1 :
考える名無しさん:
哲学の分野とは限らないが、
このテーマで語りたいです。
2 :
考える名無しさん:02/05/17 17:34
田尾
道教の世界は漢方医学ともとても密接だし、
今こそ道教の教えが必要な時代と思います。
お互いにいい本などを紹介しあえたらと思いますが。
そこの角のたばこ屋を右にまがって、突き当たりまで、まっすぐね。
道教の81章を読むには何がいいですか?
その1つとしては
加島祥造「タオ 老子」筑摩書房
を挙げれますが、深く理解できるいい本はどれですか?
河上公注と王弼注が基本。
まずはこれら2書を読み込まないと、何も始まらない。
7 :
考える名無しさん:02/05/17 22:02
加島祥造て、「それがタオというものなのさ(フッ)」
とかそんな訳になってるやつね(笑)
ニューエイジ親父が好きそうな。つか俺の父親も読んでた
>>6 王弼読んでみたいが、どうやったら手に入るよ??
大学の図書館で書庫とかに入るしかないんだろうか。
えっ もしかして おまえは・・・
うん、そうだよ
やっぱりな そうだよな あはははは
『 同郷 』 だ もんな。
9 :
考える名無しさん:02/05/18 01:10
老荘思想と道教は微妙に違う罠
10 :
考える名無しさん:02/05/18 01:21
このスレとは関係ないけど、つまんねー板だな、ここは
11 :
考える名無しさん:02/05/18 01:23
荒らしokにしちゃったみたい。
12 :
考える名無しさん:02/05/18 01:24
道家思想と土着信仰(呪術系)化した道教は分離したほうが無難。
ていうか基礎の基礎。
13 :
考える名無しさん:02/05/18 01:27
14 :
考える名無しさん:02/05/18 02:11
シルクロードを伝って仏教が伝来してくるとき、僧侶が知的階級や民衆を諭そうとしても
「ああ、老子と同じじゃないか」と冷遇されて大陸に教えが伝播するまで300年くらい
中国大陸の入り口で停滞していたというのを何かの本で読んだような覚えが・・・
言語・文献の研究者ではないのでアレですが、翻訳(複数)を読んでみると、簡素な
分だけとっつきやすいんですよね、確かに。
ただ、解釈本とかで「政治的関心」が見て取れて宗教的でない、これは処世術の類だ、とか
書いてあるのをみると、なんかそれもイタイなァと思います。平和的利用の手段として
その境地を活用しようとしてるのに、学者の「こうでなければいかん!」みたいなカテゴライズが
本当に意味をもつのか不思議ですね。まあ、学術ってそういうものかも知れませんが。
15 :
考える名無しさん:02/05/18 08:02
はあ
16 :
考える名無しさん:02/05/18 10:14
>>14 何でも「政治的」にしか読めない奴はいるものだよ。
天声人語レベル、と言うのだそうな。
日本の景気が悪いといわれ
アメリカの言うことを聞いてばかりが
果たしていいのか?
景気が悪く、地球のエネルギーを節約していくことが
逆に人類にとって必要なことではないのか
出来るだけ小さな機能のいい家に住み
出来るだけ小型の車に乗り
旅行にばかり明け暮れるのではなく
こういう生活を考えることが大切で
生き方を学べるのが道教でないかと思う
また死後の世界については
「チベットの死者の書」が大切になってくるが
兎に角死ぬまでの生き方をしっかりしたい
景気を回復させることには断固反対のこの頃です
18 :
考える名無しさん:02/05/18 10:42
>>17≠1
現状は現状として尊重しなければならない。
そうして、各別なりの展望を持っているとしても、ドッグイヤーといわれる今日この頃なればこそ、ごく短期的な予測程度しかできないと思われ。
この域を踏み越えると、傍迷惑な妄想と断ぜざるを得ないが、如何?
19 :
考える名無しさん:02/05/18 13:48
>>6 河上公注とか王弼注とかの本とは中国語の著作ですか?
日本語訳があるのですか?
20 :
考える名無しさん:02/05/18 14:14
1さんは『老子(道徳経)』だけでなく、
『荘子』や『列子』に就いては如何思っていらっしゃるのでしょうか?
欲は捨て去れんもんだよ・・・ 一度、ハンカガイの裏路地でも行って、じーーーっと座って
人間模様を観察してみては。
セックス産業、バンジャイ! 哀れ、哀れ、哀れ。
「荘子」「列子」は読んでおりません。
漢方医学にも興味があり、易経もかじっておりますが、
易経の世界はとても難しくて
23 :
考える名無しさん:02/05/18 14:53
三角縁神獣鏡
道教は理解できるかなーと
思っていろいろ本を読みあさりますが
『荘子』は内篇だけでも読む価値は有ると思いますよ。
荘子の内篇読んでみます
27 :
考える名無しさん:02/05/18 18:14
そうし なさい。
メディア規制法案、とおしてやるぅぅぅ
>>19 漢文の著作です。
邦訳は、掃いて捨てるほどあります。
>>29 邦訳もいい悪いの評価も人それぞれでしょうが、
どんな邦訳がいいか推薦して下さい
専門家ではないので、できるだけいいのを
読みたいし、助かります
31 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/05/18 20:16
>>30 複数読んだほうが絶対良いです。
比較してみると邦訳の著者の“読み方”でおっそろしく違ってきます。
漢文がシンプルすぎて、機微を読み取りにくいのかも・・・
6さんや弥勒さん、その他の方々は
どの邦訳が良いと思われますか?
33 :
考える名無しさん:02/05/18 21:13
いやいやいやいや。
只単に聞いてみただけです。
私は邦訳は2種類もってますです。
因みに一通りは読んでおります。
あ、そう言えば
講談社プラスアルファ文庫に漫画のもの(老荘思想で一括りのもの)
も有りましたね。
36 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/05/18 23:16
>>35 多分大差無いのではないかと・・・。私は老荘に興味があったので、とりあえず
池袋の書店にあったうちから、岩波文庫の荘子・列子、中央公論社の老子荘子、
あと明徳出版社の馬王堆老子、あとハードカバーの老子列子(紛失)。
解釈本に4、5冊あったけど引越しの際にBOOK OFF行きになりました。
基本的にはかさばらないので中央公論社を基本として、ほかの邦訳と比較検討
しながら意訳してます(独断で)。でも中央公論社のやつも老子の81章でクソみたいな
注釈してるから正当性にかけるかも・・・。結局は自分の判断だと思う。スマソ。
馬王堆本だけじゃなくて、郭店本にも目を通すと
なおよろし。
38 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/05/19 21:59
39 :
考える名無しさん:02/05/20 06:11
中国思想は漫画で理解していくのもいいかもしれませんね。
講談社プラスアルファ文庫見てみます。
ただ漫画は絵がよくないとね。
40 :
考える名無しさん:02/05/20 08:37
>>39 学び問うとは「探求の歓び」だと思うのだが、えっと、イイやどうでも・・・
41 :
考える名無しさん:02/05/20 09:29
>>40 生きるとは何か?
とかを考えるから
道教を読もうとするんでしょうね。
易経にもとても興味があるが、とっつきにくい
42 :
考える名無しさん:02/05/20 09:46
おいおまえら。阿含経って簡単に言ってなんですか?
火祭りの根拠。
逆説
46 :
考える名無しさん:02/05/22 16:57
とりあえず
「マンガ老荘三〇〇年の知恵」講談社+α文庫
を買ってきました。
47 :
考える名無しさん:02/05/22 17:52
>>46 ああ、あの漫画、俺けっこう関心したんだ。
中国人はやっぱ漫画もうまい。
一コマ一コマの構図、筆致、配色、全て飛び抜けたレベルだった。
48 :
考える名無しさん:02/05/22 18:47
さんびゃくねん?
>>46 三〇〇〇年ですぞ。
それから、講談社プラスアルファ文庫からは
もう一つ出ていますね。
順番としてはそちらの方が先じゃなかったかな・・・。
ゲトしとこ
51 :
考える名無しさん:02/05/23 01:53
俺は道教呪術、マジで好きだけど
いい本ないかなぁ・・・。
結局はキョンシーと風水以上に興味を抱いている奴はいないのね・・・ガッカリ
53 :
考える名無しさん:02/05/23 06:44
>52
このスレの誰が「キョンシーと風水」に興味を持っているというのだよ?
アホか?煽りならもっと煽りらしくやってくれ。
風水にも興味がありますが、
風水の位置付けとしては
デ・ホロート、牧尾良海訳「中国の風水思想ー古代地相術のパラードー」
第一書房(3500円)が一番参考になりました。
>>52の言は
好意的に解釈すれば、「オカルト」ではなく、
「哲学」としての道教=老・荘・列・淮南子といった
道家思想を哲学板らしく語りたい(語りたかった)
ということだと思うのですが・・・。
道教呪術や風水もいいかもしれませんが、
その根本に有る道家思想や易経に就いて考える、
其の方が有意義ではないでしょうか。
56 :
考える名無しさん:02/05/23 23:03
こっくりであそんでろ!
>>56 最近は、エンジェルさん て、言うんじゃない。
コックリ コックリ アー ネムイ
解説者がなかなかよくていい本ですが、
思想をマンガで理解していくことにはかなり抵抗があります。
やはり言語を通して深めていきたいです。
「マンガ老荘の思想」講談社+α文庫
買ってきました。こちらの方がいいみたいですね。
『荘子』に出てくる、「モグラモチ」のAAきぼ〜ん☆
板違い
道教は、民間信仰や神仙思想や老荘思想などがいっしょになったもの。
それはちょうど、日本仏教がインド仏教に山岳信仰や祖先信仰が加わったものであるのと同じだ。
46さん
漫画だからって侮ってはいけません。
講談社+α文庫のものは「マンガ老荘の思想」の方を先に読む方がいいですね。
老子・荘子の重要箇所が「マンガ老荘三〇〇〇年の知恵」よりも
多いと思います。
65 :
考える名無しさん:02/05/27 05:24
道教が欧米で注目されるのは、
欧米思想とは正反対だからでしょうかね?
「欧米思想」(藁
>>65 道教だけではなく、
支那思想や印度思想の多くが
欧州等の西洋思想とは違った種類ではありますね。
言語(or論理)に対する信頼の度合いや
自然の克服か自然と一体となるかの違いなどが普通考えられます。
特に自然に対しての捉え方で注目されるのかもしれないですね。
68 :
考える名無しさん:02/05/28 23:23
道教と「老子」「荘子」の関連がさっぱりわからん。
これほど学問的な書物をどう捻じ曲げて道教と関連させるのか…
>>68 それは私も思います。
無為自然を尊ぶのに
どうして不老不死なぞ考える必要があるのか・・・
まぁ、通俗的な捻じ曲がりなのでしょう。
>>53 >>52は道教と言えば「風水とキョンシー」くらいしか思い浮かばずに、
道教に大きな影響を与えてはいるものの、イコールではない老荘思想とかの話を始めてしまう
ってことを嘆いているのでは?
「荘子」の<六>や<八>の数学は
「古事記」にそのまま使われています。
こちらはややまともな引用ですが。
もともとインド仏教には墓や仏壇という概念はない。
なぜなら、死者の魂は輪廻転生してすぐに生まれ変わるので、
死者の遺体や魂を拝み慰める必要がないからである。
極端なことを言えば、日本における仏教とは、
シャーマニズムや先祖崇拝を補強するための道具でしかなかった。
経典も読まれるよりは、一種の呪文として使われることのほうが多い。
道教における老荘思想の役割も同じようなものだったのだろう。
73 :
考える名無しさん:02/05/29 05:45
土門拳(写真家)「拳眼」(世界文化社)で確か読んだと思うのですが、
どこに書いてあったかは再発見できませんが、
東洋の仏教美術も東の日本に伝わり、日本という国にぶつかって最高のものに
仕上がったとか
仏教思想もそういうとこないですか?
74 :
考える名無しさん:02/05/29 13:45
道は一を生じ一は二を生じ二は三を生じ三は万物を生ずる
75 :
考える名無しさん:02/05/29 14:00
>>72 >もともとインド仏教には墓や仏壇という概念はない。
仏壇はネパール仏教が大本だと言われます。
インドの宗教は墓はありませんが、仏教に限れば釈尊を尊ぶあまり
亡骸を埋めてストゥーパを作り、以後これを踏襲したのが今の墓です。
インドでは、使者の亡骸を埋めてモニュメントを作るのは仏教だけに見
られた特色です。
>死者の遺体や魂を拝み慰める必要がないからである。
>...シャーマニズムや先祖崇拝を補強するための道具でしかなかった。
インドでは祖霊は木に宿ると考えられています。よって行者が木の根本
に坐るのです。暑い国ですので、木陰で休息を取るのは必須なのですが、
「この木陰も先祖のお陰...」というところから生じた習慣らしいです。
天台三大部にも説かれますし、中村元さんも岩波の注釈のところでいろ
いろ詳しく触れています。
76 :
考える名無しさん:02/05/29 15:50
道教のテーマが仏教にそれてきましたね。
道教のこと色々雑学したい。
77 :
考える名無しさん:02/05/29 16:00
>>76 風水とキョンシー以上に知識のあるヒトがいないので無理です、
あきらめて老荘しましょう
みんな ご存知かと思われることを書きます。
最近 出版された『タオ』筑間書房はもってます。
老子って人物 歴史上 本当いたかどうか不明だそうです。
また、儒学が表(たてまえ)であるのに対し、道家思想は裏(本音)の位置を
しめてたそうです。また前者が能動思想であるのに対し、後者は受動的思想
だそうです。
んで 最近出版された『タオ』並み 手ごろな儒学のテキスト知っている人、教えて下さい。
五斗米道が道教の初期の姿とか言われてるけど、五斗米道がメインの目的としたのは祈祷などによる病気の治療だった。
生活を改めることにより病気は治るというのが五斗米道の発想だったから、その一環として「老子」を読ませたということのようだ。
「老子は生きている」地湧社
「詳説老子伝」地湧社
上記の2書は比較的読み答えがありました。
軽い本では全完永「老子の思想と現代生活」新幹社
は一読の価値ありですか。
_
'´ ヽ
! iノノノ)))〉 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
i从!^ヮ゚ノ! < 手頃ながいどぶっく読んで、な〜んとなく上っ面撫でて、
(くγ ゝ \ 浅い薀蓄語って、古本に売っておしまい・・・
) ; |ゝ ) \____________
/_∧__ヽ<
<巛川||ヾゞミ
| / /
`y /
| |
.| ̄ト.、
,ξ 彡ゝ^〉 ☆
ζ__.ソ,ヘ;| 彡
∠_ノL!
支那に於いて儒家・道家そして仏教の三思想は
それぞれ複雑に絡み合っているのです。
私は『タオ』なる書物は知りませんが、
儒学だったら加地伸行氏の『儒教とは何か』中公新書
は如何でしょうか。
不思議なことに「道教」というタイトルの新書ってでていないようですね。
二階堂善弘「中国の神さま」平凡社新書なんかどうですか?
あるいはちょっと専門的だけど、窪徳忠「道教の神々」講談社学術文庫。
加地伸行の本はほとんど読んだが、
つまらんし迫力がない。
こういうつまらん人が時々東大にはいるんですね。
85 :
考える名無しさん:02/05/30 07:57
加地伸行か・・
どうせなら、白川静を読めば?
『孔子伝』(中公文庫)
酒見賢一『陋巷(ロウコウ)にあり』(新潮文庫)もお薦め。
儒教の意外な一面が見えてきます。
86 :
考える名無しさん:02/05/30 07:59
『孔子伝』は、あとがきも、いいんですよね。
素人向けの道教入門書としては、?亜丁・楊麗(編)「道教故事物語」青土社が読みやすいと思います。
値段は2600円くらいしますので、高すぎると思う方は、図書館か古本屋でどうぞ。
挿絵も独特の趣があっていいです。
>つまらんし迫力がない。
そうかぁ?
本気でそう思ったのなら、すごい感性かもね…
>>88 そうかぁ?
識者の前で名前を出しただけでも、「まともな研究めざしなさい」
と勧告されたぞ。
好いところもあるけどね。
「識者」(藁
儒教の本 いろいろ 教えてくれてありがとうございます^^。
んで、また みなさん ご存知かもしれないカキコします。
心理学者C・G・ユングも道教には関心をしめし、特に彼の概念
−シンクロニッシティ(因果律に対する 共時性[非因果的連関の原理])では、
度々『タオイズム』が出てきます。
また高エネルギー物理学者 フリチョフ・カプラはヒンドゥー教の
『コズミック・ダンス』を体感し、西洋物理と東洋思想に関連を導き出そうとしました。
つまり高エネルギー物理学における素粒子の衝突過程に起こる様々な粒子の生成・消滅
の状況をタオイズムに従って記載されています。
カプラはタオイズムの『人は地を規範とし、地は天を規範とし、天はタオを規範とし、
タオは自然を規範とする』を引用しています。(アンチョコ丸写しで失礼!!)
で、これは『タオ自然学』カプラ著という本にまとめられています。
私自身 この『タオ自然学』という本を入手してないため、内容は まだ知りません。
もしかしたら 絶版になってるかも。。。
では、みなさん また よろしく。
>>84 まあ、それは人それぞれだとおもいますがね。
それと、加地氏は東大と何か関係が有りましたっけ?
>>85 『孔子伝』は本当に素晴らしいのですが、
全体的な儒教史は分からないと思って加地氏の物を薦めたのです。
それに、個人的に孔子を「儒教」の枠に入れたくないので。
『孔子伝』には孔子と荘子との関係も描かれていましたね。
道教のスレになんでこんなにたくさん儒教の書き込みがあるの?
>>93 さんへ
僕が儒教のいいテキストを紹介してもらおうとしたからじゃないかな?
カプラの本は全部精読しました(日本語訳だが)。
カプラを超える思想は現在ありますか?
「タオ自然学」絶対読む価値あり。
>>1 『空想としての世界 ホログラフィをパラダイムとして』
K・ウィルバー/編
青土社
なんて どうでしょうか?
ただし この本 現在 在庫切れ中、再版のみこみ:今の所無し。
僕も引っ越し 繰り返してるうちに 紛失してしまいました。
古本屋で現在探し中です。
97 :
考える名無しさん:02/05/31 07:55
カプラっておい。
いっそキョンシーの倒し方とか語られた方がまだましだよ。
加地伸行はたしか京大→名大→阪大。
たぶん東大とは無関係。
ウィルバー「空想としての世界 ホログラフィをパラダイムとして」
青土社
私も探してみます。
カプラの「タオの自然学」は読みかけて放ってある。
またトライしようとは思ってるけど・・・。
こないだ「ターニング・ポイント」と「新ターニング・ポイント」を買ったら
後者は前者のただのダイジェスト版だということがわかり、ガックシ。
それにしても現在、カプラの人気は、かつて一世を風靡したほどの勢いがないのはなぜだろう?
量子論と中国思想との類似性といった概念は、もうみんなに定着しちゃったということかな?
102 :
考える名無しさん:02/05/31 15:00
だって似てるってだけで何の関連性もないもの(w
いや、たしかに発想の段階ではアナロジーとして、そういうヒューリスティックな
ものもありだとは思いますけど。
>>1 さんへ
大きな図書館では、保存していますよ。
少々話しがとびますが、道教との関連でも易経にも興味があり、
ハウ・ツウ物が多いのですが、かじるのですが、どうにもならない。
次にユングとの関連ですが、これはたいしたことはない。
更に私はチベットの死者の書にも首を突っ込んだりしてますが。
どうも散漫な発言で失礼。
何が言いたいの?
日記?
107 :
アルチュセリアン:02/05/31 17:57
道教というより老子を語ってほしい。側で眺めるだけだけど。
108 :
考える名無しさん:02/06/01 05:41
道教と老子を区別するんですか?
110 :
考える名無しさん:02/06/01 07:23
>>110 説明無しで御免なさい。
宗教としての道教と思想としての老子(及びその他の道家思想)の区別です。
道教は支那人の民俗の一つとして捉える、
道家思想は一つの思想体系として捉える、
そういった区別を考えてました。
・・・本当に説明不足ですね。すみません。
で、
>>107さんは思想の方を語って欲しいと言う事ですかね。
112 :
アルチュセリアン:02/06/01 15:20
>111
そうです。側で眺めるだけだけど。
114 :
アルチュセリアン:02/06/01 15:33
>113
とりあえず、謎の多いプロフィールとか、あとホントに孔子と交流
があったのか?とか、固い話もいいけどね(『無の有用』の話とか)。
側で眺めるだけだけど。
115 :
考える名無しさん:02/06/01 15:56
老荘思想と道家思想は違うと思うが…。
道教にも民俗的なのもあれば聖職者の神学があるし
116 :
考える名無しさん:02/06/01 16:35
老子って「人名」というより書物名だと思うのだが...。
老子という「人物」って本当にいたの?
老子は伝説上の著者であって、書物自体はある集団内で少しずつ
まとまってきたんじゃないかな。
>>115 ああ、そうですね。
民俗→宗教の方がいいですかね?
それと「老荘思想と道家思想は違う」と言うのは私は良く分かりません。
取敢えず、細かい違いや歴史的なものならば良いとして、
大きな違いであれば御教示願います。
>>114 プロフィールですか・・・
アルチュセリアンさんは何処まで知っていらっしゃるのでしょう?
118 :
考える名無しさん:02/06/01 17:57
道教の81章の日本語訳にしても
中国語から日本語に正確に訳す難しさがあると思いますが、
これこそ現時点におけるほぼ決定的な日本語訳を知りたいですね。
聖書などはあるような気がしますが。
勿論、中国語から英語に、英訳を参考にしたでもいいのですが。
私など漢和辞典を引いて確認しながら読んでいますが、
何しろ道教で初めて使われた漢字もあるし。
119 :
アルチュセリアン:02/06/01 19:21
>117
プロフィールは、よくしりません
120 :
プロフィール:02/06/01 21:58
史記 老子・韓非列伝より。
老子は楚の苦県視ス曲仁里の人。
名は耳、字はタン(漢字が出ません)、姓は李氏。
周のいわば図書館員。
孔子は礼に就いて老子に質問し、
老子の事を「竜の様な人だ」と弟子達に言ったとされる。
周の国が衰えたと見るや、西へ旅立った。
関迄行くと関所の長である尹喜に執筆を頼まれ
其処で道徳経五千余字を執筆。
その後何処へ行ったかを知る者はいない。
このプロフィールはやはり歴史学的には
はっきり言って信憑性の有る物では無いと思います。
道徳経(『老子』)も
>>116さんの仰る様に、
或る特定の集団(例えば荘子学派の人達)によって
作られた箴言集とも考えられます。
孔子と老子が会ったとされる話も
文献に照らし合わせて考えると
年代的に無理な話というのも聞いた事があります。
まあ、でも歴史学等と言う物は文献その他の解釈でしかないと思いますし、
歴史学者でもない限り信じる信じないは
人それぞれでもかまわないと思います。
>>120 そういう人物はいたかも知れないし、いなかったかも知れない。
しかし少なくとも、その人物は、現存する『老子』とは無関係。
123 :
考える名無しさん:02/06/02 00:26
居たか居なかったかが問題じゃあない、思想の中身が問題なんだ。
あくまで史記の文を要約しただけです。
関係有るか無いかは各人で想像すれば良い事です。
それでは、問題の思想の中身に移って行こうではありませんか。
何から行きますか?
とりあえず『老子』という本の由来。
>>125 ほとんど伝説みたいな明確でない状態なのに、それを冒頭に持ってきて、
どうやって話を進めるんだ?
127 :
考える名無しさん:02/06/03 06:00
「道教」は短い文章だから1章ずついくのもどうですか。
第1章に「道可道 非常道」とありますね。
常の意味ですが、永久のとするか、不変のとするか、本当のとするか
この辺のニュアンスで意味の取り方が変わってきませんか?
>>127 「道教」? アンリ・マスペロ? ほかの著者か?
それとも『老子』?
>ほとんど伝説みたいな明確でない状態なのに、それを冒頭に持ってきて、
>どうやって話を進めるんだ?
すくなくとも『老子』という本が、21世紀の現代に存在することは明確。
この本の由来は、どこまで明らかなのか?
老子が孔子の先生だった、とかいうホラから出発して時代を降って行くよりは、
現存する確かな事実から時代を遡って追跡調査するほうが確実なのでは?
話は変わるけど禅宗にもかなり影響を与えてるよね老荘思想。
>>129 そういえば老子は後世の偽作じゃないいかっていわれてたんでしけど、
最近?中国で水没した古墳(春秋〜?)が見つかって、それの中から布に書かれた
『老子』が出てきたそうでし。保存状態も良好。所々破れてるのは絹地ゆえでしかね。
とにかくそこまでは溯れるそうでし。老子がいたかどうかは別として。
ってか、そんな事言ったら荘子も実在するかは定かじゃないんでしよね(汗
132 :
考える名無しさん:02/06/03 17:17
>>129 遺跡を掘り当てるかタイムマシンを作れ。
「道徳経」を1章から問題にしていけばと思うわけ。
134 :
考える名無しさん:02/06/03 17:42
>>133 で、永久のとするか、不変のとするか、本当のとするかで
どう違う、と解釈したの?
道経と道家思想はちがいます。
>>131 最近とは何時の事なのでしょうか。
そちら方面の新発見には疎くて・・・。
それは馬王堆帛書より古い物ですか?
そう言えば馬王堆の『老子』は「徳道経」
になっていたとか聞いた事が有ります。
>>127 不変・永久=真なる物、
という図式で考えればあまり変わりは無いかと思いますが。
>>135 分かっております。
>>136 あ、二酉さんの言っていたのは馬王堆で良かったんですね。
また何か「新発見」があったかと思ってしまいました。
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始。有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙。常有欲以觀其徼。
此兩者。同出而異名。同謂之玄。
玄之又玄。衆妙之門。
道の道とす可きは、常の道に非ず。
名の名とす可きは、常の名に非ず。
無名は天地の始め。有名は万物の母。
故に常に無欲にして以って其の妙を観、
常に有欲にして以って其の徼を観る。
この両者は、同じきに出でてしかも名を異にす。
同じきをこれ玄と謂う。玄のまた玄は衆妙の門なり。
>>138 いや、「布に書かれた『老子』」って言う事だから
馬王堆かなと思っただけで、もしかしたら竹簡のほうの
郭店(戦国中期)かも。
うーん。
馬王堆だとしたら
「最近」と言うのは1970年代迄入ってしまいますね。
あ、そか。
「最近」出てきたんだから、郭店かもね。
でも、布地じゃないし……?
>20さま。 >136さま。
わあぁぁぁぁΣ(´Д`)>131
ごっ、ごめんなさいっ(汗
徹夜続きで壊れてたようです。馬王堆です(汗
全然最近じゃないし、時代違うしっ(恥
お騒がせしてすみませんっ!!
何の夢を見てたんだー・゚・(ノД`)・゚・
おわびに訓読文でも貼ろうかと思って気がついたんでしけど
>>139の上から4行目>此兩者。同出而異名。同謂之玄。
ってありましけど此兩者同。出而異名。同謂之玄。の方が
語呂良くないでしか?2回目の「同」は「同(おな)じ」じゃなくて
「同(とも)に」の方が読みやすいかも(私見)細かくてスマソ>139さま。
>>144 馬王堆甲本「両者同出異名同胃玄之有玄衆眇之□」
馬王堆乙本「両者同出異名同胃玄之又玄衆眇之門」
郭店甲・乙・丙本はともに第一章相当部分ナシ。
>>145 両者同じきに出ず。異名にして同謂なり。・・・
とでもなるのでしょうか。
断言する気はないけど、もし句読を切れと言われたら
「恒又欲也、以観其所?、両者同出、異名同胃、玄之又玄、衆眇之門、」と
切りたいね。
おっと、上の「?」は、キョウ(激のサンズイじゃなくてクチヘンになった字)ね。
馬王堆では
常有欲「也」、・・・
と「也」の字が一つ多いのですか。
あと、私は馬王堆や郭店の本を持っていません。
そういった他本との違いが有れば
指摘していただきたいです。
えっと……
違いは山ほどある、っていうか、伝世本の『老子』でも
その程度の異同のあるテキストは、たとえば傅奕本とか、
けっこうあるんですが……
うーん、そう言う事ではなくって・・・
馬王堆本や郭店本と伝世本で意味の全く変わってしまう様な
異同が有ったとしたらお願いします。
149の様な言い方では
>>150の通りですよね・・・。
じゃあたとえば、郭店甲本の第1簡の
「絶智棄辨、民利百倍。絶巧棄利、盗賊亡有。絶偽棄慮、民復孝慈。」
とか。(仮借字は適当に改めたので悪しからず)
現行本の19章と対照すると、従来言われていた「孟子の仁義説との先後関係」
なんかが面白いことになると思う。
おっと、郭店丙本(?)に現行本『老子』に全く見えない文が有る、というような
ことのほうが むしろ重要かな?(太乙生水とか)
153 :
考える名無しさん:02/06/07 19:48
誰かはやく!具体的に話を教えてくれー
1章から邦訳うっPしれ
これが「道」だと言えるような「道」は本物の「道」ではない。
これが「名」だと言えるような「名」は本物の「名」ではない。
名の無いのものが天地の始めであり、
始めて名の出来た天地が万物を生み出す母なのである。
だから常に無欲であってその妙(幽玄)を観る事が出来、
常に欲が有ればその差別(表面的な違い)を観るだけである。
この二つ(有と無、始原と末端)は同じ所から出てその名を異にするものである。
この同じ所を「玄(深遠)」とし、
玄のまた玄(深遠の更に奥)は始原の門である。
「この二つ」以降を馬王堆に従うと、
「この二つは同じ所から出る。
名前は別であるが同じ物を言うのである。
玄の又・・・」
となる。
荘子知北遊篇
道は聞く事が出来ない。聞いたのならばそれは道ではない。
道は見る事が出来ない。見たのであればそれは道ではない。
道は説明出来ない。説明したのならばそれは道ではない。
形を形作る事が形作るでは無いという事を誰が理解し得ようか。
道は言葉で説明出来る様な物ではないのだ。
(其の為に)「道」の事をたずねてこれに答える者は道を知らないのだ。
「道」の事をたずねる者もまた道に就いて聞く事が出来ない。
道に就いて聞く事もそれに対して答える事も出来ないのだ。
156 :
考える名無しさん:02/06/08 00:09
瞑想の静謐感(幽玄)=無
無=死の根源的世界
死の根源的世界=万物の根源⇒生まれ来たり、また還る
↓
分別知の彼岸
【体験・感覚】の記述的説明
↓
『道』は言葉で説明出来る様な物ではないのだ。
157 :
考える名無しさん:02/06/08 00:35
とりあえず「無=死の根源的世界」ってのは、誰が言ってるんだ?
158 :
考える名無しさん:02/06/08 00:57
十六章
万物、並び作るも、吾は以って復るを観る。夫の物の芸芸たる、
各おの其の根に復帰す。根に帰るを静と曰う、是れを命に復すと謂う。
静を知るを明という。
四十章
天下の万物は有より生ず。有は無より生ず。
元からあったテキストに、「老子」の名を冠したヤシがいた。
「老子」は「老子」の理想化された著者像。
160 :
考える名無しさん:02/06/08 01:05
>>159 じじい個人なんかどうだっていいってんだよ。
中身に意味があったから今まで受け継がれてんだろうが。
テキストを編纂したヤシらの意図のことを言っただけですが、何か?
162 :
考える名無しさん:02/06/08 01:09
>>161 ああさよか、すんませんなァ・・・
せやったらその意図を聞か
だから、「死」ってのは何処から湧いて出たんだYO?
164 :
考える名無しさん:02/06/08 16:47
>>163 「各おの其の根に復帰す・・・・」っていう件。そこからの認識。
>>163 『老子』も『荘子』も(『列子』もだが)、本家中国では道家思想というカテゴリーで
認識されている。ならば荘子の内容も流派の人員の中で一貫した「教え(ドグマ)」
を敷衍し、発展してきたものと考えて差し支えないだろう。ならば荘子をガイドに老子を
考察することも的外れではあるまい。
荘子のなかには、これから【死】を迎える人間の達観した心境が語られる部分が
数多く登場するが、それはすなわち根源的なものへの(死後の)回帰を意味するものと
解釈してもいいと思われる。
いやー学界の常識を覆す新説だな。
ぜひ発展させてね。
167 :
考える名無しさん:02/06/08 22:01
マジレスするのもアフォらしいが、
>荘子の内容も流派の人員の中で一貫した「教え(ドグマ)」
>を敷衍し、発展してきたものと考えて差し支えないだろう。
ここからいきなり間違い。 しかも、その根拠が
>『老子』も『荘子』も(『列子』もだが)、本家中国では
>道家思想というカテゴリーで認識されている。
からだって?
じゃあ、「東洋思想」ってカテがあるから、格義仏教もOKなの?
「三玄」って括りがあるから、『老子』で『易』を解釈するの?
だいたい、「流派」とか「流派の人員」って何さ。
あ、そうそう、『荘子』の内篇と外雑篇との区別って知ってる?
>>167 >具体的に反論ない?ツマンネ
だってきみ、資料に即して話してないじゃん。
具体的な立論がないのに、どーやって具体的に反論するのさ。
>「各おの其の根に復帰す・・・・」っていう件。そこからの認識。
そこを一体どう読み込んだら「無=死の根源的世界」なんて認識に至れるの?
それとも、きみの脳内の注釈には「無とは死の根源的世界である」とあるの?
>>169 163さま。
(
>>158より)有は無を、無は有を生ず、とあるなら
現在「有」である→その根源(無)に帰る、
んで今が生(=有)ならそこから移行する死が=無ってことになる。
>>164さまはこの事を仰っているのでは?横レスすまそ。
>>170 私もそんな感じの事だと思っていましたが。
(死=「生きていない状態」とすれば)
まぁ、それは変かもしれないが、
>>169 其処まで棒大にする事は無いでしょう
>>168の様な話をされたらカテゴライズ出来る物は何も無いですよ。
あ、それと
>『荘子』の内篇と外雑篇との区別って知ってる?
そこから何か論は有るのでしょうか?
其処だけ話が繋がってないので・・・。
172 :
考える名無しさん:02/06/09 19:55
「結論的にいうならば、内篇の7篇は全体として荘子本来の立場に忠実であるが、
部分的には後人の思想が混じっている。外篇・雑篇の26篇は後人の筆になった
ものであり、荘子本来の思想を変質させているものが多いが、しかし秋水篇や
則陽篇のように、荘子の思想を忠実に守りながら、しかも見事は展開を見せて
いるものもある。要は、読者の目によって確かめる他は無いのであろう。」
『老子・荘子』〜中央公論社
>>163 個人はどう捉えているのか聞いてみたいね。
荘子 斉物論篇
「予悪くんぞ、生を説ぶことの惑いに非ざるを知らんや。予悪くんぞ、死を悪むことの、
弱喪して帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。」
>>165は、
>『老子』も『荘子』も(『列子』もだが)、本家中国では道家思想という
>カテゴリーで認識されている。
という根拠によって、
>荘子の内容も流派の人員の中で一貫した「教え(ドグマ)」を敷衍し、
>発展してきたものと考えて差し支えないだろう。
などという結論を導いています。
二酉様や20様は、上記のような行論を承認できますか?
すくなくとも私には不可能ですが。
>>171 >其処だけ話が繋がってないので・・・。
つまり
>>165は、『荘子』すべてを一貫したものと見なしているようなので
内篇と外雑篇という基本的な区別を知っているのか、という繋がり。
>>172 >163 個人はどう捉えているのか聞いてみたいね。
たとえば、万物斉同が荘子本来の教えなら、そして、もし荘子全体が
思想的に一貫してるならば、ドクロが再生を嫌がる筈は無いでしょ?
生死の間に価値の区別はないんだから。
175 :
考える名無しさん:02/06/09 22:49
>>175 そのような根拠によって、そのような判断を下すこと、
つまり、
>>165に示されたような行論を認めることが、
私には不可能なのです。
もしそんな行論が認められるなら、
>>168で私が例示したような
乱暴な行論でさえ可能になってしまう。
>>174 「ドクロが再生を嫌がる」って、何篇でしたっけ?
むしろそちらの話のほうが例外なのでは?
無に帰すことへの安らかな諦観を語る話のほうが
多く出ていた記憶がありますが、たとえ編纂をされていても
普遍的な方向性って読み取れないですか?
178 :
考える名無しさん:02/06/09 23:03
そんなこと言ってたら、163 のレスなんかいらないし、
大学教授の本読んで済む話だろ?
どのみちタイムマシンに乗って本人に聞かなきゃホントのことなんか
わかりゃしないんだから。
>>165さんの言いたかった事というのは、
「老子に近い考え方を持っている、
同じ道家思想としてカテゴライズされている
荘子の考えを持ってきて説明しても間違いではないだろう。」
と言う事ではないのですかね?
「一貫した教え」と言っていたのも
「道」等の道家思想の核となる部分の事を言いたかったのでは?
まさか全て一貫しているなんて考えはしないでしょう。
>>177 もっかい自分のカキコ見直してね。
「中国では老子も荘子も同じ道家思想として認識されているから
荘子は一貫した教えを敷衍し発展してきたものだ」
「だから老子でもって荘子を解釈しても構わない」
というのが、
>>165における君の主張ではないのですか。
もし違ったら、私がどこを誤解してるのか教えて。
あと、
>>168再掲。
>だいたい、「流派」とか「流派の人員」って何さ。
>>178 >そんなこと言ってたら、
私のどのレスの話ですか?
>どのみちタイムマシンに乗って本人に聞かなきゃ
>ホントのことなんかわかりゃしないんだから。
思想史をふくむ歴史学すべてを否定するスタンスですね。
少なくとも、「この本の中には思想的に矛盾する点がある」と
いうことは、タイムマシンがなくとも判る、と、私は思うのですが。
182 :
考える名無しさん:02/06/09 23:19
でも楊朱まで持ってこられると類別が難しくなる・・・
あんまり話も出てこないし。
>どのみちタイムマシンに乗って本人に聞かなきゃ
>ホントのことなんかわかりゃしないんだから。
そんな事を言われたらねぇ(w
何か荘子の
「私と貴方と議論したとして、
どっちが正しいか判断する事は当事者にも第三者にも誰にも出来ない。」
と言う様な話を思い出しました。
184 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/09 23:42
>>180 >「だから老子でもって荘子を解釈しても構わない」
>というのが、
>>165における君の主張ではないのですか。
>もし違ったら、私がどこを誤解してるのか教えて。
荘子でもって老子を…と言ったんですけどね。駄目なんですかね?
これら二つを「違う」というのなら、研究されておられる方々の『老荘思想』って
いったい何なんですか?
まったく「別個だ」とか断言している本を俺が取りこぼしているだけ?
>だいたい、「流派」とか「流派の人員」って何さ。
荘子に孔子が、良くも悪くも出てくるが、読み手にタオを理解させるための
登場人物として出てくるのであって、儒教的な教えそのもののために孔子が
出てくることはなかったですよね。だから『儒』と『道』で分けてもいいのでは?
諸子百家まで出されるとメンドイが・・・
186 :
考える名無しさん:02/06/09 23:55
>>163が1章邦訳を解釈してみれば違いがわかるんじゃねーの?
>荘子に孔子が、
ごめん。これ以下が私の質問とどう関わるのか理解できない。
188 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 00:34
>道家思想というカテゴリーで認識されている。
からだって?
じゃあ、「東洋思想」ってカテがあるから、格義仏教もOKなの?
「三玄」って括りがあるから、『老子』で『易』を解釈するの?
ここまで話を広げる必要があるの?世間一般では【老・荘】という括りだと思ってたけど。
違いといっても老子は平和のために『タオ』で啓蒙(薫育?)する、荘子は戦で乱れる
世に宦官になったり政治に関わって命を落とすことの虚しさ、礼節を重視しすぎる
ことの不自然な「軋み」を避けよ、という行動における指向性の違いであって、
人心に無為自然の模範を示そうとする方向では共通していると思っていたけど。
そもそも完全なる「個人主義」なら、経典にして残す必要はないわけだし・・・
>それとも、きみの脳内の注釈には「無とは死の根源的世界である」とあるの?
そう思って書いたんですがね。だから死に逝く人の諦観を引き合いに出したんだし・・・
逆に
>>163 は【無】をどう解釈しているの?
>私は『淮南子』あたり前後に 老子と荘子とをいっしょくたにして創出された概念だと思う。
『淮南子』はその土地の権力者(王?)がいろんな識者たちを集めて編纂した『百科事典』のような
ものだと読んだ記憶がありますが、それ以前に『荘子』は存在しなかったのでしょうか?
時間的に正確な特定が出来ているのですか?
荘子内篇だけでも、老子と共通する雰囲気があると思うんだが・・・
ありー?なんだか混乱。
自分は最初、
>>165を、道教として大きくカテゴライズされた思想集団
(テキストは老・荘・山海経など、色々扱う)のなかで道教としての
教義を敷延したもの→なので老を荘で読み解く事もも不可ではない?
という風に読んだんでしね。(って
>>179(20さま)と同じ事言ってる(笑))
でも、
>>184を見ると弥勒さまは老荘の区別自体をつけてらっしゃらないようにみえて
???な感じでし。荘子はどっちかというと政治的には無関心&かなりはげしく生へ
の主張をしますし。
>>185 163さま。
(実在云々は抜きにして)テクストとして『老子』と『荘子』の成立に関しては
『荘子』の方が『老子』より先だったんじゃないかって説がありましよね。
荘子内篇・外雑篇に関しては
>>181に同意。散失したテキストもずいぶんあるようなのが
個人的にチョトもったいない感じ。最終的には自分で読んで判断するしかないんでしょーね。
190 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 00:45
>>188 ごめん、訂正。読みが悪かった。
>私は『淮南子』あたり前後に 老子と荘子とをいっしょくたにして創出された概念だと思う。
つまり、それ以前にはまったく別個の教義で、いっさい関連が無かったと?
191 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 00:53
>『荘子』の方が『老子』より先だったんじゃないかって説がありましよね。
ゲ、そうなの、これって確定?
>>190 >つまり、それ以前にはまったく別個の教義で、いっさい関連が無かったと?
個人的にはそう思いまし。とても近い時期に成立している以上、
全く一切影響を受けていないとは言い切れないでしが。
手持ちの本には『史記』老子伝で出生が前560年、
荘子は前370〜390年って書いてあるが、今の通説はどれくらい?
194 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 01:33
まったく別個の教義で、いっさい関連が無いものを、当時の識者が
集まっている場でごっちゃにすることがあるのだろうか?
何の共通点もなかったら、そんなことはなかったのではなかろうか?
共通するものが多かったからこそ、混在したのではなかろうか?
ここには通ずるものがないのだろうか?
>>191 確定するにはタイムマ(以下略)
↓とも関わる事なんでしけど。ぐぁ。足つった・゚・(ノД`)・゚・
>>193 問題なのはその『史記』に出てくる「老タン」と『老子』の著者が
同一人物なのかと言う事。司馬遷のときに孔子の子孫が12代、
老子の子孫が9代って事は、一代15年としても孔子より老子の方が
最低45年は後の人って事になる。なのに孔子が老タンに礼を問うたって
説話が有って、これが『史記』(孔子世家)とか『礼記』ひいては『荘子』『呂氏春秋』
『韓非子』にも見られるから老タンって人はどうやら実在したらしい。
でも時代があわない。しかも老タン自身については事蹟がほとんど残ってなくて
しかも『史記』(老荘申韓列伝)の伝末に老ライ(來+草カンムリ)子が書かれてて
まるで老ライ子の異伝みたく取れる上、この人ってば『荘子』(外物)に孔子との
会見譚があったりする。まぎらわしいことこの上なかったり。なので
老タンさん自体は『老子』に関してあんまり有効な情報を与えてくれにゃい。
老・荘成立云々に関してには荀子の方が参考になる個所があったり。
196 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 01:43
>>195 おお、アリガトウ。
不明瞭なのは解説本にも書いてあったけど、まだ判んないんだな。
>>194 ごっちゃにしたってよりは、道教に組み入れるときに
(都合の)良いとこ取りをしたって感じがしまし。
民間に流布していた(であろう、現在は失われた)神話を
荘子はうまーく組み込んでますし。西洋で征服地の神話を
自らの組織に組み入れたのもこんな感じかしらんとオモタ。
>>191 ほぼ確定してると思うけど、厳密には確定はしてない。
というか、誰にも確定なんか出来ない。
昨今の考古学的な事情を考えると尚更ね。
でも少なくとも、現行本『老子』が『老子』と
呼ばれるようになった、つまり、老子という
人物と関連づけて考えられるようになったのは、
馬王堆より以降だと、私は考えている。
少なくとも、前漢前期より以前に『老子』という
書物が存在したという痕跡を、私は知らない。
(誰か知ってたら教えてプリーズ)
>>190 >つまり、それ以前にはまったく別個の教義で、いっさい関連が無かったと?
関連が「まったく」なかったとは考えにくいですが、別個の教義であったことは
確かだと思います。だって相容れないし。
>>194 >まったく別個の教義で、いっさい関連が無いものを、当時の識者が
>集まっている場でごっちゃにすることがあるのだろうか?
>共通するものが多かったからこそ、混在したのではなかろうか?
ほら、そういう思考。
「後世において混淆された」ということから、「もともと同じ教義だった」と
いうふうに飛躍してしまう。
「後世において混淆された」こととか、「老荘思想」とかいうカテゴライズを
否定しているわけではないよ。
構成のカテゴライズを根拠に「一貫した教えを敷衍し、発展してきたものと考えて
差し支えあるまい」とか「ならば荘子をガイドに老子を考察することも的外れでは
あるまい。」とか遡って考えることが「不可能」だと思うの。
だから格義仏教とかの極端な譬えを出してみたんだけど、伝わらなかったかな?
神仏混淆とかマリア観音とか全真教とか石田心学のほうが解りやすい?
ゲト
このスレ(・∀・)/ イイ!!
学生時代にこういう訓読ばっかりしてたから、懐かしいやね。
担当教授の「大漢和は調べましたか?」ってフレーズがリフレイン。(;´Д`)
会社から(ワラワラ だから、参加できないけど、
(でも、家かえったところでたいした文献もってねーな。)
そう考えると、母校の図書館のPCから参加するのが、一番いい環境かも。
(文献も辞典も山積みだったし。)
似たような儒教系のスレってないんかな?(専攻がそっちだったもんでさ。)
203 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 18:30
「荘子は蒙の人である。名を週という。その荘周は、かつて蒙の漆園の吏と
なったことがある。その生存の時代は、梁の恵王、斉の宣王と同時代である。
その学問は極めて広いが、しかしその要旨は老子の言葉に基づき、そして
これに帰着する。(〜略〜) 諸篇を著わし、これによって孔子の徒を謗り、
老子の道を明らかにした」 『史記』〜荘子伝 司馬遷
これも疑わしいってことだよなァ・・・
>だから格義仏教とかの極端な譬えを出してみたんだけど、伝わらなかったかな?
>神仏混淆とかマリア観音とか全真教とか石田心学のほうが解りやすい?
確かに大雑把すぎだった、悪い。
でも格義仏教とはいえ、伝播するときに、近しく相通ずる概念があったればこそ
老荘の概念で仏典を解釈しえたのでは?
マリア観音だって「永遠に慈悲深き母性」のような他力信仰的な共通点が
なければ一緒くたにされることも無かっただろうし、神仏混淆も神格における
特性の類似(同じ効能だとか、司る事柄等)がまったく反対のものであれば
混ぜこぜにされることは有り得なかったかもしれない。まったく何の共通点も
なければ、無理やり同一視されるなんてことはないのでは?
204 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 18:35
>だって相容れないし。
それなら荘子内篇で老子と明らかに違う点って、具体的に挙げていってほしい。
>近しく相通ずる概念があったればこそ(以下略)
まだ何度も言わなければなりませんか? 「共通点がある」ということと
「一貫した「教え(ドグマ)」を敷衍し、発展してきたもの」(
>>165)
ということとは違う、ということを。
>荘子内篇で老子と明らかに違う点って、具体的に挙げていってほしい。
例示は
>>185でガイシュツですが?
206 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 22:35
>>205 >例示は
>>185でガイシュツですが?
>「方々」によって異なると思うが、私は『淮南子』あたり前後に
>老子と荘子とをいっしょくたにして創出された概念だと思う。
まさかこれでお終いってわけじゃないですよね?
なら『淮南子』以前の変容してない『荘子』の姿を明示できるってことでしょ?
内篇が荘子の作なら、老子とどれくらい「何がどう違うのか」を教えて貰えないですか。
>これら二つを「違う」というのなら、
概説書を見るか、またはたとえば
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/999250898/485-495 とかを參照。
儒教の話とか中国哲学の定義のけなしあいを500幾つも全部読んでられん。
コテハン名か書き込み番号で貴方の書き込みを提示してもらえませんか。
>>206 500も読まなくて良いでしよ?(汗
そのスレの485〜495に老荘の区別に関しての話があるんでし。
かちゅーしゃだとそのままレス読めるんでしけど。。。
おっとニアミスカキコ。(
>>207)
ちなみにIEでもNNでもそのまま読める筈だよ。
210 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/10 22:54
>>207 『史記』〜荘子伝って、どういう評価なの?
事跡はともかく、その学問が老子に基づく、という部分は
後世(漢代)の解釈にすぎないとゆーのが通説じゃなかった?
あらら・・・
少し見ないうちに凄い事に(w。
ここらへんでその様なお話はよしましょう
何でもいいんです
老子でも荘子でも、そこに違いが有ろうと無かろうと
「道」とは何か、老子や荘子の思想に対して我々は何を思うのか、
それを考える事の方が重要だと私は思う
場合によっては老荘(若しくは道家)思想で括られている書物だけでなく
禅や儒教からのアプローチも考えられたら面白いかな・・・
「道徳経研究」ならばここでなくてもでもできるでしょう
214 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/11 00:35
ゲ、せっかく書いたのに・・・
じゃあこれだけ書き込ませて。
ザ〜っと読んで
>>493 がそれっぽいので書いてみる。
@老子にも神秘体験的な渾然一体の境地が描かれており、当然それは世俗的価値観
とは一線を画するものであろうことは明瞭だと思うのだが(第20章など)、それがなぜ荘子の
万物斉同ばかりが強調され、老子には認められずに政治的な影響を図ろうとする処世術
にばかり注目されるのか不思議でならない。
A分別差別を否定する箇所は老子の中にも出てくるのに、まるで老子にはそれらが
まったく無いような紋切り型の判断を下すのはどうしたわけか?
B価値判断等を全否定するのなら、「養生主篇」の養生や、「人間世篇」の顔回に
要諦を諭して旅立たせる話も必要ないのではないのか?むしろ余計な事ではないのか?
そもそもなんで『無用の用』が必要となるのか? これは「世俗的な懊悩」がさまざまな
価値判断(恩寵や屈辱・優劣・損得など)によって心理的に作り出されるからであり、
それを超越した境地に達すれば万物は本来融通無碍であるという宗教的真理を
根底にしているものだ、と私は判断していた。
老子の政治的関心も乱世の平和を願うからであり、それは影で「支配」してやろうと
いう意図ではないはずである。
老子は乱れた世にあって大衆の薫陶こそがまず第一義であると考え、その延長線上に
王君子の在り方を説いたのではないのか? それはあくまで『平和な世』を望んだ上での
処方箋であったはずである(第27章など)。何のために影響力を衆にもたらすのかというのも、
この点を看過するならば単なる処世術でしかない。
老子の第37章では「吾はまさに之を鎮するに無名の樸を以ってす」とあるが、これは
無名の樸=万物斉同の境地でもって、人心をなだめようとする意図ではないのだろうか?
荘子にも同じく「世俗的な懊悩」への対極として「無碍の境地」が語られているが、
それはやはりそれを読む人間に対しての「善意」の発露ではないのか。
「人間世篇」には孔子と顔回の話が出てくるが、国政を正そうとする顔回に孔子が
気構えを諭すのは(平和目的での)政治的関心でなくてなんであろうか?
これも他人の改竄でしかないのか?
>>213 >「道徳経研究」ならばここでなくてもでもできるでしょう
そんなご大層な事(「研究」とか)をしてるつもりはありませんけどね。
せいぜい大学教科書レベル程度の雑談にしかなってませんし。
>何でもいいんです
>「道」とは何か、老子や荘子の思想に対して我々は何を思うのか、
>それを考える事の方が重要だと私は思う
「『老子』の「道」とは何か」「『荘子』の「道」とは何か」という
客観的に追検証可能な議論ではなく、「「道」とは何か」という議論を
されるのでしたら、文献実証主義の立場からは口をつぐむしかありません。
場違いなカキコの数々、失礼しました。
せめて163は
>>214に答えてやってもいいんじゃない?
もう、祭りのあとかい。
しかし、上のほうのスレはドンドン高次元な人間の低次元な争いに突入してってるのか?
流し読みじゃ理解できんから、とりあえず今度時間のあるときに読む。
アリガd〜。
>高次元な人間の低次元な争い
ちがうよ。
豊富な知識と高い思考能力を身につけた
低次元な人間たちの争いだよ。
>>218 おもろいな、でもちゃんと勉強してる人たちまで悪くは言わないでくれ。
俺がアホなのは認めるが・・・
既刊の解説書読んでて物足りなかったのは、どれ読んでも時代考証あたりで
話が終わってて、『タオ』そのものに言及出来ないから・・・
してしまうと『宗教』的になってしまうから。
つまり、文献学的には『タオ』そのものには触れることが出来ない。
座禅しないで『禅』を語っても本質には辿れないのと同じ。
つまり揃わない「残り滓」を拾い続けるか、意義付けを自分で構築するしか
ない。正解は歴史の彼方に埋もれてしまっている・・・
>既刊の解説書読んでて物足りなかったのは、どれ読んでも時代考証あたりで
>話が終わってて、『タオ』そのものに言及出来ないから・・・
オウム出版とか幸福の科学出版とかの概説書を読め。
>>220 べつにそんなん読まんでも座禅すりゃいいじゃん。
222 :
考える名無しさん:02/06/13 11:46
宗教=新興カルトか。発想が貧弱・・・
老子のタオと荘子のタオとはどう違う?
後者は〈無限〉と置き換えてもそれ程違和感はないが、前者は少し合わないような気がする。
224 :
考える名無しさん:02/06/13 13:46
「不射の射」の紀昌って老荘思想と関係ありますか?
中島敦の「名人伝」ですけど。
木鶏のヤシ? 荘子ダヨ
226 :
考える名無しさん:02/06/13 17:23
老子のタオは語りえぬっていうか
228 :
考える名無しさん:02/06/14 09:24
>>228 ア、本当だ、ごめん。冷やかしの皮肉かと思ってた。
はうぁ。
>>217が
>>202のスレを言ってるって事は
もしかしなくとも自分も低次元な人間の仲間入りでしか?
キヅ゙カナカターヨ(´Д`;)
231 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/15 00:41
>>230 高次元な人間の二酉さんにお尋ねします。
>>214 の@とAみたいな問いが出たらどう答える?
最初から相手にしない?
>>231 弥勒さま。
(二重に)んなこたぁーない。
老子は荘子ほど読み込んだことがないので、両者の比較に関して
明言はできませんが、『老子』の中で本流となる思想が、どちらかというと
渾然一体のものよりは処世術的なものだからじゃないでしか?
>>213さまのような方もいらっしゃるので細かい検証は省きましけど、
たとえば真実のものについて語っても『老子』は「知るものは言わず、言うものは知らず」
と言うし、これに対して荘子は穴ぼこ渾沌の話にもありましけど、そういった
分別とか価値判断そのものを否定しまし。老・荘どちらも、社会と人間の関わり方を
(特に政治的に)示した儒家に対して、人間の根源的なものを問題にするという
共通点は確かにありまし。でも、共通点はあっても、違う所の方が多い、と。
孔子の教えを一言で表すと「礼」だとすれば、老子のそれは「道」であり、
荘子のそれは強いて言えば「解脱」かと。道は「生き方」に言い換えられましけど
解脱はそのまま(ありとあらゆるものからの)解脱でしから(苦笑)
分別に縛られてしまった自分としてはあのすごい比喩とか見ると、
「おおぅ」とか思っちゃいまし。自分からすれば、弥勒様はそれだけ
老荘の「似通った」所を発見できるのでしから、どうして逆に
「違った」所には焦点をお当てにならないのか不思議でし。これは多分、
以前も指摘された通り「老荘」と纏められるからには思想に近い部分がある、
という誤解に基づく所だと思いましけどね。@に関してはこんな感じ。
Aは、ここでは幹となる話をしているので、枝葉の部分は省いたというのが
本音ではないでしょーか。まずはマクロな所から入るのというは話を進める上では
有効な手段だと思いまし。
関係薄いけど、どんな根拠か白川静氏が、『荘子』に孔子の話が出てくるのは
荘子自身が孔子の門下だったからでは、みたいな説を出されてたでし。
風邪ひいてくらくらしてるんで、おかしなとこあったら遠慮なくつっこんでくださいー。
233 :
弥勒 ◆R0eWkIpk :02/06/15 01:34
ありがとう、明日また質問します。暖かくして早めに休んでください。
234 :
考える名無しさん:02/06/15 18:09
ディオゲネスは仙人
236 :
考える名無しさん:02/06/16 00:13
トンペティも仙人
ツェペリも仙人
ジョナサンも仙人
リサリサは?
人在山中、之謂仙。
人在谷中、之謂俗。
>>232 >老子は荘子ほど読み込んだことがないので、両者の比較に関して
>明言はできませんが、『老子』の中で本流となる思想が、どちらかというと
>渾然一体のものよりは処世術的なものだからじゃないでしか?
この判断はそれこそ大雑把過ぎなくない? 解説書にはだいたいそう書いてあるけど・・・
処世術っていうのは「世渡り」の方法って意味だが、個人の利益獲得のみを問題に
するよりも、衆の【和】(つまりは黄帝の時代のような無為自然の純朴さみたいなもの)を
目指しての事だと思うんだが。
もちろん老子にそういった傾向の章がまったく無いわけではないが、逆に荘子の
「養生主篇」にだって、その手の個人的な処世術めいた記述もあるし、前にも書いたが
平和目的の関心がまったくなかったとしたら、孔子と弟子の話も(たとえタオの境地の
比喩としてでも)それを描く必要はなかったんじゃないかと思う。
まあ、具体的に書いていっても「後世の手によって改竄されたものだ」って言われれば
それまでだが・・・
>たとえば真実のものについて語っても『老子』は「知るものは言わず、言うものは知らず」
>と言うし、これに対して荘子は穴ぼこ渾沌の話にもありましけど、そういった
>分別とか価値判断そのものを否定しまし。
この部分ってさあ、「じゃあ、何で価値判断を否定するのか?」って考えたことある?
老子にも荘子にも『無用の用』に準じたたとえ話が出てくるのは、意味の有る事だと思う。
老子五十六章の「知っている者はしゃべらない。喋る者は知ってはいない。」というのは、
それに続く瞑想の境地を実践させるためには「分析のための論理的思考や分別」が
瞑想を実践するのに邪魔だって言ってるだけだと思うし、応帝王篇の「穴ぼこ渾沌の話」は、
五感の情報過多=万物斉同の境地を妨げる【雑念】、を嫌う比喩でしょ。
瞑想の神秘体験を共通点として読めば、何に違いがあるのかな、と思ってしまう。
『荘子』 斎物論篇
「その生涯をあくせくと労苦のうちに過ごしながら、しかもその(後世に残るような)成功を
見ることもなく、呆然として疲れ果て、人生の行方も知らずにいるのは、憐れというよりも
愚かではないか。このような有様で生きているのは、たとえ他人が「お前はまだ死んで
いないよ」と言ってくれたとしても、それが何の役に立つであろう」
これは結局、主体性(セルフイメージ)の根拠を、社会的な評価や実績偏重の価値の
中に置いて、いつの間にか自分の在り方(らしさ)を見失っている衆の姿なのでは?
万物斉同とは、私と世界との「調和」。荘子の言う「道枢」も、それを役立てる目的も無く
口にしているわけではないと思う。つまり実用性を考えて「タオ」を語っているのだ、と。
(この下は読み飛ばしていいです。宗教的になるから)
どうして分別を否定するのか?って考えると、観念的であり過ぎると本質そのものを
見失ってしまうからじゃないかな、と。で、「自分らしさとは」とか、「己とは何か」を
突き詰めていくと自己との対話が生まれ、自己との対話を突き詰めると「我れ」という
ものも観念的思弁に過ぎず、さらに突き詰めると実存的主体の自覚へと至る。
そこまで行き着くと物的存在と我の境界が無くなって、全一感に莞爾する境地になる。
荘子の「大宗師篇」の『エイ寧(えいねい)』なんかは、そんな感じだと思った。
ま、学術的根拠なんて一切ないけどね、…ってダメじゃん(苦
>>232 『孔子伝』では荘子は
精神的系譜から言うと孔子晩年の思想の直系者ではないかとされていましたね。
>>239 私の考えは貴方の論点とは全くあっていないかもしれませんが、
>じゃあ、何で価値判断を否定するのか?
価値判断は「道」からは遠いものであると言う事だと思います。
つまり、自然から遠ざかっってしまった人間(の考え)の否定なのではないか、
と思ったのですが。
論語微子篇に出てくる老荘的隠者達と孔子との違いでもあると思います。
以上、妄言でした。(w
妄言ついでに、
全く話とは関連無いけれども、仏教と老荘思想の融合である禅から
気になった文章を書きます。
『無門関』19章
道は知に属せず。不知に属せず。
知は是れ妄覚。不知は是れ無記。
若し真に疑わざるの道に達せば、猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。
豈に強いて是非すべけんや。
>>239 >価値判断は「道」からは遠いものであると言う事だと思います。
>つまり、自然から遠ざかっってしまった人間(の考え)の否定なのではないか、
>と思ったのですが。
>論語微子篇に出てくる老荘的隠者達と孔子との違いでもあると思います。
「鳳よ鳳よ・・・」ですね。『論語』微子篇以外にも、『荘子』人間世篇で
引用されてますね。『列子』では【無用の用】を付け足して、もう少し深くなって
いるように思えます。
では、道家思想の『自然』とは、ご自身ではどのようなものであるとお考えですか?
ちなみに応帝王篇の「穴ぼこ渾沌の話」は、『列子』仲尼第四の八も参考に。
>『列子』では【無用の用】を付け足して、
訂正 : 『荘子』では・・・
一ヶ月近くレスが無いってことは、ここも俺がスレジャックしても誰も文句は言うまいね。
イヤです。なんちって。
ちょっと老荘思想から離れていましたので見ていなかったのです。
もう自分の発言を忘れかけていたのですが
自然といったのは多分道と同じ感覚で使っていますね。
道=自然といった感覚で使ってしまっていますので、
>では、道家思想の『自然』とは、ご自身ではどのようなものであるとお考えですか
と言われましても、何であるかといわれて
こうだ、とはいえない状態なんですね。
ちょっとお酒が入っていますので説明になっているかどうか・・・
(全然なっていないですね。)
>>245 では、何故『道』と『自然』は同義のように使われるのでしょうか?
“個人的”にはどう思われますか?
_,.......,_
,r'" ヾ::.、
. ,:" ● ,!::::゙:,
i ___,ノ::::::::::i
l ,ィ:":::::::::::::::::::j
. ゙:、 .{:::::○:::::::::::ノ
゙'' ゞ;;;;;;;;;;::-''
248 :
考える名無しさん:02/07/18 20:42
おお、こんなスレあったのね。まさに道教こそ2ちゃんねるにふさわしい。
でもさあ、弥勒とかゆう人さあ、自分でそんなふうに名乗って恥ずかしくない?
そういえば聖人とか名乗っていた奴もいたなあ。
ディル猫の煽りに『666』っていうのが居たから辞めたまで。
自分ではニーチェのアンチキリストから、コテハンにしたんだけど・・・
それより、「まさに道教こそ2ちゃんねるにふさわしい」って、
何を根拠にして言ってんの?
250 :
考える名無しさん:02/07/18 23:02
とゆうかあんたコテハンにしてるだけで私は馬鹿にしてますから。
自分で弥勒だあ。ふん、死ねよ。
おまえ何なんだよ。どいてろ。
>>248や
>>250の様な者のほうが恥ずかしいと思うがねぇ。
弥勒さんもこの様な煽りには乗らない方が言いと思いますよ。
253 :
考える名無しさん:02/07/27 10:32
>>252 煽りに、シレーッとおすまししてるのが性に合わないんですよ。
もっとも夏休みだから、これから益々量産されていくでしょうけれども・・・
ところで
>>20 氏は、もうちっと書き込みしてくれんもんですかね。
退屈でしょうがねえや。
スレジャックを嫌がる割には、自分で話を膨らます気持ちもないのね。
それともDAT落ちを画策しているのか?
どこぞの大学教授の解説本の『受け売り』程度の事しか書き込む内容が
ないのなら、書店に足を運べばいいだけの話。
誰もそんなの期待してないでしょ、2chで・・・
“個人的”にどう思うか?っていうのは、しっかと読み込んだその人【個人】の
解釈が聞きたいからなんだけど、そこんとこどうなのよ?・・・
解脱というより、超脱かなぁ。言葉遊びだけどね。
255 :
考える名無しさん:02/07/27 18:17
256 :
考える名無しさん:02/07/27 19:41
陰と陽は不可分の関係なんですね。
それで「道」が「自然の姿そのまま」なのかな。
ちなみに実は小さな丸の中も無限に陰と陽に分かれてるのだと最近知りました。
257 :
考える名無しさん:02/07/27 21:13
>>256 >それで「道」が「自然の姿そのまま」なのかな。
なぜ?
>>256 電波を垂れ流したいなら、よそでやってよね。
259 :
ちんこ星人:02/08/02 19:22
スレタイに惚れますた
260 :
考える名無しさん:02/08/05 21:28
なにやら変なレスが出てきましたねぇ(w
それはそうと、
>>253 スレジャックなんか嫌がってはいませんよ。
出来るかどうかは別として。
個人的には道徳経(荘子でも良いのですが)
を読んでいくような流れになって欲しいと思っていたんです。
具体的に1章づつ読んでいった方が老子(若しくは荘子等)の言う
道なるものに近づいていけると思うのですが。
263 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 02:24
さてと、やる気のない
>>20 は置き去りにして、スレジャックと参ります。
中国禅では禅師が袈裟を見込みの有る修行僧に手渡すことで『免許皆伝(?)』と
なるわけで、『六祖壇経』の恵能の話では袈裟争奪のために追っ手が来るなどと
いう物騒な話も書いてあるのだが、そもそもなんで『師匠』が『弟子』を選んで
認可を与えるのかというと、【教え】を後世に伝えるためには鈍らな人間に勝手に
内容を歪曲されたりしてはたまらんからである。教えという“美酒”を授けるべき
器(弟子)がひび割れで漏れるようでは話にならない。
で、何が言いたいのかというと、『荘子』や『列子』には師弟関係の間柄にある
人たちの会話が幾つも盛り込まれていて、それから察するに『道家』と呼ばれうる
神秘思想的な“潮流”が、(百家と抗して)「流派」のように在ったとしても
不思議ではないだろうと思ったのだ。『荘子』や『列子』が、民間伝承の御伽噺や
神話をランダムにかき集めた『日本書紀』みたいなものではなく、何かしら一貫
したテーマに沿った寓話をチョイスして教本にしているのではなかろうかと・・・
『老子』と『荘子』がまったく関係の無い別起源のものであるというような内容を
チラと見た気がしたが、荘子を読んでから老子を読むと何故ああも分かり易く
読めるのだろうか? 何の関連も無いどころか、むしろ相関関係であるかのように
思えてしまう。(もっとも神秘主義のドグマの多くに、似通った共通点が見受け
られるのだが…)
『老子』も『荘子』も民間で流布し多く読まれたせいで、大なり小なり改竄されて
いるのは否めないであろうが、だからといって一貫したテーマがまったく無いと
誰が言い切れるだろうか? 荘子外篇や列子に、弟子を取っている師弟関係の話が
あるのはそこに伝えるべき【テーマ】があり、その教えを伝え残そうという古人の
共通した意志があったからではないのだろうか?
と、いう前講釈で、【老荘】を一緒くたにして語ろうという『理由』にするつもり…
264 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 05:11
『老子』(道経+徳経) 上篇
第一章
『道(タオ)』が語りうるものであれば、それは不変の『道』ではない。
何故ならば『概念化』は、しょせん“本質”そのものには至らないからだ。
同じ理由で、『名』を名付けうるものも、それは不変の『名』ではない。
天と地が出現したのは、「無名(名付け得ない幽玄)」からであった。
名付けうる天と地(世界)は、自然界の母である。
故に、瞑想の『無心』をもって【妙(神秘)】を観ることができ、
思考による意識活動・認識を離れられない者は、認識され終えた“理”
しか理解することが出来ない。
これらは同じ根源(幽玄)から顕れる“働き”であるが、それでもなお
呼び名を別にしている。(思考活動vs無の境地)
この同じ根源を『玄(幽玄)』と呼ぶ。それは不可知の如く奥深い。
万物世界の霊妙なる働きの根源なのである。
265 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 05:12
太極図を眺めた後で夜空の満月を見上げると判るかも知れない。日本では
杵と臼で餅を突くウサギの絵が月面の模様として解釈されているが、あの
兎の耳あたりが陽の黒円であり、足元と臼の隙間が陰の白円なのである。
古来より洋の東西を問わず、月というのは神秘的な霊力の源として崇拝
されてきた。臨死体験でトンネルを抜けて光の世界へと飛翔するイメージが
たびたび出てくるが、これは満月を見上げて「向こう側の世界」を信じた
我々の先祖から受け継がれた【集団的無意識】なのかも知れない。
我々は生きている限り「他者の死」を目にする。料理の食材たちですら
名も無き小さな“死”の結実である。
自分の肉親・家族の死・・・骸はもう動かない。やがては腐り、土に還る。
生は『有』であり、死は『無』である。天国や極楽浄土という別の世界
で生きるのではなく、例えばビッグバン(物質界)以前の【根源的無】に
戻るという意味である。(これは例えであって量子物理学の話ではない)
『無』に還る、という発想があって初めて道(タオ)が理解される。
陰と陽の両極は別個のものではなく、常にその対極を内包している。
『有』も『無』もこの世界の構成要素であり、不可分なのである。
死=『無(幽玄)』に還る、ということは、『有』が現れる根源は
やはりその“死=『無(幽玄)』”であることだろう。
『死』と『誕生』がワンセットとなって対極を廻り、この【世界】を
構成するのだ。
瞑想というのは「限りなく意識を“死”の境地に近づける」ことである。
『無の境地』は、実体験してもらわなければ理解させようがない。
この感覚が、道(タオ)と瞑想を結びつけ、一貫性を持たせるのである。
ただ、間違ってもらいたくないのは、「瞑想してるからエライ」とかいう
誤解をすることである。問題は常に“心の状態”を如何にクリアに
しておくかということである。常に、クリアであるかが問題となるのだ。
無心とは放心でも忘却でもない。荘子に出てくる職人たちの“三昧境”も、
要点は“心の状態”なのである。これは『無為自然』の項で語ろうと思う。
266 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/12 19:04
『老子』 第二章
天下すべての人々が皆、“美しさ”を貴び酔い痴れる。そこから醜さや不完全さ
というものを毛嫌いする偏狭さが生まれる。善なるものを尊び規範として
持ち上げること、そこから他の人の【過ち】を裁き、罪科を加え許すまいとする
心が生い育つ。
『有』と『無』は相対して生じたのであり、難しさと簡単さも相対的な比較に
よって把握される。長短も高低も同じく相対的に比較されることによって理解が
可能となる。伴奏と歌声も、お互いの組み合わせで“世界”を演じてみせるのだ。
前と後ろにしたところで、まずどちらかを先に決めてしまわねば判断を付けられない。
つまりは、相対的な関係のどちらか一方を【是】として殊更に取り上げたところで、
相対関係の【非】の部分を完全に葬り去ることなど出来はしないのだ。
何かを【是】として確執を抱く『偏り』が、かえって自然なる調和のバランスを
崩してしまう。それゆえに、聖人は何かを【是】として持ち上げる相対的な
分別心を離れ、『無為』の静謐と調和によって教え無き【薫陶】を施す。
あらゆる物事を見放さず、適材適所に振り分け、しかも誰もその采配を厭わない。
(何故ならば、誰しも少なからず活かすべき才能が埋もれているからだ)
何かを作り上げても独占しようとはせず、成功してもそれを恃みにふんぞり返る
こともないし、功績を挙げても地位にしがみつくこともない。
【是】という偏りを立てぬこの生き様が、彼をその地位から追い立てないのである。
267 :
考える名無しさん:02/08/12 19:40
これが実際には数十文字であらわされてるわけだ
268 :
考える名無しさん:02/08/12 21:47
269 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:07
老子 3章
才覚を称揚しなければ、社会から過度の競争はなくなるだろう。
稀少品や高価な物の価値観を皆々が捨て去るならば、民衆の間に
盗人はいなくなるだろう。
扇情的な情報を垂れ流さなければ、人倫が乱れることもないだろう。
だから聖人たろうとする者の政治は、大衆の欲心を鎮め心を彷徨わせず、
日々の暮らしの価値を見い出させるよう努め、高い目標や夢を
追いかけるよりも、まず生活力を養わせる。
民衆に功利主義的な考えをなくさせ、純朴でいられるように慮る。
才知の有る者がいても、社会を煽動することの弊害を諭す。
欲が少なく穏やかならば、世の中が平和に治まらぬはずがない。
270 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:08
老子 4章
道(タオ)は空っぽの容器みたいなものだが、それを外に用いても
再び中身を継ぎ足さなければならないようなものではない。
瞑想中の境地はまるで深淵のように底知れぬ感じで、あるいは
万物の根源のようなものではなかろうか。
明敏な理性の働きを鈍くし、論理思考の錯綜を解き放ち、
知性の明晰さを和らげ、沸き起こる雑念を沈むにまかせる。
それは常に湧き水を湛える透き通った泉のようだ。
私は道が何より生まれたかは知らないが、帝らの歴史より以前から
在ったようである。
271 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:08
老子 5章
天地の営みは摂理であって、個別に仁愛を施すわけではない。
食物連鎖の中では全てが同等だ。
聖人もまた個別に仁愛を施すわけではない。利害の嘆願に応じていれば、
いずれは全てがねじ曲がってしまうだろう。
道(タオ)の境地はフイゴ(例:空気入れのポンプ)のようなものである。
中身は何も無いが、その働きは尽きることがなく、動かせば動かすほど
力が働く(その境地からの俯瞰は有用なのだ)。
事に深入りして情に絆されれば、身動きが取れなくなることもある。
中庸・公正を守るということもまた、大切な事である。
272 :
考える名無しさん:02/08/16 12:13
勉強になるなあ
273 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/16 12:25
>>272 これで勉強してはいけませんよ、先生に叱られます。
市販の解説本と比較して自分で確かめましょう。
274 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第6章
谷の神は不死である。この何も無い空間の神、それを“幽玄なる牝”という。
幽玄なる牝の陰門、そこから天地万物が生まれてきた。
それは遥か昔から在り続けてきたようであり、その霊験はいつまでも
尽きることが無い。
275 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第7章
天地は悠久である。天と地が久しく存続し続けているわけは、それらが
「みずから」に得ようとするエゴで行動しないからである。
利欲の無理強いは全体の流れというものを滞らせてしまい、結局は
全てを駄目にするのだ。
それゆえに聖人は、一歩引いて全体の流れを見渡しながら、実は流れの
方向を調整し、民衆の輪の外にいるようでありながら、なおかつ彼らの
未来と共に在るのだ。
彼は自らの利欲のために動こうとはしない。ゆえに私心無き行動が
民を活かすのである。
276 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第8章
最上の善とは、まるで“水”のようなものだ。水の善さは万物を潤し恵みを
施しながら、しかも功利を争わず、皆の嫌がる低い場所に満足していること
にある。それゆえに『道〜タオ』の働きに近いのだ。
暮らし向きは質素で地道であるをよしとし、心根は奥深く器の大きいことを
よしとし、人との交流はやさしさをもってし、発言は信頼を裏切らぬことを
よしとする。
政治は平和に治まるを善しとし、仕事は巧であることを、行動は時機を逸する
ことがないのをよしとする。
我を立てて争わぬこと、それゆえに誰からの咎めも無い。
277 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:04
老子 第9章
手に持った器を一杯に満たして持ち続けようとするのには無理がある。
刃物を研いで鋭くしても、いつまでも切れが鈍らないわけはない。
財産を目一杯溜め込んでも、いつまでも減らないままに保ち続ける事は
出来ない。
過去の功績などにしがみついて驕りを持つようならば、結局はそれによって
自らの名を貶めるようなものである。
使命や功績を遂げても、時機に適って地位を退き後世に委ねるのが
自然の流れなのである。
278 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/25 03:05
老子 第10章
魂の光明(神秘体験)を保ち精神を統一させ、その状態を長く保てるか。
“氣”を溜めて滑らかにし、赤子のように純一であることができるか。
雑念を払い清めて、心を曇り無くすることができるか。
民衆を愛し世を導いて、しかもなお名を崇められることなどないように
できるか。天命の運がどう巡り合わせようとも、それを受け入れて
「然り」と言うことができるか。
物事によく精通していながら、しかもなお出来る限り自然の流れに
委ねようと努める事ができるか。
善き流れを生み出し、それを養い、所有しようとも欲さず、支配しよう
ともしない。これを玄徳(神秘体験の人格への反映)という。
279 :
考える名無しさん:02/08/25 08:47
age
280 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第11章
例えば自転車のスポークが、中心の軸へと集まっている。
その間の何も無い空間に、軽量化のための有用性が有る。
陶土をこねて器を作る。その何も無い器の中の空間によって、
器としての有用性が生まれる。
出入りのための戸や窓を付ける。その何も無い空間によって
人の住む家の有用性が機能する。
世間の人々は『無』の有用性というものを理解しようとは
しないが、有用性の根本には『無』が偏在しているのだ。
281 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第12章
華美な色彩は自然の素朴な風合いの良さを忘れさせ、
荘厳で韻律豊かな音楽は野の音のやさしさを遠ざける。
豪華な食卓の数々は感謝の念をないがしろにし、
手に汗を握るイベントは人の心の粗暴さを駆り立てる。
高価な希少品の類は欲で人を狂わせる。
人の心とは周りの影響に簡単に左右されてしまう。
それゆえに聖人は性根を大事にし、見せかけの外象に囚われない。
彼の主観は事象の表層に在るのではなく、実存そのもの
(神秘体験を透過したうえでの)に在るのである。
282 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:18
老子 第13章
人は他人の評価で一喜一憂し、我を忘れてジタバタする。
それは病気となる原因を、健康に良いと勘違いして続けるようなものだ。
他人からの評価の良し悪しが人の心を狂わせる、とはどういうことか?
自分への評判が良いとわかると人は浮き足立ってしまうものだし、
ひるがえって悪くなると居場所が無いかのように落胆したりする。
これが我を忘れてジタバタするという意味である。
病気の元を健康に良いと勘違いする、とはどういうことか?
それはこの一喜一憂の原因が、自分のセルフイメージの根拠を
外(社会)に求めようとするアイデンティティの脆弱さにあるからである。
だから、実存的自覚を根本に置き、世評や大義名分の目的意識に
自分を見失う事がないような者にこそ、本当に天下を預けることが
出来るであろう。
全人的調和に安らぐことが、あらゆる行動の根本に在るような者にこそ、
世の政を任せることが出来るであろう。
283 :
弥勒 ◆666//S/s :02/08/30 23:39
>>280 >有用性の根本には『無』が偏在しているのだ。
訂正:有の根本には…
無碍
285 :
考える名無しさん:02/09/18 21:59
弥勒さん、もう老子解説に飽きたの?
286 :
Kurihara:02/09/18 22:49
はい、飽きました。
287 :
弥勒 ◆666//S/s :02/09/23 14:22
老荘関連のバカスレ乱立は私のせいではありません。前からあのレベルです。
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老荘の無について(+と-)
老子における『無』というものを考えてみよう。いや、というよりもむしろ
それは『無の効能』を着眼点とすべきなのであって、『無』そのものの観念に
彼らが固執していたわけではないのだろうと私は思っている。
禅関連の書籍などをかき集めて読み進めるうちに、どうも禅の真髄というものは
山林の奥深き寺にこもって只管打坐する禅僧などよりも、禅師に師事するかの
ようにして影響を受けた武道家やサムライたちのほうがニュアンスをよく
飲み込んでいるのではなかろうか、という疑念を抱いたりしたものだ。
もちろん「解かり易い」ストレートな書き方をする単刀直入さがそれを後押し
しているのだが、刀で斬り合いをする当事者の死生観のほうがシンプルな分だけ
心に響いてくる。それだけ『言葉』が重いのだ。
老子の『無』も、その「つかいみち」が重要なのだ。
つまりは『無』あるいはその観念に固執するのではなく、それを利用して
どう己を活かし、民草を生かし、国を平和たらしめるか、という現実的利用の
手段として『無』を使う、という視点が必要なのである。
老子を今、意訳中なので老子で言うが、老子の『無』は簡単に極論して言うと、
「シンプルイズベスト」なのである。
我々は「幸福」を考えるとき常に「プラス」で考えている。つまり何かを足す
(物欲でのショッピングから出世欲・名誉欲、より多く愛されたい等…)
ことによって幸せになれるという感覚が身に染み付いている。
大量消費社会に生きてきた我々の感受性が、それに然りと言い続けてきたのである。
老子の思想は「マイナス」であり、いま多く有るものから差し引くのである。
欲望とは『渇き』である。それを手に入れるまでは喉が潤うことはない。しかも
その渇きが完全に消えてしまうことすらない…
288 :
弥勒 ◆666//S/s :02/09/23 14:22
欲の「不足感」に突き動かされて行動するとき、人間はその多くが自分の本質性
を見失う。あまりにも「目的意識」が強くなりすぎて、自分の中で失いそうに
なっている大切な「純真・素直さ」に気が付けない。欲望が、自分に「無理強い」
をさせていることを彼はわからないのだ。
老子の神秘主義は、それをアイデンティティの根拠に置いて利用するための
力技的手段であるが、これは信仰を持つ人間のほうが常人よりも遥かに忍耐強く、
行動的であるなどの長所を持つ事例と同じ効能である。より“高い”視点を
拠り所(信念)としたほうが、人間は常人を超越しやすいのだ。
老子を「愚衆支配」の処世術であるかのように解説本で書く大学教授とかが
いるが、「バカなまんまが支配しやすい」とか、何処をどう読み込めばそんな
悪意が読み取れるのか小一時間ほど問い詰めたい。問い詰めてみたい。
老子の神秘主義はその実践と方法論として(おそらくは修法として内容は
マンツーマン=師弟関係の中で、書には多く書き込まれず)、そしてそれを
使ってどう平和に導くかという社会への「応用」として、『老子』の中に結実
しているのだと私は思う。
もちろん『無の有用性』なんかを市井の民衆が簡単に理解するはずもない。
21世紀に成り代ろうとも脳生理学と瞑想の効能性の関係を、実際に『経験』して
みようと腰を上げる人の数は少ない。そんなことよりケータイの新機種や秋の
新番組の話を友達と語り合うほうが『有意義』なのだ。
老子は智慧を「占有」して「愚衆支配」するのが目的ではない。関心・興味の
無い人間やDQNに近い人間をも“社会”の中に組み込んでどう導くかという
『薫陶』の問題を考えて記述しているのだ。観念論に終始しているような書では
ない、実践が問題なのだ。
289 :
考える名無しさん:02/09/23 18:24
弥勒のスレって全然人気ないね
誰もよりつかないし
老荘を正確に読むってゆーよりも、むしろ老荘の名を騙って
自分の信条を吐露してるだけみたいな。
まったく、どこをどー読み込めばそんなことが読み取れるのか、
小一時間ほど弥勒を問い詰めたい。
291 :
考える名無しさん:
これが自分の信条なら大した人物だとオモワレ(w