邪馬台国は九州にあった24

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1日本@名無史さん
 
定説にとらわれず道理にのみ従い真実を論究し続けるスレ第24弾
 
 
前スレ 邪馬台国は九州にあった23
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1362570007/
2日本@名無史さん:2013/03/29(金) 13:08:16.41
>>1 乙
3川柳の達人:2013/03/30(土) 10:13:02.59
>>917 >未だに短里説で物を考えているのだから、救いようがない
魏志倭人伝の道程から通常の里で換算したら収まらないために仮定された考え方だ。
<朝鮮野郎>ごときが根拠なく一蹴できるものでもなかろう。一年以上も同じこと
連呼して馬鹿の一つ覚えだ。

>>919 >では今度の日曜日に街頭アンケートでも取って来たまえ。
出来もしないことで人を煽っているところが民度の低さを感じるな。

>>926 >陳寿は邪馬台国は沖縄辺りにあると思っていた、ということをよく考えてみるがいい。
何を根拠にそう思っていたというのだ。どこかの愚説を引き出してはあれやこれや書きまくって
<朝鮮野郎>の書き込みは常にブレまくっている。
4日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:13:43.26
>>942 朝鮮 
>お前は九州論者だろうが、邪馬台国はどこか、なんてことを研究しても意味はないのだ。
>なぜなら邪馬台国は大和に決まっているからだ。

バカ丸出し言いっぱなし
「朝鮮野郎」がやっていることは本質的に昔のジョーカーがやっていた事と同じ
次いでに自称名古屋浪人老人やえ〜とあと・無限しっこか?
ま・こんな奴らが「畿内説代表」だから
5日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:14:28.46
>>951朝鮮
>コロコロ意見が変わるのは日々進歩している証しである。
何言ってんだ、反九州説でイッパイイッパイであれやこれや引き出して
書き込んでいるだけじゃないか。( ´,_ゝ`)プッ 
6川柳の達人:2013/03/30(土) 10:16:39.56
>>951 朝鮮
>邪馬台国問題はどんなに頭が良くても解けない難問中の難問だ。
解けてないのは畿内説を主張している頑迷な耄碌爺だけm9(・∀・)ビシッ!! 

「朝鮮野郎」は新しいスレになれば何事もなかったかのように書き出すから
上に前スレの足跡を貼っとく。
7日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:25:11.08
いさくさんたら熊本の先のが熊襲っていわれるのがやなみたいだね。

熊本が熊本の専売特許みたいのでもあるわけでもなし。

肥後領域が政治的に活性化するのは肥前からの移民が渡った結果とみるべきだとはおもふが。
8日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:58:22.54
古事記には、肥国と熊襲国は別に書かれているんで、
肥後領域が熊襲ってことはなかろう。
9日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:13:25.32
熊のまえは隈、隈のまえは肥、肥のまえは日、日のまえは火、火のまえは高天原
10日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:17:23.63
満のは、東遷もなかった畿内説
自分以外は、全部気にいらぬ派
11日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:27:46.30
熊襲の表記の襲のはうそ表記でしょ

襲のは左衽袍ので左前の左衽のことだろ

熊襲の表記やらかしたころに

民に無理強いして右にかえさせるテストしてみたんだよね
12日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:32:25.69
ここのところは

熊襲の襲のところを正規表記してあげると

もろ身元がばれちゃうからまずいんだとおもふけどね。
13日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:36:31.37
邪馬台国の主勢力は火国の邪馬賀(邪馬嘉)、伊都国佐賀(佐嘉)は血脈の一統、女王之都は邪馬台。
熊襲は邪馬台国の南、不属女王だ。
14日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:42:30.97
熊襲(くまそ)

日本の記紀神話に登場する人々である。九州南部に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々で、
地域名を意味するとされる語である。
古事記には熊曾、
日本書紀には熊襲、
筑前国風土記では球磨囎唹と表記される(曾於は、鹿児島県大隅地方の地名に曾於郡として残る)。
15日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:47:39.27
てかね

熊襲のの熊はほんものの熊ではなくて

猫の熊のほうだとおもふけどね。

狛とか貊とかいふのがそれなんだけどさ。
16日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:55:26.81
肥前国の国庁があったところの地名のは「佐熊」で「佐隈」ではないのね。

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.27351303351&latitude=33.316478240771
17日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:56:53.86
てかさ

どうみてもこっちのが元祖熊本でしょうね

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.33257980597&latitude=33.327845811396
18日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:59:04.86
19日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:01:28.62
20日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:26:05.67
このへん、いつも通ってるけど、道沿いから山を見ると、
丸くぽっこりとした山がいくつも見えるんで、
この中のどれかが古墳じゃないかと思えてしまう。

実際このへん古墳多いしね。
21日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:28:44.74
22日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:31:25.78
どっかで見た記憶があるなと思ったら、
佐賀県立博物館だったか。

小郡にある九州歴史資料館もおすすめ。

太宰府から移転した時に、予定地から遺跡が出てきたという
オチが付いた。
23日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:49:27.27
熊姓の王家というと著名なのがここ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)#.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E5.90.9B.E4.B8.BB
24満州白馬童子:2013/03/30(土) 12:51:16.79
今日、必要があって紀の継体天皇紀を見ていたら、面白い記事があった。

十二月、南海中耽羅人、初通百濟國。

南海中耽羅人とあるから、耽羅国とは台湾ではないのか。
それとも沖縄か…。
25日本@名無史さん:2013/03/30(土) 12:57:44.80
ここが九州説の本拠地ですか。
九州人として、畿内説は徹底的に粉砕しなければならない。
しかし今日は忙しいのでさようなら。
26満州白馬童子:2013/03/30(土) 13:00:23.63
ネットを見ていると、韓国人は多婆那国を済州島に比定しているようである。
卑弥呼が済州島の女王であるということも十分考えられる。

ネット新羅史には野(倭)、野人(倭人)の記事がかなり出てくるが、
それらを見ると倭とは半島南部の島々か九州周辺のことだと思えるのである。
川柳の達人も他人の悪口を書く暇があるならネット史を読んでみればよい。
畿内説の悪口を書いたところで何も進歩はしないのである。
27日本@名無史さん:2013/03/30(土) 13:09:49.19
隈(熊)・・・熊本、隈本、隈元
嘉(賀)・・・佐賀、古賀、山嘉(山鹿)、大賀(大神)、都賀、加賀、滋賀(琵琶湖周辺は鉄鉱山多し)

根拠はないが、何か経済や軍事力の基盤となる産業/職業に関係する文字のように思える。
佐賀周辺に鉄関係の遺跡はないの?
28日本@名無史さん:2013/03/30(土) 13:25:30.11
満州白馬童子は、九州島に上陸しそこねて、島の回りを徘徊してるだけじゃ
結局、ネット史とやらを担いで畿内説を養護する満州オオカミの遠吠えになってしもうたのう
29日本@名無史さん:2013/03/30(土) 14:48:57.37
もしもここのの熊のが狛とか貊とかで猫熊であるのなら

隈がくまと読まれるのも良好に了解可能なのではあるのだが。

パンダさんのを真逆にまねをして眼の周り黒く彩色しちゃうとかね。

丹楊の土人さんも丹の使用で全身まっかっかだったつうのもあるかもしれんし。

「佐賀」のもとのはもろ「佐熊」だったかもしれんとおもふけふこのごろ。
30日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:17:37.41
サクマ → サグマ → サグア → サガ、う〜ん!?
31日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:47:58.94
「神埼」のはもとのが「熊埼」なるべし。

「神埼」と表記して「くまざき」と読むのもまた可也。

「神」を「くま」と読むのは何故か許容されておる。

さきながくないぢいさんの「熊野」の比定は卓見のでおみごと
32日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:07:22.67
くだらん書き込みをするオタクがいるな。
33日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:41:39.04
t
34川柳の達人:2013/03/30(土) 18:37:12.48
>>26 朝鮮
>川柳の達人も他人の悪口を書く暇があるならネット史を読んでみればよい。
悪口などではない、馬鹿げている書き込みを批判しているだけさ。

>畿内説の悪口を書いたところで何も進歩はしないのである。
散々九州説を馬鹿にしている<朝鮮>が言うな。
しかも<朝鮮>自体妄想が暴走しているだけで進歩と呼べるものは一切ない。
35日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:18:37.83
熊襲は南九州の種族で後に隼人とも呼ばれるようになったようです。
熊襲の本拠地、大隅の曽於市岩川、都城市山之口、日南市には巨人の
弥五郎3兄弟が奉られています。熊襲の酋長とのことですが風貌は
白人系です。渡来人、ユダヤ系かもしれません。

鎌倉以降、薩摩に入り薩摩・大隅を支配した島津は秦氏でありユダヤ家の
噂もあります。島津の家紋、丸に十の字は江戸時代以降に使われたようで、
元々は筆十字、十字架そっくりです。幕府からの取り潰しを恐れた島津は
家紋を丸に十の字に変えたとのこと。

他の戦国大名が銃は足軽が使用し軽んじていたのに対し島津は銃を重視し、
武士が使用。野戦でも寡兵でも数倍の敵に勝ったのは銃と釣り野伏の戦法。

四国の長宗我部も釣り野伏を得意としていたようだが秦氏との噂あり。
36満州白馬童子:2013/03/30(土) 19:55:03.18
川柳の達人はどうも理解力がないようだ。

「邪馬台国は大和だが、卑弥呼は大和の女王ではない」ということは、
どちらかといえば九州説に賛同しているのに、この人はそれが理解できないようだ。
もともとこの人は「邪馬台国は大和だが、卑弥呼は大和の女王ではない」
ということが理解できないのではあるまいか。

とにかく僕は最近どちらかといえば九州説に転向したのであるから、誤解しないように。
ただし九州説を認めているわけではなく、満州説を捨てるつもりはない。
37満州白馬童子:2013/03/30(土) 20:01:56.14
神を熊と読むのは熊を崇拝している民族だからである。
その民族とは満州民族である。

檀君神話によれば檀君が降臨したとき地上には熊族と虎族がいたのである。
熊族は檀君の命令をよく守ったから人間の女になれた。
虎族は守れなかったから人間にはなれなかった、のだそうな。

桓檀古記等を読んでこういう知識があれば物事はすんなり理解できるのである。
知識がないと妄想を書き連ねることになる。
38日本@名無史さん:2013/03/30(土) 20:23:08.10
ま、いつものことで、満州狼の遠吠えか
じつは神功二人いて、祖母のほうこそ卑弥呼とか、よくてせいぜいそのあたり
39川柳の達人:2013/03/30(土) 20:45:02.56
>>36 朝鮮
自分で何言っているのか分かっているのか?
そんなアホっぽいまやかし誰も理解できんよ。( ´,_ゝ`)プッ 

>とにかく僕は最近どちらかといえば九州説に転向したのであるから、誤解しないように。
迷惑だから九州説になるな。
40日本@名無史さん:2013/03/30(土) 20:53:21.76
    // ̄~`i ゝ                    `l |
    / /        ,______   ,_____    ________  | |  ____ TM
   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
                         ヽヽ___//   日本
         ______________  __
         |街宣右翼の正体  朝鮮人工作員     .| |検索| 
41日本@名無史さん:2013/03/30(土) 20:58:32.41
>>36
どちらかといえば九州説に転校しましたとか、
私は畿内説が仕掛けたトロイの木馬です・・、と言ってるようなものだ。
おまけに馬が口利くなんて、その手は古い。ノートン先生が24時間見張ってる時代なんだからなあ。
42満州白馬童子:2013/03/30(土) 21:16:55.87
お前らはほんと度量というものがないなw

僕が九州説の方が有利だと思ったのは神功紀の編年を研究したからだ。
それとネット新羅史の記述。

真剣に研究すればするほど迷いが出るのは当然であって、
ちっとも迷わない人間は頭がおかしい。
おまけに川柳の達人などは僕の説云々より僕をイデオロギー的に嫌悪しているのである。
満鮮説を唱えているというだけで僕を嫌っている人間が他にもいる。
そういうネトウヨ的な人間は放っておくしかない。
なにしろ泣く子とネトウヨには勝てぬ。
この連中は世界中で自分たちが一番正しいと信じているのである。
ネトウヨが朝鮮に生まれていれば「将軍様万歳!」と本気で叫んでいるだろうし、
ヒトラーの時代に生まれていれば「ヒトラー万歳!と本気で叫んでいるだろう。
ネトウヨとはそういう連中である。
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/30(土) 21:25:16.78
満蒙巣コングよ

>とにかく僕は最近どちらかといえば九州説に転向したのであるから、誤解しないように。
>ただし九州説を認めているわけではなく、満州説を捨てるつもりはない。

優柔不断だな。これではダメだ。

インチキ・エイトマンの二の舞はダ〜メ。
44日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:34:00.82
>>42
記紀の編者達が知恵を絞り、後世の学者がさんざ研究しつくした神功皇后記なぞいまさらww
くわえていつものネット史自慢、度量をもって聞いてやってるのはこっちの方だ。
ま、せいぜい狼の遠吠え、馬の言い訳にすぎぬな。
45満州白馬童子:2013/03/30(土) 21:36:20.94
太国よ、優柔不断になるのは当然ではないか。
なにしろ卑弥呼がどこにいたか、決定的な証拠はないのだから。
決定的な証拠がつかめないから、未だに僕も本が書けないのだ。

決定的な証拠もないのに、九州説で決まり、とか畿内説で決まり、
などと書いている連中はインチキ連中である。
つまり僕以外の人間は全員インチキ傲慢野郎である。
46日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:38:52.52
>>42
けっきょく、九州説を混乱させるのが目的だろ、ちがうか??
47日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:40:13.44
単にやることがなくて寂しいというか孤独死が怖いんじゃね
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/30(土) 21:42:09.23
満蒙巣コングよ

優柔不断じゃぁ何の価値も無い。

オマエはそれくらいの脳内か〜?

だがしかし、あのインチキ・エイトマンよりはましだから、しっかり研究せい。
49満州白馬童子:2013/03/30(土) 21:51:13.29
>>46
だから何でそんなつまらない疑いを抱くのだ?
>>47
やることがなくて暇だ、というのは当たっている。
この年になると、やることは何にもなくなるのである。
人生は空しいということもいやというほど分っているのだ。
本を書いても空しいということも分かっている。
この世は空なり、空の空なり、という聖書の言葉がいやでも分ってくる。
かといって死ぬわけにはいかないし、生きているからには何かしないと退屈だ。
だから邪馬台国問題を研究しているのである。それだけだ。
君らがどんな目的で勉強しているのかは知らないが、
僕はやることがなくて退屈だから勉強しているのである。
他に何の目的も無い。思想的な目的など一切ないのである。
50日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:54:08.07
>>45
邪馬台国は大和だ、卑弥呼の満州(居城)説を捨てるつもりはない、とか
この件に関しては、優柔不断どころか、けっこう頑固じゃないか。
そしてその次はネット史だろ。
思春期の若者みたいに、出発点で世間に逆らっていては、研究も著作も進むわけないさ。
51満州白馬童子:2013/03/30(土) 22:01:44.99
邪馬台国は大和である。そう考えるほうがずっと合理的だからである。
と同時に、卑弥呼は神功皇后ではないだろう。なぜなら、
神功皇后が中国に朝貢したとか、台与が跡を継いだというような記述は記紀にないからだ。

つまり合理的に考えると、九州でもなければ畿内でもないのである。
だから満州朝鮮に目を向けているわけだ。満鮮説は合理的な思考の結果なのである。
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/30(土) 22:14:13.53
満蒙巣コングよ
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
卑弥呼は神功皇后ではないだろう。なぜなら、
神功皇后が中国に朝貢したとか、台与が跡を継いだというような記述は記紀にないからだ。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここんところの明文は賢察。

そこの上下の文(・・・)は駄目だな。

卑弥呼も壱与の記述も記紀にはない。(倭人伝の借り物の神功39年等は別だがこれは純日本文献の記事でない)

このことは畿内に卑弥呼の女王国がなかったことを意味するのだ。

つまり卑弥呼の国は九州にあったことが正解なのだ。
53日本@名無史さん:2013/03/30(土) 22:30:14.39
>>49 満州よ
暇だからといって他人に逆らい、足を引っ張って回るからよけい虚しくなるんだ。

卑弥呼の居城がどこにあり、当時のひとびとがどういう苦労をし、何に命をかけて海を渡ったのか。
死に際しては、来世に恐れおののき、奴隷を使って巨大な古墳を築かせ、奴婢百人を殉葬したという。
多分に精神的な未熟さを抱えていたと思う。
後世、埴輪を作るようになり、仏教が取り入れられたのにはこうした社会問題もあった。

古代人が生きた時代背景を明らかにするのは、
2ちゃんの論争相手をやっつけ、自分がなにがしかの満足をすることではない。
それは、あとにつづく若者たちにより良い知識と、より良い社会の仕組みをのこしてやることにつながるのだ。
54日本@名無史さん:2013/03/30(土) 22:47:18.32
>>51
合理的とは記紀を信じることと思ってるな。しかも畿内説。
そして、心のそこで中国人陳寿を軽んじているだろ。
それから白馬童子と言ってるところからして、自分以外のカキコも快く思っていないな。
十で神童、十五で天才、二十歳すぎればタダの人、たいていはそんなものよ。なあ満州白馬童子よ。
55満州白馬童子:2013/03/30(土) 23:04:33.21
ははは、白馬童子とは昔のテレビドラマであるw
太国なら知っているはずだ。

白馬〜童子〜♪ 白馬〜童子〜♪

この部分だけ歌も覚えている。
56日本@名無史さん:2013/03/30(土) 23:10:57.41
かなりの爺さんなんだな。合理的思考ができないわけだ。
57日本の名無史さん:2013/03/30(土) 23:30:14.86
満州さんの書いてることにはまったく賛同できないのだが、気持ちはわかる。
俺もヒマじゃなかったら古代史の本なんか読まないと思う。
58日本@名無史さん:2013/03/30(土) 23:52:18.94
白馬童子がやって来た♪
さあ大変だ大変だ
それゆけやれゆけ、みんな行け
悪い奴等をやーーっつけろ♪
59日本@名無史さん:2013/03/31(日) 00:11:51.94
2000年前の古代人も今の我々と似たような喜怒哀楽の人種だったようだし、
実際に彼らが踏みしめ歩いた道をたどるのは感動もの。
それと、役人なのに陳寿の文章はまことにドラマチック、
満州は白馬童子のほうが好みのようだが、現代に通ずる名文だ。生きていればノーベル文学賞に輝いたかもしれない。
60日本@名無史さん:2013/03/31(日) 07:23:03.46
満州は、満州○○を自称するわりには大の中国嫌い
それで倭人伝を議論しようというのが不幸の始まり。。。。
61満州白馬童子:2013/03/31(日) 09:22:47.35
お前ら、そんなに倭人伝が好きなら倭人伝の記載通りに素直に読め。
素直に読めば邪馬台国は沖縄で、卑弥呼は沖縄の女王だ。

つべこべがたがた言うな。沖縄で決まりだ。
62満州白馬童子:2013/03/31(日) 09:34:42.61
とにかく邪馬台国の位置探しは時間の無駄である。
なぜなら邪馬台国は大和に決まっているのだ。

九州説の連中は一生そういう無駄探しに時間を浪費しているのである。
まあ仕方がない。どうせそれしか能のない連中だからw

とにかく九州説の連中のレベルでは問題は解けない。
畿内説の連中もさっぱり進歩がない。
邪馬台国は大和だということには自信を持っているようだが、
では卑弥呼は誰だということになるとだんまりを決め込んで発言しない。
要するに自信がないのである。九州説の連中を茶化すことはするが、
それ以外の考察はしようとしない。
要するにここに参加している畿内説の連中にも、邪馬台国問題は解けないのである。
63日本@名無史さん:2013/03/31(日) 09:49:18.24
>>62
ほうそうか、中国大嫌い、満州白馬童子の正体見たり。
64太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/31(日) 09:53:09.19
65筑紫の民:2013/03/31(日) 10:28:40.09
>>61 朝鮮
邪馬台国は魏志倭人伝に書いてあるのだから魏志倭人伝と考古学を研究してしかるべき。
魏志倭人伝から邪馬台国と卑弥呼だけ取り出してあとは好き勝手自由に妄想するなど誰でもできる。
また、>「つべこべがたがた言うな。沖縄で決まりだ」という書き込みはどういった了見だね?人には
自分の妄想を理解しろと言っているくせに他説は無視か?どうせ、九州説をかき回すことが楽しみな
だけだから何を書かれようと痛くも痒くもないか?

>>62 朝鮮
>九州説の連中は一生そういう無駄探しに時間を浪費しているのである。
>まあ仕方がない。どうせそれしか能のない連中だからw
これも単なるアンチ九州説の短絡思考がなせる書き込みだ。畿内説の典型だね。
時間の無駄だと思うのならこっち来るな。

●偉そうに書きまくるが中身がない。
●例外的なものを引っ張り出しては混乱させようとする。
●人に悪口を言うなと書き込む割には人を馬鹿にする。
●妄想暴走のくせに最もな説に難癖つける。
●何度論破されようと平気で毎日のようにネガティブキャンペーンをする。
上記特徴を見ればある種明確な目的を持って1年以上も粘着しているのだろうことは推測できる。
いい加減にやめたらどうだ
66日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:11:58.53
>>62
えらく沖縄にこだわってるが、満州白馬童子は鹿児島人間か?
67満州白馬童子:2013/03/31(日) 12:23:23.46
ははは、ゲラゲラ、ここの連中はおもちろいなw

それはさておき今日大発見をしたぞ。
ネット史に野国と書かれているのがどこか、決定的な証拠を得た。
それはどこかは、ここには書けない。書けば稗箕狐に勘付かれるからw

結論からいうと、九州説には不利である。やはり倭国とは大和のことだろう。
いやー、済まないね、チミたち。僕は今日からまた畿内説有利に転向するよw
68日本@名無史さん:2013/03/31(日) 12:32:23.06
記紀信者の畿内説確定、
ま、本心御披露というわけだww。
69日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:49:53.32
奴だか那だか野だかしらんけど

娘っこの出処はあそこしかないでしょ

それはさておき今日大発見をしたぞ

へんなところに句麗山はけん
70日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:51:34.81
はよ、大発見を披露してくれ
71日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:54:19.57
高驪山 亦號句驪山

勾驪山のほおがもっと良いのかな?
72日本@名無史さん:2013/03/31(日) 13:57:04.84
73日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:00:07.86
74満州白馬童子:2013/03/31(日) 17:17:10.57
別にそれは変な所じゃないのである。たとえば揆園史話にこうある。

高句麗之方盛也,强兵百萬,南擊吳越,北挑幽燕‧齊・魯,恒虎威於漢方。
百濟則跨渤海而略遼西‧晉平,越草海而占越州。
新羅鯨濤萬里,陳雄兵於明石,刑白馬而盟赤關。
此皆我强而易於攻彼,是得地利也。
75満州白馬童子:2013/03/31(日) 17:22:00.89
さて野国とはどこかのヒントは得たものの、それはそれでまた難題が出てきた。
それを解決するには従来の地理観をすっかり改める必要がある。
う〜ん、頭が痛い。
76筑紫の民:2013/03/31(日) 17:56:22.96
>>67 朝鮮
無視してもよいが。
ただし、己が畿内説の立場にいながらいい加減なことを書いて
逃げまくっている以上畿内説は必然的に汚れていく。
こちらとしてはありがたいことだが、一応忠告しておく。
77日本@名無史さん:2013/03/31(日) 18:12:01.34
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種

近畿その他はただの「倭種」でかたづいておる。
頭が痛いのは危険信号だぞ、心配してないで早く病院へ行け。
78日本@名無史さん:2013/03/31(日) 18:37:31.95
i
79日本@名無史さん:2013/03/31(日) 18:40:17.25
天孫降臨はモンゴルなど大陸にもあり。熊襲が大陸系なら天孫降臨の話もわかるし、
朝鮮南部を治めていた伽耶も熊襲が福岡まで北上し朝鮮まで渡った可能性もあり、
檀君神話となったか今の朝鮮人は古代朝鮮人と入れ替わったバイカル湖畔のエンギベ族
との説もあり、その部族に伝わる神話か。
80満州怪傑ハリマオ:2013/04/01(月) 12:23:52.12
頭が痛いので病院に行ってきた(冗談)
帰りに松沢病院に寄ったら太国と唐松山が入院していた(実見談)

さてチミらには悪いが、僕は解けてしまった。
本格的に研究を初めて一年半、ついに邪馬台国問題を解いてしまった。
この調子だと六月までには本が書けそうだ。
で来年はその本がベストセラーとなり、夢の印税生活か、ふふふ…。
81日本@名無史さん:2013/04/01(月) 12:39:12.19
狗 犬也 大者為犬 小者為狗

狗 本作[豸后] 熊虎子名 或作豿

熊の子のは狗
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/04/01(月) 14:38:24.58
満蒙巣コングよ

またオマエもデタラメ本を書いて読者を欺くのか?

そんな優柔不断の考えからの書なんて、価値は0に等しい。

オマエは、かのインチキ・八男の宿主の二の舞になるなよ。
83満州怪傑ハリマオ:2013/04/01(月) 17:22:46.19
或る寓話

私は一心不乱に富士山を登っていた。ふと気が付くと九合目に達していた。

下を見ると五合目辺りに畿内人が見えた。
彼らはもうそれ以上登るつもりはないのか、そこで休憩したままだった。

さらに下を見ると二合目辺りに九州人が見えた。
彼らもそこから上に登るつもりはないのか、富士山の麓を徘徊しているばかりだった。
84日本@名無史さん:2013/04/01(月) 18:55:12.13
たかいところがおすき。
85日本@名無史さん:2013/04/01(月) 20:25:50.66
天国に一番近い山か、まあそのうち訪ねてみよう。
さてその九州説にとって邪馬台国へ至る道は鉄の道とも言えよう。
今風にいうなら卑弥呼、台与は巨大スチール会社の女性社長か女性会長、神武に嫁いだ姫もその方面の関係者だったらしい。

>日本書紀に神武天皇のお后になる媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)の
>お名前が出て来ます。蹈鞴と書いてたたらと読ませています。
>蹈鞴はたたらで使う踏みふいごのことです。
86日本@名無史さん:2013/04/02(火) 10:51:18.14
倭人伝には鉄に関する記述なんて皆無なのにw
記述上では倭国=鉄の国ではなく丹の国だよ。
87日本@名無史さん:2013/04/02(火) 11:45:19.31
倭人伝には道具については書かれていない。
つまり、郡使は日本の道具についてはほとんど意識しなかった。

意識しなかったのは自分たちと同じだったから。
異なる道具を使っていたら、書かれていたに違いない。
倭人は鉄器を使っていたのか、それとも石器を使っていたのか。
88日本@名無史さん:2013/04/02(火) 12:27:30.07
兵用〜鐵鏃或骨鏃

鉄鏃を用いていたと書いてるよ
89日本@名無史さん:2013/04/02(火) 12:43:41.67
丹の本場のところって何処?
90日本@名無史さん:2013/04/02(火) 15:08:02.04
>>86
大陸、半島ではすでに鉄が実用として広まっていた。卑弥呼にも刀を与えたとある。
(そのあとに出てくの鏡は銅鏡とあるので、刀はたぶん鉄刀)
たしかに倭人伝には、そうした製鉄技術の落差について、格別の記載はない。
それは、倭人伝はあくまで倭人倭国の実態を記録したものであり、あえて魏都や帯方郡の自慢話を書くことは憚られたからだとおもう。
しかし遺跡が物語るところでは、このころ九州を中心に鉄製武器が頻繁に登場してくる。
その時代背景の重要さを明確にすることで、邪馬台国の実像に迫れると思う。
91日本@名無史さん:2013/04/02(火) 15:38:21.58
國出鐵 韓•濊•倭 皆從取之
諸市買皆用鐵 如中國用錢
又以供給二郡

丹楊地勢險阻
山出銅鐵 自鑄甲兵
92日本@名無史さん:2013/04/02(火) 21:50:26.67
>>89
四国と紀伊半島だよ。
93日本@名無史さん:2013/04/03(水) 18:56:42.14
およそ2000年前、厳かに行われた出雲の国譲りは、現存する神殿・神域・社殿としてHPにも見える。
また数十年ごとの遷宮も、未だに神事の一環として滞りなく行われている。
出雲では大国主命は今も息づいているのである。
http://www.izumooyashiro.or.jp/sengu.top.html

>出雲大社におまつりします大國主大神(おおくにぬしのおおかみ=だいこくさま)様は、
>「和譲」の御神徳で国づくりをなされた国土を御皇室の御祖先に奉還―国譲りなされて奇しき御神業を成し顕され
>しあわせの平和≠導かれて、目には見えない神事(かみごと)の世界を治められる
>幽冥(神事)主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)として、出雲大社にお鎮まりになり、
>生死ひとつながらに私どもをお守りいただいています。

いわば敗者といえなくもない出雲大社の今を見るにつけ、およそ同時代であったと推測される高天原神話の舞台や卑弥呼の宮室が、
泥田の下に埋まってしまっているとか、森林の奥で朽ち果て跡形もないというのは信じがたい。
何らかの神秘的かつ具体的な形で、現代の我々も目にできているのではないか?
94日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:34:45.73
成立のが新しい順ので

『梁書』諸夷傳(東夷条)
王莽(8-23)初 發高麗兵以伐胡 不欲行 彊迫遣之 皆亡出塞爲寇盗
州郡歸咎於句驪 侯 騶 厳尤誘而斬之
王莽大悦 更名高句驪爲下句驪 當此時爲侯矣
光武(建武)八年(32) 高句驪王遣使朝貢 始稱王

『後漢書』東夷傳
王莽(9-23)初 發句驪兵以伐匈奴 其人不欲行 彊迫遣之 皆亡出塞爲寇盜
遼西大尹田譚追撃 戰死
莽令其將嚴尤撃之
誘句驪侯騶入塞 斬之傳首長安 (句麗侯騊良)
莽大説 更名高句驪王爲下句驪 侯 於是貊人寇邊愈甚
建武八年(32) 高句驪遣使朝貢 光武復其王號
二十三年(47)冬 句驪蠶支落大加 戴升等萬餘口詣樂浪内屬
二十五年(49)春 句驪寇右北平 漁陽 上谷 太原 而遼東 太守 祭肜以恩信招之
皆復款塞
95日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:35:36.07
『三國志』魏書 烏丸鮮卑東夷傳
王莽(9-23)初發高句麗兵以伐胡 不欲行 彊迫遣之 皆亡出塞爲寇盜
遼西大尹田譚追撃之 爲所殺
州郡縣歸咎于句麗侯騊良(高句驪縣侯)
嚴尤奏言 「貊人犯法 罪不起于騊
且宜安慰 今猥被之大罪 恐其遂反」莽不聽 詔尤撃之尤誘期
句麗侯騊至而斬之 傳送其首詣長安(たぶん18年か)
莽大悦 布告天下 更名高句麗爲下句麗 當此時爲侯國
漢光武帝八年(32)高句麗王(解朱留)遣使朝貢 始見稱王(高句驪縣王)
96日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:37:24.87
『漢書』列傳 卷99中 王莽傳(在位 8-23) 後漢 班固(32-92)撰

莽發高句驪兵 當伐胡 不欲行 郡強迫之 皆亡出塞 因犯法為冠
遼西大尹田譚追撃之 為所殺

州郡歸咎於高句驪侯騶 嚴尤奏言
「貉人犯法 不從騶起 正有它心 宜令州郡且尉安之
今猥被以大罪 恐其遂畔 夫餘之屬必有和者
匈奴未克 夫餘•穢貉復起 此大憂也」

莽不尉安 穢貉遂反 詔尤撃之
尤誘高句驪侯騶至而斬焉 傳首長安

莽大説 下書曰 「乃者 命遣猛將 共行天罰 誅滅虜知
分為十二部 或斷其右臂 或斬其左腋 或潰其胸腹 或紬其兩脅
今年刑在東方 誅貉之部先縱焉
捕斬虜騶 平定東域 虜知殄滅 在於漏刻
此乃天地群神•社稷•宗廟佑助之福 公卿•大夫•士民同心將率虓虎之力也
予甚嘉之 其更名高句驪為下句驪 佈告天下 令咸知焉」

於是貉人愈犯邊 東北與西南夷皆亂雲
97日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:49:06.99
陳さんだけ「騊良」さんなのね

ほかのはみんな「騶」さんなのね

陳さんは「騶」って書きたくなかったぽいよね。

「騶」さんのが「芻牟」さんのことだってゆうのはほぼガチ

広域で祭られるためには理不尽に殺されているのが有利。

漢書のだと成立のがほぼ同時代史だし

ずっとあとに成立したよいしょの歴史書とかのを基準にして

ほぼ同時代のレポートのほうのが嘘だって切り捨てるのはへんだし。
98日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:58:41.77
(たぶん18年か) のところでおからだ解体されていて

名前まで下句驪とかっていぢられていたとすると

漢光武帝八年(32)高句麗王(解朱留)遣使朝貢 始見稱王(高句驪縣王)

はじめて稱王のは、わずか14年後のことだし

莽がくたばってから9年後に光武帝が

「莽って悪いやつね、えろいめにあったね、ごめんよ」だな
99満州怪傑ハリマオ:2013/04/03(水) 21:01:47.12
九州スレにそんなこと書くな!

と言われるぞw

それと、ネット史を読んでいるくせによくそんなアホなことが書けるな。
朱蒙BC37〜BC20となっているだろ。
100日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:05:30.19
引用文の整理が雑なのは、コピペのせいなの?
101日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:11:30.73
書き込んだ本人が内容をよく理解できてないから
102日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:53:22.87
そうみたいだね
103日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:57:52.18
>>99
婆母娘のことならべて孕ませたりしても広域で祭られたりせんよね

やっぱり殺されて解体されていなきゃメモリアルな始祖にはなれんよね

すうむきょうのも騙しが確実に存在するんだよ

とくに百済の始祖のところのはガチでさ

死に際に急に名前変えさせて太子にしたとかさ

だらだら読めばええとゆうもんでもないよね
104満州怪傑ハリマオ:2013/04/03(水) 22:23:19.25
邪馬台国論争とは何の関係も無いが、
高句麗侯とは紫蒙の勾鄒のことである。

三十一年壬申 七月漢人田譚與索頭相爭, 請救於勾鄒,
勾鄒使延丕(召西奴之侄子)擊譚殺之譚不遜故也.
又有嚴尤者來寇, 紫蒙勾鄒自將擊之虜其將卒二千余,
馬伏無數印顆十二拓地七百余里.

光明大帝紀の三十一年条を読むべし。
105日本@名無史さん:2013/04/03(水) 23:06:16.76
三國史記では我將の延丕が殺されたことになってる

琉璃明王さんところの將の延丕さんが傳首京師とかいてある

もちろん琉璃明王さんご本人が殺されたことにはなっていない

双方の証言がくいちがっている 

莽が切ったのは縣侯さんご本人で下句麗までゆうて踏みつけにしている


てか 勾鄒さんって立派なお名前 

まるで勾践さんのご子孫みたいなかんじ

やっぱり越系のなれのはてなんでしょうか


あと 莽乃會諸夷 斬咸子登於長安市 というのもあったりする。
106日本@名無史さん:2013/04/04(木) 06:14:24.15
スレタイと関係無いことは別のスレへ行ってやってくれるか。
107日本@名無史さん:2013/04/04(木) 13:36:22.92
考えてみれば、邪馬台国の痕跡というか、伝承のようなものが残っていても
不思議ではないと思う。ここが古の都だったのだよ、みたいな。
ところが、どういうわけか、そのような痕跡が残っていない。民間伝承でも
みられない。

高天原(邪馬台国)を天上の国にするために大和朝廷によって消されれたのか。
しかし、民間伝承まで消すことは出来ない。やはり、邪馬台国は消えたのだ。
西暦282年に邪馬台国は忽然と姿を消したのだ。
108日本@名無史さん:2013/04/04(木) 15:45:45.22
>>107
そう思う、高天原の痕跡が地上にあっては建前としておかしい、というより在ってはたいへん困った事態になる
だから仮に分かっていても知らぬふりすることにして、
大和朝廷成立前に、すでに天孫族の伝承としてそのようになっていたのではないかと思う

それにつけても西暦282年はなんだったっけ?
魏の終焉はも少し前だから、神武東遷に出立?
109日本@名無史さん:2013/04/04(木) 18:40:12.14
邪馬台国自体を知ってるのは基本、中国の一部の人だけだろ
110日本@名無史さん:2013/04/04(木) 18:58:42.41
何か新ネタはないの?
111日本@名無史さん:2013/04/04(木) 19:34:37.17
新ネタというほどではないが、
御承知の通り佐賀市は田んぼの真ん中にあり、東は筑後平野、西は白石平野につながっている
ゆえに新しい「伊都国佐賀説」では、いわゆる放射読みに疑問が生ずる。
東ばかりで、なぜ西の方角の国々が書いてないのか・・?、というわけである。

また、「至」と「到」の違いにこだわる読み手もいたが、
平仄(ひようそく)を合わせる法則(あとにつづく文字の高低強弱に合わせて文頭(句頭?)の文字を選ぶこと)に従って
行われたた事であって、特にそれ以上の意味はないらしい。

結局、伊都国からの放射読みは、最初からなかったのではないか・・、
そして少なくとも不彌国までは順次読みで良く、
倭人伝は邪馬台国まっしぐらの道里を記したと理解して良さそうに思えるのだが。
112日本@名無史さん:2013/04/04(木) 20:52:41.76
http://uproda.2ch-library.com/652875dS8/lib652875.gif

やっぱりあそこは水の底のが広かったぽいよ
113日本@名無史さん:2013/04/04(木) 20:57:32.59
「縄文時代」の文字をミスする
ようなデータを信用できるか?
114日本@名無史さん:2013/04/04(木) 21:01:47.21
それってたんなるもれの変換ミスだよ

もとねたはどっかにおちてるからさがしてみたら
115日本@名無史さん:2013/04/04(木) 21:05:58.45
http://tunogis.nichibun.ac.jp/iseki/gis/index.html

佐賀県の遺跡分布(縄紋時代晩期) って掻いてあったぞ
116日本@名無史さん:2013/04/04(木) 21:08:59.42
おーい、縄紋時代のあれは御愛嬌として、
画面の切り替えが早すぎて、眼が回るよー、助けてくれー
117日本@名無史さん:2013/04/04(木) 21:15:58.05
http://uproda.2ch-library.com/652884EtS/lib652884.gif

んだば5びようにしてみた
118日本@名無史さん:2013/04/04(木) 22:40:15.89
縄紋時代は確かに、ご愛嬌だが、
他にもご愛嬌がいっぱいありそうだな
119日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:09:27.19
>>117
サンキュウ、ずいぶん見やすくなったわ
弥生後期の中央やや右、海に張りだしてるのは、諸富辺りかな? オレの好みで言えばここが不彌国。
120日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:10:07.40
http://www.saga-otakara.jp/search/list.php?id=3

これの弥生遺跡を地図上におとしてあげても かなり海の底なのが良く分かるけどね。

王家クラスの遺跡は確実にあるみたいだけど遺跡自体が山際に集中してる

3世紀に関していうと、多人数を養えるような条件は揃っていないし。

どちらかというと 縄文天国みたいなところ。
121日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:24:12.35
田んぼの海岸線がどうだったか、もう少し詳しく分かるといいんだけどねえ(急ぎの課題だな)

でもこれが糸島あたりだったらもっと海がせまっていて、山麓〜山間に住むほかなかったんじゃないかなあ
それに比べれば佐賀は天国、コメもとれるし、魚介もとれる、縄文天国、弥生も天国(たぶん)。
122日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:51:40.53
佐賀は現在の佐賀城付近でも1600年以上の楠があったりするので、
低湿地地帯に、島のように土地が点在していたとされる。

糸島は202号線沿いは海。
さざれ石神社が海際にあったとされる。
123日本@名無史さん:2013/04/05(金) 10:10:48.11
グーグルマップに、海抜を変えて、昔の海面を青色表示できるのがあったような記憶がある。
あれで佐賀平野の島々が浮かんでこないのかな?
124日本@名無史さん:2013/04/05(金) 10:39:05.38
佐賀礼賛スレか
125日本@名無史さん:2013/04/05(金) 10:52:11.80
白河の関は陸奥へ通ず、
箱根の関は大江戸へ通ず、
佐賀の道は邪馬台国へ通ず、こんな感じかな!
126日本@名無史さん:2013/04/05(金) 12:16:50.91
>>123 3m上昇でこれだから 干満の差がでかいところはきついね
http://flood.firetree.net/?ll=33.3199,130.3860&zoom=14&m=3
127日本@名無史さん:2013/04/05(金) 12:31:07.70
>>126
こりゃ素晴らしい Map data 。はじめてみたわ。
佐賀・大和、吉野ヶ里・神埼の重要性がよくわかるね。
それと南へ下るには南関を超えざるを得ないこともよく読める。どうもありがと。
128日本@名無史さん:2013/04/05(金) 15:39:51.01
佐賀大和から佐賀城付近まで、
半島のように伸びているのが確認できる。

多久、小城もちょっと突き出た地域になっている。

また、海水面レベルを一番大きい60mまでもっていくと、
唐津から多久小城まで谷が続く、唐津街道がわかるだろう。

細い谷が唐津まで天然の街道となって続いているのである。
129日本@名無史さん:2013/04/05(金) 16:07:50.81
峠近くまで遡っても標高がたいしたことないから誰が整備するでもなく自然発生的に道になってたろうね
130日本@名無史さん:2013/04/05(金) 16:44:53.42
いままで弥生時代のころの佐賀市は海の中で、後世の新田開発でクリーク田んぼの真ん中になったとおもってたけど、
海に突き出た半島みたいになってて、弥生時代にも歩いて行けたんだねえ(勘違いしてました。最敬礼!)
もしかして、伊都国は佐賀市だったってのもありうるかも?
131日本@名無史さん:2013/04/05(金) 17:45:08.49
佐賀城付近の古名である龍造寺村は龍頭船の造船所、停泊地だったのが由来
132日本@名無史さん:2013/04/05(金) 18:55:49.12
弥生時代に歩いて行ったら埋ってムツの餌
133日本@名無史さん:2013/04/05(金) 19:12:12.61
魏志倭人伝の邪馬台国はライバル「呉」への牽制の為に「魏」が東南海上に造り出した幻の国である。
同時代に存在した国は大和地方あったものだけ。従って九州に求めても所詮無理な話しである。
134日本@名無史さん:2013/04/05(金) 19:31:23.86
ムツのえさは嫌だ、
佐賀県庁までは無理としても、佐賀市役所辺りまででいいからあるいて行けなかったかなあ
135日本@名無史さん:2013/04/05(金) 21:09:07.63
末蘆国から最も南寄りのコースを想定すると(川船が当たり前のお国柄とする)、
・東南陸行500里の伊都国は嘉瀬川流域を支配する国(佐賀市内)
・東南100里の奴国は筑後川流域を支配する国(大川市)
・東行100里の不彌国は矢部川流域を支配する国(筑後市〜みやま市)

こんなところでどうかなあ、
距離的にも700里(52.5km)でグーグル実測57.5km、
このあと南関までクニを想定しなくてよく、次邪馬台国(熊本地方)で差し支えない。
136日本@名無史さん:2013/04/05(金) 21:26:42.88
検証仕様がない
137日本@名無史さん:2013/04/05(金) 22:19:50.95
不思議なんだよねえ
対馬国、壱岐国、末蘆国まではそれなりに対応する地名も残る。
しかし東南500里の佐賀平野に出たとたん、それらしい地名も、史跡も、遺跡も途切れる。
ただ被葬者不明の古墳がたたずむだけ、何があったんだろう。
138日本@名無史さん:2013/04/05(金) 22:47:47.14
やはり佐賀平野や筑後平野は古代人には不向き。
海抜低いし、洪水あるし。
盆地性の熊本平野が栄えた可能性高い。
あるいは安本氏ご推薦の甘木市付近がかろうじてと言うところか。
139日本@名無史さん:2013/04/05(金) 23:01:30.28
>>133
それだな

民俗学的な血統描写や地理感の南誘導など国家の血統偽装でっち上げだな。
140日本@名無史さん:2013/04/05(金) 23:21:04.79
魏志倭人伝が成立したころには、
魏朝も呉朝も、もう過去の王朝だったんだぞ
141日本@名無史さん:2013/04/05(金) 23:23:25.30
しかし呉の滅亡が280年で陳寿が三国志を編纂したのはそれ以降
それ以前から書いていた可能性はあるが
基本的に中国の史書は前王朝が滅んでから編まれるもので
陳寿自身にはもうすでに亡い呉を牽制する意図があるはずもない

もし考えられるとしたら陳寿が参考とした資料にそのような意図があったか
あるいは公孫氏を討伐した司馬懿の功績を誇大に書き残すためなのだろうが
どちらも根拠があるものではない
142日本@名無史さん:2013/04/06(土) 00:41:09.40
佐賀平野に出たとたんに、熊・隈のが氾濫するのね
143日本@名無史さん:2013/04/06(土) 14:33:20.22
>>126
+3mだと、上の >>117 の神埼市南方の弥生遺跡は水没しそう

弥生期に海面が高かったという話は良く聞くけど、極地の氷が全部溶けても+1.5mとかいうし、実際どうだったのか?
たしかに弥生期以降、陸地が広がってるのは事実のようだけど、
山林の伐採、焼き畑、砂鉄取りなどが広がって、土砂の流出が進み、河口域で陸地化が進んだ事例は少なくない、
島根の出雲山地と対岸の大社地区のあいだの日本海も砂鉄とりの川砂で埋まってつながったという。
筑後川等の河口も似たような経過だったのではないか

ちなみに、>>126を+1mにしてみると、有明海に連なる島々が一段とはっきり見えるし、遺跡も水没をまぬかれる。
弥生期の実際は、この程度ではなかったかと思うのだが・・。
144日本@名無史さん:2013/04/06(土) 15:17:44.47
標高3mという低平地に存在する、とても珍しい古墳です。
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=5052
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=5089
145日本@名無史さん:2013/04/06(土) 15:29:43.32
標高3mには及ばないが、
神埼市からみると筑後川の向こうの久留米市大善寺に70m級の古墳二つあり、標高9m。
146日本@名無史さん:2013/04/06(土) 15:42:44.74
>>144
6世紀ともなると立派な堤が設定されていて低湿地でも冠水しないような対策がほどこされておった。
147日本@名無史さん:2013/04/06(土) 17:20:43.52
今でも、川の西に地数か所福岡県の飛びあり、川の東には複数の佐賀県の飛び地あり、
これは近世に至るも筑後川がたびたび流路を変えたからだそうな。
久留米藩も佐賀藩も物入りだったろうな。

それにつけても、>>144 の諸富の古墳はよく流されずに残っておったものよ。
148日本@名無史さん:2013/04/06(土) 17:31:10.81
http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/bunkazai/zai_top/kensaku_top/data_ken_kouko08.html#k_ju135
鍋島本村南遺跡は嘉瀬川中流東岸の微高地(標高5〜6m)に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。
149日本@名無史さん:2013/04/07(日) 09:38:43.15
江戸期の平戸藩では集落名に免を使っていたという(当時の税制に由来?)。
今も松浦市と周辺市町村の集落名が免、壱岐では触であるといい、めずらしさに驚いた。
熊本県大津市の弥生遺跡・西弥も「護免」となっている。
同様の由来で偶然の一致かも知れないが、邪馬台街道の北と南のことで、これも驚き。

<長崎県松浦市の免>
今福町浦免、今福町北免、今福町木場免、今福町坂野免、今福町寺上免、
今福町飛島免、今福町滑栄免、今福町東免、今福町仏坂免(以下略)

<熊本県大津町の弥生遺跡>
西弥護免(にしやごめん)
(環溝集落遺跡:焼失状態の竪穴住居10棟から各戸1点の鉄製刀子出土、戸外からも素環頭刀子2点出土)
150sage:2013/04/07(日) 12:34:59.19
普通に考えると、伊都国は佐賀大和、奴国は神埼市(吉野ヶ里、諸富)、不彌国は久留米市(花畑)かな。
当時すでに陸地も多そうだし。
いずれにせよ、佐賀から有明海をわたって久留米市〜みやま市のあいだで上陸、
あとは現在の国道・県道を南下で問題なさそう。
151日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:41:28.69
やっぱり、九州に上陸して、出雲を経由し、日本海側経由で敦賀あたりで上陸して琵琶湖を渡って畿内に入ったというのがよさそう。
迎賓館は、琵琶湖に程近い滋賀県の伊勢遺跡。
152日本@名無史さん:2013/04/07(日) 12:47:21.01
店を閉じた近江説ががんばっとるな。
153日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:43:09.25
控えめに3mでもこれだね
水上生活するなら生活豊かかも
http://flood.firetree.net/?ll=33.2198,130.3140&zoom=11&m=3&type=satellite
154日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:54:13.46
http://flood.firetree.net/?ll=32.5379,120.9602&zoom=7&m=3
ここのところはめえからうろこだね

越の勾踐さんが北の方の琅邪にシマ拡げた意味とかが良く分かったりするわ
155日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:56:29.27
鹿児島以外の軍人も西郷さんは器の大きな人で…と言ってたしね。
人望がありすぎるがゆえに厄災を招くとかそういう占いをする人はいなさそうだけど
それくらい常識外れの人望があったということでしょう。
156日本@名無史さん:2013/04/07(日) 14:57:39.88
九州のトンレサップ湖かあ、昔はこうだったんだろうねえ、美しい!
でも個人的には、できれば+1mでお願いしまーす。
157日本@名無史さん:2013/04/07(日) 16:49:27.69
>>153
グーグルの写真モードを → 地図モードにして地形口にチェックを入れても面白い、べんりだなあ。
158日本@名無史さん:2013/04/07(日) 18:32:04.83
159日本@名無史さん:2013/04/08(月) 13:09:42.46
金印の漢倭奴国王と、伊都国・邪馬台国などの支援を取り付けて実現した金印紫綬の親魏倭女王(肥国王)の金看板2枚をもって
倭国大乱後の共立卑弥呼体制を支えたと考えれば、
これが新旧唐書から読み取れる阿毎王の筑紫城の中枢枢軸であり、
想像をたくましくすれば、記紀神話にいう高天原の実質であったのではないかとも考えられる。
160日本@名無史さん:2013/04/08(月) 13:24:05.22
このようにして、過去を詮索されたくない筑紫城を天空の高天原へ昇華させてしまえば、
その後は新たな姿で地上へ降臨するだけであるから、たしかに有利な立場に立つことができる。
まことに戦上手であったように思える。
161日本@名無史さん:2013/04/08(月) 17:17:18.50
海峡の独占的な制海権を喪失した段階に至ると

致し方無く有明海側に引籠もらざるを得ないんだよね

鉄流通の独占の必要が無ければ制海権とかどおでもええけどさ。
162満州よたろうくん:2013/04/08(月) 17:26:20.01
くだらない妄想書きてよろこべる 男憐れなり初秋の風
163日本@名無史さん:2013/04/08(月) 18:37:06.28
くだらない川柳書きてよろこべる男哀れなり初秋の風
164日本@名無史さん:2013/04/08(月) 18:37:52.21
>日本書紀に神武天皇のお后になる媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)の名前が出て来ます。
>蹈鞴と書いてたたらと読ませています。蹈鞴は踏みふいごのことです。

古代、鉄の流通独占は皇統の生命線だったような、、、
165日本@名無史さん:2013/04/08(月) 18:56:48.94
鉄の希薄な領域は皇統のとは縁がないのね。
166日本@名無史さん:2013/04/08(月) 18:57:07.81
新政権にとって、前政権が邪魔でも、
相当焚書もしただろうが、
完全に前政権の痕跡を消すことはできない。

そこで、神話の世界に押し込んでしまうというのはありそうだな。

井沢元彦によると、家康も朝廷を浄土に奉ってしまって、
江戸が現実社会、みたいにしてしまったそうだし。

遠離江戸(汚れた現実社会)、欣求浄土(美しいユートピア)
167日本@名無史さん:2013/04/08(月) 18:59:16.55
そういえば、別世界に奉ったといえば、大国主の国譲りが先だったな。
168日本@名無史さん:2013/04/08(月) 21:09:46.60
筑紫平野の低地部は現代に至るまで沈降し続けているので、
魏志倭人伝の文章に従へば、魏使がたどった順路は次の通りになります。

┳ ┳ ┳ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ┃ ┃ ↓. ( 七千餘里 ) ( 725km )
水 水 ┃ 自 ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
行 行 ┃ 郡 ↓. ( 千餘里 ) ( 75km )
十 十 至 四 @. 對馬國 ( 対馬 ) ( 方可四百餘里 ) ( 85km )
日 日 女 百 ↓. ( 千餘里 ) ( 50km )
┃ ┃ 王 餘 A. 一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里 ) ( 40km )
┃ ┃ 國 里 ↓. ( 千餘里 ) ( 40km )
╋ ╋ 萬 ┗ B. 末盧國 ( 唐津中原 ) ( 萬千四百餘里 ) ( 1015km )
┃ ┃ 二 ∵ ↓. ( 五百里 ) ( 40km )
┃ ┃ 千 ∵ C. 伊都國 ( 佐賀大和惣坐 )
陸 水 餘 ∵ ↓ ↕ . ( 百里 ) ( 8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 ) ( 1063km )
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 百里 ) ( 10km )
月 日 ┗ ━ D. 不彌國 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 ) ( 1065km )
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┗ ━ ━ ↕ E. 投馬國 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 ) ( 1015km+330km=1345km )
┃ ∵ ∵ ∵ ↕ . ( 領域 不彌國南與邪馬壹國 投馬國東與邪馬壹國接 )
┗ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
169修正:2013/04/08(月) 21:17:28.32
筑紫平野の低地部は現代に至るまで沈降し続けているので、
魏志倭人伝の文章に従へば、魏使がたどった順路は次の通りになります。

┳ ┳ ┳ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ┃ ┃ ↓. ( 七千餘里 ) ( 725km )
水 水 ┃ 萬 ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
行 行 ┃ 千 ↓. ( 千餘里 ) ( 75km )
十 十 至 四 @. 對馬國 ( 対馬 ) ( 方可四百餘里 ) ( 85km )
日 日 女 百 ↓. ( 千餘里 ) ( 50km )
┃ ┃ 王 餘 A. 一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里 ) ( 40km )
┃ ┃ 國 里 ↓. ( 千餘里 ) ( 40km )
╋ ╋ 萬 ┗ B. 末盧國 ( 唐津中原 ) ( 萬千四百餘里 ) ( 1015km )
┃ ┃ 二 ∵ ↓. ( 五百里 ) ( 40km )
┃ ┃ 千 ∵ C. 伊都國 ( 佐賀大和惣坐 )
陸 水 餘 ∵ ↓ ↕ . ( 百里 ) ( 8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 ) ( 1063km )
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 百里 ) ( 10km )
月 日 ┗ ━ D. 不彌國 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 ) ( 1065km )
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┗ ━ ━ ↕ E. 投馬國 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 ) ( 1015km+330km=1345km )
┃ ∵ ∵ ∵ ↕ . ( 領域 不彌國南與邪馬壹國 投馬國東與邪馬壹國接 )
┗ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
170日本@名無史さん:2013/04/08(月) 23:57:35.87
高天原というのは縄文時代に高地に住み、
弥生時代に稲作文化が進んで平地に国家を作ったということを表してるのでは
縄文時代は国がなく食物は神に祈るしかなかった
弥生時代になり人が統治する国ができた
171日本@名無史さん:2013/04/09(火) 00:08:36.17
>>126

これで、名古屋を見るとすごいことになってる
172日本@名無史さん:2013/04/09(火) 10:17:26.95
民主党が平気で嘘を付くのは
民主党が元朝鮮人・元中国人で出来た政党だから

こんなことにも気が付かないから振り込め詐欺なんかに騙される


朝鮮の諺
・騙されるほうが悪い
・騙して金を引き出した後は、放火して始末しろ(殺せ)
・営門で頬を叩かれ、家に帰って女房を蹴飛ばす
・川に落ちた犬は、棒で叩いて沈めろ
173満州よたろうくん:2013/04/09(火) 12:52:25.05
>>154
は別の意味で興味深い。遼東湾の平野部がかなり奥まで浸水している。
隋と唐が攻めた安市城の位置がいまだによく分らないのだが、
通説の海城市付近というのが誤りだろうということがこれで分る。
おそらく卑沙城が海城市だろう。

邪馬台国論争とは何の関係も無いが、僕はこんなことばかり考証しているのである。
174日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:39:11.48
九州説信者は単なる思い込みを既成事実の様に騙っててキモイ
正にカルト信者そのもの。。。
175日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:46:12.12
元jはといえば、「親魏倭王」の金印が、海賊の手によって奪われ、
女王の元に届かなかったことが話をややこしくしているのです。
九州の海賊はその後も倭寇として朝鮮半島まで荒らしまわっているし、
日本の恥ですね。
176日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:49:55.98
コピペか。
177日本@名無史さん:2013/04/09(火) 21:58:20.99
新唐書は記紀よりのちの編集だから、とうぜん記紀を参考にしているわけだが、
記紀にない新規事項の記述は価値ある(秘密の暴露)といえる。
筑紫城のくだりはその例じゃないかな。
178日本@名無史さん:2013/04/09(火) 22:13:05.18
神武東征せず
ずっと筑紫城だっけ
179日本@名無史さん:2013/04/09(火) 22:47:39.10
筑紫城ってどこ?
180日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:01:46.67
筑…築いた場所ということ
紫…王の居る場所、城

九州の北端が筑紫と呼ばれるようになったのは、
太宰府が築かれた後世のことだろう。

この時代に筑紫された場所は近江・彦根。
その日向(東)には、くじふる滝こと養老乃滝がある。
卑弥呼の墓は象鼻山で間違いない。
181日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:17:56.65
隋書に竹斯国とあるのが先
182日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:25:34.06
随(581-618)
隋書が書かれたのは隋が滅んだ後。
九州説信者と朝鮮人は、時系列の概念に欠けてるから困る。
183日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:43:11.61
新唐書は記紀編纂から300年以上経った1060年成立
三国志には竹斯やそれに類する国名は出て来ない
隋書には出てくる、まだ記紀は成立していない
この間に出来た地名か
184日本@名無史さん:2013/04/10(水) 07:29:27.56
古水城がC14で6世紀だから、
それが守るべき都府楼はそれ以前から存在したことになる。

だいたいそれくらいから筑紫が存在していたと考えて良いだろう。
185日本@名無史さん:2013/04/10(水) 13:49:20.69
都市牛利が筑紫牛利かも
186日本@名無史さん:2013/04/10(水) 13:53:03.90
>>182
181は合ってるじゃないか
187日本@名無史さん:2013/04/10(水) 14:29:32.32
志賀の島の金印を信用するなら、
昔の漢倭奴国王の金印を返還することなく、卑弥呼が親魏倭王の金印をもらったことになる。
これは漢の顔と魏の顔の2国が並存していた可能性を示すわけだが、どういう事情と考えればよいのか??
188日本@名無史さん:2013/04/10(水) 14:45:29.24
別の国
189日本@名無史さん:2013/04/10(水) 15:53:12.24
>>187
委奴国王と邪馬台国女王はまったく別物ということだから
190満州よたろうくん:2013/04/10(水) 17:25:22.41
君知るや あの金印は 偽物なり
君知るや 倭奴国帥升 日本じゃない
191日本@名無史さん:2013/04/10(水) 18:01:59.48
1世紀、3世紀の解析に日本を出して来ても無意味

倭人は列島から半島にかけて広範に繁殖しておった

4世紀に新羅に出兵とかゆうのもまぬけ

鶏林は小規模のローカルので土人酋長が仕切っていたのにすぎないからね

新羅の先祖のおひとは倭人系の王お迎えしたりするのが得意だし

多婆那も新羅の先祖のところの王子様のこと婿にしたりしてもぜんぜんふつう
192日本@名無史さん:2013/04/10(水) 18:09:36.03
実は委奴国王と邪馬台国女王は一心同体で漢と魏の2つの王朝向けの顔をもっていたか・・、
それとも本家分家みたいな関係だったのか、
あるいはまったく別物だったのか、

ま、このうちどれかとおもうけど、筑紫城で32世うんぬんを信ずれば別物かなあ
そうすると北部九州に邪馬台国があった可能性は小さくなる
193日本@名無史さん:2013/04/10(水) 18:29:49.78
「いぬど」と入力して変換してあげると

「狗奴」になっちゃうのはおれだけですか?
194日本@名無史さん:2013/04/10(水) 19:05:47.23
後漢が魏にとって代わられたから使節があらためて来ただけじゃないの
195日本@名無史さん:2013/04/10(水) 19:06:13.97
>>175
別に恥ずかしいことでも何でもない。世界はパワーポリティクスで動いている。
弱い国・民族は他民族の攻撃を受け、征服されて、滅ぶ運命だ。今のチョーセ
ンジンどももな。うしろに気をつけろよ。
196日本@名無史さん:2013/04/10(水) 19:08:19.54
委奴国王と邪馬台国女王は別物で、
邪馬台国は中九州にあったと考えると、個人的には納得しやすい。

というのは、
これまで天照大神の子でなく孫の瓊瓊杵尊が降臨したというのが不自然だった(天照大神の血が薄まる)のだが、
時代が移って、天照大神たる卑弥呼・台与の共立体制を解消し、
倭奴国主導で天孫降臨(諸国平定)に臨んだため、
記紀の上であれこれの挿話手続きを要した・・・、と想定すれば理解しやすくなる。
197満州よたろうくん:2013/04/10(水) 19:15:56.41
珍説を 真面目に語る 2ch
198日本@名無史さん:2013/04/10(水) 19:39:30.82
満州が登場してけなすときは、けっこうイケてる九州説のようだなww

ま、満州は鹿児島ゆかりの人間かもだが
しょせん大隅=大熊なんだから、狗奴国で納得してくれ
199日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:05:16.24
邪馬台国は島原半島にあります
200日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:53:21.26
新唐書
>王姓は阿毎氏、自ら言うには初めの主は天御中主と号し彦瀲に至り、
>およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。

皆尊号、というごとく神話時代〜天孫降臨〜神武以降の要人は尊(命)を号している。
しかし、なぜか天照大神だけは、尊でも命でもない。
筑紫城と共立女王都(卑弥呼城)は別物だった状況証拠といえるのではないか?
201日本@名無史さん:2013/04/10(水) 22:20:33.87
神武東征は、宮崎の一小部族があちこちを転々として、
現地の一族を倒して、畿内に移民した話。

卑弥呼は肥国の小国30カ国を治めた、宗教的代表者、肥の巫女。
実質の王は弟と呼ばれた男性王
筑紫とは別の国なので、唐津松浦で交易し、筑紫の博多港を通れない事情があった。

九州の実質の代表者は、博多太宰府を本拠地とする筑紫国。
6世紀には九州王朝を打ち立てる。
白村江の主力はこの九州王朝で、大敗北により事実上壊滅し、
天子の権威を、絶賛勢力拡大中の畿内王権にとられる。
または、疎開する。
202日本@名無史さん:2013/04/10(水) 23:04:45.44
203小生 ◆JBaU1YC3sE :2013/04/10(水) 23:09:56.34
宇佐から出雲〜彦根あたりまでが巨大な邪馬台国領だろな

がっつりと九州=邪馬台国では100%ない。
当時の中国から金印をあずかるからには相当なスケールの国であったことは確実
なんせ邪馬台国一国だけで当時の韓半島にあったすべての国より戸数が多い、九州だけでは無理。

一方、機内はその当時邪馬台国以上の巨大な権力がそびえ立っていたこともほぼ確実
204日本@名無史さん:2013/04/11(木) 06:36:10.27
古代史=想像力の世界だってことがわかってきた
205満州よたろうくん:2013/04/11(木) 09:31:09.71
山陰説は侮りがたい説である。
なにしろ山陰はスサノオの地域。そのスサノオはソシモリから渡来した。

そもそも倭の女王卑弥呼がなぜ、百済や高句麗にではなく、
新羅に使いを出したのか、そこを考えてみなければいけない。
血縁、地縁のようなものがあったのではないか、と。

神功皇后の母方はアメノヒボコ系で近江にいた。
こういうことも何か関係があるのではなかろうか、と。
206日本@名無史さん:2013/04/11(木) 10:20:40.73
まず統治の象徴として、日国(肥国)に城をかまえた共立女王卑弥呼の天照大神体制あり、
その下で、古の筑紫城倭奴国とか、大国主命の出雲勢とか、新興の大陸系鉄国家邪馬台国とかが活躍する。
高天原神話とは、それら古代西日本の大中小の勢力が繰り広げたドラマ。
やがてそこから肥国系の神武の東征建国へというあらすじか。

出雲(事代主神)や近江(天御中主)が登場するのはそういうことだな。
207日本@名無史さん:2013/04/11(木) 10:40:06.91
九州説以外はあなどっていいよ。
208日本@名無史さん:2013/04/11(木) 11:00:09.86
ちと大げさにいえば、中華思想における夏王朝のごとく、
この時代、九州で出来上がった共立女王の卑弥呼体制は、今日に至るも面影を残しているというわけか。
そのとりあえずの要石は伊都国の位置と役割だな。
209満州よたろうくん:2013/04/11(木) 12:22:07.30
伊都国大好き人間が一人いるな。たぶん「ボクの素直読み」男だろうがw

伊都国は九州北岸にあったに決まっている。
ところが中国や朝鮮の人間はそうは認識していなかったのである。
彼らは日向国を伊都国だと思っていたのである。
そのことは或る資料にはっきり書かれている。
尤も、その資料はチミらが偽書とバカにしている文献ではあるがw
210日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:28:08.29
満州狼はいつまでたっても一匹らしいが、
伊都国男は三十人ぐらいいる。最近どんどん増えてるな。
211満州よたろうくん:2013/04/11(木) 12:28:28.77
ともあれ、山陰説男が登場してきたことは喜ばしいことである。
そういう新人が参加しないと議論が活性化しない。

九州人の小学生じみた空想や行程パズルはもう読む気もしない。
212日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:34:00.69
山陰説登場は、邪馬台国と鉄の関連が注目されてきた余波と言える。
良い傾向だ。
213日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:36:06.21
伊都国の所在地は倭人伝に書かれているよ。偽書を持ち出す必要はない。
214日本@名無史さん:2013/04/11(木) 12:45:52.95
満州の生命線、
伊都国が佐賀平野では困る、せっかくの自分の著書が日の目をみなくなる。
215日本@名無史さん:2013/04/11(木) 13:22:43.05
無駄遣いしないですむじゃん。
216日本@名無史さん:2013/04/11(木) 15:46:56.86
パズルも何も、あらゆる資料を持ち出して、訳の解らない
理屈をこねくりまわして難しくしてる馬鹿多すぎ。
学者気取りのバカね、お前もだ満州。
217日本@名無史さん:2013/04/11(木) 15:51:30.64
九州論者の鼻息荒さと必死さは逆効果でしかないんだよなぁ

やれ「畿内説完全崩壊」だの「畿内説の妄言を断つ!」だ宗教じみて不気味さしかない
倭人伝を単純に読めば九州説は自然とうなづける説ではあるんだから、もっと大らかにしてなさいよ
218日本@名無史さん:2013/04/11(木) 16:36:07.16
30カ国の合意で共立した卑弥呼体制、
しかも金印紫綬となれば一国の思惑だけで簡単には崩せない
記紀編纂にあたっても、不偏不党、共立の天照大神として処遇することで各国の納得を得たんだろうね
219日本@名無史さん:2013/04/11(木) 16:42:32.20
卑弥呼の別名は大倭王ですよ

三十余国の大倭王
伊都国も奴国も卑弥呼にひれ伏した
220日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:21:38.78
謎の女王スレから拝借してきました。

>中国人の認識(倭と日本が分かれてる中国古代地図、唐以前の状況を表したとみられる)
>倭(九州)の北東に、日本国(本州)がある
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/SihaiHuayiZongtu.jpg/800px-SihaiHuayiZongtu.jpg
221日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:29:38.23
だから倭国は九州だってのに
222満州よたろうくん:2013/04/11(木) 17:29:39.95
>>216
おっ、大きく出たなw それほど大口を叩くからにはよほど自信があるのだろう。
ではおぬしの説を聞かせてもらいたい。

1 邪馬台国はどこか
2 卑弥呼とは誰か
3 狗奴国はどこか

以上の三点について、決定的な証拠があるなら、それを添えて回答してもらおう。
ではどうぞ。制限時間無し。十年間でも待ってるぞ。
223日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:31:44.74
10年待ってる間に死んだらどうする
早く本を書きなさい
224日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:35:11.05
>>220
日本人は九州を知リつくしているだけに、とうぜん有明海ありと思ってしまう。
しかし多くの中国人は、とりあえず九州は、丸い島〜長丸い島、と理解するのではないか。
あの時代、いやもしかして今でもそれが普通ではないかとおもう。
225日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:37:37.98
中国の湾も省略されて書かれてない
九州の有明海が書かれるわけ無い
226日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:43:39.85
倭人伝も、有明海の認識を棚上げして(捨てて)読んでみたらどうなるかな・・、とおもう。
227日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:49:12.97
狗奴国は本家熊襲でしょ
卑彌呼のグループに乗っ取られたかたちでちょびっと南側に避難
こども女王出現の段階で揉めるのやめた。
228日本@名無史さん:2013/04/11(木) 18:12:02.87
熊襲の本拠地とされる曾於郡は、概ね今の鹿児島一帯で、
景行天皇の熊襲征伐はその北端を巡る順路だったようだ
229日本@名無史さん:2013/04/11(木) 18:29:02.99
有明海を考えず、倭国九州島は長丸いという前提で倭人伝を読むと、

まず、九州島は長丸いから魏から載ってきた船で周回できるはず、と考えるだろう
つぎに、陸行順路は末蘆港に停泊中の郡船上で聞く形になるだろう
南至投馬国水行20日と聞けば、ここまで10日だから、あと10日を郡船で回れば到着だなと計算するだろう
同様に、南至邪馬台国水行10日陸行1月と聞けば、ここまで10日だから、あと1月は歩きか・・ヤレヤレ、と知るだろう
230日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:28:36.72
>>228
そこのは熊襲の拡張域だろ

日向が日向の拡張域なのと同
231日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:33:13.26
熊襲の襲の字は龍の衣と書くのだが左前のでござるよ

蛮族のは右が前で弓を引くのには不自由みたいだ

熊襲の正規表現のは熊楚なのかもしれんけどね。。。
232日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:36:14.22
熊襲は熊と曾という2つを合わせたと読んでる本に書いてある
233日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:39:25.95
熊とゆう呼称のは世継ぎの子につけてもあたりまえなような価値の高い呼称なのだ

神功がやっつけた世継ぎの子のお名前なんかもそうだろ
234日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:44:47.02
ちなみに

~産巢日~ みたいな 「~」が頭にくるグループは

あたまのは「くま」と読むべきなのだ

あたまが「くま」の酋長のステータスはかなり高いのがふつうだよ
235日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:47:31.31
ぶっちゃけ熊なんて地名は日本中にあるから
福岡と佐賀の県境は隈(くま)
熊本は熊、球磨郡、
鹿児島は熊襲、
三重和歌山県境は熊野、
出雲にも熊野、
236日本@名無史さん:2013/04/11(木) 19:56:04.59
漢字を操る中国人が東夷とか卑とか狗とかを当てはめたように、
漢字を覚えたての奈良時代人も、熊襲とか、おどろおどろしい字を当てはめただけのことだろ。
237日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:01:32.45
筑紫城は大宰府近辺として、
共立の卑弥呼城は九州島のおへそ辺りにあって、狗奴国をたらしこむ役目だったんじゃないかと・・・
238日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:22:16.91
狗 本作𧲿[豸后] 熊虎子名 或作豿
句=勾
句吳=勾吳

【狐 勾 句 狗 狛 狢 猖 猥 獩 獼 ゐぬ くま こぅま こま】

目のまわりに隈を描くとかのが陳寿のいう倭人だからなあ

「wui」の「隈」を「くま」と訓読するところがまた絶妙だわな

    委奴
     |
隈-熊-狗-句-勾
   |
   ~
239日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:30:06.50
出雲の熊野は紀伊の熊野神社が元であるのははっきりしてる
京都にも今熊野がある
熊野は八幡と同じくらいあるだろう

神武が熊野に上陸したのと九州の球磨、隈との関連があるかどうか…
単に森深いので熊が多いだけかもしれない
アイヌやシベリア系は熊の信仰がある

房総の安房は四国の阿波から来たという伝承がある
240日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:31:51.75
>>234
あたまが「くま」の酋長さんたち

~産巢日~
~阿多都比賣
~倭伊波禮毘古命
~沼河耳命
~八井耳命
~直毘~
~屋楯比賣命
~活須毘~
241日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:40:58.54
熊襲の巣なのが本家熊本のあたり

本家熊野はその近場

「熊野」の正規表記のはたぶん「狗奴」
242日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:49:03.64
多くは神武天皇の近辺のひとだね、カムイとか、なにか出自に共通点ありなのかな
243日本@名無史さん:2013/04/11(木) 21:12:52.18
「自波穗乘天之羅摩船而 内剥鵝皮剥 爲衣服 有歸來~」で

「少名毘古那~」が列島側にあらいぶした時

「久延毘古」が事情通で「~産巢日御祖命」から

「此者實我子也 於 子之中 自我手俣久岐斯子也」との自白取ってる。

「久延毘古」は「曾富騰者也」で「足雖不行(あししひ) 盡知天下之事~也」で

素直に読むと「又諸國各有別邑 名之爲蘇塗 立大木 縣鈴鼓 事鬼~」

「曾富騰」と「蘇塗」のがかぶり

「足雖不行(あししひ) 」が「伴跛」(池山洞古墳群)のところにかぶる。
244日本@名無史さん:2013/04/11(木) 21:14:59.88
つーか山深いとこは「熊」で問題なし
245日本@名無史さん:2013/04/11(木) 21:53:05.25
>>222
1・長崎県島原半島北部

2・卑弥呼は卑弥呼だろw

3・菊池川以南の熊本市辺り(推定)

九州の真ん中に位置し地理的防御力が高く、何より
有明海沿岸の各倭國連合國を統括しやすい。
決定的資料?資料なんざ倭人伝だけだ。
倭人伝読み砕いて考えたらそうにしかならない。
そして、現在は誰もそれを確証出来ない。

宝の地図をはみ出た所に宝が在るかよ。
書かれてる倭人伝の中にしか邪馬台国は無い。
地図が最初から嘘っぱちなら、邪馬台国も存在しない。
246満州よたろうくん:2013/04/11(木) 22:23:18.24
つまらなさすぎてコメントのしようがない。
247日本@名無史さん:2013/04/11(木) 22:37:10.01
このスレでアンケートをとれば伊都国が佐賀で邪馬台国が熊本
卑弥呼がおてもやん
北部・東部・南部九州は出る幕なし 
もう終了でいいんじゃね
248満州よたろうくん:2013/04/11(木) 22:38:48.50
熊襲という言葉は昔からあるのである。

桓檀古記 三十五世檀君沙伐

戊午五十年,帝遣將彦波弗哈平海上熊襲。BC723
249日本@名無史さん:2013/04/11(木) 22:40:59.18
おてもやんの歌詞には千数百年受け継がれてきた秘密が隠されている
実は卑弥呼は一度嫁入りしているのだ
250日本@名無史さん:2013/04/11(木) 22:42:07.82
>>246
お前は何処も比定出来ないだろがw
251満州よたろうくん:2013/04/11(木) 23:03:03.62
一週間ほど前に、ついに解けたと書いたが、それは二通りの意味に取れる場所なのである。
それで迷っている。

僕は九合目で迷っているのだが、チミらは二合目でウロウロしている(同情に堪えない)。
252日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:19:18.91
>>247
そうだね。まあ、程度の低い結論だね。
253日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:27:16.28
倭人伝の行程記事からすれば熊本にも可能性はある。周旋可五千豫里の範囲内にも辛うじて入る可能性
もある。
だが、倭国の都を思わせる遺跡、出土物が無いなあ。
254日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:34:53.03
上町向原遺跡出土素環頭大刀(かみまちむかえばるいせきしゅつどそかんとうたち)

約120cmの長大な素環頭大刀。大型の石棺から出土(古墳時代初頭か)←あたま湧いてるのか?
255日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:40:12.41
上町向原遺跡がどこにあったのかわかるひといますか?
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/57/5f/takata_hiroshi_320/folder/23241/img_23241_23384971_0?1347341731
この鉄刀が出たところだけど
わざと目立たないようにして隠しているのかな?
写真撮影とかも禁止しているのかなあ
256日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:42:54.62
http://www.city.itoshima.lg.jp/site/bunkazai/hirabaru-syutudohin.html

こっちのは3尺サイズのだなあ

へたしたら2世紀末とかなんだなあ。。。
257日本@名無史さん:2013/04/11(木) 23:52:43.83
確かに場所がわからん
何か建ってしまってるんじゃね
258日本@名無史さん:2013/04/12(金) 00:05:28.91
http://goo.gl/maps/1RDLw

たぶんこれかなとはおもふが。
259日本@名無史さん:2013/04/12(金) 01:58:47.00
>>248
古代の大和朝廷が異民族?を地名で呼んだ話など聞いたこともない。
だいたい動物の名前から取っている。蝦夷とか八十梟帥とか、土蜘蛛とか、
熊襲だけ地名と決めるのは、ご都合主義というものだろう。
260日本@名無史さん:2013/04/12(金) 02:06:43.73
これは初期の古墳の副葬品だが、どこの古墳がわかる人いるかな。
http://inoues.net/ruins2/mukounoda3.jpg

方格規矩四神鏡、内行花文鏡、鉄剣、鉄刀などたくさんの鉄器。
腕輪系の装飾品があるのがミソ。
261日本@名無史さん:2013/04/12(金) 08:42:24.92
吉武高木とか、北九州の古墳だろ
262日本@名無史さん:2013/04/12(金) 09:11:45.47
>>260
アドレス頼りに検索しました。これでしょうか?
http://inoues.net/ruins2/kumamoto_noda.html
263満州よたろうくん:2013/04/12(金) 09:15:56.09
>>259
チミは何か勘違いしてるな。桓檀古記は満鮮人の歴史書。
満鮮人が海上の異民族を熊襲と呼んでいたということだ。
この海上が対馬以南を指すのか、半島南部をも含めているのかは不明。
とにかくBC723の頃にはすでに満鮮人が熊襲と呼ぶ民族?がいたということだ。
264日本@名無史さん:2013/04/12(金) 11:15:07.09
>>251
つまり、何処にも比定出来ずに迷ってるんだろ?
九合目やらあるかい、底辺さ迷ってんだよ。
何年やってるか知らんが、結局答え出せずにさ迷う
だけだからもう辞めたが良いぞ、才能無いから。

自分成りの邪馬台国が決まった時点で終わるんだよ。
所詮答え合わせも出来ないんだから。
それさえも出せないのに偉そうに講釈垂れんなやw
265日本@名無史さん:2013/04/12(金) 11:24:59.00
>>263
日本列島、琉球列島の先住民はアイヌとされてるから、それを熊襲とよぶなら有りうる
熊にちなむ地名は全国にあるし。

ともあれ、いくら九州島の外を探しても卑弥呼さんはいらっしゃいませんわね。
266日本@名無史さん:2013/04/12(金) 11:47:46.05
>古の倭奴国は筑紫城に居て尊を号とし32世、その子神武立ちて天皇に即位し、31代まで尊号を承継した。

32世はどうみても神話の高天原時代を含むが、天津神なのに天照大神は尊ではない。
これは筑紫城に居す倭奴国人でなく、他国の人であったことを物語る。
よって巷説の邪馬台国の共立卑弥呼である可能性は十分に高い。

スサノオに国を譲った出雲大社でさえ、宮殿は遷宮を繰り返して現存する。
卑弥呼の居城も、現に天照大神を祭る九州島内の神社・神域に相違ない。
267日本@名無史さん:2013/04/12(金) 11:55:26.95
糸島水道のと似たロケーション
木棺ではなく石棺なのも一緒
------------------------------------------------------------------------------
http://maps.google.co.jp/maps?q=32.66334,130.673726
http://flood.firetree.net/?ll=32.66334,130.673726&zoom=13&m=4
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/photo/pro/kodai/mukounodakofunsyutudo3_b.jpg
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/pro/kodai/mukounodakohun.html
http://inoues.net/ruins2/mukounoda3.jpg
第1主体棺内:内行花文鏡1+方格規矩鏡1+倭製鳥鶏鏡1
         硬玉製勾玉4+碧玉製管玉82+ガラス製小玉228以上+碧玉製車輪石1+貝輪10以上
第1主体棺外:鉄剣3+鉄刀4+鉄槍1+斧3+刀子78+石室裏込石内に石枕未製品1
後円径53.7m・高8m
舟形石棺:阿蘇溶結凝灰岩 4*1.08*1.1m
竪穴式石槨:安山岩 4.25m*1.08m*1.1-0.94m
------------------------------------------------------------------------------
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.560587,130.203608
http://flood.firetree.net/?ll=33.560587,130.203608&zoom=14&m=2
http://goo.gl/maps/1RDLw
約120cmの長大な素環頭大刀が大型の石棺から出土の上町向原遺跡?
「金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 眞珠 鉛丹各五十斤」の「五尺刀」のサイズ
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/57/5f/takata_hiroshi_320/folder/23241/img_23241_23384971_0?1347341731
上町向原遺跡といって上町向原古墳とまではいわない。
サイズのでかくない土饅頭でしょうか?
土饅頭と大型石棺とフルサイズの刀の組み合わせはえろい。
------------------------------------------------------------------------------
268日本@名無史さん:2013/04/12(金) 12:26:24.17
地形的、距離的に見て、
古の超大国であった倭奴国の重要地区のひとつとして糸島前原があったのではないかとおもうのだが、
269満州よたろうくん:2013/04/12(金) 12:28:30.38
>>264
才能ないのはチミw

>>265
アイヌが南方にいたというのは俗説。そんな俗説を信じちゃいけま千円。
アイヌは樺太にも住んでいるのだから。
270日本@名無史さん:2013/04/12(金) 12:31:29.43
>>269
んじゃ邪馬台国は何処なんだよ?
271日本@名無史さん:2013/04/12(金) 12:38:43.51
>>269
琉球アイヌは俗説ではない。満州のそういう印象派の部分が腰砕けに見えるのだ。
272日本@名無史さん:2013/04/12(金) 12:39:37.68
>>262
正解。まあ、アドレスに「mukounoda」とあるわけだけど。
副葬品の組み合わせから見るに、かなり初期の古墳を思わせる。
その割に鉄器が非常に多い。鉄斧があんなに大きいとものは思わなかった。

>>267
海面の地図を見ると、古代の宇土半島は島だったことになるんだな。
難なく、南下できたわけだ。ただ、海峡の入り口の西側、緑川駅の近く
には大きな天神山古墳があり、中ほどには向野田古墳がある。
近くを船で通る人に見せたかったのかも。

糸島も島だったみたいだが、こちらは通行人に見せるようなものは
なかったわけかな。
273日本@名無史さん:2013/04/12(金) 12:45:23.19
>>269
北が原郷の集団があんな形質を温存するかよ。中国でさえ万里の北から文明史的に荒らされ形質、民俗学的に北方変異してるのにwいう事は一丁前に中華うん万年のセンズリこいてる。
274満州よたろうくん:2013/04/12(金) 12:52:40.96
結局チミらは通説定説以外のことは何も知らんのだな(泣)

南の民族が、追われて北方に逃げた、という例はあるか?
たいていは北の民族に追われて更に南に逃げるものなのだ。

なんで琉球にいた民族がわざわざ樺太のような寒冷な地域に移動するのだ?
バカじゃなかろか。
275日本@名無史さん:2013/04/12(金) 13:05:44.33
>>274
本気で言ってるとは思えぬが、まあ念のため。
はるか縄文の昔、アイヌ民族は満州北方の寒冷地から樺太経由で渡来し、日本列島から琉球まで住みついていた。先住民族である。
その後、呉人や半島大陸人が九州に上陸し広まって、アイヌ系人(満州の言う先住熊襲)は南北に分断された。
その末裔が琉球と北海道に現存するわけだ。
276日本@名無史さん:2013/04/12(金) 13:46:07.05
>>274
熱帯特有の伝染病を避けるなら、山岳部か北方へ移住するしかない
277日本@名無史さん:2013/04/12(金) 15:04:47.40
>>274
無才能www

はよ邪馬台国は何処か答えろw
278満州よたろうくん:2013/04/12(金) 17:11:04.24
>>275
そんなことを本気で信じているとは、同情に堪えない。

○○学者 見て来たような 嘘を書き

>>277
邪馬台国は大和に決まっているw  論じる必要なし。
279日本@名無史さん:2013/04/12(金) 17:21:48.60
海の上かもしれんよ
冗談抜きで
280日本@名無史さん:2013/04/12(金) 17:32:38.19
つうか寂しい満州はお前らが相手するからここに居座ってるんだろ
ガン無視すれば出ていくだろ
281満州よたろうくん:2013/04/12(金) 18:10:07.44
中筒男 つうかつうかで 書き始め
282日本@名無史さん:2013/04/12(金) 18:34:17.44
ちかごろ満州の反論も余裕がなくなってきた
遠からずダウンするとみた
283日本@名無史さん:2013/04/12(金) 18:46:21.89
陳寿レポートはもっとまぢで読んであげた方が良いよ

たとえば、全羅南道は全域が倭地だよ、くらいでもよさげ。
284日本@名無史さん:2013/04/12(金) 18:48:02.31
>神功皇后は、『紀』では気長足姫尊、『記』では息長帯比売命

繰り返すようで申し訳ないが、
卑弥呼の当て馬と言われる神功皇后には尊・命を号しているのに、
卑弥呼を模したかもといわれる天照大神に尊も命もないのはどういういきさつだったのか、気になってならぬ。
285日本@名無史さん:2013/04/12(金) 18:51:51.02
「おうみ」出身の「おうみかみ」で「神さん」だからいいのだよ

とうちゃんも「おおかみ」だし
286日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:17:51.06
>全羅南道は全域が倭地だよ

内陸は違う。
倭地は、全羅南道と慶尚南道の沿岸部と大河(栄山江・洛東江)沿い。
287日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:23:59.92
魏率善邑君のはなかみが倭人とみるべきだとはおもふよ

倭臣熊彦なんかもそうだけどね

6世紀以降爆発的に前方後円の長鼓墳が涌いて出る前提のがあるはずだろ
288日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:24:50.40
ミコトのう
まあ普通に考えりゃヤマトというくらいだし
山部氏の方なんだろ
289日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:37:41.20
陳寿レポートはもっと遠慮とかしないで読んであげた方が良いよ

たとえば

「狗邪國」と「狗邪韓國」とは同じものだとか素直にさ。。。

そしたら「駕洛國」の王さまの「居登王」さんは倭人のに含まれたりするだろ

巴形銅器の発生期のがここ→http://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pages/bunkazai/bunkazai-324.htm らしいから

狗邪國の王さまは倭人でもええのじゃに
290日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:51:37.93
鉄器文明がどういうルートを辿ったのかが気になる。。。
291日本@名無史さん:2013/04/12(金) 19:53:05.94
多々良氏なんてどう考えても渡来系だしなあ
292日本@名無史さん:2013/04/12(金) 20:23:32.10
記に出てくるの鉄酋長といえばなんといっても「思金~」

「常世思金~」とも呼ばれる「高木~」のむすこさん
293日本@名無史さん:2013/04/12(金) 20:25:15.19
294日本@名無史さん:2013/04/12(金) 21:00:38.59
鉄器文明ってヒッタイトだかあっちが大元なんだろ
それがこっちに段々と続いてきたのかな
295日本@名無史さん:2013/04/12(金) 21:08:08.53
>>275
北方種が南下したのよ万里の北からな。
大陸が混血しまくったのよw
296日本@名無史さん:2013/04/12(金) 22:13:28.57
畿内住みだが、邪馬台国は九州だと思ってた。
なんとなく南から来た感じ
297日本@名無史さん:2013/04/12(金) 23:01:11.55
九州はあれ起源前だぞ
298日本@名無史さん:2013/04/12(金) 23:03:39.96
起源前1000年くらいから沖縄とかの方からの渡来
299日本@名無史さん:2013/04/13(土) 01:28:44.11
起源前って、何の起源前だあ。
歴史板に来て、起源前はないだろう。
小学生でも紀元前と書けるはず。
300日本@名無史さん:2013/04/13(土) 01:50:17.52
意味が通じりゃええやん
301日本@名無史さん:2013/04/13(土) 11:46:50.94
韓国の方のようですから
302日本@名無史さん:2013/04/13(土) 13:19:11.89
全く意味が通じない。
起源は縄文起源のことか? 起源前1000年は14000年前のこと?

紀元と起源の意味の違いがわからない歴史認識が飛んでいる半島のお方かな?
303日本@名無史さん:2013/04/13(土) 14:36:44.49
ともあれ筑紫城派とは前にも後にも婚姻による血縁を有さないのに、天照大神(の一族)の功績は偉大だった
暴れ者のスサノオを出雲へ下して身を固めさせ、その後の国譲りにつなげた
周辺国へはニニギの尊を派遣して支持を取り付けた

記紀の編集にあたってそれを主たるストーリーにした(せざるを得なかった)のも無理からぬ
304日本@名無史さん:2013/04/13(土) 15:08:20.10
倭人伝と記紀をごっちゃに考えるから混乱を招く
305日本@名無史さん:2013/04/13(土) 15:27:36.83
なんにせよ卑弥呼の時代にまだ九州にひっこんでることは100%ありえない

卑弥呼没と前後して全国に巨大古墳が造営されていき、最終的には30万を越す数になるのに
郷土愛を邪馬台国論争に持ち込むのは日本という国、ひいてはすべてのご先祖様に申し訳ないことだよ
306日本@名無史さん:2013/04/13(土) 15:45:08.28
>>305
普通の思考では、3世紀初めの日本に、大和を都とし、九州まで支配し、
中国と交流する国があるというのが考えられない。
これは、8世紀の大和朝廷に匹敵する勢力ということで、時代錯誤の考えと
言われる。だから、畿内説も「緩やかな連合」と苦しいことを言わざるを得ない。

しかし、諸国を検察する一大率の存在や、伊都国王が女王国に代々統属すると
書かれている倭人伝とは大いに矛盾する。
307日本@名無史さん:2013/04/13(土) 16:02:09.34
紀元前後で倭の海人は余裕で中国まで行ってるし、
貨泉も弥生期遺跡から河内辺りまで出てる。
つまりこの辺りまでは余裕の倭と大陸の通常交易エリアですよ。
308日本@名無史さん:2013/04/13(土) 16:12:00.76
邪馬台国女王の時代はせいぜい100年がいいとこ。
その間にも九州各地、出雲、大和とは交流というかせめぎあいがあったとおもえる。

突然の奈良の巨大古墳は不思議に思えるが、
あれは奈良湖の干拓でできた水田のかんがい用に掘ったため池の残土をお墓風にしたのではないか。
そう考えれば神武東征なる出来事の前後、西暦300年ごろにあの巨大工事があっても不思議ではない。
309日本@名無史さん:2013/04/13(土) 16:18:00.54
>308 のつづき
突然のうらには、邪馬台国が入手した大量の鉄製土木工事用道具、農具、武器などがあったのではないか
何もなければ歴史の歩みは千年1日、しかし物理的革命があるとき歴史は急速かつ濁流の如く進む
310日本@名無史さん:2013/04/13(土) 16:36:06.42
日本列島に様々な統治国家が散在していた。
その一つが九州の倭國連合。
311小生 ◆JBaU1YC3sE :2013/04/13(土) 17:06:39.78
九州には伊都国をもって大なる権力が根付いていたことは確かであるが、
その伊都国が女王国に統合されている事実は重大なのである。

また卑弥呼共立までの戦乱の百年、百以上の国が最終的に30の国に統合されているのである。
この段階を持って、東征が進行したとみるのは妥当である。
そもそも九州はわんさかと海を渡って人がやってくるのである、その結果百以上の国が乱立したのである。
九州にとどまっていては、安定した支配基盤は築けないのは道理なのである。

九州論者は今一度冷静になる必要があるのである。
312日本@名無史さん:2013/04/13(土) 17:13:27.34
日本の歴史を考えれば7世紀ころまでは地方の豪族が各地に分立し
国造として各地を統治していた
この他に屯倉と呼ばれるヤマト王権の直轄地があったがこれはわずかなもの
これが7世紀に入って中央から派遣された国司にとって変わるまでが
ヤマト王権の苦難の歴史といえる
3世紀の列島に広範囲な強権勢力があるはずもなく
313日本@名無史さん:2013/04/13(土) 17:16:07.59
国っつても最初は村単位でしょ
吉野ヶ里だって一町内規模しか無いわけで
百の国々が合併して30程に成ったんだろうし
314小生 ◆JBaU1YC3sE :2013/04/13(土) 17:21:05.01
>>813
もちろんそう考えるのが妥当なのである

するとひとつの謎が浮上するのである。
倭人伝に記された各国の戸数の問題である。問題といっても足し算程度の話である
あまりに戸数が多すぎるのである。あれらをすべて九州の話とするとありえないほどの人工過密地帯となってしまう
最後に再び「水行」が挿入されていることから察するに再び海を渡ったと考えるのは妥当なのである
315日本@名無史さん:2013/04/13(土) 17:39:21.47
東征は一日にして成らず
昭和の子だくさん風に一戸5人とか8人とか考えると足りぬだろうな、
でも平成の今は単身世帯も少なくない、
当時も男は兵士や奴隷に取られ、通い婚とかで一戸1〜2人の母子家庭が普通だったかもしれぬ
316日本@名無史さん:2013/04/13(土) 19:13:17.57
それにつけても、
卑弥呼の死と天照大神の岩戸隠れ → 国中不服と安河原の相談事 → 台与の共立と天照大神の岩戸出、

この間の事情はとてもよく似てる。
そもそも記紀が必死で隠そうとしたのかとさえ思えるほどだ。
神武天皇を数百年遡上させた関係上、穴のあいた卑弥呼台与の時代に合わせて神功皇后を配しただけではないのかと思う。
317日本@名無史さん:2013/04/13(土) 19:39:52.89
卑弥呼の存在を記紀が隠蔽してるのは逆説的に、
邪馬台国が後のヤマト王権に繋がる重要なキーパーソンなのを証明してる
後に百済勢が支配階級となったヤマトが、中国に朝貢した卑弥呼を認めるはずもなく

何にせよ邪馬台国が東遷したのは可能性としては高く、問題はそれがいつなのかという話
倭人伝の卑弥呼の年代から考えるとその時点である程度の規模になっていてもおかしくはないんだよ。
なんといっても、金印までもらう国だし
318日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:06:03.66
東征があったのは紀元前だよ。
記紀にも書いてあるだろw
その後に瀬戸内海を舞台にした倭国大乱が起こる。
三世紀以降に九州邪馬台国の東遷なんて
成立出来る要素は文献上でも考古学的にも全くない。
319日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:07:03.88
>>307
黒曜石の広がりから、縄文時代から既に広い交易範囲があった訳だが
320日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:09:10.98
少なくとも邪馬台国卑弥呼は共立というかたちで九州各国の支持を得ていたことと、
卑弥呼(天照大神?)の差し金で出雲にむかった狗古智卑狗(スサノオ?)の縁組で国譲りのレールは敷かれたであろうし、
さらに神武先生の嫁も出雲のタタラ媛というから、東征の頃には鉄の親戚づきあいもあったわけだからな。

倭人伝と記紀をごちゃ混ぜにするというより、前半が倭人伝で、後半は記紀神話。
321日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:16:43.08
>>311
百国が三十国に統合された訳ではない。
倭国大乱によって倭国が分裂して、この時代には卑弥呼の勢力が30/100国を領していたってこと。
322日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:20:05.67
卑弥呼死後、古墳文化が全国的に花開くことを考えると
邪馬台国時点ですでに畿内まで東征は完了済みなのはほぼ確実

卑弥呼の死後、台与による再統一はおそらくなくそのまま全国に豪族が散った
それをヤマト王権がひとつひとつ倒していくのがヤマト初期の歴史

邪馬台国の位置に関してはこの範囲ならどこでもありうる。決定的な証拠はどこで出てもおかしくはない
ただスムーズに後のヤマトと繋がるのは畿内説なのは認めざるを得ないだろね
323日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:26:14.61
馬韓 凡五十餘國
辰韓   始有六國
弁辰   亦十二國
使譯所通 三十國
---------------------
      舊百餘國
324日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:30:10.64
歴史の常識として、馬持った側が圧倒的にっていうか100万%勝つから
そこらへんの情報がわかれば一目瞭然なんだけどな。
325日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:31:27.56
倭人伝の馬も牛もないはちょっと信じにくい
326日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:34:42.59
其馬皆小 便登山
327日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:35:54.87
天照大神の岩戸出のくだりに関心を呼ぶ記事がある。
岩戸出のあと、再び天照大神が岩戸にお戻りにならぬよう、大岩で閉ざしワラの縄を渡した、これが注連縄の始めという。
以来、注連縄の内に天照大神は御座候らわず、
よって皇祖をお祀りする神社は、いまだお賽銭箱の上に注連縄を渡すことなしと伝えるらしい。
328日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:36:24.25
>>322
神武は東に素晴らしい場所があるからと言って大和を目指した。
その意味をよーく考えてみよう。
329日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:37:19.97
又有果下馬漢桓時獻之
330日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:39:21.60
記紀は三国志演義

鵜呑みにしちゃいかん
331日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:40:05.33
不知乘牛馬(馬韓)
332日本@名無史さん:2013/04/13(土) 20:59:04.83
>>322 畿内説大好き爺さん

>卑弥呼死後、古墳文化が全国的に花開くことを考えると
おいおい・何を根拠に卑弥呼の死後古墳が・・・と言っているのかね?
しかも古墳文化なんていい加減なことを( ´,_ゝ`)プッ

畿内説っぽい軽薄なこと言ってないで根拠出してみ? 
333日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:17:32.05
>邪馬台国時点ですでに畿内まで東征は完了済み

ならば邪馬台国は九州に決まりだ。大和朝廷が朝貢する理由はないからな。
334ラ王:2013/04/13(土) 21:30:19.49
何故、卑弥呼の朝貢があんなにしょぼいのか?という謎がある
狗奴国に滅亡寸前まで追いつめられていた中での決死行だったと見る説もある
そのケースの場合、邪馬台国は狗奴に滅亡まで追いつめられたはず
狗奴国は百済系ゆえそれがヤマトへと繋がることになる
335日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:35:39.42
卑弥呼の遣使がしょぼいのは確か
公孫氏への連絡や戦況を見極めるために
半島の倭人居留地にいたのかもしれない
いろんな可能性が考えられるだろう
336日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:41:28.60
なんか、北の若将軍みたいな言い草が聞こえるw
337日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:52:03.12
>>328に付け加えて。
考古学的に考えて、大和が開発された年代は新しい。
神武が大和を目指したのは卑弥呼年代前後だろう。
神武とは、九州時代の応神のこと。
大和に凱旋して以降は応神として記述されてる。
こう考えるといろいろな辻褄が合ってくる。
338日本@名無史さん:2013/04/13(土) 21:55:50.55
>>322
奈良の山人が「男子無大小、皆黥面文身」かね?
339日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:07:22.78
黥面文身は沿岸水行で見た、海に入って漁撈する人々の風習では?
海の害獣に襲撃されないためのおまじないのような風習。
伊都国とか奴国の人々まで黥面文身だったんか?
340日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:10:49.29
弥生末期なら大和盆地の交通手段は水運だよ。
つまり水運に長けた海人が入ってたという事。
341満州スポーツマン金太郎:2013/04/13(土) 22:25:56.42
空想の 花が咲くなり 2ch

>>323>>326>>329>>331
この男だけややレベルが高い。たぶん稗箕狐だろうが。
342日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:34:43.98
>>334
>狗奴国は百済系ゆえそれがヤマトへと繋がることになる

何で狗奴国が百済となるんだよ?妄想爺
そしてなんでヤマトにつながるんだよ?妄想暴走爺
343日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:40:39.83
帯方郡へは、難升米とそれを乗せた船頭の最低二人が赴いた。
難升米は、その使者(難升米)が常駐してる場所が伊都国であることや卑弥呼のことを語った。
船頭は、南北市櫂して生活していることやその風俗を語った。
それを帯方郡の役人が書き記していて、陳寿が倭人章に引用した。
344日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:45:34.91
>>341
満州よ、お前の邪馬台国探しの旅は終わったんだよ…
邪馬台国は大和なんだろ?良かったじゃないか、結論が出て。
後はいつか新聞紙面で『邪馬台国発見!』の文字を見て答え合わせするだけだ。
生きてる間にその確認が出来るか否かは定かでは無いが…

膨大な資料を集めて倭人伝との辻褄を合わせて結論を出そうが、
日本列島地図にダーツを投げて、刺さった場所を邪馬台国にしようが、
それをどんな高名な学者も否定も肯定も出来ないんだから。
結局その程度のモノなんだよ、邪馬台国ってのは。
レベル低い高いも、行程パズルもへったくれも無いんだよ。

だから後は畿内説スレで永遠に論じてろw
345満州スポーツマン金太郎:2013/04/13(土) 23:04:06.31
なぜ稗箕狐のレベルがやや高いかというと、
この男は、舊百餘國は朝鮮のことかもしれないという視点を持っているからである。

稗箕狐という男は、古田に影響されているので九州説のようだが、
朝鮮説も可能性としてはあり、という視点を持っている。
僕が朝鮮説を唱えていた頃から、この男だけはそういう視点を持っていた。
そこが、他の連中とは決定的に違っている。
346日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:15:16.56
>>345
所詮空想理論だねw
347満州スポーツマン金太郎:2013/04/13(土) 23:16:16.35
チミらは、東夷伝と記紀と考古学と日本の学者の本さえ読んでいれば、邪馬台国問題は解けると思っている。
三国史記も、面白くはないが、基本文献だから一応はよんでおくか、程度の考えしかない。

ところがそれだけでは解けないのである。邪馬台国問題はそんな甘いものではない。
ネット史、桓檀古記、契丹古伝…。こういうものも読む必要があるのだ。
僕は断言するが、ネット史を読まずに邪馬台国論争を解くことは絶対にできないだろう。
チミらは読まないから、チミらは絶対に解けないだろう、という確信が僕にはある。
どんなに頭が良くても、知識がなければ解けないのである。
348日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:18:27.86
基本的に東夷伝の地域区分は中国から見てのものだからな
半島に倭人の居留地はかなりあったろう
それが小国レベルのものであるかは
韓国の今後の研究に待つしかないが
やつらのイデオロギーに充ち満ちた学問姿勢に果たして期待できるものか
非常に危うい
349満州スポーツマン金太郎:2013/04/13(土) 23:25:28.10
僕がひそかに恐れているのは、稗箕狐と、
ネット史を読んでいるかもしれない緑の名無しの男(女かも)だけである。
この二人はネット史を読んでいるから、そのうち、僕が発見したことや、
僕が気付いていないことにも気付くかもしれない、と思っているのである。

他の連中はまったく取るに足らぬ存在である。
350日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:29:06.37
お伊勢参らばお多賀を参れ、お伊勢お多賀の子でこざる

この伝承は、伊勢を祀った政権の前の政権は彦根に祀っていて、近江と関係が深かったことを物語っている。


さざなみの近江
つぎのう山背
あをによし奈良

というのもそれを裏付けしてる。
351日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:44:20.86
淡路島が淡海、近江と混同されていっただけのような気がするがよくわからん
352日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:46:02.38
稗箕狐というやつの知識は高いようだが
断片的かつ韜晦的なレスをするので何を考えてるかの全容がわからん
卑怯ともいえるレスのし方とみている
353日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:56:08.33
>>349
だから、どんなにご立派な説を解こうと、所詮説でしか無いっての。

『んで、そこが邪馬台国の証拠は?』

で、全て一蹴、ノックアウト。
ダーツ投げて邪馬台国比定しても同じコトなのよん。
犯人が永遠に解らないかも知れない、推理小説の犯人当て合戦。
マンチュウ君は自分の理論でオナニーしてるのと同じだねw
354日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:58:31.76
古事記だと >故其伊邪那岐大~者坐淡海之多賀也 で
日本書紀も似たようなもの
この淡海が淡路島のことか近江のことかは判然としがたい
ただし伊邪那岐と淡路島は縁があり
記紀の編纂後に後付けで淡海の多賀神社になったという可能性はないのだろうか
神社は古いものもあるが
記紀の内容が広まってからそれに後付けして造られたものも多い
専門でないからよくわからんけども
355日本@名無史さん:2013/04/14(日) 00:33:45.45
<邪馬台国の真実>

・九州にある
・女子供が2〜3人のボロ小屋が何万戸も密集して群がっているスラム街である
・住人はイレズミをしている。
・服は布の真ん中に穴をあけてかぶるだけである
・海の潜って魚や貝を採り食料にしている
・牛や馬、羊はいない
・赤土をこねた粘土を体中に塗る
・食事は竹の器に盛り、手つかみで直接食べる
・あまりに原始的で貢ぎ物もしょぼいのに、海を渡ってはるばる魏に行ったので哀れみに金印をもらえた
・すべての記録から忽然と消えるので、多分途中で滅びて消滅した
356日本@名無史さん:2013/04/14(日) 00:39:23.24
・女王のくせして矛で厳重に守らせて檻の中で1000人の娘を囲って生きていた
357日本@名無史さん:2013/04/14(日) 00:58:04.14
>以婢千人自侍

この部分は読みも解釈も難しい 
358日本@名無史さん:2013/04/14(日) 01:06:48.62
鶏林の方にもあったみたいだけど若衆宿というか娘宿みたいなもんかなとはおもふよ

職訓とかファクトリーの機能も併せ持っていたのではないかと想像している。

鶏林の方にあった件のは朝鮮くんがふたなりの史料ひっぱってくれたので知った

てきとうなやつだけど役に立つこともたまにはあったりする。
359日本@名無史さん:2013/04/14(日) 01:11:30.82
>>355
そのスラム国の特置した一大率を畏れ憚る諸国はなんなの?
360日本@名無史さん:2013/04/14(日) 02:19:05.40
そういえば司馬炎の後宮は女一万人いたという話があったが
何か関係があるんだろうかね
361満州スポーツマン金太郎:2013/04/14(日) 10:20:43.57
>>353
それはそうだが、朝鮮説もアリと思っている人間と、
朝鮮説なんてトンデモ、キチガイと思っている人間では、自ずと差がある。
362日本@名無史さん:2013/04/14(日) 11:14:32.27
魏王からもらった金印紫綬は、今でいえば金メダルみたいなもの
金メダルを手にした国もあればそうでなかった国もあったことだろう
363日本@名無史さん:2013/04/14(日) 11:19:20.50
魏への朝貢はいわば緊急事態でそれゆえ貢ぎものも貧弱
これはそれまで公孫氏と付き合いがあり
急いで服従の態度を明らかにしないと討伐の対象となる怖れありと
考えた可能性もある
364日本@名無史さん:2013/04/14(日) 11:35:09.35
親魏の金印紫綬はそう簡単にもらえるものではない
その後の倭国内でも大きな政治力を発揮したとおもう、その痕跡はそこここにあるのではないか。
365日本@名無史さん:2013/04/14(日) 12:17:46.28
>>363

いや、違うよ。
緊急事態どころか、のんびりし過ぎだったんだよ。
帯方郡の主が変わったことも知らずに、毎年恒例の年賀あいさつのつもりで難升米たちは朝貢したんだ。
郡城に着いてようやく事態を知りえたが、どうしたものかとオロオロしているところを劉夏の才覚で救われたのだ。
まだ戦闘中の敵への朝貢団だから、そっこく首を刎ねても構わないわけだが、
言語の通じないことを巧く利用して魏への朝貢団にしたてあげた。
着任早々、遠来の朝貢を取り付けると言うことは太守としては、京都へのアピールポイント大だ。
さらに功績を過大に申告するためには、貧相な倭の朝貢団を海東の大国使節に見せなければならい。
一万二千里だの、七万余戸だの、婢千人とかは、すべて劉夏が書いた上申上の演出。
劉夏の報告を鵜呑みにした京都では、これをさらに曹操の功績とするため大々的にアピール。
結果、西の大月氏と同格とみなされて、親魏倭王にまで任じられることとなってしまった。
詔勅を届けに倭に赴いた梯儁は、倭の実態を見て、聞いた話と全然違うじゃねーか、と思ったが、
真実を報告することは、曹操の顔に泥を塗る所為、そんな恐ろしいことはできない、
それに俺の任務は詔勅を実行するだけ、無用なことには一切ふれる必要も無い、とほっかぶり。
これが、後の世の日本で繰り返される邪馬台国論争の原因なのだった。
366満州スポーツマン金太郎:2013/04/14(日) 12:24:33.68
親魏とは魏の味方であるということ、魏の側に付くという意味である。
公孫氏との戦争中に、魏の側に付きます、と表明したから貰えたのである。

当時そういう態度を表明する必要があった国は何処かを考えてみるがいい。
そうすると、日本ではない二三の国が浮上してくる。
どこかと言えば…(以下略)
367日本@名無史さん:2013/04/14(日) 12:40:03.52
なるほど!
魏は魏で遠来の年賀を拒む理由はない、大歓迎だな。
卑弥呼は卑弥呼で、曹操ゆかりの国民栄誉賞的金メダルを賜ればこんなめでたいことはない。
おまけに副賞の銅鏡で共立してくれた各国の顔もたつ。
んで、早手回しに径百余歩の墓も用意してくれようというもの。
368日本@名無史さん:2013/04/14(日) 13:02:51.70
きっと銅鏡百枚は、旧百余国へ御土産として配ったんだろ
該当しそうな銅鏡の出土はないのかな
369ラ王:2013/04/14(日) 14:10:23.63
我としては邪馬台国にはロマンを感じたかったのであるが、
倭人条を読む限りにおいては女王国は完全に原始人の群だよこれ。
つまり少数の渡来系貴族がおもちゃを振りかざして原始人を操ってるわけ。
卑弥呼は新しいおもちゃをねだりに中国に行ったわけだね。

こういう国であるならば残念だけどこの世から滅び去ったのはほぼ疑う余地もないだろう
キーワードは丹波一円である。元伊勢、そして神功皇后とも縁の深い地

すなわち「覇王西征説」である
370日本@名無史さん:2013/04/14(日) 15:17:31.83
これはこれは元伊勢に神功皇后ですか、
ま、それらしい格式の神社ではあるがちと時代が下がりますな。
なんといっても九州のさる神社だけは別格。
371日本@名無史さん:2013/04/14(日) 15:21:34.88
該当しそうなのは、糸島の方格規矩鏡。
2箇所から計30枚以上出土。

近隣の遺跡から1〜2枚出土。

銅鏡100枚を抱えて、一二枚ずつ配ってる様子が浮かぶ。
372ラ王:2013/04/14(日) 16:19:03.85
ついにおもちゃ王国邪馬台国においては銅鏡はノーベル賞チョコにまで堕したのである

>>370
宇佐は邪馬台国の玄関口である、とヒントだけ提唱しておこう
373日本@名無史さん:2013/04/14(日) 16:32:33.01
>>372
さよう、重要なヒントだ。
ま、御神殿は西向きだけどな。
374日本@名無史さん:2013/04/14(日) 17:10:58.93
なんだこの自演カスは
375日本@名無史さん:2013/04/14(日) 18:16:24.98
自炎に見えるか、
そりゃちと気が早かろ、これからが見どころなんだけどな。
376ラ王 ◆JBaU1YC3sE :2013/04/14(日) 20:01:07.79
否、自演にあらじ

というかこの流れのどこに自演臭を嗅ぎとったのか謎である
互いにイエスマンを演じ、説を強引に展開したわけでもなくむしろ反論しあっているのである
377日本@名無史さん:2013/04/14(日) 20:07:47.27
おや、さっぱりボールが返ってこないなあ
ともあれ宇佐神宮は神秘のたたずまい、
それだけに歴史に残る勅使派遣は二百数十回を数えるらしい。またしめ縄の作法も独特と聞く、さすが。
378日本@名無史さん:2013/04/14(日) 20:43:17.88
宇佐は香春から移ってきた渡来人の辛嶋氏が作っただろ
379日本@名無史さん:2013/04/14(日) 21:58:03.60
狗奴国って毛野国(東国)のことじゃないの?で、4世紀に制圧して関東に前方後円墳が広がったと
380満州スポーツマン金太郎:2013/04/15(月) 08:58:35.20


漢語拼音 gou
日本語  ko ku
朝鮮語  kwu

残念ながら、狗はケとは読まないのである。
381日本@名無史さん:2013/04/15(月) 10:20:23.63
★★ネット工作員による造語「ネトウヨ」という言葉とは?

もともと「ネトウヨ」という言葉は
在日韓国人の公式組織であり民主党の支持母体でもある韓国民団が、
ネットで高揚する政治的保守に対して
一括りにネガティブなレッテルを貼るために作った言葉です。

所謂「ネット工作員」は、民団の構成員や協力会社の中に実際に存在し、
民団新聞にも、それを認める記述があります。

彼らは、幾つか書き込み内容を指示されていますが
最も重要なのは「ネトウヨ」という言葉を多用し、
他のネガティブな言葉と併用することです(例えば、「ニート!」「ヲタ!」「低学歴!」「無職!」など)。
これにより、虚栄でも民族的自尊心を保つとともに、保守層そのものを否定し、日本国益を害することを目的としています。
(韓国人の多くが、日本国益を損ねることを運命のように強いられ、
また洗脳されているという事実を疑う人は、勉強してください)

したがって、「ネトウヨ」という言葉を使う書き込みは、
そのほとんどが実際の世論誘導工作員と、
教養がない故に工作員の誘導に騙された思考することができない白痴によるものです。
382日本@名無史さん:2013/04/15(月) 21:36:42.26
満州なんか喋れ
383日本@名無史さん:2013/04/15(月) 22:36:07.83
ちょっと待ってやれや。
いま、別キャラ中なんだから。
384日本@名無史さん:2013/04/15(月) 22:50:03.20
まんちゅー!
まだかー!
ネタ無かったら初体験の時の話でもしてスレ動かせw
385日本@名無史さん:2013/04/15(月) 22:53:11.48
またじえんしているのか
386満州スポーツマン金太郎:2013/04/15(月) 23:15:54.85
書けと言われても九州説はもう終わりだから書くことはないw

実は今日、実に面白い本を見つけた。1910年に書かれた本で、上中下巻がある。
こんな本が書かれていたのかと驚いた。これほど興奮して読める本は久々だ。

九州説にとっては決定的に不利な本だろうと思う。
しかし僕の説には勇気を与えてくれそうな本だ。
もしかしたら浜名寛祐もこの本に感化されたのかもしれない。
とにかく驚くべき本だ。著者も題名も初めて聞いた。
チミらも知らないだろうと思う。やはり昔の学者の本は面白い。
他人に知られたくないから、著者も題名も明かせない。

九州人よ、泣け。九州説は完全にアウトだw
387満州スポーツマン金太郎:2013/04/15(月) 23:24:09.51
県立図書館に所蔵されていることは確認したが、古い本だから館内閲覧しかできないかもしれない。
メールで問い合わせたが、まだ返事が来ない。

ネットの近代デジタルライブラリーで数ページ読んだ。
古本がアマゾンで8000円で出ていた。買ってでも読みたいと思わせる本だ。
正直、スランプを感じていたが、これで少し希望が出てきた。
388日本@名無史さん:2013/04/15(月) 23:41:03.60
んーだよ、つまんねぇな
初体験話を華麗にスルーすんなよw
¥8000円ありゃスコップ買って、目星付けた土地掘ったが確実だぞ

金印出たら…九州が買えるぞw
389sage:2013/04/15(月) 23:53:16.82
統治正当性は究極的に天皇に行き着くよって、
邪馬台国から一貫して畿内にあった方が正当性を磐石にする点で良い。
九州で止まるのなら九州から東遷でも良いが、
大陸方面と関わる可能性が大きくなるのは歓迎されない。
どちらでも良いなら畿内説を支持した方が良いですよ。
390日本@名無史さん:2013/04/16(火) 02:18:06.80
天皇の権威の源泉は、その神性にある。
天上の国の天神の子孫というのがそれ。

近畿地方のごちゃごちゃした争いの中から天皇が生まれたとしたら、
単なる争い上手に過ぎない。有史以前に消え去る運命だろう。

東征して来たというのは、出自が不明で、素性がわからず、
神格化される大きな要素になる。
391日本@名無史さん:2013/04/16(火) 09:53:23.72
高天原と地上の国々は隔絶の世界、めったに行き来できるはずはない
よって天照大神に関しては、ご先祖も子孫も婚姻による血縁者はいないという記紀の設定は
神性という意味でなかなか良くできている

と同時に、共立中性・不偏不党・公明正大という意味でも、諸部族の納得を得やすかったのではないか
392日本@名無史さん:2013/04/16(火) 12:03:20.41
俺は三国志が編纂された晋の首都圏では「臺」は「ト」と読まれてた説支持者なんで
「ヤマトの國」が何処にあったか?→畿内だろ、なんで九州から首都が飛ぶんだよ?空白の3世紀とかアホらし
という説を主張する
393日本@名無史さん:2013/04/16(火) 12:51:40.15
「なんで首都が京都から東京に飛ぶんだよ?」、みたいな言い分だな。まあいい。

高天原で天照大神の剣から生まれた比売大神(宗像三神)は、
天照大神の権威を地上の事とするための生まれ変わり(あるいは身代わり)といえよう。
その比売大神を祀る宇佐神宮へ、皇室の重大事のたびに神勅を賜る勅使が派遣されている。
それは古来すでに二百数十回におよぶという。
よもや方角違いへ勅使が参ることはあるまい。 
394満州スポーツマン金太郎:2013/04/16(火) 17:36:12.59
チミらはパカだねw
陳寿が得ていた情報はかなり古い時代のものだということを考慮する必要がある。
それはおそらく前漢時代の情報なのだ。
その頃はまだ関門海峡は開けてなかったのだ。だから、
大和へ行くには九州の西を迂回して日向から瀬戸内海へ向かうか、
あるいは土佐の南を経て紀伊半島に向かうか、あるいは、
出雲但馬を経る山陰コースを取るしかなかったのだ。

だから南と書いてあっても、九州の南端まで来て、
そこから大和に向かったかもしれないのだ。
末盧から東南五百里の日向国まで来て、そこから大和に向かったのだ。
どうだ、素晴らしい新説だろう。チミらの頭では到底思い浮かぶまいw
395日本@名無史さん:2013/04/16(火) 17:49:17.29
珍寿!珍寿!珍寿!
396日本@名無史さん:2013/04/16(火) 18:17:12.51
古来皇統は、
天照大神の忘れ形見である比売大神をお祀りする宇佐神宮へ、最大の敬意を払い続けてきた。
この神事をないがしろにする畿内妄想説は、自己中にして贔屓の引き倒しであることに想いを致さねばならない。
397日本@名無史さん:2013/04/16(火) 18:42:53.46
比売大神のは阿羅からお帰りの帰国子女だす。

(459)「十月阿羅以野人小裊人爲將軍」のおひとのご子孫
398日本@名無史さん:2013/04/16(火) 18:52:54.16
ネット朝鮮史か
時代が合わないようだな
399日本@名無史さん:2013/04/16(火) 19:45:20.39
最もたいせつなのは、口うるさい氏族たちの要求をかわしながら、
記紀編纂当時の関係者たちが何を言いたかったのか、あるいは何を言いたくなかったのか(隠しておきたかったのか)、
そのあたりを読み解くことだ。
400日本@名無史さん:2013/04/16(火) 19:59:32.69
ここは九州説スレだから、畿内説を言いたい人は畿内説スレを作ってそっちへ
行け。だいたいどうして畿内説スレが無いのだ。スレが成り立たないほど畿内
説というのは間が抜けているのか。
401sage:2013/04/16(火) 20:07:40.19
邪馬台国スレでもない畿内関連スレにまで侵入して攻撃するからかと
纒向スレなのになぜか九州説のスレになってた
402日本@名無史さん:2013/04/16(火) 20:29:56.04
巻向スレの御大が、
いつまでも不肖の畿内説にかかわっていては、大和朝廷への道さえ揺らぐと考えたようだ
それで畿内説をあきらめきれない不満分子が九州説にきてぶちぶち言ってるみたい。
403日本@名無史さん:2013/04/16(火) 20:54:28.43
天岩戸からお出ましになられた天照大神が再び御戻りになって世が闇に成らぬよう、
岩戸には注連縄が張られたという。
(これ以来、注連縄の内は静の世界、闇の世界であることを意味することとなったらしい)

天照大神をお祀りするしかるべき神社には、
天照剣から生まれた比売大神の宇佐神宮、及び天照鏡を御神体とする伊勢神宮あり、そこは天の日たださす場所でなくてはならぬ。
参拝したことはないが、これらご神殿前に注連縄は掲げられていないのではないか?
404日本@名無史さん:2013/04/16(火) 21:38:06.81
さあ みんな宇佐飴買ってね 参道で売ってるよ
405日本@名無史さん:2013/04/16(火) 22:14:45.12
日本史板だし出雲大社と伊勢神宮と宇佐神宮くらいは参拝してる人多いのかな
406日本@名無史さん:2013/04/17(水) 08:14:22.62
宇佐は武の八幡総本宮と記憶してる人多しかな
天照大神とスサノオの誓約でご誕生になった比売大神を祀り、
さらに記紀の上で卑弥呼を想わせる神功皇后をもお祀りしているのだが、ここが登場するとスレは止まる
407満州スポーツマン金太郎:2013/04/17(水) 09:11:25.38
なぜ止まるかというと、そんなことには誰も興味がないからだ。
408満州スポーツマン金太郎:2013/04/17(水) 09:30:56.18
別に宇佐説であろうと一向に構わないのだが、レベルが問題なのである。
宇佐説の本を書けるくらい熱心に研究しているのなら分かるが、
どうせ他人の書いた宇佐説の本を読んで、その受け売りをしているだけだからダメなのである。
409日本@名無史さん:2013/04/17(水) 10:49:58.33
宇佐八幡宮は台与の墓跡に建てた神社。
後で仲哀天皇・神功皇后・応神天皇が合祀されただけ。
和気清麻呂が神託を受けにいったのがその証拠。
410日本@名無史さん:2013/04/17(水) 11:13:03.84
天上の高天原といえど、実は地上にあった都の神話化と思われ、
記紀編纂当時には、なにがしかの神殿建物伝承が現存していた可能性は高い。
しかし記紀の建前として、そこに勅使をおくると足がつき、神性が損なわれる。

そこで天照大神の近縁者である比売大神を宇佐神宮に祀って地上の遥拝所と成し、
皇統や勅使の参詣を可能にしたのであろう。
とすれば、宇佐神宮からそう遠くないところに神話のモデルとなった原始の高天原があり、
そこに天照大神の宮殿(神社)を見出せるのではないか?
そしてその神社は、古来よりの作法として神前に注連縄を掲げないことを承継しているのではないか?
411満州スポーツマン金太郎:2013/04/17(水) 12:25:05.88
高天原とはここではないか、と思われる場所が満州にある。
地名がそっくりなのである。

これ以上は書けない。
412日本@名無史さん:2013/04/17(水) 12:41:06.78
あれも書けない、これも書けない、
満州というより欲求不満の衆
413日本@名無史さん:2013/04/17(水) 12:44:17.74
高天原とはここではないか、と思われる場所が九州にある。
地名がそっくりなのである。

満州に悟られてはいけないので、これ以上は書けない。
414満州スポーツマン金太郎:2013/04/17(水) 12:47:04.39
ソシモリについても桓檀古記に重要なヒントが書かれている。
そのソシモリと(僕が想定する)高天原が極めて近いのである。
それは僕が想定している倭の五王のいた場所とも極めて近い。
卑弥呼がそこらあたりにいたとしても全然おかしくない。

これ以上は書けない(笑)
415日本@名無史さん:2013/04/17(水) 13:07:37.24
曽尸茂梨ってのは、日本書紀の一書(第四)に曰く、で出てくる。
素戔鳴尊が高天原から追放された新羅の地。
素戔鳴尊は、こんなところにいるのは真っ平だ、というわけで泥で船を
つくり、船出する。相当に必死で逃げたかった様子がわかる。
たどり着いたのが出雲となっている。
416日本@名無史さん:2013/04/17(水) 13:10:33.58
高天原に上り損ねてスサノオは出雲へ下った、つまり高天原と新羅系スサノオとは縁遠い。
九州の高天原と推定される秘所には作法正しきお社を見る、
深山幽谷に護られ、古式通り注連縄を掲げない神社である。

先回りした満州に金印を発掘されてはいけないので、これ以上は書けない。
417日本@名無史さん:2013/04/17(水) 16:31:23.40
宇佐は日本の神社の中では由緒がよくわかってるほうだ
この由緒というのは捏造しまくりの社伝のことではないよ
418日本@名無史さん:2013/04/17(水) 17:02:41.37
高天原に宇佐神宮は鎮座していたわけではない。
しかし地上におかれた高天原遥拝所として、また八幡総本宮として、
神話史や古代史を解くキーストーンの神社とみられる。

宇佐神宮の最初期の神官は大蛇の大神といったらしい。
祖母傾のかなたの雲上に、天照大神の神殿が垣間見える気がする。
419日本@名無史さん:2013/04/18(木) 00:13:14.30
なんつーか…
満州は倭人伝だけでは解けないし
邪馬台国比定も出来ないから
才能も想像力も無いと思うんだよな

で、色々な資料に手を伸ばして混乱してさ迷って
人の書いた本やらを読んだ集大成能で自分成りの説を出して
チミらには考えも及ぶまいって言っちゃうんだけど
結論言うと…

自力では倭人伝を解き明かせ無かったって証明なだけな訳ですよw
420満州スポーツマン金太郎:2013/04/18(木) 09:03:03.47
なんつーか…
>>419はパカなだけな訳ですよw

邪馬台国は大和に決まっているのだから、そんなことは論じても仕方ないわけですよ。
あとは卑弥呼とは誰なのか、神功皇后なのか、それとも別人か、ということだけですよ、問題は。

で、神功皇后だと思うならそれを証明しなければいけないし、
別人だと思うなら、それは誰で、どこにいたのか、を証明しなければいけないわけですよ。
そのためには倭人伝のみならず、あらゆる資料を渉猟する必要があるわけで、
倭人伝だけで解けると思うのはアンポンタンの表六玉なわけですよw

つーか、>>419の男などは文献を渉猟する能力も無いわけで、
ただぼんやりと空想するのが好きな男なだけな訳ですよw
421日本@名無史さん:2013/04/18(木) 09:52:16.45
宇佐神宮 境内のご案内
http://www.usajinguu.com/guide.html

宇佐神宮の上宮は比売大神、応神天皇、神功皇后を祀り、満州の方向をむいているらし・・?
同下宮は新羅渡来の辛島氏の建立で、大和を向いているらし・・?

満州が有頂天になりそうなので、これ以上は書けない
422日本@名無史さん:2013/04/18(木) 11:21:29.31
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s



みんなで選ぶニコ生重大事件 2012
http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
2012年 ニコ生MVP
http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm=
2012年ニコ生事件簿ベスト10
http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html


生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは?
http://getnews.jp/archives/227112
FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動
http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html
台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm
423日本@名無史さん:2013/04/18(木) 12:22:07.74
ふーん、満州はこんな手も使うのか↑
424日本@名無史さん:2013/04/18(木) 14:14:49.00
満州君は名前も理論もコロコロ変わるが、本は一度書いたら変えられないんだぞ
425満州スポーツマン金太郎:2013/04/18(木) 17:24:04.89
だからまだ一行も書いてないのである。
卑弥呼がどこにいたのか分らないから、書きようがない。

しかし日本にいたのではないことだけは、ほぼ確実である。
卑弥呼がいたのは、満州か朝鮮である。
426満州スポーツマン金太郎:2013/04/18(木) 17:29:04.33
邪馬台国検定 次の文を読み、問いに答えよ。

其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王,其人形皆大。
衣服巨エ,長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。

チミらの熟知している東夷伝の一節である。では問う。
この十二國はどこを指しているか。
427日本@名無史さん:2013/04/18(木) 17:37:09.88
卑弥呼が朝鮮か満州にいたなら「東の海中に有り」とどう整合するのさ?
「倭地に牛馬なし」他の遊牧騎馬民族との関係わぃ?
428日本@名無史さん:2013/04/18(木) 17:52:58.50
>>420
おお!中々よか反論するやっか!
益々好きになったわw

俺は自論を信じて暇暇に現地調査する
雲を掴む様な話は論も調査も同じ
なら俺は机上ではなく、調査を選ぶ
429日本@名無史さん:2013/04/18(木) 18:11:39.14
ちらっと

弁辰 彌離彌凍國 → 密陽市
弁辰    接塗國
弁辰 古資彌凍國 → 小伽耶 固城郡
弁辰   古淳是國
弁辰    半路國 → 伴跛 高霊加耶 大加耶
弁      樂奴國
弁辰 彌烏邪馬國
弁辰    甘路國 → 金泉三盛洞
弁辰    狗邪國 → 金官駕洛
弁辰   走漕馬國
弁辰    安邪國 → 安羅 咸安郡 伽倻邑
弁辰    瀆盧國 → 釜山広域市 東莱区 福泉洞
http://japan.gimhae.go.kr/08/01_01_04.jsp
430日本@名無史さん:2013/04/18(木) 18:39:04.22
>>425
満州お気に入りの神功皇后を御まつりしてるのに宇佐神宮を良く思っていないようだな
よく気が変わる男だw

宇佐神宮の歴史は古い、まず神代に比売大神のご降臨あり、次いで6世紀には応神天皇をお迎えした。
しかし三之宮の神功皇后は応神天皇の御母に当たるにもかかわらず、9世紀になってお祀りされたという。
記紀編纂の後である。これは如何にも不自然、不可解ではないか。
431満州スポーツマン金太郎:2013/04/18(木) 18:59:57.88
宇佐神宮とは宇佐八幡のことか?
八幡神社というのは満州や朝鮮からの渡来神を祀っているのである。

神功の母方はアメノヒボコ系だから当然であるが、
そもそも日本民族や天皇家は満鮮から渡来したのであろうから、
当然といえば当然なのである。
もともと満州が日本民族や天皇家の母郷であり、向こうが本家なのである。
日本は朝鮮を植民地としていた、というが、それは間違いで、
もともと満州や朝鮮が日本の本家なのである。日本は分家である。
日本は新興開拓地なのである。
432日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:12:21.04
宇佐神宮を建てた辛島氏は秦氏系の渡来人で5世紀には倭に来ていたと思われる
はじめは香春神社で辛国息長大姫大目命を祀っていたが
その後鷹居社になどに移りざらに現亀山に社殿を建てたのは8世紀の話
比売大神 は上記の渡来系シャーマンと思われる辛国息長大姫大目命に
現地の母性神が習合したものと考えられる
433日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:17:46.87
>>431
そもそも日本民族や天皇家は満鮮から渡来したのではない。
畏れ多くも記紀にあるとおり、神代において高天原からご降臨あったものの末孫である。

あれ、これ満州おとくいのセリフだったような・・、
記紀信者は取りやめにしたのかいww
434日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:26:40.09
東九州は北部九州などよりは四国に文化が近く
古墳時代に入ってすぐに前方後円墳を受け入れるなど
九州内にあって瀬戸内に近い異分子のようなもの
宇佐神宮の評価が高いのも奈良時代の宮司軍団の宣伝もあるが
上の事情も加味されているのだろう
435日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:29:17.69
>比売大神 は上記の渡来系シャーマンと思われる辛国息長大姫大目命に
>現地の母性神が習合したものと考えられる
母性神とは、まことに微妙な表現、

>比売大神
天照大御神と素戔嗚尊の誓約によって誕生したとされる神で、多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命の三女神のことを言う。
神代において、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられており、
八幡様のあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされている。
436日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:32:35.50
>>435
母性神というのは神功ー応神のモデルとなった現地の母子神と考えるのが無理がない
むろん宗像三女神との関連もあるだろうが
それよりも辛国息長大姫大目命との関係が深い
このあたりは辛島氏の伝承からたどることができる
437日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:38:01.13
まあ宇佐のイワクラを考えれば縄文から続く生殖信仰かもしれない
宇佐神宮の地位が高められたのは八幡神を仏教と習合させたのが一番の要因だろう
大神、辛嶋、宇佐氏らの作戦勝ちと見る
隼人の乱の平定にかかわったことも大きいだろう
このあたりのことはよく知られていてネットでもたくさんヒットする
438日本@名無史さん:2013/04/18(木) 19:44:07.13
>>435
それは宇佐神宮の解釈であって、同じ八幡宮でも岩清水や薬師寺では比売大神
の解釈が違う。そこまで突っ込んで考えて頂きたい。
439日本@名無史さん:2013/04/18(木) 20:17:15.24
ここはそれぞれの心に秘めた九州邪馬台国があって
テコでも動かない住人がほとんどだからな
多数決をとれば邪馬台国は熊本周辺
東部九州は早くからヤマト王権に参画した九州の裏切り者と見る人もいよう
440日本@名無史さん:2013/04/18(木) 20:39:27.17
豊国と日向は九州の裏切り者!?
441日本@名無史さん:2013/04/18(木) 21:31:03.31
>>438
宇佐神宮一之宮、二之宮の創建は記紀編纂より早いので、由緒に独自性を推定できる。、
それに比べ石清水、薬師寺は記紀編纂後の九世紀であることが明らかで、記紀の範疇にあると言わざるを得ない。
442日本@名無史さん:2013/04/18(木) 21:47:17.68
>>421 にカキコした「宇佐神宮 境内のご案内」について、
・・・・ http://www.usajinguu.com/guide.html

航空地図と合わないのでおかしいと思ったら、
宇佐神宮HPの案内図は、南北さかさまなんだねえ。 なんでこんなことを??
正しくは、
下宮は福岡県田川市香春方面(白鳥神社?)を向いて建てられている。
また上宮は南に向かって建てられている。 
なぜだ、なぜだ??
443日本@名無史さん:2013/04/19(金) 13:09:42.88
豊後の武家大神氏:
>宇佐神宮の大宮司は、同神宮を顕した大神比義の子孫の大神氏が務めた。
>そしてその後裔の惟基が豊後大神氏の始祖となったとされ、この惟基については、
>祖母岳大明神のご神体である大蛇が藤原の娘と交わって生まれたとの伝説が『平家物語』や『源平盛衰記』に見える。

ここに出てくる祖母岳は宇佐神宮の南約80kmにあり、由布岳・久住連山及び竹田市を越えた先の高峰である。
京都からいえば、あたかも吉野山を越えて大台が原山に至る距離に相当する。
なぜ武家の書である平家物語や源平盛衰記において、
遠絶の祖母岳を引き合いに出してまで、祖大神氏の(武ならざる)出自を語りたかったのか、
不思議と言えば不思議である。
444日本@名無史さん:2013/04/19(金) 13:50:06.89
>443 つづき
出自を語ることの不思議さに加え、
そもそも祖母岳という不便で知る人も少ない中九州は日向国境の山岳が選ばれたことも不可解である。
宇佐神宮からみれば、久住連山や由布岳という高さ2000mに及ぼうかという名山霊峰も手じかに数多くあるにもかかわらずである。
はたして平家物語や源平盛衰記は、何を言いたかったのであろうか?
445満州スポーツマン金太郎:2013/04/19(金) 17:21:19.66
祖母岳の祖母は卒本を連想させる。
446日本@名無史さん:2013/04/19(金) 18:57:45.60
>祖母は高い山と渓谷の多い所であったが河川沿いに広がる土地は肥沃で、多くの国々と隣接しており、
>高天原国の征服活動と膨張には格好の条件が揃っていた。

>>445
卒本はチョルボン? 祖母はなんて読んだらいいの?
447満州スポーツマン金太郎:2013/04/19(金) 19:12:22.79
ソボとソホン。似てるじゃないか。
448日本@名無史さん:2013/04/19(金) 19:30:28.75
チョルボンとハルモニのどこが似てるのかと思ったわ。
満州は漢文・漢字好きで、日本地理にはあまり関心ないんだな。
449日本@名無史さん:2013/04/19(金) 19:33:39.94
>>441
あくまで推定できる、であって事実とは断定できまい。
450満州スポーツマン金太郎:2013/04/19(金) 19:48:22.74
卒本 率賓 蘇浜 恤品 速頻 速平

これらはみな同じである。
で、卒本とはどこかといえば…(内緒)
451日本@名無史さん:2013/04/19(金) 20:12:32.36
>>449
千数百年前のこととなると、たいていの記事は断定できず、推定にとどまらざるを得ないな。
そこでひと工夫して、ほぼ断定可能な地理の問題で行こう。

先に宇佐神宮の上宮は南向きに建てられていると述べた。
航空地図でその方角をたどると、概ね由布岳、竹田市、を通過して日向国境の祖母岳に到る。
より正確に言うと、古祖母岳1633mのやや東にある尾平越(尾平峠約1200m、トンネル約900m)付近を通過している。
この峠を越えた某氏の県道7号ツーリング記事によると、
大分方面からは心細くなるほどの山道であるが、尾平越の南に出ると日向に向ってすばらしい眺望であるらしい。

さて肝腎はこの次である。
この山道を下ると一つの集落に出くわす、その字名はなんと○○○。
さらに下ること数kmにて、なんとなんとなんと、かの高名な○○○神社に至るのである。
宇佐神宮に鎮座まします比売大神・応神天皇の視線の先は、実はここに向けられていたと言ってまず間違いあるまい。
452日本@名無史さん:2013/04/19(金) 20:33:26.71
そんなの存在しないから名前が○なんだろ。
453日本@名無史さん:2013/04/19(金) 20:37:59.52
>>452
ま、goo-地図あたりで確認してみてくれ
454日本@名無史さん:2013/04/19(金) 21:37:50.15
おや、goo地図を使って確かめてくれるお人はいないのかえ
では、下記リンクでいいかどうか不安だけど、とりあえずこれでご覧下せえ

出発地:宇佐神宮(ここから南へ約80km)
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E131.22.37.640N33.31.21.750
到着地:尾平越−上○○
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E131.23.38.320N32.47.17.610
455日本@名無史さん:2013/04/19(金) 21:39:40.35
まず間違いあるまい
まず間違いあるまい
まず間違いあるまい
ww
456日本@名無史さん:2013/04/19(金) 21:47:03.87
>>455
笑ってくれたか、やれやれありがたや。
これはかの有名な梅原猛の一文の拝借だ。
457日本@名無史さん:2013/04/19(金) 21:55:58.57
>>454 補足
出発地:宇佐神宮の地図にある赤×マークは下宮で、神域右下の鳥居マークが上宮。

なお、宇佐神宮の上宮が日向の○○○神社を指向していると指摘した人間は過去にいたかどうか知りたい。
ご存知の方いらっしゃいましたら、お教えくだされ。
458日本@名無史さん:2013/04/19(金) 22:16:30.14
話がズレてっているようだな。比売大神を宗像三女神とするのは大許山の伝承
から見ても早計であろうと言っている。女王、大巫女、強力なシャーマンなど
の大物女性が祀られていると考えるのが相当だろう。
459日本@名無史さん:2013/04/19(金) 23:42:14.16
つか宇佐神宮なんてしょせん8世紀の神社
由来を遡っても5世紀が限度
460日本@名無史さん:2013/04/19(金) 23:44:52.56
記紀は天照大神の剣をかみ砕いたことで宗像三神を生んだと言ってる、
当然ながらさようなことは有り得ないので、三神説は明らかに疑わしい
しかし、上宮の御祭神が日向の○○○神社を向いていることは事実だ。
比売大神(宗像三神)の正体は何者か、それを探る必要がある・・、(と言っても手掛かりというか文献証拠がなあ。。。)
461日本@名無史さん:2013/04/19(金) 23:50:34.13
半島から弾き出された

八幡大菩薩の別名のある安樂應寳秘命の一派のおやしろだろ

六世紀だな 
462日本@名無史さん:2013/04/20(土) 09:21:46.49
宇佐は邪馬台国の西の入り口だよ。
463日本@名無史さん:2013/04/20(土) 10:17:51.29
宗像大社は北西海上の大島、沖の島に向い建てられてる
伝承通り、半島航海の守護神で良いと思う
ただし比売大神は「大神族」なのに対し、姫神はただの「神族」なので下位神を意味する
464日本@名無史さん:2013/04/20(土) 10:21:02.24
大神族
天照大神→比売大神→八幡大神→(大神比義)
465日本@名無史さん:2013/04/20(土) 10:27:51.97
比売大神の御紋は右三つ巴、
大神比義の子孫が再興した三田井氏(高千穂)の家紋は左三つ巴
両者は裏表で宇佐神宮と高千穂神社の関係の深さを物語る
466日本@名無史さん:2013/04/20(土) 10:46:54.41
天照大神とスサノオノミコトの誓約は、要するに大神族と命族(尊族)の和議、
その証に人質を交換したのだろう

宗像三女神はスサノオ側が差し出した人質で、半島航海の安全を承諾したと読める
467日本@名無史さん:2013/04/20(土) 11:38:39.77
天上の高天原は高千穂の岩戸、地上におかれた擬・高天原は宇佐神宮
このように考えると分かりやすいではないか
468日本@名無史さん:2013/04/20(土) 13:25:11.89
隋書の行程記事は魏志倭人伝とは違う。

隋書が書いているのは筑紫。
魏志が書いているのは肥国。

それでともに矛盾なし。

ごっちゃにすると解けなくなる。
469日本@名無史さん:2013/04/20(土) 17:47:25.73
>>459
大許山の伝承は2〜3世紀の話だよ。
470日本@名無史さん:2013/04/20(土) 21:52:19.43
比売大神を祀る二之宮はもともと地神を祀っていたとか、
神武天皇を迎えた宇佐祖神社もあるとか、(社外秘の)神代につながる由緒もありそうだね

参拝したこと無いので不明だが、拝殿や本殿には注連縄を渡していないのでは??
渡していなければ天照大神(天孫)につながる神社と言える
471日本@名無史さん:2013/04/20(土) 22:39:19.97
神々のすむ高天原に、当然ながら人々は近付けない、
仮にそれが地上某所の神話化されたものであったとしても、歴代の勅使及び皇族の足跡が残されているはずはない。
しかし後世、その身代わりとして地上に置かれた高天原遥拝所の如きには、勅使・皇族のたび重なる参拝を見ていることであろう。

それは宇佐神宮の上宮をおいて他にないとおもわれる・・・。
472日本@名無史さん:2013/04/20(土) 23:09:26.74
神話時代の人的系列を分けてみると・・・
・天照大神系(王、大巫女?、大宮司?)
・天津神のうち筑紫城を拠点にした尊系(武人?、天御中主の次〜第31代天皇まで)
・国津神の命系(武人?)
・国津神/姫神(職能人、巫女?)
・動物(土着人)
473日本@名無史さん:2013/04/21(日) 09:46:42.16
宇佐神宮の本家は鹿児島県霧島市の鹿児島神宮。
474日本@名無史さん:2013/04/21(日) 19:23:30.07
邪魔大国
475日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:10:17.60
宇佐神宮の主祭神は天照大神のいわば養女
鹿児島神宮の主祭神は天照大神のいわば養子の孫
476日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:10:50.74
天孫降臨ってのは九州の話っぽいな
でもそれは、近江から天孫が九州征伐しに衷哀と神功が赴いたときの話
多賀から九州にやってきたのが、九州の蛮族からみて天孫降臨となる
477日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:16:59.40
天照は神功皇后なりとは、なかなか奇抜なお話で!
478日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:02:02.28
天岩戸の注連縄の故事が気になってる。
古今、注連縄の内に天照大神の御座なしは事実なりや??
479日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:06:35.18
注連縄がどうこうとかとても学問ではない
スレに人が寄りつかなくなるぞ
480日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:11:09.03
古朝鮮の範囲を広く古くしようとするのは願望というよりプロパガンダだな
481日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:11:20.46
>>479
注連縄のある宮に高貴のお方は参拝されないと聞くが?
伊勢神宮(本殿?拝殿?)に注連縄はないと聞くが?
482日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:19:39.37
>>481
だから注連縄の起源はいつとか根拠だてて説明できるのか
後代の習慣からこじつけようとするのはトンデモの手口
四拍手とかもそうだ
483日本@名無史さん:2013/04/22(月) 07:15:48.76
>>476
主体と受けた側が逆転した考え方だな。天孫降臨とは九州の蛮族が認識したか
ら天孫降臨と言われるようになったのかい。
レッキとして天皇家の先祖が九州にやってきて(どこからかは不明だが)、我々
こそは天孫であるぞ、これは天孫降臨であるぞと誇ったから記紀に天孫降臨と
記されることになった。
近畿に先に天皇家があって九州にやってきたのなら誰も天孫降臨とは言うまい。
日本の歴史の流れから見て、九州が先で近畿は後進地域だ。
484日本@名無史さん:2013/04/22(月) 07:18:24.84
主体思想だな
485日本@名無史さん:2013/04/22(月) 08:25:10.36
>>482
拝礼拍手は一般参拝者がかかわる世俗作法。明治のころ二拍手統一の(政府の?)指導があったらしい

一方、注連縄の初発は記紀の天岩戸のくだりにある。とりあえずはそれ以降の伝習と考えられる。
物も遺跡として残るが、皇室・神社内の儀式作法など無形文化財も長年にわたり残る。
というか、儀式作法の伝承こそ格式なり。
486日本@名無史さん:2013/04/22(月) 19:13:35.01
>>485
八岐大蛇も記紀にあるな
8世紀の編纂である記紀に書かれてることを
どうやって真実と裏付けるかという話なんだが
487日本@名無史さん:2013/04/22(月) 20:54:14.02
>>486
八岐大蛇退治は、出雲の八つの谷に地盤を持っていた八人の土豪を誅殺した話と見られており、
地元民なら具体的な八つの地名も推察はできるであろうが、裏付けとなる文字地名は記紀にいっさい出てこない。
高天原も同様に日向方面らしいという以上の手掛かりはない。
記紀を書き、監修した人たちは、たとえ史実の反映であっても、後難を恐れ、
センシテイブな部分の地名人名などの特定につながる記載は注意深く伏せてるように思える。

そこを突破できる道のひとつは、今に伝わる皇室や神社の儀式の在り方を詳細に調査比較することであるとおもう。
ただ一般民間人の身では皇居や社殿に立ち入ることは、もちろんかなわぬが。。。
488日本@名無史さん:2013/04/22(月) 21:20:41.23
超わかりやすくいえば、魏王の詔書と卑弥呼の金印くらいは伝世され、
現在も皇居の金庫に保管されているやもしれぬ
489日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:44:55.12
>>487
そんなのは楽しい読み物にしかならんな
490日本@名無史さん:2013/04/22(月) 23:03:19.92
まあ出雲が古いのは間違いないが
弥生中期以降の四隅突出型墳丘墓の分布は広島、山陰、北陸あたりで
葬制が共通しているのは同一の宗教的影響があったとも考えられる
ただしこの墳丘墓の形式は広島発と見られているな
西谷3号墓の出土品を見れば吉備の楯築の首長との交流もあったようだ
491日本@名無史さん:2013/04/22(月) 23:12:27.66
>>468
魏志と隋書と目的地は同じだよ。魏志は西回り、隋書は東回り、いずれも
行き先の邪馬台国は南九州だ。
492日本@名無史さん:2013/04/23(火) 01:47:09.96
南九州って、武器が出ないんだよね。
候補外だと思うよ
493日本@名無史さん:2013/04/23(火) 01:57:30.25
それは認識不足。かなり出ているよ。
494日本@名無史さん:2013/04/23(火) 02:07:04.09
福岡に比べたらどう
495日本@名無史さん:2013/04/23(火) 12:27:27.76
九州説を応援するよ
496日本@名無史さん:2013/04/23(火) 18:29:16.61
福岡は多いだろうな。戦場だから。南九州からもかなり持ち込まれただろう。
497日本@名無史さん:2013/04/23(火) 18:36:14.77
そうやって誤魔化すw
498日本@名無史さん:2013/04/23(火) 18:56:54.57
499日本@名無史さん:2013/04/23(火) 22:24:57.89
卑弥呼ちゃんに下がっていただきました。
驚くなかれ天磐戸神社はお賽銭箱に菊の御紋です!
またここに注連縄をみることはできません!!
http://www013.upp.so-net.ne.jp/camphor-tree/amanoiwadojinja.jpg
500日本@名無史さん:2013/04/25(木) 12:17:40.02
500なら邪馬台国は島原だ。
501日本@名無史さん:2013/04/25(木) 12:42:28.02
オッ、島原に決まりそうじゃないか。
気候も良くなったし、あのナントカ城見物にでもでかけるかな。
502日本@名無史さん:2013/04/25(木) 13:35:49.31
>>499
菊の御門って十六菊か?
よく見ると数減らしたりしてるんですぜ
503日本@名無史さん:2013/04/25(木) 13:48:45.16
注連縄は一切無いの?
504日本@名無史さん:2013/04/25(木) 13:56:07.48
>>502
写真を拡大した限りでは、どうやら16に見える・・、確認はできていないけど。
歴史のある神社(神社本庁の別表神社)だけに15とか17とかはないと思うけど、現場で数えた人いないかなあ。
505日本@名無史さん:2013/04/25(木) 14:27:50.68
まだ九州説なんて寝言言ってんのw
506日本@名無史さん:2013/04/25(木) 14:33:21.87
何度も言われていると思うが
帯方郡から邪馬台国までの12000里のうち伊都国までに10500里を使っておる
残り1500里で畿内説とは何ぞ?
507日本@名無史さん:2013/04/25(木) 14:42:11.42
本州からが邪馬台国(藩部)
七万戸は邪馬台国(本国)
508日本@名無史さん:2013/04/25(木) 14:55:28.65
どう読んでも伊都国は佐賀平野だ。
そこから再び本州へ進路を曲げる理由はないな。 鬼内説 #$%&(’)¥@*
509日本@名無史さん:2013/04/25(木) 16:39:27.92
佐賀平野とか言ってる人は毛根がサガってるんだろうね。
対海国〜一大国(壱岐)〜末盧国(唐津)これが魏志の南北軸で、
この南北軸の延長線上に佐賀市がある

伊都国は東なので、佐賀市にはならない
510日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:14:51.84
>>509

何を言っているのかわからない
511日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:22:42.96
>>509
おれも、なにを言いたいのかわからぬ
512日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:39:44.72
ねじが外れているんだろう。
513日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:41:20.90
魏志倭人伝は方位がズレてるんだよ
南東を南と言っていた
伊都国は実際は北東だが、東といっている
514日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:42:39.07
>>509
陳寿もわからないだろう
515日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:43:11.44
だから佐賀市は、末盧国から見れば南となる、東ではない
516日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:44:50.11
>>510-512
自演乙
517日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:48:12.69
518日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:09:25.28
海上ではそんなに厳密な方角を言わなくてもいい。正確には東南でも南の方をみれば
千里で該当しそうな島は一つしかない。南と書けば十分なんだ。
しかし、陸上では正確な方角が必要だ。だから、東南ときちんと表現している。
倭人伝のとおり東南に五百里進めばいいんだよ。
519満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 18:35:59.05
だから東南に五百里進めば日向国に至るんだよ(笑)
520日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:39:55.58
倭人伝はそんな距離単位を使ってないよ。五百里は40キロだ。
521日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:46:44.17
ムツゴロウが龍に化ける
522日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:57:29.62
>>518
島も陸上だろうに?
523日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:05:40.18
東鯷人の鯷はナマズなんかじゃなくてムツゴロウかもしれない
524日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:12:48.78
奇内説の混乱ぶりは認知小レベル
525日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:16:53.52
孫悟空は万里の空を飛んだと威張ってみたものの、
しょせんはお釈迦様の手のひらの上だったらしいな、畿内信者の奇怪説もそろそろ終焉か
526日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:22:14.87
うなぎの冠ぽいのもあったかな
527日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:38:37.09
鯷 大鮎 以其皮爲冠
鯷冠秫縫
鮧背而口小者名鮎
宜興洞有四足鮎
色K 腹下出人手於兩旁 各具五指 此魚妖也

鰅 魚也 皮有文 出樂浪東暆 用其皮飾器也
528日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:39:28.38
會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 以歲時來獻見云

東鯷 = 樂浪東暆 なのかな

それとも 樂浪東暆 のは有明海の拡張域なのかな?
529日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:17:37.67
>527>528
ためになります。ありがたい。
東テイ人って会稽海外ってとこに踊らされて九州西岸だと思い込んでいました。
単に会稽が中国本土の東端に近いところにあるから会稽海外としているだけで、
会稽の緯度にそれほど大きな意味は無く、中国の東方海上の台湾〜朝鮮あたり
の範囲を漠然と指しているのでしょうか。
有明海のムツゴロウっぽいですが、朝鮮半島のことなのかも。
530日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:18:31.77
>>502
>499 の写真を400%に拡大してみた。
たしかに16弁の菊の御紋で、しかも金細工のようだ!
531日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:22:12.95
ちなみに東暆縣のは、かっては15縣からなる臨屯郡の郡治だったところで

嶺東七縣のひとつでいちばん南側にあったやつだとおもわれる。
532日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:25:08.59
オカルト板に帰れ
533日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:28:32.09
賽銭箱に菊花御紋は珍しい
534日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:30:17.80
ストーンキャッスルはオカ板へ帰れ
535日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:33:21.45
有四足のレポートがある宜興洞のは

中国 宜興洞 で地図でぐぐると 数件候補がでてきたりするけど

中華人民共和国 江蘇省 無錫市 宜興市 あたりなのかなとはおもふよ

四足のがおったのかどうかしらんけど

海の民がお土産背負って渡来したかすかな痕跡なのでしょうね。
536日本@名無史さん:2013/04/25(木) 20:56:52.90
那国(元々日本を支配してた国)(支那的には奴国)が倭国大乱で分裂(南北に分裂した)した訳で、
更に南北各々中国と交易があった訳で、
北側の勢力から見ると南側に狗那国(対立していた勢力)があった。
北側の勢力から見ると、北を北側の勢力を監察する必要があった。

この辺りのロジックに気づかないバカが九州説に固執してるんだろうなw
537日本@名無史さん:2013/04/25(木) 21:02:07.47
ミスった。
けど賢明な人なら真意をわかって貰えると思うから訂正はしない。
538日本@名無史さん:2013/04/25(木) 21:20:28.40
本屋にある邪馬台国関連の本もここ同様妄想だらけの気違い本ばかりで呆れた。
539日本@名無史さん:2013/04/25(木) 22:49:31.69
今度新しく「邪馬台国の終焉ー卑弥呼の野望と壱与の挫折」という本がでました。
できるだけ歴史の真実にせまろうという態度が、行間にあふれています。
今後の倭国邪馬台国の研究におおきな風穴をあけることになると思います。
540日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:18:39.27
妄想を語る前に行程記事をきちんと読むことだな。
541日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:41:07.37
行程記事は、実態に即し、間違いなく邪馬台国にたどりついています。
水行十日陸行一月は総日数だったのです。
総里数は万二千余里です。
542日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:09:19.94
総日数なんて言ってるようじゃトンデモ説だな。
543日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:18:05.12
漢文として総日数とは読めん
544日本@名無史さん:2013/04/26(金) 06:57:04.90
いわく、漢文読みの漢文知らず
545日本@名無史さん:2013/04/26(金) 07:42:33.14
しかしその読み方がもっとも合理的ではないでしょか。
大体、古代の漢文と後世の漢文では、文字の読み方(発音)も字義も文法も異なっているということですよ。
後世の漢文にあてはめてのみ判断してはいけません。
更に、倭人伝では省略が多いのです。総里数と部分里数の計があわないでしょ。
これは、行程記事のなかに省略があったからです。
546日本@名無史さん:2013/04/26(金) 08:03:15.65
1/6の短里短日法で、距離も方向も日数も総行程距離もピッタリ。
547日本@名無史さん:2013/04/26(金) 08:09:18.55
>>545
後世の漢文じゃなくて近い時代のものがいくらもある
自分でその周辺を訳してみれば絶対変だと気づく
548日本@名無史さん:2013/04/26(金) 08:11:23.05
三国志を近・現代の中国語と比較するやつはいないだろ
549サガミハラハラ:2013/04/26(金) 09:40:51.79
最大の問題は陳寿の記述法なのですよ。
陳寿は晋の図書館にこもり、三国志をかきあげたのです。(さすがに陳寿は日本を訪問したと考える人はいないでしょうね
その図書館の中で、東夷伝のもとになる書類を発見し、それをもとにかきあげたわけです。
ところがそれらはかなり古い文書であったために、時代が変化したのに書き改めていない(ま、当然だが)ので、後世の資料などで(魏使の報告書?)
修正しおぎなったのであるが、陳寿自体、東夷の地理や情勢等にくわしくなかったので、それでいながらなんとかつじつまをあわせようとしたために、いま考えるとおかしな文書になったのです。
ですから倭人伝の文書と現代の地理などを考慮しながら、考察する必要があるわけです。
550日本@名無史さん:2013/04/26(金) 09:53:51.73
>>545
総里数を万2000里と考えているのだろうが、それは総里数ではない。
倭人伝の行程は、不彌國までは里数表示だが、その先は日数表示だ。これは里数が良く分からなかった
から日数で表示したもの。ということは、総里数は書かれていないんだよ。
551日本@名無史さん:2013/04/26(金) 09:58:18.82
サガミにしてはまともなことを
552満州猿飛佐助:2013/04/26(金) 12:51:12.15
東夷伝の三韓伝は、おそらく前漢時代のデータだろうということは、
ネット新羅史味鄒尼今紀の次の記事で窺い知ることが出来る。

是時京都 人物甚繁 戸至十二萬九千(A.D.349)

これは補正するとA.D.286で、東夷伝が書かれたころと同時代である。
その当時新羅の京都の戸数だけで十二万に達していたのである。
以て東夷伝の三韓伝がいかに古い時代のデータであるかを知るべし。
553日本@名無史さん:2013/04/26(金) 13:03:02.55
ネット三韓伝て最近作ったやつだろ。誰が考えたの?
554サガミハラハラ:2013/04/26(金) 13:29:37.16
問題は何故里数表記から日数表記に変化したのかということである。
これは、私は、邪馬台国の都が吉野ケ里から小城甘木に遷都したからと見ている。
元々は吉野ケ里であり、ちんじゅが見た行程記事には吉野ケ里までの里数が書かれていた。
そしてその記述は前漢か後漢の時代までさかのぼるものであったようである。
漢書地理誌などには、西方の地への詳しい里数が記載されている。
倭国もそうであったのであるが、魏の時代となって遷都したために、修正する必要があった。
ところが魏使は測定していなかったのである。つまり、フミ国でとぎれてしまっているのである。
しかし、日数だけは倭人から聞き取っていたようである。そこで陳寿は木に竹を接ぐようにフミ国以降にそれを書き込んだのである。
555日本@名無史さん:2013/04/26(金) 20:45:07.06
自称ノンフィクション作家だらけだな
556日本@名無史さん:2013/04/26(金) 23:47:15.80
ユリウスカエサルの「ガリア伝」は自分で見た聞いたものだが、
三國志は歴史書でしかない
中国における倭は、古代ギリシャから見たスキタイやコーカサスのようなものだろう
557日本@名無史さん:2013/04/27(土) 06:53:10.76
陳寿が魏志を書いたのは晋の時代。晋皇帝(司馬家)に配慮して、皇帝の親・祖
父を持ち上げるため倭人伝の記録を過大に書いたとされている。
したがって距離や日数は6分の一から10分の一で読むと実態に近いらしい。
558日本@名無史さん:2013/04/27(土) 07:51:14.95
そうゆう嘘説に惑わされてはいけない。朝鮮半島の状況など、長い攻防の課程を経て
ちょっと知識がある者ならばどの程度のところか良く分かっていたはず。そこの里数を
過大に書くことに意味があるか? ありゃしないさ。短里は魏略なども書いている。
史家の常識だったんだよ。
559日本@名無史さん:2013/04/27(土) 09:28:20.66
天磐戸の16花弁菊花御紋は何を語る?

元伊勢神宮に掲げられている菊花御紋の幕
http://livedoor.blogimg.jp/tuipapa/imgs/7/2/7211afb3.JPG?20481536
伊勢神宮神楽殿に掲げられている菊花御紋の幕
http://brain-gr.com/blog-hashimoto/wp-content/uploads/2013/01/ab2768f1503157b56d6a5a54c9a7b22b.jpg
560日本@名無史さん:2013/04/27(土) 21:42:56.97
>>558
史家の常識だったことを証明してください。
561日本@名無史さん:2013/04/27(土) 22:45:59.08
既に説明ずみだよ。
562満州猿飛佐助:2013/04/27(土) 23:02:57.16
ここの名無しどもは根拠を上げて論証するということをしない。
とくに>>561などはそうだ。この男はいつもこんな調子。
たぶん「ボクの素直読み」男であるw

その点、名前を入れて書いている連中はちゃんと根拠をあげて論証する。
伊作然り、名古屋然り、夢幻如然り、太国も唐松山も然り。
夢幻如などはここの名無しどもより遥かにまともな人間であった。
563日本@名無史さん:2013/04/27(土) 23:42:14.86
説明ずみだと言われてもまだ気づかないのか?>>558を良く読め。
どこが分からないのかきちんと書けば説明してやるよ。
564日本@名無史さん:2013/04/28(日) 07:57:17.56
説明しろとは言っていない。証明しろと言っている。558が証明とは認めら
れない。562氏の言うとうりだ。
さあ、証明しろ。
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/04/28(日) 08:05:19.19
満蒙巣コングよ

宿主は根拠なんぞ臭魔伝くらいしか出してないし、半島文献も奴が説明
しないでああだこうだ言って無説明をサモ説明したように見せてる無説明
をカモフラージュするための文列。
566日本@名無史さん:2013/04/28(日) 10:06:08.09
すでに倭人伝から離れた所に邪馬台国は在るのですね
567日本@名無史さん:2013/04/28(日) 10:31:49.41
邪馬台国探しに疲れ果てた爺やたちの仲間割れ
568サガミハラハラ:2013/04/28(日) 11:14:30.96
やれやれ、邪馬台国は佐賀県小城市甘木と確定しておりますよ。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡(サクラオカ)です。
ちなみに伊都国は佐賀県多久市中小路庄集落です。
569闇夜の烏:2013/04/28(日) 11:21:32.43
王朝の直接影響の及ばない地域は、王朝で使われる度量衡とは
別途使用にし区別されている。
だから里程が違うのよ
570闇夜の烏:2013/04/28(日) 11:24:35.66
おっと。
挨拶が後になってしまったが、これから汚しだけど少し参加させてもらいますよ。
571日本@名無史さん:2013/04/28(日) 15:15:12.47
闇夜の八侘烏、
邪馬台国への道案内をしていただけるんでしょうか?
572日本@名無史さん:2013/04/28(日) 15:19:25.24
飛鳥昭雄の回し者だな
573日本@名無史さん:2013/04/28(日) 16:13:59.68
「邪馬台国」は、「魏」がライバル「呉」への牽制の為に、古文書「魏志倭人伝」に作り上げた架空の国。朝鮮半島から九州北部までの上陸行程は具体的だが、それ以降が曖昧な理由は、「呉」の背後の海上に無理矢理、文書面上で引っ張ってきたことによる。
574日本@名無史さん:2013/04/28(日) 16:23:24.82
でっち上げに賛成だがなんの説得力も無きゃ意味も無く牽制に成らんし魏系の連中は今の朝鮮半島と変わらないハッタリ国家だった事になるw
575日本@名無史さん:2013/04/28(日) 16:37:23.75
持衰の記述が余計になる。渡海を恐れる倭人が牽制になるかな?
倭国もまとまりがないし
576日本@名無史さん:2013/04/28(日) 16:44:53.43
意味を持たせてるとすれば血統牽制だろ。民俗学的な描写に意味が在る。当然場所も北方には持って行けない。「倭」系呼称使った時点で制限付きじゃないか。
577闇夜の烏:2013/04/28(日) 17:22:27.13
>>571
邪馬台国へは道案内じゃなく位置付けが必要なんです。
道案内という先入観が邪魔をしています。
578日本@名無史さん:2013/04/28(日) 17:27:35.38
ほう、その位置づけとやらを聞かせてくれまいか
579日本@名無史さん:2013/04/28(日) 17:30:00.61
整理します

「三国志」が発表されたのは呉の滅亡後です
陳寿は呉が滅ぶまで待って公には編纂を開始したのです
それ以前から書かれていた部分があるかのしれませんが
少なくとも陳寿が発表した時点では呉牽制は意味を持ちません
ただし陳寿が参考とした原資料にそのような意図のものがあった可能性はあります
580日本@名無史さん:2013/04/28(日) 17:33:37.25
魏略も魏の滅亡というか晋へ禅定したあたりの成立だろ
581闇夜の烏:2013/04/28(日) 18:58:29.81
>>578
宝探しのようなものじゃなく、これは古代に書かれた文字地図。
帯方郡を基点に四分割した東南範囲に位置する。

と、こんな感じで、
決してルート巡りではない。
582日本@名無史さん:2013/04/28(日) 19:17:59.35
あわわわわ
このスレには帯方郡の位置にこだわるキチガイが棲みついているのに
583闇夜の烏:2013/04/28(日) 19:22:50.19
帯方郡が現在の北朝鮮にあろうが韓国にあろうが
東南の範囲にさしたる違いは発生しない。
584日本@名無史さん:2013/04/28(日) 19:26:29.77
甘いな
そのうち魔爺 満臭が来るぞ
585日本@名無史さん:2013/04/28(日) 20:06:20.29
帯方郡なんてものは役所みたいなもんだからやたら移動してあるいてもふつうだろうに

ぢぢいのばあいはまぬけだからへんなところ1箇所に決め付けたがるわけだが。
586日本@名無史さん:2013/04/28(日) 20:45:37.97
北九州て日本で一番くそ臭い場所だな。
ヤクザがロケットランチャーを使い、放射脳が瓦礫拒否で被災地を侮辱とか。
やたらチョンや部落も多いし
587日本@名無史さん:2013/04/28(日) 21:33:26.17
さよう、いろいろな意味で九州は切磋琢磨の先進地。
そしてその昔、東えびすなどといったように東へ行くほど後進地。
588日本@名無史さん:2013/04/28(日) 21:41:41.03
天上をモデルにしたと思われてきた高天原、
実は某所に伝わる伝承の通り、九州の天然の要害に護られた山岳に実在していたのなら・・、
589日本@名無史さん:2013/04/29(月) 08:48:22.87
>>583
あー、プ氏だ。
久しぶりだなw
590日本@名無史さん:2013/04/29(月) 23:08:48.33
>>589
まさか……
591日本@名無史さん:2013/04/30(火) 17:02:39.73
オマエラに訊きたいのだけど、元祖山門郡はどーなの?
邪馬台国の後継?いわいのきみ、とか。
権現塚も堤部落も未発掘だし。
592日本@名無史さん:2013/04/30(火) 20:15:57.28
河童が帰って来たと聞いたが、ガセか?
593日本@名無史さん:2013/04/30(火) 22:33:22.87
海部氏系図はどの程度信頼できる?
594日本@名無史さん:2013/04/30(火) 23:42:11.02
信頼度はともかくとして、
卑弥呼とは無関係の系図
595日本@名無史さん:2013/04/30(火) 23:49:18.39
卑彌呼なるむすめは鉄器持ち込んだ土人ともとからいた土人との間のあいの子だわな
596日本@名無史さん:2013/05/01(水) 05:54:57.61
>>593 系図の信頼度はともかく、卑弥呼も壱与もでてきませんよ。
それらしき名前をかってに卑弥呼だ壱与だといって騒いでるだけですよ。
597日本@名無史さん:2013/05/01(水) 06:03:33.92
卑弥呼時代の著名な人間って、トヨとかナシメ、チョウセイ以外
どういった方々がいるのでか? どうも空間というか人の場が見えてこない
598日本@名無史さん:2013/05/01(水) 06:58:03.65
>>597
中国の歴史書だから日本の歴史が詳細に見えないのは当たり前
な話しで。
だからすべて漢字で書かれている。
599闇夜の烏:2013/05/01(水) 07:23:49.37
帯方郡を基点に東南の範囲に位置する九州に
王朝で倭人の営む邪馬台国と言った地域があっても不思議ではない。
600日本@名無史さん:2013/05/01(水) 12:25:49.85
今、みやま市に来たけど。
この辺は遺跡がゴロゴロあるわ。
さすが、ヒテイチ元祖だ。
601日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:10:41.28
>>599
このてにをはの使い方もわからん文章は、やっぱプ氏その人。
602日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:35:19.54
>>601
それ誰?
少しは使える奴なのか?
603日本@名無史さん:2013/05/02(木) 00:39:42.52
>>602
21世紀初頭に活躍したヤマタイスレのエース(笑いの)さ。
604日本@名無史さん:2013/05/02(木) 11:39:51.34
>>602
今いる住人よりは使えるw
605日本@名無史さん:2013/05/04(土) 01:39:17.38
>>597じゃないけど、邪馬台国時代の豪族ってどんな感じだったの?

吉備氏とか葛城氏はその当時ですでに存在してたのだろうか?
606日本@名無史さん:2013/05/04(土) 02:42:47.65
吉備氏は厳しい
葛城氏はいなかった
607日本@名無史さん:2013/05/04(土) 12:51:29.96
連休の間、天候にも恵まれ、
末蘆国・伊都国や邪馬台国/卑弥呼を求めて九州島巡りをしているネラーも少なくないのではないか。
山門郡のは読んだけど、その他の場所のインプレもぜひよろしくお願いします。
608日本@名無史さん:2013/05/05(日) 08:47:51.27
クマモンと2ちゃんのおかげか、熊本・阿蘇・高千穂方面はにぎわってるらしい
609日本@名無史さん:2013/05/05(日) 09:23:58.65
邪馬台国は熊本ではないかと思っている人も多いですからな。
ズバリ佐賀-熊本(都)-宮崎ラインでしょう。
610日本@名無史さん:2013/05/05(日) 10:48:56.33
壱岐から九州に到着し、東南に陸行、南に水行という倭人伝の記述からすると、
私は有明海の南下しか思いつかない。
611日本@名無史さん:2013/05/05(日) 12:41:10.53
発想の乏しさを自慢しているのかい?
もっと東側に上陸して、東南して、瀬戸内海に出る方法も有るよ。
612日本@名無史さん:2013/05/05(日) 12:55:11.92
日本人は、無意識のうちに有明海の存在を自明のこととして読もうとする
しかし洛陽の人々は、倭国は大海に浮かぶ島、以上の情報は与えられていなかったであろう
つまり我々一般人が思い浮かべる台湾島やグアム島のごとき円形または楕円形のような程度の認識ではなかったか

そこで一つの試みとして、
九州島は台湾のような細長い島とイメージして洛陽側から倭人伝を読むとなかなか面白い、
不彌国の次の南水行20日、南水行10日陸行1月に意外な新解釈も浮かぶ
613日本@名無史さん:2013/05/05(日) 13:31:22.23
よく話題になる混一地図でも、
南に伸びて、東には存在しなかったことになってるからな。

かなりテキトウな地図だが、
関門海峡から向こうは、中国人にとっては、
書く必要がなかったんだろう。
614日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:17:08.14
>>612
倭人伝は、陳寿がイメージで書いたものではない。
梯儁と張政という実際に日本にやってきた人間の記述をもとにしている。
615日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:32:16.92
>>614
実地に調べた人あり、その資料をもとに書いた人あり、でも読む人のほとんどは中国大陸の学者・貴族。
有明海のことを記述してない以上、読む人に有明海の認識は生じないであろう。

ともあれ、いろいろな発想で読んでみるのも理解の助けになる。
そしてどの読み方が正しいというより、どの読み方が最も収まりが良いか・・、ということになるのではないか。
616日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:43:33.09
>>614
その二人の報告だけでも無いだろう。
617日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:47:22.27
基本的には邪馬台国側から提出された資料だと思うね
しかも、倭人伝所載の10倍とかの資料から取捨選択要約したと思う
618日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:47:45.29
三国志は歴史書であり、後世に記録を残すためのもの。
中国の場合、史記や漢書以来の伝統と言っていい。

有明海などの地名があるわけじゃない。倭人伝の記述をもとに水行・陸行で
我々が推定する以外にない。

末盧国から東南陸行五百里で伊都国。東南百里で奴国。東百里で不弥国。
水行二十日で投馬国。水行十日、陸行一月で邪馬台国。

投馬国や邪馬台国までの水行は有明海が妥当。
というよりも、ほかの行程はありえないだろう。
619日本@名無史さん:2013/05/05(日) 14:52:34.43
有り得ないかもしれないが、
急いでその他のケースを放棄することもないな、いまさら邪馬台国が逃亡するわけもなし
620日本@名無史さん:2013/05/05(日) 16:25:26.00
>>618
「ほかの行程はありえない」ことを立証してごらん。
621日本@名無史さん:2013/05/05(日) 17:48:55.67
前提条件として松浦に上陸すれば、
南東に行く道は佐賀方面に向かう唐津街道しかない。
唐津街道は両側を山で囲まれた谷の形状をしており、
最も標高が高い所でも100m程度である。
街道を外れれば、非常に歩行が困難な山中を行くしかない。

糸島方向は北東と方向が違っており、
無理にそちらに行くとしても、山がすぐ海までせまっており、
交通に適した場所が存在しない。

糸島に行くならば、水行がもっとも適切であり。
松浦に上陸する理由がない。

松浦は唐津街道を通って佐賀に向かう、最も良い上陸地点である。
622日本@名無史さん:2013/05/05(日) 17:54:37.29
ちなみに、鉄道及び道路が糸島と唐津でつながったのは、
昭和に入ってからである。

江戸時代は福岡と唐津をつなぐ、唐津往還路では、
船を3回乗り換えたそうである。
623日本@名無史さん:2013/05/05(日) 17:56:47.53
いまでも、福岡と唐津をつなぐ国道202号線では、
崖っぷちの海の上を通る道となっている。
624日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:08:27.53
ここから見る海の景色は中々良いものである。
625日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:41:36.29
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之

上陸地は唐津ではないよね

浅い汽水湖を 水無深淺 皆沈沒取之 とか

泥の中を 水無深淺 皆沈沒取之 とか あふぉじゃに
626日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:43:25.05
唐津街道は伊都国に通ず、伊都国は邪馬台国に通ず
この旅の目的地は陸行1月の内陸にある
627日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:50:30.02
>>621
その前提条件が間違っている可能性が大きい。そのことを考慮しているかな。
628日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:51:32.64
諸國文身各異或左或右或大或小 尊卑有差 で

いれずみのはいろいろらしいけど

弁髪のもいろいろあったかとはおもふよ

あたまのてっぺん剃る掟の水辺の民もおったのかもしれんしね
629日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:53:43.97
その他の上陸地も十分検討済み、上陸後の行き先も検討済み
630日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:56:55.74
だいたいにおいてお宝がざくざく出る唐津に王がいないというのはへんだし
631日本@名無史さん:2013/05/05(日) 18:57:10.03
ならばその検討済みの内容を発表し、立証をしなさい。
632日本@名無史さん:2013/05/05(日) 19:24:02.86
あとは松浦、佐賀を否定する人に、
否定論の方を検証していただきましょう。
633日本@名無史さん:2013/05/05(日) 20:04:25.93
上陸地−伊都国− − − − (判定)

佐世保−東彼杵−(×)
松浦市−武雄市−(×)
伊万里市−武雄市−(×)
唐津市−佐賀平野に三国−南・熊本/宮崎方面(郡より万二千余里)−(○)
糸島市−筑紫野市−朝倉市−日田市−(×)
福岡市−朝倉市−日田市−(×)
福津市−飯塚市−田川郡ー日田市−(×)
宗像市−田川郡−みやこ町−豊前市−南・佐伯市方面(郡より万二千余里)−(△田川郡以降の方角にやや難あり)
芦屋市−田川郡−みやこ町−豊前市−南・佐伯市方面(郡より万二千余里)−(△田川郡以降の方角にやや難あり)
634日本@名無史さん:2013/05/06(月) 08:24:21.50
お宝が出るところには小国の王くらいはいただろうな。
唐津、糸島、小城、佐賀大和と、それぞれお宝に相当するものは出てくる。

それくらいが小国の範囲だろう。

あと、神崎(吉野ケ里)、鳥栖、久留米、朝倉、八女と、
何かしら出てくる。
635日本@名無史さん:2013/05/06(月) 09:12:50.60
>>632
松浦はともかく、佐賀なんて何時の時代もマイナーですよ。
化け猫騒動までは、単に九州の一部というだけのこと
ナイナイ。
636日本@名無史さん:2013/05/06(月) 09:18:42.77
典型的な鍋島先入観だな。
秀吉軍も佐賀→唐津街道を経て半島へ向った、古代〜近世のメインストリートだ。
637日本@名無史さん:2013/05/06(月) 09:24:32.04
佐賀市大和町の多布施川の橋で、名護屋橋というのがある。
もちろん名護屋城は60kmほど先の松浦である。

秀吉の朝鮮征伐の名残だな。
638日本@名無史さん:2013/05/06(月) 09:30:30.02
やや時代は下るものの、
もう一つのメインストリートは、
宇佐から北西へ→田川(香春)→宗像→沖の島航路だ、大和から見れば九州島の玄関は宇佐・豊前市あたりだからな。
639日本@名無史さん:2013/05/06(月) 09:40:37.62
邪馬台国の頃は、唐津街道から佐賀平野を経て南の熊本方面と政治・軍事・経済交流。
大和に政権基盤を得てからは、瀬戸内海→宇佐→宗像→対馬航路もにぎわった。

神功記はこの二つをミックスして記述したのだと思う。
640日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:07:23.70
>>636
そんな倭人伝を無視したような考察はいらない。
第一、倭人伝には何等のルートも書かれていない。
641日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:41:14.08
家族単位が集まり村(邑)となり
村が集まり町、そして國になる。
國と言っても小規模で、その中で力を持った者が
長となり、いわば豪族が王となり國を治めた。

自然発生的に出来た国々は現在もだが、当然ながら派閥が生まれ、
争いを繰り返し、やがて淘汰されて國の形を大きくする。
川や山や谷を境にし、その國の境界線が決まってくる。

ある時に物流が始まる。

山の國の民は海の國の民に山の幸を、海の國の民は海の幸を。
需要と供給をお互いに繰り返す事で、やがて『協力心』が生まれる。
そうして30余國の連合国家、『倭國』は誕生した。
倭國は、共通の『敵』を共有している事で利害を一致させ、纏まった。

倭國王には、シャーマジズムに長けた女(王)が選ばれ、
女王國は倭國の中央に位置し、各諸国を統括出来、
尚且つ、外敵からの侵入を地形的に一番防げる場所に置かれた。
642日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:50:52.77
>>640
地図の上の陸上ならどこでも街道になるわけではない、
安全、便利、近い、多くの人の利用に耐えるなどなど、
主街道となるには、古今通じて比較有利な地理的・物理的条件をクリヤしなくてはならない。

キミの言わんとするところを理解しかねておる
末蘆国東南陸行五百里はどう行けばいいのか?
643日本@名無史さん:2013/05/06(月) 10:58:43.02
>>641

> ある時に物流が始まる。

物流は、自給自足しなきゃならんほど孤立した集団でもない限り、
最少規模の家族単位ゲマインシャフト社会にも存在するでしょ。
同じ「物流」でも機能化社会相互のものから「交易」と言う言葉に置き換えると判りやすいね。

> 需要と供給をお互いに繰り返す事で、やがて『協力心』が生まれる。

つーか、経験則に基づく「信用」「信頼」関係の成立かな。
これを一歩進めて、各交易集団間の信頼関係維持のための仕組みが出来ると「王権連合」の時代に。
「仕組み」のアイテムとして
  ・共通の『敵』(交易の安全を阻害する勢力)
  ・シャーマニズムに長けた女(王)
  ・威信財の交換、レガリアの継承、価値観の共有
とかが出来あ上がって行く。

> 女王國は倭國の中央に位置し、各諸国を統括出来、
> 尚且つ、外敵からの侵入を地形的に一番防げる場所に置かれた。

ふーん、将棋の駒組みと同じかな。
644日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:23:45.60
国の発達の枠組の中で、元からある国そのものは動かせないから、
中央に置かれるのは、女王というか権威の象徴だろうな。
645日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:30:06.59
交易でも悪くはない
しかしとかくコショウとか金銀財宝とか、金目のものに受け取られがち。

金属の素材・製品やコメ・ムギのような重くてかさばるものの場合は、
「物流」つまり人足・宿舎・食事・防衛・監視機能などを備える駅伝システムなどを考慮することも重要な要素。
646日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:44:50.66
一支國とかは別として、九州管内なら多少の國移動は可能だったと思う。
ある種の遊牧民的な要素もあったろうから、民の数が増えると共に
集団移動を繰り返し、農地とかの、食の確保がし易い地に落ち着いて行く。
又、固まっていた方が外敵に襲われる危険性も少ないメリットもある。

次第に近隣の国々は淘汰(合併)されて、司法(ルール)的な要素も生まれる。
三百年近い間に、百の国々は三十國程に落ち着いた。
現代人が考えるよりも、人々の行動範囲は狭い。
そんな条件等を踏まえて考えると、けっこう絞れてくる。



今度島原半島の、雲仙市瑞穂町の岩戸神社へ行ってみる。
647日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:50:56.61
交易といえば、有明海を反時計回りに巡ると言う海の流れを考えるとき、
諫早・島原・天草にも重要拠点は少なくなかったと思う。
瑞穂の岩戸神社の御紋は何、そして由緒は何を語る?
648日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:51:25.15
>>646

>遊牧民的な要素

有り得ない感覚の持ち主かな。
遊牧と言えば非定住の代名詞じゃないか。
人が移動する理由には、人口増加や自然災害などいろいろだが、
既に採集経済社会じゃないんだ。
定住化するから農業社会なんだよ。
649日本@名無史さん:2013/05/06(月) 11:58:42.85
>>648
村から國になる過程での話っす
650日本@名無史さん:2013/05/06(月) 12:57:40.11
予定変更
今から岩戸神社行ってくる
651650:2013/05/06(月) 16:18:35.04
岩戸神社行ってきた。

パワースポットとして最近有名になりつつあるが、確かに雰囲気が半端無い。
ここは間違いなく聖域だし、何かしらのパワーに満ちていると感じた。
大体、神社とはパワースポットに建てられるもので、太古の人々は
それを感じる能力があり、祠を建てて崇め奉ったのだろう。

邪馬台国との繋がりを直接結び付けるのは早計だと思うが、
更に掘り下げて調べて行くと面白いかなと思える。
652日本@名無史さん:2013/05/06(月) 19:17:34.58
>>642
>安全、便利、近い、多くの人の利用に耐えるなどなど、
主街道となるには、古今通じて比較有利な地理的・物理的条件をクリヤしなくてはならない。

キミの言わんとするところを理解しかねておる


そんな考察はここでは必要なく、かえって邪魔になるよ


>末蘆国東南陸行五百里はどう行けばいいのか?

ここでは陸路の説明じゃなく、末蘆国の位置的範囲を紹介してるに過ぎないから
陸路を進む必要なんてないよ。
653日本@名無史さん:2013/05/06(月) 21:43:19.65
654日本@名無史さん:2013/05/06(月) 22:15:05.57
筑紫平野の低地部は現代に至るまで沈降し続けているので、
魏志倭人伝の文章に従へば、魏使がたどった順路は次の通りになります。

┳ ┳ ┳ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( 漢江流域ソウル付近 )
┃ ┃ ┃ ┃ ↓. ( 循海岸乍南乍東水行七千餘里 )( 725km )
水 水 ┃ 萬 ○. 狗邪韓國 ( 巨済島付近 )
行 行 至 ┃ 千 ↓. ( 南渡海千餘里 )( 75km )
十 十 女 四 @. 對馬國 ( 対馬 )( 方可四百餘里=八百餘里 )( 85km )
日 日 王 百 ↓. ( 南渡海千餘里 ) ( 50km )
┃ ┃ 國 餘 A. 一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里=六百里 )( 40km )
┃ ┃ 萬 里 ↓. ( 南渡海千餘里 ) ( 40km )
╋ ╋ 二 ┻ B. 末盧國津 ( 唐津中原 ) 女王國直轄地 ( 萬千四百餘里 )( 1015km )
┃ ┃ 千 ∵ ↓. ( 東南陸行五百里 )( 40km )
┃ ┃ 餘 ∵ C. 伊都國城柵 ( 佐賀大和惣座 )
陸 水 里 ∵ ↓ ↕ . ( 東南百里 )( 8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國城柵 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 1063km )
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 東行百里 )( 10km )
月 日 ┻ ━ D. 不彌國城柵 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 1065km )
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域: 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┻ ━ ━ ↕ E. 投馬國城柵 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 )( 1015km+330km=1345km )
┃ ∵ ∵ ∵ ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 投馬國東與邪馬壹國接 )
╋ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國城柵 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
┻ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國女王城柵 ( 久留米 ) 女王國 ( 不彌國東南二百里 )( 15km )
655日本@名無史さん:2013/05/06(月) 23:31:48.63
>>654
魏使の辿った順路なんて、何処を探しても見つからないし書いていない。
656日本@名無史さん:2013/05/07(火) 06:58:57.71
>>654
唐津へ上陸したとすることが間違い。他の上陸地を考えることだね。
657日本@名無史さん:2013/05/07(火) 08:45:49.74
>>656

なぜ?
658日本@名無史さん:2013/05/07(火) 08:51:50.96
>>654
「魏使のたどったルート」だと時々の事情であれこれ変わりうる。それにこだわることはないと思うね
倭人伝にあるのは、当時の魏(郡)と邪馬台国の外交・交易・物流の一般ルートで良いんじゃないかな
659日本@名無史さん:2013/05/07(火) 09:01:54.83
>>654
伊都国佐賀説としての大枠あらすじは良いとおもう。
特に水行・陸行日数の読み方は同意賛成!
ただし不彌国以降は、論者により中九州、南九州も視野に入れた別の提案もあるかもしれないけどね。
660日本@名無史さん:2013/05/07(火) 09:08:14.97
>>656
たびたび訪ねるんだけど、別の上陸地をいわないお人だねえ。
どのみち宗像上陸で、宇佐から南九州方面へ、邪馬台国は桜島あたりと睨んでるんだけどね。
661日本@名無史さん:2013/05/07(火) 09:28:02.77
鹿児島が邪馬台国なら南の狗奴国はいったいどこに
662日本@名無史さん:2013/05/07(火) 09:53:01.88
>>661
薩摩を邪馬台国、大隅(志布志湾一帯の救仁郷)を狗奴国
ここの分け方が一大ポイントな
663日本@名無史さん:2013/05/07(火) 10:07:13.85
筑紫平野の低地部は現代に至るまで沈降し続けているので、
魏志倭人伝の文章に従へば、文章倭地図は次の通りになります。

┳ ┳ ┳ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( 漢江流域ソウル付近 )
┃ ┃ ┃ ┃ ↓. ( 循海岸乍南乍東水行七千餘里 )( 実測725km )
水 水 ┃ 萬 ○. 狗邪韓國 ( 巨済島以北近辺 ) 人口:数千家(戸) 領域:其北岸は巨済島南岸
行 行 至 ┃ 千 ↓. ( 南渡海千餘里 )( 実測75km )
十 十 女 四 @. 對海國 ( 対馬 )( 方可四百餘里=八百餘里 )( 実測85km ) 人口:有千餘戸 領域:対馬市
日 日 王 百 ↓. ( 南渡海千餘里 ) ( 実測50km )
┃ ┃ 國 餘 A. 一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里=六百里 )( 実測40km ) 人口:有三千許家(戸) 領域:壱岐市
┃ ┃ 萬 里 ↓. ( 南渡海千餘里 ) ( 実測40km )
╋ ╋ 二 ┻ B. 末盧國津 ( 唐津中原 ) 女王國直轄地 ( 萬千四百餘里 )( 実測1015km ) 人口:有四千餘戸 領域:唐津市東南部
┃ ┃ 千 ∵ ↓. ( 東南陸行五百里 )( 実測40km )
┃ ┃ 餘 ∵ C. 伊都國城柵 ( 佐賀大和惣座 ) 旧倭國(倭面土國)首都圏 人口:有千餘戸 領域:佐賀市大和町
陸 水 里 ∵ ↓ ↕ . ( 東南百里 )( 実測8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國城柵 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1063km ) 人口:有二萬餘戸 領域:佐賀市平野部・小郡市
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 東行百里 )( 実測10km )
月 日 ┻ ━ D. 不彌國城柵 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1065km )  人口:有千餘家(戸) 領域:神埼市・吉野ヶ里町
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域: 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┻ ━ ━ ↕ E. 投馬國城柵 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 )( 実測1015km+実測330km=1345km )
┃ ∵∵ ∵  ↕   人口:可五萬餘戸 3ヶ国連合国家 領域:みやき町三根・大木町・大川市・柳川市・筑後市南部・みやま市・大牟田市
┃ ∵∵ ∵ ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 投馬國東與邪馬壹國接 )
╋ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國城柵 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 実測1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
664日本@名無史さん:2013/05/07(火) 10:08:14.75
╋ ╋ 二 ┻ B. 末盧國津 ( 唐津中原 ) 女王國直轄地 ( 萬千四百餘里 )( 実測1015km ) 人口:有四千餘戸 領域:唐津市東南部
┃ ┃ 千 ∵ ↓. ( 東南陸行五百里 )( 実測40km )
┃ ┃ 餘 ∵ C. 伊都國城柵 ( 佐賀大和惣座 ) 旧倭國(倭面土國)首都圏 人口:有千餘戸 領域:佐賀市大和町
陸 水 里 ∵ ↓ ↕ . ( 東南百里 )( 実測8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國城柵 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1063km ) 人口:有二萬餘戸 領域:佐賀市平野部・小郡市
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 東行百里 )( 実測10km )
月 日 ┻ ━ D. 不彌國城柵 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1065km )  人口:有千餘家(戸) 領域:神埼市・吉野ヶ里町
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域: 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┻ ━ ━ ↕ E. 投馬國城柵 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 )( 実測1015km+実測330km=1345km )
┃ ∵∵ ∵  ↕   人口:可五萬餘戸 3ヶ国連合国家 領域:みやき町三根・大木町・大川市・柳川市・筑後市南部・みやま市・大牟田市
┃ ∵∵ ∵ ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 投馬國東與邪馬壹國接 )
╋ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國城柵 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 実測1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
┃ ∵ ∵ ∵  人口:可七萬餘戸 4ヶ国連合国家 領域:八女市・筑後市北部・広川町・久留米市・うきは市・朝倉市・筑前町・小郡市・鳥栖市・基山町・筑紫野市・大宰府市
┗ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國女王城柵 ( 久留米南部 ) 女王國 ( 不彌國東南二百里 )( 実測15km )
665日本@名無史さん:2013/05/07(火) 11:40:28.73
>對馬國 ( 対馬 )( 方可四百餘里=八百餘里 )( 85km )
>一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里=六百里 )( 40km )

御承知の通り、別の考え方として上陸周旋せず、寄港だけで計算をする人もあるとは思うが・・。
この場合の工夫は方可四百里と方可三百里の算入だね。
666日本@名無史さん:2013/05/07(火) 14:20:58.22
>>665
「始度 一海千餘里」
「又南渡 一海千餘里」
「又渡 一海千餘里」

原文には、渡る「一海」部分の大きさが千餘里と書いてあります。

又、循海岸水行である沿岸航行を示す為に
「方可四百餘里」「方可三百里」とあるのです。


思考過程は違いますが、結論は「邪馬台国はなかった」の古田氏と同じです。
667日本@名無史さん:2013/05/07(火) 14:40:34.58
なんで上陸地?
コロンブスじゃあるまいし。
渡された地図に任意の宝を埋めて、自分で探す邪馬国ゲームか?
新しい基点(九州の北西地点)を紹介しただけなのに。
668日本@名無史さん:2013/05/07(火) 14:55:55.28
帯方郡の東南領域に浮かぶ倭人の住まう島。
韓は帯方郡の南に位置し、その南には對海国、そのまた南には一大国が、そしてその南には九州の一部であろうか末蘆国が
つまりこの末蘆国は帯方郡の南に位置し、しかも倭人の住まう島の西端に位置することが
帯方郡から東南と、南に視線を移動したことによって知る事ができる。
そしてその西端末蘆国から、少なくとも東南へ五百里の陸地が続く。
だから帯方郡から東南領域に倭人が住まうわけだよ。
669日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:11:35.92 ID:BC9Vy2pPO
取り敢えず、末蘆国が倭人の住まう島の西端と仮定出来たわけだから
その末蘆国から西や南には倭人の住まう島や陸地が概念的に存在しない。
倭人の住まう所は、末蘆国から東や東南の領域だけ。
それが
倭人在帯方東南大海之中と書かれた意味。
ムズク考えちゃダメだよ。
670日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:19:42.56 ID:BC9Vy2pPO
壱岐は対馬の東南だから、南と書かれたものにはズレがあり、それを修正しないと
なんて馬鹿な事考えないの。

実際には壱岐が対馬の南にあろうが西にあろうが
関係なくて、一大国は對海国から南という設定概念なわけよ
この書物を見る古代の誰が正確な地図を把握しているんだよ?
編纂者の意図した方位が全てなわけだし、それが絶対。
671日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:34:13.85 ID:BC9Vy2pPO
末蘆国から西や南の領域には
陸地が存在しない(倭人はいない)とする設定なので、自ずと伊都国域は
末蘆国域の東隣という道理に。
奴国も同じように
伊都国域の東隣に
ここまで西から東へ末蘆国、伊都国、奴国と並んだわけだ。
当然、それらの南やは倭人の住まうとする概念はないわけで、奴、伊都、末蘆と東西に並ぶだけ。
672日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:48:32.64
魏志倭人伝は(偽って)南に持って行こうとしているんじゃないかと言われたりするけど、
東という概念を忘れたわけではないんだよね。
東渡海千里でまた倭種有りってとこで九州説が濃厚になってるね。
水行じゃなくて渡海。
673日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:52:33.03 ID:BC9Vy2pPO
>>672
水行じゃなく渡海ということで、それまで書かれた地域が
海に囲まれた島だということも同時にわかる。
674日本@名無史さん:2013/05/07(火) 15:58:37.36 ID:BC9Vy2pPO
不彌国以降に出て来る南と言う概念は、末蘆国を基点とした倭人の住まう末蘆国の
ある島の地形を同時に表している。

末蘆から不彌まで東西に並んだ陸地は、奴国や不彌で南という新しい概念が入ってきた。
でも、根本である帯方郡から東南の領域からは逸れていない。
675日本@名無史さん:2013/05/07(火) 16:20:31.98
闇夜の烏↑
676日本@名無史さん:2013/05/07(火) 16:37:35.07 ID:BC9Vy2pP
↑これが噂の河童ワールドっすね。
677日本@名無史さん:2013/05/07(火) 17:42:57.70
前振りは長ーいけど
けっきょくのところ、伊都国は糸島だー、といいたいのではないかと。
678日本@名無史さん:2013/05/07(火) 18:19:11.90 ID:BC9Vy2pP
>>677
伊都が何処かなんてどうでもいい話しで
伊都は末蘆の東で奴の西。そして末蘆の南や西には存在の概念がない。
ここが大事なわけよ。
679日本@名無史さん:2013/05/07(火) 18:28:19.45
そりゃ、大事でしょうな。とりわけ糸島や博多は。
それに佐賀平野にでっかいものがあっては私だって困りますもんな。
680日本@名無史さん:2013/05/07(火) 18:48:36.85 ID:NBBeHacR
で、結局どこが邪馬台国なん?
681日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:00:28.98
傍國20まとめて邪魔だゐ
682日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:03:49.52
>>680
倭人伝の中。
邪馬台国なんて編纂者が勝手に区割りした概念。
実際に邪馬台国なる国があったわけじゃない。
だから時代や編纂書籍によって記載がバラバラ。

それが証拠に、紀には一度も邪馬台国なんて名前は登場しない。

織田信長の治める領地だって、時間が経てば変化している。
683日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:18:18.63
西から東へ末蘆国、伊都国、奴国と並んでいたが、邪馬台国だけはなかったと申すか。

これまた自己厨、
満州の言い分と良く似てる子満州か孫満州か。
684日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:23:03.21
>>680
>で、結局どこが邪馬台国なん?

╋ ╋ 二 ┻ B. 末盧國津 ( 唐津中原 ) 女王國直轄地 ( 萬千四百餘里 )( 実測1015km ) 人口:有四千餘戸 領域:唐津市虹ノ松原以南の平地部
┃ ┃ 千 ∵ ↓. ( 東南陸行五百里 )( 実測40km )
┃ ┃ 餘 ∵ C. 伊都國城柵 ( 佐賀大和惣座 ) 旧倭國(倭面土國)首都圏 人口:有千餘戸 領域:佐賀市大和町
陸 水 里 ∵ ↓ ↕ . ( 東南百里 )( 実測8km )
行 行 ┃ ∵ ↓ D. 奴國城柵 ( 佐賀城内 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1063km ) 人口:有二萬餘戸 領域:佐賀市平野部・小郡市
一 十 ┃ ∵ ↓. ( 東行百里 )( 実測10km )
月 日 ┻ ━ D. 不彌國城柵 ( 吉野ヶ里 ) 女王國 ( 萬二千餘里 )( 実測1065km )  人口:有千餘家(戸) 領域:神埼市・吉野ヶ里町
┃ ┃∵ ∵  ↕  ↕ . ( 領域: 不彌國南與投馬國接 )
┃ ┻ ━ ━ ↕ E. 投馬國城柵 ( 瀬高 ) 女王國 ( 水行二十日=二萬餘里 )( 実測1015km+実測330km=1345km )
┃ ∵∵ ∵  ↕   人口:可五萬餘戸 3ヶ国集合国家 領域:みやき町三根〜大牟田市の筑後平野沿岸部
┃ ∵∵ ∵ ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 投馬國東與邪馬壹國接 )
╋ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國城柵 ( 八女 ) 女王國 ( 水行十日=萬餘里 )( 実測1015km ) ( 陸行一月=千餘里 )( 75km )
┃ ∵ ∵ ∵  人口:可七萬餘戸 4ヶ国連合国家 領域:北野平野・八女市以北の筑後平野内陸部
┗ ━ ━ ━ E. 邪馬壹國女王城柵 ( 久留米南部 ) 女王國 ( 不彌國東南二百里 )( 実測15km )


● 邪馬台国領域:北野平野及び八女市以北の筑後平野内陸部、主要4ヶ国の連合国家
685日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:36:01.68
>>683
末蘆や伊都、奴国も邪馬台国と同じ概念
686日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:38:11.05
西から東へ並んでる末蘆国、伊都国、奴国より南ばかりだわ。

気が短くて血圧の高い信長殿がなんというか・・ww
687日本@名無史さん:2013/05/07(火) 19:54:08.11
邪馬台国は関東地方みたいなもの
伊都や末蘆みたいに固定的ではなく、時に山梨等が加わったりする流動的な存在。
688日本@名無史さん:2013/05/07(火) 20:00:16.31
流動的か、
やはり気が短いんだな。殿は。
689日本@名無史さん:2013/05/07(火) 20:36:56.25
>>684
卑弥呼の王都の遺跡はどれにあたるのでしょうか?
690日本@名無史さん:2013/05/07(火) 20:57:02.66
佐賀路線バスの旅の邪魔をして悪かった。
さぁ!路線バスの旅を続けてくれ。


スレ汚しゴメンな
691日本@名無史さん:2013/05/07(火) 22:43:13.21
>>689
宇佐神社。
卑弥呼の所在地として九州最有力と言えるだろう
692サガミハラハラ:2013/05/08(水) 00:19:41.49
>>684は進みすぎですよ。伊都国は多久市中小路庄集落
邪馬台国の都はフミ国の直南、小城市甘木ですよ。
卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
693日本@名無史さん:2013/05/08(水) 08:12:05.08
島原半島と国東半島は形が似ている
国東半島の宇佐神宮の位置が、島原半島の
邪馬台国所在地を示唆している
694日本@名無史さん:2013/05/08(水) 09:27:43.78
小城、多久領域が伊都、
二万戸の奴国が佐賀市+大和町(今は佐賀市に編入)
695日本@名無史さん:2013/05/08(水) 12:54:33.75
北部九州説だらけだな
696日本@名無史さん:2013/05/08(水) 13:38:45.82
>>689
女王城柵(女王國王都)の存在地域は久留米市御井から大善寺であると推定されます。

邪馬台国は旧5ヶ国の連合国なので主な城柵は5ヶ所です。
@女王の城柵:久留米南部
A官伊支馬の城柵:八女
B次官彌馬升の城柵:浮羽 or 甘木朝倉 or 小郡
C次官彌馬獲支の城柵:浮羽 or 甘木朝倉 or 小郡
D次官奴佳鞮の城柵:浮羽 or 甘木朝倉 or 小郡
697日本@名無史さん:2013/05/08(水) 14:30:31.35
>>692
>>684は進みすぎですよ。

進みすぎていません。ピッタリです。

末盧國の津(唐津中原遺跡)から、国道323号沿いに東南陸行38km(五百里)すると、
伊都國の城柵(佐賀大和惣座遺跡)に着きます。

陸行出発地周辺は「M山海居 好捕魚鰒 水無深淺」であり、
道程の山越え前は「草木茂盛 行不見前人」です。
698日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:06:23.97
>>697
> 道程の山越え前は「草木茂盛 行不見前人」です。

葦(あし)か何かだろうな
699日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:38:08.10
「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、」

これは伊都国へ向う官道の描写とは思えません
末蘆国の民間人が行き通う一般的な道路状況ではありませんか
700日本@名無史さん:2013/05/08(水) 15:52:57.91
>>698
>葦(あし)か何かだろうな

松浦川沿岸に葦の堆積物が確認されている。
多久の道へ出るまでの描写だろう。
701日本@名無史さん:2013/05/08(水) 16:14:42.62
伊都國へ向かう道の描写ではありません。

「濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒」は、
伊都國の津である中原遺跡周辺(虹の松原南側)の古松浦湾(or 古松浦汽水湖)を表しています。

「草木茂盛」は、鏡山南東の国道497号沿いの地域や玉島川下流域の葦原、
さらに、玉島川中上流の谷間道のことも含めて表現しているのかもしれません。
702日本@名無史さん:2013/05/08(水) 18:39:09.89
妄想を並べ立ててもダメだよ。キチッと論証・立証を行え。
703日本@名無史さん:2013/05/08(水) 19:41:52.80
>>702
ここは妄想を語り合う場所だが。
704日本@名無史さん:2013/05/08(水) 19:48:26.02
>>702
お前がやれ
705日本@名無史さん:2013/05/08(水) 19:53:44.76
どんな論証だろうと、現物が出ない限り妄想と同じ
706日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:07:13.62
「草木茂盛、行不見前人、」の後ろに「好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之」の記事が出てくる。
このことから、「草木茂盛」は末蘆国にかかわる情景描写と読むのが適当と思われ、
とりたてて唐津街道を意識したわけではないであろう。
707日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:16:12.77
松浦から南東に500里(200q超)で、
倭国とは別の文化圏(墓制的に)だった大分(伊都と類似性がある!)に辿り着くというのに、
何、我水引田ばかりしてんだよ(怒)
708日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:17:00.04
好捕魚鰒、水無浅薄
709日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:20:05.06
>>706
古代人に限らず、やはり海の真ん中は怖い。
だから、壱岐から九州に来るときは、まず加唐島を目指す。5世紀末に
武寧王が生まれたとされる島だな。

ほっとして次に加部島を目指す。それから呼子あたりに近づく。
海岸線沿いに唐津付近に行き着く。
もぐって魚を取るというような描写はこのあたりじゃなかろうか。
710日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:33:24.76
>>706
優等生 さすが!

>>707
馬鹿*
711日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:37:18.90
>>710
馬鹿に馬鹿と言われたら、素直に嬉しい
712日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:46:51.74
狐つきの蛇女の女王さまの奪い合いとかされてもね。
713日本@名無史さん:2013/05/08(水) 22:02:31.97
我水引田♨⌘⁂⁂☂♪♪♬
714日本@名無史さん:2013/05/09(木) 02:03:24.16
邪馬台国は熊襲だよ
卑弥呼の墓を探したかったら古墳を探しても無駄
甕棺墓を探さないと
715日本@名無史さん:2013/05/09(木) 02:11:16.74
神話や伝説そして史書っていうのはその証拠を探しても無駄
その話が作られた理由を探してその証拠を見つけないと
716日本@名無史さん:2013/05/09(木) 07:11:17.99
>>703、704、705
ならば卑弥呼の墓はどこに有るか。卑弥呼や台与はどこに祭られているか。
717サガミハラハラ:2013/05/09(木) 07:42:00.32
かわりに私がお答えします。
卑弥呼の墓は佐賀県小城市小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
茶筅塚古墳の下になっています。茶筅塚古墳は古墳時代の墳で、邪馬台国の権威を否定するためにわざわざ卑弥呼の墓の上に作られたのです。
茶筅塚の近くからは、大量の土器や鉄の直刀が大正時代に発掘されております。
このあたり一帯を発掘するとさらに有力な証拠がでてくるとおもわれますが、講演は市民憩いの場なので発掘はできない状態です。
壱与さんの消息は不明です。桜ヶ岡に共に埋葬されているという説が有力です。
しかしなにあれ発掘してみないことには確かではありません。大々的な発掘がまたれます。
718日本@名無史さん:2013/05/09(木) 08:27:53.47
やけに小城羊羹の事情におくわしいですな。
719日本@名無史さん:2013/05/09(木) 10:09:46.71
>>716
>ならば卑弥呼の墓はどこに有るか。卑弥呼や台与はどこに祭られているか。

ほぼ確定できる根拠となるものはありません。
しかし、久留米市御井から大善寺の範囲であると推定できる根拠はあります。
祇園山古墳、上津天満宮、大善寺玉垂宮なども関連候補のひとつです。
又、地形地名からも推定される場所があります。
720日本@名無史さん:2013/05/09(木) 10:25:29.52
北九州にはないよ。倭人伝と合致しない。
721日本@名無史さん:2013/05/09(木) 10:59:31.60
魏志倭人伝の文章倭地図に従えば、「周旋五千餘里」は以下の通りになります。

┳ ┳ @. 對海國 ( 対馬北西端 )( 方可四百餘里=八百餘里 )( 実測85km )
┃ ┃ ↓. ( 渡海千餘里 ) ( 実測50km )
┃ ┃ A. 一大國 ( 壱岐 ) ( 方可三百里=六百里 )( 実測40km )
┃ 四 ↓. ( 渡海千餘里 ) ( 実測40km )
┃ 千 B. 末盧國津 ( 唐津中原 )
┃ 餘 ↓. ( 陸行五百里 )( 実測40km )
五 里 C. 伊都國城柵 ( 佐賀大和惣座遺跡 )
千 ┃ ↓  ↕ . ( 東南百里 )( 実測8km )
餘 ┃ ↓ D. 奴國城柵 ( 佐賀市城内 ) 女王國 女王國 ( 四千餘里 )( 実測263km )
里 ┃ ↓. ( 東行百里 )( 10km )
┃ ╋ D. 不彌國城柵 ( 吉野ヶ里遺跡 ) 女王國 ( 四千餘里 )( 実測265km )
┃ ┃ ↓  ↕ . ( 領域: 不彌國南與投馬國接 ) ( 実測35km )
┃ 千 ↓ E. 投馬國城柵 ( 瀬高 ) 女王國
┃ 餘 ↓  ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 投馬國東與邪馬壹國接 )
┃ 里 ↓ E. 邪馬壹國城柵 ( 八女 ) 女王國
┃ ┃ ↓ ↕ . ( 領域: 不彌國南與邪馬壹國接 邪馬壹國南與狗奴國接 )
┻ ┻ F. 狗奴國南限 ( 熊本平野緑川北岸 ) ( 千餘里 )( 実測80km )
722日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:16:27.09
二万戸の奴国は肥前国
五万戸の投馬国は筑後国
七万戸の邪馬台国は肥後国

むろん、時代によって境界の多少の変遷はある。

多くの名前がある傍国が、これに含まれているのか、
独立しているのかは不明。
723日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:20:22.71
ま、方可四百余里と方可三百里を上のように読めばこうなるな。
その方可の距離を別の読み方にすれば邪馬台国は動く。
邪馬台国は九州のどこか? それはここの読みに掛ってると言うわけだ。
724日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:36:31.30
周旋五千里は九州本島の大きさを示したものだ。対馬や壱岐は関係ないね。
九州に上陸するまでの距離は具体的に表示してあるのに、更にそれを足してどうこう
なんて無意味な話だ。そんな距離を加えるはずはない。
725日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:14:57.76
>>724
>周旋五千里は九州本島の大きさを示したものだ。対馬や壱岐は関係ないね。

違う。間違っている。
「參問倭地 絕在海中洲島之上 或絕或連 周旋可五千餘里」
倭地は、或絕或連となっている海中の複数の島々から成り立つ列島または群島であることを示している。
倭の最大の島である九州島は「洲」と表現し、対馬・壱岐・周辺諸島を「島」と表現しているのです。
726日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:29:19.62
書き手の表現の仕方だろうけど、>>725に同意かな。

末盧國→唐津
伊都國→多久・小城・佐賀大和惣座
奴國→佐賀市
不彌國→神崎(吉野ヶ里)

前々から言われてるが、これで倭人伝とほぼ符合する。
東南500厘も唐津街道が地形的に無理がない。
ちなみに、倭人伝の戸数は全く信用してない。
黄金の国ZIPANGは無かったが、ZIPANGはあった

…って感じかな。
727日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:30:25.32
周旋とは、それまで調査してきた倭地の折り返し地点。
そして五千里は、これまで知り得た船行一年に新に加わった
新規の地。ここもまた島であり、その島の規模は可五千餘里。

当日既に北海道は知られ調査されていた証拠。
728日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:33:14.99
>>725
すでに対馬と壱岐は方可○○里として大きさを記載済み、
よって周旋五千里の中に含められることはない(二重記載になるからね)
というより含めずに済むよう、まえもって方可○○里を島別に記載したと読むべし。それが方可の真の意味。
729日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:35:53.76
周旋五千里では、肥後国の周囲の大きさ程度しかない。
あるいは、松浦から肥後国南部までを往復して、
ちょっと寄り道した程度。
730日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:38:26.43
後漢時代、船で一年までは把握されていたが、魏の時代に知れたその先の五千餘里までは
把握出来なかった。

それが魏志の内容を知りながら船一年までの記載に止めた
後漢書倭伝が物語る。
731日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:42:50.19
すなわち周旋五千里は方可○○里に対応する表現である。
つまり、州・島の一辺に相当する距離長さで、
ここでは九州島の陸路南北長とみられる(短里五千里と実kmはほぼ一致)。
732日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:44:09.03
>>729
> あるいは、松浦から肥後国南部までを往復して、
> ちょっと寄り道した程度。

そんなもんだって。
隣の國まで100厘しか無い時代ですよ?
つかそれ以上なら連絡も連携も統括もままならない。
逆に言うと半径100厘が國の範囲×30國。
733日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:47:07.99
「參問倭地 絕在海中洲島之上 或絕或連 周旋可五千餘里」
或絕或連は島の周りの状況を記したものに過ぎない。倭地は大きな島にあり、その
周りは半島やら島が連続してあったり途切れたり、巡っていくと五千里ぐらい
だということさ。こちらから一番遠いところまでの距離で、一周ではない。
734日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:50:12.62
>>732
三世紀を過小評価。貧しきかな想像力。
735日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:51:26.10
九州の大きさは、水行一月+陸行一月+1500里。
既に紹介済み。
736日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:51:42.81
>隣の國まで100里しか無い時代
それが国の大きさを推測させると考えるのは間違いだね。
各国の都?が有明海沿岸に集中していたというだけの話。その奥の広がりは
とてつもなく大きいのさ。でなければ戸数2万などとなるわけないだろう。
737日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:54:17.67
>>735
それは邪馬台国までの距離。計算もちがってるぞ。
738日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:57:40.51
>>732
そんな小国の村長が、魏まで使いを送り、曹操につながる王朝から栄誉の金印までいただけるなぞありえぬ。
739日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:02:58.72
>>731
>すなわち周旋五千里は方可○○里に対応する表現である。

違う。間違っている。
「方可○○里」は、土地を正方形と見なしたときのその面積とその概形。
「周旋可○○里」は、土地の端から端までを道程(みちのり)として測ったときの距離。
740日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:07:05.84
「方可○○里」は正方形に直しておよその面積を表示しているだけで、形は
まったく関係ないんだよ。どんな形の島でもそれを正方形の枠に収めて出たところを
削り足りない部分をそれで埋めて正方形に変えて面積を表示しているんだ。
741日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:42:45.18
>>739
細かいところをみて違うと言えば違うだろう
ただし、一つの辺を記載したという意味では同じさ
方可はおよそ四辺形だからそう書いた、周旋はどうみても正方形ではないから周旋と書いた。

>>740
例えば方可300里の300は面積ではない、一辺の長さだ。
742日本@名無史さん:2013/05/09(木) 13:51:19.24
ちょっと違うんだな。方里は面積だ。しかし、周旋里は出発点たとえば九州への
上陸点から一番奥つまり反対側までの距離を示すことでおおよその大きさを示して
いるということだ。大きさとはいうが、周旋里は面積表示ではない。
743日本@名無史さん:2013/05/09(木) 15:15:15.69
>>742
方可300里は300平方里のことかえ? だったら17.3里×17.3里になるけど?
やはり300里×300里のことじゃないの。
744日本@名無史さん:2013/05/09(木) 16:32:59.41
周旋○○里の用例
渤海之東不知幾億萬里,有大壑焉,實惟無底之谷,其下無底,名曰歸墟。八絃九野之水,天漢之流,莫不注之,而無摶ウ減焉。
其中有五山焉:一曰岱輿,二曰員嶠,三曰方壺,四曰瀛洲,五曰蓬莱。其山高下周旋三萬里,其頂平處九千里。山之中闡葛試オ萬里,
以為鄰居焉。其上臺觀皆金玉,其上禽獸皆純縞。珠玕之樹皆叢生,華實皆有滋味;食之皆不老不死。
(列子  卷第五 湯問篇)

其山高下周旋三萬里 その山(五山のこと)は高いものも低いものもある(が)周囲は(それぞれ)三萬里ある。
745日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:05:40.96
方可は面積なんかじゃない。
把握された陸地の証明手段。

方、則ちそこに存在が
方可〇〇里と書かれれば、最小里(一里四方)が存在し、曲折に〇〇個の最小里を記載できる。と

面積だなんて正にトンデモだよ。
746日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:13:05.20
>>744
周旋〇〇里の解釈はそれでいいだろうが、ここは周旋〇〇じゃなくて
周旋可〇〇里の解釈。
現代人にはどうでもいいことかもしれないが、古代の人はこの文字が頼り。
747日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:16:17.98
>>737
韓を離れた所から既に邪馬台国の領域。
倭人の住まう地域=邪馬台国だよ。
748日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:27:43.93
面積を表すのであれば、最初に島という設定になっているから
船で島を一周し、周〇〇里と掲載すればいいだけの話し
749日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:57:55.86
>>734
> 三世紀を過小評価。貧しきかな想像力。

たかが140年前の藩領制の時代も大差ないのに?

>>738
連合国家としての付き合いでしょうに。
現韓国の一部含む、離島から九州半分の領域(推測)国家ですよ。
750日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:02:00.48
>>743
300里×300里でいいんだよ。ただ、実際の島の形は正方形に限らない。
751日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:08:05.50
>>744
>其山高下周旋三萬里 その山(五山のこと)は高いものも低いものもある(が)周囲は(それぞれ)三萬里ある。
違うだろ。

其山高下周旋三萬里 その山(五山のこと)は高いものも低いものもあり 五山の端から端までの距離は三萬里ある。
752日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:09:02.61
>>748
九州島の周りを一周することは現実的にできない。四ヶ月はかかるぞ。
使者は南九州まで行った。その経験と見聞から上陸地点から日向南端まで
五千里、約四〇〇キロとみたわけだよ。
753日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:15:14.36
>>744
其五山はロッキー山脈のことだな。
754日本@名無史さん:2013/05/09(木) 19:20:24.62
>>749
江戸時代の九州には、たしか36藩あった。
邪馬台国を共立したのも30国、それに狗奴国を足して31国。たしかに大差ない。
755日本@名無史さん:2013/05/09(木) 20:17:33.83
>>752
九州どころか日本だって一周できる。
現に、船で一年が可能なんだから。
756日本@名無史さん:2013/05/09(木) 20:52:52.66
一月とか一年とかアバウト過ぎんだよな
『歩けば一月は掛かりますよ』みたいな人伝えを
鵜呑みにして、そして報告して纏められた気がする
一月とか一年とかは、『物凄く』の形容詞的な意味かもね
757日本@名無史さん:2013/05/09(木) 21:48:11.21
>>756
そのアバウト過ぎるという言葉ほどアバウトなものはない。
758日本@名無史さん:2013/05/09(木) 21:57:23.24
>>751
>五山の端から端までの距離は三萬里ある。
貴殿は漢文を読めないようだな。
山之中闡葛試オ萬里とあるだろ。山と山の間の距離は七萬里あるから、五山の端から端までの距離は
28万里(七万里×4)より大きいのだ。
759日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:06:45.64
>>746
周旋可五千餘里の「可」は「およそ」という意味だね。「周囲およそ五千餘里」という推定表現。
760満州まぼろし探偵:2013/05/09(木) 22:44:56.54
凝りもせず 周旋五千里 議論する
けふもまた パカが集まる 2ch 
761日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:48:15.16
周旋可五千餘里は(対馬と壱岐を除いた)九州本島にある倭国(卑弥呼を王に戴く国々)の大きさを
示すものである。およそ五千餘里で囲まれる範囲である。東夷伝の里は魏の里の約1/6の長さである
から、福岡県と佐賀県を主体とする北部九州が卑弥呼の倭国であった。
その南の狗奴国は熊本以南ということになる。
762日本@名無史さん:2013/05/09(木) 22:51:45.21
懲りもせず 下手な川柳 で顔を出し
763満州まぼろし探偵:2013/05/09(木) 22:58:15.81
九州内に邪馬台国を探しているような人間に、邪馬台国問題が解けるわけがない。
東南だから佐賀だろう、とか、そんなことは中高生レベルの推理だ。

もう少し高度な議論ができないのかね(泣)
764日本@名無史さん:2013/05/09(木) 23:05:04.93
これまでに判明したこと

満州まぼろし探偵の頭脳で邪馬台国問題が解けるわけがない。
765日本@名無史さん:2013/05/09(木) 23:19:34.16
東南が出雲なんてのはボケ老人の言うことだ。
766日本@名無史さん:2013/05/10(金) 05:52:15.73
既に倭人伝を副本としている人には解けないでしょうね。

教本無視だから。
767日本@名無史さん:2013/05/10(金) 07:47:50.92
>>761
参問倭国 ←「倭国」という政治領域
参問倭地 ←「倭地」という地理的領域

くだんの倭人伝の記事は「倭地」について地理的な記述を行ったと解される。
768日本@名無史さん:2013/05/10(金) 12:27:17.58
>>767
>参問倭地 ←「倭地」という地理的領域

地理的領域じゃなく、倭人や倭種の存在する島の
地理的範囲。でしょうね
=地理的範囲を調査探索。
769日本@名無史さん:2013/05/10(金) 12:39:04.64
倭人伝では、倭人の棲む地を倭地(または倭地に棲む人を倭人)、倭種は別扱い。
んで、周旋五千里の内に倭種の地は含まれないと読んだけどね
770日本@名無史さん:2013/05/10(金) 12:45:59.59
>>768
船で一年の先の五千里にも倭種。
771日本@名無史さん:2013/05/10(金) 17:32:51.62
邪馬台をヤマトと読む奴はアホ
772日本@名無史さん:2013/05/10(金) 19:25:26.41
>>771
別に読みたいように読めばいいじゃん。
ヤマトと読んではいけない理由なんかもないんだし
それとも、読んではいけない理由があるのかな?
773日本@名無史さん:2013/05/10(金) 19:51:27.66
>>772
台はトとは読まないから
774日本@名無史さん:2013/05/10(金) 19:53:47.11
>>773
「台与」も読みは「とよ」ではないってこと?
775日本@名無史さん:2013/05/10(金) 20:48:12.43
台は中国式では、潮州語でtai、客家語・広東語でtoiだな
776日本@名無史さん:2013/05/10(金) 21:28:01.07
地名だけで倭人伝の国々を否定した新井白石は「ヤマト」と読んだふしがある。
古史通或問では大和に比定し、外国之事調書では、肥後国菊池郡山門郷に
邪馬台国を比定している。
777日本@名無史さん:2013/05/10(金) 21:46:05.82
なるほど、それで伊都国は糸島にエイヤッ・・?
778日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:19:19.16
>>773
大和と書いてヤマトと読むだろ
邪馬台と書いてヤマトと読んでも問題無い
779日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:34:58.03
>>775
「台与」は「たいよ」かい?
しかし、国号も女王の名前も、日本のほうから適当に当て字で国書に書いて中国に送るから
実際の中国語読みはあまり関係ないんじゃないの?
倭の五王だって、中国語読みするととても日本人とは思えない読み方だ

「やまたい」という地名も日本で該当するところはなさそうだ
「やまと」なら複数あるんだが
780日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:38:42.17
タイヨーと太陽とアマテラス
781日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:40:25.03
邪…ヤとエの中間音(yae)
馬…マ
台…ティ、またはタィ

タ、イと二字音で発音してはならない。
本来、倭人伝に記された地名は、音写を目的とした
漢字を用いただけの音表であるから、一文字を
日本語の二字音として発音してはならない。
一音一音に意味があり、説明を中略するが、邪馬台國との言葉の意味は…

入り江に望んだ畑の続いた岡の國…となるらしい。
782日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:47:10.44
>>781
で、それに該当する日本の地名はどこ?

中間音とかどうでもいいからw
783日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:54:47.04
>>782
え?邪馬台国の比定地ってこと?
それともヤェマティ國の発音地名が一致する所?
784日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:59:43.26
古代中国の発音はどうなの?
委奴国は漢代には“oi-na”と発音したらしいが。
785日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:00:04.11
>>779
当時の中国の発音が潮州語に残ってると断言する理由を教えてくれ
786日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:02:50.33
>>783
日本書紀や古事記、万葉集ですら、現在と地名の読みに一致が見られる
邪馬台国だって、実際の地名を基にした読み方だろ
だったら該当箇所はどこだよ
787日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:04:35.72
788日本@名無史さん:2013/05/10(金) 23:13:11.39
>>786
ワカンネ
畿内大和以外の何処かだw
789日本@名無史さん:2013/05/11(土) 01:18:40.46
邪馬が八女だろ
その隣にある開けた台地の国といえば…
790日本@名無史さん:2013/05/11(土) 09:11:34.18
倭が和になり、だいわ国まではわからなくもないが、
それにやまとと無理読みするのは、

やまと地方の豪族だったのか、それともやまと氏か。

無理読みだから、早い話、大和と書いてクマソと読んでも良いわけで、
どんな強い志向があったんだろうか。
791日本@名無史さん:2013/05/11(土) 10:50:45.62
【書籍】 日本建国のルーツは伽耶、古代九州はその分国〜「日本列島を切り開いた韓国の仙人」出版[05/11]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1368236449/
792日本@名無史さん:2013/05/11(土) 13:09:38.18
>>781
>入り江に望んだ畑の続いた岡の國…となるらしい。
この解読に深い関心あり、下記のようでよろしいか?

邪=入江
馬=畑の続く
台国=岡の国
793日本@名無史さん:2013/05/11(土) 15:33:36.09
>>792
◆邪…yae…記紀では屋の字であてられている。
現在入り江と言っている、エの原音らしい。
(ィヤェ・一音)が近い発音かと個人的に思う。

◆馬…マ…クマ(隈)、シマ、ハマで使われる。
クは川、シは浸みる清水などのシで、湿ること。
ハマは浜など、いずれもマは水辺ないし川岸の畑や
陸地を意味しているらしい。

◆台…ティ・タィ
火田農業の田(でん)を意味しているらしい。
タナツモノなどと言うときのタは田で畑、ナは奴で
水田のことらしく、ツは津で浜辺のこと。
農産物の他に水産物も意味しているんだとか。



以上の理由で、『ィヤェマティ』を直訳するとそうなるらしいです。
彼方の方が漢字をあてがってるだけなんで、平仮名
ないしカタカナで考えた方がよろしいかと。
794日本@名無史さん:2013/05/11(土) 16:27:49.78
>>781
>入り江に望んだ畑の続いた岡の國…となるらしい。
この解読に深い関心あり、下記のようでよろしいか?

邪=入江
馬=畑の続く
壹國=壱(委)国

対照
壱國=壱基國(壱岐國)
795日本@名無史さん:2013/05/11(土) 16:33:24.19
>>793
自己レスだけど、マツロのロは良く解んないが、
マ・ツで入り江のある浜辺(水辺)の地って意味になるから、
何となく末盧國の景色が想像出来るな。

今気付いたw
796日本@名無史さん:2013/05/11(土) 16:38:56.58
>>794
手元にある資料からですんで、自分成りの解釈でよろしいかと。
797日本@名無史さん:2013/05/11(土) 17:14:25.16
>>793
ありがとう、参考になります。(ゆっくり考え直してみます) >792

邪:入江ないしクリークのような細長い水溜め池は、現在でも「江=え」と呼ぶ地方があります。
馬:
台:畑(火田=焼畑)を意味すると言うのは分かりやすいです(昔の畑は多くが火田であった)。
奴:水田であるなら(まさか奴国は佐賀平野の水田の国?)
798日本@名無史さん:2013/05/11(土) 18:07:10.87
>>795
盧:入り江、沼等で、芦、水草が茂り黒く水が淀んだところ。

瀆[涜]盧國の「盧」も同じ意味。
洛東江沿いの淵か沼と推定される。
799日本@名無史さん:2013/05/11(土) 20:20:24.99
>>798
おお、有り難うございます!

マ…水辺の地
ツ…津(湾)
ロ…盧:入り江、沼等で、芦、水草が茂り黒く水が淀んだところ。

となると…
『川があり津を望んだ海辺の國』
となりますな、末盧國=唐津で自己比定完了!
あてがわれた漢字にふりまわされず、一音ずつの
意味を解き繋ぐ事で、各國の比定が容易になりそう。
800日本@名無史さん:2013/05/11(土) 22:24:23.79
>>799
と言うことで、
末盧國の上陸地点は、唐津虹ノ松原の南側にあった古松浦湾(湖)の南岸、
湾に突き出した柏崎、その北側の中原遺跡(現松浦川東岸)となります。
801日本@名無史さん:2013/05/12(日) 00:38:50.37
>>796
じゃあ、マ.ツ.リも入江がどうのこうのなのか?
802日本@名無史さん:2013/05/12(日) 06:17:22.23
>>801
> じゃあ、マ.ツ.リも入江がどうのこうのなのか?

それは何か違う気が…
文字無き時代の話ですんで、大陸の方が倭人の発する言葉に
意味の近い(もしくは適当な)字をあてただけでしょうから。
祭(マツリ)…は漢字が輸入されてからの言葉では?
単音で意味を成すって、良く良く考えると確かに古代語っぽい。
カ行とかは、現在でも水関係で使われてるし。

カ…河
キ…?
ク…川
ケ…?
コ…湖
803日本@名無史さん:2013/05/12(日) 07:23:07.02
<馬系:畑作物の国?>
投馬国、邪馬壹国、斯馬国、邪馬国、

<奴系:田んぼの国?>
奴国、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴国、蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国、
804日本@名無史さん:2013/05/12(日) 07:29:01.00
>>802
>文字無き時代の話ですんで、大陸の方が倭人の発する言葉に
意味の近い(もしくは適当な)字をあてただけでしょうから。


つまり適当であれなんであれ、大陸の方が倭人の発する言葉に文字をあてたということは
倭人は大陸の方と概念や思考が同じと言うことですね?
倭人の発する言葉に文字をあてることで、大陸の方の地名という概念と同じ地名を作り出せているわけだから
805日本@名無史さん:2013/05/12(日) 07:38:57.41
>>804
近かったと思いますよ。
まだ『日本語』が確立されてないでしょうから。
大陸との繋がりも、卑弥呼の時代以前からだし。
司馬さんの本で『大声で喚き散らかせば意味が
通じた部分もあったろう』って一行がありますね。
(街道をゆくNo.2参照)
単音でも同音異義語があるでしょうし、転音してる
のもあるでしょうが…参考にはなるのかな?と。
806日本@名無史さん:2013/05/12(日) 07:48:43.72
>>805
いやいや
単発音じゃなく、地名という思考や概念です。
倭人は地名を大陸の方に伝えたものを、大陸の方が文字にしたのか?
という
807日本@名無史さん:2013/05/12(日) 08:26:37.33
>>806
そうだと思いますよ。
通使が居たと言うことは、言葉の意味は理解出来たって事でしょうから。

魏『この國の名はなんぞや?』
倭『ナ(同音異義語・この場合は名)、マツロゥクゥ』
魏『なるほど、確かにマ(この場合海辺)ツ(津)ロ(草木キ繁る水辺の畔)國だ』

…と想像するのですが…
答えになってますかね?
808日本@名無史さん:2013/05/12(日) 08:42:41.57
>>807
>魏『この國の名はなんぞや?』

なぜ地名を尋ねなければならないねかな?
地名を尋ねるのは、他の地域と区別するために必要なもので、他に類似するものや区別する必要性がなければ必要ないもの
それを尋ねたということは、マツロと区別しなければならないマツロに類似する地域があったということでは?
そこは何処?
地名を付けたり知ったりするって、そういう事でしょ。
809日本@名無史さん:2013/05/12(日) 08:54:23.25
書籍に書かれた地名や人名らしいものって、現地の言葉からの音写以前に
書籍を編纂する大陸の王朝の便宜的な都合で作られたものでは?

それら書籍を参考に、日本でも後にその地名に
だから今残る音と書物の地名が似ているのでは?
810日本@名無史さん:2013/05/12(日) 10:34:59.25
邪馬台国の邪馬台って文字からして
国名としては有り得ない文字を当てているから音写であるのは間違いないな

普通に考えて松浦(まつうら)だろ

ちなみに現在は長崎と佐賀の県境にかかるため行政区分上の呼称は紛らわしいけど
地元じゃ今でもあの一帯を指して松浦と呼んでいる
811日本@名無史さん:2013/05/12(日) 15:23:04.58
現在、多くの地名は3音4音5音などからなる。
しかし倭人伝から、当時、多くの国名地名は2音であったと推定できる。
その点、邪馬台国は、おそらくは邪馬国から発展した特殊特別な政治状況を表わしていると言えるのではないか。
812日本@名無史さん:2013/05/12(日) 17:23:32.82
>>811
地名なようなものでも、地名と確定したわけじゃない。
だから地名という前提で考察しても、あまり意味無いわけで
813日本@名無史さん:2013/05/12(日) 18:06:29.38
>>810
今は『まつうら』だけど、昔は『まつら』と呼んでた。
松浦地方を治めてた豪族、後々の平戸藩主は松浦(まつら)氏。
814日本@名無史さん:2013/05/12(日) 18:17:10.67
>>813
藩主姓が松浦(まつら)だから、昔は松浦(まつうら)を(まつら)と言ってた事にはならないだろ

ただたんに、松浦には(まつうら)(まつら)の二通りの読みが昔からあったに過ぎないだけの話しで
815日本@名無史さん:2013/05/12(日) 18:56:14.13
中国語も英語のように母音が連続すると単音で発音する

ooを「お・お」と読んだりouを「お・う」と2音に区切って発音するのは日本だけ
中国語も英語も「うー」だの「ぁう」だの短母音か長母音で発音する

MatsuuraがMatsuraに近い音で記述されても何の不思議もない
816日本@名無史さん:2013/05/12(日) 19:25:34.55
筑後はチッゴ、熊本はクマモツ
いまでも九州には九州の読みがあるからな、東京語はとうてい役に立つまい。
817サガミハラハラ:2013/05/12(日) 19:30:36.53
松浦は本来はマツラであり、それに松と浦をくっつけて松浦とした。
その前は末慮(マツロ)であった。
新羅の古名はシロであった。それがシラまたはシンラとなった。
後に地名の末尾にキ(ギ)をつけるようになり、シンラギ(シラギ)
となった。
百済ももとはクタロであったろう。ヒャクサイが訛ってクダラとなったのではない。
もともとはクダラ字体は半島南部かえあ和にかけての言葉であったのであろうが、クダラでは消滅してしまった。
高麗をコマというのは日本人だけである。コウライやコウクリが訛ってコマになったのではない。
日本人は元々かの地をコマとよんでいたのである。
818日本@名無史さん:2013/05/12(日) 19:39:34.56
>>817
マツロゥ

マツラゥ

マツゥラ

マツラ

マツウラ

転音の問題だよね、中間音が取れていった。
最後のマツウラは松浦が殆どマツラとは読まれず、
マツウラとしか読まれない為に定着した感がある。
819日本@名無史さん:2013/05/12(日) 20:01:14.73
倭人伝に○奴國というのが多いのは、最後に宗主國を記す習慣があったから。
宗主国が奴国(日本式には那国)だったんだろう。
日本には○那という地名が数多く残ってる。
「シラギ」は、魏の支配下の羅国のさらに支配下の「シ国」という意味。
羅国というのは、一時期耽羅や金比羅や温羅を支配した国で、
邪馬台国が北方に対して監察してた国、
南には狗那国があると記述されてる国のことでもある。
820日本@名無史さん:2013/05/12(日) 20:34:28.61
多久、小城、佐賀、八女、阿蘇、知保なんかは2音の好例で、古えを偲ばせる
神埼、諸富は4音、吉野ヶ里は5音もあるから、ま、後年の命名だろな
821日本@名無史さん:2013/05/12(日) 20:50:40.88
短い言葉の地名が古くて、
長い言葉の地名は、新しい傾向がある。

とすれば、チクシ、ヒ、トヨ、ヒュウガ、クマソ、
とかもその傾向が適用されるだろうか。
822日本@名無史さん:2013/05/12(日) 21:02:01.23
>>818

勝浦(かつら)、六浦(むつら)も同じ。
823日本@名無史さん:2013/05/12(日) 21:09:35.79
濁音地名は後年じゃね?若しくは転音。

オキ→オギ
佐賀は古名があった筈。
確か水ノ江→ミズナエから転音?
ミズが後から付いたとしたら、ナエが語源だと思う。
ナエ→奴江(那江)?どちらにせよ湿地帯だね。
824日本@名無史さん:2013/05/12(日) 21:24:36.48
さすがに1音では、言語はせいぜい100通りくらいにしかならない
2音だと数千通り、アクセントも考慮すれば万余になる
縄文時代に多かった名詞は月、日、星のような1〜2音で、弥生になっても地名など多くは2音を引き継いだと言われる

今年大遷宮でにぎわう出雲神話の里、その西南の海岸にはたくさんの2音地名を見る
小田、多伎、田儀、波根、久手、邇摩、馬路、津摩、波子、周布

しかし文字を多用する記紀の時代になると万余では不足し、3音以上の積極導入につながったのではないか?
825日本@名無史さん:2013/05/12(日) 23:00:08.45
音を重ねて、物の意味する数を増やしたって事か。
漢字と似てる要素があるな。

日+月=明 (例として)
826日本@名無史さん:2013/05/12(日) 23:47:15.02
だからと言って、何かが解決するわけじゃなく
827日本@名無史さん:2013/05/13(月) 01:01:32.83
>>820
吉野ヶ里と神埼付近の古名は「メタ(米多・米田・目達)」
帥升の倭面土國の「面土」も「メタ」であろう。

諸富は知らない。投馬と関連するのでなかろうか?
828日本@名無史さん:2013/05/13(月) 12:33:52.08
末廬=末路(道の終り)

半島からの海路の終点
半島や大陸への陸路の終点。

だから末廬
829日本@名無史さん:2013/05/13(月) 12:43:35.93
伊都=糸であり意図。

いろいろな事情が絡み合い構成される地。
だから伊都。
830日本@名無史さん:2013/05/13(月) 13:28:06.68
>>828
シナ側の文献であるから、

○ 帯方郡からの水行の終点
× 半島や大陸への陸路の終点

>>829

伊都=旧の倭都

現在の倭都は邪馬台国内の卑彌呼の居る所 
831日本@名無史さん:2013/05/13(月) 13:50:32.52
旧の倭都=ヰ都=ゐ都=伊都、←こういうことね、わかりやすわ。
832日本@名無史さん:2013/05/13(月) 14:15:42.47
到旧倭都(伊都国)、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚、有千余戸。

このように読むと後段の、 世有王皆統属女王国、郡使往来常所駐、 に重みを感ずる。
しかも世々の王は、系図の上で女王国に統属(血縁的につながりあり)と解するならなおさらのこと。
833日本@名無史さん:2013/05/13(月) 15:21:11.86
>>831

倭を(ゐ)と読ませるには無理ありすぎだろ
834日本@名無史さん:2013/05/13(月) 15:48:22.44
>>833は無知

ゐ=委=倭
835日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:04:51.56
wiki:
倭(わ、やまと、ワ、ヰ(ゐ)、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))

 紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。
836日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:29:14.02
>>834
そんな勝手な事がまかり通っているから
いつまでもボケ老人のたまり場から昇格できないんだよ。

倭=委
そんなアバウトなわけないだろ
837日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:32:38.43
>>835
wikiの前に辞書はどうした?
意図的に掲載者の思惑満載のwikiをソースに選ぶってwww
838日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:37:06.60
>伊都=委都(ゐと)=倭都(ヰト)

辺地の伊都国糸島説では決して出てこない解釈、
839日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:45:17.78
>>837
<漢字辞典> 倭 
どうぞごらんくだせえまし、結果は同じ。
http://jiten.go-kanken.com/kanjie/2149.html
840日本@名無史さん:2013/05/13(月) 17:02:46.36
>>839
その音読み「イ」は、呉音?漢音?唐音?

それとも
それらに属すことのない、三世紀以前から既に存在する特殊音?
841日本@名無史さん:2013/05/13(月) 17:13:09.26
倭が「イ」と読まれるのは、その旁「委」に影響された
典型的な百姓読み(百姓音)


その百姓音が、未だに古代史検証の材料にされるとは
おそるべし日本史板
842日本@名無史さん:2013/05/13(月) 18:37:36.78
三世紀のころ、98%くらいの人間は百姓だった
百姓音こそ正統

学者もどきが威張ってては倭人伝は解けまいよww
843日本@名無史さん:2013/05/13(月) 18:51:59.94
>>842
そういう問題じゃないと思う。
844日本@名無史さん:2013/05/13(月) 19:05:44.74
>>842
ただ、古代の事だし
倭はワじゃなく、イ音がメインだったかもしれない。
で、イ音で丸くおさまるんなら、それはそれでいいかもしれない。


さっきは否定して済まなかった。
845日本@名無史さん:2013/05/13(月) 19:22:46.33
ま、そういうことだ
三世紀のことでもあり、今となっては誰にも確定的なことはわからぬ
ただ、いろいろな私案(考え方)をもちよって、おさまりの良い形を探っていくほかあるまい

その点、正直言って最初はトンデモと思った伊都国佐賀平野説も、同調する人は増えてるのではないかな?
たしかに今までの説より収まりは良いな
846日本@名無史さん:2013/05/13(月) 19:38:15.12
イ=ワ=伊・倭・委
で良いんだが、ト(都)は普通に『みやこ』と
解釈していいもんなのかね?
847日本@名無史さん:2013/05/13(月) 19:48:47.11
>>846
「みやこ」と解釈してもいいけど、肝心の「みやこ」とは何かがムズイ。

分かっているようで、実は何も分かっていない「みやこ」

古代史の謎は漢字の謎以上に、日本語の解釈のムズさ
848日本@名無史さん:2013/05/13(月) 19:57:42.11
そこが新説たる由縁だな。
おれも始めてきいたので驚くと共に、半分?でもある。
がしかし、その数行あとに「女王之都」と書いてあるのだから、「都=みやこ」と言われれば反論しづらいな。
849日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:11:50.03
伊都国のほかに、都支国、好古都国、もあるので、何が何でもと言うわけにはいかないと思う・・、
しかし、伊都国に限っては世有王と記述されていることからして、「都=みやこ」は一つの考えではある。
850日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:25:30.20
ほかのスレでも書いたが
中国のページだが
ttp://page.renren.com/600038844/note/886655729
を見ると、倭奴=委奴は秦の時代は「ol-na」漢の時代は「oi-na」と読んだそうだ。
現代中国語では「倭」に日本の古い呼び方以外の意味は無い。読みは“wo”
ttp://cndic.naver.jp/srch/all/1/倭
あと「末」=“マツ”は無いだろう。中国語で一文字に(子音+母音)が二つつくことはない。
古代音でも同じ法則だろう。現代中国語では「末」=“mo”だ。
851日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:41:11.35
ト=音読み
みやこ=訓読み

古代倭國語で、トが彼の地と同じ意味をなす『都』を表すと
仮定すると、御先祖様達のルーツが何となく察せられるな…
分家が島国日本でガラパゴス化し、独自の言語を作った気がする。
そりゃ部分的に似通るし、黎明期は通じるわな。

あと伊都が倭都(ワノミヤコ)だとすると、邪馬台は精神的な
位置付けでは無かったか?今で言う宮内庁、皇居みたいなもんで。
で、委の字はちょっと格下に位置するらしく、倭だと少し上がるらしい。
呼び捨てか、君付けかみたいな感じだと何かで読んだ。
852日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:45:24.04
モンゴル語、トルコ語を中国語経由で解釈するようなもんだぞ
例えば現在のウイグル語のKashgal=カシュガルも中国語ではKar-shiになってしまう

日本語ではトルコのイスタンブールの実際の発音はイスタンブルに近い

ロシア語のウラジ=ヴォストークは日本語ではウラジオストクとなり、
漢字では浦塩などと略されたりする

3世紀の中国人の耳で日本語地名を音写したものが、
どれほど正確かはわかりますまい
漢字の場合アルファベットのような表音文字でないので
万葉仮名は日本人が決めたルールですが、そのようなルールのない時代に外国人が聞き取った地名が
どれほど正確でしょうか?
853日本@名無史さん:2013/05/13(月) 20:48:37.14
九州にも関西にも思い入れがない俺が魏志倭人伝の経路をgooglmapで辿っていったら
邪馬台国は都城市になった。
この辺よく知らなかったのだがgooglmapを見るとここから高千穂峰もバッチリ綺麗に
見えるじゃん。奴國が二度出てくるのも説明がつくし。
答え合わせ的に都城市邪馬台国を調べたらやっぱりこの説はあるね。

関西に邪馬台国はあり得ないね。
854日本@名無史さん:2013/05/13(月) 22:19:14.93
>>853
私は人吉盆地になりました。
855日本@名無史さん:2013/05/13(月) 22:31:03.55
都城も人吉も内陸過ぎて水行(10日)がピンと来ないね
856日本@名無史さん:2013/05/13(月) 22:39:04.10
水行十日の後で陸行一月だからね。
水行で行けないそれなりの距離の陸行は限られる。
857日本@名無史さん:2013/05/13(月) 23:17:03.76
水行十日の後で陸行一月だから、
船を降りる理由がなければならない。

船でいけるなら、沿岸航行であれば、
普通は少々遠回りでも、船に乗り続けることを選ぶ。
858日本@名無史さん:2013/05/13(月) 23:42:26.95
連休中に筑後平野をクルマで走ったが、広い広い。
3世紀頃は今より、いくらか狭かっただろうが、邪馬台国は人口が一番多いのだから、この筑後平野に求めるのが普通じゃないか?
859日本@名無史さん:2013/05/13(月) 23:58:05.42
都は金印とか銀印を貰った国と妄想
860日本@名無史さん:2013/05/14(火) 00:02:14.75
水行十日 または 陸行一月 という可能性
861日本@名無史さん:2013/05/14(火) 01:20:28.22
水行十日  帯方郡→末盧國  水行で10日間  11400餘里
陸行一月  末盧國→邪馬台国八女  陸行で一月行 1000餘里≒80km
水行二十日 帯方郡→末盧國→天草灘→矢部川河口→投馬國山門
862日本@名無史さん:2013/05/14(火) 06:08:46.48
>>856
水行、陸行の使い分けは
その島の地形的な事情を説明している

だから同じ一月なんだよ
863日本@名無史さん:2013/05/14(火) 06:14:22.08
>>861
すごろくじゃないんだ。
誰がまた帯方郡に戻れと言った?
864日本@名無史さん:2013/05/14(火) 06:30:32.14
佐賀市周辺が那国。

筑後川を境として北側が筑紫国、
南が肥国だったが、
吉野ケ里から鳥栖の戦乱の痕跡にあるように、
国境での戦が絶えなかった。

やがて、久留米を奪取され、筑後国が誕生する。
これが投馬国。

南関、大牟田を境として、熊本側が邪馬台国
865サガミハラハラ:2013/05/14(火) 06:52:42.86
すみません。鳥栖の戦乱の痕跡について教えてください。
866日本@名無史さん:2013/05/14(火) 07:11:57.96
こんなの見つけたんだ
途中で終わっちゃってるんだけど、大和と邪馬台国が敵対勢力だったという
なかなか興味深い説だ
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/netgame/396/1296208658/
867日本@名無史さん:2013/05/14(火) 07:44:52.23
>>865

柚比遺跡群、安永田遺跡ですね。
折れた剣先、鏃を持った遺体が発掘されています。
868日本@名無史さん:2013/05/14(火) 07:50:20.20
いまでも鳥栖は、福岡県と佐賀県の県境ですが、
山や川で切り離されていない国境は、
力関係で容易に変化する、不安定な場所だったでしょう。

小郡には、筑前、筑後、肥前の三国の国境碑が経てられていますが、
ここも特に目立った地形は存在しません。

様々なトラブルのあとで、知恵と話し合いで決めた
国境だと言えます。
869日本@名無史さん:2013/05/14(火) 08:16:36.10
水行十日、陸行なら一月と解釈してる俺。
870サガミハラハラ:2013/05/14(火) 11:32:57.28
有難うございました。
871日本@名無史さん:2013/05/14(火) 12:38:31.26
>>869
水行であれ陸行であれ、十日は十日。一月は一月。

移動計測手段が違うだけで、同じ十日だよ。
872日本@名無史さん:2013/05/14(火) 12:53:15.06
筑後川の存在は大きいな。南下するには船が必要になる。
873日本@名無史さん:2013/05/14(火) 14:57:11.90
そうだねえ、邪馬台国を山門郡、八女市、
あるいは熊本・宮崎・鹿児島のどこに比定しても、筑後川を渡る船は不可欠。
ちと大げさだが、中国大陸で言うなら黄河か長江みたいな存在だったと思う。
874日本@名無史さん:2013/05/14(火) 15:09:03.51
>>871
869が言ってるのは、邪馬台国は船でも歩いてでもどちらでも行けて
船で行くなら10日かかり、歩いて行くなら1ヶ月かかる意味だと理解したが
875日本@名無史さん:2013/05/14(火) 15:27:02.84
>>874
そうです。

>>873
山門、八女は邪馬国だと思ってます。
876日本@名無史さん:2013/05/14(火) 16:54:19.91
>>874
そんな事何処にも書いていないし、そんな理解しなくてもいい。忘れちゃった方がいいよ。
877日本@名無史さん:2013/05/14(火) 17:00:32.38
末廬国があって、そして女王の居る都がある島の規模は
水行三十日、陸行一月+1500余里
878日本@名無史さん:2013/05/14(火) 17:13:05.31
山門、八女に邪馬台国を置くなら、
南に狗奴国、後ろは筑後川となり、背水の陣と言えば聞こえはいいが、いかにも不利な陣構えだ
曹操や孔明ならそのような策は採用しないだろな
879日本@名無史さん:2013/05/14(火) 18:57:39.51
邪馬台国は島原半島の北部(推測)です。

領域は諫早含む半島全域。
九州のほぼ真ん中に位置し、囲む海が外堀の役目を果たします。
橘湾側は断崖絶壁が多くて船では近寄れず、有明海も潮流激しい。
北からの侵略者に対しても、脊振山地と多良岳でブロック。
昔は半島の付け根は広い所で1キロ程しかありませんでしたので、
陸からの攻め手への対処も容易い。
まさしく天然の要塞と言った場所です。

遮蔽物無しで、有明海沿岸国とも狼煙・焚火の光で連絡可能。
太良町の投馬國が連絡中継地点の役割をします。伊都國=小城で倭人伝の記述とも符合します。
880日本@名無史さん:2013/05/14(火) 19:15:03.46
島原半島は砦としては悪くないけど、
そもそも人口が少なくて、
小国にしかなりえないんじゃない?
881日本@名無史さん:2013/05/14(火) 19:32:33.47
九州のロンダルキア・日向はボスの居するところにふさわしい
唯一開けた海は黒潮流れる外洋
882日本@名無史さん:2013/05/14(火) 19:33:48.87
>>880
倭人伝の戸数信用してません。
三世紀当時の日本の総人口に対して多すぎる。
第一、一戸一戸数えらるとか不可能。

ま、あくまでも仮説ですが。
883日本@名無史さん:2013/05/14(火) 20:15:53.64
島原半島北部説は、宮崎康平氏の著書「幻の邪馬台」で脚光あびた懐かしい説だね

現在の人口分布で当時の状況をおしはかるのは限界がある
対馬や壱岐だって、現在はただの過疎の島だけど
当時は貿易国として栄えていたぐらいだしね

まあでも本気で信じるまでには至っていない
個人的には耶馬溪説支持の立場

ただ、島原半島北部説は、面白い仮説だと思うよ
884日本@名無史さん:2013/05/14(火) 20:20:09.25
魏志倭人伝は方角に関しては正しいと思う。
金印を与えた国への行程記録なのだからそれなりの専門家を使わしたはすだ。
距離に関しては海や平原ならばある程度正確だろうが地形が複雑な土地ではあやふやになりそう。
書を書き写すときも数値や聞いたこともない地名ならいざ知らず、方角を間違えることはまず無いだろう。
魏志倭人伝は西や北方向に行くことはないので九州北部や西岸は無いと思う。
885日本@名無史さん:2013/05/14(火) 20:23:08.21
>>883
このスレで伊都國=小城支持者になりまして、倭人伝
にて諸条件考慮して辿った先が島原半島の北部でしたね。
後から『まぼろしの邪馬台国』読んで驚きました。
ちなみに、他の国々の比定地は違いましたが…

色んな説があって良いのかなと。
886日本@名無史さん:2013/05/14(火) 20:54:23.37
なんか軍事基地をどこに作るのが適当かという観点で議論してるようだけど違うでしょ
まずは食料生産に適した地に住んでてそこから徐々に拡大して行ったと見るべき
887883:2013/05/14(火) 21:00:37.15
島原半島北部説のことか?
海産物豊富な有明海があって
(島原半島には珍しく)稲作に適した平野が多比良地区に広がっている

ある程度客観的な要素があるから、今でも真っ向から否定する人はいないんだよ
888日本@名無史さん:2013/05/14(火) 21:34:25.27
>>886
軍事基地なら敵の目の前でよろしい
ここで言っているのは邪馬台国女王之都(政権中枢)をおくとき、どのように防衛し安全を確保したらいいかということだ
889日本@名無史さん:2013/05/14(火) 22:16:14.75
12.16 不正選挙 〜アメリカのための〜
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/news2/1368198085/
890日本@名無史さん:2013/05/14(火) 23:30:13.97
そうですね
891日本@名無史さん:2013/05/14(火) 23:30:29.73
なるほどー
892日本@名無史さん:2013/05/14(火) 23:34:10.12
>>888
そうなんですよ、軍事基地じゃ無しに安全確保なんです。

個人的想像としては、政治的中心地は伊都國だろうと。
軍事基地は不彌國(吉野ヶ里)だろうと思ってます。
女王様(國)は精神的な象徴にしか過ぎず、カーテンで隠して
見えなくして仕舞い込む様な場所に居たのでは無いかと。

でも各国々に女王の意思を発信したり、逆に伝えたりってのを考えたら、
島原半島の北部は地理的にバッチリ条件に合うんですよね。
太良に比定した投馬國には、小城からの道は作って無いと思ってます。
実際山がそのまま海に落ち込んだ様な、地形的に険しい場所です。
防衛上から陸の孤島みたいな場所にして、船でしか行けない様にしたと。
現竹崎の展望台が狼煙台ですかね、小城と女王國との連絡中継の役割。
ここからなら有明海沿岸の各国々にも一斉に発信出来ます。

以前現地を訪れて確信した場所です。
展望台の左下の漁港が船着き場、直ぐ側の道越古墳が
当時と地形に変化が無い事も実証してくれてますよ。
893日本@名無史さん:2013/05/15(水) 05:42:07.32
ここは妄想を語りあうスレなんか?
894日本@名無史さん:2013/05/15(水) 06:35:29.42
なら自分も妄想を一つ

邪馬台国って、ドラえもんが未来の世界から運んできたもので、女王の都は
のびた君の机の引き出しの中。
895日本@名無史さん:2013/05/15(水) 06:51:00.71
一般的に野比家は東京にあるとされている
したがって野比家九州説を先に立論しないとスレ違い
896日本@名無史さん:2013/05/15(水) 07:00:16.57
>>895
了解!基本は九州ね
じゃあ、しんちゃんのママみさえネタでいくよ。
897日本@名無史さん:2013/05/15(水) 07:05:57.02
>吉野ヶ里と神埼付近の古名は「メタ(米多・米田・目達)」
>帥升の倭面土國の「面土」も「メタ」であろう。

吉野ヶ里は良く知っていたが、メタは初めてきいた。
稲作だけでなく、政治の中心としても佐賀平野は重要だったのではないか、
というより、有明海沿岸全体が今の関東平野みたいな存在だったのではないか。古地名は役に立つと思う。
898日本@名無史さん:2013/05/15(水) 07:22:00.56
ひろしの実家は山形だけど、みさえの実家は熊本だから、女王の都は福岡だと思う。
899日本@名無史さん:2013/05/15(水) 07:34:32.29
全然「〜だから」になっていない
900日本@名無史さん:2013/05/15(水) 07:59:43.21
連絡を密に出来ると言う観点は重要
901日本@名無史さん:2013/05/15(水) 08:09:22.67
島原はヨコスカ、諫早はヨコハマ、小城は品川、佐賀は東京、山門はデイズニーランド、熊本は千葉の製鉄地帯
902日本@名無史さん:2013/05/15(水) 08:25:24.85
後世の話だが、
唐津から太宰府までの狼煙ネットワークが整備され、
そこの幾つかは、今は電波塔などが建てられている。

見晴らしのいいところは、昔も今も限られる。
903日本@名無史さん:2013/05/15(水) 11:54:44.63
狗邪韓国と任那日本府は同じ場所ですか?
904日本@名無史さん:2013/05/15(水) 12:11:14.54
卑弥呼も最近スマホに変えたという話だから、GPSで
捜せないか?
905日本@名無史さん:2013/05/15(水) 12:13:37.47
>>903
そんな真面目な質問はスレチだぞ
906日本@名無史さん:2013/05/15(水) 19:25:41.83
ネタ切れか?
907日本@名無史さん:2013/05/16(木) 02:14:23.25
記紀をたどれば足取りは日向で消える
倭人伝をたどれば道は肥国で途絶える

じつに巧妙な仕掛けだ、だがどこかに接点はないか? 人名、地名、金の菊花御紋、そして金印、五尺刀、100枚の銅鏡・・・??
908日本@名無史さん:2013/05/16(木) 06:18:31.91
>>907
はじめから足取りなんて存在しない。
存在しないものを追い掛けてれば、迷宮入りするのは当たり前。

旅行のパンフじゃないんだよ
909日本@名無史さん:2013/05/16(木) 06:22:35.34
ただ、余生を宝探しで費やしたい老人達には
謎は多ければ多いほど都合いいかも知れないが
そんな暇つぶしに付き合ってても、得るものは老衰だけだ。
910日本@名無史さん:2013/05/16(木) 06:26:20.62
足取りはあるだろ。
ただその足取りをそのままたどると海上にでちゃうから、
ちゃんと陸上にできるように推理が始まるんだよ。
911日本@名無史さん:2013/05/16(木) 06:57:13.44
倭人伝は三世紀末、記紀は八世紀始めで、四百数十年の時代差あり

日本史に例えれば、
戦国を制覇した家康が江戸に幕府を構えた時代背景のもと、
大奥の楚を築いた女傑春日野局の伝承を、平成の官僚作家が神話風に書きとめるようなものだったにちがいない

卑弥呼なる固有名詞を残そうと努力すれば残せたかもしれない、
しかしそうでなかった場合、さまざまな思惑が先行し、明らかな形で残す/残ることは困難だったのであろう
912日本@名無史さん:2013/05/16(木) 09:05:42.50
倭人伝の足取りは肥国あたりで絶え、数百年後、日向への天孫降臨で記紀が始まる
これは日本民族のミッシングリンクといえる。
この間、何があったのか。
この2つを繋ぐものはどこにあるのだろうか?
913日本@名無史さん:2013/05/16(木) 09:22:04.48
>はじめから伊都国糸島なんて存在しない。
>存在しないものを追い掛けてれば、迷宮入りするのは当たり前。
914日本@名無史さん:2013/05/16(木) 09:35:30.01
>>911
卑弥呼というのは、中国人が漢字を当てたもの。当時の日本人がそういう
名前で呼んでいたとは考えられず、伝承や記録に残っているとすれば、
当然、違う名前で残っていると考えられる。
915日本@名無史さん:2013/05/16(木) 10:39:56.72
>>914
中国人が日本人の名前に中国語の音をあてはめたんだろう

「卑弥呼」なんて言葉は中国にはく
日本人が全く別の呼び方している人を
中国語に当てはめたということはない
916日本@名無史さん:2013/05/16(木) 11:38:32.68
倭人伝の場合、3世紀の九州方言を3世紀の中国言語(漢字/発音)に置き換えたもの、
記紀の場合は、3世紀の九州方言を8世紀の大和言語に置き換えたもの、ということになる。

おおざっぱにいえば、同じ九州単語でも、3世紀の中国言語と8世紀の大和言語の差を生じる。
相互理解には、あいだに2〜3人の通訳を必要とするなw
917日本@名無史さん:2013/05/16(木) 15:35:43.32
記紀を作ったのはヤマトの人だからヤマトの言葉をそのまま記した
918日本@名無史さん:2013/05/16(木) 16:06:35.07
>>910
>足取りはあるだろ。

だからないんだって


>ただその足取りをそのままたどると海上にでちゃうから、
ちゃんと陸上にできるように推理が始まるんだよ。

最初からないものをたどるから海上であたふたするのさ
これは文章で表現した日本近辺の地図。
現代だって地図に書かれた新幹線に、のぞみなんて往来してないよね
919日本@名無史さん:2013/05/16(木) 18:35:09.78
>>918
日本語に不慣れなご様子ですね、どちらの国のおかたでしょうか?
920日本@名無史さん:2013/05/16(木) 19:05:08.99
多分あと千年経っても邪馬台国の場所は不明に違いない
これは学問ではなく永遠の暇潰し
921サガミハラハラ:2013/05/16(木) 19:24:01.57
しかし邪馬台国は1991年に発見されていますよ。
問題は、皆これをみとめたがらないことなのです。
理論的に認められないとするのではなく、とにかくまだみつかっていないのだと思いこんでいるのです。思いこみが激しいと、
あるものもみえないのです。
922日本@名無史さん:2013/05/16(木) 19:34:23.56
その可能性はないとは言えまい。
しかし過去300年の暇つぶし論争は、伊都国糸島から出発していたからではないか。
糸だから伊都なんて、大和式の発音が似てると言うだけのトンデモ。
おかげで見当違いの遺跡をやたら掘りまくってきたわけだ。

倭人伝の記述どおりの伊都国佐賀平野説に立てば、今後大きな発展もありうるだろう。
邪馬台国の第一候補ともいわれながら、発掘調査が後手に回ってきた熊本県・宮崎県の今後の熱意に期待しよう。
923日本@名無史さん:2013/05/16(木) 19:38:01.24
相模原≒小城
924日本@名無史さん:2013/05/16(木) 19:42:26.87
>>918
船に乗って何日で○○についた
そっから東に何キロ歩いたら××の国だった

これを足取りと呼ばずに何と呼ぶんだよ君の国では
925日本@名無史さん:2013/05/16(木) 19:56:15.19
♪えいえんなのか〜
♪ほんとおかー
♪やまたいこくろんはー
♪つづくのかぁ〜
926日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:02:47.87
>>924

>船に乗って何日で○○についた
そっから東に何キロ歩いたら××の国だった


そんなこと何処にも書いてないので、応えようがありません。
927日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:07:24.06
似たようなことが魏志東夷伝倭人条に書いてあるんだよ
928日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:10:15.00
>>919
>日本語に不慣れなご様子ですね、


何年経って変わらない、間の抜けた内容で呆れました。
そんな下らないごまかしをいつまで使ってるのです?

>どちらの国のおかたでしょうか?


ここに参加するには一々国籍の申告が必要なの?
で、それを尋ねて人種や民族差別を展開しようとしているの?
カッコ悪いから日本人の恥となるようなことするなよ
929日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:12:50.79
>>927
似ているだけで別人じゃないの?
930日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:13:27.24
まさかとは思うが魏志を知らなかったというオチか?
931日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:15:23.69
>>930
>魏志を知らなかった

誰が?
932日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:15:49.31
>そんなこと何処にも書いてないので、応えようがありません。
933日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:22:56.56
おいおい何か気の利いたオチがあるんじゃなくて天然かよ

魏志も知らんでなんで邪馬台国スレのぞこうという気になるのか
まったく意味がわからんな
934日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:23:34.16
>>932
船に乗ったと訳せるのは「乗船南北市糴」だけで
他はどう考えても船に乗ったなんてカキコミはない。
この史実を乗船なんて訳された日には、先に書かれた「乗船」の記述が意味を失う。

そのくらいは考慮しながら似たようななんて書いてるのか?
935日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:25:43.35
船にのらずに海上を移動できる方法があるなら示してみろ

泳ぐのか?w
936日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:32:41.07
九州スレだけに、宇宙人降臨かいww
937日本@名無史さん:2013/05/16(木) 20:42:39.51
天孫降臨と言っても大空から雲かなんかに乗っかって高千穂の峰に下ってくるわけない
せいぜい山の向こうからこっそり峠をこえて下ってきた程度のこと

ま、宇宙人ならノアの船でも持ってるのか知らぬが
938日本@名無史さん:2013/05/16(木) 21:06:15.49
>>781
>邪…ヤとエの中間音(yae)
>馬…マ
>台…ティ、またはタィ

>本来、倭人伝に記された地名は、音写を目的とした漢字を用いただけの音表であるから、
>一文字を日本語の二字音として発音してはならない。一音一音に意味があり、
>邪馬台國の言葉の意味は… 入り江に望んだ畑の続いた岡の國…となるらしい。

邪:入江というより、ゆったり流れる川もしくは渓谷
馬:その渓谷沿いの丘陵地
台:丘陵地に開かれた広大な火田地帯(焼畑によるヒエ・粟・ソバ・陸稲など)

こんなクニなら心当たりがある、九州島の鳩尾とも言える阿蘇山東南の知保の山畑地帯はぴったりだ。
939日本@名無史さん:2013/05/17(金) 07:56:59.66
【古代史】天皇の起源は卑弥呼だった?…「卑弥呼=天照大神」説が浮上
週刊ポストと忠平氏のコンビで頑張ってるようです。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1368575680/l50
940日本@名無史さん:2013/05/17(金) 08:18:41.90
「卑弥呼=天照大神」説が浮上
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1368576868/l50
941日本@名無史さん:2013/05/17(金) 10:28:50.00
よくよく考えたら、魏の公式記録に親魏倭王の金印贈ったって
書かれてるってことは、卑弥呼の存在は置いといても、倭國連合の
存在は信憑性があるってことだよな?

多少の創作はあったとしてもさ。
942日本@名無史さん:2013/05/17(金) 10:46:47.82
基本的に金印は、返却されない限り、同じ国に何度も送らない。

そして、漢委奴國王印は返却されていないことが確実であるから
一世紀の漢委奴國王印と、三世紀の親魏倭王印は別の国に送られたものである。

そんなに何度も金印を送れば、旧政権と新政権で金印が原因で戦争になりかねない。
それでは冊封の権威が崩れる。
943日本@名無史さん:2013/05/17(金) 11:27:21.21
なんじゃもんじゃの木の分布を見ると・・・
944日本@名無史さん:2013/05/17(金) 12:18:40.25
>>942
公孫氏が滅ぼされる事で、先の金印は解決された。
公孫も、金印まではやり過ぎだったかも
945日本@名無史さん:2013/05/17(金) 12:21:14.66
公孫が滅びて一番焦ったのは卑弥呼だろうね
次は自分の番かと簡単に想像がつく。
946日本@名無史さん:2013/05/17(金) 12:36:20.65
建武中元二年、光武帝から賜った印綬とは
光武帝の印影。つまり印鑑証明で、金印なんかではない。
漢委奴國王の金印は二世紀後半に、初代卑弥呼が公孫氏から賜ったもの
947日本@名無史さん:2013/05/17(金) 12:52:10.97
漢委奴國王の金印は文字どおり「奴國王」が貰ったもの(奴国だから初代卑弥呼かどうかは不明)

親魏倭王の金印は倭王(共立30国の王=倭国連合の王=卑弥呼)に与えられたもの
948日本@名無史さん:2013/05/17(金) 13:08:25.64
ほう、週刊ポスト参入か
これで300年の不毛な時代が終わり、邪馬台国論争は新しい段階に突入したな
949サガミハラハラ:2013/05/17(金) 15:29:19.23
漢委奴国王印は漢の国から、親魏倭王は魏の国から贈られたもので、
おくった国が違うのであって、貰う国は同じなのです。
魏に変わったら、漢からもらった印鑑は使えないのです。
950日本@名無史さん:2013/05/17(金) 16:31:00.24
>>949
いかがですか、ご著書の売れ行きは?
951日本@名無史さん:2013/05/17(金) 16:35:03.36
つか金印は装飾品であって使う目的では無いと思いますよ?
字が読めない書けない使えない民なんで。
952日本@名無史さん:2013/05/17(金) 16:51:19.34
>>949
讃や珍、済や興が「宋」から貰った称号も「安東将軍倭国王(安東大将軍倭国王)」です
つまり、遣使した中国の国が変わっても日本の王が貰う称号は「倭国王」なのです。

「漢委奴国王」が倭国全体の王と認められていなかったのは明らかでしょう
953日本@名無史さん:2013/05/17(金) 19:57:17.23
週刊ポストを買ってきた。

「卑弥呼=天照大神」説の浮上と、高島忠平氏が語る九州説をけっこう細かく紹介してる。
九州には大陸との交流を示す発掘物が多いとか、当時交易の中心であったはずの鉄流通のことにもふれてるな。
954日本@名無史さん:2013/05/17(金) 20:12:15.83
卑弥呼=アマテラスというのは間違いないけど、=神功皇后でもある。
そして邪馬台国(と記述されている倭国の都)は近江=>美濃
この時代にはどちらが都だったのかは断言するだけの根拠はまだ見つかってない
ただ、卑弥呼の墓は象鼻山にあることは間違いない
955日本@名無史さん:2013/05/17(金) 20:30:36.61
発掘されても金目のものは伝世移動するから決め手に欠ける
その点、封泥は移動しそうにないので卑弥呼の都の証明に好都合らしい。ということは、まずゴミ捨て場を見つけなくては・・、
956日本@名無史さん:2013/05/17(金) 21:48:29.78
封泥よりも住居跡だろ
957日本@名無史さん:2013/05/17(金) 22:12:50.52
住居跡から表札でも出ればいいなあ
でも、まさか卑弥呼とは書いてないだろうなあ
958日本@名無史さん:2013/05/17(金) 22:13:36.44
庶民のだよ
959日本@名無史さん:2013/05/17(金) 22:27:02.95
卑弥呼の城下ではないかと睨んでるところも、
航空写真でみると城柵を想わせる競馬場のような楕円の道と、それに沿うように庶民の暮らす楕円の街並みが見える
とうてい発掘できそうにないのが残念だ。
960日本@名無史さん:2013/05/17(金) 22:31:24.54
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1105856.article.html
柱穴や銅鏡や鉄なんかより、これこそ倭人伝を補完する考古学的史料だろと思う。
961日本@名無史さん:2013/05/17(金) 23:48:21.63
やっぱり空白の150年の間に九州から奈良に遠征して日本を統一しましたって無理があるよな
そんな偶然があるかって思うのが普通でしょ
縁もゆかりもない場所にいきなり移住してそこを拠点にして周りを全部征服なんて信長や家康だってできない
卑弥呼=モモソヒメだとして、魏志倭人伝にあるように当時の最高権威は天皇ではなく呪術を使える巫女だったんだろうな
後世に書かれた記紀では天皇を神格化するためモモソヒメはただの預言者に格下げして
代わりに天照大神の神話を作ったってことだろ
962日本@名無史さん:2013/05/18(土) 09:18:36.52
>縁もゆかりもない場所にいきなり移住してそこを拠点にして周りを全部征服なんて信長や家康だってできない

信長、秀吉、家康の三代で乱れに乱れた戦国の世を征服統一したではないか。
それは三将軍の腕力でなく鉄砲隊の組織力だったといえる、
同様に奈良遠征も、
時代背景からみて鉄製武器を使いこなす組織力だったと考えれば納得できる、神武は我が国における始皇帝か曹操だったのだ。
963日本@名無史さん:2013/05/18(土) 11:33:12.63
>>962
応仁の乱からカウントすべきだから、戦国時代のときもなんだかんだで150年近くかかってる
その150年かかる全国統一事業を偶然、空白の150年間にやってましたってのが無理筋

それに信長にしろ家康にしろ移り住んで完全に土着化するまで数世代100年単位の年数がかかってる
ぽっと出の神武がいきなり奈良に来て周辺豪族を取り込みましたなんてどうやっても無理

では武力でもって征服したのかというとそれも無理
補給路を確保してない遠征は南方戦線で餓死した旧日本軍みたいになってしまう
信長も秀吉も家康も自国から離れた場所に突然移動してその新しい拠点から勢力範囲を広げたわけじゃないんだから
964日本@名無史さん:2013/05/18(土) 11:47:51.33
記紀には簡潔に書いてあるけど、ぽっと出がぱっとやっつけたと即断して論ずるのはどうかな
そもそも吉備、出雲、奈良などなど、婚姻関係まで登場するので、
何年何世代もかけて準備し、それに協力した在地勢力も少なくないと読めるが・・
965日本@名無史さん:2013/05/18(土) 12:05:05.38
リーダーが日向出身だっただけで、日向と奈良が戦争したとは書かれていない。
8年も吉備に滞在したとあるから、元からあった敵対関係をうまく利用したかで、
近場の瀬戸内の人間を手なずけて攻め込んだんだろう。
吉備には吉備で思惑はあったのかもしれないが、これ以上は小説の世界。
966日本@名無史さん:2013/05/18(土) 12:36:45.45
武力で捩伏せるんじゃなく、土台の出来ているところに
入り婿すればいいだけの話し。

嫁は怪物マラで釘付けにしとけば、実権は自分のものさ
967日本@名無史さん:2013/05/18(土) 22:47:11.60
>>959
それ、もと溜め池だったところなんじゃないの?
968日本@名無史さん:2013/05/19(日) 09:34:46.65
>>967
前は川だが、後方はるかに高い山なみ、そのあいだに開けた南向き数百ヘクタールの丘陵地。
航空では畑地とわずかな棚田が見える。川で洗濯するには小道を下ったようだ。
吉野ヶ里のような立地だがそこではない。
まさに「台」と呼ぶにふさわしい稀有の風水。
969日本@名無史さん:2013/05/19(日) 12:39:50.76
週刊ポストの「卑弥呼=天照大神説」の記事が出たあと、
どの邪馬台国・卑弥呼スレのぞいてもレス激減じゃ、
書き込んでたのはあらかた畿内人だったのか・・。
970日本@名無史さん:2013/05/19(日) 13:15:09.22
>>969
そんなの熟読して喜んでるのは九州説の頓馬だけだろW
971日本@名無史さん:2013/05/19(日) 13:40:57.12
>>970
その程度のレスしかできぬかw 畿内人は。
972日本@名無史さん:2013/05/19(日) 14:36:24.40
>>970
自分は九州説だけど、その意見には同感だ。
973日本@名無史さん:2013/05/19(日) 14:38:29.46
卑弥呼ー天照ネタは、必ず通る話で、
特に新規性もないしな。
974日本@名無史さん:2013/05/19(日) 15:10:11.77
>>970
九州説は高島忠平を崇めてるのか。
あのおっさん、九州の古墳から中国鏡が出れば
これは霊力を持った巫女が持つもので卑弥呼の鏡だ、
古墳が見つかれば巫女を葬ったものだと
根拠もなしに言ってるからな。
975日本@名無史さん:2013/05/19(日) 15:21:28.44
今回のキーマンは週刊ポスト。
976日本@名無史さん:2013/05/19(日) 15:44:55.70
>>975
マスコミが見向きもしない九州説が久々に取り上げられたので
泣くほど嬉しかったみたいだな。

中身が全然ない文章だったが。
977日本@名無史さん:2013/05/19(日) 16:41:15.72
>>976
そだな、四面楚歌の状態だったからな
ともあれ、あいかわらず畿内説も元気のようでなによりだで。
978日本@名無史さん:2013/05/19(日) 16:48:22.38
普通に考えれば、畿内説は連戦連敗で床に伸びている状態。
しかし、なぜかうつろにガッツポーズをしている。
それを見て、こいつ勝ったのかなと思う素人もいる。
979日本@名無史さん:2013/05/19(日) 17:14:12.35
畿内説はロビー活動が上手だからなあ
九州説みたいに穏健に学者然としたこと言っててもウケない
吉野ヶ里は邪馬台国の都の外縁衛星集落と宣伝するくらいしないと
980日本@名無史さん:2013/05/19(日) 17:56:33.03
吉野ケ里が畿内で出てきていたら、
今頃勝利宣言されていたような気がする。
981日本@名無史さん:2013/05/19(日) 18:22:37.44
>>978
畿内説は連戦連勝だろうw

高島忠平みたいな北九州の比較的規模の大きな古墳は皆巫女の古墳だ
みたいな頓珍漢なこと言ってる奴が九州説のホープだとはな。
そらマスコミは取り上げてくれんわ。
982日本@名無史さん:2013/05/19(日) 18:24:16.93
>>980
九州は土地買い占めて復元して観光地化して
邪馬台国候補の吉野ヶ里遺跡、と宣伝して必死だもんなあ。

畿内はそんなことしてないよ。
纏向遺跡なんて一切土地を買取すらしておらず私有地(田んぼ)だもの。
983日本@名無史さん:2013/05/19(日) 18:42:39.85
雑誌・歴史人6月号
「卑弥呼と邪馬台国の謎」卑弥呼は誰か?
・神功皇后説、・倭姫命説、・天照大神説

週刊のポスト、月刊の歴史人、
このところ各マスコミで九州説を注目してくれるようになったらしい、有り難いことだ
984日本@名無史さん:2013/05/19(日) 18:54:56.37
吉野ケ里は工業団地として大規模に整地し、
売り出す前だったからね。

それでも、工業団地をあくまでも推進する派閥も強かったらしく、
かなり派手に重要な遺跡であることをアピールすることで、
破壊を逃れた面もある。

これをかなり頑張った人の一人が高島さんだな。
985日本@名無史さん:2013/05/19(日) 19:40:16.81
爺さんが吉野ケ里の農地整理に仕事で行ってて
元々あった土塁やら積石やらを結構な数ぶっ壊したと言ってた
986日本@名無史さん:2013/05/19(日) 20:06:58.21
道の端に積んである瓦礫を注意深く見ると、
亀棺の欠片くらいなら、たまに見つかるからねえ。

あと、中品質くらいの黒曜石もよく転がっているんだが、
ただ石として転がっているのか、石器なのかよくわからない。
987日本@名無史さん:2013/05/19(日) 22:32:46.47
吉野ヶ里には推定何人が暮らしていたのか
988日本@名無史さん:2013/05/19(日) 23:53:48.88
住居350とかだから同時に建っていたとして1500くらい?
以前の層を壊して新築して…を繰り返していたろうって前提で、
切り合いとかを見て、可能性を最大に見積って1000人以上1500人以下くらいかな
989日本@名無史さん:2013/05/20(月) 12:25:50.61
>>988
そんなもんだろうね。
当時の人口からしたら、それでも大都会だ。
倭人伝の戸数が余りにも多すぎる。
桁間違ってんのか申告数をそのまま書いたのか…

いずれにせよ倭人伝の戸数は信憑性が無いな。
990日本@名無史さん:2013/05/20(月) 12:42:48.93
>>967 つづき
卑弥呼の宮室楼観一帯ではないかと睨んでるところ(すこし拡大+してください)。

城柵厳設を想わせる競馬場のような楕円の道と、それに沿う街並みが見える。
前に細長い渓谷、後方は山々、そのあいだに広がる丘陵地。「台」と呼ぶにふさわしく「神殿」なる小字名もあり。
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E131.18.28.280N32.42.8.610
991日本@名無史さん:2013/05/20(月) 12:59:06.53
吉野ケ里の環濠集落はお偉いさんの家で、
大多数は環濠の外に住んでいたんじゃない?
992日本@名無史さん:2013/05/20(月) 13:22:44.31
そもそも吉野ヶ里は弥生時代前期〜中期の遺跡で、邪馬台国の200年頃には衰退してる。

なぜ、衰退したのか考えないといけない。また、当時の吉野ヶ里は海に面していた。
993日本@名無史さん:2013/05/20(月) 13:31:37.23
まさにそのこと。
吉野ヶ里は北からの敵に備えたのか?、それとも南からの敵に立ち向かったのか?
994日本@名無史さん:2013/05/20(月) 13:43:05.91
当面の敵は鳥栖方向だったろうな。
995日本@名無史さん:2013/05/20(月) 14:06:53.57
>>992
吉野ヶ里の廃絶はもっと遅い。3世紀の終わり頃。

1996年頃だったか、畿内説は、年輪年代を根拠に纏向を卑弥呼時代にした。
吉野ヶ里遺跡の年代も、卑弥呼以前と宣伝されてしまった。

この畿内説の年代観には高島氏などは納得していないはず。

ちょっと見てみたら、吉野ヶ里遺跡の紹介サイトも3世紀後半頃となっていた。
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=26

>>994
吉野ヶ里遺跡の東側には環濠がないというのは有名。小川があるが。
996日本@名無史さん:2013/05/20(月) 14:50:09.36
吉野ヶ里が西からの敵に備えた造りであった場合、
鉄製武器を携えて渡来し、末蘆国から唐津街道ルートで侵入してきた伊都国・邪馬台国勢力に対抗したもので、

 「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。」

卑弥呼共立の結果、その必要は無くなり、三世紀末には放棄された・・。 ま、いちばん安易な想定ではあるが。
997日本@名無史さん:2013/05/20(月) 15:04:34.32
>>996
倭人伝には、「城柵を厳かに設け、常に人がいて武器を持ち守衛する」と
あるわけで、けっこう緊迫している様子が窺える。
厳重な警備の様子から、環濠はあると考えるのが普通。
998日本@名無史さん:2013/05/20(月) 18:55:40.62
>>995

邪馬台国に合わせて、意図的に時代を操作してるよね。科学には感情的な操作は禁じられてるのに。
ほんの5年前まで100年には衰退してたってあったのに。
999日本@名無史さん:2013/05/20(月) 19:21:09.16
次スレ 邪馬台国は九州にあった25
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1368789260/l50
1000日本@名無史さん:2013/05/20(月) 19:36:42.92
1000なら邪馬台国は九州に確定
10011001
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