1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2007/02/23(金) 16:29:46 13世紀、世界最強だったのはモンゴル騎兵ではなく鎌倉武士。 直接対決でも勝ってるしな。
素朴な疑問だが、蒙古は九州に馬持ち込んだの?
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/23(金) 16:44:12
>>2 八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」
高麗人と蛮子に勝ったことがそんなに嬉しいか?
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/24(土) 05:10:57
>>5 マムルーク朝やハルジー朝が勝ったモンゴル軍は、所詮はフレグ・ウルスや
チャガタイ・ウルス。
日本が勝った大元ウルスとは、国力が比較にならない。
マムルーク軍がアイン・ジャールートで戦ったモンゴル軍が1万2000程度だった
のに対し、文永の役の元軍は4万。
それに、ハルジー朝がインダス川を遥かに越えデリー近郊まで侵攻したモンゴル軍に
ようやく勝利したのに対し、日本は元軍が九州に橋頭堡を築くことすら許さないという
完封勝利。
大越の陳朝が勝ったのは確かに大元ウルスだが、日本の場合とは勝利の内容が
大きく異なる。
陳朝はモンゴル軍襲来の度に首都を占領され、国王がデルタ地帯に逃げ込まなければ
ならなかった。
1257年にハノイの大羅城を攻略したウリャンカダイ率いるモンゴル軍は僅か3000だったのにだ。
そのため、日本が最後まで元からの独立を貫いたのに対して、陳朝は元への入貢を約束し、
王族を人質に出し、国内にダルガチを配属しなければならなかった。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/24(土) 05:21:41
素人考えなんだが、相手が渡海して攻めてきたのと、 陸路で来たのとを単純に比較は出来ないんじゃないの?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/24(土) 11:52:18
>>9 例えば十字軍とかは、ヨーロッパから中東まで侵攻するのに、渡海と陸路という2つの
選択肢がある場合は、ほぼ渡海の方を選んでいる。
船を使った方が、遥かに大量の物資を、迅速に運搬できるというメリットがあるからね。
現実に、日本へは文永の役4万、弘安の役14万という大軍が投入されているだろ。
大元ウルスは、元寇と前後して東南アジアへも陸路侵攻しているけど、そちらは大半が
万に満たない兵力の小規模な作戦だった。
以前から疑問に思ってたんだが、この時の日本軍の指揮系統どうなってたんだ?
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/02/28(水) 18:44:40
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 00:35:57
>>11 文永の役では、鎮西奉行の少弐氏が日本軍の指揮を執っていた。
あと幕府は中国地方でも動員をかけているが、そちらでは御家人たちは守護の指揮の
もとで戦うことになっていた。
文永の役の結果、モンゴル軍が大して強くないことが解ると、幕府は元に攻め込むことも
視野に入れて、西国の守護を北条一門で固めるようになる。
弘安の役では、関東御使の合田五郎や安東左衛門次郎が派遣され、鎌倉と九州の調整を
おこなっていた。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 07:20:03
とは言え。 基本的に戦略・戦術面では個別対応というのが実態。 「君たちの判断で動いてくれ・・・現場の君たちを信じる」 室井警視正のような鎌倉幕府。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 07:27:15
>>8 文永の役の時は高麗、元、北宋かな。
民族分布もさることながら、蒙古騎兵は皆無。当然ながら。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 10:34:53
>>15 モンゴルについての先入観が皆無の当時の日本人が「蒙古人は馬に乗って攻めて来た」って
書いてるのに、騎兵が皆無なわけ無いだろ。
文永の役の元軍は、蒙古騎兵が主力。当然ながら。
あの頃の辺境の元軍は、殆ど漢人やチョンの歩兵ばかりで、蒙古人は殆ど指揮官クラスしか居ないんじゃね? 元寇の時は指揮官にも漢人が多く居た気がするし・・・
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 14:02:11
>>17 歩兵ばかりだったのは8000人の高麗部隊。
その他の蒙漢軍が2万5000なんだから、どう考えてもそっちの方が主力だろ。
日本側の文献には、文永の役の元軍の特徴として「馬によく乗る」って書いて
あるのに、どこから「歩兵ばかり」なんて話が出て来るんだよ。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 14:47:40
>>18 蒙漢軍二万五千人全部が騎兵だったの?人間の何倍も食う馬秣の輸送がもの凄く大変だったろうなぁ。さすが大モンゴル。
そう言えば、蒙古襲来絵詞には馬だけでなく歩兵も一緒に描かれているけど、あいつ等が高麗人?
>>16 しかし文永の役の頃っていえば、元の対南宋戦の途中だよな
北アジア〜中央アジアも安定してないし、日本に主力と言える位のモンゴル人騎兵連れてこれるのか?
それに元の騎兵=モンゴル人騎兵というのも変だろ
その頃にはキプチャク系の騎兵も元には居たはずだし(まあ日本には連れてきていないと思うけど)
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 15:19:41
>>19 騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
それから、蒙古襲来絵詞に描かれているのが高麗部隊だっていうのは、ほぼ定説。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/01(木) 17:17:39
>>20 モンゴル帝国が多方面の軍事作戦を同時進行でおこなうことは珍しくない。
あと、厳密にモンゴル人騎兵と呼べるような部隊は、モンゴル高原の外に出た段階から存在しないよ。
モンゴル軍は通常どこでも他民族部隊。
だから、元の騎兵は立派にモンゴル騎兵だよ。
>>23 じゃあわざわざ高麗とか漢人とか言う必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ
>>23 じゃあわざわざ高麗とか漢人とかいったり、主力云々を語る必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/02(金) 10:08:12
元軍の民族構成云々は元々、日本軍のモンゴル軍に対する勝利を認めたくない連中が 言い掛かりとして持ち出した話じゃん。 モンゴル軍の他の戦いでは、そんなこと気にしないくせに。 チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成 モンゴル同盟部族 39% 契丹人 16% バリアン氏族 16% 女真人 16% オイラート族 6.5% オングト族 6.5% 元寇で日本に攻めて来たモンゴル軍が他民族軍なのなんて当然だろ。
>>26 スレタイを実証したいならモンゴル帝国系国家の国力と共に分析対象だろ
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/02(金) 15:36:45
日本に来たのはモンゴル帝国内で最強の大元ウルスのモンゴル軍。 大元ウルスに対しては、他のモンゴル内の有力者も度々反乱を起こしているが、 クビライは連戦連勝。 ナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、 朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅させられたんだ。
ねえ教えて ウルスって何じゃろ?
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/02(金) 16:21:52
>>29 ウルスってのはモンゴル帝国内で成立した帝国内国家。
その中で最大なのがクビライの大元ウルスで、クビライはモンゴル帝国全体の大ハーンでもある。
バトゥのロシア・東欧遠征によって成立したのがジョチ・ウルス。
フレグの中東遠征によって成立したのがフレグ・ウルスで通称イル・ハーン国。
大元ウルスと対立していたカイドゥが死んだ後、中央アジアに成立したのがチャガタイ・ウルス。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/02(金) 17:19:55
長弓騎馬なんて使ってたの日本だけ?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/03(土) 16:41:24
長弓は馬上では扱いづらいからね。 日本の場合は、弓の形を上下非対称にすることでその問題をクリアしたんだけど、 この非対称形ってのは、世界の他の弓とは異なる日本の弓の大きな特徴。
日本人の得意とするところ
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/04(日) 21:17:15
バイバルスのマムルーク軍の方が強いんじゃね?
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/06(火) 17:42:08
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク軍が勝ったのは、単にマムルーク軍の方が モンゴル軍よりも数が多かったから。 マムルークたちは、カスピ海の東北方草原のトルコマンやカフカズのシルヤッス、 南ロシアのキプチャックなどの出身で、その戦術は遊牧民のもの。 基本的にモンゴルとマムルークは、似た物同士なんだよ。 寡兵でモンゴル軍を撃破した鎌倉武士なら、マムルーク軍にだって楽勝だよ。
渡海侵攻の不利を無視して鎌倉武士最強とか言われてもねえ。 上陸直後は機動の余地が無いし、消耗した兵や武器の補充は出来ないし 船酔いもあるし、何よりたった2万5千の軍を輸送するのに国が傾く ほどの船舶を建造しなければならないほど金がかかる
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/06(火) 20:18:13
>>36 対馬海峡の渡海侵攻なんて大したことないぞ。
文永の役のモンゴル軍よりも少ない1万9千という兵力で朝鮮に渡った小西行長は、
上陸したその日に釜山城を攻略し、3週間で首都・漢城を征服してる。
それに文永の役で日本軍は、上陸直後にモンゴル軍を叩いたわけではない。
騎兵主体の日本軍は、機動戦術を取りやすい場所にモンゴル軍が進軍して来るのを
待ってから、戦いを挑んでいるのだ。
その結果、わずか一日でモンゴル軍が敗退したのだから、言い訳無用で武士の方が
強かったんだよ。
あと、2万5千の軍を輸送するための船舶を建造も、当時の高麗の造船能力なら特に
問題なし。
高麗は1268年にもクビライの命令で大型戦艦千艘を建造している。
この時は、クビライから視察のために派遣された役人が戦艦の出来に満足し、更に
100艘を追加注文した程だった。
ちなみに文永の役の際の造船では、900艘の内で大型船は300艘のみで、大多数は上陸
などに使う小舟。
よかったなw
>>37 文禄の役の時の朝鮮はろくな軍隊もなく、日本が攻めてくるとも思っていなかった
のだから参考にはならない
元軍主力と日本軍が戦った博多から筥崎にかけては海から1キロも離れておらず
背後に海のある元軍が自由に機動できる余地はあまりない
それと一日目の夕方には日本軍は博多・筥崎を放棄しており、戦闘そのものは
元軍が勝利している。ただし最終的には元軍は撤退しているので、戦争全体では
日本軍の勝利で間違いない。
高麗の造船能力、というか国力はかなり疲弊していたはずだが。建造できた
からといって余裕があったということにはならないと思う。詳しく知っているわけでは
ないのでこれ以上言うつもりはないが、言いたかったのはたった2万5千の兵を
運ぶのにいちいち国を挙げて船舶を建造しなければならないほど渡海侵攻は
手間とコストがかかるということ
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/09(金) 13:07:49
元軍の上陸地点は博多や筥崎の正面の息の浜ではなく、もっと西側の百道原や生の松原の 付近だから、海を背後に日本軍と戦ったわけではないよ。 それから元寇の時代、博多や筥崎に戦略的な価値なんか皆無。 戦後の歴史研究者たちは、元軍が大宰府への進軍を完璧に阻止されたことを誤魔化すため、 元や高麗が全く争点にしていない博多や筥崎を持ち出して、日本軍が負けたかのような 印象操作をしている。 コンパスとか無いこの時代、元の艦隊は山や岬などの地形を利用して、船を運航させる 「沿岸航法」。 文永の役当夜は雨が降っていたから、月明かりは無いし星も見えない。 博多湾や周辺海域の土地勘も無い。 元軍は夜の内に日本から撤退しているけど、戦闘そのもので日本軍にボロ負けし、それ以外に 生き残る術がないという状況でもない限り、900艘もの艦隊を夜中に出港させるはずが無いじゃん。 案の定、元の艦隊はその夜に岩に触れて大惨事に陥るわけだが、その時日本軍は馬蹄飼場良く 兵糧潤沢な水城で、「蒙古の一方の総大将の劉復享をやっつけた」と言って大喜びしていた。 文永の役は、日本軍のワンサイドゲームだよ。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/10(土) 05:58:05
博多が鎮西探題が置かれるまで戦略的にそんなに重要ではない、てことか? ウリャンハタイが何だかんだいってハノイでしばらく過ごしてたのを見ると頷けないこともないが、それだと、どうして博多は守らなかったんでしょ?
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/10(土) 10:05:42
>>41 もともとこの頃の日本の村落は、守れるような造りにはなっていないから。
さすがに無防備のまま放置して置くのはまずいと思ったのか、文永の役の後
防塁を作ったんだけど、これってあくまでも市民を守るための物なんだよね。
弘安の役で、河野通有とかは防塁の前に布陣していたし。
>>40 元軍は百地原・生の松原とは別に博多にも上陸している
博多に戦略的価値があろうがなかろうが、日本軍がそこで戦って退却した
ことに変わりはないんだが
夜の闇に紛れて退却するというのは敵の追撃を避けるための常套手段で、
ボロ負けの根拠にはならない。というか、敵の目前で白昼堂々と退却しようと
する指揮官はあまりいないと思うが。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/14(水) 02:20:42
>>43 金剛仏子叡尊感身学正記
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
同時代の人間の日記に「即退散」などと書かれている以上、文永の役が元軍のボロ負け
だったのは史実。
問題なのは、どのようにボロ負けしたかだけだから。
元軍は日本から撤退する際、志賀島に座礁した兵士220人を見捨てて、逃げ去ってるだろ。
同じ撤退でも、例えば慶長の役の日本軍は露梁海戦の後、南海島に取り残された横山久高
率いる兵士500余人の救出作戦を行なった上で、撤退してるんだよね。
その辺が、ボロ負けした軍と、そうでない軍との差だ。
あと、元軍が博多正面から上陸した事を裏付ける史料ある?
第一回目の攻撃は日本と南宋の連携を断ち切るための示威行動だったという説があるね 食糧武器の不足から撤退したというが、たった数日でそうなるということは最初からロクな準備もしてなかった傍証
元が完璧に負けたことを認めたくないあまり、元の装備が貧弱だったから負けたと言いだすのか あわれ蒙古厨w
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/15(木) 03:50:29
>>45 まず、元軍が余りにもあっさりと敗退したため、文永の役は示威行動としては、まったく
機能していない。
日本の貿易船は何事も無かったかのように南宋へ向っているし、鎌倉幕府はあきらかに以前より
元に対して強気になっている。
「異国征伐」と称して元に攻め込む計画すら立てていたのだ。
あと、元軍の撤退理由が食糧不足などという記録は無い。
武器にかんしては、元史に一応撤退理由として「また矢尽き」と記されてはいる。
だが、それを言うなら、1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。
戦後の日本史研究者たちは、「日本軍が強かった」以外の説なら、どんなに根拠が貧弱でも、
平気で採用するけどね。
フビライが日本征服の意図を明確にし、高麗に準備の開始を命じたのは1268年。
それから、1274年の文永の役まで、準備期間は十分過ぎるほどあったからな。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/15(木) 12:25:02
日本の荒い海は数個師団に相当する、と近代でも言われていたな 実際、元軍に勝ったベトナムとかジャワとかもそうだけど騎兵が活用できない地形を利用して迎撃ないし伏撃・追撃は対モンゴル戦勝利のセオリー バイバルスのように、蒙古騎兵とよく似た弓騎兵を養成して叩く手もあるけどね、文化とかの理由で普遍化は困難
個人的には少弐景資が文永の役の元軍副将・劉復亨を射倒したのが大きいと思う 船を焼いての徹底攻撃を主張したのは高麗軍の金方慶だが作戦会議で全く賛同を得られなかったようだ 司令部からの損害が心理的に影響を与えたんだろう
元の大軍を2度にわたり撤退させたのが、日本ではなく ヨーロッパ辺りの国だったら、条件がどうであろうと もっと高く評価されていた気はする。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/16(金) 11:12:31
宗助国らの奮戦こそ鎌倉武士の華 圧倒的大軍相手の命尽きるまで抵抗した 一方残虐な元・高麗軍は民衆を虐殺し、数珠繋ぎで船べりに並べるという非道まで行った これが戦後に旧南宋人は助けられたが元人と高麗人は容赦なく処刑される伏線になった
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/21(水) 12:00:14
元軍は長門(山口県)にまで上陸したの? 言われある土地は残ってるのに史実的には否定されてるっぽいけど
日本の地形はモンゴル軍苦手じゃね?
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/25(日) 18:08:35
文永の役、モンゴル騎馬軍団は5分の1の兵力に過ぎない武士に歯が立たず、たった1日で敗退。 弘安の役、更に江南から10万もの大軍を送り込んだが、日本軍によって皆殺しにされ、僅か3名しか 生還できず。 この2つの戦いが、その後の日中関係に与えた影響は大きい。 実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。 しかし、それに対する日本からの返答は、 「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。我が国には、水沢の地や山海の洲にも 備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」 という挑発的なものであった。 当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも 勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。
>あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも >勝算は無いと考え 朱元璋がそう漏らしたの?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/27(火) 15:46:14
万単位の蒙古騎兵による釣り出し・伏兵戦術なんかが活用されたヨーロッパの戦いでは西欧騎士軍団は壊滅(リーグニッツの戦い) 相手が戦力投入するだけでも苦労する日本海の賜物
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/28(水) 05:04:18
>>55 明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/28(水) 05:24:34
>>56 対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。
現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
その結果、ヨーロッパで西欧騎士軍団を壊滅させた蒙古騎兵は、鎌倉武士に完敗したんだから、
鎌倉武士>蒙古騎兵>西欧騎士軍団。
>>58 苦労してないって……
もしかして兵士も必要な物資も泳いで渡れると思ってるの?w
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/28(水) 22:34:47
>>59 兵士や必要な物資の輸送なんか、古代の日本軍ですら余裕で行なってるだろ。
13世紀の元軍は、古代日本以下なの?
橋頭堡があるかないかで随分違うんだけどね
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/29(木) 04:55:48
>>62 例えば文禄の役の日本も、朝鮮半島に全く橋頭堡を持たない状態で渡航侵攻したが、
上陸するや破竹の進撃で2ヶ月後には首都・漢城を征服していた。
それと比較して元寇の元軍は、あまりにも情けなさ過ぎると思わないか?
同じ対馬海峡なのに、日本側から朝鮮を攻めるのと、朝鮮側から日本を攻めるのとでは、
何でこんなに歴然とした差があるの?
元寇でモンゴル軍が九州に橋頭堡を築くことすらできなかったのは、単に日本軍よりも
弱かったからじゃん。
>>10 当時の十字軍に可能だったチョイスというのは、スローな陸路か海のハイウェイかという暢気なものではなく
バルカンやアナトリアの勢力と小競り合いを繰り返しながらパレスチナまでの道を切り開くか、
それともヴェネチア人やジェノヴァ人などの船主に大金を払い、難破やとんでもない所へ流されるリスクを負って
地中海を横断するかというものだった。
艦隊の4分の1しかエジプトへ渡れなかった第7次十字軍や、船が難破して捕虜になった獅子心王の例はいうまでもなく
チュニス侵攻なんて北アフリカとシチリアの比較的短い距離で嵐にあって大損害を受けてる。
陸路がオープンだったらどうだったか、というのは後世のオスマン朝の例を考えると参考になる。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/29(木) 13:13:27
日本軍の指揮系統はぐちゃぐちゃ 「その日の大将」を決めて戦っていた。つまり1日ごとに責任者すら違う 手柄欲しさに抜け駆け・逆に勝手な撤退当たり前 博多を焼かれ古代の水城跡まで退却を余儀なくされている 文永の役で金方慶の積極策を元軍が却下してくれたお陰で助かった
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/30(金) 14:12:06
>>64 オスマン朝の例は確かに参考になるな。
地図でオスマン帝国の版図を見れば、あきらかに地中海、紅海、ペルシャ湾に
沿って勢力を伸ばしているからね。
海運がいかに軍事侵攻を容易にするかが一目でわかる。
>>66 オスマン朝の版図の主要部であるバルカン、アナトリア、パレスチナ、イラク、エジプトが
どういうルートを使って征服されたのか調べてみるといいよ。
というか「ペルシャ湾に沿って」というのはちょっと地図を見直したほうがいいと思う。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/30(金) 15:20:51
>>67 アラビア半島のヒジャース地方については?
陸路では飛び地になっているんだけど。
オスマン軍が陸路北アフリカまでエジプト経由して侵攻したと思ってる?
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/30(金) 17:19:31
>>65 「日大将軍」が「その日の大将」という意味だなんて、アホな説明を鵜呑みにしちゃ駄目だ。
「その日」以外の1272年4月17日から1ヶ月間に異国警固に就いた「薩摩国御家人」の成岡氏に
対しても、鎮西奉行の少弐氏が勤務終了証明書を交付している。
つまり、最初からずっと少弐氏が日本軍の大将として九州防衛を指揮していたわけ。
あと、金方慶が引用している「孟明の焚船」や「淮陰の背水」は、あきらかに劣勢な側の軍が
持ち出す兵法だから。
金方慶は、20日の戦闘で日本軍にボロ負けした元軍が、翌日も生き延びられるかについて議論
しているんだよ。
>>69 日本の後進性を証明されたくないからって、軍政・行政官と戦闘指揮の最高責任職をごっちゃにするのは酷いw
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/31(土) 12:09:25
>>69 その少弐氏は明らかに三男の景資じゃないだろ
長男の経資じゃないとおかしい
補任されていない人間が発給したとするのなら偽文書ってことに……
>>68 ヒジャースがオスマン朝の版図に加わったのは、セリム1世が「両聖都の守護者」であった
マムルーク朝に侵攻しカイロを陥落させたので、メッカとメディナの支配者が使者を送り
オスマン朝の庇護下に入ったことによる。
アルジェやチュニス、トリポリなどを占領したのはバルバロッサなどスルタンに帰服した海賊衆で、
当時オスマン朝が欧州や中東の戦役に投入していたような圧倒的なリソースを海運により
上陸させることによって征服したわけではない。
当時のオスマン朝の軍事侵攻で海運によるものはクリミア、ロドス、クレタ、南イタリア、マルタ
などが有名だが、島など陸路で到達できない場所や、陸路を用いた場合侵攻ルートの側背から
攻撃を受ける危険があるなどやむを得ない事情による場合が大半で、可能な場合はほとんど
陸運が尊重されていた。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/01(日) 17:15:06
>>70 あのねぇ、そもそも大宰府ってのは、大昔から西日本の防衛を主要な任務としてきた機関だから。
1019年の刀伊の入寇でも、当然のように大宰権師の藤原隆家が日本軍を指揮している。
少弐氏ってのは、もともとは武藤だったのが、大宰少弐に任じられて代々その職を世襲したことから、
「少弐」を名乗るようになった一族。
九州有事の際は少弐氏が日本軍の指揮を執るなんてことは、当時の人間には常識レベルの話で、
指揮系統に混乱が生じる余地など全く無いの。
現実に元寇で日本軍は圧勝し、軍組織においてモンゴル軍よりも優れていた事を証明しているだろ。
>>71 成岡氏に覆勘状を交付したのは少弐資能。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 11:57:39
>>73 話の筋をまったく理解いてないんじゃないの?
実戦指揮官が日替わり体制だったということを言っているわけ
職責にあったのが長男にもかかわらず、大将は三男だった史実を指しているわけ
だいたい混乱が生じないのなら「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんてことにはならないよ
弘安の役では執権の名代が下向するなど改善されているが文永の役では明らかにおかしい
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 12:32:33
>>74 実戦指揮官が日替わり体制だったということを証明する史料は存在しないし、
「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんて
ことにもなっていない。
実際、モンゴル軍に勝ってるじゃん。
上陸阻止すらできずに箱崎八幡宮や博多まで焼き討ちされ、水城まで退却させられているのに勝ち? だいたいなんで親父やその親父から職を継いだ長男が同陣しているのに三男が大将なんだよ 普通におかしいことだらけじゃん
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 13:12:24
箱崎八幡宮や博多なんて最初から争点でもなんでもないから。 元や高麗が問題にしているのは大宰府のみ。 更に、大宰府を目指して侵攻する敵を水城で撃退するってのは、白村江以来、 日本の基本的な防衛ドクトリン。 それにもかかわらず、元軍は水城にすら指1本触れることが出来なかったんだから、 文永の役は日本軍の圧勝以外の何物でもないだろ。
>>77 なら最初に海岸で迎撃した日本軍は馬鹿ってこと?>防衛ドクトリン
やっぱり無茶苦茶じゃん
都合の良い解釈をするのは勝手だけど、チラシの裏じゃないんだから客観性を少しは考えてね
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 13:31:42
>>78 客観的な事実は日本軍勝利だよ。
当時の文献には、そう書いてあるだろ。
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」
おまけに敵側の高麗史にも戦って負けたと書いてあるしな。
高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
>>79 「倭兵大敗伏屍如麻」(「高麗史節要」)
日本側の『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』にだって「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ(向っていったもので帰還できるものは無かった)」と苦戦を明記している
要するに、相手が帰ってくれたから「酷く叩かれたが防衛目的は達した、結果的には勝ちだ」としただけ
日本側が強かったから、なんてそれこそどこにも書いてないよ
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 13:45:56
だいたい文永の役がそんなに楽勝だったら ・異国警護番設置、北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備 ・民衆を動員しての今津から宗像にまで及ぶ防塁作り ・安達一族に率いられた、主に関東衆から成る他地方からの増援 などの諸改革を進めて防備を固めた理由がそもそもなくなるよ
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 14:03:05
>>80 高麗史節要には「至一岐島、撃殺千餘級」などと書かれているが、この時壱岐を守っていた
武士は平景隆率いる100騎だけ。
あきらかにあり得ない戦果が書いてあるんだが・・・
「蒙古襲来絵詞」に描かれた高麗軍は、赤坂で菊池武房に蹴散らされて敗走している。
武士にまったく歯が立たなかったのを隠すため、民間人でも殺して戦果を水増ししたんだろ。
元史日本伝には、日本を敗ることが出来なかったから、その埋め合わせに四境を虜掠した
と書いてあるしな。
八幡大菩薩愚童訓は八幡神の霊験を示すために書かれた文献だから、武士が苦戦したと
書くのは当たり前。
鎌倉年代記や帝王編年記のような史書とは、同列に扱えない。
なんで一方を恣意的編纂と決め付けるくせに、もう片方は無条件で信じられるんだ? 1回目は初体験の異国からの大規模侵攻(厳密には半島からの攻撃は最初じゃないんだが)に苦戦したが、相手の事情もあって助かった 第2回目はしっかり学習して防備固めて勝利 これで何か不都合でも?
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 14:21:20
>>81 異国警護番設置は文永の役以前。
北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備は、文永の役の
圧勝で強気になった幕府が、元に攻め込むことを想定しておこなったこと。
今津から宗像にまで及ぶ防塁作りは、あくまで非戦闘員に対する虜掠を防ぐため。
弘安の役で、河野通有などは防塁の前に布陣していたし、志賀島や壱岐の元軍に
対しても日本軍の方から積極的に攻勢を仕掛け、防塁に篭って戦おうなんて姿勢は
皆無だった。
>>84 長門警護番の間違いだな(設置1275年)
そして長門探題設置(1276年)
幕府は九州の防備だけでは不足として、本州の警護も強化していた
いかに危機感が強烈だったかわかる
防塁に頼らなかったのなら、河野通有の『後築地』が評判になるかぁ? だいたい当時の日本の武士団は緩やかな封建制で、動員から武装・指揮系統や情報伝達システムあらゆる点において内戦レベルで止っていた 有効に戦える条件自体が防御戦という一点しかない
>>84 明らかに間違い
異国征伐の命令を受けたのは安芸守護の武田氏と鎮西奉行少弐氏
任命(命令)文書発給の年次が同じだからって嘘はいけない
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 14:38:32
>>86 実際に弘安の役において、防塁では戦闘が行なわれなかったから。
それに弘安の役は、日本軍が配備されていない志賀島・壱岐・鷹島などに上陸し、
野戦築城をして迎撃態勢を整えた元軍を、日本軍が攻撃するという展開。
>>88 日本側の配置は有力御家人がそれぞれ自分達が労役で築いた防塁に拠るもの
防塁を避けて上陸した元軍を迎撃にいった武士はともかく、そういった連中が遊んでたとでも?
防塁の役目は何も篭るだけじゃない 弘安の役の戦地図を見れば分かるとおり、文永では好き勝手に上陸できた元軍がより大規模でありながら攻撃位置を限定させられている 文永と違って大動員により総兵力で元軍を上回っていた鎌倉幕府軍は、元軍が不自由な上陸点で戸惑っている隙に大軍を投入できた だから戦況が全く以前とは違った
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 15:10:00
>>90 戦地図を見たんなら分かると思うが、元軍の上陸した志賀島に大軍を投入する
ことなんか出来ないよ。
日本軍は志賀島で迎撃態勢を整えたた元軍に対し、圧倒的に少ない兵力で攻撃
しながら連勝し、博多湾からの撤退に追い込んでいる。
武士の戦闘力が元軍を遥かに凌駕していた証拠。
>>87 どの部分が嘘よ?
そんなに武士の個別戦闘力が圧倒していたのなら、四百対百(騎、という表記だから他に従者・島民の臨時徴収兵等もいた可能性があるが)程度の差で平景隆勢が全滅にまでおいこまれないんじゃ? 志賀島戦(海戦含む)だって、少弐氏や大友氏といった幕府役職もちの有力御家人部隊が集中投入されてたし
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/02(月) 15:49:36
>>92 平景隆勢は丸1日持ちこたえているんだから、壱岐は普通に大善戦だと思うがな。
400というのは、最初に船から下りて東方と敵方を三度ずつ拝んだ元兵の数で、
戦闘中に増員があったという可能性もあるし。
実際、高麗史では高麗軍の朴之亮や金方慶の婿の他に、後から副元帥の洪茶丘が
追加投入されている。
志賀島の戦闘は元軍は上陸したものの先へ進めず結局撤退、でいいんだっけ?
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/03(火) 07:59:38
なんか武士が負けた戦も強引な推測交じりで大善戦とか無茶苦茶だな 弘安の役はともかく、文永ではズタボロ。武士達は本陣である箱崎八幡宮だって陥落している しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ 父や兄らを何故か無視して少弐景資が指揮を取っているあたり、「武士は指導者を推戴する」慣習で大将を決めてたんだろう。組織的にまともに戦ったかも疑問 だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め 武装も軍制も劣っている側が、どうして個別単位で優位に立てる?そんな理由は「地元だから」以外無いよ
日本軍が大陸の軍隊に勝てそうな点って無い 統一された指揮系統どころか軍法すら無い。補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況 強引にでも見つけるとすれば、弓矢の装備率ぐらいか? 戦闘員ほぼ全てが弓を持っていた日本に対して、槍兵なんかは投射武器がない大陸軍 一人当たりの弓矢の投射量だけは勝っていた可能性がある だから元軍は矢の備蓄が思ったより早く尽きて文永では早期撤退
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/03(火) 23:31:35
>>95-96 お前らの書いていることは、全部史料に反しているんだが・・・
>しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ
赤坂から追い落とされたのは元軍の方。
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
(蒙古襲来絵詞)
>だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め
日本軍は少弐景資の指揮のもと組織的に戦っていた。
「少弐入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、
白石等、更により合て、さんさんに戦ふ」(八幡ノ蒙古記)
>補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況
文永の役の当時、兵站は水城に大量に貯蔵されていた。
「さて水城城と申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつつきて、水木おほく、
ゆたかなり、飼場よく、兵粮潤澤なり」(八幡ノ蒙古記)
文永の役で軍法や軍制に問題があったのは、むしろ元軍の側だったな。
元史日本伝も、元軍の敗因として、「官軍整わず」と指揮系統の混乱を挙げている。
組織力に勝る日本軍が、元軍を圧倒したのは当然の結果。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/04(水) 08:07:07
なんで「それは八幡様の霊験のために書かれた本だから武士の苦戦は信用できない」と理不尽に一蹴した記録からでも都合の良いものだけは信じるんだ? 現実に本陣である箱崎八幡宮まで焼かれてるじゃん もし苦戦が嘘なら、そもそも水城まで退却したことと矛盾する だいたい統率が取れてたら「所領のある武士は勝手に戦ってただけだから恩賞無しね」なんて無茶苦茶な幕府裁定が下るわけない
「大将軍の船は、風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼に さへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさりぬ、此ふねも、長門の浦に吹つけられたりと」 (八幡ノ蒙古記) 八幡ノ蒙古記によれば、7月(いわゆる「神風」台風の前に)青竜が出てきて元の大将の船を追いかけていたそうですw
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/04(水) 22:39:29
だったら元寇については、蒙古襲来絵詞のみを史料とするって事で良いじゃん。 元軍は菊池勢に蹴散らされて敗走。 文永の役は日本軍の一方的な勝利。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/05(木) 12:31:29
だからなんでそんな都合の良いところだけをつまみ食いして日本の圧勝と強引に位置付けないといけないのやら まさかこんな板に偏向思想の持ち主がやってくるはずもないと思うがw
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/05(木) 22:40:05
偏向思想によって、都合の良いところだけをつまみ食いして来たのは、戦後の 元寇研究の方だろ。 実際に戦闘に参加した武士の実録である蒙古襲来絵詞が存在しているのに、その 中に描かれた集団で戦う武士団や逃げ惑う蒙古兵が、教科書や歴史書ではカット されてしまうのは何故? 八幡ノ蒙古記よりも後に書かれた菊大路本が、元寇研究のベースにされているのは、 どうして? 鎌倉年代記や帝王編年記に、元軍が合戦で敗北したと書かれていることが、まったく 無視されているのは、如何なる理由によるもの?
日本じゃモンゴル軍の本領は発揮できないよ
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 09:01:02
>>102 そりゃあんた、元軍は竜に追われて逃げましたとかいう記述を鵜呑みにはできないだろうw
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 09:25:40
>>104 八幡ノ蒙古記に「竜に追われて逃げました」とかいう記述があるから信用できない
というのなら、その八幡ノ蒙古記を基に書かれた菊大路本を初めとする八幡愚童訓
の群書類従は、それ以上に信用できないってことだろ。
史料の信頼性ってのは、改編を重ねる度に下がることはあっても、その逆はない。
そんなことは、史料研究の大原則じゃん・・・
そもそも、武士の実録である蒙古襲来絵詞が存在しているのに、八幡愚童訓のような
縁起ものを元寇研究の中心としてきた事自体、歴史研究の常道に反することなんだよ。
相手が都合の悪い部分はスルーして研究しているんだ!と主張する癖に 自分に都合の悪い武士の苦戦は「八幡様の霊験のためのでっちあげ」とそれこそ根拠無くスルー 普通に馬鹿です、ありがとうございました
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 10:41:40
>>106 >自分に都合の悪い武士の苦戦は「八幡様の霊験のためのでっちあげ」とそれこそ根拠無くスルー
根拠ならあるぞ。
赤坂での戦闘の場面、八幡ノ蒙古記には菊池隊が「家のこ、らうとう等、多くうたれにけり」
と大損害を受けたかのように書かれているが、蒙古襲来絵詞ではその後に戦闘前とほとんど
変わらない100余騎の部隊を率いて、竹崎季長と挨拶を交わしている。
蒙古襲来絵詞には、「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に
向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」と、元軍が敗退したと書かれているが、八幡ノ蒙古記
には該当する記述が無い。
つまり、八幡ノ蒙古記が武士の損害を誇張しているか、蒙古襲来絵詞が嘘を書いているかの、
どちらかなんだよ。
武士の実録である蒙古襲来絵詞と、「竜に追われて逃げました」とかいう記述がある八幡ノ蒙古記
を比較すれば、前者の方が信頼でき、後者はバイアスのかかった史料という見解になるのは当然だろ。
普通に絵師が勘違いしただけじゃ?w 菊地勢は一門衆から討死を複数出してるし、当主が落馬して死人の山から徒歩で抜け出す状態 どこかに誇張があるとしても、全く無傷というのは無理がありすぎる
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 11:12:55
>>108 >菊地勢は一門衆から討死を複数出してるし、当主が落馬して死人の山から徒歩で抜け出す状態
だから、それがバイアスによる誇張だと言ってるの。
蒙古襲来絵詞は、絵師が勘違いした箇所には、竹崎季長によって注意書きがされている。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 11:21:59
>>109 思うのは勝手だが、それは「武士の苦戦だけはバイアスに違いない」という先入観がないと受け入れられないレベルの話だしなぁ
そもそも菊池勢はそれだけ大活躍したはずなのに、恩賞貰ったって史料がないんだよね
本当に活躍したの?そっちのほうが疑問
蒙古襲来絵詞は、竹崎が「オレがどんな手柄を上げて、その恩賞を認めさせるために苦労したか」という話 恩賞要求の際の証人になってくれるよう頼んだ菊池一族をボロカスに書けるわけが無い
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 11:52:29
>>110 赤坂の戦闘について、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞の記述が食い違っている
のだから、どちらかの文献には、バイアスがかかっていると言う事だろ。
もし、それが蒙古襲来絵詞の方だと思うのなら、その根拠を示せばいいだけ。
あと、菊池が恩賞もらっていない訳無いぞ。
蒙古襲来絵詞では、文永の役で勧賞を賜った者は120余人。
菊池武房については、文永の合戦で名を揚げたと書かれている。
更に、菊池勢が恩賞貰ったってことは、八幡ノ蒙古記ですら認めていること。
「もし勧賞あるならば、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らんとの立願なりし
故なりとて、後に大宰府よより注進して、京都より賜はりし甲冑と當社へそ
納めける」
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 11:56:15
>>111 実際に竹崎季長が恩賞要求の際の証人として名前を挙げたのは白石だけ
え?その蒙古襲来絵詞の菊池勢と行き交う時の挨拶は嘘?
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:06:49
わ・・・わかったぞ・・・ 菊「池」と菊「地」をどちらかが間違えて記録していたんだよ! つまり赤坂で戦った一団と、竹崎が行き違った集団は違ったんだ これなら辻褄が合う
つうかなんでそんなに極端から極端に走るんじゃ。 苦戦は苦戦、活躍は活躍と記述を信じれば良いじゃん。 つまみ食いする意味がまったくわかんね。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:14:30
>>114 文字通り単なる挨拶だったということだろ。
武士団の一方的勝利だったら、退却なんてせずに相手を海に追い落としている。 元軍の一方的勝利だったら、大宰府攻撃という事態が発生している。 片方が圧倒した、という展開こそ想定不能だと思うが。
菊池氏に与えられた恩賞は甲冑程度。土地をもらえなかったから反北条に走る しかし鎮西深題北条英時攻撃に失敗して没落。 主観的な手柄と恩賞査定の温度差はあったようだが。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:26:41
>>116 八幡愚童訓を読む際、僅か数名が戦死しただけなのに「家のこ、らうとう等、多くうたれにけり」
と誇張して書き、その後元軍が敗走したことには一切触れなかった文献だという点は、注意する
必要があるだろ。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:27:18
文永の役で竹崎季長が主張した功績は「先駆け」したこと でも菊池勢が既に戦闘していたのなら、先駆けも何も無い。単に後から少数で突っ込んでいってやられそうになって他の御家人に救助されただけ。 だから菊池勢激闘の痕を書くのは都合が悪かったのです。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:34:16
>>119 恩賞は甲冑程度しか送られなかったなんて書いてないぞ。
菊池氏に与えられた数々恩賞の中から、筥崎宮に奉納したのが甲冑だって書いているんだろ。
菊池氏の家伝だと、くだんの甲冑も朝廷からのものだろ 幕府から何か貰ったの?
菊池氏も幕府から恩賞を貰ったことにしないと竹崎季長には都合が悪いことになるな。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 12:55:44
>>121 竹崎季長が、八幡ノ蒙古記に100余騎の菊池勢について、「家のこ、らうとう等、
多くうたれにけり」と書かれた事を知っていて、その痕を隠すために、戦闘の
後でも100余騎だったと書いたということ?
ありえなさ杉。
普通に考えれば、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞は全く別々に成立し、戦闘の前も
後も菊池勢は変わらず100余騎だったということだろ。
つまり菊池勢は戦闘をしていなかった→季長の手柄が成立 戦闘していて、しかもそれなりに勝利しつつも損害を受けていた→季長の手柄が成立しない 戦闘していて、損害もなく大勝利だった→季長の手柄不成立 なるほど、やっぱり怪しい
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 13:13:48
>>126 季長が蒙古襲来絵詞に書いていることは、「戦闘していて、損害もなく大勝利だった」なんだけど・・・
なら「先懸け」はやっぱり成立しない それどころか真っ先に敵と戦い大勝利したはずの菊地氏に恩賞無し(於等々系の赤星氏にはなぜか幕府から恩賞があったようだが) 辻褄があわない
絵詞には破損している部分があるそうだし、当時の常識までいちいち注釈入れたりはしないだろう。そこらへんがおかしな事になる原因では?
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 13:28:48
>>128 菊地氏に恩賞無しっていう根拠はなんだ?
誰かが戦って追い落とした敵に突っ込んだらそれも先駆けになるのか? そういう「落ち首拾い」的やり方は当時の武士にとって最大の恥なんじゃ? だから少弐は幕府に手柄と報告しなかったとか?
菊池氏が武功誉められてるのに具体的恩賞が下った形跡がないのは、霜月騒動の影響という話 そしてその不満が孫の探題攻撃に繋がっていく
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/06(金) 14:58:46
いざー鎌倉!
人は、信じたいものを信じる。
モンゴルが何としても日本を征服しようって 本腰入れてしつこく侵攻してきたら防ぎきれた?
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 08:00:36
鎌倉武士が世界最強? 笑わせるな、海と荒天のお陰で辛うじて切り抜けただけだろう ヴェトナムを見ろ。海という防壁が無く、しかも攻撃は三度に及んだ さらに将帥は日本を攻撃した雑魚武将ではなく、南宋を滅ぼす際に主力を務めた李桓やサトといった名将達 その軍勢を撃破したんだ。副将一人に手傷を負わせた程度で喜んでいる日本と違い、李桓もサトも戦死に追い込んでいる 鎌倉武士が世界最強なら、ヴェトナム兵は宇宙最強か?
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 09:23:15
136 攻め込まれる度に首都を征服されているヴェトナムが、九州にまったく橋頭堡を 築かせずに完封勝ちした日本より、強いわけないだろ。
五十万の元軍を壊滅させた安南軍 十万程度の、しかも属国・降伏兵主体の雑軍を自力撃破できなかった鎌倉軍 優越は一目瞭然ですね
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 10:04:56
>>138 ヴェトナムは1257年に僅か3000の部隊によって首都を征服されているんだけど・・・
更にクビライの機嫌をとるため、王族を人質に送り、貢物を納めるなどの屈辱を
受け入れている。
一方の日本は最後まで元に対して完全独立を維持。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 10:34:25
単純計算で、ヴェトナムは日本の五十倍は強かったってことだね。 近代ですら日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵すると言われている。 こういう自然の防壁を昔の人は神仏に仮託したんだろう。
141 :
140 :2007/04/07(土) 10:34:55
×五十倍→五倍
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 11:08:21
>>140 その、日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵ってのは、
日本から大陸を攻めた白村江の戦いや秀吉の朝鮮出兵では、まったく出てこない話だな。
日本の大陸・半島への古代からの影響力は結局消失している 普通に公平に働いてるじゃん。台風はかなり記録的だったようだけど
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 11:24:28
>>143 秀吉の朝鮮出兵で日本軍は、一時は漢城や平壌を占領し、南部の橋頭堡を
7年間も維持したんだぞ。
一方の元軍は2回とも、九州に橋頭堡を築くことすらできず。
あきらかに大差だろ。
つまり数百年の間に大陸と日本の差はそこまで縮まったということだろう。 なんで時系列とか無視して必死に日本のみをヨイショする必要があるのかよくわかんね。 公平性があれば、経緯は違ってもより強大なモンゴル軍のほうを撃退したベトナムとかの奮戦を素直に認めるだろ。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/07(土) 11:43:08
「日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵」 とかいう、まったく根拠不明の基準を持ち出すからだろ。 だったら、ベトナムのジャングルは何個師団に相当だよ? 公平性があれば、国土の大半を征服されたベトナムよりも、まったく九州に 拠点を築かせなかった日本の奮戦を素直に認めるべきだろ。
「近代でも」という但し書き付のレスに対して、なぜか百年(あるいは千年)の時間差を無視して必死で噛み付く。何かあったのか?w 先祖が元寇に従軍した鎌倉武士だったとか?
武士団は個々の手柄に拘って連携が悪かったっていうけど これって考えてみたら別の意味で手強いよな 特定の指揮系統があるわけじゃないから、アメーバみたいに分裂する相手をいちいち全て潰して廻らなきゃならない可能性もある
>>148 佐藤大輔がそういう説というかシミュレーション?について書いてたような
つまり最強鎌倉武士団=原生動物?
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/08(日) 12:02:27
安南軍にはかなわない。弘安の役の鎌倉軍ですら20万でしょ。 その二倍以上の軍勢が攻めて来たら、日本なら壊滅してた可能性大。 特に五千程度しか用意しなかった文永で元が本腰だったら……。 海さん、台風さんありがとう。そして甘い見通しし過ぎの元・高麗軍m9(^Д^)プギャー
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/08(日) 17:31:58
日本軍は文永の役の際に5000の兵力で、2万5000のモンゴル軍に勝利。 20万の鎌倉軍なら、計算上はモンゴル軍が100万でも十分迎撃可能だな。
148 それは所詮、烏合の衆に過ぎない。 潰すのが厄介なだけで最終的な勝利を掴むことは有り得ない。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/09(月) 03:19:10
モンゴル兵は皆早く帰りたかったんだよ
水城って天智天皇時代の遺跡でしょ。ここが補修されてたとか兵糧溜めてたとかの記述は筑紫本にしかないし そんなところを頼りにしなきゃならないレベルが当時の日本の軍事能力 蒙古襲来の危険が分かってるのなら、対馬や壱岐の味方・民衆収容とかせめて城塞建設とかやっとけよ
>>152 ( ゚д゚)ポカーン
歴史ウヨってやつかこれが
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/09(月) 19:26:20
あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。 別に嫌われようがこっちはどうでもいいよw 日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑) 脱税もしまくりで、相続税も免除なのよw。闇口座も仮名で作り放題w。 世代を経るにしたがって金が増えてく寸法さw。パチンコ、サラ金、日本の長者番付にのってるのは在日なんだよw。 金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆) 既得権益最高! 俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw バックに朝鮮総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw 今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。 いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。 つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。 んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。 今はもうその最終段階に入ってるわけ。 平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw 例えば韓流ブーム。あれは在日が作ったって知ってる? あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。 自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人w 韓流ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。 そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。 つまりもうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になるよ。 たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人w お前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよw どう?ムカムカする?(爆) でもせいぜい今みたいに2ちゃんで数十人ぐらいがチョン死ねって言うぐらいだろうね(爆)
そこは朝鮮韓国をモンゴル変えるところだろう・・・
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/10(火) 09:02:50
チャンパ攻めでも元軍は暴風雨にあって大打撃受けてるんだよな 台風は連中にとって鬼門か?
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/12(木) 00:12:07
>>155 現実に存在する城塞を頼りにするのは当たり前の話で、レベル云々の問題ではない。
それに、この時代の兵站収集はかなり組織的に行なわれていたから、それが日本軍の
本陣である水城に貯蔵されていたとしても、別に不思議じゃないだろ。
あと、対馬や壱岐に元軍を撃退できるだけの兵力を常駐させて置くなんてことは、
最初から不可能だし、民衆収容とかも13世紀の国家に求めることじゃあないよな。
とてもじゃないが強かったと思えんヴァイ
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/14(土) 16:19:06
世界最強じゃなくても元寇は鎌倉武士の大勝利。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/14(土) 20:39:14
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/14(土) 22:02:37
元寇は嵐がなくても鎌倉武士団が勝っていると思うよ。 博多一帯を制圧できたとしても、 山地や森林が多い日本で、 地図もないし土地勘もない大陸の軍隊が勝てるはずがない。 あちこちで、桶狭間が繰り返されるのが落ちだろ。 鎌倉武士が最強だとは思わないが、 日本国土防衛なら、モンゴルだの十字軍だのイスラムが来ようとも 負けないだろうよw
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/15(日) 15:17:07
戦後の元寇研究がインチキだということを示す例に、武士の弓の性能が、元軍の それに比べて、著しく劣っていたという話がある。 これは、黒田俊雄が中央公論社の『日本の歴史8 蒙古襲来』の中で書いていること なのだが、読んでみると何故か日本の弓の「有効射程」と元軍の弓の「射程」を 比較している。 P98〜99 「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、 (日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人 手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦 したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」 「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・ 更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。 文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、 大笑いしたという記録だってあるのだ。 戦後の歴史研究者たちは、武士に悪意を持って印象操作しているとしか思えねーぞ。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/15(日) 19:41:12
>>165 鎌倉武士の鎧は厚く頑丈で元軍の矢は鎧を貫くことができなかったそうだよ。
全身針鼠のように矢が刺さっても平然と切り込んで行った武士もいた。
100メートル以内も110メートル以内もたいして変わらんだろw
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/16(月) 13:23:12
台風のせいじゃない?
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/16(月) 15:49:17
>>167 一般的に鎌倉時代の日本の矢は「射程」四町(440メートルぐらい)とされている
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/16(月) 16:12:30
>>168 1回目の文永の役では、台風は無関係。
完全に武力のみで武士は元軍に勝利。
2回目の弘安の役では、元軍は6月初めに博多に来て撃退され、それから2ヶ月間
武士から逃げ回っているところを、7月末に台風に遭遇。
船が壊れて逃げ続けることが出来なくなった元軍10万は、武士に皆殺しにされた。
普通に実力の勝利だろ。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/16(月) 23:20:50
>>170 地の利だって。
武士共が大陸で戦ったら流石に負けるって。
実力があったわけじゃないよ。
蒙古弓と和弓の詳しいスペックってどこかにないですか?
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/17(火) 23:23:29
吉川弘文館から出版されたばかりの新井孝重「戦争の日本史7 蒙古襲来」。 P57で「弓は短弓で飛距離は200bもある。日本の長弓の二倍はあった」などと 書いているから、参考文献の頁を見たら案の定、黒田俊雄の「蒙古襲来」が。。。 吉川弘文館は「日本史研究における戦争史・軍事史研究を活発に推し進める 魁となれば」などど言って戦争の日本史シリーズを刊行しながら、「射程」と 「有効射程」の区別もつかない奴に本を書かせちゃ駄目だよね。
蒙古弓の有効射程はどれぐらいだったんでしょう?
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/19(木) 04:33:29
>>172 >>174 イギリスのロングボウのように単一素材の弓だと、強度の問題で張力に限界があるが、
日本の弓もモンゴルの弓も複合弓なので、使用する個人の腕力次第で、いくらでも
張力を高めることができる。
同じ張力の弓なら、日本の方が矢の均一性や反発力が高いため、命中率や殺傷力が
モンゴル軍を上回ることになる。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/19(木) 05:33:50
ここwithとガーデンは全部懸賞応募すると登録させられますね?
しかもサクラ(男)がかぶっててどれも登録後すぐにメールが来ます。
元ジャニーズ(後ろで踊ってただけだけど)の永瀬 俊
(写メール有りとずっとシカトしてるとそのうち送ってくるの2方法有り)
大型テレビを懸賞で当たったからあげますという
(名前損失すいません)人と「誠」メールの始めは『ここはどこ?』という文章から始まる男。
とにかく女になって登録するとメールが来る事来る事…。
しかも全員サクラ〜。出会い系は4月はサクラは満開のようです。
それと、もう一つのココ
http://www.k oisonadx.com/?2ch34
(↑URL繋げて見て!)ココってアド交換して直メでアポしたんだけど、、
直接会ってから断られたんだけど、これって新種のサクラ?教えてください。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/19(木) 08:17:36
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です) 沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。 民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄」等で検索をお願いします。 この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから… ※一国二制度 簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。 (つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。) さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。 3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。 そして中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。 今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。 自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。 発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/19(木) 22:08:01
>>171 何を根拠に「実力があったわけじゃない」とか思ってるの?
戦後の元寇関連書籍には嘘八百しか書かれていないのに。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/19(木) 22:29:56
細かいことはどうでもいいが 鎌倉武士が世界最強に同意 でなきゃ今、日本国はないでしょ 中国領になっているか、北朝鮮のような国になっていたと思う 勿論2ちゃんねる 書き込むような香具師は収容所送り決定!
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 00:17:02
新井孝重の『戦争の日本史7 蒙古襲来』(吉川弘文館)がヤバイことになってる。 この本が凄いのは、同時代性とか一切無視して江戸時代に書かれた『北肥戦誌』を 元寇の史料として多用していること。 中でも圧巻は、「てつはう」について大胆な新説を展開している箇所。 蒙古襲来 P57 「『北肥戦誌』という本によると、「てつはう」の威力はすざましく、その音天地 に響くだけでなく、あたるところのものは木っ端微塵となり、味方はこれのため 討たれるもの数知れず、おおいに怖じ恐れて、みな其処かしこに逃げ竄れ、 「大将ノ下知ヲモ不相用、更ニ戦ハントモセザリケリ」といった具合であった」 新井孝重が根拠としている『北肥戦誌』の記述をもう少し詳しく読むと・・・ 北肥戦誌 「蒙古豫ねて日本の用心をや量りけん。件の石築地に猶二三丈が程高く、己が船に 勢楼を切組み置き、是を俄に組み立てて、日本勢の陣所を遥か目下に見なし、其頃 曾てなかりける佛郎機を放し掛けしかば、其音天地に響き、中る所微塵となり、 味方是が為に討たるる事数を知らず」 元軍は元寇で佛郎機(フランキ)を使用していた!!! そもそも『北肥戦誌』の記述だと、武士が蒙古に連戦連勝しているのだが、その点は見事に スルーされているし・・・ まさに戦後のトンデモ元寇研究の集大成だな。
島国攻め落とすのは大変なのよ
>>175 すいません、「矢の均一性」ってどういう意味ですか?
鏃から筈までのバランスのことですか?
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 15:25:21
>>181 島国のイングランドは、フランスの一地方の豪族に過ぎないノルマンディー公によって、攻め落とされてるよ
>>183 ドーバー海峡は最狭部で34km
日本海は?と言ってみたくなった
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 16:05:24
>>184 ノルマンディー公はドーバー海峡の最狭部を渡ったわけではないから。
ディーブ河口を出発してサン=ヴァレリーを経由し、イングランドのぺヴェンシーに上陸。
距離的には、文永の役の元軍や、弘安の役の東路軍と大して違わない。
それに、島国イングランドは北海を遥か隔てた半島デンマークにも征服されてる。
では月並みだが気象条件はどうか
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 16:21:18
そこいらを説明願いたい
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 17:10:02
>>188 ノルマンディー公がディーブ河口に艦隊を集結させたのは8月上旬。
ところが悪天候のため出港することが出来ず、9月11日には一度渡航を試みたものの、
失敗してサン=ヴァレリーに漂着。
そこから延々と天候回復を待って、ようやくイングランド上陸を果たしたのが9月28日。
一方の元軍は文永の役で、10月3日に合浦を出港し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐と
順調に船を進めた上で、10月20日には博多上陸を果たしている。
弘安の役の東路軍は、5月3日に合浦を出港し、5月21日に対馬と壱岐を襲撃した後、
6月6日に博多湾到着。
あきらかに、ノルマンディー公の方が気象条件で苦労しているだろ。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 17:41:46
>>182 矢の重量や重心位置、規格などが一定であるということね
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/20(金) 20:56:14
歴史が捏造されているのは事実です 事実を伝えても注目されないが、嘘を言えば注目されるからね 歴史家が犯罪者という共通認識でいいのでは
和弓のスペックが上回っていたのは、蒙古弓は半弓なのに対し 和弓は長大だったからではないでしょうか。 モンゴルの矢は規格をバラバラに作っていたのですか?
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/21(土) 21:48:38
日本の当時の文献は兵力数に誇張がありすぎるから注意が必要だ 元冦の2度の侵攻の実兵力はいずれも高麗から2万程度の兵力のみ しかもモンゴルの本隊はほとんどいないし、騎兵も皆無 2度目の南宋からの江南軍はたいした武装をしていない移民目的の旧南宋の老兵 最良どころはみんな当時元本土で起きていた大規模な反乱鎮圧に投入されている 鎌倉幕府がかつて平泉鎮圧に20万の兵力を送ったというが 20万の軍が行軍したら先頭は現在の東京―埼玉あたりで最後尾はまだ鎌倉を出て いないことになる また室町末期に京都に武士集団が現れた時、ある公家がこんな大軍見た事ないと 書き記したが、その時の実際の兵力はわずか4000である
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/22(日) 09:49:05
>>194 現在の自衛隊の総兵力は24万人だが、大半の日本人は4000なんて大軍見た事ないな
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/04/25(水) 00:04:05
札幌では制服見飽きたよ
>>183 ノルマンディー公がイングランドに上陸した時、イングランド軍は北方に
上陸してきたノルウェー軍と戦っていて留守だったんだが。
運良くモンゴル追い出せたね
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/03(木) 16:08:52
>>198 だから運じゃなくて、モンゴルより強かったから勝利した。それだけ。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/04(金) 10:24:16
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/04(金) 15:13:19
普通に日本が圧倒してて勝ってるからな 台風とか大して関係なかったし
世界最強なの?
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/05(土) 13:04:08
>>202 当然。
寡兵の鎌倉武士団がオープンスペースでモンゴル軍と戦い、大宰府に指1本触れさせずに勝利。
圧倒的な強さじゃないか。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/05(土) 19:16:04
>>203 文永の役では蒙古33,000に対し日本5,000。
それだけの兵力差でたった1日で蒙古逃げ帰る。
撤退中に荒波に遭遇して更に惨めな姿に。
残された連中、皆殺し。
蒙古の戦術、鎌倉武士軍に通用せず。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/06(日) 17:00:33
それにしては遺骨も出てこんし、捕獲武器もほとんど皆無 大戦果を挙げたと言う記述は武功を認めてほしい日本側の御家人のみの不思議
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/06(日) 17:58:26
>>205 大戦果を挙げたという記述は、元や高麗の文献にも書いてあるから。
文永の役
高麗史表「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」
弘安の役
元史日本伝「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために
虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを
得たる者三人のみ」
日本の武士が行儀良く名乗ってる間に蒙古が集団攻撃してきて 結構苦労したって学校の先生に習ったんだが
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/07(月) 15:06:56
>>207 元寇について学校の先生に習うことなんて、基本的に全部嘘だから。
武士が元寇でどのように戦ったかについて、実際に戦闘に参加した武士自身が監修した
「蒙古襲来絵詞」に優る史料は存在しない。
その「蒙古襲来絵詞」の中では、武士は蒙古に名乗ったりせずに集団で戦っているし、
対する蒙古は多くの兵が負傷して敗走している。
つまり、「蒙古襲来絵詞」は「武士の集団戦法に苦戦する蒙古」を描いた絵巻なんだよ。
それなのに、戦後の歴史教育は長年に渡り、集団で戦う武士や敗走する蒙古をカットし、
一部分だけを切り抜いて、「蒙古の集団戦法に苦戦する武士」などというまったく正反対の
絵として教科書などに載せていた。
確信犯で子供に嘘を教え続けていたわけ。
ようは鎌倉武士団が強すぎて かなりの数の首級を上げてしまい恩賞の分配の当てが全くなかったってことだな
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/12(土) 11:30:32
いるぼんまんせー しゃおりーべんくいづ 妄想大爆発
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/12(土) 15:21:23
>>205 元寇で日本軍が大戦果を挙げたという中国側の文献ならこんなのもあるよ。
鉄函心史
「辛巳(1281)六月半ば、元賊、四明(寧波)より海に下り大船七千艘、
七月半ばに倭国白骨山に抵り、土城を築き兵を駐し塁に対す。晦日(7月30日)
大風雨と作り雹の大なること拳の如く。船は大浪に掀翻し沈壊し、
韃(モンゴル)軍の半ばは海に没す。船は僅かに四百余隻回り、二十万人は
白骨山上に在りて船の渡帰する無く、倭人に尽く剿る」
遺体の処理のついては、日本側の文献によると、元兵を多く殺しすぎて面倒になり、
魚の餌にしたらしい。
八幡ノ蒙古記
「異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ」
なんか世界最強とか言ってる時点でうそ臭く感じる
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/14(月) 09:00:12
>>212 まあ、世界最強でないにしても、いわゆる元寇は対馬、壱岐以外は戦闘でも鎌倉武士軍が全て勝利してるよ。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/14(月) 16:12:15
総合判定:日本弱かった派の根拠はお笑い。 学校の先生にそう教えられたから。 (日本弱かった派の脳内は、チイチイパッパのレベル。批判精神皆無。) 元軍は、博多あたりを焼き討ちしたから。 (日本弱かった派は、個々の戦闘の優勢劣勢のような枝葉末節しか注目できず、戦略目標無視の単細胞) 文永の役の後、防備を固めたのは日本が弱いから。 (後の弘安の役を的確に予見する能力こそ、強い証。日本弱かった派は、目の前の相手に子供のケンカすることしかできないらしい。) 日本の軍制は劣っていた。 (日本弱かった派は、日本の指揮系統・装備・錬度・戦術などにケチをつけるが、根拠なし、又は揚げ足取りレベル。) 元軍は、渡海するのが大変だった。 (日本弱かった派は、元軍が圧倒的に不利だったと言いたいらしい。4世紀ころからの軍団の渡海の歴史を知らず、無知をさらすばかり。 今日の定期航路のように随時渡海できるわけではない。しかし、それと軍団の渡海との区別がつかない馬鹿っぷり。)
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/17(木) 01:49:37
勝ったわりには集団戦法を導入したのは解せないな そんなに元を打ち破ったと誇るならずっと近代まで一騎打ちで通すのが筋だろ 結局、本当は戦闘で負けて集団戦法を導入したのが本当だろう アイルランドにかつてアングロ・ノルマンが侵攻した時とケースが酷似している 当時はアイルランドは一騎打ち戦法を採っていた アングロ・ノルマンは当時、欧州で最強の武装に優れた戦術と集団戦法を採用し ていた 元冦との違いは暴風雨がなかったこと 結局、アイルランドはアングロ・ノルマンに歯が立たず、席巻された それに高麗やベトナムの方が本当の元の本軍に何度も攻撃されているな
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/17(木) 01:55:38
>>215 日本は元々一騎打ちなんてしてねーし
源平時代から戦術戦もあったし
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/17(木) 08:44:40
>>215 鎌倉武士軍がとった戦術は騎馬武者による集団戦術。
名乗りを上げての一騎打ちなんかで挑んでない。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/18(金) 12:49:39
戦後の日本史研究者が元寇について言っていることなんか全部捏造なのさ。 当時の史書に書かれた文永の役↓ 【鎌倉年代記裏書】 『十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北』 江戸時代の史書に書かれた文永の役↓ 頼山陽【日本外史】 『十一年(1274)十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。 転じて壱岐に至る。守護代平景高、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、 赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。慮兵乱れ奔る。』 戦前の史書に書かれた文永の役↓ 白鳥倉吉【国史】 『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、 数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。 九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の ことでしたので、これを文永の役といいます。』 戦後、GHQ占領下の教科書に書かれた文永の役↓ 第七期国定教科書【くにのあゆみ】 『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の 兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、 大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることが できました。』
鎌倉武士団がボロクソだったなら台風が来ても大丈夫なように陸地に設営されてるだろ 戦争でもっとも危険度が高いミッションは上陸戦だからそれを何度も繰り返す事なんかしない 一回上陸したらそのまま敗北でもない限り本拠をそこに置く
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/19(土) 14:57:09
>>219 もちろん元軍が陸上での戦闘に負けない限り、乗船して暴風雨に遭遇する様な状況は発生しない。
実は、文永の役で元軍が船に戻った理由は、謎でも何でもないんだよね。
高麗の文献に、劣勢に追い込まれた元軍が日本から撤退するために乗船し、帰路で暴風雨に遭遇したと、
はっきり書いてあるのだから。
高麗史金方慶伝
『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。〔劉〕復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。
会々、夜、大いに風雨す。』
忽敦は元軍の総司令官。
彼は元軍を「小敵」に、日本軍を「大敵」に例えて、戦況が絶望的で撤退以外の選択肢がないと言っている。
流れ矢に当たって負傷し、真っ先に乗船したと書かれている劉復亨は、元軍の副司令官。
日本側の文献には、少弐景資の部隊との戦闘中に狙撃されて落馬したと書かれている。
元軍が風雨に遭遇したのは、「遂に兵を引いて還る」の後の出来事だよね。
これだけ明快な記述がありながら、戦後の元寇研究はインチキだから、元軍が負けた事を認めないんだよ。
日本の地形元軍にとって相性が悪すぎるよ 率いたのもたいした将軍じゃなかったし
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/19(土) 16:17:41
>>221 文永の役の戦場となった福岡平野なんて、元軍にとっては理想の環境じゃん。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 19:05:29
>>222 鎌倉武士の戦術もまた集団による騎兵戦術です。
学校の教科書にあるような名乗りを上げて一騎で突撃したなんてことはありません。
鎌倉武士の騎兵戦術が元軍を上回りました。
それと日本の当時の鎧は非常に厚く頑丈で元軍の弓ではなかなか鎧を貫けませんでした。
全身に矢を被い針鼠のようになっても鎌倉武士軍は元軍に斬り込んで行きました。
もう一つついでに。
鎌倉武士軍の日本刀の切味の凄さは元軍の武器の比ではなかった。
元軍の兜ごと真っ二つにしたり、また元軍の刀や楯さえ切り裂く威力で散々に蹴散らされたのは元軍です。
文永の役のとき元軍3万を超えるのに鎌倉武士軍わずかに5千。鎌倉武士軍は戦術も兵器の質でも元に勝りました。
それが勝因です。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 19:18:49
鎌倉武士の騎兵って・・・・・ 日本には明治になるまで騎兵なんかいないし 蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方に至るまで日本に騎兵が存在した形跡は全く無 し、和製馬じゃ動きがトロいし、その上ギャロップも出来ん 『馬の世界史』を嫁
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 19:31:56
日本弓の素晴らしさをなめすぎ
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 20:40:56
モンゴルの合成弓より数段劣るがな
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 21:42:01
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、 (日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人 手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦 したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」 「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・ 更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。 文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、 大笑いしたという記録だってあるのだ。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 22:03:42
モンゴルの弓が極東の土人の弓より射程が短かったらユーラシア制覇など出来る はずがない もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が 使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう それに日本に来襲したのはほとんど高麗兵 元軍の主力は文永の役時では南宋攻略に、弘安の役時には親族の反乱鎮圧に投入 されている
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/20(日) 22:08:32
18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/03/01(木) 14:02:11
>>17 歩兵ばかりだったのは8000人の高麗部隊。
その他の蒙漢軍が2万5000なんだから、どう考えてもそっちの方が主力だろ。
日本側の文献には、文永の役の元軍の特徴として「馬によく乗る」って書いて
あるのに、どこから「歩兵ばかり」なんて話が出て来るんだよ。
>>224 >日本には明治になるまで騎兵なんかいないし
残念、いなかったのは騎兵隊であって騎兵ではない。
>蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方
例えば、ローマ末期になるまで西欧では蹄鉄はなかったがアレクサンドロスや
ハンニバル、スキピオやカエサルが騎兵隊を運用してたことを疑う奴はいまい。
馬の扱いが原始的であったことと騎兵・騎兵隊の有無は直接関係しない。
>和製馬じゃ動きがトロいし
生憎だが、日本人に畜産の知識がなかったせいで、よい馬ほど戦場に優先的に
送られて子孫を残せなかった結果、時代を下れば下るほど馬格は貧弱に、
つまり時代を遡れば遡るほど馬格が立派になるという話がな。
>その上ギャロップも出来ん
中世期の全身に鉄の装甲を纏った戦士を乗せた馬は、ギャロップどころか
並足がせいぜいって見解は洋の東西を問わないんだ。
実際に大鎧を着て良馬に跨った鎌倉騎士が実数数百人だったとしても、
それが十分な訓練を積んでいて士気旺盛であったならば、歩兵数千どころか、
あるいは万にも達する力を発揮しただろう。
別に大げさに言ってるわけじゃなくて、中世の重装騎兵ってのはこういう存在。
歩兵の何倍何十倍の値段する装備と十分な鍛錬をした死を恐れない封建騎兵は、
それだけのコストに見合った働きをした。
>>228 >もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が
>使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう
生憎だがそのとおり。冒頓単于のいない匈奴は武帝の軍によって追い散らされ、
アッチラ死後のフン族は惰弱なギリシア人の傭兵に成り下がった。
モンゴルがあれだけ領土を広げたのは、つまりのところチンギスハーンとその子孫が
優秀な指導者だったからということが大きい。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 12:57:03
フン族がギリシャ人の傭兵になり下がった? 基本的西洋史ぐらい覚えとけよ まあ難民だから仕方なしか
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 13:03:49
ギャロップできない騎兵はいない 日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い 和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き とにかく馬に関する歴史書を嫁
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 13:26:44
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 13:52:14
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 18:11:39
騎兵突撃を一度も見たこともなく、和製馬以外を目にしたことない当時の日本人 の記述じゃ説得力まるで無し
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/21(月) 19:41:31
>>235 当時の日本人が、騎兵突撃を一度も見たこともなければ、その様子を描くわけ無いだろ
>>232 >ギャロップできない騎兵はいない
近代の騎兵ならね。銃弾の飛び交わない戦場では、全身鎧があればそんなにスピードはいらんのだ。
>日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い
マケドニア騎兵は鐙も鞍もなかったけど騎馬突撃したね。
ハミが何で騎馬突撃に必要なのかはまるで理解不能。
日本に鐙は古墳時代からありますが。
>和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き
不向きなのと可能不可能なのかはまったく別。
>とにかく馬に関する歴史書を嫁
よっぽど変な本を読んだかよっぽど変な読み方をしたんだろうね。
「騎士は転ぶと一人では起き上がれなかった」って話信じてるクチ?
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/22(火) 03:57:02
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。 わずか1日で元軍戦意喪失。 元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」 高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」 元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」
世界史板の騎馬否定厨はここにもいたか
ここで何言っても説得力無いから何も変わらないよ 両者に知識が伴ってないと判断の下しようが無い
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/23(水) 03:00:05
騎馬否定厨は読んだ本に正確に何と書いてあったのか、UPするべき 単にこいつに読解力がないだけかもしれん ハミも鐙も鞍も全部日本に昔からあるし、遺品だって多く残ってる あるとあらゆる史料が日本に騎馬がいたことを証明しているぞ
こんなとこでやらないで世界史板行ったら?
>>240 判断も糞もないだろう
否定厨は厨そのもの
馬の話じゃなくて、このスレ全体での話
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/24(木) 14:47:07
このスレに書き込んでる奴は、普通に他の歴史板も掛け持ちしてるだろ
日本史の話題か世界史の話題か微妙だから難民板に立てたんじゃないの。 まあ世界史板でも山野野衾とかいるし普通にレス付くと思うが。
鎌倉時代の日本の鎧が頑丈なことは有名だよ 現代戦車の主砲から発射される劣化ウラン弾の直撃を受けても 主人を無傷で守るって言われてる
↑それはない 多分当時のメイル・ホウバークより 矢や槍など刺突系への防御力は高いとは思うが
次世代宇宙服として日本の鎧が注目されてるらしいね
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/26(土) 18:49:29
豪快に釣られたな
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 15:26:21
やっぱり元寇時、ほとんどモンゴル本隊はいなかった! ・文永の役 元軍の船舶 900隻 元軍総兵力 25000 内、高麗兵 12700 内、モンゴル兵 30 他、宋人等 ・弘安の役 元軍の船舶 4400隻 元軍総兵力 50000 内、高麗兵 25000 内、モンゴル兵 150 他、宋人等 松本一夫氏HP「歴史へのいざない」 日本史 元寇失敗の背景より抜粋
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 15:59:11
鎌倉武士よりベトナムの方が数段すごい 931年ズオン・ディエン・ゲ、南漢(五代十国時代の一国)の侵攻軍を撃破 939年ゴ・クエン、バクダン河で南漢侵攻軍を撃破し、呉朝樹立 981年レ・ホアン、バクダン河で侵攻してきた宋の水軍を全滅させる 次いで陸戦においてもチ・ランの戦いで宋軍を撃破 1076年リ・トン・キェト、宋侵攻軍10万をカウ河と紅河の戦いで撃破 1257年第1次元寇 チャン・カィン・ズ、元軍を撃破 元軍撤退 1283年第2次元寇(元軍司令官トアド)元軍総兵力50万 元軍、タンロンで住民を虐殺 チャン・ニャット・ズァット、元軍を撃破、元軍司令官トアド戦死、元軍5万を捕虜に 〈日本の元寇では元軍の司令官の名もわからず、元の兵を一人も捕虜に出来なか ったことに注目〉 1287-88年第3次元寇(元軍司令官ウマル)元軍30万が海陸から侵攻 ヴァンドルの戦いで元水軍を撃滅 バクダン河の戦いで元軍壊滅し、元軍司令官ウマルを捕虜にする 1409年将、院景真、明の沐晟率いる5万を撃破するが、武功を恐れた王に暗殺さ れる その後、王は明に敗れる 1424年レ・ロイ、明からゲアンを奪回 1426年レ・ロイ、明の王通の大軍15万を撃破し、撃退する
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:03:20
>>252 史料に書いてある数字は、あくまでも蒙漢軍2万5000が本隊で高麗軍は8000。
何の根拠も無い適当な数字を並べている時点で、そいつの書いてることは信頼性皆無。
参考文献には、「有効射程」と「射程」を比較してあからさまな印象操作をおこなった
黒田俊雄の『日本の歴史8 蒙古襲来』が並んでいるし・・・
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:15:32
>>253 1257年第1次元寇は撃退では無いぞ。
僅か3000のモンゴル軍に首都を占領され、その後屈辱的な条件を飲んで朝貢を行なっている。
ベトナムが何度も中国の侵略を受けたのは、日本よりも弱いから。
日本でボロ負けした元軍は、より勝ち易い相手としてベトナムを選んだんだよ。
明も日本侵略を考えたことがあったが、日本側が「備えは万全だから、攻めてきても平気」
と書状を送ったら、腰砕けになって結局は諦めた。
明がベトナムに攻め込んだのは、その後。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:23:23
>>254 ちゃんとページ見たか
参考文献の量は半端じゃないと思うが
>>255 結局、日本は敵の司令官を殺せなかったし、捕虜にも出来なかったのは事実
大勝と言うわりには敵の捕虜が一人もいないと言うのはもっと不思議なことだ
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:27:07
ヴェトナムの場合は中国と陸続きだから侵寇は海陸双方から受けやすい 相手を引き込み内線の有利に戦術の重きを置くのは妥当
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:44:46
>>256 元史には弘安の役で元軍10万の内、2〜3万が日本の捕虜にり、残りは全員殺されたと書いてあるぞ。
大勝以外の何物でもないじゃん。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:48:17
>>258 それは松本氏に言ってくれよ
松本氏はそれなりにいろんな文献で調べてるし
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:52:18
>>255 だったらなんで元が第2次、第3次進攻する必要あるんだ?
1回目で事が済んだことじゃないの
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 16:53:50
>>259 だから、そいつの書いていることは信頼性皆無だと言ってるだろ。
何ならそのページに書いてあることが、どれだけ適当か順番に列記してもいいぞ。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 17:02:51
>>260 基本的には、第1次侵攻でベトナムが降伏して元の支配を受け入れたため、事は済んでたんだよ。
ただ、その後元が調子に乗ってどんどん支配を過酷なものにしたため、ベトナムが反乱を起こし、
第2次、第3次進攻する必要が生じた。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 17:04:33
向こうの掲示板に書いた方が早いだろ
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 17:12:27
>>262 弱い奴の反乱ならそんな30万、50万の大軍送らんでいいだろう
それに元軍の司令官が戦死したり捕虜になったりして大量の捕虜が生じたって書
いてあるから尋常じゃなかったんたじゃねぇのか
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 17:27:46
>>264 30万、50万ってのは占領軍だからな。
現在行なわれているイラク戦争でも、イラク軍は滅茶苦茶弱くてバグダットも
あっさりと陥落したけど、アメリカ軍はその後の占領統治にてこずり、大幅に
兵力増強しても、戦死者が増え続けてるだろ。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 19:59:38
>>265 なんのこっちゃw
すげぇ笑えた
ふつー、逆だろ
占領軍なら逆に減らすだろ
それにいくら歴史難民とはいえ当時の元の状況の概略ぐらい知ってるよ
親族同士の内紛が激しくなって行くのに不定期の大軍の駐留なんてありえないよ
そこまで長期だとまずモンゴルの馬がもたないよ
いや、攻撃は兵力絞れるけど占領には莫大な兵力が必要 要するに点と面の違い
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 20:24:12
おいおいそれじゃ その論法で行くと中国本土に1000万、高麗に100万の駐留軍置いてジャワや日本 への侵攻軍を別に用意して 最大の強敵でほとんど毎年のように戦ってるチャガタイのハイドゥに対しては精 鋭軍を常に準備しとかなければならないんよ ムリムリ無理だよそんなの
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/28(月) 21:17:16
>>268 中国本土の占領には、ほぼそっくり手に入った旧江南軍を使った。
朝鮮半島に関しては、フビライに恭順の意を示した高麗王朝を温存して統治させた。
270 :
269 :2007/05/28(月) 21:20:10
間違えた 旧江南軍じゃなくて旧南宋軍ね
近代以前の軍隊の数字ほどあてにならないものは存在しない、とか言ったら駄目?
そんなに最強だと思うなら松本氏の掲示板に直接論戦挑んでこいよ こんなとこで雑魚相手にしてても何も変わらないぞ
あ、でもこの人専門家じゃないのか
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 07:51:29
松本氏の掲示板に直接書き込むことも考えてるよ 正直、個人サイトに乗り込むのは気が引けるんだけど
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/07(木) 10:33:40
>>253 1283年の第2次元寇で、トアド率いる元軍が50万ってのは、大越側の文献に書かれている数字。
しかも、実数ではなく噂の数字として書かれている。
元史では、トアドの率いていた兵数は、最大限に見積もっても2万5千にしかならない。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 10:25:34
じゃあ日本に来襲した元軍はさらに少ないな どう考えても海路より陸路の方が兵力を投入しやすいし、ヴェトナムは日本と違 って元の欲する特産品があったからな
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 13:05:52
>>276 日本襲来の元軍の総司令官も高麗人
わざわざモンゴル人が指揮する必要性がないからね
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 13:06:39
>>276 残念ながら、日本侵攻の際の元軍の兵力は、最初から元側の史料をもとにしているから
あと、日本には元が欲する黄金があったよ
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 13:25:21
>>277 嘘を書いちゃダメね
文永の役の元軍の総司令官は忽敦というモンゴル人
弘安の役の元軍の総司令官の阿剌罕や阿塔海もモンゴル人
高麗人の将軍は、その下で少数の高麗部隊を指揮していただけ
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 19:43:20
鎌倉時代の日本にはそんなに金なんかないよ いいかげんな事書くなよ 東方見聞録を信じているのか?
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/08(金) 20:56:56
>>280 実際に有るか無いかは問題じゃないでしょ
むしろ当時のモンゴル人が東方見聞録に書いてあるような事を信じていた可能性は十分ある訳だし
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/09(土) 01:04:46
>>280 平泉の中尊寺金色堂見たことないですか。?
藤原頼長の日記にも奥州藤原氏から砂金がたんまり届けられたことなど書いてある。
後は後三年の役の発端は藤原サネヒラが一族の長老吉彦秀武が砂金を持参してきたのに碁に夢中になって気づかず秀武が馬鹿にされたと怒ったこと。
奥州藤原氏は遺跡から象牙なんかも出てきたり随分と海外と交易してたからジパングの話はこの辺から出てきたのでは?
東方見聞録のチパングの記事は以前読んだけど 元軍に首都を占領されたとか人肉食の習慣とか 個人的にはどうコメントしていいか分からん。
>>280 元禄期まで日本は世界有数の金産出国
>>283 マルコ・ポーロが又聞きとかでしか知らない地域のことは、当時のヨーロッパ人の世界観が
ちゃんとと反映されたおかげで、犬頭人とかのファンタジーがポンポン出てくるからね。
まぁフビライや元の人間が東方見聞録を読み聞きしたわきゃないからどうでもいいんだが。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/09(土) 07:30:22
>>280 宋史日本伝
「東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす」
このスレの印象だと、片方の立場にしか詳しい人いないね 難民板だから仕方ないけど
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/11(月) 00:53:06
『トンデモ日本史の真相』を見ていたら鎌倉武士ではないが、武田騎馬軍団の話 で、以下の理由で日本においては騎馬軍団の突撃はなかったとしている ・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった ・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である ・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである ・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、 首を取られるのが落ちである やっぱり日本には突撃出来るような騎兵なぞ存在し得なかったんだ、納得、納得
全力で釣られてみよう。
>>287 >・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった
室町期には騎射より槍などでの白兵戦がメインになってたはずだが…。
第一上でもさんざ鎌倉武士の騎馬突撃について言及されてるし、飛び道具を
放ちながらの突撃は歩兵騎兵問わずわりとよくある戦術。
>・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である
根拠が分からんことにはどうにも。重装騎兵同士の戦いの最終局面ではそうだろうとしか。
>・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである
蒙古馬もそんくらいだよな。
>・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、
ストラボンは去勢技術を、スキタイ人やサルマチア人の変わった風習と書いているが。
まぁ武田騎馬軍団は無いだろうがな。
じゃ、と学会に抗議すれば HPもあるし
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/11(月) 11:19:39
━━━━━━糞スレ激しく終了━━━━━━━━
糸冬
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/11(月) 12:28:31
平安時代に攻めてきたらやばかったな
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/11(月) 16:32:38
>>293 平安時代だと、894年に朝鮮半島から新羅の海賊が攻めて来たことがあるけど、
これは対馬守・文室善友がクロスボウ部隊を率いて撃退している。
あと、1019年には女真族による刀伊の入寇があったけど、こちらは藤原隆家が
騎兵部隊を率いて撃退。
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/11(月) 19:23:11
>>289 って、と学会の本かよ。いつからあそこは啓蒙本の出版処になったんだ。
…とその前にちょっと内容の解説を調べてみたら、普通にトンデモ学説の紹介本みたい。
武田騎馬軍団の項の執筆者が暴走して馬脚を現したか、それとも
>>287 がデタラメ書いたのか?
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/12(火) 09:25:45
糸冬 了..._〆(゚∀゚ ) ( ゚д゚)、ペッ 糞スレ立てやがって
糸冬
287はデタラメ鈴木真哉
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/12(火) 21:13:45
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/12(火) 23:37:57
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『モンゴル軍』には、 「ポニー(小型の馬)に乗ったモンゴル人は単騎なら9日間に600マイル(約965q)を走破できた。」 なんて書いてあるね。 中世の軍馬としてはポニー最強だな。
馬って小型種のほうがスタミナあるんだな。
>単騎なら 替え馬を2、3頭連れて次々と乗り換えるから早いんじゃなかったっけ? うろ覚えだが >軍馬としては チャージャーとしてならやはり西洋でいう「軍馬」の方でしょう モンゴルポニーは小回りがきくのが強み
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/13(水) 11:04:46
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『グスタヴ・アドルフの騎兵』には、 三十年戦争の抜刀突撃で有名なスウェーデン軍の軍馬について、 「1622年と1623年の装備目録によれば、スウェーデン騎兵部隊の馬の平均身長は、幹部クラスの馬で 14ハンド(1m43p)、騎兵用はわずか11から13ハンド(1m12p〜1m33p)だった。胸甲騎兵の馬でさえ、 「鞍をつけて14ハンド」にすぎなかった。」 なんて書いてあるよ。
それはスウェーデン産の馬ですね。 スウェーデン軍の中で激しい突撃で知られたハッカペリッタ騎兵は 一般的に15−17ハンドのフィンランド馬に乗ってた。 ブライテンフェルトの戦いの後にドイツ中部に進出してからは まともな軍馬が手に入るようになってあまり他の軍の騎兵と 変わらなくなったとか。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/15(金) 21:29:31
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/17(日) 08:50:39
>>305 スウェーデン軍はポニーで戦っていた頃の方が強かったけどね
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/06/23(土) 02:25:35
現代米軍が本気で攻めてきたって余裕で勝てる日本だぞ いつの時代でも日本が敗北することなどありえない
幾らなんでもそれはない
>>307 それはどうかな。
ポーランドで戦ってた頃もフサールを騎兵戦で圧倒していたとは聞かないし
「グスタフ・アドルフの騎兵」でも「スウェーデン騎兵の成功の秘訣は、「特命」
マスケット銃兵による近距離からの火力援護にあった。それがなかったなら、
スウェーデン軍は、装備と馬、いずれにおいても勝る皇帝軍の胸甲騎兵に
あっさり壊滅させられていたことだろう」と書いてるけど。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/03(火) 14:17:10
つー事は最初から最後までスウェーデンは弱かったって言いたいの?
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/06(金) 17:04:40
>>310 ポーランドって1648年のフメリニツキーの乱でコサックとタタールのポニー騎兵連合軍に圧倒された国だよな
412 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:34:22 ID:R25ckwX90
現在の在来馬主の方の証言(要約すれば西洋馬に比べおとなしく素直で物事に動じない。はみなどいらない去勢も必要なかった等)とsporran氏の語る在来馬(もとから気が荒い上に去勢してなかったんだからさらに手に負えなかったはずだ)の姿が正反対なのが面白い
どちらも嘘をついているのではないと好意的に見た場合、思うにこういうことではないかと思う。
つまり在来馬全体がもとから気が荒いということではなくむしろ基本的にはおとなしくて物事に動じないおおらかな気性であってだからこそ軍馬用としては
そのなかで特に気性の荒い馬を選抜する必要があったと。
であれば「誰が主人か」だけを徹底的に叩き込めば躁馬に関しては細かい調教が不要馬具も凝ったものは不要というのも納得できるようにおもわれる。
とすれば日本の古文書で言うところの「あの馬は気性が荒くて云々」という描写で語られる馬も実は同時代の西洋馬の御しにくさと比較したらたかが知れてる程度で西洋馬よりはるかに聞き分けがよい馬だったのではないだろうか?
ただ明治維新後の軍馬に関しては早くから西洋馬との交配がなかば狂信的なほど性急に推奨されたということなので、この時期以降の記録に残る馬に関しては大幅に馬の気性も変わったのではないだろうか
413 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:39:39 ID:R25ckwX90
>西洋馬の御しにくさと
一応補足
西洋馬の世界での基準における「気性の荒い馬」の御しにくさと…
のほうが誤解がないかもしれない
414 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 20:41:33 ID:dsAlVweI0
>>406 >>412 で武士の馬は制御が難しい根拠が無くなりましたが…
それはそうと騎士の馬のはみがH型なのはアラブの影響では?
日本の場合アラブの(遊牧民の)影響がほとんど無いらしいので
蹄鉄もないし帯も胸ではなく首の辺りにかけて
馬が重い荷物を運べなかったらしいです
もっぱら輸送は船と人力じゃないかな?駕籠なんて物もあるし
415 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 21:39:41 ID:waF5by5U0
なるほど。スポランさんも意外と思い込みにとらわれてるのね
417 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/19(土) 00:30:45 ID:+gAFwguW0
西洋馬・・・去勢無し>>>>>>>>去勢済み
日本馬・・・>>>>>>去勢無し>>>>>>>去勢済み
てことですかね
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/13(金) 08:23:40
っていうか日本に「はみ」が無かったなんて話は完全に嘘だから
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/14(土) 07:34:21
1の意見には感服する。元軍が一日で撤退した理由とかどんな説よりも納得できる。世界一かは判らないけど・・ ただ、一つだけ疑問が、wikiに日本軍の弓の射程は文永の役の経験から改良して弘安の役で元軍より射程が長くなったとあるんだけど、そうなの?
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/15(日) 03:12:59
はみがなかったではなくて無くてもいいよという話だとおもわれ
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/16(月) 10:01:54
>>315 弓の射程は最初から日本の方が長かったよ。
出版されている元寇関連本には、日本の方が射程が長かったと書いてあるものもあれば、
元軍の方が射程が長かったと書いてあるものもあるけど、後者は基本的に
>>165 に書いて
ある「有効射程」と「射程」を比較するインチキ研究がベースだから。
wikiの弓の射程に関する部分は、吉川弘文館の「日本の時代史9 モンゴルの襲来」の中で、
杉山正明が書いてることに影響されてる感じがする。
杉山は1996年に出版された「モンゴル帝国の興亡」では、元軍の弓の方が射程が長かったって
書いていたんだけど、その後考えを改めて、2003年出版の「モンゴルの襲来」では、日本の
弓の方が射程が長かったって書いてるんだよ。
wikiの筆者は、中間を取って文永の役では元軍の方が長く、弘安の役では改良されて日本の
方が長くなったと考えた可能性はあるかも。
wikiの筆者本人に聞かないと真相はわからないけど・・・
兎に角、文永の役と弘安の役の間の短期間に、日本の弓が急速に改良されたなんて話はない。
日本の弓てのは面制圧じゃなくて狙撃型なのかな? 厨な質問で申し訳ないけど
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/16(月) 23:23:55
>>317 サンキュー。そうだよね。倍以上の射程距離を持つ敵の弓矢を採用するならともかく、数年で元からあった弓を4倍の射程距離に伸ばせる訳がないもんね。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/07/17(火) 07:34:14
>>318 ケース‐バイ‐ケースだよ。
文献には、雨の如く矢を降らせている場面もあれば、狙いを定めて狙撃している場面もある。
321 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 12:18:51
「元寇の際に武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことはあり得ない」 こんなちょっと考えれば誰でも分かることを、日本史研究者の誰も気が付かなかったはずがない。 気が付いていても真実を正直に言うことがタブーなんだと匂う本がたまにある。 例えば中世合戦についての著書を何冊か出している近藤好和。 治承・寿永期までの戦闘を扱った『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』吉川弘文館のP175。 「『平家物語』の弓射の類型表現からも、それが騎馬であれば、馬静止で矢を前方に射る騎射がイメージ されるのである。仮に馬を馳せていたとしても、かかる表現の騎射は、『蒙古襲来絵詞』にみえるような 全軍が一団となって突進し、進行方向に矢を射る状態、いわば集団での追物射の状態をいうのであろう(図30)。」 この頁には図30として『蒙古襲来絵詞』の白石道泰率いる100余騎が突撃する場面が載せられている。 つまり、全ての元寇関連本で「一騎打ち戦法の武士が集団戦法の元軍に苦戦した」と書かれている中、 元寇以外の中世合戦を考察した本では、『蒙古襲来絵詞』が武士の集団戦法の史料として使われている・・・ 更に、古代から治承・寿永期までと何故か元寇をとばして南北朝期を考察した『騎兵と歩兵の中世史』吉川弘文館の、 「中世前期戦闘考察の史料」の項目P8でも・・・ 「中世前期の戦闘考察には、『今昔』などの説話物語集や『平家』などの軍記物語のほかに、有力な文献史料が ないことは異論がないであろう。一方、絵画史料としては、『前九年』の他にも、『平治物語絵巻』や 『蒙古襲来絵詞』などがあり、合戦絵巻としてはむしろそれらのほうが有名で『前九年』はあまり注目されていない。」 『蒙古襲来絵詞』の名が挙がる一方で、元寇研究で武士の一騎打ち戦法の根拠とされている『八幡愚童訓』が、 中世前期の戦闘考察の史料としては見事にスルーされている・・・ 八幡神の霊験を述べた神道書の『八幡愚童訓』と、実戦に参加した武士の実録である『蒙古襲来絵詞』を、 戦闘考察の史料として同列には扱えないということ自体は当たり前なんだけどさぁ、何でその当たり前のことが 肝心の元寇研究では無視されているんだよ? 元寇研究とそれ以外の中世合戦の研究では整合性が皆無じゃん。 嘘を嘘と知りつつ放置する日本史研究者たちって、腐りきった人間の集団だよな。
>>311 ほぼ一ヶ月ぶりの亀レスになってしまったけど・・・
騎兵の不備を他の兵科との連携でカバーしてそれが成功したわけでしょう。
なんでスウェーデンが軍全体として弱かったとか極端な話になるのかわからない。
>>312 1605年のキルホルムの戦いでは3倍の兵力のスウェーデン軍をフサールの突撃で壊走させ、
1629年のトシチャノの戦いではグスタフ・アドルフのスウェーデン軍をやはり騎兵突撃で破った国でもある。
というかポニーのチャージャーとしての能力についての話をしてたと思うんだけども
コサックやタタールがポーランドの騎兵軍と同じ戦術で戦ってたと思ってます?
タタールは大多数が弓矢で戦う軽騎兵で、敵を遠巻きにして矢を射ち、側面攻撃や奇襲、伏兵に長けていた。
ポーランド騎兵の突撃に真っ向からぶつかっていったりはしません。逃げながらパルティアン・ショットを続けて
軍馬の突進する勢いが衰えてきたところで旋回反転してまた攻撃したりする。
ザポロージェ・コサックは騎乗率はタタールほど高くなく歩兵も多かったようだけど、騎兵はラヴァと呼ばれる
ゆるく広がった隊形で襲い掛かるのが常で、軍馬に乗って密集隊形で突撃し、長いランスでパイク兵の密集陣すら
突き崩すフサールと正面から戦う力はなく、荷車を繋ぎ合わせた防御陣地から火縄銃などで応戦していた。
敵方に砲があれば荷車ごと吹っ飛ばされる危険があったけど、ポーランド軍が騎兵隊だけ突出して行動してる
ような状況では有効な戦術だったらしい。
フメリニツキー反乱後の1667年にはタタール兵3万、コサック2万、イェニチェリ3千に24門の砲という大軍に 攻め込まれてるけど、ポーランド軍は2つの峡谷と森林、沼地に挟まれた場所(ウクライナのピドガイツェ)に 陣取っていたためタタール側は正面攻撃しかできず、結果9千しかいなかったポーランド軍に撃退されている。 真っ向からガチで戦ったらそんなもんです。
日本マンセー学会の連中は嘘つきばかりだかw 論文の一つも出せない素人歴史ファンらしいわw
>>325 どっちが正しいの?
素人には分からんのです
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/17(金) 12:05:33
>>326 自分で史料を直接確認してみたら?
例えば文永の役について、元史は「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」なんだから、
少なくても作戦通りじゃなかったことは認めているわけだよな。
高麗史では「戦いに敗れて1万3千5百余人が帰還できなかった」と明確に負けを認めてる。
日本側の鎌倉年代記や帝王編年記でも、蒙古が合戦で撃退されたことになっている。
実際に戦闘に参加した御家人が作成した蒙古襲来絵詞だと、元軍は武士の集団戦法に圧倒されて
逃げ回っている。
そして、戦後の研究者たちが言っているように武士が戦闘で負けていたなんてことを裏付ける信用
できる史書は無い。
現状はこんな感じだが・・・
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/08/17(金) 19:32:19
>>327 俺はアンタの意見の方に整合性を感じる。やっぱ、素人なりに軍事学の参考書とか読んだりしてみると、
戦後の定説はおかしいな。上の方にある弓の射程距離とか明らかに戦後説は矛盾がありすぎ。
325にも出来れば、何らかの資料を提示して欲しい。そうすれば、見比べが出来るから。
上陸作戦は非常に難しい作戦であり 一旦は成功させた蒙古が勝っていたなら海に引き上げる理由はない
330 :
324 :2007/08/19(日) 01:48:38
「ピドガイツェ」を「ピドガイツァ」に訂正
2つの峡谷と森林、沼地に挟まれた場所みたいな思いっきり限定されたシチュエーションでしか タタールに勝てないフサールって本当に強いのか??
世界最強
状況によってどうとでも変わるのに最強とか言い出す奴って何なの?
>>331 無意味な問いですね。
それを裏返すと「機動を発揮するスペースがなければポーランド軍に勝てないタタールって本当に強いのか」
ということになりますから。
機動で敵を翻弄して勝つ軽騎兵と突撃で敵を粉砕する装甲騎兵のどちらが強いかなんてのは
漫画でいうと「ジョジョの奇妙な冒険」で最強のスタンドは?とか問うのと同じ。
>>332 324のカキコが前後の文脈を無視して引用されてますね。
「こうしてみると少数でモンゴル騎兵の大軍を破ったポーランドが異様だな」とか勘違いしてる人もいるし・・・
困ったもんです。
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/26(水) 15:14:26
>>335 でも、現実には機動するスペースがあって、ポーランド軍がタタールにまったく
歯が立たないケースの方が多いわけだろ。
それは普通「タタールの方が強い」と言わないか?
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/26(水) 23:23:00
深夜に女性一人でペッパーランチ食べたい
>>336 誤解を招く書き方をしたかもしれませんが、シュラフタ共和制期だとタタール側が
ポーランド軍に負けてる例の方が多いです。
この時代クリミア・タタールがポーランドに仕掛けていた「戦争」というのは略奪が目的で、
遠征軍は渓谷などを通ってこっそりポーランドに侵入し、小部隊に分かれて散開し村々を
荒らしまわって奴隷狩り等を行い、ポーランド軍がやってくる前に戦利品をもってクリミアへ
退却するというものが大半であり、できるだけ戦闘は避けていたらしい。
で、ポーランド軍と実際に交戦した例をリストアップしてみると(Polish Renaissance Warfare
等を参照)以下のようになっています。
×1506年 クレツクでリトアニア軍に敗北 ×1512年 ロプシュでポーランド・リトアニア軍の攻撃を受け敗走 ○1620年 チュチョラでトルコ軍と共にポーランド軍を破る ×1621年 ホチンでトルコ軍と共にポーランド軍に敗北 ×1624年 マルティノフ付近でポーランド軍に敗北 ×1633年 サソヴィ・ロクでポーランド軍に敗北 ×1633年 カミヤーニェツ・ポドルスキーでトルコ軍と共に撃退される ×1644年 オヒマトフでポーランド軍に敗北 1648年 フメリニツキーの乱開始 ○1648年 ゾフティ・ヴォディでコサックと共にポーランド軍を破る ○1648年 コルスニでコサックと共にポーランド軍を破る ○1648年 ピリャフツィでコサックと共にポーランド軍を破る ×1651年 べレスチェシコでコサックと共にポーランド軍に敗北 ○1652年 バトガでコサックと共にポーランド軍を破る ×1667年 ピドガイツァでトルコ軍・コサックと共にポーランド軍に撃退される ×1672年 ラディジンでコサック・ポーランド軍に敗北 ×1672年 ネミリフでポーランド軍に敗北 ×1675年 ルヴィフでトルコ軍と共にポーランド軍に敗北 −1676年 ザラフノでポーランド軍を包囲し、和約を結んで撤退 漏れた例があったら指摘よろ
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/28(金) 08:05:16
>>339 休戦協定を結んで終わった1621年のホチンは引き分けでは?
あと、タタールの寝返りで勝ったべレスチェシコを「タタールに勝った戦い」に
数えるのは如何なものか?
1667年から1676年までのトルコ・タタール連合との戦争も、ポーランドの連戦連勝に
なっているけど、この戦争ってポーランドがポドーレを失って敗北した戦争だろ。
そうですね。ザラフノが−ならホチンも引き分けの方がいいかも。 べレスチェシコではトガイ・べクが戦死してタタールが逃げたのでは? 何でフメリニツキーを拉致してったのかはよく分からんですが。 70年代のトルコ戦争だと戦闘では連勝してますよ。 停戦交渉の細目まではよく知らんですね。 個人的にも気になるんで世界史板のポーランドスレで聞いてみよう。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/29(土) 09:45:01
>>341 1672年ってポーランド軍が2勝したことになってるけど、実際にはトルコ軍が
ポーランド奥深くまで侵攻してカミューニェツを攻略するなど、トルコ側の
圧倒的優勢で推移した年だった。
それでこの年、ポーランドがポドーレとヴラツワフとキエフの一部を失い、
その上毎年トルコに貢租を支払うという屈辱的な内容のブチャチの和約が
調印されている。
これを議会が拒否して戦争が継続され、ザラフノの勝利で多少盛り返して
ポドーレを失うだけで済んだって感じ。
すでにスレちがい
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/29(土) 17:02:17
>>342 このときのトルコの大宰相がカラ=ムスタファ。
この1672年オスマン=トルコの領土が最大版図になる。
しかし自分の軍事能力に自身満々となったカラ=ムスタファは更なる野望を持ち
1683年に有名な第2次ウィーン包囲を行うが、今度はオーストリア、ポーランドに惨敗。
これによりオスマン=トルコの衰退の始まり。
>>342 1672年の段階だと、そりゃ議会が軍の増強を認めずヤン・ソビエスキの手勢数千と
地方の部隊や農民しか戦ってないんだから、名高い「チャンブルの襲撃」などで
局地的に勝ち続けても大勢は覆せないでしょう。
ポーランド語版のウィキペディアなんかを覗いてみるとラディジンとネミリフのほかに
詳細が分からない1672年の戦いが9つぐらい列挙されていて、日本語か英語で
その辺の詳しい情報がある本等があったらこっちが教えてほしいくらいです。マジで。
ブチャチの和約後の経緯について「ザラフノの勝利で多少盛り返して」ってのは間違いで、
1673年にはホチンでトルコ軍に大勝し(タタールと関係ないので339には書かなかったけど)
その勢いでモルダヴィアまで占領。
1674年には新たなトルコ軍がやって来てモルダヴィアから追い出されますが、
ウクライナでトルコとロシアが戦い始めたのを好機に、ウクライナの要塞をカミヤーニェツ・
ポドルスキー以外すべて奪回してます。
この頃になるとまた議会が軍資金を出し渋るようになったらしいですが、1675年に
また20万強といわれるトルコ軍が侵攻したのを何とか撃退してます。
オスマン帝国にしてもポドーレを取るのが精一杯だったんじゃないですか。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/09/30(日) 08:54:09
で、結局勝ったのはトルコなんだろ
国内の対立で統一した軍事行動すら出来ず、国難にあって兵士の給料すら払えない国に 8万だの10万だのといったバトゥの遠征並みの軍勢を何度も投入して やっとのことで北海道の半分くらいの土地を手に入れたわけです。 で、ポーランドVSタタールの話はどこへ行ったんですか。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/01(月) 16:55:56
信頼度の高い史料が存在しないから、バトゥの遠征の正確な規模なんてわからないよ。 せいぜい3万〜4万と見積もってる研究者もいるみたいだし。 それにバトゥの本隊が侵攻したのはハンガリーで、ポーランドを散々蹂躙したのは単なる支隊。
誰か文永の役を映画化しろよ
過疎だからマターリ議論できるわけだが・・・
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/07(日) 00:08:05
このスレまだあったの?wwwwww
この時代の日本の想定する世界は本州と四国と九州のみらしいな だからポニーでテクテクと歩く速度で“走って” ようやく敵と会ったら“やあやあ我こそは・・・”と宣う 上記の世界に限定されれば世界一強いな
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/07(日) 08:33:32
>>354 モンゴル軍もポニーに乗ってヨーロッパの騎士団を蹴散らしたんだが・・・
当時の世界で最強の騎兵を擁していた遊牧民とかは、みんなポニーサイズの
馬に乗っていたんだよね。
それから鎌倉武士が敵に名乗りを上げて一騎打ちを挑むなんていうのは完全に
ファンタジーの話。
現実には集団戦法でモンゴル軍に圧勝してるし。
軍事板がぶっ飛んだ
日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑 した ましては軽武備で遊牧用にも慣らしてある馬と鈍重で騎馬戦闘用に作られていな い重武装の甲冑を着て騎兵訓練を受けていない馬を同次元に語る点は馬の歴史を 知らんのも同然だな まあ難民だから許そう
難民だから、蒙古馬と木曽馬が非常に近い種の馬であることや、 日本の馬が日々厳しい騎兵訓練を受けていたことなどの基礎的な 知識も無い奴が書き込んでるのか・・・
大鎧は騎馬戦闘用の鎧ですが?…
騎兵訓練ってどういう内容のことだろね 犬追物とかは集団で密集したなかで各人が馬をコントロール(したうえでターゲットの狙撃を完遂する)する訓練だしなぁ >日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑 した そもそも馬のサイズの話をしてたのにねw 大丈夫かねこの人
358は手遅れ
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/08(月) 13:49:34
>>358 は多分釣り
こんなバカがリアルでいるはずが無い
スレを伸ばすための陰謀だ
やっぱアホやな 難民は ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない いい例が幕末になって英仏から馬や馬具を輸入し騎兵部隊を組織した もしそんなにご優秀な騎兵部隊があったとするなら武器や軍装を除けば、馬や馬 具そのものを輸入する必然性がないんだよ モンゴルや北欧の一部は小型の馬だが、もちろん和製馬よりは大きいし、馬具も 騎兵戦闘用に堅固で扱いやすく作られている 日本ではそもそも戦闘に耐えうる蹄鉄がなかった もしそのように激しく使用すれば蹄が傷付くのは明らか ナポレオン戦争当時は146cm以上の高さの馬を要求されていたが、戦争が長引く につれ、消耗し戦争後期には138cm程度に低下するが、馬具そのものが優秀だった ため騎兵用に耐えうることができた 英国はアラブ馬が流入する以前から良質な大型馬を生育していた 従って英国は騎兵に関しては戦争期間を通してレベルダウンしなかった
現在の流鏑馬なんかは、わざわざ昔の人が使っていた和式馬具を骨董品屋から 取り寄せて行なわれているんだよね。 騎射などの中世の戦闘に関しては、和式馬具の方が性能が優れているんだよ。 それから朱印船貿易の時代には日本の馬も海外に輸出されていたぞ。
>>365 >ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない
近代「騎兵」用ではないのまちがいだなw
ドイツやフランス式を習うんだから彼らと同じ道具をそろえるのは当たり前だがね
それに言い方は悪いが授業料だけでは教えてくれんよ。同時に大量の馬や馬具やその他もろもろを買うから向こうにとっては金になるわけで、
「道具は全部自前でできるから教官だけよこせ」で教えてもらえるわけがない。金にならんからな。
西洋馬の馬格が大きくなったのは近代。中世と混ぜられてもね
一方日本は馬の交配に関して未熟だったため時代が下るとともに馬が減っちまったのよ。消費するばっかだったからな。馬格もどんどん小さくなった。
鎌倉時代の日本馬は軍馬として使われたものは骨格からおおむね140センチやね
最も馬が減りだしてもギリギリ鉄砲が間に合ったので、大規模歩兵運用の時代に変化したのであんまり実害がなかった。
騎兵騎兵いうけど日本の武士は騎乗した「砲台」だからなぁ
馬上打ち物や騎馬で歩兵に突っ込むとかなら馬格は大事だろうがろうが魚の群れの如く集団で移動しながら類を見ない鏃のでかさと矢柄長をもつ矢をどっかんどっかん射る鎌倉武士にとっては
馬の大きさはあんまり意味がないわなぁ
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/09(火) 16:50:39
とりあえず、文永はともかく 弘安は終始鎌倉側が優勢だったと見て間違いないんじゃないかな。 博多周辺に防塁を築いた上で、 主力の関東御家人が配備されていて、 一騎打ちではなく夜討などのゲリラ戦術を多用して ほとんど元側は対馬とかを除けば、蹂躙できていないみたいだし。 つまるところ、暴風雨がなくても武士で撃退できたとは思うよ。
文永の役でも一騎打ちなんかしてないよ
一騎打ちは武士同士じゃなきゃ成立しない 元寇のときの相手はどこの馬の骨ともわからん雑兵だぞ 上にもあったけど元だの高麗兵だのは「武士」じゃないから一騎打ちなんかしてないよ
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/13(土) 05:05:12
現実的に考えても陸続きではない日本を攻める場合、 なんで馬に乗って攻めねばならないんだ? 軍船の上でも馬に乗ってて軍船に馬を乗せてその馬にのって 日本に攻めてきたとは常識的に考えても考えられないのだけど。 蒙古襲来絵詞に書かれている元側の兵士も馬にのって戦っている訳ではなく、 歩兵のように見える
>>372 移動のときにまで乗ってるわけはないって
船の中に馬小屋みたいな施設でも作って運んだんだべ
蒙古襲来絵巻の元軍は高麗軍だから指揮官以外は歩兵が中心
一方別のトコで戦ってた少弐景資らが相手をしていた元軍は劉復享が率いる騎馬兵と歩兵だったとされてる
陸続きだったら日本がモンゴルに変わってユーラシア征服してたのにな
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/14(日) 11:40:41
>>374 いくらなんでもそういう見方は飛躍のしすぎ。
逆に日本がもっとユーラシア大陸から遠いとこにある島国だったら元寇はないわけだし。
日本はユーラシア大陸より少し離れた島国だから日本たりえる。
中国の影響にも朝鮮のようにどっぷり浸からず、一定の距離を保った。
この一定の距離、遠からず近からずがいわば日本史。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/16(火) 14:57:07
日本の馬はポニーサイズだからというのもあんまりな言い方で、こんな言い方だと一見150kg程度のポニーを連想させるが 鎌倉末期に戦で埋葬された軍馬128体は平均体高130cm、300〜400kgはあり一般的な西洋軍馬より小さいとはいえ、 突撃騎兵で有名なスエーデンの軍馬(装備目録によると騎兵用馬は体高113〜133cm)より体格はいい。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/18(木) 16:14:18
「ポニー」≠「軍馬」って言う日本人の歴史感覚が歪んでるんだよ。 海外の本には「モンゴル軍のポニーはタフだった」とか「ポニーに騎乗したクマン人に騎士たちは蹴散らされた」とか 普通に書いてある。
白人目線に合わせる必要も無い
強さって相対的なものじゃないの?
ポニーって言葉を輸入したときにイメージまちがっちゃったわけだな 小型馬だけじゃなく中型馬もポニーなんだな
モンゴル来襲なんて全然脅威じゃなかった 鎌倉武士は鼻糞ほじりながら撃退しちゃったよ
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/10/27(土) 13:25:26
日本の在来馬は消化器官が発達していて 防衛体力が高く骨やひづめが頑丈なのです 蹄鉄が使われなかったのは地形の柔らかさとあいまって「必要なかった」というのが正しい見解ではないかなー
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/01(木) 13:40:31
日本人が全力で動くとき風のように漂って動く。常に一人で陣に入って、たくさんの兵も抵抗できない。 その刀の使い方は、長い方で構え守り、短いほうで止めを刺す。しゃがんでいるかのごとく低く移動し、決して下がらない。 相手が何人いようと対応する、日本列島の中だけの絶技である。 屈大均
後期倭寇の描写かな?
後期は現地人の海賊
今から十五年前ほどの前、アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のことだ。 フィリピンと韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を行った。 列席したアジアの親日国の代表達は「痛烈無残で聞くに堪えない韓国代表の演説に不快感を表した。 そして、その場に列席していた日本の自衛官が一言も発しなかった事を大層悔しがった。 そしてインドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって次のように、日本を擁護する演説を行った。 「日本はアジアの光である。 大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである」 「ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。 今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。 その時に韓国が一番困ると思う。 韓国は工業大国日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、 日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。 だから企業の成功は容易である。 つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。 経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ」 「インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。 つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。 日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしている、と考えている。 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。 日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか」 名越二荒之助 「日韓2000年の真実」国際企画
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/09(金) 13:40:54
イイハナシダナー
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/10(土) 15:03:24
韓国人はケダモノです!
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/13(火) 11:39:53
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、 数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。 九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の ことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/11/24(土) 15:14:21
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/12/14(金) 16:21:16
洗脳教育って怖いよね。 武士は一騎打ちで戦うことしか知らなかったからモンゴル軍に「やあやあ我こそは・・・」 なんて長々と名乗りを上げている間に包囲されてしまった・・・ こんなアホな話を半世紀以上にわたって何の疑問も持たずに信じてたんだから。
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/12/16(日) 02:48:48
誰か…助けて
397 :
siragami :2007/12/19(水) 13:17:02
鎌倉武士もモンゴル軍の武器(火器てつほう)には苦戦したと聞くが。 最近のテレビで日本の馬は軍馬に適さなかったという話(さも新説発見のような)を聞くが、俺も鵜呑みに出来なかった。 なぜなら、馬の絵は多く残されているが、そのどれもが小さいポニーだとは思えない。 木曽馬などの日本古馬をその証拠に挙げているが、これらはほとんどが関東以西の生息であり、 軍馬の生産地で有名な群馬、相馬など馬の名のつく地区ではない。 北海道には道産子のような荒々しい気性の駻馬(名は思い出せないが)は体格も大きい。これらは樺太の方から早い時期に入ってきて、関東の馬と交配したのではないか。 話は違うが、世界最強は信長の軍だと思う。 当時、質、量(十万人の兵、世界一の銃保有数)、 これだけの大掛かりな戦闘を行っていたのは、日本だけである。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/12/19(水) 21:32:18
>>397 モンゴルの馬も小さい。
武田騎馬軍団の馬も250キロほどだったらしい。
そのサイズの方が馬上から射たり、扱い易いのかも。
ピッチ走法でぶれないらしいし。
一の谷ひよどり超えで馬を担いで降りた猛者もいたらしいし。
冷静に考えたんだが、 もし100万規模のモンゴル軍でも 鎌倉武士が勝てたと思う。 いや、圧勝だ。 何故なら、戦にならねぇ。 そもそも野蛮な島猿共は 当時、服なんか着てなかったんでしょ? 全裸の猿の群れに モンゴル軍もビックリだよ。 戦う気も失せるっつうのw よって、鎌倉猿最強! ウンコが怖くて避けますか? 汚いから避けるのですw 【糸冬】
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/12/28(金) 10:38:33
↑バカ
>>374 それはまずない、日本が勝ったのは水際防衛で
遊牧民族お得意の圧倒的兵站と偽装撤退が封じられ
慣れない複雑な地形の中、射程で勝る精鋭弓騎兵と戦わざる得ず
その上、船上で様子見してたところを寝首かかれる始末
陸地で繋がっていれば兵站をフルに活用して攻めて来るだろう。
元軍の偽装撤退で朝鮮半島ぐらいは一時的に取れても
日本側が俺TUEEEしてるとこ知らない内に補給を絶たれてフルボッコ
日本は弓騎兵(武士)育成するまで時間がかかるが、向こうはそれで生活してる。
長期戦すれば国内荒れて近世の朝鮮みたいになっちまうぜ
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/03(日) 04:53:29
>>401 モンゴル帝国の戦争の中で元寇ほど圧倒的兵站のもとで行なわれた作戦は稀。
馬や羊みたいな草食動物は維持していくのに大量の飼葉が必要。
だから、普段の遊牧民は滅茶苦茶低い人口密度で分布してるのにもかかわらず
頻繁に移動を繰り返す必要がある。
それが戦争で何万という軍勢を一箇所に集中させるとなると、あっと言う間に
付近一帯の草原を食い尽くしてしまうわけで、ちょっとした作戦の停滞が飢餓を
もたらす危険があるんだよ。
ところが元寇では、陸運の何倍もの輸送力を誇る船舶に何か月分もの食料を積めた
お陰で、モンゴル軍はそういう心配なく戦うことが出来た。
それから、モンゴル騎兵は単に遊牧民の生活の中で身に付けた技術が弓騎兵にも
応用可能だったというのに過ぎない。
対する武士は最初から弓騎兵になるために育てられてるわけで、モンゴル騎兵が
武士に歯が立たないのは当然なの。
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/03(日) 10:48:47
火力の問題は?
とはいえ元冦前は 唐に水上戦で4連敗 地上戦で1敗 しかも全て惨敗でほとんどの倭兵は戦死するか捕虜になった 後に年老いた捕虜が帰国することはある程度あったが 敗戦後の倭のうろたえぶりはたいへんだった もし新羅が唐に反旗を翻し半島を統一していなかったら 倭国は唐の一郡になり下がったことは確実であろう
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/03(日) 12:32:49
>>403 この時代の火器に戦局を左右するほどの威力はないよ
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/03(日) 17:04:41
×モンゴル騎兵が武士に歯が立たない ○モンゴル騎兵が地理的要因には歯が立たない 朝鮮半島にもし強い武士がいたら世界制覇も余裕ですわな
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/03(日) 17:27:27
>>406 福岡平野みたいな騎兵運用に適した場所で鎌倉武士に負けてるんだから地理的要因
なんて関係ないよ。
そもそも、モンゴル軍って世界各地の地理的要因をクリアしたからこそ、あんだけ
多くの国を征服できたんだし。
当時の大陸の戦術などの進歩は、日本よりも遥かに遅れてたんだよ。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/06(水) 21:20:24
>>407 何を根拠に大陸の戦術が遅れていたと言い切れる?
日本、大陸の(一部だけでなく)双方の明確な資料とそれから汲み取れる考察をお願い致したい。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/06(水) 23:24:12
>>408 実際に戦った結果以上に明確な根拠なんかこの世にないぞ。
鎌倉武士にまったく歯が立たなかったモンゴル軍の戦術が遅れていたと考えるのは当然。
410 :
武陽隠士 :2008/02/06(水) 23:44:27
世界一強いモンゴル軍を破ったから鎌倉武士は世界最強な訳? モンゴル軍の最強を前提とした意見だな。くだらないW
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/06(水) 23:53:12
>>410 モンゴル軍は当時の大半の国と戦ってるんだから、その国の軍事技術を測る指標として
これ以上のものはない。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍に圧勝した日本が当時世界最強というのは
明確な事実。
412 :
武陽隠士 :2008/02/07(木) 00:55:55
二軍。それもアウェイのチームに勝った感じ(笑)
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/07(木) 01:03:56
>>412 その認識は間違い。
日本が勝ったのはモンゴル帝国内最強の大元ウルスのモンゴル軍だよ。
マムルーク朝が戦ったフレグ・ウルスのモンゴル軍やハルジー朝が戦ったチャガタイ・ウルスの
モンゴル軍とは格が違う。
最強のモンゴル軍に勝った日本こそが当時最強。
414 :
武陽隠士 :2008/02/07(木) 22:52:44
常勝の最強横綱(双葉山乃至大鵬の如き)に それなりに強い関脇が勝った。 その関脇は最強と言えるなのかしら?
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/08(金) 08:14:05
>>414 モンゴル軍は常勝といっても所詮日本よりレベルの低いユーラシア大陸での話だから。
例えるならアマチュア横綱。
アマチュア相撲界最強横綱が角界入りし、プロの土俵で真の横綱の強さを見せつけられたのが元寇。
416 :
武陽隠士 :2008/02/08(金) 22:04:31
>>415 君みたいな人が軍事指導者だと戦争負けるね。
夜郎自大、慢心、油断、井の中の蛙。以上の言葉はどういうときに使うかご存じ?
追伸:世界で実戦を積んだ軍団がアマチュアってどういう価値観だよ。
馬鹿じゃねえか
417 :
武陽隠士 :2008/02/08(金) 22:35:45
別に元なんかの肩持つ義理もないけど、 (どなたか前レスで指摘してるかもしれないが) 多民族混成の軍、遠征軍の支配者モンゴル人にとって不得意な船いくさetc. 不利な条件いっぱい。 それに最盛期のモンゴル軍と元の軍をイコールと見てよいのか…。 田舎者のお国自慢みたいな断言はどうかしてるよ
鎌倉武士の勇戦の成果を「それなりに強い関脇の勝利」と断言する根拠を示していらっしゃいませんね。
419 :
武陽隠士 :2008/02/08(金) 23:03:55
>>418 比喩だよ。「最強じゃない」というね。
だったら鎌倉武士が横綱って根拠述べてくれ。
モンゴルに勝ったはなしだ。
モンゴルに勝った国なんて枚挙にいとまない。
たくさんある。
もうひとつ付け加える。
当時の武家が集団戦に向いていないということ。
たとえば南北朝期に味方の部隊を見殺しにした事例がある。
つまり個々のイエが恩賞という権益を目的とした独立した部隊なのだよ。
指揮系統からいってもモンゴルのほうが強いと推論される。
ただ小人数(バトルね)の闘いなら、
私も鎌倉武士(というより板東武者かな)の方に軍配をあげるね。
たかだか2回戦っただけで最強だあ? 高句麗なんか隋唐の侵攻除いても32回も戦っているけど(対後漢5戦、対魏8 戦、対前燕12戦、対後燕7戦) たった2戦じゃ統計学じゃ確率としては認められんな もし高句麗を朝鮮でなく、中国の地方国家と認定するなら対唐戦を含めると 元冦前までの日本の対中国戦績は0勝6敗だ
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/09(土) 13:13:13
>>417 >多民族混成の軍、遠征軍の支配者モンゴル人にとって不得意な船いくさetc.
>不利な条件いっぱい。
もともと多民族混成の軍というのがモンゴル軍本来の姿なんだよ。
モンゴル人は人口が少ないだろ。
だから、征服した異民族を加えなければ大規模な戦争なんかできないの。
ヨーロッパに侵攻したモンゴル軍も、中東に侵攻したモンゴル軍も、中国に侵攻したモンゴル軍も、
東南アジアに侵攻したモンゴル軍も、全部多民族混成の軍。
それからモンゴル人にとって不得意な船いくさというのも典型的な誤解。
文永の役で日本に来たモンゴル軍は渡海侵攻で三別抄の乱を鎮圧したモンゴル軍。
さらに弘安の役の直前の1279年には船いくさによって南宋の大艦隊を壊滅させている。
つまり、モンゴル軍に不利な条件と挙げたものは全部単なる誤解。
日本の勝利を認めたくない奴が言い出した根拠のない言い掛かり。
あと、モンゴル帝国の最盛期は南宋を征服したフビライの時代だよ。
鎌倉武士にボロ負けしたモンゴル軍が歴代最強のモンゴル軍。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/09(土) 13:34:45
>>419 モンゴルに勝った国は幾つかあるが、日本ほど圧倒的な勝利を収めた国はない。
モンゴル軍の兵数が元寇よりも遥かに少なかったとか、国土の大半を制圧された末にやっと撃退とか、
そんなのばっかりじゃん。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍に対し九州に橋頭堡を築くことすら許さなかった日本の
勝利と比較すれば、どれもしょぼい。
それから、大軍動員しての戦いで完敗したモンゴルの指揮系統が強いと推論されるわけがない。
元寇でモンゴル軍は鎌倉武士の集団戦法に全く歯が立たなかった。
元史に書かれている文永の役失敗の最大要因は元軍側の「官軍整わず」だ。
指揮系統もモンゴル軍は鎌倉武士より劣っていたんだよ。
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/09(土) 13:40:52
うろ覚えだけど元寇って日本侵略というより武力誇示・偵察って説もあるってなんかで読んだ気も・・・
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/09(土) 13:45:47
>>423 それも史料的根拠が全くない話。
単に日本の勝利を認めたくないだけ。
だいたいアホだぜ モンゴル人の絶対数考えれば辺境の日本にモンゴル人本隊送るわけないだろう ましては日本なんて占領しても実益なぞなく、威信のみで攻めてるわけだし 他の戦例見ても大抵モンゴル軍はモンゴル人本隊よりモンゴルに占領された民族 軍が主力になり、隣接地域を攻撃している 南宋占領後の元時代にモンゴル王族が指揮して攻撃したのは唯一ヴェトナムのみ (元軍は敗れ、王族の司令官含め、多くのモンゴル兵が捕虜になったが)
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/10(日) 12:57:32
>>425 ベトナムは占城までの通り道にあったから攻められただけだよ。
日本は南宋に大量の金を輸出していた国。
フビライが是が非でも征服したいと思うのは当然。
正式の国交がないのにねぇ 大量の金? そんな大量の金を生産できる金山があるなら中学の日本史に出てくると思うがね ぇ 日本の誇大評価も甚だしいなw ほとんど妄想の域に達している 大学で中国史履修したことあるが、一度も日本から大量の金が流入して・・・な んてフレーズ聞いたことないな もっと後の時代になって銀が流入して・・・なら聞いたことあるけどw
世界4大帝国 大日本帝国・大英帝国・ローマ帝国・モンゴル帝国 我々、日本人は正当なる帝国の子孫なのです。 G7、唯一の有色人種国家なのです。 毒入りギョーザと火炎瓶を作る事しか能のない劣等種族とは違うのです。 これは、真実なのです。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/10(日) 16:17:20
>>427 中学の日本史って黄金の産出で栄華を極めた奥州藤原氏について教えなかったか?
『宋史』卷四百九十一 外国伝・日本
「東奧州産黄金、西別島出白銀、以為貢賦。」
それは藤原氏の〜は金でなく金箔ですから 後に出来た金閣寺が金で出来ていると思っているのか? 日宋貿易自体、宋にとっては他の地域との交易より大きかったわけでない 宋が日本から輸入したのは主に銅、硫黄、木材で別に宋にとって際立ったメリッ トがあったわけでない。むしろメリットのあったのは宋銭を輸入した日本の方だ そんなに大量と称する金が流入したなら中国の史書の一部を抜粋したところで具 体的な数量やそれにより社会・経済的にどのような影響を与えたか証明する一次 資料が必要だ 普通、大量の金が流入したら経済的影響が計りしれないことぐらい容易に推測で きるがね、まさかマルコ・ポーロの話を鵜呑みにしてるんじゃないだろうな 後の銀が大量流入により混乱した明や近世欧州を見ればわかるはずだ
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/10(日) 17:41:24
この時代の中国が日本から輸入したのは主に金だよ。 『元史』にも金と銅銭の交易の記録があるし。 「十四年、日本遣商人持金來易銅錢、許之。」 『民経記』によれば1242年に派遣した交易船一艘が持ち帰った銅銭は10万貫。 これだけの銅銭を得るためには大量の黄金を輸出する必要があるだろ。
なんだかんだ言ったところで日本は2回とも対馬と壱岐を攻撃され、敗北して占 領されてるじゃん それともなに? 対馬、壱岐には防備の兵を置かず、その地の住民は見捨てたとでも言うのか? 日本はヴェトナムのように国土に敵を引き込む作戦でなく、水際作戦だろ 対馬、壱岐で既に作戦的に敗れてるじゃん
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/11(月) 08:53:49
>>432 対馬や壱岐みたいな孤島に元軍撃退できるだけの大軍を常駐させておける訳ないじゃん。
鎌倉軍は九州水際防衛という常識的な作戦のため主力軍を大宰府に配し、元軍はそれに
完敗した。
それからベトナムは国土に敵を引き込む作戦なんかじゃないぞ。
三回の侵攻の際にはいずれも主力軍を国境地帯に配している。
それなのに僅か3000のモンゴル軍に敗北し首都を制圧されたのは、単に弱かっただけ。
同じモンゴル軍と戦いながら、ベトナムは3000のモンゴル軍に首都を征服され、一方の
日本は4万、14万のモンゴル軍に首都の京都・鎌倉どころか九州の大宰府ににすら指1本
触れさせないと言う圧勝。
そういやベトナムは明にも勝ってるな ベトナムや高句麗の奮戦の方がはるかに勝利の価値は高いな 陸続きの戦いは現代のように艦砲射撃や航空支援のない上陸戦より半端でなく、 困難なのはわかりきってるからな とにかくたった2回の戦いで最強とは決められんだろうことだけは確か 前にレスッた人が言うように対馬や壱岐の失陥はどう見てもマイナス点だ
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/11(月) 12:42:16
1287年11月11日欽州を出港した烏馬児・樊楫率いる兵1万8000、船500艘の元艦隊は、 安邦口で遭遇したベトナム水軍を大いに撃破し、12月末にはベトナムの国都ハノイ 入りしてるけど・・・ 日本に対しては兵14万、船3500艘でも上陸作戦が成功しなかったのに、ベトナムに 対してはあっさりと成功するのね。 ベトナムと比較すると日本の強さばかりが際立ってしまうな。
対馬や壱岐で負けてるから負け惜しみですか? 前の方にも誰かが書いてあったが、対馬の住民が元軍に捕われ暴行されたとか そんな住民を日本はあっさり見捨てたのか? 普通だったら守りきれないなら事前に内地に避難させるだろ、陸続きでないんだ から余裕はあったはずだ その上、日本が先に元の使者を斬ってるのだから向こうから攻撃してくるのは重 々承知の上だったし、現に幕府は御家人に九州防備を命じている ベトナムだって結局は勝ってるし、だったら断続的に攻防が続いた高句麗の方が よっぽど強い 狭い博多湾では5万も展開出来るわけないし 元冦のように誇張した侵攻兵力を良しとするなら高句麗は112万の軍を撃退し てるけど 日本のように大兵力が展開不能な博多湾でなく、国境全線での侵攻兵力だ
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/11(月) 16:48:26
バイキングや倭寇を見れば分かるように海に面してる地域の方が奇襲を防ぐのは 遥かに難しいんだよ。 何時敵の侵攻があるか分からない常態は延々と続くんだから、住民の被害を完璧に 防ぐためには対馬や壱岐を放棄するしかない。 現代と違うんだからこの時代にそういうリスクのある地域に住むと言うのは最終的に 自己責任。 それから、ベトナムは日本と違って元への朝貢国だ。 攻め込まれる度に首都を簡単に占領されるような体たらくだから、元に王族を人質に 差し出し、貢物を献上しなければならなかった。 東アジアで元に対して完全な独立を最後まで守ったのは唯一日本のみ。 それから元寇の4万、14万の兵力は何れも敵側に史書である「元史」「高麗史」が根拠。 誇張されてなんかないよ。
あのね、歴史詳しくないみたいだから言っとくけど 12世紀後半から日本は高麗に対し進奉関係取らされているんだよ つまり日本は毎年1回、高麗に対し朝貢していたんだよ、平氏政権容認のもとで 朝貢していたから属国だなんて考えはなくした方がいいな たった2回、元に勝った日本が最強なら 5回、倭国に勝った(しかも完勝)唐は超最強 その唐を破った新羅は・・・ こういうドウドウ巡りになるな
倭国と日本は比較できませんわ
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/12(火) 08:39:05
>>438 12世紀後半から日本は高麗に対し進奉関係取らされていた、などという事実はないよ。
対馬、壱岐での日本軍の敗北は内外の文献で確認できる 「戦艦九百余艘とを以て、日本を征す。“一岐島(いきとう)”に至り、“千余 級を激殺し、道を分かち以て進む。”“倭は却走し、伏屍は麻の如く”・・・」 (高麗史) 千の兵が殺され、残りは壊走したとなると壱岐の日本軍は三千以上いただろう 元は分散上陸しているため、さほど兵力差はなかっただろう 「壱岐対馬九国(恐らく能古、鷹島)の“兵士”並びに男女、多く或は殺され或 は擒られ或は海に入り或は崖より堕ちし者幾千万と云ふ事なし」(類纂高祖遺文 録) 「同十六日十七日平戸能古、鷹島辺の男女多く捕わる。“松浦党敗北す”」(八 幡愚童記) また元冦においては元軍の高級指揮官は1人を除き全て帰国している その1人(高麗の左軍使、金セン)は戦死でなく、溺死 「会々(たまたま)、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、巌崖に触れて多く敗れる 。金セン、溺死す。」 文永の役で元軍は博多を占領したが、矢が尽きたため、町に火を付け、船に撤収 したところ暴風雨に会って大損害を被ったので日本軍によるものでない 長文になってすまん
>>440 あるよ
日本の正使が来る前に既に薩摩や対馬の使者が朝貢した
「1080年(文宗三四年)日本国の薩摩州、使いを遣わし、方物を献ず」
「1082年(文宗三六年)日本国の対馬島、使いを遣わし、方物を献ず。」
日本の正使は古くは
「1116年(睿宗一一年)日本国、柑子を進む」
信奉交易が正式に始まったのは1169年(毅宗二三年)で日本国の朝貢品を受け、高
麗王は玩物を使者に賜った
日本側の使者は主に対馬の役人に任され、中には高麗の官名を賜った者もいる
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/12(火) 19:35:57
>>441 文永の役は明確に日本軍の圧勝ね。
『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
(十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人 )
元軍が撤退したのは日本軍との戦いで敗れたため。
「矢が尽きた」なんてのは単に「ボロ負けだった」ということの婉曲表現。
日本の壱岐と対馬での損害なんて元・高麗連合軍が被った1万3500余人という大損害と比較すれば大した事ない。
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/12(火) 19:38:33
>>443 すごいねw
思わす失笑したよw
自己を正当化するためには不利な事実は婉曲と称する
554年百済の聖王が新羅の菅山城を竹斯物部莫奇委沙奇、筑紫国造率いる倭軍の
増援を得て攻撃したが、新羅の将金武力と都刀に撃ち破られ聖王以下三万が戦死
する惨敗を喫した事実を
「日本書紀」では歪曲され竹斯物部らが奮戦し、百済の王子を救出した話になっ
てるのを思い出した
あと中国朝鮮を叩きながら日本人優秀論を論じたトンデモ本の杉山徹宗の「真実
の中国・・・」の論法そっくりだな
そこまで偉そうに主張するならwikiの元冦を修正してみればw
あんたの主張と全然真逆なことが書いてあるよなw
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/12(火) 23:57:45
>>445 文永の役についてもう少し詳しく解説するとね、対馬や壱岐で被害に遭ったのは百姓等。
高麗兵は民間人を虐殺しておきながら「千余級を激殺」なんて手柄として報告したわけ。
また元軍の高級指揮官では『高麗史』に副司令官の劉復享が戦闘で射られて重傷を負ったって
書いてあるだろ。
あと、「文永の役で元軍は博多を占領した」なんて書いてある同時代史料は無いぞ。
それから『八幡愚童記』ってのは元々、 八幡信仰の布教のために筥崎宮の社官によって書かれた
神道書で、最後は神社から神様が出てきて元軍を焼き払う。
つまり、八幡神の霊験を強調するために、あたかも武士が苦戦したかのように書いてるんだよ。
内容が余りにも荒唐無稽だから、戦後の歴史研究者どもはオリジナルではなく後世に軍記物風に
改編されたバージョンを史料として使ってるんだけど、そんなやり方は学術研究として明らかに
インチキだから。
それじゃあ、鎌倉時代の史料として一般的に使われる文献ではどうなってるかと言うと、ちゃんと
武士が戦闘で元軍を撃退したことになってるんだな。
『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」
『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
実際に最前線で文永の役を戦った人物が残した唯一の史料である『蒙古襲来絵詞』でも、元軍は武士の
集団戦法に圧倒されて逃げ回ってるし。
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.jpg http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.jpg wikiなんか頼りにしないで史料を読めよ。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/13(水) 09:37:25
何が最強かを定義することは難しい。 だたはっきりしていることがある。 それは武士が滅茶苦茶強かったことだ。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/13(水) 09:39:50
日本は元に完勝した。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/13(水) 13:40:08
鎌倉武士がどんな武装・陣立て・戦法で戦ってたか イラスト入りでわかりやすく解説した本ない?
>>449 裸の王様の話みたいに学者の誰かが「一騎打ち戦法なんて嘘」と言わない限り、
鎌倉武士の戦法の本なんか期待できないでしょ。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/14(木) 12:06:00
意味がよくわからんのだが、鎌倉武士も集団戦法でしたよってこと?
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/14(木) 14:19:39
>>451 当然。
最近の源平合戦の武装・陣立て・戦法の本では既に一騎打ち戦法などありえないってのが定説。
元寇でも実際に戦った武士の実録である蒙古襲来絵詞では、武士は誰も名乗りを上げて一騎打ちを
挑んだりせず、集団戦法で元軍を圧倒してる。
逆に一騎打ち戦法を裏付けるような史料は存在しないし。
一騎打ち戦法なんて完全に空想の産物。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/14(木) 15:19:19
>>453 源平合戦時の代表的なのが近藤好和の「弓矢と刀剣」や「 騎兵と歩兵の中世史」、
川合康の「源平合戦の虚像を剥ぐ」。
「弓矢と刀剣」が一番わかりやすいけど既に絶版。
あと、上杉和彦の「源平の争乱」とかもこの時代の武士の戦法は手柄のためなら
何でもありだったみたいに書いてたはず。
×川合康の「源平合戦の虚像を剥ぐ」 中沢克昭 中世の武力と城郭(吉川弘文館) とか
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/15(金) 19:53:43
日教組のアホ教育のせいで、鎌倉武士が過小評価されてるよな。 戦前の軍国主義や神国思想はことさら非難しまくるくせに 俺の中学時代なんて、「日本は台風が吹いたお陰で助かりました! 決して鎌倉武士の力では無いですよぉ!」みたいな教え方だったからなぁ。 こう言うときは神風を最大限利用して、日本人の力を徹底的に過小評価すると言う 日教組の姑息なやり口・・・・。 大体、蒙古がやってきた二回ともドンピシャで台風が吹くとか妖しくないか。 たとえ吹いたとしても、数百隻もの大船団が何の痕跡も残さず跡形も無く また、一人も残らず消え去るなんて考えられん。 明らかに、鎌倉武士に撃退されてオメオメと撤退したんだろうがww それに、わざわざ上陸したのに何で夜になったら見張りの兵も立たずに 一人残らず、船に戻るんだよwww 日教組はこう言う説垂れ流して、逆に蒙古が腰抜けでアホだという事を 広めたいのか?
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/15(金) 19:57:26
100年近く前の義経でさえ、奇襲戦法を使いまくってるのに しかも、国家存亡を賭けた戦いで、鏑矢だの一騎打ちだの そんな作法に拘ってる場合じゃ無い事ぐらい当時の鎌倉武士は 分かったただろうに。 しかも、1回目ならともかく2回も同じ失敗をするとは考えられんわwww 2回目は普通に圧倒して撃退したんだろうな。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/02/16(土) 01:41:51
というか2回もドンピシャの神風で救われたというのであれば 日本は本物の神国だな。間違いない。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/08(土) 13:27:18
元寇でモンゴル軍は鎌倉武士の集団戦法にまったく歯が立たなかった。 それなのに戦後の反日歴史研究者どもは、史料に工作して捏造した正反対の話を 半世紀以上もの長い間吹聴してた。 おまえら騙されてたんだぞ。 酷い話だろ。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/11(火) 09:24:40
日蓮が言い出したので、公明党だけの責任とは言えない。
>>459 太平洋戦争で精神力でアメリカの物量に勝てると豪語し、ガダルカナルへ行って
現実を見て米軍の追撃と飢餓に苦しめられ、逃げ回る兵を残しほうほうの程で日
本へ逃げ帰った辻参謀を彷彿させるコメントだな
『蒙古襲来絵詞』って私はこのぐらい活躍しましたよってアピールの為のものだろ?
史料的にどうなの?
>>452 矢合わせ→一騎討ち→集団戦
だと思ってたけど、最初から集団戦だったの?
日本マンセーがしたくて頑張ってるマイノリティがいるのはよく分かる
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/03/31(月) 05:38:59
>>462 『蒙古襲来絵詞』は実際に戦闘に参加した軍事のプロが残した史料なんだから、
史料的には当然戦闘に関する最も信用できる史料だよ。
私はこのぐらい活躍しましたよってアピールの為のものっていう話は嘘で、
現在では安達氏などの追慕のために作成されたという説が有力。
元寇で武士が元軍に一騎打ちを挑んだなどという戯言をことを裏付ける史料は皆無。
史料では武士が集団戦法でモンゴル軍を圧倒してる。
論文にまとめて発表しろや
集団戦といってもファランクスみたいなもんじゃないだろどうせ。
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/13(日) 02:33:34
>>466 そりゃ当然ファランクスなんて元寇よりも1500年位昔の戦術だからな。
鎌倉武士の高度な集団戦と比較すれば児戯みたいなもの。
川合康氏の「源平合戦の虚像を剥ぐ」から次の重大な事柄が読み取れる ・鎌倉時代の軍馬は発掘された馬骨から109〜140cmのポニー並の小型馬である ・さらに体長130cmの中世軍馬に近い馬に当時の馬具と当時の鎌倉武士の完全武 装した時の90kgの“半分”の45kgの砂袋をつけ実験したところ駆足(分速300m) で走れず、分速150mで首を振りながらやっと走ったそうだ ・上記のことからわかるように戦いに耐えうる軍馬(上馬)は非常に限られてお り、奪い合いも発生していた ・敵を射落とすための弓の有効射程距離は七、八間(約13〜14m)の“至近距離” つまり馬蹄を着け、頑強で人を乗させることに慣れ、過酷な使役に耐えうる遊牧 民の馬である蒙古馬とは違い、和製馬は馬蹄も着けず、過酷な使役に耐えられる 馬が極めて少なかった その上、軽装の蒙古兵と違い、鎌倉武士は極めて重量のある重装備である 元冦時に参戦した蒙古兵が極めて少ないのも考慮出来るが、鎌倉武士の弓の至近 距離でないと効果がないことを見るとやはり元冦は戦闘でなく、悪天候と自発的 撤退により撃退できたと見る方が妥当だ ましてそんな総重量90kgの武装兵が身軽に敵舟に乗り込めるとは思えない
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/13(日) 13:24:57
>>468 >鎌倉時代の軍馬は発掘された馬骨から109〜140cmのポニー並の小型馬である
発掘された鎌倉時代の軍馬の馬格は、モンゴル軍の蒙古馬とほぼ同等。
>さらに体長130cmの中世軍馬に近い馬に当時の馬具と当時の鎌倉武士の完全武
>装した時の90kgの“半分”の45kgの砂袋をつけ実験
この実験に使用された馬は、和製馬でもなければ訓練された軍馬でもない。
単に馬各が体長130cmの中世軍馬に近い馬というのに過ぎない。
つまり、この実験の結果が和製馬に当てはまるのなら、ほぼ同じ大きさの蒙古馬にも
当てはまってしまうのだよ。
鎧の重さについても、モンゴル騎兵にも重装騎兵はいたし、日本軍にも軽量の胴丸
着用の騎馬武者がいた。
あと、草原に住むモンゴルも馬に蹄鉄をつけたりしない。
馬に関する限り、鎌倉武士がモンゴル騎兵より不利な点など何一つ無いの。
史料に残されているように元寇はモンゴル軍が戦闘で鎌倉武士に圧倒されて逃げ帰ったと
見る方が、史料的根拠のない悪天候と自発的撤退などというトンデモ説よりも遥かに妥当。
同時代史料でなければ一次史料とは認められないな ましてやモンゴル騎兵に重 騎兵がいたなどとどの程度の割合か知らしめしていない曖昧なものではわからん し、OSPREYの調査見たってモンゴル騎兵は多くは殆んど軽騎兵じゃないか 遊牧民の馬と馬に乗ることがめったにない和製馬では丸っきり違うだろ 蹄鉄すら知らん日本なのに話にならんな あくまでこのスレでトンでもと言うならそれを公の場で明確なデータと一次史料 を基にHPなり作って世間に示して公開しろよ 世間的にはあんたの意見の方がトンでもだろ
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/13(日) 13:51:27
>>468 それからさぁ、読解力が余りにも悲惨すぎるぞ。
川合康氏の「源平合戦の虚像を剥ぐ」には、「大鎧一式・武器・鞍・人間を合わせて90キログラム以上」
って書いてあるだろ。
>当時の鎌倉武士の完全武装した時の90kgの“半分”の45kgの砂袋をつけ実験したところ
NHKの実験は、騎乗した大学の馬術部員の体重と合わせて90sになるように大鎧や鞍の重さに相当する
45kgの砂袋をつけたわけで、「完全武装した時の90kgの“半分”の45kgの砂袋をつけ実験」したわけ
じゃないの。
>ましてそんな総重量90kgの武装兵が身軽に敵舟に乗り込めるとは思えない
鎌倉武士が敵舟に乗り込む時、鞍を身に付けてるわけが無いだろ・・・
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/13(日) 13:56:34
>>470 モンゴル騎兵が鎌倉武士に圧倒されて逃げ回ってる様子を描いた「蒙古襲来絵詞」
同時代に作成された一次史料。
元寇の戦闘に関して「蒙古襲来絵詞」以上に信頼度の高い史料は存在しない。
>>471 へー、鎌倉時代にタイムスリップして見てきた様な書き方だな
45kg云々のくだりはは挙げ足取りか?
誰が実験に人を含まず行ったと書いたんだよ
ただ単純に90kgの半分と強調しただけだろ
なんだかんだ言うのであれば実験結果そのものに文句を言え
とにかく自説がそんなに自信があるならgdgd、2chでほざいてないで一般にHPで
公開するなり、自費出版して世間の承認を貰えよ、早急に
こっちはただ単にあんたの説に疑問があることを提議したただけの話だろ
こんな短いレスの連続で納得しろというのは無理なことは万人ならわかるはずだ
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/13(日) 16:27:32
>>473 だから、その「実験結果そのもの」は蒙古馬にも当てはまる結果なんだよね。
和製馬と蒙古馬の馬格は同じなんだから。
>>474 モンゴルの馬は朝青龍乗せて走ってるのTVで見たことあるぞ
やはり日本の馬と違うんじゃないの?
それとも朝青龍の体重が90キロ未満とか
>>468 川合のは電波本
やつはサラブレッドとの単純比較という重大なミスを犯した。
川合は平安鎌倉時代の馬で実験したのか?w
ていうか川合はNHKの実験を鵜呑みにしただけでw
鎌倉武士の集団戦って具体的にどんな戦い方よ?
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/17(木) 09:30:44
実験の結果だけ見ると日本の馬はサラブレットよりも優秀だけど、何がいいたいのか何の為の実験なのか? よくわからん。 日本の馬などモンゴル系の馬は持久力や耐久性が優れているのは、わざわざ実験しなくても分かる。 さらに、実験の結果と話の内容があっていないようだ。 あと、モンゴル系の馬は蹄が丈夫なので、蹄鉄は特に必要で無い。 無いよりはましだが、こまめに手入れしたほうが下手に付けるより良い。
>>479 本をちゃんと見てないのがありありだな
なぜ実験したのか書いてあるだろ
付け加えるなら
遊牧民の馬は軍事行動や生活に密接に関係する
その目的のため、種の改良を当然行われるし、その任に耐えられぬ種は淘汰され
るとともに蹄鉄や去勢技術、騎馬戦闘や巧みな機動を行うに適する鐙やハミ、鞍
等の馬具が開発される
ローマや中世ヨーロッパの初期では去勢技術を知らなかったので苦労したことは
文献に残されている
鐙をまだ知らなかったローマや古代ユーラシアでは落馬せぬよう工夫された鞍が
開発されている
種の改良も蹄鉄も去勢技術も知らない日本でまともな騎兵戦術を望むべくもない
第一、戦闘に耐えうる和製馬が少ないため、奪い合いになっていたと前述の本に
書いてあるではないか
ていうか川合の妄想本
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/18(金) 08:03:28
>>480 本をちゃんと見てないのがありありだな。
その実験に使用した馬は日本の馬じゃないから何の参考にもならんよ。
馬のサイズが問題だというのなら、当然日本の馬と同じサイズの蒙古馬にも
実験結果が当てはまるはずだしな。
それから、モンゴル軍の蒙古馬も蹄鉄なんか使ってないよ。
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/18(金) 08:44:34
>>480 >なぜ実験したのか書いてあるだろ
↑
実験しなくても戦闘用の馬としての能力なら知っているが、何の為の実験か本を読んで無いので教えてくれ
>付け加えるなら
遊牧民の馬は軍事行動や生活に密接に関係する
その目的のため、種の改良を当然行われるし、その任に耐えられぬ種は淘汰されとともに
↑
日本の場合、品種改良済みの馬しかいなかったので、ただ増やしたら良かったと考えられている
蹄鉄や去勢技術、騎馬戦闘や巧みな機動を行うに適する鐙やハミ、鞍
等の馬具が開発される
↑
日本の場合、純粋に戦闘用として開発された
つまり日本の方が上
>ローマや中世ヨーロッパの初期では去勢技術を知らなかったので苦労したことは
文献に残されている
↑
西洋の馬は元々気性の荒いからその上性欲で狂うと、どうしようもない
>鐙をまだ知らなかったローマや古代ユーラシアでは落馬せぬよう工夫された鞍が開発されている
↑その後、落馬し易いが戦闘用にはより適した形に変化したのが日本の馬具。素材に問題が有るが形は日本の方が上
種の改良も蹄鉄も去勢技術も知らない
↑どれも特に必要なし
強いて言えば、騎馬戦術そのものに変化があった後の時代なら別だが。
>日本でまともな騎兵戦術を望むべくもない
↑
個人レベルの騎兵戦闘では日本のほうが上
集団戦闘では資料そのものがないため不明
>第一、戦闘に耐えうる和製馬が少ないため、奪い合いになっていたと前述の本に書いてあるではないか
↑
多分、本を書いた人が馬に関して素人だと思う
だいたい、馬を育てる値段を考えてみたら、普通奪い合いになる
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/18(金) 08:58:44
>>473 >>480 マジになって対応することないよ
コイツの日本武士マンセー論は2ちゃん以外ではてんで相手にされてないんだか
ら
デムパ川合本なんかをソースにするから通りすがりも立ち止まる。
なんでモンゴルは日本みたいな辺境の小国を攻めに来たの?
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/19(土) 10:02:29
>>487 鎌倉時代の日本が金産出国で南宋にも大量の金を輸出してたからだよ
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/19(土) 13:49:29
>>484 なんか元軍薄着じゃね?
それとも中に着込んでるんですか?
>>488 元はサハリンのアイヌやニフヴ も攻撃侵攻してるが
サハリンではプラチナでも産出していたのかw
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/19(土) 18:05:18
>>490 サハリンは毛皮や鷹狩に使う鷹の産地だね。
その程度だから元朝も黄金を産出する日本と比較すれば微々たる兵力しか投入していない。
>>491 だったらわざわざサハリンまで行かず“沿海州”でいいんでないんすかねぇw
もうちょっとヒネった言い訳しなよw
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/19(土) 20:46:31
>>492 元のサハリン攻めの原因が毛皮や鷹の確保だったのは事実じゃん。
どこが言い訳?
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/22(火) 07:31:50
>>489 絹でできている防弾チョキみたいな下着を付けていたそうです。弾ではなく矢を防いだそうです。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/04(日) 03:02:45
ちなみにNHKの実験とかで皆さん勘違いしてるみたいだが… 鎌倉武士の身に付けた武装とは大鎧も太刀も弓も騎乗用の武装で 後の足軽の様な歩兵用の武装でない 弓騎兵として特化された騎馬武者なんだから実験なんてしなくても彼らは馬と一体だったとわかりそうなんだが 騎乗用だから鎧、太刀などなど、あの形! 少なくとも巻狩り等の絵や後三年合戦の絵巻等見れば鎌倉武士と馬は人馬一体で 戦闘をしていた事はわかるはず ちなみに後々の江戸時代になって武士の形が大きくかわっても武士の道を弓馬の道と言うのは 元々の平安末から鎌倉にかけての武士が弓騎兵だったから
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/05(月) 01:48:31
縺ゅ£
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/05/28(水) 09:29:05
教科書などには文永の役で鎌倉武士がモンゴル軍に「苦戦」したなどと書いてあるが、 こんな馬鹿な話はないぞ。 橋頭堡も築かせないまま上陸したその日に撃退した戦いを「苦戦」などとは呼ばない。 文永の役は鎌倉武士の「圧勝」だからな。
典型的妄想糞スレw
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/06/03(火) 19:25:24
>>497 圧勝だよね。
昔から不思議だった。敵は上陸できなかったのだからw
>>500 あたりで
参考文献をまとめます。
↓
キサマノフ軍が最強だろ
ジャミスダー
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/06/29(日) 03:53:22
博多はたった1日で炎上 苦戦だろw
>>502 当時の博多には戦略的価値なんか無いから炎上しようが関係ない。
大宰府が無傷で、モンゴル軍をたった1日で撃退し、しかも敵側の損害は1万3500人以上。
あきらかに日本軍の圧勝。
>>505 文永の役に台風は無関係
完全に武力のみによる日本軍の圧勝
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/07/08(火) 00:01:57
>>508 『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
蒙古は二十日に波加多(博多)に着いて即退散。
それが史実。
鎌倉武士の圧倒的な軍事力の前ではモンゴル軍など単なる雑魚。
1日じゃ敵前でそんなに兵を陸上げできるわけないやろ
>>510 1203年の第四回十字軍では1日で騎士1万2000が敵前上陸してコンスタンティノープルを攻略したけど
はいっ? その全てが取り付いたわけでない 陸側にも兵力割いてるし、内半数位は水夫で上陸せんだろ 16世紀当時最強のオスマン軍のマルタ上陸では 総兵力4万の内陸兵2万5千(他は水夫)を上陸させるだけで わざわざ敵のいないところに選んでも丸二日かかってるぞ 十字軍のコンスタンティノープル攻略みたいに海側城壁をより高いマストのある ガレー船から飛び移る奇策は別として 通常、渡海し上陸する場合は敵のいないところに上陸するのが通常 大船がいきなり着岸して兵がぞろぞろ降りてくるはずない それに港や敵襲の危険のない広い橋頭堡を占領できなかったら馬すらも上陸させられないはずだ
>>512 第四回十字軍は1万2000は敵前上陸を行なった騎士の数。
水夫や海側城壁を攻撃したベネチア艦隊は数に含まれていない。
更に文永の役で元軍はちゃんと敵のいない今津や百道原を上陸地点に選んでるから
全く問題なし。
馬を上陸させていたことも、当時の資料に残っている。
日本に攻めて来た元軍は、三別抄の乱鎮圧の際に珍島や耽羅を攻略した上陸作戦の
エキスパート部隊なんだよね。
じゃあ そう思ってな お幸せに
>>514 メダカをクジラと言ってのける奴に何を言ってもムダムダ
>>1 の言っている事は一応筋が通っているように見えるが
「鎌倉武士最強!他は全部雑魚!」みたいな態度だから反感を買うんだよ
というかどっかに見やすくまとめてくれ
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/08/08(金) 04:43:22
>>516 このスレのコンセプトは徹底的に議論がしたいということだから、大いに反感もって、
ぜひ論破していただきたいと思っているんだけどね。
まとめたいとは思ってるんだけど、何しろ既存の元寇研究は、偏ってるとか、おかしい部分があるとか、
そういうレベルではないから。
一から十まで全部デタラメなわけで、まとめるのも大変なの。
とりあえず、一部だけでもまとめたら、ここにUPする。
まー、一言で言えば、戦後の日本人が元寇について考えることは、全部間違ってるということ。
与えられてる情報が全部嘘なのに、正しい答えが導き出せるはずがないからな。
日本はずっと戦ばかりだから、戦い慣れ てたんじゃない?
ここじゃなくて世界史板って議論ふっかけてくればいいのに 向こうのほうが人多いだろうし詳しい人も多いんじゃない?
>>519 一応、元寇関連スレはここ以外に日本史板と軍事板にあるんだけど、ほぼここと同じ議論の展開になってる。
こういう議題が好きな人って、世界史板、日本史板、軍事板あたりは掛け持ちしてるから、結局書き込んでくれる人は
ほとんど一緒なの。
世界史板で局地的に元寇の話題が盛り上がる時も、書き込んでる人の文体とか、持ち出してくる史料とかから、
「ああ、この人は軍事板や日本史板にも書き込んでる人だな」という印象を受けることが多いんだよね。
世界史板は被ってない場合多いぞ
522 :
桜月夜 ◆sakUrApw8Y :2008/08/21(木) 19:47:39
大東亞戦争前は、全日本国民共通の思想として、 日本哲学会などによって活発に研究されていた武士道。 しかし、戦後GHQの検閲と政策により、日本人の心から武士道は抹殺されてしまった。 武士道を研究するスレを極東板あたりに立てようと思ってるんだけど、協力してくれる人っていますか? 武士道に詳しい人、興味がある人、もっと知りたい人、情報提供できる人などいたらお願いします。 私はこのスレチェックしてますので、いたらお願いします。
元寇関係の他の板のリンクはってくれ
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/28(火) 21:34:48
確かに勝っていたのは疑いないと思うが、圧勝ではないだろ。 モンゴル弓より劣る和弓装備の鎌倉武士団なら苦戦して当然だと思うが。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/10/29(水) 01:27:06
>>524 モンゴル弓が和弓に勝っていたって内容のレス他板でも見かけるけど
確固たる根拠誰も出してくれないんだよね
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/12/09(火) 21:49:14
鎌倉武士が最強かどうかしらんが 今朝鮮人が、たとえ丸腰でも10万人大宰府に 大挙して押し寄せたら、これを完全に押し返すことができるか? 政治力や国際的立場も含めて実行できるか否かが国力だと俺は思う とすると、鎌倉武士は国の規模や経済力から鑑みても バカにできない戦闘力があったのはほぼ間違いないだろう
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/12/12(金) 18:45:59
俺はこのスレは参考になったと考えてる。 知らなかった資料の名を得ただけでも、収穫だ。 多角的に見るということが、戦後少なかったように思う。 あくまでひとつの角度として読み通したが、きわめて刺激的なスレであることを否定できない。
戦闘力よりも、関東を基盤にしたその経済力に感心する
陸で3度撃退したベトナム>陸で2度のマムルーク>海で2度の日本
インドも当時のモンゴル軍ををを撃退したね。
ベトナムは一回負けてからの反乱だからなぁ 強いかどうかというより元の政治力のなさに救われたと言ったほうが。。。
■朝鮮人から見た文永の役 「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」 高麗史表 『十月、我々高麗の金方慶は元の元帥の忽敦、洪茶丘さん等と日本征伐に行ったニダ!でも壱岐で負けちゃったニダ!高麗軍の被害は13500人ニダ!かんしゃくおこる』 ■宋人から見た弘安の役 鄭思肖 鉄函心史 『六月なかば、元の7000隻の軍船が日本(の博多湾)を襲った。 だが、追い返されて七月半ばに平戸島へ接岸、土砦を作って武士の迫撃に備える。 7月30日、暴風雨が来る(神風)。 船は大波にやられて沈没、上陸していなかった兵は海に沈んでしまった。 残った船は400隻余り。 十二万人ほどは平戸島にいたので助かったが、逃げ帰る船は無く、進軍してきた日本の武士達によってことごとく殺された』 ■モンゴル人から見た弘安の役 「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために 虜去せらる。九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、 新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを 得たる者三人のみ」元史日本伝 『(台風が去った後)七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。 九日、(元軍最後の砦である)八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻(完全に敗北した)、蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。 結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人だけだった』 ■日本人から見た元寇文永の役 「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢」 金剛仏子叡尊感身学正記 『十月五日、蒙古人が対馬を襲う、二十日、博多を襲う、しかし即座に追い払う』 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」 帝王編年記 『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。 逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』
1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。 その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。 1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。 聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。 1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。 何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を 受けていたからである。
条件が何もかも違うのに、○○が最強だ!とか言うから馬鹿にされる。 日本はモンゴルに圧勝した。それだけでいい。 だから世界最強なんだ!とか恥ずかしいからやめてください。
>>535 細かいようだけど、「ウリヤンカ」+「ダイ」だから
「ウリャン・ハタイ」という区切り方は間違いね。
彼の父スベエデイはウリヤンカ(イ)部族(ウリヤンカン)出身。
Uriyangqadaiとは「Uriyangqa 部族に関わるもの(dai)」くらいの意味。
名前の由来は分からない。恐らく母親が同じウリヤンカイ部族だったとか、
ウリヤンカイの一族を担うものとして将来を嘱望されていたとか、
ウリヤンカイの故地で生れたとか、色々憶測は出来るが、『元史』の
兀良合台伝にも『集史』部族誌その他にはその種の情報は無いようなので
良く分からない。
>>534 > 「至壱岐戦敗、」(でも壱岐で負けちゃったニダ!)
その訳だと『高麗史』の元宗・忠烈王世家、同 金方慶伝の文永の役関係の部分で
対島や壱岐を攻略して博多周辺へ上陸したって記述内容と合わないんだが・・w
一応、国会図書館でも公開している明治の終わりに出版された三巻本の
『高麗史』巻八十六 年表には甲戌(宋咸淳十年/元至元十一年/元宗十五年)には
「十月金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本至一岐戰敗軍不還者萬三千五百餘人」
と傍点無しで一続きに書かれていて、「壱岐」ではなくて「一岐」とある。
確か世家や金方慶伝、『元史』の方でも弘安の役での部分になるが「一岐島」だかに
していたはずだが・・
「征日本、至壱岐戦敗、」じゃなくて「征日本至一岐、戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
という感じに読むんじゃ無かろうか。
(『高麗史節要』とかでもそんな文章の切り方をしていた印象があるんで、そう思える
んだが、表の部分を書いた担当者がいい加減だったと言う線もありそうだが)
まあ、あまり大したことでは無いかも知れないけど。
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/01(日) 11:10:02
日本に打物騎兵が現れるのは南北朝以降だ それ以前は馬上鑓すらなく、騎馬武者の直接戦闘で使える武器は長刀か太刀しかなかった それに騎馬武者が打物するときは騎弓射して接近し過ぎた場合だけだ 打物はたいていは落馬した時を含め下馬して行う 勿論騎馬武者の鑓なんかは存在していないから長刀や太刀で行う 重装備の弓射主体の騎馬武者と軽装備の打物歩兵という奇っ怪な軍制を取っていたのが鎌倉時代の日本の軍制 突如として南北朝から馬上鑓が開発され、打物専業の騎馬武者が現れたのは 明らかに元冦で数々の苦杯を舐めたからだろう もし元冦の戦いを優位に進めたとするなら南北朝時代に軍制の大変革を行う必然性が全くないからである
疑問 ・このスレで圧勝と主張されている文永の役で、博多や箱崎八幡宮が焼き討ちにされていること 博多での戦いが問題でないというなら、なぜ博多で戦ったのか ・日本軍は歴史上何度も対馬海峡を越えて兵を送っているので対馬海峡は問題ではないというが 古代においては任那のような橋頭堡があり、文禄の役では朝鮮軍は貧弱なうえ備えもしていないこと
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/02(月) 10:01:04
文永の役で博多や箱崎八幡宮は焼き討ちにされてないよ。 勘仲記で元軍撤退の記事があるのが11月6日。 箱崎八幡宮の火事の記事があるのは11月14日。 あきらかに無関係ですな。
だいたいここレス見てると 日本側の兵力を一騎=一人と数える初歩的な間違いしてるからお話にならない 一騎あればそれに最低でも数人の従者が随伴する 従って兵力は一騎=最低でも六〜七人だよw
>>543 その認識は初歩的な間違い。
一騎=一人だよ。
例えば蒙古襲来絵詞の中で、竹崎の部隊は主従5騎だけど、それは従者も含めて全部で5人。
そこへさらに数人の従者が随伴したりしない。
>>543 徒歩(かち
は必ずしも並走しているわけではないよ
>>540 日本の軍制が激変するのは応仁の乱前後の影響といったほうがいい
簡単にいえばそれまでは職業軍人のみで戦っていたのが
この時期以降足軽というフリーターが主力になっていったせい。
蒙古襲来絵詞では、郎党は員数外の扱いになっていない。 当然居る場面では省略されていない。 普通に騎乗して戦闘に参加しているし、その負傷は恩賞請求の際に報告の対象になっている。 「旗指の馬、同じき乗り馬を射殺され、季長・三井三郎・若党一人、三騎痛手を蒙り、 肥後国の白石六郎通泰、証人に立て候て・・・」 「親類野中太郎長季・郎従藤源太資光、痛手を蒙り、乗馬二疋射殺されし証人に、 豊後国御家人橋詰兵衛次郎を立つ」 蒙古襲来絵詞は、鎌倉まで共をした中間の名前まで書き込まれている史料。 徒歩の随伴歩兵がいればちゃんと記載され、居なかったから書かれなかった。
>>542 勘仲記って京都にいる人の書いた日記でしょ?
九州からリアルタイムで情報が伝わってくるわけじゃないから
それだけでは根拠に乏しいのでは?
それと博多については?
そもそも戦略目標であった大宰府にまったく到達できず それどころかはるか手前の水城にすら到達できなかった元軍。 博多でうんぬんというよりその程度までしか入ってこれなかった 文永の役での元軍の進路と交戦状況は 今津沖→息の浜 百道原→赤坂 どっちの元軍も返り討ちにあっている
せめて日本軍の前線拠点である水城程度までは侵攻できていれば まあそこそこ内陸まで攻め込んだとみなせるし 武士圧勝から武士辛勝に評価を改める必要もあるが… 博多で撃退されたなんて なんというかプールサイドであがってくるたび何度もプールに突き落とされる出川哲郎先生のような状態だな
>>548 八幡愚童記の博多焼失の記述は後世の改編だから。
正応2年成立の八幡ノ蒙古記
「博多に迷ひし、おちうとゝも、一夜過て、かへり来しに、是も住し家々、あと方もなく、あさましう」
↓
鎌倉時代末期成立の菊大路本
「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」
本来は「博多へ避難していた連中が一夜過ぎて帰ったら」という文章だったのに、
「博多から避難していた連中が一夜過ぎて帰ったら」という文章に改編されてるだろ。
よーするに、博多も箱崎八幡宮も無事だったということ。
鎌倉武士強すぎ
世界史板でやってくれ
日本を含む外交の歴史なのに?
意味分からん
>>468 なんか論理的に変
仮に標準的な軍装が馬の能力を超える重量なら、騎馬を諦めるか、軍装を改良するかだろ。
そもそも日本に十分な数の使える軍馬が居なかったのなら、騎馬武者などという存在は無かったろうし、
貧弱な馬を無理から使ってるって、
生き死にの場でなんでそんな酔狂な事をやんなきゃなんないのかわからない。
当時の標準的軍装の重量が、推定した馬の能力を超えてるなら
その推定方法が間違ってたと考えるべき。俺ならそうするけどね。
別に
>>534 の和訳で間違ってないよ。
他国の地名や人名に似た音の漢字をあてることは、中国、日本、朝鮮の文献の間では、
普通に行なわれていることだから。
「一岐」を和訳すると「壱岐」ね。
○弘仁四年(813年)、新羅の賊1100人が平戸に来寇し、日本人9人を殺して100人余りを連れ去った。 ○871年5月、新羅の船2隻が日本の博多湾に侵入し米などを略奪する。 ○貞観十一年(871年)5月22日夜、新羅の船2隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走した。 ○貞観十五年(873年) 朝廷は、出雲、石見、隠岐等国に命令を下して、新羅の賊行為に備え、警戒を固くさせる。 新羅の賊船、日本海に展開する。 ○元慶四年 (880年) 但馬国に新羅の不審船が出没し、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に、改めて厳戒令が敷かれる。 ○894年、新羅いよいよ経済困窮。国王が、日本に行って穀物を奪ってくるように命令。それを受けて、6月2500人が45隻の船で対馬を襲う。 しかし対馬側との戦闘で302人の戦死者を出して引き揚げる。 ○寛平六年(894年)6月、新羅から賊2500人が45隻の船で対馬に来襲し、文室善友らが士卒100人を率いて防戦にあたった。 のみならず、これに加えて島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。合戦には、賊302を射殺して勝利した。 捕虜を問いただすと、新羅の国王の命を受けたとのこと。 ○延喜六年 (906年) 隠岐に新羅船が出没したが、台風により沈没。 ○天慶五年 (943年) 隠岐に新羅の賊船7隻が漂着。賊か難民かは不明。
○998年、高麗の賊が壱岐対馬を侵略し、肥前にまで迫った。 ○長徳三年(998年)高麗の賊が壱岐対馬を侵して肥前に迫り、奄美島民が筑前筑後薩摩壱岐対馬に攻め寄せた。 ○999年2月、高麗の賊が大宰府から討伐される ○長徳四年(999年)2月、高麗の賊を大宰府が討伐する。9月南蛮の賊を大宰府が討伐する。 ○1014年、高麗の賊が九州に攻め寄せ大宰府に討たれる。 ○長和三年(1014年)高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。 ○寛仁三年(1019年)、50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らし物資を奪い家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。ついに博多に迫る。 日本側は、大宰権使藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。 十数日間に渡る戦闘だった。刀伊の入寇 ○承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し賊徒数万を海没させた。 元寇に至る外国からの侵略の中でも最大規模のもの。この時は民衆からも兵を募ったと考えられる。 朝鮮人は元の力を利用して長年の夢である日本侵略を実現しようとした。
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/13(金) 05:13:51
太宰府がチョンと戦った歴史はもっと掘り下げられるべき
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/13(金) 11:13:43
飛鳥時代に作った水城が有効だったのは感動した。
>>563 まあ拠点としてあの動員数を寝泊りさせる力は持ってたけど
実際元軍は水城から見えるようなとこまでは進軍できてない
もっと手前であしらってる
…そういう話じゃないか
竹島問題と在日朝鮮人特権の歴史年表をよく読んで欲しい ■1949年01月:李承晩、政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。 (この要求はGHQにより「根拠がない」と却下。日本も拒否。) 1949年02月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押し、または対馬上陸作戦を画策したものと推察) 1949年04月:国連安保理、韓国の国連加入案を否決 1949年05月:米軍から李承晩政権への武器供与を停止 1949年06月:米、韓国撤退完了を発表 1950年01月:米韓軍事援助相互協定調印。が、米は韓国側からの軍事支援要求を拒否。 1950年04月:韓国、空前の大インフレ。年間200%を達成。 ■1950年6月 朝鮮戦争始まる ・北朝鮮怒濤の南下、北による統一直前に至る。 ・日本に大量の韓国人避難民が到着。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ■同年7月 GHQレッドパージを発動、日本占領方針を転換。 ■同年9月 国連軍出動 (安保理事会をソ連が欠席し、拒否権を行使しなかったので国連軍が成立) ・国連軍怒濤の北上、あと少しで南による統一寸前。 ・GHQの命令で、旧日本海軍の残存部隊、国連軍に協力し朝鮮戦争で機雷掃海を行う。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ■同年11月 中国共産党 中国義勇軍で参戦。 ・38度線付近まで押し返され、戦線膠着。 ■1951年7月 休戦会談開始 ■同年9月 日本と連合国はサンフランシスコ講和条約調印、 1952年4月に日本が独立回復することが決まる。 ■1952年1月 朝鮮戦争のさなか、国連軍の後方基地と機雷掃海を引き受けていた日本に対し、 韓国政府は、日本が独立回復する前に、李ラインを宣言。竹島を電撃占領。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 多くの日本漁船が攻撃され死傷者多数・拿捕された。 日本は抗議するものの、GHQ占領下で涙を飲む。 (在日特権は3995人の人質と引き換えに日本刑務所にいた400名弱に付与された、これ以外は全て詐欺による取得と言える) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ■同年4月28日 ようやく日本独立を回復。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ■1953年7月 朝鮮戦争、休戦協定成立。 (中国と北朝鮮軍事同盟を結ぶ) ・避難民は帰国せず、日本に居着き、 いつの頃からか、強制連行されたとウソをまき散らす。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 竹島占領は、まさに火事場泥棒だった。 ■日韓基本条約締結、賠償(身代金)3億ドル(当時のレート支払済み)日本刑務所の在日朝鮮人に特権付与と引き換えに日本漁民開放 (この3億ドルはボスコなど企業設立に使用され、日本にかなり還流した。元々韓国は農業主体で、工業は無かったのである) ■韓国の領土侵犯と朝鮮戦争(停戦中)これらの事件によりGHQの方針が変わり日本の軍備が成された。 警察予備隊>自衛隊の誕生である。日本と朝鮮半島はアジアのスイスとなる国連計画だったが、朝鮮人の醜い争いが全てを変えてしまい今に至る。朝鮮半島は戦後ずっと不安定な紛争地帯のままだ。 竹島占領して拿捕漁民人質と引き換えに金と在日特権を得るなんてテロ犯罪だよな チョンに言ってやれ「よっ!テロリスト!」 ( ´,_ゝ`)プッ _,,_ (;´Д`)……竹島盗ってチョンは嬉しいだろうが、長い侵略史を考えるとな。 しかも国際法上竹島は未だ紛争地帯。(南北朝鮮自体が紛争地帯でもある)
>>536 ,
>>557 さほど漢文をすらすら読める訳でもないのであんまり当てにならんかもだが・・
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等、征日本至一岐。戰敗。軍不還者萬三千五百餘人」
と仮に区切るとしたら、
>>534 の文を踏まえると
『十月、我々高麗の金方慶は元の元帥の忽敦、洪茶丘さん等と、日本征伐に一岐(壱岐)の
ほうまで行ったニダ!でも負けちゃったニダ!高麗軍の被害は13500人ニダ!かんしゃくおこる』
くらいだろうか。ただ、知っての通り文永の役では日本側の資料で単に「蒙古」とか「異賊」「凶賊」
などと呼ばれている大元朝と高麗の連合軍は対島、壱岐島を攻略してさらに南下し、博多周辺に上陸
しているわけで、「一岐」(壱岐)しか名前を上げていないのはどうにも妙な感じだ。
あと、なんとなくだけど、『高麗史』の執筆者、もしかしたら「一岐島」のことを九州のことと混同してる
んじゃないかとたまに思わせるような部分も・・
本当に勘違いしたのか、それとも手前の手柄を捏造するために嘘の報告をしたのか。 チョンの国内文献は民俗学のネタにはなるが史料としての価値はない。 日帝時代になると比較する日本の文献があるから推測できるけど。
高麗史みたいに後から編纂された資料の場合、その辺は仕方ない面があるでしょ。 一番詳細に書かれている金方慶伝の記述だと、対馬→一岐島(壱岐)→三朗浦(早良)と元軍の進軍過程が 日本側の資料とほぼ一致する。 ところが、同じ資料をもとにしていると思われる元宗世家の記述では、途端にその辺が怪しくなってしまう。 単純にきちんとした資料をもとにしてたんだけど、高麗史を編纂した奴らが正確な地名のの知識に欠けていた ってことじゃないの?
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/19(木) 20:56:17
武士が世界最強かどうかはわからない。 そして、日本の学者の場合あまりにも実証的な研究が少ないので、 細かいところの事実関係が今一つはっきりしない。 しかし、はっきりしていることは元軍が日本の武士に完敗したということだ。 いったんは上陸でき、ある程度進攻して押し戻されたが、 まだ陸上にいることができたのに、 わざわざ有利な状態を死守しないで、 船に逃げ帰ったのは 昼間の反撃で武士団が手強いことを認識して、 夜襲を怖れたため。 戦意喪失状態。
実際に当時の大鎧に馬具つけて実証して欲しいな。 動画サイトで観た海外の番組なんて 実際に矢を甲冑に撃ち込んだり、投石器まで再現してたぜ。
最低でも、3人張りの弓を実際に作って張力を測定したり、そこから推定飛距離を計算したりする程度のことは やって欲しいよな。
ネタに対して真面目に反証実験をしても、逃げ道はいくらでもあるから言い逃れされるだけ。 やっても無駄。 「水からの伝言 反証実験」を検索ワードにして牽いてみると楽しいサイトに逝ける。 つーか、ネタスレなんだからお前らもっと面白いこと書け
元軍仕切ってたのは義経とか?
_,,_ <*ヽ`∀´> y-~~~モンゴルを破った鎌倉武士が実質世界一ニダ……ホルホル
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/02/26(木) 08:15:05
世界最高水準南は確かやな。 同水準は、バイバルスのマムルーク朝、アラーウッディーン・ハルジーのハルジー朝。 陳の大越は60万云々の虚構剥ぎ取りが済むまで保留。
>>570 そういう場合は「仕方ない」とは言わない。「史料として信頼性がない」と言う。
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/12(木) 11:32:46
太宰府すら攻め落とせなかった元軍が教科書では 「元は武士たちを散々苦しめ打ち破ったが偶然の暴風雨と高麗の義兵に日本は救われた」 ことになってる元冦。 たった半年かそこらで半島征服、オランカイまで攻め込んでついでに女真も撃破、 秀吉死んだから撤退するが撤退するときも追撃部隊フルボッコにした日本軍が 教科書では「明と朝鮮に叩きのめされて這々の体で逃げ帰った」ことになってる秀吉の唐入り。 うーむ、日本史は謎が多いなあ(笑)
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/12(木) 13:12:49
スレタイこそ頭悪いがなかなかタメになるスレだな
>>580 対馬、壱岐ではボロ負けですが
一騎ごとに随伴する従者の員数無視して○○騎=総兵力と思い込んでいる間抜けがまだ日本にはいますがね
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/12(木) 14:50:28
ん?たった数十レス前のやり取りすら読めない文盲がいるぞ?
騎乗槍すら存在しない時代なのに草履もどきを蹄鉄代わりに履いた極めて小型のポニーに乗った重武装の騎馬武者が 発射速度が緩慢な騎射だけで外敵と対等に戦うことが到底出来ないと思うんですがね 騎馬武者が打物するときは殆どの場合下馬してから行うんですけどね
↑ヒント 兵站
祈祷もあるでよ
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/18(水) 15:08:53
>>584 思うんですがねって普通に互角以上に渡りあってたんだが
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/20(金) 02:02:17
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/20(金) 18:24:58
>>588 のスレから転載
ネトウヨニート酷使様は読んで目を覚ますんだな
739 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 11:30:06
>>738 勝っても占領しない例なんて、戦史上いくらでもあるぞ。
日本の内戦でさえ、姉川合戦のように勝っても占領にいたらず引き上げたケースはあるし。
だいたい論点は訳の正確さ、だろう。
わかっててやってる話逸らしですか?
745 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 12:49:01
「倭兵大敗、伏屍如麻」と金方慶伝にもあるしね。
>>744 自分が、勝って小谷まで攻めたが占領せず引き上げた、と認めてるじゃんか。これ以上負け惜しみレスするなら、鳥つけてくれない?あぼんが楽だから。
758 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/03/20(金) 14:59:01
ここまでをまとめると
・やっぱり武士達は一騎打ちやってた
・やっぱり武士達はコテンパンにやられた
・やっぱり元は余裕があったが準備不足、もしくは予定通りの撤退だった。
・やっぱり一回目も神風は吹いた(ただし元が引き上げた後)
ちなみに外国の人が歴史上の世界中の戦争をまとめた
凄く分厚い本があったけど、それにも武士達は大敗したが台風に助けられたと書いてある。
結論:やっぱり従来の説が正しかった。
武士が強いとか言ってるのはネトウヨだけなんだよ
759 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/03/20(金) 15:01:47
>>758 このスレをざっと見返しただけでも
幕府大敗派の方がちゃんと史料提示して
しっかり論理的に展開してるしね
763 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 15:22:20
唐時代にそうだったように、相手国にいった使節だけは服属しているフリして、内側じゃ自分らがかってにやっている腹芸外交していればわざわざ元に攻められずにすんだような?
黙殺、とか使者殺害とかちと野蛮だったな日本は。
767 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 15:41:08
ニート酷使様ばっかりの普段と違い
やっぱり休日や夜になるとまともな書き込みが増えるな
778 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 16:19:05
別の本の三国史記、でも
王怒率勇士五千 出戰敗之 虜獲甚多
としているからね。敵を破って捕虜をたくさんとった、と。
本当にそうだったかは別として、文章の訳でいえば「日本兵十万、これを破った」でいいだろう。
784 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 16:34:45
>>783 負け惜しみはいいから、そろそろトリップつけてくれ。あぼんが楽なんで。
訳を丁寧に説明され、他の本の例まで出して否定されているのに何を無駄なレス資源浪費し続けているんだ?
591 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/20(金) 18:26:19
790 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 17:39:26
>>789 >>745 あたりのやり取り見た?
戦闘で圧勝しても占領せずに引き上げる例なんて
世界史上いくらでもあんの。日本は運が良かっただけ。
いい加減負け惜しみで荒らすのやめたら?
792 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 17:58:03
敵の本城落としてないと「占領せずに引き上げた」
だなんて考えてるゲーム厨に何言っても無駄
592 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/20(金) 20:36:59
春休み
>>1 (かどうか分からんが)世界史板で分が悪いみたいだなw
がんばれよー(´∀`*)ノシ
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/21(土) 04:52:32
世界史板にそんなスレあった? モンゴル関連のスレ見ると普通に武士が撃退したって見方が大半なんだが?
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/22(日) 22:04:46
日本史板の方のスレやけに加速してると思ったら・・・日本が負けたことにしたい馬鹿が暴れてるのか このスレはちょっと上に転載で長文の馬鹿がいるけど平和で安心した
だからって上げんなよwバカに目つけられるだろ。 ただでさえ頭悪そうなスレタイなんだから。 にしても彼(彼女?)、どっから掘り出してきたのか 史料を長々と貼り付けて自分の解釈披露するのはいいが なんか木を見て森を見ずというべきか、細かい部分の記述にとらわれがちすぎなんだよね。 やたら向こうの史書に詳しいから東洋史の専門家なんかもしれんが この手の文系が陥りがちなドツボにはまってるよ。 ちょうど以前、この手のスレで見かけた やたら長文貼り付けて「和弓は数十メートルしか飛ばない」 って主張してた人思い出すわ。
>>587 へー、素手でかw
だいたいね
日本に馬乗槍が現れ、打物騎兵が現れるのはなぜか元冦の終わった後の南北朝時代
これは元冦での敗北を教訓にした兵装、軍制の改良だろう
もし元冦が日本側の大勝とするなら南北朝期でもこんな大規模な兵装や軍制改革する必然性が全くないでしょうがw
>>597 第二次大戦後のアメリカ、ソ連も競うようにドイツの軍事技術を採用していったがな。
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/25(水) 14:17:53
確かに槍は南北朝期に菊池槍という形で「突如として」現れてるし それ以外も南北朝期に「突如として」それまでと変わってる。 でも蒙古襲来から南北朝まで何十年経ってるか考えてみ。 時間軸で言えば、太平洋戦争と現代ぐらい時間の隔たりがあるよ。 モンゴルと直接交戦したり、当時リアルタイムで見聞きした世代なんて殆どくたばっとるがな。 仮にモンゴルの影響ってんなら霜月騒動や平頼綱の乱、或いはその他の小競り合いなんかに そういう兆候があるはずなんだけど無いみたいだしね。 特に霜月騒動なんかモンゴル軍との戦いで日本側を指揮した 少弐氏も大きく関連してるんだから彼らが そういうのを使ったとかいう記述が残っててもいいと思うんだが。 大体日本に攻めてきた元軍は殆ど騎馬はいなかったんじゃなかったの? あと槍が無いから武士達は素手で対抗したの?ってどゆこと? どっちかと言えば南北朝期の戦法の変化は悪党なんかをはじめ 当時の世相が関係してると見た方がよくね?
そもそもモンゴル自身が征服した地の戦術や兵器取り入れて 平原以外の戦いでも勝利できるように色々改良してた件
マイナーチェンジ的な多少の武具の改良を除き兵器や軍の編制の大規模な変革には 断続した戦いや新技術を持つ外国人顧問などが流入するなど外的要因 自営農民が小作人化するなどの大きな社会変化のあった内的要因がなければ歴史的に見て全くありえない なぜならそれには多額の資金や訓練の一からの見直し、それに伴う武具の全般的改良が必要になるからだ 主張通り元に大勝したというならまた勝てる確証があるのだからそのような無駄な浪費のいる変革をする必要性なぞ全くないのである 第二次大戦云々は情報伝達の迅速さや集中投資、国力規模の大きさなどあまりに状況が違うし現代史を持ち出すのは論外 だいたい米ソがドイツの技術を取得し得たのはドイツ本土を占領下に置き、実際の兵器や生産設備、資料、多数の技術者を手に入れたから
>>599 > どっちかと言えば南北朝期の戦法の変化は悪党なんかをはじめ
> 当時の世相が関係してると見た方がよくね?
いわれてみれば、そっちだわ。
ここといい軍事板といい ひたすら日本史板を眺めるだけのスレに落ちぶれた
604 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/03/28(土) 03:11:59
>>590 と
>>591 に反論がないってことは武士が惨敗したと認めたのかなw
日本史板で「戰敗之」の解釈で武士が圧勝したと珍説唱えてたのも逃亡したしww
軍板の元寇スレでも以下のように嘲笑われてる
>12 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 00:44:34 ID:???
>なんか向こうのスレは史料の文面の解釈で揉めてるみたいだしね
>24 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/03/25(水) 15:12:43 ID:???
>日本史板を見てきたぞ
>漢文の読み方で面白いことになってるじゃないか
>29 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 21:27:15 ID:???
>「戰敗之」の話とか面白いじゃない
>>596 長文の人は軍板で「興味深い史料を見せてくれて良かった」と称えられているのだが?
ググッた程度の知識しかないお前なんかとは比較にならない博識ぶりなのにお前の方が正しいわけねえだろ
そもそも、軍板の前スレで元寇の一回目は威力偵察であると結論が出てるんだよ
(攻城兵器持ってきていないのだから本気で攻めようとしているわけがない)
だから撤退は予定どうりであり、日本はなんら元の軍事行動に影響を与えていないということがはっきりしている
また、軍板にはこんな意見もあるな
『で、日本史板のスレの件だがどうやら今まで元側が負けたと書いてあるとされてた
元・高麗側の資料が実は大敗したのは鎌倉側だったという解釈が出て色々と物議を醸してるようだね。
武士が完勝したのならそもそも博多は焼かれてないよなあ。
あと八幡記以外の日本側の史料だとあっさり武士が勝ったと書かれてるが
八幡記だと武士が圧倒的に劣勢だったように書かれてる。』
『双方とも大損害を受けた、でいいんじゃね?』
これでもまだ圧勝だと言う気か?
戦略目標である大宰府に全く届かずに追い払われてるのに「予定通り」なのかw
『高麗史』八十七巻 「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
博多を焼いたかどうかすらあいまいだが焼かれたとして庶民しか住んでないとこ夜中にこそこそ襲っても武家に何の打撃があるのやら そんな暇があるなら武士がひしめく水城を夜襲すればよかったじゃないの みんなそこで夕飯食ってたんだからw 結局武士がいない間に女子供をさらって逃げかえっただけ 二言目には博多を焼いた博多を焼いたと得意げなひとがいるけど 対馬や壱岐でもそうだけど平民襲って略奪、虐殺しただけのことを自慢げに話されてもひくわ
>>604 勝っても占領せずに引き上げた他の例なんかいくら出しても
文永の役で元軍が勝っていた証拠にはならない
そもそもその話をするにしてもまずは勝っていた証明をしてからの話だろう。
そして偵察だと言い張っても負けて逃げた言い訳にはならない
高麗史に書かれているとおり
「もう兵は疲弊しきっているが船を焼いて背水の陣で戦えば明日は勝てる…」などという作戦を提案するような軍が最初から偵察目的なわけがない
計画の段階から偵察目的だということが決まっていたならそのような提案を現場でしたりしないし
却下の理由として古事を持ち出していさめるまでもない。
あくまで撤退の理由は「兵が消耗した・矢が尽きた(対馬なんかで一週間も無駄な虐殺してるからだ)・日本軍の増援があす以降どんどん増える」の三点しか記録されていない。
偵察のての字もない。
仮定の話として偵察だったとしてもだ
ほとんどの兵が生還できないほど大打撃を受けてまで持ち帰った日本軍の情報が七年後の弘安の役に何か活かされていたのかな?
七年もあけたせいで戦場は文永の役よりはるかに整備され
岸にはびっしりと築地が築かれ文永の役では少なくとも上陸するぐらいのことはできていたのに
弘安の役では上陸すらままならない始末。
あげく三か月も海上を逃げ回って疲弊し、台風シーズン到来。
指揮官は逃亡し、置き去りにされた兵士たちは鷹島で武士団に虐殺され敗北。
かわいそうに、博多がどうのというレベルじゃないな。合掌。
偵察した割には余計にひどい負けっぷり。七年も前の情報なんぞ何の役にも立たない。
偵察だったとしたら情報をまったく活用できないような偵察しかできない時点で史実以上の「大敗北」ってことになるな。
博多を焼いたことを自慢する人はやっぱり済南事件や通州大虐殺も自慢げに話しちゃうの?
>>604 えーと鎌倉武士ってのは「日本防衛軍」じゃないよ。
主な生業は外敵の排除じゃなくて、日本国内の勢力争い。
軍制改良の必要性は常にあるだろ。常識で考えろ。
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/04/01(水) 15:29:21
>>608 そんな事言ったら今度は
「弘安の役は本気じゃなかったんだよ。只の棄民政策でフビライの予定通りなんだよw」とか
「ベトナムと違って司令官はみんな生きて帰ってるし兵の練度や士気も全然違う」とか
「第3回遠征の分をベトナムに回したのが何よりの証拠。最初から日本なんて眼中になかったんだよw」
ってお決まりのお馬鹿な反論を返してくるぞアンチ武士厨はw
612 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/04/01(水) 15:32:54
>>602 そもそも
>>601 は元冦後南北朝までずっと平和だった
と考えてる時点で日本史が全然わかってない
最近またスレが活性化してきた所で質問。なんで
日本攻めた元軍にはモンゴル人殆どいなかった。武将は割とマイナー
=他の地域侵攻した軍よりずっと弱かった。つまり元は本気じゃないって話になるの?
渡海した上での上陸作戦なんだから仮にヨーロッパやアラブ戦線みたいに
モンゴル、テュルク系の兵中心に編成しても
決して上手くいくとは限らないというのは素人考えかな?
むしろ史実みたいに三別抄の鎮圧など水戦や上陸作戦の実績がある
部隊と将軍中心に編成した方がまだ上手くいくと思うんだが。
確か元軍の武将は割とそういう方面では実績あったはず。
そういう意味じゃ、元軍の編成と司令官の人選は至極妥当なものだったと思うがどうだろう?
ベストとしては元に投降した南宋水軍の責任者を従軍させる事だろうけどね。
よくバトゥやスブタイみたいな名将じゃなかったから
というがヨーロッパやイスラムの戦いで功績があったからといって
環境が全然違う日本やベトナムで上手くいくとは限らないだろう。
ベトナム戦線では正にそれが実際に起こってる。
ベトナム戦線担当してた武将は、モンゴルの王族達の副将として従軍し数多くの功績があるけど
それまでの戦いとは全然勝手が違うベトナムの環境では大苦戦して失敗してる。
実際の戦争はテレビゲームみたいな
「戦闘90の武将が最強の蒙古騎兵率いればどんな都市だって落とせるよ」
っていうのとはワケが違うんだから。
あともうひとつ。
>>606 その資料ってなんか話が飛びすぎてね?
壱岐の記述の次はもう、帰る途中で遭難して全滅する話になってるし。
どゆこと?
>>613 「本気じゃない」とかいう言い方は、少々具体性に乏しい表現なので、
自分としては文永・弘安の役の日本への派遣軍の性格を考えるんだったら、文永の役や弘安の役の
派遣軍がそもそもモンゴル帝国や元朝の軍としてどういう位置付けにある/あった軍だったのかを
まず検討した上で考えた方が適切じゃないかと思う。
(どうも関連スレではそこら辺の事情を度外視して『元史』や『高麗史』に出て来る三万とか四万
とかいう数だけを材料に色々主張を戦わせているきらいがあるが・・)
> 元軍の編成と司令官の人選は至極妥当なものだったと思うがどうだろう?
うん、モンゴル帝国は帝国領外に軍を派遣する場合、派遣先に近い地域に駐留する軍を中核にして
派遣軍として編成し、この軍にそれらの外部地域への軍事一般を任せる場合が多いので、珍島や
耽羅島への派遣した部隊を、日本への遠征軍にも参加させたことが『高麗史』にも出て来るんだけど、
この措置はモンゴル帝国の軍政からみても至極妥当で通例に沿ったものだったと思う。
(ただ、文永の役のときに派遣軍の司令官である征東都元帥は忽敦という人物で、耽羅島などで
三別抄討伐を指揮した忻都とは別人だったりする。本当は忻都が日本への遠征にも派遣される
はずだったんだけど、高麗軍の司令官である金方慶をクビライ政権側から高麗方面に派遣された
軍政官だった洪茶丘が誣告する事件が日本遠征の直前くらいにあり、これに忻都も加担して
高麗国王の忠烈王と対立し、忻都は征東都元帥の地位を一時罷免されていたらしい)
> モンゴル、テュルク系の兵中心に編成しても決して上手くいくとは限らないというのは素人考えかな?
中央アジアや中東、欧州への派遣軍のようなテュルク・モンゴル系の騎馬兵を西方遠征と同じ感覚で
そっくりそのまま日本へ渡海させようとなると、騎馬兵自身に加えその兵と同数以上の軍馬+その糧抹を
あわせて艦船に積載しなければならなくなるので、輸送の段階でコストが掛り過ぎ、凄まじく割に合わない
代物になってしまう。それだったらもとから歩兵を中心にした部隊を派遣した方が良い訳で、女直などの
屯田軍が文永の役での派遣軍の中核だったらしいのは、これも至極当然のことだったのかも知れない。
>>614 の続き。
>>613 >>606 は『高麗史』の「表」の高麗国王・元宗十五年の項の記述なんだけど、表の記述自体、
正直「色々」と端折り過ぎているきらいがあって、記述内容がいい加減なところがある。
日本史板だったか世界史板のスレだったか忘れたけど、そこら辺のいい加減さが先日
問題になっていた。
例えば、文永の役のあった年に父親の元宗の死去に伴い高麗国王に即位する忠烈王は、クビライの
皇女のひとりクトゥルク=ケルミシュ(忽都魯掲里迷失)の降嫁を受けているんだけど、この表では
「(元宗十五年)五月 世子尚元帝女安平公主」
(元宗十五年(1274年)五月、世子[後の忠烈王]、元帝の女・安平公主を尚(こいねが)う。)
と書かれている。「安平公主」というのは件のクトゥルク=ケルミシュのことなんだけど、
実はクトゥルク=ケルミシュはこの頃まだ「安平公主」とは呼ばれていない。
この時はまだ「齊國大長公主」と呼ばれていて、この翌年の1275年に高麗で「元成公主」、
1294年に元朝から「安平公主」の冊封を受けている。要するに「安平公主」と呼ばれるのは
降嫁の年から二十年後。
『元史』諸公主表や『高麗史』の列伝でもクトゥルク=ケルミシュは「齊國大長公主」の方で
まず項目が立てられているんだが、
>>606 のあげた表の部分ではどういう訳か1274年に彼女が
呼ばれていたであろう「齊國大長公主」ではなく後年の「安平公主」の方で書いている。
あと、『高麗史』全体に言えるけど、文永の役についての記述は忠烈王世家と文永の役の
時の高麗軍の司令官だった金方慶の伝に書かれているが、対馬と壱岐については書かれている
ものの、『高麗史』の編者は「壱岐」(一岐島)と九州本島が区別出来ているのか、どうにも
怪し気な雰囲気がある。
> 最近またスレが活性化してきた
スレが活性化することはまあ良いんだけど、煽り文句ややたらwwwを多用したり相手をなじるような
口調ではなから他人の意見を全否定するのが前提でレスをつけるのは、辟易するし文面見ただけで
レスしようとかいう気分は萎えることこの上ないしで、正直まるで歓迎しがたいんだけどねぇ・・
わかりやすい返答ありがとう。
まあ
>>604 みたいなお馬鹿な煽りが多い件に関しては今は春休みなんだからしょうがない。
あと一週間もすればスレもまともになると思いますよ。
>>613 壱岐の方向へ行った。結果負けた。と書いているだけ。
どう戦って負けたかというのを書きたくなかったんだろう。
>>614-615 良レスだが、こんなスレにはもったいないので
軍事板のほうに来てくれ
分散し過ぎでケリがついた話題まで各所でループしてるから
軍事板と日本史板(本スレ?)の2つ中心でやろう
>>618 それは日本史板でスレで解決してたぞ
資料は数種類あり、それには最低限のことしか書かれてないってよ
613は探して読め
>>620 前スレ最後の300レスぐらいを見ればわかるけど
今次スレ立てても荒れるだけだから日本史板にはしばらく立てずに
ここを避難所代わりに使った方が良さげ。
分散するのもなんだから、軍事板に行く。
>>618 明治の末(明治42年)に出版された『高麗史』の三冊本の刊本で出て来る
>>618 の記述部分を可能な限り再現すると↓みたいになる。
『高麗史』巻八十七 表巻第二
│ 上 國 │ 高 麗
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
──┼───────┼─────────────
│ │ (元宗)十五年 五月世子尚元
甲 | | 帝女安平公主 六月
| | 元宗薨八月世子還國
|宋咸淳十年 | 即位 十月金方慶與
|元至元十一年 | 元元帥忽敦洪茶丘等
戌 | | 征日本至壹岐戰敗軍
| | 不還者萬三千五百餘
| | 人」
(国立国会図書館の近代デジタルラブラリーでも閲覧出来る)
ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html (「高麗史」で検索。第二巻の末尾739頁になるので「385/395」あたり。)
「表」というくらいで見ての通りまさに「年表」で、他の部分を見ても分かるだろうけど、
どう負けたか書きたいとか書きたくないとか、というよりもそもそもそんな詳しく書くような
ジャンルの場所じゃない、(物理的なスペースとして)場所がない、という感じだ。
他の部分でもその感があるようにも思うんだけど、表を執筆した担当者が年表としての簡潔さを
求めるあまり、忠烈王世家や金方慶伝の内容をちゃんと吟味もせずに流し読みして適当に端折って
まとめて書き付けた可能性の方が大きいようにも感じる。
それにしても非常に穏やかにレスが続いてとても安堵した・・(汗
(日本史板のスレの状況が酷すぎただけか)
>>619 軍事板はほとんどレスをつけたことがない所だけど、需要が有ればまたモンゴル帝国に
ついての話とか、例の『八幡ノ蒙古記』とか関連資料をあちらでも転載しようかと思う。
(一応いままでの元寇スレでも何度か文永の役関係の資料がいくつか引用されていたけど、
そもそも日本の中世史が専門でもないのに「これにはこう書いてあるぞ」とか言われても
どういう資料での記述なのか説明がないのは不親切だから、資料の記述を引用する時は
あらかじめこれはどういう資料なのか簡単な資料解説とか有った方が良いよね?)
うん、そうして貰えるとこちらとしても助かる
むこうに転載しといた
荒れまくった日本史板の
>>624 関連「戰敗之」等は見てたと思うので転載不要
628 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/04/10(金) 10:30:40
倭猿最弱伝説w 白村江の戦い→わずか7000の唐軍に惨敗 刀伊の入寇→撃退したと主張するも実際は掠奪、拉致を完了した女真族が帰国しただけ (壱岐では住民が35人に激減) 一部の女真族が高麗を攻撃したが、高麗水軍に敗れ拉日致されていた日本人を解放帰国させた 文永の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される 暴風雨により帰国していただく 日本側大勝利を喧伝するも海路侵攻にも関わらず敵の高級将官を一人も捕虜に出来ず 弘安の役→対馬、壱岐で惨敗たやすく制圧される 前回より兵力は多かったが、多くは武器より農具を多く持ち込んだ旧南宋の老兵 暴風雨により帰国していただく 今回も日本側大勝利を喧伝するも日本側に捕虜にされた将官は皆無 応永の外寇→いとも簡単に朝鮮軍に対馬を占領される。日本は朝鮮に朝貢すると土下座してお帰りいただく コシャマインの乱、シャクシャインの乱→アイヌモシリ侵略しようとしたらアイヌの土人にボコられる。騙し討ちでなんとか事なきを得る 秀吉の朝鮮侵略→中国制圧という戦略目標はおろか、朝鮮制圧も達せず、長い年月と多額の費用、 多数の犠牲を出し敗北撤退 多数の犠牲を出し敗北撤退 下関戦争→わずかな水兵が上陸しただけで長州兵は恐れを成して砲も破壊せず遁走 連合軍は無傷の砲を多数捕獲 薩英戦争→英艦隊に圧倒され敗色が濃かったが、英艦隊が砲弾が少なくなったため、撤収 薩摩側は完敗を認め賠償金支払い
マルチつうほうしといた
>>628 倭族弱者伝は他にもあるぞ
延暦七年(788年)三月
倭族は蝦夷討伐のため、多賀城に征東大使(後に征東大将に任ぜられる)紀古佐美の元に52800もの大軍を集結させるため
東海、東山諸国で動員令を発した
延暦八年(789年)三月
多賀城に集結完了した倭軍は胆沢の蝦夷側の拠点へ進軍した
倭側は兵力、物量の面で蝦夷側を圧倒していた
しかし胆沢の蝦夷の首長アテルイは倭軍の動きを知りまず敵の進軍にゲリラ戦で遅滞させ、三月末には進軍は停止してしまった
倭帝は進軍の遅れに激怒し紀古佐美に敵陣攻略を督促した
紀古佐美は前・中・後の三軍に分け進軍再開
途中の無防備の蝦夷の村落を掠奪、婦女子を強姦し、村民を虐殺し、村落を焼いた
北上川東岸北上中の中・後軍は巣伏村で300程度の蝦夷軍の攻撃を受け、容易に撃退し、追撃した
しかしこれはアテルイの策略であった
まず追撃してきた中・後軍の倭軍と前軍を分断するため蝦夷軍800が倭軍側面から攻撃開始し
退軍していた蝦夷軍も取って返し反撃始めた
さらに南方に倭軍の後方連絡線を遮断するため、蝦夷軍400が現れ攻撃を開始
三方から攻撃され混乱した倭軍は雪解けで増水した北上川に追い込まれた
倭兵は殺されるか、溺死し武具を捨てどうにか泳いで逃げた1257名を除き武将5名を含む倭兵は全滅した
蝦夷側の戦死はわずかに89名
その後もアテルイは倭軍を苦しめた
次々投入する度に惨敗を喫する倭人武将の無能に激怒した倭帝は
ついに渡来人の系統の坂上田村麻呂に討伐を命ずることになったのである
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/04/12(日) 12:49:13
おいおい春休みはもう終わったのになんだこの有り様は。
>>631 えーと「鎌倉武士」のスレに
その話持ち出す時点で敗北宣言だってわかってる?
まだ小さいから難しいかな?
煽って建設的な論議をさせない様にしたり ニュー速+で話題になった工作員とやり口が同じだな。
アイヌは地方豪族じゃん 対外戦争の話じゃないよ
>>609 >博多を焼いたことを自慢する人はやっぱり済南事件や通州大虐殺も自慢げに話しちゃうの?
たぶんね
628とかその手の類だろう
>>635 そもそも蝦夷とアイヌって文化的な繋がり無いしなあ。
軍を見ても蝦夷は騎馬中心だがアイヌは騎兵なんて殆どいなかったみたいだし。
しかも蝦夷って民族的に日本人と違うのかどうかもハッキリしてないし。
「高麗船」 波の間に高麗人が やたらたくさん溺れてる 高麗船は親父の形見 型は古いし時化にも弱い 俺とアニキのよ 夢の棺桶さ たった一人のフビライさんに 楽な暮らしをさせたくて 高麗船は嵐の海で なにもしないでそのまま沈む 熱い火_病じゃよ 水に浮かないぜ
日清戦争のときの旅順の虐殺事件の場合は米英の複数の新聞記者が目撃しスクープしたため 倭国政府は火消しにやっきだったな シベリア出兵でも虐殺事件は起こしているし 倭人は残虐民族だな
スレ違いしか話せないなんて「鎌倉武士」にはもうケチつけられないんですね わかりますw かわいそうですねえ
641 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/04/13(月) 00:32:34
ニダー大敗北wwww
火消しと言えばこれ
>>609 のネタね
「済南事件」1928
昭和3年5月3日、国民党軍が行った日本人への虐殺事件。
また「済南事件被害者を検死する日本人医師の写真」を「人体実験をする731部隊研究員の写真」とキャプションを偽って使用したという捏造事件でも有名。
略奪被害戸数136、被害人員約400。
中国側も立ち会った、済南医院での日本人被害者の検死結果。
藤井小次郎
・頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
斎藤辰雄
・顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
東条弥太郎
・両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。
東条キン(女性24歳)
・全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
・両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。肋骨々折損。
鍋田銀次郎
・左脇腹から右脇に貫通銃創。
井上国太郎
・顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
宮本直八
・胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。陰茎切除。
多比良貞一
・頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
・腹部を切り裂かれて小腸露出。
中里重太郎
・顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。
高熊うめ
・助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
・右脚の白足袋で婦人と判明した。
他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能であった。」
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2005/06/post_5e77.html ほかのみんなへ
スレちすまん
『通 州 大 虐 殺』 1937年、7月29日。 冀東保安隊(中国人兵士)は、事前にリストアップしていた日本人居留民の住宅一軒一軒に襲いかかった。 女性は強姦した上で性器を銃剣で刺す、刃物で抉る、箒や箸を突っ込むなどして殺害。 子供は両手・両足を切断するなどして殺害。 男は眼を抉る、 首に縄を巻き付けて引き回すなどして殺害。 それでも生き残った者は、手足を縛られ、鼻や喉に針金を突き通され、 二ヶ所に引きずり集められたうえで射殺された。 「支那人による通州大虐殺に関する宣誓口供書より」
高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は 戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め 膨大な非戦闘員を殺戮した。 遠征そのものは元の命令とはいえ、島々におけるこの行為は遠征目的と 何の関係もなく、それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。 この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、 残虐無慈悲な朝鮮人の民族性によるとの事である。
「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、そ の残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。 ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。 「蒙古トハ異国ムクリノ事也」(『沙汰未練書』) というようにムクリが通用していました。 捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。 意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ、縄を通してから、引きずり 回され、後、舷外に吊るされました。 新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語 ↑こういう歴史の恥部も628なんかはきっと得意げなんだろうな
釣れたwww
ちんこ噛みつかれて涙目なのに釣れたっていいはる子って最近では珍しいね
2007/10/22 18:04 元寇:白鳥倉吉【国史】 『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、 数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。 九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。 文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】
>>646 自分をエサにした釣りは、釣りとは言わんよ
ただの自殺だ
八幡ノ蒙古記 「異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ」
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/05/07(木) 03:15:40
二回目は棄民目的と見るのが妥当
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/05/07(木) 05:17:12
どう考えても本気
兵14万、船3500艘の大上陸作戦 大失敗の言い訳としてはうまいねw
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/05/07(木) 15:54:35
そのほかのモンゴルの侵攻作戦からみても 最大規模の動員をかけた文永弘安の役 でも鎌倉武士の活躍にて粉砕されますた
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/05/07(木) 16:58:31
でもモンゴル軍の質はこれまでの中で最低クラスでした
文永の役と弘安の役では、総勢が前者は約4万で後者は14万と人数が違ううえ、 モンケ時代の南宋遠征では動員兵力は公称60万だそうだから、弘安の役の 動員数が「モンゴルの侵攻作戦からみて」かなり多い方だったのは確かだろうけど、 「モンゴルの侵攻作戦からみても最大規模の動員」という訳では無い。
どの道多い方だったんじゃん
>>656 高麗のせいですねわかります
でもまあ元軍はいつも寄せ集めでやってるわけだし負けた言い訳にはならないけどね
日本にさえ攻めてこなければ 最強をほしいままにできたのにね
ウルスをようしていたのに質が悪いとな? ただの言い訳ですな
鄭若曾「等潅図編」 (日本人は)その兵を用うるや善く埋伏し、しばしば巡って我が軍の後ろに出で両面を討ち、 常に寡を以って衆に勝ち、塁を劫かし、華人たやすくその術中に堕つ。 その未だ戦わざるや、団結分散、三々五々にして、一人扇を揮うや伏兵四方に起る。 これを胡蝶陣という。
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/07/09(木) 14:33:32
age
元寇の真相 やあやあ我こそは! ずびゅ やあやあ我こそは! ずびゅ いやー。神風がこなかったらどうなっていたことか。
だとよかったろうが 史実では 高麗軍も元軍も 台風が来る前に武士団にすり潰されてたようだね いやー 神風を言い訳にできてよかったね
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
「高麗船」 波の間に高麗人が やたらたくさん溺れてる 高麗船は親父の形見 型は古いし時化にも弱い 俺とアニキのよ 夢の棺桶さ たった一人のフビライさんに 楽な暮らしをさせたくて 高麗船は嵐の海で なにもしないでそのまま沈む 熱い火_病じゃよ 水に浮かないぜ
衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ 民主が国政第一党になる ↓ 公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」 民主、公明の連立政権成立 ↓ 国政での外国人参政権が成立 国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進 ↓ 人権擁護法が与党の賛成多数により成立 行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる ↓ 国籍法の更なる緩和 日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増 ↓ 在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現 親中国の自民議員が民主に寝返る 自民党完全無力化、または解散消滅 ↓ 日本乗っ取り完了 「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索
669 :
記憶喪失した男 :2009/09/05(土) 18:44:06
>>1 鎌倉武士団は、ルフィに一撃を与えたトビウオライダーズの一人ぐらいにすぎないよ。
のち、海賊王になる男に勝ったのに、敵は味方に助けられるという魅力をもっていたのだ。
この人望に負けていくのだ。
鎌倉武士団に、モンゴル帝国より人望があるとは思えないね。
義仲のいない鎌倉なんてカスばっか
源氏も平家も外人部隊だからなあ...
元は旗本とか禁衛みたいなもんか
そんなの全部恩賞目当ての自己申告じゃねぇかw それに日本の場合は一騎につき徒の兵が数〜十人程度つくから実兵力は一騎×5〜10
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/09/14(月) 17:54:43
じゃあ元側の記録は何なのよ?
676 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/09/14(月) 17:55:29
あと10人も付かねえよ。精々2〜3人がいいとこ
義仲のいない鎌倉なんてカスばっか
>>674 徒士は10人もつかない。
また、徒士は騎射突撃の際には置いていかれる
白兵戦では一騎の人数は徒士を含めて考えるべきだが、騎射の段階で敵が崩壊しているならば
その時点での人数は騎数と同一
>>678 なんでも日本が絡むことと都合のいいことばかり言うバカたれ
くだらん日本優生論
バブルはじけたて不景気になったのに日本が世界で最も優秀だと夜まいごと言っていた連中と同格
自民大敗してもこの種の人種まだ日本に居残ってるんだな
反論できなくなると話題逸らしに走るバカってw
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/09/19(土) 09:49:18
>>679 あの〜。ここは元冦について語るスレであって
バブル崩壊を語るスレでも政権交代を語るスレでも無いんですが
683 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/09/22(火) 18:05:35
>>679 都合がいいも何も
騎射戦では徒士は置いていかれる、乱戦になれば一緒に戦う、優性も何もない。
日本人同士の戦いでもこれは一緒。当たり前の話だが。
それともなにか?お前は日本の徒士は馬と同じ速度で走れる超人ぞろいとでもいうつもりか?
いやいや日本人を高く評価してくれてありがとう。
たしかに江戸時代の馬子の中には馬より早く走る(しかも十キロ単位の長距離を)やつがいたとフランス人が書き残したりしてる
ので中にはそういうやつが居ても不思議ではないが
徒士はそんな走りのプロばっかじゃないよさすがに
>>674 平治物語絵巻、前九年、後三年…どれも徒士省略されてませんが?
ちなみに蒙古襲来絵詞でも実際場面に収まる範囲にいるときはちゃんと描かれてる。
あともうひとつ
蒙古襲来絵詞が描かれたときには竹崎季長はとっくに恩賞もらい終わってるよw
つーか
>>673 にも書いてあるなw
今昔物語巻の25に 「平維茂藤原諸任を罰ちたる語」というのがあるが 維茂の臨時招集に応じて集まった近隣の兵は 馬の兵70余人歩兵30余人だった
義仲のいない鎌倉なんてカスばっか
集団騎射かっこよすぎ
鄭若曾「等潅図編」 (日本人は)その兵を用うるや善く埋伏し、しばしば巡って我が軍の後ろに出で両面を討ち、 常に寡を以って衆に勝ち、塁を劫かし、華人たやすくその術中に堕つ。 その未だ戦わざるや、団結分散、三々五々にして、一人扇を揮うや伏兵四方に起る。 これを胡蝶陣という。
>>686 武士団に水際で蹴り返され追い払われた元軍も
世界規模で言えば一流の軍隊なんだよなぁ
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/13(火) 16:06:35
宇宙最強暴走半島武士団
房総半島のこと? まああのへんも昔は強かったらしいね
693 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/16(金) 00:27:08
694 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/16(金) 10:42:35
馬はデリケートだから船に乗せると弱ってしまう という。 ↑ ホントですか? それで、モンゴル騎馬兵の渡海とどう関連しますか?
日本へ来た元軍の騎馬軍率がさほどでもない(騎馬があんまり来てない)というのは 別に船に載せられないからって理由じゃないからね 馬を船の乗せられる=元軍は騎馬中心の軍隊!ってことにはならないよ 一応くぎを刺しておく
>>695 その通りだ
元軍は騎兵だけではない
だがモンゴル本軍は騎兵しかいない
当たり前だが
水や食糧を補給する場所が徒歩では当然無理な距離にあるステップや半砂漠地帯に住む遊牧民に歩兵なんかいるわけない
元軍の歩兵や攻城兵器を扱う兵は漢人や高麗兵などの外国人兵だ
オスプレイでも日本に襲来した元軍はモンゴル以外の外国人兵になってるじゃないか
674みたいなうそつきには本当閉口するな
元軍は日本侵攻のために高麗のあちこちに駐屯してたけど、済州島に駐屯していた元軍1700人の内、 高麗兵は1000人でモンゴル兵が500人だった。 残り200人は漢兵か。 モンゴル兵の割合が思ったよりも高いね。
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/11/07(土) 11:48:00
済州はお馬さんがいぱーいでモンゴル人も楽しかっただろう
こいつらの感覚だと13世紀のモンゴル人口30億ぐらいかw 初めて見てビックリしたわw とんでもねぇ妄想バッカスレwwwww
すまん・・
702 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/11/09(月) 12:39:00
高麗史に「忻都留蒙軍五百」と書いてあるんだからしょうがない。 済州駐屯軍1700人の約30%はモンゴル人。
>>702 はっきり言ってほとんど多くは元金の兵だろう
モンゴル人がいて金の人間がいないなんて絶対ありえない
当時の人間がそんなに詳細に出身地なんか特定できるとは思えんし
さらに言えば
モンゴルにとって征服したところでほとんど利のない貧しい国家の対日なんかどうでもいい戦線
モンゴルに重要な戦線は征服して利が大きく、技術力のある人的資源が豊富な対南宋、対中央・西アジア
負けた言い訳にしか聞こえんなw
済州島は朝鮮での軍馬の策源地でしょ? モンゴル人が多くても不思議じゃないと思うけど
当時の朝鮮はモンゴルの属国だし 兵士の割合はともかく、朝鮮国内にはいくらでもモンゴル人いただろう
高麗史27卷-世家27-元宗3-12-69-1271 金方慶報云:界內百姓皆食草實木葉雖有徵索勢無可爲者且見今官軍六千而科施赤則不得細 其數多少外有官人 撒赤首領官令史幷官軍家屬及其兄弟遞番往來者悉令給料至乃攻破珍島後驅掠人物亦令給糧 今計正軍六千人所帶馬率以一人三匹爲計則凡一萬八千匹一匹日支五升自十月至明年二月則當用上朝碩十三萬五千 6千人の兵1人につき馬3頭ずつで計1万8千頭!! さすがにモンゴル軍は凄いね。 それに勝った鎌倉武士はもっと凄いけど。
義仲のいない鎌倉なんてカスばっか
おまえまだいたの
和弓による遠距離戦 刀による接近戦 ともに武士が有利に進めたらしいね
国書の和訳DQN風味 上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」 大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」 日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」 境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」 況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」 遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」 朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」 即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」 高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」 義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」 王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」 高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」 日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」 開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」 尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」 故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」 冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」 且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」 不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」 以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」 王其圖之不宣「じゃーな!」 まさにDQN
>>683 あくまで戦国時代だけど、日本の徒士の頑強さと足の速さは外国人を
驚かせたみたいだね。もちろん、騎兵に追いつけるなんて
書いてないがねw
ルイス・フロイス
「武士は戦いにおいて強靱振りを示した。 徒歩の下級武士は、全身に重い甲冑を着け、
恐るべき早さで野山を駆け走りあるいは駆け登った」
外人のヨイショをすぐに真に受けちゃう男の人って
ヨイショってのは、褒めてる当人に聞かせる事を言う。
713 ここまで学がない人も珍しい
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/12(土) 19:20:46
鎌倉武士なんて頭からっぽのやつばっかだろwww
>>712 どこも外国の兵と比べてと書いてないんだけどw
718 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/13(日) 00:01:35
こんな辺鄙なところでオナニーしててもしょうがないよ
720 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/14(月) 05:42:27
まあでも武士が元軍よりは強かった事実はどうしようもない
721 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/14(月) 07:34:06
でも内部の裏切りと朝廷による征伐、大義名分には負けている!大義名分よる戦争は合法。それに反する輩は国賊。
>>720 高級指揮官の捕虜 0
捕獲した船舶 0
捕獲した大型兵器 0
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/15(火) 00:16:09
↑アホ
武士が元軍より強かった(笑)
騎乗では弓を射るしか能のない鎌倉武士=中年アルバイタ−にフルボッコされた自称傭兵
橋頭保も確保できず 武士にぼこぼこにされて敗退した元軍 騎射では武士の集団戦にやられ、白兵でも武士にやられ、いいとこなし
727 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/17(木) 10:22:45
元史日本伝 七日、日本人と交戦、ことごとくやられ、二、三万人は捕まってしまった。 九日、八角島(平戸島)にまで日本軍が侵攻、蒙古高麗漢人は全て殺され、唐人は日本と国交があったので助命された。 結局10万人を越えるわが軍の内、帰還できたのは三人だけだった
鎌倉武士なんか1万いてもアルモガバルス100人に負けるでねぇw アルモガバルスは騎乗でも歩兵でも戦えるし、オスマンにも一度も負けてないしな 英語版オスプレイで写真見たら欧州やアジアで捕獲されたモンゴル兵の甲冑は共通してるのに、日本で拾った?革の鎧? 全然違うじゃねぇかよw やはり日本に来たのは蒙古兵はいないのは決定だなw 来たのはほとんど戦う気のない南宋兵と高麗兵www
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/18(金) 00:02:02
軍事板や日本史板でフルボッコにされたからって こんなとこに逃げて来なくってもw
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/18(金) 10:25:54
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。 しかし、それに対する日本からの返答は、 「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。 我が国には、水沢の地や山海の洲にも 備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません (来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」 という挑発的なものであった。 当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、 自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。 明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三 「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
永楽帝はなんで攻めて来なかったのかな
>>729 オマエ軍板や日本史板にも出入りしてのw
まだ歴史板ならわかるが軍板って・・・
スレあんのw
オマエが立てたのw
気持ちワリィオタ野郎www
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/21(月) 02:21:29
こんな過疎スレで吠えたところで知れてるよ? 向こうのが人多いから釣りならそっちでやりな
帝王編年記 「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。 於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/12/26(土) 13:54:39
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
鎌倉武士なら欧州も制圧できてたのにな モンゴル人は攻めるんじゃなくてお願いすればよかった
幕府も御家人個人でも欧州欲しがる武士は当時はいなさそうだがな 欧州を知ってるとしてだが
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/03(日) 02:37:17
今までサスケのクリアできた3人て身長たったの160センチ前半で 体重53キロ、56キロ、61キロしかないんだな みんな戦国時代ばりにチビだけど総合的な運動能力ではこのくらいがベストなのかも もっと身長体重の大きなプロスポーツ選手とか格闘家でもだめだからな
素手の1対1で狭いリングの中なら60kgは100kgに勝てない 移動に何日も要し、だだっ広いフィールドで武器使う戦争なら別 体重は邪魔
サスケだけですべてを判断する
>>743 さんは山田の関係者
総合筋が試されるオリンピック10種競技の選手も無理 190センチあるが巨体が邪魔してる
鎌倉武士なら全員サスケ余裕の制覇です 本当にありがとうございました
>>744 それは銃など遠距離殺傷能力が高く、操作に特別な能力を必要とせず
殺傷力に人間的要素がほとんど無い近代兵器を使った戦場の発想では?
>>748 弓が当たっても刃物で切られても死ぬか戦線離脱
その前に17世紀にウエイトで作った筋肉はキープできないと思う
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/08(金) 15:11:25
これが元寇の真実
643 :マンセー名無しさん:2009/12/12(土) 17:48:08 ID:nSvm5eEt
>>630 元寇の場合は、日本の感覚は通用しないな
戦争といえば負ければ全てを失う、と考えがちだが、
元側の場合、兵の多くは滅ぼした宋出身の漢民族の軍人だった
少数のモンゴル人が多くの漢人を支配する場合、こいつら軍人は邪魔になる
勝てばラッキー、負けても支那人の食い詰め兵どもがアボーン、ヒャッハッー!
そんな感じの戦争だった。結局、死んで帰れなかったのは漢民族
元の司令官たちの船は神風でも沈まずほとんど生還した
645 :マンセー名無しさん:2009/12/12(土) 19:14:30 ID:z/5FPasV
>>643 日本人が「負ければ全てを失う」と思ってたかは微妙だけどね。
そーいう異民族戦争はほとんど経験してなかったし。
ただ相手が想像を絶する大国だったろうから必死だったとは思うけど。
元寇を切り抜けた結果、結局そういう戦争を経験せずに今まで来ちゃったワケなんだよな。
それは多分幸運だったんだろーけど、その怖さも知らない分甘いトコが在るわな。
752 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/08(金) 15:18:21
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/08(金) 15:20:32
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。 しかし、それに対する日本からの返答は、 「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。 我が国には、水沢の地や山海の洲にも 備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません (来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」 という挑発的なものであった。 当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、 自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。 明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三 「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
都合の良い解釈満載だな
反日史観や支那朝鮮には都合が悪いスレですね
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/09(土) 12:49:41
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/09(土) 14:16:36
>>756 少数のモンゴル人が多くの漢人を支配する場合、モンゴルに率先して協力した軍人を殺しちゃったら、
統治が困難になるだけじゃん。
>率先して協力した軍人 都合の良い解釈入りました〜
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/10(日) 03:08:45
>>752 ※蒙古襲来絵詞、その後の真実。
恩賞ねだりに鎌倉行く途中、三嶋大明神と箱根権現にお参りした。
八月に鎌倉ついてすぐ、宿とる前に八幡様にお参りした。
奉行誰も会ってくんねー。また八幡様にお参りした。もう必死。
十月、御恩奉行の安達泰盛様が会ってくれたよ(゚∀゚) 二ヶ月粘りましたw
大将の少弐景資が『生きて帰れたら見参に入れてやるよ』って言ったのに!
その兄貴の少弐経資も『だいじょぶ、ちゃんと言っとくから』って言ったのに!
表彰状みたら「先駈け」の武功が載ってないんすよお!
『頑張った。怪我した』って書いてあるだけ。
約束だった見参にも入れてもらえなかったし!
だからなんかの間違いかなーって思ってぇ、馬と鞍売って歩いて来ました(゚∀゚)ノシ
見てのとおりビンボー侍だけど、頑張ったのに…俺、頑張ったのに…!!
少弐たちに手紙で聞いて下さいよ! ウソなら首切ってくれて良いっすからぁ!
そう言ったらね、安達様、すぐ認めてくれたよ。もう即決。
領地くれるって言ってくれて、御下文、直接もらっちゃった。あ、馬ももらったよ!
これも、夢のお告げに従って鎌倉へ行って直訴することにした お・か・げっ
(太宰府経由の正規ルートで)恩賞もらったの120人ちょいいるらしいけど、
御奉行から直に御下文と馬もらったのって、自慢じゃないけど俺だけだかんね?
あ、神様ありがと。俺のこと応援してくれたよね。
(後からこれ見る奴、そこらへんわかれよ? この恩賞は神意である、なんちてw)
だからこの絵巻奉納するよ。
※
1285年 安達泰盛・少弐景資 没
1291年 少弐経資 没
1293年 蒙古襲来絵詞 完成
結局元軍が武士にぼっこぼっこにされた事実は何も変わらないわけでw
761 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/10(日) 16:32:49
>>757 >率先して協力した軍人
おい、都合の良い解釈するな
まあ征服民を使って次の戦争をするのは元お得意のパターンだし それでヨーロッパもやられてるわけで… まったく土付かずの状態で撃退した日本はさすがだよ
763 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/10(日) 17:15:39
>元寇を切り抜けた結果、結局そういう戦争を経験せずに今まで来ちゃったワケなんだよな。 >それは多分幸運だったんだろーけど、その怖さも知らない分甘いトコが在るわな。 これは事実だな 日本は甘すぎる
戦略目標であった大宰府にまったく到達できず それどころかはるか手前の水城にすら到達できなかった元軍。 元軍は甘すぎた。
同月、中書省は元皇帝に日本侵略の計画について奏上した (以下、『元高麗紀事』耽羅至元九年十一月十五日条より現代語訳)。 「これより先、日本・耽羅のことについて枢密院官と打ち合わせました。 南国より日本を経由して来れる耽羅人三名を召し、地図を書かせました。彼らは申しました、 『日本太宰府等ノ処ノ下船ノ地、倶ニ下岸シテ約二三万ヲ用フベシ』 (上陸地から太宰府に向かうには、軍勢数万が必要でしょう) この程度で大宰府を落とそうと考えていたわけだ まあ他国はこの程度でおとしてきた実績があるのでこれでいけると考えたのも無理はない 元が甘かったともいえるが日本の軍事力が元の想像を超えていたわけだな
第二次大戦までの日本は戦闘民族すぎる 海に隔たれた良い環境で、たまに中国とか西欧のいいものを取り入れる 文化の成熟と島内だけの内戦を繰り返してガラパゴス的な発達を遂げる なぜか高いレベルを維持できてるが 島国だからか外から見て相対的に気付く
狭く起伏に富んだ地形のなかでのおそろしいほどの過当競争の結果だな
応永の外寇なんかも武士は片手間でほふっちゃった感じだよね
5月21日 対馬襲われる 5月21日 対馬襲われる 6月06日 博多に出現 同日 志賀島係留 大矢野種保軍ら夜襲 6月08日 大友貞親軍らによる攻撃 6月09日 東路軍海上へ撤退 6月13日 東路軍壱岐まで後退 6月29日 少弐経資軍ら壱岐の東路軍に追撃 7月02日 東路軍壱岐を放棄、平戸まで撤退 7月07日 潰走する元軍を島津長久軍+松浦党らが迫撃 7月27日 元軍耐えきれず徐々に鷹島へ敗走しだす 7月30日 台風 閏7月5日 鷹島にて元軍残党狩り。元軍敗北
世界最強鎌倉武士団 当然米軍だって寄せ付けない 人類史上最強鎌倉武士団!!
元軍は二度の対日本戦の敗北以後、日本におびえながら緩やかに死滅していく… ------------------------------------------------------------------------- 第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇 -------------------------------------------------------------------------
まあ最強かどうかは知らんが13世紀ならトップ3には入ってるだろうな
13世紀の侍、マムルーク、元の合戦見てみたい 元には勝ったから違う地形で
とりあえず海戦(博多湾、平地(福岡平野、では武士の勝ちか 違う地形というと後はなんだろうな?砂漠とかか
それぞれホーム&アウェイでやるのが一番フェアで面白くなるんじゃなかろか スポーツ以上にホームの地形は有利になるだろう 戦術、武器など戦い方も自分の国用に発達したものだろうし
とりあえず元軍はアウェイでも勝ってきていたが日本では負けた
いろんなところで負けてるけどね彼ら
>>758 >>761 元史 巻十一 世祖本紀八 至元十七年
七月戊辰、詔括前願従軍者及張世傑軍、使征日本。
八月戊寅、以前所括願従軍者爲軍、付茶忽領之、征日本。
弘安の役の日本遠征軍は従軍を願う者を募って編成されたんだが。
「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。 故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。 もし此事を以て臣に委ねなば王師を小助せん」 朝鮮人、日本侵略にノリノリである
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/01/20(水) 18:06:04
52 :日本@名無史さん:2008/09/07(日) 10:54:42 鎌倉のクラは、古代朝鮮語。 カマの語源も、コマ。 実際に、高倉福信のような高句麗人は、名前、地名にコマやクラをつけたがった。 コマのつく地名は、関東の至る所に現存する。 関東人は、朝鮮の直系だったのだ。
サムライの起源はサウラビといったとんでもない馬鹿話が何故韓国で流布するのだろうか。 サウラビ起源説の「起源」を追ってみたところ、1983年まで遡ることが判明している。 初めてこの説が発表されたのは、 数学史が専門で漢陽大学教授の金容雲が著した「韓国人と日本人」(1983) だ。 彼の説明では次のようになるそうだ・・・ >韓国語で戦うということを「サウル」といい、男を「アビ」という。 >「戦う男」を韓国語でじかに表現すると、「サウルアビ」になる。 >飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、 >日本の「サムライ」と、韓国の「サウルアビ」と、 >なにかつながりがありそうに考えられる。 本人の言う通り、素人の思い付きにすぎない。 こうしてサウラビ起源説は世に現れたらしい。 これが時間の経過とともに「学説」となり、 さらに「歴史的事実」として韓国人の間に流布していったそうだ。 >飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、 >飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、 >飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、
元軍がサハリンから北海道を攻めようとしていた件
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/02/09(火) 15:24:09
鎌倉武士なんて 天皇家と一緒で出自が怪しいからな・・・ 元寇なんて同族同士の戦いだったりして
785 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/02/09(火) 22:00:54
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、 その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。 この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。 大化改新(六四五)以降には、未墾原野の開拓のために、計画的に帰化人の集団を東国各地に移植した例も少なくないが、 それでもめぼしいものはたいてい中央に置かれた。 したがって、近畿地方と古代の帰化人というものは、最初から最後まで、深い関係をもっていたのである。 関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
サムライの起源はサウラビといったとんでもない馬鹿話が何故韓国で流布するのだろうか。 サウラビ起源説の「起源」を追ってみたところ、1983年まで遡ることが判明している。 初めてこの説が発表されたのは、 数学史が専門で漢陽大学教授の金容雲が著した「韓国人と日本人」(1983) だ。 彼の説明では次のようになるそうだ・・・ 韓国語で戦うということを「サウル」といい、男を「アビ」という。 「戦う男」を韓国語でじかに表現すると、「サウルアビ」になる。 飛躍がすぎると叱られるのを覚悟で、アマチュア式思考でいうと、 日本の「サムライ」と、韓国の「サウルアビ」と、 なにかつながりがありそうに考えられる。 本人の言う通り、素人の思い付きにすぎない。 こうしてサウラビ起源説は世に現れたらしい。 これが時間の経過とともに「学説」となり、 さらに「歴史的事実」として韓国人の間に流布していったそうだ。
彼らは起源説なんてなくても作るからなw
>>788 七月に入るまで江南軍は日本近海まで来れてない
そして合流後もろくに戦果を出せず台風後ようやく全面衝突し壊滅
10万も居たのに何やってんだ
とにかく周辺に手っ取り早く上陸しようとしてことごとく失敗している印象だな
792 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/02/13(土) 17:08:03
神風のお陰とか言っている右翼気持ち悪いな
ほんとそういうエセ右翼は気持ち悪いな 実際は神風(というか三か月も逃げ回ってたら夏になっちゃっただけwそりゃ台風も来る罠)以前に 元軍は士気崩壊してるからなw 中道なら神風関係なく武士の勝だといわなきゃね
真の神風は江南軍の司令官が病気で 敵の主力の到着が台風の時期まで遅れたことだろ これがホントの神風邪なんつってwwwwwwww
主力の割には合流してからも負けっぱなしだったな
実際台風の後に鷹島で戦ってるからな で、そのうえで元軍惨敗 異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ 東路軍が緒戦で防塁に阻まれて上陸できず惨敗したことで びびって博多湾からの上陸を諦めたのがさらに負け続ける原因になったのかもな
797 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/02/14(日) 23:45:02
元寇ネタで映画つくってくれないかなあー 外国への気遣いや平和思想なんて無しで武士マンセーの娯楽作品でさ
798 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/02/17(水) 20:24:48
ヴェトナムってやたら持ち上げられるね
単に日本の圧勝が気に入らないやつがもち上げるだけだから 朝鮮の手あかがついてない場では誰ももち上げてない 一部の反日史観の連中がベトナム関係者不在でもち上げてるわけだ。 実際、ベトナムは占領されて全面降伏しちゃってるわけだから 本来は軍事的なレベルの話ではもち上げようがない 日本はまったく土付かずで圧勝してる ベトナムは敗北し、その後あまりに圧政だったのでクーデターをおこして奪還したという明確な違いがある もちろんベトナムを悪く言う必要はないんだが、変に持ち上げても 逆にベトナムを辱めることになりかねない。
ベトナム人も俺達のおかげで日本は助かったと言う…らしい
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/01(月) 00:24:48
たんぱん
ベトナム人はそんなこと言わないだろ 1257年ウリャン・ハタイ率いる3000人のモンゴル軍に首都を破壊される。 その後、ベトナムにはダルガチが配備され、モンゴル帝国の属国に。 1284年、チャンパー攻撃のついでに侵攻したモンゴル軍にまたもや首都を制圧される。 聖宗の弟の昭国王陳益稷など陳朝の有力者が大量にモンゴル軍に投降。 1287年にベトナムが白藤江で勝った元の水軍は僅か500艘程。 何故なら、元の海軍はその前の弘安の役で3500艘の江南艦隊が壊滅するという大損害を 受けていたからである。
ベトナムは頑張ったほうだと思うよ
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/14(日) 12:11:04
元寇の真実 武士1 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 武士2 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 武士3 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ ・ ・ ・ 武士12567 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 蒙古兵1:今日もたーんと殺したったで、夜んなったし帰るか… そして神風が大蒙古の船団を襲った… 自然の脅威の前には世界帝国も無力であった
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/14(日) 13:12:36
元寇の真実 武士1 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 武士2 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 武士3 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ ・ ・ ・ 武士999999 :やあやあ我こそは… 蒙古兵1:ズビュ 蒙古兵1:武士は弱いの殺し過ぎて矢がなくなったから帰るべ そして神風が大蒙古の船団を襲った… 自然の脅威の前には世界帝国も無力であった
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/14(日) 14:28:54
おいおいこんな過疎スレに書いてないで 学問板や軍板のスレに来たらどうだい?
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/15(月) 05:18:29
>>802 なんだ
反対にベトナムが日本に助けられていたのか
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/16(火) 02:27:22
キルレイシオから言ってもこんな一方的大勝利は他にないな
809 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/16(火) 03:28:23
寡兵で大群に突っ込んで暴れ回ったり、 首欲しさに船にまで夜這いに来たり そんなキチガイみたいな相手と戦うのは大変だったと思う
>>1 大陸に進撃し向こうのホームで元軍を打ち破れたら最強と認めてやる
812 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/03/16(火) 15:29:22
日本側死者1000 元の奴隷兵シナチョンの死者150000 こんな一方的な大勝利は世界史上ほとんどないwww
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民 <訳>そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。 しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、 百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。 【広開土王碑】より
季長さんは安達さんに恩を返せなかったよね 絵巻物つくってごめんなさいしないといけないよね(´・ω・`)
でも季長さんは蒙古軍ボコボコにしすぎなんだぜ
八幡ノ蒙古記(1289年成立) 「その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、 究竟の馬廻に、弓の上手ありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、 かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ」
筑海の颶氣、天に連なって黒し 海を蔽うて来る者は何の賊ぞ 蒙古来る 北より来る 東西、次第に呑食を期す 趙家老寡婦を嚇し得て 此を持して来り擬す男児の国。 相模太カ、膽甕の如し 防海の将士人各力む 蒙古来る 吾は怖れず 吾は怖る関東の令山の如きを 直前、賊を斫って願みるを許さず 吾が檣を倒して虜艦に登り 虜将を擒にして吾が軍喊す 恨む可し東風一驅大濤に附し 羶血をして尽く日本刀に膏らしめざりしを
最強かどうかは知らんが 蒙古よりは強かったようだな
兵担が持たんわ。 軍隊としてでなく 【戦闘者として最強】
我々は実に立派な祖先を持っているよね。 なのに今のこの体たらくときたら。。 (´;ω;`)
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/07(月) 00:02:11
よくわからんがその兵站が優れていたにもかかわらず 蒙古は日本に負けたんだね
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」 帝王編年記 『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。 逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』
名こそ惜しけれ 鎌倉武士世界最強
最強かどうかは知らんが 蒙古よりは強かったようだな
828 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/25(金) 09:22:18
まあ結局蒙古側の失態により勝てたわけだけど・・・ いいんじゃない?敵失に漬け込むのも戦略だ
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/26(土) 04:17:27
蒙古の失態は日本にケンカを売ったことそのものだなw 真正面から日本に叩き伏せられた蒙古高麗
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/27(日) 15:58:23
防衛戦に勝ったくらいで、威張って駄目でしょ。
831 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/06/27(日) 17:06:10
くやしそうですね
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ 一方的だな
833 :
月孔雀 :2010/06/29(火) 17:36:47
鎌倉武士は戦ってないじゃん。 戦ったのは九州武士。
834 :
白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2010/06/30(水) 23:14:09
>>833 その通り。鎌倉武士は後方におって督戦しただけ。
元寇の武勲は、九州の中でも、松浦党のような水軍、また後築地で
有名な河野氏のような瀬戸内水軍系じゃ。
元寇後、その奮戦した連中の利権を奪う行為に出て自滅したんが
北条氏ら鎌倉の連中よ。河野氏が南朝側親派になったんも、
鎌倉の連中の自業自得じゃね。
835 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/07/25(日) 23:24:43
836 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/09/28(火) 09:12:15
>>833 そういうツッコミよく見るし馬鹿牛も多用するけど
みんなは鎌倉時代の武士って意味で使ってんじゃないの?
837 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/09/28(火) 23:34:04
矢面に立った連中の大将はほとんど関東出自なような。
838 :
月孔雀 :2010/09/29(水) 13:28:51
世界最強なら、モンゴルに負けないような、 巨大帝国を作らないとね。
鎌倉武士=重装騎乗弓兵 (笑 馬上槍もありませ〜ん (笑笑 モンゴル兵なんて来てませ〜ん 使い捨ての高麗兵と南宋老兵だよ〜ん (笑笑笑
その使い捨ての兵に鎮圧される反フビライ軍の蒙古騎兵はよほど 弱いということになりますね。
841 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/09/29(水) 22:22:25
外に攻める概念のない悲しさ。
だいたい日本に攻めてきたのは歩兵 モンゴル人の部隊には歩兵はいない、全部騎兵 歩兵になるのは従属民 ていうか匈奴以来遊牧民自身が歩兵になったことなんてない 遊牧民にとって馬から降りて戦うことは恥ずべきことなんだよ それにチンギスが死んだときの4人の子供に対する遺産相続で従属民を除いたモンゴル人の総兵力はわかっている 12万9000、これがモンゴル人のみの総兵力 末子相続のため末子トルイに内10万1000与えられた しかしトルイはまもなくオゴタイに兵力の多くを譲った 従って日本みたいな辺境に貴重なモンゴル人騎兵を送るわけない それにモンゴル騎兵の馬は消耗率が高いため一人あたり12匹の予備の馬が用意されている そんな大量な馬が日本に渡海したとは思えないしな
>>28 に戻る、と。
28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:36:45
日本に来たのはモンゴル帝国内で最強の大元ウルスのモンゴル軍。
大元ウルスに対しては、他のモンゴル内の有力者も度々反乱を起こしているが、
クビライは連戦連勝。
ナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅させられたんだ。
844 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/09/30(木) 18:47:03
>>843 お前何言ってんの
笑っちゃったよ
ただネット情報を浅く拾ってるだけなのバレバレじゃないかよ
フビライの一番恐れていたのは
オゴタイ・ウルス、チャガタイ・ウルス、アリクブケ・ウルスなど中央アジアを事実上支配していたハイドゥだよ
フビライは終生ハイドゥの敵対行為に手を焼いた
ナヤンを始めとする東方三王家の反乱はハイドゥの調略、離間の策によるものだよ
それにフビライはモンゴル人部隊を二分して従属民部隊とともに東方三王家の乱を鎮圧に向かった
しかし戦死させたのはナヤンのみであとの二王家はフビライが没しても抵抗続けた
鎮圧されたのは次代だよ
もう一方の部隊はバヤンが指揮してカラコルムに侵攻してきたハイドゥの軍をどうにか阻止した
しかしハイドゥの乱もフビライ没後も続いている
ヨイショ一辺倒の元史からみればフビライに好意的に書かれるが
客観的に見てフビライはハイドゥに対して防戦一方で敵地に攻め込めなかった
それどころか
ハイドゥにカラコルムまでも攻め込まれた上に元領内で反乱まで起こされている始末じゃないかよ
だからモンゴル人部隊を日本ごとき辺境に遠征なんかできないんだよ
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/01(金) 03:19:26
要は モンゴル→ヒョードル 日本→ファブリシオ って事だろ。
「鎌倉武士のなんともいえぬ潔き気風の真髄となっているものもやはり平安時代の「あわれ知ること」である。 平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。 彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、 その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。 自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、死を決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。 足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。 落花に対して風を恨んだ源義家もある。 梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。 熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。 これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。 実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)
忠君の情が厚かった。 そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、 この「あわれ知る」という気風であったのである。 武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。 理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。 鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。 このことについては、武士はいつ死ぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、 在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、 我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)
851 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/10/02(土) 00:13:55
ザコはザコで納得したとする。 つまり元としては諦めた相手なんだな。
852 :
白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2010/10/02(土) 01:22:38
>>837 河野氏も松浦党も関東出自じゃ無いよ。
>>842 蒙古兵の長弓槍の歩兵部隊はおったよ。匈奴も歩兵部隊がおった。
>>847-848 「京畿に馴れる輩」に、弓馬技術を習う、関東セミプロの悲しさを
表現せん虚勢張り文じゃのう。(笑)
853 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/02(土) 15:51:18
雑魚云々というより海渡るから モンゴル人じゃ役に立たないと判断したんじゃね?
854 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/02(土) 20:02:03
平原以外じゃ結構負けてるモンゴル人を 大量に送り込んだ所で似たような結果だろ。 上陸してすぐの場所で数万単位で待ちかまえられたら よほど軍備と士気に差が無い限り 近代以前の軍隊じゃどう足掻いても勝てねえよ。
855 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/02(土) 20:47:33
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/03(日) 05:22:23
逆に言えばそんな切羽詰まった状況で 日本攻めるとかマジアホやん
あんなとこ簡単に制圧出来るだろ、って思ってたんでしょ 舐められたもんですね
別になめてはないんだろ、日本列島で例えたら、本州ほぼ制圧して、田舎と言われている九州に攻めてみたらこれは楽勝、 ついでだから、もっと田舎の島国と言われている沖縄に攻めてみたら、兵の質、量ともに物凄い国だったと。
>>852 バカな奴だな
遊牧民国家の歩兵は従属農耕民の徴集兵もしくは捕虜だよ
遊牧民は農耕民をよく拉致してきて自分の領地で耕作させる
匈奴なんて漢人拉致なんてよくやってた
それに歩兵はだいたい地方軍所属で自領内での反乱や近隣への派兵が主な任務
騎兵の移動スピードについて来れないのがわかりきってるだろう
南北朝時代、北朝が鮮卑族の征服国家北魏で南朝が宋の時の史書『宋書』巻七十七柳元景伝
「虐虜見駆 後出赤族 以騎蹙歩 未戦先死 此親将軍所見 非敢背中国也」
(鮮卑の)騎兵に脅され漢人は歩兵として用いられるという意味だよ
>>859 何言ってんのお前?
その捕虜やら何やら雑多な兵を最前線におったててユーラシア中の都市と国々を
落としていったのがモンゴル軍なんだが?顕著なのがサマルカンド攻めとか
ついでに金とかからちょっぱってきた最新鋭の攻城兵器も押し立ててね
まーさか遊牧民出身の騎兵とやらだけで金や西遼とかホラズム=シャーとか
ルーシの都市を電撃的な速さで陥落させたとか思ってない?
>>860 だから言ってるだろクソだな
チンギスが死んだとき4人の遺児に兵を分割するときに
モンゴル人の総兵力は12万9000で全て部隊編成された騎兵だって既にわかってるんだって
当時のモンゴルの人口とか考えないんかい
どんだけ多いと想像してんだよ
モンゴル軍は他の遊牧民を騎兵として組み込み、漢人やその他の農耕民や捕虜を歩兵にするんだよ
アヴァールだって奴隷同然のスラブ人を歩兵として酷使した
とてつもない距離を短時間で戦略移動する騎兵に歩兵が追随できるわけないこと、常識でわかるだろ
それに遊牧民の騎兵は長距離移動に慣れているが、歩兵を長距離移動させる兵站はどうすんだ?
攻城兵器なんか現地作るに決まってるし
それともノロノロと引いて行くと思ってるんかい
遊牧民にとって従属民や捕虜の歩兵なんて使い捨て同様、供給元の人口の多さから補充はすぐできる
だがその地の農業生産力は確実に減少する
だから満州に領地のあった東方三王家は領民を日本遠征に徴集されそうになり
ハイドゥの調略に応じたんだよ
だから日本遠征には満州の漢人は参加しなかった
長文でソースなしは読む気失せるなぁ。
じゃぁ、読むなくて結構 ソース? 馬鹿にしてる? モンゴル人のみの部隊兵力12万9000の件はどこにでも出てるし 遊牧民国家の歩兵が従属民であることについて一例は『宋書』から引用し前述してるが何か問題でもw 普通に内陸ユーラシア史やってりゃそれぐらい気づくはずですがねぇw
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/10/31(日) 02:44:38
つまり日本には雑魚がやってきただけ、勝てて当然
そのとうり
その使い捨ての兵に鎮圧される反フビライ軍の蒙古騎兵はよほど 弱いということになりますね。
そのと「う」り w
868 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/03(水) 13:59:53
日本にきたのはモンゴル最弱軍団 小日本が本気のモンゴル様に勝てるわけないの 勝ててしまったら都合わるすぎだろ?
869 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/04(木) 10:30:24
日本に来たのは、指揮系統はモンゴル、兵は高麗。 高麗兵は最弱?
モンゴル人は泳げないから海をわたるなんて考えない。
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/05(金) 16:11:53
宇宙最強房総武士団 みんな波動砲 撃てる
872 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/08(月) 07:00:38
>>863 そのとうり
日本に来たのが精鋭とか言ってる馬鹿は読むな
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/08(月) 17:57:47
874 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/21(日) 23:06:26
そのと「う」り w
876 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/27(土) 20:10:04
元寇は鎌倉武士の実力勝ち 文永の役…対馬壱岐などの防備の薄い小島でホルホルしている間に大宰府戦闘体制 九州上陸後あっというまに武士の集団騎射に射散らされて退却 夜陰に乗じて敗走 弘安の役…防塁上でびっしりと守備を固める武士が邪魔で上陸できず ろくに部隊を展開できない陸継島からむりやり上陸しようとするも 海からは小舟で乗り込んでくる武士、陸からは狭い海の中道から武士が押し寄せ 全く歯が立たず撤退 その後博多湾上を逃げ回る 攻め始めたのが六月なのに気づけば夏真っ盛り、台風シーズン 武士の包囲網をぬけ多くの兵士を見捨てて元軍逃走 台風後、船を失い平戸や鷹島に見捨てられた蒙漢軍兵10万余りは武士に徹底的に掃討され壊滅
877 :
月孔雀 :2010/11/29(月) 17:51:05
上陸作戦は、圧倒的に守備側が有利。
878 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/05(日) 02:24:23
>>877 そうだけど二回目は言い訳できないでしょ
879 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/10(金) 13:22:09
文永の役 「そんな装備で大丈夫か?」 「大丈夫だ、問題ない」 「神は言っている、ここで死ぬ運命ではないと。」 弘安の役 「そんな装備で大丈夫か?」 「一番いいのを頼む」 「ツシマジンノカタキヲトルノデス!」 「アッー、今回もやっぱりダメだったよ。」
>>872 ぶっちゃけあの戦いに関しては
生粋の元軍である精鋭部隊の方が役にたたん
日本とるのに本気だったのは事実だし
それは言い訳にならんよ
言い訳として通用するのは強いて言うなら「地の利」だな
威力偵察論って流行ってるの? 何年も放置したら偵察の情報が古くなって使えなく成るのにね。 元軍ってそんなに馬鹿だったと言いたいのだろうか?
普通に一回目は失敗したから二回目は更に本気って話だろうね〜 導入した規模は二回目の方が圧倒的だけど 戦果としては一回目の方が優秀だし
そりゃ次なる襲来に備えて強化したんだからね あと、台風を舐めちゃいかんね 太平洋戦争でも米艦隊が台風によってやられてるしね
884 :
月孔雀 :2010/12/13(月) 18:24:06
神風で勝った鎌倉武士団。運も実力のうち?
885 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/14(火) 02:24:51
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/14(火) 14:39:54
で、防衛戦に勝った後は、海外進出しないの? 引きこもりの江戸時代と鎌倉時代は、似たようなもの? 海外進出は、無理ですか?
そこで倭寇ですよ
なんで国力や軍事力を評価すると領土拡大させたがるかね… 帝国主義者なの? 領土の広い国にコンプレックスでもあるの? 歴戦ゲー脳なの?
889 :
月孔雀 :2010/12/19(日) 06:22:00
男のロマン
890 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/21(火) 14:06:31
>>886 だって正直な話日本が一番豊かなんだもの農業生産力的に考えて
それ以外のものは貿易で手に入るし
島国だからたいした兵力がないと思ってやってきたら案外手こずった。 最初の兵力では無理っぽい・・・撤退。 もっとたくさん連れてきたよー。 あれ?準備万端で待ってるじゃんか。話が違う。 愚図愚図してたら、台風さんコンバンワ。 舐めすぎ
なんか、鎌倉武士団の楽勝みたいな表現が気にかかる。 国家存亡の危機であったのでは?
893 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/23(木) 19:17:50
>>892 戦争としてはたしかにそのとおりだが
実際の戦闘はおおむね優勢だったということだろう
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/23(木) 20:58:13
未曽有の危機だと思って 大動員かけたら思ったより弱かったでござるの巻
895 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/25(土) 20:26:46
で、鎌倉幕府の滅亡は、元寇が原因だと聞いたのだが・・・
896 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/26(日) 02:52:46
蒙古襲来経験した世代は南北朝の頃にはみんな死んでるだろ
897 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/26(日) 05:15:36
元寇で戦った武士に恩賞を与えられなかった鎌倉幕府に、 武士の不満が高まったと、習った。
898 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 17:30:24
このスレにチョンいるな 少数だが
899 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/11(金) 12:56:03
南無八幡大菩薩
900 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/23(水) 20:46:49.77
>>897 というか元冦キッカケに御内人が調子乗り出したのも大きい
体格 鎌倉武士の身長は160cm これはノルマン人165cmにつづいて世界最長レベルです なぜ最長なのかというとその下がマレー人150〜155cm その下が一気にさがって140〜145cm EU,しなは140cmしかなかった。 ノルマン、日本、マレー以外はほとんど150cmに満たなかった。そして、160cmと 145cmのリーチ差は175cmと155cmの差なんですね。 リーチ、体力あっさです。 そして、知力、当時日本の鎌倉武士以外はほとんど教育をうけてません。 識字、数がどれだけ戦闘に大事かは近代戦をみればわかるでしょう。 そして訓練、当時、鎌倉武士以外に戦闘集団訓練受けた部隊はありません。実質鎌倉武士ってのは世界最初の常備訓練軍です。 だから錬度があっさ そして、武器、おおたちのリーチ、重量はごきぶりしな刀の数倍です。体格さでそうなります。打撃力レベルで一方でゆうゆう真っ二つにできた。二人斬ってもおどろかない。三人切って一人前レベル もちろん、身長145cmのごきぶり相手ね 弓の射程、これが実行実質リーチが1.5〜2倍 和弓は時代にもよりますが100メートルオーダー以上であたる。しかもねらってとどく。 蒙古弓ってのは貧弱でまったくとどかないんですね。 馬にのってようが100メートルの射程で一方的にうったってのもあながち神話じゃなくて事実でしょうね。 つまり白兵レベルの戦闘力であまりにも一方的なんです。 そして集団戦闘で一方的だから、分隊支援火器と短銃でのなぐりあいのようなもの。 白兵なら、実質木の棒と日本刀でなぐりあうようなもの。 だから5000人で15000を殲滅してもなっとくがいく。
そして 侍の評価、この侍は、 1 ウルスの大軍を殲滅した。全勢力推定15万といわれてた戦力の5割を殲滅 これによって、ウルスの軍団は内部争いでほろんでしまう。主要軍団の50パーセントの 戦力が一気に2わりまでへってしまうんだから そして、これが事実上世界を支援することになります。ウルスの大軍を滅ぼしたことで実質 勢力そのものを滅ぼしてしまったんだから。 2 そして、ウルスを殲滅したことで、日本のペスト蔓延を完全に阻止した。 これで、世界では8000万人、推定人口の4割がしんだ。 日本にはペストが蔓延しなかった。 一方的に殲滅した。 ウルスの大軍を殲滅した。 ペストをふせいだ。 それはまるで風がふいたように。 それがおれらの爺のサーガ そしてその後も武士パワーってのはつづくんだよね。 一方的に撃破した最強の鎌倉武士の集団 さつえい戦争でも健在、なぜか近代兵器を前に撃破する。 当時のEU連合も日本侵攻には50万の大軍が必要とあきらめる そんな侍のはなし
でもその子孫は2chで粋がってるだけという情けなさ
>>903 2chの書き込みだけでそんなことがわかるとはね
君の世界は随分単純にできているようだ
後醍醐天皇の乱交 後醍醐天皇は鎌倉幕府がダーーイ嫌い 何とかして幕府を潰してやろうと密かに計画 でもって、作戦会議をするんだけど、そのカ モフラージュに乱交パーティをしまくった 「朝廷は遊んでばっかだよーん」というのを、 六波羅探題(幕府が統括している警察みたいなもん) にアピールするためであります その乱交パーティは飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ スケスケの着物を若い女の子に着させてサービス でもって、ひそかーーに倒幕作戦会議をしていた のであります が!倒幕計画に参加した男性が、妻にペロっとしゃべっちゃった でもって、その妻が六波羅探題にタレこんだため、残念ながら計画はパーになってしまったのでした。そして隠岐に流され、兵庫の福厳寺にまで逃げてきて、楠木正成に迎えられるのでした。
906 :
宋文平 :2011/05/17(火) 09:57:31.96
160cm . so ,they are just deformity in china .
907 :
宋文平 :2011/05/17(火) 20:29:20.08
just so so ....日本武士不敵大唐武士。
908 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/22(日) 03:56:37.76
南無八幡大菩薩
909 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/23(月) 17:38:18.22
sharp like an edge of a samurai sword the mental blade cut through flesh and bone though my mind's at peace, the world out of order missing the inner heat, life gets colder oh yes, I have to find my path no less, walk on earth, water, and fire the elements compose a magnum opus my modus is operandi is amalgam steel packed tight in microchip on my arm a sign of all-pro the ultimate reward is honor, not awards at odds with the times in wars with no lords a freelancer, a battle cry of a hawk make a dove fly and a tear dry wonder why a lone wolf don't run with a klan only trust your instincts and be one with the plan some days, some nights some live, some die in the way of the samurai some fight, some bleed sun up to sun down the sons of a battlecry some days, some nights some live, some die in the way of the samurai some fight, some bleed sun up to sun down the sons of a battlecry look, just the air around him an aura surrounding the heir apparent he might be a peasant but shine like grand royalty he to the people and land, loyalty we witness above all to hear this, sea sickness in the ocean of wickedness set sail to the sun set no second guessing far east style with the spirit of wild west the "quote-unquote" code stands the test of time for the chosen ones to find the best of noble minds that ever graced the face of a hemisphere with no fear, fly over the blue yonder where the sky meets the sea and eye meets no eye and boy meets world and became a man to serve the world to save the day, the night, and the girl too
>>901 プッ
戦国武士の平均身長が154cmなのに
まぁ鎌倉の武士は摂取する栄養が良かったなぁw
鎌倉時代の遺跡から発掘された多数の軍馬の平均体高が129cm
鎌倉時代の軍馬は相当苦労しただろうなぁw
サバ読みデッチあげもええ加減にせぇよと
>>902 何回言ったらわかるんだよ糞馬鹿
《モンゴル人》の総兵力は12万9000で《全て騎兵》なんだよ
モンゴル軍の歩兵は捕虜や従属民の農民を徴集したんだよ
だいたい自動車両がない時代なのに長距離移動に追随できる歩兵なんかいるわけねぇだろう
モンゴルのみならず遊牧国家は類似した遊牧民を騎兵として編入し強化したんだよ
遊牧民から見れば歩兵なんて侮蔑の対象でしかない
フビライはクリルタイで中央アジアを制圧したカイドゥの侵攻に苦しんでいた
一時はカラコルム近くまで攻め込まれた
またカイドゥは満州の東方三王家を扇動し反乱を起こさせた
フビライは東方三王家の力を弱めるため日本侵攻にこの満州の従属農民を徴発し当てようとした
しかし多数の農民の徴発により農業生産激減を危惧して東方三王家はカイドゥに通じたんだよ
そのためフビライは高麗兵や南宋の敗残老兵を代わりに当てた
日本なんてモンゴルにとって制圧しても何も出ない貧民国家
敗残老兵処理や反乱しやすい高麗の力を弱めるのに利用したに過ぎない
とうりwwwwwww
914 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/26(木) 00:20:07.03
>>911 満州の従属農民を日本侵攻に当てても、東方三王家の力を弱めることなんてできないじゃん。
東方三王家の力を弱めるためにやったんなら、元軍の主力は当然東方三王家の生粋のモンゴル騎兵だな。
そして、その生粋のモンゴル騎兵が福岡平野で鎌倉武士と騎馬戦やってボロ負けしたってこと。
モンゴル兵って戦に慣れたアマチュアだろ。 高麗兵ってど素人の寄せ集め。 鎌倉武士はプロ集団じゃん。
元寇は北回りの主力が、高昌回鶻と高麗だもんな。 南回りにいたっては、南宋杭州の南人将軍が逃亡しちまっているし。。。
元寇は当時のモンゴル帝国最精鋭部隊だろ。 何と言っても、モンケ、クビライと2代にわたる皇帝直属部隊と同じ民族構成なんだし。 元寇でモンゴル帝国と鎌倉日本の格付けは、明確に日本の方が強いって結論出ちゃったから、 その後でどんなに倭寇が暴れてもモンゴルは泣き寝入りするしかなかった。
朝鮮人は元に勝てなかったからって日本に対してファビョらないでくれないかな? どうせ対外戦で一度も勝てなかったんだから大帝国築いた元に勝てなくても 大して自尊心傷つけやしないだろ
919 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/27(金) 14:02:05.95
南無八幡大菩薩
>>914 大嘘つき野郎
だったら博多に万単位の軍馬の遺骨は出るだろうな
骨が出なくても少なくとも多数の蹄鉄は出るはずだが
しかし実際は日本では欧州から軍馬輸入する幕末まで蹄鉄を知らなかった
有り得ねぇよな
お前の語り口からすると数頭の馬が死んでるわけじゃないからな
周囲が海の島国じゃ馬は逃げられないはずなのにな
捕獲もされない死んでもいない、かと言って野生化した痕跡すら全くなし
沈没船からも軍馬の遺骨は殆どなし
だいたいモンゴル騎兵は高い城壁のある城塞化された都市攻め以外で下馬することはねぇよ、知ったか君
それに重装備のくせに馬上槍等騎乗の打物武器が全くなく
重過ぎ蹄鉄すらない馬がギャロップすら出来ない鎌倉武士が
どうやってモンゴル騎兵と戦うんだよ
それ以前にモンゴルの合成弓は日本の弓より射程も長く貫通力もあり速射でき軽々アウトレンジできるわ
>>917 馬鹿かオメエは
東方三王家が反乱した時、フビライはモンゴル本隊を含む遊牧民騎兵部隊を二分して
フビライ自ら東方三王家鎮圧へ親征して残りはカイドゥのモンゴル本土侵攻軍阻止にあたったんだよ
ほっんと知らねぇ奴だな
カイドゥとの戦いは結局14世紀初頭まで続いている
カイドゥの手元にもモンゴル騎兵多数いる
いつ攻めてこられるかわからぬ本土をがら空きにしてどうでもいいような日本に本隊送るってか
妄想笑い話の類いか
高昌回鶻ってモンゴル系?
>>920 モンゴル騎兵は蹄鉄を使わないんだよ。
これ、基本中の基本だから。
これ位のことは調べてから書き込もうね。
実際には日本の弓はモンゴルの弓より射程も長く貫通力もあり速射でき軽々アウトレンジしちゃったんだよ。
だから、文永の役ではモンゴル軍の副司令官まで射られて重症負ってる。
925 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/28(土) 14:54:13.35
>>921 ほっんと知らねぇ奴だな。
東方三王家が反乱なんて、元寇でモンゴル騎馬部隊が日本に完敗した後の話じゃん。
それから、モンゴル帝国ってのは2正面、3正面作戦が基本なんよ。
だから、西方へ欧州遠征をした時も東方では同時に南宋へ侵攻しているし、中東遠征も南宋侵攻と
セットでやってる。
モンゴル帝国については、中央アジアでカイドゥとの戦いを抱えていたから、日本に本隊を送れない
なんて理屈は成立しないわけ。
むしろ、西方で戦いを抱えていたら、東方でもそれと釣り合うだけの大規模な軍事作戦を行うのが
モンゴル帝国のやり方。
で、カイドゥとの戦いと釣り合うだけの軍事作戦といえば、当然モンゴル帝国にとって最重要攻撃目標
だった日本遠征ってことになるよな。
何と言ってもクビライ自身が、「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」って宣言してるんだから。
どうせ高昌回鶻だ。 現在の裕固(ユグール)族。 話しているのはモンゴル系言語だよ。 蒙古襲来の本隊は、高昌回鶻
>>928 高昌回鶻を東方の蒙古襲来に投入するわけないじゃん。
それこそ高昌回鶻は中央アジア戦線だろ。
930 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/15(水) 11:18:47.23
932 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/16(木) 18:01:13.02
南無八幡大菩薩
933 :
月孔雀 :2011/06/17(金) 05:55:28.61
頼朝と義経の直接対決が、仮にあったとしたら、 どっちが勝ったでしょうかね? 頼朝(関東・東海)、義経(西日本・東北)
934 :
月孔雀 :2011/06/18(土) 17:05:49.57
鎌倉武士団なんか言えよ
935 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/28(日) 22:09:39.14
やあやあ我こそは! ずぴゅ! やあやあ我こそは! ずぴゅ! やあやあ我こそは! ずぴゅ! 元弘はこの無限ループだったらしいな。 神風がふかなかったらやばかったな。
露骨な釣りはつまらん
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/29(月) 03:09:54.29
あんなの台風で船が難破したのが殆どだろ 鎌倉騎士団が戦術及び戦闘能力が特別優れていたわけではない って今更か…
面白いね君
原点回帰だな。
文永の役でも弘安の役でもモンゴル軍が一旦は九州に上陸してる以上、 鎌倉騎士団の戦術及び戦闘能力が優れていて撃退に成功しない限り、 モンゴル軍が再び船に戻って嵐に遭うような状況は発生しないんだけどね。
名乗りは味方に向けてのものだぞ ただ単に功をあせった奴が突出してやられたに過ぎない
このスレが立った時に比べると今は新しい史料が随分見つかって、例えば文永の役についても モンゴル軍の九州上陸から撤退までがほぼ解明されてる。 史料によれば、鎌倉武士は最初から最後までモンゴル軍を集団戦法で圧倒し、苦戦と呼べるような局面は 一度も無かった。
日本の武士の死体が麻の如く散らばっていたという高麗史の内容をどう説明するわけ?
944 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/08(土) 00:35:09.37
つ
>>940 一方的にやられたんなら、船に戻ったりしねえよバカ
945 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/17(月) 23:54:44.91
南無八幡大菩薩
>>920 モンゴルの矢より日本の矢のほうがはるかに重いんだぜ
その重たい矢を少なくとも同じくらいは飛ばす。
鎧もその重たい矢に合わせて作られているんだ
どちらの戦闘力が高かったなど自明の理
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/28(金) 18:01:58.93
日本側は八幡愚童訓とかの後世の宗教書以外の史料は、文永の役は武士の戦術的勝利としてるけど、 元側は、元の戦術的勝利としてるのはなぜだろう? 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝「分道而進、所殺過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一嗃矢、 弱゚大喝、倭辟易而走。之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。」 日本に勝ったと言ってる癖に、このまま戦い続ければ、捕虜になるとか意味不明な軍議をしてるしマジ意味不明。 元側が勝利したというなら、なぜ博多すら手をつけなかったのかも疑問だし、慌てて撤退する意味もわからん
948 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/29(土) 17:24:56.14
だって対馬と壱岐で大虐殺やって調子こいてたら武士達にボコられただなんて恥ずかしすぎるやんか
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/29(土) 21:09:17.58
>>948 それはおかしい。『高麗史』は弘安の役ではちゃんと戦うごとに連敗している
事実を書いている。
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/10/30(日) 15:08:25.31
南無八幡大菩薩
>>947 負けは許されなかったんでは?スターリン的な意味で。
戦術的にも負けですよね。結局橋頭堡すらつくれなかったんだから。
>>947 あくまで想像だが、水際では日本軍は少数だったから撃退して上陸した=勝ったが
菊池たちの増援が来るに及んで激戦、さらに劣勢となったという時間経過じゃないかな
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/06(日) 23:10:07.41
いや、元寇というより、 資料日本史(一般日本史) 教科日本史 は資料的根拠 社会的根拠 物的根拠 に一切基づかないものだからうそばっかだよ。 その上で元寇は明らかに武力でボコボコにした記録しかない。
で、その上で 最初の一撃は明らかに、奇襲というより、かなり一般的な国際的な協約(当時代的な常識にしても)無視した侵略がくる。 で、当時 1〜2万の大群襲来〜ってのは、あきらかに、威嚇の数でもなく、本格侵攻の数。 そもそもそんな数での威嚇行為なんてのは、軍事、政治常識(事例)でほぼありえないし、 かつそれまで1〜2万での方面の本格侵攻(事実上長期侵攻のためのきょうとうほ作成〜)なんてのは明らかにしばしばやってるので 本格的侵攻とみて間違いない。 もうあきらかに、政治、軍事常識で前線基地確定のための一時軍でそれ以前の判断がない。それを威嚇とするのは完全な空想だね。完全に学術根拠がないよ。 で、このとき有名武士とかも含んで何人か大量虐殺されてるんだけど。 何とか撃退。そして 1万(半分)以下で応戦して、1万人以上は殺害となってる。 また、軍事的に撤退条件として2万の軍でめったに撤退しない(できない軍が)が早期に撤退しまうことがありえないし、おこりえない。 そもそも天候的条件でも、あらゆる条件でも損傷なしで撤退なんてのはありえない。 そしてそれまでもありえなくて、このときだけたかが天候ないし、小さな戦闘だけで撤退する〜なんてのは、 それまでの動きでもありえない。このときだけ撤退〜という判断は奇異。 そしてこのとき、指揮官が帰って虐殺〜死刑になってるから失敗したんだよ。 あきらかにかなり大規模な戦闘があったらしいね。当時資料の1万人以上殺害というのは妥当だし。 撤退を引き出すための優位な情報だろう。そうでもないと撤退ないから。 虐殺→本格戦闘、→メッサツは 資料、当時状況、政治、軍事上ほぼ間違いない。
でそれ以後の動きはこれはさすがに本格的な侵攻じたいたると重く見たらしい。 みんな対応してる。そういう資料もある。 で、それからまたクソ死者がきやがるんだけど、殺害w でその後いよいよ本格戦争が始まる。 で第二段階は有名な類保を事前に大量策定。かなり大きなもの作ってその資料証拠が残ってる。 で第二段階の戦闘 このとき所詮で対馬、意気など諸島では大量虐殺されたらしい。とかくこのときだと思うけど、有名な武士が虐殺されて で事実上5月20日から戦闘がはじまりこの間すでに出向はして、でそれから6月30日まで一切制圧できない。 いや、ある意味、対馬、意気では虐殺されたんだ。 で当時の船は小さく隻数からも100人も乗れなかったらしい。で小さいから当然長期航海は無理で洋上待機できない。 だから離陸行動はすでに着陸しないと終了しない。だから上陸できなかったが正しい。 1ヶ月半も水上待機はできない。また連続出向ではなくほぼ同時出向だったらしい。 で1ヶ月半の間、資料すべての根拠で着陸されても追い返される姿しか欠かれていない。 そして当時の船は確かに難破しないが、数千隻がきれいに全部難破することは物理的にありえないんだよね。 数千になると広域だし。何隻かは残る。 で大きな船は難破したけど残ってたと書いてある。 そしてどうも数千の船は最初あきらかに到着した。でその後6月30日に洋上で指揮官含む少数が船で撤退したけど 流されたってかいてあるんだよね。 船舶にのってて台風はおきたがそれで死んだって書いていない。 船舶がながされて逃げられなくなってきて、急いでいかだをきりだして逃げる準備した。しか書いていない。 で5月20日出向 5月30日までいき、対馬侵略、このとき有名武士は虐殺されたが、何人か討ち取ったらしい。 (意気、対馬虐殺) でその意気到着あと九州本格侵攻開始しましたって書いてあるんだよ。900隻 40000万 一時軍 でいきとうちゃく40000の時点ですでにながされえないよね。 でそのあと 5月〜30日前後、博多大規模類保超えれないため、撤退。 (博多るいほの撤退) 6月5日前後までは越えられないからルート変更 (限界だな志賀島の戦闘) 6月8日に総攻撃 6月9日にも総攻撃 あわせて敗北で撤退。
ここまで東路の一時攻撃 でこれ以降6月15日くらいに宋南軍の主力がくる。 ところがその部隊は別ルートで伊万里にルートを変更する。この時東路は合流しようとするが、揚陸できずに失敗。 (伊万里の戦い) でその後6月30日から〜7月5日前後まで台風が吹き荒れる。 この時全船舶、隊は沿岸10kmも離れない、近海、諸島にいるため全滅することはない。船が事実上全部難破打破したとあって。 明らかに、船で沈んだと書く資料はない。つか、この船舶〜云々はたいした影響なかったみたい。難破〜であって全滅情報はない。 そしてそのあと〜7月5日まで難破部隊合計10万以上。そして重要なのが 《難破部隊10万以上が伊万里の端にて船が軽く流れてしまったため、木を切っていかだを作って逃亡を開始した》 って書いてあるんだよ。物理的に遠洋でだいぶ隊が死ぬわけないし、しかも遠洋じゃないって書いてあるんだか当然流れるわけない。 10万が難破〜ってしか書いてある。だから風ふこうが吹かないが、10万残存。 で台風がやんだから、ついに7月5日〜7月6日の戦闘行動が開始。鷹島に全日本軍合流(つっても数万だぜ) 2日で7万人死亡という快挙でこれソンム会戦でもめったに死ななかった数が一瞬にして死亡。 そして7月7日に全員捕虜 残った2万人捕虜にした。南シナ人以外は全員死刑にした。 とある。これが大まかな戦闘の流れである。 最初の東路軍の戦闘行為で推定ではあるがおそらく5〜7割以上はほぼ2週間の戦闘で死亡してる。 このあと事実上いきに逃亡していた。東路軍をそのあとどうした〜などの経緯明記各種はないため。 おそらく所詮で死亡。あとは大規模戦闘もなく制圧できる数しかいなかったらしい。 そして最後の10万というのはほぼ戦闘少なく7月5日まであそこに閉じ込められてた、シナの軍であろう。 と東路軍、メッサツ〜については詳細飼料がないが、数回以上戦闘したびたび逃げてることからして、おそらくすでに6月15日までにほぼ全滅してると思われる。 ないしすでに拿捕に近い状況だったのだろう。 つまり一時の東路軍は初期数回の戦闘でほぼ7割以上がメッサツといっても過言ではない。 そして南宋10万はたった2日で8万全滅。 台風のときに洋上に事実上いなかった、でれなかったため、台風でながされたことはない。 台風前にも数回の攻撃で全滅してる。 台風でにげられなくなっただけである。 台風で全滅することは事実上ありえないことである。 のため妄想ともいえる。そもそも台風〜説は構成カルト宗教が作った。全くのうそ。 台風吹いたけどにげられなくなっただけである。
そして日蓮が元寇ねらってクーデターおこそうとしたらしいな。 あのゴミは日本に逆らったけど死亡したゴミ。テロリスト
その精神は受け継がれ、今は某宗教に・・
文永の役で『元史』や『高麗史』が日本軍に勝ったような記述がある理由を考えてみたんだけど 戦闘が10月5日の対馬戦から始って、20日の博多での戦闘までが文永の役の戦闘であるとみた場合 確かに、5日から19日までは蒙古軍が対馬・壱岐・松浦党との戦闘で大きな戦果を挙げていた。 結果、蒙古側は文永の役の戦闘では、大半は優勢に事を運んでいたと認識していた可能性が高い。 しかし、博多に上陸して日本軍本隊と衝突すると敗退した。 だからこそ、『元史』で勝利した記述の後で「而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」と口を濁した締めくくりに なったのではないか?『高麗史』でも同様に、金方慶伝の「倭兵大敗、伏屍如麻。」の記述の後、総司令官の忽敦が 「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、 完計に非ざるなり。 軍を回すに若かず」 と急に切羽詰まった様子の記述があるのではないか?こう解釈すれば、日本側の『蒙古襲来絵詞』や『福田兼重申状』に 見られる日本軍本隊の勝利と『元史』・『高麗史』との整合性がとれると思うんだが。
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/09(水) 17:36:47.84
あげ
962 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/10(木) 10:38:16.99
で、結局 『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通伝 「戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之。還,招降淮南諸郡邑。」 はなんて訳すんだよ。 「日本軍に遇って之を破った」か「日本軍に遇って之に破れた」のか。 「招降淮南諸郡邑」これを降格処分とか言ってた奴がいたがどうなんだ?
やっぱり、元軍は対馬・壱岐を占領したことで日本軍に勝ったと認識してたんじゃないか? 『元史』洪福源伝でも対馬・壱岐を攻略したことは書いてるが、その後の戦闘を割愛してるし。 九州で勝ってたら、記述してるはずでしょ。 元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬 「渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/11(金) 07:55:12.69
南無八幡大菩薩
つか、モンゴルつっても、朝鮮人と支那人だしな 勝って当たり前
>>954-
>>957 言いたいことはわかるし同意だが
なんか酔っ払って書いたような文章だなw
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/12(土) 05:18:27.72
>>965 当時のチョンはヘタレちゃうよ。
チョンがヘタレになったのは朝鮮王朝になってから。
あと、元軍の主力部隊は華北の連中な。
>>967 なかなか面白かったので、ノートにコピペしたよ。
清書?するの大変だったけどw
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/15(火) 17:25:27.31
971 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/27(日) 17:40:22.41
南無八幡大菩薩
正規軍相手に陸戦で完勝してるのはマムルーク騎兵とアフガン騎兵だな あとはベトナム軍もか 元寇は海路の遠征だし正規軍と言えないし参考試合と言った程度のもの
またはじまった 何度蒸し返せば済むのか
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/14(水) 21:49:36.92
南無八幡大菩薩
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/26(日) 00:54:59.29
照覧あれ
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/05/28(月) 03:18:44.89
>>1 鎌倉最強とは言いますが、戦も萬の物事も時を経て進化していくものだと思います。
国内を考えても近代に入ってからの、近代兵器が使われ始めた現代までの時代を除いても、
戦術、兵法、何においても効果的で良いものが残るのは世の定めであり、
個人個人のスキルを上げる上でも剣術や古武道や骨法などをの所謂戦国時代を経る事により、洗練、進化されていったのではないでしょうか?
鎌倉→戦国時代を経て→江戸になるに従い、何につけ優れたものが残り。淘汰に淘汰を繰返し、進化されていったのではないですかね?
鎌倉最強とは…どういった根拠を元に言われているのでしょうか?
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/03(日) 06:51:48.33
南無八幡大菩薩
>>976 戦国時代や江戸時代、近代と比較して鎌倉時代が最強だと言ってるわけじゃないよ
モンゴル帝国に圧勝したし、ベトナムやマムルークの戦ったモンゴル軍は元寇の元軍よりも雑魚だしで、
13世紀当時の世界では日本が最強だったってこと
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/21(木) 06:25:49.55
弓は同じ力で引くのならば、大きい方が威力が大きいことが知られています。 イギリスの弓が大きくなったのは、それが理由です。 モンゴルの主力武器の弓は、馬上で取り扱いやすい小型の弓の中では、威力が大きいのが特徴です。 本来、小型の弓は張力の大きい弓を作れなかったのですが、合成弓にして張力の大きい弓が出来ました。 しかし、威力は同じ張力のロングボウの方が上です。 日本の弓は、イギリスのロングボウの大きさの弓を更に、上下非対称という常識外れの方法で、更に大きくなっています。 しかも、馬上でこの特大の弓を用いるという常識外れなことをしています。 ある意味で、たまたま、モンゴルの一番得意な戦闘方法で、日本が上回っただけです。 しかし、その事実を受け入れて対策を考えることは、案外難しいことです。
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/08(日) 12:23:46.63
南無八幡大菩薩
南無八幡大菩薩