851 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/11(日) 23:33:22 ID:/n8cC0Oe
>>847 >法華経第一品〜第二十八品と、「南無妙法蓮華経」とが直接の関係に無いということを
>言っていますか?そんなことは無いでしょう。「南無妙法蓮華経」は第一品〜第二十八品
>の経典のタイトルなんですから、直接的に関係します。
(
>>844>>848でも説明したのでもうお分かりかとも推測しますが) ですから、
この思い込みが、そもそもの 「嘘」 なんだと、申し上げているんですよ。
これは日蓮がそう主張しただけで、「中世の時代環境で日蓮が勝手にそうだ
と信じた」信仰内容でしかありませんよ、と。そのことを
>>844>>848で説明し
ましたよね、よろしいでしょうか。
「法華経第一品〜第二十八品と、「南無妙法蓮華経」とが直接の関係に無い」
んです。真実のところは。だから「"正"法蓮華経」というたとえも出してその
タイトルが付いても別に不思議はなかったということを述べていますよね、
つまりクマラジュウの訳でついた偶然の産物であったのだと。
そして法華経とはなんら関係のないところで 「ナムミョウホウレンゲキョウ」
という文句が何かの名前か何かで存在していたとした場合であっても、実は
その唱え時の効果効能は全く変わらずに存在したということもですよ。
ならばその効果効能自体が、法華経の功徳でもなければ、仏陀の存在で
あるとかとも全く無関係に存在したものであると言わずしてナンと結論付ける
ことができますか?
さて、おじゃまだと言う人も居るのでまたと致しましょうか、では無意味な
罪悪感からの早期の解放があることを切にお祈しております、ではまた。
>>47 > 「法華経の名前」というものと、「法華経の内容」とはそもそも全く別のものでしょう。
> それを 「"正"法蓮華経」 というタイトルであったとしてもいはずでしょう、ということでも
> 言いましたね。あるいはもっと全く異なる名前であったとしても別に構わなかったはず
そうでしょうね、あなたの言うとおり必ずしも「南無妙法蓮華経」でなく、「南無正法華経」
などでも良かったのかも知れません。
ですが、「正」という文字をわざわざ入れる意味が見あたりません。
「妙」という言葉のほうが響きがよい、単純にそういう事も言えるでしょう。
鳩摩羅什訳の「広義の意味での」法華経がもっとも現存するサンスクリット写経に近い
ものであるといわれている、そして「妙法蓮華経」と訳されたのでしょう。
> そこに「罰」などという概念は入り込むことは無かったはずです。よくよく考えて無意味な
> 罪悪感からすっかり解放されることをお祈りする次第です。
人間には喜怒哀楽があります。人間だけじゃないでしょう、動物でさえ機嫌の悪いときが
あるくらいです。
酷く落ち込んだときに、「元気出せよ」「わかったよ!」と簡単にいくでしょうか?
自己暗示をかけても、身に染みついた罰論は理屈通りに抜けるものではないのです。
ですが、あなたのお気持ちには大変感謝する次第です。
>>48 堂々巡りになってしまいますが、
偶然と必然とは何でしょう?
Saddharmapundarika(白い蓮花の正しいヘえ) を訳すときに、「正法白蓮華経」でも
何でもよかったというのがあなたの見解ですよね?
そうかも知れないです。
法華経第一品〜第二十八品であっても、サンスクリット写経と品数が異なる漢訳が
存在します。鳩摩羅什は二十八品としてますが、正法華経が二十七品だったと記憶しています。
タイトルと本品が無関係だといいますが、何事にも因果関係はあるんじゃないでしょうか?
あなたは無関係であると思うのであればそれで良いとおもいます。
自分は法華経を正しいと思っているので、人それぞれの理解で良いのだろうと思います。
数学のように解が一つとは限らないのでしょう。
>>49 >ですが、「正」という文字をわざわざ入れる意味が見あたりません。
事の起こりとしては、
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1205569925/809 に在る通り、
>漢文に転じて 正しいヘえ=妙法、白い蓮花=蓮華
>(ここにおいて、) 別の人の翻訳では
> 「正法華経」
>というタイトルのものも確かに存在していて、そちらではその、
> 正しいヘえ=正法、 白い蓮花=華
>
>と訳されているということでしたね。あえて言えば、
> 「正法蓮華経」 ・・・・(*1)
>と言っても良かったはずでした
ということで、もちろん「正法白蓮華経」という訳もあり得ましたでしょう。
列挙すると、たとえクマラジュウが訳したとした場合であっても、
正しいヘえ=正法、 白い蓮花=白蓮華、蓮華、華
という訳があり得たということですよ。
つまり、何一つ「妙法蓮華、経」というタイトルにするべき必然はなかったはず、
という論理は分かりますよね。
>「妙」という言葉のほうが響きがよい、単純にそういう事も言えるでしょう。
さてこれですが、つまりは、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」
という理由で、あえて、
正しいヘえ=正法 とせずに、正しいヘえ=妙法
と名づけた、というだけのことだ、ということになりましょうね。
>>50 >タイトルと本品が無関係だといいますが、何事にも因果関係はあるんじゃないでしょうか?
さて、この、、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」
という理由で、あえて、
正しいヘえ=正法 とせずに、正しいヘえ=妙法
と名づけた、というだけのことだ、としますとですが、結局どうでしょうか、ここにおいては
すでに
意味上のつながりとしての、正しいヘえ=正法
とすべきところからの、
逸脱 としての、正しいヘえ→妙法
という言い換えが見られるということですね。すでにここから「意味上のつながりが切れて
いる」とも言えるわけでしょう。つまり意味上の関係性は、すでに別の理由によってわざわざ
別の言葉で言い換えられてしまった、ということになるわけでしょう。
逆に言えば、
>自分は法華経を正しいと思っているので
であったとしたら、正しい訳としての「正法」とすべきはずを、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」 ・・・(*2)
という理由で、言い易いという理由で別のものにされてしまったことはむしろ問題であると
すべきはずです。逆に言えば、ここは(*2)の意図を優先して、「響き」の方を効果として
優先して意味を曲げた、ということでもありましたよ。
>>52 (続き)
> 「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」 ・・・(*2)
さて、結局のところ、この(*2)の理由によって変更され、意味を曲げられてしまった
ところのタイトルにして初めて、(日蓮が必然だと信じた処の、)
法華経の「意味が煮詰まっているはず」の「お題目」の効果
というものが生まれ来たった、ということになりますが、さてさて、まさしくそうだと
するのだとしますと、ここにすべてがあるということに気が付かれるはずです。
つまり(意味上のつながりで変更したのではなく)(*2)の「音韻的理由」によって
初めて変更された名前にして初めて、
「ナン ミョウホウレンゲーキョウ」
という「ごろのいい」「響きのいい」「言い易い」文句が生まれた、ということであるに
過ぎないと言うことになりましょう、つまり、むしろそういう作為、あるいは偶然が
存在したからこそ生まれた「お題目の生理学効果効能」が存在し得た、という結論
に到達するではありませんか?
そこにどうして意味上の含め効果などが入り込む論理的余地があると言えるので
しょう?さらさらあり得るはずもない、ことは証明されたも同然ではありませんか!
>あなたは無関係であると思うのであればそれで良いとおもいます。人それぞれの
>理解で良いのだろうと思います。>数学のように解が一つとは限らないのでしょう。
ですから、そういう穏当なる認識に創価学会が立ってきてそのように他人にも教えて
来たのだとすれば何も問題はなかったでしょうね。しかし事実はそうではなかった
からこそ、あなたに仏罰が当たるのだと恐怖で脅すほどに必然を論じたのではない
のですか?だからこそこうしてあなたはその呪いに掛けられてしまったわけですよ。
>>51-52 法華経を読破し、文底で理解しているワケではありませんので、あくまで自分の見解です。
あなたが言いたい、「妙法蓮華経」という訳は偶然の賜ということ、確かに否めません。
ただし、行き着いた結果、「妙法蓮華経」であることは事実です。
それは他の経文においても同様のことが言えるんじゃないでしょうか?
経文とはいえ、内容は文章です。
文章の翻訳は異なる言語間ですから、如何に同様のニュアンスにするかどうか、
そういったセンスも問われるでしょうし、翻訳の対象が経文となれば哲学から宗教学まで
幅広く理解した上での翻訳が必要だろうと思います。
ですから、鳩摩羅什が「妙法蓮華経」と訳したのは必然だとは言いませんが、偶然と断言するのも
早すぎる、そう思います。
音韻も重要であるのは確かです。誰しも、論文やプレゼン資料のような形式的なものであれば
文語体で体裁のとれた文章を書くように心がけるでしょうし、自分ならそうします。
「正法」と「妙法」とでは、仏法に於いて深さが違います。これは確かです。
ぶっちゃけた話ですが、「上等品」、「極上品」とでは極上品のほうが上ですよね?
喩えがあまりにもセンスがありませんが…
>>54 ですからですね、あなたの固執する「意味の凝縮」があって「有難い経題」だから、
「仏界が湧出する」んだという「日蓮の論法」は「屁理屈」だ、と私は言っているんです。
そんな論法は通用しません、と。
前にも申し上げました通りに、もっと広く言えば
>>47の、
『そしてそして、さらにさらに言うならば、、、
法華経というものが初めから存在などせずに、何かの別のモノの名前として
「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句が、それこそ 「たまたま」 存在していた
としても別に良かったわけですね。
それが、「仏教」とは無関係に存在していてたまたま誰かがそれを唱えてその効能
を発見していたら、そもそも全く「法華経など関係なしに」、その効果効能だけは
存在できたはずではありませんか。』
ここをちゃんと見ていますか?すでにここにすべてがある、ではありませんか?
お題目を唱えたときの効果、効能のすべては、法華経がこの世に存在しなくても
明らかに、「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句だけあればそれだけで存在
できるのですよ。これでもまだわかりませんか。
>>53 話題から外れるけど、あなたは何故、日蓮仏法や法華経について調べたのでしょう?
自分の場合、コテハンから分かるように(わからないですかね?)、創価学会に疑問(不信)を抱く
創価学会員です。
あなたのいう、音韻によるものから「妙法蓮華経」になったという考え方もあるでしょうが、恐らく
何故、Saddharmapundarikaが「妙法蓮華経」と訳されたのかは、学術的に調べられているのでは
ないでしょうか?
あなたとの会話の中でほんの少し調べてみたところ、Saddharmapundarikaの漢訳は十数本
あるようです。
そのなかで、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経、竺法護漢訳の正法華経、闍那崛多・達磨笈多共漢訳の
添品妙法蓮華経などもあるようです。
訳者によってSaddharmapundarikaの訳は色々ありますね、これが完全に妙法蓮華経と誰もが
訳していれば必然ですが、そうではありませんから、訳の差異はあるのだろうとおもいます。
それが即座に偶然であるかどうかは分かりません。
音韻によるものは別として、訳者による自己の主張が無く、可能な限りサンスクリット写経に
近いものこそが良いということは確かだと思います。
> ですから、そういう穏当なる認識に創価学会が立ってきてそのように他人にも教えて
> 来たのだとすれば何も問題はなかったでしょうね。しかし事実はそうではなかった
> からこそ、あなたに仏罰が当たるのだと恐怖で脅すほどに必然を論じたのではないのですか?
あなたの言うとおりでしょうね。ただ、罰論に関して言えば完全に創価学会によって謗法の解釈を
過大にしたものによるのだろうということです。なにしろ、自分は学会三世ですから幼少期より
誤った罰論が深層心理に染みついています。これを取り去ることはそうそうたやすい事では無いんです。
色んな方から罰論について良いアドバイスをもらいました。宗教とは諸刃の剣、解釈を誤るとまさに
あなたの言う「原理主義」のように、恐ろしい結末を招くことになるのだと思います。
>>54 >ただし、行き着いた結果、「妙法蓮華経」であることは事実です
で、それに関してはすでにこういうことも、述べておりましたよね。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1205569925/765-766 つまり、手品を仕込んだ存在は別に居た可能性は否定はできませんということで、
全くの「偶然」であるか、もしくは仮にそういう効果を埋め込むために仕掛けを施す意図で、
そういう何がしかの別次元の存在が居てそういう何かの存在がクマラジュウの翻訳に
意図的に誘導をして「ミョウホウ」という名を付けるように霊感あるいはインスピレーション
を与えてしきに仕向けた可能性はないとは言い切れないでしょう、と。
そうだとすると、人類の歴史において日蓮ような人間がどこかでその効果を発見してしまう
ように、仕組んだのだということは考えられるということです。
そうだとすれば、意味とは本来は無関係であっても、あなたのように「とにかく結果的に
効果効能が出るのだから、これは法華経の功徳と関係があるんだよ」と思い考える人間
が多く出てくることになるだろうと、十分予測したことでしょう。
そういう知的な存在が人間の歴史に介入して、日蓮の信じたような宗教にして広める人間
がいつか出てくることを予想あるいは計画したのかもしれません。
しかし、現実には意味によるつながりでの「効果効能ではないことはすでに論じているように」
すべて明快に論証されてしまったに等しいわけでしたね。とすれば、その知的存在は、いつか
は見破られるトリックであることをも十分承知していたはずでしょう。人類の知恵と知識が進歩
し、いつかはこの秘密を論証して証明する人間も出てくるであろう、それまでの宗教としては
存続するであろう、としてそこまですべて知っての上でそうしたはずでしょう。
そういう高等存在の背後からの仕掛けによってこうした偶然とも言い得る仕方を通して、人間
世界の歴史に介入した可能性は否定はしない、ただし、それは論理的に確り見ていけば私が
論じ通りの理屈になるはずでしょう、ということなわけですよ。
>>57 (続き)
さて、そうであったとした場合ですが、人間世界にそういう音韻の唱えの効果を知らしめ
たり、またはそれに関係した知の発達を促すための意図を持った高等存在がいたかも
しれない(これが霊界、あるいは法界の有情でしょうか、それはわかりませんが)、ことは
仮に認めたしても、
その効果効能を、生理学的、医学的な効果の応用を研究する機会を与えてくれたとして
冷静に研究して人類に貢献する道は残るでしょうね。つまり、これであるならば、トリック
としてちゃんと認識を科学的に深めた上で、
そういうふうに仕向けた存在を信仰することは可能になるではありませんか?それで
神仏に感謝する、という道は残されるかもしれません。
しかし、効果の科学的な原因、その仕組み、生理学的解明ができた時点では、それで
「仏罰だ!!」であるとかいった「頭のおかしい人」になる理由、は、もはや造らないで
済むことになるでしょう。同じ仏様に感謝するにしても、この違いは天と地の差でしょう!
ところで、追加しておきますと、
>>55 >お題目を唱えたときの効果、効能のすべては、法華経がこの世に存在しなくても
>明らかに、「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句だけあればそれだけで存在
>できるのですよ。これでもまだわかりませんか
これは正確ではありませんね、正確には「ナ『ン』ミョウホウレンゲキョウ」、ですね。
こう唱えないと、効果が最大限には、出ませんね。つまり、こんなものは意味つながり
であるはずはないのですよ。唱え方に依存する「意味」とは、それこそ『ナン』、でしょうね??
それこそまさに、意味が無関係である証拠でしょう。
>>57-59 長い解説大変ありがとう。
多分、堂々巡りになってしまうからこの辺で結論を出すとしましょう。
あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということですよね?
自分は、法華経、それを日本で流布して一閻浮提総与の御本尊を顕わした日蓮大聖人の
ヘえが正しい、そう感じているし、宗教とは信仰する誰もが信仰する対象を正しいと思うから
信仰するものだとおもいます。
それでいいのかとおもいます。
なにせ、宗教思想は自然崇拝であれ、偶像崇拝であれ、人間の生み出した考えなのですし。
でなきゃ、太陽信仰なんて、太陽系のど真ん中に浮かぶ巨大な核融合炉を拝んでいるって
事になってしまいますよね。
>>60 >あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということですよね?
どうしてそういう内容だと曲解するのか、理解に苦しみますが。
私の言ってることは、
法華経が何を言っていようとも、
その内容と、
法華経についているタイトルを唱えて得られる体感などの
感覚は、一切なに一つ関係していない、
ということを言っていますよね。どうしてそれを、
あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということ
だと勘違いされたのですか??
とても違和感を覚えます。物事は正確に相手の言っていることを認識して
理解しなければ何の意思疎通にもならないのではないでしょうか??
おかしい・・・あなたはこの一件に関して分厚いバリアーで覆われてしまっていて
そこから本質の主張がナンであるのか全然認識に加わっていかないように思える
のですが・・・、これはこちらの間違いでしょうか・・・?不思議ですよ。
そこにあなたの罰論で曇らされた知性の覆いがあるような気がしてなりませんね。
このことが正確にあなたに伝われば、あなたの仏罰催眠暗示も解かれるはずだ
と思います。暗示が解けない、だから私の解説する認識も意味が取れていない、
そういうことではないでしょうか??
>>60 >なにせ、宗教思想は自然崇拝であれ、偶像崇拝であれ、人間の生み出した考えなのですし。
>でなきゃ、太陽信仰なんて、太陽系のど真ん中に浮かぶ巨大な核融合炉を拝んでいるって
>事になってしまいますよね
核融合炉を人間が実現するのは容易なことではありません。
しかし宇宙では日常茶飯事で起こっていることで、あまたある恒星の核反応
が真っ暗な宇宙に行灯のような薄暗い灯をあちこちで灯してくれているので
我々は夜でも望遠鏡で見ると途轍もなく数多くの銀河が散在しているのを
観測することできているのでしたね。
それを見て、人間が「あー星はすごいなー、こんな広い宇宙にこんなに数多く
の星々が点在し、無限のかなたまでも広がっているんだなー・・・」とロマンに
胸膨らませるのは、
動物でない人間の知性のなせるわざでしたね。
で、そういう現代人の知性に感じられる宇宙のロマンに至らなかった中世
あたりまでの宇宙観の範囲までの人々には、核融合反応炉である太陽を
「崇拝して宗教にしていた」時代があったとしても不思議はない、
そういう意味のことを、私は言っているのでしたよね。おわかりですよね。
聡明なあなたであれば。いかがですか??
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 20:57:10 ID:1Vr8DF92
ねえ、難しい論議、やめない?
現代人は宇宙がおそらくは150億年ほど前に大爆発を起こしてエネルギー
が物質に転化し始め、大膨張しながら今に至り、現在もますます膨らみ
続けて核融合する星々が無限に点在するまでになり、銀河は銀河団を
恒星して宇宙の大構造を形成していることまでも知り、しかもそれらの
恒星要素は地球上の物質の構成要素とも同じであり、すべてがミクロの
素粒子から成り、それらは等しくシュレーディンガー方程式やディラック
方程式などの量子力学の法則に支配されていることまでも知るに至った
わけであり、それらによって一切の物質存在がほぼ満足のいくレベルで
読み解かれていることも知られる事実とはなっていましたね。
そういう現代人でも宗教は持ちうるでしょうが、それが、そうした近代以降
の知の進歩と進化を経た後の我々現代人のものと、そこに至るまでの
人々のそれとが同じものであるべき必要性はどこにもないはずでしょう。
日蓮はあくまでも中世という時代の、天台大師の立てた教義を「信じて」
あの日蓮の思想を形成したに過ぎないわけで、法華経が「大乗、非仏説」
(=大乗運動で出来上がった編纂された人為の経どもは、なんら仏陀の
直説などではなかったのだということ)の洗礼を受けた後では、我々は
全く宗教観の中で思考することになるのは、当然のことではありますまいか?
いかがでしょうか?ここがわからないとおっしゃるのなら、あなたへのエク
ソシストは勤まらないことにはなるんでしょうが・・・。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 20:59:33 ID:1Vr8DF92
やめない?
>>64 訂正>・・・全く宗教観の中で思考することになるのは
->・・・全く別の宗教観の中で思考することになるべきなのは
------
ということでもありますから、私が申し上げている、
>>61 法華経が何を言っていようとも、
その内容と、
法華経についているタイトルを唱えて得られる体感などの
感覚は、一切なに一つ関係していない、 ・・・・・・(*3)
については、本当はあなたも納得できる水準の論議であることも本当は
お分かりのはずではないのですか?
しかしあなたは「仏罰で脅されて理性が圧迫を受けてしまって正当な論理が
明瞭に頭で受け止めることができない」ということではありませんでしょうか?
この(*3)こそが、天台大師チギに始まって日蓮に至るまで信じ主張して
きた迷妄を打ち破る、真実の現実、であったはずではないでしょうか?
これが、現代の知性が読み解くべき本来の現実の姿なのではないのでしょうか、
すなわちお題目の効果効能というものの実体とは!法華経の内容が煮詰まって
いるから、それを唱えたときに効果がある、などは天台以来の妄想であり
勝手にそうだと主張しているだけの蒙昧知性の未分離の主張でしかなかった
のだと、明瞭に知るべきではなかったのでしょうか??
もし仮に、そうだと認識するに至ったなら、日蓮に逆らったら、あるいはまして
池田大作に逆らったら「仏罰が当たる」などという事が起こりえようはずもない
ことは瞭然であるに決まっているのではないのでしょうか?どうですか??
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:12:33 ID:LSQSUSgS
>>60 >自分は、法華経、それを日本で流布して一閻浮提総与の御本尊を顕わした日蓮大聖人の
>ヘえが正しい、そう感じているし、宗教とは信仰する誰もが信仰する対象を正しいと思うから
>信仰するものだとおもいます。
>それでいいのかとおもいます。
いや、だから、それでは良くない段階にまで来ているから、こうやって
「日蓮経の根幹になっている蒙昧部分」
を崩壊させる必要がある、ということなんですよ。
現にあなたはすでにその蒙昧の思想によって蝕まれて仏罰で脅されてカルトの言いなり
にさせられてしまうまでにひどい目に遭っているということ、
そして、さらには、戦前は田中智学や石原莞爾らの日蓮主義による妄想の果てによる暴走、
満州帝国の建国などといった馬鹿げた行動にまでつながり、結果として日本を太平洋戦争
にまで引き釣りだし、そして最後は原爆まで落とされてひどい目にあった日本、
そして戦後は創価学会に至って結局は池田大作という妄想の連鎖によってせっかく民主
主義になった日本を再び宗教ファシズム思想の猛威に晒し、結果呪いまで教えて相手の
日蓮宗教団体を呪うのだとかと指導までしてみんな精神病になってしまうほど信者もひどい
仕打ち受けている有り様になり、政治はそんな妄動妄信の団体に牛耳られて今国民の生活
が地獄に叩き落されてる始末でした。
これらの近現代の不幸の元凶は、実際にみな日蓮の宗教のおかげだったんです。この誤謬、
日蓮という誤謬、ひどい妄想の果ての誤謬、これを駆逐するまでこの蒙昧思想を浄化して
その妄想から救う必然性が絶対的なまでの要請となったとは思わないでしょうか?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:31:55 ID:LSQSUSgS
>>67 (続き)
実際、創価学会だけではないでしょう、
顕正会だとかいう団体も将来現実に創価学会と同じものにならないとは限り
ません。
そういう事態をすべて見渡しても分かるとおり、すべての妄想の根源を粉砕
しておくべき、必然性があるとは判断されないでしょうか??
日本では創価学会が生まれたのには、日本人の宗教観の曖昧さや宗教と
いうものへの知識、認識が足りないところから、カルトがはびこり安かった
という原因と、もう一つは日本人の基本的な世俗性が創価学会の池田大作
という俗臭紛々の腐れかかったお笑いキャラみたいな威勢のいいヤクザ
風味の親分気取りが、マスコットとしても小気味がいい快感を持たせたという
現実も手伝ってその世俗的宗教がよりマッチし易かった、というのが創価
学会がここまで増長できた大きな理由だったのですが、
そういった風味が日蓮という蒙昧思想はぴったり重なり易かったということ、
そして世俗にして暴力団風味のお笑いキャラ、これが世俗性が高く、かつ
一見科学教育が行き渡ったはずの低見識な国民に受け入れ易かった蒙昧
思想、その後押しをした池田大作という低劣なキャラクター、これらがあなた
に呪いを掛けたんですよ。これらの不幸は破砕して完全に焼却されるべき
はずではないでしょうか?日蓮の時代は完全に風化させなければならない
時が来てしまったということなんですよ。