703 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
704 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 01:32:08 ID:8ID85KIP
>>703 (続き) まとめの一つがこれです。
この呪文の効果はあり続けてしかも 「機械的な太鼓の音響効果」と「絶妙な音韻の
効果」によって、人間に効果をいつまででも
「機械的に」 持ち続けるということ
詳説→ナンミョウホウレンゲキョウで幸福になれる理由
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/3784/1094976432/ だからこそ、それが故に確かにこのお題目行は、字も読めない日蓮当時の普通の人々に
「機械的」に「禅定」「三昧」を得させる
には都合がよく、「簡単に禅定効果を与える特効薬に違いない、これこそが末法の
仏教」 なんだと日蓮は確信したということだったのです。そしてあなた方もそのように
身体で感じているということであり、そしてそれを根拠にして、日蓮の遺文を信じ、
また、現代では、池田大作の生命論を信じるに至った、ということだったのです。
しかし、機械的に人間に影響するものと、「信仰」というものが
なぜ結びつくのでしょうか?
機械的に効くということは、体操の効果や、薬物の効果と同じものだということです。
お題目は、その効果を信じているから効くのではありません。それはただ、体操と
して体の機能に関係している物理的な効果だから、信じていなくても効くのです。
そこが、キリスト教などの 「信仰」 とは大きく違うところなんですよ。先に信仰がない
となんの効果もないものが、キリスト教の信仰であり、ただ単に機械的に影響する
のが日蓮のお題目唱え行なのです。これはヨーガの体操と本質が同じなのです。
なのに、なぜ、そこに 「信仰」 を必然として主張できるのでしょうか?それは別の
独立したものであったのにです。
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 01:34:58 ID:8ID85KIP
>>704 (続き) その2
例えば、風邪を引いて風邪薬を飲んだら効いて楽になったとします。
それを、
それは風邪ク薬の神の功徳だよ、良かったね
風邪薬の神様にお参りして供養しないと
バチが当たるよ、神社に行っとこうね
と教えているのが日蓮教だと行っているのです。これと全く同じことを
しているのです。
薬品を飲めばそれで風邪は治る場合が多いわけですが、誰もそれで
風邪薬の神様などを崇めたりしません。その薬はそういう理由で効いた
からではないと誰でも知っているからですね。
日蓮の題目行もこれと同じですね、お題目はあくまでも物理的な効果
で効いているのです。それをはっきりしれば、そこに勝手にくっつけた
宗教的観念とは別のことだと知ることができます。
つまり、日蓮はただ勘違いしただけだといえるわけです。
しかし、元々の仏教はそういうことを言っていたわけではないわけです。
日蓮の勘違いがただそういうものであったというだけのことにすぎません。
日蓮の勘違いを明らかにしたからと言って仏教がすべて否定されたの
ではないのです。それとはもともと独立したものだったからですね。
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 01:37:44 ID:8ID85KIP
>>705 (続き) その3
つまり、これが言えるのは、すでに論じたように、お題目唱えは、
それが効果があると信じてやったから
効果があったのではない
からですよね。それはわかりますよね。あれはやればそれでいいものですよね。
つまり体操です。ヨーガの呼吸法です。
それらはその姿勢を取り所定の筋肉を所定の仕方で動かし、あるいは固定して
呼吸をそれに合わせて調和させることでその効果を現すことが可能になるわけ
でした。それらに信仰は直接何も関係はありませんね。しかしそれでも効果は
確かにあるわけです。それは物理学であり、生理学でありましたから。
それを「体操の神の功徳」が働いたんだとはヨーガは教えません。これが正しい
思考方法です。仏教では八正道といい、正しく考えることが成仏には必要とされ
ていますね、ですからすべてをこのように正しく考えるのです。これが成仏には
必要なことです。
707 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆BJxtZcoB2U :2008/06/06(金) 04:20:02 ID:ixFw8GW2
>>704~706
あの、学会ではなく日蓮宗なんですが、日蓮はんなこと言ってませんが。
日蓮大聖人自身も四条金吾氏の投薬治療も受けてますし、薬の類は信者から
送られて飲んでいる記憶もありますので。
学会員の馬鹿な主張を日蓮系各教団にまで広げないください。
>>704 > 機械的に効くということは、体操の効果や、薬物の効果と同じものだということです。
> お題目は、その効果を信じているから効くのではありません。
「夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす」(法華題目抄)
>>705 > つまり、日蓮はただ勘違いしただけだといえるわけです。
以信得入は、元々法華経自体から出たことであり、大聖人の勘違いなどではない。
>>704の理論が正しいとすると、口が利けない者には効果がない事になってしまう。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 19:13:12 ID:8ID85KIP
>>707-708 レス乙です。本格的にレスをさせていただくのはもう少し経ってからとします。
まとまった時間が取れずすみません。抜けていたものがありましたので追加させていただきます。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1210949936/433 これがほぼ完全な解析です。実は後これに、サイキック効果も合わせて考える必要もありますが、
こちらはいわゆる「題目を送る」という呪詛・呪術の効果というテーマです。
実は仏罰の恐怖はこのサイキックな祈りが隣人や祈りの相手に与えた力も寄与したことでしょう。
親御さんがあなたのために祈ったその生霊があなたに憑いている、そういう言い方さえもできる
ほどに、これは実体的な影響力を与えるのです。
呪いの力は我々に確かに影響を与えているのでしょう。これらはずっと将来、外気功の科学の中
で研究されるテーマとなることでしょう。
外気功はすでに東京電機大学の町教授などの電気系の先生方が物理学の一環として研究して
来ていましたが、実際に、気功師が 「気を送る」 と、患者の脳波に同時刻に影響が現われ始めます。
これは念力やテレパシーなどとして従来呼称されていた現象の一種です。
つまり、これが 「題目を送る」 として創価学会で呪い題目をしていた効果を説明するであろうものと
なると、私は考えています。すべてが科学的に研究する対象となりつつあるもなのです。こうした体内
だけではない、物理的な影響力が、体外の他人にまで及ぶことで、他人の精神や体調などに少なから
ぬ力を与えていくのでした。
ですから、それらは日蓮であるとか、創価学会であるとか、宗教であるとかの専売特許では全然ない
のです。しかし、その同じ力を、ある一つの宗教的な教義や観念で縛って縄のようにより合わせて大勢
の人の念の塊にして送るというようなことは実際に出来たとしても不思議ではありません。そうした悪用
が創価学会ではこれまで実際に非常にしばしば行われてきたということだっただけなのです。そうした
影響力のいくらかがあなたの精神に影響しているだろうことは想像に難くはありません。
>>709 あなたのトンデモ疑似科学にお付き合いはできません。
ヨソでやれ。
>>709 何年も前から同じ事を書き込みしてんのかよ
そんなに自信あるなら
論文でも書けよ
何が信仰しなくても
題目を唱えたら効果がでるだW
吐き気がするだけだW
お前こそ呪詛の影響受けてんじゃねーのW
712 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 21:09:43 ID:8ID85KIP
>>710 >トンデモ疑似科学
そうですか、それでは一言だけこれにお答えしておきます。
>>708 >
>>704の理論が正しいとすると、口が利けない者には効果がない事になってしまう。
確かに声は大きくはでないでしょうから、和太鼓リズムの影響は大きくはならない
でしょうが、それでも空気の出入りはできることに注意が要りました。その場合でも
横隔膜の振動は弱いながらも起きるでしょう。これは自分で有声音にしないで
唱えた場合でも起きることで確認することができるのです。
ですから、それだけでなく、無声音だけの場合でも、
2.内分泌腺、とりわけ脳下垂体の活動を活発化させる鼻腔奥の機械的振動効果
3.撥音便の効果、濁音の多用効果、「エクボのエ」の発音によって顔の神経に微笑の感覚
を再現させる効果
これらは変わらぬ効果を持ちえました。それらの相乗効果でお題目による歓喜感は
醸し出されていたのです。ですから、聾唖者の場合でも同様に効果を有する結果と
なっていたのです。
しかしこれらは、日蓮によって「ありがたい不思議な法華経の法力のおかげで「歓喜」
を得るようになるんだよ」と吹き込まれていたので、アプリオリにそういう宗教心と信仰
の結果として教え込まれてそうなんだと信じてきたというだけのことだったのです。
713 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 21:16:20 ID:8ID85KIP
>>712 (続き)
はじめに述べた通り、撥音便「ン」の効果もまたこれら「エ」と「オウ」の音韻と絡んで、
巧妙にその効果を高めていたのです。
「ナン」ではじめることで、撥音便の効果「鼻腔奥に呼気をぶつけて響かせる」と同時に、
出だしで爆発させて覚醒的効果を与えるということと、上記の「呼気を長くさせる」と同時
に「笑顔を導く」中でも、「レン」によってまた撥音便を響かせ、
ナン -> 撥音便効果で鼻に息を入れ(脳下垂体を内側から緩く圧して)
ミョウ -> 呼気長く吐いて(喉付近の邪気=筋肉の停滞を払い)
ホウ -> 呼気長く吐いて(下腹部の邪気=筋肉の停滞を払い)
レン -> 舌で弾いて振動付きの撥音便で鼻腔奥を振動で叩き
(笑う門に福来るにしながら脳下垂体を振動的に刺激し)
ゲー -> ここで自然に笑顔にしながら息を長く吐き(上腹部の邪気=みぞおち
の筋肉の停滞を払い)
キョウ -> さらにその同じ息を長く吐く(同じ上腹部の邪気=みぞおちの筋肉の
停滞を絞りきるように払う)
これが、「ナンミョウホウレンゲーキョウ」の人体絞りの秘密だったのです。これらは無声音
であっても同様に効果を現します。
このような体操の効果を狙った呪文が、法華経のタイトルとして長い間唱えられてきたもの
だったということで、これは完全に体操効果です。つまりこれははっきり、ヨーガなのです。
これらの原理は、中国四千年の歴史にあった「導引術」に現われていた「気の流れを良く
する方法」として、そうした気を吐き切るための音韻がいくつか説明されていた、「シュイ」
の気、「シー」の気、「ホー」の気、「スー」の気、「チュイ」の気、「フー」の気の用い方と原理は
同じものだったのです。それらはすべて無声音でした。つまり有声音でなくても、同様に
すべて効果を持ち得るということなのです。
714 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 21:35:14 ID:8ID85KIP
>>713 (続き)
このお題目の効果効能が意味とは無関係であることの証左の一つは、
[1] 法華経を知らなくても、お題目だけ唱えても効果がある
[2] 法華経の内容を一切信じていなくても、お題目だけで効果がある
[3] お題目の意味を知らなくても、お題目を唱えれば効果がある
[4] お題目を感じで書けない人でも、お題目を唱えれば効果がある
これらは、お題目はあくまでも「南無妙法蓮華経」ではなく、単に「ナンミョーホウレン
ゲーキョウ」であるということを意味し、その音韻だけに効果の源泉があったという
ことを意味していたのです。
ということは、これは宗教的な概念構造とはそもそも全く無関係に起きている効果である
ことを証しているのです。仮に 「法華経が存在しなかったとしても」、お題目唱えの効果
はあったということでしょう。
さて、実際に海外で布教されているお題目は、実際に ”nam myo hou renge kyou”
でありました。創価学会などの「大白蓮華」などに出てくる海外の信者さんの告白にも
ありますように、「キリスト教の信者として生活していたときは喜びがありませんでしたが、
これは歓喜が違います、お題目によって喜びを実感しています。」ということの本当の
理由は、実際には先にも記したところの、これらの物理的な人体誘導効果であり、
特に、歓喜感の主原因は「ホウ」の後の「エクボのエ」の効果によって「無意識」に
笑顔が誘導されていた効果によっていたのです。これを発見してみてください。
これらを知るためには、天台の止観行で止して観ずる心の統御訓練をしてみるとよく
わかるようになります。つまり、心の微妙な動きや体感の精妙な感覚をすべて観ずる
ことができると、お題目唱え時のそれぞれの音韻のタイミングで何がどのように起きて
それら諸効果の一つ一つを実現させているのかツブサに直接知ることを可能にする
こととなるのです。これは止観を訓練することでご自分で試してみて納得してほしいです。
715 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/06(金) 21:49:55 ID:8ID85KIP
>>714 (訂正)
>[4] お題目を感じで書けない人でも -> お題目を漢字で書けない人でも
>”nam myo hou renge kyou” -> ”nam myo hou ren ge kyo”
特に、この ”nam myo hou ren ge kyo” ですが、これは発音の区切りにおいても
検証することができます。
「ナンミョーホウレンゲーキョウ」
これの発音の音節は、意味上は、
「ナム、 ミョーホウ、 レンゲキョウ」 ・・・(1)
でしたが、実際に唱えるときは、
「ナンミョー、 ホウレン、 ゲーキョウ」 ・・・(2)
となってしまっていましたね。これも意味とは無関係なものであったことを示している
重要な事実でしたね。
(1)ではなく、(2)のように唱えないと、お題目にはあまり効果はありません。これは
そもそも「お題目唱えには意味は関係していない」ことを意味していた事実なのです。
(2)のような音節区切りでは、その意味は全く不明です。(2)は音節を意味ではなく
あくまでも「言い易い語呂だけ」で区切って意味というものを処分してあくまでも呼吸、
息を吐ききるために都合がよい方式にしている証拠なのです。そしてその場合にのみ、
お題目唱えには効果があったということだったのです。
ですから、あくまでもお題目唱えそのものが効果を与えていたのは、あくまでも、その
物理的な効果であり、それに呼応して変化をもたらされていた人体の物理的な構造
がそれに反応する効果であったということ以外ではなかったのです。そこには法華経
がどうだという信仰が先験的に存在し得るとする根拠を主張するのは困難なのです。
ひとまずここまでとしておきます。ではまた。
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 00:30:46 ID:7dUAmz8Z
念仏の次は禅ですか?
外部から見ればナンミョーはバカ丸出しだし、日蓮御書の
内容は俗物のシロート坊主もどきがひとりで力みかえって
るだけで、「へんなおっさん」 という感じしかしないなw
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 09:16:26 ID:5e5VWy+2
>>714 >天台の止観行で止して観ずる心の統御訓練をしてみるとよくわかるようになります。
>つまり、心の微妙な動きや体感の精妙な感覚をすべて観ずることができると、
>お題目唱え時のそれぞれの音韻のタイミングで何がどのように起きてそれら諸効果の
>一つ一つを実現させているのかツブサに直接知ることを可能にすることとなるのです。
十如是とは本当はこのことです。一念三千ではなく、具体的にはこういうことです。
720 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 09:29:55 ID:5e5VWy+2
如来はこのようにして心の動きや働きをすべて観じて知ることができる。
という意味は人も止観によってそのようになるということ、でもあります。
具体的に止観行を実行実践するということはこういうことなのです。
仏教では八正道といって、正しく見て正しく考えることが必要なのです。
正しく見る、正しく考える、それは現代では科学的に、蒙昧でなく解析的に、
原因と結果を如実に知るということです。そこに宗教的観念で具体的に
知ることを封殺して観念だけに埋没するのは、正しく見て、正しく考える
ことに逆行する場合が多いのです。
成仏には八正道を実行しなければなりません。蒙昧からカルトが生じ、
その猛威に振り回されて国が滅ぶまでに至ることになるのです。
お題目で元気が出て来ても、それを宗教的信仰の結果であるとか観念
のなせる業だと信じると、そこから非必然の非現実の観念を結合し始め、
それによって一組織、一人間のアプリオリな権威が祭られてそこに信仰
を向けるように誘導され、いずれは政治もそれに壟断され従来からある
同じカルト支配が結果するわけです。それが日蓮教の歴史でもあったと
言えます。田中智学の国柱会の天皇崇拝による世界統合思想、満州国
の立て上げなど、そうした蒙昧の結果であり、戦後はそれと同類の支配
を創価学会が成し遂げようとして来ていました。これらはすべて、日蓮の
勘違いから始まっていたということなのです。
721 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 09:49:06 ID:5e5VWy+2
カルトがそうした常軌を逸した世界支配に邁進する行動に結果したり、
異常な個人崇拝に繋がって中世的な迷信世界を現出させてしまう根源
とはそもそも何なのでしょう。
それは、例えば題目行で開かれた内分泌腺の傾向に振りまわされて
いる、ということでもあったでしょう。というのはこれはヨーガでは基本の
注意事項でありました。つまり、
正しく見て正しく物事の原因を追究して解析的に思考しないでいくと、
体感に依存した内分泌腺の欠陥に依存した感覚と思考に振り回される
ことになるからです。
なぜ池田氏はあのように傍若無人な人格なのでしょうか?それはまさに
このことの結果であるに過ぎません。これはヨーガで開発された脳下垂体
の欠点がそのまま現われているということであり、それを本来的に正しく
方向付ける原理がその上に支配していない結果、漫画「三つ目が通る」
の主人公「写楽」が絆創膏をはがされたときの状態のようになって「超人」
的な人格が現われ、それを神として祭り上げるようにすべてを方向付けて
しまうようになるのです。
釈尊は成仏するには八正道が必要であると説かれましたが、その重大な
意味とは、このようにして暴走するあらぶる神としての脳下垂体の人格が
猛威を振るうことを許す日蓮的蒙昧信仰信心を否定していたということで
もあったのです。ヨーガで開発された教祖神格化の必然はいつでも存在
していたのです、八正道を離れてそれは現実とはなり、国が滅ぼされること
とはなるのです。国柱会の推進した八紘一宇の妄信運動が日本を滅ぼした
ことを正しく見つめなおすべきときが来ています。創価学会がそのコピーで
あることをよくよく知るべきとはまさにそれなのです。