>>298に書きましたが、この秘密はすべては生理学なんですよ。
この呪文の効果はあり続けてしかも 「機械的な太鼓の音響効果」と「絶妙な音韻の
効果」によって、人間に効果をいつまででも
「機械的に」 持ち続けるということなんですよ。
ナンミョウホウレンゲキョウで幸福になれる理由
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/3784/1094976432/ だからこそ、それが故に確かにこのお題目行は、字も読めない日蓮当時の普通の人々に
「機械的」に「禅定」「三昧」を得させる
には都合がよく、「簡単に禅定効果を与える特効薬に違いない、これこそが末法の
仏教」 なんだと日蓮は確信したということだったのです。そしてあなた方もそのように
身体で感じているということであり、そしてそれを根拠にして、日蓮の遺文を信じ、
また、現代では、池田大作の生命論を信じるに至った、ということだったのです。
しかし、機械的に人間に影響するものと、「信仰」というものが
なぜ結びつくのでしょうか?
機械的に効くということは、体操の効果や、薬物の効果と同じものだということです。
お題目は、その効果を信じているから効くのではありません。それはただ、体操と
して体の機能に関係している物理的な効果だから、信じていなくても効くのです。
そこが、キリスト教などの 「信仰」 とは大きく違うところなんですよ。先に信仰がない
となんの効果もないものが、キリスト教の信仰であり、ただ単に機械的に影響する
のが日蓮のお題目唱え行なのです。これはヨーガの体操と本質が同じなのです。
なのに、なぜ、そこに 「信仰」 を必然として主張できるのでしょうか?それは別の
独立したものであったのにです。