スレ違いのため、引っ越してきました。元ネタ
848 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/11(日) 23:10:30 ID:/n8cC0Oe
>>844 (続き)
「法華経の名前」というものと、「法華経の内容」とはそもそも全く別のものでしょう。
それを 「"正"法蓮華経」 というタイトルであったとしてもいはずでしょう、ということでも
言いましたね。あるいはもっと全く異なる名前であったとしても別に構わなかったはず
でしょう。
そしてそして、さらにさらに言うならば、、、
法華経というものが初めから存在などせずに、何かの別のモノの名前として 「ナムミョウ
ホウレンゲキョウ」 という文句が、それこそ 「たまたま」 存在していたとしても別に良かった
わけですね。それが、「仏教」とは無関係に存在していてたまたま誰かがそれを唱えて
その効能を発見していたら、そもそも全く「法華経など関係なしに」、その効果効能だけは
存在できたはずではありませんか。
その結果、今頃は 「仏」 教などとは全くの無関係なところで便利な元気が出る呪文として
「仏罰」などという観念とは無関係に存在していたことでしょう!!そういう種類の教えなん
ですよ、 「日蓮の題目行推奨宗教」 というものは。これはまさにただの生理学として今頃
はすっかり解明されていたに違いないでしょうね。
そこに「罰」などという概念は入り込むことは無かったはずです。よくよく考えて無意味な
罪悪感からすっかり解放されることをお祈りする次第です。
851 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/05/11(日) 23:33:22 ID:/n8cC0Oe
>>847 >法華経第一品〜第二十八品と、「南無妙法蓮華経」とが直接の関係に無いということを
>言っていますか?そんなことは無いでしょう。「南無妙法蓮華経」は第一品〜第二十八品
>の経典のタイトルなんですから、直接的に関係します。
(
>>844>>848でも説明したのでもうお分かりかとも推測しますが) ですから、
この思い込みが、そもそもの 「嘘」 なんだと、申し上げているんですよ。
これは日蓮がそう主張しただけで、「中世の時代環境で日蓮が勝手にそうだ
と信じた」信仰内容でしかありませんよ、と。そのことを
>>844>>848で説明し
ましたよね、よろしいでしょうか。
「法華経第一品〜第二十八品と、「南無妙法蓮華経」とが直接の関係に無い」
んです。真実のところは。だから「"正"法蓮華経」というたとえも出してその
タイトルが付いても別に不思議はなかったということを述べていますよね、
つまりクマラジュウの訳でついた偶然の産物であったのだと。
そして法華経とはなんら関係のないところで 「ナムミョウホウレンゲキョウ」
という文句が何かの名前か何かで存在していたとした場合であっても、実は
その唱え時の効果効能は全く変わらずに存在したということもですよ。
ならばその効果効能自体が、法華経の功徳でもなければ、仏陀の存在で
あるとかとも全く無関係に存在したものであると言わずしてナンと結論付ける
ことができますか?
さて、おじゃまだと言う人も居るのでまたと致しましょうか、では無意味な
罪悪感からの早期の解放があることを切にお祈しております、ではまた。
>>47 > 「法華経の名前」というものと、「法華経の内容」とはそもそも全く別のものでしょう。
> それを 「"正"法蓮華経」 というタイトルであったとしてもいはずでしょう、ということでも
> 言いましたね。あるいはもっと全く異なる名前であったとしても別に構わなかったはず
そうでしょうね、あなたの言うとおり必ずしも「南無妙法蓮華経」でなく、「南無正法華経」
などでも良かったのかも知れません。
ですが、「正」という文字をわざわざ入れる意味が見あたりません。
「妙」という言葉のほうが響きがよい、単純にそういう事も言えるでしょう。
鳩摩羅什訳の「広義の意味での」法華経がもっとも現存するサンスクリット写経に近い
ものであるといわれている、そして「妙法蓮華経」と訳されたのでしょう。
> そこに「罰」などという概念は入り込むことは無かったはずです。よくよく考えて無意味な
> 罪悪感からすっかり解放されることをお祈りする次第です。
人間には喜怒哀楽があります。人間だけじゃないでしょう、動物でさえ機嫌の悪いときが
あるくらいです。
酷く落ち込んだときに、「元気出せよ」「わかったよ!」と簡単にいくでしょうか?
自己暗示をかけても、身に染みついた罰論は理屈通りに抜けるものではないのです。
ですが、あなたのお気持ちには大変感謝する次第です。
>>48 堂々巡りになってしまいますが、
偶然と必然とは何でしょう?
Saddharmapundarika(白い蓮花の正しいヘえ) を訳すときに、「正法白蓮華経」でも
何でもよかったというのがあなたの見解ですよね?
そうかも知れないです。
法華経第一品〜第二十八品であっても、サンスクリット写経と品数が異なる漢訳が
存在します。鳩摩羅什は二十八品としてますが、正法華経が二十七品だったと記憶しています。
タイトルと本品が無関係だといいますが、何事にも因果関係はあるんじゃないでしょうか?
あなたは無関係であると思うのであればそれで良いとおもいます。
自分は法華経を正しいと思っているので、人それぞれの理解で良いのだろうと思います。
数学のように解が一つとは限らないのでしょう。
>>49 >ですが、「正」という文字をわざわざ入れる意味が見あたりません。
事の起こりとしては、
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1205569925/809 に在る通り、
>漢文に転じて 正しいヘえ=妙法、白い蓮花=蓮華
>(ここにおいて、) 別の人の翻訳では
> 「正法華経」
>というタイトルのものも確かに存在していて、そちらではその、
> 正しいヘえ=正法、 白い蓮花=華
>
>と訳されているということでしたね。あえて言えば、
> 「正法蓮華経」 ・・・・(*1)
>と言っても良かったはずでした
ということで、もちろん「正法白蓮華経」という訳もあり得ましたでしょう。
列挙すると、たとえクマラジュウが訳したとした場合であっても、
正しいヘえ=正法、 白い蓮花=白蓮華、蓮華、華
という訳があり得たということですよ。
つまり、何一つ「妙法蓮華、経」というタイトルにするべき必然はなかったはず、
という論理は分かりますよね。
>「妙」という言葉のほうが響きがよい、単純にそういう事も言えるでしょう。
さてこれですが、つまりは、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」
という理由で、あえて、
正しいヘえ=正法 とせずに、正しいヘえ=妙法
と名づけた、というだけのことだ、ということになりましょうね。
>>50 >タイトルと本品が無関係だといいますが、何事にも因果関係はあるんじゃないでしょうか?
さて、この、、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」
という理由で、あえて、
正しいヘえ=正法 とせずに、正しいヘえ=妙法
と名づけた、というだけのことだ、としますとですが、結局どうでしょうか、ここにおいては
すでに
意味上のつながりとしての、正しいヘえ=正法
とすべきところからの、
逸脱 としての、正しいヘえ→妙法
という言い換えが見られるということですね。すでにここから「意味上のつながりが切れて
いる」とも言えるわけでしょう。つまり意味上の関係性は、すでに別の理由によってわざわざ
別の言葉で言い換えられてしまった、ということになるわけでしょう。
逆に言えば、
>自分は法華経を正しいと思っているので
であったとしたら、正しい訳としての「正法」とすべきはずを、
「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」 ・・・(*2)
という理由で、言い易いという理由で別のものにされてしまったことはむしろ問題であると
すべきはずです。逆に言えば、ここは(*2)の意図を優先して、「響き」の方を効果として
優先して意味を曲げた、ということでもありましたよ。
>>52 (続き)
> 「ごろがいいから」「響きがいいから」「言い易いから」 ・・・(*2)
さて、結局のところ、この(*2)の理由によって変更され、意味を曲げられてしまった
ところのタイトルにして初めて、(日蓮が必然だと信じた処の、)
法華経の「意味が煮詰まっているはず」の「お題目」の効果
というものが生まれ来たった、ということになりますが、さてさて、まさしくそうだと
するのだとしますと、ここにすべてがあるということに気が付かれるはずです。
つまり(意味上のつながりで変更したのではなく)(*2)の「音韻的理由」によって
初めて変更された名前にして初めて、
「ナン ミョウホウレンゲーキョウ」
という「ごろのいい」「響きのいい」「言い易い」文句が生まれた、ということであるに
過ぎないと言うことになりましょう、つまり、むしろそういう作為、あるいは偶然が
存在したからこそ生まれた「お題目の生理学効果効能」が存在し得た、という結論
に到達するではありませんか?
そこにどうして意味上の含め効果などが入り込む論理的余地があると言えるので
しょう?さらさらあり得るはずもない、ことは証明されたも同然ではありませんか!
>あなたは無関係であると思うのであればそれで良いとおもいます。人それぞれの
>理解で良いのだろうと思います。>数学のように解が一つとは限らないのでしょう。
ですから、そういう穏当なる認識に創価学会が立ってきてそのように他人にも教えて
来たのだとすれば何も問題はなかったでしょうね。しかし事実はそうではなかった
からこそ、あなたに仏罰が当たるのだと恐怖で脅すほどに必然を論じたのではない
のですか?だからこそこうしてあなたはその呪いに掛けられてしまったわけですよ。
>>51-52 法華経を読破し、文底で理解しているワケではありませんので、あくまで自分の見解です。
あなたが言いたい、「妙法蓮華経」という訳は偶然の賜ということ、確かに否めません。
ただし、行き着いた結果、「妙法蓮華経」であることは事実です。
それは他の経文においても同様のことが言えるんじゃないでしょうか?
経文とはいえ、内容は文章です。
文章の翻訳は異なる言語間ですから、如何に同様のニュアンスにするかどうか、
そういったセンスも問われるでしょうし、翻訳の対象が経文となれば哲学から宗教学まで
幅広く理解した上での翻訳が必要だろうと思います。
ですから、鳩摩羅什が「妙法蓮華経」と訳したのは必然だとは言いませんが、偶然と断言するのも
早すぎる、そう思います。
音韻も重要であるのは確かです。誰しも、論文やプレゼン資料のような形式的なものであれば
文語体で体裁のとれた文章を書くように心がけるでしょうし、自分ならそうします。
「正法」と「妙法」とでは、仏法に於いて深さが違います。これは確かです。
ぶっちゃけた話ですが、「上等品」、「極上品」とでは極上品のほうが上ですよね?
喩えがあまりにもセンスがありませんが…
>>54 ですからですね、あなたの固執する「意味の凝縮」があって「有難い経題」だから、
「仏界が湧出する」んだという「日蓮の論法」は「屁理屈」だ、と私は言っているんです。
そんな論法は通用しません、と。
前にも申し上げました通りに、もっと広く言えば
>>47の、
『そしてそして、さらにさらに言うならば、、、
法華経というものが初めから存在などせずに、何かの別のモノの名前として
「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句が、それこそ 「たまたま」 存在していた
としても別に良かったわけですね。
それが、「仏教」とは無関係に存在していてたまたま誰かがそれを唱えてその効能
を発見していたら、そもそも全く「法華経など関係なしに」、その効果効能だけは
存在できたはずではありませんか。』
ここをちゃんと見ていますか?すでにここにすべてがある、ではありませんか?
お題目を唱えたときの効果、効能のすべては、法華経がこの世に存在しなくても
明らかに、「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句だけあればそれだけで存在
できるのですよ。これでもまだわかりませんか。
>>53 話題から外れるけど、あなたは何故、日蓮仏法や法華経について調べたのでしょう?
自分の場合、コテハンから分かるように(わからないですかね?)、創価学会に疑問(不信)を抱く
創価学会員です。
あなたのいう、音韻によるものから「妙法蓮華経」になったという考え方もあるでしょうが、恐らく
何故、Saddharmapundarikaが「妙法蓮華経」と訳されたのかは、学術的に調べられているのでは
ないでしょうか?
あなたとの会話の中でほんの少し調べてみたところ、Saddharmapundarikaの漢訳は十数本
あるようです。
そのなかで、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経、竺法護漢訳の正法華経、闍那崛多・達磨笈多共漢訳の
添品妙法蓮華経などもあるようです。
訳者によってSaddharmapundarikaの訳は色々ありますね、これが完全に妙法蓮華経と誰もが
訳していれば必然ですが、そうではありませんから、訳の差異はあるのだろうとおもいます。
それが即座に偶然であるかどうかは分かりません。
音韻によるものは別として、訳者による自己の主張が無く、可能な限りサンスクリット写経に
近いものこそが良いということは確かだと思います。
> ですから、そういう穏当なる認識に創価学会が立ってきてそのように他人にも教えて
> 来たのだとすれば何も問題はなかったでしょうね。しかし事実はそうではなかった
> からこそ、あなたに仏罰が当たるのだと恐怖で脅すほどに必然を論じたのではないのですか?
あなたの言うとおりでしょうね。ただ、罰論に関して言えば完全に創価学会によって謗法の解釈を
過大にしたものによるのだろうということです。なにしろ、自分は学会三世ですから幼少期より
誤った罰論が深層心理に染みついています。これを取り去ることはそうそうたやすい事では無いんです。
色んな方から罰論について良いアドバイスをもらいました。宗教とは諸刃の剣、解釈を誤るとまさに
あなたの言う「原理主義」のように、恐ろしい結末を招くことになるのだと思います。
>>54 >ただし、行き着いた結果、「妙法蓮華経」であることは事実です
で、それに関してはすでにこういうことも、述べておりましたよね。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1205569925/765-766 つまり、手品を仕込んだ存在は別に居た可能性は否定はできませんということで、
全くの「偶然」であるか、もしくは仮にそういう効果を埋め込むために仕掛けを施す意図で、
そういう何がしかの別次元の存在が居てそういう何かの存在がクマラジュウの翻訳に
意図的に誘導をして「ミョウホウ」という名を付けるように霊感あるいはインスピレーション
を与えてしきに仕向けた可能性はないとは言い切れないでしょう、と。
そうだとすると、人類の歴史において日蓮ような人間がどこかでその効果を発見してしまう
ように、仕組んだのだということは考えられるということです。
そうだとすれば、意味とは本来は無関係であっても、あなたのように「とにかく結果的に
効果効能が出るのだから、これは法華経の功徳と関係があるんだよ」と思い考える人間
が多く出てくることになるだろうと、十分予測したことでしょう。
そういう知的な存在が人間の歴史に介入して、日蓮の信じたような宗教にして広める人間
がいつか出てくることを予想あるいは計画したのかもしれません。
しかし、現実には意味によるつながりでの「効果効能ではないことはすでに論じているように」
すべて明快に論証されてしまったに等しいわけでしたね。とすれば、その知的存在は、いつか
は見破られるトリックであることをも十分承知していたはずでしょう。人類の知恵と知識が進歩
し、いつかはこの秘密を論証して証明する人間も出てくるであろう、それまでの宗教としては
存続するであろう、としてそこまですべて知っての上でそうしたはずでしょう。
そういう高等存在の背後からの仕掛けによってこうした偶然とも言い得る仕方を通して、人間
世界の歴史に介入した可能性は否定はしない、ただし、それは論理的に確り見ていけば私が
論じ通りの理屈になるはずでしょう、ということなわけですよ。
>>57 (続き)
さて、そうであったとした場合ですが、人間世界にそういう音韻の唱えの効果を知らしめ
たり、またはそれに関係した知の発達を促すための意図を持った高等存在がいたかも
しれない(これが霊界、あるいは法界の有情でしょうか、それはわかりませんが)、ことは
仮に認めたしても、
その効果効能を、生理学的、医学的な効果の応用を研究する機会を与えてくれたとして
冷静に研究して人類に貢献する道は残るでしょうね。つまり、これであるならば、トリック
としてちゃんと認識を科学的に深めた上で、
そういうふうに仕向けた存在を信仰することは可能になるではありませんか?それで
神仏に感謝する、という道は残されるかもしれません。
しかし、効果の科学的な原因、その仕組み、生理学的解明ができた時点では、それで
「仏罰だ!!」であるとかいった「頭のおかしい人」になる理由、は、もはや造らないで
済むことになるでしょう。同じ仏様に感謝するにしても、この違いは天と地の差でしょう!
ところで、追加しておきますと、
>>55 >お題目を唱えたときの効果、効能のすべては、法華経がこの世に存在しなくても
>明らかに、「ナムミョウホウレンゲキョウ」 という文句だけあればそれだけで存在
>できるのですよ。これでもまだわかりませんか
これは正確ではありませんね、正確には「ナ『ン』ミョウホウレンゲキョウ」、ですね。
こう唱えないと、効果が最大限には、出ませんね。つまり、こんなものは意味つながり
であるはずはないのですよ。唱え方に依存する「意味」とは、それこそ『ナン』、でしょうね??
それこそまさに、意味が無関係である証拠でしょう。
>>57-59 長い解説大変ありがとう。
多分、堂々巡りになってしまうからこの辺で結論を出すとしましょう。
あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということですよね?
自分は、法華経、それを日本で流布して一閻浮提総与の御本尊を顕わした日蓮大聖人の
ヘえが正しい、そう感じているし、宗教とは信仰する誰もが信仰する対象を正しいと思うから
信仰するものだとおもいます。
それでいいのかとおもいます。
なにせ、宗教思想は自然崇拝であれ、偶像崇拝であれ、人間の生み出した考えなのですし。
でなきゃ、太陽信仰なんて、太陽系のど真ん中に浮かぶ巨大な核融合炉を拝んでいるって
事になってしまいますよね。
>>60 >あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということですよね?
どうしてそういう内容だと曲解するのか、理解に苦しみますが。
私の言ってることは、
法華経が何を言っていようとも、
その内容と、
法華経についているタイトルを唱えて得られる体感などの
感覚は、一切なに一つ関係していない、
ということを言っていますよね。どうしてそれを、
あなたは、法華経に対してそれという意味を見いださないということ
だと勘違いされたのですか??
とても違和感を覚えます。物事は正確に相手の言っていることを認識して
理解しなければ何の意思疎通にもならないのではないでしょうか??
おかしい・・・あなたはこの一件に関して分厚いバリアーで覆われてしまっていて
そこから本質の主張がナンであるのか全然認識に加わっていかないように思える
のですが・・・、これはこちらの間違いでしょうか・・・?不思議ですよ。
そこにあなたの罰論で曇らされた知性の覆いがあるような気がしてなりませんね。
このことが正確にあなたに伝われば、あなたの仏罰催眠暗示も解かれるはずだ
と思います。暗示が解けない、だから私の解説する認識も意味が取れていない、
そういうことではないでしょうか??
>>60 >なにせ、宗教思想は自然崇拝であれ、偶像崇拝であれ、人間の生み出した考えなのですし。
>でなきゃ、太陽信仰なんて、太陽系のど真ん中に浮かぶ巨大な核融合炉を拝んでいるって
>事になってしまいますよね
核融合炉を人間が実現するのは容易なことではありません。
しかし宇宙では日常茶飯事で起こっていることで、あまたある恒星の核反応
が真っ暗な宇宙に行灯のような薄暗い灯をあちこちで灯してくれているので
我々は夜でも望遠鏡で見ると途轍もなく数多くの銀河が散在しているのを
観測することできているのでしたね。
それを見て、人間が「あー星はすごいなー、こんな広い宇宙にこんなに数多く
の星々が点在し、無限のかなたまでも広がっているんだなー・・・」とロマンに
胸膨らませるのは、
動物でない人間の知性のなせるわざでしたね。
で、そういう現代人の知性に感じられる宇宙のロマンに至らなかった中世
あたりまでの宇宙観の範囲までの人々には、核融合反応炉である太陽を
「崇拝して宗教にしていた」時代があったとしても不思議はない、
そういう意味のことを、私は言っているのでしたよね。おわかりですよね。
聡明なあなたであれば。いかがですか??
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 20:57:10 ID:1Vr8DF92
ねえ、難しい論議、やめない?
現代人は宇宙がおそらくは150億年ほど前に大爆発を起こしてエネルギー
が物質に転化し始め、大膨張しながら今に至り、現在もますます膨らみ
続けて核融合する星々が無限に点在するまでになり、銀河は銀河団を
恒星して宇宙の大構造を形成していることまでも知り、しかもそれらの
恒星要素は地球上の物質の構成要素とも同じであり、すべてがミクロの
素粒子から成り、それらは等しくシュレーディンガー方程式やディラック
方程式などの量子力学の法則に支配されていることまでも知るに至った
わけであり、それらによって一切の物質存在がほぼ満足のいくレベルで
読み解かれていることも知られる事実とはなっていましたね。
そういう現代人でも宗教は持ちうるでしょうが、それが、そうした近代以降
の知の進歩と進化を経た後の我々現代人のものと、そこに至るまでの
人々のそれとが同じものであるべき必要性はどこにもないはずでしょう。
日蓮はあくまでも中世という時代の、天台大師の立てた教義を「信じて」
あの日蓮の思想を形成したに過ぎないわけで、法華経が「大乗、非仏説」
(=大乗運動で出来上がった編纂された人為の経どもは、なんら仏陀の
直説などではなかったのだということ)の洗礼を受けた後では、我々は
全く宗教観の中で思考することになるのは、当然のことではありますまいか?
いかがでしょうか?ここがわからないとおっしゃるのなら、あなたへのエク
ソシストは勤まらないことにはなるんでしょうが・・・。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 20:59:33 ID:1Vr8DF92
やめない?
>>64 訂正>・・・全く宗教観の中で思考することになるのは
->・・・全く別の宗教観の中で思考することになるべきなのは
------
ということでもありますから、私が申し上げている、
>>61 法華経が何を言っていようとも、
その内容と、
法華経についているタイトルを唱えて得られる体感などの
感覚は、一切なに一つ関係していない、 ・・・・・・(*3)
については、本当はあなたも納得できる水準の論議であることも本当は
お分かりのはずではないのですか?
しかしあなたは「仏罰で脅されて理性が圧迫を受けてしまって正当な論理が
明瞭に頭で受け止めることができない」ということではありませんでしょうか?
この(*3)こそが、天台大師チギに始まって日蓮に至るまで信じ主張して
きた迷妄を打ち破る、真実の現実、であったはずではないでしょうか?
これが、現代の知性が読み解くべき本来の現実の姿なのではないのでしょうか、
すなわちお題目の効果効能というものの実体とは!法華経の内容が煮詰まって
いるから、それを唱えたときに効果がある、などは天台以来の妄想であり
勝手にそうだと主張しているだけの蒙昧知性の未分離の主張でしかなかった
のだと、明瞭に知るべきではなかったのでしょうか??
もし仮に、そうだと認識するに至ったなら、日蓮に逆らったら、あるいはまして
池田大作に逆らったら「仏罰が当たる」などという事が起こりえようはずもない
ことは瞭然であるに決まっているのではないのでしょうか?どうですか??
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:12:33 ID:LSQSUSgS
>>60 >自分は、法華経、それを日本で流布して一閻浮提総与の御本尊を顕わした日蓮大聖人の
>ヘえが正しい、そう感じているし、宗教とは信仰する誰もが信仰する対象を正しいと思うから
>信仰するものだとおもいます。
>それでいいのかとおもいます。
いや、だから、それでは良くない段階にまで来ているから、こうやって
「日蓮経の根幹になっている蒙昧部分」
を崩壊させる必要がある、ということなんですよ。
現にあなたはすでにその蒙昧の思想によって蝕まれて仏罰で脅されてカルトの言いなり
にさせられてしまうまでにひどい目に遭っているということ、
そして、さらには、戦前は田中智学や石原莞爾らの日蓮主義による妄想の果てによる暴走、
満州帝国の建国などといった馬鹿げた行動にまでつながり、結果として日本を太平洋戦争
にまで引き釣りだし、そして最後は原爆まで落とされてひどい目にあった日本、
そして戦後は創価学会に至って結局は池田大作という妄想の連鎖によってせっかく民主
主義になった日本を再び宗教ファシズム思想の猛威に晒し、結果呪いまで教えて相手の
日蓮宗教団体を呪うのだとかと指導までしてみんな精神病になってしまうほど信者もひどい
仕打ち受けている有り様になり、政治はそんな妄動妄信の団体に牛耳られて今国民の生活
が地獄に叩き落されてる始末でした。
これらの近現代の不幸の元凶は、実際にみな日蓮の宗教のおかげだったんです。この誤謬、
日蓮という誤謬、ひどい妄想の果ての誤謬、これを駆逐するまでこの蒙昧思想を浄化して
その妄想から救う必然性が絶対的なまでの要請となったとは思わないでしょうか?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:31:55 ID:LSQSUSgS
>>67 (続き)
実際、創価学会だけではないでしょう、
顕正会だとかいう団体も将来現実に創価学会と同じものにならないとは限り
ません。
そういう事態をすべて見渡しても分かるとおり、すべての妄想の根源を粉砕
しておくべき、必然性があるとは判断されないでしょうか??
日本では創価学会が生まれたのには、日本人の宗教観の曖昧さや宗教と
いうものへの知識、認識が足りないところから、カルトがはびこり安かった
という原因と、もう一つは日本人の基本的な世俗性が創価学会の池田大作
という俗臭紛々の腐れかかったお笑いキャラみたいな威勢のいいヤクザ
風味の親分気取りが、マスコットとしても小気味がいい快感を持たせたという
現実も手伝ってその世俗的宗教がよりマッチし易かった、というのが創価
学会がここまで増長できた大きな理由だったのですが、
そういった風味が日蓮という蒙昧思想はぴったり重なり易かったということ、
そして世俗にして暴力団風味のお笑いキャラ、これが世俗性が高く、かつ
一見科学教育が行き渡ったはずの低見識な国民に受け入れ易かった蒙昧
思想、その後押しをした池田大作という低劣なキャラクター、これらがあなた
に呪いを掛けたんですよ。これらの不幸は破砕して完全に焼却されるべき
はずではないでしょうか?日蓮の時代は完全に風化させなければならない
時が来てしまったということなんですよ。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 23:44:33 ID:1Vr8DF92
眠くなってきた
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 00:05:16 ID:6HH4+SVf
由比ヶ浜に邪宗の坊主を並べて
首を切れなどと叫ぶ○蓮などは
ポアを連発する松本ちずおと同レベル
の基地外坊主さ
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 00:07:27 ID:+j0J7LEh
それなら日蓮以外なら誰がおすすめなのさ?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 10:57:40 ID:ZXqia8a3
日蓮聖人がおすすめさ
>>71 はっきりいって日本で読むに値するのは道元の『正法眼蔵』か、
親鸞の『教行信証』だろうね。
日蓮は日本の思想界ではほとんど問題にされてない。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 13:01:29 ID:ZXqia8a3
そんなことないよ。
日蓮さまはすばらしいのだ。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 14:46:11 ID:Noyw1Fwo
「無間地獄」のような、人に恐怖や嫌悪感を与える表現で信仰の絶対性を強調してる時点で、このお坊さんが異常な人だったと推測できる。
俺の勝手な想像だけど、日蓮ってカルト的な要素を含むと言われてるけど、本当はカルト宗教を結成しようとしてたのでは…?
バカばっかり
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 15:13:16 ID:ZXqia8a3
みんなでバカになりましょう。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 15:38:14 ID:QjpaT4N8
男臭くて海洋民族っぽいところかな。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 18:23:04 ID:ZXqia8a3
日蓮は漁師の息子だからね
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 19:40:44 ID:fT1e9kGm
>>61 非常に長文で、住人の方々に迷惑になるかと思って、レスるか悩んだのですが、元はといえば
自分の持ち出したことにあなたから意見をもらったんですから、スルーするのはあまりに
非常識で失礼ですね、
なるべく手短に書きますね。
> 法華経が何を言っていようとも、
> その内容と、
> 法華経についているタイトルを唱えて得られる体感などの
> 感覚は、一切なに一つ関係していない、
つまり、「妙法蓮華経」というタイトルと法華経の内容との関連性が無いと言うことを言われて
いたわけですね。失礼しました。
> おかしい・・・あなたはこの一件に関して分厚いバリアーで覆われてしまっていて
> そこから本質の主張がナンであるのか全然認識に加わっていかないように思える
> のですが・・・、これはこちらの間違いでしょうか・・・?不思議ですよ。
そうですね、それは否めません。
紙に「南無妙法蓮華経」と書いた物を踏め、つまり踏み字させられるとしたら頭には
相応の後ろめたさがよぎります。それは、自分にとって法華経は研究の題材ではなく、
物語であり、思想だからです。
端から言わせれば法華経である必然性は無いでしょう、その通りです。でも日蓮仏法として
法華経を正しいと教えられてきたことが今に引きずっている、ネガティブに考えればそうなります。
ポジティブに考えれば自分でも認めるところですが、明らかにプラセボ効果によるポジティブ
マインドを保つことが出来ていると言うことです。おそらく、自分が法華経でなければならないと
思い込んでいるだけで、実際にその必要性は無いのだろうと感じていますよ。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 20:19:58 ID:0Y7jkfCj
>>62>>64 いえ、核融合炉を人類がまだ実用レベルにすることが出来ないとかではなく、明らかに
単なる物理的な現象でしかないという事を言いたかったのですが、あなたの言うとおり、
日蓮の生きた時代やエジプト文明が栄えた時代に太陽が核融合反応によって輝いている
等とは知る由もなく、昼を明るく照らす象徴として崇めたのだろうと思います。
数学にすら神秘性はありますね、オイラーの公式、
自然対数の底e、円周率π、虚数iこれら何ら因果関係が無いようにおもわれるものを、
式にあてはめると、0や-1が現れる、何とも不思議です。
理論や証明で解き明かされても自然に存在する物の美しさが人間を引き付けるのでしょうね。
> 日蓮はあくまでも中世という時代の、天台大師の立てた教義を「信じて」
> あの日蓮の思想を形成したに過ぎないわけで、法華経が「大乗、非仏説」
> (=大乗運動で出来上がった編纂された人為の経どもは、なんら仏陀の
> 直説などではなかったのだということ)の洗礼を受けた後では、我々は
> 全く宗教観の中で思考することになるのは、当然のことではありますまいか?
創価学会、そして日蓮の弟子、日興上人の残した日興遺誡置文の中で、法華経の行者は
浅知恵で決して天台宗の教えを見聞きしてはならないという禁忌があるのです。それを
破ることへの抵抗は無いですが、調べる必然性も感じずに今に至ってしまい、あなたの
おっしゃることへの同意を示したくとも出来ずにいるのが残念です。
とにもかくにも、事の発端は Saddharmapundarika = 妙法蓮華経 という漢訳から始まった
事ですが、自分の屁理屈が相まって、遠回りをしてしまいました。
ご教授大変感謝します。
自分の歪曲した罰論の思想も、時と共に正しい方向へいくものと思っています。
>>68 すみません、話を収束させるつもりだったんですが、このレスだけはどうしても
書きたくなりました。
> 顕正会だとかいう団体も将来現実に創価学会と同じものにならないとは限りません。
そうですね。
信仰の対象や思想はもはや問題ではないです。
創価学会は日蓮大聖人の広宣流布成就こそが最大の存在目的です。
広宣流布成就には以前、れっきとした定義がありました。人類の1/3の信者、1/3の理解者、
そして1/3の反対者、つまり1/3以上の信者に達したときこそ成就の時なのです。
もちろん、人類史上、キリスト教でさえもこの数値は達していません。
そして、多くの宗教は布教が最大目的であり、それは拡大解釈すれば政治を宗教で治める
ことにもなりかねないということです。
仮に、これが本当の目的であるならば、これは日本では内乱罪に相当する沙汰です。
オーム真理教の行ったことは当初内乱罪に相当することとの議論もあったくらいですね。
さて、顕正会と創価学会の大きな違いは、顕正会は国立戒壇、つまりは戒壇は国教となる
ことを意味し、創価学会は三大秘宝の内の一つ、本門の戒壇として一閻浮提総与の御本尊の
安置すべき須弥壇を意味します。
教義は違えど、顕正会にせよ、創価学会にせよ、日蓮正宗にせよ、悪化の一途を辿っている
ことは間違い有りません。
>>67 戻りますが、
戦争責任、これは国家神道による狂気の沙汰であることではないでしょうか?
むしろ、戦中、日蓮正宗は国家の弾圧により札を祀るまでに堕落していたのです。
現在では六十〜百派以上あるともいわれる日蓮宗ですが、戦中の影響力は皆無に等しい物
だったはずです。
国家は天皇崇拝を強要し、明治神宮を崇め、国民に天照大神を崇めさせたのではないでしょうか。
現に、背いた宗教指導者の多くは治安維持法違反、不敬罪という名の下で多く投獄されていました。
85 :
残念:2008/05/14(水) 21:05:24 ID:CGXO4ehD
「智者に我が義破られずば 持ちいじとなり その他の大難 風の前の塵なるべし」
「二乗仏に成れず。」
>>81>>83>>84 どうもです、丁寧なご返事、ありがとうございます。お仕事などお忙しいかもしれ
ませんから、レスするしないはご自由で構いません。
ゆとりをお持ちになって、ゆっくりとお考えになられればとは思っています。
さて、繰り返しなってもご気分が変わらないと議論にはならないと思いましたので、
これらのご返事の中で一つだけレスしますね。
>>84 >戦争責任、これは国家神道による狂気の沙汰であることではないでしょうか?
>むしろ、戦中、日蓮正宗は国家の弾圧により札を祀るまでに堕落していたのです。
>現在では六十〜百派以上あるともいわれる日蓮宗ですが、戦中の影響力は皆無
>に等しい物だったはずです。国家は天皇崇拝を強要し、明治神宮を崇め、国民に
>天照大神を崇めさせたのではないでしょうか。現に、背いた宗教指導者の多くは
>治安維持法違反、不敬罪という名の下で多く投獄されていました。
あなたのおっしゃっているこれらのお話は、太平洋戦争も末期の日本が劣勢の戦況
とはなり、国民を縛り上げて戦争に協力させないとにっちもさっちも行かなくなった
軍部の生き残りを掛けた悪あがきの断末魔の状況での内容ですが、
私が田中智学、石原莞爾という名前を出したのはダテではありません。
つまり、あなたにおいては、これらの人々の名前をググッて調べて見られたいわけ
でもあるのですが、、太平洋戦争に突入した歴史の必然は、実際には日本が満州国
を建国してしまったそのときから始まっていたのだ、ということを言っているに過ぎない
わけでした。日本が満州を造ったのは、国家の意思ではなく、あくまでも石原莞爾という
日蓮主義の組織の人間であった陸軍将校の一念で始まった妄想の実現としてで
あったのです。ここを言っているのです。
>>86 石原莞爾の妄想とその結果については、たとえばこんな予備校の授業でも教えら
れているほど有名で、
竹内睦泰先生 超速サンプル日本近現代史の流れ4@YouTubeちゃんねる
http://youtubech.com/test/read.cgi/0kMIdrBbh2k/tag/日本/l50 (面白いですから見ておくのも損はないとは思います。この講師はその道では相当に
有名で合格率の高さでも定評がある予備校講師で、DVDも評判がいいらしく結構な
売れ筋らしいです。少なくともこの内容に大きな齟齬はないはずでしょう)
石原莞爾は、このように、日本政府の意志などはお構いなしに、勝手に妄想に
よって満州国を造るために大陸を侵略してしまったというのが、現実、だったのです。
このビデオの内容が初めて知るところであった場合は、少なからずショックを受ける
ことでしょう。しかし事実はこれだったのです。
そして、以来、その石原莞爾が勝手に薦めてしまった日本の大陸侵略が、結局
アメリカが日本に対して進めた封じ込め戦略を誘発して、どうすることもできなく
なった日本政府と軍部は、最終的にアメリカの戦略通りに真珠湾を奇襲する作戦
を選択させられることとはなり、
そしてあなたのおっしゃる太平洋戦争の末期に向かう必然の流れを形成してしま
ったということだったのです。
つまり、日本が原爆を落とされるまでなったのは、実はこの石原莞爾が日蓮主義
の組織から立って妄想を膨らませて満州を建てる計画を立てて実行に移してしま
ったところから始まったということだったのです。
>>87 (続き)
ですから、この辺の認識をはっきり持つためには、日本の明治以降の近代史を
少しは学ぶ必要があるわけですが、学校ではこの辺の現実をほとんど教えません
から、たぶんあなたのような若い方にはほとんど知識としては教えられていない
はずですが、ネットでなら自分でいくらでも知ることができるでしょう。
日本の戦争の歴史は、明治の日露戦争の時代からのすべての実相を知る必要
がありますね。
面白いフラッシュがあるのでこんなのも見ておくと興味がわくかもしれません。
http://www.teiteitah.net/ これは若干日本寄りの姿勢が感じられる作品ではありますが、北欧に待機して
いたロシアのバルチック艦隊が日本海にまで到達するまでの息をのむ戦況など
なかなか見させる作品になっていますね。まさしく、当時の大日本帝国の勇姿が
ここにあったとは見ました。
遠因からすれば、日本が太平洋戦争にまで至ったのは、この日露戦争での勝利
にまでさかのぼることができ、そこでの成功体験から日本の軍部の増徴が始まった
のだとは当然言えるでしょうが、それでも、国柱会というに日蓮主義の団体の一員
であった石原莞爾の暴走にこそその決定的な原因を求めることができるといって
間違いないと思います。ここに日本を破滅に追いやった元凶としての日蓮思想の
存在があったんですよ。
>>88 (追加)
(参考)石原莞爾 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/石原莞爾 『世界最終戦論』(後、[最終戦争論]と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国
の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指
したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者
でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られて
いない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅
する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵
器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れる
ような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。
-----
いずれにしろ、田中智学や石原莞爾だけでなく、戦後の創価学会の戸田、池田
にしても、結局は日蓮の思想から発してその妄想が極まって起こったカルトであり、
社会を破滅の危機に追いやる種類の蒙昧思想に結果する運命にあったことは
その特徴として際立っているというほかはないでしょう。
そこにいたるプロセス、そしてそうなった背景と国家、国民の精神的、文化的な
土壌あるいは環境といったところまで含めて、すべて興味深い研究の対象となる
には違いありませんが、一つだけ言えることはこれでしょう、すなわち、背理法の
証明に現われるがごとき、最初の誤謬が、最後の矛盾と不幸に到達せらしむ必然
ということでしょう。まずはひとまずここまで.
(補足)
>>88のフラッシュはスピーカーをオンにして見ないと迫力がありません。
念のため。
>>86 >太平洋戦争に突入した歴史の必然は、実際には日本が満州国を建国してしまったそのときから始まっていたのだ
満州事変があの戦争の始まり?それは破綻した15年戦争史観ですね。
事実は
支那事変勃発時、1937年7月18日、石原参謀本部作戦部長は次のように語っている(田中新一陸軍省軍事課長談。石原が杉山陸相に述べたもの)。
「本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面にあてられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。
この結果は、あたかもスペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊を一挙に山海関までさげる。
そして近衛首相自ら南京に飛び膝づめで日支の根本問題を解決すべきである」
・・・・・・・・・・・・・・
石原は「全面戦争の危険」と「底なし沼」とが見えていて、しかもそれはソ連や米国の思う壷であることも分っていたんだな。
昭和天皇の常識人では分らんかっただろう。
>>91 >支那事変勃発時、1937年7月18日、石原参謀本部作戦部長は次の
>「言い訳」を語っている
そうです、ここで石原莞爾が言っている言い訳は結局すべてを物語っている
わけでしょう。
物事には因果の連鎖が存在していて、ここでの戦争の連鎖はまさしくその
原因と結果がつながっている好例ですね。
法華経の意味内容とそのタイトルの口称時の体感との間には何の因果の連鎖も
連動もつながりも存在してはいないわけでしたが、
この戦争のつながり、1、柳条溝の謀略に始まる満州事変、2、芦溝橋に始まる
日中戦争、3、真珠湾に始まる日米戦争、はすべて因果の連鎖と呼ぶべきつな
がりの中で存在していることを認めるならば、
すべての原因は、石原莞爾が満州国を「日本政府の意志とは何の関わりもない
まま」「勝手に」作り上げようとして「満州j事変を起こしてしまった」ところにあると
いうことです。そんな無駄にして無謀の極み、不要な侵略に打って出るなどしない
でいれば、日本は無要の苦難に引き釣りだされる心配など元々なかったんです
から。石原はその言い訳を言って自分のやってしまったことが原因であったこと
を知っていて悔やんだことでしょうが、結果はそこから運命の経過をたどったと
いうことでしかありません。
>>92 (参考)
満州事変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 世界征服のイデオロギー
大日本帝国陸軍の関東軍参謀の石原莞爾は、日本は東洋の文明の中心となり、
欧米の文明の中心となるアメリカと最終戦争を行うことになるとし、そのための準備
の必要性があるとする「世界最終戦論」を有していた。石原はこのイデオロギーに
基づいて柳条湖事件を起こした。
世界最終戦論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/世界最終戦論 天皇について石原は
人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めて
その真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するもの
と然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、
西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後
の大事件である。
とし、また『戦争史大観』では
我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に
目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇
の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには
日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。(第三篇「戦争史大観の説明」
第一章「緒論」第一節「戦争の絶滅」。下掲の外部リンク参照。)
と述べている。
>>93 まさしく、こうした
> 我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に
> 目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇
> の御存在が世界統一の霊力である。
信仰とは、今の創価学会の池田大作=本仏信仰にも典型的に現われている
妄想でありますが、まさしくカルトにおいてはこういった妄想が「正義として流布
せられる」特徴が共通してあるということですね。
まさしく、戦前の石原莞爾や田中智学らの妄想こそは、戦後の創価学会が
世俗化した形でそれを引き継ぎ、結果として天皇の現人神に変わる、もう一つ
の「俗人本仏信仰」というものが形成されたのだと言って過言ではない、という
ことでしょう。
>>92 >この戦争のつながり
繋がっていないから15年戦争とは呼ばれなくなった。
満州事変と支那事変の間は平和が保たれていたからだ。
次に満洲は元々が満州族の領域でどこも侵掠をしてはいない。満州国が事実として存在できたのは天才・石原の功績だ。
満州事変は成功したのに比べその後の戦争は現在「アジア・太平洋戦争」と呼ばれる。が大陸では膠着し対米英には
負けた。
遂にはソ連が侵攻し敗戦に至る。まさに石原の見通しそのものの戦局といえる。
日蓮主義者が干され神道が主導権を握った戦争に負けた。
これが史実だ。
国家神道・皇国史観の大罪は重い。
(補足)
しかし、結局、
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1208089358/445 で書かれている池田氏の姿は、現代の奔放なやくざ親分の魅力でしかなかった
わけですが、そうした自由に奔放に振舞う俗人を、自分自身のかしらに据えて
なんとなく安心したい、という気分が、多くの学のない俗人世人の宗教心を代替
してまがいモノを掴ませてしまった本当の理由だったのでしょうが、
我々の知性の本物か偽モノかがいつでも問われているということでしかないの
でしょう。いつでも我々はこういう本質俗人の人間が聖人であるかのようにして
立ち現われて来たときに簡単にその蒙昧に巻き込まれてしまうということでしか
ないのではないでしょうか。
そして、そういう状況を補完してしまったのが、他ならない日蓮という蒙昧であった
ということだったわけでしょう。これが真実ではないのでしょうか。
>>95 いいえ、
>>92 >すべての原因は、石原莞爾が満州国を「日本政府の意志とは何の関わりもない
>まま」「勝手に」作り上げようとして「満州j事変を起こしてしまった」ところにあると
>いうことです。そんな無駄にして無謀の極み、不要な侵略に打って出るなどしない
>でいれば、日本は無要の苦難に引き釣りだされる心配など元々なかったんです
これだけです。物事のつながりは途中に停戦があろうと関係ありません、イスラエルで
これだけ準戦争状態が継続しているのは、停戦合意がはさまれたとしても、その連鎖
があるのは認められるはずです。同じことです、まして満州事変は敵がやったとウソを
言って自分で満鉄の爆破をやって濡れ衣を着せて起こした汚いやり方でもあったことを
考えれば、因果の道理ともいうべき結果を、日本は蒙ったということです。石原がその
責任が問われるべきことは当然ですね。
>日蓮主義者が干され神道が主導権を握った戦争に負けた。これが史実だ。
>国家神道・皇国史観の大罪は重い。
>>93の信仰内容からすれば同じ皇国思想をバックアップして昭和初期の妄想的国民
世論を煽動したわけであって、全く筋違いなお話。今日はここまでとします。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 04:02:29 ID:P4tiorv3
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 04:03:15 ID:P4tiorv3
【平成立正安国論】
日本は400年周期で時代が変わる。
箱洗い(衰退していく物が直前栄華を極め、全てを手に入れ有頂天になった直後滅びる)。
平安末期の箱洗い。
平清盛が貴族を押さえ政権を握りアジア貿易で栄え、平家は富と名声を手に入れ栄華を極める。
→清盛死後平家は滅び、源頼朝は平家を教訓とし鎌倉幕府を設立する。
時代の必然性(西の京都に対し東の鎌倉を創る)
↓400年
安土桃山末期の箱洗い。
豊臣秀吉が天下統一し全国の大名を服従させ、富と名声を手に入れ栄華を極める。
→秀吉死後豊臣家は滅び、徳川家康は豊臣家を教訓とし江戸幕府を設立する。
時代の必然性(西の大坂に対し東の江戸を創る)
↓400年
現代の箱洗い。
東京が中央権力により栄華を極める。
例
○政府が地方に圧力をかけ大企業の本社を東京に移させる。
○御用地震学者を使って、近畿、愛知の地震発生確率が高いと言う予測を出させ、
文化財や国宝を東京に丸ごと移転させる計画を立てる。
○メディアなどの情報操作で東京に人口を集中させ、地方を農地工場化し差別化を図る。
→平成関東大地震で東京は首都の座を失い、富士山噴火で復興が遅れる。
阪神大震災は平成関東大地震への教訓(犠牲)
平成関東大地震は日本全国への教訓(犠牲)
政府はこの教訓を重く受け止め、一極集中のない全国バランスの取れた新日本建設に勤める。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 19:01:26 ID:dNMtY4KQ
よくわからん。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 20:42:26 ID:PdJqpOoi
ねえ、難しすぎない?
オレが頭悪いのかな?
102 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆BJxtZcoB2U :2008/05/15(木) 22:25:42 ID:K45iSt8r
>>102 ねぇねぇ、自己破産したうえに、糖尿病で苦しんでいるちんぽしゃぶりのホモグチさん!
あなた、平井堅と織田裕二と福山雅治と坂口憲二と久保田利伸と槇原敬之の中では誰が
一番好きなんですか?
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 06:54:49 ID:wSEIkNjv
保守age
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 16:05:31 ID:IXRbup+b
元々の天台大師チギの説であったこの、法華経のタイトルに法華経の内容の
エッセンスが煮詰まって入っているから、法華経のタイトルが大事なんだという
主張は、そもそも 「論理的におかしい」 でしょう。
それはこれを考えればいいかと思います。
もし
「サッダルマプンダーリカスートラ」 がその文底で
そのタイトルであるところの
「サッダルマプンダーリカスートラ」
にその内容を煮詰めて書いてあるんだからそれを
唱えれば効果がある、
というのならば、南無に対応する梵語の 「オン(=オウム)」を頭に付けて
「オン、サッダルマプンダーリカスートラ」
と言え、ということになりますよね。そうならばこれを「お題目」にして唱えな
ければならないはずです。しかしこの「お題目」では実際には効果がありま
せんね。それは「ごろが悪いから」ですよ。
もし法華経が元々その「文底に」「タイトルを拝め、唱えろ、そうすればいい
ことがある、唱えなければ仏罰だ!!」と書いてあるというのなら、なぜその
原文の梵語の 「題目」 にその適用がなされないのであろうか、だとしたら
ずいぶんとおかしいでしょう、なぜならその「スートラ」の「タイトルに効果が
ある」という主張、なんですから.しかしそれを一回翻訳したものでないと
駄目だと、その法華経に書いてあるのでしょうか?いいえ、いったい全体
そんな都合のいい主張が法華経のどこにあるというのでしょうか!!
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 16:23:16 ID:IXRbup+b
この、
>>105の主張の正当性を考えてみれば、天台大師チギの説が蒙昧
の主張であったことは道理として当然認められるでしょう。
としたら、それを参照して構築した日蓮の信仰内容は、そこで破綻してしまう
のですよ。
天台大師チギは自分が開発した禅行であった「止観行」を実践して完成に
至ったと感じつつあった中で、
おそらく日蓮と同じように「妙法蓮華経」というそのタイトル、お題目を唱えた
ときに感じられる体感が、その止観行で得ることができた体感と似たもの
であることを知ったはずでした。
実際に止観行を行ったときに意識を意志的に止して観ずる統御をするときに
前頭葉に集中の感覚が生まれるのを感じることができます、それが題目を
マントラとして唱えたときの集中感覚とがよく似ているのです。
そこで彼は、これは「法華経に不思議な功徳があり、その内容がそのタイトル、
題目である「妙法蓮華経」にこめられているからだ」という「信仰」を持った
に違いありません。ここが天台思想の原点であったのだと推測されるのです。
ですから、日蓮もこれを感じたに違いなく、これはあくまでも止観行で行う「観心」
の「結果として得られる体感」、それと似ているということであり、題目が即効性
の集中力の増強、雑念排除の効果を持ちうるという意味での即席禅定効果と
してのカンフル剤的「薬効としての題目」が、禅行を代替するとして末法の行は
これに尽きる、と判断したというのが、日蓮の行持過程での発見的方法の結果
だったのだと推測されるのです。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 16:44:53 ID:qQ2OuZI8
柿本昭二
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 16:45:12 ID:IXRbup+b
>>106 (続き)
しかしこの秘密はすでに説明したように、すべては生理学なのでした。
>>47-59 >そんなことにはおかまいなく、この呪文の効果はあり続けてしかも機械的な太鼓
>の音響効果で人間に効果をいつまででも持ち続けるということなんですよ。
>ナンミョウホウレンゲキョウで幸福になれる理由
>
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/3784/1094976432/ だからこそ、それが故に確かにこのお題目行は、字も読めない当時の
普通の人々に禅定を得させるには都合がよく、簡単に禅定効果を与える
特効薬に違いなく、これこそが末法の仏教なんだと日蓮は確信したという
ことだったのです。
これがあれば普通の人に仏教を布教する(=下種する)ことができる、
これこそが末法の仏教である!と。
だから、その効果に驚いた日蓮は、それが当時の仏教の定説となっていた
この天台大師チギの主張が正しいのだ、と「信じた」のです。そして自分
はこの絶大な禅定効果を持つ、「最勝の経典である法華経のタイトル=
お題目を唱えることを国中に広めて字も読めないで生活している普通の
人に仏教を広める末法の眼目」となるのだ、これが救済のための仏教
なのだ、(そしてこのように信じる信心はいかにも正しいことのように思わ
れたので)、自分はこの正義の説法僧であり、世を改革し悪世を生まれ
変わらせるために生まれた世を救う末法の法華経の真の上行菩薩なの
だとい自覚を強くしてしまった、ということだったのです。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 17:03:53 ID:IXRbup+b
>>108 (続き)
その結果、日蓮はこのお題目に関しての法華経との関わりでの宗教的思弁を
あれこれと創作して追加し、またその結果生まれる法華経への信仰心を盛り
込み、それを信じる教育を受ける機会すらなかった多くの大衆に仏教 ”的” な
「信心」を与える宗教としての題目行というスタイルを構築することに成功した、
ということに相成ったということだったわけです。
これが日蓮経が成立し、布教ということが実現した本当の理由です。
しかし何度も言う通り、この題目行n秘密はあくまでも、すべては生理学なので
ありました。
>>47-59 >そんなことにはおかまいなく、この呪文の効果はあり続けてしかも機械的な太鼓
>の音響効果で人間に効果をいつまででも持ち続けるということなんですよ。
>ナンミョウホウレンゲキョウで幸福になれる理由
>
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/3784/1094976432/ つまり、和太鼓を叩いて響いてくる音響の影響が、我々人間の横隔膜を振動ささせ、
物理的に我々の体を共振させて身体の中に振動を与えてそれが神経を弛緩させ
またそうして免疫系を活性化させるなどの、物理的効果、生物物理学的効果、生理
学的効果として結果するということでしかなかったのです。詳しくはこれに、あと重要
な音韻の効果2つとが加わり、「純粋に機械的な」メカニックな効果としてのお題目
の「薬効」が、一般の人に「アプリオリな宗教的効果としていい広められてしまった」
ということだったのでした。これが「日蓮教」の真実だったのです。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 17:28:42 ID:IXRbup+b
>>109 (続き)
ですから、すでに述べたように、法華経の意味内容がその経文のタイトルに
煮詰まって入っているんだという天台大師の信仰信条が論理的な根拠を与え
ることができない、ということ、つまり
1. 法華経のタイトルはあくまでも翻訳後のものでしかないこと、すなわち
法華経それ自身の中には、なんら「翻訳した上でのタイトルに効果がある」
とは(文上でも文底でも)書かれてはいないこと
2. しかもそれとしても、あくまでも任意性があり、候補のうちのどれが付いても
おかしくはなく、つまり 「ミョウホウレンゲキョウ」 というタイトルの音韻は
あくまでも「偶然」できてしまったものだったこと
そういうものが、法華経に初めから書かれていたこれが元々の目覚めた人と
言う名=「仏陀」である釈尊の説いた仏教の真意だったんだ!!というような
主張が、論理として何らできようはずもないことは、これで明白ではないでしょうか?
これが仏教なのでしょうか?果たして??いかがでしょうか?
宗教議論ほど下らないものはないな。哲学議論よりひどい。宗教などという下らないもんに熱中してないで、算数でも良いから勉強し直せ。
どうも、ここで議論を以前にさせてもらったモンです。
誰が誰だかわかんないから、コテハン付けませんか?
「妙法蓮華経」に限った事じゃなく、「阿弥陀仏」であっても「南無」は梵語で帰依を意味し、
漢語であれば「南無妙法蓮華経」、「南無阿弥陀仏」なんじゃないんでしょうか?
サンスクリットで言うならば、「オン、サッダルマプンダリーカ、スートラ」となるんでしょうが…
>>112 「南無」は梵語のnama(ナーマ)の音写。
サンスクリットなら「ナーマ・サッダルマ・プンダリカ・スートラ」
114 :
A ◆uCMBNzDT72 :2008/05/17(土) 19:43:23 ID:IXRbup+b
>>112 どうもです。ずっと書き込んでいる者です。それでは、とりあえず名を
A としますので、よろしくです。
>漢語であれば「南無妙法蓮華経」、「南無阿弥陀仏」なんじゃないんでしょうか?
そうですね。それで、それがどうだということでしょうか。
もしご主張がありましたら、もう少し明確にお願いしますね。
ナーマ・サッダルマ・プンダリカ・スートラでも
南無正法華経でも
南無薩芸芬陀利経でもなく南無妙法蓮華経なのは
羅什の妙法蓮華経にしか
一念三千の元の 十如是が 書いてないからじゃね
>>116 >南無妙法蓮華経なのは、羅什の妙法蓮華経にしか一念三千の元の
> 十如是が 書いてないからじゃね
一念三千 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/一念三千 十如是 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/十如是 なるほど、あなたは面白いところに気が付きましたねぇ、そういう考え方も
ありましたか、なるほど・・・、、
十界×十如是×三世間=三千
で、この 「十如是」 がないと、三百になってしまって三千にならない、
そうなると「事の一念三千」にならない、だから、「事の一念三百」に
しないためには、十如是があるお経じゃないとだめだ、っつう話ですか。
面白いことをいいますなあ、フフフフ.
上の十如是のWikiにも、確かに、
「特に、天台教学を引継いだ日蓮宗各派でも、この十如是を始として十界互具、
そして一念三千を仏法の極理としているため、この十如是を様々な角度から
検証しており、たとえ意訳であっても梵文原典や他訳の法華経にはない力強さ
を感じるとともに、鳩摩羅什の聡明たる才に感嘆する、という意見もある。」
とありますね。
誰か何か意見のある人いますか??いたら何かご意見伺いますよ。
ハイどうぞ、お願いしますです。
>>117は A のレスでした。(ところで、JaneStyleでコテハン残すには
どうすりゃいいんですかね?コテハン使ったことなくてわからんのですた・・・
スマソです)
>>114 いつも、どうもです
俺としたことが、連続カキコで規制を受けて創価板に書けなくなってました…
> >漢語であれば「南無妙法蓮華経」、「南無阿弥陀仏」なんじゃないんでしょうか?
> そうですね。それで、それがどうだということでしょうか。
> もしご主張がありましたら、もう少し明確にお願いしますね。
いや、まあ、実はそれだけなんです…
矛盾してると仰るだろうけど、「妙法蓮華経」は岩波書房の「法華経」の上〜下巻の3巻をざっと
ぱらぱら読みしているだけで、神髄を理解するには俺の知識はほど遠いのです
法華経は物語であり、中身はもはや伝説的とも捉えられる部分もあるし、漢語で例えば「霊鷲山」と
出ていたのを学会版や平楽寺書店版の「妙法蓮華経竝開結」を読むだけでは、インドのどの
地域のことなのかすら汲み取れないで居ました。てっきり、フィクションであるとすらも。
おそらく、A ◆uCMBNzDT72さんには、中身を理解してもない経文にとらわれることはそもそもその真偽に
拘わらずナンセンスと思うでしょう、ごもっともです
でも、創価学会、日蓮正宗が堕落した今、自分の唯一の支えはもはや、御本尊であり、日蓮仏法であり、
妙法蓮華経、それだけなのです
>>116 鳩摩羅什漢訳、妙法蓮華経方便品第二より
「所謂諸法。如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」
「所う謂は、諸法の是の如き相と、是の如き体と、是の如き力と、是の如き力と、是の如き作と、是の如き因と、
是の如き縁と、是の如き果と、是の如き報と、是の如き本末究竟等となり。」
梵語和訳より
「すなわち、、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなる
ものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、
ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴が
あり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の
明白な目撃者なのだ。」
確かに、十如是として漢訳されているけど、梵語和訳はもっとアバウトな感じがする。これは十如是とは
言い切れない…
>>120 >でも、創価学会、日蓮正宗が堕落した今、自分の唯一の支えはもはや、御本尊であり、
>日蓮仏法であり、妙法蓮華経、それだけなのです
そうですか。わかりました。
ただ、どうして日蓮は法華経が第一であり最勝(優れている、勝っている)であり、
そして「南無妙法蓮華経」が末法の行法だと信じたんでしょうかね?それがわかって
それに論理的に賛同、同意するから、確かに「その通りだと思うから」、だから
自分は「日蓮仏法」というものが「唯一正しい」んだと信じるんだ、ということにまで
行くのであれば、それもなるほど尤もなお心、だとは思うわけでありますが・・・。
>>114 > >漢語であれば「南無妙法蓮華経」、「南無阿弥陀仏」なんじゃないんでしょうか?
> そうですね。それで、それがどうだということでしょうか。
> もしご主張がありましたら、もう少し明確にお願いしますね。
この件については、私のほうの見解はすでに述べてある通りです。
原典の中に「文底でタイトルを使って瞑想しろ、あるいはタイトルを崇めろ、タイトルに
サッダルマプンダーリカスートラの意味内容が凝縮して込められてるんだからそれが
末法の凡夫の救われる唯一の道、方法なんだぞ!!」と「読み取れる」というので
あれば、漢語に訳す以前のそのタイトルにそれが適用できなければウソだろう、
という論旨でしたよね。
ですから、それが成立しない(
>>105)のならば、そういう読み取り方(文底云々)ができる
という主張は嘘っぱちにきまってるじゃないか、ということですよね。
これについてはいかがお考えになられますか?
>>121 (続き)
で、ところが、それを漢訳したものであれば、そういうことが書いてあると読み取って
いい、とするのはどういう根拠から主張できるんだろうということですよね、漢訳された
ものには、
天台大師チギの主張として在った、「タイトルにサッダルマプンダーリカスートラの意味
内容が凝縮して込められてるんだ」という趣旨のことが、「文底」で「サッダルマプンダー
リカスートラ」には書かれているんだと日蓮が主張したのは、漢訳においてのみ成立する
のであって、原典に対してではない、というのなら、
そもそも、漢訳の「サッダルマプンダーリカスートラ」は原典の「サッダルマプンダーリカ
スートラ」とは「主旨自体が激しく大きく変わってしまっているんだ」ということを主張して
いると言っていることになります。
だとすると、それはあくまでも「サッダルマプンダーリカスートラ」という経文がどうだという
話ではなくて、漢訳のものは独立した別個のお経であり、そこでその経文が主張する意味
内容自体がまるでく変化してしまっているのだ、その変化した方の経文が正解であり、
原典はもうそもそもどうでもいいんだ、ということでもあるわけでしょう、どうでしょう?
なぜならば、「タイトル」に意味が凝縮していると「自分で言っている方の経典」はあくまでも
「クマラジュウのミョウホウレンゲキョウ」の方であり、「原典にはそういう主旨の内容は
書かれていないのだ」という主張にならざるをえないからです。
どうでしょうか、これは日蓮の主張についての滅茶苦茶カナメのテーマになってしまうはず
ですよね。となると、これは、「サッダルマプンダーリカスートラが仮に仏説だった」とした場合
には、「クマラジュウのミョウホウレンゲキョウ」は仏説ではない、ということを意味するから
です。しかしそうなってしまうと、
>>121の前半の「日蓮がミョウホウレンゲキョウは仏説である
から大事にしなければならないと信じた」という日蓮自身の信仰の根拠がなくなることを意味
してしまうでしょう。それはもう完全な自己矛盾の議論になります。
>>122 (続き)
>天台大師チギの主張として在った、「タイトルにサッダルマプンダーリカスートラの意味
>内容が凝縮して込められてるんだ」という趣旨のことが、「文底」で「サッダルマプンダー
>リカスートラ」には書かれているんだと日蓮が主張したのは、漢訳においてのみ成立する
>のであって、原典に対してではない
ここは正確に言うと、前半はいいとして、日蓮はその天台大師チギの説を信じていたとしても、
日蓮自身が主張した文底説とは、「タイトルを唱えればいいんだと書いてある、という文底説」
でしたね、ちょっとニュアンスが違いました。しかしいずれにしても、文底でそう言っているのは
あくまでも漢訳の方であり、原典のほうではそうは言っていない、ということにしませんと、
>>105の問題が解決しないことは同じですね。
あくまでも唱えて効果のあるのは、「ナンミョウホウレンゲキョウ」であって、「オンサッダルマプン
ダーリカスートラ」ではなかったからです。
だからこそ、世界中に布教するとしても、日蓮の弟子は誰も絶対に「オンサッダルマプンダー
リカスートラ」と唱えろとは言わず、どうしても効果の在るほうの「ナンミョウホウレンゲキョウ」
となっていたわけですよね、これはアフリカ行っても同じ、アメリカ行っても同じ、ロシア行って
も同じ、チベット行っても同じ、そしてまさしく、
原典「サッダルマプンダーリカスートラ」発祥の地=インドに行っても同じでしたよね。
ならば、明らかに「漢訳のものにしかそういう主張は文底で主張していない」としなければ
どうやっても
>>105の現実を満足する理論にすることができないということを認めていると
しか言えないでしょう。
この議論は、
>>116さんの意見を聞いたとしても、変わることなく言える内容なんですよね。
ですから、その話が「仮に万が一あったとしても」、それとは無関係に提起されている内容
のことなのです。
124 :
A ◆uCMBNzDT72 :2008/05/18(日) 20:28:22 ID:YwKQV+6/
>>120の後半のことについては、
>>117のWiki でも書かれていたように 「一念三千」がどうだという話なんでしょうが、、
仮にそういうことがあったにせよ、
それで、では、クマラジュウの漢訳版にも、そういう内容が「書いて無かった」場合で
あっても、
しかしその漢訳版のタイトルが「ミョウホウレンゲキョウ」である限りは
その唱え時の効果は、実際には変わることはない
という現実が証明できると、私は考えます。
というのは、それならいますぐにでも、そういう翻訳にしておいて、これはクマラジュウ
の勝手な思い込みの翻訳だったんだから、それを原典に即して直しておくことにしましょう
と言って仏教界がこぞって訳しなおしてしまったとしても、
しかしその漢訳版のタイトルが「ミョウホウレンゲキョウ」である限りは
「ナンミョウホウレンゲキョウ」を大声で唱えることの効果は、一切変わることはない
と実験で証明できるからですね。なぜならそれはあくまでも、物理学、生物物理学、生理学
だからでした。なんらこの真実は一切変わることはないからです。(ひとまずここまで)