだな。
「ヒュームの懐疑論の衝撃によって、
最近(ここ300年w)、哲学の中心課題が無視される傾向にある。」
ところで、正当化可能条件(≒検証条件)は、
懐疑論を受け流す為にも重要な役割を担っていたと思うんだな。
でも、懐疑論を真面目に検討しない人々にとっては、
そんなことはどうでもいいのかもしれないね。
すみません 私が一番アホです。
無視して議論を続けてちょんまげ
667 :
考える名無しさん:05/02/18 21:01:21
下には下がいるから安心すろ
668 :
考える名無しさん:05/02/22 05:35:35
ぴかぁ〜さんによると自然主義的転回の次は宇宙論的転回らしいよ。
669 :
考える名無しさん:05/02/25 07:31:22
ぴかりえるものについて人は明晰にぴかりえる。
ぴかりえないものついて人はチン剥くしなければならない。
このスレで言及された現象学者で言語論的転回を批判されてる野家伸也さんて
(おそらくは)言語論的転回擁護派(と思われる)の野家啓一さんの弟さんじゃなかったっけ。
ご兄弟で喧々諤々の議論をされるのであろうか。
>>259 一年以上前の書き込みに質問ですが、言語論的転回に直接関わる心理学(認知科学)の入門書もそれらの本でよろしいでしょうか?
日本語の入門書でそんなのあるの?
ようは
>>622みたいなことが書いてある本だろ。
探せばあるんじゃないか?
>>673 「ハイデガーと認知科学」
「シリーズ心の哲学」全三巻、特に第2巻
チャーチランド「認知哲学」
デネット「「志向姿勢」の哲学」他
アリストテレス「霊魂論」
アリストテレスの認知科学的解釈?
678 :
考える名無しさん:05/03/02 13:53:55
679 :
考える名無しさん:05/03/06 02:24:31
age
681 :
考える名無しさん:05/03/13 15:04:03
fosyu
a
683 :
ローカルルール審議中:2005/04/22(金) 05:17:15
fosyu
turn
685 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 23:17:38
turn it out !
686 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 23:20:52
言い出しっぺのローティは、
もうとっくに言語論の優位を信じていなさそうな気がする
687 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 06:01:45
結局、言語論的転回って何だったの?
誰か総括しちくり
688 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 06:05:41
ローカルルールスレで発言していた僕の意見ですと、
言語論的転回ももう古いものかと思われます。
689 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 09:37:23
心理学とは無関係に哲学しようとする試み。
しかし認知科学がさらに発達した現在では、過去の産物。
690 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 11:52:06
>>689 工エエェェ(´д`)ェェエエ工
これで形而上学が復興した
じゃん。たしかに、概念分析
の手法そのものは雲行きあ
やしいけどさ。
言語分析による形而上学の除去という目論み自体が失敗だった、と言いたいのでは?
言語論的転回も過去のものとなった。
次の転回は何がくるのか。
自然主義的転回w
694 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 02:42:37
hosyu
5 名前: 考える名無しさん Mail: 投稿日: 05/07/12 00:35:40
関係ないが、加賀野井秀一は本当にボンクラだよ。
救いようが無い。
h
697 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 15:48:38
h
698 :
考える名無しさん:2005/08/28(日) 13:09:22
>>692 少し古い話だけど昔の雑誌に、なんで英米哲学の主流が言語哲学から心の哲学へ移行しつつあるのかの解説がのってたよ。
『現代思想』14-2(1986年2月号)にダニエル・デネットのインタビューがあるんだけど、
それの訳者解説のとこ。
699 :
考える名無しさん:2005/08/28(日) 13:56:15
そんなに時流に乗りたいかい?
言語哲学に興味があればそれを研究すればいいし、
心の哲学に興味があればそれを研究すればいいじゃないか。
流行に乗ったって、金が儲かるわけでもないのに。
700 :
考える名無しさん:2005/08/29(月) 07:44:46
分析哲学って、
良い意味でも悪い意味でもアメリカ社会のありかたに影響受ける。
流行を追わないと無意味な哲学なんだから仕方ないだろ
有力アンソロジーに執筆してこそ実力が発揮されるんだから
私は分析哲学者ではありませんが、
時代の影響を受けない思考なんてありうるのか?
「世間」と隔絶して象牙の塔にこもることが良いこととも思えないけど。
「ポストモダン状況」とやらはなんだったの?
アメリカ社会の分析哲学への影響って何?
皆無ってことはないだろうが具体的に思いつかない。
そんなに影響あるか?むしろ社会情勢の影響を受けにくいタイプの哲学だと思うが。
>流行を追わないと無意味な哲学なんだから仕方ないだろ
>有力アンソロジーに執筆してこそ実力が発揮されるんだから
社会の影響じゃなくて分析哲学の流れの話じゃん。
認知科学や脳科学の展開と接合を果たすこととか。
分析哲学が科学の権力性に批判的になれない、とは良く言われる。
軍産複合体に組み込まれている、とも。
分析哲学でも科学を相対化したり社会的構築物だの言ってる人はいるじゃん。
軍産複合体に組み込まれてるってのは意味不明。
706 :
考える名無しさん:2005/09/04(日) 22:34:56
被害妄想ですからほっといてあげて☆
707 :
考える名無しさん:2005/10/30(日) 05:42:29
hosyu
h
709 :
考える名無しさん:2005/12/23(金) 23:23:50
はい、どうぞ。
sage
713 :
考える名無しさん:2006/03/32(土) 14:11:55
?
分析哲学の言語的転回から認知的転回に至った経緯を詳しく!
715 :
考える名無しさん:2006/04/03(月) 12:34:09
認知的転回は言語論的転回と矛盾しないだろ
716 :
考える名無しさん:2006/04/29(土) 03:33:13
kwsk
717 :
考える名無しさん:2006/04/30(日) 10:30:04
フレーゲ
718 :
llllll:2006/04/30(日) 10:30:49
犯罪者情報です。
私は、見てしまいました。見てしまったのです。まだ、逮捕されていないよ
うなので、一刻も早く逮捕追放されるように協力してください。
【車】日産 グロリア か、又は、そのような車。 【色】黒
【ナンバー】岐阜 33 77−77
【年齢】見た感じ20代 【性別】男性
【備考】犯行後、運転席と助手席の窓ガラスを黒いフィルムで覆った。
ナンバープレートにも犯行後、黒いカバーをかぶせた。
子供からお年寄り迄、住み易い平和な世の中をみんなでつくって行きましょう。
ちょっと前、別件でやったぞ。逮捕、なぜされないの?
719 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 12:35:43
はい、どうぞ。
720 :
考える名無しさん:2006/07/12(水) 00:48:28
源五郎おじさん
721 :
考える名無しさん:2006/07/19(水) 00:14:24
言語論転回を、自らの体験にもとづけて論じなさい。
とゆうレポートがあるんですが・・・・
日常生活で言語論転回のようなことって起きますか??
その教師はおそらく言語論転回の意味を誤解していると思う
723 :
721:2006/07/19(水) 00:53:22
そうですよね〜過去の見て
ならったこととまったく違うと思ったんですよ・・・・
「ことば」が先で「現実」が後=言語論転回
ってノートに書いてあって(;´Д`)
724 :
考える名無しさん:2006/07/19(水) 00:55:49
おまえの大学を特定したwww
725 :
721:2006/07/19(水) 00:57:52
(゚∀゚)アヒャ すごいですね〜☆
有名なんですか?この問題
だって俺も同じ大学でいまそれやってるもんw
727 :
721:2006/07/19(水) 01:03:00
・・・?!
なんか悲しい偶然なような(;´Д`)
自分の体験思いつきました??
728 :
考える名無しさん:2006/07/19(水) 01:07:42
いや、それを見つけにここにきた…
729 :
721:2006/07/19(水) 01:12:22
見つからないですよね・・・
たぶんグッチの問題は選ばないです
730 :
考える名無しさん:2006/07/19(水) 01:23:23
ふじ○かが取りやすいらしいけど2回とも休んだ…
まあ お互い頑張ろう
731 :
721:2006/07/19(水) 01:28:42
ふじさんは割りと簡単に考えれましたね〜♪
はい☆がんばりましょう!!
732 :
考える名無しさん:2006/08/14(月) 13:01:52
ふじさん??
733 :
考える名無しさん:2006/09/21(木) 14:06:07
転回展開しよう
つまんねー
735 :
考える名無しさん:2006/11/08(水) 20:01:09
ゲンゴロウさんが転んだ
736 :
考える名無しさん:2006/12/04(月) 13:03:06
つまんねー
737 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 13:55:26
よし!
hο∫hμ..._〆(゚▽゚*)
739 :
考える名無しさん:2007/04/16(月) 03:33:30
hο∫hμ..._〆(゚▽゚*)
sage
741 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 05:12:13 0
hosyu
142 名前: 研究する名無しさん 投稿日: 2005/04/27(水) 11:20:10
現象学や心の哲学がご専門の野家伸也さんによると
「認知科学の出現は現代哲学の歴史的展開における本質的な出来事である。
・・・いわゆる『言語論的転回』によってもたらされた言語分析的方法が、
認知科学と出会うことによってその本質的な限界を露呈」し、
「認知科学の展開は哲学に対してさまざまなインパクトを与えてきたが、
その中でも最も重要なものは、言語に対して正当な位置づけを与えることができるようになったということであろう。
言語の背後に心の認知機構があり、言語はその働きの一つの特例にすぎないということを確認するのに、
20世紀の哲学はずいぶん大きな廻り道(けっして無意味な廻り道ではないが)をしてきた」。
とのことです。
つまり野家さんは「言語は『それ以上背後にさかのぼりえないもの』であると主張してきた」、
「20世紀初頭の『言語論的転回』(the linguistic turn)と呼ばれる哲学方法論上の転換」(一部改変)を否定しているのです。
野家伸也「認知論的転回」『思想』916号、2000年
745 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 09:28:56 0
新しい枠組みも結構だが、言語が、人間が自分の考えを記録したり、
人に伝えたりするときの主要なツールであること、根拠付けや証明が
行われるために必要であること、などは明らかな事実だろう。
きちんとものを考えず、すぐに新しいものに飛びつく阿呆どもの出現の悪寒。w
最後の一行で台無し
こうした背景をふまえ、「言語論的転回」に由来する旧時代的な前提に縛られている言語哲学の現状にあきたらないアメリカの若い世代の哲学者たちは、哲学の世界にも「認知論的転回」をもたらすことによって新しい哲学のパラダイムを創出しようとしている。
この新たなパラダイム転換がもたらしつつある哲学が「心の哲学」に他ならない。
野家伸也「訳者解説 言語から意識へ」『現代思想』14巻2号 1986年
(ダニエル・C・デネット/ジョナサン・ミラー「AIと心理学研究の戦略」)
・・・・・・現時点にあっては、《言語論的転回》そのものにかんして、他ならぬ英米分析哲学じしんの中から、種々の異論がとなえられてもいる。
一方では、「自然化された認識論」からAIにいたる「主観の構造」分析の側において、「命題」・「信念」といった内包的存在者が、何もなかったかのように再措定され、
「言語とは、内的なものが外化されるための手段なのだから、まずは内的なものを分析すべきだ」と勧めるかのような発想が再び強くなってもいる。
そして他方、かつて《言語論的転回》を強力に主張した哲学者じしんが、かつての自らの主張に、若干苦しいコメントを付してもいる。それは他でもない、あたかも「言語というもの」が存在するかのように問題を立てたことへの、若干の自己批判として、である。
大庭健「真理の妥当根拠という問への問」『理想』648号 1992年
749 :
考える名無しさん:2007/07/04(水) 03:21:21 0
age
750 :
考える名無しさん:2007/08/10(金) 09:49:23 0
age
sage
sage
あぼーん
754 :
考える名無しさん:2007/11/25(日) 17:04:03 0
この言葉も手垢がついた感があるね
うむ
sage
言語論的転回=コペルニクス的転回
ですか?
760 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 05:45:44 0
言語論的転回は誰?
761 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 06:20:35 O
ウィト
初心者です。
ウィトさんは一言で言うと何をいったんですか?
764 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 13:00:34 O
言語が言い表わせるものの範囲には限界がある。
→言語が範囲を決める→世界の範囲は言語に依存する。
世界があって言語があるのではなくて、言語があって世界がある。
765 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 13:06:49 0
言語論的転回ってのは、誰か一人の人が起こしたもんじゃなくて、
現代哲学のいわば「空気」みたいなもんだ。
766 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 13:25:40 0
606 :考える名無しさん :2008/04/11(金) 18:19:13 0
事物は名指されることで初めて存在するようになる、などという
単純な言語万能論(典型的観念論?)がナンセンスなのは明らかだろう。
もしそうだとすれば、人間が名指し、言語化した事物がこの世界の全てなのだから
人間は世界の全てを実質上知っていることになる。
なぜなら、名指されていない事物は端的に存在していないことになるからだ。
だが現実はそうではない。
言葉では表現しがたい(未だ名指されていない)不可解な現象や事物、また複雑な心境や感情などは存在する。
たしかにあらゆる事物は言語化されることで初めて思考可能なもの、コミュニケーション可能なものとなるが、
たとえ言語化されていなくても事物そのものは存在すると考える他ない。
そしてこの「事物そのもの」が、人間のあらゆる経験を生み出す何かとして要請される。
人間が経験可能なもの、思考可能なものは実質上言語化(表象化)されたものに限られる。
事物そのものは、あくまでも前言語化の存在であり、経験によっては認識されえない
いわば人間にとっての不可能の領域と言うこともできるだろう。
しかし事物そのものは、人間の言語化活動を駆動する経験外部にある何か、
人間の経験を生み出す何かという形で、人間の経験領域に影響を及ぼしてもいる。
767 :
考える名無しさん:2008/04/12(土) 13:26:28 0
618 :考える名無しさん :2008/04/11(金) 20:01:16 0
いや、言葉と事物そのものとは別物だろうね。
言葉はどう考えても事物そのものと同じにはなりえないと思う。
もし一致するなら、やがて人間は事物そのものの領域に到達できると仮定できることになるからね。
むしろ言葉は事物そのものとは一致しないから、いくら言語化しても、
あるいは言語化すればするほど、ますます事物そのものとは乖離して行かざるをえないのかも。
見方を変えれば、言葉は言葉だけで(そして人間の経験も)事物そのものとは異なる独自の秩序を持っていて
事物そのものの次元は常に言葉の外部にとどまり続けるために、
人間が世界の全てを経験することはできない、という考え方です。
フレーゲは論理学で言語論的転回と関係ないだろう。
>>769 意味不明なヒントなり
論理学ならゲーデルが図抜けているのでは。
>>768 現代論理の考えや手法が「意味は心的なもの」という近代哲学の言語感を打ち破ったのでは?
772 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 06:18:04 0
>>768 貴君が正解。
論理学は数学で哲学でないんだから。
たしかに、一番のゲーデルは数学者なのだし。
>>772 ダメットの分析哲学の起源でも読んだら?
言語分析を旨とすることで言語論的転回を
もたらした分析哲学の始祖は、フレーゲである
ことは明白。
言語論的転回をどう思うかで意見が分かれるね。
たぶん
>>772は「言語論的転回=言語ゲーム」と思っているよね。
言語ゲームはあきらかに数学とちがうからね。
他は明確に思ってなくて、その時代の言語論周辺の雰囲気を言っているんだろうな。
その雰囲気のなかなら、ゲーデルがダントツだろうね。
この立場では、数学との関わり方が難しいね。
775 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 11:20:31 0
論理学・数学で「言語論的転回」を見ようとするんなら、
ゲーデルよりもヒルベルトでしょ。
776 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 11:41:10 O
何故?
言語論的転回の範囲を宣言しないといつまでも曖昧だよね
778 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 11:56:35 0
つうか、どういう意味でゲーデルが言語論的転回に関わると言ってるわけ?
779 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 12:04:21 0
フレーゲ、とかクリプキとかラッセルとか言ってると
いつの間にか数学とのスタンスを見誤るよ。
ある論理学の先生は哲学科ではふんぞり返っていたが
数学科にいくとペコペコしてたからな。
ヒルベルトは関係なし。
このスレでも数学との区別がわからないのがいるみたいだ。
781 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 12:23:01 0
どうして「関係なし」なの?
ヒルベルトの形式主義は、
数学における言語論的転回そのものだと思うけど。
たしかに数学における言語論的転回ではあるが、数学史ではそんな表現すらないだろ。
783 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 13:26:59 0
それは、きちんと学問的なかたちで書こうとしたら、
ヒルベルト、ポアンカレ、ブラウワー、フッサール、フレーゲ・・・・・・
あたり全体をきちんと調べていかなきゃならないから。
ソシュール言語学とブルバキの数学が構造主義として
結晶したので、言語と数学を重ね合わせたいなら
そのあたりに接点にしたほうが分かりやすいだろう。
785 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 14:38:30 0
「言語と数学を重ね合わせる」ってのがそもそも変だね。
「言語論的転回」というときの「言語」を狭く解釈しすぎていると思う。
それと、数学思想史でこの問題を見ようとするなら、
やはり心理主義批と直観主義批判をその現場にまで遡って見て行かなきゃ
無意味だと思うね。
数学ヲタはフレーゲとウィトゲンシュタイン読んで
出直してきたほうがいい。無知すぎる。
787 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 15:34:03 0
ほう、どう無知なのか説明してくれないかい?w
実際知ってるわけ?
数学や論理学は哲学とは違うよ。
言語論的転回は哲学の話だよ。
構造主義も哲学だよ。数学とは無関係。
構造主義って哲学なの?
カント以降は、「哲学の延命策」の時代なんだ。
構造主義はなかなかいい延命策だったことは確かだけど。
構造主義っていってもいろいろあるかならw
デデキントにはじまる構造主義的な数学の哲学なんて数学だろ。
最近では圏論と絡めて議論されてるし。
カントの認識論的転回は
感性とか悟性といろいろ深いけど、
言語論的転回は簡単すぎで、深みがないな。
>>792 確かに。カントはこねくり回していて難し杉。
高2ですが、wikiとかgooで調べたんですがよくわかりません。
言語論的転回ってなんですか?
中心的人物は誰ですか?
くるり
言語は言語学だろう
構造主義は数学と関係あるよ
ヴェイユとか
>デデキントにはじまる構造主義的な数学の哲学
ダウト
デデキントには「構造」という概念は全く無いよ。
ヒルベルトにもほとんどない。ブルバキで初めて現れるといってよい。
哲板で、数学の話をしてもしょうがない。
本を読むのが苦手で、哲学にコンプレックスもっ
た数学ヲタがよく出入りしているからな、この板は。
803 :
考える名無しさん:2008/09/10(水) 21:04:57 0
うひ
数学も言語だよ
805 :
考える名無しさん:2008/09/16(火) 14:10:35 0
その通り。
数学は言語の一種。
言語というものは思考を助けるものだ。
言語について考えるなら、多少は数学についても考えねばなるまい。
文系と理系に分ける日本の教育の弊害を考えよう。
806 :
考える名無しさん:2008/09/18(木) 00:29:09 0
ところでレポートの期限は過ぎたのか?
もう書いたか?
sage
sage
809 :
考える名無しさん:2009/01/08(木) 04:54:29 O
授業で扱ったのをスレを見ていて思いだしたのですが
ことばの表情だとか相貌的-表情的な空間、間身体的、コード以前、コード化、共鳴、不協和、他者との反響など、先生は「表情としてのことば」と言っていたのですが、全然理解できません。
「表情としてのことば」とはどういう意味なんでしょうか?
初めての哲学で授業についていけなく厳しいです。
ここの皆さんの知恵をお貸し下さい(^_^;)
先生が理解できていないのだよ。
保守
sage
>>809 「わかっていないことを人にわからせることはできない」ということを教えたかったんだな。
814 :
考える名無しさん:2009/06/12(金) 12:12:44 0
面白そうな授業だと思うけど。
「表情としてのことば」ってふつうに「表情としてのことば」のことでしょ?
それ以上の深い意味を考える必要はないと思うけど。
815 :
二酉:2009/06/13(土) 18:50:33 O
>>809 表情ってものを考えてみるといいんじゃないかな。
我々は顔の表情筋を少し動かすだけで、様々な表情を作り出せる。
ふつう、人は怒りから悲しみ、愛から憎しみまでをこの顔一つで表現し、また相手の表情からそれらを読みとることができる。
でも、ほんの少し、動かす場所(要素)が異なるだけで、意味が変わってしまう。
それほど微妙かつ複雑に要素が絡まり合いながら、表情というものが成立している。
ことばも、発せられた場、声、相手、意図するところなどが含まれて成立している。
「」に括られたことば以上のものを、そのメッセージは含んでいる。
言語の究極は、その話者のパロールであるのだから、発話のさまざまな要素を抜きにして適切な表現や理解をすることはできない。
ことばもまた、複雑な要素が絡まり合いながら成立している、って主旨のことを言いたいんじゃないかな。
816 :
二酉:2009/06/13(土) 20:38:11 O
三段目補足。
ことばはそれを発する話者抜きには存在しない。
ことばは話者の身体の表現、すなわち表情でありしぐさである。
言えるのはこの辺までかも
めるぽん詳しい人ならもっとわかりやすく説明できるような気がする。
age
818 :
考える名無しさん:2009/12/18(金) 09:02:45 0
言葉も振る舞いもコンテンツそのものでは
なく文脈や人格を顕すということかな
観念に代わって言語が世界との
インターフェイスであると考えられるようになってきた
それが言語論的転回だと
イアンハッキングが言ってた
821 :
考える名無しさん:2010/01/13(水) 23:38:19 0
だから何なんだという感じなんだけどw
822 :
考える名無しさん:2010/03/27(土) 11:54:04 0
もかして360℃転回しちゃった?
日本語でおk
824 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 22:07:25 0
90度くらい
825 :
考える名無しさん:2010/07/09(金) 02:43:39 0
言葉の意味は内在か外在か。
( ´∀`)< 人が嫌がる事を進んでやります
<*`∀´>< 人が嫌がる事を進んでやります
( ´∀`)< 犬が大好きです
<*`∀´>< 犬が大好きです
( ´∀`)< ちょっとライターを貸してください
<*`∀´>< ちょっとライターを貸してください
( ´∀`)<工作が得意です
<*`∀´><工作が得意です
( ´∀`)< 放課後
<*`∀´>< 放火後
( ´∀`)<機嫌なおして下さい
<*`∀´>< 起源なおして下さい
( ´∀`)<帰省中です
<*`∀´><寄生中です
( ´∀`)<歴史をつくってみせます
<*`∀´><歴史をつくってみせます
◇ 哲学者気取りの知的障害者を見て爆笑しよう ◇
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1240503267/11 >こんがるか?っつーのすでに運知思想だろーが
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( ´,_ゝ`) プッ ↑
例のように、精神崩壊者のように発狂して意味不明な言葉を並べている。
おつむが弱いどころか、完全に知恵遅れそのものなので、
住民からの批判や指摘は届いていない。
しかもどうやら、いくつものスレにほぼ毎日出没しているようだ。
まあ知障ゆえ働くことは無理だろうがな(笑)
どの板にも一人は面汚し的な存在がいるものだが、こいつが哲学板のそれか。
それともこれが2ch哲学のレベルということなのかね(大爆笑)