ソースは、
本能寺の変 秀吉の陰謀
井上慶雪
杉原家次が率いる特殊軍団!
ワロスw
3 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
>>1 キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ッ!!!!!
4 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
こういうオナニーお腹いっぱい
5 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
どうよ?
6 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
村井(36)、舟越(28)、木村(38)「トリニティブラスター!!!」
女子高生(17)「いやああああ!!」
この本のAmaのレビューに憲さんがいて笑ったwどこにでも現れるな憲ちゃん
8 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
共謀というなら、十二分に考えられる
毛利からの撤退が見事過ぎたというより、知っていたのでは?
その可能性はある。
天下布文!ってのは御本人様なんか…
少なくても鈴木の本のレビューは本人だな。レビュー書いたみたいな事、自分のブログで言ってるし
11 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
明智が→毛利に送った早馬が秀吉に捕まったんだよな?
<信長討ち死に>の密書を持っていたらしい
12 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
織豊時代はスペインの黄金時代、その王室は欧州の覇者
ハプスブルグ家。イエズス会、スペイン商人団はその尖兵。
堺商人の頭目、千利休。織田政権の金庫番。茶道を創始。当時の
堺にはスペイン人が闊歩し、教会が建設され、布教活動がなされた。
利休の子孫は指摘する、茶道はカトリックの影響を受けていると。
利休7哲のうち4人までがキリシタン大名である、茶道人脈は
カトリック人脈と重なる。
近畿で織田が仏教勢力と戦っていた頃、北部九州ではスペイン人が
日本人信徒に、地域の神社仏閣を襲撃させていた。
もし、織田がカトリックに入信し、日本を統一していたら?中南米
で起きたことの再現だ。全国の神社仏閣は破壊され、僧侶も天皇を
含む神主も皆殺しだ。代わって教会が設立され日本はカトリック国
になっていただろう。
しかし、織田はカトリックに入信しなかった。それどころか日本統一
後は海外派兵まで揚言した。スペイン人はこれに危機感を覚えた。
覇権国スペインへの挑戦である。そこで伊賀忍者に織田の暗殺を
要請した。これが織田に漏れた。そこで起こったのが天正伊賀の乱で
ある。織田は伊賀の里に殲滅戦仕掛けた。翌年、織田は本能寺に倒れ
た。伊賀忍者の報復だったかどうか。
秀吉は「読んでいた」かもしれないね。信長が光秀に討たれるのを。
911がCIAのでっち上げじゃないとしても、泳がしていた可能性はある。
14 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
>>13 ブッシュがあえてスルーしたからね
中東攻撃の口実にするために
秀吉の場合は首謀者でしょ
光秀に信長暗殺を命じたのが秀吉
15 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN
早馬をとっ捕まえただけでは済まない問題がある
あれだけの大軍を一気に戻すには道中に食糧などを
こっそりあらかじめ手配しておく必要もある。
京都あたりは遠慮しても密かにそれがなされていたからこそ、
三日で戻れた
まったく知らなかったとはおもえないんだよね
そういう手配してなかったから山崎の戦いに間に合わないのがでるくらい
バラバラで帰ってくることになったんだらう
17 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN
知ってたどころか首謀者だってw
18 :
信者へ:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN
なぜ、人間は戦争を繰り返すのか。それは人間が弱肉強食を行っているから
である。殺虫剤で虫を殺し、豚や牛等を屠殺して肉食をしているからである。
人間も強い者によって殺される。人間社会の生存競争(生き血のすすり合い)
で敗退すれば自殺するしかない。いじめで自殺するのもこの人間社会の縮図の
犠牲者なのである。
神はこの愚かな人間どもを改心させるために、因縁の法則を創造された。人
間が肉食すると殺された牛等の動物たちの怨念が癌を作り上げ、人間に報復す
る。癌は遺伝子の突然変異よって発生するのではなくて、人間が食べた肉が血
となり、その穢れた血が癌細胞に変化する。マクロビオテック療法で癌細胞が
消えるのはその穢れた血が肉食を断つことによって消滅するからである。
戦争は、肉食で殺された動物たちの怨念が戦争指導者に乗り移って行わせて
いるのである。つまり戦争は因果応報なのである。神はこの悪に染まった鬼の
人間どもを戦争と天変地異で退治される。異常気象などの天変地異や狂牛病な
どの疫病は神の警告なのである。
19 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN
一人の忍者たすもう一人の忍者は、二人の忍者になる。この物理的事象を記
号化すると
1+1=2となる。
しかし、計算している間に二人の忍者が呪文を唱えて消えてしまったら、
1+1=0となる。今度は分身の術でそれぞれ1万人の忍者に分身したら、
1+1=20,000となる。その上、もう一人の忍者が蛙に変身したら、
1+?_=1となる。だから、数学は形体が変わらない同じ物同志だけで
しか成り立たない。
忍者は消えて姿が見えなくなっても無(0)になったわけではない。1万
人に分身しても無(0)から忍者が突然発生したわけではない。無(0)
が存在するなら無限の無(0)を考えなくてはならない。しかし、この世
の物も神も有限である。だから、無(0)は存在しなし、考えなくても良
い。
人間の科学はすべて出来損ないで、まともな物は一つもない。原子力発
電は危険な原爆である。危険な放射性廃棄物を安全に処理出来ない。処理
出来ないなら利用してはいけない。遺伝子組み換えも化け物を作るだけで
人間に悪影響を及ぼす。機械を利用すれば機械が暴走して人間を破壊する。
化学的物質は地球環境を破壊する。西洋医学は邪道である。悪い部分を切
り取って、毒で殺すしか方法がない。本来の医学は自然治癒力を高めるも
のである。病気の根本的原因、因縁を無視して解決する筈がない。人間が
作り出した科学は人間を堕落させ、人間を滅ぼす本にしかならない。人間
が作り出した経済、法律、文化、制度等は破綻する運命にある。神が創造
するものは永久に繁栄する。
21 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN
>>20 そこが核心なんだよ
光秀は信長暗殺後、みんな自分を慕って付いてくると思ったんだよ
それに早馬が毛利に無事密書を届けられたら、毛利と和睦して秀吉を討つ計画だった
実は秀吉は運が良かっただけで、実際は大ピンチだったw
22 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN
毛利征伐は最初から本能寺が頭にあったんだ、そう考えると
すべてのつじつまは合うんだよ
歴史は陰謀だらけ。陰謀史観おもしろい。
陰謀史観にしても、も少し真新しさが欲しいのじゃ!
25 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN
毛利は知ってたのかな?
26 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
どうよ?
秀吉「光秀殿が援軍に参られるのか。わしとお主で(…)ヒヒヒw」
光秀「うぬっ…お主何たることを!」
秀吉「お主は武田攻めでの御折檻、丹波で母堂を…の数々をお忘れかな?」
光秀「…わしには出来ぬ」
秀吉「さようか。まあよくよくお考え召され。」
光秀「…」
秀吉「…キンカン頭の石頭めがw乗って来い乗って来い…そしてお前を討てば天下はわしの物、という寸法じゃw」
(以上5月17日〜27日の間の秘密会見)
秀吉「一刻も早くお館様御自らのご出陣をいただきたく…」
信長「…猿め!○日の内に安土を発つと(ry
秀吉「お館様が安土を発たれる。殿の傍にはお主しかおらぬゆえ…かねてからの…の時は今じゃ」
光秀「…敵は本能寺にあり!」
秀吉「ハゲめ!やりおったわw笑いが止まらんw」
「あの稀代の不忠者を討つのだ!お館様の敵を討つ!我等は正義の軍ぞ!」
昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
29 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
>>28 何の俳句?まさか、自作?
ガチで素晴らしいんだけどw
57577なので俳句ではない
と、ツッコミ入れてみる
32 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
自民党、史上最多議席キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ッ!!!!!
33 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN
毛利の天下になってた可能性が高いな
34 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
光秀が単独で思いつくわけないもんな
36 :
日本@名無史さん:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN
>>35 報いを待てや なんて表現するんだな昔の人ってw
覚悟せ〜やみたいな
信孝の辞世の句は別バージョンもあるしなー。後世の創作なんだろ
38 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
首謀者はガチで秀吉
とんでもない詐欺師だよ、あの猿は
test
40 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
40
光秀が単独犯と考えても
秀吉の陰謀と考えても
準備不足のその場任せな戦いが目立つ気がするけど
ここは病人の隔離スレだから、あんまり相手にしないほうがいいぞ
43 :
日本@名無史さん:2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
44 :
日本@名無史さん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
どうよ?
45 :
日本@名無史さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
これって、マジなの?
46 :
日本@名無史さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
マジカルばなな
秀吉ってそれほど信長マンセーの臣下だったの?
上司のいないところでは光秀と結託していたのでは?
信長って今で言うヤンキーでしょ。見た目も性格も。
DQNの横暴ぶりに、苦労人や品のいい臣下が心の底から忠誠心を抱くとは思えない。
品のある臣下って誰よ?w
佐久間さん
秀吉が黒幕なんて、ありえない
1,まず3日で畿内まで戻ってきたと主張するが、運がよかっただけ
岐阜には信雄、大坂には四国遠征の信孝がいる
この辺りが上手く兵をまとめれば、すぐに京都に攻め込める
2,秀吉が織田家を乗っ取るには信長と信忠を同時に討たなくてはいけない
信忠は前日まで家康と大坂見物をする予定であったが急遽、変更
予定通り大坂に行っていれば織田家乗っ取りなど不可能
3,本能寺の変の後に光秀は長浜城を占領されている。
長浜城には、後の大政所・北の政所がいたが急いで脱出
予め秀吉が知っていたらありえない
4,大和匠守を棟梁に圧倒的な数の忍者が織田家にはおり
光秀と秀吉の連絡等、不可能
53 :
日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN
秀吉が三日で戻ってきたとかどこの国の歴史だよ
秀吉が備中を立ったのは6/4で
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる
54 :
日本@名無史さん:2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
55 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
>>52 その説の3だけど、秀吉黒幕説なんだろ? 光秀とグルだって話なんだよ
北の政所の身の上位打ち合わせに入っていたかもしれないだろ
あくまで黒幕説なんだぜえ、表に立つつもりは毛頭ないわけで
裏から操るつもりで、それが黒幕説だ。わかったかあ
56 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
土台、戦国の世にそれほど女の価値なんてねえんだよ
秀吉だって数多の戦陣くぐってきてわかっていたはずだ
今さら絶対専制君主がいくら独裁体制を敷いたにしても、身内から
火の手は上がるものなんだ。それも用意周到に地に潜って計画される
己の命を危険な目にあわす位の覚悟なくて信長を裏切るなんて
できるわけないからな
何も秀吉黒幕説を信じているわけではないけれど
ありえたって話でその反証説はすべておかしい
>>15 信長は本能寺滞在後、対毛利戦に出馬する予定だった。
秀吉は、そのための道中の食料などを準備していた。
それを大返しに流用したんだよ。
何も不思議はない。
無理だな。毛利水軍と合戦していた。引き上げ本能寺に
手薄には出来ないはず。秀吉がそこを手薄にすれば備中、
播磨は毛利に陥落
されていたら。近江安土など何の役に
たとうか。光秀が信長を自害させたのは半分は私怨で天下
取りは関係ないと見た。斎藤義竜の
仇だったのだろう。秀吉が信長を裏切るとすれば恐らく山陽道を分け貰い
島津、長宗我部と組んで天下を二分したはずだ。大坂は
当時は一向宗がうざかったはず和歌山の雑賀や石山本願寺がな
59 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 18:50:33.14
本能寺の変から清洲会議まで20日間あまり、この時期の秀吉の動
きは果断にして迅速。変を知る前から織田家簒奪の意志は明確だった
としか思えない。「中国大返し」の理由は主君の悲報に憤って、と
解釈されてたが、秀吉の視野にあったのは織田家の長老、柴田勝家だ
ったろう。信長亡き後の最大の実力者であり、順当にいけば、織田政
権は柴田が継承するはずだった。柴田の他にも秀吉と同格、格上の部将
達は何人もいた。秀吉が織田家を簒奪するには1日も早く帰還し、自分
に有利な状況を作らねばならない。そして秀吉はそれを実行した。まるで
かなり前から入念にプランを練っていたかのように。明智を討ってからも
必要な手を次々に打ち、政権の「長老」柴田が付け入る隙を封じた。
清洲会議以降も着々と自らの権力構築に邁進した秀吉は、毛利と対峙して
た頃から自身の天下取りを計画していたとしか思えない。秀吉が本能寺
の変の黒幕かどうかはともかく、共謀していたか、あるいは知らされて
いたのではないか。
手際良さが際立ってるから陰謀論の付け入る隙があるんだろうけど
無理じゃないかな?
信忠が京に泊まらないといけないってのが難しそう
信長をおびき出すぐらいだから信忠なんてヨユーでは?
信忠が信長と一緒に京に居るってのは当初の予定にはないはず
それが何故か手薄な兵で両者とも京に滞在
故に光秀はチャンスとばかり京に向かったんでは?
だから、信忠が京に居ないと本能寺自体が発生しない可能性もある
二人が京にいる事が変の発生条件なら、両方の寺を同時攻撃するだろ
すでに家督を相続していた信忠には天下取りの才はなく
あくまでも天下を得るには信長をやることだったんだろうな
信忠だけ死んで信長が生きていても信長の別の息子が嫡子になるだけ
しかし信忠のみが生き残った場合…
光秀は天下はトントンだと踏んでたんだろう
実際信忠のもとにつけられていた織田有楽斎は逃げて存命だったし
本能寺襲撃から二条城襲撃までには時間があり逃げられても仕方なかったんだよね
65 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 18:10:29.31
テスト
66 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 11:35:32.24
>>60 逆に状況を全てコントロールしてみせた秀吉の神がかり的有能さが際立ってしまうな。
まあ実際の史実は定説の通りそのままな訳だが。
へうげものおつ
68 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 19:21:25.95
この本が正しいかどうかタイムマシンでもないかぎりわからん。
分かってる事は四国大返し、伊賀越えなんかない。
光秀が本能寺行った時には既に信長は殺されてた。それを光秀は堺にいる家康に
伝えに来た。光秀も家康もその時には犯人は解らなかった。最後に黒幕は秀吉て事が
分かった。て、400年前の人物が喋りました。
既知外おつ
70 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 18:10:02.64
秀吉が黒幕なら、何百年も後世の人間が指摘するような事に同時代の人間が気づかないのはおかしい。
だが柴田も徳川も島津も長宗我部も秀吉と対立した大名が、それを言い立てて秀吉を非難したという事実がない。
なんで言わないんだ?
71 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 21:56:25.94
きずくまえに柴田はやられたよ。
72 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 21:59:36.78
きずいてた光秀は皆に書状を書いたけど信じてもらえなかった。
権力を手にいれた秀吉にはさからえません。
秀吉に逆らった大名いっぱいいるんだが。
74 :
!ninja:2013/09/14(土) 11:07:14.53
テスト
75 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 19:15:31.76
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
憲さんAmaのレビューを紹介しとるね…
へうぜもの では信長を胴切りしとるがな
秀吉はマジに強運だわ
違うよ!暗殺したのは明智光秀だよ!
・・で、現代の明智光秀
岐阜城盛り上げ隊・明智光秀
実は、GーTETU哲丸
名古屋を拠点にゲイ売り専をしてた
ビックリ
この人、『肉便器てつまる』っていう
ゲイDVDにも出てたwww
明智光秀も可哀想
天海は家康の双子の兄貴だ。
81 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 19:36:25.60
83 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 01:53:19.32
兄より優れた弟など存在しねえ
84 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 22:01:42.47
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
俺の見たサイトでは、
信長がイスラム教の聖地メッカを日本にも作ろうとしたから(伊勢)
当時来日していたルイス・フロイスが
信長がイスラム教に傾頭したと思って
本能寺で殺害したと書いてあったな。
明智光秀は助けようとしたが間に合わなかったとのこと。
光秀は後の天海とも書いてあった。
86 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 01:46:40.36
秀吉が犯人である訳がない
信長が死ねば、当然秀吉が跡を継ぐというほどの勢力がなければ殺しても意味がない
柴田 徳川 明智 らの方が格上なので、信長を殺してもトンビに油揚げをさらわれる可能性のほうが高い
>>86 だが結果はどうなった?
秀吉は天才だ。常人の理解を遥かに超えた事を平然と成し遂げる男。
一般人の物差しで測れるような器ではない。
88 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 11:02:41.71
>>86 原因から結果を考えるのでなくて、結果ありきの原因です。
そう考えれば普通に秀吉でしょう。
推理小説じゃないんだから…
>>55 そもそも光秀がわざわざ偽造してまで秀吉が黒幕だってことを隠す理由がないな
91 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 17:15:06.68
>>88 秀吉が信長をやったなら徳川時代にばらされるだろw
家康も国家安康鐘銘事件などでっちあげなくても
秀吉の主君殺しを名目にすれば十分だった
92 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 01:06:59.61
>>91 誰が何の為にバラすのw 現場を見てないから犯人達以外はわからんのに。
光秀は犯人にされて無実の罪をきせられた。今現在でも冤罪が多いのに
400年前の出来事なら不思議でないでしょうw
マンガの読み過ぎだw犯人以外にも双方の生き残りや目撃者は大勢いる
兵を人間じゃなくて数字としか考えてないからそう思っちゃうんだな…
明智方の兵士も手記残してるし
>>88 羽柴秀吉が当時自分より上席にあった明智光秀を、
自分の手も汚さず動かす仕掛けがわからん。
秀吉の有能さを知らんのか?
相手に気付かせず、自由に操ることなんて造作もないだろ。
マンガの読み過ぎだw
>>96 そこまで有能なら秀次暗殺ももっと綺麗にやっただろうに
秀吉が手を下したと分からんようにね
>>96 そんなに有能なら、家康も気づかないうちに秀頼の信奉者にしちゃえばよかったのにな。
100 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 16:46:27.44
>>98 権力を見せつける為だとしたら?
秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。(wikiより)
101 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 17:11:18.38
秀吉黒幕説でも無理がありすぎるのに
実行犯が秀吉とか話にならね
103 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:23:57.15
>>100 関白を譲り養子にまでした秀次を殺害するってイメージ悪すぎるわw
豊臣家内の内紛など家臣分裂以外何物も引き起こさない
>>91 バラしても意味ないだろ。
そんなんで徳川の名分は立たない
信雄担いで秀吉と敵対してるのに
バラさないわけないだろ…
>>104 徳川の大義名分は立つだろ。
豊臣の天下が正当なら、臣下の礼をとっていた徳川が豊臣に槍を向けるのは謀反だが、
豊臣が、旧主たる織田に対する謀反人にして仇敵であるなら、
徳川が豊臣を討つ大義名分が成り立つだろ。
>>106 ないない。
信長の官位を超えた時点でないよ。
最晩年でやっとこ無茶苦茶な言いがかりつけてやっとこ豊臣滅ぼしたのに
そんな美味しいカード握ってて最後まで使わないわけないだろ
ふっつーに考えたら意味ないから黙ってたんじゃなくて
そんなこと思ってもいないから言い出さなかっただけだわな
>>108 豊臣滅ぼす時に、豊臣恩顧の大名が、徳川についたり、だんまり決め込んだりしてるんだから、
豊臣が信長公の仇だなんて言っても、誰もついてこないのでは?
そら、本能寺の変の直後ならいざ知らず。
国家安康君臣豊楽ですら開戦の理由にしてもついてくるんだから言うだろ
てか言うようなネタなんか最初から無い
利三の三男だって変の後に、割とフツーの生涯送ったし。出家したりはしたけど
>>110 それは徳川が隠さなきゃいけない理由にはなってない。
もしその大義名分に誰もついてこないとしても隠す必要はないんだから。
大阪の陣だって、難癖と言っていいくらいかなり無茶な大義名分で始めている。(鐘銘事件)
あんな無理筋な難癖をつけてでも、戦を仕掛けるには大義名分が必要だったわけだ。
これは現在の戦争だって同じ。
鐘銘への言い掛かりに比べたら、旧主織田家への謀反の方が立派な大義名分だし。
>>107 官位が上なら大義名分は不要であるなら、大阪の陣を始めるのに鐘銘への言い掛かりをつける必要もない。
あの時点では家康も秀忠は従一位で、秀頼は正二位だから関東方の官位が上だから。
家康以外にも持ち出す動機のある人間はいるのに、誰も言わないんだから、そんな疑いは誰も持ってなかったって事だな。
光秀、勝家、信雄、信孝、北条氏、フロイス、落書の作者なんかは疑惑持ってたら当然言うわな
信孝なんかは秀吉じゃなくて貴族を疑ってたみたいだし
>>113 大義名分というのなら、
現天下人であり自分への呪詛の方がかなり大きいのでは?
>>116 国家安康が呪詛だと言い張るのが無理やり。
大坂以前に小牧長久手の時点で持ち出さないのがおかしい。
本当に呪詛だと思ってんならすぐに鋳つぶすわな
家康の諱を使っちまった豊臣家もちょっと迂闊だったけど、「国家安康」てデカデカと書いてあったわけじゃなく、長ったらしい漢文のほんの一文だったし…
いいがかりだな
その銘文を考えたのは藤堂家の坊主
藤堂高虎は家康の腰巾着
つまり
家康→高虎→坊主→銘文
スレチになるが、決定打は、片桐襲撃じゃないの?
徳川の提案受け入れず、片桐も襲わずだったらどうなってたのかな?
光秀単独犯だろ
信長父子が両方ともたいした兵も連れずに京に居る
自分は軍を動かしても怪しまれない(中国遠征に行くので)
各方面軍は丹羽&信孝以外は最前線
ついでに家康も堺遊興中
信長父子を殺害すれば、当面丹羽&信孝の軍勢さえ気を付ければいい
後は最前線に居る軍団長をそれぞ敵勢力と協力して挟み撃ちにすればよい
一見絵空事のように思えるけど
人は時に自分に都合の良い事だけ考える場合もあるし
光秀単独犯には間違いないが、黒幕は秀吉。
秀吉の二重三重の策により、光秀は知らぬ内に信長を襲撃せざるをえない状況に追い込まれていった。
光秀は信長襲撃が自分の意思でないことに最期まで気付かずに死んでいった。
その秀吉を裏で動かしたのは家康。
無論、家康は慎重に慎重を重ね、秀吉には気づく余地を与えなかった。
いつしか秀吉も明智に信長を襲撃させざるを得ない状況に追い込まれていく。
明智をそのような状況に追い込んだのが実は自分の意思ではなく、
家康に仕組まれたことに最後の最後まで気づかない秀吉であった。
そしてその家康を裏から操っていたのは信雄。うつけのふりをし、上手く家康を引き込んだってばよ
>>125 本能寺の煽りで家康も殺されかけてるのにそれはないわ
>>127 安全に帰ったら怪しすぎるだろ。
何事も演出だよ。
本当に危機だったら
茶屋四郎次郎が金払って退散?
そんなの茶屋四郎次郎殺して金奪って、家康を生け捕りか首持ってくだろ。
それこそ、梵鐘事件と同んなじでヤラセだな。
そもそも黒幕のさらに黒幕なので、
襲う方も襲われる方も真剣。
真剣すぎてやばかったぐらい。
一周回って真の黒幕は信長。
壮大な自殺劇だったのか…
秀吉が黒幕なら
光秀だけじゃなく毛利にも上杉にも畿内の有力者にも通じてなきゃいけないし
信忠、信孝、信雄の動きもコントロールしないといけない
まぁ普通に考えたら信長に隠れてそんなこと出来ないわな
黒幕どころか実行犯なんて言う
>>1のおっさんは問題外だけど
通じていたとは考えないのか。
書状見れば通じてなかったのが明らかだし
通じてますなんて書くかね
そういう話じゃなくて
変の後、上方で何が起きたのか掴むのに日数かかってたりしてる
状況から鑑みて通じてたとは考え難いってことじゃねーの
天才秀吉がその程度の事を把握してないとでも?
俺達に思い付く事なんて秀吉ならとっくに思い付いてるに決まってるだろ。
お前みたいに史料は絶対!と盲目的に信じこむ奴が真っ先に騙されるんだろうな。思う壺って奴だ。
>>137 天才であることと、未来が予測できることは関係ない。
天才」だからとか何の説明にもならんわな
現に秀吉だって生涯において何度も何度もミスを重ねてるし
天才だからこそこんな無謀な計画は立てない
秀吉っていうか木下家は信長存命なら親戚筋以外の家臣団の中では一番安泰だろ。
いざとなれば信長から貰った養子に家督譲ればいいだけなんだから
信長殺して勝負するにはあまりに分が悪いだろ
142 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 19:06:56.25
漫画 へうげもの もこの説なんだよね
いい漫画なんだが この説とると読む気うせる
>>142 説ってw
つ「この物語はフィクションにて候」
面白優先の架空戦記やね
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
>>145 京から備中まで200キロくらい。飛脚なら行けない事もないんじゃない?
途中で交代したかもしれないし
中川宛の返書があったりするように
来るはずだった援軍が見込めなくなったっていう状況もあるんで
単独で毛利と対峙したままでいるより一旦戻って仕切り直しが必要って
事情もあったんだろ
到って常識的な判断だと思うけど
それで毛利陣栄と間違えて自陣に飛び込んだ本当かうそかもわからん情報を真偽も確かめず
鵜呑みにしてまっしぐらに東上するとか普通にありえんだろ。
最初から秀吉が仕組んでやってたから100%正しいと信じる事ができただけ。
常識的に考えて光秀が単体で本能寺を行ったとしたら光秀方としては情報の漏洩
はすなわち死に直結するわけで、毛利への使者もわざわざ秀吉に見つかりやすい山陽ルートではなくより安全な山陰ルートか
それでなくとも高松近辺からの接近は避けようとするはず。
しかも機密情報握った使者がなぜか、毛利方陣営と羽柴方陣営を間違え、しかもその本当かどうかわからん情報も秀吉は鵜呑みにしてさっさと陣を払っているあり得ない事態。
備中〜京をわずか1日半で情報が駆け抜けるというのもありえないが、それ以上にありえない奇跡ばかり起きているのが本能寺の変。
状況から考えて秀吉と光秀が共犯で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って主殺しの汚名を一身に着せたとしか考えられない。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即しているといえる
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がないしな
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてるし
>>149 光秀の密使が陣を間違えたっての書いてたのは川角太閤記。あんまアテにならんし
秀吉は信長が来た時のために所々に連絡用の飛脚とか置いてたかもしれんし、光秀より知らせが遅いってのも無いだろー
川角太閤記は二次史料だが信長公記程度の史料価値は一応あるし
ところどころに密使を置いてたなんて書いてもない上に、置いたところで
あの200キロ以上を1日半で情報がすんなり通った事に変わらんだろ。
つーか光秀は中国方面に情報封鎖してなかったのか?って話だし
単純に光秀が殺してその通達を秀吉に何らかの形で伝えただけなら、秀吉がそれを鵜呑みにして
急いで毛利と講和し(これも藤田氏?の説だと本能寺前から勧められてたらしい)陣を引き払って引き返しただけ。
そうでなきゃありえないような偶然が多過ぎるしあの自らを四面楚歌に置くような成功するわけもない状況で謀反を起こす光秀が馬鹿になってしまう。
馬鹿かどうかは知らんけど偶発的な成り行きで行ったからそうなったんだろう
偶然を上手く活用出来る人間が生き残る
光秀が事前に情報封鎖なんてしようがないし
藤田説は小説の域になってる。
光秀がバカに思えるのは秀吉が大成功したからで
それは秀吉の実力だろう。
それを逆算して陰謀とか黒幕とかすべて
秀吉の計算通りとするのもまた小説でしかない。
157 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 14:07:51.82
>>146 フロイスは光秀のこともボロクソに言ってんだが
そっちは信じないのか
つか勝家の方が早く本能寺の変の知らせ受け取ってるだろ
本能寺の変以降各地の大名は積極的に動いて勢力拡大したり失地回復したりしとるぞ
別に秀吉だけが情報握ってた訳ではない
結局のところ何故光秀は10日以上も時間があって
各地の豪族にも手紙送ってるのに黒幕の存在を一言も漏らさず黙って殺されたんだって話になる
黒幕がいたなら光秀は焦ってあちこちに味方に誘う手紙書いてないと思うんだが
光秀は黒幕が都へ上洛して光秀に相応の待遇を与えてくれるまで
ただ待ってればよかったんだから
光秀は安土城の信長の財宝を自分の坂本城なんかに運び込んで略奪して
黒幕に怒られなかったんだろうか
だから光秀は自分が操られてる事にすら気づいてなかったんだっつーの
全て秀吉の謀略。
漫画の読み過ぎ
状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
>>光秀が事前に情報封鎖なんてしようがない
なんでないのか不明。少なくとも情報伝達を遅らせるくらい余裕でできるだろ。200キロも離れた相手に1日半で伝達するとか
光秀が秀吉を味方だと思って信用して使者を送ってた証拠だろ。
水や食料がないのに兵士が10日も行軍するのは不可能。
長距離間の行軍は兵士の水分やカロリー消費から考えて相当な食糧水が必要
水や食料を事前に準備してたから10日に及ぶ行軍を行っただけ。それこそ秀吉が本能寺の変をあらかじめ予期して準備してた証拠
>>光秀がバカに思えるのは秀吉が大成功したからでそれは秀吉の実力だろう。
そもそも秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
学者がだがレベルのアホなだけだ
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
事前に準備もしないのに備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるのはありえないわけ。
光秀が単体で謀反起こしたというなら秀吉は敵になり、毛利に向けた使者が秀吉の陣営に都合よく飛び込むというのもありえないわけ。
さらに秀吉がその情報の真偽を確かめる事もなく、ただちに陣を引き払ってるのもありえない。もし仮にそうだったら秀吉は誠に馬鹿としかいいようがない
(たまたま光秀が信長を殺した報が正確だったから結果オーライだったが、偽情報なら秀吉は毛利に後ろ見せるだけの馬鹿になる)
そもそも大返しが凄いなんて一部の秀吉マンセーの馬鹿しか言ってないし10日で200キロだから
速いどころか遅いとしかいいようがない。
山崎合戦なんて最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
つーか本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事だから最初から勝てて当たり前でしょ。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。
>>168 わずか1日半というが、早馬を乗り継げばそれくらい可能だろう。
それに知らせは1通だけじゃないぞ。
・光秀→毛利 の使者を捕らえた
・信長との連絡担当の部下は常に京都に常駐してた
・なじみの京都の商人が秀吉に知らせた
以上最低でも3通の知らせが一致して「変」を知らせたら、
誰でも進ぜざるを得ないだろう。
食料・水については、
信長の出馬を求めたんだから、
当然、信長軍の食料・水の準備は秀吉がしていたはずだ。
それを転用したんだよ。
>真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
第二報、第三報が来たとか、別の情報ルートから同じ報告が来たとか色々考えられるだろ
真偽確かめろって、部下に往復させろとか?遅い、遅過ぎるわw
それとも電話でもしろとか?
>>169 訂正>誰でも信ぜざるを得ない
京都常駐の部下の知らせが先に着いたから、
光秀からの使者を捕らえることができた、とも考えられる。
>>162 具体的にどうすんのよ?
光秀があんなに無謀な計画たてるほど愚かではないといいつつ
秀吉に騙されたとも気付かずそんな無謀な計画実行するとか輪をかけて愚かじゃないか
川角太閤記にも「注進状雨ふるごとく」とか書いてるし
長谷川宗仁や中川清秀以外の方々から同種の連絡きて
異常事態が起きてると判断せざるをえなかったんだろうね
>>169 >>わずか1日半というが、早馬を乗り継げばそれくらい可能だろう
京都〜備中高松だと早馬を乗り継いでやっとなんとか到達可能な200キロ以上の距離を一気に情報が行き届く事、
そのいき届いた情報がなぜか光秀陣栄と秀吉陣営を間違えるというありえない事態
またそんな遠距離を駆け巡った本当かどうかもわからん情報を秀吉が鵜呑みにしてさっさと陣を引き払っている事
どれをとっても秀吉が首謀者としないと不自然すぎる。
まず光秀の使者が、超重要な情報機密を漏洩するような危険な高松ルートで情報を伝達するわけないし
自分が主殺しの汚名背負って四面楚歌を作るような馬鹿な謀反を単体で起こすわけがない。
>>170 秀吉は敗報受け取ってからその日の内に真偽も確かめず毛利との和議を進めて
さっさと備中を引き払ってる。普通に考えてこれが偽情報だったら秀吉の行動は織田家中での責任問題となるのは日をみるより明らかで
そんな危険な芸当ができたのは、ただ単にあらかじめ秀吉が光秀と連絡を取り合ってて、敗報も100%正確な情報だと確証があったからにすぎないだろ
>>なじみの京都の商人が秀吉に知らせた
なじみの商人って誰だ?
いつそんな知らせを?
>>171 京都常駐って誰のことだ?
つまり光秀が情報封鎖もできない状況で挙兵するほど馬鹿だったって事か。
単体で謀反起こしても主殺しの汚名を負って自爆するだけな状況で単体で実行とかありえんだろ。
秀吉への情報伝達スピードと、それに対する秀吉の行動(情報の真偽を確かめずすぐ行動)から考えて、
単純に光秀と秀吉が共謀で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って光秀を主殺しの悪人に仕立てあげただけでしょ。
明らかにおかしいなんてレベルなら当時の秀吉に敵対してた連中が必ず指摘するって
このスレでも言われてただろ
他の連中は別に秀吉の味方でも敵でもないから関係ない。毛利なんてむしろ友好関係が持ち上がってた程
秀吉びいきだったし宇喜多も直家死後秀吉領との一体化が一層進められてたし
上杉も対徳川や柴田との関係から秀吉とは早い段階で友好関係だったし
他の連中からすりゃ信長が死んでうれしかっただけで、別に光秀単独犯だろうが秀吉との共犯だろうが別に関係ないってだけだろ。
秀吉は信長が死んだのを我幸いとばかり次々に策謀を廻らし
清洲会議の決まりも無視して織田家の崩壊を一層早めるような幼君樹立と
傀儡政権を進めた極悪人だからな。
200キロなんて早馬でも飛脚リレーでも十分に行ける距離だし、なんでありえないとか言ってんだ
現在だって100キロマラソンで早い人は8時間くらいでゴールするし
まあ、それは整備された道だから山道だともっとかかるだろうけどな
>>175 だからなんで光秀は黙って滅ぼされたのよ
申し開きする相手も時間もあったのに
>>180 そんなもん対長宗我部の外交などを巡る織田家中での派閥争いに敗れて孤立状態の光秀が、
しかも自分が行っておきながら弁明したって聞く連中なんていねーだろ。
身体能力・持久能力は現代のマラソンランナー>>>昔の飛脚じゃね
最近のマラソンランナーの早い人なんて全体からいったらごくごく一部だろうし
平均値からいえばマラソンの体力持ってる奴なんて例外にすぎんだろ。
それと何よりも変が起きてから仕組まれたようにすぐに情報が秀吉の元に伝わってるのが不自然だと言ってるんだが
少しくらい間が空いてていいだろ。明智だって情報封鎖くらいするだろうし
まず秀吉が明智方の使者の情報が光秀の策謀と疑わず偽情報の可能性を微塵も考慮していない時点でお察し。
情報封鎖なんてしてないしむしろ早く広めたいだろ
信孝軍は情報が伝わったことにより脱走兵が相次ぎ動きがとれなくなったし
>>183 微塵も考慮してないのはドラマの話だろうが
そんなもん一時的にすぎんだろ。信孝らが動けなかったのなんて兵力が揃わなかったってだけだろうし
時間がたてば家康や柴田も体制を整えてくる。つうか丹羽や摂津の諸侯や明智与力の丹後・大和衆なんて、
単体では兵が大してないだけで、外から光秀を殺しにやってくる奴が来たらあっさり離反するだろうし(実際史実でそうだった)
情報を封鎖して明智が中央で好き勝手やってる方が遥かにアドバンテージ作れるだろ。
特に明智は朝廷を利用して土台となる権威を足元から固めていこうと考えてたみたいだしな
>>185 微塵も考慮してないからこそ秀吉は敗報を受け取ってその日のうちに毛利と和議を結んでさっさと中国陣を引き払って
早足で姫路まで戻ってきたんだろ。
>>186 万近くの兵動員して寺焼き討ちにして
その後親王もいる二条城攻め滅ぼして
貴族もそれを日記に書いてる状態でどうやって情報封鎖すんだよ
つか情報隠してどうやって畿内をまとめるつもりなんだ
逆だろ信長の死体を見つけられず信長を殺したという情報が伝わりきれなかったから
秀吉の流した信長は生きているという偽情報に足元をすくわれてしまった
>>187 6月5日に秀長が丹波の夜久主計頭宛てた書状に、家臣を通してもらった礼みたいな事が書いてある。秀吉が第一報を受けて情報収集に動いてたって事だろうな
>>186 違うよ信孝軍は長宗我部征伐のためにすでに兵を集めてたんだけど
変の情報がいち早く伝わったために脱走兵が相次いで秀吉軍と合流するまで何も出来なかった
もし光秀が情報封鎖出来てたんなら信孝軍単独で光秀と戦うことも出来た
>>191 そうなん?まあ、往復してるとか書いてあったみたいだから早過ぎとは思ったわw
光秀を本人には気付かれずに謀反に導き、毛利と早期講和することを約束させ
上杉には勝家の足止めを頼み、有楽斎に信忠を確実に自刃させるよう工作し
長秀には信孝が単独で光秀と戦わないよう足止めさせ、畿内の豪族には光秀に協力しないよう約束させ、
細川、筒井を裏切らせ、その上で中国大返しの準備を進める
これを誰にも気付かれず信長が本能寺で孤立すると分かった僅かな時間でやってのける秀吉は神
>>194 秀吉がそんな事を実際やったなんて史料はないんだが。
単に光秀が馬鹿すぎただけじゃん。
>>188 だから少しでも情報伝達遅らせるような手法を光秀が講じてるはずだろ
>>192 いや
>>186の通り。信孝軍なんて寡兵でしかないから
初めから単体で明智と戦える戦力なんてない。
長宗我部制圧なんて十河や河野など織田方に与力する在地兵力頼みだから信孝とか丹羽とか寡兵しか動員されてないし
秀吉が備中を立ったのは6/4で
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日〜10日かかってる
これでは特別速いとはいえまい
>>194 >>光秀を本人には気付かれずに謀反に導き
光秀は秀吉と協力して信長を殺す予定だったのが、秀吉が主殺しの汚名を光秀に一身に背負わせて
明智が孤立化したために、騙まし討ちされる形で明智は殺されただけだろ。
>>毛利と早期講和することを約束させ
何それ?約束って?
単に毛利がたまたま運よく和議に応じてくれただけじゃん。
>>上杉には勝家の足止めを頼み
本能寺の頃秀吉が上杉と接触してる書状なんてねーよクズw
>>有楽斎に信忠を確実に自刃させるよう工作
いつそんな事を?
>>長秀には信孝が単独で光秀と戦わないよう足止めさせ
そんな事やってねーよアホ。丹羽らは単体で寡兵すぎて秀吉らと協力するまで明知と交戦できなかっただけだろうが
>>畿内の豪族には光秀に協力しないよう約束
最初から主殺しの汚名を秀吉が光秀を騙まし討ちする形で負わせたんだから光秀に味方なんて集まるわけねーだろクズw
>>細川、筒井を裏切らせ、
光秀が秀吉の策謀によって主殺しの汚名を背負って明智の与力が明智を見放しただけじゃん。
>>その上で中国大返しの準備を進める
秀吉はそもそも中国大返しなんて大袈裟な事全くやってない。10日かけて200キロで一日20キロペースだから普通に遅いくらいだよ。
>>信長が本能寺で孤立すると分かった僅かな時間でやってのける
それは何に書かれてるの?
199 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 22:09:07.12
>>167 だから秀吉と光秀が篤い契りを交わし合同で信長を一緒に殺しましょうってことだったのならば
光秀が焦って細川なんかに援軍頼まないっての
光秀は11日間都で秀吉の到着を待っていればよかったんだし
武装して秀吉を討つべく大山崎に出かけたりしないで非武装で都で待ってたでしょうよ
だいたい光秀と秀吉って気が合いそうにない同僚なのに
色々無理な推測だなあ〜
戦国最大の武装勢力石山本願寺攻略後担当の織田家筆頭重臣佐久間信盛は暴君信長にイチャモンつけられ追放財産没収。明日は我が身と重臣・外様大名はビビった。気の利く同僚の光秀が本能寺で出際良くやってくれるまで安眠できなかった。本音はみんな感謝の念で一杯だった。
光秀自身が何もいってないんだから秀吉と協力関係にあったわけがない
その他の条件も一つとして出来なければ計画が破綻する
第一信長が孤立するとわかってないのにどうやって計画立てるのよ
6/2 前右大将正二位織田信長、惟任光秀の弑に遭ひ、本能寺に薨ず、従三位左近衛権中将織田信忠、誠仁親王及び王子(和仁)を禁中に移し奉り、
二条御所に拠り、光秀の兵と戦ひて、自殺する
6/3 三好康長、京都の変を聞き、阿波より河内に帰る
長岡忠興、備中に出陣せんとし、是日、其先鋒、丹後宮津城を発す、京師の変報を聞き、兵を班す、
6/4 羽柴秀吉、毛利輝元の属城高松を囲みて備中に在り、京都の変報至る、秀吉、織田信長の訃を秘し、輝元と媾和す、城将清水宗治自裁す、
6/5 北畠信雄、日野城を救はんとして、兵を近江に出す、前田利長、途に近江にありて、信長の訃に接し、越前に帰る 神戸信孝、惟住長秀、大坂に津田信澄を殺す
羽柴秀吉、摂津茨木城主中川清秀に答書して、織田信長父子難を免ると称す
徳川家康、惟任光秀を討たんとし、軍備を警しむ、
6/6 羽柴秀吉、播磨姫路に還る、
故織田信長側室小倉氏、美濃崇福寺に、信長、信忠父子の霊牌を安置す
6/8因幡鹿野城主亀井茲矩、羽柴秀吉に謁す、秀吉、織田信長に禀して、之に出雲一国を許す
然るに毛利輝元と和し、出雲を以て輝元に与ふることを約せるに依り、茲矩をして、更に他国を撰ばしむ
茲矩、琉球を請ふ、秀吉、之を許す、
6/8柴田勝家、兵を率ゐて越中に入り、上杉景勝の兵と戦ふ、景勝、属将越後色部城主色部長実に書を与へて、
京都の変に依り、勝家等の退陣せるを報じ、機に乗じて、越中に馬を出さんとすることを告ぐ、
越中の諸将、上杉景勝に書を遺り、織田信長の横死に依り、国中動揺せるを以て、兵を出さんことを請ふ
柴田勝家、森長可等軍を退く
6/9 羽柴秀吉、播磨姫路を発す、摂津尼崎に抵る、
6/11北条氏政、書を瀧川一益に贈りて、京都異変の真否を問ひ、一益に対して、二心なきことを告ぐ
6/12羽柴秀吉、池田恒興等と議し、高山長房、中川清秀を先鋒とし、使を大坂に遣して、神戸信孝を迎ふ、富田に陣する
6/13神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀と山城山崎に戦ひ、大に之を破る、光秀走りて、勝龍寺城に入る、逃れ出でゝ途に土民に殺さる
203 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 22:17:24.62
>>200 だったら皆がこぞって都の明智光秀に援軍を差し出したでしょうよw
どうでもいいけど、なぜ明智光秀が安土城の信長の財宝を奪って
自分の坂本城に運び込み財宝横領したことはスルーなの?
光秀が織田家家臣の総意を受けて立ち上がった君子ならば
織田家の財宝を勝手に全部わたくしものにして横領していいわけがないでしょうよw
本音と建前は違うのよ。
>>199 >>秀吉と光秀が篤い契りを交わし合同で信長を一緒に殺しましょうってことだったのなら光秀が焦って細川なんかに援軍頼まない
なんでそうなるんだ?味方は一人でも多いに越したことねーだろ。まして秀吉が自分を殺しに諸侯連れて戻ってきたんだし
柴田も時間がたてばくるだろうし
>>光秀は11日間都で秀吉の到着を待っていればよかったんだし
中央で主権をかためようとしたことと秀吉と協力してた事は何も抵触しないだろ。
>>武装して秀吉を討つべく大山崎に出かけたりしないで非武装で都で待ってた
そりゃ秀吉が自分を殺しに諸侯を連れて戻ってきたんだから、非武装とかありえないだろ。
>>だいたい光秀と秀吉って気が合いそうにない同僚
根拠は?
>>201 状況から考えれば明智単独説は余りにも不自然だろ
>>164-168 >>その他の条件も一つとして出来なければ計画が破綻する
明智単体での計画なら破綻は必至だが、秀吉明智共犯なら成功は確実だろう。
失敗するケースこそ秀吉からしたら見当たらない。
失敗しても明智が勝手に謀反を起こしたと秀吉が弁明可能だし。
>>第一信長が孤立するとわかってない
なんでだ?明智が信長を殺せれば明智を主殺しの犯人にして大義名分獲得
明智が信長を殺すのに失敗すれば、明智が信長に殺されて自分は証拠なしなので
ライバルが減ってその分自分が出世
どっちにしろおいしい話だと思うが。
財宝だって暴君信長が敵から部下に略奪させたもの。単独でやっちゃた以上独り占めは当然の権力。
>>174 >早馬を乗り継いでやっとなんとか到達可能な200キロ以上の距離
200キロを1日半なら、200/36=5.555で、平均時速6キロで余裕だよ。
>なぜか光秀陣栄と秀吉陣営を間違えるというありえない事態
京都常駐の部下からの知らせが先についたので、光秀からの使者を待ち伏せしたんだろう。
>本当かどうかもわからん情報を秀吉が鵜呑みにして
同じように「変」を知らせる情報が複数とどいたら、本当と信じてよいだろう。
>秀吉が首謀者としないと不自然すぎる
秀吉を首謀者と考えるほうが不自然。
>その日の内に真偽も確かめず毛利との和議を進めて
だから複数の情報が(ry
>なじみの京都の商人、京都常駐の部下
そんなの名前は知らんけど、いたのに決まってるだろ。
秀吉は「天才」なんだろう(w
だーかーら
なんで光秀は黙って殺されたのよ
一言秀吉と共謀してましたって言えばいいじゃん
>>200キロを1日半なら、200/36=5.555で、平均時速6キロで余裕
昔の情報伝達にはそんな速い伝達手段はないし、休憩も食事時間も無視したアホ乙
それよりも、まるで光秀が秀吉に自ら仕えるようにすぐに情報が発信された事が不自然
>>京都常駐の部下からの知らせが先についたので、光秀からの使者を待ち伏せした
>>同じように「変」を知らせる情報が複数とどいた
根拠は?
200キロの同じ道のりを秀吉は10日もかけて戻ってきたのにわずか1日半で簡単に使者が到着とかありえんだろ。
軍隊を率いてる事によるスピードへの影響はかなりあるだろうがそれでも早馬で三日半くらいはかかっていい距離
>>211 何言ってんのよ秀吉軍単独で光秀と当たったわけじゃないのよ
信孝、信雄軍や信長の敵討の名目で集まった畿内勢力がなかったら普通に秀吉負けてたよ
一言秀吉と共謀関係だったといえば連合軍壊滅するし
互角以上の体勢で秀吉と当たれるのになぜそれを言わなかったのよ
>>213 そんなもん秀吉自身が主殺しの光秀を討つ大義名分掲げて戻ってきたら
普通に直接的に信長と信忠を殺し京と安土を制圧してそこに居座ってた光秀を主犯と見てうとうとするだろ。
秀吉は実際に手を下していないんだし証拠も何もないし直接信長信忠を殺し安土京を占領した光秀を犯人とみるだろうな。
誰かにやらされてやったとか、誰と協力してやったとか、信長信忠を殺した張本人が言っても讒言にしか聞こえないだろうし
その程度で光秀が話も聞いてもらえないほど孤立するんなら
手取川の戦いで勝手に帰った秀吉なんて話にならんな
そんな曖昧な理由で細川にすら言わないなんてありえねーよ
少なくとも畿内の豪族には言わない理由がない
秀吉も協力者だから安心してこちらについてほしいと
それで後に敵対した勝家や家康がこの話を取り上げないわけがない
>>215 その二つがどうつながりがあるのか不明
>>216 いったかもしれんけどもう既に大勢が秀吉方に傾いてて光秀を見限っただけかもしれんし
秀吉も摂津の諸侯とか織田旧臣に書状ばら撒きまくってたからまぁどっちの言う事を信じるかって話になって
数が多く圧倒的に優勢な秀吉方を選んだんじゃね
>>217 対柴田や徳川に関しては
明智からすれば自分が信長を殺したことに変わりないからそれを言ったところで弁明にもならんし
敵を減らす事にも繋がらない。
対畿内の諸侯に関しては
>>218の通り
>>215 その程度とかいうけど基本的に部下以外の敵対関係とか協調関係にあるだけの連中に弁明したって
何の証拠もないし
秀吉の言う事とどっち信じるんだって話になるだけだよ。実際言ったけど信じてもらえんかっただけかもしれんし
>>218 だから勝家や家康がその話を取り上げないわけがないって
家康なんて信雄担いで秀吉と戦ってるhんだぜ
本能寺の変が起きた時点で秀吉からすりゃ後は光秀を主殺しの汚名を押し付けて喧伝しまくって味方をかき集めればいいだけだし
最初から勝ったようなもんでしょ。池田・高山・中川ら摂津の諸将は
本能寺前時点で秀吉が光秀との政争勝利の結果から秀吉派軍閥だし中川なんて天正8年時点で兄弟の契り結んでるほどで
光秀側は主殺しの汚名背負ったせいで細川・筒井ら与力連中に背かれ信雄・信孝・丹羽ら周辺諸将も基本みんな敵。
ありえないタイミングで信長が光秀に殺されたおかげで棚ボタ的に主殺しの敵打ちの大儀名分手に入れて
それを利用して次々に勝手に味方が増えたし、信長が殺されてから、わずか1日半でその報を知る棚ボタっぷり。
しかも毛利も都合いいタイミングで即座に難航することなく和議に応じてくれたし
光秀からして信長信忠を殺し京や安土を占領した時点で
敵である事が確定的な柴田や家康に弁明したって聞き入れるわけがないと思うが
>>223 弁明じゃなくて秀吉がもし信長を殺した片棒担いでたなんて話が少しでもあれば
秀吉と敵対した勝家や家康がその話を持ち出さないわけがないっての
>>225 信長や信忠を殺した主家崩壊の極悪人である光秀の言う事なんて他の連中が聞き入れるわけないし
その主張をもしされても、他の連中が秀吉の懇意になる根回しで隠蔽されただけかもしれんぞ
他の連中からすりゃ結局どっちの味方をするのが得になるかってだけの話だし
少なくともそれを言えば信孝軍との合流阻止が期待できるし黙ってる理由がない
細川に自分は引退して自分とあなたの子供に後を任せますなんて口からでまかせ言うような人がなんで言わないのよ
信じるようが信じまいが言って損になるようなことなにもないのに
そりゃ言ったかもしれんが信じなかったってだけじゃないの。
信孝や細川から見ても所詮光秀は主君を殺したことには変わりないし
直接的に手を下した事で100%犯人である事が確定的な光秀の言う事を信じるか
関わっている可能性があるだけで、全く証拠も0で、何より味方がうじゃうじゃ多くてさらに増えている
主殺しを討つ大義名分掲げて京にやってきた秀吉の言う事どっち信じるかって話になるだけだし
だから言ったんなら信じようが信じまいが小牧長久手や賤ヶ岳で確実に開戦の口実に使うって
それこそこれ以上ない大義名分になる
光秀が誓約書も取らずに口約束だけでそんな大計画実行したアホってことになるな
>>229 >>219>>220>>226 あと、信雄とかが秀吉の事を天下之儀に対する恣の振る舞いとか諸大名宛に言ってるのは
本能寺の変の時の策謀も含まれてるかもしれんぞ。
>>230 昔の時代に誓約書なんてあるのか?アホというなら単独犯のが遥かにアホだろう。
あるいは誓約書の履行届けに当たる書状を光秀→秀吉に飛脚で送ったのを
秀吉が逆利用して100%信長が殺されたと見て備中を引き払ったのかも知れんぞ
先に天下を取った際にはお互い従おうねぐらいのことは調子のいい秀吉は光秀に言っていたかもしれない。楚漢三国志程度の
教養は当時の武将はあり天下人の夢自体は
あった。下克上の時代で騙されたり裏切られたりする方が悪いぐらいの感覚。策士が英雄。人望さえあれば裏切りも正統化できる。秀吉も家康も天下人の相続権を被保護者から奪った。武士の絶対的忠君思想は江戸時代のもの。
切れ者のはずの光秀が孤立するなんて有り得ないと言いつつ
孤立する可能性も考えずに秀吉に騙されたアホだということにするんかい
三流仮想戦記だなw
秀吉がそこまで卑怯者だと光秀は予想してなかったって事だろうな
両者で政権を作る予定だったのが、主殺しの汚名背負わされる形で秀吉に全て騙まし討ち泥棒されたと。
>>235 秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
単独で事に当たったのはチャンスがきてから実行するまでに時間がなかったのと
謀議することによる発覚を恐れたから
細川や筒井にもすら何にも言えてないのにむしろ敵対関係にあった秀吉と共謀するとか不自然すぎ
ようは信長が無防備な状況の時が分かればいいんだから、秀吉が信長の「御動座」を要請してた
中国攻めの援軍の時期に狙い撃ちすればいいのだから、その時期は秀吉次第で操作可能だろ。
細川や筒井は当初は、協力する予定だったかもしれんし言ったかもしれんが信じなかったってだけじゃないの。
信孝や細川から見ても所詮光秀は主君を殺したことには変わりないし
直接的に手を下した事で100%犯人である事が確定的な光秀の言う事を信じるか
関わっている可能性があるだけで、全く証拠も0で、何より味方がうじゃうじゃ多くてさらに増えている
主殺しを討つ大義名分掲げて京にやってきた秀吉の言う事どっち信じるかって話になるだけだし
山崎の戦いで勝てたのは信孝軍と合流できたことが大きな意味を持つがそれは偶然にすぎない
秀吉軍よりも京に近い位置にいた勝家に対する用意がない
勝家が上杉の調略に手間取ったのは偶然前日に魚津城の守将が全員自刃したことによる影響が考えられる
光秀が他将に捕らえられたら事が露見する可能性があるのにむしろ積極的に多将に救援を呼びかけている
信孝軍と同じく脱走兵がでて毛利に攻め滅ぼされる可能性がある
毛利がグルなら清水宗治を殺すのは不自然
滝川一益のように周りが全て敵になる可能性がある
当時の人間から情報を受け取った速さや中国大返しについてなんの疑問も持たれていない
光秀が黙って討たれたことの不自然さ
勝家、家康、信雄などのちに秀吉に敵対した人間が秀吉黒幕説についてなんの発言もしていない
秀吉が発覚のリスクがあるのにそんな計画を立てる必要性が薄い
中国大返しが早くて不自然だといわれても不可能な速さでないし
それ以上に秀吉黒幕説のほうが不自然だわ
中国大返しなんて全く早くねーじゃん
10日かけて200キロなんてむしろ遅いくらいだよ
柴田に対して用意がないってのは当たってるけど明智派閥と秀吉派閥が結託すりゃ容易にしめ出せるからな。
対上杉を考えれば佐々くらいは残す必要があるだろうし、第一柴田軍に対する対策を考え出したら、
光秀単独説の方が遥かに対柴田の対策が全くできてない不自然
明智が多将に積極的に信長殺しを喧伝しているのは、明智としては確かな勝算があったということだろ。つまり
孤立無援な状況下で主殺しの汚名を一身に背負うのではなく、秀吉軍との協力の元、信長を殺したと考えれば矛盾がないしつじつまもあう。
対毛利を考えた場合でも、中国戦線で前線に出ていた秀吉と協力して信長を排除したと考えるほうが遥かに無理がない(史実のように毛利と秀吉が協調関係になる可能性なんて
容易に想像がつくし、光秀が単体で行ったのなら対毛利の外交でも、距離的問題から、孤立する危険性が高い)
あと、滝川一益は周りが敵になるどころか上野の国人は悉く滝川についた上に下野の佐野氏ら反北条の国人も神流川合戦で滝川方について緒戦で戦歴豊富な氏邦勢を退けるなど敢闘してる。
当時の人間から情報伝達速度に対して疑問が持たれなかったのは、一々日記帳みたいに公式記録として大々的に日付発表をしなかっただけだろ。
秀吉はその時点でもうかなりの国力と地位にいたのだから、誰か疑問を持ったとしても迂闊な事を無根拠に口に出せるものではない。
光秀が黙って討たれた事や勝家、家康、信雄などに言及されてない事に関しては
>>219>>220>>226のように全く問題ない。
発覚のリスクというなら、明智光秀が単体で実行した時のリスクの方が遥かに修繕不可能な上に、確定的に存在するリスクが大きいので、こちらの方が不自然。
状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
結論は出てるじゃんwつまり光秀はアホだったんだろ
>>245 そういうこと
光秀がアホじゃなく騙されたってんなら
今度はこんな不確実な計画立てた秀吉がアホだってことになる
光秀自身が何にも用意できないほどの急な計画だったのに
秀吉がなにか用意できるわけねーじゃん
黒幕論者の大半に当てはまることだけど
自分の都合のいい事だけ言って全然疑問に答えられてねーな
光秀は確かに切れ者だが、秀吉と比べたら明らかに劣るんだよなぁ
戦国最高の天才と比べるのは酷かも知れんが
いくら信じないから!と強弁してみても
何の確証もないのに光秀が秘密漏らさない事が前提な時点でお話にならない
何故光秀がアホだった、ではなく秀吉が凄すぎた、と考えないんだ?
秀吉はそれほどの才能だぞ。あの怪物家康ですら秀吉が死ぬまでは何も出来なかった。
家康が大阪に戦を仕掛けたら、死にかけてた秀吉が元気になっちゃうだろw喜ぶだろうなー。自慢の大阪城で攻城戦
真偽を確かめず引き返したのはおかしいって言うけどさ、
黒幕が秀吉なら、なおさらじゃない?
事が露顕して信長生きてんのに、ノコノコと引き返したら…
秀吉か黒幕だとしても真偽を確かめないと動けないのは同じだよな
光秀が計画失敗して信長が偽情報ながして秀吉の真意を探ろうとしたのかもしれないし
>>251 秀吉なんて棚ボタと漁夫の利火事場ドロの連続で勢力広げただけだからな。結局本人の実力で勝ったわけじゃないから徳川に大敗して勝手に崩れて滅亡したんだろ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
256 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:20:51.29
敵対勢力でも使うというより、そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
秀吉が天下取れたのは100%棚ボタでしょ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
260 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:25:01.38
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
262 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:28:11.54
なげーんじゃボケ!
>>251 ○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
潰そうと思ったら信雄・家康に135000の大軍で短期決戦挑んで1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れず諦めて納馬予定だったのが、本願寺顕如を介しての必至の取り成しと放火などの示威行為の応酬が実って
信雄がビビッて和議に応じただけ。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349929455/481-487 のように全力の戦力思いっきり投入しても全く歯が立たず
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
小田原合戦は陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し 小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
こんな規格外な兵力比と抗戦派和平派分裂状態で重臣連中ともども寝返り自落逃亡の応酬にもかかわらず秀吉方は上記の戦果なので
家康や伊達のどちらかでも味方なら大敗してたのは必定
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349929455/481-487のように家康打倒が最終目的なのがわかる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる) 伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
またコピペか
269 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:38:59.16
都合のいいところだけ公家日記は正しいとかなw
都合の悪いところは全部秀吉が作った捏造記事で
こいつの妄想記事のほうが当時の一次史料よりもずっと正しいそうだ
>>249 秀吉は馬鹿でしょ。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
天正10年の高松攻防前の鴨城攻防戦でも
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事
と秀吉方が敗戦してるのがわかる。
また秀吉が備中・美作・備前戦線に加わりだす天正9年頃から、それまで単独で大国毛利相手に辛川合戦・戸倉合戦・祝山城などで大勝するなど優勢だった宇喜多が
備前児島・忍山城・篠茸・宮山城が奪回されだし宇喜多家も窮状に追い込まれてる。
あと、秀吉が毛利を単体で攻めきれず信長に援軍を請うたというのは陰徳太平記のデタラメくさいと思ってたが、山本浩樹氏によれば一次資料による裏付けがとれる
ようで、「信長の御動座」を待ち一気に決着をつけるつもりだったらしい。
自力では4万石程度の南条に苦戦したり宇喜多にもガチンコ敗戦晒す雑魚毛利も地力じゃ攻めきれず信長の援軍を仰ぐ始末だし
吉川元春6000にビビッて馬の山の対陣で逃げ出したのも、講談臭いと思ってたが、山本浩樹氏の論文にちゃんと書かれてるからね。
>>251 確かに秀吉は凄いよな。135000の大軍でわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで10000人殺され
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚毛利に防衛戦ですら3000人殺され
あげくのはてには全国から235000の大軍動員してわずか34500の北条に緒戦の駿河伊豆国境地帯の戦争で敗戦し
重臣一柳や堀尾の子や前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけ
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様ですらこの醜態っぷりw
当時はバカにしてたけど明智の憲ちゃんの本てかなりレベルが高かったんだなと
>>1の本を立ち読みして思った
本能寺の変で光秀が秀吉と共謀してた場合は完全に秀吉としても光秀としても完璧な計画だったといわざるをえない。
だが光秀として計算外だったのは秀吉が余りにも卑怯で騙まし討ちされる形になった事だろう。
逆に本能寺の変で光秀が単独犯だとすると、あんな四面楚歌な状況を自ら作り出した馬鹿=光秀という事になり
秀吉にはなぜかありえない偶然だけが訪れまくったミラクル棚ボタ武将という事になる
>>269 捏造記事ってなんだよw
事実を羅列してるだけじゃねぇかボケw
>>253-254 光秀と共謀なら事実を確かめるまでもなく光秀の履行届けに当たる書状を、
明智→羽柴のルートと羽柴→明智のルートの中間地点くらいで受け取り
あの超長距離を1日半で情報が行き届くというのもありえない話ではないだろ。
明智が嘘を書いてて信長が生きてたら、それこそ明智としてもそれが露見してトンデモない目にあうのは目に見えてるし
単独犯のときの秀吉の事実確認とは必要度が全然違うだろ。
わざとピントずらして話してるのかなこの人
本能寺の変のあと様々な策謀を廻らし織田家を崩壊させた秀吉の性格からして
明智秀吉共謀&騙まし討ち説は容易に想像がつくからな
つか今起きたのか…
>>269 秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
284 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 15:02:43.93
状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
常識的に考えて光秀が単体で本能寺を行ったとしたら光秀方としては情報の漏洩
はすなわち死に直結するわけで、毛利への使者もわざわざ秀吉に見つかりやすい山陽ルートではなくより安全な山陰ルートか
それでなくとも高松近辺からの接近は避けようとするはず。
しかも機密情報握った使者がなぜか、毛利方陣営と羽柴方陣営を間違え、しかもその本当かどうかわからん情報も秀吉は鵜呑みにしてさっさと陣を払っているあり得ない事態。
備中〜京をわずか1日半で情報が駆け抜けるというのもありえないが、それ以上にありえない奇跡ばかり起きているのが本能寺の変。
状況から考えて秀吉と光秀が共犯で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って主殺しの汚名を一身に着せたとしか考えられない。
>>光秀が事前に情報封鎖なんてしようがない
なんでないのか不明。少なくとも情報伝達を遅らせるくらい余裕でできるだろ。200キロも離れた相手に1日半で伝達するとか
光秀が秀吉を味方だと思って信用して使者を送ってた証拠だろ。
水や食料がないのに兵士が10日も行軍するのは不可能。
長距離間の行軍は兵士の水分やカロリー消費から考えて相当な食糧水が必要
水や食料を事前に準備してたから10日に及ぶ行軍を行っただけ。それこそ秀吉が本能寺の変をあらかじめ予期して準備してた証拠
>>光秀がバカに思えるのは秀吉が大成功したからでそれは秀吉の実力だろう。
そもそも秀吉は10日かけて200キロを走破しただけで「大返し」なんて大袈裟な誇張のつく芸当なんてやってないし
柴田も信雄も信孝も丹羽も池田も中川も細川筒井滝川など、明智軍12000程度以外全て敵。
最初から明智単体での謀反なら成功するはずのない愚かな芸当としかいいようがないわけ。
秀吉はその当時で長浜播磨但馬因幡備前美作備中淡路とすでに200万石級の大大名(宇喜多は直家死後幼君になって
秀家を擁する秀吉との一体化が一層進められていた)
さらに摂津の諸将も秀吉が光秀との織田家中での政争勝利から秀吉方軍閥で、中川なんか天正8年時点で兄弟の契り結んでる
大返しなんていわれるほどの大袈裟な芸当やってないし、軌跡の3年なんて事も全くやってない。ただ織田家が、光秀に当主と嫡男を殺されたせいで無主状態になった所を
主君を殺した敵打ちの大義名分と三法師の後見役という立場を利用して織田旧臣たちを味方につけるなど火事場ドロしただけ。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
事前に準備もしないのに備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるのはありえないわけ。
光秀が単体で謀反起こしたというなら秀吉は敵になり、毛利に向けた使者が秀吉の陣営に都合よく飛び込むというのもありえないわけ。
さらに秀吉がその情報の真偽を確かめる事もなく、ただちに陣を引き払ってるのもありえない。もし仮にそうだったら秀吉は誠に馬鹿としかいいようがない
(たまたま光秀が信長を殺した報が正確だったから結果オーライだったが、偽情報なら秀吉は毛利に後ろ見せるだけの馬鹿になる)
そもそも大返しが凄いなんて一部の秀吉マンセーの馬鹿しか言ってないし10日で200キロだから
速いどころか遅いとしかいいようがない。
長い上に内容に反論してもズレた答えしか返ってこないから
もう読み気しねぇ
>>288 お前何回も論破されても全く論拠にならない反論しかしないから
コピペにされてるだけだと気付けよ
>>288 お前は自分が論破されてることに気付け。
>>291 アンカの付け方知らないのかw
都合の悪いことは全部無視しているじゃん
全部アンカをつけて的確に反論せえよ
頭悪いんじゃないのか
論破以前に議論してない
光秀がだまって殺されるわけがないという反論に対してでも
信じないから言わなかったというだけじゃ誰も納得せんよ
最低でも言ったけど信じなかったという程度の事実でも示さないと
それじゃ自分の都合のいい妄想言ってるだけと言われても仕方ない
>>297 だからその程度じゃ自分に都合のいい妄想言ってるだけだと
同盟の事実があるなら光秀にとって最大の武器であり秀吉にとっては最大のアキレス腱
それを使わないなんてことは光秀が単独でこと起こしたということ以上に異常な事態
それに対する反論がろくにできておらずただコピペで押し潰してるだけ
つかもう疲れたわ
長すぎて読む気しないけどそもそも秀吉が黒幕って根拠は何なの
三行以内で頼む
だから反論になってねって
>>303 とりあえず議論をするというなら人のレスくらいちゃんと読もう。
これ触れたらイカン人や…
本能寺の変で光秀が秀吉と共謀してた場合は完全に秀吉としても光秀としても完璧な計画だったといわざるをえない。
失敗する可能性なんて皆無だからな。それこそかなり計画的に行われた完全犯罪だろう。
だが光秀として計算外だったのは秀吉が余りにも卑怯で主殺しの汚名を背負わされる形で騙まし討ちされる形になった事だろう。
逆に本能寺の変で光秀が単独犯だとすると、あんな四面楚歌な状況を自ら作り出した馬鹿=光秀という事になり
秀吉にはなぜかありえない偶然だけが訪れまくったミラクル棚ボタ武将という事になる
本能寺の変で光秀単独犯だとすると、秀吉は1日半で情報が軽々届く程度の道を10日もかけてやっとこさ戻った
トンデモないノロマ武将と言う事になるしな。軍隊を率いている事による遅さも勿論考慮するにしても
かなりのノロマに変わりはないな。
季節も悪かったし、かなり脱落者もいたみたいだし、あれくらいが限度でそう
万単位の軍と使者一人と比べてどうする
秀吉軍も初日は毛利から逃げるために早かったが
あとから疲労と情勢をみるために遅くなってる
軍隊の行軍速度は夏が一番速いでしょ。あの時代はかなり気温が低かったみたいだし。
当時の軍隊の平均行軍速度は一日50キロ程度だったらしいから平均速度から比べても
普通に中国大返しは遅いわな
雨がそれなりに降る季節だし、川を渡るにしても渡れる場所も限られるだろうし、橋は大勢渡れない
スピードは鈍るんじゃないかい
雨は大して影響ないだろ。つか天正12年の6月中旬から楽田を引き払って
大阪の帰る岐路の時とか伊勢楠本(松坂市)〜大阪とかなりの距離をわずか2日で行軍してるし
このくらいが平均的スピードって事だろ。
条件は色々違うが浅野内匠頭の刃傷事件の際に
赤穂藩士は4日半で600キロ移動してんだ
1日半で200キロ手のも無理じゃないだろ
>>316 そんな距離を10日もかかってひいひい言いながら戻ってきた秀吉w
どんだけノロマなんだよw
赤穂のは早篝で、担ぎ手を変えながら昼夜飛ばしたから。
>>319 なら篭じゃなくて一人だけなら楽勝じゃね
4日眠らずに走るのかいw
まあ普通の町民でも東海道を一日40キロ歩いたっていうから昔の人は健脚だよな
飛脚の場合と軍隊とで7倍も速度に差が出ないだろ。
軍隊で急行軍する場合でも飛脚と同じく途中で馬を乗り継いだりすればいいし
また一人の飛脚の場合と違って途中を襲われたりする危険が少なく
安心して大街道を思いっきり走れる。
現に本能寺の変の家康の時でも少数でいたためにこそこそ時間をかけて和泉国堺→三河大浜に戻るのに
二日半〜三日もかかったわけだし
普通に出るだろ
マラソン選手一人の走りと二万人の町民全員の非難訓練とくらべてみ
マラソン選手一人と普通の町人とのスピード差が7倍もあるわけないし
飛脚と戦争のプロである軍隊の差がそれと同等もあるわけがない。
せいぜい3倍程度だろう。
明智の憲ちゃんなんかは一日70キロも軍隊が移動できるわけがない!
だから秀吉軍は一日早く出発してたんだ!と主張してるな
まぁ俺は二万ほどの証言者が残ってしまうし日にちの誤魔化しはないと思うけど
本城惣右衛門覚書みたいな事になるかもしれないし
秀吉軍が最大速度で移動してたのは1〜2日目だけね
あとは丸一日休んだり畿内の豪族の切り崩しに動いたりしてる
>>327 あれ全員が70キロ移動したわけじゃないよな
330 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 20:41:26.20
話しぶった切って悪いけど何万人が移動したの?
普通に飯やウンコどうした?
南条や宇喜多は残されてるとして
播磨但馬因幡淡路長浜衆でおおよそ2万5000〜7000くらいかと
農村でも2万人のウンコ肥料は多過ぎだな
排便処理なんてその当時の軍隊皆が抱える問題だしこの局面だけをどうこういうのは無意味だろ。
毛利の高松城の後詰の時とか柴田の魚津攻めのときとかそれ以上の軍勢で遠征してきてるのに。
334 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 21:52:42.55
>
>>331 >
>>332 ありがとう。2万人以上が急に移動。ロボットじゃないんだから飯、水、ウンコなど・・・
やっぱ大返し無理じゃねー。
信長も多聞院日記天正5年2/13条で信忠信雄信孝を始め分国中の兵力かき集めて15万余騎もの
大軍を河内に集めてるのがわかるしな
>>334 整然と戻ったんじゃなく脱落者多くて山崎合戦の時点で一万くらいしか
集まらなかったとさ
山崎合戦が一万しか集まってないわけないじゃん。一万しか集まらなかったというのは姫路着陣の時点だろ。
藤田達雄氏は山崎合戦での羽柴方の動員兵力を4万程度ど推測してたはず。
播磨衆但馬衆因幡衆長浜衆に加え摂津、丹後・若狭の軍勢に信孝・蜂谷など。
明智方はおおよそ12000〜5000程度だったらしい。
10日もあれば超ノロマな行軍だから途中で脱落者がいても普通に追いつけるからな。
実際山崎の戦いで戦ったのは摂津衆や四国討伐軍が中心で秀吉軍はあまり戦ってないからな
忠誠心試すためとか言われてるけど単純に疲労で動けなかっただけかと
藤田達生は妄想混じりだから信用しないほうがいいぞ
藤田に限らず谷口氏も同じような兵力と推測してたはず。
つか1万なんてどこにも書いてねーよ
疲労するほど速い行軍なんて全くしてないんだが…
一日20キロペースだから平均的な軍隊の行軍速度からいったら遅いくらいだよ。
関ヶ原の秀忠軍の方がまだ速いんじゃないか?
ただの無知か
344 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 22:35:56.85
藤田氏の書読んだことないんだけど
2chでの評や秀吉神話覆すて言ってるあたり
アンチ秀吉に近いの?
確かに200キロを10日だから全く早くないわな。
大げさに講談でマンセーされてるだけ。
使者が1日半でつく程度の道のりを10日もかけるとかノロマすぎる。
中川は既に天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結ぶほどの濃密な関係だったし
摂津の他の諸侯も織田家中での長宗我部・毛利など対諸大名への処遇など
秀吉光秀間の派閥抗争においての秀吉勝利に収まり初めから秀吉方の陣営だったという見方が濃厚
最初から秀吉によって仕組まれた計画犯罪だったということだろ
じゃ別に中国大返しに不審な点はないと
勝家に備えて近江の方は割と調略進めてるけどね
350 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 00:19:16.36
コピペ野郎コテつけろよ。あぼんできねーだろうが
漫画レベルの知識と発想
何度も論破された屁理屈を繰り返すノータリン
議論にもなりはしない
秀吉は明らかに絡んでるな。
黒田官兵衛が荒木に拉致られた時に、信長は長政を殺すように命じたり、
手取川の戦い前に柴田のケンカして勝手に帰り信長の不興を買っていたし、
宇喜多直家の降伏を許さず信長が激怒して秀吉を即刻播磨へ追い返したりしてるし、
中国戦線では信長への報告をせずに国人への安堵を発行して地盤作りやる一方で、
秀吉は年初に膨大な贈り物をして信長の猜疑心を宥めようと必死だし。
近江美濃から最も離れていて信長の目が行き届かない場所にいた為に、
信長が突然死んでも動揺しない自らの地盤を作り上げてから信長を殺して自立してる。
353 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 12:57:33.28
明智憲三郎が言うように怨恨説を広めたのは秀吉だった!
ごめん途中で送信しちゃった
怨恨説を広めたのは秀吉だったというのはなかなか説得力があったが
秀吉がなにか工作したとしてもそれは基本的に変の事後で
事前になにかしてたとは思えないんだよなぁ
やってたとしても偶然や他の目的で説明できてしまう
しかし光秀が変を起こした理由が野望説だろうと土岐再興説だろうと怨恨説だろうと、秀吉にとってはどうでもいい気がするけどなー
356 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 16:00:50.80
だよね。
光秀が怨念によって信長を殺したという噂が広まれば何か秀吉が得することがあって
光秀が自分の天下取りの野望によって信長を殺したという事実がばれると
秀吉が何か損をすることがあるとは思えない。
怨恨説を流すってことは同時に信長は恨みをかうような奴ですよってことになるから織田家簒奪の批判を避けられる
光秀がそんな小物だってことになれば光秀関係者の恨みも薄れるかもしれないしね
まぁぶっちゃけ秀吉も動機がよく分からなかったんだと思うが
単に自分が仕組んだ謀反劇を光秀に押し付けるために怨恨説を喧伝によって広めまくっただけでしょ。
自分の批判は避けられむしろ自分は謀反人を打つ正義の忠臣とデッチあげることによって
秀吉は織田家のトップとしての地位を手に入れる格好の名分を得る形となり、自分に逆らう他の連中を殺しまくっただけ。
光秀重臣の佐竹宗実を許してるなんて
朝廷が信長暗殺に加担していた傍証だよな。
この人の妹が吉田神社の兼見の妻だし
天正10年正月に兼見が坂本で光秀と会談したときに
取次ぎしたのが宗実の弟の佐竹弥吉だったし。
この人は秀吉に許され、丹羽長秀に仕えてる。
伊勢貞知は光秀重臣伊勢貞興の従兄弟で幕臣→光秀配下となり
山崎の戦いを記述した山科言経の日記のうちで
山崎での合戦で敗北し伊勢守(貞興)以下30余討ち死と
最初に名前があがるほどの人物だった。
貞知は幕臣→近衛前久に仕えて信長のために島津と大友の和睦に奔走した。
この明智方重臣の家も秀吉は許している、
その他にも光秀騎下の近江の土豪磯谷新右衛門の息子で
光秀が元服名付け親となっていた磯谷彦四郎なんかも秀吉は許している。
木村吉清とかも許してるしな。
津田信勝(盛月)
柴田の部下を斬って信長と柴田の怒りを買った張本人。
秀吉に密かに庇われていたが毛利攻め末期に備中陣にいるのが
信長にバレて責任を取って切腹させられそうになった時に本能寺の変勃発。
秀吉も津田信勝隠匿が露見し終了寸前。
津田といえば 光秀の養子の津田信澄の父も信勝・・・
やはり信長は朝廷・近衛・吉田神社・光秀・秀吉・信孝の謀議で殺されてるとしか思えない。
6/3付 河隅越中守忠清→直江与六(兼続)
昨日 須田相模守方より召仕者罷越
才覚申分 明智所より魚津迄使者指越
御当方無二御馳走申上由来候承候
実儀候 定めて須田方より直使
上申候・・・(略)
光秀が上杉に対して
「上杉殿にとってこれ以上ないほどの格別な御馳走をして差し上げるよう
申し上げるべき時がきたのだと私は承り候」と薦めている。
光秀より上位にいる存在・・・
しかも文章内では明確に書くことを避けている人物がいるのがわかる。
毛利の下にいる将軍義昭ならば、普通に名前を書くか、もしくは大樹公などと書かれているはずである。
光秀の上位存在とは恐れ多くも天皇しか考えられまい。
吉田兼見は本能寺の変を偏神慮と言っている。まさに天皇の叡慮である。
正親町天皇の儲君誠仁親王の元服の際に 信長はなんとワザと鐚銭ばかりを集めてきて
これ見よがしに献上したので朝廷の者たちが憤り非難した。
天守ではなく「天主」と称した安土城を築き天皇を迎える御所を見下げるように位置させ、
天皇のお膝元で焼き討ちとか伴天連追放令を天皇が出したのに京で布教させるとかってありえないな。
そして官職すら拒否する不遜かつ朝廷秩序からの離脱を図る。
しかも信長は天皇が譲位したら官職に付くのも考えてやるかもなぁwなどと脅迫。
おそらく家康接待中の明智に安土城へ来いなどと天皇へ要求するように命じたのだろう。
1573年2月 義昭が織田に挙兵を決意し二条城の堀普請を始めるや明智光秀の与力の山本、渡辺、磯谷らが離反。
義昭は朝廷の改元提案を却下したり、武家伝奏を武家に近い者を使って朝廷認可権を蔑ろにしてきた。
その義昭の元へ光秀与力のうちで反朝廷思想の者は付き従った。
残った明智衆は勤皇だったのだろう そして信長を勤皇だと誤解していた。
そして裏切られた明智衆は長宗我部政策での対立もありもはや我慢ならず光秀に信長討伐を願った。
秀吉黒幕説をまともな研究者が取り上げない理由がわかった気がする
藤田の本とか見ると明らかに文調から秀吉が黒幕といわんばかりだが
直接的なソースがあいまいなのでお茶を濁してる感じだよな。
まぁ秀吉の性格や主家を様々な策謀で簒奪したクズっぷりからすれば
非常に実態に即しているといえるわな
364 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:56:11.57
あと一年信長が生きてりゃ 毛利 上杉 長宗我部 は滅亡してたのにな
黒幕 言うんなら こいつらや義昭のほうが信長に死んでもらいたかったろう
>>355 どうでもよくはないだろ。
どういう理由で謀叛起こしたかによって対応が変わってくる。
それ貼ったの君でしょ
元ネタは藤田氏の秀吉神話をくつがえすかねぇ
読んでないから分からんけど
極悪かどうかは知らんが手際は天才的と言わざるを得ない
これだけの事が出来るなら黒幕で自在に局面を操ってたとしても不思議はないな
天才的というより基地外じみた棚ボタの連続だったってだけだろ
天才的どころか飛脚が1日半で到達可能な距離を10日もかかったり
異常なノロマっぷりとしかいいようがない。
光秀単独犯なら秀吉はトンデモない凡クラと言う事になるよ
明智の放った偽情報の可能性も考慮せず
明智から届いた情報の真偽を確かめる事なく即座に毛利との和議を結んで
行動を起こすというアホな行動を取り
1日半で情報がかける距離を10日もかかってやっとこさかえってきたし
毛利が追撃してくる可能性なんて容易に考えられるのに放置して西に向かってるからね
たまたま偶然の連続で結果オーライなだけで個々の判断でいったら相当な馬鹿としかいいようがないだろ。
だから一報だけでなく続報が次々舞い込んできたって記述あるだろに…
帰って来れなかった勝家や滝川はもっとボンクラって事?そりゃ秀吉に負けても仕方がない
勝家はガチで上杉とやりあってたしなぁ
滝川も北条が襲ってきたし小早川が買収されて秀吉に前面協力するくらい棚ボタっぷりだった秀吉とは全然違うわな
だから勝家がさっさと上杉を〆れば良かったのさ
そんなもん上杉が強過ぎるだけだわ。
名将葦名盛氏もボコられてるし信玄もボコられてるし織田オールスター軍もガチ負けしてたのに
そうそう簡単にいくわけねーだろ。森も長沼城攻防に敗退して北信から撤退して
仁科口にまで上杉方の島津忠直が4月下旬で滞在してるのに
柴田や滝川も不運の連続だっただけで実力じゃ全く秀吉に負けてないどころか秀吉より遥かに上だよ。
柴田なんて勝豊や信雄や美濃三人衆や前田・金森・不破ら与力が篭絡され佐々が越中で動けず信孝が敗戦し孤立無援の状態ですら
勝家の方から攻めかかって秀吉と兄弟の契り結ぶほど蜜月な関係である中川清秀を殺し
秀吉が撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
結局秀吉は他力本願で勝っただけにすぎん。
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
毛利も強いだろwその毛利に圧倒的有利な状況を作ったから秀吉は帰って来れたんさ
その秀吉に出し抜かれた毛利もボンクラだって言いたいわけね?
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
細川が貰った書状4/24の信長書状には信長が来る秋に中国へ出陣する予定だったことがわかる。
しかし秀吉が備前児島で小早川軍を破って備中高山に立て篭もったのを包囲しているとの注進があり
情勢次第で信長も出陣するから幽斎も出陣準備するように。 詳しい話は光秀がすると書いている。
しかし秀吉が小早川を破って幸山城?に包囲していると言うのはウソくさい。
(4/19穂田元清が村上氏に秀吉が備中宮路山や冠山を攻撃してきたが撃退したと報せてる)
ここで関が原の戦いの直前の話を思い出して欲しい。
武断派は家康を西上させるために「三成を大垣城に包囲した」とウソ情報を吐いてる。
自分がいない間に勝負がつくことを焦った家康は急いで西上して赤坂に着陣している。
つまり武断派は家康を騙して呼びこんだのである。
ここでは秀吉がウソを吐いて、信長を呼び込もうとしている。
そして信長は光秀を遠征指揮官として細川らを傘下において西国への先陣を命じている。
秀吉と光秀には、この状況を想定して打ち合わせしていたのではないだろうか。
2/24に勝頼の首が京都に到着し
3/23に多聞院は天皇が信長の敵国の神々を
祈祷により吹き飛ばした神力であり、人力の及ばないものだと書いている。
4/3快川紹喜焼死
4/7に武田征伐から大和衆が大和へ帰国完了。
4/21信長も武田征伐から安土へ到着。
4/23勅使が安土へ着く。多聞院が彗星を見て気味悪がる。そしてのちの加筆で
信長が死ぬ先瑞であったと追記している。
4/25誠仁親王による三職推認提案。秀吉がやっと冠山城を攻略成功。
秀吉の書状が届くタイミングで多聞院も彗星を信長の死の瑞だったと回想している。
これは何らかの謀が秀吉・光秀・多聞院・朝廷の間でこの時期から発動したと考えられる。
実際には但馬平定は天正8年になって光秀の援護を受けながらようやく終わっただけだし
毛利から寝返った宇喜多・南条に毛利が苦戦したせいで、但馬・播磨戦線まで出てこれなくなっただけで秀吉は特に何もやってない。
天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
播磨戦線でも毛利に3000殺されるガチンコ負けして西播磨一帯を占領され尼子衆ぶち殺されてるし
天正10年の高松攻防前の鴨城攻防戦でも
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事
と秀吉方が敗戦してるのがわかる。
また秀吉が備中・美作・備前戦線に加わりだす天正9年頃から、それまで単独で大国毛利相手に辛川合戦・戸倉合戦・祝山城などで大勝するなど優勢だった宇喜多が
備前児島・忍山城・篠茸・宮山城が奪回されだし宇喜多家も窮状に追い込まれてる。
あと、秀吉が毛利を単体で攻めきれず信長に援軍を請うたというのは陰徳太平記のデタラメくさいと思ってたが、山本浩樹氏によれば一次資料による裏付けがとれる
ようで、「信長の御動座」を待ち一気に決着をつけるつもりだったらしい。
播磨口の攻防は信忠ら大軍の援護受けまくってたからな
毛利も秀吉を蹴散らすと兵站の長さと対大友戦を理由にさっさと本国に退却しちまうしかなりラッキーだった
387 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 09:48:58.76
246 :日本@名無史さん:2013/10/19(土) 09:21:46.52
そこそこ切れ者だったはずの光秀があんな勝算のない単独で主殺しをするわけがないと言いつつ
それ以上に切れ者のはずの秀吉がそんな危なっかしい計画立てるとかそっちのほうがありえないわ
じゃそのボンクラの秀吉が黒幕なんて有り得ないでFAですね
>>373 秀吉も光秀も同じ織田家内の者なんだから使者が偽物かそうでないかくらい判別する方法あるだろ
これが敵方の者なら判別に手こずるかもしれんが
それにそれが複数なら尚更
秀吉は苦戦してたのかー
じゃぁ援軍要請も謎でもなんでもないですね
謎が解けました
391 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 10:18:52.93
ボンクラの秀吉に討たれた光秀の脳なしぶりと
ボンクラの秀吉に臣従した家康の脳なしぶりが
良く際立つスレですねw
アンチ秀吉やってるのは朝鮮人なの?
392 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 10:53:18.31
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
秀吉が豊臣家を滅ぼされた事の方が遥かに必然だよ。
実力で切り取ってきたわけではなく、そういった棚ボタ他力本願火事場ドロでしか
戦ってなかったから外様ばかりに気を使いまくり
優遇するハメになってそういった連中が元で一気に崩壊した。
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
山崎の合戦では秀吉方は兵力比2.5倍で明智方は天王山での迎撃を捨てた
山崎を守る形の不利な布陣を強いられてたにもかかわらず被害は羽柴3300明智3000
ランチェスター法則でいえば兵力の2乗=戦力比なので
2.5倍の戦力を有しながら明智軍より多くの損害蒙った秀吉は明智光秀より6.25倍以上戦下手。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
401 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:19:59.97
コピペうざいなあw
誰か読んでるとでも思ってるのか
スレ主はコテハンつけろって
402 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:22:24.50
>>399>>400 >妹人質に出して
うんうん、徳川家康は関ヶ原後に千姫を豊臣家に「人質」に出したんだね。
前田家には珠姫を、京極家には初姫を、天皇家には松姫を、
家康は次々に土下座して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに「人質」に出している。
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
>>朝日姫は家康の人質ではなく正室。正室は権力の強い側が弱い側に押し付ける
それこそ後ろ付けの論法じゃん。
秀吉厨からみて秀康を秀吉の行為で養子にしたとかのと同じ論法で朝日姫は家康の行為と慈悲で正室になっただけとも取れる。
>>関ヶ原後、徳川家は豊臣家に千姫を嫁がせた
これは秀吉が進めてた徳川家直孫と秀頼との婚姻の約束を家康が実行に移しただけって話じゃん
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
毛利は上月を攻め落とし雑魚秀吉軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒
この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった
この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな
信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/3柴田勝家書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
まあ本能寺の時とか秀吉は完全に棚ボタだっただけだけどな
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
秀吉無能すぎる
雑魚毛利相手に防衛戦で3000人戦死の大敗、備前児島や美作でも敗北
アホ信雄相手に135000の大軍で短期決戦挑んで1万人戦死の大敗・蟹江浜田二重掘河波戸木長久保東駒野
前田下市場神戸など格城郭で敗北(特に二重掘合戦では信雄1000に奇襲くらって叩き出され、前田・下市場・蟹江
長久保・浜田など秀吉方本陣の眼前なのに奪回されたりしてる)
小田原合戦の時にも240000くらい規格外の兵力集めて北条34500相手に
小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
秀吉なんて棚ボタと漁夫の利火事場ドロの連続で勢力広げただけだからな。結局本人の実力で勝ったわけじゃないから徳川に大敗して勝手に崩れて滅亡したんだろ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
415 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:48:21.07
>>403 402 :日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:22:24.50
>>399>>400 >妹人質に出して
うんうん、徳川家康は関ヶ原後に千姫を豊臣家に「人質」に出したんだね。
前田家には珠姫を、京極家には初姫を、天皇家には松姫を、
家康は次々に「土下座」して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに「人質」に出している。
416 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 11:55:37.87
>>411 まあ関ヶ原の時とか家康は完全に棚ボタだっただけだけどな
武断派が家康の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず大坂を明け渡して退却
普通に考えりゃ前田や上杉に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、家康に騙された武断派のアホさ加減と豊臣軍の兵力分散と
関ヶ原での迎撃を捨てた恩恵にすぎない。
そう考えると家康は圧倒的に運がよく、秀頼は不運だっただけ。
秀吉に限らず黒幕説全般に付きまとう疑問だが、このような大それた謀議を巡らすなら、事が成った後の動きも含め、
何ヶ月も何年も前から綿密な計画が為されていなければおかしいが、それが信長がたまたま僅かな共回りだけで京にいて、畿内はガラ空きだというレアな状況をアテにしているとは?
黒幕とやらはそんな状況がいつ訪れると思ってたんだ?
信長が京に来るのは本当に直前に、かつ信長自身が決めた事であって、誰かが操作したわけではないぞ。
光秀の背後に他の武将、または何らかの勢力が存在していて、信長を排除する計画を立ち上げるなら、もっと違う形で表れてくるはずじゃないか?
黒幕論者は実際に起きた事象にあれこれ理屈を付けるだけで、あると主張する共同謀議の全体像を示せていない。
レオな状況も糞も信長はその頃信忠に一応家督譲って一線から退いてたし
諸将も前線に存在する敵に向けて出兵する必要があるんだからそんな状況は特に考えなくても生まれるだろって事だろ。
あるいは、チャンスがあったら殺すぞ、レベルの謀議だったかもしれない。
>>417 何故秀吉がそういう状況を作ったとは考えないんだ?
大体俺らのような凡人が秀吉の謀略を全て理解出来る訳無いだろう。
天才とはそういうものだ。
京や安土は政の中心的的場所であり朝廷や公家との接触地点。
信長がそこで長期滞在するのは特別事態でもなんでもなく、普通の事だろう。
いいかげんな謀議だなw
>>419 天才・秀吉が野心家光秀にみすみす京を11日間占領させるなんてこと
するわけがないだろう。
しかも光秀は1万3000もの大軍で京を占領、安土城の財宝を奪っている。
光秀の主城、坂本城も京から近く、すぐに引き戻せば籠城もできるし
安土城から奪った財宝をそこらじゅうにばらまいて足軽や浪人も呼べる。
光秀が信長を殺しておいて、秀吉に天下を呉れるわけがない。
光秀は馬鹿だから坂本城へ引き返しもせず11日天下だったが、
さすがに秀吉はそこまで危険な橋を渡るはずがない。
そういう主張をするならするでいいけど、その秀吉の立てた計画の全体像を時系列まで含めて提示してほしいのよ。
いつから始動した計画なの?
光秀といつどうやって打ち合わせしてたの?
何故光秀を実行役に選んだの?
後で裏切るつもりだったとしても、光秀には事後の政権構想や周辺諸大名への対応等、どんな取り決めをしてたの?
どんな段取りで信長を誘い出す手を打ったの?
そういう具体的内容無しで、ただ「秀吉は天才だから何か上手くやったんだよ。」と言ってても何も説明した事にならない。
>>422 だが結果はどうなった?
裏切り者の光秀は人心を失い孤立し、秀吉の元には続々と味方が集まった。
俺はそこまで含めて秀吉の策だったと考えてるよ。
最初から計算通りだったんだろう。
>>423 だから俺達のような凡人に全ての策を理解するのは不可能だと言ってるだろ。
天才を理解出来るのは同等の天才だけと昔から決まっている。
要するにあんたの妄想
>>424 光秀は裏切り者の役をなぜ引き受けたの?
信長・信忠殺害に失敗したら光秀一人だけが処刑されるわけだけど
信長のもとで大封を得ながら、なぜ自分より格下で安全なところにいる秀吉のために
光秀が一番危険な役回りをしたの?
主君すら裏切る光秀が、なぜ秀吉だけは絶対に光秀を裏切らないという強い信頼関係にあったの?
姻戚の細川よりも秀吉を信頼した理由がないでしょ。
すべてが意味不明。
光秀単独犯なら秀吉はトンデモない凡クラと言う事になるよ
明智の放った偽情報の可能性も考慮せず
明智から届いた情報の真偽を確かめる事なく即座に毛利との和議を結んで
行動を起こすというアホな行動を取り
1日半で情報がかける距離を10日もかかってやっとこさかえってきたし
毛利が追撃してくる可能性なんて容易に考えられるのに放置して西に向かってるからね
たまたま偶然の連続で結果オーライなだけで個々の判断でいったら相当な馬鹿としかいいようがないだろ。
秀吉がそこまで卑怯者だと光秀は予想してなかったって事だろうな
両者で政権を作る予定だったのが、主殺しの汚名背負わされる形で秀吉に全て騙まし討ち泥棒されたと。
>>309 秀吉は超ノロマの進軍で有名だからなwたとえば天正12年の尾張での対陣でも
下記のように物凄いノロマっぷりを発揮してる。
3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>427 そもそも秀吉が明智光秀の放った伝令から情報を得たというのが一次史料ではないよね。
信長が死ぬと、その報は、安土城の信長妻子、各地の信長の息子たち、
柴田勝家や徳川家康にまで伝わっている。
だいたい、二条御所からは信長の弟織田有楽斎が逃げて生き延びており、
かなりの側近も逃げ出せたとみられていることから当然、
彼らは各地の織田家臣に緊急事態を連絡するだろう。
むしろ、明智の伝令一人以外誰も信長・信忠の死を知らなかったというならば
二条御所から逃げた織田家一門は何をしていたんだ、ということになる。
光秀はすぐに従兄弟に安土城の制圧もさせているから、当然、安土城から逃げた
信長の妻子たちも伝令を放つよね。
>>429 アンチ秀吉のコピペ馬鹿朝鮮人は隔離スレにいろ。
本能寺前に放った伝令じゃないと時間的整合性からして道理にあわんな
本能寺後だとすると1日半であの距離を伝令が届くありえない事態
松平家忠なんて岡崎にいても6/3丑の刻(午前2時)に
これを知ってる。
信長は6/2酉(とり)の刻京都にて生害候と言ってて
わずか8時間で信長が自刃したという注進が京から岡崎に届くというのはありえないだろ。
?
家忠に連絡来たのは酉刻だよ?
>>433 6/3 丑 って日付時間が日記に書かれてる
それ西国出陣の指示が届いた件を記した分の情報で
本能寺の変の情報は酉刻に来たんだよ
>>432 おたくの史料の読み間違い。
酉の刻は信長が生害した時刻じゃなくて、家忠が報を受けた時刻。
6月2日の酉の刻に家忠が信長の生害のことを知ったということ。
明智光秀が襲ったのは6月2日の夜明けである虎の刻であり、
信長が自刃したのは6月2日の卯の刻(「言経卿記」の記述)。
戦闘は約2時間ほど。
光秀は虎の刻に襲ったのに信長が自刃したのは同じ日の酉の刻って…。
本能寺攻めてから落とすまで14時間もかかったって時間かかり過ぎでしょ。
437 :
436:2013/10/21(月) 18:24:54.53
6月2日の酉の刻→6月3日の酉の刻
>>436 お前の史料解釈はデタラメだなw
日記の場合日付のすぐ下の部分に時刻が書かれるわけで(現に顕如日記とかがそういう構成になってる)
家忠日記の場合6月三日と書かれたすぐ下に丑と書かれてるから丑の刻に家忠が知らせを受け取って書いたんだよ
>>438 無知な出鱈目君はこれを読んで勉強しようか。
『家忠日記』の記事紹介と解説 A本能寺の変←で検索
日記の十干十二支は時刻とは別だろ常識的に考えて…
日付なんて十二支で現したって仕方ねーじゃん。
既に日付は書かれてるのにそんなもん日記として不要だろ。
こんな無知が秀吉黒幕説力説してたんかい
酉の刻が信長が生害した時刻じゃなくて、家忠が報を受けた時刻なんてどこにも書いてねーよアホ
秀吉厨の頭の悪さは異常
>>449 ここの人たちは普通の人たち
アンチ秀吉のお前の頭が悪いだよ
戦国板でも他人のレスのパクリばっかりだし
1 人間七七四年[] 2013/06/28(金) 18:00:41.19 ID:P/qwSpm0
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
各板での荒らし報告をどんどん書き込みましょう。
参考
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww
454 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:19:29.72
>>451 お前の嘘を一つ一つ張ってやるよ
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
本城惣右衛門覚書みてもすぐに戦闘行為は終わったみたいだしな
14時間はねーわ
456 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:20:02.80
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
457 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:20:56.60
>>450 >>453 どのスレも全部、アンチ秀吉のお前が論破されてるじゃねえかw
自分の無知をこのスレでもわざわざさらけ出し
基地外ぶりを披露してくれてご苦労さん。
458 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:21:18.18
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
460 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:21:56.39
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
お前の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
>>家わけ日記に出てる文書以外の毛利の史料は一次資料扱いされておらず偽文書
萩藩閥越録や毛利家日記を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
上月城下合戦のソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋で全て花押がついてる。
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
自分の無知晒した恥ずかしいレス流す為にコピペ爆撃?
単にこのスレ出入りすんの止めればいいだけやん…
秀吉厨の悉く論破されたレスが晒されててワロタw
会話が成り立たねー
472 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 23:40:05.71
もうやだこのスレ
アンチ秀吉コピペ野郎は馬鹿晒してスレ潰してスレ主に謝れよw
秀吉黒幕説は真面目に検証しても
怪しい部分はたしかにいくつかあるがそれ以上に秀吉だとは考えられない部分がでてきて
結局は可能性薄いで終わっちゃうしなぁ
今起きたのか
無知な秀吉嫌いの荒らしはまだこのスレに粘着してるのかw
478 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 23:04:05.91
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
480 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 02:04:49.95
論破されて発狂したアンチ秀吉在日が、
論破されたコピペを貼り付けている世にも不思議な火病発症が笑えるスレw
陣を間違えたってのもあの史料価値のうっすい川角太閤記からじゃん
483 :
秀吉:2013/11/24(日) 11:52:24.45
山崎の戦いは明智側が悪いwww
俺は何も悪くない。
俺だ俺だ俺だ!
「信長の棺」(加藤廣)
秀吉(中村梅雀)から信長公記を書くよう命じられた太田牛一(松本幸四郎)は、
本能寺から消えた信長(松岡昌宏)の遺体の行方を探していた。
信長が山の民に掘らせておいた本能寺から南蛮寺へ抜ける秘密の地下道を、
ニカウ(粘土に膠を混ぜて固めた強力な接着剤)で固めた丸太の壁で事前に塞がせていた山の民出身の秀吉。
本能寺の変が始まり、信長と蘭丸は地下道の行き止まりで明智の刺客を撃退したものの、背後の天井も落盤して完全に閉じ込められ、切腹。
変後、阿弥陀寺の清玉上人が南蛮寺側から地下室に入り、秀吉が塞がせた丸太の壁を取り外し、信長と蘭丸の遺体を発見。とある墓地に葬る。
秀吉の死後、牛一と阿弥陀寺の清如がその場所に行ってみると、目印はなくなり、信長を葬った場所は判らなくなってしまう。
牛一は手当たり次第に地面を掘り始め、やがて白骨化したひとつの頭蓋骨を掘り当てるのだが…
486 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 07:47:25.94
旧暦の今日 本能寺の変 記念age
487 :
日本@名無史さん:2014/06/02(月) 22:29:06.40
一番怪しいのは井沢じゃないけど朝廷だろw
明智の家来だろ 終了
489 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 16:54:43.40
490 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 22:59:42.21
井沢は朝廷黒幕説はとりさげているよ
491 :
日本@名無史さん:2014/07/08(火) 23:29:24.73
現代の北朝鮮や、韓国で蠢動している朝鮮族がやっている、
反日教育や捏造された歴史教育を見て下さい。
彼らは、500年前も全く同じことをしました。
つまり、歴史書や資料の改ざんです。一次資料も含め、
現存する文献のほとんどが朝鮮族により改ざんされています。
彼らは、平仮名等の文字を発明し、古代の文献を本来の意味で
読めなくしてしまいました。
信長は、奈良の地で光秀に弓矢で射殺されていますので、
京都の本能寺をいくら調査しても何も出てきません。
また、秀吉は信長の実の弟です。そして信長の暗殺後に
朝鮮族の棟梁になっています。
光秀は信長の側室の子供です。秀吉は光秀を実行犯にし、
共謀して信長を暗殺しました。
信長暗殺の動機ですが、信長に世継ぎが産まれる前は、
秀吉が後継者の第一候補でしたが、世継ぎ(森蘭丸)が
生まれたため、自身が頂点に立つ夢を絶たれたからです。
私達が学生時代に勉強した社会科の歴史教科書から、一度
頭を離さなければ、真実は見えてきません。
…という夢を見たんすか
歴史秘話ヒストリア
まだ性懲りもなく黒幕探しやってんだな。
興味本位の珍説を垂れ流しにしやがって。
494 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 02:05:01.71
違うよ。
光秀だ。
油断などしたことなかったワシが、
唯一あの日だけまんまと油断した。
是非に及ばず。なんて言う暇もなく自害した。
甘かったのぉ。
もうどっちでもいいやって思った俺氏であった。
496 :
秀吉:2014/09/22(月) 02:01:57.32
暗殺の準備が完全ではなかったのさ準備期間が短っかたのと、秘密にする
必要があったからね。諸大名にうまく知らせてれば形勢が逆になっていた
かもね。光秀は織田の実質ナンバー1だからね。信長を殺るぐらい簡単な
ことさ。
497 :
日本@名無史さん:2014/10/04(土) 14:32:11.75
黒幕説って完全に論破されてるじゃん
明智単独説以外は陰謀論だから言ってるやつはバカ
498 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 07:58:14.05
>>496 筆頭家老の柴田勝家がいて秀吉や丹羽、池田もいる中で
外様の光秀が織田家でナンバー1とかw
>>498 とはいえ、織田政権自体が 室町幕府の組織をそのまま使ってるからな〜
光秀が最重要メンバーになるのは仕方ない
500 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 14:45:10.45
>>499 織田家家臣の中で光秀以外に幕臣出身なんていたっけ?
しかも光秀はもともと細川家の被官出身だったんだよな
義昭に取り入って仕えたと言うだけで
501 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 14:57:21.91
500
近江から西はほとんど元幕臣だぞ
京都取り次ぎをやってたのは初めは村井貞勝
502 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 15:04:43.71
幕府体制の中で独立的な立場だったのなんて伊勢の北畠と大和の坊門くらいだ
九州にいたっては九州探題のときに幕府側の人間はほとんど追い返されている
から鎌倉時代に遡る三家
島津、大友、少弐、この三家の独占支配体形が基本
なかば半独立状態、中央とのパイプは切れてる
義満だってほとんど手はだせなかったからな
>>502 あと、球磨の相良さんも鎌倉〜明治維新迄続いた
504 :
日本@名無史さん:2014/10/05(日) 15:14:13.65
中央集権に再び組み込まれたのは江戸時代の秀吉のときだ
少弐には室町時代を乗り越えられず室町時代に消滅、大友は戦国時代に
家名断絶、残ったのは島津氏だけ
九州平定出来たのって、足利義教と豊臣秀吉だけなんだよな
しかも二人が死んだら 元の木阿弥に
506 :
日本@名無史さん:2014/10/06(月) 01:06:14.00
元春と隆景の歴史的問答
元春:
「東方の実力者徳川が羽柴は明智の同類なので滅ぼせ
と催促して来ている。追撃して滅ぼすべし」
隆景:
「羽柴は徳川とともに明智と闘うと言っているのだから、それを信じよう。
うまくいけば、徳川勢力に対する防波堤になってくれるかも知れぬ」
隆景の主張に軍配が上がり、毛利は大領土を保全した。
足利義昭「信長ザマアww」
秀吉「チャンス到来じゃ!」
家康「また脱糞逃走か…」
近衛前久
「三十六計逃げるにしかず」
信忠「んじゃわしもそろそろ逃げるわ。いつの間にやら430年も過ぎていたとは…」
511 :
日本@名無史さん:2014/10/11(土) 21:11:59.49
本当の黒幕は信忠 親父が偉大すぎてコンプレックスを持っていた信忠は前から不満を持っていた光秀と秀吉を使い信長暗殺を計画し成功した暁には光秀と秀吉は加増する約束 何を思ったか光秀がまさかの裏切りで信忠死す。
それに怒った秀吉が光秀を山崎で討伐 これが本能寺の真相
>>511 何で畿内の覇権を巡って 明智と対立してた信忠が 老い先短い親父を殺すの
よりにもよって光秀と
513 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2014/12/02(火) 10:39:49.91
日月地神示とイルミナティカードから読み解く日本の近未来
イルミナティカードには2011・3・11東日本大震災時に日本を侵略する計画
があり、米軍はそれに備えていた。その地震を事前に予知し(フリーメイソン
には悪神に仕える霊媒師がおり、地震予知も可能)、地震の直後に福島原発を
小型水爆で破壊してメルトダウンさせた。その混乱に乗じて、中国軍が北朝鮮
軍を手下に使って戦争の口火を切らせてアジア侵略戦争、米軍の日本侵略戦争、
第3次世界大戦と遂行させる予定であったのが、北朝鮮軍部の内紛等で中止と
なった。そのため急遽、米軍は計画を変更して、欺瞞に満ちた友達作戦で日本
を救援する事になったのである。マヤの人類滅亡日2012・12・23が前倒しされ
たのである。第3次世界大戦(核戦争)はロンドンオリンピックの後に起こる筈
であった。
2015年x月 北朝鮮が朝鮮戦争を行う。韓国は米軍と日本の自衛軍に応
援要請を行う。中国軍とロシア軍も参戦する。
x月 パレスチナとイスラエル軍によって中東戦争が始まる。
xx月 米国の次期大統領の調停によって停戦合意が結ばれ、停
戦となる。
2016年 8月 5日 リオデジャネイロオリンピックが開催される(平和の祭典)。
10月11日 日本の各都市が中国等から核攻撃を受ける。
2017年 4月xx日 ロシア軍が急遽日本の北海道から侵攻する。
6月xx日 米国が連合軍を率いて日本に来襲する(黒船再来)。
2018年10月xx日 富士山が大噴火する。
2018年xx月xx日 第三次世界大戦が始まる(核戦争のハルマゲドン)。
xx月xx日 大彗星が地球に衝突する。地球が泥海と化す。
2019年xx月xx日 弥勒の世(極楽浄土)が実現する。
本能寺の変の謎解き番組や謎解き本(特に黒幕説)は
冒頭に八切止夫先生への献辞を義務づけるべき。
515 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2014/12/15(月) 08:01:25.53
近年、天変地異等の災害が多発し、エボラ出血熱等の疫病が蔓延するように
なったのは、神の裁きが近づいてきた前兆である。世界恐慌が近づいているの
は資本主義経済の終焉である。資本主義経済は弱者の犠牲の上に成り立つ悪の
仕組みなのである。贅沢になりすぎた人間生活はバベルの塔が崩壊する様に滅
亡する。
日月地神示は神国日本人を覚醒させる為に正神界から下ろされた。ユダヤ議
定書は悪神界から出された。この世の出来事は正神と悪神の思いが交錯して、
人間が神の代わりに代行しているに過ぎない。だから、日月地神示に書かれて
いる事がほぼ10割の確率で実現する事は当然である。予言は霊界での神の思い
を映像として見せられたものが多い。ヨハネの黙示録等もそれである。しかし、
神の枢機で秘められたものだから、暗示的になるのはやむを得ない。神の思い
に同調出来る霊格者だけが悟る事が出来るのである。
ではなぜ、人類が滅亡する様な艱難や試練を神が課すのか。それは人間が神
の教えに背いて悪業を繰り返すから、徹底的に叩き直して性根を入れ替えさせ
る為である。また、それによって人間の神格を向上させる目的もある。なぜ、
フリーメイソンは悪の御用として存在し、人類滅亡に寄与するのか。それは人
間が他の生き物を虐殺している事を反面教師となって、同じ様に人類を虐殺す
る事によって報復しているのである。すると、天変地異、疫病等の災害は自然
の復讐と見れる訳である。人間は牛豚等を屠殺して食物にし、魚等を生きたま
ま切り刻み、火炙りにして食い殺す。虫等は害虫と称して毒殺する。公害等の
環境破壊が生物の息の根を止める。殺生をして神を殺し、嘘をついて神を騙し、
姦淫をして神を冒涜し、盗みを働いて神を奪い、贅沢をして神を酷使する。人
間の悪業は限りなし。今の人間では神に裁かれても仕方がないのである。大峠
までに改心出来ないならば地獄の苦しみにのたうち回って、草木以下に成り下
がる外ないのである。
516 :
日本@名無史さん:2014/12/20(土) 03:43:31.88
「本能寺の変431年目の真実」
517 :
日本@名無史さん:2014/12/20(土) 16:05:46.92
そもそも明智光秀が土岐氏って自己申告だしな
>>518 皮肉にも、土岐源氏説は末裔に否定されている。
明智光秀は幕府の中間(下層武士)だったということになっている。
520 :
日本@名無史さん:2014/12/21(日) 00:03:45.58
結果は明日(明後日)の夜9時だ。
>>1 妄想馬鹿
裏切り者は嘘つき明智光秀に変わりはないんだよw
笑わせるなw何が黒幕説じゃあwボケが
522 :
日本@名無史さん:2015/02/03(火) 20:30:20.63
ふと気付いたんだが、この当時、天下統一について明確なビジョンを持っていたのが
信長、秀吉、そして光秀の三人だけだったんじゃないかな。
秀吉は変後の変わり身の早さを見れば明らかだし(そしてそのために犯人と疑われる)、
光秀もあそこで挙兵したのも天下へのビジョンがあったればこそだと思う。
逆に、光秀の代わりに他の人間(勝家でも一益でも、家康でもいい)が同じ立場にいても、
おそらく本能寺の変は起こっていないだろう。
天下へのビジョンが見えた、見えてしまった以上何かしなければ、という思いが光秀を
駆り立てたんじゃないかな。
523 :
日本@名無史さん:2015/02/18(水) 04:37:41.16
東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、
豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。
寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。
造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。
現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されている。
秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所となっている。
須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられる。
尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日、76才で亡くなられた。
524 :
日本@名無史さん:2015/02/18(水) 11:57:46.45
>>522 秀吉はないだろ
信長が生きている限り逆らったとは思えない
逆に家康はありうる
もともと信長の家臣ではなく(家臣同然だったが)
あくまでも同盟者だったから信長に大した義理はない
525 :
日本@名無史さん:2015/02/19(木) 11:21:30.62
信長にもないよ
ただ自分の領土を拡張しただけ。だから支配の仕方なんか全然なってなかった。
本能寺語の秀吉の行動を見れば事前に知っていたことは明らか。やはり光秀を天下取りの駒として
使い捨てにしたんだろう。
秀吉は毛利に降参して義明を連れ帰る約束をしていたんだ。
将軍ー義昭
管領ー細川忠興 副管ー領明智光秀、羽柴秀吉
関東管領ー徳川家康
そのような政権構想が家康も交えて合意されてたんだ。家康の伊賀越えも事前に塀を配置していたから無事に
成功した。真実を知った梅雪は家康の手の者に殺された。
528 :
日本@名無史さん:2015/02/19(木) 19:33:37.18
>>526 それなら明智光秀が本能寺の変の一週間後に細川幽斎に手紙を送って
自分の息子と娘婿の細川忠興に天下を譲るから味方に付いてくれと言っているのと矛盾する
>>527 毛利と義昭が騒ぎ出すだろうな
家康はすぐ秀吉に反旗を翻して甲斐信濃に侵攻し小牧長久手に突入しているから
秀吉と手を組んでいたはずはない
529 :
日本@名無史さん:
>>528 幽斎と忠興が陰謀に加わっていなかったからだよ。
毛利と義昭は何も知らなかった。
家康は秀吉に一杯食わされたのだから敵対して当然。