1 :
おさかなくわえた名無しさん:
2 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/04(木) 12:21:13 ID:SYWPMV3u
2
3
食堂でカレー頼むと水の入ったコップにスプーン入れてあったよね
にゃぁ〜ん
にゃぁ〜ん
_ _/|
rー-'´ !
ヽ _, r ミ
`彡 __,xノ゙ヽ
| ヽ
l ヽ
3ゲットねこだよ
サンマとかを食べてくれるすごいやつだよ
>>4 デパートの大食堂では、スプーンの掬う部分が紙ナプキンで包まれていたよ。
7 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/04(木) 23:47:42 ID:bUCfxHzT
道一杯、屋台がでてたな〜
電車のトイレがぽっとん式で、下を覗くとそのまま線路が見えてたな。
だから駅構内ではトイレ使用禁止だった。
線路上にウンコやシッコをまき散らしながら走ってたわけで、
今思うと不潔だなぁと思うけど当時はそれが当たり前だったから
なんとも思わなかった。
良く考えると、当時は踏切にそれら人間の糞尿が落ちてても不思議じゃなかったわけだ。
そもそもデパートの大食堂ってのが今無いんじゃ?
>8
田舎だったから線路のすぐわきをよく歩いていた。
今だったら運転手さんビックリで急停車するぐらい近寄ってた。
そういう時、時々水分を顔に浴びたんだけどまさか……
そういやセブンイレブンって
7-11営業だったんだよね
>>6 なぜ昔の人はカレーを食べる前にスプーンをコップの水に漬けるか、
って言うとライスがスプーンにへばり付かないようにだ。
正月三が日は店が開いてなかった
今思うとその方が良かったなあ
今じゃいつでもどこでも開いてて、特別感がなくなった
うんことカレーの話し混ぜるなw
おまいら前スレ使い切ってください。
>>16 本場どおり手で喰いなよ。
ルーで汁気を付ければ、コップの水につける必要は無いね。
わたあめの自動販売機があった
30円入れるとざらめ砂糖が出てきて、機械がまわって
横についているわりばしですくいとっていく
子供だったからなかなかうまくわたをきれいにすくい取れないんだが
>>17 日本の「カレーライス」は本場の「カレー」とは異なるものって言う認識を持った方がいいよ
お世辞だろうけど
炊いた米にカレールーをかけて食べる。
これは日本から輸入した美味しい食べ方だ。
とインド人(ムンバイ在住)が言っていたな。
カレーに福神漬というのも日本発祥だろうけど
こっちはあまりインド人には勧められないな。
日本人の俺でも、なんでついているのかわからん。
チャツネの代わりじゃねーの?
>>20 日本のレトルトやインスタントのカレーはインドでも大人気だそうだ。
>>20 うちの父親の知人であるインド人もカレーライスが大好物だよ。
ジャガイモとか入ってる、いかにも日本式のがいいんだって。
母国の料理とはちがうものだと思っているのかもしれないけど、
すくなくとも、あれはあれで美味いものだとは感じるらしい。
昭和の頃「ライスカレー」とも言っていた
テレビで「ライスカレー」と「カレーライス」のちがいはなにか
みたいな特集?があった。結論は忘れたけど。
そういえばステーキのことをビフテキって言う人がいたね。
銀河鉄道999の中で鉄郎もメーテルもそう言ってた。
>>18 おこぼれに預かってるやつ、いたよなwww
(仰るとおりキレイに纏められずに機械にたくさん残ってた。それが不衛生に見えて嫌いだったが)
先日ニュース番組で有名チェーンの全国売上げNo.1の特集をやってたんだけど、
その中でCoCo壱番屋の売上げ1位が沖縄の店舗だった。
何故沖縄?と取材をしてみると、基地近くの店で米兵が大挙して喰いにくるからなんだと。
で、奴らはトッピングを乗せまくるので客単価が高くなるんだそうだ、チキンカツ2枚乗せとかやってた。
トッピングたくさんで思い出したけど
昭和40年代くらいまではパンに塗るものは択一だったよな。
ジャムを塗るときはバターは塗らない、みたいな。
中学の英語の教科書に「パンにバターとジャムを塗って食べます」という表現があって
「バター『か』ジャムじゃねーからな、バター『と』ジャム、両方塗るんだぞ」と先生が念を押してて
両方塗るなんて外人は変だなと思ったのを覚えている。
えっ、ええーっ?w
家ではやらなかったけど、なんだっけ、あの菓子パン、
食パンにバターorマーガリンとイチゴジャム塗ってあるやつ。
あれってけっこう昔からなかったっけ?
>>30 >昭和40年代くらいまではパンに塗るものは択一だった
そんなに貧しくはなかったけど、同意見。
というか、バター&ジャムだと「味が混ざってマズイ」っす(´・ω・`)
>>29 豊田康光も、「アメリカの子供にもカレーライスは大人気」と言ってた。
ヤマザキの「つぶあん&マーガリン」もすごくおいしくて好きだけど
昭和の頃には考えられなかった組み合わせだよなー
・・・と思ったけど、名古屋には昔から「小倉トースト」というものがあったと聞く。
あれは昭和時代からあったものなのだろうか?
「ミスマッチ」が流行ったのって昭和の終わりか平成の始めくらいだよね。
あんぱんをトースターで焼いてバターをパンの中に入れて食うと旨い
昭和の時代から「あんバター」という商品があってな
ラーメン→支那そば、中華そば
ワイン→葡萄酒
キムチ→朝鮮漬け
スプーン→匙
ミルク→牛乳
ギター→エレキ
テニス→ゴムまりを打つやつ
バレーボール→9人制
チーズ→6P
ヨーグルト→瓶入りのゼリー状
焼酎→低所得層の酒(ドカチン御用達)
>>18>>27 わたあめの自動販売機、今でも普通においてあって感涙した。ただし価格は100円くらいだったかも…。
原価は5円くらい?だよね。壊れるまで稼働させ続けるつもりなんだろう。
平成17年生まれの娘も喜んでやってたよ、わたあめ。いつの時代でも子供にとっては楽しいものなのだろう。
>>36 小倉トーストは昭和のかなり早くから存在するよ。
愛知県地方、給食のパンにつけるのに、マーガリン、ジャムに混じって、あんこ、っていう日もあった。
あのビニールの小さいパックに入った小倉あん。
喫茶店でトーストをたのむと、小さい器にバター、ジャム、あんこ、と3種類乗ってたりして、ほんとにふつうの食べ物だった。
ちなみに愛知県地方、給食にはあんこのほかに「のりの佃煮」っていう日もあった。
パンに塗って食べるのだ。
広島は備後地方に、でべらがれいの干物を乗せた、その名もずばり「カレイパン」がある。
すごい!見てみたいし食べてみたいw
44 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/07(日) 14:59:39 ID:Fo/HroTp
初めて食べたワンタンは激めんのワンタンです
ドアノブカバー
昭和は、おかんアート全盛期。
ドアノブカバーもそうだけど、やたらめったら
余計なものくっつけて飾ろうとしてたよねw
でもなんか貧乏くさい。
平成に入った頃からインテリアはシンプル化
するんだけど、昭和のあの現象ってやっぱ、
日本が貧しかったからなのかな。
あーあったね
黒電話にレースのカバー着せてみたりとか
>>40 うわまだ現役のもあるのか
どこで?35年ぶりくらいにトライしたいんだが
(その当時にくらべて器用になってるかはあやしいもんだがw)
>39
ヨーグルトはゼリー状と言うよりは、プリンの食感という方が近いと思う、
牛乳ビンを1/3くらいの高さにしたようなガラス瓶に入ってるんだよな。
ヨーグルトの容器が瓶じゃなくなって、なんか手軽だし
洗わなくていいし、便利になったもんだと思ってた。
でもここ最近、レトロ感や特別感を出すために
わざわざ瓶に入れた製品が復活し始めてるというか。
そして、つい瓶に釣られて買ってしまう自分・・・
牛乳瓶のふたを集めるのが流行していた。
メーカーに金送ると、未使用のふた(ヘリが曲がっていない)が
送られてきて、それはグレード上の扱いだった。
そのキャップ積んで賭けて裏向けた上履きで床叩いてメンコ
アメリカでは、メンコのことを「ミルクキャップ」と呼ぶ。
日系人が広めたそうだ。
牛乳瓶と同じく一升瓶の酒蓋も集めてたな
レアな銘柄が手に入ると自慢したもんだ
ドラえもんに瓶の王冠をコレクションしてるエピソードがあったっけ
王冠なんて、飲み屋以外でみたことないかも(外国ビール買わないし)
店に瓶を持っていったらお金がもらえた
小さいジュースの瓶なら10円
大きい瓶なら30円
コカコーラの大瓶(スクリューキャップの1Lのやつ)が出た初めのころは、
保護のためにビン全体がプラスティックのフィルムで包まれてた。
あれって、けっこう「保証金」が高かったんじゃなかったっけ?
>>58 それの自販機もあったが、出てくる際に「ドカ〜ン」という
けたたましい音がした。
コーラ瓶は爆発騒動があったからな
まだあるかもしれないけれど、エロ本の自販機があった。
昼間は銀色のカバーみたいのがかかっていたし、学生だったので昼間は恥ずかしく
夜、人通りの途絶えた時をねらって買うんだけど
なんのいじわるかしらんが、ビー という大きい音が鳴るんだよね。
まるで犯罪者にでもなったかのような気分になる。
玉置宏の訃報で思ったが、「抑制のきいたタイプのプロの司会者」って
今だときわめて少数派になっちゃったね。
もうすぐ卒業シーズンだね。
君が代を歌う、歌わないの論争はなかった。
日の丸の旗の歌とか学校で習ったもんなぁ。
白地に赤く日の丸染めてってやつ。あれ良い曲だよね…。
>>63 なかったなあ。
高校のときの教師で、
「私は日の丸に礼などしない。君たちもしたくなかったらしなくていいんだぞ」
「君が代のときも起立はしない。君たちも(以下同文」
と言ってた人があったけど、思想を押付けたりはしなかったし、
式で騒ぎを起こすようなこともなかった。
論争もなにもなかったな。
学校で君が代を聞くことはなかった。
音楽の教科書の最後のページに毎年載っていた君が代はスルーだった。
日の丸も学校で見ることは一度もなかった。
校庭にあった国旗掲揚台はなんの棒だか知らなかった。
音楽の授業で君が代を歌う事はなかったが
運動会・卒業式での国旗掲揚国歌斉唱はデフォだった
小学校の時は週1の朝礼のたびに国家・国旗掲揚だった。
例の歌の生演奏(器楽部生徒による)とともにソロソロと上がっていく国旗を
直立不動でみつめる儀式。当時はこういうもんだと思ってた。
祝日は家でも小さい国旗を玄関に飾ったしね@静岡
でも高校の時はやってなかったなあ。逆に国家国旗NO!もなかった。
国家→国歌の間違いでした
>>66 あれは国旗掲揚台だったのか。
荒天時に「赤い旗なら休校」「黄色い旗なら授業開始1時間遅れ」
を知らせるために使われていたw@北海道
>70
高台にあるのかな?
旗が校区じゅうから見えるの?
子供の頃、蛇口からお湯が出るなんて考えられなかった。
氷点下の中、水で顔を洗ってたなぁ。
氷点下でも凍らないの?
朝顔洗う時はまず洗面ボウルに水をためて、
ストーブの上のヤカンのお湯を足してたな。
ストーブは母ちゃんが朝早く起きてつけてくれたもので、
子供たちが起きる頃には部屋もお湯もちょうどいい温度になってた。
部屋暖めてねぼすけの子供たち起こして
朝ご飯もお弁当も作ってくれてた母ちゃんはすごい。
そういえば日常生活で危険なものが結構あったな。
石油ストーブだったし↑みたいにヤカンがのってることも多かったし
ポットも押しボタン式じゃなくて持ち上げて注ぐタイプだったから子供にはちょっと怖かった。
扇風機なんかもカバーに指が入るくらいの隙間があった(指の切断事故もあった)。
家の外には蓋のない側溝とかもあって自転車で突っ込んだことがあるw
>>72 そうだ、小さい頃は冬でも水で顔を洗ってた。
あまりにも我慢できない寒い日は、74のように洗面ボウルにお湯の継ぎ足し。
しばらくして台所には湯沸かし器が取り付けられ、母親はだいぶ楽になったと思う。
朝はやはり基本的に水で顔を洗ってたけど、台所の湯沸かし器が空いてる時は
台所で洗顔してた。
そういやシャワーなんて無かったな。
世間にだいぶ普及してきてからうちも取り付けてみたものの、当時小さくていまだに
よく分かってないけど、浴槽からお湯補給するタイプっていうの?エセシャワーみたいなw
すごい水圧が低くて、ちょろちょろしか出てこなくて、使い物にならなかった。
>>73 水道管って、そんなにかんたんには凍らないよ。
地面の下から家への引き込み部分が完全に露出していればともかく、
断熱材で覆ってあったり、壁の中に仕込んであったりすれば、
気温がすこしくらい低くなっても、ふつうに出る。
78 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/14(日) 08:21:39 ID:QmKWI4I1
>>75 >石油ストーブだったし↑みたいにヤカンがのってることも多かった
俺の家は、火鉢→ガスストーブという流れだったから、石油ストーブの経験は無いな。
当時から倒れた時の火事の危険性についてはやかましかったし、俺と弟が小さかったから
両親も買わなかったのだろう。
>ポットも押しボタン式じゃなくて持ち上げて注ぐタイプだったから子供にはちょっと怖かった。
あったね。怖かったというより、とにかく「重かった」なぁ。
>家の外には蓋のない側溝とかもあって
側溝ならまだしも、当時は幅1.5m位の用水路がたくさんあったね。
当然、柵なんか付いてない。
当時は怖いもの知らずだったから、気にもしなかったけど、良く考えると怖いと思う。
>>76 >そうだ、小さい頃は冬でも水で顔を洗ってた。
大阪という温暖な土地に生まれ育ったからかもしれないけど、
子供の時から今でもずっと、真冬でも水で顔洗ってるよ。
洗面所は、お湯も出せるけど気にならないし、
水で洗うほうが気持ちいいね。
祖母の家が木のお風呂で、釜が横?下?についてるタイプだった
湯船の横のふたつある蓋を開けると、それぞれ熱湯と水、煙突が外に伸びてる
水を大量の熱湯で割る感覚って、なんか逆に新鮮だな、無駄がないしエコだね
子供の頃、うちの風呂は五右衛門風呂だったな。
木で作った桶の蓋みたいなのを踏んで入る。
背中や腕が釜に触れないように縮こまって入らないといけなかった。
でも、とても暖まった。
下から薪やオガライト(おがくずで作った薪のようなもの)で炊いたから、
火のつけ方をそれで覚えた。
湯たんぽにお湯を入れて就寝
朝起きるとその湯たんぽの中の水(冷めて体温くらいになっている)を使って洗顔
普通だったけど今考えるとすごくエコだし合理的
石油ストーブの上に、アルミホイルで巻いたさつまいも乗せて焼き芋したなぁ。
スルメをのせたり、豚汁鍋をのせていたりして、当時の冬はいい匂いがしてた。
>>81 今でもやってますが?
ホームセンターなんかで山積みにして売ってるよ。
湯たんぽのよいところは、エコという点だけではなく、
眠っているあいだに冷めていってくれることらしいね。
はじめ温かく、徐々に下がるので熟睡しやすい。
電気式のずっと温かいやつだとよくないらしい。
>>83 長く生きてるとわかるけど最近の湯たんぽなんて復刻版みたいなものだよw
いや、それがどうしたと言われると困るけど水道からお湯がすぐ出る環境だと湯たんぽのお湯(冷めたやつ)を再利用するなんて考えないだろうということ
>>82 ダルマストーブ(石炭)の上にアルマイトの弁当箱を乗せて温めるというのは定番だった
その際飯がこげないように少し水を入れるのが肝だった
>>80 親に見せたくない物(エロイ落書きなど)が溜まったときは、自主的に風呂焚きを引き受けたりとかwww
石油ストーブの上のヤカンって、良い加湿器だったな。
>>86 思い出した。
生まれて初めて見たエロ本は、河原に捨てられてた奴だった。
そういう書き込みをよそでも見たことがある。
なんでなんだろう。河原にこっそり捨てるのが定番だったのかw
石油ストーブの前に着て行く服を温めてたな
みかんや干しイモ焼いたり
赤く焼けてる所に鼻くそを乗っけたりww
うむ。
ファンヒーターは足がぬくくていいんだが、
餅が焼けないのが難点であるな。
宇宙戦艦ヤマトの100円プラモデルをストーブの上に乗っけて
融けていくのを眺めていたらオカンにめっちゃ怒られた。
そりゃそうだ
正月は餅を焼いて、ストーブの上にのっけてあっためた海苔を巻いて食べる。
うちは子供の頃は火鉢と石油ストーブ両方使ってたな。
貧乏母子家庭だったので灯油はなかなか買えなくて、メインは火鉢。
確か炭じゃなくて練炭を使ってた。
長い金属製の火箸があって、子供は絶対火箸を触らない事!と言われてた。
火箸って先がちょっと波打ってた形で面白かったな。
炭とかつまむ為なんだろうか。
今もうちでは石油ストーブを使ってる。なんか好きなんだ。
昔はストーブに直接灯油を入れるタイプだったけど、今はカートリッジで便利になった。
母親がしょっちゅう灯油を溢れさせて部屋中を灯油臭くさせてて恐怖だったよw
>>80 諸事情により、実家はまだ五右衛門風呂。
まさか新世紀になっても五右衛門風呂だと思ってなかったw
まだまだ、オガライト現役だよ。
というか、今はオガライトがないと風呂沸かせないぐらい。
五右衛門風呂でよかった事は気軽に焼き芋等が出来た事。
悪かった事はすぐにお風呂に入れなかったり、
台風とかだと婆ちゃんが火事を心配して沸かしたがらなかったのが、
思春期にはちょっと辛かった(たらい風呂で凌いだけど)
風呂に入りながら酒を飲んでる所をTVで見て
ジュースとコップを風呂にもって入って真似しょうとしたら
怒られた
>>98 ああ、あったねぇ
健康に良くないのは明らかだけど、非日常の演出としてはアリだったな
>>93 おもちゃ溶かし懐かしいw
蝋粘土をストーブに押し付けて柔らかくして遊んだなぁ
上に乗せると溶けて臭くなり、怒られた
蝋粘土は透明できれいだったな
俺がまだ小さかったころは、風呂のない家も多くて、
「内風呂」という言葉がちょっとしたステイタスだったし、
風呂のある家はすぐにそれとわかったものだったな。
[理由]
家の外に薪が積んであるから。
しかし、小学校に入ったころから一気にガス式の風呂が普及し、
卒業するころには逆に、風呂のない家のほうが珍しくなった。
庶民の歴史の転換点を通ってきたんだなあと思ったりする。
満州鉄道勤務&復員経験のあるじいさま(もう位牌になってる)の家は、
立て直す前は風呂が外、トイレが押し入れ(!)があった。
細い土間があって、そこには薪用の釜があって、おばあさんは
薪でご飯を炊いていたそうだ。
魚屋の商売で短い間ながら成功したので、儲けたお金で
近所で初めて水洗便所付けたそうな。それで、建物の都合、
トイレだけは室内の押し入れを改装、風呂は土間にある勝手口から
一旦外に出て庭にある風呂場へ
子供の頃って、8畳とかでもだだっ広く感じるくらい広さとか方向の感覚が違うから、
自分がじいさまの家に遊びに行ってトイレとなるともうどの押し入れの扉なのか・・・
余談だけど、1970年代、商売用の車とは別に、当時でも珍しいプリンスグロリアと
クラウンのエステート(両方とも。早い話ステーションワゴン)を持ってました。
白い布のシートカバーにブルーグラス、コラムシフトにFMも聞けるラジオ・・・。
103 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/15(月) 14:24:46 ID:Ezqy7oLk
>>101 >>庶民の歴史の転換点を通ってきたんだなあと思ったりする。
いやいや、101さんの思い出を壊すつもりはないけど、6年間もあると、
ガラッと変わることが結構あるよ。
自分の過した昭和50年ごろをまたぐと、
●通学路上に未舗装の道がなくなり、長靴での登下校が必要なくなる。
●川が護岸工事でキッチリ整備され、魚やザリガニを取るのが不可能に。
●道路を耕運機にリヤカーを牽引して移動していた農家の人たちが軽トラに。
●豆腐や肉はパック詰めを買うようになる。
●お母さん手編みのセーター・カーディガン、小さくなるとほどいて編み直し。
→既製服が主流に。それまでなかったジーンズ、丁シャツ、トレーナーが子供服の領域に
●家計簿等の計算が、そろばんから電卓に。
●食事の時間をはずすと、冷やご飯かせいぜいお茶漬けで食べるしかなかったが、
炊飯ジャーの普及で、温かいご飯が食べられるように。
平成に入っても,'00年あたりをまたいで、携帯電話、Eメールが一部の人のものから
一般化したり、個人情報反故の観点で学校の連絡体制が変わったり、池田小事件で
校門が年中閉ざされるようになったり、いろいろあると思うよ。
>>103 50年前後の変化例の羅列は面白いけど、
101に「いやいや」とか「思い出壊すつもりはないけど」とか
否定的な言い方する意味がわからんw
そういや昭和末期に101っていう中国製の毛生え薬なかったけ?
>>103 >家計簿等の計算が、そろばんから電卓に
その過渡期段階に、そろばんと電卓が一つになった奴があったのを思い出した。
もしかして今もあるんだろうか?
>>105 あった!
そういや、紅茶キノコだの、なんかそういう胡散臭いのあったね。
毛生え薬といえば、ブラシで頭をトントン叩くCMなかったっけ。
>>106 今でも有るよ珍品扱いだけど。
足し算だと電卓よりソロバンの方が早いという人は少なからずいる
またソロバン習いたての人が計算合わせに電卓を使う
そう言う数少ない需要があるようだ。
>>107 クコブームの頃に植えられ、飽きられるか植えた人が死んだり忘れたりしたのらクコがそこら辺にあります。
電卓、あり得ないほどデカクて高かった。3万とか5万とか。
一番の初期のものだと車一台買えるほどの値段だったって聞いたことがある。
>>110 俺の記憶では、昭和47年頃、一般向きに発売された最初期の電卓は小さかったよ。
今と同じくらいの大きさで、確かカシオ製で1万2000円位だったと思う。
当時の貨幣価値からすれば、凄く高かったはずだが、新らし物好きの父が早速買ってきていた。
今では100円ショップで電卓買えるからね。なんか信じられないな。
>>111 しかも、6ケタまでしか計算できないという。
答え一発カシオミニ♪
昔のCMソングって記憶に残ってるなあ。
ふりむかないで〜○○のひと♪とか。
電卓開発の競争があったからこそ、インテルは発展した、と言い切ってみる。
世界初のマイクロプロセッサi4004は、嶋さんが全部頭の中で設計した。
今、そういう事を一人で出来る技術者って居るんだろうか?
ソロバンより計算尺の方が凄いなと思った。たしか初期のロケットも
あれで軌道とか計算したんだよね。
最近受けた、某資格試験の受験上の注意で、音のでる電卓は駄目って書いて
あったけど、ソロバンは可だった。
家庭にも外の食堂にも普通に卓上瓶の味の素が置いてあった
漬物に山のようにふりかけて美味しいと言って食べてたりした
カレーは家庭で作るものと外食のものとは明らかに別物だった
家庭のもの→まっ黄色
外食→まっ黒
今の市販のカレールーの美味さは異常なほどw
500mlのファンタをコップに注いで4人で飲む。
>115
あの頃とはプロセッサの集積度、複雑さがもう天文学的に違ってるからねぇ、人類の脳じゃ把握しきれなくなってるでしょ。
嶋さんは4004だけじゃなく、その後自分が開発した8080、Z80その他の回路も全部頭に入ってるそうだが。
>118
「3杯ついでもまだ余る!」 by山岡久乃
そういえば、誰に聞いても覚えてる奴居ないんだけど、うまい棒をもっと細長くした感じで、1袋に3本入った「スナックイチバンバン」ってお菓子知ってる人居ないかな?
サラミ味、めんたい味があって、すごく好きだったんだけど、同級生ですら覚えてないんだよ。
昭和60年前後かなぁ…
俺の思い違いなのか…?
>119
嶋さんは「当時は電卓の論理回路をトランジスタで組むのが当たり前だったので、
技術者は回路設計を自分の頭の中で出来て当然だった」みたいな発言をしているから、
嶋さんに限らず、じゃないのかな?
今のCPUは、以前は別パッケージだったいろいろな機能を取り込んでいるから、
全部を人間の脳でやるのは無理かもね。
NECの技術者がインテルからライセンスを受けたCPUの回路を、自社で作る時の話で、
「体育館一杯に回路図を書いて広げた・・・人の手だけで設計するのはコレが精一杯」って
言っていた覚えがある。
子供の時から内風呂あったけど、石炭でわかしていた。
でもいきなり石炭に火はつかないから、まず新聞をかたくひねったものに
マッチで火をつけ、それを木ぎれにうつし、そこから石炭だった。
裏庭に石炭庫があって、そこから石炭を風呂場まで運んでいたな。
書いていたら、なつかしさがこみ上げてきた。
123 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/16(火) 09:38:42 ID:ooqV2xxt
>>111 カシオミニは、\12,800で発売されたが、その時は、
今までのオフィス用の計算機が高かったこともあって、
「スゲェ!」「ビックリするほど安い!」
まだこんな言葉はなかったが、まさに「価格破壊」という印象だった。
本当に「答え一発!」には目を見張ったもの。
そろばんが実用になるまでかかる塾の月謝や、尼僧式洗濯機が2〜3万、
冷蔵庫が6万円くらいだったので、12,800円の価値は充分あったと思う。
ビデオが10万円を切ったり、CDプレーヤーやCDラジカセが、5万円を
切ったときの印象に似ているかも。
>>122 ウチも同じでしたよ〜。木ぎれは、父が古いトロ箱を貰ってきて、
それを斧で割って作っていました。窯に溜まった灰を掻き出すのは
子供の仕事で・・・。風呂の蓋を開けた時の、石炭の燻したような匂いが
本当に懐かしいです。
小1か小2の頃、地元の町医者の娘が学校でよく体調を崩していた。
(今思えばメンタル的な物から来る体調不良のような気がする)
それを知ってか知らずか、その度に担任の女教師が「はぁ?!またぁ?!」と言って
「どうせ家に帰りたいんでしょ?」と延々とその子を罵倒していたのが子供ながらに可哀想だった。
今だったら親が怒鳴り込みに来るだろうな。ましてや医者の娘だし。
若くて美人で小学校生活の中で一番好きな先生だったがその子の件以外にも色々思い出すと物凄い性悪女だった。
なんか分かる
子供の頃って結構見た目で判断するからなあ
>123
カシオミニは技術的に新規な事は何一つやってないくて戦略勝ち商品の典型だよね。
それまで高価すぎて家庭ニーズはあり得ないと思われてた電卓を、
「家庭用途だったら家計計算が主だから100万円を越えるスペックは不要だろう」
と読んで、最低でも8桁が常識だった電卓を6桁にすればどこまで価格を下げられるかだけを追求した。
このコンセプト勝利によって他社が一斉に追随、後に死屍累々とまで評された激烈な電卓戦争が始まった。
128 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/16(火) 21:18:20 ID:L+AVZTug
カシオミニ、家庭に初めて持ち込まれたデジタル機器のインパクトはハンパない。
「日」のセグメントで出てくる答えの表示はまさに未来。
ノイズなしでいきなり音が出てくるCDや、
自分の考えた文書が初めて活字体になって出力されたワープロ以上のインパクトだった。
「電子頭脳」電気毛布、「電子」ジャーったって、物理的なサーモスタット
からサーミスタって半導体をくみこんだだけで、論理回路のないアナログそ
のものだったんだから。
※電子ジャーって、医用放射線機器みたいに、電子を飯粒に照射するイメージで、
一般人には理解不能な原理で、ごはんを温かいまま保つもんだと思っていた。
ロバが馬車引いてパン売りに来てた
>128
各家庭にある家電が本格的に電子制御というか
マイクロコンピューター内蔵になったのは80年代からですね。
とはいえ、白物家電を中心に、当時の物のほとんどは演算が必要なほど動作が
高度ではなかった気がする。それらしき動作をしていたのは、当時出回りだした
AFカメラくらい?
うちにあった洗濯機で、70年代のダイアルが2つある「銀河」が、80年代の
赤LED表示とフェザータッチボタンの銀河に変わった時、子供心に思ったのは
「すごい」というより「その必要はあるの?」という感じだった。
今みたいに、入れた洗濯物の量をモーターの空回し回転数から予想して
水と洗剤を無段階調整するっていうのならマイコン制御も納得ですが、
ダイアルを他の操作に置き換えただけだったから。
尼僧式洗濯機
自衛官の子供を露骨にイジめる小学校教師がいたなあ・・
熱心な日教組の活動家だった。
>>132 それリアルにやられたわ。
クラス討論会で「日本に自衛隊は必要か」というお題。
担任は自分は中立の立場だと言いながらも
憲法第九条や戦争被害の話や防衛費の話など途中チャチャ入れてきて
明らかに「日本に自衛隊(軍隊)はいらない」という意見なのが丸わかり。
んで、途中で考えを変えた人は次々相手陣営の席に移っていくルール。
自分が最後の一人になったけど、「クラス全員+担任VS自分一人」は
流石にキツくて、もうこれ以上頑張っても無駄だと悟り結局自分も仕方なく「反対派」に。
そしたらその担任、「日本に自衛隊はいりません」とみんなの前で宣言しなさいと。
あの屈辱は忘れられんわ・・・今だったら確実に問題になってるだろうけど
当時はスルーだった。
134 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 01:04:44 ID:uTXduWJB
すげぇな…キチガイだわ
そういえば三年B組金八先生スペシャルにもそんな回があったな
自衛隊に入ろうとしている卒業生を(相談されたわけでもない)金八先生が
必死になって阻止して最後に日本国憲法を朗読させるという回
小学5年のときだったと記憶するが、隣のクラスに自衛官の息子がいて、
親の職業について発表するというような授業があったときに、
そのクラスの担任(ちなみに30くらいの女)が、
「○○君のお父さんの仕事は人殺しです」と言って、
さすがにそれは言いすぎだろうって問題になったんだが、
担任が変わるわけでも、そいつがクラス替えになるわけでもなかったな。
小学校だからさ、ほとんどの授業を担任が行うわけで、
自分の親を人殺しと言った教師から教わらなきゃいけない気分ってどうだったろうね。
右とか左とか思想には興味ないけど、
こういうのって局地的権力者による弱いものいじめなわけじゃないか。
今でも形(というか理由)を変えて続いているんだろうなと思う。
モンスターペアレントとか言うけど、教師って親を断罪できるほど立派かね?
(モンペを擁護する気はさらさらないけどさ)
左翼系の先生を特別に擁護するつもりはないけど、
昭和の頃は先生の中にも戦中世代が数多くいたし、
身内を戦争で亡くした人も少なくなかった。
実際うちの学校には特攻帰りという先生もいたし。
そういう人たちにとっては、万が一でも教え子を
戦場に送るようなことになるのは絶対に嫌だとか、
武器を持たせるだけでもつらいという気持ちが
今より遙かに強かったんじゃないだろうか。
自分は当時の先生たちが自衛隊を避けたがる気持ちを
一概に嘲笑うことはできないんだよね。
だからといって自衛隊子を目の敵にするのは違うでしょ。
>>137 仮に親が殺人犯だったとしても、教師が
「○○君のお父さんの仕事は人殺しです」と言うのは非常識
自衛隊を避けたがるのと親が自衛隊の子供を攻撃するのは全く別の話だよ
命からがら引き上げてきた人とか、特攻待ちで終戦を迎えた人とか教員に実際にいたもんなぁ。
担任は引き揚げ組だったが、一度だけ目に涙をためて弟が餓死し、道端に置いてきてしまったことを話してくれた。
戦争は今よりもっと生々しい出来事で、それを土台にしてできたのが日教組だったわけで、
単なる左翼思想とはまた違うところが出発点なんだよな。
んーと、出発点は「経験と実感に根ざした反戦」でも、時間の経過に従って、
サヨク思想に侵食されて変なことになっちゃってるのは否めないのでは。
昭和って一口に言っても長いからさ、昭和40年代に小学校教育受けた人間と、
50年代後半に受けた人間じゃ、やっぱり実感も違うだろうし、もちろん、地区に
よっても、個人によっても違うだろうから。
自分とこにもいたなあ、戦争に行ってた先生が。
やっぱり反戦思想でキリスト教徒だった。
厨二病だった自分は噛み付いたが、今となっては恥ずかしい
でも、親の職業が気に入らないからといって子供を吊るしあげにするなんてのは
その手の輩が一番嫌いな、「お前の父親戦争反対してるんだってな、
この非国民がっ!」と左翼の父を持つ子供をネチネチ苛めていた戦中教師と
根の部分は同じだと思うんだがな。
いくら悲惨な記憶があろうが辛い経験があろうが、
そこの部分は思考停止していいことじゃない。
>140
でも自らの経験という土台から、一歩も抜け出せてないのが問題だね。
「真に戦争を回避したければ、戦争の事を知れ」
という所まで到達せずに、単に封印する方向へ向かっちゃった。
その方が楽だからなんだろうけど。
読んでて小学校時代を思い出した
都心の学校だったんだが、自分の担任になるのは年配が多く、戦争体験話やら時代錯誤な軍隊式
に近い変な教育を数年受けた
先生には敬礼してから物を渡せとか、担任が気に入らない事があったら連帯責任で先生が授業
ボイコットしクラス全員土下座反省会、忘れ物や失敗したらげんこつ張り手が普通
今考えるとあの当時でもおかしかったと思う
たしか本人は子供の頃空襲で防空壕に逃げこんだうんぬんの話を散々してたから、軍隊にいた
わけじゃない
昭和50年代〜昭和終わりに近い時代の話だ…
高学年になったら比較的若い担任になり、これまでの数年間の価値観が一気に変わって戸惑った
中学になったらさらに学校や価値観が一変して、教師=絶対権力者ではなくなった
漫画やドラマでみたツッパリや番長なんてどこにいるの?って地域だったんだが、何故自分の通った
学校だけここまで治外法権みたいだったんだ
>>142 根の部分どころかまったくおなじだよ。
戦争を境に「正義」が変わって、たまたま、その正義の側に立っていただけなのに、
復讐のつもりなのかなんなのか知らないけど、おなじことをしてるんだ。
戦争の悲惨な体験から、
いろんなひとやいろんな考え方があっていいんだ、あるべきだ、という、
いい加減なようで実はとても強さの必要な価値観を目指してくれればよかった、と思うんだな。
カシオといえば、シンセサイザー。
当時、ヤマハとかコルグとか楽器メーカーの高いシンセしかなかったときに、
「PZ方式」(だっけ?)のカシオの低価格シンセはけっこう衝撃だった。
冨田勲さんも使ってたんだよね。
「水を買って飲む」ミネラルナチュラルウォーターが広く飲まれるようになったのっていつ頃だっただろう?
「水と安全はタダ」と言われたのも過去の話で、
水どころか安全も金で買うものになりつつあるよなあ
戦争を経験した先生はたくさんいたけど思想的に偏ったこと職場(教室)で声高に言う人はいなかった。
知り合いにも自衛官の娘がいるけど小学校の時にお前の父親は人殺しってやられたって言ってたよ。
みんな若い先生だったそうだよ。
戦争に恨みがあって子供に当たるのも馬鹿だけど、自分が属してる組織の思想を職場で子供に押しつけるのは
基地外だね。
教師としてなら考えを押しつけるのではなく、そのようなことを判断する力を養うよう努力すべきでしょ。
自衛隊を避けるって言うならば最悪でも判断材料を提示するまでに止めておかないといけないと思います。
今の時代でも少なくはなったけど生き残ってるね。
昔ほどでは無いけど。
>>148 ミネラルウォーター協会の統計を見ると1990年からみたいだね。
この年、国内生産が前年比で約1.5倍になり、
1人あたりの消費量も初めて1リットルwを超えている。
(現在は20リットルくらい)
まさにバブル真っ只中で「オヤジギャル」が闊歩していた時代だ。
ものの本によると仙台のデパートで1億9900万円の福袋が売り出されたとか。
中身は純金製の仏像にベンツ、ダイヤモンドなどと、まさにバブリーwww
日本中が金の使い道を探していたんだよなあ。
バブルは崩壊したけど「水を買う」という行為は廃れず、伸び続けているね。
>>150 レスどうも
1990年っていうと平成に変わって間もない年だね。
今やミネラルウォーターにも様々な付加価値が付いて、
その値にも「格差」が付いているね。
バブル時代って言えば自分の従兄の年代の就活が凄かった話を聞いた
会社訪問を申し出たら、往復航空券+宿泊費出してくれて空港まで社用車で出迎え
「せっかく来たんだから東京見物していきなさい」
って、小遣いまで貰えたんだって
グアム島はガム島だった
>>144 …おまいさんをしばいていた教師は、自分がやられたのと同じことを他人にして憂さ晴らしする
姑根性の持ち主だったんだよ。
1000万円銀行に預けたら、月に60万円の利子が付いたんだよね
みんな土地や資産を売って、現金を手にしようとした
あの頃の日本は何でもできる気になってた
>154
月60万円なわけないだろw
バブル時代の10年定期で8%じゃなかったか?
157 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 18:36:28 ID:lgxIfLRk
>>150 「六甲のおいしい水」も、初期は牛乳パックのような紙パック入りで、
「牛乳より高い」「ガソリンより高い」と揶揄されていた。
158 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 18:52:15 ID:PgURm7ZW
>>150 なんだか平成生まれの人がネットか本かなにかで聞きかじって、
したり顔で昭和生まれぶってるような。
オヤジギャルやその福袋なんてキミは見てないんだろう?
虚像とまではいわないが、マスコミが「極端」なものを探し出して
ニュースに仕立てたもの、と言う感じで、昭和末期、バブルといえば…
で必ず持ち出される、正直、食傷気味な話題なんだ。
オヤジギャルもジュリアナ東京も第一次もつ鍋ブームも
全て「バブル崩壊後のあだ花」です。
どうしてTVなどマスコミは「バブル」というと
ジュリアナ東京の映像流して誤った知識を植えつけるのだろう。
160 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 19:32:32 ID:qie1d8Ye
コッペパンが食べたい・・・
161 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 19:45:50 ID:NpUQ3Orj
>>156 いや、バブル期は、銀行の金利(1年で3%台だった)より不動産や株に
投資したほうがケタ違いに儲かるから膨れ上がったんだよ。
むしろ、バブル抑制のため、金利を上げだしたら、株価が下がりだした感。
高度成長期は、年6〜7%の利率がふつうで、郵便定額貯金など半年複利で
利息非課税。10年経つとホントに倍以上になっていたが、要は、貸出金利が
それ以上に高くても利息がつけられた、つまり、そんな高金利でも融資を受けて
金儲け・返済が出来る程、経済成長率や物価上昇率が高かったわけで、よく聞かれた
利息で食ってる人がいたなんて都市伝説だと思うよ。
162 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 19:48:29 ID:NpUQ3Orj
おまけに本人確認なんて無きに等しかったから、自営業者など、家族
(それこそ赤ちゃんで)名義で名寄せして限度額の数倍の定額貯金を
していたもの。
163 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 20:09:27 ID:qie1d8Ye
懐かしいな。郵便定額貯金の7%そこらの数字が・・・(遠い目)
当時は預け替えの人がよく来てたな。局の人なんて儲けにならないのに
よくやってくれてたよ。
リコーマイティーチャーって覚えてない?
市中金利が4%くらいに下がっても、まだ社内預金は10%くらいだった。
家族から借金してまで限度額ぎりぎりまで預金している奴も多かった。
166 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/17(水) 21:45:34 ID:vQ4ydcfS
>>164 学力が上がったっていう実感ある?
勉強した気になる高価なオモチャという印象。
有名中学受験に役立つのか、ヒザをつめて小1時間問い詰めたい…。
167 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 05:55:24 ID:nXNaC0ez
バブル期といえば、有明方面より赤坂・六本木、マハラジャの方が流行ってたんじゃないか?
168 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 06:26:01 ID:aDyWORyS
交換日記(笑)
のきなみやってた。
ブログのはしり。
カセットテープ。
169 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 06:40:10 ID:A+XpE58X
>>どうしてTVなどマスコミは「バブル」というと
>>ジュリアナ東京の映像流して誤った知識を植えつけるのだろう。
その頃、右も左も分からず社会現象の無関心だったガキが「働き盛り」に
なった時の仕事ぶりのテキトーさの象徴だな。
カセットテープといえば、レタリングシートってあったなぁ
アルファベットが転写できるようになってるシートで、
それを使って、録音したテープのレーベルに一文字一文字タイトルを綴る
>>158 > オヤジギャルやその福袋なんてキミは見てないんだろう?
なにその理屈w
見たものしか書くなってか?
172 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 09:25:03 ID:0XW6qsq2
>>169 バブル期に湾岸で繁盛していたディスコは、ジュリアナ東京(1991年オープン)じゃなくて
エムザ有明(1988年オープン)。
イメージ(業態)が似ているうえ、近年、グッドウィルの折口がジュリアナに絡んでいたのが
話題になって、バブル期の象徴と勘違いされている。
ちなみに東証平均株価が最高値をつけたのは、1989年の大納会。
>>171 150は、ネットでチャラっと調べたことを羅列してるだけのくせに、
さも自分が時代の生き証人みたいな書き方をしているから叩かれるんだよ。
174 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 11:06:53 ID:HBU7oWXx
バブル前ていうと、ビリヤードがやたら流行ってた。
プールバーだね。
「胸の谷間を覗ける」ことが、ブームを下支えしていたと
時代の生き証人である俺は思う。
>>174 トム・クルーズの映画のせいじゃなかったっけ。
ビリヤードでボーリングを思い出しちゃったよ。
すっげ田舎なうちの近くにまで、ボーリング場があった時代があったんだよ。
TVで「律子さん♪律子さん」とかいうCMやってた頃だと思う。
TVでボーリングの試合の中継してたし、マンガもあった。
>>176 みんなミニスカートで、パンツが見えるか見えないかという緊張感が
ブームを下支えしていたと、時代の生き(ry
ボーリングは今の50代が若い頃流行ってた
ビリヤードは今の40代
そんで30代はダーツ
今の20代の子って何が流行ってるんだろう
>>177 パンツ、いやパンティ。
少年マンガ雑誌もこぞってこの表現だったと、時代の…(ry
30代だが若い頃はビリヤードが流行ってた。
中学生くらいからビリヤード場に入り浸ってた。
今の20代で流行ってるのはポケモン?
プールバーが流行ってた頃、カクテルに詳しいことが自慢だったり
コロナビールの瓶にライム突っ込んで得意げだったりという黒歴史。
かっこつけてドライマティーニ頼んで、マズーとか。
ハートカクテルっていうマンガも流行ってたよね。
>>180 >>178は我ながら括りに無理があるとは思ったw
自分も30代だけどビリヤードやってたし
でもビリヤードとかダーツに代わるものがポケモンは寂しすぎるよ
>>181 マティーニが流行ったのは全盛より少し前な気がする。
バブルのころっていうとモスコミュールとかソルティドッグとかカンパリオレンジとか軽くてジュース感覚のものって感じ。
と同時にいわゆるサワー系も定着した。
体育会系ではいわゆる「一気飲み」が炸裂し、新歓コンパ(なんてのも今では死語なのか)の季節は救急車が大忙し。
そして、この時代を最後に、いわゆる「お酌文化」は若者層では死滅した。
「1985年の奇跡」という小説にはおニャン子が重要なモチーフとして
出てくるが、おそらくあとづけ的に書かれたので、
1985年の日比谷野音の時点でもう山本スーザン久美子がいたりする。
実際に経験しているか、本などでたどっただけかはこういう部分でわかる。
>>181 あぁ、そうなのかも<マティーニ
自分はまだその当時若造だったので、マティーニに大人の魅力を感じてたw
みんながモスコミュールだの頼んでる時に、あえてかっこつけて
マティーニを頼んだような気がする。
「君たち子供とは違うんだよ、フフン」みたいな。
カルアミルクなんかは、あの頃流行始めたんだよね?
「あんなの素人が飲むもの」なんてフリしてたけど、本当は大好きだったw
>>181 >ハートカクテル
懐かしい・・・
あれ描いてた人のイラストすごく流行ってて、
文庫本の表紙やポスターとかにも色々遣われてたよね。
あのアッサリした感じの線や飄々とした雰囲気に都会を感じていた。
今でもたまに見かける。
あの人のイラストを見ると、どうしてもバブル時代を思い出してしまう・・・
わたせせいぞうと鈴木英人はバブルの象徴
バブルのころ社会人として過ごした身からいくと、あの頃のディスコって言えばジュリアナでもエムザでもなく、
マハラジャとかキンクイとかエリアとかそのへんだなぁ。あとはラジオシティか。
で、ただああいうところでだらだら遊んでるというよりは、
一部のほんとに「バブリーな人」以外は、まさに馬車馬のように働いて、そのテンションのまま、
あるいみ躁状態を維持し続けるために無理やり遊ぶみたいな状態であったように思う。
我に返るのが怖い、我に返ると人口大理石のハリボテの裏のベニヤ板と向き合うみたいな気分になっちゃう。
マハラジャやキンクイって、大学生になったら行くんだ!って憧れの象徴でしたww
あっさり終わっちゃったけど。その後ジュリアナやベルファーレになったんでしたっけ。
「ディスコ」って響きがなんか昭和っぽいんだろうね。
ボディコンはともかくワンレンてなんで廃れたんだろう。
いまどきの茶髪に巻髪より、個人的には好みなんだが・・・
わたせせいぞうは、廃刊間際のコミックボンボンに描かされてたこともあったねえ。
ありゃりゃ、って思ったよ。
194 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 18:03:53 ID:lX5i4Ban
>>161 昭和50年台の定期預金、1年定期8.75%が最高だったと思う
昭和40年台後半くらいまで預金の金利計算は算盤でしていた
195 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/18(木) 19:38:02 ID:HBU7oWXx
ワンレン=怖い女 というイメージがあると女性ファッション誌で叩かれた
からじゃなかったかな。男性からの支持率が清楚とかわいいの三者選択で
一番指示が無かったと書かれるようになってから減ったような気がする。
>>191 日本人の多くを占める丸顔にあんまり似合わないからじゃないかな
余計丸顔に見えるというか
だいぶ昔にさかのぼって申し訳ない。
あちこちのスレで「当たり前田のクラッカー」の話題で持ちきりだが。
あれは父親が発案したと思えることがある。
新橋の飲み屋で飲みながら父が「当たり前だのクラッカー」とダジャレを言った
のだが、その後「てなもんや三度笠」のCMコーナーで言うようになった。
これは父親の当時の証言で自分は子供だったので疑わなかったが、
もしかすると飲み屋にテレビ局か広告代理店の社員がいた可能性もある。
……と、今日、日本中で何万人が吹聴していることだろう。
>>197 そういうことはブログかコテハンで書こうよ
わかった、板ちがいだった。
50代の板に逝ってくる。
えーと一言だけ、父親の継母の旧姓が前田だった。
親戚ん家にあった足つき、扉つきの家具調TV
さらにその上にアンテナ乗せてダイアル回しながらガチャガチャ調整してた
そういや我が家には小さめのカラーボックス横にしたようなラジオとレコードが聴ける大きな
木製家具調の再生機があったなあ
引き戸式だった
自宅の一部を店にしてやってたような駄菓子屋
奥や上の方は何年も前で時が止まったような埃被ったお菓子や玩具なんかがあって、夕暮れなんか
には店内が薄暗くなって余計に神秘的なものを感じた
子供の時の、子供だからこそ感じられた不思議や神秘は今もあるのかねえ
うちの親戚ん家、未だに家具調テレビが現役
我が家も25年物のクーラーが頑張ってるし、昔の家電は長生きだね
>>170 今もあるよw
俺も文房具屋で見た時は懐かしくて顔が綻んだがw
>>204 Aが少ないんだよね…自分の名前がア行が多くていつも足りなくなるから、BやQいらないからAを増やしてくれと何度思ったか。
昭和60年代で一枚500円ぐらい、厨房工房の小遣いでは痛かった。
レンタルレコード屋だったら丸文字のひらがなカタカナのや漢字のも安く売ってた。
英文タイプがうちに有ったから、マイケルジャクソンのスリラーが流行ったとき、タイトル全部をタイプうちしたカセットインデックスを一枚20円で売ってやったW
タイプライター! あったね〜音が好きだったよ
ワープロが出てきて以来見なくなったけど、海外では未だに現役だよな
207 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/19(金) 04:41:17 ID:ZPIRA283
うちにも一台だけ25年もののクーラーがある。
よく冷えるが、オートみたいな機能がないから
トコトン冷える。
入れっぱなしで忘れてたら15度とか
とんでもないことになってる。
それと 音が凄い。
レタリングシート、自分の名前もAが多く、いつも足りなかった。
だからいらない文字を解体してちょっといびつなAを作ったりした。
はみ出したところは細いカッターで削るんだよね。
使い残しのインレタも専用のバーニシャーもまだ持ってるな。
昔のクーラーってフロンガスをつかっているから、効率よくて
よく冷えるんだよね
>>209 よく冷えるし、今のエアコンと違って冷房専用機だから中の機構も複雑じゃなくて壊れないんだよな
妹の部屋の冷房専用クーラーが30年選手だけどドレーンを交換したぐらいで故障らしい故障が一度もない
だけど電気は食うぞ。
10年20年スパンじゃエアコン代が出るほどかも知れん。
古い家電は、2〜3年前に話題になった扇風機の発火事故のような
トラブルを突然起こすかも知れんぞ。
そういやうちの冷蔵庫、10年使った所でリコールがあって無償で部品交換してもらったお陰で
余命幾ばくもなかったのにあと10年生きた
窓枠式のエアコンとかもあったね。
表側 ごぉーーーーーーーーーーーーーーー
裏側 ガタン!う゛ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ・・・コン! ぶぅううん・・・
お下がりを自分の部屋に貰って部屋に付けて、ルーバーに
霜が降りるまで全開にしてから、本体に張り付いていた。
214 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/19(金) 21:50:46 ID:95vSFRpC
エアコンが高値の華だったころ、外気を取り入れるだけのウインドファンというのがありましたね。
サザェさんの合間の東芝のCMでは、おヒョイさんが
「入れポン!出しポン!片手でポン!ワンハンドイン!」とかやってましたな。
防犯上、使わないときは、ワンタッチで屋内に仕舞いこめて施錠できるのがウリだった。
大学生はみんな麻雀をしていたw
いや、俺が学生だったころはもうメンバー探すのに苦労していたがそれでも徹マンしていた記憶がある
雀荘が大学のそばには必ずあった
風俗営業なんで11時終了なんだけどみんなシャッターを閉めたあとも遊んでたっけ
それと亀ですまんけど「ビリヤード場」と「プールバー」の流行は違うものだと思う
「プールバー」という呼び名で急増したのはバブル期で、それ以前から大人の遊び場として雀荘のように定着していた
エアコンといえば、うちにあった冷房はものすごいどてかいすえおき式で
灯油タンクみたいな大きさのポリタンク2つに水入れて動かすものだった
で、水が切れるとピーだかゴーだか言ってとまってしまう
友達の家にあそびにいったら、やっぱりでかい据え置き式冷房なんだが
うちとは逆にピーとかいってとまると、ポリタンクの中に水がたまっていて
それをすてなくてはならないという形式だった
麻雀か
最近の学生はやらないと聞くが、それに伴って学生向けや安い雀荘なんかもなくなってるんだろうか
オンゲやソフトで遊んでても実際のあの空気が感じられない
実際の臨場感のが楽しいからゲームでやっても面白くないんだよな
学生が集まるようなところはよく知らんが、何の仕事してんのか判らんようなのが集まる店にはどことなく
戦後の香り残る人間関係や雰囲気あったよ
自宅マンション開放して無認可雀荘やってる人も多かった
最近は、中高年向けの飲まない、賭けない、吸わないの健康麻雀の方が
目立つな。
世の中の禁煙傾向が雀荘衰退の原因だと思う。
黒電話がまだ家庭に有った頃、
掛かって来た電話を保留しておくオルゴールが有った。
受話器を置けるタイプの物。
受話器の重さでスイッチが入ってオルゴールが鳴る。
ちょっとお金持ちの家じゃないと置いて無くて、子供心に憧れた。
「会議室」とか「大学院」という名前の雀荘が多かった。
自分の学生の頃はサークルの部室か雀荘に行けば
誰かに会えたし、「大学院」に入り浸って中退してしまった
先輩もいた。
トルコ「大使館」というのもなかったっけ?
代返がきく講義のときは、負けが込んでいるやつが代返係で
残りのメンツが雀荘に出かけていた
そういえば、メンツとか対面なんかのマージャン用語を日常会話で
多用していたな、学生時代。
麻雀出来ないと出世出来ないと言われた。
あとお酒は飲めて当たり前だとか、ゴルフは絶対覚えろとか。ウゼーw
225 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/20(土) 09:55:49 ID:3wrbaFoy
>>220 オルゴールを買ってもらった覚えがある。
お待ちください、と言った後、受話器を乗せておくと、家の中の雑音がたまに
入って聞こえてくる。いいなと思ってねだりまくって買ってもらったのは
すでにどの家にも置いてある頃だった。
>>223 両面テープをリャンメンテープと発音したり(両面コピーは言わないけど)、
リーチかけたとか今でも普通に使う。
お正月と言えば、子供は凧揚げコマ回し、大人の男は麻雀で女は花札。
こいこいやったなぁ
テンパってるはむしろ最近になって盛んに使われるようになったような。
聴牌とは意味がずいぶんちがうようだけど。
「テンパる」は「聴牌」じゃなくて"Temper"が語源という説も
日本のフィギュアスケートがこんなに強くなるとは思わなかった。
携帯電話は今の電話の子機の2倍くらいのサイズだった。
かばんみたく肩からかけてたような>携帯電話
>>226 >>お正月と言えば、子供は凧揚げコマ回し、大人の男は麻雀で女は花札。
どこの「一家」だよ
女は百人一種だよ。
だったら、男は丁半だろ。
身だしなみやあると便利道具の中に「いざと言う時電話をかけるのに小銭」
テレカが普及してからは「(か)テレカ」になってたが、テレカ使えない電話、逆もあったがやっぱり小銭
>>229 サッカーもこんなにメジャーになるとは思わなかったw
ワールドカップなんて言ってるのはキャプテン翼の翼君くらいだったような。
>>234 アニメのキャプテン翼のOPにワールドカップのトロフィーが映っていたね。
日本人が参加することのない、違う世界のスポーツイベントだと思ってた。
あと、メジャーリーグ(当時は大リーグ)も日本人が入団できるなんて
思ってもみなかった。
ワールドカップはよく分からないけど、70年代はサッカー流行っていた。
ベッケンバウアーとか。蹴り方真似したりしたよ。
蹴った後の足の処理とかカッコいい。
テレビでイングランドとか西ドイツの試合は中継していた。
テレ東だったかな。
オリンピックで釜本がいたころ日本も銅メダル取ったよね。
>テレ東だったかな。
マイナーじゃないか…
>>234 あー、なるほど。
誇張とかでなく、世界のサッカー選手の中に結構な数の翼ファンがいて
別に翼が悪いわけでもないけど、他にもサッカー漫画やアニメがありそうなもんなのに
なんで、この作品だけ抜きん出て人気あるんだ?と不思議だったが、そういう事か。
テレ東は土曜夕方にテニスの国際試合を放送していたな。
今は釣り番組の枠だが。
サッカー冬の時代を支え続けた「三菱ダイヤモンドサッカー」
そういえばJリーグが始まる数年前、あまりにもサッカーの集客が悪くて、
「せめて天皇杯の決勝くらいは国立競技場に来てください」
とか明石屋さんまが訴えるポスターがあったような。
70年代のサッカー人気を作り出したのは「赤き血のイレブン」ってことでいいのかな?
中古マンションの値段がドンドン上がる、って今思えば異常だよな。
金利も高かったワケだ。
>>241 いや、68年メキシコ五輪銅メダル&釜本、杉山、&日本リーグ設立。
この頃が第一次サッカーブームだったが長くは続かなかった。
つーか、サッカーというスポーツが世間的に認識はされたけど。
「赤き血のイレブン」のモデルは浦和南の頃の高校サッカーの
スーパースター永井良和がモデル。
赤き血は当時のスポ根マンガの流れで有名マンガだったがあのマンガ
がサッカーブームを起したという程ではないと思う。
日曜の昼間はだいたい女子プロレスやってた。
日曜の午前中と言えばローラーゲームだろう。
マチャアキ海をゆくって地味だけどいい番組だった。
マチャアキは声だけで画面には出てこない。
ときめきマリンってダイビング番組も良かった。ハムちゃんっていうレポーターが
いつも乳首ポッチでコーフンしたなあ。
248 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/22(月) 07:58:08 ID:AE1md0Wk
>>216 気化熱で冷やすやつだね。ウチにもあった。
249 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/22(月) 09:13:25 ID:EixQu7DW
それって今でも普通にあるだろ
>>233 外出先で携帯の電池を節約するため、こちらからかけるときはなるべく公衆電話を
利用する。だから小銭は必需品である俺は、いまだに昭和の人。
大学の寮の電話が公衆電話だったけど、電話番号が貼ってあった。
実家と連絡をとりたいときは、
そこからかけてワン切りして待ってると、折り返し実家からかかってきた。
10円の電話代さえそうやって節約した貧乏学生たち。
252 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/22(月) 15:23:58 ID:YkkiInTU
わんぱくフリッパー
253 :
学籍番号:774 氏名:_____:2010/02/22(月) 15:39:43 ID:tQzJ8gFb
夕方、
薄っすら暮れかけて冷え込んできた
豆腐屋のラッパが聞こえる
裏通りに面した台所からトントントンと
ネギを刻む心地よいひびき
どこかのテレビから相撲の呼び出しが聞こえる
早く帰らないとお母さんに叱られる
>252
あーるくんだ
小学校の名簿の電話欄にはけっこう「(呼)」というのがあった。
「呼び出し」の略で、自宅に電話がないから、その電話番号にかけて呼び出ししてもらってね、
というやつ。
学校の連絡をするのにその番号にかけたら、無愛想なおっさんが出てきて
「知らん」
と電話を切られて、どうしても連絡できなかったことがあった。
>>253 >豆腐屋のラッパが聞こえる
うわぁ〜、失礼ながら何歳ですか?
俺、昭和40年生まれだけど、生まれて一度も
「豆腐屋のラッパ」って聞いたことないぞ!
>>256 昭和54年生まれだけど、10歳ぐらいまで
うちの前の道を豆腐やさんがラッパ吹きながら通ってた
去年、金沢で聞いた>豆腐屋のラッパ
まだやってるところはあると思う。自分の実家近くでも、豆腐屋のご主人が
高齢で店を畳むまで豆腐売りやってたな。5年くらい前までやってたかなー。
都会や下町だと豆腐屋のラッパ聞けると思う。
片田舎や郊外じゃ無理
新興の豆腐売りみたいなのもいるからね、最近は
確か国立にもいたはず
こ…国立
築地の野口屋かね。ラッパの豆腐売り。
最近は東京郊外や隣県にも広まってるよ。
ああいう復刻モノみたいなのには
心動かされるw
SSKのプリンゼ♪
東京だったけど、1980年代半ばまでふつうに豆腐屋がラッパ吹いてまわってた
あと、1970年代には傘直してくれたり、包丁といでくれたりする
金物屋?さんが一月に一回くらいまわってきた
あれ、今あるとありがたいんだけどなあ。包丁がうまくとげないんだよ〜
千葉県と東京都の境目辺りの下町だけど近所にラッパ吹いてやってくる豆腐屋さんいるよ。
復刻ものではなくて何代も続いてる老舗。
下町だったら結構残ってるんじゃないかな。
以前勤めていた仕事場の裏を、トーフのラッパ鳴らしながら
走り回っている。スーパーカブで・・・
遠くの方から とー の音が聞こえ、ふー を鳴らす頃にはドップラー効果とともに遙か彼方w
>>264 金物屋に持ってって頼めば?
と思ったけど、使いかけの包丁持ってうろついたら銃刀法違反で逮捕?
すぐ取り出せないように包んでいけば大丈夫だろう
昭和40年生まれだが、ラッパを鳴らす豆腐屋は親の話でしか聞いた事ないな。
でも早朝にリヤカーに藁包みの納豆をたくさん入れて歩いて売ってるおばあさんはいた。
親に強請って買ってもらったけど、本当の納豆だったし上手かったけど高かった。
昭和47年くらいで50円とかしたかな。その頃はパンも10円か20円で買えた時代。
で、一回しか買ってもらった事ない。その内見かけなくなってしまった。
行商って無くなってきたね。
昭和55年頃小学校の時、玉石の釜ごとリヤカーに乗せた焼き芋屋さんが
リヤカー引いて売りに来るの、楽しみにしてたな。
薪をくべた釜の煙突の先に笛付けていて、
「ぴぃーー」って鳴らしながらやってくるので、寒い日の夕方は
ずっと甲高い音に敏感だった。
その焼き芋、親は文句言わず買ってくれたな。
他の物は買って良い物は一日50円までって決まりがあったけど、
親も食べたかったんだろうな。とびきり甘かった。
>>269 ラーメンが50円だった時代だ。
母からよく聞かされるw
ラーメンと同じ値段の藁納豆か…3本セットぐらいなら妥当だろうか。
行商のおばちゃん、埼玉と茨城の県境付近の駅で早朝に見掛けたよ。
ほんの10年ぐらい前だったはずだ。
上野方面に乗って行ってた。
「明星チャルメラ」のおじさんが持っているのはチャルメラではなく豆腐屋のラッパ。
うちは千葉から行商のオバサンが来ていた。
千葉のオバサンと呼んでいた。
そういや、行商のおばちゃん見かけなくなったな・・・
自分が高校生だった平成初期くらいまでは
商店街の隅でリヤカーに小鰯つんで行商してるおばあちゃんがいて、
注文したらその場でしごうしてくれる仕組みだった。
>>267 そう、今の時代、大事に包んで持って行くとしてもいろいろとこわいし
そもそも近所に包丁といでくれるような金物屋さん自体がなくなってて
電車に乗っていくことになるレベルだったりする
豆腐屋さんの豆腐も確かに高かったんだよね
80年代で100円くらいしたような
今はスーパーで39円で売っていたりする
便利で安くなって、そして大事なものを失ったということか・・・(遠い目)
電車に乗るとしても、秋葉原や新宿などのの
警官がノルマ稼ぎに職質してるところじゃなければ
新聞紙や買ったときの箱に入れるとかして
しかり包装してあれば問題ないけどな
>>274 うちのほうでは、30年以上前からリヤカー引いて野菜を売りに来ていたおばあさんがいて、
つい2,3年前まで現役だったんだけど、亡くなったらしいんだよなあ。残念。
というか、俺がガキの頃にはすでに「おばあさん」で、まあガキの目から見た印象だから、
せいぜい50歳くらいか、もしかすると40代だったのかもしれないけど、
それにしたって30年後もまだリヤカー引いてたって、昔の人はすげえな、と思ったりする。
包丁じゃないけど、福岡に行った時カラスミと果物ナイフ買って、ホテルで食べた。
そのままナイフ置いていけばよかったんだけど、うっかり手荷物に入れて飛行機に
乗って帰ろうとした。
もちろん搭乗口で引っ掛かって、係員にこのバックに刃物入っていませんか
と聞かれた。
その時点で思い出したので、「すみません、ナイフはいっています」といったら
「飛行中手荷物からナイフ出さないでくださいね」といわれ、なんか簡単な書類に
サインさせられ、そのままナイフもって飛行機に乗った、昭和の時代。
今考えると嘘みたいな話だけど。
今の状況が嘘みたい、なんだけどな…。
そういえばリヤカー自体、あまり見かけなくなった。
近所には桑畑があって、畑の人が蚕の餌に葉を取ってリヤカーで引いて行った。
地方で博覧会やテーマパークが出来るようになってから桑畑も無くなって
見なくなっちゃった。
>>255 おれのところは(農)ってのがあった。これは農集電話っていって、農家何件かで回線一本を共有する
仕組み(電話番号は各戸別)。
東京メトロ東西線は今はすっかり通勤電車になってるけど
昭和の40〜50年代には行商のおばさんの移動手段で大きなカゴ背負った人が良く乗ってた。
ディズニーランドなんて影も形もない頃だったから浦安辺りを窓から見ると(降りたことはない)
ほぼ沼地だった。
>>279 昭和じゃないんだが(でも平成2年頃)数人でタイ旅行に行った時
現地で果物たくさん買って食べたいと果物ナイフを持ってきた人がいた。
空港で引っかかって、結局空港に預ける形になった。帰りに返してもらってた。
自分は折りたたみの万能ナイフを持ってたけど、それは何も言われなかった。
別の友人は果物ナイフよりもっと小さいナイフを持ってたけどそれも平気だったな。
今なら絶対無理なんだろうな。
まあナイフや包丁くらい現地で買えばよかったんだがw
>>281 近所の保育園、リアカーに子供を乗せて近くの公園まで運んでる。
あと10年もしたら リアカー=人運搬用、そう思われる時代になるかも
リヤカーといえば「おもろい夫婦」だったか?
「夫婦善哉」だったか忘れたが、番組の終わりに
リヤカーの後ろにおかあちゃんを乗せておとうちゃんが引っ張ってる
映像が必ず流れた。
あのおかあちゃんは赤ん坊に乳をあげていたかは忘却。
1980年くらいに金魚の養殖と風鈴が主産業の町に住んでたんだけど
夏になるとリヤカーに風鈴をいっぱい吊り下げた行商の人を時々見かけたなぁ。
公園で金魚の品評会とかもあった。
今はどっちも衰退して普通のベッドタウンになってしまった。
>>286 「凡児の娘をよろしく」じゃなかったかな?
いや「夫婦、それは・・・」というナレーションが入ってた記憶もあるので
やっぱり「おもろい夫婦」か・・?
まずおっぱいがアップで写って、カメラが引いていくとお母さんがリヤカーに乗っていて
赤ちゃんに乳を飲ませてるんだよ、たしか。
おもろい夫婦だよ
「夫婦善哉」じゃね?
亀でスマソだけど、昨日も豆腐屋の笛聞いたよ
東京多摩地区
リアカーのニューウェイブ?の豆腐屋じゃなくてカブで売り歩いてる個人店の人
偏在してるから全然経験のない人もいるらしいけど結構生き残ってるみたい
30年前に高校の同級生に「うちの近所で豆腐屋が笛を吹いて売りにくる」って言ったら「今時そんなのいるわけないだろw」って言われたの思い出したw
「おもろい夫婦」でおっぱいじゃなくて赤ん坊の尻だったような気がする。
胸の谷間らしきものアップ→カメラが引くと赤ん坊の尻だった みたいな。
あれこれ検索してみると「おもろい夫婦」で合ってるみたいだね。
>>291 うんにゃ赤ん坊の尻にあらず、おっぱいだった。
あれ見たさに毎週最後まであの番組につきあってたんだ。
間違いない。
>>290 逆に今の時代のほうが、買い物難民等で行商が復活しつつある。
>>291 >>293 最初「赤ん坊の尻」と見間違えるほど、おっぱい(の谷間)が大写しにされる。
徐々にカメラが引いて行く(というより荷車に乗った母子が遠ざかって行く)と、
初めてお母さんが赤ん坊に乳を与えているんだとわかるシーンだった。
やっぱり印象的だったみたいで、みんな良く覚えてるなぁ。
>295
あー、そうだったんだ。ありがとう。
幼い時の記憶であやふやだった。
>293適当こいてすまん。
うちのあたりでは豆腐やは笛じゃなくて鉦だったなあ
チリンチリン〜って鳴らしながら来てた。
ボウル持って買いに行かされた。
今住んでるところではたまに笛吹いてる豆腐や見るな。
給食に良いもの(プリンとか)が出たときは
欠席者の家に届けなければいけないことになっていた
うちの小学校だけかもしれないけど。
>>298 うちの兄貴がプリンやゼリー大嫌いっ子だった。
給食のときは、兄貴の分をめぐって、壮絶なじゃんけん大会が繰り広げられたそうだ。
小学校の時新しく担任になった女教師が
給食に出る冬みかんの皮を食べろ、といいだした。
薄皮じゃなくて厚いほうの皮。
理由もなんか言っていたけど忘れた。
クラス全員反対したが、かたくなな態度で押し切られみんな泣く泣く食べた。
でもそれは一回だけの記憶で、その後もミカンは出たはずなのに皮を
食べた記憶はない。
きっとPTAから文句が出てやめたんじゃないかと推察している。
昭和関係なくね?w
そういえば昭和の頃は「○○大好きっ子」というペンネームが多かった
なめ猫 大好きっ子
>>303 なめ猫って、服着せてお座りさせた猫の正面にカメラを据えて、人間の手で前足持ち上げて
手を離して地面に付けるまでの数秒の間にシャッターを切るという撮影法だそうですね。
(ウインク写真は、閉じさせたい方の目のほっぺたを指で突っつく。同じく、目をあける数秒の
間にシャッター)
写真って、瞬間を切り取る物なんですね。
偽物が横行したあたりの頃では、撮影手法が酷いと都市伝説になってたな。
殺しているとか針金で釣っているとか・・・。
後になって、なめ猫の洋服に針金が通っているのがあるという話を
本家(名古屋)の会社が認めていた。
最近の猫ブームの中では、どうにしろ考えにくいな。
愛護の精神とかでなく、猫はその辺で寝ているだけで十分という流れだし。
なめ猫ってそうやって撮影してたのか。
知らないうちに廃れた記憶しか。かわいかったので気に入ってたのに。
>>307 真横から撮ったら、座った猫が前足を上げてるだけなのがバレバレだそうです。
撮影限界時間は10分、使える写真はたくさん撮ったうちのほんの1〜2枚ほどだったとか。
この頃銀蝿の影響かどうか知らんけどツッパリとか不良とかが流行ってたよね。
甲子園のアイドルも愛甲とか牛島とか、いかにもそれっぽいやつだったし。
「ヤンキー」は健在でもツッパリや不良なんてのももう死語かな。
髪を染めたり、制服を改造したり、繁華街をフラフラするのは「不良」のすること、とされてたもんだが
今は行いが特に悪くない子でも普通にそれぐらいやってるもんな。
310 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/26(金) 23:22:44 ID:baR4tbgJ
白のドカン買ったわw
飛行機に乗るときスチュワーデスにお願いすると
コクピットの見学可能でコクピットの機長さんたちと話も出来た。
312 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/26(金) 23:44:51 ID:7DQED731
家電が緑色。
そういや旦那実家の冷蔵庫は緑色だわ
ああ、緑色の洗濯機もあったな
しかし緑色の電電公社電話(プッシュホンつーかボタンつーか)もあったのだが
いえでん なのか かでん なのか。
愛甲って失踪したんだっけ?
結局みつかったのかしらん
愛甲は自伝「球界の野良犬」で高校球児時代やら現役時代やら
失踪事件の顛末やらについて書いてるよ
>>251は赤(ピンク)電話だね
正確に言うとあれは個人が契約した回線で第三者がコインを入れて有料で利用するもので
公衆電話とは違う
だから受信もできた
正確なところは知らないが、入れられたコインは契約者のものになり契約者が電電公社に通話料を払う仕組みみたい
契約者が鍵を持っててそれを使うとタダで通話もできたしね
不便なのは110番に通報する時もその鍵が必要だったこと
そういや赤電話って見なくなったねw
喫茶店なんかに必ず置いてあって
「お客様の○○さまにお電話です」
なんて呼び出しも普通にあったっけ
>>317 受信はできるけど番号は普通公開されていないでしょ?
赤電話はその店(契約者)の番号として公開されてたので普通に利用できたってこと
>>318 公開っていうのが何を指すのか知らないけど、うちに置いてた緑の電話の電話番号は知らされてたよ
電話ボックスに貼ってあったりもしたし
お金が溜まるところの鍵もあって、小銭が溜まると鍵開けてお金出してたよ
あとピンクの電話も利用者が少ないと撤去されちゃうから、個人契約の普通回線じゃないと思うけど
>>319 「緑の電話」ってのは電話ボックスにあるあれかと思ったよw
上にも書いたけど契約の仕方については詳しく知らないんだスマソ
昔は○(色)電話ってのが種類が沢山あって何がなんだか
ググってみたらあれは「委託公衆電話」というやつで個人契約じゃなかったみたいだねスマソ
>>320 しつこくごめんね
電話ボックスにあるあれの事だよ
テレホンカードも使えます
電話ボックスの隣にジュースの自販機置いてたから、
ジュース買うお客さんがいる時見計らってうちの中から公衆電話に電話をかけるというイタズラをよくしてました
そういや昔のテレビのドッキリは一般人に仕掛けるものも多かったから、公衆電話が鳴るドッキリってのもあったよね
電話架けようとしたら公衆電話が鳴り出して、挙動不審になるのを笑うという
たしか、
赤電話は確か局側から利用の多そうな繁華街の店の店頭等に置かせてくれ、依頼したもの
ピンク電話は、飲食店等、店側から置きたい、と申し込むもの
だと思ったよ。
前者は、黄・青電話とともに平成7年ごろにカード式電話に統合されて廃止された。
325 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 08:11:31 ID:TQWzkFwC
>>313 そうそう、テレビやら掃除機、ラジカセとかに、一時期緑色が流行ったよね。
>325
テレカ使える公衆電話なんかとは別で、鮮やかじゃない緑色な記憶。
しかしレトロ電話高いわアアアア
327 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 09:05:06 ID:DnltmaNG
電話といえば、家具屋にベッドと並んで、ベルサイユ宮殿にでもおくような
ロココ調のダイヤル式電話機が売られていたっけ。
328 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 09:07:01 ID:DnltmaNG
電電公社がNTTに変わるころ、テレホンカードブームが起こって、
利殖目的にコレクションすると同時に、それまでの公衆電話では、
10円玉を大量に用意したり、100円玉を使うとお釣りが出ない、
と言う不満もあって、赤電話をカード式電話に置き換えてくれ、
という風潮があった。
プリペイドという言葉が認知されたのもそのころだったな
今週のもやもやさまぁ〜ずで東京の下町の路地を歩いてる時に
どこかの家のエアコンの室外機の上にぽつんと置かれたホコリまみれの電電公社時代の電話(色はグレー)が映った。
さまぁ〜ずから「こんな所に電話があるよ」とイジられていた電話が凄く悲しそうに見えたな・・・。
ああ言う置き去りの電話が、日本にはまだまだ沢山あるんだろうね。
>>322 ああ、あれにも固有番号が振り当てられて掛けることができるのは知ってる
ただ、普通秘密にしているから簡単に利用できないようになってるはずということ
赤電話は設置してる店の番号として公開(マッチなどに刷り込まれていた)されていたから気軽に利用できたので呼び出しとかできてた
とここまで書いてから、どうも昔は電話ボックスにもそこの番号がかかれていたような気がしてきた
途中で方針が変わったのかな?
333 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 11:14:26 ID:2wGujbMD
赤電話は、制度上は平成7年まであったが、小銭を使う手間と、
置いている店が閉まっていると使えない、という声に押されて
平成3〜5年位にはほとんど姿を消していた。
赤電話を店先に置いてそうなたばこ屋やら小規模な店もほとんど姿を消して、
公衆電話といえば、コンビニの前、の時代になったな。
>>332 公衆電話の管理番号、であって電話番号そのものではなかったよ。
修学旅行では生徒のカメラ所持禁止で
先生が撮った写真を後から買っていた
業者の撮る集合写真がやたら高かったな。
今思えば誰かの懐に入ってたんだろうなぁ。
集合写真自体は今でもあるのか?
>>316 >不便なのは110番に通報する時もその鍵が必要だったこと
これは知らない人が多いかも知れないけれど
受話器の耳にあてるほうから喋れば通話は可能だった
もちろん相手の声もそこから聞こえるから喋ったら耳にあてなきゃきこえないけどね
104も同じ使い方で使えた
もう時効だろうけど公衆ボックスの黄色い電話はただでかけられる裏技があった
よく彼女の家にかける時使ったなw
そういやカード式で両脇に受話器ついてる公衆電話あったな
339 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 17:24:34 ID:2bHtmsin
>>337 テレカが使える緑色の電話機
これが故障していて受話器の耳にあてるほうから喋ったことがあったぞ。
これは平成の話だな。
340 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 18:18:29 ID:2q+L9yIj
>>337 >公衆ボックスの黄色い電話はただでかけられる裏技
これはけっこうみんなやってたな。
誰から、ということなしに何故か知ってた。
受話器を見てみんなもやってる、とわかったし。
342 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/27(土) 21:40:46 ID:3GcMN+8/
>>340 今は改良されてできないようになってる。
>>325 50年代終わり〜60年代初めくらいにくすんだ若草色の家電があった
丁度引っ越したんで洗濯機とアイロン、その他になんかあったが忘れた
ナショナル製
アイロンは20年以上経つが故障もなく現役だ
親の知人の家に40年代に購入したであろう物で、黒っぽい緑の冷蔵庫とポットがあったのを覚えてる
うちの中古でヤフオクで買った冷蔵庫が緑だな。
その前に使ってた冷蔵庫も、平成始めくらいに買ったが緑で左右どちらからも開けるやつだった。
気がつけば冷凍庫が一番下ってのが定番化したのがちょっと驚き。
公衆電話というと、物凄い古い記憶で、ボックス自体が透明じゃなくて
取っ手が丸くて、ドアの上半分くらいがガラスになってるのがあった。
スーパーマンが着替える電話ボックスがそういうのかな(スーパーマン観た事ないんでわからん)
子供心に一度あそこから電話してみたいと思ったけど
近所の公衆電話は店頭とかにある赤電話ばかりでボックスのは見かけなかった。
あと近所の家か大家さんに借りて10円払うとかやってたな。
小学校では、低学年の頃は職員室の電話を借りてたけど
いつの間にか公衆電話が設置されて、風邪引いて欠席とかすると友達が電話かけてくれたな。
345 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/28(日) 03:53:13 ID:8xAsaOcB
昭和40年代後半だと思うが、各社の冷蔵庫で「冷水機」つきと言うのが流行った。
ドアの外側に飲食店にあるようなコップを押すと水が注ぎ込まれる蛇口(?)がついて
いて、ドアを開けずに冷たい水が飲めるというもの。
サザエさんの途中のCMで、その東芝製のバージョンが流れた気がする。
こどもがコップを押し当て「ポン!ザーッ!ピッ!」と唄っていたような。
大変憧れ、子供の分際でねだったりしたが、うちはまだ冷蔵庫を買って
まだ数年しか経ってていなかったので、当然却下された。
確か、構造上か、手入れを怠ると雑菌が繁殖しやすいとかで、50年ごろには
下火、廃止になっていたと思う。
>>344 >公衆電話というと、物凄い古い記憶で、ボックス自体が透明じゃなくて
>取っ手が丸くて、ドアの上半分くらいがガラスになってるのがあった。
は勝手に「臨時公衆トイレ」となることが多くて今の全面ガラス張り仕様になったようですね。
>>345 その仕様の冷蔵庫をCMで見てすごく憧れた想い出があって
「大人になったら買おう」と思っていたけど「いざその時」の現在になったらそんな商品無かった。
そういえば子供の頃、ウイークエンダーの再現フィルムで知って何となく楽しそう、
と思い込んで実体験したかった
ラブホのガラス張り天井と回転ベッドも「いざその時」になったらどこにも無かった。
今でもどこかにあるのかな?
今でも
>>345 それ親戚の家にあった
何時買ったものかは知らんけど、50年半ばにはもう使ってなかったみたい
すごい珍しくて押してみたりしてた
内側にその給水専用の部分があって、普通にドア面部分が半分くらい占拠されて立てる物が全然
入れられない
あ、だからか?
小型の1ドア冷蔵庫もあって、牛乳や麦茶なんかは全部そっちに入れて取り出してたのを見てた
…うちの機械道楽親父が、給水機付き冷蔵庫を速攻で買ったとです。
押しボタンポットも、ランチジャーも買ったとです。
でも、うちはド貧乏だったとです。
349 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/28(日) 08:40:48 ID:9ieWFABz
ポットといえばお湯を沸かす機能などなくて、やかんで沸かして移すものだったし
持ち上げ傾けてお湯を注ぐものだった。(今もあるだろうが)
湯沸し一体型より、湯沸しなしのエアーポットの方が少し早かったと思う。
どちらも結構画期的で、そんなに高価なものじゃなかったから、当時はよく結婚式
や上棟式の引き出物になっていた。
黎明期には、エアポンプ式ばかりでなく、電池式の電動タイプもあったが
単3電池4本、しかも今みたいにアルカリ電池が主流じゃなかったから、
すぐに切れてしまい、この方式は廃れてしまった。
そのころ、なぞなぞブームがあって、
エアーポットは、オスかメスか、と言うのがあった
答え「♪象印エアーポット『おすだけ〜』」
350 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/28(日) 09:07:18 ID:10YWYatP
テレビは11時で終了していた。
とてもエコな時代だった。
351 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/28(日) 11:33:27 ID:3C6DPJQZ
>>350 昼間のテレビには
テストパターンが映ってて、
ちゃんと円になってるか、ドライバーで調節したりしていた。
「芸能ニュース」(ワイドショーではない)という番組があった
353 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/28(日) 13:06:58 ID:EUO6pgoy
あのころはカラーテレビの色が自動でなくてNHKと民放の色が違って手動で
肌色に調整した。
冷水機つき冷蔵庫、実家にあった。
冷たい水が出て当時幼稚園児だったからうれしかったけど、たしかにちょっと掃除怠るとバイオフィルム的なモヤモヤが出てきて気持ち悪かった。
結局母が掃除するのが面倒だと言って使わなくなったな。
そういや、うちの高校には、恐らく昭和30年代後半か40年代初頭製の、下の方に
蛇口が付いたミキサーがあったなあ。
蛇口から出るのが、どろどろの野菜やフルーツのジュースだもんなあ。
あからさまに掃除が大変そうだ。
今売ってないのもよく判る。
そういや、車がガソリンで走ってたね あの頃は
それを車に注入してくれるガソリンスタンドってのも街中にあったなー。
しかも自分の能力で運転してたんだもんなー 今考えたらこえー
22世紀から来た人乙
>>354 バイオフィルムて(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
「暴れはっちゃく」シリーズ
今のご時世じゃ 児童虐待と捉われても
文句言えなさそう
暴れはっちゃくって、放送時点ですでに
ああいう父親像って割と時代遅れだったよね?
父ちゃん情けなくて涙でてくらぁ!
現代のほうが酷くね?
「オラ、さっさといかねーと殺すぞコラ」
とか子供に言ってる金髪母親をイオンあたりでたまに見かける。
はっちゃくの父のほうがまだ大分上品だろう。
上の方で話題になってた冷水器付きの冷蔵庫、友達の家にあった。
「新しい冷蔵庫だよ」と見せてもらって、夏に冷たい水を出してもらったけど
一年もしないうちに冷蔵庫買い換えてて、どうしたんだろうと思ったら
「お母さんが掃除が面倒だって買い換えた」とか言ってた。
もったいない、処分するならうちにくれよ、と思ったが
うちの母に言うと「あれはとにかく手入れが面倒でばい菌が沸くからいらない」
と言ってた。
当時は母の負け惜しみかと思ったけど、真実だったんだな。
他所で使ってた冷蔵庫なんか欲しいか?w
そりゃ子供だったら他人の新品だとか中古だとか気になるまいよ
やべ、「他人の」っての消し損ねた
1980年代くらいだったか、駅なんかに「有害図書」を入れる白ポストが設置されてた。
あと「地の塩の箱 」もなくなったなぁ。まだ1ヶ所だけ残っているらしいが。
369 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/04(木) 22:07:25 ID:E+/FYbl2
そのハコの中に入っていた本を設置していた青年懐疑所の会員が持ち帰ってだなぁ…
地の塩の箱ってなんだっておもったら、不特定多数に対する募金箱なんだね。
余裕のある物がお金を入れ、そうでない者が自分の判断で取り出すという。
ふと思った事。
自分の手元にスマートフォンがあって、
これで他人に作ってもらったワードファイルをベースに、
空いた時間に手書き入力編集して、仕事上のスピーチ内容を制作中。
で、必要な時にWebメールで飛ばして、会社や自宅のPCで
確認したり印刷できるようにしているいる。
これこそ「今」なんだよな。
昭和じゃ無理だ。
テレビのチャンネルはボタンが12個付いてた
>>368 地元の駅は5、6年前くらいまであった記憶>有害図書の箱
♪タイガー〜 電子ジャー た・き・た・て
セックス時の性器は隠すべきものだが、排尿時の性器は別物扱いだった
【3ない運動】
フラッシャー付き自転車
>>375 …結局、人のバイクを盗んで無免許で乗るようになって、状況は悪化しましたとさ。
でめたしでめたし。
昭和の大学生は真夏のビーチでマージャン卓囲んでた奴らいたよな
ビールにタバコの煙もくもく。 今は海水浴ビーチも禁煙がふえてるんだろ?
徹夜行列にも必ずいたよな、麻雀。
たばこの吸殻、空き缶、パンの袋などをポイ捨てしてもオッケーという雰囲気だった。
待ち時間の長さを表現するために、足元に捨てた吸殻の数を
演出に使うという映画やドラマも多々あった。
「28年ぶりに発見された生きていた英霊」
382 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/05(金) 16:36:17 ID:BqiIgdHy
カードの麻雀ってあったよね?
どうやって使うか知らないけど
383 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/05(金) 19:09:32 ID:FwCGACeN
>>382 麻雀で思い出したが、パチンコの台に似た「雀球」、今でもある?
>>381 >待ち時間の長さを表現するために、足元に捨てた吸殻の数を
>演出に使うという映画やドラマも多々あった。
張り込みしてた刑事が、犯人が逃走しようとすると、
吸っていたタバコを投げ捨てて追いかけるってシーンがあったな。
今じゃ『タバコ』&『ポイ捨て』がダブルでNGだろう。
昭和のモラルって美化されがちだが
やっぱそんなこたあないよな
昭和の頃は中高生の服装規定が軍隊並みだった以外は
全体的に今のほうがマナー良くなってると思う
アイドルのイベントやコンサートは、
親衛隊(ヤクザや珍走崩れが多かった)が仕切っていた。
事務所がお墨付きを与えており、暴力行為も黙認されていた。
「興行」全般にはやくざが関係していた
だから、芸能界なんて堅気の家の子供がいくべきところじゃなかった
美空ひばりの楽屋に山口組の田岡組長が付き添って来たとか普通だったそうだもんねぇ。
以前ようつべで古いニュース映像?かなんかの動画を見てたら
ある暴力団のエラい人の葬儀の場面で「坂本九」って名前の入った供花が映ってた。
ようつべで見た動画ってあるじゃん
ひばり・田岡組長ってのは有名だぞ
日航機墜落事故、スキヤキ関連で名前がよく出るじゃん今でも
394 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 09:14:27 ID:+x0m0v+/
子供の時、映画館でゴミは椅子の下に捨ててた気がするんだけど記憶
ちがいかな?電車でも、みんなゴミは椅子の下に捨てて降りてたきがする
>>394 40年代位だと禁煙表示があるのに館内でタバコも普通に吸ってた。
>>395 タバコも吸ってたんだ
お弁当を食べてるおばさんは見たことある
お弁当を食べながら映画を見てボロボロ涙を流してた
なんか子供心に、楽しんでるなって思ったな
397 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 12:21:57 ID:sPJjkO/E
電車でもタバコ吸えたよな、ツバもはいてたし
今はどこもかしこもきれいになった
電柱は男子トイレも兼ねてたしな。
>>396 なんかいいな、おばさん
楽しんでるねw
番組の出演者数が少なかった。
出ている人の平均年齢も高めだった。
若い人にあまり媚びてなかった。
パソコン使ってるとマニア呼ばわりだった。
オーディオのカセットテープから1時間かけてデータロードしたりしてた。
その間にご飯食べたり、風呂入ったりw
402 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 12:52:01 ID:ba9Jnyf7
>>62 >玉置宏の訃報で思ったが、「抑制のきいたタイプのプロの司会者」って
今だときわめて少数派になっちゃったね。
綾小路きみまろは玉置さんの孫弟子。
>>395 >40年代位だと禁煙表示があるのに館内でタバコも普通に吸ってた。
昭和60年代でも、場末の映画館では、禁煙無法地帯だったよ。
赤地に白で大きく書かれた「禁煙」の表示が、
タバコの煙でかすんで見えないんだよ(笑)。
それぐらい凄かった。
ちなみに、その手の映画館は、ホモの発展場でもあり、
「いきなり後ろから首筋を撫でられる」等の怖い思いもした。
「不毛地帯」みてると、
飛行機の中でタバコ吸ってるシーンがよくでてきて
いちいちびっくりする。
405 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 15:13:40 ID:ba9Jnyf7
病院の待合室にも普通に灰皿があったしな。
細かい白い石が敷いてあるやつな。
>>405 >病院の待合室にも普通に灰皿があった
あったな。今となっては信じられないよ。
今じゃ役所とか「敷地内は全て禁煙」だもの。
敷地内なら、たとえ来客が駐車場に停車した車内で吸ってもダメだから。
仕方無いから職員は、雨の日なんか傘を差しながら、
門扉の外に出てタバコを吸うという異様な光景がみられるよ。
408 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 16:16:37 ID:ba9Jnyf7
30年代前半は我が家には冷蔵庫がなかったので納豆、佃煮、干物などの朝食のおかずはその日の朝に毎日必要分だけ買いに行かされた。
そういやパソコン自体めずらしかったから、やってると変人扱いだったような。
パソコン通信で聞いてみる、なんて言うと、ええーって反応が来てた。
410 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 18:12:05 ID:ba9Jnyf7
麻雀三昧の日々。麻雀が出来なければ人間に有らずのような・・・
『パソコン』『マイコン』ってあだ名の子がいたw
太陽でほえろでマイコンってあだ名だったのは石原良純だったか?
>>394 昭和の初め頃の駅弁の掛け紙を見たことがあるけど、
「食べ終わった空箱は座席の下に置いて下さい」
と印刷されてたから、そんなもんだったんだろうね
サンデー九って、今なら物議を醸しそうだな
まあ当時は「パソコン通信の電子メールなんてオタクw 直接話せばいいのに」と
馬鹿にして嘲笑していた女子大生が
今は主婦となって携帯メールに熱中している。
旅行のガイドブックに、『持っていくもの』という項目があって、
「洗濯ばさみは何かと便利」
とか、
「ビニール袋は5枚くらい持ちましょう」
とか書いてある。
「折り畳みイスがあれば、混雑した電車でも座る事ができます」
なんて事も書いてある。
昔はアマチア無線で知らない人と話をしている
なんて言えば、知らない人と話して何が楽しいの?なんて言われたものだが
少し前はチャットで知らないやつと話をしたり
今もこうして知らないやつと掲示板で話をするのが当たり前
時代は変わるものだよなぁ…
知らない人としか本音は話せない
年齢のせいもあるとは思うけど
419 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 22:59:25 ID:UQD2j9bK
>>417 オレが「エレクトーン」を習いに行っていた先生(個人教授だったので
先生の家へ行っていた)のダンナさんの趣味がアマチュア無線だったらしく
で、庭には鉄塔とアンテナ、車(1BOX)には、ニョキニョキアンテナが
突き出ていた。
ハイテク、というか時代の最先端ウを行くニューファミリーと言う感じ
でリスペクトしていた。
そういや、そのころの1BOXカーって、いまのミニヴァンやアルファード、
得るグランドみたいにコじゃれてなくて、モロ仕事用と同じのハイエースや
ボンゴみたいな感じだったな。
420 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 23:15:30 ID:ugjWDAHj
趣味の王様やね
世界中の友達と喋ろうってワクワクしたけど
外国語とか話せないのになw
映画「崖の上のポニョ」で、ポニョはハムが好き、ということになっているが
アマチュア無線を使って父親と交信(しようとする)シーンがある。
そこで、ポニョに「ハムー!」といわせるための仕込みではないかと勘ぐっている。
住んでいるところの4エリア、かつサイレントキーになったコール使っているし。
422 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/06(土) 23:41:22 ID:UQD2j9bK
昭和の隠語「アンネ」。
この言葉の意味が分かる人たちもそろそろ「引退」である。
何年か前に放送されていたアニメ版ブラック・ジャックで、
原作では無線で交流していた話がチャットだかメールだかになっていて
時代を感じた
「ハローCQ」ってやつ
>>410 牌の背に指を乗せてラシャの上を
わずかに擦らして盲牌するおっさんがいた
更には牌の上の牌を少し擦らして盲牌する奴までいた
後者はガンかも知れないがびっくりしたもんだ
>>422 書店で『アンネの日記』って表紙だけ見て読んではいけないもの
だと思っていたよ。
そういや、昔の電車の座席って
ひじかけの先のところに引き出し式の灰皿ついてたよな〜。
10年前ぐらいまではその仕様の車両をたまに見かけたが、
最近全然見なくなった。
>>422 今26歳くらいになる年代の子が大学生の時にネットでおしゃべりするようになって
その子が「アンネ」とか使っててビックリした事がある。
自分昭和40年生まれ)よりちょっと上の人が使う言葉だと思ってたので
若い子が使っててびっくりしたよ。
親から伝わってるのかも。
今でもビートたけしは多少その傾向が残っているが、
殺人事件をネタに笑いを取ったりするのが当たり前だった。
429 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 06:32:23 ID:Qffs2CbJ
キンキは貧乏人の鯛と馬鹿にされた雑魚だった。他にも鯨、エボダイ、銀ダラ等も安い下魚だった。それが今じゃ気軽には食えないほどの高級品だ。
それを言うなら鯨w
焼肉缶というのが鯨の大和煮だったっけ
大好きだった
鯨ベーコンなんて普通の家庭の人が食わない粗悪品だったw
431 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 09:02:34 ID:Qffs2CbJ
鯨ベーコンは飼い犬(雑種)にも食べさせてたよ。
昔の貧乏人の食事は今なら大金持ちしかできないな。www
鯨の缶詰はとにかく味が濃くてまずかった。
給食の竜田揚げは固かった。
家で作る鯨の脂身のすき焼きは、今同じものを作ってもめちゃくちゃ固いのに、
なぜかそれは固くなかった気がするんだよなあ。
鯨の種類が違っていたんだろうか。
433 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 09:19:45 ID:Qffs2CbJ
さらし鯨と云うのもあったね。酢味噌で食べるんだけど親父の好物だった。
私は酢の物苦手なので食べなかったけど。
>>409 うん。自分が女子高生当時パソコンの授業あったけど、ハマッてるのは地味な目立たない子ばかりだった。
目立つようなオシャレな女の子達は結構サボったりしてて、講師に
『事務の仕事に就いたら出来ないと話になりませんよ?』と諭されても
『事務だってぇ〜wwそんな地味〜な仕事絶対ヤダァ〜ww』なんて小馬鹿にして笑ってたなぁ。
結局彼女達はスッチー、モデル、看護師、ピアニスト…とパソコンとはあまり縁のない仕事に就いたけど
それでも今は仕事関係なく、パソコン出来ないと色々不便だよなぁ…。
あの当時、ハマッてる子以外は誰もここまで普及するとは思ってもなかったから本当にビックリ。
>>432 >給食の竜田揚げは固かった。
俺は旨かった記憶あるぞ。
できれば、もう一度食べてみたいな。
給食の鯨の竜田揚げは固かったけど噛むほど味が出ておいしかった。
スーパーで客寄せ用に子供の鯨を丸ごと一頭、解体して売っていた。その肉を
塊1キロくらいを買って帰った。家で竜田揚げを作ろうと母親に頼んで作って
もらったんだが、給食でいつも食べてるのと全然肉質が違ってた。あれ?って
感じだった。そういや種類が違ったのかもしれないな。
437 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 10:29:22 ID:cuHn+WUu
某宮崎県知事とかを筆頭に エイズって病名をエンガチョ的なニュアンスで使ってたな
438 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 12:05:57 ID:Qffs2CbJ
給食時に肝油ドロップが配られたな。今で言うサプリだね。あれって鯨由来なんだよね。他にもリス印マーガリンも給食の定番だったけどやはり鯨脂が原料だったらしい。
ずいぶん鯨にはお世話になったんだな。
当方、大阪だけど肝油ドロップって名前しか知らない。
1回も食べたことないから味も知らないよ。
もちろん給食で配られるようなことも無かった(´・ω・`)
昭和期だとすべてにおいて地域差がすごかったかもね。
今でも色々とあるけど情報量の差がそれほどでもなくなったので意外性みたいなものは薄れた感じ。
修学旅行時に「新幹線の乗り方」と「洋式便器」の使い方を習う学校があるって話をなんかで見たんだけど
あれは本当なのか都市伝説なのか…。
ナボナやぺヤングが全国区ではないと知ったときは驚いた
443 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 12:56:57 ID:Qffs2CbJ
>>441 高校野球で東北地方の選手へのインタビューでは訛りが強くて何を言ってるのか解らなかった。
それが今ではほぼ標準語で答えてるよね。
>>441 「新幹線の乗り方」はやったけど、習うというか、練習だったな。
ダラダラ乗り込んで、一般のお客さんに迷惑かけないよようにって。
445 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 13:33:31 ID:Qffs2CbJ
27年生まれの私達までは修学旅行での新幹線利用は禁止だった。
つまり私達は修学旅行専用列車の日の出号の最後の利用者となった。
>>438 >>リス印マーガリン
うわー、久々に思い出したわ。
イラストごと思い浮かんだw
僅かに酸味のある、脂っこいマーガリンだよね。好きだったな
>>441 神奈川だけど、中学の修学旅行前に新幹線の乗り方を体育館で習ったよ。
あと、やっぱり中学の時、トイレが水洗に変わって、水洗トイレの使い方を習った。
レバーは足で踏むと壊れるので、ちり紙で押さえて手で押しなさいと習った。
でもみんな足で踏んでたw
昭和53〜55年頃の話。
448 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 14:33:50 ID:cKslW0Ew
(´・ω`・)びびしゅ
>>441 >昭和期だとすべてにおいて地域差がすごかったかもね。
そう言えば、ナボナって関西では全然ポピュラーじゃなかったから、
「ナボナは、お菓子のホームラン王です」って何のことかわからなかったな。
今になっても、お菓子の名前なのか、菓子メーカーの名前なのかが分からないよ(・ω・`)
450 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 15:07:25 ID:cuHn+WUu
昭和の終わり頃の怒り肩のお姉さん達は一体どこを目指してたんだろうな
朝ドラゴンボールやってたけどサイヤ人の戦闘服みたい
子供が何人いようが家事を完璧にしてた主婦
旦那は企業戦士で休日も家ではダラダラ
452 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/07(日) 15:32:15 ID:Qffs2CbJ
幼い弟や妹をおんぶして子守をしながら遊ぶ小学生とか普通に何処にでも居たね。
休日に外出するのにスーツ調の服装
中高校生は外出の際、制服着用という人が多かった
校則の事もあれば外出用の服を持ってない人もいたり
>>435 鯨の竜田揚げおいしかったよねw
薄れゆく記憶の中でも給食のそれは好印象を今でも残してます。
昭和40年代始め、冬になれば、青っ洟、水っ洟たらした子供がどこにでもいた。
子どもたちの袖口は、ぬぐった洟でテカテカに光ってた。
昔はなんであんなんだったんだろうな。
そのくせ、アトピーなんて聞いたこともなかった。
子供服は兄弟や親類のお下がりが多くて、上に兄弟がいれば新品はめったに
着られなかった。
「よそゆき」というものがあった。
>>449 東横線自由が丘の亀屋萬年堂のお菓子の名前。
亀屋萬年堂の現在の社長は元巨人の国松外野手。先代の社長の娘と結婚した。
今は類似品が沢山あり山崎パンでも作っててこれがけっこう行ける。
460 :
449:2010/03/07(日) 20:10:26 ID:5R047PmV
おぉ、ありがとう!
やはりお菓子の名前だったのか。やっとわかったよ。
関西圏では「パルナス」っていう菓子メーカーがあったから、
それと同じでメーカーかな思ってたよ。
全国に出回っているであろうヤマザキのブッセってのがナボナに近いね
銀行へ行くときは、着物に着替えてから行く。
リンスは洗面器でお湯で溶いて使う
シャンプーは三日に一回
464 :
449:2010/03/07(日) 21:34:18 ID:5R047PmV
>>462 銀行に着物で行く人は、当時でも少数派だろうけど、
昭和40年代まで、普段行き来のない親戚の家や謝恩会等、
少し改まった場所に行くとき、既婚女性は着物が普通だったな。
>>パルナス
同じように関東人には「かねてつのてっちゃん」に馴染みがない。
今でも、関東以外から進学・就職・転勤を機にやってきた人は「でんこちゃん」
を知らない、関東以南の人が「やきそば弁当」も「バゴォーン」をしらない
とかね。
地方民なので、「マルイはどこです駅の側」も「セブンイレブンいい気分」も
「週刊新潮は明日発売です」も何のことかずっと知らんかった。
「ぎんざNOW」とかいう番組があったことも、長じて泉麻人の著書で初めて知った。
>>465 えっ。生粋関東人だが、かねてつのCMやってたから知ってるぞ。
てっちゃんてっちゃんかねてっちゃん
ちっくわとかまぼこちょうだいな
へいへーいまいっどーあーりがっとさん
なら、ずっと関東在住の自分もよく知っている。
栄太楼、タケヤ味噌、夕月かまぼこ、ヒゲタ醤油、山本山…。
お正月が近づくと、佃ごん(♪アッタシャ佃ごん、はんぺんさ〜)とか
食の洋風化や中食化のせいか、あれほど夕方のアニメの再放送の常連だった
和風食材のメーカーもこのところCMを打つほど元気がない。
傍らでお母さんが夕飯の支度をしながら聞いていることを前提にスポンサー
になっていたんだろうか。
サイトからたどると、いまでも健在そうだが。
最近、関東のデパートで「とよすあられ」が普通に売られていて
びっくりした。
>>460 パルナス、懐かしいな
モスクワの味パルナスだっけ
そういや、もうそろそろお正月、を思わせるCMも、
年賀状がキーワードなのは変わらないが
昭和…フィルム(「お正月を写そう!」)&プリントゴッコ
だったのが、いまやプリンターにかわっるしな。
シースー(笑)
資生堂、カネボウ、サントリーの主力商品のCMは、必ずといっていいほど
流行語や社会現象となり、CMソングはベスト10にランクインしていた。
いま資生堂cm見てがっかりしたとこだよ…
昔は資生堂ったら間違いない広告の代名詞だったのに。
今や出自が暗いような坊主頭女だの生きることはくすんでいくことだの、センス外れてしまって寂しいねー
ちょっとスレの趣旨からずれるかもしれんけど
この間学校帰りの女子中学生がに自作の棚を持って帰ってるのを見て
ちょっと驚いてしまった
自分の時は男子は技術で棚(とか)を作ったが、女子は家庭科で料理や裁縫と授業が分かれてた
ジェンダーを考えると当然だが、今は男女一緒に授業をしてみんな棚を工作してるんだろうか?
もうCMを見て商品を買うって事自体がないしなー。
そのうちTVCMなんか流すのはサラ金と朝鮮玉入れだけになるんじゃないか?
>>477 昭和の頃も美術で簡単な棚作ったりしたが
かねてつは故中島らも氏が
「啓蒙かまぼこ新聞」を手がけていたので
そういう連中には人気があったらしい。
鯨肉って、半解凍のを生姜醤油で父親が食べてたな
子供はそれを焼いて食べた。赤身の肉でおいしかった
九州の友人が脂身、さらし鯨かな?持ってきて驚いたことがある
北海道だったけど、ベーコンは食べたけど、白いのはなかったな
>>482 半解凍の鯨ブロック、食べてた。
うちの父はわさび醤油で食べてたが。
給食のクジラ竜田揚げは、鯨肉とレバーが半々くらいの割合で
鯨肉のほうが美味しいんだが、見た目では全く区別がつかない代物。
運悪くほとんどレバーだった時は涙目w
>>438 肝油はクジラじゃないよ。魚類から作られる
>>477 昭和40年生まれの女子だけど棚作ったよ。
何の授業だったか忘れたけど技術だったかもしれない。
設計図から自分で書いた。
>>477 自分もS40年代生まれだけど、中学時代に女子が技術やってたよ。
椅子とかお盆作ってた。
毎年開幕前に発売されてたプロ野球選手選手名鑑に私宅住所が掲載されていたこと
>>477 S41生まれ。
基本的にずっと男女別だったけど3年の後半だけいっしょで、
男子が調理実習したり、女子が本棚作ったりもしたよ。
>>487 子供の名前と年齢も載ってて、今にして思えば誘拐事件がよく多発しなかったなと。
今手元に無いけど確か2004年の選手名鑑まで子供の名前と年齢が載ってた
S47生まれ。
中一の1学期のみ男子が家庭科で女子が技術だった。
うちの家は専業主婦の母と、祖母と、姉が二人いたので料理なんて全くした事が無かったので
きゅうりの輪切りのテストとかあったけど、全くダメだった。
技術は3年卒業するまで10段階で10しか取ってないので、今の時代の中学生じゃ無くて良かったと思う。
受験とか、学校に実際に行って掲示板に貼り出されるのを必死になって受験票と
見比べて悲喜こもごもと言うのが普通だったな。
今は受験番号がネット上で発表されるのが普通なんだな。
Googleの急上昇ワードに大学名が並んでたのを見て知った昭和脳な俺w
492 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/08(月) 14:51:08 ID:di2khA+y
>>473 え、昭和の頃ってみんなスッチーって言ってなかった?
>>463 うちもそんな感じだった。
大体、シャワーが無かった。
ケーキって何時から生クリームになったんだろう?
昔はバタークリームが主流で、上に乗ってる物もフルーツの代わりに
毒々しい色のドレンチェリーだった。
子供の頃はケーキは不味い物だと思って嫌いだったが
ある時を境に生クリームが主流になって美味しくなった。
でも今思うと、バタークリームのバターは本物のバターじゃ無かった気がする。
掃除してたら昭和38年発行の『家の光』(農家向け雑誌)が出てきて、吉永小百合の記事に
当時の住所まで載っていてびっくりした
>>494 本物のバターじゃなかったみたいだね。検索するとそういう話がたくさん出てくる。
私はあの昔のバタークリームが「嫌い」ではないんだけど「苦手」で、たくさん食べられなかった。
友達の誕生会で出てくるのはほとんどバタークリームのケーキだったから、一個全部食べられなくて
残すのが苦痛だったな。
昔はスポンジもパッサパサだったから、それもあるかもしれない。
ここ数年でバタークリームのケーキが復刻してきてるんだけど、現代のバタークリームは
昔のと違って美味しいらしいよ。好みにもよるけど。
ところで当時サバランが大好きだったんだけど、今ほとんど見かけないね。
ショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブランと並ぶ昔の定番だったと思うのだが・・・
旦那は「そんなの知らない」とか言ってるし。
酒を含ませてあるアレかなサバランって
ケーキを買ってきた場合、あれは常に親が食べるものだったな
そういえば昔(S50年代)の少年雑誌の柱に
「○○先生にファンレターを出そう!」みたいな言葉があって
有名先生の住所がそのまま記載されていたっけ。
田舎暮らしだったからいつか遊びに行きたいと思ってた子供時代。
実際押しかけた人もいたんだろうなー
>>498 雑誌とかの文通コーナーにも個人の実住所がそのまんま掲載されていたしな
>>496 バタークリームではなく、ショートニング(無塩マーガリン)クリーム。
ヨーグルは、これに酸味を加えた物。
コロン、クリームサンドビスケットのクリームもショートニングクリーム。
…ついでに、出始めの頃の大量生産生クリームケーキも、乳製品ではなく、
植物油脂が原料。
近年、健康被害が報告されてるマーガリンとかのトランス脂肪酸が問題になったのかな
うちのだんな(4度目の年男)が子どもの頃読んでた「まんが入門」系の本に、
主要漫画家の住所録のページがあった
既に松本零士と牧美也子は夫婦だったんだなあというのが分かったりなんかしてなw
>>502 俺が持ってた(一度古本屋に売ろうとしたら買い取ってくれなかったが)
『マンガの描き方』って本にも住所が載っていた。
練馬区とかが多かった希ガス
>488
実際、今に比べれば多発してたけどな、投じに比べればここ数年は「営利誘拐」って殆ど起らなくなってるだろ?
じゃなくて、そういう名鑑を悪用した誘拐がよく起きなかったな、ってことでしょ。
トニー谷の子ども誘拐事件
吉展ちゃん事件
高島忠夫第一子殺人事件犯人は当時10代女中さん
>>503 チビだった頃、手作りケーキをごちそうになったが、ド田舎で生クリームが入手できなかったのでバタークリーム。
…おいしゅうございましたよ。
その後食べた市販ケーキが、どれもこれもまずくてまずくて。
コロンやビスケット、ヨーグル程度の量のショートニングクリームならともかく、ケーキにたっぷりってのは勘弁してほしい。
コロンやヨーグル懐かしい!
いや、まだあるんだけどやっぱりあれには昭和臭がするよねw特にヨーグル。
ヨーグルを普通のヨーグルトだと思って食べたときのガッカリ感といったら…
あれは何味と表現していいかわかんないよね…w
最近駄菓子屋で買ってみて食ったら、
あの少量なのに胸やけしたわ>ヨーグル
>>512 そりゃあれだけの量のマーガリンをなめるに等しい行為ですもん。
大人の疲れた胃にはもたれるわ。
女性がセクハラを受けて年配の人に相談しても、
「触られてるうちが花」とか言われてまともに取り合って貰えなかった。
これ、今思うとひどいなと思う。
それが今じゃ逆に「セクハラになるから」と自分から女の子に
全くアプローチしない若い男の子達が急増中。
むしろセクハラと嫌がられる事でしかアピールできないようなのはいくつであろうが嫌われる
朝日新聞に連載されてたフジ三太郎も
今じゃ掲載できない回が珍しくなかったよな
>>456 あの頃からアトピーはあった。
自分がそうだったから。
ただ、そう言う病名は一般的に認識されていなかったから
何でもかんでも天花粉と赤チンで治療w
520 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/10(水) 20:02:07 ID:thuqfzyA
ママンの故郷では、アトピーの事を雁傘と呼んでいた。
>>515 漫画やドラマ、コントでも、
若い女性職員の尻をおっさんがペロンと触って、
「キャ!」
「へへへ」
という情景が必ずあった。
時々やってみたくなるw
今なら会社クビ&タイーホだなw
昔の漫画やドラマじゃ、痴漢もギャグとして扱われてたな。
もちろん冤罪の方も同様で
登場人物が車内で痴漢に間違われて
「いやいやいや!誤解だよ〜」
「ちょっとこっちに来なさい!」
って感じでしょっ引かれて行っても
次の場面では「いや〜ヒドイ目にあったよ〜」みたいな感じで
普通に出社してた。
冤罪事件が映画のテーマにまでなる今とは隔世の差だな
亀だけど。
流通が良くなってから生クリームが復旧したみたいだね。こちらはS60前後
くらいから生とバター、チョコがあった。今は特注でないとケーキ屋さんに
ないみたいだね。
赤チンって無くなったね。
家庭用置き薬の箱には必ずあって、しょっちゅう使ってたのに。
マーキュロクロム(赤チン)は水銀化合物で、
水銀中毒の危険性が指摘されてからは使用は減ったね。
赤チンが消えたのも、ちょうど昭和と平成の境目あたりじゃなかったっけ
オキシドールで消毒して赤チン塗ってたけどどんな効能があったんだろう?
輸入物でもOKなら、今でも赤チン売ってるよ
(日本では1973年に製造中止)
赤チン塗っても治らない
黒チンぬったら毛が生えた
…今ならその黒チンとやらを、
10万円で買い取るぞ…ゴクリ
頭髪には逆効果だぞ
自分が4、5才の時に幼稚園にあったのを覚えてる
たまに近所でも膝とかに塗ってる男の子みた
80年代前半の話だけど、70年代に国内製造中止なら在庫かなんかを売ってたのか、買い置き
かなんかだろうか
そういや昔は薬の消費期限なんかなかったから十年以上前のを普通に売ってたり飲んでた
んだろうか・・・
駄菓子なんかでもそうだけど、今より物の劣化や腐敗に対する観念が大雑把だったように思える
>>533 wikipediaのマーキュロクロム液の項目
>1990年頃にアメリカのFDAによって、マーキュロクロム液の使用による水銀中毒の危険性が指摘され、
>販売の中止が呼びかけられたことにより、アメリカはもとより、全世界で使用を控える動きが加速した。
自分は79年生まれなんだけど、ちょうど10歳頃に「赤チンは体に悪い」と言われて消えていった覚えがあるから
これに合致する
抗生物質のクロマイが普通の市販薬だった。
風邪なんか一発で直ったな。
>>536 それ言ってしまうと昭和25年までヒロポンも普通の市販薬だった。
疲労なんか一発で治った、らしいが40年生まれなので知らない。
>>937 ヒロポンは現在も日本薬局方に薬価が収載されてて、『処方薬』扱い
ケンエーシロチンもよろしく。
>>537 大正生まれのおじさんは、打った事あると言ってたな
波平も漫画版では打ってたらしい
>>538 大遠投はともかくw
手元の便覧を引いてみると、たしかに載ってるわ。
いや、覚醒剤が載ってるのは不思議でもなんでもないんだが、
ヒロポンって名前で残ってるとは思わなかった。
なんか去年くらいに、ぶらり途中下車の旅で、
日本で唯一赤チン作ってる工場、ってのが紹介されてたぞ、確か。
オキシドールによる消毒も廃れたんじゃないかな。
つけると白い泡がしゅわしゅわ、激烈にしみたけど、あのしゅわしゅわが「殺菌してる!」って感じで快感だったり。
小学校の保健室には赤チンとオキシドールくらいしかなかったしな。
黄色いのもなかったっけ
白くて丸い綿につけて傷口に塗る臭いやつ
>>545 あった、消毒&化膿止めだったかな。
確かリバノール液?とかいう名前だったような気がする。
小学生の頃、あれを傷口に塗られると、いかにも
「治療してます」って感じで嬉しかったな。
赤チンって使った事が無い
鍵っ子(死後)だったので
怪我したときは自分で対処できるバンソコウだったな。
タバコのパッケージ柄の円筒状のゴミ箱
>>543 オキシドールは滅茶苦茶浸みるw
あれですっかりトラウマになり、そのあとマキロン使う時もこわごわだった。
医療用とは言え、『覚せい剤』を何の用途に使うんだ?と思ったら
ナルコレプシーの治療に、ごく限定的に使われているんだとか
(濫用が問題になったリタリンも組成が覚せい剤に酷似)
>>548 しみるけど、しばらくしてシュワーッと吹き上がる泡が何とも好きだったw
しみるって事は自分の細胞を傷つけてるって事なので、
治療法としては間違ってるんだと。
詳しくは「新しい創傷治療」でぐぐれ。
>>548 子供の頃怪我すると、怪我した痛みよりも傷口にオキシドール塗ってしみる辛さが思いやられて憂鬱だったw
オキシドール苦手だった人けっこう居るなw
>>550 ばんそうこうで出てるやつでしょ?
1週間ぐらい貼りっぱなしの。
湿潤療法だぬ
ヨーチンも最近見かけない気が・・・
>>548 >タバコのパッケージ柄の円筒状のゴミ箱
あったあった! マイルドセブン柄のゴミ箱使ってた。
今作るとやっぱり下に「肺がんの可能性がうんぬん」って入れないといけないんだろうかw
タバコのTV-CMも現在は全面禁止なんだけど、昔は20時台に流されていたよな。
懐かしいアニメ漫画、特撮とかTV番組とか芸能人が派手なCMで出てきたと思ったら
大概はパチ台になったってやつだもんな…
地方ローカル局だと台だけじゃなくパチ屋のCMも凄いよね。
タバコのCMの方がはるかに瀟洒というか、上品だったよな…
子供のヒーローであるはずの8マンが
「たばこ」型冷却剤吸ってたし。
昭和の時代劇では、罪人が首を落とされるシーンで
身なりの汚い取り押さえる役がいるが、
今だといないか、普通の役人(捕り物するときみたいな格好)になってるな。
>>558 中村プロの映画『祇園祭』には「河原者」と云うセリフが何度か出て来るが今ならアウトだね。
560 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/12(金) 16:58:05 ID:Xxlu+ede
ハエ取りリボンってまだ売られてるんだね。
>>560 ネズミ取りするのにいいらしいぞ
時々猫が取れるらしいけどなw
古舘伊知郎が夜のヒットスタジオの生放送中、芳村真理に
「芳村さんはあまり匂いしませんね。匂いもアガっちゃったんですか?」と
セクハラ発言していた。
564 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/12(金) 19:07:22 ID:Xxlu+ede
お菓子は計り売りだった。英字ビスケットとか五家宝が定番お菓子だったな。本厚木駅近くで昔ながらのお菓子屋さんを見た時はビックリした。
>561
西根さんちのミケ乙w
デパート大食堂では満席時、
(今のように入り口で名前記入して呼ばれるのを待つ、ではなく)
食事、終わりそうな家族の席を見極めて
無言のプレッシャーかけながらテーブル周囲で待機。
そういえばサザエさんとマスオさんのお見合いって
デパートの大衆食堂でやったんだよな。
混んでて席がなくて別々の席に合い席してたら、仲人だかお見合いババァだかが
「この人達お見合いなのよ」とか言って、周りの人が席変わってくれたり。
マスオはスーツで正装、サザエは振袖だった。
デパートの食堂で見合いってのは昭和20年代には普通だったのかね。
あと、知り合いの見合いをサザエさん宅でやってて、カツオやワカメが覗いてたとかあったな。
一般の家庭で、しかも小さい子のいる家で見合いって凄いなーと思った。
デパートってちょっと特別な場所だったよね。
休日に家族連れで「よそゆき」の服を着て行くものだった。
おもちゃ売り場が一番の楽しみで、大食堂と屋上遊園地が定番。
デパートに行くこと時代がレジャーだった時代だからか
何を買ったとかいうことはあんまりよく覚えてないんだよなぁ…。
>>567 見合い結婚が当たり前だった時代は別に恥ずかしがる事でもなんでもないのかと
今でも別に見合いの場を子供が見てても恥ずかしいと思うのはせいぜい当人くらいでは
自分が知ってるデパート大食堂は混んでたら入り口付近と外で待たされてたよ
一回だけ相席した記憶がある
百貨店って言えば屋上遊園地も見なくなったよな
懐かしいデパート屋上遊園地
そういやデパートは屋上で遊んで食事して帰るってのしか覚えてないや
昭和50年代、デパートとか幼稚園のトイレなんかの手洗いの側にピンク色の液体が洗面器に
溜めて置かれてた
独特の凄い臭いがあったから消毒液だと思うけど、何時の間にか見なくなった
572 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/12(金) 20:31:26 ID:xYu9dJOl
> 休日に家族連れで「よそゆき」の服を着て行くものだった。
今は違うの?
西友ストアーは西武百貨店の子会社で包装紙のデザインなんか同じだった
今は資本関係すらなくなったけど
子供のころ始めて西友ストアーに行ったら屋上遊園地の劣化コピーみたいな遊び場があった
10円で乗る乗り物とか、クレーンゲーム(UFOキャッチャーの前身?)とか、ロールペーパーが回ってその上を車を走らす(左右に動かすだけなんだが)ドライブゲームとか
今思うと笑っちゃうが当時田舎から転校してきたばかりの俺にはパラダイスに思えたw
>>555 同じ柄の使ってたw
兄弟げんかの度にボッコボコになってたなぁ。
575 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/12(金) 21:18:23 ID:BdR6+Ajt
>>572 今はジーパンでも行けるでしょ?
昭和30年代は、デパートや遊園地行くにも母は美容院で髪をセット&着物、
子供はワンピにエナメルの靴はいたりした。(うちが特殊だったかも?)
男の子なら、よそ行き着はブレザーに蝶ネクタイのイメージだな
女の子なら別珍のワンピースにお帽子。
>>577もそうだけど、七五三スタイルだよな。
>>576 >昭和30年代は、デパートや遊園地行くにも母は美容院で髪をセット&着物
俺の場合、昭和40年代後半だったけど、まさかそこまではしなかったな。
ただ、普段着で行くようなところではなかった。
普段着で行くと、恥ずかしい思いをするような場所ではあった。
ちなみにデパートのことね。
遊園地は、普段着そのままで行ったよ。
昔は「デパート」という場所が今よりずっと高ランクの場所だったんだよな。
中で働く職員にしても、昭和30年代ぐらいまでは
「容姿端麗で成績優秀な女の子が働く職場」という感覚で、花形職だったらしい。
そういやノリスケさんの奥さんのタイコさんも、デパートの売り子さんだったよね。
今だったら結婚市場において別段売りになるような職業ではないが、
当時はそれなりのステータス職だったと。
銀行窓口なんかも、今とは比べ物にならない「女のステータス職」だった。
セクハラなどという言葉が無かった時代のお話でした。
>>554 赤チン塗った後、ヨーチン塗ると傷口が広がるから、
一緒に塗ってはいけないと誰かに言われたのは覚えている。
男の子でもタイツ履いていたよな。
幼稚園の頃、冬でもなぜか半ズボンで、毛糸のタイツ履かされてたなぁ。
子供心にもカッコ悪くて恥ずかしかったよ(´・ω・`)
今なら「接客業(笑)」とか言われそうだな。
昔(昭和40年代半ば頃)は、小学校入学ぐらいまでの男の子は、
冬でも半ズボンを履くのが正しいという認識があったと思う。
正確には「サスペンダー付き半ズボン(しばしば皮ズボン)+ごわごわした毛糸タイツ」だったよ。
>>587 うん、髪は何故か、散髪屋行くと有無を
言わさず、眉毛2cm上で一直線の
坊ちゃん刈りだったな。
半ズボンなんで、自然とひざ擦りむく事
多くて、赤チンとかの出番になった訳だ。
半ズボンが今じゃもう絶滅寸前らしいというネットニュースを前に見たなあ
みんなハーフパンツはいてるのか?
なぜは半ズボンをバミューダと呼んだ時期があったな・・・
592 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/13(土) 10:37:07 ID:47BcJFGN
半ズボン(笑
今はガキんちょでも親がブランド物で固めている時代だぜ
昔は次男三男or二女三女は基本的に上の兄姉のお下がりで
おニューの服なんて滅多に買って貰えなかったなあ
>>594 少子化で、一点豪華化したからな
昔の原作漫画版サザエさん読んでたら
ワカメがカツオに「これ、なんて読むの?」って宿題の漢字の読みを尋ね
カツオが「それ覚えなくてもいい」って言ったんだけど、
その漢字が『従兄弟』だったというオチ。
長谷川町子氏は大少子化時代を感づいていたのかも知れないね
>>594 両親や叔父叔母は、兄弟で差別しなかったけど、
昔(昭和40年代)の祖父・祖母世代って、自分たちがそれで育ったから、
孫達にも跡継ぎである長男とそれ以外の兄弟では区別・差別が当然といった感じだった。
例えば、長男の俺には5千円お年玉くれても弟には3000円とか。
俺に買ってくれたランドセルは牛革の最高級品なのに、弟の時はクラリーノだったりした。
俺は長男だから良かったけど、弟は子供心にも不満だったろうな(´・ω・`)
>>595 昭和40年代に入ってからの作品だったか、同じくサザエさんで
遊園地が大入り大盛況でそのことを従業員が喜んでたら経営者が
「今はいいけど、将来子どもの数が減るんだぞ、その時はどうするんだ」
と頭を抱えていた、というのがあった。
それから40年後の現代、本当に少子化の影響で子ども産業は軒並み大打撃。
生涯独身で夫も子もいなかった長谷川町子さんが見事に少子化を予言して的中させたというのがな。
>>596 年齢に応じた金銭感覚が身に付いている上の子が多めにお金をもらえるのは当然だと思うな。
金銭感覚がルーズで、与えられた分を全てメダルゲームとかで浪費する弟が「男の子だから1000円」
で、金銭感覚がきちっとしてて貯金もできる姉が「女の子だから半分の500円」とかだったら大問題
だけど。
「バミューダ」は普通の半ズボンじゃなくて、膝くらいまでの長さでブカブカの奴だったはず
>>599 うん、むしろバミューダはハーフパンツの方に近かったと思う。
バミューダというと、小中学校の水泳の時期に渡されるプリントに「バミューダパンツ、ビキニの着用は禁止」と書いてあったな。
学校指定のスク水&スク海パンしか許可されてなかったので、ほとんどの生徒が そんなやついねーよ! と心の中で突っ込みをいれていたであろう。
オリンピックの開会式でバミューダ諸島の選手はたとえ冬季オリンピックであってもバミューダパンツで入場して来るね。
602 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/13(土) 18:31:53 ID:vOEWupgA
半ズボンは英国陸軍の軍服を参考にしたもの。
ジーンズの出始めの頃の話して
604 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/13(土) 20:03:41 ID:vOEWupgA
白州次郎が日本で最初にジーンズをはいたとされてるが戦前の話なので私には語れないな。
バブルの頃、5万とか10万円の食事をおごってもらった
勿論彼氏じゃない男から
アッシーにメッシーに男を使い分けていたよ
>>598 いや、まさにそういう感じだったと思うよ、いわゆる長男教みたいなのって。
そのかわり、昔ならよほどのことがない限り長男が家を背負い親を看取り、兄弟が困れば面倒を見・・・ってしたはずで。
>>607 ちなみに、お姉ちゃんの倍もらえた弟は、浪費癖で無能なくせに他人に威張り散らす三文安になりましたとさ。
でめたしでめたし。
そういう人は表向き「ネタだよ」としているが、
東原のデスブログを本気でとらえているであろう人が結構いるし、
すぐ「呪われている」だのなんだの言う人も多いことから、
昭和といえどかなり末期になるまでは、非科学的理由からくる差別や偏見も
もっとあからさまに・当然のごとく存在してたんだろうな。
>>608 分相応に甘やかされるとそんな風になるよね>三文安
分不相応になら分かるけど、分相応で何が問題なのかね
いまどき三文安なんて言葉知ってる人はかなり少ないんじゃ・・・
>>612 …このスレに来るのは、昭和生まれの人ばかりですから。
三文安が分からなくても、浪費癖で無能なくせに他人に威張り散らす性格が分相応な甘やかしに基づくものだという考えには賛同しかねる
俺は浪費癖はないがお祖母ちゃんによくお小遣いもらってた、母に内緒で。
そのかわりコーヒー淹れてやったりチャーハンややきそばを
作ってやった。洗剤買ってきてやったり。
耳が遠いから筆談が多かった。楽しかった。
91まで生きたけど100まで生きてほしかった。
死んだ時自室に籠もって泣いたよ。天国とメールが出来たらなあ、と思った。
そんなお祖母ちゃん、一人でいいから欲しかったな。
家は孫を可愛がらないジジババばかりで、うらやましい。
その分、友達の家のお祖母ちゃんに可愛がってもらった。
チリ紙に包んだ飴玉はいやだったけど、水で洗ってたべたな。
>>615 男の子なのに料理作ったり身の周りの世話したり、
なかなか出来ることじゃないよ。
お婆さんもきっと喜んでたろうなぁ。
>>616 >チリ紙に包んだ飴玉はいやだったけど、水で洗ってたべたな。
ポケットに入れたまま忘れて溶けちゃったりなw
>>615 ばあちゃんに小づかいもらう見返りをちゃんと出来る子はいい子なんだよ。
してもらって当たり前だと思ってるのはいかん。
>>616 ちゃいなまーぶる、こんぺいとう、ゼリービーンズ。
…なぜ飴菓子なのに個別包装じゃないんだろう。
べったべったべったべった。
あと、黒飴とカンロ飴、角切りでザラメをまぶしたゼリーも「お年寄りがくれるお菓子」
イメージ。
>角切りでザラメをまぶしたゼリー
懐かしいwwみすず飴とかいう名前で売ってなかったかな。
うちのばーちゃんは妹だけ可愛がってたな。
目の前でお菓子やお小遣いを妹にだけあげて
「お前は嫌いだからやらない」と言われてた。
あれは寂しかったなぁ。
子供心に「せめて自分が見てない所でやってくれ」と思った。
肩をもんだり代わりに買い物したりクリスマスや誕生日プレゼントをあげたり
一生懸命色々しても、絶対笑顔も見せない。まともに口もきかないばばあだった。
理由を聞かれると「理由なんかない。ただ嫌いなんだ」と本人の目の前で言う。
昔はそういう年寄りも多かった。
甘やかされた妹は、まあだいたいご想像の通り。
うちの曾祖父さんも一緒に住んでた自分と
たまに来る親戚の子供達を露骨に差別してたな。
一人だけお菓子や小遣い貰えなかったり、
皆で一緒に寝るぞ〜!って時に一人だけ追い出されたり。
多分、自分が2歳ぐらいの時に
大した意味もなく「馬鹿」って言ったのが発端だったみたい。
小学校に上がるまでは一方的にやられてたけど、
小学生になったら、打たれ強くなった&知恵がついてきたんで、
対抗出来るようになり、次第にトム&ジェリーみたいな関係になって、
自分が小6になった晩年はすっかり仲良しになってたw
死ぬ直前の姿は見られたくなかったのか、
臨終前に病院へお見舞いに行ったら
「お前の顔なんか見たくないから来るな!」って言われたけど、
昔と同じ言葉なのに全く違う意味に聞こえて変な感じだった。
昔のほうがあたたかかった、みたいなノスタルジーが当然のようになっているが、
あらゆる面でガサツで殺伐としていたように思う。
>>623 うん、昔はつらい事や不条理な目にあっても
「それが当たり前」みたいな空気があって自分で諦めてたな。
今、自分に一億円の貯金が無いのは当たり前みたいな感じ。
それが
今はあの人に一億貯金があるなら自分も一億持てるはず、
皆が楽に幸せになれる筈、そうじゃないのは社会が悪いって不満が一杯な気がする。
自分としては昔より今の方がずっと親切で暮らしやすい社会だと思う。
どう考えたって昭和の方がモラルが低くて物騒でしかも不潔だった。
なのにどうしてかあの頃に幻想持ってる人が多いんだよね。
思い出は美化されるからなんだろうけど。
>>625 仁義なき戦い時代の広島なんぞ、現代だったら連日連夜ワイドショーで延々報道事件のてんこ盛りじゃわい。
子供が虐待されたり犯罪にあっても、うやむやになってた気がする
628 :
625:2010/03/15(月) 20:03:57 ID:mRGlZNFA
>>626 80年代の山口組の抗争の頃は毎朝スポーツ新聞に
「今日の(抗争による)死亡者○○名」とカウントされてたって聞いたことがある。
交番前にある交通事故死者数のパネルみたいな感じで。
>>627 子供の数が多かった分、一人当たりの価値が軽んじられてたというか…
男女の価値が対等になってきたのも、少子化、一人息子一人娘になったことが大きいと思う。
・木に吊るして長時間放置
>>627 ・夏場でも物置に長時間監禁
・お灸や線香で根性焼き
・山奥に置き去り
・食事を与えない
etc...
これら今だと100%虐待で逮捕されるような事でも、昔は躾としてまかり通ってて
これによって子供が死亡しても「躾の最中に起こった不幸な事故」として
処理されてたな。
>>620 みすず飴でググって納得した。
まったく同じお菓子というわけじゃないけど、
こういうゼリーにザラメまぶした菓子は、やっぱりばーちゃんがくれる物だった。
子供心にゼリーキタ━(゚∀゚)━!!と思って口にすると、
線香食ってるような妙な味がしてがっかりしたな。
>>622 トムジェリwww
>>625 これは結構同意。
今の方が暮らしの方が快適だし、全体に洗練されてる。
昭和の高度成長時代は人手不足もあって、客より威張る店員&駅員なんて普通だった。
もし生まれる時代を選べるなら、昭和より平成。
ただ、昭和の方がが良かったと思う事もある。
大人でも年寄りでもわがままでダメダメなのが普通にたくさんいて、
本音と建前の差があんまりなかったおかげで、
子供も小さいうちから世の中の不条理を知ってしまい、
「一人の命が地球より大切な存在」
「信じて努力すれば、どんな望みもいつか叶う」
なんて幻想を持たずに済んだ。
>>631 「ハイミックスゼリー」じゃない?
おばーちゃんによく貰ったよ
ガキになにしたってわかんねーよwな大人は普通に多かった
今は今でその当時とはまた違う幼稚な大人が多いんで、どっちがいいとは言えない
昭和って半世紀以上続いてるから一口じゃ言えないが、とりあえず悲惨と馬車馬と奴隷のように
突っ走らされた時代とだけは言えると思う
古今東西歴史って、なんか良いことがあるとそこばかりクローズアップされるがそんなもん一握り
か富裕層や特権階級からの目線だよな
>>633 ググったらそっちのほうが近いかも。
・色が鮮やか・ボソボソ なのは覚えてる…
自分は2歳くらいからの記憶がかなり鮮明にあって
その時、子供の自分が何を考えどう感じてたかもハッキリ覚えてたから
ちょっと大きくなってから「大人は気にしないかもしれないけど、子供にだって感情はある」と
反抗したり昔の事を言うと、すごく気持ち悪がられた。
子供がそんな大人と同じような思考をしてるわけないし、そんなのいちいち覚えてるわけない。
子供なんて大人の言う事聞いてればいいんだ。
もちろん叩かれても蹴られても無視や虐待まがいの事をされても
子供はすぐに全部忘れてケロっと遊んでると思ってた大人が多かった。
自分はそのせいで親や親戚から「この子は多分白痴だから、育てるのに苦労するよ」と
目の前でよく罵られた。キチ○イと言われた事もある。子供時代の事を覚えてるってだけで。
昭和は大好きだが、昭和の方がいいとか優しかった、いい時代だったとは
手放しには言えないな。子供は人間に非ずだったし。
みんなと逆だ。
平成になってろくなことないから昭和の方がいいわ。
出来れば昭和に戻りたい。心のふるさとだから。
平成には永久に戻りたくない。
そういって姿を消した637のその後を知る者は誰もいない
>>636 俺も2歳ぐらいの頃からの記憶が結構ハッキリしてるけど、
昔々の、その時その時の出来事とかを詳細に話すと、
周囲には嫌がられることが多いな。
その時やっていたテレビ番組やイベントごとなんかに生活を
リンクさせて記憶しているもんだから年号まで結構ハッキリ言える。
歴史の教科書よろしく時系列に話したりなんかすると気持ち悪がられるよ。
しょーがねぇよなぁ。覚えてるものは覚えてるんだから。
640 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/16(火) 06:51:46 ID:c9/Wgurn
私は子供のころに受けた不条理、理不尽な扱いを否定的には捉えたくはないな。例えば私は左利きで生まれたが保守的だった親に強引に矯正された。
毎日泣きながら右手で箸を使って食事した。
でも、今はそれでよかったと思ってる。
>>640 躾と虐待の違いくらい解ろうや…
子供が嫌がろうがそれが将来的に社会生活において必要なものは見につけさせる
反対に大人や個人が勝手な都合や感情で怒鳴ったり暴行したりは明らかに理不尽だろ
大きくなって考えれば、まじ犯罪者とかDQNの大人が回りに多い環境で育った
何だか解らないが小突かれたり(単純にそいつの機嫌が悪いとかで)性的虐待も受けてた
つねられたりしてて、この人なんで会う度こんなことするんだろう、と思ったのを覚えてるの
が3,4才の頃
さらにこの頃別の大人が側で「そろそろ物分かる年頃なんだからやめなよ」と言ってたのを
覚えてる
上でも誰か言ってたがガキなんか何したってすぐ忘れる、と思い込んでる証拠を言ったよな
自分も朧に2、3才頃からの記憶があって、その当時された虐待は覚えてるしそいつらに復讐
できるなら今でもしたい
>>619 「ちゃいなまーぶる」って、色がかわる飴玉だよね。母親は「かわり玉」
と言ってた。手を洗って、舐めながら色がかわるのを確認してたな。
小さい頃の記憶がはっきり残ってる人がいてうれしい。
友達と話してると、気味悪がられる。自分が違うからと言って、そこまで
言うなよと思うけど、覚えていることで苦しむ事もあるからな。
母親は、親の虐待がつらくて小学生の時、警察にいったそうだ。
傷跡もみせたが、相手にされなかったと言ってた。
もちろん、親戚も近所も見ないふりの時代で、悔しかったと言ってた。
>>637 自分も。ここでは少数派かもしれないけど。
今現在は大人だからいいけど、今この時代に子どもだったら耐えられない。
ぼーっと過ごすことは許されないし、一人で道草しながら帰るとかもってのほかだし、
ありとあらゆるものが物欲をかきたててきりがないし・・・
子どもたちがどれだけ神経を尖らせて生きてるかを思うといたたまれないものがある。
スポーツ以外では左利きがまるで悪魔みたいに扱われていた
>>641 虐待は昭和に限らず平成の今もあるけどね。
躾とは大人になってから理解できるモノで、子供からすれば゛叱られる゛恐怖で言うことを聞かざるを選ないわけで゛イジメ゛と変わらない。
>>644 日本は作法に厳しい文化があるからね。
私の左手箸の矯正の際に父親が言ったのは「左手で刀を抜くお侍さんはいない」だった。
侍にも左利きで生まれた人は居たろうに矯正されたんでしょうね。
江戸時代の武士は刀を抜くことなどほとんどなかったらしいぞ。
最初っからそーいうもんだ、
という事で練習すればあまり違和感なく習得できるな。
剣道やってたけど最初から普通に左に下げてた。
ゴルフの練習するのも右利き用クラブをお古でもらって、
それで練習しているし。
ただ、物心つくあたりから使っている箸なんじゃは矯正できなかったな
>647
抜く抜かないの問題じゃない。
歩いてて刀の鞘同士が当たっただけで子r試合しなきゃいかん事になったりするんだから。
左ききを放置して体の右側に刀さすなんて絶対にあり得ない。
>>644 うちは弟が左利きで強制対象だった。
鋏と包丁は大人になっても両利き。
兄貴は、右利きなのに携帯電話だけ左で使う。
>>649 まるで左利きが悪みたいな言い方だが、
刀は「そういうことになっている」ものなので、
あまり利き腕は関係ないよ。
左利きは専用スレが有りそうだが
654 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/16(火) 15:55:24 ID:c9/Wgurn
左利きが悪いわけじゃないよ。
私は今も基本的には左利きです。
ただ、箸を持つのを右手に直されただけ。食事作法は作法の基本ですからね。
日本に限らず欧米でもナイフは右手、フォークは左手と、インドは食べ物を掴むのは右手と決まっています。
子供は今以上に「子供らしさ」を要求され、ませた子、空気を読みすぎる子、
子どもが喜びそうなものに喜ばない子は憎悪の対象だった。
夜も「9時以降は大人の時間!」と、今以上に早寝させてた気がする。
>>655 そんな感じだったね。
ちょっと大人びたところがあると「子供の癖に!」とか言われて怒られる。
>>655 何才のころ?小学生だとしたら9時はむしろ遅いのでは?
>>657 俺も小学生の時は9時までに寝かしつけられていたな。
で、フト起きた時に、
日曜洋画劇場のEDで、
ちょっと不気味な感じの音楽を聴いた時に、
大人の時間の怖い音楽ってトラウマっぽくなったなw
夜ふと目が覚めたら、お父さんとお母さんがこっそりお菓子食べてたりしたw
「大人ってずるい!!」とか思ったよなー。
深夜まで子供が起きていても何も言わない親はDQNだと思う。
昭和平成関係なく。
そういや、昔は深夜ラジオとか中高生が聴いてたなあ。
今時は年寄りしか聴いてないんだろうか。
>>655 組み立てるおもちゃ、変形するおもちゃ、ゼンマイで動くおもちゃが大好きだった。
なのに、父親はこっちの好みを一切聞かずに抱き人形を買い与えて、「高い金を出してやったのに遊ばない!!」
と怒ってひっぱたいて遊ぶように強要した。
…変形するわけでも組み立てられるわけでもゼンマイで動くわけでもない寝かすと目を閉じるだけのがらくた、
誰が買ってくれって頼んだよバーヤバーヤ
つか、人形は嫌いなんだよ。
怪獣人形、ぬいぐるみ、自分で作ったフェルト人形は好きなので、「人形の何かが、根本的に嫌」なんだと思う。
昔は癇癪持ちの大人が多かったな。体罰も当たり前だった。
>>660 最近は深夜近くのファミレスでも子供連れてるのが多い気がする。
万国共通、時代を通してこれはおかしいと思う。
>>660 夜はすっかり寝静まっていた昭和の頃は、恐怖新聞には怖さというか「リアリティ」を感じたけど、
コンビニ24時間営業当り前、ド田舎の自分の地元でさえも国道沿いは夜も明るい現代じゃなあ…
>>660 民放は中高生も多い。
昭和天皇のご容態報道待機のどさくさにまぎれて深夜放送始めたNHKは
中高年中心。
>>660 そういえば、夜中に「ポートピア連続殺人事件」をやってた時の罪悪感はすごかったな。
光が漏れないようにテレビと自分を掛け布団で覆っちゃってさw
今の子はDSとかで自分の部屋でできるから、そんな苦労もないんだろう。
(つーかテレビ自体が自室にあったりするか)
幼稚園ぐらいのころか、早く寝かしつけれたが寝られず
親たちがくつろいでテレビ見ているところへ足音しないように
そーっと行って障子に穴開けて居間の様子を見たことがある。
それが10時ごろで起きてちゃいけない時間だった。
668 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/16(火) 20:49:47 ID:eb3JQ6J/
自室にテレビがあるってのすごいよな
家族4人で14インチのテレビにかじりついてたあの頃
兄弟姉妹のいる人は絶対チャンネル争いで喧嘩になったことあるはずw
テレビが「一家一台お茶の間に置くもの」から、「家族人数分各部屋にあるもの」になった。
家族みんなでテレビを見ることがなくなったから、いわゆるホームドラマが消えたよな
野球シーズンになると問答無用で親父の野球観戦用の機械と化したよな
巨人が負けたと不機嫌な父ちゃんも絶滅ですかね?
試合が終わったとたん、ふてくれて、ゾンザイにTV消して寝床直行な。
ペナント末期に勝てば子供にもビール飲ませたり。
>>671 あと、プロレス、キックボクシング、時代劇も。
野球も含めてのこの4つは、毎回同じことの繰り返しにしか見えなくて
その後も感心が沸かない。
それでも、「(お母さんの前で)毎日ボクらのためにガンバってくれてるお父さん」の手前、
空気読んでたのか、ビールお酌したり、表面ヅラだけは付き合ってたな。
キャッチボールも、親子のコミニュケーションなのに、なんでこんな単調なことするの
って感じだった。
暗くなるまで野球に明け暮れる大多数の同級生の気が知れなかった。
うちの親父は野球好きなんだが子供のころナイターを見た記憶が無い。
当時は毎日のようにゴールデンでアニメや特撮をやっていたが殆ど見ていたな。
チャンネル権は完全に俺が握っていたらしい。
ちゃぶだい返しをするほどの親父だったんだがな。
公衆トイレは一列に並んで開いた個室に入るのではなく、個室の扉ごとに列を作った。
>>672 うちの父ちゃんは巨人が負けても不貞寝するだけで平和だった
しかし巨人が勝つといつまでもスポーツニュースをはしごし続けるので
私はアンチ巨人になった
結論:団塊は即刻死ね
おニャン子の「セーラー服を脱がさないで」って女子高生のことを歌ってるんだが、
今の時代であの内容だと小学校高学年〜中学1,2年っていうほうがしっくりくる。
小学校の時、帰宅途中に女子と男子が口げんかして、負けた男子が傘で女子の顔を殴って傷をつけた。
家から出てきた男子の親の言い分が「女のくせに男にたてつくからだ、当然だ」
騒動を聞いて外へ出てきた周囲の親「女の子はケンカしたらダメだよ、男をたてなきゃ」
知らされた先生「(女子にむかって)こんどから気をつけて」
で終わってしまった。
>>675 どこに住んでます?
うち東京なんだけど、あなたの言ってるように一列に並んで開いた個室に入るのがデフォ。
でも田舎に行った時にそうやって並んでたら、抜かされて個室のまん前に並ばれた。
まだ全国に普及してないのかな〜と思ったもんで。
>>679 そこまで酷くはないけど、小学校5年生の時の担任は
「給食が終わったら、先生の机の上の食器を片づけて台拭きで掃除し、
散らかっているもの等きちんと揃えて整理整頓する(灰皿の掃除含む)」
という当番を女子のみに割り当てていた。
その当番の日は、昼休みの時間になっても当番終わってからでないと遊べない。
今だったら絶対問題になるだろうなぁ。
女子のみ、というのもアレだし
自分で散らかした文具類やタバコの灰を生徒に始末させるというのも・・・
かなり年寄りの先生ならまだわかるが、まだ30前後の若い教師だった。
平成目前の話。
高校の時の話なんだけど
ラグビー部部長だった国語教師が部員に缶ピース買いに行かせていて大問題になった。
むろん部長職は下ろされたんだけど
>>682 私は小学校の時、週2回は徒歩20分の国鉄駅まで駅弁買いに行かされてたよ。
今思うと授業受けられないし大問題だと思うけど
その時には「先生に用事を頼まれるのは優等生の証拠」と私もクラスの皆も思ってたw
うちの小学校の爺先生は熱が出たと女の子が言うと額に唇を当てる。
授業中、食後に教室でタバコ。でっかい給食用の缶が灰皿代わり。
戦時中米軍の捕虜となったが彼らの扱いは優しかったとたびたび言っていた。
>>679 その子、とんでもねえスケバンになってたりして。
686 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/17(水) 15:58:58 ID:WeTi8RPZ
春先から秋口にかけての女性はシュミーズが部屋着兼近隣外出着だった。
>>650 子供の頃、右利きの人は受話器は左で使いなさいって教えられた。
メモ取ったりするのに持ち替えなくても良いようにと言うことで。
携帯電話って受話器のような気がするから左手で操作してしまうな。
若い人は右手で操作してるな。受話器のような気がしないのだろう。
>>669 我が家にはTVが2台あったので
チャンネル争いとは無縁だった。
写真を見ると昭和47年ごろに2台目のTVが来たらしい。
690 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/17(水) 19:49:31 ID:0WOkcdeD
TVの後ろが秘密基地
スポーツ刈り
角刈り
刈り上げ坊ちゃん刈り
テクノカット
後ろ髪残し
チェツカーズカット
リーゼント剃り込み
パンチパーマ
五輪刈り
エナメル尖んがり靴
踵潰し履き
裏ボタン 隠しポケット
キュロット ポシェツト
物差し充て変体少女文字
ファンシーショツプ
そろばん塾
>>680 それは個々のマナーによるからどこの地域とは言えないのでは。
東京でも平気でドアの前に並んでしまう人、たまに居るじゃない。
地方から来たんだろうなぁって雰囲気のオバチャンとかさ。
あまり遠出しない人だと、
都心部に住んでいてもそこらへんが昔の常識のままだったりするね。
昭和50年生まれ。
私立中学を受験する子はクラス全員に発表しなければならなかった。
「今まで隠しててごめんなさい。私、私立受験します!」
といきなり叫んで泣き出した女子もいた。
落ちたらはずかしいから黙っててもいいじゃんって思ってた。
うちだけかもしれないけど、今の6年生もそうなの?
>>694 それは時代というよりも地方、または学校だけの習慣じゃないのかなあ。
櫻の園かw
>>694 地域差じゃないかなぁ。
宣言しなければならないというか、当人&親が自慢して周囲に知れ渡っていた。
で、なぜか公立の中学校に一緒に進学したわけですけどね…
自分の時は逆に隠させられたな
でも小学校に公立中学の制服の採寸が来た時にバレた
小学校に中学の採寸が来る習慣に驚いた
小学校5年の時、担任の教師と自分の父親と共に夜7時から9時ごろまで学校の
校舎に入ってプリントの仕事をした事がある。
クラスで配るプリントの印刷するためになぜか生徒だった自分まで呼び出し
をされ駆り出されて真っ暗な校舎の中、印刷室だけ明りをつけて異様な
雰囲気の中、印刷機から出た用紙の仕分けを手伝った。
普通PTAか教師だけでやりゃいいような?と思ったが子供だったんで黙っていた。
そういう手伝いをたまにやることになって担任教師がひいきされてると
クラスメートからいじめや非難を受けた。すごい理不尽だと思ったけど、
今もあるのかな。
連投ごめん。
付け加えておくけど、役などは何も引き受けてなかったし、お金も貰ってない。
ホントのボランティア。
>>694 わたしが小学生のときも私立に行く子が居たが、
その子の親が公立学校の教師だということに何かしらの違和感を当時感じていた。w
>>702 公立だと6年間「○○先生の息子(娘)」というレッテルを背負ってなきゃいけないから
それを回避するためじゃ?
それと、両親共先生だと、PTAや子供会関係の活動を避けるために私立を選ぶ事もけっこうある。
フルタイムで働いてるんだから、平日の会合なんか出られないし、
でも小学校の先生が出ないと人一倍陰口言われるし。
そういや自分が6年生の時に担任(女性)の子供が同じ小学校に入学してきたんだけど
授業参観の時にその子供が泣きながら乱入してきた事があった
近くにいるのに来てもらえないって一番寂しいんじゃないかな
そういや同じ中学の先生が近所に住んでいて、その人の子どもは幼馴染で、
2年のときだったかに担任になっちゃって、いろんな意味で途方に暮れたのを思い出した。
706 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/19(金) 16:48:57 ID:/Q3YFaZ7
尺貫法の中でも、年配者を中心に靴のサイズに「文」を使う人が多く、
昭和50年ごろの後楽園のスケート場の貸し靴コーナーにも、センチとともに
(○○文)と併記されていた。
707 :
680:2010/03/19(金) 21:50:05 ID:Ec0XCdfT
>>675 もう見てないかな?ちなみに東京です。
職場が表参道だったけど、駅のトイレは個室前に並んでいましたよ。
私が並んだところがなかなか開かなかったり・・・銀行ATMもそんな感じのところがありました。
東京じゃない地域なんだけど、今でもATMもトイレも真後ろに立たれて
すげー不気味だよん
>>708 うちも田舎だけどATMはかなり後ろにはっきりと線が引いてあって
「ここで待つ」と書いてある。
さすがに皆そこで待ってる。
どこもそんな風にはっきりしてると良いな。
昭和じゃなくて最近だけど東京駅で新幹線に乗る前に
トイレに行って小の方をフォーク並びしていたら、
後から入ってきた逆説の日本史を書いた作家が空いた小便所に
行ってしまった。
俺らを大のフォーク並びと思ったのか。
だけど小も空いた瞬間咄嗟に入れられたから注意し損なった。
昔は月収とか給料という言い方より、月給という言い方の方が多かった。
何でも月給月給言ってた。
悪者の一味の手下が姉御さん月給ください、なんてドラマのセリフがあった。
月賦
月極
月餅
月謝
ゲッツ!
('A`)ゲッ
月経
月食
月姫
722 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/23(火) 22:01:41 ID:/PXSaQr1
昭和の時代
スーパーやお店だと流行歌がBGMとして流れていた。
昨今は著作権料削減のため各店のオリジナルソングを流しているね。
皆が知っているヒット曲が無い。とよく言われるが
こう言うところの影響が大きいのだな。と思ったよ。
何やってもカスラック様が金を巻き上げるからね。
あー、そういえばそうだ。
最近の曲知らないなぁと思ってたらそういう理由もあるんだね。
カスラックは利権欲しさに自分の首締めてるんだなw
洗濯洗剤がアタッシュケースよりでかかった。
昭和って、今ほどペット=家族じゃなかったと思う。
何十年前の話がわからないけど、親は飼い犬をアクロンのようなもので
洗っていた、と言ってました。
理由は純毛100パーセントだから、だそうです。
おもわず目が点。
皮膚、皮膚があるから!と言ったらあ、と呆気にとられてましたが。
びっくりしたのは後日、親戚のところでもそうしていたとわかったこと。
とある漫画家が、子供のころレモン石けんで飼い犬を洗ったことがあると
書いてるのをみたことがありますが、おされ着洗い洗剤は衝撃的でした。
レモン石鹸に反応してしまったw
果物入れるネットみたいのに入れて水道に吊るしてあるんだよね。
>>725 昔の洗剤の箱が馬鹿デカかったのはその殆どが水和物だったことを消費者が知らなかったため
>>727 ミカン入れてる赤いネットに石鹸入れて水道の蛇口に吊るすのは良く見かけたね
>>722 そういや、最近バレンタインチョコ売り場で
おにゃんこクラブの「バレンタインデーキッス」が流れないなぁと思っていたら
そういうことか・・・
確か5〜6年前まではまだまだかかっていたので、
「なんぼなんでも古くなったか」と思ってたんだけどそういう理由もあるのね。
ウチの地元の東武ストアじゃかかってたけどな、逆に「未だにこれかよ!」って突っ込んだ
>>730 よくまちがわれるが、くになまさゆりのデビュー曲は「バレンタイン・キッス」
まあ歌詞のほうは「バレンタインデーキッス」だが。
>>724 市場が半分になってもJASRACに入る著作権料が倍になればそれでいいのさ。そういう連中だ。
季節ものソングが「年末のベートーベン第九」のごとく固定化していて
なかなか旧来のものを塗り替える新曲が出てこないことに衰退感じる。
卒業 荒井由美「卒業写真」
バレンタインデー 国生さゆり「バレンタイン・キッス」
クリスマス 山下達郎「クリスマスイブ」
夏の海岸風景はいまだにTUBEが流れるし。
携帯が無い時代、誰もが会社、友人、知人、行きつけの店等々の電話番号をそらで50件くらいは暗記してた。
自分も結構な番号を指で覚えていたが
携帯を持つようになったら指が忘れてしまって
いざ公衆電話からかけようとしたら電話番号が出てこなくて参った
頭で覚えていた番号は辛うじてまだ思い出せるんだが
今じゃ自分の携帯の番号すら覚えて無い(´・ω・`)
携帯電話が普及するまではポケベルが主流だったよね
黒電話だったころ、ダイヤルを回す長さで何番を回しているのか聞いてるだけ
で当ててた奴がいた。携帯じゃ登録ボタンだけだし、そういう特技を披露する
奴見ないな。
プッシュホンだと番号毎に割り当てられてる音が違ってたから
それ聞いて番号当てる人いたな
昔の黒電話は異様に重たかった
今の電話機はオモチャみたいだw
744 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/24(水) 20:38:41 ID:uDDy9M6L
送受話部分に磁石が入ってたから重いわな。
だが、あの金属製のダイヤル黒電話は今でも使えるし使ってる人も居る。
私の知る由緒正しい資産家の方がそうなんだけどね。
回数券は使うたびにミシン目からちぎって駅員さんに渡してた。
オレが以前いた部署ではまだ黒電話が外線として現役だよ
昭和22年築のコンクリートの塊のビルで、エアコンも電源設備(両方30年前のもの)も更新できなきゃ
ぶっ壊すにもあまりにコンクリの量が多いので10億くらいかかるそうな。
ちなみに内線にはガリガリ(黒電話の横にレバーがあってそれを回すと直結された電話がジリジリって鳴る)だ
都市伝説かも知れないが
「笑っていいとも」で電話をかける指の動きで
(プッシュボタンを押す指の動きで)
電話番号が分かってしまった。
ってのがあった。
>>747 指どころか
番号を話しながら電話したのが故・小森のオバチャマ
電話番号をTVで言われていたずら電話殺到したのがイルカ。
>>742 シティハンターでそのネタを使ってたなw
リョウ「俺はプッシュホンの音で番号がわかる!(キリッ」
香「ダイヤル式の公衆電話使ったらどうする訳?」
リョウ「Σ(゚Д゚)」
750 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/24(水) 22:09:52 ID:9Suzyfuh
声で電話掛けるってなかったっけ?
>>750 和音の肉声で電話かけられるらしいな。
ジョジョでも康一がエコーズで丈助に電話かけたてたな。
声を和音で出せるのは菅原文太「時代はパーシャル!」
推理小説のトリックで、ダイヤルが戻る時間で相手先の番号を割り出す
というのがある。
焦って指入れたままダイヤル戻すと、違う番号にかかってよけい時間くったw
>>597 超遅レスだが長谷川町子すげえな
最近藤子F短編集読んだばっかなんだが、昭和40年代に
描かれた未来の話、人口問題に関しては100%人口爆発だった。
てか当時未来に関する懸念について、少子化を考えていた人って
ほとんどいなかったんじゃ? 超未来が舞台のSFのアイディアとしては
あったと思うが。
生涯独身の女性だからこそ、すぐ先に起こりうる確実な未来として
少子化の可能性を考えられたのかねえ。自分みたいな人生選ぶ女が
増えるだろう的な。
>>755 38年前の当時の小学校の担任も
これからは逆ピラミッド型に子供が減る。
消費税と言うのが導入されるであろう、と言っていた。
確か、当時オランダだかが、同じような状況で
日本もそうなると大学の社会学科で習ったそうな。
割と一般的な考えだったのかもしれないと思う。
いち大学の社会学科で教える=一般的な考え
ではないんでね?
>747
それを防止するためにゲストの前の電話を隠す「テレ隠し」というついたてがあった。
当時は「友達の輪」全盛期だったので、テレ隠しには「友達の輪」ポーズを意匠化した絵が描かれていた。
テレ隠し、懐かしいな。
あのデザインは結構好きだったよ。
一時、テレフォンショッキングに出たゲストは歌を歌わなければいけないという
決まりみたいなものがあったね。
あの頃はその緊張感みたいなものが良かった。
今では「友達の輪!」というジェスチャーもやらなくなったな。
そのうち、タモリがオープニングテーマを歌ってたことも驚かれるようになりそうだ。
761 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/25(木) 02:52:34 ID:r/fxE2Nb
歳をとったら耳が遠くなって、また黒電話をひっぱり出した人がいるよ
庭にいても良く聞こえるからいいって
>>597 子持ちなんかじゃないからこそ世の中を冷静に捉えられてたんだろうに
行ったことのない遠い駅なんかで待ち合わせする時、
どうやってそこまでのルートや時間を調べてたんだろ。
自分は手帳に付いてる路線図が頼りだったけど、
もっと確かな方法があったと思うんだけど。
>>763 自分も駅の場所は路線図で確認しか手立てがなかった。
所要時間は駅の数を数えてだいたいの時間割り出してたな。
仕事だと運賃もちゃんとメモしとかないと後で困ったりね。
でも知らない遠い駅に行くことが今ほど多くなかった気がする。
特急・急行の本数が少なかったこともあるのかなぁ。
仕事の場合は行ったことがある人に詳細聞くのが基本だったけど、
誰も知らなくて確実な所要時間が不明な場合も多かったから、
遠い場所に行く日はほかの仕事はできないつもりで出てた。
今は出張も日帰りが多くて、ほんとに時間に追われる感がある。
>>757 昭和30年代には将来の少子化は既に懸念されてたよ。
その事で当時の閣僚が何気に「女性は仕事よりも家庭で子育てをした方が良い」と発言したところ、社会党などが「戦前の『産めよ増やせよ』政策の再来だ、軍隊創設の準備だ!」と反発してる。
>>756 ああいう間接税を導入しないと、いつかは立ち行かなくなるって考えは、かなり昔からあったみたい。
光回線にしてしまったが黒電話は使いたいw
しかしネットの光はそのままがいいw
あ〜〜どっかの企業、なんか良いモデムつくってくれ〜
全然昭和でなくスレ違いなんだけど、
携帯電話が一般的に普及された頃、着信メロディをドレミで自作したよね。
「だんご三兄弟」を作ったけど#とか和音まで音階がなくってちょっとズッコケたくなるかんじ。
そのうち和音が出来る機種が出て着メロ本買って登録してたよ。
771 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/25(木) 10:40:20 ID:fAvXgIih
安産のお守りもあったな
着メロに?
>>771 今だってあるよ
子供が出来ないのに執着して不妊治療とか必死なのは今の方だと思う
昔みたいにそれが理由で離縁されることとかないんだろうに
自分の血縁の子孫を残すのは生物としての本能だから
それに目覚めてる期間に目的が遂げられないのはかなりのストレスだと
想像する
あー不妊呼んじゃった
駅の伝言板。
>>776 名前と電話番号晒してたりしたもんな
個人情報漏えいし放題w
ちょっと前までは一部の有名人を除き個人情報を公開したって何の問題もなかった。
個人情報という言葉自体無かったし。
>>771の安産のお守りって、
笑っていいとも!のタモさんが書くやつの事だと思ってたら、
マジレス続きで不安になった。
少子化ネタへのレスだったのか…。
笑っていいとも!の前に笑ってる場合ですよがあったこと知ってる人いる?
笑って〜る場合でっすっよ チャン♪
>>779 淫乱上人ってやって、浄土真宗から大目玉食らったんだよね。
消費税って、最初は「売上税」って言ってなかったっけ。
導入しようとしたけど評判が悪くて一度引っ込んで、
消費税と名前を替えて再デビューしたような記憶がある。
あと売上税と同じような時期(中曽根首相の頃)に
「臨教審、臨時教育審議会」っていう単語もやたら耳にした。
「ダウ平均株価」等と同様、何のことかは知らない。
10年位前までは公務員名簿ってのが有って
公務員(含む教師)の
所属・名前(フルネーム)・自宅住所・自宅電話番号が書いてあったな。
公務員は公職であり、緊急時の呼び出しに必要と言う名目。
さすがに一般の人には手に入れにくく
また1人暮らしの女性は住所/電話番号は空白だったな。
「紳士録」ってのは金持ち(名士)の住所、電話番号も書いてあったんじゃないか?
妻の名前と学歴まで載っていたような記憶が。
わいわいサタデー
15年ぐらい前で名簿図書館でも入手できなかったのは
お嬢様学校の卒業者名簿。
探偵業でも難しかったようだ。
>783
その前にも「一般消費税」っていうのを通そうとして失敗してる。
消費税の時は自民積年の悲願を実現するために色んな嘘をつきまくったね、
「今世紀中に税率引き上げはしない」とか断言してた。
97年に税率を5%へ引き上げた時は「自民党歴では20世紀は1996年で終わったらしい」と揶揄された。
790 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/26(金) 20:06:56 ID:JveQvQe+
>>783 選挙前:大型間接税は導入しません
選挙後:大型ではないが中型間接税を導入します。
中型と言う事で非対象のものを多くしたら
分かりにくい、煩雑だ。と言う事で結局流れたんだよな。
消費税導入の見返りに廃止されたのが物品税。
いわゆるぜいたく品に掛けられる税金だが、
商品の価格に含まれていて、消費者はなかなか気付かないものであった。
カラーテレビ、大型冷蔵庫、楽器、オーディオ機器などにも課税。
意外なところでは、カセットテープ。ラジカセ・音楽プレーヤーはステ
レオ型は全品課税だが、モノラル型は、定価20,600円が免税点だったので
定価20,600円という商品が結構あった。
レコード・CDにも課税されていて¥3,200だったのが¥3,008
(税別¥2,920)に値下げになったが、童謡、純邦楽(民謡、長唄)
学校向けなどはもとも非課税だったので、逆に税分だけ値上げ
してしまったものもあった。
(こども番組の曲は非課税<もともとシングル500円、アルバム2,500円くらいと
若干安め)、ティーン層以上向けのアニメ・マンガのイメージアルバムや
ドラマCDなどは課税だった)
乗用車は、20%前後の税率だったので、激減緩和のためか、
当初の消費税率は6%。3年後4.5%、そのまた3年後に3%となった。
それでも10万単位での値下げになるが、バブル期で車が好調に売れていた
ため、昭和63年度第3四半期の自動車ディーラーは、買い控えを防ぐため、
前倒しで値引き額が10万円以上アップするという異常事態だった。
トランプにはトランプ税と言うのが課せられていて、
政府の証紙が貼られていた。
アニメキャラクターものや子供雑誌の付録には、
「児童用」と表記することで免税されていた。
任天堂は花札作ってたんだよ。
>>792 !!!あの謎のシールは証紙だったのか!
多分昭和の終わりのころだったと思うけど
どこかの国語辞典の「卒業」の項目に
(文例)「もう女遊びは卒業した」と載っていたことを
女性団体が問題視して出版社に抗議していた。
796 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 11:30:05 ID:Q1YzuYxl
そういえばカセットテープに歌詞をつけたものが書店の店頭で売られてたりしたなあ
797 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 11:49:06 ID:12TlDG/3
>>755 日本は少子高齢で人口減少だけれど、世界規模では、人口爆発。
昭和末で、世界人口46億、中国でもうすぐ10億、インド8億、アメリカ2億4千万だった。
今、世界人口67億、中国13億、インド12億、アメリカ3億だ。
昭和といえばウサギ跳び
800 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 15:02:26 ID:mO+RZdfg
OLと言う言葉は無くBGと言っていた。
職業女性だから英語ならビジネスガールだろうとの発想からの呼称なのだが英語では売春婦の意味もあると後にわかって使われなくなった。
単に自分がそういうことに興味があっただけ・
そういうテレビ番組が多かったからだけなのかも知れないが、
自分が生まれてもいない頃の事件に詳しい人が今よりいたと思う。
今は、「生まれてないから全然知らない」で済ませている人が多い。
酒屋はビールの冷えたのに「冷やし賃」を取っていた
銭湯では「洗髪料」を取っていた
座っただけで「テーブルチャージ」料を取られる店があった
深夜営業の喫茶店では薄っぺらいトーストがついてコーヒーの料金が何倍かになった
>>801 確かにそれは感じるね。
浅間山荘事件を名前すら知らないとか。
身近にも江東区の森下に住んでるのに深川通り魔事件を知らなかったという人がいる。
>>791 >童謡、純邦楽(民謡、長唄) 学校向けなどはもとも非課税
なので「わらべ」の「めだかの兄弟」
これは童謡か歌謡曲かでもめた。
コーヒーは非課税だったが紅茶は物品税対象だったな。
そう言うややこしさがあるなら消費税一本にまとめろよ。と
子供ながらに思ったよ。
>>801 高校野球の応援のブラスバンドってさ、選曲がおそろしく古いじゃない?
「海のトリトン」って、お前らどころか顧問でさえ生まれてないだろ、みたいな。
どこだか「鋼鉄ジーグ」なんて渋い選曲のところもあった。
あれもあれで「どうせ知らないし」って気にしてないのかなあ、と思ったりしたよ。
先輩から受け継いできた伝統の曲だってだけで、考えなしに演奏してるのかなって。
806 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 20:01:34 ID:SPzYb1XC
> 座っただけで「テーブルチャージ」料を取られる店があった
キャバクラは今でもそうだろ
笑ってる場合ですよ
>>805 「ヤットデタマン」のテーマのブラスバンドが演奏されてて、「あれ?ひょっとして愛工大明電?」
って思ったらその通りだった。
…可愛いなあ。
ヤットデタマンのテーマ演奏する学校とか有るのかwシュールw
今常駐している某雑談スレの人たちは結構古いこと知ってて
昨日は20代半ばのヤツが「あたり前田のクラッカー」なんて
言ってたけど、人それぞれなんだなー
811 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 20:55:44 ID:uH/i2H2c
>>804 こいつ、ウィキペディアでチャラっと調べて、シッタカこいてんな
「売上税」導入でオトナがケンケンガクガク、消費税なんて言葉も
なかった頃に
>>そう言うややこしさがあるなら消費税一本にまとめろよ。と
>>子供ながらに思ったよ。
だとぉ!?
http://ja.wikipedia.org/wiki/物品税 >>例えば、物品税法上、レコードは一般的に課税であったが、教育に配慮して
>>童謡と判定されれば非課税であった。このため皆川おさむの『黒ネコのタンゴ』、
>>子門真人の『およげ!たいやきくん』、わらべ『めだかの兄妹』などのレコードに
>>ついて、課税対象か否かの議論行われた
>>他にもコーヒーは課税で紅茶は非課税、ゴルフ用品が課税でスキー用品が
>>非課税、ストーブは課税でコタツは非課税、ケヤキの家具は課税で桐の家
>>具は非課税であるなど、類似製品であるが課税について大きく異なる問題
>>もあった。
そんなに、時代の生き証人ぶりたいのか?この盗作野郎
812 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/27(土) 21:08:39 ID:mYYJ6H61
ソースモロバレワロス
どうせなら、車への税率の変遷やらトランプ税みたいな未開拓な切り口が欲しかったな
→0点。
国の予算でもっとも注目されたのは
「防衛費はGNPの1パーセントまで」という
訳の分からない自主規制を今年も守れたか否かだった。
1パーセント超えたときは大騒ぎになった。
テロップとかも確か出た。
未開拓な切り口か?
国鉄のグリーン車や飛行機のスーパーシートは
物品税とは違う名前だけど贅沢税がかけられていたね。
(それとも物品税だっけ?)
ステレオ(オーディオ機器という意味)は課税対象だったから
これはアンプ、これはカセット、これはスピーカーと言うように
バラで販売して課税逃れをしていた。
その後、課税逃れは出来なくなったけどね。
>>800 BGと呼ばれてた頃は女性は18くらいで就職して、事務仕事やって2年くらいしたら
親や上司の紹介でお見合いして寿退社するのが一般的だった。
22,3になってもまだ会社に残ってると、「まだ結婚しないの?」と今だと完全にセクハラ
な言葉を投げかけられてた。
最近じゃ30過ぎても独身で働いてる人や、結婚しても働く(働かざるを得ない)人が
たくさんいるから「寿退社」なんて言葉自体が完全に死語と化してしまった。
今でもそういうところはあるけど、
女子社員の採用は社内や業界の戦力ではなく男性社員に嫁を斡旋するためなんであって
高卒かせいぜい短大卒ぐらいで採用して社会勉強的に2、3年ぐらいお勤めして
それをきっかけに社内で結婚して退職してくれりゃーよかったんだそうだ。
そのため特に女子の採用については家庭環境調査が男性社員のそれに比べて厳しかったとも言われてた。
>>803 住吉に住んでるけどその事件知らない
なにそれ
調べろよ 有名な事件なんだから
>>818 ブリーフ姿で捕まった映像無い?
川俣軍司が殺した主婦の祖父が川俣軍司の祖父を殺していた。
偶然。
>>819 地元では話題にしたくない歴史なのかも…。
29年前の出来事だから、30代半ば以上でないとリアルな衝撃としては
覚えていないかも。
当時中学生の千葉県民だったが、国鉄の駅にない地名なんで、深川?下町っぽ
い→浅草(橋)近く?と認識していた。総武線車内の視界から先はすぐ江東0m地帯、
夢の島、東京湾だと思っていた。ベイエリアなんてオシャレなもんじゃなく、
もんじゃ焼きも今のように有名ではなかった。
大地康雄の前は、落語界の川俣軍司と自称していた三遊亭小遊三氏がハマリ役といわれていた。
川俣軍司のブリーフって妙に綺麗だったけどあれは報道写真を修正したんだろうか?
素っ裸だったんで、逮捕連行のために、警察が調達したんだよ。
>>823 まじ?
リアルタイムで報道観てたのに知らなかったよw
あのブリーフがBVD(フジボウ)のもので、逮捕時の写真や画像にはっきりロゴが写ってしまったため
「イメージが悪くなるじゃないか」とフジボウがクレームつけたって話ホンマヤロカ?
827 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 11:45:30 ID:hI42sJHH
昔は女性は4年制大学出は、就職が難しかった。自宅通勤で無いと駄目と言うところもあった。
男性社員を結婚させて会社に縛り付ける為の道具だったからな。
829 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 11:51:02 ID:nxKXwYQW
おお、そうだったのか。目からうろこ。
>>826 稲川淳二の怪談の持ちネタ
真偽は不明だが、個人的にはよくできた創作だと思っている
和式トイレしか無かった時代、老人や足腰弱った人、怪我した人などはどうしてたんだろうと、
時々和式トイレに入るたびに思う。
足を骨折してる人、うんこはどうやって??
むかし和式トイレにかぶせる椅子みたいなものがあったよ
>>831 おなじように不思議なのが、爪切りがなかった時代、右手の爪ってどうやって切っていたんだろう、と。
ガキの頃、母に糸切りばさみで切ってもらっていた記憶はあるんだが、
母は自分の右手の爪をどうしていたんだろうなあ、と思う。
本人に聞こうにも夫婦揃って墓の下だしさあ。
(一緒に死んだわけじゃないよ、念のため)
左手にハサミ持って切ってたんだと思う
835 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 12:59:56 ID:BNM8M7WE
40代以上の人に聞きたいんだけど。
ロバのパン屋って、本物のロバが牽引していた?
自分の記憶ではロバが牽引していた気がするんだが、
実は幼い自分が作り上げた脳内記憶ではないか?と自信が持てない。
>827
自宅でも素行調査が入ることもあった。
男性側にも管理職になる条件の一つに妻帯者であることがあったりして、いい年して
独身だったりすると、上司が強制的に見合いをセッティングしてくれたりしていた。
昔の結婚強制みたいな風潮がいいとは言わないが、
いざ自分が大人になってみると、日本人の性格とライフスタイルには
「おせっかいおばさんや上司がもってくるお見合い」システムが
結構あっていたんじゃないかと思うようになった
>>835 どこの地域なんだろう?
>>837 いまは個性尊重などと言ってそういうの厄介扱いされてるけど、
そのせいか既婚率下がってるらしいな。
30代男性の3割が独身とかどこかで聞いた。
結婚しなければいけないってことはないが、少子化とかそれ以前の問題だw
839 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 13:19:09 ID:LuURIwMe
>>805 本物のロバが牽引していたよ。
でもロバが歩きながらウンチボタボタ落として不潔だとか、
いろんなこと言われたり、ロバが少なくなったりして
自動車でロバのパンの歌を流しながら、になってしまった。
女はお嫁に行けばいい、勉強や仕事なんか出来なくてよろしい、
とにかく早く結婚せよという風潮があったから
お嬢様とかじゃなくても学校を出ても就職せず、
花嫁修業という名目で家にいてお見合いして結婚したがって社会人経験なし。
という人も割とある世代までは普通にいた。
今は社会人経験がない人は主婦のパートでもなかなか採ってくれないし
結婚にはむしろ不利になったりする。
841 :
835:2010/03/28(日) 13:39:29 ID:BNM8M7WE
>838
九州です。
>839
そーかあ。やっぱり本物だったのか。
でも幼すぎて、リアルな記憶がない。
ロバの臭いとか覚えてない。一枚の写真的な記憶しかない。
ちなみに1965年生まれだよ。
842 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 14:03:40 ID:ecPNQ7ZW
チンドン屋を見かけなくなったね。
数は減ってるけど、いることはいる
ロバのパン屋のロバって、ポニーだったらしいぜ。
845 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 14:47:20 ID:ecPNQ7ZW
パン屋さんじゃなかったけど子供の頃に荷車を引くロバを見た事がある。
目が寂しそうに見えた。
>>840 昔、そういう育ちの田舎生まれの女性が、出世して都会に転勤した夫の同僚やその夫人との人間関係を
とり結べなくて、自殺したか夫を殺したかした事件があった。
あと、「勉強しなくていい」家に育った女性が、我が子の教育をきちんとできないこともよくあった
らしくて、現在では、特に医師は四年制大学卒の女性しか相手にしないそうな。
…学のない女性ってね。
何かの時に夫にdでもねえ大恥かかせるんだわ、これが。
それこそ、人生オワタ\(^o^)/クラスのね。
848 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 15:20:39 ID:ecPNQ7ZW
学があっても片山さつきじゃな。
いわゆる「学がある女」ってのはエゴが強くてな
自分と同じカテゴリー以外の人間をバカにするし
いまどき4大出ぐらいでエゴが強くならんよw
高卒の女性がエゴが弱くて他者を馬鹿にしない
できた人間が多いかっつったらんなこたないしな
851 :
エビちゃん親衛隊:2010/03/28(日) 15:27:33 ID:ZL8CJi5l
昭和の記憶って79年というか、ほとんど80年代しか記憶にない。
昭和50年代後半以後だけだ。
それ以前の時代のレトロな時代なんて知らんがな
最初から水洗便所とトレペしか知らんがな
>>850 いまどきじゃなくて昭和スレだけどなw
いわゆる学がある女、と書いた時点で
意味が限定されてるのがわかんねえかな
>>852 >>847からの流れ(現在では結婚相手の女性にも学があるのを求める)の
中での発言ってくらい読み取ってくれ
昭和の時代を長く生きた人間ならさ
855 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 15:46:35 ID:ecPNQ7ZW
昭和は長いからな。
私が物心ついた30年頃は我が家にあった電気製品はラジオだけだw
夏はウチワと打ち水と風鈴で涼を取り、冬は火鉢と熱源が豆炭のコタツで暖を取った。
しかし、その5年後にはそれらは殆ど姿を消し、テレビ、扇風機、ストーブ、電気コタツが入ってきた。
>>855 うちの親より年上だ
親子以上に年の離れた人間同士が同じ時代のつもりで会話してるのかと思うとこのスレって面白いな
857 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 16:31:37 ID:nxKXwYQW
家の親父が、夏になると日課のように夕方になるとホースで打ち水してた。
パンツ一枚で orz
858 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 16:44:59 ID:ecPNQ7ZW
男はステテコ、女はシュミーズ(今のスリップ)姿で縁台に座って夕涼み。
東京の裏通りの夏の風景。
広島のおばちゃんは、真夏は基本外出時以外はみんなシュミーズ
大阪は都会だったんだな。
夏場、おばちゃんが着てるのは、ムームーだった。
アッパッパとは言わんのか?
ちなみに、呉市のおばちゃんの夏服はアッパッパだった。
…広島は風がないから暑いのだ。
アッパッパとか簡単服とか言ってたような記憶があるなぁ
アッパッパ、懐かしいな。
切り替えなしだから簡単に縫えるんで、隣近所のオバちゃんはみんな夏に
なると足踏みミシンカタカタ慣らして夏用の普段着として縫ってた。
864 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 19:46:14 ID:kNPWsEuz
写真のカラーフィルムの現像代が一枚80円だった事。
モノクロのほうが安かった時代がある。
平成になったら逆転した。
たまにフィルムのカメラで撮ってみたいと思う今日この頃。
かなり思考がババアやな…。
今デジカメで名前が復活しているオリンパスペン
当時35枚撮りのフィルムを半分使って70枚撮影できた
「こりゃお得だ」
とヒットしたが、実は節約できるフィルム代より現像代の方が高くて逆に金がかかったw
(現像代自体は変わらないので同じ枚数なら得なんだが、結局1本目いっぱい使うからね)
たまに使うと銀塩カメラっていいぞ。軽くてタイムラグがなくて、なにより写りがきれい。
いまどきの一眼レフはごてごて重過ぎるよ。
>>864 映画でパートカラーとかあったね
本編の一部だけカラーのやつ
フランスのコメディーで冒頭5分だけカラーで「ここから先は予算の関係でモノクロになります」とか言ってるギャグもあった
最近でも映像へのこだわりでモノクロで取る映画があるが、あれもやはり逆にコストがかかるそうだ
868 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 20:38:51 ID:ecPNQ7ZW
二眼レフが主流だった。
伯父が買ったばかりのカメラで撮ってくれた写真は頭頂部が欠けていた。
二眼レフはファインダの映像とレンズが若干ズレるんだよな。
>>831 小学校の頃、足首の間接を折った。
ギプスこそしてなかったけどもちろんしゃがめない。
そしてうちは和式トイレだった。
どうやってしてたかっていうと、それはもう根性で片足で頑張ってたw
昔のお年寄りは足腰が強くて、結構和式トイレは平気だった人が多かったな。
弱って立ち上がれない人は、介護の人が抱き上げた立ち上がらせたり
手すりつけたり、キンかくしに手をついてよっこいしょ!と立ったりしゃがんだり。
ポータブルの洋式トイレみたいなの使ったり、確かお年寄り用に
トイレ用のイスがあったような気がする(古い家庭の医学で読んだような気が…)
そういえば銭湯で、お年寄り用にイスが置いてある所があったよ。
これは最近の話だけど。
870 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/28(日) 20:58:12 ID:wBTIUknp
>>867 >映画でパートカラー
コレよく覚えてるわ。
初めて見に行った成人映画で
シーンが変わってカラーになったとたんに
今まで寝ていたりしてた周りのオッチャンがいっせいに座りなおして
なに、なに、ってビックリしてたら
ベッドシーンが始まった。
どうでもいいとこは白黒で
重要?な場面だけカラーになる、と解って
なるほどと思った。
>>869 昭和初期の広告の本を読んでいたら、和式便座に取り付ける座椅子の広告が出てた。
座りたくない人は、便座をはね上げておくことができる商品だったよ。
値段は、現在価格で言うと4万円前後とお高かった。
こんなの買うんなら、女中さん雇って世話をさせた方がいいくらい。
…あの頃の広告って、今見てみると、収入(肉体労働者の日給が50銭前後)に比較して
物価がべらぼうに高い。
特に、お菓子や漫画の単行本なんか、鼻から血が出るほどお高い。
>>865 オリンパスペンて、当時1万円以上してたカメラを1万円以下にして、
高価なフィルムも倍使える経済性、だれでも扱える大衆カメラを目指
してたもんじゃん。
いいものを安く大衆に広めようといた、フジカシングル8、スバル360
みたいな。
デジタル版のペンは、回顧趣味のマニアに媚びた金持ち向けのドーラク
商品。当時のコンセプトとは正反対の方向を向いたとものに化している。
舞谷さんにあやまれ。
>>855 いつもの昭和27、8年生まれの方ですね。
小学校1〜2年生の遠足にフジペット持ってきた子がいました。
6×6のブローニーですが子どもでも操作が簡単で、しかもよく写るカメラ
でした。
874 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/29(月) 06:02:53 ID:DPWchXJ0
経口避妊薬、いわゆるピルが普通の薬局で売られていた。
いつの間にか無くなったマイルーラ
>>869 >>どうやってしてたかっていうと、それはもう根性で片足で頑張ってたw
自分も学生の頃に脚を骨折して同じ目に合ったw
しかも入院先の病院で…(自宅は洋式)
病院なんだから洋式トイレぐらい用意しとけっての。
そういや、入院施設のある病院でも、オール和式、てすりなしが普通
だった。
うちの街にある中規模のやや総合病院、五年前に行った時はまだ和式だったよ。
その一年後に建て直してそれからは行ってないけど、いくらなんでも建て直したのに
和式のままってことはないだろうけど・・・
お年寄りや松葉杖ついてる人がたくさんいるのに、どういうことだ?って思った。
自分は骨折はしてなかったものの和式トイレがきつい怪我をしてたので、
トイレが原因で転院したけどね。
昔のお年寄りは足腰が強かった・・というより、一日数回和式でしゃがむしかないから
それで足腰が鍛えられてたのかもな〜
>874
おいおい、だったら何で「中ピ連」なんて物ができてあんな大騒ぎしてたんだよ
>>879 中ピ連が出て来たのは販売禁止になった後。
避妊薬とは言わず月経調整薬とかで売られていたが黄体ホルモン製剤でピルと同じもの。
『メスコン○』という商品名だった。
メスコンはメンスコントロールの事。
メス今っていま売ってないの?
なんか看板見かけたような…
882 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/29(月) 18:11:56 ID:DPWchXJ0
いま売られてるメスコンは当時の黄体ホルモン製剤とは別物です。
生◎
理◎
が◎
遅◎
れ◎
た◎
ら◎
遅れた、のがわかってから飲むわけだから、ピルより強力な「堕○薬」ってこと?
>>884 生理を強制的に起こさせる薬なので、生理の血と一緒に赤ん坊も流れるという噂があって、
当時、そういう商売の方々に愛飲されていたようですが、バカ飲みして死ぬという事故が
後を絶たなかった様です。
販売中止になって、配合成分が変わったのはそのせいですかね。
コンタックの成分が変わったのも、アンプルタイプの大人用風邪薬が無くなったのも、そう
いうバカ飲み族のせいなんだよね。
886 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/29(月) 19:10:49 ID:DPWchXJ0
それとは別物のメスコンだよ。
生理を止める、つまり排卵を止める黄体ホルモン製剤のメスコンがあったんだよ。
商品名は『メスコンE』
…昭和のおっとろしい販売禁止医薬品、イソミン。
妊婦用の睡眠薬や、つわりを軽くする薬として用いられていた。
サリドマイドの商品名ね
889 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/29(月) 21:46:10 ID:mGoImYeQ
生理のはなしで…。
女の子の「お赤飯」。以前は近所に振舞った。宣言だったのだ。
「ウチの娘は子供が造れる体になりました!嫁入り先を世話してください!
穀潰しが減らせます!」
けっして、成長を祝っていたわけではない。
基幹産業が農業。男の子は跡継ぎ、労働力になるが、女は子供を造ってナンボ
、三年経って子なきはされ、といわれていた時代。
民法で結婚できる年齢が、男子18歳、女子16歳とされたのは、
男子…義務教育修了後に経済的自立を果たすのには3年ぐらいは必要。
女子…当時の初潮発来が14〜15歳。1年経てば出産が可能、
ではないかと推測する。
処女膜再生手術が一定の需要があったw
891 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/29(月) 22:50:10 ID:7BrI4/7t
見合いには、釣り書き(一種の履歴書)とともに処女であるという診断書が必須だった。
>>880 あれってそういう薬だったの?
海へ行くのに、これ飲んだらと勧められて飲んだら、」ものすごく具合が
悪くなった思い出が。
893 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/30(火) 18:49:02 ID:A5xP0LRf
事前に飲んどく正規のピルどころか、妊娠が明らかになってから(遅れてたのが
分かってから呑む)緊急堕胎薬だな。本当なら激ヤバすぎる。よくそんな薬が
認可されていたものだ。
現代のモーニングアフターピルだって、コトの後72時間以内じゃないと有効じゃない
といわれているのに。
せっかくの海水浴(いや釣りや写生かも試練が)を生理で台無しにしないようにとか
ひと夏のケイケン対策か、どっちの意味で奨めたんだろう。
館ひろしと早見優の噂があって、ひと夏のケイレンになっちゃみっともないので
海に行くのは見送った夏。
894 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/30(火) 19:20:40 ID:YW7ndueA
畑に人糞を撒いていた。だから、ギョウチュウ検査があった
>>894 お散歩に出かけたギョウチュウが、帰る所を間違えたとき、激痛に泣き喚きながらも
(当時4歳)「男の子なら珍子が痛いと言うべきであろうが、女の自分はなんて言えば
いいのだろう」と考えていた人を知っている。
「疝気の虫」かwww
子供のころ五右衛門風呂入ってたよ。
今30手前だけど家がすごい田舎だったからかな。
幼稚園の時に家にカラーテレビがやってきた。
小1の時には掃除機。高学年でオーブントースター。
キュウリ、トマト、茄子は夏の食べ物だった。
スーパーにはもちろん売ってたけれど、母親は旬に
なって値段が安くなるまで買わなかったようだ。
そんなに値段違ってたのかな?キュウリや茄子の糠漬は
冬には絶対に出てこなかった。
昭和40年代初めの頃の生まれです。
>>894 検便の他に透明のシールを肛門に当てて2つ折りかなんかにするのあったな。
今考えれば好きだったあの子もそうやってたのかと思うと変な気分だ。
丸和太郎か
今の小学生もやってんのかな
>>899 ピンテープでしょ。
真ん中に透明のシートが挟まってて、両側に黄色と紫のビラがついてるやつ。
ターゲットのような円が何重にも描かれてて、ここらへんに貼りつける…みたいな。
説明書きはキューピー人形が例に使われてた。
ポキールと言っていた気がする>貼付けシール
ポキール、ピンテープ(ギョウチュウを英語でピンワームと呼ぶことに由来)、サノテープ…
地域によって使用している業者の名前が違うのですね。
丸和太郎は、記入例の見本みたいです。
ダイヤル式電話の、
受話器を置く所のスイッチ?をガチャガチャと連打すると、
何故かどこかに電話がかかっていた
905 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/31(水) 11:10:17 ID:j5CJoYHq
>>904 うちの離れでそれやると、親子電話みたいに話せた
>>904 ダイヤル式電話って、電気信号のオンオフで番号を送ってたんで、
受話器置きのスイッチを「押す」「離す」で同じ信号が出たんだよね。
だから、ダイヤル回すときの「カチカチカチ」と同じようにスイッチを押すと
それと同じ番号に掛けたことになったんです。
テレビの刑事物で、相手が先に電話を切った後、こっち側がしきりに「もしもし!おい、聞こえてるのか」
と受話器受けのところを何度もカチカチやってるけどあれなんか意味あるの?
デパートの子供向けゲームコーナーのような所に、
「ミニ映画館」というのがあって、100円だか200円だかで
特撮ものやアニメを一話だけ見ることができた。
スピード証明写真のボックスにそっくりな作りのやつ。
>>908 繁華街に同じような感じでAVを千円で見れる「ビデオBOX」ってのもあったな。
>>909 ゲーセンにマージャンで勝つとAV流れる筐体があったな
>>910 スーパーリアル麻雀PIIが、
ちょっと形勢が悪くなると即座に天和あがってきやがったな
100円入れる→5秒で終了
そりゃないよママン
>>909 体の前後に看板をかけたサンドウィッチマンが、縦棒の先に『個室ビデオ』とか書かれた看板をつけて
ひたすら立ち続けていたり
>>911 あったあったw
役満2回上がってこりゃもう負けないなと思ったら相手(機械)が役満連発で即終了
914 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/02(金) 07:15:37 ID:t3ZH0BAL
小学生の時の臨海学校は内房の保田海岸だったんだけど岩場一面がウニだらけだった。
当時は地元の人もウニを食べる事はなかったそうだ。ところが25年後に妻子を連れて同じ場所に潮干狩りに行ったら全くウニがいなくなってた。
>>914 うちの田舎では、生活排水アンド「赤ちゃんを取って帰るバカども」のせいで、アサリがいなくなっちゃったよ。
残しておかないと全滅するって判らんかねえ。
アサリの禁猟区域設けてないの?
>>916 漁業権(禁漁区域、禁漁時期)の事はどうなってたかは判らないんですが、とにかく、「もう一匹もいない」
そうです。
親に「赤ちゃん取るのは可哀想!!」と言われて、「なるほど」と思ったもんだがなあ。
アサリの稚貝なんて取ってどうすんだろ?
>>918 無知な人は、せっかく遠いところまで来た潮干狩り、取った物は持って帰らなきゃ、そして食べなきゃ損だと本気で思ってますから。
小さくてもダシは出るって考えです
921 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/06(火) 19:01:58 ID:2pcGu1EJ
朝鮮半島の山がはげ山ばかりなのは植林せずに暖房用のマキを構わず刈った為。
俺のものも小さくても白いダシはちゃんと出るけどな
>>921 ギリシャも同じ。
だから紀元前にギリシャの建築は木造から石造になった。
今だとイケメンが軽自動車のCMとかしているけど、昭和の頃は男性が軽に乗っているのは
営業車以外だと馬鹿にされがちだったような気がする。
>>924 初期はスバル360でもキャロルでも商用車のイメージはなかったけどね
あと後期は男向けアルトワークス・ビートなどもあって今ジムニだけかね残ってるの
まあ中期以降、軽は商用車のイメージ強かったけど660規制やワゴンRあたりからセカンドカー車種も増えていったしね
926 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/07(水) 17:29:44 ID:3Gq50TsK
ホンダN360の登場が軽のイメージを変えた。
各社の競争も激しくなり性能も短期間に驚くほどアップ、36馬力が出た時はリッター換算だと100馬力、最早軽ではないと言われたのも束の間でダイハツが1000cc車並の40馬力車を発売した。
因みに当時の軽は車検が無かった。
ホンダZといえばジャンボーグ9に変身する車
昔は軽は16歳で免許取れたとかって本当?
929 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/07(水) 19:35:15 ID:3Gq50TsK
昭和44年頃迄は16才で軽免許が取れたはず。
舗装もされてない道路を、小学生の娘(私)を前に乗せてスクーターで2人乗り。
もちろん2人ともノーヘル。今だとベトナムとかインドとかな感じだった昭和30年代…。
海では全裸で素潜り。開放的だったよねぇ。
軽ではないと思うけど、コンテッサという名前の車は覚えている。昭和41、2年ごろか。
あと、いすずの小型車で形はそっくりなのに名前が違う車があって、
それが思い出せない。犬で言えばプードルみたいな形で前のライトと
テールランプがツンと上を向いている感じ。
むしろライトバン(2ボックス)やワンボックス車って間違っても個人利用てのはなかった気がする
バイクもカブに乗ってるあんちゃんは商店の店員か新聞配達の人だったと思われていたし実際そうだったw
>>932 いすゞベレットか?
フローリアンではなさそうだし、ベレルは大きいし…。
昔はバイクも中学生で免許が取れたんだっけか。
「ハリスの旋風」で石田国松がバイク免許取りに行ったら、
「もう法律が変って中学生じゃダメ」と断られるエピを覚えてる。
>>932 日野コンテッサですね。
軽ではなく普通セダンです。
父親の同僚が持っていたのでよく覚えています。
リアエンジン車なのでフロントにラジエーターグリルのない斬新なデザインが特徴でした。
また、当時の国産車には珍しく純正のクーラーがオプションで用意されてました。
>>934 べレルやべレットは憶えている、というかべレットGTのほう。
同じスポーツタイプだとコロナハードトップのほうが好きだった。
マークUの前身だろうか?
いや、いすずのは2種類似たタイプで名前が違う小型車があった。
>>936 日野か。
リアエンジンとかは知らなかった。
あと思い出したがコスモ(メーカー失念)という車だったか?ロータリーエンジンとかの。
父親が日産に勤めていたせいなのか、なぜか他社のエンジンの模型を持って帰ってきた。
ちなみに父親の浮気相手が豊田という女性だった。
最後らへんどっかで見たな…
いすゞはそんなに車種ないぞw
コンテッサはリアエンジンにも関わらず、デザイナーのミケロッティが、
まともなインテークをデザインしてくれなかったので吸気口の配置に苦労した、
というのを当時の日野社員の回想録で読んだ。
>>940 だがしかし背面にラヂエターを持ってきて、
なんとも特徴的なリアビューになった、
っていうのはアレはアレでいいと思う。
いすず
フローリアン
430(?)クーペ
だっけか。
117クーペですな。
430はセドリック・グロリア。
>>938 ゴメン、車の板で1度書いたことがある。事実なので。
945 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/10(土) 05:43:27 ID:LSQB/N9e
トヨタ、日産、三菱、マツダ、いすゞ、ダイハツ、日野、スバル。
焦土となった敗戦から10年後にはこんなに自動車メーカーが。
日本って凄いなと改めて思う。
俺初老だけど、皆何歳なんだよ。
117と430はわかるけど、コンテッサとかもう走ってなかったぞw
本やらなにやらで昔のことって意外とわかるもんだよ
昭和60年頃のマンガで原チャリをノーヘルで運転していたシーンがあった
>>947,948
リアルじゃないのかよw
>>949 昔は源チャリはヘルメット義務じゃなかったからね。
>945
敗戦で航空機産業が全て禁止されて、行き場のなくなった航空技術者達の受け皿に一番適当だったのが自動車産業だったの。
戦時中の航空技術者は日本産業界エリート中のエリートばかりだったし、技術レベル自体が自動車産業とは桁違いだった。
本来なら自動車なんか手がけるはずのない超エリート技術者が競い合って開発現場で活躍したわけ。
ホンダの第1期F1を指揮してわずか参加2年目で初優勝に導いた中村良夫さんとか、
初代カローラの開発主査長谷川龍雄さんとか、スバル360を設計した百瀬晋六さんとか。
中村さんがF1参戦でヨーロッパに渡った時、経歴を聞いいた記者達は口々に、
「何故あなたのように優秀な技術者が自動車などをやっているのか?」と不思議がったそう。
952 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/10(土) 17:03:22 ID:LSQB/N9e
>>951 そんな事はわかってる。
まぁ、アメリカは日本の航空産業を潰した事で後に自国の自動車産業が日本にやられる事になるとは想像もできなかったんだろうな。
>>952 世の中そんなもんだよ。
日本の産業だって今、韓国や中国に追撃されてるし…
ちょっと前はパクリ韓国だの何だのと叩いてたが、日本もコピーと粗悪製品で通った道だ
954 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/10(土) 19:05:10 ID:qcH0PXye
>>950 うん、俺が16の時にメット義務になったからよく覚えてるわ
「あいつとララバイ」は執拗にノーヘルでナナハン乗ってたけどなw
私が大学生の頃ノーヘル禁止になった。
貧乏学生だったのでメット代捻出するのに苦労したよ・・・
メットにも違和感だったけど、しばらくしたら慣れちゃって
高校時代から5,6年ノーヘルで原付乗ってたわけだが、よく
頭むき出しで乗ってたなーと思うほどに。
>>946 自動車ショー歌(小林旭)が流行る前に2度見に行ってる。
958 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 05:55:47 ID:vdCW+24g
初代シルビア。
滅多に見れない幻の名車。
959 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 06:08:03 ID:8hDDRQ+4
シートベルトなんか
しなくて良かった良い時代だった・・・
960 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 06:14:33 ID:9b8OHfnH
シートベルトは巨デブだと今でもお目こぼしされるらしい
カークーラーはオプションで高級品
オートマは高級かつ馬鹿にされw
パワステ・パワーウインドもなく、
カーコンポも高級品
サンルーフがとても高級車に思え、
有鉛ガソリン普通に入れて
そしてドライブは娯楽団欒、「お車でお出かけ」だったあのころ
962 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 11:21:44 ID:bd6ORi5I
クラシックカーは今でもシートベルトしなくていいよ
車にシートベルト付いてないから
しかもカーコンポは8トラック
ウチの親父殿が初代マークIIに乗っていて、
今でもずっとマークII(X)なのだが、
あの当時によくあんな高級車を買えたもんだ、と思う。
大卒初任給が3万円とかって時代に、
130万円もしていたらしい…
965 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 13:06:42 ID:cCPmMVV9
ハコスカとかの古い車は触媒付いてないからその後ろにつくとクサイ
戦前には飲酒運転がOKで、喫煙運転が違反だった時期があると聞いた事がある。
967 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/11(日) 16:18:59 ID:vdCW+24g
日産と合併する前のプリンスのクルマが好きだった。スカイライン、グロリアともデザイン、性能ともに他社の競合車から抜きん出てた。
大変ヨコなのだが、車話でちょっと気になったのだが。
香港とかに行くとトヨタのタクシーがいっぱい走ってるけど
窓はハンドルで開けるタイプだ。
古いボロ車だっていうならわかるけど、そういうわけではなく、
ピカピカでキレイな新しいコンフォートだ。
向こうではパワーウィンドウ嫌われてるんだろうか?
>>967 俺もグロリア大好き。ライトの上にラインが入ってて睨んでる感じが。
スカイラインはライトが縦になったり横になったりだけど、
大昔のデカいプリンスも見たことある。ボディラインがセクシーだった。
昭和の時代でも既にデボネアが過去の遺物と化していた件について
>970
教頭先生がデボネア乗ってたな
初代セフィーロ好きで(大人になったら乗ろう!)とか思ってた
小さな不動産屋の社長がデボネア乗っていたwバブルの頃も。
デボネアなんて自動車ショー歌でしか聞いた事ないな
デボネアとセンチュリー(長嶋セゲヲも乗っていたことがあったと思う)は、
名前は知っているがあんまり見かけなかった
975 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/12(月) 06:52:03 ID:IxBKes9q
デボネアの2000cc4気筒と云うエンジンは当時でさえセダンとしては笑い者だった。
過去に見かけたデボネアって二台しか無い
最近お屋敷街の駐車場にひっそり一台いた
>>968 PWは高くなるし、機構が複雑になるから比較的壊れやすくなるし、
タクシーだと客の窓は開ける事がほとんど無いから、
必要ないと思っているんじゃないだろうか。
む
教頭のは2代目前期
最近見かけたのは3代目か
>>978 セボネアはねーだろw1か所だけならともかく、
2か所誤記があるのはいかんでしょ。
『文金高島田』が崩れないように、後部座席の上の屋根が『ガルウイング』状に開く、
『デボネア嫁入り仕様』があった。
>>977 PWなんてモーターとスイッチ付けるだけなんだし、くるくる回すレバーより安いんじゃね?
まあ、信頼性の問題なのかと思うが。
>>968 中国のタクシーは上海で乗ったVWサンタナ2000も北京で乗った現代ソナタもウィンドウも手回しかどうかは忘れたけど、自分でドア開けたのは覚えてる。
今の中国はそんな細かい装備より最低限の機能でもまず所有…するのが最重要なんだろ。
後、大気が余りキレイじゃないからエアコン入れるのが普通なのかも、だから頻繁に窓を動かす需要が無いのかも。
デボネアとかディアマンテとか、三菱の高級車ってマイナーなの多いんだよな。
第一、ネーミングがどうよこれ感満載だし。
タイヤだけ飛ぶ車作るだけあるわ…
986 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/12(月) 16:06:41 ID:IxBKes9q
スタリオン(種馬)なんてのもどうかと思ったな。
三菱銀行の支店長専用車は必ずデボネアだった。というか、他の用途はなかった。
L字型のテールランプが目立つんだよね。
989 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/12(月) 20:23:25 ID:kxf0cIr1
>984
エメロードも加えてやってくれ
ゼミの同期の男が親父が三菱系の企業に勤めている訳でもないのに
デボネア乗ってたなぁ
>>983 って言うか、タクシーのドアが自動なのは
世界中で日本だけじゃなかったっけ?
>>981 どこかの結婚式場はロンドンタクシーを輸入して使ってたよ。
天井が高いから角隠しのまま乗れるんだと。
初代クラウンが観音開きドアなのもその用途を重視したためだったとか。
>>958 免許持ってなくて、車に興味ないせいか、
歌手のシルビアが代々受け継がれてると思ってしまった
栃木のシルビアは、後ウィンドウに「E・YAZAWA」のステッカー率高かったなぁ
友達二人と道を歩いていた所へあの車が。
友達A 「あっ、デボネアだぁ!」
友達B 「すげぇ、走ってるよ!」
俺 「初めて見た」
昭和の時代、俺が走っているデボネアを見たのは、
これが最初で最後だった。
ある意味、スーパーカー(死語?)より、
インパクトがある車だったと思う。
>>994 俺にとってシルビアは、シルビア・クリステル(エマニエル夫人)を連想させる為、
スケベなイメージが強い車だな。
>994
コロムビアローズじゃないんだから
998 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/13(火) 16:48:03 ID:ojaf4nQl
都内でも繁華街から外れたらボットン便所が普通で食堂や喫茶店でさえそうだった。
驚くのは客が飲食中でもバキュームカーからホースを伸ばして店内のトイレから汲み取りをしてた。
今なら有り得ない事だけど当時はさして問題とは思わなかった。
ボットン便所から9Mの位置に飲料水用の井戸が掘ってあった。
昭和の我が実家・・・
1000 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/13(火) 17:37:09 ID:/tKcNdyI
せーん
1001 :
1001:
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